瀬戸の島から

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善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
                            善通寺東院の「足利尊氏利生塔」
前回は善通寺東院の「足利尊氏利生塔」について、次のように押さえました。
① 14世紀前半に、足利尊氏・直義によって全国に利生塔建立が命じられたこと
②讃岐の利生塔は、善通寺中興の祖・宥範(ゆうばん)が建立した木造五重塔とされてきたこと
③その五重塔が16世紀に焼失した後に、現在の石塔が形見として跡地に建てられたこと
④しかし、現在の石塔が鎌倉時代のものと考えられていて、時代的な齟齬があること。
つまり、この定説にはいろいろな疑問が出されているようです。今回は、その疑問をさらに深める史料を見ていくことにします。

調査研究報告 第2号|香川県

善通寺文書について 調査研究報告2号(2006年3月川県歴史博物館)

善通寺文書の年末詳二月二十七日付の「細川頼春寄進状」に、善通寺塔婆(とば)領公文職のことが次のように記されています。
細川頼春寄進状                                                       192P
讃州善通寺塔婆(??意味不明??)一基御願内候間(??意味不明??)
名田畠為彼料所可有御知行候、先年当国凶徒退治之時、彼職雖為閥所、行漏之地其子細令注進候了、適依為当国管領御免時分閥所、如此令申候、為天下泰平四海安全御祈南、急速可被申御寄進状候、恐々謹言、
二月十七日    頼春(花押)
善通寺僧都御房
  意訳変換しておくと
讃州善通寺に塔婆(??意味不明??)一基(足利尊氏利生塔)がある。(??意味不明??)
 この料所として、名田畠を(善通寺)知行させる。(場所は)先年、讃岐国で賊軍を退治した時に、没収した土地である。行漏の土地で、たまたま国管領の御免時に持ち主不明の欠所となっていた土地で飛地になっている。利生塔に天下泰平四海安全を祈祷し、早々に寄進のことを伝えるがよろしい。恐々謹言、
二月十七日               頼春(花押)
善通寺僧都御房(宥範)
時期的には、細川頼春が四国大将として讃岐で南朝方と戦っていた頃です。
内容的には敵方の北朝方武士から没収した飯山町法勲寺の土地を、善通寺塔婆領として寄進するということが記されています。
まず年号ですが、2月17日という日付だけで、年号がありません。
 細川頼春が讃岐守護であった時期が分からないので、頼春からは年代を絞ることができません。ただ「贈僧正宥範発心求法縁起」(善通寺文書)に、次のように記されています。

康永三年(1344)12月10日、(善通寺で)日本で三番めに宥範を導師として日本で三番めに利生塔建立供養がなされた」

利生塔建立に合わせて寄進文書も発給されたはずなので、土地支給も康永三年ごろのことと推測できます。法勲寺新土居の土地は、1344年ごろ、善通寺利生塔の料所「善通寺塔婆領公文職」となったとしておきます。

讃岐の郷名
讃岐の郡・郷名(延喜式)
南北朝時代の法勲寺周辺の地域領主は、誰だったのでしょうか。
「細川頼春寄進状」の文言の中に「先年当国の凶徒退治の時、彼の職、閥所たるといえども・・・」とあります。ここからは井上郷公文職である新土居の名田畠を所有していた武士が南朝方に味方したので、細川氏によって「凶徒退治」され没収されたことが分かります。 つまり、南朝方に味方した武士が法勲寺地区にいたのです。この時に法勲寺周辺では、領主勢力が入れ替わったことがうかがえます。南北朝動乱期は、細川氏が讃岐守護となり、領国化していく時代です。

讃岐丸亀平野の郷名の
鵜足郡井上郷
 この寄進状」から約30年後に、関連文書が出されています。(飯山町史191P)。『善通寺文書』(永和4年(1378) 「預所左衛門尉某安堵状」には次のように記します。 
  善通寺領井上郷新土居 ①預所左衛門尉某安堵状
②善通寺塔婆領宇(鵜足郡)井上郷公文職新土居事
在坪富熊三段
一セマチ田壱段
           カチサコ三段
フルタウノ前壱反小
シヤウハウ二反
コウノ池ノ内二反
同下坪壱反小内半
合壱町弐段三百歩者
右、於壱町弐段三百歩者、如元止領家綺、永代不可相違之状如件、
永和四年九月二日
預所左衛門尉(花押) (善通寺文書)
永和四年(1378)9月、預所左衛門尉から善通寺塔婆領宇井上郷公文職新土居事について出された安堵状です。内容は、合計で「一町二段三百歩」土地を、領家の干渉を停止して安堵するものでです。背景ろして考えられるのは、周辺勢力からの「押領」に対して、善通寺側が、その停止を「預所」に訴え出たことに対する安堵状のようです。

①の「預所の左衛門尉」については、よく分かりません。以前見たように法勲寺の悪党として登場した井上氏や法勲寺地頭であった壱岐氏も「左衛門尉」を通称としていました。ひょとしたら彼らのことかも知れませんが、それを裏付ける史料はありません。「預所」という身分でありながら領家を差しおいて、直接の権原者としての安堵状を出しています。在地領主化した存在だったことがうかがえます。
②の「善通寺塔婆領宇(鵜足郡)井上郷公文職新土居事」は、先ほどの文書で見たように。善通寺の塔婆維持のために充てられた所領のことです。
それでは「新土居一町 二反三百歩」の所領は、どこにあったのでしょうか。飯山町史は、さきほどの文書に出てくる古地名を次のように推察します。
富熊三段
一セマチ田壱段
              ②カチサコ三段
フルタウノ前壱反小
シヤウハウ二反
③コウノ池ノ内二反
④同下坪壱反小内半
0綾歌町岡田東に飯山町と接して「下土居」
①富熊に近い長閑に寺田
②南西にかけさこ(カチサコ)、
③その西にある「切池」に池の内(コウノ池ノ内)
④池の下(同下坪)

法勲寺周辺条里制と古名

飯山町法勲寺周辺の条里制と古名(飯山町史)
③④はかつてのため池跡のようです。それが「切池」という地名に残っています。こうしてみると鵜足郡井上郷の善通寺塔婆領は、上法勲寺の東南部にあったことが分かります。しかし、1ヶ所にまとまったものではなく、小さな田畑が散らばった総称だったようです。善通寺寺塔婆領は、1~3反規模の田畠をかき集めた所領だったのです。合計一町二反三〇〇歩の広さですが、内訳は、「富熊三反、カチサコ三反」が一番大きく、せいぜい田一枚か二枚ずつだったことが分かります。ここでは、この時代の「領地」は、散在しているのが一般的で、まとまったものではなかったことを押さえておきます。

 分散する小さな田畑を、管理するのは大変です。そのため善通寺の支配が十分には行き届かなかったことが推察できます。また利生塔が宥範の建てた木造五重塔であったとすれば「一町二反三〇〇歩」の領地で管理運営できたとは思えません。
比較のために、諸国の安国寺や利生塔に寄進された料所を見ておきましょう。
①筑前景福寺に300貫相当として田畑合計55町寄進
②豊前天目寺も300貫相当として田畑合計26町寄進
平均200貫~300貫規模で、田畑は30町を越えることが多いようです。法勲寺以外にも所領があった可能性もありますが、善通寺が「一町二段三百歩」の土地を得るのにこれだけ苦労 しているのを見ると、全体として数十町規模の所領があったとは思えません。
 また仮にこの他に塔婆料所があったとしても、これと同様の飛び地で寄せ集めの状況だったことが予想されます。寺領としての経営は、不安定でやりにくいものだったでしょう。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代 石塔(後の利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
 年表を見ると分かるとおり善通寺の利生塔は、他国に先駆けて早々に造営を終えています。この事実から善通寺利生塔造営は、倒壊していた鎌倉時代の石塔の整備程度のもので、経済的負担の軽いものだったことを裏付けていると研究者は考えています。

以上を整理して、「宥範が再建 した木造五重塔は足利尊氏利生塔ではなかった」説をまとめておきます
①『贈僧正宥範発心求法縁起』 には、伽藍造営工事は観応3(1352)年に行われたと記されている
②しかし、利生塔の落慶供養はそれに先立つ8年前の康永3年(1344)にすでに終わっている。
③善通寺中興の祖とされる宥範は、細川氏支配下の阿波・讃岐両国の利生塔供養を通じて幕府 (細川氏)を後ろ盾にすることに成功した。
④その「出世」で善通寺大勧進職を得て、伽藍復興に本格的に看手し、五重塔を建立した。
⑤そうだとすれば、利生塔供養の段階で木造五重塔はまだ姿を見せていなかった。
⑥康永3年(1344)の利生塔落慶供養は、鎌倉時代の石塔整備という小規模なものであった。
⑦それは飯山町法勲寺の善通寺寺塔婆領が1~3反規模の田畠をかき集めた「1町2反」規模の所領であったことからも裏付けられる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」

  善通寺の僧侶たちにとっての課題は、自前の寺領を確保し、本寺である随心院から自立していくことでした。
それが実現するのは、南北朝末期の明徳4年(1392)のことでした。善通寺誕生院が、本寺随心院によって善通寺奉行、弘田郷所務職、同院主職に補任されたのです。その補任を守護細川頼元が安堵した文書には、次のように記されています。
讃岐國善通寺奉行并びに弘田郷所務職、同院主職以下の事、本所随心院の捕任等に任せ領状相違有る可からずの状件の如し。
明徳四年二月廿一日              右京大夫在判(守護細川頼元)
誕生院法印御房                     
文中にある「善通寺奉行」の具体的内容については分かりませんが、誕生院の有快譲状に「当寺一円奉行別当代事」とあります。ここからは、善通寺一円保と境内を含む別当代官のことのようです。この補任によって善通寺が得たものは次のようなものでした。
①本寺から派遣された別当の下にあった管理運営権が、代官としての地元誕生院の手に委任されたこと、
②年貢徴収などの権利が委ねられたことで、実質的支配権を誕生院が行使できるようになったこと
これは誕生院にとってだけでなく、善通寺の歴史の上でも、画期的な出来事と研究者は評価します。

それから約20年後の応永17年(1410)には、誕生院は随心院の善通寺領請所に指定されます。
請所というのは荘園領主(随心院)に対して毎年一定の額の年貢の納入を請負うかわりに、荘園管理を全面的に委任される制度です。鎌倉幕府は、平家方についた没収官領に御家人を恩賞として地頭に補任して請所を行わせる地頭請所(地頭請)を進めます。請所の請料は、作柄の豊凶に関わらず毎年一定とされたので、請負者が納入の約束を果たす限りは、領主側も確実な収入確保が見込めるので都合が良い仕組でした。しかし、時が経つに随って、請負者の未進や不正が発生し、領主との間に訴訟などのトラブルが多発するようになります。

誕生院が随心院の善通寺領請所に指定された時の請文(うけぶみ=誓約書)を見ておきましょう。
請け申す。善通寺御年貢の事
右、明年十卯自り、毎年三十五貰文分、早水損に依らず、堅く備進せしむ可し。此内五貫文に於ては、二月中其沙汰致す可し。残り三十貫文、十二月中所の如く運送仕り候。若し此の請文の旨に背き、或は損凶と云い、或は未進(と云い)、絆を左右に寄せ(いろいろ理由をつけて)不法の義を致さば、不日(やがて)所務職を召放たるるの日、此の未済分、欺き申すに依って閣かると雖も、不義に至りては、悉く員数(そのたか)に任せて御譴責に頂る可く、其時一言の子細中す可からず。乃って請文の状件の如し。
応永十七(1410)年十二月十七日                        
                  椎律師宥快
意訳変換しておくと

来年の応永18年から年貢として、毎年銭35貫文を、たとえ日照り、水損で収穫がないことがあっても確実に納入する。35貫目の内で5貫文は、2月中に運上し、残り30貫文は12月中に送付する。もしこの請文の内容に背いたり、自然災害を理由に年貢を納めないときには、所務職を解任された時に未納額に応じて責任を追及されても不服は云わない。

 こうして随心院は、年貢35貫文の確保とひきかえに現地から手を引き、かわって誕生院が寺領支配権を手に入れました。
この請文に署名している権律師有快と何者なのでしょうか?
彼は宥範より二代後、つまり三代目の誕生院住持職の地位にあった人物のようです。応永21年(1414)4月21日付の有快の譲状に、次のように記されています。
新宮小法師丸(五代宥栄僧正)に譲与する誕生院住持職

そして善通寺所領として、従来からの櫛無地頭職、萱原村領家職の次に次の2つが追加されています。
一所 当寺院主職事                                                  
一所 弘田郷領家職事         
これは請所となった寺領が誕生院住持の相伝所領なっていたことを示すと研究者は指摘します。また善通寺奉行についても、次のように記されています。
一 当寺一円奉行別当代の事、本所の計として契約する所也。

ここからは、善通寺の別当代官に誕生院が任ぜられていることが裏付けられます。相伝所領のなかには、櫛無地頭職のように有名無実のものもありましたが、宥範によって基礎がすえられた誕生院の在地領主としての地位は、この宥快の時に確立したと研究者は評価します。

ところが、誕生院の在地領主と地位は長くは続かなかったようです。
応永29年(1422)本寺随心院は、弘田郷領家職、寺家別当奉行などの所職を、それまでの誕生院から一方的に天霧城の香川美作入道に換えています。これを見ておきましょう。
讃岐國善通寺弘田郷領家職并びに一円保所務職、寺家別当奉行等の事 仰せ付けられるの上は、寺役以下先例に任せて遅滞なく其沙汰致す可し。殊に内外の秘計を廻らし、興隆を専らに可く、緩怠私曲有る可からず。将に亦、御年貢早水損を謂はず、毎年四十貫文憚怠無く沙汰致す可し。其中伍貫文に於ては二月中に運上せしむ可し。残り5貫文は、十二月中運上す可し。万一不法仰怠の儀出来せば不日召放さる可し。共時一言子細中す可からず候。働て請文の状件の如し。
應永廿九年正月十六日                                沙弥道貞判
随心院政所殿
意訳変換しておくと
讃岐國善通寺弘田郷領家職・一円保所務職、寺家別当奉行等の事に任じられた上は、寺役以下先例のように遅滞なく役目を果たします。寺領運営については、内外の運営方法を参考にして、スムーズな運営ができるように務め、遅漏や私利私欲のないようにします。また旱魃や日照りになろうとも、約束した毎年40貫文は憚怠無く納めます。その内、5貫文については二月中に運上し、せしむ可し。残り35貫文は、12月中に納入します。万一これを破るようなことがあれば、契約解消されても文句は言いません。共時一言子細中す可からず候。働て請文の状件の如し。
應永廿九年正月十六日                       沙弥道貞判(香川入道)
随心院政所殿
この請書と応永17(1410)年に、誕生院の宥快が随心院と結んだものを比べて見ると次のようなことが分かります。
①年貢の請負額が、誕生院が毎年35貫文であったのに対し、香川美作入道は40貫文
②請所が弘田郷領家職だけでなく一円保所務職が加わっていること
一円保は、善通寺の寺領としては最重要の寺領です。一円保が加わって五貫文の増加では、あまりにも少なすぎる感じがします。わずか五貫文の請負額の差で、誕生院はながい苦労のすえにやっと獲得した寺領管理の地位を、在地武士(香川入道道貞)に奪われてしまったことになります。武士たちが請所になると、時を経るに従って約束された請負額も納めなくなり、横領されるのが時の流れでした。それが分かっていながら本所の随心院は、香川入道に切り替えたようです。地侍たちの「押領」が、どうにもならない所まできていたことがうかがえます。
この出来事から4か月後の応永29年5月14日の日付の善通寺に伝わる文書を見ておきましょう。
細川右京大夫(讃岐守護細川満元)
讃岐國善通寺領弘田郷領家職并一円保所務、西山安養院井びに寺家別富奉行の事、今年二月十二日随心院補任の旨に任せて領掌相違有る可からずの状、件の如し。
應永廿九年五月十四日         沙弥判(讃岐守護細川満元)
随(誕?)生院御房
冒頭に記された細川右京大夫とは、讃岐守護細川満元です。差出人の沙弥も満元のことでで、受取ったものが心覚えに袖に名前を記しておいたと研究者は推測します。文書の内容を意訳変換しておくと
善通寺領弘田郷領家職と一円保以下の所職を、2月12日の随心院の補任に任せて、随生院御房に安堵する

さて、この文書をどう解したらよいのでしょうか。弘田郷領家職は、先ほど見たようにすでに正月16日に、香川美作入道が補任されたばかりです。また受取り側の随生院御房とは、一体誰のことなのでしょうか。「随生院御房」は、善通寺や弘田郷の管領を委ねられたのだから、在地の僧のようです。そうとすれば、これは「誕生院御房」の誤字では?と研究者は疑います。その仮定の上に研究者は物語を次のように展開します。
①突然に思いがけず相伝の所職を随心院に召し上げられ、香川美作入道に奪われた誕生院は、驚いて本寺随心院に再任を訴えでた。
②その際に、請負額を美作入道同じ額の40貫文にあげてよいと契約条件の見直しを提示する一方、在地武士の請所によって、所領が押領される危険性を随心院に強調した
③善通寺の指摘に随心院は、あわてて所領を香川入道から取り返し、善通寺に返そうとした。
④ しかし、香川美作入道はいったん手に入れた有利な権利を手放すはずがない。
⑤そこで誕生院は、美作入道の主君である細川満元に頼んで安堵状をだしてもらったが、その効力はなかった。
この後、美作入道は応仁の乱を間にはさんで以後約50年の間善通寺領に居すわり続けたようです。
5月14日の文書の請所のなかに「西山安養院」の事が付け加えられています。
これは道貞の補任状にも付記として「西山安養院事、同じく御奉行有る可し」とでていたものです。そしてまた応永21年の宥快の譲状をみると、その中に次のように記されています。
一当寺安養院坊数名田畠等事

ここからはこの時期には、安養院は誕生院の管理下にあったことが分かります。安養院は、徳治の絵図の香色山の麓に描かれている小院です。誕生院は弘田郷その他の請負が香川氏の手に渡ったとき、この寺の管理権も失ったことになります。ここからは香川入道が善通寺の小院の支配権を握っていたことがうかがえます。以前に見たように、中世の善通寺の院の中には武装化する者や、武士たちの拠点となっているところがあり、境内では乗馬訓練も行われていたことを見ました。この史料からも、中世善通寺が武士たちの軍事拠点としても帰農していたことが裏付けられます。

こうして香川美作入道は、善通寺の別当奉行および弘田郷・一円保などの請所を握るようになります。
彼は最初のうちはともかく、応仁の乱のころになると、随心院に上納することを請負った年貢を、全然納めなくなったようです。これは美作人道に限ったことではなく、武士の請所になった荘園はどこも似たり寄ったりの状態でした。あまりの年貢末進にたまりかねた随心院は、幕府などにも助けを求めています。そして、文明5年(1472)のころには、弘田郷代官の地位を香川美作入道(その後継者)から取り上げています。東西両軍の総大将であった細川勝元、山名持豊が相次いで没し、応仁の乱もようやく終りの兆がみえてきた時期です。しかし数十年の長期間にわたって請負代官の地位を利用して寺領内に根をはってきた香川氏の勢力が簡単に排除できるはずがありません。
 文明6年(1473)年2月の室町幕府奉行人の奉書に「同じく帯刀左衛門尉競望未だ休まず」と、随心院の訴えが載せられています。
香川美作を解任したものの、今度は同じ香川一族の帯刀左衛門尉が、その後任に任ぜられることを強く求めてやまないというのです。これは、「希望している」ということではなく、実際には帯刀左衛門尉が実力で現地を抑えていたと研究者は推測します。そして彼は故美作入道とつながりのある人物だったのでしょう。文明6年の文書の後、随心院領弘田郷について語っている史料はないようです。ないと云うことは、随心院の力が及ばなくなったということです。

香川美作入道の請所となった一円保は、どうなったのでしょうか。
彼の請所が成立した年から8年後の永享2年(1430)頃ろ、善通寺雑掌から「同所田所職并得一名」を寺家に返付してほしいという訴えが出されます。同年12月25日にその返付を実施して雑掌に沙汰するように善昌という人物が香河(川)下野入道に命じています。善昌は讃岐守護の家臣であり、守護の命令を奉じて香川下野に伝えたようです。田所職とは、荘官の一人である田所に属した所領です。これと得一名田とがどこにあったのかは分かりません。
 「善通寺雑掌中同所……」という表現から一円保ではないかと研究者は推測します。一円保は善通寺を含んだ寺領だからです。一円保には、田所も置かれていました。しかし、これらの所領がどういう形で寺の手を離れていたか分かりません。香川美作入道が持っていた一円保所務職との関係も分かりません。香川下野入道が香川美作と同族であることは分かります。が、それ以上の具体的な両者のつながりは分かりません。この田所職と得一名が果して命令どおり善通寺雑掌の手に返ったかどうか、これも分かりません。
応仁の乱の間、善通寺一円保は兵糧料所として守護に召し上げられていました。
それが応仁の乱から7年後の文明16年(1484)に随心院門跡の強い要求で、ようやく守護の奉行人と思われる高松四郎左衛門から随心院の雑掌宮野にあてて次のような寺領返却の書状がだされています。
随心院御門跡領讃岐國善通寺寺務領一円保領家職の事、一乱中兵粮料所と為て預下され候と雖も、御門跡と為て子細候之間御返渡し申し候。然らば当年貢自り御知行有る可きの状件の如し。
文明十六年正月二十三日            高松四郎左衛門   文知判
雑掌宮野殿
兵糧料所であった間、 一円保から上る年貢は、兵糧米として武士に給与されていたようです。おそらく守護は有力家臣に預けて保の支配をさせたはずです。その有力家臣として考えられるのは、西讃守護の香川氏です。寺領の返却が書状の命令通りに実行されたかどうかも分かりません。それは、この書状が随心院領一円保の名がみえる最後の文書だからです。 一円保も、香川氏など周辺の武士の争奪のうちに、善通寺の手を離れていったようです。

時代の形勢は、地方の一寺院が独力で所領を確保できるような状態ではなくなっていました。
誕生院自身、長禄二年(1558)には、その領有する萱原村領家職を、在地の武士滝宮実長に委ねざるをえなかったことが次の史料からは分かります。
預り申す。萱原領家方御代官職の事
長禄二年戊宙より壬午年まて五年あつかり申候。大師の御領と申天下御祈格料所の事にて候間、不法榔怠有る可からす候。年に随い候て、毛の有色を以て散用致す可く候。御領中をも興行仕り、不法の儀候はすは、年月を申定め候とも、尚々も御あつけあるへく候。働て頂状件の如し。        
長禄二年成寅七月十日                        瀧宮豊後守 賞長(花押)
誕生院
預り状として一応契約のかたちをとっているものの 年貢の納入は、「毛の有色」つまり作物のでき具合を見て故用=算用するとあります。所領を預かる期間も、五年間と定めてはありますが、不法のことがなければ、「年月を申し定め候とも、尚々も御あつけあるへく候」とあって、実質的には無期限と同じ契約内容です。これでは契約の意味はありません。誕生院領萱原村は、滝宮氏の手に渡ってしまったことを暗示する内容です。
善通寺の所領、良田郷領家職、生野郷内修理免などは、弘田郷や一円保以上に不安定な要素をかかえていました。これらの所領もまた、一円保や萱原村などと同じ道を、それらよりももっと早くたどつていったと研究者は考えているようです。

以上をまとめておくと
①南北朝末期の明徳4年(1392)に、善通寺誕生院は本寺随心院から善通寺奉行、弘田郷所務職、同院主職を得て、経済的自立への路のゴールに近づいた。
②応永17年(1410)には、誕生院は随心院の善通寺領請所に指定された。
③こうして宥範によって基礎がすえられた誕生院の在地領主としての地位は、宥快の時に確立した。
④しかし、応永29年(1422)本寺随心院は、誕生院の領主的地位の基盤であった弘田郷領家職、寺家別当奉行などの所職を、一方的に香川美作入道に換えてしまった。
⑤そこで誕生院は、讃岐守護の細川満元に頼んで安堵状をだしてもらったが、その効力はなかった。
⑥この後、美作入道は応仁の乱を間にはさんで以後約50年の間善通寺領に居すわり続けた。
⑦美作入道は、応仁の乱のころになると、随心院に上納することを請負った年貢を、全然納めなくなった。
⑧そこで文明5年(1472)には、弘田郷代官の地位を香川美作入道(その後継者)から取り上げた。⑨文明6年(1473)年2月には、今度は同じ香川一族の帯刀左衛門尉が、その後任に任ぜられることを強く求めた。
文明6年の文書の後、随心院領弘田郷について記された史料はなく、随心院の力が及ばなくなったことがうかがえる。善通寺領は西讃守護代の香川氏やその一族によって横領されたようだ。このような押領を繰り返しながら、香川氏は戦国大名の道を歩み始める。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 香川氏の善通寺領侵略 善通寺市史566P

南北朝の動乱が勃発してから10年余り過ぎると、南朝方の勢力はすっかり衰え、戦乱は終結に向かうように見えました。ところがそれが再び活発になり、さらに50年近く戦乱が続くのは、争いの中心が、
南朝と北朝=幕府の政権争いから、守護や在地武士たちの勢力拡大のための争いに移ったからだと研究者は指摘します。

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 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)を契機として、守護・在地武士は、ある時は南朝方、ある時は尊氏方、また直義・直冬方と、それぞれ、自分の勢力の維持や拡大に都合のいい方へついて、互いに戦いを続けます。
.観応の擾乱

 薩摩守護の島津貞久が尊氏方についたのも、大隅・日向の支配をめぐって対立していた日向守護畠山直顕が、直義方であったことが大きな要因のようです。これを好機と見て動いたのが讃岐守護細川顕氏です。
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細川顕氏
顕氏は直義方だったので、島津氏が尊氏側に立ったのを見て、櫛無保の島津の代官を討取るか追放するかして、櫛無保を支配下に入れたようです。こうして、島津氏の櫛無保の地頭職は細川氏に奪われます。
尊氏と直義の和睦によっていったんおさまったように見えた観応の擾乱は、まもなく尊氏・義詮と直義の対立があらわになって、再び燃え上がります。

島津家系図
島津家系図 貞久は5代目
 康安二(1362)年6月、薩摩守護の島津貞久は再び幕府に提訴状を提出しています。
その内容の前半2/3は、半済の撤回を繰り返して求めたものです。後半の1/3は、讃岐国櫛無保が中国大将細川頼之に押領されていることを次のように訴えています。
進上 御奉行所  
嶋(島)津上総入道 (貞久)々璽謹言上
(中 略)
 讃岐国櫛無保地頭職は、曾祖父左衛門少尉藤原忠義、去る貞応三年九月七日、勲功の賞と為て拝領せじめ、知行相違無きの処、(頼之)近年中国大将細河典厩押領の条堪え難き次第也、道璽御方に於て数十ケ度の軍功抜群の間、恩賞に預るべきの由言上せしむる上は、争でか本領に於て違乱有るべきや、就中九州合戦最中、軍忠を抽んずる時分也、然らば則ち、彼両条厳密の御沙汰を経られ、御教書に預り、弥忠節を致さんが為め、言上件の如し、
康安二年六月 日              
意訳変換しておくと
讃岐国櫛無保の地頭職は、曽祖父の忠義が勲功の賞として拝領した由緒のある所領である。ところが近年中国大将の細川典厩(頼之)が押領しており許しがたい。私(貞久)は幕府の味方として数十度の合戦に抜群の働きをしてきた。恩賞に預かるべきが当然なのに、どうして本領の櫛無保が押領されてよいであろうか。

将軍義詮はこの訴えを受けて、次のような書状を讃岐守護の細川頼之に送って、押領を止めるよう命じています。
嶋(島)津上総入道々雪申す讃岐国櫛無保地頭職の事、道璽鎮西に於て近日殊に軍忠を抽ずるの処、譜代旧領違乱出来の由、歎き申す所也、不便の事に候歓、相違無きの様計り沙汰せしむべき哉、謹言
十一月二日               (花押)
細河稀駐頭殿             
意訳変換しておくと
嶋(島)津上総入道が訴える讃岐国櫛無保地頭職の件について、島津氏は、鎮西において近頃抜群の軍忠を示したものであるが、譜代の旧領が違乱されていることについて、対処を求めてきた。不便な事でもあるが、相違ないように計り沙汰せよ。
十一月二日              将軍義詮 (花押)
細河稀駐頭(細川頼之)殿 
島津氏は、櫛無保以外にも、下総・河内・信濃などの遠国に所領を持っていたことは前回に見たとおりです。南北朝時代も後半になると、守護や地頭が遠国に持っている所領は、その国の守護や在地の武士たちによって押領されるようになります。島津氏も同様だったと思うのですが、特に讃岐の櫛無保の押領だけを取り上げて幕府に訴え、所領として確保しようとしています。この背景には、櫛無保が島津氏にとって薩摩と畿内を結ぶ中継基地として重要な所領であったことを示している研究者は指摘します。
押領停止の将軍の命が出された頃の讃岐は、どのような状勢だったのでしょうか?
細川氏系図
細川氏系図
  讃岐守護細川顕氏は、頼春の戦死に遅れること四か月余りで病死し、子息の繁氏(しげうじ)があとを継ぎますが、彼も延文四年(1359)六月に急死してしまいます。
『太平記』によると、繁氏は九州で征西軍と戦っていた少弐頼尚を救援するため九州大将に任じられて自分の分国讃岐で兵力を整えていましました。その際に崇徳院御領を秤量料所として取り上げたので、崇徳院の神罰を受けて、もだえ死んだと伝えられます。
  それはともかく繁氏死去の後、しばらく讃岐守護の任命がなく、讃岐の守護支配は一時空白状態になったようです。
一方、京都では、延文三年(1358)4月20日、足利尊氏が没し、義詮が征夷大将軍になります。
義詮は細川清氏(きようじ)を執事に任命します。

細川清氏 - Wikipedia
細川清氏 白峰合戦で敗れる

清氏は頼春の兄和氏の子で、観応の擾乱以来たびたび戦功を挙げ、義詮の信頼を得ていたのです。しかしまもなく佐々木道誉らの有力守護と対立し、謀反の疑いをかけられて若狭に逃れ、その後南朝に帰順します。康安二年(1362)の初め、清氏は阿波に渡り、 そして守護不在となってきた讃岐に入ってきます。讃岐は前代からの顕氏派、頼春派の対立がまだ尾を引いていたようです。そこを狙って、清氏は進出してきたようです。
 『南海通記』によると、清氏はまず三木郡白山の麓に陣を置いて帰服する者を招きます。これに応じたのが山田郡の十河・神内・三谷らの諸氏です。清氏はこれらを傘下に入れて、阿野郡に進み、白峯の麓に高屋城を構えて、ここを拠点とします。
これに対して将軍義詮は、清氏の討伐を細川頼春の遺子頼之に命じます。
細川頼之」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
頼之は、そのころ中国大将に任ぜられていました。彼は、九州から中国に渡って山陰の山名氏などの援助を得て勢力をふるっていた足利直冬と備中で戦っていました。将軍義詮の命を受けて讃岐に渡り、宇多津に陣を置いて、清氏の軍と対峙します。
 先ほど見た、薩摩守護の島津貞久の櫛無保押領の訴えは、この時に出されたものになります。細川頼之は、阿野郡に拠点を構えた清氏に対抗するために、父頼春の死後ゆるみかけた中・西讃の支配を固め直す必要があると判断したのでしょう。そのための行動の一つが、南朝方に帰属していた島津氏櫛無保の押領し、兵糧米確保や味方する諸将に与えることだったと推測できます。これが島津貞久から訴えられることになったと研究者は考えています。
どこいっきょん? 讃岐での細川頼之さん
白峰合戦
康安二年(1362)7月23日、頼之は高屋城を攻撃して、清氏を敗死させます。これが中世讃岐の合戦は有名な白峯合戦です。那珂郡辺りの武士は、頼之に従ってこの合戦に参加したようです。この時に、清氏に味方した南朝方中院源少将が守っていた西長尾城(満濃町長尾城山)は、庄内半島の海崎城にいた長尾氏に与えられています。櫛無保も同じように戦功のあった者に与えられた可能性があります。
 こうして白峰合戦に勝利した細川頼之を、足利義詮は讃岐守護に任命します。同時に、先に挙げたように書状を送り、守護として責任を持って櫛無保の押領を止めるように命じたのです。この書状を手にした細川頼之は、どのように反応したのでしょうか。
将軍足利義詮の命令通りに、「押領」を停止して櫛無保の守護職を島津氏に返却したのでしょうか。それとも無視したのでしょうか。それを示す史料は残っていないようです。

島津家五代の墓
島津家五代の墓(出水市)
島津貞久は、貞治二(1363)七月二日、九十五歳で戦いに明け暮れた生涯を終えます。
その3ケ月前の4月10日に、薩摩国守護職を師久に、大隅国守護職を氏久に分与します。これによって島津氏は二流に分かれることになります。師久のあとを総州家といい、氏久のあとを奥州家と云います。
島津家五代の墓2

櫛無保は師久への譲状の中に、次のように載せられています。
譲与  師久分
薩摩国守護職
同国薩摩郡地頭職
(中略)
讃岐国櫛無保上下村
公文名并光成
田所
(中略)
右、代々御下文以下證文を相副之、譲り与える所也、譲り漏れの地においては、惣領師久知行すべきの状件の如し
貞治弐年卯月十日     道竪      
しかし、櫛無保の名はこれ以後の島津氏の所領処分目録には見えなくなります。南北朝末期には島津総州家は衰退に向かい、次第に薩摩国内の所領すら維持が困難になるような状態に落ち入っています。讃岐櫛無保の地頭職も島津家の手に還って来ることはなかったようです。

島津貞久の墓
 島津貞久の五輪塔
一方、讃岐国では、白峯合戦に勝利した讃岐守護細川頼之が、領国支配を着々と固めています。
島津家領の櫛無保も、細川頼之の支配下に収まったと見るのが自然です。荘園領主法勝寺の櫛無保支配については、関白近衛道嗣の日記『愚管記』の永和元年(1375)4月11日の条に、法勝寺領櫛無保をめぐって法華堂公文実祐と禅衆とのあいだに相論があったことが記されているので、南北朝末期まで法勝寺の支配が続いていたことがうかがえます。しかし、地頭職をだれが持っていたのかなどについては、他に史料がなくよく分からないようです。

どこいっきょん? 讃岐での細川頼之さん
細川頼之の宇多津守護所
 以上をまとめておくと
①櫛無郷は古代末に、白河天皇が建立した法勝寺の寺領となり、櫛無保が成立した
②鎌倉時代の承久の乱の功績として、薩摩守護の島津氏が櫛無保の地頭職を獲得した。
③以後、島津氏は歴代の棟梁が櫛梨保守護職を引き継いできた
④南北朝混乱期に、南朝方について讃岐守護となった細川顕氏は島津氏の櫛無保を奪った
⑤白峰合戦に勝利して、讃岐守護となった細川頼之も島津氏の櫛無保を押領した。
⑥これに対して、薩摩守護の島津氏は室町幕府に、押領停止を願いでて将軍の停止命令を出させた。
⑦しかし、その将軍の命令が実行された可能性は低い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P

讃岐丸亀平野の郷名の
古代の櫛梨郷
   古代の那珂郡櫛無郷は、東が垂水、南が小松、西が生野、北が木徳郷に接して郷の北部に式内神社の櫛梨神社が鎮座し、西側を金倉川が北に流れていきます。
櫛無郷

古代の櫛無郷は現在の次のエリアを併せたものになります。
①上櫛梨(無) 琴平町
②下櫛梨    琴平町
③櫛梨町    善通寺市
櫛梨郷は古代末には櫛梨保となり、中世にはその地頭職を薩摩守護の島津氏が持っていたようです。今回は櫛梨保の成立とその地頭職を島津氏が、どのように相続していたかを見ていくことにします。テキストは「法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P」です。
 櫛梨保が最初に登場する史料は、『経俊卿記(後嵯峨院に仕えた吉田経俊の日記)』の正嘉元年(1257)4月19日の次の記事のようです。
十九日雨降、参院、奏條ヽ事、(中略)
正嘉元年四月十九日源雅言 奉
法勝寺條ヽ
(中 略)
櫛無保年貢事、
仰、於寺用者、地頭抑留不可然之由、先度披仰下了、任彼趣重可被仰遺武家、
(図書寮叢刑)
この日記には、後嵯峨院の評定での記録が記されています。この日の記録には天候は雨で「法勝寺条々」が議せられ、その審議の中に「櫛無保年貢事」が出てきます。ここから櫛無保が京都の法勝寺の寺領だったことが分かります。また、鎌倉時代には、櫛無保の地頭が年貢を送ってこなくなり「抑留」していたことも分かります。この日の院評定で、櫛無保の年貢を抑留している地頭に、幕府に命じて止めさせるよう議定しています。
櫛無保 法勝寺1
法勝寺町バス停 地名として残っている
ここに出てくる法勝寺とは、どんなお寺だったのでしょうか?
法勝寺のあったのは、平安神宮の南側、岡崎一帯で、現在では京都国立近代美術館、京都市美術館、京都会館、京都私立動物園、都メッセなどの文化施設が建ち並ぶエリアです。
法勝寺

この地は、平安時代の後期、白河天皇が建立した寺院が大伽藍を並べる地域でした。その最初は、白河天皇が藤原師実から別荘地を譲り受け、1075年(承保2年)に造営を始めたのが法勝寺です。

法勝寺の説明版
 法勝寺の説明版
 白川天皇は「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり」との考えの下に、仏教を保護して統治する金輪聖王(転輪聖王)にならって法勝寺を建立したと伝えられます。この寺を、慈円は「国王の氏寺」と呼んでいます。それは天皇家の氏寺という意味だけでなく、太政官機構の頂点に位置する「日本国の王の寺院」ということのようです。白河には法勝寺に続いて次々と寺院が作られ、総称して六勝寺と呼ばれるようになります。法勝寺は六勝寺のうち最初にして最大のものでした。法勝寺には、金堂、五大堂、講堂、阿弥陀堂などが建ち並び、約四町という広大な寺域を誇っていました。
法勝寺の塔
①が法勝寺の大塔 ②が東寺五重塔 ③醍醐寺五重塔

