瀬戸の島から

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古代三野郡郷名
古代の三野郡詫間郷
 前回は三野郡詫間郷の浪打八幡社が郷社として、詫間・吉津・仁尾・比地・中村の名主座という宮座によって祭礼が行われていたことを見ました。その中で浪越八幡宮は、詫間荘の郷社であると同時に、宗教センターの機能を果たしていました。
 ここで私が気にかかるのが仁尾浦の賀茂神社との関係です。
仁尾浦の「名」たちは、詫間の浪打八幡社の宮座のメンバーでありながら、仁尾の賀茂神社にも奉仕する神人でもあったことになります。この関係は、どうなっているのでしょうか? 両神社の関係を、今回は見ていくことにします。テキストは、「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」です。

賀茂神社の注連石 --- 巨石巡礼 |||
仁尾賀茂神社

【史料E】仁保浦鴨大明神御前之まつり覚之事
文禄弐(1593)年閏菊月拾五日
但前々のかたきのまつりなり、右後日如件
                仁保(仁尾)年寄中
この文書からは、中世の仁保浦鴨大明(仁尾賀茂神社)では「仁保年寄中」による祭祀が行われていたことが分かります。それでは、この年寄中というのは、どのような人達なのでしょうかに。
【史料F】寛永10年2月鴨大明神祠官仁尾大夫詫状『新編香川叢書』覚城院文書二五号)
(前略)
一 御宮さいかうなとの御時、万事年寄衆被仰次第二可仕事
一 祭礼御まつり、如先例□、供祭人衆被仰次第二可仕事
一 まつり之時、神子、大夫分、日之儀、如先例之、可仕事、付り、重而何にてもいつわり申間敷事右之通、少も相背申候ハヽ、何時二ても、御奉行様へ被仰上テ、我等越度二相極候ハヽ、大夫被召上ケ候様二可被成候、為其一札 如件
寛永拾(1633)年三月十七日      二保(仁尾)ノ大夫 印
           御氏子衆
鴨大明神様(賀茂神社)御年寄衆
           覚城院様
意訳変換しておくと
一 御宮再興などの際には、万事について年寄衆の指示通りに行うこと
一 祭礼の際には、先例通りに、供祭人衆の指示通りに行うこと
一 祭礼の際には、神子、大夫分、日之儀なども先例の通り行う事、また重ねて何事についても嘘偽りを云わないことを誓います。少しでもこれに背いた場合には、何時でも御奉行様へ申し上げること。その結果、大夫の役割を召し上がれることも承知しました。為其一札 如件
寛永拾(1633)年三月十七日           二保(仁尾)ノ大夫
           御氏子衆
鴨大明神様(賀茂神社)御年寄衆
           覚城院様
内容は1633年春に、仁尾の大夫が嶋大明神(賀茂神社)の氏子衆・年寄衆・覚城院にたいして提出した詫状です。今後は指示に従わずに勝手な行動をとることはしないことを誓う内容です。逆に言えば「二保(仁尾)大夫」が先例に従わず、年寄衆や覚城院の指示にも従わずに、勝手な振る舞いが目に付いたので「詫び状(誓約書)」をとられたようです。
 史料Fからは、仁尾年寄衆が宮年寄であることが分かります。
宮年寄とは、祭祀集団において年長が上位で、祭祀を主導する立場にある者のことです。史料Fで仁尾賀茂神社の宮年寄が祭祀を主導しています。ここからは次のような事が分かります。
①仁尾賀茂神社の祭祀組織が宮座であこと
②覚城院に対しても誓約しているので、覚城院が鴨大明神(賀茂神社)の神宮寺であったこと

覚城院】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
仁尾の覚城院

【史料G】文政十二年加茂社御頭心得惣記録(仁尾賀茂神社文書)
加茂社御頭心得惣記録
一 八月朔日御閥戴キ承人々社頭ヨリ呼二参候間、早速袴羽織二而宮座え罷出、年寄衆より御閣戴候趣承り罷帰り可申事
(中略)
文政十二(1812)年己丑九月
意訳変換しておくと
加茂社御頭の心得全記録
一 旧暦の八月朔日(ほずみ=8月1日で新暦の九月中旬頃)、社頭からすぐに来るようにとの連絡があり、早速に袴羽織に着替えて、宮座へ出席した。年寄衆より協議議題について聞いて帰ってきた。(中略)
文政十二(1812)年己丑九月
ここには、「・・袴羽織二而宮座え罷出、年寄衆より・・・」とあり、仁尾賀茂神社の祭祀組織が「宮座」と表現されています。さらに研究者は注目するのは、頭人が年寄衆の集会で差配されていることです。
 名主座では頭文が作成され、頭文順番で名主座の名頭は奉仕します。第二次大戦前の仁尾賀茂神社宮座は、塩田・鴨田・河田・倉本の四苗(みよう)だけの家で頭屋が運営されていたようです。この四苗の家が300軒あり、そこから5人の頭屋を鬮(くじ)引きで選びます。履脱八幡神社 | kagawa1000seeのブログ
履脱八幡神社(仁尾)

 仁尾の履脱八幡宮の宮座も十二苗の輪番制で運営されています。
苗はオヤ(本家筋)を中心にまとまっていたようです。この苗が「名」の名残である可能性もありますが、仁尾の場合はそのようには解釈できないと研究者は考えています。それは仁尾賀茂神社宮座の五苗は、名主座の名の数が少ないこと。また履脱八幡宮宮座の十二苗は、オヤを中心とする同族的集団です。仁尾賀茂神社の苗も塩田・鴨田・河田・倉本・吉田という苗字に固定されています。そこから、仁尾賀茂神社・仁尾八幡宮のどちらの苗も、もともとは名ではなく同族を意味するものと研究者は考えています。したがって、両社の宮座は鬮次成功制宮座が変質して、近世以降に家単位の宮座になったようです。

 仁尾賀茂神社の宮座は以下の点から、鬮次成功制宮座であると研究者は判断します。
①宮年寄があること
②宮座という史料表現
③「御鬮(くじ)」による頭人差定
 史料Eの記載から宮座は、中世後期に遡ることができるようです。
中世讃岐の仁尾港 守護細川氏は、香西氏を仁尾の浦代官に任じて支配しようとした : 瀬戸の島から
仁尾賀茂神社

どうして、浪打八幡社という惣荘名主座がある詫間荘内に、もうひとつ別の宮座があるのでしょうか。
 その解決のためには、詫間荘の仁尾浦と仁尾賀茂神社の歴史を見る必要があるようです。まず研究者が注目するのは、以下のように仁尾賀茂神社に免田があったことです。

延文二年二月御代官三郎次郎免田安堵状
(『香川県史』仁尾賀茂神社文書一六号)、延文三年九月詫間荘領家某免田寄進状(同一七号)                         

これは、仁尾賀茂神社が仁尾浦(村)の神社でありながら、詫間荘全体にとっても重要な神社であったことを意味しています。浪打八幡宮は詫間荘の全荘的名主座です。しかし、詫間荘のすべての名を網羅したものではありませでした。仁尾浦(村)には、浪打八幡宮名主座に入っていない名として、金武名・武延名・延包名の三つの名がありました。ここでは浪打八幡宮名主座に編成されていない名が仁尾浦(村)にあったことを押さえておきます。

仁尾浦(村)の他にない特色は、京都の鴨社との関係です。
1090(寛治四)年に鴨社供祭所として「讃岐国内海」が指定されます。この讃岐国内海とは、仁尾浦の津多(蔦)島のことです。その関係から仁尾に賀茂神社が勧請されます。この仁尾の浦人が仁尾賀茂神社の供祭人(神人)へと成長して行きます。
仁尾 初見史料
仁尾浦が史料で最初に確認できる文書 仁尾浦鴨大明神とある

 京都鴨社の仁尾浦支配は、土地支配ではなく、供祭人を通しての支配でした。そのため詫間荘の荘園支配と併存することが可能でした。仁尾賀茂神社の宮座成員は、鴨社供祭人であり、詫間荘荘民でもあるという関係です。仁尾賀茂神社の鴨社供祭人は、京都の鴨社に供物をおくる義務とひき替えに、保護を得て仁尾浦漁携や海運特権を独占するようになります。
 それが1415(応永22)年になると、讃岐国守護の細川頼之から海上諸役や兵船の供出を命じられています。ここからは15世紀初頭になると、仁尾浦供祭人は京都の鴨神社から細川京兆家へと保護者を替えたことが分かります。そうすることで、仁尾浦供祭人は伊予や安芸方面と燧灘を通じての交易活動を活発に展開します。仁尾賀茂神社の鬮次成功制宮座が成立したのは、京都鴨社との関係を持つ賀茂供祭人(神人)がいたからのようです。そして、浪打八幡宮の惣荘名主座とは異なる祭祀スタイルを、仁尾浦の供祭人(神人)は生み出していったと研究者は考えています。

7仁尾3
 中世の仁尾浦の海岸線と寺社分布(点線が海岸線)

仁尾浦と鴨社供祭人は、瀬戸内海を舞台にしして広範囲の経済活動を行っていました。燧灘に面する伊予や安芸の拠点港として機能していたことが考えられます。
 その結果、仁尾賀茂神社は単なる村の鎮守社にとどまらない神社に成長して行きます。ここでは次の事を押さえておきます。
①仁尾賀茂神社が「準惣荘鎮守社的な存在」だったこと
②詫間荘内には異なるタイプの宮座が併存してたこと。それは、一つの荘園に二つのタイプの宮座が併存する珍しい例だったこと。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

DSC03968仁尾
燧灘に開けた仁尾(昭和30年代)

