瀬戸の島から

カテゴリ:讃岐近世史 > 讃岐生駒藩

 香川県には、現在以下の3つの「讃岐国絵図」が残されています。
①丸亀市立資料館本 (1633年作成)
②金刀比羅宮本 (1640年作成)
③高松市歴史資料館本 (元禄年間 18世紀初頭前後)
④内閣文庫本 (1838年作成 天保国絵図)
大きさはどれも畳一畳ほどのものです。今回は、これらの国絵図が何の目的で、作られたのかを見ていくことにします。「テキストは羽床正明 近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度」です。

グーグルで「讃岐国絵図」を検索して、国立文書館デジタルライブラリーを開いて、④の天保国絵図を覗いてみます。自由にポイントを選んで拡大できるので、近世の讃岐のことを地図上で確認するには重宝しています。私の愛用サイトのひとつです。

讃岐国絵図 天保版1
   ④讃岐国絵図 内閣文庫本(1838年作成 天保国絵図)

 江戸幕府は、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの絵図等を各藩に命じています このうち最後の作成となった天保国絵図は、天保6年(1835)に作成指示が出され、3年後の1838年)に完成しています。その作成方法等について、国立文書館デジタルライブラリーの説明画面には次のように記されています。
縮率・描法等は元禄図と同様で、1里を6寸とする縮尺(約21,600分の1)で、山、川、道路等が描かれ、街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示です。郡別に色分けされた楕円形の枠内には村名と石高が、白四角で示された城下町には地名と城主の名前が記されています。
讃岐国絵図 天保版2金毘羅周辺
      讃岐国絵図 天保版 (金毘羅周辺拡大図)

 各絵図の一隅には、郡ごとの色分け・石高(こくだか)・村数を列挙した凡例が記され、最後に国絵図の作成に関係した勘定奉行・勘定吟味役・目付の氏名が加えられています。
(以下略)
原図サイズ:455cm×南北301cm。
天下統一を果たした秀吉や家康は、各国の国絵図の提出を大名達に命じます。
秀吉は天正十九年(1591)に、大名から郡ごとの絵地図を提出させて天皇に献上しています。家康は慶長九年(1604)に西日本の大名から郷帳と国絵図を提出指示、家光は寛永十年(1633)に、全国の大名に国絵図を提出させています。しかし、これらの地図に、作図法の統一はなかったようです。
 正保元年(1644)に家光は、再び全国の大名に国絵図を提出させます。この時に作図法について、次のような指示が出されています。
 慶長九年に国絵図奉行の西尾吉次が指示した作図マニュアルには、次のように記されています。
①田郡名を墨書して、一郡ごとの田畑数・分米高・村数を朱書きすること
②村名を俵形に記入し、その外側に村の石高を書きつけること
③国境を入念に描くこと、
④田色絵にして川や道を区別すること
⑤絵図全体が大きくなりすぎないこと
この指示に基づいて、生駒藩でも讃岐の国絵図が制作されたようです。このため正保年間以後に作られた国絵図は、統一性があります。それ以前のものとは、一目見て違いが分かるようです。その後も幕府は元禄・天保に国絵図を提出させています。なお、寛永の国絵図は、急な提出命令だったので慶長国絵図などの今までに書かれていた国絵図を写したものが多かったようです。
さて、幕府に提出された讃岐国絵図の中で、讃岐に残されたコピー版を見ていくことにします。
 丸亀市立資料館には「寛永国絵図」が保管されています。
施設情報:文化施設:資料館 | 香川県 丸亀市
丸亀市立資料館の「讃岐国絵図」

 丸亀市立資料館蔵『讃岐国大絵図』は、金刀比羅宮蔵と記載内容、表現、色遣いまで非常によく似ているので、同系統版と研究者は考えているようです。丸亀市の高木伝太氏が所蔵していたものを、市が買いとったもですが、そこに書かれている内容は、金刀比羅宮蔵のものとほとんど同じのようです。
 寛永国絵図の幕府提出用の原本は、慶長国絵図をテキストにして急いで作成されたもので、両者はほぼ同じものだったようです。異なる点は、寛永国絵図には西島八兵衛がつくった90余りの大の代表的な大池12が描かれていることです。ここからは、寛永国絵図には普請奉行の西島八兵衛が関与・作成したことが推測できます。

次に金刀比羅宮蔵『讃岐国大絵図』を見てみましょう。
この絵図の裏書きには「寛永拾年酉三月日」、「生駒高俊公御寄付写 讃岐国大絵図 寛永拾七辰年」と記されています。
 ここからは、寛永十年(1633)に幕府に提出するために作成された絵図をコピーして、さらにそれを寛永17年(1640年)に再コピーしたものを金毘羅大権現(現金刀比羅宮)に奉納されたことがうかがえます。製作時期からみて、幕府巡見使派遣の際に作成された寛永国絵図原本のコピー版を、生駒藩取りつぶしの直前の寛永17年(1640)に奉納したようです。領国支配のためには重要な情報が書き込まれた国絵図ですが、出羽国一万石に移封となった生駒家にとって、『讃岐国絵図』は不要のものです。そこで日頃から信仰の厚かった松尾寺金光院(現在の金刀比羅宮)に奉納したというストーリが考えられます。
 このように寛永十年(1633)に幕府に提出した原本からは、少なくとも金刀比羅宮蔵版と丸亀市立資料館蔵版2つのコピーが作成されていたことになります。
この両者の関係を研究者は、次のように考えているようです。
①九亀市立資料館本は、原本が作成された寛永十年に写されたもので、書かれた内容は金刀比羅宮本とほぼ同じである。
②1640年に寄贈された金刀比羅宮本の方が丸亀市立資料館本よりも、すっきりと洗練されたものになっている。
③西嶋八兵衛1639年に、伊勢に帰っていて金刀比羅本の作成にかかわっていない。

両者の細部を検討すると、丸亀市立資料館蔵版は、原本完成の直後の寛永十年にコピーされたもので、金刀比羅宮版より原本に近いようです。つまり、2枚の讃岐国絵図は、幕府に提出するために作成されたものの原本をコピーして讃岐国内に残したものと研究者は考えています。

系統の違う高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』を見ておきましょう。
讃岐国絵図|高松市
高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』

 高松市資料館のHP解説には、次のように記されています。    
本絵図は縦79センチメートル、横212センチメートルの法量で、墨書に一部着色し南を上にする構図である。黄色く着色された短冊形の枠には郡名を、着色の無い円形枠には村などの地名を記す。郡境は墨書き、道は朱書きによって表現し、山、川、海は薄墨で着色している。
社寺には墨及び朱書きをし、黄色や薄墨の着色で建造物が表現されている。
高松市歴史資料館所蔵「讃岐国絵図」、市文化財に/文化財保護審議会が答申 | BUSINESS LIVE

各村には石高が表示されており、裏面には郡ごとに総石高と田方、畑方のそれぞれ総反畝数が記されている。
そして、絵図の裏(折本の表紙にあたる箇所)には角型と壺型の印章があり、印文は角型が「別所信治」、壺型が「孫四郎」と読める。これらの印章から『寛政重修諸家譜』第8の播磨三木城主別所氏の一族である別所常治(正徳元(1711)年没)が所蔵していたものと考えられる。
同書によれば、常治は最初の名が「信治」、名乗りが「孫四郎」であり、延宝6(1678)年に家督を継ぎ、書院番や使番などを務めた後、長崎奉行に任じられている。これと同じ角型と壺型の印章が、明石市立文化博物館蔵「播磨国絵図」、鳥取市歴史博物館蔵「因幡国絵図」「伯耆国絵図」でも見られることから、この常治が収集したコレクションの一部であったと推察される。

この絵図には、金毘羅寺(松尾寺:現金刀比羅宮)に、三つの建造物が朱で描かれています。
讃岐国絵図 高松市資料館蔵の池内村
高松市歴史資料館 讃岐国絵図

その三つの建造物は観音堂・新金昆羅堂(薬師堂)・多宝塔のようです。
①観音堂は宥雅が元亀二年(1571)前後に建立したものです。長尾氏出身の宥雅は、翌年の元亀四年(1572)に観音堂に登る坂道の北側に金毘羅堂を建立しています。
②新金昆羅堂(薬師堂)は、生駒藩外戚の山下家出身の院主によって元和九年(1623)に建立され、それまでの金毘羅堂は役行者堂に衣替されます。
③多宝塔は延宝元年(1673)に、生駒騒動の後に、初代高松藩主としてやってきた松平頼重が建立寄進したものです。
 高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、③の多宝塔が描かれているので、慶長国絵図をテキストにして延宝元年(1673)以降の元禄年間に作成されたことが考えられます。つまり、寛永十年(1633)作成の九亀市立資料館蔵や金刀比羅宮蔵のものよりも新しいものになるようです。
 ところがもうひとつ問題があります。
この国絵図には満濃池が書かれていないのです。満濃池は源平合戦の最中に決壊して以後450年間放置され、その跡には「池内村」ができていたと伝えられます。その「池内村」が、この絵図には記さています。西嶋八兵衛が満濃池を改修したのが寛永5(1628)年のことです。
 また、丸亀城が「圓亀古城」となっているのはいいとして、引田城が「城」と記されています。これは慶長20(1615)年の一国一城令以前のことを描いていることになります。
 以上のように高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』からは、次のようなことが読み取れます。
①金毘羅大権現の多宝塔からは、17世紀後半のことが記されていること。
②満濃池跡の「池内村」や引田城からは、17世紀初頭のことが描かれていること
①②の矛盾する内容が、同位置地図に描かれていることになります。これに対して、研究者は次のように考えているようです。
A 高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、慶長末期までの詳細な情報を記す原図があったこと
B その原本に基づいて、コレクターの別所常治が亡くなる正徳元年までの間で書写した国絵図である。
 幕府の元に集められ保管されていた各国の慶長国絵図を、元禄気になってコピーしたのかもしれません。どちらにしても、高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、丸亀市立資料館蔵や金刀比羅宮蔵の「寛永国絵図」系統のものにはない江戸初期の讃岐の様子が描かれた史料であることになります。そこに書かれている内容は、慶長年間(1596一1615)頃のものが含まれているようです。しかし、製作年代については、元禄年間に作成されたもので、丸亀市立資料館本より40年以上新しいと研究者は考えているようです。そして、高松市歴史資料館本は、慶長国絵図が存在していたことを示す貴重な史料と云うことになるようです。
讃岐国絵図 高松市資料館版新聞報道
高松市歴史資料館蔵の讃岐国絵図
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      羽床正明 近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度



前回は三野郡勝間(三豊市高瀬町)を拠点に古代の三野郡司から武士団へと成長を遂げた三野氏をみてきました。三野氏は下勝間の勝間城を拠点に、柞原寺を菩提寺として成長していきます。そして戦国期になると天霧城の香川氏の重臣として活動し、所領を守っていきます。香川氏が長宗我部と結ぶと讃岐平定の先兵として活躍し、人質として岡豊城にも出向いていました。さらに、生駒藩時代には、二代目一正を支える重臣として5000石の知行地をもつにまで至ります。
 生駒藩の文書には、藤堂高虎の意を受けて、藤堂藩からレンタル派遣されて奉行職を務めた西嶋八兵衛と並んで署名したものがいくつも残されています。ここからは西嶋八兵衛などと、実質的な藩運営に関わっていたことがうかがえます。
西嶋八兵衛による満濃池築造に代表されるように藩全域的な治水灌漑工事が一段落すると、つぎに問題になってくるのが知行問題です。
それまでの生駒藩は、家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収していました。高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には、高松城下町のことが次のように記されています。
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,
(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

ここからは次のようなことが分かります。
①生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
ここからは太閤検地によって否定された「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていたことが分かります。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、三野郡の三野氏のように生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きが活発化します。
 秀吉の太閤検地の意味をもう一度確認しておきましょう。
 太閤検地でと「領有制から領知制」に変わります。武士は、土地と百姓から切り離され、土地の所有権は耕作する百姓の手に移ります。検地後は、武士は自らの「あらし子(侍の手作り地で働く農業労働者)」のように、百姓を自由に使うことは出来なくなったはずです。百姓層を使って、自由に新田開発を行うことはあり得ないことです。ところが、三野孫之丞は、700石もの「自分開」を新たに拓いています。三野氏の一族も624石の新田を持っています。 この広大な新田を、どこにどのようにして拓いたのでしょうか。それを三野氏の拠点である下勝間で見ていくことにします。テキストは高瀬町史288P 勝間新田の開発    です。

    高瀬下勝間地図 
                              
下勝間村は、上の赤線で囲まれたエリアで、現在の三豊市役所(旧高瀬庁役場)から高速道路の北辺りまでにあった行政区画です。江戸時代初期の下勝間村の石高は次のように記されています。
下勝間村高千弐百壱石、 畝数百拾四町六反三畝
内訳 
田方本村五百弐石五斗    畝数四拾四町六反三畝
田方鴨分四百拾石九斗八升 畝数三拾八町四反
新田拾弐町九畝     
  居屋敷五町五反七畝
畑方村中九町三反     
  新畑三町弐反九畝
    「佐股組明細帳」『高瀬町史史料編』
①「田方 本村」は勝間小学校から高瀬中学校のあたり
②「鴨分」は国道以西から高瀬駅・高瀬高校あたりになります。
税率を示す「斗代」は一石七斗で、このころは上田の一石五斗が一般的でした。それからすると上田が多く勝間は三野郡における穀倉地帯だったといえそうです。この辺りが下勝間の「本村」であったことがうかがえます。本村を拠点に周辺部が新田開発されていきます。

新田開発を行ったのは、どのような勢力なのでしょうか。
生駒時代の寛永~元禄年間(1624~04)に新田開発の内訳です。
 新田開発の状況
既往の新田畑 三町四反九畝十九歩 四町三反四畝十八歩
新規開発新田 十町九反二十四歩
内訳
佐股甚左衛門新田 壱町七反弐拾歩
上高瀬新八新田 三町八反壱歩弐拾三歩
長右衛門新田 壱町三反九畝十三歩
巳ノ新田 三反六畝
六ツ松新田 壱反弐畝弐拾九歩
巳ノ新田元禄十二年改 壱反九畝弐拾三歩
同 元禄十六年改 六畝五歩
同宝永二年改 壱町七反弐畝十五歩
同 元禄十二年より宝永二年改 壱町五反壱畝六歩上勝間五兵衛新田
新たに拓かれた面積を計算してみると
既往の新田畑3町4反9畝19歩 + 4町3反4畝18歩 + 新規開発新田10町9反24歩=約18町6反

が下勝間地区で新たに拓かれたようです。
佐股甚左衛門新田とあるのは「佐股村庄屋の甚左衛門が拓いた新田」という意味になります。ここからは、開発者のひとりが、佐股村庄屋であったことが分かります。彼は六ツ松のほか西股でも1町5反の新田のほか、西山千田林には約2町歩の新田と甚(陣)左衛門池を拓いています。新田と池の築造はセットで行われなければ意味がありません。
 上高瀬大庄屋三好新八郎は、石の塔沿いに新田と上池・下池を築造しています。彼は威徳院検地帳に上勝間庄屋と記されています。ここからは、下勝間周辺の庄屋たちが村のエリアを越えて新田開発とため池築造工事をセットで進めていたことが見えてきます。彼らは幕藩政治の下で世の中が落ち着いて活躍場所を失った武士たちが帰農したものたちもいたはずです。その中には、讃岐以外の地からやってきて一族で住み着いて、豊富な資金力と労働力で急速に周辺の土地を集積していった勢力がいました。
 
  その例を多度津町葛原の木谷一族に見てみましょう
 芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに一族意識で結ばれていた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに讃岐・葛原村に移住してきたようです。時期は、海賊禁止令が出た直後のようです。武将として蓄えた一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら豪農として、一般農民の上に立つ地位を急速に築いていきます。そして金倉川の氾濫原の新田開発と千代池などのため池改修を進めて、大庄屋へと成長して行きます。
 1628年に西嶋八兵衛は廃池になっていた満濃池の改修に着手し、同時に金倉川の流路変更や治水工事を行い、用水路整備をすすめます。それは、当時の新田開発という大きなうねりの中にあったことを押さえておきます。
 この他にも、生駒家2代目一正の側室となったオナツの実家の山下家も、この時期に財田西や河内で盛んに新田開発を行い分家を繰り返し、成長していきます。オナツによって生駒家に作られた外戚閥族が生駒騒動の原因の一つとも言われます。また、オナツの甥は金毘羅大権現の金光院院主でした。この「伯母・甥」関係が生駒家から金光院への330石という大きな寄進につながったようです。どちらにしても、当時の財田西の山下家は殿様の側室を出した家として、特別な存在だったようです。この山下家も新田開発に熱心だったことを押さえておきます。
  そういう目で見てみると、三野・多度郡・那珂郡は生駒時代に拓かれた新田が多いような気がします。それを裏付けるデーターに出会いました。

生駒藩新田開発割合

ここには讃岐11郡の生駒家時代の新田開発状況がグラフ化されています。
①灰色が「自分開」で、家臣団による新田開発面積
②桃色が「新田悪所改出」で、地主による新田開発面積  
これを見ると新田開発が盛んに行われた郡とあまり行われていない郡があるようです。また、新田開発の担い手にコントラストもあります。例えば山田郡を見ると、開発主体は地主たちだったようです。それに対して、香東郡・鵜足郡・多度郡・苅田郡は家臣たちが積極的に開発を行っています。さて三野郡はと見ると・・・、家臣団と地主が争うように行っています。
三野郡で新田開発をおこなっていた家臣とはだれなのでしょうか。

生駒家新田開発一覧表
そのトップにいるのが三野孫之丞です。彼は、前回見てきたように古代の三野郡司につながる三野氏の当主で、5000石の重臣でした。高松城の本丸近くに広い屋敷を持っていました。同時に、拠点の三野郡では、他に類がないほどの新田開発をおこなっていたことになります。ここからは、先ほど見た庄屋による新田開発と並ぶだけの面積が三野氏の手によって下勝間周辺では行われていたことがうかがえます。

新田が拓かれた場所は、周辺のため池の名前からその場所が推定できるようです。
「威徳院検地帳」の地名を見れば、それは、現在の新田部落の的場・彦三郎池そば・菖蒲池そば・丸山道下から六ツ松峠付近であったことが分かります。築造された主な溜池を挙げて見ましょう。
①山王下  山王池  かに谷池   菖蒲池  相本池
②威徳院上  菰池   皿池
③六ツ松  松葉崎池 かも池  陣左衛門池
④石ノ塔    新田池 同上池 同下池
⑤五丁池上 渡池 鬼ノ窪池 どじょう池
⑥上勝間村堺 皿池 丸山池(千田林)佐股新田
関連溜池 庄屋池。梅之谷池。足和田池・岩瀬池・立花池。
勝間 ため池

上の中から主要な溜池四池について、時代ごとの灌漑面積を比較したのが下表です。

①江戸時代前期の「佐股組明細帳」37、4町
②江戸時代末『西讃府志』    56,8町
③現在             70,0町 
江戸時代の200余年の間に、灌漑面積は約倍増しています。しかし、溜池の築造 →余水確保 → 新田開発 → 日照りと干害 → 新しい溜池築造という悪循環だったようで、池の嵩増しや「新池」を次々と造り続けられます。連続して並ぶ池は、その歴史を物語る証人でもあるようです。
高瀬町勝間のため池2

南海道と伊予大道が合流する六ツ松峠付近を見てみましょう
「勝間村郷土誌」は、池堤を旧国道として利用したことによって生まれた独自の溜池景観を次のように記します。

旧往環国道11号線 道音寺方面を通れば一歩に二池、五歩に十池、左右の水色道音寺城山の松、翠に映発して美観いうべからず

たしかに、六つ松から笠田に抜けて行く峠付近は、池の堤防が国道にもなっていたようで、小さなため池が左右に続く風景が残っています。これらも江戸時代の新田開発とともに谷頭に池が作られていった結果、生まれてきた光景で讃岐らしさが現れている「歴史的風景遺産」と呼ぶことができるのかもしれません。

さぬき三十三観音霊場第22番威徳院勝造寺/三豊市
新田台地に建つ威徳院

この新田開発の推進役のひとつが威徳院です。

この寺は、新田台地中央に位置し、讃岐国領主生駒一正の保護を受けて20石を安堵された以後、寺勢が急速に伸びいきます。その時期は、三野氏が新田開発を大規模に推し進めていた時と重なります。
 さぬき三十三観音霊場第22番威徳院勝造寺/三豊市
威徳院
また、三野四郎左衛門は一正に仕えて、朝鮮出兵や関ケ原の戦いにも従軍し、豊臣方の大谷吉継の重臣である大谷源左衛門の首をあげる大殊勲を挙げます。この戦功もあって、彼は以後は惣奉行として仕え、5000石を領する家老にまで登り詰めていました。このような中で、新たに建立(再建)されたのが威徳院なのではと思っています。あるいは、当初は柞原寺の別院のような存在であったかもしれません。その院主が三野四郎左衛門の帰依を得て、そのつながりで藩主一正の保護を受けるようになったのではないかと推察します。

DSC06244勝間城・威徳院
勝間城と威徳院(中世城館跡詳細分布調査報告2003年)

なぜなら威徳院のある場所は、三野氏の居城である勝間城の直下です。ここには三野氏の保護支援なくして、寺院を建立できるものではありません。また、いまは廃寺となりかけている威徳院西院は、三野氏の居城跡ともされます。その跡に建立されていることも三野氏との関係を推測させます。ひょっとしたら三野氏が拓いた新田が、その後に威徳院に寄進されたことも考えられます。
 「西谷池の記念碑」には威徳院が、寺池として大池・西谷池・寺池・同上池・同下池などを築造し、田畑の開発に努めていったことが記されています。
その結果がどうなったのかを「威徳院検地帳」(元禄12(1699)年)に見てみましょう。
 下に挙げたのは、その一部ですがここから分かることを挙げておきましょう。
高瀬町威徳院検地帳

 威徳院寺領検地帳(元禄十二年)         高瀬町史資料編516P
①「堤まえ」などと、土地の位置が明記されているので、だいたいの場所が分かる。
②「下田」が多く本村と比べると、土地条件が劣る
③一反未満の小さな田畑が多く、棚田状にならんでいたことがうかがえる。
④「手作り地」といった記述もあるので、寺子などを使って寺独自に耕作が行われていた田畑もあった。

最後に威徳院寺領の総合計と、土地の等級評価が次のように記されています。
  畝数合七町弐反五歩 内三畝拾五歩  多門坊屋敷
残而七町壱反六畝廿歩再僻分
上田 六反四畝弐歩 反二付米八斗   取米五石壱斗弐升五合
下上田 壱町六反八畝 反二付七斗 取米拾壱石七斗六升
下田 壱町九反六畝七歩 反二付六斗五升 取米拾弐石五升四合
下々田 弐町弐拾七歩 反二付六斗 取米拾弐石五升四合
下畑 四反七畝十三歩 反二付二斗五升 取米壱石壱斗八升六合
下々畑 壱反七畝拾六歩 反二付壱斗五升 取米弐斗六升三合
屋敷弐反弐畝十五歩 反二付弐斗五升 取米五斗六升三合
(朱書き)
「其新畑四畝廿五歩 取米七升弐合  米合四拾三石七斗三合
右之通相定申候、以上
元禄拾弐年卯ノ三月十八日 
源右衛門
彦八郎
組頭 四郎兵衛
清右衛門
庄屋 五兵衛花押
寺内作付分
一、上田六畝拾弐歩  浦門内
一、上田九畝拾八歩  下藪北切
一、上田四畝八歩    ふろ屋敷
一、上田七畝廿歩    同所上切
一、上畑六畝拾歩    莱畑
一、上畑弐畝拾歩    泉ノ本
一、上田壱畝拾五歩  門道下
一、上田弐畝      同所道上

畝〆四反三畝
元禄拾弐年卯ノ三月廿八日
源右衛門
彦八郎
四郎兵衛
庄屋 五兵衛花押

 史料末尾に、村役人の連名がります。彼らが検地を実施し、その確認を行ったもののようです。寺は年貢米を徴収しただけと研究者は考えているようです。
  ここからは17世紀末には、威徳院は寺領として7町2反(7,2㌶)をもつ地主でもあったことが分かります。威徳院の近世の隆盛ぶりを支えた経済的基盤は、ここに求めることができそうです。

それでは、三野氏が開発した土地は、どうなったのでしょうか。
 最初に指摘したように生駒藩では「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていました。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活していたのです。その上、新たに開発した新田は「自己開」として自分の知行に繰り込むことができたのです。そのため地元領主出身の三野氏は、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大したのです。それは先ほどのグラフで見たとおりです。周囲の一族や地主はそれを真似ます。このようにして生駒家の三野郡では、新田開発ラッシュが起きました。そのシンボルとして新田台地に姿を現したのが威徳院ではないでしょうか。
 三野氏の描いたプランは、自分たちがかつての国人領主のような立場になり、百姓層を中世の作人として使役し耕作をおこなうものです。これは秀吉の目指した太閤検地以後の時代の流れに「逆行」するものです。これを阻止しようする勢力が藩内に現れない方がおかしいのです。
新藩主のもと前野、石崎を始めとする新藩政担当者のねらいは、百姓を主体とし、その権限を強めるもので百姓を藩が直接支配するものです。そして、代官に年貢を徴収させて換金し、収入を得る方式に変えていきます。もちろん家臣たちの新田開発などは許しません。家臣のもっていた国人領主的な側面をなくして、サラリーマン化する方向に軌道修正します。それは歴史教科書に出てくる「地方知行制から俸禄制へ」という道で、これが歴史の流れです。この流れの向こうに「近世の村」は出現するようです。両者の間に決定的な利害対立が目に見える形で現れ、二者選択が迫られるようになります。生駒騒動の背景には、このような土地政策をめぐる対立があったようです。

  以上をまとめておくと
①生駒藩では、「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわれ、生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活していた。
②新田開発で生まれた田畑は、自分の所領とすることが出来たので讃岐出身の家臣を中心に新田開発が進められた。
③その中でも三野郡の新田開発は飛び抜けており、その中心に三野氏がいた。
④三野氏は下勝間を中心に新田開発を進め、それを一族や菩提寺も真似た。
⑤こうして生駒時代の勝間周辺は膨大な新田とため池が造られ今日的な景観に近づいた。
⑥この時期に新たな宗教施設として、姿を見せるのが威徳院である。威徳院は柞原寺に代わってこの地区の宗教センターとしての役割を担うことになる。
⑦威徳院の経済基盤は、この時代に拓かれた新田7町の田畑にあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 高瀬町史288P 勝間新田の開発 
      合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」
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正保元年(1644)に幕府は、各藩に「正保国絵図」の制作を命じます。慶安初年1648)にかけて国絵図が、国毎に作られ幕府に提出されます。ちなみに讃岐国の担当大名は、松平讃岐守頼重でした。
 この時期の讃岐国は、寛永17年(1640)に生駒高俊が封地の讃岐国を収公され、翌18年に西讃岐五万石の領主として山崎家治が、翌19年に松平頼重が讃岐高松12万石の領主として移封を命じられています。生駒藩一国体制から、高松藩と丸亀藩の二藩体制への移行期でした。山崎藩・藩主家治は、九亀城を居城として、廃城となっていた丸亀城の修築を始めます。つまり正保国絵図には、生駒家が讃岐一国の領主であった時期の讃岐国開発の最終的な姿が、描かれていると研究者は考えているようです。
 それでは引田はどう描かれているのでしょうか。
まずは「正保国絵図」(国立公文書館)の大内郡の様子を見てみましょう。
引田 大内郡 正保国絵図
①古城山(引田城跡)の背後の入江には引田濱があります。
②馬宿川の河口と、馬宿村には舟番所が置かれています。
③遠見新番所も、後から設置されたようです。
④高松・阿波街道が引田濱を通過しており、西に向かうと大坂峠を経て阿波へ
⑤東には白鳥を経て、高松へ
⑥引田濱の注記には次のように記されています。
「是より庵治へ七里二十三町 磯より沖の舟路まで十七町 西北風に船掛かりよし
ここからは引田浦が後背地や街道に面して、交易湊として栄える地理的な条件を持っていたことがうかがえます。何より、海に開けた港があり、讃岐では最も大坂に近い所だったのです。生駒氏が讃岐にやって来たときに、最初の城を構えようとしたのも納得がいきます。生駒氏の引田城造営については、以前にもお話ししましたので、今回は別の視点から引田城下を見ていくことにします。テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
 絵図をもう少し拡大して見ましょう。
「正保国絵図」の引田城跡の周辺部の拡大図です。
引田 小海川流路変更

