瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近世史 > 多度津藩

林求馬 大塩平八郎の書
大塩平八郎の書(林求馬邸)
前回は多度津奥白方の林求馬邸に、大塩平八郎の書が掲げられていることを紹介しました。
  慮わざれば胡ぞ獲ん
為さざれば胡ぞ成らん
(おもわざればなんぞえん、なさざればなんぞならん)
意訳変換しておくと
考えているだけでは何も得るものはない。行動を起こすことで何かを得ることができる

「知行一致」「行動主義」と云われる陽明学の教えが直線的に詠われています。平八郎の世の中を変えなくてはならないという強い思いが伝わってきます。これが書かれたのは、大塩平八郎が大坂で蜂起する数カ月前で、多度津町にやって来たときのものとされます。どうして、大塩平八郎が多度津に来ていたのでしょうか?
今回は、平八郎と多度津をつないだ人物を見ていくことにします。テキストは「林良斎 多度津町誌808P」です。

大塩平八郎の乱(日本)>1

多度津で湛浦の築造工事が行われている頃の天保6年(1835)、大塩平八郎が多度津にやってきています。
平八郎は貧民救済をかかげ、幕府に反乱を起こした大坂町奉行の元与力です。多度津にやってきたのは金毘羅参りだけでなく、ある人物に会いにやって来たようです。それが林良斎(りょうさい:直記)です。林良斎は、多度津の陣屋建設に尽力した多度津藩家老になります。彼が林求馬邸を建てた養父になります。

林良斎

林 良斎については、多度津町史808Pに次のように記されています。
文化5年(1808)6月、多度津藩家老林求馬時重の子として生まれる。 通称は初め牛松、のち直記と言い、名は時荘、後に久中、隠居して良斎と改めた。字は子虚、自明軒と号した。父時重は厳卿と号し、文化4年多度津に藩主の館を建て、多度津陣屋建設の基礎をつくった。母は丸亀藩番頭佐脇直馬秀弥の娘で、学問を好み教養高い婦人であった。父求馬時重は、伊能忠敬の測量に来た文化5年9月良斎の生後わずか3か月で死去し、兄勝五郎が家督を継いだ。文化14年(1817)勝五郎は病と称して致仕したので、10歳にして家督を継ぎ、藩主高賢の知遇を得て、文政9年家老となり、多度津陣屋の建設の総責任者として、文政11年(1828)これを完成した。ときに林直記は弱冠21歳であった。多度津藩は初代高通より代々丸亀の藩邸に在って、政を執っていたのであるが、文政12年6月、第四代高賢はじめて多度津藩邸に入部した。多度津が城下町として発展するのはこの時からである。

林良斎全集(吉田公平監修 多度津文化財保存会編) / 松野書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

ここからは次のようなことが分かります。
①父時重は良斎の生後3か月の時に、陣屋建設途上で亡くなったこと
②兄に代わって10歳で家老職を継ぎ、陣屋建設の総責任者となり、21歳で完成させたこと。

そして天保4年(1833)、26歳のとき、甥の三左衛門(林求馬)に家督を譲ります。
良斎の若隠居の背景は、よく分かりません。自由の身になった彼は天保6年(1835)、大阪へ出て平八郎の洗心洞の門を叩き、陽明学を学びます。その年の秋、平八郎が良斎を訪ねて多度津に来たというわけです。このときは、まだ湛浦(多度津新港)は完成していないので、平八郎は、桜川河口の古港に上陸したのでしょう。二人の年齢差は、14歳ほど違いますが惹きつけ合う何かがあったことは確かなようです。
林良斎の名言「聖人の学は、無我を以て的となし、慎独を以て功となす」額付き書道色紙/受注後直筆(Y1082) その他インテリア雑貨 名言専門の書道家  通販|Creema(クリーマ)
良斎の言葉
良斎は「中斎(平八郎)に送り奉る大教鐸(きょうたく)の序」に次のように記しています。

 「先生は壯(良斎)をたずねて海を渡って草深い(多度津の)屋敷にまでやって来てくれた。互いに向き合って語ること連日、万物一体の心をもって、万物一体の心の人にあるものを、真心をこめてねんごろにみちびきだしてくれた。私どもの仲間は仁を空しうするばかりで、正しい道を捨てて危い曲りくねった経(みち)に堕ちて解脱(げだつ)することができないでいる。このとき、先生の話をじっと聞いていた者は感動してふるい立ち、はじめて私の言葉を信用して、先生にもっと早くお目にかかったらよかったとたいへん残念がった。」

 翌年の天保7年(1836)にも、良斎は再び大坂に行って洗心洞を訪ね、平八郎に教えを乞いています。
この頃、天保の大飢饉が全国的に進行していました。長雨や冷害による凶作のため農村は荒廃し、米価も高騰して一揆や打ちこわしが全国各地で激発し、さらに疫病の発生も加わって餓死者が20~30万人にも達します。これを見た平八郎は蔵書を処分するなど私財を投げ打って貧民の救済活動を行います。しかし、ここに至っては武装蜂起によって奉行らを討つ以外に解決は望めないと決意します。そして、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、窮民救済を求め、幕政刷新を訴えて、天保8年3月27日(1837年5月1日)、門人、民衆と共に蜂起します。しかし、この乱はわずか半日で鎮圧されてしまいます。平八郎は数ヶ月ほど逃亡生活を送りますが、ついに所在を見つけられ、養子の格之助と共に火薬を用いて自決しました。享年45歳でした。明治維新の約30年前のことです。
この大岡平八郎の最期を、多度津にいた良斎はどのよう感じていたのでしょうか?
 それが分かる史料は今は見つかっていません。ただ、良斎はその後も陽明学の研究を続け、「類聚要語(るいしゅうようご)」や「学微(がくちょう)」など多くの著書を書き上げます。「知行一致」の教えのもとに、直裁的な蜂起を選んだ大岡平八郎の生き方とは、別の生き方を目指します。
弘濱書院(復元)
再建された弘浜書院(林求馬邸)

 39歳の秋には、読書講学の塾を多度津の堀江に建てています。
その塾が弘浜(ひろはま)書院で、そこでまなんだ子弟が幕末から明治になって活躍します。教育者としては、陽明学を身につけ行動主義の下に幕末に活躍する多度津の若者達を育てたという評価になるようです。この弘浜書院は、現在は奥白方の林求馬邸の敷地の中に再建されています。そこには「自明軒」という扁額が掲げられています。これは大塩平八郎から贈られたもので、林良斎が洗心洞塾で学んでいたとき、平八郎が揮号(きごう)したものと伝えられます。良斎の教えを受けた人々の流れが、多度津では今も伝えられていることがうかがえます。思想家としては、良斎は陽明学者としては讃岐最初の人だとされ、幕末陽明学の讃岐四儒と称されるようになります。

良斎の残した漢詩「星谷観梅歌」を見ておきましょう。(読み下し文)
星谷観梅歌     林良斎
明呈夜、天上より来る     
巨石を童突して響くこと宙の如し
朝に巨石を看れば裂けて二つと為る   
須愈にして両間に一梅を生ず      
恙無(つつがな)きまま東風幾百歳
花を著くること燦々、玉を成して堆(うづたか)し
騒人、鐘愛して清友と称ふ 
恨むべし一朝、雪の為に砕かる    
又、他の梅を聘したひて嗣と為す
花王宰相をもて良き媒(なかだち)と定む      
我、来りて愛玩し聊(いささ)か酒を把れは
慇懃に香を放ち羽杯を撲(う)つ        
汝も亦、天神の裔なることを疑はず
風韻咬として、半点の埃(ちり)無し
 高吟して試みに問へども黙して答へず
唯見る、風前の花の嗤ふが如し
良斎は、大潮平八郎が没してから12年後の嘉永2年(1849)5月4日、43歳で没しました。
田町の勝林寺には良斎の墓が門人達の手によって建立されています。
 多度津町家中(かちゅう)の富井家には、大塩平八郎の著書といわれている「洗心洞塾剳記(せんしんどうさつき)」と「奉納書籍聚跋(ほうのうしょせきしゅうばつ)」の2冊が残されているそうです。いずれも「大塩中斎(平八郎)から譲られたものを良斎先生より賜れる」と墨書きされています。ここからは、この書が大塩平八郎が良斎に譲ったもので、その後に富井泰藏(たいぞう)に譲られたことが分かります。
林良斎~シリーズ陽明学27 - 読書のすすめ

 良斎が亡くなると、その門弟の多くは池田草庵について、学んだ者が多いようです。
但馬聖人 池田 草庵 | 但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典 さん
池田草庵は但馬八鹿の陽明学者で、京都で塾を開いていましたが、郷里の人々の懇望で、宿南の地に青然書院を開いて子弟に教えていました。良斎の人柄に感じ、生前には書簡で親睦を深め、自らの甥、池田盛之助を多度津の弘浜書院に行かせて学ばせています。ここからは、弘浜書院と青繁書院とは、人的にも親密に結ばれ活発な交流があったことがうかがえます。
 池田草庵は名声高く、俊才が集まり、弘化4年(1847)から明治11年(1878)までの青鉛社名簿には、多度津から入門者が次のように記されています。
讃岐多度津藩士 林求馬・岡田弥一郎・庭村虎之助・古川甲二郎
白方村高島喜次郎 藩医小川束・林凝・名尾新太郎・服部利三郎・塩津国人郎・野間伝三・大久保忠太郎・河口恵吉・早川真治
以下は明治以後)
菅盛之進・名尾晴次・字野喜三郎・畑篤雄・菅半之祐・神村軍司・大久保穐造・長野勤之助・小野実之助・奥白方村山地喜間人。

   良斎の影響で多度津の向学に燃える青年たちが京都に出て学んでいたことが分かります。

以上をまとめておくと
①林家は多度津藩の家老の家柄で、林求馬の祖父や養父である良斎が多度津陣屋建設に尽力した。
②良斎は、若くして家老として陣屋建設の責任者として対応したが完成後は若隠居した
③良斎は26歳で、大坂の大塩平八郎の門を叩き、陽明学を学び交流を深めた
④そのため良斎の元には、大庄平八郎の書や書物などが残り遺品として、現在は林求馬邸に残っている
⑤良斎は、教育機関として弘浜書院を開設し、行動主義の陽明学を多度津に広めた。
⑥この中から登場する若者達が明治維新の多度津の躍進の原動力になっていった。
⑦良斎の後、林家を継いだ甥の林求馬は、幕末の混乱期に多度津藩の軍事技術の近代化を進めた。
⑧長州遠征後の軍事衝突に備えて、藩主や家老の避難先として奥白方が選ばれ、そこに新邸が建設された。
⑨それは明治維新直前のことで、明治になって林家はここで生活した。
⑩そのため、林家に伝わる古文書や美術品が林求馬邸に、そのまま残ることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 多度津町誌808P

まんのう町文化財協会の仲南支部の秋のフィルドワークが多度津の林求馬邸と合田邸になりました。その「事前研修資料」として、林求馬邸をアップしておきます。
香川県の近代和風建築 : ShopMasterのひとりごと

テキストは「香川県の近代和風建築 香川県近代和風建築総合調査報告書113P 林求馬邸 香川県教育委員会」です。 

 林求馬5
林求馬邸は、幕末の嘉永4年(1851)から慶応4年(1868)の間に、多度津藩家老を務めた林求馬(1825~1893)の屋敷として奥白方に建てられたものです。それを聞いて最初に私が疑問に思ったのは次の二点です。
①どうして、海の見えない奥白方に建てたのか
②どうして明治維新間際の時代に、建てられたのか
①の奥白方に建てられたのは、幕末の軍事情勢の中で、海からの艦砲射撃を受ける可能性が出てきたためです。多度津港のそばにあった陣屋では、それを防ぎきれません。多度津藩は、幕末に軍備の近代化を進める一方、土佐藩に接近し、倒幕の動きを強めていました。そのような中で、丸亀藩や高松藩に比べると、強い軍事的な緊張感を持っていたことは以前にお話ししました。そのような中で、藩主や家老の避難場所として奥白方に白羽の矢が立ったようです。ここは、瀬戸内海の展望を楽しむための別荘や保養施設ではなかったこと、非常時のための待避場所(下屋敷)として急遽建設されたことを押さえておきます。
林求馬広間2
林求馬邸座敷
②の建設時期については、座敷の天丼裏に、嵯峨法泉院の祈祷札があります。
そこには「慶応3(1867)年6月」という年号が記されているので、鳥羽伏見の戦いの始まる直前に、この建物が完成していたことが分かります。まさに江戸幕府が倒れる前年に、新築された建物ということになります。
 廃藩置県後に、家老の林求馬は免官となります。
その後は林求馬は、この建てられたばかりのこの家を自邸として使います。その後も子孫が居住して建物が維持されてきましたが、1960代から無住となりました。その後の活用化を年表化しておきます。
1977年、林家より林求馬邸の土地建物が寄付され、財団法人多度津文化財保存会が設立
1983年、周辺整備を終えて、一般公開開始
1986年 求馬の養父林良斎が開いた私塾弘濱書院が敷地内に新築復元
1995年 南土蔵を改造した資料展示館がオープンし、林家に伝わる書画や古記録類なども公開
弘濱書院(復元)
弘濱書院(復元)
「香川県の近代和風建築」には、この建物について、次のように記します。

林求馬平面図
林求馬
邸平面図
林求馬邸の敷地面積は1,646㎡で、敷地南辺に表門を開く。門の北側に、西から主屋(座敷棟)、頼所、管理棟を建て、門の北東に弘濱書院、その南に展示資料館を建てる。
林家には、明治20~30年代初頭の屋敷の様子を描いた銅版画(鳥睡図)が伝わり、ほぼ建築当初の敷地内の様子を知ることができる。また、昭和30年発行の『白方村史』には内部の見取図が記されている。それらの資料と、現状の平面図を比較すると、頼所から西側部分は建築当初に近い状態で現存していると考えられ。東側部分は、家族の居住空間で、生活様式に合わせて改変が加えられたたと思われる。かつて台所や湯段があった場所に、現在は弘濱書院が建設されている。現在資料館となっている南土蔵、管理事務所とつながる東西の土蔵2棟は建設当時から現存するものと考えられ、土蔵をつなぐ部分は昭和になってから増築されたものという。

林求馬正面

 表門は、建設時に、陣屋から移築したものと伝えられ、その両脇に続く土塀は建設当時からあったが、昭和57年の修理時に腰部を海鼠壁とした。敷地南辺以外の土塀は現在失われている。
林求馬玄関

主屋は、入母屋造、妻入で正面に入母屋造の屋根を持つ大玄関が付く。屋根はいずれも本瓦葺、外壁は黒漆喰塗りである。
林求馬大玄関

大玄関の式台の奥に、8畳間があり、その両側に6畳間がある。板敷きの廊下が東西に通り、それをはさんで北側に14畳の広間、その東に6畳の枠の間と8畳の座敷が配置されている。
IMG_0006林求馬

広間は西側に、8畳の座敷は東側にそれぞれ床の間を配置し、北側は背後の山を借景にした庭を望むことができる。大玄関は、藩主のための玄関で、座敷は藩主との対面の場、広間は多くの家臣が集まる場所として作られたものであろう。従者は、大玄関の東側にある小玄関から出人りし、控の間に入る。
林求馬邸 | 香川県の多度津町観光協会
頼所(よりしょ:白壁の建物)

