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明治38年四国八十八ヶ所納経帳(讃岐国詳細) | 古今御朱印研究室
根香寺納経帳(明治38年)
根香寺の歴史を見てきましたが、もうひとつ踏み込んだ説明が欲しいなあと思っていると、報告書の最後に「考察」部がありました。ここに私が疑問に思うことに対する「回答」がいくつかありましたので紹介しておきたいと思います。テキストは「上野進  古代・中世における根香寺  根香寺調査報告書 香川県教育委員会2012年版127P」です。

 根香寺の開創は、縁起にどのように書かれているのか
根香寺の縁起としては『根香寺略縁起』(1)と『青峰山根香寺記』(2)があります。前者は住職俊海が著したもので、俊海の住職期間が享保17年(1732)~寛保元年(1741)なので、その頃に書かれたようです。後者は延享3年(1746)に次の住職である受潤が著したもので、開基円珍の事跡を物語風に延べ、寺歴も詳細に記されています。このふたつの縁起が近接して書かれた背景には、直前の大火があったようです。この時の大火でほとんどを消失いた根香寺は再建と同時に、失われた縁起などの再作成が課題となったのでしょう。それに二人の住職は、それぞれの立場で応えようとしたようです。
ふたつの縁起で、根香寺開創の事情を簡単に見ておきます。

根香寺 青峰山根香寺縁起
『青峰山根香寺略縁起』:

当山は円珍が初めて結界した地で、円珍が七体千手のうち千眼千手の像を安置し、さらに山内鎮護のために不動明王を彫り、安置した

『青峰山根香寺記』:

根香寺 青峰山根香寺記
根香寺は円珍の創立で、中国から帰国し、讃岐国原田村の自在王堂に円珍が数か月逗留した際、しばしば山野をめぐり、訪れた青峰において老翁(山の主である市瀬明神)と遊遁し、この老翁から「当地が観音応化の地で三谷があり、蓮華谷に金堂を造立して本尊を安置せよ」と告げられた。
 そこで円珍は香木で造った千手千眼の観音像を当山に安置し、また不動明王像も自作し安置した。神が現れた地には祠を立て、鎮守として祀った
どちらも「根香寺=円珍単独開創説」をとります。
円珍は金倉寺が誕生地で、母は空海の佐伯家から嫁いできていた伝えられます。唐から帰国後の円珍が讃岐に滞在する時間はあったのでしょうか。『讃岐国鶏足山金倉寺縁起』には、天安2年(858)9月、円珍が大宰府から平安京に向かう途中で、金倉寺の前身である道善寺に逗留したと伝えます。しかし、これを事実とみるのは難しいと研究者は考えています。ただし、3年後の貞観3年(861)、円珍が道善寺の新堂合の落慶斎会に招かれたとの寺伝があるようです。 この頃、円珍が故郷に帰省していた可能性はあると考える研究者もいるようです。 
 寛文9年(1669)の『御料分中宮由来。同寺々由来』にも根香寺が「貞観年中智証大師の造立」とあり、貞観年間(859~877)に円珍が根香寺を開創したとという認識があったことがうかがえます。しかし、円珍による根香寺開創を史料的に裏づけることは難しく、伝承の域を出ないと研究者は考えています。

P1120199根来寺 千手観音
根香寺本尊の千手観音
『根香寺略縁起』は、本尊千手観音の「複数同木説」を採ります。
これに対して後から書かれた『青峰山根香寺記』は、円珍と老翁(市瀬明神)の出会いに重点が置かれます。このちがいは、どこからきているのでしょうか?このことを考えるうえで参考となるのが、前札所の第81番札所白峰寺の『白峯寺縁起』(1406年)だと研究者は指摘します。『白峯寺縁起』には、次のように記されています。

空海が五色台に地を定め、貞観2年に円珍が山の守護神の老翁に会い、十体の仏像を造立し、49院を草創した。そして十体の仏像のうち、4体の千手観音が白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置された。

ここにからは『根香寺略縁起』は、円珍が同木から複数の仏像をつくったとする「複数同木説」を採っています。これは『白峯寺縁起』と共通していて、 このような見方が早くからあったことがうかがえます。

根香寺古図左 地名入り
青峰山根香寺記を絵図化した根香寺古図 右下に円珍と明神の出会い

 これに対して『青峰山根香寺記』は、複数同木説を採りません。
しかし、円珍と老翁の出会いをスタートにする点では『白峯寺縁起』と似ています。『青峰山根香寺記』は、老翁を地主市瀬明神として登場させることによって独自性を出そうとしているようにも見えます。ここからは『青峰山根香寺記』が作成された時期の根香寺が、独自な縁起を必要としていたことがうかがわせると研究者は指摘します。
以上のように、古代の根香寺について具体的に明らかにできることは少ないのですが『根香寺略縁起』と『青峰山根香寺記』は『白峯寺縁起』との類似性が認められること、そして前者は複数同木説を採用し、『白峯寺縁起』にみえる伝承を受け継いでいることを押さえておきます。

次に、山岳寺院としての根香寺を見ていくことにします
『白峯寺縁起』のなかに十体の仏像を造立し、このうち4体の千手観音を、白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置したとありました。ここに出てくる根来寺以外の3つの寺院を整理しておきます。
白峯寺は「五色台」の西方、白峯山上に位置する山岳寺院
吉水寺は近世に無住となったが、白峯寺と根香寺の間に位置した山岳寺院
白牛寺は、白牛山と号する国分寺のことで、「五色台」のすぐ南の平地にあること。

古代の根香寺は、白峯寺・吉水寺と同じように「五色台」の山岳寺院の一つとで、山林修行の行場であったと研究者は考えています。
僧侶の山林修行の必要性は早くから国家も認めていました。古代の支配者が密教に求めたものは、「悪霊から身を守ってくれる護摩祈祷」でした。空海の弟真雅は、天皇家や貴族との深いつながりを持つようになりますが、彼の役割は「天皇家の専属祈祷師」として「宮中に24年間待機」することでした。そこでは「霊験あらたかな法力」が求められたのであり、それは「山林修行」によって得られると考えられました。そのため国家や国府も直営の山林寺院を準備するようになります。
 それが讃岐では、まんのう町の大川山の山中に姿を現した中寺廃寺になつようです。
中寺廃寺跡 仏塔5jpg
中寺廃寺復元図(まんのう町)
ここにはお堂や塔も造られ、高級品の陶器や古代の独古なども出土しています。設立には、国衙が関わっていると報告書は記します。
 同じような視点で国分寺を見てみましょう。
『白峯寺縁起』には、白牛寺(国分寺)の名が、「五色台」の山林寺院と並んであげられていました。これは、平地部の国分寺が五色台の山岳寺院とセットとなっていたことを示すと研究者は推測します。
七宝山縁起 行道ルート3
七宝山の中辺路ルートと山林寺院
 例えば、三豊の七宝山は観音寺から曼荼羅寺までの「中辺路」ルートの修行コースで、そこに観音寺や本山寺などの拠点があったことは以前にお話ししました。善通寺の五岳も曼荼羅寺から弥谷寺への「中辺路」ルートであった可能性があります。同じように国分寺の背後の五色台にも、「中辺路ルート」があり、その行場の近くに根香寺は姿を見せたと私は考えています。

根香寺の山林寺院としての古代創建説を裏付ける文献史料はありませんが、次のような状況証拠はあるようです。
①根香寺に近い勝賀山北東麓に位置する勝賀廃寺は、白鳳期に創建された寺院跡とされます。根香寺が勝賀廃寺と同じ頃に草創された可能性はあります。
②根香寺の本堂裏の「根香寺経塚」の存在です。ここからは浄土教が広まり、仏縁を結んで救済されようとした人々がいたことが分かります。あるいは青峯山が修験の行場としての性格をもっていたのかもしれません。経典を写経し、周辺行場で修行し、それが終わると次の聖地に廻国していく修験者の姿が見えてきます。

四国遍路の成立については、近年の研究者は次のように段階的に形成されてきたと考えるようになっています。
①平安時代に登場する僧侶などの「辺路修行」を原型とし、
②その延長線上に鎌倉・室町時代のプロの修験者たちによる修行としての「四国辺路」が形成され
③江戸時代に八十八カ所の確立されてからアマチュア遍路による「四国遍路」の成立
つまり中世の「辺地修行」から近世の「四国遍路」へという二段階成立説が有力なようです。中世の「四国辺路」は、修行のプロによる修行的要素が強く残る段階です。「辺路修行を」宗教民俗学者の五来重は、行場をめぐる「大中小行道」の3つに分類します。
①海岸沿いに四国全体を回る「大行道(辺路)」
②近隣の複数の聖地をめぐる「中行道(辺路)」
③堂宇や岩の周りを回る「小行道(辺路)」
ここから海を望む「四国遍路」誕生を発想しました。例えば例として示すのが室戸岬の金剛頂寺(西寺)と最御崎寺(東寺)との関係です。近世の「遍路」は順路に従って、お札を納めて朱印を頂いて行くだけです。しかし、中世の行者たちは岩に何日も籠もり、西寺と東寺を毎日往復する行を行い、同時に西寺下の行道岩の周りをめぐったり、座禅を行ったりしていたようです。これが②③になります。それも一日ではなく、満足のいくまで繰り返すのです。それが「験(げん)を積む」ことで「修行」なのです。これをやらないと法力は高まりません。ゲーム的にいうならば、修行ポイントを高めないと「ボスキャラ」は倒せないのです。

どちらにしても中世のプロの行者たちは、ひとつの行場に長い間とどまりました。
そのためには、拠点になる建物も必要になります。こうしてお堂が姿を現し、「空海修行の地」と云われるようになると行者も数多くやって来るようになり、お堂に住み着き定住化する行者(僧)も出てきます。それが寺院へと発展していきます。これらの山林寺院は、行者によって結ばれ、「山林寺院ネットワーク」で結ばれていました。これが「中辺路」へと成長して行くと研究者は考えているようです。
 そこを拠点にして、弥谷寺のように周辺の里に布教活動を行う高野聖のような行者も現れます。当然、そこには浄土=阿弥陀信仰が入ってきて、阿弥陀仏も祀られることになります。それが七宝山や五岳、五色台では、同時進行で進んでいたと私は考えています。
以上から古代の根香寺については、「五色台」の山岳寺院の一つとして「中辺路」ルートの拠点寺となっていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「上野進  古代・中世における根香寺  根香寺調査報告書 教育委員会2012年版127P」
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五色台 | 香川県高松市の税理士 べねふぃっと税理士のブログ

「五色台」には白峰山(336.9m)、青峰(449.3m)、黄ノ蜂(174.9m)、紅峰(245m)、黒峰(375m)などが建ち並んでひとつの山塊となっています。根香寺は、その中の青峰(標高449.3m)の東斜面の標高350m地点に位置し、北東方向には瀬戸内海に浮かぶ女木島、男木島、豊島、小豆島などの島々を望むことができます。青峰の東に勝賀山(364.lm)、南側には五色台で一番高い大平山(478.9m)が連なります。青峰の北側には、黄ノ峰、紅峰、串ノ山に挟まれた生島湾があり、現在は県営野球場となっていますが、江戸時代は塩田が広がっていたようです。

根香寺古図右 地名入り
根香寺古図(江戸時代後半)  
今回は根香寺の伽藍変遷を、江戸時代の絵図で追いかけて見ようと思います。テキストは「片桐孝浩 根香寺の空間構成  根香寺調査報告書     教育委員会版23P」です。
 