  仁尾浦住民とその代官とが「権利闘争」を展開していることを以前にお話ししました。その経過をもっと分かりやすく紹介して欲しいという要望を受けましたので、できる限り応えてみようと思います。
今回は史料紹介はなしで、経緯だけを追っていくことにします。テキストは「国人領主制の展開と荘園の解体  香川県史2 中世 393P」です
仁尾浦は、南北朝期頃までは鴨御社社領でした。
それが15世紀初めに讃岐守護細川満元によって、社家の課役が停止されます。そして仁尾浦は「海上の諸役」という形で守護細川家に「忠節を抽ずべき」とされます。早く言えばパトロンが京都賀茂神社から細川京兆家に替わったということです。「仁尾浦の神人に狼藉をなすものは罪科に処す」と命じているのは細川氏です。ここからは仁尾浦の統治権限は細川氏が握っていたことが分かります。言い換えれば、仁尾浦は細川氏の所領になったと云えます。しかし、細川氏は自分で所領経営を行うことはありません。代官を派遣します。仁尾浦代官を任されたのが香西氏です。15世紀前半までには、仁尾浦の代官を香西氏が務めるようになっていたことが史料から分かります。
香西氏は、代官として次のような賦課を行っています。
①兵船微発
②兵糧銭催促
③一国平均役催促
④代官親父逝去に伴う徳役催促。
①は細川氏所領として義務づけられている「海上の諸役」です。
②は代官香西氏が「和州御陣」に参加した時に2回微収されています。一回目は1438(永享10年ごろ、20余貫を「御用」として納めています。2回目は翌年に50貫と「使者雑用以下」として10余貫文計60余貫文を納めています。2回目の時には「厳密にさた在らば」「以前の徳役の事はし下さるべきなり」という条件が付けられているので、この時の兵糧銭は代官の恣意的課役だったようです。
③は本来は守護代香川氏が課税するものなのでしょうが、仁尾浦では代官の香西氏が賦課しています。そして「浦人は精一杯御用をつとめている」と述べています。②③は合わせて「役徳」・「徳役」と称されるもです。
④はまさに香西氏の恣意によって課された「徳役(役得?)」で20余貫文を納めさせられています。

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事の起こりは、嘉吉の乱への守護代香川氏からの用船調達命令でした。長くなりますが、その経緯を追って行きます。
 仁尾浦は「今度の御大儀(「嘉吉の乱勃発に伴う泉州出兵)」のために、西方守護代香川修理亮方から「出船」の催促を受け、船二艘を仕立てます。これに対して代官香西豊前方は、それは「僻事(取り違い)」であると制止します。そして対応処置として船頭と船を抑留します。香川方への船と水夫の提供については「御用」に従って、追って命令があるまで待て、と香西五郎左衛門は文書で通知します。そのため仁尾浦では船の準備をやめて指示を待っていました。

仁尾賀茂神社文書 1441年
讃岐国仁尾浦神人等謹言上(仁尾賀茂神社文書9

 ところが、守護代香川氏からは手配を命じた船がやって来ないので「軍務違反」の罪で取り調べを受けることになってしまいます。結局、仁尾浦は代官香西方と守護代香川方の両方から「御罪科」に問われることになります。徴用された船の船頭は、追放されて讃岐へ帰ってきますが、すぐに父子ともに逐電してしまい、その親族は浦に抑留されます。
 また、 香西方に「止め置かれた船(塩飽で抑留?)」については、何度も人を遣わした末に取り返します。そうする内に今度は、香西氏から「船を仕立てて早急に参上するべき」との命令を受けます。そこで「上下五十余人」を船二艘に乗せて参上し、しばらく京都にとどまることになります。その機会に幕府に対して、今回のことについて何回も嘆願します。しかし、機能不全に陥っている室町幕府からはきちんとした返事は得られません。ついには「申し懸ける」人もなくなり、なす術がなくなってしまいます。

 以上からは、用船について代官香西氏と守護代香川氏が仁尾浦に対して、違う指示を出していたことが分かります。
もしかしたら香西氏と香川氏は半目状態にあったのではないかとも思えてきます。どちらにしても命令系統が一本化されておらず、両者の間には相互連絡や調整もなかったようです。そのため仁尾浦は2つの違う命令に応じて、次のような無用の出費を費やすことになります。
①守護代香川氏の命で兵船を仕立てるために40貫文
②香西方の命で船を仕立てるために100貫文
挙句のはてに「御せっかんに預かる」という始末です。そしてすべての責任と経費を仁尾浦側が負うことになってしまいます。しかし、仁尾浦の神人を中心とする浦人たちは黙って泣き寝入りをしません。次のような抵抗運動を展開します。
①香西氏の代官改易要求の訴え
②仁尾浦住人の逃散
③徳役50貫文催促拒否
 そして、この仁尾浦住民の訴えは、幕府に受けいれられます。「(香西)豊前方の綺いを止められるべきの由」の「御本書」を得ることに成功し、京より帰ってきた神人たちは「抵抗運動勝訴」を兼ねて「九月十五日、当社の御祭礼」を執り行おうとします。
 そこを狙ったように香西氏は「同所陸分の内検」を強行しようとします。
これは仁尾の田畠を掌握して、新たな課税を行おうとするものでした。香西氏の制度改革や新税に対して、神人等は仁足浦が「御料所」「公領」であることを根拠として代官の改替を改めて要求します。同時に、「浜陸一同たり」という特殊性を主張して浦代官香西氏の「陸分内検」を認めません。そのためにとった反対運動が「祭礼停止」です。代官の非法に対して、住人は鴨大明神の神人として団結し、抵抗運動を行います。その神人集団の代表者的存在が新兵衛尉こと原氏でした。
香西氏は仁尾浦住民の反発が予想されるにもかかわらず、次のような新たな賦課を課そうとします。
①「一国平均役」 → 本来は守護側が課すべき賦課
②守護代香川氏の催促を無視して行われた「兵船催促」
③住人逃散に対して行われた「陸分内検」
これは、守護細川氏の家臣であるという地位を利用した課税と支配の強行とも云えます。
 守護の代官による御料所支配は、荘園の代官職請負のように明文化された契約に基づいて行われれていたのではないようです。守護細川氏は、自分の家臣を代官に任命して、一任しています。そのため浦代官は慣行を無視できる立場でした。香西氏は浦代官として、仁尾浦から香川氏の権限を排除し、浦代官による一元的な支配体制を実現しようとしたようです。これは、守護細川氏によって宇多津港の管理権が、香川氏から安富氏に移されたこととも相通ずる関係がありそうです。その背景にあるのは、次のような戦略的なねらいが考えられる事は以前にお話ししました。
①備讃瀬戸の制海権を強化するために、宇多津・塩飽を安富氏の直接管理下へ
②燧灘の制海権強化のために仁尾浦を香西氏の直接支配下へ
③讃岐に留まり在地支配を強化する守護代香川氏への牽制

経済的に見ると浦代官になることは、国人領主が財政基盤を固め次のスッテプに上昇するためのポストでもあったようです。
 例えば、髙松平野東部に勢力を持つようになった十河氏は、古高松の方(潟)元湊の管理権を得ることで、財政基盤を高め有力国人へと成長して行きます。また、多度津湊で国料船の免税特権の運行権を持っていた香川氏も、瀬戸内海交易を活発に行っていたことは以前にお話ししました。香西氏も香西湊を拠点に、塩飽方面にも勢力を伸ばし、細川氏の備讃瀬戸制海権確保の一翼を担っていたともされます。  そのような中で、伊予や安芸との交易拠点となる仁尾浦を管理下に入れて、支配権を強化し財政基盤強化につなげるという戦略をとろうとしたことが考えられます。それは細川京兆家の意向を受けたものだったかもしれません。

  最後に、これを進めた仁尾の浦代官は誰だったのかを見ておきましょう。
史料には仁尾浦代官の名前が次のように見えます。
1441(嘉吉元)年10月
守護料所讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。(「仁尾賀茂神社文書」(県史116P)
1441年7月~同2年10月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門初見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114P)
この史料からは1441年10月に死去した「香西豊前の父」は、「丹波守護代の常建の子だった元資(常慶)」と研究者は判断します。香西氏のうち、この系統の当主は代々「豊前」を名乗っています。また、春日社領越前国坪江郷の政所職・醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保の代官職も請け負っています。
 この史料には、「香西豊前」とともに「香西五郎左(右)衛門」が登場します。つまり、この二人は同時代人で、別人ということになります。ここからも香西氏には2つの系譜があったことが分かります。整理しておくと
①15世紀には香西常健が丹波守護代に補せられ、細川家内衆としての地盤を固めた。
②その子香西元資の時代に丹波守護代の地位は失ったかが、細川家四天王としての地位を固めた。
③細川元資の後の香西一族には、仁尾浦の浦代官を務める「豊前系」と、陶保代官を務める「五郎左(右)衛門尉」系の2つの系統があった。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  国人領主制の展開と荘園の解体  香川県史2 中世 393P」
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庄内半島 三崎灯台
荘内半島の先端と三崎灯台 右奧が紫雲出山 左側(北)が備讃瀬戸

前回は綾子踊りの最初に謡われる「水の踊」を見てみました。そこには「堺・池田・八坂」の町が登場していました。今回は二番目に踊られる「四国船」の歌詞内容を見ていくことにします。

綾子踊り2 四国船
綾子踊り 2四国船 
一、四国 箱の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす 匂いやつす ヒヤヒヤ
ニ、四国 阿波の鳴門の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
三、四国 土佐の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
意訳変換しておくと
四国、箱の岬(阿波の鳴門、土佐の岬)の、潮の流れの速いことよ。この灘を航海する船は、ここぞとばかり、全身全霊で、辛さを堪えて越えてゆくよ。
最初に出てくる「箱の岬」というの現在の荘内半島の最西端の岬ことのようです。まず庄内半島のことを角川の地名辞典423Pで押さえておきます。
①七宝山脈の一部をなす陸繋島で、大浜と鍋尻の間はかつて海であったのが、土砂の堆積と隆起により、陸続きとなった。
②ここを船は運河で、あるいは台車に載せられ越えていて、そこに鎮座していたのが船越八幡神社である。
③古くは三崎(御崎)半島と呼ばれたが、明治23年の荘内村(大浜・積・箱・生里)の成立とともに荘内半島を呼ばれるようになった。
④江戸期は丸亀藩の支配下で、六浦二島で荘内組を構成した。
ここからは荘内半島が明治以前には「三崎(御崎)半島」や「箱の岬」と呼ばれていたことを押さえておきます。

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  吉田東伍「大日本地名辞書」の讃岐国には、次のように記します。
「箱御埼(三崎)。讃州の西極端にして、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と相対し、二海里余を隔つ。塩飽諸島は北東方に碁布し、栗島最近接す。埼頭に海埼(みさき)明神の祠あり。此岬角は、西北に向ひ、十三海里にして備後鞆津に達すべし。其間に、武嶋井に宇治島、走島あり。
  『鹿苑院(義満)殿厳島詣記』(康応元年)に、鞆の浦の南にあたりて、宇治、はしり(走)など云、島々あり、箱のみさきと云も侍り。へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
など云へるは、実に正確の状也。
 水路志云、三埼は、讃岐国の西北角にして、塩飽瀬戸と備後灘とを分堺す。即東方より航走し来る者、此に至り北して三原海峡、南して来島海峡、其分るヽ所なり
荘内半島と鞆
荘内半島の位置