1083年(永保3年)なると、高さ約80mという当時の高層建築である八角九重塔が建立されます。ちなみに現存する日本最大の塔は、東寺の五重塔で高さ55mです。

法勝寺八角九重塔 CG復元図

 また、白河には他にも次々と天皇の寺院が作られ、六勝寺(法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺)と総称されました。しかし、文治元年(1185)の大地震で法勝寺の諸堂の大半は倒壊し、八角九重塔もかろうじて倒壊は免れたものの垂木はすべて落ちるという状態でした。1208年には落雷で八角九重塔も焼失し、一部は再建されましたが、1342年の火災で残る堂舎も焼失しました。鎌倉時代になると寺領からの年貢が途絶え、伽藍維持が困難になり衰退していきます。現在は遺跡をとどめるのみです。
 以上からは法勝寺は、11世紀末に白川天皇によって建立された「国王の氏寺」で、栄華を誇った寺院であったこと。それが鎌倉時代には、維持管理が出来なくなり衰退していったことが分かります。これだけの寺院の維持管理のためには、大きな経済的な基盤が必要です。そのために櫛梨郷もどこかの時点で、「櫛無保」に指定され法勝寺領になったようですが、その過程は史料がないのでよく分からないようです。ただ「保」という用語がついています。
保は、本来は国衛領のなかの特別行政区域になります。
 律令制が傾いてくると、封戸からの租税の徴収が困難になってきます。そこで封戸の代わりに田地を定めて、そこから納められる租税(官物・雑役)を封主に与えることになります。このような代替給付を行うことを便補といい、定められた田地が保と呼ばれるようになります。(便補保)。
 法勝寺も、落慶供養の6日後の12月24日に、1500戸の封戸が寄せられています。寺は出来ても経済的な基盤を保証されないと「持続可能」にはなりません。この封戸が何処にあったのかは分かりませんが、櫛無郷が便補保とされたのが法勝寺領櫛無保ではないかと研究者は考えているようです。

法勝寺跡
白川院・法勝寺跡

  島津忠義は、宇治川合戦の戦功によって櫛無保地頭職に補任された
 貞応三年(1324)9月7日付で、鎌倉幕府の北条泰時が藤原(島津)忠義を櫛無保地頭職に任命した開東下知状には次のように記されています。     
可令早左衛門少尉藤原忠義(忠時) 、為讃岐國 (那珂郡)櫛無保地頭職事、
右人為彼職、任先例可致沙汰之状、依仰下知如件、
貞應三年九月七日
                                                       武蔵守不(花押)   (北条泰時)
読み下しておくと
早く左衛門少尉藤原忠義をして、讃岐国櫛無保地頭職と為すべき事。右の人彼の職と為し、先例に任せ沙汰致すべきの状、仰に依て下知件の如し、
貞応三年(1324)九月七日
武蔵守平(花押)    (北条泰時) 
藤原忠義は忠時ともいい、薩摩国守護島津氏の第二代当主のことです。
忠時の父忠久は、本姓は惟宗氏で、摂関家近衛家の家人です。近衛家の荘園である薩摩国島津荘の荘官となり、文治二年(1186)、源頼朝から島津荘惣地頭職に補せられて島津氏を名乗るようになります。藤原氏を称することもあったようですが、主家藤原氏(近衛氏)との関係を強調して家柄を高める意図があったのではないかとされます。これは古代綾氏の流れを汲むとされる讃岐藤原氏も同じようなことをやっています。

島津家系図
島津家系図

 島津氏は建久8年(1197)に、薩摩・大隅の守護職に任ぜられ、さらに日向の守護も兼ね勢力を拡大していきます。ところが建仁3年(1203)、二代将軍源頼家の外戚比企能員とその一族が反逆を起こし、北条時政によって滅ぼされたれます。(比企氏の乱)、この時に島津氏は破れた比企氏側に味方したために三か国守護職及び島津荘惣地頭職を没収されます。しかし、その後に薩摩国守護職だけはほどなく返され、建暦三年(1213)には、島津荘惣地頭職も返されています。ここでは比企氏の乱で、「勝ち馬」に乗れなかった島津氏が領地を大きく削られたことを押さえておきます。

承久の乱 (1221年)【政広】 - 居酒屋与太郎

島津忠義に復活のチャンスはすぐにやってきました。承久の乱です。
先ほど見たようにその3年後に、櫛梨保の地頭職が島津氏に与えられています。ここからは、この補任は承久の乱の功賞によるものと推測できます。島津忠久、忠義も承久の乱の当時は鎌倉に在住し、上京の軍勢に加わって戦功を挙げたようです。『吾妻鏡』の承久3年6月18日の記事には、14日の宇治川の合戦で敵を討ち取った戦功者98人の名が挙げられています。そのなかに「島津二郎兵衛尉(忠義)(辻袖離一ゑ)」の名前もあります。幕府は後鳥羽・順徳・土御門の三上皇を配流し、上皇方についた貴族や武士の所領を没収して、戦功のあった武士たちに恩賞として与えました。島津忠義も宇治川合戦の戦功によって櫛無保地頭職に補任されたとしておきます。

地頭職

鎌倉幕府が武士に所領を与えるのは、当寺は地頭に任命する形をとりました。
「綾氏系図」には、讃岐藤原氏の頭領であった羽床重基が、承久の乱の際に讃岐国の軍勢を率いて後鳥羽院の味方に参じ、敗戦で所領を没収されたことが書かれています。また『全讃史』には、綾氏の嫡流綾顕国が羽床重員とともに院方として戦ったと記されています。院方について破れた勢力は、当然領地没収されました。その跡に、東国武士たちが地頭として送り込まれたわけです。承久の乱で、地頭が置かれたことが明らかなのは、櫛無保のほか法勲寺、金倉寺、善通寺などです。讃岐の地頭のほとんどが承久以後になって現れる東国武士であることは、以前にお話ししました。
地頭が新恩の地に補任された時は、前の領主の所領・得分を受け継ぐのが原則です。承久新恩地頭の場合は、前領主の所領・得分が少なく、またはっきりとした基準がなかったので、やってきた地頭地頭に対して幕府は新しく所領・得分の率を次のように定めています。
①荘園全体の田地に対して11町について1町の割合で与えられる給田
②一段ごとに五升の加徴米徴収権
これを新補率法と呼びます。承久の乱後に地頭になったものを一般に新補地頭と呼んでいますが、厳密な意味では新補率法が適用される地頭が新補地頭になるようです。 これに対して、前領主の所領・得分を受け継いだ地頭を本補地頭と呼びます。島津氏が補任された櫛無保地頭職は、承久の乱後の地頭なので、本補地頭になるようです。
櫛無保は、封戸から転じた便補保ですので、地元に保司(ほうし)という保を管理する在庁官人がいて、租税を徴収して保の領主に送ります。したがって、保司は保全体に対して強い支配力を持つようになります。櫛無保にもこうした保司(武士団)がいて、保領主の法勝寺とは無関係に後鳥羽上皇方につき、所領没収の憂目を見たと研究者は推測します。

島津氏が前保司から受け継いだ櫛無の所領は、給田・給名などの限られた田地ではなく、上村・下村といった領域的な所領です。
さらに公文名や田所名を所有しています。これは下級荘官の公文や田所の所領名田です。地頭島津氏は、公文や田所の所職も兼ねていたことがうかがえます。公文は文書の取り扱い、年貢の徴収に当たる役人、田所は検田などに当たる役人で、これらの下級荘官は実際に田地や農民に接して検地や徴税に当たります。彼らの権限を掌握することは、地頭が荘園を支配する上で重要な意味を持ていました。ちなみに、櫛梨町には公文という地名が今も残ります。このあたりに公文名や彼らの舘があったことが推測できます。

島津氏は三代久経までは鎌倉に在住し、その後は薩摩国守護として薩摩に本拠を置いていました。
そのため櫛無保には、一族か腹心の家臣を代官として派遣して支配したようです。そして、今見てきたような背景から考えて、その支配力はたいへん強力なものであったと研究者は考えています。

最初に挙げた『経俊卿記』正嘉元年(1257)4月19日の記事には、この日の院評定で、法勝寺に納入すべき櫛無保の年貢を地元の地頭が送ってこないのを、幕府に命じて止めさせるよう議定されていました。地頭はもともとは土地管理、治安維持、租税の徴収などを職務とする役職で、所領を与えられたものではなく「領主」ではありませんでした。しかし鎌倉時代の中ごろから、地頭たちは次のような「不法行為」を次第に働くようになります。
①徴収した年貢を荘園領主に送らず自分のものとしたり(年貢抑留)
②給田以外の田地を押領したり
③規定外の租税を農民から徴収したりなどの手段で、荘園全体を支配下に置こうとする動き
櫛無保地頭島津氏も、①の年貢抑留という手段によって、櫛無保内の領主権をさらに強化しようとしていたことがうかがえます。
 隣接する善通寺領良田郷では地頭が年貢抑留に加えて農民の田地を奪い、永仁6年(1298)には、領主善通寺と土地を分け合う下地中分になっています。三野郡二宮荘でも、地頭の近藤氏と領家とのあいだで下地中分が行われています。さらに鎌倉幕府が倒れた元弘の乱の時には、荘園領主分の年貢をことごとく押領していたことは以前にお話ししまします。櫛無保以外でも讃岐各地で地頭の荘園侵略が進んでいたのです。
島津家系図

元寇前の文永二年(1265)、島津忠義(時)の嫡子久経が父のあとを継いで薩摩国守護となります。
文永四年(1267)12月に、忠義(忠時)は譲状を作っています。そのなかで、「櫛無保内光成名給米百石」については、次のように記されています。
こけふん (後家分)
さつまのくに みついゑのゐん
しなのゝくに かしろのかう
さぬきのくに(讃岐国)くしなしのほう(櫛無保)の内
みつなり名(光成)給米百石  一 このちはすりのすけ(修理免久経)
ここからは次のようなことが分かります。
①久経の母尼忍西に「後家分」として、「櫛無保内光成名給米百石」が給米として与えること
②百石という年貢はたいへん多いので、光成名は大きな名田で、荘官の給名田だったこと
③この給米は、彼女の死後は嫡子久経に返すように指示されていること
建治元年(1275)、それまで鎌倉にいた三代目の久経は、文永11年(1274)に、蒙古軍の再度の来攻に備えて九州にやってきています。そして弘安4年(1281)の弘安の役では、薩摩の御家人を率いて奮戦しています。久経は元寇後の弘安七年(1284)に没し、嫡子忠宗が4代目を継ぎます。
それから34年後に文保二年(1318)二月十五日に、忠宗は次のような2つの譲状を書いています。
    〔史料A 島津道義(宗忠)譲状〕
 〔島津道義譲状〕
「任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、
文保二年三月廿三日
相模守(花押)(北条高時)
武蔵守(花押)(北条貞顕)
ゆつりわたす  (譲り渡す)
    ちやくし(嫡子)三郎左衛門尉貞久
さつまの國すこしき(薩摩国守譲職)
十二たうのちとうしき(地頭職)
さつまこほり(薩摩郡)のちとうしき(地頭職)
山門のゐん
いちくのゐん
かこしま(鹿児島)のこほり 同なかよし
さぬき(讃岐)の国くしなしのほ(櫛無保)上村・下村
しなのゝ(信濃)國太田の庄内南郷
下つさの國さむまの内ふかわのむら、下黒
ひうか(日向)の國たかちを(高千穂)の庄     
ふせん(豊前)の國そへたの庄
右所ヽ、貞久にゆつりあたうる(譲り与える)所也、女子分子なくば其一この後ハ、そうりやう(総領)貞久可知行之状□□
文保二年二月十五日     沙爾道義(花押)
 (島津家文書)
   〔史料B 島津道義納譲状〕
「任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、
文保二年三月廿三日
相模守(花押)(北条高時)
武蔵守(花押)(北条貞顕)
ゆつりわたす  (譲り渡す)
女子大むすめ御せん分
さぬきの國くしなしのほう(櫛梨保)のうちくもんみやう(公文名) 同たところみやう(田所名)
右、大むすめ御せんにゆつりあたうる所也、但、子なくハ、一この後ハ(死後は)、そうりやう(総領)貞久ちきやうすへし(返還すべし)、乃状如件、
文保二年三月十五日      沙爾道義(忠宗)(花押)
史料Aは、忠宗が、嫡子貞久に譲ったすべての「領地」の中に、讃岐国櫛無保の上村・下村も含まれています。上村・下村は現在の琴平町上櫛梨・下櫛梨(一部善通寺市櫛梨町)の地になります。
 ところが忠宗は同じ日に、史料Bの譲り状を書いています。そこには「女子大むすめ御前」に櫛無保内の公文名・田所名を譲り、ただしこれについては、その死後には惣領貞久に返す定めであると記されています。このように所領を生きているあいだ(一期)に限り認め、死後は一族の惣領(家督を継いだもの)に返  す規定は、領地分散を防ぐための方策で、鎌倉中期以後武家領のあいだでは一般的になります。特に女子は、そのままでは婚嫁先に所領が移ってしまうので、この規定が設けられるようになったようです。櫛梨保地頭職は、島津氏出身の女性たちに一代限りで認められ、死後は総領に返却され、島津家のものとして相続されたことがうかがえます。
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文元年(1356)8月6日に、足利義詮が島津貞久に与えた安堵下文には、櫛無保上村・下村のほか、公文名・光成名が加わっています。ここには公文名とともに貞久に返されるはずの田所名がありませんが、その所有については分かりません。

櫛無郷2
櫛梨(明治39年地形図)

 貞久は、鎌倉幕府が滅亡する2年前の元徳三年(1321)八月九日に嫡子生松丸(宗久)に、薩摩国薩摩郡以下の所領を譲っています。
そのなかに櫛無保については次のように記されています。
さぬきの国くしなし(櫛無)の保上村・下村 此内上殿給ハ、資久一期之後可令知行之
同くもんみよう(公文名)
同みつなりみやう(光成名)
これによると上村・下村のうちに「上殿給」というのがあって、当時は貞久の弟である資久がそれを知行していたことが分かります。そしてこれは「資久一期」のもので、資久の死後は宗久が知行することになっています。しかし、宗久は父貞久に先立って死んでしまいます。 すでに老齢に達していた貞久は、その後二男師久、三男氏久とともに貞治二年(1363)、95歳で亡くなるまで、南北朝動乱を戦い抜くことになります。その混乱の中で、島津家も櫛無保の地頭職を押領され失っていくようです。
以上をまとめておくと
①櫛無郷は延喜式の櫛梨神社一帯に成立した古代の郷である。
②櫛無郷は白川天皇が造営した法勝寺の保に指定され櫛無保となった。
③鎌倉時代の承久の乱後に、櫛無保の地頭職を得たのが島津氏である。
④島津氏は地頭として、領主である法勝寺への「抑留」などを行いないながら、実質的な支配権を獲得していった。
⑤櫛無保は、一時的には女性の一代限りの相続を経ながらも、基本的に島津氏の棟梁が相続して引き継がれて行った。
⑥しかし、南北朝の動乱期に「押領」を受け、島津氏の支配から脱落していく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P

善通寺 生野郷 
善通寺周辺の古代郷    
仲村郷は、平安時代には善通寺の免田か散在していました。それが鎌倉時代になると 一円保に含まれた部分をのぞいて、高野山金剛峰寺の塔頭寺院の一つである一心院の寺領である仲村荘となります。

善通寺寺領 鎌倉時代
良田郷と弘田郷の間が仲村郷

 一心寺について最初に見ておきましょう。
 高野山の登山ケーブルの高野山駅から発車するバスの最初の停留所が「女人堂」です。高野山が女人禁制であった頃は、女性はここより先の立ち入りは許されず、この女人堂からはるかにみえる堂塔を拝んだようです。そこから坂を少し下ったところが一心院谷とよばれているエリアになります。一心院は、鎌倉時代の初期に、行勝上人(1130~1217)によってこの地に建立されました。
高野山一心院
高野山一心院跡
茲に故行勝上人、方丈草庵を当山に結び、(中略)、遂に多年の宿願に依って、忽ち一伽藍を建立す。堂塔、僧坊、鐘楼、経蔵成風の構権を接し、土木の功甍を並ぶ。即ち之を一心院と号す。

また、江戸時代の後期文化年間に和歌山藩が編さんした「紀伊続土記」の記事には次のように記されています。

行勝上人は、妙法蓮華経の五字を形取って五カ坊を建立し、五智を取り合わせて妙智坊、法料坊、進智坊等々と称した。 一心院は五坊の総称であり、その名は坊の近くの一心の字によく似た池にちなんだものだった。


 さらに「続風上記」には、その後の一心院の変遷が次のように記されています。
 五坊のうち妙法違花の四坊は次第にすたれ、経智坊のみ残った。建保五年(1217)に行勝が没すると、貞暁がそのあとを継いで経智坊に住した。貞暁は鎌倉法印ともいわれ、源頼朝の三男で、仁和寺で出家し、勝宝院、華蔵院を領していたが、行勝の徳を慕って高野山に登り彼に師事した。兄の三代将軍実朝が暗殺された後、母の政子が自ら高野山の貞暁を訪れ将軍職につくことをすすめたが、辞して動かなかった。貞暁は貞応二年(1232)寂静院を建立し、それ以後寂静院が一心院を代表することになった。
 
一心院という寺院は、朝廷や幕府などとも親交のあった行勝上人によって創建されたと伝えられているようです。
しかし、実質的な創建者は、源頼朝の三男で鎌倉法印と呼ばれた貞暁のようです。源氏一族が権力闘争の中で次々に命を落とす中で、貞暁は
高野山という世間と隔絶した中で修行に励み、人々の尊崇を集めるようになります。
その晩年には遂に政子も貞暁に帰依し、彼に源氏一族の菩提を弔わせるべく援助・出資を行なうようになります。これを受けて貞暁は、高野山の経智坊に丈六堂という阿弥陀堂を建立、この中に安置した阿弥陀如来座像の胎内に父・頼朝の遺髪を納めて供養したほか、異母弟である3代将軍実朝に対しても五輪塔を設営して追善を行なっています。
【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その3
高野山西室院に残る「源氏三代供養塔」

このように一心院は政子の庇護を受けて源氏の菩提寺として大きな伽藍を誇っていたようです。しかし、
寺院自体は、江戸時代頃にはすでに衰退してしまい、現在は寺院としては存在しません。「一心院口・一心院谷」という地名として残っているのみです。
 大きな威勢をもった一心院(寂静院)は、多くの荘園が寄進されていました。讃岐国多度荘もその一つのようです。しかし、これは荘務権をもった荘園ではなく、安楽寿院領であった多度庄の領家分のうち百石をとり分けて寂静院の寺用に配分するというものでした。そのため地頭の妨げによって運上が思うように行えず、天福2年(1224)になって摂津国武庫下荘がかわりにあたえられることになります。
道勝の奏状は、仲村郷が一心院領となった由来を次のように記します。
茲に仲村郷は、去る建永年中、國司当院に寄付し佛聖以下の寺用に配す。(中略)
件の郷弘法大師経行の地為るに依って、当山領為るの條、由緒有るに依って、代代の宰吏、己に富郷を以って当院領為る可きの由國宣を成すの後、三十餘年を経畢んぬ。
意訳変換しておくと
ここに仲村郷は、建永年中(1206~07)、讃岐国司が一心院に寄付し寺領となった。(中略)
仲村郷は弘法大師生誕の地で、当院の寺領となるのは、その由緒からもふさわしく、代々の国司が仲村郷を当院寺領とする旨の國宣を下した。それから三十餘年を経た。
ここでは、仲村郷は建永年中(1206~07年)に国司によって一心院に寄附されたとあります。「代々の国司が仲村郷が一心院領であることを認めた国宣を発している」とあります。
承久三年(1321)8月の讃岐国司庁宣(寂静院蔵)に、次のように記します。
庁宣一 留守所
早く中村郷を以って、永代を限り、高野一心院御領と為す可き事
右、彼村を以って、永代を限り、 一心院御領と為す可きの状、宣する所件の如し。在庁官人宣しく承知して違失す可からず。以って宣す。
承久三年八月 日
               大介藤原朝臣(花押)
意訳変換しておくと
庁宣  讃岐国司の留守所
中村郷を永代、高野一心院御領となすべきこと。
このことについて、仲村郷を永代に渡って、 一心院御領とすべきことについて、国司の庁宣を下した。讃岐在庁官人は、宣しく承知して違失なきように、よろしく取り扱うこと。以って宣す。
  承久三(1321)年八月 日            大介藤原朝臣(花押)
  讃岐国司庁宣からも一心院領であったことが認められていたことが裏付けられます。
承久三年は、「紀伊続風土記」によれば、貞暁が経智坊に住していたときになります。
しかし、庁宣の文は、すでに与えられている領地を安堵・承認するというより、この時にはじめて中村郷が一心院に寄進されたことを示しています。「続風土記」にも次のように記されています。
「山史、承久三年八月、源義国、讃州中村郷を以って永く、 一心院経智坊に寄附せらると云々」

ここからは中村郷全体が一心院領となったのは、貞暁が一心院を継いだ後のことだったようです。ここに出てくる「源義国」は、当時の讃岐国主と研究者は考えているようです。

朝廷による一心院の仲村郷領有の承認は、どのように行われたのか     延応元(1239)年太政官牒所引道勝の奏状は、次のように続きます。
而して今庄琥の綸旨を下され、向後の牢籠窮迫を断たんと欲す。望み請うらくは天恩、 先例に因り准して、当院を以って御祈願所となし、兼て讃岐国仲村郷を以って永代を限り当院領と為し、四至を堺し一膀示を打ら、 一円不輸の地と為し、伊勢役夫工大嘗会召物以下大小勅院事等、永く皆免ぜられ、而して領家職は、道勝の門跡として相樽せしむべきの由、勅裁を蒙らんことを。

意訳変換しておくと
今、庄琥の綸旨が下され、今後の混乱が起きないように願う。そのため望み請うことは、先例に随って、一心院を御祈願所として、讃岐国仲村郷を永代に渡って当院領とすることを。
 そのために四至を境に膀示を打ち、 不輸不入の地として、伊勢役夫工大嘗会召物など大小勅院事等をすべて免除してされんことを。そして領家職は、道勝の門跡として世襲的に引き継ぐことができるように、勅裁を蒙らんことを。

仲村郷は国司の寄進によって一心院領になりました。しかし、国司が交替すれば、その特権をとり消されるかもしれません。そこで獲得した領有権を永続的なものとするために、次のようなことが誓願されています。
①朝廷に願いでて、 一心院をおおやけの御祈願所にしてもらうこと、
②そして祈願新地の寺領として、仲村郷の荘園化を朝廷に認めさせること
③従来国衛が仲村郷から徴収していた官物雑事、あるいは伊勢遷官や人嘗会の費用などのために課していた国役を一切免除してもらうこと
 こうして獲得した仲村郷の領有権(仲村郷領家職)を、一心院の相伝とするというのがこの奏状の目的のようです。
 この奏請は朝廷によってうけいれられます。延応元年二月の大政官牒は、 一心院を公家御祈願所とするように治部省に指示しています。また同じ日附で、仲村郷の四至を定め膀小(境界のしるし)を打ち、これを高野一心院領とするようにとの官宣旨が讃岐国に下されています。 
 一心院領仲村荘の四至―東西南北の境界線は、次の通りです。
東は吉田、葛原両郷を限り、
西は弘田郷を限り、
南は善通寺一円を限り、
北は三井郷を限る
善通寺寺領 鎌倉時代

一心院の仲村荘領有が朝廷によって承認されてから60年近くを経た永仁4年(1296)11月のことです。
仲村荘の百姓達の申状が、一心院を代表する寂静院にとどけられました。それには次のように記されています。

讃岐國仲村御庄価家御米の内高野運上百姓等謹しみて言上
早く申状の旨に任せて、御成敗を蒙らんと欲す大風損亡の子細の事
件の損亡の子細、先度、御山と云い当御庄と云い一体の御事為るの間、 一紙を言上せしめ候の処、寺用御方目りは、御使両人を差し下され、損亡の実に任せ御計を蒙る雖も、半分の御免除を蒙らずば争(いかで)か安堵せしむ可けん哉の由、重ねて言上せじむる者也。所詮損亡顕然の上は、寺用御方の如く御免除を蒙らんが為め、乃って粗言上件の如し。
永仁四年十一月二日                                  寂静院御方百姓等上
全宗(花押)
有正(略押)
有元(花押)
武安(花押)
真久流丸(略押)
清 量(略押)
意訳変換しておくと

(この永仁四年という年は大風が吹いたため作物に相当の被害があった。)
そこで仲村荘の百姓達は年貢の減免を領主の高野山一心院に願いでた。それに対して、寺用御方からは二名の使者が讃岐に下向してきて、被害実態を調べた上で減免の計らいをした。しかし百姓達は半分(残り半分の寂静院御方)免除も得なければ安堵できないと決議した。そこで、この度は寂静院御方に属する百姓の連名で、寺用御方のごとく免除の処置をしてくれるようお願いしたいと言上した。讃岐國仲村郷の御庄価家御米の内 高野山に運上する百姓等が謹んで言上します。
一度読んだのでは内容がなかなか理解できませんが、この文書からは、仲村荘から納入される領家米は、「寺用御方と寂静院方」のふたつに配分されて納入されていたことが分かります。そのため「寺用御方」分は半額免除になったが、寂静院方については、何ら対応してくれないのでわざわざ高野山まで百姓たち代表7名が出向いて誓願したようです。
研究者が注目するのは「寺用御方」で、これがどこの寺用なのかという点です。
「御山と云い当御庄と云い一体の御事為るの間」とある文を、寺用方と寂静院方とは、御山においても仲村荘の領有においても一体の関係にあることだから、双方への訴えを一紙にまとめて言上したという意味に解するとすれば、両者は密接一体の関係で、寂静院方は寂静院自身の用途、寺用方は一心院全体の寺用にあてて配分支配していたのかもしれません。
また署名している七名の百姓は、寂静院に対して年貢納人の責任者である名主たちでしょう。
名前の下に花押が書かれているのでただの農民ではありません。下人や小百姓を従えた土豪的有力農民なのでしょう。「西讃府志」にのっている中村の小地名のうちに、連署中の名主の名と同じ武安という小字が残っています。仲村の薬師堂周辺で、このあたりに武安が所有していた名田の武安名があったと研究者は推測します。武安から県道をへだてた西南の地域は「土居」と呼ばれ、地頭の屋敷があったとされる所です。このあたりは旧弘田川の伏流水が地下を流れ、出水が多い所です。木熊野神社の周囲にも出水がいくつもあり、これらを水源として稲作が古くから行われていたエリアのようです。

善通寺仲村城2
仲村城跡周辺(善通寺の山城より)

「全讃史」(1828年)には、このあたりに仲行司貞房の居城である仲村城があったと記します。
「外堀」となづけられた出水や土塁、土井の地名も残ります。仲行司貞房といえば、元暦元年(1184)の「讃岐国御家人交名」にでてくる名です。この仲行司貞房、またその子孫が仲村の地頭と推測も出来ますが、異論もあるようです。とにかく地名から推測すると仲村にも地頭がいたようです。善通寺領良田郷などの地頭と同じように、仲村の地頭も自己の領主権の拡大のために荘園領主である心院と対立し、一心院を悩ませたのかもしれません。鎌倉後期の頃には、一心院はまだ被害調査のため使者を派遣しています。ここからは実質的な領主権を、この時期までは確保してことがうかがえます。
善通寺仲村城1
仲村城跡(善通寺市)
 この段階では、仲村荘の百姓の年貢減免要求は、名主による領主への懇願という比較的隠やかな形をとっています。しかし、鎌倉末から南北朝期と時代が下るにつれて、次第に農民の抵抗が拡大強化されていきます。一心院の支配も、対農民体側の免でも経営が困難になっていったと研究者は考えています。
南北朝動乱期の源氏の菩提寺としての一心院・寂静院の立場は複雑です。
 一方で南朝の後醍醐天皇、後村上天皇から戦勝祈願の御祈騰を頼まれているかと思うと、 一方では足利幕府から所領の安堵状や裁許状をもらったりしています。両勢力の間にあって、その地位を保つために苦心したことが想像できます。一心寺に残るこの時期の文書には次のように記されています。
一心院造営新所讃岐國仲村庄以下の事、興行の沙汰を致し、専ら修造せらる可きの由、申す可き旨に候也。偽って執達件の如し。                                           
四月五日                                       権大僧都秀海奉     
謹上 寂静院衆僧御中                                               
意訳変換しておくと
高野山一心院の建物に荒れがめだつようになった。それは造営料があてられていた仲村荘からの年貢納入が思うようでないからである。そこで仲村荘の支配をたてなおし、収入を確保して、院の修造に専念するように寂静院に命ぜられた。

この文書の差出者は権大僧都秀海です。しかし、彼が命令をだしたのではなく、彼の仕えている上級者の命令を受けて、それを寂静院に伝えたもののようです。そうすると仲村荘を管領している寂静院の上に、命令することが出来る上級支配者がいたことになります。またこの文書は、書状形式をとっているため、月日のみで年がないので、いつごろのことか分かりません。
この書状の文面からは、 一心院の仲村荘支配が次第におとろえていることはうかがえます。おそらく南北朝の動乱のうちに、仲村荘は一心院の手を離れていったと研究者は考えています。明徳二年の足利義満の寂静院所領安堵の御教書の中にも仲村庄の名はありません。この地も天霧城の守護代香川氏が戦国大名化を進める中で、侵略押領を受けて消えていったと研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    高野山一心院領仲村庄 善通寺市史592P
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前回は鎌倉時代初期の承元三年(1209)8月に、左大臣で讃岐国守でもある藤原公継(徳大寺公継)が善通寺に、生野郷内の「重光名見作田六町」を善通寺御影堂に納めよという指示を讃岐留守所に出していることをみました。この名田からの収入は、御影堂のためだけに使用せよとの命で、善通寺にとって数少ない自前の収入源になります。これが生野修理免のはじまりです。 それから40年後の宝治3年(1249)2月のことです。
九条道家
九条道家
善通寺にとって大きな意味を持つ寄進が、九条道家によっておこなわれます。
九条道家は4代鎌倉将軍藤原頼経の父親にあたり、当時の朝廷の最大実力者でもあったようです。まずは道家が何者であったのかを彼の事績を年表化して見ておきましょう。

九条道家系図

   九条道家は、第4代将軍藤原頼経の実父です。
1219年 3代将軍・源実朝が暗殺。次期将軍に道家の三男・三寅(当時2歳・後の藤原頼経)
1221年 承久の乱で朝廷方敗北。道家も摂政罷免される。
1225年 北条政子死去。道家の子・頼経が正式に征夷大将軍に任命。
承久の乱後の朝廷では、幕府との関係が深かった岳父の西園寺公経が最大実力者として君臨。
1228年 岳父西園寺公経の信任を受けて関白就任。
1229年 道長の長女(藻璧門院)を後堀河天皇の入内させ、秀仁親王(後の四条天皇)出産。
1232年 後堀河天皇が即位し、道家は外祖父として実権を完全掌握。長男の教実は摂政となっり、九条家は朝廷の最大有力家として君臨
1238年 鎌倉の頼経が上洛して約20年ぶりに父子再会。慈源がわずか20歳で天台座主就任。道家は叔父の大僧正良快を戒師として出家。法名は行恵。「禅閤」として権勢を誇る。
  こうしてみると、九条道家は岳父の西園寺公経のポストを引き継いだ最重要人物であることが分かります。同時に、讃岐国守も引き就いています。そして、岳父の西園寺公経は、弘法大師御影信仰を持ち、善通寺に生野修理免を寄進した人物だったのです。これも引き継いだようです。
 九条道家は、権勢が絶頂にあった宝治3年(1249)2月、讃岐留守所に次のような庁宣は発しています。
庁宣は、次の2つの内容からなります。その第一の部分を意訳で見ておきましょう。
寺領の近辺を憚らず猟をするものが多いので、しばしば猪や鹿が追われて寺の霊場内に逃げこみ、そこで命を落すことがある。浄界に血を流すことは罪業の至りであり、まして寺の近くでの殺生は法によってもとどめられていることである。よって生野郷西畔を、普通寺領に準じ、四至を定めてその内での殺生を禁止する。

 四至とは東西南北四方の境界のことで、殺生禁断が定められた境界は、次の通りです。
東は善通寺南大門の作道を限り、
西は多度三野両郡の境の頸峰の水落を限り、
南は大麻山峰の生野郷領分を限り、
北は善通寺領五岳山南舵の大道(南海道?)を限る
これを地図で示してみる以下のようになります。
善通寺生野修理免2
善通寺生野郷修理免

もちろんこの地域が普通寺の所領になったわけではありませんが、「殺生禁断」エリアという形で寺の支配力を拡げていくための重要アイテムになります。
国司庁宣の2番目の内容は次のようなものです。

善通寺は大師降誕の霊場であるにもかかわらず、年を経て荒れている。そのため殺生禁断を定めた境界内の公田(国所有田)のうち12町を寺の修造料にあてることにする。
 ただし、この地域には、他人に与えられた給田、除田(租税免除の田)などがあるから、それを寺領に混入してはならない。また施人された一二町以外の郷田に対して寺が手を出してはいけない。 一方修理料にあてられた田地に対しては、国衙も本寺も妨げをしてはならず、「只当寺進退と為て、其沙汰致さしむべし」。
 
 ここからは善通寺伽藍修繕のために、生野郷の国衙領12町を善通寺の管理・支配にまかせるとあります。庁宣によると、この寄進は「禅定太閤=出家後の九条道家」の意向であることが分かります。
こうして善通寺は、九条道長によって、生野郷に次の二つの権益を確保することができました。
①国衛領である生野郷内で新しく12町の田地を寺領とすることができたこと。
②生野郷西部に殺生禁断エリアを認められ、寺の支配を拡げていく基盤を獲得したこと。
善通寺寺領 鎌倉時代
善通寺領

しかし、生野修理免は大きな問題を抱えていました。下文には次のように記されています。
但し、①地頭土居給并に②御厩名等は、寺家之を相綺うべからず。

①「地頭土居」というのは、堀内とも呼ばれる地頭の屋敷地です。「土居給」は、その屋敷地に附属して課役が免除された田地で、一般には地頭の支配がもっとも強く及んでいるとされます。ここからは、生野修理免には地頭の屋敷や直営地があったことが分かります。これが善通寺の紛争の相手となります。
 また②「御厩名」は、国衛留守所の役所の一つである御厩の役人の給名田です。これも地頭が兼帯していたようです。このような武士の所領が寺領エリアの中にあったことになります。それに対して「寺家相綺うべからず」と、寺が干渉してはならない治外法権の地とされたのです。
 彼らは国衙領の有力武士であって、寺の支配下にはありません。さらに、地域の豪族として寺領化以前から土地や農民に根強い勢力をもっていたはずです。それまで生野郷を事実上の領地としてきた郷司・地頭にとっては、今回の寄進は、結果的には自分の支配エリアを善通寺に削られたことになります。そのため善通寺に対して、いろいろな示威行為を繰り返したようです。
 これに対して善通寺が頼みにできるのは、寺の領知権を認めた国衛のいわば「お墨付」だけなのです。
しかし、国衛の実質的な支配者は、郷司らの仲間の留守所役人=在庁官人です。具体的には綾氏につながる讃岐藤原氏が大きな力を持ち、生野郷の地頭もその一員だったかもしれません。これでは国衙の保証もあてにはできません。
正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇院宣
正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇院宣
 例えば善通寺側では、正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇に願って「生野郷免田相違あるべからず」という次のような国司あての院宣をだしてもらっています。
当國善通寺申す生野郷免田事、代々の國司庁宣に任せ、向後相違有るべからずの由、早く下知せらるべし者、院御気色此の如し、乃執達件の如し
十二月廿四日                                     宮内卿
讃岐守殿
しかし、この院宣もあまり効果はなかったようで、その後も郷司の侵害は続きます。
弘長三年(1263)年12月になって、国司の調停で、寺と郷司との間で「和与(わよ)」で相方の譲り合いによる和解が成立します。
和与条件をとりきめた留守所下文には次のように記されています。
「且は郷司和与状に任せ、 向後の違乱を停止すべき、 生野郷内善通寺免田山林荒野開資寺領の事」
「宝治二年施人の際の四至を示し、四至の内側になる南大門作道通の西側では、寺領免田はもとより、さきに寺領の内に混じてはならないとされていた他人の給田である社免人土居田等まで「寺家一向進退すべし」として寺の支配下に入れること、
意訳変換しておくと
四至の外側にあたる作道以東に存在する寺の免田(承元二年に施入された田地?)は、四至内の公田ととりかえ(相博)て寺領にまとめること。

このとりきめは結果として、善通寺側に、多くのものをもたらします。その上に以下のようにもあります。
「自今以後、此旨を存し、國使人部丼びに本寺の妨を停止」

ここからは、租税の徴収などのため国の役人が寺領内に入ることや、本寺随心院の干渉をやめさせることが定められたことが分かります。いわゆる不輸不入権を手に入れています。これは寺領発展の大きな武器になります。
生野修理免についての今までの流れを年表化しておきましょう。
①承元3年(1209)8月 生野郷内重光名見作田6町を善通寺郷影堂に寄進
②宝治3年(1249)3月 生野郷西半を善通寺領に準じ殺生禁断として12町を修造料に
③弘長3年(1263)12月 郷司との和与で生野郷西半を「寺家一向進退」の不入の地に
④有岡大池の完成 一円保絵図の作成
⑤徳治2年(1307)11月 当時百姓等、一円保差図を随心院に列参し提出
上の資料を見ると、善通寺の生野郷での免田面積は、①で6町、②の宝治3年に12町になり、40年間で倍になっています。この階段では一円保の水利は「生野郷内おきどの井かきのまた(二つの湧水)」に全面的に頼っていたいたと記されています。13世紀前半には、有岡大池はまだ築造されていなかったようです。
DSC01108
有岡大池と大麻山