  まず研究者は、地形図で根香寺境内の置かれた位置を確認します。
根香寺は青峰の東側斜面、標高350mに位置しています。
根香寺 周辺地形
根香寺周辺地形


地形図で根香寺周辺の丘陵(尾根)筋を見てみましょう。
青峰の北側からは北方向に延びる丘陵A
北西方向に延びる丘陵B
東方向に延びる丘陵C
青峰の南に位置する山塊からは、つぎの2つの丘陵が伸びています。
北方向に延びる丘陵D
東方向に延びる丘陵E
これを見ると根香寺は、青峰と青堪北側から延びる丘陵B、丘陵Cと、青峰の南に位置する山塊から延びる丘陵Dに挟まれていることが分かります。ちょうど仁王門は、丘陵Dの先端付近に建っているようです。
 今度は谷筋を見ておきましょう。
青峰北側から延びる丘陵Bと丘陵Cとに挟まれた谷筋A、また青峰と丘陵Dに谷筋Bがあります。谷筋Aの奥側には、谷頭池の役割を果たす根香池があります。また谷筋Bは、東から仁王門と境内の間を縫って入り組むようになっています。仁王門の建つ平坦地の東側は、谷筋Bが急峻で深く、 しかも広くなっています。 谷筋Bの最奥部にも、谷頭池があり以前は水田もあったようです。仁王門の建つ平坦部と本堂、大師堂などの諸堂が建つ部分との間の一段低くなった部分が谷筋Bになります。つまり、根香寺の境内は谷部Bを挟んで、仁王門の建つ平坦地と諸堂が建ちならぶ平坦地で形成されていることになるようです。
現香寺周辺の地形について記述したものに、根香寺所蔵の『青峰山根香寺略縁起』があります。
この縁起は根香寺の住職俊海が記したものなので、18世紀前半のものと考えられます。「青峰山根香寺略縁起』には、その地形について次のように記します。
「其往古は南ハ後夜谷、中ハ蓮花谷、北ハ毘沙門谷とて山上三流にわかれて」、
「楼門ハ後夜谷の東南に聳へ、護世堂ハ北嶺に?たり、笠井郷の平賀に大門と称し伝ふるハ当山の惣門の跡なるのミ、蓮華谷の尾続を天神馬場と云伝ふるハ」
意訳変換しておくと
「昔は南は後夜谷、真ん中は蓮花谷、北は北は毘沙門谷と、山上は三流(3つのエリア)に分かれていた」、
「楼門は後夜谷の東南にあり、護世堂は北嶺にあり、笠井郷の平賀に大門と呼ばれる根香寺の惣門跡があった。蓮華谷の尾根続きは天神馬場と呼ばれていた」
ここからは江戸時代の根香寺は「後夜谷」「蓮華谷」「毘沙門谷」、の3つのエリアに分かれ、「北嶺」「天神馬場」と呼ばれていた場所があったことが分かります。
根香寺古図左 地名入り
青峰山根香寺略縁起を絵図化した根香寺古図(左部)

これを研究者は次のような手順で確定していきます
①「天神馬場」は、昔からの言い伝えで、根香池の南東部の丘陵Cであること
②縁起に「蓮華谷の尾続を天神馬場と云伝ふるハ」と、天神馬場に続く谷が丘陵Cの南側にある「谷部B=蓮華谷」
③「南ハ後夜谷、中ハ蓮華谷、北ハ毘沙門谷」とあるので、北側にある谷部Aが「毘沙門谷」
④南側の谷部Bの急峻な部分が「後夜谷」、
⑤谷部Bの奥側で、仁王門と諸堂の立ち並ぶ平坦との間にある谷部が「蓮華谷」
根香寺古図 根来寺伽藍
根香寺古図の伽藍部拡大

諸堂の配置変遷を、江戸時代に描かれた絵図で見ていきます。
比較する絵図は次の通りです
A 寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689))
B『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))
C『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年(1847))
D『讃岐国名勝図会』(嘉永6年(1853)


A寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)に描かれた堂宇は次の通りです
根香寺 四国辺路日記 
四国遍礼霊場記の根香寺
①中央に「観音」と書かれた本堂
②本堂に向かって右に「智證(証)堂」
③智証堂の前に鐘楼
④本坊千眼院には、中央に本堂、その向かって右に建物、左に桁行の長い建物
⑤白峰寺からの遍路道から延びる参道はには、石段あり
⑥階段際やその周囲には柵

B『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))
根香寺 四国遍礼霊場記
四国遍礼名所図会の根香寺
左下に白峯寺からの遍路道が伸びて来ます。しかし、境内入口に門はありません。その代わりに、門の礎石と考えられる「○」がいくつか書き込まれています。数えてみると「○」は12あります。どうやらこれが2間×3間の門跡だと研究者は推測します。門跡の左右には、藁葺の建物が2棟あります。門からの参道は、周囲の樹木の描かれ方から一旦下って、さらに階段を上っていくと諸堂がある平坦地に着きます。正面には、
瓦葺で屋根が宝形造のやや大ぶりの建物
左右に瓦葺で宝形造のやや小ぶりの建物
手前右に鐘楼
茅葺の建物、小さい社
左側に建物が2棟あります。
左側奥の建物はかなり大きく、「庫裡」のようです。
「根来(香)寺」図の説明文には、「大師堂 本堂の側にあり、智証大師堂」と書かれているので、「大師堂」と「智証大師堂」を意識してかき分けていることが分かります。どうやら本堂の左右の堂が智証大師堂と弘法大師堂であったようです。

『金昆羅参詣名所図会』(1847年)では
根香寺 四国遍礼名所図会
金毘羅参詣名所図会の根香寺

仁王門が復活しています。仁王門の手前左側に茅葺の建物があり、縁側で休む参拝者か、遍路が描かれています。これが茶屋のようです。「仁王門」を入ると一段低くなり、もう一度石段を上ると本堂や諸堂のある平坦地になります。石段途中の右側平坦地には建物がありますが、これが説明文にある「茶堂」のようです。石段を上る平坦地の奥側、山際に「本堂」を中心に向かって右手に「大師堂」、左手に「不動堂」が並びます。どれも宝形造で、「本堂」と「不動堂」がやや大ぶりの建物で、大師堂はやや小ぶりの建物です。ここでは智証大師堂が消えていることを押さえておきます。「大師堂」手前には「鐘楼」があり、「不動堂」左手前には「本坊」がひときわ大きく描かれ、繁栄ぶりがつたわってきます。本堂のある平坦地も含め、平坦地の縁部は石垣であったことも分かります。

次に『讃岐国名勝図会』では、
根香寺 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の根香寺

本尊千手観世音を安置する「本堂」「護摩堂」「祖師堂」「鎮守社」「茶堂」「地蔵堂」があると書かれているだけで、これら建物についての記述はありません。描かれた絵図を見ると、「白ミ子(白峰)道」から仁王門前の平坦地となり、仁王門に向かって左側と手前に建物があります。これは、金昆羅参詣名所図会にも描かれていたので、茶屋でしょう。「仁王門」を入ると一段低くなり、二段に分かれた石段を上ると本堂や諸堂のある平坦地に着きます。石段途中の右側平坦地にある建物に「茶堂」と書かれています。その平坦地の奥側、山際に「本堂」を中心に向かって右手に「大師堂」、左手に「五大ソン(五大堂)」がびます。不動堂が四天名王と併せて五大尊になったので名前が変わっています。全て宝形造で、「本堂」がやや大ぶりの建物で、「五大ソン」、「大師堂」はやや小ぶりの建物に描かれています。「大師堂」の手前には「鐘楼」があり、「五大ソン」左手前には「書院」などの建物があります。「鎮守社」は「井びに境内にあり」、「地蔵堂」は「坂中にあり」とあります。
以上が江戸時代に描かれた絵図に書かれた建物配置状況でした。

次に、現在の根香寺の伽藍配置を見ておきます。

根香寺 伽藍配置
現在の根香寺伽藍配置図
かく堂宇のたつ境内の4つの平坦地について押さえておきます。
①「仁王門」のある平坦地
②「仁王門」から一段低くなった平坦地
③2段に分かれた石段途中の平坦地
④石段を上った「大師堂」「五大堂」などの平坦地
これらの平坦地は現在と変わりありません。平坦地の縁辺には石垣が築かれているのも江戸時代と同じです。また、本堂の位置は変わっていますが、それ以外の「五大堂」「大師堂」などの建造物は、そのままの位置にあります。宝形造という建物構造も江戸時代のままのようです。
根香寺 緒堂変遷表
根香寺建築物変遷表
現在の建築物を見ておきましょう
まず「仁王門」前にあった茶屋はなくなって、今は駐車場になっています。根香寺住職からの聞き取りでは、「仁王門」前には、昭和25年頃まで茶屋があり、その西側に遍路宿が昭和33年頃まであったことが報告されています。
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根香寺王門仁王門
「仁王門」を入ると一段低くなり、二段に分かれた石段を上ると「大師堂」と「五大堂」のある平坦地となります。石段途中の平坦地にあった茶堂も今はありません。代わって西側に「水かけ地蔵」、東側に「牛頭観音像」、「役行者像」があります。
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役行者像(根香寺) 修験者の行場であったことを伝える
 石段の上の平坦地に、「大師堂」と「五大堂」が横に並び、「大師堂」手前に「鐘楼」、三大堂」左には「庫裡」、「客殿」などの建物があります。また、「大師堂」の東側には「龍官地蔵尊」、「延命地蔵尊」があります。「大師堂」と「五大堂」の中央から更に石段を上ると、一段高くなった平坦地に回廊を持つ本堂と回廊途中に阿弥陀堂があります。
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根香寺本堂
本堂について
名勝図会等では、本堂を中心にして向かって左手に五大堂(五大尊・不動堂)、右手に大師堂の三堂が並ぶレイアウトでした。それが昭和45年(1970)の30年毎の本尊千手観音の開帳の際に、旧本堂の上の敷地を造成し、木造の回廊を巡らせて、本堂をその中央上部に移築しました。さらに背面に収蔵庫を建設して、そこに本尊の千手観音を安置するようになったようです。解体修理の際には柱の根継ぎや床廻り、天丼廻り、軒廻り等の板材が取り替えられているようです。

根香寺 本堂平面図
根香寺本堂平面図

各部材は良質な檜材が多く、背面にも同様の暮股を組むなど、全体の様式にも手抜きがないと専門家は評価します。木鼻の繰り型や蛙股の形状も17世紀の作であるとします。しかし、向拝については、差し肘木や海老虹梁、手挟み、向拝頭貫、木鼻、暮股などは、宝暦4年(1754)の修覆後のもののようです。
大師堂については、弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』や嘉永6年(1853)の『讃岐国名勝図会』を見ると、三方に縁が組まれており、前面には向拝もありませでした。しかし、現在は大きく姿を変えているようです。これを研究者は次のように指摘します。
近代の修理で柱をはじめ相当量の取替が行われており、前面の増築改造を含め建物の改変もあり、旧来の形式が失われたものと思われる。建立年代については、肘木の形状や虹梁文様から、本堂向拝や山門と同時期と考えられる。また大師像休座には「寛政十戊午年」(1798)ほかの陰刻銘があるという。

