瀬戸の島から

カテゴリ:善通寺と空海 > 空海の実像を求めて

   四国88ヶ所霊場の内の半数以上が、空海によって建立されたという縁起や寺伝を持っているようです。しかし、それは後世の「弘法大師伝説」で語られていることで、研究者達はそれをそのままは信じていないようです。
それでは「空海修行地」と同時代史料で云えるのは、どこなのでしょうか。
YP2○『三教指帰』一冊 上中下巻 空海 森江佐七○宗教/仏教/仏書/真言宗/弘法大師/江戸/明治/和本の落札情報詳細 - ヤフオク落札価格検索  オークフリー

延暦16(797)、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽
②土佐室戸岬
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
そこには、今は次のような四国霊場の札所があります。
①大滝嶽には、21番札所の大龍寺、
②室戸崎には24番最御崎寺
④石峯(石鎚山)には、横峰寺・前神寺
この3ケ所については『三教指帰』の記述からしても、間違いなくと研究者は考えているようです。

金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル
金山出石寺(愛媛県)

ちなみに③の「金巌」については、吉野の金峯山か、伊予の金山出石寺の二つの説があるようです。金山出石寺については、以前にお話したように、三崎半島の付け根の見晴らしのいい山の上にあるお寺で、伊予と豊後を結び航路の管理センターとしても機能していた節があります。また平安時代に遡る仏像・熊野神社の存在などから、この寺が「金巌」だと考える地元研究者は多いようです。どうして、この寺が札所でないのか、私も不思議に思います。さて、これ以外に空海の修行地として考えられるのはどこがあるのでしょうか? 今回は讃岐人として、讃岐の空海の修行地と考えられる候補地を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」です。
武田 和昭

 仏教説話集『日本霊異記』には、空海が大学に通っていた奈良時代後期には山林修行僧が各地に数多くいたことが記されています。その背景には、奈良時代になると体系化されない断片的な密教(古密教=雑密)が中国唐から伝えられます。それが山岳宗教とも結び付き、各地の霊山や霊地で優婆塞や禅師といわれる宗教者が修行に励むようになったことがあるようです。空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の道に入るのも、そのような先達との出会いからだったようです。
 人々が山林修行者に求めたのは現世利益(病気治癒など)の霊力(呪術・祈祷)でした。
その霊力を身につけるためには、様々の修行が必要とされました。ゲームに例えて言うなれば、ボス・キャラを倒すためには修行ダンジョンでポイントやアイテム獲得が必須だったのです。そのために、若き日の空海も、先達に導かれて阿波・大滝嶽や室戸崎で虚空蔵求聞持法を修したということになります。つまり、高い超能力(霊力=験)を得るために、山林修行を行ったとしておきます。
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 2万6千人を鑑定!9割以上が納得の ...

 以前にお話ししたように、求聞持法とは虚空蔵吉薩の真言

「ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」

を、一日に一万遍唱える修行です。それを百日間、つまり百万遍を誦す難行です。ただ、唱えるのではなく霊地や聖地の行場で、行を行う必要がありました。それが磐座を休みなく行道したり、洞窟での岩籠りしながら唱え続けるのです。その結果、あらゆる経典を記憶できるという効能が得られるというものです。これも密教の重要な修行法のひとつでした。空海も最初は、これに興味を持って、雑密に近づいていったようです。この他にも十一面観音法や千手観音法などもあり、その本尊として千手観音や十一面観音が造像されるようになります。以上を次のようにまとめておきます。
①奈良時代末期から密教仏の図像や経典などが断片的なかたち、わが国に請来された。
②それを受けて、日本の各地の行場で修験道と混淆し、様々の形で実践されるようになった
③四国にも奈良時代の終わり頃には、古密教が伝来し、大滝嶽、室戸崎、石鎚山などで実践されるようになった。
④そこに若き日の空海もやってきて山林修行者の群れの中に身を投じた。
 讃岐の空海修行地候補として、中寺廃寺からみていきましょう。
大川山 中寺廃寺
大川山から眺めた中寺廃寺
中寺廃寺跡(まんのう町)は、善通寺から見える大川山の手前の尾根上にあった古代山岳寺院です。「幻の寺院」とされていましたが、発掘調査で西播磨産の須恵器多口瓶や越州窯系青磁碗、鋼製の三鈷杵や錫杖頭などが出土しています。

中寺廃寺2
中寺廃寺の出土品
その内の三鈷杵は古密教系に属し、寺院の建立年代を奈良時代に遡るとする決め手の一つにもなっています。中寺廃寺が八世紀末期から九世紀初頭にすでにあったとすれば、それはまさに空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。ここで若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。
 この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったようです。
 讃岐と瀬戸内海をはさんだ備前地方には平安時代初期の千手観音像や聖観音立像などが数体残されています。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト

その中の大賀島寺(天台宗)の千手観音立像(像高126㎝)については、密教仏特有の顔立ちをした9世紀初頭の像と研究者は評します。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト
大賀島寺(天台宗)の千手観音立像

この仏からは平安時代の初めには、規模の大きな密教寺院が瀬戸内沿岸に建立されていたことがうかがえます。中寺廃寺跡は、これよりも前に古密教寺院として大川山に姿を見せていたことになります。

 次に善通寺の杣山(そまやま)であった尾野瀬山を見ていくことにします。
中世の高野山の高僧道範の「南海流浪記」には、善通寺末寺の尾背寺(まんのう町春日)を訪ねたことを、次のように記します。

尾背寺参拝 南海流浪記

①善通寺建立の木材は尾背寺周辺の山々から切り出された。善通寺の杣山であること。
②尾背寺は山林寺院で、数多くの子院があり、山岳修行者の拠点となっていること。
 ここからは空海の生家である佐伯直氏が、金倉川や土器川の源流地域に、木材などの山林資源の管理権を握り、そこに山岳寺院を建立していたことがうかがえます。尾背寺は、中寺廃寺に遅れて現れる山岳寺院です。中寺廃寺の管理運営には、讃岐国衙が関わっていたことが出土品からはうかがえます。そして、その西側の尾背寺には、多度郡郡司の佐伯直氏の影響力が垣間見えます。佐伯家では「我が家の山」として、尾野瀬山周辺を善通寺から眺めていたのかもしれません。そこに山岳寺院があることを空海は知っていたはずです。そうだとすれば、大学をドロップアウトして善通寺に帰省した空海が最初に足を伸ばすのが、尾野瀬山であり、中寺廃寺ではないでしょうか。
 ちなみにこれらの山岳寺院は、点として孤立するのではなく、いくつもの山岳寺院とネットワークで結ばれていました。それを結んで「行道」するのが「中辺路」でした。中寺廃寺を、讃岐山脈沿いに西に向かえば、尾背寺 → 中蓮寺跡(財田町) → 雲辺寺(観音寺市)へとつながります。この中辺路ルートも山林修行者の「行道」であったと私は考えています。
 しかし、尾背寺については、空海が修行を行った時期には、まだ姿を見せていなかったようです。
 さらに大川山から東に讃岐山脈を「行道」すれば、讃岐最高峰の龍王山を越えて、大滝寺から大窪寺へとつながります。
 大窪寺は四国八十八ケ所霊場の結願の札所です。

3大窪寺薬師如来坐像1

大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
以前にお話したように、この寺の本尊は、飛鳥様式の顔立ちを残す薬師如来坐像(座高89㎝)で、胴体部と膝前を共木とする一本造りで、古様様式です。調査報告書には「堂々とした姿態や面相表現から奈良時代末期から平安時代初期の制作」とされています。

4大窪寺薬師側面
        大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理後)

 また弘法大師が使っていたと伝わる鉄錫杖(全長154㎝)は法隆寺や正倉院所蔵の錫杖に近く、栃木・男体山出上の平安時代前期の錫杖と酷似しています。ここからは大窪寺の鉄錫杖も平安時代前期に遡ると研究者は考えています。
 以上から大窪寺が空海が四国で山林修行を行っていた頃には、すでに密教的な寺院として姿を見せていたことになります。
 大窪寺には「医王山之図」という寺の景観図が残されています。
この図には薬師如来を安置する薬師堂を中心にして、図下部には大門、中門、三重塔などが描かれています。そして薬師堂の右側には、建物がところ狭しと並びます。これらが子院、塔頭のようです。また図の上部には大きな山々が七峰に描かれ、そこには奥院、独鈷水、青龍権現などの名称が見えます。この図は江戸時代のものですが、戦国時代の戦火以前の中世の景観を描いたものと研究者は考えています。ここからも大窪寺が山岳信仰の寺院であることが分かります。
 また研究者が注目するのが、背後の女体山です。
これは日光の男体山と対比され、また奥院には「扁割禅定」という行場や洞窟があります。ここからは背後の山岳地は山林修行者の修行地であったことが分かります。このことと先ほど見た平安時代初期の鉄錫杖を合わせて考えれば、大窪寺が空海の時代にまで遡る密教系山岳寺院であったことが裏付けられます。

 空海の大学ドロップアウトと山林修行について、私は、最初は次のように思っていました。
 大学での儒教的学問に疑問を持った空海は、父・母に黙ってドロップアウトして、山林修行に入ることを決意した。そして、山林修験者から聞いた四国の行場へと旅立っていった。
しかし、古代の山林修行は中世の修験者たちの修行スタイルとは大きく違っている点があるようです。それは古代の修行者は、単独で山に入っていたのではないことです。
五来重氏は、辺路修行者と従者の存在を次のように指摘します。
1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。「勧進帳」の安宅関のシーンで強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。

空海も従者を伴っての山岳修行だったと云います。例えば、修行者は食事を作りません。従者が鍋釜を担いで同行し、食料を調達し、薪を集め食事を準備します。空海は、山野を「行道」し、石の上や岬の先端に座って静かに瞑想しますが、自分の食事を自分で作っていたのではないと云うのです。
それを示すのが、室戸岬の御蔵洞です。
御厨人窟の御朱印~空と海との間には~(高知県室戸市室戸岬町) | 御朱印のじかん|週末ドロボー

ここは、今では空海の中に朝日入り、悟りを開いた場所とされています。しかし、御蔵洞は、もともとは御厨(みくろ)洞で、空海の従者達の生活した洞窟だったという説もあります。そうだとすれば、空海が籠もった洞は、別にあることになります。どちらにしても、ここでは空海は単独で、山林修行を行っていたわけではないこと、当時の山岳修行は、富裕層だけにゆるされたことで、何人もの従者を従えての「特権的な修行」であったことを押さえておきます。
五来重氏の説を信じると、修行に旅立つためには、資金と従者が必要だったことになります。
それは父・田公に頼る以外に道はなかったはずです。父は無理をして、入学させた中央の大学を中退して帰ってきた空海を、どううけ止めたのでしょうか。どちらにしても、最終的には空海の申し入れを聞いて、資金と従者を提供する決意をしたのでしょう。

DSC02575
出釈迦寺奥の院(善通寺五岳 我拝師山)
 その間も空海は善通寺の裏山である五岳の我拝師山で「小辺路」修行を行い、父親の怒りが解けるのを待ったかもしれません。我拝師山は、中世の山岳行者や弘法大師信仰をもつ高野聖にとっては、憧れの修行地だったことは以前にお話ししました。歌人として有名で、高野聖でもあった西行も、ここに庵を構えて何年か「修行」を行っています。また、後世には弘法大師修行中にお釈迦様が現れた聖地として「出釈迦」とも呼ばれ、それが弘法大師尊像にも描き込まれることになります。弘法大師が善通寺に帰ってきていたとした「行道」や「小辺路」を行ったことは十分に考えられます。
DSC02600
出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 父親の理解を得て、善通寺から従者を従えて目指したのが阿波の大瀧嶽や土佐・室戸崎になります。そこへの行程も「辺路」で修行です。尾背寺から中寺廃寺、大窪寺という山岳辺路ルートを選び、修行を重ねながら進んだと私は考えています。

  以上をまとめておきます
①空海が修行し、そこに寺院を開いたという寺伝や縁起を持つ四国霊場は数多くある。
②しかし、空海自らが書いた『三教指帰』に記されているのは、阿波大滝嶽・土佐室戸岬
金巌(金山出石寺)・石峰(石鎚山)の4霊場のみである。
③これ以外に讃岐で空海の修行地として、次の3ケ所が考えられる
  善通寺五岳の我拝師山(出釈迦)
  奈良時代後半には姿を見せて、国が管理下に置いていた中寺廃寺(まんのう町)
  飛鳥様式の本尊薬師如来をもち、山林修行者の拠点であった大窪寺

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」

 高野山霊宝館【展覧会について:大宝蔵展「高野山の名宝」】
          弘法大師坐像(萬日大師像) 金剛峯寺

弘法大師を描いた絵図や像は、いまでは四国霊場の各寺院に安置されています。その原型となるものが高野山と善通寺に伝わる2枚の弘法大師絵図(善通寺御影)です。最近、善通寺ではこの御影が公開されていました。そこで、今回はこの善通寺御影を追いかけてみようと思います。テキストは「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」です。

弘法大師空海は、承和三年8(835)3月21日に高野山奥之院で亡くなります。
開祖が亡くなると神格化され信仰対象となるのは世の習いです。空海は真言宗開祖として、礼拝の対象となり、祖師像が作られ御影堂に祀られることになります。高野山に御影堂建立の記録がみられるのは11世紀ころからです。弘法大師伝説の流布と重なります。
 高野山に伝わる弘法大師絵図については、次のように伝わります。

 空海が亡くなる際に、実恵が「師の姿は如何様に有るべきか」と聞くと、「このようにあるべし」と示されたものを、真如親王が写した。

 高野山に伝わる弘法大師像は、真如親王が描いたと伝わるところから「真如親王様御影」と呼ばれるようになります。これは、秘仏なので今は、その姿を拝することはできないようです。しかし、承安二年(1171)に僧阿観により、模写されたものが大坂の金剛寺に伝わっています。
天野山 金剛寺|shoseitopapa
金剛寺の弘法大師像 高野山に伝わる弘法大師像の模写とされる

これを見ると、右手に金剛杵、左手には数珠を持ち、大きな格子の上に画面向かって左に向いた弘法大師が大きく描かれています。これを模して、同じタイプのものが鎌倉時代に数多く描かれます。

弘法大師像 文化遺産オンライン
弘法大師像(東京国立博物館) 善通寺様御影

 これに対して、真如親王様御影の画面向かって右上に、釈迦如来が描き加えたものがあります。このタイプをこれを善通寺御影と呼び、香川、岡山などの真言宗寺院に数多く所蔵されています。ここまでを整理しておきます。弘法大師像には次の二つのタイプがある
①高野山の「真如親王様御影」
②讃岐善通寺を中心とする善通寺御影で右上に釈迦如来が描かれている
史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記洲崎寺本

善通寺御影には、どうして釈迦如来が描き込まれているのでしょうか?
高野山の学僧道範(1178~1252)は、山内の党派紛争に関った責任を問われて、仁治四年(1241)から建長元年(1249)まで讃岐に流刑になり、善通寺で生活します。その時の記録が南海流浪記です。そこに善通寺御影がどのように書かれているのか見ていくことにします。
同新造立。大師御建立二重の宝塔現存ス。本五間、令修理之間、加前広廂間云々。於此内奉安置御筆ノ御影、此ノ御影ハ、大師御入唐之時、自ら図之奉預御母儀同等身ノ像云々。
大方ノ様ハ如普通ノ御影。但於左之松山ノ上、釈迦如来影現ノ形像有之云々。・・・・
意訳変換しておくと

新たに造立された大師御建立の二重の宝塔が現存する。本五間で、修理して、前に広廂一間が増築されたと云う。この内に弘法大師御影が安置されている。この御影は、大師が入唐の際に、自らを描いて御母儀に預けたものだと云う。そのスタイルは普通の御影と変わりないが、ただ左の松山の上に、釈迦如来の姿が描かれている

ここには次のような事が分かります。
①道範が、善通寺の誕生院で生活するようになった時には、大師建立とされるの二重の宝塔があったこと
②その内に御影が安置されていたこと。
③それは大師が入唐の際に母のために自ら描いたものだと伝えられていたこと
④高野山の「真如親王様御影」とよく似ているが、ただ左の松山の上に、釈迦如来が描かれていること

DSC02611
空海修行の地とされる我拝師山 捨身ケ岳
道範は、この弘法大師御影の由来を次のように記します。

此行道路.、紆今不生、清浄寂莫.南北諸国皆見、眺望疲眼。此行道所は五岳中岳、我拝師山之西也.大師此処観念経行之間、中岳青巌緑松□、三尊釈迦如来、乗雲来臨影現・・・・大師玉拝之故、云我拝師山也.・・・

意訳変換しておくと
この行道路は、非常に険しく、清浄として寂莫であり、瀬戸内海をいく船や南北の諸国が総て望める眺望が開けた所にある。行道所は五岳の中岳と我拝師山の西で、ここで大師は観念経行の修行中に、中岳の岩稜に生える緑松から、三尊釈迦如来が雲に乗って姿を現した。(中略)・・大師が釈迦如来を拝謁したので、この山を我拝師山と呼ぶ。

DSC02588
出釈迦寺奥の院
ここからは次のようなことが分かります。
①五岳山は「行道路」であり、行道所(行場)が我拝師山の西にあって、空海以前からの行場であったこと。
②空海修行中に雲に乗った釈迦如来が現れたので、我拝師山と呼ぶようになったこと
 
弘法大師  高野大師行状図画 捨身
          我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」
 これに時代が下るにつれて、新たなエピソードとして語られるようになります。それが我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」です。
六~七歳のころ、大師は霊山である我拝師山から次のように請願して身を投げます。
「自分は将来仏門に入り、多くの人を救いたいです。願いが叶うなら命をお救いください。叶わないなら命を捨ててこの身を仏様に捧げます。」
すると、不思議なことに空から天女(姿を変えた釈迦)が舞い降りてその身を抱きしめられ、真魚は怪我することなく無事でした。
これが、「捨身誓願(しゃしんせいがん)」で、いまでは、この行場は捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)と名前がつけられ、そこにできた霊場が出釈迦寺奥の院です。この名前は「出釈迦」で、真魚を救うために釈迦が現れたことに由来と伝えるようになります。

DSC02600
出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 捨身ヶ嶽は熊野行者の時代からの行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していました。西行や道範らにとっても、「捨身ヶ嶽=弘法大師修行地」は憧れの地であったようです。高野聖であった西行は、ここで三年間の修行をおこなっていることは以前にお話ししました。
ここでは、我拝師山でで空海が修行中に釈迦三尊が雲に乗って現れたと伝えられることを押さえておきます。

宝治二年(1248)に、善通寺の弘法大師御影について、高野二品親王が善通寺の模写を希望したことが次のように記されています。

宝治二年四月之比、依高野二品親王仰、奉摸当寺御影。此事去年雖被下御使、当国無浄行仏師之山依申上、今年被下仏師成祐、鏡明房 奉摸写之拠、仏師四月五日出京、九日下堀江津、同十一日当寺参詣。同十三日作紙形、当日於二御影堂、仏師授梵網十戒、其後始紙形、自同十四日図絵、同十八日終其功。所奉摸之御影卜其御影形色毛、無違本御影云々。同十八日依寺僧評議、今此仏師彼押本御影之裏加御修理云々。・・・・

意訳変換しておくと
宝治二(1248)年4月に高野二品親王より、当寺御影の模写希望が使者によって伝えられた。しかし、讃岐には模写が出来る仏師(絵師)がいないことを伝えた。すると、仏師成祐(鏡明房)を善通寺に派遣して模写することになった。仏師は4月5日に京都を出発、9日に堀江津に到着し、十一日に善通寺に参詣した。そして十三日には、絵師は御影堂で梵網十戒を受けた後に、紙形を作成、十四日から模写を始め、十八日には終えた。模写した御影は、寸分違わずに本御影を写したものであった。寺僧たちは評議し、この仏師に本御影の裏修理も依頼した云々。・・・・

ここからは次のようなことが分かります。
①宝治二(1248)年に高野二品親王が善通寺御影模写のために、絵師を讃岐に派遣したこと
②13世紀当時の讃岐には、模写できる絵師がいなかったこと。
③仏師は都から4日間で多度郡の堀江津に到着していること、堀江津が中世の多度郡の郡港であったこと
④京都からの仏師が描いた模写は、出来映えがよかったこと
⑤「寺僧たちは評議し・・」とあるので、当時の善通寺が子院による合議制で運営されていたこと

善通寺御影が、上皇から「上洛」を求められていたことが次のように記されています。
此御影上洛之事
承元三年隠岐院御時、立左大臣殿当国司ノ之間、依院宣被奉迎。寺僧再三曰。上古不奉出御影堂之由、雖令言上子細、数度依被仰下、寺僧等頂戴之上洛。御拝見之後、被奉模之。絵師下向之時、生野六町免田寄進云々。嘉禄元年九条禅定殿下摂禄御時奉拝之、又模写之。絵師者唐人。御下向之時、免田三町寄進ム々。・・
意訳変換しておくと
承元三(1209)年隠岐院(後鳥羽上皇)の時代、立左大臣殿(藤原公継(徳大寺公継?)が讃岐国司であった時に、鳥羽上皇の意向で院宣で善通寺御影を見たいので京都に上洛させるようにとの指示が下された。これに対して寺僧は再三に渡って、古来より、御影堂から出したことはありませんと、断り続けた。それでも何度も、依頼があり断り切れなくなって、寺僧が付き添って上洛することになった。院の拝見の後、書写されることになって、絵師が善通寺に下向した。その時に寄進されたのが、生野六町免田だと伝えられる。また嘉禄元(1225)年には、九条禅定殿下が摂禄の時にも奉拝され、この時も模写されたが、その時の絵師は唐人であった。この時には免田三町が寄進されたと云う。

この南海流浪記の記録については、次の公式文書で裏付けられます。
承元三年(1209)8月、讃岐国守(藤原公継)が生野郷内の重光名見作田六町を善通寺御影堂に納めるようにという次のような指示を讃岐留守所に出しています。

藤原公継(徳大寺公継の庁宣
  庁宣 留守所
早く生野郷内重光名見作田陸町を以て毎年善通寺御影堂に免じ奉る可き事
右彼は、弘法大師降誕の霊地佐伯善通建立の道場なり、早く最上乗の秘密を博え、多く数百載の薫修を積む。斯処に大師の御影有り、足れ則ち平生の真筆を留まるなり。方今宿縁の所□、当州に宰と為る。偉え聞いて尊影を華洛に請け奉り、粛拝して信力を棘府に増信す。茲に因って、早く上皇の叡覧に備え、南海の梵宇に送り奉るに、芭むに錦粛を以てし、寄するに田畝を以てす。蓋し是れ、四季各々□□六口の三昧僧を仰ぎ、理趣三味を勤行せしめんが為め、件の陸町の所当を寺家の□□納め、三味僧の沙汰として、樋に彼用途に下行せしむべし。餘剰□に於ては、御影堂修理の料に充て用いるべし。(下略)
承元二年八月 日
大介藤原朝臣
意訳変換しておくと
 善通寺は弘法大師降誕の霊地で、佐伯善通建立の道場である。ここに大師真筆の御影(肖像)がある。この度、讃岐の国守となった折に私はこの御影のことを伝え聞き、これを京都に迎えて拝し、後鳥羽上皇にお目にかけた。その返礼として、御影のために六人の三昧僧による理趣三昧の勤行を行わせることとし、その費用として、生野郷重光名内の見作田―実際に耕作され収穫のある田六町から収納される所当をあて、その余りは御影堂の修理に使用させることにしたい。 

 ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師太子伝説の高まりと共に、その御影が京の支配者たちの信仰対象となっていたこと、
②国司が善通寺御影を京都に迎え、後鳥羽上皇に見せたこと。
③その返礼として、御影の保護管理のために生野郷の公田6町が善通寺に寄進されたこと

「南海流浪記」では、御影を奉迎したのは後鳥羽上皇の院宣によるもので、免田寄進もまた上皇の意向によるとしています。ここが庁宣とは、すこし違うところです。庁宣は公式文書で根本史料です。直接の寄進者は国守で、その背後に上皇の意向があったと研究者は考えています。
空海ゆかりの国宝や秘仏などが一堂に 生誕1250年記念展示会が開幕|au Webポータル国内ニュース
善通寺御影(瞬目大師(めひきだいし)の御影) コピー版

この背景には弘法大師信仰の高まりがあります。

それは弘法大師御影そのものに霊力が宿っているという信仰です。こうして、各地に残る弘法大師御影を模写する動きが有力者の間では流行になります。そうなると、都の上皇や天皇、貴族達から注目を集めるようになるのが、善通寺の御影です。これは最初に述べたように、弘法大師が入唐の時、母のために御影堂前の御影の池に、自分の姿を写して描いたとされています。空海の自画像です。これほど霊力のやどる御影は他にはありません。こうして「一目みたい、模写したい」という申出が善通寺に届くようになります。
 この絵は鎌倉時代には、土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師(めひきだいし)の御影」として世間で知られるようになります。その絵の背後には、釈迦如来像が描かれていました。こうして高野山の「真如親王様御影」に並ぶ、弘法大師絵図として、善通寺御影は世に知られるようになります。ちなみに、この絵のおかげで中世の善通寺は、上皇や九条家から保護・寄進を受けて財政基盤を調えていきます。そういう意味では  「瞬目大師の御影」は、善通寺の救世主であったともいえます。
 以後の善通寺は「弘法大師生誕の地」を看板にして、復興していくことになります。
逆に言うと、古代から中世にかけての善通寺は、弘法大師と関係のない修験者の寺となっていた時期があると私は考えています。その仮説を記しておきます。
①善通寺は佐伯直氏の氏寺として7世紀末に建立された。
②しかし、佐伯直氏が空海の甥の世代に中央官人化して讃岐を去って保護者を失った。
③その結果、古代の善通寺退転していく。古代末の瓦が出土しないことがそれを裏付ける。
④それを復興したのが、修験者で勧進聖の「善通」である。そこで善通寺と呼ばれるようになった。
⑤空海の父は田公、戸籍上の長は道長で善通という人物は古代の空海の戸籍には現れない。
⑥信濃の善光寺と同じように、中興者善通の名前が寺院名となった。
⑦江戸時代になると善通寺は、「弘法大師生誕の地」「空海(真魚)の童子信仰」「空海の父母信仰」
を売りにして、全国的な勧進活動を展開する。
⑧その際に、「空海の父が善通で、その菩提のために建てられた善通寺」というストーリーが広められた。

話がそれました。弘法大師御影について、まとめておきます。
①弘法大師御影は、ひとり歩きを始め、それ自体が信仰対象となったこと
②善通寺御影は各地で模写され、信仰対象として拡がったこと。
③さらに、立体化されて弘法大師像が作成されるようになったこと。
④時代が下ると弘法大師伝説を持つ寺院では、寺宝のひとつとして弘法大師の御影や像を安置し、大師堂を建立するようになったこと。
今では、四国霊場の真言宗でない寺にも大師堂があるのが当たり前になっています。そして境内には、弘法大師の石像やブロンズ像が建っています。これは、最近のことです。ある意味では、鎌倉時代に高まった弘法大師像に対する支配者の信仰が、庶民にまで拡がった姿の現代的なありようを示すといえるのかもしれません。
今日はこのくらいにしておきます。次回は、善通寺の弘法大師絵図のルーツを探って見たいと思います。

弘法大師御誕生1250年記念「空海とわのいのり―秘仏・瞬目大師(めひきだいし)御開帳と空海御霊跡お砂踏み巡礼―」 |  【公式】愛知県の観光サイトAichi Now
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」
関連記事

   弘法大師御遺告 文化遺産オンライン
御遺告
かつて空海の得度・受戒は「20歳得度、23歳受戒」説が信じられてきました。
それは真言宗教団が空海自筆として絶対の信頼をおく『御遺告』に次のように記されているからです。

二十の年に及べり。爰に大師岩渕の贈僧正召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向す。此こにおいて髪白髪を剃除し、沙弥の十戒・七十二の威儀を授けらる。名をば教海と称し、後に改めて如空と称す。(中略)吾れ生年六十二、葛四十一
意訳変換しておくと
空海二十歳の時に、岩渕の僧正を招いて、和泉国槙尾山寺に出でた。ここで髪を下ろし、沙弥の十戒・七十二の威儀を授けらた。その名を教海と称し、後に改めて如空とした。

『御遺告』はかつては自筆であるされていましたが、今ではあまりにもその内容に矛盾があって疑わしいとされるようになっています。早くは契沖阿閣梨なども『応需雑記』で偽作であるとのべ、新義真言宗豊山派の学者のあいだでも、否定説が強くなります。権田雷斧師は次のように述べます。

「断じて云く、御遺告の文章頗るほ指俗習にして、空海の詩文集等の文章と対照せば、甚拙劣粗荒なること火を見るが如し、具眼の人、誰か高祖の真作と信ぜん。否信ぜんと欲するも能はざるなり」(豊山派弘法大師一千年御遠忌事務局『文化史上より見たる弘法大師伝』(昭和八年)所載)

御遺告1P
御遺告
 『御遺告』という宗教的権威から解き放たれて空海の出家を考える研究者が現れるようになります。その場合に、史料学的となるのは公式記録である①『続日本後紀』(巻四)の空海卒伝と、空海自著である②『三教指帰』と③『性霊集』の3つになるようです。
①の『続日本後紀』の空海卒伝は、825年3月21日の入滅をうけて、25五日に大政官から弔問使発向とともにしるされたものです。
これ以上に確かなものはない根本史料です。空海卒伝は嵯峨太上皇の弔書にそえられたもので、空海葬送の棺前でよみあげられた追悼文の一部と研究者は考えているようです。内容も、簡明明瞭で要をえた名文で、『御遺告』の文章の比ではないと研究者は評します。このなかに、次のように記します。
「年三十一得度 延暦二十三年入唐留学

ここには31歳で得度したことが明記されています。教団の出す大師伝出版物は、かつてはこの「三十一」の横に小さく「二十一カ」を入れていたようです。しかし、「続日本後紀』の本文にはこれがありません。真言教団からすれば空海が、大学退学後に得度も受戒もせずに、優婆塞として放浪していたことは認めたくなかったようです。また、空海が31歳ではじめて公式得度して沙弥となった中年坊さんであるとは、教団の常識からすると考えらないことだったのかもしれません。のちには公式文書も、この31歳を得度ではなく、受戒(具足戒をうけて比丘僧となる)の年としてきました。かつての真言教団は『御遺告』と矛盾するというので、31歳受戒説さえも無視してきたことを押さえておきます。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
空海得度を記した度牒官符(太政官符)

 『続日本後紀』の31歳得度説については、以前にお話ししましたので簡単に要約しておきます。
江戸時代の『梅園奇賞』という書が、石山寺の秘庫で見たという空海得度の度牒官符(得度をみとめた公式記録)を影写して載せています。これは805(延暦24年)9月11日付で、空海の名前が見えますす。この日付は、空海は入唐中で、長安で恵果阿閣梨から金胎両部の灌頂をうけたころになります。つまり、日本にはいない頃です。度牒の内容は
①留学僧空海が、延暦22年(あとで、23年と書き人れ)4月7日に出家得度して沙弥となったこと
②それを延暦24年の日付で、2年後に証明したものであること
この内容については、優婆塞だった空海が入唐直前の31歳で得度して、その手続きが2年後に行われたことが定説化しているようです。
この度牒の奉行をした正五位下守左少弁藤原朝臣貞嗣、左大史正六位武生宿而真象も実在が証明されています。貞嗣の官位も「公卿補任」でしらべるとぴつたり合うようです。この度牒の史料的確実性が裏付けられています。

三教指帰 冒頭
三教指帰冒頭部
 空海(真魚)は『三教指帰』序に、次のように記します。
志学(十五歳)にして上京し二九(十八歳)にして櫂市(大学)に遊聴(遊学)した、

しかし、それ以後の31歳まで13年間の生活を、空海はまったく語りません。
大師伝にのせられた諸種の「伝説」も見ておきましょう。
①弘仁上年(816)「高肝山奏請表」(『性霊集」巻九)
「空海少年の日、好て山水を渉覧す」

②『三教指帰』序
「優に一沙門あり。余に虚空蔵求聞持法を呈す。(中略)阿国(阿波)大滝嶽に踏り攀じ、土州(土佐)室戸崎に勤念す」「或るときは金巌(加面能太気(かねのたき)=吉野金峯山)に登り、而して雪に遇ふて炊填たり。或るときは石峯(伊志都知能太気(いしつちのたけ)=石鎚山)に跨つて、以て根を絶つて戟何たり

これらをみると廻国聖の修行姿を伝えるものばかりです。これらの記述に従って多くの書物が「大学退学後の空海の青年期=山岳修行期」として描いてきました。
三教指帰(さんごうしいき)とは? 意味や使い方 - コトバンク

『三教指帰』一巻下に登場する仮名乞児(かめいこつじ)は、若き日の空海の自画像ともされます。

その仮名乞児が次のように云っています。
阿畦私度は常に膠漆(こうしつ)の執友たり。光明婆塞は時に篤信の檀主たり

ここからは仮名乞児が私度僧や優婆塞と深くまじわっていたことが分かります。そして彼は割目だらけの本鉢をもち、縄床(御座、あるいは山伏の引敷)をさげ、数珠・水瓶・錫杖を手に、草履をはいた行装だったと記します。
「三教指帰」(巻下)には、罪あるものの堕ちる地獄のありさまをくわしく語っています。
これも景成の「日本霊異記』にみられるような堕地獄の苦を説く唱導に似ています。ここから研究者は、空海は勧進もしていたのではないかと推察します。
性霊集鈔(04の001) / 臥遊堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
性霊集 益田池の部分
『性霊集』には、空海のつくった「知識勧進」の文がたくさんおさめられています。
その中には万濃池(讃岐)、益田池(大和)などの社会的作善があります。ここからは空海が律師・僧都の栄位を得ても、勧進聖的活動をわすれていない姿が見えます。他にも勧進関係の場面を挙げて見ると
①『性霊集』1巻8には、油や米の寄進をえて一喜一憂したこと
②「知識華厳会の為の願文」には、勧進願文の常套文句がもちいられていること。
③「高野山万燈会の順文」も、万燈会で一燈一灯を万人の作善であつめること
④「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」では、「一塵は大嶽を崇うし、 滴は広海を深うする所以は、同心豹力の致す所なリ。伏して乞ふ、諸檀越等、各々銭一粒の物を添へて、斯の功徳を相済ヘ」
と記されていること、
⑤同書(巻九)には「東寺の塔を造り本る材木を曳き運ぶ勧進」があること
⑥「鐘の知識を唱うる文」「紀伊国伊都郡高野寺の鐘の知識の文」などもあること、
以上からは空海には、優婆塞聖として知識勧進に関わった経験があることが裏付けられます。こうした空海の勧進の手腕を見込んで、嵯峨天皇は当時資金難でゆきずまっていた東寺の造営を委ねたとも考えられます。すぐれた勧進者は東大寺を再建した重源のように、土木建築や彫刻に秀でた配下の聖集団をもっていました。空海もやはり勧進聖集団を統率していたと考えることができそうです。だからこそ土木事業から仏像制作にいたるまで、いろいろな場面に対応できたのかもしれません。空海の消息をあつめた『高野雑筆』には、康守・安行のような勧進聖とみられる弟子も出てきます。
このように空海の18歳から31歳で入唐するまでの伝記のブランクは、優婆塞聖の生活を送っていたと研究者は推測します。
空海の庶民仏教家としての基礎は、このときに形成されたのではないでしょうか。数多くの社会事業もそのあらわれです。もちろんこの期に、顕密の学業や修行をつんだでしょうが、それはあくまでも私度優婆塞中のことです。そのため大師伝作者は、幼少年時代と入唐後の行跡をくわしく語りながら、青年時代は空白のまま残したのかも知れません。
 この空海の青年時代は、のちに現れる高野聖の姿にダブります。空海の衣鉢をついだのは、高野山の学僧たちだけでなく、高野聖たちも空海たらんとしたのかもしれません。

以上を整理しておくと
①真言教団は、空海の得度・受戒について『御遺告』に基づいて「20歳得度、23歳受戒」説をとる。
②しかし、学界の定説は『続日本後紀』の空海卒伝に基づいて「31歳得度」説が有力になっている。
③大学退学後、入唐までの空海青年期は謎の空白期で、史料は「山岳修行」以外には何も記さない。
④青年期の空海は優婆塞として、山岳修行以外にもさまざまな勧進活動を行っていた気配がある。
⑤そして、帰朝後は土木工事や寺院建設、仏像制作など多岐にわたる勧進集団を、配下において勧進活動も勧めた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献       テキストは「五来重 優婆塞空海   高野聖59P」
関連記事

善通寺市 仙遊寺 - WALKER'S

私がいつも御世話になっているうどん屋さんのひとつに、善通寺病院近くの宮川製麺があります。その駐車場のそばに「この先 弘法大師幼児霊場仙遊寺」という看板が出ています。歩いて1分足らずで境内につきます。境内の東側にはひろい農事試験場の畑が拡がります。   
  仙遊寺周辺は、空海(真魚)が幼い頃に泥で仏像を造り、それを小さな仏堂に納めて遊んでいた場所とされます。そのため旧蹟とされ、近世になると延命地蔵が建てられ、四国霊場の番外霊場となりました。
仙遊寺 再建前
更地化した仙遊寺の基壇 仮堂の中に本尊
しかし、近年はお堂がなくなり、基壇だけが残され、そこに建てられた仮屋に稚児大師と延命寺蔵だけが祀らていました。

仙遊寺の本尊
 仙遊寺本尊の弘法大師稚児像と延命地蔵
それが2年ほど前に、白壁の立派なお堂が再建されました。来年2023年は大師誕生1250年に当たるようです。その整備事業の一環として再建されたようです。仙遊寺 内部
新しいお堂の中に安置された仙遊寺の本尊
お堂の前の説明書きには、仙遊寺の由緒が次のように記されています。
仙遊寺縁起
仙遊寺縁起

文体がすこし古いようなのでので、読みやすいように現代語訳して、それに「高野大師行状図画」の絵を合わせて紙芝居風に見ていきます。
弘法大師 行状幼稚遊戯事
  幼少期に泥仏を作り拝む場面   高野大師行状図画「幼稚遊戯事」

そもそも当院は弘法大師幼時の霊場で、大師は幼くして崇仏の念が深く、5、6歳の頃から外で遊ぶ時は泥土で仏像を造り、小さい御堂も造って仏像を安置し、礼拝していたと伝わっています。

  できだぞ! 今日もりっぱな仏様じゃ。早う御堂に安置しよう。真魚(空海幼名)は、毎日手作りの泥仏を作って、祀ります。その後は、地に伏して深々と礼拝します。兄弟達もそれに従います。

弘法大師 大師行状図画 蓮華に乗り仏と語る
仏達と雲上の蓮にのって語らう真魚
真魚が5、6歳頃に、いつも夢の中でみることは、八葉の蓮花の上に座って、諸仏と物語することでした。しかし、その夢は父母にも話しませんでした。もちろんその他の人にも。
父母は大師を、手の中の玉を玩ぶように慈しみ、多布度(貴とうと)物と呼びました。
弘法大師 「四天王執蓋事」〉
「四天王執蓋事」 真魚の姿を見て驚き下馬し、平伏する役人

ある日、中央から監察官が屏風ヶ浦(善通寺)に巡視にやってきます。その時に遊んでいる大師の姿を見て、馬から飛び降り、うやうやしく跪(ひざまず)いて大師に敬礼しました。
弘法大師 行状四天王執蓋事
真魚の頭上に天蓋を差しかける四天王「四天王執蓋事」
それを見た随員(部下)の人々は大変怪しみ、その訳を尋ねると「この子は凡人ではない、四天王が天蓋を捧げて、護っているのが見える」と言ったそうです。
以来、遠近の里人は大師を神童と称えて、後世にその礼拝した土地を仙遊ヶ原として、此処に本尊・地蔵菩薩を安置して旧跡としました。この本尊は「夜泣地蔵」と申し、各所より沢山の人が礼拝に訪れます。
 これに時代が下るにつれて、新たなエピソードが加えられていきます。例えば、我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」です。
弘法大師  高野大師行状図画 捨身

 六~七歳のころ、大師は霊山である我拝師山から次のように請願して身を投げます。
「自分は将来仏門に入り、多くの人を救いたいです。願いが叶うなら命をお救いください。叶わないなら命を捨ててこの身を仏様に捧げます。」
すると、不思議なことに空から天女(姿を変えた釈迦)が舞い降りてその身を抱きしめられ、真魚は怪我することなく無事でした。

これが、「捨身誓願(しゃしんせいがん)」といわれるもので、いまでは、この行場は捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)と名前がつけられ、そこにできた霊場が出釈迦寺です。この名前は「出釈迦」で、真魚を救うために釈迦が現れたことに由来します。
 捨身ヶ嶽は熊野行者の時代からの行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していました。西行や道範らにとっても、「捨身ヶ嶽=弘法大師修行地」は憧れの地であったようです。高野聖であった西行は、ここで三年間の修行をおこなっています。
   幼年期の真魚を描いた絵図は、時代が下ると独立してあらたな信仰対象になっていきます。

弘法大師 稚児大師像 与田寺
稚児大師像(与田寺)

それが「稚児大師像」です。幼年姿の空海の姿(真魚)がポートレイト化されたり、彫像化され一人歩きをするようになるのは、以前にお話ししました。
 つまり、近世の稚児大師信仰の高まりとともに、真魚の活動舞台とされたのが仙遊寺周辺なのです。江戸時代には、真魚は粘土で仏を作り、それを小さな手作りのお堂に安置して遊んでいた、そこが仙遊ケ原だったと言い伝えられるようになっていたことを押さえておきます。
 4善通寺御影堂3
 「弘法大師誕生之地」と書かれた誕生院御影堂の扁額

 現在は誕生院の御影堂の扁額には「弘法大師之生誕地」と書かれています。しかし、13世紀頃に成立したいろいろな空海絵伝には、その生誕地が誕生院と書かれたものはありません。誕生院が姿を見せるのは13世紀になってからのことです。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡と善通寺・仲村廃寺・南海道・郡衙の関係図

佐伯氏の氏寺である善通寺には、先行する寺院があったことは以前にお話ししました。
それが仲村廃寺で、現在のホームセンターの当たりになります。飛鳥の蘇我氏と氏寺である飛鳥寺の関係を見ても、建立者の舘周辺に氏寺は建てられることが多いようです。そうだとすると、佐伯直氏の舘も、仲村廃寺周辺にあったことが考えられます。それを裏付けるように、旧練兵場遺跡では古墳時代後期には、その中心域が病院地区から農事試験場の東部の仲村廃寺周辺に移動していることが発掘調査からは分かります。
 それが7世紀末になると、南海道が東から真っ直ぐに伸びてきて現在の四国学院を通過するようになります。その周辺に郡衙や新たな氏寺である善通寺が建立されることは以前にお話ししました。この時期には、郡司である佐伯直氏の舘もこの周辺に移動していたことが考えられます。古代には現在の誕生院には、佐伯直氏の舘はなかったと私は考えています。
DSC04034
再建された仙遊寺
  話が遠いところまで行ってしまいました。仙遊寺にもどります。
仙遊寺の本尊は、延命地蔵と稚児大師です。
   そしてセールスポイントは、稚児大師でしょう。旧蹟という大きな石碑も建っています。そうだとすれば、それをもう少しアピールした方がいいように思います。それは、江戸時代の善通寺が江戸や京都などで出開帳する際に、出品した品々が参考になると思います。元禄時代の善通寺は金堂再建の費用を集めるために大規模な開帳をおこなっています。
弘法大師稚児像
稚児大師像(善通寺)

その際の目玉の一つが「弘法大師生誕地」としての「稚児大師」でした。そして、ファミリーを目に見える形にするために、父親や母親の像を造り展示しています。
空海父 佐伯善通
真魚の父 佐伯善通像(戸籍的には 父は佐伯田公)
また、ここで紹介した真魚伝説にかかわる絵図も魅力あるものです。これらを展示することで「真魚の寺」という面を前面に出していくという広報戦略を私は「妄想」しています。要らぬお節介でした。
旧練兵場遺跡地図 
仙遊寺周辺の古代遺跡

  最後にもう一度、説明版を見ておきます。私が気に掛かる部分は、次の部分です。
  また、かつて日本軍の第十一師団の練兵場を造るに当たり、仙遊ヶ原の旧跡も他に移転しましたが、時の師団長・乃木将軍は霊夢によって直ちに元の位置に戻すよう言われたため、練兵場の中央に仙遊ヶ原の霊跡を保存し、現在に至っています。

世界広しといえど、恐らく誰も練兵場内に仏堂があったとは知らないことでしょう。なお、昭和26年7月7日を以って寺名を、旧跡に因んで仙遊寺と呼称することになりました。

この記述について検討しておきます。

善通寺航空写真 1922年11月
善通寺航空写真(1921年)と練兵場
練兵場は現在の仙遊町で「善通寺病院 + 農事試験場」の範囲
現在の仙遊町は、約14万坪(×3,3㎡)=46万㎡が11師団の陸軍用地として買い上げられ練兵場となります。
十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺(善通寺市史NO3)
練兵場中央の北辺にあったのが仙遊ケ原でした。ここにあったお堂も軍に接収されます。伝承では師団長乃木将軍は夢の御告げによって古跡のことを知り、軍用地接収を中止させたと伝えます。この説明版も、それに従っているようです。しかし、これは後に神格化された乃木将軍への追慕から生まれた「伝説」のようです。

善通寺地図北部(大正時代後期)名前入り
善通寺練兵場周辺地図(1920年代)
1909(明治42)1月に、善通寺住職は陸軍大臣宛に次のような要望書を提出していることを善通寺市史は載せています。
「善通寺練兵場中古霊跡仙遊ヶ原地所借用願」
右霊跡仙遊ヶ原ハ弘法大師御誕生所屏風浦別格本山善通寺古霊跡随一二シテ大師御幼少ノ時御遊戯ノ場所トシテ大師行状記二下ノ如キ文アリ
昔ハ公ヨリ御使ヲ国々へ下サレテ民度ノ苦ヲ問ハセケリ 其故ハ君ハ臣フ持テ外トス民ハ食フ以テ命トス穀尽クヌレハ国衰民窮シヌレハ礼備り難シ疫馬鞭ヲ恐レサルガ如シエ化モ随ハス利潤二先ンシテ非法フ行ス民ノ過ツ所ハ吏ノ咎トナリ吏ノ不喜ハ国主ノ帰ス君良吏ヲ澤ハスシテ貪焚ノ輩ヲ持スレバ暴虐ヲ恣ニシテ百姓フ煩ハシム民ノ憂天二昇り災変ヲナス災変起レバ国上乱ル此ノ上ノ講ナルヨリ起り下奢ンルヨリナル国土若シ乱ナバ君何ヲ以テカ安カラン此故二民ノ愁ヲモ間ヒ吏ノ過リヲモ正サンガ為ノ御使ヲ遣ハサレケリサレバ勅使ノ讃岐国へ下サレタリクルニ大師幼クンテ諸々ノ童子二交ハリテ遊ビ給ヒケルプ身奉ッテ馬ヨリヨり礼拝シテロク公ハ几人二非ス共故ハ四人王白傘ヲ取リテ前後二相従ヘリ定メテ知ンヌ此レ前世ノ聖人ナリト云ワ事フト其後隣里人驚キ御名フ貴物トゾ中ケル如斯昔ロヨリ四方ノ善男善女十方信徒熱心二尊敬供養スルノ古霊跡二御座候間南北二拾間、東西に拾間ヲ二拾年間御貸与ノ程別紙図面相添へ懇願仕候間直々御許可願上候也
理  由
右霊跡元当本山所属地二有之候処第十一師団練兵場卜相成候付テハ仮令練兵場ノ片隅二有之候卜雖モ御省御管轄ノ地所卜相成り候故多大ノ信者参拝アルフ以テ明二拝借シ置キ度候也
目的
偉大ナル古聖人ノ霊跡故千古ノ霊跡ヲ保持シ万たみ二占聖偉人ノ模範ヲ示ン無声ノ教訓ヲ与へ度候
設備
一、弘法大師児尊像之右像、地蔵尊石像及人塚碑名等古来ヨリ存在セン通リニ樹木等生殖致居候
讃岐国善通寺町別格本山善通寺住職
中僧正  佐伯 宥楽
右本山信徒総代
田辺 嘉占
                宮沢政太郎
明治四拾一年壼月拾三日 
陸軍人佐 寺内正毅殿
意訳変換しておくと
善通寺練兵場の古霊跡である仙遊ヶ原地所についての借用願
仙遊ヶ原は弘法大師の誕生地である善通寺の旧蹟地で、大師が幼少の時に遊んだ所です。「大師行状記」には、次のように記されています。
昔は、民の愁いを問い、官吏の誤りを糺すために、巡察使を中央から地方に派遣していました。(中略)
讃岐へ派遣された勅使が、善通寺にもやってきました。大師が幼い時のことで、周りの子ども達と一緒に遊んでいました。それを見た巡察使は突然に、馬を下りて、礼拝してこう云いました。
「あの方は、尋常の人ではありません。四天王が白傘を持って、前後に相随っているのが私には見えます。あの方の前生は聖人だったことが私には分かる」と。
その後、隣里の人々は、この話を伝えて、大師を神童ど呼ぶようになりました。
このように昔から四方の善男善女の多くの信徒が熱心に尊敬・供養してきた旧蹟です。ついては、南北二十間、東西十間を別紙図面の通り、貸与許可していただけるよう申請します。
理  由
この霊跡はもともとは、善通寺に所属する土地であったものが、練兵場となったものです。練兵場として陸軍省管轄地となりましたが多くの信者がいますので、借用を申し出る次第です。
目的
偉大な古聖人の霊跡ですので、その旧蹟を保持して信仰することは偉人に接する模範を示すことになり、多くの教訓となると考えます。
設備
弘法大師稚児像、地蔵尊石像と人塚碑名などの昔からあるものの他に、樹木などを植栽する。
讃岐国善通寺町別格本山善通寺住職
中僧正  佐伯 宥楽
右本山信徒総代
田辺 嘉占
                宮沢政太郎
明治四拾一(1908)年1月13日 
陸軍人佐 寺内正毅殿
   ここからは日露戦争後に、善通寺住職が旧蹟周辺の土地借用を、陸軍大臣に願いでていることが分かります。つまり、説明版にある「時の師団長・乃木将軍は霊夢によって直ちに元の位置に戻すよう言われたため、練兵場の中央に仙遊ヶ原の霊跡を保存」とあるのは事実ではないことになります。
善通寺誕生院院主の申請に対して、善通寺町役場を通じてもたらされた陸軍の回答は、次のようなものでした。
「善通寺住職宛」
善通寺町役場
本年一月十三日付ヲ以テ出願サラレタル練兵場内占跡仙遊ケ原敷地借用ノ件別紙写ノ如キ趣ヲ以テ本願書却下二相成候條此段及返却候也
社第六五八号一 明治四十一年八月十八日
仲多度郡役所 公印
善通寺町助役殿                                             ・
其部内善通寺住職ヨリ第十一師団練兵場内占跡仙遊ケ原敷地借用ノ件出願ノ所今般其筋ヨリ砲兵隊ノ編成改正ノ為メ野砲ヲ常二練兵場二於テ使用スルコトト相成現在ノ練兵場既二狭除フ告ケ其筋へ接張方申請二付キ仮令少許ノモツト雖モ練兵場内二介在スルハ秒カラサル障害アルヲ以テ右使用ノ義協議二應シ難キ趣被越候旨ニテ書面却下相成候二付返戻相成度候                         
以上
     明治四拾一年壼月拾三日 
意訳変換しておくと
本年1月13日付で出願された練兵場内の旧跡仙遊ケ原敷地借用の件について、別紙写通り本願書は却下となったこと伝える。
社第六五八号一 明治四十一年八月十八日
仲多度郡役所 公印
善通寺町助役殿                                             ・
善通寺住職からの第十一師団練兵場内の旧蹟跡仙遊ケ原敷地借用の件出願について、11師団の意向は次の通りである。砲兵隊編成改正のために野砲を日常的に練兵場で使用することになっている。そのため現在でも練兵場は手狭になっており、拡張計画を進めているところである。ついては、すこしばかりの面積と雖も練兵場に障害ができるものの設置は協議に応じがたいとのことであった。ついては、書面却下となったので返却する。
以上
  ここからは練兵場での訓練に障害の出るようなものの設置は認められないとの十一師団の意向を受けて、陸軍省は願書を善通寺に送り返していることが分かります。
このような「事実」があるにも関わらず「伝説」は生まれてきます。神話化した乃木大将について、そのような物語を民衆が欲していたからかもしれません。

DSC04039
仙遊原古跡の碑(仙遊寺)
以上をまとめておくと
①14世紀以後に書かれる弘法大師の絵伝類には幼年時の空海(真魚)が仏像遊びなどをしていた場面が描かれ、稚児大師信仰が生まれる。
②この場所が現在の宮川製麺の南側で、地元では「仙遊が原」と呼ばれるようになる
③そこに弘法大師信仰の高まりとともに、近世になると稚児像と延命地蔵が祀られ旧蹟となった。
④明治になって、この地は11師団の練兵場として整地され、旧蹟もその中に取り込まれた。
⑤これに対して、善通寺住職は旧蹟の借用願いを陸軍省に申し出たが、現場の反対で実現することはなかった。
⑥しかし、今も伝承としては「乃木大将の夢に出てきて、返還されたと」とされている。
⑦仙遊寺が建立されるのは、戦後のことである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史第2巻 第十一師団の成立 練兵場
関連記事

空海の生涯は謎だらけなのですが、その中の一つが、いつ出家・得度を受けたかです。これについては、『遺告二十五ヶ条』には次のように記します。
二十の年に及べり。爰に大師岩渕の贈僧正召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向す。此こにおいて髪白髪を剃除し、沙弥の十戒・七十二の威儀を授けらる。名をば教海と称し、後に改めて如空と称す。(中略)吾れ生年六十二、葛四十一.