意訳変換しておくと
箱御埼(三崎)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。足利義満の『鹿苑院殿厳島詣記』(康応元(1389)年には、次のように和歌に詠まれている。
へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
これはまさに正確な記録と云えよう。水路志には、次のように記されている。
 三崎(荘内)半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
②14世紀末に、足利義満が安芸の宮島参拝の帰路に、鞆から荘内半島に至る笠岡諸島を通過している。
③荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
海埼(みさき)明神の祠があったこと、鞆・尾道航路と来島・九州航路の分岐点であったことを押さえておきます。
庄内半島と鞆

『金毘羅参詣名所図会』(弘化四(1847)2月刊)には「箱ノ岬」として、次のように記します。
荘内半島 箱の岬 大浜神社 金毘羅参詣名所図会

「仁保(仁尾)の浦より西北の方にあり。本山の荘よりつゞきて、其間七里の岬なりと言。海上に突出ること抜群にして、左右にくらぶるものなし。箱浦ともいふ浜の方に御崎(三崎)明神の社あり。村中の生土神(うぶすな)なり」

意訳変換しておくと
仁保(仁尾)の浦の西北の位置する。本山荘より続く、七里の岬である。海に突出しているので、左右に障害がなく展望が開ける。箱浦という浜の方には、御崎(三崎)明神の社があり、村中の生土神(うぶすな)となっている。

ここにも「御崎(三崎)明神」がでてきます。しかし、その場所は「箱浦の浜」とされています。

『古今讃岐名勝図会』(嘉永七(1854)年には、「御崎(三崎)明神」について次のように記します。

「讃岐国中、西へ指出たる端なり(中略)
祈雨に験あり祈雨神とも称へり。社の二丁北に、海中に大石あり大幸石といふ。今は絶えたり。又曰く、赤頸の狼等を神使と言い、毎月十九日に見ゆと云。」

ここからは次のようなことが分かります。
①三崎大明神は「祈雨に験あり。祈雨神とも称へり。」とされ、雨乞信仰の神でもあったこと
②三崎神社の社の北の海中には、大幸石という大石があって神の使いとされる「赤首の狼」とされ、毎月19日は、海中から現れたこと。
ここでは、神霊としての信仰対象として、「大幸石」があり「赤首の狼」伝承があったことを押さえておきます。
なお「大幸石」については、「今は絶えたり」とあります。現在は「大幸石」に代わって燈台の沖の「御幸石」が名所となっているようです。

庄内半島 御幸石.3jpg
三崎灯台の下の御幸石

  『全讃史』(明治13年刊)には、「箱の岬」について、次のように記します。
箱御崎。生利(なまり)の浦に有。長く海中へ出る事、三里といへり。御崎(三崎)大明神の祠有 往来の舟、皆、帆を下け、拝して過れり。
打わたす御崎の神はわたつみを幾千代かけて守り給はん 

ここには「往来の船、皆、帆を下け、拝して過れり」とあります。海を行く船人達が、海路安泰を願って、帆を下げて、御崎(三崎)大明神を拝みながら通過していったことを伝えます。これは、古代以来の船人たちの河川や海の境界に鎮座する神への礼拝エチケットだったのかもしれません。庄内半島だけのことではなく、古代以来多くの船が行ってきた習俗だったと研究者は考えています。

日本海事慣習史(金指 正三) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
金指正三『日本海事慣習史』(昭和42年刊)には、「船行」の中で次の文を引用しています。

「霊神ノ立玉フ峰ノ麗ヲ過ニハ、帆ヲスルト云テ、帆ヲ八分ニサグベシ。霊神ヲ敬フ心ナリ」

意訳変換しておくと

霊神が鎮座する峰の麓を船で航行するときには、帆を八部にまで下げることが慣例であった。これが霊神を敬ぶ心である」

 瀬戸の島の断崖の上や、岬の先端に祀られた祠に対して、静かに礼拝をしながら船乗りたちは船を通過させたようです。そして、荘内半島の先端に鎮座する三崎神社に対しても、船乗りたちはこの礼をとっていたことが分かります。
今度は中世の三崎神社を、修験者の海の行場という視点で見ておきましょう。
四国霊場形成史 八幡信仰に弘法大師伝説が「接木」されている観音寺の『讃州七宝山縁起』 : 瀬戸の島から
讃州七宝山縁起
  観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』には、次のような事が書かれています。
 空海が仏宝を観音寺から庄内半島に続く山塊に納めたので、七宝山と号すること、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいうこと。また七宝山にある7つの行場を33日間で行峰(修行)する中辺路ルートがあることが記され、その行場として、次の寺が挙げられています。
初宿 観音寺(琴弾神社別当寺)
第二宿は稲積神社(高屋神社)
第三宿は経ノ滝(不動の瀧)
第四宿は興隆寺(本山寺奥の院)
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺(三崎神社の別当寺)
結宿は曼荼羅寺我拝師山。
七宝山縁起 行道ルート3
七宝山の中辺路の宿泊寺院
 こうしてみると、観音寺から岩屋寺まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったことが分かります。
DSC00417
神正院(詫間町生里)
 その第六宿が荘内半島の神宮寺です。
 この寺は現在の神正院(詫間町生里)で、三崎神社の別当寺であったようです。三崎神社の管理・運営は、このお寺の社僧がおこなっていたことになります。
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神宮院の三崎大権現のお堂 
権現からは修験者の拠点であったことがうかがえます。

彼らは山林修行者で修験者でもありました。行場での修行のひとつが、海に突きだした岬と、山の断崖を何度も行き来し「行道」することでした。荘内半島の三崎神社も「七宝山中辺路」ルートの行場として、多くの修験者たちを集めていたのでしょう。
 そして、五来重の説くように、岬の先端では修行の一環として大きな火が焚かれたはずです。それが「龍燈」で、沖ゆく船の船乗りの信仰を集めることになります。つまり、三崎神社は修験者たちの行場であると同時に、船乗りたちの航海安全を願う神社であり、その別当寺を神正院が務めていたことになります。
庄内半島 三崎神社3
三崎神社とその先の三崎灯台(荘内半島先端)
以上から三崎神社の性格や役割をまとめておきます。
①備讃瀬戸・備後灘・燧灘を分ける境界に位置する宗教施設
②岬の先端の行場としての宗教施設
③龍燈が焚かれる「燈台的な機能」や「海運情報センター」
④雨乞いに験がある権現で、管理は別当寺の社僧
燈台のある三崎の先端に向かって四国の道を歩いて行くと三崎神社の手前に、注連柱が立っています。
荘内半島 関の浦
注連柱と「関の浦」の説明版
その注連柱には「廣嶋縣御調郡吉和漁■」と刻まれています。「御調郡吉和」は、現在の尾道市西部にあたります。尾道の漁民たちによって奉納されたことが分かります。三崎神社は、荘内半島周辺だけでなく、遠く尾道や三原などの人々の信仰をも集めていたようです。
 それでは安芸の信者たちは、どのようにして三崎神社に参拝に来たのでしょうか。それを教えてくれるのが、ここに立っている四国の道の
説明板で、次のように記されています。

関ノ浦
 この道を二百メートルほど下ったところに、関ノ浦と呼ばれる砂浜のきれいな小さな入江があります。その昔、鎌倉・室町時代に、沖を通過する船舶から通行税をとっていた所で、山口県の上関【かみのせき】、中関【なかのせき】、下関【しものせき】と共に四大関所と呼ばれるほど重要な関所でした。
 また、明治、大正、昭和の初期までは、漁船が水の補給をしたり潮待ちのための休けい所となってにぎわいました。特に盛漁期には、酒、菓子、日用品などを販売する店が開かれていたといいます。きれいな砂浜の近くには、今でも真水が湧き出ている井戸が二つあり、当時をしのばせています。時は流れ、現在では三崎神社の夏祭の時以外訪れる人もなくひっそりとしていますが、入江の美しさだけは昔のままです。
荘内半島 三崎神社と関の浦

三崎神社の北側の浜には「関の浦」という「浦(港)」があり、
ここには沖ゆく船に飲み水を提供する井戸があり、潮待ちの休息所となっていたこと、さらに中世には「海関」で関銭を徴収していたというのです。尾道の船乗りたちも、ここに立ち寄り潮待ちをしていたのかもしれません。そして大祭などには、船を仕立ててやってきて、関の浦に船を着け、三崎神社に参拝したことが考えられます。

荘内半島 関の浦の井戸
関の浦に残る井戸跡
海の関所を設置し、通行税を徴収していたのは、どんな勢力でしょうか。
それは関銭を山口県の上関・中関・下関を支配下に置いていた海賊衆(海の武士たち)が想定できます。具体的には、芸予諸島に拠点を置き、備讃瀬戸までをテリトリーにした村上海賊衆です。16世紀前半に、村上衆は九州の大友氏に味方して、その功績として塩飽を支配下に置いています。備讃瀬戸南航路を行き交う船の関銭を、ここで徴収していたことは考えられます。そうだとすれば、ここには村上水軍の部隊が常駐していたのかもしれません。それは、讃岐を支配する守護の細川氏にとっては目障りな存在であったはずです。そのために細川氏は、仁尾を西讃岐の海上警備拠点として整備・組織していこうとしたのかもしれません。
 また、海上交通の要衝には宗教施設が建設され、僧侶たちが「管理センター職員」として服務するようになります。
その手法からすれば、ここに鎮座する三崎神社(大権現)は、関の浦(港)の管理センターであり、情報提供センターでもあったはずです。それを別当寺の神宮院が統括していたことになります。
 秀吉の海賊禁止令で、海の関所は取り払われました。しかし、関の浦はその後も潮待ち港として利用され、その山の上に建つ三崎神社は行き交う船の船乗りの信仰を集め続けたのでしょう。それは、この神社の信仰圏の拡がりからうかがえます。