「五大堂」や「大師堂」は、近世以降に位置の変化はありませんが、本堂は、背後の一段高くなった部分に移転していること。しかし、新たに本堂を建てたものではなく、解体修理して、位置を変えただけであることを押さえておきます。
根香寺 五大堂平面図
根香寺大師堂平面図
以上をまとめておきます
①「本堂」「大師堂」「五大堂」「鐘楼」「仁王門」は、「本堂」が昭和41年に解体修理して移動している以外は、動いていない。
②「本堂」「大師堂」などの宝形造のスタイルも変わっていない。
③「大師堂」は、当初は「智証堂」で智証大師像を安置するものであったのが、江戸時代後期(1800年以降)には、弘法大師像を安置する大師堂に変化した
 根香寺は青峰の東斜面に位置し、谷部B(蓮華谷)を挟んで立地し、そこに建てられている堂宇は江戸時代前半からほとんど変化なく現在に受け継がれているようです

〔参考文献】
   「片桐孝浩 根香寺の空間構成  根香寺調査報告書     教育委員会版23P」
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根香寺第五巻所収画像000018
根香寺
根香寺は、五色台東部の青峰山頂の東側にある天台宗寺院で、山号は青峰山、院号は千手院で、千手観音を本尊とします。山の枯木の根が香ったことから「根香寺」と名付けられたこと、智証大師円珍は、この霊木から本尊を彫ったことが伝えられます。また香気が遠く流れて川の水がかぐわしかったので、「香川」が郡名になったとも云われます。この寺には怪物「牛鬼」の伝説がつたわっていて、弓の名人が牛鬼を退治し、その2本の角を納めた寺としても有名です。

参拝レポート/第八十二番札所 根香寺|四国おへんろ.net ハチハチ編集部
根香寺

 この寺について記した古代の文献史料はないようです。

ただ根香寺が保管する考古資料には7世紀の遺物があるので、境内周辺地から出土したものであるとすれば、根香寺は古代の山岳系の寺院にルーツをもつ可能性もでてくるようです。
 根香寺の手前の第81番札所白峯寺の『白峯寺縁起』(応永13年(1406)には、根香寺の成立に関わることが次のように記されています。
白峯寺は、空海が地を定め、貞観2年(860)に円珍が山の守護神の老翁に会い、十体の仏像を造立し、49院を草創した。そして十体の仏像のうち、 4体の千手観音が白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置された。

 白峯寺は「五色台」の西方の白峰山上にある山岳寺院です。
吉水寺は近世に無住となりますが、白峯寺と根香寺の間にあった山岳寺院です。白牛寺は、国分寺とされています。ここからは根香寺はこれらの寺と結ばれた「五色台」の山岳寺院だったこと、そして山林修行の場として修験者たちが集まってくる行場のひとつであったことがうかがえます。そういう目で見ると、三豊の五剣山や善通寺の五岳が修験者の「中辺路」ルートで、各行場を結ぶ拠点として観音寺や本山寺、あるいは弥谷寺や曼荼羅寺、善通寺があったように、五色台のこれらの4つの山林寺院も「中辺路」ルートで結ばれていたとも考えられます。そこへ熊野行者や高野聖たちの廻国修験者が修行のために海からやって来るようになります。彼らが行場にお堂を構え、山林寺院へと成長して行ったというストーリーが描けます。根香寺の成立については、空海と円珍(智証大師)という讃岐のふたりの大師が関わっていたことになります。
   今回は、根香寺の創建を初めとする歴史について見ていこうと思います。テキストは「上野進 根香寺の歴史 根香寺調査報告書2012年 香川県教育委員会発行」です。         
円珍の根香寺創建関与説については、次のふたつの説があるようです。
A空海が草創し、後に円珍が再興した「空海創建=円珍中興」説
B円珍のみを開基とする「円珍単独開基」説
Aの「空海創建=円珍中興説」は、讃岐最初の地誌とされる『玉藻集』(延宝5年(1677)に、次のように記されています。

「この地は弘法大師開き給ひて、千手現音を作り、一堂を作り安置し、後智証大師遊息し、台密兼備の寺となり」

この説をとるのが次の史料です
①遍路案内記の『四国偏礼霊場記』
②明和5年(1768)の序文がある『三代物語』
③弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』

智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍坐図(金倉寺)
一方、Bの「円珍単独開基説」は、延享3年(1746)に作成された根香寺の縁起『青峰山根香寺記』で次のように記されています。

「(根香寺)開基は円珍で、青峰を訪れた円珍が老翁に導かれ、蓮華谷に金堂を造立して本尊を安置したのが当寺の始まりで、「中比」は専ら「密乗」を修し、寛文4年(1664)に天台宗に復した」

 この円珍単独開基説は江戸時代前期までさかのぼり、寛文9年に各郡の大政所が提出した『御料分中宮由来・司寺々由来』には根香寺が「貞観年中(859~877)智証大師の造立」されたと記されます。ここで研究者が注目するのは、これに続く次の記述です。

「往古は天台宗、中古は真言、只今は天台に帰服」

ここからは、古代・中世の根香寺には真言・天台両勢力が並存し、 しだいに真言宗が優位を占めていったことがうかがえます。それは、寺院を拠点とした修験者の勢力関係を背景としたものだったのかもしれません。そして、真言系修験者が優位を占めるようになったことがA空海単独開基説を生む背景となったと研究者は考えています。

長尾寺 円珍坐像
円珍坐像(長尾寺)

 正平12年(1357)の「讃州根香寺両界曼荼羅供養願文」には、根香寺の花蔵院と根香寺が「両大師聖跡」と記されています。
つまり、次のふたつの聖跡があったことが分かります。
花蔵院が弘法大師空海の聖跡
根香寺が智証大師円珍の聖跡
ここからは根香寺の開基を「両大師」とする説も中世からあったことがうかがえます。
根香寺 伽藍配置
根香寺境内伽藍図

中世の根香寺については分からないことが多いようです。
根香寺本堂裏(北方向)の発掘調査からは、2基の塚跡が並んで出てきました。これらは12世紀後半のものとされ、墳墓と供養塚と研究者は考えているようです。ここに眠っているが地域の有力者だったとすると、鎌倉時代初期の根香寺の保護者の墓とも考えられます。
寛文9年(1669)の『御料分中宮由来。同寺々由来』には、次のように記されています。
「往古は七堂伽藍をもち、寺中九十九坊を数えた」

近世の縁起『根香寺略縁起』には、次のように記します。
「往古は南の後夜谷、中の蓮華谷、北の毘沙門谷の三谷に分けられ、後夜谷の東南に楼門、北峰に護世堂がそれぞれあった」

 延享3年(1746)の縁起『青峰山根香寺記』には、具体的な子院名として、千手院・道蓮房。円覚房・如法房・燈明房・薬師房があげられています。ここからは、中世の根香寺では千手院を中心として、山内にいくつかの子院があったことが考えられます。
 このうち薬師房は、現在根香寺の末寺である薬師寺(高松市鬼無町是竹)のようで、近代には根香寺の隠居所となっていました。中世の根香寺には真言・天台両勢力があったことは、先に見たとおりですが、真言系・天台系など複数の子院が並存していた可能性もあります。
 さらに『根香寺略縁起』・『青峰山根香寺記』では「当寺東北の平賀の大門は、当山の惣門の跡」と記します。寺域が広大で、中古までは千石千貫の寺産があったと主張しています。また『青峰山根香寺記』では寺領として、香川郡河辺郷(高松市川部町)を挙げます。河辺郷は香東川をややさかのぼったところにあり、根香寺とは距離があります。根香寺が散在する寺領をもっていたのかもしれませんが、詳しいことは分かりません。
 近世の寺社縁起の作成動機の一つは、「寺領」の確保でした。
そのために「往古は広大な寺領や境内を持ち、大きな伽藍を擁していた」とするのが縁起作成の作法です。そのためこれらの記述を、研究者がそのまま鵜呑みにすることはありません。

智弁大師(円珍) 根来寺
智証大師像(根香寺本堂)
「根香寺」の名称の初見資料は、智証大師像(根香寺本堂)の底銘に記されていました。ここに元徳3年(1331)の年紀があることが近年の調査で分かっています。
根香寺 智証大師底書
「智証大師像」の底銘 鎌倉時代の年号が見えます。内容は以下の通り 
    讃州 根香寺
   奉造之 智澄大師御影一林
   大願主 阿闇梨道忍
   佛 師 上野法橋政覚
   彩 色 大輔法橋隆心
   元徳三年 八月十八日

この智証大師像は、阿閣梨道忍が根香寺に奉献したものです。智証とゆかりの寺とされていたから智証大師像を奉納したのでしょう。ここからも根香寺が円珍と関わりがあった寺院とする考えが鎌倉時代末期にあったことが裏付けられます。

根香寺 不動明王立像(根香寺五大堂安置)
        不動明王立像(根香寺五大堂安置)

五大明王像の中の不動明王立像(根香寺五大堂安置)は像内墨書があり、弘安9年(1286)に造立されたことも近年の調査で分かっています。伝来仏として後世に、他の寺から運び込まれた可能性もありますが、年代の分かる貴重な資料です。
 南北朝時代の根香寺については、先ほど見た正平12年(1357)に「女大施主」が両界曼荼羅を根香寺に寄進し、供養が行われたことを示す史料があります。寄進者の「女大施主」はよく分からない人物ですが、有力者の在家信者なのでしょう。ここからは、根香寺が周辺地域の人々の信仰を集めていたことがうかがえます。
 古代寺院は、有力豪族の氏寺として創建されました。
そのため古代寺院は地域の古代豪族が衰退し、姿を消すと保護者を失い、寺院も退転していきます。中世寺院が存続していくためには、地域の有力者の支持と支援が必要でした。そのための手法が修験道の呪いや護符配布であり、祖先供養であったようです。
 「讃州根香寺両界曼荼羅供養願文」には、当山には花蔵院と根香寺のふたつの院房があると記します。
花蔵院は発光地大士が建立し、「五大念怒霊像」の効験はすでに年を経ているとします。それに対して、根香寺は智証大師円珍が草創し、「千手慈悲之尊容」の利益は日々新なものだと記します。そして「両大師聖跡」を並べているとします。この発光地大士とは弘法大師空海のことをさしているようです。弘法大師の効験は古くて効かない、円珍の方が効力があると云っているのです。その上で「両大師聖跡」を並べています。ここからも花蔵院の開基が弘法大師空海、根香寺の開基が智証大師円珍と考えていたことが分かります。花蔵院については他に関連記事がなく、根香寺との関係もよく分からないようですが、南北朝時代は両者を中心に一山が形成されていたようです。
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北野経王堂一切経(大報恩寺蔵)
室町時代の根香寺の動向を伝える史料も少ないようです。
数少ない一つが、応永19年(1412)に書写された北野経王堂一切経(大報恩寺蔵)です。
この一切経は、北野天満天神法楽のため東讃岐の虚空蔵院(与田寺)覚蔵坊増範が願主となり、諸国の僧俗200人あまりの助力を得て北野経王堂で勧進書写されたものです。そこには多くの讃岐の僧侶とともに「讃州香西郡根香寺住呂(侶)長宗」の名が見えます。ここからは根香寺の僧が、増範の書写事業に参加していたことが分かります。
また、寛正3年(1462)7月、将軍足利義政に対して、根香寺勧進帳への御判について披露があります。
これは讃岐守護細川持賢が望み申したためとされます。根香寺には、天人が藉糸(蓮の繊維からとる糸)で織ったと伝える奇異の浄土曼荼羅が所蔵され、 これを義政にも見せています。当初、勧進帳に御判を与えることについては、先例がないとして認められなかったようです。それが細川持賢の申し出で、御判が与えられることになったと伝えられます。8月に浄土曼荼羅は持賢から義政へ献上され、翌4年4月に義政から太刀と馬が下されることとなり、持賢がその礼を述べています。
 このように根香寺が勧進を実施しようとして、それを守護細川氏で支えています。つまり守護の細川家の保護を受ける寺になっていたようです。