この絵図から読み取れることを挙げておきます。
①中央左手に「古城山」と記入されている山が引田城跡。
②右上から流下している小海川が「古城山」の西側を流れ海に流れ込んでいる
③その河口西側に安戸池がある
④引田濱を高松・阿波街道が通過している
⑤高松街道の小海川には橋が架かっている
⑥橋の東側の高松街道沿いに●が2つついている。これが一里塚の印であった。
下図は、約200年後の「天保国絵図 讃岐国」の大内郡のエリアを切り取ったものです。
引田 大内郡 天保国絵図

天保国絵図は、幕府の命により作られた最後の国絵図になるようです。完成は天保9年(1838)とされるので、さきほどの正保国絵図の約二百年後の引田が描かれていることになります。この絵図は、国立公文書館のデジタルアーカイブスで自由に閲覧可能です。

  画面を引田にズームアップしていきます。
引田 大内郡 天保国絵図拡大

まず気づくのは、①小海川の流路の変化です。正保国絵図では、古城山の西麓を通り、安戸池の西側で海へ注いでいました。ところが、天保国絵図では、小海川は、古城山の東麓を流れて海に注いでいます。安戸池側には流れていません。現在の河道と同じです。
 また、旧河道跡には⑤「塩濱」(塩浜)と記されています。「正保国絵図」後に、小海川の河道は変更されていることが分かります。つまり、江戸時代に小海川の川筋は付け替えられたのです。
その付け替えが行われたのは、いつのことなのでしょうか。
その資料として研究者は、ほぼ同じ時期に描かれたとされる2つの絵図を比較します。

引田 小海川流路変更2
①共通するのは、引田城(城山)と誉田八幡が鎮座する宮山と引田浦の間は海として描かれている②右の「高松国絵図」では、小海川の河道は宮山の西側を通り「安穏池」(安戸池)は、川の一部として描かれています。つまり、小海川の河道は安戸池側にあったことを示しています。ここからは、この二つの絵図が書かれた時には、小海川は安戸池側に流れていたことが分かります。

【図5】は引田の「地理的環境説明図」(木下晴一氏の作成)です。
引田の地理的環境

流路変更前の小海川の河道を、上図でたどってみましょう。
①小海川は、内陸部の条里型地割と山地のエリアでは、真っ直ぐに北へ流れてきます。
②それが潟湖跡地にはいると蛇行し、
③海岸部の砂嘴・浜堤に沿って両方へ流れを変え、
④誉田八幡の南部を経て、城山西麓(安戸池)海へ注いでいた。
その復元図を見てみましょう。
HPTIMAGE.jpg引田

【天保国絵図】にあった塩浜は、城山西麓のかつての干潟に当たるようです。
【図4】のふたつの絵図では、城山と宮山との間は海で隔たれていました。そして、城山と誉田八幡との間もかつての潟で、満潮時には海水が流入していたようです。この場所は、一番最初に見た「正保国絵図」では陸続きとして描かれていたので、それまでに埋積されたのでしょう。
引田城下町復元図
それでは、小海川の付け替えの目的は、どこにあったのでしょうか
① 小海川の現在の河道は、古川に向かって低くなる方向には流れず、最も高いところを流れている。
②これは河道を入為的に固定していることを示す。
③北側の丘陵の裾部に沿って直線状に流れ、砂嘴と西から延びる舌状の丘陵によって最も潟が狭くなる地点を抜け、砂嘴を開削して瀬戸内海に注いでいる。
④狭い部分から下流の河道左岸側には高さは低いが幅広の堤防が築かれている。
以上のように、小海川の人工流路は、洪水流を最も効率的に海に排水することを目指したもので、小海川のルート変更を行う事で、砂嘴上にある引田の水害防止策がとられたと研究者は考えているようです。
1引田城3


その時期は現在の所は、正保国絵図が作成された後から、天保国絵図の作成までの200年間の間としかいえないようです。生駒時代に行われたものではないようです。
5引田unnamed (1)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)

金毘羅大権現が発展していく礎石となったのが、生駒家時代の寄進地でした。
何回にも分けて金毘羅に寄進された石高は330石になります。
これを他の寺院と比較してみると寄進地が圧倒的に多いのが分かります
①2番目に多いのが勝法寺(興正寺)の150石
②3番目は生駒家の菩提寺法泉寺の100石
③国内で古い由緒を誇る国分寺・誕生院(善通寺)でも60石程度。
⑤白峰寺・田村神社は50石で、親正ゆかりの弘憲寺と同じ。
⑥屋島寺が43石、水主明神の35石、引田八幡宮30石、滝宮27石、威徳院20石、根来寺18石と続きます。
 金毘羅へは、寛永年開になっても祭祀料50石が寄せられていたので、生駒家からの寄進は実際は380石であったと考えてもいいようです。生まれたばかりの新興宗教団体の「金毘羅大権現」に、生駒家が寄進を重ねたのはオナツという女性の力があったことを以前にお話ししました。
生駒一正 - Wikipedia
生駒家2代藩主・一正
 
一正の愛したのが於夏(オナツ)です
 一正は讃岐入国後に於夏(オナツ・三野郡財田西ノ村の土豪・山下盛勝の息女)を側室として迎えます。於夏は一正の愛を受けて、男の子を三豊の山下家で産んでいます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門と称すようになります。彼は成人して、腹違いの兄の京極家第三代の高俊に仕えることになります。
 
寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり。「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。 金毘羅大権現への寄進・保護を進めたのも於夏とその子ども達です。
オナツと金毘羅を結ぶ糸は、どこにあったのでしょうか? 
それはオナツの実家の山下家に求められます。この家は戦国の世を生き抜いた財田の土豪・山下盛郷が始祖です。その二代目が盛勝(於夏の父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久で於夏の兄です。父と同様に、郷司となり西ノ村で知行200石を支給されます。彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
一方、於夏の弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。
この分家の息子が金毘羅の院主になっていたのです。 1613~45年まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨は、殿様の側室於夏と「甥と叔母」という関係だったことになります。宥睨が金毘羅の院主となった慶長18年(1613)の3年前に、一正は亡くなりますが、伯母於夏を中心とする血脈は脈々とつながっていきます。オナツを中心に強力な「金毘羅大権現の応援団」が生駒藩には形成されていたのです。そのメンバーを確認しましょう。
①2代目・一正未亡人の於夏
②一正とオナツの息子で藩内NO2の石高を持つ筆頭家老・生駒左門
③一正とオナツとの間に生まれた娘山里(?実名不明)(左門の妹)
④於夏の娘山里③が離婚後に産んだ生駒河内(一正の養子)
⑤於夏の娘山里③の再婚相手である生駒将監と、その長男・帯刀
   こうして「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀」を於夏の血脈は結びつけ、生駒氏一門衆の中に、外戚山下家の人脈(閨閥)を形成していきました。この血脈が大きな政治的な力を発揮することになります。その結果、もたらされたのが生駒家の金毘羅大権現への飛び抜けた寄進になるようです。
生駒藩屋敷割り図3拡大図
生駒藩・重臣達の屋敷配置

オナツの娘(山里?)について、生駒記には次のように記されています
家嫡正俊、讃岐守ニ任ジ四品二叙シ家督相続ス。二男左門ハ五千石宛行、家老並ニナル。女子一人猪隈人納言公忠公ニ嫁セシ所故アリテ後 高俊ノ代二至り国ニ戻ル。
意訳すると
生駒家二代一正は、長男正俊を讃岐守に任じ四品を叙任し家督を相続させた。二男左門(正俊異母弟)には、五千石を知行させ家老並に扱った。女子一人(山里?)は、猪隈人納言公忠公に嫁がせたが故ありて高俊の代になって国に戻ってきた。

この様に史書は一正の息女が猪隈大納言へ嫁しことを伝へています。
しかし、「公忠公ニ嫁セシ所故アリテ後 高俊ノ代二至り国ニ戻ル」とあり、京都の猪熊大納言公忠卿に嫁しますが「故あって」懐胎したままで讃岐に帰ってきます。なぜ帰ってきたのでしょうか、しかも懐妊状態で?
 前置きが長くなりましたが「謎の女・オナツの娘(山里)」について紹介した文章に出会いましたので紹介したいと思います。
テキストは「山下栄 讃岐の国主生駒一正公息女の悲運の生涯 ことひら45号 平成2年」です。
ここには、宮中一の美男子と云われた猪熊大納言公忠卿に嫁した「オナツの娘(山里)」が、なぜ懐胎したままで讃岐に還ってきた理由が明らかにされています。史料を見てみましょう。
幕末の金光院の役人山下盛好の覚書の一文です。

1オナツの娘の離婚理由

意訳して見ましょう
後陽成天皇 慶長十三(1608)年3月、
猪隈侍徒教利(この家は今は絶家となっている。生駒一正侯ノ女、猪隈大納言公忠公に嫁いだと記録にあるのは、この教利の一族のことである)
鳥丸参議光廣公(同家六代目ノ所に見える人物である)
花山院少杵忠長公(同家の系譜からは削除されたのか見えない。今の花山家とは別かもしらない。
徳大寺少特実久公(同家十九代目である)
飛鳥井少将雅賢公(同家十四代目である)
難波少膳宗勝(同家十四代目である)
松本少格宗隆等
以上の者達が共に結んで蕩遊し、密かに宮女五人を誘い出し、これを姦した。(内二人は実承寵幸)
これを知った後陽成天皇は震怒し、
1オナツの娘の離婚理由

家康公の京都所司代・板倉四郎左衛門宗勝に告発し、糾すように求めた。慶長14年(1609)11月に次のような処分が下された。
猪隈教利は斬首 宮女五人を八丈島に流した。宗隆・頼国は硫黄島、忠長を松前(北海道)、雅賢は隠岐、宗勝は伊豆へ流された。光廣・実久の二人は、許しを得て位階を復活させた。この引書は、逸史・続国史略・王代一覧に書かれていることに依った。
  これはなかなかスキャンダラスな内容のようです。いまの週刊誌風に表現すると
イケメン貴族達 宮女5人と乱交バーテイー
 天皇は激怒し 首謀者は斬首
というようなタイトルが飛び交いそうです。

報道には「裏をとる必要」があるので、別の資料にも当たっておきましょう。
「高橋紀比古 江戸初期の宮中の風紀紊乱について 平成元年、歴史読本臨時増刊号 」に、は次のような内容が載せられています。
   徳川幕府が成立し戦国時代の窮乏からは解きはなたれたものの政治から隔離された生活をしいられるようになると公家衆の風紀は著しく弛緩してゆく。宮廷随一の美男子ともてはやされると右近衛権少将猪熊教利は、女官との愛に溺れて素行がおさまらず、慶長十二年(1607)2月に勅勘をこうむり、京から出奔した。一説に相手の女官は後陽成天皇の寵をうけていたという。ところが事件発覚後も宮中の気風はいっこうに改まらず、慶長十四年七月には典薬の兼康備後なる者が手引きをし、参議鳥丸光広・左近衛権中将大炊御門頼国ら公卿と典侍、広橋氏、権典侍中院氏らの女官が、今でいう乱交パーティーをくりひろげた。
この一件を知った後陽成天皇は激怒、公卿の官位を剥奪し、女官をそれそれの実家に帰し禁錮にした。さらに天皇は出奔して行方知れずの猪熊教利を捕縛のうえ乱交に加わった男女ともども極刑に処するよう幕府に求めた。
 これにたいし徳川家康は、同年11月に教利が日向国で逮捕されると、京へ押送させ、兼康備後とともに死刑にした。しかし、天皇の御母新上東門院や女御近衛氏による助名嘆願もあって鳥丸光広、徳大寺実久を無罪。他の公卿、女官を配流とするにとどめた。
   金光院の山下家の文書と現代の歴史学者の説は一致しているようです。一正とオナツの娘(山里)、故あって懐胎したままで讃岐に帰ってきた背景には、こんなスキャンダルに巻き込まれたからのようです。
山下家の記録には、一正とオナツの子ども達が次のように記されています。
  一男ハ生駒左門
西村大屋舗(現在―三豊郡山本町)(山下盛久宅ナリ)ニテ誕生、慶長五子年也
幼名 熊丸卜云、九才ノ時
南無天満大自在天神卜染筆有、今宗運寺(山下盛久建立)ノ什物也
連技家老トナリ五千七十石
寛永十七辰年生駒家没落、作州森美作守侯へ御預、五十人扶持ニテ為方卜有
万治三子年五月九日死去六十一才
体本院雄心全功居士
女子 猪隈大納言公忠卿二嫁ス
(逸史略、続国史略、慶長十四年六月猪隈侍徒斬罪ノ吏有)
有故高俊侯ノ代国二返り有胎ノマヽ一子ヲ生ム 後生駒特監二再嫁ス生駒帯刀ノ継母ナリ
意訳すると
逸史略、続国史略には、慶長十四年六月に猪隈侍徒斬罪となったことが記される
そのため三代高俊侯の時に、懐妊状態で讃岐に帰り、男子を産んだ。その後、生駒特監に再嫁し、生駒帯刀の継母となった
一子ハ生駒河内(猪隈大納言公忠卿の子) 
釆地三千石余被下置、生駒騒動二際シ追放サンル。子孫、高松二有卜云フ
                                (以上、山下家譜)

どうして、一正は娘を公家に嫁がせたのでしょうか?
理由のひとつは、一正が戦国武膊の悲情さ・無常さを充分味って、栄枯盛衰の少ない公家社会へ嫁がせたという説です。生駒家も関ヶ原の戦いでは、父親親正と子の一正は豊臣方と徳川方に引き裂かれました。また、勝ち馬に乗れなかった武人達の末路も見てきました。一正の心の中には「可愛い愛娘は、武将の嫁より宮廷人の嫁へ」と思ったのかもしれません。
第二の理由は、宮廷人(九条家)と姻戚関係を結ぶことで、生駒家の権威を得ようとしたのかもしれません。
しかし、選んだ相手が悪かったようです。こんなトラブルに巻きこまれようとは、おもってもいなかったでしょう。懐妊して讃岐に身も心も疲れ切って帰ってき娘にかける言葉もなかったのではないでしょうか。黙って見守った一正の心配りは父親としての愛情を感じさせるものでした。父なし子として産まれてきた子を自分の養子として育てます。そして後には、家老並みの知行を与えています。また母親となった山里には、家老・生駒格監の後妻として再婚させています。
 こうして、山里は新たな伴侶と幸せに暮らせたかと云えば、そうではなかったようです。
 再婚相手の生駒生駒格監も寛永9(1632)年に亡くなります。この病死については、毒殺説もあるようです。この頃から生駒家では、外戚山下家の権勢に反発する空気が広がっていきます。
それが生駒家騒動につながります。この結果、(山里)につながる人たちは次のような道を歩みます
①継子 帯刀は、松江藩松平家預五十人扶持
②兄 左門(連技家老5070石)は、美作藩森美作守侯へ御預、五十人扶持。万治三子年五月九日死去六十一才
③一子 生駒河内(釆地三千石) 追放サレル。子孫高松二在リト伝ヘラル          (山下家家譜)
この様に山里は、二人の夫、継子、兄、実子と別れ別れになります。彼女の晩年を伝へるものは、何一つ残されていないようです。継子と共に松江へ移ったか、兄と共に作州へ、それとも実子とともに追放され高松近在で余生を送ったのか分かりません。
一正とオナツの娘を「山里」と呼んできましたが、これも実名かどうかも確かには分からないようです。
彼女が、どこで亡くなり、どこに墓があるのかも分かりません。讃岐17万石の大名の息女として、産まれ京都の公家の嫁として旅だって行った頃には、その先にこんな展開が待ち受けているとは思ってもいなかったでしょう。
 母オナツと彼女につながる山下家の血縁が、生駒家の中で外戚として、大きな政治勢力となり、それが新興宗教施設の金毘羅大権現にとっては大きな力となったことを、記しておきたいと思います。
 最後まで、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   山下栄 讃岐の国主生駒一正公息女の悲運の生涯 ことひら45号 平成2年

 


5c引田

引田の中世の賑わいぶりや近世の引田城には、これまでも何回かお話ししてきました。今回は、引田の城下町について書かれた論文を見ていきたいと思います。テキストは「木下 晴一 引田城下町の歴史地理学的検討 香川県埋蔵物文化材調査センター紀要Ⅶ  1999年」です。

5引田3
近世城下町の特徴について、研究者は次のようなポイントを挙げます。
①兵農分離と商農分離が進められ、城・重臣屋敷・一般武家屋敷・足軽屋敷・寺社・商人町・職人町が綿密な都市計画(町割)によって配置されている。
②同業者を集住させるため「鍛冶町」「大工町」といった町名がある。
③防御要地や城郭弱点に寺町が「要塞」として配置される
④街路幅が狭く、T字路・カギ型・喰違や袋小路がある。
⑤城下町全体を堀や上塁などによって囲む。
⑥京都の町割をまねて、碁盤日状の整然とした町割を形成
⑦長方形の街区が街路に面して並び、奥行の深い短冊形の町屋敷が続く
⑧街路両面に町屋敷が一体となって町を構成する両側町の形態をとる
以上の8点が指摘されています。 
これらの特徴が引田城に見られるのでしょうか。各項目をチェックしていきましょう。
⑦の町割・屋敷割りを、まず見てみましょう。

5hiketaHPTIMAGE

 砂嘴の上に立地していますので少し湾曲していますが、長方形の街区が積み重ねられた構造です。敷地は街路に面する間口が狭く奥行の深い短冊形の屋敷割になっています。長方形街区の長辺の方向は一定ではありませんが、全体としては計画的な町割となっています。ここからは、誉田八幡官付近から南方の足谷川付近までの町割は、同時期に普請されたと研究者は考えているようです。

1引田城下町4
②の町名を見てみましょう。
 引田の街は現在は「引田町引田○○番地」で登記されていますが、「松の下」などの町名が残っているところもあります。それを、住宅地図などから挙げると
「松の下」「魚の棚」「久太郎町」「大工町」「草木町」
「北後町」「南後町」「北中の丁」「南中の丁」「寺町」
「大道一~四丁目」「本町一~五丁目「本町六丁目浜」
「本町六丁目岡」「本町七丁目」

などがあります。このうち「大工町」は各地の城下町に見られる職人町名です。また南北の「中の丁」のみ「町」ではなく「丁」の字を使っています。生駒親正によって建設された高松城下や九亀城下では,侍屋敷を一番丁、二番丁と呼んでいます。全国的にも武家町が「丁」、町人町が「町」を用いていた例があるようです。引田町も「丁」は武家町であった可能性があります。
 「中の丁」には近世に大庄屋であった日下家があり、他地域に比べると屋敷面積が広いようです。重臣たちの住居エリアであったことがうかがえます。
第7図は、研究者が地域の人たちからの聞取調査で作成した「町」の範囲のようです。「松の下」と「魚の棚」がひとつになって「松魚」と呼ばれたりして正確でない所もあるようですが⑧の両側町のスタイルであることが見て取れます。

1引田城下町5

③の寺町については、積善坊・善覚寺・高生寺の三寺が一列に並び「寺町」を形成します。
第9図で見ると、寺町の位置は、高松からの讃岐街道が引田の街に入る入口付近になります。
寺社が要地や城郭の弱点と思われる場所に複数まとまって配置
という寺町の規定に当てはまる要衝になる場所です。この3つの寺院の沿革についてはっきりしたことは分からないようです。しかし、三寺はすべて真言宗の寺院です。生駒親正は、讃岐に入部するにあたり讃岐が弘法大師生誕の地であることから真言宗に改宗したことが知られています。真言宗派による国内統治策の一貫だったのかもしれません。
また、誉田八幡宮の南には別当寺で真言宗の城林寺がありました。
 しかし、明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。この寺の唐破風造りの玄関が寺町の積善坊に移築されています。その差物上部には生駒家家紋の「生駒車(波引車文)」の彫物があります。この家紋は『讃羽綴遺録」よると文禄・慶長の役以降に生駒家が使っていたものです。誉田八幡宮別当寺の城林寺は、生駒家ゆかりの寺であったことがうかがえます。
次は④の「街路幅が狭く,街路をT字路・カギ型・喰違いにしたり袋小路にしたりしている」です。
敵の進入路と第1に考えられるのは街道筋です。引田城の場合は、
A 高松側や阿波側から街道筋を通り
B 御幸橋で小海川を渡り
C 引田城へ
というルートになります。
第9図A地点を見ると、それに備えて二つのT字路が造られていのが見て取れます。また道幅は狭く、十字路の多くは筋違いになっているため周囲の眺望がききません。砂嘴が湾曲していることもあって見通しが効かず、よそ者は道に迷いやすい街並みです。これらは城下町として、生駒氏が意図的に造りだした可能性が高いと研究者は考えているようです。


1引田城下町3

  砂嘴を開削した小海川河口部は、次のような点から内堀としての性格をもつと考えられます。
①誉田八幡神社の南側が城主の居宅や上級家臣の居住区である可能性が高い
②河川は砂嘴を横切っており、砂嘴を最短距離で開削していない。これは両岸の町割の方向と合致する
つまり、砂嘴を通した小海川が内堀で、その北側が重臣たちの居住区エリアであり、そこに港もあったということになります。そして、城下町の建設と流路変更は同時期に行われた可能性を指摘します。

第8図は「沖代」の地籍図の部分です

1引田城下町6

ここには周囲の地割とは異なる細長い地割が積み木のように重なっています。これは何を意味するのでしょうか?研究者は

「周囲の水路とは異質な幅広の堀状の水路が存在」

を読取り、これを「堀の痕跡」であると推察します。堀状の地割の方向は、城下町の地割の方向と一致します。そして、南側の条里型地割や潟湖跡地の水田地割とは不連続です。このことも城下町外側の堀の痕跡説を補強します。
 城下町南端を区切るように足谷川という小河川が流れています。
 この流れも一部丘陵を開削開削した人工河川だと研究者は指摘します。足谷川の河道はもとは第2図Cの位置であったと推定され,第8図の細長い地割がその痕跡と云うのです。そうであれば小海川や古川の流路固定と同時期に足谷川も流路が変更・固定され、周辺の水田開発が進行ます。そして、その後に現在の流路に付け替えられたことが地割の前後関係から推察されるようです。足谷川は、城下町建設以後に流路変更が行われたことになります。

5hiketaHPTIMAGE
   以上から引田城の囲郭ラインは次のようになります。
①東は瀬戸内海
②北と西は砂嘴背後の低湿地という自然地形を利用し,
③砂嘴を開削した小海川河口部が内堀
で総構えの構造となっていたと推定できます。このような構造は戦国末・織豊期の特徴です。
 引田の街は城下町としての性格を持っていることが分かります。

1引田城下町7

                 
10図は現在の小海川の流路南側の10cm等高線図です。これは各水田の標高をもとに作られたもので微起伏が等高線で示されています。小海川は左から右へ流れています。ここからは、次のようなことが読み取れます。
①現在の小海川は古川に向かって流れてる
②しかし、低い所に向かって流れるのではなく、一番高いところを通過している
 これは何を意味するのでしょうか。
もちろん、天井川となって周囲に土砂が堆積して標高が高くなっているということもあるでしょう。しかし、これは河道が人の手によって作られ固定されたことを示していると研究者は考えています。
 もう一度確認すると現在の流れは、北側の丘陵の裾に沿って直線状に流れ、砂嘴と西からの丘陵によって最も潟が狭くなる地点を抜け、砂嘴を開削して瀬戸内海に注いでいるのです。一番狭くなっている所から下流の河道左岸には、幅広の堤防が築かれています。このような小海川の人工流路は、洪水流を最も効率的に排水することを目指したものと推察できます。

 小海川の旧河道であった安戸・松原には明治末年まで塩田が拡がっていました。
5引田3

白鳥町の教蓮寺の享保11(1726)年の教蓮寺縁起には,天正15(1587)年に生駒親正が旧任地の播州赤穂郡の人たち数十人を白鳥松原に移住させ、製塩を始めたことが記されています。また寛永19(1642)年の「讃岐国高松領小物成帳」には松原・安戸に塩222石3斗が課せられています。ここからはこの地域で製塩が行われていたことが分かります。引田に近い阿波国撫養でも天正13(1585)年に、播州龍野から阿波に転封された蜂須賀家政が,播州荒井から2人の製塩技術者を招き塩田開田を始めています。近世初頭の瀬戸内海沿岸の大名にとって製塩は、最重要の殖産事業でした。
引田町歴史民俗資料館に「旧安堵浦及浜絵図」が保管されています。
1引田城下町8

これは引田塩政所(庄屋)であった菊池家が所蔵していたもので「天明八年」(1788年)の記載から18世紀後半以降の安堵(戸)浦の塩田が描かれています。絵図中央に「大川」という(旧)河川が右から左へ流れ、左の河口部には塩田を守るために石垣堰堤が築かれています。
そして(旧)と括弧書きにしてあります。これが小海川の旧河道である大川の当時の姿のようです。大川は締め切られて現在の小海川と連続していなかったことが分かります。  川のひとつの流れは誉田八幡と引田城の間から引田港へ抜け、河口部は「江の口」と記されています。
1引田城下町9

写真6は、河口付近を拡大したものです
大川の河口部沿岸は堤が築かれ、各所に石水門やユルが描かれています。満潮時に大川を上がってくる塩水を引き入れる入浜系塩田が開かれていたことが分かります。引田の塩田開発当初の状況がうかがえます。ここからは、小海川の流路を変更することによって、淡水の流入や洪水による被害を防止し、本格的な塩田開発が行われたことがうかがえます。小海川のルート変更は、
①引田城の防衛ラインである内堀
②引田城下町の洪水対策
③旧河口(大川)の安堵への本格的製塩の殖産
という「一挙三得」を実現したものだったようです。
5引田unnamed (1)


以上のように,引田城下町は小海川のルート変更とともに備された可能性が高いと研究者は考えます。
 生駒親正は引田に入部した翌年に、高松城の築城を開始します。しかし、引田城がこの時に1年未満で完成したとは云えないようです。生駒親正が本格的に高松城の築城を始めるのは、発掘調査の瓦の出土量などから関ヶ原以後であることが分かってきました。それ以前の政治情勢を考えると
①秀吉生存中は、朝鮮出兵で多額の戦費が係り、藩主も不在であったこと
②天正年間では大名たちの国替えが頻繁に行われ、腰を落ち着けての国作りや城作りに着手していないこと
というこたが指摘されます。慶長2(1597)には、支城として丸亀城を築き、嫡子・一正に守らせています。高松城だけでなく支城を築き一門を配しています。引田城も同様の性格があったようですが、ここに本格的な城が築かれるのも関ヶ原以後のことになるようです。
白鳥町の与田神社の『若一王子大権現縁起』は享保年の記載があることから18世紀以降のものとされますが、ここにはつぎのようなことが記されています
「 銀杏樹在 寒川郡奥山長野。因国君生駒讃岐守俊正公弟,
生駒甚助某受 封於大内郡而居引田与治山城
慶長十九年 応大坂召予兵而往拠城 明年元和元年夏五月七日城陥。於是甚助逃帰而匿奥山
俊正公属関東 故尋求執而誅之 葬諸銀杏樹下
意訳すると
銀杏の木が寒川郡の奥山長野にある。讃岐国藩主生駒俊政の弟・生駒勘助は、大内郡引田与治山城を治めていたが、慶長十九年の大坂の陣に豊臣方を支援し、大阪城に参陣するも破れ、明年元和元年夏五月七日に大阪城が陥落すると讃岐に逃げ帰り、引田の奥の山に逃げ隠れた。藩主俊正は関東の家康方についたので、弟での勘助を探索し捕らえ誅殺した。そして銀杏樹下に葬った。