庄内半島 三崎神社
三崎神社の参道石段
 どちらにして三崎神社に続く石段の立派さなどを見ると、辺境の岬に建てられたものとは思えない風格があります。それは、備讃瀬戸の航路に面した宗教施設で、瀬戸内海を行き来する船全体から信仰を集めていたことが背景にあることを押さえておきます。
四国別格二十霊場(二)・第7番札所 出石寺: ORANGE PEPPER
四国霊場別格 出石寺

同じような性格の寺院としては、愛媛県の三崎半島の付け根の山にある出石寺が挙げられます。
 孤立した山の上で出石山が繁栄した理由としては、次のようなことが考えられます。
①古代以来の霊山として、人々の山岳信仰を集めていたこと
②古代以来の瀬戸内海南航路の要衝で、九州を含め広い信者を集めたこと。
③空海伝説があるように真言系の山岳宗教の行場であったこと
徳島の四国霊場の焼山寺や大瀧寺などは、修行のために山上で大きな火を定期的に燃やしたと伝えられます。火を焚かないことには修行にならなかったのです。それは、海ゆく船からは「灯台」の役割を果たすようになり、紀州の水運関係者の信仰を集めるようになっていったことは以前にお話ししました。ここでも同じようなことが起こったのではないかと私は考えています。
 つまり、瀬戸内海南航路を使って、九州に渡って行く場合に、この地は三崎半島の付け根にあたり航路上の要地になります。そこを押さえるという戦略的な価値は大きかったはずです。そして、九州へ渡る船を誘導し、九州からの船を迎え入れる「海運指揮センター」としての役割を中世の出石寺は持っていたのではないでしょうか。
 そう考えると、庄内半島の三崎神社も同じようなことが考えられま

 どちらにしても、庄内半島の北側は、備讃瀬戸の重要航路で、この付近の島々の港はその「黄金航路」と直接的に結びついていて、「人とモノとカネ」が行き交う大動脈があったことは押さえておきます。 
庄内半島 三崎神社2
三崎神社の石段
少し寄り道をしすぎたようです。
四国船の歌詞である「箱の岬の潮の速さに沖漕ぐ船はにほひやつす」に近い他の表現を、研究者は次のように挙げます。
①伊豆や三島に沖こぐ船は泊る夜より枕も揺り驚かす(奈良県吉野郡・篠原踊歌)。
②徳島県鳴門市大麻町神踊歌の「四国踊」には、
「此処はどこぞととひければ音に聞こえし」の型で、「阿波の徳島」「土佐の高知」「伊予の道後」、そして「讃岐の字多津」がうたわれています。
「にほひやつす」については、次の2つを研究者は考えています。
①沖を漕いでゆく船(船人)が、難所を全力を出しきって、苦労難儀して通過して行く様子をうたっている
②「箱の岬、阿波の鳴門、土佐の岬」などの難所で、そこに祀られている神へ祈念して、ここぞとばかりに威勢良く水夫達が漕いでゆく様を謡っている
このような中で綾子踊りの四国船では、鳴門や室戸とともに三崎(荘内)半島が取り上げられ、その最初に謡われていることになります。中世の西讃地域の人々にとって、三崎半島は重要な意味をもつエリアで、そこに鎮座する三崎神社の知名度は高かったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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 詫間 波打八幡
   波打八幡神社(詫間町)
詫間荘の波打八幡神社の放生会には、詫間・吉津・比地・中村に加えて仁尾浦も諸役を分担して開催されています。また、三崎半島からまんのう町長尾に移った長尾氏も、移封後も奉納金を納めています。ここからは、中世の波打八幡宮は三野郡を越える広域的な信仰を集める存在だったことがうかがえます。
仁尾 覚城院
覚城院(仁尾町) 賀茂神社の別当寺
 仁尾の覚城院の大般若経書写事業には、吉津村の僧量禅や大詫間須田善福寺の長勢らが参加しています。ここからも三野湾の海浜集落や内陸の集落も仁尾の日常的な生活文化圏内にあったことがうかがえます。そうすると仁尾神人(供祭人)や、その末裔である商職人たちの活動も、そこまで及んでいたと推測できます。それが近世になると「買い物するなら仁尾にいけ」という言葉につながって行くようです。仁尾の商業活動圏は、七宝山の東側の三野湾周辺やその奧にまで及んでいたとしておきましょう。

 しかし、研究者はそれだけにとどまらないというのです。仁尾商人の活動は、讃岐山脈や四国山脈を越えて、伊予や土佐まで及んでいたというのです。「ほんまかいな?」と疑念も湧いてくるのですが、「仁尾商人=土佐進出説」を、今回は見ていくことにします。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。
仁尾浦商人の名前が、高知県大豊町の豊楽寺御堂奉加帳にあります。

豊楽寺奉加帳
豊楽寺御堂奉加帳

最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が続きます。書き写すと以下のようになります。

   豊永 大田山豊楽寺 御堂修造奉加帳
        元親(花押)
  有瀬右京進  有瀬孫十郎  嶺 将監
  仁尾 
  塩田又市郎  嶺 一覚   西 雅楽助
  奇光惣兵衛尉 谷右衛門尉  平孫四郎
      (後略)
この史料は天正2年(1574)11月のもので、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳です。

仁尾 土佐の豊楽寺との関係
豊楽寺薬師堂(大豊町)
豊楽寺には、国宝となっている中世の薬師堂があります。本尊が薬師如来であることからも、この寺が熊野行者の拠点で、この地域の信仰を広く集める神仏混淆の宗教センターだったことがうかがえます。
 奉加帳の中ある「仁尾 塩田又市郎」は、仁尾の肩書きと塩田の名字から見て、仁尾の神人の流れを汲む塩田一族の一人と考えられます。又市郎は豊楽寺の修造に際し、長宗我部家臣団とともに奉加しています。それは元親の強制や偶然ではなく、以前からの豊永郷や豊楽寺と又市郎との密接な繋がりがあったと研究者は考えています。

仁尾 土佐町
土佐町森周辺
6年後の天正八(1580)年の史料を見てみましょう。
土佐国土佐郡森村(土佐郡土佐町)の領主森氏の一族森右近尉が、森村の阿弥陀堂を造立したときの棟札銘です。

 天正八庚辰年造立
 大檀那森右近尉 本願大僧都宥秀 大工讃州仁尾浦善五郎

大檀那の森右近尉や本願の宥秀とともに、現場で作業を主導した大工は「讃州仁尾浦善五郎」とあります。善五郎という仁尾浦の大工が請け負っています。土佐郡森は四国山地の早明浦ダムの南側にあり、仁尾からはいくつもの山を超える必要があります。
どうして阿弥陀堂建築のために、わざわざ仁尾から呼ばれたのでしょうか? 
 技術者として優れた技量を持っていただけではなく、四国山地を越えて仁尾とこのエリアには日常的な交流があったことがうかがえます。長岡郡豊永郷や土佐郡森村は、雲辺寺のさらに南方で、近世土佐藩が利用した北山越えのルート沿いに当たります。このルートは先ほど見た熊野参拝ルートでもあり、讃岐西部-阿波西部-土佐中部を移動する人・モノが利用したルートでもあります。仁尾商人の塩田又市郎や大工の善五郎らは、この山越えのルートで土佐へ入り、広く営業活動を展開していたと研究者は考えています。

1580年前後の動きを年表で見ておきましょう。
1579年 長宗我部元親が天霧城主香川信景と同盟。
1580年 長宗我部元親,西長尾山に新城を築き,国吉甚左衛を入れる。以後、讃岐平定を着々と進める 
1582年 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる
    長宗我部元親,ほぼ四国を平定する
 こうしてみると、この時期は長宗我部元親が讃岐平定を着々と進めていた時期になります。その下で、土佐からの移住者が三豊に集団入植していた時期でもあることは以前にお話ししました。土佐と讃岐の行き来は、従来に増して活発化してたことが推測できます。

 仁尾商人の塩田又市郎と豊永郷とのつながりは、どのようにして生まれたものだったのでしょうか。
それを知ることのできる史料はありません。しかし、近世になると、仁尾と豊永郷などの土佐中央山間部との日常的な交流が行われていたことが史料から見えてきます。具体的には「讃岐の塩と土佐の茶」です。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、詫間の塩が多度津船で畿内へ大量に輸送されていたことが分かります。近世の詫間や仁尾で生産された塩は、畿内だけでなく讃岐山脈を越えて、阿波西部の山間部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていたことは以前にお話ししました。

 金比羅詣で客が飛躍的に増える19世紀の初頭は、瀬戸内海の港町が発展する時期でもあります。
そのころの仁尾で商いをしていた商家と取扱商品を挙げて見ます。
①中須賀の松賀屋(塩田忠左衛門) 醤油・茶、
②道場前の今津屋(山地治郎右衛門) 塩・茶、
③花屋(山地七右衛門) 總糸・茶、
④宿入の吉屋(吉田五兵衛) 茶、
⑤御本陣浜屋(塩田調助) 茶、
⑥境目の松本屋(吉田藤右衛門) 醤油・茶、
⑦東松屋(塩田信蔵) 油・茶、
⑧西松屋(塩田伝左衛門) 茶、
⑨浜銭屋(塩田善左衛門) 両替・茶、
⑩中の丁の菊屋(辻庄兵衛) 茶、
⑪新道の杉本屋(吉田村治) 醤油・茶、
⑫浜屋(塩田又右衛門) 茶、
⑬樋の口の杉本屋(吉田太郎右衛門) 油・茶、
ここからは、単品だけを扱っているのでなく複数商品を扱っている店が多いことが分かります。もう少し詳しく見ると、茶と醸造業を組み合わせた店が多いようです。この中で、塩田・吉田・辻氏の商家は、町庄屋(名主)をつとめる最有力商人です。彼らが扱う茶は、現在の高瀬茶のように近隣のものではありません。茶は、土佐の山間部から仕入れた土佐茶だったというのです。
飲んでも食べてもおいしい。茶粥のために作られた土佐の「碁石茶」【四国に伝わる伝統、後発酵茶をめぐる旅 VOL.03】 - haccola  発酵ライフを楽しむ「ハッコラ」
土佐の碁石茶
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い土佐の茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたようです。

