瀬戸の島から

カテゴリ: 讃岐の四国霊場

四国遍礼霊場記

寂本の『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)には、大興寺が次のように記されています。
「小松尾山大興寺、此寺(弘法)大師弘仁十三年に開聞し玉ふとなり。そのかみは七堂伽藍の所、いまに堂塔の礎石あり。其隆なりし時は、台密二教講学の練衆蝗のごとく群をなせりとなん。豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。
 本尊薬師如来、脇士不動毘沙門立像長四尺、皆大大師の御作。十二神各長三尺二寸、湛慶作なり。
本堂の右に鎮守熊野権現の祠、
左に大師の御影堂、大師の像堪慶作なり。
天台大師の御影あり、醍醐勝覚の裏書あり。大興寺とある額あり、従三位藤原朝臣経朝文永四丁卯歳七月廿二日丁未書之、如此うら書あり。是経朝は世尊寺家也、行成八世の孫ときこゆ。むかしのさかえし事をおもひやる。ちかき比まで宝塔・鐘楼ありとなり。」
意訳変換しておくと
小松尾山大興寺は、弘法大師によって開かれとされる。古くは七堂伽藍がそろっていたが、現在は礎石のみが残っている。かつては天台・真言密教の兼宗で、隆盛を極め学僧が蝗のように群をなして集まったという。豊田郡小松尾村に寺があるので、小松尾寺とも呼び、山号としている。
 本尊は薬師如来、脇士は不動と毘沙門立像で長四尺、これらは皆、弘法大師の御作である。
熊野十二神の本地仏はそれぞれ長三尺二寸で、湛慶作。
本堂の右に鎮守である熊野権現の祠、
左に弘法大師の御影堂、大師像は堪慶作。
ここに天台大師の御影もあり、醍醐勝覚の裏書がある。
大興寺と書かれた扁額は、従三位藤原朝臣経朝が文永四丁卯歳七月廿二日丁未に書いたもので、裏書もある。経朝は世尊寺家でm行成八世の孫と伝えられる。ここからは、かつてのこの寺の繁栄ぶりを垣間見ることができる。近頃までは、宝塔・鐘楼もあったという。

  内容を要約しておきます。
大興寺 四国遍礼霊場記

A 弘法大師開祖で、かつては七堂伽藍の大寺でいまに礎石が残る
B 隆盛を極めた時代には、数多くの学僧が学んだ台密二教(天台・真言)の学問寺であった。
C 本堂の右(本堂に向って左側)に鎮守である②熊野権現の祠、
D 本堂の左(本堂に向って右側)に③御影堂(大師堂)
E 大師堂には弘法大師と天台大師の両像が安置。
F 別当寺の④本興寺は、本堂(薬師堂)の下の段にあった

熊野権現とその本地仏・薬師如来を安置する①本堂(薬師堂)が上の段にあって、別当寺(大興寺)は、一団低い所にあります。ここからは、太興寺の社僧たちが、熊野権現に奉仕する宗教施設であったことがうかがえます。ここでは、神仏混淆下の中世の大興寺が熊野権現を中心とする宗教施設であったことを押さえておきます。

 さて、今日は③の大師堂(御影堂)に安置されている弘法大師と天台大師のふたつの像について見ていくことにします。テキストは、 「武田和昭  熊野信仰と弘法大師像」  四国へんろの歴史33P」です。

まずは天台大師坐像(像高73、9㎝)から見ていくことにします。
大興寺 天台大師
天台大師坐像(大興寺)
天台大師とは?
天台大師智顗(ちぎ)は、中国のお釈迦さまと云われ、隋の煬帝から深く尊敬され、「智者」の名を贈られた僧侶です。浙江省の天台山で修行し、そこで亡くなったので、天台大師とも呼ばれます。天台とは、天帝が住んでいる天の紫微宮(しびきゅう)〈北極星を中心とした星座〉を守る上台、中台、下台の三つの星を意味し、天台山は聖地として信仰されていました。
 天台大師は、インドから伝えられた膨大な経典を、ひとつひとつ調べて整理し、その中で法華経が一番尊く、すべての人々を救うことができるお経であるとします。法華三大部は鑑真和尚によって日本に伝えられ、最澄の目にとまります。最澄は、桓武天皇の許可を得て遣唐使と共に中国に渡り、天台山を尋ねて、研鑽を深め帰国後に日本天台宗を開きます。天台宗では、天台大師を高祖、最澄(伝教大師)を宗祖と呼んで、仏壇に二人の画像をかかげます。
この天台大師坐像の胎内には、次のような墨書が記されています。

建治弐年□子八月 
大願主勝覚 
金剛仏子 
大檀那大夫公 
    房長 
大仏師法橋
    仏慶
次に、弘法大師座像(像高72、5㎝)を見ていくことにします。
6大興寺5弘法大師
弘法大師座像(大興寺)
弘法大師像にも、次のような墨書があります。
体部背面の内側部
建治弐年丙子八月日
大願主勝覚生年□
大檀那広田成願□
大仏師法橋仏慶
 東大寺末流

讃州大興寺
別の箇所
建治式年歳次丙子八月二日大願主勝覚
生年四拾五  山林斗藪修行者 金剛仏子
大檀那讃岐国多度郡住人 広田成願房
(体部前面材の内側部)
丹慶法印弟子
大仏師仏慶
東大寺流
 讚岐国豊田郡大興寺
ここからは次のようなことが分かります。
①造立は鎌倉時代後期の建治二年(1276)で、両像は一緒に作られたセット像であること、そのため像高も同じ大きさ。
②大願主は勝覚
③仏師は東大寺流を名乗る大仏師仏慶、
④大檀那は天台大師像は房長、弘法大師像は広円の成願
 両像の発注者(大願主)の勝覚とは、何者なのでしょうか?
彼の「肩書き」は、「山林斗藪修行者金剛仏子」とあります。山林斗藪修行者とは、山伏(修験者)のことです。つまり、ふたつの像の発注者の金剛仏子勝覚は、「金剛仏子」という言葉から熊野系の山伏だったことがうかがえます。そうだとすると、勝覚は「弘法大師信仰 + 熊野信仰」の持ち主で、彼の中でこの二つの信仰が融合されていたことになります。
 ここで確認しておきたいのは、「弘法大師信仰」と「熊野信仰」が、この寺にやって来たのは、どちらが先なのかと云うことです。それは、今まで見てきたように、大興寺は中世に、熊野神社の別当として、熊野行者達によって再興された別当寺です。信仰の中心にあったのは熊野信仰で、熊野行者達がそれを担っていました。
ここでは、大興寺に最初に入ってきたのは熊野信仰だった押さえておきます。熊野行者は、もともとは天台系の修験者でした。その後の出現順は、次の通りです

①熊野行者(天台系修験者)
②天台・真言の両宗兼備の修験者(聖)
③真言系の熊野行者(修験者)

 天台系の熊野行者から真言系の熊野行者への移行が大興寺でも行われたことがうかがえます。
 寂本の『四国徊礼霊場記』の中には、次のようにありました。

「大興寺が隆盛を誇った時代には、数多くの学僧が学んだ台密二教(天台・真言)の=学問寺であった。」

願主の勝覚は「台密二教(天台・真言)の=学問寺(大興寺)」で学んだと考えるのが自然です。しかし、「金剛仏子勝覚」とあります。「金剛」は真言系僧侶の象徴です。彼は、真言系修験者であったことは、先ほど見たとおりです。しかし、同時に、天台大師の坐像も奉納しています。彼が天台宗についてもリスペクトしていたことが分かります。勝覚の信仰世界は「弘法大師信仰 + 熊野信仰 + 天台信仰」が融合された世界だったとしておきます。
6大興寺本尊薬師如来
大興寺本尊の薬師如来 那智本宮の本地仏

 ちなみに、讃岐の雲辺寺や道隆寺・金倉寺なども学問寺でした。修験者や聖・学問僧が全国から頻繁にやってきては修行としての写経を行っています。そして、どこもが台密二教(天台・真言)の=学問寺だったと、寺歴や縁起で伝えます。これをどう考えればいいのでしょうか? ここまでを整理してみます。
①古代・中世の熊野信仰は天台系が主流であった。
②そこへ室町時代になると真言系の熊野勧進聖や先達が出てくる。その象徴が醍醐寺開祖の聖宝。
③大興寺に所属した勝覚は、天台大師と弘法大師の両像の大願主となっている。
④ここからは、勝覚が天台、真言の両宗兼備の僧であったことが分かる。
研究者は「両宗兼備の熊野山伏から真言系の熊野山伏が成立」すると考えているようです。
「①熊野行者 → ②天台系修験者 → ③天台・真言の両宗兼備の僧 → ④真言系の熊野山伏」

という出現プロセスがあったというのです。つまり、「熊野信仰と弘法大師信仰」が融合し、結びつくのは、③のような修験者たちによって行われたことになります。太興寺は、それまで熊野信仰を中心に宗教活動を行っていました。それが建治二年(1276)に、弘法大師像が造られたころには、「熊野信仰 + 弘法大師」信仰の二つの中心をもつ宗教施設へと移行していたことがうかがえます。その後に戦乱などで熊野信仰が衰退しすると、熊野信仰から弘法大師信仰へと重心を移していきます。そして、近世半ばになると四国霊場札所へと「脱皮・変身」していくと研究者は考えています。
大興寺の弘法大師と天台大師の二つの坐像は、そのようなことを垣間見せてくれる像のようです。

大興寺 天台大師.2JPG
天台大師坐像(大興寺)
以上をまとめておくと
①大興寺は、古代寺院として開かれたが中世には退転した。
②それを再興したのは、熊野行者達で熊野権現信仰を中心に、別当寺として大興寺を再建した。
③そこでは熊野権現へ社僧の社僧達が奉仕するという神仏混淆の管理運営が行われた。
④社僧達は、熊野行者で修験者でもあり、山岳修行を活発に行う一方、熊野先達なども務めた。
⑤同時に、「天台・真言の両宗兼備」の学問寺として、山岳寺院ネットワークの拠点として、活発な交流をおこなった。
⑥そうした中で14世紀初めの勝覚は天台、真言の両宗兼備の山伏として、弘法大師と天台大師の二つの坐像を奉納した。
⑦これは大興寺が「熊野信仰と弘法大師信仰」の両足で立っていくその後の方向性を示すものでもあった。
⑧近世になって熊野信仰が衰退すると、大興寺は四国霊場札所として生きる道を選択した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

四国へんろの歴史 四国辺路から四国編路へ
参考文献

 2 大興寺全景近代
1902年の大興寺伽藍図 小松尾山不動光院大興寺とある
大興寺は、地元では小松尾寺と呼ばれていました。それが今は、大興寺となっています。どうして、小松尾寺から大興寺に名前が変わったのでしょうか。今回は、寺名が近年になって「変更」された背景を探って行きたいと思います。
もともとこの寺は大興寺と呼ばれていたようです。それは、字名として「大興寺」という地名が残っていることから分かります。ところが、大興寺という字名は、現在地ではありません。下の大興寺周辺の字切図を見てください。

6大興寺周辺の字切地図 
大興寺周辺の古地名(字切図)

国道377号沿いに④「大興寺」や⑥「鐘鋳原」の小字名が見えます。ここからは次の事が推察できます
A もともとの大興寺は、国道377号沿いの「大興寺」にあったこと
B 「鐘鋳原」で出張してきた鋳物師集団によって、大興寺の鐘が作られたこと
これを裏付けるように旧大興寺跡推定地からは、白鳳期の十三葉細素弁蓮華文軒丸瓦、八葉素弁蓮華文軒丸瓦、四重弧文軒平瓦などの古瓦や鴎尾も出土しています。旧大興寺は、白鳳時代の古代寺院で、国道377号沿いにあったことを押さえておきます。

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旧大興寺跡から望む三豊平野と七宝山

  古代氏寺はパトロンの氏族が衰退していくと、寺も退転していきます。
旧大興寺も、同じような道を歩んだようです。それを再興していくのが中世の勧進聖たちです。大興寺に関する中世の資料は、ほとんどありません。中世の遺品としては、次のようなものがあります
①鎌倉時代後期文永4年(1267)銘のある藤原経朝筆の「寺号扁額」
②建治2年(1276)の銘のある「木像天台大師像」「木像弘法大師像」、
③鎌倉時代末期康永3年(1344)6月26日の銘のある「青蓮院尊円親王の書状」
①の「寺号扁額」は木額で、正面に「大興寺」と刻み、背面には「文永四年丁卯七月二二日丁亥書之従三位藤原朝臣経朝」と刻まれています。京の高官藤原経朝が奉納したものとされます。そうだとすると、鎌倉時代には京まで、このお寺の名声伝わっていたことになります。『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』や『寺格昇格勧進之序』に「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍を誇った」とあるので、誇張とばかりは云えません。
 これ以外の中世史料はないのですが、次のような「状況証拠」は得られます。
寺の由来に次のようにあります。

熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として・・・ 建立」

ここにはこの寺が、熊野三所(本宮・那智・新宮)権現の鎮護のための別当寺として建立されたことが記されています。それを裏付けるように、現在の本尊の薬師如来は、熊野権現の本地仏です。

大興寺 四国遍礼霊場記
太興寺(四国遍礼霊場記)
上の四国遍礼霊場記の挿絵では、石段正面に①の薬師堂があって、その両脇に②大師堂と③熊野権現が並んで祀られています。そして、それに奉仕するかのように④大興寺は、その石段の下にあります。ここからも熊野権現が本尊で、その本地仏を祀る別当寺が大興寺だったことが裏付けられます。太興寺の社僧たちによって、熊野権現が神仏混淆状態で信仰されていたことがうかがえます。

6大興寺薬師本尊2g
大興寺の本尊・薬師如来 薬師如来は熊野本宮の本地仏

以上から、中世の大興寺は、熊野権現社とその本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が集まり住む僧侶集団全体が大興寺と呼ばれたとしておきます。そして、周辺にはいくつもの坊や子院があったのです。
大興寺は、いつ、誰の手によって現在地に移動してきたのでしょうか?
慶長2年(1597)の棟札には、次のように記されています。
「願主 泉上坊 乗林坊 慶長二丁酉歳九月八日」
「諸堂大破而瑕(仮)堂建立」
ここからは「諸堂大破した後に仮堂を建立」されたこと。願主は末寺の「泉上坊」と「乗林坊」だったことが分かります。

6大興寺周辺の字切地図 

先ほどの字切図に残る字名で⑦「泉上坊」を探すと、それは現在の大興寺周辺にあります。つまり、近世初頭に大興寺の復興を担ったのが「泉上坊や乗林坊」で、彼らは退転した旧大興寺を、自分たちの坊の近くに移動させて仮堂を再建したと研究者は考えています。古代中世の大興寺が現在地へ遷ってきたのは、近世初頭の生駒藩時代ということになります。
 「移転再興」を行った「泉上坊」と「乗林坊」とは、どんな性格の宗教者だったのでしょうか?
それを考える材料は、次の2点です。
①「近世の大興寺が萩原寺の末寺に属し、現在は真言宗善通寺派に属していること」
②「雲辺寺との関係の深さ」
ここからは、真言系密教修験者の姿が想像できます。「泉上坊」と「乗林坊」は、修験者のお寺(山伏寺)だったようです。ここからは、大興寺を支える宗教者が、中世の熊野行者から真言系密教修験者へと移り替わったことがうかがえます。ちなみにこの時期の金毘羅大権現では、修験者宥盛によって金光院が勢力を拡大している頃で、高野山系の真言密教修験者たちが活発に動いていた時代です。
移転し、仮堂を建てた所の地名が小松尾でした。
中世や近世では、お寺を呼ぶ際に地名で呼ぶことがよくありました。移転した大興寺も地元では「小松尾寺」と呼ばれるようになります。近世はじめの史料を見てみましょう。
①澄禅『四国辺路日記』に「小松尾寺 本堂東向、本尊薬師、寺ハ小庵也。(以下略)」。
②真念「四国辺路道指南』に「小松尾山、東むき、豊田郡辻村、本尊薬師、坐長二尺五寸、大師御作」
③寂本「四国遍礼霊場記』には、「小松尾山大興寺」
④詠歌には「植置し小松尾寺をながむれば法のおしへの風ぞふきぬる」
など、17世紀後半の案内記はすべて、小松尾寺として登場します。
  しかし、大興寺所蔵の公的文書に「小松尾寺」が使われている例はないようです。確かに江戸時代前期の真念などの案内記「小松尾寺」と表記されていました。しかし、寂本は「豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。」と記しています。小松尾村にある寺だから「小松尾寺」と呼ばれていると云うのです。
 以上から、小松尾寺は通称地名で、古来からの「大興寺」が正式な名称であったと研究者は考えています。近世・近代を通じて「小松尾寺」と「大興寺」という2つの寺名が並立して使用されてきたのです。ここからは私の想像です。

 万博も終わった頃に、国道377号のバイパス工事化が行われ、新たに「小松尾寺」への道標が掲げられた。これに対して大興寺側からクレームが出された。当寺の正式名称は「大興寺」である。勝手に、「小松尾寺」という看板を出すのは如何なものか。今回は甘受するが、次回の改修時には「大興寺」とするように善処していただきたい。これを受けて公官庁の文書では「小松尾寺」に替わって正式名称「大興寺」が用いられるようになった。

これは、あくまで私の創作話です。悪しからず。

以上をまとめておきます。
①この地には白鳳時代の古代寺院として大興寺が建立された。
②中世になると退転した大興寺に、熊野行者達が熊野神社を勧進し、その別当寺として再建した。
③中世の大興寺は神仏混淆下で、熊野行者達が管理・運営を行った。
④大興寺の熊野行者は、熊野詣での先達を務める一方で、山林修行者として雲辺寺や萩原寺(大野原町)・道隆寺(多度津)などの山岳寺院とのネットワークを結び活発な活動を展開した。
⑤しかし、戦乱の中で熊野先達業務が行えなくなり、熊野行者の活動が衰退し、大興寺も衰退する。
⑥退転していた道隆寺を現在地に移転させ、仮堂を建立したのは勧進修験者である。
⑦移転地が「小松尾」と呼ばれる地名だったので、近世には小松尾寺と呼ばれるようになった。
⑧戦後になって、正式名称「大興寺」に「統一」させた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年

前回は「高松七観音巡礼」をしながら次のような事を見てきました。
①近世初頭の高松周辺には、国分寺・白峰寺・根来寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・長尾寺が観音信仰の拠点となり、人々が「高松七観音巡礼」を行っていたこと。
②このメンバー寺院が、後の四国霊場札所と重なること
③ここからは中世の山林修行者や念仏たちが行っていた中辺路修行ルートが、近世に四国遍路道になっていったことがうかがえること。
④高松西部の五色台周辺の国分寺・白峰寺・根来寺については、本尊が同じ巨木から作られた千手観音という伝えがのこり、山林修行者の拠点として相互に結ばれていたこと。
今回は、高松七観音巡りの後半部の寺院をめぐっていくことにします。
  まずは、屋島寺の千手観音です。
千手観音が、中世に普及するのは、補陀落渡海信仰の影響があるとされています。その中心とされた背景には、那智の補陀落渡海山寺の千手観音が、熊野行者達によって補陀落信仰と共に勧進されたと研究者は考えているようです。
屋島寺の観音さまを研究者は、次のように評しています。

屋島寺千手観音
 屋島寺 十一面千手観世音菩薩
仏教において、衆生を救うため、観世音菩薩はあらゆる姿に変化します。十一面千手観世音菩薩もそのひとつで、頭上には表情を変化させた11の顔、11面をおき、42本の手で千本の手を表現しています。本像は、頭と身体の主要な部分をひとかたまりのカヤ材から彫刻し、像の内部は刳(く)り抜いていません。

屋島寺千手観音3

太い首にハリのある胸、バランス良く構成された脇手、安定感のある脚部と、その造形は見応えがあります。顔立ちは、ふくよかな頬と鼻、厚い唇などが特徴的で、個性的な造形は讃岐における造仏を思わせます。着衣のうち、膝下の部分などには、大小の波を交互にくりかえすようなひだ(翻波式衣文:ほんぱしきえもん)があらわされています。

P1120107 屋島寺 千手観音
       屋島寺 十一面千手観世音菩薩

制作時期は平安時代前期の10世紀の初め頃とみられ、香川県内でもとくに優れた平安彫刻といえます。頭上面およびすべての手は制作当初のものであり、さらに観音像の光を表現した光背がともにのこされていることも大変めずらしく貴重です。屋島寺の本尊として本堂に安置されていましたが、現在は同寺宝物館で公開されています。
 この千手観音の造作時期が平安時代前期で、「県内屈指の古像」とされていることを押さえておきます。

屋島寺縁起絵
屋島寺縁起の屋島寺
屋島寺の縁起について、『四国辺路日記』は次のように記します。
 先ツ当寺ノ開基鑑真和尚也。和尚来朝ノ時、此沖ヲ通り玉フカ、此南二異気在トテ、 此嶋二船ヲ着ケ見玉テ、何様寺院ヲ可建立霊地トテ、当嶋ノ北ノ峯二寺ヲ立テ、則南面山ト号玉フ。是本朝律寺ノ最初也。(中略)
其後、大師(弘法大師)当山ヲ再興シ玉フ時、北ノ峯ハ余り人里遠シテ、還テ化益難成トテ、 南ノ峯二引玉テ、嵯峨ノ天皇ノ勅願寺トシ玉フ、 山号ハ如元南面山尾嶋寺千光院ト号、千手観音ヲ造、本堂二安置シ玉フ、大門ノ額ヲハ、遍照金昭三密行所当都率天内院管門ト書玉フ。
  意訳変換しておくと
 屋島寺の開基は鑑真和上である。鑑眞が唐からやって来たときに、屋島沖を通過した。その際に、南に異常な気配を察して、屋島に船を着けて見てみると、寺院建立に最適の霊地だったので、屋島北峯に寺を立て、南面山と号した。つまり、屋島寺は、日本における最初の律宗寺院である。(中略)
その後退転していたのを、弘法大師が再興する際に、北峯は人里遠く布教には適していないとして、南峯に移した。そして、嵯峨天皇の勅願寺とし、南面山屋島尾千光院と号した。千手観音を造り、本堂に安置した。大門の額には、「遍照金剛三密行所当都率天内院管門」と書いた。

ここに書かれていることを要約しておくと
①開基は鑑眞で、屋島北峯に建立した寺は、日本で最初の律宗寺院であること
②退転して寺を弘法大師が復興し、南嶺に移し、自作の千手観音を安置したこと
③大門の額には、遍照金剛三密行所当都率天内院管門と書いた
①からは、屋島寺の歴史の中で、奈良西大寺の律宗集団が何らかの貢献を果たしていたことがうかがえます。その上に弘法大師伝説が接木されます。空海は門の額に、「遍照金剛は三密を行ずるところに当たり、しかも都率天(とそつてん)の内院の入口である」とあります。遍照金剛は大日如来の別名です。大日如来の浄土は都率天よりもはるかに格の高いところです。しかし、東寺の屋島寺には弥勒菩薩信仰もあったようで、都卒天の内院に入る関門だと書いています。
 ちなみに縁起で空海作とされる千手観音の造立は、空海入定後、数十年後のことになります。空海と同時代のものとはできないようです。また、ここには山林修行者の姿は見えて来ません。

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信貴山絵巻の飛鉢
  縁起には、屋島の飛鉢伝説が次のように記されています。

  其後、南都二赴キ給イテ、参内也。担当寺ニ、鑑真和尚所持ノ衣鉢ヲ留玉フ。 此鉢空二昇テ、沖ヲ漕行船具二飛下テ、斎料ヲ請。

意訳変換しておくと
  鑑真は、(瀬戸内海を航行し)奈良に入る時に。この寺を建立し、鑑真和尚の衣や鉄鉢を残した。この鉢は空を飛んで、沖ゆく船に下りたって、斎料(海関料・寄進)を集めた。

鉢が空を飛ぶことを飛鉢といって、その伝承がいろいろなお寺に残っています。例えば、越後には米山の沖を通る船に米を請うて、船頭が断わると鉄鉢が船のお米が全部山に運んできた。それで米山という地名になったという話があります。また修験者が修行をしていたときに、鉄鉢を飛ばして船から米を全部奪ってしまった話も伝えられています。沖行く船が航海安全のために、奉納品を寺や神社に納めていたことは、以前に庄内半島の三崎神社で話ししました。納めなければ災いが襲うのです。屋島寺も沖ゆく船から多く奉納品を受けていたことがうかがえます。
 鉢を飛ばして奉納品を集めるというのは神仙術です。
山岳宗教は、もとをただせば仙人(道教)の行から始まったもので、仙人の修行をしていると、不老不死の術を得る、からだが軽くなって飛べると考えられていました。それが「原始修験道」です。役行者以前は、そういうことができるのが修験者の理想だったことを押さえておきます。ここからは屋島寺には「山林修行者 + 弘法大師伝説 + 西大寺律宗(鑑眞)」などの痕跡があることがうかがえます。

屋島寺
屋島寺
屋島寺の地理環境を見ておきましょう。
①屋島山上に位置し、西には大きく広がる瀬戸内海があり、沖ゆく船の監視などにも最適
②海に突き出した地形で、補堕落渡海の行場としても適している
③周囲には多くの岩場があり、山岳修行の場として修験者が好みそうな要素あり。
  屋島が戦略的な要衝で、地形的にも山岳信仰の濃厚な寺であったことが分かります。そこに開かれた寺院の本尊が、平安時代前期(9世紀末期~)の「県内屈指の古像」である千手観音なのです。そういえば前回見た高松七観音の国分寺・白峰寺・根来寺もみな千手観音でした。
 また屋島寺は熊野神社を鎮守社としています。
寛文十年頃に高松藩が作成したとされる『御領分中寺々由来』の屋島寺の項には、次のように記されています。

当山鎮守十二社権現(熊野権現)、弘法大師之勧進之也

熊野権現を弘法大師が勧進したというのです。ここにも「熊野信仰 + 弘法大師信仰」の合体が見られます。いつ頃に熊野権現が勧請されたかは分かりませんが、周囲の状況から推察すると
①讃岐大内郡の増吽による水主三山への熊野権現勧進
②備中児島への新熊野(五流修験)の勧進
③佐佐木信綱の小豆島への熊野権現勧進
などと同時期のことと考えられます。熊野水軍の瀬戸内海交易の展開や、それに伴う熊野行者の活動などが背景にあると研究者は考えています。
 大内郡の与田寺で増吽が活躍していた時代の応永14(1407)年の「行政坊有慶吐那売券」には「八島(屋島)高松寺の引 高松の一族」とあり、屋島寺周辺に熊野先達がいたことが分かります。彼らによる勧進かもしれません。
 さらに屋島寺は近世初期の「熊野本地絵巻」を所蔵しています。この種の絵巻は、熊野比丘尼が絵解きした時に使用されたといわれます。ここからは、屋島寺にも熊野比丘尼がいたことがうかがえます。また境内に残る「血の池」も、熊野比丘尼の存在を補強します。

五剣山と壇ノ浦
五剣山と壇ノ浦の塩田
  屋島から東を望むと見えるのが五剣山です。
天を指すような岩稜は海から見ても目立つ山です。次に五剣山山中の八栗寺を巡っていきます。五剣山はその姿から備讃瀬戸を行く海人たちの目印となったことでしょう。そこへ熊野水軍とともに熊野行者がやってきます。彼らがまず探したのは、行場です。行場として五剣山は最適の条件を備えています。彼らが五剣山の行場を見逃すはずはありません。しかし、五剣山には屋島のように古い記録や仏像は残っていません。
 もともと八栗寺は、六万寺の奥院だったようです。
六万寺は源平合戦以前には、屋島を水軍拠点とした平家の保護を受けて、大いに栄えていたようです。その行場が五剣山で、そこに建立された奥の院が八栗寺という関係になります。中世には両寺は深い関係にありました。平家というパトロンを失った六万寺は衰退しますが、修験者や山林修行者の行場としての八栗寺は、その後も生き残っていきます。
 五剣山と八栗寺の名前の由来を、寂本は次のように記します。
 空海は思いを凝らして七日間、虚空蔵聞持法を修した。明星が出現した。21日目に五柄の剣が天から降った。この剣を岩の頭に埋めたことから、五剣山と呼ぶようになった。空海は千手観音像を彫刻して、建てた堂に安置した。千手院と号した。
 この山に登れば、八国を一望に見渡せるため、「八国寺」とも呼ぶ。空海が唐への留学で成果を挙げられるか試してみようと、栗八枝を焼いて、この地に植えた。たちまちのうちに生長した。そこで八栗寺と名を改めた。
 この地も空海が虚空蔵聞持法を修した聖地として、伝わっていたようです。そして空海は千手観音を残したとされています。空海修行の地とされた五剣山には多くの行者達がやってきて、行をおこなったようです。そこに現れたのが八栗寺ということになるようです。八栗寺は蔵王権現を祀り、山岳修行の行場に建立された山伏寺です。

八栗五剣山20111116_085558187
五剣山と壇ノ浦(讃岐国名勝図会)
中央の峰に祀られていたのが蔵王権現です。

五剣山2
八栗寺と五剣山(四国遍礼霊場記)
この峰には七つの仙窟があり、そこには仙人の木像や五智如来が安置されいたと云います。蔵王権現を祀ることから石鎚山と同じ天台系密教修験者の影響下の行場だったようです。中央には、空海が岩面に彫り込んだ高さ一丈六尺の大日如来像があり、そこで空海は求聞持法を行った岩屋があとも記します。絵図ではひときわ高く太く描かれた真ん中の峰が蔵王権現が祀られた峰にあたるようです。いまでも五剣山は、修行の山として機能している霊地です。

八栗五剣山
デフォルメされた五剣山

 澄禅の『四国遍路日記』に、八栗寺の住職から聞いた話として、次のように記します。

昔、義経が阿波の国へ上陸して屋島を目ざす途中、2月18日牟礼高松に来て、八栗寺へ押しかけてきた。その時にこの寺では僧侶が集まって観音講をしていた。ときの声が聞えたので、観音講に集っていた者はみんな後の山へ逃げたが、源氏の雑兵たちは寺へおし入って、観音講のためにつくっておいた釜二つに入っていた飯をよい兵糧があるといって配分して食べてしまった。そうして弁慶は鎧を着たままたわむれにお経を上げたので、皆の者がお互いに笑いあった

この話は、八栗寺独自のものでなく阿波の国の3番金泉寺や大山寺の話のコピー版です。もともとは『平家物語』に出ているもので、説経師や聖たちの「説話運搬者」によって、八栗寺にもたらされたものでしょう。ここで私が注目したいのは「僧侶が集まって観音講」を開いていたという所です。中世には、八栗寺でも観音信仰が強く、観音講が組織されていたことがうかがえます。これらの講に集まる人々が、聖や山伏を先達として、高松周辺の七観音霊場を「ミニ巡礼」していた姿が想像できます。ここでは中世には、千手観音を信仰する観音講が開かれていたことを押さえておきます。

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 志度寺の扁額「補陀落山」
志度寺の扁額には「補陀落山」と書かれています。
 さぬき市文化財保護協会発行「さぬき市の文化財」は、この寺の本尊十一面観音立像について、次のように記します。

  志度寺本尊の十一面観音立像は像高146cmで桧材の一木造りである。十一面観音は頭上に十一面の仏面をいただき、衆生の十一の苦しみを転じて仏果を得させる。広大な功徳を形に表した尊像であり、
頭上の仏面の正面3面は慈悲の相、
左方3面は慎怒相(しんぬそう)、
右方3面は白牙上出(はくげじょうしゅつ)の相、
後方1面は大笑(だいしょう)の相で、
頭頂1面は阿弥陀仏面を表している。
今まで見てきた高松七観音の本尊は、すべて千手観音でしたが、志度寺は十一面観音です。
この本尊の由来について、「志度道場縁起文」7巻の1編目の『御衣本縁起』は、次のように記します。

 近江の国に白蓮華という非常に大きな木があった。雷が落ちて琵琶湖に流れ出したが、その木の行さきざきで災いが起こるので、瀬田から宇治に、宇治から大坂に、そして瀬戸内海にまで流された。着岸したところで疫病がはやる、また突き出されて次の浦に流れつく。とうとう志度の浦に流れ寄って、それで十一面観音を刻んだ。

 これはどこかで聞いたことがあると思ったら、「長谷寺縁起」のSTORYとおなじです。長谷寺で観音さまになったはずの木が、禍を引き起こすので流され、流され、讃岐の志度までやってきて流れ着いた話になっています。そういえば白峯寺縁起も、補陀落から流れ着いた巨木で、国分寺・白峰寺・根来寺の千手観音は作られたと書かれていました。文保二年(1218)という年号があるので、鎌倉時代末にはできあがっていことが分かります。今まで見てきた寺の観音さまに比べると、少し遅れて現れたことになります。薗の尼という比丘尼が発願し「一幅二図シテ」絵図化したのが「御衣木之縁起」になります。
志度寺縁起 御衣木縁起部分
「御衣木之縁起」(霊木が志度に流れ着いた部分)
  この話の下敷きは、長谷寺縁起です。それを「流用」「改変」したのも説経師や高野聖などの「説話運搬者」だったのでしょう。志度寺の7つの縁起からは、寄進・勧進を進めた下級の聖たちが垣間見えてきます。
 志度寺の縁起は、どんな時に、どんな場所で語られていたのでしょうか?
 志度十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵を見せながら絵解きが行われていたのではないかと研究者は考えてます。囚果応報を説くことは、救いの道を説くことと同時に、志度寺に対する寄進・勧進などを促します。前世に犯したかも知れない悪因をまぬかれる(滅罪)ためには、仏教的作善を果たせと説きます。作善とは「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」などでした。
高野聖は、志度寺をどのように運営・プロデユースしたのか?
 聖たちがまずやらなければならなかったことは、勧進のために知識(信仰集団)を組織することです。講を結成して金品や労力を出しあって「宗教的・社会的作善」をおこなうことの功徳(メリット)を説くことでした。その反対に勧進に応じなかったり、勧進聖を軽蔑したためにうける悪報も語ります。奈良時代の『日本霊異記』は、そのテキストです。唱導の第1歩は、次の通りです
①縁起や諸仏誓願や功徳を説き
②釈尊の本生(前世)や生涯を語り、
③高僧の伝記をありがたく説きあかす。
これによって志度寺のありがたさを知らせ、信仰と作善の大切さを説きます。一般的には『今昔物語集』や『沙石集』が、このような唱導のテキストにあたるようです。
第2のステップは、伽藍造営や再興の志度寺の縁起や霊験を語ることです。
縁起談や霊験談、本地談あるいは発心談、往生談が地域に伝わる昔話を、「出して・並べて・くっつけて・・」とアレンジして、リニューアル・リメイクします。これらの唱導は無味乾燥な教訓でなく、物語のストーリーのおもしろさとともに、美辞麗句をつらねて人々を魅することが求められます。これが7つの志度寺縁起になるようです。
 
 4343286-40志度寺
志度寺(讃岐国名勝図会)
 盆の九日に、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。
さらに翌日の十日に参ると「万日参りの功徳」があると云われていたようです。こうして盆には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来るソラ集落の人たちたくさんやってきました。参詣者はこれを買って背中にさして、あるいは手に持って家に戻って来ります。これには先祖の霊が乗りうつっていると信じられていたようです。海から帰ってくる霊を、志度寺まで迎えに来たのです。帰り道に、霊の宿った樒を地面に置くことは御法度でした。樒は盆の間は、家の仏壇に供えて15日が来ると海へ流します。先祖を再び海に帰すわけです。ここからも志度寺は「海上他界信仰」の寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。まさに「死渡」寺だったのです。
十一面観音 志度寺
志度寺 十一面観音図
これを演出・プロデュースしたのが高野聖です。彼らは先達と鳴ってなって富裕層を、高野山へと誘引する役割も果たしました。そして、志度寺の周りには、聖たちの坊や庵・子院が並ぶことになります。

  最後に長尾寺を見ていくことにします。
  長尾寺は、もともとは志度寺の末寺だったと研究者は考えているようです。調査書に載せられている長尾寺の仏達を見ていくことにします。伽藍の建物の建立順番について調査報告書は、次のように推察しています。
A 観音堂(本堂)→ B 阿弥陀堂 →C 護摩堂 → D 大師堂
2 長尾寺 境内図寂然
長尾寺(四国遍礼霊場記)
それぞれの建物の成り立ちを考えると、次のようになります。
A「観音堂」(本堂)とその鎮守・天照大神(若宮)は、熊野行者が最初にもたらしたもの
B「阿弥陀堂」は、高野聖たちがもたらしたもの。
C「護摩堂」は、真言(改宗後は天台)密教の修験行者の拠点
D「大師堂」は四国巡礼の隆盛とともに大師信仰の広がりの中で建立。
 ここからは長尾寺を開いたのが熊野行者たちだったことがうかがえます。
長尾寺は江戸時代前半までは「観音寺」と呼ばれ、観音信仰の拠点センターでした。
残念ながら長尾寺の観音さまは、秘仏とされお目にかかることはできないようです。しかし、過去に調査されたことがあるようで、『文化財地区別総合調査報告 第1集 香川県教育委員会、1972年)には、次のように記されています。

右手を屈腎して胸前におき、左手も胸前で蓮華を持つ立像である。檜材寄木造、平安時代の作

  秘仏本尊の前立像として安置されているのがこの観音様です。

長尾寺 聖観音立像
長尾寺 本尊の前立仏の聖観音
一見すると顔立ちや雰囲気が鎌倉時代風の聖観音です。志度寺も聖観音でした。長尾寺は、志度寺の末寺からスタートしたとすると、それは当然のことかもしれません。
 この観音さまは、初代高松藩主・松平頼重が寄進したもので、台座裏に元禄6年(1693)正月の墨書銘があるので、17世紀後半の観音さまでです。しかし、本尊を模して作られた可能性はあります。

長尾寺 聖観音台座墨書
前立ちの聖観音台座の墨書 源英(松平頼重)の名が見える

以上、「高松七観音巡礼」をおこなってきました。その中で、千手観音が本尊として安置されている所が多かったようです。それはどうしてなのでしょうか? これを解く鍵は、熊野信仰との関わりです。

補陀洛山寺(ふだらくせんじ) 和歌山県東牟婁(むろ)郡那智勝浦町 | 静地巡礼
補陀洛山寺の三面千手観音

 補陀落信仰の中心となった熊野那智の補陀洛山寺(ふだらくせんじ)の本尊は、三面千手観音です。ここからは、熊野行者によって四国に補陀落信仰が持ち込まれ、その本尊として千手観音が作られたことがうかがえます。
 補陀落信仰を受けた「高松七観音」の寺院も、その開基に熊野行者が大きな役割を果たしたことが考えられます。そこに遅れて来るのが高野聖です。彼らは阿弥陀信仰と弘法大師信仰をもたらします。こうして、近世になると観音信仰から弘法大師信仰へと、信仰主体を交代させ四国霊場札所が姿を見せるようになるとしておきましょう。
 
 以上を整理しておきます。
①古墳時代以来、大和勢力の朝鮮との交易活動をになったのが紀伊勢力(後の紀伊水軍)であった。
②彼らは熊野信仰を持ち、熊野業者を航海の安全祈祷の祈祷師として乗船させて、瀬戸内海を行き来した。
③こうして熊野行者は熊野水軍の先達として、各地に拠点を構え、その地で行場を開くようになった。
④その代表例が、吉備の新熊野(五流修験)や、大三島神社の社僧集団であった。
⑤こうして、讃岐でも高松周辺の五色台や屋島・五剣山などには、早くから熊野行者が入り込み、行場を開き、そこに寺院を建立した。
⑥その際に本尊として安置したのが、熊野那智の補陀洛山寺(ふだらくせんじ)と同じ、千手観音であった。
つまり、高松七観音は熊野信仰で結ばれていたと私は考えています。そのため対岸の吉備の五流修験とも密接な関係があったように思います。
四国へんろの歴史 四国辺路から四国編路へ | 武田 和昭 |本 | 通販 | Amazon
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭  讃岐の七観音  四国へんろの歴史15P」
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澄禅の『四国辺路日記』には、87番長尾寺について、次のように記されています。

長尾寺本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云。当国二七観音トテ諸人崇敬ス 国分寺、白峯寺、屋島寺、八栗寺、根香寺、志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ。

意訳変換しておくと
長尾寺の本堂は南向で、本尊は正観音である。もともとは観音寺と呼ばれていた。讃岐には観音菩薩を本尊とする七つの寺があり七観音として諸人の崇敬を集めている。それは、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺に、長尾寺を加えて七ケ寺になる

書かれている要点を整理すると次のようになります。
①長尾寺本堂は南向きで、本尊が聖観音、
②寺の名前は長尾寺ではなく、もともとは観音寺と呼ばれていたこと
③近世初頭には、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に長尾寺を加えて讃岐七観音として多くの信者を集めていたこと。(仮に「高松の七観音参り」としておきます。)

ここからは次のような事がうかがえます。
①善通寺を中心とする「七ケ所詣り(善通寺・曼荼羅寺・出釈迦寺・弥谷寺・海岸寺・道隆寺・金倉寺)のような辺路ルートがが高松周辺にもあった
②「高松の七観音参り」のメンバー寺院が、近世の四国霊場札所と重なる。
③丸亀平野の「七ヶ所参り」も、高松の七観音参りも、中世に起源を持つ中辺路ルートではなかったのか。
④中世に地域毎に形成されていた中辺路ルートが、近世に四国遍路道になっていったのではないか
 このようなことを考えながら七観音の本尊を見て行くことにします。
まずは、国分寺の観音さまからお参りして行くことにします。
  『さぬき国分寺町誌』(2005年)には、次のように記されています。
P1120249国分寺 千手観音
 讃岐国分寺の本尊千手観音
四国第80番札所国分寺の本尊で、現在の本堂内陣の須弥檀上の厨子内に安置されているが、現在は秘仏となっている。木造彫眼、彩色像である。像高約5mの巨大な像で、いわゆる丈六像(一丈六尺=4.848m)である。平安時代末つまり本堂の建築に先立つ時期の作であると考えられている。
 千手観音はその名のとおり、千の手をもって衆生を済度するとされるが、彫刻で実際に千本の手を表現することはまれで、脇手1手を25手に見立てた四十二臂の像が多い。本像も胸の前で合掌する真手と腹前で宝鉢をもつ2手、錫杖をもつ2手、背面に36手の計40手の脇手を有する、四十二臂の像である。背面の脇手もそれぞれに蓮華・輪宝・数珠などの持物をとる。
 また、十面の頭上面を有する十一面観音でもある。面貌は大きく弧を描く眉や、ややつり上がり気味に開く目、上唇が厚く、引き結んだ口元など力強い威厳をたたえた相を示している。
P1120252国分寺 千手観音

  ―丈六(像高約5m)のいわゆる「丈六」の聖観音立像で、讃岐で一番大きく、平安時代後期の作とされます。鎌倉時代になって、退転していた国分寺は奈良の西大寺律宗の律宗改革宗教運動の中で再興されていきますが、それ以前からあった観音さまになるようです。その大きさといい風格といい、他の寺院の観音さまを圧倒する風格です。この観音さまは、白峰寺や根来寺の観音と「兄弟」だと伝えるのが白峯寺縁起です。次に白峰寺の観音さまの由来を見ておきましょう。

白峯寺 頓證寺殿十一面観音
白峰寺(頓證寺) 十一面観音

『白峯寺縁起」(応永13年:1406)には、次のように記されています。
かの蹄跡千手観音の像殊也。そののち海浜に趣き祈念し給ふ庭、虚空に音ありて、補陀落山より流来れりと示、大師と明神とあひともに山中に引入、十躰の本尊造立し給、四十九院を革創し給、其内に千手像四躰まします。一尊をは根香寺に安置し、一尊をは吉永寺にあむち(安置)し、 一尊をは白牛寺あむち(安置)し、 一尊をは当寺に安置す。今も千手院とて、霊験無双の道場、利生広人の聖容にてましますなり。」

   意訳変換しておくと
「本尊・千手観音像については、次のように言い伝えられている。五色台の海浜で祈念・修行していると、(巨木が流れ着いた)。虚空から「補陀落山から流れ来た」という声が聞こえた。そこで、大師と明神は山中に引入て、その巨木から十躰の本尊を造立した。同時に、49の子院を創始し、その内の4つの寺院に千手観音を分与した。一尊は根香寺に安置し、一尊を吉永寺に(安置)し、 一尊は白牛寺(国分寺)に(安置)し、 一尊は当寺に安置した。こうして、当時は今も千手院とて、霊験無双の道場、利生広人の聖地となっている。

ここからは次のようなことが分かります。
①五色台の海辺に流れ着いた巨木は「補堕落からやってきた」とされること
②その巨木から四つの千手観音が作られたこと。補堕落信仰が根付いていたこと。
③その4観音は、根来寺・吉永寺(よしみずじ:廃寺)・白牛寺(国分寺)・白峰寺に安置されたこと
長谷寺・志度寺と同じような「補陀落流木からの観音造立」伝説を持つ観音信仰の寺であったこと。国分寺と根来寺の本尊と、おなじ巨木から造られたこと。
P1120124 白峰寺 11面観音
          白峰寺 十一面観音

ひとつの巨木から作られた四観音が安置された寺院を見ておきましょう。
①白峯寺は「五色台」の西方、白峯山上に位置する山岳寺院
②吉水寺は近世に無住とりますが、白峯寺と根香寺の間に位置した山岳寺院
③白牛寺は、白牛山と号する国分寺のこと
ここからは、古代の白峯寺・吉水寺・根来寺は、白牛山と号する国分寺背後の五色台の行場に形成された山岳寺院であったと研究者は考えています。
官寺僧侶の山林修行の必要性は早くから国家も認めていました。古代の支配者が密教に求めたものは、「悪霊から身を守ってくれる護摩祈祷」でした。空海の弟真雅は、天皇家や貴族との深いつながりを持つようになりますが、彼の役割は「天皇家の専属祈祷師」として「宮中に24年間待機」することだったことは以前にお話ししました。そこでは「霊験あらたかな法力」が求められたのであり、それは「山林修行」によって得られると考えられました。そのため国家や国府も直営の山林寺院を準備するようになります。それが讃岐では、五色台であり、中寺廃寺(まんのう町)だったようです。
 ちなみに、五色台は国分寺の背後にあり、中世はここが国分寺の官僧の山林修行のホームゲレンデであったと私は考えています。その中辺路修行のルートの中の行場にお堂として開かれたのが、根来寺・吉永寺・白峰寺です。中辺路ルートは、五色山全体をめぐって、さらに北側の海際にも行場はあったようです。白峰寺縁起にも「そののち海浜に趣き祈念し給ふ庭・・」とあるので、海岸で瞑想・祈念し、辺路ルートを「行道」することが繰り返し行われていたことがうかがえます。
白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
そして、五色台全体には49の子院があったというのです。それが白峰寺の絵図などには描かれていることは以前にお話ししました。ここでは、国分寺と根来寺と白峰寺は、同じ巨木から作られた観音さまを本尊としている「兄弟寺」のような関係にあったと中世には説かれていたことを押さえておきます。

白峰寺頓證寺 十一面観音
白峰寺頓證寺殿 十一面観音

次に、中世のこれらの寺院を支えた僧侶達を見ておきましょう。
  13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」からは、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること
②勤行次第の筆者である薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること
③勤行次第は、修験者の重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
 ここからは、次のような事が分かります。
①子院の多くが高野聖などの念仏聖の活動の拠点となっていたこと
②熊野行者の流れをくむ修験者たちが子院の主となっていたこと
③修行に集まってくる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
 鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。

白峯寺 構成メンバーE
 それぞれの子院では、衆徒に対して奉仕的な行を行う行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏や念仏聖として活動し、下僧集団を形成したのでしょう。白峯寺の衆徒の中にも修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずです。彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったかもしれません。つまり、五色台の山中には、比叡山のように山伏たちが籠もる子院がいくつもあり、彼らは僧兵として武装化していたことが考えられます。この武装集団を持っていたからこそ、白峰寺は綾川下流域の綾北平野を寺領として護り抜くと供に、綾川を超えた西庄エリアを新たに寺領化できたのだと私は考えています。それは、同時にこのエリアから、他の宗教勢力を駆逐していく過程でもあったようです。中世半ばから近世初頭に架けて、このエリアでは有力な寺社が姿を消します。それは、金毘羅大権現が現れ、金光院が勢力を伸ばしていく近世初頭の丸亀平野南部の情勢とよく似ています。
根香寺 讃岐国名勝図会
根来寺 讃岐国名勝図会
次に白峰寺の本尊と「兄弟関係」にある根来寺を見ておきます。
『高松の文化財』1992年は、根来寺の本尊・千手観音について次のように記します。

根来寺の千手観音
   本尊は天正年間(西暦1573年~1592年)の兵火にかかり焼失したので、末寺の吉水寺の本尊であった千手観音をお迎えしたという。身の丈163センチの桜材の一木造りで、頭上に十一面をいただく。太く量感豊かで、渋みのあるお顔には古様がみられる。42手をもつ総身漆箔(しっぱく)の像である。裳(も)のひだには、飜波(ほんぱ)式の衣文(えもん)がみられ、渦文(かもん)も処々に刻まれて貞観(じょうかん)彫刻の名残りをとどめている。藤原時代(西暦894年~1185年)初期の特徴をよくあらわしているなかなかの優作である。
 像は干割(ひわ)れを防ぐために、荒彫りした像を前後二材に割って内袴(うちぐ)りをした後、再び矧(は)ぎ合わせる割矧法(わりはぎほう)という造り方である。平安初期の一木造りから藤原時代の寄木造りに発展していく過渡期の造法である。
 「末寺の吉水(よしみず)寺の本尊であった千手観音をお迎えした」とあります。先ほど見た「白峯寺縁起」には、吉水寺の本尊は流れ着いた巨木から作られた観音さま安置された4つの寺院のひとつと記されていた寺院になります。吉水寺は根来寺の末寺であったが、近世には退転していたので、そこから観音さまをお迎えしたと記されています。造立年代をもう一度確認しておきましょう。
根来寺の本尊千手観音「藤原時代(西暦894年~1185年)初期」
国分寺の本尊千手観音 平安時代後期
時代的にも「同一巨木から作られた観音さま」と云えそうです。