 有岡大池の築造時期を、もう少し詳しく紋りこんでおきましょう。
②で免田が、6町から12町に倍増したとはいえ、善通寺が生野郷の一円的な支配権を得たわけではありません。有岡大池は、弘田川を塞き止め、谷間を提防で塞いだ巨大な谷池です。しかも、池自体は生野郷の西半に属しています。有岡大池着手のためには、生野郷での排他的な領域的支配権が確立されなければできません。それが可能になるのは、生野郷司と善通寺の間で和解が成立して、生野郷西半について善通寺の領域支配が確立する必要があります。それを、具体的には③の弘長3年12月以降と研究者は考えているようです。
 この池の築造には、何年かの工事期間が必要になります。それを加えると、有岡大池完成の時期は早くとも1270年前後になります。そして、古代の首長が眠る王墓山古墳や菊塚古墳の目の前に、当時としては見たこともない長く高い堤防を持ったため池が姿を現したのです。これは、善通寺にとっては、誇りとなるモニュメント的な意味も持っていたのでないでしょうか。
それが14世紀初頭に描かれた⑤の一円保絵図には、誇らしげに描き込まれています。
一円保絵図 有岡大池
一円保絵図に描かれた有岡大池

しかし、不輸不入権を得た生野修理免は、それ以後の文書の中には登場しません。史料がないことは、寺領が寺の手をはなれていったことだと研究者は推測します。善通寺の生野郷修理免の支配は、南北朝動乱のうちに周辺武士たちの押領や侵入で有名無実となっていったようです。
一円保絵図 東部
善通寺一円保絵図
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   善通寺 生野郷 
 古代の生野(いかの)郷
古代の生野郷は、現在の善通寺市生野町よりも遙かに広いエリアだったようです。そのエリアは「生野町+大麻町+伏見・有岡」になります。つまり、現在の善通寺市の南部全てが生野郷だったようです。

善通寺 生野町地図
現在の善通寺市生野町(生野郷はこれに「有岡・大麻」を含む)

地名の由来について西讃府志は次のように記します。
「生野ハ茂メシキ野卜云義ニテ 草木ナドノ弥生茂レルヨリ負ル名ナルベシ」

ここからは金倉川の氾濫原で樹木が茂り、周辺部に比べると開発が遅れた地域だったことがうかがえます。「和名抄」では、多度郡七郷の一つとして記されています。訓は伊加乃(いかの).
善通寺寺領 鎌倉時代

中世の生野郷は、伏見・有岡の地域が善通寺領の生野郷修理免となります。
これは善通寺にとっては、初めての自前の寺領を持つことで、経済基盤確立に向けた大きな意味を持つものでした。生野郷が、どのようにして善通寺の寺領となったのかを見ていくことにします。
鎌倉時代の初期、承元三年(1209)8月、讃岐国守は、生野郷内の重光名見作田六町を毎年善通寺御影堂に納めよという次のような指示を留守所に出しています。

藤原公継(徳大寺公継の庁宣
  庁宣 留守所
早く生野郷内重光名見作田陸町を以て毎年善通寺御影堂に免じ奉る可き事
右彼は、弘法大師降誕の霊地、佐伯善通建立の道場なり、早く最上乗の秘密を博え、多く数百載の薫修を積む。斯処に大師の御影有り、足れ則ち平生の真筆を留まるなり。方今宿縁の所□、当州に宰と為る。偉え聞いて尊影を華洛に請け奉り、粛拝して信力を棘府に増信す。茲に因って、早く上皇の叡覧に備え、南海の梵宇に送り奉るに、芭むに錦粛を以てし、寄するに田畝を以てす。蓋し是れ、四季各々□□六口の三昧僧を仰ぎ、理趣三味を勤行せしめんが為め、件の陸町の所当を寺家の□□納め、三味僧の沙汰として、樋に彼用途に下行せしむべし。餘剰□に於ては、御影堂修理の料に充て用いるべし。(下略)
承元二年八月 日
大介藤原朝臣
意訳変換しておくと
 善通寺は弘法大師降誕の霊地で、佐伯善通建立の道場である。ここに大師真筆の御影(肖像)がある。この度、讃岐の国守となった折に私はこの御影のことを伝え聞き、これを京都に迎えて拝し、後鳥羽上皇にお目にかけた。その返礼として、御影のために六人の三昧僧による理趣三昧の勤行を行わせることとし、その費用として、生野郷重光名内の見作田―実際に耕作され収穫のある田六町から収納される所当をあて、その余りは御影堂の修理に使用させることにしたい。 
 ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師太子伝説の高まりと共に、その真影が京の支配者たちの信仰対象となっていたこと、
②国司が御影を京都に迎え、後鳥羽上皇に見せたこと。
③その返礼として、御真影の保護管理のために生野郷の公田6町が善通寺に寄進されたこと

この経過については、仁治4年(1243)に讃岐に配流された高野山の高僧道範が書いた「南海流浪記」にも、次のように記されています。
此御影上洛の事
承元三年隠岐院(後鳥羽上皇)の御時、左大臣殿富國司に立つる間、院宣に依って迎え奉らる。寺僧再三曰く、上古御影堂を出で奉らざるの由、子細を言上せしむと雖も、数度仰せ下さるに依って、寺僧等之を頂戴(うやうやしくささげて)して上洛す。御拝見の後、之を模し奉られ、絵師下向の時、生野に六町免田を寄進すと云々
承元3(1209)年、隠岐院(後鳥羽上皇)の時に、左大臣殿が当(讃岐)国司になった際に、院宣によって(弘法大師御影)が京都に迎えたいとの意向が伝えられた。善通寺の寺僧は再三にわたって、前例がないと丁寧にお断りしたが、絶っての願いと云うことで、うやうやしくささげて上洛した。御拝見の後、御影を模写し、その返礼として生野に六町免田を寄進されたと伝えらる。

「南海流浪記」では、御影を奉迎したのは後鳥羽上皇の院宣によるもので、免田寄進もまた上皇の意向によるとしています。ここが庁宣とは、すこし違うところです。庁宣は公式文書で根本史料です。直接の寄進者は国守で、その背後に上皇の意向があったとしておきましょう。
 この時の国守は誰なのでしょうか?
南海流浪記には「左大臣殿富(当)國司」とあります。「善通寺旧記」では、これを安貞元年(1227)に左大臣で崩じた藤原公継(徳大寺公継) と推定しています。彼が讃岐の知行国主の時のことだったでした。
藤原公継(徳大寺公継
藤原公継(徳大寺公継) 
公継は歌人としても有名で、『古今著聞集』の情報源として、彼のサロンが大きく関わっていたようです。
藤原公継(徳大寺公継)の、寄進についてもう少し見ておきましょう。
  
 
「重光名の見作田陸町を毎年善通寺御影堂に免じ奉る」
「件の陸町の所当を以って寺家に納める」
この文言からすると、この寄進の実際は、重光名の見作田ののうち六町分を毎年善通寺に納めるということのようです。そうすると官物徴収にあたるのは国衛で、善通寺はそれを国衛を通じて受取るだけになります。これでは寺の支配は、直接田地や農民には及ぶことはありません。寺領といっても寺の支配権は弱いままです。

しかし、ここで研究者が注目するのは、納入された官物について、その使用法が善通寺での理趣三味の勤行と御影堂修理料と定められていること、そしてその管理は「三昧僧の沙汰」が行うとされていることです。
 それと対照的に、次のような文言も別の所にはあります。

「凡そ当寺徒らに数十町の免田を募ると雖も、別当以下恣に私用に企て、佛聖燈油年を追って開乏し、門垣棟瓦月を追って頽壊すと云々。事実たらば、尤も以って不営なり」

これは、本寺随心院からやってくる別当が寺領収入の大半を奪い、そのため寺の仏事にも事欠くこありさまであったことを、厳しくいましめています。その対抗策として、国衙によって徴収が保証され、その管理が善通寺僧にまかされたことになります。これは善通寺領の歴史の上で大きな進歩と研究者は評価します。つまり、本寺や讃岐国衙の在庁官人たちによって、搾取されていた財源が上皇や藤原氏によって、保護されたことを意味するからです。
地方寺院である善通寺に対して、どうして格別の配慮が行われたのでしょうか?

弘法大師御影(東寺)
弘法大師御影(東寺)

御影というのは、弘法大師が入唐の時、母公のために自らを画いたと伝えられる自画像のことです。この大師像は、弘法大師が唐に渡る前、母のために御影堂前の御影の池で、自分の姿を写して描いたとされています。鎌倉時代に、土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師の御影」として知られるようになり、信仰の対象にもなります。このような弘法大師御影に対しての天皇や貴族たちの信仰が、本寺からの自立の武器となったようです。そういう意味では、弘法大師御影は、「中世における善通寺の救世主」かもしれないと私は考えています。

弘法大師 誕生 書写3
御影法要

 別の見方をすると弘法大師伝説の中から御影がひとり歩きを始め、それ自体が信仰対象となったことを意味します。こうして善通寺の御影は各地で模写され、信仰対象となります。

木造 弘法大師坐像 | 鹿沼市公式ホームページ

さらに、これが立体化されて弘法大師像が作成されるようになります。こうして弘法大師伝説を持つ寺院では、寺宝のひとつとしてどこにも弘法大師の御影や像があることになります。
弘法大師像

さらに時代が下ると、御影や像を安置するための大師堂が姿をみせるようになります。そして、いまでは弘法大師の石像やブロンズ像が境内のどこかに建っている姿があります。弘法大師御影は、そういう意味では現在にまでつながる信仰の形のようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
       参考文献 善通寺市史 鎌倉時代の善通寺領 生野郷修理免
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善通寺寺領 鎌倉時代
善通寺領
国衙によって集められた随心院の善通寺領一円保は、善通寺と曼荼羅寺の2ヶ所に分かれていました。これは郷でいうと、多度郡の弘田、仲村・良(吉)原の三郷にまたがっていたことになります。そのうち弘田郷から一円保を除いた残りの部分は、藤原定家の所領だったようです。
藤原定家の名言書道色紙「見わたせば花も紅葉もなかりけり、浦のとまやのあきのゆふ暮」額付き/受注後直筆(Y3365) 書道 名言専門の書道家  通販|Creema(クリーマ) ハンドメイド・手作り・クラフト作品の販売サイト

藤原定家といえば、「新古今和歌集」の撰者で、当代随一の歌人として知られている人物です。

東京国立博物館 - コレクション コレクション一覧 名品ギャラリー 館蔵品一覧 明月記(めいげつき)
明月記
定家の日記「明月記」には、寛喜二年(1230)閣正月12日に次のように記されています。
讃州弘田郷の事、彼郷公文男左衛門尉信綱請く可き由申す。何事在る哉の由相門の命有り。左右只厳旨に随うの由答え申しおはん了ぬ。

意訳変換しておくと
讃岐弘田郷の公文の息子左衛門尉信綱が弘田郷の請所を希望しています。どう思うかと相門からきかれたので、相円の意向に随う由を答えた

ここでの登場人物は、「讃岐の信綱・藤原定家・相門」の3人です。「信綱」は弘田郷の請所を希望しています。請所というのは荘園の役人などが領主に対して一定の年貢納入を請負う代りに、領地の管理を任される制度です。信綱は弘田郷の在地武士であることが分かります。
  それでは、定家に相談してきた「相門」とは誰なのでしょうか」

相門とは、貞応2年(1323)まで太政大臣だった西園寺公経のことのようです。公経は、源頼朝の姪を妻にもち、鎌倉幕府と緊密な関係にありました。承久の乱後に幕府の勢力が朝廷でも強まるようになると、太政大臣に任ぜられ権勢をふるうようになります。定家は、公経と姻戚関係にあった上に、短歌を通じたサロン仲間でもあり、その庇護をうけていたことがこの史料からは分かります。

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり - たけじいの気まぐれブログ
           西園寺公経=相門

 定家は信綱の請負を任命する立場で、弘田郷の年貢を受け取る立場で、弘田郷の領主であるようです。が、ここでは相談を受ける立場で、最終決定権は相門(西園寺公経)にあったようです。定家の上には、さらに上級領主として西園寺公経がいたのです。請所選定で、西園寺公経に「信綱でよいか」と相談され「御随意に」と応えたということなのでしょう。
地頭請所

 当時は、請所になると次第に請負った年貢を納めなくなり、実質的に領地を奪ってしまう「悪党」が増えてきた時代です。
ところが信綱は、約束に忠実だったようです。翌年の寛喜三(1231)年正月19日の「明月記」に次のように記されています。

此男相門自り命ぜらるる後、弘田事虚言末済無し。田舎に於ては存外の事歎。                  

意訳変換しておくと
(弘田郷公文の息子信綱)は、相門から請所を命ぜられた後、弘田郷の事に関して虚言なく行っている。田舎においては近頃珍しい人物だ。                  

定家は他の所領で在地武士の押領に手をやいていたようです。讃岐の信綱が約束を守ることに驚いているようにも思えます。弘田郷公文の信綱は、もう一度明月記に登場してきます。

明月記」の寛喜二(1230)年10月14日に、次のように記されています。
  讃岐佛田一村國検を免ぜらる可きの由信綱懇望すと云々。昨今相門に申す。行兼を仰せ遣わし許し了ぬ由御返事有り。

意訳変換しておくと

  讃岐の弘田郷の佛田一村での国衙による検注を免除していただきたいとの願いが請所の信綱からあったので、相門(西園寺公経)に伝えた。行兼を派遣して免除することになったという返事を後ほど頂いた。

 この年の10月に請所となった信綱からの「検注免除」依頼を、西園寺公経に取り次いだところ、早速に免除完了の報告を得ています。「鶴の一声」というやつでしょうか、こういう口利きが支持者を増やすのは、この国の国会議員がよくご存じのことです。
 ここからは弘田郷は、この時点では国衛領であったことが分かります。その国検を免じることができる立場にあった公経は、当時讃岐国の知行国主だったと研究者は推測します。そうすると定家は、知行国主の公経(あるいは道家)から弘田郷を俸禄的に給与されていたことになります。つまり彼の弘田郷領主としての支配権は強いものではなく、現地の信綱から送ってくる郷年貢の一部を受取るだけの立場だったことになります。そのため讃岐の信綱の公文職や請所の任命も、実際は公経が行っていたのです。藤原定家が世襲できるものではなかったのです。定家の弘田郷領主の地位も一時的なもので、長続きするものではなかったと研究者は考えています。

弘田町
善通寺弘田町
以上をまとめておくと
①定家の日記「明月記」の1230年正月の記録には、弘田郷領下職領の請所の任命の記事がある。
②そこからは定家が弘田郷の領下職を持っていたことが分かる。
③しかし、その権利は永続的なものではなく当寺の讃岐国主の西園寺公経から定家が俸給的に一時的に与えられたもので、永続的なものではなかった。
④請所に任じられた弘田郷信綱は信綱は、年貢をきちんと納める一方、国衙の検注免除も願いでて実現させている
承久の乱後に地頭による押領が進む中で、都の貴族たちが年貢徴収に苦労していたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

鎌倉時代の荘園は、つぎのふたつの耕地から成り立っていました。
①荘園領主の直営地
②名主の所有地である名田
このふたつの耕作地は、どのように耕作されていたのでしょうか?
これを善通寺一円保を見ながら考えていきたいと思います。
テキストは「善通寺市史第1集 鎌倉時代の善通寺領409P」です。
一円保絵図 寺作と名田

善通寺一円保絵図

一円保絵図については、以前にお話ししましたので説明は省略します。
善通寺一円保 寺作地

一円保絵図 寺家作地

絵図には「寺家作」と記されている所が何カ所もあります。これが①の「領主の直属地」のようです。寺家作地は一箇所に集中しているのではなくいくつかの坪に分散しています。しかし、よく見ると「寺作」があるのは、絵図の左下に集まっています。
一円保絵図 現地比定拡大
一円保絵図を現在の地図に落としてみると、東南隅が①四国学院

このエリアは現在の②農事試験場から③こどもとおとなの病院のあたりで、弥生時代には善通寺王国の中心地であったことが発掘調査から明らかにされています。また、このエリアの首長墓として最初に造営される野田院古墳の埋葬者の拠点も、このあたりにあったと研究者は考えています。それを裏付けるように、7世紀後半に最初の古代寺院である仲村廃寺が建立されるのも⑥の当たりになります。ある意味では、この当たりは善通寺王国の穀倉地帯でもあった所です。
 ところが絵図をよく見ると、出水から導水された用水路は、このエリアまでは伸びてきていません
  水がなければ水田化はできません。研究者が一円保の水田分布状態を坪毎に示したのが次の表です。

一円保絵図 田畑分布図
一円保の水田化率
これを見ると、左下あたりは、用水路は未整備なのに水田化率が高いことがうかがえます。これはどうしてでしょうか?
農事試験場の出水
農事試験場周辺の古代流路と出水 黒い帯が旧流路
現在は農事試験場をぐるりと回り込むように中谷川は流れています。しかし、古代においては、中谷川には、金倉川も流れ込んだこともあり、川筋は幾筋にも分かれて善通寺王国の中央部を流れていたようです。その流れの間の微高地に善通寺王国は成立していました。そのため現在も農事試験場内の北側には、大きな出水が3つほど残されています。

農事試験場 出水
農事試験場内に残る出水

 また、地元の農事試験場北側の農家の人に聞くと、中谷川周辺は湧水が豊富で、田んぼの水は湧水に頼っていたといいます。それを裏付けるように今でもポンプアップした水が灌漑に使われています。以上から、寺作地の集中する農事試験場周辺は、湧水地があり水には困らないエリアであったと私は考えています。つまり、一円保の中で「一等地」だったのではないでしょうか。そのために、寺家作を農事試験場周辺に集中させていたことを、押さえておきます。

開発領主、名主、田堵の違いを分かりやすく教えてください(;´Д`A10世紀... - Yahoo!知恵袋
名主と荘官・下人との関係
寺家作といっても寺僧たちが自分で鍬をふるい種子をまいて耕作していたのではなく、農民たちが請作していました。この寺家作にまじって「利友」、「末弘」、「国包」などと名が記されているのが名田です。絵図にはこのほか「光貞」、「宗光」、「是宗」、「朝順」、「重次」、「国定」、「吉末」のあわせて10の名田がみえます。しかし、西側の曼茶羅寺側の記載が略されているので、これが全部ではないようです。それぞれの名田も一つにまとまってあるのではなく、寺家作田と同じように分散しています。たとえば、「光貞」の名田は五つの坪に分散しています。
敦賀の中世
名主の位置
名主たちは一円保内で、どんな役割りをもっていたのでしょうか?。
前回見た弘安三年の随心院政所下知状には、その始めの方に次のように記されていました。
所領の沙汰人(下級の荘園役人)や百姓の所職名田畠は、本所随心院の支配するところであって、それを私領と称して勝手に売り渡したのであるから、売人、買人とも処罰さるべきである。

名田は名主の所有地であると云いましたが、これによれば名田は名主が自由に売ったり買ったりできるような私領ではないようです。その支配権はあくまで「本所御進止」、即ち荘園領主随心院の手にあったのです。
それでは名主と名田とは、どんな関係にあるのでしょうか?
下知状のなかほどに、次のように記されています。
本所役と言い寺家役と云い公平に存じ憚怠有る可からずの由申す。然らば彼公文職に於ては真恵相違有る可からず。
意訳変換しておくと
公文名田に賦せられた本所役や寺家役も怠りなくつとめると申してていることだから、公文職は真恵に与えることとする。

真恵は本所役ならびに寺家役という負担責任を果すことで、公文職に任ぜられたようです。これは荘官である公文職のことですが、名主についても同じことが云えるようです。つまり名主とは、基本的には一定地域の年貢および公事の納入責任者として荘園領主から任命されるものなのです。名主が納税の責任を負っている田畠が名田ということになります。名主は、彼の名田を、所有している下人などを使って直営耕作するのがふつうです。しかし、名田全体の耕作を行うのではなく、直営地以外は他の農民に請作させています。

第21回日本史講座まとめ①(鎌倉時代の農村) : 山武の世界史

 名主自身が別の名主の名田を請作している場合もあるようです。
そして、名主は名田内の年貢を取り集めて納入し、また名田単位に課せられる夫役を負担します。その責任を果すために、名田を直営したり、他の農民に割り宛てて請作させたり、名田の用水の使用などを管理したりしていたようです。名主の名田所有とは、こうした名田の経営、管理や、名田内の年貢・公事の徴収といった権限が彼の手にあるということで、土地所有権限までは及んでいなかったことを押さえておきます。
ブログ猫間障子

一円保の耕作者には次の3階層の農民たちがいました。
①名主
②名主に所属する下人
③寺家作地や名田を請作する農民=小百姓
③の小百姓は、下人のように直接名主に隷属していませんが、名田請作や年貢徴収などを通じて名主の支配下にありました。名主は、有力農民が領主によって指名される上層身分です。
名田と名主
国司の徴税請負人化と名田・名主の出現

名主は、 どのようにして生まれたのでしょうか
直接それを明らかにする史料はありませんが、研究者は次のように推測します。
①名主は、もともとは国衛領を請作していた請作農民の流れをくむ
②しかし、請作農民たち全てが名主になった訳ではない。
③名主の先祖は、寺領指定地内に住居を持ち、寺に対して在家役を負担していた農民たちの中で、地位を上昇させた者達である。
国司徴税請負人化

一円保の寺領化について、そこに住んでいた農民たちは、どんな態度をとったのでしょうか?  
①平安時代後期になると、在庁官人などの主導する国衙支配が次第に厳しくなった。
②郡や郷は、郡司・郷司の徴税請負で彼らの所領化となり、そこでの課役、夫役の徴収はますます強化され、農民たちにとっては耐え難いものとなった。
③そこで農民たちは圧政から逃れるために、国衙直営地から支配や負担のゆるやかな荘園に逃げ込んで荘民となった。
このような状況が進む中では、一円保となった所に住んでいた農民たちは、これを国衙支配から脱する好機としてとらえたと研究者は推測します。多度津郡司の綾貞方は、在地領主権を進める上で有利と見て、一円寺領化に協力したことを前回は見ました。同じように農民たちも負担の軽減と地位安定を求めて、東寺―荘園領主側に協力的だったと研究者は推測します。
荘園公領制
荘園公領制
 一方荘園領主である随心院も、有力で協力的な農民を名主に任じ、他の農民たちより優越した身分を与え、荘園支配体制を築こうとしたことが考えられます。このようにみてくると、名主は一円保成立の当初からその内に生活してきた農民たちということになります。
 用水配分に関して本寺の随心院に列参して絵図を提出し、自分たちの要求を訴えた百姓たちの中心も彼らであったのかもしれません。一円保には、名主たちを基本的構成員としてまとまり、共同体があったと研究者は考えています。
一円保絵図 中央部

絵図のなかには、次のような荘官の名も見えます。
①東南部三条七里一〇坪のところにある「田ところ(田所)」
②曼荼羅寺の近くの「そうついふくし(惣追捕使)のりやう所」
 荘官には名主のなかでも特に有力なものが任ぜられます。そして名田には年貢や公事の免除や軽減の特権が与えられていました。彼らの中から在地領主に成長して行く者も現れます。

寄進系荘園

 しかし、善通寺の弘安の政所下知状にみる公文の場合には、その名田畠には本所役、寺家役が課せられていて特権をもっていたようにはみえません。また在地領主として発展している様子もありません。それどころか名田畠を売払い、質に入れて没落していく姿が写ります。公文綾貞方とその子孫たちは、 一円保寺領化のなかで在地領主として成長を目指したのかも知れませんが、それはうまくは行かなかったようです。その前に障害となったのが、在地領主権力(公文綾貞方)が強くなることをきらう本所(荘園領主随心院)と一般名主たちの勢力たちだったのかもしれません。田所や惣追捕使などの実態はよく分かりませんが、彼らも同じような状態に低迷していたと研究者は考えています。名田は、名主の所有地ではなく管理地にすぎないことを押さえてきました。

 年貢滞納などの余程のことがなければ、名主の地位を追われることはないし、子孫相伝も認められます。そうすると次第に私領的性格が強くなって、公文覚願のように名田を売ったり質入れしたりするものもでてきます。このような状態が進めば、 一方で名田を失って没落する名主もふえ、他方では名田を買い集め強大になる名主もでてきてきます。名主層の「不均衡発展と階層分化」の進展です。
 鎌倉時代後期以後、この名主層の両極分解と小百姓の自立化によって、荘園支配体制が解体していきます。随心院領一円保では、政所下知状の終りのところでは、次のように記されています。
今自り以後沙汰人百姓等の名田出等自由に任せて他名より買領する事一向停止す可し。違乱の輩に於ては罪科為る可き也。

ここには、名田の買い集めを禁止してあくまでも従来の支配体制を維持しようとしています。これに対して、在地領主への道をめざす有力名主のなかには、それに反対するものも現われてきます。

文書の端裏に永仁二年(1294)に注記がある伏見天皇のだした綸旨には、次のように記されています。
讃岐國善通寺々僧等申す。当寺住人基綱 院宣に違背し佛聖以下を抑留せるの由、聞し食され候間、厳密仰せ下さるの処、猶綸旨に拘わらず弥以って張行すと云々、自由の企太だ然る可からず候。寺内経廻を停止せらる可き欺、計御下知有る可きの由、天氣候所也。此旨を以って洩申さしめ給う可し。乃って執達件の如し。
六月十二日
少納言法印御房
左大排(花押)
意訳変換しておくと
 善通寺の寺僧たちが、善通寺一円保の住人基綱が、仏に捧げるべき年貢を抑留し、ご祈祷を打ち止めていると訴えてきた。基綱の「自由の企て(勝手な振舞)」は許されないので「寺内の経廻(立ち廻り)」禁止し、寺領から追放せよという綸旨を発した。国衙役人は、ただちにこの綸旨を実行するように

綸旨に「当寺住人基綱」とあるので 、基綱は御家人武士ではありません。おそらく新しく台頭してきた一円保内の有力者でしょう。
 買い集めてきた田畠が随心院の命令で半値で取り返され、発展の道を失った不満が年貢の掠奪や勝手な振舞となって現れたのかもしれません。支配者側から見れば、基綱はまさに悪党とよばれるべき存在です。善通寺から綸旨を示された讃岐守護は、兵を差し向けて基綱を領外に追い払ったことでしょう。
   領主と幕府から追い立てられて行き場を失った悪党たちのなかには、山に入って山賊となり、海に入って海賊となるものが多くいました。正和年中(1313~17)に、讃岐の悪党海賊井上五郎左衛門らが数百騎で東寺領伊予国弓削島荘に討ち入り、合戦をしています。基綱もあるいはその仲間のうちにいたかもしれません。
 鎌倉時代の末期には、中小御家人の窮乏、悪党の活動などで社会は不安と不満にあふれ、一方幕府内では、貞時・高時など得宗とよばれる北条氏の家督相続者に権力が集中し、得宗直臣の御内人と有力御家人との対立が深まって権力闘争が渦巻いていました。そして京都では後醍醐天皇が倒幕の計画を着々と進めていたのです。こうして鎌倉時代の荘園秩序は、次の勢力から大きく揺さぶられるようになります。
①地頭など武士領主の押領
②悪党の活動
③年貢減免などの要求をかかげて闘争する農民
終りに一円保における善通・曼奈羅寺の地位を見ておきましょう。
 一円保は本所随心院の支配が荘官・名主にまでおよんでいたのは、見てきた通りです。そのため善通・曼茶羅寺の一円保支配権(荘務権)は限られたものだったと研究者は考えています。領内の用水管理や国衙や他領との折衝などは善通寺が行っていますが、それも本所である随心院の指導下においてのことのようです。
 弘安の政所下知状によると、保の名田には本所役と寺家役の二種の課役が課せられていますが、本所役は随心院、寺家役は善通・曼荼羅寺に納められたようです。この比率は2:1程度だったと研究者は推測します。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

中世讃岐の荘園をいくつか見てきました。荘園史料は相伝が主で、誰からだれに引き継がれたかは分かっても、その他のことはなかなか分からないようです。荘園経営やそこで活躍する人物像、建造物などを具体的にイメージできる史料にはなかなか出会えません。
庭訓往来
庭訓往来

その中で南北朝時代のころに成立した『庭訓往来』の中には、京都の荘園領主が現地で荘園を運営する荘官に宛てた手紙が載せられています。「庭訓往来』は、字引の性格をもった文例集で、これを手習いすることで奇麗な文字が掛け、手紙も書けるようになるというすぐれものです。そのため読み書きの教科書として江戸時代末まで広く使われました。実際には、ここに書かれているとおりのことを荘官が行っていたわけではありません。しかし、当時の人々が、あるべき荘官の任務をどのように考えていたか、荘園とはどのような場であると思っていたかを知ることはできます。今回は、『庭訓往来』に出てくる荘園の様子を見ていこうと思います。テキストは「榎原雅治     中世の村 室町時代の村  岩波新書158P」です。
荘園の荘官と領家
荘官と領家の関係

領下が荘官に宛てた手紙を、要約しながら抜き出して見ていきます。

  ①早く沙汰人らに命じて、地下日録・取帳以下の文書、済例・納法の注文などを、悉く提出させよ。

「地下日録」「取帳」は土地地台帳の一種で、「済例」「納法」は年貢の納入記録のようです。荘園では、耕地の面積が調査され、年貢の基本額と納税責任者が定められています。そのための調査が正検注になります。この台帳をもとに、天候不順などで百姓から減免要求があれば、実際の作柄を見て、その年の年貢額を決めます(内検注)、そして徴収することが荘官の最大の任務になります。
 荘官には、荘園領主から派遣される場合と、現地の有力者が勤める場合の両方があります。いずれにしても荘園に住む人々と領主を結ぶキーパーソンです。現地を代表して、その意向を領主に伝える場面もあれば、領主の意向を現地で執行する場面もあります。
荘園制度はなぜ成立し、どのように発展し、崩壊したのか?わかりやすく紹介

  荘官に対して、文中冒頭に出てくる「沙汰人」は、現地人で、村の代表者的人物になります。
荘官と沙汰人は、時には協力し、時には領主の代即人と村の代表者という立場からの駆け引きを行いながら、両者で検注を行います。そして基本台帳を作成したり、毎年の作柄や年貢納入状況を記録したりして、帳飾を作成していました。これは領主と百姓の間で交わされたある種の契約事項で、簡単に変更できるものではなかったようです。百姓は納入の義務を負いますが、領主側も勝手に増徴や追徴することはできませんでした。
荘園 惣村沙汰人
惣村のリーダー沙汰人
『庭訓往来』を読み進めて行きましょう。

洪水や早魃にあい用水工事の必要が生じたときには、民の役として堤や井溝を整えさせよ。

荘園の耕地開発は、堤や井満(用水路)の整備が基本になります。洪水や旱魃などに対して、郷村の百姓たちを動員して用水工事を行うのも荘官の役目です。こうしたため池や用水などの潅漑施設の維持管理が、継続して続けられていたことが分かります。

佃・御正作はよい種を選んで百姓に種子を与えよ。鋤や鍬などの農具を貸し与え、梗、襦、早稲、晩稲を作らせよ。畠には土地の様子にあわせて蕎麦・麦。大豆などを植え、桑代を徴収せよ。

「佃・御正作」は領主の直営田で、収穫物のすべてを領主が取得する土地になります。そこには地味の良い場所が選ばれていたようです。また、品種改良の実験場となっていたのではないかと考える研究者もいます。
「鋤や鍬などの農具を貸し与え」るのも、荘官の仕事だったようです。このためには鉄製農具の購入や修理も行わなければなりません。移動する鍛冶屋を定期的に荘園に呼んで、鍛冶仕事を依頼するのも荘官の仕事だったようです。
 「梗、襦、早稲、晩稲を作らせよ」ともあります。
いろいろな食用となる果実などを栽培させると同時に、不作に備えて収穫時期のちがう「早稲、晩稲」の栽培奨励をおこなっていたこともうかがえます。また、田だけでなく、畠の産物や桑のような山の木も課税の対象になっていました。漆、栗、蕨なども荘園からの貫納物として、登場するようです。桑代を徴収せよとも指示されています。

イメージ 1
長者の家(『粉河寺縁起』)

『庭訓往来』は、荘園の政所については、次のように記しています。
  御館の作りは特別の工事は必要ない。四方に大堀を構え、その内に築地を用意せよ。
 南向きには笠懸の馬場、東向きには蹴鞠の坪を設けよ。
 客殿に続いて持仏常を立てよ。……その傍らには蔵・文庫を構えよ。
冒頭に出てくる「御館」とは、荘園の現地を治めるための役所である政所のことです。荘園領主から派遣された代官が現地で政務を執り行う役所です。これは荘官の私宅も兼ねていました。そのため役所といっても、建築的には一般的な農家と変わりない建物であったようです。13世紀中頃、丹波雀部荘では新任の代官が大型の政所を造ろうとして住民に反対されています。

新見荘直務代官 祐清の悲劇と「たまかき書状」 – 東寺百合文書WEB
備中国新見庄の政所図面(東寺百合文書)
上図は15世紀半ばの備中国新見庄にあった京都の東寺の政所図面です。
 ここには地頭方の百姓の一人である谷内の屋敷が描かれています。右側(北側)に主殿、左側(南側)に客殿があります。右側の客殿が地頭方の政所として使用されていたようです。この客殿の周りだけ堀があり、右側の主殿には堀がありません。この堀の遺構が現在も残っているようです。
新見荘地頭方政所

これを見ると『庭訓往来』に書かれたとおり、堀と塀に囲まれた空間に客殿、蔵が設けられています。政所には、一定の防御性と文書・帳簿などの保管庫が必要だったことがうかがえます。また「笠懸の馬場」と「蹴鞠の坪」を用意するように記されています。ここからは政所が荘官の属する武士の文化と、荘園領主の属する公家の文化の混じり合う場であったことを象徴的に示しているようです。

Hine no sh remains The preservationexhibitionand restoration of
荘園の政所
政所は支配の拠点であり、百姓たちの納める年貢の集められる場でもあり、同時に裁判の場でもありました。
播磨西部に斑鳩嶋庄という法隆寺の荘園があります。この荘園の政所で行われていた諸事を書きとめた記録が残されています。それを見ると、荘園内で起こった盗み、殺人、喧嘩などの刑事事件が政所で裁かれ、犯人に対する処罰が行われていたことが分かります。処罰や犯人逮捕にあたっては中間、下部などと呼ばれる役職の人々が執行にあたっています。彼らは、地元の住人の中から「職員」として登用された人たちのようです。
  熊野信仰と四国霊場 : 瀬戸の島から
斑鳩嶋庄
政所は支配のための場だけでなく、交流・社交の場でもありました。
正月には沙汰人や殿原と呼ばれる荘園内の有力者たちが、政所に新年の挨拶に訪れています。また節供や暮れなどには、彼らを招待して食事が振る舞われていました。領主と領民の融和の場としても機能していたようです。政所は、役場であり、警察・裁判所であり、地域の交流施設でもあったことになります。いろいろな機能をもった拠点が政所と云えそうです。
新見荘中世1

  政所の中には、どんな備品があったのでしょうか。
東寺・新見庄の史料には、政所の図とともに備品を書き上げた史料が残されています。そこには、書類や塁、硯などの文具や食器類はもとより、蔵の鍵、流鏑馬用の衣装、馬の爪切り、鍋・釜・臼などの調理道具などが備え付けられていたことが記されています。また椀六十、黒椀五十、折敷十九、畳二十枚などともあるので、政所には多数の人々が集い、会食も行われる場だったことも分かります。米一石、麦八斗、大豆一石、味噌五斗などの食糧も備蓄されています。また『庭訓往来』『式条(御成敗式目)』『字尽』などの書物も、ちゃんと備えられていることになっています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「榎原雅治     中世の村 室町時代の村  岩波新書158P」
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   長尾荘 古代長尾郷
 寒川郡長尾郷
前回に長尾荘について、次のような変遷を経ていることを見ました
①長尾荘は平安末期に興善院に寄進され、皇室関係者に伝領された。
②ただ承久の乱の時に幕府に没収され、領下職は二位家法華堂の所領ともなった。
③南北朝期以降は、二位家法華堂の所領として、醍醐寺三宝院の支配を受けることになった。
14世紀半ばに長尾荘の支配権を握った醍醐寺三宝院は、どのように管理運営を行ったのでしょうか。
今回は、三宝院の長尾荘の支配管理方法を見ていくことにします。テキストは、「山崎ゆり  醍醐寺領讃岐国長尾荘  香川史学16号(1986年)」です。
世界遺産 京都 醍醐寺:三宝院のご案内
醍醐寺三宝院 かつては修験道当山派の本山でもあった

三宝院には、長尾荘についての史料が残っていて、讃岐の在地勢力の動きがある程度見えてくるようです。史料をもとに、長尾荘の所務請負の状況を研究者が整理したのが下表です。(備考の番号は、三宝院文書の整理番号)

長尾荘 長尾荘の所務請負の状況

三宝院の長尾荘史料上の初見は、上図のように観応三(1352)年4月13日付の長尾右衛門尉保守の請文です。ここには、長尾右衛門尉保守が長尾荘の所務を年貢三百貫文で請負ったことが記されています。その内容は、年貢三百貫文を、4月中に50貫文、6月中に30貫文、9月中に50貫文、12月中に170貫文を、分割して納めるというもので、不法憚怠の時は所務を召放たれても文句は言わないことを記されています。長尾右衛門尉保守が、どんな人物なのかは分かりません。しかし、寒川郡長尾郷の長尾をとって姓としているので、土着の豪族であることは想像できます。
 ここからは、三宝院は、南北朝後に支配権を握った長尾荘を、長尾氏を名乗る土着豪族を代官に任命して年貢などの所務を請負わせていたことが分かります。僧侶などを長尾荘に派遣して直接に管理運営を行うと云う方法はとられていません。三宝院支配当初から所務請負制による支配が行われていたことを押さえておきます。
請負代官名の欄を見ると、3種類の層に分類できそうです。
①長尾右衛門尉保守や石河入道浄志、寒川常文のような武士
②緯副寺呂緯や相国寺周興のような寺僧
③沙汰人百姓等という地下人たち
それぞれの階層をもう少し詳しく見ておきましょう
①の長尾右衛門尉保守は土着豪族、石河入通浄志は守護代官、寒川常文は長尾荘の地頭
②の呂緯や周興は、京都にある寺の僧で、利財にたけた荘園管理を専門とするような寺僧
請負代官の任期をみてみると、その任期は短く、ひんばんに交代が行なわれています。
たとえば応永二(1396)年から応水八(1401)年までの6年間に、毎年かわりばんこに6人の代官が務めています。石河入道浄志などはわずか2カ月で交代しています。