戦国時代の根香寺も同時代史料はありません。
江戸時代の『根香寺略縁起』には元弘・建武擾乱に衰微し、天正前後の兵乱に破壊されたと記します。元弘・建武の頃に被害をうけたのかは確認できませんが、天正13年(1585)3月20日に焼失したことが『三代物語』や『讃岐国名勝図会』も記されています。天正年間(1573~92)の衰退は、諸史料に書かれ一致します。長宗我部元親の侵攻によるものなのか、それ以前の阿波三好によつものなのかは分かりませんが、断続的にこの時期は戦乱が続きますので、根香寺もこの時期に兵火にかかった可能性はあります。
 『青峰山根香寺記』では永正(1504~21)以来、南海賊が大蜂起したもあります。海からの海賊たちの襲来を記録するの讃岐の史料ではこれだけのようです。しかし、『三代物語』には、この海賊襲来も「永正以来」でなく「天正年間」となっています。
 天正年間の火災によって本尊・諸仏像などをことごとく焼失したとするのは『三代物語』や『金毘羅参拝名所図会』で、再興の際に、吉水寺から霊仏・霊宝を移して旧観に復したと記します。他方、「青峰山根香寺記』や『讃岐国名勝図会』では本尊千手観音像・不動明王像・毘沙門天像は焼け残ったと記します。
13.03.17 勝賀城【香西氏の居城】その1 | ぬるま湯に浸かった状態
香西氏の勝賀場

根香寺は、有力な戦国武将である香西氏の居城・勝賀城ともほど近い位置にあります。

この香西氏と天正の火災にまつわる伝承も残されています。『三代物語』や『南海通記』(23)には、天正13年5月10日、香西氏が西長尾城に赴く際、勝賀城にあった香西家の証文・家宝等を根香寺の仏殿に入れて去り、それを盗賊が奪おうとして仏殿に火をかけ、香西家累代の証文はもちろん本尊霊宝も焼失したと記します。
讃岐82番札所,根香寺本堂の写真素材 [FYI04863798] | ストックフォトのamanaimages PLUS
 
 根香寺本堂裏(北西方向)には、凝灰岩製の地蔵菩薩坐像があり、次のように記されています。

「弘治丙□二年宗春 禅門  □日」

ここからは、この地蔵さんが弘治2年(1556)に宗春によって寄進されたことが分かります。『讃岐国名勝図会』に、次のように記されている地蔵と同じもののようです。
古墳三基
本堂後の山にあり、土人、はらいたみの地蔵といふ、
一基は弘治二年禅門宗春とあり

宗春がどんな人物なのかは分かりませんが、年紀が入った資料として貴重です。
 根香寺本堂裏(北方向)の発掘調査では、12世紀後半の2基の塚跡が並んで出てきたことは、先述したとおりです。ここには15世紀後半から16世紀の五輪塔が設置されています。この時期の根香寺では、石仏や石塔を用いた宗教活動が行われていたことがうかがえます。これらは以前に見た弥谷寺で、石造物の寄進がおこなされていたこととつながるものを感じます。弥谷寺に隣接する天霧城を居城とする香川氏が五輪塔を造立し続けているのと重なります。
生駒一正 - Wikipedia
生駒一正 
天正15年(1587)、生駒親正は、豊臣秀吉から讚岐国15万石を与えられて国守として入部します。
これが讃岐の戦国時代の終了で、近世の始まりになると研究者は考えています。根香寺の復興が始まるのもこの時期で、生駒親正の子である一正は、慶長年間(1596~1615)に根香寺の堂字を再建して良田を寄進したと伝えられます。寺領高は18石余です。生駒一正のもとで、根香寺も以前に見た弥谷寺も復興の道を歩み始めます。これは、阿波や土佐に比べると、復興のスタートが早かったようです。

近世讃岐の寺院NO1 松平頼重の仏生山法然寺建立計画を探る : 瀬戸の島から
松平頼重
 寛永17年(1640)の生駒騒動によって生駒高俊が讚岐を没収された後、東讃岐12万石を与えられたのが松平氏です。
高松藩初代の松平頼重は、いくつかの宗教戦略をもっていました。そのひとつが真言王国の讃岐に天台宗の寺院を復活させるという政策です。いざという時に真言勢力へのくさびとしての役割を期待していたのかも知れません。その代表寺院が根香寺と長尾寺になります。長尾寺については以前にお話ししたので省略します。
 根香寺に対しては承応2年(1653)に本堂を再興し、天台宗に改宗させて聖護院門跡の末寺としています。そして根香寺の境内整備を進めます。延宝年間(1673~81)、頼重は住持龍海に命じて新たに金堂・護摩堂・祖師堂及び僧房・眠蔵・資具をつくらせています。さらに延宝4年(1676)には、千手観音堂の再建を行い、寺領加増を行い30石にしています。その上に頼重は、大師袈裟や什物等の修理も行って、四大明王像を造像して、不動明王像とあわせて五大尊としたと伝えられてきました。しかし、近年の解体修理で四大明王は頼重の隠居屋敷のプライベートな祈念堂に安置されたもので、彼の死後に根来寺に移されたことが分かっています。

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松平頼重が京の仏師に作らせた四大明王(根香寺)

 頼重は、正月・5月・9月に国家鎮護のために五大尊護摩法を修するように命じたとされます。研究者が注目するのは、この祈祷が「殿様御安全之御祈祷」として、以後も継続して行われたことです。こうして根香寺は、高松藩における有力な祈祷寺院に位置づけられていきます。

P1120199根来寺 千手観音
千手観音(根香寺)

 根香寺では、髙松藩によって命じられた五大尊護摩法が年に3回行われたほかにも、33年に1度、本尊千手観音が開帳されます。こうして根香寺は松平藩の保護を受けながら、庶民の信仰も集めるようになります。これは頼重が金毘羅大権現を保護し、境内整備を重ねて、庶民を引き寄せ、庶民化していくのと同じやり方です。
 承応2年に澄禅が記した『四国遍路日記』には、長尾寺を参詣した際の記事として次のように記します。

「当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺。根香寺。志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」

 ここからは、根香寺が高松周辺の七観音の一つとして庶民にも崇敬されていたことが分かります。このように高松藩主をはじめ、庶民の信仰を集めた根香寺でしたが、享保3年(1718)に罹災し、護摩堂・客殿・玄関・眠蔵・庫裏を焼失します。
その際に縁起や山図なども失ったと云います。その後の根香寺では、堂宇再建が大きな課題となります。焼失から約20年後の元文2年(1737)の正月18日から9月17日まで、住持俊海は高松の蓮花寺で本尊千手観音の出開帳を実施しています。これは復興資金の調達を目的としたものと考えられます。その時のことが次のように記します。
「当寺観音堂護摩堂其外及大破難捨置御座候、然共自カニ而者修覆茂難仕候」

意訳変換しておくと
「当寺の観音堂や護摩堂など其外の堂宇も大破しているが、捨置れたままである。しかし、自カで修復することは困難である

ここからは大火から20年経っても復興途上にあったことが分かります。根香寺復興は順調には進まなかったようです。

当時の住持俊海は、寺の縁起『根香寺略縁起』も著しています。その時期はよく分かりません。が、俊海の住職期間は享保17年~寛保元年(1741)ですので、この期間のことと思われます。おそらく享保3年の火災で縁起が失われたので、新たな縁起作成をおこなったと研究者は推測します。
髙松での出開帳から3年後の元文5年は、智証大師850回忌に当たります。この年には、智証大師の誕生地である金倉寺でも法会が行われ、根香寺も参加しています。同年に実施された智証大師像の修復も、智証大師850回忌の関連行事として行われたことが考えられます。さらに云えば先の出開帳や縁起作成なども、この回忌にあわせて住持俊海が取り組んでいた一連の記念行事だった可能性を研究者は指摘します。
  俊海から代替わりした住持受潤は、延享3年(1746)に、新たな縁起作成と寺内整備に着手します。
こうして出来上がるのが同年5月に完成した『青峰山根香寺記』です。この縁起は、円珍と地主神の市瀬明神が出会って、根香寺が草創されたというストーリー性をもった縁起で、それまでの『根香寺略縁起』とはひと味違うものに仕上がっています。復興資金の勧進活動のためには、人々の関心をひく物語性のある縁起が求められていたのかも知れません。このあたりは善通寺本堂の勧進活動に見習ったようにも思えます。

根香寺古図左 地名入り
青峰山根香寺記を絵図化した根香寺古図

 一方、同年8月には五代藩主松平頼恭と住持受潤のもとで、鎮守社(「山王新羅護法三所」)が建造されます。
寛延4年(1751)には、大政所を願主として二王尊像がつくられますが、この費用は郡中からの寄附25両、先住の良遍と笠居村小政所からの寄附10両でまかなわれています。根香寺が地域の有力者の支援を受ける寺に成長していたことが分かります。これは、以前に見た弥谷寺でも同じことでした。多度津藩の祈祷所となることで、弥谷寺は地域の大庄屋や庄屋、村役人などのイヴェント集会所となり、彼らの支援を受けるようになり、いつしか菩提寺的な役割を引き受けるようになります。そして、祖先供養の墓標を弥谷寺に建てるようになります。それは、地域の有力者が弥谷寺の保護・支援者となるプロセスでもありました。地域有力者の支援を受けるようになるための前提には、藩のお墨付きが必要だったようです。

根香寺 緒堂変遷表
根香寺境内緒堂変遷表

 宝暦4年(1754)には五大尊堂と智証大師堂が再建され、千手観音堂の修復も行われています。
恵峰さんと巡ろう 四国おへんろ|瀬戸マーレ vol.50
五大尊堂の明王たち(根香寺)
諸堂の修飾は頼恭が領内の人別銭によってつくらせたと云います。このように頼恭の保護のもとで寺内整備が大きな進展をみせたようです。
 その後は、同8年に、住持玄詮のもとで本尊千手観音宝前の「石雁」が造営されます。「石雁」が何をさすのか分からないようですが、大型の石造構造物と推測され、この造営はかなりの大規模事業で、郡内の多くの人々の協力があったようです。こうして、根香寺は地域の人々の寺として、人々の流す汗で整備が行われていくようになります。
以後のイヴェントや行事を見ておくことにします。
明和4年(1767)2月1日から4月28日まで、30年毎の本尊千手観音の開帳が行われます。この時には、領分へ仏飩袋を配り、それによって得られた寄銀で建物・屋根等の修復も行われています。寛政8年(1796)には、住持玄章のもとで、五大尊堂・智証大師堂の修復が行われます。諸堂の修飾については、松平頼起が領内の人別銭で造らせたと伝えられます。頼起は同4年に没しているので、生前に諸堂の修復が命じられていたことになります。