根来寺は、もともとは弘法大師開基とされ、白峰寺や国分寺と密接なつながりがあったことは今見てきたとおりです。
しかし、初代高松藩主・松平頼重の保護を受けるようになって、「円珍(智証大師)創建」とする新たな寺伝が作られるようになり、「弘法大師開基」説は放棄されます。そして、白峰寺と同じ漂着木から作られた観音菩薩縁起は、顧みられなくなり、独自の寺伝が作られたことは以前にお話ししました。ここにも、松平頼重の円珍への肩入れの痕跡を見ることができます。
 中世には山林修行者によって、国分寺と白峰寺と根来寺は「中辺路」ルートで結ばれた行場でした。
同時に山林修行者たちは、高野聖の手法に倣って、周辺の人々をこれらの寺への「巡礼」に誘引するようになります。こうして、春の先祖参りの彼岸には、国分寺からスタートして、その背後の白峰寺や根来寺にも、人々が「ミニ巡礼」に訪れるようになります。そんな風に私は考えています。どちらにしても、七観音廻り(巡礼)の成立の背景には、中世以来の高野聖や念仏聖などの山林修行者の存在があったことを押さえておきます。
   四国遍路の成立については、近年の研究者は次のように段階的に形成されてきたと考えるようになっています。
①平安時代に登場する山林修行者の「辺路修行」を原型とし、
②その延長線上に鎌倉・室町時代のプロの修験者たちによる修行としての「四国辺路」が形成され
③江戸時代に八十八カ所の確立されてからアマチュア遍路による「四国遍路」の成立
つまり中世の「辺地修行」から近世の「四国遍路」へという二段階成立説が有力です。②の中世の「四国辺路」は、修行のプロによる修行的要素が強く残る段階です。この時期の「辺路修行を」の五来重は、「大中小行道」の3つに分類します。
①海岸沿いに四国全体を回る「大行道(辺路)」
②近隣の複数の聖地をめぐる「中行道(辺路)」
③堂宇や岩の周りを回る「小行道(辺路)」
その例が前回お話しした室戸岬の金剛頂寺(西寺)と最御崎寺(東寺)との関係です。近世の「遍路」は順路に従って、お札を納めて朱印を頂いて行くだけです。しかし、中世の行者たちは岩に何日も籠もり、西寺と東寺を毎日往復する行を行い、同時に西寺下の行道岩の周りをめぐったり、座禅を行ったりしていました。これが②③になります。それも一日ではなく、満足のいくまで繰り返すのです。それが「験(げん)を積む」ことで「修行」なのです。これをやらないと法力は高まりません。ゲーム的にいうならば、修行ポイントを高めないと「ボスキャラ」は倒せないのです。
どちらにしても中世のプロの行者たちは、ひとつの行場に長い間とどまりました。
そのためには、拠点になる建物も必要になります。こうしてお堂が姿を現し、「空海修行の地」と云われるようになると行者も数多くやって来るようになり、お堂に住み着き定住化する行者(僧)も出てきます。それが寺院へと発展していきます。これらの山林寺院は、行者によって結ばれ、「山林寺院ネットワーク」で結ばれていました。これが「中辺路」へと成長して行くと研究者は考えているようです。
 そこに近世になると庶民が「ミニ巡礼」として、参加するようになります。それが善通寺の「七ケ所巡り」であり、「高松の七観音巡り」であったと私は考えています。今日はここまでです。
高松七観音参りの後半、屋島寺・八栗寺・志度寺・長尾寺については、またの機会にします。
  
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

15・16世紀には、瀬戸内海に多くの石造物を供給していた弥谷寺石工たちは、17世紀になると急速に衰退していきます。その背景には、軟らかい凝灰岩から硬い花崗岩への石材変化があったことを以前にお話ししました。もうひとつの原因は、ライバルとしての豊島の石工集団の成長があったようです。今回は、豊島石工たちがどのように成長し、弥谷寺石工達から市場を奪っていったのかを見ていくことにします。テキストは「松田朝由  豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討  香川県立埋文センター研究紀要2002年」です。

豊島の加工場左
豊島の石工作業場(日本山海名産名物図会)
前回は「日本山海名産名物図会」(1799年刊行)に紹介されている豊島の石切場と石造物について見ました。豊島石製品として「水筒(⑤⑧⑨)、水走(⑥)、火炉、へっつい(小型かまど④)などの類」とありました。さまざまな石造物が制作されているのですが、燈籠や五輪塔については触れられていませんし、挿絵にも燈籠③が一基描かれているだけでした。この図会が出版された18世紀末になると、豊島でも五輪塔の生産は、終わっていたようです。
豊島石の五輪塔は近世(江戸時代)になると、形を大きく変化させ独特の形状になります。これを豊島型五輪塔と呼んでいます。豊島型五輪塔は香川県、岡山県の広域に流通するようになり、それまでの天霧石の石造物から市場を奪っていきます。

豊島型五輪塔2
豊島型五輪塔

豊島型五輪塔の特徴を、研究者は次のように指摘します
①備讃瀬戸を跨いで香川、岡山の両県に分布する
②中世五輪塔と比較すると、他よりも大型である
③宝医印塔の馬耳状突起に似た突起をもつ特異な火輪が特徴である
②風輪と空輪が別石で構成される
④少数ではあるが正面に方形状の孔を穿った地輪がある、
⑤地輪の下に台石をおく
⑥塔内部が彫られて空洞になっている

具体的な検討は省略し、形態変遷から明らかとなった点だけを挙げます。
豊島型五輪塔編年図
豊島型五輪塔編年図
Ⅰ期 豊島型五輪塔の最盛期
Ⅱ期 花崗岩の墓標や五輪塔、宝筐印塔の普及により衰退時期へ
Ⅲ要 かろうじて島外への搬出が認められるものの減少・衰退過程
Ⅳ期 造立は島内にほぼ限定され、形態的独自性も喪失した、
それではⅠ期の「豊島の五輪塔の最盛期」とは、いつ頃なのでしょうか。
豊島型五輪塔が、出現した時期をまずは押さえます。造立年代が推定される豊島産の石造物は24例で、高松以東が14例、高松から西が10例になるようです。各世紀毎に見ると次の通りです。
15世紀段階では、高松以東では豊島石が2例、豊島石以外が4例で、豊島石が多いとはいえない。この時代の石材の多くは「白粉石」と呼ばれる火山の凝灰岩で、スタイルも豊島型五輪塔独特の要素はまだ見られず、その萌芽らしきものだけです。
16世紀 3例中の2例が豊島石。形態は地蔵と板碑。
17世紀初頭 生駒家当主の墓は超大型五輪塔でつくられるが、石材は豊島石ではなく、天霧石が使われている。
一方、高松から西の地域の状況は次の通りです。
15世紀 豊島石石造物は見つかっていない。
16世紀 6例あるも、豊島石ではなく在地の凝灰岩。
17世紀初頭 在地の凝灰岩使用

次に豊島石の搬出開始時期について見ていくことにします。
香川県内において年号の確認できる初期の豊島石石造物は次の通りです。
①高松市神内家墓地の文正元年(1466)銘の五輪塔
②長尾町極楽寺円喩の五輪塔(1497年)
②豊島の家浦八幡神社鳥居(1474年)銘
これらは五輪塔に軒反りが見られないので、15世紀中頃の作成と研究者は推測します。ここからは、豊島型五輪塔が作られるようになる約150年前から豊島石の搬出は、行われていたことが分かります。
つまり、豊島石工集団の活動は15世紀中頃までは遡れることになります。
五輪塔 火輪変化
火輪のそりの変化による年代判定
それでは、中世後半段階に豊島石石造物は、県内でどの程度拡がっていたのでしょうか。
高松市中山町の原荒神五輪塔群
高松市香西の善光寺五輪塔群
芝山五輪塔群
宇佐神社五輪塔群で数基
屋島寺や下田井町、木太町など
ここからはその流通エリアは高松市内に限られることがうかがえます。木田郡から東は火山石など凝灰石を用いた石造物が多く、豊島石はほとんどありません。また、高松市から西にも、豊島石はみられず、天霧石など凝灰岩がほとんどです。
 かつては、豊島石は天霧石によく似ていて、その違いは「豊島石は礫の大きさが均一で、黒く、白色の礫である長石が目立つ点」です。また、「日本山海名産名物図会」に「讃岐の石材はほとんどが豊島石」と記されたために、天霧石の存在が忘れられていた時期があります。そのため白峰寺の十三重塔(西塔)も、豊島石とされてきたことがありました。しかし、その後の調査で豊島石ではなく、天霧石であることが分かっています。今では、香川県西部に豊島石石造物はないと研究者は考えています。
  ここでは、次のことを押さえておきます。
  ①中世後半段階において豊島石は高松市を中心とした局地的な分布であり、それ以外の地域への供給はなかったこと。
  ②高松市内においても、弥谷・天霧山からの凝灰岩が多数派で、豊島石は少数派であったこと。
豊島石は高松地域のみで使用されていたようです。

白峯寺 讃岐石造物分布図
天霧系・火山系石造物の分布図(中世前期に豊島石は存在しない)

次に生駒3代当主と豊島型五輪塔との関わりを見ていくことにします。
 高松市役所の裏にある法泉寺は、生駒家三代目の正俊の戒名に由来するようです。
讃岐 生駒家廟(法泉寺)-城郭放浪記
法泉寺生駒氏廟
この寺の釈迦像の北側の奥まった場所に小さな半間四方の堂があります。この堂が生駒廟で、生駒家二代・生駒一正(1555~1610)と三代・生駒正俊(1586~1621)の五輪塔の墓が並んで安置されいます。
龍松山 法泉寺 : ひとりごと
        生駒一正と三代・生駒正俊の五輪塔
これは弥谷寺の五輪塔に比べると小さなもので、それぞれ戒名が墨書されています。天霧石製なので、弥谷寺の採石場から切り出されたものを加工して、三野湾から船で髙松に運ばれたのでしょう。
まず2代目一正の五輪塔から見ていきます。
彼はは1610年に亡くなっているので、これらの五輪塔は、それ以後に造られたことになります。

讃岐 生駒家廟(法泉寺)-城郭放浪記
生駒家二代生駒一正(左)と三代・生駒正俊の五輪塔(右)
火輪は豊島型五輪塔の形態で、空輪、風輪もその特徴を示します。ところが空輪や水輪のスタイルは、豊島型五輪塔とはちがう要素です。同じ水輪スタイルとしては、仁尾町金光寺にある細川頼弘墓を研究者は挙げます。細川頼弘は1579年に亡くなっているので、一正の五輪塔の水輪の特徴は、16世紀の時代的な特徴とも考えられます。
 このように一正の五輪塔は、全体的には豊島型五輪塔と云ってもいい属性を持っています。ところが問題は、石材が豊島石ではないのです。この石材は、天霧山麓の碑殿町の牛額寺奥の院に新しく開かれた石切場から切り出されたものであることが分かっています。これをどう考えればいいのでしょうか?

次に隣の生駒正俊(1621年没) の五輪塔を見ておきましょう。
 火輪は、一正五輪塔と同じ豊島型五輪塔のスタイルです。空輪、風輪も豊島型五輪塔の属性をもちます。全体的に、一正の五輪塔よりも、より豊島型五輪塔の特徴を備えているようです。しかし、この正俊塔も石材は豊島石ではなく、碑殿町の天霧石が使われています。
このように宝泉寺生駒廟のふたつの五輪塔は、豊島型五輪塔Ⅰ期古段階に位置付けることができます。しかし、台石がないことと、石材が豊島石でないという問題点があります。
 生駒家当主の墓のスタイル変遷から見ると、次の系譜の先に豊島型五輪塔が姿を見せると研究者は考えているようです。

①志度寺の生駒親正墓→ ②法泉寺の生駒一正供養塔 → 
③法泉寺の生駒正俊供養塔

これら生駒家の五輪塔は、今見てきたように形は豊島型ですが、石材はすべて天霧山からの採石です。

研究者が注目するのは、四国霊場弥谷寺(三豊市三野町)にある2代生駒一正の五輪塔です。
生駒一正五輪塔 弥谷寺
生駒一正五輪塔(弥谷寺)
弥谷寺は、生駒一正によって菩提寺とされ再興された寺院です。そして天霧石の採石場が境内にありました。弥谷寺と、生駒家には深い関わりがあったのです。
弥谷山と天霧山の関係については、以前に次のようにまとめました。    
①弥谷寺は、西讃岐守護代だった香川氏の菩提寺で、その五輪塔創立のために採石場があり、石工集団がいた。
②弥谷寺境内には、凝灰岩の露頭や転石に刻まれた磨崖五輪塔が多数あること
③弥谷山産の天霧石五輪塔は、県内を越えて瀬戸内海全域に供給されたこと
④長宗我部元親の讃岐占領、その後の秀吉の四国平定で、香川氏が没落して弥谷寺も一時的に衰退したこと
⑤讃岐藩主となった生駒氏の菩提寺として、弥谷寺は復興したこと。そこに、超大型の五輪塔が藩主墓碑として造立されたこと。
⑥その際に弥谷寺採石場に替わって、天霧山東側の牛額寺奥の院に新たに採石場がつくられたこと
こうして天霧山周辺には、弥谷寺境内と、牛額寺奥の院というふたつの採石場ができます。
弥谷寺磨崖五輪塔と、牛額寺奥の院の磨崖五輪塔を比べると、次のような相違点が見られます。
①火輪の軒隅が突出している
②空輪が大型化している
③水輪が扁平化している
特に①②は近世的変化点で、違いの要因は時期差であると研究者は考えます。つまり、磨崖五輪塔は「弥谷山(弥谷寺) → 天霧山(牛角寺)」への変遷が推測できます。ここからも、牛額寺奥の院が新たに拓かれた採石場であることが裏付けられます。
 どうして、時期差が現れたのでしょうか           
 採石活動の拠点が、弥谷山から天霧山へ移ったと研究者は考えています。中世には採石は、弥谷山でも天霧山でも行われていたようです。しかし、最初に採石が行われるようになったのは、弥谷山でした。それは、磨崖五輪塔が弥谷寺本堂周辺に集中していることから推測できます。弥谷山には、天霧城主で西讃守護代とされる香川家の歴代墓が今も残っています。弥谷寺は香川氏の菩提寺でもありました。ここからは、香川氏など有力者に提供する五輪塔製作のために、周辺で採石が行われていたことが考えられます。それが次第に販路を広げていくことになります。一方、天霧山は天霧山がある山で、城郭的性格が強く採石場としては弥谷山よりも規模は小さかったと研究者は考えます。
 こうした中、16世紀後葉の阿波三好氏の来襲によって、香川氏は一時的に天霧城退場を余儀なくされています。この時に、菩提寺の弥谷寺も荒廃したようです。戦国末期の混乱と、保護者である香川氏をなくして弥谷寺は荒廃します。それを再興したのが生駒家二代目の一正で、「剣御山弥谷寺略縁起」には、次のように記されています。

『武将生駒氏、当国を鎮ずる時、当時の廃絶ぶりを見て悲願しに勝ず、四隣の山峰を界て、当寺の進退とし玉ひ、住侶別名再興の願を企てより以来、吾先師に至て中興暫成といへども、住古に及ぶ事能はず』(香川叢書第一)

意訳変換しておくと

『生駒氏が当国を支配することになった時、当寺の廃絶ぶりを見て復興を決意して、周囲の山峰の境を決めて、当寺の寺領を定めた。僧侶たちも再興の願の元に一致協力し、先師の時代に中興は、あらかた成った。しかし、かつての隆盛ぶりには及ばない』

  ここからは、生駒一正による再興が行われ、それまでの弥谷寺の景観が一新されたことがうかがえます。信仰の場として弥谷寺の伽藍再整備が進む中で、境内にあった採石場の天霧山東麓への移転が行われたと研究者は考えているようです。逆に言うとそれまでは、弥谷寺境内の中で採石や五輪塔への加工作業が行われていたことになります。 
 その石造物製品は、お参りにきた信者の求めに応じて、彼らの住む地域に「発送」されたかもしれません。また、弥谷寺には多くの高野聖たちや修験者が布教活動の拠点としていました。彼らによって、石造物建立が行われる場合には、弥谷山の採石場に注文が入ったことも考えられます。突っ込んだ言い方をすると、弥谷寺が採石場を管理していたということになります。石工たちも、その経営下にあったとしておきます。
それが近世になって生駒氏による再興の折に、信仰と生産活動の分離が行われ、採石場は天霧山東南麓の碑殿町に移されたという説になります。
七仏薬師堂 吉原 弥谷寺 金毘羅参詣名所図会
吉原大池から望む天霧山(金毘羅参詣名所図会)
これらの材質が天霧山南斜面の牛額寺の奥の院(善通寺市碑殿町)で採石されていることが分かっています。
碑殿町の石材は、地元で「十五丁石」と呼ばれていて、丸亀市本島宮本家墓や善通寺歴代住職墓に使用されていること、それに加えて、超大型五輪塔はすべてが碑殿産(十五丁石)が用いられていることが分かっています。ここからは、中世末に姿を現す超大型の五輪塔が墓観念や姿形からして、豊島型五輪塔と深く関係していると研究者は考えているようです。
 そして超大型五輪塔の出現背景には、藩主生駒家が深く関わっているとする裏付けは次の通りです。
生駒親正夫妻墓、生駒一正供養塔など、超大型五輪塔10基のうちの4基が生駒家のものです。超大型五輪塔ではありませんが高松市法泉寺の生駒廟に安置されている生駒家二代正俊の五輪塔は、スタイルは豊島型五輪塔です。
 ここには、生駒家の関わりがうかがえます。このような生駒家の五輪塔から影響を受けて、登場するのが豊島五輪塔だと研究者は考えています。それは豊島型五輪塔の祖型いうべき要素が、弥谷寺の五輪塔には見られるからです。例として挙げるのが、弥谷寺の磨崖五輪塔には地輪に方形状の孔が穿たれたものがあります。この孔からは、遺骨が確認されています。ここからは五輪塔が納骨施設として使用されていたことがうかがえます。弥谷寺の納骨孔が、豊島型五輪塔の地輪にもある方形状の孔に系譜的につながると研究者は考えています。

以上のように「超大型五輪塔 + 生駒家歴代当主墓」が最初に姿を現す弥谷寺や天霧山の石切場には、豊島型五輪塔の祖形を見ることができます。これらの要素は、中世豊島石の五輪塔にはありません。以上を図示化すると以下のようになります。

豊島型五輪塔系譜
豊島型五輪塔の系譜

豊島型五輪塔の成立背景を、まとめておきます。
①中世豊島石の五輪塔系譜の上に、生駒氏が弥谷寺で作らせた大型五輪塔のインパクがあった
②それを受けて豊島型五輪塔が高松地区で姿を現す
③その際に豊島の石工集団に対して、生駒藩が何らかの「介入・保護」があった
④県内の石切場の終焉と豊島型五輪塔の広域搬出は、時期が一致する。
③④については、「生駒氏という新しい領主による社会秩序形成を目的とした政治的側面」があったと研究者は指摘します。具体的には、生駒氏が政治的にも豊島の石工集団を保護下において、生産流通に特権を与えたということです。
豊島型五輪塔が出現するのは、案外遅くて17世紀初頭になるようです。そして、急速に天霧石の五輪塔を駆逐し、市場を占有していきます。こうして天霧山の石造物は忘れ去られ、近代にはそれが豊島産と誤解されるようになっていきます。

以上をまとめておくと
①14・5世紀には、弥谷寺石工達が瀬戸内海各地に石造物を提供するなど活発な生産活動を行っていた
②その背後には、西讃守護代としての香川氏の保護があった。
③16世紀末の長宗我部元親の侵攻と、秀吉の四国平定の戦乱の中で香川氏は滅亡し、弥谷寺も衰退する
④それを救ったのが生駒氏で、弥谷寺を菩提寺としてそこに超大型の五輪塔を造立する。
⑤生駒氏は天霧山東麓の牛額寺奥の院に新たに採石場を設けて、高松に天霧石を供給させる。
⑥その際に、加工を命じられたのが豊島石工で、天霧石を使った豊島型五輪塔が高松に登場する。⑦それまで高松地区にだけに石造物を提供するだけだった豊島石工集団は、生駒氏の保護育成を受けて、天霧石石造物を駆逐する形で、瀬戸内海への流通エリアを拡大していく。
⑧しかし、それも長くは続かずに花崗岩産の石造物へと好みが変化すると、豊島石工達は豊島石の特長を活かして、石カマドや、石筒、火鉢などの製品開発を行うようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
松田朝由  豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討  香川県立埋文センター研究紀要2002年」
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  石造物とは、地蔵さんなど、石で造られた仏・塔・仏像・橙籠・鳥居・狛犬・磨崖仏などを含めて「石造物」と呼んでいるようです。中世の讃岐西部で活発な活動を行っていたのが弥谷寺の石工達でした。彼らの活動については、研究者は次のように時代区分しています。
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の中世墓地に五輪塔造立
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内への石仏・宝筐印塔・五輪塔などの活発な造立
Ⅳ期(17世紀後半) 外部産の五輪塔・墓標の搬入と弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が活発に造立される時期
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退
以上から分かる事は次の通りです。
①弥谷寺での石造物生産活動はI~Ⅳ期
②Ⅱ期は、保護者であった天霧城城主の香川氏の退城で終わりを迎える。
③生産活動が再開されるのは、1587年に生駒氏がやって来て新たな保護者となって以後のこと
④生駒氏は弥谷寺を保護し、伽藍復興が進むようになり、境内にも石造物が造営されるようになる。
⑤Ⅲ期の代表作が、1601年の香川氏の宝筐印塔4基、1610年以後の生駒一正の巨大五輪塔
⑥再開時に、善通寺市牛額寺薬師堂付近に新たな採石場が開かれた。
⑦しかし、競争相手として豊島産石造物が市場を占有するようになり、かつてのように瀬戸内海エリアに供給されることはなかった。
⑧Ⅳ期(17世紀後半)には外部産石造物が搬入されるようになり、弥谷寺での石造物生産活動は衰退・終焉
⑨Ⅳ~Ⅵ期になると、寺檀制度確立に伴い弥谷寺周辺の人々によって境内に墓標造立開始
⑩Ⅵ期の衰退期の背景は、村々の共同墓地に墓標が建てられるようになったから

以上で弥谷寺の石工達の活動状況は分かるのですが、これが瀬戸内海エリアの石造物造営の動きと、どう関連していたのかは掴みきれません。今回は視野を広くとって、瀬戸内海全体の石工達の活動を、大まかに押さえておこうとおもいます。テキストは「市村高男 瀬戸内の石造物と石工    瀬戸内全誌のための素描221P 瀬戸内海全誌準備委員会」です。

畿内では12世紀から中世の層塔の先駆けになるものが造られ始めます。明日香村の於美阿志神社の層塔や葛城市営麻の当麻北墓五輪塔などは、その代表的な事例です。
於美阿志(おみあし)神社 十三重石塔
 於美阿志神社層塔(奈良県明日香村)

讃岐にも12世紀後半とされる凝灰岩製の石塔があります。

海女の墓 中世初期の宝塔(志度寺、
 海女の墓と伝えられる中世初発期の宝塔(志度寺)
その1つが志度寺の「海女の墓」と伝えられる石塔で、京都の藤原氏による寄進とも云われますが、詳しい事は分かりません。いずれにせよ、中世石塔を生み出す動きは、畿内が牽引役となって進んで讃岐にももたらされるようになったとと研究者は考えています。

そのような中で、今までにない新しいタイプの石造物が12世紀末に奈良・東大寺に現れます。
東大寺の南大門の主役は金剛力士像ですが、その裏側(北側)に背中合わせの形で安置されているのが石造獅子像一対あります。

石造獅子像(東大寺 重文)
大仏殿方向の向かって前脚をピンと伸ばした獅子が陣取っています。石獅子は雄と雌の2体で、両方とも口を開いた獅子像です。

獅子台座

獅子の姿や、台座の文様、天女・蓮華・牡丹なども唐風です。それもそのはずで、この獅子像は、中国人石工の手によって作られた事が分かっています。
 どんな経緯で南宋の石工集団が東大寺にやってきたのでしょうか?
 東大寺の再建責任者・重源は宋の文化に詳しく、大仏殿再建にも宋風を取り入れます。そのために伽藍再建の総合プランナーとして招いたのが南宋の陳和卿(ちんなけい)でした。彼は自分の技術者集団を率いて来日します。その中の石工集団の責任者が伊行末(いぎょうまつ)と彼の石工集団でした。
「東大寺造立供養記」には、次のように記されています。
中門獅々。堂内石脇士。同四天像。宋人字六郎等四人造之。若日本国石難造。遣価直於大唐所買来也。運賃雑用等凡三千余石也。

「建久7(1196)年に宋人・字六郎など4人が、中門の石獅子、堂内石脇士、四天王石などを造る。石像は日本の石では造り難いので、中国で買い求めて日本に運んだ。輸送費は雑費を含めて3000石であった。」

彼らの本来の仕事は、大仏殿の石段造営でしたが、その工事終了後に大仏殿を守護する中門に、この狛犬像を奉納したようです。
般若寺】南都を焼き打ちの平重衡が眠る奈良のお寺
般若寺(奈良市)境内の「笠塔婆」

東大寺の北にある般若寺(奈良市)境内の「笠塔婆」に、伊行末の息子・伊行吉が次のような銘文を残しています。
父 伊行末 文応元(1260)年 没

般若寺の寺伝にも、伊行吉が父伊行末の没後の一周忌に、この卒塔婆を奉納したと記されています。ちなみに、これに並ぶようにもう1本あるのは、母親の延命長寿を祈願して造立されたものです。
 ここからは伊行吉は、南宋に帰らずに日本に残ったことが分かります。
「伊派の石工」
南宋石工集団伊派の系譜

彼は従う中国人の石工集団をまとめ上げ、「伊派」と呼ばれる中国の先端技術を持つ石工集団の基礎を作りあげます。彼らは数々の技術革新をもたらしますが、そのひとつが花崗岩を石材とした新しいタイプの石塔類を次々と世に送り出したことです。
12世紀末に東大寺南大門の石獅子をつくったのは、中国からやって来た石工たちでした。
彼らの中には、作業終了後に帰国した者もいましたが、畿内に定着した者もいました。
奈良市 般若寺十三重石塔 - 愛しきものたち
般若寺の十三重石塔
伊行末の作品は数多く知られ、般若寺の十三重石塔などもその内の一つです。その他にも、宇陀市大蔵寺の十三重石塔や大野寺の弥勒摩崖仏なども残しています。さらに東大寺境内にも伊行末の作品を見ることができます。石獅子のみならず、法華堂(三月堂)の古びた石燈籠も伊行末の作と伝わります。石工たちの代表者が伊行末という人の子孫だったので、「伊派の石工」と呼ばれています。
 彼らは、それまでの日本では使われなかった硬質の花崗岩を加工する技術を持っていました。その技術で、13世紀後半以降には、たくさんの石塔・石仏・燈籠などをつくります。その作品が西大寺律宗の瀬戸内進出とともに拡がっていきます。その伝播経路を追ってみましょう。

山陽地域では、兵庫県六甲山麓周辺、広島県尾道、山口県下関、四国では愛媛県今治などに、花崗岩を石材とした石造物をつくる石工集団がいたようで、花崗岩製の石造物製造の中心となりました。特に尾道にはたくさんの石工が集まっていたようで、対岸の今治とともに、瀬戸内沿岸第一の石造物製造の拠点となっていました。研究者が指摘するのは、瀬戸内地域の石塔類は、畿内の石塔造りの影響を強く受けながらも、それぞれの地域の嗜好に合わせて独自性を生み出していたことです。
浄土寺の越智式宝筐印塔(広島県尾
尾道・浄土寺の越智式宝筐印塔
その例が、越智式と呼ばれる独自な形をした宝筐印塔です。これは尾道を中心に、安芸島嶼部に今でも数多く見られます。浄土寺も西大寺の安芸における布教拠点のひとつでした。

山陽側で花崗岩製の石造物が数多く作られるようになっても、四国では今まで通りの凝灰岩が使われています。
特に、讃岐では一貫して地元産の凝灰岩を使って石塔類をつくり続けます。その中心は、西讃では天霧山の天霧石、東讃ではさぬき市の火山で切り出される火山石を使って、五輪粁宝塔・層塔などがつくられていました。今でも13~14世紀前半に讃岐の火山石で作られた石塔が、徳島県北半に数多く残されています。これは讃岐からの移入品になります。伊予松山市を中心とする地域でも、伊予の白石と呼ばれる凝灰岩を石材とした石塔類がつくられていました。こうした凝灰岩製の石塔群は、畿内から伝えられた花崗岩とはちがう技術系統で、それぞれの地域色を強く持っていると研究者は評します。

  讃岐の中世石造物の代表作品と云えば 「白峯寺の東西ふたつの十三重石塔」(重要文化財、鎌倉時代後期) になるようです。
P1150655
白峰寺の東西の十三重塔 

この二つの塔は、同時に奉納されたものではありません。東塔は畿内から持ち込まれたものです。そして西塔は東塔を模倣して、讃岐で天霧山の石材と使って造られたものだということが分かってきました。これを製作したのが弥谷寺の石工かどうかは分かりません。石材だけが運ばれた可能性もあります。しかし、弥谷寺の石工たちは畿内で作られた東塔を見上げながら、いつか自分たちの手で、このような見事な塔を作りたいと願い、腕も磨いていたことは考えられます。

瀬戸内海をめぐる石造物とその石材地について、研究者は次のように概観しています。
近畿から四国・九州を貫く中央構造線の南側に三波川変成帯があります。そこには結品片岩の岩帯があり、中世から様々に利用されてきました。徳島県の吉野川・鮎喰川流域では、13世紀後半から板状にはがれる石の性格を利用し、板碑が盛んに造立されました。愛媛県では伊子の自石や花崗岩が採取できたため、結晶片岩を石塔・石仏などに使う文化は発展しませんでした。江戸期以降、住居の囲い石積みや寺社の石垣として利用されるにすぎません。
6. 県指定有形文化財(考古資料)
 市楽の板碑(徳島県徳島市)

大分県でも阿蘇の溶結凝灰岩が採れるため、石塔には使われませんでした。長崎県の大村湾沿岸地域では、13世紀後半からこの石材で五輪塔・宝筐印塔がつくられ、板碑をつくる文化は発展しませんでした。同じ石材でも地域ごとに使われ方に違いがあったのです。

 高知県のように中世初期には石造物があまり見られない地域もあります。14世紀初頭になって六甲花崗岩(御影石)製の五輪塔が幡多郡を中心に運び込まれると、六甲山麓から瀬戸内海を西回り宇和海経由で石塔類が搬入されるようになり、西日本一の御影石製石塔類の集中地域となりました。徳島県南部も15世紀になると多数の御影石製石塔が瀬戸内海を東回りで運び込まれ、島根県西部にも瀬戸内海・玄界灘を経て運び込まれていました,
土佐の石造物・棟札: 加久見氏五輪塔(土佐清水市)
       加久見の御影石製石塔群(高知県土佐清水市)

15世紀になると、花崗岩製の石塔が瀬戸内地域で広く見られるようになります。そのような中でも、讃岐では相変わらず地元産の凝灰岩で石塔がつくられ続けます。天霧石の石塔生産は発展し、岡山・広島・兵庫県南部から徳島県西北部・愛媛県全域にまで販路を拡大していきます。
弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
天霧石の石造物分布図

それまで石造物を地元で生産していなかった高知県でも、地元産の砂岩を利用し、花崗岩製石塔のコピーを造り始め、しだいに独自な形を生み出していきます。愛媛県でも花崗岩製石塔の進出の一方、砂岩製の石造物が登場し、徐々に地域色を持つものをつくるようになります。このような石造物の広域流通が、瀬戸内海沿岸地域で広く見られるようになるのがこの時代の特徴です。
  この時代は花崗岩製のブランド品の搬人と同時に、地域での石造物生産が本格化し、地域色のある製品が各地で生産されるようになったと研究者は指摘します。

この時代のもうひとつの特徴は、一石五輪塔と呼ばれる小型の五輪塔が現れ、16世紀から爆発的に増加することです。
古童 - 一石 五輪塔 | 古美術品専門サイト fufufufu.com

一石五輪塔とは50㎝前後の一石で造られた小型の五輪塔です。15世紀になると町や村に仏教が浸透するようになった結果、需要が増大し、石工たちが工房で大量生産を開始するようになったようです。
この現象は、庶民上層部も一石五輪塔を墓塔や供養塔として使うようになったことが背景にあります。これを研究者は「仏教の地域への定着に対応した石塔類の大衆化」と評します。
 一石五輪塔の登場は、庶民が死者を手厚く葬り、供養するようになったことを示します。
それが17世紀になると、石塔全体が墓塔・墓碑として性格を変化させ、17世紀後半になると船形の塔が増加し、立方体の基礎の上に竿と呼ばれる塔身を乗せた墓石も急増します。これらの需要増大に対応して、石工達も大量生産体制を整えたことを意味します。
そして、使用される石材も変化します。
この時期には、城郭石垣の建設による採石・加工技術が一気に進化した時代です。小豆島や塩飽などにも石垣用の安山岩の切り出しや加工のために多くの石工達が各藩に集められて、キャンプ生活を送っていたことは以前にお話ししました。大阪城完成で石垣用石材の需要がなくなった後の彼らの行く末を考え見ると、自分の持っている石工技術の転用を計ったことが推察できます。こうして、硬質で持ちがよい花崗岩を多用した墓石や燈籠・鳥居などさまざまな石造物を需要に応じて生産するようになります。
 こうしたなかでも瀬戸内地域の石工の中心は、引き続き尾道でした。尾道には多くの石工がいて、石造物製作の中心地として各地に石造物を提供していました。
  かたくなに天霧山凝灰岩で石塔を造り続けていた弥谷寺の石工達も、花崗岩製石造物という時代の波に飲み込まれていきます。
生駒騒動で生駒氏が讃岐を去った後の17世紀後半になると、弥谷寺境内には、地元産の石造物が見られなくなります。そして、外から搬入した石造物が姿を見せるようになります。
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山崎氏墓所の五輪塔3基(弥谷寺本堂西側)
外から運び込まれた初期のものは、本堂西の山崎氏墓所の3つの五輪塔です。これらは17世紀中頃の花崗岩製で、天霧石で造られたものではありません。外から運び込まれたことになります。そこで使用されている石材を見ておきましょう。
山崎氏墓所の3つの五輪塔の石材は、
①左右の塔が兵庫県御影石製で
②中央の山崎志摩守俊家のものだけが非御影石の花崗岩製
これまでの支配者たちである香川氏一族や生駒一正の五輪塔などは天霧石製で、弥谷寺の石工集団によって造られていました。それが外部から持ち込まれた花崗岩製五輪塔が使われてるようになります。その背景には、花崗岩製墓標の流行があったようです。新たに丸亀藩主となった山崎氏は、地元の天霧石を使う弥谷寺の石工たちに発注せずに、花崗岩製の五輪塔を外部に注文していたことになります。天霧石製の石造物は、時代遅れになっていたのです。
こうして17世紀半ば以後には、弥谷寺や牛額寺の採石場は閉鎖され、石工達の姿は消えます。そして、墓石は庶民に至るまで花崗岩製になっていきます。

以上をまとめおくと
①阿弥陀信仰の聖地であった中世の弥谷寺境内には、磨崖五輪塔を供養のために彫る石工集団がいた。
②西遷御家人の香川氏が弥谷寺を菩提寺にしたため数多くの五輪塔が造立された。
③白峰寺子院に、崇徳上皇供養のために中央から寄進された十三重塔(東塔)を真似て、弥谷寺石工は天霧石で西塔を造立するなど、技術力を高めた。
④生産体制が整った弥谷寺石工集団は、大量生産を行い瀬戸内海エリアに提供・流通させた。
⑤一方、東大寺再建の際にやってきた南宋の石工集団「伊派」は、花崗岩を使用し、デザイン面でも大きな技術革新を行った。
⑥「伊派」は西大寺律宗と組む事によって、瀬戸内海沿岸の寺院に多くの石造物を造立した。
⑦しかし、この時点では地域の石工集団の地元に定着した市場確保を崩すことはできず、ブランド品の「伊派」の花崗岩石造物と、地方石工集団の凝灰岩産石造物の並立状態が続いた。
⑧それが大きく変化するのは、大規模城郭整備が終了し、花崗岩加工の出来る石工達の大量失業と、新たな藩主たちの登場がある。
⑨大阪城に石垣用の安山岩を切り出していた石工達は、新たに石造物造立に参入する。
⑩こうして従来の凝灰岩産の石造物を作っていた弥谷寺石工集団は姿を消す

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
市村高男 瀬戸内の石造物と石工    瀬戸内全誌のための素描221P 瀬戸内海全誌準備委員会市村高男編『中世の御影石と流通』高志書院、2009年
山川均『中世石造物の研究一石工・民衆・聖』日本史史料研究会、2008年


  以前に中世の弥谷寺には、どんな「僧」たちがいたのかをお話ししたことがあります。それを振り返っておくと次のようになります。
①行人・聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、行場が中心で善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかった
②弥谷(寺)は、善通寺の「別所」で、阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいた
③行人層は、自分の生活は自分で賄わなければならなかったので、周辺のムラで托鉢行や布教活動も行った。
④治病や死者供養にも関わり、わかりやすい言葉で口称念仏を広めた。
⑤弥谷寺や白峯寺は高野聖たちの阿弥陀信仰の布教拠点となった。
 地方の有力寺院の僧侶は、学侶(学問僧)・行人・聖などで構成されていました。
学侶(学頭)は、僧侶身分の最も上位に立つ存在で、中心的な位置を占めていました。学業に専念する学頭も中央の大きな寺院にはいたようです。しかし、白峰寺や根来寺では、学問僧の影は薄いようです。それに対して、ほとんどは「衆徒(堂衆)」だったと研究者は考えています。
『白峯寺縁起』に「衆徒中に信澄阿閣梨といふもの」が登場します。また元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」には、中世まで活動していたと考えられる「白峯寺山中衆徒十一ケ寺」が書き上げられています。この他、天正14年(1586)の仙石秀久寄進状の宛所は「しろみね衆徒中」となっています。一般に衆徒は武装し、僧兵としても活動する者も多かったようです。中世の白峯寺や善通寺に僧兵がいたことは充分に考えられます。
 13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」には、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること
②「勤行次第」を書いた薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること
③「勤行次第」は、重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
 ここからは、次のような事が分かります。
A白峰寺の子院の多くが高野聖などの修験者が管理運営者であったこと
B子院やそこに集まる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
 鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。類は類をよぶで、廻国の宗教者たちにとっては、人気のある行場があり、しかも立ち寄りやすい施設がいくつもあったのでしょう。

白峯寺 別所拡大図
白峯寺古図に描かれた「別所」

 中世の白峯寺には「別所」と呼ばれるエリアがあったことは、以前にお話ししました。
「別所」は、本寺とは離れて修行者の住む宗教施設で、後には念仏信仰の聖たちの活動拠点となります。白峯寺の別所も「浄土=阿弥陀信仰」の念仏聖たちの活動拠点であった可能性があります。ちなみに白峯寺の別所は、かつての行場で現在は奥の院に最も近い位置にあったことが分かっています。

白峯寺 別所3
白峯寺の本堂と別所跡
このような別所や子院では、衆徒に奉仕する行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。
白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏として活動し、下僧集団を形成していたことが考えられます。そして、衆徒の中にも行人と一緒に修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずで、その区分も曖味だったようです。また、彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったようです。そのために、雲辺寺・小松尾寺・金倉寺などは、中世には真言と天台の両方の「学問寺」であったと伝えられます。
観音寺山を愛する会
伊吹山観音寺の伽藍図(明治29年)
長浜城主であった羽柴秀吉が鷹狩りで立ち寄った際に、寺の小僧をしていた石田三成を「三碗の才」で見出したことで有名な話です。この舞台となった伊吹山観音寺は、修験道の拠点の一つでした。その僧侶構成を見てみましょう。
①学僧(清僧すなわち独身者)・
②衆徒(妻帯)・
③承仕・
④聖(本堂聖・鎮守聖・太鼓聖・鐘撞聖・灯明聖)
④の聖とは堂衆にあたる職掌です。ここの出てくる学僧以外は、妻帯者でした。修験道の拠点寺院では、衆徒たちの多くは妻帯し、社僧などもしばしば妻帯していたことを押さえておきます。
   伊吹山観音寺の1303(乾元2)年の文書には、次のように記されています。
「(衆徒集団が)寄進地の坊領や修正行、大師講などの宗教活動のための料田としての配分や分米等を掌握」

 こうした事例からすると、中世の白峰寺や弥谷寺なども、衆徒にあたる人々が中心に運営が行われていたと考えるのが自然のようです。中央の門跡寺院や本山クラスの大寺とちがって、清僧の学侶を多数置く必要性がありません。「白峰陵の護持」が存在理由だったとすれば、学侶がいなくてもなんら不都合はないはずです。むしろ、バイタリティのある衆徒達が意思決定権を持っている方が、中世の時代に自力で維持運営をするには好都合だったかもしれません。
以上をまとめておくと
①中世の讃岐の山岳寺院は、学僧的な僧侶はほとんどいなかった。
②寺院は子院の連合体で、集団指導体制であった。
③その院主達は、衆徒出身で修験者にかぎりなく近く、妻帯しているものも多かった。
④また彼らは武装している入道も多く僧兵としても働いた。 
④については中世の善通寺には、武装した僧侶がいたことを以前にお話ししました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。



讃岐・金倉寺 - SHINDEN

金倉寺の所領についての一番古い記録は、享保19年(1734)に寺僧了春僧都が著した「鶏足山金倉寺縁起」のようです。
そこには弘仁初め(810年頃)と仁寿二年(852)の二度にわたり、和気宅成が父道善の建立した自在王堂(金倉寺前身)を官寺として租税を賜わらんことを奏請し、この希望が許されて、田園32町が寄せられたと記します。さらに延長六年(928)には、それまで道善寺と称していた寺名を金倉寺と改め、金倉・原田・真野・岸上・垂水の租税を納めて寺領としたとも記されています。
 寺に古くから伝えられていることのようですが、この史料は江戸時代に書かれたもので同時代史料ではありません。和気氏の氏寺である金倉寺や、佐伯直氏の善通寺が官寺になったことはありません。寺領についてこれをそのまま信じることはできません。またこれを裏付ける史料もないようです。
その後の寺領について手がかりとなるのは「金蔵寺立始事」で、その後半は主に所領関係のことが次のように箇条書きで記されています。
一 宇多天皇御宇(智證)大師御入寂、寛平三年十玄十月廿九日年齢七十八。
一 村上天皇御宇天暦年中、賀茂御油田御寄進、応徳年中里見に除く。
一 土御門御宇建仁三年十月日官符宣成し下され畢んぬ。上金倉の寺の御敷地也。
一 亀山法皇御宇文永年中、良田新開官符宣御下知状下し賜い畢んぬ。
一 徳治二年、金銅薬師如来出現し給う事、天下其の隠れ無き者也。
一 高氏将軍御代貞和三年七月二日、小松地頭職御下知状給い早んぬ。
一 管領細河弘源寺殿御代永享二年九月廿六日、良海法印御申有るに依って、諸公事皆免の御判成  され畢んぬ。寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                                                
一 細川右京大夫勝元御時、享徳二年十二月廿八日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。法憧院第五 代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
意訳変換しておくと
① 宇多天皇の治政、(智證)大師が、寛平3(892)年10月29日に78歳で入寂。
② 村上天皇の治政の天暦(947~57)年中に、賀茂御油田が寄進された、応徳年中里見に除く。
③ 土御門の治政、建仁三年十月日官符が下され、上金倉の寺の敷地が寺領となった。
④ 亀山法皇の治政文永年中に、良(吉)田新開の官符がくだされ寺領となった
⑤ 徳治二年、金銅薬師如来が出現し、天下に知られるようになった。
⑥ 高氏将軍の治政の貞和3年7月2日、小松庄の地頭職下知状が下賜された。
⑦ 管領細河(川)弘源寺殿の治政の永享2年9月26日、諸公事皆免の特権を得た寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                         
⑧ 細川勝元の治政に、享徳2年12月28日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。法憧院第五 代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
ここに書かれている金倉寺の寺領を今回は見ていくことにします。テキストは「金倉寺領および圓城寺領金倉荘  善通寺市史574P」です。    
まず最初に②の天暦年中(947~57)に寄進を受けたとあるの「賀茂(鴨)御油田」を見ておきましょう。
讃岐國多度郡鴨庄南方内金蔵寺御油畠
合参段者
右件の御燈油は、往古従り本器五升得りと雖も、自然の慢怠致すに依って、当年自り本器七升七合に改め、御燈油之を定め、毎年榔怠無く弁進す可く候。若し少分未進致し候はば、罪科に処せ被る可く候者也。乃って請文の状件の如し。
延文六年卯月五日                                   時光(花押)
意訳変換しておくと
讃岐國多度郡鴨庄南方の金蔵寺御油畠について
合計3段の御燈油は、古くから本器五升を金倉寺に納めていたが、次第に慢怠になってきた。当年からは本器七升七合に改め、毎年怠りなく納めるように定める。もし、不足や未進があれば、罪科に処せられる。乃って請文の状件の如し。
延文六(1361)年卯月五日            時光(花押)
ここからは次のようなことが分かります。
①賀茂御油国(畠)があったのは、多度郡鴨庄南方であること
②ここに金倉寺に燈油を納入する畠二段が定められていたこと
③納入額は昔から五升と決められていたが、納入を怠ることが多かったので、延文六年に七升七合に値上げされたこと
④時期は南北朝混乱期で細川頼之の讃岐統治以前のこと
金倉 鴨
葛原郷鴨庄の北鴨と南鴨

鴨庄は、多度津の道隆寺の記録「道隆寺温故記」には、次のように記されています。
嘉元二(1304)年
鴨之庄地頭沙彌輛本西(堀江殿)、寄田畠百四町六段、重修造伽藍」

ここからは鴨庄が、道隆寺のある葛原郷北鴨と南鴨のあたりにあった荘園であったことが分かります。領主は、その名称から賀茂社で、その地頭を堀江殿が務めていたようです。葛原郷には、すでに賀茂社領葛原郷がありましたが、それとの関係は分かりません。
 この御油畠は、金倉寺が直接所有しているのではなく、鴨庄内に指定された三段の田から収穫される燈油五升を、金倉寺分として送付されるにすぎないこと、そして燈油の徴収と送付は鴨荘の役人によって行われたこと、この請文を提出した時光が、その役人であると研究者は考えています。
所有形態は分かりませんが、鴨庄からの御油の収納は、天暦年中という寄進の時期が事実とすれば、平安時代の前期から南北朝・室町時代のころまで、時おり「憚怠」があったとしても、ながく続いたことになります。

善通寺寺領 鎌倉時代
善通寺の寺領

次に良田郷にあった金倉寺の寺領です
④には亀山法皇の文永年中に、良(吉)田新開が寺領となったとあります。
これは「善通寺文書」の建冶二年の院宣や弘安四年の官宣旨の中にもでてくるので裏付けられます。弘安の官宣旨では、次のように記されています。
凡そ同郷(良田郷)内東寄田畠荒野三十餘町は、国領為りと雖も、去る文永五年始めて智證大師生所金倉寺に付せらるるの刻、宣旨を下され畢んぬ。

ここからは、寄進地が良田郷東側の国衙領で、面積は田畑・荒地を含む30町であったことが分かります。ちなみに良田郷西側は、善通寺の領家職だったことは以前にお話ししました。
「金倉寺立始事」に「良田新開」とあるのは、寄進地に荒地が多く、開発によって開かれたことを示しているようです。寄進は官宣旨によって行われたと記されているので、善通寺良田郷と同じように、智証大師生所という理由で金倉寺から申請があり、亀山天皇の承認によって行われたと研究者は考えています。
 嘉慶の「段錢請取状」や善通寺領良田郷「良田郷田敷支配帳」の記載にも「金倉寺領良田郷」は出てくるので、この寺領が室町時代にも存続していたことは分かります。「支配帳」に「一金蔵寺分定田十二丁大四十歩」となっているのは、さきに寄進された田畠荒野30町余のうち段銭賦課の対象となる田地が12町余りあったということで、「請取状」の田数は、嘉慶二年に実際段銭が納入された分のようです。
次に室町時代ころの金倉寺寺領について分かる史料を見ておきましょう。
(追筆)
「法幢院之講田壱段少  大坪」
拾ケ年之間可有御知行年貞之
合五石者 
右依有子細、限十ケ年令契約処実也。若とかく相違之事候者、大坪助さへもん屋敷同太郎兵衛やしき壱段小 限永代御知行可有候、乃為己後支證状如件。
                                           金蔵寺法憧院     賃仁(花押)
明応四乙卯十二月廿九日                   
   澁谷殿参
これは借金(米)の証文のようです。明応四年(1495)12月、金倉寺法瞳院が渋谷殿という人物に負債がありました。その返済方法として、良(吉)田石川方の百姓太郎二郎と彦太郎の二人が納入する年貢米を毎年五石ずつ10箇年間渋谷へ渡すことを契約しています。また大坪助左衛門屋敷・同太郎兵衛屋敷一段小を抵当に入れ、返済ができなかった時はそれを引渡すことにしています。
 法瞳院は金倉寺の塔頭一つです。
金倉寺文書の一つに応永17年(1410)2月17日の日付のある「評定衆起請文」と裏書された文書があり、蔵妙坊良勝、 宝蔵坊良慶、光寂坊俊覚、法憤院良海、実相坊良尊、律蔵坊、大宝院、成実坊、東琳坊、宝積坊の10名の僧が、寺用を定める時は、一粒一才と雖も私用しないなど三箇条を起請して署名しています。ここからは善通寺と同じように、金倉寺のなかにはこれら多くの僧坊があり、僧坊を代表する僧の評議によって寺の運営が行われていたことがうかがえます。他の史料にも一乗坊、東口坊などの名があります。法憧院はこれらの僧坊の中心で、善通寺における誕生院のような地位にあったようです。

良田郷石川
良田郷石川周辺 現在の善通寺東部小学校周辺

 この法憧院の証文中にある「石川方」については、現在稲木地区に石川という地名が残っています。
「石川名」という名田だったのだが、明応のころにはすでに地名化していて、太郎二郎、彦太郎という二人の農民が耕作し、年貢を法憧院に納めていたと研究者は推測します。大坪の助左衛門屋敷、太郎兵衛屋敷は、もとはこれらの農民の住居があったところかもしれません。
 文書の追筆に「講田」とあるので、この頃には開発され田地となり、法蔵院の講会(こうえ)の費用に充てられる寺田となっていたことが分かります。しかし、この講田は、この時には質流れしていたようです。それが30年後の大永8年(1528)に、渋谷の寄進によって再び法憧院の手に返ります。

16世紀初頭の永正6年(1509)ごろの法憧院領について、次のように記されています。 
法憧院々領之事
一町九段小 供僧 
ニ町三段大   此内ハ風呂モト也 是ハ③学頭田
護摩供 慶林房
三段六十歩、支具田共ニ支具田ハ三百歩
一段ナル間、ヨヒツキニンシ三段六十歩アル也
己上
岡之屋敷二段 指坪一段
已上 五町四反余ァリ
永正六年八月 日
一 乗坊先師良允馬永代菩提寄進分
一、②護摩供養 慶林坊 三段半
  此内初二段半者六斗代支供田ハ四斗五升也
一、④岡之屋敷二段中ヤネヨリ南ハ大、東之ヤネノ外二小アリ中ヤネヨリ北ハ一反合二反也