 民衆の用件を聞く場所として使われた頼所は、つし2階建、入母屋造、本瓦葺、妻入で、外壁は白漆喰塗りで、下部は海鼠壁(当初は縦板張り)とする。戸口を入ると土間で、奥に板の間及び廊下が続き現在の事務宇、その奥の土蔵へとつながる。
頼所の出入口の木戸には、内側から相手を確認するための小さなのぞき窓がついており、 2階の窓かららも人の出入りを確認できる。2階は、天丼を張らず、主に収納場所として使われていたと考える。
IMG_0004林求馬
林求馬邸

内部に陳列されている物を簡単に見ておきましょう。

林求馬邸 文化財図録


林求馬 広間
林求馬邸内部
林求馬 ふすま絵図
立屏風
林求馬 備前焼唐獅子
藩主から送られた備前焼の唐獅子
林求馬 龍昇天図
龍昇天図
しかし、林求馬邸のなかで一番大切にされているのは、この書のようです。
大塩平八郎の書 乱の前年
大塩平八郎の書
慮わざれば胡ぞ獲ん
為さざれば胡ぞ成らん
(おもわざればなんぞえん、
なさざればなんぞならん)
意訳変換しておくと
考えているだけでは何も得るものはない
行動を起こすことで何かを得ることができる
「知行一致」「行動主義」と云われる陽明学の教えが直線的に詠われています。平八郎の世の中を変えなくてはならないという強い思いが
伝わってくるような気がします。これが書かれたのは、大塩平八郎が大坂で蜂起する数カ月前で、多度津町にやって来たときのものとされます。どうして、大塩平八郎が多度津に来ていたのでしょうか?
それはまた次回に・・・

林求馬 古文書
林求馬邸に残された古文書
林求馬邸について、まとめておきます。
①この建物は、薩長と幕府の軍事衝突が間近に迫った時期に、藩主や家老の避難先として奥白方に建設された建物である。
②そのため華美な装飾や不用な飾りは見られず、シンプルで機能重視で建てられている。
③しかし、近世の武家屋敷の様式を継承し、大小の玄関や広間・座敷など主要な部分が良好に保存されている。
④東西に一直線に廊下を配置した間取りは改築の痕跡がなく、建築当初からのものと考えれる。
⑤座敷など「表」の部分と、台所など「奥」の部分とを分離し、円滑な行き来を重視した機能的な配置である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  香川県の近代和風建築113P 林求馬邸  
「白方村史」(白方村史編集委員会1955年)
「林家所蔵文化財図録」(多度津文化財保存会2003年)

 今回は湛甫完成後の多度津の繁栄ぶりを見ていくことにします。テキストは、「多度津町誌267P 北前船の出入りで賑わう港」です。
 北前船航路図

①北前船は春2月ごろ、大坂で諸雑貨・砂糖・清酒などを買い積み出港
②瀬戸内海の港々を巡りながら、塩荷などを買い込みながら下関に集結。
③冬の最後の季節風を利用して、日本海沿岸の諸港に寄港し、荷の積み下ろし(売買)をしながら北海道へ向かう。
④北海道で海産物を買積み、8月上旬ごろに北海道を出発して夏の南東風の季節風をはらんで一気に下関まで帆走
⑤手に入れた商品を、どの港で売るかを状況判断をしながら、荷を神戸・大坂方面へ持ち帰る。
このように北前船は、荷の輸送とともに商いをも兼ねた船でした。

鰊漁粕焚き
鯡(にしん)粕焚き

北前船で特に利益があったのは、北海道の鯡〆粕・昆布でした。
北前船の活躍が活発化したのを受けて、丸亀藩や多度津藩は新しい湛甫築造をおこなったことになります。多度津湛甫の完成は、天保9年(1838)年のことです
19世紀半ばになると、 讃岐三白といわれた砂糖・綿・塩なども北前船の取扱商品になっていきます。
讃岐三白を求めて多度津の港に寄港する舟も増えます。丸亀や多度津の湛甫構築も、金毘羅参拝客の誘致以外に、商品経済の受入口として港湾整備するというねらいが廻船問屋たちにはあったことを押さえておきます。
  多度津の回船問屋かつまや(森家)に残る史料を見ておきましょう。
「清鳳扇」と題する海路図は、まず見開きに「針筋早見略」があって津軽半島から北海道の松前半島への次のような針路が説明されています。
本州北端の津軽半島、小泊港より鯵ケ沢、男鹿半島、飛島、栗島、佐渡沢崎、能登塩津、平(舶)倉島、七ツ島、福浦、隠岐、三保ケ関、 笠浦、 宇竜三崎、 湯津、 浜田、津島

それと日本海を南下する針路が示されています。この海路図は、安政五年(1858)のもので、かつまやの盛徳丸が使っていたものです。また、次のような21反帆の千石船仁政丸の往来手形もあります。
 反帆船仁政丸、沖船頭森徳三郎、水夫十人、右は私方持船で乗組一統は宗旨万端改め済みで相違ありません。津々の関所はつつがなくお通しドさい。
元治元年六月 大阪 綿屋平兵衛
これらの北前船は、松前島(北海道)の海産物を多度津に運び、その見返り品として洒、衣料、雑貨の輸送にあたっていたことが分かります。森家には「松前落御家中家名並列席の記」や「箱館港出船許可書」などが保存されています。ここからは、廻船問屋森家の船が北前船として、幕末に蝦夷との交易を行っていたことが分かります。

多度津廻船船の積み荷と水揚げ場
船の積み荷と水揚げ場、積み入れ場などを記載した資料

石州浜田港(島根県浜田市)回船問屋但馬屋の「諸国御客船帳」には、次のように記されています。
幕末から明治に初期にかけて、記載されている讃岐廻船は307艘。その内、多度津の船は8艘。東讃では三本松や津田浦の船が多く、西讃では栗島や浜村浦の船が多く寄港。浜田での讃岐船の売買積荷商品は、
①揚げ荷(売却商品)は 讃岐特産物の「大白・大蜜・焚込」の砂糖と塩、それに繰綿が若千
②積荷商品(買上商品)は、塩鯖・鯖・平子干鰯・扱芋・鉄・半紙などの石見の特産物


多度津 廻船問屋塩田屋土蔵
「塩田家(煙草屋)」の土蔵
北前船で財を成した廻船問屋としては、多度津七福神のひとつである「塩田家(煙草屋)」が有名です。塩田家には北前船の積み荷を集積するために使用した土蔵が今でも残されています。

魚肥料

江戸末期になると、綿花などの栽培に、農家は大量の魚肥(金肥)を使うようになります。
最初は、瀬戸内海の千鰯が中心でしたが、北前船の出入りで、羽鰊・鯡〆粕などが手に入るようになると、魚肥の需要はさらに高まります。多度津には干鰯問屋が軒を並べ、倉庫が甍を競うようになり、丸亀港をしのぐようになります。こうして多度津の問屋はヒンターランドの多度郡や那珂郡の庄屋や富農と取引を活発に行い繁盛します。

江戸時代後期の多度津の様子について、柚木学「讃岐の廻船と船持ちたち」(多度津文化財16号 1973年)は、次のように記します。
「廻船問屋には、かつまやを始め米尾七右衛門・蛭子辱伊兵衛・竹景平兵衛などがあり、またよろず問屋・千鰯問屋中には、油屋佐右衛門・松尾屋清蔵・島屋係兵衛・煙草屋仙治・柳屋次郎七・茶屋儀兵衛・浜蔵屋四郎兵衛・尾道屋豊蔵・伏見屋一場太郎・同山屋武兵衛・松島躍惣兵衛・大黒膵調兵衛など七十余軒」

 また多度津町誌270Pには、角屋町(今の本通一丁目)、南町、中ノ町筋にあった多度津問屋中のメンバーを、次のように挙げています。
油屋佐右衛門・中屋佐七・松嶋屋惣兵衛・煙草屋仙治・戎屋祖右衛門・嶋屋徳次郎・尾道屋豊蔵・湊屋義之助・木屋槌蔵・舛屋仙古・柴屋文右衛門・神原治郎七(柳屋)・金屋源蔵・工屋榮五郎・阿波屋甚七・海老屋与助・油屋平蔵・松尾屋久兵衛・竹屋清兵衛・北屋辰適蔵・伊予屋五右衛門・古手屋佐平・柳屋常次郎・入江屋喜平・茶屋儀兵衛・伊予屋伴蔵・尾道屋彦太郎・茶屋七右衛門・三井屋弁次郎・中屋民蔵。備前屋伝五郎・菊屋治郎兵衛・嶋屋治助・工屋伝右衛門・伏見有屋吉蔵・松尾屋清蔵・輌屋半蔵・麦屋芳蔵。大津屋善治郎・松崎屋排治・唐津屋長兵衛・井筒屋和平・舛屋久右衛門・木屋万蔵・播磨屋和古。塩飽屋弥平・岡山屋武兵衛・出雲屋長兵衛・伏見屋嘉太郎・播磨屋岩右衛門・中村屋紋蔵。塩飽屋岩吉・松島屋新七・竹嶋屋槌蔵

多度津 本町
多度津の町割り

角屋町(今の本通一丁目)、南町、中ノ町筋に70軒余りの問屋が立ち並ぶようになります。こうして多度津の街並みは、金毘羅街道沿いに南へと伸びていきます。

多度津の街並み
多度津本通りの街並み

これらの多度津の問屋中(仲間)の名前は、当時造られたのモニュメントにも残されています。
 弘化二(1845)年に落成した金刀比羅宮の旭社(当時金堂)の建立寄進帳に、多度津魚方中(926匁)と並んで「金二十一両寄進多度津問屋中」と名を連ねています。慶応二年(1866)藩主主京極高琢寄進の石灯籠一対の裏手石垣を奉納しています。

04多度津七福神


北前船の活躍した時代は、江戸時代後半から明治中期まででした。
明治に入ると西洋型帆船、明治中期以後になると汽船が参入するようになります。しかし、北前船を駆逐したのは鉄道でした。鉄道の全国整備が進むにつれて、北前船は姿を消して行きます。しかし、海運で蓄積した富を、鉄道や水力・銀行設立などの近代化に投資していくことによって、多度津は近代化の先頭に立つのです。
今回は、ここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌267P 北前船の出入りで賑わう港」
関連記事

多度津藩の湛甫築港と、その後の経済的な効果については以前にお話ししました。しかし、それ以前の多度津の港については、私にはよく分かっていませんでした。多度津町史を見ていると巻頭絵図に、文政元年(1818)石津亮澄「金毘羅山名勝図会」の多度津港の様子が載せられていました。今回は、この絵図で湛甫築港以前の多度津港を見ていくことにします。テキストは「多度津町史510P  桜川の港510P」です。多度津港については、江戸前・中期に関する史料がほとんどなくてよく分からないようです。
確かな史料は、「金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)に描かれた多度津港です。この絵から読み取れることを挙げておきます。
金毘羅名勝図会
金毘羅名勝図会 多度津町史口絵より

此津も又諸国よりの参詣の舟入津して、丸亀におなしく大都会の地にて、舟よりあかる人昼夜のわかちなし。湊は大権現祭場の旧地にして、磯ちかき所に影向の霊石あり。九月八日の潮川の神蔓、いにしへは此津にて務めしか、後神慮によつて、今の石淵にうつれり。されとも例によつて、此地より汐・藻葉を今もかしこにおくれり。又祭礼頭屋の物類いにしへの風を残して、此津よりつくり出す。其家を工やといふ。

  意訳変換しておくと
 多度津も諸国からの金毘羅舟が出入りして、丸亀と同じように、舟から揚がる人が昼夜を分かたず多く、繁盛している。湊は金毘羅大権現の祭場の旧地にあたり、磯に近い所に影向の霊石がある。九月八日の潮川神事は、古にはこの津で行われていたという。それが現在では金毘羅石淵に移された。しかし、今でもここで採った藻葉を金毘羅に送っている。又、祭礼頭屋で使う物類も古の風を残して、多度津で作られた物が使われている。その家を「工や」と呼ぶ。

①「多度津の港参拝舟入津」として、港の賑わいぶりと紹介する絵図であること
②手前には大型船の帆だけが描かれているが、港には着岸できず沖合停泊であること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)
       多度津港 金毘羅名勝図会の右側拡大部分

③桜川河口西側の堤防が沖に向かって伸ばされ、北西風を遮断する機能を果たしていること
④河口西側堤防の先端附近に高灯籠と港の管理センター的な役所が描かれていること
⑤河口から極楽橋までの桜川西側に小舟が停泊し、雁木(荷揚用階段)がいくつも整備されていること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」(1818)
      多度津港 金毘羅名勝図会の左側拡大部分
⑥桜川東側には接岸・上陸機能はないこと
⑦桜川河口西側の岩壁に沿って、金毘羅街道が南に伸びていること、その街道の背後に町屋が形成
⑧桜川河口東側の突端附近に金毘羅社が鎮座し、その前に白い燈籠が2つ建っている
⑨桜川河口東側は砂州上で、そこに陣屋が造営され、周辺に家臣住居が集まっていること
⑩金毘羅に続く街道の先にポツンと見える鳥居が鶴橋の鳥居?

この絵図からは1818年の多度津港は、桜川河口の金昆羅社から極楽橋にかけての西河岸に雁木が整備され小舟が接岸できる港湾施設であったことが分かります。これは多度津湛甫(新港)以前の絵図ですが、この時点で、すでに金毘羅参詣船や廻船などがかなり寄港していたことがうかがえます。
 私が分からないのは、陣屋ができるのは文政十年(1827)11月のことですが、それ以前に書かれたとするこの絵図に陣屋が書き込まれていることです。今の私には分かりません。
もうひとつ不思議なことは、多度津の街並みと背後の山々が整合しないことです。
例えば、多度津港背後の多度津山(元台)がきちんと描かれていません。そして、金毘羅街道が向かう金毘羅象頭山がどの山か分かりません。鶴橋鳥居のはるか向こうの山とすると、左側の山々が説明できません。多度津から南を望めば、大麻山(象頭山)と五岳が甘南備山として続きます。これがきちんと描かれていなということは、絵師は現地を訪れずことなく他人の描いた下絵に基づいて書いたことが考えられます。地元絵師の下絵に基づいて、有名絵師が「名勝図会」などを出版していたことは以前にお話ししました。

次に工屋長治によって描かれた「多度津湊の図」(天保2年(1831)を見ておきましょう。

「多度津湊の図」(天保2年(1831)
   天保2年工屋長治の多度津絵図

 1818年の金毘羅名勝図会と比較すると、つぎのような変化が見られます。

多度津絵図 桜川河口港
       天保2年 工屋長治の多度津絵図(拡大図)

①桜川河口東側が浚渫され広くなっている
②桜川河口東側の金毘羅社の先に着岸施設が新たに作られ、舟が停泊している。
③極楽橋周辺には、大型船も着岸しているように見える
④桜川河口西側の湾には、一文字堤防など港湾施設はないが、多くの舟が接岸せず停泊している
ここからは、①②のように桜川河口の東側にも接岸施設が新たに設けられ、③極楽橋まで中型船が入港できるように改修工事が行われたことがうかがえます。しかし、④にみられるように、河口外の西側湾内には入港待ちの舟が停泊しています。つまり、オーバーユース状態となって、入港する舟を捌ききれなくなっていたことがうかがえます。
 街並みも桜川河口を中心として、金毘羅街道沿いに北へと延びている様子が描かれています。

