瀬戸の島から

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       水間寺 千日隔夜宝篋印塔(享保十二年 1727年)

隔夜信仰
(かくやそう)という言葉は、私は初めて聞きました。
もともとは、空也上人の念仏行から来ているようです。
隔夜信仰は。『元亨釈書』には、空也上人が長谷に千日参拝の願立てして春日一夜、夜を隔てて泊まり、3年3月の間、念仏の流布を祈ったことに始まるとされます。当初は、奈良の春日大社と長谷寺への千日参詣で、春日に一夜、長谷に一夜、と夜を隔てて泊り交互に参拝を行うものだったようです。つまり、奈良と長谷寺を毎晩、提灯を灯し、念仏を唱えながら千日歩くという修行です。
隔夜信仰 水間寺千日隔夜宝篋印塔

前かがみ提灯を差し出し、念仏をとなえながら歩いたという隔夜僧
 
『多聞院日記」の永禄九(1566)年五月二十二日の条には、次のように記します
ナラ、ハセ隔夜スル法師、南円堂より六道迄つれて雑談之処、彼者ハ当国片岡ノ生レ信貴山先達ノ所二九才ヨリ奉公了、奥州柳津虚空蔵二一年二百日参籠了、峯へ入事四十一度、京ニテ四十八度ノ百万返供養、高野大師卜当社トヘ片道三日ツツニテ、以上十一ケ年ノ間五百度参詣成就、ナラ、ハセ隔夜今年既二三年ニナル間、明年三月ニテ三年三月可有供養ム々、当年四十六才ナルニ申、扱モ/ヽノ事也
意訳変換しておきます
奈良と長谷を隔夜修行している法師と興福寺の南円堂より六道まで連れ添って歩いて雑談した。その時に聞いた話では、彼は大和国片岡の生まれで、信貴山先達の所で29才に奉公を終えて、奥州柳津の虚空蔵で1年2百日の参籠を行った。峯(吉野大峰?)へ入る事41度、その後、京都で48度の百万返供養を行い、高野大師(高野山)と当社(春日)とへ片道三日ずつ、以上11ケ年ノ間かけて五百度参詣を成就させた。
 奈良、長谷の隔夜修行も、今年で既に3年になるという。来年3月で供養も終わるようだ。当年46才になると云う。
ここからは隔夜修行を行っている僧侶について次のようなことが分かります。
①大和生まれで信貴山先達の所で29歳まで修行を行った。
    → 当山派修験者的性格
②高野大師(高野山)と当社(春日)への11年かけて五百度参詣 → 真言僧侶で弘法大師信仰
③そして隔夜修行者
 この法師は、山伏であり、念仏僧であり、真言密教僧侶であり、弘法大師信仰も持ち、あるゆる修行を各地で積んでいる人物のようです。これが、室町時代末期の遊行僧の典型のようです。つまり現在のように「分業」ではなく、行者とはこうした多様性を持ち供えていたことがうかがえます。これも神仏混淆のひとつの形であったのでしょう。
隔夜信仰 水間寺千日隔夜
「鳥取八幡宮、一千日隔夜供養、當寺観世音」とあり、鳥取八幡宮と水間寺の間で隔夜千日参詣が行われたことが分かります

 ここで研究者が注意するのは、いろいろな修行の最後に目指したものが隔夜僧であることです。彼らは、夜に南無阿弥陀仏を唱えながら歩いたのです。強い阿弥陀信仰をもっていたようです。


隔夜僧の成就碑が四国霊場のお寺には、残っているようです。今回は、それを追いかけてみることにします。
四国百名山 雲辺寺山

最初に66番雲辺寺の隔夜念仏の石碑を見てみましょう。
天和三(1683)年五月二十八日の建立で、
正面 「南無大明 慈悲阿弥陀如来 高照山濾峯寺 
    正観世菩薩七宝山観音寺 
    千手観世音菩薩巨鼈山雲辺寺
左側面「百日隔夜行脚信心 願主敬心 天和三癸亥綺五月二十八日」
右側 「為現在当二世大安楽也 敬白」
これは、濾峯寺と七宝山観音寺と雲辺寺の三ヶ寺への百日隔夜念仏行の成就記念碑のようです。
 観音寺と雲辺寺は札所です。まず雲辺寺から見ていきましょう。
雲辺寺山頂公園 | 香川県 | 全国観光情報サイト 全国観るなび(日本観光振興協会)
雲辺寺公園からの三豊平野と観音寺

この寺は、讃岐山脈の西端の標高950mの三豊平野を見下ろす山上にあり、山岳仏教の拠点だったようです。しかし、熊野信仰の形跡は、史料からは見えてきません。ただ『阿波国摩尼珠山高越寺私記』の中に、次のように記されています。
①熊野・金峰・山王・白山・石鎚(五所権現)が勧請された
②山上には阿波坊を持法院、讃州坊を王蔵坊、伊予坊を善蔵坊、土佐坊を年行寺の四国坊が建てた
ここからは熊野権現が勧進されていることと、修験者たちがそれぞれ坊や子院を構えていたことが分かります。熊野信仰をもつ修験の寺であつたことはうかがえます。
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 次に、観音寺を見ておきましょう。
この寺は、鎮守は雲辺寺と同じ五所権現です。以前にお話したとうに、中世には七宝山のいくつかの行場を統括し、善通寺の我拝師山と結ぶ辺路ルートがあったようで、修験の寺でもあったようです。同寺所蔵の『弘化録』(弘化三年(1845)刊)には、貞享九年(1684)のこととして、次のように記されます
「仁王像彩色、願主木食恵浄、仮名本念」

ここからは、仁王像を彩色するに当たり、木食が恵浄が勧進活動を行ったことが分かります。これは、敬心が百日隔夜を行った翌年のことになります。その頃の観音寺周辺には、こうした遊行僧が活動していたことがうかがえます。中世の修験の寺は、外部からやって来た念仏聖などが生活しやすい環境にあったのでしょう。観音寺には、惣持院など六ケ寺の搭頭寺院がみられますが、これらの寺院に念仏聖などは寓居していたと研究者は考えているようです。