ここからは、次のようなことが分かります。
①法憧院領のうち二町五段は供僧(本尊に供奉(くぶ)する供奉僧たち)の管轄する領地であること、
②そのうち渋谷に質入れされている講田と、これも人手に渡っている護摩供(護摩供のための費用のための田地)をのぞく一町九段あまりが現有地であること
③寺の学事を統轄する学頭に付せられた学頭田が2町3段大(240歩)あること
金倉寺は道隆寺と並ぶ「学問寺」であったされますが、それが裏付けられる史料です。
 ②の「護摩供養 慶林坊」は、護摩供田で慶林房の手に渡っているようです。
実は供僧田の「他所ニア」る講田、護摩供も、この護摩供三段六〇歩も入れないと院領合計が5町4反余にならないようです。ということは、これは別の寺田ということになります。
④の「岡之屋敷二段」は、同じ金倉寺の塔頭である一乗坊の良允から寄進されたもので、ここには家が建っていたようで、屋根の部分で分割線が記されています。
以上から法憧院は5町4段あまりの院領を持っていたことが分かります。他の僧坊もそれぞれ何程かの所領をもっていたことは、 一乗院が岡屋敷を法憧院に寄進したことからもうかがえます。これらの院や坊の所領は、金倉寺領と別の所にあったとは思えないので、法憧院領良田石川方は金倉寺領良田郷の一部と研究者は推測します。そうすると金倉寺領は、このころには寺内の僧坊の分散所有となっていたことになります。時はすでに戦国時代に入っています。寺領が鎌倉時代の状態そのままで存続していたとは考えられません。寺内の院坊がそれぞれ作人に直結した地主になることで、かつての金倉寺領はその命脈を保らていたと研究者は考えています。これは、善通寺も同じような形態であったことと推測できます。
讃岐丸亀平野の郷名の
丸亀平野の古代郷名
金倉寺は、小松荘に地頭職を得ていたときがあるようです。
「立始事」には、貞和3年(1347)7月、足利尊氏が将軍であった時に、小松地頭職の寄進をうけたと記します。小松荘は、那珂郡小松郷(琴平・榎井・四条・五条・佐文・苗田)にあった藤原九条家の荘園です。
 貞和3年というのは、南北朝期の動乱の中で北朝方の優勢が決定的になる一方、それにかわって室町幕府内部で高師直らの急進派と尊氏の弟足利直義らの秩序維持派との対立が激化する時期です。幕府は、武士の要求をある程度きき入れながら、一方では有力公家や寺社などの荘園支配も保証していこうとする「中道路線」を歩もうとしていました。金倉寺への小松庄の地頭職寄進もそのあらわれかもしれません。時期がやや下ると管領・讃岐守護の細川頼之も、応安7年(1374)に、金倉寺塔婆に馬一匹を奉加しています。地頭職といっても、南北朝時代のころにはその職務や身分とは関係なく、所領そのものでした。嘉慶二年の段銭請取状にみえる「子松瀬山分七段」は、この時寄進された小松地頭職の一部のようです。
 ところで細川頼之の末弟満之の子頼重が、応永12年(1405)に将軍義満から所領安堵の御教書をもらっています。
讃岐国の所領は、子松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同公文職となっています。満之、頼重は備中守護ですが、讃岐のこれらの所領は、おそらく頼之が讃岐守護であった時に細川氏の領有となったものでしょう。細川氏の小松荘領有がどんな形のものであったかは分かりません。少なくとも頼之末年の嘉慶二年のころは、金倉寺は小松荘内に地頭職を持っていました。

「立始事」の終りの二ケ条は、幕府から寺領ついての諸公事を免除してもらった内容です。
⑦ 管領細河(川)弘源寺殿の治政の永享2年9月26日、諸公事皆免の特権を得た寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                 
⑧ 細川勝元の治政に、享徳2年12月28日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。法憧院第五 代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
段銭というのは田畠の段別に課せられた税で、一国平均役につながるものです。だから本来は朝廷―国衙に賦課、徴収権があり、大嘗会や伊勢神宮造営などの費用のための臨時税だったはずです。ところが室町時代には幕府が賦課の権限を握り、徴収は守護が行うようになります。また、その取りたても臨時的なものから次第に恒常的なものとなり、さらに守護自身の守護段銭がこれに加わって課せられるようになります。このため負担者である領主・農民にとっては耐え難い重圧でした。そこで室町時代には荘園領主や農民がさまざまな形で段銭徴収に抵抗するようになります。金倉寺も良海、有海などの運動が成功して、幕府から諸公事段銭免除の御判をもらっています。金倉寺にとっては大変な喜びだったことでしょう。しかし、この免除の約束がはたしてどこまで効力をもったかについては研究者は懐疑的なようです。
それは、在地武士による寺領侵入や押領が日常的に繰り広げられる時代が丸亀平野にも訪れていたからです。
金倉寺の寺領上金倉での段銭徴収の文書を見てみましょう。
上金蔵の段銭の事、おんとリニかけられ申す候事、不便に候よししかるへく申され候、不可然候、定田のとをりにて後向(向後力)もさいそく候へく候、恐々謹言。
二月九日                                       元景(花押)
三嶋入道殿
これは上金倉に段銭が課せられてれて「不便」なので免除して欲しいという申し入れに対して、従来から賦課の対象になっている定田のとおりに今後も取りたてるように、 元景が三嶋入道に指示したものです。ここで研究者が注目するのは、書状の署名者です。
天霧山・弥谷山@香川県の山
香川氏の山城があった天霧山

元景というのは、西讃守護代の第二代香川元景と研究者は推測します。

彼は長禄のころに、細川勝元の四天王の一人といわれた香川景明の子で、15世紀後期から16世紀前半に活躍した人物です。元景は守護代でしたが、「西讃府志」によれば「常二京師ニアリ、管領家(細川氏)ノ事ヲ執行」していたので、讃岐には不在でした。そのため讃岐には守護代の又代官を置いて支配を行っていたとされます。書状の宛名の香川三嶋人道が、その守護又代官になるようで、元景の信頼の置ける一族なのでしょう。上金倉荘の段銭を現地で徴収していたのはこの三嶋人道で、金倉寺の要望を無視して、守護代の元景は従来どおりの段銭徴収を命じたことが分かります。
段銭

 段銭は幕府・守護の重要な財源でした。
守護は段銭徴収を通じて荘園や公領に、領主支配権を浸透させていきます。そのため幕府が寺領段銭を免除しても、守護たちにとっては、そう簡単に従えるものではなかったようです。段銭徴収権は、封建領主化の強力な挺子でした。そこにますます地域で不協和音がおきる温床がありました。
 金倉寺領のその後は分かりませんが、香川氏が戦国大名化していく中で、その支配下に組み込まれていったことが予想できます。つまり、金倉寺や善通寺の寺領は、香川氏に侵略横領されて入ったと研究者は推測します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
金倉寺領および圓城寺領金倉荘  善通寺市史574P

     讃岐の郷名
讃岐の古代郷名 
金倉郷は那珂郡十一郷のひとつです。
東は那珂郡柞原郷、
南は那珂部木徳郷
西は多度郡葛原郷
に接し、北は瀬戸内海になります。古代には金倉郷より北に郷はなかったことを押さえておきます。

讃岐丸亀平野の郷名の
丸亀平野の古代郷名
 江戸期の天保郷帳では、金倉郷域は次の2つに分かれていました。
①丸亀藩領の下金倉村と上金
②高松藩領の金寺村
また、中世には、上金倉村と金蔵寺村を合わせた地を、下金倉と呼んでいました。幕末に編纂された西讃府志には、下金倉は中津とも呼ばれていたとあります。ここからは金倉川河口付近の中津も下金倉の一部であったことが分かります。

丸亀市金倉町
丸亀市金倉町

 上金倉村は、現在の「丸亀市金倉町+善通寺金蔵寺町」になります。 金蔵寺町には六条という地名が残っていますが、これは那珂郡条里6条で、その部が多度郡の1条に突き出た形になっています。ここからもともとは現在の6条の東を流れている金倉川は、条里制工事当初はその西側を流れていて郡界をなしていたと研究者は考えています。
善通寺金蔵寺
善通寺市金蔵寺町

 建仁3(1203)年に、金倉郷は近江の園城寺に寄進されます。
このことは善通寺文書の貞応三年の「東寺三綱解」に次のように引用されています。
右東寺所司(寛喜元年五月)十三日解状を得る云う。(中略)
況んや同国金倉荘は、智証大師の生所也。元是れ国領の地為りと雖も、去る建仁三年始めて園城寺に付せらるの刻、宣旨を下され畢んぬ。然らば則ち、彼は寄進の新荘也。猶速かに綸旨を下さる。此れ又往古の旧領也。争でか勅宣を賜はらざらんや。
東寺の訴えは、園城寺領金倉荘を引合にだして、善通・曼奈羅寺も金倉寺と同じように寺領確認の勅宣を賜わりたいといっています。ここからは次のようなことが分かります。
①国領の地であった金倉郷が、建仁2年に、智証大師円珍が延暦寺別院の園城寺(俗に「三井寺」)に大師生所のゆかりという由縁で寄進されて、金倉荘と呼ばれるようになったこと、
②寄進の際に官宣旨がだされ、さらに綸旨によって保証されていること。
③寄進が在地領主によるものではなく、朝廷の意向によったものであること


4344103-26円珍
円珍

建仁3年から5年後の承元2年にも、園城寺は後鳥羽上皇から那珂郡真野荘を寄進されています。金倉荘の寄進もおそらくそれに似たような事情によったものと研究者は推測します。こうして成立した金倉荘は「園城寺領讃岐国金倉上下庄」と記されています。
 ところが建武三年(1336)の光厳上皇による寺領安堵の院宣には「讃岐国金倉庄」とだけります。ここからは、金倉庄は、上下のふたつに分かれ、下荘は他の手に渡ったことがうかがえます。

園城寺は寄進された金倉上荘に公文を任命して管理させました。
それは、金倉寺に次のような文書から分かります。
讃岐國金倉上庄公文職事
右沙爾成真を以て去年十月比彼職に補任し畢んぬ。成真重代の仁為るの上、本寺の奉為(おんため)に公平に存じ、奉公の子細有るに依つて、子々孫々に至り更に相違有る可からずの状、件の如し。
弘安四年二月二十九九日                     寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位       (以下署名略)
意訳変換しておくと
讃岐國金倉上庄公文職について
沙爾成真を昨年十月にこの職に補任した。成真は何代にもわたって圓城寺に奉公を尽くしてきたので、依って子々孫々に至りまで公文職を命じすものである。
弘安四年(1280)2月29日                (圓城寺)寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位
これは弘安3(1280)年10月に、沙弥成真が任命された金倉上荘公文の地位を、成真の子孫代々にまで保証した安堵状です。沙弥成真は、「重代の仁」とあるので、すでに何代かにわたって園城寺に関係があったことがうかがえます。沙弥というのは出家していても俗事に携さわっているものを指し、武士であって沙弥と呼ばれているものは多かったようです。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍坐像(金倉寺)
それでは現地の金倉寺は、金倉荘にどんな形で関わっていたのでしょうか?金倉寺の僧らの書いた「目安」(訴状)を見ておきましょう。
目安
金蔵寺衆徒等申す、当寺再興の御沙汰を経られ、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□
右当寺は、智證大師誕生の地(中略)
而るに、当所の輩去る承久動乱の時、京方に参らず、天台顕密修学の外其の嗜無きの処、小笠原二郎長を以って地頭に補せらるの間、衆徒等申披(ひら)きに依って、去る正応六年地頭を退けられ早んぬ。然りと雖も、地頭悪行に依って、堂舎佛閣太略破壊せしむるの刻、去る徳治三年二月一日、神火の為め、金堂。新御影堂。講堂已下数字の梵閣回録(火事のこと)せしめ、既に以って三十余年の日月を送ると雖も、 一寺の無力今に造営の沙汰に及ばざるもの也。(下略)
意訳変換しておくと
金蔵寺の衆徒(僧侶)が以下のことを訴えます。当寺再興の御沙汰頂き、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□ 当寺は、智證大師誕生の地で(中略)
ところが、金倉寺周辺の武士団は承久動乱の時に、京に参上せずに天台顕密修学に尽くしていました。そため乱後の処置で、地頭に「小笠原二郎長」が任命されやってきました。この間、衆徒たちは、反抗したわけではないことを何度も申し披(ひら)き、正応六年になってようやく地頭を取り除くことができました。しかし、地頭の悪行で、堂舎佛閣のほとんどが破壊されてしまいました。その上に徳治3(1308)年2月1日、神火(落雷)のために、金堂・新御影堂・講堂が焼失してしまいました。それから30余年の日月が経過しましたが、金倉寺の力は無力で、未だに再興の目処が立たない状態です。(以下略)
この文書に日付はありませんが、徳治3年から約30年後のこととあるので南北朝時代の始めのころと推測できます。誰に宛てたものかも分かりません。こうした訴えが効を奏したものか、「金蔵寺評定己下事」という文書によると、法憧院権少僧都良勢が院主職のとき、本堂・誕生院・新御影堂が再建され、二百年にわたって退転していた御遠忌の大法会の童舞も復活しています。南北朝時代の動乱も治まった頃のことでしょうか。この頃に金倉寺の復興もようやく軌道にのったことがうかがえます。とすると保護者は、南北朝混乱期の讃岐を守護として平定した細川頼之が考えられます。頼之は、協力的な有力寺社には積極的に保護の手を差し伸べたことは以前にお話ししました。
 研究者が注目するのは、この「目安」の中の正応六年に地頭を退けたとある文に続く「当職三分二園城寺、三分一金蔵寺」という割注です。当職というのは現在の職ということのようです。幕府の地頭を退けたあとの当職だから、これは地頭職のことで、地頭の持っていた得分・権利を金蔵寺と荘園領主園城寺が分けあったことになります。
 ところが、同じ金倉寺の嘉慶2年(1388)の「金蔵寺領段銭請取状」の中には、金倉寺領として「同上庄参分一、四十壱町五反半拾歩」と記されています。この「同上庄参分一」は、先の「当職、三分一金蔵寺」と同じものと研究者は考えています。上荘というのは金倉上荘で、その面積からいって、「三分の一」というのは地頭領の三分の一ではなく、荘園全体の三分の一になります。
 また「三分の一」が独立の段銭徴収単位になっていて、金倉寺が領主となって納入責任を負っているのですから、金倉寺は金倉上荘において、園城寺とならぶ形で、その三分の一を領していたことになります。これは強い権限を金倉寺は持っていたことになります。

金蔵寺
金倉寺
それは、どんな事情で金倉庄は金倉寺領となったのでしょうか?   金倉寺文書の「金蔵寺立始事」を研究者は紹介します。これは室町時代の康正三年(1456)に書かれた寺の縁起を箇条書きにしたものでで、次のように記されています。
 土御円御宇建仁三年十月 日、官符宙成し下され畢んぬ。上金倉の寺の御敷地也。

ここには上御門天皇の代、鎌倉時代初期の建仁3年(1203)に、官符宣(官宣旨?)によって上金倉の寺の敷地が寄進されたとあります。金倉寺の敷地は、現在地からあまり動いてはいません。そうだとすればその敷地のある上金倉とは、丸亀市の上金倉ではなく、金倉上庄(善通寺市)のことになります。寺の敷地とありますが境内だけではなく、かなり広い田畑を指しているようです。とすればこの文書が金倉上ノ庄1/3の寺領化のことを指していると研究者は推測します。
 縁起は寺の由来を語るものです。そこに信仰上の主張が入るし、さらに所領のこととなると経済上の利害もからんできます。そのため記事をそのまま歴史事実とうけとることはできません。しかし、さきに見た「衆徒目安」や「段銭請取状」の記載とも適合します。

4344103-24金蔵寺
金倉寺

研究者は、これを一定の事実と推測して、次のような「仮説」を語ります。
①建仁三年に園城寺領金倉荘の寄進が行われていること。
②この寄進のとき、その一部が金倉寺敷地として定められた。
③「金倉上庄三分一」とあるので、金倉上荘領主園城寺との間に何らかの縦の上下関係はあった。
④後の状況からみてある程度金倉寺の管領が認められ自立性をもった寺領であった
以上から、次のように推察します。
A善通寺市金蔵寺の周囲が、金倉寺領(金倉上荘三分の一)
B園城寺直轄領は、丸亀市の金倉の地(残りの三分の二)
金倉寺は、Aの「三分の一」所領の他にも、上荘内に田畠を所有していました。
その一つは、貞冶二年(1363)卯月15日、平政平によって金倉寺八幡宮に寄進された金倉上荘貞安名内田地参段です。八幡宮は「金倉寺縁起」に次のように記されています。
「在閥伽井之中嶋、未詳其勧請之来由」

これが鎮守八幡大神のようです。平政平は木徳荘地頭平公長の子孫と研究者は考えています。もちろん、神仏混淆の時代ですから鎮守八幡大神の別当寺は金倉寺であり、その管理は金倉寺の社僧が務めていたはずです。
私が注目するのは、金倉寺への「西長尾城主 長尾景高の寄進」です
その文書には次のように記されています。
(端裏書)
「長尾殿従り御寄進状案文」 上金倉荘惣追捕使職事
右彼職に於いては、惣郷相綺う可しと雖も、金蔵寺の事は、寺家自り御詫言有るに依って、彼領金蔵寺に於ては永代其沙汰指し置き申候。子々孫々に致り違乱妨有る可からざる者也。乃状件の如し。
費徳元年十月 日
長尾次郎左衛円尉 景高御在判
意訳変換しておくと
長尾殿よりの御寄進状の案文 上金倉荘の「惣追捕使職」の事について
この職については、惣郷全体で関わるが、金蔵寺に関しては、寺家なので御詫言によって免除して貰った。この領について金蔵寺は、これ以後永代、この扱いとなる。子々孫々に致るまで違乱妨のないようにすること。乃状件の如し。

「惣追捕使」というのは、荘役人の一種で、「惣郷で相いろう」というのは、郷全体でかかわり合うということのようです。この文はそのまま読むと「惣追捕使の役は、郷中廻りもちであったのを、金倉寺はお寺だからというのではずしてもらった」ととれます。しかし、それは、当時の実状にあわないと研究者は指摘します。惣追捕使の所領を郷中の農民が耕作していて、その役を金倉寺が免除してもらったと解釈すべきと云います。
 さらに推測すれば、惣追捕使領の耕作は農場のようにように農民が入り合って行うのではなく、荘内の名主にいくらかづつ割当てて耕作させて年貢を徴収していた。そして、金倉寺も貞安名参段の名主として年貢の負担を負っていたと研究者は考えています。その負担を「金倉上荘惣追捕使長尾景高」が免除したことになります。これで、田地の収穫は、すべての金倉寺のものとなります。これを「長尾殿よりの寄進」と呼んだようです。こうして金倉寺は惣追捕使領内に所有地を持つことになりますが、その面積は分かりません。
 注目したいのは寄進者の「金倉上荘惣追捕使長尾景高」です。        長尾景高は、長尾氏という姓から鵜足郡長尾郷を本拠とする豪族長尾氏の一族であることが考えられます。ここからは、応仁の乱の20年前の宝徳元年(1449)のころ、彼は金倉上荘の惣追捕使職を有し、その所領を惣郷の農民に耕作させるなど、金倉上荘の在地の支配者であったことがうかがえます。また彼は金倉寺の保謹者であったようです。そうすると、長尾氏の勢力は丸亀平野北部の金倉庄まで及んでいたことになります。
 これと天霧城を拠点とする香川氏との関係はどうなのでしょうか? 16世紀になって戦国大名化を進める香川氏と丸亀平野南部から北部へと勢力を伸ばす長尾氏の対立は激化したことが想像できます。そして、長尾氏の背後には阿波三好氏がいます。
 そのような視点で元吉合戦なども捉え直すことが求められているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献           金倉寺領および圓城寺領金倉荘     善通寺市史574P    

本山寺 接待碑
本山寺の接待碑(1745年)
本山寺には延享2年(1745)の銘をもつ接待碑があます。
この碑の正面には「永代常接待」と刻まれ「施主 比地中村 石井万治」とあります。永代にわたって茶接待を行なうことが宣言されています。この頃から遍路者を含めた参詣者が増加し、それに対応して札所・本山寺が遍路接待の拠点とされたことが分かります。本山寺は、遍路者と地域住民とをつなぐ結節点となっていたようです。
茶堂について、明治12年(1879)本山寺が内務省に提出した届控えには、次のように記されています。
【史料1】茶堂 本尊弘法大師
由緒 延享二乙丑年二月施主当国三野郡比地中村石井万治郎ナル者是ヲ建立シ、永代茶ヲ焚摂待セン事心願二依テ耕宅地八反五畝拾一歩ヲ寄附ス、然ルニ該堂年ヲ経テ破損致シ候処、
安政六己未年九月仝当時(石井時四郎/石井増治郎〉両名ヲシテ是ヲ再建ス  建物梁行弐間半 桁行四間半
意訳変換しておくと
茶堂の由緒については、延享二(1745)年2月、当国三野郡比地中村石井万治郎が施主として建立した。永代に渡って茶の接待をすることを願って、耕宅地八反五畝拾一歩を寄付した。ところが年月を経て、破損が目立つようになり、安政六(1859)年9月に石井時四郎と石井増治郎が、これを再建した。
建物梁行弐間半 桁行四間半

ここからは、接待碑の施主と茶堂の施主とは同一人物であることがうかがえます。接待碑とあわせて茶堂がつくられたようです。建立から約110年後の安政6年の再建も、石井万治郎の子孫とみられる人たちによって行われています。このように本山寺では延享2年に遍路や参詣者を迎え入れる空間整備が行われたことが分かります。
 本山寺境内には、天保5年(1834)に亡くなった伯者国出身の締信法師の墓があります。「当山茶堂坊」との銘があるので、締信法師は茶堂で接待奉仕をしていたことがうかがえます。巡礼者や廻国者が、そのまま境内に居着いて寺に奉仕するということはよくあったようです。
本山寺 伽藍図




この茶堂は弘化4年(1847)の『金昆羅参詣名所図会』(第4図)にも描かれています。本文中には「茶堂(大師堂に並ぶ、摂待所なり)」と記されています。さらに明治28年(1895)の『本山寺伽藍井本坊改造図』(第5図)や大正3年(1914)頃の『七宝山本山寺全図』(第6図)にもそれぞれ確認することができるから、近代に入ってもなお維持されていたことが分かります。

本山寺境内改造図(明治28年)


貞享4(1687)年に、本山寺を訪れた僧真念は、『四国辺路道指南』に次のように記します。

「七十番本山寺平地。坤むき、此事は家居よく景気もよし。しかれども辺路やど(宿)不自由なり。本尊馬頭 坐二尺五寸、御作。」

ここからは、本山寺周辺は家も建ち並び、経済活動も活発に行われているが、「辺路やど(宿)不自由」とあるので、宿は整備されていなかったことがうかがえます。それを、住持や周辺の有力者も課題と考え、どうにかしたいとおもうようになります。
それから60年後に書かれた「遍路屋記録之覚」(本山寺蔵)を見てみます。
 遍路屋記録之覚
延享二年春令遍路屋造立其旨意趣者、竹田村辻治兵衛尉祐刹数年之依志願被建立、寄進之土地屋敷之分ハ承仕屋敷寺抱屋敷之内二而当寺先師威徳院現住法印周峯永代被寄進之、右施主方より伺之指構茂無之諸事寺之致支配様二と有之、尤番人等二至迄も村役人者不及申施主方迄も当寺住職之了簡相任、此後修復繕普請等ハ以奉加勧進可致支配之筈二相定候、

 ここには延享2年(1745)に、竹田村の辻治兵衛尉が遍路屋を建立したことについて記されています。この年は、先に見た接待碑・茶堂の建立と同じ年に当たります。また、竹田村は、本山寺の北側に位置する近隣村落です。増える巡礼者に対して、茶堂などの接待所や、宿泊のための遍路屋が周辺の有力者によって建立寄進されていることが分かります。これは、以前にお話しした弥谷寺でも同じような動きがありました。寺の遍路受入に周辺有力者が積極的に協力していく姿が見えます。これも弘法大師伝説の浸透の成果かも知れません。

本山寺の大師堂

今は、どこの札所寺院にも大師堂があります。しかし、江戸時代初期には大師堂がある札所は、ほんのわずかでした。四国辺路から四国遍路へと、巡礼者が修行者から一般庶民へと変わって行く中で、「大師一尊化」が急激に進んでいきます。その結果、札所にとって大師堂は欠かせないものとなります。そして、大師堂の建立が進み、戦後は大師像が境内に姿を見せるようになります。これは、弘法大師信仰は各札所寺院には江戸時代になって遅れてやってきたものであることを示しています。それまでの霊場に根付いていた「熊野信仰 + 阿弥陀信仰 + 修験道」などの信仰に、近世になって弘法大師信仰が接ぎ木されたと研究者は考えているようです
大師堂(本山寺) 

本山寺にはどのように大師堂が、建てられたのでしょうか?
大師堂の棟札には寛政7年(1795)9月29日に建立されたと記されています。発願主が「三箇邑中」(寺家村・岡本村・本大村)、大工棟梁が「三好源蔵長光鍛治等」です。この棟札には「弥勒堂」とありますが、これは「祖師堂」の別名で、建築時に事故があったために弥勒堂と称したと記されています。これが棟札から分かる大師堂建立についての情報です。
 本山寺文書の中には、より詳しく大師堂建立の経緯を記したものがあります。それを見ていきます。
本山大師堂、十一年以前寅冬東国之廻国行者源次郎与申者、本山之土地二而久々相煩九死一生之詢、弘法大師井本尊馬頭観音へ此伽藍御影堂建立可仕間、此方之命御助ヶ奉願上立願仕候由二而先住代建立被仰付被下度与願出少々勧進仕候得共、近年之世柄故に今建立相済不申、右開帳勧場二而今年建立仕度旨御願申上候、右廻国行者源次郎逗留仕居申願主相勤罷有候外二浄入与申道心者、是茂東国者二而願主相加り何角世話仕罷有候、元来少々奉

  意訳変換しておくと
本山の大師堂については、11年以前の冬に東国の廻国行者である源次郎と申す者が、本山の近くで九死一生の病となった時に、弘法大師と本山寺の本尊馬頭観音へ御影堂(大師堂)建立を行う代わりに助命を願った。そこで先住の院持は彼に建立勧進の願主を命じて、勧進活動を進めた。
 しかし、近年の世俗柄で建立までには至らなかった。そこで開帳勧場を行うことになり、廻国行者源次郎と供に、本山寺に逗留していた浄入という東国の道心者(下級仏教者)に世話をさせた。こうして奉加寄進を果たすことができた。         後略

ここからは次のようなことが分かります。
①「東国之廻国行者源次郎」が、本山寺の御影堂(大師堂)建立の願主となり、勧進を行っていたこと
②本山寺には東国者の「浄入」という道心者がて、源次郎とともに勧進活動を進めたこと。
大師堂建立に関わった勧進僧の勧善浄行の墓が境内にあります。
その墓碑銘には正面・側面・裏面の銘文を合わせ、次のように記されています。
俗名宗七、肥之前州松浦郡里邑之人、寛政中、拝四国霊場巡而請当山、万謁光師教英法印、時師有祖堂当建之願志、后以促之、即奉命日吾雖無金銭、以□営事而希投身命而胎師之願□廼勧奨十方四来之檀越而募一粒半銭之助縁、於是道俗喜而投資財、貴賤群而曳土木、遂乃弥勒堂一宇、不日造畢後、有本堂修理之志、未果病而区、
文化二年乙丑四月七日、本山寺現住体教誌
意訳変換しておくと
俗名宗七は肥之前州松浦郡里邑の人である。寛政年間(1789~1801)に、四国霊場の巡礼中に、当山の教英法印から「祖堂(大師堂)」建立の志を聞いて、助力することになった。金銭はないけれども、勧進活動に身を投じ、教英法印の願いを実現すべく十方四来を行き来し、一粒半銭に至るまで助縁を願い、人々は喜んで資財を寄進した。貴賤に関わらず多くの人々が土や木を曳き、ここに弥勒堂(大師堂)は姿を見せた。大師堂完成後は、本堂の修繕を願っていたが、これは適わずに病没した。文化二(1805)年4月7日のことであった。本山寺現住体教誌

 彼の墓が境内につくられていることからみて、その功績が大きかったことがうかがえます。ここからは、本山寺の大師堂建立に際して、廻国行者源次郎や道心者浄入・遍路の浄行などの勧進僧が集団を形成して勧進活動に当たっていたことが分かります。

四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
太興寺の仁王門

本山寺周辺の勧進僧の活動を見ておきましょう。
 66番大興寺の仁王門は、関東からやってきた唯円という廻国行者が享保12(1727)から10年間の勧進活動で建立したことは以前にお話ししました。唯円はその業績を買われて、その後は善通寺五重塔の勧進活動に携わっています。唯円の再築から60年後の寛政元(1789)年に、この仁王門は改修されることになります。その改修について仁王門脇の自然石には、次のように刻まれています。
   播州池田回国  金子志 小兵衛
寛政元(1789)年    十方施主
奉再興仁王尊像 並門修覆為廻国中供養
 己山―月     本願主 長崎廻国大助
ここからは、長崎の廻国行者大助が、仁王像と仁王門を勧進修理したことが分かります。大助も、助力した播磨池田の小兵衛もともに廻国行者で、六十六部だったようです。仁王門の台石にも、数多くの人名が刻まれています。これらの人々の力によって改修のための費用は賄われたのでしょう。修理規模がどの程度腕、勧進金額がどのくらいだったかなどは分かりません。しかし、勧進を仕切ったのは、他国からやって来た廻国行者たちであったことになります。
大興寺周辺の廻国六十六部の動きを年表化して見ておきましょう。
宝永7年(1710) 粟井に六十六部の廻国供養塔建立
享保6年(1721) 粟井村の合田利兵衛正照が全国廻国行に旅立つ。同年に「濃州土器郡妻木村の求清房」という廻国行者が地蔵菩薩や丁石を建立。
享保9年(1724) 粟井に遍路と六十六部廻国行者の札供養行われる
享保12年(1727)唯円により善通寺の五重塔の勧進活動をはじまる。唯円はそれ以前に、大興寺仁王門を勧進で建立した実績あり
宝磨5年(1755) 覚心により粟井に庵が建立   同7年に大師堂を建立
宝暦七年(1757) 地元の古兵衛武啓が大興寺境内に廻国供養塔建立
明和4年(1767) 覚心の六十六部日本廻国塔が粟井に建立
安永5年(1776) 覚心の墓碑が建てられる(行年61歳)
安永十年(1781) 河内村の有兵衛門の廻国供養搭が太興寺境内に建立
寛成元年(1789) 長崎の廻国行者大助が、大興寺の仁王像と仁王門を修理勧進

こうしてみると、雲辺寺の麓の粟井の遍路路道筋には、六十六部廻国行者の痕跡が色濃く残っています。周辺の札所寺院で勧進活動を行い、実績や評判を高め、さらに辺路道沿いにある庵などに定着していく六十六部廻国行者の姿が見えてきます。弘法大師伝説をひろめ功徳のためにお接待の心を説いたのも彼らかも知れません。六十六部廻国行者は四国辺路の中に、重要な役割を持って組み込まれていたようです。
  そして、本山寺が大師堂を建立することになると、彼らが勧進グループを形成して、建設資金の調達から人夫募集まで手がけるようになります。

勧進活動と聖人の関係を振り返って起きます。
「勧進」のスタイルは東大寺造営を成し遂げた行基に始まると云われます。彼の勧進は、次のように評されます。

「無明の闇にしずむ衆生をすくい、律令国家の苛酷な抑圧にくるしむ農民を解放する菩薩行」

しかし、経済的な視点で見ると「勧進」は、聖人の傘下にあつまる弟子の聖たちをやしなうという側面もありました。行基のもとには、班田農民が逃亡して私度沙弥や優婆塞となった者たちや、社会から脱落した遊民などが流れ込んでいました。彼等の生きていくための術は、勧進の余剰利益にかかっていました。
 時が経つに従って、大伽藍の炎上があれば、勧進聖は再興事業をうけおった大親分(大勧進聖人)の傘下に集まってくるようになります。東大寺・善光寺・清涼寺・長谷寺・高野山・千生寺などの勧進の例がこれを示しています。経済的視点からすると。勧進を研究者は次のようにも指摘します。

勧進は教化と作善に名をかりた、事業資金と教団の生活資金の獲得

 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。ここでは勧進聖人は、土木建築請負業の側面を持つことになります。
 勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業にも威力を発揮しました。それが、道昭や行基、万福法師と花影禅師(後述)、あるいは空海・空也などの社会事業の内実です。四国霊場札所の堂宇建設や遍路道整備などに、廻国の六十六部のような勧進僧が活躍するのは、このような歴史的な背景があったからのようです。
      最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献       上野進 札所霊場としての本山寺 本山寺調査報告書2016年 香川県教育委員会

本山寺 伽藍図
本山寺伽藍図
近世に書かれた「七賓山本山寺縁起」には、次のようなことが記されています。
①開基は弘法大師で、平城天皇の勅願をうけてこの地を訪れた大同2年(807)、鎮護国家のために堂字を建立したこと。
②本堂には「一夜建立」の伝説があり、短期間でできたこと。
③弘法大師は堂宇に本尊として馬頭観世音菩薩像を彫像し、寺号を「七宝山持宝院長福寺」として創建したこと。
④往古は「根本中堂七間四面、五重賓塔一基、大恩教主堂、虚空庫蔵堂、愛染尊堂、普賢延命堂、入灌頂堂、大師御影堂、護摩堂、十二堂、外安、五所大権現、賓庫一宇、鐘棋堂、閑伽井、文殊堂,般若堂、可利帝母堂、二王門、中門」が境内には多数の堂字が建ち並んでいたこと
⑤「土州長曾我部元親之兵火 焦土伽藍 焼失寺院」とあり、「境内は本堂、二王門を残し、灰儘に帰した」こと。
これはあくまで「縁起」ですので、そのまま信じることはできません。
本当に④に記されたような堂宇が建ち並んでいたのでしょうか?
⑤には、「天正の兵火」の長宗我部軍の侵攻で、「本堂を仁王門を残して灰燼に帰した」と記します。なぜ本堂と仁王門は残ったのでしょうか。言い伝えでは、次のように語られてきました。

(長宗我部元親の配下の武将が本山寺の)住職に刃にかけたところ脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去したため本堂は兵火を免れた。このため仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれるようになった。その後、長法寺から「本山寺」と名を改めた

これは、江戸時代に作られた「伝説」です。私は本山寺は兵火には会っていないと考えています。だから鎌倉時代の本堂や仁王門が残っているのです。中世の本山寺には、本堂と仁王門しかなかったのではないでしょうか。
 長宗我部郡の侵攻の際に焼き討ちに遭っていないのがはっきりしているのは、三豊では本山寺と観音寺、中讃では松尾寺金光院(現金刀比羅宮)です。松尾寺は長宗我部占領下で院主宥雅が堺に亡命し「無血開城」しました。その後には、元親側近の修験者が金光院の院主に就任しています。天霧城の香川氏と長宗我部元親の間には、「不戦協定」が結ばれていて、香川氏の勢力下にあった寺社は焼かれていないことは以前にお話ししました。本山寺も、当時は香川氏の勢力下にあったことが考えられます。観音寺の室本麹座は、香川氏からの特権を得ています。観音寺周辺まで、香川氏の勢力範囲であったことを裏付けます。一方、阿波の三好勢力にあった近藤氏や詫間氏などの勢力下にあった寺社は焼き討ちにあっているようです。長宗我部元親は、闇雲に讃岐全土の寺社を焼き討ちにはしていないことを以前にお話ししました。

讃岐の近世は生駒親正によってはじまるとされます。
生駒氏は金毘羅大権現を始め、讃岐の寺社を保護し、荒れ果てていた伽藍の整備を支援したと伝えられます。本山寺には、親正の子一正が持宝院(本山寺)に宛てた文禄4(1595)の寄進状が残されています。これには、一正が持宝院に対して屋敷・上田1反を寄進したことが記されています。
 慶長16(1639)年には高松における論議興行にあたって参加を呼びかけらた19ケ寺の中に持宝院の名があります。この頃には讃岐を代表する寺院の一つになっていたことがうかがえます。しかし、寛永17年(1640)の寺領は1石5斗4升と記されます。これが本山寺の経済基盤であるとしたら、本当に「復興」が進められていったのでしょうか?
澄禅 四国遍路日記」(澄禅 宮崎忍勝 解説・校注) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

承応2(1653)年に、僧澄禅によって書かれた『四国遍路日記』に、本山寺は次のように記されています。
「本山寺七宝山長福寺持宝院」
「本堂南向七間四面、本尊馬頭観音、二王門・鐘楼在り。寺主ハ四十斗ノ僧也。当寺ノ縁記別二在。」

ここには本堂、二王門、鐘楼だけが記されるだけです。澄禅は、存在した建物は全て列挙しています。本山寺には、これ以外の建物はなかったと考えられます。「土州長曾我部元親之兵火 焦土伽藍 焼失寺院」がなかったとすれば、もともとがこれだけだった可能性もあります。そうだとすれば生駒藩の下での本山寺は、伽藍整備は進んでいなかったことになります。また、住職はおおよそ40才ほどの僧であったことも分かります。
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それから30年後に訪れた僧真念は、『四国辺路道指南』(貞享4年(1687))に次のように記します。

「七十番本山寺平地。坤むき、此事は家居よく景気もよし。しかれども辺路やど(宿)不自由なり。本尊馬頭 坐二尺五寸、御作。」

本堂については、現在と同じ「南西むき」の建物配置であったことが分かります。しかし、ここでもその他の建物については、何も触れていません。姿を見せていなかったと考えた方がよさそうです。
周辺は家も建ち並び、経済活動も活発に行われていたようですが。「路やど(宿)不自由」とあるので、真念の泊まった宿は整備されていなかったことがうかがえます。

その後の本山寺の動向を簡単に年表化して見ておきます。
寛文5年(1665) 尚範の後、住持になった弘尊による本堂修理
貞享元年(1684) 弘厳が住持となる
元禄7年(1694) 本山寺は大覚寺の末寺となり、本末関係に組み込まれていく
元禄11年(1698)住持弘厳が奥の院興隆寺の薬師堂建立
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弘厳が住持を勤めたいた頃に本山寺を訪れたのが僧寂本です

寂本は「四国偏礼霊場記」(元禄2年(1689)に、次のように記します。
此ノ寺本山の庄にある故に本山寺とよふ、長福寺ときこゆ、本尊馬頭観音。弥陀・薬師を両脇に立たり、三尊共弘法大師作、堂の右に石の塔あり、(中略)堂の後に古五輪五六基あり、寺惜を隔て構へたり、境内一町半、廻り松桜杉椿等茂し、二王門の右に五所権現の祠あり、前に長川なかれたり、

意訳変換しておくと
本山寺持宝院は、本山庄にあるので本山寺とよぶ。また長福寺も云う。本尊は馬頭観音で、脇仏が弥陀・薬師で、この三尊は弘法大師の作である。堂の右に石塔がある。門内に幾世の時を重ねてきた古松がある。堂の後には、古い五輪塔五六基がある。境内は一町半四方で、その廻りは松・桜・杉・椿等が茂る。二王門の右に五所権現の祠があり、その前を長川が流れている。

ここからは次のようなことが分かります。
①境内は垣によって囲まれ、広さは一町半あったこと
②境内には「本堂の右(本堂に向って左側)に石の塔」とあるので、五重塔の礎石あるいは基壇があったものと研究者は推測します。
③堂の後ろには五輪塔、二王門の右に五所権現があったこと
本山寺 四国遍礼霊場記
本山寺(四国遍礼霊場記) 
挿図を見ると、上の記述と同じような配置が描かれています。
この挿図をみると周囲の垣には四方に垣の途切れる部分が2ヶ所あります。
南は①「二王門」で「観音寺道」の記述が、
東には「弥谷道」の記述が
本堂に向かって左(西側)には、神社と考えられる建物が描かれています。これが現在は境内西側にある高良神社のようで、当時は境内にあったことが分かります。
④大型五輪塔5基は本堂(観音堂)背後にもともとはあったこと
大師堂については、「四国遍路日記』、『四国辺路道指南』と同じように、なにも書かれていないので、17世紀末までなかったことがうかがえます。もちろん五重塔もありません。

これを境内構成を研究者は次のように指摘します。
①竹垣と土塀らしいもので囲まれた本坊「持宝院」と、「観音堂」や「五所権現」などの堂舎が配された境内という二元的構成であったこと
②境内空間は竹垣で区画されているものの、二つの道によって参詣者に開かれていたこと。
③神仏に対する「信仰の場」として不特定多数の参詣者を受け入れていたこと。

18世紀の住持たちによって行われた伽藍整備を見ていくことにします。
宝永4年(1707)に住持となった素光は、7年後の正徳4年(1714)に五所権現(現鎮守堂)の大改修を行っています。また、境内の石造物に目を向けると、享保元年(1716)に宝医印塔が建立されていて、これが境内地にある最古の紀年銘石造物で、「奉納大乗妙典回国」と刻されているので廻国供養塔になります。
享保10年(1725)に住持となったのが淵泉です。かれは享保15年に庚申堂を建立しています。それまでは建物修理にとどまっていたのが、新規建立を含めた寺内整備がみられるようになるのは、この時期からのようです。
 また、境内に次のような一般民衆からの寄進物もみられるようになります。
享保11年(1726) 境内に地蔵菩薩坐像が寄進
享保15年(1731) 境内に地蔵菩薩立像が寄進

元文2年(1737)に住持となった周峯は、元文6年に開帳を実施します。その後、寛保元年(1741)に威徳院へ転住し、かわって住持となったのが龍行(?)は宝暦9年(1759)に十王堂を建立し、寺内の整備を進めます。

住持龍行の在任期で、研究者が注目するのは延享2年(1745)に接待碑が建てられたことです。
施主は比地中村の住人で、本山寺を拠点に接待が行われていたことが分かります。この碑は今も大師堂と十王堂の間に建っています。またこの時に、茶堂も建立されたようです。さらに同年に、竹田村の住人が遍路屋を建立しようとしています。この頃になると本山寺において遍路接待が盛んになっていたようです。他の四国霊場と同じように、本山寺でもしだいに遍路者をはじめ参詣者が増加していたことへの対応策がとられるようになったのでしょう。これは、弥谷寺や白峯寺でも見られました。18世紀末から19世紀になると参拝客の誘引のために、次のような経営戦略がとられるようになります。
①遍路道・道標の整備
②茶堂・休息所など接待施設の充実
③目玉となる誘引モニュメントの建立
教英も数多くの堂宇造営を手がけ、境内の充実に努めます。
寛政5年(1793) 鐘楼を修理
寛成7年(1795)弥勒堂(大師堂)を建立
この頃の境内の状況をみてみると、次のようなものが寄進されています。
安永元年(1772) 灯籠(赤堂前)が
安永2年(1773)手水鉢
安永7年(1778)地蔵菩薩半跏像
安永10年(1781)灯籠
寛政4年(1792)とその翌年には灯籠一対
この中で手水鉢の願主は「講中」となっているので、信仰団体としての講が形成されていたことが分かります。ここからは18世紀半ば以降になると、境内への寄進物が増加していったことが分かります。

『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))には、次のように記されています。
本山寺は「当寺ハ本山の庄にある故に寺号とせる也。
詠歌 本山にたれがうへける花なれや春こそたおれ手向にぞなる
本堂本尊馬頭観世音坐像御長二尺五寸大師御作、脇士阿弥陀薬師、各大師の御作。十二堂本堂のまへにあり、大師堂本堂のまへにあり、石仏五智如来本堂の裏にあり、大師御作といふ、裏門。」
意訳変換しておくと
本山寺は本山庄にあることからくる寺号である。
詠歌 本山にたれがうへける花なれや春こそたおれ手向にぞなる
本堂本尊は馬頭観世音坐像で御長二尺五寸の大師御作である。脇士の阿弥陀と薬師もそれぞれ、大師の御作である。十王堂は本堂の前にある。大師堂も本堂の前にあり、石仏五智如来は本堂の裏にあり、大師の御作という。裏門。」
ここからは次のようなことが分かります。
御詠歌の「春こそたおれ手向に」は、花を供養に供えている人たちの存在を取り上げています。この寺が周辺村落の有力者の祖先供養の寺として機能していたことをうかがえます。そういえば境内に寄進されてている石造物も、この時期のものは地蔵菩薩が多いようです。弥谷寺と同じような性格も持っていたのかも知れません。
 また「
石仏五智如来は本堂の裏にあり、大師の御作」とあります。
ここからは、本堂裏(現太子堂裏)の五輪塔は弘法大師御作の五智如来として信仰対象になっていたことが分かります。
今度は挿図を見てみましょう。

本山寺 四国遍礼名所図会
本山寺(四国遍礼名所図会 1800年)

①二王門を入って正面に②本堂があり、その参道の左右に建物が描かれています。
右側手前の鐘が描かれていることから③鐘楼堂
右側中央の建物が④「大師堂」
相対する左側中央の建物が⑤「十王堂」
本堂右(本堂に向って左側)にある建物は、⑥「大日堂」
これまでなかった大師堂が姿を見せています。『四国遍礼名所図会』(1800年)の時点で、現在の本山寺境内の建物配置は、五重塔を除いてはほぼ確定されたことが分かります。

文化9(1812)年に住持となるのが本具です。
本具は文政元(1818)年から、本堂の蔀戸を菊紋唐戸に新調し、縁廻部を修理しています。また境内には、文化13年とその翌年に大師堂前に灯籠が、文政2(1819)年に地蔵菩薩坐像(大門前)が寄進されています。この付属品の花立には「女講中」とあります。この時期には、女性による講も組織されていたようです。
文政11(1828)年に、本堂の大修理に着手します。
しかし、本堂修理事業は計画通りには進みません。境内の嘉永元年(1848)の光明真言供養塔には、幹事9人のもとで、本堂修理のための有志による寄附が始められたことが記されています。ここからは、本堂修理事業が、幹事を務める信徒によって進められていたことが分かります。この頃は金毘羅大権現の金堂が完成し、善通寺の五重塔が建設中だった時期になります。寄進勧進による寺社の建築ブーム時期に当たります。
この時期の本山寺の姿を描いたのが『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年(1847))で、次のように記されています。
「本山宝持院長福寺」
「本尊、馬頭観世音(長二尺五寸、弘法大師の作)脇士、阿弥陀如来・薬師瑠璃光如来(右同作)/御影堂、弘法大師(本堂の左の向かふにあり)茶堂(大師堂に並ぶ。摂待所なり)大塔の跡(本堂の右の傍にあり。小堂を建つる)十三堂(大師堂に対す.十三井びに三十三所の観音。三面大黒等を安ず)鐘楼(大師堂に隣る)庚申堂(青面金剛童を安ず)五所権現社(庚申堂に並ぶ)二王門(金剛力士の像を安ず)銀杏の古木(十王堂の傍にあり。至つて大木なり。今枯れて幹のみ存す。里俗これに祈願してその験ありと云ふ)

意訳変換しておくと
「本山宝持院長福寺の本尊は、馬頭観世音(長二尺五寸、弘法大師の作) 脇士は、阿弥陀如来・薬師瑠璃光如来で、弘法大師の作である。御影堂(大師堂)は、本堂の左の向かいにある。茶堂は接待所で、大師堂に並んでいる。大塔の跡が本堂の右の傍にあって、そこに小堂を建てている。十王堂は大師堂に対面し、十王と三十三所観音と三面大黒等を安置している。鐘楼は大師堂の隣。庚申堂には、青面金剛童が安置されている。五所権現社は庚申堂に並ぶ。二王門には金剛力士の像が安置されている。銀杏の古木が十王堂の傍にあって、大樹であるが今は枯れて幹のみ残る。地元の人たちは、これに祈願すれば願いが叶うと云う。

挿図を見ると境内の全ての建物に記述があり、境内の建物配置の詳しく書かれています。しかし、よく見ると、次のような疑問点を研究者は指摘します。
①十王堂の屋根が本来は寄棟造であるが、入母屋造に描かれている
②仁王門も切妻なのに入母屋に描かれている
金毘羅参詣名所図会の挿入絵については、弥谷寺の時にもお話ししたように、実際に絵師が現地を訪れずに、以前の絵図などを参考にして書かれた部分が多々あります。故に、この絵図は「絵図資料」としては、信頼性に欠けると研究者は考えているようです。

嘉永7年(1854)には方丈・庫裏が全焼しますが、それを乗り越えて、慶応3年(1867)には大師堂を再建しています。幕末寺の伽藍整備に尽力した戒如の功績は大きいようです。
また、住持戒如の頃には境内に多くのものが寄進されるようになります。
嘉永5年(1852) 線香立(赤堂前)
嘉永6年 灯籠(地蔵菩薩周辺)が女人講から寄進
安政6年(1859)に薬師如来座像(大師堂裏)、灯籠(地蔵菩薩周辺)
境内の整備状況を住持ごとにみてきました。ここからは、在地に密着した郷村寺院として、規模は小さいながらも数多くの喜捨を地域住民から集めていたことが分かります。また本山寺は、丸亀藩の支援を受けていましたが、基本的には檀家に支えられる村落寺院だったようです。
 江戸時代中期頃に成立した『七宝山本山寺縁起』には、本山寺の周辺にある岡本・本山(寺家)・本大の3か村にある多くの堂舎は、ほとんどを末寺・末社として、本寺の「持宝院(本山寺)」がこれを「職掌」したと記されています。これは本山寺が檀家以外にも、地域の神社の別当寺として地域の中核的な宗教センターとして支持を得ていたことを示しているようです。しかし、寺領の実態については分かりません。そのため寺の経済基盤についても分かりません。

 明治3年(1870)の『本末寺号其外明細帳』の本山寺の項には、「一 滅罪檀家 五百拾軒 内拾三軒ハ御他藩県御管轄二有り」とあり、本山寺には檀家が510軒あったことが分かります。
これは、江戸時代もほぼ同じ檀家数だったと推測できます。ここからは、本山寺の檀家数は都市部の観音寺や志度寺などに次ぐものだったと云えます。しかし、いざ本堂の修理などになると、檀家だけの力ではできませんでした。そのためたびたび開帳が行われています。もともと交通の要衝に位置した本山寺は開帳の場として定期的に人々を誘引しました。本尊が馬頭観音菩薩であることからもうかがえるように、牛馬の神として広範囲の信仰を集め、牛馬市なども開催されていたようです。中讃地域では、滝宮牛頭神社(現 滝宮神社)の龍燈院と同じような性格を持ったお寺であったと私は考えています。そのため地域社会だけでなく外にも開かれ、不特定多数の参詣者を受けいれるにふさわしい「信仰の場」を形成していったことが考えられます。

明治維新とともにやってきた神仏分離政策に、本山寺も翻弄されます。
別当を務めていた3ケ村の神社の社領・山林を新政府の「上知令」によって没収されます。これは寺院経営の基盤を突き崩すものでした。また、境内に目を向けると、幕末期に比べて寄進物は減少しています。たとえば明治になっての寄進物は次の通りです。
明治2年 丼戸枠(大師堂と十王堂の間)
明治9年 標石(大師堂と十王堂の間)
明治17年 弘法大師1050年遠忌の記念碑(本堂右横)
ここからは、寄進物は減ってはいますが、神仏分離後も本山寺は、信徒の支援を受けていたことが分かります。