 遺告二十五ヶ条は、空海の言葉を記したとされてきましたので、真言宗にとっては疑うことの出来ない「聖書」でした。そのため「二十の年に及べり」から空海の得度については「二十歳得度」説がとられてきました。この説だと大学を途中で退学して、正式に出家した後に山林修行に入り、四国の山や海で修行をしたことになります。
 ところが戦後になって、「三十一歳得度説」が有力視されるようになってきました。

この説は、『続日本後紀』巻四、承和二年(825)二月庚午(二十五日)条の空海卒伝を根拠にします。この記録は、貞観十一年(869)8月成立の正史の一つで、空海の一番古い伝記にもなります。そこには、空海の得度・入唐と亡くなったときの年齢が次のように記されています。
年三十一にして得度す。
延暦廿三年入唐留学し、青龍寺恵果和尚に遇い、真言を稟け学ぶ。(中略)
化去の時、年六十三

ここには空海が31歳で得度し、延暦23年(804)に入唐したと記されています。「年三十一にして得度す。延暦廿三年入唐留学し」と、得度と人唐を書き分けていますので、このふたつが連続はしているが同時ではなかったとされてきました。つまり、入唐直前に得度したというのです。留学僧に選ばれ入唐するために、慌てて得度したようにも思えてきます。
 また、31歳まで得度していなかったとすると、四国での山林修行は正式の僧侶としてではなかったことになります。さらに踏み込むと、空海が仏教に正面から向かい始めたのはいつからなのかという問題にもなります。それは二十歳という早い時点ではなかったことになります。

もうひとつの問題は、空海の31歳が何年に当たるかです。
「化去の時、年六十三」から逆算すると、空海の誕生は宝亀4(773)とされるので、得度は数え年で延暦22(803)年のことになります。ここからは、卒伝の編者は、空海は延暦22年(803)年に出家し、翌年に入唐留学したと考えていたことがうかがえます。
 しかし、得度した31歳を、何年のこととするかについては、現在では延暦22(803)年説と23(804)説の2つがあります。どちらにしても、空海の出家は入唐と密接なかかわりがあるようです。今回は、空海の出家と入唐の関係を見ていくことにします。テキストは  武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」です。
空海の入唐留学については、次のように考えられてきました。
第16次遣唐使の第一回目は、延暦22年(803)4月16日に難波津を出帆します。ところが5日後に、瀬戸内海で暴風に遭って航行不能となります。そのため、この年の派遣はやむなく中止されます。この時には空海は乗船していなかったとされてきました。
 嵐に遭ったものは不吉だとして、渡航停止を命ぜられた留学僧の欠員補充のため、新たに選任された一人が空海だと云うのです。つまり、延暦23(804)年の第二回目の出帆に間に合わせるために「急遠あつめられた」のが空海だったという説です。
空海の出家・入唐の根本史料としては、「空海卒伝」以外に次の2つがります。
①延暦二十四年(805)九月十一日付太政官符(「延暦二十四年官符」)
②大同三年(808)六月十九日付太政官符(以下、「大同三年官符」)
今回は①の延暦24年大政官符を中村直勝氏蒐集の平安末期書写の案文を見ていくことにします。延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
延暦24年大政官符(中村直勝氏蒐集の平安末期書写の案文)

□政官符 治部省
留学僧空海 俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位
      上佐伯直道長戸口同姓真魚
右、去延暦廿二年四月七日出家□□、□
□承知、依例度之、符到奉行、
□五位下守左少丼藤原貞副 左大史正六位上武生宿爾真象
延暦廿四年九月十一日

「去る延暦廿二年四月七日出家口□」の日付は、空海卒伝の「年三十一にして得度す」の年とぴったりとあいます。つづいて、「省、宜しく承知すべし。例に依って之を度せよ。符到らば奉行せよ」とあります。この官符の趣旨は延暦二十二年(803)四月七日に出家した空海に、前例に準じて度牒を発給するよう、太政官から治部省に命じたものです。根本史料と云われる由縁です。

短い通達文ですが、それまでになかった空海についての次のような重要な情報がいくつも含まれています
①空海の本貫が讃岐多度郡方田郷であること
②空海の戸主(戸籍筆頭者)が正六位上 佐伯直道長であることで位階をもっていること
③空海の幼名が真魚であること
④延暦22年4月7日に出家したこと

この「延暦二十四年官符」が注目されるようになるまでは、空海の出家は22歳のことだとされていました。それがこの史料の出現で大きく揺さぶられることになります。旧来の立場からは偽書説も出されてきました。
空海 太政官符

この太政官符は、本物なのでしょうか?
この太政官符は、今は大和文華館に収蔵されているようです。この史料が知られるようになったのは、案外新しく戦後のことのようです。本当に本物なのでしょうか、偽書ではないのでしょうか?。研究者が、この史料をチェックして、どう評価しているのかを見ておきたいと思います。

「延暦二十四年官符」は、どのような形で「発見」されたのでしょうか。伝来を、まず見ておきましょう。
空海 太政官符2
「延暦二十四年官符」野里梅園編『梅園奇賞』所収

「延暦二十四年官符」が、はじめて紹介されたのは、文政十一年(1828)に発行された野里梅園編『梅園奇賞』二集だったようです。
太政官符 野里梅園編『梅園奇賞』二集
野里梅園編『梅園奇賞』二集
右中に「石山寺什太政官符」とあるので、石山寺に伝来したものを手本として発行されたことが分かります。しかし、それが注目を集めることはありませんでした。この官符が注目されるようになったのは、戦後になってからのようです。
ヤフオク! -「中村直勝」の落札相場・落札価格
中村直勝博士蒐集古文書

 「再発見」のきっかけとなったのは昭和35年(1960)に、中村直勝氏が蒐集した古文書を収録した『中村直勝博士蒐集古文書』が出版されたことです。刊行時の解説は、簡略なものであまり注目を集めなかったようです。この中村直勝氏が蒐集した平安末期書写の案文を「中村蒐集官符」と研究者は呼んでいるようです。こうして、同じ内容の文書が2つ現れたことになりました。
『梅園奇賞』所収の「延暦二十四年官符」と「中村蒐集官符」は、どんな関係になるのでしょうか?
『中村直勝博士蒐集古文書』の解説は、次のような簡単なものでした。
「この案文の原本と思われるものが「梅園奇賞」二集に収められており、それも同じ個所が欠字になっている」

ここからは、これが「案文」であり、「梅園奇賞」所収のものが原本と考えられていたことが分かるだけです。そのためほとんどの研究家は無視したようです。
空海 朝日選書 461 (上山春平 著) / 株式会社 wit tech / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
 この問題を本格的に考察したのは上山春平氏でした。
上山氏は、「中村蒐集官符」の実物調査を踏まえた上で、『梅園奇賞』所収の官符の原本が「中村蒐集官符」そのものである、と結論付けます。その根拠を次のように述べています。
「虫損その他欠損部分の形状を入念に模写しているばかりでなく、文字の形まで実に精密に模写している」
文字を忠実に写した例として、「貞嗣」を「貞副」とする点と「朝臣」を右傍らに小さく追記してある。
つまり、「中村蒐集官符」が原本で、『梅園奇賞』所収の「延暦二十四年官符」が模写であるとしたのです。上山春平の報告で、この史料は広く世に知られるようになります。そこには、空海の得度が「延暦22年4月7日に出家」と明記さています。これは、それまで真言宗が採ってきた「二十歳得度」説を否定するものです。その結果、大きな反響を呼ぶことになり、「延暦二十四年官符」=偽作説まで出てきました。

空海 太政官符2

二つの史料を比べて見て、一目で分かるのは大政官印の有無です。
『梅園奇賞』所収の官符には「太政官印」が五つ描かれています。これに対して「中村蒐集官符」には全くありません。これをどう考えればいいのでしょうか?
 二つの官符を比較すると、『梅園奇賞』は「中村蒐集官符」の忠実な模写と考えるほかないことは、見てきた通りです。『梅園奇賞』の「太政官印」は、梅園が書き加えたものと考えるほかないようです。もし、『梅園奇賞』所収の官符が「中村蒐集官符」でなく、「太政官印」が捺された正式の官符を模写したとすると、署名の部分は本人の自著のはずですから書体が違ってかき分けらたはずです。また「貞嗣」を「貞副」と書き損じることも、「朝臣」のような傍書もありえないと研究者は考えています。どちらにしても、『梅園奇賞』が手本としたのが「中村蒐集官符」そのものであったことに変わりはないようです。「中村蒐集官符」は、今は掛幅装で紙の台紙に貼られているようです。
それを実際に見た研究者は、次のように報告しています
延暦二十四年九月十一日付の大政官符2

一行目 上端の字は、従来推定されているように、「太」とみなしてよい。
二行目は、通常の官符どおり一字下げで始まり、 一字目は残画から「留」とみなしてよい。
二行割注の最後、「真魚」の「真」は「魚」を墨書した上に「真」を重ね書きしている。
三行目、下端の三字は、空海の出家・入唐にかかわる、この官符のもっとも重要な箇所であるが、残念ながら判読不能というしかない。
この史料を用いる場合の問題点を、研究者は次のように挙げます
第一 この官符が正文なのか、案文なのか
第二 空海の年齢が記載されていない点。
第二 解文が付けられていない点。
第四 「延暦廿二年四月七日」は作為的な改点か否か。
第五 官符の日付・延暦二十四年九月十一日をどう理解するか。
第一は、「中村蒐集官符」は正文・案文のいずれであるのか、の問題です。
研究者は「中村蒐集官符」は案文であるとします。その理由として挙げるのが次の3点です
①まず書写されたのはいつかという問題です。かつて、藤枝晃氏は紙質とその筆跡から、延暦二十四年(805)当時の原文書であるとしました。しかし、その後は平安末期ごろに書写されたものとみています。
②二つ目は、正文であれば自分の署名は自著するはずなので、書き誤ることはありません。ところが「中村蒐集官符」では、「貞嗣」を「貞副」と書き、「朝臣」を傍書しています。正文では考えられない所があります。また、自著であれば、書体が異なっていなければならないのに、すべて一人の筆跡です。さらに、「真魚」の「真」が「魚」の上に重ね書きされている点も正文とはいえないと研究者は考えています。
③三つ目は、正文であれば「太政官印」が捺されているはずです。その痕跡すら見当たりません。このように、「中村蒐集官符」を正文とみなす要素は何一つありません。これは、案文のようです。
第二は、「延暦二十四年官符」に空海の年齢がないことです。
確かに、空海の本貫だけ記されて、年齢がないのは疑わしいといえます。しかし、この文書が備忘のための写し、すなわち案文であるとすれば、この文書を偽文書とみなす決め手とはなりえないと研究者は考えています。
第三は、解文、すなわち下の役所・被官から上申したときの文書がないことです。
確かに、この官符には解文にあたるものはありません。しかし、解文のない大政官符もいくつかあるようです。

第四は、日付の延暦24年9月11日を、どのように理解するかということです。
なぜならこの時は、空海の長安滞在中だからです。それなのに、なぜこの時期に発給されたのかという疑問、あるいは疑いです。「発見」当初は、これが最大の問題で、「偽作」とする根拠とされたようです。
  しかし、その後の研究の中で、この日付は、あまり大きな問題ではないとされるようになります。なぜなら、得度の日から二年以上遅れて度縁が発給された例がほかにもあるからです。
その例とは、最澄の度縁です。最澄は宝亀十一年(778)11月12日、近江国国分寺で得度しています。けれども、度縁が発給されたのは足かけ三年後の延暦二年(781)正月20日でした。これは官吏の事務処理の遅れ、つまり税の徴収に必要な帳簿作成の最終リミットにあわせて事務処理を行なったことによるものだったようです。空海の場合も同様のことが考えられます。この官符の発給の遅れは、私度僧のまま入唐したといった資格にかかわってのことではないこと、ましてや空海の責任でもなかったのです。現在では、事務的な手続き上の問題と考えられるようになっているようです。
以上から中村直勝氏が蒐集された平安末期書写の「延暦二十四年官符」は、信憑性の高い史料であると現在では考えられるようになっているようです。
さらに、その信憑性を高める理由として研究者が挙げるのがつぎの三点です。
第一は、「中村蒐集官符」の伝来の仕方です。この史料は単独で伝来してきました。そのため空海の伝記史料をはじめ、その他にまったく引用されていません。後世にある目的にのために偽作・改竄されていたのであれば、いろいろな所に引用され「活用」されたはずです。偽作とは、そのような目的のためにつくられるものなのですから。ところが「中村蒐集官符」には、そのような痕跡がまったくありません。「中村蒐集官符」は、空海の出家に関わる貴重な文書として、平安時代に書写されたものと研究者は考えています。
第二は正史の卒伝は、信頼できる史料に準拠して記録されたと考えられていることです。
とくに「空海卒伝」の場合、公的史料と個人的な史料の二つが使用されたと考えられます。「空海卒伝」の「年三十一にして得度す。延暦廿三年入唐留学し」の箇所は、公的史料が拠りどころとなったとされる所で、その公的史料とはほかでもない「延暦二十四年官符」(今はない原本)であったと研究者は考えています。
第3は、「中村蒐集官符」が書写されたころの空海の生年・没年についてです。
平安末期には空海の生年は宝亀五年(774)、亡くなったは承和二年(835)二月・62歳が定説とされていました。そうすると「空海卒伝」の「年三十一にして得度」した年次が延暦23(803)年となることが、当たり前のことだったのです。それにもかかわらず、「中村蒐集官符」は「延暦廿二年四月七日出家入唐す」と記すのです。ここには、当時の流れにおもねることのない立場を感じさせます。作為的なものはないと研究者は考えています。

 このようにして、「空海卒伝」「中村蒐集官符」から導き出される空海出家は、延暦二十二年の四月七日です。それは「留学の末に連なれり」は単なる謙譲の修辞ではなく、やはり空海は急遽に留学僧に選任されたことを裏付けているようです。これらの史料確認の上で、研究者は次のような説を組み立てていきます。
 第一回目の遣唐使船が難波津を出帆したのが延暦二十二年四月十六日でした。
とすると、「中村蒐集官符」にいう「延暦廿二年四月七日出家入唐す」は、遣唐大使への節刀の儀が終わり、まさに出帆が秒読みに入った時点になります。留学僧として入唐する許可が出されたので、官僧の資格を満たすために、あわただしく出家の儀式をすまされたことがうかがえます。
 1回目の出港の際には、空海は乗船していなかったというのが通説ですが、研究者はそれに対して次のような異論を出します。
 空海は延暦22年(803)4月16日、難波津を進発した第一回目の遣唐使船に乗り込んでいた。最初に選任された留学僧の一人であった。よって、空海の出家得度は延暦22年(803)4月7日であり、留学僧として入唐が許可されたのは得度の9日前であって、官僧の資格を満たすためにあわただしく得度をすませ、4月16日には船上の人となって難波津をあとにした

これは、裏返すと次のような主張でもあります。
①「中村蒐集官符」は案文ではあるけれども、その記載内容は信頼するに足るものである
②したがって、空海の得度は官符の記載どおり、延暦二十二年(803)四月七日であって、延暦23年4月7日を改竄したとみなす説は成り立たない。
③官符の日付・延暦24年9月11日から、空海が私度のまま入唐したとみなす説も成り立たない
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
         武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」

空海入唐の地を訪ねた-(2) (中国) - 何気ない風景とひとり言

 空海の入唐までの経歴については、『三教指帰』の序文から次のように語られてきました。
「十五歳で上京し、外舅阿刀宿禰大足について漢学を学び、十八歳で大学明経科に入学した。あるとき「一沙門」と出会い大学を辞し、「虚空蔵求聞持法」を修することで仏教に傾倒し、そして延暦16年(797)に『聾瞽指帰』を著して出家宣言を行い、さらに仏道修業に専念していった
 
「卒伝」の記述は、「一沙門」との出会いが記されています。そして山林修行を経て「聾瞽指帰(改訂されて三教指帰)」執筆に至たという経過です。しかし、ここには「大学を辞した」ということについては何も触れられてはいません。大学を二・三年で退学したというのは、あくまで想像です。
 これに対して、空海は大学を中退していないのではないのか、きちんと卒業した後に『聾瞽指帰』を描いたのではないかという説が出されています。今回は、これを見ていくことにします。テキストは   牧伸行 入唐前の空海 です。

空海については分からないことが多いのですが、どうして得度したばかりの無名の僧侶が遣唐使の留学僧に選ばれたもその疑問の一つです。大学を卒業後していれば、充分な資格を有していたことになります。
吉備大臣入唐絵巻 [978-4-585-05423-8] - 2,640円 : Zen Cart [日本語版] : The Art of  E-commerce

この参考例になるのが吉備真備のようです。
彼は下級武官下道朝臣国勝の子ですが入唐前に從八位下を授位されています。そこに至る経過を見てみると、15歳前後で大学に入学し、六・七年を経て貢試、その結果「進士甲第」という成績を納めて、養老選叙令秀才出身条によって従八位下を授位されます。その上で、入唐留学生に選ばれます。
 つまり、大学寮出身コースから入唐留学生へという道を歩んでいるのです。ここからは、六・七年という年数が、当時の大学を卒業するのに要した年数と考えることができます。この年数は空海が大学に入学し、その後延暦16年(797)までの消息の分からない空白の期間とほぼ一致すると研究者は指摘します。

 空海は大学において、どの課程に属していたのでしょうか?
このことについて空海自身は何も述べてはいませんし、卒伝にも何ら記述はありません。ただ『空海僧都伝』には、次のように記されています。
入京時遊大學。就直講味酒淨成。讀毛詩尚書。問左氏春秋於岡田博士

ここに「岡田博士」から左氏春秋を学んだとあります。これは『続日本紀』延暦十年(791)12月丙申(十日)条に、「外從五位下岡田臣牛養爲大學博士」とある大学博士岡田牛養と研究者は考えます。そうすると、この年は空海が中央の大学へ入学した年でなので、岡田博士が岡田牛養で実在の人物と推測できます。 
 職員令大学寮条には、博士・助教・音博士・書博士・算博士のコースがあって、このうち博士は「教授經業」を担当しています。さらに、学令博士助教条に「凡博士助教。皆取明經堪師者」とあるので、明経博士であったことが分かります。以上から、空海は当時の大学において本科であり、かつ主流であった明経道に在籍して経道を学んでいたとするのが定説のようです。
明経道を学ぶ学生が、同時に儒教・道教・仏教の知識を得ることはできたのでしょうか?
弘法大師空海『聾瞽指帰』特別展示のお知らせ... - 高野山 金剛峯寺 Koyasan Kongobuji | Facebook
聾瞽指帰 登場人物が最初に記されている

『聾瞽指帰(空海が50代になって改稿したのが三教指帰)』は、儒教を「亀毛先生」、道教を「虚亡隠士」、仏教を「仮名乞児」の3人の登場人物がそれぞれの長所を主張し、議論を戦わせるという「対話討論形式」の芝居仕立ての展開が取られます。まるで戯曲を読むような印象を受けます。亀毛先生の儒教は、虚亡隠士の支持する道教によって批判されます。最後に、その道教の教えも、仮名乞児が支持する仏教によって論破され、仏教の教えが儒教・道教・仏教の三教の中で最善であることが示されます。これは論理的に云うと「弁証法的な手法」で、「日本における最初の比較思想論」で、「思想の主体的実存的な選択を展開した著作」と「ウキ」には評価されていました。そんな風に私は見たことがなかったので「ナルホドナ」と感心しました。

仙台市博物館 on Twitter: "【特別展「空海と高野山の至宝」後期展示 好評開催中!】 能筆で知られた空海自筆の書、国宝「聾瞽指帰(ろうこしいき)」が後期から展示中です。(画像は本展チラシより)  空海24歳の、仏教を目指す意志を記した書です。内容解説のパネルも ...
聾瞽指帰

 当然、「聾瞽指帰」の中には、多くの文献が引用されることになります。
研究者が数えると、引用件数は漢籍類69種・仏典関係59種になるようです。引用されている69種の漢籍類のうち、『周易』『尚書』『周礼』『儀礼』『礼記』『毛詩』『春秋左氏伝』『孝経』『論語』は、明経道で教科書として使われています。紀伝道(文章道)の教科書である三史(『史記』『漢書』『後漢書』)『文選』『爾雅』も引用されています。これは、空海が在籍していた明経道だけでなく、他の課程についても造形が深かったことがうかがえます。
 また空海は15歳の時から叔父の阿刀大足から学問の指導を受けていたと自ら述べています。これらの知識的蓄積があって書くことができたものです。。
弘法大師御筆 国宝聾瞽指帰 全3巻(山本智教解説) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

「聾瞽指帰」は、延暦16年(797年12月23日)に書き上がってきます。空海24歳の著作になります。大学入学は18歳の時でしたから、それから6年後のことです。この時点で空海は、大学を卒業していたと研究者は云うのです。

「聾瞽指帰」の中で道教の部分については、論旨が最も弱く不明確であると研究者からは指摘されています。
つまり空海の道教理解は、不十分であったようです。その理由として、我が国では教団道教が根付かなかったことが挙げられます。道教という宗教組織としてではなく老荘思想・老子的心境といったものの理解の方が中心に行なわれていたためのようです。そのため『淮南子』『神異経』『神仙経』『荘子』『抱朴子』『列仙伝』『老子』『老子経』『老子内伝』等の一通りの道教経典に目を通すだけの、専ら書物からの理解のみを行ったとします。
 それに対して、仏教については、「聾瞽指帰」を書いた24歳の時点で、かなり深い理解があったと研究者は考えているようです。このことは、「仮名乞児論」の内容及び引用文献から見えてきます。

しかし、これを書き上げたときの空海は、まだ仏門には入っていなかったと研究者は考えいます。
 虚空蔵求聞持法を始めたときの空海は、これが仏教の修行とは思っていなかった形跡があります。求聞持法を「一切の教法の文義暗記」のために行ったと空海は称しています。何のための文義暗記か。大学を辞めていなかったとすれば、「大学での勉学」のためと考えるのが自然ではないでしょうか。この時点では、仏典暗記とは云えないことは先述したとおりです
 大学での儒学修得にあき足りなさを感じた空海は、肉体的な修行に飛びこんだことが考えられます。それはあくまで大学の勉学のためのサイドワークで、仏教修行とも考えずに始めたということになります。  
聾瞽指帰の仏教に関する内容も山林修行の実践を終えて身を以て体験した内容ではなく、むしろ、道教と同じく書物からの理解だったとします。つまり、「聾瞽指帰」を書いた24歳の時点では、山林修行者として経験に基づく記述内容は、今だ見えないと云うのです。

そして24歳になって大学を卒業する段階になって、さてどうするかということになります。 三教指帰は、大学卒業と虚空蔵求聞持法修行をひとまず終えた空海が、どの方角へ向うか考えた末の産物だったのではないでしょうか。

 空海が大学在籍中には、南都六宗は諸寺は姿を見せていました。
奈良盆地のそれらの寺院は、文明開化のモニュメントであり、文化センターの役割を果たし始めています。その中で空海が仏教を学び、仏典類の閲覧を行なうためには、大学生という確かな身分を持っていた方が都合が良かったのではないでしょうか。逆に、大学生という身分を捨ててしまえば、これらの寺院への出入りも出来なくなります。
御遺告2
御遺告
 『御遺告』には、次のような事が記されています。
①二十歳のとき、槙尾山寺において勤操僧正(岩淵贈僧正)にしたがって出家し、教海と称し、のちに如空と改めたこと。
②このとき、仏前において「諸仏よ、私に不二の教えを示したまえ」と一心に祈願したこと。
③この結果、「なんじの要めるところは『大日経』なり」との夢告を得たこと。
④久米寺の東塔下で、『大日経』を探じ求めて、ひとあたり拝見したけれども、理解できないところが多々あり、それを問いただすところもなかったこと。
⑤そこで、唐に渡ることを決意し、延暦23年(804)5月12日出発したこと。
①の20歳の得度を、そのまま受けいれる研究者は少数派です。ここには空海が「山林修行」をおこなったことは、どこにもでてきません。あるのは『大日経』を捜し求めたことだけです。大日経を捜し求め、久米寺の東塔で見ることができたと記されます。正式の得度を受けていない沙門が国家管理下の国営寺院に出入りが許されたのでしょうか。ここからも大学生の身分であった方が仏教を学ぶとしても活動はやりやすかったように思えてきます。
大学に在籍し、サイドワークとして道教・仏教についての知識を学ぶ時間的な余裕はあったのかを研究者は見ていきます。
学令先読経文条には、次のように記されています。
「凡學生。先讀經文。通熟。然後講レ義。毎旬放一日休假
ここからは毎旬(十日毎)に一日の割合で休暇が認められていたことが分かります。
 同令請假条には、次のような規定があります。
凡學生請假者。大學生經頭。國學生經所部國司。各陳牒量給

臨時の休暇願の手続きの規定があり、同令放田假条では、
凡大學國學生。毎年五月放田假。九月放授衣假。其路遠者。仍斟量給徃還程。

田假・授位假に関する規定が定められていて、ある程度のまとまった期間の休暇があったことが分かります。そして、同令不得作楽条には、極端な例ですが、次のように記されています。
凡學生在學。不得作樂。及雜戲。唯彈琴習射不禁。其不率師教。及一年之内。違假満百日者。並解退。

 学生の日常生活の心得に関する規定の中に、「違假満百日者。並解退」とあるので、百日未満であれば「不正休暇」も大目に見られていたようです。
以上から、大学在学中であっても、道教・仏教の知識を深めて行く時間的な余裕は作り出す事ができる環境であったことがうかがえます。
それでは大学に在学しながらも「仮名乞児論」のように「或登金巖。而遇雪坎。或跨石峯。以絶粮軻。」というような修行を行なうことができたのでしょうか。
 役小角に代表されるような山岳修行者、私度僧たちは古くからいたことが分かっています。それは空海が開いたとされる霊場が、空海以前にすでに信仰対象とされていたことからもうかがえます。独古や三鈷・錫杖をもった修験者が讃岐の大川山の周辺で修行を重ねていたことは、中寺廃寺跡から出土した古式様式の三鈷の破片からも分かります。空海に実体験は無くとも見聞による著述は決して不可能ではなかったと研究者は考えているようです。
また、大学在学中であっても、一定期間の休暇は認められていました。
さらに『聾瞽指帰』の日付である延暦16年(797)は、大学卒業に必要な六年、国学・大学を通じて就学可能な期限である9年を経た翌年に当たります。つまり、15歳で国学に入学してから数えて9年目、空海24歳の年に当たると云うことです。10年間の在籍が認められていたので、空海は大学を辞すること無く、一年間は仏道修行を行なうことができたことになります。
 その1年を利用して「卒業研修」として「阿波國大瀧之嶽」「土左
國室戸之崎」で山林修行を行ったということも云えそうです。四国の辺路修行場であり、大学卒業後に故郷四国の修行地を回ったと考えることも可能になります。そう考えると、空海が修行のために大学をドロップアウトしたと考える必要はなくなります。延暦15年(796)に大学を卒業し、その実践のために山林修行に四国に向かったという話もできそうです。
 その場合に、空海が「一沙門」と出会ったのは延暦16年(797)以降と考える必要はなく、空海の仏教に対する造詣の深さを考えると、短期間に独学で学んだと考えるよりも、信頼のおける学僧について学んだと考えた方が現実的だとします。

以上をまとめておくと
①定説では「空海は都の大学に入ったが儒教に嫌気がさして、虚空蔵求聞持法に興味を抱き大学を中退した」とされていきた。
②しかし、根本史料には空海が大学を中退したとはどこにも書かれていない。
③空海は18歳で大学に入学後、24歳まで大学で、儒教だけでなく仏教や道教を学び卒業した。
④卒業後に、その成果として著したのが「聾瞽指帰」で、仏教の道を選択し、山林修行に入って行った。
⑤空海はドロップアウトすることなくエリートとしての道を歩み続け、それが留学僧として選抜されることになった。
 三教指帰序文や御遺告に後世の作為があるとされるようになり、根本史料としての信頼性が揺らぎ始めています。その中にあって、研究者たちは信頼できる史料に基づいて空海の歩みをもう一度見直そうとしているようです。これは何十年もかかる作業になることが予想できます。「空海は大学を卒業していた」説や「空海=摂津誕生説」もそのような動きの一環なのでしょう。
その向こうに新たな空海像が描かれるのを楽しみにしています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    牧伸行 入唐前の空海 

岸の上遺跡 イラスト
飯野山の南を東西に一直線に走る南海道

讃岐には、若き日の空海(幼名真魚)は、「国学(地方大学)」で学ぶために毎日、額坂を越えて通学していたという話があります。空海の父田公の館は、現在の善通寺周辺にあったとされます。讃岐の国学は、建立されたばかりの国分寺周辺か、府中の国府周辺にあったとされます。そのため善通寺から東に一直線に伸びる額坂街道を馬を駆けって通ったというのです。
DSC04491
空海の平城京への出立(弘法大師行状絵詞) 騎馬の若武者姿

確かにこのルートは、発掘調査で南海道であることが分かってきました。幅が8mもある大道が、丸亀平野の条里制に沿って、善通寺を横切っていきます。この大道を馬で駆ける真魚の姿は、絵になる光景です。しかし、これは本当なのでしょうか。真魚が、讃岐の国学で学んだのかどうかを史料で見ていくことにします。

岸の上遺跡 多度郡条里と南海道jpg
四国学院内を通っていた南海道

 空海は15歳の時に母方の叔父である阿刀大足に就いて学んだことは、空海の著書である『三教指帰』の序文に書かれているので事実のようです。
それでは、大学や国学で学んだというのは本当なのでしょうか。
 『三教指帰』が引用したとされている『続日本後紀』承和二年(835)3月庚午(廿五日)条には、次のように記されています。

  讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。①年十五就舅從五位下阿刀宿祢大足。讀習文書。②十八遊學槐市。③時有沙門。呈示虚空藏聞持法。其經説。若人依法。
ここには
①15歳で、外舅(母の兄)阿刀宿禰大足について漢学を学び、
②18歳で平城京の大学明経科に入学した。
③ある時、一沙門から虚空蔵求聞持法を授けられ、(中略)大学を辞して山林修行を行った。
ここには空海は、阿刀宿禰大足について学んだことは語っていますが、国学で学んだことは何も触れていません。空海は国学に入学したのでしょうか。
  唐の律令制度を学んで作り上げた大宝律令以後は、原則的にはこの国は「法治主義国家」です。政治は法令によって運営されていきます。例えば古代律令下の教育機関としては、中央には大学が、諸国には国学が設置されて官吏養成が行われることが定められています。
学令大学生条に定められた就学規定には、次のように記されています。
凡大學生。取五位以上子孫。及東西史部子爲之。若八位以上子。情願者聽。國學生。取二郡司子弟爲之。大學生式部補。國學生國司補。並取二十三以上十六以下聰令者爲之。
  意訳変換しておくと
およそ大學生。五位以上の子弟か、東西史部の八位以上の子弟で、入学希望があったものを入学させよ。地方の國學生については郡司の子弟を入学させよ。大學生式部補と國學生國司補の年齢制限はそれぞれ、23歳以上と16歳以下の者とする。

これが大学生と国学生に関する規定です。この規定に従って空海の入学資格を見ておきましょう。まず15歳という年齢については国学への入学については問題ないようです。年齢からして、国学へ入学した可能性はあります。しかし、もうひとつの条件である官位についてはどうでしょうか。「國學生については郡司の子弟」とあります。
 空海の生家である佐伯直氏は、旧讃岐国造であったことが『日本三代実録』に記されています。通説では代々多度郡の役人を勤めた家柄で、田公自身は郡の少領であったとされます。しかし、『日本三代実録』には田公の位階は記されいません。一方田公の子供達(空海の兄弟)には位階があります。ここから空海の父田公は、無位無官であった可能性が高いと研究者は考えています。
選叙令郡司条には、次のように記されています。
凡郡司。取下性識清廉堪時務者上。爲大領少領。強幹聰敏工書計者。爲主政主帳。其大領外從八位上。少領外從八位下敍之。其大領少領才用同者先取國造

ここには郡司の選定基準として「少領外從八位下敍之。其大領少領才用同者先取國造」とあります。田公が少領であったとすると、低くとも外従八位下という官位を持っていなければならないことになります。例え主政・主帳であったとしても考課を経たのであれば、何らかの位階を与えられていたはずです。ここからも田公は無位無官であったとことが裏付けられます。そうすると、空海は国学の入学規定である「郡司子弟」の条件に当てはまらないことになります。つまり、空海には入学資格がなかったことになります。
 しかし、残された道があります。『令義解』学令大学生条の子弟に冠する註には「謂 子孫弟姪之屬也」とあります。空海が所属する戸の戸主である佐伯直道長が正六位上という位階を持っていて、何らかの官職に就いているので、この条件をクリアできたと考えることはできます。以上から空海は郡司の子弟として国学に入学することは可能であったとしておきましょう。

 しかし、問題は残ります。先ほど見たように空海が書いたとされる『三教指帰』には、15歳で伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足に教えを受けたと記されている点です。これをどう考えればいいのでしょうか。叔父阿刀大足については、次のように伝えられています。
①空海の母の実家阿刀家の後継者で摂津が本貫
②伊予親王の侍講(家庭教師)であった人物で、漢学の俊才であった
③叔父阿刀大足が讃岐に残した痕跡は何もない
これでは空海は15歳になって、讃岐の国学に通いながら平城京にいる叔父の阿刀大足から英才教育を受けたという話になります。このためには空海は「分身の術」を身につけていなければなりません。阿刀大足が、讃岐の国博士として赴任してきていたという話もありません。そもそも阿刀氏の痕跡は讃岐にありません。伊予親王の侍講であったという経歴から考えると、阿刀大足は平城京に居住していたと考えるのが自然です。これをどう考えればいいのでしょうか。
讃岐の豪族6 阿刀氏? 空海が生まれたのは摂津の母親の実家? : 瀬戸の島から
難波津と阿刀氏の本拠地
 この謎を解消するのが「空海=摂津誕生説」です。
当時の通い婚の通例として、空海は阿刀氏の本貫である摂津に生まれ、そこで生育し英才教育を受けたという説です。この説では、空海は讃岐の国学には入学せずに上京した、あるいは最初から摂津で生まれ育ったことになります。どちらにしても、空海が南海道を馬を走らせ、府中の国学に通ったという説は成立しがたいようです。

跡部神社|八尾|物部一族である阿刀連が、その祖神を祀ったと伝わる神社の本当の祭神とは? | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
跡部(阿刀)神社(八尾市亀井)阿刀氏の本貫・河内国渋川郡跡部郷

空海が平城京の大学に入学したのは18歳と記されています。
これは、就学規定で定められている年齢には当てはまりません。下級官人であっても八位以上の子弟であれば、特別に入学は可能でしたが、『令集解』学令大学生条の註には次のように記されています。

「問 八位以上子。情願任者聽。畿内外同不。答。畿外不取。又外六位以下不取也。但並得任國學生耳」

 ここからは、その特例が認められたのは畿内の官僚だけだったことが分かります。讃岐国出身の空海がこの方法で大学へ入学することはできません。これに対して。
「当時の学制に何らかの変更があったのかも知れない」
「伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足等の力で入学できた」
という例外的な措置として入学したという説もありますが、律令規定は国家の柱なので、「ゆるぎたらるぎ」で運用はしていません。伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足の影響力を過大評価するのも慎むべきでしょう。
むしろ、次の「学令通二経条」に注目すべきと研究者は指摘します。

凡學生通二經以上求出仕者。聽擧送。其應擧者。試間大義十條。得八以上。送太政官。若國學生雖通三經。猶情願學者。申送式部。考練得第者。進補大學生。

ここには地方の国学から中央の大学へと進む道も成績や条件次第では開かれていたことが記されています。空海が讃岐の国学から大学に進んだとすれば、このコースを辿ったと考えた方がよさそうです。
 十五歳で国学に入学した空海は、基準である三年あるいは四年で二経以上に通じ、そして考練得第して十八歳の時に大学に入学したという説も捨てられないことになります。
跡部神社|八尾|物部一族である阿刀連が、その祖神を祀ったと伝わる神社の本当の祭神とは? | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
阿刀氏の氏神 跡部神社

以上をまとめておきます。
①従来の善通寺生育説では、讃岐の国学に通ったとされるが、「三教指帰」には15歳で、叔父阿刀太刀の教えを受けるようになったという記述と矛盾する。
②「空海=摂津生誕説」では、阿刀氏の母の実家である摂津で空海は生まれ、幼い時から叔父阿刀太刀の英才教育を受けたとされる。ここでは、空海の本貫は讃岐国多度郡だが実際の生育は摂津の阿刀氏の母の元であったとされる。
③「空海=摂津生誕説」では、空海が平城京の大学に入学するためには、父親の官位が低すぎるという問題がおきる。
以上のように、解決への詰み手がなくなってしまいました。空海の国学や大学入学問題についても、分からないことが多いようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

三教指帰註 巻頭 大谷大学博物館2
三教指帰 (大谷大学)

 空海の入唐までの経歴については、『三教指帰』の序文から次のように語られてきました。
「十五歳で上京し、外舅阿刀大足について漢学を学び、十八歳で大学明経科に入学した。ある時、一沙門から虚空蔵求聞持法を授けられ、(中略)大学を辞して山林修行を行った。
延暦十六年(797)『聾瞽指帰』(のち『三教指帰』と改題)を著して(中略)仏教への出家を宣言した」
  しかし、『三教指帰』に対しては、次のような疑義が出されています。
  『三教指帰』には同じ延暦16年(797)12月1日の日付を持つ『聾瞽指帰』がある。『聾瞽指帰』と『三教指帰』とは序文と巻末の「十韻之詩」等がちがっていて、上記のような序文はない。そのためこの序文は、後に付け加えられたものではないか。つまり、この部分は空海が書いたものではない

『三教指帰』が後世の偽作であるとしても、『三教指帰』が引用したとされている『続日本後紀』承和二年(八三五)三月庚午(廿五日)条には、次のように記されています。
庚午。勅遣下二内舍人一人。弔法師喪。并施中喪料上。後太上天皇有二弔書日。眞言洪匠。密教宗師。邦家憑其護持。動植荷其攝念。豈圖崎磁未逼。無常遽侵。仁舟廢棹。弱喪失歸。嗟呼哀哉。禪關僻在。凶聞晩傳。不能使者奔赴相助茶毘。言之爲恨。悵悼曷已。思忖舊窟。悲凉可料。今者遥寄單書弔之。著録弟子。入室桑門。悽愴奈何。兼以達旨。法師者。讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。年十五就舅從五位下阿刀宿祢大足。讀習文書。十八遊學槐市。時有沙門。呈示虚空藏聞持法。其經説。若人依法。讀此眞言百万遍。乃得一切教法文義諳記。於是信大聖之誠言。望飛焔於鑽燧。攀躋阿波國大瀧之嶽。觀念土左國室戸之崎。幽谷應聲。明星來レ影。自此慧解日新。下筆成文。世傳。三教論。是信宿間所撰也。在於書法。最得其妙。
 與張芝齊名。見稱草聖。年卅一得度。延暦廿三年入唐留學。遇青龍寺惠果和尚。禀學眞言。其宗旨義味莫不該通。遂懷法寳。歸來本朝。啓秘密之門。弘大日之化。天長元年任少僧都。七年轉大僧都。自有終焉之志。隱居紀伊國金剛峯寺。化去之時年六十三。

これは、835年三月丙寅(廿一日)条の空海卒去記事に続く文章で、空海の卒伝が記されています。『続日本後紀』は、空海が亡くなった後34年目に当たる貞観十八年(869)8月に完成しているので、空海伝の中でも最も早く成立したものの一つになります。『御遺告』や『三教指帰』序文への信頼度が低下する中で、その信頼度を挙げてきた史料になるようです。ここに書かれていることを、見ておきましょう。
①「讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直」
 姓は佐伯氏ではなく佐伯直であること。空海の本籍地は讃岐国多度郡と記すも、そこが空海の生地であるとは書かれていない。そして、善通寺も屏風ヶ浦も出てこない。
②「年十五就舅從五位下阿刀宿祢大足。讀習文書。
 15歳で阿刀宿祢大足について、儒教などの学問を始めた。阿刀宿祢大足は、空海の母の兄にあたり、皇太子の家庭教師を務めるほどの学者であったようです。空海が多度郡で生まれたとするなら、15歳の時には平城京の阿刀氏の館に上京していたことになります。
③「十八遊學槐市」 18歳で平城京の大学に入学したこと
④その後の虚空蔵求聞持法を受法したこと

しかし、ここには空海の「15歳での入京」や「大学ドロップアウト」については、なにも触れられてはいません。空海が大学を辞して山林修行の一優婆塞として再出発したというのは、『御遺告』と、それに基づいて作成された多くの空海伝によって語られている説です。『御遺告』については、その名の通り空海の遺言と信じられ、かつてはその内容を疑うことが出来ませんでした。しかし、戦後の研究者が明らかにしてきたのは、『御遺告』の中には後世の「作為」があることです。『御遺告』に書かれていることを、一度疑ってみて空海の生涯を見直そうという動きが研究者の中にはあるようです。

空海の出自等について
卒伝に「讃岐國多度郡人。俗世佐伯直」とあるので、讃岐国多度郡出身であり、佐伯直氏であったことが分かります。また『日本三代実録』貞観三年(861)11月11日辛巳条には、「讃岐國多度郡故佐伯直田公」について「田公是大僧正也」あり、父は佐伯直田公であったと記します。
 
 空海の出自について、現在の研究者たちが根本史料とするのは入唐の直前に作成された延暦24年(805)9月11日付太政官符案です。この平安末期の写本が、大和文華館に収蔵されています。内容は、遣唐使の一員として入唐することになった留学僧空海への課税停止を命じた内容です。これを見てみましょう。
延暦二十四年九月十一日付の大政官符1
        延暦24年9月11日付 太政官符