とあります。「讃羽綴遺録』にも、生駒甚助が大坂夏の陣の際に、豊臣方につき元和元年に讃岐国において誅殺されるという記載があります。
 ここからは生駒甚介(三代藩主正俊の弟)は、引田城主として、東讃岐を支配してことが分かります。そして大坂夏冬の陣には、大阪城に立て籠もったというのです。生駒藩藩主の兄弟の間にも「路線対立」があったようです。大阪城陥落後は、引田に戻りますが、追っ手が迫り切腹、所領は没収されました。
 その所領を継いだのが生駒隼人になります。
 生駒隼人は、四代藩主壱岐守高俊の弟になります。引田城は代々藩主の弟が守るお城であったようです。彼の知行4609石の内4588石が寒川郡に集中しています。これは引田城の「城主」であったからでしょう。彼の下に配された侍数は26人ですが、生駒騒動の際には、その全てが集団ボイコットに参加し、生駒家を去っています。讃岐に根付いていない在地性弱い外来の侍集団であったことがうかがえます。
どちらにして、生駒藩では知行地制が根強く残り、引田城は藩主の弟が「城主」として治められていたことがわかります。つまり、関ヶ原以後に、「城主」となった「藩主の弟」たちがお城はともかく、城下町については整備したとも考えられる余地は残ります。

  関ヶ原前後に高松城も含めて、近世的城郭を3つ同時に整備する背景には何があったのでしょうか?
生駒親正の構想は
中央に高松城、
西讃の丸亀城
東讃の引田城
を配して、讃岐防衛と瀬戸内海交易ルートの確保にあった思われます。しかし、3つの城の建設が関ヶ原の戦いの前か、後かで仮想敵勢力は変わってきます。
①関ヶ原の前に築城されたとすると、秀吉の死後の東西抗争に備えてということになります。
②関ヶ原の後だとすると、家康の意をくんで毛利や島津の西国大名への備えのため
ということになるのではないでしょうか。

以上をまとめておきます。
①生駒親正は讃岐における最初の拠点を引田に置いた
②引田城の本格的な整備は関ヶ原の戦い前後に始まる
③引田は、マチ割り、寺町・職人町・街路構造等に近世城下町の要素もつ
④引田城下町の整備は小海川の付け替えと密接に結びついている
⑤新しく開削された小海川は「内堀 + 運河 + 洪水対策 + 旧河道河口の塩田化」など多くのプラス面をもたらした。
⑥生駒藩では、引田城には藩主の弟が入り大内郡を「城主」として治めた。
⑦引田城主の生駒勘助は大坂の陣では豊臣方について参戦し、大阪城落城後に逃げ帰り切腹した。

ここからも生駒藩では知行制が温存され「城主」や家臣団の「自由度」が高かった気配が感じられます。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木下 晴一 引田城下町の歴史地理学的検討     

1丸亀城3

天正十三年(1585)、豊臣秀吉が四国を統一した時からが近世の始まりといわれます。秀吉が讃岐国を託した仙石氏と尾藤氏は、両者とも九州遠征に失敗し、短期間で罷免されます。
その後に生駒親正が天正十五年(1587)8月10日に讃岐領主としてやってきます。戦乱で荒廃していた讃岐国は生駒家によって、立て直されていくことになります。まさに讃岐の近世は生駒家と共に幕開けると云ってもいいと思うのですが、後世の評価は今ひとつ高くありません。それは、次にやって来る松平頼重の影に隠されたという面があるのではないかと私は思っています。

 生駒親正は、まず東讃の引田にやって来て城作りを始めます。
しかし、引田はあまり東の方に寄り過ぎると考えたのでしょうか、短期間で放棄して次候補を物色します。さてどこに城を築こうかと考え、宇多津の聖通寺山は狭過ぎる、丸亀はちょっと西に寄り過ぎ、由良山は水が足りないなどと考え、最後に決めた所が野原庄、現在の高松城がある所に決めたようです。この辺りのことは以前にお話ししましたので省略します。野原庄での城作りは天正十六(1588)年から始まったとされますが、近年の発掘調査から本格的な築城は関ヶ原の戦い後になると研究者は考えているようです。
  南海通記は、高松城は着工2年後の1590年には完成したとありますが、お城が完成したことに触れている史料はありません。ここから高松城については
①誰が縄張り(計画)に関与したか、
②いつまで普請(建設工事)が続き、いつ完成したか、
の2点が不明なままです。文献史料がない中で、近年の発掘調査からいろいろなことが分かってきました。天守台の解体修理に伴う発掘調査からは、大規模な積み直しの痕跡が見られず、生駒時代の建設当初のままであることが分かってきました。建設年代はについては
「天守台内部に盛られた盛土層、石垣の裏側に詰められた栗石層から出土した土器・陶磁器は、肥前系陶器を一定量含んでおり、全体として高松城編年の様相(1600 ~ 10年代)の特徴をもっている」

と報告書は指摘します。つまり、入国して10 ~20年ほど立ってから天守台は建設されたと考古学的資料は示しているようです。織豊政権の城郭では、本丸や天守の建設が先に進められる例が(安土城・大坂城・肥前名護屋城・岡山城)が多いので、高松城全体の本格的な建設は、関ヶ原の戦い以後に行われた可能性が出てきたようです。そして、同じように発掘調査から引田城も関ヶ原以後に、本格的に整備されたようです。
次に丸亀城がいつ築城されたのかを見てみましょう
   丸亀は、慶長二年(1597)に城の築城にとりかかったと「讃羽綴遺録」・『南海通記』・「生駒記」などに書かれています。これが現在の「定説」のようです。
年表で当時の政治情勢をを見てみましょう。
1590年天正18 生駒親正,5000余人の軍勢を率い北条氏討伐に参陣
1591年天正19 9・24 豊臣秀吉,朝鮮出兵を命じる
1592年文禄1 12・8 生駒親正・一正父子,5500人を率いて朝鮮半島出兵
1594年文禄3 生駒親正,大坂に滞在.一正は再び朝鮮に出兵
1597年慶長2 2・21 生駒一正,2700人の兵を率い渡海し昌原に在陣する
   春   生駒親正,一正と計り,亀山に城を築き,丸亀城と名付ける

 しかし、年表を見れば分かる通りこの時期は、秀吉の朝鮮出兵の時期と重なっています。多くの兵士が長期に渡って朝鮮半島で戦っています。軍事遠征費に莫大な費用がかかっている上に、親正や一正父子も兵を率いて遠征し讃岐には不在なのです。この様な中で、丸亀に新城を築くゆとりがあったのでしょうか。それに高松城も、まだ姿を見えていません。
 築城が急がれる軍事的な背景や緊張関係も見つかりません。 秀吉没後の慶長3年8月18日(1598年9月18日)以後に、東西の緊張関係激化に対応して築城したというのなら理由もつきますが、・・・・。
関ヶ原の戦い前後の生駒藩の動きを年表で見ておきます
1598年慶長3年9月18日)秀吉没
1599年 生駒藩の検地が始まる〔慶長7年頃まで〕
1600年慶長5 6・- 生駒一正・正俊父子,上杉景勝討伐のため従軍
 7・- 生駒親正,豊臣秀頼の命により丹後国田辺城攻撃のため,
     騎馬30騎を参陣させる.
 8・25 生駒一正,岐阜城攻撃の手柄により,徳川家康より感状
 9・15 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦する
 9・- 生駒親正,高野山で出家し家康に罪を謝る
1601年慶長6 生駒一正,家督をつぎ家康より讃岐17万1800石余を安堵
     生駒親正・一正父子,鵜足郡聖通寺山北麓の浦人280人を丸亀城下
     へ移住させる
1602年慶長7 生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
1603年慶長8 2・13 生駒親正,高松で没する.78歳

弘憲寺(生駒親正夫妻 墓所)「香川県指定史跡」 香川県高松市 ...
生駒親正夫妻墓所(高松市弘憲寺)

  生駒家も真田家と同じように、父子がそれぞれ豊臣と徳川に別れて付いて、お家の存続を図っています。そのお陰で、一正は家康より讃岐国を安堵されます。そして、一正は丸亀城から高松城に移り、父に代わり正式に領主となります。
生駒一正 - Wikipedia
生駒一正

 この時に新領主となった一正に、家康が求めたこと何でしょうか。
それは、次の戦争に向けた瀬戸内海交易路の確保のための、海軍力増強と防備ラインの構築だったのではないでしょうか。周囲の姫路城や岡山城などの瀬戸内の城主は一斉に、水城の整備・増強を始めます。先ほど見たように発掘調査によっても高松城は、関ヶ原の戦い後に岡山城との同版瓦が使用されています。ともに、徳川時代になって作られているのです。姫路城には、強力な水軍基地があったことも分かってきました。この様な中で、生駒家は引田城の整備を行っています。丸亀に新城を築くとすれば、この環境下ではなかったかと私は考えています。ちなみに「讃羽綴遺録」では、丸亀城築城を関ヶ原の戦い後の、慶長7年としています。

生駒さんの丸亀城とは、どんな姿だったのでしょうか?
資料①「讃州丸亀城図」とある図面が生駒さんの丸亀城です。
1 丸亀城 生駒時代

 この絵図は、東京目黒の前田育徳会尊経閣文庫に所蔵されていたようです。「前田」と云えば、加賀百万石の前田家です。前田家の五代藩主前田綱紀が古今の書を広く収集し、それらの収集した書物を「尊経閣蔵書」といい、その文庫を「尊経庫」と呼んでいたようです。その中で、城絵図は有沢永貞という人が中心になって集めています。有沢は文武にすぐれていた金沢の藩士で、藩内にこの人に武芸を習わなかった者はいないとまでいわれていたようです。その人が絵図の収集にも精力的に動きました。そして、現在に伝わっています。

 丸亀城は亀山という山に築かれています。この山の岩質は輝石安山岩で、五色台や飯ノ山のと同じ系統の岩で、堅くて割れるとが非常に鋭い岩になります。
城図からは、次のような事を研究者は読み取っています。
①真ん中の黒く囲まれたのが郭一で、今でいえば本丸で、まん中に天守台があります
②図の左側が東で、天守台は入口が東向きにあり、今のお城と異なります。
③天守台を囲んだ郭一の南側から東側・北側にかけて二の郭が取り囲んでいます。
④さらに東側に郭があり、これが三の郭です。
⑤三の郭の南に続いて四の郭があります。四の丸は今はありません。
⑥二、三、四の郭があって、南西に大手門があります。
⑦三の郭の東北端と西北端から山麓へ石垣があり、北側の中腹くらいから平地になっており、ここが五の郭で、山下屋敷といわれた所です。
後に山崎さんによって、再築される丸亀城との比較は次回に行います。次に、お城ができた頃の丸亀城周辺は、どんな状態だったかを見ておきましょう。生駒藩お取りつぶし直前の寛永十七(1640)年「生駒高俊公御領讃州惣村高帳」を見てみましょう。
   鵜足郡
一 高百七袷貳石八斗八升      三浦
  高合 貳万貳千百六播八石四斗五升五合
 那珂郡
一 高四百六石八斗九升一合                  圓龜(丸亀)
一、高八百Ξ拾Ξ石四斗九升Ξ合    柞原
一 高八百三石八斗         田村
 鵜足郡の三浦は、予讃線の北側の西平山、北平山、御供所にあたる所です。ここで172石の米が取れたようです。そして圓龜(丸亀)には、406石余の土地があったと書かれています。今の丸亀の町は、お城周辺以外は、ほとんど田んぼだったということになりそうです。
 次の田村は現在の田村町で田村池周辺ですが、この村高が「八百三石八斗」とありますから、丸亀は、田村のほぼ半分くらの石高だったようです。
「讃岐国内五万石領之小物成」には「小物成」が記されています
小物成ですから雑税、米以外の税金になります。
  「銀子弐百拾五匁  圓龜村  但横町此銀二而諸役免許」

とあり、丸亀は215匁の銀を納め、これで横町は諸役を免除されていたことが分かります。また、
「米三石  圓亀村  但南条町上ノ町 此米二而諸役免許」
とあります。米三石を納めることで、南条町の上ノ町は諸役が免除されていたようです。それから「宇足郡之内」とある中に
一、干鯛(ほしたい)千枚  三浦運上
一 鰆之子百五拾腸     同所
とあります。三浦は先ほど見たように平山町や御供所のことです。ここからは干鯛と鰆の子が納められています。鰆の卵は、からすみにされて珍重されていたようです。江戸での贈答品にしたものでしょう。この地域が漁師町であったことがうかがえます。

亀山の小さな山の上に、お城が乗っていたのは、わずかの間でした。大坂夏の陣のあと軍事緊張がなくなると、幕府は一国一城令を出します。その結果、寛永初めころまでに丸亀城は廃城となったようです。
寛永4(1627)の8月に幕府隠密が讃岐を探索し、高松城と城下町の様子についての報告書が「讃岐探索書」として残っています。そこには高松城については、当時の状態が破損箇所も含めて詳細に絵図を付けて報告されています。しかし、丸亀城については、なにもありません。隠密にとって「報告価値なし」と判断したようです。関ヶ原の戦い後に、西国大名への備えとして作られた丸亀城は、ここに役割を終えたようです。
 ちなみに、この年の生駒藩の蔵入高は「9万4636石3斗4升,給知高12万63522石9斗8升」と報告されています。隠密は必要な情報を集めて、幕府に報告しています。ちゃんと仕事をしていたようです。
以上見てきたように、生駒さんは関ヶ原の戦い前後に、高松城と丸亀城と引田城を同時に建設しています。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、最近の調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かってきました。出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われていたようです。このことからこの時期になって、生駒氏は讃岐に対する領国支配の覚悟が固まったと見えます。信長・秀吉の時代は手柄を挙げ出世すると、領国移封も頻繁に行われていましたから讃岐が「終の棲家」とも思えなかったのかもしれません。讃岐への定住覚悟ができたのは関ヶ原後で、その時期から3つの城の工事が本格化したようです。
今回はここまでで、おつきあいいただき、ありがとうございました。

      
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満濃池改修図

生駒藩時代に西嶋八兵衛によって再築された満濃池が、その後どのように維持されていったのかを見ていくことにします。『政要録写』『満濃池史要』からは、江戸時代の満濃池普請記録が下のように定期的に行われていたことが分かります。
満濃池普請表1
満濃池普請表2
○が御用普請 ◎が国普請 三重○自普請 ※( )内の数字は揺の耐用年数を概算したもの
 ○御用普請とは?
 材木や鉄類などの材料費と人夫の扶持米を幕府が負担し、池御料の年貢米によって賄われた普請。
 ◎国普請とは?
高松藩領、丸亀藩領、池御料、金比羅社領の四者が負担した普請
 自普請  
水掛かりの石高割りで農民が負担した普請。
 
この表からは次のようなことがうかがえます。
①平均すると10年に1回は池普請があったこと。
②底樋交換工事は、17世紀は15年毎だったのが、18世紀以後は半世紀に一度になっていて耐用年数が延びている。「技術改良」があったようだ。
③底樋は、工期が長くなるので前半・後半部の2つに分かて実施されている。
④17世紀は御用普請であったのが、18世紀には国普請になり、幕末には自普請で行われるようになっている。
なぜ定期的な「池普請」(改修工事)が必要だたのでしょうか?
ため池には水を抜くための取水施設として「底樋」と「竪樋」があります。
ため池底樋
底樋は箱状のもの、丸太をくり抜いたものや素焼の土管などが使われ、池底から勾配をつけて設置されます。「竪樋」には土手の内側に傾斜にそって設置し、いくつかの揺(ゆる)が設けられており、水位に応じて取水するようになっています 満濃池のように大きなため池は「竪樋」に「揺木」(「筆木」)で栓をして、これを引き抜く足場を設け、数人がかりで「揺る抜き」をしていました。

満濃池底樋と 竪樋
満濃池 文政3年の底樋と 竪樋
 木製樋管は腐りやすいので、その防止策として底樋の最末端に水だまりを設け、底樋を常に水に浸かるようにしていました。木材の代わりに、石材が利用されるようになるのは幕末になってからですが、これも石材化の最初の普請では「不良工事」となって接合部からの漏水し、決壊を招いています。抜本的な解決は鉄筋コンクリート管の登場まで待たなければなりませんでした。木が使われている以上は定期的に交換する必要がありました。そのためには堰堤を堀り、底樋を交換し、再び埋め直すという作業が求められたのです。これを怠ると堰堤は決壊します。
ため池底樋3
現在のため池の底樋
 人海戦術で行われた築堤工事
堰堤工事は、土を運んで突き固めるという繰り返しなので、大人数が必要でした。堤体の突き固めは、次のふたつの作業が行われます。
①棒・杵を用いて堤防を突き固める「千本搗き」「杵搗き」
②シテ振りとよばれる先導が多数の人足を前後左右に追い回し足で踏み固める「踏み締め」
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「杵搗き」と「踏み締め」
大きなため池の最難関は、工事中の洪水処理でした。
今ではダム建設の際には、本体工事に先立ち工事中の洪水を工事現場から逃がすための仮排水路を設けています。が、河川本流を堰き止めるような満濃池のような大きなため池では、仮の排水路を設けることは無理でした。そのため堤の両側から築き上げ、まん中の部分は最後まで水路として残しておいて最後に一気に締め切るという方法がとられていました。満濃池の仁寿3(853)年の工事では最後の締め切りにの際に
「夫役6,000人を発し、10日を限り力をつくして築き、俵ごも68,000余枚に砂土をつめて深処をうずめた」
とあります。堤の中央部は短期間に一気に築き上げるために、一番もろく堤防の弱点で、決壊の原因となったようです。
満濃池  竪樋.寛政jpg

 満濃池の底樋と揺替(寛政11年)
底樋や揺に使われた木材は
 初期の承応三年(1653)までの材料は、ほとんどが松材だったようで、耐用年数が短かったことが先の史料からも分かります。
竪樋は尺八樋と言われる構造で、慶長13年(1608)に河内国狭山池で「枝付尺八樋」が初めて使われるようになった新技術でした。そのため充分に使いこなせず最初の頃は、構造的に問題があったようです。
大阪で求めて、運ばれてきた木材
 万治元年(1658)の普請からは、耐用年数の延長と経費節減のために、底樋などの主要部分には草槙や檜のような高価な良材を使うようになります。良材は、周辺の山にはないので、大阪市場で買い求めるようになります。大阪町奉行所の「町中入札」で落札した材料は、落札者が海路丸亀港へ回送。それを普請方が受け取り岸上村の普請所まで運ばれます。樋大工も、備中・備前の先端技術をもった大工を呼び寄せています。ここからは満濃池のユル換え工事は、当時の最先端の技術と材料・職人が関わるトッププロジェクトだったことが分かります。

 しかし、時代を経るにつれて太い良材が手に入らなくなります。
そのため宝暦十二年(1762)からは、槻や栂を主要部分に使うようになります。主要部以外には使う松材は、満濃池に近い鵜足郡長尾村の御林(藩有林)から伐り出されています。次第に運ぶのに便利な近くの御林が選ばれるようになり、嘉永六年(1853)の普請には、中通村から切り出されたものが使われています。

満濃池ユル換え工事宝暦
満濃池 宝暦のユル換え平面図
 底樋の長さは六十五間(182メートル)、それを高さ十二間半(23メートル)の堤防の底の部分に敷設します。この底樋普請は前半と後半の二回の工期に分けて行われています。2回に分ける理由は
①工期が長くなり、その問に暴風雨や洪水に襲われる危険があったことと、
②年内には終わらないと、池に水を溜めることが困難になるため
だったようです。

満濃池普請5
満濃池底樋(文政2年)
普請は八月末から始められ、年内か遅くとも翌年の正月中には終わるように計画されていました。

 普請の際の労力は讃岐各地から集められた百姓達でした。
庄屋に引き連れられてやって来た百姓達は、付近の村々の農家に宿泊し、約五日間決められた規則に従って働きます。御用普請や国普請、自普請の種類は違っても、結局は農民の労力に頼るはかなかったのです。
満濃池池普請文政3年
満濃池普請図(文政3年)

文政十年の揺替普請(自普請)について
 文政十年(1827)の揺替普請の記録が残っています。それによると動員された「のべ人数」は底樋後半と竪樋櫓仕替で約25万人に上ります。夫役は水掛かりの石高に応じて配分されていて、高百石について約700人となっています。

P1240768
       満濃池ユル替工事の動員人夫数確認図 
一日にどれくらいの人たちが動員されたのでしょうか
たとえば文政十一年の冬の動員人数をみると、
  文政十一年正月十日 高松領十郡    六百七十人
            西   領   六百七十三人
              合計   千三百四十六人
      正月十二日 高松領十郡   九百九十三人
            西   領   九百九十三人
              合計   千九百八十六人
      正月十三日 高松領    千二百七十五人
            西領     千二百七十五人
              合計   二千五百五十人
      正月十四日 高松領      千四百二人
            西   領    千四百二人
              合計    二千八百四人
 となっていて、一日2000~2500人程度が動員されています。正月を越えての普請作業なので、工期終了間際のことだったのでしょう。これより遅くなると田植えまでに、満水にならなくなる可能性が出てきます。工期日程に間に合わせるための最後の動員だったかもしれません。ここから一日の動員数を2000人とすると、工期期間が9月からの4ヶ月間なので、
2000人×120日=24万人という数字が出てきます。
これを、どのように振り分けて動員したのでしょうか。
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満濃池人数改図(各村からの動員人夫数が確認されている)
桂重喜著『讃岐の池と水』で見てみましょう。
「高百石に付き約700人」の人夫割当を行ったようです。当時の田畑一反歩の平均石高を約一石一斗とすると、一反歩割当人夫数はのべ約8人となり、一戸当たりの耕作面積を五反歩とすると、一戸当たり「のべ人数38人」の割当となるようです。普請に出向いた百姓は、1回について最低十日は普請小屋に滞在し、使役に従事しなければならなかったので、一戸当たりの割当人夫38人ということは、普請の年はこれを三、四回は繰り返さなければならなかったことになります。これを村役人は、各戸に分配負担させていったのでしょう。
 しかし、百姓の方も心得たもので、一家の労働の中心となる担い手は避け、老人や年少者を差し出していたようです。嘉永二年(1849)の底樋仕替普請の際に丸亀藩が出した「定書」には次のように記されています。
「満濃池御普請中、私用の者は申すに及ばす、無益の人足差出し仕りまじく候事」

逆読みすると老人や年少者などの「無益の人足」が差し出されていたことがうかがえます。
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 行こうか、まんしょうか、満濃の普請、百姓泣かせの池普請

 と謡われた里謡が残っています。その実態を探って見ましょう。
DSC00819

 私は最初は、満濃池普請は水掛かりの地域だけ、つまり丸亀平野の百姓達だけに割り当てられていたのかと昔は思っていました。ところが今見てきたように、そうではないのです。東讃の農民も、三豊の農民も割り当てられていたのです。つまり、讃岐国中の百姓達による普請工事だったのです。自分たちの田んぼに引かれてくる水のことならやる気も出るでしょうが、他人の田んぼのための池のために動員されたのです。これが驚きの一つでした。

IMG_0003
満濃池普請図右側(嘉永年間 始めて石底樋が使われている)
 各地からの村々の農民の動員や引率・管理など普請人足の統率を担ったのは庄屋たち村役人でした。人足の確認、扶持米などの受け取りと支給などにあたっています。
 たとえば、ペリーがやって来る4年前の嘉永二年(1849)の普請時には、高松領分で池普請に当たったのは那珂郡、鵜足郡の庄屋の中から一名、他の八郡の庄屋の中から一名が交替で普請場に詰め、指揮にあたっています。その際の庄屋の服装と満濃池までの行列についても藩から厳しく規定する次のような文書が残っています。
一、行列は馬または駕龍は勝手次第。
二、両掛、雨具を備え、若徒、槍持ち、草履取りを従えること。
三、衣類は越後平地の帷子、絹の羽織、川越正徳平の袴または葛の野袴、または紋付綿服、帯刀のこと。
   普請が始まると、普請場には役人の出張小屋や普請小屋、大工小屋などが建てられます。

満濃池普請小屋図1
満濃池小屋掛図
満濃池の場合は高松藩、丸亀藩、多度津藩の他に池御料、金毘羅社領など複雑に分かれていました。そのため現場には、各藩が別々に小屋掛けをしていました。
大野原からやってきた池普請組
 大野原(観音寺市)の井関村庄屋・佐伯家には、文政三年(1820)の池普請に参加した当主・民右衛門が残した「満濃池御普請二付庄屋出勤覚書」があります。

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 満濃池普請図左側(嘉永年間 始めて石底樋が使われている)

この記録から池普請に動員された農民達について見てみましょう。
この時の普請は、堤の外側を掘り下げ、木製底樋の半分を交換するものでした。現在の観音寺市大野原町を含む豊田郡和田組の村々からは、約三百名の人々が駆り出されています。その監督役として、民右衛門は箕浦の庄屋小黒茂兵衛と満濃池に出向きます。九月十二日の早朝出立した民右衛門は、財田川沿いの街道をやって来て昼下がりに宿泊地に指定された骨山(旧仲南町帆山)に到着します。そして、丸亀藩役人衆への挨拶に行っています。

決壊中の満濃池
幕末の満濃池決壊時の地図
(池の中を金倉川が流れている 朱色部分が丸亀京極藩)

 なぜ、満濃池に近い福良見に丸亀藩は、現地事務所を置かないのかと思いました。
調べてみると帆山までが丸亀領で、その向こうの福良見は高松領でした。ここが高松藩と丸亀藩の国境だったのです。そのため丸亀藩の東端の帆山(ほのやま)に現地事務所は置かれたようです。
 三豊からやてきた百姓は、帆山など周辺の寺院などに分宿し、食事は自炊です。ある意味、手弁当による無償動員なのです。
 翌日、工事現場への集合は太鼓の合図で行われます。
周囲に分宿していた人々が集まり、蟻が這うように見えたと記します。
十三日は、雨天で工事は休み
十四日もぬかるみがひどく休日
十五、十六両日は工事を実施。
和田組村々の人足は、三班に分かれて工事を行っています。
ところが和田組の人夫が立入禁止区域に入って、用を足したことを見咎められ、拘束されるという事件が発生します。これを内済にしようと、民右衛門は奔走。池御料側、櫛梨村庄屋庄左衛門らの協力により、ようやく内済にこぎつけるのです。そのためか、十六日は、櫛梨村と和田組村々の人足が、同じ班に入って作業を行っています。同日昼下がり、民右衛門は五日間の役目を終え、夜更けに帰宅しています。庄屋として責任を果たし、安堵したことでしょう。

満濃池底樋石造化工事
満濃池底樋石造化工事 
 三豊の百姓にとって、自分たちの水掛かりでもない満濃池の普請で、しかも寝泊まりも不便な土地でただ働きをさせられるのですから不満や不平が起きるのは当たり前だったのかも知れません。しかし、一方で民右衛門のように「事件」を通じての他領他村の人々との交流が生まれ、人的なネットワークが形成されるきっかけにもなりました。また満濃池普請という当時の最先端技術についての情報交換の場になり、地元でのため池工事や土木工事に生かされるという面もあったようです。  
   一方、自ら進んで池普請に参加する人たちもいました。
  塩飽の与島の島民たちです。
満濃池とは関係のない塩飽諸島の島民たちがなぜわざわざ普請にやってきたのでしょうか。しかも自発的に。与島には、
「満濃池の普請に出向かないと、島の井戸が干しあがる」
という言い伝えがあったようです。島民のほとんどが真言宗であり、信徒として空海と満濃池、島民との繋がりが生まれたのかもしれません。しかし、本当のところは分かりません
参考文献   満濃池史所収 江戸時代の満濃池普請 