本山寺 頼富実毅
本山寺住職 頼富実毅

明治24年に、本山寺特任住職となるのが頼富実毅です。
頼富実毅は精力的に境内整備に取り組んだ人物で、本山寺第二中興とされ、境内にも銅像があります。明治29年から14年の歳月をかけて五重塔の再興を果たします。五重塔再建にともない、大日堂が現在地に移転し、五重塔周辺には玉垣、標石が寄進されています。彼は明治の勧進僧でもあったようです。
頼富実毅が、五重塔着工前前年の明治28年に、檀家等に配布したのが「本山寺伽藍・本坊改造図」です。
本山寺境内改造図(明治28年)
本山寺伽藍・本坊改造図(1895年)

五重塔建設を願って配布されたもののようで、当時の境内の状況が詳しく描かれています。この図を見ると切妻造の「大門」(二王門)を抜け、正面に寄棟造の「本堂」があり、左右に諸堂が建ち並ぶ状況が描かれています。これはほぼ現在の境内建物配置と同じです。左右の諸堂は、
右側には手前から
「鐘楼堂」、「御影堂」(大師堂)、「茶堂」
左側には手前から
「鎮守堂」、「庚申堂」の2棟、寄棟造の「護摩堂」、
 宝形造の「大日堂」(旧多宝塔)
が描かれています。
 「大日堂」に向かって左側には、五重塔が姿を見せています。完成記念に描かれたものかと思っているとそうではないようです。よく見ると五重塔は他の建物より薄く描かれています。これはまだ姿がない建設予定の五重塔が描かれているようです。五重塔が姿を現すのは、明治43年のことです。明治28年には、まだありませんでした。当時の住職頼富賓毅の五重塔を建てたいという意思が伝わってきます。この伽藍図を見せながら頼富実毅は、五重塔の勧進事業を人々に説き、協力を求めたのでしょう。

本山寺全図(1914年)
本山寺 (七宝山本山寺全図 1914年)
本山寺所蔵資料の「七贅山本山寺全図」(大正3年(1914)頃)です。
切妻造の「二王門」を抜け、正面に寄棟造の「本堂」があり、左右に諸堂が建ち並びます。左右の諸堂は、
右側には手前から
「大門」、「祖師堂」(大師堂)、「鐘楼堂」、「茶堂」
左側には手前から
「鎮守堂」、「庚申堂」、寄棟造の「十二堂」、宝形造の「塔堂」(現在の大日堂)

が描かれています。「塔堂」に向かって左側には、「五重大塔」が描かれています。この時点でほぼ現在の境内建物配置と同じ状況ですが、「鐘楼堂」が本堂に向って右側に隣接して描かれ、これまでの挿図や現在の配置とは違っているようです。

本山寺 大門移築 1913年
本山寺大門移築工事(1913年)

また、境内の東側を通る伊予街道からの入口はなかったのですが、新たに東側に門(大門)が作られています。これは、地元有力者の寄進で、岡山の牛窓のお寺の門を解体移築したことは以前にお話ししました。こうしてみると現在の伽藍レイアウトが完成するのは、今から約110年前であったことが分かります。
愛染明王座像 本山寺
愛染明王(本山寺)
以上をまとめておくと
①元寇後の全国的な寺院建立運動の中で13世紀末に、本山寺では現在の本堂や仁王門が修験者や聖たちの勧進僧たちによって建立された
②縁起には中世には五重塔を含む大伽藍があったが、長宗我部元親の兵火にかかり本堂を仁王門だけを残して灰燼に帰したと伝える。
③しかし、「中世大伽藍」保持説には疑問があり、五重塔が実在したかどうかは分からない
④中世を通じて、本堂と仁王門を中心とするシンプルな伽藍であったことも想定できる。
⑤それを示すように江戸時代初期に本山寺を訪れた巡礼僧侶が残した記録には、本堂と仁王門しか描かれていない。ある意味、中世のままの姿である。
⑥18世紀になり四国巡礼者の数が増えるとともに寄進物も増え、大師堂などの堂宇も立ち並ぶようになる。
⑦遍路や参拝客誘致のためにも伽藍整備が求められるようになり、現在の伽藍の原型が出来るのは18世紀末である。しかし、江戸時代にも五重塔の姿は見えない。
⑧五重塔が現れるのは明治末になってからである。
本山寺 建物変遷一覧表
本山寺境内建物変遷一覧表
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

本山寺 境内 仁王門より
本山寺境内 仁王門より
本山寺は、財田川と宮川の合流点付近の平地の中にあります。遍路道を観音寺からを歩いて行くと、明治に建てられた五重塔がシンボルタワーとして導いてくれます。この寺の歴史を見ておきたいとおもいます。テキストは「上野進 本山寺の歴史 本山寺調査報告書2016年 香川県教育委員会」です。

本山寺地図
本山寺周辺遺跡
まず本山寺の立地条件から見ていきましょう。
本山寺の南を流れる財田川は、まんのう町塩入の東山峠付近の阿讃山脈に源をもちます。山間部では蛇行を繰り返しながら、三豊市山本町で三豊平野に出て扇状地を形成します。三豊平野を流れる財田川周囲の地形にはグーグル地図を見てもかなりの乱れが見えるので、氾濫を繰り返す川であったことがうかがえます。本山寺は財田川右岸にあり、ちょうど高瀬町羽方宮奥に源を持つ財田川支流の宮川が合流する所になります。
本山寺 航空写真1974年
本山寺周辺 財田川と宮川の合流地点に立地
航空写真を見ると財田川北側に残る条里型地割が、財田川と宮川の氾濫によってかなり乱れています。その縁辺部に沿って江戸時代以降の旧伊予街道が抜けていていて、その街道に接するように本山寺があることが分かります。本山寺は氾濫原に接していますが、本山寺の史料に洪水の記事は出てこないので、この地が安定していた場所であったことがうかがえます。
  宮川の源流は、式内神社の大水上神社(讃岐二宮)です。
この流域からは銅鐸や銅剣が出ているので、早くから開けたエリアだったことが分かります。宮川流域の延命院の境内には、横穴石室を持った中型の古墳があります。しかし、その規模や数は母神山や大野原の古墳群に比べると見劣りします。ところがこのエリアの有力者は7世紀後半に突如として讃岐で最も早い古代寺院の建立を始めます。それが⑤妙音寺になります。これは、壬申乱後に成立した天武朝政権に取り入り、最新鋭の宗吉瓦窯群を誘致し、藤原京へ宮殿用瓦を瓦を提供した丸部氏の氏寺であると研究者は考えているようです。
 地方の古代寺院は、旧国造クラスの有力者の氏寺として作られたものがほとんどです。そのためパトロンである有力者が衰えると維持できなくなります。妙音寺も中世になると衰退したようです。そのような中で、妙音寺に代わって登場するのが本山寺になります。
 本山寺は、三豊市豊中町にある高野山真言宗の寺院で、七宝山持宝院と号します。もとは長福寺と称したようです。
江戸時代中期に書かれた『七宝山本山寺縁起』には、その由来を空海による「一夜建立之霊刹」で、草創の時期は大同2年(807)と記します。しかし、成立期の本山寺については同時代の史料がないのでよく分からないようです。ただ、地理的に次のような点は確認できます。
①古代から本山寺が財田川と宮川の合流点に位置していたこと
②古代の官道である南海道がすぐそばを通っていたこと
ここからは交通の要衝に、本山寺の前身寺院の長福寺があったことは考えられます。

本山寺 本堂用材
本山寺本堂に保存されている用材

 明治33年(1900)の「古建物調査書」によれば、本山寺本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。そういえば、善通寺建立の用材は、まんのう町春日の尾野瀬山から切り出されたと伝えられます。
 空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、交流していたことをうかがわせるものです。このように本山寺は古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地としていたことが、その後の発展に大きく寄与した研究者は考えています。

元寇後の地方寺社の建築ラッシュ
元寇後の地方有力寺社の建築一覧表
 
上の地方寺院の造営時期一覧表を見て分かることは、元寇後の13世紀末に諸国に寺社の修造ブームが巻き起っていることです。讃岐近隣の寺院を抜き出して見ると、次のようになります。
1289年 土佐の金剛福寺
1292年 安芸宮島の厳島神社
1293年 土佐の最御崎寺
1298年 善通寺 備後浄土寺
1300年 本山寺
1312年 伊予大三島の大山積神社

この背景には幕府が寺社保護を強化するという政策がありました。これが地方寺社の改築ラッシュにつながったようです。このときの寺院建造ムーヴメントについて、研究者は次の二点を指摘します。
①寺社建造が一宮などの国内の頂点的な寺社にとどまるのではなく、荘郷の鎮守にまで及ぶものだったこと
②建造運動が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって進められたこと

②については、正応四年(1291)の紀伊国神野・真国・猿川庄公文職請文に次のように記されています。
「寄事於勧進、不可責取百姓用途事」

ここからは、修験者の勧進(募金活動)が公的に認められ、奨励されていたことがうかがえます。このような全国的な寺社修造と勧進盛行は、聖や修験者たちの動きを刺激し、村々を渡り歩く動きを活発化させます。そして、地域の寺社ネットワークが作られていったのではないかと研究者は推測します。その原動力が蒙古襲来後の寺社造営の運動にあったというのです。こういう動きの中で、善通寺や本山寺の本堂改築を見ていく必要があるようです。

それでは、鎌倉時代の本山寺の動向を見ておきましょう。
①暦仁2年(1239) 沙弥真仏が本堂修理。
②建長7年(1255)「沙門心導」「比丘尼宝阿」と「沙弥道安」が本堂修理
③正応4年(1291) 「金剛仏子心導」と「佐々木某」が本堂修理
ここからは、鎌倉時代以前に本堂にあたるものがすでにあり、13世紀に定期的に修理が行われていることが分かります。本山寺は平安時代末期には、存在していたようです。
研究者が注目するのは、登場人物の「沙弥」という肩書きです。
沙弥とは「正式の僧侶になる以前の人」ととされます。暦仁2年(1239)の「沙弥真仏」、建長7年(1255)の「沙弥道安」がどのような人物であるかは分かりません。しかし、彼らが僧侶と在家の中間にあって本山寺本堂の修理に関与していたことは分かります。また、暦仁2年の修理以外は、どれも正式な僧侶と沙弥(あるいは俗人)とがセットになって修理・再建の責任者となっています。ここからは、本山寺本堂は僧侶たちだけでなく、沙弥・俗人の支援を受けて修理・再建が行われていたことが分かります。これは早い時期から本山寺が、地域社会と連携し、その支援を受けれる体制が整えられていたことを示すものと研究者は考えています。

本山寺 本堂
本山寺本堂
そして、13世紀末の諸国寺社の修造ブームが本山寺にもやってきます。
本山寺の本堂は、従来は正応年間に丸亀藩の京極近江守氏信が寄進したものと伝えられてきました。ところが昭和28(1953)年2月の解体修理の際に、礎石から次のような墨書銘がみつかります。

「為二世恙地成就同観房 正安二年三月七日」

ここから、本堂が鎌倉時代後期の正安2年(1300年)の建築物であることが分かりました。そして修理が完了した昭和30年に国宝に指定されます。讃岐の寺社では「長宗我部元親焼き討ち全焼説」が由来として」伝わっていることが多いのですが、本山寺の本堂はそれ以前のもので焼き討ちを受けていないことを押さえておきます。
 また、「大工藤原国重や平友末」と大工名も記されています。
その後の研究で彼らは奈良南都の工匠で、奈良の霊山寺本堂や、西の京の薬師寺東院堂を手がけていることも分かってきました。奈良の名のある大工が讃岐にやってきて手がけた本堂になるようです。同じ時期に、奈良の大工たちが尾道の浄土寺などにもやってきて腕を振るっていた時代です。本山寺の本堂は尾道の浄土寺に40年近く先行することになります。
本山寺 本堂2
本山寺本堂廊下よりの伽藍 右が十王堂
なお、正安2年に本堂棟上を行ったのは「沙弥覚道」です。
「覚道」については、善通寺中興の祖として著名な宥範の師のようです。宥範の伝記『贈僧正宥範発心求法縁起』(応永9年(1402)撰集)に、その師として「談議所無量寿院僧正覚道上人道憲」が記されています。「覚道上人道憲」とあるので本山寺本堂に関わった「覚道」と同一人物である可能性を研究者は指摘します。
 またこの史料によれば、徳治元年(1306)に宥範が東国修行から帰国した際、讃岐国野原(現在の高松)の無量寿院隋願寺で、師「覚道上人道憲」と面会しています。ここからも「覚道上人道憲」は正安2年の「覚道」と同一人物であることが裏付けられます。
 この「覚道上人道憲」は顕日房道憲とも呼ばれたようです。
道憲は東大寺戒壇院中興の祖とされる実相房円照の弟子です。文永9年(1272)に授戒し、円照の授戒弟子として南都奈良で活動した後、出身地に帰って寺院建立や教化活動を行っていたことが知られています。とすれば、寺院建立に実績のある「覚道上人道憲」が、本山寺本堂の建立にあたっても助力したと考えることができます。本山寺の本堂や仁王門の建立を、南都奈良の大工たちが担当していました。それを実現させたのは奈良でも寺院建立活動を行っていた「覚道上人道憲」がいたから実現できたことと研究者は推測します。

本山寺 仁王門3

本堂に続いて正和二年(1313)からは仁王門が建立されます。
本山寺 二王
本山寺の二天像
そこに二天像が収められます。二天王像の中の墨書銘には、次のような職人たちの名前が記されています。
①「仏師、当国内大見下総法橋」
②「絵師、善通寺正覚法橋」
①の仏師・下総法橋は、「当国内大見」住人と記されています。大見は、弥谷寺の麓で三野湾に面する所で、三野郡下高瀬郷に属します。西遷御家人で日蓮宗本門寺を建立した秋山氏の拠点です。
②の絵師は、善通寺お抱えの絵師のようです。
ここからは、本堂や仁王門などの建築物については、奈良からやってきた宮大工たちが、そこに安置された二天像は地元讃岐の仏師や絵師たちによって造られたことが分かります。
P1120243本山寺 毘沙門天
本山寺の二天立像(毘沙門天)
本山寺の造立運動を進めたのは、どんな宗教者だったのでしょうか?
先ほど見たように、この時期の地方寺社造立ラッシュは「②地方末端にまで及ぶ寺社修造が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現していた」と研究者は指摘していました。それを今度は見ていこうと思います。
中世の本山寺は、持宝院あるいは長福寺とよばれていたようです。 本山寺という現寺名は、地名によるもので古代の郷名「本山郷」に由来します。本山荘は鎌倉時代前期には九条家領でしたが、のちに石清水八幡宮領となります。研究者が指摘するのは岩清水八幡宮領の成立に際して、その分霊が勧請されていることです。

岡本鳩八幡社
鳩八幡神社
その一つが岡本にある鳩八幡神社になるようです。
   本山荘・本山新荘のエリアは、現在の豊中町本山・岡本、観音寺市本大町あたりが荘園領域とされます。岡本(鳩)八幡神社は、社記によると嘉禎年間(1235)に本山荘が山城国石清水八幡宮へ寄進せられ、その社領となります。そのため領家である石清水八幡宮の御分霊を勧請し荘内の総社として祀られたとされています。 荘園が立荘された場合には、荘園領主と同じ神社を勧進するのが一般的でした。
 15世紀の観音寺船籍の船には、山崎胡麻60石の積載記録が残されています。これは石清水八幡宮の荘園である本山荘・山本荘から財田川を通じて観音寺港に集積されたものと考えられます。石清水八幡宮の神人たちは、淀川の交通路を握り、そこから瀬戸内海に進出しました。讃岐には海浜部を中心に草木荘・牟礼荘・鴨部荘など石清水八幡宮の荘園をはじめ末社が多いのもそのためです。

長浜神社 ネットワーク

近江坂田郷の寺社関係 八幡神社を中心にネットワークが形成されていた例

 つまり、本山寺は本山荘の寺社ネットワークの核であったことになります。そして中世は、石清水八幡宮のネットワークの一端に組み込まれていたことがうかがえます。それを裏付けるように、近世においては、本山寺は岡本八幡の社僧を務めています。また、熊岡八幡神社の別当寺でもあったことは、先述したとおりです。本山寺は、こうした旧本山荘内にある神社の別当を務めることによって勢力を維持したと研究者は考えています。
熊岡八幡神社 | kagawa1000seeのブログ
熊岡八幡神社
浅香年木氏は「中世北陸の在地寺院と村堂」の中で、次のような事を指摘します。
①14世紀前後に、一宮・荘郷鎮守などの有力寺社が周辺の小規模な村堂を末寺化していく
②郷村の寺院同士が造営や大般若経写経などを「合力しあう連帯」して取り組むようになる
③その連帯関係は、祖先崇拝や地蔵信仰など、地域の上層農民の信仰を基盤に成立していた
 つまり、有力寺院による地域寺院の組織化(末寺化)と、新たな信仰対象物の形成が同時進行で行われていたというのです。讃岐でも室町期には、荘郷を超えて寺社の相互扶助的関係が形成されていきます。研究者が重視するのは、この寺社間のネットワークが上から権力的に編成されたものではなく、修験者たちによって下から結びつけられていったものだという点です。
以前に、多度津の道隆寺や大内の与田寺(水主神社)などを例に紹介しました。
道隆寺は、塩飽諸島から詫間・庄内半島までの寺社を末寺化していました。また与田寺の増吽は、「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 勧進活動 + 大般若経写経活動」などを通じて、瀬戸内海や阿波の数多くの寺とネットワークを結び、その中心にいました。本山寺の場合も、本山荘内外の寺社を結びつけ、ネットワーク化(末寺化)していたようです。それを進めたのが修験者や聖たちだったのです。

興隆寺五輪塔
興隆寺の五輪塔群
 そういう視点で本山荘を見ると、見過ごせないのが興隆寺跡です。
西讃府誌には、興隆寺は 本山寺の奥の院で本尊薬師如来が本尊であったと記されます。伽藍跡は、今は鬱蒼たる樹木や雑草の中に花崗岩製の手水鉢、宝篋印塔、庚申塔、弘法大師像や凝灰岩製の宝塔、五輪塔など石造物が点在しています。興隆寺跡にある石塔群は108基で、製作年代は鎌倉時代後期から室町時代末期の約200年の長期間にわたって継続的に造立されたものです。
  本山寺のご詠歌は
本山に誰か植ゑける花なれや 春こそ手折れ手向にぞなる

五来重氏は、このご詠歌はもともとは、奥の院興隆寺のものと考えています。「手向にぞなる」とは、亡くなった人の供養を示します。建ち並ぶ五輪塔も先祖供養のためと考えれば弥谷寺と同じような性格の寺であることになります。鎌倉から室町時代にかけて、大勢の人が死者供養のためにここに登って、五輪塔を造立したことがうかがえます。
興隆寺五輪塔
興隆寺五輪塔群
  一方、残された興隆寺の縁起や記録などから、石塔群は出家修行者の行供養で祈祷する石塔と考える研究者もいます。
一番下の壇に不動明王(座像)を中央にして、左右に五輪塔約30基が並んでいることもその説を裏付けます。どちらにしても、ここには修験者や聖などの行場であり、先祖供養の寺でもあったようです。
本山寺の奥の院であったという妙音寺・興隆寺の前後関係を確認しましょう
妙音寺  本堂本尊  12世紀の木造阿弥陀如来坐像
興隆寺  伝本尊  薬師如来 中世期に石塔群造立
本山寺  本 尊  馬頭観音 
     脇士   阿弥陀如来 + 薬師如来
   本山寺は四国の八十八か所では、唯一馬頭観音が本尊です。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python
本山寺の本尊馬頭観音

馬頭観音の梵名のハヤグリーヴァは「馬の首」という意味のようです。
これはヒンズー教の最高神ヴィシュヌの異名でもあるので、敵対するヒンズー教の神を「天部の仏」として迎え入れたことがうかがえます。その役割は、衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩です。そのため他の観音が女性的で穏やかな表情なのに、馬頭観音は目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した憤怒相です。私は、最初に馬頭観音を見たときに、「これが観音さま?」というのが正直な感想でした。密教では「馬頭明王」と呼ばれて、すべての観音の憤怒身ともされています。そのため憤怒相の守護尊として明王部に分類されることもあるようです。
仏像の種類:馬頭観音とは、ご利益・梵字、真言など】菩薩なのになぜ激怒?!道の石仏は昔の人々の馬への感謝の表れ|仏像リンク

 「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。そして、馬だけでなく牛や蚕などあらゆる畜生類を救う観音ともされるようになり近世には農民たちの広い信仰を受けるようになります。そして、道ばたにも馬頭観音の石仏が立てられるようになります。その造立目的は、次のようなものでした。
  ①牛馬の安全守護
  ②牛馬供養
 
造立の際に、勧進によって多数同信者の願いを結集すれば、その石仏の功徳はより大なものになると信じられます。そのために万人講を組織して、喜捨をあつめることが多かったようです。これを進めたのが修験者や聖たちでした。そのため馬頭観音やその権化・権頭天王を祀る寺社は、彼らの拠点となり周辺に多くの修験者が生活していたようです。ここでは、中世の本山寺(長法寺)が馬頭観音を本尊とする修験者たちの拠点寺院化していたことを押さえておきます。



本尊の馬頭観音に対して、脇侍は阿弥陀如来と薬師如来です。
阿弥陀如来は妙音寺、薬師如来は興隆寺の本尊です。つまり、ふたつの奥の院の本尊であった仏を、本山寺の馬頭観音が率いているということになります。ここには、現在の本堂が建立された13世紀末の本山寺を取り巻く事情が反映されているのでしょう。それは、妙音寺と興隆寺を統合して、外から新規に馬頭観音を向かえて本尊としたということが考えられます。それを進めたのが修験者や聖たちであったというのです。
特別展『みほとけのかたち ─仏像に会う─』@奈良博-05
 京都・浄瑠璃寺「馬頭観音菩薩立像」

牛馬の安全を折る信者集団が本山寺の「変身」の主体となったのでしょうか。馬頭観音は、もともとは釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされます。そして、次のような本地垂迹が語られ、姿を換えていきます。
祇園信仰 - Wikipedia
牛頭天皇(祇園大明神)
権化が牛頭天王
蘇民将来説話の武塔天神
薬師如来の垂迹
スサノオの本地

牛頭天王は、京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ、現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られるようになります。これを進めたのが修験者や廻国の念仏聖のようです。

滝宮(牛頭)神社
滝宮神社

「牛頭天王」を祭った讃岐の寺社としては、滝宮神社があります。
滝宮神社は、神仏分離以前には牛頭天王神(ごずてんのう)と呼ばれていました。菅原道真の降雨成就のお礼に国中の百姓がこの神社で悦び踊った。これが滝宮念仏踊りとされています。

滝宮龍燈院跡
滝宮牛頭神社の別当寺 龍燈院跡

牛頭天王神(滝宮神社)の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となったのが龍燈院です。
龍燈院も馬頭観音を本尊として、馬頭観音の権化である牛頭天王を神社に祭っていたようです。同じような動きが三豊の本山寺周辺でも起こっていたのではないかと私は考えています。つまり、牛頭天王神(ごずてんのう)をまつる聖集団によって、本山寺は中世に姿を見せたという説です。
滝宮龍燈院の十一面観音
滝宮龍燈院の十一面観音(綾川町生涯学習センター蔵)
讃岐でも、大般若経の書経活動でも聖たちの連携・連帯が行われます。
大般若経が国家安泰の経典とされ、異国降伏のために読誦されたことは、いろいろな研究で明らかにされています。そして、次のような事が明らかにされています。
①鎌倉末期ごろには多くの有力寺社に大般若経が備えられていたこと
②大般若経を備えることは荘郷鎮守の資格とさえ考えられるようになっていたこと
③大般若経を備えるために勧進が行われていたこと

 本山寺でも、戦後まで大般若経六百巻が村回りをしていたようです。
 本山寺ではお経を担いで村を回ります。これも回って読む一つのやり方ですから、転読といえるでしょう。住職が理趣分という四百九十河巻のうち一冊だけもって七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。それを「般若の風」といって、風に当たれば病気にならないという信仰がありました。これが、檀家だけでなく、地域をめぐっていたようです。これも中世以来の村々の境を超え、宗派や檀家を越えた「郷村の寺社」としての本山寺の性格を伝える物かも知れません。

新潟県阿賀町馬取(まとり)地区の村中大般若
大般若経経典 の入った木箱を背負った一行が無病息災を祈る

最初に紹介したように徳島県三好郡池田町の吉野川と祖谷川の合流点に鎮座する三所神社には、応永9年(1402)の大般若経600経が保管されています。

大般若経 山所神社 池田町
三所神社の大般若経

その中の奥書に、次のように記されたものがあります。

「讃州三野郡熊岡庄八幡宮持宝院、同宿二良恵

ここからは、山所神社の大般若経の一部が「三野郡熊岡庄八幡宮」の別当寺「持宝院(本山寺)」に「同宿(寄寓)」する「良恵」によって書写されたことが分かります。良恵は住持でなく聖のようです。 与田寺の増吽が阿波の修験者たちとネットワークを形成し、大般若経書写をやっていたのと同じ動きです。讃岐三豊の持宝院(本山寺)と、阿波池田の山所神社も修験道・聖ネットワークにで結ばれていたのでしょう。同時にこのような結びつきは、「モノ」の交易を伴うものであったことが分かってきました。

以前に、仁尾の商人や大工が四国山脈を越えた現在の大豊町や本山町で活動を行っていたことを次のように紹介しました。
①高知県大豊町の豊楽寺の本堂新築(天正2(1574)年11月)の御堂奉加帳に「仁尾」の「塩田又市郎」の名前があること。
②土佐郡森村(土佐郡土佐町)の森村の阿弥陀堂造立棟札に「大工讃州仁尾浦善五郎」とあり、善五郎という仁尾浦の大工が請け負っていること。
長岡郡豊永郷や土佐郡森村は、近世土佐藩が利用した北山越えのルート沿いに当たります。このルートは土佐からの熊野参拝ルートでもあり、讃岐西部-阿波西部-土佐中部を移動する人・モノが利用したルートでした。仁尾商人の塩田又市郎や大工の善五郎らは、この山越えのルートで土佐へ入り、広く営業活動を展開していたと研究者は考えています。
 仁尾商人の塩田又市郎と豊永郷とのつながりは、どのようにして生まれたものだったのでしょうか。
 近世になると、仁尾と豊永郷などの土佐中央山間部との日常的な交流が行われていたことが史料から見えてきます。具体的には「讃岐の塩と土佐の茶」です。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、詫間の塩が多度津船で畿内へ大量に輸送されていたことが分かります。近世になると詫間や仁尾で生産された塩は、畿内だけでなく讃岐山脈を越えて、阿波西部の山間部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていたことは以前にお話ししました。
  塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、中世には三野湾で作られた塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い土佐の碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたようです。その利益から仁尾には数多くの寺院が姿を見えるようになります。
 そういう視点から本山寺の出現過程を次のように推察しておきます。
①熊野行者などの山林修行者によって七宝山に行場が開かれ、庵や堂が姿を見せる。
②観音寺は七宝山の行場を結んで「中辺路」ルートとして売り出す。
③その行場のひとつが七宝山麓の興隆寺で、先祖供養の地として地元の有力者が五輪塔を納めるようになる。
④そこに新しく登場してきたのが牛頭信仰を持った修験者たちである。彼らは、「馬頭観音=その権化である牛頭天王=蘇民将来説話の武塔天神=薬師如来の垂迹=スサノオの本地」としていた。
⑤彼らは、京都東山祇園や姫路の広峰山から牛頭神を勧請し、全国に祇園社、天王社を祀るようになる。
⑥そのような中で、本山荘内の興隆寺や妙音寺で活動していた牛頭天王信仰の修験者たちが、新たな寺院を現在地に建立する。それが本山寺の前身である。
⑦こには牛や馬に関わる百姓や馬借たちの支持もあった。そして、郷村を越えた広域信仰圏を形成した。

南海道(伊予街道)に隣接した本山寺は、交通の要衝に当たります。
仁尾の商人や修験者たちは土佐に三野湾で採れた塩を運び込み、その還りに茶を持ち帰って利益を挙げていたのは先に見たとおりです。本山寺を拠点とした修験者たちは、財田川を遡り、財田やまんのう町の峠を越えて、阿波との交流を持ち、その信者たちには、塩を運ばせたことが考えられます。阿波池田や、山所神社のあった祖谷口、あるいはその奥までが本山寺の信仰ネットワークの及ぶ地域で、本山寺の信者となっていた馬借たちの活動範囲だったことが推測できます。このように本山寺は古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地としていたことが、その後の発展に大きく寄与した研究者は考えています。

 天文16年(1547)に鎮守堂が建立されるなど、天文年間(1532~55)は本山寺の堂宇整備時期であったようです。
130年後に書かれた『玉藻集』延宝5年(1677)には、16世紀の状況が次のように記されています。
本山寺持宝院
此ノ寺本山の庄にある故に本山寺とよふ、亦は長福寺ときこゆ、本尊馬頭観音。弥陀・薬師を両脇に立たり、三尊共弘法大師作、堂の右に石の塔あり、門内に古松枝條扶疎として、幾世をか経ぬる、むかしを問ましき計也、堂の後に古五輪五六基あり、寺惜を隔て構へたり、境内一町半、廻り松桜杉椿等茂し、二王門の右に五所権現の祠あり、前に長川なかれたり、
意訳変換しておくと
本山寺持宝院は、本山庄にあるので本山寺とよぶ。また長福寺も云う。本尊は馬頭観音で、脇仏が弥陀・薬師で、この三尊は弘法大師の作である。堂の右に石塔がある。門内に幾世の時を重ねてきた古松がある。堂の後には、古五輪五六基があり、境内と隔て置かれている。境内は一町半四方で、その廻りは松・桜・杉・椿等が茂る。二王門の右に五所権現の祠があり、その前を長川(財田川か宮川?)が流れている。

ここには空海建立説はありませんが「三尊共弘法大師作」と記されるので、近世前期になると本山寺に空海伝説が根付いていたことが分かります。
本山寺中興の祖といわれる尚範が元亀2年(1571)に高野山にのぼり、金剛三味院で研鑽を積んだ後に本山寺の復興に尽力します。以後、本山寺僧と高野山との関わりが、本山寺における弘法大師信仰の普及につながると研究者は推測します。同じような動きが弥谷寺にも見られることは以前にお話ししました。この背景には、高野聖たちの活動があったことがうかがえます。彼らによって弘法大師伝説が本山寺にももたらされたようです。そういう意味では、弘法大師伝説は牛頭天王信仰に、室町時代以後に接ぎ木されたものといえそうです。

本山寺(もとやまじ)五輪塔 (五基)
本山寺の五輪塔

『玉藻集』に「堂の後に古五輪五六基あり」とあるのは、現在は大師堂裏にある大型五輪塔群のことでしょう。
この大型五輪塔群は室町時代のもののようです。一説には奥の院の興隆寺から移されたとも伝わるようです。本山寺が有力者の菩提寺的な性格を持っていたことが分かります。しかし、それが誰なのか、どんな一族であったのかは分かりません。
 同時期に、西讃守護代で天霧城の香川氏は、弥谷寺西の院を墓域化して多くの五輪塔を残しています。それが、本堂下の生駒親正の大きな五輪塔につながって行きます。この五輪塔と、本山寺の大きな五輪とは合い響き合うモノがあるように私には思えます。16世紀には観音寺室本の麹職人たちに香川氏は、特許上を出しています。香川氏の勢力が観音寺の当たりまで及んでいたことを示します。本山寺も香川氏の勢力下にあったと考えられます。

   以上をまとめておきます。
①元寇後に異国降伏祈祷が地方でも行われ、それに伴い讃岐でも有力寺院の改築ラッシュが続いたこと
②寺社修造は、勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現したこと。
③その結果、勧進聖や修験者の活動は活発化し、国や郡郷を超えた寺社のネットワーク形成が進んだこと
④その流れの中に、本山寺の本堂や仁王堂のあらたな建立があったこと
⑤同時に、伽藍整備と平行して、郷村の有力寺社は周辺寺社の系列化・末寺化を進めたこと
⑤そのひとつのやり方が寺社修造勧進への協力や大般若経写経の支援活動であったこと
⑥こうして観音寺や本山寺は勧進聖や修験者によって、「中辺路」ルートの拠点寺としてネットワーク化されそのメンバーとなっていく。
⑦これが後の「四国大辺路」から四国遍路へとつながっていく。
今回は中世までとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  テキスト
上野進 本山寺の歴史 本山寺調査報告書2016年 香川県教育委員会
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  経筒 白峰寺 (2)
白峯寺の六十六部経筒の蓋           
白峯寺の「西寺」から出土したと云われる経筒について、以前に紹介しましたが別の視点から見ておきたいと思います。それは、この経筒を納めたのが六十六部の良識と記されているからです。
まずは、経筒についてもう少し詳しく見ておきます。
①経筒は、全面に鍍金した銅製で、筒身と筒蓋に分かれます。
②筒身は円筒形でし、高さ9,9㎝、身底径4,8㎝ 身口径4,5㎝。
筒身には、縦書き五行で次のような文字が刻まれています。
白峰寺経筒2
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」で主文
③が「十羅刹女 」で、奉納経典の守護神
④が三十番神も経典守護神
⑤が「四国讃岐住侶良識」で、奉納代理人(六十六部)
⑥が「檀那下野国 道清」で、奉納者
⑦「享禄五季」、奉納年
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
この経筒から研究者は、どんな情報を読み取り、考察していくのでしょうか?
銅経筒の全国的な出土傾向をは、11世紀後半~12世紀後半と16世紀前半~中葉に2つのピークがあります。11世紀後半~12世紀後半に銅経筒の出土例が多いのは、末法思想が影響しているものとされます。末法元年と考えられていた永承7年(1052)以後になると、法華経を中心とした仏教典を金属製の経筒に納め、霊地や聖地とされる山頂や社寺境内に経塚が造られるようになります。

2公式山.4jpg
経塚の埋葬例
この時期の経筒は。高さ20~45㎝程度の大型のもので、和鏡、銭貨、刀身、小仏、などの副納品とともに、陶製などの外容器にいれて埋納されています。これが県内では善通寺の香色山山頂の経塚やまんのう町金剛院背後の経塚群から出土しています。

2公式山3
    善通寺市香色山1号経塚(佐伯直一族のもの?)

12世紀をすぎると、経筒埋納は一時衰退していきます。こらが再び活発化するのは16世紀になってからです。その背景には、廻国聖の納経活動の活発化があります。庶民が現世利益や追善供養も含め諸国を廻国し、その先々で経筒埋納を祈願するというスタイルが流行するようになります。経筒は、永正11年(1514)~天正13年(1585)に多く、円筒形の経筒は、16世紀中頃~後半に多いようです。
以上をまとめておきます。
①11世紀末になると末法思想の流行と供にお経を書写し、経筒に埋めて霊地に奉納するようになった。
②この時は、大型の経筒が使われ、鏡や銭・小刀・などが副葬品として経塚に埋められた。
③16世紀に活発化する廻国聖六十六部は、全国をめぐり経筒を埋納するようになったが、使われた経筒は小型化した。
この程度の予備知識を持って、再び白峯寺の経筒を見てみましょう。
 白峯寺所蔵の経筒は、筒身外面の紀年銘から享禄5年(1532)であることが分かります。これは先ほど見た銅経筒の全国的な出上時期の傾向と一致します。また、大きさについては、この時期の経筒は10~12㎝と小型のものが中心ですが、白峯寺経筒も総高10、5㎝で、この範囲です。今度は銘文をひとうひとつ見ておきましょう。
  まず、中央の「奉納一乗真文六十六施内一部」です。
これは諸国六十六ケ国に納める内「施内」のひとつである経典(法華経)「一乗真文」を「奉納」したと研究者は考えています。この時期の経筒の主銘文には、「大乗経王」「大乗法花」「大乗真文」「法華妙典」「法華真文」「妙法典」「一条妙典」「如法経」と、経典の表現がさまざまです。「一条真文」の例はないようですが、埋納された経典の種類は、法華経と研究者は考えています。
 この文の上位には「釈迦如来」を示す種字である「バク」が描かれています。
真言文字バク 釈迦如来
バク 釈迦如来
ここからは奉納者(檀那下野国道清)が釈迦如来を信仰していたことが分かります。この時期の主銘文の種字には「阿弥陀三尊(キリーク、サ、サク)」「釈迦三尊(バク、アン、マン)「釈迦如来(バク)」「観青菩薩(サウ」などありますが、その中でも多いのは「釈迦如来(バク)」のようです。これも全国的な傾向と一致します。

守護神(十羅刹女)
十羅刹女
「十羅刹女」は、仏教の天部における10人の女性の鬼神で、鬼子母神とともに法華経の守護神です。

三十番神
三十番神

「三十番神」は神仏習合の信仰で、毎日交代で国家や国民等を守護する30柱の神々のことです。最澄が比叡山に祀ったのが最初で、鎌倉時代に盛んに信仰され、中世以降は特に日蓮宗・法華宗で重視され、法華経守護の神とされることは以前にお話ししました。このように「十羅刹女」や「三十番神」も法華経の守護神で、この時期の小型経筒の主銘文に、よく登場するようです。

「四国讃岐住侶良識」からは、四国讃岐の僧侶・良識によって経筒が奉納されたことが分かります。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」ことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。

高野山 金剛三昧院
高野山金剛三昧院
金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)
第31長老良識(讃州之人)
第32長老良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。また、「良識」は、讃岐の国分寺本堂の板壁に落書きを残しています。その落書きを書いていた板壁が屋根の野地板に転用されてて残っていました。そこには次のように記されています。
  当国並びに井之原庄天福寺客僧教□良識
  四国中辺路同行二人納中候□□らん
 永正十年七月十三日」
「当国井之原庄」は、讃岐国の井原庄(いのはらのしょう)で、旧香川郡南部(現高松市香南町・香川町)から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒(近世成立)には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
「天福寺」は、高松市香南町岡にある美応山宝勝院天福寺と考えられます。
岡舘跡・由佐城
高松市香南町岡天福寺

この寺は、神仏分離以前には香南町由佐にある冠櫻神社の別当寺でした。天福寺は本尊薬師如来、真言宗御室派です。天福寺由来記には次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、
②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、
③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。
「客僧」とは、修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことです。
31歳の「良識」は修行のため廻国し、天福寺に滞在した僧侶と研究者は考えています。つまり、四国霊場第80番札所国分寺の「落書」からは、高松市香南町岡にある天福寺の客僧だった良識が四国遍路を行い、永正10年(1513)7月14日、札所である国分寺に札等を納めた時に「落書」を書いたことが分かります。
経筒の銘文にもどって「旦那下野国道清」を見てみます。
ここからは、この法華経を納めた小型経筒の施主は下野国の道清であることが分かります。良識は、下野国(栃木県)の道清から依頼を受けて、法華経を経筒に納め、諸国の社寺に奉納していたことになります。社寺への奉納には、直接社寺へ法華経を奉納する場合と、自ら塚などを築き法華経を納めた経筒を奉納する場合があったようですあります。白峯寺の経筒の場合は後者で、宝医印塔も同時に造立したと研究者は考えています。ただ、経筒を奉納しただけでなく、埋納施設や印塔も建立しているというのです。これを全国でやっていたとしたら多額の資金と労力が必要になります。下野国の檀那道清は、それだけの資力を持っていた人物だったようです。このように当寺の六十六部は、かつての熊野行者のように有力者の依頼を受けて、全国を代参していたものもいたようです。
 経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。
廻国聖の場合は、諸国を廻国するので社寺に奉納する時期がいつになるか分かりません。そのために「今月今日」としていたようです。ここからは、良識は、白峯寺にやてきて長期滞在して経典を書写したのではなく、出発前に書写されたものを持参していたことがうかがえます。確かに経筒は10㎝程度の小さいものなので、それも可能かも知れません。

以上のから「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれが、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に没した良恩に次いで、金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、またが「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。
経筒外面に刻まれた文字から、この経筒は廻國行者である「良識」によって奉納されたことを見てきました。
私が気になるのは、この経筒を納めた良識につながる法脈です。
先ほど見たように金剛三昧院の住持は、戦国時代には「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌と続きます。
良識の跡を継いだ良昌を見ておきましょう。
高野山大学図書館蔵の『折負輯』には、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生、法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺を兼帯していたことが分かります。そして、天正8(1580)年に亡くなっています。
 ちなみに、法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。法勲寺を継承する島田寺も『讃留王神霊記』(島田寺蔵)には綾氏の氏寺と記されています。そして、「大魚退治伝説」は、島田寺僧侶による「創作神話」と考えられています。このふたつの寺は、神櫛王の「大魚退治伝説」の「発信地」なのです。背後には、綾氏一族の勢力があります。
  財田で生まれた良昌が、綾氏の氏寺とされる丸亀市飯山町の法勲寺や島田寺の住持になる。そして、さらに高野山三間維持の住持へと転進する。そこには、どんな「選考基準」や「ネットワーク」があったのかと不思議になります。考えられる事は、次のようなステップです。
①有力者(武将)の一族の子弟が、近くの学問寺に入り出家する。(例 萩原寺・大興寺・金倉寺・金倉寺)
②能力と資力のある若い僧侶は、師匠から推薦されて、讃岐出身者が住持を務める高野山金剛三昧院に留学する。
③そこで教学を学ぶと供に、真言系修験道も身につける。(例 良識の四国辺路や廻国六十六部)
④教学と修法の両道を納め地元讃岐の島田寺などの住持に収まる。
⑤金剛三昧院の「次期長老候補リスト」があり、師弟関係にある弟子として後継者指名を待つ。
こうして、「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌」という讃岐出身者による住持継承が行われたと私は考えています。
そうだとすると、高野山金剛三昧院の住持になるための必要要件としては、次のような要件が求められることになります。
①有力武将の一族であること 一族の支援が受けられること ある程度の経済力があること 
②地元の学問寺で初期的な手ほどきを受けて、師匠から師匠の推薦を受けて高野山留学を行う事
③高野山留学中に、修業先の住持と師弟関係を結び法脈の中に名前が入ること
④経典研究など山内での修養だけでなく、真言修験者としての山林修行も積むこと
⑤以上を満たして、現住持との信頼を得て、「次期長老候補リスト」に入ること
 こんなところでしょうか。これを史料で裏付けておきます。

下の史料は「良恩授慶祐印信」と呼ばれる真言密教の相伝系譜です。
萩原寺文書 真言法脈
「良恩授慶祐印信」(萩原寺文書)
これは、萩原寺(観音寺市大野原町)の聖教の中にあったもので、「町誌ことひら 史料編282P」に掲載されています。ここで登場する「良恩」とは、「第30長老良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水」のことです。良識や良昌の前の金剛三昧院の住持になります。彼の法脈がどのように伝えられてきたかを示すものです。

これを見ると、そのスタートは大日如来や金剛菩薩から始まります。そして①長安の惠果 ②弘法大師 ③真雅(弘法大師弟)と法脈が記されています。この法脈の実際の創始者は④の三品親王になるようです。それを引き継いでいくのが「⑥勝義 ⑦忠義」です。彼らについては、後述しますが讃岐岸上(まんのう町岸上)出身の師弟コンビです。さらに、この法脈は島田寺の⑧良識 ⑨良昌に受け継がれていきます。

「⑥勝義 ⑦忠義」は、高野山の明王院の「歴代先師録」に登場します。
⑥勝義は次のように記されています。
「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」

と記されます。忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房」と呼ばれたようで、勝義の弟子になるようです。彼も光明院と兼務したことが分かります。泉聖房・泉行房からは、彼らが修験者であったことが分かります。
また「析負輯」の「谷上多聞院代々先師過去帳写」の項には、次のように記されています。
「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」

 ここからは多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったことが分かります。
  以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らは出身地のまんのう町岸上の光明寺を兼住していたこと
③彼らが修験者でもあったこと
これは、先ほど見た金剛三昧院の住持「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌」と同じパターンです。先ほどの仮説を裏付ける史料となりそうです。また、別の法脈として次のようなものもあります。

①明王院の勝義・忠義→②金剛三昧院良恩→③萩原寺五代慶祐

ここからは、この時期の高野山で修行・勉学した讃岐人は、幾重もの人的ネットワークで結ばれていたことが分かります。例えば、①の兼帯する光明寺と、②の兼帯する島田寺と③の萩原寺は、この法脈につながる僧侶が多数存在し、人脈的なつながりがあったことが推測できます。さらに、このような高野山ネットワークの中に、善通寺の歴代院主や後の金毘羅大権現金光院の宥雅や宥盛もいたことになります。彼らは「高野山」という釜の飯を一緒に食べた「同胞意識」を強く持ち、師弟関係や受け継いだ法脈で結ばれると同時に、時には反発し合うライバル関係でもあったことが考えられます。そこに多数の高野聖たちが入り込んでくるのです。
 それでは、高野山の今号三昧院や明王院など有力寺院の住持を、讃岐から輩出する背景は、何だったのでしょうか?
その答えも、萩原寺の聖教の中にあります。残された経典に記された奥書は、当時の光明寺ことを、さらに詳しく教えてくれます。
                                 
一、志求佛生三味耶戒云々
奥書貞和二、高野宝憧院細谷博士、勢義廿四、永徳元年六月二日、於讃州岸上光明寺椀市書篤畢、
穴賢々々、可秘々々、                   祐賢之
意訳変換しておくと
一、「志求佛生三味耶戒云々」について
この経典の奥書には次のように記されている。貞和二(1346)年に、高野宝憧院の細谷博士・勢義(24歳)がこれを書写した。永徳元年(1381)6月2日、讃岐岸上の光明寺椀市で、祐賢が書き写し終えた。
 ここからは、高野山宝憧院勢義が写した「志求仏生三昧耶戒云々」が、約40年後に讃岐にもたらされて、祐賢が光明寺で書写したことが記されます。また「光明寺椀市」を「光明寺には修行僧が集まって学校のような雰囲気であった」と研究者は解釈します。以前にお話ししたように、三豊の萩原寺・大興寺や 丸亀平野の善通寺・道隆寺や金蔵寺、そしてまんのう町の尾背寺なども「学問寺」でした。修行の一環として、若い層が書写にとりくんでいたようです。それは、一人だけの孤立した作業でなく、何人もが机を並べて書写する姿が「光明寺椀市」という言葉から見えてきます。
 同時に彼らは学僧という面だけではありませんでした。行者としても山林修行に励むのがあるべき姿とされたのです。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。
 彼らが地元の修行ゲレンデとしたのが、次のような中辺路ルートだと私は考えています。
①三豊の七宝山から善通寺我拝師山まで(観音寺から曼荼羅寺まで)
②弥谷寺と白方海岸寺の行道
③善通寺から大麻山・象頭山の行場を経てまんのう町の尾野瀬寺まで
このような行場ルートに、他国からも多くの山林修行者がやてきて写経と行道を長期に渡って繰り返します。これがプロの宗教者による「中辺路ルート」の形成につながります。それが近世になると、行場での修行を伴わないアマチュアによる札所めぐりに変化していきます。そうなると行場のそばにあったお堂や庵は、里に下りてきて本寺へと変身していきます。これが四国遍路へと成長していくというのが、現在の研究者の見解のようです。

 良識は若い頃には、四国辺路を行い、長老となっていても廻国六十六部として諸国をめぐっていたとするなら、プロの修験者でもあったことになります。そして、良識と師弟関係を結ぶ者、法脈を同じくする者は、同じく山林修行者であった可能性が強いと私は考えています。彼らは「不動明王・愛染明王」など怒れる明王たちを守護神とする修験者でもあり、各地の行場を求めて「辺路」修行を行っていたのです。その代表例が、東さぬき市の与田寺を拠点とした増吽だったのでしょう。まんのう町の光明寺も、丸亀市飯山の島田寺も与田寺のような書写センターや学問寺として機能していたとしましょう。こうした学問寺が数多くあったことが、優秀な真言僧侶を輩出し続けた背景にあったようです。
 それは「古代に大師を何人も輩出したのが讃岐」の伝統を受け継ぐシステムとして機能していたように思えます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

   白峯寺古図 地名入り
  白峯寺古図(江戸時代初期)

  江戸時代になって、白峰寺の洞林院本坊が自分たちの正当性を主張するために、中世の白峰の伽藍を描かせたとされるのが白峰寺古図です。この古図については、以前に「絵解き」を行いました。その中で気になったのが「西院」のあった場所です。今回は、この西院があった場所を考えていきたいと思います。テキストは「片桐 孝浩 白峯寺所蔵の銅製経筒について  調査報告書NO2 2013年」です
白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峯寺古図(拡大部分図)
白峯寺古図には青海村から①下馬碑→②大門→③中門→④十三重塔への参道が描かれています。②大門が現在の白峰展望台がある所で、ここに大門があるということは、ここからが白峯寺の伽藍エリアになるという宣言でもあります。大門から稚児川の谷間に開けた白峯寺へ下って行きます。③中門をくぐると、「金堂」「阿弥陀堂」「頼朝石塔」と描かれた塔頭(子院?)があります。ここには、今は建物はありません。絵図に「頼朝石塔」と描かれている白い2つ石塔が、国の重要文化財に指定されている東西二つ十三重石塔です。西院は、①~④のエリアにあったと考えられてきました。。

西院のあった場所を考える時に、手がかりとなる史料が白峯寺には残されています。以前に紹介した六十六部の埋めた経筒と一緒に出てきた遺物の荷札です。
経筒 白峰寺 (1)
白峯寺出土の六十六部経筒

その荷札には次のように記されています。
十三重塔下出土  骨片、文銭
西寺宝医印塔下出上 経筒」

ここからは次のことが分かります。
①骨片・銭貨が十三重塔下から出土
②経筒が西寺宝医印塔下から出土

まず、①の骨片・銭貨の出土した「十三重塔下出土」は、どこなのでしょうか?
これは簡単に分かります。十三重塔といえば1954年に重要文化財の指定を受けた二基の十三重塔しかありません。荷札に書かれた「十三重塔下出土」の十三重塔は、「白峯寺十三重塔」でしょう。ただどちらの十三重塔から出土したかまでは分かりません。

P1150655
白峯寺の十三重塔
この東西ふたつの塔については、以前に次のようにお話ししました。
①東塔が弘安元年(1278)、櫃石島産の花崗岩で、櫃石島石工集団の手によるもので、頼朝寄進と伝来
②西塔が元亨4年(1324)で、天霧山凝灰岩製で、弥谷寺石工によるもの
 
中央の有力者が櫃石島の石工集団にに発注したものが東塔です。西東は、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺石工に発注したものと研究者は考えているようです。ふたつの十三重石塔は、造立年代の分かる讃岐では貴重な石造物です。