 近代の根香寺
江戸時代に興隆した讃岐寺院の多くは、明治初年の廃仏毀釈の動きの中で寺領没収など経済的な打撃をうけることになります。特に白峰寺の被害は大きかったことは以前にお話ししました。根香寺も、その例にもれなかったようですが、史料的にはまだよく分からないようです。
近代根香寺の興隆に努めた人物として『下笠居村史』に紹介されているのが青峯良覚です。
良覚は明治33年に薬師寺から転住し、昭和19年に総本山塔頭光浄院へ転住するまで約40年近く根香寺住職をつとめています。その間の業績は以下の通りです。
大正14年(1925)に、当山中興開山にあたる龍海の200回忌を記念して水かけ地蔵を安置
昭和6年(1931)に「当山開基一千百年」を記念して役行者立像を安置
昭和19年(1944)に総本山園城寺執事長兼会計部長、
昭和23年に園城寺宗管長を歴任
昭和29年に帰住
『下笠居村史』によれば、戦後の農地改革や国営開墾などがあった混乱期に根香寺復興に努力したのもこの良覚であったといいます。彼を中心として近代の根香寺は維持されたと評価しています。
戦後の根香寺において、研究者が注目するのが本尊千手観音像と、安置場所である本堂をめぐる動きです。
昭和30年(1955)に、本尊千手観音像が重要文化財に指定されます。加えて昭和41年からは本堂の解体修理が行われ、4年後の45年に改修を終えます。この本堂の改修は、本尊千手観音像の30年毎の開帳にあわせたもので、一段上の敷地を造成して回廊を巡らせ、その敷地中央上部に本堂を移築するという大規模なものになりました。それが現在の伽藍配置につながることになります。また大師堂の改修も行われ、同じく昭和45年に本堂とともに改修を終えます。本堂安置の本尊千手観音像の開帳は、平成15年(2003)に実施されています。

最後に根香寺と遍路の関係について見ておきましょう。
根香寺に遍路関係資料が出てくるのは、江戸時代中期になってからのようです。宝暦12年(1762)9月の棟札があり、ここには常接待堂と茶料田4反余が寄付されたことが記されています。勧進者は根香寺住持玄詮、施主は香西村の吉田屋嘉平衛です。天保4年(1833)の『青峰山根香寺由緒等書上控』には「茶接待所」と記されています。弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』には、「茶堂(石階の半途にあり)」と記されます。ここからは宝暦12年以来、継続して根香寺の接待堂で遍路接待が行われていたことがうかがえます。

根香寺 讃岐国名勝図会
金毘羅参詣名所図会の根香寺 仁王門前に茶屋・境内中程に茶堂

 19世紀になると大坂からの金毘羅詣客が急増します。
金毘羅信仰の隆盛を背景に、金比羅金光院は境内整備を進めます。それが西日本一の大建築物「金堂(現旭社)」の建立です。計画から約30年間の工事期間を経て、19世紀半ばに金堂は姿を見せ始めます。金堂整備と同時に進められたのが石段や玉垣・石畳の整備です。これらは周辺の参拝客の寄進で行われます。このやり方は周辺寺院でも取り入れられていきます。
文政13年(1830)につくられた根香寺の玉垣にも、寄進した多くの人々の名が刻まれています。
その中には、根香寺周辺地域の人々はもとより、志度・小豆島・倉敷・大坂などの海を越えた遠方の支援によって玉垣が造立されたことが分かります。研究者が注目するのは、この玉垣の造立に次のような接待講も参加していることです。
「香西釣西本町摂待講中」
「木沢村摂待講中」
「生島摂待講中」
これらの遍路接待を行う講集団が先頭に立って玉垣を造立したようです。香西、木沢、生島は根香寺周辺の村です。それぞれの地域において講を組織した人々が、根香寺のために遍路接待に奉仕していたことが分かります。
閑古鳥旅行社 - 四国八十八箇所霊場歩き遍路
根香寺への遍路道
第81番札所白峯寺から第82番札所根香寺までの遍路道は、今でもその雰囲気が良く残っています。
しかし、江戸時代には遍路を悩ませる難所として知られていたようです。『金毘羅参詣名所図会』には、次のように記します。
「白峯寺と根香寺をつなく道は、50余町にわたって山道で、南に位置する新居村を除けば他に人家がなく、足弱の遍路はここに悩むことが少なくない」

 実際に、根香寺の墓地には遍路墓もあって、行き倒れた遍路者も少なくなかったようです。そこで天保9年、この区間の間に笠居村香西郷などの「信心同士の輩」が吉水茶堂や草屋を建てて往き暮れた者を泊めたと云います。これも根香寺の遍路への接待のひとつでしょう。
 『青峰山根香寺由緒等書上控』には「休所」の記載があります。
この「休所」は参詣人や遍路を対象として申方向・丑方向・亥方向にそれぞれあったもので、次のように記します。
「右ハ山上之義殊人家遠ニ而参詣人井四国辺路等休息所無之、大二難渋仕候間、前々ヨリ有来申候所及破壊二、当時取除置御座候

かつては参詣人や遍路のためにあったようですが、天保4年以前に壊れて取り除かれたようです。
この他には、根香寺境内に天保9年の接待講碑があります。
「永代寒中摂待」とあるので、高松や香西の講員が永代にわたって冬期に接待をおこなうことを宣言したものです。供養導師は西光寺の法印良諦で、香西に所在する真言宗寺院の西光寺が関わっています。先に見た吉水茶堂の完成と同じ年にあたるので、この時期には香西の人々がさかんに接待の活動をおこなっていたことがうかがえます。

  以上をまとめておくと
①根香寺創建については、「空海創建=円珍(智証大師)中興」説と「円珍単独創建説」にふたつがある。
②根来寺は五色台という行場に形成された山林寺院のひとつであり、白峰寺や国分寺と「中辺路」ルートで結ばれていた。
③そこには熊野行者や高野聖、時衆念仏聖など廻国の修験者たちが滞在し、活動の拠点となっていた。
④そのため宗教的には熊野信仰 + 浄土=阿弥陀信仰 + 時衆念仏信仰 + 弘法大師信仰などが混じり合う混沌とした世界を形成していた。
⑤中世末から近世初頭にかけては、高野聖たちによって高野山信仰や弘法大師信仰が強くなり、根香寺は真言化を強めた。 
⑥それに対して髙松藩初代藩所の松平頼重は、政策的な理由から根香寺を真言宗から天台宗に改宗させ、保護化した。
⑦天台改宗後に作られた縁起には「円珍単独創建説」が強く打ち出されるようになった。
⑧髙松藩の祈祷寺として整備され、保護を受けるようになった根香寺は、地域の有力視の支持を受けるようになり、庶民の支持も集めるようになった。
⑨四国遍路が活発化する江戸後半期になると、周辺の民衆は根香寺のサポーターとして遍路接待を活発に行うようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献    「上野進 根香寺の歴史 根香寺調査報告書2012年 香川県教育委員会発行」
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四国霊場根香寺 牛鬼はいつ、どのようにして生まれたの?

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根香寺にはゆかりの怪物がいます。牛鬼です。
今では、境内に立つブロンズの牛鬼像の方が、本尊の千手観音より有名だという話まであります。確かに、千手観音は秘仏で33年毎の開帳ですから・・・
さて、この牛鬼像には原型となった二つの絵があることをご存じでしょうか?それがこの絵図です。
イメージ 1

牛を思わせる頭部で、2本の角に鋭い牙と爪を持ち、全身は毛に覆われ、両脇には羽のようなものが描かれています。  この絵には右下に署名も、制作年月日も記されています。そこから文化五年(1808)に石田雪眼が描いたものとわかります。ただ、雪眼の経歴等は分かりません。

根香寺にはいつの頃からか次のような話が伝えられています。

400年ほど昔の戦国末期のことです。
牛鬼が根香寺付近に現れて田畑を荒らしていました。
弓の名手であった山田蔵人高清が討ち取ろうとしますが、
なかなか姿を見せません。そこで、根香寺の本尊千手観音に祈願したところ、とうとう21日目の満願の日に目を光らせた牛鬼を見つけることができました。
飛びかかってくる牛鬼に高清は矢を放ちます。
3つめの矢が牛鬼の口中に刺さり、牛鬼は悲鳴を上げて逃げました。高清が血の跡をたどっていくと、定が渕というところで牛鬼が死んでいました。高清は牛鬼を供養するために角を切り取って奉納しました。
退治した牛鬼の姿を掛け軸にしたのが、上の絵のようです。
そして、奉納された牛鬼の角も寺には、伝わっています。
イメージ 2
根香寺に伝わる牛鬼の角

牛鬼を退治した山田蔵人については

高松市塩江町の岩部に墓碑があり、文禄三年(1594)の年記が刻まれています。また白峯寺の住職・増真上人について記した「増真上人伝」(『香川叢書』)には増真の叔父と記されれて、天正・文禄・慶長頃の人で弓を得意としたことが伝えられています。実在した人物のようです。
高松藩家老の木村黙老の伝える牛鬼は?

「山田藏人の牛鬼退治」が根香寺の「公式見解」だとすると、もうひとつの話が記録に残されています。それは、高松藩家老の木村黙老が残した随筆『聞くまゝの記』に、寺の伝説とは別の話が次のように記しています。
文化年間(1804~18)の末頃、香西村の猟師徳兵衛が、根香山の谷川で眠っていた怪獣を鉄砲で撃った。海中にも住んでいた生物らしく、角に牡蟻の殼などが付いていた。高松藩士の久本某がその形を写して関西の博物学者に鑑定してもらったが、正体はわからなかった。
という内容です。
 根香寺に伝わる「角」も海から上がってきたことを思わせるものであり、伝説に比べると時代が近く内容も具体的で、こちらが事実に近いような感じがします。
 黙老は、同書に牛鬼の図も写しています。そこには、口角の牙がなく、手首の爪の描き方が異なるほか、足も蹄風ではなく五本指を描くなど寺に残る絵図とは違います。写し違いとも考えられますが、別の牛鬼図があった可能性もあります。

 牛鬼については、安永五年(1776)刊行の鳥山石燕著『画図 百鬼夜行』に三本爪に鋭い牙をもっだ牛鬼図が紹介されています。
伝説上の怪物を描くにあたって、このような図が参考にされたのかもしれません。
文化五年(1808)に石田雪眼が描いた牛鬼図は、今に伝わる根香寺の牛鬼の視覚的イメージを最初に作りだした作品と言えそうです。そういう意味では根香寺の「牛鬼の誕生画」と言えそうです。
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大正時代に描かれた牛鬼図

約百年後の大正時代末に描かれた「牛鬼図」です。

江戸時代の石田雪眼の牛鬼図をもとに、約百年後の大正時代末に描かれた「牛鬼図」です。体毛が薄くなりモコモコ感を余り感じなくなります。哺乳類から爬虫類への退化?、別の言い方だとぬいぐるみのかわいらしさが残る牛鬼から、悪魔のイメージへと変化して行ったような印象が私にはします。そして、背景に根香寺のシンボルで境内の大榛が描かれます。この寺と関連性が強く打ち出されてきます。
 作者である桃舟の経歴は分かりません。
しかし、この牛鬼図のほかにも、この寺に残る「根香寺境内図」や「良覚像二心」「浄心院像」(齢)を描くなど、大正時代末期に根香寺ゆかりの作品をまとめて制作したことが分かります。
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 現在の「ゆるキャラ」のように新しいキャラを生み出すことで「話題」を提供し、寺の知名度アップと参拝客の増加を図る戦略がとられたのかもしれません。
 200年前に生み出されたキャラクターが、今も人々に話題を提供し続けています。

参考文献 香川県立ミュージアム 調査報告書第4号(2012年)

この寺には、納経所の裏に五大明王堂があります。

恵峰さんと巡ろう 四国おへんろ|瀬戸マーレ vol.50

その内陣最奥の壇上に中尊不動明王を中心に、等身の不動明王と四天明王が横一列に並びます。
東方に降三世(ごうさんせ)
南方に軍荼利(ぐんだり)
西方に大威徳(だいいとく)
北方に金剛夜叉(こんごうやしゃ)
の各明王(みょうおう)の豪華キャストたちです。
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根香寺の四天明王たち