最後に濾峯寺という耳慣れないお寺です。
この寺は、観音寺から南に財田川(染川)を越えた約五〇〇メートルの所に、今は庵としてあるようです。江戸中期の火災で焼失し、その後に再建されたようで『西讃府志』には「廬峰寺、高照山号ク、禅宗興昌寺末寺、本尊阿弥陀仏、開山梅谷、四十六石八斗四升八合」とあります。現在は規模の小さな無住の庵となり、本尊は地蔵菩薩となっているようです。江戸時代前期に隔夜信仰と、どのように結びつくのかはわからないようです。
   百日の隔夜行を行った敬心は、この3つのお寺に泊まりながら毎夜の参拝を続けたのでしょう。
しかし、私が不思議に思うのは、そうして雲辺寺と観音寺の間の札所である太興寺が選ばれなかったのかということです。
その理由として考えられる要因を挙げてみましょう。
①太興寺は江戸初期には荒廃していた
②太興寺が念仏僧を嫌悪し排除する体制にあった。
今の私に想像できるのは、この程度です。今後の課題と云うことにしておきましょう。ただ、長期に渡る隔夜行が続けられるためには、支援体制が必要だったでしょう。雲辺寺や観音寺は、それに対して協力的だったのでしょう。だから、境内への記念碑の建立もできたのでしょう。
 また、夜に歩くのですからある程度、道も整備されていなければなりません。参拝の道は、遍路の道が使われたことが考えられます。この隔夜行が行われていたのは真念が四国遍路を何回も回っていた時期と重なります。ある程度、遍路道も整備されていたのでしょう。
高知県室戸市浮津200 - Yahoo!地図

次に土佐室戸の行当岬の隔夜信仰を見てみましょう  
 太平洋に突き出た室戸には、2つの霊場が東西にあります。
東の室戸岬 最御崎寺(東寺=奥の院)   胎蔵界
西の行当岬 金剛頂寺(西寺=本寺)     金剛界
平安時代は、東西のお寺を合わせて金剛定寺でした。その奥の院が室戸岬で、そこでは海に向かって火が焚かれる行場でもあったようです。後に分院されるのが現在の最御崎寺(東寺)です。

このふたつのお寺は10㎞ほど離れていますが、西寺と東寺を往復する行道が見つかっています。これが「中行道=中辺路」です。そして、金剛頂寺の下の海岸が「行当頭=行道岬」です。ここには、不動岩があり「小行道」と呼ばれる行者道がありました。

隔夜信仰 行当岬
室戸の行当岬

つまり、修験者たちの行場であったようです。地元では「空海が悟りを開いたのは、室戸岬ではない、こっちの行当岬だ これぞ まっこと空海」と云っています。
 確かにここには、波が寄せているところに二つの洞窟があって、不動さんを祀っていて、今は波切不動に「変身」しています。

金剛頂寺のある山が金剛界、室戸岬の最御崎寺の方が胎蔵界とされていたようす。密教では金胎両部一体ですので、行者たちは両方を毎日、行道します。例えば、円空は伊吹山の平等岩で行道したと記しています。「行道岩」がなまって「平等岩」となるので、正式には百日の「行道」を行ったのです。窟籠り、木食、高野聖など、中世の室戸周辺には行道修行する坊さんが数多くいたようです。まさに修行のメッカだったのです。
そのような行当岬に、つぎのような隔夜修行の祈念碑が残されています
元禄三(1690)庚午歳八月八日 願主
(サク) 佐州
(キリーク)三界万霊有縁無縁
  隔夜五百日廻向 頼円法師
これは元禄三年の真夏に、五百日の隔夜修行が成就したことが記されています。多分、金剛頂寺と最御崎寺の間の隔夜修行だったのでしょう。この二つの寺を交互に念仏を唱えながら参拝したようです。これを行った頼円は、夜な夜な二つのお寺を南無阿弥陀仏を唱えながら通ったようです。強い念仏・阿弥陀信仰の持ち主であったことがうかがえます。実は、彼はここにやって来る前にも隔夜修行を行っているようです。それは58番佐礼山仙遊寺にも、彼の記念碑が残されていることから分かります。そこには「隔夜」の字句はありませんが、阿弥陀三尊の種子や「三界万霊有縁無縁」などの文字は行当岬のものと共通します。
        キリーク:阿弥陀(金剛界四仏の種子)

そして元禄二(1689)年二月一十八日という年月が刻まれています。ここからは、伊予の仙遊寺での修行を終えたあとに、続いて室戸岬にやって来て500日の隔夜修行を行ったことが分かります。
 この碑のそばには、もうひとつ隔夜の石碑があります。
そこには「南無阿弥陀仏」の名号とともに「天和三年九月二十六日・天和四年正月六日、府中七ケ所」と刻まれています。行者名は上野国利根都沼円郷の浄雲とあります。研究者が注目するのは「府中七ケ所」です。それは国分寺・佐礼山・円明寺・三島(南光坊)・泰山寺・一之宮・八幡宮なのです。これらの寺院は、どれも四国霊場の札所寺院です。かれは、この7ヶ寺で隔夜行を行い、室戸にやってきているのです。ここに出てくる札所は、念仏の糸で結ばれていたことになります。念仏信仰の強い行者達が、どうして四国霊場の札所にやって来たのでしょうか。
 

伊予松山の56番太山寺にも、2基の隔夜碑があります。
 (向右) 五百日隔夜念仏廻向  谷上山
                  願主河内国錦郡 徳誉清心
正面 南無阿弥陀仏      
左  三界無縁法界萬霊      石手寺
裏面 延宝四丙辰年八月二十五日太山寺
ここからは、延宝四年に太山寺 → 石手寺 →谷上山(伊予市宝珠寺)の3ケ所を結ぶ寺院で、河内出身の徳誉清心が五百日の隔夜念仏を行っていたことが分かります。太山寺と石手寺は、ともに八十八ケ所の札所になります。八十八ケ所寺院と熊野信仰・隔夜念仏がが重なりあうようです。
 隔夜念仏の石碑が残る寺は、中世に真言念仏(密教系阿弥陀信仰=高野山系時宗念仏僧)が活動していた所が多いことを研究者は指摘します。江戸時代に活躍する隔夜僧も、中世に遡る念仏信仰の下地があるお寺を修行場として選んでやって来たようです。
10番 切幡寺