大政官符 治部省
 留学僧空海 俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位上
 佐伯直道長 戸口同姓真魚
右、去る延暦廿二年四月七日出家し入唐す。
□承知すべし。例に□之を度せよ。符到らば奉行せよ.
□五位下□左少弁藤原貞副 左大史正六位上武生宿而真象
延暦廿四年九月十一日
空海(幼名真魚)の戸籍は「讃岐國多度郡方田郷戸主正六位上佐伯直道長戸口眞魚」と記します。
①「讃岐國多度郡方田郷」と国郡名に加えて郷名まで記されていますが「方田郷」については「弘田郷」とするのが有力です。
②「戸主正六位上佐伯直道長」
戸主としては佐伯道長とあります。ここから戸主の道長を空海の父と考える説が、後世にはでてきました。「戸主が父」という後世の先入観から、空海の父を道長と誤解したのです。道長は空海の所属する戸の戸主であったことは確かです。でも父ではないと研究者は考えています。
同じようなことは、空海の親族になる最澄についても云えるようです。
最澄の場合、宝亀11年(780)11月10日付の「近江国府牒」や延暦二年(783)正月20日付の「度牒案」に「戸主正八位下三津首淨足戸口」とあります。しかし、伝記類では父が三津首百枝とあります。最澄も戸長と父親は、別人だったことが分かります。

奈良時代の戸籍と戸口のことを見ておきましょう。
 戸とは戸籍の戸ですが、これを今の戸籍のイメージで見ると分からなくなります。先入観という色眼鏡を一旦外す必要があります。日本国憲法の戸籍は、夫婦単位とその間に生まれた子供が一緒に入ったものです。ところが、この時代は一つの戸に、百人もの人数を含んでいました。なぜこんなことになるのかというと、戸籍と班田収授の法に行き着くようです。
 古代国家の成立を「個別人身支配体制の確立」という視点から捉えると、ひとりひとりの人間を国家が戸籍で管理できる体制の出現と規定できます。それでは、今のように家毎に戸籍台帳を作ったのかというとそうではないようです。現在の小家族・核家族ごとに戸籍を作って、その家に支給する口分田を計算するのは煩雑で、非現実的です。そこで考えられたのが、組内とか縁家とかいう呼び方を持つ集団です。地縁や血縁で固まっているような、お互いに顔見知りの集団をまとめて把握しました。その集団に対して戸籍が作られます。そこには血縁関係のある一族が書き上げられ、一つの戸とされました。それから男が何人、女が何人、何才の人間が何人というぐあいに数え上げ、水田を男はどれだけ、女はどれだけというぐあいに戸毎に口分田が支給されます。
 つまり、口分田は家毎ではなく、一戸(一族)毎にまとめて支給されたわけです。全部で何町何段という形でやってきた土地を、自分たちで分けろということです。そして秋が来て税の取り立ての際には、戸単位に徴税します。戸主と呼ばれる戸長がいて、その人が税を集めました。田舎の納税組合の組合長さんみたいなものでしょうか。戸主が、戸全部の税を集めます。納めることのできない人が出たら、戸主が「今回は、わしが代わりに納めておこう」という感じです。役人にしてみれば、とにかく税が納まればいいし、口分田は戸毎に支給するので仲間内(戸内)で分けてくれたらいいんだというわけです。これで入りと出とが決まります。
 もともと生活の単位、地域の人々の結び付きの単位としての戸というのがあって、その戸単位に、土地を分けたり税を集めたりするシステムです。地方役所としては、一族や地域の人を束ねる役の人が欲しいんで、五十戸そろったら、それで一つの郷とします。郷は音では「ごう」ですが、訓では実際に「さと」と読みます。つまりそれが自分の村だということになります。
 こうして、だんだん人が増えてきて、五十戸ぐらいになったら郷が成立します。その郷名は、代表的な一族の名前を付けたり、その土地で昔から呼ばれている地名が付けたりしたようです。
佐伯直氏の戸主の話にもどります。
この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、戸の最年長者がなるのが普通で、戸口の租・庸・調の責任を負いました。それがここでは佐伯直道長です。彼の戸籍には、彼の兄弟や息子たちの家族が含まれ、総数は百人近くの戸口の名前が並ぶことになります。その中の一人に、空海の父である田公もいたと考えられます。つまり、戸主が空海の父親や祖父であったとは限らないのです。道長は、田公の叔父であった可能性もあります。道長が空海の祖父とは云えないことを押さえておきます。
延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
延暦24年9月11日付 太政官符

「戸主正六位上佐伯直道長」とあるので、道長は正六位上の位階を持っています。
これは多度郡の郡司を勤めるには充分すぎるほどです。一方、空海の父田公の位階がありません。正史では「無冠」でした。つまり、田公は郡司を勤められる立場にはなかったことになります。とすると、佐伯直氏は郡司を務める家であっても、空海の田公は、その資格はなかったことになります。戸籍上は戸主佐伯道長に属するけれども、その本流ではなかったことになります。
 1 空海系図52jpg
松原弘宣氏は、佐伯氏の系図を作成し次のような見解を述べます、

「讃岐国の佐伯直氏が多度郡の部領氏族であり空海を出した一族であることはよく知られて」おり、「倭胡連公、是豊雄等之別祖也」とある。ここからは田公系列以外の佐伯直氏がその直系と考えられる。さらに、佐伯直氏は国造の系譜をひいていることと、道長が正六位上の位階を有していることから、道長が佐伯氏の本宗で、多度郡の郡領であった可能性が高い。(中略)
以上の検討より、多度郡の佐伯直氏は、系図に示した佐伯直田公の系列以外に、図六のような系譜が想定され、この系譜が佐伯直氏の本宗で、奈良時代における郡領を出していたと考えられるのである。
  以上をまとめておくと
①空海の戸籍からは本貫が「讃岐國多度郡方田郷」と記され、「方田郷」は「弘田郷(善通寺)」とされてきた。
②「戸主正六位上佐伯直道長」とあるので、戸主は道長であることがわかる。しかし、道長が祖父であるかどうかは分かならい。道長は官位を持ち、郡長も務めた一族の長であると考えられる。
③一方、空海の父田公は無位無冠で郡長を務めた人物とはいえない。ここから「田公ー空海」は、佐伯直氏の本家ではなく、傍系のひとつの血筋と考えられる。
④佐伯家の本家は後に空海氏の後継者となった実恵の生家などが考えられる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    牧伸行 入唐前の空海 
関連記事

 
前回は、空海を唐から連れ帰ったのが判官・高階真人遠成の船であったことをお話ししました。遠成が乗っていった船と出港時期にについては、次の二つの説があるようです。
① 延暦の遣唐使の第四船として、同じく出発し、漂流の後に遅れて入唐したとするもの(延暦23年出発説)
② 『日本後紀』延暦二十四年七月十六日条記載の、第三船と共に出発したとするもの(延暦24年出発説)
その辺りのことを、今回は見ていこうと思います。
     テキストは「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」です。
 高階真人遠成とその船については、代表的な論考は次の通りです。
一、木宮泰彦『日支交通史』上巻、 1926年
二、大庭脩「唐元和元年高階真人遠成告身について―遣唐使の告身と位記」1967年
三、高木紳元「兜率の山・高野山への歩み」1984年
四、茂在寅男「遣唐使概観」1987年
五、佐伯有清『若き日の最澄とその時代』1994年
遠成の船が延暦の遣唐使の第四船だったかどうかの観点で、 これらの論考を分類すると次のようになります。
①第4船らしいと推測する立場  木宮泰彦・茂在寅男
②第4船であったと確定する立場   大庭脩・佐伯有清
③第3、第4船ではなく新造船であったという立場 高木紳元

①の「第四船らしい」と最初に推測したのは、木宮泰彦氏で次のように記します。
延暦の遣唐使の第四船は唐に赴いたか否か明らかでない。空海・橘逸勢等が判官高階遠成と共に大同元年八月に帰朝しているのは第四舶ならんか。

と、遠成の船が第四船であった可能性を約百年前に示唆しています。
②の第四船であった説を代表する大庭脩氏は次のように記します。
第三船は判官正六位上三棟朝臣今嗣が乗っていたので、第四船に高階真人遠成が乗っていたことは疑いなく、第四船の消息のみが全く不明ということになる。(中略)
第四船に乗船していた遠成は、恐らく風に流されて遭難したのであろう。そしてその経過を知るよすがもないが、九死に一生を得て唐に到り着き、長安まで行ったのであろう。その時期は明らかではないが、本告が元和元年正月二十八日付の中書省起草の勅であるから、大使葛野麻呂等一行が長安に滞在し、告身を授けられた貞元二十一年十二月よりまる二年後にあたる。(中略)
 彼は大使藤原葛野麻呂と共に帰って来なかった以上大使等の出発後に長安につき、帰国の便を待っていたのであろうから、長くみれば、約一年半は長安で生活していたと考えられる。
大庭脩氏のポイントを要約すると、次のようになります。
①遠成は大使葛野麻呂一行が長安を離れた永貞元年(805)2月10日より後に、長安にたどりついた。
②遠成の船は延暦22年(804)7月6日、肥前国松浦郡田浦を出帆した第四船であり、九死に一生を得て唐に到りついたものである
③遠成は、その後、長安に約1年半滞在した
つまり、第1・2船と同時に出港したが、何らかの理由で第4船は長安への到着が大幅に遅れ、長安にやって来たときには第1・2船の正使・副使は長安を離れた後であった。にもかかわらず遠成は、その後、長安に約1年半滞在し、帰国時に空海を伴ったという説になるようです。どうも私には合点がいかない説です。

同じく第四船であったとする佐伯有清氏は、次のように記します。
ちなみに第四船の消息は、まったく記録されていない。ただし第四船の遣唐判官の遠成が唐の元和元年(806)正月28日、唐朝から中大夫・試太子充の位階・官職を賜わっており、同年(大同元年)十月、留学僧の空海、留学生の橘逸勢をともなって帰国している。帰国の復命は、同年十二月十三日であった。この日に高階遠成は、遣唐の功を賞されて従五位上の位を授けられている。遠成の行動を追ってみると第四船は、難航のすえ、かなり遅れて唐に着岸したようである。遠成は、延暦二十四年の年末ごろに長安に入り、使命を果すことができたのである。

佐伯説は、遠成の船を第四船とみなし、遠成の長安到着を延暦24四年の年末ごろとします。

そのような中で高階真人遠成の入唐目的を新たな視点で語る新説が出てきました。高木諦元氏の説を見ておきましょう。
ちょうどその頃、高階真人遠成が遣唐判官として長安に入り、帰朝の途につくところであった。この時期に、高階遠成が国使として入唐した目的が何であったかは定かでない。『日本後紀』巻十三によれば、帰国した遣唐大使藤原葛野麿が節刀を返還し、朝廷に帰朝報告をしていた頃、詳しくいえば延暦二十四年(805)七月四日に、一般の船が肥前国松浦郡庇良(ひら)嶋、いまの平戸島から出帆して遠値嘉(おちか)島を目指し、唐国へ向おうとしていた。この船は第十六次遣唐使船四艘のうちの行方不明になった第3船であって、判官の三棟今嗣(みむねいまつぐ)らが乗船していた。運悪しく、この船は再び遭難して孤島に漂着し、浸水しはじめた。三棟今嗣らは射手数人を船に残して脱出し、かろうじて生きのびることができた。やがて績が切れて船は漂流しはじめ、積んでいた国信物などとともに行方が知れなくなった。任務を放棄したかどで、判官三棟今嗣は懲罰に付されている。
一年前に難破して入唐を果せなかった第3船を、いま再び渡海せしめようとしたのは、あるいは新たに即位した順宗への朝貢のためであったとも思える。ただ朝貢のためだけであったかどうかは定かでないけれども、しかし、どうしても使節を再び派遣しなければならなかったことは事実であった。三棟今嗣にかわって、遣唐判官には急拠、大宰府の大監であった高階真人遠成が任命された。『類衆国史』に「遠成は率爾に使を奉じて、治行(旅行の準備)に退あらず。その意、衿むべし」とあるのが、そうした事情をうかがわせる。また『朝野群載』には、高階遠成に対する唐朝の位記を載せて「その君長の命を奉け、我が会同の礼に超る。冥法を越えて万里、方物を三際に献ず」とある。「会同の礼」とは、常期ではなく事あるごとに来朝して礼謁することをいうから、やはり、高階遠成の入唐の目的は新帝への朝貢礼謁のためであったろう。(中略)
 高階遠成が長安へ到着した月日は定かでないが、慶賀の意を表すべき皇帝が予期していた順宗から憲宗にかわっていたとはいえ、所期の目的は達成したことになる。

高木説には、全く新しい視点が二つあります。
その第一は、『類衆国史』の「率爾に使を奉じて、治行に退あらず」に注目して、遠成は延暦24年7月に再び遭難した第三船の判官三棟今嗣にかわって急遽任命され、唐に向ったとみなすこと
第二は『朝野群載』所収の「会同の礼」に注目して、遠成入唐の目的は新帝への朝貢礼謁のためであったとしたこと
  この説は、派遣目的が分かりやすく時間系列も納得がいくので、小説などではこの説にもとづいて高階真人遠成の遣唐使船の登場が描かれることが多いようです。
しかし、この新説に対しては、次のような疑問点が研究者からは出されています。
第一の疑問点は、805年7月4日に難破した第3船の判官三棟今嗣にかわって、大宰府大監の高階遠成が急遽、遣唐判官に任命されたととする点です。しかし、これが可能であるためには、次のような手続きが求められます。
①第三船の遭難報告が太宰府から都にとどけられる
②朝議での再度の派遣決定と、派遣する官吏の選定
③新遣唐使船建造と新皇帝即位への貢納物の準備・調達
④出発
つまり、使節団長の首のすげ替えだけではすまない話のようです。
 高木説は「中国皇帝の代替わりの新帝への朝貢礼謁のための特別の派遣」としますが、そう簡単に進むことではないようです。まず、遣唐使を派遣するには莫大な費用が必要でした。たとえ、財政面の負担をクリアしても、派遣する官吏の選定があります。前回見たように遣唐使船には一隻について、150名前後のスタッフが必要でした。ただ単に頭数をそろえればいいのではありません。遣唐使は、知乗船事・訳語などの職掌別の専門家集団です。その上、遭難して死者を出した船に乗っていた者は、不吉であるとして忌み嫌われ、再び派遣されるスッタフからは、はずされました。つまり、大部分のスタッフを新たに選ぶ「人材一新」が求められます。これは短期間にできることではありません。
 新たに大宰府の大監を務めていた高階遠成に判官への就任命令が届いたのは、いつごろなのでしょうか。
それからスタッフ選定が行なわれたとしても、都から大宰府への連絡には駅伝制を使っても4~5日は要したようですので、太宰府の遠成への通達は早く見積もっても7月下旬になったはずです。

 すぐに再び遣唐使派遣を考えた場合、帰国したばかりの遣唐大使・藤原葛野麻呂らが乗船していた第一船と、判官の菅原清公らが乗っていた第二船を、派遣することは検討できます。しかし、一度東シナ海を航海したこの隻船は、長い航海のためにボロボロになっていたようです。すでに中国の福州から明州に回航された時点で、第一船は一ヵ月余りの修理を必要としていました。また、乗組員のすべてが大宰府近辺で確保できたかどうかも問題になります。このように考えてくると、船の調達も無理筋のような感じがしてきます。
 問題の第二は、新皇帝への土産物、すなわち貢納品の調達です。
『延喜式』巻三十、大蔵省の「賜蕃客例」には、大唐の皇帝への賜物の規定が事細かく記されています。遠成の入唐の目的が唐の新帝への朝貢礼謁であったとするならば、贈り物は欠かせません。
その準備に時間を要したはずです。前回見たように、通常の遣唐使派遣は3年前には、正使・副使が決定し、貢納品などの準備を整えていました。遠成が前任者にかわって急遽派遣されたという説は、船の確保と貢納品の調達という問題をクリアできないと研究者は考えています。
 次に遠成一行の長安到着がいつであったかを推察し、そのことから逆算して、遠成等の日本出発の時期を見ておきましょう。
遠成は、元和元年(806)正月28日、唐朝から「中大夫試太子中允」の位記を授けられています。ここからこの時点で長安に滞在していたことが分かります。それなら遠成らは、いつごろ長安に入ったのでしょうか。遠成一行が長安に到着したのは、位記を授けられた前年、すなわち延暦24年(805)の年末頃ではなかったかと研究者は推測します。それは、前年の第一船の高野麻呂一行が何としても新年の朝賀の儀に間に合うように、「星に発ち星に宿り、晨昏兼行す」と昼に夜をついで長安への旅を急ぎに急いだことから想起されます。大唐帝国に朝貢にやってくる各国の使節団は日本だけではありません。日本は朝貢国のひとつにしかすぎません。唐側は、新年の年賀の挨拶にやって来ることを最も重視していたようです。
 遠成も当然、「新皇帝による最初の新年朝賀の儀」への参加を目指していたはずです。だとすると逆算して、いつごろ日本を出発しなければならい計算になるのでしょうか。
 前年の第一・二船は7月6日に、肥前国田浦を出帆しています。
①福州に漂着した第一船の一行は、12月23日に長安到着
②明州に上陸した第二船の一行は、11月15日に長安到着
 翌年の正月の朝賀の儀に列席するためには、7月中の日本出発がタイムリミットだったようです。これを先ほど見た第三船の遭難から再度の派遣決定、派遣吏員の選定、船の確保と整備、貢納物の調達といったことを重ね合わせると、急遽遠成が遣唐使判官に任命されても、すぐに出発することは無理だったことが推測されます。
 以上から修理された第三船遭難後に、遠成が急遠判官に任命され、派遣されたとみなす説は無理筋だと研究者は考えているようです。

第4の疑問点は、遠成の入唐目的が新帝への朝貢礼謁だったという点です。
高木説は、遠成は第3船の判官今嗣にかわって派遣されたものとします。とすると、前任者であった今嗣の入唐の目的も、新帝への朝貢礼謁のためであったことになります。本当に、今嗣の入唐は新帝への朝貢礼謁のためだったのでしょうか。
新帝への朝貢礼謁のためとされる使節派遣は、いつ決定されたかという点を、時間的経過で追ってみます。
唐朝の皇帝が亡くなって、徳宗から順宗に移ったとの知らせがわが朝廷にもたらされたのは、第一船の遣唐大使・藤原葛野麻呂の帰国報告書によるものだったことはまちがいないでしょう。葛野麻呂は、延暦24年(805)6月5日、対馬島下県郡に帰着し、同月八日付で長文の帰国報告書を都に書き送っています。そこには、次のように記します。
廿一年正月元日於入己元殿朝賀。二日天子不豫。廿三日天子雅王(徳宗)通崩。春秋六十四。廿八日臣等於・五天門・立レ使。始着素衣冠。是日太子(順宗)即‐皇帝位・。

ここには、貞元21年(805)正月23日徳宗が64歳で崩御し、代わって1月28日順宗が帝位についたことが記されています。この6月8日付の帰国報告書は、当時の山陽道の駅伝の通信能力からして4~5日後には都に届けられていたはずです。この報告書をみて、ただちに新帝順宗への朝貢のための使節派遣が決定されたとは思えないと研究者は云います。派遣の議は、正使の藤原葛野麻呂の上京・復命をまち、直接詳しい報告をきいた上で、執り行なわれるというのが手順ではないかと云うのです。肥前から藤原葛野麻呂が上京し復命したのは7月1日です。
第3船が肥前を出帆したのは7月4日です。
第3船がずいぶん以前から出発の準備を万端ととのえていて、出発のゴーサインをまつばかりとなっていたとしても、時間的には間に合わない計算です。もし仮に、6月8日付の葛野麻呂の帰国報告書を見て、朝議で派遣決定がされたとしても、先ほど見たように150名もの遣唐使スタッフの選定、遣唐使船の確保、貢納物調達の時間を考えると、20日足らずの短期間に、出帆までこぎつけられたとは不可能と研究者は考えているようです。
 以上から遠成が、葛野麻呂の帰国報告書にもとづいて新帝への朝貢礼謁のために派遣されたとは云えないとします。今嗣の乗った第三船は、葛野麻呂の帰国とは全く別の目的・理由で、唐に向かったことになります。しかし、それがなんであったのかは分からないままです。

高階遠成の入唐が新帝への朝貢礼謁のためであったかどうかを肩書きの視点で見ておきましょう。
遠成の入唐の際の肩書の記載を年代順に見てみると、すべての史料が「日本国使判官」「遣唐判官」「判官」です。遠成の肩書は「判官」です。高階遠成が、新帝への朝貢礼謁という特別の任務を帯びて新たに派遣されたとすれば「遣唐判官」の肩書きは相応しくないと研究者は指摘します。今嗣にかわって遠成が派遣されたとしても、今嗣の肩書も「判官」でした。また今嗣が乗っていた船は「遣唐使第三船」と記されています。新帝への朝貢使として新たに派遣されたのであれば、正使も遣唐使船もその役割にふさわしい肩書をもって入唐したのではないかという疑問です。船も第三船ではなく、第一船とするのが相応しいはずです。しかし、今嗣・遠成の肩書はともに「判官」であり、今嗣の船は第三船と記されています。

    以上から研究者は次のように結論づけます。
①遠成の船は、第三船ではなかったこと。
今嗣の遭難から再度の派遣決定・出帆にいたる時間的経過、遠成の長安到着の時期などを勘案すると、遠成が今嗣にかわって派遣されたとみなすことはできない。第3船は、座礁し、貢納物を乗せたまま行方知れずとなっているので、遠成の船は第三船ではない。
②遠成の肩書はすべての史料が「日本国使判官」「遣唐判官」など「判官」と記す。
遠成は「判官」の資格で入唐したのであって、新皇帝即位祝賀の特別の任務を帯びて入唐したとは思えない。延暦の遣唐使の一員であったと考えるのが妥当。このときの遣唐使船四隻のなか、第一・二船は、無事に任務を終えて帰国し、第三船は、行方知れずとなっている。残るのは第四船だけでなので、遠成が乗った船は第四船だったとしか考えられない。
③大同元年(806)12月13日、遠成の復命記録には次のように記されているだけである。
 大同元年十二月壬申、遣唐判官正六位上高階真人遠成授従五位上、遠成率爾奉使、不違治行、其意可衿、故復命日持授焉、

ここには、簡単に入唐した事実が簡略に記されているだけです。もし特別の任務を帯びての入唐使節だったのなら、それにふさわしい文言があってしかるべしと、研究者は考えているようです。このことも、遠成の入唐が特別の任務を帯びたものでなかったことを物語るものだとします。

  以上から、高階遠成は、第三船の判官三棟今嗣にかわって派遣されたのではなく、入唐の目的も新帝への朝貢拝謁のためではなかったと研究者は結論づけます。だとすると遠成の入唐目的はなんだったのでしょうか。ここで最初に示した「遠成の船は延暦の遣唐使船の第四船」説にもどります。

記録に、「率爾に使を奉り、治行に違あらず」とあるので、遠成は延暦の遣唐使の派遣が決定された当初に任命された判官ではなかったと研究者は考えます。では、いつ選ばれたのでしょうか。延暦の遣唐使は延暦22年(803)4月16日難波津を出発しますが、5日後に瀬戸内海を航行中に嵐に遭い、この年の派遣は中止されたことは前回にお話しした通りです。そこで船の修理後、翌年7月6日に、四隻の遣唐使船はそろって肥前国松浦郡田浦を出帆します。しかし、翌日7日には第三・四船との火信がとだえてしまいます。
  このとき第三、四船は、おそらく再度遭難したと研究者は考えているようです。そして、第三船は座礁・漂流し行方不明となります。第四船は博多にもどり、改修を受け翌年の延暦24年になってあわただしく出発したというのです。その際に、それまでの判官では不吉だというので、新たな判官が選ばれます。それは大宰府に在住していた人々を中心に人選が行なわれます。

『日本後紀』延暦二十四年(805)七月十六日の条は、第三船の三たびの出発と遭難、そして判官今嗣らへの処罰のことだけしか記されていません。しかし、このとき第三船とともに第四船も出発していたと研究者は考えています。遠成がいつ長安に到着したかは分かりませんが、元和元年(806)正月28日、唐朝から「中大夫試太子中允」の位を賜わっています。ここからは遅くともこの年のはじめには長安に到着していたことになります。そして逆算すると、遅くとも前年の七月には九州を出発していなければならないことになます。それは第三船の出発した7月4日と、時間的にぴったり一致します。
  以上から、高階遠成は、延暦の遣唐使の一員であり、遠成の乗った船は第四船であったと研究者は考えています。
以上をまとめておくと次のようになります
①急遠判官に任命された遠成を乗せた第四船は、延暦二十四年(805)七月四日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆した。
②判官三棟今嗣の乗る第三船は、運悪く三たび遭難し、 ついに遣唐使の任務を果たすことができなかった。
③これに対して第四船の遠成は遅れて入唐を果たし、皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
   高階遠成がやって来なければ、空海は短期間で帰国することはできなかったのです。 高階遠成を「空海を唐から連れ帰った人物」として、評価しようとする動きもあるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 参考文献  「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」

入唐 遣唐使船

遣唐使船復元模型

空海と最澄は、延暦23年(804)七月出帆の遣唐使船で入唐を果たしています。この時の4隻の船の内の第1船に空海、第2船に最澄が乗船していました。この遣唐使船について、私はよく分かっていませんでした。特に、第3・4船の動きが不可解なのです。今回は、この2隻に焦点を当てながら九州をはなれるまでの動きを追ってみたいと思います。テキストは「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」です。
この時の遣唐使団について、従来から問題とされている点を挙げると次のようになるようです。
① 延暦の遣唐使の目的は何だったのか。わが国に何を持ち帰るために派遣されたのか。
② その成果は、どうだったのか。この遣唐使によって、何がわが国にもたらされたか。
③ 遣唐使の組織は、どのようであったか。
④ 遣唐使船の最後の寄港地はどこだったのか。
⑤ 延暦の遣唐使は、国書を持参していたのか
⑥ 空海が帰国時に乗船した判官高階真人遠成の船は、何の目的で再度入道したのか。はたして延暦の遣唐使の第四船だったのか否か。

この中の②については、空海と最澄による密教の請来がすぐに答えられます。しかし、その他については、今も議論が続いているようです。今回は③④⑥について、現時点で研究者はどのように考えているのかを見てみることにします。
③の遣唐使の組織について、研究者は次のような表を作成しています。
空海入唐 遣唐使スタッフと報酬
延喜式の遣唐使スタッフと手当表

遣唐使は「臨時業務」だったので、その都度編成されていました。そのため組織の規模・構成は、その都度異なるようです。延喜五年(905)に完成した『延喜式』には、遣唐使のスタッフに支給される手当が別表のように規定されています。今でもサラリーを見ると、組織におけるその人物の位置や重要度がある程度は分かります。そんな世俗的な視点で遣唐使たちへのサラリー(支給品)を見てみましょう。
ちなみに留学生・学問僧(留学僧)は「施四十疋、綿百屯、布八十端」とあります。これを上表で見ると副使のサラリーとほぼ同じ待遇であったことが分かります。ここからは、留学僧・還学僧に対する待遇の高さと期待がうかがえます。
 また大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語・学問僧・還学僧のスタッフには、「別賜」として彩吊と費布が別に支給される規定になっています。 ここからは、留学僧が遣唐使の中枢メンバーであったことがうかがえます。

延暦の遣唐使の総人員はどのくらいで、どんな人物が任命されたのでしょうか
延暦の遣唐使は、宝亀九年(778)12月の送唐客使以来、24年ぶりの派遣でした。延暦二十年(801)8月庚子(十日)遣唐使の任命が行なわれ、藤原葛野麻呂が大使に、副使には石川道益が任ぜられ、あわせて判官・録事それぞれ四名も発令されます。前後の遣唐使の総人員は、次の通りです
霊亀二年(716)八月癸亥(二十日) 557名
天平四年(732)八月丁亥(十七日) 594名
承和元年(834)正月       651名
ここから推測すると延暦の遣唐使も600名前後で構成され、四船に分かれて出発したとされています。その中で具体的な人名が分かっているのは、次表の二十数名だけのようです。これは本宮康彦・森克己・鈴木靖民・田島公の各研究者たちによって、明らかにされている人物名を表にしたのものです。

空海入唐 遣唐使スタッフ氏名一覧
○がついているのが、各研究者がスタッフであったと認める人物です。空海や最澄・橘逸勢などは、もちろん全員の○がついています。しかし、留学僧の霊仙・金剛・法道・護命・永忠に関しては、意見が分かれていようです。大使・副使・判官・録事などについては「定説」となっているようです。確定的な人物名を記しておきます。
大使 藤原葛野麻呂、
副使 石川道益、
判官 菅原清公・三棟今嗣・高階遠成。甘南備信影、
准判官 笠田作
録事 山田大庭・上毛野頴人、
准録事 朝野鹿取、
留学僧 空海・円基、
留学生 橘逸勢・粟田飽田麻呂、
請益僧(還学僧) 最澄
最澄の訳語僧 義真、
係徒 丹福成、
写経生 真立人、
碁師 伴小勝雄、
舞生 久礼真(貞)蔵(茂)・和爾部嶋継、
楽生 舟(丹)部頭麻呂
以上の二十三名は、ほぼ信じてよいと考えられているようです。

出発までの動きを年表で見ておきましょう。
801 8/10 大使に藤原葛野麻呂を、副使に石川道益を任ず。
また、判官・録事各四人を任ず〔紀略13〕
802 4/15 朝野鹿取を遣唐録事に任ず〔補任〕。
9/8 最澄、上表して入唐求法を請う〔叡山伝〕
9/12 最澄の入唐を許す〔叡山伝。釈書1〕
円基。妙澄、天台留学僧として入唐を許される〔叡山伝〕
10/20 最澄が、通訳として義貞を伴うことを請許される
803 2/4 遣唐大使以下、水手以上に物を賜う〔紀略13〕
 3/14 遣唐使に彩吊を賜う〔紀略13〕
   3/18 遣唐使等、朝堂院において拝朝す〔紀略13〕
 3/19 大使藤原葛野麻呂。副使石川道益に餞を賜う。
  葛野麻呂は御被三領・御衣一襲・金二百両、
道益は御衣一襲。金一百五十両を賜う〔紀略13〕
   4/2 大使・副使等辞見し、節刀を授けられる〔紀略13〕
   4/7 空海、出家得度す〔続後紀4〕。 一説に延暦23年
 4/9 空海、東大寺戒壇院にて具足戒を受く。 
 4/14 遣唐使、難波津頭において乗船す〔紀略13〕
 4/16 遣唐使、難波津を進発す〔紀略13〕
 4/21 遣唐使船、暴雨疾風に遭う。
明経請益生大学助教豊村家長、波間に没す
  4/23 大使藤原葛野麻呂、暴雨疾風に遭い渡航不能を報告す。
   右衛士少志日下三方を遣して、消息を問わしむ
4/25 大使藤原葛野麻呂等、上表す〔紀略13〕
4/28 典薬頭藤原貞嗣・造宮大工物部建麻呂等を遣して、遣唐舶ならびに破損雑物を修理せしめる〔紀略13〕
5/22      遣唐使、節刀を奉還す。
船舶の損壊により渡海するあたわざるによる
  延暦22年(803)発の遣唐使船は、2年前の801年8月には大使と副詞、判官などのメンバーが決定されています。同時に、船が安芸国で建造され始めたようです。そして、802年には最澄の短期留学僧としての派遣が決定しています。しかも、最澄には専属の通訳僧の同行も許されています。ところが空海の名前は、この時にはありません。空海がこの年の検討線に乗っていたかについては、次の2つの説があるようです。
① 延暦の遣唐使の最初から加わっていたとするもの(延暦22年説)
② 一度渡海に失敗し、再度の進発をした時点で加わったとするもの(延暦23年説)

bb-81.jpg
難波津 住吉神社の鳥居前の碑文
4隻の船が安芸から難波に回航され、諸物資を積み込み、使節が乗り込んだのは4月14日です。その2日後の16日に難波津を出港して瀬戸内海を西航して那津(博多)を目指しました。ところがそのわずか5日後の4月21日に瀬戸内海を航海中に暴風疾風に遭って碇が使用できず、制御不能となり破損し「航行不能」状態になってしまいます。そのため専門家を派遣して修理を行わせています。しかし、短期間で修繕できるものではなかったようで、5月22日には遣唐使団長は「船舶の損壊により渡海するあたわざるによる」と節刀を一時奉還しています。この時には難波津を出発して5日目に瀬戸内海で難破してしまったようです。どの辺りで難破したのか、5日目というと順調なら鞆か尾道あたりでしょうか。被害を受けたのは何隻かなどを知りたいのですが、史料には何も記されていません。

平城京歴史館/遣唐使船復元展示 | 徒然日記 (NO3)

 遣唐使船の歴代総数は40隻あまりですが、そのうち12隻が難破・遭難しています。
無事に渡海できる確率は2/3程度だったことになります。その理由として、従来は次のような理由が云われてきました。
①季節風を知らなかったこと、
②造船技術をはるかに上回る大きさの船を無理に造ったこと、
③前の航海の経験が次の航海にはほとんど生かされていなかったこと、
しかし、①③に関しては、次のような異論も出ています。
①の季節風については、遣唐使の航海に関する史料の検討から、風についての知識は現代のわれわれよりよく知っていて、従来の経験が生かされなかったわけではない。
②の船については、150名近くの乗船のために、全長16m、幅7m前後、総トン数で160トン前後のずんぐりした船だったと推定される。その当時、中国・朝鮮半島諸国で造られる大きい船でも、せいぜい70人乗り程度であったので、遣唐使船は特別大きな船だったことになります。
遣唐使船 ・ 奈良平城宮跡 (奈良県) - 気ままな撮影紀行
復元された遣唐使船(平城京公園)
これに関しては、専門家は、次の二つを指摘されています。
第一は、東シナ海を渡る航路をとる必要や、人とモノを載せる必要から技術力以上の大型の船を造らぎるえなくなり、構造的に無理があった
第二は、船の総重量や荷物を多く積み込みすぎたことも遭難の大きな要因であった。
つまりは、船の大型化と操船に問題があったようです。 延暦22年(803)発の遣唐使船も、同じような問題を抱えていたのでしょう。
 多島海で潮流の複雑な瀬戸内海は、当時の帆走技術では大きな船体の遣唐使船は、操船が難しくて自力航海することはできなかったと専門家は考えているようです。そのため多数の大船(準構造船)で、遣唐使船を曳航したようです。その中で、強風で流されての船体破損事故だったのでしょう。
船が修理されて、翌年に再度出港するまでの動きを年表で見ておきましょう。
804 1/13 □□朝臣今継、三棟朝臣を賜う〔後紀12〕
3/5 遣唐使、拝朝す〔後紀12・紀略13〕
3/25 大使藤原葛野麻呂。副使石川道益に餞を賜う。
とくに恩酒一堺・宝琴一面を賜う〔後紀12・紀略13〕
3/28 大使藤原葛野麻呂に節刀を授く〔後紀12。紀略13〕
  5/12 空海、大使藤原葛野麻呂とともに第一船に乗り、入唐の途に上る〔集記〕

 この時の遣唐使船は船の修理後、翌年延暦23年(804)3月28日に、改めて、大使藤原葛野麻呂に節刀を授けられています。そして、5月12日に大使藤原葛野麻呂が率いる4隻の船は難波津を出港していきます。この時に、第一船に空海も乗船していたと「集記」にはあります。前年の出港の際には、空海の名前はないようです。難破事件で一年遅れにならなければ、空海の入唐はなかったことになるようです。
bb-81-2.jpg
 難波津 住吉神社から出港する遣唐使船

東シナ海へ出て以後の動きを年表で押さえておきます。   
804年7/6遣唐使の一行、肥前国松浦郡田浦を出発す〔後紀12〕
7/7 第三船・第四船、火信を絶つ〔後紀12〕
7月下旬 第二船、明州郡県に到る〔叡山伝〕
8/10 第一船、福州長渓県赤岸鎮に到る。
鎮将杜寧・県令胡延汚等、新任の刺史未着任のため福州への廻航を勧む
9/1 第二船の判官菅原清公以下二十七名、明州を発ち長安に向かう
9/15 最澄、台州に牒を送り、明州を発ち台州に向かう〔叡山伝〕
9/18 兵部少丞大伴太「万里を新羅に派遣す。未審の二船が漂着した場合のためなり
9/26 最澄、台州に到る。
難波津から約2ヶ月足らずで、那津(博多)を経て、松浦郡田浦までやって来ています。4船は、ここから出発しています。
司馬遼太郎(『空海の風景』)に、次のように記します。
されていたのを読んだことがあるからです。

 船団は肥前の海岸を用心ぶかくつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、すこしずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島でもって、日本の国土は尽きる。 
 列島の最南端に、福江島がある。北方の久賀島と田ノ浦瀬戸をもって接している。船団はこの瀬戸に入り、久賀島の田ノ浦に入った。田ノ浦は、釣針のようにまがった長い岬が、水溜りほどの入江をふかくかこんでいて、風浪をふせいでいる。この浦で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待つ。風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本へ吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏をえらぶ。わざわざ逆風の季節をえらぶのだ。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。 
 やがて、船団は田ノ浦を発した。七月六日のことである。四隻ともどもに発したということは、のちに葛野麻呂の上奏文(『日本後紀』)に出ている。久賀島の田浦を出帆したということについては『性霊集』では、「本涯ヲ辞ス」という表現になっている。かれらは本土の涯を辞した。
 ここで司馬遼太郎氏が書いていることをまとめておくと
①最後の寄港地は、五島列島の久賀島の「田ノ浦」である。遣唐使大使の葛野麻呂が帰国後に提出した報告書(『日本後紀』)に、そう書かれている。
②最後の寄港地である久賀島の「田ノ浦」で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待った
③真夏の逆風の季節をえらんで出帆することから分かるように、当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。
DSC04470
舳先で悪霊退散を祈祷する空海

①について『日本後紀』の葛野麻呂の報告書を確認してみましょう。
大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。
臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。
七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。
死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。
時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。死きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。と
そこで、船を向州に廻すことにして、十月三日に到着した。
新除観察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

 これが遣唐使大使の正式報告書です。ここには最後の寄港地は「肥前国松浦郡田浦従リ発シ 四船海ニ入ル。」とあります。
「肥前国松浦郡田浦」については、2つの説があるようです。
①ひとつは、現在の平戸の北端の田浦
②もうひとつは五島列島の久賀島の「田ノ浦」

7月6日に「田ノ浦」を発って以後の4船の航路をたどってみましょう。
 順風をとらえて東シナ海を西に進み西方沖で潮に乗って南下しようとします。ところが翌朝に逆風に遭い、強風と逆波にさえぎられて南下できなくなります。帆をあげて西南の風を背に五島列島のどこかに避難しようとしますが、済州島の方向に押し流されます。

  肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。

とあるので、夜八時~九時頃に、五島列島を遠く離れた西の海域で四船は、散りぢりになったようです。そして、福州近くの赤岸鎭に漂着する8月10日まで34日、東シナ海の潮流になすすべもなく浮かんでいたことになります。

空海入唐 空海と最澄の漂着地
三井楽を最終寄港地とする立場の航路図
 松浦郡田浦を出て、翌日の7月7日の夜には、漂流を始めたのです。最終寄港地は「肥前国松浦郡田浦」です。今の平戸市北端の田浦の岬の上には弘法大師像が建立され、平戸市と善通寺市が姉妹都市を締結しているようです。
平戸の史跡・名所案内|旅館田の浦温泉(公式ホームページ)
平戸市田浦の弘法大師像

 これに対して五島列島の三井楽町柏崎の海辺には、「辞本涯」(「本涯を辞す」)と刻まれた石碑が建っているようです。
三井楽(みみらくの島)(五島市)
三井楽町柏崎の「辞本涯」 
三井楽も空海が参加した第十六次遣唐使船団の最終寄港地だと名乗りを上げているようです。しかし、つまり平戸と、三井楽では最終寄港地をめぐる争論が展開されてきたのです。

 最澄の乗った第2船は、7月下旬に、明州郡県に漂着し、9月1日には判官菅原清公以下27名が、明州を発ち長安に出発しています。
それでは第3・4船は、どうなったのでしょうか。
「空海の風景」には、次のように記されています。

「第三、第四両船、火信応ゼズ」と書いている。火信とは、松明もしくは火縄をふることによって、たがいに所在をたしかめあうことであった。第三船はこの時期に海没してしまったらしい。第四船にいたっては海没の証拠すらなく、ついに行方が知れなくなってしまっている。
  
   司馬遼太郎氏は、第3・4船は海に消えたというのです。
しかし、史書には2隻は遭難エリアから那ノ津(大宰府)に引き返していることが記されています。そして、船体修理後に翌年の延暦24年7月4日に、肥前国松浦郡庇良島(平戸の田ノ浦)から、遠値賀島(五島列島の福江島)に向けて出港しています。瀬戸内海での難破から数えると3度目の出港になります。ところが第三船は、出港まもなく南風の逆風によって孤島に漂着し、判官三棟は船を捨てて上陸します。船は水夫らとともに海上に流され、ついに行方知らずとなってしまったようです。

空海入唐 田浦

第3船の難破事件は大宰府から朝廷に、次のように報告されています。
 遣唐使第3船は、805年7月4日、肥前国松浦郡庇良島から遠値嘉島をさして出帆したところ、南風にあって孤島に漂着し、船は岩間にはさまれ、海水に満たされてしまった。そこで責任者の今嗣らは岸に上がって脱出した。が、船の積荷は公物・私物何一つとして船からおろす暇もなかった。船には数名の射手を残していたが、結が切れて漂流しはじめ、その行方はわからなくなった

  これは、責任問題となったようです。船を見捨て下船した今嗣に対する処罰記事が「日本後紀」にはあります。
船の最高責任者の使命を忘れて、みずからの命をながらえることのみを考え、船の積荷を放棄し、下船した責任を問うて厳罰を加えるべし、との勅が下されます。これは、当然のことでしょう、船長が乗船者がいる舟を放棄しているのですから。どちらにしても、第3船は3度目の出航後に、五島列島の北で座礁難破し、漂流を開始し行方不明になります。3度出港し、一度も渡海できなかった船になるようです。
  最後に第4船を見ておきましょう
第四船は、延暦24年(805)7月4日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆します。今見たように第三船は、運悪く三たび難破します。これに対して、遣唐副使判官の高階真人遠成(たかしなりまひとうとなり)を乗せた第四船は、「三度目の正直」で中国にたどり着きます。高階遠成は、大同元年(806)正月,皇帝の代替わりの新年朝貢の儀にも参列する栄華を得ます。この時に空海は、密教伝授を終え、恵果が亡くなった直後だったのです。そこに、突然に、遣唐使がやってきたことになります。前回、お話ししたように、空海はこの期をとらえて本国に帰ろうとし,やてきた高階遠成に相談したのでしょう。空海の唐留学は20年の予定でした。それをわずか1年半で切り上げて帰国できるようになったのは、この遣唐使船がやってきたからです。それだけではありません。
入唐 『与本国使諸共帰啓一首』
「与本国使諸共帰啓」
空海が皇帝に「与本国使諸共帰啓」を上申書を提出することを認めたからです。これは、現地での彼の独断です。帰国後に朝廷からの処罰を受ける可能性もあったはずです。もし、遠成の許可がなければ、空海の帰国は実現しなかったのです。そういう意味では、遠成は空海の密教招来に手を貸すという大役を果たしたことになります。また彼は皇帝代替わりの新年朝貢の儀にも参列し、中国の史書に名前をとどめる栄誉をうけてもいます。ちなみに空海の名前は、史書にはありません。また他の中国側の史料にも空海の名前はありません。

高階遠成略年譜──空海を連れて帰った人   
806 1 空海・橘逸勢が、高階真人遠成とともに帰国することを請う(性霊集5)
806 8 遠成が空海等とともに、明州を発ち、帰国の途につく
806 10/22 空海が高階真人遠成に託して「新請来経等目録』を進献す(御請来目録)
806 12/13 遣唐判官正六位上高階真人遠成、復命す。
この日、従五位上を特授される(類衆国史99)
811 5/10 従五位上高階真人遠成、主計頭となる
   6/16 従五位上高階真人遠成、民部少輔となる(同右)
812 3/12 民部少輔高階真人、高雄山寺において空海から結縁灌頂を受く
12/19 「従五位下少輔高階真人遠成」と民部省符に署名す(平安遺文1)
813 2/13 従五位上高階真人遠成、大和介となる(日本後紀22)
815 1/7 従五位上高階真人遠成、正五位下に叙せらる(日本後紀24・類衆国史99)
816 1/7 正五位下高階真人遠成、従四位下に叙せらる(類衆国史99)
818 3/21 散位従四位下高階真人遠成、卒す。年六十三(日本紀略前篇14)
  

以上をまとめておくと
①空海が遣唐使の留学僧に選ばれる前年に、遣唐使船は一度出港していた。
②しかし、その時には出航後わずか5日後の瀬戸内海で難破し、航行不能となった。
③翌年に改めて遣唐使船は出港するが、この時に空海は第1船に乗り組んでいる。
④平戸の北の田浦を出た4船は、五島列島を目指すが強風にあり散りじりになった
⑤空海の乗った第1船と、最澄の乗った第2船は、それぞれ中国に漂着し、長安を目指した。
⑥しかし、第3・4船は船に大きなダメージを受けて博多に引っ返し、1年かけて修理した。
⑦そして、再再度出港したが第3船は、孤島に漂着し破船・漂泊、
⑧第4船は3度目の挑戦で入唐を果たし、遣唐副使判官の高階真人遠成長安を皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」

DSC04470
遣唐使船の船頭で悪霊退散を祈願する空海

空海の入唐求法について書かれた本の中には、空海は唐に出発するまえに、次のことを知っていた記すものがあります。
①密教には、「灌頂」が不可欠であり、面授を必要とすること。
②「灌頂」の師となる恵果和尚が長安におられること。
③「灌頂」には、それほどの期日を要しないこと。

確かに空海の灌頂受法は、足かけ三ヵ月でした。それを空海が事前に知っていた。そのため最初から空海は20年も長安に留まるつもりはなかった、短期間での帰国を考えていた、というものです。空海を超人化するストーリーとしては、こちらの方が人々に受けいれやすいので、最近の小説などではこの説で空海の入唐求法を描くものが多いようです。たとえば次のような筋書きです。
①四国などの山林修行での神秘的体験から密教への指向を強める若き日の空海
②修験と密教の統合のための模索と大日経読破
③大日経を読んだだけでは密教を「獲得」できない。潅頂儀式のための入唐求法
つまり、空海は密教の8割方を理解した上で、あとは書物では分からない潅頂関係だけを学ぶために目的を限定して入唐したという説です。しかし、前回お話ししたように、入唐以前の空海は「密教」という言葉を使っていません。「密蔵」という言葉を使っています。ここからは、入唐以前には空海は「密教」という全体概念をしらなかったことがうかがえます。密教の一部を知っていても、密教全体を分かっていたというレベルには達していなかったと研究者は考えているようです。
「空海入唐目的=潅頂受法」説の代表が、平井宥慶「弘法大師入唐の意図」で、ここには次のように記されています。
我々がかんがえる大師の入唐意図、それも「唯一」の意図を述へなければならないときがきた。我々は、大師は灌頂受法のため、それも日本を出発するときからそのことをきちんと意識しておらるものだ。その第一の資料は、〈帰啓〉の文である。
 ここで述べられた内容は、長安城にあって、般若三蔵と恵果和尚に遇い、五部・喩伽の灌頂法に沐したという事実で、しかもそれ「唯一」であるということになる。いうなれば、これが入唐の成果である。
 いま灌頂受法を堂々と宣言しているのは、その事実によほどの自信と自負が存在することを認めなければならない。その自信と自負は長安へ行ってたまたま受法できたから、ということで生まれるものであろうか。これは、出発以前に大師の心内に確平たる目的意識として確立していたればこそ、と思考するものだ。ということは必然的に、恵果和尚に遇うことも計算にはいっていたということになる。大師はそういう大陸の情報をいかにして手に入れていたか、残念ながら我々はまだその直接証拠をみいだしていない。
・灌頂受法がきわめて重大事であること 究極の法であることは論を待たない。(中略)密教の授受は師弟の面綬によらなければ不可能だ。
 この灌頂という受法行為なら、それほど期日はかからない。少なくとも20年はかからない。大師はもしかしたら、闘期の罪の状態で帰国があり得ることを予測していたことも考えられる。(以下略)
ここからは、平井氏は空海は入唐以前に密教の全体像を知った上で、入唐目的を潅頂受法のためと絞り込んでいたとします。そして、短期間での受法も可能であったと入唐以前に考えていたというのです。その根拠を「帰啓」に求めます。「帰啓」とは何なのでしょうか。〈帰啓〉とは、『与本国使諸共帰啓一首』(本国の使に与えて共に帰らんと請う啓)の略称のようです。「本国の使」とは、遣唐判官・高階真人遠成のことを指すようです。この遠成が帰国する船に便乗して一緒に帰りたい、と願いでたときの文章が、この〈帰啓〉です。