 明王は、明(みょう)(真言(しんごん)ダラニ)を唱えながら拝むと、霊力がアップすると言われます。どの明王も、救いがたい愚かな衆生を教化するため、いずれも光焔を負います。忿怒表情ですざましく、幾つもの手が武器を振りかざします。
あらゆる悪魔的な力を打ち破るため、怒髪(どはつ)天をつき、多面(ためん)、多臂(たひ)、多足(たそく)の非人間的な姿で表現されます。
 護摩の炎の中で極彩色の五大明王の目がぎらぎらと輝きます。
忿怒の怒りの表情に、思わずおそれ畏怖を感じます。
鎌倉時代の昔、この山深い根香寺の堂の中で、五大明王を前にして護摩(ごま)をたいて祈祷し、行場を廻る辺路修行を行う修験者たちがいたのです。

  これまで護摩堂の明王たちは、まず不動様が先に作られ、その後で四天明王が安置された考えられてきました。時期的には、不動さまが南北朝頃、四大明王が鎌倉時代とされてきました。「中世に遡る等身の五大尊像」として昭和44年には県の指定有形文化財を受けています。
 台座の構造劣化など寄る年月に明王たちも苦しむようになり、平成十六年より1年に一仏ずつ解体修理が行われました。その結果、不動明王像と四天明王の大威徳明王像から像内墨書や納入文書が見つかりました。
さて、そこには何が書かれていたのでしょうか?
また、そこから何が分かってきたのでしょうか。
真ん中の不動さまから、報告書にそって見ていきましょう。
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不動明王(根香寺)
顔は正面を向き、ほぼ直立して岩座上に立つ。
頭部は巻髪、萍書、左耳前に髪を緩り束ねて垂らす。
正面巻髪の間に、頭飾をあらわす。頭飾は、扇形の線帯に列弁文を重ねた花文で、冠帯はつくらない。
面部は、額に水波相をあらわし、両目は見開いて眼目し、
口をへの字に曲げて左牙を下出、右牙を上出する。
三道相。耳は耳孔をつくらず、耳采環状貫通とする。
左手はやや前方に出しながら垂下し、全指を曲げて祠索(両端に三鈷形と杏葉形の金具を取り付ける)を握り、右手は腎を外に張って曲げ、剣(刀身に樋を刻み、柄を三鈷形とする)を執る。条帛、裳、腰布をつけ、腕・腎・足に釧をつける。
光背 迦楼羅焔光            ’
台座 岩座 枢座 長方形
松平初代藩主頼重が、この不動明王に「霊験あれば示し給え」と祈念したところ、この不動がやおら立ちあがったという伝説が伝わります。それも「ほんまかな」と思えてくるお不動様です。

そして今回の解体修理で像内を開くと・・・・・・
背中や腰の内側には墨書がびっしりと書かれていました。
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根香寺不動明王の像内腰部墨書
何が書かれているのか・・ 
  奉造立等身不動明王
  夙聞大聖明王者大日如来教令輪
  身魔界降伏之忿怒尊也故現
   口口罪垢常念奇口
  覚位霊観夢依宿願集
  口(裏)因模尊鉢等生恵黄口(賞)
  口口平等利益敬白 弘安九年磐二月廿五日奉介御身
  ここには、不動明王が大日如来の化身であること、忿怒の形相の所以など、そのありがたさが書かれています。
そして最終行に弘安九年(1286六)の年号が見えます。
ここからこのお不動さんの制作年が鎌倉時代13世紀末と判明しました。この時期は、香川県の寺院建築で唯一国宝に指定されている本山寺の本堂が建設中だった頃になります。

   寺伝では、開基智証大師によって彫られたと伝わります。
しかし、前回も述べたとおりこの不動が創建時からここにあったは思えません。根香寺は、戦国末期と江戸時代前期に2度の大火にあって伽藍が焼け落ち、寺宝も失っています。智証大師像や毘沙門天さまと同じく、後からやってきた仏様と考えるのが自然です。
それでは、どこからやってきたのでしょか。
このお不動さんの由来を示す資料は、今のところないようです。
次に四天明王を見てみましょう。 まずはメンバー紹介から始めましょう。
降三世(ごうさんせ)明王像です
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      根香寺の降三世明王像
四面、八腎。顔は正面、左右両脇、後に各一面。
各面単髪、地髪マバラ彫り、皆、左右こめかみの髪際は炎髪。各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。馨の根元にも山型飾(背面を除き、紐二条を結ぶ)を付す。各面ともに天眼をあらわし、両目は眼目。上歯上牙で下唇をかむ。
三道相。耳は耳孔をつくり、耳采環状貫通。鼻孔をつくる。
左右第一手は屈腎して、胸前で左手を上にして手首を交叉して甲を重ね、第五指を絡めて第二指を立て他は曲げ、降三世印とする。
第二、三、四手は、第一手の後方の上中下の位置で屈腎し、各持物をとる。
左第二手は三鈷杵、第三手持物(弓)は亡失、
第四手は龍索、右第二手は五鈷鈴、
第三手が箭、第四手は剣を持つ。条帛をかけ、裳(右柾)をつける。裳の前裾は、大腿部を巻きこんで、左右脹脛を通って外へ翻る。腰布を巻いて正面で結ぶ。
左足は伸ばして大自在天の右胸を、右足は膝を軽く曲げて鳥摩妃の左手を踏んで立つ。左足の第一指を反らす。胸飾、腕・腎・足に釧をつける。
天座 岩座上に大自在天と烏摩妃を配する。大自在天は頭を左方へ向けて岩上に仰向けに横臥し合掌する。顔を正面に向けて目を見開き眉をしかめ、口を軽く開く。地髪は平彫、単馨を結う。条帛をかけ、裳、腰布をつけ、正面で結ぶ。 
烏摩妃は頭を右方へ向けて、右手を岩上について上体をささえて横臥し、左手は体側に沿わせる。
右足を大自在天の右足の上にのせる。
頭飾をつけ、地髪はマバラ彫り、髪を肩上でゆるく持ち上げ単馨を結う。髪髪をU字に垂らす。大袖の衣に鰭袖の衣を重ね、腰紐を結ぶ。
光背 輪光・火焔付 台座 岩座枢座 長方形
 降三世明王は、顔が3つ、手が8本で、足下に大自在天(だいじざいてん)とその妃の烏摩(うま)を踏んでいます。これは、欲望にうずく世界、物質にとらわれる世界、意識にこだわる世界の煩悩を降伏(ごうぷく)する明王と信じられています。この三世界の主である二天をも降伏することから降三世の名がついているといいます。

軍荼利(ぐんだり)明王像

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 一面、八腎。単馨、地髪マバラ彫り。
天冠台をつけ、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。
その根元に山型飾を付し紐二条がめぐる。
左右こめかみ髪際、耳後及び後頭部は天冠台上から炎髪をあらわす。各面ともに天眼をあらわし、両目は眼目。
上歯をみせ、牙を上出す。
三道相。鼻孔、耳孔をつくり、耳采環状貫通。
第一手は左右とも第一、五指をおって掌を内に向け、
胸前で左手を上に交叉する。
ほか三手は、第一手の後方の上中下段に配される。
左第二手は輪宝、第三手は三叉鉾、第四手は
右第二手は三鈷杵をとり、第三手は掌を前に第二指を上に立て、他の指は第一指を内に握り、第四手は掌を前に向けてひろげる。条帛をかけ、裳をつけて、その正背面に獣皮(各頭付、正面虎、背面豹)を重ね、腰布をまわして正面に花結びをみせる。
裳裾の翻る様は降三世に同じ。
獣皮正面では頭を下に向けた二匹の蛇が交叉する。
左足は伸ばし、右足は膝を曲げて軽く上げ、いずれも第一指を反らして蓮華座を踏む。
胸飾をつけ、頚元に二匹の蛇を絡ませ、各手に腎釧をつけ、
各手と足首に蛇が巻きつく     
光背 輪光・火焔付台座 岩座柾座 長方形
 軍荼利明王は、すざましいお顔に目が3つ、手が8本。
12匹の蛇が、脚・首・手に巻きついています。
軍荼利(甘露をたたえた瓶)の甘露で種々の障害を除いてくださるといいます。五大明王から私がすがる仏を選べと言われたら迷わずこの方を選びます。 

金剛夜叉明王像 

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三面、六腎。各単馨、地髪マバラ彫、
左右こめかみ上髪際と後頭部、耳後より炎髪をあらわす。
各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾、愕の根元に山型飾と紐二条を結ぶ。
本面は天眼と四目、左右脇面は天眼と二目、天眼のほかは皆瞑目。各面とも開口し、上歯牙と舌をのぞかせる。
三道相。本面は耳孔をあけ、三面とも耳采環状貫通。
鼻孔をつくる。
第一手左は腹前に屈腎して五鈷鈴を、
右は胸前に屈腎して逆手に五鈷杵をとる。
第二・二手は、第一手の後方上下に配して屈腎し持物をとる。
左第二手は輪宝、第三手は、右第二手は三鈷剣、第三手は箭をにぎる。条帛をかけて、裳(右粁)をつけ、腰布を巻いて正面で結ぶ。
裳裾の左右に翻える様は降三世に同じ。
左足を伸ばし、右膝を曲げて、前傾姿勢をとり、各蓮華を踏んで立つ。胸飾、腎・腕・足に釧をつける。
光背 鳶光・火焔付 台座 蓮華座岩座枢座

 金剛夜叉明王は顔が3つで、その中の中心の顔には目が5つあります。手は6本。金剛杵(しょ)の威力をもつ夜叉の意味で、人の心の汚れた欲心を食い尽くし、真実の悟りにいたらせるといいます。この明王の名前がつけられた有名な「戯曲」がありますね。

大威徳明王像

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六面、六腎、六足。各面単馨、地髪平彫り、左右こめかみの髪際と両耳後から、頭上面はさらに後頭部に炎髪をあらわす。
各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。
頭上面の馨根元に山型飾を付す。
各面ともに天眼をあらわし、両目は瞑目。
本面は開口(上歯牙・下牙)、左脇面開口(上歯牙・下牙)、右脇面閉口(上歯牙)。頭上正面開口(工歯牙・下牙)、左は開口(上下歯・上牙)、右は閉口(上歯牙)。
いずれも三道相をつくる。
本面と両脇面は耳采環状貫通、頭上面は耳采不貫とする。
耳孔はつくらない。左右第一手は胸前にて、各第三指を伸ばして相合わせ、他の指は組み合わせて掌を合わせる。
第二、三手は屈腎して、第一手の後方で上下に配し持物をとる。左第二手は三叉鉾、第三手は輪宝、右第二手は三鈷剣、第三手は如意棒をとる。
条帛をかけ、裳(右任)をつけ、腰布を巻いて、結び目を正面にみせる。裳裾は各膝頭を包みながら覆い、一部は左右足の前方に垂れ、後方では左右足裏から翻る。
左第一足を珈し、他は垂下して水牛の背にまたがる。
胸飾、腕・腎・足に釧をつける。
牛座 正面を向いて、鱒る。光背 輪光・火焔付
台座 枢座 長方形
大威徳明王は、水牛に乗っているので間違うことはありません。
一切の悪毒龍を調伏する大威徳のある明王です。六面・六臂(ぴ)・六足で水牛にのっていて、農耕の仏ともいわれ農民たちの信仰を集めました。
そして、「お宝」は、この大威徳明王像から発見されました。
この像内の背部からは貼付けた文書、牛座からは墨書と納入文書二種が出てきたのです。それを見ていくことにしましょう。
大威徳明王像一、像内背部貼付文書
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五大尊四鉢ノ内大威徳明王施主 
  松平讃岐守様也 
  昨者京七條大佛師 
  左京法眼康知弟子佐々木内近作之也
  康知(開山従定朝廿四世運慶より十九代孫也
  天和参歳抄三月拾日
  将運綱儀公  大佛師内近