阿波の十番切幡寺にも、次のような隔夜碑があります.
  天和三□年   宗体
  奉修行従当山霊仙寺迄
(ア)百日隔夜所願成就所  敬白
  六月二十一 日   常心
天和三(1683)年の建立で、雲辺寺や・仙遊寺・太山寺のものと同じ年になります。この頃に四国で、隔夜信仰が盛んになっていたようです。この碑で研究者が注目するのは「本修行、当山従り霊仙寺まで」とあることです。十番の切幡寺から一番霊山寺の間を修行していたことがうかがえます。これを「十里十ケ所」詣りと呼ばれるもので、これを一夜の間に念仏隔夜修行していたようです。
 讃岐の善通寺を中心とする「七ケ所(寺)詣」や高松を中心とする「観音七ヶ寺詣」のように、中世の「中辺路」ルートをリニューアルした道が遍路道として使われるようになっていたのかもしれません。

隔夜僧は どうして修行場に四国霊場を選んだのでしょうか.
そこには念仏僧を引きつけるものあったからなのでしょう。隔夜僧の僧侶からすると「念仏信仰の寺」と見え、好ましいと写ったのでしょう。それが中世以来の念仏化した高野聖の「伝統」が残っている所だったのかもしれません。
 四国内で隔夜念仏が行われたのは、江戸時代前期の延宝頃で、この時期は真念が四国辺路した時代と重なりあいます。真念は伊予や土佐の札所で、鉦を叩きながら念仏を唱える隔夜僧に出会ったはずです。
 どちらにしても、真念が廻った17世紀後半の四国霊場は、南無阿弥陀仏を唱え参拝する念仏僧や、隔夜行で念仏を唱えながら夜の遍路道を参拝する人たちいたのです。まだまだ、念仏・阿弥陀信仰は霊場に根付いていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰

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前回は、観音寺の本堂やお堂を見てみました。今回は、調査報告書を片手に各堂の仏達を見ていく事にします。
まず、仁王門です。ここには2mを超える阿・吽の仁王さんが迎えてくれます。
報告書には次のように記されます。
 肉身各部の誇張や妙な力みのさまによる破綻がなく、頭体腕足の均整に優れ、写実を自然にこなした彫りが感じられる。鎌倉時代に流行した仁王像の力感表現の伝統を引きながら、穏やかに敷街したかのようにみられる優品である。

観音寺仁王像1
 現在の仁王門については、宥英法印の宝永3年(1706)に再興されたことを記した棟札が残ります。しかし、仁王さんについてはもっと古く
「像表面の傷みに対して砥の粉を塗られるなど近世以降の修理を受けるものの、作風からすれば、享徳ころの制作と考えてもよい」
と報告書は記します。
神恵院本堂8

次はコンクリート製で近未来的な神恵院本堂に行ってみましょう。
ここの本尊は、琴弾八幡宮の本地仏であった来迎印相の木造阿弥陀如来立像です。近年修理されて、全身を金泥を塗り、漆箔金の照りを抑えて落ち着いた雰囲気にしあげられています。ここへやって来たのは「見仏記」的には脇檀にいらっしゃる毘沙門天立像にお会いするためです。報告書は次のように紹介します。

神恵院本堂仏5
 頭体を一木から彫成するもので、内刳りなく、面部を彫り直しているのは残念ではあるが、制作は平安時代中ごろではなかろうか。現状では両肩から先を後補されるようであり、足ホゾを作って岩座上に立つ。右手を挙げて戟を執り、左にやや腰を捻って屈腎して掌上に宝塔を提げる毘沙門天像としては通例の像容である。痩身の体部に甲冑を付けるが、その細部は省略されているものの像容は力強く、あるいは修理により像表に具材の古色を厚く掛けたものか。
 本像の岩座は後補となるが、その天板裏面銘によれば、もと西金堂(現・観音寺薬師堂)の四天王像の一体であると記す
 この毘沙門天は「平安の古像であり、四天王像の一体」のようです。
もともとは薬師堂の薬師如来をお守りしていた四天王さんのメンバーだというのです。そうだとすれば、西金堂(薬師堂)本尊の薬師如来像と同じ時期に作成されたと考えられます。しかし、この毘沙門天の連れ添い達は、薬師堂にはいないようです。今は本堂で本尊の観音様を護っているのです。かつては薬師堂で御薬師さんを護っていた四天王が、今は本堂の須弥檀の四隅に配されて本尊の観音さまをお護りしています。しかし、毘沙門天はメンバーから引き離されて、神恵院本堂にいらっしゃいました。
  調査書には次のように記されています。
観音寺本堂の四天王
 足下に踏み付ける邪鬼まで含んで、頭体幹部を一材から刻みだしたもので内刳りなく、ほほ等身大の像高をはかる。忿怒の形相や武具を振りかざす姿態などは、やや穏やかにあらわされているものの、古様な着甲の像容であり迫力にも富んでいる。邪鬼にのこる彩色の痕跡からして、当初は彩色仕上げとされていたものと考えられる。現状は、正面側の像表面の荒れを調整して古色仕上げとされている。
  一人ひとりを紹介するのでなく、四体まとめての紹介というのは、平安生まれの四天王に対して、礼を欠くような気もしますが・・・。

さて、もともと四天王が護っていた薬師如来は、どんなお姿なのでしょうか?
 薬師堂はかつて西金堂と呼ばれていたようです。今の巡礼者達は、本堂と太子堂にお参りして、薬師堂まで階段を登ってくる人はいません。人の訪れることのない薬師堂です。しかし、この薬師如来坐像は、丈六の大像でした。報告書を読んでみましょう。

観音寺薬師如来坐像1
 現状は古色仕上げを施される。三角材の木寄せの緩んだ三角材部分から体内と膝前材のようすを観察することができた。その結果、当初材には多孔質な木肌からクスを用いているものと推定され、体部材には内刳りを施し、基本的には前後に数材ずつ寄せており、現状は後世の鑓で各材を留めて峯郡を構成していることが確認され、頭部は耳後ろで前後二材をよせている。体内の首ホソから肩にかけては新補のマチ材が複数あてられており、判然としないが、おそらく三道下で割首仕様としているものとみられる。膝前材は内刳りを施した当初のクス材部分に新補材を寄せて結珈する脚部や衣文を彫り直しているようである。左半身の構造は確認できなかったが、手首は挿しこみとなっており、右上腕材元残存状況から当初材がのこされている可能性が高い。右前賢と両手は後補とみられる。
 本像の面部は、傷んだものか残念ながら彫り直しを受けており、当初の顔貌かを大きく損じていると思われる。しかし、耳の造形や螺髪の端正な割りつけと刻み方をみると当初のものとして良く、鉢を開かず細面とし、肉誓と地髪の段差を控え目にして、緩やかな繋がりをみせる頭部の形状は、平安時代中期乃天台系如来像に通じる特徴として指摘する意見があり、或いは本像もこれに連なる可能性がある。
報告書には「西金堂丈六薬師尊像」の修復を記した元禄6年(1693)銘の木札が発見され、新補材並びに古色仕上げは、この時の修理によるものとされます。そしてこの薬師如来坐像は平安時代中ごろに制作された可能性があるとのこと。元禄の大修理を受けたようです。江戸時代になり、観音寺は京極藩の保護を受けて、堂舎・仏像の再興活動がなされていたようです。それが、仏達を今に伝える事につながっています。