空海と惠果
恵果と空海

〈帰啓)が書かれるにいたった経緯を、見ておきましょう。
恵果阿闇梨は、空海への授法で使命を終えたかのように、永貞元年(805)12月15日、青龍寺東塔院で亡くなります。空海は、弟子を代表して、師の生涯を讃嘆する「恵果和尚の碑文」の撰文と揮音宅を行なったとされます。葬送の儀式は、翌年正月17日の埋葬の儀で、一段落したのでしょう。〈帰啓)は、この直後に書かれたようです。
 実は、この時に唐にやってきていたのが遣唐副使判官高階真人遠成(たかしなりまひとうとなり)でした。彼は、大同元年(806)正月,皇帝の代替わりの新年朝貢の儀に、参列しています。空海を乗せてきた船が帰国したばかりなのに、どうしてすぐに遣唐使船がやってきたのでしょうか。次の2つの説が出されています。
①皇帝代替わり使節団として新たに派遣された
②空海の入唐時に派遣された第4船が難破修理後に、遅れて到着した。
このことについては、別の機会に詳しく見るとして、ここでは空海が密教伝授を終え、恵果が亡くなった直後に、遣唐使船が現れたということを押さえておきます。
空海はこの期をとらえて本国に帰ろうとし,唐朝に啓を上奏します。
これが「与本国使諸共帰啓」のようです。もともと、空海の唐留学は20年の予定でした。それをわずか1年半で切り上げて帰国しようというのです。前代未聞のことです。これも空海にとって織り込み済みであったとする小説もあります。
 もし、この願いが許されなかったら,江南の貿易者の日本行きの私船で帰ることができたでしょうか。それは国費留学生という身分からして、できない相談だったようです。留学生は,皇帝の認可を受けて長安に滞在している以上,唐を離れるのは皇帝の許可が必要でした。その許可は,日本国を代表する大使の奏上がなければ許可されることはありません。それが律令のルールでした。もし、空海が高階遠成の船で帰国しできていなければ、その帰国は20年先だったかもしれませんし、阿倍仲麻呂のように帰国ができなかった可能性もありました。そうすれば真言密教も,高野山も姿はなかったことになります。
そういう意味では、空海の生涯を大きく支配した一文が『与本国使諸共帰啓一首』ということになるようです。
入唐 『与本国使諸共帰啓一首』
          空海書 与本国使諸共帰啓

この書は,縦約30㎝,横55㎝の紙本で、現在は御物として保存されているようです。大同元年(806)の正月に唐の都長安で書写されたもので、18行,238字の上書です。
最初に題名として『与本国使諸共帰啓一首』と書かれていますが、下に行くほど左に曲がっています。バランスもよくありません。次に「留学学問僧の空海啓す」とあります。この文章中には欠語や誤謬があることが指摘されています。上奏書とは思えない書体と内容です。

 「空海は,これを元にして楷書で浄書し大唐皇帝に奏上した」

と研究者は考えているようです。そして,草稿として書かれたこの書が,空海の書箱に収められ,帰朝にあたって持参されたという筋書きになります。

『与本国使諸共帰啓一首』の本文を見ておきましょう。
ア、留住学問の僧、空海啓す。某(それがし)、器、楚材に乏しく、聡、五行を謝せり。謬(あやま)って求撥(ぐはち)を濫りがはしくして、海を渉って来る。
イ、草履を著けて城中を歴るに、幸いに中天竺国の般若三蔵、及び内供奉恵果大阿闇梨に遇いたてまつって、膝歩接足して彼の甘露を仰ぐ。
ウ、遂に乃ち、大悲胎蔵・金剛界大部の大曼荼羅に入って、五部の喩伽の灌頂法に沐す。冶(さん)を忘れて読に耽り、仮寝(かりね)して大悲胎蔵・金剛頂等を書写す.己でに指南を蒙って、之の文義を記す。兼ねて胎蔵大曼茶羅一鋪、金剛界九会大曼茶羅一鋪を図す〈並びに七幅丈五尺〉。丼せて新翻訳の経二百巻を写し、繕装畢ヘなんとす。
エ、此の法は、仏の心、国の鎮なり。熟(わざわ)いを攘(はら)い、祉(さいわ)いを招くの摩尼、凡を脱(まぬか)れ聖に入るの嵯径なり。是の故に、十年の功、之を四運に兼ね、三密の印、之を一志に貫く。此の明珠を兼ねて、之を天命に答す。
オ、たとい、久しく他郷に客たりとも、領(くび)を皇華に引かん。白駒過ぎ易く、黄髪何(い)かんがせん。今、腫願(ろうかん)に任えず。奉啓不宣。謹んで啓す。
意訳変換しておくと
  本国の使に与へて共に帰らむと請ふ啓一首
ア 留住(留学)学問の僧空海が上奏いたします。私空海の器(器量・才能)は乏しく,聡明さは応奉には及びません。仏法を求めてはるばる海を渉ってやってまいりました
イ 草履をすり減らし師を求めて歩き廻り、城中(唐の長安)を巡るに、幸ひにも中天竺國(インド中部)の般若三蔵の供奉(宮中の内道場に供奉する僧)恵果大阿闍梨にお会いすることができました。膝歩接足(膝であゆみ,師の足に頭をつけて,礼拝すること・師への礼)して彼の甘露(教え)を仰ぎ。
ウ ついに大悲胎蔵金剛界大部(一切の法門統摂した教え)の大曼荼羅に入って,五部瑜伽(五智の瓶水を頭上に注ぐこと・瑜伽は相応の意であり,金胎両部に通ずること)の灌頂法(インド古代の国王即位式にならった密教伝承の儀式)を伝授されました。
DSC04616
密教経典の写経をおこなう僧
濃(食事)を忘れて讃に耽る,假牒して大悲胎蔵(大日経類)金剛頂(金剛頂経類)等を書き写し、指南を受けて文義(意味内容)を記しました。兼ねて胎蔵大曼荼羅鋪(一幅),金剛界九會(金剛界の諸仏の像)大曼荼羅一鋪を写しました。さらに七幅丈五尺拝のせて新翻鐸輕二百鯨巻を書写して、繕装(表装)も終えました。
弘法大師 誕生と長安での書写1
書写作業を見守る空海
エ この法は仏の心で,仏法の真髄は國の鎮(鎮護国家法)でもあります。禍をはらいのけ、善福を招く摩尼宝珠は凡夫を脱れ、聖に入る峻厘(近路)です。それゆえに二十年の功を一年で兼ね具えることができるました。三密の印(身・口・意の三秘密の印契。密教の教え)を一心によく体得することができました。この明珠(明月のような光を放つ宝珠)を兼ねて、これを之を天命(桓武天皇の勅命)に応えようと思います。

DSC04617
密教法具の作成
オ もしこのまま大唐帝国の客として,遣唐使を待っていたら白駒(歳月)は過ぎ去ってしまいます。私は老人となって髪が黄色になってしまいます。今,随願(いやしい願い)ではありますが奉啓不宣(述べつくさないの意)謹むでまう啓す。

 帰国できるがどうか、空海の生涯のターニングポイントで書かれた奏上文です。内容的には、くどくどと述べることなく簡潔でシンプルです。中国の古典や詩句の一部が各所にちりばめられていて、その素養の高さを示す内容です。しかも、その中に長安での空海の学究,求道の内容が網羅されていて,帰国して果すべきことも暗示され,その言わんとすることも伝わってきます。中国の担当官僚の心を動かす文章と云えるようです。
ここには空海の帰国の意志が表明されていますが、なぜ、帰国を決意したのでしょうか。
その理由としては、次のことが考えられます。
①長安には、恵果和尚に勝る阿閣梨がいなかったこと、
②この機会を逃せば、いつ帰国できるかわからなかったこと、
ちなみに、つぎの遣唐使が長安にやってきたのは、32年後の承和五年(838)12月、空海が亡くなってから3年後のことです。
 帰国を決意した最大の理由の一つは、恵果阿閣梨が亡くなったこと、その師が臨終に際して残した遺命であったと、研究者は考えているようです。恵果の遺命は、その後の空海の宗教的・社会的活動の指針となった、判断に困ったようなときには、空海の脳裏に、師の生涯とともにこの遺命が思い起こされたと云うのです。
圓應寺|円応寺|真言宗智山派 大慈山|山形市|永代供養 » 弘法大師・空海 恵果和尚からの密教伝授
 恵果と空海
恵果和尚の遺命とは、『御請来目録』にみられる次の文章です。

ア、今、此の上の縁尽きぬ。久しく住すること能はず。宜しくこの両部大曼茶羅、 一百余部の金剛乗の法、及び三蔵転付の物、並びに供養の具等、請う、本郷に帰りて海内に流伝すべし。編かに汝が来れるを見て、命の足らざるを恐れぬ。今、則ち授法の在る有り。経像の功、畢んぬ。

イ、早く郷国に帰り、もって国家に奉り、天下に流布して蒼生の福を増せ。然れば四海泰く、万人楽しまん。是れ則ち、仏恩を報じ、師の徳を報ずるなり。国の為には忠、家に於ては孝なり.

意訳変換しておくと
ア、今まさに、師と弟子として縁が尽きようとしている。ここに及んで、長安に留まるべきではない。この両部大曼茶羅や一百余部の金剛乗の法、及び三蔵転付の物、並びに供養の具等を、本郷(日本)に持ち帰り、国内に伝えるべし。以前から汝(空海)が長安にやって来ることは分かっていたが、私の余命の及ばないことを怖れていた。今、授法は全て終わった。経像の功も引き継がれた。

イ、しかる上は一日も早く郷国(日本)に帰り、もって国家に奉り、天下に流布して、民人たちの蒼生(善福)のために尽くせ。そうすれば四海は治まり、万人は平穏な生活が送れるようになる。これこそが仏恩を報じ、師の徳に報いる道である。国の為には忠、家におては孝である。

 ここには「一日も早く郷国(日本)に帰り、もって国家に奉り、天下に流布」せよと恵果は空海に命じたと書かれています。この恵果和尚の遺命を受けて、空海は帰国を決意するようになったと研究者は考えているようです。つまり、空海は入唐以前から潅頂を含めて密教伝授が短期間で終わるとは思っていなかったとするのです。もっと突っ込んで云うと、空海は入唐以前には、潅頂がどんなものかを分かっていなかったことになります。
 空海が入唐するまでに、『大日経』を読んでいたことは間違いないと研究者は考えているようです。とすると、「灌頂」なることばは知っていたでしょう。しかし「灌頂」が具体的にどんなものであるのかについては、正しく理解していたとは云えないようです。

先ほど見たように、空海の入唐求法について書かれた本の中には、空海は唐に出発するまえに、次のことを知っていた記すものがあります。
①密教には、「灌頂」が不可欠であり、面授を必要とすること。
②「灌頂」の師となる恵果和尚が長安におられること。
③「灌頂」には、それほどの期日を要しないこと。

③については、確かに空海の灌頂受法は、足かけ三ヵ月でした。それを空海が事前に知っていたとすれば、短期間の滞在でよい還学僧(請益僧)でよかったのではないでしょうか。事実、同行した最澄は、こちらを選択しています。どうして空海は、二十年も滞在しなければならない長期の留学僧となったのでしょうか。

 別の視点から見てみましょう。本来の潅頂は、3ヵ月で終わるものだったのでしょうか。
天長八年(831)10月24日付の比叡山・円澄らの書状は、持明灌頂(結縁灌頂)を受法した最澄とその師・空海との次のようなやりとりが記されています。
   即ち、和上(空海)に問うて云はく、大法の儀軌を受けんこと、幾月にか得せしめんや、と。(空海が)答えて日はく、三年にして、功を畢えん、と。

ここには、ずっと伝法灌頂の受法を願っていた最澄が、実際に空海から受法した灌頂は結縁灌頂であったこと。そこで、最澄は「念願の伝法灌頂を受けるには、いく月ほどの修行・勉学が必要であろうか」と質問します。これに対して、空海は「あなたの能力をもってしても、あと3年修学してください」と答えた、と記されます。

伝法灌頂について | 嗚呼!日々是☆サマーディ-------------Momoのブログ

 最澄が最初の持明灌頂(結縁灌頂)を受けたのが弘仁三年(812)のことですから、それから数えると19年が経っています。それに加えて、最澄でも「あと3年の修行が必要」と答えているのです。空海が恵果和尚から三ヵ月あまりで受法されたことは基準にはならない、つまり、あの伝授は特別なものであったと空海は考えていたようです。

中古】「傳法灌頂 三摩耶戒大阿次第/初後夜小壇所次第/諸加持作法/法灌頂受者作法・胎蔵界」写本 4帖|真言宗 高野山 弘法大師 空海 密教 和本  の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー・スマートフォン版

傳法灌頂 三摩耶戒大阿次第


 今日残る史料からも、空海が入唐される以前の史料には、灌頂受法がわが国行われたの記録は見当たらないことを研究者は報告し、次のように記します。
  密教儀礼としての灌頂をわが国で最初に行なったのは最澄であり、それは延暦二十四年(805)九月、高雄山寺においてのことであった。この時期は、ちょうど空海が恵果和尚からの三度にわたる灌頂受法を、とどこおりなく終えた時期にあたる。ここからは、空海の入唐以前に、わが国の仏教界で、密教儀礼の灌頂については、十分に理解していた人物がいたとは思えない。

入唐 遣唐使船

以上まとめておくと、次のようになります。
①空海入唐の動機・目的は、最初から密教受法や灌頂受法のためであったのではない。
②それは青年時代の四国での求聞持法修行によって体感した強烈な神秘体験の世界が、どんな世界であるかを探求する道のりの延長線上にあった。
③唐に渡り、はじめて室戸で体験した「神秘的世界」が密教なる世界であったことを知り、その世界を究めることを決意した。
④その導師となったのが恵果で、彼の遺命で短期での帰国を決意するようになった。
⑤皇帝への帰国願いが『与本国使諸共帰啓』で、これが受けいれられ帰国が許された。
⑥空海が「密教」という言葉を使うようになったのは、帰国後のことである。
前回と結論は同じになります。
  空海と密教との出逢いは、体験的には20歳のころに求聞持法を修したときに遡ります。その世界が密教なる世界であることをはっきりと悟ったのは、入唐後の長安だったという説です。「はじめに体験ありき」と研究者は考えているようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年
関連記事

[本/雑誌]/弘法大師空海の研究 オンデマンド版/武内孝善/著|neowing
       
 「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」を読み返していると、空海入唐求法についての疑問点とされることが次のように挙げられていました。
①入唐の動機。目的は何か。
②誰の推挙によって入唐できたのか。
③どんな資格で入唐したのか。入唐の資格は何か。
④入唐中に最澄との面識はあったのか。
⑤長安での寄宿先の寺院はどこであったか。
⑥大量に持ち帰った経典・曼荼羅・密教法具などの経費の出所はどこか。
⑦帰国したとき乗った高階真人遠成の船はどのような役目の船であったか。
⑧空海は入唐して何を持ち帰ったか。入唐の成果は何か。

②~⑧の疑問に対しての研究状況が次のように記されています。
②誰の推挙だったかについては、次のような人物が考えれている
空海の師匠とみなされてきた勤操
おじが侍講を務めていた伊予親王
空海の一族佐伯氏
DSC04549遣唐使船

③入唐の資格については、
私費の留学生や大使の通訳などとみなす説もあるが、正式の留学僧であったことは空海の著作から間違いない。
④空海と最澄との面識については、
ふたりが出逢っていたとすれば、博多の津が考えられるが、帰国後、両者が著したものには入唐中に二人が出会った記述はない。入唐中、両者には面識はなかったと研究者は考えています。
⑤長安における寄宿先について、櫛田師は次のように記します。
「在唐の坊を予め連絡してから入唐したであろう」
永忠僧都の推挙によってこの西明寺と指示されたので喜んで入唐の志を堅くしたのであろう」
「空海入唐の斡旋の労も或いはこの永忠和尚の力によったものかも知れない」
この説によると、永忠と空海の間には、入唐以前からなんらかのやりとりがあったことになります。そして、長安で世話になる寺院については永忠から西明寺を推薦されていたと記します。
しかし、研究者は『日本後紀」所収「永忠卒伝」の記録には、永忠は宝亀の初めに入唐留学し、延暦の末に空海が入唐したときの大使藤原葛野麻呂とともに帰朝した、という記録があることを指摘します。この記録からは、二人がはじめて出会ったのは長安だったことになります。現在のように、事前に連絡を取り合うことは出来ません。櫛田説は再考される必要があると研究者は指摘します。

弘法大師 誕生と長安での書写1
長安での空海 曼荼羅図などの作成
⑥入唐に要した経費の出所ですが、空海がどれほどの資金を持参したかは分かりません。
櫛田師は、「もとより空海には莫大な財源も資産もなく、秀れた門閥でも、氏でもなかった」と記します。
しかし、空海の生家である讃岐国の佐伯直氏は、海運交易などで相当の経済力を備えていた、と考える研究者もいます。膨大な招来品のなかには、師の恵果和尚から贈られた品々も少なくなかったでしょうが、空海みずからが資金を出して入手した品々も多々あったと思われます。しかし、それらを明記したリストがない以上は、どれが「私費購入品」かも分かりません。したがって、空海かどれほどの資金を持参したかも、分からないというしかないようです。
⑦帰朝したときの高階遠成の船については、空海が入唐したときの第四船が有力
以上のように、問題点に対する現時点での「とりあえずの答」を簡潔に示してくれます。私にとってはありがたい本です。

①の入唐の動機・目的について、もう少し詳しく追いかけてみましょう。
空海の生涯には、いくつかのエポンクメーキングなできごとがあります。その最大のものの一つが虚空蔵求聞持法との出逢いであり、いま一つが入唐求法の旅であったと私は考えています。この二つは、別々のことがらではありません。入唐の出発点が求聞持法との出逢いで、両者は連続しているのです。それを並べると次のようになります。
①求聞持法との出逢い
②平城京の大学からのドロップアウト
③四国の辺路修行と室戸での求聞持法修得
④大日経との出会いと入唐決意

まず、求聞持法との出逢いから見ておきましょう。
空海の出家宣言の書といわれる『三教指帰』の序文は、若き日の空海の足跡を知ることができる唯一の史料です。現在の『三教指帰』は、24歳のとき著された『聾蓄指帰』に、唐から帰国後に序文と最後の「十韻の詩」を書き改め、あわせて題名を『三教指帰』と改めた、とみるのが通説のようです。
その『三教指帰』序文には、求聞持法との出逢いが、つぎのように記されています。
ア、髪に一(ひとり)の沙門あり。余(われ)に虚空蔵聞持の法を呈す。其の経に説かく、「若し人、法に依って此の真言一百万遍を誦ずれば、即ち、 一切の教法の文義、暗記することを得」と。

(現代語訳)
ここに一人の僧がいて、私に虚空蔵求聞持の法(虚空蔵菩薩の説く記憶力増進の秘訣)を教えてくれた。その秘法を説く『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』には、「もしも人々がこの経典に説かれている作法にしたがい、虚空蔵菩薩の真言「ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」を百万遍唱えれば、あらゆる経典の教えの意味。内容を理解し、暗記することができる」と説かれている。

イ 大聖の言葉を信じて跳炎をさんずいに望む。阿国大瀧獄に登り攀(よ)じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。
(現代語訳)
そこで私は、これは仏陀のいつわりなき言葉であると信じて、木を錐もみすれば火花が飛ぶという修行努力の成果に期待し、阿波の国の大滝岳によじのばり、上佐の国の室戸崎で一心不乱に求聞持法を修した。私のまごころが仏に通じ、あたかも谷がこだまを返すように、虚空蔵菩薩の象徴である明星が、大空に姿を現した。

最後の「谷響きを惜しまず、明星来影す」は、空海が体験した事実を、ありのままに記されたものと研究者は考えています。すなわち、「谷響きを惜しまず、明星来影す」とは、 一心に虚空蔵菩薩の真言、ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ
(虚空蔵尊に帰命します。オーン、怨敵と貪欲を打ち破る尊よ、スヴァーハー)を唱えていると、こだまが必ず返ってくるように、求聞持法の本尊・虚空蔵菩薩の象徴である明星が、私に向かって飛び込んできた、つまり虚空蔵菩薩と合一した、 一つになった、と解されます。

ここには、机上空間からでは分からない、体験したものでないと分からない、つまり「強烈な神秘体験」が記されています。

DSC04630
室戸での求聞持法修行
求聞持法を求める中で、強烈な神秘体験に出逢った空海のその後は、この体験の法則化に向かいます。つまり、世界とはいかなるものかを探求する道程であり、いろいろな僧にみずから体験した世界を語り、それがいかなる世界であるかを問い続けます。そして仏典のなかに解答を求め、解明・研鑽に精魂をかたむけたのでしょう。
 そのひとこまとして、『御遺告』が語るように、『大日経』をひもといたけれども、納得できる解答を見出せないまま悶々としていた、といったシーンが語られます。

正倉院文書と写経所の研究 | 山下 有美 |本 | 通販 | Amazon

正倉院には国営の書写所があり、何十人ものプロの書写生がいて仏典を書き写して、国分寺や中央寺院に提供していたことは以前にお話ししました。
 正倉院文書には『大日経』が最初に天平九年(737)に書写されたこと、それから宝亀六年(775)にいたるまでに、十数本の『大日経』が書写・伝存していたことが記録されています。

1大日経写経一覧 正倉院

それらを年代順に一覧表にしたのが上表です。
ここから『大日経』が何回も書写されていること、なかでも空海が登場する直前の宝亀年間に8回と集中して写されていることが分かります。奈良朝末には『大日経』の写本が畿内には、何種類も出回っていたのです。空海が、大日経を探し求めれば、それらの一つを目にすることも可能だったようです。しかし、これを見ても「ダメだ 分からない、この国では納得てきる答はえられない」との結論に達したのでしょう。そのため空海は、最後の手段として、唐に渡ることを考えたと研究者は考えています。
御遺告
御遺告
『御遺告』のこの部分を意訳しておくと、次のような事が記されています。
①二十歳のとき、槙尾山寺において勤操僧正(岩淵贈僧正)にしたがって出家し、教海と称し、のちに如空と改めたこと。
②このとき、仏前において「諸仏よ、私に不二の教えを示したまえ」と一心に祈願したこと。
③この結果、「なんじの要めるところは『大日経』なり」との夢告を得たこと。
④久米寺の東塔下で、『大日経』を探じ求めて、ひとあたり拝見したけれども、理解できないところが多々あり、それを問いただすところもなかったこと。
⑤そこで、唐に渡ることを決意し、延暦23年(804)5月12日出発したこと。
DSC04542
       久米寺の東塔下で、『大日経』を読む空海

ここからは、次のようなことが分かります。
①空海は勤操僧正(岩淵贈僧正)によって槙尾山寺において出家したこと。そして「教海」「如空」と名を換えたこと
「不二」の教えを学ぶために「大日経」を捜し求めたこと
③久米寺の東塔下で、『大日経』を手にしたが理解できないことが数多くあったこと
④そのために唐に渡る決心をしたこと
御遺告はかつては、空海の遺言とされてきました。そのためこれが入唐動機の定説でした。
送料無料] 新・弘法大師の教えと生涯 [本]の通販はau PAY マーケット - ぐるぐる王国 au PAY  マーケット店|商品ロットナンバー:486752083

このような定説を踏まえた上で、福田亮成著『弘法大師の教えと生涯』は、空海が真言密教を大成できた理由として、次のような要因を挙げます。
①大師は中国語が堪能であったこと。
②研究の目的は明確に密教に定められていたこと。
③長安に密教の名師がおり、直ちに面授できることを願っていたこと。
④唐の新訳仏典、特に「金剛頂経系諸儀軌」を中心にして、その蒐集に目的を定めていたこと。
⑤その他、文化一般にわたリグイナミックな関心をもっていたこと。たとえば筆の製作技術のマスター、詩文や書の研究など。
そして次のように結論づけます。
以上のような諸問題は一年半という短期間でありながら実に効率よく摂取されたのであった。これは大師の優秀さもさることなから、目的が明確に定まっていたことの表れではなかろうか

これに対して、こには先入観があると武内孝善は指摘します。
空海が入唐以前に、「密教」や「灌腸」ということばの意味を理解していたかどうか、もう一度立ち止まって考える必要があるというのです。確かに、入唐以前の空海が、密教経典を読んでいたことは間違いないでしょう。しかしながら、今日われわれが用いるような形での「密教」「潅頂」という言葉の概念を、入唐以前の空海が明確にもっていたか、といえばそうとは言い切れないようです。
これを別の表現にいいかえると、次のような疑問になります。
①空海は、「密教」なる言葉をどこで知ったか。
②いつ、どこで、明確に意識されるようになったか。
③密教という言葉の概念をどのように押さえ、使っているのか
このような問題意識のもとに、空海の著作に「密教」という言葉がどのように使われているか、をひとつひとつ確認していきます。これにつきあうことは遠慮して、結論だけを追いかけます。
①については、空海の著作で「密教」という言葉を、自分の言葉として意識的に使っているのは、九ヵ所だけであること
②については、空海が「密教」という言葉を使いはじめるのは、弘仁五年(813)頃ごろからであること。
つまり、入唐以前には空海は「密教」という言葉を使っていないことを指摘します。
  それではそれ以前は、空海はどのような言葉を使っていたのでしょうか。
「大唐神都青龍寺・恵果和尚の碑」と『御請来目録』では、空海は「密教」に替わる言葉として「密蔵」という言葉を使っています。このふたつの文書には、合計19ヵ所に、「密蔵」が使われています。それは「密教」に置き換えられる意味で使われているようです。
以上をまとめておくと
①空海は、在唐中および帰国直後には、「密蔵」という言葉を使用していたこと
②空海が「密教」なる言葉を、自分の言葉として意識的に使用するのは、弘仁四、五年(813)ごろからであったこと
③それも10ヵ所足らずで、限定的にしか使用していないこと
つまり、入唐以前には、空海には「密教」という概念はなかったことがうかがえます。潅頂に関しても同じようなことがいえるようです。密教という概念がないのに「密教」を学びに行くのは、不自然です。

どのような手続きで、空海が遣唐使の一員に選らばれたのかは分かりませんが、空海は留学僧として入唐を果たします。
留学の期間は、20年でした。ちなみに最澄は、短期留学僧を選んでいます。貞元20年(805)2月11日、遣唐大使・藤原葛野麻呂らが長安を去ったあと、空海は西明寺の永忠の故院にうつり、留学僧としての本格的な生活が始めます。恵果和尚と出逢うまでの三ヵ月余りの間、空海は持ち前の好奇心から、長安城内をくまなく歩いたのでしょう。

空海と惠果
恵果和尚と空海

ここからはフィクションで小説風にいきます
ある日、いつものように長安の寺を訪ね歩いていました。ある寺の灌頂道場に足をふみいれた空海は、驚き立ち尽くします。そこには、室戸で求聞持法を修めたときに体験した神秘の世界が、そっくりあったからです。その灌頂道場の壁は、仏たちで満ち満ちて、曼茶羅か余すところなく描かれていました。曼荼羅と向かい合ったときに、それまでの空海の疑念は、氷解しました。空海は、かつて神秘体験した世界が、密教なる世界であったことを初めて知り、密教なる世界があること、長安ではじめて体感したのです。
 空海は、四国で求聞持法を行ったときに、体験的には密教の世界にまで到達していた、密教の世界を体験的には知っていた、と研究者は考えているようです。そして、空海自身のなかに、生命を賭けても唐に渡るだけの突き動かすような動機が生まれたのでしょう。その源は「強烈な神秘体験」だったということになるようです。
DSC04587青竜寺での恵果と空海
青竜寺での恵果と空海の出会い
 では、空海が曼茶羅と対峙した西安の寺はどこであったのであったのでしょうか。研究者は、ふたつの寺院を想定しています。
一つは恵果和尚を訪ねるまえ、般若三蔵や牟尼室利三蔵からサンスクリット語・インドの諸宗教などを学んだとみなされている禮泉寺
 一つは恵果和尚が住んでいた青龍寺東塔院の灌頂道場です。
禮泉寺については、空海自身『秘密漫茶羅教付法伝』、の恵果和尚の項に、次のように記します。
空海が入唐した貞元二十年(804)、恵果和尚は弟子・義智のために禮泉寺において金剛界大曼茶羅を建立し、開眼供養会を行なった、

青龍寺東塔院の灌頂道場に関しては、『広付法伝』の恵果和尚の項に、恵果和尚の直弟子の一人呉慇が撰述した師の伝記『恵果阿閣梨行状』を、次のように引用しています。
①大師、ただ心を仏事に一(もっばら)にして、意を持生にとどめず。受くるところの錫施は、一銭をも貯えず、即ち曼茶羅を建立して、法を弘め、人を利せんと願う。
灌頂堂の内、浮屠(ふと)の塔の下(もと)、内外の壁の上に、悉く金剛界、及び大悲胎蔵両部の大曼茶羅、及び十一の尊曼茶羅を図絵す。衆聖備然として、華蔵の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜して、密厳の旧(ふる)き容(かたち)に還る。 一たび観(み)、 一たび礼するもの、罪を消し福を積む。
③常に門人に謂(かた)りて日はく、金剛界・大悲胎蔵両部の大教は、諸仏の秘蔵、即身成仏の路なり。普く願はくば、法界に流伝して有情を度脱せん。

ここには「灌頂堂はあたかも大日如来のさとりの世界が出現したかの観があった」とあります。つまり、ここで全ての疑問が氷解し、悟ったと研究者は考えています。

以上まとめておくと、次のようになります。
①空海入唐の動機・目的は、最初から密教受法のためとか、灌頂受法のためであったのではない。
②それは青年時代の求聞持法の修行によって体感された強烈な神秘体験の世界が、どんな世界であるかを探求する道のりの延長線上にあった。
③唐に渡り、はじめて室戸で体験した「神秘的世界」が密教なる世界であったことを知り、その世界を究めることを決意した。
④恵果和尚と出逢い、和尚の持っていた密教の世界を継承し、わが国に持ち帰った。

  空海と密教との出逢いは、体験的には20歳のころに求聞持法を修したときに遡ります。その世界が密教なる世界であることをはっきりと悟ったのは、入唐後の長安だったという説です。「はじめに体験ありき」と研究者は考えているようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年

松尾大社 | いり豆 歴史談義 - 楽天ブログ

 秦氏といえば山城の秦氏が有名ですが、河内にも多くの秦氏がいたようです。京都に行くと、松尾大社・伏見稲荷大社・木島坐天照御魂神社・養蚕神社・大酒神社や国法第一号の「弥勒菩薩半珈思惟像」のある広隆寺などがあります。少し「事前学習」すると、これらの寺社は渡来集団の秦氏に関係したものであったことが分かります。そして、中・高校でも平安京遷都の背景の一つを「山城の秦氏の協力」と習います。そのためか京都が秦氏の本拠地のように思われがちです。
 しかし、これらの神社や寺のある太秦は、河内出身の泰氏が京(左京)に移住し、山城の秦氏と共に祀った神社や寺のようです。
 長岡京や平安京の造営には、河内出身の秦氏が深く関わっていたようです。それなのにどうして、河内の秦氏が無視されるようになったのかを見ていくことにします。テキストは「大和岩雄  正史はなぜ河内の秦氏を無視するのか  続秦氏の研究23P」です

  結論から言うと、九世紀初頭に完成した『新撰姓氏録』の中に河内国出身の秦氏のことが書かれていないためです。どうして書かれなかったのでしょうか?
 その理由は、河内の秦集団は、「雑」に組み入れられていた秦の民(秦人・秦公・秦姓)であったからと研究者は考えているようです。

河内には秦集団の残した仕事がいくつもあります。まずは、その仕事ぶりを見ていきましょう。
百舌鳥古墳群と古市古墳群(ふじいでら歴史紀行27)/藤井寺市

五世紀代の古市古墳群エリア内には「河内古市大溝」と呼ばれる人工河川があります。
古市古墳群 探訪報告 | かぎろひNOW

これは古市古墳群と同時代に、作られたもので野上丈助氏は、次のように述べています。
「『応神陵』を作るとすれば、大水川・大乗川の流路を制御しなければ、古墳自身がもたない地形的な問題があった。そのため大溝は「『仲哀陵』『応神陵』の巨大古墳の築造を契機にして建設され、後に渡来氏族が定着することで大溝の役割・性格が変った」

 渡来氏族のうち、最も多かったのが秦の民であることは、秦の民(秦人)が河内・摂津の河・港の工事をしたことを記す『古事記』の記事からもうかがえます。秦の民が河内開発プロジェクトのパイオニアだったようです。それは、それまでになかった「新兵器」を秦氏が持っていたからです。
森浩一氏は、その「新兵器」のことを次のように指摘します。

「五世紀後半になると鉄製の鍬・鋤が使用されるが、農耕用より河川・池の築堤・灌漑用水路の土木工事などの工事用具として利用された」

真弓常忠も、『日本古代祭祀と鉄』で次のように述べています。
古墳時代の鉄製品は、五世紀初頭を中心とした約一世紀間に構築された畿内の大古墳にもっとも多くの鉄製武器類を副葬することを報告している。それらの鉄製品が、(中略)
 新しい帰化系鍛冶集団の指導によって製作されたことは疑いない。かれらによって古墳時代の生産はさらに一段の進歩を示したであろう。そのことを窺わしめるのが、応神・仁徳朝における河内を中心として集められた大規模な土木工事である。難波堀江・茨田堤・感玖の大溝の築造、百舌鳥古墳群・古市古墳群にみられる巨大な墳丘造築等、五世紀代にこれだけの土木工事が進められるには、絶対に鉄製器具が必要であり、そのためには原始的露天タタラや手吹子による幼稚なタタラ炉ではなく、かなり進んだ製鉄技術があったとしなければならず、その新しい製鉄技術をもたらしたのが(略)韓鍛冶であった。
 最後に記される「韓鍛冶」を、大和氏は「河内の秦の民」と読み替えます。

陪冢出土の工具一覧
5世紀になると畿内の古墳からは鉄製工具が出土するようになります。
 その数は河内が最も多く、古市古墳群の陪塚から出土しています。どうして巨大前方後円墳からは出てこないで陪塚から出てくるのでしょうか?
陪塚/羽曳野市
巨大古墳と陪塚

陪塚に埋納されている「農具」は、農業用でなく巨大古墳築造のための土木工事用に用いられた鉄製工具と森浩一氏は指摘していました。単なる「農耕具」ではないのです。渡来人がもたらした新しい鉄製工具は、従来の工具と比べると大きな効果をあげます。
神戸市埋蔵文化財センター:収蔵資料紹介:古墳時代収蔵資料一覧:鉄製農工具(てつせいのうこうぐ)
古墳時代の農具・工具 
窪田蔵郎は『鉄の生活史』で、次のように述べています
「農具の鋤、鍬にしても、弥生式文化期より鉄製農具が普及したとはいうものの、庶民にはまったく高嶺の花であって、貴族、豪族から貸与されてその所有地の耕作に従事することがおもで、例外的に自作をする場合には鉄鍬は使わしてもらえず、曲がり木で造った木鍬のようなものが使用されていたようである。(中略)
大古墳を築造するほどの貴族や豪族が、鋤、鍬、のみ、やりがんな、やっとこなどのような農工具類を副葬している理由は、このような生産手段である鉄器の多量な所有者であるというプライドにもとづくものと考えなければ理解できない」
 「プライド=威信財」というによる面もあったのかもしれません。
鉄製の鍬・鋤は農具としてだけの使用されたものではなかったと、森浩一は次のように指摘しています。

河内国の古市古墳群にの大谷古墳出土の鍬・鋤先の幅は76㎜、大和の御所市校上錯子塚古墳の74㎜で、普通より狭いので、「実用品ではなく鉄製模造品とみる説もあるが、鍬・鋤先は農耕以外の土木作業では掘撃する土地条件によっては刀幅の狭いものも必要だから、模造品とはいえない」

 すでに農地になった土地の農作業用でなく、荒地を農地にし、水を引く土木作業用の「特殊製品」だったとします。このような新兵器を持って、渡来人達は河内にやって来て、巨大古墳を造営し、河川ルートを変更し、湿田を耕地化していったのです。これは「新兵器」なくしてはできません。 そのためには「鍛冶技術」も必要です。彼らは土木技術者であり、そこで使用する工具を自弁する鍛冶集団でもあり、その原料を確保するための鉱山開発者でもあったのです。それが秦の民でした。


秦の民は、いつ、どこからやってきたのでしょうか 
秦の民(秦人)の故郷である伽耶の情勢を見ておきましょう。
伽耶の主要国は以下の通りです。
伽耶国家群一覧

 金海国のあった金海市の大成洞古墳群は、1990年から発掘調査が進んでいます。申敬激は金海の大成洞古墳群、東来の福泉洞古墳群の調査から次のように指摘します。
「『金海型木榔墓』『慶州型木椰墓』と日本の広域圏での定型化した(朝鮮半島南部における)前方後円墳の出現は、相互に連動するものと理解したい。いいかえれば日本の定型化した前方後円墳の出現契機は、鉄の主な入手源である伽耶地域の深刻な情勢変動とも深い関連があろう」

 「深刻な情勢変動」とは、金海国に対する新羅の圧力です。
倭国が確保してきた鉄が新羅によって脅かされるようになったことを指摘しています。「4世紀には対倭交渉が北部九州から、大和に転換した」とみています。 それまでは倭との交渉は「鉄」をとおしてでした。そのため金海から倭への大量の移住はなかったとします。移住が始まるのは広開王が伽耶まで進出した以後です。新羅が高句麗と組んで真先に侵攻したのは金海の金官国でした。
アナバコリア / 金海市 紹介 김해시 소개
孫明助は5世紀の伽耶の鉄生産について、次のように述べています。
4世紀までは弁韓・辰韓の鉄器文化をそのまま受け継ぎ、伽耶地域では金海勢力が中心になって鉄生産と流通国の掌握がなされてきた。それが5世紀に入り、そのような一律的な体制は崩壊し、新羅勢力の進出とともに伽耶の各国別の鉄生産は本格化されたものと見られる。中略
 5世紀に入り、金海勢力の没落で、鉄生産地は親新羅勢力の東茉の福泉洞勢力の東大地域がその生産流通網を受け継ぐことになり、同時期に咸安と陝川の玉田地域は新しい地域別鉄生産と流通の中心地として浮上する。このような様相は鉄器製作素材の大型鉄挺および有刺利器の出現と独自の形の鋳造鉄斧の製作、新しい形の鉄器製作素材の俸状鉄製品の発生などから見ることができる。
 したがって、伽耶の5世紀の鉄生産は、既存の洛東江の河口域(金海地域)と南旨を境とする南江一帯の咸安圏域、黄江中心の玉田勢力の大伽耶圏域など、大きく三つの生産流通圏を区画することができる。
  ここには、新羅の進出で、金海での独占的鉄生産が崩壊したことが指摘されています。そして、金海勢力について次のように述べます。
  「金海勢力の鉄生産は親新羅勢力の東莱の福泉洞勢力がその生産流通権を受け継ぐことになる。とくに、福泉洞22号墳のように長さ50㎝前後の大型鉄挺の出現は、既存の金海勢力が所有していた鉄生産と流通網がそのまま福泉洞勢カヘ移ってきたことを小す」
  
 ここには、それまでの金海勢力の鉄生産を担っていた勢力が「新新羅」勢力に取って代わられたことが指摘されています。それでは「金海勢力」の採掘・鍛冶の鉱人・工人たちは、どこへいったのでしょうか。その答えが「倭国へ移住」です。「金海勢力」の地は、秦の民の故郷でした。故郷を失った泰の民は、ヤマト政権の手引きで河内への入植を進めたと研究者は考えているようです。それは5世紀前半から6世紀前半までの百年間のことになります。
伽耶の鉄鉱山


李盛周の『新羅・伽耶社会の起源と成長」が2005年に和訳されて雄山閣から出版されています。
この本には上図「嶺南地方の主要な鉄鉱産地と交通路」が載っています。これを見ると、鉄鉱産地は金海地域に集中していることが分かります。また各地からの交通路も金海へ通じています。河内の秦の民の多くは、この地からやってきた来たと研究者は考えているようです。

秦の民たちを受けいれたヤマト政権側を見ておきましょう
4世紀古墳時代前期の鉄生産技術は、弥生時代と比べてもあまり進化していないと研究者は考えているようです。ところが5世紀になると大きな変化が見られるようになります。
鉄鍛冶工程の復元図(潮見浩1988『図解技術の考古学』より

村上恭通氏は「倭人と鉄の考古学」で、5世紀以後の製鉄・鍛冶技術の発展段階と技術移転を次のように整理しています
  第4段階(4世紀後半~5世紀前半)。
鋳造鍬が流入するとともに、輸入素材(鉄挺)による鍛冶生産が発達。鉄製武具の製作がはじまる。5世紀前半に鉄製鍛冶具が伝播し、生産される(5世紀初めに窯業生産(須恵器)が開始するが、炉の構造・木炭窯など製鉄に不可欠な諸技術の基礎となった。
  第5段階(5世紀後半~6世紀前半)
5世紀後半に製鉄(製錬・精錬)技術が伽耶・百済・慕韓から移転する。大阪府大県、奈良県布留・脇剛。南郷移籍などの大規模な鍛冶集落(精錬・鍛冶。金工)が出現する。専業鍛冶として分業化した。この時期、列島内での製鉄が開始する。
  第6段階(6世紀中葉~7世紀)
岡山県千引カナクロ谷製鉄遺跡など列島各地で、製鉄(鉱石製錬)が本格化し、鍛冶金工技術も発展した。飛鳥時代になると砂鉄製錬が技術移転され、犂耕の普及にともない鋳鉄生産がはじまる。
 4世紀後半から5世紀前半に、鉄挺が輸入され、5世紀前半に鉄製の鍛冶具が伝幡したとします。朝鮮半島から「秦集団」が渡来するのはこの時期です。この時期がターニングポイントになるようで、次のように指摘します。
「鉄器生産や鉄と社会との関わりが大きく揺らぎはじめる画期はⅣ以後である。畿内では新式の甲冑、攻撃用・防御用武器の変革をはじめとして、初期の馬具、金鋼製品など、手工業生産部門で生産体制の拡充と、新たな組織化があった。問題は素材の供給である。
 この時期の畿内における鍛冶の大集団が、生産規模のみの大きさを示すのではなく、生産工程そのものが分化し、精錬はもちろん、製鉄も想定しうる段階にきている。これらが渡来系技術者によって促進されたことはいうまでもない。この時期の朝鮮半島でも鍛冶技術者の階層化が極点に達し、また半島南部地域(伽椰)を例に挙げても、鍛冶上人集団に著しい分派が起こるという。
  この時期、ヤマト朝廷は国力を誇示すべく、武器・武具の充実を図った点は先学の示すとおりであるが、朝鮮半島における工人集団の動向を十分に認識したうえで、目的的に渡来技術者を大規模に受けいれたのがこの時期なのである。
ここからも河内の秦の民は、新羅の南下と伽耶占領が起きた時期以後に、伽耶の金海地域の人々が、「河内王朝」の手引きで倭国にやってきて指定地に入植したことがうかがえます。
古代の鉄生産と渡来人―倭政権の形成と生産組織 | 花田 勝広 |本 | 通販 | Amazon
  以上をまとめたおくと
①伽耶の金海地方で鉱山開発から鉄生成までをおこなっていたのが秦集団であった
②ヤマト政権は、鉄確保のための「現地貿易商社」を組織し、倭からも多くの人員を送り込んでいた。
③ヤマト政権は秦集団を通じて鉄を入手しており、両者の利害関係は一致することが多かった
④新羅の南下で金海地方が占領下に置かれると、多くの秦集団はヤマト政権の手引きで倭国に移る
⑤ヤマト王権は、彼らを管理下に置き、各地に入植させる
⑥河内に入植した秦集団は、先端製鉄技術で農業工具を作り出し、巨大古墳や運河、湿地開発などを行う。
⑦かつて河内湖だった大阪平野の湿地部は、秦集団によって始めて干拓の手が入れられた。
⑧彼らは、平城京への大和川沿いや平安京への淀川沿いに拠点を構え、そこには宗教施設として、寺院や神社が建立された。
⑨秦集団の信仰した八幡・稲荷・白山信仰や虚空蔵・妙見・竃神信仰の宗教施設が周辺に姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄  正史はなぜ河内の秦氏を無視するのか  続秦氏の研究23P

仏像の種類:虚空蔵菩薩とは】知恵の四次元ポケット!空海の生みの親、虚空蔵菩薩の梵字真言など|仏像リンク
若き日の空海が大学をドロップアウトして、信仰の道へと入っていくきっかけは「虚空蔵求聞持法」の修得にあったとされます。それはドロップアウト後の空海の行動からも分かります。空海は、四国の大瀧山や室戸で「虚空蔵求聞持法」の修得修行を開始するのです。この時の空海には、まだ密教の全体像が見えてはいません。その入口に立ったばかりなのです。そこに至るまでの導き手になったのが秦氏出身の僧侶です。虚空蔵求聞持法の伝来に秦氏が深く関わってきたことについては、以前にお話ししました。今回は虚空蔵菩薩信仰を「鉱山開発」の視点から見ていこうと思います。テキストは大和岩雄  虚空蔵菩薩信仰の山の多くはなぜか鉱山  続秦氏の研究363Pです。

「虚空蔵」と名前のつく山と鉱山の関係を一覧したものを見ておきましょう。
虚空蔵尊(徳島県阿南市大竜寺山)水銀鉱.
虚空蔵尊(徳島県名西郡神山町下分焼山寺)含銅黄鉄鉱.
虚空蔵尊(高知県室戸市最御崎寺)金鉱.
虚空蔵山(高知県高岡郡佐川町斗賀野)鉢ケ嶺。マンガン鉱。
虚空蔵山(岡山県浅目郡里庄)銅山がある。
虚空蔵山(佐賀県藤津郡嬉野丹生川)水銀、銀を産する波佐見鉱山がある。
虚空蔵酋獄(鹿児島県串木野市)一斤ケ野金山(黄金、黄鉄鉱、輝銀鉱)
虚空蔵尊(岐阜県大垣市赤坂 金星山明星輪寺)金、銀、銅、水銀。
虚空蔵尊(三重県伊勢市朝熊山 金剛証寺)カンラン石、 ハンレイ岩で、鋼、クロームコバルト、鉄、ニツケルをふくむ山.
虚空蔵尊(岐阜県武儀郡高賀山)銅山ら
虚空蔵山(新潟県北蒲原郡安田町)鉄鉱ヽ砂鉄
虚空蔵尊(福島県河沼郡柳津村円蔵寺)銀山川があり、銅山
虚空蔵山(宮城県伊共郡丸森町大帳)山麓に金山部落
虚空蔵山(山形県米沢市)十日野鉱山
虚空蔵寺(岩手県気仙郡店丹・五葉山)平泉の藤原氏時代、伊達氏時代の最高の金の産地で、平泉の金色堂の黄金は、みなここの産金によるという.
虚空蔵尊(青森県岩木山百沢村)鉄鉱.
虚空蔵宮(金井神社 栃木県下都賀郡金井町)「この楽落を小金井郷といふ。この地名小金の湧き出づる井戸に通ずる語源なり」