  帝 今上皇帝
  右之御取次木食専心坊様也
  大威徳明王座像弐尺弐寸五分
  うしあり
ここから、四天明王は高松藩初代藩主松平頼重が護摩堂本尊として京都の仏師に作らせたことが明らかとなりました。その取り次ぎをおこなったのが「木食専心」であったとも記されています

 そのうち最後の大威徳像は天和三年(1683)に、京都七条大仏師康知の弟子である佐々木内匠の作であること、他の三像は大仏師久七の作でことが分かりました。そして仏師の住所も「綾小路烏丸東入丁大仏師久七」と分かります。この明王たちの「誕生地」を訪ねることも出来ます。

 ちなみに大仏師久七の作品としては、

万治三年(1660)の金剛峯寺真然大徳坐像と、寛文十三年(1672)長野県千曲市長雲寺の愛染明王坐像が確認できるようです。近世京都の仏師には全国のお寺から注文が入っていたことが分かります。長雲寺愛染明王像と根香寺降三世像を比べて、専門家は次のように指摘します。
顔の表現には相通じるものが感じられる。開口と閉口という差、また十年という制作時期の差があるが、頬骨を高くしてこめかみを引き締めた面相のバランス、目を瞑らして眉間につくる瘤、こめかみから立ち上がる炎髪と髪際の処理などの表現には、同一作者ゆえの傾向がみてとれるだろう。
根香寺の四大明王像は、東寺講堂の明王像に似ていると言われてきました。
東寺像と比較すると、手勢、持物に違いはありますが、動きや姿勢はほぼ同じです。東密の四大明王像をモデルにしているようです。それも、大仏師久七が東寺の「お抱え仏師」であったことが分かると「なるほどな・・」と合点がいきます。 
しかし、専門家は「降三世明王像は、東寺像と異なる様相」があると指摘します。
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根香寺の像は、体の色が群青色ではなく、右は黄、左は緑、背面は紅色と塗り分けて「派手」です。
降三世の四面の色を明記した経典としては
「金剛頂喩伽降三世成就極深密門」(不空訳)があります。そこには「降三世喩伽、二羽印営心、慧手持五鈷、努腎如下擬、次箭剣直執、定上五鈷鈎、次弓次執索、皆直引腎持四面正青色。右黄左緑色後紅、咸忿怒」と記されています。
体の色については「四面正青色。右黄左緑色後紅」とあり根香寺の降三世さんの方が「原典に忠実」です。他にも東寺像では、右足が烏摩妃の乳房を踏むのに対して、根香寺像は、烏摩妃が左手(掌を上に向けている)で受けていることがわかります。
 つまり、この像に関しては全て東寺像を「コピー」した訳ではないようです。
なぜ降三世は、独自色が強いのでしょうか?
専門家は、それを大威徳の次の墨書銘に求めます。
讃州右京大夫様/護摩堂之御本尊也」とあり、この四大明王の造立は、高松藩主初代松平頼重が護摩堂の本尊として発注した物であることが分かります。

そこで五大明王像の経緯を見ていきましょう 

まず根香寺に現存する史料から始めます。
 根香寺の近世期の縁起には「青峰山根香寺略縁起」及び「讃岐国根香寺記」があります。前者は五世俊海が、後者は第六世受潤が延享三年(一七四六)に著した物です。この両縁起には寺の創立由緒を智証大師とする意図が強くあると言われます。
例えば
「不動明王像も本尊千手観音像とともに智証大師の作である」
とします。前回に見てきたようにこれは歴史的事実ではありません。
今、見ておきたいのは近世期の根香寺の動向です。
「慶長年中には讃岐国主であった生駒一正により本尊千手観音像と不動明王像を拝顔して敬信し、二尊のために堂于を建て替えた」
といいます。そして高松藩主初代松平頼重が延宝年中に住持龍海へ命じて金堂、五大尊堂(護摩堂)、祖師堂、僧坊などを建立させ、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の四明王を造立し不動明王とともに五大尊としたと記します。松平頼重が施主となって護摩堂本尊として造立したという銘記の内容と一致します。
 この寺の中興の祖とされる龍海については元文六年(1742)「浄行院龍海和尚伝」があり、それにも四大明王像は頼重の造立であると伝えます。ただし五大尊は「祈祷所本尊」であり、二代頼常によって根香寺へ移されたとします。
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また天保四年(一八三三)の「青峰山根香寺由緒等書上控」に、
不動明王は「智護大師之真作、殊二霊威新故、御下屋敷江御勧請(延宝年中)三間二五間之護摩堂御建立有之、御安置候而」と記されています。
根香寺にあった不動明王が、頼重の下屋敷に建てられた護摩堂に安置されたことが分かります。
さらに「由緒等書上控」は
仏工「法橋治部」に命じて降三世など四大明王を造らせて五大尊とし、龍海と了尊の2人に預けた」
「国家安全御武運長久」のため、長日の護摩供、正、五、九月は百座の護摩修行を仰せ付けられた」
「頼重没後の元禄年中に、二代頼常が五大尊を根香寺へ移した

と記します。
 下屋敷とは、頼重が居住した宮脇の下屋敷と考えられます。
先ほどの「龍海伝」にいう「祈祷所」とは、この下屋敷護摩堂を指すようです。頼重自らが下屋敷に護摩堂を建立し、根香寺から移した不動明王像に、京都の仏師に依頼した四大明王を加えて五大尊として祀り、国家鎮護のために護摩法をさせたということになります。隠居後にもかかわらず頼重は、自分が祈祷するための環境を、日常寝起きする下屋敷内に整えたということです。つまりプライベートな祈祷環境を整えたのです。彼は、そこで日常的に祈祷を行っていたのかもしれません。頼重の信仰世界が少し見えてきたような気もします。
   どちらにしても、これは金毘羅大権現保護や仏生山建立などの寺院保護や再興の域を超えています。頼重が根香寺のお不動さまに強く惹かれたことは事実のようです。
下屋敷に五大堂を建て祀ることを進言した宗教的指南役は?
そのプラン全体を考えたのは誰か。
牛座内の納入文書等には「此御本尊御取次木食専心様」とあります。頼重の宗教的ブレーンは「木食専心」のようです。しかし、今の段階ではこの人物についての資料は見つかっていないようです。降三世像を東寺講堂像のモデルからグレードアップし、四面の色、持物を「原典」通りにしたのは、五大尊の「霊力アップ策」だったのかもしれません。
 どちらにしろ江戸時代を通じて、密教系の加持祈祷・護摩が頼重に見られるように支配層の上層部の信仰心を捉えていたことが分かります。根香寺の四大明王は、鎌倉時代の不動明王に祈りを捧げるようになた頼重が京都の仏師に作らせ下屋敷に安置したものなのです。

参考史料
香川県立ミュージアム 調査研究報告第4号 根香寺の彫刻調査
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本堂の毘沙門天立像はどこから来たの?

県立ミュージアム調査研究報告第4号(2012年)は、根来寺の総合調査報告です。仏像については、本尊の秘仏千手観音像(重要文化財)と仁王門の仁王像をのぞく、本堂三件、大師堂五件、五大堂四件の調査が行われています。
さて、専門家が書く仏像の調査報告書というものはどんなものだと思いますか?
この調査の中で一番古いとされた本堂の毘沙門天立像についての報告書を、写真と見比べながら見てみましょう。  
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本堂の毘沙門天立像

兜をかぶる。頭頂に宝珠をおく。
顔はやや左方に向き、目は眼目して見開き、口を閉じる。
上半身に大袖、鰭袖の衣をまとい、下半身に裳、袴を着け、沓をはく。
頚当、胸甲、龍手、脛当、全身に表甲を着る。
胸甲は、二重線帯で縁取りの楕円形、
背面にまわる表甲から太めの帯がのびて胸甲と連結する。
表甲は、背面の背と腰から、正面の大腿部を包み込む。
表甲は、正面中央にて右椎し、その上に前楯を重ね、甲締具でしめる。
表甲の下縁は、直線的に背面に連なる。
なお、背面には獣皮をかけない。
腰帯に帯喰(巻髪、髭あり、上下牙、歯をみせる)をつけ、
前楯上部は円形、下端は長方形なだらかに垂下し、翻転なし。
腰帯は捻りながら腰をまわり、天衣をまわしかける。
左手は屈暫し宝塔をささげ、右手は高く挙げて三叉戟を執る。
左足に重心をおいて、身体は穏やかな動きをとり邪鬼を踏まえて立つ。 
邪鬼は開口する。                         光背 火焔付輪光、柄付台座 長方形振座、岩、邪鬼
この文章だけを読むと、素人には何のことか分かりません。
しかし、写真と見比べながらひとつひとつの部位を確認していくと、専門家が仏像を見るポイントがどこにあるのかはなんとなく分かってくるような気もします。
あくまで気持ちだけですが・・・。、
仏像を頭から足先まで各部位や着衣、形体などを単文でコンパクトに記していきます。ある意味「機械的」です。
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この毘沙門天立像はもともとは「四天王像のうちの多聞天像」?

 この報告書では、本堂の毘沙門天立像はもともとは「四天王像の多聞天像」ではなかったのかと指摘します。多聞天像は、兜をかぶり、左手で宝塔を捧げ、口を閉じているスタイルが平安時代中期に定着します。また、うごきがが穏やかで、各部の彫りも浅く、裳裾にボリュームをもつ姿も、平安時代中期の和様化か進められた四天王像に通じるようです。
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 また、眉間の瘤、瘤の左右から上方へ皺を刻むという表現方法も、東寺講堂像や六波羅蜜寺像の多聞天と同じ表現です。ただ腹部が絞られて肉感が押さえられて少々スマートな感じや、着甲の表甲、下甲の正面合わせ目の作り方に甘さが出てきているので、時代はやや下がり十世紀末以降とします。 つまり、この仏はもともとは独尊ではなく四尊セットの四天王の一人だったと多聞天ではないかとその「出自」を推測します。  