大豊の碁石茶|高知まるごとネット
土佐の碁石茶

つまり、「仁尾茶」の仕入れ先が土佐だったのです。
 仁尾商人たちは茶の買い出しのために伊予新宮越えて、現在の大豊・土佐・本山町などに入っていたようです。彼らは、土佐の山間部に自分のテリトリーを形成し、なじみの地元商人を通じて茶を買付を行っていた姿が浮かび上がってきます。
 そんな中で地域の信仰を集める豊楽寺本堂の修復が長宗我部元親の手で行われると聞きます。信者の中には、日頃からの商売相手もたくさんいるようです。「それでは私も一口参加させて下さい」という話になったと推測できます。商売相手が信仰する寺社の奉加帳などに名前を連ねたり、石造物を寄進するのはよくあることでした。
 また、熊野行者などの修験者たちにの拠点となっている寺社は、熊野詣で集団に宿泊地でもあり、周辺の情報提供地や、時には警察機能的な役割も果たしていたようです。これは、仁尾からやってきた商人にとっても頼りになる存在だったのではないでしょうか。もっと想像を膨らませば、熊野信仰の寺社を拠点に仁尾商人は商売を行っていたのかもしれません。
仁尾商人の土佐進出が、いつ頃から始まっていたのは分かりません。
しかし、塩は古代から運び込まれていたようです。それが茶との交換という営業スタイルになったのは、戦国期にまで遡ることができると研究者は考えています。以上を整理しておきます
①天正二(1574)年の豊楽寺「御堂」修造に際し、長宗我部氏とともに奉加帳に仁尾浦商人塩田氏一族の塩田又市郎の名前が残っている。
②塩田又市郎は、仁尾・詫間の塩や魚介類をもたらし、土佐茶を仕入れるために土佐豊永郷に頻繁に営業活動のためにやってきていた。
③仁尾商人は、土佐・長岡・吾川郡域の山村に広く活動していた。
④中世仁尾浦商人の営業圈は讃岐西部-阿波西部-土佐中部の山越えの道の沿線地域に拡がっていた。
⑤このような仁尾商人の活動を背景に、土佐郡森村の阿弥陀堂建立のために番匠「大工讃州仁尾浦善五郎」が、仁尾から呼ばれてやってきて腕を振るった。
ここからは、戦国時代には仁尾と土佐郷は「塩と茶の道」で結ばれていたことがうかがえます。そのルートは、近世には「北側越え」と呼ばれて、土佐藩の参勤交替ルートにもなります。
このルートは、熊野信仰の土佐や東伊予へ伝播ルートであったこと、逆に、熊野参拝ルートでもあったことを以前にお話ししました。
ルート周辺の有力な熊野信仰の拠点がありますが、次の寺社は熊野詣での際の宿泊所としても機能してたようです。
①奥の院・仙龍寺(四国中央市)と、その本寺・三角寺
②旧新宮村の熊野神社
③豊楽寺
④豊永の定福寺
①については、16世紀初頭から戦国時代にかけて、三角寺周辺には「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が先達となって、東伊予の「檀那」たちを率れて熊野に参詣していたようで、熊野信仰の拠点でした。

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熊野神社(旧新宮村)

②は、大同二年(807)勧請と伝えられるこの地域の熊野信仰の拠点でした。三角寺など東伊予の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの②の熊野神社を拠点に上流に遡り、仙龍寺(四国中央市)へと伝わり、それが里下りして本寺・三角寺周辺に「めんどり先達」集団を形成したと考える研究者もいます。ここからは、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場を求めて銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③仙龍寺から里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開き、周辺に定着し「めんどり先達」と呼ばれ、熊野詣でを活発に行った。
④北川越や吉野川沿いに土佐に入って豊楽寺を拠点に土佐各地へ
つまり、北川越の新宮やその向こうの土佐郡は、宗教的には熊野行者のテリトリーであったことがうかがえます。
   仁尾覚城院の大般若経書写事業には、阿波国姫江荘雲辺寺(徳島県三好郡池田町)の僧侶が参加しています。以前に、与田寺氏の増吽について触れたときに、大般若経書写事業は僧侶たちの広いネットワークがあってはじめて成就できるもので、ある意味ではそれを主催した寺院の信仰圏をしめすモノサシにもなることをお話ししました。そういう意味からすると、覚城院は雲辺寺まで僧侶間にはネットワークがつながっていたことが分かります。さらに想像を膨らませるなら覚城院は、豊楽寺ともつながっていたことが考えられます。
熊野行者はあるときには、真言系修験者で高野聖でもありました。
15世紀初頭に覚城院を再建したのは、与田寺の増吽でした。彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 
    市村高男    中世港町仁尾の成立と展開   中世讃岐と瀬戸内世界
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仁尾 中世復元図
中世仁尾浦の復元図

 賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二年(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人もいて、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、「地下家数今は現して五六百計」とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。そして、管領細川氏の保護を受けて、活発な交易活動を展開していたことようです。
仁尾の船は兵庫北関に、どのくらい入関しているのでしょうか?
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍の港別入港数 
文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳には、海関のある兵庫北関に入船し、通行税を納めた船が記録されています。その中に讃岐港は上表のように17港、寄港件数は237件です。下から4番目に「丹穂」とあるのが仁尾で、その数は2件です。「地下家数、今者現して五六百計」と繁栄している港町にしては、その数が意外なほど少ないようです。宇多津と比べると、その1割にも満たなかったことになります。観音寺は4件です。その他には、三野も詫間も伊吹もありません。
どうして、仁尾を中心とする三豊の船が少ないのでしょうか?
この問いに答えるために、宇多津や東讃の港の比較をしてみましょう。讃岐最大の港湾都市宇多津には、隣接地に守護所(守護代所)が置かれていました。香川氏に代わって宇多津の管理権を得た東讃岐の守護代安富氏は、宇多津船をたびたびチャーターし、「国料船」として利用しています。前々回にお話ししたように「国料船」には、関税がかけられず無料通行が出来ました。通行税逃れのためです。
 もう一つ考えられる事は、宇多津・塩飽と平山との間に見られる分業体制です。

宇多津地形復元図
聖通寺山の西北麓にあった平山港
平山は、宇多津東側の聖通寺山のふもとに位置する中世の港です。この港に所属する船は、小型船が多く、周辺地域の福江や林田・松山・堀江などの地方港を行き来して、物産を集めていた気配があるようです。そうして集積された米や麦を畿内に運んだのが、宇多津・塩飽船になります。宇多津と平山の船は、以下のように分業化されていたというのです。
①宇多津船 讃岐と畿内を結ぶ長距離行路に就航する大型船
②平山船  西讃各地の港から宇多津に荷物を集積する小型船
このような棲み分けがあったために、宇多津近隣の林田や福江・松山などは出てこないと考えられます。
 三豊の各港は、塩飽との関係が深かったようです。宇多津と平山の関係と同じように、塩飽を中継港として三豊は畿内とつながっていたことが考えられます。そのため三豊船籍の船は塩飽まで物資を運び、そこからは塩飽船に積み替えられて、大麦・小麦などが畿内に向けて運ばれた可能性があります。宇多津・平山・塩飽等の諸港は、讃岐における諸物資の一大集散地でした。同時に、畿内と讃岐とを結ぶ拠点で中継基地の役割を果たしていたと研究者は考えています。
東讃の諸港の特色は?
 髙松以東には、島(小豆島)・引田・三本松や鶴箸・志度・庵治・方本(潟元)・野原・香西などの港湾が登場しています。このうち三本松を船籍地とする20艘のうちの11艘、鶴箸を船籍地とする4艘のうちの一艘が「管領御過書」船です。また、庵治を船籍地とする10艘のうちの4艘、方本(潟元)を船籍地とする11艘のうちの5艘までが「十川殿国料」船、一艘が安富氏の「国料船」です。東讃の各講は、管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)と守護代や十河氏など重臣層と関係がある港が目立ちます。つまり、有力武将の息のかかった港が多いということになります。
 それに対して、
①志度(志度寺)
②野原(無量寿院)などの港湾都市
③讃岐東端部にあって畿内への窓口として重要な位置を占める引田(誉田八幡宮がある)
などは、対照的に「管領御過書」船や「国料」船が、ひとつもありません。この背景には、これらの港湾都市では、志度寺・無量寿院・誉田八幡宮などの有力寺院の影響力と、その関係者と地域住民とによる自治組織があって、細川氏やその重臣が関与しにくい状況にあったと研究者は考えているようです。

 東讃岐の諸港湾は東瀬戸内海西縁部に位置し、兵庫・堺や畿内諸地域に近いところにあります。
そのため日常生活品である薪炭などを積んだ小型船が畿内との間を往復していたようです。つまり、東讃各港は、畿内と日常的な交流圏内にあって、多くの小型船が兵庫北関を通過し、薪などを輸送していたと研究者は考えているようです。
 これに対して西讃の各港は、どうだったのでしょうか
 瀬戸内海を「海の大動脈」と云うときに、東西の動きを中心に考えていることが多いようです。しかし、南北の動きも重要であったことは以前にお話ししました。昭和の半ばまでは、備後から牡蠣船が観音寺の財田川河口の岸辺にやってきて牡蠣鍋料理を食べさせていた写真が残っています。このように、燧灘に面する観音寺や仁尾・伊吹などの各港は、伊予や対岸の備中・安芸東部・芸予諸島エリアと日常的な交流活動を行っていました。そのために畿内との交易活動に占める割合が、東讃ほど高くありませんでした。そのため西讃船籍の兵庫北関を通関する船は、少なかったことが考えられます。宇多津・塩飽諸島を境目にして、それより西に位置する三豊地域の独自性がここにも見られます。
兵庫北関入船納帳 燧灘
三豊の各港の日常交易活動のエリアは燧灘沿岸
 兵庫北関に入関した西讃岐の港には、多々津(多度津)・丹穂(仁尾)・観音寺と、島嶼部のさなき(佐柳島)・手島などがあります。この中で、多々津(多度津)は、12艘のうち8艘までが西讃岐の守護代香河(香川)氏の「国料船」です。これは多度津港が香川氏の居館の足下にあり、日常的な繋がりが成立していたからでしょう。
 これに対して、三豊地区の港を見てみると次の通りです。
①観音寺を船籍地とする4艘
②丹穂(仁尾)を船籍地とする3艘
③さなき(佐柳島)を船籍地とする2艘
④手島を船籍地とする一艘
ここには「国料船」や「管領御過書」船が、一隻もありません。これは多度津や東讃とは対照的です。