DSC03848白峰寺十三重塔
白峰寺十三重塔
並んで建つ東西の十三重層塔は、初重軸部の刻銘から、東塔が弘安元年(1128)に、西塔が元亨4年(1324)に造立されたことが分かります。これも重文指定の理由のひとつのようです。十三重層塔は、昭和38年(1963)に解体修理されて、東搭の初重軸部の円穴から砕骨が出土し、基壇内からは砕骨、カワラケ、銭貨などが出土しています。白峯寺に所蔵されていた資料が、この解体修理時に出てきた遺物なのかは分かります。荷札に書かれた内容から骨片・銭貨についても、どちらからの十三重層塔から出土地したもののようです。
それでは経筒は、どこから出土したのでしょうか。
荷札には「西寺宝薩印塔 出土経筒」とあるので出土地が「西寺宝筐印塔下」であることが分かります。それでは、「西寺宝医印塔下」の「西寺」はどこなのでしょうか。それは「宝医印塔」のある場所を探せば分かると云うことです。経筒の出土した「宝策印塔」については、白峯寺住職への開き取りから次のことが分かったようです。
①五色台線(180号)から白峯寺への進入路入口に接してある第3駐車場の入口付近に石組み基壇があること。
②約20年前、第3駐車場整地時に石組み基壇を解体し、隣接地に仮置きした。その解体時に石組み基壇内から、経筒が出土したこと。
③石組の基壇上には、当初宝医印塔があったが、戦後の混乱期に行方不明になったこと
④「西寺」は、白峯寺への進入路の入口から展望台のあるあたりが「西寺」と呼ばれていること
現在、この付近は、県道や白峯寺の駐車場、坂出市の展望台と駐車場となっており、「西寺」に関する痕跡は何もありません。ただ駐車場の中央に、正面「下乗」、裏面「再建 寛政六甲寅年/二月吉日」と刻んだ花崗岩製の下乗石があります。
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白峯寺 展望台駐車場の下乗石
ここからは、白峯寺境内との境界付近に「西寺」があったことが推測できます。しかし、宝医印塔と西寺の関係については、聞き取り調査では分からなかったようです。
白峯寺 西寺跡の範囲

          西寺があったとされる伝承エリア
次に江戸時代に描かれた絵図から「西寺」「宝筐印塔」について、見ておきましょう。
研究者が参考とする絵図は、次の4つです。
①江戸時代初期に描かれたとみられる「白峯山古図」
②元禄2年(1689)の高野山の学僧寂本によって描かれた『四国遍礼霊場記』内の絵図
③弘化4年(1847)に描かれた『金毘羅参詣名所図会』内の絵図
④嘉永6年(1853)に描かれた『讃岐国名勝図会』内の絵図
もう一度「白峯山古図」を見ておきましょう。
白峯寺 西寺 白峯寺古図


②大門は丘陵の頂部に描かれているので、「大門」は現在の県道から白峯寺への進入路付近だったことがうかがえます。聞き取り調査で「西寺」と呼ばれている場所は、展望台駐車場がある付近でした。そうすると「西寺」のあった所は「白峯山古図」では、「大門」の付近であることになります。しかし「白峯山古図」には、大門周辺には大門以外に建物は何も描かれていません。大門周辺に子院や伽藍は、なかったようです。
元禄12年(1689)の寂本『四国遍礼霊場記』内の絵図を見ておきましょう。
白峯寺 四国遍礼霊場記2

ここでは、白峯寺への参道に①「丸亀道」との表記があり、ちょうど丘陵頂部には、②「下乗」石が描かれているだけです。「大門」も「西寺」の表現もありません。ただ、石塔が2基描かれています。これが十三重塔のようです。
弘化4年(1847)に描かれた「金昆羅参詣名所図会」の絵図を見ておきましょう。
丘陵頂部に「大門」は描かれていますが、「西寺」を示す表現はありません。ただし、「大門」の手前には「堪空塔」と書かれた石造物が描かれいます。描かれている形は宝策印塔の形とはちがいますが、これが「大門」周辺で唯一見られる石造物になります。
最後に嘉永6年(1853)に描かれた「讃岐国名勝図会」内の絵図を見ておきましょう。
白峯寺 西院 金毘羅参詣名所図会
讃岐国名勝図会

それまで「大門」として描かれていたのが①「大門跡」となっています。門としての建物の表現はなくなっていて、「西寺」を示す表現もありません。そして、東西の②十三重塔の後ろには「頼朝塚」・「琵琶塚」と注記されています。
  このように江戸時代に描かれた絵図には、「西寺」や「宝医印塔」は描かれていません。現在「西寺」と呼ばれている場所は、展望台や駐車場付近ですが、江戸時代に描かれた絵図では、それを裏付けることはできなようです。
 そこで研究者は視点を変えて「西寺」と呼ばれているので、白峰寺の西側に描かれている伽藍を白峯寺古図で探します。
白峯寺古図 本堂への参道周辺

白峰寺の西に位置し、十三重塔背後の堂宇が「西寺(西の院?)」
そうすると浮かんでくるのが「阿弥陀堂」「金堂」「十三重塔」です。これが「西寺(西の院」当たるのではないかと研究者は推測します。
  承応2年(1653)の澄禅によって書かれた「四国遍路日記」には、次のように記されています。
「寺ノ向二山在、此ヲ西卜伝。鎌倉ノ右大将頼朝卿終焉ノ後十三年ノ弔二当山二石塔伽藍ヲ立ラレタリ。先年焔上シテ今ハ石塔卜伽藍之□ノミ残リ」

  意訳変換しておくと
「白峯寺の向うに山がある。これを「西卜伝」と云う。鎌倉将軍の源頼朝が亡くなった後の13回忌に石塔と伽藍と造立された寺である。先年伽藍は焔上して、今は石塔と伽藍跡だけが残っている。

ここからは石塔が残り、「白峯山古図」に「阿弥陀堂」「金堂」「十三重塔」などが描かれている子院が「西ト伝」で「西寺(西の院」ではないかと研究者は推測します。
以上をまとめておくと、
①現在の下乗碑が建つ展望台駐車場付近には大門があり、その付近に「西寺」があった伝えられる。
②しかし、江戸時代の絵図には、どれも大門付近には建造物は描かれていない。
③そこで、西院は白峯寺古図に描かれいる十三重塔背後の堂宇群であったと研究者は推測する。
④澄禅の「四国遍路日記」には、石塔と伽藍が頼朝13回忌に建立されたこと、それがその後に炎上して十三重塔のみが残ったこと
  そうだとすれば、白峰寺には洞林院に劣らない勢力を持った寺院(子院)がここにあったことになります。それが「西卜伝(西寺)でしょう。その寺は、源頼朝13回忌に石塔(十三重塔)と伽藍が造立されたとも伝わります。それは石塔に刻まれた年号とは一致しないので、そのまま信じることはできません。
 しかし、京都などの有力者が十三重塔を寄進しているのは、洞林院ではなく西寺なのです。洞林院のライバルであったのかもしれません。洞林院が造ったとされる白峯寺古図には、堂舎は描かれていますが寺名は書かれていません。
どちらにしても、現在の東西の十三重塔の背後には、大きな伽藍を持つ西寺があったこと、そしてその伽藍が炎上した後に残ったのが十三重塔だということになります。十三重塔は白峰寺の前払いとして寄贈されたのではなく、西寺の塔として建立されたものであったようです。
白峯寺 西院白峰寺古図
白峯寺西院(西の院)?
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「片桐 孝浩 白峯寺所蔵の銅製経筒について  白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」です

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)
白峯寺 讃岐国名勝図会(1853年)
 白峯寺境内には多くの堂舎が立ち並び、札所寺院として独特の整った景観をみせています。これを幕末の讃岐国名勝図会と比べて見ると子院の一乗坊などは神仏分離で姿を消しましたが、白峯寺の伽藍には大きな変化はないことが分かります。白峯寺の特徴は、境内には崇徳天皇を祀る頓証寺殿があることです。そのため頓證寺と本来の白峯寺の2つのエリアに分けられ、西側に頓証寺殿、その北東の斜面に白峯寺の堂舎が立ち並びます。頓証寺殿は後小松天皇の扁額にもあるように、中世には頓証寺という寺号をもつ別の寺であったことを押さえておきます。

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白峯寺勅額門

今回は紫陽花の花見遊行の白峯寺で考えたことの最終版です。
本坊前を通って護摩堂で西に折れて参道を歩いて行くと、正面に勅額門が見えてきます。そこまでの参道の周囲に植え込まれた紫陽花が見頃でした。花に夢中になって、崇徳陵への入口を見逃してしまうほどです。そして、勅額門の前にやってきました。

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白峯寺勅額門 奧が頓證寺拝殿(頓證寺殿)
門には「第75代 崇徳上皇 白峯寺 頓證寺殿」と掲げられています。ここで疑問に思ったのがどうして「頓證寺殿」なのかということです。推測になりますが、中世には白峯山には、次のふたつの異なる寺院と、数多くの子院が存在していました。
①山林修行の拠点としての白峰寺
②崇徳上皇陵の慰霊管理のための頓證寺
これが次第に白峰寺に合体化されていきます。そのため頓證寺は白峰寺に属する「殿(建物)」と解釈します。
頓證寺の門である勅額門から見ていきます。

頓証寺殿勅額門 三間一戸八脚門、切妻造り、本瓦葺。
延宝8年(1680)建立(寺伝)

頓証寺の入口を飾る大規模な八脚門です。「勅額門」とよばれるのは、室町時代中期に後小松天皇震筆の額が掲げられていたからのようです。
白峯寺 頓證額
寺号額「頓證寺」
その扁額は重要文化財に指定され今は宝物館に保管されていますので、現在のものは複製になるようです。この門には、保元の乱で上皇として戦った源為義・為朝父子像を随身として安置しています。死後の世界では悔い改めて、崇徳上皇を守るという意思表明でしょうか?どちらにしても天皇を祀る「神社」的な色合いの濃い建物と云えそうです。県下の八脚門では国分寺・志度寺等に次いで古く保存もいい状態です。
 勅額門は八脚門としては「工夫のこらされた、特異な形式の門」だと研究者は指摘します。
工夫が凝らされている所を見てみましょう。まず棟通りの中央二本の柱が、両妻や正・背面の柱より高く作ってあります。そのためこの二本の柱と前後の柱とは、海老虹梁で繋ぎます。さらにその下には飛貫が通り、上には柱頂部と桁を繋ぐ虹梁が架かるので二本の柱と正・面の柱は、強固に繁がれることになります。

白峯寺 勅額門2
白峯寺 勅額門1

東通りの柱は虹梁形の頭貫で繋ぎ、台輪を載せ、これらは妻まで到達します。妻では棟通りの柱の上に三物を組激、妻飾の虹梁が載っていますが、上記虹梁形頭貫・台輪は妻の虹梁と組み合って、妻側へその鼻を突出させることになります。
白峯寺勅額門2
白峯寺勅額門東側
妻飾では棟木と行との中間に身舎桁を一本ずつ通しています。が、これは内部には通されておらず、いわば見せかけの構造となっています。正面両脇間の飛貫と頭貫の間には透かし彫りの欄間を入れ、中備は菊花として、随所に付けられた拳鼻や絵様肘木は多様な絵様繰形で飾られます。特に妻の雲紋・波紋を彫る絵様は見ていても楽しいものです。専門家は、勅額門を次のように評価しています。
構造形式の上でも意匠の面でも傑出した特色を持つ極めて質の高い八脚門
 
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この門からは、正面に拝殿が見えてきます。ここから見る拝殿(頓證寺殿)は、お寺の風情ではありません。まさに神社の拝殿のようです。そんな演出をプランナーでもあり、オーナーでもあった松平頼重は、狙っていたのかも知れません。拝殿の背後に崇徳上皇陵があるのですが、それは隠れて全貌は見えません。

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白峯寺頓證寺殿

  いろいろな種類の紫陽花を楽しみながら拝殿までやってきました。改めて見ると、お寺の建物とは違います。まさに神社の「拝殿」です。このお寺の性格が「神仏混淆」色を色濃く帯びていることが改めて分かります。この拝殿について見ておきましょう。

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白峯寺頓證寺殿

頓證寺拝殿 延宝八年(1680 棟札)
拝殿は桁行七間という規模で、正面と背面に三間の軒唐破風付向拝を付けた壮大な建物です。内部は両端から二間目に円柱二本ずつを立てて、それぞれ梁行に虹梁形飛貫で繋ぎ、その上を板壁として、中央三間と両脇二間ずつの空間に区分しています。しかし、建具を入れて仕切っているわけでもないようです。このような構成は、横長の平面の神社拝殿ではよく見られるようです。今は一間おきに3つに分けられて、祀られているのは
中央 崇徳天皇
向かって右側 本地仏(十一面観音)
向かって左側 相模坊(相模大権現の大天狗)
正面の向拝は頭貫木鼻を龍頭として、中備蟇股に透かし彫りの彫刻を入っています。これに対して背面の向拝では絵様・繰形付の木鼻、蟇股も板蟇股で、正面と背面で「格差」があるようです。向拝の繋ぎは海老虹梁を入れ、唐破風の菖蒲桁受けの組物の背後に手挟を入れています。(下の写真①)
白峯寺 頓證寺拝殿3
白峯寺頓證寺殿

本体の中備は正・側面の中央間が蟇股です。それ以外は人字形割束を用いています。桟唐戸の上部の入子板には輪違いや麻の葉等の幾何学模様を彫り込んでいます。装飾金具も各部に丁寧に打たれています。
見てきたように装飾に手が込んでいますが、決して派手にはならず、和様を基調とした端正な形式と意匠でまとめられています。「十七世紀後期の上質な建物で、背後の三殿と併せて、形式も特異な建物として極めて重要」と研究者は評価します。

さて、この拝殿の向こう側は、どうなっているのでしょうか?
つまり拝殿と崇徳陵の間には何があるのかというのが、私の素樸な疑問でした。

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崇徳陵遙拝所への通路
相模坊天狗の横から拝殿の後側に廻ってみます。西行像にお参りして、拝殿横を抜けて後に回り込みます。奧には崇徳陵の石垣とその上の玉垣は見えます。
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白峯寺遙拝所からみた頓證寺殿の背後
しかし、拝殿背後は本殿があるようなのですが、木々が茂っていてよく分かりませんでした。後日、図書館から借りだした「白峯寺調査報告書NO2」の中に、拝殿と附属建物の関係が描かれた次の平面図を見つけることが出来ました。
白峯寺 頓證寺殿拝殿平面図
頓證寺殿拝殿平面図(拝殿と崇徳上皇殿などの三棟は廊下でつながる)
 
 ここからは、拝殿は、背後に並び建つ崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂の三棟に対する拝所であったことが改めて分かります。そして、今は一間おきに背後の三棟に対応するように、密教の壇が設えられています。かつては、拝殿で崇徳天皇・本地仏・相模坊のそれぞれに対して密教の修法が行われていたことがうかがえます。そういえば、前回に見たように善如龍王への雨乞祈祷も、この拝殿で行われていたと史料にあったのを思い出します。次に拝殿奥の3つの建築物を見ていくことにします。

白峯寺 頓證寺 金毘羅参詣名所図会
頓證寺拝殿と三社の関係図(金毘羅参詣名所図会1853年)

崇徳上皇殿 延宝八年(1680 棟札)一間社、隅本入春日造、鋼板葺    
頓証寺拝殿の中央後方約13mの所に立つ隅本入春目造の建物です。春日造としては規模が大きいようです。組物は出組を用いますので、背面の妻飾の虹梁は柱筋よリー手外へ持ち出されることになります。

白峯寺 頓證寺崇徳上皇殿
崇徳上皇殿の妻飾
頭貫木鼻と組物の拳鼻が上下に重なり、頂部にも拳鼻が上下二段に重なります。しかし、全体的には装飾の少ない端正な建物の印象を受けます。この社殿は、近世には崇徳天皇の御影を安置していたようで、頓証寺との寺号もありました。しかし、崇徳上皇殿は建築形式としては神社本殿の形式です。それなら、なぜ神社にせずに「頓證寺」なのでしょうか? その宗教的位置付けはよく分かりません。なお、延宝8年建立の棟札には「崇徳天皇御社」と記されています。

白峯寺 頓證寺殿十一面観音
本地堂の十一面観音堂(崇徳上皇の本地仏)
本地堂(十一面観音堂) (1680 棟札)
 面三間、側面二間、背面二間、宝形造、向拝一間、本瓦葺   
白峯寺拝殿の東より後方5mほどの所に立つ宝形造の仏堂です。
本地堂は十一面観音堂・十一面堂とも呼ばれており、崇徳天皇の本地仏十一面観音を祀る建物で、建築形式も仏堂の形態をとっています。
正面は柱間三間ですが、側・背面は二間なので、二間堂と呼ぶべきと研究者は指摘します。組物は出三斗と簡素ですが、肘本に笹繰を付けられ、壁から外へ出る肘木には拳鼻を載ります。小規模な仏堂ですが。「丁寧で気の利いた意匠」と研究者は評価します。
白峯寺 頓證寺本地堂
頓證寺殿 本地堂向拝見返し
 内部には柱がなく、背面柱筋に寄せて仏壇を設けています。

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頓證寺殿の相模大権現の額

白峯権現堂(鎮守堂)  一間社流造、鋼板葺    延宝八年(1680 棟札)
白峯寺拝殿の左奧後方3mほどの所に立つ流造の社殿です。組物はすべて連三斗、中備は蟇股、妻飾は虹梁大瓶束を用いた簡素な流造で、「特徴がないのが特徴」の社殿のようです。天鼻・拳鼻は、隣の崇徳上皇殿とよく似ています。また、浮彫の絵様を彫りだした懸魚、垂木先端に金具を打つ丁寧な仕事ぶりは、拝殿背後の三棟に共通していると研究者は指摘します。
白峯寺 頓證寺白峰大権現妻飾
白峯寺頓證寺殿 白峰大権現妻飾

怨霊化した崇徳上皇は大天狗となって祟りを振りまいたとされますが、その子分として活躍したの相模坊です。彼は天狗信仰の持ち主の修験者で、後世には白峰大権現として祀られるようになります。
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拝殿前の白峰大権現像
中世の白峰山は天狗信仰で有名でした。これを真似て象頭山金光院も金比羅を天狗信仰の中心地にしようとします。近世初頭の白峰も金比羅も天狗信仰(大権現)の拠点であったことが、このような形で残っているようです。崇徳上皇を祀った社殿とは違って、建築形式も最も一般的な神社本殿の形式を採っています。
以上からは頓證寺拝殿は、背後の崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂の三棟に対する拝所で、三棟で共用できる桁行の長い拝殿を建てたことが分かります。
現在は、三棟と拝殿は廊で結ばれていますが、そこに使われている材料からは近代になってから付け加えられたものと研究者は指摘します。それを19世紀に描かれた3つの絵図で確認してみましょう。

白峯寺 頓勝因拝殿変遷

一番上の寛政十二年(1800)刊行の「四国遍礼名所図会」にはそれらしいものが描かれています。真ん中の弘化四年(1847)刊行の「金毘羅参詣名所図会」や一番下の嘉永六年刊行の「讃岐国名勝図会」には、それらしいものは描かれていません。現在の廊が近代になって作られたことは、ある程度裏付けられるようです。
 どちらにしても、三棟を一間おきに拝殿に接続するプランで拝殿が建てられていることには違いありません。このように神仏を祀る複数の建物を、ひとまとめにするような拝殿はほとんど例がないようです。例としては、円教寺(兵庫県)鎮守の乙天社と若天社の二棟の護法堂の前には、桁行七間の拝殿がありますが頓証寺のような規格性は見られません。護法堂と拝殿との間も大きく開いています。頓証寺は全体の配置が極めて独特なのです。このような今までにないプランを指示できるのは、松平頼重しかいないように私には思えます。

17世紀末に造られた頓證寺拝殿は、どのように使われてきたのでしょうか?
今は一間おきに、背後の三棟に対応するように、密教の壇が設えられています。が、かつては崇徳天皇・本地仏・相模坊のそれぞれに対して、密教の修法が行われていたことがうかがえます。しかし、それだけではなかったことを教えてくれる史料が残っています。慶応四年(1868)八月に勅使が来た際の堂内の荘厳を示す「頓証寺荘厳図」(白峯寺聖教宝蔵80-72)です。

白峯寺 頓證寺荘厳図2
「頓証寺荘厳図」

これを見ると、大壇は中央にのみ置かれ、両脇間の背面に寄せて三宝に載せた御供と御神酒が供えられています。西端の二間分には勅使の座が設えられています。おそらく崇徳上皇御忌日に勅使が参拝したものでしょう。この時には、三壇は置かれていません。
 再建以前の頓証寺本地堂は「六間四面」の建物であったのを四宇に分けたものと延宝七年(1679)本地堂再建棟札に記されています。また承応二年(1653)刊行の「四国遍路目記」にも、その内部について次のように記されています。
其傍二九間四面ノ堂ヲ立テ、中ニハ天皇ノ御影、是ハ御法体ノ時、仁和寺ニテ御震筆二遊シ絵像ナリ、前ニハノ御母義御持尊ノ阿弥陀ノ三尊在り、大壇ノ中央ニハ使者ノ鳶ヲ木像二造テ在、右ハ相模坊自作ノ像在、是ハ頭襟結袈裟スル袴ニテ、有ニハ剣ヲ持、左二念誦フトリ玉フ中々恐キ体也、其前二天皇御守本尊在、中ハ釈迦、左右二大師卜太子ノ像在り、前二相模坊、左右二不動毘沙門也、

意訳変換しておくと
その(白峯陵)傍らに九間四面の堂を建立し、中には崇徳天皇の御影が安置された。これは、御法体の時に仁和寺で御震筆二遊シ絵像である。そこには御母御持尊の阿弥陀三尊があり、大壇中央には使者の鳶木像で造ったものある。右には、相模坊自作の自像がある。その姿は頭襟結袈裟の袴姿で、右手には剣を持ち、左には念誦る姿で、恐しき姿である。その前に天皇御守本尊(十一面観音?)があり、真ん中に釈迦、左右に大師と太子の像がある。前に相模坊、左右二不動毘沙門が置かれている。


ここからは、中世には「崇徳上皇御影 + 阿弥陀三尊 + 鳶の木像 + 相模坊自作の自像 + 十一面観音 + 釈迦・太師・大師 + 不動明王・毘沙門天」などの多くの神仏が置かれていたことが分かります。これが中世の「白峰寺 + 頓證寺」をとりまく宗教的な環境とも云えます。まさに神仏混淆です。ここから拝殿の前身は、崇徳上皇の御影堂というべき建物だったと研究者は考えています。

江戸時代初期になって、中世の白峰寺の姿を描いたとされる「白峯山古図」には、この拝殿はどのように描かれているのでしょうか。
白峯寺古図 本堂への参道周辺

ここには、頓證寺には拝殿や三棟はありません。ただ一棟の「御本社」と勅額門が描かれているだけです。白峯寺古図については、以前にお話したように、絵図の中に描かれている2つの三重塔が発掘調査で確認されていて、その「情報信頼度」が高い絵図です。
ここからは中世には、頓證寺は「御本社」1棟のみで、崇徳上皇の御影堂的な性格であったことが裏付けられます。とすれば、1680年の再建で、頓証寺は大きく「変容」したことになります。つまり、この時に、御影・本地仏・相模坊などが、一堂にあったものを、それぞれを祀る建物と拝殿に分離したのです。この背景には何があったのでしょうか? そこには、近世の国学思想に基づく神仏分離の思想が背景にあったと研究者は考えています。
松平頼重の心の内を覗いて見ると、次のようなものだったと私は考えています。
白峯寺を崇徳上皇慰霊の聖地として復興させよう。そのためにまずは、慰霊施設となる頓證寺を再建させる。その際に、いまの「御本社」の状態は何とかしなければならない。御影とその他のものが一堂に秩序なく、並べられているのは恐れ多いことである。崇徳上皇の御影以外をすべて排除するのは、抵抗が大きく、白峯寺の僧侶たちの同意も得られないだろう。とすれば、崇徳上皇の化身である十一面観音と、相模坊信仰の白峰大権現は別の建物を建てて、そこに祀ろう。そして拝殿は共通にする。限りなく神式であるが運営は、僧侶たちが行う。そんな構想で頓證寺の整備計画を進めさせよう。

「応永十三年(1406)の奥書を持つ「白峯寺縁起」には、次のように記されています。
建長五年(1253)に崇徳上皇の菩提を弔うために二十一日の供僧を定め、二十一口の供僧を定め、「十二時不断の法花の法」を修すこととし、翌六年からは法華会と称した

十六世紀後期に書写された「建長年中当山勤行役定」も「毎年八月法花会法事」と記します。
ここからは、次のようなことが分かります。
①中世には崇徳上皇の菩提は、仏事によって弔われていたこと。
②「法花会法事」を担った供僧二十一人は、中世末期の十六世紀の「八講人数帳」「恒例如法経結番帳」に記された院家数と一致すること。
天皇の菩提を弔う供僧が、そのまま寺院を構成する院家となって近世まで受け継がれる例は、京都鳥羽の安楽寿院にもあるようです。天皇の墓を核とした白峯寺でも、このような寺院組織の形成と継承が行われていたと研究者は推測します。そうだとすると崇徳上皇の墓が設けられる以前からあった白峰寺は、13世紀中期以降は頓証寺の供僧二十一口を構成メンバーとする新たな寺院に転換したとして、研究者は次のように指摘します。
頓証寺の供僧集団が前身寺院(白峯寺)を継承し、近世にいたって、頓証寺の伽藍を再編し、白峯寺も再興した

と見ることもできると研究者は指摘します。そのような変容を経た姿が現在の頓証寺と白峯寺と云うのです。
以上をまとめておきます。
①白峯寺は経済的に藩の庇護を受けていただけではなく、藩お抱えの宮大工集団が派遣されて、堂宇の造営・修理に当たっていたことが棟札からは分かること。
②白峯寺と頓証寺の境内は、17世紀後期に松平頼重によって再興され、さらに19世紀前期までにいくつかの建物が改築され、現在に至ること。
③これらの建築物は、高い技術をもった大工集団の手によるもので、その質は高い。
④とくに頓証寺の堂舎は質的な高さに加えて、従来の中世以来の崇徳上皇を祀る施設を、機能毎に分離して近世的な施設に変容させた独特の建築構成を持っていること。
研究者は④を、建築史的に高く評価します。崇徳上皇殿などの三棟を後方に控える間口七間の拝殿は、松平頼重の宗教政策の中からうまれてきたプランの可能性が高いと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献
  山岸 常人 白峯寺の建造物  調査報告書NO2(2013年) 香川県教育委員会

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白峯寺の重要文化財指定記念行事
久しぶりに白峯寺を訪れて、驚いたのは国の重要文化財に指定されている建物が増えていることです。以前は、十三重石塔だけだったと思うのですが一度にまとめて9つの建物が指定されています。十年ほど前に調査報告書が出されて、その価値が改められて認識された結果のようでです。県民としては誇らしいことです。ということで、今回は重文指定になった白峯寺の堂舎を追いかけてみようと思います。テキストは、「山岸 常人 白峯寺の建造物  調査報告書NO2(2013年) 香川県教育委員会」です。
  まずは、2017年7月に重文指定を受けた建物9棟を確認しておきます。
①本堂(附:厨子)
②大師堂(附:厨子、棟札1枚)
③阿弥陀堂
④行者堂(附:棟札1枚)
⑤薬師堂
⑥頓證寺殿(崇徳上皇殿、本地堂、白峯権現堂、拝殿)(附:棟札7枚)1680年(延宝8年)建立
⑦勅額門
⑧客殿(附:棟札1枚)
⑨御成門(附:棟札3枚)(附指定)勅使門、七棟門
   これらの建物を建築世紀で分類すると次のようになるようです。近世に建てられたものが15棟あります。その建立年代を下表で確認しておきましょう。
白峯寺 建造物建立年代

17世紀 8棟
18世紀 3棟
19世紀 4棟
 これらの建物は、すべて近世か近代に建てられたもので、中世に遡るものはないようです。この中で頓証寺の5棟は同時期に、高松藩主松平頼重によって建てられています。また、阿弥陀堂は境内の最古の建造物であり、装飾が少なく他の堂舎は一線を画する建物とされます。以上から現在の白峯寺の伽藍配置は、17世紀後期には、現状の体裁を整えていたと研究者は考えています。

ここで疑問に思うのは、本堂(千手院)は生駒藩の支援や院主別名の勧進で慶長9年(1604)に、再建されたばかりだったはずです。また、頓証寺も寛永20年(1643)に再興されていたことが棟札から分かります。ところが、本堂も頓証寺も、あまり時を置かずに再度建て直されています。これは何故なのでしょうか? 私に思いつくことは、次の2つくらいです。
①寛永年間までの再興事業が充分なものではなく、松平頼重は整備計画の一からのやり直しを始めた
②何らかの災害を被ったために、新たな構想に基づく新規の整備事業を始めた
松平頼重の白峯寺整備計画を年表化すると次のようになります。
寛永20年(1643)崇徳上皇慰霊のための頓證寺再興 →延宝8年の再築 
万治 4年(1661)阿弥陀堂建立寄進。その維持料として青海村北代新田免10石寄進。
延宝 7年(1679) 御本地堂を再建立、
延宝 8年(1680)崇徳天皇社・相模坊御社・拝殿の再建立、勅額門建立
元禄 2年(1689) 崇徳院陵の前に、一対の石燈籠を献納
本堂も建立年代を伝える史料はありませんが、頓証寺の堂舎とほぼ同時期の作と研究者は考えているようです。この年表を見ると、「新整備計画」の最初に建立されたのが阿弥陀堂(1661年)になります。あるいは、「新整備計画」の計画前に建立された「中世的な最後の堂宇」の可能性もあります。

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白峯寺阿弥陀堂

まずは、白峯寺で一番古い阿弥陀堂から見ていくことにします。
阿弥陀堂 正面三間、側面二間、宝形造、本瓦葺   万治四年(1661 記録)

白峯寺阿弥陀堂平面図
白峯寺阿弥陀堂平面図

白峯寺本堂の北にあるのが阿弥陀堂で、土壇基石の上に正面3間、側面2間の宝形造りの小さな建物です。中央に阿弥陀三尊、その後ろの壁面に十段の階段が作られ、高さ16cmの木造阿弥陀如来小立像が千体並べられているので、「千体阿弥陀堂」とも呼ばれていたようです。

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白峯寺阿弥陀堂 (柱は円い) 

柱は細めの丸柱で、柱は床下まで丸く造られていること、彫刻の少ない簡素な形式であることから、「中世的な建築技法を踏襲している建物」と研究者は指摘します。つまり、阿弥陀堂建立までの白峯寺の建築物は「中世的」様相が強かったようです。それが阿弥陀堂以後に姿を現す建物は、近世的な様式にモデルチェンジしていきます。そこには施主である松平頼重の意向が強く出ているのかもしれません。この建物以後は、白峯寺の建物は「近世的」なものに様変わりしていくことを押さえておきます。
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白峯寺阿弥陀堂説明版
 ちなみに真言宗と阿弥陀信仰は、現在ではミスマッチのように思えますが、中世においては高野山自体が念仏聖たちによって阿弥陀信仰のメッカになっていました。中世の白峯寺も阿弥陀念仏信仰の拠点として、多くの高野聖たちが活動していたことは、先に見てきたとおりです。その「真言系阿弥陀念仏」の信仰施設だったと考えられます。

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白峯寺の頓證寺拝殿
阿弥陀堂建立後の10年後に、松平頼重が取り組むのが崇徳上皇慰霊のための施設である頓證寺の堂舎群です。
勅額門・拝殿・本地堂・崇徳天皇社・相模坊御社の再建に一気に取りかかります。これについては、次回にお話しします。頓證寺の堂舎群と同時並行的に姿を見せたのが、本堂だと研究者は考えているようです。

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白峯寺本堂

白峯寺本堂を見ておきましょう。
「本堂  桁行三間、梁間三間、入母屋造、向拝一間、本瓦葺     十七世紀後期」

白峯寺 本堂1
白峯寺本堂

白峯寺の中心となる堂字です。規模の大きな三間堂で、柱は太く安定した重厚感のある建物です。組物は出組で拳鼻を付け、中備は蚕股に双斗を置く和様を基調としています。が、向拝の繋ぎには海老虹梁を用います。また、垂木を扇垂木とする点に禅宗様の要素が色濃く表れていると研究者は指摘します。内部は一室で、後方に来迎柱・須弥壇を構え、厨子を置きます。天丼は二重折上天丼で上質に作られています。

白峯寺本堂内厨子
白峯寺本堂内の厨子
 本堂内の厨子は方一間、入母屋造、妻入、正面軒唐破風付、本瓦形木瓦葺で、禅宗様四手先、詰組の組物です各組物には尾垂木が三本使われ、繰形の付いた華やかなもので、扉の入子板には地紋彫りがほどこされています。「極めて質の高い厨子」と研究者は評価します。

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白峯寺本坊御成門
本坊御成門   享保九年(1724 棟札)
桁行一間、梁間二間、切妻造、正・背面軒唐破風付、鋼板葺 
規模の面ではやや小規模ですが特徴的な四脚門です。例えば、控柱の足下の反りを見てください。極端といえるほど反り返っています。ここまでの反りは、あまり例を見ないものだと研究者は指摘します。
 親柱を控柱より高く作り、海老虹梁で繋ぐスタイルは、頓証寺勅額門とも共通します。同系統の大工集団が担当していたことがうかがえます。
 すべての肘本を繰形付とし棟通りに大きな蟇股を置き、三ヶ所の蟇股にすべて仙人の彫刻が彫ってあります。虹梁絵様はよく発達し、十八世紀前期から中期の建築の質の高さをよく示していると研究者は指摘します。独特のスタイルと質の高い技術の御成門は、「小粒ながら境内でもひときわ優れた名作」と研究者は評価します。
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白峯寺行者堂
行者堂 安永八年(1779 棟札)
 正面三間、側面三間、宝形造、向拝一間、本瓦葺  
本堂・阿弥陀堂よリー段下がった斜面に立つ小堂で、役行者と閻魔などの十王を祀ります。

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研究者の講評を見てみましょう。
角柱を用い長押も用いない簡素な形式で、内部も背面に作り付けの仏壇を構え、側面には後補の棚風の仏壇を付けた簡略な構え。
中備蟇股の内部は白峯寺拝殿のそれと同意匠の人字形割束風。
厨子は方一間の入母屋造、妻人、軒唐破風付で尾垂木付の二手先を詰組として、彩色を施す上質なもので17世紀後期の作。
白峯寺 行者堂内の厨子
           白峯寺行者堂内の厨子
つまり、中に収められた厨子と建物が同時代のものではないようです。厨子は「現在の行者堂の前身堂か別の建物の厨子」と研究者は考えています
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白峯寺七棟門 

七棟門  十八世紀後期
一間、高麗門、本瓦葺、両脇袖塀、切妻造、本瓦葺          
白峯寺・頓証寺の惣門の役割を持ちます。太い柱を用い、やはり大い角格子の扉を構えた高麗門で、両脇の塀の二段に低くなります。屋根共々、城を思わせる堅固な構えを見せています。

白峯寺 大師堂2
白峯寺大師堂
大師堂  文化八年(1811 棟札)
正面三間、側面三間、宝形造、向拝一間、本瓦葺、背面軒下張出付、本瓦茸、背面下屋庇付板葺                         

本堂と並んで立つ三間堂で、本堂よリー回り小さく見えます。その狭さを補うためか背面の軒下まで堂内に取こんで、さらに下屋を付けています。頭貫をすべて虹梁形とする点が特徴で、垂木は本堂とちがって平行垂木です。頭貫その他の虹梁絵様や中備蟇股は雲紋が彫られて、いかにも19世紀らしい意匠を備えています。寛政四年の勧進の版木が残されているので、早くから建設が企画されていた事が分かります。
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白峯寺薬師堂
薬師堂(金堂)十九世紀前期
正面三間、側面三間、二重宝形造、本瓦葺           
頓證寺の拝殿の上、行者堂の下に立つ二重屋根の三間堂です。何かしらか細い塔ような印象を私は持ちました。下層は角柱で、組物は出三斗を組んで軒は平行垂木、上層は円柱を用いて尾垂木・拳鼻の付いた出組で扇垂木。ここから「一間裳階付禅宗様仏殿」と研究者は考えています。県下では、この形式は他にないようです。

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白峯寺薬師堂(金堂)
研究者の講評を見ておきましょう。
下層内部の四本の柱は、裳階の三間の中央間より柱間が広いので、裳階柱と内部を繋ぐ海老虹梁は円柱には挿さらない。円柱を繋ぐ虹梁形飛貫に大瓶束を立てて、そこへ海老虹梁を挿す。(第89図)。
上層の組物の尾垂木は拳鼻の変形で、そこ雲紋を彫り、さらにその上に重ねて同様に雲紋を彫った拳鼻を付けられています。そのため組物廻りは相当に賑やかになっている。(第90図)。
 下層内部は、背面に寄せて間ロー間の厨子を造り、厨子と円柱の間も貫・台輪で繁いで屋根もそのまま延ばす。間口三間の入母屋造妻入の厨子は、二段に尾垂木を付けた三手先組物を詰組として、厨子全体を黒と朱で彩色する蒙華なもの。(第91図)
上から89図 90図 91図
白峯寺 薬師堂内部
白峯寺薬師堂の内部

薬師堂については建立年代を示す史料がありませんが、一間裳階付仏殿の形式、柱の配置とそれにともなう架構の妙、壮麗な厨子、上層の豪華な組物など、「多彩な特徴を備えた十九世紀前期の秀作」と研究者は評価しています。

弁天社十九世紀前期  一間社、流見棚造、銅板葺                      
護摩堂の西に立つ一間社流造の小社です。寛政十二年刊行の「四国遍礼名所図会」に、現在地と見られる場所の池の中に小社が描かれています。弘化四年刊の「金昆羅参詣名所図会」にはそれを弁天社と記していますので、江戸時代後期からこの場所にあったことが分かります。今の建物は十九世紀初頭に建て直されたものと研究者は考えています。

本坊勅使門    一間、棟門、切妻造、鋼板葺      19世紀前期
白峯寺の山門である七棟門をくぐって、本坊の西面に開く小さな門です。御成門や頓証寺勅額門と同じように、親柱棟まで到達させる形式で、「細部の意匠も独特な華麗がある上質の建物」と研究者は評価します。
 本坊の客殿は延宝年間に建立されたと伝えられ、隣接する玄関もそれに次いで18世紀前期までに建てられたと研究者は推測します。
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白峯寺山王九社
また大師堂の東の階段を上った一段高い所に立つ山王九社は「九間社流見世棚造」で、鉄板葺の簡素な建物ですが、白峯寺の天台教団との関わりを示す重要な建物と、研究者は指摘します。ただし今の建物は近代に入って建て直されています。

髙松藩の支援を受けながら白峯寺の堂宇が整備されてきたことを見てきました。その成果を、19世紀に書かれた絵図で見ておきましょう。
白峯寺 金毘羅参詣名所図会(1847)3
白峯寺 (金毘羅参詣名所図会(1847年)
ここには白峯寺の洞林院本坊を中心に、白峯寺の東半分が描かれています。茶堂があるのが現在の駐車場。そして稚児川にかかる橋を渡ると、総門の七棟門。その参道の右に大きな敷地を占のが洞林院本坊です。そして参道に面して、御成門と勅使門が並びます。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)
白峯寺 讃岐国名勝図会(1853年)
讃岐国名勝図会を見ると現在の堂宇配置と基本的には変わらないものになっています。
香川県内の四国八十八ヶ所札所寺院の中には、五間堂の本堂を持つ寺院と三間堂以下の規模の寺院があります。これは中世以来の各寺院の歴史を反映したものなのでしょう。白峯寺境内には五間堂以上の大規模な仏堂はなく、三間堂およびそれに類するものばかりです。境内の三間堂は阿弥陀堂・頓証寺本地堂、本堂・行者堂・薬師堂・大師堂の六棟です。阿弥陀堂は藩主松平氏の本格的な造営支援が始まる以前の古風な仏堂で、境内では異質な存在であることは先の見たとおりです。
 本堂は六棟の中で最大規模で、軒を扇垂木とする点は特異ですが、それ以外は正統的な仏堂です。薬師堂は変わった柱配置と意匠を持った一間裳階付の禅宗様仏殿風の個性豊かな建物です。門は、頓証寺勅額門・御成門。勅使門・七棟門の四棟があって、それぞれ形式を異にしています。それだけでなく、七棟門以外は親柱を棟まで伸ばす点が共通します。勅額門・御成門は、やはり形式・意匠の独自性にあふれた優品で、髙松藩のお抱え宮大工の技量の高さをしめすものです。それが、今回の9件の建築物が一括して重要文化財に指定されることになった背景のようです。
崇徳上皇陵と頓證寺 讃岐国名勝図会拡大
讃岐国名勝図会部分拡大

以上をまとめておきます。
①頓証寺の崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂・拝殿の四棟の建物、勅額門は同時期に―連の工事で建てられた極めて上質の堂舎群であること
②頓證寺の建築物と同時並行的に、本堂も工事が進んでいたこと。
③これらの工事は松平頼重によって進められていたこと
④17世紀後半になると、崇徳上皇600回忌に向けて、境内の整備計画が5代松平頼重によって進められたこと
⑤本坊客殿・御成門も同時期の一連工事によるものであること。
⑥これらの工事には、藩の宮大工たちが継続して投入され、意匠も共通する要素が多いこと
⑦それは、残された棟札に藩の外護が記されており、伽藍全体が高松藩の経済的支援とその配下にある大工たちによるものであること。

重要文化財に指定された建物群は、17世紀後半に髙松藩初代藩主の松平頼重の「白峯寺伽藍整備新プラン」の下に建てられた建物が中心になっていることが分かります。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  山岸 常人 白峯寺の建造物  調査報告書NO2(2013年) 香川県教育委員会
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讃岐は記録を見ると、近世には約5年に1度は千魃が起きています。特に寛永3年(1626)・明和7年(1770)・寛政2年(1790)・文政6年(1823)が大千魃の年であったようです。この干魃に対して、藩専用の雨乞い祈祷寺院として、丸亀藩は善通寺を、多度津藩は弥谷寺を指定していました。それでは、高松藩の雨乞い寺院は、どこだったのでしょうか。

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白峯寺の善(女)龍王社

 白峯寺に紫陽花を見に行きました。

伽藍の中で一番上にある本堂と大師堂にお参りして、ついでに洞林院跡を見ておこうと思って東に伸びる道を辿ろうとすると堀に囲まれて「善如龍王」の小さな社がありました。
2善女龍王 神泉苑g
神泉で雨乞い祈祷を行う空海とそこに現れた子蛇(善如龍王)

善女龍王については、これまでも紹介しました。空海が平安京で、雨乞い祈祷を行った際に祈った水神とされます。姿は、時と共に次のように「進化」します。
当初は  表記は「善龍王」で、姿は「小さな蛇」
高野山で、表記は「善龍王」で、姿は「唐服姿の男子像にしっぽ」
醍醐寺で 表記は「善龍王」で、姿は「女神化」
この変化の背景には、雨乞い祈祷の主導権をめぐる醍醐寺の戦略があったことは、以前にお話ししました。ここでは醍醐寺によって女神化する以前には、龍王は「善如龍王」と表記され男神像として描かれていたことを思い出します。それでは白峯寺の龍王は、どうなのでしょうか。
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白峯寺の雨乞い水神は「善龍王」と書かれていた

社殿には「善如龍王」と書かれています。帰ってから白峰寺に残されている善如龍王の絵図を見てみると次の通りです。
白峯寺 善女龍王2
白峯寺の善如龍王(後に龍のしっぽが見える)
  唐の官僚衣装を身につけた男子像姿です。ここからは次のようなことが分かります。
①白峯寺では水神「善如龍王」に対して雨乞い祈祷が行われていた。
②水神は醍醐寺の「善女龍王」ではなく高野山スタイルの「善如龍王」であること
③これは白峯寺が高野山と直接的に結びつき、人とモノの交流が頻繁に行われいたために高野山の雨乞い方式が伝えられたことによる
善女龍王
女神化した醍醐寺系の善女龍王

2善女龍王の表記1

それでは白峯寺の雨乞祈祷は、どのように行われていたのでしょうか。
「白峯寺大留」・「白峯寺諸願留」の中に、高松藩が干魃に際して白峯寺に雨乞祈祷を行なわせている記事が多く出てきます。それを今回は見ていくことにします。テキストは「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
5善通寺
善通寺の善龍王社

白峯寺の最初の雨乞いの記事は、宝暦12年(1762)のものです。
崇徳上皇600年回忌の前年で、それに向けて白峰寺の伽藍整備計画が髙松藩藩主松平頼恭によって進められていた頃になります。
雨が降らず「郷中難儀」しているとので、旧暦5月11日に髙松藩の年寄(家老)会議で白峯寺に雨乞祈祷が命じられ、米5俵が支給されています。この雨乞いの通知は、白峯寺から阿野郡北の代官と大政所へ伝えられています。雨乞い中に少しの雨は降りますが、効果はなく雨乞祈祷は27日まで行われます。28日に「能潤申候」と記されているので本格的な降雨があったようです。白峰寺の霊験の強さが実証されたことになります。ちなみに、白峯寺の善如龍王社もこの時期に、境内に姿を見せるようです。

2善女龍王 高野山
高野山の善如龍王 (小さな尻尾が雲の中から見える)

文化3年(1806)には、5月7日に雨乞いが命じられます。
この時には翌日8日から10日朝まで祈祷が行われます。が、効果がありません。そこで髙松城下へ場所を移して、11日に大般若祈祷を勤めて、12日から雨乞祈祷を再開しています。15日になってようやく降りますが、それも「潤沢」ではなかったようです。そこで、白峰寺の法力だけでは不足とされたのでしょうか、22日からは五智院(阿弥陀院?)・地蔵寺・国分寺・聖通寺・金蔵寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・虚空蔵院・白峯寺の十か寺が揃って雨乞祈祷を行っています。この十か寺は、各郡に一か寺ずつ置かれていた「五穀成就之御祈祷」に指定されていたお寺でもあるようです。
郡奉行からは、雨が降るまで雨乞い修法を行うように命じられています。エンドレス祈祷の始まりです。ようやく待望の雨が25日に降りますが「潤沢」ではありません。そこで白峯寺は27日に6月朔日までの降雨祈蒔修法を行う事を寺社役所と郷会所へ伝えています。さらに6月朔日には、引き続き修法を行うことにしています。しかし、その後も降雨はありません。6月19日には、再び十か寺へ26日までの雨乞修法を行うことになります。この時の十か寺の合同修法は、五智院へ他の九か寺が集まって実施されています。この時の干魃がいつまで続いたかはわかりません。雨乞いは、エンドレスであったことを押さえておきます。この時には、5月7日から始まって6月26日まで祈祷しても雨が降らずに、その後も続けられたようです。

2年後の文化5年にも6月22日に雨乞執行が命じられ、翌日の23日晩から行われています。この時は、28日晩から大風雨となったため、雨乞執行は期限通りに9日で終わっています。

文化14年の旱魃の時には郡奉行から、雨乞祈祷を行うように命じられています。
22日から白峰寺で祈祷が始まり、開始5日後の27日に降雨があっりました。そのため十か寺の合同雨乞祈祷は行われませんでした。
このように白峯寺は、高松藩の雨乞祈祷担当寺院でもあり、藩からの依頼に応えて雨乞祈祷が行われていたのです。

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白峯寺の善如龍王社

19世紀になると、地域の村々も白峯寺に雨乞い祈祷を依頼するようになります。
文化2(1805)年に、林田村の大政所(庄屋)からの「国家安全、御武運御兵久、五穀豊穣」の祈祷願いがあり、5月から行っています。(「白峯寺大留」7-6)。
文化4(1807)年2月に、祈祷願いが出されたことが「白峯寺大留」に次のように記されています。(報告書312P)
文化第四卯二月御領分中大政所より風雨順行五穀成就御祈蒔修行願来往覆左之通、大政処より来状左之通
一筆啓上仕候、春冷二御座候得共、益御安泰二可被成御神務与珍重之御儀奉存候、然者去秋以来降雨少ク池々水溜無甲斐殊更先日以来風立申候而、場所二より麦栄種子生立悪敷日痛有之様相見江、其上先歳寅卯両年早損打続申次第を百姓共承伝一統不案気之様子二相聞申候、依之五穀成就雨乞御祈蒔御修行被下候様二御願申上度候段、奉伺候処、申出尤二候間、早々御願申上候と之儀二御座候、
近頃乍御苦労御修行被下候様二宜奉願上候、右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
二月             
和泉覚左衛門
奥光作左衛門
三木孫之丞
宮井伝左衛門
富家長二郎
渡部与兵衛
片山佐兵衛
水原半十郎
植松武兵衛
久本熊之進
喜田伝六
寺嶋弥《兵衛》平
漆原隆左衛門
植田与人郎
古木佐右衛門
山崎正蔵
蓮井太郎二郎
富岡小左衛門
口下辰蔵
竹内惣助
白峯寺様
   意訳変換しておくと                                                                 
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 この庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、弥谷寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。その関係が、近隣の村々の有力者の支持や支援を受けることにつながって行きます。以前にお話しした弥谷寺でも、多度津藩の雨乞祈祷寺院になることで、大庄屋の支持を得て、彼らの墓碑が建てられ、いろいろな奉納物が寄進されるようになりました。白峯寺でも祈祷を通じて、地域の願いを受け止め、「五穀成就」を願う寺として、人々の信仰を集めるようになっていきます。
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白峯寺の善如龍王社

文化7(1810)年には、青海村単独での五穀豊穣・雨乞い祈祷の依頼がありました。

文化七午年十一月十一日、青海政所嘉左衛門殿致登山申様ハ、当秋己来雨天相続、此節麦作所仕付甚指支難渋仕候、依之大小政所評定之上二夜三日之間、五穀成就御祈稿修行頼来候所、折節院主出府仕居申候二付、義観房私用も有之二付致出府、示談仕、当十四日より十六日迄之間、常例之通二五大虚空蔵法修行仕候様、相決し、院主十二日二帰峰仕、十四日より十六日迄五大虚空蔵法修法仕、助呪等諸事例月之通、尤導師意楽二而止風雨之本尊大檀向之右之方江奉掛井修法申印明等相加江行法仕候、且又十五日中国二相当り朝大小政所井組頭共人九人斗致参詣、吸物酒井蕎麦切茶漬等致饗応候、但し役所向届方之義ハ勤方江相尋候処、郡方よりも申出不仕候旨二付、当山よりも役所江ハ届ヶ不仕候、