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西嶋八兵衛60x1053
 
最初に 村治圓次郎の『西嶋八兵衛翁』で彼の略歴を見ておきましょう。
慶長元年(1596)遠州(静岡県)浜松で生まれた(八兵衛自身の由緒書などの史料には記載なし)幼名は之尤(ゆきまさ)で、八兵衛は通称です。木端の名を持ち、晩年は拙翁とも号する文人でもありました。
八兵衛の父は、西嶋九郎左衛門之光で、藤堂高虎に仕えていましたが、年老いたため浜松で隠居生活に入ったようです。
慶長17年(1612)、八兵衛が満16歳の時に、父は息子を高虎へ出仕させようと駿府(静岡市)に行き、家老藤堂古采女(采女元則)の斡旋で、父の跡を継ぐ形で高虎に仕え始めます。父子共に高虎の家臣となります。当時、家康は駿府を隠退の地として、江戸城から移っていました。藤堂高虎もそれに付き添うように、駿府に屋敷を設けていたようです。
生駒藩 藤堂高虎
藤堂高虎

八兵衛は、最初は高虎の右筆(近習役・記録役)として仕えたようです。
 関ヶ原の戦いや大坂の陣で高虎の傍らにあって、戦闘の記録を担当しています。達筆な筆跡の文書が伝わっています。同時に、高虎の身近に仕えて、次第にその信頼を得るようになっていったようです。
 主人の藤堂高虎は、秀吉の弟秀長に仕えていた頃から和歌山城・今治城を築き、次第に「築城の名人」と云われるようになり、家康の下では江戸城・丹波亀山城(京都府亀岡)・安濃津城(三重県津市)・伊賀上野城など数多くの城を築城しています。八兵衛もまた経験豊富な高虎の側に仕え、土木現場の実情や技術者集団に接する中で、築城や土木工事に関わる諸知識を身につけていったようです。
 元和5年(1619)、家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。
高虎は、この時に八兵衛に、その縄張り作成・設計の実務にあたらせます。八兵衛23歳の時のことです。翌年の元和6年(1620)には、夏の陣・冬の陣で焼け落ちた大坂城の修築にも当っています。当時の最高の規模・技術で競われた「天下普請」を経験を通じて、築城・土木技術者としての能力を高めていったようです。
天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。そんな八兵衛が、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されることになります。八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃です。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、どうして生駒藩に派遣(レンタル)されたのでしょうか。
生駒親正

生駒親正
  生駒家と藤堂家には、強い絆が結ばれていました。
藤堂高虎は仕えていた秀長(秀吉の弟)が亡くなり、その甥で養子の豊臣秀保も文禄4年(1595年)早世すると、高野山で出家して隠遁生活を送っていました。その将才を惜しんで「復職」の説得を行ったのが生駒親正です。これによって高虎は秀吉に仕え、伊予宇和島7万石の大名に「再就職」することができたのです。高虎は、親正に大きな恩を受けたことになります。
  これ以外にも生駒家と藤堂家は秀吉の子飼い大名という出身ながら、関ヶ原の戦い前後の大政治変動を巧みに泳ぎ抜けた経歴などに似通ったところがあります。そして、両藩共に外様ながら家康からも一目置かれる雄藩だったのです。特に藤堂高虎は、秀吉の弟の秀長の家老に任ぜられていましたが、処世にはなかなかの練達者で、秀吉の死後はぴったりと家康に密着し、外様大名の中では最も家康の気に入られる存在になっていきます。この変わり身のうまさを「風見鶏」とも揶揄されたりもするようです。

生駒騒動 関係図1
 生駒・藤堂家の関係は、その後もいろいろな形で婚姻関係が結ばれるようになります。三代目正敏には高虎の養女が嫁いできます。正俊は、藤堂高虎の娘を夫人としていたのです。生駒藩四代目として生まれてきた高俊は、藤堂高虎から見れば「孫」に当たります。両家は親戚で、強いパートナーシップをもつようになります。
そのような中で生駒藩に危機が訪れます。
三代目正俊が元和7年に36歳で亡くなるのです。正俊には、たった一人の男の子・小法師(高俊)がいましたがやっと11歳でした。当時の幕府は家光の「外様取りつぶし策」の全盛時代でした。幼年の藩主の場合には、責任ある統治が出来ないとの理由で大幅に領土を削られた例もありました。
 そこまで至らなくても幼年藩主の場合は、監督のために幕府から毎年国目付をつかわすことになっていました。その際には、歓迎儀式やなどで格式張った気づかいが求められます。どちらにしても生駒藩としては避けたいところです。
 何らかの不利益な措置が幕府によってとられるのではないかという危惧が、生駒藩内に漂いました。そんな中で藤堂高虎は生駒藩のために一肌脱ぎます。自らが生駒藩の幼い藩主(孫)の「後見人」となって、支えることを幕府に申し出ます。家康の信頼の厚かった藤堂高虎の申し出に幕臣達も動けなかったようです。こうして藤堂藩の家臣達が「客臣」(レンタル家臣)として送り込まれることになります。
西嶋八兵衛4
西嶋八兵衛
高虎が家中から選んで、諸事の目付として讃岐につかわしたのが西嶋八兵衛です。
 西嶋八兵衛は讃岐に4回派遣され、19年間を過ごしたようです。
 一番最初に西嶋八兵衛が讃岐にやって来たのは、正俊から高俊への領主交替という事務引継ぎの実務担当者とでした。そこで、高虎の下で鍛えられた事務処理能力を遺憾なく発揮して、煩雑な事務を処理し、きちんと高虎に報告します。
 その後、後見人である藤堂高虎の目付的な客臣が高松藩に派遣されることになります。その際に、高松藩側からは、この時の手腕や人柄を高く評価して、西嶋八兵衛の再度の来讃を求めたといいます。高虎も西嶋八兵衛は、子飼いの側近で信頼も厚い人物だったので異論はありません。こうして西嶋八兵衛の二回目の来讃が実現します。
 八兵衛の普請奉行としての二回目の来讃は、寛永二年(1625)のことです。
彼が30歳の時のことで、サラリーは500石で、三年間滞在となります。彼の屋敷は、城内には確保することが難しかったようで、当時の城下町最南端であった寺町のさらに南側に構えられました。今の四番丁小学校の西北角に当たります。幕末の「高松城下町屋敷割図」に、大本寺は「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」との注釈がつけられています。
生駒藩 西嶋八兵衛の元屋敷大本寺
大本寺には「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」と記されている
彼は日蓮宗の高僧、日省上人に帰依していたようで、屋敷跡に大本寺は建立されたと寺伝には記されています。四番丁小学校は、そのお寺の境内に明治に建てられます。
生駒 大本寺

ちなみに「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には、西嶋八兵衛の屋敷が記されています。
生駒藩屋敷割り図3拡大図
その位置は、中堀に面する一番西側で重臣層と肩を並べるロケーションです。この屋敷割図が作られた時点では西嶋八兵衛がVIP待遇であったことが分かります。少し回り道をします
「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には、製作年代が記されていません。
いつ作られたものなのかが分かりませんでした。そんな中で、この西嶋八兵衛の屋敷から作られた年代が明らかにされました。その過程を見ておきましょう。西嶋八兵衛は寛永2(1625)年から寛永16(1639)年まで生駒藩に仕えますが、元々の屋敷は寺町にあったこと、その後に大本寺は建立されたことが,大本寺の寺伝にあることは前述しました。大本寺の建立は「讃岐名勝図会』では、寛永15(1638)年,寺伝では寛永18(1641)年とあります。
 「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」をみると,寺町の西端の大本寺の所に「寺」と記されています。ここから大本寺は、この絵図が描かれたときには建立されていたことが分かります。また,西嶋八兵衛が生駒藩に仕えたのは寛永16(1639)年までですから大本寺は寛永16(1639)年以前に創建されたことになります。
 以上から大本寺の建立は『讃岐名勝図会』の説のとおり寛永15(1638)年で,それ以前に西嶋八兵衛屋敷は中堀と外堀の間に移ったようです。彼が生駒藩に仕えたのは寛永16年までなので,寛永15(1638)年から寛永16(1639)年の間に、この絵図は製作されたと研究者は考えています。
 八兵衛がやってきた寛永二年(1625)は、大変な年でした。
「寛永三年閏四月七日大雨あり爾後 雨なきこと九十五日、秋七月十五日に至る田毛皆枯死し民人飢餓に迫りて餓死する者多し」

ここには
「寛永3年(1626)4月、大風雨となり、その後、7月に至るまで雨がなく干ばつとなった。稲は枯死し、人々は飢餓に瀕した。」
とあります。年代順に並べると
寛永2年(1625) 秋に大地震 西嶋八兵衛が来讃
寛永3年 大暴風雨、次いで大干ばつ、三か月という長期日照りで作物全滅、餓死者発生
寛永4年 大地震、暴風雨による風水害、収穫皆無
寛永5年 満濃池再築に着手
と、自然の猛威が連続して襲いかかってきたことが分かります。。稲が実らず、五穀も残らず、百姓らの困苦は一方でなく、他国に逃散する者も出てくる始末です。藩の存亡の危機でもありました。首席家老の生駒将監は、必死に対応に努めたようです。
  このことは藤堂藩から来ている目付の西島八兵衛は、当然に高虎に報告します。それを受けて、高虎は家老の将監や生駒家の重臣らに、次のように指示します。
「今日第一の急務は、灌漑の便をよくし、百姓共を落ちつかせることである。ついては、目付として遣わしている西島八兵衛は、当地にいる頃郡奉行をつとめ、それらのことに巧者の者である故、家老らよく西島と心を合わせて事を運ぶよう」
 生駒家の重臣らは西島に、この指示書を見せて頼みこんだのではないでしょうか。高虎からの指示でもあり、生駒家の重臣らの頼みもあります。また、目の前の百姓らの困窮を視ているし、やれるという自信もあったのでしょう。西島は、
 「かしこまった。やってみましょう」
 と答えたのでしょう。そして、讃岐国内を巡って現地を見た上で、各地のため池と用水路の築造計画を立てます。
寛永3年(1626)4月地震・干ばつで生駒藩存続の危機的状況
寛永4年(1627年)西嶋八兵衛が生駒藩奉行に就任
1628年 山大寺池(三木町)築造、三谷池(三郎池、高松市)を改修。
1630年、岩瀬池、岩鍋池を改修。藤堂高虎死亡し、息子高次が後見人へ
1631年、満濃池の再築完了。
1635年、神内池を築く。
1637年、香東川の付替工事、流路跡地に栗林荘(栗林公園の前身)の築庭。高松東濱から新川まで堤防を築き、屋島、福岡、春日、木太新田を開墾。
1639年、一ノ谷池(観音寺市)が完成。生駒騒動の藩内抗争の中で伊勢国に帰郷。
なぜ短期間に、集中してこれだけの工事が行われたのでしょうか?
それは生駒藩が「自然災害による藩存亡の危機」という状況にあったからだと私は思っています。何もしないで座していたのでは、未来に希望を持てない百姓達は讃岐から「逃散」しています。その流れを食い止めるためにも、後見人の藤堂高虎が西嶋八兵衛にやらせろと命じてきたのです。
 危機の中で、未來に希望の持てる大土木工事を行うというのは、有能な政治家がとる方策です。その危機管理責任者に藤堂藩からレンタル派遣されていた西嶋八兵衛が就いたのです。そして、彼を危機感で団結した家臣団や百姓が担いだのだと私は思います。
 こうして、三谷三郎池(現高松市内)の嵩上げも行われ、続いて寛永5年には源平合戦の中で決壊放置されていた満濃池の修築にかかります。満濃池は400年以上、姿を消し、池の中は再開発され「池内村」が形成されていたのです。この再築については、以前触れましたので、ここでは省略します。
西嶋八兵衛 香東川
 八兵衛は多くのため池を作る一方、讃岐特有の天井川の改修にも尽くしています。
洪水を防ぐために香東川の堤防を付け替えたり、高松の春日新田の開発など、あらゆる方法で開田を進めます。香東川の付け替え、堤防づくりでは堤防に「大萬謨」の石碑を建てた伝えられます。大正時代の水害で河川敷きからこの石碑が出てきました。鑑定などの結果から八兵衛の直筆とされています。 
 満濃池築造のはじまった寛永4年に高俊は15歳になります。
生駒高俊 四代目Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
藤堂高虎の子の高次が烏帽子親となって元服させ、一字を与ええて高俊と名乗らせます。そして、高虎は生駒家に対する幕府の覚えをよくするために、高俊と老中首席の土井利勝の女との婚約をとりもちます。後見人としての高虎の生駒家にたいする心づかいは、細やかです。
  若き藩主と幕府老中の娘との結婚が執り行われた年には各地で進めたため池が完成します。水源確保や暴れ川のルート変更などによって新田開発は一挙に進みます。この新田開発を推進したのが、生駒家に再雇用された讃岐侍たちであったことは前回お話ししました。開発した土地が知行地として認められたために、土着勢力は争って新田開発を行います。それが出来ない他国侍からの不満が生駒騒動の要因になっていくのです。
どちらにしても、この時点では生駒藩では太閤検地後の知行制から俸給制への切り替えがきちんと行われていなかったようです。武士達にはサラリーでなく知行地が与えられていることを示す史料が残っています。
生駒藩 西嶋八兵衛知行地
例えば上のグラフは、丸亀平野の苗田村(現琴平町)に知行地を持つ家臣団を示したものですが、西嶋八兵衛もこの村に知行地があったことが分かります。ちなみに西嶋八兵衛が讃岐を去る直前の知行高は1000石にまで加増されています。
生駒藩知行地2

西嶋八兵衛の進める灌漑・治水工事について、批判的な藩士もいたようです。
 「百姓は飢え疲れている七、無用な工事をおこして、民を虐げる」
 「農事の水利のことのみを目的としている故、国の要害はまるで失われてしまう」

1630年に藤堂高虎が江戸で亡くなります。
その前に西嶋八兵衛は、江戸に出向いて讃岐の状況を報告する一方、帰国願いを再度願いでたようです。高虎の後を継いだ高次は、このあたりのことを承知していたようです。しかし、生駒藩で重要ポストを占めるようになった西嶋八兵衛は、後見人である目付としては最適で、これに代わる人物はいません。
「八兵衛は帰りたがっているが、生駒家の様子を見ると、当分は西島がいて目を光らせていたほうがよさそうである」
と高次は考えたのではないでしょうか。
 ちなみに西嶋八兵衛が伊賀に帰ることが聞き届けられるのは、生駒騒動の勃発直前のことでした。「沈みゆく生駒丸」からの脱出だったのかもしれません
  高次は八兵衛に対して、改めて「讃岐国の用向き」を申しつけて、生駒藩に帰します。
これが西嶋八兵衛の3度目に来讃となります。その際に、生駒藩は五百石を加増し、併せて千石待遇としています。こうして、西島は五百石の加増を受けて、藤堂家からの目付として讃岐駐在をつづけることになります。覚悟を決めた西嶋八兵衛は、いよいよ満濃池再築に向けて動き出すのです。
 西嶋八兵衛のから目から見た当時の生駒藩の政策課題は何だったのか?
それはやはり「知行制からサラリー制へ」の移行、讃岐侍や有力農民による自由な開発に規制をかけること。つまりは家臣団と土地を切り離させること、藤堂藩の事例からそれが藩主権力の強化につながることを熟知していたはずです。そういう目で、生駒藩を見た場合に「危うい藩」と見えたはずです。ため池や治水は完成し、新田開発は行われて石高は増えていますが、それが領主の懐には入ってこないシステムが温存されているのです。これは時代に逆行した制度だったのです。それが保守派の動きで進まない生駒藩は「危うい」と思っていたはずです。
讃岐を去って伊賀に帰った後の西嶋八兵衛は?

西嶋八兵衛 伊賀市
 生駒騒動が始まる前に伊賀に帰ってきた八兵衛は、正保2年頃までの5年間ほどを妻子とともに津の妻の実家である藤堂仁右衛門高経(義兄)の下屋敷で過ごしていたとされています。
 この間に、生駒藩は取りつぶしとなり、松平藩への引渡し作業が行われます。その際に、高松城や讃岐のことを熟知する人物として彼に白羽の矢が当たり、上使案内役として讃岐入りします。これが4度目の来讃となります。この時に高松城や城下町、あるいは自分の屋敷跡をどのような思いで見つめたのでしょうか。心血を注いで立て直した生駒藩がなくなったことへの思いは、いかばかりであったことでしょうか。中国の文人達ならその思いを漢詩に託して詠んだことでしょう。しかし、西嶋八兵衛が四度目の来讃で残した俳句は伝わっていません。
正保2年(1645)、八兵衛は、藩主藤堂高次のもと1000石の江戸家老加判役となります
この頃、藤堂藩支配地の伊賀や伊勢でも大干ばつに襲われ、被害も甚大になって農村の疲弊が著しくなります。高虎の跡を継いだ2代目藩主高次は、農村部の復興を目指し、正保3年(1646)に江戸より帰国します。八兵衛も共に帰国し、伊賀でための新設29池、修理14池を行ったと伝えられます。さらに、翌年からは新田開発を始めます。
 その業績を受けて、慶安元年(1648)、52歳で、城和加判奉行に任ぜられました。
これはは大和・山城に広がる藤堂藩領約5万石の支配地を預かる奉行職です。一時、伊賀奉行も拝命したようですが、52歳の慶安元年(1648)から81歳の延宝5年(1677)の引退まで約29年間、城和奉行として執務します。引退して3年経った延宝8年(1680)3月20日、亡くなります。享年84歳。
 ここからは若い時代に藤堂高虎のもとで学んだ築城術を、讃岐の地でため池の築造に活かし、その経験を晩年には、故郷の伊賀の地に還元した姿が見えてきます。
西嶋八兵衛は文人でもあり、俳句や書にも秀でて流麗な筆致を残しています。
 彼の墓は伊賀上野市紺屋町の正崇寺にありますが、脇に正五位の贈位の碑が建っている。大正四年になって香川県の上申で叙位されたようです。ちなみに八兵衛を祭った神社は香川県にはありません。彼が神となって敬われることはなかったようです。ただ、津市高茶屋の水分神社だけです。彼のことが後の讃岐では忘れられた存在となっていたことが分かります。自分の親分の政治家の銅像を建てようとするのは近代に流行になりますが「讃岐の大恩人・西嶋八兵衛」の銅像が讃岐に建てられることはなかったようです。
 満濃池を作ったのは空海と云われますが、これは「空海伝説」です。史料的に、それを裏付けるものは現在の所ありません。研究者は「空海が造ったと云われる満濃池」という言い方をします。その意味では、現在の満濃池の直接の築造者は、西嶋八兵衛に求められると云っても過言ではないように思います。しかし「空海築造」は云われても、西嶋八兵衛による再築を語る人は少ないようです。
 「そんなものだよ歴史は・・・」と八兵衛は、つぶやいているかもしれません。

参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

   

 

                    
前回は生駒騒動に関わる重臣達を見てきました。それでは、これらの重臣達がどのようなプロセスを経て党争の渦中に引き込まれて行くのかを見てみましょう。
生駒騒動 関係図1
11歳で即位した4代藩主の生駒高俊を取り巻く勢力関係を、確認しておきましょう。
①「後見役」の藤堂高虎・高次の生駒藩への影響・介入
②生駒一門衆(生駒左門・生駒帯刀・生駒隼人)の本家(藩主)の専制政治への牽制
③譜代家臣と地元採用の讃岐侍との土地開発をめぐる対立
④生駒一門衆と家臣重臣団との権力闘争
このような思惑が渦巻く中で、若き藩主高俊は20歳を越えると、1632年(寛永9)には家中の人事を刷新し、自らの意志で藩政を行う姿勢を見せ始めます。

生駒高俊 四代目Ikoma_Takatoshi
  4代目生駒高俊
しかし藩政の意志決定は、惣奉行と譜代の重臣である生駒一族(生駒左門・生駒将監・森出羽)からなる年寄であり、今までの経過から幕府と藤堂藩の意向が強く働く人たちでした。
 このため高俊がやったことは、彼らに変わる自前のブレーンを作って自分の意見を藩政に生かすことです。そのために江戸藩邸で前野助左衛門を重用し、国元(讃岐)の年寄・惣奉行とは別の重臣層を形成していきます。しかしこれは、一つの藩に、国元と江戸屋敷の二つの政策決定機関が生まれることになります。そして、これがお決まりのお家騒動へとつながる道とつながります。

生駒藩屋敷割り図3拡大図
生駒家の重臣達の屋敷配置
 このような四代目高俊と江戸家老・前野の動きは、「後見人」の藤堂高虎とその息子の高次にとっては想定外だったようです。
藩内の家臣団の対立を視て、後見人の藤堂高次は1634年(寛永11)に、高俊に対して家中のことは何事も年寄と相談して決めるように意見しています。また、同年に前野・石崎も年寄と相談の上でなければ高俊に会わないことを誓わされています。しかし、高俊=前野・石崎体制は次第に権勢を強め、この体制で藩政が取り仕切られていくようになります。そして、彼らは藩財政の根本的な転換に着手します。
つまり、知行問題です。
それまでの生駒藩は、家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収していました。以前にも紹介しましたが高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
とあり,
生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
など、太閤検地によって否定された「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていたようです。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きも各地で見られるようになります。
生駒氏国人領主
生駒氏は讃岐に入ってきた際に、旧守護代の香川氏や香西氏の家臣たちを数多く採用して、支配の円滑化を図りました。
 例えば三豊の三野氏は、天霧城の香川氏の下で、多数の作人を支配していた国人領主でした。しかし、秀吉時代になっての太閤検地によって、これはひっくり返されます。太閤検地、刀狩で、土地制度は、領有制から領知制に変わります。国人侍の所領と百姓は切り離され、その土地の所有権は耕作する百姓の手に移ります。
  しかし、三野孫之丞は、700石もの自分開(新田開発)を行っています。三野氏の一族の中には624石の新田を持っている侍もいます。この広大な新田を、三野氏はどのようにして開いたのでしょうか。どちらにしても、生駒藩では豊臣政権以降の太閤検地に伴う土地制度改革が徹底していなかったようです。この現実は、讃岐国人層出身の侍にとっては「新田開発の自由」です。しかし、他国より所領の百姓と切り離され移り住んだ侍たちには百姓を勝手に動員できないので、自分開などできません。
 そうした中で、先ほど述べたように寛永期に入ると若い藩主の後ろ盾に前野、石崎両家老が権力を握ります。
それまでの讃岐出身の奉行層(三野氏、尾池氏等)が更迭され、新たに他国組に政権が移ります。そして、土地制度に関する抜本的な政治改革が進められます。新政権についた彼らからすれば、地侍出身者のみが可能な新田開発、お手盛りの加増は、百姓層との関係を持たない他国出身の侍にとっては「不公平で反公益」的なもので、是正しようとするのは当然です。自分開の新田開発では収穫量が増えても、藩の収益とはなりません。藩の蔵入り増にはならず、財政収入増大にはつながりません。幕命による土木事業や江戸屋敷の経営等で苦しい生駒家の財政を救うことにはならないのです。
 新たに藩政の舵取りを担うことになった前野と石崎は、藩の事業として、百姓層を主体に新田開発(知行文書で新田悪所改分と記され、百姓層の所有に帰したもの)を行い、個人による「自分開」を制限します。これは、自由に新田開発を行い知行地を増やしてきた讃岐出身の侍(かつての国人領主)や生駒氏一門衆にとっては、自分たちの利益に反するものでした。
 彼らは、太閤検地以後も、自分の知行所の百姓を使って自分開を行てきたのです。藩の新田開発は、同じ開墾でも、主体と利益者が異なります。前野、石崎を始めとする新藩政担当者のねらいは、百姓を主体とし、その権限を強めるもので百姓を藩が直接支配するものです。そして、代官に年貢を徴収させて換金し、収入を得る方式に変えていきます。これは家臣のもっていた国人領主的な側面をなくして、サラリーマン化する方向にほかなりません。歴史教科書に出てくる「地方知行制から俸禄制へ」という道で、これが歴史の流れです。この流れの向こうに「近世の村」は出現するようです。
 これに対して、三野氏や山下氏など讃岐侍たちの描いていたプランは、自分たちがかつての国人領主のような立場になり、百姓層を中世の作人として使役するものです。つまり、時代の流れからすると「逆行」です。両者の間に決定的な利害対立が目に見える形で現れ、二者選択を迫るようになります。このような土地政策をめぐる対立が背後にあり、事件が起きます。

1637年(寛永14)に生駒藩の借財の肩代わりとして、前野派政権が石清尾山の松を江戸の材木屋が伐採したことを、生駒一門衆は取り上げて反撃を開始します。
その先兵となったのは、政権の座を奪われていた年寄・生駒将監の息子である生駒帯刀です。彼は江戸へ赴き、幕府老中土井利勝(高俊の義理の父)や藤堂高次などへ、前野らの所行を非難する訴えを提出します。
 この訴えに対する幕府の評議は長引き、翌年には、江戸家老の前野助左衛門が死去してしまします。このため幕府は、生駒帯刀に対して訴えを取り下げさせ、事態の収拾を図ろうとしました。この時点までは、幕府は生駒藩の存続を考えていたことが分かります。

一方、国元の讃岐では、助左衛門の息子の前野次太夫らと生駒帯刀らの対立は続いていました。
1640年(寛永17)には、前野次太夫・石崎若狭と生駒帯刀は「喧嘩両成敗」で藤堂藩に預けられることになりました。これに反発したのが前野派の家臣で、彼らのとった行動は過激でした。藩士と家族約4,000人が、5月に江戸と讃岐から立ち退くという形で「集団職場放棄」という抗議行動を起こします。この時に讃岐を去った家臣達を各大番組所属で分類したのが下のグラフになります。灰色が残留組、青色が讃岐退去組で、次のような事が云えます。
生駒騒動の残留藩士グラフ
生駒一門衆(生駒左門・生駒帯刀・生駒隼人)は、ほとんどが残留している。
讃岐退去者は石崎・前野・上坂組に多い。
これは、讃岐地侍衆を多く抱え、新田開発を進めていた生駒衆門派と、百姓達を使っての新田開発を行うことができない他国組(前野・石崎派)の対立の構図がうかがえます。
また、立ち退きの人数が家臣の約半数に達することは、藩主高俊=前野の政治路線に賛同していた家臣も多かったことが分かります。ここからは生駒記や講談ものに記されているような単純な「生駒帯刀忠臣説」「藩主無能説」は、成り立たないようです。
また、生駒帯刀の怖れていたことは、次の2点が考えられます。
①惣領家である藩主に権力が集中し既得権益が奪われること
②具体的には新田開発の禁止や知行制廃止
 戦国時代末期には、どんな小領主であっても所領をもつことが当たり前で、「一所懸命」こそが自らの拠りどころだった記憶が、当時の家臣達には、まだ残っていたはずです。その中で、太閤検地以後進められた武士のサラリーマン化は、堪え難いものだったのかもしれません。特に多くの知行地をもつ家臣ほど抵抗感は強かったでしょう。しかし藩主の側から見れば、これは権力専制化のため、近世の幕を開くためには避けて通れない道だったのかもしれません。
参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