もうひとつ研究者が指摘するのは、政治権力と港の関係です。
 戦国時代の堺を例に考えると、会合衆という有力商人層による自治組織によって運営支配されていました。その勢力に接近し、利用しようとする勢力は現れますが、それを直接支配しようとする勢力は信長以前には現れていません。讃岐の宇多津の場合も、さきに港湾都市としての宇多津があって、その近辺に守護館が後から置かれたようです。近世の城下町のように、城主がイニシャチブをとってお城に港が従属するようにもとから設計されたものではありません。どちらかというと後からやって来た守護細川氏が、宇多津の近くに居館を構えたという雰囲気がします。政治勢力は、港を管理運勢する勢力に対して、遠慮がちに接していたと印象を私は持ちます。そのような点で西讃守護代の香川氏によって開かれた多度津港は、性格を異にするようです。多度津は、それまでの堀江港に替わって築かれますが、その場所は香川氏の居館のあった桃陵公園の真下です。香川氏の主導下に新たに開かれた港と私は考えています。そういう意味では、居館と港が一体化した近世的港の先駆けとも云えます。
香川氏との関係で、西讃の諸港を見ていくことにします。
①神人の下に結束し、賀茂社・覚城院・常徳寺・吉祥院などの有力寺社がひしめく仁尾
②財田川河口部の琴引八幡宮とその別当寺(観音寺)などを核として形成された港町観音寺
これらの港には香川氏は、土足で踏み込んでいくことは出来ず、一定の距離を置いて接していた雰囲気がします。そうした状況は、海民の集住地であり、住民が主役となって島を運営していたさなき(佐柳島)・手島・伊吹でも共通していたと研究者は考えているようです。

 以上をまとめておきます。
①東讃岐・西讃岐ともに「国料船」や「管領御過書」船が発着する港と、それが見られない港がある。
②「国料船」「管領御過書」は、宇多津以東の庵治・方本(潟元)・三本松・鶴箸など東讃の港にに集中していること。
③西讃で「国料船」が見られるのは多度津だけで、三豊には「国料船」はない。
④この背景には東瀬戸内海の向こう側にある畿内市場に接するという東讃各港の立地的優位さがあること
⑤それに着目した細川氏や守護代・有力武将らの港湾政策があること
 
東讃岐と西讃岐とのちがいを、今度は積荷から見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 積荷一覧表
兵庫北関入船納帳 讃岐港別の積荷一覧表

積荷一覧表から分かることを挙げておくと
①東讃岐の三本松・鶴箸・志度は米・小麦・大麦・材木・山崎コマ(荏胡麻)など穀類や材木(薪)をが主な積荷であること
②引田・庵治・方本(屋島の潟元)の積荷のほとんどが塩で、塩専用船団ともいえること
③これに対して西讃岐の船々の積荷は、米・赤米・豆・大麦・小麦などの穀類、ソバ・山崎コマ(荏胡麻)、赤イワシ・干鰯などの海産物が大半を占めていること。
④西讃の塩は多度津船の980石と丹穂(仁尾)船の70石だけで、東讃岐の港から発着する船々と積荷の種類がかなりちがっていること。

どちらにしても『兵庫北関入船納帳』の讃岐船の積みにについては、東西の各港にかなりの違いがあることが分かります。それを生み出した要因として、次のような事が背景にあると考えられます。
①諸港の後背地の生産の在り方、
②諸港の瀬戸内海海運での役割、
③畿内との交易の在り方
例えば①の後背地については、東讃の引田・庵治・方本(潟本)・島(小豆島)などの港には、製塩地が隣接してあったことが分かっています。古代から塩を運ぶための輸送船やスタッフがいました。それに対して、西讃岐では詫間が製塩地として確認されるだけです。観音寺・丹穂(仁尾)の船が運んでいる米・赤米・豆・大麦・小麦・山崎コマ(荏胡麻)は、後背地の財田川流域で生産されたとものでしょう。また赤イワシは近海産、備後塩は備後東部の製塩地から日常的な交易活動を通じて集荷してきたものと考えられます。ここからは、東讃と三豊では、畿内との距離が違っていたこと、各エリアが畿内の需要にそう地域色の強い品々を必要に応じて輸送・販売していたことがうかがえます。
  文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳に出てくる多度津以西の港の船を一覧表にしたものです。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・三豊の船一覧

まず目につくのは、多度津船の入港の多さです。
1年間で12回の入港数があります。多度津船の積荷「タクマ330石」とあるのは「詫間産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。多度津船は5月22日の船までは、積荷が記載されています。ところが4月9日船に「元は宇多津弾正船 香河(川)殿」とあり、5月24日以後の船は「香河殿十艘過書内」「香河殿国料」と記されるようになって、積荷名が記載されなくなります。これについては、以前にお話したように、守護細川氏がそれまで香川氏が管理していた宇多津港の管理権を安富氏に移管したこと、それに伴い香川氏の国料船の母港が多度津に移されたことが背景にあります。
 ここからは、それまでは多度津船籍の船は一般船として関税を払って通行していたのが、国料船や過書船として無税通行するようになったことがうかがえます。
  多度津船の船頭や問丸を見ておきましょう。
多度津船の問丸は道祐の独占体制にあったことが分かります。 道祐は、多度津以外にも備讃瀬戸の25港湾で積荷を取り扱っていることが兵庫北関入船納帳からは分かります。彼は燧灘を取り囲む備中と讃岐を結ぶ地域、瀬戸内海西部地域の大規模な勢力範囲を持っていた海商だったようです。多度津の香川氏が道祐と組み、その智恵と情報量に頼って、瀬戸内海の広範囲に渡って物資を無関税船で輸送できる多度津に集積し、多度津を繁栄させていったと研究者は考えています。
仁尾や観音寺船の船主について、簡単に見ておきましょう。
①仁尾船の荷主は新衛門・勢兵衛・孫兵衛、問丸はすべて豊後屋
②観音寺船の荷主は、又二郎・与五郎、問丸は仁尾と同じすべて豊後屋
③仁尾船の荷主・勢三郎は、多度津の荷主としても五回登場するので、彼は多度津・仁尾を股に掛けて活動していたこと
④手島・佐柳島の問丸は、すべてが道祐で、豊後屋の関与する仁尾・観音寺とは異なる系統の港湾群であったこと、
 こうしてみると当時の瀬戸内海の各港は、問丸によってネットワーク化されて、積荷が集積・輸送されていたことがうかがえます。燧灘エリアにネットワークを張り巡らした問丸の道祐が、多度津の香川氏と組んだように、備後屋は仁尾の神人や観音寺の寺社と組んでいたようです。彼らが港に富をもたらす蔭の主役として富を集積していきます。そして、拠点港に自らの交易管理センターとして、信仰する宗派の寺院を建立していくことになります。
 その例が観音寺の西光寺などの臨済宗派の禅宗寺院です。観音寺市には、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)派で、伊予の港にもこの派の寺院は数多く分布します。ここには、宗派の布教活動と供に問丸などの信者集団の存在があったことがうかがえます。
  讃岐守護細川氏に繋がることで、上賀茂社との関係を次第に精算した仁尾
 仁尾については、従来は「賀茂社神人(供祭人)によって港町仁尾」というイメージで語られてきました。確かに、賀茂社神人は京都の上賀茂社への貢納物輸送に、私的な交易品を加えて輸送船を運航していたようです。仁尾と京都とを定期的に往復することで、次第にそれが広域的な交易に拡大していきます。その中心に神人たちがいたことは間違いありません。
 しかし、15世紀半以降の仁尾浦の神人たちは、それまでとは立ち位置を変えていきます。
管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)に「海上諸役」を提供する代わりに、細川氏からの「安全保障」を取り付けて、京都上賀茂社の「社牡家之役銭」を拒否するようになっていたことを前回お話ししました。細川氏と上賀茂社を天秤にかけて、巧みに自分に有利な立場を固めていきます。別の言葉で表現すると「仁尾の神人たちはは讃岐守護・守護代との繋がりを盾として、上賀茂社との関係を次第に精算していった」ということになります。その結果として、それまでの畿内を含む活動エリア狭めながら、燧灘に面する讃岐・伊予・安芸などの地域に根付いた活動へと転換していったと研究者は考えているようです。
 このような動きと、神人らが「惣浦中」などと呼ばれる自治組織を形成・定着させる過程とは表裏をなす動きであったと研究者は指摘します。
最後に中世仁尾浦の成立基盤が、近世仁尾の繁栄にどのように結びついていくのかを見ておきましょう。
仁尾町史には、18~19世紀半ば過ぎの仁尾の繁栄について、次のように記されています。
①醸造業・搾油問屋・魚問屋・肥料問屋・茶問屋・綿綜糸所・両替商などの大店が軒を連ねていたこと。
②近郷・近在の人々が日用品から冠婚葬祭用品に至るまで「仁尾買物」として盛んにやってきたこと。
③港には多度津・丸亀・高松方面や対岸の備後鞆・などにまで物資を集散する大型船が出入りして、「千石船みたけりや仁保(仁尾)に行け」とまでうたわれたこと
ここからは、当時の仁尾が西讃岐の代表的港町の一つとして繁栄していたことが分かります。これを中世の仁尾浦と比較すると、交易圈は多度津から高松(中世の野原)、備後の輛の浦・尾道などが中心で、今まで見てきた中世の仁尾浦の交易圈と変わらないことが分かります。量的には増加しているかも知れませんが、港町の質的な面で決定的な変化はなかったようです。中世に形成された仁尾浦の上に近世仁尾港の繁栄があった。そこには、交易権などの存続基盤に変化はなかったとしておきます。