  意訳変換しておくと
文化七(1810)年11月11日に、青海村の政所嘉左衛門殿が登山してきて次のような依頼をした。この秋は雨天が続き、麦の成長がよくない。そこで、大小政所が集まって評定し、二夜三日間、五穀成就の祈祷修行をお願いすることになったという。
 しかし、院主が出府、義観房も私用で不在であることを告げ、相談した結果、十四日より十六日までの間、通例通りの五大虚空蔵法修行を行う事になった。院主は十二日帰峰し、十四日より十六日迄五大虚空蔵法を修法した。助呪などの諸事例は通例通りで、導師意楽が主催し、本尊大檀に向かって右側に奉掛や修法申印明などが位置して行法した。十五日朝には、大小政所や組頭たち九人が参詣し、吸物酒並びに蕎麦・切茶漬などを饗応した。但し、役所への届出については、藩の勤方に相談したところ、青海村単独の雨乞いなので必要なしとのことであった。そのため当山からは役所へは届けなかった。

ここらは「藩 → 綾郡の大政所 → 青海村の政所」と、依頼者が変化し「民衆化」していること。当初は雨乞い祈願であったものが、二毛作の麦も含めた「五穀豊穣」のための祈願と姿を変えながら「守備範囲」を広げていることがうかがえます。
5善女龍王4jpg
神泉苑の善女龍王朱印
文化10(1813)年の暮れにも、秋から降雨が少なく、溜池の水が減って麦・莱種子の生育がよくないとして、阿野郡北の大政所は「五穀成就雨乞」の祈祷を依頼しています。その翌年の文化11年4月に入っても雨が少なかったらしく、阿野郡北大政所の富家長三郎は白峯寺に出向いて、降雨祈蒔を願い出ています。この祈祷に続いて郡奉行からも引き続き祈祷を続けるよう命じられています。
 周辺の庄屋たちの依頼による祈祷活動を年表化しておきます。
文政3(1830)年「稲作虫指」のため「虫除五穀成就」の祈祷
文政7(1834)年 阿野郡北の大政所単独の祈願依頼。(要約)
青海村の政所嘉左衛間が白峯寺へきて、この秋以来雨天が続き、麦の作付けが困難になっているので、大・小政所が相談して、二夜三日の五穀成就の祈祷をお願いしたい。これに応えて、11月14日から16日に「修行」実施。15日には大・小政所と組頭8・9人が白峯寺へ参詣。
文政12(1839)年6月 阿野郡北の依頼で、「虫除五穀成就」の祈祷
PayPayフリマ|絶版 週刊原寸大日本の仏像12 神護寺 薬師如来と五大虚空蔵菩薩 国宝 薬師如来立像・日光菩薩立像・月光菩薩立像・五大虚空蔵菩薩
五大虚空蔵

最後に、どんな祈祷が行われていたのかを見ておくことにします。

先ほど見た1810年の史料には「通例通りの五大虚空蔵法を修行」
とありました。ここからは「虚空蔵求聞持法」を唱えながら護摩が焚かれたことが考えられます。しかし、これだけではよく分かりません。
文化五(1809)年6月の記録には、次のように記されています。
敷地書状政所へも届け申候、於頓証寺例之通り水天供執行荘厳等。前々之通り衆徒皆参 
初夜申刻ョリ             出座面々
    法印
一導師法印水天供          遊天
一衆徒助呪            義観
一一字ノ金ョリ吉慶讃三段ツ    有光
深賢 加行中

一十四日夜五ツ時少バラバラ雨降ル 真正
一廿七日、早てより終日日曇り五ツ時ホコリジメリニ降ル
一廿六日、香西植松武兵衛参詣〈西瓜大一酒二升/持参)
一廿七日西庄大政所参詣酒二升
一同日高屋政所来ル、初穂一メ
一廿八日晩方より日曇り夜九ツ時分より降出、翌十九日
終日大風雨二而、降雨廿八日栗原理兵衛、尾池彦太夫
二人同道二而参詣、右大風雨故、川越出来[  ]へ廿九日
滞留、翌晦日早て二帰ル
意訳変換しておくと
敷地書状を政所へも届け、頓証寺でいつものように水天供執行の荘厳を行う。 前例通りのメンバーが集まってくる 
初夜は申刻から祈祷が始まった。出座面々
    法印
一導師法印水天供          遊天
一衆徒助呪            義観
一一字ノ金ョリ吉慶讃三段ツ    有光
深賢 加行中

24日 夜五ツ頃 ぱらぱらと小雨が降る 真正
27日 晴天から終日曇りに変わり、五ツ頃から埃を湿らす程度に降ル
26日 香西の植松武兵衛参詣(西瓜大一つ 酒二升持参)
27日 西庄の大政所が参詣(酒二升持参)
 同日 高屋の政所も来る、初穂一〆
28日 晩方から曇り、夜九ツ時分から降り出す
29日 終日大風雨
右雨乞修行之届申
ここからは、祈祷が行われた場所や、白峯寺やその子院の住職が役割が分かります。実施場所については、私は善如龍王社の前で行われていたのかと推測していたのですが、そうではないようです。頓證寺を会場として荘厳したと記されています。頓證寺が白峰の公的な祈りの場であったことがうかがえます。
 面白いのは次の記録です。
26日 香西の植松武兵衛参詣(西瓜大一つ 酒二升持参)
27日 西庄の大政所が参詣(酒二升持参)
里の村々の有力者が、雨乞い祈祷を見守るために参詣しています。その際に、酒2升やスイカを持参しています。雨乞い成就の際には、それなりのお礼が行われます。そして、積もり積もって、土地寄進や灯籠などの寄進につながったようです。
翌年の文化6年も雨不足だったようで、雨乞い祈祷が次のように行われています。(要約)
5月14日晩方から雨乞修行を頓証寺に壇を設け荘厳して、修法水天供を始めた
一導師   院主増明法印
一助呪   義観房   自光房 善能房   深賢房
十四日の朝方にぽろぽろ降り始め、夜分にも少し降った。十五日には恒例の五穀祭りに、大小政所も参詣のためにやってきた。大政所の青海政所へ雨乞修行のことについて申聞させた。十五日の晩方から十六日朝まで大雨となった。そのため十六日朝には檀を撤去し、朝より法楽理趣三味となった。(後略)
ここからは、雨乞い祈祷が頓證寺の境内の中に壇を築いて、荘厳して行われたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」

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白峯寺の善如龍王社(雨乞いの水神)
 白峯寺は真言系修験者と関係が深かったので、雨乞いを始め、数々の祈祷が行われていました。例えば、幕末の文久3(1863)年写の「御上並びに檀那御祈祷帳」の中には、「五穀御祈予壽御札守」を1・5・9月の15日に髙松藩の寺社役所へ差し出していることが記されています。ここからは、白峯寺が髙松藩の公認の下に、領内農業安定のための祈祷を定期的に行っていたことが分かります。

この祈祷帳には、次のような祈祷依頼者名(檀那名)が記されています。
①瀬居島太郎兵衛(塩飽瀬居島)、積浦(庄内半島)30軒、宮浦25軒
②正月15日に「長日護摩切札」と「五穀御札」を阿野郡北の13か村へ11255枚配布
③正月15日に、各村の政所には五穀大札を配布。
④京都諏訪加兵衛・大坂鴻池市兵衛からの祈祷依頼
⑤備前下津丼講組の紀ノ國屋利右衛門をはじめ18人へ、下津井大黒屋三次郎・三好屋祐十郎を介して御守を配布
ここからは地元の阿野郡北との関係だけでなく、瀬戸内海の島々や対岸の下津井などの人々からも信仰を集め、その依頼に応えて祈祷が行われたり、祈祷札を配布していたことが分かります。

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白峯寺大師堂

寛政4(1792)年の「大師堂再建勧進」の版木には、次のように記されています。
「大師堂のミ仮堂のままにして、いまた経営ならされは、もろ人に助力を乞て、今や建立なさん事を希のミ」

意訳変換しておくと
大師堂だけが未だに仮堂のままである。再興計画が進まないので、諸人に助力をお願いして、建立に向けて動き出すことになった。

 ここには、再建計画が進まない大師堂について、「もろ人に助力を乞」うて、勧進僧達が活動を進める決意が述べられています。こうして、太子堂建設に向けての勧進活動が始まったようです。
白峯寺 伽藍詳細図
白峯寺伽藍図
その約10年後の享和3(1803)年8月には、阿野郡北の氏子が次の修復を藩に願いでて許可されています。
①御成御門西手入口の塀重門
②同所の石垣際東西20間、
③同所東打迫より勅額門までの石垣を石の玉垣にすること
③の石垣についてはこれまで「参詣人群集之節者危キ義」となっているのが解消されるし、「他所者等罷候節、見込みも宜相成」ると、危険箇所の改善にもなるし、参拝者の評判もよくなるとして白峯寺も歓迎しています。
19世紀になると、金毘羅大権現では石段や玉垣が整備され、参道が石造化していきます。それを進めたのは、阿波や土佐などの讃岐以外の参拝者の寄進活動でした。それが、白峯寺にも及んできたようです。金毘羅大権現と違うのは、寄進者が地元の信者たちであるということです。
白峯寺に関心持って 重文指定記念事業スタート 散華シールや御姿札を授与 | BUSINESS LIVE

白峯寺の石造物などの整備状況を年表化してみると
文化2年(1805)  西浜の嘉助による官庫宝前の石階の築造
文政12年(1829)「当山講中共」から伽藍本堂南の空地への、高さ一丈ほどの宝塔造立
天保12年(1841) 橋下権蔵・安藤庄兵衛による白峯大権現本社・十王堂の再建
「民間資本」の導入によって伽藍整備が進められているのが分かります。前回見たように白峯寺は江戸時代中期までは、高松藩主である松平家の保護、援助を受けることで伽藍整備が進められました。それが19世紀になると地元の阿野郡北の村々や氏子、当山講中、丸亀講中など民衆の援助によって、白峯寺の運営が維持されるという面も増えてきます。これは、金毘羅大権現や弥谷寺をめぐる状況と共通点が多いようです。
白峯寺 頓證額
頓證寺額
白峯寺には、丸亀城下に白峰講が組織されていました。その働きぶりを見ておきましょう。
宝暦13年(1763)は、崇徳院の六百年回忌にあたっていました。
そのため藩の許可を得て、2月から4月に「開帳」が行われることになっていました。そのため白峯寺の九亀講中が正月に、丸亀と多度津の船着き場へ案内建札を立てます。これに対して金毘羅大権現の関係者からクレームがつきます。金昆羅参詣者たちが白峯寺参詣へ獲られて、参拝者が減るという抗議です。これについて対応したのは、白峰寺ではなく、白峰寺の九亀講中の人たちでした。彼らは丸亀の町年寄へ願い出て、丸亀城下町の善通寺誕生院の旅宿「里坊」から、九亀藩寺社奉行へ立札設置許可を願い出るという手を打ちます。その結果、「開帳建札」は、丸亀藩の許可を得て、次の箇所に設置されることになります。
丸亀城下が新京橋・船入橋・中部(府)の三か所
多度津は米屋七右衛門が持参して立てること
    金毘羅大権現関係者も、丸亀藩の公式許可をえたことに、これ以上口出しはできません。
これについて後日、白峯寺は斡旋仲介を行ってくれた丸亀講中の次の有力者にお礼を持参しています。(「白峯寺大留」7-2)。
丸亀通町大年寄能登屋
松屋町大年寄竜野屋
阿波屋甚蔵
三倉屋茂右衛門
阿波屋伊兵衛
南条町電壁長右衛門
ここからは、丸亀講中のような白峰寺信仰を持つ有力者の応援部隊が形成されて、白峰寺の活動に対して積極的に協力していたことがうかがえます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」です。

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白峯寺本堂(松平頼重により再建)
白峯寺は近世初頭には生駒家、その後には高松藩の松平頼重の保護を受けて本堂などの再建を行っていったことを前回に見てきました。その後の伽藍整備は、どのように進められたのか、またその資金はどのように捻出したのかを今回は見ておこうと思います。テキストは
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」です。

白峯寺の財政基盤は、以下の寺領120石です。
①60石は生駒藩初代藩主生駒親正より寄進
②10石は高松藩初代藩主松平頼重より千躰仏堂領として寄付  (青海村の1町2反1畝23歩)
③50石は林田村の海岸での白峯寺の「自分開発」

寺領120石というのは、高松藩主の墓所法然寺と、城下菩提寺の成願寺の300石に次いで多い数字になるようです。しかし、白峯寺は120石という財政基盤を、無視した「過剰設備投資」を繰り返します。それを、崇徳院六百年回忌を翌年に控えた宝暦12年(1762)の財政状況で見ておきましょう。

崇徳上皇陵と頓證寺 讃岐国名勝図会拡大
讃岐国名勝図会(拡大図)
  白峰寺には、高松藩主第五代頼恭(よりたか)の名前の入った寛延3年(1750)の棟札が多いようです。この時には、賀茂社ほか8社の再建立、御滝蔵王社・華表善女竜王社の再興、十王堂・鐘楼堂の再上葺、諸伽藍の繕、崇徳院社幣殿・御本地堂廊下・相模坊社幣殿・御供所廊下・惣拝殿陵門の再上葺を行っています。さらに宝暦12年(1762)に客殿上門の再葺が行われています。ここからは、600年回忌に向けて、藩主頼恭が事前に各堂宇の修理・整備を計画的に行ってきたことがうかがえます。それでもまだ足りない部分があったようです。白峯寺は、本尊・諸宝物・寺修覆等の費用が不足するためとして、高松藩へ「拝借銀(借金)」を次のように願い出ています。
諸本尊再興残り・ 銀2貫500目
宝物御寄付物等再興 銀6貫目
御成門玄関・客殿玄関境露次門等 銀8貫500目
御成門御上段・ニノ間客殿貼付唐紙等諸造作 銀4貫目
以上、合計銀22貫目が必要経費として挙げられています。そのため銀20貫目の拝借とその返済として毎年25石の「上米」を行うことを藩に申し出ています。高松藩はこれを認めません。しかし、白峯寺は食い下がります。借金額が多くなっていて自力での費用確保できないとして、再度寺社奉行へ願い出ます。その結果、高松藩は銀8貫600目、毎年25石の上米で手を打とうとします。これに対し白峯寺は再再度、銀20貫目の拝借を願い出ています。最終的には拝借は、銀13貫500目、上米は35石で折り合いがついたようです。拝借銀の利子は1か年1割3歩、返済の上米は寺領米の中から35石を代官所へ毎年暮れに納めるということになります。

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白峰寺本堂裏の宝寿瓦
高松藩からの借金返済がどうなっているのかを見ておきましょう。
 崇徳院六百年回忌から約40年後の享和元年(1801)に、返済の上米35石が10石減らされています。高松藩と拝借銀をめぐっての値引き交渉があったようです。この年には、民間から銀札4貫500目を借用した証文写しがあります。藩ばかりではなく、民間の金貸業者からも白峯寺は借金していたことが分かります。証文には拝借人・白峯寺、加判(保証人)高屋村百姓佐一郎とあります。地元の有力者である「高屋村百姓」が白峰寺の保証人を務めていることに研究者は注目します。
 以上から、この頃の白峯寺は、旱魃や水害によって寺領米が思うように入らず、借金が重なり高利返済に追われていて、借入額が銀40貫にもなっていたようです。白峯寺の寺領収入は、先ほど見たように1年間当たり120石です。倹約してその内の60石で寺運営を行い、残りを借銀の返済に廻しています。しかし、これでは借金は減りません。金利払いのために借金を重ねるというという悪循環の中にあったようです。これは丸亀藩の善通寺と共通します。
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白峯寺大師堂
 そのような中で、最後に頼るのは髙松藩です。
高利の借金返済ににあてるため銀40貫目を拝借し、寺領米の中から年60石を返済財源とする財政建て直し案を、高松藩へ願い出ます。これが許されたら「去々年(寛政12)御金蔵二而、拝借仕元銀十貫目」の未納銀をも皆済するといっているので、これより以前にも藩から借り入れていたようです。そして髙松藩は、これを認めます。白峯寺は先にも触れた通り、髙松藩の祈祷寺でした。藩のオフィシャルな面を担う寺院だったので、放置して見放すわけにはいきません。

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頓證寺殿の看板
 ところが早くも2年後の文化元年には、返済に廻した残りの60石では、寺運営ができないので、返済米の半減と利子の減少を願い出ています。財政再建計画は、わずか2年で頓挫したようです。今度は髙松藩も認めません。3年後の文化5年になると、再度60石返納の半減願いが出されます。髙松藩は、妥協案として20石減らして40石の上納にすることを認めています。
崇徳院回忌650年が終わった文化10年11月には、回忌行事に要した諸経費や、本寺の御室御所や京都の公家衆の奉納物に対するお礼の上京などの費用のために、銀40貫目の借金を願い出ています。これは認められますが、拝借銀40貫目から、納め残りの22貫目を差し引いた17貫目を白峯寺へ渡しています。髙松藩もなかなかの対応ぶりです。(以上、「白峯寺諸願留」7-5).
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勅額門
4年後の文政元年には、拝借銀の5年間免除を次のように願い出ています。(「白峯寺大留 51」報告書309P)
口達之覚
拙寺義、古来より西新通町二而旅宿所持仕居申候処、先住時分より追々及大破候二付、修覆之義職人共江積せ候所、年占キ建前二而最早修覆二難相成由二付、建更積せも仕セ候処、余程之入用二相見、其上上打続種々物入多指支候二付、去ル酉年重キ拝借をも相願候所、銀四拾貫目御貸被下、毎歳御定之通、米六拾石ツ、無滞相納居申候二付、尚更普請手当無之、及延引居申候、右旅宿之義者、龍雲院様御入国以来於御城主御祈蒔執行被仰付、正五九月御城下江罷出候節、拙僧ならびに衆僧共多人数止宿仕来候、往占ハ諸役御免地之由二も伝承仕候得共、年古キ義二而書面二相記有之義二も無御座は成義ハ難相別、当時町並二相成居申候処、件之通、及大破居申候、其上時年之風雨二而所々崩れ止宿等も難相成候、
白峯権現之講席等茂難相勤候付、無拠法縁之義等願相勤候程之義二而、甚心配仕、色々相考申候得共、所詮難及自力、乍併前条中上候、先達而之拝借銀上納方二も年二寄指支候仕合、其上御時節柄と申、別段之拝借難相願、ゴ極当惑仕罷有候、依之近頃中上候兼候へ共、右拝借銀上納方何卒五ヶ午之間、御用捨被成下候様、本願度奉存候、左候ヘハ右御用捨米を引当旅宿普請手当仕度奉存候、呉々も御時節柄右様之願中出候段、奉恐入候、
御城内重御祈躊二罷出候義二付、拙僧井衆僧共多人数仮宅等二而ハ、指支候次第茂御座候間、不得止事御歎申上候、此段宜御賢慮被下候様、奉願候、
以上
寅十月     白峯寺
右之通御勘定所江願指出候所、同月下旬願之通相済、尤三ヶ年御用捨被下候、若林義左衛門殿より申来候、
意訳変換しておくと

口達之覚
白峯寺については、古来より髙松城下の西新通町に「旅宿所」を持っていますが、先代の頃から大破したままになっています。そこで、修復について大工職人と協議したところ、「建物自体が耐久年数を超えて、修復は困難」とされました。そのため建替の見積もりを依頼しようとしました。
 しかし、打続く種々の物入のために、4年前に多額の借金を次のような内容でにお願いしたばかりです。銀四拾貫目の借金に対して、毎年米60石を返済すること。
 「旅宿」については、龍雲院(松平頼重)様が讃岐入国以来、御城主から祈祷執行を白峯寺が仰せつかってきました。そのため、正月・五月・九月の三回、拙僧や衆僧などの多人数の僧侶たちが髙松城下に参った際の宿となってきました。(中略)
しかし、先述したとおり長年の風雨で、痛みがひどく宿泊も出来ない状態です。(後略)
ここには髙松城下の西新通町にある白峯寺の旅宿の普請に充てるために、借入金返済の免除を願いでています。白峯寺は初代藩主松平頼重以来、藩主祈蒔執行のため正月・五月・九月に、住職はじめ多数の僧が高松城下へ出かけていきます。そのため旅宿です。これは髙松藩の公式行事でもあるので、無碍にも断れません。髙松藩は拝借銀の免除期間を5年間から3年間に短縮して認めています。
 さらに3年後の文政4年に、大師堂について借金を申し出ます。

太子堂は仮堂でしたが、寛政のはじめに造営が認められて、造営が始まり上棟します。しかし、資金不足で、外回り囲い板、唐戸厨子が出来上がっていません。そこで諸国参詣者の印象も悪いため、大師堂造作と城下旅宿の造作費用にあてるため、さらに拝借銀上納の3か年免除を願い出ます。藩は2か年間免除に値切って認めています。大師堂は天保5年春に完成しますが、西新通町の白峯寺旅宿の修繕は意外と経費がかかり、15貫目の借財となります。そのため、15貫目の拝借を願い出、返済は寺領米の中から行うことにしています。
 白峯寺では「諸初穂賽銭二至迄減少」「御寺内暮方難立行」状態で、寺の財政がゆきずまっていることを藩に訴えています。
藩は銀15貫目の拝借は認め、その内の10貫目は寺領米の中から毎年30石、5貫目は持林の伐取代金から上納することになります。この時高松藩は、郡方より阿野郡北の大政所(大庄屋)渡辺七郎左衛門と本条和太右衛門へ白峯寺の財政状況を問い合わせています。両大政所は、白峯寺の寺領からの収納は60石で、近いうちには借銀も皆済することができると返答しています。これは、白峯寺寄りの見通しの甘い見解です。

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白峯寺薬師堂

 危惧したとおり天保7年には長雨による寺領収納の減少のため、拝借銀10貫目に充てる返済米30石の免除を願っています。また翌年にも免除を申し出ています。(以上、「白峯寺諸願留」7-9)

以上、宝暦から天保にかけての白峯寺の財政状況について見てきました。
ここからは、寺領120石の財政収入を大幅に超える支出があったことが分かります。所謂、収入に見合う寺社経営ではないのです。そのために借金が膨らみ、どうしようもなくなると藩に泣きつくということを繰り返しています。崇徳上皇の百年に一度の回忌行事に備えて伽藍整備は進みますが、多額の借金は積み増しされて行きます。整った堂宇の背後には、「過剰な設備投資」による「火の車の財政状況」があったようです。それを最後で支えていたのが髙松藩であるということになります。髙松藩の祈祷所として公的な性格を持つ白峯寺だからこそできた寺社運営かもしれません。

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 近世後期になると、白峯寺は「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」と名乗るようになったことは以前にお話ししました。ここには、崇徳天皇御廟所である白峰寺を髙松藩が見放すはずがないという「確信」もあったような気もしてきます。
 これは以前に見た善通寺と丸亀藩の関係とよく似ています。善通寺も寺社経営は財政的には火の車でした。それを丸亀藩からの借金で賄っていました。そして、その多くは返金されることはありませんでした。空海生誕地の善通寺を、丸亀藩が見放せるはずがないという確信が善通寺側にはあったようです。
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参考文献
  「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
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斉藤一博 on Twitter: "丸亀藩は現在の香川県丸亀市に置かれた藩。生駒氏が高松を治めその西部であったが、1641年に山崎家治が5万3,000石で入る。1658年に京極高和が播磨龍野より6万石で入る。1780年代から団扇の生産が盛んになり、1794年に藩校正明館が創立された  ...
生駒騒動後の讃岐分割
生駒藩がお家騒動で、幕府から所領を没収されたのが寛永17(1640)年のことです。その後の讃岐は、東の高松松平藩(12万石)と西の丸亀山崎藩(のちに京極藩)に分けられます。このうち白峯寺のある綾郡は、高松藩領に属することになります。白峯寺の西北にあった崇徳上皇陵の廟堂・頓證寺は、当時は荒廃していたようです。白峰寺自体が本堂などの伽藍の復興に精一杯で、崇徳上皇陵や頓証寺にかまっている余裕がなかったのかもしれません。

近世讃岐の寺院NO1 松平頼重の仏生山法然寺建立計画を探る : 瀬戸の島から
松平頼重

そのような中で水戸藩からやって来た髙松藩初代藩主松平頼重は、独自の宗教政策を次々と打ち出し、「崇徳上皇慰霊の寺」である白峯寺にも手を差し伸べてきます。松平頼重の寺社保護政策を最初に挙げておきます。
①金毘羅大権現の保護と朱印地化 全国的な寺社への育成
②菩提寺法然寺の造営と社格確保 法然寺を頂点とする新たな寺院階層の形成
③金倉寺・長尾寺・根来寺などを、智証大師の天台宗への改宗と保護  真言勢力への牽制
④姻戚関係にある浄土真宗興正寺派の保護
有力な寺社を保護し、配下に置くことが治政安定につながることを知り尽くした上での「選択的寺社保護政策」です。そのような中で、松平頼重が白峯寺にどんな保護支援を与えたのかを年表化して見ておきます。
寛永20年(1643)  頓證寺の再興  崇徳上皇慰霊
万治 4年(1661)  千然阿弥陀堂を建立寄進。
維持料として北条郡(綾郡北部)の青海村の北代新田免10石を寄進。
延宝7年(1679) 御本地堂を再建立、
延宝8年(1680) 子・松平頼常とともに崇徳天皇社・相模坊御社・拝殿を再建立
元禄2年(1689)  崇徳院陵の前に、一対の石燈籠を献納(『松平頼重伝』)。
ここからは、松平頼重が白峯寺に対して継続的支援を行っていたことが分かります。これは金毘羅大権現や根来寺・長尾寺に対する頼重の支援ぶりと共通します。政治的意図を持って、継続的な支援が行われ、時と供に伽藍が整備されていきます。そして周囲の宗教施設に比べると、格段に立派な伽藍が姿を見せるようになるのです。そして次に、長尾寺や根来寺では、そこに安置する仏像群まで奉納しています。ただ寺領を寄進するのではなく、伽藍の完成形を見通した上での支援活動なのです。目に見える形での支援で、庶民の関心を惹きつけることになります。それが庶民の目を惹き、信仰心を集めることにもつながって行きます。これだけの伽藍が整備された寺院は当時はなかったのです。松平頼重の支援を受けた寺院は、一歩先んじた伽藍や堂宇を持ったことになったことを押さえておきます。

白峯寺には、歴代の高松藩藩主の残した棟札が数多く残されています。
その中で、初代の松平頼重に次いで多いのが五代藩主松平頼恭の棟札です。頼恭(よりたか)は、製塩・製糖などの殖産興業に尽力した高松藩中興の藩主とされます。彼は熊本藩主細川重賢と並ぶ博物大名の一人で、1760年代後期頃には、絵師三木文柳に『衆鱗図』(二帖)などの魚の図譜などの編集を平賀源内に命じたことでも有名です。
香川県立ミュージアム 春の特別展 「自然に挑む 江戸の超(スーパー)グラフィック-高松松平家博物図譜-」 |イベント|かがわアートナビ
松平頼恭の残した『衆鱗図』などの図版類
頼恭の名前の入った白峯寺の棟札は、寛延3年(1750)のものが多いようです。この時に、賀茂社ほか8社の再建立、御滝蔵工社・華表善女竜王社の再興、十王堂・鐘楼堂の再上葺、諸伽藍の繕、崇徳院社幣殿・御本地堂廊下・相模坊社幣殿・御供所廊下・惣拝殿陵門の再上葺があります。さらに宝暦12年(1762)に客殿上門の再葺が行われています。宝暦13年は崇徳院回忌600年に当たっていました。それにむけた伽藍整備計画が頼恭の支援の下に進められていたようです。この他にも、高松藩主の名前が棟札には見えるので、高松藩が白峯寺に対して一貫して保護を与えていたことはまちがいないようです。
 松平頼恭は、白峯寺に参詣も行なっています。
 崇徳院六百年回忌が行われる直前の宝暦13年(1763)2月には、それまでの伽藍整備の成果の確認のためでしょうか、白峯寺を参拝しています。この時には、林田村から登山し、崇徳上皇霊宝所・頓証寺・大権現を参拝しています。帰りは国分遍路坂を下って、国分寺へ立ち寄っています。その2年後にも参詣したといい、頼恭は頻繁に白峯寺を訪れたようです。そうしてみると先ほどの頼恭による一連の「白峰修復事業」は、崇徳院六百年回忌に向けた準備であったことが裏付けられます。
 このように白峯寺は高松藩との関係が深く、正月・五月・九月に高松城で高松藩主に対する「御意願成就」「御武運長久」の祈祷も行っています。高松藩の祈祷所として、白峯寺のほかに阿弥陀院(石清尾八幡宮別当)があり、高松城で大般若経の読誦を行っいまします。

 幕末の文久3年(1863)写の「御上丼檀那質祈千壽帳」には、江戸幕府将軍家、水戸藩、高松藩主、その他の大名たちや藩主一族、家臣たちの祈疇を行ったことが記されています。また藩主の厄年や、幕府から命じられた藩主の京都への使者の際にも、「安全之御祈疇」が行われています。
白峯寺境内の西北隅には、崇徳上皇の陵があります。
そのため崇徳院回忌の法要が古くから行われていたようです。その際に奉納された和歌・連歌・俳諧・漢詩などの文芸が白峯寺には、数多く残されています。
 近世に入ってからの崇徳院回忌と白峯寺との関係は、中期まではよく分かりません。六百回忌に際して、宝暦13年(1763)3月に、松平頼恭が崇徳上皇陵に石燈籠2基を寄付することになります。その場所について崇徳院回忌の行事の邪魔にならないようにと、高松藩と白峯寺の間で協議しています。その結果、初代藩主松平頼重が陵外の玉垣内に寄付していた石燈籠を、陵内へ移してその後に新しい石燈籠を立てることにしています。崇徳院回忌の行事の妨げにならないようにとあるので、それまでにも回忌法要が行われていたことがうかがえます。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1847年)2
白峯寺(讃岐国名勝図会(1853) 白峰寺西北の崇徳上皇陵

宝暦13年の崇徳院回忌六百年に向けた準備過程を見ておきましょう。
白峯寺は明暦4年(1658)に仁和寺の末寺となっていまします。そのため宝暦13年正月に次のことを仁和寺に願いでています。
①2月26日より本尊・霊宝等の「開帳」
②8月26日の法楽曼供執行
また前年10月には、寺社奉行へ2月26日から4月18日までの50日間の開帳を願い出ています。そして開帳の建札を次の場所に建てることが許可されます。
城下では西通町・常磐橋・塩屋町・田町・土橋の五か所
郷中では鵜足郡宇足津、那珂郡四条村・郡家村、三木郡平木村、寒川郡志度村の各往還
「閉帳」前の2月14日には高松藩主からの奉納物が届けられ、崇徳院の御宝前へ供えられます。

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高屋神社(旧崇徳天皇社 坂出市高屋町)
七百年回忌は、文久3年(1863)8月26日に曼茶羅供執行が行われています。
この時には回忌の3年前の万延元年6月に、同忌が近づいてきたのに高屋村の「氏神」である崇徳天皇社(高家神社)が大破のままであるとして、阿野郡北の西庄村・江尻村・福江村・坂出村の百姓たち17名が、その修覆を各村庄屋へ願い出ています。これが庄屋から大庄屋へ提出されています。修覆内容は崇徳天皇本社屋根葺替(梁行2間、桁行3間、桧皮葺)、拝殿屋根壁損所繕、同宝蔵堂ならびに伽藍土壁繕、同拝殿天丼張替です。これは近隣の百姓たちの崇徳上皇信仰の高まりのあらわれを示すものと云えそうです。
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高屋神社(坂出市高屋町)
 
崇徳院の旧地として、白峯寺が主張していた場所に鼓岡と雲井御所があります。

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図(江戸初期)に記された雲井御所と鼓丘

宝暦13年(1763)に、鼓岡の村方から提出された書付をみて白峯寺は、「御廟所同前之古跡」であるとして、鼓岡村の支配ではなく白峯寺による管理が望ましいとの意見を寺社方へ申し出ています。これから約70年後の天保5年(1834)には「府中鼓岡雲井御所由緒内存」を白峯寺は提出し、その中で「何分時節到来不仕」と再度提出しているので、白峯寺の主張は認められなかったようです。そのために「由緒内存」で、再び「当山支配」とすることを願い出たようです。ここからは江戸中期後に、白峯寺が「崇徳天皇御廟所 政所」としての自覚を高めていることがうかがえます。この結果、雲井御所の地については、免租となって番人を置くことになります。当時の9代藩主松平頼恕は、自ら碑文を書き、「雲井御所碑」を建てています。この時に鼓岡についても、何らかの措置がとられたようです。

2022年 雲井御所跡の口コミ・写真・アクセス|RECOTRIP(レコトリップ)
雲井御所碑(坂出市)
雲井御所
かつての雲井御所石碑と林田邸
後ろは林田氏邸宅、林田氏の本姓は綾氏で、生駒時代は林田村の小地頭、松平頼重の人国の時には、大政所。

 文化3年(1806)に頓証寺の境内が狭いため埋め立て造成計画が出されます。
「別而近年参詣人等多、混雑仕る」として、拝殿の西の御供所裏通りから南の番所にかけての約40間の長さに渡って5,6間の谷筋を埋立てる内容です。研究者が注目するのは、これを提案したのは白峰寺ではないことです。阿野郡北の氏子たちが農業の手隙に、ボランテイアで行いたいと願いでているのです。白峯寺はこれを、「参詣人群衆之節、混雑も不仕」と付帯して、寺社奉行へ取り次いでいます。
 しかし、この時には髙松藩の認めるところとはならなかったようです。そのため翌年には造った後の道の修覆も自力で行うとして、再度願い出ています。この道の修覆については「修覆留」が作成されているので、この時に道が造られたと研究者は考えています。(「白峯寺諸願留」7-5)。
崇徳上皇陵と頓證寺 讃岐国名勝図会拡大
崇徳上皇陵と頓證寺と勅額門(讃岐国名勝図会部分拡大図)

 文政5年(1822)になると、頓証寺の勅額門の外手にある燈籠の前に、石燈籠を二基建立したいと申し出た「施主共」がいるとしてその建立願いがだされます。さらに10年後の天保4年(1833)には、同じく勅額門の外の獅子一対の建立願いが「心願之施主共」から出され、いずれも白峯寺は寺社方へ願い出て許可されています。(「白峯寺諸願留」7-9)。
 19世紀になると、十返舎一九の弥次喜多コンビの参拝記も出版され、金毘羅参拝客が急速に増加します。富裕な参拝者たちは、石段や玉垣、灯籠を奉納し、境内は石造物で埋まっていったことは以前にお話ししました。こんな景観を見たことのない庶民は、石の境内を見たさに金比羅を目指すようになります。そのような石造物寄進の流行が周辺寺院にも及ぶようになります。白峯寺もご多分に漏れず、19世紀になると富裕層が灯籠・狛犬などの石造物を寄進するようになります。
 白峯寺 六十六部の納経帳
 六十六部の納経帳に記された白峯寺の「肩書き」変遷
近世後期になると、白峯寺は納経帳にも自らの呼称を「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」と記すようになります。
  自らの存立基盤を崇徳院陵とのつながりの中に求めようとする意識が白峰寺内部でも高まったことがうかがえます。もともとの崇徳陵の管理寺院は頓證寺で、白峰寺ではなかったことは以前にお話ししまします。しかし、これも白峰寺と頓證寺の一体化という視点で見れば、なんら不思議なことではないのかも知れません。
 同時に、このような白峰寺の教導の結果、周辺の「氏子」や「施主共」が積極的に頓証寺などの境内整備に参加するようになっていることが分かります。白峯寺への信仰、崇徳上皇信仰が民衆へ浸透していっていることを物語るものと研究者は考えています。
以上をまとめておくと
①髙松藩初代藩主松平頼重は、計画的継続的に白峰寺の伽藍整備を支援した
②5代藩主松平頼恭は、崇徳院六百年回忌を期に、白峯寺境内の伽藍整備を進め、自らその視察も行っている。
③髙松藩の支援を受けて、崇徳上皇回忌ごとに伽藍は整備された。
④そのような中で、白峯寺は自らの存立基盤を「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」に求めるようになり、中世の故事をもとにさまざまな主張を行うようになる。
⑤周辺の庄屋や有力者も「崇徳天皇御廟所」である白峰寺を支援するようになり、崇徳上皇信仰は拡がりをみせるようになる。
ある意味これは、松平頼重のねらい通りのことだったのかもしれません。頼重の打った齣は、時を置いて大きな効果を持つようになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
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白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峰寺古図(江戸初期)には、多くの子院の堂宇が描かれている

 白峯寺関係の文章や絵図を見ていると、中世には多くの子院やあったことがうかがえます。例えば、寛文年中の『御領分中宮由来・同寺々由来』には、「真言宗 北条郡綾松山洞林院 白峯寺」とあり、洞林院を筆頭に古くは120坊があり、その内の21ヶ寺に補任状が出されてたと記します。この21ヶ寺が塔頭寺院だったと研究者は考えています。ところが、寛文年間には「寺中四ケ寺」とあり、4ヶ寺に激減しています。この時期は、中世末に衰退していた洞林院が別名によって復興する時期と重なります。
 数多くあった子院が激減するのは、 弥谷寺も同じでした。
弥谷寺も生駒藩の指示を受けた別名が兼帯して、運営権をにぎります。白峯寺と弥谷寺で子院が激減するのは、別名の「寺院経営」方針と何らかの関係があるのではないかと私は「妄想」しています。しかし、これも裏付史料がありません。そういえば、金毘羅大権現でも、金光院院主宥盛が辣腕を振るい、それまでの子院を排除・撃退し、金光院の優位性を確立していくのもこの時期です。それまでの白峯寺や弥谷寺には、中世の以来のさまざまな宗教者(熊野行者・高野聖・時衆念仏聖・修験者など)が子院の主として活動を展開していました。高野山が「真言原理主義」に建ち帰って、時衆念仏僧を排除したように、地方の有力寺院でも山内の異分子排除が行われたのかもしれません。さて話を元に戻します。
近世になっても存続した白峯寺の末寺を、見ておきましょう。
白峯寺所蔵の慶長9年(1604)から弘化2年(1845)までの江戸時代の棟札に記された子院名を一覧表にしたのが次の表です。
.白峯寺蔵棟札に記された子院
白峯寺の近世子院一覧
この表からは次のような事が分かります。
①慶長9年(1604)には、一乗坊、花厳坊、円福寺、西光寺、円乗坊の5ヶ寺があったこと
②延宝8年(1680)には、一乗坊、円福寺、宝積院、真蔵院、遍照院の5ヶ寺でメンバーが変わっていること
③その後は、この5ケ寺が天明7年(1787)まで確認できること
④その後の棟札には、これらの寺院名が記載されておらず、他の資料から円福寺は文化8年(1811)、真蔵院は文政3年(1820)まで確認できること
⑤現在まで残ったのは遍照院のみであること
これらの子院は、どこにあったのでしょうか?
白峯寺古図以来の各絵図に描かれている建物を一覧表にしたのが下図です。
白峯寺 建物変遷表
白峰境内建物変遷表

さらに、この絵図に記された建物を現在の平坦地に落とし込んでいったのが下図になります。
白峯寺境内建物分布図


ここからは、稚児川の両側には多くの平坦地や石垣が残っていることが分かります。これがかつて存在した21の子院の跡のようです。この中に、一乗坊、円福寺、宝積院、真蔵院などもあったことが分かります。しかし、遍照院はどこを探してもありません。
実は遍照院は、麓の高屋町にあります。

白峯寺 子院遍照院
慈氏山松浦寺遍照院(坂出市高屋町)
  慈氏山松浦寺遍照院は「遍照」という寺名からしても弘法大師(遍照金剛)信仰に深く関わるお寺であることが推測できます。本尊は阿弥陀如来、脇侍は弘法大師と弥勒菩薩です。庭に弘法大師が求聞持法を修したという求聞持石があります。
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遍照院の求聞持石
やや離れた後夜谷という窟は、大師修行の地と伝えられ、その途中に弥陀橋がかかります。これは遍照院から大師が毎日修行のため、窟へ通う時にこの橋まで阿弥陀如来が来迎したと伝えられます。近くには高野四社明神が建立されていて、高野山との深い関係がうかがえます。「弘法大師と阿弥陀如来」が併せて祀られるというのは、今まで見てきたように「真言念仏」の特徴です。ここにも高野聖の痕跡が見えてきます。この寺の建立は「求聞持石銘」に刻まれている年号からする 元禄年間(1688~1704)以前にまで遡れるようです。

遍照院には『遍照院大留草紙』が残されていています。
そこには江戸時代初期の圭翁代から記録が残り、次のようにな記事があります。
神谷村石風呂之場所二古来より風呂守護之弘法大師石像安置之処。御厨子大破二付今年再建立。尤内へ年号筆記シ置志也。下地之厨子ノ裏書ニ曰 元亀二未年七月二七日遍照密院入寺瑞応建立云々.
彼ノ岩屋と申茂大師之御遺跡にして皆当寺二属次具地也。依之往古より当寺之支配にして散物等寺納之事.
意訳変換しておくと
神谷村の石風呂がある場所は、古来より風呂守護のために弘法大師石像が安置されていた。その厨子が大破したので、今年再建した。再建年号を筆記しようと厨子を見ると裏書に、次のように書かれていた 
元亀2(1571)未年7月27日 遍照密院入寺の瑞応が建立した。
この岩屋(石風呂?)と茂大師の御遺跡は当寺に属す者である。往古より当寺の支配する散物である。
ここからは、次のようなことが分かります。
①神谷村には石風呂があったこと
②石風呂の管理権を返照院が持っていて、周辺遺跡などの管理権も主張していたこと
③元亀2年(1571)には、遍照院が存在し、神谷村にまで影響力があったこと
次に遍照院が出てくるのは、以下の文章です
白峯寺より寄附田地之初発
白峯寺法印圭典代当郡林田村之内 
片山寺領地開地之時分当寺之
道心者道休法師日々罷出候而
開地之事此以奥□ヲ白峯寺より
寄進之順□致し貰候而永当
寺江附置候寛文十二子歳六月二十七日
道休法師致命終候可有永々回向等也
右ノ田地二付後代何分之勝手布之とも勿論売沸質物等二
入申問敷事白峯寺より寄進状/左之通所は飛石也
(以下略。/は改行)
意訳変換しておくと
白峯寺法印圭典の時代に、綾郡林田村にあった片山寺開山寺の寺領を、道心者道休法師に白峰寺から永代寄進した。寛文十二年六月二十七日に道休法師が亡くなると、代代回向を行い、この田地は後代に至るまで勝手に売買したり、質入れする事がないように、白峰寺からの寄進状にも書かれていた。なおこの寺領は飛石である。

 ここからは、白峰寺圭典法印の時に道休法師が寺領の提供を受けたこと、その面積は石高は、合わせて2反1畝12歩、石高は2石2斗2升4合であったこと。これを元にして現在の遍照院が建立されたことが分かります。
寺伝には歴代住職について次のようにも書かれています。
開基弘法大師
右開基以来より寛永年中迄之住職等相知不申候
一、中興  白峯寺宥賢弟子 圭翁
右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
寛文元年十月三日二病死仕候
意訳変換しておくと
開基は弘法大師
開基以来、寛永年中迄の住職等については不明である
中興は、白峯寺宥賢弟子の圭翁
圭翁の住職並に隠居した年号月日についても不明
寛文元年十月三日二病死仕候
歴代住職について不明というのは、お寺が存在しなかったとも読み取れます。中興とされますが実際の建立は、寛永年中(1624~44)の圭翁によるものなのでしょう。その後の住職は次の通りです。
一、二代  白峯寺増真弟子 圭算
  右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
  宝永五子年正月五日病死仕候
一、三代  白峯寺圭典弟子 圭澄
  右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
  元文二年七月十六日病死仕候
一、四代  白峯寺等空弟子 證寂
  右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
  明和三戊十一月朔日病死仕候
一、五代  白峯寺離言弟子 大印
  右宝暦四年十二月十三日住職被仰付
  宝暦十四五月十八日大内部引田積善坊へ移転被仰付候
一、六代  白峯寺離言弟子 而真
  右ハ宝暦十四年中五月十八日住職被仰付候明和五年子二  月七日山田郡林村吉国寺江移転被仰不候
一、 七代  香川郡坂田村悉地院親旭弟子□□
  右明和五子年二月七日住職被仰付候
      天明二寅十二月隠居仕候
一、八代  白峯寺剛咋弟子 圭応
  右天明二寅年十二月十三日住職被仰付候
遍照院
右之通御座候以上
寛政四壬子二月
以上は『大留記』に書かれた歴代住職名ですが、よく分からないところが多いようです。
『大留記』には、その他にどんなことが記されているのでしょうか。
宝暦8年(1758)12月の「阿野郡高屋村遍照院由緒」の冒頭に、次のように記します。
当寺由緒之儀従公儀御尋有之候二付去ル貞享元年子年二書出申候控を以此度左之通指出申候
意訳変換しておくと
当寺の由緒については公儀の御尋があって、それに応えるために貞享元(1684)年に、書き出したものである。それをこの度は、左記の通り差し出します。

元々は、貞享元年(1684)に書き出した(書き写された)もののようです。この由緒を要約すると次のようになります。
「遍照院は弘法大師の開基の寺である。大師が42歳の厄歳に当山を訪れた時、大地が震動して大石が出現した。大師はこの石の上で求聞持法を修して、歳厄から遁れた。そこで、末世の人々の災難を除くため自影の像を彫刻して本尊とした。そのためこの石を求聞持石、本尊を厄除大師という。
 また当山は高野大明神が鎮座したところであるので「高野」ともいう。その後、弘法大師は紀州の高野山を開いた。弘法大師を遍照金剛というが、当寺を遍照院、紀州高野山を金剛峯寺と号し、讃岐高野、紀州高野と同名並び立つものとした。
ここから遍照院は弘法大師格別の遺跡、厄除大師安置の霊場で讃岐の高野と呼ばれ、古くから、3月19・20・21日の正御影供には、近隣の信者が多数参詣するようになった」
以上が『遍照院由緒」のあらましです。
本尊の厄除大師は、庶民の信仰を集めたようです。
毎年3月20・21日に「高屋大師市」が開かれ「百姓農具市立」が行われて賑わいました。
 また、宝暦7年(1757)に遍照院が火災となり、本堂を残して多くの堂字が焼失します。そこで、その復興資金を集める為に、高松地蔵寺で宝暦9年3月1日から4月10日まで、1ヶ月少々の期間、厄除け本尊弘法大師の出開帳が行われます。この時期は、善通寺も京都や江戸での出開帳を行い、それが成功裏に終わり、金堂や五重塔再建に大きく寄与した先例があります。遍照院もそれを見習ったのでしょう。この出開帳には、大群集が押しかけ、怪我人がでるほどであったと記します。4月10日の閉帳の時には、数千人の参拝者が涙を流し、別れを惜しんだとも記しています。遍照院本尊の42歳厄除大師の霊験は強く、庶民の信仰を集めていたことがうかがえます。その4年後の宝暦11年に庫裏の再建が行われているので、相当の金額が集まったようです。

  文化8(1825)年にも、遍照院から次のような開帳願いが出されています。「白峯寺所願留193」(白峯寺蔵)
口上
一当寺之義者、大師四拾弐歳御厄年彫刻之本尊、則弘仁年中四拾弐歳二御建立被成候寺二而由緒も御座候而、毎歳高屋大師市と申伝、百姓農具市立有之、二月廿日より廿一日迄本寺白峯寺井同末等於拙寺正御影供法会執行仕候、依之市立二付、右御公儀より御役人中も参来申候、然ル処当寺本堂三間半四面瓦葺二而御座候処、年久敷相成候二付、是迄時々修覆加へ候得共、最早及大破修覆難及助力、旦家も百軒斗御座候所、甚貧家之者二而自分渡世も難渋仕候二付、中々寺之修覆等馴手便も無御座、当君仕候間、本尊厄除之大師来申二月廿五日より二月廿五日迄開帳仕度奉願候、左候得者参詣人之散物フ以修覆相加へ申度奉存候、右願之通、被仰付被下候得者、御町口々郷中二而尤寒川郡志度村、香川郡仏生山、鵜足郡宇足津村、寺門前江建札仕度被存候、
右願之通、相済候様、宜奉願候以上、
文化八年         阿野郡北高屋村
十月            遍照院判
      白峯寺
右之通末寺遍照院願申出候間、右願之通相済候様、宜奉願候以上、
横倉与次右衛門殿
河合平之丞殿
意訳変換しておくと
口上
遍照院は、大師42歳の御厄年の時に自ら彫られた大師像を本尊とし、建立された寺院で、由緒もあります。毎年、高屋大師市が開かれ、百姓たちの農具市で賑わいを見せます。二月二十日から二十一日には、本寺の白峯寺や子院が列席して、当寺で正御影供法会が行われ、この時に市も開かれ。髙松藩からの御役人たちも参来します。
 当寺の三間半四面瓦葺の本堂は、建立から月日がたち、修繕を重ね維持してきました。しかし、大破寸前の状態となり。もはやこれ以上は修繕も困難になってきました。新たに建立したいのですが、檀家も百軒あまりの貧家ばかりで、渡世も難渋している状況です。そのため寺の修復までにはなかなか手がまわりません。そこで、当寺の本尊である厄除大師を2月25日から3月25日までご開帳することをお願い申し上げます。そして、参詣人の寄進・奉納を修覆費用に充ててたいと思います。この願いが許されるのであれば、髙松城下や郷中の寒川郡志度村、香川郡仏生山、鵜足郡宇足津村、寺門前に建札を掲げたいと思います。以上のこと、許可していただけるように申し出ます。奉願候以上、
ここには、本堂大破のための修覆が必要であるが、遍照院の檀家は百軒ほどと少なく、しかも「貧家」で費用を確保できないこと。その資金集めのために本尊厄除大師の開帳を行う事を願いでています。
 本堂の建て替えなどの多額の資金が必要となったときに、「厄除大師」などの庶民的な人気のある本尊を持つお寺では、「ご開帳による資金集め」という方法が行われていたことが分かります。同時に、開帳行事は各寺院の判断で勝手に行えるものではなく、藩の許可が必要だったようです。
 遍照院は、幕末の文久2年(1862)にも庫裏修覆のために、本尊弘法大師と霊室等の開帳を3月10日から4月10日まで行うことを願いでています。(「御用口記」)。
 このように厄除大師は「集客力」のある本尊で、遍照院の勧進活動にも大きく寄与しています。庶民の支持を得ていたとも言えそうです。同時に、開帳は開催通知の立看板を建てるだけで、人々が集まってくるものではありません。そこで集客のためのプロモートを行っていたのが山伏たちだったと私は考えています。山伏(修験者)たちのネットワークを利用することで、このような開帳行事も成功に導くことができたのです。そういう意味では、ご開帳を成功に導くために修験者たちのネットワークを持っていることが必要だったと、私は考えています。
幕末に遍照院の弟子が次のような四国巡拝の届出願いを、藩に提出しています。(「白峰寺大留」報告書310P)
文化十三子年  口上
一      高屋村末寺遍照院弟子 空間
右者宿願御座候而四国順拝二罷出候、尤十七日出立仕候間、此段御届申候、以上
二月十六日    白峯寺
寺社御役所
郷御役所 銘々
意訳変換しておくと
文化十三(1813)年  口上
一      高屋村の(白峯寺)末寺遍照院の弟子 空間
右者が宿願であった四国順拝を行うことになりました。つきましては、17日に出立することを御届申しあげます。
以上
二月十六日    白峯寺
寺社御役所
郷御役所 銘々
ここからは遍照院の弟子 空間が四国遍路を行っていることが分かります。帰国報告が4月9日に出されています。約2ヶ月弱の遍路の旅であったことが分かります。
 また、天保6年には遍照院主が四国遍路を50日ほどで行った帰国報告書が白峰寺から藩の寺社奉行に提出されています。この巡礼は、弟子や院主は、先達として参加していたことも考えられます。そうすると、遍照院は行場としての痕跡を残し、そこでは真言系修験者が院主などを務めていたことがうかがえます。ここにも修験道ネットワークの中に返照院があったことが推測できます。