 
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『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』です
この絵図の特徴は、その名の通り家臣団の屋敷がぎっしりと書き込まれた平面図であることです。外堀、内堀の内側はもちろん、外堀の南と西にも侍屋敷が続きます。侍屋敷は外堀内が108軒、外堀西が162軒で、重臣屋敷は中堀の外側に沿って配置されているのが上図から分かります
 今回はこの絵図を見ながらどんな家臣が、どこに屋敷を構えていたのかを見ていくことにします。
 外堀の内側に並ぶ屋敷を、研究者が石高で色分けしたのが下の絵図です。
生駒藩屋敷割り図3拡大図
①1000石以上 オレンジ色
②500石以上   紫色
③300石以上  緑
④300石以下  黄土色
この絵図からは、次のような点が見て取れます
①中堀の外側には1000石以上の家臣団の屋敷がならび、敷地が広い。
②その姓を見ると「生駒」が多く、藩主につながる生駒一族の屋敷と思われる
③外堀の南側入口にも家禄の多い家臣の屋敷が5軒並ぶ
西嶋八兵衛の屋敷が外堀西側の入口角に見える。
もう少し詳しく生駒藩の重臣達の屋敷を見ていくことにしましょう
多くの写本がある生駒家侍帳(分限帳)には、全ての家臣団(生駒宗家の直臣)の氏名が、その役職、知行高と共に記されています。いくつかの写本中には、知行高を記した数値の横に、小さな文字で知行内に含まれる自分開の新田に関する注記もあります。これと、上の屋敷割図をリンクさせながら、重臣達の屋敷を見ていきましょう。
「生駒家侍帳」は、今で云うと家臣団名簿になります。
ここには、生駒家に仕えた百数十名の家臣団の名前があります。しかし、注意しなければならないのは、ここにある名前は「直臣」だけです。封建制度のセオリーである
「王の家臣の家臣は、王の家臣ではない」
を思い出さなければなりません。つまり、各重臣が抱える家臣は「直臣」でないので、ここには名前がでてきません。生駒時代になって讃岐の地侍達がリクルートされますが、生駒家の家臣に採用された場合が多かったようです。生駒家に直接採用されなければ、この分限帳には載っていません。大手企業と、下請け企業の社員の関係になるのかもしれません。
戦闘ユニット「大番組」にみえる生駒藩の重臣達は?
生駒藩では大番組と呼ばれる戦闘ユニットが、総知行高一万石平均で構成されていました。各ユニットの兵力は、三百人から五百人で、九つの正規ユニットがありました。予備ユニットとして三組、そして、槍隊、弓隊、鉄砲隊と、作事・普請といった工兵隊から、軍役衆が構成されていました。その大番組のユニットを見ていくことします。

生駒藩屋敷割り図3拡大図
①生駒隼人組 
四代藩主壱岐守高俊の弟、生駒隼人(通称:西ノ丸殿)のユニットです。藩主の弟ということで、屋敷は城内の西の丸にあります。他の生駒姓の屋敷よりも広さもロケーションも群を抜いているようで「家格NO1」と云えそうです。しかし、藩の実権は、生駒將監(生駒帯刀の父)が握っていました。
与力は、安藤蔵人(1000石)で、侍数26人。彼らの平均知行高は、253石。この組内には安藤氏を名乗る侍が5名いましたが、生駒騒動の際には、その全てが生駒家を去っています。そういう意味では安藤家は、反生駒帯刀派に色分けされるようです。
 生駒隼人の知行4609石の内4588石が寒川郡に集中しているようです。これは生駒甚介(三代藩主正俊の弟、左門の異母兄弟)から引き継いだようです。勘介は引田城主として、東讃岐を支配していましたが、大坂の陣の際に豊臣方に加勢し破れて、引田に戻ります。しかし、追っ手が迫り切腹、所領は没収されました。その所領を生駒隼人が引き継いだようです。
②生駒將監(生駒帯刀の父)が預かる組。
この屋敷は、中堀の南門を守る形で立地します。北側と南側の通路の両方に屋敷は面し、入口も両方に持つ構造で、特別な役割を持たされていたことが想像できます。この家はもともとは、初代親正の兄弟の創始と云われ、当時は將監、帯刀父子が家老として藩政を掌握していたようです。家格意識が高く尊大であったため譜代の家老連との対立が絶えなかったと云われます。後世の史料には
「家臣としての分を忘れ、宗家(生駒本家)を倣い、子の帯刀に至っては、その妻に大名家の姫を望んだ。この幕法をも無視した非常識極まる要求に反対した江戸家老、前野助左衛門、石崎若狭の両名は、この後、將監、帯刀父子に深く恨まれる。これが後の生駒騒動の発端となる」
と批判的に記されています。生駒騒動の発火点は、この家にあるようです。
 この組の特徴としては、次の2点が挙げられるようです。
①尾池氏、河田氏、佐藤氏、吉田氏、加藤氏、大山氏、今瀧氏など、讃岐武士が数多くリクルートされている。
②生駒騒動の際に、職務放棄して讃岐を去った立退者がいない
                ③生駒左門組(三代藩主正俊の異母弟)
私が最も興味を持っているのがこの組です。屋敷は城内の東側で中堀に面するロケーションで、敷地面積はNO3くらいでしょうか。
この屋敷は二代目一正とその側室との間に生まれた左門に与えられたものです。
  左門の母・於夏は、三豊財田の山下家出身です。そして、彼女の甥が金毘羅大権現の別当を務めるようになります。於夏は、生駒家の中に外戚・山下家の太い血脈を作り出していきます。於夏の果たした役割は想像以上に大きいようです。左門の母於夏について見ていきましょう。
  2代藩主・一正の愛した於夏とその子左門
 一正は讃岐入国後に於夏(オナツ・三野郡財田西ノ村の土豪・山下盛勝の息女)を側室として迎えます。於夏は一正の愛を受けて、男の子を産みます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門と称すようになります。彼は成人して、腹違いの兄の京極家第三代の高俊に仕えることになります。
 寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり。「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。
   同時に、金毘羅大権現への保護を進めたのも於夏です。
於夏と金毘羅を結ぶ糸は、どこにあったのでしょうか?  それはオナツの実家の山下家に求められます。この家は戦国の世を生き抜いた財田の土豪・山下盛郷が始祖です。その二代目が盛勝(於夏の父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久で於夏の兄です。父と同様に、郷司となり西ノ村で知行200石を支給されます。彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
 一方、於夏の弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。この分家の息子が金毘羅の院主になっていたのです。 慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨は、殿様の側室於夏と「甥と叔母」という関係だったことになります。  宥睨が金毘羅の院主となった慶長十八年(1613)の3年前に、一正は亡くなりますが、伯母於夏を中心とする血脈は脈々とつながっていきます。そのメンバーを確認しましょう。
①一正未亡人の於夏
②藩主一正と於夏の息子で藩内NO2の石高を持つ生駒左門
  左門には、異母兄弟として生駒甚介がいたことは先ほど紹介しました。しかし、勘介が大坂の陣に参加し、敗軍の責を被り自刃した後は、左門が生駒氏一門衆筆頭となったようです。
 この組には、讃岐出身の三野氏が四人いるほか、山下権内(150石)の名があります。この人は、三野郡の財田西村に自分開の知行所を持っているので、於夏の実家の山下家に連なる人物であったことがうかがえます。また、豊田郡中田井村の香川氏とも関係が深いなど、西讃・三豊地区との関わりが見えます。他に、この組の重要な特徴として、自分開の新田1144石があることを研究者は注目しています。
於夏と一正との間に生まれた於夏の娘山里(左門の妹)について
 山里は京都の猪熊大納言公忠卿に嫁しますが、故あって懐胎したままで讃岐に帰えってきます。離縁後に讃岐で産んだ子が生駒河内で、祖父一正の養子として3160石を支給されます。つまり、左門と生駒河内は「伯父と甥」関係になります。そして、生駒河内出産後に山里は、家老の生駒将監(5071石)と再婚し、生駒帯刀の継母となります。こうして
③於夏の娘山里が離婚後に産んだ生駒河内(一正の養子)
④於夏の娘山里の再婚相手である生駒将監と、その長男・帯刀
   こうして「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀」を於夏の血脈は結びつけ、生駒氏一門衆の中に、山下氏の人脈(閨閥)を形成していきました。この血脈が大きな政治的な力を発揮することになります。その結果、もたらされたひとつが生駒家の金毘羅大権現への飛び抜けた寄進です。この背後には、於夏の血脈があると研究者は考えているようです。
  もうひとつは、讃岐の土着土豪勢力との接近・融合を進めたのが生駒左門に連なる勢力ではなかったかということです。
於夏の実家である山下氏は、この時期に新田開発を活発に行い、分家を増やしています。山下家に代表されるように、土着勢力からリクルートされた家臣達は、新たな開発を行い自分の土地とすることが生駒家では許されていたようです。この「自分開の新田」は、加増の対象となります。 そのために積極的に新田開発を行います。知行に新田(自分開)が含まれる侍は、生駒騒動の際に、讃岐を去ることはなかったと研究者は指摘します。

生駒騒動の残留藩士グラフ
 地元勢力を活用し、新田開発を積極的に行うグループと、それができないグループとの間に政策対立が起きたことは推測できます。それが後の生駒騒動につながっていくひとつの要因と研究者は考えているようです。
 ここでは土豪勢力をとりこみ、新田開発を活発に行ったのが山下家の於夏の血脈でつながる
「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀
の生駒一門衆であったことを押さえておきます。これらの派閥からは、生駒騒動の時に藩を出て行く者は、ほとんどいなかったのがグラフからも読み取れます。
次に藩を飛び出して行った重臣達を視てみましょう。
生駒藩屋敷割り図3拡大図

④前野助左衛門組
 屋敷は「屋敷割図」では前野次太夫と記され、中堀南の重臣屋敷群の一角を占めています。前野助左衛門は石崎若狭と共に江戸家老を勤めた人物です。
 前野助左衛門と石崎若狭は、生駒家の譜代ではありません。もともとは豊臣家の家臣で「殺生関白」と呼ばれた秀次の老臣・前野但馬守長泰の一門でした。秀次が秀吉の怒りに触れて自殺した時、長泰も所領を奪われて両人ともにも浪人の身となります。かねてから前野家が生駒家と親しい関係だったので、生駒家を頼って讃岐にやってきたようです。初代親正は、秀長の下で一緒に仕えた前野長泰の子息の前野助左衛門と石崎若狭を息子一正の家臣としてとりたてます。両人とも相当才気があり、勤務ぶりも忠実であったため、一正の気に入られ千石の知行をあてがわれて、さらにその子の正俊付となります。
 両人は正俊の江戸参観には供をして、諸家への使者などを勤めます。豊臣秀次の老臣であった前野家どいえば、豊臣時代にはよく知られた存在で、親しくしていた因縁があるので、どこの藩でも大事にしてくれて、諸藩と関係もそつなく果たします。
ちなみに前野の母は、織田家中で勇猛を馳せた佐々成政の妹です。また、前野の男子の内、一人は、阿波蜂須賀家に仕えています。
生駒家家臣 前野助左衛門
 生駒記などでは、前野助左衛門、石崎・若狭は、悪役を振り当てられていますが、実際のところはそうともいえないようです。例えば、各部隊ユニットを預かる大番組の高禄者たちの中で「分散知行」に徹しているのは前野助左衛門だけです。そこには彼が地方知行制から切米知行制へ切り替えを目指していた姿をうかがうことができます。藩政改革を藩主から託された前野は、国元に石崎と上坂を置き、自分は江戸家老として連携を密にしていきます。また、年寄の森出羽の息子で江戸在府の森出雲を、自らの派閥に引き入れることに成功します。こうして、生駒一門衆への対決姿勢を強めていきます。
 助左衛門亡き後は、息子治太夫が江戸詰家老職を継ぎます。代が変わっても生駒衆門派と前野派の対立は収まらず激化します。そこで、生駒帯刀は、主君高俊を動かして、石崎、前野両人を罷免する動きに出ます。罷免された両者は激怒し、一類の者をはじめ家臣あげて脱藩、離散するという「職場放棄=讃岐脱出」という集団行動にでるのです。
 生駒家では幕閣のとりなしを依頼しますが「武士団の集団職場放棄」というショッキングな行動に対して、さすがに藤堂高次、土井利勝の力量でも幕府を抑えきれません。寛永17年7月、幕府は讃岐生駒藩十七萬千八百石を取りつぶします。関係者への措置は以下の通りです。
①藩主は出羽国(秋田県)由利郡矢島へ移され、堪忍料一万石
②前野治太夫、石崎若狭は切腹。
③上坂勘解由、森出雲守両者は脱藩した家臣と共に死刑
④石崎八郎右衛門、安藤蔵人、岡村又兵衛、小野木十左衛門ら、前野氏に使えた一類の人々も徒党を組んで国を走り出た罪で、いずれも死刑。
⑤生駒帯刀は忠義の心から事を起したとはいえ、家老としての処置を誤ったという理由で出雲国(島根県)松江藩に預けられ、五十人扶持。しかし、仇討ちに遭い万治2(1659)49歳で死去。

森出雲組 
生駒一族を除くと家臣筆頭の知行(3948石)を誇る組です。
この屋敷は西浜船入(港)に面し、西門守備の要の位置にあります。森氏は生駒家譜代筆頭の家老ですが、生駒氏一門衆の家老、生駒將監、帯刀父子と対立し、生駒騒動では讃岐を退く道を選びます。
 出雲の父は出羽、妻は前野助左衛門(伊豆)の娘です。そのため出雲は、前野次太夫とは義兄弟の関係に有り、ここも血縁関係で結ばれた一族を形成します。
この組には、戦国時代に西讃岐守護代の香川氏の筆頭家老を勤めた河田氏の嫡流である河田八郎左衛門がいます。八郎左衛門も、生駒騒動では土着侍でありながら、生駒家を去る道を選んでいます。。他にも、高屋、林田、福家氏など、東讃岐守護代香西氏の家臣たちも、この組に属していたようです。この組の特徴は、所属の家臣団が、生駒氏一門衆旗下の大番組のように同一氏族に集中していないことです。いろいろな侍衆の寄せ集め的な性格のようです。
   与力は、生駒氏の縁者、大塚采女(500石)で、侍数21人で、平均知行高は267石。
⑥上坂勘解由組 
 屋敷は森出雲の隣にあたり、西浜船入と外堀の間にある西門を守るコーナーストーン的な位置にあります。上坂勘解由は、西讃の豊田郡にて2170石の一括知行地を持っていました。このような知行形態は、他にはないものでこの家の特別な存在がうかがえます。
 勘解由は、寛永四年には、三野四郎左衛門と並んで5000石を給されています。上坂氏の母国は近江で、勘解由は、遠く古代豪族の息長(おきなが)氏の系譜を引く湖北の名門出身と名乗っていました。この一族の持城の一つが琵琶湖東岸の今浜城で、後に秀吉が長浜城と改名し居城にします。 生駒騒動の時には、盟友の石崎、前野の両家老をかばって、譜代筆頭の家老、森出雲と共に生駒家を立ち退きます。上坂氏の娘は、前野次太夫の妻で、両家は婚姻関係で結ばれていました。
 上坂氏一門は、西讃岐の観音寺では、太閤与力の侍です。
与力侍とは、生駒家を監察・管理するために秀吉が配置した役職です。上坂氏の居城は観音寺殿町の高丸城(観音寺古絵図)で 、現在の一心寺周辺とされます。もともとこの城は、戦国時代の天霧城主香川信景の弟景全が、築城した居館で観音寺殿といわれていたようです。それが天正7年(1579)の長宗我部元親の侵攻の際に香川氏は無血開城し、兄弟共に土佐勢に従いました。その後は、秀吉の四国侵攻を受けて、兄弟で元親を頼り土佐に落ち延びました。
 この城は、天正15年生駒氏が讃岐守に封ぜられた時、秀吉によって1万石を割いて大阪の御蔵入の料所にあて、観音寺城が代官所にあてられました。しかし、豊臣氏の滅亡により廃城となったようです。
 家臣団構成は、森出雲組と同じように、いろいろな一族の寄せ集め的な性格です。
生駒藩屋敷割り図拡大図4

石崎若狭組 
江戸家老を勤めた石崎若狭が預かる組です。
屋敷は外堀南側に面して、大手門の守備を念頭に置いた屋敷配置がされているようです。石崎若狭は寛永四年には2500石を給されていて、1000石の前野伊豆(助左衛門)とは、家中での立場が少し違っていたようです。石崎家は、元和六年に断絶した出石の田中吉政の家中から、生駒家に移った武士達のひとつのようです。
与力は下石権左衛門(500石)。侍数19人。
 旗下侍18人の平均知行高は278石で、大番組中、最も高い。
 
浅田図書組 
知行2500石を有する浅田図書が率いる組。
 この組は、先代の右京の時代に新参家臣として取り立てられますが、大坂の陣で勲功のあった萱生兵部と対立するようになります。家臣団のほとんどは兵部に与しますが、右京は藩政の後見役である藤堂高虎の支援を取り付けて反対派に打ち勝ちます。浅田右京は、讃岐武士である三野四郎左衛門や、高虎から讃岐に派遣された西嶋八兵衛・疋田右近とともに、惣奉行(国家老に相当)を務めるようになります。この党争の中で、讃岐の小領主の流れをひく有力家臣が数人没落しました。代わって藤堂高虎の讃岐支配に同調した家臣が取り立てられることになったようです。
 しかし、この屋敷割図が作成された頃は、奉行を勤めた浅田右京は失脚し、図書が後を継いでいますが、家中の重要ポストには就けてなかったようです。
宮部右馬之丞組 
知行1998石を有する宮部右馬之丞が率いる組で大番組中、最も小さな組です。与力は、佐橋四郎右衛門(400石)。侍数は14人である。
 屋敷の割当は、郭内屋敷三軒、西浜屋敷六軒。
 旗下侍13人の平均知行高は、232石。

生駒藩の屋敷割図から生駒騒動に関わる重臣達を見てきました。
講談的な「勧善懲悪」的な生駒騒動物語には、その背景に
①土地問題をめぐる政策対立
②藩主への権力集中に反発する生駒衆一門の反発
③幕府・藤堂藩の介入
などがあったことがうかがえます

参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

     前回、讃岐中世の港町めぐりで引田を紹介したら、もう少し詳しく知りたいというリクエストを頂きました。そこで、引田について見ていきます。引田は、戦国末に生駒氏が讃岐領主として入ってきて最初に築城したところで、城下町も整備されたようです。そのために、生駒氏以前と以後では、街の姿が大きく変わりました。生駒藩以前と、新たに引田城が築かれた後の引田を比べることで見えてくるものを探したいと思います。
1引田城3

 まずは現在の引田を見ておきましょう。
引田の目の前は播磨灘が広がります。かつては島だった城山に向かって南東から北西に弓なりに海岸が湾曲します。地図だけ見ていると、伯耆の米子から境港に伸びる弓ヶ浜とよく似ているように見えてきます。
3引田

平成10年(1998)に、この弓なりの上に位置する本町三丁目で、防火水槽設置工事が行われました。その掘削断面から、ここが砂堆であることが分かりました。引田の街は、大きな砂堆(砂堆1)の上に形成されているようです。砂堆上には海岸線に沿って、北から川向、小海川を挟んで松の下、魚の棚、中ノ丁、本町一丁目~七丁目、木場(きば)、大明神などが並んでいます。
5引田3
 小海川河口部をはさんで北側(川向側)と南側(松の下側)では、北側の方がやや高いことから、北側がより安定した地形のようです。砂堆の最も高い所を、通る旧街道が縦断するように伸びて松の下、中ノ丁、本町一~七丁目の街並みが続きます。この旧街道は、昭和30年代に新しく国道11号線が開通するまでは阿讃の主街道で、この街道に面してマチスジ(町筋)、オカと呼ばれる商家や住宅が建ち並ぶ商店街を形成されていました。
中世引田の復元図から見えてくることを挙げておきましょう。
砂堆Iの上に街並みが形成され、その東西両側に向かって地形は広がっています。
②砂堆Iの西側には潟湖跡(潟湖Ⅰ)があります。
『元親記』では土佐の長宗我部群が「引田の町」を囲んで陣取ったとあり、続いて「本陣と町の間に深き江」があり、潮が満ちているとありました。引田の「町」と城は、「江」によって隔てられていたことが分かります。
③この「江」は城山の南側にある安戸から引田港まで入り込んでいた潟1と砂堆2のことで、現在は陸地となっていますが、明治までは塩田だったようです。
④この「江」は安戸塩田(砂堆3)で作られた塩を引田港まで運ぶ運河でもあったと地元では伝えられています。中世には小型船の往来や船着場として利用していたようです。
⑤『元親記』に記された引田の「マチ」は、引田城と「江」の対岸の宮の後や川向の集落Iと集落2にあたるようです。ここは安定した地形ですから、当時の引田の港町があったのはここのようです。

5引田八幡神社
⑥川向の亀山と呼ばれる高台に、引田の氏神である誉田八幡宮が鎮座します。この八幡宮は延久元年1069)に現在地に遷座したと伝えられます。県の自然記念物に指定の社叢が生い茂っているため、今は引田港は見えません。が、かつては眼下に引田港が見下ろせたはずです。この八幡宮は海上の安全を願って建立されたもので、航海や漁師にとって当て山となっていたようです。

5引田7
 今の八幡宮本殿は南面していますか、かつては北面していたと伝えられています。それはこの神社の北側に引田城があったからでしょう。八幡宮が北面していたは、引田城に向かって鎮座していたということになります。ここにも八幡宮が引田沖や潟1を往来する船の管理や引田城の鎮護を担う役割があったことがうかがえます。この神社を中心に、中世の港は形成されていたようです。
5引田unnamed (1)

⑦当時の引田の町の中心は、この八幡宮周辺の川向や宮の後でした。現在の中ノ丁から本町があるマチ(砂堆1)には、家屋は少なかったようです。
⑧今度は西南の塩屋方面を見てみましょう。ここには低湿地でかつての潟(潟2)が埋積したものとのようです。この潟の西には塩屋や小海(おうみ)という製塩やその景観を表す地名が残っていて、古代・中世にはここまで海が入り込んで入江を形成してたことがうかがえます。『入船納帳』にみえる引田船の塩は、この塩屋付近で作られたのかもしれません
引田が大きく変化するのは、生駒親正の引田城の築城です 。
讃岐領主として、やってきた生駒氏は最初に引田の城山に築城を始めます。一緒にやって来た家臣団も生活のためには屋敷を構えなければなりません。城下町の整備は火急の重要課題です。引田には、その際の屋敷割りが、現在の町割や地名に残っています。

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 引田の城下町復元図から見えてくることを挙げてみましょう。
碁盤目状の町割りがされている。
②道幅は狭く十字路も筋違いになっているところがいくつかある
③本町六丁目には箸箱町と呼ばれる地域がある。これは建物の並びが、箸箱の蓋のように出し入れできるのが一方だけで行き止まりとなっていることを表すもの。
以上からは城下町として、防衛上のために造られていることがうかがえます。
 その他にも引田のマチには魚の棚や草木町、大工町といった城下町によく見られる市場や職人町を示す地名も残ります。また中ノ丁や本町というように村役人や町人・商人が居住する地域や、寺町のようにまとまって寺院が配置された地域もあります。
引田城下町の中心はどこだったの?
 生駒親正が引田城の後に築いた高松城下や丸亀城下では、侍屋敷が並ぶ地域を一番丁や二番丁のように「丁」、町人町を「町」と表記して区別しています。引田の中ノ丁も武家町であったと考えられます。中ノ丁には生駒時代に庄屋役を仰せつかり、以降明治まで引田村庄屋を勤めた日下家や、松の下には先祖が生駒氏に仕えたという佐野家や岡田家などの有力商家がありました。これらの家が中ノ丁や松の下に集まっていることは、この地区が引田の政治の中心であり、城下町がここを中心に整備されたことがうかえます。本町は北から一丁目・二丁目・三丁目……七丁目と並びます。これは北側の中ノ丁を基点に、順序に付けられたと考えられます。
 さらに北後(きたうしろ)町や南後(みなみうしろ)町は地名からすると、中ノ丁や大工町・草木町から次第に広がっていった地域のようです。このように引田城下町は中ノ丁を中心に町が展開していったと研究者は考えているようです。

 生駒氏以前の中世の引田は、集落1と集落2にあたる川向や宮の後が町の中心でした。それが生駒親正による城下町の整備で、砂堆の南側にも家臣団の屋敷が「町割り」されて建ち並ぶようになります。そして、町の中心が松の下や中ノ丁に移ります。川向は「川の向こう」という意味ですから小海川の南側の地域が中心となってから使われるようになったのでしょう。
 また北面していた八幡宮を、南面に改めたのも生駒親正と伝えられます。南面させて引田のマチを望む方向に変えたのは、八幡宮の役割が引田城の鎮護から引田のマチの鎮護に変わったことを示しているのでしょう
 復元図には魚の棚や草木町・大工町といった城下町によく見られる市場や職人町が見えます。魚の棚には江戸後期まで魚問屋があったようです。また、本町の旧街道に面したマチスジは近世にも数十件の商家が建ち並び、最近まで商店街を形成していました。ここに住んでいた商工業者たちが、このマチの経済的な役割を担っていたようです。
引田の寺町は?           
寺町には積善坊(真言宗)・善覚寺(浄土真宗)・萬生寺(真言宗)の三つの寺院が一列に建ち並んでいます。小規模ですが寺町を形成していたようです。積善坊は、もともとは内陸部の吉田にあったがいつのころか現在地に移り、天正年間の長宗我部勢の兵火により焼失したようです。それを生駒親正が修復したといいます。
 善覚寺も小海にあったのを明暦年中(1655)゛に中興沙門乗正が現在地に移したと伝えられます。萬生寺は天文10年(1541)に当時引田城主であった四宮氏の菩提所として建てられたという縁起が残ります。
 このようにそれぞれ異なる縁起を持つ寺院が寺町に集まっていることは、誰かが意図的に移転・配置したのでしょう。寺町は引田では、西の入口にあたります。東の入口にも本光寺(真言宗)があります。東西入口に、防御施設として寺院が配置されたようです。
 このように引田は、生駒親正による都市計画により城下町が整備され、町の中心が移り武家町や職人町・商人町・寺町が形成されたことが分かります。
 しかし、生駒親正の都市計画は町割の整備だけではなかったようです。最も大事業でだったのが小海川の付け替え工事でした。
 小海川は川向と松の下を隔てるように流れます。この川は、今は丘陵部に沿って直線的に播磨灘に流れていますが、元々は安戸方面(潟1・砂堆3)に流れて「運河」の役割も果たしていました。それを砂堆Iを切り開いて直線的に海に出るルートにしたようです。これだけ見ると、この河口が果たしていた運河や船着き場の役割が果たせなくなることになります。
なんのための大規模な河川付け替え工事だったのでしょうか?
潟1と砂堆2・砂堆3にあたる小海川の旧河道の安戸には、明治44年(1912)まで塩田があり、大正年間に耕地整理が進められ現在は田地となっています。つまり旧河道は塩田に姿を変えたようです。
  大内郡松原村(東かがわ市松原)の教蓮寺に伝わる享保11年(1726)の『松雲山教蓮寺縁起』によると、
天正15年(1587)に生駒親正が引田に入部した際、播磨国赤穂から人民数十人を松原村に移住させ、塩浜を拓いたと記します。同じように引田の安戸でも、赤穂から住民が移住して塩田を造ったと伝わっています。中世以来、引田では塩屋(潟2)で製塩が行われていましたが、より海水を引き入れやすい安戸(潟I・砂堆3)で大規模な製塩を行おうとしたことがうかがえます。小海川の付け替え工事は、安戸への淡水の流入や洪水の被害を防止し、新たな塩田開発のためだったようです。
 さらに安戸だけでなく『元親記』でみた「江」も塩田に拓いた可能性もあります。安戸塩田の開発の背景には、塩屋の潟が上流からの埋積で埋まり塩田が仕えなくなった可能性もあります。
 小海川の付替工事は、塩田開発だけでなく、潟を排水することによる水害防止、そして堀として城下の防御の三点が考えられます。小海川付け替え工事に関する文献史料はありません。そのため年代などは明確にできませんが、この工事は生駒親正の城下町の整備と同時期に行われ、以前からあった製塩業を城下町の重要産業として発展させたと研究者は考えているようです。