  ここからは、虚空蔵山と名のつく山の近くには、鉱山があったことが分かります。
 谷有二氏は、「虚空蔵」と鉱山の例を次のように紹介しています。
「埼玉県秩父黒谷の金山遺跡からも、室町時代とおぼしき一寸人分の銅製虚空蔵書薩が掘り出されて」
「和銅山に、往時のものと推定出来る露天掘り跡が、二本の溝のような形で山麓の和銅沢に向かって急谷に落ち込んでいる。和銅山の東側一帯は金山と呼ばれ、選鉱場、精錬所跡からは銅滓、火皿の大きい朝鮮式煙管(キセル)とともに虚空蔵蔵が掘り出された。現在、附近には五ヵ所八本の坑道が明確に残っているが、全部ノミによる掘進坑で、三〇〇~五〇〇年前のものとみられる。江戸時代はもちろん近くは明治38年まで掘り続けるれた」

「上州武尊山麓薄根川沿いで鉄を採つた金山の一峰を虚空蔵山とする。その虚空蔵菩薩縁起では、平安時代の天長一四年に空海が同地で修行したことに始まるとあるが、この『縁起』そのものは戦国時代の永禄11年に書かれたものなので、歴史は相当古いことがわかる」

「東北の例として、「山形県出羽三山の北に1090mの虚空蔵岳がある。山麓を昔から砂金採掘で知られた立谷沢がぐるりと半周するだけでなく、今も山腹には大中島、東山など金銀銅を出す鉱山が働いて、一ッ目伝承もからむ」

「山形県上山市の西2㎞も355mの虚空蔵山がある」が、上山市の南側の「蔵王連峰山形側は金属地帯で(中略)鉱山が目白押しにならぶ」

「宮城県の栗原町と花山村との境にある1404mの虚空蔵山は、それこそ鉱物の真上に乗つたような感覚だ。福島県の蔵の町として知られる喜多方周辺も、鉱物に恵まれていて、ここにも虚空蔵森(304m)」があり、「六世紀のタタラ遺跡が発見された新潟県笹神付にも虚空蔵山があり砂鉄の存在を示している。岐阜県の名山として有名な高賀三山の一峰瓢岳にも虚空蔵尊が祭られているが、これは山麓の銅山と関連がある」

以上からは、虚空蔵信仰の山は鉱山であったようです。別の見方をすると、鉱山がある山が「虚空蔵菩山」と呼ばれるようになったということかもしれません。それには、どんなプロセスがあったのでしょうか?
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 唵のブログ
佐野賢治は「虚空蔵菩薩信仰の研究」で、虚空蔵信仰と鉱山の関係を次のように指摘します。     
「山形県南陽市の吉野鉱山などは『白鷹の虚空蔵さま』の南麓流域にあり、虚空蔵信仰と鉱山の関係を物語る」
「白鷹山北麓の山辺町作谷沢の諏訪神社本殿内には「一つ目小僧」の絵像か描かれ、この地区に炭焼藤太、小野小町伝説、鉱物・鉱山関係の地名や鉄津・鉄製懸仏が残ることからも、古代における産鉄の地であったことは確かであり、虚空蔵信仰関係では作谷沢の館野には虚空蔵山 、西黒森山の麓には『虚空蔵風穴』があり、地中から冷風が吹き出している。また、桜地蔵と呼ばれる岩には虚空蔵菩薩と考えられる磨崖仏が彫られている。このように「白鷹虚空蔵さま」山麓は鉱山地帯であり、その伝承を現在まで濃厚に伝えている鉱山に関係する伝承の豊富な地区である」

そして次のように指摘します
「全国の虚空蔵関係寺院、虚空蔵菩薩像の分析から虚空蔵信仰を主に荷担したのは当山派修験」
虚空蔵菩薩信仰の研究―日本的仏教受容と仏教民俗学 | 佐野 賢治 |本 | 通販 | Amazon

 ここからは、鉱山開発を担った集団が信仰したのが虚空蔵菩薩であり、その信仰の中心には修験者たちがいたというのです。修験者の当山派は醍醐寺を中心とした真言宗の寺院です。宗派の祖は弘法人師空海で、中興の祖は理源大師で、二人ともに讃岐出身とされます。四国には虚空蔵菩薩を安置する寺院も多くあり、求聞持法の信仰者が多いことは以前にお話ししました。四国の空海伝承に登場する虚空蔵像は、「明星が光の中から湧きたった」「明星が虚空蔵像となってあらわれた」とするのものが多いようです。

 空海の高弟で讃岐秦氏出身の道昌が虚空蔵求持法の修得のため百日参籠した時「明星天子来顕」と「法輪寺縁起」は記します。この「明星」は、弘法大師が土佐国の室戸岬で虚空蔵求聞持法を行じていた時、口の中に入ってきたというものと同じでしょう。 虚空蔵求聞持法と明星とは、関係がありそうです
星の信仰―妙見・虚空蔵 | 賢治, 佐野 |本 | 通販 | Amazon

星神信仰については、次の2つの流れがあるようです
1密教的系統(尊星法=天台、北斗法=真吾)
 ①北斗星を祀る密教系の法
 ②①から派生した妙見信仰
 ③虚空蔵求聞持法に拠る虚空蔵信仰から派生した明星信仰
2陰陽道系統(安倍晴明→土御門神道)

このうち秦の民が信仰したのは、もともとは③の星神信仰だったようです。それが後世になると②の妙見信仰と混淆していきます。その結果、秦氏の星神信仰は妙見信仰になっていったようです。秦氏の妙見信仰と星神信仰を見ておきましょう。
妙見信仰 | 真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市

それでは妙見信仰とは、いつ誰が伝来したのでしょうか
研究者は次のように指摘します。
「妙見信仰がわが国に伝来したのは、六~七世紀の中頃と考えられる。伝来当初の妙見信仰は畿内の南河内地方など帰化人と関係深い地方で信仰されていたようであるが、次第に京畿内の大衆間に深く浸透していった」

妙見信仰は朝鮮半島からの渡来人によって、仏教伝来と同じ時期にもたらされたようです。「帰化人」とありますが、もっと具体的に云うと、秦の民になるようです。
妙見信仰の史的考察 | 中西 用康 |本 | 通販 | Amazon

 秦氏の妙見信仰を考えるときに取り上げられるのが、河内国茨田部の秦氏の祀る「細(星)屋神社」(寝屋川市茶町・太秦)です。
 この神社は、『延喜式』神名帳に載る茨田郡細屋神社に比定される神社です。しかし、今は小さな祠となって近くの八幡神社の境内に移されています。
星屋神社


泰氏の子孫と称する寝屋川市の西島家文書には「星屋」と称していることからも、渡来した秦氏が天体崇拝思想から、星神を祀ったものと研究者は考えているようです。
 この神社はもともとは「星屋神社」で、妙見信仰による神社だったようです。神社の境内にある案内板にも次のように記されています。
「祭神は秦村の記録に、天神・星屋・星天宮と記され、先祖からの天体崇拝の風俗をここに伝え、星を祭ったと考えられます」

なぜ、星を祭る神社が秦村にあるのでしょうか。その理山は、古代の鍛冶屋と星辰信仰は深い関係にありました。この地にやってきた秦氏が鍛冶や鋳造業に関わる先端技術者集団で、彼らが信仰していたのが星神だったと考えられます。
細屋神社 : 神社参詣 - 大阪府 - 寝屋川市 : 御中主 - 社寺探訪
移築される前の細屋神社(現在は近くの八幡神社に移築)

現在のこの地区の産土神は八幡神社で、近くに大きな本殿や拝殿が鎮座しています。しかし、もとともはこの地は、秦氏の拠点でその氏神として建立されていたのは細屋(星屋)神社だったようです。現在に至る変遷を考えて見ましょう。
①この地に朝鮮半島からやって来た秦の人々は、当時の先端産業である鍛冶関係であった。
②鉱山・鍛冶関係者は星神を祀つていたから、この地に星(細)屋神社を建立した
③後代にこの地の住民は農民化し、それに伴って農民が信仰する八幡神社を産上神にした
④そのため茨田郡の式内社の五社に入っていたのに、八幡神社の摂社になり細屋神社と呼ばれるようになった

『河内名所図会』には、後鳥羽上阜が諸州の名匠を徴して刀剣を造らせたとき、秦村の鍛冶匠秦行綱が、第一に選ばれたとあります。秦村の字鍛冶屋垣内には、秦行綱宅址があります。中世には刀鍛冶へと発展していたことが分かります。
 細屋(星屋・星天宮)神社の伝承には、境内の樹を伐り草を刈ると腹痛をおこすが、秦村・太泰付(現在の寝屋川市大字秦・大字太秦)の人だけには障りがないといわれてきたようです。これもこの神社が泰氏系の神社であったことを示しているようです。秦氏と星信仰と妙見・虚空蔵信仰の関係がかすかに見えてきました。もともとの星(細)屋神社は、鍛冶関係の秦の民が氏神として祀っていた「妙見神」であったことを押さえておきましょう。
番外編】妙見寺(板東妙見信仰の祖) : 大江戸写真館(霊場巡礼編)
妙見信仰と鉱山・鍛冶業とは、どんな関係があったのでしょうか?
鉱山師は妙見=北極星で、天から金属を降らせたと信じていたようです。いくつかの例を挙げてみましょう。
①「金の島=佐渡」の金北山の隣に妙見山
②甲斐の武田氏の軍資金の半ばをまかなった大菩薩山域の妙見ノ頭は、そのものが金山の守護神
③新潟県栃尾市と長岡市境にある戊辰戦争古戦場の榎峠を、妙見山と呼びますが、東には金倉山、半蔵金山がつらなっていています。それは金属の存在を暗示しています。

西日本の岡山県の妙見山を見てみましょう。
日本霊異記には、千年前の鉱夫の悲惨な姿を次のように記します。
「美作国英田部内二官ノ鉄ヲ取ル山有り」
「暗キ穴二居テ、個へ恨ム。生長シ時ヨリ今ロニ至ルマデ、コノ哀ミニ過ギタルハ無シ」
このあたりは鉄が掘られなくなった後も銅、水銀を産するので鉱毒災害も起きていたことがうかがえます。
 岡山市から旭川をさかのぼった赤磐郡金川(御津町)近くにも妙見山があります。ここでは水銀、銅が採れました。苅田、軽部の金属を示すカリ、カル地名と山口吹屋が、それに妙見山があります。また、吉備地方には温羅(カラ)と呼ばれた鬼が左目に矢を受けてたおされる伝承が長く語り伝えられている。これも「一つ目」の変形パターンかも知れません。
 兵庫県養父郡の妙見山(1142m)一帯には金をとった跡があります。その南麓には今もアンチモン等の鉱物が採れて足坂、中瀬などの鉱山が集まり、金山峠は、その昔の運搬路を示すようです。こののあたりも古くは軽部郷と呼ばれていました。
 豊臣家の台所をまかなった金は、大阪府豊能郡能勢町一帯から採られました。今でも妙見鉱山には磁鉄鉱床がありますが、ここの歴史は古く多田源氏の祖・源義仲が砂金を掘って源氏の基礎を築いたといわれます。ここにも蛇の伝説、行基にからまる昆陽池の一ツ目魚伝承、妙見山(662m)がそろってあります。
 どこも鉱山関係者の信仰や言い伝えですが、妙見信仰を持った修験者の影が見えます。以上の記述からも、妙見信仰は
①村に居住する鍛冶職の「小鍛冶」
②鉱山の採鉱、金属精錬の「大鍛冶」
と関係があることがうかがえます。秦の民が信仰する虚空蔵信仰と妙見信仰は結びついていたのは、秦の民の職業と関係しているからのようです。
北斗七星: Fractal Underground Studio
まとめてみると
①朝鮮半島からの渡来した秦氏集団は、最先端産業である鉱山・鍛冶の職人集団であった
②当時の鉱山集団がギルド神のように信仰したのが星神である
③彼らは妙見=北極星を、妙見神が天から金属を降らせたと信じ信仰した。
④妙見信仰と明星信仰は混淆しながら虚空蔵信仰へと発展していく。
⑤修験者たちは虚空蔵信仰のために、全国の山々に入り修行を行う者が出てくる。
⑥この修行と鉱山発見・開発は一体化して行われることになる
⑦こうして開発された鉱山には、ギルド神のように虚空蔵菩薩が祀られ、その山は虚空蔵山と呼ばれることになる。

このようにしてみると四国の行場と云われる霊山にも鉱山が多かった理由が分かるような気もしてきます。そして、空海の四国での修行場にも丹生(水銀)鉱山との関係がうかがえることは以前にお話ししました。その媒介をした集団が、空海に虚空蔵求聞持法を伝えた秦氏ではないかというのです。
渡来系の秦集団は、戸籍に登録されているだけでも10万人を越える大集団です。その中には支配者としての秦氏と、「秦の民」「秦人」と呼ばれた、さまざまな技術をもつた工人集団がいました。彼らが信仰したのが、虚空蔵信仰・妙見信仰・竃神信仰でした。そして、この信仰は主に一般の定着農民の信仰ではなく、農民らから蔑視の目で見られ差別されていた非農民たちの信仰でもありました。一方、秦氏の信仰した八幡神・稲荷神・白山神などは、周囲の定着農民も信仰するようになって大衆化します。しかし、もともとはこれらも秦氏・秦の民が祭祀する神の信仰で、虚空蔵・妙見・竃神信仰と重なる信仰であったと研究者は考えているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
      大和岩雄  虚空蔵菩薩信仰の山の多くはなぜか鉱山  続秦氏の研究363P
関連記事

 空海には謎の行動がいくつかあります。そのひとつが帰国後の九州滞在です。
弘法大師・空海は下関市筋が浜町に帰国上陸した! | 日本の歴史と日本人のルーツ

空海は806年8月に明州の港を出帆しますが、いつ九州へ着いたのかを記す根本記録はないようです。10月23日に、自分の留学成果を報告した「御請来目録」を宮廷に提出しているので、それ以前に帰国したことはまちがいありません。ここで、多くの空海伝は入京を翌年の秋としています。とすれば九州に1年いたことになります。この根拠は大和国添上郡の虚空蔵寺について、「正倉院文書抄」が大同二年頃に空海が建立したと書かれているからです。
空海―生涯とその周辺 (歴史文化セレクション) | 高木 〓元 |本 | 通販 | Amazon

しかし、この文書については、高野山大学の学長であつた高木伸元は、『空海―生涯とその周辺―』の中で、この記述は後世の偽作だと論証しています。そして空海が入京したのは、大同四年(809)4月12日の嵯峨天皇の即位後のことであるとします。そうだとすると、空海は2年半も九州に居たことになります。
 どうして、空海は九州に留まったのでしょうか。あるいは留まらざる得なかったのでしょうか。
この答えは、簡単に出せます。入京することが出来なかったのです。空海は長期の留学生として派遣されています。阿倍仲麻呂の例のように何十年もの留学生活が課せられていたはずです。それを僅かな期間で、独断で帰国しています。監督官庁からすれば「敵前逃亡」的な行動です。空海は、そのために自分の持ち帰ったものや書物などの目録を提出して、成果を懸命に示そうとしています。しかし、それが宮廷内部で理解されるようになるまでに時間が必要だったということです。そこには最澄の「援護射撃」もあったようです。まさに九州での空海は、査問委員会のまな板の上に載せられたような立場だったと私は考えています。
スポット | たがわネットDB
香春神社
それでは、その間に空海は何をしていたのでしょうか?
その行動はまったく分からないようです。研究者は、二年半の九州滞在中に、宇佐や香春の地など、秦氏関係地をたずねて、その地にしばらく居たのではないかと推測します。この期間が結果として秦氏との関係を深めることにつながったと云うのです。
伊能忠敬が訪れた香春神社がある香春町の街並み。後方は香春岳の一ノ岳 写真|【西日本新聞ニュース】
香春岳のふもとに鎮座する香春神社(秦氏の氏神)
「空海=宇佐・香春滞在説」を、裏付けるものはあるのでしょうか?
①秦氏出自の勤操は、空海が唐に行く前から、虚空蔵求聞持法を通してかかわっていた
②空海は故郷の讃岐でも秦氏と親しかった
③豊前の「秦王国」には虚空蔵菩薩信仰の虚空蔵寺があった。
④虚空蔵寺関係者や、八幡宮祭祀の秦氏系の人々は、唐からの帰国僧の空海の話を聞こうとして、宇佐へ呼んだか、空海自身が八幡宮や虚空蔵寺へ出向いた(推理)
⑤最澄は入唐前に香春岳に登り、渡海の平安を願ている。最澄が行ったという香春へ、空海も出向いた(推理)
⑥「弘法大師年譜』巻之上には、空海は航海の安全を祈願して香春神社・宇佐八幡官に参拝し、「賀春明神」が「聖人に随いて共に入唐し護持せん」と託宣したと記す。
⑦空海は虚空蔵信仰の僧であった。
⑧和泉国槙尾山寺から高雄山寺へ入寺した空海は、「宇佐八幡大神の御影を高雄寺(高雄山神護寺)に迎えている」と書いている。虚空蔵寺のある宇佐八幡宮に空海がいたことを暗示している。


空海に虚空蔵求聞持法を教えたといわれている勤操は、空海の師と大和氏は考えています。そして、次のように推測します。
「勤操が空海帰国直後から叡山を離れ、最澄の叡山に戻るように云われても、戻らなかったのは九州の空海に会うためとみられる。延暦年間、勤操は槇尾寺で法華経を講じていたというから九州から上京した空海を棋尾山寺に入れたのも、勤操であろう。」

 この期間に勤操は「遊行中」で所在不明となっている。唐から帰国して九州にいた空海に会って、虚空蔵求聞持法についての新知識を聞いたりしていたのではないか

「空海が帰国し、槇尾山寺から高(鷹)尾山寺に移たのも、秦氏出身の勤操をぬきには考えられない」

以上のような「状況証拠」を積み重ねて、2年半の九州滞在中に空海は師である勤操と連絡をとりながら、八幡宮の虚空蔵寺や香春岳をたずねたのではないかと大和氏は推察します。

虚空蔵寺跡

  虚空蔵寺は、辛嶋氏の本拠地辛嶋郷(宇佐地方)に7世紀末に創建された古代寺院で、壮大な 法隆寺式伽藍を誇ったようです。その別当には、英彦山の第一窟(般若窟)に篭って修行したシャーマン法蓮が任じられます。宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺は、この虚空蔵寺を改名したものです。秦氏には、蚕神や漆工職祖神として虚空蔵菩薩を敬う職能神の信仰があったようです。
法蓮は新羅の弥勒信仰の流れを引く花郎(ふぁらん)とも言われます。
彼は7世紀半ば(670頃)に、飛鳥の法興寺で道昭に玄奘系の法相(唯識)を学びます。そして、「秦王国」の
霊山香春山では日想観(太陽の観想法)を修し、医術(巫術)に長じていたとされます。
 このような秦氏の拠点と宗教施設などで、
空海は九州での2年半の滞在を過ごしたのではないか。その中で今まで以上に、秦氏との関係を深めます。それを受けて、秦氏は一族を挙げて、若き空海を世に送り出すための支援体制を形成してきます。その支援体制の指揮をとったのが空海の師・勤操ということになるのでしょうか。大和氏の描くシナリオは、こんな所ではないでしょうか。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係 続秦氏の研究」

狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席

前回は空海と丹生(水銀)との関係を見てきました。その中で松田壽男は次のように述べていました。
「水銀が真言宗で重視され、その知識がこの一派に伝わっていたことは、後の真言修験に関係する重大な問題である。このことを前提としない限り、例えば即身仏の問題さえ、とうてい解決できないであろう」

 今回はこの課題を受けて、空海と錬丹術について見ていこうと思います。テキストは「大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係 続秦氏の研究」です。
ミイラ信仰の研究 古代化学からの投影(内藤正敏) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 内藤正敏は「ミイラ信仰の研究 古代化学からの投影―』の中で、空海を錬丹術者と位置づけています。
すぐには信じられないので、眉に唾を付けながら読んでいきます。
内藤氏は応用化学を学んだ専門家なので、煉丹術の化学反応を方程式を駆使してくわしく述べます。そして『抱朴子』巻四金丹編の
「世人は神丹を信じないで草木の業を信じている。草木の薬は埋めればすぐ腐り、煮れば爛(ただ)れ、焼けばすぐ焦げる。自らを生かし得ぬ薬が、どうして人を生かし得よう」

という文章を示して「漢方薬が多くつかう草根木皮でできている薬は効きめがなく、鉱物性の薬品を上等のものと考えている」と指摘します。当時の民間医術で用いるのは「草根木皮でできている薬」ですが、それに対して「鉱物性の薬品」は特殊技術なしには作れない業です。その技術を古代人は「巫術」とみていました。これを『日本書紀』は「巫術」と書いています。
 続いて、内藤正敏は、空海の「巫術」について次のように記します。
「丹薬はこれを焼けば焼くほど、変化はいよいよ妙である。黄金は火に入れて百煉しても消えず、是を地中に埋めても永遠に朽ちない。この二薬を服して身体を錬るから、人は不老不死にできるのだ」と「金丹編」には記される。仙薬の中でも丹つまり水銀化合物と金を中心に考えている。その理由は、金はさびることもなく、熱で熔かしてもまた金になり、永久に変化しない。一方、水銀は熱や化学反応によっていろいろと変化し、しかも、多くの金属とアマルガムをつくって、他の金属を熔かす作用がある。つまり、金を不変、水銀を変化の象徴として考え、これに各種の物質を高温で作用させて、人工的に金や、もっと霊力のある神仙の薬をつくろうとしたのである。

 このような視点で空海の書いた『三教指帰』や『性霊集』を読んでみると、空海は確実に中国式の煉丹術を知っていたことがわかった。あの水銀を中心に数々の毒物を飲む中国道教の神仙術を知っていたのである。そればかりか、空海自身も水銀系の丹薬を飲んでいたらしい。今まで「三教指帰」や「性霊集」について論じた学者は多い。しかし、そうしたことに気づかなかったのは、これらの書物を単に、宗教・哲学・思想という面からしか見なかったからであろう」
弘法大師空海『聾瞽指帰』特別展示のお知らせ... - 高野山 金剛峯寺 Koyasan Kongobuji | Facebook
「三教指帰」(題名は「聾瞽指帰」と書かれている)
 
内藤は、「三教指帰」や「性霊集」を「化学書」として読むと、空海の「化学者・薬学者」の面が見えてくると云うのです。その例として挙げるのが「三教指帰」です。この書は、空海が渡唐前の24歳の時に大学をドロップアウトして、立身出世の道を捨て仏道を歩むことを決意するまでの心の遍歴が戯曲ふうに書かれています。しかし、これを化学書として読むと、丹薬の重要性が次のように記されている所があります。

白金・黄金は乾坤(けんしん)の至精、神丹・錬丹は薬中の霊物なり。服餌(ぶくじ)するに方有り、合造(かつさう)するに術有り。一家成ること得つれば門合(もんこぞ)つて空を凌ぐ。一朱僅かに服すれば、白日に漢に昇る。

「白金・黄金は水銀と金です。乾坤は天地陰陽のこと、神丹・煉丹は『抱朴子」に『黄帝九鼎神丹経』の丹薬として紹介されています。神丹は一匙ずつ飲めば百日で仙人になれ、煉丹は十日間で仙人になれ、禾(水銀)をまぜて火にかけると黄金になるという丹薬です。
 一家で誰かがその薬をつくることに成功すれば家族全部が仙人になれる。仙人になる描写を白日に漢(天のこと)に昇ると締めくくっています。
 ここからは空海が『抱朴子』などの道教教典から、神仙術、煉丹術の知識を、中国に渡る以前に、はっきり理解していたことを示していると研究者は指摘します。さらに詳細な記述や熱の入れ方は、空海自身が思想的には仏教を肯定して、道教を否定しようとしながら、体質的には道教の神仙術、煉丹術に異常な興味を示していたことがうかがえると記します。
薬用原料採集補完記録02「錬金術と錬丹術」- 海福雑貨通販部

それでは、これを空海が表に出さなかったのはどうしてでしょうか。
これについては、次のように説明します
「煉丹術の全盛期の唐の長安で、すでに入唐前に強い興味を示していた煉丹術に対して、知識欲旺盛な空海が関心を示さなかったはずはない。ただ、日本では真言密教を開宗するためには、おもてむきに発表するわけにはいかなかったただけだと思うのだ」
性霊集〈巻第二、第三、第五、第六/第七、第八、第十〉 文化遺産オンライン
性霊集
空海の死に至る病気について、内藤氏はどのように見ているのでしょうか?『性霊集』の補闘抄には、次のようにあります。
巻第九「大僧都空海、疾(やまい)に罹って上表して職を辞する奏状」に、天長八年庚辰(かのえたつ)今、去る月の薫日(つもごりの日)に悪瘡躰(あくそうてい)に起って吉相現せず。両檻夢に在り、三泉忽ちに至る。」

ここには、五月の末に「悪麿」が体にできて直る見込みがなく、死期が近づいていることを述べ、淳和天皇に大僧都の職を辞任して白山の身になりたいと願い出たことが記されています。この悪瘡は『大師御行状集記』では「癖瘡(ようそう)」、『弘法大師年譜』には「?恙」と記されます。悪性のデキモノです。空海は晩年には悪性の皮膚病で苦しんでいたようです。

 大僧都辞任の奉状を提出した翌年の天長9年の11月12日から空海は、穀断を始めたことが「御遺告」には記されます。空海は砒素とか水銀などの有毒薬物を悪瘡治療のために服用していたのではないかと研究者は考えているようです。さらに悪瘡ができた原因も、水銀とか砒素などの中毒ではなかったかと云うのです。そして、次のように続けます。
「私は空海の悪瘡の話を読むたびに、砒素や水銀の入った丹薬を飲みすぎて、高熱を出し背中にデキモノができて中毒死した唐の皇帝・宣宗の話を思い出す。そして、空海が死ぬ前年に書いた「陀羅尼の秘法といふは方に依って薬を合せ、服食して病を除くが如し……」という『性霊集』の一節も、実は空海自身の姿を表わしているように思えてしかたがない。」

以上のように、内藤正敏は、空海と丹生(水銀)が強く結びついていたことを指摘します。
錬金術 仙術と科学の間 中公文庫(吉田光邦) / こもれび書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

吉田光邦は「錬金術~仙術と科学の間」で丹生(水銀)の変化について次のように述べています
変化の原因はすべて熱によるものばかりだ。火つまり熱によって、硫化水銀の赤色が、白く輝く水銀となり、ときには酸化して黒くなることも大切な変化と考えられていた。赤は火の色に通じる。そこで火による物質の変化の重要さが、神秘的なものとして認識されることになる。水銀を中心とした色の変化を火の生成や消滅と対応させてゆけば、いっそう複雑な変化の様式を考えることができる。『参同契』のなかに記される錬丹術は、こうしたものである」

煉丹術錬金術違い 錬金術 – Brzhk

鉱物による薬物を記す『神農本草経』(中国の医薬の祖といわれる五世紀中頃の陶引景の著)には、上薬とされる鉱物の薬27種が挙げられています。これらは錬丹術で使われるなじみの薬ばかりです。その中で、不死になるもは水銀だけです。他のものでは効果が見られないと、当時の錬丹術師たちは考えていたようです。その水銀の供給者が秦氏・秦の民だったとしておきましょう。

抱朴子 内篇・外篇 1-2巻 (全3冊揃い)(葛洪 著 ; 本田済 訳註) / ぶっくいん高知 古書部 /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

東晋の道教思想家葛洪(かっこう)は「抱朴子」の中では次のように述べています。
三斤の辰砂〔真丹〕と一片の蜜〔白蜜〕を混合して、全部を大麻の実〔麻子〕の大きさの九薬〔丸〕を得るために日光で乾燥すれば、 一年のうちに取れた十粒の九薬は白髪に黒さを回復させ、腐った歯をふたたび生ぜじめるであろう、そして一年以上も続ければ人は不死になるのだ。

「辰砂」は「火に投ずると水銀を造り出す」「死による再生の秘儀」を暗示しているとされています。「白」には、死と再生の意味があったようです。そして「赤」には「不老不死」の常世イメージがあったようです。
丹道篇 外丹 外丹原稱煉丹術,為避免其與內丹相混淆,改稱外丹。 這是以爐鼎燒煉礦物類藥物,製取“長生不死” 仙丹的一種方術。  丹砂(即硫化汞)和汞(水銀)是煉丹的重要原料。 我國的外丹術最遲在秦代已經出現。 道教創立後,道士從方士手裏繼承了煉丹 ...
天工開物に描かれた錬金術と煉丹術

 さらに葛洪は錬金術の理念を、次のように記します
いったい丹砂の性質は、焼けば焼くほど恒久的になり、変化すればするほど霊妙になる。黄金は火の中に入れ、くりかえし精錬しても減少せず、地中に埋めても永久に腐らない。このふたつの物を服用し、人の身体を錬成する。だから人を不老不死にする。

錬金術は錬丹術でもあります。金と丹(丹生)を活用する術だからです。しかし金だけでなく銀・鉛も使います。9世紀の道士孟要甫が残した『金丹秘要参同録』は「修丹の十」には、「坩堝(るつぼ)と炉の制作の規則を知り、そのうえで龍(水銀)と虎(鉛)の法則の学を理解し、鉛と禾(水銀)のもつ究極的な真実の不思議さを認識しなければならない」と記されています。
 ここからは彼らが一定の科学知識と実験精神をもっていたことがうかがえます。そして、丹生(水銀)は錬金術にとって欠かす事の出来ない必需品であったことが分かります。
老子とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や思想、老子の教えを学べるおすすめ書籍も紹介!】 - レキシル[Rekisiru]

空海は、このような当時の最先端技術である錬金術や錬丹術の知識を習得するだけでなく、実践していたと研究者は考えているようです。
そして、丹生に深くかかわっていたのは秦氏集団です。アマルガム鍍金法を用いて水銀を大量に生産した技術を持っていたのは、秦氏・秦の民です。空海の虚空蔵求聞持法の師は、伊勢水銀にかかわる泰氏出身の勤操でした。
須恵器「はそう」考

丹生(水銀)は薬として用いられましたが、空海は単なる薬として用いたのではないことは、彼が虚空蔵求聞持法を習得した僧であったことからうかがえます。空海も当時の錬金術という最先端技術の虜になっていたのかもしれません。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究

丹生明神と狩場明神
重要文化財 丹生明神像・狩場明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵
 
 『今昔物語集』(巻十一)(嘉承元年(1106年成立)には、空海の高野山開山のきっかけが記されています。そこには弘仁七年(816)4月ごろに空海が高野山に登って、高野の地主神である丹生明神に会ったことから始まります。これは康保五年(968年成立)の『金剛峯寺建立修行縁起」がタネ種のようです。

高野山丹生明神社

ここで注目したいのが、高野の領地は丹生明神の化身の山人から譲渡さたということです。つまり高野山の元々の地主神は丹生明神だったことになります。丹生明神は、丹(水銀)と深く関わる神です。「高野山=丹生明神=水銀」という構図が見えてきます。今回は、これを追いかけて見ます。テキストは、前回に続いて 「大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究」です。
丹生大師(丹生山神宮寺)を訪れた目的は愛宕山(多気郡多気町丹生) – 神宮巡々2
三重県の丹生大師(丹生山神宮寺)

 丹生山の神宮寺は、宝亀五年(774)に空海に虚牢蔵求聞持法を伝えた秦氏出身の勤操(ごんぞう)が開山した寺です。
丹生山の神宮寺は弘法人師の大師をとって「丹生大師」と呼ばれています。これは勤操が創建し、その後に空海がこの寺の緒堂を整備し、井戸は空海が掘ったという伝承からきているようです。このような伝承を生み出したのは、丹生に関わりのある伊勢の秦の民だと研究者は考えているようです。伊勢の丹生伝承は、勤操―空海―虚空蔵求聞持法が結びついてきます。

水銀の里 丹生を歩く|イベント詳細|生涯学習センター|三重県総合文化センター

 弘法大師が掘ったという井戸について、松田壽男は「水銀掘りの堅杭の名残」とします。
 神宮寺には、水銀の蒸溜に用いた釜と木製の永砂器が保存されているそうです。神仏分離までは一体だった隣の丹生神社の神体は、鉱山用の槌と鑿(のみ)とされます。さらに金山籠(かなやまかご)という鉱石搬出用の器具も残されています。これらは水銀掘りに使われたものと研究者は考えているようです。
丹生大師 三重県多気郡
 松田壽男氏は、丹生神社の神宮寺所蔵の蒸溜釜は、古墳時代の「はそう」と呼ばれた須恵器とまったく同じだと指摘します。壺形で上部が大きく開き、腹部に小孔があります。この形は神官寺所蔵の蒸溜釜と比べると、「構造がまったく同様で、古墳時代の日本人が朱砂から水銀を精錬するために用いたと見てさしつかえない」とします。

須恵器「はそう」考
須恵器「はそう」

 ここからは、この地では、古くから朱砂採取が行われていたことが分かります。秦集団の丹生開発のようすが見えてきます。

丹生水銀鉱跡 - たまにはぼそっと

若き日の空海は、何のために辺路修行をおこなったのでしょうか?
 それは虚空蔵求聞持法のためだというのが一般的な答えでしょう。
これに対して、修行と同時にラサーヤナ=霊薬=煉丹=錬金術を修するため、あるいはその素材を探し集めるためであったと考える研究者もいます。例えば空海が登った山はすべて、水銀・銅・金・銀・硫化鉄・アンチモン・鉛・亜鉛を産出するというのです。
 また空海が修行を行ったとされる室戸岬の洞窟(御厨洞・神明窟)の上の山には二十四番札所最御前寺があります。ここには虚空蔵菩薩が安置され、求聞持堂があります。そして周辺には
①畑山の宝加勝鉱山
②東川の東川鉱山、大西鉱山、奈半利鉱山
があり、金・銀・鋼・硫化鉄・亜炭を産していました。これらの鉱山は旧丹生郷にあると研究者は指摘します。
錬金術と錬丹術の歴史 |
錬丹(金)術
 佐藤任氏は、空海が錬丹(金)術に強い関心をもっていたとして、次のように記します。
①空海死後ただちに編纂された「空海僧都伝」に丹生神の記述があること、
②高野山中腹の天野丹生社が存在していたこと、
③高野山が銅を産出する地質であったこと
これらの事実から、空海の高野山の選択肢に、鉱脈・鉱山の視点があったとみてよいと思われる。もしその後の高野山系に丹生(水銀・朱砂)や鉱物の関心がまったくなかったなら、人定伝説や即身成仏伝説の形成、その後の真言修験者の即身成仏=ミイラ化などの実践は起こらなかったであろう」

として、空海は渡唐して錬丹術を学んで来たこと。鉱脈・鉱山開発の視点から高野山が選ばれたと記します。
 松田壽男も次のように記します。
空海が水銀に関する深い知識をもっていたことを認めないと、水銀が真言宗で重視され、その知識がこの一派に伝わっていたことや、空海の即身仏の問題さえ、とうてい解決できないであろう」

本地垂迹資料便覧

内藤正敏は『ミイラ信仰の研究』の「空海と錬丹術」の中で、次のような説を展開します
空海が僧になる前の24歳の時に書いた『三教指帰』は、仏教・儒教・道教の三教のうち、仏教を積極的に評価し、儒教・道教を批判しています。が、道教については儒教より関心をもっていたようです。そして、空海は『抱朴子」などの道教教典を熟読し、煉金(丹)術や神仙術の知識を、中国に渡る以前にすでに理解していたとします。
確かに、三教指帰では丹薬の重要性を説き、「白金・黄金は乾坤の至精、神丹・錬丹は葉中の霊物なり」と空海は書いています。白金は水銀、黄金は金です。神丹・錬丹は水銀を火にかけて作った丹薬です。
ミイラ信仰の研究 : 古代化学からの投影(内藤正敏 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

これを補うように内藤正敏は、空海が唐に渡った時代のことについて次のように記します
「空海が中国(唐)にいる頃は、道教の煉丹術がもっとも流行した時代であった。ちょうど空海が恵果阿闍梨から真言密教の奥義を伝授されている時、第十二代の店の皇帝・憲宗は丹薬に熱中して、その副作用で高熱を発して、ノドがやけるような苦しみの末に死亡している。私は煉丹術の全盛期の唐で、すでに入唐前に強い興味を示していた煉丹術に対して、知識欲旺盛な空海が関心を示さなかったはずはないと思う。ただ、日本で真言密教を開宗するためには、おもてむきに発表するわけにはいかなかっただけだと思うのだ
 
これらを積み重ねると、自ずから空海が丹生の産地の高野山に本拠地を置いた理由のひとつが見えてくるような気もします。
水銀と丹生神社の関係図
松田壽男氏は「丹生の研究」に「高野山の開基と丹生明神」と題する次のような文章を載せています。
   金剛峯寺から引返して、道を高野山のメーンストリートにとり、東に歩いてきた私は、 一の橋かられ地をぬけて、奥の院の大師霊廟へと進んだ。香花に包まれた空海の墓。その傍らにも丹生・高野明神の祠があることは、すでに紹介ずみである。私はさらに、この聖僧の墓地の裏側に廻り、摩尼山の山裾にとりついてみた。こうして、奥の院から高野山の東を限る摩尼山の画面にかけての数地点で採収した試料からも○・○〇五%という高品位の水銀が検出されて、私を驚喜させた。科学的な裏付けは、西端の弁天岳だけではなかった。少くとも弁天岳から摩尼山までの高野山の主体部、すなわち空海の「結界七里」の霊域は、すべて水銀鉱床と判定され、鉱産分布の地図に新たにマークをしなければならないことにになったのである。

 ここからは高野山の霊域の全体が「水銀の鉱徴を示す土壌が露頭」していて、「全山がそっくり水銀鉱床の上に乗っている」ことが分かります。それを知った上で空海は、ここを選んだようです。逆に言えば、空海が丹生(水銀)に関心がなかったら、ここを選んではなかったかもしれません。
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席

  空海と丹生(水銀)の関係は深そうです。それは、同時に秦氏との関係を意味すると研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

空海の出身地の讃岐の西隣は伊予です。ここにも、秦氏が多く住んでいたと大和岩雄氏は「続秦氏の研究」に記します。伊予の秦氏の存在を、どのように「実証」していくのか見ていくことにします。
最初に、大岩氏が注目するのは大洲市の出石山です。
HPTIMAGE

この山は地図で見ると分かるように、九州に向けて突きだしたの付け根の位置に当たる所にあります。頂上からは瀬戸内海を行き交う船が見える眺望を持ちます。古代以来、九州と豊後灘を経ての海上交通の要衝の地であったことがうかがえる山です。豊後を基盤とした秦氏も、この山を目指して豊後水道を渡ってきたのかも知れません。この山の頂上には出石寺があります。
愛媛 南予にきさいや! 長浜の出石寺に行ってきました。

 大和氏は「日本歴史地名大系39」『愛媛県の地名』の出石寺(しゅっせきじ)に関する記述を次のように引用します。
「喜多郡と八幡浜市との境、標高812mの出石山頂上にある。金山と号し、(中略)・・大同2年(807)に空海が護摩を修し、当時の山号雲峰山を金山に改めたと伝えられている。「続日本後紀」によれは、空海か四国で修行したのは阿波国の大滝之岳と土佐国の室戸岬であるが、空海自らが記した「三教指帰』には『或登金巌而或跨石峰』とあって、金巌(かねのだけ)に加爾乃太気、石峰に伊志都知能人気と訓じてあるので、金巌は金山出石寺をさすものと解され、空海は金山出石寺と石鎚山に登ったとされている」

 ここには、現在の出石山が石鎚と同様に空海修行の地であったと記されます。空海は、大滝山と足摺で修行したことは確実視されますが、その他はよく分かりません。後世の空海伝説の中で、修行地がどんどん増えて、今ではほとんどの札所が空海建立になっています。その中で、出石山も空海修行地だと考える人たちはいるようです。
金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル

 佐藤任氏はその一人で、次のように述べます。
「金巌(かねのだけ)は、この出石山(金山出石寺)か、吉野の金峯山のどちらかと考えられている。近年では、大和の金峯山とみる説が多いというが、同じ文脈に伊予の石鎚山とみなされている石峯が出ているから、伊予の出石山とみることも決して不可能ではない。しかも、どちらも金・銀・銅を産する山である」

 もちろん『三教指帰』の「金巌」は大和国の金峯山とするのが定説です。しかし、伊予の石鎚山に空海が登ったという伝承が作られたのは、伊予が丹生(水銀)産地で、秦の民の居住地だったからというのです。佐藤任氏は、伊予の「金巌」といわれている出石山付近には水銀鉱跡があると指摘します。
山村秘史 : キリシタン大名一条兼定他(堀井順次 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

堀井順次氏は、伊予の秦氏のことを「山村秘史」に次のように記します。
「伊予の秦氏についての詳しい記述があり、伊予の畑・畠のつく地と想定される。(中略)
  まず東予からたずねると、旧宇摩郡(現川之江市)の県境に「新畑」がある。そこは鉱物資源帯で、秦氏ゆかりの菊理媛祭祀神社が周辺地区に残っているが、秦氏伝承はない。同郡内の土居町には 畑野」があり、秦氏開発の伝承があった。越智郡には今治市に「登畑」があり、近くの朝倉村の多伎神社には秦氏伝承があると言う。玉川町の「畑寺」の地名と、光林寺(畑寺)の由緒にも秦氏の名が残っている。

中予地方では旧温泉郡に畑寺・畠田。新畑等に秦氏を想い、立花郷には「秦勝庭」の名が史書記され、この地方も秦氏ゆかりの地と考えられる。伊予市大平地区に「梶畑」(鍛冶畑)があり、「秦是延」の氏名を刻んだ経筒がそこから出土しているから、やはり秦氏ゆかりの地だろう。

南伊には大洲市に「畑・八多浪(畑並)八多喜(秦城)」等があり、南宇和郡には畑地があって高知県の幡多郡に続いている。
秦氏一族が伊予各地に分散していたことは、 一族が関係する産業の分散を示すものである 古代産業の分布状況は古代創祀神社の跡で推定できるだろう。愛媛県を東西に走る山岳地帯は、すべて鉱業地帯である。南予では石鎚山系のいたるところに銅採出跡がある。
(中略)
他に荷駄馬産業を見落してはならない。駄馬は山塊地帯の鉱業には欠かせない資材・鉱石等の搬送機関だった。律令制以後も近代に至るまで物資運送機関として秦氏の独占下にあった。荷駄馬の飼育地を駄場と言う。駄場地名は全国的に見て四国西南部に集中し、四国では南予地方に集中している。そこには必ず秦氏ゆかりの白山比売祭祀神社があった。
 
 以上のような推論を重ねた上で、伊予の秦氏は、南予地方の工業開発にかかわったとします。
そして次に示されるのが「南予地方秦氏関係神社表」です。
1南予地方秦氏関係神社表

この表から堀井氏は、次のように論を進めます。
「南予地方の古代朱の跡を、考古学領域で考えて、弥生時代まで遡上できるだろう。幡多郡五十崎町の弥生遺跡で採収した上器破片には、鮮やかな朱の跡が残っていた。史書で伊予に関る朱砂の歴史を考えると大化年間に阿倍小殿小鎌が朱砂を求めて伊予に下向して以後、天平神護二年の秦氏賜姓の恩典までの百余年間は、朱砂の線で繋がれていると見てまちがいなかろう。
 これを民俗学の領域で見ると、八幡浜市の丹生神社に始まり、城川町から日吉村まで続いている。その分布状況を迪ると、南予地方全域を山北から東南に貫く鉱床線の長さにはおどろかされる。その中で最近まで稼働していたのは日吉村の双葉鉱山だけだが、その朱砂の線上に多くの歴史が埋もれているにちがいない」
ここでは「南予地方全域を山北から東南に貫く鉱床線の長さ」の存在と秦氏の信仰する神社との重なりが説かれます。これは中世の山岳寺院とも重なり合うことが下の図からはうかがえます。
2密教山相ライン

 佐田岬半島の付け根に位置する出石山の頂上には「金山出石寺」があります。この寺の縁起は次のような内容です。
開創は元正天皇の養老二年(718)6月17日で、数日間山が震動して「光明赫灼とした」。そのため鹿を追っていた猟師作右衛門が鹿を見失ったが、「金色燦然たる光」を放って、千手観音と地蔵尊の像が地中から湧出した。作右衛門はこの奇瑞に感じて殺生業を悔い、仏門に入って「道教」と改名し、仏像の傍に庵をつくり、「雲峰山出石寺」と号した。
 その後、大同二年(807)に空海がこの山に登り、護摩ケ石に熊野確現を勧進して護摩供を修し、この山を「菩薩応現の勝地、三国無双の金山なり」と讃嘆した。
 空海がやって来たかどうかは別にして、この地域からは金・銀・銅・硫化鉄が採掘されていたようで、出石山(金山)には水銀鉱の跡があると云います。
また『続日本紀』文武天阜二年(698)9月条に、伊予国から朱砂を献上させたとあります。これには秦氏・秦の民がかかわっていたようです。この地に弘法大師信仰が盛んなのは、高野山に丹生神社があり、弘法大師信仰には丹生がかかわるからだと研究者は指摘します。 丹生は泰氏集団と空海に深くかかわり、両者を結びつける役割を果たしていたのかも知れません。ちなみに丹生(にゅう)とは「丹(に)」と呼ばれていた水銀が含まれた鉱石鉱物が採取される土地を指す言葉です。
丹生の研究 : 歴史地理学から見た日本の水銀(松田寿男 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
松田壽男氏は『丹生の研究』で、次のように記します。
「要するに天平以前の日本人が“丹”字で表示したものは鉛系統の赤ではなくて、古代シナ人の用法どおり必ず水銀系の赤であったとしなければならない。この水銀系のアカ、つまり紅色の土壌を遠い先祖は“に”と呼んだ。そして後代にシナから漢字を学び取ったとき、このコトバに対して丹字を当てたのである。…中略…ベンガラ“そほ”には“赭”の字を当てた。丹生=朱ではないが、丹=朱砂とは言えよう
それでは、丹生と空海にはどんなつながりがあったのでしょうか。
それは、また次回に・・・
参考文献
大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究



以前に空海が誰から虚空蔵求聞持法を学んだのかについて、探ったことがあります。それは、若き日の空海の師は誰であったのかにもつながる問題になります。この問題に積極的に答えようとしているが大岩岩雄の「秦氏の研究」でした。その続編を、図書館で見つけましたので、これをテキストに空海と秦氏の関係を再度追ってみたいと思います。
秦氏と空海の間には、どんな関係があったのでしょうか。
本城清一氏は「密教山相」で、次のように述べています。(要約)
①空海は宝亀五年(774年)讃岐で出生し、母の阿刀氏(阿刀は安都、安刀とも書く)は新羅から渡来の安刀奈末(あとなま)の流れをくむ氏族で、学者や僧侶、書紀などを数多く輩出した。
②空海は、母の兄の阿刀大足より少青年期に論書考経詩文を学んだ
③空海の時代は、渡来系の秦氏が各地で大きな影響力を持っていた時代で、その足跡は各地に及んでいる
④泰氏の政治、経済、開発殖産、宗教等の実力基盤は、治水灌漑等の土木技術や鉱山開発、冶金技術等にあった。この先進技術を支えるために、秦氏は数多くの専門技術を持った各職種の部民を配下に持っていた。
⑤その中には多くの鉱業部民もいたが、その秦氏の技術を空海は評価していた。
⑥空海の生涯の宗教指導理念は一般民衆の精神的な救済とともに、物質的充足感の両面の具現にあった。そのためには、高い技術力をもち独自の共同体を構成する秦氏への依存意識も空海の中にはあった。
⑦空海は、秦氏族の利用、活用を考えていた。
⑧空海の建立した東寺、仁和寺、大覚寺等も秦氏勢力範囲内に存在し、(中略)空海の平安京での真吾密教の根本道場である東寺には、稲荷神社を奉祀している(伏見稲荷神社は泰氏が祀祭する氏神である)。これも秦氏を意識している。
⑨空海は讃岐満濃池等も改修しているが、これも秦氏の土木技術が関与していることが考えられる。
⑩空海の讃岐の仏教人関係は、秦氏と密接な関係がある。秦氏族の僧として空海の弟子道昌(京都雌峨法輪寺、別名大堰寺の開祖)があり、観賢(文徳、清和天皇時、仁和寺より醍醐寺座主)、仁峻(醍醐成党寺を開山)がいる。
⑪平安時代初期、讃岐出身で泰氏とつながる明法家が八名もある。
⑫讃岐一宮の田村神社は、秦氏の奉祀した氏寺である。
⑬金倉寺には泰氏一族が建立した神羅神社があり、この大師堂には天台宗の智証(円珍)と空海が祀られている。円珍と秦氏の関係は深い。