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       遍照院の虚空蔵石から眺めた白峰山方面
 遍照院は高野山と関係が深いようです。
高野山から直接、光明曼茶羅が届けられ、その前で諸人に説法したり、高野山の持明院の使僧が訪れて一宿したりして、「人とモノ」の交流が行われています。また灯篭の建立に高野山無量光院が世話人になるなど、江戸時代中~後期には高野山との交流が盛んであったことが分かります。もちろん白峯寺との関係も深く、歴代の住職の多くは白峯寺住職の弟子です。そして年中行事には、相互に行き来が行われています。ある意味では、白峯寺に忠実な子院であったことがうかがえます。これも弥谷寺と高野山、そして近世以後にその本山となる善通寺の関係とよく似ています。

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       磐座「求聞持石」に座する弘法大師
巨石信仰の聖地が、行者たちの行場となります。そして、稚児の瀧や奥の院の毘沙門窟の行場を結んで「行道」が行われるようになっていきます。ここに立つと五色台自体が霊山で、その山中の行場が「中辺路」ルートとして結ばれていたこと。そこに、さまざまな宗教者がやってきて「修行」を行ったことが感覚的に分かるような気がします。その拠点が白峰寺や根香寺で、そのサテライト行場がこの「磐座」だったのでしょう。そこに、後世になってやってきた弘法大師信仰を持つ高野聖たちが、磐座の上に弘法大師像を建てたという風に私には思えます。
以上、白峯寺の子院のひとつである遍照院の歴史を眺めてみました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P



納経帳の歴史について、以前に次のようにまとめました。
①近世初期の「四国辺路」の記録には納経帳は出てこないこと。
②納経帳を早くから残しているのは六十六部であること。
③四国遍路は、六十六部の影響を受けて、18世紀の後半から納経帳を持ち始めたこと。
④その背景には、納経しなくても納経印がもらえるようになったことと、納経帳自体が「ありがたいもの」とされるようになったことがある。
六十六部 納経帳最御崎寺
明和6年(1769)に浄円坊という六十六部廻国聖が残した納経帳
土佐室戸の最御崎寺の本尊や正式名称・山号などが記される

 世の中が落ち着いて天下泰平の元禄時代になると、多くの六十六部が現れます。彼らは大量の納経帳を残していますが、そこからは次のような活動状況が分かります。
①納経帳に記されている寺社数は200~700
②一国当たり3~10ヶ寺を廻り
③巡礼期間は3年~10年
④四国霊場は、ほとんどすべてを廻っている
金泉寺・大麻比古神社の納経
                明和6年(1769)に六十六部廻国聖が残した納経帳
書かれている内容は次の通りです。
右が金泉寺
「奉納大乘妙典/本尊釈迦如来/阿州龜光山/金泉寺/行者丈」、日付は「九月八日」
左が大麻比古神社
「奉納/阿波一国一宮/大麻彦神別當/霊山寺/行者丈」、
日付は「丑ノ九月八日」
中央の宝印は「弌乘院」 左下は「竺和山」
六十六たちは、どんな経典を納めていたのでしょうか?
納経帳には、奉納した経名、本尊名、寺院名などが墨書や印判で記されています。納経帳に記された奉納経名を見てみると、18世紀初期ころまでは、大乗妙典(法華経)と普門品(法華経第二十五「観音経」)を、巡礼先に応じて使い分けていたようです。具体的には、有力な社寺には大乗妙典を、それ以外の寺社には普門品を奉納していました。ところが、 1730年代後半ころからは、奉納経典として大乗妙典だけが記載され、普門品は姿を消していきます。さらに1760年代以降になると、奉納経名も記載されなくなります。
長崎街道49~大乗妙典六十六部塔とお地蔵様と | 長崎ディープ ブログ

この変化は、何を意味するのでしょうか。
「実際には経典を奉納しなくなった」と研究者は考えているようです。法華経は八巻からなる大冊です。本版印刷のものであっても、数百におよぶ寺社にこれをすべて奉納するのは簡単なことではありません。納経する寺社数が100以下だった時期ならともかく、巡礼する寺社数が700近くに増えると、それも難しくなっていったはずです。そこで納経帳に奉納経典を大乗妙典と記しますが、実際には奉納しなくなります。そして、時間が経つと奉納経典も記載しなくなるという経緯をたどるようです。
   六十六部の残した納経帳から白峯寺に関する部分を研究者が一覧表にしたのが下図です
白峯寺 六十六部の納経帳
白峯寺に関する六十六部納経帳の記述内容一覧
期間は、正徳元年(1711)から明治15年までの納経帳です。。
最初の正徳元年の納経帳には、洞林院が出てきます。洞林院は、近世始めに生駒家の支持を受けて、白峰寺一山の支配権を握った院房です。院主別名のもとで、勧進方式で伽藍の整備を進めて、白峰寺を復興します。「洞林院者本尊千手観音也」とあるので、洞林院の本尊は千手観音であったであったことが分かります。

白峯寺 十一面観音
白峯寺の十一面観音菩薩

次に宝暦3年(1753)の納経帳には、「崇徳院陵廟所 綾松山白峰寺役人」と記されています。
崇徳院陵とのつながりが強調されています。ちなみに、もともとの崇徳陵の管理寺院は頓證寺で、白峰寺ではなかったことは以前にお話ししました。白峰寺が、そのお株を横取りしているように見えます。
約30年後の天明2年(1782)には「千手院宝前」として「千手院」という寺名が登場します。
これは一山の本尊である千手観音をさすようです。以後は版木押しの「本堂千手院」という名称が数多く見られます。そして、江戸時代を通して、「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」を強調して、それをセールスポイントにしていたような印象を受けます。
明治を向かえると、版木で押された内容は次のように目まぐるしく変化していきます。
明治7年までは 「奉納経 本堂千手院宝前 崇徳天皇御廟所 讃州白峯寺 政所」
明治9年 「崇徳帝御陵所」
明治10年 「奉納経 四国第八十一番霊場 本尊千手観音大悲殿 讃州白峯寺執事」
明治15年 「奉納経 本尊千手大悲閣 讃岐国白峯寺」
このように頻繁に納経印の内容が変化します。これは以前にお話しした明治維新の神仏分離・廃仏毀釈に伴う、白峯寺の混乱を反映しているようです。
明治元年には、崇徳上皇の御霊が京都に新設された新御陵に移されます。その結果、「崇徳天皇御廟所 政所」とは名のれなくなり、「御陵所」にせざるえなくなります。
明治6年には、白峯寺住職が還俗して崇徳帝山陵陵掌となり、寺が無住となります。そのため急遽洲崎寺から橘渓道を招いて住職につきます。明治11年には、頓證寺が事比羅宮(金刀比羅官)によって摂社化されて、建物や所属の物品が事比羅宮に移管されてしまいます。この時に多くの宝物品が事比羅宮に移されたます。この時期の出来事については『神仏分離資料』に詳しく記されていて、以前にも紹介しました。
以上、六十六部が残した納経帳で白峰神社について書かれた部分を歴史順に見てきました。ここからは、江戸時代の白峯寺が 「崇徳天皇御廟所 政所」を寺のセールスポイントしていたことが分かります。それだけに、明治の神仏分離で「御廟所→御陵」となり、寺から完全に分離されたことは大きな打撃であったことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

白峯寺 六字名号
白峯寺には、空海筆と書かれた南無阿弥陀仏の六字名号版木があります。この版木は縦110.6㎝、横30.5㎝、厚さ3.4㎝で、表に南無阿弥陀仏、裏面に不動明王と弘法大師が陽刻された室町時代末期のものです。研究者が注目するのは、南無阿弥陀仏の弥と陀の脇に「空海」と渦巻文(空海の御手判)が刻まれていることです。これは空海筆の六字名号であることを表していると研究者は指摘します。
 空海と「南無阿弥陀仏」の六字名号の組み合わせは、現代の私たちからすればミスマッチのようにも思えます。しかし、「空海筆 + 南無阿弥陀仏」の組み合わせの名号は、各地で見つかっているようです。今回は空海が書いたとされる六寺名号を見ていくことにします。
テキストは「武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P」です。
六字名号 観自在寺の船板名号
観自在寺蔵の船板名号
まず最初に、観自在寺蔵(愛媛県)の船板名号版木を見ておきましょう。
観自在寺(真言宗)の船板名号で、身光、頭光をバックにして、南無阿弥陀仏が陽刻され、向かって左下に「空海」と御手判があります。伝来はよく分かりませんが、現在でも  病気平癒など霊験あらたかな船板名号として、信仰の対象となっているようです。印刷されたものが、参拝記念として販売されたりもしています。
   「船板名号」という呼び方は耳慣れない言葉です。これについては「空海=海岸寺生誕説」を説く説経『苅萱』「高野巻」に、次のような記事があります。
  空海が入唐に際し、筑紫の国宇佐八幡に参詣した時のこと.
二十七と、申すに、入唐せんとおぼしめし、筑紫の国宇佐八幡にこもり、御神体を拝まんとあれば、十五、六なる美人女人と拝まるる。空海御覧じて、それは愚僧が心を試さんかとて、「ただ御神体」とこそある。重ねて第六天の魔王と拝まるる。「それは魔王の姿なり。ただ御神体」と御意あれば、社壇の内が震動雷電つかまつり、火炎が燃えて、内より六字の名号が拝まるる。空海は「これこそ御神体よ」とて、船の船泄に彫り付けたまふによって、船板の名号と申すなり。
意訳変換しておくと
空海二十七歳の時に、入唐の安全祈願のために、筑紫の宇佐八幡にこもり、御神体を拝もうとしたところ、十五、六の美人女人が現れた。それを見て空海は「それは私の心を試そうとするものか」と思い、「ただ御神体」と、重ねて第六天の魔王を拝んだ。すると『それは魔王の姿なり。ただ御神体」との御意があり、社壇の内が激しく揺れ、天からは雷電が降り、火炎が立って、その内から六字の名号が現れた。空海は「これこそ御神体よ」として、舟の船杜に「南無阿弥陀」の六字名号を彫り付け出港していった。これが船板の名号の由来である。

ここからは空海が留学僧として唐に渡る時に、宇佐八幡に航海安全を祈願し参拝した時に「南無阿弥陀仏」の六字名号が降されます。空海はこれを御神体として船に彫りつけたことから「船板名号」と呼ばれるようになったというのです。船形の名号は「船板名号」と呼ばれ、弘法大師と深く関わるもののようです。

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弥谷寺の船板名号碑
弥谷寺の山門上の参道にも、船板名号碑が立っているのは、以前にお話ししました。空海筆銘六字名号は、弘法大師信仰と念仏信仰が混じり合ったもので真言宗寺院に残されていることが多いようです。別の見方をすると、説経「苅萱』「高野巻」を流布した聖たちの布教勢力下にあったお寺とも云えます。

曳覆五輪塔 
曳覆五輪塔

次に西明寺蔵(京都府)・曳覆曼茶羅版木を見てみます。
「曳覆」とは、死者の身体に曳いたり、覆い被せるもので、人の減罪の功徳を得て、極楽往生を約束する五輪塔や真言・陀羅尼などが書かれています。死者と供に葬られるので、実物が残っているものはないのですが、それを摺った版木は各地に残っています。

六字名号 曳覆曼荼羅 京都の西明寺 
曳覆曼荼羅 西明寺の六字名号版木
西明寺(真言宗)の版木は南無阿弥陀仏とともに「承和三年二月十五日書之空海」とあります。この年号は、この六字名号を空海が承和元年(834)3月15日に書いたことを示すものです。空海が高野山奥院に入定したのは承和2年です。その前年が承和元年です。この年が選ばれているのは、空海の筆によるものであることを強調する意味があると研究者は指摘します。

次に九州福岡の善導寺(浄土宗)の絹本墨書を見ておきましょう。
善導寺は浄土宗の開祖、法然上人の弟子鎮西派の祖・聖光上人による開山で、九州における浄土宗の重要な寺院です。ここには数多くの六字名号の掛軸が残されています。その中に空海筆六字名号があります。この掛軸には、次のような墨書があります。
俵背貼紙墨書
弘法大師真筆名号 慶長□年之一乱紛失然豊後国之住人羽矢安右衛門入道宗忍不見得重寄進於当寺畢
慶長十二丁未暦卯月吉日二十一世住持伝誉(花押)
空海御真筆也 一国陸(六)十六部 普賢坊快誉上人
永禄六癸亥年六月日
(巻留墨書)
  六字宝号弘法大師真蹟
(箱蓋表墨書)
弘法大師真蹟 弥陀宝号 善導寺什

ここには、この六字名号が空海の真筆であること、それが慶長年間に一時行方が分からなくなったが、豊後の国の入道が見つけて寄進したことなどが書かれています。その顛末を永禄6年(1563)に記したのが六十六部普賢坊快誉上人だと記します。快誉上人については、よく分かりません。が「誉」の係字を持つことから浄上系の僧でしょう。なお善導寺には別に船板名号もあります。
六字名号 天福寺
天福寺の船板名号
最後に香川県 天福寺の版木船板名号を見ておきましょう。
天福寺は香南町の真言宗のお寺で、創建は平安時代に遡るとされます。天福寺には、4幅の六字名号の掛軸があります。そのひとつは火炎付きの身光頭光をバックにした六字名号で、向かって左に「空海」と御手判があります。その上部には円形の中にキリーク(阿弥陀如来の種子)、下部にはア(大日如来の種子)があり、『観無量寿経』の偶がみられ、西明寺の版木によく似ています。なお同様のものが高野山不動院にもあるようです。空海御手番のある六字名号が真言宗と浄土宗のお寺に限られてあるのことを押さえておきます。
次に研究者は、六字名号と空海との関係を見ていきます。
空海と六寺名号の関係について『一遍上人聖絵』には、次のように記されています。
日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字の名号を印板にとどめ、五濁常没の本尊としたまえり、是によりて、かの三地薩坦の垂述の地をとぶらひ、九品浄土、同生の縁をむすばん為、はるかに分入りたまひけるにこそ、
意訳変換しておくと
弘法大師は竜華下生の春つ間に、六字名号を印板に彫りとどめ、本尊とした。これによって、三地薩坦の垂述の地を供来い、九品浄土との縁を結ぶために、修行地に分入っていった。

ここからは、弘法大師空海が六字名号を板に彫り付け本尊としたと、一遍は考えていたことが分かります。一遍は時衆の開祖で、高野山との関係は極めて濃厚です。文永11年(1274)に、高野山から熊野に上り、証誠殿で百日参籠し、その時に熊野権現の神勅を受けたと云われます。ここからは、空海と六字名号との関係が見えてきます。そしてそれを媒介しているのが、時衆の一遍ということになります。

六字名号 空海筆
六字名号に書かれた空海のサイン

 また先ほど見た、室町時代末期~江戸時代初期の作と考えられる『苅萱』「高野巻」に書かれた「船板名号」も空海と六字名号との関係を説くものです。説経『苅萱』「高野巻」は、高野聖との関係が濃厚であることは以前にお話ししました。従って、この時期に作られた六字名号には高野聖が関わっていたと研究者は推測します。
 空海筆六字名号が時衆の念仏聖によって生み出された背景には、当時の高野聖たちがほとんどが時衆念仏僧化していたことがあります。
それでは、空海筆六字名号が真言宗だけでなく、浄土宗の寺院にも残されているのはどうしてなのでしょうか。

仏生山法然寺
仏生山法然寺(高松市)
 その謎を解く鍵が高松市の法然寺にあるようです。
法然寺は寛文10年(1670)に、初代高松藩主の松平頼重によって再興された浄土宗のお寺です。研究者が注目するのは、再興された年の正月25日に制定された『仏生山法然寺条目』の中の次の條です。
一、道心者十二人結衆相定有之間、於来迎堂、常念仏長時不闘仁可致執行、丼仏前之常燈・常香永代不可致退転事。附。結衆十二人之内、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、其外者可為浄土宗。不寄自宗他宗、平等仁為廻向値遇也。道心者共役儀非番之側者、方丈之用等可相違事。
意訳変換しておくと
来迎堂で行われる常念仏に参加する十二人の結衆は、仏前の燈や香永を絶やさないこと。また、結衆十二人のメンバー構成は、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、残りの名は浄土宗とすること。自宗他宗によらずに、平等に廻向待遇すること。

ここには、来迎堂での常念仏に参加する結衆には、天台、真言、仏心(禅)の各宗派2人と浄土宗6人の合せて12人が平等に参加することが決められています。このことから、この時代には天台、真言、禅宗に属する者も念仏を唱えていて、浄土宗の寺院に出入りすることができたことが分かります。どの宗派も「南無阿弥陀仏」を唱えていた時代なのです。
 また『讃岐国名勝図会』の法然寺の項目には、弥勒堂の弥勒菩薩は弘法大師作とあります。さらに宝物の中にも「弘法大師鉄印(南蛮鉄を以て造るの印文、竜虎二字図、次に出す)」とあり、次の図が掲載されています。
弘法大師鉄印 法然寺
弘法大師鉄印 (法然寺)

これは先ほど見てきた観自在寺、天福寺、筑後・善導寺などの六字名号の空海の文字の下に書かれている文様とよく似ています。なお天福寺には先ほど見た六字名号掛軸とは別の掛軸があり、その裏書きには次のように記されています。
讃州香川郡山佐郷天福寺什物 弥陀六字尊号者弘法大師真筆以母儀阿刀氏落髪所繍立之也
寛文四年十一月十一日源頼重(花押)
意訳変換しておくと
讃州香川郡山佐郷の天福寺の宝物 南無阿弥陀仏の六字尊号は、弘法大師真筆で母君の阿刀氏が落髪した地にあったものである。
寛文四年十一月十一日 髙松藩初代藩主(松平)頼重(花押)
これについて寺伝では、かつては法然寺の所蔵であったが、松平頼重により天福寺に寄進されたと伝えます。ここにも空海と六字名号、そして浄上宗の法然寺との関係が示されています。以上のように浄土宗寺院の中にも、空海の痕跡が見えてきます。

(3)一遍の念仏「六字名号」は救いの喜びの挨拶_b0221219_18335975.jpg
一遍と六字名号

これを、どのように考えればいいのでしょうか。
『一遍聖絵』や説経『苅萱』「高野の巻」などからは、空海筆六字名号が時衆の中で生まれ、展開してきたことを押さえました。それが時衆系高野聖などによって、各地に広がりを見せたと研究者は考えています。しかし、江戸時代初期の慶長11年(1606)に幕府の命令で、時衆聖の真言宗への帰入が強制的に実施されます。ただ、このような真言宗への帰入は16世紀からすでに始まっていたようです。高野聖が真言宗へ帰入した時に、空海筆六字名号も真言宗寺院へ持ち込まれたことが考えられます。
 一方、浄土宗寺院についてはよく分かりませんが、時衆の衰退とともに、念仏聖として浄土宗寺院に吸収、包含された時に、持ち込まれた可能性がありますが、これもよく分かりません。今後の検討課題になるようです。
弥谷寺 時衆の六字名号の書体
時衆の六字名号の書体一覧
どうして白峯寺に空海筆六字名号版木が残されていたのでしょうか?
版木を制作することは、六字名号が数多く必要とされたからでしょう。その「需要」は、どこからくるものだったのでしょうか。念仏を流布することが目的だったかもしれませんが、一遍が配った念仏札は小さなものです。しかし白峯寺のは縦約1mもあます。掛け幅装にすれば、礼拝の対象ともなります。これに関わったのは念仏信仰を持った僧であったことは間違いないでしょう。
 四国辺路の成立・展開は、弘法大師信仰と念仏阿弥陀信仰との絡み合い中から生まれたと研究者は考えています。白峯寺においても、この版木があるということは、戦国時代から江戸時代初期には、念仏信仰を持った僧が白峯寺に数多くいたことになります。それは、以前に見た弥谷寺と同じです。

六字名号 一遍
 六字名号( 一遍)

 研究者は、念仏僧が、この版木を白峯寺復興のための勧進用として「販売」したのではないかという仮説を出します。
それに関わった人物が「阿閣梨洞林院別名」とします。別名は、慶長9年(1604)に千手院を再興した勧進僧で、修験者でもあった可能性があります。別名が弥谷寺も兼帯していたことが海岸寺の元和6年(1620)の棟札から分かります。これは、白峰寺での勧進活動の成功を受けて、生駒藩が弥谷寺の再興のために命じた人事とも考えられます。江戸時代初期の弥谷寺や海岸寺は念仏信仰が盛んなお寺であったことは以前にお話ししました。
 また、白峯寺版木の不動明王と同じ版木の不動明王が弥谷寺にもあります。このことから江戸時代初期には、白峯寺と弥谷寺が深い関係を持っていたことが裏付けられます。別名によって、二つのお寺は運営管理されていたことが、このような共通性をもたらしたのかもしれません。ただ、この阿閣梨別名については、念仏信仰だけの僧ではなく、多面的な信仰を持ち合わせた真言宗の僧と研究者は考えています。
念仏賦算」と「踊り念仏」に込められた願いのかぎり 「捨てる」という霊性について(10) : 家田足穂のエキサイト・ブログ
一遍の配布札

以上をまとめておくと
①空海自筆とされる南無阿弥陀仏と書かれた六寺名号の版木が四国霊場の観自在寺、石手寺、太山寺に残っている。
②これは「弘法大師伝説 + 阿弥陀念仏信仰」の共存を示すものである。
③これを生み出したのは一遍の時衆念仏僧たちで、それを広げたのは時衆念仏化していた高野聖たちであった。
④戦国時代から近世初期にかけて、高野山では「真言復帰原理主義運動」が高まり、念仏僧が排除されるようになった。
⑤真言宗籍に復帰した念仏僧達は、いままでの阿弥陀信仰の流布スタイルを拠点とする札所寺院でも展開した。
⑥また、大型の版木で六寺名号を摺って、寄進活動などにも活用するようになった。
以上のように、四国辺路の形成に念仏信仰(時衆念仏僧や高野聖)などが関わっていたことが具体的に見えてきます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

      十返舎一九_00006 六十六部
十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)

   「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。

 北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。

 六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らの姿は、次のように史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖
②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者
③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、
④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、四国遍路のようには、私には六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地がよく分かりませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。讃岐の場合は、どこが奉納経所であったのかもよく分かりません。
六十六部 十返舎一九 大窪寺
甘酒屋に集まる四国遍路 その中に描かれた六十六部(十返舎一九)

白峯寺縁起 巻末
『白峯寺縁起』巻末(応永13年-1406)
研究者は白峯寺所蔵の『白峯寺縁起』の次の記述に注目します。
ここに衆徒中に信澄阿閣梨といふもの、霊夢の事あり。俗来て告げて云。我六十六ケ国に、六十六部の本尊を安置すへき大願あり。白峯寺本尊をは早造立し申たり。渡奉へしと示して夢党ぬ.・…
意訳変換しておくと
白峯寺の衆徒の中の信澄阿閣梨という僧侶が次のような霊夢を見た。ある人がやって来て「我は六十六ケ国に、六十六体の本尊を安置する大願も持つ。白峯寺本尊は早々に造立したので、これを渡す」と告げて夢は終わった。
ここからは15世紀初頭には、白峯寺が六十六の本尊を祀り、奉納経先であったことがうかがえます。
経筒とは - コトバンク
埋められた経筒の例

さらに、白峯寺には、西寺の宝医印塔から出土した伝えられる経筒があります。
経筒 白峰寺 (1)
白峯寺の経筒(伝西寺跡の宝医印塔から出土)

そこには次のような銘文があります。
    享禄五季
十羅刹女 四国讃州住侶良識
奉納一乗真文六十六施内一部
三十番神 旦那下野国 道清
今月今日
意訳変換しておくと
 享禄五(1532)年
法華経受持の人を護持する十人の女性である十羅刹(じゅうらせつにょ)に真文六十六施内一部を奉納する。 納経者は四国讃州の僧侶良識 檀那は 旦那下野国(栃木県)の道清
今月今日
ここからは、下野の道清から「代参」を依頼された「四国讃州の良識」が讃岐の六十六部の奉納先として白峰寺を選んでいたことが分かります。室町時代後期には、白峯寺が六十六部の本納経所であったことがうかがえます。ここで研究者が注目するのが「四国讃州住侶良識」です。良識について、研究者は次のように指摘します。
①「金剛峯寺諸院家析負輯」から良識という僧は、高野山金剛三味院の住職であること
②戦国期の金剛三昧院の住職をみると良恩―良識―良昌と三代続て讃岐出身の僧侶が務めたていること
③良識は金剛三昧院・第31世で、弘治2年(1556)11月に74歳で没していること
展示・イベントのお知らせ|高松市
讃岐国分寺 復元模型

良識については、讃岐国分寺の本尊の落書の中にも、次のように名前が名前が出てきます。
当国井之原庄天福寺客僧教□良識
四国中辺路同行二人 納中候□□らん
永正十年七月十四日
意訳変換しておくと
讃岐の井之原庄天福寺の客僧良識が、四国中辺路を同行二人で巡礼中に記す。永正十(1513)年七月十四日

ここに登場する良識は、天福寺の客僧で、「四国中辺路」巡礼で讃岐国分寺を参拝しています。良識は次の3つの史料に登場します。
①白峰寺の経筒に出てくる良識
②高野山の金剛三味院の住職・良識
③国分寺に四国中辺路巡礼中に落書きを残した良識
この三者は、同一人物なのでしょうか? 時代的には、問題なく同時代人のようです。しかし、金剛三味院の住職という役職につく人物が、はたして六十六部として、全国を廻国していたのでしょうか。
室町時代後期の讃岐と高野山の関係をみておきましょう。
金毘羅大権現の成立を考える際の根本史料とされるのが金比羅堂の棟札です。ここには、次のように記されています。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、

「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都
宥雅が造営した」

「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者は、「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建された。『本尊鎮座』というのも、はじめて金比羅神が祀られたものである」と考えるようになっています。
 ここには建立者が「金光院権少僧都宥雅」とあり、その時の導師が金剛三味院の良昌であることが分かります。建立者の宥雅は、西長尾城城主長尾氏の弟とも従兄弟ともされます。彼は、長尾一族の支援を受けて、新たに金毘羅神を創り出し、その宗教施設である金比羅堂を建立します。その際に、導師として高野山三昧院の良昌が招かれているのです。このことから宥雅と良昌の間には、何らかの深い結びつきがあったことがうかがえます。そして、先ほど見たように、戦国期の高野山金剛三昧院の住職は、「良恩―良識―良昌」と受け継がれています。良昌は良識の後任になることを押さえておきます。

戦国期の金昆羅金光院の住職を見ると、山伏(修験者)らしき人物が数多く勤めています。
流行神としての金毘羅神が登場する天正の頃の住職は、「宥雅一宥厳一宥盛」と続きます。初代院主とされる宥雅は長尾大隅守の弟か従兄弟とされます。彼は長尾氏が長宗我部元親に減ぼされると摂津の堺に亡命します。金毘羅に無血入城した元親が建立されたばかりの松尾寺を任せるのが、土佐から呼び寄せた宥厳です。宥厳は土佐幡多郡の当山派修験のリーダーで大物修験者でした。その後を継いだのが宥厳を補佐していた金剛坊宥盛です。宥盛は山伏として名高く、金比羅を四国の天狗信仰の拠点に育て上げていきます。その宥盛は、もともとは宥雅の弟子であったというのです。
 こうしてみると、金岡三昧院良昌と深い関係にあった宥雅も実は山伏であったことがうかがえます。
宥盛は、山伏として多くの優れた弟子たちを育てて権勢を誇り、一方では高野山浄菩提院の住職ともなって、金光院と兼帯していたことも分かってきました。このように高野山の寺院の住職を、山伏が勤めていたことになります。
 近世には「山伏寺」というのは、一団格が低い寺と見なされるようになり、山伏と関係していたことを、どこの真言寺院も隠すようになりますが、近世はじめには山伏(修験者)の地位と名誉は、遙かに高かったことを押さえておきます。
 例えば、17世紀前半に善通寺の住職が、金毘羅大権現の金光院院主は善通寺の「末寺」であると山崎藩に申し立てて、末寺化しようとしています。それほど、真言僧侶の中では、金毘羅大権現の僧侶と、善通寺は関係が深いと認識していたことがうかがえます。
 さて、もういちど白峯寺経筒の良識にもどります。
先ほど見た良識が同一人物であったとすれば、次のような彼の軌跡が描けます。
①永正10年(1513)、31歳で四国辺路
②享禄 5年(1532)、50歳で六十六部となり日本廻国
六十六部の中に、高野山を本拠とする者が多くいたことは、先ほど見たとおりです。当時の高野山は学侶方、行人方、聖方などに大きく分かれていましたが、近時の研究では高野山の客僧の存在が注目されるようになっているようです。客僧は学侶・行人・聖のいずれにも属さない身分で、中世末以降は山伏をさすことが多いようです。六十六部として廻国したのは行人方あるいは客僧と研究者は考えています。
 室町時代後期ころの金剛三味院がどのような様子だったのかは分かりません。しかし、戦国時代には山伏と深い関係があったことは、「良識ー良昌ー宥雅ー宥盛」とのつながりでうかがえます。良識が客僧的存在の山伏であり、六十六部や四国辺路の先達をした後、金剛三味院の住職となったというストーリーは無理なく描けます。

 白峯寺に版本の『法華経』(写真34)が残されています。
白峯寺 法華経第8巻
法華経(白峯寺)
その奥書には、次のように記されています。
寛文四年甲辰十二月十日正当
顕考岡田大和元次公五十回忌於是予写法華経六十六部以頌蔵 本邦
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守藤原元勝入道宗休
  意訳変換しておくと
寛文四(1664)年甲辰十二月十日に、「従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休」が父の岡田大和元次公の五十回忌のために、法華経を書写し、全国の六十六ヶ国に奉納した。
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休

ここには、藤原元勝が父岡田元次公の50回忌に、66ヶ国に『法華経』を奉納したこと、讃岐では、白峯寺に奉納されたことが分かります。
奉納者の藤原元勝は岡田元勝といい、家康に仕えた旗本で、次のような経歴の持ち主のようです。
天正17年(1589)に岡田元次の子として生まれその後に神尾姓となり
慶長11年(1606)に、徳川家康に登用され、書院番士になり
寛永元年(1624)に陸奥に赴き
寛永11年(1634)に長崎奉行へ栄転
寛永15年(1638)に江戸幕府の町奉行となり
寛文元年(1661)3月8日に退職。
その後は、宗体と名乗り、寛文7年(1667)に没
奥書からは、彼が退職後の寛文3年(1663)に父の岡田元次公の50回忌に『法華経』を66ヶ国に奉納したことになります。しかし「写法華経六十六部」とありますが、70歳を過ぎた高齢者が10年以上もかかる日本廻国を行ったとは思えません。「柳寓追遠之果懐而巳」をどう読むのかが私にはよく分かりませんが、遠方なので代参者に依頼したと私は解釈します。
 
 宝永~正徳(1704~16)年間に日本廻国した空性法師は、四国88ヶ所のほぼ全てに奉納しています。
この時になると、白峯寺だけでなく四国霊場全てが奉納対象になっていたことが分かります。そして以後の六十六部廻国行者も同じ様に全てに奉納するようになります。その結果、讃岐の霊場の周辺には数多くの六十六部の痕跡が残ることになります。この痕跡が最も濃いのが三豊の雲辺寺→大興寺→観音寺の周辺であることは、以前にお話ししました。

以上、享禄5年の経筒、神尾元勝の『法華経』奉納などから白峯寺か中世末から六十六部奉納経所であったと研究者は判断します。これは六十六部が四国辺路の成立に関わっていたことを裏付けることになります。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年141P
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白峯寺 讃岐石造物分布図
中世讃岐の石造物分布図
讃岐の中世石造物については、前回に次のように要約しました。
①第一段階に、火山系凝灰岩で造られた石造物が現れ、
②第二段階に、白峰寺や宇多津の「スポット限定」で関西系石工によって造られた花崗岩製石造物が登場し
③最後に、弥谷寺の石工による天霧石製の石造物が登場すること
④天霧石製石造物は、関西系の作品を模倣し、技術革新を行い、急速に市場を拡大したこと
⑤その結果、中世末には白峯寺の石造物のほとんどを天霧系のものが占めるようになり、火山産や花崗岩産は姿を消したこと

今回は、14世紀後半に白峯寺にもたらされた花崗岩製石造物が、どこで誰によって造られたかを見ていくことにします。テキストは「松田 朝由 白峯寺の中世石造物     白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P」です。

花崗岩は、凝灰岩よりも堅いので、加工のためには先進技術が必要でした。花崗岩製石造物の先進地が近江、京、大和にあることは多くの研究者が指摘しています。その背景には、東大寺復興事業の際に、中国から先端技術を持った宋人石工の来日と定着があったようです。その後に、近江、京、大和の石造物文化が瀬戸内海地域に影響を与えるようになります。このような流れの中で、白峰寺周辺の花崗岩石造物も、関西で造られものが持ち込まれたとされてきました。しかし、問題なのは、白峰寺のものと同じ石材で造られた石造物が関西からは出てこないことです。

中世の讃岐の花崗岩製石造物が残っているのは、白峯寺を中心に国分寺地域から宇多津にかけてのエリアに限定されることが上図からは分かります。
研究者が注目するのは、それらの石造物の岩質が類似していることです。白色で粒径0,3~0,4mの細粒の長石・石英と0,1mの雲母が見られます。石材が同じと言うことは、生産地が同じだと云うことになります。しかし、この花崗岩の産地は、讃岐にはないようです。そこで考えられるのが他地域から運び込まれたことです。第一候補は関西ですが、関西にもこの岩質の製品はありません。讃岐と同じ材質の花崗岩の採石地は、備中西部の岡山県浅口市と香川県坂出市櫃石島にあります。備中西部は石造物のスタイルや形が讃岐とは大きく違うようです。

白峯寺 櫃石島の磐座
櫃石島の磐座・櫃岩 すぐ上を瀬戸大橋がまたぐ

 最後に残された櫃石島には、島の名前の由来とされる櫃岩が、島の頂きにあります。
古代から磐座(いわくら)として、沖ゆく船の航海の安全などを祈る信仰対象となった石のようです。この石が花崗岩露頭になるようです。分析の結果、櫃石島の花崗岩が、白峰寺にもたらされた石造物の材質と同じ事が分かりました。
 また、櫃石島には、瀬戸大橋建築の際に発掘調査されて石造物群(がんど遺跡)があります。この石造物群は五輪塔が中心ですが、研究者が注目するのは、かつて五重塔であったといわれる層塔基礎が残されていることです。この層塔基礎について報告書には、幅70㎝、高さ36㎝で側面3面に格狭間があり、作られた時期は鎌倉時代後期のもので、白峯寺十三重塔との類似性を指摘しています。確かに格狭間文様は幅広く肩の張ったモチーフで白峯寺花崗岩製十三重のものと似ています。この層塔基礎は、櫃石島と白峯寺を結ぶ重要な遺物と研究者は考えています。
櫃石島周辺の島嶼部の花崗岩製石造物の分布状態を、研究者は次のように概観しています。
石造物群のある本島、広島、手島、真鍋島には、讃岐の凝灰岩製のものはありますが、花崗岩製の石造物はありません。女木島、豊島は、中世石造物がありますが数も少なく、石材は凝灰岩、石灰岩です。与島は花崗岩製が少数見られますが、岩質が異なります。露頭地の岩質も櫃石島と大きくちがうので「中世段階に与島産は想定し難い」と研究者は考えています。小豆島は花崗岩製のものはありますが、時期が室町時代以降のもので、岩質も異なります。南北朝時代以前のものでは長勝寺に1338年の宝筐印塔がありますが石材は安山岩です。
 以上、露頭地と石造物の岩質、層塔格狭間にみる共通性から讃岐の花崗岩製の多くは櫃石島産のものが使用されている可能性が極めてつよいと研究者は指摘します。

白峯寺 境内の層塔
白峯寺の花崗岩製石造物
それでは櫃石島で花崗岩製石造物を制作した石工たちは、どこからやってきたのでしょうか。
 讃岐の花崗岩製石造物は、白峯寺と宇多津の寺院周辺にしかありません。ここからは櫃石島の石工集団が、特定の寺院に石造物を提供するために新たに編成された集団であったと研究者は推測します。その契機になったのが、京都の有力者による白峯寺への造塔・造寺事業だとします。白峰寺は崇徳上皇慰霊の寺として、京都でも知名度を高めていました。そして中央の有力者や寄進を数多く受けるようになります。その一つの動きが、白峰寺への造塔事業です。そのために花崗岩の露頭があった櫃石島に、関西地域からさまざまな系統の石工が呼び寄せられて石工集団が形成されたというのです。その結果、それまでの讃岐の独自色とは、まったく異なるスタイルの花崗岩製石造物が、この時期に白峰寺周辺に現れると研究者は考えています。このように関西地域に系統をもつ石工集団が櫃石島に定住し、白峯寺への造塔事業が始まるというのが新たな説です。
ただ、13世紀に始まる白峯寺の造塔事業は、白峰寺だけのことではなかったようです。1240年前後になると、次のような中世最古の紀年銘石造物が広域的に現れてくるようです。
滋賀県水尾神社層塔(1241年)
滋賀県安養寺跡五重塔(1246年)
京都府宝積寺十三重塔(1241年)
京都府金輪寺五重塔(1240年)
奈良県大蔵寺十二重塔(1240年)
岡山県藤戸寺五重塔(1243年)
福岡県坂東寺五重塔(1232年)
熊本県明導寺十二重塔(1230年)
鹿児島県沢家三重塔(1239年)

藤戸寺(ふじとじ)石造五重塔
岡山県藤戸寺五重塔(1243年)

以上を見ると、層塔が多いことに気がつきます。近畿だけでなく岡山や九州の有力寺院でも層塔が建てられ始めたことがわかります。いわば「層塔建立ムーブメント」の始まりです。このような流れの中で、花崗岩生産地の塩飽櫃石島に関西から石工たちが呼び寄せられ、瀬戸内海周辺の寺院に層塔提供のための生産が始まったというシナリオになるようです。白峯寺の層塔もこのような西日本各地の層塔造塔の動きに連動していることを押さえておきます。

それでは、この「櫃石石造物工房」を設立したのは、誰なのでしょうか? 考えられる候補を挙げておきましょう。
①瀬戸内海への進出著しい西大寺律宗のネットワークの寺院へ提供のため
②児島五流修験 
ここでは、これ以上はこの問題については触れずに、先を急ぎます。

櫃石島産の花崗岩製石造物は、白峯寺にどのような順番で設置されたのか?白峰寺の花崗岩製の石造物の初期の作品は、まず崇徳陵周辺に設置されます。
①崇徳陵両サイドには、それぞれ材質の違う火山石製と花崗岩製の五重塔が設置されます。

P1150775
崇徳陵五重塔(花崗岩製)
 この内の花崗岩製の五重塔は、縦長の塔身・軸部、傾斜の強い屋根を持ち、岡山県藤戸寺五重塔(1243年)や滋賀県安養寺跡五重塔(1246年)(写真157)と、よく似ているので、同じ頃の製作と研究者は考えています。また、作風としては近江石工の影響が見られるようです。
P1150695
白峯寺頓證寺殿の石灯籠(1267年)
②続いて文永4年(1267)になると、崇徳陵東隣の頓証寺に花崗岩製灯籠が造塔されます。この灯籠は、年紀が入っている最初のものになります。火袋に対して笠部幅の狭いのがこの灯籠の特徴で、大和系石工の影響が見られます。
 前回に、弥谷寺石工たちがこの灯籠を真似て、凝灰岩の天霧石でコピー作品を作った作品が大水上神社(三豊市高瀬町)の灯籠であることを紹介しました。弥谷寺の石工たちにから見ても模倣したくなる作品だったのでしょう。

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白峯寺十三重塔(東塔・花崗岩製1278年)

 頓証寺灯籠から12年後の弘安元年(1278)に、花崗岩製十三重塔(東塔)が造塔されます。
この塔は基壇に乗る総高は5,9mにもなります。それ以前の白峯寺石造物に比べると、格段の技術的進歩が見られます。
白峯寺十三重塔(東塔)の特徴を確認しておきます。
①金剛界四仏種子を刻む方形の塔身、低い軸部、傾斜の緩やかな屋根が特徴で、これらは大和に類例があること。
②奈良県般若寺・大蔵寺十三重塔はホゾがありませんが、白峯寺十三重塔も解体工事によって同じようにホゾ・ホゾ孔のないことが確認されてこと。
外見からは見えない制作過程まで共通するということは、白峯寺十三重塔が外観だけ大和の石塔を模倣したのではないことを教えてくれます。そこには制作した石工集団が技術的系統でつながっていたことが分かります。また、白峯寺十三重塔は檀上積基壇上にありますが、檀上積基壇は大和の石造物地域圏の特徴とされます。これも先ほど見た櫃石島に残る層塔の基礎と共通する点が多く、白峯寺十三重塔(東塔)が櫃石島産であることを裏付けるものです。

この塔に類似したものを探すと、次のような石造物になるようです。
奈良県般若寺十三重塔(1253年)
京都府天神社十三重塔(1277年)
京都府法泉寺十三重塔(1278年)
奈良市 般若寺十三重石塔 - 愛しきものたち
奈良県般若寺十三重塔(1253年)

これらは大和石工の手によるものとされています。瀬戸内海エリアで大型の十三重塔が登場するのは白峯寺が最初だったようです。

また白峰寺の花崗岩製石造物は、材質は同じでも作品が作られた時期によって作風が違います。
①崇徳陵前の花崗岩製五重塔は近江石工系
②白峯寺一三重塔(東塔)は大和石工系
ここからは、櫃石島の作業所に関西から集められた石工たちが集団でやって来たのではなく、各地域から「一本釣り」的に連れてこられたのではないかという推測ができます。そのために、同じ櫃石島で作られた石造物なのに、いろいろな作風が見られるというのです。このような現象は、他の作業所でも見られるようです。
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      白峯寺十三重塔(東塔・花崗岩製1278年)
以上をまとめておきます
①白峯寺周辺の花崗岩製石造物の石材は、櫃石島の石が使われていること、
②白峯寺十三重塔基礎の格狭間は、大和にはない特徴であることや頓証寺灯籠、白峯寺周辺の薬師院宝塔、国分寺宝塔などには個性的な形態が見られ、関西地域の石工の一時的な出張製作ではないこと
③櫃石島に、関西からの何系統かの石工たちが連れてこられて、島に定着して製作を担当したこと
④白峯寺の層塔は、初期作品は近江色がつよく、次第に大和色が強くなること。
⑤その後は他地域の要素も混じり合って展開していので、櫃石島の石工集団は近江、京、大和の石工の融合による新たな編成集団だったこと
④櫃石島に新たな石造物工房を立ち上げたのは、律宗西大寺や児島五流修験のような宗教団体が考えられる。そのため傘下の寺院や関係寺院だけに、作品を提供したのかもしれない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   松田 朝由 白峯寺の中世石造物     白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P
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       白峯寺の十三重石塔(手前が西塔)                                 
白峯寺には特徴のある中世石造物が多いのですが、その中で一番目を引くのが国の重文に指定されているふたつの十三重塔です。
東塔が花崗岩製、弘安元年(1278)で近畿産(?)
西塔が凝灰岩製、元亨4年(1324)で、天霧山の弥谷寺の石工集団による作成。
中央の有力者が近畿の石工に発注したものが東塔で、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺の石工に発注したものと従来はされてきました。ここからは、東塔が建てられて40年間で、それを模倣しながらも同じスタイルの十三重石塔を、弥谷寺の石工たちは作れる技術と能力を持つレベルにまで達していたことがうかがえます。その急速な「成長」には、どんな背景があったのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「松田 朝由 白峯寺の中世石造物     白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P」です

DSC03848白峰寺十三重塔
白峰寺十三塔の東西の塔比較

東西ふたつの十三重石塔が白峯寺に姿を見せた14世紀前半の讃岐の石造物分布図を見ておきましょう。
白峯寺 讃岐石造物分布図

 天霧産と火山産の石造物と、花崗岩製石造物の分布
上図の中世讃岐の石造物分布図からは次のようなことが分かります。
①火山系凝灰岩で造られた石造物が東讃に分布していること
②弥谷寺を拠点とする天霧系凝灰岩製のものが西讃を中心に分布すること
③白峯寺や宇多津周辺には、讃岐には少ない花崗岩製の石塔(層塔)が集中して見られる「限定スポット」であること。
 この現象を研究者は、次のように説明します。
①白峯寺で最初の造塔は、火山石製・国分寺石製であり、そのモデルは京都府安楽寿院石仏と京都府鞍馬寺宝塔に求められること。
②鎌倉時代中期以前については、観音寺市神恵院宝塔や善通寺先師墓宝塔のように天霧系地域圏に火山石製が分布する。つまり、この時期には天霧系は生産開始されていなかった段階。
  以上から研究者は「鎌倉時代中期以前の讃岐は、火山系の世界であった。天霧系は、後になって登場する」と指摘します。

白峯寺 火山石製五輪塔
白峯寺の初期の火山製五輪塔と伝頓證寺宝塔

それでは関西系の石造物は、いつから白峯寺に登場するのでしょうか?
 白峯寺の最初の造塔は、火山系(国分寺石)石工集団が担当しています。火山石系の地元林田(坂出市)の石工集団は、平安時代には活動を開始していていて、白峯寺の初期段階の石造物整備計画の中心を担っています。
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白峯陵前の層塔(花崗岩製)
例えば、崇徳陵前2基の層塔は、それぞれ花崗岩製と火山石製です。
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白峯陵前の層塔(火山系凝灰岩製)
これはふたつの石工集団が、分け合っての共同作業とも云えます。つまり、火山系の後に登場するのが花崗岩製の関西石工のようです。

  このように、もともと白峰寺のあるエリアは火山石の流通エリアであったところです。そこに、関西系の花崗岩製石造物が姿を現すようになります。
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白峰寺十三重石塔(西塔・弥谷寺天霧石製)
そして14世紀になると天霧石製が白峯寺に登場するようになります。天霧石製の最初の層塔が東塔の西隣に建てられた十三重塔(1324年)と下乗石(1321年)です。十三重塔は、隣の花崗岩製東塔の模倣です。
白峯寺 下乗石(坂出側
白峯寺下乗石(坂出側) 天霧石製で弥谷寺の石工によって制作

下乗石は大和の奈良県談山神社下乗石の模倣と研究者は指摘します。
その他の塔
奈良県談山神社下乗石

弥谷寺を拠点とする天霧系石工集団は、関西系の花崗岩製石造物を模倣しながら14世紀には作風を確立し、その上に自らの個性を加えていったようです。それが十三重石塔(西塔)には集約されているようです。
 生産開始が遅れた天霧石製石造物が急速に販路を伸ばし、白峰方面に進出できたのはなぜでしょうか。
その背景には、13世紀後半から始まる瀬戸内海全域での造塔活動の始まりがあったようです。その流れの中で白峯寺でも層塔が数多く建てられるようになります。その技術を持っていた関西系の花崗岩製や天霧製へも発注がもたらされるようになったと研究者は考えています。
讃岐を2分する天霧系、火山系石造物の境界線は、時期によって次のように変化します。
①13・14世紀の鎌倉・南北朝時代は、坂出・宇多津地域
②15・16世紀の室町時代は、高松東部(山田郡と三木郡の境界付近)
ここからは、天霧系が、火山系の市場を奪って、東に拡大していることがうかがえます。つまり15世紀以降になると、天霧石製の発展と火山石製の衰退が見られるのです。
 天霧石製は14世紀までは、讃岐以外のエリアには、製品を提供することはほとんどありませんでした。ところが15世紀以降になると海運ルートを使って四国・瀬戸内海地方の広域に流通圏を拡大するようになります。 その背景には何があったのでしょうか?
  三豊市高瀬町の二宮川の源流に立つ式内社の大水上神社の境内の真ん中に康永4年(1345)の記銘を持つ灯籠が立っています。
大水上神社 灯籠
大水上神社の灯籠(三豊市高瀬町・天霧石製)
幅の狭い笠部は、白峯寺頓証寺の灯籠とよく似ています。しかし、材質は花崗岩ではなく天霧石です。この灯籠は、弥谷寺の石工が頓證寺灯籠を模倣して作成したと研究者は考えています。
白峯寺 頓證寺灯籠 大水上神社類似
白峯寺頓證寺殿の灯籠 大水上神社のものとよく似ている

このように弥谷寺の石工集団は花崗岩製の模倣(=関西石工の模倣)を行います。それは、層塔、宝医印塔、石仏、宝塔など数多くのもので確認されています。これは弥谷寺石工の白峯寺への造塔活動への参加がきっかけでもたらされた「文化交流」とも云えます。
 天霧石製石造物が伊予や安芸などへの瀬戸内海での広域流通が始まるのは、鎌倉時代後期の14世紀紀前後になってからです。
ここからは白峯寺の造塔と瀬戸内海での広域流通の開始が、同じ時期だったことになります。中世讃岐の石造物流通体制の確立に、白峯寺造塔事業が大きく影響を与えたことは、ここからも裏付けられると研究者は考えています。

 白峯寺の麓の坂出市加茂町・神谷町・林田町・江尻町は、五夜ヶ岳の凝灰岩(=国分寺石)を用いた宝塔、石憧、石仏が鎌倉・南北朝時代には多く造られていました。ところが、天霧石製石造物の白峯寺へ供給と同時期に、国分寺石製地域圏内へ進出も果たします。そして、室町時代になると、この地域でも多量の天霧石製が流通するようになります。そして、逆に国分寺石製の石工たちも天霧石製に類似した石造物を製作するようになります。

14世紀になると白峯寺の石造物のほとんどは、天霧石製のものになります。
関西系の花崗岩製から弥谷寺の石工集団に発注が移動したのです。このため関西系花崗岩製石造物は、白峯寺から姿を消します。
 その一方で衰退していくのが火山系です。14世紀までは紀伊、備前、安芸、伊予までも流通エリアにしていた火山石製は、15世紀以降になると阿波以外ではほとんど見られなくなります。生産・流通体制の変化によって流通圏が急激に縮小しています。これは天霧系に市場を奪われていった結果と推測できます。
白峯寺 讃岐石造物分布図