丸亀湊 金刀比参拝名所図会
丸亀藩の福島湛甫と新堀湛甫(讃岐国名勝図会)
多度津藩の本家である丸亀藩は、文化3年(1806)に福島湛甫を築き、入港船の増加に対応しました。
しかし、金毘羅舟の大型化が急速に進み、この湛甫では底が浅く、大船の出入りは潮に左右され不便でした。そこで天保3年(1832)に、第3セクター方式で新堀湛甫を開きます。これが金昆羅参詣客の定期月参船のゴールに指定され、参拝客が急増します。多度津藩も、金比羅参拝客の急増を黙って見ているわけにはいきません。そこで動き出したのが多度津の民間業者たちです。

 「藩士宮川道祐(太右衛門)覚書」には、多度津湛甫の着工までの経緯が次のように記されています。
そもそも、多度津の湛甫築造の発端は、天保五年(1834)
に浜問家総代の高見屋平治郎・福山屋平右衛円右の両人から申請された。それを家老河口久右衛門殿が取り次いで、藩主の許可を受けて、幕府のお留守居平井氏より公辺(幕府)御用番中へ願い出たところ、ほどよく許可が下りた。建設許可の御奉書は江戸表より急ぎ飛脚で届いた。ところがそれからが大変だった。このことを御本家様(丸亀藩)へ知らせたところ、大変機嫌がよろしくない。あれこれと難癖を言い立てられて容易には認めてはくれない。 
 家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。

この工事については以前にお話したので、建設過程や工事費捻出については触れませんが小藩にしては不相応の大工事で、本家様(丸亀藩)は、事前相談がなかったと終始、非協力的だったようです。
 
 暁鐘成編(弘化四年刊)「金毘羅参詣名所図会」には、次のように記します。
多度津湛甫 33
多度津湛甫 (金毘羅参詣名所図会)
   此の津は、円亀に続きての繁昌の地なり。原来波塘の構へよく、人船の便利よきが故に湊に泊る船著しく、浜辺には船宿、 旅籠屋建てつづき、或は岸に上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の担売、甘酒、餅菓子など商ふ者往来たゆることなく、其のほか商人、船大工等ありて、平生に賑はし。且つ亦、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。其の都合よきを以て此に船を待たせ参詣する者多し。

  意訳変換しておくと

   多度津港は、丸亀に続ぐ繁昌の地である。この港は波浪への備えがきちんとしており、潮待ち湊としても便利がよいので、湊に入港する船が多い。そのため浜辺には、船宿、 旅籠屋建が建ち並び、岸には上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の屋台、甘酒、餅菓子などを商ふ者の往来が絶えない。その他にも商人や、船大工らもいて町は賑わっている。さらに、九州ばどの西国筋の諸船が金毘羅参詣する時には、この港に着船して善通寺に参拝してから、象頭山・金毘羅大権現に登ることが恒例になっている。そのために、都合のいいこの港に、船を待たせて参詣する者が多い。

ここからは九州などの西国からの金比羅詣での上陸港が多度津であったことが分かります。
それを裏付けるのが安政6年(1859)9月、越後長岡の家老河井継之助の旅日記「塵壷」です。
塵壺

ここには金毘羅参詣で立ち寄った多度津のことが次のように記されています。
多度津は城下にて、且つ船附故、賑やかなり、昼時分故、船宿にて飯を食ひ、指図にて直ちに船に入りし処、夜になりて船を出す、それ迄は諸方の乗合、しきりにば久(博打)をなし、うるさき事なり、さきに云ひし如く、玉島、丸亀、多度津、何れも船附の杵へ様、奇麗なり。

意訳変換しておくと

多度津は城下町であると同時に、船附(港町)であるので賑やかである。昼頃に、船宿で飯を食べて、指図に従って船に入りって休息し、潮待ちする。夜になって、船を出す。それまでの間、乗船客が博打をして、うるさくて眠れない。先述したように。玉島、丸亀、多度津の港は、奇麗に整備されている。

慶応元年(1865)の秋から冬にかけ、京都の蘭医小石中蔵が京都~平戸間を往復しています。その帰途、多度津港に上陸、金毘羅参詣をしたときのことを旅日記「東帰日記」に、次のように記します。

多度津は、京極淡路様御城下なり、御城は平城にて海に臨む、松樹深くして見え難し、御城の東(西の間違いか)に湊あり、波戸にて引廻し、入口三か処あり、わたり二丁廻りあるべし、みな石垣切石にて、誠に見事也、数十の船此内に泊す、凡大坂西国の便船、四国路にかゝる、此湊に入る也、其船客、金毘羅参詣の者、みな此処にかゝる、此舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するよし、外舟にも此例多し。

   意訳変換しておくと
多度津は、京極淡路様の御城下である。お城は平城で、海に面している。松が深く茂り、その内は見えないが、城の東(西の間違い?)に湊はある。防波堤を周りに巡らして、入口が三つある。全町は、2丁(220m)はあろうか。堤防はすべて石垣切石にて、誠に見事である。数十の船がこの港内に停泊している。大坂から西国への便船で、四国路(備讃瀬戸南)を航行するほとんどの舟が多度津港に入港する。その内のほとんどの船客が、金毘羅参詣者である。この舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するという。外舟にもこの例多し。

これらの記録は、19世紀にあって多度津港が多くの船や金昆羅参詣船の寄港地としての繁盛しているようすを伝えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

IMG_0027
天保2年 工屋長治の多度津絵図(多度津町誌表紙裏)

参考文献      
「多度津町史510P  桜川の港510P」

 坂出市史上完成!3月16日販売開始 - YouTube
 今年の3月に販売開始になった「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島」を読んでいると『金毘羅参詣名所図会』の多度津港を描いた絵図に、船たで場が描かれていると書かれていました。この絵図は何度も見ているのですが、気づきませんでした。疑いの気持ちを持ちながら再度見てみることにします。
香川県立図書館のデジタルアーカイブスで『金毘羅参詣名所図会』4巻を検索し、33Pを開くと出てきます。
200017999_00159多度津港
多度津湛甫(港)(金毘羅参詣名所図会4巻)

①の桜川河口の西側に長い堤防を築いて、1838年頃に完成したのが多度津湛甫でした。これより先に本家の丸亀藩は、福島湛甫を文化三年(1806)に築いています。その後の天保四年(1833)には、金毘羅参拝客の増大に対応して新堀湛甫を築いています。これは東西80間、南北40間、人口15間、満潮時の深さは1文6尺です。
 これに対し、その5年後に完成した多度津の新湛甫は、東側の突堤119間、西側の突堤74間、中央に120間の防波堤(一文字突堤)を設け、港内方106間です。これは、本家の港をしのぐ大工事で、総費用としても銀570貫(約1万両)になります。当時の多度藩の1年分の財政収入にあたる額です。陣屋建設を行ったばかりの小藩にとっては無謀とも云える大工事です。このため家老河口久右衛門はじめ藩役人、領内庄屋の外問屋商人など総動員体制を作り上げていきます。この時の官民一体の共同体制が幕末の多度津に、大きなエネルギーをもたらすことになります。幕末の動乱期に大砲や新式銃を装備した農民兵編成などの軍事近代化を果たし、これが土佐藩と結んで独自の動きをする原動力となります。多度津藩はなくなりますが、藩とともに近代化策をになった商人たち富裕層は、明治になると「多度津七福人」と呼ばれる商業資本家に脱皮して、景山甚右衛門をリーダーにして多度津に鉄道会社、銀行、発電所などを設立していきます。幕末から明治の多度津は、丸亀よりも高松よりも文明開化の進展度が早かったようです。その原点は、この港建設にあると私は考えています。
多度津港が完成した頃の動きを年表で見ておきます
1829年 多度津藩の陣屋完成
1831年 丸亀藩が江戸の民間資金の導入(第3セクター方式)で新堀湛甫を完成させる。
1834年 多度津藩が多度津湛甫の工事着工
1838年 多度津湛甫(新港)完成
1847年 金毘羅参詣名所図会発行

絵図は、多度津湛甫の完成から9年後に書かれたもののようです。多くの船が湾内に係留されている様子が描かれています。
船タデ場は、どこにあるのでしょうか?拡大して見ましょう。

多度津港の船タデ場
多度津港拡大図
桜川河口の船だまりの堤防の上には、船番所の建物が見えます。ここからの入港料収入などが、多度津藩の軍事近代化の資金になっていきます。そして、その奧の浜を見ると現在の桃陵公園の岡の下の浜辺に・・・

多度津港 船タデ場拡大図

確かに大型船を潮の干満を利用して浜に引き上げ、輪本をかませ固定して船底を焼いている様子が描かれています。勢いよく立ち上る煙りも見えます。陸上では、船が作られているようです。周囲には用材が数多く並べられています。これは造船所のようです。ここからは、多くの船大工や船職人たちが働いていたことが見てとれます。これは拡大して見ないと分かりません。

タデ場 鞆の浦3
造船所復元模型

船たで場については、以前にお話ししましたが、簡単におさらいしておきます。
廻船は、杉(弁甲材)・松・欅・樫・楠などで造られていたので、早ければ3ヶ月もすると、船喰虫によって穴をあけられることが多かったようです。これは世界共通で、どの地域でもフナクイムシ対策が取られてきました。船喰虫、海藻、貝殻など除去する方法は、船を浜・陸にあげて、船底を茅や柴など(「たで草」という)で燻蒸することでした。これを「たでる」といい、その場所を「たで場」「船たで場」と呼んだようです。
タデ場 フナクイムシ1

船タデの作業工程を、時間順に並べておきます。
①満潮時にタデ場に廻船を入渠させる。
②船台用の丸太(輪木)を船底に差し入れ組み立てる。
③干潮とともに廻船は船台に載り、船底が現れる。
④フジツボや海藻などを削ぎ取りる
⑤タデ草などの燃材を使って船底表層を焦がす。
⑥船食虫が巣喰っていたり、船材が含水している場合もあるので、防虫・防除作業や槙肌(皮)を使って船材の継ぎ目や合わせ日に埋め込む漏水(アカの道)対策や補修なども同時に行う。
 確かに、幕末に描かれた多度津湛甫(金毘羅参詣名所図会)には、船タデ場と造船所が描かれていました。これを文献史料で裏付けておきましょう。
 摂州神戸の網屋吉兵衛の船タデ場の建設願書には、次のように記されています。
「播磨の最寄りの港には船たで場がなく、廻船が船タデを行う場合は、讃州多度津か備後辺まで行かねばなりません。その利便のためと、村内の小船持、浜稼のもの、または百姓は暇々のたで柴・茅等で収入が得られ、村方としても利益になります。また、建設が決まれば冥加銀を上納いたします。」

 ここからは次のようなことが分かります。
①播州周辺には、適当な船タデ場がなく、多度津や備後の港にある船タデ場を利用していたこと
②船タデ場が地元経済にとっても利益をもたらす施設であったこと
播州の廻船だけでなく瀬戸内海を行き来する弁才天や、日本海を越えて蝦夷と行き来する船も多度津港を利用する理由の一つが有力なタデ場を保有港であったことがうかがえます。

 以前にお話ししましたが、タクマラカン砂漠のオアシスはキャラバン隊を惹きつけるために、娯楽施設やサービス施設などの集客施設を競い合うように整備します。瀬戸の港町もただの風待ち・潮待ち湊から、船乗り相手の花街や、芝居小屋などを設置し廻船入港を誘います。
船乗りたちにとって入港するかどうかの決め手のひとつがタデ場の有無でした。船タデは定期的にやらないと、船に損害を与え船頭は賠償責任を問われることもあったことは廻船式目で見たとおりです。また、船底に着いたフジツボやカキなどの貝殻や海藻なども落とさないと船足が遅くなり、船の能力を充分に発揮できなくなります。日本海へ出て行く北前船の船頭にとって、船を万全な状態にして荒海に漕ぎ出したかったはずです。

  タデ場での作業は、通常は「満潮―干潮―満潮」の1サイクルで終了です。
しかし、船底の状態によつては2、3回繰り返すこともあったようです。この間船乗りたちは、船宿で女を揚げてドンチャン騒ぎです。御手洗の船宿の記録からは、船タデ作業が長引いているという口実で、長逗留する廻船もあったことが分かります。「好きなおなごのおる港に、長い間おりたい」というのが水夫たちの人情です。御手洗が「おじょろぶね」として栄えたのも、タデ場と色街がセットだったからだったようです。
 船の整備・補修技術や造船技術も高く、船タデ場もあり、馴染みの女もいる、そんな港町は自然と廻船が集まって繁盛するようになります。そのためには港町の繁栄のためには「経営努力」と船乗りたちへのサービスは怠ることができません。近世後期の港町の繁栄と整備は、このようなベクトルの力で実現したものだと私は考えています。
新しく完成した多度津港の繁盛は、タデ場の有無だけではなかったはずです。
それはひとつの要因にしか過ぎません。その要因のひとつが金毘羅信仰が「海の神様」と、ようやく結びつくようになったからではないかと私は考えています。つまり、船タデのために入港する廻船の船乗りたちも金刀比羅詣でを始めるようになったのではないでしょうか。
 金毘羅神は、もともとは天狗信仰で修験者や山伏たちが信仰し、布教活動を行っていました。そのため金毘羅信仰と「海の神様」とは、近世後半まで関係がなかったようです。よく塩飽廻船の船乗りたちが金毘羅信仰を全国の港に広げ、その港を拠点に周囲に広がっていったというのは俗説です。それを史料的に裏付けるモノはありません。史料が語ることは、塩飽船乗りは摂津の住吉神社を海の神様として信仰していて、住吉神社には多くの塩飽船乗りの寄進燈籠が並ぶが、金刀比羅宮には塩飽からの寄進物は少ない。古くから海で活躍していた海民の塩飽衆は、金毘羅神が登場する前から住吉神社の信者であった。
 流し樽の風習も、近世に遡る起源は見つからない。流し樽が行われるようになったのは、近代の日本海軍の軍艦などが先例を作って行われるようになったものである。そのため漁師達が流し樽を行う事はほとんどない。
 いろいろな所で触れてきたように、金毘羅神は近世になって産み出された流行神で、当初は天狗信仰の一部でした。それが海の神様と結びつくのは19世紀になってからのようです。そして、北前船などの船乗りたちの間にも急速に信者を増やして行くようになります。そこで、船タデのために寄港した多度津港で、一日休業を金比羅参りに宛てる船乗りが増えた。船頭は、金比羅詣でのために多度津港で船タデを行うようになったと私は想像しています。これを裏付ける史料は、今のところありません。
「好きなおなごのいる港に入りたい」と思うように、「船を守ってくれる海の神様にお参りしたい」という船頭もいたと思うのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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多度津藩紋

多度津藩の初代京極高通は、正徳2年(1713)二年四月十九日に、将軍徳川家宜から多度津領知の朱印状を授けられます。このときが多度津藩が名実ともに成立したときになるようです。幕府からの朱印状の石高は次のようになっています。
       公儀より京極高通への御朱印状          
讃岐国多度郡之内拾五箇村三野郡之内五箇村
高壱万石(目録在別紙)事充行之屹依正徳之例領知之状如件
享保二年八月十一日
  京極壱岐守どのへ
2多度津藩石高