ここからは、空海の生きた時代に讃岐においては、高松市一宮を中心に秦氏の勢力分布が広がっていたこと。それは、秦氏ネットワークで全国各地ににつながっていたことが分かります。讃岐の秦氏の背後には、全国の秦氏の存在があったことを、まずは確認しておきます。
2密教山相ライン

秦氏の氏神とされる田村神社について以前にも紹介しましたが、もう一度別の視点で見ておきましょう。
渡辺寛氏は『式内社調査報告。第二十三巻』所収の「田村神社」で、歴代の神職について次のように記します。

近世~明治維新まで『田村氏』が社家として神主職にあったことは諸史料にみえる。……田村氏は、古代以来当地、讃岐国香川郡に勢力を持った『秦氏』の流れであると意識していたことは、近世期の史料で認めることができる。当地の秦氏は、平安時代において、『秦公直宗』とその弟の『直本』が、讃岐国から左京六条に本居を改め(『日本三代実録」元曜元年〈八七七〉十二月廿五日条)、さらにその六年後、直宗・直本をはじめ同族十九人に『惟宗朝臣』を賜った(同、元慶七年十二月廿五日条)。
 彼らは明法博士として当代を代表する明法道の権威であったことは史上著名であり他言を要しない。……当社の社家がこれら惟宗氏のもとの本貫地の同族であるらしいことはまことに興味深い。当社が、讃岐一官となるのも、かかる由緒によるものであろうか」

この時代の秦氏関係の事項を年表から抜き出してみると
877 12・25 香川郡人公直宗・直本兄弟の本貫を左京へ移す
882 2・- 藤原保則,讃岐守に任命され,赴任する
883 12・25 左京人公直宗・直本兄弟ら,秦公・秦忌寸一族19人,惟宗朝臣の姓を与えられる
 泰直本から姓を変えた惟宗(これむね)直本は、後に主計頭・明法博士となり、『令集解』三十巻を著します。当時の地方豪族は、官位を挙げて中央に本願を移し、中央貴族化していくのが夢でした。それは空海の佐伯直氏や、円珍の稲城氏の目指した道でもあったことは以前にお話ししました。その中で、讃岐秦氏はその出世頭の筆頭にあったようです。
古代讃岐の豪族3 讃岐秦氏と田村神社について : 瀬戸の島から
讃岐国香川郡に居住の秦の民と治水工事             
『三代実録』貞観八年(866)十月二十五日条には、讃岐国香川郡の百姓の妻、秦浄子が国司の判決に服せず太政官に上訴し、国司の判決が覆されたとあります。その八年後に同じ香川郡の秦公直宗・直本は讃岐から上京し、七年後に「惟宗」の姓を賜り、後に一人は明法博士になっています。秦浄子が国司の判決を不服とし、朝廷に訴えて勝ったのは、秦直宗・直本らの助力があったと研究者は考えているようです。
 この後に元慶6(886年)に讃岐国司としてやってきた藤原保則は讃岐のことを次のように記しています。
  「讃岐国は倫紙と能書の者が多い」
  「この国の庶民はみな法律を学んで、それぞれがみな論理的である。村の畔をきっちりと定めて、ともすれば訴訟を起こす」
 讃岐については、比較的法律に詳しい人が多く、かえってやりづらい。こちらがやり込められるといった地域性が「保則伝」から見えてきます。讃岐国では法律に明るい人が多く、法律を武器に争うことが多いというのですが、その中心には讃岐秦氏の存在がうかがえます。
 このような讃岐の秦氏のひとつの象徴が、都で活躍した秦氏出身の明法博士だったとしておきましょう。
讃岐国一宮 田村神社 初詣 金運 学業 子宝等たくさんのご利益 高松市 | あははライフ

渡辺氏は、田村神社について次のようにも述べます。
 当社の鎮座地は、もともと香東川の川淵で、近辺には豊富な湧き水を得る出水が多い。当社の社殿は、その淵の上に建てられている。(中略)このことは、当社の由緒を考える上できわめて重要である。現在、田村神社の建物配置は、本殿の奥にさらに『奥殿』と称せられる殿舎が続き、御神座はこの奥殿内部の一段低いところにある。そしてその床下に深淵があり、厚い板をもってこれを蔽っている。奥殿内部は盛夏といえども冷気が満ちており、宮司といえども、決してその淵の内部を窺い見ることはしないという(池田武夫宮司談)」

この神社は、創祀のときから秦氏や泰の民が祭祀してきたようです。
『続日本紀』神護景雲三年(769)十月十日条に、讃岐国香川郡の秦勝倉下ら五十二人が「秦原公」を賜ったとあります。現在の宮司田村家に伝わる系譜は、この秦勝倉下を始祖として、その子孫の晴道が田村姓を名乗ったと記すようです。秦勝倉下を祖とするのは公式文書にその名前があるからで、それ以前から秦の民は出水の周辺の新田開発を行ってきたのでしょう。その水源が田村神社となったと研究者は考えているようです。
2 讃岐秦氏1
「日本歴史地名大系38」の『香川県の地名』は、「香川郡」と秦氏を次のように記します
奈良時代の当郡について注目されることは、漢人と並ぶ有力な渡来系氏族である秦人の存在であろう。平城宮跡や長岡京跡から出土した木簡に、『中満里秦広島』『原里秦公□身』『尺田秦山道』などの名がみえ、また前掲知識優婆塞貢進文にも幡羅里の戸主『秦人部長円』の名がみえる。しかも「続日本紀』神護景雲三年(七六九)一〇月一〇日条によれば、香川郡人の秦勝倉下など五二人が秦原公の姓を賜っている。この氏族集団の中心地は泰勝倉下らが秦原公の姓を賜つていることかるみて、秦里が原里になったと考えられる。
 「三代実録』貞観一七年(875)11月9日条にみえる弘法大師十大弟子の一人と称される当郡出身の道昌(俗姓秦氏)や、元慶元年(877)12月25日条にみえる、香川郡人で左京に移貫された左少史秦公直宗・弾正少忠直本兄弟などは、これら秦人の子孫であろう」
ここからは次のような事が分かります。
①香川郡は渡来系秦人によって開かれた所で「秦里 → 原里」に転じている
②秦氏出身の僧侶が弘法大師十大弟子の一人となっている。
③香川郡から左京に本願を移動した秦の民たちもいた。
2 讃岐秦氏3
「和名抄」の讃岐国三木郡(現在の三木郡)にも、香川郡の秦人の本拠地と同じ、「幡羅(はら)郷」があり、木田部牟礼町原がその遺称地です。近くに池辺(いけのへ)郷があります。『香川県の地名』は「平城宮跡出土木簡に「池辺秦□口」とあり、郷内に渡来系氏族の秦氏が居住していたことを推測させる」と記します。
 以上の記述からも香川郡の幡羅郷と同じ秦の民の本拠地であつたことは、「幡(はた)」表記が「秦(はた)」を意味することからすれば納得がいきます。
白羽神社 | kagawa1000seeのブログ
牟礼町の白羽八幡神社

そして気がつくのは、この地域には「八幡神社」が多いことです。

八幡神社は、豊前宇佐八幡神社がルーツで、秦氏・秦の民の氏寺です。牟礼町には幡羅八幡神社・白羽八幡神社があり、隣町の庵治町には桜八幡神社があります。平安時代に白羽八幡神社周辺が、石清水八幡宮領になつたからのようですが、八幡宮領になつたのは八幡宮が秦の民の氏寺だったからだと研究者は考えているようです。現在は白羽神社と呼ばれていますが、この神社の若宮は松尾神社です。松尾神社は、山城国の太秦周辺の秦の民の氏寺です。松尾神社が若宮として祀られているのは、白羽神社が秦の民の祀る神社であったことを示していると研究者は考えているようです。ちなみに地元では若宮松尾大明神と呼ばれているようです。

讃岐秦氏出身の空海の弟子道昌(どうしょう)  
空海の高弟で讃岐出身の道昌は、秦氏出自らしい伝承を伝えています。「国史大辞典10』には、次のように記されています。
道昌 七九八~八七五
平安時代前期の僧侶。讃岐国香河郡の人。俗姓は秦氏。延暦十七年(七九八)生まれる。元興寺の明澄に師事して三輪を学ぶ。弘仁七年(八一六)年分試に及第、得度。同九年東大寺戒壇院にて受戒。諸宗を兼学し、天長五年(八三八)空海に従って灌頂を受け、嵯峨葛井寺で求聞持法を修した。天長七年以降、宮中での仏名会の導師をつとめ、貞観元年(八五九)には大極殿での最勝会の講師をつとめ、貞観元年(859)には大極殿での最勝会の講師をつとめ、興福寺維摩会の講師、大極殿御斉会、薬師寺最勝会などの講師にもなつている。貞観六年に権律師、同十六年に少僧都。生涯に「法華経」を講じること570座、承和年中(834~48)には、大井河の堰を修復し、行基の再来と称された。貞観17年2月9日、隆城寺別院にて遷化。
年七十八。

 ここで注目したいのは「大井河の堰を修復し、行基の再来と称された」という部分です。「讃岐香川郡志』も、
葛野の大堰は秦氏に関係があるが(秦氏本系帳)道昌が秦氏出身である所から、此の治水の指揮に与ったのであろう」

と指摘しています。さらに『秦氏本系帳』は、詳しくこの治水工事は泰氏の功績であると記します。
葛野大井 No6
葛野の大堰

大井河は大堰川とも書かれ、京都の保津川の下流、北岸の嵯峨。南岸の松尾の間を流れる川です。嵐山の麓の渡月橋の付近と云った方が分かりやすいようです。今はこの川は桂川と呼ばれていますが、かつては、桂あたりから下流を桂川と呼んだようです。
なぜ、ここに大きな堰を作ったのかというと、葛野川の水を洛西の方に流す用水路を作って、田畑を開拓したのです。古代の堰は貯水ダムとして働きました。堰で水をせき止めて貯水し、流れとは別の水路を設けることによって水量を調節し、たびたび起こった洪水を防ぐとともに農業用水を確保することができたようです。これにより嵯峨野や桂川右岸が開拓されることになります。
大井神社 - 京都市/京都府 | Omairi(おまいり)
大井神社(嵯峨天龍寺北造路町)
この近くに大井神社があり、別名堰(い)神社ともいわれています。
 秦氏らが大堰をつくって、この地域を開拓した時に、治水の神として祀ったとされます。秦氏の指導で行われた治水工事の技術は、洪水防御と水田灌漑に利用されたのでしょう。それを指導した道昌は「行基の再来」と云われていますので、単なる僧侶ではなかったようです。彼は泰氏出身で治水土木工事の指導監督のできる僧であったことがうかがえます。ここからも秦氏の先進技術保持集団の一端が見えてきます。
讃岐に泰氏・秦の民が数多く居住していたのはどうしてでしょうか。
それは、讃岐の地が雨不足で農業用の水が不足する土地で、そのための水確保め治水工事や、河川の水利用のため、他国以上に治水の土木工事が必要だったからと研究者は考えているようです。そのため秦の民がもつ土木技術が求められ、結果として多くの秦の民が讃岐に多く見られるとしておきましょう。
 道昌の師の空海は、讃岐の秦氏や師の秦氏出身の勤操らの影響で土木工事の指導が出来たのかもしれません。
満濃池 古代築造想定復元図2

 空海は満濃池改築に関わっていることが『今昔物語集』(巻第二十一)、『日本紀略』、『弘法大師行状記』などには記されます。『日本紀略』(弘仁十二年〈八三一〉五月二十七日条)には、官許を得た空海は金倉川を堰止めて大池を作るため、池の堤防を扇形に築いて水圧を減じ、岩盤を掘下げて打樋を設けるよう指示したと記します。この工事には讃岐の秦氏・秦の民の土木技術・労働力があったと研究者は考えているようです。
山尾十久は「古代豪族秦氏の足跡」の中で、次のように述べます。
・各地の秦氏に共通する特徴として、卓越した土木技術による大規模な治水灌漑施設の工事、それによる水田の開拓がある。
・『葛野大堰』・『大辟(おおさけ)』(大溝)と呼ばれる嵯峨野・梅津・太秦地域の大開拓をおこなった。この大工事はその後何回も修理されており、承和三年(836)頃の秦氏の道昌の事蹟もその一環である
最澄と空海 弥勒信仰を中心にして | 硯水亭歳時記 Ⅱ

 空海が身につけていた土木技術や組織力について、空海伝説は「唐で学んだ」とします。しかしそれは、讃岐の秦氏・秦の民から技術指導を受けたと考える方が現実味があるような気がします。さらに空海の母は阿刀氏です。空海の外戚・阿刀氏は、新羅からの渡来氏族だとされますが秦氏も新羅出身とされます。それは、伽耶が新羅に合併されたからです。阿刀氏も秦氏も同じ伽耶系渡来人で、近い関係にあったと研究者は考えているようです。

  以上をまとめておきます。
①現在の高松市一宮周辺は、渡来系の秦の民によって開かれ、その水源に田村神社は創始された。②讃岐秦氏は土木技術だけでなく、僧侶や法律家などにもすぐれた人物を輩出した。
③空海の十代弟子にあたる道昌も讃岐秦氏の出身で、山城の大井河の堰を修復にも関与した
④空海の満濃池修復などの土木事業は、秦氏との交流の中から学んだものではないか。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究
関連記事
 

稚児大師像 与田寺

  戦後の空海研究史については、以前にお話ししました。その中で明らかになったのは、空海が一族の期待を裏切るような形で、大学をやめ山林修行の道を選んでいたことです。これは私にとって「衝撃」でした。「空海=生まれながらにして仏道を目指す者」という先入観が崩れ落ちていくような気がしたのを思い出します。
 佐伯一門の期待の星として、平城京の大学に入りながら、そこを飛び出すようにして山林修行の道を選んだのです。これは当時の私には「体制からのドロップアウト」のようにも感じられました。ある意味、エリート学生が立身出世の道を捨てて、己の信じる道を歩むという自立宣言であったのかも知れません。それまでの「弘法大師伝説」では、空海はどのような過程で仏門へ入ったとされていたのでしょうか。
弘法大師行状絵詞に描かれた「空海出家」のプロセスを見て行くことにします。

〔第四段〕             
大師、天性明敏にして、上智の雅量(がりょう)を備ヘ給ふ。顔回(=孔子の弟子)が十を知りし古の跡、士衡(しこう=陸機。中国晋代の人)が多を憂へし昔の例も、斯くやとぞ覚えける。こゝに、外戚の叔父、阿刀大足大夫(伊予親王の学士)、双親に相語りて日く、
「仏弟子と為さむよりは如かじ、大学に入りて経史を学び、身を立て、名を挙げしめむには」と。
此の教へに任せて則ち、白男氏に就きて俗典を学び、讃仰(さんごう)を励まし給ふ。遂に、即ち延暦7年(788)御歳十五にして、家郷を辞して京洛(けいらく)に入る。十八の御歳、大学に交わり、学舎に遊び給ふ。直講・味酒浄成(うまざけきよなり)に従ひて
「孟子」「左伝」『尚書』を読み、岡田博士に逢ひて、重ねて「左氏春秋」を学べり。大凡(おおよそ)、蛍雪の勤め怠りなく、縄錐(じょうすい)の謀心を尽く給いしかば、学業早く成りて、文質相備はる。千歳の日月、心の中に明らかに、 一朝(↓期)の錦繍、筆の端に鮮やか
  意訳変換しておきます
大師は天性明敏で、向学心や理解力が優れていた。中国の才人とされる孔子の弟子顔回や、陸機の能力もこのようなものであったのかと思うほどであった。そこで、母の兄(叔父)・阿刀大足は、空海の両親に次のように勧めた。
「仏弟子とされるのはいかがかと思う。それよりも大学に入りて経史を学び、身を立て名を挙げることを考えてはどうか」と。
この助言に従って、阿刀大足氏に就いて俗典を学び、研鑽を積んだ。そして延暦7年(788)15歳の時に、讃岐を出て平城京に入った。
十八歳の時には、大学に入り、学舎に遊ぶようになった。直講・味酒浄成(うまざけきよなり)から「孟子」「左伝」『尚書』の購読を受け、岡田博士からは、「左氏春秋」を学んだ。蛍雪の功を積み、学業を修めることができ、みごとな文章を書くことも出来るようになった。
 ここには、空海の進路について両親と阿刀大足の間には意見の相違があったことが記されます
①父母は   「仏弟子」
②阿刀大足大  「経書を学び、立身出世の官吏」
一貫して佐伯家の両親は仏門に入ることを望んでいたという立場です。  それでは絵巻を見ていきましょう。
 DSC04489

このシーンは善通寺の佐伯田公の館です。阿刀大足からの手紙を大師が読んでいます。そこには
「仏門よりかは、大学で経書を学び、立身出世の道を歩んだ方がいい。早く平城京に上洛するように」

と書かれています。
 佐伯直の系譜については、以前にも紹介しましたが、残された戸籍を見ると一族の長は「田公」ではありません。田公には兄弟が何人かいて、田公は嫡子ではなく佐伯家の本家を継ぐものではなかったようです。佐伯家の傍流・分家になります。また、田公には位階がなく無冠です。無冠の者は、郡長にはなれません。しかし、空海の弟たちは地方人としてはかなり高い位階を得ています。

1 空海系図

 父田公の時代に飛躍的な経済的向上があったことがうかがえます。
それは田公の「瀬戸内海海上交易活動」によってもたらされたと考える研究者もいます。このことについても以前に触れましたのでここでは省略します。
DSC04491
   平城京に向けて善通寺を出発する馬上の真魚(空海幼名)

絵図だけ見ると、どこかの武士の若君の騎馬姿のようにも見えます。叔父阿刀大足からの勧めに従って平城京に向かう真魚の一団のようです。これが中世の人たちがイメージした貴公子の姿なのでしょう。いななき立ち上がる馬と、それを操る若君(真魚)。従う郎党も武士の姿です。
 空海の時代の貴族達の乗り物は牛車です。貴族が馬に跨がることはありません。ここにも中世の空気が刻印されています。また、田公は弘田川河口の多度津白方湊を拠点にして交易活動をいとなんでいた気配があります。そうだとすれば、空海の上洛は舟が使われた可能性の方が高いと私は考えています。
DSC04494
   平城京での阿刀大足と真魚の初めての出会いシーン

阿刀大足は、伊予親王の家庭教師も務めていて当時は、碩学として名が知られていました。館には、門下の若者達が詰めかけて経書を読み、議論を行ってる姿が右側に描かれます。左奥の部屋では、讃岐から上洛した真魚と阿刀大足が向き合います。机上には冊子や巻物が並べられ、四書五経など経書を学ぶことの重要性が説かれたのかもしれません。この時点での真魚の人生目標は阿刀大足により示された「立身出世」にあったと語られます。
阿刀大足の本貫は、もともとは摂津の大和川流域にあり、河川交易に従事していたと研究者は考えているようです。そのために空海の父田公と交易を通じて関係があり、その関係で阿刀大足の妹が田公と結婚します。しかし、当時は「妻取婚」ではなく、夫が妻の下へ通っていくスタイルでした。そのため空海も阿刀氏の拠点がある大和川流域で生まれ育てられたのではないかという説も近年には出されています。
1 阿刀氏の本貫地
〔第五段〕出家学法 空海が仏教に惹かれるようになったのは?
御入洛の後、石渕(=淵)の僧正勤操(ごんぞう)を師とし仕へて、大虚空蔵、並びに能満虚空蔵等の法を受け、心府に染めて念持し給ひけり。この法は、昔、大安寺の道慈律師、大唐に渡りて諸宗を学びし時、善無畏(ぜんむい)三蔵に逢ひ奉りて、その幽旨を伝へ、本朝に帰り来りて後、同寺の善儀(↓議)大徳授く。議公、又、懃(↓勤)操和尚に授く。和尚此の法の勝利を得給ひて、英傑の誉れ世に溢れしかば、大師、かの面授を蒙りて、深く服膺(ふくよう)し給へり。しかあれば、儒林に遊びて、広く経史を学び給ひしかども、常は仏教を好みて、専ら避世の御心ざし(↓志)深かりき。秘かに思ひ給はく 「我が習ふ所の上古の俗典は、眼前にして一期の後の利弼(りひつ)なし。この風を止めて如かじ、真の福田を仰がむには」と。則ち、近士(=近事)にならせ給ひて、御名を無空とぞ付き給ひける。延暦十六年〈797〉朧月の初日(=十二月一H)、『三教指帰』を撰して、俗教の益なき事を述べ給ふ。其の詞に云ぐ、「朝市の栄華は念々にこれを厭ひ、巌藪の煙霞は日夕にこれを願ふ。軽肥流水を見ては、則ち電幻の嘆き忽ちに起こり、支離懸鶉を見ては、則ち因果の憐れび殊に深し目に触れて我を勧む。誰か能く風を繋がむ。
 ここに一多の親戚あり。我を縛るに五常の索(なわ)を以てし、我を断はるに忠孝に背くといふを以てす。余、思はく、物の心一にああず、飛沈性異なり。この故に、聖者の人を駆る教網に三種あり。所謂、釈(迦)。李(=老子)・孔子)なり。浅深隔てありと雖も、並びに皆聖説なり。若し一つの網に入りなば、何ぞ忠孝に背かむ」と書かせ給へりcこの書、一部三巻、信宿の間に製草せられたり。元は『聾書指帰』と題し給ひけるを、後に『三教指帰』と改めらる。その書、世に伝はりて、今に絡素(しそ)の翫(もてあそび)び物たり。
意訳変換しておくと
「勤操 大安寺」の画像検索結果
空海に虚空蔵法を伝えた勤操(ごんぞう)

空海は入洛後に儒教の経書を学んでいただけではなかった。石淵の勤操を師として、大虚空蔵法を授かり、念持続けるようになった。この法は、大安寺の道慈律師が唐に渡って諸宗を学んだ時に、善無畏(ぜんむい)三蔵から伝えられたもので、帰国後に、同寺の善儀に受け継がれた。それを懃(勤)操和尚は修得していた。英傑の誉れが高い勤操(ごんぞう)から個人的な教えを受けて、大師は深く師事するようになり、仏教に関しての知識は深まった。
 そうすると、儒学を学んでも、心は仏教にあり、避世の志が深かまってきた。当時のことを大師は『三教指帰』の中で、このように述べている
「私が学ぶ儒学の経典は、立身出世という眼前のことだけに終始し、生涯をかけて学ぶには値しないものである。こんな心の風が次第に強くなるのを止めることができなくなった。真の私の歩むべき道とは?」
 そして、近士(=近事)になり、無空と名乗るようになる。延暦十六年〈797〉朧月の初日に『三教指帰』を現して、儒教や道教では、世は救えないことを宣言した。その序言に次のように記した「朝廷の官位や市場の富などの栄耀栄華を求める生き方は嫌でたまらなくなり、朝な夕な霞たなびく山の暮らしを望むようになりました。軽やかな服装で肥えた馬や豪華な車に乗り都の大路を行き交う人々を見ては、そのような富貴も一瞬で消え去ってしまう稲妻のように儚い幻に過ぎないことを嘆き、みすぼらしい 衣に不自由な身体をつつんだ人々を見ては、前世の報いを逃れられぬ因果の哀しさが止むことはありません。このような光景を見て、誰が風をつなぎとめることが出来ましょうか!
  わたくしには多くの親族がいます。叔父や、大学の先生方は、儒教の忠孝で私を縛り、出家の道が忠孝に背くものとして、わたくしの願いを聞き入れてくれません。
  そこで私は次のように考えました。
「生き物の心は一つではない。鳥は空を飛び魚は水に潜るように、その性はみな異なっている。それゆえに、聖人は、人を導くのに、仏教、道教、儒教 の三種類の教えを用意されたのだ。 それぞれの教えに浅深の違いはあるにしても、みな聖人の教えなのだ。そのうちの一つに入るのであれば、どうして忠孝 に乖くことになるだろうか」
DSC04500
勤操(ごんぞう)の住房 建物の下は懸崖で下は幽谷 

ここで空海は虚空蔵法を学んだとします。
これが善無畏(ぜんむい)三蔵から直伝秘密とされる虚空蔵法じゃ。しかと耳にとめ、忘れるでないぞ。
ここからは弘法大師行状絵詞では、虚空蔵法を空海に伝えたのは、勤操(ごんぞう)としていたことが分かります。

DSC04503
   和泉国槙尾寺での空海剃髪
廊下から見ているのは都から駆けつけた空海の近習たちという設定。 剃髪の儀式は戒師の立ち会いの下で、剃刀を使う僧が指名され人々が見守る中で、厳かに行われる儀式でした。ここでは左側の礼盤に座るのが勤操で、その前に赤い前机が置かれ、その上で香炉が焚かれています。

巻 二〔第一段〕                      
大師、遂に學門を逃れ出で、山林を渉覧して、修練歳月を送り給ひしに、石渕(=淵)の勤操、その苦行を憐れみ、大師を招引し給ひて、延暦十二年〈793〉、御年二十と申せし時、和泉国槙尾といふ寺にして、髪を剃りて、沙弥の十戒、七十二の威儀を授け奉る。御諄、教海と号し給ふ。後には、改めて如空と称せらる。
 同十四年四月九日、東大寺戒壇院にして、唐僧泰信律師を嘱(↓屈)して伝戒の和尚として、勝伝・豊安等の十師を卒して潟磨教授とし、比丘の具足戒を受け給ふ。この時、御名を空(海)と改めらる。
しか在りしよりこの方、戒珠を胸の間に輝かし、徳瓶を掌の内に携ふ。油鉢守りて傾かず、浮嚢惜しみて漏らす事なし。大師御草の牒書、相伝はりて、今に至る迄、登壇受成の模範と仰げり。
意訳変換すると
大師は遂に學門を逃れ出て、山林を行道する修練歳月を送りはじめます。師である勤操は、その苦行を憐れみ、大師を呼び戻して和泉国槙尾寺で、髪を剃りて、沙弥の十戒、七十二の威儀を授けます。これが延暦十二年〈793〉、20歳の時のことです。そして教海と名乗り、その後改めて如空と呼ばれるようになります。
その2年後の延暦十四年(795)四月九日、東大寺戒壇院で、唐僧泰信律師を伝戒の和尚として、勝伝・豊安等の十師を教授とし、比丘の具足戒を受けました。この時に、名を空(海)と改めます。
DSC04505
東大寺の戒壇院の朱塗りの回廊が見え隠れします。
剃髪から2年後に、今度は東大寺で正式に具足戒を受けたと記されます。これを経て僧侶としての正式な資格を得たことになります。
戒壇院の門を入ると、大松明が明々と燃え盛っています。儀式の先頭に立つのが唐僧泰信律師で遠山袈裟を纏っています。その後に合掌して従うのが如空(空海)のようです。

DSC04507

  切石を積み上げて整然と作られた戒壇の正面に舎利塔が置かれています。その前に経机と畳壇が置かれます。ここに座るのが空海のようです。
 以上をまとめておくと、次のようになるのでしょうか。
①空海は叔父阿刀大足の勧めもあって平城京に上がり、大学で儒教の経書をまなぶ学生となった
②一方、石淵の勤操から虚空蔵法を学ぶにつれて儒教よりも仏教への志がつよくなった。
③こうして、一族や周囲の反対を押し切って空海は山林修行の道に入った
④これに対して、勤操は空海を呼び戻し槙尾寺で剃髪させた
⑤その後、空海は東大寺で正式に得度した
  これが、戦前の弘法大師の得度をめぐる常識であったようです。
しかし、戦後の歴史学が明らかにしたことは、空海の得度は遣唐使に選ばれる直前であって、それ以前は沙門であったことです。
空海 太政官符
延暦24年の太政官符には、空海の出家が延暦22(802)年4月7日であっったことが明記されています。これは唐に渡る2年前の事になります。それまでは、空海は沙門(私度僧)であったのです。
 沙門とは、正式に国家によって認められた僧ではなく、自分で勝手に僧として称している「自称僧侶」です。空海は沙門として、各地での修行を行っていたのです。つまり、「絵詞」などに描かれている④⑤の東大寺での儀式は、フィクションであったことになります。大学をドロップアウトして、山林修行を始めた空海は沙門で、それが唐に渡直前まで続いたことは押さえておきます。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
 高野山としては、沙門(私度僧=非公認)という身分のままで各地を修行したというのでは都合が悪かったのでしょう。そこで東大寺で正式に得度したと云うことになったようです。
以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

同行二人 蓑笠

  私が持っている笠にも同行二人(どうぎょうににん)と書かれています。「同行二人」とは、お遍路さんがお大師さんと二人づれという意味と教えられました。遍路では一人で歩いていても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けているとされています。そして、遍路で使われる杖には弘法大師が宿ると言われています。そのため杖は大切に扱うように教えられます。
 それでは「同行二人」という考え方は、いつ頃どのようにして生まれてきたのでしょうか。
  「同行二人」のことを説明するときに語られるのが、右衛門三郎のお話です。この話を最初に見ておきましょう。
天長年間の頃、伊予を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。三郎はお金持ちで権力もありましたが、強欲で情けがなく、民の人望もありませんでした。ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門弟に現れ托鉢をしようとしました。三郎は下郎に命じてその僧侶を追い返しました。
その後何日も僧侶は現れ都度追い返していましたが、8日目、堪忍袋の尾が切れた三郎は、僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢を割ってしまいました。以降、僧侶は現れなくなりました。

その後、三郎の家では不幸が続きました。
8人の子供たちが毎年1人ずつなくなり、ついに全員がなくなってしまいました。打ちひしがれる三郎の枕元に僧侶が現れ、三郎はその時、僧侶が弘法大師であったことに気がつきました。
以前の振る舞いが自らの不幸を招いたことを悟り、己の行動を深く後悔した三郎は、全てを人へ譲り渡し、お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かけます。
しかし、20回巡礼を重ねても会えず、何としても弘法大師と巡り合いたかった三郎は、それまでとは逆の順番で回ります。
しかし巡礼の途中、徳島の焼山寺(12番札所)の近くで、病に倒れてしまいました。

死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れると、三郎は過去の過ちを詫びました。弘法大師が三郎に望みを聞くと「来世は河野家(愛媛の領主)に生まれ、人の役に立ちたい」という言葉を残していきを引き取りました。弘法大師は路傍の石を拾い「衛門三郎再来」と書き、その手に握らせました。

   翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男の息方(おきかた)が生まれました。その子は左手を固く握って開こうとしません。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきました。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたといいます。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっています。


同行二人 右衛門三郎伝説

右衛門三郎伝説の「石」は現在も石手寺(松山市)に奉られているようです。また、松山市恵原町には、衛門三郎の八人の子を祀ったと言われる「八塚(やつづか)」が今も点在しています。右衛門三郎伝説は、近世になって石手寺の高野の念仏聖たちによって作られたと研究者は考えているようです。
この話が四国遍路の始まりと先達は語ります。
ここには、亡き子の菩提を弔い、悪業を悔い、大師にわびるための巡礼という回向を重ねることにより、やがて大師にめぐり合えるという話です。これが大師が今も四国を回っておられ、一心にお四国めぐりをするうち、いずれかどこかで大師に巡りあえるという信仰になります。つまり弘法大師は、今も四国霊場を巡礼すると同時に、巡礼者達を見守っているという「同行二人」信仰につながっていくのでしょう。
 そのためには、弘法大師は今もなお生き続けているという信仰が前提となります。
それは「弥勒入定信仰」から生み出されたもののようです。同行二人の基になる弥勒入定信仰を探ってみようと思います。テキストは武田和昭 四国辺路と弥勒・入定信仰 四国辺路の形成過程  です。

 右衛門三郎伝説以前の「同行二人」信仰について見てみましょう。
元禄三年(1690)の真念「四国遍礼功徳記」賛録は、次のように記されています
 遍礼(遍路)の事、或人のいへるに、大師の御記文(御遺告)
とて伝ふるに、身を高野の樹下にとどめ、魂を都率の雲上にあそばしめ、所々の遺跡を検知して、日々の影向をかずかずとあり。
 此文世の人信じあへる事にて、人々の口耳にとどまる事となんぬ。御遺跡へは大師、日々御影向あるにより、八十八ケ所の内いづれにてぞは大師にあひ奉といひなせるは、此よりなりと予江戸にありし時、ある人のいふをきけば、四国遍礼すれば大師にかならずあひ奉ると聞しにより、
 われ遍礼せし時、日々心をかけて、けふはけふは待しに、二十一日にてありしに、あんのごとく大師にあひ奉りこそ有がたけれと、手をあわせてかたりける。予いか様のすがたにてましましけるやといひければ、くろきぬの衣をめしけると覚え、征鼓を御頸にかけさせ給ひ、念仏を申とをり玉へ征鼓は見つれども、御顔ハ見ず、ただ目を閉じ拝み奉る計にてすぎぬとなり、此たぐひ又おほし。
意訳変換しておきましょう
遍礼(遍路)のことについて、ある人から聞いた話によると、大師の残した文書には、身は高野の地に留めるが、魂は都率の雲上に遊び、四国の遺跡(霊場)を、日々巡り訪ねると書かれている。
この文章を信じる人たちによって、世に広められめられたようだ。大師が今も四国辺路を廻っているのなら、四国辺路すれば必ず弘法大師にあえるというのはここから来ているのだと思うようになった。真念が江戸にいた時に、弘法大師に会うために四国辺路した人から次のような話を聞いた。
 今日こそ、今日こそ出会えるかと心待ちに願っていたが、ついに21日目に弘法大師に出合うことができたという。まことに有難いことで、手を合わせて語りかけたという。真念が「どんな姿をなさっていましたか」と聞くと、「黒い衣を着て、征鼓を首にかけ、念仏を唱えられていました。征鼓は見えましたが、御顔は見えませんでした。ただ目を閉じ、拝んでいただき過ぎていかれました。」と言う。これはたぐいなく貴いことである。

 ここからは『御遺告』にあるように
「身は高野山の樹下に留めているが、魂は都率の雲上におられ、御遺跡(四国霊場)には日々御影向(巡礼)する」

ので「四国辺路すれば八十八ケ所の内のいずれかで弘法大師に出合える」と主張しています。これが弥勒下生信仰・人定信仰のようです。四国辺路には、古代・中世の弥勒信仰や弘法大師人定信仰が大きく影響していると、研究者は考えているようです。
次に進む前に、弥勒信仰の予習メモを見ておきます。
兜率天(とそつてん)って ? : お寺で開運(お祓い・供養・修行)

兜率天(とそつてん)は、仏教の宇宙観にある天上界の一つで、欲界の第四番目の世界です。ここに住むのが弥勒菩薩です。上の図では一番上のゾーンになるようです。弥勒菩薩の登場は、お釈迦様の滅後56億7000万年後とされています。長くて待てない、との思いから弥勒菩薩がいる兜率天に死後生れ変わりたい、と望む上生信仰(じょうしょうしんこう)が生まれます。輪廻転生を繰り返して成仏を待つより、兜率天へ往生し弥勒菩薩から直接教えを聞く方が早道である、との考え方から兜率天往生の信仰がさかんになったようです。兜率天は弥勒菩薩の浄土として描かれることもありますが、天界は輪廻する世界のひとつですから、阿弥陀様の極楽浄土とはちがいます。浄土は、そこで成仏することができる究極の世界で、寿命は永遠です。兜率天は成仏できる世界ではなく、寿命に限りがあります。
兜率天(とそつてん)って ? : お寺で開運(お祓い・供養・修行)

 古代新羅では、弥勒信仰が盛んだったようです。そのため新羅系の渡来人の中には信者が多く、大きな影響力を持っていたようです。また花浪集団の組織化や「聖徳太子伝説」などとも関わりがあったとされます。空海が生まれた時代にも、弥勒信仰が受けいれられていたようです。それが平安時代の後半から”兜率天へ行こう”の弥勒信仰から”極楽へ行こう”の阿弥陀信仰へと仏教界の流れは変わっていくようです。
仏像の種類:弥勒菩薩・弥勒如来とは】56億7千万年後に降臨する未来の救世主! | 仏像リンク

次に、弘法大師に弥勒信仰がどのように関わっているのかを見ていきましょう。
弘法大師と弥勒信仰との関係は『三教指帰』の中に、すでに見られます。それが高野山の弥勒浄上説や弘法大師入定説などへ展開し、弘法大師伝説へと成長して行きます。

① 弘法大師は『三教指帰』巻下「仮名乞児論」のなかで次のように記しています。
 所以に慈悲の聖帝(弥勒菩薩)、終を小したまう日、丁寧に補処の儲君、旧徳の受殊等に顧命して、印璽を慈尊(弥勒)に授け、撫民を摂臣に教ゆ、(中略)
余、忽に微旨を承って、馬に林ひ、車に脂して装束して道を取り、陰陽(道教)を論ぜず、都史(兜率天)の京に向かう。
とあり、若き日の空海が陰陽の道を進まず、弥勒菩薩がいる兜率天に向かったと、儒教・道教・仏教の中から仏教を選んだ理由を述べています。ここからは空海が弥勒菩薩の上生信仰(じょうしょうしんこう)を持っていたことが分かります。

②「性霊集』巻八「藤左近将監、先枇のために。七の斎を設くる願文」には、
所謂大師、異人ならむや 阿糾哩也 摩訶味鉾紺冒地薩錘(弥勒菩薩)即ち是也。法界宮に住して人日の徳を輔け、都史殿(兜率天)に居して能寂の風を扇ぐ。尊位は昔満じたれども権に辰宮に冊す。元元を子として塗炭を抜済す。無為の主宰、誰か敢えて名け言はむ。伏して推みれば、従四位下藤氏、担には四徳を蛍きて、晩、三宝を崇む。朝に閻浮を厭ひ、夕に都率(兜率)を願う。身は花と共に落ちつれども、心は香と将に飛ぶ。
とあり、「朝に閻浮(この世)を厭い、タベには都率天を願う」と、弥勒信仰を述べ、兜率上生を願っていたことが分かります。
同行二人 遺告

③『御遺告二十五箇条』「後生の末世の弟子、祖師の恩を報進すべき縁起第十七条に
吾れ、閉眼の後には必ず、まさに兜率天に往生して弥勒慈尊の御前に侍すべし。五十六億余の後には必ず慈尊と御共に下生し、祗候して吾が先跡を問うべし。

とあります。これは弘法大師自身が、兜率天に往生し五十六億七千万年後に弥勒とともに下生して、自から修行した地を訪れるという意味ととれます。ここでは、弘法大師自身が兜率天に上生し、弥勒の下生とともに弘法大師も下生すると云っています。『御遺告』は、現在では後世に書かれたものというのが定説になっていますが、かつては承和三年(835)3月15日付けで、弘法大師入定の一週間前に弟子に与えた遺戒とされ、権威と効力をもってきました。

  やがて人定後170年後ころになると弘法大師は、生きたまま高野山に入定しているという信仰が登場してきます。
④『栄華物語』に道長が高野に参議した時のことが、次のように記されています。
 高野に参らせ給ひては、大師の御人定の様を覗き見奉らせ給へば、御髪青やかにて、奉りたる御衣いささか塵ばみ煤けず、鮮かに見えたり、御色のあはひなどぞ、珍かなるや。ただ眠り給へると見ゆり。あはれに弥勒の出世龍花三会の朝にこそは驚かせ給はめと見えさせ
意訳変換しておくと
 高野山に参拝し、弘法大師の入定の様子を覗き見させていただいた。髪は青々(黒々)として、着ている衣は塵もついておらず、煤けてもおらず鮮やかに見え、そのお顔の色など、生きているかのようで、眠られているように見えた。弥勒の出世(下生)の時には、目覚めるであろうと思われるほどである。

 ここでは実際に、大師入定の堂を開いてその姿を見たという設定で、その様子が記述されています。ドキメンタリーではなく「物語」なので、許される記述としておきましょう。その姿は「まるで生きているように眠っていて、弥勒が下生するときには、大師も一緒に生まれ変わって姿を現すであろうことが記されています。
⑤ 康和五年(1103)   十一月の高野山大塔供養願文には
「紀州高野山者、弘法大師延暦年中、入唐求法之後、帰朝解純之時、遙隔万岨遠投三鈷、為値慈尊(弥勒菩薩)之出世、久結禅座而人定之地也」

というように、弥勒下生を願うために大師は、入定したというように変化していきます。
⑥康和六年(1104)に没した経範の『大師御行状集記』では、
「吾入定後、必住兜率他天、可待弥勒慈尊出世、五十六億余之後、必慈尊下生之時、出定祗候、可問吾先跡」

と記されます。ここではいろいろな経過を経て、弥勒信仰から弘法大師の入定説が成立したことが記されています。
⑦これに関連して、町旧市立国際版画美術館本の弘法大師図の賛文を研究者は比較検討します。
我昔遇薩錘 親悉伝印明 発無比誓願 陪辺地異域 昼夜万民 住普賢悲願 肉身証三味 待慈氏下生

読み下し変換すると
「我れ(弘法大師)は昔、薩睡(師)に遇い、親(まのあ)たりに、悉く印明を受け、無比の願いを発して、辺地やあらゆる場所において、昼夜の別なく万民を救済し、普賢菩薩の慈悲に住し、肉身のまま一味に入って、弥勒苦薩の下生を待つ

ここでも弘法大師が五十六億七千万年後の弥勒菩薩の下生を待つとされています。
 
⑧これに関連して、鎌倉時代作の三重・大生院本弘法大師図には、次のように記されています。
卜后於高野之樹下 遊神於都率之雲上  不?日々之影向 検知処々之遺跡

書き下し変換すると
「高野山奥院に住居し、兜率天に遊神し、日々影向し、各地の遺跡を検知す」
意訳すると
「身は高野山に居き、神は兜率人に遊び、毎日現れて修行した遺跡を検知(巡礼)する」

となるのでしょうか。これが室町・江戸時代を通して弘法大師御形に、常套句として見られるようになります。この文は「日々影向文」と言われるものです。この起源については、
⑨ 賢宝(1333~98)の『弘法大師行状要集』第五に、
興然閣梨自筆記云、或御筆丈云、卜居於高野樹下。心神雖遊兜率天上 不?間日々之影向。検知処々遺跡、云々東寺定額勝実 善通寺別当下向讃州。件下有此御筆文ム。勝実閑梨岨醐頼昭アサリ弟子也。

とあり、寛治年中(1078~94)に、東寺の定額僧勝実が善通寺の別当として讃岐に勤務したときに、善通寺で大師御筆の「日々影向文」をみたと記します。
⑩ さらに『阿波国太龍寺縁起』には、
卜居於之□□高野樹下 遊神於都率之雲上。庶貨坐会之雲。不閉日々之影向。移大滝之月。検知処々之遺跡。

とあり、兜率天の雲上にありながら、大瀧山に移る月を見るように、四国霊場を今も見守っていると記します。この縁起は承和3年の真然選とされますが、それをそのまま信じることはできないようです。

以上から「日々影向文」は、『御遺告』などに基づき成立したことがが分かります。
これが盛んに使われ出すのは鎌倉時代中期になってからのようです。そして興然(1121~1203)や勝実などのことを考慮すれば、平安時代後期には、「日々影向文」は知られていたようです。「日々影向文」を記した『阿波国大龍寺縁起』が、21番札所の縁起となっていることは「処々の遺跡を検知」という信仰、つまり弘法大師が聖跡を巡るという信仰と同じ地平に建っていることを示します。
 以上から「弥勒下生の時、人定を出て、私の旧跡(四国霊場)をたずねよう」とすることは、『御遺吉』から展開してきたものであることが分かります。
 弥勒下生説は、弥勒が下生する時に弘法大師も高野山奥院の人定から出て、自らが修行した旧跡をたずねるというのです。しかし、これでは、弘法大師に逢うためには、五十六億七千万年後の弥勒下生の時まで待たなくてはなりません。
Discover 4 弥勒菩薩 | 仏像フィギュアのイスムウェブショップ

 そこで、四国辺路を廻ればすぐにでも弘法大師に出会えるという説が登場してきます。
 熊野修験者や廻国型・高野聖など弘法大師信仰者にとって、弘法大師の聖跡を廻る目的の一つは「日々影向文」にあるように弘法大師に出会うことでした。これが大師の修行地であるとされる八十八ケ所霊場を巡ることに発展したのではないでしょうか。近世になって庶民が辺路巡りをするようになると、その傾向が益々強いものになります。その要望に応えて「日々影向文」の内容が、右衛門三郎伝説の内容に変化し、さらに同行二人という思想を生み出しいったと研究者は考えているようです。

真念『四国偏礼功徳記』贅録の内容を再確認してみましょう              
 八十八ケ所霊場を巡る目的の一つに、弘法大師の遺跡(八十八ケ所霊場)を巡ることにより、大師に逢い奉ることが記されています。真念は、辺路の意義をしっかりと認識していたことは間違いありません。その背景や起源にある、弥勒下生信仰や人定信仰を継承していたとも言えます。
 このような弘法大師と弥勒との関係は、弘法大師の本地は弥勒菩薩だという考えを生み出します。
つまり弘法大師=弥勒菩薩説の始まりです。
ここから新たな弘法大師像が作り出されます。通常の弘法大師図は右手に金剛杵、左手に数珠を持ちます。しかし、弘法大師=弥勒菩薩説では左手に弥勒菩薩の持物である五輪塔が載せられます。こうしたスタイルの弘法大師像が江戸時代中期頃に作られるようになります。これが弘法大師の弥勒信仰の最終的な展開と研究者は考えているようです。
同行二人 密教の弥勒菩薩

四国霊場の中に、弥勒信仰はどのように残されているのでしょうか。
14番常楽寺は八十八ヶ所の中で唯一、本尊が弥勒菩薩です。その像高は八寸と云いますから30㎝足らずで、本尊としては本当に小さい仏様です。詳しい緑起などもなく、その来歴は不明のようです。
51番石手寺には、大師堂に隣接して弥勒堂があります。そこに安置される弥勒菩蔭坐像は、鎌倉末~南北朝ころの作とされ、この時期の弥勒信仰の四国への広がりを知ることができます。
65番三角寺は慈尊院と呼ばれ、境内に御堂があり、等身に近い弥勒如来が安置されています。ここでも、弥勒に対する信仰が一時期は大きなものがあったことがうかがえます。
讃岐に入って69番観音寺には、やはり弥勒菩薩が安置された弥勒堂があります。寂本『四国偏礼霊場記』の境内図にも描かれていて、現在もほぼ変わらぬ位置に建っています。
77番道隆寺には寂本『四国偏礼霊場記』の中に弥勒堂が描かれていますが、現在は弥勒像はありません。
 以上のように霊場寺院には、弥勒菩薩信仰の痕跡が残るのはわずかです。これ以外にも本堂や大師堂などの諸堂内に、弥勒菩薩の像があるはずです。例えば、竹林寺の大日如来坐像とされる宝冠を戴く像は、専門家は弥勒菩薩(如来)と考えています。八十八ケ所寺院でも弥勒信仰が広がっていた時期があるようですが、それは大きな流れにはならなかったようです。
弥勒信仰に基づく、弘法大師入定信仰を広めたのは誰なのでしょうか。
多くの研究者は、それは高野聖(こうやのひじり)達であったと考えているようです。高野聖にとって、四国の地に弘法大師人定説を広めることは、さほど難しいことではなかったかもしれません。
その例として、研究者は平安時代の歌人として著名な西行を挙げます。
彼を高野聖として位置づけたのは、五来重氏です。それは西行の「回国性・勧進・世俗性」などの特性を根拠としますが、重要なことは彼が長く高野山に滞住していたことです。仁安3 年(1168)十月、西行が讃岐を訪れた目的は、以前にお話ししたように崇徳上皇の墓前に詣でることと、弘法大師師誕生地や所縁地を訪ねることでした。
 実際に、西行は我拝師山で捨身行を行い、近くに庵を構えて何年も修行生活を送っています。そこには、弘法大師が幼いときに修行したところで自分も修行しているという思いが記されています。すでにこの頃には、高野山では弘法大師人定説が広がっていて、「日々影向文」のことも西行は知っていたはずです。弘法大師信仰者の西行にとって、弘法大師の聖跡地に詣でることは、重要な修行のひとつであったのでしょう。