ここで、私が疑問に思ったのがこの寺の由緒書や(『南海通記』)の記述です

そこには天正十三年(1585)の長宗我部軍の侵入により、ほとんどの堂宇および仏像、寺宝が焼失したと書かれています。その2年後の天正十五年に生駒氏が讃岐国に入り、生駒一正により慶長年間に寺領寄進と復興が行われます。「根香寺記」「略縁起」「由来」「翁嘔夜話」等)。
 そして、本格的な復興が行われるのは、水戸からやってきた松平頼重の時代です。頼重は、当時真言宗であった根香寺を天台宗に帰宗させ、京都聖護院宮の末寺とし、寺内各堂宇の新造や道具類の寄進など再興に力を注いだとされます(「根香寺記」「略縁起」)。
 しかし、享保三年(1718))に再び大火災に見舞われ、堂宇や生駒氏領知宛行状、縁起等を失ったといいます。その後、宝暦期になってから五代藩主頼恭による大規模な再建が行われたことが寺伝来棟札などから分かります。現在の根香寺の原型は、この時に作られたようです。
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 解体修復以前の毘沙門天立像
さて、天正と享保の2度の大火を経て、仏像は残ったのでしょうか?
特に享保の大火は一番に持ち出すべき、生駒氏の領知宛行状や寺の縁起まで失っています。本尊やその他の仏像類は況んやです。
全てが焼け落ちたと言われるのに「毘沙門天立像」があるのはどうしてでしょうか
  この像以外にも先日紹介した開祖智証大師(円珍)像も、その像底に元徳三年(1232)の年号が入っています。これも焼けずに残ったと考えるのは不自然です。
私の郷土史の師匠の言葉によると「仏さんがもともとからそこに座っていたとおもたらいかん。
仏さんは、後からやってくることもある。」
というのです。
つまり本殿の創建時からいた仏と、あとからやってきた「伝来仏」の2つがあるのです。
四国霊場などには近世以後の寺の隆盛とともに、周辺の廃寺となった寺から幾つもの仏が集まってきて、そのためのお堂が建てられるということが起きてきます。仏もお金のあるところに集まってくるのでしょうか? 仏像が「歩く」とすれば ・・
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 讃岐国分寺から根香寺へ移されたと伝えられる如来形立像

根香寺の毘沙門天立像は、どこからやってきたのでしょうか。

『下笠居村史』(昭和三十一年)には、この仏像は「祖師堂安置」と書かれています。しかし、今は本堂に安置されています。
この寺の住職が書いた「青峰山根香寺記」には「大師開基時 安多聞天像 今所存像是也」とあり、智証大師がこの寺を開いた時に「多聞天像」を安置した。それが現在の「毘沙門天」だと記します。
毘沙門天像は根香寺創建期以来のものとしますが、もともとは多聞天像だったというのです。
それに対して、増田休意編の「三代物語」明和五年(一七六八)には、天正十三年(1585)の兵火により本尊千手観音像及び諸仏像、経巻、什物や曼荼羅とともに灰煌に帰し、わずかに残るのは法華経と弘法大師の袈裟のみだった。そこで本尊千手を根香と白峯の間にある吉水寺から移した」と記され、さらに、この毘沙門天も「吉水寺四天王之一也」と記しています。
  この記述と、先ほど見てきた「この仏はもともとは独尊ではなく四尊セットの四天王の一人」だったという説は補完しあいます。
ちなみに吉水寺は根香寺近くにあった寺で、根香寺、白峯寺などと同じ霊木で彫った仏像が安置されていたと伝えられます。江戸時代には廃寺となっていたようですが、先日紹介した「根香寺古図」にも縁の深い寺として創建時の景観の中に描かれています。
以上から次のような推論ができます。
①根香寺の本尊千手観音(重文)と毘沙門天立像は、吉水寺にもともとはあった。
②中世末までに吉水寺や根香寺も衰退した。
②江戸時代になって松平頼重によって、寺内各堂宇の新造されその際に、吉水寺の仏像類が根香寺に移された。
しかし、これに対しては次のような疑問が投げかけられることが予想されます
① 天正十三年の兵火で根香寺は焼け落ち全てを失ったというのに、近くにある吉水寺は難を逃れたというのか?
② 松平頼重の復興事業の中で吉水寺から仏像が移されたのなら享保三年(1718)の再度の大火災では、どうして焼失しなかったのか? 


   根香寺の毘沙門天立像は何者なのでしょうか?
 謎の多い仏です。
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 根香寺の縁起について、霊場会のHPには次のように紹介されています。

 空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 - 824年)にこの地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行にふさわしい台地であるとします。その一つである青峰に一宇を建立し五大明王を祀り「花蔵院」と称し、衆生の末代済度を祈願する護摩供を修法をしたと伝えられている。
 その後、円珍(智証大師)が天長9年(832年)に訪れたさい、山の鎮守である市(一)之瀬明神の化身の老翁に、蓮華谷の霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう告げられた。
すぐさま円珍は、千手観音像を彫像し「千手院」を建てて安置した。この霊木は香木で切り株から芳香を放ち続けたことから、この2院を総称して根香寺と呼ばれるようになったという

ここには
①空海が修行の地として花蔵院を建立し、
②その後に円珍によって観音霊場として千手院が建立され、
③この両者を併せて根来寺と呼ばれるようになった
と云います。ここには「空海創建=円珍中興説」が記されています。ところが江戸時代後期に、当時の住職によって書かれた「青峰山根香寺略縁起」には、次のように書かれています。
当山は西は松山に続き、北は海門に望み香川阿野両郡の分域なり、閻閻東南に折乾坤日夜に浮ふの絶境なるを以、吾租智澄大師はしめて結界したまひ、七體千手の中千眼千手の聖像を以安置したまひ、更に山内鎮護のため不動明王を彫剋して安置す、
ここには空海は、登場しません。円珍が開祖で不動明王を作って安置したとされ「円珍単独創建説」記されています。つまり江戸時代に根香寺は「空海創建=円珍中興説」から「円珍単独創建説」に立場を変えたようです。そこにはなにがあったのでしょうか。歴史的に見ていくことにします。

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 智証大師座像(根来寺蔵) 頭は、円珍のトレードマークの卵形

この寺の歴史は、資料的にどのくらいまでさかのぼれるの?
根香寺 智証大師底書

「智証大師像」の底の銘に鎌倉時代の年号が見えます 
    讃州 根香寺
   奉造之 智澄大師御影一林
   大願主 阿闇梨道忍
   佛 師 上野法橋政覚
   彩 色 大輔法橋隆心
   元徳三年 八月十八日
「根香寺」の名を記録上確認できるのは、この智証大師像の像底銘にある元徳三年(1233)が最も古いようです。ここには
①阿闇梨道忍が当寺へ奉献したこと、
②制作仏師は上野法橋政覚、
③彩色は大輔法橋隆心
であることが記されています。円珍を開基とするこの寺の立場が、鎌倉時代まで遡って確認できる史料となります。
②次に古い文書は、根香寺に両界曼荼羅が奉納された時の願文(「束草集」所収)で、正平十二年(1357)です。
③そして、応永十九年(1411)に京都北野経王堂で行われた一切経写経事業に根香寺住侶長宗が参加している記録です。
これらの資料から根香寺は、少なくとも鎌倉時代末期頃までには一定の活動を行う寺として成立していたことが分かります。
 寺の規模は、九十九院の子院を従え、寺領平石千貫を有したと由緒書は記します。江戸期の地誌によれば香西等に名残を示す地名があったらしく、かなりの規模を有した寺院であったと考えられます。
この寺を考える上で手がかりになるのが「根香寺古図」です。

根香寺古図左 地名入り
根香寺古図
この絵図は根来寺縁起を絵図化して描いたもので、江戸時代末の作とされています。ここに描かれている物語を、絵解きしていきましょう。物語のスタートは①一ノ瀬神社から始まります。讃岐の山岳信仰の聖地巡礼中の円珍(智証大師)の登場です。

根香寺古図左 一ノ瀬神社
根香寺古図拡大 市之瀬明神と円珍との出会い
①「右下 対面する二人」は、青峯山の鎮守である市之瀬明神の赤い鳥居の前にやって来た智証大師は老翁に出会います。老翁は市瀬(一ノ瀬)明神の化身している姿です。円珍は、老翁に導かれて蓮華谷の山上に向かいます。

根香寺古図 根来寺伽藍
根香寺古図 根香寺本堂部分

②二人は「左上 枯れ木」に移動します。
ここには枯木を囲んで立つ二人と、本堂の前に立つ二人の姿が描かれます。ここにあった枯木は、不思議な光と香気を放つ霊木でした。老翁は、この霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう円珍に告げます。円珍は、その教え通りに千手観音像を彫り本尊とし、ここに「千手院」を建てて安置します。
   ここからは山岳仏教の行場として開かれる以前に、地元の神が存在したことが分かります。そして、その神が仏教寺院建立に協力したことが語られるのです。
③「本堂の下方に束帯姿の人物」は、平安の時代に菅原道真が遊覧したという景勝地、天神馬場を書き込んだものとされます。絵図ですから、時空を超えていろいろな「人と物」が書き込まれます。

根香寺古図 滝と行者

ここで研究者が注目するのは、「滝と行者」です。
根香寺からは架空の大きな滝が流れ落ちています。その滝の横を行者道が続きます。その道を大きな荷物を背負った修験者が上っていきます。
ここからは根香寺と修験道の関わりが見えてきます。この絵が書かれた江戸末期は、根香寺は醍醐寺と共に修験道の拠点である聖護院門跡の末寺でした。滝や行者の姿が描き込まれているのは、山岳信仰、修験道の行場としての根香寺の姿を示していると研究者は考えています。

根香寺古図右 地名入り
根香寺古図 右側 ふたつの塩田が見える

生島湾には塩田が描かれています。

享保年間に作られた旧塩屋塩田と、天明八年に開かれた生島塩田です。この寺の創建時にはなかった江戸時代の景観です。さらにこの絵図には月や雪山、雁など濠湘八景を思わせる物が描き込まれています。この地域の地誌「香西雑記」(寛政八年)は、この地の美を八景になぞらえて愛でています。それがこの絵の中に描かれている可能性もあると専門家は指摘します。
 以上見てきたように、江戸後期に寺の縁起を説明するために書かれた絵図には、いろいろなものが描き込まれています。その中で、当時のこの寺の指導者たちは、自分たちのルーツが「修験道」にあることを意識していたと思えます。 

寺に残る仏像や画から推察できることは?

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不動明王二童子

この寺の絵画作品のうち、制作年代が中世のものと考えられのは、七件あるようです。そのうち3点までが不動明王です。これもこの寺の性格を表しています。不動明王は修験者の守護神で、肌身離さず修験者が身につけていた明王です。
 室町時代の「不動明王像」は、滋賀・園城寺(三井寺)にある墨画の「不動明王像」(重要文化財)に様式が似ており、同寺の長吏を務めた行尊の筆と伝えられるなど三井寺とこの寺とのつながりをうかがわせるものです。天保四年(1833)の記録には、根香寺が天台宗三井寺派であったことが記されています。

以上から根来寺は、辺路修行の行場から発展したことが窺えます。
そして、宇多津・坂出の海岸線の行場である城山や聖通寺、沙弥島、本島が真言山岳密教の拠点醍醐寺の開祖である理源大師の伝説に彩られているのに対して、この青峯周辺は天台宗三井寺の智証大師の伝説によって彩られているように私には思えます。

根香寺の不動明王二童子について

剣と索絹を持って岩座に立つ不動明王の両脇に、金剛棒を持つ制旺迦と、衿掲羅の二童子が描かれています。痛みがひどくよく分かりませんが、不動明王は天地眼に左上と右下の牙を出しているようです。頭のてっぺんに蓮華を載せて、髪はカールして左肩に辨髪をたらしています。衣は鳳凰や雲などの文様が描かれています。
二童子の制旺迦は、朱の濃淡をつけながら体が塗られています。、目や口は墨で、力強いく描かれています。それに対して衿翔羅は、体が白色で塗られ、墨の細筆で目鼻や髪を繊細に描かれています。下の方には波らしきものわずかに見え、三尊が海上の岩座に立っていることが分かります。根香寺にもう一幅伝わる「不動明王二童子像」と同箱に収められていて、箱書にある「智証大師筆」の画像が本図にあたるとされています。

参考文献 

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