どうして短期間に、代官が次々と交替しているのでしょうか?
研究者は、次のように考えているようです。
石河入道浄志2ケ月で交代させられているのは、沙汰人百姓等か請負った年貢額の方が銭に換算すると、石川人道が請負った二百貫文より多かったためのようです。三宝院は、より多くの請負額を提示するものがあれば、簡単に代官を交代させていたことになります。
 ところが石河入道浄志に替わった沙汰人百姓等も、その年のうちに堅円法眼に交代しています。堅円法眼も翌年には相国寺の僧昌緯に交代します。沙汰人百姓等、堅円法眼の交代の理由は、よく分かりません。ただ応永三(1396)年の年貢の教用状がからは、年貢未進により交代させられたと研究者は推測します。
 昌緯は応永四(1397)年と翌年の代官をつとめて交代。昌緯の改替理由もやはり年貢未進。未進の理由は、昌緯の注進状によると、地頭や沙汰人、百姓等の抵抗により下地が掠め取られて年貢の徴収が不可能であると記されています。
 そこで次は、300貫文で請負うと申し出た地頭寒川氏に交代
寒川氏は応永6(1398)年から3年代官を務めて相国寺の僧周興味に交代、寒川氏交代の理由は、寒川氏が年貢三百貫が高すぎるので250貫目にまけろと要求してきたためのようです。以上から、ひんぱんな代官交代の理由には、代官の年貢未納入があったことが分かります。

 年貢未納入の背景にあったものは何なのでしょうか?
①代官自身による押領
②地下百姓等の領主支配に対する抵抗
を研究者は指摘します。領主三宝院は何とか年貢を確保しようと、ひんばんに代官を交代させます。しかし、長尾荘をめぐる現地の動きに対応しきれていないようです。困ったあげくに、管理を委ねたのが地元の実力者である地頭の寒川氏ということになるようです。
 地頭寒川氏は昌緯の注進状によれば、それまでも沙汰人や百姓等と結託して、代官や領主三宝院に抵抗しているその張本人でもあります。領主の三宝院は、地頭寒川氏を代官に任じることの危険性を分かっていながらも、寒川氏の力にたよるより他に道がなかったようです。そして、応永八(1401)年以後の史料は、1410年までありません。これについては、後に述べることにします。
 応永17(1410)年、再び寒川氏が260貫文で請負って、永享12(1440)年、寒川氏の要求で、260貫文からが210貫文に引き下げられています。
この時に領主の三宝院は、寒川氏に次のように申し入れています
「雖然今度別而被申子細候間、自当年詠二年五拾貫分被閣候、働弐価拾貫候、(中略)
年々莫大未進候、百四十貫外被閣候、然而向当年請口五十貫被減少候、労以如御所存被中成候、自当年自今以後事相構不可有御無沙汰候」
ここには、次のようなことが記されています。
①寒川氏が年々多額の年貢未納入続けていること
②にもかかわらず、その未進分の帳消しにし、
③その上で寒川氏の要求をきき入れて50貫文引き下げていること
ここからは、寒川氏に頼らなければ長尾荘の支配ができなくなっていることが分かります。三宝院には、これ以後の長尾荘に関する文書は残っていません。長尾荘がこの頃から実質的に、寒川氏の支配下に入ってしまい、三宝院の支配は及ばなくなってしまったことを示すようです。
長尾庄をめぐる守護や地頭、農民たちの動きをもう少し詳しく見ていくことにします。
  応永四(1397)年に請負代官に補任された相国寺の僧昌緯は、荘園請負人のプロであったようです。彼が三宝院に提出した注進状には、当時の長尾庄をめぐる様子が記されています。契約した年貢が納められない理由として、注進状は次のような問題を挙げています。
地頭・沙汰人らが73町余りの土地を「除田地」として、年貢納入を拒否している。除田とする根拠は、地頭・公文・田所・下司などの「給田」「土居」「山新田」「折紙免」などである。しかも地頭土居内の百姓までもが、守護役に勤仕するといって領家方に従わず、領家方の主だった百姓26人のうちの三分の一は、地頭に従えばよいといって公事を勤めようとしない。領家方の百姓は年貢を半分ばかりだけ納入して、他は免除されたと云って納めようとはしない。さらに年貢・公事は本屋敷の分のみ納入して、他は新屋敷の分と号して納めようとしない。
 さらに守護代官と地頭は、領家方進上の山野などを他領の寺へ勝手に寄進してしまっている。この結果、下地・年貢・公事が地頭や沙汰人にかすめ取られて、領地支配が行えず、年貢も決められた額を送付できないない状況になっている
ここからは、地頭とぐるになって、除田地と称して年貢・公事の負担を拒んでいる荘官や、領家方に従おうとしない百姓たちの姿が見えてきます。地頭の煽動と強制の結果、そのような行動をとったとしても、百姓の中には、三宝院に対する反荘園領主的気運が高まっていたことが分かります。
昼寝山(香川県さぬき市)
寒川氏の居城 昼寝城の説明板

そして登場してくる地頭の寒川氏のことを、見ておきましょう。
寒川氏は、もともとは寒川郡の郡司をしていた土着の豪族で、それが武士団化したようです。細川氏が讃岐守護としてやってきてからは、その有力被官として寒川郡の前山の昼寝城に本城をかまえて、寒川・大内二郡と小豆島を支配していました。長尾荘 昼寝城
寒川氏の昼寝城と長尾荘
 寒川氏の惣領家は、細川氏に従って畿内各地を転戦し、京と本国讃岐の間を行き来していたようです。
先ほどの表の中に、応永年間(1410)年頃に長尾荘の地頭としてその名がみえる寒川出羽守常文・寒川几光は、惣領家の寒川氏です。 同じころに山城国上久世荘で公文職を舞板氏と競っていた人物と同一人物のようです。山城の上久世荘で常文は、管領に就任した細川満元の支持を受けて、一時期ではありますが公文職を手にしています。長尾荘での寒川氏の領主化への動きも、守護細川氏の暗黙の了解のもとに行われたと研究者は推察します。
 在地の地頭の周辺荘園への侵略・押領は、守護の支持の上でおこなわれていたことが、ここからはうかがえます。これでは、京都にいて何の強制力ももたない醍醐寺三宝院は、手のうちようがないのは当然です。ここでは、細川氏の讃岐被官の有力者たちが讃岐以外の地でも、守護代や公文職などを得て活躍していたことも押さえておきます。

 百姓たちの反領主的な動きは、百姓の権利意識の高揚が背景にあったと研究者は考えています。
その抵抗運動のひとつを見ておきましょう。
 研究者が注目するのは、相国寺の僧・昌緯が長尾庄の代官に補任される前年の応永3(1396)年のことです。この年に、一年だけですが「沙汰人百姓等による地下請」がおこなわれています。この地下請は、さきに300貫文で請け負った守護代官石河入道をわずか二ヵ月後に退けて、沙汰人百姓等が年貢米400石、夏麦62石、代替銭25貫文で請け負ったものです。
 さらに昌緯が注進状で地頭や沙汰人等が年貢をかすめとっていると訴えた2ヵ月後に、百姓の代表の宗定と康定の二人は、はるばると上洛して三宝院に直訴しています。そして、百姓の未進分は、34石のみで、その他は昌緯が押領していると訴えているのです。昌緯の言い分が正しいのか、百姓等の言い分が正しいのかは分かりません。しかし、地下請が一年だけで終わり、百姓等の代表が上洛した後に、三宝院は、次のような記録を残しています。
  去年去々年、相国寺緯副寺雖講中之、百姓逃散等之間、御年貢備進有名無実欺

意訳変換しておくと
去年・去々年と、相国寺の僧・昌緯の報告によると、百姓たちが逃散し、年貢が納められず支配が有名無実になっている。

ここからは昌緯の報告のように、百姓の側は逃散などの抵抗を通じて、三宝院の荘園支配に対して揺さぶりをかけていたことがうかがえます。沙汰人百姓等の動きの背景には、村落の共同組織の成長と闘争力の形成があったと研究者は指摘します。

このような状況の中で、寒川氏による地頭請が成立するようです。
 三宝院は最後の手段として、祈るような気持ちで寒川氏に長尾の支配を託したのかもしれません。しかし、寒川氏の荘園侵略は止むことがなかったようです。 ついに三宝院は「公田中分」に踏み切ります。この「公田中分」については、よく分かりませんが結果的には、三宝院は、長尾荘の半分を失っても残り半分の年貢を確実に手にしたいと考えたようです。
しかし、どんな事情によるものか分かりませんが、応永16(1409)年に、「公田中分」は停止され、もとのように三宝院の一円支配にもどされます。そして、再び寒川氏が請負代官として登場するのです。三宝院は「年々莫大未進」と記した文書を最後に、永享12(1440)年以降、長尾荘に関する文書を残していません。これは三宝院領長尾荘の実質的に崩壊を示すものと研究者は推察します。
 このような動きは、長尾寺にも波及してきたはずです。
それまでの保護者を失い、寒川氏の保護を受けることができなかった長尾寺の運命は過酷なものであったはずです。阿波三好勢や長宗我部氏の侵入以前に、長尾寺は衰退期を迎えていたことがうかがえます。

以上をまとめておきます
①室町初期の長尾荘では、寒川氏が職権を利用して醍醐寺三宝院の長尾荘を押領した
②寒川氏は、周辺荘園を横領することで地頭から在地領主への道を歩んでいた。
③また百姓たちは惣結合を強めて、年貢未進や減免闘争、請負代官の拒否や排除・逃散などの抵抗行動を激化させていた。
④このような長尾荘の動きに、領主三宝院はもはや対応できなくなっていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは、「山崎ゆり  醍醐寺領讃岐国長尾荘  香川史学16号(1986年)」です。

     長尾荘 古代長尾郷
寒川郡長尾郷周辺
 長尾荘は、寒川郡長尾郷を荘域とする荘園です。まずは、長尾・造田の立荘文書から見ていきましょう。
『伏見宮御記録』所収文書 承元二年(1208)閏四月十日後鳥羽院庁下文案
 院庁下す、讃岐国在庁官人等。
早く従二位藤原朝臣兼子寄文の状に任せ、使者国使相共に四至を堺し膀示を打ち、永く最勝四天王院領と為すべし、管寒河郡内長尾 造太(造田)両郷の事
   東は限る、石田並に神崎郷等の堺
南は限る、阿波の堺
西は限る 井戸郷の堺
北は限る 志度庄の堺
意訳変換しておくと
 後鳥羽院庁は、讃岐国の在庁官人に次の命令を下す。
  早急に従二位藤原朝臣兼子寄文の指示通りに、寒河郡内長尾と造太(造田)の両郷について、使者と国使(在庁官人)の立ち会いの下に、境界となる四至膀示を打ち、永く最勝四天王院領の荘園とせよ。境界線を打つ四至は次の通りである
  東は限る、石田並神崎郷等の境。
  南は限る、阿波国の境。
  西は限る 井戸郷の境
  北は限る 志度庄の境
「伏見宮御記録」は、かつての宮家、伏見宮家関係の記録です。伏見宮家は音楽の方の家元で、楽譜の裏側にこの文書が残っていたようです。鎌倉時代初めのもので承元二年(1208)、「寒河郡内長尾・造太(造田)両郷の事」とあって、大内郡の長尾と造田の両郷を上皇の御願寺の荘園にするという命令を出したものです。これが旧長尾町の町域となります。造田は、同じ時に最勝四天王院領となったので、いわば双子の荘園と言えそうです。

長尾荘は平安時代後期に皇室領荘園になり、南北朝期以降は醍醐寺宝院の支配下に入ります。三宝院には、長尾荘についての比較的豊富な史料が残っていて、支配の様子や讃岐の在地勢力の動きがある程度見えてくる荘園のようです。今回は、長尾荘について、その成立から三宝院の寺領になるまでを、追いかけて見ようと思います。テキストは、「山崎ゆり  醍醐寺領讃岐国長尾荘  香川史学16号(1986年)」です。

醍醐寺三宝院の支配に入る以前の長尾荘について、見ておきましょう。三宝院支配以前の長尾荘について記した文書は、次の二通だけのようです。
①長尾荘の初見文書でもある正応元(1288)年8月3日付の関東御教書
②喜元4(1306)年6月12日付の昭慶門院御領日録案

①の関東御教書では、前武蔵守(北条宣時)と相模守(北条貞時)が、越後守(北条兼時)と越後右近大夫将監(北条盛房)両名に、「二位家法華堂領讃岐同長尾庄」を下知状を守りよろしく沙汰するようにと申しつけたものです。この文書により、長尾荘か鎌倉後期の正応年間(1288)年頃に、二位家(北条政子の法華堂)の所領であったことが分かります。
②の昭慶円院御領同録案からは、長尾荘が興善院の所領であり、長尾庄を含む17ケ庄は「別当惟方卿以下寄付」によるものであることが分かります。興善院は鳥羽天皇の御願寺である安楽寿寺の末寺で、民部卿藤原顕頼の建立寄進になります。荘園寄進者の「別当惟方卿」は藤原惟方のことで、藤原顕頼の息子で、12世紀中頃の人物のようです。したがって、長尾荘は寄進者はよく分かりませんが、平安末期に興善院に寄進され、鎌倉末になっても興善院領として伝領されていたことが分かります。
以上の二つの文書からは、
①長尾荘は平安末期に興善院に寄進され、鎌倉末期に至っても皇室に伝領されていること
②一方で、鎌倉後期には二位家法華堂の所領ともなっていたこと
そして南北朝期以降は、二位家法華堂の所領として醍醐寺三宝院の支配を受けることになるようです。どうして鎌倉の法華寺の所領を、京都の醍醐寺三宝院が管理するようになったかについては、後ほど見ることにします。ここでは、文書には「二位家法華堂領」長尾荘として記載されてること。正確には「鎌倉二位家・右大臣家両法華堂領」長尾荘になること。つまり、長尾荘は二位家と北条政子と右大臣家(源実朝)のそれぞれの法華堂の共通した所領だったことを押さえておきます。長尾荘は、北条政子を供養するための法華堂の寺領だった時もあるようです。そして、幕府はこれを保護するように命じています。

では北条政子や源実朝の法華堂はいつ、どこに建立されたのでしょうか。
実朝の法華堂について、吾妻鏡に承久三(1221)年2月27日条に、次のように記します。
「今朝、於法華堂、修故右大臣第二年追善、二品沙汰也」

ここからは、政子が実朝の3年目の追善供養を法華堂で行ったことが分かります。
政子の法華堂については、吾妻鏡の嘉禄二(1226)年4月4日条に、次のように記されています。
②「如法経御奉納、右人将家、右府将軍、二品、三ケ之法華堂各一部也」

ここからは四代将軍頼経が頼朝、実朝、政子のそれぞれの法華堂に、如法経を奉納したことが分かります。
 実朝は承久九(1219)年、拝賀の儀を行った際、甥の公暁に殺され、その遺体は勝長寿院の境内に葬られます。一方、政子は嘉禄元(1225)年に亡くなりますが、その一周忌は同じ勝長寿院で行われているのでので、やはり政子も勝長寿院の境内に葬られたと研究者は考えています。

長尾荘 源氏の菩提寺でであった勝長寿院跡
源氏の菩提寺でであった勝長寿院跡 

   勝長寿院は頼朝が父義朝の恩に報いるために鎌倉の地に建立した寺で、義朝の首が葬られており、義朝の基所となった寺でもありました。そして、のちには実朝、政子も葬られ、源氏の菩提寺となった寺です。
   以上から実朝の法華堂は遅くとも承久三年(1221)までに、政子の法華寺は嘉禄二(1226)までに、それぞれの墓所のある勝長寿院の境内に建立されたと研究者は考えています。
廃寺となった幻の寺(勝長寿院)(Ⅱ) | 鎌倉の石塔・周辺の風景

平安末頃に興善院に寄進された長尾荘が、鎌倉の勝長寿院の境内に建立された法華堂の所領となったのは、どんな事情があったのでしょうか。
それを解くために、興善院の所領がどのように伝領されていったかを見ておきましょう。
①鳥羽上皇より女八条院に譲られ、鳥羽上皇没後は後白河天皇の管領下に入った。
②八条院から後鳥羽天皇女春華門院へ、
③次いで順徳天皇に伝わり後鳥羽上皇が管領
④承久の乱で一時幕府に没収されたが、すぐに後高倉院に返還
⑤その後、その女安嘉門院の所領となり
⑥亀山上皇女昭慶門院の所領となって亀山上皇の管領に帰し、
⑦南北朝期まで大覚寺統の所領として伝領
なかなか出入りがあって複雑ですが、基本的に長尾庄は皇室領で皇室関係者の所領になっていたことが分かります。その中で注目したいのは④の承久の乱で幕府に没収されていることです。この時に、長尾荘は実朝の法華堂に寄進されたことが分かります。幕府はある一定の権利を留保した上で皇室に長尾荘を返還したと研究者は考えています。
以上を要約すると次のようになります
①長尾荘は平安末期頃に、興善寺に寄進されて皇室領荘園となった
②しかし承久の乱で幕府に没収された。
③幕府によりその「領家職」が右大臣家法華堂に寄進され、上位の所有権である「本家職」が再び皇室に返還された
  ここに本家を皇室(興善院)、領家を右大臣家法華堂(のちには二位家。右大臣家両法華堂)とする長尾荘が成立し、南北朝期になるようです。
南北朝期に入ると、興善院領を含む大覚寺統の所領は、後醍醐天皇の建武の新政の失敗により室町幕府に没収されてしまい、多くの荘園は散逸してしまいます。しかし、長尾荘は二位家・右大臣家法華堂領として醍醐寺三宝院の管領下に入って存続します。その背景には、ある人物の存在があったようです。
長尾荘 三宝院門跡の賢俊
三宝院門跡の賢俊
長尾荘が三宝院の管領下に入ったのは、三宝院門跡の賢俊が貞和三(1347)年に鎌倉の法華堂の別当職を兼ねていたためのようです。
長尾荘 三宝院門跡の賢俊2
賢俊の年譜 左側が賢俊の年齢、右側が尊氏の年齢

賢俊は、建武三年(1336)二月に尊氏が九州に敗走する途中に、「勅使」として北朝の光厳上皇の院宣をもたらしたした僧侶です。これによって、尊氏は「朝敵」となることを免れます。当時の尊氏は、後醍醐天皇への叛旗を正当化するために北朝の承認を欲しがっていました。その証しとなる院宣の到来は、尊氏の政治・軍事上の立場に重要な転機をもたらします。 
 その功績を認められて賢俊は醍醐寺座主に補任され、寺内の有力院家を「管領」(管理支配)するようになり、寺内を統括する立場を強めていきました。寺外においても真言宗の長官である東寺長者、足利氏(源氏)の氏社である六条八幡宮や篠村八幡宮の別当にも任じられ、尊氏の御持僧として、尊氏や武家護持のために積極的に祈祷を行っています。また尊氏の信頼も厚く幕政にも関与し、多くの荘園を与えられて権勢を誇った僧侶でした。その三宝院門跡の賢俊が、鎌倉の法華堂の別当職を兼ねていたようです。
醍醐寺:三宝院 唐門 - いこまいけ高岡
醍醐寺三宝院

そのため法華堂の寺領である長尾荘は、幕府に没収されることなく、醍醐寺三宝院の支配下に入れられたようです。こうして、三宝院による長尾寺支配が14世紀の半ばからはじまるようです。その支配方法については、次回に見ていくことにします。
以上をまとめておくと
①長尾荘は平安末期に興善院に寄進され、皇室関係者に伝領された。
②ただ承久の乱の時に幕府に没収され、領下職は二位家法華堂の所領ともなった。
③南北朝期以降は、二位家法華堂の所領として、醍醐寺三宝院の支配を受けることになった。

長尾荘の支配拠点のひとつとして機能するようになるのが長尾寺ではないかと私は考えています。
歴代の長尾寺縁起は、以前にお話ししたように①から②へ変化していきます。
①中世は、行基開基・藤原冬嗣再興」説
②近世になると「聖徳太子・空海開基」説
その背後には、高野聖たちによる弘法大師伝説や大師(聖徳)伝説の流布があったことがうかがえます。どちらにしても、この寺の縁起ははっきりしないのです。
長尾寺周辺遺跡分布図
長尾寺周辺の遺跡分布図

  ただ、考古学的には境内から古瓦が出土しています。この古瓦が奈良時代後期から平安時代にかけてのものであることから、8世紀後半頃にはここに古代寺院があったことは事実です。さらに付近には南海道も通過し、条里制遺構も残ります。古代からの有力豪族の拠点であり、その豪族の氏寺が奈良時代の後半には建立されていたことは押さえておきます。
 長尾寺の一番古い遺物は、仁王門の前にある鎌倉時代の経幢(重要文化財)になるようです。
明倫館書店 / 重要文化財 長尾寺経幢保存修理工事報告書
長尾寺経幢 (きょうどう)(弘安六年銘)

経幢は、今は石の柱のように見えますが、8角の石柱にお経が彫られた石造物で、死者の供養のために納められたものです。お経の文字は、ほとんど読めませんが、年号だけは読めます。西側のものには「弘安第九天歳次丙戌五月日」の刻銘があるので弘安6年 (1283)、東側のものが3年後1286年とあります。
1長尾寺 石造物
             長尾寺経幢 

そして、正応元(1288)年8月3日付の関東御教書からは、長尾荘がこの頃に、
二位家(北条政子の法華堂)の所領となっていたこと見ておきました。つまり、経幢が寄進されたのは長尾荘が鎌倉の法華堂寺領となっていた時期に当たります。
 建てられた経緯など分かりませんが、モンゴル来寇の弘安の役(弘安4年)直後のことなので、文永・弘安の役に出兵した讃岐将兵の供養のために建立されたものという言い伝えがあるようです。
 さらに「紫雲山極楽寺宝蔵院古暦記」には、弘安4年に極楽寺の住職正範が寒川郡神前・三木郡高岡両八幡宮で「蒙古退散」祈祷を行ったことが記されているようです。もし、これが事実であるとすれば、文永・弘安の役に際に建立されたと言い伝えられる経幢の「補強史料」になります。
長尾寺経幢 (ながおじきょうどう)(弘安六年銘)
             長尾寺経幢

 これを建立したのは地元の武士団の棟梁とも考えられます。
そうだとすれば寄進者は、長尾荘が北条政子をともらう法華堂の寺領であることを知った上で、この地域の信仰センターとして機能していた長尾寺に建立したのではないかと私は推測します。長尾寺は、長尾荘支配のための拠点センターに変身していったのではないかと私は思うのです。
 長尾寺の境内や墓地には、五輪塔など室町時代にさかのぼる石造物が残されているようです。そこからは、中世の長尾寺が信仰の拠点となっていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献

    平安時代末期の11世紀中期以降になると、郡・郷のほかに保・名・村・別符その他の称号でよばれる「別名」という所領が姿を見せるようになります。つまり、郡郷体制から「別名」体制に移行していくのです。この動きは、11世紀半ばの国制改革によるもので、一斉に全国に設置されたのでなくて、国政改革以後に漸次、設置されたとされていったようです。
それでは、讃岐には、どんな「別名」が設置されたのでしょうか?
讃岐の「別名」を探すには、嘉元四(1306)年の「昭慶門院御領目録案」がいい史料になるようです。
讃岐国
飯田郷  宝珠丸 氷上郷 重方新左衛門督局
円座保  京極準后     石田郷 定氏卿 
大田郷  廊御方    山田郷 廊御方
粟隅郷  東脱上人  林田郷 按察局
一宮   良寛法印秀国  郡家郷 前左衛門督親氏卿
良野郷  行種    陶 保 季氏
法勲寺  多宝院寺用毎年万疋、為行盛法印沙汰、任供僧
三木井上郷 冷泉三位人道
生野郷 重清朝臣    田中郷 同
「坂田勅旨行清入道、万五千疋、但万疋領状」
梶取名 親行    良野新           
万乃池 泰久勝    新居新          
大麻社 頼俊朝臣    高岡郷 行邦
野原郷 覚守    乃生 行長朝臣
高瀬郷 源中納言有房 垂水郷 如来寿院科所如願上人知行
ここに出てくる地名を見ると、それまでの律令体制下の郷以外に、それまではなかったあらたな地名(別名)が出てきます。それが「円座保  陶保 梶取名 良野新名 新居新名 乃生浦 万乃池」などです。これらの別名の成立背景を、推察すると次のようになります。
乃生浦は海辺にあって、塩や魚海などを年貢として納める「別名」
梶取名は、梶取(輸送船の船長)や船首など水運関係者の集住地
良野新名・新居新名は、本村に対して新たに拓かれた名
万乃池(満濃池)は、源平合戦中に決壊した池跡に、新たに拓かれた土地
それでは、円座保・陶保とは、何なのでしょうか。
今回は、この二つの保の成立背景を見ていくことにします。テキストは「羽床正明 陶・円座保の成立についての一考察 香川史学 第14号(1985年)」です。

11世紀になると「別名」支配形態の一つとして「保」が設けられるようになります。
保の成立事情について、研究者は次のように考えているようです。
①竹内理二氏、
保の中には在地領主を公権力に結集するため、国衙による積極的な創出の意図がみられる
②橋本義彦氏、
大炊寮の便補保が年料春米制とつながりをもちつつ、殿上熟食米料所として諸国に設定されていった
③網野義彦氏、
内蔵寮が御服月料国に対する所課を、国によって保を立てて徴収している。そのほか内膳保・主殿保など、官司の名を付した保は各地に存在している
 以上からは、は保の中には、国衛や中央官司によって設定されたものがあること分かります。

讃岐の国では、陶保・円座保・善通寺・曼荼羅寺領一円保・土器保・原保・金倉保などがありました。この中で、善通寺・曼荼羅寺領一円保については、以前にお話したように古代以来、ばらばらに散らばっていた寺領を善通寺周辺に集めて管理し、財源を確保しようというものでした。そして、保延4年(1138)に讃岐国司藤原経高が国司の権限で、一円保が作られます。それでは、陶保と円座保は、どのようにして成立したのでしょうか


十瓶山窯跡支群分布図1
十瓶山(陶)窯跡分布図

陶保の成立から考えてみることにします。
陶保がおかれた一帯は、現在の綾川町の十瓶山周辺で奈良時代から平安時代にかけて、須恵器や瓦を焼く窯がたくさん操業していたことは、以前にお話ししました。
平安時代に成立した『延喜式』の主計式によると、讃岐国からは次のような多くの種類の須恵が、調として中央へ送ることが義務づけられていたことが分かります。
「陶盆十二口、水盆十二口、盆口、壺十二合、大瓶六口、有柄大瓶十二口、有柄中瓶八十五口、有柄小瓶三十口、鉢六十口、碗四十口、麻笥盤四十口、大盤十二口、大高盤十二口、椀下盤四十口、椀三百四十口、壺杯百口、大宮杯三百二十口、小箇杯二千口」

これらの「調」としての須恵器は、坂出の国衙から指示を受けた郡長の綾氏が、支配下の窯主に命じて作らせて、綾川の水運を使って河口の林田港に運び、そこから大型船で畿内に京に納められていたことが考えられます。
須恵器 編年表3
十瓶山窯群の須恵器編年表
 十瓶山(陶)地区での須恵器生産のピークは平安中期だったようですが、11世紀末までは、甕・壷・鉢・碗・杯・盤などの、いろいろな器種の須恵器の生産が行なわれいたことが発掘調査から分かっています。
ところが十瓶山窯群では12世紀になると、大きな変化が訪れます。
それまでのいろいろな種類の須恵器を生産していたのが、甕だけの単純生産に変わります。その他の機種は、土師器や瓦器に置き換えられていったことが発掘調査から分かっています。その中でもカメ焼谷の地名が残っている窯跡群は、その名の通り甕単一生産窯跡だったようです。
十瓶山 すべっと4号窯跡出土3

 十瓶山(陶)窯群が綾氏が管理する「国衙発注の須恵器生産地」という性格を持っていたことは以前にお話ししました。陶保は平安京への須恵器を生産するための「準官営工場」として国衙直結の「別名」になっていた研究者は考えています。
そのよう中で窯業の存続問題となってくるのが燃料確保です。
「三代実録』貞観元年4月21日条には、次のように記されています。
河内和泉両国相争焼陶伐薪之山。依朝使左衛門少尉紀今影等勘定。為和泉国之地。

  意訳変換しておくと
河内と和泉の両国は焼須恵器を焼くための薪を刈る薪山をめぐって対立した。そこで朝廷は、朝使左衛門少尉紀今影等に調査・裁定をさせて、和泉国のものとした。

ここからは、貞観年間(859―876)の頃から、須恵器を焼く燃料を生産する山をめぐっての争いがあったことが分かります。
十瓶山窯跡支群分布図2

このような薪燃料に関する争いは、須恵器の生産だけでなく、塩の生産にもからんでいました。
筑紫の肥君は、奈良時代の頃から、観世音寺と結んで広大な塩山(製塩のための燃料を生産する山)を所有していました。讃岐の坂本氏も奈良時代に西大寺と結託して、寒川郡鴨郷(鴨部郷)に250町の塩山をもっています。薪山をめぐる争いを防ぐために、薪山が独占化されていたことが分かります。塩生産において燃料を生産する山(汐木山)なくしては、塩は生産できなかったのです。
 瓦や須恵器、そして製塩のために周辺の里山は伐採されて丸裸にされていきます。そのために、燃料の薪山を追いかけて、須恵器窯は移動していたことは、三野郡の窯群で以前にお話ししました。
古代から「環境破壊」は起きていたのです。
 内陸部で後背地をもつ十瓶山窯工場地帯は、薪山には恵まれていたようですが、この時期になると周辺の山や丘陵地帯の森林を切り尽くしたようです。窯群を管理する綾氏の課題は、須恵器を焼くための燃料をどう確保するのか、もっと具体的には薪を切り出す山の確保が緊急課題となります。

古代の山野林沢は「雑令』国内条に、次のように記されています。
山川薮沢之利、公私共之。

ここからはもともとは、「山川は公有地」とされていたことが分かります。しかし、燃料確保のためには、山林の独占化が必要となってきたのです。陶地区では、須恵器の調貢が命じられていました。そのために国府は、綾氏の要請を受けて窯群周辺の薪山を「排他的独占地帯」として設定していたと研究者は考えています。
それが11世紀半ばになって地方行政組織が変革されると、陶地区一帯は保という国衛に直結した行政組織に改変されたと研究者は推察します。陶地区では、11世紀後半になっても須恵器の生産は盛んでした。その生産のための燃料を提供する山に、保護(独占化)が加えられたとしておきましょう。
それが実現した背景には、綾氏の存在ががあったからでしょう。
陶地区は、綾氏が郡司として支配してきた阿野郡にあります。綾氏が在庁官人となっても、その支配力はうしなわれず、一族の中で国雑掌となった者が、須恵器や瓦の都への運搬を請け負ったと考えられます。このように、須恵器や瓦の生産を円滑に行なうために陶地区は保となりました。
ところが12世紀になると、先ほど見たように須恵器の生産の縮小し、窯業は衰退していきます。その中で窯業関係者は、保内部の開発・開墾を進め百姓化していったというのがひとつのストーリーのようです。
『鎌倉遺文』国司庁宣7578には、建長八年(1256)に萱原荘が祇園社に寄進された際の国司庁の四至傍示の中に、陶の地名が出てきます。ここからは陶保の中でも荘園化が進行していたことがうかがえます。
 最初に見た「昭慶門院御領目録案」嘉元四(1306)年には、「陶保 季氏」と記されていました。つまり季氏の荘園と記されているので、14世紀初頭には水田化が進み、一部には土師器や瓦生産をおこなう戸もあったようですが、多くは農民に転じていたようです。あるいは春から秋には農業を、冬の間に土師器を焼くような兼業的な季節生産スタイルが行われていたのかも知れません。

以上をまとめておくと
①陶保は、本来は須恵器や瓦生産の燃料となる薪の確保などを目的に保護され保とされた。
②しかし、13世紀頃から窯業が衰退化すると、内部での開墾が進み、荘園としての性格を強めていった。
須恵器 編年写真
十瓶山窯群の須恵器

次に、円座保の成立について、見ていくことにします。
もう一度「昭慶門院御領目録案」を見てみると、円座保は「京極准后定氏卿知行」と記されています。ここからは、京極准后の所領となっていたことが分かります。京極准后とは、平棟子(後嵯峨天皇典待、鎌倉将軍宗尊親母)だったようです。
菅円座制作記 すげ円座(制作中)
菅円座
円座保では、讃岐特産の菅円座がつくられていたようです。
『延喜式』の交易雑物の中に、「菅円座四十枚」とあります。
藤原経長の日記である『古続記』文永8(1271)年正月十一日条に、次のように記されています。
円座は讃岐国よりこれを進むる。件の保は准后御知行の間、兼ねて女房に申すと云々。

「実躬卿記」(徳治元(1306)年)にも、讃岐国香西郡円座保より納められた円座を石清水臨時祭に用いたことが記されています。
室町時代に書かれた「庭訓往来」や、江戸時代の「和訓綴」にも「讃岐の特産品」と書かれています。平安時代から室町時代を経て江戸時代に至っても、讃岐の円座でつくられた円座が京で使用されていたことが分かります。鎌倉時代には、円座保のあたりが円座の生産地として繁栄していたことが分かります。

円座・円坐とは - コトバンク
 円座作り
円座が、国に直結する保に指定された背景は、何だったのでしょうか?
それは陶保と同じように、特産品の円座生産を円滑にしようとの意図が働いていたと研究者は考えています。円座は敷物として都で暮らす人々の必需品でした。その生産を保護する目的があったと云うのです。
菅円座制作記
讃岐の円座

このように、陶保と円座保では、須恵器と円座といった生産品のちがいはあつても、その生産をスムーズに行なわせようという国衙の意図がありました。それが「保」という国衙に直結した行政組織に編入された理由だと研究者は考えています。

研究者は「保」を次の三種類に分類します。
①荘園領主のため設定された便補の保
②領主としての在庁宮人が荘園領主と争う過程で成立した保
③神社の保、神人の村落を基礎に成立した保
円座・陶保は①になるようです。中央官庁が財源確保のために諸国に設定した保とよく似ています。中央官庁の命を受けた国司(在庁官人)が①の便補の保として設定したものと研究者は考えています。

以上、陶保と円座保についてまとめておきます。
①陶保と円座保は、それぞれ須恵器と菅円座の生産地として、繁栄していた。
②都における須恵器や菅円座の需要は大きく国衙にも利益とされたので、国衙の保護が与えられるようになった。
③11世紀半ばになって、「別名」体制が生み出された時に、陶保と円座保は国衙によって、保という国衛に直結した行政組織とされた。
④それは「別名」のうちの一つであった
⑤この両保が保とされた直接の原因は、その生産品の生産を円滑にするためであった。
⑥保に指定された陶や円座には、その内部に農地として開墾可能な荒地があった。それを窯業従事者たちが開墾し、農業を始る。
⑦その結果、14世紀には『昭慶門院御領目録案」には荘園として記されることになった

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「羽床正明 陶・円座保の成立についての一考察 香川史学 第14号(1985年)」です。
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倭名類聚抄

「和名抄」は正式には「倭名類聚抄」と云うようです。倭は日本、名は品物の名前、物の名前のことで、「類」は分類の類、「聚(衆)」はあつめるという意味です。日本にいろんなものがある、その名前について分類して説明する、今風に云うとジャンル別の百科事典ということになるのでしょうか。
 これが書かれたのは、平安時代の半ばの承平年間の頃です。ちょうど、平将門が東国で反乱を起こし、西の方では藤原純友が反乱を起こすという承平天慶の乱のころになります。そのころ都にいた源順が、わが国最初の百科事典を作った、これが『和名抄』です。
 この中に全国にどんな地名があるのかも書かれていて、その中に讃岐の国のことも書かれています。
まず讃岐の国というのは都からどのくらい離れている、行くのにどの位かかるなんていうことから始まって、次に郡はどういうものがある、国府はどこにあるかまで記されています。便利なことに、いろんな地名・品物の名前に読み仮名が振ってあります。そして地名にも読み仮名があります。ただこの読み仮名は、万葉仮名の表記でなので、なかなか読めません。
和名抄 東讃部
近世の倭名類聚抄の讃岐

 一番最初は大内(おおうち)郡と読みます。読み仮名は「於布知」と表記されていました。そのまま読むとオフチだからオオチとなります。旧大内町は、平安時代以来の呼び名を踏襲していたことになります。郡の中身をみると引田・白鳥(シラトリでなくてシロトリ)、入野・与泰の4郷があったことが分かります。
 次の寒川郡は「サムカワ」と書いています。当時は濁点がなく濁りは表現できないので「サンガワ」でなく「サムカワ」とよむことになります。三木はミキなので読み仮名はありません。山田も、濁音なしの「ヤマタ」です。