  高野聖ではありませんが高野山と根求寺との紛争から責任をとり、仁治3年(1242 )に讃岐に流された高僧の道範も善通寺の傍らの庵に住みつきます。そして、弘法大師の聖跡や各地の真言宗寺院を訪ねています。
 このように高野山との直接的な交流の中で、弘法大師人定信仰は讃岐をはじめ四国内の諸国に、高野聖を通じて浸透したと研究者は考えているようです。

以上をまとめておきます
①弥勒菩薩がいる兜率天に死後生れ変わりたい、と望む上生信仰(じょうしょうしんこう)を空海は受けいれていた
②空海死後に高野山は「56億年の弥勒が下生するときには、大師も一緒に生まれ変わって姿を現す」という弥勒下生説を流布するようになる。
③そして弘法大師は亡くなったのではない。弥勒下生を願うために大師は、入定したとする
④「日々影向文」=「身は高野山に居き、神は兜率人に遊び、毎日現れて修行した遺跡を検知する」
 という「弘法大師=四国辺路巡礼現在進行形説」が生み出される
⑤そこでは、四国辺路を廻ればすぐにでも弘法大師に出会えると云われるようになる。
⑥熊野修験者や廻国型・高野聖など弘法大師信仰者が弘法大師に出会うために、大師の修行地であるとされる八十八ケ所霊場を巡ることになる。
⑦「日々影向文」の内容が、右衛門三郎伝説の内容に変化し、さらに同行二人という思想を生み出す。
⑧弘法大師伝説として新たな展開を示すようになった

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 参考文献   武田和昭 四国辺路と弥勒・入定信仰 四国辺路の形成過程 

1 讃岐古代寺院分布図
讃岐の古代寺院に使われていた瓦は、法隆寺瓦の流れをくむものが多いようです。どうして、讃岐には法隆寺の影響が色濃く及んでいるのでしょうか。そこからスタートしてみることにします。
法隆寺資材帳にみえる庄倉
   法隆寺資財帳には、天平19年(747年)から翌年にかけて奥書があり、その当時の法隆寺の総ての財産が詳しく書き出されています。そこには、全国にあった法隆寺の庄倉も記されています。まずは法峰寺の庄倉を列記した部分を見てみましょう。
1 法隆寺庄倉1
   『資財帳』には、法隆寺の庄倉のあった郡が上のように記されます。後から2番目の讃岐を見てみると「讃岐国十三處」とあり、13の庄倉があったことが分かります。

1 法隆寺庄倉 讃岐
設置された郡名として挙げられているのが
大内郡、三木郡、山田郡、河野郡、鵜足郡、那阿郡、多度郡、三野郡

の8郡です。特に那珂郡には3つ庄倉があったようです。お隣の伊予を見ると14です。そして、阿波・土佐にはありません。瀬戸内海に集中しているようですが安芸や周防などには ありません。庄倉史料を地図に落としていくと次のようになります。
1 法隆寺庄倉 3讃岐

どうして、讃岐・伊予に法隆寺の庄倉が、数多く設置されたのでしょうか。 松原弘宣氏は次のように記します。
① 4・5世紀における畿内王権の瀬戸内海交通の主ルートは摂津(難波)→吉備→讃岐→伊予→豊前・豊後であった。
②それを裏付けるものとして、斉明天皇が西征の際に、二ヵ月にも渡って、道後平野に滞在していることをが挙げられる。
③これは伊予松山が、当時の政情不安定な北九州を睨んでの前線基地的役割を果たしていた
確かに庄倉は、畿内王権の瀬戸内海交通の主ルートとされる
摂津(難波)→吉備→讃岐→伊予→豊前・豊後
に沿って置かれているようです。
伊予松山の久米氏の果たした役割は?
このルートの中で大きな役割を果たしたのが、道後平野を押さえていたのが久米直氏です。久米氏はいち早く畿内王権と結びつき、久米国造として大王近持氏族へと発展していきます。その立役者が伊予来日部小楯で、彼には、山部連の姓が新たに賜姓されます。これを契機に、久米直と大和の山部連の間に、「擬似的同族意識」が形成され、これが法隆寺との関係に発展していくと松原弘宣氏は考えているようです。

 法隆寺のある奈良県平群郡夜摩郷(=山部郷)や、法隆寺最大の所領がある播磨国西部には山部氏がいます。
山部氏は、法隆寺と関係の深い豪族です。例えば、法隆寺に献納された「命過幡」に寄進者としての山部連氏が見えます。ここからは、
伊予久米郡の久米氏=山部連 ー 大和国夜摩郷 ー 法隆寺
という繋がりがあったことがうかがえます。
 法隆寺が讃岐・伊予国に庄倉を設置することができたのは、大伴氏の力が大きい多いと研究者は考えているようです
それは、当時の「擬似的血縁関係=同族意識」の力によるようです。伊予国で大きな勢力を占めた久米氏と大伴氏は同族とされます。また、多度郡の佐伯氏も大伴氏を祖先を同じくするという同族意識を持っていたことは以前にもお話ししました。つまり、
大伴氏ー大和の山部氏ー伊予の久米氏ー讃岐多度郡の佐伯氏

は、同族関係にあると当時の人たちは信じていました。この「同族幻想」が大伴氏による法隆寺庄倉の設置に、大きな役割を果たしたと研究者は考えているようです。
 庄倉は、どんな性格の施設だったのでしょうか。
『大安寺伽藍縁起井流記資財帳』の庄の記載に、その手がかりとなる記録があるようです。大安寺の庄倉のあった地名が次のように列挙されます。
大倭国五處
一在十市郡千代郷 一在高市郡古寺所 一在山辺郡波多蘇麻 一在式下郡屋所 一在添上郡瓦屋
山背国三處
相楽郡二廠、一泉木屋阪井暑埴二町、東大路、西薬師吝木屋南白井一段許遇、北於大河之限、一棚會瓦屋、東谷上、西路、南川、北甫大家野之限、乙訓郡處。在山前郷
摂津国一處
在西成郡長汲郷庄内雄二町、東田、西海即船津、南百姓家、北路之限
 この記事の中で注目したいのが「瓦屋所」「瓦屋」です。
これは造瓦所と研究者は考えているようです。つまり、庄倉には付属施設として瓦を製造する窯を持っていたことがうかがえます。周辺の地方豪族が氏寺を建立する場合には、ここで作られた瓦が提供されたことが考えられます。
 その他「園地」「木屋所」「船津」の名称が見えます。これからは園地や木工製造所や「湊」の存在がうかがえます。こうした庄倉について、鬼頭清明氏は次のように指摘します。
「懇田を直接の庄園成立の舞台とするのではなく、庄倉における稲を中心とする動産の出挙、交易を媒介に経営されたという点で初期庄園より一層古い『庄』経営であったと思われる」

 つまり、庄倉とは必要な物資を交易で調達・集積し、それらを本寺へ運送する地域の集積運搬の拠点だったと研究者は考えているようです。
次に法隆寺の庄倉と、地域豪族の関係を探ってみましょう。
1 讃岐古代瓦

 鬼頭清明氏は法隆寺の伽藍の中で、7世紀に建立された西院伽藍の瓦に注目します。特に、軒瓦-複弁蓮華文軒丸瓦と忍冬唐草文軒平瓦で、法隆寺式と呼ばれている瓦です。この瓦文様と同じ瓦を使用した寺院址が伊予・讃岐の法隆寺庄倉の周辺から出てくるようです。
「法隆寺式軒瓦の分布は、大勢として資財帳の伝える庄倉・水田等の分布と対応関係にあるとみてよい」

と鬼頭清明氏は記します。法隆寺の庄倉を拠点に、讃岐には法隆寺式軒瓦を用いた古代寺院がひろまっていったようです。
讃岐の古代寺院から、法隆寺と同じ型から作られた瓦や同系列の瓦が出てくることをどのように考えたらいいのでしょうか。
 古代寺院建立は、伽藍配置から設計図、木組み、瓦、相輪、仏像政策などハイテクの塊で、地方豪族が単独で行えるものではありませんでした。瓦を初め寺院造営に必要なあらゆる技術が法隆寺などの巨大寺院か中央致権から提供されていたと研究者は考えているようです。
 天武・持統政権は古墳時代の前方後円墳のように、どの豪族にも寺院建立を許したわけではありません。中央政権の許可があって寺院は建立できるものでした。そうなると瓦を載せた本堂や五重塔は威信財としての機能を発揮するようになります。有力な地方豪族は、中央政府の許可を得て争って寺院建立を行うようになりますが、誰にでも認められたわけではなかったことは押さえておきます。
 最先端のハイテク技術を伴う寺院建立には、いろいろな技術の「地方移転」なしではできないことです。技術移転がどのように行われたをうかがうことの出来る「痕跡」が瓦のデザインになるようです。瓦文様にもランクがあって、誰でも自由にデザインを選べたようではないようです。地方豪族の寺院には、同時代の中央寺院に使用されていた瓦デザインは使用されていません。「型落ち」瓦が使われるのが通常なのです。どの瓦を使っているかで、建立した地方豪族のランクも分かるシステムになっていたようです。瓦を比較することで、いろいろなことが見えてくるようです。
 少し寄り道しました。法隆寺系の瓦が讃岐に多いことから何が分かるのかという点に話をもどします。
まず、瓦作りの技術者が大和から讃岐にやって来たことが考えられます
「造瓦技術の移動」=「造瓦工人の移動」があったはずです。法隆寺側が、讃岐に工人を派遣したか、または技術を法隆寺で修得した工人が、そのまま讃岐にやってきたかのどちらかでしょう。その拠点になったのが庄倉施設と考えられます。庄倉は税の貢納だけでなく、大和との人とモノの行き来が頻繁に行われていた先進文化の交流センターということになります。

古代讃岐や伊予が大和と密接なつながりをもっていたことは、出土する古瓦のデザインからも分かるようです。
讃岐で使われている瓦文様を次に見ていくことにしましょう。
 讃岐では、壬申の乱前後のから寺院造営が始まります。
初期の寺院創建時の瓦デザインは、どれも古新羅系の軒丸瓦と共通デザインです。例えば、宝寿寺の単弁無子葉蓮華文瓦等は、そのルーツは大和豊浦寺の瓦に求められると研究者は考えているようです。

1 讃岐古代瓦
初期寺院に続く第2グループの寺院の瓦を見てみると
②多度郡の仲村廃寺では、大和の川原寺創建時の瓦や法隆寺式の瓦にデザインのルーツがあるようです。
③寒川郡石井廃寺は、大和の石川精舎跡出土瓦と文様構成がよく似ています。
1 讃岐古代瓦no源流 大和山田寺
③香川郡の坂田廃寺、河野郡の開法寺、寒川郡の下り松廃寺、山田郡の宝寿寺、三野郡の妙音寺等では大和の山田寺系の軒丸瓦が出土しています。
第3グループに使用されている瓦を見てみましょう。
1 讃岐古代瓦no源流 藤原京
④7世紀後半の藤原京宿造営の前後には、藤原京の宮殿用軒瓦とによく似た軒瓦が寒川郡、三木郡、山田郡、香川郡等十九ヶ寺で使われています。この時期には三野郡宗吉瓦窯跡では、藤原宮所用瓦が当時の最先端技術を使った大工場で生産され、船で藤原京に運ばれていたことが分かっています。
1 讃岐古代瓦no源流 法隆寺
④『法隆寺資材帳』の庄倉があった所からは、那珂郡の宝輪寺跡、多度郡の仲村廃寺、善通寺、三野郡の道音寺の四ヵ寺から法隆寺式の軒瓦が出土しています。
⑤7世紀中頃の国分寺造営の頃には、阿野郡の讃岐国分寺、国分尼寺や山田郡の拝師廃寺で出土する軒瓦は、平城宮址や法隆寺所用の瓦とデザインがよく似ています。これは伊予も同じです。
1 愛媛県の法隆寺瓦

 瓦のデザインが地方へ伝わる場合には、つぎの3つのケースが考えられます。
①技術者が道具を持参して現地に赴き指導する場合、
②道具は不持参で現地謝達する場合、
③現地の須恵器工人等窯業経験のある人達を畿内の瓦工房に呼んで技術を習得させて帰国させ地方に瓦工技術を拡める場合
このような伝播スタイルの違いによって、微妙にデザインの変化がおきてくると研究者は考えているようです。
 法隆寺の庄倉と周辺の地方豪族には、次のような関係があったことが推測できます。
①法隆寺と庄倉のあいだで物と人との交流が頻繁に行われたいたこと
②交易ルート上の地方豪族が大伴氏を祖とする同族意識で結ばれていたこと
③地方豪族の古代寺院建立に法隆寺ネットワークに参加する中央豪族の協力があったこと
それでは、これを多度郡の郡長であった佐伯氏にあてはめて考えて見ることにします。
最初に見たように、那珂郡と多度郡には法隆寺の庄倉が4つあったことが「資財帳」からは分かっています。この庄倉と「法隆寺ー佐伯氏」に絞り込んで考えてみましょう。
①4・5世紀における畿内王権の瀬戸内海交通の主ルートは摂津(難波)→吉備→讃岐→伊予→豊前・豊後であった。
②讃岐の丸亀平野において、その拠点となったのが丸亀平野の佐伯氏であった。
③大伴氏 ー 大和・山部氏 ー 伊予・久米氏 ー 讃岐・佐伯氏 ー 播磨・佐伯氏
という大伴一族という同族意識を背景に、この交易ルート沿いに法隆寺の庄倉が置かれる。
④多度郡には多度津周辺に法隆寺の庄倉が置かれた。
⑤そこから佐伯氏は、先進文化や技術を吸収し、寺院造営技術も手に入れた
このような佐伯家の活動の背景には、海運活動を活発に行っていたことがあったと考えられます。善通寺に居館を構える佐伯氏は、弘田川を通じてその河口に「外港」である多度津港(白方津)を管理下にしていたとされます。これは、佐伯氏の祖先が有岡に大墓山古墳などの前方後円墳群を作り続けていた時代からのことです。

 『延喜式』では、四国は南海道に位置づけられ、京と各国との行程を次のように記します。
  阿波国 行程上九日、下五日、海路十一日。
  讃岐国 行程上十二日、下六日、海路十二日。
  伊像国 行程上十六日、下八日、海路十四日。
  土佐国 行程上世五日、下十八日、海路廿五日。
 と記されています。これは平安京への日程ですが、平城京への行程も、ほぼ同じ日数で貢納物を運んでいたようです。多度郡の佐伯氏の場合は、国の調庸は府中にある国衙に集められて国津より積み出されたようです。しかし、法隆寺への貢納物は、おそらく多度津(白方湊)から船で運ばれていたと研究者は考えているようです。
そして、畿内の終着港は古代の住ノ江港です。
住吉神社と住吉津

空海の父である佐伯田公は、このような海運活動を展開し、畿内と結びついていた人物であったことが考えられます。そして、住ノ江港には佐伯氏の別邸があり、そこには倉庫群も建ち並び、瀬戸内海を舞台に活発な海上交易活動を展開していたと考えることも出来そうです。
 そうだとすれば、空海の父田公は位階を持たずに、空海の弟たちの代になって位階を手ににいれるようになるもの頷けます。そこには佐伯家の傍流でありながら交易活動で急速に経済力を付け台頭してきた田公の姿が見えてきます。
1 阿刀氏の本貫地

その活動の中で、摂津を拠点とする阿刀氏の娘と婚姻関係を結び、真魚(空海)が産まれた物語も現実味をもった話になってくるように思えます。
 今回は、佐伯家の海上交易活動が4世紀頃までに遡る可能性があることを、法隆寺の資財帳に残された庄倉から探ってみました。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
松原弘宣 法隆寺と伊予・讃岐の関係 古代瀬戸内海の地域社会所収 吉川弘文館
鬼頭晴明 法隆寺の庄倉と軒瓦の分布 古代研究11(1977年) 

 「四国遍路を世界遺産に!」というスローガンの下に、遺蹟や遍路道の調査が進められ、その調査報告書もたくさん出されるようになりました。同時に四国の各大学でも四国霊場に関する文献研究が進められ、その成果が論文となって出されています。
それでは、研究者たちは、四国遍路の成立をどのように考えているのでしょうか。  その到達点をのぞいてみましょう。
テキストは、胡光「山岳信仰と四国遍路」「四国遍路と山岳信仰」所収 岩田書院です。

 四国遍路と言えば、お大師さんの遺蹟を訪ね、本堂と大師堂にお参りする巡礼方法です。お遍路さんが「同行二人」や「南無大師遍照金剛」の文字を身にまとう姿が直ぐに思い浮かびます。しかし、このような装束も戦後のものであること研究者によって明らかになってきました。
 そして、いろいろな山岳信仰が先にあって、江戸中期から明治時代にかけて大師堂が建てられるようになります。つまり、大師信仰は霊場には後からやってきたと研究者は考えているようです。例えば、現在の四国霊場を見ても、真言宗以外のいろいろな宗派が含まれています。
  【資料1】現在の四国霊場八十八ヶ所
真言宗79 真言律宗 1  天台宗 4  時宗 1
臨済宗 2 曹洞宗 1
大師信仰に関係のない宗派がなぜ霊場になっているのでしょうか。
①真言密教系修験者によって開かれてお寺さんが、後に改宗した
②修験者が行場とする山岳宗教の拠点寺院に、弘法大師信仰が後から持ち込まれた
の二つが考えられます
明治の神仏分離以前には、次の神社も札所に含まれていました。
 近代(明治維新)の札所変更(数字は札所番号)
③一宮 → 大日寺  ? 一宮 → 善楽寺 
?五社大明神 → 岩本寺 ?稲荷宮 → 龍光寺 
55 三島宮→南光坊 57 八幡宮→栄福寺 62一宮→宝寿寺 
68 琴弾八幡宮→神恵院  83 一宮→一宮寺
   ここからも札所を「弘法大師伝説」や「旧蹟」だけで、とらえることはできないことが分かります。最近は四国霊場の成立を、次のような2段階説で説明するのが定説のようです。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする

それでは、四国霊場を成立させたのは誰なのでしょうか
それは、山岳信仰に関わる修験者たちだったようです。
  四国遍路に関わる古い文献は、平安時代木の『今古物語集』と「梁庫秘抄』です。
『今昔物語集』(平安時代12世紀初)には、
四国の辺地を通りし僧、知らぬ所に行きて馬にうちなされたる。」
「今昔、仏の道を行ける僧、三人伴なひて、四国の辺地と云は、伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻也。其の僧共、其を廻けるに思ひ不懸ず山に踏入にけり。深き山に迷にければ、浜の辺に出む事を願ひけり。」
意訳すると
今は昔、仏の道を行う三人の僧が一緒に、四国の辺地と云われる伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺を廻っていました。その僧たちは辺路を廻っているときに。思いもかけずに深い山に踏み入り、道に迷ってしまいました。浜の方に出たいと願い・・・」
 ここからは、仏の道を修行する僧たちが歩いた伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺の道を「四国の辺地」と呼んでいたことが分かります。
四国辺路1

 辺地(路)の様子をさらに具体的に示しているのが後白河上皇が集成した俗謡集『梁塵秘抄』です。
「我等が修行せしやうは、忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ常にふむ。」
とあります。
「忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負」うて、四国の辺地を踏む修行僧たちがいたことが分かります。

四国辺路3 

 鎌倉時代初期の戦記物語である『保元物語』にも「仁安三年(1168)の秋のころ、

「西行法師諸国修行しけるが、四国の辺地を巡見の時、讃岐国に渡(り)」とか、「此西行は四国辺路を巡見せし」とあります

 このように平安・鎌倉時代の「四国辺地(路)」に、プロの宗教者である修行僧が修行ゲレンデを求めてやってきていたのです。このような中に、若き日の空海の姿もあったのかもしれません。
IMG_0924

「四国辺路(遍路)」(ヘンロ、もしくはヘジ)の文字が最初に登場するのは、「醍醐寺文書」です。
  【資料5】「仏名院所司目安案」(醍醐寺文書、鎌倉時代、弘安年間(1278~88))
一 不住院主坊事者、修験之習 両山斗敷、滝山千日、坐巌窟冬籠、四国辺路 三十三所、諸国巡巡礼遂共芸、
「(前文略)四国辺路、三十三所諸国巡礼(下略)」
この中では、修験の習いとして挙げられているのが次の3つです。
①山岳修行
②西国33ヶ所巡礼
③四国辺路
 ここからは修験者たちが修行のために、全国各地の霊山で修行を重ねると同時に、西国33ケ寺観音霊場や四国辺路にもやって来くるなど「諸国巡礼」を行っていたことがうかがえます。これらの「巡礼」は、写経などと同じ修行の一貫でした。四国辺路は修験者にとっては、自分の修行や霊力アップのためには是非行ってみたい聖地でもあったのでしょう。

神奈川県の碑伝【資料6】にも、熊野本宮長床衆の修行のひとつとして「四国辺路」が次のように記されています。
  神奈川県「八青神社碑伝」(鎌倉時代正応四年(1291)
秋峯者松田僧先連、小野余流、両山四国辺路斗敷、余伽三密行人、金剛仏子阿閣梨長喜八度 □庵、正応四年辛卯九月七日、小野、滝山千日籠、熊野本宮長床[衆]竹重寺別当生年八十一法印権人僧部顕秀初度以上三人
  ここからは13世紀末に、熊野の修験者(長床衆)が、修行のために四国辺路にやってきていることが分かります。
 南北朝時代になると、四国側の史料にも、熊野修験者の修行のひとつに「海岸大辺路」が見られるようになります。
  徳島県「勧善寺人般若経奥書」(南北朝時代、嘉慶2年1388)
嘉慶弐年初月十六日、般若菩薩、十六善神、三宝院末流、滝山千日、大峰葛木両峰斗敷、観音三十三所、海岸大辺路、所々巡礼、水木石、人壇伝法、長日供養法、護摩八千枚修行者為法界四恩令加善云々…熊野山長床末衆

  ここでも大峰山や葛城山や観音三十三霊場と併せて「海岸大辺路」が修行場として選ばれています。「海岸大辺路」というのは、熊野の辺路も考えられますが、「四国辺路」の可能性の方が強いと研究者は考えているようです。
 ここでも「熊野山長床床衆」が登場します。熊野信仰の修験者が四国で、辺路修行を行っていたことは確かなようです。
 そして、南北朝時代までは、四国辺路の史料に空海の名前は出てきません。では、熊野信仰の修行場に大師信仰を加えていったのは、誰なのでしょうか

研究者の間で注目されているのが、増吽僧正です。
増吽は、現在の香川県東かがわ市与田寺を本拠として、讃岐・備前・備中などの荒れ果てた寺院を次々に復興再興し、弘法大師の再来と言われた名僧です。中央にも名が知れ、熊野へも度々の参詣していますし、地元をはじめ四国各地へ熊野三社の勧請を行っている記録が残ります。
 熊野とかかわりの深い増吽は、大師信仰に何らかの関わりがあったのではないでしょうか

四国辺路3 弘法大師
研究者が注目するのが「善通寺御影」と呼ばれる大師像です。鎌倉時代の善通寺にあつたと紹介されたことから名づけられたもので、大師が釈迦如来に出会って悟りを開く様子が描かれていいます。この絵図が、増吽が活動した讃岐と吉備の寺には、よく残つているのです。
 これらの「善通寺御影」の裏書には、増吽の名が記されているものがあります。ここからはの図像を使って、わかりやすく民衆にも大師信仰を語ったのではないかという推察ができます。そうだとすれば、修験者の辺路修行から民衆の八十八ヶ所遍路への転換ポイントを果たしたひとりが増吽ということになります。
   
大師信仰が「四国辺路」に見え出すのは、中世末期の戦国時代になってからのようです。
現在の札所には、約500年前の室町時代の落書きが残っている所があります
讃岐国分寺(80番札所)本尊の下身の落書に
「弘治三丁巳(1558)六月二八日、四国中遍路 同行二人」
「大永八年(1528)五月二十日安芸宮嶋宮之浦同行四人 南無大師遍照金剛」(永正十年(1513)四国中辺路
とあります。落書きを残した四国中辺路を巡る修験者の姿が見えてきます。そして、注目したいのは「同行二人」「南無大師遍照金剛」と弘法大師伝説とつながる言葉が見えます。彼らには自分たちが弘法大師と共に、その旧跡を歩いているという実感があったことがうかがえます。つまり、ここにきて初めて弘法大師の姿が見えてくるのです。
16世紀に残された落書きで、研究者が注目するのは「四国中辺路(遍路)」という言葉です。
「中辺路」とは、一体何なのでしょうか?
  時代は下って、江戸・元禄期の案内記「弘法大師御伝記」元禄元年(1688)に
四国八十八ヶ所の札所を立て、坂の数四百八十八坂、川数四百八十八瀬、惣て四百八十八里、大辺路七度、中辺路二十一度、小辺路三十三度成る、

と四国八十八寺霊場が登場し「大辺路」「中辺路」「小辺路」と三種類の辺路が記されています。ここからは、四国遍路が八十八ヶ所となるには、大辺路・中辺路・小辺路という熊野信仰からの影響があったことがうかがえます。
  また同じ年に出版された『奉納四国中辺路之日記』(元禄元年(1688)には
合八十八ケ所 道四百八十八里、川四百八十八川、坂四百八十八坂、空[海](印)
元禄元年土州一宮 長吉飛騨守藤原
  とあります。表題が「四国中辺路之日記』ですから「八十八ヶ所巡礼=中辺路」とされていたことが分かります。
それでは、「大辺路」とは何なのでしょうか。
澄禅『四国辺路日記』を読むNO1 江戸時代初めの阿波の四国霊場は ...

四国遍路を確立したとされる真念より早い承応三年(1653)の澄禅『四国辺路日記」(仙台塩竃神社蔵)には、八十八ヶ所は登場しますが番付はありません。そして、八十八ヶ所に大三島の大山祗神社や石鎚山が含まれています。さらに奥の院や金毘羅大権現など八十八ケ所以外の寺社も入っています。そして、真念の遍路道よりはるかに道程が長いのです。これが「大辺路」で、中世の辺路修行の名残をとどめるものではないのかと研究者は考えているようです。.
 そして、澄禅が記すように、修行のプロが修行した危険な場所は、時と共に避けられるようになります。そして、素人の巡礼者は「八十八ヶ所=中辺路」のみを巡るようになっていったのではないかというのです。
四國遍禮道指南 全訳注』(眞念,稲田 道彦):講談社学術文庫|講談社 ...

 道標や遍路宿を創設して、最初の四国遍路ガイドブックを版行した真念は、大坂寺嶋の高野聖と云われます。その著作中には、空海生誕地を多度津の海岸寺周辺とする不適切な「世間流布ノ日記」に対して怒りを表現していることは以前お話ししました。
 「空海=多度津海岸寺生誕説」は、真念の案内記『四国辺路道指南』とほぼ同時期に土佐一宮で出版されています。善通寺文書の中には、これらの土佐一宮で出された「日記」(ガイドブック)が、実質的には讃岐海岸寺(香川県多度津町)が刊行し、石手寺周辺(愛媛県松山市)で販売したものだと記す包紙が残っています。海岸寺は、江戸時代に大師誕生地の名称をめぐって善通寺と争う古利です。
  ここからは、八十八ヶ所の形成記には、真念たち高野聖とは別のグループが海岸寺や土佐一宮にあって、ともに異なる主張で八十八ヶ所を広めていったと研究者は考えているようです。つまり、八十八ヶ寺のメンバーは、まだ確定はしていなかったのです。
 この背後には、真念のような高野聖や真言系修験者の動きが見えます。弘法大師大師伝説が、しっかりと霊場に根を下ろし始めたことも分かります。
 以上をまとめておきます
①初期の四国辺路は、熊野信仰に代表される山岳修験者たちの修行ゲレンデであった。
②そこには、熊野信仰に基づく熊野修験者たちの活動は見えるが、弘法大師伝説は見えない。
③修験者たちは山岳修行の一環として、西国三十三霊場や四国辺路(地)を巡る修行を行っていた④四国辺路は長さによって「大辺路」「中辺路」「小辺路」と三種類に分類されていた。
⑤その内の危険が少ない「中辺路」が「四国遍路」になり素人が巡礼を始める。
⑥そこに高野聖や真言系密教修験者たちが影響力を行使し、弘法大師伝説を付け加える
⑦そのため四国霊場の初期段階は、番付やルートなども流動的であった。
ここからは「四国辺路」の時代には、あくまでプロの修験者たちの行場であり、すべての霊場が弘法大師伝説を持っていたのではないことが分かります。それが16世紀頃から弘法大師伝説が四国辺路に加えられていき、17世紀になって「四国遍路」が形作られていくことになるようです。
最後に「四国八十八ヶ所」の「八十八」という数字は何に由来すると研究者は考えているのでしょうか。
「八十八所」の初見は、室町時代後期の高知県本川村鰐口の記録とされてきましたが、内田九州男氏によって疑問視されて以後は定説ではなくなっています。江戸時代の真念は、八十八の由来について「煩悩説、厄年説、仏数説」などを出しています。
四国〓礼霊場記(しこくへんろれいじょうき) (教育社新書―原本現代訳 ...
弟子の寂本はその著書の 【資料15】寂本『四国偏礼霊場記』(江戸時代、元禄2年(1689)で
  八十八番の次第、いづれの世、誰の人の定めあへる、さだかならず、今は其番次によらず、誕生院ハ大師出生の霊霊跡にして、偏礼の事も是より起れるかし、故に今は此院を始めとす、

 と「八十八の次第はさだかならず」とします。いまから300年前には、すでに分からなかったのです。
  それでは、今の研究者たちはどう推理するのでしょうか。
注目するのは、熊野九十九王子との関連です。
  これまで見てきたように、四国霊場と熊野は深い関係にあります。そこで、八十八ヶ所の成立にも、熊野の影響が強いのではないかと研究者は考えます。そして「八十八」と「熊野」を結びつける物を挙げていくと、姿を現すのが熊野本宮の「牛王宝印」だというのです。これは中世や近世の起請文にも使用されたもので、当時はよく知られたシンボルマークでした。

四国辺路4 師
 
「熊野山宝印」と書かれたカラス文字のカラスの数は八十八羽です。熊野先達によって神札としても広められたので、民衆にも広く受け入れられていました。同時に「八十八」は、信仰的な数字としてのイメージもあったようです。これを証明する文献史料は、今のところありません。あくまで仮説のようです。しかし、私にとては魅力的に感じる仮説です。

四国辺路4 熊野牛王

 おつきあいいただき、ありがとうございました。

 
  満濃池の築造については、
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」
というのが、一般的に語られている話です。 
 それでは、どんな資料に基づいているのでしょうか?
貴重資料画像データベース | 龍谷大学図書館

空海の満濃池築造説を伝えているのは、日本紀略(にほんきりゃく)です。平安時代に編纂された私撰歴史書で、その範囲は神代から長元9年(1036年)までで、成立時期は11世紀後半から12世紀頃ですが詳細は不明で編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないようです。
満濃池築造については「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に次のようにでてきます。 
讃岐国言、始自去年、提万農池、広大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、
若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之         
讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。
これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。
もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。
伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。
さらに現代語に意訳すると
「讃岐国司が朝廷に対して次のように求めた。昨年より築堤を開始しているが、池が工大(広大)であり、人員不足により築堤工事に困難を極めていたため、讃岐国出身で民から父母の如く恋い慕われた空海を修築の別当として派遣して欲しい。
 讃岐国司の清原夏野が満濃池修築の別当として、空海の讃岐帰国を奏上する有名な文章は、日本紀略に記されているのです。つまり、空海亡き後2百年後に書かれたもので同時代文書ではないのです。しかも書かれている内容はこれだけです。ここには護摩壇岩で護摩祈祷をしたことなど、讃岐に帰国して、満濃池修築にあたった様子は何も記されていません。
満濃池
満濃池後碑文

これに対して、空海=満濃池築造
関与をうかがわせるのが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)です
これは名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されているもので、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されています。この時点で、萬農池の歴史を振り返った碑文と考えられています。 碑文の内容は、
1 満濃池の築造の歴史
2 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(八五一~八五四)に行った築造工事の概要
3 最後に、その際に僧真勝が行った修法について
ちなみに碑文全文字が437字で、その6割強にあたる269字を使って、弘宗王の修造工事の概要を述べていて、最後の103字が僧真勝が行った修法の記述に宛てられています。ここから内容的には弘宗王の顕彰碑文であることが分かります。具体的に碑文を見ていきましょう。

萬濃池後碑文[建仁元年(一二〇一)】

満濃池後樋文
   満濃池後樋文

          満濃池後樋文を読み下し文に改めたものを挙げておきます。
この池は大宝年中、国守道守朝臣の築くところなり。
旧記位名を汪(記録)せず。空しく以て嵯歎(さたん=嘆かわしい)す。古人伝えて云く、この堤前世類れ破ると、しかれども文書綸亡して、その実知りがたし。近曽弘仁九年流れ破れ、再び官使を下して、三年の内にすなわち築きなす。
意訳変換しておくと
この池(満濃池)は、大宝年中に讃岐国守の道守朝臣が築いたものである。ところが以後の記録には、それが記録されることもないのは、嵯歎(さたん=嘆かわしい)ことだ。古人伝えて云うには、この池の堤防は何度も決壊しているのに、文書に残っていないので、その実態が伝わっていない。最近では弘仁9年にも決壊し、再び官使を讃岐に下して、三年の内に再築した。
これを要約しておくと
①満濃池は大宝年中(701~704)年に、国守道守朝臣によって築かれた
②その後、
満濃池は何度も決壊したが記録が残っていないので実際のことが伝わっていない
弘仁九年にも決壊し、この時には官吏によって3年以内に再築された。
③の部分が先ほど見た「日本紀略 弘仁十二年五月二十七日条」の空海の登場と一致します。さて、これからが空海の登場かと読み進んでいくと、「萬濃池後碑文」の弘仁九年の記述はこれだけです。わずか漢字一八字のみです。空海の文字は、どこにもでてきません。この史料からは、この時の修復工事を空海が行ったとは云えません。空海=満濃池不関与説を裏付ける史料と云われる由縁です。

そして、讃岐国主の弘宗王が行った築造工事に移ります。
仁寿元年之秋、天下大水超堤上、少剋之間、掃底而流、国中之池大小悉破、一年春有大疫。又荒餓、今茲旱魅八十余日、国虚耗、民無所拠、秋八月権守正五位下弘宗王、含朝之倫旨、在残害之百姓、即巡諸郡、検察損物、兼悠愁苦之民間、
閏八月朔 抒破水 内盤石、始発使失二千余人、平築堤本、五日而上、起自十月上旬 発夫千以下、輪転令築、此苦各築諸郡破堤、三年二月朔、大発約失六千余人、限約十日、戮令築、十一日午剋、大功已畢、爰水(頑)猶高 不可益害、
是以明年春三月、発夫二千余人、更増一丈五尺、通前八丈、
其成事之舷、以俵薦六万八千余枚、嚢口土填深処、由比其功早遂、声満天下、惣公夫単一万九千八百余人、所用物数一 
千几見聞之中、只記大綱、細々之事不題注、
書き下し文にすると
仁寿元年の秋、天下大水、堤上を超え、少剋の間、底を掃いて流る。国中の池大小悉く破る。二年春大疫あり。又荒饑す。今、ここに旱魃八十余日、国既に虚耗して、民拠るところなし。秋八月権守正五位下弘宗王、朝の綸旨を含み、残害の百姓に莅(のぞ)む。すなわち諸郡を巡り、損物を検察し、兼て愁苦の民間を愍む。閏八月朔、始て使夫二千余人を発し、平に堤本を築き、五日にして上る。十月上旬より起こりて、夫千以下を発し、輪転して築かしめ、ならびに水門の盤石を破る。この苦各々諸郡の破堤を築く。三年二月朔、大いに役夫六千余人を発し、限るに十日を約して、戮あわせて築かしむ。十一日午剋、大功已に畢る。爰に水内猶高し。害なかるべからず。、是を以て明年春三月、夫二千余人を発し、更に一丈五尺を増す。前に通じて八丈、その事をなすの体、俵薦六万八千余枚を以て、沙土を嚢んで深き処に填む。これによってその功早く遂ぐ。声天下に満つ。惣公夫単一万九千八百余人、用いるところの物数一千二万余束、およそ見聞の中、ただ大綱を記す。細々の事題を注せず。老僧恭くも国請に応じ、三僧を率い随いて、始より終まで作法練行す。これにおいて仏力を蒙るによって、それ民恙(つつが)なし。国司欣悦して、官に申し上ぐ。聖主衿愍して、満海岳の恩を施したもう。本、所望にあらず。しかるに太守賢君、宵衣公に勤め、肝食疲れを忘れ、口に秘密の真言を唱え、内外、処分の内に、国楽しみ、民富む。海岳と謂うべきは、虚実王祥に頼る。
寛仁四年歳次庚
意訳変換しておくと 
仁寿元年の秋、国中に大洪水が起こって、水は堤の上を超え、しばらくの間に底を掃って流れた。国中の池が大小ことごとく破れた。二年春、悪い病気が大流行して豆がらも成長しなかった。その上、干ばつが八十余日続いて讃岐国内には食べるものも乏しくなり、人々は頼るところもなかった。
 そこで秋八月、権守正口位弘宗王が、讃岐国主となって惨害に苦しんでいる百姓を治めることになった。早速諸郡を巡って災害の程度を調査し、兼ねて愁い苦しんでいる人々を慰撫した。
潤の八月一日、初めて役夫二千岳人を出して、堤を築かせ、五日にして上り起った。十月上旬からは人夫六千人を出し、車の輪がくるくるまわって止まらないように休む暇なく築かせ、大岩石を破って水門を築いた。このような苦しい作業を続けて、破れていた堤を築くことに成功した。
 三年二月一日、大いに役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。 このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。
 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない。
これに続いて、僧真勝の修法と、この修造工事が各階層の人々に喜ばれたことを述べて碑文は終わっています。 もう一度繰り返しますが、この碑文には空海については、何も触れられていません。それよりも仁寿年間の(851~54)に讃岐国守弘宗王が行った築造工事を取り上げ、その成果と功績を讃える内容になっています。これをどう考えればいいのでしょうか。 

弘宗(ひろむね)王とは何者?

弘宗王は、天武天皇の皇子舎人親王の後裔のようです。各地の国守を歴任したキャリアでもあるようです。853(仁寿二)年2月28日、丹波守から転じて讃岐国守として讃岐にやってきます。「萬農池後碑文」によれば着任後に満濃池の修復工事を行った事になります。その功績が認められたのでしょうか、860(貞観2)年正月16日には右京大夫に、同年8月26日には大和守に任じられています。
 貞観四年、右大臣藤原良相は上書して「地方政治を振興するためには人を得ることが肝要である」と述べ、五人の地方官の名を挙げていますが、その一人に弘宗王が選ばれていて、次のように推薦しています。 
「大和守弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方妁政治について、見識をもった人物である。」
その後弘宗王は、貞観七年正月二十七日、散位従四位下を賜り、弘宗王は越前守に任命され、それから四年間、越前守としてその任にあっています。
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、地元のまんのう町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、低い評価を彼にはしているようですから

「萬濃池後碑文」の撰者は? この碑文が作られた背景は?

 弘宗王が讃岐権守に任じられる前年に、彼の子供(男子八人)の王号を改めて、中原真人の姓を賜りたいと申し出て許されています。その後、中原真人の姓をもらった一族のなかからは、朝廷に仕えて文筆の家として活躍する人たちが輩出します。そのため祖先の弘宗王を顕彰するために、その子孫たちが建てた石碑の写しというのが現在考えられている所のようです。
「日本紀略」と「萬濃池後碑文」の記事を年表にして、前後関係を見ておきましょう
大宝年間(701)讃岐国主道守朝臣 満濃池を築く    |
818 弘仁9   万農池が決壊、官使を派遣させ修復させる。
820 弘仁11  讃岐国守清原夏野が、朝廷に築造使の派遣申請・修復着工
821 弘仁12  5月27日、工事難航のため、改めて築池別当として空海の派遣を要請。7月からわずか2か月余りで再築完了。
851 仁寿1 秋 大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852 仁寿2   讃岐国守弘宗王が閏8月より万農池の復|日開始
   翌年3月竣工。夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚使用。(萬濃池後碑文)
881 元慶5  萬農池神に従五霞授けられる。(三代実録)
947 天暦1 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、満濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
1020 寛仁4 萬濃池後碑が建立。(萬濃池後碑文)           
       この頃「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される

            「今昔物語集」に満濃池が登場する。
1184  元暦1 5月1日、満濃池、堤防決壊。
この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。 池の内に集落が発生し、池内村と呼ばれる
年表から分かることは?
① 「萬濃池後碑文」の弘仁9年(818)の決壊は『日本紀略』の弘仁12年(821)の築堤に一致します。ここからは「萬濃池後碑文」の伝える大宝年間(701-704)までさかのぼることは出来ないかもしれませんが、それ以前に「原」満濃池があったことはうかがえます。築造を否定することはできないようです。
② 空海が係わった弘仁12年(821)の修築後も満濃池は破堤しています。
「萬濃池後碑文」は仁寿元年(851)秋、大雨により満濃池をけじめ讃岐国中の池が決壊し、国司(権守)弘宗王は諸郡の池を修築を進めて、仁寿4年(854)に満濃池の修築を完了したと記されています。 
古代史料における決壊・修築の記事はこの2回です。
時代は下りますが幕末の『讃岐国名勝図会』は、治安年間(1021-24)の改修後の元暦元年(1184)の大洪水により破堤したあとは、修築されず田地となったといいます。  

「萬濃池後碑文」に空海が登場しないのはどうしてか?

 「日本紀略」と「萬濃池後碑文」は11世紀前半に相前後して成立した文書です。前者が大きく空海を取り上げ、後者がまったく触れないのはどうしてでしょうか。
 「萬濃池後碑文」の選者の立場として
① 「空海=満濃池築造説」を知らなかった。
② 讃岐国守弘宗王の顕彰のために「空海」を登場させなかった 
現在の「空海=満濃池築造説」では②が指示され「萬濃池後碑文」は偽書であるとか、内容に大きな問題があり、取扱に注意すべきであるという立場を取る専門家が多いようです。
しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関しての「物語的・演劇的」な内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。
少し遅れて11世紀後半に成立する今昔物語には「空海=満濃池築造説」に従う物語が2つ取り上げられています。
この背後には、弘法大師伝説の普及があります。当時の大師信仰を信じる真言密教の僧侶や修験者にとっては、「萬濃池後碑文」の内容は受けいれがたいものだったのかもしれません。その「反撃」の流れの中で日本紀略の満濃池築造の記述は、この時期に記されたという仮説は考えられます。
 以上

参考文献 萬濃池後碑文 満濃町誌(116p)


虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか?

麻生祇 燐 の オカルトコレクション: 虚空蔵求聞持法
空海が出家するきっかけとなった虚空蔵求聞持法の継承ラインが
「道慈→善儀→勤操→空海→勤操
であるという大和岩雄「秦氏の研究」を前回は見てきました。
虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか? 素人ながらその闇の中に分け入って「迷子」になってみようと思います。

まずは、虚空蔵求聞持法をインドから請来した善無畏三蔵

善無畏三蔵図 - 埼玉県飯能市 真言宗智山派 円泉寺
(インド名、シュバカラシンバ)について見てみましょう。
『宋高僧伝(巻二)』によれば、
三蔵はインドですでに虚空蔵求聞持法など密教の奥義を極めており、中インドに大旱のあったとき、請われて祈雨によって雨をふらせています。また、金を鍛えて貝葉のようにして大般若経を書写し、銀を型に入れて鎔して卒塔婆を仏身と同じ量に作り、寺で銅を鋳て塔を建てた、
とあります。
  「祈雨によって雨をふらせ」という雨乞い祈雨は、後の空海にもつながっていくものです。 「銀を型に入れて鎔して」からは、冶金・鍛冶術を身につけていたことが分かります。   

虚空蔵求聞持法には具体的に、次のような「技術」が書かれています。

「牛蘇一両を取りて執銅の器の中に盛り貯え、並に乳ある樹葉七枚及び枝一条を取りて壇の辺に軋どけ、華香等の物、常の数に加えて倍せよ。供養の法は前に同じ。供養し我ごて前の樹葉を取り、重ねて壇の中に布の上に置いた葉の上に於て酪器を安置せよ。手印を作りて陀羅尼三遍を誦して此の酪を護持せよ。また樹の枝を以て酪をまぜて其の手を停むる刎れ。目に日月を観ご兼ねてはまた酪を看よ。陀羅尼を誦して遍数を限ることなし。初めて蝕するより後に退して未だ円たざる已来に、其の酪に即ち三種の相現ずることあらん。一には気、二には煙、三にはに喰り。此の下中上の三品の相の中に、隨いて一種を得ば、法即ち成就す。この相を得已りぬれば便ち神薬と成る。
酪は蘇とも書き、牛または羊の乳を煮つめて作ったもので、牛酪は一斗の牛乳で一升できるといいます。この求聞持法の工程は、漆塗りの工程に似たところがあるようです。 

前回も記したように、虚空蔵求聞持法をはじめて列島に伝来したと伝えられる道慈は、

渡来系秦氏と関係の深い額田氏出身で、大和郡山市額田部寺町にある額安寺は額田氏の氏寺です。この寺は道慈が自ら彫刻した虚空蔵仏を本尊とします。求聞持法の「神薬」製法には、額田氏のもつある技術と重なるものがあったといいます。それが道慈が虚空蔵求聞持法に興味をもった理由かもしれません。それは何でしょうか?