   ここからは多度郡の15村と三野郡の5村の20村でスタートしたことが分かります。そして石高はぴったし1万石です。家臣の数は91名の小藩でした。その家臣団をサラリーで階層化したのが下の表です。 
2多度津藩kasinndann
10俵は二石五斗ですから、家老などの重役4人でも、100石に届かないことになります。また、石高層が一番多い10~19俵が46名と、約半分です。宗家の丸亀藩に比べると給料面では見劣りがします。分家の悲哀が感じられます。給米額が10俵以下の下級家臣団をもう少し詳しく見てみましょう。
2多度津藩k下級家臣団asinndann
多度津番・蔵付・下横目・代官手代などの下級家臣は、苗字も持たない軽輩層が担当者になっていること。
大庄屋が家臣団のなかに位置づけられていること。
 例えば多度津番の仁兵衛の場合、給米わずかに10俵という禄高です。これは二石五斗ですから、これで一家の生計を支えることは出来なかったはずです。そのために生計の途(本業?)は、他にあったとおもわれます。「サイドビジネス」を持っていたのでしょう。
 一方、伊兵衛と与三兵衛は大庄屋でありながら三人扶持が与えられています。この役職は多分に、豪農層への名誉職的なものであったと考えられます。もともと小藩の数少ない家臣団を、補完(水増し)するために、豪農や富商が家臣団に登用されたようです。また、多度津藩は陣屋町経営にも豪農・豪商・中間知識層などを登用しています。
 藩による陣屋町経営に参加していた人名を抜き出すと、次のようになります
庄屋の塩田武兵衛、塩田周兵、
大年寄には草薙伝蔵、藪内彦兵衛、岩田理兵衛、
元締には庄屋の控えで補佐役の小国嘉兵衛が、
地方には浜口屋甚兵衛、三井屋次吉がいずれも屋敷調べに当たり、
町役人として小国兵吉、塩田武兵衛、吉田勘兵衛、香川理右衛門、香川理吉、瀧本文左衛門が、
その他に御殿医四人、町医者二人、手習師匠三人、町道場主二人
これらの町人層にも何らかの役割が与えられていたようです。

 行政面や町方経営に裕福な町人層・知識人が家臣として加わる体制は、これは時代を経るに従って藩と豪農・富商層の密接な関係を深めていく結果になります。これをプラス面から見れば、藩と地主や大商人層の垣根が低く官僚集団として一体化していくことになります。幕末の多度津藩の「陣屋+新港+軍隊の近代化」という小藩のチャレンジを可能にする原動力は、ここから生まれたのではないかと私は考えています。
多度津藩の『五人組帳』から見えてくるものは?
 江戸時代の村支配の最少単位は五人組制度でした。多度津藩の『五人組帳』には、藩の勧農・貢納・農民支配・訴訟など13か条におよぶ政策方針が示されています。その主要部分を見てみましょう。
     差上申一札之事
一 御支配人、添役衆惣て御家中迄名主百姓に対し、依恬聶負御座候義、又者少分たりとも非分成義御座候ハ無拠可申上事
一、御年具(年貢)皆済不仕以前二他所へ米出シ申間敷候、
  若シ能米売替悪米を御年貢二納申候ハ 当人者不及申、
  名主五人頭迄も何様之曲事二も可被仰付候 弁御年貢御蔵入いたし候、あら紛無之様二米拉致シ、繩俵拉二て諸事御定之通り入念御蔵入之時分 御支配人より被御渡候庭帳二付、還納主銘々判形致可置申事         
一、男女二不依、欠落もの郷中へ参候ハ押置早速可申上候、
  猶以先々により構有之由届有之者、早速寄合吟味いたし申上得と御下知可申事、
 (中略)
一、惣而家業を専一相勤、親二孝行、主人二忠を尽し、師匠又者老たる人を敬い、物毎于に心を合せ村中区々二無之取締行届候様取計.貧民を憐救い奇特之もの早々可訴出事、
  右之通此度申渡候間、五人組前書一同月々読諭シ、悪事二不移善道二導候様心掛、可若違背致候もの有之者、当人者不及中組合村役人迄急度可被仰付もの也
  天保七申年
 多度津藩でも村落支配構造は、大庄屋→庄屋→組頭→五人頭→五人組という系列であることは変わりありません。五人組を最末端組識とし、さらに五組、二五戸で大組を形成し、この大組から五人頭を出します。大組はまた四組、約100戸の組織体として、その代表者を組頭に選出して、庄屋を助けることになっていました。
 五人組は、年貢を納める際の連帯責任体制として組織されたものですが、同時に農民にとっては、小農経営を維持するための共同体としての役割もあり、彼らにとってこの組織を離れて生きてはいけません。
 『差上申一札之事』のポイントを挙げると
①年貢を全て納める前に、産米の売買を禁じていること
②上納の際に、能米(良質米)を売却し、悪米(廉価米)を買入れて上納し、その差額を得るような行為を禁じていること。これは、良質米を全て年貢として納めさせることで、最大の商品である蔵米を、大坂市場に売却し、逆に大坂において廉価米を買入れることを藩の手で行い利潤を独占する意図があったようです。うまくて良い米は売って、安い米を買って領民には食べさせていたということになります。
③領民の欠落(没落)を防ぐために、欠落者の処置についての規定があり「牛濤により構有之 由届有之者、早速吟味いたし申上得御下知可申事」と処置策が示されています。対策がされているということは、逆に言えば、農民の離散・逃散が頻繁にあったことを物語ります。
④農民の村共同体での結びつきの強化を進めると同時に、農民層の両極分解が進むなかで、貧民救済や相互扶助についても触れられています。そのうえで、村役人の職務分担と村落内において処理できない問題については、より広域の組合村落によって解決をはかることが命じられています。
⑤この触書は、毎年正月に実施される宗門改めのとき村役人が読み聞かせ、その遵守を誓約させたのち、署名押印させていたようです。五人組を最小単位にして、村共同体のネットワークの中に囲い込んでいたことが分かります。
ところで、多度津藩の人口はどのくらいだったのでしょうか。
 幕末期の多度郡十四か村の戸数・人口は次の表のとおりです。
2多度津藩人工

多度郡15ヶ村の戸数は2419戸、人工は一万人足らずです。これに三野郡の5ケ村が加わります。領内で人口が突出して多いのは多度津です。
多度津への人口集中の背景には、
①陣屋建設に伴い藩主が丸亀から引っ越してきたこと、
②湛甫(新港)築造と、その後の経済的な発展
③それにともなう周辺からの人口流入
などが多度津の人口集中現象の要因と考えられます。どちらにしても、幕末の多度津や金比羅は経済的な好景気に沸いていたようです。その景気の過熱はインフレと米価高騰を招きます。天保四年(1833)に多度津陣屋町で発生した米の買占めに反対する打ちこわし米騒動は、天領の琴平門前町にも波及します。
  当時の多度津家中の記録には、次のように記されています。
 姫路一揆に引続、多度津一統に一揆して、米買占の者二軒を打潰し、又金比羅にも五千人計浪人共大勢其中へ打交り、屯をかまへ大に騒動に及びぬるゆへ、江戸表へ両度まて早打にて注進せしと云。されとも格別の大変にも及はすして漸々と取鎮めしと云。家老始め一家中大うろたへなりと云噂なりしか如何なる事にや其実を知らす。
ここからは次のようなことが分かります。
①二軒の米を買占めた商人が打ちこわされたこと。
②琴平など他領にまで波及しているという事実。
③この打ちこわしが、藩に大きな動揺をおこさせたこと。
江戸にいる藩主に二度早打ちを出し、その下知を仰がねばならなかったことからも、大きなショックを与えたことがうかがわれます。
この打ちこわしの主体となったのは、周囲の農村から流入した根無し草の人々だったのかもしれません。このような中で、多度津藩は翌年に湛甫築港を着工させます。どうしてこのような時期に?と疑問が沸くのですが、研究者は「大量流入した労働者に仕事を与え救済するための公共事業を起こす必要」があったと考えているようです。天保期の多度津藩が民衆暴動のたかまりと広がりに、危機感を持って対応していたことがこの史料からは分かります。

多度津藩の郷村石高の変化を見てみましょう
2多度津藩石高変化

宝暦十年(1760)と左から3番目の嘉永元年(1848)の石高を比較して、88年間における石高増減見てみると
①石高が減っているのは三か村のみで、他の11か村は増えています
②この背後には多度津藩の新田開発の成果がうかがわれます。
③別の見方をすると収入増のために、打直し検地が実施されたのかもしれません
それにしても、藩の勧農政策による一定の成果とも考えられます。村は疲弊していません。
例えば明治三年(一八七〇)の諸品目に対する課税率一覧表にが、以下の品目が記されています。
   生綿、繰綿、篠巻、綿実、小麦、大豆、胡麻、荏胡、麻油
   麦、味噌、鍛冶炭、婉豆、蜜.葉藍、蚕豆、黍、大角豆、菜
   種、藁麦、稗、種油、粟、醤油.米売粕、葛篭、白油粕、
   酢、米、白下砂糖、佐伯取粕、菅笠、網代笠、木綿、白砂糖、繩、芋、
 ここには37品目の農産物および農産加工品があります。この他にも32品目の手工業品も挙げられていて、その多様性には驚かされます。小さな藩でも商業作物が想像以上に数多く栽培されています。これが次の時代を切り開いていく潜在能力になります。ここからは当時の多度津藩の農業生産性は、高水準にあったことがうかがわれます。
多度津藩の新田開発は灌漑・水利事業がポイント
 讃岐は雨が少なく旱害を受けやすい所です。そこで讃岐は、江戸時代になると平野部でも溜池濯漑が整備されてきました。多度津藩でも溜池築造と、その運用は藩政上でも大きなウェイトを占めていたようです。
新田開発による石高増加のパターンを、葛原村で見てみましょう
 旧金倉川の伏流水が流れると言われる殿井は水量が豊富な出水です。今でもこの周辺には清酒金陵の多度津工場があり、美味しい水をつかって酒造りが行われている所です。殿井の出水は大木15町歩が水掛りで、多度津藩政初頭には開かれていたと云われます。それまでの葛原村は旱魅の常習地だったようです。
『讃岐のため池」には次のように記されています。
ある時、八幡の森に清水がわき出ているのを見て、これを水源にと堀を掘らせたのが、いまの殿井、かっては八幡湧と呼ばれていたとか(中略)
 やがて旅寵ができ、茶店が出、湯屋まで出現して、宿場としてにぎわいを見せた。森の西側には千代池、中池、佃の四つの池があり、その総面積が八町歩あった。
このため池群の整備をすすめ新田を拓いていったのは、近世初頭に安芸からやって木谷家であったことは以前述べました。木谷家が築造した上池は水掛り約二八町歩、千代池が約五〇町歩、買田池が五四町歩というように、殿井の開かれたことによって、約一三〇町歩の水掛り区域をもつようになり、葛原村の新田開発は、その後に急速な進展を見せます。これが藩が出来てわずか半世紀で26%の新田高増となる原動力となっているようです。
 多度津藩は天領の満濃池修築への人夫派遣要請にも、さまざまな理由をあげて断ることが多かったようです。それは満濃池の水路から一番遠いエリアに当たる多度津藩までは、水が充分に供給されないことの方が多かったからのようです。それが素直に労働力を提供できない理由のひとつでした。そのためにも自前のため池群の整備が急務でした。

最後に多度津藩の農民負担について、見てみましょう
三野郡の『大見村細見目録写』には次のような記録が残っています。
高弐百九十七石八斗八升三合五勺
一、弐拾壱町八反九畝拾四歩
          本村免五ッ三歩
  御物成 百五拾七石八斗七升弐合三勺
高百四拾弐石弐斗六合
一、拾壱町八反五畝廿歩
          竹田免五ッ五歩
  御物成 七拾三石三斗四升五合壱勺 高三拾七石八斗壱升七合
一、三町八反弐拾三歩
          浜免四ツハ歩
  御物成 拾八石壱斗五升弐合五勺 高八拾九石三斗弐升七合五勺
一、七町壱反四畝廿四歩
          上免四ツ九歩
          原村
          下免四ツ九歩
  御物成 五拾弐石四斗八升四合九勺
高/五百六拾九石弐斗三升四合
畝数 四拾四町七反廿壱歩
御物成 三百弐石六升六勺
天保二年(1832)の大見村の本村に課せられた本途物成の年貢率は、五ッ三歩=53%で、竹田村が55%、浜村が48%であったことが分かります。課税は、これだけではありません。他に小物成・高掛物・夫役の賦課額が加わります。それを考えると、当時の多度津藩の農民には極めて高いの貢租賦課率が課せられることが分かります。
 天保年間に行われた湛甫(新港)築造という大事業は、農民に対してこの負担の上に臨時の国役賦課がかけらたことになります。これは農民にとっては、重税の上の増税とも言えます。数字上では、これ以上の増税を実施することは無理な状況です。農村への課税強化をこれ以上行うことができなかったことが、ここからはうかがわれます。
 軍備近代化のための資金捻出を多度津の商人達に頼らなければならなかった背景が見えてきます。
参考資料   三好昭一郎 多度津藩政の展開と幕末期の経済基盤 幕末の多度津藩所収
                                     


 多度津は早くから小銃を核とする歩兵編成への転換を行ってきましたが、長州征伐における奇兵隊の活躍に学んで農民からの志願制の農兵組織の編成に動きます。これが赤報隊と呼ばれた農民兵たちです。
 赤報隊の募兵状況を見てみましょう。
 大見村の場合村内で応募したのは次の11人です
「小畑惣兵衛・三好初治・横田大蔵・藤田粂蔵・横田茂市・三好勝之丈・藤田文治・佐藤信治・佐藤半之助・則包万助・森綱造」
神田村(現三豊市山本町)の場合には、
地主や富農の子弟からえらばれ、集団行動を中心とする西洋式戦術によって訓練され、戦闘力も大きく、海岸防備や一揆の鎮圧、さらに維新期の朝廷軍に協力してあなどり難いものがあった。神田から岩倉六二(伍長)・長谷川一二(同)・細川保五郎・岩倉角治・山下品治・森利吉・穐山重吉・石川春治・大西雪治の九名が志願」
と山本町史に記されています。隊員は詰襟服と帽子、そして小銃が支給されました。全体では50人規模の編成だったようです。
 次の辞令で赤報隊の性格や隊員の待遇の一端を知ることができます。
  其方儀 此度赤報隊二差加、依之在隊中扶持二人笛字帯刀差許シ 藩籍二差加者也 
 隊員は在隊中に限って二人扶持が支給され、苗字帯刀の特権が許され「新足軽」という身分に格村けされ「藩版」に加えられたようです。隊員が支給された扶持米は、一日玄米一升になりますから、二人扶持は玄米二升で年間に七石三斗の玄米支給となり、藩の全隊員への支給総額は365石にのぼったという計算になります。これも小藩にとってはかなりな財政負担となったはずです。
 赤報隊の隊員を送りだした村サイドから見れば、
①「農家の過剰人口対策」として口減し
②玄米収入の道であり、
③士籍を得るための絶好の機会
という「一挙三得のいい就職先」という認識があったようです。
 他方、藩サイドからすれば、
 新歩兵銃隊の編成を農民で行うことによって小藩の藩士不足=兵力不足を打開することができます。また、先ほど述べたように武士達は単独で戦うことを訓練されており、集団密集訓練や「鉄砲足軽」を嫌がる風潮があり、はっきり言うと不向きでした。農民出身者を鍛えた方がものになるということを長州の高杉晋作は奇兵隊で実証したのです。これに学ばぬ手はありません。従来の軍事力を補完し、農民出身者を小銃隊として編成するメリットはいくつも挙げられます。
 あらたに赤報隊を組織したので、小銃が足りなくなります。多度津藩が慶応期において、大量の小銃買付けに走った理由のひとつはここにありました。赤報隊のための小銃購入だったのです。ちなみに赤報隊のためのミニエー銃60丁は千両の支出で藩予算の支出総額の3割半にあたります。
 赤報隊に初出動が命ぜられたのは、慶応四年(1868)の高松征伐のときです。
高松藩は、同年正月五日に鳥羽伏見で官軍と戦って朝敵とされ、藩主松平頼聡は官位を剥奪され、京都と大坂の藩邸も没収されます。同十七日に土佐藩士片岡健吉率いる土佐郡が丸亀城下に到着し、高松征伐の勅命を伝達します。そこで一九日には丸亀藩200人、多度津藩50人が先鋒として高松城下に向かいます。このときの多度津藩の兵員が多度津藩大目付服部喜之助に率いられた赤報隊でした。
 征討軍を迎えた高松藩では、すでに朝廷に恭順の意を表していて、19日には高松城を開け渡し、浄願寺に謹慎していました。丸亀・多度津両藩の征討軍は、石清尾山に布陣しますが、戦う意志がないことを確認し、土佐藩とともに高松城を受取り、21日には多度津に引揚げています。赤報隊の「戦歴」はこれだけです。彼らのその後は、どのようになったのでしょうか。それを語る史料にまだ出会えていません。
 赤報隊が50人編成で、その規模は小さい部隊です。
しかし、奇兵隊と比較してみると長州藩は37万石で1500人程度の組織だったとされます。これは一万石で40人弱の規模になり、多度津藩と変わらない隊員数になります。その扶持米と小銃調達に伴う支出額も、決して軽いものではありません。多度津藩の兵制改革の積極性を示すものとみることができます。
 しかし、長引く「戦時予算」で軍事支出は増大し巨額の借金が増え続けます。
 慶応四年(1868)5月付の「御軍用御入目請払帳」から多度津藩の軍費会計の収支決算書を作成すると次のようになります。
この決算額約一万三千両というのは、当時の江戸の米相場に換算すると米一石は金で約四両となるようです。多度津藩が慶応四年にミニエー銃をはじめ火器購入のために支出した代金は、石高に換算すると約3250石となります。これは藩石高の33%になります。
 慶応四年人金額一覧表を見ると、藩の元方、吟味方、元方よりの入金の下に、湯浅為八、木谷綱輔、木元茂三郎、岡栄治、佐藤栄助、大塚茂佐衛門、大塚新太郎、和泉屋源助など人名が並びます。これは多度津の商人からの献金によって調達された資金のようです。ここからは藩財政が地元の有力な商業資本からの支援なしでは立ちゆかない状況がうかがえます。ここにも天保期の湛甫(新港)修築という藩運を傾けた大事業が、地元商人たちの利益につながり、それを契機とし多度津藩の兵制改革にも支援協力をおこなっている姿が垣間見えます。