釈迦阿弥陀発遣来迎図
 琴弾八幡の本地仏を描いた阿弥陀如来来迎図 
 最後に神恵院十王堂を見てみましょう。ここには閻魔王像のほかに十王像がいます。
司命・司録の二官、奪衣婆像・赤・青の二鬼、さらには人頭檀荼憧までを備えた地獄差配する群像が並んでいます。『元禄六気葵酉四月 豊田郡坂本組寺社帳』(『観音寺市誌』1985年所収)の「神恵院」の条には、「十王堂」がみえるので、江戸時代初期には存在していたようです。
 木札裏面にみえる発願主の「大こ彦兵衛」の名は十王のうちの5体に、また、「萩田伝八」の名は閻魔王像の台座天板裏の銘文に「東高屋村萩田伝八安重」「同光輪恵照尼」「同家内中」として記されており、萩田氏の家族が願主です。
 木札裏面にみえる「仏師京都 田中弘教」の各像にも記されており、十四体は「大仏師 田中弘教」の作のようです。ただし、閻魔王像だけは、古材を修補していることがうかがえるので、室町時代以前まで遡る可能性があるようです。制作者の「大仏師 京 田中弘教」は江戸時代17世紀後半から活躍の知られる名代の仏師です。

神恵院3
 香川県においては、文化12年(1815)旧高瀬町勝造寺の吉祥天・善賦師童子雷を制作しています。そのほかにも四国霊場71番札所弥谷寺や、同65番札所三角寺にも弘化年間の作例があり、さらに、仏生山法然寺の二王像の首ホソにもその名が記されているようです。仏師田中家は讃岐の寺院からの依頼をよく受けていたようです。
参考文献 神恵院・観音寺調査報告書 香川県教育委員会 2019発行

観音寺境内図1
「四国霊場を世界遺産へ」というスローガンの下に、いろいろな取組がされているようです。「学術調査」の面でも予算が大幅に付けられて、霊場や遍路道などの調査が今までにない規模で行われています。その成果を示すように調査報告書が毎年、四国各県で出されています。
その中で、最近手元に入った68番神恵院・69番観音寺の調査報告書(2019年3月発行)を見てみることにします。
報告書は「1 建築物 2 石造物 3 美術工芸品 4 古文書 5 聖教 6 民俗資料」に分類して報告されています。ここには、古文書から始まり本堂の落書きに至るまでの史料も集められています。さて、
この報告書を手にして、観音寺を訪ねてみましょうか。
 観音寺は山頂に琴弾八幡宮が鎮座する琴弾山の東斜面にあります。
この寺が話題になるのは、68番札所である神恵院と同じ境内にあることです。
 まずは、境内に行って見ましょう。ちなみに銭形見学後にこの寺を訪ねると、寺の上から訪れる事になります。これは、便利ですが「正道」ではありません。できれば下から仁王門をくぐりてお参りすることをお勧めします。
1観音寺仁王門
    
 まずは仁王門から見ていくことにしましょう。
|構造形式】八脚門、切妻造、本瓦葺
1建立年代】寛政9年(1797年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 仁王門は階段を登った上にあります。報告書に書かれた専門家の説明を読みましょう。
 仁王門は切妻造、本瓦葺の八脚門で、中央間を四半敷の通路とし、両脇問正面側には金剛力士像2躯を祀る。宝永3年(1706)の棟札を残すが、後述する絵様や彫刻からこの時期の建物には見えず、『琴弾伽藍古録一覧』「仁王門」の項に、寛政9年(1797)「地形引直再興」の記事があり、絵様や彫刻から判断される建築年代と難敵はない。したがって、ここでは寛政9年の建築とみておく。
 同史料には、「施主当町富田氏世話人定右工門/大工萩田善右工門同栄治/大塚重三郎」とある。基壇は亀甲形の石積基壇で、最上段には後補の花尚岩切石の葛石を並べ、中央通路部分を聚き、上面をモルタルで仕上げている。基壇の規模は必ずしも仁王門の屋根と整合しない。
  中略
以上の構造および細部意匠から、建築的には18世紀後期~19世紀初頭頃の建立年代が想定でき、『琴弾伽藍古録一覧』に記された寛政9年(1797)再興は、信がおけるものと考える。2000年頃の修理時に部材の多くを取り替えているため、当初材は頭貫・台輪の一部・組物・桁・妻飾・彫刻で、垂木以上はほぽ新材だが、建物の規模や意匠に大きな変更はなく、往時の構造・意匠を保っている。
 全体として構造的には簡素であるが、随所に華麗な彫刻を配しており、特に棟通り中央間に集中する彫刻は立体的で躍動感があり、江戸後期の高い彫刻技術を示している。観音寺の正面を飾るにふさわしい建築と評価できるだろう。                   
 
観音寺仁王門

気になるのは「基壇の規模は必ずしも仁王門の屋根と整合しない。」の部分です。以前の基壇がそのまま使われているかもしれないというサジェスチョンなのでしょうか?。
  随所にあるという「華麗な彫刻」を探して「立体的で躍動感がある江戸後期の高い彫刻技術」を見る事にしましょう。

さて仁王門をくぐると、内側の参道沿いには、明治30年代の年代が刻まれた石灯寵が7基並んでいます。石造物については、また別の機会に見ていく事にして・・・先を急ぎます。
闘伽井を左手に見て緩い傾斜をもつ石敷きの参道を西へ真っ直ぐに進み、石段を上ると本堂や寺務所、庫裏などが建つ南北に細長い平坦地に出ます。
 仁王門からの石段を上りきると正面に巨大な楠が迎えてくれます。そして右手(北)に鐘楼が建ちます。

観音寺鐘楼1
 この鐘楼は彫刻がふんだんにされていて、見ていて楽しいものです
鸚造形式】桁行1間、梁間1間、一重、入母屋造、木瓦葺
1瞳さ年代】文化7年(1810年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 さて、ここでも報告書を開いて見ます。
 柱は上下に踪をもつ角欠きの面取角柱(一辺304mm、面内294mm)で、四方内転びとする。崖地の建つため、平坦面を造る石垣の上に切石を4段積んだ比較的高い基壇を築いている。西面には5曇の耳石付の石階を備え、基壇内側に若干切り込む。基壇上面はモルタル仕上げの土間とし、西面の階段葛分を除き縁辺部に高欄を施す。礎石は方形の切石で、その上に平面角形で側面をはらませた特徴的な礎盤を置き、柱を立てる。現在の基壇・礎石・礎盤は、屋根の葺き替えとともに、2000年頃に改修されたものという。
 中略
 顎貫・台輪・花肘木は、いずれも部材表面を覆いつくす雲や波の彫刻が施されている。台輪上の中備には四面とも力士像を置くが、各面で意匠が異なる。正面である西面のもの、両手で桁を支える。南北面のものは、外側に正対せずにやや正面側を向いているため、片手で桁を支えている 133)。また東面のものは、正対するものの肩で桁を受けている・・・・・中略
評価
 元禄9年(1696)の鐘楼堂の棟札が伝わるが、現存する鐘楼は意匠的にみてそこまでさかのぼりえない。鐘楼の建築年代は、彫刻の意匠からは19世紀前半と考えられ、『琴弾伽藍古録一覧』「鐘楼堂」の項にみえる文化7年(1810)再建の記事と整合するため、これを認めてよいだろう。
また『琴弾伽藍古録一覧』によると、「大工棟梁荻田栄治貞在/後見丸亀永井貞右工門道親/小工荻田嘉兵工良茂」とある。
 ところで、西面にかかる扁額には、「支那沙門雪珍書」の陰刻銘がある(写真139)。雪片(1649~1708)は黄聚宗の中国僧で、17世紀末~18世紀初頭に伊予国千秋寺の第4代住持であったことが知られる。裏面には「信主営町上町浦/岸氏仁右衛門」の陰刻銘がある。この扁額は、前身の鐘楼に掲げられていた可能性もあるが、鐘楼以外の建物に掲げられていたものかもしれず、現状では雪片と観音寺の関係を含めて明らかでない。なお、梵鐘は昭和22年(1947)のものである。
   刻まれた力士達の姿をいろいろな方向から眺めているだけで楽しくなります。また、最後の茶道の流れを日本にもたらす黄檗派の中国僧の扁額というのも気になります。というのも、これから見る本堂の内陣の大形厨子には禅宗様の要素が取り入れられているからです。
   さて、やっと本堂に正面から向き合います。
観音寺8

本堂(金堂)は、境内の北側に山を背負って南面します。
「構造形式」桁行3間、梁間4間、一重、寄棟造、向拝1問、本瓦葺
【建立年代】延宝5年(1677年/棟札/室町時代前期 前身堂を改造)
 この本堂は昭和34年(1959)に国の重要文化財に指定され、その後に解体修理工事がおこなわれています。その際の修理工事報告書には、次のように記されています
観音寺本堂3

①この堂は、もともとは南北朝時代に建設された方5間の「前身堂」であった
②それを万治年間(1658~1661)に大改修して現在の規模(桁行3間、梁間4間)にした
③しかし、この時の修理では完成せず、さらに大改造をおこなって、16年後の延宝5年(1677)に上棟した。
つまり、南北朝時代に方5間の規模で建立ものが、江戸寺の始めに大規模な改修を加え、今の形に生まれ変わったようです。この再建は、前身堂の両貿面および背面の各1間を取り除いたもので、柱間の変更、柱位置の入れ替え、軸部の構造の改変などをともなっています。つまり前身堂の「保守的な修理」ではなく、新たな建物に「前身堂の古材を用いた」と考えるレベルの改修規模だったようです。そのため、今の本堂は近世の建築形式・技術で建てられており、建立年代は延宝6年と専門家は考えているようです。その後、明和年間には内陣の厨子と須弥壇を改造して間口を拡大し、寛政13年(1801)には脇仏壇が増築されています。そして昭和35~37年の修理工事によって、脇仏壇が撤去されたのが現状のようです。
観音寺本堂1

 このように、この本堂は近世の建立とされますが、南北朝期の前身堂の部材を残し、改造はありますが中世の仏堂の雰囲気を残しているようです。前身堂の復原もある程度可能であり、中世における三豊地方の建築を知る上でも重要とされます。私の中で沸いてくる疑問は、もともと5間あったものを、どうして3間規模の建物に縮小したのか?です。しかし、報告書は、それには答えてくれません。ここの本堂は心地よい印象を受けます。私の中の「讃岐の霊場の本堂ベスト3」の中に入ります。ちなみに、あとの2つは本山寺・屋島寺です。
 
観音寺本堂しゃみだん
 本堂で私が注目したいのは内陣の大形厨子です。
これは、部分的に禅宗様の細部を取り入れられています。これは、本山寺本堂(国宝、1300年)と、よく似ていると修理工事報告書は指摘します。前回に述べたように、観音寺と本山寺が山号を共に七宝山と号して、不動の滝から稲積山の行場を共有する修験者の辺路ルートの拠点であったという仮説を補強する材料にもなります。
   また、本山寺に現在の本堂が姿を現したのを追いかけるように、観音寺でも方5間規模の「前身堂」が建立されていることになります。本山寺と観音寺はの関係は深かったことがうかがえます。
観音寺本堂2


 両寺の奥の院と考えられる興隆寺遺跡にのこされる大量の石塔群の作成年代は、鎌倉時代の後期から室町時代の末期に及ぶ約200年にわたるとされます。その期間が両寺が「真言密教の道場」として機能した時期なのかも知れません。そして、これらの宗教活動を支えた経済的な基盤は、観音寺の各港を拠点とする交易活動に求める事ができそうです。
観音寺太子堂
  本堂の次は・・・? 太子堂というのが常道でしょう。
【構造形式】正面3間、側面4間、一重、宝形造、向拝1間、本瓦葺
【建立年代】宝暦11年(1761年/『琴弾伽藍古録一覧』)
 大師堂は仁王門をくぐり、参道の階段を登った正面左手に、愛染堂と並んで建ちます。
太子堂ですから本尊には、弘法大師が祀られています。「各部の虹梁絵様は18世紀中期の様相を示し、宝暦11年(1761)に再興」とあります。ちなみに、太子堂については、『琴弾伽藍古録一覧』に次のような再建記録があります。
①『弘化録』に長和2年(1013)に当堂の存在が確認できること、
②弘長3年(1263)の御影堂の棟札(木札資料6-6)、
③永禄9年(1566)の御影堂建立棟札(木札資料6-4)、
④慶長2年(1597)良海の代に再建されたことが記される。
⑤慶安元年(1648)の御影堂再興棟札(木札資料5-3)、
⑥延宝4年(1676)の弘法大師堂再興棟札(木札資料5-6)、
⑦延宝5年(1677)の御影堂再興棟札(木札資料5-7)
以上の史料が残るようです。①は史料としては不確実なものですが、②以下は棟札ですから、存在した可能性が高いと考えられます。戦国末期の混乱の中でも寺が機能存続していた事がうかがえます。
太子堂の「評価」について、報告書は次のように述べます 
当初より、背後に仏壇を突出させていたと考えられ、弘法大師を祀る正堂と、その前方の礼堂という構成をとる。礼堂にあたる主屋は正方形平面の内部に内陣を設けるが、内陣が中央になく背後に寄せて外陣の空間を確保している点が特徴である。
 ただし、当初は外陣の構えをもたず、内陣の周囲は間仕切りがなく、あたかも一間四面堂のような様相であったと考えられる。内部に改修はあるものの、当初形式をほぼ留め、天井画などの装飾性が豊かな点も特徴としてあげられるだろう。なかでも、内陣二重折上格天井など高い意匠性を認められ、虹梁絵様の意匠からも18世紀中期の仏堂と評価できる。
 足元まわりが、昭和51年の土砂崩れの被害を受け、花尚岩製の方形切石を入れてかさ上げされているが、外部の構造・意匠は概ね建立当初の形式を伝えている。社蔵記録から宝暦11年(1761)の再興が明かな点も、同時代の周辺地域における建築の建立年代を考えるうえで重要な意義をもっと考える。
 うーん。読んでいると頭がくらくらしてきます。情報を受け止めるだけの準備不足を感じてしまします。もう一軒行ってみましょう。
観音寺薬師堂1

さて次に向かうのは階段の上の薬師堂です。
 この建物は、『琴弾伽藍古録一覧』には、大同2年(807)に弘法大師が建立したと記されます。続いて、慶長9年(1604)の上棟、正保4年(1647)と元文4年(1739)の再建の記事があります。さらに
「随正和上代正徳四年寺社帳二ハ 四間四方トアリ、光巌和上代宝暦四年明細帳ハ 五間四方トアリ」
との朱書が記されています。これを信じれば、正保4年再建の堂が4間四方、元文4年の堂が5間四方であったようです。現在の薬師堂は大正時代の再建です。建立に関する資料としては、仏壇の南側の脇間に棟札が置かれているようです。その棟札には「再建西金堂」、[大正三年三月二十一日]、「大工棟梁 大塚竹治」などの字句がみえ、西金堂を再建するという意味で薬師堂を新築したということだそうです。

観音寺薬師堂2
  この建物は「西金堂=薬師堂」という性格をもつようです。
 このほか、正面石階の側面羽目石のほか、正面に点在する灯篭・香立て・花立てなどの石造物にも大正3年(1914)の銘を確認できます。また大工棟梁の大塚竹治は、昭和3年(1928)におこなわれた琴弾神社本殿(寛保3年=1743建立)の第37回遷宮(修理)の大工棟梁もつとめていることが、『琴弾八幡宮昭和流記』(1989年)から分かるようです。
この薬師堂の性格を一変させるのが明治の神仏分離令です。
廃仏毀釈運動の影響を受けて琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来が、この建物に遷ってくることになります。その結果、第68番札所の神恵院の本堂として使用される事になるのです。それは、2002年に現在のコンクリートの本堂が出来るまで続きました。その役目を終えて、現在は再び薬師堂と呼ばれるようになっています。
それでは報告書の薬師堂の「評価」を見てみましょう
 薬師堂は、正方形の内陣の四周に庇をめぐらせる基本的な平面をとりながら、内陣の床や天井を上げることで、正面側を外陣、両側面を脇陣とし、背後に寄せて仏壇を設けるといった平面的な特徴を備えている。正面側まわりと内陣柱との柱筋がそろわないため、内外で柱や束の立てる位置が異なり、また大虹梁側面から挿肘木を出して天井桁を支えるといった変則的な納まりとなるところがあるが、内陣の三方を虹梁で囲い、大きな本尊に対応した高い内陣の空間などが特徴的である。全体の意匠は、和様を基調として、台輪、柱の綜、花頭窓など禅宗様の構造や細部をとりいれ、側まわりを中心に彫刻などの意匠が豊富である。とりわけ向拝周辺の虹梁絵様や彫刻などは精緻で、大瓶東に二重虹梁を挿す構造的な面を含めて薬師堂のみどころの一つである。
 また、組物は柱上だけでなく、柱間の東上や柱間にも置くなど、詰組に近い構成となっている。向拝の丸桁や仏壇正面の貫状の水平材に施された地紋彫りは珍しく、彫刻技術の高さを示している。それゆえ、隅柱の内法長押や切目長押の納まりが正統的でないのが、やや不可解である。
 棟札により、建立年代や大工が明らかである点も特徴に挙げることができる。大きな改修を受けず建立当初の姿を伝えており、近世社寺の流れをくみながらも架構などに独特な点がみられる近代の仏堂と評価できる      
   
IMG_9761
疑問が残るのは、なぜ観音寺に薬師堂があり、古仏の薬師像が祀られているかです。
ここにはこの寺のもうひとつの成立由来が隠されているようです。
薬師如来は、中世の神仏習合の時代には熊野権現の本地仏として、密教修験者達に祀られてきた仏です。本堂の一段上に建ち、境内を見守るお堂はその歴史を静に伝えるもののように私には思えます。
IMG_9764
観音寺の境内のお堂等を丁寧にお参りしました。
さて、神恵院の本堂は、薬師堂の階段を一旦下りて、観音寺の大師堂と神恵院の大師堂の間を西に進んで、さらに石段を上った所にあります。最初に、この本堂の前に立った時の違和感をいまでもおぼえています。この本堂は、2002年に鉄筋コンクリートで新築された「未来的な建物で、未来的な宗教空間」なのです。これを建てた建築家にエールを送ります。
  このお寺の歩んだ歴史については、また別の機会に
   南無大師遍照金剛
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 神恵院・観音寺調査報告書 香川県教育委員会 2019発行


観音寺・神恵院調査報告書2019.jtdcの画像
中世讃岐のある港町の復元イメージ図だそうです。
ふたつの河が分流し海に注ぎ込んでいます。その中州に走る街道沿いに集落が形成されています。引田でも宇多津でもなく・野原(高松)・松山林田でもなく、観音寺だそうです。
地図上に地名を落としてみると次のようになります。
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 家々が集中するのは、財田川の河口に浮かぶ巨大な中洲です。そして、画面手前側は急速に陸地が進み、手前の川は小さな支流(現一ノ谷川)になっていきます。人々の居住区の向こうには、財田川をはさんで琴弾山があります。これは古代からの甘南備山で、頂上には琴弾八幡宮が鎮座します。川の向こう側が聖なる地域であったようです。
 聖域の琴弾八幡には、早くから橋(原三架橋)が架かっていたようです。参道から財田川に架かる三架橋を経て、真っ直ぐに中州に伸びてくる街路が町の中心軸となっています。このセンターラインの街路と交差する道が何本か伸びて、集落化しています。
 「琴弾八幡宮放生会祭式配役記」(享徳元年(1453)には、上市・下市・今市の住人の名があり、門前市が常設化してそれぞれ集落(町場)となっていたことがうかがえます。そして放生会の祭には、住人が中心となって舞楽や神楽、大念仏などの芸能を催していたことが分かります。それだけの経済力を持った港町に成長していたようです。その背景は、瀬戸内海交易への参加です。絵図からは町場がそれぞれの港を持っている様子が分かります。(絵図の湊1~3)この港は漁港としての機能だけでなく交易港としての機能も果たしていました。
 例えば、文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、観音寺船が米・赤米・豆・蕎麦・胡麻などを積み、兵庫津を通過したことが記録されています。財田川河口の港を拠点に、活発な交易活動を展開する各港は、まとめて「観音寺」と呼ばれました。
 各町場には、中核として寺院、なかでも臨済宗派寺院が多く建ち並び、港や流通に深く関わっていたようです。注目したいのは室町期以降に増加する興昌寺・乗蓮寺・西光寺などの臨済宗聖一派の寺院です。円爾(聖一国師)を派祖とする聖一派では、京都東福寺や博多を拠点として各港町の聖一派の寺院でネットワークを築き、相互に人的交流を行っていました。観音寺が三豊屈指の港町となるなかで、こうした聖一派の寺院が創建されていったようです。
  専門家達はこのイメージ絵図のように観音寺は、琴弾八幡宮とその別当寺であった神恵院観音寺の門前町として、中世からすでに町場が形成されていたとみています。

琴弾宮絵縁起

 琴弾神社に八幡さんは、どのようにして招来されたのでしょうか。
それを語るのが「琴弾宮絵縁起(ことびきのみやええんぎ)」(重文)です。
観音寺に所蔵されるこの絵は、琴弾山周辺の景観を描いた掛幅であり、琴弾宮草創縁起の一部が絵画化されたものです。
さて、それではこの絵図を縁起と突き合わせながらみてみましょう。
  この絵図を最初に見て、これが琴弾神社を描がいたものとは思えませんでした。
琴弾山が有明海に向かって立っている姿なのでしょうが、「デフォルメ」されすぎています。研究者は
「そこには本図に社寺の縁起を絵画化する縁起絵としての側面と共に、琴弾宮一帯を浄土とみなす礼拝図としての側面も含まれている」
といいます。なるほど「琴弾宮一帯を浄土」として描いているのです。リアルではく「宗教的な色眼鏡」を通して描かれていると理解すればいいようです。
 一方でこの絵からは琴弾宮周辺の景観を意識したと要素が見て取れるといいます。例えば、井戸や巨石など指標物の位置が現在のものとほぼ一致しているようです。
琴弾宮絵縁起3
下を右から左に流れるのが財田川です。
財田川に赤い橋(三架橋?)が掛かり、参道が一直線に山頂に伸びます
頂上には本殿や数多くの建物が並び立っています
財田川には河床に張り出した赤い建物が見えます。何の用途の建物かは分かりません。
川にせり出した建物と広い広場を向かい合って、山を背に社殿が建ちます。
  簡単に言えば、両縁起文を絵図化して「説法」用に使用したのがこの「琴弾宮絵縁起」のようです。
 『四国損礼霊場記』に従って、どんな事件が起きたのかを見てみましょう
①この宮は文武天皇の御宇、大宝三年、宇佐の宮より八幡大神爰に移りたまふといへり。
其時三ケ日夜、西方の空鳴動し、黒霊をほひ、日月の光見えず。国人いかなる事にやとあやしみあへる処に、②西宮の空より白霊虹のごとくたなびき、当山にかかれり。
③この山の麗、梅腋脹の海浜に一艘の怪船が流れ着いた。中に琴の宮ありて、共宮美妙にして、嶺松に通ひはり。
④この山に上住の上人あり。名を日証といひけり。
⑤日証上入が船に近づきて
「いかなる神人にてましますや。何事にか此にいたらせ玉ふ」ととひければ、
「我はこれ八幡大菩薩なり。帝都に近づき擁護せんがために、宇佐から上り出たが、この地霊なるが故に、此にあそべり」
とのたまへり。
⑥上人又いはく
「疑惑の凡夫は異端を見ざれは信じがたし。ねがはくは愚迷の人のために、霊異をしめし給へ」と。
⑦共夜の内に海水十余町が程、緑竹の茂藪となり、又沙浜十歩余、松樹の林となれり。人皆此奇怪を感嵯せずといふ事なし。
⑧上人郡郷にとなへ、十二三歳の童児等の欲染なきもの数十人を集め、此山竹の谷より御船を峰上に引上げ斎祀して、琴弾別宮と号し奉る。御琴井に御船いまに殿内に崇め奉る。
琴弾宮絵縁起1