 虚空蔵求聞持法の伝授は、経文に書かれていることだけなら経文を読めばいいのですが、経文に秘められた奥義は、師からの口承による伝授でした。

 道慈の一族は、鍛冶・鋳物集団の「工巧」で、その職業的な原点が師のインド僧善無量から求聞持法を学んだ動機だったとも考えられます。
 とすれば、豊前「秦王国」の秦氏系辛島勝の本拠地に建てられた九州最古の寺が虚空蔵寺であることと、香春岳の銅や八幡信仰の鍛冶翁伝承は、無関係とはいえません。虚空蔵信仰は、鍛冶鋳造にかかわる人と結びつく要素が強かったようです。 

宇佐八幡の神宮寺であった虚空蔵寺の座主は、弥勒寺の座主になった法蓮です。

法蓮は、医術に長じていて虚空蔵求聞持法の「神薬」製法をマスターしていたようです。この「神薬」の効用を虚空蔵求聞持法は、
「若し此の薬を食すれば即ち聞持を獲て、一たび耳目に経るるに文義倶に解す。之を心に記して永く遺忘することなし。」
と記し、知恵増進は、記憶力の増進・強化で、更に
「諸余の福利は無量無辺なり」と、福徳を述べ「始めてより却退し円満するに至るまでの已来に、三相若し無くんば法成就せず。徹更に初めより猷め而も作すべし」
と記します。
三相(気・煙・火の三品の相)が成就しなかったら、はじめからやり直せというのです。そして、七遍すれば
「極重の罪障あれども、亦みな鎔滅して法定んで成就す」
と述べ、罪障消滅の功徳も記しています。知恵増進と福徳は「神薬」を飲んだ結果ですが、飲まなくても、この法を「七遍」もくりかえしおこなえば、罪障消滅はできるというのです。
  もちろん、この牛酪の呪法は、その前に陀羅尼を百万辺誦習するという難行が前提です。 
嵐山の法輪寺を開山した空海の弟子道昌が、虚空蔵求聞持法を百ヶ日修したのは、百万辺の誦習のためです。
しかしその後、虚空蔵像を刻んだのは、神薬を作る法の代りでもありました。 

虚空蔵信仰が自力による知恵増進・福徳・災害消除なのに対し、弥勒信仰は弥勒の上生・下生を待つ他力の信仰です。

これをミックスしたのが空海の密教とも言えます。
 空海の最初の著書である『三教指帰』は、仏教を代表する仮名乞児の口を借りて、
「滋悲の聖帝(釈迦)が滅するときに印璽を慈尊に授け、将来、弥勒菩薩が成道すべきことを衆生に知らせた。それゆえ私は、旅仕度をして、昼も夜も都史の宮(兜率天)への道をいそいでいる」
といわせ『性霊集(巻八)』も弥勒の功徳を述べています。
 また、空海が弟子たちに自分の死後のことをさとした『御遺告二十五ヶ条』の第十七条には、
「私は、眼を閉じたのち、かならず兜率天に往生し、弥勒慈尊の御前で待ち、五十六億余年ののちには、かならず慈尊とともに下生して、弥勒に奉仕し、私の旧跡をたずねよう」
とあります。
 平岡定海は、「平安時代における弥勒浄土思想の展開」で、
「秦王国の彦山が、弥勒の浄土の兜率天とみられていたように、空海も高野山を兜率天に往生する山と見立てていた。したがって、後に、高野山は、兜率天の内院に擬せられたり、空海は生身のまま高野山に入定し、弥勒の下生を待っている、という信仰も生まれた」
と記します。

「聖徳太子の太子信仰」が「弘法大師の大師信仰」とスライドしていくのは

その根っこに弥勒信仰があったからのようです。太子・大師・弥勒信仰に秦氏がかかわっていることからして、これらの信仰を流布した秦氏が、タイシとダイシの信仰を習合させたと推察します。
 宮田登は、
聖徳太子を祀るタイシ講は、大工・左官・屋根屋・鍛冶屋・桶屋・樵夫・柚などの職業集団で祀られていることは、よく知られる民俗である。しかし何故、彼らだけが太子を祀るのかというと十分に説明はできていない。大工が古く寺大工から派生したものだとすると、代表的寺院であった法隆寺などの関係からそれが説かれたことも想像されるがはっきりしない。
木樵たちの場合、山の神の子を太子として信仰していたことから太子が聖徳太子と成り得たとするがこれも確証はない。ただ聖徳太子の宗派性を問題とすると、真宗・天台宗がこれに大いに関係してくることは指摘できる」
と書きます。
 タイシ講の職業集団は、秦氏が深く関与している職業です。
法隆寺の聖徳太子の寵臣は、『日本書紀』によれば秦河勝で、真言・天台宗の開祖も秦氏の信仰と結びついていることからみても、キーワードは秦氏であり、秦王国なのかもしれません。
 特に、太子信仰が虚空蔵信仰と同じに職人の信仰となっており、非農耕民によって深く信仰されていることと(太子信仰は鉱山関係の人々の間にも普及している)、秦氏の非農耕民的性格の一致は、偶然とは言いがたいものがあります。
 これらの源流は、がっての秦王国にあったもので、秦王国の豊国奇巫・豊国法師の伝統を受け継いだものであり、秦王国の信仰が、空海に継承されたともいえます。

大和岩雄は「秦氏の研究」で
「この法を弥勒信仰と結びつけて勤操が説いたのを、十八歳の空海が聞いて、出家の決意をしたのだろう。」
と推察します。
 やはり危惧していたように虚空蔵求聞持法をめぐる迷路の中で、迷子になったようです。
しかし、秦氏 秦王国 職能集団 弥勒仏 虚空蔵求聞持法のつながりがかすかに見えてきたように思えます。

空海に虚空蔵求聞持法を伝えたのはだれか?

虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 2万6千人を鑑定!9割以上が納得の ...
空海の若い時代については分からないことが多いのですが、「大学」をドロップアウトして沙門として山岳修行に入っていくのも一つの謎です。真魚(空海)は、「大学」で学ぶために長岡京に出て、そこで「一沙門=僧侶」に出会い虚空蔵求聞持法を学んだと云われます。空海が虚空蔵求聞持法を学んだ師である「一沙門」とは誰なのでしょうか?

これについては2つの考え方があるようです。

『続日本後紀』や『三教指帰』などには「一沙門」としか書かれていないので具体的な人名は分からないというのが「定説」のようです。

虚空蔵求聞持法
これに対して具体的な空海の師の名前を挙げる研究者もいます。

例えば平野邦雄氏は、次のように云います
「勤操を師としたという『御遺告』の説は『続日本後紀』や『三教指帰』などには、一沙門としかないので、信用できないという人もいるが、道慈-勤操-空海という師承関係はみとめてよいのではないかと思う」
空海の師とされる「道慈-勤操」とは、何者なのでしょうか?
大岩岩雄は大著「秦氏の研究」で、渡来系秦氏の果たした役割を体系的に明らかにして行く中で、空海と秦氏の関係にも光を当ていきます。空海が誰から虚空蔵求聞持法を学んだのかを見ていくことにしましょう。 

まず虚空蔵求聞持法が、いつだれによって伝来したかです。

それが道慈だとされます。彼は大宝二年(七〇二)に入唐し、養老二年(七一八)に帰国しています。入唐中にインドの僧善無量三蔵から虚空蔵求聞持法を伝授されます。道慈は渡来系秦氏と関係の深い額田氏出身です。大和郡山市額田部寺町にある額田寺は、額田氏の氏寺で境内から飛鳥時代の古瓦が出土しています。この寺には道慈が自ら彫刻して本尊にしたとされる奈良時代の乾漆虚空蔵菩薩半珈像(重要文化財)あります。
日本最古の虚空蔵菩薩像のお寺『額安寺』@大和郡山市 (by 奈良に住ん ...
 この寺に伝わる鎌倉時代の「大塔供養願文」にも、道慈が帰国後に虚空蔵菩薩を本尊にして、額田寺を額安寺に改めたとあります。寺宝の道慈律師画像には「額安寺住職一世」と書かれています。虚空蔵菩薩像を本尊にすることによって、額田寺は額田氏の氏寺から脱皮し、寺号も額安寺となります。
額安寺霊園(奈良県大和郡山市)のお墓情報 【費用・アクセス・口コミ ... 

 道慈については

『続日本紀』の天平十六年十月二日条に、彼が「大安寺を平城に遷し造る」と書き、『懐風藻』の道慈伝も「京師に出で大安寺を造る」とあるように、大安寺を平城京に移築した僧でもあり、山岳密教的傾向が強かった僧侶です。
 南都七大寺 大安寺 | そうだった、京都に行こう(京都写真集)
 山城の秦氏の山岳信仰の山に愛宕権現を祀って、秦氏の愛宕山信仰を発展させたのも大安寺の僧です。また、貞観二年(八六〇)に宇佐八幡神の分霊を、山城の石清水に遷座したのも、大安寺の山岳密教系の僧です。このように、道慈の虚空蔵求聞持法と道慈が平城京に建てた大安寺は、秦氏と深くかかわっていたようです。道慈は、天平十六年(七四四)に亡くなっています。

勤操は、天平勝宝六年(七五四)に生まれていますから、

この二人の間に直接の師弟関係はありません。二人の間を結ぶのは、道慈・勤操と同じ大安寺の僧、善議(七二九~八二一)です。善議は道慈と一緒に入唐しています。この善議から勤操は、虚空蔵求聞持法を学んでいるようです。
 先ほど紹介した奈良時代に作られた額安寺の虚空蔵像の『造像銘記』には
「この虚空蔵菩薩像は、道慈が本尊としていたもので、入唐求法のとき、善無畏三蔵から虚空蔵求聞持法が伝えられ、帰国後に求聞持法を善議に授け、それは、護命ー勤操ー弘法大師によって流通された」
と記してあり、善議と勤操の間に護命が入っていることを記しています。
 護命は天平勝宝二年(七五〇)生まれで、勤操より四歳年上で虚空蔵求聞持法を、吉野の比蘇寺で学んでいます。
 『今昔物語』巻十一の九の弘法大師の話には、
十八歳のとき大安寺の勤操僧正に会って、虚空蔵求聞持法を学び、延暦十二年に勤操僧正によって和泉国横尾山寺で受戒し、出家した
と書かれています。
南都大安寺 - 勤操忌 勤操忌厳修しました。 勤操大徳は大安寺初代別当 ...

これに対しては、先ほど述べたように『三教指帰』に「一沙門」とあるので、勤操から空海が虚空蔵求聞持法を学んだという文献を認めない人が多いようです。私が今までに読んだ文献も、この立場にたつ書物が多かったように思います。この立場の人たちは、空海の受戒が槇尾山寺で勤操によつておこなわれたという文献も認めません。空海の受戒や師については「ダーク」なままにしておこうとする雰囲気があるように私には思えます。
 仁王門 - 和泉市、槇尾山施福寺の写真 - トリップアドバイザー

空海は唐から帰国後一年か二年余、九州にいて高尾山寺に入るまで槇尾山寺にいました。

唐に渡る以前に空海がこの寺で受戒を受けたという伝承を頭に入れると、この事情はすんなりと理解できます。この辺りの「状況証拠」を積み上げて「勤操は空海の師」説を大和岩雄氏は補強していきます。そして次のように続けます。
「勤操が空海帰国直後から叡山を離れ、最澄の叡山に戻るように云われても、戻らなかったのは九州の空海に会うためとみられる。延暦年間、勤操は槇尾寺で法華経を講じていたというから九州から上京した空海を棋尾山寺に入れたのも、勤操であろう。」
「空海が帰国し、槇尾山寺から高(鷹)尾山寺に移たのも、秦氏出身の勤操をぬきには考えられない」
 空海が帰国後、槙尾山寺-高尾山寺にいるのは、秦氏出身の勤操の存在が大きいと指摘します。 

空海から虚空蔵求聞持法を伝授されたのが讃岐の秦氏出身の道昌です。
法輪寺道昌遺業 大堰阯」の石碑(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町 ...

彼は、天長五年(八二八)に神護寺(高尾山寺)で、空海によって両部濯頂を受け、その8年後には、太秦の広隆寺の別当となり、後には「広隆寺中興の祖」と呼ばれるようになります。広隆寺は山城秦氏の氏寺で、新羅から送られたといわれる国宝第一号の弥勒菩薩で有名です。また、道昌は秦氏が祀る松尾大社のある松尾山北麓の法輪寺の開
山祖師
でもあります。

道昌が葛井寺を修営し規模を拡張し、寺号を法輪寺に改めました。『源平盛衰記』著四十の伝承では、この寺は天平年中(七二九~七四九)に建立後、約百年後に道昌が、師空海の教示によりここで、百か日の虚空蔵法を行い、五月に生身の虚空蔵菩薩を体感し、一本木で虚空蔵菩薩を安置し、法号を法輪寺として、神護寺で空海自らこの像を供養したといいます。そして、一重宝塔を建て虚空蔵菩隣像を安置し、春秋2期、法会を設けて、虚空蔵十輪経を転読したとあります。
 道昌は参寵の前年に、空海から両部濯頂を受けていますが、この時に虚空蔵求聞持法を伝授され、百ヶ日の修行に入ったようです。大和の斑鳩の法輪寺には、かつて金堂に安置されていた飛鳥時代の虚空蔵菩薩立像(国宝)があります。この寺は聖徳太子の追善のため建てられた寺で「虚空蔵菩薩像のある寺=法輪寺」から、葛井寺も法輪寺に改めたようです。

以上のように虚空蔵求聞持法の継承ラインは、道慈→善儀→勤操→空海→道昌と続きます。その特徴としては

①すべて大安寺の僧であること、
②そのトップである大安寺の道慈が密教的傾向が強く、その系譜が受け継がれていること
③同時に渡来系秦氏がおおきな役割を果たしていること
以上が、読み取れます。
 若き空海がエリートコースである「大学」をドロップアウトしたのは虚空蔵求聞持法との出会いがあったはずです。それを介した人物がいたはずです。それが誰だったのか。また、その人達の属する集団はどうであったのかを知る上で、この本は私にとっては非常に参考になりました。
虚空蔵求聞持法 - 破戒僧クライマーの山歩録
参考文献 大和岩雄「秦氏の研究」大和書房

P1120759
仁王門(弥谷寺)

「空海=多度津白方生誕説」が、いつ、どこで、誰の手によって、どんな目的で創り出されたのかをみてきました。最後に、白方の背後の天霧山中にある弥谷寺を見ていくことにしましょう。
 弥谷寺は佐伯真魚(空海の幼年名)が修行した地と「高野大師行状図画」にも伝えられ、古くから空海の修行場として信じられてきました。現在、十世紀末から十一世紀初期ころの仏像が確認できるので、そのころにはこの寺が活動していたことが推察できます。
P1120756
弥谷寺仁王門
 その後、鎌倉時代の初めには道範が訪れたことが「南海流浪記」に記されています。また本堂横の岩壁に阿弥陀三尊や南無阿弥陀仏の名号が彫られていて、その制作年代は鎌倉時代末期のものと言われます。
P1120845
阿弥陀三尊磨崖仏(本堂下)

 戦国時代には讃岐の守護代であり、天霧城の城主・香川氏の菩提寺とされ、香川氏一族の墓といわれる墓石も数多く残されています。なお寺伝では、香川氏の滅亡とともに寺は衰退したと伝えます。その後、生駒氏・山崎氏・京極氏などの保護の下に徐々に復興がなされたようです。
P1120815
天霧城主香川氏の代々の墓とされる石造物

澄禅『四国遍路日記』で、江戸時代初期のこの寺の様子を見てみましょう
剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇I間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切玉フ、北ノ床位牌壇也、又正面ノ床ノ脇二護摩木棚二段二在り、東南ノニ方ニシキ井・鴨居ヲ入テ戸ヲ立ル様ニシタリ、寺ノ広サ庭ヨリー段上リテ鐘楼在、又一段上リテ、護摩堂在、是モ広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ戸ヲ仕合タリ、内二本尊不動其ノ外仏像何モ石也、
夫ヨリ少シ南ノ方へ往テ水向在リ、石ノ二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付王ヘリ、廻り円相也、今時ノ朴法骨多肉少ノ筆法也、其下二岩穴在、爰二死骨を納ル也、水向ノル中二キリクノ字、脇二空海卜有、其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付エフ亨良千万卜云数ヲ不知、又一段上り大互面二阿弥陀三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉リ、九品ノ心持トナリ、又一段上テ本堂在、岩屋ノ口ニ片軒斗指ヲロシテ立タリ、片エ作トカヤ云、本尊千手観音也。其廻りノ石面二五輪ヒシト切付玉ヘリ、其近所に鎮守蔵王権現ノ社在り。
 P1120807
弥谷寺案内図
意訳変換しておくと
剣五山千手院は、坂口に二王門があり、ここからは参道沿いの磨崖には、仏像や五輪塔が数知ず彫付られている。自然石に階段が掘られて、寺の庭に上っていく。
P1120792

寺(現大師堂)は南面して、持堂は西向の巌がオバーハングしている所を、広さニ回半、奥へ九尺、高は人の頭が当たらないくらいに掘り切って開かれている。
P1120797

仏壇は、一間奥へ四尺に切入って左右に如来を切付ている。ここには中尊大師の御木像と、その
左右に藤新太夫夫婦の石像が掘りだされている。
P1120802

 北の床は位牌壇となっている。また正面の床の脇には護摩木棚が二段あって、東南の方に敷居・鴨居などが入れられて戸を立てるようになっている。

P1120805
獅子の岩屋
庭よりー段上って鐘楼があり、又一段上がると護摩堂がある。これらも広さは九尺ほどで二間に岩を切り開いて入口に戸を付けている。その内には、本尊不動明王と、何体もの仏像があるがすべて石仏である。
P1120825
護摩堂(弥谷寺)

ここから少し南の方へ行くと水場がある。周囲の磨崖には、多くの真言阿字が彫付られて、その廻りは円で囲まれている。この字体は、今時朴「法骨多肉少:の筆法である。その下に岩穴があり、ここには死骨が納められている。水場周辺の磨崖にはキリク文字が掘られ、脇には空海と刻まれている。この辺りの赤面には、数多くの五輪塔が掘り込まれている。
P1120837
水場周辺
その一段上の磨崖には、阿弥陀三尊が掘られ、その
脇には六字名号が3セット×3つ=9彫りつけられている。九品の心持ちを示している。さらに一段登ると本堂在、岩屋に突き刺すように片軒の屋根が覆っている。「片エ作」と呼んでいる。本尊は千手観音で、その廻りの石面には五輪塔が数多く彫りつけられている。この近くに鎮守蔵王権現の社がある。

以上から江戸時代初期の弥谷寺の様子が分かります。ここで
注目したいのは次の2点です。
P1120834
本堂下の磨崖仏

まず1点は坂口に仁王門があり、そこから参道沿いの岩面の至る所に仏像や五輪塔が数知れず彫り込まれていることです。
IMG_0010
弥谷寺の磨崖仏の位置



「自然石を彫り刻み石段として寺の庭にあがると、寺は南面し持仏堂がある。この持仏堂に「空海=多度津白方生誕説」で、空海の父母とされる藤新太夫夫婦の石像が安置されていた記されています。この寺でもこの時期には、「空海=多度津白方生誕説」が信じられていたようです。
 ところが、その後に真稔が巡礼した時には、この夫婦の石像はなくなり、阿弥陀と弥勒の石像になっていたというのです。つまり、この間に藤新太夫夫婦の石像が消えたことになります。どうしてでしょうか?
IMG_0017弥谷寺磨崖仏
弥谷寺の五輪塔
 2つ目は次の部分です。
「水場から一段上ると磨崖に阿弥陀三尊と、その脇に六字名号が三クダリ宛六ツ彫付玉リ」

本堂下の水向けの所の岩穴には死骨が納められ、その周辺には阿弥陀三尊やと「六字の名号」(=南無阿弥陀仏)が彫られていたとあります。
P1120845
阿弥陀三尊像
  弥谷寺周辺の山は死者心霊がこもる山として、祖霊信仰がみられことが民俗学からは指摘されてきました。イヤダニマイリという葬式の翌日には、毛髪や野位牌などを弥谷寺に納める習俗があったというのです。そこには祖先信仰にプラスして、浄土系の阿弥陀信仰が濃厚に漂います。

P1120835
本堂下の磨崖仏

 さらに、現在この寺で行われている永代経という日月聘供養、経木塔婆、水供養という先祖供養形式が高野山で行われる供養の形式と非常に似ていると言われます。
 それは道範以来、高野山と弥谷寺との関係が深くなり、戦国時代末期以降になると、高野山や善通寺と関係の深い僧侶が住職となます。その結果、江戸時代中期から末期にかけて高野山方式の先祖供養形式が確立したと研究者は考えています。弥谷寺と高野山とは、何かしらの関係がある時期からできたようです。
 民俗学の立場からは次のように指摘されきました。
「弥谷寺一帯は、古くは、熊野の神話が物語るごとき死霊のこもるところ、古代葬送の山、「こもりく」であったかも知れぬが、中世、一遍につながる熊野系の山伏、念仏聖、比丘尼、巫女などの民間宗教者たちの手によってでき上がった山寺である」

 以上の説を総合すると、次の2点が見えてきます。
①弥谷寺は高野山との関係、
②高野聖など念仏系の僧の存在
そのわずかに残る痕跡を現在の弥谷寺に探ってみましょう。
弥谷寺 九品浄土1

弥谷寺本堂下の岩壁には南無阿弥陀仏の名号が九つ彫られています。いまは摩耗してほとんど見えなくなっています。しかし、かつてはその名号の下部には、次のような唐の善導大師の謁が彫られていて、かつては見ることが出来たと言います。

門々不同八万四為滅無明果業因利剣即是阿弥陀一称正念罪皆除

さらに本堂下の墓石群の中には、次のような念仏講の石碑が建立されています。
「延宝四二六七六」丙辰天 八月口口日大見村竹田 念仏講中二世安楽也」
江戸時代前期とやや時代が下るものの、念仏聖となんらかの関係を示す遺品です。この石碑は先日紹介した多度津白方の、仏母院に見られた念仏講のものと形状が良く似ており、両者に関係がありそうだと研究者は指摘します。

IMG_0012
弥谷寺の磨崖仏

  
 戦国時代に弥谷寺の上の天霧城主だった香川氏一族は、長宗我部元親と姻戚関係を結びます。そして、土佐軍の撤退と共に香川氏も土佐へ亡命します。天霧城は破棄され、弥谷寺も荒廃したといいます。弥谷寺のその後について、『大見村誌』正徳四年(1714)は宥洋法印の記録として、以下のように記しています。 
その後戦乱平定するや、僧持兇念仏の者、当山旧址に小坊を営み、勤行供養怠たらざりき、時に慶長の初め、当国白峰寺住職別名法印、当山を兼務し、堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立す。
 慶長五年十二月十九日、高松城主、生駒讃岐守一正より、田畑山林を寄付せられ、其証書今に存せり。別名法印遷化後、直弟宥慶法印常山後住となり執務中、図らすも藩廳に対して瑕径あり。爰に住職罷免され、善通寺に寄託される、その後の住職は善通寺僧徒、覚秀房宥嗇之に当り寛永十二年営寺に入院し、法務を執り堂塔再建に腐心廿り、
 意訳変換しておくと
江戸時代になって戦乱が平定すると、念仏僧侶が弥谷寺の境内の中に小坊を営み、勤行供養を怠たらずに務めた。慶長年間の初めに、白峰寺住職別名法印が当山を兼務することになり、堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立した。
 慶長五年十二月十九日には、高松城主の生駒讃岐守一正から、田畑山林を寄付された。その寄進状は当寺に今も残る。別名法印が亡くなった後は、直弟の宥慶法印が後住となったが、生駒藩への過失があり住職を罷免された。そのため当寺は、善通寺に寄託されることになった。その後は、善通寺の覚秀房宥嗇之が、寛永12年に住職となり、法務を執り堂塔再建に腐心することになった。
 ここからは戦国時代に香川氏が土佐に落ち延びて、保護者を失って、寺が荒廃したことがうかがえます。その時に、念仏行者が境内の旧址に小坊を営み寺に住んでいたというのです。境内に残るいくつかの石造物からは、念仏信仰を周辺の村々に広げ念仏講を組織していた僧侶の存在が見えてきます。彼らは、時宗系の高野聖であったと研究者は考えています。
 そして、生駒氏の時代になってから白峯寺から別名法印が住職を兼務したといいます。別名法印については詳しいことは分かりませんが、海岸寺所蔵の元和六年(1620)の棟札に「本願弥谷寺別名秀岡」とあります。ここからはこの時期には、海岸寺と弥谷寺とが深い関係にあったことが分かります。ちなみに、弥谷寺の海浜の奥社が海岸寺だったようです。ここでは補陀落渡海の修行場で、弥谷寺との間は小辺路ルートで結ばれていたとも言われます。
イメージ 9
生駒一正の墓碑とされる塔
 このように弥谷寺は、もともとは阿弥陀信仰を中心とする念仏系の寺院であったことが透けて見えてきます。
中世から戦国末期には、修験者+熊野行者+高野聖+念仏行者の活動拠点で、境内に彼らの「院房」があったのです。そこに住んでいた僧の中には、時宗念仏系の僧侶がいて弥谷寺を拠点に布教活動をおこなっていたいたようです。
また「剣五山弥谷寺一山之図」には、東院旧跡の近くに「比丘尼谷」という地名があります。ここからは、弥谷寺に比丘尼が生活していたこともがうかがえます。

さて、この寺院の檀那たちはどこにいたのでしょうか?
 慶長五年(1600)四月吉日に、この寺に寄進された本尊の鉄扉は次のように記されています。

「備中国賀那郡四条 富岡宇右衛門家久」
寛永八年(1632)正月寄進の鐘の檀那は
「備前国岡山住井上氏」

ここからは白方の仏母院の信者は、瀬戸内海を挾んだ対岸の備前地方の人々の信仰を集めていたことが分かります。しかし、それがどのような理由で繋がっていたかを示す史料はありません。
 最後に、備中・備前の人たちが海岸寺や弥谷寺の有力な檀家となっていた背景を想像力を羽ばたかせて考えて見たいと思います。
①五流山伏と小豆島の関係のように、小豆島を聖地として修験者先達が、信者を引率して参拝させるシステムが海岸寺や弥谷寺でも機能していた。
②そのため海岸寺は、補陀洛信仰の聖地として海の向こうの吉備の信者たちの信仰を集めるようになった。
③そこに大師信仰が広がると、当時流布されるようになった「空海=白方生誕説」を採用し、寺院運営をおこなうようになる。
④それは、吉備から海を越えてやって来る信者たちへのセールスポイントともなった。
しかし、争論の結果「空海=白方生誕説」は認められなかった。そこで弥谷寺は「空海=幼年修行地説」にセールスポイントを変えて、寺社経営を行うようになります。それが、金毘羅大権現の隆盛と相まって、四国にやって来た金毘羅詣での参拝者は、善通寺と弥谷寺にはよって帰るというコースを選ぶようになり、寺は栄えるようになります。この寺も弘法大師伝説は、近世になって付け加えられたようです。
200017999_00117弥谷寺2
弥谷寺


 
参考文献    武田 和昭      『弘法大師空海根本縁起』について

                            

「空海=多度津白方生誕説」をめぐる寺社めぐり   

近世初頭の四国辺路には、空海の生誕地であることを主張するお寺が善通寺以外にもあったようです。それが多度津白方の仏母院や海岸寺です。空海が生まれたのは善通寺屏風ヶ浦というのが、いまでは当たり前です。四国辺路の形成過程で、どうしてそのような主張がでてきたのでしょう。その背景を見ていくことにします。
DSC03894
白方の丘から望む備讃瀬戸 高見島遠景

仏母院の歴史を資料でみてみましょう。
最も古い四国霊場巡礼記とされる澄禅『四国辺路日記』(1653)には仏母院が次のように記されています。 
夫ヨリ五町斗往テ 藤新太夫ノ住シ三角屋敷在、是大師誕生ノ所。御影堂在、御童形也、十歳ノ姿卜也。寺ヲハ幡山三角寺仏院卜云。
此住持御影堂ヲ開帳シテ拝モラル。堂東向三間四面。
此堂再興七シ謂但馬国銀山ノ米原源斎卜云者、讃岐国多度郡屏風が浦ノ三角寺ノ御影堂ヲ再興セヨト霊夢ヲ承テ、則発足シテ当国工来テ、先四国辺路ヲシテ其後御影堂ヲ三間四面二瓦フキニ結構ゾンデ、又辺路ヲシテ阪国セラレシト也。
又仏壇ノ左右二焼物ノ花瓶在、是モ備前ノ国伊部ノ宗二郎卜云者、霊夢二依テ寄付タル由銘ニミェタリ。猶今霊験アラタ也。
意訳すると
海岸寺から約五〇〇メートル東に藤新太夫(空海の父)が住んだ仏母院があり、弘法大師の誕生所とされ、御影堂が建立されていた。そこに十歳の弘法大師が祀られている。寺を三角寺という。この寺の住職が御影堂を開き、その像を開帳してくれた。堂は東に向かって三間四面の造である。この堂を再興したのは但馬銀山米原源斎で、夢の中でお告げを聞いて、直ち四国巡礼を行い、このお堂を建立し、帰路にも四国巡礼をおこない帰国した。仏壇の左右の焼きものの花瓶は、備前の部ノ宗二郎の寄進である。霊験あらたな寺である
 藤新太夫は空海の父。三角屋敷が空海の生まれた館のことです。
ここからは備前や但馬の国で「空海=多度津白方生誕説」が拡大定着していたことがうかがえます

 仏母院に関しては『多度津公御領分寺社縁起」(明和6年1769)に、次のように記されています。
多度郡亨西白方浦 真言宗八幡山三角寺仏母院
一、本尊 大日如来 弘法大師作、
一、三角屋敷大師堂 一宇本尊弘法大師・御童形御影右三角屋敷は弘法大師、御母公阿刀氏草創之霊地と申伝へ候、故に三角寺仏母院と号し候、
 『生駒記』(天明3年1783)には
白方村の内の三隅屋敷は大師誕生の地なりとて、小堂に児の御影を安置す、
とあり、弘法大師誕生地として認められています。しかし、その50年後の天保十年(1839)の『西讃府志』では  
仏母院 八幡山三角寺卜琥ク云々。西方に三角の地アリ、大師並二母阿刀氏、及不動地蔵等ノ諸仏ヲ安置ス。
とあり、弘法大師の誕生地とは記されていません。しかも母はあこや御前ではなく、阿刀氏になっています。この間に誕生地をめぐる善通寺との争論があり、敗れているのです。これ以後、生誕地であることを称する事が禁止されたことは、以前にお話ししました。

「仏母院 多度æ´\ ブログ」の画像検索結果
仏母院に残されている過去帳には、大善坊秀遍について次のように記されています。
 不知遷化之年月十二口滅ス、当院古代大善坊卜号ス、仏母院之院号 寛永十五年戊寅十月晦日、蒙免許ヲ是レヨリ四年以前、寛永十二乙亥八月三日、此秀遍写スコト白方八幡ノ服忌會ヲ之奥書ノ處二大善坊秀遍トアルヲ見雷タル様二覚ヘダル故二、今書加へ置也能々可有吟味。

 意訳変換しておくと
当院は古くは大善坊と号していた、寛永十五年(1638)十月晦日に、仏母院の院号を名乗ることが許された。その4年前の寛永十二(1635)八月三日、秀遍が白方(熊手)八幡神社の古文書を書写していたときに、その奥書に大善坊秀遍とあるのを見つけたので、ここに書き加えておくことにする。よく検討して欲しい。

ここからは寛永十五年(1638)に寺名が
善坊から仏母院に変更されたことがわかります。「仏母」とは、空海の母のことを指しているのでしょう。つまり、高野系の念仏聖が住んでいた寺が、「空海の母の実家跡に建てられた寺院=空海出生地」として名乗りを挙げているのです。
古代善通寺の外港として栄えた多度津町白方の仏母院にも、次のような念仏講の石碑があります
寛丈―三年
(ア)為念仏講中逆修菩提也
七月―六日
寛丈十三(1673)の建立です。四国霊場を真念や澄禅が訪れていた時代になります。先ほど見た弥谷寺のものと型式や石質がよく似ていて、何らかの関係があると研究者は考えているようです。
仏母院は霊場札所ではありませんが、『四国辺路日記』の澄禅は、弥谷寺参拝後に天霧山を越えて白方屏風ケ浦に下りて来て、海岸寺や熊手八幡神社とともに神宮寺のこの寺に参拝しています。

DSC03860

仏母院の墓地には、次のような二基の墓石が見つかっています。
右  文化九(1812)壬申天
   六月二十一   行年七十五歳
正面 (ア) 権大僧都大越家法印甲願
   法華経一百二十部
左  向左奉謡光明真言五十二万
   仁王経一千部
(裏面には刻字無し)
(向右)天保(1833)四巳年二月十七日
正面(ア) 権大僧都大越家法雲
(左・裏面には刻字無し)
研究者が注目するのは「権大僧都」です。これは「当山派」修験道の位階のことで、醍醐寺が認定したものです。この位階を下から記すと
①坊号 ②院号 ③錦地 ④権律師 ⑤一僧祗、⑥二僧祗、⑦三僧祗、⑧権少僧都 ⑨権大僧都、⑩阿閣梨、⑪大越家 ⑫法印の12階からなるようです。そうすると⑪大越家は、大峰入峰36回を経験した者に贈られる高位者であったことが分かります。ここからは、19世紀前半の仏母院の住持は、吉野への峰入りを何度も重ねていた醍醐寺系当山派修験者の指導者であったことがうかがえます。

 また、享保二年(1717)「当山派修験宗門階級之次第」によると、仏母院は江戸時代初期以前には、念仏聖が住居する寺院であることが確認できるようです。そして、仏母院住職は、熊手八幡神社の別当も勤めていました。



DSC03895
仏母院遠景

 この寺は先ほど見たように、澄禅が参拝した時代には、但馬の銀山で財を成した米原源斎が御影堂を再興したり、備前の伊部宗二郎が花瓶を寄進するなど、すでに讃岐以外の地でも、霊験あらたかな寺として知られていたようです。仏母院の発展には、それを喧伝し、参拝に誘引する先達聖たちがいたようです。弘法大師の母の寺であることの宣伝広報活動の一環として、仏母寺という寺名の改称にまで及んだと研究者は考えているようです。

DSC03844
弘田川河口からの天霧山

 しかし、「空海=多度津白方生誕説」を記す3つの縁起には仏母院の名は登場しません。これをどう理解すればいいのでしょうか。
考えられることは、縁起成立の方が仏母院などの広報活動よりも早かったということです。縁起により白方屏風が浦が注目されるようになり、それに乗じて、大善坊が「空海=白方誕生説」を主張するようになり、仏母院と寺名を変えたと研究者は考えているようです。
 そうだとすると「空海=白方誕生説」を最初に説いたのは、白方の仏母寺や海岸寺ではないことになります。これらの寺は、「空海=白方誕生説」の縁起拡大の流れに乗っただけで、それを最初に言い出したのではないことになります。 

f:id:nobubachanpart3:20110622120704j:image

 最後に現在の仏母院をみてみましょう。

 善通寺から流れ込む弘田川の河口近くの多度津白方に仏母院はあります。境内は大きく二つに分けられていて、東側に本堂・庫裏と経営する保育所があり、道路を挟み、西側には大師の母が住居していたという三角形の土地があります。
三角地は御住屋敷(みすみやしき)と呼ばれていましたが、これは空海の母の実家であることに由来します。空海の臍の緒を納めたという御胞衣塚(えなづか)などがあります。澄禅が日記に残している御影堂は、この三角地に建てられていたものと思われます。現在の御堂には新しく作られた玉依御前・不動明王・弘法大師の三体の像が安置されていますが、かつては童形の大師像(十歳)があり、三角寺と呼ばれていたようです。
f:id:nobubachanpart3:20110622154249j:image
戦国時代の永禄年間(1558年 - 1570年)に戦乱により荒廃します。その後、修験者の大善坊が再興したことから、寺院名も三角寺から大善坊と称するようになります。そして「空海=多度津白方生誕説」が広がると、寛永15年(1638年)寺院名が大善坊から仏母院に改められました。
 御胞衣塚には石造(凝灰岩)の五輪塔がありますが制作年代は、水輪・火輪の形状からみて桃山時代から江戸時代初期ころ、つまり16世紀末から17世紀前半ころとされています。ちょうど「空海=多度津白方生誕説」の広がりと一致します。このことは大善
坊から仏母院への改名との関連、さらに本縁起の制作時期などと考え合わせれば、重要なポイントです。
f:id:nobubachanpart3:20110622124300j:image
 
 また御住屋敷の南端に寛文13年(1673)7月16日建立の「念仏講衆逆修菩提也」の石碑があります。ここから江戸時代前期に仏母院に、念仏講があったことが分かります。つまり高野山系の時宗念仏系の信仰集団がいたようです。この石碑と同様のものが弥谷寺にもあります。
 
 この寺は明治初年の神仏分離以前は、熊手八幡神社の神宮寺でした。そのため神仏分離・廃仏毀釈の際に、八幡大菩薩と彫られた扁額や熊手がこの寺に移され本堂に安置されています。

 次に海岸寺を史料で見てみましょう

「多度æ´\ 海岸寺」の画像検索結果 
弘田川河口の西側の海に面した海水浴場に隣接した広大な地に本堂・庫裏・客殿などがあります。さらにそこから南西口約1,1㎞の所に空海を祀った奥の院があります。この寺の古い資料はあまり多くありません。そのため江戸時代以前のことはよく分かりません。 
最初に記録に見えるのは四国霊場の道隆寺の文書の中です。
天正二十年(1592)六月十五日 白方海岸寺 大師堂供養導師、良田、執行畢。
その後も、これと同じように道隆寺の住職が導師を勤める供養の記録が何点かあるので、その当時から道隆寺の末寺であったことが分かります。ついで澄禅『四国辺路日記』に、次のように記されています。
谷底ヨリ少キ山ヲ越テ白方屏風力浦二出。此浦白砂汗々ダルニー群ノ松原在リ、其中二御影堂在リ、寺は海岸寺卜云。
門ノ外二産ノ宮トテ石ノ社在。州崎二産湯ヲ引セ申タル盟トテ外方二内丸切タル石ノ毀在。波打キワニ幼少テヲサナ遊ビシ玉シ所在。寺ノ向二小山有リ、是一切経七干余巻ヲ龍サセ玉フ経塚也。
意訳変換しておくと
(弥谷寺)から峠を越えて白方屏風力浦に下りていく。ここは白砂が連なる浜に松原がある。その中に御影堂があり、寺は海岸寺という
門の外「産の宮」という石社がある。空海誕生の時に産湯としたという井戸があり、外側は四角、内側は丸く切った石造物が置かれている。波打際には、空海が幼少の時に遊んだ所だという。寺の向うには小山があり、ここには一切経七干余巻が埋められた経塚だという。
ここからは、次のような事が分かります。
①澄禅が弥谷寺から天霧山を越えて白方屏風ガ浦に出て、海岸寺に参詣したこと
②海岸寺には、御影堂(大師堂)があり、門外に石の産だらいが置かれていたこと。
澄禅が、ここを空海生誕地と信じていたように思えてきます。

 また『玉藻集』延宝五年(1677)は
「弘法大師多度郡白潟屏風が浦に生まれ給う。産湯まいらせし所、石を以て其しるしとす云々」
とあり、弘法大師の誕生地と信じられていたようです。
そして、空海が四十二歳にして自分の像を安置して本尊とした。四十余の寺院があったが天正年中に灰塵に帰した。それでも大師の像を安置して、未だ亡せずと記しています。
 なお『多度津公御領分寺社縁起』(明和六年-1769)には
「本堂一宇、本尊弘法大師御影、不動明王、愛染明王 産盟堂一宇」
などが記されています。このような海岸寺の「空海=白方誕生説」を前面に出した布教活動は、文化年中に善通寺から訴えられ、大師誕生地をめぐる争論を引き起こすことになります。これに海岸寺は敗れ、その後は海岸寺は「空海=白方誕生説」を主張することを封印されます。その結果、いまでは奥の院はひっそりとしています。
「多度æ´\ 海岸寺」の画像検索結果

 以上のとうに海岸寺の創建期は不明ですが、戦国時代末期には大師堂(御影堂)があり、やがて江戸時代初期にはその存在が知られるようになっています。
 
ただ澄禅『四国遍路日記』には、大師誕生地として仏母院の方を明記して、海岸寺は石盥があったことを記すだけです。ここが誕生地だとは主張されていません。
 なお善通寺蔵版本『弘法大師御伝記』は、その末尾に「土州一ノ宮」とあり、土佐一ノ宮の刊行のようにみられます。しかし、この版元は実は海岸寺であったとされています。そうだとすれば、この寺は「空海=多度津白方生誕説」の縁起本を流布していたことになります。
DSC03842

以上からは次のようなことが言えるのではないでしょうか。
①17世紀の段階では、四国霊場は固定しておらず流動的だった。
②空海伝説もまだ、各札所に定着はしていなかった
③そのため独自の空海生誕説を主張するグループもあり、争論になることもあった。
④白方にあった海岸寺や父母院は、先達により中国地方に独自の布教活動を展開し、信者を獲得していた。
以上「空海=多度津白方生誕説」に係わるお寺を史料でめぐってみました。

「空海=多度津白方誕生説」は誰によって語られ始めたのか?

イメージ 1
多度津白方の海岸寺奥の院
 
空海は、善通寺の誕生院で生まれたと信じられています。
誕生院は佐伯氏の旧邸宅とされ、誕生時に産湯を使ったという池も境内にあります。(なお、父が善通であったというのは俗説で、資料的には確認されていません)
 ところが、この正統的なる弘法大師伝に対して、空海が多度津白方の屏風が浦で生まれ、父をとうしん太夫、母をあこや御前とするなど、まったく異なる伝記があります。「空海=多度津白方生誕説」を説く伝記は、以下のようなものがあります。
 『説経かるかや』「高野の巻」
 『弘法大師御伝記』善通寺所蔵版
  『南無弘法大師縁起』
  
イメージ 2

「空海=多度津白方生誕説」縁起は、いつころ制作されたのでしょうか。

 一つは、はじめに縁起の成立があり、その後に白方屏風が浦の各社寺が縁起に沿って、弘法大師誕生地説を作りあげたという縁起先行説が考えられます。
もう一つは白方屏風ガ浦の各社寺にあった誕生説を集めて縁起が成立した縁起後行説です。
しかし、本縁起には白方屏風ガ浦の海岸寺等の寺院名がまったく見えません。このことから「空海=多度津白方生誕説」の縁起本が産まれた後、白方の各寺社が既成事実を作り出していった縁起先行説の方が有力です。

イメージ 3

 この縁起がいつ成立したかについては、その中に讃岐守護代で天霧城主の香川氏が秀吉軍の侵入で天霧城が落城した後に、元結いを切って辺路に出たという記事がありますので、永禄二年(一五五九)以降であることは間違いありません。
 次に下限をみます。澄禅の『四国逞路日記』の中に、空海の父母とされる「とうしん大夫夫婦」の石像が弥谷寺にあったと記されてます。つまり澄禅が辺路した時には、すでに「空海=多度津白方生誕説」が札所間(弥谷寺周辺か)に定着していたのです。そして、彼は「空海=善通寺誕生説」には何も触れていません。このことから本縁起の成立は、澄禅『四国逞路日記』の承応2年(1653)よりも、かなり古いと考えられます。
「空海=多度津白方生誕説」が世に広がり、白方の大善坊が仏母院へと寺名変更するのが寛永十五年(1638)であることが目安となります。白方の仏母院の御胞衣塚の五輪塔は、大師誕生地を積極的にアッピールするために建立されたとみられますが、その形状から判断して江戸初期ころのものとされています。近世における創作なのです。
以上から縁起先行説に立って、本縁起の成立を永禄11年
(1559)から寛永年間(1614~1644)と考えます。
 この時期、古くから大師誕生地として広く認められていた善通寺は、永禄元年(1558)の兵火で金堂も五重塔も燃え落ちます。江戸時代になって生駒氏が援助の手を差しのべるまで、約80年間は衰退を余儀なくされていたようです。本縁起は、ちょうどこれを狙うようにして「空海=多度津白方生誕説」が生まれ、広げられていくのです。逆に見ると当時の善通寺は、これらの動きを止めることも出来ないほど活動力を失い、荒廃していたのかもしれません。
 なお、先日アップした記事で示したとおり寛永十一年(一六三四)の「善通寺西院内之図」には、生駒親正が寄進した御影堂と三代藩主正俊の正室・円智院が建立した御影堂が描かれており、このころから善通寺の復興が始まります。
この縁起はどこで作られたのでしょうか。
本縁起の舞台は讃岐白方屏風が浦近辺です。しかし、縁起の中に具体的な寺社の名称は善通寺以外、まったく出てきません。ただ状況証拠から、いくつかの候補となる寺社が浮かび上がってきます。
イメージ 4

 まず、天霧山の向こう側の弥谷寺です。

澄禅『四国逞路日記』を見てみましょう。
澄禅は、ここで本縁起の登場人物の「とうしん太夫とあこや御前」つまり、空海の父母の石像を拝んでいるのです。つまり、その時には、
空海の両親として「とうしん太夫とあこや御前」説がここでは流布されていたようです。澄禅は、讃岐守護代の香川氏の居城・天霧城の傍らを通って海岸寺に降り、そこでは空海が幼少のころに遊んだという浜を過ぎて仏母院に至っています。
 この時期は仏母院は大師誕生地として備前・但馬あたりでも、すでに広く信じられていました。ここで御影堂を開帳してもらい、空海十歳の像を拝し、寺僧から霊験あらたかなる説法を聞いたのです。さらに空海の氏神と伝える熊手八幡も参拝しています。
澄禅の時代には、空海の誕生の地はまさに多度津白方だったのです。

イメージ 5

そして善通寺の存在もあなどれません。

灰塵に帰した善通寺とはいえ、いくつかの小堂は火災を免れていたはずです。そして、そこには本縁起に係わってもよさそうな人物(念仏聖など)が寄居していたことが考えられます。しかし、資料はありません。あくまで憶測です。
 本縁起の「白方屏風ガ浦」という地名から、この地域の社寺を見てみましたが、これらの社寺は本縁起に洽った寺伝を持っており、この辺りとの関連が濃厚に感じられます。ただ本縁起には、これらの社寺は善通寺以外まったく記されていないことは何度も触れた通りです。それは、本縁起成立後に、各社寺で大師伝説を作り上げたと考えられるからです。言い換えれば、本縁起が高野山で創作されたとしても不思議ではないわけです。制作地を特定するのは難しいようです。
誰が「空海=多度津白方生誕説」の縁起を書いたのでしょうか。
 さてもう一度本縁起をみてみます。
前半部の中山寺や徳道上人からは、西国三十三所と関係が見えてきます。後半部には阿弥陀信仰、極楽往生思想が濃厚にみられ、念仏に関係するものです。そして高野山に参詣することや都率(弥勒)来迎のことも記されるなど高野山に関する記述がみられます。そこには高野山に係る念仏聖の存在が浮かび上がってきます。

イメージ 6
では高野山との関係が見いだせるのは、先に見た寺社の中でどこでしょうか。
高野山から移ってきた住職の存在や水祭りの行事が行われるという弥谷寺が、まず浮かびます。また海岸寺所蔵の棟札をみれば、弥谷寺と海岸寺は密接な関係を有していたようです。海岸寺の大師堂は天正二十年(1592)には建立されていて、新たな大師信仰を創り出していく充分な要素が当時の海岸寺にはあったと思います。また仏母院には寛文十三年(1673)の念仏講の石碑があり、それ以前の念仏行者の存在がうかがえます。
 以上の「状況証拠」から、本縁起に係わったのは白方周辺に関りを持ち、しかも高野山との関係を有する念仏系の僧が浮かび上がってきます。つまり高野聖ということです。
イメージ 7

さらにこの縁起を書写したのは高野山千手院谷西方院の真教です。

彼が聖方に属した僧侶であったことも匂います。真教も中世的な高野聖と言えるのではないでしょうか。書写の人物が高野山・西方院であることは、本縁起が高野山にいた人物が制作したことも考えられます。
 
イメージ 8

 では何の目的で作られたのか。
 この縁起は、讃岐白方屏風ガ浦で弘法大師が誕生したと記します。
しかし、それを強く主張するものではありません。それよりも主眼は、後半部に説かれる四国八十ハケ所を辺路の勧めです。辺路によって諸仏諸神が来迎して、極楽往生できる功徳が強調されます。四国辺路を進めるのが、この縁起の目指すところであったように思えます。

イメージ 9

 この縁起は弘法大師一代記の語り物語なのです。

これを語り、四国八十ハケ所の辺(遍)路を進めたのは誰だったのでしょうか。時衆系高野聖であったのか、また熊野比丘尼のような唱導者であったのか、今となっては、歴史の奥に隠れて見えなくなっています。
 しかし真念・寂本が
「四国には、その伝記板にちりばめ、流行すときゆ」

とあるように、これが版本とされ、多くの人に読まれることによって、庶民が参加する四国八十八ヶ所辺(遍)路が一層盛んになったことは間違いでしょう。
 つまりこの縁起の成立は、四国辺路から四国八十ハケ所辺(遍)路への移行、いわばプロの修行辺路から庶民が参加する辺路を促す動きの一部と捉えることもできるようです。
イメージ 10

 ちなみに四国遍路の功労者とも寂本は、真念『四国遍礼功徳記』付録の後書きなかで「空海=多度津白方生誕説」縁起本を次のように厳しく批判しています。
然るに世にし礼者ありて、大師の父は藤新太夫といひ、母はあこや御前といふなど、つくりごとをもて人を侑、四国にはその伝記板に鏝流行すときこゆ、これは諸伝記をも見ざる愚俗のわざならん、若愚にしてしるもの、昔よりいへるごとく、ふかくにくむべきにあらず、ただあはれむべし

参考史料 武田 和昭 『弘法大師空海根本縁起』について

讃岐の古代寺院 

   

讃岐の古代寺院