引田に残る伝承からも、生駒親正による城下町の整備をうかがえるものがあります。
坂ノ下にある岩崎観音には、次のような伝承が伝えられます。
この辺りは船泊まりで、餓鬼が度々出没していました。生駒親正が引田にやって来たときに、この訴えを聞き、安全を願って祠を建て、聖観世音を安置した。これが岩崎観音である
というものです。ここには「岩崎観音付近が船泊まり」だったとあり、小海川が付け替えられる前の景観を裏付けるものとなります。同時に、小海川旧河道(潟I)には、船が行き来していたこと分かります。
 また八幡宮の秋祭りには、引田の各地区で獅子連や奴連が、大明神にあるお旅所まで旧街道往復2㎞を練り歩きます。八幡宮に奉納される奴の起源は、天正年間に生駒親正によって八幡宮が再建されたのを喜んだ引田の人々が「やり踊り」を奉納したのが始まりと伝えられています。ここにも数百年経った現在も引田の人々の記憶に城下町整備を行った生駒親正が「郷土の恩人」として、後世にも語り継がれています。

 ところで生駒親正が引田を拠点としたのどのくらいの期間だったのでしょうか?
資料的には数力月で引田から宇多津に移っています。彼の引田時代はきわめて短期間でした。引田から宇多津に移った理由は『生駒家始末興廃記』には次のようにあります。
生駒雅楽頭近規ハ、永禄・元亀・天正等之兵乱、太閤秀吉公幕下に属し、数度之武功依之有、天正十五年讃岐之守護尾藤甚右衛門没落之跡 高十七万六平石受封して、讃岐国大内郡引田之城え入部被成候所、引田ハ国之東端ニて、西方難治より、鵜足郡聖通寺山の城に居住、此城往昔仙石権兵衛殿築被申由伝候、然ルに近規国政被仰付るに、当国先々衆呼出し、相応之扶助を宛て国務被仰付、当地境内狭故、天正十六年、香東郡野原庄二初て城を築、天正之頃迄は、在々小城共多故、海辺仁保・多度津・笠居・津田・三本松・引田杯船付二ハ商売人有之、其外在々分散して繁昌之地も多くハなし、
ここには次のようなことが記されています
①生駒氏が秀吉から讃岐国領主に任じられ、最初は引田を拠点とした
②しかし「引田は讃岐の東端で、西方が治め難し」として 宇多津の聖通寺山に移ったこと
③さらに聖通寺山では手狭になったために香東郡野原(高松)で新城に着工したこと
④天正の頃までは仁保(仁尾)・多度津・笠居・津田・三本松・引田が有力な港町で、ここに商人達がいたようです。この引田の商人たちが居住していたのが『元親記』で仙石氏に包囲された引田の町なのでしょう。

 引田か短期間で拠点を移動させた理由は、次の2点のようです
①引田は瀬戸内海東部での軍事拠点としては機能するが、讃岐を治める拠点としては東に偏りすぎていること、
②本格的な城下町建設には、砂堆Iの地域は狭すぎて大規模な埋め立て造成工事を行わないと、岡山や姫路のような城下町は造れないという地形的制約があった
とされているようです。 
 生駒親正は引田から移った翌年の天正2(年(1588)には香東郡野原に高松城の築城に着手します。
そして慶長2年(1597)には丸亀に高松城の支城を築き、ここには親正の子・一正を入れます。これは西讃地方の支配のための支城的な役割もありました。東讃地方にも支城が必要であるという認識があったようです。当時は、関ヶ原の戦い直前で、臨戦態勢が整えられていく時期でもあります。
 享保年間(1716)の『若一王子大権現縁起』や寛政四年(1792)の『小神野夜話』では、慶長年間に生駒甚助(一正の次男)が大内郡一万石を領し、引田城に拠ったとあります。引田城が東讃地方の支城として整備が続けられたことがうかがえます。
 また発掘調査によっても数多く出てくる瓦は、関ヶ原直前のもので、入部当時のものではないことが分かってきました。引田城や城下町の工事は、関ヶ原の直前に活発化したと研究者は考えているようです。
 以上をまとめておくと
①中世の引田の町は、八幡宮周辺を中核として川向や宮の後に集落があり、現在マチと呼ばれる中ノ丁から本町がある砂堆には集落が限定的であった。
②駒親正の引田城と城下町の整備により景観は一変する。
③町の中心が八幡宮周辺から現在のマチに移り、武家町や職人町・商人町、そして寺町が計画的に配置された
④小海川付替え工事が行われ、安戸塩田の開発などの殖産事業も実施された。
⑤しかし、生駒氏の拠点は短期間で宇多津を経て高松に移された。⑥そのため引田城や城下町整備は、関ヶ原直前から本格化した
以上、生駒氏による引田の城下町整備についてでした。
萩野憲司 参考文献中世讃岐における引田の位置と景観  中世讃岐とと瀬戸内海世界 所収
1584 天正12 (甲申)
 県内  6・11 土佐の長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡
 1585年 天正13 (乙酉)
   4・26 仙石秀久および尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し屋島に上陸,喜岡城・香西城攻略
   5・15 仙石秀久,阿波より讃岐に引揚げ牟礼・高松に陣取る(仙石家譜)
   7・25 秀吉と長宗我部軍との和議が成立し,長宗我部元親は土佐へ退却
   7・- 仙石秀久,秀吉から讃岐を与えられる.ただし2万石は十河存保の支配
   仙石秀久,抵抗した香東郡安原山百姓100余人の首領13人を聖通寺山麓で処刑する
   この年 フランシスコ・パシオ,上京の途中塩飽に寄る(イエズス会日本年報)
1586年 天正14 (丙戌)
   12・13 仙石秀久,戸次川で島津軍と戦って大敗し,十河存保ほか多くの讃岐武將戦死
   12・22 仙石秀久,戸次川の戦いでの不覚を責められ豊臣秀吉とり讃岐国没収
   12・24 尾藤知宣,豊臣秀吉より讃岐国を与えられる
1587年 天正15 
   6・- 尾藤知宣,日向国根白坂の合戦で豊臣秀吉の怒りをかい讃岐国没収
   8・10 生駒親正,豊臣秀吉より讃岐国を与えられる(生駒家宝簡集)
   8・17 加藤清正,讃岐の平山城(聖通寺城カ)を生駒親正に引き渡す
   12・- 播磨国赤穂から数十人が白鳥の松原に移住し塩田を開く(教蓮寺文書「教蓮寺縁起」)
1588年 天正16 (戊子)
   この年 生駒親正,香東郡野原庄の海浜で高松城築城に着手する
1589年 天正17 (己丑) 2・晦 豊臣秀吉,塩飽1250石の領知を船方衆650人に認める
   3・- 生駒親正,5000余人の軍勢を率い北条氏討伐に参陣
   この年 豊臣秀吉の北条氏討伐に際し,塩飽船,兵糧米を大阪より小田原に運ぶ,
1591年 天正19 (辛卯)9・24 豊臣秀吉,朝鮮出兵を命じる
1592年 文禄1 12・8 (壬辰)
   3・- 生駒親正・一正父子,秀吉の命で5500人を率いて朝鮮半島へ出兵する
   10・23 豊臣秀次,塩飽に大船建造を命じ船大工・船頭を徴用
1594年 文禄3 (甲午)生駒親正,大坂に滞在.一正は再び朝鮮に出兵
   10・16 豊臣秀吉,生駒一正に来春の朝鮮出兵のための水主・船の準備を命じる
   7・12 夜,大地震.田村神社の神殿壊れる(讃岐一宮盛衰記)
1597年 慶長2 (丁酉)
   2・21 生駒一正,朝鮮出兵で第7番に属し,2700人の兵を率い渡海し昌原に在陣
   生駒親正,一正と計り,西讃岐支配のため亀山に城を築き,丸亀城と名付ける
   この頃 生駒藩の検地が始まる
  1600年 慶長5 (庚子)
   6・- 生駒一正・正俊父子,上杉景勝討伐のため家康軍に従い関東に赴く
   7・- 生駒親正,豊臣秀頼の命により丹後国田辺城攻撃のため,騎馬30騎を参陣
       この後,高野山に入り家康に罪を謝る
   9・15 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦
   9・- 生駒親正,高野山で出家
 生駒藩,香西加藤兵衛(往正)ほか20名を登用し,佐藤掃部に「国中ノ仕置」を命じる
1601年 慶長6 (辛丑)
1602年 慶長7 (壬寅)
    生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
    播磨国の人々が坂出(内浜・須賀)に移住する(西光寺文書)
1603年 慶長8 (癸卯)
   2・13 生駒親正,高松で没する.78歳
1605年 慶長10 (乙巳)
   9・- 生駒一正,初めて妻子を江戸へ住まわせる(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
1609年 慶長14 (己酉)
   5・23 生駒一正,妻子を江戸に住まわせたことにより,徳川秀忠より「半役」
       (国役を半分にする)を申しつけられる(生駒家宝簡集)
   2・2 生駒一正,国分寺より梵鐘を召し上げ,その代りとして荒田1町を寄進
   3・14 生駒藩,国分寺へ梵鐘を返却する(国分寺文書)
   この年 生駒一正,親正の菩提のために弘憲寺を建立し,寺領50石を寄進する
1610年 慶長15 (庚戌)
   (2)・8 駿府に参勤していた生駒一正,名古屋城築城を急ぐため名古屋へ赴く
   3・18 生駒一正没する.56歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   4・- 生駒正俊,家督を継ぎ高松城に居住.
この時に丸亀の町人を高松城下に移し丸亀町と称す
1611年 慶長16 (辛亥)
1613年 慶長18 (癸丑)
   10・1 徳川家康大坂征討の出陣を命じ,大坂冬の陣おこる.
   11・1 生駒正俊,大坂木津川口に陣をしく(徳川実紀)
   11・17 生駒正俊,住吉で家康に参見する.家臣森出羽・生駒将監・萱生兵部の活躍めざま しく家康・秀忠より感賞される
   8.- 全国的に踊りが広がり,これを伊勢神踊と号する(讃岐国大日記)
   10・25 大地震起こる(讃岐国大日記)
1596~1615年 慶長年間
   この頃 生駒藩,高松城下魚棚の住人の一部を野方町に引き移し,水主役を勤め
       させる(英公外記)
   この頃 金倉(蔵)寺の諸堂が復興する(金倉寺文書「由緒書」)
1615年 元和1 7・13 (乙卯)
  政治・経済
   2・12 小豆島草加部村の年寄ら,大野治長の命により塩910石を大坂城へ納め
       る(菅家文書)
   3・22 小豆島草加部村の年寄ら,大野治長の命により薪3500束を大坂城へ
       納める(菅家文書)
   4・6 徳川家康,大坂再征令を発し,大坂夏の陣おこる.
   夏   生駒正俊,大坂夏の陣で徳川方につき,軍用金5000両を家臣に配分して
       生玉庄に陣取る(生駒記)
   5・7 大坂城落城
   (6)・13 一国一城令により丸亀城廃城
1621年 元和7 (辛酉)
   6・5 生駒正俊,没する.36歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   7・- 生駒高俊,家督を継ぐ.外祖父藤堂高虎,生駒藩政の乱れを恐れて後見

  
HPTIMAGE高松

 
高松城下を描いた絵図資料は25点、19種類あるそうです。これらの絵図には高松城及び高松城下が描かれています。これらを製作年代順に並べて見比べてみると、どんなことが分かってくるのでしょうか。まずは生駒藩時代の二枚の絵図を見ていくことにしましょう。
 高松城は生駒親正によって天正16(1588)年,香東郡野原庄の海浜に着工されました。
高松城の地理的要害性ついて『南海通記』は
「此ノ山ナイテハ此ノ所二城取り成シ難ク候、此ノ山アリテ西ヲ塞キ、寄口南一方成ル故二要害ヨシ,殊二山険阻ニシテ人馬ノ足立ナク,北ハ海ニ入テ海深ク,山ノ根汐ノサシ引有リテ,敵ノ止り居ル事成ラズ,東八遠干潟 川人有リテ敵ノ止ミガタシ,南一ロノ禦計也,身方干騎ノ強ミトハ此ノ山ノ事也」

とあり、北は海岸で,東は遠浅の海岸が広がり,西は山が迫っており,山の麓は浜が広がる要害の地に築かれたことを指摘します。
 最も古い絵図は寛永4(1627)年に記された『讃岐探索書』の絵図(絵図1)のようです。
これは題名からうかがえるように幕府隠密が書き残した報告書で、絵図のほかに高松城の他にも町の広さなどが記録されています。当時は生駒藩時代で外様大名でなので監視の目がそそがれていたようです。隠密は次のように高松城を絵図入りで報告しています。

1讃岐探索書HPTIMAGE
天守閣は三層で,三重の堀をもつ。内堀の中に天守のある本丸があり,堀を挟んで北側に二の丸,東に三の丸がある。天守の西側の西の本丸は多聞で囲まれ,南西・北西・北東の角に二重の矢倉がある。二の丸は矢倉で囲まれていて,北角には矢倉が2つある。二の丸と内堀を挟んで西側にある西の丸の北側は塀で、北の角には屋敷があり,南の角に矢倉が2つある。しかし、中堀の石垣は6~7間が崩れて放置されている。海側にも海手門と矢倉があり,その東側には塀が続いているが、土が剥げ落ちている。
 また海側には海手門があった。中堀の東南付近には対面所がみられるが,この北側には堀を挟ん
で三の丸との間に門がある。三の丸は東南角に二重の矢倉があり,矢倉に続いて30間の多聞が続く。海の方にも矢倉があり,塀が巡っているが塀は崩れかかっていた。
 
1生駒藩時代
お城周辺の拡大図
これは高松城のことを記した一番古い史料になりますが,築造開始より年数が経過して,土塀や石垣は相当傷んでいて、それを放置したままになっていたことがうかがえます。藩内のお家騒動が激化してそれどころでなかったのかもしれません。
「讃岐探索書』は、城下の周辺ついては次のように記します
城下は城の西側,南側,東側に広がっていて、東10町(約1km),北南6町(約650 m)程度の広さで,800~900軒の家が並んでいる。城下町の東西には潮が入る干潟が広がり,南側は深田であった。 
 ここからは高松城の西と東はすぐ海浜で、東西の町は小規模で、南に向かって城下町は発展していく気配を見せています。町屋数は900軒前後であったといいます。公儀隠密の描いた「絵図1」は略図で、高松城下の町の名や,その広がりなどについては詳しくは分かりません。しかし、東西に干潟が広がる海岸の先端にお城が築かれていたことは分かります。
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これに対して『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)は詳細に描かれています。
この絵図を見て気付くことを挙げておくと
①城と港(軍港)が一体化した水城であること
②中堀と外堀の東側には町人街があること
③外堀の南に掛けられた橋に続いて丸亀町がまっすぐに南に続いていること
外堀の南と西にはは侍屋敷が続きます。侍屋敷は外堀内が108軒、外堀西が162軒で、重臣屋敷は中堀の外側に沿って配置されているのが上図から分かります
町筋を見ていくと東西に5筋、南北に7筋の通りが配されています。注目しておきたいのは東側の外堀の内側には、町屋があることです。これらは特権的な保護を受けていた気配があります。町屋の総数は1364軒になるようです。公儀隠密の報告から10年あまりで1,5倍に増えていることになります。急速な町屋形成と人口の集中が起きていたことがうかがえます。
 東西南の町屋を見ておきましょう。
 東部は町屋が広がり,いほのたな町・ときや町・つるや町・本町・たたみみ町などの町名が見えます。外堀の東側は東浜舟入で,港ですが舟入の東側にも町屋が広がり、材木屋、東かこ(水夫)町があります。
 南側には丸亀町,兵庫かたはら町,古新町,ときや町,こうや(紺屋)町,かたはら町,百聞町,大工町,小人町が続きます。この数からも城下町は南に向かって伸びていった様子がうかがえます。
 城下の東には通町,塩焼町が、城下のはずれには「えさし町」が見えます。
絵図の西端は、現在の高松市錦町に所在する見性寺付近で、東端は塩焼町で,現在の高松市井口町付近にあたります。
 南端には三番丁の寺町が見えます。そこには西からけいざん(宝泉)寺・実相寺、脇士、浄願寺・禅正寺・法伝寺・通明寺・福泉寺・正覚寺・正法寺の寺院がならび南方の防備ラインを形成します。なお「けいざん寺」は宝泉寺のことで、二代住職が恵山であったことから人々は「けいざん寺」と呼んだようです。
 この南にはかつては堀もあったようで、それが埋め立てられて「馬場」となったとも伝えられます。それを裏付けるように厩,かじや町が描かれ,南東部には馬場があり,その南には侍屋敷があります。この辺りは、現在の高松市番町2丁目で、高松工芸高校の北側あたりから御坊町にかけてになります。
「生駒家時代高松城屋敷割図』(絵図2)には三番丁が描かれていますので、この時代に城下はこの辺りまで広がっていたようです。
しかし、高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

とあり,松平頼重の頃に六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場が新たに侍町になっことが記されています。つまり、それまでに五番丁まであったと記します。生駒藩時代に、どこまで城下が広がっていたのかは、今の史料でははっきり分からないようです。
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 この「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には製作年代が記されていません。
いつ作られたものなのでしょうか。研究者が注目したのは、中堀と外堀の間の西上角にあった西嶋八兵衛の屋敷が
描かれていることです。彼は藤堂家から派遣されて、讃岐のため池築造や治水灌漑に大活躍した讃岐にとっては「大恩人」です。西嶋八兵衛は寛永4(1637)年から寛永16(1639)年まで生駒藩に仕えますが、元々の屋敷は寺町にあって、その後に大本寺は建立されたと,大本寺の寺伝が記します。大本寺の建立は「讃岐名勝図会』では寛永15(1638)年,寺伝では寛永18(1641)年とあります。
 ここでもう一度「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」(絵図2)をみると,寺町の西端の大本寺の所に「寺」と記されています。ここから大本寺は、この絵図が描かれたときには建立されていたことが分かります。また,西嶋八兵衛が生駒藩に仕えたのは寛永16(1639)年までですから大本寺は寛永16(1639)年以前に創建されたことになります。
 以上から大本寺の建立は『讃岐名勝図会』の説のとおり寛永15(1638)年で,それ以前に西嶋八兵衛屋敷は中堀と外堀の間に移ったようです。彼が生駒藩に仕えたのは寛永16年までなので,寛永15(1638)年から寛永16(1639)年の間に、この絵図は製作された研究者は考えています。まるで推理小説を読むような謎解きは、私にとっては面白いのですが、こんな作業を重ねながら高松城を描いた19種類の絵図を歴史順に並べらる作業は行われたようです。

 生駒騒動で生駒氏が改易された後,寛永19(1642)年,高松城に入部した松平頼重は寛文10(1670)年に高松城の天守閣の改築をし,翌年には新しく東の丸を築造しています。東の丸があるかどうかが絵図をみる際のポイントになるようです。東の丸があれば、松平藩になってからの絵図と言うことになります。
1高松城 屋島へ
それでは、この絵図はどうでしょうか?
「讃岐高松丸亀両城図 高松城図』(第6図 絵図3)も製作年代がありません。東の丸が描かれていないので寛文11(1671)年以前のものであることは間違いありません。この絵図は、高松城下町は略されていますが、周辺への街道が描かれています。周囲をみると屋島(八嶋)島の状態で陸と隔てられ、屋島と高松城は湾として描かれています。また,志度へ向かう道が2本描かれています。1本は東浜より湾を渡って屋島の南に抜け,牟礼・志度方面へ向かう道,もう1本は長尾街道と分岐し,海岸線を経由して屋島の南で前者の道と合流する道です。この道のすぐ北側は海で,湾状となって描かれていますが,この辺りは西嶋八兵衛によって寛永14(1637)年に干拓が行なわれた場所になります。ところがこの絵からは干拓の様子が見えません。ここからこの絵図は生駒藩時代のもので,西嶋八兵衛が干拓を行う寛永14(1637)年より前のものと研究者は推理します。
 
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第8図「讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)です。
 この絵図と先ほどの「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)を比べると、2つの相違点に気がつきます。一つは(絵図2)では東浜舟入の東側は「東かこ町」でした。この東の海岸をみると,塩焼浜と記され,浜が広がっている様子が描かれています。一方この絵図4では、東かこ町側の海岸は直線的に描かれていて、絵図の着色から石垣の堤防が築かれたことがうかがえます。
 2つめは、この「絵図4」では西浜舟入の侍屋敷の西側には町人が見られますが『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)では町人町は描かれていませんでした。ここから『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」(絵図2』より新しいものと研究者は考えているようです。
 それでは『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は生駒藩時代,高松藩時代のどちらをを描いた絵図なのでしょうか?
 松平頼重が高松城に入城するのは寛永19(1642)年で,『生駒家高松城屋敷割図』(絵図2)の製作の3~4年後です。東浜の海岸の石垣工事や,西浜町人町の建設などの工事は大工事であり,これだけの工事を3~4年間で行なうのは難しいようです。『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は、松平頼重入封以後の高松藩時代のものと考えるほうが無難のようです。
 なお,明暦元(1655)年松平頼重が五番丁に浄願寺を復興します。浄願寺は寺域も広く「高松城下図」(絵図7)など後世の絵図にも大きく描かれています。しかし、この「絵図4」には浄願寺は描かれていません。これも明暦元(1655)年以前のものとされる理由のひとつです。
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  以前に生駒藩の高松城の建設は従来考えられていたような秀吉時代のことではなく、関ヶ原の戦い後になって本格化したと考えられるようになっていることをお話ししました。それは発掘調査から分かってきたお城の瓦編年図からも裏付けられます。
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 そして、新たにやってくる新領主・松平頼重のもとで高松城はリニューアルされ、城下は新たな発展の道を辿ることになるようです。

1高松城寛永16年

生駒時代の高松城のようすを、上の図1から説明すると
城の中央に天守閣があり、その西側に本丸、本丸の北側にニノ丸があり、ニノ丸の東側には三ノ丸があります。ここからは中濠と内濠に囲まれて西ノ丸と三ノ丸があるということが分かります。西ノ丸の下の方の一帯は、現在の「桜の馬場」になります。
 外濠は西の方には「西浜舟入」、東の方には[京浜舟入]と記されています。ここが前回にもお話しした船場になります。軍港としての役割もあったのではないかと私は考えています。
 この船場から南の方に下がって東西に走っているのが外濠です。この中濠と外濠に囲まれたところが、侍屋敷になります。その侍屋敷の南の中央辺りに、今の「三越」は位置しているようです。
 城への門は、中濠の南にかかっている橋が城への出入口で、大手門になります。外濠のあったところは、今では片原町から兵庫町、そして西の突き当たりが広場として残っています。
 城下町は、外濠から南の方に広がっていて、この地図にも当時の地名が書き込まれていますが、今の高松の商店街に残っている町名と殆ど同じです。例えば、片原町・兵庫町・丸亀町・塩屋町・新町・百聞町・通町・大工町・鍛冶屋町などです。当時のメーンストリートは、丸亀町から南新町へと南に進み、後に田町が発展して藤塚へと延びていくことになるようです。
1高松城 生駒時代屋敷割り図
生駒時代屋敷割図
                   
生駒騒動と生駒氏の改易
 秀吉によって讃岐一国を与えられた生駒氏によって、讃岐の近世は始まります。生駒氏は引田 → 聖通寺山と拠点を移し、高松に本格的なお城が築かれ、その南に城下町が形成されていくことになります。生駒氏は約五〇年間にわたって領主として支配し、讃岐に落ち着きを取り戻す善政を行ったと評価されています。
 ところが寛永十四年七月に国家老生駒帯刀が、生駒藩江戸家老前野助左衛門らを幕府に訴えたことから、「生駒騒動」が始まります。そして、寛永十七年五月に、「生駒藩内の家中立ち退き」が幕府で問題になります。生駒藩の家来が、国家老派と江戸家老派の二つに分かれ、江戸家老派に与した藩士が、讃岐からも江戸藩邸からも集団脱走して、大坂に集結するという大事件が起こりました。なぜ、そのようなことになったのか、ということについてはよくわかっていないようです。当然、家臣たちが藩邸を脱走すれば、藩が潰れるということは分かっているはずなのに、なぜ家臣たちが立退いたのか?当然、職場放棄し「脱走」した彼らも後に処分されます、この事件の原因については、諸説あって今後の課題のようです。

Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
 この事件は、幕府の老中たちによって裁かれて、藩主の責任だということで、讃岐を取り上げられてしまいます。そして生駒高俊は、温暖な讃岐から秋田県の雪深い矢島へ移されてしまいます。矢島は、冬は2メートルも雪の積もる鳥海山の麓で、冬はスキーで賑わう小じんまりした町です。

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松平頼重
 松平頼重による高松藩の基礎作り
 生駒氏が去った後、寛永十九年二月に松平頼重が高松藩主となります。この時に、讃岐は西の丸亀藩五万石余と高松藩11万石の二つに分けられます。ほぼ土器川から東の方の高松藩の政治体制・領内支配体制を作り上げていくのが松平頼重です。
 ちなみに、この人は水戸黄門のお兄さんになります。本来ならこの人が、水戸藩主になるべき人でした。一説には、頼重が生まれたときには、父の水戸藩主徳川頼房は、お兄さんたちに子供がなかったということで、頼重を世継として幕府に届けるのをためらった。そして、頼重を家臣に育てさせたと伝えられます。
 その六年後に弟の光圀が生まれました。その時には、お兄さんたちにも子供が生まれていたということで、頼房は光圀を世継として幕府に届けたといいます。こんな不遇な回り合わせにあった頼重は、やがてそのことが幕府に知れ、将軍徳川家光の耳にも入り、寛永十五年に下館藩(しもだて栃木県)の五万石の大名となります。そして四年後に高松城に入ることになります。このように高松藩は水戸家の分家的な存在で、幕府に非常に近く家門(親藩)という立場にある藩だったようです。
 城下上水道と溜池
 頼重が高松藩に入ってからの業績は、最後につけた年表にあるように、先ず城下に上水道を敷きます。上水道としては、全国的にみてそう古いものではありません。ただ、地下水を飲料水として使用したのは、全国初ということで注目されています。井戸としては次の三つが使われました。
「大井戸」現在でも瓦町の近くに大井戸というのが、規模を小さくして復元されて残っています。物が投げ込まれたりしていますが高松市の史跡です。
「亀井戸」亀井の井戸と呼ばれていたものです。五番丁の交差点の少し東の小さな路地があり、それを左に入ると亀井の井戸の跡があります。現在埋まっていますが、発掘調査をすればきっとその跡が出てくると思います。
「今井戸」ビルの谷間にほんとうに小さな祠が残っていて、鍛冶屋町付近の中央寄りの所で、普通に歩いていると見過ごしてしまうような路地の奥に、「水神社」の祠があります。この3つの井戸から、高松城下に飲料水としての井戸水を引いています。
 翌年の正保二年は、大旱魅で新らしく溜池を406を築いたといいます。しかし、一度に築いたものではなく、恐らく頼重の時代に築いたものが406で、この時にそれをまとめて記したものと研究者は考えているようです。どちらにしても生駒氏時代に西島八兵衛が溜池を築いたと同じように、頼重の時代に入っても溜池の築造が続いていたことがうかがわれます。
 高松城石垣の修築と検地
 正保三年には、高松城石垣の修築に着手しています。
この時期の高松城の様子を幕府が派遣した隠密が記録した「讃岐探索書」が残っています。
その中に、石垣が崩れているとか、土塀が壊れたりしていると書かれていて、当時の高松城は相当いたんでいたようです。生駒藩は、「生駒騒動」のごたごたで城の手入れも充分できていなかったのかもしれません。年表の寛文五年に、城下周辺から検地を始め、寛文十一年に終わるとあります。
 領主にとって検地は領地経営の根本に関わる重要事業です。
頼重も六年間かかって領内の検地をやり終えています。高松藩では、これ以後検地は行われていません。この検地によって、高松藩における年貢取り立てのための農民支配体制が、ほぼ出来上がったと考えることができます。
1高松城 松平頼重普請HPTIMAGE
いよいよ寛文十一年九月に高松城普請が始まります。
この工事の結果、できた高松城が図2です。
 普請前の生駒時代の違いについて、見ておきましょう
 一つは、生駒時代は東側の中濠は侍屋敷に沿っているだけでした。ところが普請後は、中濠が途中で東に分かれ下横町にぶつかってから北に進んでいます。この結果、中堀まで船が入ってこられる構造になっています。
 二つ目は、普請前は海に面した北の方は「捨石」と記されているように、石を捨てただけの簡単な石垣だったようです。ところが、普請後には、しっかりとした石垣もでき、爪か彫とか対手御門が新しくできています。
 三つ目として、普請前の城内への入り口である大手門が、普請後には橋がとりはらわれていて、右の方のが鼓櫓の横の濠の上に橋がかかっています。現在も、ここにある旭橋から城内に入ります。そして四つ目は北の方の一部に海を取り込んで北ノ丸を新しく造成し、さらに、東の方では侍屋敷と町屋を二つに分割して、新しく濠を設けて東ノ丸をつくり、もともとは城外であったところを城内に取り込んでいます。
 高松城普請は単なる城の修理ではなく、城の拡大であったということです。これ以後の高松城の姿は明治維新まで変わらなかったようです。
 