簡単に意訳すると・・
 天変地異の如く、黒雲が月日を隠しています。そこへ 「②西の空より白霊虹のごとくたなびき」大分の宇佐神宮から琴の宮に「③一艘の白い怪船」が流れ着きます。
⑤怪しんだ日証上人が「誰何」すると、神は「八幡大菩薩」と名乗り、「帝都に近づき擁護」するたの途上であると答えます。そこで日証上人は「凡夫は奇蹟をみないと信じられません、何か奇蹟を起こして見せてください」と云います。すると、その夜に海水に浸かっていた湿地に竹が生え、砂浜は松林に変わります。奇蹟が起きたのです。これを見て人皆、この神の尊さを知ります。
琴弾宮絵縁起2
 上人は村々を回ってお説経をし、まだ欲を知らない無垢な童見数百人を集めて、
⑧竹の谷から御舟を山上に引き揚げ祀り、これを琴弾別宮と号して祀るようになりました。この時の神舟は、今でも殿内にあり祀られています。
  ここにはもともとの地主神である琴弾神の霊山である琴弾山に、海を越えたやって来た客神の八幡神が「別宮」として祀られるようになった経緯が示されます。つまり、琴弾神と八幡神が「神神習合」して「琴弾 + 八幡」神社となっていく姿です。
 さて、この宗教的イヴェント(改革)を進めた日証上人とは何者なのでしょうか?
  日証上人についての史料はありません。
  観音寺寺の由来には次のように記します。
大宝三年(703)、法相宗の高僧日証(證)上人が琴弾山山頂に草庵を結んで修行をしていた折、宇佐神宮から八幡大菩薩が降臨され、海の彼方には神船が琴の音と共に現れた。上人は、里人と共に神船と琴を引き上げて、
①山頂に琴弾八幡宮を祀り、
②神宮寺を建立して、当山は仏法流布、
③神仏習合の霊地
と定められた。
 時は平安の世に移り、唐より帰朝された弘法大師が、大同二年(807)に当山に参籠。八幡大菩薩の御託宣を感得され、薬師如来・十二神将・聖観世音菩薩・四天王等の尊像を刻み、七堂伽藍を建立。
④山号を七宝山、寺号を観音寺と改められ、八幡宮の別当に神恵院をあてられた。大師はしばしの間、当山に留まられ第七世住職を務められたと寺伝にある。以後、
⑤真言密教の道場として寺門は隆盛を極めた。
  観音寺の設立年代や、空海伝説は脇に置いておくとして、ここからは次のような情報があります。
①②③琴弾八幡宮の別当寺神宮寺(旧観音寺)を建立し神仏習合の霊地となった。
④空海が山号を七宝山観音寺に改めた
真言密教の道場として隆盛した。
 まず山号が琴弾山ではなく七宝山であることに注目したいとおもいます。そして「真言密教の道場」だったというのです。
琴弾神社9 金毘羅参詣
 ちなみに四国霊場の本山寺も山号は七宝山です。そして、その奥の院は七宝山山中の興隆寺跡です。この伽藍跡には花崗岩製の手水鉢、宝篋印塔、庚申塔、弘法大師像や凝灰岩製の宝塔、五輪塔など石造物が点在しています。 寺の縁起や記録などから、この石塔群は修験道の修行者の行供養で祈祷する石塔であったようです。一番下の壇には不動明王(座像)の磨崖仏を中央にして、状態のいい五輪塔約30基が並びます。
琴弾八幡 金毘羅参詣名所図会 3
 つまり、ここから不動の滝、そして高室神社に架けては行場が点在する修験者にとっての聖地だったのです。本山寺が修験者の活動の拠点寺院であったように、観音寺もおなじように真言修験道の拠点であったと私は考えています。観音寺と本山寺は、行場である七宝山を共有し行者達が行き交うような関係にあったのではないでしょうか。それはひとつの「辺路修行」であり、それが四国遍路へとつながって行くのかもしれません。
琴弾八幡 金毘羅参詣名所図会 4

『讃州七宝山縁起』(徳治2年[1307])には、
「凡当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿建立精舎
とあます。ここには、弘法大師が創始した「七宝山修行」があったと記されています。そして観音寺・琴弾八幡宮を起点として、七宝山から五岳の山中に設けられた第2~5宿を巡り、我拝師山をもって結宿とする行程が描かれています。大師信仰にもとづく巡礼といっても良いかもしれませんが、これが
観音寺 → 本山寺 → 弥谷寺 → 曼荼羅寺 → 善通寺周辺の行場をめぐる修行ルート
でなかったのかと想像しています。これはもちろん現在の遍路道とは、ちがいます。
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神恵院・観音寺の成立について、今までのべてきたことをまとめておきましょう。
① 神恵院・観音寺は元々、琴弾八幡宮の別当寺として機能した神宮寺であった。
② 琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を本尊とし、神恵院は弥勒帰敬寺と称され、観音寺も、当初は神宮寺宝光院と称されていた。
③ 平安時代初期になって、神恵院とともに七宝山観音寺と改称された。
④ 財田川河口は、中世には港町として知られ「兵庫北関入船納帳」にも「観音寺」からの船舶が塩や干魚などを納めていた。この港を管理していた寺社が琴弾八幡宮であった。別当寺である神恵院・観音寺が港の庶務を管理していた。
⑤ 琴弾八幡宮や観音寺の境内には、中世の石造物である層塔や宝塔、五輪塔などが残っていて、中世・通じて琴弾八幡宮の別当寺として神恵院・観音寺が隆盛を誇っていたことをうかがわせる。
⑥このような状況は、宇多津や志度などにおいても、同じような状況が見える。
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⑦この状況は明治維新によって一変します。
 明治維新後、新政府の神仏分離政策により、神宮寺は神社から分離されます。神恵院も、琴弾八幡宮からの分離を余儀なくされ、明治4年(1871)に本尊の阿弥陀如来画像(琴弾八幡宮本地仏)を観音寺の西金堂に移し、神恵院の本尊とします。そして観音寺の西金堂を神恵院の本堂とし、ここを七宝山神恵院と称するようになります。現在の観音寺の「一境内二札所」は、こうして成立します。
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