和名抄 讃岐西部
   和名抄の香川郡以西の部分 郡名の下に郷名が記される

香川郡の中に、大野・井原・多配とあります。多配(タヘ)は、見慣れない地名ですが現在の多肥のことです。大田は、今は点が入って太田です。次の「笑原」問題です。「笑=野」で野原郷になります。野原郷は、今の高松市街地になります。坂田・成相(合)・河辺・ナカツマ・イイダ・モモナミ・カサオとなっています。
阿野(アヤ)郡は、糸偏の綾、綾絹の綾と読むと記しています。
次に鵜足(ウタ)、最初はウタリと呼んでいのが、後にウタと呼ばれるようになります。那珂ナカ・多度タド・三野ミノ、最後は刈田ですが、これは「カッタ」とつまっていたようです。
このうち刈田郡については平安時代の終わりごろ、十二世紀の半ばには豊田トヨタと呼ばれるようになりますています。トョダと濁っていたかもしれません。なぜ刈田が豊田に変わったのかわかりません。
 ここからは讃岐に11の郡があり、その郡の下にどんな郷があったのかが分かります。また、当時の表記も記されています。今回は和名抄に見える大内・寒川郡の郷名を見ていきたいと思います。テキストは 「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」です。

 和名抄 東讃部
この近世復刻版で、大内郡を見てみましょう。
「讃岐国第百二十二」
下に大内郡と郡名があり、その下に郷名と古名表記が記されています。振り仮名が「オホチ」と振ってあります。大内郡は、ローマ字表記もOCHIでした。これが奈良時代以来の読み方のようです。地元では「オオウチ」と呼ぶ人たちは少ないようです。

古代讃岐郡名

 大内郡には四つの郷名が記されています。
①引田、これは今の読みと全く同じで、比介多(ヒケタ)と読みます。
②白鳥、白鳥はシラトリではありません。之呂止利 (シロトリ)です。高徳線の駅の名前も白鳥(シロトリ)です。
③與泰(ヨタイ:与泰)で、旧大内町の与田のことです。
④入野(ニュウノ)と読んでいますが、丹生のニュウノです。
④の入野は爾布乃也(ニュウノヤ)と読んでいたようです。和名抄は都の役人が作った百科事典です。現地でどう読んでいたか、読み間違いしている所がたくさんあります。例えば、明治になって作られた国土地理院の地図も、漢字表記の分からない現地地名を適当な漢字に技官が置き換えて作られています。北アルプスの白馬岳も、地元の人たちは、田植えの代掻きの時期を教えてくれる山として、代馬(しろうま)と呼んでいたのを、役人は白馬(しろうま)と表記しました。白馬と表記されると駅名は、白馬(はくば)とよばれるようになります。ここから分かることは、地名は時代とともに変化していくことです。
讃岐の古代郡名2 和名抄
古代讃岐の郡と郷

次に寒川郡を見ておきましょう。
⑤難破(ナニワ)というのは、今はありません。後でみることにします。
⑥石田、伊之多(イシダ)と書いてありますが、石田高校がある石田のことです。
⑦長尾(奈賀乎)は今も変わっていません。
⑧造田は爽敗(ソウタ)と書いてありますが、地元では、ゾウダと濁って呼びます。
⑨鴨部・神前(加無佐木)と続いて、一番下に多知とありますが、多和の間違いのようです。

和名抄は、時代を経て何度も写本されたので、写し間違いがおきます。こんなふうに見ていくと、讃岐全体で90余りの郷が出てきます。
それでは、郷の大きさはどうだったのでしょうか。それが実感できる地図に出会いましたので紹介します。
讃岐の古代郡名2東讃jpg
古代大内・寒川の郷と位置と大きさ
この地図を見ると、郷の大きさがは大小様々なことが分かります。研究者は郷を次のような3つのタイプに分類します。
1 類型Ⅰ 郡の中心となる郷 神崎郷
2 類衛2 郡の周辺部となる郷          田和郷・石田郷・造田郷
3 類家3 郡の外縁部となる郷          引田郷・白鳥郷・与泰郷・入野郷・難破郷

郷の大きさは、類型ⅠやⅡは小さく小学校の校区程度、類型Ⅲになると旧引田町、旧白鳥町、旧大内町など旧町の広さほどもあったことが分かります。
郷は、どのようにして成立したのでしょうか?
 律令体制が始まった奈良時代の初めは、血縁関係のある一族で「戸」を組織しました。戸は、現在のような小家族制ではなく、百人を越えるような大家族制で、戸主を中心に何世代もの一族がひとつの戸籍に入れられました。その戸籍に書かれた人間を、男が何人、女が何人、何才の人間が何人というぐあいに数え上げ、水田を男はどれだけ、女はどれだけというぐあいに戸毎に口分田が支給されます。つまり、口分田は家毎ではなく、一戸(一族)毎にまとめて支給されたわけです。全部で何町何段という形でやってきた土地を、自分たちで分けろということです。役人にしてみれば、とにかく税が納まればいいし、口分田は戸毎に支給するので仲間内(戸内)で分けてくれたらいいんだというわけです。これで入りと出とが決まります。つまり班田主従の法というのは、戸単位に戸籍を作り、土地を分けたり税を集めたりするシステムでした。地方役所としては、一族や地域の人を束ねる役の人が欲しいんで、五十戸そろったら、それで一つの郷とします。郷は音では「ごう」ですが、訓では実際に「さと」と読みます。つまりそれが自分の村だということになります。こうして、だんだん人が増えてきて、五十戸ぐらいになったら郷が成立します。その郷名は、代表的な一族の名前を付けたり、その土地で昔から呼ばれている地名が付けたりしたようです。そして、郷長が置かれます
  荒っぽい説明ですが、これで郡の中心になる郷は小さく、周辺部にある郷は大きいことの理由が推測できます。つまり、50戸になったら新しく郷を新設するということは、類型1の郷は早くから開発が進み人口が多く、早い時点で50戸に到達したのでエリアが狭い。それに対して、類型Ⅲは、周縁部で人口が少なく50戸が広い範囲でないと確保できず広くなった。そして、その後も人口増加が見られなかったために新たな郷の分離独立はなかった、と云えそうです。そういう目で、ついでに西讃も見てみましょう。
讃岐古代郡郷地図 西讃
古代讃岐の郷 西讃

類型Ⅰの郷は、綾北平野・丸亀平野・三豊平野に集中し、そのエリアもおしなべて小型なものが「押しくら饅頭」をしているように並びます。そして、丘陵部に類型Ⅱ、さらに阿讃山脈の麓に広い面積をもつ郷が、どーんどーんと並びます。これは、それぞれの郷の形成史を物語っているようです。
もう一度、引田、白鳥、入野、与泰という大内郡の4つの郷を見ておきましょう。この4つの郷が中世にはどうなっていくのかを史料で見てみましょう
⑦[安楽寿院古文書]正応四年三月二十八日亀山上皇書状案
 浄金剛院領讃岐国大内庄内 白馬(鳥)・引田
⑦の「安楽寿院古文書」は鎌倉時代のもので、「浄金剛院領讃岐国大内庄内白馬(馬は鳥の誤写)・引田」とあります。ここからは大内郡全体が「大内荘」という浄金剛院の荘園になって、その中に白鳥、引田という所が含まれていたことが分かります。浄金剛院は、13世紀中頃(建長年間)に、後嵯峨上皇が建立し、西山派祖証空の弟子道観証慧を開山させた寺院で、浄金剛院流(または嵯峨流)の本山として多くの寺領を持っていたようです。
⑧[『讃岐志』所収文書】観応三年六月十九日足利義詮御判御教書案
 浄金剛院領讃岐国大内庄内白鳥・与田・入野三箇郷事
⑧の「讃岐志」は、江戸時代の地誌で、ここに収められた室町幕府三代将軍の足利義詮の教書案の中にも「浄金剛院領讃岐国大内庄内白鳥・与田・入野三箇郷事」とあります。⑦の史料と併せると大内荘は引田、白鳥、入野、与田の四箇郷のすべてを含んでいたことが分かります。つまり、四か郷全部が含んだまま大内郡は一つの荘園になったようです。巨大荘園大内荘の成立です。ひとつの郡がそのまま荘園になることを郡荘と呼びます。郡荘の成立自体は、全国的に見ると珍しいことではなく、よく起きているようです。一般的に云えるのは、都から離れた所ほど、大きな荘園ができています。つまり、中央政府の目が行き届かない所に巨大な荘園が生まれる傾向があったようです。律令制度の根幹である公地公民の原則を無視して、私有地化していくので目につきやすい中央部よりも、外縁部の方が都合が良かったのかもしれません。
 これを讃岐一国のレベルで見ると、郡庄と呼ばれる大きな荘園の出現は、大内荘のように讃岐の国のいちばん端の所で起きることになるようです。讃岐国府は坂出府中にありました。国司は国府にいて、讃岐を見ています。国司からすると国有地が荘園(私有地)になってしまうと税が入らなくなりますから、なるべく私有地(荘園立荘)の増加は抑えたいのが職務上の立場です。そうすると、国司の目の届く国府周辺を避けて、国府から遠い所で荘園化か進みます。そのため讃岐の荘園化も、中央部と外縁部では地域的な格差があったと研究者は考えています。つまり、国府周辺が最先進地域で、その周りに中間地域があって、その先に辺境地域があるという意識が国司にはあったと研究者は考えているようです。
今度は寒川郡の長尾・造田の立荘文書を見てみましょう。
⑨[『伏見宮御記録』所収文書 承元二年(1208)閏四月十日後鳥羽院庁下文案
 院庁下す、讃岐国在庁官人等。
  早く従二位藤原朝臣兼子寄文の状に任せ、使者国使相共に四至を堺し膀示を打ち、永く最勝四天王院領と為すべし、管寒河郡内長尾 造太(造田)両郷の事。
  東は限る、石田並に神崎郷等の堺。
  南は限る、阿波の堺。
  西は限る 井戸郷の堺
  北は限る 志度庄の堺・
意訳変換しておくと
 後鳥羽院庁は、讃岐国の在庁官人に次の命令を下す。
  早急に従二位藤原朝臣兼子寄文の状の通りに、寒河郡内長尾と造太(造田)の両郷について、使者と国使(在庁官人)の立ち会いの下に、境界となる四至膀示を打ち、永く最勝四天王院領の荘園とせよ。境界線を打つ四至は次の通りである
  東は限る、石田並神崎郷等の境。
  南は限る、阿波国の境。
  西は限る 井戸郷の境
  北は限る 志度庄の境
⑨の「伏見宮御記録」は、かつての宮家、伏見宮家関係の記録です。伏見宮家は音楽の方の家元で、楽譜の裏側にこの文書が残っていたようです。鎌倉時代初めのもので承元二年(1208)、後鳥羽院庁の命が「寒河郡内長尾。造太両郷の事」とあって、大内郡の長尾と造田の両郷を上皇の御願寺の荘園にするという命令を出したものです。これが旧長尾町の町域となったようです。長尾、造田は、同じ時に最勝四天王院領となった、いわば双子の荘園と言えそうです。
この荘園の東西南北の境界を、地図で確認しながら見ておきましょう。

讃岐の古代郡名2東讃jpg
立荘文書から、周辺にあった荘園や郷名が分かる
東は限る、石田並に神崎郷等の境。 
  造田と長尾の東は石田と神前です。
南は限る、阿波の境
  長尾の一番南は阿波に接しています。
西は限る、井戸郷の境
  井戸郷は三木町の一番東側になります。
北は限る 志度荘の境、
ここからは、造田・長尾の周囲には、それをとりこむように荘園や郷が鎌倉時代の初期(1208年)には、できあかっていたことが分かります。
寒川郡の郷名で、現在は行方不明なのが難破郷です。どこへ行ったのでしょうか?
手がかりになるのは「安楽寿院古文書」康治二年八月十九日太政官牒案(図1)には富田荘のエリアが次のように記されます。
字富田庄、讃岐国寒(川字脱)郡内にあり

富田荘の四至を見ておきましょう。
東は限る、大内郡境。確かに大川町の東側は大内郡旧大内町です。
西は限る、石田郷内東寄り艮の角、西は船木河並に石崎南大路の南泉の畔。
南は限る、阿波国境。
北は限る、多和奇(崎)、神前、雨堺山の峰。
これは多和の崎と神前の二つに接しているという意味で、具体的には、雨堺山の峰が境になるようです。雨堺の山は、雨滝山のことでしょう。雨滝山の分水嶺が荘園の境界となったようです。ここからは、富田荘が、かつての難破郷だったことがうかがえます。

ここで、研究者は雨滝山を中心に、周辺の郷や荘園の位置を確認していきます。

東讃 雨瀧山遺跡群
雨滝山遺跡とその周辺

津田の松原から南側を見ると、目の前にある山が雨滝山です。雨滝山を南側へ抜けると、寒川町の神前に出ます。先ほど見たように、かつての大内郡は、引田、白鳥、入野、与田で、だいたい地名が残っていました。これが一郡=一荘の大内庄という大きな庄名になりました。そのため大内郡は消滅しす。そこへ、「長尾、造田荘」と、富田庄の立荘の際にでてきた四至膀示の地名を入れて研究者が作成したのが下の地図になるようです。

讃岐東讃の荘園
中世の大内・寒川郡の郷と荘園

 例えば先ほど長尾・造田の立荘の際に、東の堺となった井戸郷というのは、左下の所に井戸と見えている所です。ここが三木町の井戸です。北側が志度、それから鴨部郷、神前、石田というぐあいに出てきます。そうすると、この地図の中にも難破郷が出てきません。立荘の際に出てくるのは富田庄です。難破郷が、どこかの時点で富田荘になったようです。旧大川町の富田には、茶臼山古墳という巨大な前方後円墳があります。古墳時代にはこのエリアの中心であった所で難破郷とよばれていたのです。現在の富田に、元の難破があったはずです。
どうして難破という地名が消えて、富田にすり変わったのでしょうか。これは、現在のところ分からないようです。

神崎郷も、後には荘園になって興福寺へ寄付されます。長尾も造田も荘園になりました。結局このあたりで荘園にならなかったのは、鴨部郷と石田郷の二か所だけです。鴨部郷は鴨部川の中流域です。その上流に石田郷はありました。
  こうしてみると、かつての東讃八町域は、ほとんどが荘園になってしまったということになります。べつの言い方をすると、古代の郷が中世には荘園になり、そして東讃8町として姿を変えて最近まで存続していたと云えるのかも知れません。
讃岐古代郡郷地図

「辺境変革説」という考え方があります。
中央のコントロールや統制の効かない辺境のカオスの中から、つぎの時代のスタイルが生み出されるという考えです。大内・寒川は国府のある府中から見れば「讃岐の辺境」だったかもしれません。しかし、京都を視点に見れば、寒川郡は南海道や瀬戸内海航路の入口にも当たります。もともと讃岐という意識よりも、阿波や紀伊・熊野との一体感の方が強く、海に向かっての指向が強かったようです。それが中央寺社の寺領となることで、国府のコントロールを離れて、自立性を一層強め、いち早く中世という時代に入っていったのが大内・寒川地域であるという見方もできます。
 それは以前にお話しした与田寺の増吽に、象徴的に現れているように私には思えます。
 与田山の熊野権現勧進由来などからは、南北朝初期には熊野権現が勧請されていたことがうかがえます。周囲を見ると、南朝方について活躍した備中児島の佐々木信胤が小豆島を占領し、蓮華寺に龍野権現を勧請しているのもこの時期です。背景には「瀬戸内海へ進出する熊野水軍 + 熊野本社の社領である児島に勧進された新熊野(五流修験)」が考えられます。熊野行者たちの活発な交易活動と布教活動が展開されていた時期です。その中で南北朝時代の動乱の中で、熊野が南朝の拠点となったため、熊野権現を勧進した拠点地も南朝方として機能するようになります。つまり
熊野本社 → 讃岐与田寺 → 志度寺・小豆島 → 備中児島 → 塩飽本島 → 芸予大三島

という熊野水軍と熊野行者の活動ルートが想定できます。このルート上で引田湊を外港とする与田山(大内郡)は、南朝や熊野方にとっては最重要拠点であったことが推測できます。そこに熊野権現が勧進され、熊野の拠点地の一つとされたとしておきましょう。そして、引田を拠点に東讃地域への勢力拡大を図っていきます。同時に、ここは熊野勢力にとっては、瀬戸内海の入口にあたります。その拠点確保の先兵となったのが熊野行者たちで、そのボスが増吽だったと私は考えています。どちらにしても、大内郡の与田寺や水主神社が、活発な活動が展開できたのは、早くから荘園化され国府の管理外にあったことがひとつの要因だったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献  「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」
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讃岐郷名 丸亀平野
丸亀平野周辺の郷

以前に「讃岐の荘園1 丸亀市川西町にあった二村郷 いつ、どうしてふたつに分かれたの?」を書きました。これについて、次のような点について、もう少し分かりやすく丁寧に説明せよという「リクエスト(?)」をいただきました。
「二村荘ができたときの経過は、どうなのか?」
「どうして二村郷と二村荘に分かれたのか?」
これに応えて、今回は二村荘に立荘過程に焦点をあてて見ていきたいと思います。前回分と重なる部分がありますが悪しからず。また、期待に応えられ自信もありません、重ねて悪しからず。  テキストは「田中健二 讃岐国の郷名荘園について  香川大学教育学部研究報告89号 1994年」です。
川津・二村郷地図
丸亀平野の古代郷名 二村郷周辺
 
律令時代には鵜足郡には8つの郷がありました。
そのひとつが二村郷で「布多無良(ふたむら)」と正倉院へ納入された調の面袋に記されています。二村郷は、江戸時代には土器川をはさんで東二村(飯山側)が西二村に分かれていました。現在の地名で言えば丸亀市飯野町から川西北一帯にあたります。古代の二村郷は、いつ、どんな理由で東西に分かれることになったのでしょうか?
二村荘が初めて史料に登場するのは暦応四年(1341)11月日の興福寺衆徒等申状案です。その中の仁治2年(1241)2月25日の僧戒如書状に、二村荘の立荘について、次のように記されています。
讃岐国二村郷文書相伝並解脱(貞慶)上人所存事、
副進
上人消息案文、
右、去元久之比、先師上人、為興福寺 光明皇后御塔領、為令庄号立券、相尋其地主之処、当郷七八両条内荒野者藤原貞光為地主之由、令申之間、依有便宜、寄付藤原氏女(故小野法印定勝女也。)時当国在庁雖申子細、上人並親康令教訓之間、去進了、爰当国在庁宇治部光憲、荒野者都藤原氏領也。(今は尊遍領地也)見作者親康領也、雖然里坪交通、向後可有煩之間、両人和与、而不論見作荒野、七条者可為親康領、於八条者加入本田、偏可為藤原氏領之由、被仰下了、但春日新宮之後方九町之地者、雖為七条内、加入八条、可為西庄領也云々者、七条以東惣当郷内併親康領也、子細具見 宣旨・長者官丁請状案文等、彼七八両条内見作分事、当時為国領、被付泉涌寺欺、所詮、云往昔支度、云当時御定、随御計、可存知之状如件、
仁治二年三月弐拾五日            僧戒如
道上 両人御中
意訳変換しておくと
元久年間(1204~6)に、貞慶上人は興福寺の光明皇后が建立された五重塔の寺領とするために、二村郷に荘園を立荘されようとした。当時の二村郷の地主(開発領主)は藤原貞光であったので、協議の上で、七・八両条内の荒野部分を興福寺関係者である藤原氏女(故小野法印定勝の娘)に寄付させる形をとった。当時の讃岐国守にも子細を説明し、了承を得た上で、貞慶上人と親康は七・八条の立荘を行った。こうして、七・八条エリア内では、「荒野は藤原氏領(今は尊遍領)、見作は親康領」ということになった。しかし、これは里坪が混在して、非常に土地管理が困難であった。そこで両人が和与(協議)して、見作荒野に限らず、七条は親康領、八条は藤原氏女領(本田)とすることになった。ただし、「春日新宮」の後方の九町の地は七条内ではあるが八条に加え入れて「西庄」領とした。従って、七条以東の郷内はすべて親康領である
  宣旨・官丁請状案文等にも、二村郷のうち七・八両条内の見作分は、国領(公領)として京都泉湧寺へ寄付されていると記されている。以上が二村荘の当時の御定で、このような経緯を伝えるために書き残したものである。
仁治二年三月弐拾五日            僧戒如
道上 両人御中
この文書に出てくる貞慶(じょうけい)は、法相宗中興の祖と云われています。
解脱上人、貞慶特別展: 鹿鳴人のつぶやき
 
彼が13世紀初頭の二村荘の立荘を行ったことが、ここには記されています。貞慶(久寿2(1155)~ 建暦3(1233)年)の祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲です。何もなければ彼も貴族としての一生を送ったのでしょう。祖父信西は、保元元年(1156年)の保元の乱の功で一時権勢を得ます。ところが平治元年(1160年)の平治の乱で自害させられ、父藤原貞憲も 土佐に配流されてしまいます。生家が没落したために、幼い貞慶は藤原家の氏寺である興福寺に入るしか道がなくなったようです。こうして11歳で出家し、叔父覚憲に師事して法相・律を学ぶことになります。彼は戒律の復興に努め、勧進僧と力を合わせて寺社復興にも大きく貢献しています。
 一方、法然らの提唱した専修念仏の弾圧側の当事者としても知られています。文治2年(1186年)に、大原勝林院で法然や重源によって行われた大原問答に出席していますし、元久2年(1205年)には『興福寺奏状』を起草し、法然の専修念仏を批判し、その停止を求めてもいます。
 貞慶は、興福寺を中心に活動を展開していました。そのような中で元久年間(1204~6)に、二村郷を聖武天皇皇后の藤原光明子が建立した興福寺五重塔の寺領として立荘しようとします。そこで先ず行ったのが二村郷の七・八条の荒野部分(礫河原)を、開発領主の藤原貞光から興福寺関係者の小野法印定勝女子へ寄付させることでした。領主の藤原貞光は、地元讃岐の古代豪族綾氏の武士化した綾藤原氏の一族です。彼については、後に触れます。

丸亀平野 条里制地図二村
鵜足郡と那珂郡の郡境と土器川

 その上で、二村郷の七・八条の荒野部分が立荘されて興福寺五重塔領となります。この文書の中で、戒如は次のように述べています。

「二村郷のうち七・八両条内の見作分は、現在は公領として京都泉湧寺へ寄付されている」

ここからは、七・八条はまだ国領があったことが分かります。整理しておくと、二村荘には二種類の土地があり、それぞれ所有者が異なっていたと云うことになります
①土器川の氾濫原で、荒地に分類されていた土地 興福寺五重塔寺領
②見作地(耕地)に分類された土地       国領地
 一方、『泉涌寺不可棄法師伝』には、二村荘の国領部分について、次のように記されています。

嘉禄3年(1227)春、泉涌寺の僧俊高が重体に陥った際に、彼に帰依していた入道前関白藤原道家が病床を見舞い、「讃岐国二村郷内外水田五十六町」を泉涌寺へ寄付し、寺用に充てた

 この「水田五十六町」が②の二村郷の見作部分(耕作地)で、国領管理下にあった領地のようです。当時、藤原道家は讃岐国の知行国主でしたから、国守権限にもとずく寄進だったようです。
 その後の文和3年(1354)12月9日の後光厳天皇綸旨には、「讃岐国七条村並二村付けたり四か名」が、泉涌寺へ安堵されています。ここから②は、泉涌寺の寺領となっていたことが裏付けられます。

丸亀平野 条里制地図二村2
土器川左岸の鵜足郡七・八条の荒地に成立した二村荘
空白部が荒地で条里制が未施行エリア

ここでは、二村郷の七・八両条は鎌倉初期にふたつに分けられたこと。その耕地部分は公領のまま泉涌寺領に、荒野部分は立荘されて興福寺領二村荘になったことを押さえておきます。この両者は、同一エリアを荒地と耕地の地種で分割したものですから、当然に所有地が混在することになります。その状況を戒如は次のように述べています。
「荒野は藤原氏領なり、今は尊遍領なり、見作は親康領なり、しかりと雖も里坪交通す」
「里坪」とは、条里の坪のことで、藤原氏女領に属する荒野と親康領に属する耕地がモザイク状に入り乱れていたようです。これでは管理上、都合が悪いので、両者の間で話し合いが行われ次のような分割案が成立します。
①耕作地と荒野の種別を問わず、七条は親康領とし、八条は藤原氏女領とする。
②但し、「春日新宮」の後方九町の地は七条内であるが八条に加え入れて「西庄」領とする。
③従って、七条以東の郷内はすべて親康領となる。
この和解案の結果、藤原氏女と親康とは、どちらも所領内の荒野部分について興福寺へ年貢を納めることになります。こうして、土器川の東側は二村郷、西側の八条は二村荘と呼ばれることになったと研究者は考えています。
香川県丸亀市|春日神社は1000年の歴史がある神社!月替わり御朱印も郵送OK
二村郷産土神と書かれた春日神社 しかし郷社ではない 

鵜足郡8条に成立した二村荘の中心地には、春日大社が勧進され、「春日新宮」と呼ばれるようになります。
藤原氏の氏神さまは春日大社で、菩提寺は興福寺です。藤原氏の荘園が成立すると奈良の春日大社から勧進された神が荘園の中心地に鎮座するのが恒例のことでした。二村荘の場合も、興福寺領の荘園ですから氏神として春日社を祀ったのでしょう。それが現在の丸亀市川西町宮西の地に鎮座する春日神社(旧村社)だとされます。
 江戸時代の西二村は、西庄、鍛冶屋、庄、宮西、七条、王子、竜王、原等の免からなっていました。これをみると春日神社の氏子の分布は土器川の左岸に限られていたことが分かります。これに対し、土器川右岸に位置する東二村(丸亀市飯野町)は、飯野山の西の麓に鎮座する飯神社の氏子でした。古代は同じ二村郷であった東西の二村が、土器川をはさんで信仰する神社が違っているのは、荘園の立荘と関係があったようです。

  さて、二村荘の立荘については次のような疑問が残ります。

①立荘当時の二村郷の状況は、どうだったのか。七・八条だけが荒野部分が多かったのか
②耕地でない荒野部分を荘園化して何のメリットがあるのか
①については、いつものように地図ソフトの「今昔マップ」を検索して、土器川周辺の国土地理院の土地条件図を見てみましょう。丸亀平野は扇状地で、古代にはその上を線状河川がいくつもあり大雨が降ったときには幾筋もの流れとなって流れ下っていたことが分かっています。
丸亀平野 二村(川西町)周辺
丸亀平野土器川周辺の旧河川跡
上図を見ても、現在の土器川周辺にいくつもの河道跡が見え、河道流域が今よりもはるかに広かったことがうかがえます。川西町の道池や八丈(条)池は、皿池でなくて、その河道跡に作られたため池であることが分かります。道池の北側には七条の地名が残ります。

丸亀道池
道池からの飯野山

また、春日神社は八条に鎮座します。確かに、この周辺の七条・八条は、氾濫原で礫河原で開発が遅れたことが予想できます。七・八条エリアは、古代条里制施行も行われていない空白部分が多いようです。それにくらべて土器川右岸は河道跡は見えますが台地上にあり、条里制施行が行われた形跡があります。また、想像力を膨らませると、かつては七・八条に土器川の本流があって、どこかの時点で現在のルートに変更されたことも考えられます。もう一度、条里制施行状況を見てみましょう。
丸亀平野 条里制地図二村2

 空白地帯は条里制が施行されていないところです。
土器川の氾濫原だった七・八条には空白部分が相当あるのが分かります。この部分が最初に立荘され、二村荘となった部分のようです。そして、13世紀初頭には、今まで放置されてきた荒れ地に関しても開発の手が入って行きます。興福寺の貞慶が、二村郷の荒地を荘園化したのも、すでに灌漑などの開発が進められ耕地化のめあすが立っていたのかも知れません。
丸亀市川西町にあった二村庄の開発領主は「悪党」?
いままでは、興福寺という中央の視点から二村荘を見てきました。
こんどは地元の視点から立荘過程を見ていきたいと思います。先ほどの史料をもう一度見てみると、当時の所有者について、次のように記されています。
当郷七八両条内荒野者藤原貞光為地主之由、

 13世紀初頭に鵜足郡二村郷のうち、荒野部分の「地主」は藤原貞光だったことが分かります。藤原を名乗るので、讃岐藤原の一族で綾氏につながる人部かもしれません。当時は荒野を開発した者に、その土地の所有権が認められました。そこで彼は土器川の氾濫原を開発し、その権利の保証を、藤原氏の氏寺で大和の大寺院でもある興福寺に求めます。いわゆる「開発領主系寄進荘園」だったようです。
 未開墾地は二村郷のあちこっちに散らばっていたので、管理がしにくかったようです。そこで寄進を受けた興福寺は、これを条里の坪付けによりまとめて管理しやすいように、国府留守所と協議して庄園の領域を整理しようとします。これは興福寺の論理です。
 しかし、寄進側の藤原貞光にしてみれば、自分の開発した土地が興福寺領と公領のふたつに分割支配され、自分の持ち分がなくなることになります。貞光にとっては、思わぬ展開になってしまいます。ある意味、興福寺という巨大組織の横暴です。
このピンチを、貞光は鎌倉の御家人となることで切り抜けようとします
しかし、当時の鎌倉幕府と公家・寺社方の力関係から興福寺を押しとどめることはできなかったようです。興福寺は着々と領域整理を進めます。万事に窮した貞光は、軍事行動に出ます。1230年(寛喜2)頃、一族・郎党と思われる手勢数十人を率いて庄家(庄園の管理事務所)に押し寄せ、乱暴狼藉を働きます。これに対して興福寺は、西国の裁判権をもつ鎌倉幕府の機関・六波羅探題に訴え出て、貞光の狼藉を止めさせます。貞光は「悪党」とされたようです。

この事件からは次のような事が分かります。
①鎌倉時代に入って、土器川氾濫原の開発に手を付ける開発領主が現れていたこと
②開発領主は、貴族や大寺社のお墨付き(その結果が庄園化)を得る必要があったこと
③その慣例に、鎌倉幕府も介入するのが難しかったこと
④貞光は手勢十数人を動員できる「武士団の棟梁」でもあったこと
⑤興福寺側も、藤原貞光の暴力的な反発を抑えることができず、幕府を頼っていること
⑥二村荘には庄家(庄園の管理事務所)が置かれていたこと。これが現在の春日神社周辺と推測されること
この騒動の中で興福寺も、配下の者を預所として現地に派遣して打開策を考えたのでしょう。どちらにしても、荘園開発者の協力なくしては、安定した経営は難しかったことが分かります。
 
   藤原貞光にとっては、踏んだり蹴ったりの始末です。
 せっかく開発した荘園を興福寺と国府の在庁役人に「押領」されたのも同じです。頼りにした興福寺に裏切られ、さらに頼った鎌倉幕府から見放されたことになります。「泣く子と地頭に勝てぬ」という諺が後にはうまれます。しかし、貞光にとっては、それよりも理不尽なのが興福寺だと云うかもしれません。それくらい旧勢力の力は、まだまだこの時期には温存されていたことがうかがえます。
貞光の得た教訓を最後に挙げておきます
①未開墾地の開発に当たっては慣例的な開発理由を守り
②よりメリットある信頼の置ける寄進先を選び
③派遣された預所と意志疎通を深め、共存共栄を図ること
これらのバランス感覚が働いて初めて、幕府御家人(地頭)としての立場や権利が主張できたのかもしれません。
13世紀から14世紀前半にかけては、讃岐国内でこのような実力行使を伴った庄園内の争いが多発しています。それを記録は「狼藉」「悪党」と治者の立場から記しています。しかし、そこからは開発領主としての武士たちの土地経営の困難さが垣間見えてきます。その困難を乗り越えて、登場してくるのが名主たちなのでしょう。
以上をまとめておくと
①律令時代の二村郷は土器川を、またいで存在していた
②そのうちの鵜足郡七・八条は土器川左岸にあり土器川の氾濫原で条里制が施行されない部分が荒野として放置されていた。
③鎌倉時代初頭に鵜足郡七・八条の荒野開発をおこなった開発領主が藤原貞光であった。
④彼は開発領地を興福寺に寄進し、寄進系荘園として権益確保を図った。
⑤ところが興福寺は、荘園管理のために混在していた荒地を一括して、八条エリアを荘園領地とすることを国領側と協議しまとめた。
⑥この結果、開発領主の藤原貞光の権益は大きく侵害されることになった。
⑦そこで藤原貞光は、実力行使に出たが、興福寺から六波羅探題に提訴され敗れた。
こうして、丸亀川西町の中世のパイオニアであった藤原貞光は、「悪党」として記録に残ることになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

        上棟式の棟札 - マネジャーの休日余暇(ブログ版)
現在の棟札

中世の荘園の歴史を知ろうとするとき、頼りとなるのは京都や奈良の荘園領主の手もとに残された史料になるようです。地元の民家や寺社に中世文書が残されていることは、ほとんどありません。その中で棟札は、荘園の全体的な枠組みの手がかりを伝えてくれる地元の貴重な史料です。
 棟札とは、寺社の造営や修理のときに、その事業の願主、大工、上棟の年月日、造営の趣旨などを書いて、棟木に打ち付けた木札のことです。建物自体が老朽化して解体されたのちも棟札だけが残され保存されていることがあります。

天嶽院 | 山門屋根 茅葺替大修理・3 棟札調査

以前に見た坂出の神谷神社にも、中世に遡る棟札が何枚も保管されていました。式内社や荘園鎮守社であったような神社には、棟札が残されている場合があります。棟札からは何が見えてくるのでしょうか。今回は中世の地方神社の棟札を見ていくことにします。    テキストは「日本の中世」 村の戦争と平和 鎮守の森で  現代につづく中世 121Pです。
    棟札 武内神社2
                                                           
京都府相楽郡精華町の北稲八間荘の武内神社には、20枚もの棟札が保存されているようです。
時代的には、鎌倉時代末期から昭和にまでいたる造営棟札です。
棟札 武内神社
武内神社の棟札
年代的に二番めに古い延文三年(1358)の棟札には「神主源武宗」や大工のほかに、道念、了円など8人の名前が記されています。この8人がこの時代の北稲八間荘の有力者たちだったようです。
応永十年(1403)にも、ほぼ同じ内容のものが作られています。
文明四年(1472)のものになると、「神主源武宗」の下に「老名」として道法以下10名の名前が並びます。北稲八間荘の有力者たちが「老名」(オトナ)と呼ばれていたことが分かります。オトナは「長」「長男」とも表記されますが、十人という数が北稲八間のオトナの定数だったことが分かります。
棟札 武内神社3
武内神社拝殿

 天正三年(1574)のものをみると、オトナのうち一人に「政所」という肩書きが付きます。ここからは十人のオトナのうちの一人が、交替で政所という世話役を務めるようになったことがうかがえます。神主の名乗は、慶長13年(1608)まで「武宗」でした。ここからは「源武宗」が神主家の代々の当主に世襲される名前であったことが分かります。
江戸時代にはいると、神主は紀姓の田中氏に交替しています。
かわって「フシヤゥ」という役名が登場するようになります。「フシヤウ」とは検非違使庁の下級職員の「府生」のことだと研究者は指摘します。中世後期になると京都周辺の荘園の荘官級武士の中には、朝廷の下級職員に編成され、重要な儀式のときにだけ出仕して、行列の一員などの役を演ずる者が現れます。「フシャウ」とは、そういう位置にある者で、具体的には「源武宗」を指すようです。そうだとすると旧神主家が、神主の地位を失ったのちも村の中で一定の地位を保っていたことになります。しかし、それも元文三年(1738)を最後に姿が見えなくなります。
 江戸時代には、北稲八間荘はそのまま北稲八間村となり、瑞竜寺、朝倉氏、寛氏の三つの領主に分割されました。領主ごとに庄屋が置かれ、それぞれ寺島氏、川井氏、田中氏が勤めます。かれらは家筋としては、オトナたちと重なります。こうした家筋の人々は、おそらく壮年期には庄屋を務め、長じてはオトナ、すなわち村の古老として武内神社の祭礼や造営などを指揮したようです。
 また元禄十三年(1700)以後の棟札には「鹿追」と呼ばれる役職がみえるようになり、五人から十人の名前が連記されています。鹿などの獣害駆除を直接の任務とする村の若者たちの代表と研究者は考えているようです。
 以上のように神主、オトナ、庄屋、鹿追、それに繁呂寺の住職の名前を書き連ねるのが、江戸時代の武内神社の棟札の定番だったようです。おもしろいことに嘉永五年(1853)の棟札には、「鹿追 このたび勝手につき手伝い申さず候」と記されています。幕末を迎え、オトナ、庄屋といった村内の古老や壮年層と若者たちの間に、何らかの対立が発生していたようです。

 近代を迎えると、国家、社会体制の中での村の位置づけは大きくかわっていきます。
神社の祭礼、造営についていえば、古式が尊重されているようです。下は明治30年(1897)の棟札です。

棟札 武内神社4
これをみると、神主は社掌、庄屋は区長と名をかえています。しかし記されている内容や形式はおおむね古式に従ったものです。オトナという文字はみえませんが、氏子総代とされる三名の名前が見えます。明治以後になってオトナは「氏子総代」に変わったようです。
 中世には、オトナとか沙汰人と呼ばれる人々は祭礼、祈祷などのほか、年貢の村請、湯起請に象徴される刑事事件の解決など幅広い村政を担っていました。それが江戸時代になると、徴税や一般的な村政にかかわる権限は庄屋に移管され、オトナの権限は宗教的な行事に限られたようです。つまり江戸時代に村の政教分離が行われたことになります。そして、その延長上にあるのが今の氏子総代になるようです。
 棟札は集落によって作られ、村に残されたモニュメントとも云えます。棟札から、中世の村のようすがわかる事例をもう一つ見ておきましょう。
棟札 日吉神社
日吉神社(宮津市)

丹後半島の宮津市岩ヶ鼻の日吉神社の棟札を見てみましょう。
この神社には天文十八年(1549)11月19日の日づけをもつ三枚の棟札があります。
棟札 日吉神社2

右側二枚の棟札からは次のようなことが分かります。
①中世にはこの地が伊爾(祢)荘(官津市・与謝郡伊根町)と呼ばれていたこと
②日吉神社が伊爾荘の一宮(荘園鎮守)であったこと
③伊爾荘は「延永方」と「小嶋方」に分かれていたこと

さらにる文献史料ともつきあわせると、「延永方」は「西方」「東方」に分かれ、
「東方」と「小嶋方」は幕府奉行人の飯尾氏の所領、
「西方」はこの地の国人松田氏の所領
であったことがわかります。棟札の銘からは、飯尾氏の支配部分においても松田氏が代官として伊爾荘を仕切っていたことがうかがえます。

研究者が注目するのは、一番左の棟札です。
多くの名前が列記されています。これを見ると格名前に権守とあります。権守を辞書で調べると「守(かみ)(国司の長官)、または、頭(かみ)(寮の長官)の権官(ごんかん)。」と出てきます。この棟札には、権守の肩書きを持つ偉そうな人たちばかりのように思えます。ところが、これは村人たちの名前だというのです。これが遷宮の時の「御百姓中官途」の顔ぶれだというのです。
 中世後期の村では、村人に村が「官途」(官位)を与えていました。
具体的には「権守」「介」「大夫」「衛門」「兵衛」などです。これらの官途の名称は、朝廷が使っていたものをコピーしたものです。権守、介はそれぞれ国司の長官と次官であり、衛門、兵衛はそれぞれ衛門府、兵衛府のことです。また大夫と大は五位(正五位、従五位)のことになります。しかし、村における官途付与はもちろん朝廷の正式の任免手つづきを経たものではありません。ある年齢に達したときや、鎮守の造営に多額の寄付を行ったときなどに、村の合議によって官途が与えられていたようです。

中国古代帝国の形成と構造 : 二十等爵制の研究(西嶋定生 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 西嶋定生の「二十等爵の研究」を思い出させてくれます。
① 秦朝発展の原因のひとつは開発地に新たに設置した「初県」(新村落)にあった。
②初県では人的秩序形成のために国家が定期的に位階を配布し、人間のランク付けを行った。
③ハレの場である社稷祭礼の際には、その位階ランク順に席につき、官位の高い老人や有力者が当然上位に位置し、会食も行われた。
④この座席順が日常生活でのランク付けに用いられた。
この手法と日本の中世神社で行われていたことは、なんとなく響き合うものを感じます。アジア的長老支配の手法といえるのかもしれません。
京都府宮津市の神前式|天然記念物の花々が咲き乱れる「山王宮日吉神社」とは
日吉神社本殿
話を日吉神社に戻します。
官途の名乗を許されると「官途成」と呼ばれます。
官途成すると、その村の成人構成員として認知を受けたことになります。江戸時代の庶民に「○衛門」「○兵衛」「○介」といった名前が多いのは、中世村落での官途成に由来があるようです。江戸時代になると、こうした名前も親の命名で自由につけられるようになりますが、中世には、村の許可を得てはじめて名乗れる名前でした。村の官途にも上下の秩序があったようです。「衛門」「兵衛」などは、比較的簡単に名乗ることが許可されたもので、下位ランクの官途だったようです。
それに対し最高位は、この棟札に出てくる「権守」です。
彼らも若いころは「衛門」や「兵衛」などの官途を名乗ったのでしょう。それが年齢を重ねるとともに「大夫」へ、さらに「権守」へと「昇進」していったようです。「権守」までくれば村のオトナで、指導者です。そういう目で見ると、伊爾荘の日吉神社も、オトナたちが遷宮事業の中心となっていたのが分かります。
 遷宮完了を記念して、右側2枚は、荘の代官を勤めている国人たちが納めた者です。そして左側のものは、村の指導者(オトナ=権守)たちが、自分たち独自の棟札を神社に納めものです。そこには、鎮守を実質的に維持・管理するのは自分たちだという自負と、この機会にその集団の結束や団結を確認する思いを感じます。棟札には、村を運営した人々の存在証明の主張が込められていると研究者は指摘します。
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2つの神社の棟札を見て養った「視力」で、坂出の神谷神社に残る棟札を見てみましょう。

神谷神社本殿2
神谷社殿社殿
この神社の社殿は香川県に2つしかない国宝建築物のひとつです。大正時代に行われた大改修の時に発見された棟木の墨書銘に、次のように記されていました。
正一位神谷大明神御費殿
建保七年歳次己如二月十日丁未月始之
 惣官散位刑部宿祢正長
ここからは、承久元(1219・建保七)年に、本殿が建立されたことが分かります。

神谷神社棟札1460年
   今度は一番古い年紀を持つ上の棟札(写)を見てみましょう。
表が寛正元(1460)年で、「奉再興神谷大明神御社一宇」とあります。「再興」とあるので、それ以前に建立されていたことが分かります。建築にあたった大工と小工の名前が並んで記されます。そして真ん中の一行「奉再興神谷大明神御社一宇」からは当時の神谷神社が神谷大明神と呼ばれていたことが分かります。  その下に来るのが改修総責任者の名前です。「行者神主松本式部三代孫松本惣左衛門正重」とあります。
神谷神社は明治の神仏分離までは「神谷大明神」で、神仏混淆の宗教施設で管理は別当寺の清瀧寺の社僧がおこなっていました。「行者神主」にそのあたりのことが現れていることがうかがえます。
さて私が興味をひかれるのは最後の行です。
「当村政所並惣氏子共栄貴祈所 木(?)政所並惣氏中」とあります。ここに出てくる「政所」とは何なのでしょうか? 
先ほど見た京都の武内神社の天正三年(1574)の棟札にも、オトナのうち一人に「政所」という肩書きがありました。そして十人のオトナのうちの一人が、交替で政所という世話役を務めるようになったことをみました。それと同じ意味合いだとすると、神谷村のオトナ(有力者)たちということになります。しかし、ここでは「当村政所」とだけ記し、具体的な氏名は書かれません。

神谷神社棟札2枚目


その後の16世紀後半から百年毎棟札を並べたのが上図です
この3つの棟札を比べると次のようなことが分かります。
①地域の有力者の手で、定期的に社殿の遷宮(改修)が行われてきたこと
②遷宮の行者神主は代々松元氏が務めていること
③村の檀那等(氏子)の祈祷所として信仰を集めてきたこと
④中世は脇坊の僧侶(山伏)による勧進活動で改修が行われていたのが、江戸時代になると「本願主」や「組頭」の肩書きをもった「オトナ」衆によって改修が行われるようになっている。
そして、オトナ(有力者)の名前が具体的に記されています。
神谷神社にも 中世のオトナ → 江戸時代の庄屋 → 明治以後の顔役 神社総代という流れが見られるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「日本の中世」 村の戦争と平和 鎮守の森で  現代につづく中世 121P


   製塩と木簡
木簡 讃岐国阿野郡の調塩
塩の産地であった讃岐では、調として塩が貢納されていました。
 平城京から出てきた木簡の中に
「讃岐国阿野郡日下部犬万呂―□四年調塩

と記されたものがあります。
ここからは、阿野郡の日下部犬万呂が塩を調として納めていたことが分かります。また『延喜式』に「阿野郡放塩を輸ぶ」とあります。阿野郡から塩が納められていたことが分かります。放塩とは、粗塩を炒って湿気を飛ばした焼き塩のことのようです。炒るためには、鉄釜が使われました。ここに出てくる塩も、阿野郡のどこかで生産されたものなのでしょうか。今回は、坂出周辺の古代の製塩地捜しに出かけて見ることにします。テキストは「坂出市史 中世編  海を取り巻く様相  107P」です
製塩木簡 愛知
愛知県知多から平城京への塩の送り状
奈良や京都の有力寺社は、塩を手に入れるために、瀬戸内海に製塩地を持っていました。いわゆる「塩の荘園」と云われる荘園です。その中でも。伊予弓削島は「塩の島」と呼ばれるように東寺の重要な塩荘園でした。讃岐でも有力寺社の製塩地がありました。坂出市域の北山本新荘(後の西庄)や林田郷をはじめ、志度荘・三崎荘(庄内半島)・肥土荘(小豆島)などです。 
当時の塩は、どのようにして造られていたのでしょうか?
 瀬戸内の海浜や島々には、弥生時代中期から奈良・平安時代にかけて営なまれた土器製塩遺跡が200か所以上あります。中でも、吉備と讃岐に挟まれた備讃瀬戸地域は、最も分布密度の高く、このエリアでが製塩の発生地域であることが明らかにされています。
 弥生時代は、製塩土器が用いられていました。
備讃瀬戸で発生した製塩法が、古墳時代になると山口市沿岸,芸予諸島,小豆島,淡路島,大阪湾沿岸,鳴戸,和歌山の各地方,さらに九州,若狭湾,東海沿岸へと拡大されていきます。
製塩土器
製塩土器
 6世紀後半~7世紀前半になると、丸底で今までにない大型品の製塩土器が使用されるようになります。その容量は2,000ccにもなり、これまでの製塩土器に比べると2~3倍になります。この土器を「師楽式土器」と呼んでいます。
製塩 喜兵衛島〈きへいじま〉

直島の北にある喜兵衛島〈きへいじま〉遺跡群で発見された炉は、それまでのものよりも大型化し、丸底の土器にあわせて底面に石が敷かれています。使用済の製塩土器廃棄量も大量になり、喜兵衛島遺跡群の土器捨て場には実に厚さ1mにもなる製塩土器層が出てきています。

製塩 製塩土器

 また瀬戸大橋工事にともなう大浦浜遺跡(櫃石島)の発掘調査からは、約20万点にもおよぶ製塩土器や塩水溜・製塩炉が見つかっています。これは、もはや弥生時代の塩作りとは、規模やレベルそのものが違う生産量です。専業化した専門集団がいて、備讃瀬戸地域の海岸部分や島嶼部分に製塩拠点を構えていたことがうかがえます。まさに備讃瀬戸の塩作りが最も栄えた時期とも云えます。そのような影響が塩飽や坂出の海岸部にも伝播してきます。

本島では早い時期から塩作りが行われていました。
7月14日の御盆供事として、「塩三石 塩飽荘年貢内」と藤原摂関家領であった塩飽荘の年貢として塩が上納されています。その内の塩三石は、法成寺の盆供にあてられています(執政所抄)。寺社の行事には、清めなどに塩が大量に必要とされました。塩飽の塩は宗教的な行事に使われています。なお近世以前には、「塩飽=本島」と認識されていたことは以前にお話ししました。

塩飽(本島)のどこで塩が生産されていたのでしょうか。
これもはっきりとした史料はありません。ただ、島の北部にある砂浜地帯に「屋釜」という地名があります。これは塩を煮た釜を推測できます。また南部の泊の入江付近は、かつては海岸部が内側に入り込んでいて、干潟が広がっていたようです。その干潟を利用して塩浜が開かれていたと研究者は推察しています。
製塩 大浦浜遺跡

 櫃石島の大浦浜では弥生時代から製塩が行われていました。
その後も塩飽では塩作りが盛んに行われていたことが推察できます。沙弥島でも弥生以来の製塩が引き継いで続けられていたのでしょう。これらを担っていたのは、製塩という特殊技術を持った「海民」の一族であったと研究者は考えているようです。

製塩 奈良時代の塩作り
奈良時代の塩作り 製塩土器を使用している

仁和二(886)年に、讃岐国司として菅原道真がやってきます。       
赴任した冬に詠んだ『寒早十首』(古代篇Ⅲl3‐田)の中に、「塩作人」について、次のように記されています。
何人寒気早    誰に寒さは早く来る
寒早売塩人    寒さは塩作人(塩汲み)に早く来る
煮海雖随手    塩焼きは手馴れているけれど
衝煙不顧身    煙にむせて身を擦りへらしている
旱天平價賤    お天気続きは塩の値段を下げちゃうから
風土未商貧    この地で塩商人は大もうけ
欲訴豪民     お役人訴えたくて、港で待っているんだ。
(塩焼きには給料をほんの少ししか渡さず、有力者たちが大もうけしていることを訴えたくて)
ここには塩を作る人の労苦が記されています。周囲を海に囲まれた島々では、生活の糧を得る手段としては海に携わるしかありません。特殊技術をもつ「海民」の活躍の舞台でもあったのです。製塩も古代以来、海民によって担われてきたようです。「塩焼きは手馴れているけれど」、しかし、流通面を塩シンジケート組織に押さえられていたことがうかがえます。中国の塩の密売ルートも同じです。流通組織がシンジケート化し、力を持つようになり生産者(海民)を圧迫します。そのため彼らの生活は、決して楽ではなかったことが、ここからはうかがえます。中世になっても、塩の生産は向上しますが、そこに従事する海民の生活は、あまり変わらなかったようです。
製塩 自然浜
中世の自然浜
中世になると、塩の需要が高まり、塩を多く生産するために塩浜が開発されていきます。
陸地部では、阿野郡林田郷に塩浜が開かれていました。暦応二(1340)年の顕増譲状には、次のように記されています。
潮入新開田内壱町 塩浜五段内三反坪付等これあり」

と、記されています。ここからは、祗園社執行の一族である顕増が大別当顕賀に譲った所領に塩浜五段があったことが分かります。「潮入」とあるように、満潮の時には潮が入り込み、干潮時に潮が引いて干潟になる地形が利用されていたのでしょう。
3坂出湾4
オレンジが古代の坂出海岸線
  林田郷を上空から見ると、綾川の流域の平地に田地が広がっていて、少し小高くなった微髙地に集落があります。治水工事が行われない古代中世は、洪水のたびに平地は冠水しました。そこで人々は、一段と高くなった微髙地に住居を建てて集住するようになります。これは弥生人以来の「生活防衛手段」でした。中世になると、洪水から田地を防ぐために堤を築き、新たな土地を切り開いていくようになります。

3綾川河口条里制
阿野北平野の条里制 条里制施行されていない所は海
 綾川平野の南部は条里制跡がありますが、北部にはありません。つまり条里制施工時には、北部は耕地でなかったことを示しています。綾川北部は、その後に開発新田として成立したのです。その際に塩浜も開発された形跡があるようです。具体的には、綾川の河田部の干潟を利用して塩浜を開いていったと研究者は考えているようです。

弘安三(1279)年の京都の八坂祇園社の記録に、次のように記されています。
「讃岐国林田郷梶取名内潮入新開田」

林田郷内の梶取名にも潮人新開田が開発され、半分が祇園社領となっていたことが分かります。「潮入新開田」からは、塩浜が開かれ、生産された塩は八坂神社へと送られたことがうかがえます。
「梶取名」という地名が出てきます。

梶取は、荘園所属の「年貢輸送船」を運行する海運従事者(船頭)のことです。梶取名から「梶取」がいたことが推測できます。
3綾川河口図3
       綾川左岸に西梶・東梶の地名が残る、その下流は新開

 
この付近の綾川右岸(東岸)には、いろいろな建物が建っていたことを示す地名が残っています。
「東梶乙」には「蔵ノ元」「蔵元」、
「城ノ角」には「蔵佐古」「城屋敷」・「蔵前苫屋敷」
「馬場北」から「惣社」には「弁財天西」・「弁財天裏」
「東梶乙」には「ゑび堤添宝永六巳新興」、
「西梶」には「宮ノ脇」・「宮ノ東堤下屋敷」・「寺裏」・「祇園前」・「祇園前新開」・「祇園東さこ新開」

このあたりが船の「舵取り」たちの居住区だったとされるエリアです。船頭・船乗りや蔵本たちが生活し、蔵が建ち並んでいたとも伝えられます。
  東梶乙の「蔵ノ元」・「蔵元」は、綾川の右岸(東岸)堤防から100mほど東の土地です。
このあたりから「城ノ角」の林田小学校付近にかけては、南北に細長い微高地があります。その上に「蔵ノ元」・「蔵元」の地名があるのは、水運に便利な綾川から近い場所に物資管理用の倉庫が立ち並んでいたことをうかがわせます。
 また、坂出市立林田小学校の北方の「蔵佐古」・「城屋敷」「蔵前苫屋敷」は、微高地の北端に当たります。そして小高い所に「城屋敷」の古地名があるのは、中世城館があったことを示しているようにも思えます。
 このエリアの居住者が海運従事者であり、交易業者で、
京都の八坂神社に従属する者として、京都への塩輸送に従事していたとも考えられます。林田郷の綾川流域では、塩田が開発され、塩の生産と塩輸送の集団が集住したとしておきましょう。

坂出 中世の海岸線

京都崇徳院御影堂領であった北山本新荘福江(坂出市福江町)にも、塩浜があった次の記事が残されています。
「讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五斗五貫文内半分検校尊道親王御知行、半分別当法輪院御恩拝領塩浜塩五石、当永享十年よりこれを定、京着」

地形復元して、坂出の古代の海岸線を西からたどると、聖通寺山・角山束麓~文京町二丁目~笠山北麓~金山北麓~下氏部付近~加茂町牛の子山北麓付近と推定されるようです。

坂出の復元海岸線3
現在の坂出高校グランド南西角付近の文京2丁目遺跡からは、多数の製塩土器が出ています。ここからは、福江湊の砂州上では古代から中世にかけて塩浜が造られ、塩作りが行われていたことが分かります。島嶼部の沙弥島のナカンダ浜でも弥生時代の製塩土器が大量に見つかっていることと併せて考えると、坂出の旧海岸線では古代・中世にも、盛んに製塩が行われ、それが京都の荘園領主の寺社に年貢として届けられていたことが見えてきます。平城京本簡に記された阿野郡の塩は、これらの地域で生産されていた坂出市史は記します。
どれくらいの塩が、中世には生産されていたのでしょうか。
塩の生産量を統計したような史料は、もちろんありません。しかし、手がかりとなる史料はあります。以前に紹介した『兵庫北関人船納帳』です。兵庫沖を通過する船は、通行料を納めるために兵庫湊に入港し、通行税を納める義務がありました。その通行料は東大寺や興福寺の修繕費や運営費に充てられました。徴税のために一隻一隻の母港や船頭名(梶取)や積荷とその量まで記録されています。

製塩 兵庫北関 讃岐船一覧
 北関入船納帳には、兵庫港(神戸港)へ出入りした讃岐17港の舟の船頭や積荷が記されています。讃岐船の特徴は、積荷の8割は「塩」であること、大型の塩専用輸送船が用いられていたことです。
以前に、屋島の潟元(方元:かたもと)の塩を積んだ輸送船のことについてお話ししました。ここでは坂出周辺の塩輸送船について見ておきましょう。船籍一覧表からは、坂出周辺の湊として、宇多津・塩飽・平山が挙げられます。
製塩 兵庫北関 讃岐船積荷一覧

塩飽船は讃岐NO2の通行回数で、最大の積荷は塩で、約5000石を輸送しています。この塩は、塩飽で全て生産されたのではないようです。周辺の阿野郡の塩浜で生産された塩が集められて塩飽塩として輸送されたと研究者は考えているようです。塩飽や沙弥島などの島々で開始された製塩は、次第に坂出の陸地部にも拡がりでも塩浜が開かれ、塩の生産が行われていたことは先ほど見たとおりです。それらの船が荘園主の元に、塩専用船で運ばれ、それ以外は一旦、塩飽に運ばれ、積み替えられて畿内に塩飽船で輸送されたことが考えられます。そのため塩飽塩として扱われたのでしょう。これは、宇多津や平山についても云えます。
 ここからは宇多津や塩飽は、塩のターミナル港としても機能していたことが分かります。そのため出入りの船が数多く行き交うことになったのでしょう。もうひとつ考えられるのは、塩飽船が生産地近くの港まで出向いて積み込んだこともあったかもしれません。近世になると、小豆島の廻船は、小豆島の塩だけでなく、引田や三本松に立ち寄り、そこで塩を買い入れて、九州方面に出発していることを以前に紹介しました。そのような動きが中世からあったことも考えられます。
 どちらにしても、讃岐の中世海上運送は塩の輸送から始まったと云えそうです。
先ほど見たように、生産者から安く買いたたき、畿内に運んで高く売るという商売が成り立ちます。塩を中心とするシンジケートが商業資本化していく気配がうかがえます。彼らは近畿にだけ、モノを運んでいたとは、私には思えません。九州方面やあるときには、朝鮮・中国との交易を行おうとし、それが倭寇まがいの行為に走ることもあったのではないでしょうか。中世の交易船はいつでも、海賊船に「変身」できました。
 新しい交易地を開く際に頼りになったのは、僧侶たちでした。
例えば高野山は、各地からやって来る僧侶や参拝者によって、最新の情報が集まる場所でした。そして、情報交換も場でもありました。そこからやってきた修験者や高野聖たちは、瀬戸内海の各港や生産物の情報を「遍歴・廻国」で実際に自分の目と耳で確認しています。地元の交易船の先達として、新たな交易ルートを開く水先案内人の役割を務めたのがこれらの僧侶たちではないかと私は考えています。そうだとすると、坂出地区でその役割が務められるのは、白峰寺になります。白峰寺は、讃岐綾氏の流れをくむ武士集団と連携し、林田郷の「梶取り」集団を傘下にいれ瀬戸内海交易にも進出していたという仮説は「勇足」でしょうか。

 もうひとつ白峰寺との関係で押さえておきたいのは、備讃瀬戸対岸の五流修験との関係です。
五流修験は以前にお話したように、「新熊野」と称し、熊野からの亡命者であるとします。そして、大三島や石鎚などでの修験活動を行います。同時に小豆島や塩飽本島へも進出してきます。讃岐の海岸沿いには、五流修験者の痕跡が残ります。多度津の海岸寺や道隆寺、聖通寺、白峰寺などです。白峰寺が五流修験を通じて、瀬戸内海の修験者たちとつながっていたことは押さえておきたいと思います。そして、林田湊や福江・御供所港は、その寺領であったのです。かつての四国辺路の霊場であった金山権現も、そういう五流や白峰に集まる修験者の行場であり、辺路ルートの上にあったと私は考えています。
そのルートは次の通りです。
五流修験 → 塩飽本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 金山権現 → 白峰寺 → 根来寺 → 国分寺
以上をまとめたおくと
①備讃瀬戸一帯は、弥生時代に始まる小型製塩土器を用いた製塩発祥の地であった。
②古代には大型の製塩土器である師楽式土器が使われるようになり、生産量は増大する。
③中世になると、入浜を用いた製塩業が行われるようになり、朝廷や大寺社は塩を安定的に手に入れるために、「海の荘園」を設けるようになった。そこからは本領の専用船で畿内に輸送された。
④当時の讃岐船の積荷の多くは、塩であった。
⑤塩飽・宇多津・平山などを母港にする輸送船は、周辺生産力からの塩を集荷して、大型船で畿内に輸送した。
⑥これらの輸送船を経営する海民たちは、シンジケートを形成し、商業資本化していくものも現れた。
⑦塩を生産した坂出周辺の塩浜は、本島・沙弥島・御供所・福江・林田が史料では確認できる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

        


 白峯寺古図は寺伝では、江戸初期に南北朝末年の永徳二(1283)年に焼亡した白峯寺を回顧して、往時の寺観を描いたものとされています。以前にはこの古図で白峯寺伽藍内を見ました。今回は白峯寺の周辺部や荘園を見ていくことにします。テキストは「坂出市史 中世」です。

白峯寺古図 周辺天皇社
白峯山古図
『白峯山古図』には、③稚児ケ瀧の上に①白峯陵や白峰寺の数多くの堂舎が描かれています。本社の右に勅使門があり、そこを出て白峯寺へ向かう道の脇に②御影堂(崇徳院讃岐国御影堂:後の頓証寺)があります。中世には、ここにいくつかの荘園が寄進されます。
 今回注目したいのは、周辺にある天皇社です。
A 稚児ヶ滝の滝壺の左に崇徳天皇(社)があります。これが現在の⑧青海神社です。
B 白峰寺の大門から尾根筋の参道を下りきった場所に、もう一つの崇徳天皇(社)が見えます。これが現在の⑩高家神社です。
これらの二社は、現在も鳥居に「崇徳天皇」の扁額が掲げられています。
高屋神社 崇徳上皇
高屋神社の崇徳天皇扁額

B 尾根筋参道の右には深い谷筋の奥に、神谷明神(神谷神社)が三重塔と共に描かれています。この神社の神殿は国宝ですが、中世は神仏混交で明神を称していたことが分かります。そして、白峯寺山中の子院のひとつであったことがうかがえます。
C 絵図の前面を流れるのが現在の綾川で、その上流に鼓岡があります。ここも、白峯寺が寺領であると主張していた所で、讃岐国府のほとりに当たる場所です。青海・高屋神社の崇徳天皇社と神谷明神、鼓岡は、「白峯寺縁起」に書かれている白峯寺寺領とされる場所です。鼓丘は、明治以降に崇徳院霊場として政治的に整備され、今は鼓丘神社が鎮座していることは以前にお話ししました。
坂出市史には、白峰寺古図と白峰寺縁起に記された白峯寺の寺領荘園群が次のように挙げています。
『白峯寺縁起』に、次の3つの荘園
① 今の青海・河内は治承に御寄進
② 北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附
③ 後嵯峨院(中略)翌(建長五)年松山郷を寄進
「讃岐国白峯寺勤行次第」に5つの荘園
④ 千手院料所松山庄一円
⑤ 千手院供僧分田松山庄内
⑥ 正月修正(会)七日勤行料所西山本新庄
⑦ 毎日大般若(経)一部転読(誦)料所当国新居郷
⑧ 願成就院明実坊修正(会)正月人(勤行)料所松山庄内ヨリ      
これは、そのまま信じることはできませんが、15世紀初頭には白峯寺はこのような寺領の領有意識を持っていたことは分かります。それをもう少し具体的に見てみると・・・・
①の青海(村)、④の松山庄一円、⑤の松山庄内、③の松山庄内、それに③の松山郷を合わせると松山郷全体が白峯寺の寺領荘園になっていたことになります。
①の河内を「阿野郡河内郷」とすると、ここには鼓岡と国府がありました。そこが白峯寺の寺領だったというのは無理があります。国府の諸施設のあった領域以外の土地を、寺領と云っているのでしょうか。このあたりはよく分かりません。
⑦の新居郷は、古代の綾氏の流れをくみ、在庁官人として成長し、鎌倉時代以降鎌倉御家人として栄えた讃岐藤原氏の一族新居氏の本拠です。五色台山上にある平地部分のことと研究者は考えているようです。

福江 西庄

②と⑥は、前回お話ししたように北山本新庄(後の西庄)で、当初は京都の崇徳院御影堂に寄進されていた荘園です。それを白峯寺は押領して寺領とします。
もともと、これらの寺領は『玉葉』建久二(1191)年間閏十二月条にあるように、後鳥羽上皇が崇徳院慰霊のために建立した仏堂である「崇徳院讃岐国御影堂領」に寄進されたことがスタートになります。
 寛文九(1669)年の高松藩の寺社書上「御領分中寺々由来」には、白峯寺の項に「建長年中、高屋村・神谷村為寺領御寄付」とあるので、松山郷内青海・高屋・神谷の「三ヶ庄」は崇徳院讃岐国御影堂領松山荘として存続していたようです。三ヶ庄の名称は、寛永十(1832)年に作成された「讃岐国絵図」にもあり、現在も綾川を取水源にした三ヶ庄用水に名を残しています。

白峯寺古図拡大1
白峯寺古図拡大図 中世には様々な堂舎が立ち並んでいた

  白峰山は、古代から信仰の山で、次のような複合的な性格を持っていました。
①五色山自体が霊山として信仰対象
②五流修験による熊野行者の行場
③高野聖による修験や念仏信仰の行場で拠点霊山
④六十六部などの廻国聖の拠点
⑤四国辺路修行の行場
ここに、天狗になった崇徳上皇の怨霊を追善するための山陵が築かれます。白峯陵(宮内庁治定名称では「しらみねのみささぎ」)は、唯一玉体埋葬の確実な山陵です。
白峰寺7
白峯寺(讃岐国名勝図会) 
そして朝廷により崇徳院御影堂(後の頓証寺)などの堂舎が整備されていきます。ある意味、天皇陵というもうひとつの信仰対象を白峯寺は得たことになります。しかも、この天皇陵は特別でした。天狗と化し、怨霊となった崇徳上皇を追善(封印?)する場所でもあるのです。菅原道真の天満宮伝説とおなじく、怨念は強力であればあるほど、善神化した場合の御利益も大きいと信じられていました。こうして白峯寺は「崇徳上皇を追善する寺」という顔も持ち、多くの信者を惹きつけることになります。中央からの信仰も強く、朝廷や帰属からも様々な奉納品が寄せられるようになります。同時に、寺領化した松山庄や西庄などの人々も、地元に天皇社を勧進し祀るようになります。それを親しみを込めて「てんのうさん」と呼びました。その「本宮」の白峰山や白峯寺も、いつしか「てんのうさん」と呼ばれ信仰対象になっていきます。

讃岐阿野北郡郡図8坂出と沙弥島
讃岐綾北郡郡図(明治) この範囲がかつての西庄にあたる

 坂出市の御供所は、前回お話ししたように北山本新庄(西庄)の一部でした。
ここには崇徳上事の讃岐配流に随ってきたという七人の「侍人」伝承があります。また、今も白峰宮(西庄町)には、2ヵ所の御供所(坂出市、丸亀市)から祭礼奉仕の慣習が続いているようです。

坂出市西庄
 坂出市には、今見てきたように中世に起源を持つ三社(高家神社・青海神社・白峰宮)があります。これらは崇徳上皇を祀っています。さらに川津町には江戸時代創建の崇徳天皇社があるので、四社の崇徳天皇社が鎮座することになります。これも白峯寺の寺領化と崇徳上皇への信仰心が結びついたものなのかもしれません。
白峯寺大門 第五巻所収画像000004
白峯寺大門に続く道
まとめておくと
①白峯山上に崇徳院陵が整備され、その追善の寺となった白峯寺には荘園が寄進され寺領が拡大していった
②各荘園には白峯陵から天皇社が勧進され、「てんのうさん」と呼ばれて信仰対象となった。
③そのため白峯寺の寺領であった坂出市域には、いくつも「てんのうさん」が今でも分布している
白峰寺 児ヶ獄 第五巻所収画像000009
稚児の滝の下の青海神社もかつては天皇社

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編
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福江 西庄
坂出市史より

 白峯寺の経済的基盤は、松山荘と西庄にあったことを前回は見てきました。今回は西庄が白峰寺の寺領になるまでを追って見たいと思います。「西庄」という荘園名は、中世には出てきません。出てくるのは「北山本の新荘」で、これがいつの間にか「西庄」と呼ばれるようになりました。
 建長年間に筆写されたという「讃岐国白峯寺勤行次第」(白峯寺所蔵)には、正月修正会という法事興行のための費用料所として「西山本新庄」が充てられています。
 最初からややこしい話になりますが、これは西ノ山本新荘という意味で、より説明的に言うと「西ノ北山本ノ新荘」です。西山本ノ新荘という意味ではありません。この西ノ(北)山本郷内に、新たに設定された荘園が「(北)山本新荘」で、これが京都の崇徳院御影堂に寄進されたもののようです。

西庄の前身である「北の山本の新荘」は、いつ、どこに成立した荘園なのでしょうか?
北山本新荘の荘名は、鎌合時代後期の徳治一(1207)年2月25日の洞院公賢奏事事書に「北山本新庄預所職事」と見えるのが初見のようです。次に建武三(1336)年12月18日の光厳上皇院宣案に、「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄」と出てきます。これだけ見ると、白峰寺の御影堂の寺領のように思えます。しかし、そうではないようです。崇徳院御影堂は、京都にもあったのです。

白峯寺 御影堂の説明文
京都の崇徳院御影堂と粟田社についての記述

京都の崇徳院御影堂を見ておきましょう。
崇徳上皇が神に祀られたのは、元暦元(1184)年4月15日のことです。吉田経房の日記『吉記』(『史料大成』)同日条は、次のように記します。
崇徳院・宇治左府、仁祠を建て遷宮こと
今日、崇徳上皇・宇治左大臣、霊神に崇めんがため、仁祠を建て、遷宮有り、春日河原をもってその所となす、保元合戦の時、かの御所跡なり、当時、上西門院御領たり、今、申請せられこれを建てらる、津々材木を点じ、造営す、遷官の間儀、尋ね注すべし、院司権大納言兼雅、式部権少輔範季朝臣奉行す、社司僧官等を補せらること、神祗大副卜部兼友宿祢、社司に補せられその事に備う、また僧官を補せらる、
意訳変換しておくと
崇徳院・宇治左府(藤原頼長)の追善のために、仁祠を建て遷宮したことについて
今日、崇徳上皇・藤原頼長の慰霊のために、仁祠(崇徳院御影堂)を建て、遷宮が行われた。場所は春日河原で、保元合戦の時に戦場となった御所跡で、当時の上西門院(鳥羽上皇の第二皇女)の領地にあたるので、用地提供の申請を受けてここに建立された。院司権大納言兼雅、式部権少輔範季朝臣が建立責任者となり、社司僧官等を選任し、神祗大副卜部兼友宿祢が社司に任じられた。また僧官も置かれた。
  ここからは、保元の乱の時に戦場となった春日河原に、崇徳院と藤原頼長の追善のために社殿が建立されたことが分かります。これが京都の崇徳院御影堂です。崇徳院廟と頼長廟が東西に並んで設けられ、粟田に位置したので、「栗田廟」・「粟田宮」と呼ばれるようになります。祠官には神祗官の卜部兼友が選ばれ、僧官については、頼長の升教長の子である延暦寺の玄長が別当に、西行の子慶縁が権別当に補任されたと「源平盛衰記」にはあります。
 つまり、崇徳院御影堂は京都の春日河原にも建立され、その寺領として寄進されたのが「北山本の新荘(西庄)」ということになります。当時は、讃岐には山本荘と同名の荘園が豊田郡(石清水八幡宮領山本荘)にもありました。そこで混同を避けるために、坂出の山本荘は「北山本新荘」と呼ばれるようになったようです。「北山本新荘=山本荘」だと坂出市史は記します。
白峯寺の史料は、西庄がどのように白峰寺の寺領になったと述べているのでしょうか
 『白峯寺縁起」には、次のように記されています。
「北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にて侍るなり」

つまり、文治年間(1185~90)に源頼朝が北山本新庄を白峰寺に寄進したというのです。これに対して坂出市史は次のように指摘します。
「京都の崇徳院御影堂領として荘園を本所である栗田官に頼朝が返付した事を主張したもので、史実とはやや事情が異なる。しかし、この事実を根拠にして、崇徳院御影堂の肩代わりを担った白峯寺が右の荘園支配の裏付けとすべく、鎌倉時代から寺領であったと宣言しているのである。」

ここからは「白峯寺縁起」が書かれた15世紀初頭には、白峰寺は松山荘を本荘と見なし、綾川対岸に広がる北山本新庄を西(の北山本新)庄、あるいは、松山荘の西(方にある)荘園、すなわち、 西庄と呼ぶようになっていたことがうかがえます。他人の物を、自分のものだと主張するようになっていたということです。

次に北山本新庄の広さとエリアを見ておきましょう
 現在の西庄は「坂出市西庄町」ですが、中世の西庄の荘域は現在の倍以上の広さだったようです。
西庄町

寛永十(1633)年幕府へ提出した「寛永の国絵図」の稿本とみられる「讃岐国絵図」は、3つのものが伝来しています。そのどれもが北山本新庄全域を西庄と記しています。そのエリアは「醍醐・原・天皇・江尻・福江・坂出・古御供所」を白い線で括り、肩書きに西庄と注記しています。
 また、それから30年以上経た寛文九(1669)年になっても西庄(当時の表記は西之荘)内には、福江村以外は分村されておらず西之荘村として一括して扱われています。
 その中に「古御供所」とあるのは、生駒時代に、御供所集落が丸ごと丸亀城下の三浦に強制移住させられ一時廃村化したことを記入しているようです。移住先の丸亀市三浦には、現在も御供所町の地名が残っていて、崇徳天上社(白峰宮、西庄町)への神事奉祀の伝統が続いているようです。これは、御供所が崇徳院御影堂領の北山本新庄内の一部であったことを裏付けます。
次に福江について見てみましょう
坂出の復元海岸線2

『華頂要略』に引かれた「門葉記」の崇徳院御影関する記事には、次のように記されています。
讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五十五貫文内、半分検校尊道親工御知行、半分別当法輪院御恩拝領、塩浜塩五石、当永享十(1438)年よりこれを定、京着、鯛四十喉、

ここには「讃岐国北山本ノ新庄福江村」とあるので、中世には福江は北山本新荘に属していたことが分かります。また、その年貢として塩5石や鯛40を納めています。鯛をどうやって運んだのかは気になりますが、生きたまま運んだのではないでしょう。沙弥島周辺で捕れた鯛の内臓等を取り除いて、地元産の大量の塩で包みそのまま塩焼きにした「鯛の浜焼き」を研究者は考えているようです。塩釜焼きよりも高温の焼き塩で処理した方が、日持ちするようです。ここには福江村の半農半漁的な姿がうかがえます。しかし、福江はそれだけではありませんでした。中世交易湊の姿も見せてくれます。
宝徳元(1449)年の史料には阿野郡北山本新荘の年貢輸送の福江丸に、管領細川勝元から次のような下知状が発給されています
「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料舟之事」
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船福江丸・枝丸等事、毎季拾艘運上すべし云々、海河上諸関その煩い無くこれを勘過すべし、もし違乱の儀あれは厳科に処すべきの由仰せ下さる也、例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
意訳変換しておくと
「崇徳院御影堂領の讃岐国北山本新庄の国料舟について
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)について、毎年10回のフリー運用を認めるので、海上や河川の諸関において、この権利を妨げることなく通過させよ。もし違乱することがあれば厳罰に処すことを申し下せ。例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
ここには、北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)が登場します。福江丸と名付けているので、福江を母港とする交易船であることがうかがえます。福江には、瀬戸内海交易に携わる交易集団がいたことが浮かび上がります。北山本新庄の年貢など以外にも様々な物産を畿内に向けてはこんでいたことが想定できます。
坂出市史に載せられた北山本新庄の俯瞰図を見てみましょう
 以前にもお話したように、古代の坂出には大束川が流れ込み、深く湾入した海に注いでいました。その河口付近にあったのが福江です。福江は、瀬戸内交易の拠点であると同時に、大束川による川津方面への川船輸送の入口でもありました。古代綾氏の大束川流域への進出拠点とも考えられています。中世には、大束川は流れを変えて宇多津方面へ流れ出るようになりますが、福江は「北山本新庄=西庄」の湊としての地位を保っていたことは先ほどの史料で見たとおりです。
福江 中世
坂出市史より