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この城下の屏風は、高松城だけでなく城下町の様子まで描かれています。そのため城の様子や城下町の様子がとてもよくわかります。人々がどんなものを運んでいるのか、どんなものを着ているのかなど、細かく描かれています。そういう意味で、この屏風は当時の人たちの風俗などが、よく分かる大変貴重な資料と評価が高いようです。

1 高松城p51g

その後の高松城はどうなったかのでしょうか
図2の東ノ丸の米蔵丸のところには、現在は県民ホール(レグザム)が建っています。それから米蔵丸の半分から下の作事丸にかけて、県立ミュージアムがあり、その南には城内中学校がありました。城の中にいろいろな建物が建つことは、高松城は国史跡であり、文化財保護の立場から考えると、問題だという意見もあるようです。
 また、本丸の石垣のすぐ横の内濠の部分が築港駅のホームになっています。さらに西ノ丸の一部が中央通りにかかり、生駒時代の大手門の跡の近くの西の中濠が埋め立てられて現在電車が走っています。東ノ丸の東側の濠は、フェリー通りになっています。
1 高松城54pg
 明治以後、高松は港町として発展してきましたが、この城の辺りが港町として発展していくさいにお城の敷地が切り取られていった歴史があります。21世紀になって、この国にも心の余裕ができたようで、文化的な面にも目を向けていこうという時代になってきました。昔のままの高松城を復元するのは無理でも、少しでも昔の姿に、戻そうとする動きが出てきています。
1 高松城p1g

 昔の高松城は、海に接して石垣のある海城で、瀬戸内海からは海辺に石垣の見えるすばらしい城だったと思います。今では、石垣の北を埋め立てて道路になって、石垣が海に洗われる姿を見ることはできません。しかし、行政は石垣と道路の間の建物を撤去して散歩道をつくり、石垣の北を少し掘って海水を入れて濠のようにして、昔の高松城の姿に少しでも近づけようとしているようです。岡山行きのフェリーが廃止になった跡の利用にも期待したいと思っています。
1 高松城 教科書.明治34年 - 新日本古地図学会
参考文献
  木原 高松城と松平頼重
(『高松市教育文化研究所研究紀要』四五号。1994年)
          「高松城と松平頼重」関係年表
天正12年(1582)6月 本能寺の変
天正12年(1584)6月頃長宗我部元親、讃岐十河城を攻略する
天正13年(1585)春 長宗我部元親、四国を平定する。
   4月 豊臣秀吉、長宗我部元親攻撃を決定する。
   7月 豊臣秀吉、四国攻撃軍と長宗我部軍との和議を命令
   8月 千石秀久、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正14年(1586)12月 豊臣秀吉、千石秀久より讃岐国を没収
天正15年(1587)8月生駒親正、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正16年(1588) 春 生駒親正、高松城築城に着手
慶長2年(1597)春 生駒親正、丸亀城を築く。        
     生駒藩、この頃から同7年頃にかけて領内検地実施
慶長5年(1600)9月  関ヶ原の戦い。
慶長6年(160U 5月 生駒一正、徳川家康から讃岐国を安堵
慶長19年(1614)10月 大坂の陣始まる。
寛永4年(1627)8月  幕府隠密、讃岐を探索する。
寛永8年(1631)2月  西島八兵衛、満濃池を築造する。
寛永14年(1637)7月  生駒帯刀、幕府老中土井利勝らへ訴状衛出・生駒騒動の始まり)
寛永17年(1640)7月 生駒高悛、「生駒騒動」で讃岐国没収 
            羽国矢島1万石に移封。 
寛永18年(1641)9月山崎家治、西讃岐5万石余を与えられ丸亀城に拠る 
寛永19年(1642)2月  松平頼重、東讃岐12万石を与えられ高松城に拠る
正保 元年(1644) 高松城下に上水道を敷設する。
正保2年(1645) 讃岐大干ばつ
正保3年(1646)6月  高松城石垣の修築に着手する。
明暦3年(1657)3月  丸亀藩山崎家断絶する。       
万治元年(1658)2月  京極高和が山崎家領を継ぐ  i
万治3年(1660)この年丸亀藩、幕府より丸亀城普請を許される       
寛文5年(1665)この年 高松藩、城下周辺より検地を始め11年に完了する。これを「亥ノ内検地」という
寛文9年(1669)5月 高松城天守閣の上棟式が行われる。
翌年8年 造営が成る。
寛文10年(1670)丸亀藩、延宝にかけて検地を行う。
寛文11年(1671)9月  高松城普請が始まる。この年家臣知行米を「四つ成」渡しとする。
延宝元年(1673)2月高松藩主松平頼重、病により隠退する。
延宝2年(1674)9月 米蔵丸・作事丸(東ノ丸)が完成する。
延宝4年(1676)3月 月見櫓の棟上げが行われる。北ノ丸完成か
延宝5年(1677)5月 艮櫓が完成する。
元禄8年(1695)4月  松平頼重、死去

2勝賀城俯瞰図
 高松城は「日本の三大水城」といわれますが、高松平野にはそれ以前に海浜・河畔・湖畔などの水辺に立地する城郭(=水城)がありました。その高松周辺の「中世水城」を見てみましょう。
 藤尾城(高松市香西本町)は、国人領主・香西氏が天正年間に築いた水城です
 香西氏は、古代豪族の綾氏の流れを汲み、中世は在庁官人として活躍した讃岐藤原氏の総領家で、備讃海峡の直島群島などにも勢力を伸ばした領主です。南北朝期以降は守護細川氏に仕えますが、大内氏や浮田氏、信長とも関わりがありました。
2香西合戦図2b
  初期の香西氏は勝賀山上に勝賀城を、その山麓に平時の居城として佐料城を構えていました。
佐料は、香西よりも内陸寄りの高松市鬼無町にありますが、香西資村の出自である新居(にい)や、同じく新居からの分家という福家(ふけ)は、さらに内陸の国分寺町に地名として残っています。笠居郷の開発とともに、香西氏も瀬戸内海へと進出し、水軍を持つと同時に直島や本島をも勢力圏におくなど「海賊」的な動きも見せます。
このような中で天正年間に入り、海に近い香西浦の藤尾城に本拠地を移します。
2藤尾城
 藤尾城は、中世港町・香西に隣接した藤尾山(標高二〇m)にあり、現在は宇佐神社が鎮座します。
比較的規模の大きな二つの郭を中心に構成され、北・東・南の三面は香西の集落が立地する砂埃背後の湿地(ラグーン)に囲まれていました。『香西記』(享保三年〈1718〉成立)には「東南及北入海」と記される。また『南海通記』によると、内陸部に面した大手(南側)に「西光寺縄手」と呼ばれる「土居一筋ノ道」があり、その東側は潮水が入る大溝、西側は深田となっていたといい、砂堆側(北側)に搦手・平賀口があったと伝えられます。
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 藤尾城の周辺では、
①大手側で内陸部の旧本拠・佐料城へと繋がるルートを遮断する作山城
②香西浦北側で船の出入りを監視できる芝山城
③香西浦東側で野原方面へのルート上に位置する本津城が配され、外郭の防御線を形成していました。天正七年(1579)には、佐料城下に屋敷をもっていた配下の小領主たちが藤尾城下に移されたとされ、香西浦の砂堆周辺の「中須賀・平賀・釣ノ浜」への屋敷割が行われたようです。
築城の動機は、土佐・長宗我部氏による讃岐侵攻の危機が迫ってきたことで、その緊張状態を背景に領主への権力集中を図り、港町の構成に手を加えて城下として取り込んでいこうとしたと考えられます。
 讃岐には次のような港町に近接した城郭があります。
仁保城(三豊市仁尾町)
九十九山城(観音寺市室本町)
志度城(さぬき市志度)
どれも中世港町に張り付くような後背地的な位置にあり、領主の本拠として「城下」への組み替えが行われた形跡はありません。これらの城主は香西氏のように郡規模の領域支配を行える権力はなく、単一の港町のみを基盤とした小領主でした。そのため港町への「寄生」という性格にとどまっていたと見られます。
 その中で、藤目城の沖の備讃瀬戸エリアに築かれた直島の高原城(高原氏、天正期前半)、塩飽本島の笠島城(高階氏、年代不明)は、麓の港町や港湾への直接的な管理権を行使できるような城郭構成になっています。これらの島嶼部は後背地がなく、海上交通に頼る水軍の本拠地だったと考えられます。そして、このふたつの城は、香西氏の水軍として機能していたようです。
「香西・藤尾城の建設は、中世末期の領主が水辺に「本拠の転出」を行った事例
と研究者は考えているようです。同じような例は
岡山城(浮田直家、天正元年〈1573〉頃)、
三原城(小早川隆景、永禄年間〈1558)、
板島丸串城(西園寺宣久、天正三年)
などの国や郡規模の領主の城郭でも見ることが出来ます。どれも城下集落があり、三原城のように家臣への屋敷割がされた場合もあります。後に岡山城・三原城は城主が豊臣系大名となり、板島丸串城は藤堂高虎により宇和島城として改修・拡張されていくことになります。
 以上のように、高松城下町に先行する形で、水城(海城)を核としたマチの建設が、香西浦の藤尾城で行われていたことを、ここでは確認しておきましょう。
1姫路の水軍基地
 姫路城の外港からは巨大な水軍基地があったことが報告されています。
池田氏が家康から求められて、瀬戸内海の制海権をにぎるための水軍整備に余念がなかったことが分かります。瀬戸内海を挟んで讃岐側の生駒氏にも秀吉・家康を通じて要求されたのは、水軍力の整備ではなかったのでしょうか。

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高松城
 信長以来、瀬戸内海の制海権を握るために村上水軍を解体し、代わって塩飽衆に特権を与え保護します。しかし、塩飽衆に期待したのは「水夫」であって「水軍」ではありません。水軍増強を求められたのは瀬戸内海沿岸の信頼の置ける大名達だったようです。そのために大名達は、海に面した所に城(水城)を築き、そこから艦隊を出動させるという戦略を現実化したのではないのかと私は考えています。
 そして、そのお手本は香西氏のような中世領主の水城の中にあったのです。そが高松城の縄張りの中にも生かされているように思います。
 『高松城下図屏風』に描かれた城内・城下には5ケ所の港湾施設が描かれています。
1高松港1
①三ノ丸海手門(裏門)に面した藩主専用の船着場、
②西外堀に米蔵(藩蔵)や船溜まり・船蔵を備える藩御用施設としての西浜舟入、
③東外堀に船溜まりと広範囲な雁木、東水主町を備える商業的施設としての東浜舟入、
④魚棚町に面した浜に石波止を構築する船着場(北浜)、
⑤漁村的な景観の西浜の船着場(糸撚浜)
③④が石波止・雁木などの近世的な人工構造物が整備され、最も中核的施設で、⑤が最も外縁にあり自然地形に頼った中世港町の痕跡が残ります。
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⑤のドッグ群を見ると姫路城外港の水軍施設と非常に似ています。軍港的な要素が見て取れるように私には思えます。
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「城郭と水軍基地との一体化」「艦隊が出港できる水城整備」
これが瀬戸内海に隣接した大名に課せられた軍事的課題のひとつではなかったのか私は思っています。

参考文献  初期高松城下町に見る在地的要素

1生駒親正img_3
生駒親正
 秀吉が四国に進攻し、長宗我部元親を土佐に封印して後の讃岐は短期間で何人か領主が交代します。その後、天正一五年(1587)8月に秀吉から生駒親正が讃岐を拝領してやってきます。これが讃岐の戦国時代の終わりとなるようです。そういう意味では生駒親正は、讃岐に近世をもたらせた人物と言えるのかもしれません。
まず親正のことについて簡単に見ておきましょう
 親正は美濃国土田の出で、はじめ織田信長に仕えていましたが、後に秀吉の配下に入り、讃岐にやって来る3年前に播磨国に二〇〇〇石を領し、二年後には播磨の赤穂に六万石を有する近世大名へと成長します。そして翌年には、対岸の讃岐領主になるのです。この急速な出生ぶりからは秀吉の期待と信頼がうかがわれます。
 讃岐に入封した親正は領内支配体制を固めるために、讃岐国内の有力な武将を家臣に取り立て家臣団を充実させます。また寺社にも白峯寺50石、一宮(田村)神社50石、善通寺誕生院28石、松尾寺金光院(金毘羅大権現)25石などの寄進・保護を行っています。さらに、大規模な治水灌漑事業を行い水田開発を積極的に行うなど、長く続いた戦乱の世を終わらせ民心を落ち着ける善政を行ったとされています。まさに戦乱から太平への転換を進めた人物として、もう少し評価されてもいいのではないかと個人的には思っています。
 しかし、政治家ですから善政ばかりで世が治まるわけではありません。反抗するものには、徹底した取り締まりを行っています。天正十七年に秋の年貢納入時期になっても山田郡の農民が年貢を納めなかったために、その首謀者を捕えて香川郡西浜村の浜辺で首を刎ねたという記録も残っています(「生駒記」)。
 ところで生駒親正が支配した讃岐の石高は、朱印状が残っていないのではっきりしません。慶長五年に、親正の子である一正は、徳川家康より23000石を加封され173000石を安堵されたようですから、引き算すると15万石ということになります。讃岐にやって来た親正は、最初から高松を拠点にしたのではありません。
最初に引田城、次に宇多津の聖通寺山城を築いています。
1引田城3
なぜ、引田城や聖通寺山城を捨てて、野原(高松)に新城を築いたのでしょうか? 
 生駒氏が最初に城を築いた引田について見ていましょう
引田は、古代から細長い砂堆の先に伸びる丘陵周辺が安定した地形を維持してきました。
HPTIMAGE.jpg引田
ここには『土佐物語』などの近世の軍記物から付近に船着場があったことが想定されているようです。その湊の港湾管理者としての役割を担っていたのが丘陵上にある誉田八幡神社のようです。砂埃の背後は塩田として開発されていたらしく、前面にははっきりした段差があり、その後は海側へと土地造成と町域の拡大が進められていきます。それは住民結合の単位としての「マチ」の領域、本町一~七丁目などとして今に痕跡を残しています。このように中世の引田の集落(マチ)の形成は、誉田八幡神社周辺を中心に、砂堆中央から根元方向に向けて進みますが大きな発展にはならなかったようです。

1引田城1
 引田城は、潟湖をはさんでこの誉田八幡神社に向かい合っています。つまり、引田城の築かれた現在の城山は、沖に浮かぶ島だったことを物語ります。つまり城とマチとは隔たった位置にあったのです。このように見ると、引田は瀬戸内海を睨んだ軍事拠点としては有効な機能をもつものの、豊臣大名の城下町建設地としてはかなり狭い線状都市であり、大幅な人工造成を行わなければ近世城下町に発展することはできなかった地形のようです。それが秀吉に讃岐一国を与えられ入国した生駒氏が、ここを拠点としなかった理由のひとつだと研究者は考えているようです。
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 また讃岐東端の引田は、秀吉側が四国侵攻の足掛かりとした場所ですが位置的にも東に偏りすぎています。讃岐の中央部に拠点を置こうとするのは、政治家としては当然のことでしょう。
  ところで私は生駒氏の築城順を
①引田城 → ② 聖通寺山城 → ③ 丸亀城 → ④ 高松城 
と単純に考えていました。引田では東に偏りすぎているうえに城下町建設には狭いので、聖通寺山に移った。その際に、引田城は放棄されたと思ったのです。ところがそうではないようです。近年の引田城の発掘調査の教えるところでは、高松城と丸亀城と引田城は同時に建設が進行していたことが分かってきました。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かりました。また出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われているのです。つまり、秀吉が亡くなり朝鮮出兵が終わると、この次期は次期政権をめぐっての駆け引きが風雲急を告げた時です。そのための臨戦態勢として、3つの城を同時に建設するということが行われていたことがうかがわれます。そういう意味では引田城は、この時点では軍事的には放棄された城ではなかったようです。ただ引田城は、城下町が作れないし、東に偏りすぎているということだったのでしょう。
  次に親正が築城を始めたのが聖通寺山です。
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ここは中世は細川氏の守護所が置かれた場所で、歴史的には、新参者である生駒氏が城を築くにはふさわしい場所と言えます。
それでは聖通寺山城と宇多津の関係はどうでしょうか?

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 宇多津の中世復元地形は、青ノ山・聖通寺山の麓まで大きく湾入する入江と、その奥部に注ぐ大束川河口部に形成された砂堆が広がります。青野山の山裾から集落が形成され始め、戦国期には砂堆上にも集落(マチ)が展開していたようです。砂堆の付け根に当たる伊勢町遺跡では、一三世紀後半~一六世紀の船着場(原初的な雁木)と思われる遺構が出ています。このような船着場がいくつか集まった集合体が「宇多津」の実態と研究者は考えているようです。その点では、一本の細い砂堆のみの引田と違っていて、どちらかというと香西や仁尾などの規模を持った港町であったようです。しかし、その領域は狭いうえに、宇多津と聖通寺山城は大束川で隔てられていて、引田と同じように城と城下町の一体性という点からは問題が残ります。
1聖通寺山城
また聖通寺山城は、現在は瀬戸大橋の橋脚の下となっていますが備讃海峡西側を押さえる要衝の地で、中世の守護所・宇多津に近い所です。前任者の仙石秀久は、年貢徴収に抵抗した領民を聖通寺城下で処刑しています。また、丸亀城下町の水主町・三浦(西平山町・北平山町・御供所町)は、聖通寺城下北側の平山や同東側の御供所の住民を移転させることによって成立したと伝えられます。もっと前まで遡れば、御供所に隣接する坂出・古浜の住民は、生駒氏とともに赤穂から移住してきた伝承をもつようです。ここからは生駒氏の城作りが瀬戸内の海上交通にアクセスする意図があったことがうかがわれます。
 しかし、聖通寺山城跡からは石垣が見つかりません。また城の縄張りから中世有数の港町・宇多津との一体性が感じられません。さらに宇多津は中世以来の寺社勢力が強い町でした。旧勢力の反発や協力が得られなかったのかもしれません。こうして聖通寺山城と周辺の近世城郭・城下町化は、不十分なままで終わったようです。
 しかも、引田から聖通寺にやって来て翌年1588年(天正16)には香東郡野原の地に高松城と城下を築いたと『南海通記』は記します。引田城の後、聖通寺山城・亀山(後の丸亀城)・由良山(現在の高松市由良町)と城の候補地を考えたが、結局高松築城に至ったとする説(『生駒記』など)もあります。
 どちらにしろ、3番目に着手した城が高松城になるようです。しかし、高松城の着工や完成時期についてはよく分からないことが多いようです。
高松城が着工された時期背景を見ておくことにしましょう 
1590年に、秀吉は関東・東北を制圧し、国内では未征服地がなくなりました。織豊政権は「領土拡大」を自転車操業で続けることによって「高度経済成長路線」を維持してきました。秀吉は、日本国内が「飽和状態」となったにも関わらず「内需拡大による低成長路線」への政策転換を行わず、朝鮮半島とその先の中国(明)に領土を求め「高度経済政策」を再現しようとします。1591年(天正19)に九州の諸大名を動員して、対馬海峡を目前にした肥前・名護屋に壮大な城(名護屋城)を築かせ、1598年(慶長3)まで、休戦をはさみつつ、朝鮮半島全域で軍事行動を展開します。生駒氏を含む四国の諸大名も「四国衆」として、この戦いに加わります。

1生駒親正 名護屋城maxresdefault
名護屋城の生駒親正陣屋跡
生駒氏は、文禄の役で5,500人、慶長の役で2,700人の兵を送り、親正と息子の一正も海を渡ります。
 また親正は、1594年(文禄3)から翌年にかけて、伏見城にいた秀吉に代わり大坂の留守を預かり、1595年(文禄4)7月15日に秀吉から5,000石を加増されています。この日は、秀吉が自らの後継者として関白に任じていた甥の秀次が、謀反の疑いで切腹させられた日です。文禄の役の休戦交渉から秀次事件という重要な時期に、生駒親正は秀吉と名護屋・朝鮮派遣軍との間をつなぐ場所にいたことになります。豊臣政権下で宇喜多秀家・蜂須賀家政などとともに、西国支配の要の役割を果たしてきた親正の位置付けがよく表れています。と同時に、秀吉が讃岐に生駒氏を配した背景に、西国支配の要としての思惑があったこともうかがわれます。豊臣政権下での親正の存在は決して小さくなかったことがここからは分かります。
 相次ぐ国内戦争の延長としての文禄・慶長の役は、豊臣大名たちの領国経営にとって、重い負担だったようです。それは生駒氏にとっても同様で、高松城下町の建設がなかなか進まなかった理由の一つとも考えられます。  
  しかし、秀吉亡き後の豊臣・徳川家の激突に備えて各勢力は臨戦態勢に入ります。そのために生駒氏も引田・高松・丸亀の3つの城郭の整備を同時に行うことになったことは先ほど述べたとおりです。
『南海通記』(享保三年〈1718〉成立)には引田・聖通寺山両城を含めた讃岐の城郭は、
「皆乱世ノ要害」であり、「治平ノ時ノ居城ノ地」である「平陸ノ地」を求めて野原に新城高松城と城下町を建設するに至った
と記します。ここで研究者が注目しているのは、「新たな領国経営の拠点として平城を意識し、生駒氏自身が山城(聖通寺山城)を下りている点」で、秀吉の「山城停止令」との関連がうかがわれるようです。
 『南海通記』は、一次史料ではなく後世に讃岐綾氏の後継を自認する香西成資が香西氏顕彰のためにかいた歴史書という性格があり、内容については信憑性が疑われるところが多々あります。しかし同時に、この史料しかないという事情もありますので、注意しながら頼らざるえません。

 野原(現高松)は安定した二㎞四方の海浜部地形がありました。
DSC03819
 そこに野原中黒里・浜村・西浜・天満里・中ノ村などの集落が分立していました。そして、それぞれが次のような3つのエリアに機能的に分かれていました。
①国人領主・香西氏配下の小領主と地域紐帯を強める伝統的な寺社が押さえたエリア(中ノ村)、
②讃岐国外に開かれた情報センターとしての寺院と流通管掌者が押さえたエリア(中黒里)、
③紺屋・鍛冶屋などの職人や漁労集団などが集住するエリア(浜村)、
 交易の前線としての海浜部(港湾)に近接していたのは②・③であり、①は現在の栗林町あたりで少し内陸部にありました。

DSC03821十三世紀の野原復元図
 また、高松地区で行われた40地点近い発掘では、1650年より前の遺構は、整地された痕跡がなく、盛土などの人工造成を行わずに中世野原の地面に、そのまま城下町の建設を行うことが出来たようです。これも有利な条件の一つだったでしょう。
 以上から、引田・宇多津は城下町建設地としては狭く、町も中世的な住民結合が強く残っていて、新しくやって来た生駒氏にとっては「邪魔になる存在=解体すべき対象」と見えたのかもしれません。生駒氏は、野原の広大な地形と「ニュートラル」な地域構造に、城下町建設の夢を託したとしておきましょう。
DSC03843高松をめぐる交通路
 一方、慶長二年に西讃岐統治と備讃瀬戸へのにらみをきかせるために親正は那珂郡津森庄亀山に丸亀城を築きます。そして、この丸亀城には子一正が居城することになります。
1丸亀城
 秀吉の没後、徳川家康が勢力を強めます。会津の上杉景勝を討つため家康は慶長五年六月に大坂を出発しますが、これには生駒一正が従軍していました。こうして、九月の関ヶ原の合戦では父の親正は豊臣秀吉恩顧の大名として石田方につき、子の一正は家康方について戦うことになります
一正は関ヶ原の合戦で徳川方の先鋒として活躍し、家臣三野四郎左衛門が活躍します。これにより生駒藩は所領没収を免がれ、一正に讃岐171800石余が安堵されました。こうして生駒家は豊臣系の外様大名でありながら、関ヶ原の合戦を乗り切り近世大名としで存続する道が開けたのです。
 慶長十三年九月に生駒一正は妻子を江戸屋敷へ住まわせたことにより、普請役を半分免除されています。これが参勤交代制の始まりになりますが、その際に率先して行うことで一正は家康への忠誠の証を示しています。
 大坂夏の陣の後に、一正は藩主となって丸亀城から高松城に入ります。丸亀城には重職の奉行・佐藤掃部を城代としておきます。一正死後に藩主となった正俊は、丸亀城下の一部の町人を高松城下へ移住させ、その地は丸亀町と呼ばれるようになります。そして丸亀城は元和元年の一国一城令により廃城となります。