次の表は軍事装備費の支出状況を費目別に整理したものです。
総額12689両余の内訳は、
銃砲購入代金として、大砲・小銃に  1289両
大岡藤左衛門へ             65両
江戸・横浜への小銃支出       5193両
その他の小銃代            387両
以上の合計額が           6934両
それは年間支出総額の53%にあたります。これ以外にも弾丸・雷管・火薬類に1722両が支払われています。鳥羽伏見の戦いによる「戦時予算」であったとは言え、軍備充実政策が藩財政を破綻に追い込んでいることが分かります。多度津藩という一万石の外様小藩が、その財政規模や藩政機構の限界を無視して行った兵制改革の顛末がここに現れているようです。

 時代を先取りし、その実績を持って新政権のなかで一定の地位を占めようとした多度津の狙いは小藩にもかかわらず幕末に独自の軌跡を残しました。しかし、藩の経済力をはるかに越えた軍事支出は、大きな負債となり破滅的状況を迎えます。多度津藩は、明治4年の廃藩置県を待たずに、新政府に対して廃藩の認可を求める上奏をしなければならない状況においこまれます。
 しかし、藩主は去っても地元資産家は残ります。
そして、幕藩体制の桎梏から解き放たれ商業資本家から産業資本家へ変身を遂げ、西讃地方の近代化のトレッガーとなっていきます。それが「多度津七福人」と呼ばれる資産家達です。その若きリーダとして登場するのが景山甚右衛門なのでしょう。

参考文献 三好昭一郎 慶応期外様小藩の兵制改革   讃岐多度津藩の小銃政策をめぐって 

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  幕末に、1万石の小藩が年収の何倍もの資金を小銃を買うために支出し、鳥羽伏見の戦いで薩摩軍と共に幕府軍と戦い勝利します。これが多度津藩です。丸亀藩や高松藩が太平の眠りの中で動こうとしなかったのに、小藩の多度津藩は、なぜ狂気のような軍隊の近代化に邁進したのでしょうか。
 多度津藩の軍事改革への積極的な取り組みは、四代藩主高賢に源がありそうです。
彼は若くして藩主となると、丸亀藩からの自立・独立を目指して陣屋建設にとりくみました。同時に、藩の将来に対する布石をいろいろと打っています。
 『古田流大奥秘之書』によると、宝暦八年(1758)に二百目御筒と同稲妻筒を財田上之村で鋳造し、試射しています。文化二年(1805)には、藩士を長崎に派遣して高島秋帆の門下で西洋流砲術を学ばせています。そして、その年の9月1日には、白方村と堀江村で藩主高賢が見守る中で同筒の早打乱打が行わたと記されています。ここには、小藩であるがゆえの軍事力の限界を、砲術の導入によって補強しようとする若き藩主のねらいが読み取れます。 多度津藩は、本家の丸亀京極家からの自立のために陣屋や多度津新港を建設し、経済的な成長をはかりながら「軍事技術の近代化」にも取り組んでいたようです。
多度津の兵制改革が本格化するのは、ペリー来航以後です。
その藩軍制の再編成と砲術訓練を見てみましょう 
 黒船来航より5年前の嘉永元年(1848)には、多度津は越後流兵式の一隊を編成します。これが時代遅れなのに気づくとオランダ式に、さらにイギリス式に編成替えをするなど時代の流れを捉えています。安政五年(1858)9月に、大坂の御用商人米屋佐助は多度津藩に新式のモルチール銃を献上します。この銃の性能の良さを知った多度津藩は、小銃調達に力を入れるようになり、歩兵主体の戦闘組織への編成に着手していきます。
 さらに文久二年(1862)1月25日から白方で大砲鋳造がはじまり、2月7日に試射されています。
指揮にあたった砲術方の富井泰蔵は、『西洋流砲術見聞録』に次のように記しています。
「二月七日、白方土壇に於て六斤此度鋳造御筒試し打ち、ショウエンギ三度目凡そ七丁、強薬三百五拾匁、七発打つ。コロスも入れる。鉄丸製実丸の六斤弾丸一つに付代料凡そ十匁づつ也、加濃砲」
同四年二月一九日見立山に於て新六斤加濃砲二挺(三原出来)試し打ち七丁場、林家連中これを打つ、十一放、矢倉三度強二寸歩これあり、打薬百六拾匁又百八拾匁、右あとにて十三寸弱臼砲(新規装造三原出来)試し打ち、四五度、満薬、百七拾匁、強百九拾匁」
など、 鋳造された大砲の試し打ちが白方で何度も行われ、これを藩主も見守っています。
(1863)7月8日にの記録には次のように記されています。
「御丁場に於て大砲方へ 此度より毎月塩硝二貫目宛御下げ下し置かれ、六月分より受取り、一、二、三番へ三ッ割り一組六六六匁六分六厘也、右を此度一、二番一所に致し都合一貫三三三匁三分二厘也、打薬十発分一貫三〇〇匁掛り筒払薬にいたす」
   ここからは大砲方の本格的な演習が始まり、六か月分の火薬が一度に現場に渡されています。 このような多度津藩の兵制改革(兵制の近代化)は、ひろく藩外から注目されていたようです。多度津藩の大砲方一番組を率いていた富井泰蔵の記録だけでも、他藩の砲術家が何人も来藩して砲術訓練に参加しています。そして、その訓練の様子を、藩主もやってきて見守っていたようです。当時の藩主は京極高典です。彼が先頭に立って、家老を筆頭に砲術研究をさせ、自ら大砲の試射に立ち会うなど、積極的な軍備強化策を進めていたことがうかがえます。
   多秋山秀夫氏は、「多度津の家中屋敷は語る」(文化財報17号)で、丸亀藩と多度津藩の軍事政策に比較し次のように述べています。
「双方の重臣たちの時代感覚がちがいます。
丸亀は保守派が枢要を占め勤王派を圧迫し、武備も旧来の山鹿流を主体とする編成です。多度津藩は高島秋帆の流れを汲む洋式で。最終時にはフランス流からイギリス式という吸収の早さです。鉄砲も本藩を出し抜いて、直接に横浜五十五番館で購入していました。
 殿様が多度津に居館を移してから39年目です。このような事態を心配していたのか、時の丸亀藩主高朗は、その娘豊姫を高琢に嫁にやって百数十年の兄弟の交りを、今度は親子として親しみを復しています。このような心づかいも世の流れ故なのか判らない間に、両家の意志を疎外するような現象がつぎつぎに起きるのは不思議です
 多度津藩が宗藩の不安を無視して、積極的な兵制改革を推進した背景に、丸亀藩からの干渉を抜けだし、己の自立をめざしての富国強兵策であったことが、ここからも窺えます。

多度津藩の大砲を主体とする兵制改革が、小銃を主体とした歩兵編成に切替えられるのは慶応年間に入ってからです。
その要因を2つ挙げておきます。
 多度津藩は、一万石小藩にしては「小粒で精鋭の実力」を持つ藩と高く評価されるようになり、これが本家の丸亀藩を出し抜いて朝廷への軍役の一端を担う道を開きます。元治元年(1864)11月に、朝廷は、京都御所日御門の警衛警備を命じます。多度津藩の小隊は上京し、薩摩など部隊と共に御所警備の任に就き行動を共にすることになります。この時に培われた経験やネットワークは、その後の多度津藩の動きに大きな影響を与えることになります。また、小銃小隊の充実整備が多度津藩にとって急務であることを身を以て経験する場にもなったようです。
 もう一つの要因は多度津港に入港してくる幕府や雄藩の軍艦です。
改修された多度津港は、水深もあり当時の大型艦船の入港には、丸亀港よりも適していました。そのため雄藩が買い入れた西洋式軍艦が、相次いで多度津港に入港するようになります。例えば文久三年(1863)12月5日には、佐賀藩の軍艦二隻が多度津沖合に停泊します。この時には多度津藩士が乗艦見学する機会を得ています。慶応元年(1865)7月15日にはイギリス軍艦が入港しています。
 そして、翌年正月には長州征伐のために将軍御召艦順徳丸が多度津港に入港します。江戸幕府が威信をかけて購入した軍艦の艦上に上がる体験した指導者達は、その近代兵器の威力や指揮系列などに大きな刺戟を受けたはずです。ところが幕府軍は敗れます。長州での勝敗を左右したのは、軍艦でも大砲でもなく、小銃を持った庶民編成の小編成部隊だったのです。戦後の軍事分析はすぐさま多度津にも伝わります。これから整備すべきは歩兵小銃部隊と全国の砲術家たちは考え、藩主や重臣に提言します。そして、各藩は一斉に小銃買付に走ります。
 長州征伐失敗後の幕末威信の失墜についても、リアルな情報が次々と多度津港にはもたらされます。小藩で風通しもよく、藩士たちの意思疎通も行えていたので、藩論は、急速に尊皇討幕の方向へとまとまっていきます。ここで多度津藩も小銃買付に動きます。多度津藩が丸亀藩などと比べて有利だったのは、すでに独自の買付ルートを持っていたこと、そして小銃歩兵の組織編成が出来ており演習なども行ってきていることです。
 かつて、藤沢周平原作で山田洋次監督の時代劇3部作の「鬼の爪」で、維新間近の東北のある藩での小銃歩兵訓練の様子を描いていたのを思い出します。砲術指南が雇われてやってきて武士達を歩兵として使おうとしますが、なかなかうまくいかないのです。隊列縦隊行進をさせようとすると嫌がる、早駆けを命じてもすり足でしか走れない。武士の作法と流儀は、なかなか歩兵には向かないことをさりげなく描いていました。
 多度津藩には、すでに歩兵はいたのです。後は新式銃を買い求め与えるだけです。
多度津藩の慶応二年(1866)の小銃大量買付け
当時の日本における兵器市場を見ておきましょう。長崎のグラバー亭が武器市場の中心であった時代は、すでに終わっています。慶応期に入ると、とくに横浜・兵庫からの小銃購入が中心になります。まず幕末期における横浜貿易と小銃輸入の状況について見ておきましょう。
1ゲベール銃2
 当時は旧式になっていたゲベール銃
横浜貿易の輸入品目の中で、長州征伐前後の元治元年(1864)以降は、幕府や諸藩が争うように兵器を購入するので、小銃の需要は高まるばかりで輸入量はうなぎ登りに増えます。
1864年、11568挺で約12万ドル
1865年 56843挺で約85万ドルへ
と数量で四倍、輸入額で7倍の急激な増加ぶりです。ここには戊辰戦争の接近を感じて各藩の準備が進んでいたことがうかがわれます。
 戊辰戦争突入寸前の小銃の国際マーケットでの評価は、次のようなものでした。
①最も旧式ゲベール銃クラスは、ただ同然でも良いから欧米諸国は売り払いたかった。
②南北戦争終了後、不要なエンフィールド銃を大量に持つ米国は大口の購入先を探していた。
③新型後装式銃は、スナイドル=薩長、シャスポー=幕府、のルートで情報を保有。
④最新式小銃は先覚的諸藩のみ情報を把握して購入を模索していた。佐賀藩入手
 極東の小国日本の動乱は「死の商人=武器輸出業者」にとって旧式銃器、余剰銃器の供給先として注目を集めます。欧米では余った銃器が、ミニエー銃18両、エンフィールド銃が40両、旧式のゲベール銃でさえ5両で売れたのです。
1ミニエー銃FAGUN0002

 ミニエー銃(後込・ライフル)
 新旧取り混ぜての世界中からの銃器の売り込みを前にして、諸藩指導者の見識レベルが大きく作用します。火縄銃とそう変わらない①の1670年のフランスで開発された旧態依然たるゲベール銃を安価で購入して主力装備とした諸藩もあれば、最新鋭の④のスペンサー銃を装備したのが佐賀鍋島藩です。その結果、戊辰戦争は戦国時代以来の火縄銃から旧式のゲベール銃、普及型のミニエー、スプリングフィールド、エンフィールド銃、新型のスナイドル、ドライゼ、シャスポー銃、加えるに最新型のスペンサー銃まで世界中の「新旧小銃の試験場」となったと研究者は指摘します。

1戊辰戦争『会津藩使用 イギリス製 エンフィールド・ミニエ
 鳥羽伏見の戦いの段階では、佐幕派の会津藩はミニエー銃を薩長両藩はミニエー銃の英国バージョンのエンフィールド銃を主として戦っています。双方の小銃共に②の先込式ライフル銃なので銃器の性能的には大差が無かったようです。
1スペンサー銃
最新式のスペンサー銃
多度津藩が買付けたのはフランスのミニエー小銃、ゲエベル小銃、ヤアゲル小銃、カラパン小銃、ピストルなどだったようです。
小銃一挺当り価格は一丁13~15ドルで輸入されたものを、多度津藩では伊勢屋から21ドルで買入れています。仲買の伊勢屋の利益は、一丁につき5ドル前後となります。当時の1ドルは、大まかに計算すると約1両になるようです。 
慶応二年(1866)における小銃買付けの詳細を、富井家文書でみてみましょう
 慶応二年九月 横浜御用元払算用帳
   元
十二月四日 一金百両 大納戸占請取之
同 十四日 一金干両 右同断
   渡
十二月四日 一金弐拾五両 六連砲 いせ彦次郎渡、
       役所二而渡
 同 八日 一金四拾両  右同断 同人渡、
       野毛三浦屋二而
       一金拾両   右同断 同人宅二而
 同 十日 一金弐拾五両 右同断 役所二而渡
  金百両  壱丁二十一ドル ドル相場四拾五匁五厘、
       代金拾六両として七分五厘負ヶ
       金九百六拾両、小銃六拾挺代金壱丁廿壱ドル
       洋銀弐百六拾匁
       内金五拾両 万延四年二而百両之内立用引
    差引 金九百両 野毛広島屋二而彦次郎渡候、
       但シ金拾両渡シ、不足明算用
 同十一日  トル四拾六匁弐分二厘
       一金五拾両 引落 六連砲五挺代之内渡
卯正月十一日 右同断 彦次郎 書付文
 同 十三日 右同断 同人渡 同断
     〆金手八拾両 渡
  小銃代金
五月十八日 一金三拾両       いせ屋彦次郎
       但シ岩四郎引受之証文入渡
       正 月  一金三拾両      前々年代金
       一金弐拾五両     彦次郎渡
       一金七百七拾壱両三歩 同人渡
          〆金八百弐拾六両三歩 渡
     一金百四拾両壱歩壱朱弐匁弐分五厘
惣都合 金九百七拾壱両壱朱弐匁弐歩五厘
 この史料からは、
①慶応二年(1866年)9月に藩の大納戸役から1100両が支出
②横浜で小銃60挺と12挺の六連砲を買付
③「金九百六拾両、小銃六拾挺 」とありますから、小銃は60丁はで960両ですから1挺=1 6両=21ドルで購入しています。
④伊勢屋彦次郎を主とする貿易商に1080両支払
 多度津藩と小銃の取引きをしていた伊勢屋彦次郎は、伊勢の松坂に本店をもつ伊勢屋の江戸店の支店のようです。伊勢屋はこの小銃取引きで、総額で420ドル余の純益をあげた勘定になります。一挺あたりにすると約5ドルです。

1普仏戦争 M1866 歩兵銃
 小銃買付資金を、多度津藩はどのように捻出したのでしょうか?
 この時の60丁の買付でも千両の資金が必要でした。多度津藩の天保年間の『積帳』によると、この千両は藩予算の支出総額の30~35%に当たります。平時に置いては「異常な比重」であり、まさに戦時軍事予算と考えざるを得ません。1万石の小藩の財政状況では、出せるお金ではありません。
 しかし、多度津藩には陣屋や新港建設の際の資金集金のノウハウがありました。領民への小銃買付のための上納金を拠出依頼です。これに応じて多額の上納金を納めているのが次のメンバーです。
米屋七右衛門、大隈屋宇右衛門、浜蔵屋四郎兵衛、高見屋平次郎、島屋孫兵衛、綿屋林蔵、舛屋助右衛門、大黒屋調兵衛、松屋三四郎、浜田屋仁兵衛、福島屋平十郎、野田屋伝左衛門、舛屋彦兵衛、梶屋忠兵衛、戎屋弥平、紀伊国屋発右衛門、大和屋嘉蔵、島屋徳次郎、角屋定蔵、松島屋弥兵衛、土屋嘉兵衛、松本屋常蔵、柳井屋治左衛門
 彼らは城下の回船問屋をはじめ、干鰯問屋などの「商業資本」層で、陣屋や新港建設でも資金調達マシーンの役割を果たし、「多度津新港建設後の経済発展」の恩恵を最も受けていた階層です。この中に後に「多度津の七福人」と呼ばれ、鉄道・電力・銀行などの讃岐の近代化のトレッガーに成長していく人たちの名前も見られるようです。
 新港建設で経済的な成長を果たしていた彼らは、藩の求めに応じたのです。このような多度津の商業資本の成長と経済力があってこそ、小銃の購入資金は調達できたのでしょう。
小藩の藩主高典が、なぜ積極的に軍備の近代化を推し進めたのでしょうか?
多度津藩の積極的な兵制改革は、藩政に対する「宗藩」丸亀藩のきびしい干渉や制約からの自立をめざすための「富国強兵策」として推進されたのではないかと研究者は考えているようです。「外圧」を利用することによって、
①慢性的藩財政の窮乏を克服するための財源を得、
②農村荒廃による石高・身分制原理の引締めをめざそうとする
ここには、「外圧に対する危機感」を背景に藩論を統一し、兵制改革に突破口を見出そうとする藩主高典もくろみがあったのかもしれません。また、多度津藩は①陣屋建設 → ②大規模新港建設というビッグイヴェントを、官民総出でやり遂げてきた実績とノウハウをもっていました。その経験を生かして「軍備の近代化」という目標を掲げて藩論を統一していくというのは、ある意味で実現可能な政策のようにも思えます。どちらにせよ、多度津藩は身丈に合わない軍事力を持ち明治維新を切り開く現場に官軍の一員として立ったのです。これが戦後の明治維新において、高松藩や丸亀藩よりも有利な座を占めることにつながります。



多度津藩歴代藩主系図
多度津京極藩系図

多度津藩は元禄七年(1694)に丸亀藩から独立します。

しかし、自前の陣屋を持つことはなく、丸亀城の西屋敷に「間借り」して政務が行われるという状態が百年近く続きます。
丸亀城 大手町居住者19jpg
現在の丸亀裁判所付近に①林求馬の屋敷 ②御用所(政庁)があったことを示す絵図。

間借り状態では、藩運営も丸亀藩のしきたり通り行うのが常道とされていました。
 ところが寛政八年(1796)に21歳の四代高賢が家督を継ぐと藩の空気が変わっていきます。まず林求馬時重が家老に就任します。彼は、30歳前の働き盛りで藩政の改善、自立化を進めようとします。 その第一が藩主の居館と政庁を多度津に移すことでした。
 林は、お城ではなく伊予西条藩のような陣屋を多度津に新たに建設する案を、丸亀藩の重役方藩や同僚の反対を押して決定します。こうして陣屋建設が始まりますが、工事途中の文化五年(1808)家老の林が突然に亡くなってしまいます。建設工事は、林という推進力を失って中断してしまいました。
多度津藩陣屋跡位置図
多度津藩陣屋位置図
しかし、藩主高賢は計画をあきらめてはいませんでした。
約20年後の文政九年(1826)に工事を再開させます。工事中の多度津の陣屋御殿に移り住み、工事を見守り、推進役となります。同時に藩士にも厳しい倹約を求めたようです。陣屋建築のためには、すでに大阪の鴻池別家や京都の萬猷院から三千両の借り入れがありましたが、それでも資金は足りません。そこで藩は富商や村々の庄屋をはじめ広く領民に「陣屋御引越し」の冥加金を課します。形の上では出資者の自発性が尊重され、各人、各村は自らの資力、村の規模や家格、藩との関係や役柄を考慮しながら、最後は談合により、それぞれ出来るだけ横並びに負担額を決めたようです。
多度津陣屋配置図
多度津町内遺跡発掘調査報告書2 多度津藩陣屋施設

 実質的には、これは「献金の強制」です。しかし「多度津へ御引越し献上金」という大義名分に、領民の多くが強制と受け取らず、むしろ積極的に献金に応じたようです。人々は藩の自立を望み、その象徴として多度津の陣屋建設に期待をかけたのかもしれません。領民にとって、これまでは多度津藩に城がないことを
「多度津あん(さん)に後ろ(後頭部のふくれ)なし」
と頭の形にかけて、郡楡されてきた悔しさがその背景にあったとも伝えられます
多度津陣屋10
多度津藩陣屋

 工事が再開された文政九年の三回の献上金目録が藩日記に残されています

第一回 多度津の商家66人で計51貫500匁。
第二回 藩内町方・村方の富裕層23人で計銀100貫
第三回 一部富裕層8人の再度の献金(74貫)と藩内村方の庄屋19人(18貫)ほか これら全三回の総計は銀448貫(=7442両)と記されています。
金一両は現代感覚(賃金の比較)で今の三〇万円になると研究者は考えているようです。この年に多度津藩領民が陣屋建設に献上した総額7442両は、22億3260万円ほどになります。
多度津湛甫(たんぼ)の建設の背景と目論見は?  
18世紀後半の多度津港は、急速に発達した日本海沿岸と大坂を結ぶ瀬戸内海航路の拠点として重要性を増しつつありました。それに加えて、金比羅船が就航し庶民の間で琴平詣での人気が高まるにつれ、大阪はじめ瀬戸内海沿岸や九州各地から参詣客を運ぶ船が丸亀・多度津を目指すようになっていました。受け入れ側の港の拡充・新設が求められていたのです。
丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀藩の福島湛甫と新堀

 これに最初に動いたのは、丸亀藩です。丸亀藩は、江戸で金比羅講を使って「民間資金の導入=第三者セクター方式」で、天保二年(1831)新しい船溜まり(新堀湛甫)を短期間で作り上げます。
これを追いかけるように4年後に、多度津藩も新港建設に着手します。
多度津港 陣屋建設以前?
        旧多度津港 桜川河口が港だった
 
それまでの多度津の港は、町の中心を流れる桜川の河口を利用した船溜まりにすぎませんでした。新しい港は、その西側にの崖下の海岸を長い突堤や防波堤で囲んで、深い水深と広い港内海面をもつ本格的な港の計画書が作成されます。これは丸亀藩新堀湛甫に比較すると本格的で工費も大幅にかさむことが予想されましたが、この計画案を発案したのは藩ではなく、回船問屋や肥料や油・煙草などを扱う万問屋など町の有力商人たちでした。
 前年に父に代わったばかりの20歳の新藩主・高琢は、この案に乗り気ですぐに同意したようです。この事業のために隠居していた河口久右衛門が家老に呼び戻され、采配を振うことになります。そして財務に明るい家老に次ぐご用役に小倉治郎左衛門が就き補佐する体制ができます。
「藩士宮川道祐(太右衛門)覚書」(白川武蔵)には、その経緯が次のように記されています。
そもそも、多度津の湛甫築造の発端は、当浜問家総代の高見屋平治郎・福山屋平右衛円右の両人から申請されたもので、家老河口久右衛門殿が取り次いで、藩主の許可を受けて、幕府のお留守居平井氏より公辺(幕府)御用番中へ願い出たところ、ほどよく許可が下りた。建設許可の御奉書は江戸表より急ぎ飛脚で届いた。ところがそれからが大変だった。このことを御本家様(丸亀藩)へ知らせたところ、大変機嫌がよろしくない。あれこれと難癖を言い立てられて容易には認めてはくれない。 
 家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。

 これより先に本家の丸亀藩は、福島湛甫を文化三年(1806)に築いています。その後の天保四年完成した新堀湛甫は東西80間、南北40間、人口15間、満潮時の深さは1文6尺です。これに対し多度津の新湛甫は、東側の突堤119間、西側の突堤74間、中央に120間の防波堤(一文字突堤)を設け、港内方106間です。これは、本家の港をしのぐ大工事で、総費用としても銀570貫(約1万両)になります。当時の多度藩の1年分の財政収入にあたる額になります。陣屋建設を行ったばかりの小藩にとっては無謀とも云える大工事です。このため家老河口久右衛門はじめ藩役人、領内庄屋の外問屋商人など総動員体制を作り上げていきます。

多度津陣屋5

 多度津新港の実現には、さまざまな困難があったようです。特に資金集めには苦労したようです。史料には次のように記されています。

それより数年長々かかり、お上に於いても余程の御物入りに相なり、大坂屋(丸亀の豪商)へも御頼み入りに相掛り候えども不承知の由にて、河口姓にも大いに心配いたされ、御同人備前下津丼へ御自分直々罷り出で、荻野屋(久兵衛)方へ御相談に及び候処、承知致され同所にて金百貫目御借入に相成る。
 然る処引き足り申さず、依って役人中御評議の上、何い取り候て、御家中一統頂戴物(俸禄)の中七歩の御引増(天引)仰せ出され、是又三か年おつづけに相成る。然る処、何分長々の事に付き出来兼ね候に付、河口姓にはかれこれ心痛に及ばれ、吉川又右衛門御代官役中に御相談になり、夫れに付き吉川氏より庄村高畠覚兵衛を呼び取り、お話合いに相なり、尚又御領分大庄屋御呼び寄せ、お話し合いの上、御頼みに相成り、これにより金百貫目御備え出来、右金にて漸く出来申し候。
久右衛門においては、湛甫一条の骨折り心配は、容らならざる儀にこれ有り候。仕上がりまで御年数十一年に及び候事。惣〆高、金五七十貫余りに相成り候。くわしくは御用処元方役所帳面に之れ有りここに略す。是れ拙者所々にて聞き取りしままをあらまし申し置き候也

 幕府認可はすぐ得られたようですが、障害は丸亀藩の理解と協力が得られなかったことです。 丸亀藩の重役たちは親藩の了承を得ずに、支藩が始めたこの計画に難色を示します。家老の河口が説得して、やっと渋々の許諾を得たと伝わります。

それに忖度してか、丸亀の豪商大坂屋は多度津藩への資金助力を断っています。そのため家老の河口は、瀬戸内海の対岸である下津井に出かけ、荻野屋久兵衛に相談して金千両(銀62)を借ります。この融資を元金に講銀を設け、多度郡15か村の庄屋たちと協議の上に、借金の返済および港建設の資金調達をめざします。
 一万石という小さな大名のうえに、陣屋新設という大事業を成し遂げたばかりの多度津藩にとって、矢継ぎ早に取り組む大規模な港建設はいささか無謀な思い上がった冒険な工事と思う人たちも多かったようです。
多度津湛甫 33
多度津湛甫

 そのうえ天保年間には全国的な気候不順が天保飢饉を引き起こし、世の中は大塩平八郎の乱のように政情不安が広がった時期です。讃岐でも米価の高騰や買占めに抗議して各地で一揆や打ち壊しが起こっています。多度津でも一揆や、干水害のため被害が広がります  このような緊迫した情勢下で、百姓にまで負担を負わす新港建設資金集めの難しさを関係者はよく分かっていたようです。藩が強制的に取り立てるというよりも、地主や大商人層と協議を重ねながら協力体制を築いて、資金を出してもらうというソフトな対応に心がけてます。 
多度津湛甫 3

どのようにして多度津藩は資金を集めたのか?  
 幕末が近づくにつれて年貢に頼る藩財政は、行き詰まってきます。陣屋や新港建なども藩の独自事業としてはやって行けないことを、町の有力商人や村方の地主層は初めから良く知っていたようです。だから「陣屋御引越し」の時のように、民間金融組織としての講をつくって対応しようとしたのです。逆に見ると幕藩体制の行き詰まりが、はっきり見て取れます。

1965年頃の多度津

 天保六年(1835)に発足した「御講」は、村ごとに一口銀一八〇匁(=金三両)で加入者を募りました。大商人や地主などは一口以上、多数の庶民は一口を細かく分割し共同で引き受けるようにされています。この年十一月末に、各村が引き受けた口数と納入掛金額が届け出順に記されています。   
庄村   十九口半    銀三貫四二十匁   
三井村  十六口三厘   銀二貫百三十二匁
多度津  百二十一口   銀二十一貫八百七十匁
堀江村   五口九歩   銀一貫六十四匁四分   
北鴨村   九口九歩   銀一貫七百八十二匁   
南鴨村  十一口二分四厘 銀二貫二十四匁七分
葛原村  二十九口九歩厘 銀五貫三百九十四匁六歩   
道福寺村 十六口半     二貫九百七十匁   
碑殿村  二十二口     三貫七百二十匁   
山階村  三十九口八厘   七貫三十六匁   
青木村  十五口九歩三厘  二貫八百六十七匁四分   
東白方村 十八口三歩五厘  三貫三百三匁   
西白方村 十三口九歩九厘  二貫五十八匁   
奥白方村 九口三歩     一貫六百七十四匁   
新町村  半口         九十匁    
計    347口7歩9厘6毛 62貫603匁3分