もういちど天霧系と火山系が讃岐の石造物流通圏を2分しているのを確認します。そして今度は、その境界線を探してみます。両流通圏の境界付近に白峯寺があります。これは偶然ではないと研究者は考えています。それほど中世讃岐の石造物の流通圏形成に、白峯寺の造塔事業が与えたインパクトは大きかった証拠と捉えています。

ここまでをまとめておきます。
①もともとは火山系凝灰岩の石造物が讃岐全体で優勢であった
②13世紀後半の層塔建立の流行で、白峯寺にも京都の有力者が石造物を寄進することが増え、関西系花崗岩の層塔が造塔されるようになった。
③これに天霧系も参入し、その流通ルートを白峯寺エリアまで拡大した
④新興勢力の天霧系は、関西系の石造物のスタイルや技術をコピーして自分のものとして急成長をとげた。
⑤そして芸予の瀬戸内海西域方面まで市場エリアを拡大し、関西系や火山系を圧倒するようになった。

ここに関西系の花崗岩製石造物が白峰寺や宇多津などの限られたスポットにだけ残されている背景があるようです。さらに、中世の弥谷寺の隆盛は、このような石工集団の活発な活動によっても支えられていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  「松田 朝由 白峯寺の中世石造物     白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P。」

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図に描かれた三重塔
  白峯寺古図には、次の三つの三重塔が描かれています。
①神谷神社の背後の三重塔
②白峯寺本堂西側の三重塔
③白峰寺本堂の東側の「別所」の三重塔
白峯寺古図 本堂と三重塔
白峯寺本堂西側の三重塔(白峯寺古図)

前回は②の本堂西側の発掘調査の結果、塔の遺構が出てきて、中世には三重塔がここにはあったことが確認されたことを見てきました。それでは、③の別所の三重塔はどうなのでしょうか。まずは、白峯寺古図で「別所」の部分を拡大して見てみましょう。
白峯寺 別所拡大図

「別所」をみると、白峯寺から根香寺に向かう参道沿いで、中門と大門の間にあります。参道沿いに鳥居が描かれていて、鳥居をくぐると次のような建物が並んでいます。
①正面に梁間3間×桁行2間、桁行3間の入母屋造りの瓦葺建物
②向かって右側には梁間2間×桁行2間の入母屋造りの瓦葺
③建物②と直行するように瓦葺の建物
④向かって左側には瓦葺の三重塔
⑤三重塔の前に鐘楼
鳥居が描かれているので、正面にある建物は、神仏混合の堂舎のようです。しかし、塔や鐘楼もあるので白峯寺の一つの子院の可能性があります。
「別所」を「浄土宗辞典」で調べると、次のように記されています。
本寺の地域とは別に、修行のためなどに存在する場所。別院。隠遁者や修行者が草庵などを構えて住む場所で、特に平安後期以降、念仏者が好んで別所に住した。所属する寺院にあわせて「○〇別所」などとして用いられる。例えば南都寺院では東大寺の別所として、重源が定めたとされる播磨別所や高野の新別所など七箇所が、興福寺には小田原別所がある。また京都比叡山の別所には西塔黒谷や大原の別所が存在した。別所は念仏信仰とかかわりが深く、播磨別所には浄土寺が、小田原別所には浄瑠璃寺が存在し、ともに念仏信仰の場であった。また比叡山の別所である黒谷からは法然が、大原からは良忍がでている。
また別所は、聖(ひじり)と呼ばれる行者たちとも関係が深く、彼らの存在は民間への念仏信仰の普及の一助になったと考えられている。平安後期頃から見られる別所を中心とした様々な念仏信仰の形成は、日本における浄土教の発展を考える上で重要なものである。
  ここからは別所は、本寺とは離れて修行者の住む宗教施設で、後には念仏信仰の聖たちの活動拠点となったとあります。白峯寺の別所も「浄土=阿弥陀信仰の念仏聖たちの活動拠点」であった可能性があります。
「白峯山古図」に描かれている「別所」は、どこにあったのでしょうか?
研究者は次のような手順で、位置を確定していきます。
①白峯寺古図の細部の情報読取り
②周辺エリアの詳細測量で、かつて子院や堂宇があった可能性のある平坦地の調査と分布図図作成。
③絵図資料と比較しながら平坦地分布図に、かつて存在した子院や堂宇を落とし込んでいく
白峯寺 境内建物変遷表2
白峯寺境内の平坦地分布図

高屋や神谷村方面からの参道にも大門と中門が描かれていたのは前回に見たとおりです。「別所」周辺にも、「大門」と「中門」があります。
白峯寺 別所5
白峯寺古図 別所の中門付近
まず中門を見ると、周辺に白色の五輪塔が11基が群集するように描かれています。この五輪塔群は、現在の白峯寺の歴代住職の墓地とその背後に凝灰岩製の五輪塔が多数建ち並ぶ墓地周辺だと研究者は推測します。
白峯寺近世墓地3
白峯寺歴代住職の墓地
また、中門より手前(西側)には「下乗」と描かれた白色の石造物があります。ここは白峯寺の境内中心部の建物群が途切れる所になります。ここからは、中門は白峯寺の墓地あたりであることが裏付けられます。
白峯寺下乗碑
下乗碑
「大門」について見てみると、「大門」と注記された左下方に「昆沙門嶽」と書かれています。
「昆沙門嶽」は、現在の白峯寺の奥の院です。奥の院毘沙門窟への分岐点に大門はあったことになります。ここは根香寺への遍路道の「四十三丁石」でもあります。
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白峯寺奥の院毘沙門窟への分岐点

この推察に基づいて、研究者は「中門」と「大門」の間を踏査します。その結果、10m×10m程度の平坦地や20m×15m程度の平坦地が7か所集中している場所を発見します。平坦地の中には、礎石と考えられる石材の散布する地点を2ヶ所見つけます。この場所をトレンチ調査した結果を、次のように報告しています。要約
白峯寺別所三重塔基壇跡
白峯寺別所の三重塔基壇
 別所には、「白峯山古図」(江戸前期)では、三重塔・仏堂を中心に鐘楼・僧坊などが描かれる。発掘結果、三重塔や仏堂と推定される遺構が発見される。三重塔跡は東西6.3m南北6.4mの規模で、仏堂跡は東西3.6m南北5.4mを測る。
○塔跡:仏堂跡西側で3間四方(約6m×6m)の礎石列を確認する。礎石は9個検出し、柱間は約2mを計る。高さ30cmほどの基壇を造成し、一辺は約8.5mである。
○仏堂跡:礎石は2個検出、礎石間は1.8mを計る。建物規模は2×3間と推定される。

白峯寺 別所拡大図

先ほど見たように「白峯山古図」の「別所」には、左に三重塔、右に入母屋造りの瓦葺建物が描かれていました。これは、発掘調査の結果とぴったりと合います。ここからは以下のことが云えます。
①「白峯山古図」に描かれている建物の存在が発掘調査で証明されたこと、
②出土遺物からこれらの建物は、使用瓦から15世紀前半を中心と時期のものであること
白峯寺 別所仏塔出土物
白峯寺別所 仏塔の出土遺物

ここまでで私に理解できたのは、白峯寺の伽藍は中世においては現在よりも遙かに広かったということです。研究者は、白峰寺の伽藍を上図の3つのエリアに分けて考えているようです。

白峯寺 伽藍3分割エリア図
中世白峯寺の3つの伽藍配置図
A地区 現在の白峯寺境内を中心として、稚児川を挟み平坦地が確認できる地区
B地区 A地区の奥に広がる傾斜の緩やかな地区、別所地区
C地区、B地区の奥の古田地区   現自衛隊の野外施設周辺
今まではA地区だけを、私は白峯寺の伽藍と考えていました。しかし、白峯寺古図が教えてくれたことは、「別所」と呼ばれるB地区があったこと、そこには本堂と同じように三重塔を持った宗教施設があり、そこが修験者や念仏阿弥陀聖の活動拠点であったことです。
「解説用の白峯山古図」 (下図拡大図)

 また、発掘調査した次の3ヶ所からは、白峯寺古図に書かれていたとおりのものが出てきたことになります。
①本堂西側16世紀の三重塔跡
②本堂東側16世紀の洞林院跡
③別所の三重塔
 ここからは、白峯寺古図に書かれた絵図情報が極めて正確なことが改めて実証されたことになります。絵図上に書かれた大門や中門なども実在した可能性が高くなりました。

最後に地図で別所を確認しておきます。
白峯寺 別所3

本坊から現在の四国の道「根香寺道」をたどって登っていきます。この参道沿いの両側にも平坦地が並び、かつての子院跡があったようです。摩尼輪塔と下乗石の上の窪みが池之宮になります。反対側が白峰寺の墓地で、この辺りに中門があったことになります。
白峯寺 別所周辺地図
白峯寺別所への道

笠塔婆/下乗碑を経て、左に白峯山墓地、右に池之宮跡の凹地を過ぎると、やがて「別所」への分岐(⊥字分岐)があり、ここには石仏が見守っています。
白峯寺遍路道 別所分岐点
白峯寺別所へのT字路
石仏背後の平坦地の右奥が別所跡になるようです。しかし、発掘調査後に埋め戻されたようで、仏堂や塔跡などを示すものは何もありません。どの平坦地が塔跡なのかも分かりません。ただこの辺りに、三重塔をともなう寺院があり、行場である毘沙門窟と、五色台の岬先端の海の行場を結ぶ「行道」を繰り返していたのかもしれません。また、後にはここを拠点に高野聖たちが阿弥陀・念仏信仰を里の郷村に布教していたのかも知れません。どちらにしても多くの行者や聖たちのいた別所は、いまは礎石らしい石がぽつんぼつんと散在するのみです。
白峯寺へんろ道石仏
白峯寺別所跡を見守る石仏たち
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「平成23年度白峯寺別所の調査 白峯寺調査報告書2012年 香川県教育委員会」

白峯寺には、江戸時代初期に描かれた「白峯山古図」があります。
この古図にについては、白峰寺の本坊洞林院の正当性を主張するために江戸時代になって中世の白峯寺景観を描いたものであることは、以前にお話ししました。しかし、具体的に何が描かれているかについては、詳しくは触れていませんでした。そんな中で「絵解き」をやって欲しいとのリクエストを受けたのでやってみようと思います。テキストは「片桐孝宏浩 白峯寺の空間構成 白峯寺調査報告書2012年 香川県教育委員会」です。

白峯寺古図は、縦92㎝、横127㎝の紙本著色で、白峯寺周辺の建物や周辺寺社の名称が注記されます。まずはそこに描かれている範囲を押さえておきます。

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図
A 山麓の高屋村にある「崇徳天皇」(現高屋神社)
B 神谷村にある「神谷明神」 背後に三重塔
C 綾川沿いにある「雲井御所」
D 綾川の上流にあり崇徳上皇の御所があったと伝えのある「鼓岡」
E 青海集落の北側の峯の馬頭院(現来峯神社)
   白峯寺を中央にして、白峯寺と崇徳上皇に関係の深い場所が描かれています。ここで気になるのは、Eの馬頭院です。この子院がどうして描き込まれているのかは研究者にとっても疑問のようです。理由がわからなのです。これにはここでは、深入りしないで前に進みます。
 もうひとつの疑問は、山上の伽藍景観です。
本堂の左(西)と、すこし離れた右(東)にふたつの塔が見えます。西の塔は現在の阿弥陀堂の後ろ辺りだと検討がつきますが、東の塔については、いったいどこにあったのか検討もつきません。また、現在は本坊となって境内の入口にある洞林院が、本堂の東側の石垣の上に描かれています。これだけを押さえて、先に進みます。

白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峯寺古図(拡大部)

それでは、「崇徳天王」(現高屋神社)から参道を古図に従って登っていきます。
高屋村から尾根の稜線上にやや蛇行しながら参詣道が延びて①下乗と記した白い五輪塔石碑があります。これは現在の県道五色台線からの白峯寺への入口広場にある「下乗碑」とは別物のようです。現在のものは五輪塔ではありませんし、江戸時代初期のものではありません。

P1150792
現在の下乗碑(白峰展望台)
 ②の大門が現在の白峰展望台がある所で、「西の坊跡」とされているようです。ここに大門があるということは、ここからが白峯寺の伽藍エリアになるという宣言でもあります。ここから稚児川の谷間に開けた白峯寺中央部へ下って行きます。中門をくぐると、「金堂」「阿弥陀堂」「頼朝石塔」と描かれた塔頭があります。ここには、今は建物はありません。絵図に「頼朝石塔」と描かれている白い石塔が、国の重要文化財に指定されている東西二つの十三重石塔です。

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白峰寺の十三重石塔(重文)
ふたつの石塔は、次の通りです。

東塔が花崗岩製、弘安元年(1278)で近畿から運ばれたもので頼朝寄進と伝えられています。
西塔が凝灰岩製で、元亨4年(1324)で、天霧山の弥谷寺で採石された石が使用されています。
中央の有力者が近畿の石工に発注したものが東塔で、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺の石工に発注したものと研究者は考えているようです。ふたつの十三重石塔は、鎌倉時代に建立された讃岐では非常に貴重な石造物です。
  ここには「阿弥陀堂」とあるので、高野聖や念仏聖などの聖集団が阿弥陀信仰を広げる拠点だったことがうかがえます。ここが退転した後に、現在の本堂の西に移ってきたのかもしれません。

さらに進むと、白くしぶきをあげて流れる稚児川が、稚児の瀧となって流れ落ちています。
実際には稚児川は谷間の小川で、大雨が降らないと稚児の瀧が現れることはありません。幻の瀧です。しかし、ここが古代からの山林修行者にとっては、行場であり、聖地でした。白峯寺の源は、この瀧にあったと当時の人たちも認識していたことがうかがえます。瀧を印象づけるために、デフォルメされています。

白峯寺古図 本堂への参道周辺
 稚児川にはアーチ状の木橋(?)が掛っていています。
橋を渡りると頓證寺の勅額門の前に出ます。ここから階段を登って経蔵、御影堂を経て、本堂の前に出ます。これは現在の参道とは違っています。現在は稚児川を渡る橋は、駐車場前の本坊の前に架かっていて、そこから国の重文に指定された七棟門をくぐって本坊(洞林院)前から境内に入ります。つまり境内への入口(橋)の変更があったようです。

白峯寺絵図 四国遍礼名所図会
白峯寺 四国遍礼名所図会(1800年)

『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))の絵図を見てみると、門(七棟門)から護摩堂に突き当たり、左折し、直進すると勅額門に、この勅額門の手前を右折し、石段を真っ直ぐ登って本堂に至ります。その途中の石段には、現在薬師堂があるところに「経蔵」、行者堂に「御影堂」が描かれています。

白峯寺 建物変遷表
白峯寺 境内建物位置変遷表

 上図を見ると、本堂の位置は、近世のどの絵図も現在とかわりないようです。

白峯寺古図 本堂と三重塔

本堂周辺で気になるのは、左側(西)に隣接して建つように描かれている三重塔です。
 調査対象地は背後には「経塚」と呼ばれている二段集成で、円形に構築された石組があります。その前の平坦地には「白峯山古図」では、三重塔が描かれていますが、四国遍礼霊場記(1689)年にはありません。
白峯寺絵図 四国遍礼霊場記2
四国遍礼霊場記(1689) ここには東西の三重塔は描かれていない。

『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800)にも、三重塔はなく、そこには大師堂が描かれています。そのためここに三重塔があったのか、大師堂があったのかを確認するために調査が行われました。調査結果は次の通りです。(要約)
 トレンチ調査からは、整地土で成形された一辺約11mの基壇状の平坦面が出てきた。ほとんど礎石は残っていないものの礎石抜き取り穴から3×3間(5,4×5,5m)の礎石建物跡があったことが確認できまる。また礎石・礎石抜き取り穴列の内側にも礎石があったこともわかり、総柱建物の可能性がある。出土遺物は、瓦当面に巴文を持つ九瓦、凸面に縄日、凹面に布目を持つ平瓦などの古代末の瓦も出土しているが、ほとんどは近世以降の瓦・陶磁器である。

siramine21):三重塔跡・西外側基壇
三重塔跡周辺  
以上から、3間×3間の建物であったこと、内側にも礎石を持っていることから、塔の可能性が高いと研究者は考えています。そうすると「白峯山古図」に書かれたように、ここには三重塔が建っていたことになります。白峰山古図に書かれていることが正確で、信頼が出来ることになります。この古図が中世のことを伝えている貴重な絵図であると評価は高まりました。
  本堂周辺で今と大きく違うもう一つの点は、本堂東側に描かれ、洞林院と注記された建物です。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峯寺古図に描かれた洞林院

「洞林院」跡も地形測量の結果、南北約72m、東西約17mの長方形の平坦地(約335㎡)と、そこにつながる幅約2mの小路が確認されました。これを「白峯山古図」と比較すると平坦地西側で確認できる高さ約5m前後の石垣や本堂・山王七社との位置関係から「白峯山古図」に描かれている「洞林院」と一致します。また、その東側と西側でも幅5mほどの細長い平坦地が見つかっています。これが洞林院の石垣下に描かれている本堂から洞林院下→下乗石→中門→大門に延びる参道のようです。ここでも確認のためのトレンチ調査が10年ほど前に行われ、報告書には次のように記されています。(要約)
①礎石や柱穴を確認しできたがレンチ調査のため、建物の大きさについては分からない。
②時期については、整地土から焼土・炭とともに16世紀後半の土師器小皿・土師質上鍋、備前焼すり鉢、中国産の輸入白磁などがでてきたので、16世紀後半以降に整地されたこと
③これら土器類とともに、焼土・炭・被熱を受けた壁土が出土していること
④遺構には、礎石と素掘りの柱穴があるので、礎石建物と掘立建物の2棟あったこと
その規模確定や「白峯山古図」に描かれている「洞林院」であると確定する資料は出ていないようですが、その可能性は高いと研究者は考えています。
  ⑤の焼土痕跡は、このエリアが16世紀後半に火災にあい、建物が焼失したことを窺わせるものです。洞林院が戦国末期の兵火を受けたことがうかがえます。中世に大きな力を持つようになった洞林院は、一時的に退転し、近世になって院主別名のもとで復興したとされますが、それを裏付ける内容です。
白峯寺 境内建物変遷表2
白峰寺境内の子院や堂宇跡
    以上をまとめておきます
①白峯寺古図は、中世白峰寺の景観を江戸時代初期になって描かれた絵図だとされる。
②描かれた内容については、現在の本坊となっている洞林院の由緒や正当性を視覚的に感じさせる内容であり、その視点に立ったデフォルメがされていると研究者は考えている。
③描かれた空間は広く、神谷神社や鼓ヶ丘など、崇徳上皇と関係のある寺社が周辺部には描かれている。
④中央部には白峰寺が描かれているが、高屋神社や神谷神社からの参道には大門・中門が見え、ここからが寺域だとするとかなり広大なエリアになる。
⑤現在の国重文で二基の十三重石塔周辺には、阿弥陀堂や金堂が描かれ、ここにも高野聖などの念仏僧が拠点としてたことがうかがえる。
⑥現在の白峯寺伽藍への入口は、本坊(洞林院)前であるが、この古図では勅額門前に橋がかかって、真っ直ぐに本堂に石段が続いている。江戸時代になって、洞林院が現在地に下りてきた際に参道付け替えられたようだ。
⑦白峯寺古図に本堂西側に描かれた三重塔は、発掘調査の結果、実在が確認された。
⑧本堂東側に描かれた洞林院も発掘調査の結果、16世紀後半の遺物や火災跡が見つかり、ここが洞林院跡である可能性が高くなった。
以上のように白峯寺古図は、江戸時代初期に書かれたものではあるが、中世の白峯寺伽藍をある程度性格に描いた絵図資料であると云える。

次回は、本堂から東に伸びる根香寺道沿いにある「別所」の三重塔について見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献
   「片桐孝宏浩 白峯寺の空間構成 白峯寺調査報告書2012年 香川県教育委員会」
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白峯寺法蔵 崇徳上皇 歌切図 
崇徳上皇 (白峯寺蔵)
保元の乱に敗れて讃岐に流された崇徳上皇は、長寛2年(1164)8月、当地で生涯を閉じます。白峯寺の寺域内西北の地に崇徳上皇の山陵が営まれ、これを守護するための廟堂として頓證寺(御影堂・法華堂ともよばれる)が建立されます。この頓證寺の建立が、白峯寺の歴史にとって大きな意味を持つことになるのは以前にお話ししました。

白峰寺伽藍配置
現在の白峰寺の境内配置図(現在の本坊は洞林院)
 ここまでの白峯寺は、同じ五色台にある根来寺と同じように、山林修行者の「中辺路」ルートの拠点としての山岳寺院でした。それは弥谷寺や屋島寺などと性格的には変わらない存在だったと私は考えています。それが崇徳上皇陵が境内に造られることで、大きなセールスポイントを得たことになります。これは中世の善通寺が「弘法大師空海の生誕地」という知名度を活かして「全国区の寺院」に成長して行ったのとよく似ているような気もします。善通寺は空海を、白峯寺は崇徳上皇との縁を深めながら、讃岐のその他の山岳寺院とは「格差」をつけていくことになります。今回は、頓證寺と白峰寺の関係に絞って、見て行くことにします。テキストは     「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」
です。

 最初に確認しておきたいことは白峰御陵の附属施設として建立された「崇徳院御廟所」は、厳密に云うと頓證寺だということです。そして、次のように頓證寺と白峯寺は同じ寺ではなく、もともとは別の寺であったということです。
白峯寺=修験者の中辺路ルートの山林寺院
頓證寺=崇徳上皇慰霊施設
二つの寺は、建立時期も、その目的もちがいます。
P1150681
頓證寺殿
頓證寺は何を白峰寺にもたらしたのでしょうか。第1に経済的な基盤である寺領です
 中央政府や都の貴族たちが寄進を行うのは頓證寺であって、もともとは白峰寺ではなかったようです。それが白峰寺と頓證寺が次第に一体化していく中で、頓證寺の寺領管理を白峯寺が行うようになります。

白峰寺明治35年地図
白峰寺の下の郷が松山郷
『白峯寺縁起』によれば、次のような寺領寄進を受けたと記します。
①治承年間(1177~81)に松山郷青海と河内
②文治年間(1185~90)に山本荘
③建長5年(1253)に後嵯峨上皇によって松山郷
しかし、この記述に対して研究者は、いろいろな疑義があると考えていることは以前にお話ししましたのでここでは省略します。本ブログの「四国霊場白峯寺 白峯寺が松山郷を寺領化するプロセス」参照
白峯寺 千手観音二十八部衆図
千手観音二十八部衆像(白峯寺)
 暦応5年(1342)の鐘銘写には「崇徳院御廟所讃州白峯千手院」との銘文があります。
この千手院は千手院堂ともよばれ、後嵯峨上皇の勅願所になったとされます。先に寄進された松山荘は千手院堂の料所であったとも伝えられます。白峯寺の本尊が千手観音であることを思えば、この千手院は白峯寺の本堂のことだと研究者は考えているようです。頓證寺に寄進された松山荘が、この千手院堂の料所となっているのは、頓證寺と松山荘が、どちらも白峯寺の管理下になっていたためでしょう。ここからは、14世紀半ば頃には、廟所としての頓證寺が白峯寺と一体化していたことがうかがえます。ある意味で頓證寺が白峰寺にのみ見込まれていったというイメージでしょうか。こうして「廟所としての白峯寺」というイメージが作り出されていきます。
南海流浪記- Google Books
道範の南海流浪記
 建長元年(1249)に、高野山の党派抗争で讃岐に流されていた道範が8年ぶりに帰国を許されることになります。その際に、白峯寺院主に招かれて白峯寺に立ち寄っています。そして白峯寺を「南海流浪記」に次のように記します。

此ノ寺(白峯寺)国中清浄ノ蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟

ここからは、13世紀半ばの鎌倉時代にはすでに「廟所としての白峯寺」というセールスポイントが作り出されていたことがうかがえます。建立された頓證寺が寺僧集団をともなっていたかどうかは、史料的には分かりません。しかし、隣接する近い仲です。頓證寺と白峯寺との関係が密接になる中で、しだいに頓證寺の法会等にも白峯寺僧が出仕するようになったことは考えられます。
 以前にお話したように、史料からは建長4(1252)年頃から法華経を講説する法会が修され始め、それにともなって21の供僧が置かれたという認識が室町時代中期の白峯寺にあったことが分かります。これらの供僧を中心として、子院が形成されていたことは前回に見たとおりです。供僧が置かれたのは、頓證寺であって白峯寺ではありません。しかし、実際には白峯寺僧が供僧を兼ねることで法会も執行されたようです。
白峯寺 四国名所図会
白峯寺(四国遍礼名所図会)

 これについて山岸常人氏は、次のように指摘します。

白峯寺が13世紀中期以降は、頓証寺の供僧21口を構成員とする新たな寺院に転換したと言えよう。頓証寺の供僧集団が前身寺院(白峯寺)をも継承した

 頓證寺が中央政府によって建立されて以後、白峯寺と頓證寺との一体化が進んだのです。
そして建長4(1252)年の段階では、白峯寺と頓證寺は法会を通じて分かちがたく結びついたと研究者は考えています。しかし、あくまで前面に立つのは頓證寺であって、白峯寺ではなかったようです。「十一日の供僧勅請として、各十一通の御手印の補任を下さる」というのも事実かどうかは分かりません。しかし、そうした主張ができるのは廟所である頓證寺だからこそできることです。こうして21院を、白峰寺の院主が統括するというスタイルで一山は運営されていたと研究者は考えています。
 以上をまとめておくと、
①千手院を中心とする中世の白峯寺は、実質的に頓證寺と一体化し、それによって廟所を名乗るようになった。
②ただし表に出るのは頓證寺の方であったので、頓證寺の供僧集団が白峯寺を吸収し、継承したとみることもできる。
③どちらにしても白峯寺と頓證寺とは、それぞれ別に存在して両者を補完する関係にあった
④それを示すかのように、戦国期の如法経供養は千手院と頓證寺のそれぞれで行われた

こうして 「崇徳上皇の廟所 + 中辺路修行の山岳寺院 + 安定した寺領と経済力」という条件の備わった中世の白峯寺は多くの廻国の聖や行者を集め、活動の舞台を提供する寺になります。僧兵集団も擁していたと考える研究者もいます。このような状況が21もの子院の並立を可能にする背景だったのでしょう。その結果、一山寺院として衆徒や聖などの集団が、念仏阿弥陀信仰や時衆信仰、熊野信仰などなどの布教活動を周辺の郷村で行うようになります。

 白峰寺の頂点は前回見たように院主でした。しかし、子院の中でも洞林院のような有力なものもあらわれています。
洞林院は戦国時代には衰退したこともありますが、慶長期になると秀吉の命で讃岐国守として入部した生駒氏の保護のもとで、別名が白峯寺再興の役割を果たします。別名は、生駒氏の支持を受けて山内での勢力基盤を強化します。その結果、洞林院が山内の中心的な位置を占めるようになります。現在の本坊にあるのは洞林院ということになります。

白峯寺本坊 弘化4年(1847)金毘羅参詣名所圖會:
幕末の絵図 金毘羅参詣名所図会には本坊に洞林院が描かれている。


以上をまとめておきます
①古代の白峯寺は、五色台を行場とする山林修行者の行場のひとつから生まれた。
②律令国家の下で密教が重視されると国分寺背後の五色台に、山林寺院が整備されていく。そのひとつが白峯寺や根香寺であった。
③12世紀後半に崇徳上皇陵が白峰山に作られ、廟所・頓證寺が建立されたことが白峯寺にとっては大きな意味を持つことになる。
④頓證寺に寄進された松山荘は、実質的には白峯寺の管理下にあって経済基盤となった
⑤鎌倉期以降、白峯寺と頓證寺との一体化が進展していく。
⑥中でも鎌倉中期に頓證寺に21の供僧が設置されたことが白峯寺にとって重要な意味をもった。
⑦ここに白峯寺と頓證寺とが法会を通じて分かちがたく結びついた
⑧白峯寺と頓證寺とは、それぞれが補先する関係にあり、その関係は中世を通じて継続した

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」
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白峯寺古図 地名入り
江戸時代になって中世の白峯寺の姿を描いた「白峯山古図」

前回は、中世の白峯寺には行人(行者)たちが拠点とする多数の子院があったことを見てきました。白峰寺の「恒例八講人数帳」及び「恒例如法経結番帳」には、戦国期の白峯寺には次の21の坊があったと記します。
持善坊・成就坊・成実坊・法花坊。新坊・北之坊(喜多坊)・円乗坊・西之坊・宝蔵寺・一輪坊・花厳坊・洞林院・岡之坊・宝積院・普門坊・一乗坊・明実坊・宝光坊・実語坊・千花坊・谷之坊

この子院の中で、台頭してくるのが洞林院です。
洞林院が台頭してきたのは、どんな背景があったのでしょうか。
今回はそれを見て行きたいと思います。テキストは、「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」です。

白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峰寺古図拡大版(部分)
洞林院が最初に史料に登場するのは『親長卿記』の文明4年(1472)の記事で、次のように記されています。
○六月廿日条
(前略)白峯寺文書紛失、可申請 勅裁之由奏聞、勅許、
○六月十二日条
(前略)白峯寺住僧、洞林院僧都、同中 勅裁、有御不審事子細今日奏聞也、於洞林院分者雖不被成、
白峯寺同事歎之由有仰、之(申ヵ)子細了、
○六月廿三日条
(前略)洞林院中 勅裁事、典白峯寺院領各別之旨中之、然者可被成 勅裁云々、同仰元長令書遣之、
意訳変換しておくと
○六月廿日条 (前略)白峯寺が文書を紛失し、その再発行を申請し、勅裁を得た
○六月十二日条
 白峯寺住僧からの文書再発行申請にについて、洞林院僧都から「この土地には洞林院分寺領が含まれている」との異議があり、その子細が提出された。
○六月廿三日条
(前略)洞林院の申し出を受けて、白峯寺院領と洞林院領とはそれぞれ別に扱われることになった。同仰元長令書遣之、

ここからは次のようなことが分かります。
①当時の洞林院には、僧官を有した「洞林院僧都」がいたこと、
②洞林院には院領があり、これについて「洞林院僧都」が自ら主張するだけの実力をもっていたこと
③洞林院は、15世紀後半の室町時代の白峯寺における有力な子院であったこと
戦国期以降、洞林院は文書にも登場するようになりますが、それらの文書は後世の写しで、慎重に検討しなければならないと坂出市史は指摘します。
例えば白峯寺に古来より大切に伝存してきた古文書の中に「白峯寺崇徳院政所下文」永正11(1515)年があります。
この下文の発給者は、洞林院代の宗円です。彼は洞林院の住持で、白峰寺の院家代表の立場にもありました。後に洞林院は、白峰寺の院号とされ、綾松山洞林院白峯寺と公称されるようになります。下文の内容を要約すると次のようになります。
①白峯寺が永正11(1515)年に崇徳院という院号を使用して、白峰寺の寺僧に少僧都職を与えていること
②具体的には白峯寺のトツプの洞林院代宗円が、同じ白峯寺の僧権律師秀和に少僧都という僧官の職位を与えたこと。
③しかも「国宜承知敢勿違失」と讃岐国中に号令をかけていること。
 ①律令体制下では僧正・僧都・律師などの僧官は、朝廷(玄蕃寮)に任命権がありました。中央政府が任命していたのです。それが鎌倉時代には、売官も行われるなど権威も通俗化していく中で、仏教各宗派の勢力維持・拡張のために各宗派が独自に僧位を任命するようなります。②ここでは洞林院代宗円が、白峯寺の僧権律師秀和に少僧都の僧位を与えています。ここからは、白峰寺よりも洞林院の方が高い立場にあることを伝える内容です。
一方、白峰寺も「白峯寺崇徳院政所」という名で身内の僧侶を少僧都職に任じています。
崇徳院という院号は、あくまで崇徳という天皇一人に追贈された院号であって、崇徳院政所という家政機関が存在したことはありえません。それを重々承知した上で発給したものと研究者は考えています。分かっていてありもしない機関名を名乗っているということです。ここに当時の白峰寺の権勢の強さや高圧ぶりを感じます。こうなると、白峰寺と洞林院の関係は分からなくなります。
 応永19(1413)年の北野社一切経書写に参画した増吽は、当時「讃州崇徳院住僧」と自らの肩書きを記しています。これは崇徳院御影堂のことで、白峰寺全体の住持ではないようです。
 この他にも「白峯寺崇徳院政所下文」は様式や内容からみて疑問が残る文書だと研究者は考えています。後世に洞林院や白峯寺の権威を高めるためにつくられた偽書だと云うのです。この文書の内容は、白峰寺ではなく洞林院が頓證寺の寺務を掌握していたと主張しています。白峰寺よりも洞林院の方が優位な立場にあったという結論に導く意図が見え隠れします。

白峯寺 別所
白峰寺古図 本堂の東側稜線上には多くの子院が描かれている

「建長年中当山勤行役定」(建長年中(1249~56)は、白峯寺の勤行等について後世にまとめたものです。
その末尾に「再興洞林院代 阿閣梨宋有」とあります。「再興洞林院」とあるので、ここからは洞林院が一度退転した後に再興されていたことが分かります。この文書は年紀がないので、洞林院がいつ再興されたかは分かりません。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)

讃岐国名勝図会の白峰寺
それを埋めてくれるのが『讃岐国名勝図会』です。この図会の「頓證寺」の項には、宝物の「大鼓筒」の書上げとして、次のように記されています。

大鼓筒(往古鼓楼大鼓と云ふ、筒内銘あり、「讃州白峯寺千手院常什物也、永禄十年丁卯卯月十四日、作岡之坊宗林、書料当寺院主宗政弟子生年丹五歳、再興洞林院代宝積院阿閣梨宋有、天正八庚辰年三月十八日、敬白、筆者薩摩国住重親」)

意訳変換しておくと
(頓證寺の宝物に大鼓筒(往古鼓楼大鼓)があり、その筒内には次のような銘がある。
「これは讃岐の白峯寺千手院の宝物である。永禄十(1567)年4月14日、岡之坊宗林が作り、書は当寺の院主宗政の弟子生年が担当した。洞林院を再興した宝積院阿閣梨宋有、天正8(1580)年3月18日、敬白、筆者薩摩国住重親」)

ここからは、次のようなことが分かります。
①「再興洞林院代 阿閣梨宋有」が宝積院の宋有のことであること
②天正8年(1580)以前には、洞林院が再興されていたこと
以上からは、洞林院は戦国末期において衰退した時期があり、16世紀後半の戦国時代に再興されたことが分かります。洞林院を再興するにあたって、由緒となる史料が作成・整理されたのでしょう。その一つが「白峯寺崇徳院政所下文」ではないかと研究者は考えています。

白峯寺古図 別所拡大図
白峰寺古図 別所拡大図
以上を裏付けるものとして、研究者は次の史料を挙げます。
①戦国期における白峯寺の記録「恒例八講人数帳」が、天正6年を最後に記事が見えなくなること、
②白峯寺の記録「恒例如法経結番帳」も、天正8年を最後に記事が見えなくなること
これは、両記録は天正8年をさほど下らない時期に、洞林院の再興にあわせて作成されたためと研究者は考えています。
③慶長9年(1604)の棟札には、次のように記されていること。

再興千手院一宇並御厨子大願主洞林院大阿閣梨別名尊師」

ここには本堂・千手院の再興願主が洞林院になっています。
白峰寺院主に代わって、洞林院が台頭していたことがうかがえます。これ以降、諸堂棟札の多くに洞林院の名が見えるようになります。寺院運営において洞林院が中心的な役割を担ったことが推察できます。
慶長9年まで姿を消していた千手院の再興を担ったと考えられるのが、棟札にみえる洞林院の「大阿闍梨別名」です。別名について慶長6年4月6日と13日の文書に次のように記されています。
【史料1】生駒一正寄進状32
白峯之為寺領、山林竹木青海村五拾石、一色二進帶可有者也、
慶六 卯月六                  (花押)
別名
〔史料1】は生駒一正が白峯寺へ青海村の50石を寺領として寄進し、山林竹木の進退を認めたことを別名坊に伝えたものです。 花押だけで一正の署名はありません。ここからは、生駒一正の保護を別名が受けていることが分かります。
次からの【史料2】【史料3】【史料4】は、東京大学史料編纂所架蔵の影写本からのもので、これまでに紹介されていなかった史料で、坂出市史が初めて紹介するもののようです。
【史料2】佐藤掃部助書状鮨
已上
白峯寺院主被仰付候上、御知行方同寺物何も如先々御居住在之候、此旨、我等より申入候へとの御詑候、為後日如件、
慶六  卯月六日       佐藤掃部 (花押)                       
  白峯寺院主 別名尊師 尊床下
意訳翻訳しておくと
白峯寺に次のことを仰せつける。すでに寄進した御知行方(寺領)や寺の運営管理権についてもこれまで通り認めるとの沙汰が(生駒一正様より)あったので、私(佐藤掃部助)から連絡する。
【史料2】をみると、末尾宛先に「白峯寺院主別名尊師」とあります。ここからは別名が白峯寺院主であったことが分かります。そして生駒一正は、寺領の寄進と同時に、これまで通り別名を院主として認め、寺領の知行や寺物の管理を行うよう、有力家臣である佐藤掃部助を通じて命じています。
史料3 佐藤掃部助書状34
己上
しろミね山中はやし卜大門卜申内、谷中竹木一切令停止候以来少も伐取候者きゝ立次第可成御成敗候、近日殿様御判可給候へ共、御上洛之事候間、御下向次第御判可給候、猶寺中坊主中以上二可被申候、恐々謹言
慶六 卯月十三日             掃部 (花押)
本四大夫殿
太郎右衛門殿
次郎左衛門殿
助兵衛殿
意訳変換しておくと
己上
白峰山中の大門内側の谷中の竹木については、一切の伐採禁止を命じていがこれを守らずに伐採するものがいる。今後は、見つけ次第に成敗する。(生駒一正)殿様が御判断することではあるが、今は、上洛中で不在であるので、帰国次第に判断を仰ぐ次第である。なお白峰の寺中の坊主たちにも以下のことは連絡済みである。、恐々謹言
慶六                佐藤掃部(花押)
卯月十三日                     
本四大夫殿
太郎右衛門殿
次郎左衛門殿
助兵衛殿
【史料3】からわかることは
①先ほども出てきた生駒藩の重臣佐藤掃部助が白峯山中の林中の「大門」から内の「谷中」での、竹木の刈り取りの停止を再度確認し、順守することを命じている。
②あて先は周辺の村の有力者4名になっている。
③「(白峰)寺中坊主中以上二可被申候」とあり、白峰寺や洞林院の名前は出てこない。
④寺中坊主中とは、白峰全体の子院を指しているように思えること
この文書が出された背景を推測すると次のようになります。
従来から白峰寺山中や大門の内側に里の村々の人々が入り込んで、木材や下草の伐採や採取を行っていた。それに対して、白峰寺の方から宗教的な聖地であるので禁足地としてほしいという要望が生駒藩に出さた。それを受けて生駒藩は出入禁止令を出すが、村人はそれを守ろうとしない。そこで再度、白峰寺から厳禁令を出してほしい請願があった。それを受けて、禁足地へ入るものは成敗するという厳禁令が村々の指導者に出された。

【史料4】佐藤掃部助書状,35
己上
御寺五拾石之百姓郡役外二何二も一切公事仕間敷候、少も仕候者、其百姓曲事二可仕者也、
慶六                         掃部助
卯十三日                       (花押)
しろミね寺
百姓中
意訳変換しておくと
己上
白峰寺の50石の寺領内の百姓については、郡役以外には一切の公事を負担させないので、百姓の一切の紛争を禁止する、
慶六                         掃部助
卯十三日                       (花押)
白峰寺
百姓中

ここでは、白峯寺領の百姓に特権を与えるとともに、一切の紛争の禁上を命じています。
この他にも、年未詳の文書ながら、宛先を別名とするものが2通あります。この中で研究者が注目するのは[三左馬書状]の宛先が「松之別名様」となっていることです。「松之」とは、元禄8年(1695)の白峯寺末寺荒地書上に出てくる「松之坊」のことのようです。そうだとすると別名は、もともとは松之坊を拠点に活動していた僧侶で、その後に洞林院に移ったことがうかがえます。または、松之坊が、洞林院を継承した子院だった可能性もあります。
 以上のような文書からは、次のようなことが分かります。
①慶長6年に生駒一正が白峯寺の別名に対して寺領の寄進など保護を加えていたこと
②この時期の白峯寺では本堂・千手院の再興といった大きな課題に直面していたこと
③一正の有力家臣・佐藤掃部助が白峯寺院主の洞林院別名とともにその再興を図ろうとしたこと
④洞林院の別名は、院主の正当性を一正に保障されることにより、さらに強固にしたこと
その後の慶長9(1604)年に、佐藤掃部助と洞林院別名の手によって千手院の再興が実現します。このことを記す棟札には周辺地域の人々の名前も見え、多くの人々の勧進奉加があったことがうかがえます。さらに3年後の慶長12年には観音堂造立のため、讃岐11の郡から計53石の勧進を行うことが白峯寺に伝えられています。研究者が注目するのは、この段階で生駒藩の主導による勧進・造営体制へと変化していることです。それが可能となったのは、生駒氏が院主洞林院を直接的に掌握していたことが背景にあると研究者は考えています。そのキーマンが別名だったようです。別名は生駒氏の支援を受けながら地域有力者も巻き込み、白峯寺の観音堂造立の勧進を成功させます。これは民衆に生駒氏をあらたな公権力として、印象づけるには格好のモニュメントにもなります。生駒藩は治世安定を目に見える形で示すために、有力寺社を保護支援して堂宇の再興を行っていました。白峰寺だけではなかったのです。金毘羅大権現も弥谷寺も伽藍整備が行われていました。このような中で白峯寺の観音堂勧進に見せた勧進手腕を見て、生駒藩は別名に弥谷寺を兼帯させたと私は考えています。
 こうして生駒藩からの強い信頼を得て、観音堂(本堂)復興を成し遂げた別名の山内での力は大きくなります。同時に、洞林院は他の子院を圧倒するようになります。洞林院の復興とその後の成長は別名の力に依るところが多いとしておきます。

元禄2年(1689)に、寂本が著した『四国偏礼霊場記』の挿図を見てみましょう。
白峯寺絵図 四国遍礼霊場記2
白峰寺 四国遍礼霊場記(1689年)
上図の左ページの建物配置は、太子堂が現在地に移動した以外には大きな変化はないようです。右ページからは次のようなことが分かります。
①現在の本坊には円福寺があり、洞林院は本堂の東側にあったこと。
②洞林院のほかに円福寺や一乗坊などが描かれ、江戸時代前期にも白峯寺に複数の子院があったこと


次に江戸時代になって中世の白峯寺境内を描いたとされる「白峰寺古図」を見てみましょう。
白峯寺 白峯寺古図(地名入り)
白峰寺古図
中世の白峰山を描いたというこの絵に描かれるのは洞林院だけです。伽藍の間には数多くの屋根が見え、他の子院があるように見えます。しかし、洞林院との間に明らかに「格差」が付けられています。研究者は次のように述べています。
「何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても意識しながら読み解く」

という視点からすると、この絵の作成意図には、次のようなねらいがあったと研究者は指摘します。
①山上にある他の子院を略して洞林院だけを描くことで、
②洞林院の由緒を目に見える形で伝え、寺中における優位性を示そうとする意図のもとに描かれた
さらに推察を加えるとすれば、そのような主張が必要であった時期に制作されたと考えられます。そのような時期とは、いつだったのでしょうか? 
  洞林院は戦国時代末期に一時衰退しますが、その後に再興したことは見えてきたとおりです。その際に、洞林院の由緒を示すための文書や絵図が作成されたようです。白峯寺古図には、復興された洞林院の「由緒」を見る人に視覚的にイメージさせる力があります。制作意図もその辺にありそうです。

白峯寺本坊 弘化4年(1847)金毘羅参詣名所圖會:

金毘羅参詣名所図会(1847年)道林寺(洞林院)が白峰寺本坊として現在地に描かれている。その奧には明治まであった子院がいくつか見える

以上をまとめておきます。
①中世に21あった子院の内で、洞林院は15世紀後半には白峰寺に肩を並べる大きな存在となっていた。
②しかし、その後の戦乱の中で洞林院は一時的に退転した
③それが復興されるのが16世紀末のことである。
④洞林院院主別名は、生駒藩の支援を受け白峯寺観音堂(本堂)の再建勧進を行い、藩主の信頼を得た
⑤別名は、弥谷寺の兼帯をまかされ、その復興勧進活動にも関わることなる。
⑥藩主生駒一正の信頼を得た別名の山内での権勢は高まり、同時に洞林院の力も大きくなった。
⑦以後近世は、洞林院を中心に白峯寺は運営されていくことになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。」
参考文献
  上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会
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白峯寺の頓證殿
白峰寺の紫陽花が見頃ですよと教えていただいて、花見ついでに境内や奥の院の毘沙門窟を歩いてきました。境内に咲き誇る紫陽花は見事なもので、古い堂宇を引き立てていました。ところで紫陽花の背後の堂宇に近づいて眺めていると、どれもが「重要文化財」と書かれています。白峰寺に重要文化財の建物がこんなにあったのかなと不思議に思っていると、2016年に白峰寺の7つの堂宇が国の重要文化財に一括して指定されていたようです。何も知りませんでした。お恥ずかしい話です。それらの重要文化財の縁側に腰を下ろして、紫陽花を眺めながら白峯寺の報告書を読みました。

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白峯寺の柏葉紫陽花
訪れる人も少なく、ヤブ蚊に悩まされることもなく至高の時間を頂きました。その時に読んだ報告書の内容を、私なりに要約すると次のようになります。

 白峰寺や根香寺がある五色台は、国分寺背後の霊山で、そこは三豊の七宝山のように修験者たちの「中辺路」の行場ルートがありました。海と山と断崖の窟の行場を結んで行者たちは「行道」と「瞑想」を日夜繰り返します。その行場の近くに山林修行者がお堂や庵が姿を現します。行場の一つである稚児の瀧の近くに建てられたお堂が白峯寺の起源だと研究者は考えています。白峰寺は、行場に造られたお堂から発展してきたお寺なのです。これは根香寺も同じです。

今回は中世の白峯寺が、どんな僧侶たちの集団によって構成されていたのかを見ていくことにします。
比較のために以前にお話しした善通寺の僧侶集団のことを見ておきましょう。中世の善通寺には次のような僧侶達がいました。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。

白峯寺 構成メンバーE
大寺院の構成メンバー 
寺院の中心層は、学僧や修行僧たちです。
しかし、彼らに仕える堂衆(どうしゅう)・夏衆(げしゅう)・花摘(はなつみ)・久住者(くじゅうさ)などと呼ばれた存在や、堂社や僧坊の雑役に従う承仕(しょうじ)公人(くにん)・堂童子(どうどうじ)、さらにその外側には、仏神を奉じる神人やその堂社に身を寄せる寄人や行人たちが数多くいたようです。特に経済力があり寺勢が強い寺には寄人や行人が集まってきます。また武力装置として僧兵も養うようになっていきます。

   弥谷寺の「中世の構成員」も見ておきましょう。
  鎌倉時代の初めに讃岐に流刑となった道範から弥谷寺の中世の様子が見えてきます。道範は高野山で高位にあった僧侶なので、善通寺が彼を招き入れます。道範は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えた人物でもあるようです。道範が「弥谷上人」からの求めで著した『行法肝葉抄』(宝治2年(1248)の下巻奥書に、次のような記述があります。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草 庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。
書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
意訳変換しておくと
宝治二(1248)年2月21日、善通寺の弘法大師御誕生所の庵で書き終える。この書は弥谷ノ上人の勧進でできたものである。(弥谷上人からの)依頼を受けて、すぐさまに書き上げたもので、流刑の身で手元に参考書籍などがないために、細部については落ち度があるかもしれない。もし後日に誤りが見つかれば修正したい。是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
 ここで研究者が注目するのは「弥谷の上人の勧進によってこの書が著された」と記されている箇所です。普通は、上人とは高僧に対する尊称です。しかし、ここでは、末端の堂社で生活する「寄人」や「行人」たちを「弥谷ノ上人」と記していると研究者は指摘します。また「弥谷寺」ではなく「弥谷」であることにも注意を促します。ここからは、行人とも聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、この時点では行場が中心で、善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかったと研究者は考えています。また、この時点では、弥谷寺と善通寺は本末関係もありません。善通寺と曼荼羅寺のような一体性もありません。弥谷(寺)は、善通寺の「別所」であり、行場でした。そこに阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいたのです。
行人層は、寺領によって日々の糧を保障されている上部僧の大衆・衆徒とは違って、自分の生活は自分で賄わなければなりません。
そのため托鉢行を余儀なくされたでしょう。その結果、地域の人々との交流も増え、行基や空也のように、橋を架け、水を引くなどの土木・治水活動にも尽力します。さらに治病にも貢献し、死者の供養にも積極的に関わっていったようです。そうした活動の中で、庶民に中に入り込み、わかりやすい言葉で口称念仏を広めていきます。高野山が時衆念仏で阿弥陀信仰に染まった時期には、高野聖たちによって弥谷寺や白峯寺も阿弥陀信仰の布教拠点となります。それは、現在でも白峰寺境内に阿弥陀堂があることからもうかがえます。

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白峯寺阿弥陀堂
 このように地方の有力寺院の場合、学侶(学問僧)・行人・聖などで構成されていたようです。まず学侶(学頭)については、寺院の僧侶身分の中で最も上位に立つ存在で、中心的な位置を占めていました。学業に専念する狭義の学頭がいたようです。しかし、白峰寺や根来寺では、学問僧の影は薄いようです。
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白峯寺薬師堂
白峯寺で多くを占めたとみられるのは「衆徒」です。
『白峯寺縁起』に「衆徒中に信澄阿閣梨といふもの」が登場します。また元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」には、中世まで活動していたと考えられる「白峯寺山中衆徒十一ケ寺」が書き上げられています。この他、天正14年(1586)の仙石秀久寄進状の宛所は「しろみね衆徒中」となっています。一般には武装する衆徒も多かったようです。当時の情勢からして、白峯寺が僧兵的な集団を抱え込んでいた可能性は充分にあることは以前にもお話ししました。

白峯寺縁起 巻末
白峯寺縁起 巻末部分

13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」には、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること
②勤行次第の筆者である薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること
③勤行次第は、修験者の重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
 ここからは、次のような事が分かります。
①子院の多くが高野聖などの念仏聖の活動の拠点となっていたこと
②熊野行者の流れをくむ修験者たちが子院の主となっていたこと
③修行に集まってくる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
 鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。
 それぞれの子院では、衆徒に対して奉仕的な行を行う行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。
白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏として活動し、下僧集団を形成したと研究者は考えています。たとえば若狭国の有力寺院である中世の明通寺では、寺僧は「顕・密・修験」を兼ねていました。白峯寺における衆徒の中にも修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずで、集団としての区分も曖味であったかもしれません。彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったかもしれません。