瀬戸の島から

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十返舎一九 四国遍路表紙 200004214_0022_00001

十返舎一九の『金草蛙』第14篇には、四国辺路のことが記されています。
『金草蛙』は文政四年(1831)に初めて刊行されましたが、主人公は千久良坊と延高という2人連が白山などの各地の名所霊場を廻るさまを、その土地の方言を交えながら面白おかしく紹介する旅行記です。その中に四国辺路もあります。
十返舎一九 四国遍路 丸亀入港路
金比羅船で大坂から船で九亀に上陸 十返舎一九「金草」の挿絵

 七十八番道場寺(郷照寺)から四国辺路を始め、時計回りに巡礼し、最後は多度津の道隆寺で終えます。この本には多くの挿図があり、江戸時代の四国辺路のことが描かれています。これが絵図史料として価値を持ちます。

十返舎一九_00006 六十六部
上の絵図は、遠くの民家の屋根の間にひときわ大きな屋根を見せているのが80番の讃岐国分寺のようです。遍路道を向こうからやって来る人物が描かれていますが、特徴的な風体です。大きな笈を背負い、右手に錫杖を持ち、腹前に鉦を付け、頭には大きな天蓋のようなものを被っています。これが六十六部のようです。これだけ大きな笈を背負っているとよく目立ったでしょう。

十返舎一九_00009 六十六部
讃岐の88番大窪寺から阿波の1番霊山寺へ越えたあたりでは、甘酒屋に集まる四国遍路たちが描かれています。ここにも大きな笈を背負い、天蓋のよう帽子を被った六十六部が描かれています。

四国遍路を廻っていた六十六部とは何者なのでしょうか
 御朱印の歴史(1)御朱印の起源-六十六部 | 古今御朱印研究室

「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。
 北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。

 六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らは、次のような姿で史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖
②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者
③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、
④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、西国巡礼や四国遍路のようには、六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地が固定していませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。

 六十六部とは - コトバンク

分からないのは体系的な紙史料がないためです。
残されているのは、彼らの遺した納経帳や札、そして全国津々浦々に点在する供養塔です。特に供養塔(廻国供養塔・廻国塔)は、全国で万を超える数が残っています。その中には、願主の子孫や地域によっていまも祭祀が続けられているものもあります。しかし、大半は、路傍や堂庵の傍ら、墓地の一角で風化に耐えています。六十六部の理解するためには、これらの碑文を一つ一つ訪ねあて、語らせ、その声を書き留める作業が必要でした。
六十六部廻国供養塔 「石に聴く」宮崎県の石塔採訪記/長曽我部光義/著 押川周弘/著 本 : オンライン書店e-hon

それが、近年各地で少しずつ進められてきたようです。今回は、六十六部と四国遍路の関係を見ていくことにします。テキストは「長谷川賢二 四国辺路と六十六 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です
1六十六部の笈
六十六部の笈

徳川幕府の寺請制度のもとでは、原則的には自由な移動は禁止されました。しかし、行者は特定の会所に所属し、その支配下に入ることで、ある程度諸国を自由に巡礼する特権を得ることができていたようです。六十六部行者も、東京寛永寺、京都仁和寺、空也堂などが元締となり、その免状を得ることで廻国巡礼を行っていたようです。具体的には、六十六カ国をまわるというよりも、西国巡礼や各国の国分寺などをまわっています。中には四国遍路を廻っていた六十六部行者もいたようです。
18世紀後半以後になると、六十六カ国をすべて回り終えると結縁記念に石造供養塔を建立するようになります。この供養塔が四国遍路の霊場の境内や遍路道にもあることが、近年の調査で分かってきました。
1 札所の六十六供養塔

讃岐の霊場に残された廻国供養塔の一覧表です。
観音寺、弥谷寺、道隆寺、屋島寺、八栗寺、志度寺、大窪寺などに残されているようです。境内に記念碑を建立することが認められるには、それだけの貢献があったはずです。例えば堂舎の勧進活動です。また辺路道沿いの廻国供養塔は、廻国行者と地元の人々との間に、深い関係がなければ建てられるものではありません。四国廻国の途中で地域の人々に祈蒔や病気治癒の施しを行い、小庵などに住み着き宗教活動を行ったことも考えられます。日本の各地を廻国し、多くの情報を持つ、廻国行者の存在は四国の寺院や地域住民にとって、大きな利益を得たのかも知れません
1善通寺中世伽藍図
中世の善通寺伽藍図(一円保絵図)
 善通寺五重塔と六十六部の勧進活動
75番善通寺は、古代以来の敷地に七堂伽藍が甍を並べます。しかし、五重塔は焼け落ち、姿が消えていた期間の方が長かったようです。現在の塔は、明治35年に建立されたものですが、その前の塔は、文化元年(1804)の建立になることは以前にお話ししました。
その経緯については「善通寺大搭再興雑記」に、次のように記されています。
先是有唯円者承光歓僧正、志願而留錫伽藍西門内小庵募縁十方其疏幾度千冊以託来請人、或使令(中略)
合力州里既而所集銭穀以擬営建出貸隣人、借者未及返之債之而不獲馬、其余雖非無虚費之謗於幹事共勉也。(中略)
 唯縁所出募縁之疏至今時々自遠方還来、非無小補因記之
「唯縁(円)勧進用此序」
唯縁武州豊嶋郡浅部本村新町遍行寺弟子、号順誉、回国行者、享保十二来年二月九日始勧進事、至享保二十一甲寅年凡経十年孜々勧誘、先是勧進建豊田郡小松尾寺二王門、共事就後始当寺造塔勧進募勧有信檀越造立一箇宝塔之序
(本文は略す)
維時享保第八龍集炎卯初冬穀旦
讃陽多度郡善通寺現住沙門光歓謹誌
  意訳変換しておくと
(五重塔の再建については亨保八年(1723)、これより先に唯円が光歓僧正に勧進を願い出た。唯円は伽藍の西門の内に小庵を建てて、勧進活動を進めその募縁状を十方の参詣の人々に託し、千冊を超える勧進を得た。(中略)
   勧進で集めた銭を穀物を隣人に貸出し、借りたものが返済しても、債権回収に応じないことあった。そのため非難を受けたり虚費の謗うけ、幹事が共に弁済したこともあった。(中略)
 唯円の勧進については、遙か昔のことではあるが、五重塔の再建事業においては小さな事ではないので、あえてこれを記し残すことにする。
「唯縁(円)勧進用此序」
唯円は武州豊島郡浅部本村新町の遍行寺の弟子で、順誉と号した廻国行者で、享保12年2月9日から勧進を始め、同21年まで、およそ十年の勧進を行った。この勧進活動の前には、讃岐豊田郡の67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を行っていた。その後、善通寺の五重塔の勧進活動をはじめ、その造立の基礎を打ち立てた。
以上からは、次のようなことが分かります。
①光歓が亨保八年(1723)に「募勧有信檀越造立一箇宝塔序」を作成し、印刷したこと
②その後、唯円が伽藍の西門の内に小庵を建てて、その募縁状を十方の参詣の人々に託した
③約10年で、若干の金額も集まったが、隣人に貸出して返済に応じず、虚費の謗も受けた
④唯円は、善通寺大塔の勧進前には、67番小松尾寺の仁王門の勧進を行っていた

関東からやってきた廻国行者が小松尾寺の仁王門建立の勧進を行い、それを終えて善通寺境内に庵を造り、そこを根拠にして大塔の勧進に10年も携わったというのです。この時の五重塔が完成するのは、文化元年(1804)十月になります。計画から約80年余の月日を要したことになります。
十返舎一九 四国遍路 郷照寺
十返舎一九「金草」の挿絵 丸亀上陸

  勧進聖と土木・建設などの勧進活動の関係は?
「勧進」のスタイルは東大寺造営を成し遂げた行基に始まると云われます。彼の勧進は
「無明の闇にしずむ衆生をすくい、律令国家の苛酷な抑圧にくるしむ農民を解放する菩薩行」

であったとされます。しかし、「勧進」は見方を変えると、勧進聖の傘下にあつまる弟子の聖たちをやしなうという側面もありました。行基のもとにには、班田農民が逃亡して私度沙弥や優婆塞となった者たちや、社会から脱落した遊民などが流れ込んでいました。彼等の生きていくための術は、勧進の余剰利益にかかっていたようです。次第に大伽藍の炎上があれば、勧進聖は再興事業を請負けおった大親分(大勧進聖人)の傘下に集まってくるようになります。東大寺・苦光寺・清涼寺・長谷寺・高野山・千生寺などの勧進の例がこれを示しています。経済的視点からすると
「勧進は教化と作善に名をかりた、事業資金と教団の生活資金の獲得」
とも云えるようです。
 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。勧進聖人は、次第に建築請負業の側面を持つことになります。勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業だけでなく、寺院の堂宇の建設にも威力を発揮しました。善通寺の五重塔再興を請け負った唯縁は、建設請負集団の棟梁であり、資金集めの金融ブローカー的な側面も見えてきます。少し横道にされたようです。六十六部の勧進スタイルを追いかけます。

小松尾寺(大興寺)の仁王門横に大きな石碑が建立されていますが、そこには次のように刻まれています。
本再興仁王尊像並門修覆為廻国中供養
寛政九年己酉十月 十方施主 本願主長崎廻国大助
ここからは唯円が勧進して建立した仁王門を、約70年後の寛政元年(1789)に、長崎の廻国行者の大助が勧進修復したようです。小松尾寺の仁王門は、建立も修復も廻国行者の手によることになります。このように地方有力寺院は、堂宇の改修には勧進というスタイルを採用せざるえない状態にありました。それを取り仕切れる勧進聖は、寺院から見て有用で、使い道があったようです。
65番札所 三角寺遍路トレッキング - さぬき 里山 自然探訪&トレッキング

続いて65番 三角寺の観音堂の建立についてみてみましょう。
寛文十三年(1672)八月吉日の本堂(観音堂)建立棟札からは、次のようなことが分かります。
①発起人は山伏の「滝宮宝性院先住権大僧都法印大越家宥栄」と「奥之院(仙龍寺)の道正」
②本願は同じく「滝宮宝性院権大僧都宥園と奥之院の道珍」
③勧進は「四国万人講信濃国の宗清
④導師は地蔵院(観音寺市大野原町の萩原寺)の真尊上人
 このうちで①の「大越家」は当山派で大峰入峰三十六度の僧に与えられる位階で、出世法印に次ぐ2番目の高い位になるようです。宥栄は当山派に属する修験者たちの指導者であり、本山の醍醐寺や吉野の寺寺へ足繁く通っていたことがうかがえます。江戸時代初期の三角寺や奥の院(仙龍寺)には、それ以前にも増して山伏や勧進聖のような人物が数多くいたようです。
④の導師を勤めているのが萩原寺(観音寺市)の真尊上人であることも抑えておきたい点です。萩原寺は、雲辺寺の本寺にも当たります。ここからは、三角寺は萩原寺を通じて雲辺寺とも深いつながりがあったことがうかがえます。高野山の真言密教系の僧侶のつながりがあるようです。
十返舎一九_00010 吉野川沿い
十返舎一九「金草」の挿絵 吉野川を見下ろす

次いで貞享四(1687)年には、弥勒堂が建されます。
これは、四国における弘法大師入定信仰の拡がりを示すものだと研究者は考えているようです。弘法大師入定信仰と「同行二人」信仰は、深いつながりがあることは以前にお話ししました。
このように江戸時代初期前後の三角寺は「弘法大師信仰+念仏信仰+修験道」が混ざり合った宗教空間で、「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が活発な活動を行っていたことがうかがえます。
 気になるのは③の「四国万人講信濃国の宗清」です。
四国万人講とは、どんな組織で、活動内容はどんなことをしていたのでしょうか。四国万人講を主催する宗清なる人物は、三角寺住持の支配下で勧進など、三角寺の活動を下支えしていたしていたのではないでしょうか。勧進と称しているので、諸国を廻国して勧進を行う念仏行者のような人物と研究者は考えているようです。「四国万人講」という組織は、四国辺路の参詣者を対象にした勧進講としておきましょう。
 その後、この宗清が六十八番観音寺にも姿を見せます。
『弘化録』の延宝四年(1676)の項に、次のように記されています。
「八月に宝蔵一宇を建立した。本願は米谷四郎兵街、大工は荻田甚右衛門である。十月に再興の本願は宗清である。」

ここに出てくる宗清は年代的にみて、三角寺棟札の宗清と同一人物と研究者は考えます。三角寺の観音堂の完成後、今度は讃岐の観音寺で勧進活動をしているのです。つまり、三角寺の観音堂の完成から三年後には、観音寺に移り宝蔵を再興しています。宗清の出身は信濃国ですから、彼もやはり廻国行者の一人だと云えます。
観音寺境内図1

観音寺には、勧進僧を受けいれやすい何かがあったのでしょうか。
「弘化録』には、次のような勧進常夜灯の記録が記されています
観音尊常夜の覚
一、銀札八百五拾目なり
古は長崎より生国筑前の者、小林万治と中す者、廻国に参り、観音寺に逗留仕り候にして暫くの間、隔夜を打ち、ならびに本加なども相加え左の銀子調達仕り、観音尊へ常夜灯寄進致したき宿願に付き、有の銀子預け申したしの段申し出候に付き、観音寺八ケ村のその節の役人相談の上にて、観音寺中国川入目銀の内へ借り請けにして、毎年観音寺御用の入目所より立割五歩の利銀百弐拾七匁五歩宛油代へ払い仕り中し来し候。(以下略)
意訳変換すると
一、銀札850目なり
古くは長崎から筑前生まれの者で、小林万治と申す者が、廻国参りにやってきて、観音寺に逗留するようになった。そして、隔夜修行を行うようになり、その成就の際に奉加で得た銀子を、観音堂の常夜灯費用として寄進したい旨を申し出た。この銀子の寄進を受けて、観音寺八ケ村の代表と役人で相談した上で、観音寺中国川入目銀の内へ借り請け金として入れて、毎年観音寺御用の入目所から五歩の利子銀百弐拾七匁五歩を油代として支出することとした。(以下略)
ここからは小林万治という九州の廻国行者が六十八番観音寺に、しばらく逗留して隔夜修行など修行しながら、奉加なども加えて銀札850目を調達して、観音菩薩の常夜灯を寄進したいと申し出たことが分かります。隔夜修行とは、以前にお話ししましたが、ここでは六十六番雲辺寺と六十八番観音寺を夜間に一日ごとに念仏を唱えながら往復して修行する念仏行です。彼以外にも、観音寺に逗留しながら、この行に挑んでいた信者がいたことが他の史料からも分かります。
 小林万治という廻国行者は、 観音寺にしばらくの間、逗留して修行することが許されていたようです。そのお礼の意味もあっての銀子の寄進であったようです。
 以上のように、札所寺院には、六十六部廻国行者や念仏行者などが入り込み修行を行っていたことがわかります。観音寺と雲辺寺は、隔夜行者の修行ゲレンデであり、七宝山は修験者たちの行場でもあったのです。その行場センターを観音寺は果たしていたことになります。そのために、堂宇再興などの際には、御世話になった行者や聖達が勧進ネットワークとなって、多くの財を集めるマシーンとして機能したのでしょう。
志度寺縁起 阿一蘇生部分
志度寺縁起に描かれた志度寺

廻国行者が係わって堂字を建立した例は、86番志度寺にもみられます。
志度寺所蔵の棟札には、次のように記されています。
一、米三十穀、大旦那国主雅楽頭御内方さま教芳院殿也、本願円朝上人総州住人也、今者志度寺部屋二住也、大工ハ備前国山田村住人、藤原大工七右衛文勤之
一、讃州志度寺観音堂、本願円朝法印(花押) 迂慶長九年甲辰十月十三日、寺家衆花厳坊、常楽坊、西林坊、林蔵坊、窄円坊、教円坊為弐親成仏
一、慶長九年甲辰十月十三日志度寺観音堂本願者不思議成以縁、当寺住関東上総大台住人堅者円朝法印(花押)
意訳変換しておくと
一、米三十石、大旦那は藩主の生駒親正の奥方さま教芳院殿、本願は円朝で上総州住人である。
円朝は志度寺部屋棲、大工は備前山田村住人の藤原大工七右衛文が勤めた
一、讃州志度寺の観音堂、本願は円朝法印(花押) 慶長九年十月十三日、寺家衆は花厳坊、常楽坊、西林坊、林蔵坊、窄円坊、教円坊が参加した
一、慶長九年十月十三日志度寺観音堂 本願は不思議な縁を以て、当寺住関東上総大台住人堅者円朝法印が行う(花押)

中世には志度寺縁起の寺として隆盛を極めた志度寺も、戦国時代には疲弊していたようです。慶長期になって、ようやく、生駒氏の援助でようやく再興が始まります。その手始めとして行われたのが観音堂の再興だったようです。
①大旦那は、生駒親正の夫人
②本願は円朝法印
③寺家衆も花厳坊・常楽坊・西林坊などで、まだ塔頭寺院というには、ほど遠い小さな坊庵の段階のようです
そして本願の円朝は、関東上総国の出身で「不思議の縁をもって、志度寺の部屋に住むようになった」というのです。ここからは、志度寺には定まった住職もいないほど退転していたところに、円朝という関東の廻国僧が訪れ、何らかのの縁を得て、定着したことがうかがえます。
四国霊場の寺院ではありませんが『宇和旧記』の白花山中山寺の項には、次のように記されています。
一、慶長十一年再興、是は奥州二本松産意伯上人、六十六部廻国の時、発起の由、棟札あり、予州宇和庄多野村、白花山中山禅寺仏殿、奉再興、本願奥州二本松産意伯上人、同行重円坊、意教坊、大工者多田村七右衛門也、殊御給人衆、並大小檀那、致進一紙半銭以諸人所集功力如是成就者也、
(中略)
惟時慶長十二暦戊申一月中旬。意伯上人
(後略)
意訳変換しておくと
当寺は慶長十一年に再興された。その経緯は奥州二本松の意伯上人が、六十六部廻国で諸国回遊の際に、発起人となったことが棟札に記されている。予州宇和庄多野村、白花山中山禅寺仏殿なども、意伯上人の本願で行われ、同行重円坊、意教坊がこれを助け、大工は、多田村の七右衛門が勤めた。御給人衆は大小檀那衆で、一紙半銭の寄進で多くの信者の功力で成就した。
(中略)
惟時慶長十二暦戊申一月中旬。意伯上人
ここからは、奥州の六十六部の意伯上人が、廻国の途中で中山禅寺の再興を発起したことが分かります。同行者が二人いたようで、彼らも六十六部廻国行者で、勧進に協力したのでしょう。この例のように、志度寺の円朝法印や寺家衆の七坊も、伊予中山寺と同じように六十六部廻国行者であったと考えることもできそうです。戦国時代から50年余り経ってを経て、慶長年間頃にはこんなプロセスを経て、各地の寺院は復興されていったのかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「長谷川賢二 四国辺路と六十六 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」

    1善通寺宝物館11

 この顔を最初に見たときには、お宅は何者?という印象でした。
今も善通寺の宝物館の階段を上がった入口に、白鳳瓦と並んで迎えてくれます。善通寺の創建に関わるものなのだろうと思いましたが、仏像とは思えません。金堂などの壁面に掛けられたものかと思っていました。後になって、これが善通寺創建当初の本尊と考えられていると知って、驚いたことを思い出します。

1善通寺宝物館10

 最近改めて、この仏頭にお会いする機会がありました。改めて、拝ませていただきました。この藁荷混じりの粘土に作られた仏さまのお顔のようです。
DSC04087

専門家の見立てを見てみましょう。
 長さが36.5㎝におよぶことなどから、丈六の如来像の面部にあたると推定される。表層仕上げの中土がほとんど失われ、鼻先などを欠失する。
 しかし、稜線を隆起させて大きな弧を描く眉や、蒙古装を明瞭に刻んで上瞼を微かにうねらせつつ目尻をあげる細い目、口角を強く引き締めた唇、頬のふくらんだ顔の輪郭など、総じて整ったバランスと厳しさをしめすその顔立ちには奈良時代中頃の仏像に共通する趣が感じられる。
 奈良時代の塑像は国分寺・国分尼寺の造営などにともない全国的に展開したと推定され、断片も各地で発掘されているが、そのなかにあっても本品のような大型面部の遺存は稀であり、また正統的な作風から中央と密接な関係にあった工人の手になることが推測されるなど、当時の讃岐地方の先進性を知るうえで貴重な遺品として注目される。
 粘土で作られた奈良時代の大型仏像で、「中央の工人による正当な作風」と評されています。

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奈良時代と云うことは、空海の生まれた時代です。善通寺は、佐伯氏の氏寺として白鳳時代に創建されたとされます。奈良時代になって本尊として作られ安置されたものということが考えられます。
この「如来系頭部」について、後世の史料が、どう伝えているのかを見てみましょう。

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 江戸時代の元禄九年(1696)の『霊仏宝物目録』には、善通寺の宝物一覧リストです。その一番最初に次のように記されています。
  土彿薬師如来 
四階金堂之本尊 則弘法大師自作而丈六之尊像也」

ここからは
①如来系頭部が土仏と呼ばれ薬師如来で
②金堂の本尊で
③弘法大師作の丈六尊像
と伝わっていたことが分かります。
 13世紀の道範の『南海流浪記』 から分かることは?   
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高野山の寺務を掌る執行という地位にあった道範は、金剛峯寺と大伝法院との間で起きた紛争の責任を取らされて、讃岐に流されました。仁治四年(1243)正月のことです。彼が建長元年(1249)五月に赦されて高野山に帰るまで六年間の讃岐生活を綴った『南海流浪記』は鎌倉中期の讃岐の様子を知る好資料です。道範は守護所のあった宇多津の橘藤左衛門高能という御家人のところに預けられましたが、行動はある程度自由だったようで、3月には高野山の開祖空海の誕生地善通寺を訪れています。
 道範が見た善通寺は、創建当時の堂舎・宝塔などの多くは失なわれて礎石だけになっていたようです。
しかし創建時の金堂は残っていました。この金堂は二階七間で、空海が学んだ唐の青竜寺を模して、二階に少し引き入れて裳階(建物の軒下壁面に造られた廂様の差掛)があるので、四階の大伽藍のように見えたと次のように記しています。
「御作ノ丈六ノ薬師三尊四天王像イマス。皆埋(握)佛ナリ。後ノ壁二又薬師三尊半出二埋作ラレタリ」

ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師御作の丈六の薬師三尊と四天王が安置されていたこと
②これらはみな埋仏(提仏の誤りで、粘土で作った塑像のこと)だったこと
③うしろの壁にも薬師三尊が浮彫(埋作)されていたこと

当時の善通寺金堂は、どんな姿をしていたのでしょうか。
  それをうかがわせてくれるのが道範が去ってから約半世紀後の徳治2年(1307年)に製作された「善通寺ー円保差図」です。ここには善通寺周辺の寺領(一円保)と条里制・灌漑用水などが書き込まれています。
金倉川 10壱岐湧水

東院と西院を拡大して見ましょう
1善通寺一円保

14世紀初めの善通寺には、4階建てに見える本堂を中心に、多くの堂宇が立ち並んでいたことが分かります。
  中央のAが金堂のようです。
道範は、次のように証言しています。
「二階七間也、青龍寺の金堂ヲ被摸タルトテ、二階二今少々引入リテ層あるが故二、打見レハ、四階大伽藍也、是ハ大師御建立、千今現在セリ」

と証言しています。青龍寺は、唐密教を空海に授けた恩師の寺の名です。それを模したお寺だといいます。そうすると、善通寺は8世紀末に建立された白鳳期の寺院とされているので、この建物は創建時ものではないことになります。「空海建立」とすれば、その後の9世紀に空海が再建・修造したことになります。
  金堂の左下にあるのがBが。宝塔か法華堂のようです
「本法花堂卜云フ、大師御建立二重ノ宝塔現存ス、本五間、令修理之間、加前広廂一間ヲ云々」
とあります。
宝塔の左下はC護摩堂で、道範の時代には「破壊」していたとあります。ここに記されているのでその後に再建されたのでしょう。
宝塔の左上、金堂の横にあるのがDが御影堂。
金堂の下にあるのはE講堂、
右下はF常行堂のようで、
「七間ノ講堂ハ、破壊シテ後、今新タニ造営」
「五間常行堂御作ノ釈迦ノ像イマス、同ジク新二造立」

と記されています。
境内を示す四角枠の上辺中央のGが南大門でしょう。
そばには大きな松が描かれています。道範はこれを
「其門ノ東脇二、古大松、寺僧云、昔西行、此松ノ下二七日七夜籠居」

と書き残してくれています。西行は、当時の知識人の憧れる人物でした。西行と関係のある所は、「聖地」扱いされていました。西行は、崇徳上皇の御霊をともらうために讃岐白峰寺に、仁安二年(1167)にやってきます。その後は、空海の生誕地である善通寺の背後の霊山である我拝師山近くに三年間逗留します。空海が捨身行を行った行場で修行を行ったようです。『山家集』にも我拝師山・筆の山に登ったこと、伽藍四門の額が破壊されて心細かったことなどが書かれています。西行は、歌人として有名になりますが、高野の念仏聖でもあったことをうかがわせてくれます。
伽藍から誕生院(西院)にむけて二本の直線が描かれています。
「金堂の西に一ノ直路有り、 一町七丈許りなり」

と書かれたこの道を進むと、板葺の唐門に正面の築地塀、三方柴垣の誕生所に至ります。中央の建物は、建長元年(1249)建立の道範自身か導師となって鎮壇法を修した御影堂のようです。この年に、道範は許されて高野山に帰っていきます。
善通寺一円保絵図 伽藍拡大図jpg

一円補差し図をもう一度見てみましょう。金堂の上には、縦に二つ点線の四角が見えます。
金堂すぐ上のものには真ん中に小さな丸があります。これが塔の心礎のようです。
『平安遺文』に延久二年(1070)に、大風のため転倒したと記される五重塔跡のようです。だと研究者は考えているようです。こうしてみると、善通寺の伽藍配置は四天王寺式だったようです。
 さらによく見ると、金堂の右手鐘楼のすぐ右に、やはり点線の四角があります。これも西塔跡ではないかと研究者は指摘します。鎌倉末期の善通寺文書に「両基の塔婆顛倒せしむるによって……」とあります。ここからは「両基の塔婆=ふたつの塔」があったことがうかがえます。
この一円補差し図は、いろいろなことを教えてくれます。

その後の善通寺は、永禄元年(1558)の阿波の三好実休の天霧城攻防戦も際に、本堂は焼け落ちたと伝えられます。
この「土仏(埋仏)」の裏面には、火中痕跡が残っています。善通寺の金堂基壇の南側からは奈良時代中葉以前の瓦が大量に出土しています。「南海流浪記」に記される「金堂後壁に半出の薬師三尊」が、現在の宝物館に展示されている「如来系頭部」と研究者は考えているようです。

今までのことをまとめておきましょう。
①白鳳時代に条里制に沿う形で善通寺は、佐伯氏によって建立された
②奈良時代に本堂には塑像の丈六薬師如来像が安置された
③鎌倉時代にやってきた道範は、それを見ている
④戦国時代の阿波三好氏の天霧城攻防戦の撤退時に本堂は焼け落ち、頭部だけが残った
⑤江戸時代には、仏頭は創建時の薬師如来のものであると伝えられてきた。
ここからは、この仏塔が善通寺創建時からの本尊釈如来像である可能性が強いことが分かります。そうだとすると、空海は幼い日からこの薬師如来を身近に見てきたことになります。もちろん現在の姿とは大きく異なっていたものでしょうが・・・。
 そして、この薬師さまは、幼い日の空海の見守っていたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 寺や神社の文化財を調査する時に、役に立つのが「宝物目録」のようです。今ある宝物と、過去に「宝物目録」のリストに挙げられたものを比べれば、その目録が作られた時に、どんな文化財があったか分かります。そして、うまくいけば宝物がどのような場所に安置されていたのかも分かります。さらに、それがどんな由来で、伝来したのかも見ることができます。寺社調査の「有力史料」が、宝物目録と云われる所以です。今回は、善通寺の宝物リストを見ていきましょう。
   テキストは 渋谷 啓一 「 善通寺出開帳記録から見る「宝物」の形成  」 香川県歴博調査報告書2009年  です。

第11回先達車遍路 in 善通寺♪ : 四国八十八ヶ所お遍路日記
瞬目大師

 善通寺にはいくつかの寺宝目録があるようです。
その多くは、寺の縁起や由緒を語る『多度郡屏風浦善通寺之記』などと同じ木箱に納められています。なかでもいちばん規模の大きな目録は近代、大正五(1916)年に作成された目録で、動産登録的な意味合いがあるようです。これを見ると、善通寺が所有する当時の宝物・文化財が一目で分かります。
 一方、江戸時代に作成された寺宝目録としては、ご開帳の時に出品した宝物を載せたものがあります。
 今回とりあげる寺宝目録は、
①元禄九年(1696)の「霊仏宝物之目録」
②宝暦九年(1759)の「霊像宝物目録」
のふたつです。①を元禄版、②を宝暦版としておきます。どちらも出開帳の時の目録ですので、当時の善通寺の宝物の全部を含んでいるとは限りません。しかし、それだけに選りすぐれの宝物たちが選ばれています。それを見ることによって、当時の善通寺当局の自らの宝物への意識がうかがえるというのが研究者の思惑です。
目録を見る前に、善通寺の出開帳の様子と、再建への動きを見ておくことにしましょう
 江戸時代になり天下泰平の世の中になり、戦国の時代が遠くなる17世紀半ばになると江戸や大坂、京都などで各寺院の秘仏を公開する出開帳が盛んに行われるようになります。
 その目的は、都市の住人の参詣を催し、収益をあげることでした。寺院の中には、戦乱の中で伽藍を失った所が数多くありました。しかし、寺領を失った寺院は経済的困窮から伽藍再建が進まなかったようです。そんな中で、次のような有力寺院が開帳による復興費用工面という手法を取り始めます。
東日本大震災復幸支縁「信州善光寺出開帳両国回向院」(平成25年4月27 ...
延宝四年(1676) 石山寺が、江戸で行った出開帳
元禄五年(1692) 善光寺の出開帳
元禄七年(1693) 法隆寺の江戸出開帳
 法隆寺は聖徳太子信仰の中心地で、この出開帳でも聖徳太子信仰を中心に出品宝物が選ばれ、多くの信者が訪れ、期待してた以上の収益をあげ、堂宇復興に成功します。このような動きを見て、善通寺も動き始めます。
回向院 出開帳
         「江戸名所図会」の回向院開帳の様子
 中世以来、聖徳太子信仰と弘法大師信仰は「太子信仰」として一連のもののように広まっていました。法隆寺の出開帳が聖徳太子なら、善通寺は「弘法大師誕生の地」として、弘法大師信仰を目玉に据えます。今まで進まなかった金堂復興資金を、江戸や上方での出開帳でまかなおうとしたのです。
情報紙「有鄰」560号|出版物|有隣堂 - Part 2
元禄の出開帳のスケジュールは次の通りです。
①元禄 9(1696)年に江戸で行われ、
②元禄10(1697)年3月1日 ~ 22日まで
          善通寺での居開帳、
③同年11月23日~12月9日まで上方、
④元禄11年(1698)4月21日~ 7月まで 京都
⑤元禄13年(1700)2月上旬 ~ 5月8日まで
          播州網干(丸亀藩飛地)
以上のように3年間にわたり5ヶ所で開かれています。
 結果は大成功で、この収益により工事中の金堂復興は順調に進み、元禄13年には、京都の仏師に依頼した本尊薬師如来坐像が納められ、15年6月には完成の結縁潅頂が執り行われ9月に結願しています。寺領からの収入だけでは、再建は難しかったはずです。元禄の本堂再建は、出開帳という都市住民の信仰心と寄進に支えられて、とんとん拍子に成就したたようです。

 さて、残る課題は五重塔です。
 再建の動きは、金堂が復興した直後から始まりますが、今度は順調には進みません。その動きは「善通寺大塔再興雑記」に、詳しく記されています。最初、住職の光胤は多宝塔での再建を目指したようです。それが三重塔に変更され、光国が住職になると五重塔での再建計画にグレードアップされていきます。そのため当初予定した建設資金よりも大幅にふくれあがります。
 そのような中で宝暦12年(1762)に、桃園天皇から五重塔再建にむけての許可が下ります。再建工事は進み、天明八年(1788)に上棟、文化元年(1804)に入仏供養をおこない完成という形で進みます。
この五重塔の再建でも、善通寺は出開帳をおこなっています。
①元文5(1740)年 江戸・京・大坂での出開帳
②宝暦5(1755)年 善通寺での開帳
②宝暦6(1756)年 網子での出開帳
  多くの人々が住む都市へ出かけていって開催される出開帳は、いろいろなリスクをともないます。宝物輸送や管理・警護、開催準備、など、ややもすれば出費がかさみ、時には赤字に終わる場合もあったようです。出開帳の場合、成功(=教線拡大と収益確保)するためには、多くの人々が共鳴し賛同してくれるような「大義名分」が必要です。そのためには開帳趣旨をはっきりとさせて、そのねらいにあった出品宝物を選ぶことが求められます。
高野山・奥之院(その6)・・・大師入定信仰: 倫敦巴里

 善通寺の場合は、弘法大師信仰が売りです。

弘法大師空海が誕生した善通寺の復興が趣旨です。具体的には第一期は金堂の復興、第二期は五重塔復興ということになるのでしょう。そのためには「弘法大師空身誕生の地にふさわしい出品リスト」が必要になります。具体的に云えば、次のようなものが宝物(展示品)が欲しいところです。
①空海幼少期の姿
②父母の姿
③幼少期の事績にまつわる霊宝
④誕生地ゆえの信仰資料(後世の優れた作品など)
 つまり、このようなねらいのもとに、どんな宝物がそろえられたのか、そこに善通寺当局の主張や意識が見えてくると研究者は考えているようです。

残された「元禄目録」のデザインを見てみましょう

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 寸法は、縦約30㎝ 横172㎝の折本装で、表紙には紺紙を用い銀で秋草が描かれています。表紙中央やや上に標題「霊仏宝物之目録」を打ちつけています。本文の料紙は雲母入りの紙が使われます。
 首題は
「讃岐国多度郡屏風浦五岳山善通寺誕生院霊仏宝物之目録」、

末尾に「此目録之通、於江戸開帳以前桂昌院様御照覧之分 如右」とあります。
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ここから元禄九年(1696)の江戸出開帳の際に、桂昌院の御覧に際し作成された目録のようです。
うだ記紀・万葉/桂昌院
桂昌院(家光側室で、5代将軍・綱吉の生母で、大奥の実権者

 桂昌院に見てもらうために料紙を切り継いで、出開帳出品についても吟味が十分なされたことがうかがえます。料紙に薄墨の界線がひかれ、36件の宝物が記され、それぞれの宝物についての注記(作者・由来・形状品質など)が書かれています。
 次に宝暦目録をみてみましょう。
 こちらは善通寺の手控えとして書き出されたものです。
表紙には標題が「善通寺誕生院霊像宝物之記」と墨書されています。
冒頭は「勅願所讃岐国屏風浦五岳山功位大領佐伯善通之寺 御誕生院霊一宝警目録」と書かれています。裏表紙見返り部分に。次のように記されます。
「右九番之縁起ハ、宝暦六子年於播州網干津ノ宮開帳ノ時、筆記シテ示之。
 宝暦五亥年於寺門開帳之時ハ十四番トセリ。木像大師護摩堂並毘沙門・吉祥天・渡唐天神右五ヶ所二分ツ故ナリ。散失センコトヲ恐レテ令浄書之一帖トスルナリ
 宝暦九己卯年十月 日 権僧正光国識
            右筆 宇佐宮僧真境
別表に掲げた四十六件の宝物を、1番から9番までのグループ(輸送時の収納櫃のグループ)ごとに記し、注記を宝物名称の後に付けています。第三番のグループの末尾には
「各々善通寺奥院七種宝物なり」
とあり、初めて「七種宝物」という呼び方が登場します。善通寺にとって重要な意味をもつ宝物という意味なのか、いくつかの宝物名の右上に墨色の「○」印が記されています。

 掲載されている宝物リストについてみてみましょう。
善通寺宝物リスト
左側の元禄目録は、
1~6までは彫刻
7~18までは書画
19に「稚児大師像」があるものの
20~24は工芸品、
25~34は経典(書跡)
35・36は古文書・絵図
と全部で36です。それがジャンル別に区分されて並べられています。各ジャンル内では「大師作」と伝わるものをまず最初に持ってきて、その後の配列は年代順です。
 彫刻については、幼少期の空海像・空海の請来品を、メイン宝物と考えていたようです。この目録からは、ジャンル別に配列されたはいますが、誕生地にまつわる「大師作」ものを選定の第一基準としてリストアップしていたことが分かります。
 選出と配列論理は、この目録の提出先である桂昌院に、出開帳趣旨に賛同してもらうためのものだったのでしょう。出開帳の趣旨に一番近い論理構成が、このリストだと善通寺側は考えていたのでしょう。
 次に、約半世紀後の宝暦目録をみてみましょう。
 宝暦目録は奥書にあるように網干の出開帳時の梱包リストです。
一番から九番までのグループに分けて、箱に詰められたようです。そのため、内容面よりも形状面など櫃への収納が優先されての配列になっているようです。結果といて、配列論理から出開帳の趣旨を探るのは難しいと研究者は考えているようです。
 しかし、第二番に「瞬目大師」(10)、第三番(11~19)には、中世文書や、一字一仏法華経序品をはじめとする「七種宝物」が配置されています。第四番には両親像(20・21)が続いており、内容面でみてみると、このI群が「誕生地」善通寺出開帳の主軸になるようです。
 また、先に述べた「○」印の宝物は、10・14・15・16・17・18・37・42・43で、
①出開帳の主軸となる一群
②後半に配置された善通寺創建時の資料
③中世の盛時を物語る資料(亀山院の寄進と伝える紺紙金泥法華経)
になります。元禄期の第一基準であった「大師作」の宝物は、振り分けられており、重要度の基準が変わってきたようです。
 両者のリストをつき合わせて、元禄期になかったものが、宝暦期には選ばれた宝物を研究者は探します。
そして、20・21の「讃岐守佐伯善通公御影」と「阿刀氏御影」の空海の両親像に注目します。このふたつの像は、明和八年(1771)の銘をもつ厨子に入れられて、現在まで保管されてきました。この保管用厨子は、宝暦期の開帳後に作られたもののようです。像については、制作年代は作風から江戸時代前半期のものとされます。ちょうど五重塔建立のための第二期出開帳が行われていた時期と重なります
。前回にはなかった両親の像は、第二期の出開帳のために作られたようです。「空海誕生の地」にとって、幼少期の空海の姿とともに、両親の姿も必要と考えるようになったのでしょう。「弘法大師誕生所」を強調するためのアイテムのひとつともいえます。
一字一仏法華経序品
 一字一仏法華経序品

次に研究者が注目するのは「七種宝物」という言葉の登場です。
 現在の弘法大師空海ゆかりの「七種霊宝」は、
①一字一仏法華経序品
②金銅錫杖頭(いずれも国宝指定)
③仏舎利
④袈裟
⑤水瓶
⑥鉢
⑦泥塔
の七件だそうです。ところが宝暦目録の「七種宝物」と、現在のものとはちがうっているものがあるようです。⑥の鉢はリストになく、幼少期の空海が作ったといわれる⑦泥塔は、両目録ともに、他の「七種宝物」から離れて配置されています。ここからは「七種宝物」は、江戸時代にはまだ特定化していなかったと研究者は考えているようです。
金銅錫杖頭2
 宝暦の第二期出開帳にあたり、江戸や上方の都市住民に「弘法大師誕地」をアピールするためのプロモート戦略として「七種宝物」という概念が新たに作り出されたのかもしれません。それは、瞬目大師に続く新しいアピールポイントになっていきます。
金銅錫杖頭

 以上をまとめておくと
①善通寺では、17世紀末から金堂と五重塔の復興が課題となった。
②そのための建設資金集めのために、出開帳という新手法がとられた③出開帳には、目玉となる宝物が必要となった。
④そのため出開帳の趣旨に合う「宝物」が「創」られ、エピソードが付けられていった
⑤それが空海の父母の像であり、「七種宝物」という概念だった
そういう目で見ると、善通寺が次の二つを主張するようになるのも、江戸時代の後半からだった事に気がつきます
①父善通のために空海が建立した寺が善通寺
②空海の母は、玉依御前
 これも出開帳のアピールの中で生まれ、高揚した意識かもしれないと思うようになりました。
参考文献
渋谷啓一 善通寺出開帳目録から見る「宝物」の形成 
    香川県歴史博物館調査研究報告第三巻2007年

     
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 古代善通寺王国の中心であった旧練兵場遺跡の背後にピラミダカルな美しい山容で立つのが香色山です。古代の人々は、この山と背後に重なる五つの峰を五岳(ごがく)山と呼び聖域として見てきたようです。「香色山遺跡群調査」では、この山頂に弥生時代後期の集団墓と平安時代の経塚群が報告されています。
今回は古代末期(11世紀後半)の経塚について見ていこうと思います。
 善通寺の駐車場の後から整備された遊歩道を15分も登れば、山頂に立つことができます。展望は素晴らしく善通寺の東西の伽藍や、その向こうに真っ直ぐに讃岐富士に向かって伸びていく条里制の跡の道路が見えます。戦前は、11師団が丸見えなので「軍事機密」防衛のために一般人は、この頂上には立つことが許されなかったと言われますが、それが納得できる展望です。

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山頂は木が茂っていないために、風や雨による土砂の流れ出し、至る所に岩盤が露出しています。そして「聖地」らしくいろいろな石造物が建てられています。例えば、空海の生家・佐伯氏の祖廟碑もあります。これも興味深いのですが、今回は素通りして、不動明王と愛染金剛王に目を向けます。
この二明王の後の石碑には次のような内容が刻まれています。
「再埋経画之銘併序(再び経画を痙(埋)めるの銘並びに序)として、「寛政壬子(1792)二月にこの地を掘削した際に、経石の中から嚢に納められた銀製経画三点が偶然発見された。嚢が壊れていたものは経画も傷んでいたが、賓が無事なものは経画も完全に残されていた。その大きさは径三寸(約9cm)・長さ一尺(約30cm)である。同年六月に再び同じ場所に埋め戻し、像(二明王像)をこの上に安置した。」
と刻まれ、碑銘奥書きには
「寛政壬子秋九月・誕生院権僧正寛充誌」
とあります。

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 ここからは江戸時代にここから「経塚」らしきものがすでに「出土」していたこと、それを誕生院の僧正が埋め戻し、その上にこの二つ明王様を建てたことが分かります。平成8年になって、土砂の流出で激しくなり遺跡の状態が危惧されたために発掘調査が行われました。その結果、4つの経塚が出土しました。
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経塚とは仏教における末法思想による危機感から、仏教経典を後世に伝え残すことを目的に、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した遺跡です。見晴らしの良い丘陵上や神社仏閣など聖地とされる場所に造られるので、そのような場所では数多くの経塚が群集して発見されることも少なくありません。この近くでは、まんのう町の金剛院で数多くの経塚(鎌倉)が発掘されています。

2公式山
善通寺の西に連なる五岳山 一番手前が香色山
 この調査で4つの経塚が山頂で確認されました。
そのうちの一号経塚は四角い立派な石郭を造り、その内部を上下二段に仕切り、下の石郭には十二世紀前半の経筒が納められていて、上の石郭からは十二世紀中頃から後半代の銅鏡や青白磁の皿が出土しました。調査の結果、この経塚は善通寺の関係者が平安時代の後半頃に造営したもので、下の石郭に経筒や副納品を埋納した後、子孫のために上部に空間を残し、数十年後にその子孫が新たにその上部石郭に経筒や副納品を埋納した「二世代型の経塚」であると研究者は考えているようです。こんな上下2段スタイルは全国初のようです。
 1号経塚は上下2段構造が珍しいだけでなく、下の石郭から出土した銅製経筒は作りが丁寧で、鉦の精巧さなどから国内屈指の銅板製経筒と高く評価されています。ちなみに上の段は、盗掘されていました。しかし、下の段には盗掘者は気がつかなかったようです。そこで貴重な副葬品が数多く出てきたようです。
2公式山3
香色山1号経塚
調査報告書には副葬品について、次のように記します
経筒  
経筒には銅を鋳製して作る銅鋳製経筒と、銅板を丸めて作る鋼板製経筒の2種類がある。今回発見された経筒は鋼板製経筒の典型的な例であるとともに、銅鋳製経筒と比べて小形のものの多い鋼板製経筒の中にあって、銅板の厚いこと・作りの丁寧なこと・紐の精巧なことなど、屈指の鋼板製経筒と言うことができる。
なかでも鉦の精巧さは注目に値する。一般的には、銅鋳製・鋼板製を問わず、宝珠形の鉦が付くが、本経筒例では、宝珠の下に受花と反花を置く本格的な宝珠鉦となる。これは時代の古さを示すとともに、この後に四国の経塚に流行する火災宝珠鉦経筒の先駆けをなすものとして注目される。
太刀  
経塚の副納品にはしばしば刀剣類を見ることができる。
その多くは刃渡り30cm以下の短刀である。今回も短刀はたくさん発見されているが、中に太刀が含まれている。経塚からの太刀の出土はきわめてまれで、今までに岡山県小山経塚、広島県宮地川経塚、兵庫県江ノ上経塚と出土地不明の奈良博所蔵品の4例が知られるだけである。瀬戸内沿岸の経塚に特徴的な副納品であることが知られるとともに、四国では初めての出土例となる。
  いずれの出土例にあってもU字形に折り曲げられていることが注目される。
副納品の構成  
一般的な経塚の副納品としては、鏡・合子・銭貨などが知られる。ところがこの香色山経塚の下部石郭においては、鉄製の太刀と短刀だけという特殊なあり方が注目される。副納品用と思われる副郭内にも短刀が重なって置かれるのみであった。他に有機質の副納品のあった可能性は考慮しなければいけないが、太刀の出土も見られるところから、利器に重点を置いた副納品構成が伺われる。あるいは願主なり檀越なりの在俗者の性格に関わる特殊性と考えることもできる。

  報告書は
①  経筒の精巧さを指摘し「屈指の鋼板製経筒」とします
② 副葬品に太刀があったこと、それも折り曲げられれていること 
③ 以上から有力な願主の存在がうかがえるとする。
 
2公式山2
香色山山頂に、このような経塚を造った時代は?
 古代善通寺には創建当時、四町四方の境内に金堂や大塔、講堂、法華堂、西塔、護摩堂その他、四十九の僧房があったといわれています。ところが十一世紀末頃になると、前回にお話ししたように
①本寺の京都東寺による収奪
②讃岐国衛による負担強化
で、善通寺は圧迫を受けるようになり、それまでの繁栄に大きく影が差すようになりました。
 天永三(1112)年)、善通寺の門外不出の太鼓一面が国衛によって会料の名目で押収されてしまいます。この時に善通寺所司が本寺の京都東寺に宛てた報告の最後には
「世は已に末世に及び、仏法凌遅すと雖も、大師の御遺跡法燈の光未だ消えず」
と記しています。この後、寺は土地や農民に対する支配力を失って行きます。やがて貴族の世から武家政権に支配権が移つり、古代の秩序が崩れていき、その上に立っていた古代寺院は衰退していくことになります。
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この経塚群は、この混乱期にあたる平安時代後期に造られているようです。
作られた場所が香色山山頂という古代以来の「一等聖域」という歴史的環境から、
「弘法大師の末裔である佐伯一族と真言宗総本山善通寺が関わったものであることは疑いない。」
と研究者は記します。
  この時期は、善通寺周辺に勢力を置いていた佐伯一族や善通寺の僧侶達にとっては、先ほど見たように悲憤な状態にありました。この社会的な混乱を1052年から末世が始まるとされる「末法思想の現実化」としてとらえる僧侶や貴族は多かったようです。
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 経典を写し、経筒や外容器を求め、副納品を集めて香色山山頂に経塚を築いた集団の当時の心情は、悲しみや怒り、或いは諦念で満たされていたのかも知れません。もしかしたら仏教教典を弥勒出世の世にまで伝えるという目的よりも、自分たちの支配権を取り戻すことを願う現世利益的祈願の方が強かったのかもしれません。この山に登って来て、自らの書写した経典を経塚に埋めた人々の思いはどんな物であったのか。未来のために、あるいは現世のために聖地である香色山山頂に経塚を造り続けたのでは、そんな時代背景があるようです。
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参考文献 香色山経塚 調査報告書
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「空海=多度津白方誕生説」は誰によって語られ始めたのか?

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多度津白方の海岸寺奥の院
 
空海は、善通寺の誕生院で生まれたと信じられています。
誕生院は佐伯氏の旧邸宅とされ、誕生時に産湯を使ったという池も境内にあります。(なお、父が善通であったというのは俗説で、資料的には確認されていません)
 ところが、この正統的なる弘法大師伝に対して、空海が多度津白方の屏風が浦で生まれ、父をとうしん太夫、母をあこや御前とするなど、まったく異なる伝記があります。「空海=多度津白方生誕説」を説く伝記は、以下のようなものがあります。
 『説経かるかや』「高野の巻」
 『弘法大師御伝記』善通寺所蔵版
  『南無弘法大師縁起』
  
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「空海=多度津白方生誕説」縁起は、いつころ制作されたのでしょうか。

 一つは、はじめに縁起の成立があり、その後に白方屏風が浦の各社寺が縁起に沿って、弘法大師誕生地説を作りあげたという縁起先行説が考えられます。
もう一つは白方屏風ガ浦の各社寺にあった誕生説を集めて縁起が成立した縁起後行説です。
しかし、本縁起には白方屏風ガ浦の海岸寺等の寺院名がまったく見えません。このことから「空海=多度津白方生誕説」の縁起本が産まれた後、白方の各寺社が既成事実を作り出していった縁起先行説の方が有力です。

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 この縁起がいつ成立したかについては、その中に讃岐守護代で天霧城主の香川氏が秀吉軍の侵入で天霧城が落城した後に、元結いを切って辺路に出たという記事がありますので、永禄二年(一五五九)以降であることは間違いありません。
 次に下限をみます。澄禅の『四国逞路日記』の中に、空海の父母とされる「とうしん大夫夫婦」の石像が弥谷寺にあったと記されてます。つまり澄禅が辺路した時には、すでに「空海=多度津白方生誕説」が札所間(弥谷寺周辺か)に定着していたのです。そして、彼は「空海=善通寺誕生説」には何も触れていません。このことから本縁起の成立は、澄禅『四国逞路日記』の承応2年(1653)よりも、かなり古いと考えられます。
「空海=多度津白方生誕説」が世に広がり、白方の大善坊が仏母院へと寺名変更するのが寛永十五年(1638)であることが目安となります。白方の仏母院の御胞衣塚の五輪塔は、大師誕生地を積極的にアッピールするために建立されたとみられますが、その形状から判断して江戸初期ころのものとされています。近世における創作なのです。
以上から縁起先行説に立って、本縁起の成立を永禄11年
(1559)から寛永年間(1614~1644)と考えます。
 この時期、古くから大師誕生地として広く認められていた善通寺は、永禄元年(1558)の兵火で金堂も五重塔も燃え落ちます。江戸時代になって生駒氏が援助の手を差しのべるまで、約80年間は衰退を余儀なくされていたようです。本縁起は、ちょうどこれを狙うようにして「空海=多度津白方生誕説」が生まれ、広げられていくのです。逆に見ると当時の善通寺は、これらの動きを止めることも出来ないほど活動力を失い、荒廃していたのかもしれません。
 なお、先日アップした記事で示したとおり寛永十一年(一六三四)の「善通寺西院内之図」には、生駒親正が寄進した御影堂と三代藩主正俊の正室・円智院が建立した御影堂が描かれており、このころから善通寺の復興が始まります。
この縁起はどこで作られたのでしょうか。
本縁起の舞台は讃岐白方屏風が浦近辺です。しかし、縁起の中に具体的な寺社の名称は善通寺以外、まったく出てきません。ただ状況証拠から、いくつかの候補となる寺社が浮かび上がってきます。
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 まず、天霧山の向こう側の弥谷寺です。

澄禅『四国逞路日記』を見てみましょう。
澄禅は、ここで本縁起の登場人物の「とうしん太夫とあこや御前」つまり、空海の父母の石像を拝んでいるのです。つまり、その時には、
空海の両親として「とうしん太夫とあこや御前」説がここでは流布されていたようです。澄禅は、讃岐守護代の香川氏の居城・天霧城の傍らを通って海岸寺に降り、そこでは空海が幼少のころに遊んだという浜を過ぎて仏母院に至っています。
 この時期は仏母院は大師誕生地として備前・但馬あたりでも、すでに広く信じられていました。ここで御影堂を開帳してもらい、空海十歳の像を拝し、寺僧から霊験あらたかなる説法を聞いたのです。さらに空海の氏神と伝える熊手八幡も参拝しています。
澄禅の時代には、空海の誕生の地はまさに多度津白方だったのです。

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そして善通寺の存在もあなどれません。

灰塵に帰した善通寺とはいえ、いくつかの小堂は火災を免れていたはずです。そして、そこには本縁起に係わってもよさそうな人物(念仏聖など)が寄居していたことが考えられます。しかし、資料はありません。あくまで憶測です。
 本縁起の「白方屏風ガ浦」という地名から、この地域の社寺を見てみましたが、これらの社寺は本縁起に洽った寺伝を持っており、この辺りとの関連が濃厚に感じられます。ただ本縁起には、これらの社寺は善通寺以外まったく記されていないことは何度も触れた通りです。それは、本縁起成立後に、各社寺で大師伝説を作り上げたと考えられるからです。言い換えれば、本縁起が高野山で創作されたとしても不思議ではないわけです。制作地を特定するのは難しいようです。
誰が「空海=多度津白方生誕説」の縁起を書いたのでしょうか。
 さてもう一度本縁起をみてみます。
前半部の中山寺や徳道上人からは、西国三十三所と関係が見えてきます。後半部には阿弥陀信仰、極楽往生思想が濃厚にみられ、念仏に関係するものです。そして高野山に参詣することや都率(弥勒)来迎のことも記されるなど高野山に関する記述がみられます。そこには高野山に係る念仏聖の存在が浮かび上がってきます。

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では高野山との関係が見いだせるのは、先に見た寺社の中でどこでしょうか。
高野山から移ってきた住職の存在や水祭りの行事が行われるという弥谷寺が、まず浮かびます。また海岸寺所蔵の棟札をみれば、弥谷寺と海岸寺は密接な関係を有していたようです。海岸寺の大師堂は天正二十年(1592)には建立されていて、新たな大師信仰を創り出していく充分な要素が当時の海岸寺にはあったと思います。また仏母院には寛文十三年(1673)の念仏講の石碑があり、それ以前の念仏行者の存在がうかがえます。
 以上の「状況証拠」から、本縁起に係わったのは白方周辺に関りを持ち、しかも高野山との関係を有する念仏系の僧が浮かび上がってきます。つまり高野聖ということです。
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さらにこの縁起を書写したのは高野山千手院谷西方院の真教です。

彼が聖方に属した僧侶であったことも匂います。真教も中世的な高野聖と言えるのではないでしょうか。書写の人物が高野山・西方院であることは、本縁起が高野山にいた人物が制作したことも考えられます。
 
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 では何の目的で作られたのか。
 この縁起は、讃岐白方屏風ガ浦で弘法大師が誕生したと記します。
しかし、それを強く主張するものではありません。それよりも主眼は、後半部に説かれる四国八十ハケ所を辺路の勧めです。辺路によって諸仏諸神が来迎して、極楽往生できる功徳が強調されます。四国辺路を進めるのが、この縁起の目指すところであったように思えます。

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 この縁起は弘法大師一代記の語り物語なのです。

これを語り、四国八十ハケ所の辺(遍)路を進めたのは誰だったのでしょうか。時衆系高野聖であったのか、また熊野比丘尼のような唱導者であったのか、今となっては、歴史の奥に隠れて見えなくなっています。
 しかし真念・寂本が
「四国には、その伝記板にちりばめ、流行すときゆ」

とあるように、これが版本とされ、多くの人に読まれることによって、庶民が参加する四国八十八ヶ所辺(遍)路が一層盛んになったことは間違いでしょう。
 つまりこの縁起の成立は、四国辺路から四国八十ハケ所辺(遍)路への移行、いわばプロの修行辺路から庶民が参加する辺路を促す動きの一部と捉えることもできるようです。
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 ちなみに四国遍路の功労者とも寂本は、真念『四国遍礼功徳記』付録の後書きなかで「空海=多度津白方生誕説」縁起本を次のように厳しく批判しています。
然るに世にし礼者ありて、大師の父は藤新太夫といひ、母はあこや御前といふなど、つくりごとをもて人を侑、四国にはその伝記板に鏝流行すときこゆ、これは諸伝記をも見ざる愚俗のわざならん、若愚にしてしるもの、昔よりいへるごとく、ふかくにくむべきにあらず、ただあはれむべし

参考史料 武田 和昭 『弘法大師空海根本縁起』について

讃岐の古代寺院 

   

讃岐の古代寺院 

 

 

                        

五重塔は、いつ誰が建てたのでしょうか?

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春咲きに塩飽本島の島遍路巡礼中に笠島集落で御接待を受けました。
その時に、1冊の本が目にとまりました。「塩飽大工」と題された労作です。この本からは、塩飽大工が係わった香川・岡山の寺社建築を訪ねて、それを体系的に明らかにしていこうという気概が感じられます。

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この本に導かれて五重塔の建立経過を見ていきましょう。

善通寺の五重塔は、戦国時代の永禄の兵火で焼失します。その後、百年間東院には金堂も五重塔もない時代が続きます。世の中が落ち着いた元禄期に金堂は再建されますが、五重塔までは手が回りませんでした。やっと五重塔が再建に着手するのは、140年後の江戸時代文化年間です。これが3代目の五重塔にあたります。
ところが、これも天保11年(1840)落雷を受けて焼失してしまいます。
そして5年後の弘化2年(1845)に再建に着手します。
そして約60年の歳月をかけて明治35年(1902)に竣工したものが現在の五重塔です。古く見えますが百年少々の五重塔としては案外若い建物です。
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1762宝暦12年着工の3代目五重塔の完成までの足取りは次の通りです 
1762宝暦12年 綸旨
1763宝暦13年 一重柱立
1765明和2年 二重成就
1777安永6年 三重柱立
1783天明3年 四重成就
1788天明8年 五重成就
1804文化元年 入仏供養
開始時の責任者は、丸亀藩のお抱え大工頭である山下孫太夫です。
棟梁が真木(さなぎ)弥五右衛門清次で、真木家は、塩飽本島笠島浦に住んでいた塩飽大工です。豊臣秀吉から650人の船方衆に1250石の領知を認める朱印状が与えられた時期には塩飽の有力な4家の一つとして島を運営した由緒ある家系です。真木弥五右衛門は、山下孫太夫の父である山下弥次兵衛の弟子であり、孫太夫とは義兄弟の一族でもありました。着工の際には、木材欅数十本、杉丸太400本余りを大阪で買い求めた史料が残っています。
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(東院に五重塔は描かれていません)

三代目の五重塔の完成まで42年かかっています。
あまりにも長くなったため、5層目の造立の時には塔脚が古びて朽ちそうになっていたようです。諸州を回って勧進しますが資金不足に悩まされ、丸亀藩に願い出て、金銭と材木2、500本をもらい受けて、塔脚の扶持としています。勧進により資金を集めながらの建設なので、資金がなくなれば材料も購入することが出来ず工事は長期にわたってストップするのが常でした。
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 浄財を集めながら塩飽大工・真木家(さなぎ)が棟梁として完成させた3代目五重塔です。
ところがわずか36年後の1840天保11年に、落雷による火災で灰燧に帰してしまいました。
この時の再建に向けた動きは早いのです。翌年には、大塔再建の願書草案を丸亀藩へ提出しています。1845弘化2年に綸旨が下ります。綸旨とは天皇の勅許であり、形式的手続きとして必須条件でした。
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完成への道のりは以下の通りです。4代目五重塔の建築推移

初代棟梁 橘貫五郎         初代棟梁  2代貫五郎  3代目棟梁
1845弘化2年 綸旨  ~9年間勧進        大平平吉
1854嘉永7年 着工     48才    20才
1861文久元年 建初  ~4年間工事  55才    27才 
1865応元年  初重上棟 ~2年間工事  59才    31才  
1867慶応3年 二重上棟 ~10年間 維新の動乱と勧進のため中断 
         初代貫五郎没(61才) 2代目貫五郎へ 33才 
1877明冶10年 三重着工 ~2年間工事  43才
1879明治12年 三重上棟 ~2年間工事  45才
1881明治14年  四重上棟  ~1年問 工事 47才    
1882明治15年 五重上棟   17年問 勧進のため中断48才 16才
1897明治30年 2代目橘貫五郎没(63才)      63才   36才
1902明治35年 ~9か月間 工事
1902明治35年 五重塔完成        三代目棟梁大平平吉36才

初代棟梁に指名されたのは、塩飽大工の橘貫五郎でした。

彼は善通寺五重塔の綸旨が下りた年に、備中国分寺五重塔を完成させたばかりで39歳でした。彼にとって2つめの五重塔なのです。この頃の貫五郎は塩飽大工第一人者の枠を超え、中四国で最高の評価を得た宮大工でした。同時進行で建設中だった岡山の西大寺本堂にも名前を残しています。 
西大寺本堂立柱前年の1861文久元年に善通寺五重塔を建て始め、
西大寺本堂完成の2年後1865慶応元年に善通寺五重塔初重を上棟
二重を工事中の1867慶応3年4月26日に初代貫五郎は61歳で没します。彼にとって善通寺五重塔は、西大寺本堂と共に最晩年の大仕事だったのです。

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貫五郎はこの塔に懸垂工法を採用しました。

心柱は五重目から鎖で吊り下げられて礎石から90mm浮いています。
この工法は、昔の大工が地震に強い柔工法を編み出したと、従来はされてきました。しかし最近では、建物全体が重量によって年月とともに縮むのに対して心柱は縮みが小さいため、宝塔と屋根の間に隙間ができて雨漏防止が目的であったとの説が有力です。
 五重塔は層毎に地上で組み立て、一旦分解して部材を運び上げ、積み上げていく手法がとられました。心柱も柄で結合させながら伸ばしていきました。五重目を組むときに、鎖で心柱を吊り上げたのです。これによって、建物全体が重みで縮むのに合わせて心柱も下がり、宝塔と屋根の間に隙間ができるのを防止する工夫だったようです。
 彼の死とあわせるように、資金不足と幕末の動乱によりそれから10年間工事は中断します。
塩飽本島生ノ浜浦の橘家には
「貫五郎は善通寺で亡くなり、墓は門を入って左側にある」
と伝わっているが、どこにあるか分からないようです。

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世の中が少し落ち着いてきた明治10年に工事は再開します。
初代貫五郎の跡を継いだのは2代目貫五郎です。
彼は1877明治10年、三重を着手する時に貫五郎の名を襲名しています。彼はほとんど一生を善通寺五重塔に捧げたともいえます。合間に数多くの寺社を残し、彫刻の腕前は初代に勝るとも劣らないと言われました。2代目貫五郎が五重を上棟したのは、5年後の明治15年48歳のときで、落慶法要が行われた明治18年まで携わったようです。しかし、この時には宝塔が乗っていません。宝塔のない姿がそれから17年間も続きました
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 日清戦争後に善通寺に11師団が設置されたのをきっかけに宝塔設置が再開されます。
そして、やっと1902明治35年五重塔の上に宝塔が載せられます。完成させたのは弟子の大平平吉で、この時36才でした。彼の手記には次のような文章が残っています。
明治15年3月に16才で2代目貫五郎の徒弟となり、五重完成後師匠に従い各所の堂宮建築をなし実地習得す、明治23年7月師匠より独立開業を許せらる」
とあります。
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五重塔の建立は、発願から完成まで62年がかかっています。

初代貫五郎と2代目夫妻の戒名が宝塔には掲げられています。
塔の内部に入ると、巨木の豪快な木組みに圧倒されます。初重外部の彫刻は豪放裔落な貫五郎流で、迫力に圧倒されそうになります。
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 木造、三間五重塔婆、本瓦葺の建築で、一部尾垂木と扉に禅宗様が認めらますが、純和様に近い様式です。高欄付切石積基壇の上に建築され、芯柱は6本の材を継いで、最上部がヒノキ材、その下2つがマツ材、そして下部3本がケヤキ材で、金輪継ぎによって継がれ鉄帯によって補強されています。また、各階には床板が張られていますので、階段での昇降が可能です。外部枡組や尾垂木などは、60年という年月をかけ三代の棟梁に受継がれて建てられたためか、各層で時代の違い違いを見ることができます。
 ちなみに建築に当たったのは塩飽本島出身の宮大工達で、彼らは同時期に、建設中だった金毘羅山の旭社も担当していました。
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 完成から約百年が経過し、所々に腐食が見られるようになったので、善通寺開創千二百年を迎えるに際の寺内外整備の一環として平成3年(1991)から平成5年(1993)にかけて修理が行われました。江戸時代の技法による塔婆建築の到達点を示すものとして価値が高く、平成24年12月28日に重要文化財に指定されました。


善通寺金堂の薬師如来像は、いつどこからやってきたのか?

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善通寺東院の金堂
善通寺の金堂に入ると丈六の大きな薬師座像が迎えてくれます。
この大きなお薬師さまと向かい合うと、堂々とした姿に威圧感さえ最初は感じます。このお薬師さまは、どのようにしてここに安置されたのでしょうか。それが垣間見える史料が残っています。
  戦国時代に戦禍で消失してから百年以上も善通寺には金堂も五重塔もない状態が続きました。江戸元禄時代になって、世の中が落ち着いてくるとやっと再建の動きが本格化します。そのスタートになったのは元禄七年(1694)に、仁和寺門跡の隆親王が善通寺伽藍再興をうながす令旨を出したことです。

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善通寺金堂の本尊は薬師如来

 金堂の方は元禄十二年(1699)に棟上されました。続いて、そこに収まる本尊が次の課題になります。
この薬師仏は誰の手によって作られたのでしょうか?
善通寺には、薬師仏をめぐっての善通寺と仏師とののやりとり文書が残っているようです。その文書から本尊の制作過程を追ってみます。
 善通寺が薬師本尊を発注したのは京都の仏師運長です。彼は誕生院光胤あてに、元禄十二年(1699)12月3日文書を4通出しています。その内の「御註文」には、像本体、光背、台座の各仕様について、全18条にわたり、デザインあるいはその素材から組立て、また漆の下地塗りから金箔押しの仕様が示されています。このような「見積書」によって、全国の顧客(寺院)と取引が行われていたようです。
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薬師如来(善通寺金堂)

 ついで翌年の元禄13年(1700)2月5日には、着手金の銀子三貫目が運長へ支払われています。
これに対して運長は次の「請取証文」3通を発行しています。
①6月 3日 銀子五貫目分、
②10月4日 銀子二貫九百五十目分、
③翌元禄14年に「残銀弐貫目」分を金三十両と銀二百六十目で請取った
制作費の総額銀十二貫九五十目分の支払いは、着手金を含むと都合四回に分けて行われたようです。

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薬師如来像の制作経過は、どのようなものだったのでしょうか。
仏像本体は三月中に組み立ててお目にかけ、来年の八月中旬までには、台座、光背の制作、像の下地仕上げなども完了させて仕立て、箱に入れて納入します。

と、雲長は、当初の予定案を示しています。
善通寺と雲長のやりとりの記録では、これだけしか分かりません。しかし、運長の記した「箱之覚」と京の指物屋源兵衛が運長にあてて出した「御薬師様借り箱入用之覚」があります。「箱之覚」とは薬師如来像を、京都で制作した後、善通寺へ搬入する際の梱包用仮箱の経費覚えで運長が書き留めたものです。
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金堂の基壇には古代寺院の礎石が使われている

薬師如来は、どのようにして京都から善通寺に送られたか?

 寄来造りですから分解が可能です。そのため薬師像本体は頭部、体幹部、左右両肩先部、膝部の5つのパーツに分けて梱包されたようです。また台座、光背ほか組立に必要な部材などもあわせると総計33口の仮箱が必要だったようです。
 京都で梱包作業が終わった後、善通寺までの輸送日程や経路については資料がないようです。仏や荘厳の品々を納めた33ケの箱は船で、大坂から積み出され、丸亀か多度津の港で陸揚げされ、善通寺に運びこまれたのでしょう。
 「仏像輸送作戦」を担当したのは運長の弟子の久右衛門と加兵衛という二人の仏師でした。二人が9月23日に善通寺側へ提出した銀請取証文高の総額三貫六百六十一匁六分の内訳の中に「箱代五百九十九匁九分」が含まれています。ここから久右衛門と加兵衛の二人の仏師が仏像輸送と組立設置などの作業をおこなったと研究者は考えているようです。作業終了後には、仏師二人に祝儀的な樽代八十六匁が贈られています。この頃までに薬師像の組立設置が完了したようです。
 
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 つまり薬師如来像の制作は、
①元禄13年2月5日に開始し、
②8月21日頃には像の下地仕上げが完成して仮箱も制作、
③9月23日には善通寺へ納入、組立完了
というおおよその流れがたどれます。
 しかし、薬師像の制作費の支払いが完了するのは翌年の元禄14年7月7日になっています。善通寺側の経費調達が必ずしも順調では無かったと研究者は考えているようです。
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 すべての支払い完了後に、誕生院僧正(光胤)は運長へ書状と祝詞の白銀五枚を渡しています。この書状の内容から誕生院にとって薬師如来の尊容が満足できるものであったことがうかがえます。運長自身も弘法大師「御誕生霊地」の造仏という意識をもって制作に臨んでいたことが分かります。元禄年間に出来上がった金堂と、そこに修められた薬師さんが300年以上経った今も善通寺の地を見守っています。
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参考文献 香川県歴史博物館 近世文書からみた善通寺の諸彫刻像 調査報告書第三巻

讃岐の古代寺院 善通寺 東院と誕生院の歴史について
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善通寺と誕生院(香色山から)
 善通寺の背後の香色山から善通寺を眺めたものです。東にはおむすび型の甘南備山である讃岐富士が見えています。手前に五重塔と本堂が巨樟に囲まれて建っているのが分かるでしょうか。これが東院です。更に拡大すると・・・
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善通寺誕生院

その手前に大きな屋根を重ねる伽藍があります。これが誕生院です。かつての空海の佐伯家の跡と言われています。このように善通寺は五重塔のある東院と誕生院の西院に分けることができます。
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善通寺本堂 赤門から

現在、金堂と五重塔のあるのが東院です。
ここには白鳳期の寺院跡が確認されています。佐伯家の建立によるもので、空海が生まれる以前に伽藍はあったようです。現在の金堂の基壇の周りには、造り出しのある白鳳期の非常に大きな礎石が多数用いられています。金堂は永禄元年1558の三好実休の兵火で焼けて元禄十一年(1698)に再建されました。 その間、140年近くは金堂がなかったわけです。

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善通寺本堂
永禄の時に焼けた建物について鎌倉時代の道範の『南海流浪記』には
「 白鳳期のお寺が焼けたときに本尊さんなどが焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある」と書かれています。
おそらく半分だけ埋まっている仏頭がまつられていて、現在残っている仏頭はそれを掘り出してまつったのだろうとおもいます。新しく元禄十一年に建てるときに、散乱していた白鳳期の礎石を使って四方に石垣を組んだので、現在のように高い基壇になってしまいました。この基壇の中に、白鳳期のものがまだまだ埋まっているのかもしれません。
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善通寺東院の大楠
元禄十一年の金堂再建のときに、その敷地から発見された土製仏頭は、巨大なことと目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と推定されています。印相等は不明ですが、古代寺院の本尊薬師如来として、塑像を本尊とする白鳳期の前寺(前身寺院)があったことが推定できます。
『南海流浪記』には、すでに火災で焼けた前寺を再建した建物が鎌倉時代初期には存在したことが見えています。平安時代の中ごろかわかりませんが、一度火災にあって、鎌倉時代初期に焼け跡を訪れた道範が本尊は埋仏だと書いています。本堂は二層になっているが、裳階があるために四層に見えるといって、大師が建立したとしています。
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善通寺本堂
これを見ると、鎌倉時代初期には徐々に回復しつつあったことがわかります。
埋仏は白鳳期の仏頭に当たるもので、地震などで埋もれたのを掘り出して据えていたようです。このときの金堂が永禄元年の兵火で焼け、本尊が破壊され、埋もれたのを首だけ掘り出しだのが現在の仏頭だとおもわれます。
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善通寺境内 善女龍王
『南海流浪記』は、四方四門に間頭が掲げられていて大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。大師の父の名前ではなくて、佐伯家先祖のお名前で、古代寺院を勧進で再興して管理された人物とも考えられます。
 つまり、以前から建っていたものを空海が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が三十一歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。
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善通寺金堂
道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 しかも、『南海流浪記』は先祖の俗名と書かれています。
 本田善光の善光寺のように、進を寺号としないで個人名を付けたと考えれば、やはり先祖の聖の名を付けたと考えたいところです。善通寺も御影堂は東向きで、西に本尊をまつっています。地下に戒壇をもっているのも全く同じです。まっ暗闇の地下をぐるっと回ると、死者に再開できるという伝説をもつ戒壇巡りがあります。御影堂のある誕生院(西院)は佐伯氏の旧宅であることは通いありません。
「五来重:四国遍路の寺」より

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