 この想像図で笠山の麓に製塩の釜屋と民家があり煙が上がっているのが福江です。福江村の上(北側)に深く入り海が湾入しその奥にも釜屋がある辺りが御供所です。そこから右(東)へ外海に面して続く砂州が続きます。旧大束川の堆積物で造られた砂州です。その上に西から順に西洲賀・中洲賀・東洲賀・鳥洲さらに入り江の対岸が江尻となります。また、沖には右に瀬居島、左に沙弥島があります。これら入り海と砂州、そして沖の二島を結ぶまでの外海すべてが北山本新庄だったと坂出市史は考えるのです。海を荘園のエリアに内包する例は、以前に三豊の柞田荘の立荘作業で見たとおりです。

 現在の坂出市西庄町は、この想像図のさらに東側の地域になりますが、「西庄」と「荘」いう小字地名が残るので「北山本新庄」に含まれていたようです。そして、新庄の中心部は「北山本新庄」の東側(現西庄町)にあったのではないかと坂出市史は推測します。

京都の崇徳院御影堂の荘園・北山本新庄が、どのようにして白峯寺の寺領になったのでしょうか?
「文治年中、号山本庄、後年分二、号本庄・新庄、本庄は八幡知行、新庄は御影堂領」

意訳変換しておくと
「文治年間(1185~1190)年には北山本新庄と呼ばれていたものを、後年に本庄と新庄の2つに分けた。本庄は(岩清水)八幡神社の知行で、新庄は(白峰)御影堂領となった。

「後年に二分し」たとあるのは、「山本郷内にある山本庄を後年に二分割し」たということです。そして、新荘は(白峰)御影堂領になったというのです。ここからは、北山本新庄の京都から白峰寺への「所有権転換」があったことがうかがえます。しかし、それがいつかは分かりません。
 
白峯寺の隆盛と地主化への道
   白峯寺の権威と名声を高めたの、もうひとつの原動力となったのが、崇徳院法楽関係文芸作品群の崇徳院御影堂(頓証寺)への奉納であることを坂出市史は指摘します。その最初の奉納物は、今は明治の廃仏毀釈の時に金刀比羅宮に移った「崇徳院御影堂同詠二首和歌」だったようです。成立年は分かりませんが、崇徳院二百年遠忌(貞治四(1365)年)の時に、細川頼之の勧進によるもの(『白峯寺調査報告書』香川県2013年)とされています。
 これに続くのが「頓証寺法楽一日千首短冊帖」(金刀比羅宮蔵)で、応永11(1414)年4月17日に讃岐守護細川満元邸で催された和歌会の作品集です。この催しは、崇徳院遠忌250年(応永20(1413年)のことです。
頓証寺額
後小松天皇からの「頓証寺」銘の額(複製)

その翌年の12月には後小松天皇から「頓証寺」銘の額が白峰寺に届けられます。崇徳院法楽文芸作品群にしろ頓証寺額にしても、すべて白峯寺宛に届けられ、社僧等によって崇徳院の霊前に奉納されています。こうした慣行の積み重ねで、頓証寺をトップとする白峯寺の地位は格段に上昇していったようです。これは、江戸時代も続けられます。
以上から北山本新庄が白峯寺に「押領」されていく過程を想像力も交えながら小説風に記してみます。
北山本新荘の本家である京都の崇徳院御影堂は、応仁の乱以降の戦乱で荒廃します。その結果、地方の荘園を維持管理する組織や施設すらも消滅してしまい、荘主のいた京都からは何の音沙汰もなくなります。その隙を狙う在地の武士団(悪党)たちの狼藉・圧迫に歯止めがきかなくなっていきます。その先頭にいたのが白峰寺の門徒勢力です。彼らが崇徳院墓寺という金看板をバックに絶大な支配力を行使していきます。後光厳天皇綸旨案に崇徳院御影堂領北山本新庄の押領を行う「林田入道井高継以下の輩」とは、実は白峯寺と手を組んだ地元の武士団であったのかもしれません。
 白峯寺は、崇徳院山陵の墓寺の地位を確保し、次に山陵に附属して建立された崇徳院御影堂を山内に取り込んで発展していくようになります。崇徳上皇の慰霊・追善の寺という「錦の御旗」を掲げて、周辺の荘園に対する「狼藉・押領」を繰り返すようになっていったのではないでしょうか。そう考えると、「ミニ延暦寺化」した地方の有力寺院は暴力装置としての僧兵集団を持つようになるが常です。それは善通寺でも出現した板ことを見ました。院坊がいくつも並ぶ白峰寺には、僧兵もいたと私は考えています。そして白峰寺は、地元の武士団を配下に入れて、有力な軍事集団を構成していたとしておきます。そのためこの周辺には、有力寺院が白峯寺以外には見られなくなります。それは近世の象頭山金毘羅大権現が、周辺の寺社を取り潰した上に成長して行った姿と重なります。

相模坊
白峰の相模坊権現
 白峰寺の社僧達は天狗たちだったことも金毘羅大権現とよく似ています。
崇徳上皇は「天狗となって恨みをはらさん」と、言い放って亡くなります。崇徳上皇が葬られた白峰寺は、その後は相模坊に代表されるように天狗たちの住処となります。天狗とは修験=山伏たちです。白峯寺は松山荘と西庄という経済基盤を手に入れて、白峰山上には数多くの院房が建ち並ぶミニ高野山の様相を呈するようになります。つまり白峰寺は象頭山と同じ、天狗道の聖地でもあったのです。

白峯 解説文入り拡大図
白峯寺古図 中世の白峯寺には多くの堂舎が見える 

以上をまとめておくと
①北山本新庄(西庄)のエリアは、現在の西庄町よりもはるかに広いもので、綾川から聖通寺山に至るエリアであった。
②北山本新庄(西庄)は、後白河上皇が京都に建立した崇徳院御影堂に寄進されたもので「海の荘園でもあり、長い海岸線を持っていた。
③御供所や福江は、海の特産品の集積地であり加工場でもあり、出荷湊でもあった。
④福江は国料船福江丸の母港で、交易港でもあった。
⑤中世後半になると、京都の寺社の荘園は悪党の狼藉・押領に苦しめられるようになる。北山本新庄もその例に漏れず、次第に白峯寺に「押領」され乗っ取られていった。
⑥白峯寺は北山本新庄を西庄と呼ぶようになり、松山荘とならぶ経済基盤となっていった。
⑦このような経済力を背景に、白峰山上にはミニ高野山のように堂舎が立ち並ぶようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編

 P1150760
崇徳上皇白峰陵墓
前回は白峰寺の発展の原動力が崇徳上皇陵が造られ、その慰霊地とされたことに求められることを見てきました。今回は、白峯寺の発展を経済的な側面から見ていくことにします。近代以前においては、寺社の経済基盤は寺領にありました。これは中世西欧の教会や修道院とも同じです。そのため寺社が大きくなればなるほど、封建領主の側面を持つことになります。白峯寺の場合は、どのように寺領を拡大していったのでしょうか。それを今回も、新しく出された坂出市史中世編をテキストに見ていきたいと思います。 
白峯寺は、松山荘と西庄のふたつの寺領を、経済基盤にしていました。
この寺領は崇徳上皇の追善のために建立された崇徳院讃岐国御影堂(後の頓証寺)に附属するもので、後には「神聖不可侵」なものと主張するようになります。そのような主張に至る過程を、まずは松山荘で追ってみます。

白峰寺明治35年地図
明治35年国土地理院地形図 松山村周辺
松山郷は、坂出市神谷町・高屋町・青海町・大屋富町・王越町辺り一帯とされます。
それがのちには青海町・高屋町の旧海岸地域、さらに崇徳院御陵のある白峰寺一帯を指すようになります。また、崇徳上皇を詠った歌枕として使用されるようになり「白峯=松山」と近世には認識されていたようです。
松山荘の荘名は、藤原経俊の日記『経俊卿記』の正嘉元(1257)年4月27日条に「賀茂社司等中す、松山庄替地の事」と見えるのが初見のようです。
ついで、同年7月22日条には「賀茂社と白峯寺相論す、松山庄事」とあり、松山荘をめぐりって、京都の賀茂社と白峯寺との間で訴訟があったことが分かります。4月27日条によると、讃岐国衛の在庁官人が松山荘の見作(実際の耕作地)と不作(休耕地ないし耕作放棄地)について賀茂社の主張を確認し、所当六石を白峯寺より賀茂社へ返付するよう決裁しています。ここからは、松山荘内に賀茂社の社領(鳴部荘の一部?)が含まれていたことがうかがえます。つまり、この時点では松山郷=松山荘ではなく、松山郷には他領が含まれていたことが分かります。どちらにしても、崇徳上皇が葬られて約70年後の13世紀半ばには、白峯寺は松山荘を実質的に管理し、周辺部の賀茂神社の社領にも「侵入」していたことがうかがえます。しかし、松山荘の立荘の経緯については、不明なことが多いようです。。
白峯寺の「公式見解」は、応永十三(1406)年成立の「白峯寺縁起」には、次のように記されています。
安元二年七月二十九日、讃岐院と申しゝを改めて、崇徳院とぞ、追号申されける、その外あるいは社壇をつくりいよいよ崇敬し、あるいは庄園をよせて御菩提をとぶらう、今の青海・河内は治承に御寄進、北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にてはべるなり、治承・元暦の乱逆も、かの院の御怨念とぞきこえし、

意訳変換しておくと
安元二(1177)年7月29日、讃岐院(崇徳上皇)の号を改めて、崇徳院して追号し、その外にも社壇を造って追善し、荘園を寄進して菩提をともなった。今の青海(松山)・河内は治承年間に寄進されたもので、北山本の新庄も文治年間に頼朝大将によって寄進されたものである。治承・元暦の乱逆も、崇徳上皇の御怨念と世間は言う、
 ここからは白峯寺縁起が寺領の寄進について、次のように主張していることが分かります。
①「青海・河内」が治承年間(1177~81)に後白河上皇より寄進
②「北山本新荘(西庄から現在の坂出市街)」が文治年間(1185)に源頼朝より寄進
  ここには2つの偽造・作為があります。ひとつは青海とともに寄進されたという「河内」です。
河内とは、どこのことでしょうか?
「白峯寺縁起」に
「国符(国府)甲知(河内)郷、鼓岳の御堂」

とあります。つまり、国府のあった府中や鼓丘周辺を指しているようです。しかし、ここは国府があった場所で、そこが白峰寺に寄進されたというのは無理があるようです。これは「北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にてはべるなり」と同じように後世の仮託・作為だと坂出市史は指摘します。河内郷に白峰寺の寺領や荘園が存在したことはありません。
もうひとつは「北山本の新庄(西庄)」です。
これは、後に説明しますが後白河上皇が京都に建立した「崇徳院御影堂」に寄進した荘園です。後白河上皇は、讃岐以外に京都にも「崇徳院御影堂」を建立していたのです。その寺領として寄進されたのが「北山本の新庄(西庄)」です。それを15世紀初頭の「白峯寺縁起」が書かれた時代には、白峯寺が「押領」し、寺領に取り込んでいたのです。それを正当化しようとしていると坂出市史は指摘します。ちなみに「北山本の新庄(西庄)」のエリアは、西は御供所町から福江町を経て綾川までの広大なエリアを有する「海の荘園」だったと坂出市史は指摘します。
白峰寺の荘園 松山荘と西庄
白峯寺の荘園 松山荘と西庄(坂出市史より)
本題の青海(松山郷)にもどります。
①の「青海(松山)・河内」が崇徳院の御陵に寄進されたという主張の根拠を、確認しておきましょう。九条兼実の日記『玉葉」の建久二(1191)年閏12月22日には、次のように記されています。
讃岐院(崇徳上皇)と宇治左府(藤原頼長)について、明日発表する内容について、今日すでにその書を見たが内容は次の通りであった。
讃岐院(崇徳上皇)について
①白峰の御墓所を詔勅で山陵として、その周辺の堀を整備して周辺からの穢れを防ぐ。
御陵を守るための陵戸(50戸)を設ける。
③陰陽師と僧侶を現地に派遣して鎮魂させる。
④崇徳上皇の国忌を定めること。
⑤讃岐国白峰墓所に、一堂を建て法華三昧を行うこと
いま関係があるのは②と⑤です。⑤には崇徳上皇陵の追善のために、後白河上皇が「一堂(崇徳院御影堂)」を建立したとあります。しかし、寺領の寄進については何も触れていません。②には「御陵を守るための陵戸」の設置が記されます。しかし、これは寺領寄進とは別のものです。陵戸とは山陵を守るために設けられた集落です。中国の唐王朝では、長安郊外の皇帝陵墓周辺に有力者が移住させられ、陵墓の管理維持の代わりに、多くの特権を得ていました。これに類するものです。土地の面からすれば料所にあたり、青海(松山郷)に設置されたというのです。戸数50戸でした。松山郷全体を指すものではありません。しかし、白峯寺はこれを拡大解釈し、松山郷自体が白峰寺に寄進された荘園で寺領だと主張するようになります。
松山津周辺
古代松山郷の海岸線復元図
古代の海岸線復元図を見ると、雄山・雌山辺りまでは海で、現在の雌山の西側にある惣社神社あたりに、林田湊があったと考古学者たちは考えていているようです。また青海方面にも入江が深く入り込んでいたようです。その奥に松山津があったことになります。
坂出古代条里制
綾川流域の条里制遺構
そのため古代条里制跡は、松山郷の北部には見られません。中世になって海岸線が後退したあとの青海の湿原を、白峯寺は開拓領主として開発していったことが考えられます。

白峯寺古図
白峯寺古図
それを裏付けるかのように、白峯寺古図には稚児の滝の下の青海にはには深く海が入り込んでいるように描かれています。

「白峯寺縁起」は、その後の寄進について、次のように記します。
①後嵯峨院が、白峯寺千手堂を勅願所として、建長四(1252)年11月に法華経一部を本納
②その翌年には松山郷を寄附して、不断法華経供養の料所とした
ここには歴代の院や天皇が堂宇や寺領を寄進したと記します。こうして、松山郷における寺領面積は拡大したというのです。
「建長年中(1249~56)当山勤行役」との貼紙のある「白峯寺勤行次第」には、次のように記されています。
讃岐国白峯寺勤行次第 山号綾松山なり、後嵯峨院御勅願所 千手院と号す、土御門院御願、千手院堂料所松山庄一円ならびに勤行次第、十二不断行法毎日夜番供僧、同供僧二十一口、人別三升供毎日分、分田松山庄内にこれあり
意訳変換しておくと
讃岐国の白峯寺の勤行次第は次の通りである 
山号は、綾松山、後嵯峨院が御勅願所に指定して千手院と号すようになった。
土御門院によって、千手院堂料所として松山庄一円が寄進された。勤行次第は、十二不断行法が毎日夜番で供僧によって奉納されている、供僧二十一人、人別三升供毎日分、分田が松山庄内にある
ここには、白峯寺が後嵯峨院や土御門院の勅願所などに指定され、その勤行が21人の僧侶によって行われていること、そのための分田が松山荘内にが確保されているとあります。21人の僧侶というのは、当時のあったとされる別坊の数と一致します。
このように松山荘は、松山郷青海の料所の寄進をスタートに、その後は後嵯峨院による料所として、郷全体の寄付を受けて立荘されたと白峯寺は主張します。その成否は別にして、13世紀半ばには松山郷全体が白峰寺の寺領として直接管理下に置かれるようになったのは事実のようです。
この時期に白峯寺を訪れているのが高野山のエリート僧侶である道範です。
道範は、建長元(1249)年7月、高野山での路線対立をめぐる抗争責任を取らされ讃岐にながされてきます。8年後に罪を許され帰国する際に白峰寺を訪れたことが「南海流浪記」には記されています。

南海流浪記 - Google Books

 道範は、白峰寺院主備後阿闇梨静円の希望で、同寺の本堂修造曼茶羅供の法要に立ち合い、入壇伝法を行うために立ち寄ったのです。このとき道範は、白峯寺を
「此寺国中清浄蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟也」

と評しています。つまり、讃岐国中で最も清く、また崇徳上皇の霊廟地だとしているのです。ここからは鎌倉末期の白峰寺は、讃岐にある天皇陵を守護する「墓寺」として「清浄」の地位を確立していたことが分かります。その背景には、松山郷全体を寺領とするなどの経済的基盤の確立があったようです。
坂出・宇多津の古代海岸線

  以上をまとめておきます。
①兄崇徳上皇の怨霊を怖れた弟後白河上皇は、追善のために白峰陵を整備し、附属の一堂を建立した。これが「崇徳院御影堂」である。
②「崇徳院御影堂」に寄進されたのが青海(松山郷の一部)で、これが松山荘の始まりであると白峯寺は主張する。
③白峯寺は、青海を拠点に13世紀半ばまでには、松山郷全体を寺領化していき、その支配下に置いた。
④この頃に白峯寺を訪ねた道範は、白峯寺を「此寺国中清浄蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟也」記している。

こうして古代の山岳寺院としてスタートした白峯寺は、崇徳上皇の御霊を向かえることで「上皇追善の寺」という性格を付け加え、松山郷を寺領化することに成功します。この経済基盤が、ますます廻国の修験者たちを惹きつけ、多くの子院が山中に乱立する様相を呈するようになるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。



金毘羅大権限神事奉物惣帳
金毘羅大権限神事奉物惣帳
金刀比羅宮に「金毘羅大権限神事奉物惣帳」と名付けられた文書が残されています。その表には、次のような目録が付けられています。
 一 諸貴所宿願状  一 八講両頭人入目
 一 御基儀識    一 熊野山道中事
 一 熊野服忌量   一 八幡服忌量
この目録のあとに、次のように記されています。
 右件惣張者、観応元年十月日 於讃州仲郡子松庄松尾寺宥範写之畢(おわんぬ)とあります。

宥範は、櫛無保出身で、善通寺中興の名僧です。その宥範が、観応元年(1350)十月に、この文書を小松荘松尾寺で写したというのです。そのまま読むと、松尾寺と宥範が関係があったと捉えられる史料です。かつては、これを根拠に金光院は、松尾寺の創建を宥範だとしていた時期がありました。しかし、観応元年の干支は己未ではなく庚寅です。宥範がこのような間違いをするはずはありません。ここからも、この記事は信用できない「作為のある文書」と研究者は考えているようです。そして、冊子の各項目は別々の時期に成立したもので、新設された金毘羅大権現のランクアップを図るために、宥範の名を借りて宥睨が「作為」したものと今では考えられています。

法華八講 ほっけはっこう | 輪王寺
輪王寺の法華八講
 この文書は「金毘羅大権現神事奉物惣帳」と呼ばれています。
中世小松荘史料
町誌ことひらNO1より
「金毘羅大権現」の名前がつけられていますが、研究者は「必ずしも適当ではなく『松尾寺鎮守社神事記』とでも言うべきもの」と指摘します。内容的には中世に松尾寺で行わていた法華八講の法会の記録のようです。これを宥範が写したことの真偽については、さて置おくとして、書かれた内容は実際に小松庄で行われていた祭礼記録だと研究者は考えているようです。つまり、実態のある文書のようです。
中世小松荘史料

ここに登場してくる人たちは、実際に存在したと考えられるのです。このような認識の上で、町誌ことひらをテキストに「諸貴所宿願状」に登場してくる人たちを探っていきます。
です。まず「宿願状」の記載例を見てみましょう。
 (第一丁表)
  八講大頭人ヨリ
奇(寄)進(朱筆)一指入御福酒弐斗五升 コレハ四ツノタルニ可入候        一折敷餅十五マイ クンモツトノトモニ
地頭同公方指合壱石弐斗五升
         一夏米壱斗 コレモ公方ヨリ可出候
         一加宝経米一斗
同立(朱筆)願所是二注也
         (中略)
(第三丁裏)
 八講大頭人ヨリ指入
 奇進      一奉物道具  一酒五升
         紙二条可出候 一モチ五マイ
         新庄石川方同公方指合弐斗五升
         立願所コレニ注   一夏米
      (下略)

ここには料紙半切の中央に、祭祀の宿(頭屋)を願い出た者の名前が書かれ、その脇にそれらの頭人からの寄進(指し入れの奉納物)が記入されています。この家々は、小松荘の地頭方や「領家分」「四分口」などという領家方の荘官(荘司)らの名跡が見えます。ここからは、彼らが小松庄を支配する国人・土豪クラスの領主などであることがうかがえます。家名の順序は、次のようになっています。
地頭方の地頭 → 地頭代官 →領家方の面々

まりこの記録には「実態」があるのです。

記された名前は祭祀の宿を願い出たもので、メンバーの名前の部分だけ列挙すると次のようになります。
  恩地頭同公家指合壱石弐斗五升
  御代官御引物
  御領家
  本庄大庭方同公方指合弐斗五升
  本荘伊賀方同公方指合弐斗五升
  新庄石川方同公方指合弐斗五升
  新荘香川方同公方弐斗五升
  能勢方同公方指合壱斗御家分
  岡部方同公方指合五升
  荒井方同公方指合五升
  滝山方同公方指合五升
  御寺石川方同公方指合弐斗五升
  金武同公方指合弐斗五升
  三井方
  守屋方
  四分一同公方指合壱斗
  石井方
 これは祭祀の興行を担う構成員で、いわゆる宮座の組織を示しているようです。諸貴所の右脇には、最初に「八講大頭人ヨリ指入」の奉物が書かれています。
小松の荘八講頭人

小松の荘八講頭人4

指入=差し入れ(奉納)」の内容は、道具・紙・福酒・折敷き餅などです。  以上から、この史料からは16世紀前半ころに小松庄には三十番神社が存在し、それを信仰する信者集団が組織され、法華八講の祭事が行われていたことが証明できます。
  この史料だけでは、分からないので補足史料として、江戸時代にの五条村の庄屋であった石井家の由緒書を見てみましょう。(意訳)
鎌倉時代には、新庄、本庄、安主、田所、田所、公文の5家が神事を執行していた。この五家は小松荘の領主であった九条関白家の侍であった。この五家が退転したあと、観応元(1350)年から、大庭、伊賀、石川、香川、能勢、荒井、滝山、金武、四分一同、石井、三井、守屋、岡部の13軒が五家の法式をもって御頭支配を勤めた。
 その後、能勢は和泉(泉田)に、滝井は山下となり、七家が絶家となって、石井、石川、守屋、岡部、和泉、山下の六家が今も上頭荘官として、先規の通りに上下頭家支配を勤めている
 ふたつの史料からは、次のようなことが分かります。
①「諸貴所宿願状」に登場してくる大庭以下13の家は、法華八講の法会において神霊の宿となり、祭礼奉仕の主役を勤める頭家に当たる家であった
②これが後に上頭と下頭に分かれた時には、上頭となる家筋の源流になる。
③「宿願状」には、何度かの加筆がされている永正十二(1515)から大永八年(1528)に作成された。その時期の小松荘の祭礼実態を伝える史料である
④この時期にはまだ上頭・下頭に分かれていないが、「岡部方同公方指合五升」とあるので、この公方が頭屋の負担を分担する助頭の役で、後に下頭となったことがうかがえる。
⑤「八講両頭人人目」には「上頭ヨリ」、「下頭ヨリ」とあるので、慶長八年(1603)ごろには、各村々に上頭人、下頭人が置かれていた
⑥「指合五升」などとあるのは、十月六日に行われる指合(さしあわせ)神事で、頭屋が負担する米の量である。

また、初期の投役には、「本荘大庭方」・「本荘伊賀方」・「新荘石川方」・「新荘香川方」と記載されています。ここからは小松荘に「本荘」と「新荘」のふたつの荘があり、そこにいた有力家が2つ投役に就いていたことがうかがえます。

 それでは本荘・新荘は、現在のどの辺りになるのでしょうか。
「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが小松荘の中核で、もともとの立荘地とされています。しかし、新庄の地名は残っていません。町誌ことひらは、新荘を大井八幡神社の湧水を源とする用水を隔てた北側で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域と推測します。

小松庄 本荘と新荘
山本祐三 琴平町の山城より

 荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。ただ小松荘では、新しく開発や寄進が行われたことを示す史料はありません。
 それに対して、「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」、「新荘殿」とあって、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。これを領主による荘園支配の過程で、本・新荘が分かれたのではないかと「町誌ことひら」は推測しています。そして小松荘が本荘・新荘に分かれたのは鎌倉末期か、南北朝時代のことではないかとします。
戦国時代のヒエラルキー

 小松荘の地侍の台頭
この八講会には、地頭、代官、領家などの領主層が加わっているから、村人の祭とはいえない、それよりも領主主催の祭礼運営スタイルだと町誌ことひらは指摘します。
「石井家由諸書」によれば、この法会は嵯峨(後嵯峨の誤り)上皇によって定められたとあります。それはともかく、この三十番社の祭礼は小松荘領主九条家の意図によって始められたと研究者は考えています。荘園領主が庄内の信仰を集める寺社の祭礼を主催して、荘園支配を円滑に行おうとするのは一般的に行われたことです。その祭礼を行うために「頭役(とうやく)」が設けられたことは、以前にお話ししました。頭役(屋)になると非常に重い負担がかかってきますから、小松荘内の有力者を選んでその役に就けたとのでしょう。
 「石井家由諸書」には、九条家領のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていたと記します。
それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになったというのです。彼らは領主側に立つ荘官とは違って、荘民です。南北朝のころになると、民が結合し、惣が作られるようになったとされます。小松荘にの惣については、よくわかりませんが、「金毘羅山神事頭人名簿」を見ると、慶長年間には次のような家が上頭人になっています
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村、
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者だったようです。このような人たちを「地侍」と呼びました。侍という語からうかがえるように、彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。
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石井家に伝わる古文には、次のように記されています。
 同名(石井)右兵衛尉跡職名田等の事、毘沙右御扶持の由、仰せ出され候、所詮御下知の旨に任せ、全く知行有るべき由に候也、恐々謹言
    享禄四            武部因幡守
      六月一日         重満(花押)
   石井毘沙右殿          
ここには、(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田を石井毘沙右に扶持として与えるという御下知があったから、そのように知行するようにと記された書状です。所領を安堵した武部因幡守については不明です。しかし、彼は上位の人の命令を取り次いでいるようで、有力者の奉行職にある人物のようです。
  石井毘沙右に所領名田を宛行ったのは誰なのでしょうか?
享禄4年(1531)という年は、阿波の細川晴元・三好元長が、京都で政権を握っていた細川高国と戦って、これを敗死させた年になります。この戦に讃岐の武士も動員されています。西讃の武将香川中務丞も、晴元に従って参戦し、閏五月には摂津柴島に布陣しています。小松荘の住人石井右兵衛尉、石井毘沙右も晴元軍の一員として出陣したのかもしれません。その戦闘で右兵衛尉が戦死したので、その所領が子息か一族であった毘沙右に、細川晴元によって宛行われたのではないかと町誌ことひらは推測します。
中世の惣村構造

このように地侍は、次のようなふたつの性格を持つ存在でした。
①村内の有力農民という性格
②守護大名や戦国大名の被官となって戦場にのぞむ武士
彼らは一族や姻戚関係などによって、地域の地侍と結び、小松庄に勢力を張っていたのでしょう。
Vol.440-2/3 人を変える-3。<ことでん駅周辺-45(最終):[琴平線]琴電琴平駅> | akijii(あきジイ)Walking &  Potteringフォト日記

興泉寺というお寺が琴平町内にあります。この寺の系図には次のように記されています。
泉田家の祖先である和田小二郎(兵衛尉)は、もと和泉国の住人であった。文明十五年(1483)、小松荘に下り、荒井信近の娘を妻とした。しかし、男子が生まれなかったので能勢則季の長子則国を養子とした。その後、能勢家の後継ぎがいなかったので、則国は和田、能勢両家を継いで名字を泉田と改めた。また和田、能勢家は、法華八講の法会の頭屋のメンバーであった。

ここからは、法華八講の法会の頭屋のメンバーによって宮座が作られ、宮座による祭礼運営が行われるようになっていたことがうかがえます。前回お話ししたように、南北朝時代から小松荘の領主は、それまでの九条家から備中守護細川氏に代わっていました。しかし、応仁の乱後には、細川氏の支配力は衰退します。代わって台頭してくるのが地侍たちです。戦国時代に小松荘を実質的に支配していたのは、このように宮座などを通じて相互に結び付きを強めた荘内の地侍たちであったと研究者は考えているようです。

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 その後、豊臣秀吉によって兵農分離政策が進められると、地侍たちは、近世大名の家臣になるか、農村にとどまって農民の道を歩むかの選択を迫られます。小松荘の地侍たちの多くは、後者を選んだようです。江戸時代になると次の村の庄屋として、記録に出てきます。
石井家は五条村
石川家・泉田家は榎井村
守屋家は苗田

地侍(有力百姓) | mixiコミュニティ
地侍(有力農民)
  彼らによって担われていた祭りは、金毘羅大権現の登場とともに様変わりします。
生駒藩のもとで、金光院が金毘羅山のお山の支配権を握ると、それまでお山で並立・共存していた宗教施設は、金光院に従属させられる形で再編されていきます。それを進めたのが金光院初代院主とされる宥盛です。彼は金光院の支配体制を固めていきますが、その際に行ったひとつが三十番社に伝わる法華八講の法会の祭礼行事を切り取って、金毘羅大権現の大祭に「接木」することでした。修験者として強引な手法が伝えられる宥盛です。頭人達とも、いろいろなやりとりがあった末に、金毘羅大権現のお祭りにすげ替えていったのでしょう。宥盛のこれについては何度もお話ししましたので、省略します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」
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    藤原鎌足より続く藤原一族の宗家にあたる九条家は、小松荘(琴平)の荘園領主でもあったようです。九条家に残る史料から小松荘という荘園を見ていきます。テキストは町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」です。
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九条兼実(かねざね)と讃岐那珂郡小松荘          
 小松荘が最初に史料に見えるのは、元久元年(1204)4月23日の九条兼実が娘で、後に鳥羽天皇の皇后となった宜秋門院任子に譲った25の荘園(女院庁分)の一つとして「讃岐国小松荘」と出てくるのが初めてのようです。
五摂家とは - コトバンク

九条兼実は、久安五年(1149)、摂政藤原忠通の三男として生まれます。
彼の生きた時代の主な事件を挙げると、
 8歳の時  保元の乱
11歳の時  平治の乱
37歳の時  平氏の滅亡、
44歳の時 源頼朝の征夷大将軍就任
という事件に遭遇しています。後白河上皇の院政  → 平氏の全盛と滅亡 → 鎌倉幕府の成立という歴史の大転換期を生き抜いた人物のようです。関家の三男ですから出世は早く、13歳の時に権大納言、13歳で内大臣、18歳で右大臣ととんとん拍子です。彼は、まじめな性格の兼実は、放縦といっていい後白河院政に対して批判的で、成り上がりの平氏政権にも非協力的な態度で接します。そのために両者から疎んぜられます。院や平氏に近づいて摂政関白となった長兄基実の子基通や、次兄基房とはちがい、政治の中心から遠ざけられて、官職もしばらく右大臣の地位のままにあったようです。

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しかし、それが幸いするようになります。鎌倉幕府が成立すると、後白河天皇や平家に距離を置いていた兼実は、頼朝の推挙を得てにわかに脚光を浴びることになります。京都九条に邸宅を構えていたことから、九条右大臣と呼ばれ、兼実の後は九条家を称するようになります。また、父の忠通の居宅近衛殿に住んだ基実の子孫は、近衛家となり、ここに藤原摂関家は九条・近衛の二流に分かれることになります。これが後の藤原氏の宗家をめぐっての争いの原因を生み出すようです。
九条良経とは - コトバンク
九条良経(よしつね)

九条家領小松荘の成立   
 小松荘がいつ成立したのは、建永4年(1209)以前に、兼実の子良経(よしつね)が讃岐の知行国主であった時に寄進されたものではなかと研究者は考えているようです。荘園のエリアは詳しくは分かりませんが、小松郷のほとんど全域が荘園化されたようです。

まんのう町の郷
小松郷と周辺郷

国衛領である郷が寄進されて荘園となることについては、「善通寺一円保」の所で以前にお話ししましたが、簡単に振り返っておきます。
11世紀後半ごろになると、国司は有力な地方豪族たちを郡司や郷司などの地方役人に任命します。そして、彼らの力を利用して、農民の支配や徴税を進めようとします。こうなると、郡や郷は国の行政単位ではなくなり、郡・郷の徴税権、農民の支配権をあたえられた地方豪族の所領へと性格を変えていきます。こうして豪族は、自分の開発した所領ばかりでなく、郡司・郷司という肩書きを得て、郡・郷全体の個人所領化を進めていくようになります。国家の所領をかすめ取り、個人所有化が進められたのです。
 しかし、このようなことができたのは、彼ら地方豪族が、国司から任命された郡司・郷司の地位にあったからです。そのため国衛への官物、年貢の納入を怠ったり、国司の命令をきかなかったりして、その職を解任されれば、たちまちその基盤は崩れてしまいます。そこで彼らは、国司より権力がある皇族・公卿あるいは大寺社などに、自分の開発所領のみならず、国から委託された郡・郷までも寄進して、その有力者の荘園にしてしまうようになります。これが郡・郷単位で広大な寄進地系荘園が成立してくる背景です。

寄進系荘園の成立

讃岐の場合は、郡がそのまま荘園化するのは、東讃の大内郡が荘園化した大内荘以外にないようです。しかし郷単位の荘園は多数でてきます。金倉川流域だけでも、次のような荘園がありました。
①琴平の小松荘(九条家)
②まんのう町の園城寺領真野荘
③善通寺の金倉荘
④善通寺の善通寺領良田荘、
⑤多度郡の賀茂社領葛原荘
⑥多度郡の高野山一心院領仲村荘
 荘園成立の際には、自分の開発所領だけでなく、本来国衛領である土地を自分が支配権を握っているのを利用して寄進するのです。これは国衙の管理する土地が減り、減収を意味しますから、国司の立場としては反対するのが当然です。
荘園構造

そのため寄進先は、国司の反対を十分に抑えることができる有力者が選ばれることになります。寄進を受けて荘園領主になった寺社や貴族を領家と云います。領家が国司を抑える力がない場合は、さらに領家から上級の有力者、例えば院、摂関家、大寺社などに再寄進されることになります。その再寄進を受けた上級領主が本家と呼ばれます。そして寄進した地方豪族は、下司・公文などの荘園役人となって実質的な荘園支配を行うようになります。
 こうして成立した荘園は「本家―領家―下司ー公文」という階層的に重なった形となります。その下は、荘園のなかに住む有力農民が名主となり、その経営する田畠(名田)の年貢と公事を納入するようになります。残りの農民は小百姓や下人といい、名主の名田や下司・公文の領地、荘園領主の直属地を小作します。これが寄進地系荘園の構造です。高校で習った日本史の復習のような感じになってしまいました。
以上は、寄進が在地領主によってなされた場合です。これに対して知行国主や院などが寄進を行う場合があります。例えば、兼実の孫の九条道家が讃岐の知行国主であった時に、寒川郡神崎郷を興福寺に寄進して神崎荘としています。また真野荘は後鳥羽上皇によって那珂郡真野郷が園城寺に寄進されたものです。摂関家が荘園に対して持っている権限は、本家職である場合が多いようですが、九条家が小松荘に対して持っていた領主権は、領家職でした。これをどう理解すればいいのでしょうか?
 小松荘も在地領主による寄進ではなく、九条兼実が、良経の讃岐知行国主としての地位権限を利用して、九条家に関わりある寺社に寄進して荘園としたということは考えられます。そしてその寺社を本家とし、自らは領家としての権限を握るという手法がとられたのかもしれません。ただし兼実やその後の譲状には、本家としての寺社の注記はないようです。これもあくまで推測です。
寄進系荘園の構造

 建武三年(1336)6月、九州から攻め上った足利尊氏は、上皇の弟豊仁親王を立て光明天皇とします。
その10日後の8月24日、九条家の当主道教(みちのり)は、自分の知行地の目録を提出し、次のような足利尊氏の安堵を受けています。
御当知行の地の事、武士の違乱を停正し、所務を全うせしめ給うべく
 候、恐々謹言
     九月十八日      尊氏御判
   九条大納言入道殿        
この辺りの次の天下人の見極めが九条家の眼力であり、生き残りの力だったのかもしれません。この安堵状に付けられた目録には道教の所領が40か所、記されています。そのなかに「讃岐国小松荘領家職」が見えます。ここからは小松庄(琴平)が14世紀の半ば頃までは、引き続いて九条家の所領となっていたことが分かります。その後は、金蔵寺が小松荘の地頭職を持つようになるようです。

「金刀比羅宮文書」の中には南北時代の寄進状が4通あるようです  
①康安二年(1362)4月15日 預所平保盛小松庄松尾迦堂免田職寄進状
②応安4年(1371)11月18日 僧頼員断香免田寄進状
③康暦元年(1379)9月17日 御寺方御代官頼景寄進状
④永徳二年(1382)3月26日 平景次子松荘松尾寺金毘羅堂田地寄進状