この額は、最初に下津井の荻野屋から借りた元金総額と同額になります。こうして、講銀取立ては天保六年秋より始まり、同七年秋から十四年正月まで春秋二期ごとに、利銀を含めて春季分二〇七貫余、秋季分三五七貫、計五六〇貫(九二九六両)を上納しています。 湛甫建設出費は一万両を超えていたようです。この費用の大部分を負担したのは領民で、各村の負担口数はおおむね村の戸数に応じて配分されたことが分かります。
porttadotsu多度津

湛甫建設工事は天保五年に始まり、4年後に竣工します。

丸亀の新堀湛甫が一年余の工事で、工費も2千両余だったのに比べると、その額は5倍にもなり、いかに大工事だったかが分かります。海中に東突堤(242メートル)、西突堤(三面メートル)、中央に一文字突堤(218メートル)、港内面積(5,6ヘクタール)、水深(7メートル)の港は四国一の港で、この港が明治以後も機能して多度津の近代化のために大きな役割を果たすことになります。建設に先頭に立って尽力した家老河口は、10年余の心労のために工事完成後間もなく病のために64歳で亡くなっています。
大正頃の多度津港
湛甫の完成後に多度津港を利用する船は増え、港も栄えた。  
多度津港に立ち寄る船の主力は、松前(北海道)からの海産物とその見返りに内地産の酒や雑貨・衣料を運ぶ千石船や北前船でした。それに加えて、西国からの琴平詣での金比羅船も殺到するようになります。深い港は、大型船が入港することもできるために、幕末にはイギリスや佐賀藩、幕府の蒸気船が相次いで入港し、多度津港は瀬戸内海随一の良港としての名声を高めていきます。これに伴い町の商売も繁盛し、特に松前からもたらされる鰯や地元産の砂糖・綿・油等を商う問屋は数十軒を超え、港に近い街路は船宿や旅人相手の小店でにぎわいます。
巨費かけて完成させた湛甫建設は、藩の財政にも寄与することになります。
多度津藩は、港での魚介取引を専売制にして、取引量に応じて魚方口銀をとっていました。また入港する船から、船の大きさに応じて「帆別銀」などを徴収していましたが、これら港関係の収入は今後の増収を期待できる数少ない財源でした。ちなみに天保10年(1839)の多度津藩「亥の年御積帳(予算表)」(『香川県史9 近世史料I』)を見ると、
年貢収入6903石 - 家臣への俸禄3908石 =他の支出用 約3000石
これと諸銀納収入を合わせても、俸禄以外の年間諸支出に当てられる予算は641(10256両)しかありませんでした。
多度津港7
 一万石の支藩多度津が親藩丸亀から自立し、その意向に逆らって丸亀の新港をしのぐ大きな港を建設し、自立と繁栄の道を歩み始めます。これに対して丸亀藩の重役達は、「分を過ぎた振る舞い」と厳しい態度を見せるようになります。湛甫完成直後の天保九年(1838)八月、この事業の指導者である小倉治郎左衛門を無理矢理隠居に追い込みます。これは、彼が事前に丸亀にはからず幕府から工事認可を得たことへの親藩重臣の抗議に多度津藩主が屈したためだったと言われます。これをきっかけに本家と分家の間の連絡事項が細かく取り決められます、例えば、丸亀藩主の江戸への出府や帰藩のたびごと、多度津の主だった藩士がわざわざ丸亀まで送迎に出向かねばならなかったほどでした。
多度津港3
しかし、多度津藩は強(したた)かでした 。
 陣屋・多度津新港に続いて、多度津藩は自立のための次の手段として「国防強化のため兵制の近代化」に取り組み始めるのです。 それは、また次回に 

 参考文献 多度津町史     
      木谷勤 讃岐の一富農の300年 
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     琴平に置かれた四国会議とは?
DSC01163
明治の神仏分離令で「象頭山から金刀比羅山」に変更
四国にあった十三の藩は、明治維新後に諸藩の情報交換・連絡調整という名目で「四国会議」という定期的な会合を開くようになります。この会議をリードしたのは土佐藩でした。土佐藩の現状分析としては

「薩長の連合がこのまま続くはずがない。近いうちに必ず争いが起きる。それに備えて「四国諸藩をまとめた同盟」を形成しておく必要がある」
と考えていたようです。
金刀比羅宮3
 その戦略下に四国十三藩に呼び掛けて「四国会議」が開かれる事になりました。
 場所は「四国の道は金毘羅さんに通じる」という交通の利便性や、旧天領であったことの中立性、大阪・京都への利便性、そして、土佐軍が駐屯していたことなどから琴平に自然に決まったようです。そのため琴平には、各藩からは「代表団」がやって来て、各旅館に駐在する事になります。代表団が夜な夜な繰り広げたどんちゃん騒ぎの記録が、地元の旅館などには残っていて、これはこれで読んでいて面白いのです。「会議は踊る」という言葉がありますが、四国会議は「会議の前に飲み、会議の後に詠い・・」という感じです。それはまた別の機会にして・・・・
DSC01510
 ここではいろいろな情報交換が行われています。
例えば、神仏分離令に対しての各藩の対応なども報告されて情報が共有化されます。
その中で「廃仏棄釈運動」への対応タイプを整理すると
①廃仏運動が四国で最も過激に展開した高知藩
②最初は激しい布令が出されたのに、竜頭蛇尾に終わった多度津藩
③一貫して微温的な徳島藩
の三藩が特徴的な動きでした。
前回は、この内の①の高知藩の過激な動きを見ましたので、
今日は弱小1万石の多度津藩の動きを見ていくことにします。
 多度津藩は、丸亀京極家の分藩で一万石という小藩です。

多度津陣屋2
 それまで親藩の丸亀藩のお城の中に間借り住まいしていた殿様が、幕末になって多度津に陣屋を構え、その勢いで小藩にふさわしくないような大きな港を多度津に完成させてしまいます。
porttadotsu多度津
これが多度津湛甫と呼ばれる新港です。この新港は西回りの九州や北前航路からの金毘羅参拝客を惹き付けて、人とモノと金が流れ込むようになり、大盛況となります。このような経済活況を背景に多度津藩は、小藩にもかかわらず兵制改革を行い近代的軍隊を持つようになります。そして、幕末には土佐軍と行動を共にし戦果を挙げます。こうして明治の御一新に、小藩ですがその存在意味を果たしていこうとする意欲が家中には生まれてきます。

多度津陣屋5
多度津陣屋(模型)
神仏分離令が出されると、多度津藩は次のような改革案を発表します。
             達
従朝廷追々被仰出趣旨に付、此度当管内一宗一ヶ寺縮合申付候間 良策見込之趣も有之趣大参事中へ申波候間此段可相達事小
    十月二十八日          民政掛
  その内容は、藩内の寺院を整理・統合して「藩内一宗一寺」にするというものです。つまり、各宗派は一つにして、他は廃寺にするという超過激な内容です。本家藩の丸亀藩や高松藩は模様眺めなのに、なぜ多度津藩は素早く過激な廃仏政策案を実施しようとしたのでしょうか

DSC01386多度津街道1
 西からの金毘羅参りの受入港となった多度津から金毘羅へ伸びる街道図
多度津藩の家臣で四国会議にも出席していた人物は、次のように回顧しています。
「我藩は祖先が徳川幕府から減封されたので、幕府に対し始終快よからず思って陰に陽に反対する気風があった。……そのため幕末には土佐藩について倒幕に加わった。・・その後も土佐藩とよしみを持っていこうした。
土佐藩が廃仏を主張するので我が藩もこれに同調したのである。土佐藩に習って廃仏の模範たらんとする意気込みであった……」

 つまり、見習うべきは土佐藩であって、土佐藩が寺院整理政策を実施しているので、多度津藩も時流に乗りおくれまいと「一宗一ヶ寺に縮合」案を出したというのです。それもあったでしょうが、ここでも寺領没収=財政収入源の確保という経済的な側面もあったように私は思います。しかし、高知藩のようにはすんなりとは進みませんでした。

tadotujinya_01讃岐多度津陣屋
 藩の過激な布令に対しては、まず藩内の寺院からの存続要求運動が展開されます。
     奉歎願口上願                        
此度当管内一宗一派一ヶ寺御縮合之儀、被為仰付奉恐入候、
然るに至急之儀、甚当惑仕候。何共御報之奉申上様も無御座、右民政御役所に付非常格外之御仁慈を以、今暫御延被成下度候、伏而奉懇願。右之趣宜敷御取繕被仰上可被下候 
以上
                                     多度津 法中連中
 ここにはに「一宗一ヶ寺」への縮小統合案に各寺院が当惑していること、今は殿様がいないので、非常に格外(重要)なことなので今しばらく延期して欲しいこと請願しています。
 さらに、檀家である領民達も次のような嘆願書を提出します。
 此度 合社寺之趣、被仰出奉恐入候。然るに是迄長々崇敬仕候事、実に痛痛敷奉存候間何卒在来之通成置被下度、偏に一統奉願上候。 此段宣御取成程奉願上候。以上
  意訳すると
「合社寺(=一宗一派一ヶ寺への縮合)について、恐れながら申し上げます。長い間、崇敬(信仰)してきたことなので、心が痛む事です。何とぞ従来通りの信仰が許されますように、通達をお取り下げくださるようお願いいたします」

 と、領民達は改革案を取り下げることを求めています。寺院の嘆願書よりも一歩踏み込んだ内容です。百姓等は、自分たちの寺を守ろうと立ち上がっていることが伝わって来ます。この辺りが高知藩とは違うところです。高知の農民達は、真言宗が多数をしめる寺院を守ろうとはしませんでした。ところが多度津の農民は浄土真宗の多い自分たちの寺を守ろうとしています。この辺りに、真言宗と浄土真宗の日常における宗教活動の差があったのかもしれません。
52_1
多度津藩の当時の担当者であった後の元香川県代議士伊東一郎氏の回顧談をもう一度見てみましょう
 多度津藩は小藩ではあるが、当時は随分勢力を振ったものである。夫は先に土佐藩が西讃岐の本山と云ふ所へ出軍したとき、軍使を発して多度津藩に向背如何を問ふた、此時同藩が其先鋒たらんことを誓った、この故を以て.土佐藩が非常に多度津居を優遇した。これが同藩の幅を利かした所以である。
 以上の理由で、土佐の排佛案には、何れも承服した。殊に多度津は排佛の模範を示さんと云ふ意気込みであった。もっとも、阿波藩が溜排論と、又火葬癈止論を出した。ここでまた一言せねばならね。これは多度津藩は、陽明學を奉じたにも拘らず、排佛論を取ったと云ふ所以である、陽明學は陽儒陰佛とも云はるるもので、決して排佛論などの出る所以がない。これは多分、多度津藩が土佐藩の歓心を買んがため、一方から云へば、チト祭上られて居られたのではあるまいかと思はれる。
 こうして土佐藩は、極端なる排佛ではなかったが.枝末の多度津藩は、領内一宗一寺に合寺するといふので、隨分極端なものであった。あわせて合寺のみではない、合祀も同時にいい出したのである。ところが合祀については、左程の反抗もないが、合寺については、領民殆んど金部が蜂起せんとした、又寺院側では、模範排佛と云ふので、讃岐金挫の寺院が法輪院と云ふ天台宗の寺に、連口の協議會を開いて、反抗の態度に出んとした。(中略)

 しかし、廃仏論は藩全体の意見ではありませんでした。小数の「激論党」が、「土佐の威を借りて主張した少数の意見」だったのです。なので、領内が騒ぎ出すと、「多数党」からの反撃が起こり、結局は廃仏論を撤回することになります。
また「明治維新 神仏分離史料第四巻 611」Pには、当時の憲兵中尉河口秋次氏の次のような証言を載せています。
拙者は常時神官として有力なりし某氏の言を聞く、先高松藩に蘆澤伊織といふ人あり。領内の神官を召集して、皇學漢學武術の三科を研究せしむる弘道館なるものを起こせり。これを丸亀・多度津の二藩が倣って、各弘道館を起せり。讃岐の排佛論は、全くこの弘道館思想の発せしものなり、
また日く、多度津蒋の排佛論に對して有力なる反抗を試みしものは、西覚寺常栄、光賢寺幽玄の二師なりし.その一端を云へば、全部の寺院住職打揃ひ、青竹に焔硝を詰め、夫を背に負ひ、以て藩に強訴を為す。若し聴されずんば、自ら藩邸と共に焦土たらんと云ふの策なりし。而して其主唱者が上の二師なりし。
又曰くその時藩と寺院の間に介して、円満なる解決をなしめたるものは、同町の丸尾熊造居士なりし云々、
 ここには西覚寺常栄と光賢寺幽玄が中心になって「全住職が「青竹爆弾」を背負って強訴」するとテロ行為まで考えていた事が分かります。そして、反対の中心にあったのは「西覚寺(丸亀市綾歌町岡田)の常栄と光賢寺(琴平町苗田)の幽玄」と記されています。この二人は多度津藩内の僧侶ではありません。隣接する丸亀藩の僧侶が「一宗一ヶ寺」への縮小統合案に反対し支援しているのです。藩を超えた真宗興正寺派の支援を受けていたようです。
 
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 強行手段に訴えても廃仏政策の撤廃を要求するという動きは、下層民だけでなく、庄屋・富商層の支持も得ていました。このような団結した領民と僧侶の要求に対して、廃仏政策を強行するということは、農民一揆を誘発させる可能性もあります。それは小藩の多度津藩の幹部達にとっては、絶対に避けなければならないことです。こうして、寺院の統合縮小案は撤回されます。
多度津藩紋
そして、次のような告示を藩内に出します。
寺院縮合之儀申達候得共、未だ究り候儀には無之、良策見込も有之候はば、可申承内意之事に候間、此段心得違無之様可相達候事
   閏十月五日            民政掛
以上のように、寺院統合案については調査・研究不足な点もあるので撤回する。他の良策を検討するので、心得違いをして軽はずみな行動を起こさないようにという内容でした。
こうして多度津藩は、実にあっさり寺院縮小案を撤回したのです。
 研究者は、これについて次のように指摘します。
「多度津藩の廃仏論は、藩全体の意見ではなく、わずかの過激派の主張した小数意見で、上層部との調整を経て政策化されたものではなかった。そのため領内で騒動を起きそうになると、上層部は急進派を切り捨て、廃仏論を徹回することによって無事落着した」
 このように多度津藩の場合は、藩内の一部少数の過激派が、高知藩という雄藩の傘の下にで、新政府の信頼を得ようと、「藩内一宗一寺」案を出します。しかし、それは土佐藩の歓心を買いたいという弱小藩の苦しい立場を代弁する行為であったのかもしれません。
参考文献
三好昭一郎 四国諸藩における廃仏毀釈の展開 
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多度津・千代池の改修工事はどう進められたか

イメージ 1
千代池からの大麻山と五岳

前回は金倉川の付け替えによって廃河跡が水田として開発され、
河道を利用してため池が次々と作られたこと、
その開発リーダーが多度津・葛原村の庄屋・木谷家であった
という「仮説」をお話ししました。

今回は、築造された千代池を木谷家が、どのように維持改修したかを見ていくことにします。今回は仮説ではありません。

木谷家には代々の家長が残した記録が「萬覚帳」として残されています。これを紹介した「讃岐の一豪農の三百年」によって眺めていきます。その際に、江戸時代前半と、後半ではため池改修工事の目的が変化していくことに注意しながら見ていこうと思います。
イメージ 2

多度津の旧葛原村には、今でも千代池、新池、中池、上池の四つのため池があります。これらは旧四条川の河道跡に17世紀後半に築造されたものです。その中でも千代池は広さ五㌶、貯水量90万㎥と、多度津町内のため池の中では最大級の池です。  

ため池には、メンテナンス作業が欠かせませんでした。

特に腐りやすい木製の樋管、排水を調整するか水門(ゆる)やそれを支える櫓などは約二〇年おきに取り替える必要がありました。
また粘土を突き固めただけの堤もこわれやすく
「池堤破損、年々穴あき多く、水溜まり悪しく、百姓ども難儀仕り候」

と藩への願書がくりかえし言うように、修理が常に求められたのです。これを怠ると水が漏れ出し、堤にひびが入り、最悪は決壊ということもありました。
「ため池 樋管」の画像検索結果
現在のため池の樋官

それでは、江戸時代のため池改修はどんな風に行われたいたのでしょうか?