  以上をまとめておくと
①「兵庫北関入船納帳」に記載された、三豊の港は東讃に比べると少ない。その要因として次の3点が考えられる。
②第1に、東讃各港は畿内との交易距離が短く、小型船による薪炭輸送など生活必需品が日常的に派運び出されていたこと。
③第2に、東讃各港は守護や守護代などの管理する港く、国料船・過書船の運行回数が多かったこと
④中讃・西讃の各港は、宇多津・塩飽を中継港として物資を畿内に送っていたこと
⑤三豊の仁尾は、古代には上賀茂神社の保護特権の下に、神人たちが畿内との交易を行っていた。⑥しかし、律令体制の解体と共に古代の特権が機能しなくなる。そこで、仁尾は頼るべき相手を管領細川氏に換えて、警備船や輸送船の提供義務を果たすことで、細川氏からの「安全保障」特権を得た。
⑦同時に、それは従来の畿内を交易対象とする活動から、燧灘沿岸エリアを日常交易活動圏とする交易活動への転換をともなうものであった。
⑧このようにして作られた中世仁尾浦をベースにして、近世の仁尾港の繁栄はもたらされた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 
7仁尾
仁尾町の沖の燧灘に浮かぶ大蔦島・小蔦島は、11世紀末に 白河上皇が京都賀茂社へ御厨として寄進した島の一つです。 荘園が置かれると荘園領主と同じ神社を荘園に勧進するのが一般的でした。こうして、大蔦島に京都の賀茂神社が勧請されます。そして14世紀半ばに、対岸の仁尾の現在地に移されます。以後、仁尾浦の住人は、京都賀茂社の神人(じにん)として社役を担うようになり、特別の権威を持ち交易や通商、航海等に活躍することになります。このことについては、以前にお話ししましたので、今回は中世仁尾の景観復元を、例のごとく香川県立ミュージアムの冊子で見ていくことにしましょう。
7仁尾2
 仁尾を巨視的に見ておきましょう。
瀬戸内海に鬼の角のように突き出た庄内半島の西側の付け根にあるのが仁尾浦です。庄内半島の東側が粟島から塩飽諸島や直島諸島など「多島海」なのに対して、仁尾のある西側は、燧灘に伊吹島がぽつんと沖に浮かぶだけです。そのために冬は北西風が強く、強い波風が海岸に襲いかかってきます。しかし、仁尾浦は、庄内半島の湾岸最奥部にあることと、その前に浮かぶ大蔦島・小蔦島と磯菜島(天神山、昭和前半期には島であった)が天然の防波堤となり港を守ります。そのため「西風が吹いても入港できる西讃唯一の港」と云われる天然の良港でした。
 一方、託間の南の三野津湾は中世までは奥深く海が湾入していたことが分かります。海岸線は吉津付近にまで入り込んできていました。古代の吉宗で焼かれた瓦も、この湾に入ってきた船で藤原京に向けて運び出されていったのでしょう。古代の三野郡の津であった三野津は吉津と呼ばれるようになり、江戸時代初期まで港湾集落として機能していたことがうかがえます。
 吉津は、高瀬川流域の内陸部との繋がりが強かった港湾であったようです。それに対して、詫間は多量に生産される塩を瀬戸内海沿岸各地に積み出す拠点港だったようです。そういう意味で託間は、讃岐の外に向かって開かれた港です。
 中世の仁尾浦は、背後の三方をすべて山地に囲まれていて、西の海だけが開かれている地形になります。しかし、三野郡とは、詫間峠越えで詫間に通じ、南側の仁尾峠越えで吉津や高瀬などにつながっていました。また、詫間から加嶺峠越えで仁尾に入る道路は、西に突き出す八紘山に沿って浜に延びますが、その西麓付近に「境目」という地名が残っています。この加嶺峠越えの道路が詫間荘と草木荘との境界線と重なっていたと研究者は考えているようです。
 仁尾浦を鳥瞰すると、核となる施設は二つあるようです。
その一つは京都から大蔦島に勧請され、一四世紀に対岸の仁尾村に移転されたと伝えられる賀茂社であり、一五世紀にはその境内の一角に神宮寺もありました。
北部の古江が初期仁尾の拠点? 
下の地図で分かるように、今は仁尾の海岸部は埋め立てられていますが、明治三〇年代の海岸線は、50㍍ほど内側にありました。特に、北部の「古江」は深い入り江で、磯菜島(天神山)とその沖合にある大蔦島とによって風波を防ぐ天然の良港でした。上賀茂社の供祭人たちが、最初に活動の拠点としていたのは、大蔦島・小蔦島沿岸海域からこの「古江」一帯にかけての海域・諸浦であったと研究者は考えているようです。
7仁尾3

 仁尾の海岸線 実線が近世・点線が中世の海岸線
「古江」の南に拡がる仁尾浦の中心部分について見てみましょう
  覚城院はもともとは  草木八幡宮の別当寺?
もう一つは11世紀半ばの創建、で約二百年後の寛元年間の再建とされる覚城院です。この寺は、もともとは草木荘内にあった伝えられます。一時衰退した時代があり、応永三三年(1418)讃岐・大川郡で活動中の熊野系の僧増吽の勧進によって中興されて、今日に繋がる基礎が築かれたとされます。永享二年(1430)には、覚城院は23の末寺があり、その中に賀茂社神宮寺や塔頭と見られる宮之坊も含まれていました。仁尾の賀茂社の別当寺となったのは、増吽の勧進による再興の際のことだったと研究者は考えているようです。
 しかし、この時の覚城院は現在地にあったわけではないようです。永享二年当時、覚城院の僧宗任が「託間庄草木覚城院」と称し、さらに文明17年(1485)の細川元国が発した禁制には「江尻覚城院」と書かれています。つまり、この時期には、草木荘の江尻にあったようです。
江尻周辺を地図で見てみると、江尻川が大きく蛇行して海に注ぐ河口にも近く、その対岸には、草木八幡宮やその供僧の地蔵坊や千台寺もあり、かつて覚城院が草木八幡宮の別当寺であったという伝承に納得します。覚城院が現在地に再移転したのは、戦国末期から近世初頭のことのようです。
 それに伴って草木八幡宮の別当寺は、覚城院から吉祥院に交代したのでしょう。その他の中世以来の寺院を見てみると広厳院・新光坊・常徳院・金光寺・蓮花寺・多聞寺・如観寺・道明寺などがあり、このうち広厳院・新光坊を除くすべての寺院が八紘山西麓を南北に縦貫する街路の東側に並んでいます。この南北街路が「常徳寺敷地」の西の堺とし「大道」、「覚城院御堂敷」西の堺として見える「大道」にあたるようです。この道筋の起源は、15世紀初頭まで遡れることになります。この「大道」をもう少し追いかけて見ると、賀茂社の東側を通過したあと、北東に向きを変え、詫間峠越えの道路となって詫間へ通じていたと考えられます。その道筋の近くには、「こうでんじ原」[ぜんこうじ原]という地名が残り、覚城院末寺の金伝寺・善光寺があったようです。
  いままでの仁尾の街道レイアウトをまとめておきましょう
①基本街路は詫間峠越えで仁尾と詫間を結ぶ「大道」
②集落北部に神宮寺と賀茂社が鎮座し、南部には草木八幡宮の別当寺であった覚城院があった
③詫間荘と草木荘の境界とされた加嶺峠越えの道路が仁尾浦を南北に分ける。
④その道路沿いに道明寺があり、高瀬・吉津から仁尾峠越えで仁尾浦南部(もとは草木荘域)に入る道路の途上に草木八幡宮や吉祥院があった。
⑤さらに広厳院・新光坊が15世紀前半から現れ、その門前を起点に「大道」と平行する道路割が見られる
⑥この道路の西側に綿座衆の拠る「中須賀」があったことから、仁尾浦の町場集落は二本の南北街路と三本の東西街路を基本とする港湾都市に成長していた
15世紀半ばに、仁尾浦の神人たちが香西氏の非法を訴えた文書の中で、
「地下家数、今者現して五六百計候」
と主張しているのも、誇張ではなく、それなりに根拠のある数値だったようです。
中世仁尾の港湾は、どこにあったのでしょうか。
先ほどの地図を見ると中世の海岸線は、賀茂社門前まで海が迫り、その東側の広厳院・新光坊を起点とする南北街路の西側近くには砂浜が拡がっていたようです。そして、加嶺峠越えの道路が浜に突き当たる地点の北側に綿座衆のいた中須賀があります。ここからは、港湾機能を持つ浜の一つは、このあたりにあったと研究者は考えているようです。
 しかし、賀茂社の北側には「大浜」という地名もあります。
この付近は磯菜島の島影で、仁尾浦の中でも最も風波が穏やかなところのようです。仁尾浦の核である賀茂社があること、その賀茂社との関係から「大浜」と呼ばれていたことなどから、仁尾浦の港湾の中心となっていたのはおそらくこの周辺と研究者は考えているようです。海岸部が埋め立てられた現在でも、この「大浜」の沖合に「仁尾港」やヨットハーバーが立地しているのは単なる偶然だけではなさそうです。
  もう一つ注目されるのは江尻川河口付近です。
江尻川の下流は、現在でも満潮時なら小舟なら草木八幡宮の近くまで遡れます。かつてはもう少し西側を流れていた形跡があり、西からの風波を防げる河口は船溜まりとして利用されていた可能性があります。しかし、この河口は現在は「父母が浜」として人気スポットになっているように広い干潟が広がり港の機能は果たせません。中世においても港湾としては不向きだったようです。石清水の神人たちが上賀茂社供祭大(神人)らが作り上げた仁尾浦の中に組み込まれていったのは、おそらく彼らの活動舞台である「港の優劣」にもあったのかもしれません。
 参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開

   仁尾のボラ地曳網とは?
  釣り人にとってボラは人気のない魚のようです
しかし、冬のボラは「寒ボラ」と呼ばれて美味しく、脂も乗って刺身にすると多少歯ごたえもあって真鯛とも似ています。
200017999_00149仁尾
金毘羅名所参拝図絵に描かれた仁尾