以上をまとめると
①生駒親正が讃岐にやってきて最初に築城にとりかかったのは引田城であった
②ついで宇多津の聖通寺山に移り、
③1年後の1588年には高松城の築城にとりかかった。
④最終的に高松城が選ばれたのは、香川中央部の「古・高松湾」に面し、背後の後背地もひろく、城下町形成に適した空間が確保できたことが考えられる。
⑤しかし、当時は朝鮮出兵などの大規模軍事行動が続いていいたために高松城築城はあまり進まなかった。
⑥それが急速に進むのは秀吉死後の関ヶ原の戦いに向けての政治情勢にある。
⑦この時期の生駒藩は、高松城築城と平行して引田城・丸亀城の3つの城を同時に築城していた
⑧家康についた一正は、丸亀城から高松城に移り、高松城を拠点にする。以後、城下町建設も軌道に乗り始める
        参考文献    高松城下町の成立過程と構成
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 前回までは、戦国末の天正年間に金毘羅大権現の基礎を確立した宥盛の手腕について見てきました。その中で疑問に思ったのは、生駒藩が金毘羅に、度重なる寄進をおこなった理由です。その背景にあったものを探ってみることにします。
そこには、オナツという女性の存在が浮かび上がってきます。
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生駒家の讃岐入国 父親正と子一正
天正十五年(1587)8月、前任の仙石氏・尾藤氏が一年にも満たない間に改易された後に、讃岐国領主として入ってきたのが生駒親正(六十二歳)一正(三十三歳)親子です。この生駒家の下で讃岐の国は戦国時代の荒廃から抜け出す道を歩み出していくことになります。次の戦いに備えて、引田・高松・丸亀の3つの城の造作が進められます。そのような国づくりの中で、関ヶ原の戦いを迎えることになります。生駒家も「生き残り戦術」として信州の真田家と同じように、父親正が豊臣方へ、子一正が家康方につき戦うことになります。結果は豊臣方の敗北で、父親正は蟄居を余儀なくされ、実権を握った一正は戦後に丸亀城から高松城に拠点を移し、新しい国づくりを継続していきます。
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一正の愛したオナツとその子左門
 一方、男盛りの一正は讃岐入国後にオナツ(三野郡財田西ノ村の土豪山下盛勝の息女)を側室としていました。オナツは一正の愛を受けて、男の子を産みます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門と称すようになり、元服後に腹違いの兄・京極家第三代の高俊に仕えることになります。寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。
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それでは、オナツと金毘羅を結ぶ糸はどこにあったのでしょうか?
   それはオナツの実家である財田村の山下家に求められます
山下家は戦国時代に一条家(現四万十市)に仕えていた武将のようです。主家の一条家が長宗我部元親に滅ぼされた後に財田にやって来て、勢力を養ったようです。財田において長宗我部と戦ったとの言い伝えが残っていないことから、親長宗我部派であり、土佐軍と共にやって来て「占領軍たる長宗我部軍の在地化」した勢力のひとつと考える研究者もいるようです。とにかく戦国の世を生き抜いた財田の武将・山下盛郷が山下氏の始祖でになるようです
 山下家の二代目が盛勝(オナツの父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久でオナツの兄です、父と同様、郷司となり西ノ村で知行200石支給されます。しかし、彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
 一方、オナツの弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。この盛光の息子が宥睨です。宥睨は、宥盛死後にその後を継いで金毘羅の院主となります。
つまり、生駒藩の殿様である一正の寵愛を受けるオナツと、当時の宥睨は姻戚関係では「甥と叔母」という関係にあったわけです。
宥睨の弟・盛包は兄宥睨が金毘羅の院主となった慶長十八年(1613)ごろに、河内村の屋敷を引き払って金毘羅の門前町に移ってきます。この家が金光院住職里家の大山下となります。そして、後には山下家が金光院院主の座を世襲していくことになります。
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オナツの甥・宥睨を支える血脈の形成
こうして慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨には、出里の山下家の叔母オナツを中心とする心強い「応援団」がいたようです。そのメンバーを確認しましょう。
生駒藩では一正は慶長十五(1610)年に亡くなっていますが、
①一正の未亡人オナツ
②オナツの息子で藩内NO2の石高を持つ生駒左門、
③一正との間に生まれていた息女、
④③の息女の夫生駒将監
⑤③と④の長男生駒河内
など山下家ゆかりの人が大きな権勢を誇っていた時期なのです。これが金毘羅への度重なる寄進と後援につながったようです。
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 山下家の宥睨と宥盛の関係は?
宥盛(在職慶長五年~十八年)は、金毘羅大権現の基礎を築き、象頭山の守護神・金剛坊として奥社に祀られている人物ですが、宥睨とも姻戚関係がありました。それを見ておきましょう。
 宥盛の父は井上四郎右衛門家知といい、生駒家家臣で東讃川鍋村で四〇〇石を知行していました。宥盛が出家したので弟である井上家之が跡を継ぎますが、天和元年(1618)大坂夏の陣で討死にしてしまいます。弟・家之の妻は、三野郡詫間町の山地右京進の娘です。そして、その姉は詫間の山地家からオナツの弟の盛光のもとに嫁ぎ宥睨を産むのです。
 なかなかややこしいのですが、宥盛にとって宥睨は「弟の妻の姉の息子」という義理の甥関係になるのでしょうか。どちらにしても、両者には婚姻関係があります。このような姻戚関係も宥睨が金光院住職となる際には、力を発揮したのかもしれません。もちろん、オナツを通じての生駒家の後押しが金毘羅に対してあったはずです。
 同時に、宥盛も宥睨の背後にあるオナツを中心とする山下家の「血」の力に「期待」していたはずです。それに応えるだけの成果を、挙げたからこそ宥盛は次期院主に宥睨を指名したのだと私は思います。
 
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さて、生駒藩の寄進時期とオナツのに関係する事項を並べて、
        「色眼鏡」をかけて見てみましょう
天正15年(1587)8月、生駒親正(六十二歳)一正(三十三歳)親子が入国。
天正15年(1587)生駒親正、松尾村20石寄進。
天正16年(1588)生駒一正、榎井25石寄進。
天正17年(1589)生駒一正、小松村5石寄進。
         一正がオナツを側室とする。
慶長 5年(1600)オナツが実家(財田西ノ村)で一正の子・左門を出産
慶長 5年(1600)生駒一正、院内31石寄進。関が原の戦い
慶長 6年(1601)生駒一正、金毘羅42石寄進。
   生駒一正、三十番神社改築。
慶長 8年(1603)観音堂改築 丸亀城竣工。
慶長12年(1607)生駒一正、高篠村30石、真野10石、買田村10石、真野5石寄進。
慶長15年(1610)一正死亡 正俊が生駒家継承
慶長18年(1613)オナツの甥・宥睨が金光院の住職就任(以後32年間)
慶長18年(1613)生駒正俊、寄進状。
元和 4年(1618)生駒正俊、院内73石、苗田村50石、木徳村23石、寄進。
元和 6年(1620)生駒正俊、鐘楼堂建立。
この頃、オナツの産んだ左門は、腹違いの兄の京極家第三代高俊に仕えるようになる。
元和 7年(1621)正俊が36歳で死去 生駒高俊が幼くして継承、五条村へ100石寄進。
元和 8年(1622)生駒高俊、寄進。合計330石となる。
寛永17年(1640)お家騒動(生駒騒動)発生、生駒家は出羽国矢島へ配流
     (1645)金光院院主 宥睨死亡
①第1期は、天正年間です。生駒家の入国の天正十五(1587)年1月24日から始まり、3年連続します。田地の所在場所は、松尾村・江内村(榎井村)・小松村と象頭山の山麓のかつての小松庄に集中します。しかし、これは国内安堵のためであり、他の神社仏閣と比べて飛び抜けているという印象は受けません。
②第2期は、慶長年間前半です。関ヶ原の戦の後に集中します。これは、一正が実権を握り戦勝への御礼と「オナツの男 子出産祝い」ではないでしょうか。この辺りからオナツの意向を感じます。
③第3期は、慶長年間後半です。オナツからの宥睨への「院主就任祝い」ではないでしょうか。
④第4期は、元和年間です。第三代の正俊が急死した後の、弔意の性格と同時に、オナツにすれば息子左門が元服し 家禄に付くことが出来た返礼もこめられているのでは?
以上、私の大胆な推察(独断)でした。
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改めて生駒家の寄進高を見て思うのは?
①生駒家の金毘羅に対する330石という寄進は、ずば抜けて多くトップです。
②2番目に多いのが勝法寺(興正寺)の150石で、これは三好実休の時代からの寄進で例外的です。
③3番目は生駒家の菩提寺法泉寺の100石です。
④国内で古い由緒を誇る国分寺・誕生院でも60石程度。
⑤仙石家からは100石の寄巡をうけていた白峰寺・田村神社は50石で、親正ゆかりの弘憲寺と同じ。
⑥以下、屋島寺が43石、水主明神の35石、引田八幡宮30石、滝宮27石、威徳院20石、根来寺18石と続きます。
 金毘羅へは、寛永年開になっても祭祀料50石が寄せられていたので、生駒家からの寄進は実際は380石であったと考えてもいいようです。生まれたばかりの金毘羅神に、生駒家が寄進を重ねたのはオナツの力もあったのでしょうが、それだけで説明できることはできなようです。
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参考文献  金比羅領の成立  町史ことひら3 42P~

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満濃池と龍3
 
 満濃池には、古くから龍が住むという伝承があります。
『今昔物語集』には龍の棲む池として、また中世の『志度寺縁起』には、蛇になった志度の猟師当願の住む池として語られています。
『讃岐国名勝図絵』嘉永7年(1854)刊行にも、空海の築堤の説話と、池に棲む大蛇が海に移る際に堤が壊れたと記されます。そのうえで、元暦の大洪水による決壊後は長らく村と化していたが、寛永年間に西嶋八兵衛により再築が行われたことが語られます。

満濃池と龍

 今回は西嶋八兵衛による満濃池再築を見ていくことにします。
「満濃池営築図」原図(坂出の鎌田博物館の所蔵)を見てみましょう。
DSC00813










満濃池営築図 原図(寛永年間)
この図には、中央に池の宮がある小山が描かれ、その左右に分かれて水流が見えています。 ここに描かれているのは、源平の兵乱の中の元暦元年(1184)に崩壊して以来、450年間にわたって放棄された満濃池の再築以前(寛永初め)の景観です。少し見にくいので、トレス版でみることにします。まんのう町 満濃池営築図jpg
満濃池営築図 トレス版(寛永年間)
A 左下から中央を通って上に伸びていくのが①金倉川です。川の中には、大小の石がゴロゴロと転がっている様子が見えます。鎌倉時代の崩壊時の時に崩れ落ちた石なのでしょうか。
B金倉川を挟んで中央に2つの山があります。左(東)側が④「護摩団岩」で空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる「聖地」です。現在では、この岩は満濃池に浮かぶ島となっています。川の右(西)側にも丘があり、よく見ると神社建っています。これが②「池の宮」です。現在は神野神社と飛ばれていますが、江戸時代の史料では、神野神社という表記は出てきません。丘の右側の小川は③「うてめ」(余水吐)の跡のようです。「余水吐き」が川のように描かれています。
C古代の満濃池については、何も分かりませんが、この二つの丘を堰堤で結んでいたとされていいます。それが崩壊したまま450年間放置されてきた姿です。つまり、これが「古代満濃池の堤体跡」なのです。そこを上(南)側の旧池地から金倉川流れ落ちて、大小の石が散乱してます。

実は、これは絵図の全てではありません。絵図の上部を見てみましょう。
DSC00814










満濃池営築図 原図(寛永年間)
④旧池内には数軒の民家と道、農地を区切るあぜ道が描かれています。これが、中世以後旧満濃池を開発して成立していた「池内村」の一部のようです。
⑤さらに上部には、文字がぎっしりと書かれています。
何が書かれているのか見ていくことにしましょう。
この絵図の上側に書かれた文字を起こしてみます。
 満濃池営築図[寛永年間(1624~45)】摸写図
満濃池営築
寛永五辰年 奉行西嶋八兵衛之尤
 十月十九日 鍬初 代官出張 番匠喚
 十一月三日 西側堀除
 十二月廿日 普請方一統引払候
同六巳年
 正月廿八日 取掛
 二月十八日 奉行代官相改
 三月十九日 東ノ分大石割取掛
 四月十日  奉行代官立会相改 皆引取
 八月二日  底土台 亀甲之用意石割掛
 同十五日  西側大石切出済
 十月廿八日 座堀取除出来
 十二月十二日台目取除二掛ル
 同廿二日  奉行一統引払
同七午年
 正月廿八日 取掛
 三月十八日 台目所出来
 四月十日  櫓材木着手
 同十一日  流水為替土手築立
 同十八日  底樋亀甲石垣取掛 ’
       五月廿四日迄二出来
 六月五日  底樋取掛
 同廿九日  一番櫓建立
 七月六日より底樋伏込 同廿九日迄二           
 八月十五日 木樋両側伏込
 十月六日  堤埋立出来 竪樋座堀掛
 同十八日  竪樋下築立 同晦日出来
 十一月十七日 打亀甲石垣
  同廿九日  二番櫓立                                 
 十二月十日 三番櫓立
 同十五日  四番櫓立
 同廿二日  五番櫓立
同八未年    裏
二月五日  堤石垣直シ
同十五日  芝付悉皆出来
上棟式終 普請奉行 下津平左衛門  福家七郎右衛門
那珂郡高合 一万九千八百六十九石余
宇多郡高合 三千百六十石余
多皮郡高合 一万二千七百八十五石二斗余
  三郷合 三万五千八百十四石二斗余
西嶋氏、寛永三年八月、矢原正直方え来、当郡年々旱損二付、懇談御座候付、池内所持之田地不残差出申候
 ここには満濃池再建工事の伸張状況が記されていることが分かります。
 寛永5年(1628)10月19日の鍬始め(着工)から、
 同8年(1631)2月の上棟式(完工)までの日付ごとの工程、奉行・普請奉行の氏名、那珂・宇多・多度3郡の水掛高、最後に、西嶋八兵衛による矢原正直との交渉が書き込まれています。
DSC00881
        満濃池営築図 トレス版

最後の文を専門家は次のように解釈しています。
寛永3年(1626)8月、奉行の西嶋八兵衛が矢原正直方へ来た。
那珂郡の毎年の旱害について懇談がなされた。
そこで、正直は、池内に所持している田地を残らず差し出す旨、申し出た。
 研究者は、この図に描かれた家と農地は、池ノ内側に描かれており、ここが池内村の中心であって、その領主が矢原家であったと推定します。そこで、満濃池の再築のためには、土地の持ち主であり、有力者である矢原家の協力を欠くことができなかったというのです。 
 
矢原家が満濃池跡に所持していた田地を池の復興のため差し出したという内容です。これを、裏付けるのが西嶋八兵衛書状(矢原家文書)(a2)8月15日付の文書になるようです。漢文書下文)
先日は、御目に懸かり大慶存じたてまつり候。兼て申し上げ置き候、満濃池内御所持の田畠二十五町余、このたび断りいたし、欠け候のところ、衆寡替えがたく御思召寄す、今日御用にて罷り出で、相窺い候ところ、笑止に思召し候。
いずれも同前の事に候。なお追々存こ畜りこれある趣、仰せられ候。三万石余の衆人上下、承知せしめ候。千載御家たちまちに相聳い候成り行き、何とも是非に及びがたき事候。
恐々謹言        
 八月十五日      西嶋八兵衛之尤(花押)  
 矢原又右衛門様                  
このたびは ぬさも取りあえず 神野なり 
   神の命に 逢う心地せり         
現代語に直し意訳すると次のようになります。なお、括弧内は文意を整えるための補遺です。
 先日は、お目にかかることが出来て大変歓んでいます。兼てから申し上げていた矢原家が満濃池跡に所持する田畠二十五町余を、池の再築のために総て差し出すことを、主君に伝えました。本日、御用で主君に会った折りに、その行為についてお喜びの様子であった。。
 いずれの機会に、何らかの形で矢原家への処遇を考えたいと仰せられていた。三万石余の衆人の見守る中での今回の行い、まことに誉れ有る行為である。

田畑25町を差し出した矢原家とは、何者なのでしょうか
 幕末に成立した「讃岐国名勝図会」には、平安末期の元暦元年(1184)に決壊した満濃池について次のように記します。

「五百石ばかりの山田となり。人家なども往々基置して、池の内村といった」

意訳変換しておくと
(満濃池)跡地は、(再開墾されて)五百石ほどの谷間の山田となった。人家も次第に増えて、池の内村と呼ばれる村ができていた。

 当時の田1反(10a)当たりの米の収穫量は、ほぼ2石(300kg)です。西嶋八兵衛の書状に見える25町余の田畠は、石高でいえば、500石余にあたります。この石高は、「讃岐国名勝図会」に見える池内村の石高とぴったりと一致しますから、ここからは矢原家は池内村全体の領主であったことになります。
矢原家と池内村との関係を「讃岐国名勝図会」の記事から、探ってみましょう。
矢原家に伝わる「矢原家傅」には、矢原家は神櫛王の子孫酒部黒麿が、延暦年間(782 - 806)に池の宮の近辺に住んだことに始まと伝えます。池の宮(現神野神社)は、時代と共にその位置を変えながら現在でも、満濃池の堤に続く丘の上に鎮座します。
矢原家伝が伝える内容を箇条書きにすると
①貞治元年の白峯合戦では細川清氏方に加担。
②天正12年(1584)、長宗我部氏の西讃侵攻に際しては、矢原八助(正景)が、神野寺に陣取った元親の嫡子信親と戦い、のち和睦。
③豊臣秀吉の部将で讃岐一国の領主となった仙石秀久のとき、正景は那珂郡七ケ村東分で高45石を賜る。
④同13年(1585)、戦国秀久より長男正方と次男猪兵衛に刀と槍を賜わる。
⑤同15年(1587)6月、生駒家より合力米200石を賜り、文禄の役に際しては当主正方の弟猪兵衛が従軍し、
⑥慶長6年(1601)その戦功を賞して、200石の知行地を賜る。
⑦矢原正方は備前国日比家の養子となり衝三右衛門と名乗って宇喜多秀家に仕えた。
⑧宇喜多秀家が没落後は故郷に帰り、元和2年(1616)没。
⑨寛永3年(1626)、正方の子正直が、西嶋八兵衛によるに満濃池再築の際に、正直宅に寄宿して指揮に当たった。
⑩この間の功績により生駒家は正直を満濃池の池守にした。⑪正直は慶安2年(1649)に没した。
 上に述べた内容のうち、
①慶長6年(1601)、生駒親正より200石の知行地を賜った。
②寛永の再築時の功績により、生駒家は正直を満濃池の池守に任じた。
この2件については、矢原家文書の中に該当するものがあります。す。                     
矢原家文書[慶長六年(1601)・寛永十二年(1635)」
  ①慶長六年(1601年十月十四日 生駒一正宛行状 矢原家文書
  扶持せしむ知行所事
   豊田郡 五十七石一斗四升  植田
   香西郡百四十二石八斗六升  中間 ミまや
                 合二百石
 右の分まったく知行せしむべきものなり
   慶長六年十月十四日  生駒讃岐守 一正(花押)
 (日比呉三右衛門)
 ここには、慶長6年(1601)の知行地給付は、正直の父である日々典三左衛門(正方)宛てで給地は豊田郡植田、香西郡中間・御厩の計200石が記されています。
②寛永十二年(一六三五)四月三日 生駒家家老連署奉書 矢原家文書
 御意として申せしめ候。仲郡満濃池上下にて、高五十石永代に遣わされ候間、常々仕かけ水、堤まわり諸事由断なく、指図つかまつり、堅く相守るべく候ものなり。よってくだんのごとし。
   寛永拾弐年亥四月三日   西嶋八兵衛之尤(花押)
                浅田右京 直信(花押)
 (正直) 矢原又右衛門
【資料 ②】からは、正直が満濃池を管理する池守に任命され、同池上下において50石を与えられたことが分かります。
 また、「讃岐国名勝図会」に収める神野神社の釣燈篭の銘文からは、矢原家の歴代当主が、氏神である神野神社の社殿の造替や堂舎の再建を願主として行っていたことが読み取れます。
DSC00824 









この由緒から次のような事が云えます
①矢原家は、神野寺付近に本拠を持つ小領主で
②戦国時代の末期は長宗我部氏と戦い、
③近世初期には、仙石・生駒藩に臣従していた
④満濃池の再築の功績により、池守に任じられた
矢原家は池内村の領主であったといえるようです。しかし、それがいつまで遡れるかは分かりません。池ノ内村を領有していた矢原家の奉納した池内村は、満濃池ができあがると再び池の中に姿を消すことになったのです。

参考文献 
香川大学名誉教授 田中健二 歴史資料から見た満濃池の景観変遷
満濃池名勝調査報告 まんのう町教育委員会 2019年3月刊

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岸の上遺跡 那珂郡条里制

丸亀平野を南北に流れる金倉川については「近世に作られた人工河川」説が出されています。何を根拠として人工的に付け替えられたというのでしょうか。
また何を目的に、いつ、だれによって工事が行われたのでしょうか。いろいろな角度から検討してみましょう。

丸亀平野北部 条里制

金倉川=人工河川説の「状況証拠」として、丸亀市史1(383P~)は次のような点を挙げています。

①全体に河床が高く、天井川であるから、東西からほとんど支流が流れ込まない。
②竜川橋・五条橋付近では、川床から粘土が出ている。
発掘調査の時、金倉川左岸堤防の近くまで発掘したが上層は厚い粘土層であった。このことは少なくとも往古からの自然河川ではないという証明である。
③中津町の金倉川左岸堤防工事の時に、川底より砂岩の五輪塔二基と楠三本が出土した。川底がかつては平地であったということを物語っている
④金倉川沿いの各所で村が東西に分断されている。後から作られた金倉川が地域を別けた。自然河川では、境界となることが多い。
⑤河口に形成された州が、旧金倉川のそれに比べて極端に小さい。万象園付近一帯だけである。川の歴史の浅いことを示している。
⑥金倉川沿いには、遺跡らしいものが存在しない。近世になって新しく作られた河川であるため、周辺部に遺跡がない
⑦川床幅が小さい。
以上のような状況証拠の積み重ねで「人工河川」説を補強します。

それでは、金倉川はどの位置で付け替えられたのでしょうか?

満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

  その位置を丸亀市史はまんのう町吉野の①吉井橋(パン屋さんのカレンズ周辺)とします。満濃池の谷から流れ出し、北上していた流れを、ここで西流させ現在の金倉川の流れに改変したとします。ここは現在でも「水戸(みと)」と呼ばれています。

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まんのう町吉野の「水戸」の現在の姿
満濃池水戸(みと)

改変される前の流れは、どう流れていたのでしょうか?
「丸亀市史」は改変前の北上する流れは、満濃町役場前から四条・天皇を経て高篠大分木に至り、ここから左に向きを変えて西高篠と苗田の境界に沿って西北流し、象郷小学校から上櫛梨の木の井橋の南へと流れていたと記します。そして、この川を「四条川」と呼びます。
金倉川 国土地理院

   本当に四条川はあったのでしょうか?
『全讃史』に、四条川のことが次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す、
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫ぎ下金倉に至り海に入る」
と記述されています。四条川は確かに実在したようです。しかし、流路はなかなか想像しずらいものがあります。
さらに四条川実在の論拠として、以下のような点を挙げます。
①この付近の「四条川跡」には多くの湧井が存在すること。
②善通寺大麻町の香川西部ヤクルト販売株式会社の東北に、琴平町内を北流してきた川と合流して西北流する四条川の左岸の一部が残っていること。

金倉川1 分岐点

③四条川の水量は多く、治水が容易でなく常に氾濫を繰り返していた。伝承として「明治中期起工の四国新道や讃岐鉄道の軌道敷も、四条川の廃川跡地が利用された。両者とも、用地取得が短期日で終わって工事に着手できたことは、田畑でなかった、当時はまだほとんど荒廃地だったからだ」と伝わっている。
 以上から、四条川の中流域は現JR線路と国道319号になっているようです。

金倉川3 大麻郵便局 

⑤四国横断自動車道建設にともなう発掘調査でも、JR土讃線と国道三一九号線の間では表土直下に河川堆積物の礫混じりの砂層が出てきて、四条川が氾濫を繰り返していたようです。そのため、稲木遺跡以東の、現金倉川に至るまでは、条里制跡が認めらません。これは大麻町以北の四条川右岸から、現金倉川に至るすべての地域も同じです。坂出市の鎌田博物館蔵の近世の絵図でも、磨臼山の北東を「イカノ川原」と表記しています。つまり、四条川の氾濫原で条里制施行外だっと考えられます。

金倉川1 分岐点

四条川の下流域ルートは?

多度津には、金陵多度津工場があります。
ここはかつて、ここを流れていた四条川の豊富な伏流水を使った酒造りが行われています。四条川はここで、流れを大きく東へ向けます。丸亀市民体育館の西方の金倉町上下所の高丸や、新田町の高丸、津森町高丸は、四条川の氾濫による砂傑の堆積地のようです。
 さらに四条川は市民体育館の西で北に流れを変えて先代池を斜め縦断して市道中津・田村線に出ます。先代池や平池は四条川が廃棄された跡の流路を利用して、築造されます。

丸亀の海岸線 旧流域図3
「新田橋本遺跡周辺旧流域想定図(S=1/20,000)」

四条川は田村町番神に向かって流れ、ここから北に流れを変えます。丸亀城西高校の正門前に堀が残りますが、四条川の川跡とされます。そして、津森町内を北流して津森天神社の北東200mの津森町宮浦で海に注いでいました。ここが四条川の河口でした。ここが『万葉集巻二』の柿本人麻呂の詠んだ有名な「玉藻よし讃岐国は国柄か」の枕詞ではじまる長歌の中に出てくる中乃水門とされます。現在の津森町の地名も、ここに設けられた津守に由来します。

田村廃寺周辺地質津

金陵多度津工場から河口まで四条川は、多くの支流を生みだし、旧六郷村域では氾濫常習地帯だったようです。そのため氾濫地帯の大部分は荒廃地として開拓の鍬が入りませんでした。ここが開拓されるのは、四条川が金倉川に一本化された17世紀初冬以後です。

丸亀平野北部 条里制

ちなみに中世に満濃池は、姿を消していました。
大規模な労働力を組織化できた律令時代は、大規模土木工事が可能でした。しかし、権力の分立した中世は多くの労働力を集めることができません。そのため満濃池は、堤防が壊れ放置され、「池の内」村が「開拓」されていました。このため「満濃池の治水」能力がなくなり、下流域では洪水が常習化し、河口の堆積作用も大きかったようです。こうして四条川河口には潟湖が形成され、多度郡の湊として機能するようになります。その海運センターの役割をしたのが道隆寺だったようです。
道隆寺の果たした役割については、以前に紹介しました。https://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/48396077.html

丸亀平野の扇状地

大麻町以北の四条川の廃川後の開拓地を列記すると、
 
右岸(東側)では、
善通寺市大麻町本村の東北部・中土居・砂古東・生野町南原・原・遊塚の東部・上吉田町上原・寝馬・稲木町川原・下川原・金蔵寺町下所・六条
左岸(西側)では、
丸亀市原田町三分一下川・金倉町上新田・池の下・下新田・朧朧新田・新田町橋本・長池・今津町皿池・中原・津森町上拾丁分・下拾丁分・位
などです。
 また、先ほど見た先代池のように四条川に水が流れなくなった跡に、その流路を利用して、ため池が数多く築造されていきます。
金倉町に辺池・新池・平池・先代池・瓢池・天満池などです。
多度津町では、千代池・買田池・上池が、これにあたります。

平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

四条川の付け替え工事は、いつ、だれによって行われたのか
丸亀市史は「西島八兵衛由緒書控」中の次の記述に注目します。
精を出し国を被立候へと被仰付寛永二丑ノ春讃岐へ被遣候、(中略)中年三年罷有仕置仕候国も能成候とて、高虎様御機嫌二被為思召、寛永六年二江戸へ御呼かへし被成(以下略)
西島八兵衛の寛永二年の二度目の来讃は、干ばつで疲弊した讃岐国を立て直すためであったようす。領内を巡視して実情をつぶさに調査して、具体策を練っています。その上で翌年に8月に、まんのう町の有力者である矢原正直を訪ねます。

満濃池 決壊後の満濃池
西嶋八兵衛の築造前の満濃池堰堤周辺の状況図

 これは丸亀平野の治水事業を実行に移すため相談に訪れたものと思われます。そして、満濃池の再築に着手したのが寛永五年十月、二年半を費やして完成したとされます。
満濃池再築に着する前に、事前工事として四条川の流れを廃して、金倉川の流れ一本にする付け替え・改修を行ったと丸亀市史は推定します。
最後に、この工事は何のために行われたのでしょうか。

満濃池水掛村ノ図(1870年)

これについては丸亀市史は、何も語りません。
あえて推察するなら満濃池築造後の水路網の建設と関連するのではないでしょうか。現在の満濃池の水掛かりは、上の絵図のように人間の血管網のように細部まで整備されています。しかし、四条川の複雑な流路や支流があったのでは、満濃池からの水を送るための水路を張り巡らせることは困難だったと思われます。満濃池灌漑ネットワーク整備のために、四条川は金倉川に一本化・直線化され、最短ルートで海に抜けるようにされたのではないでしょうか。

丸亀平野 等高線地図
 地図で、多度津の千代池を見ているとその不思議な形から、川の流路に作られた池だろうなとは思っていました。しかし、それが、いつごろまで流れていた池かは分かりませんでした。丸亀市史を読み直していて改めて、気がついたのです。
丸亀市史に感謝

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