江戸時代前半は「木製の樋竹・水門・櫓などの修理」に重点

 江戸時代前半期の修築工事は、丸亀藩の意向もあったのか、朽ちた木製の樋竹・水門・櫓などの修理に重点が置かれています。堰堤の補修や補強にはあまり力を入れた形跡がありません。
 木谷家に残る江戸時代前期の資料からは、当主四代、ほぼ六〇年間に行われた計27件の池普請に使われた労働力の内訳が記録されています。それを見ると大工99人、木挽き79人など木製品に関わる職人数が多く、堤の補修にたずさわる人足は延べ604人に過ぎないのです。
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丸亀藩の補修工事には「郷普請」と「自普請」ありました。
前者はため池の水を利用する村(水掛り村)が複数ある場合で、藩が工事を直接指揮監督しました。後者は水掛り一村のみで、藩の援助は無く費用も労力(人足)も、その村が単独で負担しました 
葛原村の池普請は、すべて後者でしたから藩の援助はありません。
その場合でも村役人は大庄屋・代官を通じ藩に、その計画・実施を願い出、許可を受ける必要がありました。そのため「萬覚帳」には、享保(1726)から文政元年(1818)の92年間に計34件の池停請が申請文書が残されています。村にある4つの池で、3年に一度はどれかの池で修築工事が行われていたことになります。
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旧河道に架けられた橋

 木谷小左衛門の試みは、貯水量を増やすこと       

 江戸時代後半になると、村の周囲はほぼ水田化され耕地を増やす余地がなくなってきます。そんななかで、米の収穫量を増やす道は、乾燥田への給水確保以外になくなります。つまり、ため池の貯水量の増量という方法です。そのためには堤防のかさ上げが、もっとも手っ取り早い方法です。
 この「要望」に、対応したのが江戸時代後半に木谷家当主となる木谷小左衛門です。彼は天明八年(1788)に庄屋となると、ため池補修の重点を、池全体の保水量を増やすため、堰堤のかさ上げや側面補強などに移します。彼は、堰堤を嵩上げする作業を「萬覚帳」に「上重(うわがさね)」と記しています。その方法手順は、
1 まずに工事現場に築堤用土を運び上げ、堤敷に15㎝の厚さに撒き、
2 それを大勢の人足が並んで踏みつけながら、突き棒で10㎝ぐらいまでに突き固め、
3 めざす厚さまで何回も積み重ねる
4 そして池底の浚渫・掘り下げです。晩秋、すべての農作業が終わった後、池を空にして底土を堀りおこし池の深さを確保する。
こうして貯水量を増やそうとしたのです。
この工事成否は投入される人足の数にありました。
 小左衛門は寛政三年(1791)から文政元年(1818)まで、28年間に計7件の池普請を願い出ています。
そのうち最も人掛かりなのは寛政7年の千代池東堤(長さ282㍍)の嵩上げと前付け、さらに南・北堤(合わせて長さ430㍍)の前付け・裏付け(両側面補強)に池底の一部(1700㎡)の掘り下げなどを加えたものです。
 これらの工事に投ぜられた人足数は延べ6699人に達しています。先ほど見た江戸時代前期の改修工事の延べ人足数が600人程度であったのに比べると10倍です。このほかの6件も樋・水門・水路などの従来型補修のほかに、堤の嵩上げ、補強、池底掘り下げなどを含む規模の大きな工事です。それらには計13400人の人足が動員されています。結局、全7件の人足総数は延べ2万人を超えました。

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人足は、賦役として動員された「ただ働きの人足」だったのでしょうか?
「萬覚帳」によれば、池普請で働く人足一人には一日あたりし7合5勺の米が扶持として給されています。その総量は150石余(375俵)になります。自普請の場合、この費用は名目上は、村が負担しましたが、実は村の納める付加税の四分米(石高の四パーセント)がこれにあてられました。葛原村にとって、それは一年につき38石=95俵になります。
 これは藩にとり付加税収入の減少を意味します。もちろん池普請は毎年あったわけではありませんが、財政窮迫に悩む多度津藩にとって、決して好ましいことではなかったはずです。 
藩の意向にさからってまで、池普請で村を豊かにしようと努めた小左衛門は新しいタイプの庄屋と言えるのかもしれません。
 
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別の視点から池普請を見てみることにしましょう。

 労働力市場から見ると人口800人ばかりの村にとって、農閑期の三、四か月間に参加すれば一人当り米七合五勺を支給される冬場の池普請は、貧しい水呑百姓や賎民たちには「手間賃かせぎ」の好機として歓迎されたようです。今で云う「雇用機会の創出」を図ったことになります。ピラミッドもアテネのパルテノン宮殿も、大阪城も、「貧困層への雇用機会の創出という社会政策面」を持っていたことを、近年の歴史学は明らかにしています。そして、これをやった指導者は民衆の人気を得ることできました。
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こうして、千代池は川下の堤防だけだったのが、周囲全体に堤防が回る現在の姿に近づきました。近年には散策路や東屋も作られ、散歩やジョッキングする人たちの姿を見かけるようになりました。

多度津の豪農木谷家 なぜ安芸から讃岐に移住したのか?

前に書いた「丸亀平野 消えた四条川 作られた金倉川」
で、丸亀市史を参考にしながら次のようなことを書きました。
1 金倉川は満濃池再築以前に、水路網整備のために新たに作られた「人工河川」であること。つまり17世紀半ばの近世に河道が付け替えられ金倉川が生まれたこと
2 それ以前には「四条川」が琴平・多度津間は流れており、この旧河道上に明治になって土讃線、四国新道(現R396号)が建設されたこと。
3 旧四条川の金蔵寺付近よりも下流は、旧河道域を利用して、千代池などのため池群が築造され、水田化も進められたこと
4 旧四条川の地下水脈はいまも、豊富な湧き水をもたらしていること。その典型が、金陵の多度津工場で豊富な伏流水を利用して酒造りが行われていること
これらを書きながら思い出したのが「讃岐の一豪農の三百年・木谷家と村・藩・国の歴史」という本です。
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この本は、戦国末期に安芸・芸予の武士集団・木谷一族が仕えていた毛利・小早川・村上などの諸大名が衰退していく時代の流れのなかで、海を越えた讃岐の多度津・葛原村に新天地を求め、ここで帰農し、庄屋化していくプロセスを追った労作です。小さな本ですが読みごたえがありました。
 それもそのはず、作者は名古屋大学教授の木谷勤氏です。ちなみに彼の専攻は、ドイツ近代史です。そして彼は木谷家の末裔です。讃岐の一豪農の歴史を専門外の大学教授が書いているのです。これだけでも異色です。

今回見ていきたいのは、次の三点です

1どうして、安芸の木谷一族が讃岐の多度津を「移住」先として選んだのか
2帰農定住した多度津・葛原村ですぐに庄屋に成長していった背景は何なのか
3旧四条川の河道変更と、その後の千代池の築造・水田開発のリーダーとして、「移住」してきた木谷家が活躍したのではないか

この本に導かれながら見ていきましょう

1どうして木谷一族が多度津を「移住」先として選んだのか?

 まず、移住以前の木谷家について見ておきましょう。
戦国時代には、安芸や芸予の島にはいくつもの木谷家があり、グループを形成していたようです。それを作者は3つに分類します。
(1)竹原・小早川家の重臣を出した木谷氏主流
(2)村上水軍に属した木谷氏の支流ないし傍流
(3)十三世紀の後藤実基からでた最も旧い木谷氏
多度津にやってきた2つの木谷家のルーツは(1)の主流ではなく、(2)の村上水軍に属した芸予諸島の木谷氏である可能性が一番高いとします。その理由は、当時の政治情勢です。
 木谷家の「讃岐移住」は天正十五年の「刀狩り・海賊禁止令」前後とされます。この時期、小早川家はまだ安泰で、安芸の主流木谷一門に郷土を捨てる動機はなく(1)の可能性は低いのです。これに対し、毛利についた村上武吉のように能島・因島村上側の人々は、秀吉の天下統一が着々と進むなか、その圧力をひしひしと感じ、海賊禁止令のような取締りが強まるのを恐れ、将来への不安が高まったでしょう。特に能島を拠点にする村上武吉の配下では、ことさらだったでしょう。彼らが、山が迫る安芸沿岸や狭い芸予の島々をいち早く見限り、海に近く野も広い西讃岐・葛原村に新天地を求める決断をしても、決して不自然でないと作者は考えているようです。

それでは、なぜ多度津を選んだのでしょうか?

木谷家は、なんらかの関わりが西讃地方にあったのではないでしょうか?毛利側の史料『萩藩閥閲録』には、次のような記録があります。
天正五年(一五七七)、讃岐の香川氏(天霧山城主?)が阿波三好に攻められ頼ってきた。これに対して毛利方は、讃岐に兵を送り軍事衝突となった。これを多度郡元吉城の戦い(元吉合戦)とする。元吉城は善通寺市と琴平町の境、如意山にあったとされ、同年七月讃岐に多度津堀江口(葛原村の北隣)から上陸した毛利勢の主力が、翌月この城に拠って三 好方の讃岐勢と向き合った。毛利方は小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくり、元吉城麓の戦いで大勝をおさめた。毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた。
 ちなみに元吉城とされる櫛梨山からは山城調査の結果、大規模な中世城郭跡が現れ、これが事実であることが分かってきました。『香川県史・2』はじめ大方の歴史書もこの時期の毛利の讃岐侵攻を「元吉合戦」とするようになりました。

この記述だけでは分かりにくいので当時の情勢を補足します

信長の石山本願寺攻略が佳境に入った頃のことです。この合戦で毛利側が目指したのは、前年に石山本願寺へ兵糧搬人で手にいれたかに見えた瀬戸内東部の制海権が、翌年には信長方の「鉄の船」の出現と反撃で危うくなったのです。これを挽回するため、毛利は海上交通の要である讃岐や塩飽に勢力をのばし、一向門徒の信長への抵抗を「後方支援」しようとしたようです。  
 注目したいのは、『萩藩閥閲録』の最後の部分に
「毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた」
とあります。一部残された残存兵力の中に木谷家の一族がいたのではないでしょうか。あくまで私の想像(妄想)です・・・。

 船乗りにとって海は隔てる者ではなく、結びつけるもの

 秀吉進出以前の小早川・村上水軍は、芸予諸島と塩飽に囲まれた瀬戸内海域を支配し、各所に「海関」を設け、内海を通る船から通行料や警固料を徴収するだけでなく、自らも輸送・通商にたずさわっていました。
 海上の交通は比較的便利で安芸東部と西讃は
「海上一〇里にすぎず、ことあるときは一日の内に通ず
(南海通記)という意識があったようです。いまでも、晴れた日には庄内半島の紫雲出山の向こうに福山方面が見えます。
 その一例として、15世紀半ば京都の東寺は伊予の守護に、弓削島の製塩荘園が押領されたことを訴えています。訴えられているのが安芸小泉氏、能島村上、そして讃岐白方・山地氏の三海賊衆です。(「東寺百合文書」『愛媛県史』資料編古代・中世)。
 白方は弘田川の河口で、古代以来の多度郡の湊があったと目されるところです。山地氏はこの白方を拠点に、天霧山に城を築き、多度津本台山(現、桃陵公園)に館をおく守護代香川氏の水軍として、戦国末期まで活躍します。同時に、能島の村上武吉などとも連携していたことが分かります。このように当時の瀬戸内海では能島・来島・因島の三村上からなる村上水軍を中心に、さまざまな地域土豪の海賊衆が競い合っていたようす。彼らの間には対立と同時につながりや往来が生まれていたのです。
戦国末期に両岸の往来は、江戸時代よりも活発で、西讃沿岸は対岸の安芸の海賊衆にすでになじみの土地だったのかもしれません。それが江戸時代になり、幕藩体制が強化されていくと海を越え藩を超えた自由な往来も難しくなっていたようです。
 ちなみに、信長・秀吉・家康についた塩飽は「人名」として「特権」を与えられ、北前船の拠点として繁栄の道を進むことになります。敗者となった毛利側についた村上水軍の武将達は、散りじりになりました。その後に待ち受ける運命は過酷であったようです。その中に、木谷家のようにふるさとを捨て、新天地を目指す者も現れたのです。
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 木谷一族が葛原村で庄屋に成長していった背景は何か?

 生口島や因島など芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに連携していた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに、あるいは別々に讃岐・葛原村に移住したのでしょう。そして、北條木谷家が村の中心部に住みつき、別の木谷氏は村のはずれの小字下所前に居を構えます。 一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で、多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する混乱の中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら、豪族あるいは豪農として一般農民の上に立つ地位を急速に築いきます。

特に目覚ましかったのは中心部に住み着いた北條木谷家です、

年表にすると
1611年 村方文書に葛原村庄屋として九郎左衛門(22代)の名があります。
1628年 廃池になっていた満濃池(まんのう町)の改修に着手
1631年 満濃池の改修が完了
1670年 村の八幡宮本殿が建立、その棟札に施主・木屋弥三兵衛(木谷八十兵衛、二十四代)の名が記されています。
そして以後、村人から「大屋」とあがめられた北條木谷家は、明和五年(1768)まで百数十年にわたり、世襲の庄屋役をつとめることになります。

その原動力の一つが「旧四条川河道総合開発計画」ではなかったのかというのが私の「仮説」です
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『新編丸亀市史』は、満濃池の再築の寛永三年(1628)から同五年の間に、事前工事として治水工事として旧四条川の流れを金倉川の流れに一本にする付け替え改修を行ったとします。その後に行われた一連の開発を「旧四条川河道総合開発」と呼ぶことにします。まず、旧流路跡は水田開発が行われます。水田が増えると水不足になるので、廃川のくぼ地を利用して千代池や香田池(買田池)などのため池群が旧河道沿い築造されます。ちなみに買田池は寛文二年(一六六二)築造で、その他の池も、河道変更後の築造です。これらの治水灌漑事業にパイオニアリーダーとして活躍した人たちの中に、木谷家の先祖もいたのではないでしょうか。

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 そして、1670年の八幡本宮建立は「旧四条川総合開発計画」の成就モニュメントとして計画されたのではないでしょうか。残念ながら、この仮説(妄想?)を裏付けるような資料は、私の手元にはありません。今回は、ここまでです。おつきあいありがとうございました。

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