燧灘に突き出る荘内半島の仁尾では戦前まで地曳網でこれを捕獲していました。

冬のボラは群になって一か所に留まる習性があります。仁尾と大蔦島と小蔦島に囲まれたマエカタと呼ばれる地先の海域には冬場になると、ボラが集まってきました。その群れは寒くなるにつれて大きくなり、翌年の3月の彼岸ごろにはいなくなりました。この間、ボラの群れを散らさないために、この海域は禁漁となり、船舶の侵入も禁止とし、密漁を防ぐために番船に自炊用具を持ち込み、昼夜監視を続けたともいいます。ボラの群れ大きくなりすぎると他に移動してしまうこともありました。また、雨や風の影響で移動が早まることもあるので、地曳網を入れる時期を慎重に判断したようです。地曳網の全長は約1200メートルと長いもので、網地は木綿で網目は、細かいものを使用しました。ボラは動きが激しく網目を抜けやすいためです。
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父母ゲ浜とその向こうに浮かぶ大・小の蔦島
 地曳網を入れて引き揚げるまでには4時間ほどかかりましたので、潮が満ちるまで網を曳く広さと勾配のある砂浜が必要した。最も適したのは小蔦島の砂浜だったようです。
 こうして、仁尾の海に「冬網」と呼ばれるボラ地引き網が牽かれる日がやってきます。
仁尾町大北集落・恵比須神社のボラ地曳網の絵馬
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ここには明治41年(1908)2月21日と昭和8年(1933)12月5日にボラ地曳網の絵馬が奉納されました。明治の者は香川県立ミュージアムに収蔵されて、ここの社殿内に掛けられているのは昭和のものです。絵馬には天神山と弁天山の間で網を曳く場面が描かれています。いつもは小蔦島の砂浜で網を曳いていたそうですが、この時は湾内にスナメリが侵入し、これに追われてボラの群れが逃げてきたために、ここで網を牽くことになりました。大漁で網が裂けましたが10万匹のボラが捕れる豊漁でした。
その大漁を神に感謝してこの絵馬は奉納されたものです。
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 絵馬の左側には縦書きで網元の吉田家のマタナカの屋号に続いて「冬網連中 周旋人 河田輝一」と記されています。私は、この人が網元と思いましたが、そうではないようです。
「冬網」はボラ地曳網の呼び名で「周旋人」は絵馬奉納の世話人のことです。仁尾のボラ地曳網の従業員には、網元に年中雇われている「内人」と、地曳網の時にのみに参加する「網子」がいました。周旋人の河田輝一は「内人」にあたる人物で、この人が絵馬奉納を網元に持ちかけたそうです。
 絵馬の下側には右から「内人」七人、中央に一五人、左に九人の名があります。左端には絵馬に文字書きした「書記」の名が見えます。生存者からの聞き取りによると中央の15人は「網子」、左の9人は「網子」とは別に網を曳きに来た人で、いずれも誰の名を記すかは、すべて「内人」で相談して決めたといいます。
網元の吉田熊吉の名はなく、その子の久吉の名はあります。どうしてでしょうか?
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 息子久吉は、現場の指揮者として名が記されたようです。
絵馬奉納は網の従業員の「共同行為」として行われます。網元の吉田熊吉はこの神社の鳥居に願主として名前が刻まれています。つまり、奉納物の種類により奉納行為がランク付けされていたようです。
 これは近世以降のイワシ地曳網の絵馬にも見られる現象で、網漁の絵馬の多くは従業員が共同で奉納するような「庶民的な奉納物」だったのです。
 そういえば、戦前の三豊女学校の講堂建設に際して、建物自体への寄付金を出しているのは、西讃一の大庄屋と言われた山本町河内の大喜多家や仁尾の塩田王の塩田家など、三豊の名家に限られていたのを思い出します。その次のランクはピアノなどの備品を寄付していました。ここにも寄付の種類にランク付けがありました。
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網漁の絵馬は全国的にも少ないようです。
それが、仁尾では同じ神社に、二度も奉納されたのはどうしてでしょうか?
仁尾と蔦島の間の海には、集まってきたボラの大群を地引き網で一網打尽にすることができる「特殊海域」でした。この時のように驚異的な大漁を、もたらすこともありました。
しかもその場所は、自分たちの住んでいる目の前の海なのです。網が入れられる日には、この絵馬にも描かれているように、地元の人たちがギャラリーとして取り巻いたのです。その中での記録的な大漁。それは漁に関わった人たちをはじめ、浜の人たちまでも喜びに包みこむ大イベントとなったはずです。その渦中にいた「内陣」たちが大漁を喜び祝う気持ちと神への感謝を込めて、先例にならって絵馬を奉納させたのだと思います。

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参考文献
真鍋 篤行 仁尾のボラ地曳網と絵馬 香川歴史学会編 香川歴史紀行所収

仁尾浦 賀茂神社の「神人」とは何者なの?イメージ 1


  仁尾沖の燧灘に浮かぶ大蔦島・小蔦島は、11世紀末に 白河上皇が京都賀茂社へ御厨として寄進しました。 荘園になると、荘園領主と同じ神社を荘園に勧進するのが当時の習わしでした。こうして、応徳元年(1084)に山城国賀茂大明神(現在の上賀茂神社)の分霊が蔦島に勧進されます。これが現在の大蔦島の元宮(沖津の宮)です。今でも賀茂神社の秋祭りの際には、祭礼を取り仕切る年寄・頭人がここに参拝しています。
 そして14世紀半ばに、対岸の仁尾の現在地に移されます。

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  京都賀茂社の神人(じにん)として活躍する仁尾浦の住人

 やがて仁尾浦の住人が京都賀茂社の神人(じにん)として社役を奉仕するようになります。神人とはいったいどんな人たちなのでしょうか。神人は、特別の権威や「特権」を持ち、瀬戸内海の交易や通商、航海等に活躍することになります。そして、仁尾浦は海上交易の活動の拠点であるだけでなく、讃岐・伊予・備中を結ぶ軍事上の要衝地として発展していくことになります。
 このように仁尾は、賀茂神社に奉仕する人々を中核として浦が形成されていきました。
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赤米の積み出し港 仁尾浦

中世の仁尾は賀茂神社に奉仕する神人と称する人々によって「浦」が形成されます。浦とは、海に従事する人々の海辺集落で、漁業・海運の拠点だけでなく、農林・商工業製品移出入の地でもありました。
周辺からいろいろなな物資が集められ積み出されました。その中で注目するのが赤米です。
 赤米とは鎌倉時代から室町時代にかけて大陸からもたらされた米で、低湿地や荒野でも栽培が可能でした。そのため多くの地域で栽培されるようになります。特に塩害のあった三野地域では、国内で最も早くから栽培されていたようです。讃岐の港から赤米が積み出されていたことが資料からも分かりますが、仁尾からの積出量が最も多く、西讃地方の特産物であったようです。
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公的な警備活動にも従事した仁尾浦の神人たち

室町時代に讃岐の守護であった細川氏は、応永二七年(1420)朝鮮回礼使宋希憬の帰国の際に、その護送のために兵船を出すよう仁尾浦に指示を出しています。
また永享六年(1434)遣明船が帰国した時に、燧灘を航行する船の警護のため仁尾浦から警護船を徴発しています。このように、仁尾浦の人々は商船活動を行うだけでなく、時には兵船御用を努めたり警護船を出すなど公的な任務にも従事していました。賀茂神社は信仰の対象だけでなく、神人を統括する役割を果たす存在でもありました。
    覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』には、永享二年(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が見えます。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人も当地または近隣に存在し、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、
「地下家数今は現して五六百計」とあり、
当時の仁尾浦に、五〇〇~六〇〇の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。
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「千石船見たけりや仁尾に行け」

 仁尾は、後ろは三方を山に囲まれ、前は海で、大蔦島、小蔦島、磯菜島(天神山)の三島が天然の暴風波堤として、港を守ってくれる良港でした。15世紀には細川氏の軍事基地ともなり、また賀茂神社に綿座がおかれたことから、同神社を中心に各地から商人が集まって市が開かれました。そこでは、あらゆる農産物・海産物等が売買され繁栄しました。
 近世になって、これらの産物は、天然の良港の仁尾より仁尾商人の手によって瀬戸内海沿岸や讃岐各地に販売され、仁尾の繁栄につながっていきます。たとえば、塩を必要とした土佐北部山分の地方で生産されていた土佐茶(碁石茶が大半)と、瀬戸内内地方特産の塩との交換が仁尾商人によって行われ、土佐茶の売買が発展していきます。 
 江戸時代の港町仁尾は、醸造業・魚問屋・肥料問屋・茶問屋・綿總糸所・両替商などの大店が軒を連ね、近郷・近在の人々が日用品から冠婚葬祭用品に至るまで「仁尾買物」として盛んに人々が往来しました。港には多度津・丸亀・高松方面や対岸の備後鞘・尾道などにまで物資を集散する大型船が出入りして「千石船見たけりや仁保(仁尾)に行け」とまでうたわれました。
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近世期の仁尾港の状況は、どうだったのでしょうか。

それを考える上で重要な地名は、賀茂神社の北側に残る「大浜」です。この神社付近は磯菜島の島影になり、仁尾浦の中でも最も風波が穏やかなところと言われます。仁尾浦の港湾の中心となっていたのは、この神社周辺のではないでしょうか。
弘化四年刊行の『金毘羅参詣名所図絵』所収の「仁保ノ湊」に、まだ防波堤は描かれていませんが、仁尾町宿入に残存している「金毘羅燈寵」は描かれています。この燈龍は、湊への出入りで灯台的役割を果たしていた物で、この北側には丸亀藩船番所がありました。
 そのため賀茂神社の西側に近世期の港があったと考えられます。
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土佐藩参勤交代の瀬戸内海側の出発港でもあった 仁尾港

仁尾港が、西讃岐を代表する港町であったことは、流通面だけではありません。 土佐藩主の参勤交代は、江戸中期以後は「北山越え」がのメインルートとなります。これは、現在の高速道路の笹ヶ峰から伊予新宮を経るルートで、仁尾港から瀬戸内海へスタートすることが多くなります。
 仁尾を出航した例として、八代豊数の時のルートを紹介すると。
豊数は宝暦11年(1762)1月5日に高知城を出発し、4月6日に江戸に到着しています。その間、3月10日朝、川之江を駕寵で出発し、姫浜で休息、夜8時過ぎに仁尾に到着し、本陣の塩田長右衛門宅に入りました。
 翌日朝5時、仁尾から乗船し9時前に出港、箱之三崎まで漕ぎ出し、そこから帆走して暮れ頃に与島、8時に対岸の出崎(岡山県玉野市)に到着しています。翌日は室津(兵庫県たつの市御津町)に上陸し、その後は山陽道を陸路で江戸に向かっています。
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 この時には、土佐藩丸亀京極家の御船住吉丸など五艘を借用しています。ここからも、仁尾湊の重要性が分かります。また操船方法として、箱浦の三崎まで漕ぎ出し、潮流などを考慮して四国を離れています。庄内八浦の一つである箱浦及び三崎が操船上の重要ポイントであったことを推察させます。これは、幕末期に丸亀藩によって海防のため三崎砲台が設置されることと相通じるのかもしれません。

参考史料 三豊市教育委員会 近世の三豊
 

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