この中の①④は松尾寺金比羅堂への免田寄進状ですが、年号的に明らかな偽書であると研究者は指摘します。金毘羅神が産み出され、そのお堂が建立されるのは16世紀後半になってからです。①④は始めて金比羅堂を開いた宥雅によって捏造された文書と研究者は考えているようです。この中で信用できそうなのは③の康暦元年の寄進状です。これを見てみましょう。
奉寄進  
松尾寺鐘楼 免田職事
 合参百歩者 御寺方久遠名無足田也。在坪六条八里十一坪
 右件の免田職に於ては、金輪聖王、天長地久、御願円満、殊には、当荘 本家、領家、地頭、預所安寧泰平故也。勁て寄進し奉らんが為め、状件の如し、
   康暦元年九月十七日
            御寺方御代官 頼景(花押)
意訳変換しておくと
奉寄進について  
松尾寺鐘楼の免田職について、合わせて三百歩は久遠名のことで、六条八里十一坪に位置する。この免田職については、金輪聖王、天長地久、御願円満、さらには当荘の本家、領家、地頭、預所の安寧泰平のためであもある。寄進し奉納すること件の如し
 康暦元(1379)年九月十七日
            御寺方御代官頼景(花押)
ここからは次のような事が分かります。
①14世紀後半の小松荘(琴平)に、松尾寺という寺院があったこと
②松尾寺の鐘楼管理のために免田が寄進されたこと
③その免田は久遠名と呼ばれ、位置は那珂郡の六条八里十一坪あたること
④寄進状の「本家・領家・地頭・預所」が小松荘の領主階級であること。具体的には
 A 本家・領家は荘園領主で、小松荘の本家は不明
 B 領家は、九条家
 C 地頭は荘官で、在地領主で実際に小松荘周辺を拠点にしていた武士団(不明)
 D 預所は荘園領主(領家)によって任命され、領家の代理として荘園の管理を行う人物。領家の腹心の人物で、摂関家領の場合は、摂関家に仕える家人が任命されることが多かったようです。
⑤「御寺方御代官頼景」とあり、花押を書いた頼景の肩書きは「御寺方代官」とあるので、この人物が「預所」だったことが分かります。

以上を総合すると、小松荘には松尾寺があり、鐘楼維持のための免田が寄進されています。この免田は、荘園領主(九条家)に対する租税免除の田地で、この田地の年貢は松尾寺のものとなります。これ以外にも一定の寺領があったようで、その寺領の代官を「御寺方御代官頼景」が兼ねたとしておきましょう。
 さて、それでは松尾寺鐘楼の免田は、どこにあったのでしょうか。寄進状には「六条八里十一坪」とあります。これを条里制遺構図で見てみると・・・
岸の上遺跡 那珂郡条里制
  
 丸亀平野の条里制は、東から一条→二条。里は南から一里→二里と打たれています。小松荘(現琴平)は、「金比羅ふねふね」で謡われるとおり「讃州那珂郡 象頭山 金刀比羅宮」で、那珂郡に属します。那珂郡の条は上図で見ると「六条」は現在の金倉川沿いのエリアになります。八里は現在の善通寺と琴平の境界線の北側のエリアで、赤印が「六条八里」になります。大麻神社の北東部になるようです。旧市街周辺にあるものと思っていたので、意外な感じがします。
  延慶二年(1309)の「九条忠教注給条々」という文書には、次のような記載があります。
  小松荘 御馬飼赳晶公器談
此の如く仰せらると雖も、其足に及ばずと称し、行宣御預を辞し了ぬ、其以後各別の沙汰と為て、馬飼に於ては小豆嶋に宛てる所也 
意訳変換しておくと
 小松荘には、峯殿と呼ばれた九条道家の建立した寺のために、馬の飼育が充てられていた。行宣という者がその負担が困難だと辞退してきたので、馬飼の役を同じ九条家領の小豆島に替えた。

ここからは次のようなことが分かります。
①14世紀初頭の小松荘には、九条家から馬が預けられ飼育されていたこと
②飼育を行っていた行宣も預所であったこと
③九条家には小豆島にも馬の飼育を行う牧場があったこと
①②からは小松荘には馬を飼育する牧場があったことがうかがえます。本当なのでしょうか?
  江戸時代初期、生駒騒動で生駒家が改易となった時に引継史料として書かれた『生駒実記』には、こんな記事が載せられています。

「多度郡 田野平らにして山少し上に金ひら有り、大麻山・五岳山等の能(よ)き牧有るに又三野郡麻山を加ふ」

意訳変換しておくと
多度郡は、平野が多く山が少ないが、山には金毘羅さんがある。大麻山・五岳山(現、善通寺市)等には良好な牧場があるが、これに三野郡の麻山を加える

ここに出てくる「能(よ)き牧」とは牛馬が放たれていた牧場のことのようです。確かに大麻山のテレビ塔から南には、石の遺構が長く伸びて残っています。これは、一体何だろうと疑問に思っていたのですが、この文章を見て牧場跡の遺構ではないかと密かに推測しています。中世には、大麻山の緩やかな稜線は牧場で牛や馬が飼育されていたとしておきましょう。話が横道に逸れてしまいました。元に戻しましょう。 
金蔵寺の小松荘地頭職 の獲得について
 預所に対して地頭は、その多くは荘園の寄進者でした。彼らは在地領主で下司・公文などに任じられていたようです。これが鎌倉将軍の御家人となり地頭と称するようになります。その任命権を鎌倉幕府が握ぎり、東国からの御家人が占領軍指令のような気分で西国に乗り込んできます。ある意味、東国武士団による西国の占領地支配です。そのため預所と地頭は荘園支配をめぐって、しばしば対立し争そうようになります。小松荘の鎌倉時代の地頭が誰なのかは分かりません。しかし、南北朝時代の地頭については「金蔵寺縁起条書案」という文書に次のような記載があります。

尊氏将軍御代、貞和三年七月二日、小松地頭職 御下知状給畢                          金蔵寺

  ここには貞和三年(1347)7月2日に金蔵寺が足利尊氏から小松荘地頭職を与えられたというものです。この「縁起条書案」という文書は、金蔵寺が享徳二年(1453)までの主な出来事を箇条書に記したもので、内容的には信用できるものが多いと研究者は考えているようです。
 さらに嘉慶二年(1388)に金蔵寺から寺領に課せられた段銭を幕府へ納入した時の請取状にも次のような記載があります。
 金蔵寺領所々段銭事
 同上荘参分一、4十壱町五反半拾歩者、
合 良田内陸(六)町4段者、同不足追下地九反小、門分弐百捌(八)拾文、
 子松瀬山分七段者、尚追不足分銭三八文正月十七日、
    都合拾肆(4)貫五百玖拾陸(六)文者、
 右、請取る所の状件の如し、
   嘉慶弐年十二月一日    世椿(花押)

 金蔵寺領の段銭について「子松瀬山分柴段」とあって、金蔵寺が小松荘の瀬山に寺領を持っていたことが分かります。地頭というのは本来は治安や徴税の任に当たる荘園の役人の職で、現在で云うと「警察署長 + 税務署長」のような存在です。その役職に、金蔵寺の僧侶がつくのはおかしいという気もします。しかし、鎌倉中期になると地頭職というのは、その職に伴う領地という面が強くなります。善通寺市吉原町にあった吉原荘でも、建長4年(1152)に九条兼実の子・良平の孫である京都隨心院門跡厳恵が地頭職に任じられています。金蔵寺も小松荘の瀬山というところに地頭職という名目で領地を持っていたと研究者は考えているようです。ちなみにこの「瀬山」がどこに当たるかは、分からないようです。
 金蔵寺は小松荘地頭職を、南北朝時代最末期まで持っていたようですが、その後は分かりません。室町時代の「金毘羅大権現神事奉物惣帳」には、「御地頭同公方指合壱石弐斗五升」とあるので、この時期にも地頭がいたようです。しかし、これが金蔵寺を指すものかどうかは分からないと研究者は考えているようです。

 備中守護細川家による小松荘支配    九条家領から細川家領へ  
「九条家文書」の「諸御領仏神事役等注文」のなかには、尾張国の大鰐社恒例役の成就宮祭禄上絹のところに、「動乱以後無沙汰」という注記があります。この「動乱」は、鎌倉幕府が滅亡した元弘の乱と考えられるので、この「注文」は南北朝時代前期のものとと研究者は考えているようです。この注によると、小松荘では仏神事役のうち、報恩院御畳六帖と御八講中小坑飯一具、それに宜秋門院御忌日用途が無沙汰であると記されます。つまり、納入されていないと云うのです。他の荘園を見ても、ほとんどが諸役の半分以上が無沙汰です。和泉国日根荘からは、すべての役が無沙汰になっています。これは、九条家の荘園経営が困難に落ち入っていることを物語っています。

九条道教は貞和4年(1348)に亡くなり、経教があとを継ぎます
動乱後の応永3年(1396)4月の「九条経教遺誠」を見ると、道教の時40か所あった所領が16か所に激減しています。そして、讃岐国小松荘の名は、そのなかから消えています。
 一方、応永十二年(1405)に、室町幕府三代将軍足利義満は、備中守護職の細川頼重に次のような所領安堵の御教書を与えています。
    御判  (足州義満)  
備中国武蔵入道(細川頼之)常久知行分閥所等 讃岐国子松荘、同金武名(中首領跡)、同国高篠郷壱分地頭職、同公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷の事、細河九郎頼重領掌、相違有るべからずの状件の如し、
応永十二年十月廿九日
意訳変換しておくと
備中国の武蔵入道(細川頼之)が知行していた領地と、併せて讃岐国の小松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同じく高篠郷の公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷について、細河(細川)九郎頼重が相続したことを認める。

ここからは、九条家領であった小松荘が備中守護細川氏の所領になっていることが分かります。
細川頼之とは - コトバンク
讃岐守護 細川頼之
守護による権力の行使
南北朝時代の守護は、敵方の武士から没収した土地や、死亡などで所有者のいなくなった土地(欠所地)を、戦功のあった部下に預け置く権利(欠所地預置権)を持っていました。この権利を用いて、守護は任国内の武士を被官(家臣)にしていきます。また、欠所地を自分の所領に加えることもありました。この史料に出てくる讃岐の「金武名、高篠郷一分地頭職、高篠郷の公文職」は、細川頼之が讃岐守護であった時に、こうした方法で所領としたものと研究者は考えているようです。逆に見ると、ここには細川頼之に抵抗した勢力がいたことになります。それを没収し、戦功のあった武士たちに恩賞としてあたえたようです。
 それでは、「金武名」とはどこにあったのでしょうか? 
中(那珂)首領跡とあります。想像を働かせると、もとは那珂郡の首領郡司の地位にあった武士の所領で、頼之に敵対する行動があって没収されたのではないでしょうか。丸亀市垂水町に金竹の地名が残っています。この辺りに金武名があり、那珂郡の首領がいたとしておきましょう。高篠郷公文職は、まんのう町公文の地でしょう。
 小松荘については、九条家領からその名が消えて、細川氏家領として記されています。九条家が持っていた荘園領主権が細川氏の手に移ったことが分かります。その時期は、頼之が讃岐守護となった貞治元年(1326)以後のことと研究者は考えているようです。
   守護が荘園を支配下に入れる方法の一つに守護請があります。
内乱の時代になって荘園支配が困難になった荘園領主たちは、守護と契約を結んで、荘園の管理を一任し、代わりに豊凶に関わりなく毎年一定額の年貢・公事の納入を請負わせることで、収入を確保しようとします。これが守護請で、実際には、現地の実力者である守護の被官が代官に任命されて、荘園の管理と年貢の納入に当たりました。しかし、守護請代官たちは、契約に違反して領主に年貢を送らないことが多く、結局、荘園が守護被官や守護の支配下に入ってしまうことになります。
守護請を簡単にわかりやすく解説するよ【半済令のパワーアップ版です】 | まなれきドットコム

九条家領でも、応永二十六年(1419)8月に、所領の回復を幕府に訴えた「不知行所々注文」(蒜家)に
  近江国伊庭荘伊庭六郎左衛門入道押領
  和泉国日根荘昌詣年
  丹波国多紀北荘代官増位入道押領
などとあります。ここからは、守護や守護請代官による荘園押領が進んでいることがわかります。。
 備中守護細川家の小松荘支配と伝領              
小松荘も、同じように讃岐守護である細川氏の所領になってしまったようです。以後、小松荘は、義満以下代々の将軍の安堵を受けて、満之、頼重、氏久、勝久と、備中守護細川家に伝領されていきます。讃岐守護は細川氏の惣領家です。分家である備中細川氏の所領の保護は、怠りなかったでしょう。
しかし、応仁の大乱が起きると、それも安泰ではなくなったようです。
乱後の延徳三年(1491)十月、備中守護代荘元資が反乱を起こし、勝久は浦上氏らの援助を受けてかろうじて元資を破りますが、備中守護の権威は地に落ちてしまいます。こうして、細川氏の備中支配は急速に衰退に向かうようになります。讃岐の所領も、このころにはその手を離れたと研究者は考えているようです。以後の備中細川家関係の安堵状には、讃岐小松荘の名は見えません。小松荘は誰の手に置かれたのでしょうか。それは、また別の機会に・・・

以上をまとめておきます
①那珂郡小松郷は、13世紀初めに摂関家九条(藤原)兼実の荘園となった。
②九条兼実は、法然を保護し、四国流刑となった法然を小松荘で保護した。
③九条家は14世紀頃の南北朝時代まで、小松庄を所領としていた。
④小松荘の地頭職を金蔵寺に認める足利尊氏の文書が残っている。
⑤鎌倉幕府滅亡の混乱の中で、九条家の小松庄経営は困難に陥った
⑥代わって守護として入国した細川氏が小松荘を支配下に置いた
⑦さらに小松荘は、備中守護細川氏の所領になっていった。
⑧応仁の乱の混乱の中で、小松荘は備中細川氏の手を離れた。

以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献 町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」 
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 町報に満濃池が国の名勝指定のことが伝えられていました。そこで、今回は満濃池が消えていた中世の様子を見ていくことにします。
 幕末の「讃岐国名勝図会」(1854年)は
「平安末期に、大洪水により堤は崩壊して跡形もなくなり、石高500石ばかりの山田となり、人家も置かれて、池内村と呼ばれた」

と記します。旧満濃池の底地は、耕地化され集落ができて池内村と呼ばれていたと言うのです。本当なのでしょうか?
  史料から中世の状態を確かめましょう。
堤防崩壊から百年以上経った14世紀初頭の「昭慶門院御領目録」には、亀山上皇が皇女に譲った讃岐の29の荘園の郷名が記されています。そこには、吉野郷や吉野新名とならんで「万之(満濃)池」の郷名が見えます。その下には秦久勝という知行人(土地を治める人物)の名もあります。秦久勝は、亀山上皇の家臣です。つまり「万之池」は、旧満濃池が再開発されて荘園となり、領有していた地元開発領主が、国司の収奪から逃れるために亀山上皇に寄進し、泰久勝が上皇の荘園管理人として「万之池」を支配していたことが分かります。しかし、その時の現地の開発領主が誰なのかは、記されていません。なお、当時は「まんのう池」でなく「まの池」と呼ばれていたことも分かります。
 その後「万之池」は京都の上賀茂社の社領に移ります。
上賀茂神社には「長禄二年(1457)五月三日」の日付の入った次のような送状が残されています。
「合わせて六貫六百文といえり。ただし口銭を加うるなり。右、讃岐国萬乃池内御公用銭、送り進すところくだんのごとし   賀茂御社沙汰人御中       瀧宮新三郎 」
これは讃岐在住の瀧宮新三郎が荘園主の上賀茂神社に提出した年貢請負の契約書です。内容は「讃岐国万萬乃池内」の領地を請け負いましたので、その年貢として銀6貫600文を送金します。ただし「口銭」料も入っています」とあります。「口銭」は手形決済の手数料です。この時代には、すでに手形決済が可能でした。また、請負人の瀧宮新三郎は、その姓から現在の滝宮を拠点とする綾氏に連なる武士団の統領かもしれません。
 以上の史料から池跡地は、田地化が進み、讃岐の国人が請け負って上賀茂社へ年貢を納めていたことがわかります。
しかし、「池内村」という地名はでてきません。荘園の表記は「万乃池」です。「池内村」と表記されているのは、江戸時代初の「讃岐国絵図」(丸亀市立資料館所蔵)が初めてのようです。

まんのう町 満濃池のない中世地図
図の中央の金倉川を、源流にさかのぼっていくと小判型の中に「池内」と記されています。村名が小判型で示されていますので「池内」は村名です。この後の寛永年間(1633)に西嶋八兵衛による再築がなされ、池内村は姿を消すことになります。そして、満濃池が450年ぶりに姿を現すことになります。
参考文献 
  香川大学名誉教授 田中 健二 
 歴史資料からみた満濃池の景観変遷    
 満濃池名勝調査報告書
  

 今回は、一円保絵図に描かれた各坪毎の耕作状況を見ていくことにします。そのためには、一円保絵図に描かれているのが、現在のどの辺りになるかを押さえておく必要があるので、最初に「復習」です。
金倉川 10壱岐湧水


左上(南東)の生野郷の「壱岐湧と柿股湧」から水路が西に伸びて、東の条沿いに北上していきます。この条が旧多度津街道になります。これを現在の地図に落としすと次のようになります。
一円保絵図 現地比定拡大2

 一円保の東南角の坪は①です。四国学院の図書館から中央通りを越えて、護国神社あたりにあったことが分かります。そして、この坪の南側は多度郡の6里と7里の境界で、南海道が通っていたことも以前にお話ししました。一円保の南は南海道が境界だったようです。
②東は、旧多度津街道
③北が、旧練兵場の南限の中谷川
④西が、弘田川と五岳
そして絵図では、2つの湧水からの水路は、条里界線にそって伸びていきます。それは、坪内ヘミミズがはっているような引水を示す描き込みで分かります。用水路が伸びているのは、絵図の上半分ほどで、(20)(21)のある坪(現ダイキ周辺⑥)までは届いていません。それより北(下)には、用水路は描かれていません。つまり水は供給されていなかったと考えられます。それが本当なのか、今回は別の資料から確認してみます。
金倉川 善通寺条里制

 有岡の池が築造される前の用水事情を語るのが、久安年間の寺領注進状です。
この注進状には、当時の一円保を耕地状況が坪毎に報告されています。それに基づいて、研究者が各坪の状態を次のように、図化しています。
一円保絵図 田畑分布図

各枠につけられている番号が、坪番号になるようです。
例えば左上のコーナーの坪は「多度郡三条七里二坪」となります。これが、先ほど見た東南隅の四国学院周辺の坪番号になります。そして、7里と6里の境界を南海道が通過していたと考えられています。南海道は郷の境界線でもあったようで、この南は生野(いかの)郷になります。
 現在の位置で云うと、護国神社 → 中央小学校 → 自衛隊北側 → 香色山というラインになります。そこに約106mの坪が10ケ並んでいたようです。
 また、三条七里17・18・20・21坪に「本堂敷地」とありますが。ここが善通寺東院になります。
 北側(下)の八里エリアは、旧練兵場(農事試験場+善通寺病院)になります。
  それでは、本題に入って行きましょう。
A図は、その坪の中で水田と畑作のどちらが面積が広いかを示します。
白丸が「田が優位」のようですが、A図には○は、多くありません。全体的には畠が圧倒的に多かったことがわかります。一円保の水田率は3割程度だったようです。丸亀平野全体でも、中世になっても水田化率はこの程度だったことが分かってきています。かつて云われたように、
「古代律令制の下で条里制が施行されて、丸亀平野は急速に水田化した」

ということはなかったようです。丸亀平野の水田化が進むのは近世になってからです。善通寺周辺の一円保も多くが畑で、水田化されていたのは3割程度だったようです。
 また、水田化されている坪は、特定エリアに集まる傾向が見られるようです。その要因は、後に見ていくことにします。
B図は、田や畠の「年荒・常荒」の状態をしめします。

一円保絵図 洪水被害エリア

 坪に×がついているのは、注進書に「河成」(河川が氾濫して耕作地が潰減した部分)として報告されている坪です。このことからは当時の弘田川が×の付けられている所を流れていたことがうかがえます。具体的には、七里11、25、26、25、34、四条八里3、10、9、 17の各坪をぬって川が流れていたことになります。その部分を青斜線矢印でしめしています。
  これを見ると東堂伽藍からその西の現在の誕生院エリア(14、15、23、24)にかけては、氾濫の被害を受けていません。またA図を見ると、耕作地でもなかったようです。誕生院が洪水の被害を受けにくい微髙地に建てられていることがうかがえます。ちなみに、誕生院は佐伯家の居宅跡に、建立されたと伝えられます。また、この当時の弘田川が、誕生院の東側を流れていた形跡があることに注目しておきたいと思います。現在は西側を流れているので、どこかで流路変更があったようです。
弘田川について
 一円保絵図に描かれた二つの湧水は35mの等高線上にあります。
それに対して善通寺東院の北側(三条八里)付近は30mで、湧水からの導水は可能です。しかし、弘田川に向かっては、緩やかな下り傾斜になっています。そのため弘田川左岸(東側)は、弘田川から直接の導水はできません。絵図を見ても、弘田川からの直接の引水を示す水路は書かれていません。上流からの迂回水路が一本記されているだけです。これに対して、弘田側左岸は、引水可能でした。A図で四条の西側に水田エリアが南北に並んでいるのは、弘田側の左岸で、川からの導水が可能な所であったからだと研究者は説明します。
C図は、耕地の現状作の程度を示しています。
  一円保絵図 現在作状況

図Cで、田現作(水田)が51%以上なのは、三条七里、四条七里の南部エリアに多いようです。このエリアは、水源のふたつの湧水からの水が最初に用水路で運ばれてくる所です。「湧水により近いエリア」として、水に恵まれていたことは当然に予想ができます。一円保絵図で、水がかりの用水路が描かれているのも三条七里のエリアのみでした。A図を見ると、旧練兵場にあたる三条八里あたりにも水田はまとまってありますが、年荒率はたかく収穫はあまりよくないようです。

以上から研究者は次のように指摘します。
「三条七里、四条七里の地域では、面積としては少ない水田にまず優先的に引水していたことを示唆する。ここでは現作51%以上といっても、ほとんどが一〇〇%である。三条七里の地域に畠の年荒が発生しているのは、水田を優先したため畠にしわよせがきた結果と考えてよいのではないか。最初から水利の便に乏しい三条八里の地域では水田にも顕著な被害があらわれている。さらに畠にかなり常荒が発生し、七ヵ坪が年荒100%というありさまである。
 もっとも、注進状では伽藍敷地は常荒として計上されており、都市化現象はすでに平安後期には始まっていたと思えるから、これら常荒のなかには、寺僧・荘官・百姓の僧房・屋敷地が一定含まれていたと考えておかねばならないが。」

  農民達の戦略は、まずは用水路に近い南側の限られた水田での米の収穫を優先させます。そのために、このエリアの出来はよいようです。しかし、その「限られた水田優先策」の犠牲になるのが、畑であり、北側の八里の水田だったということになるようです。同時に善通寺東院周辺の「住宅地化したエリア」は、「常荒」とカウントされていたことが分かります。

平安後期の善通寺領では「春田」とよばれる地目があります。
これは寺領水田26町8反余のうち、灌漑用水不足で稲の作付ができなかった年荒田11町9反を中心に、冬作畠として利用したものです。ここには麦や紅花が栽培されていたようです。
 12世紀以前においては、稲刈り跡の水田や年荒の水田は、誰にでも耕作や放牧が許された開放地であったようです。こういう耕地は、国衙の課税対象からはずされていました。そのため「春田」として冬に麦米を作れば、農民たちの手元にまるまる残りました。そのため農民達は「常荒」地の存在について、あまり苦にはしてなかったようです。時には意図的に「常荒」化させ、土地を休ませていたこともあったようです。

13世紀末に有岡大池が完成すると、どのような改善があったのでしょうか。
一円保絵図 有岡大池

まずは新しく作られた用水路を見てみましょう
弘田川本流から分岐された用水路が、坪界線にそって東、北、東と屈曲し、東院のすぐ西側を通って真直ぐ北流していきます。これが有岡大池の成果の一つと研究者は指摘します。これにより今まで灌漑できなかった弘田川右岸エリアが灌漑可能になりました。今まで畑だった耕地が水田化され、湿田が乾田化されます。中世農業生産力は乾田化により進んだと云われます。乾田化は
「水田における稲作 + 年荒田時代の春日の経験=
 二毛作の実現
をもたらします。幕末の丸亀藩がつくった『西讃府志』に、大池(有岡大池)は
「周囲十三町三十間、漑田大墓池卜合セテ百十三町四段五畝」

とあります。この数字には、中世にすでに達成されていたものも含まれていると研究者は考えているようです。

もう一つの変化は、流路の変化です。
先ほど見たB図では、旧弘田川は東院と誕生院の間を流れていた気配があることを指摘しておきました。それが絵図では、誕生院の西側を流れるようになっています。これは、有岡大池の完成と共に治水コントロールが進み、旧弘田川を灌漑水路として、新たに作られた本流を排水路も兼ねて治水力を高めたと私は考えています。

  以上をまとめておくと
①善通寺は佐伯氏の保護が受けれなくなった後には、弘法大師伝説の寺として中央の信仰を集めるようになった
②その結果、所領を善通寺周辺に集め一円保(寺領)にすることができた。
③一円保は、その水源を領外の2つの湧水と、弘田川に求めなければならなかった。
④12世紀には、一円保の水田化率は3割程度であった。
⑤13世紀末に、灌漑能力の向上のために行われたのが有岡大池の築造であった。
⑥この工事に付随して、弘田川の流路変更し、西岸エリアへの灌漑用水網の整備が行われた。
⑦しかし、一円保の東エリアは二つの湧水にたよる状態が続き、大規模な水田化をおこなうことはできなかった。
 これが大きく改善するのは、上流での金倉川からの導水が可能になるのを待たなければならなかった。
一円保絵図 金倉川からの導水


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高橋昌明 「地方寺院の中世的展開」絵図に見る荘園の世界所収 東京大学出版会1987年
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 一円保絵図 五岳山
一円保絵図の東部
五岳山とは、地図上の①~⑤の山々の総称です。
多度津方面から見ると、屏風が立っているように見えるので屏風浦とも呼ばれたと云われます。低い山の連なりなのですが花崗岩が浸食されて絶壁となっている所もあり、なかなかスリリングな低山トレイルルートです。
1出釈迦寺奥の院

このルートは中世は、三豊の七宝山を経て観音寺まで続く修験者たちの中辺路ルートだったことは以前にお話しした通りです。その中でも、③の我拝師山は、当時から行場として超有名だったようです。それは弘法大師伝説で次のようなシーンが取り上げられたからです。
高野大師行状図 (1)

 幼い空海(幼名・真魚)の捨身伝説です。
ある日、真魚(まお=空海)は倭斯濃山(わしのざん)という山に登り、「仏は、いずこにおわしますのでしょうか。我は、将来仏道に入って仏の教えを広め、生きとし生ける万物を救いたい。この願いお聞き届けくださるなら、麗しき釈迦如来に会わしたまえ。もし願いがかなわぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に供養する」
と叫び、周りの人々の制止を振り切って、山の断崖絶壁から谷底に身を投げました。すると、真魚の命をかけての願いが仏に通じ、どこからともなく紫の雲がわきおこって眩いばかりに光り輝く釈迦如来と羽衣をまとった天女が現れ天女に抱きとめられました。
 それから後、空海は釈迦如来像を刻んで本尊とし、我が師を拝むことができたということから倭斯濃山を我拝師山と改め、その中腹に堂宇を建立しました。この山は釈迦出現の霊地であることから、その麓の寺は出釈迦寺(しゅっしゃかじ)と名付けられ、真魚が身を投げたところは捨身が嶽(しゃしんがだけ)と呼ばれました。
 これが空海が真魚と呼ばれた幼年期に、雪山(せっちん)童子にならって、山頂から身を投げたところ、中空で天人が受け取ったいう「捨身ヶ嶽」の伝説です。
DSC02586
我拝師山に現れた釈迦如来
 
西行の『山家集』には、我拝師山の「捨身が嶽」が次のように記されています
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経かきて(埋)うづませめるおはしましたる山の嶺なり。はうの卒塔婆一丈ばかりなる壇築きてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおよしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、壇も二重に築きまはさいたり。のぼるほどの危うさ、ことに大事なり。
かまえては(用心して)は(這)ひまわりつきて廻りあはむことの契ぞ たのもしききびしき山の ちかひ見るにも
意訳変換しておくと
 ある本に書かれているように、曼荼羅寺の行場へ登っていくのは大変なことで、手のひらを立てたような険しい山道を大変な思いで登った。捨身が嶽の行場には、弘法大師が写経した経典が埋めてある。行場には一丈(3m)ほどの壇が築かれ、その上に卒塔婆が建っている。弘法大師は、ここへ毎日登ってきて、行道(廻道)修行を行ったと伝えれている。卒塔婆の周りをめぐり行道できるように、壇は二重に築かれている。登るときには、大変な危険さを感じる。用心しながら這って廻る

ここからは、西行も空海に習って壇の周りを行道していることが分かります。廻り行道は、修験道の「行道岩」とおなじで、空海の優婆塞(山伏)時代には、行道修行が行われていたようです。
DSC02617

空海も、この行場を何度もめぐる廻行道をしていたのでしょう。西行は我拝師山の由来として、行道の結果、空海が釈迦如来に会うことができたと次のように記します
 行道所よりかまへて かきつき(抱きついて)のぼりて、嶺にまゐりたれば、師(釈迦)にあはしましたる所のしるしに、塔をたておはしたりけり、 後略


DSC02600

 
以上をまとめておくと
①弘法大師伝説で、空海が幼年期にこの山で「捨身行」を行い、釈迦如来が現れ救った
②高野聖である西行が空海に憧れ、この地に庵を構え何年も修行を行った
弘法大師伝説 + 西行修行の地 = 修験者たちの憧れの地となっていたようです。それは高野山の内紛の責任を取らされ善通寺に流された高野山の学僧道範の「南海流浪記」を見ても分かります。弘法大師伝説の拡がりと共に、善通寺の知名度は上がりました。同時に、我拝師山の知名度も上がり「超一級の名所」になっていたとしておきましょう。
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我拝師山の麓には、曼荼羅寺が描かれています。
しかし、出釈迦寺はありません。出釈迦寺は、我拝師山の遙拝所で、お寺が出来るのは近世も後半になってからです。この時代には姿はありませんでした。
 ⑤の火山の山中には「ゆきのいけの大明神」いう小祠が描かれています。この山では行者達が、修行の節目節目に火を焚いたと伝えられます。修験者の行場であったことがうかがえます。
一円保絵図 五岳山

一円保絵図の右半分をもう一度見てみましょう。
主役は五岳山のように見えます。しかし、よく見ていると私を忘れていませんかと主張してくるのが有岡大池です。黒く大きく塗りつぶされた姿と、そこからうねうねと流れ出す弘田川は目を引きます。有岡池も何らかの意図があって描き込まれたように私には思えます。この池について見ていきましょう。
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大麻山と有岡池

 かつては、讃岐平野におけるため池の出現は、古代に遡るという考えが主流でした。
その背後には満濃池が造られているのだから、平野部にも灌漑用のため池が古代から築造されていたはずという「思い込み」があったように思います。しかし、考古学の発掘調査は、これをことごとく否定していきます。なぜなら丸亀平野の土器川や金倉川の流路変更が明らかになってきたからです。たとえば古代には、土器川は金倉川に流れ込み、弘田川流域から白方で海に流れ込んでいたとか、中世には飯野山の北を北流し、大束川に流れ込んでいたということが分かってきました。中世までの丸亀平野は、浸食が進まず川の流路が安定せず網の目のように流れる河川と微髙地が広がっていたのです。このような状態では、ため池は築造のしようがなかったのです。
 そのような中で有岡大池は、この一円保絵図が書かれた時には姿を見せています。つまり14世紀初頭には築造されていたことが分かります。
有岡大池が、いつ築造されたのかを探ってみることにしましょう。
有岡大池は行政的には、何郷に属するのでしょうか?
一円保絵図 周辺との境界

上の地図を見ると分かるように生野郷修理免に属します。まずは、一円保のエリアには属さないことを確認しておきましょう。それならどうして権益外の生野郷に、大池を築くことが出来たのでしょうか。史料を見てみましょう。
資料 生野郷内修理免の変遷
①承元3年(1209)8月 生野郷内重光名見作田6町を善通寺郷影堂に寄進
②宝治3年(1249)3月 生野郷西半を善通寺領に準じ殺生禁断として12町を修造料に
③弘長3年(1263)12月 郷司との和与で生野郷西半を「寺家一向進退」の不入の地に
④(有岡大池の完成 差図の作成)
⑤徳治2年(1307)11月 当時百姓等、一円保差図を随心院に列参し提出

上の資料を見ると、善通寺の生野郷での免田面積は、①で6町、②の宝治3年に12町になり、40年間で倍になっています。この階段では一円保の水利は「生野郷内おきどの井かきのまた(二つの湧水)」に全面的に頼っていたいたと記されています。13世紀前半には、有岡大池はまだ築造されていなかったようです。
 有岡大池の築造時期を研究者は、史料から紋りこんでいきます。
免田が、6町から12町に倍増したとはいえ、善通寺が生野郷の一円的な支配権を得たわけではありません。有岡大池は、弘田川を塞き止め、谷間を提防で塞いだ巨大な谷池です。しかも、池自体は生野郷の西半に属しています。有岡大池着手のためには、生野郷での排他的な領域的支配権が確立されなければできません。それが可能になるのは、生野郷司と善通寺の間で和解が成立して、生野郷西半について善通寺の領域支配が確立する必要があります。それを、具体的には③の弘長3年12月以降と研究者は考えているようです。
 この池の築造には、何年かの工事期間が必要になります。それを加えると、有岡大池完成の時期は早くとも1270年前後になります。そして、古代の首長が眠る王墓山古墳や菊塚古墳の目の前に、当時としては見たこともない長く高い堤防を持ったため池が姿を現したのです。これは、善通寺にとっては、誇りとなるモニュメント的な意味も持っていたのでないでしょうか。

 有岡大池登場に至る前史を、追いかけてみましょう。
善通寺は、東寺長者に相伝されることにより、ようやく建長4年(1252)になって国使からの不人権を獲得し、国衛の干渉から逃げることができるようになります。しかし、そのことが一円保内における善通寺の強力な支配権の完成を意味していたわけではなかったようです。その障害となったのは、一円保公文職を郡司綾貞方の孫が代々世襲してきたことです。「善通寺市史」には、一円保の成立過程に多度君郡司綾貞方が果した役割が詳しく書かれています。
①久安元年12月の「讃岐国善通寺曼茶羅寺寺領注進状」には、綾貞方は、善通寺近在二在所を持ち、
②応保元年11月25日「綾貞方請文」では、善通寺の所当地子の徴収を請負っています。
彼は徴税、勧農を通じて、一円領内の農民への支配力を強め、在地領主への道を歩んでいた人物です。善通寺一円領が「保」として成立する過程で、郡司綾貞方とその一族は大きな障害であったことがうかがえます。
 要するに、形式上は一円保の名田や畠は、随心院~善通寺という領主の所有になっているけれども、実質的な支配者は公文職を世襲していた綾氏だったようです。そして公文職が、名田や畠を勝手に処分するようになっていたのです。
この動きにピリオドを打つ公文職が登場します。これが真恵です。
真恵は、これまで公文職を世襲してきた綾氏の「親類」でした。そして、すでに売却されていた名田を買い戻すことができる財力を持つ在地領主層の出身僧侶でした。その真恵が善通寺大勧進職に就任するのです。そして、寺領の開発経営を主導していくようになります。彼によって善通寺が一円保内の百姓在家や、名田畠を直接支配し、固定化していく体制が形成されていったと研究者は考えているようです。

一円保絵図 全体

一円保絵図の一つの特徴として、寺僧や名主の在家・名田畠の配置が詳しく書かれていることは、以前に見たとおりです
 家屋を描いている場所は、―円保に居住する農家を示すのでしょう。単に百姓らの名のみの場合は、その田畠の所在を示しているようです。また絵図には、一円保全域の水利、自然景観、寺社等も描かれています。その中に在家・名田畠の配置が細かく記されているのは前回見たとおりです。
 これは、寺僧や名主の在家、名田畠の所在を把握しようとすると同時に、固定化しようとする意図があったと研究者は指摘します。ここから一円保絵図の作成は、真恵が公文職に就任し、随心院の権威を背景に一円保内の名田畠の売買を厳禁した弘安三年以降のことだと研究者は考えます。
一円保絵図 北東部

最初の問いに還りましょう。 絵図は何のために作られてのでしょうか
一円保絵図の主題は、左の条里制の用水関係にあるようです。なのに「用水指図」には必要のない善通寺伽藍や五岳山・有岡大池が描かれています。裏書には、「百姓等烈参」とありました。ここからは、随心院にたいして善通寺の百姓たちがなんらかの要求の裏づけのために作成されたことは、間違いないでしょう。

これに対して、研究者は次のような仮説を出してきます。
「本絵図は年貢の損免要求のために作成され、領域図的性格を備えたのも、ほかならぬ一円寺領としての損免要求だったからではないかと考える。提出時期が11月であるのも、冬の収納との関係を予想させる。名主の注記が用水末端よりさらに下方にしか描かれていないのも、実際にそこにしか彼らの耕地がなかったのではなく、これらの地域が有岡の池の築造にもかかわらず依然用水が不足がちで、早損が発生しやすく、損免要求にも切実、かつ正当性があることを強調するためではなかったか。」

  つまり、京都の本寺随心院に対する年貢の減免要求の資料として作成されたと研究者は考えているようです。

1善通寺一円保

百姓代表が随心院で、どんな手順で減免要求を行ったのか想像力で再現してみましょう。
①絵図を見せながら善通寺の伽藍状態を説明し、弘法大師生誕の地であること
②背後の五岳山を差しながら我拝師山が弘法大師の捨身行の聖地であることを強調
③善通寺と曼荼羅寺が弘法大師伝説の舞台であることの再確認
④善通寺一円保(寺領)の範囲の確認
⑤左側(東)の二つの出水のみが一円保の水源であること
⑥そのために近年、新たに有岡大池を築造したこと
⑦一円保内の用水路を確認しながら、用水が一円保の南側半分にしか届いていないこと
⑧一円保南側の旧練兵場跡は灌漑用水が届かず、水田化が進まず、畑作にも不自由していること
⑨善通寺伽藍に帰り、五重塔は倒れたままで、その他の建物の修理が不十分なことを説明
こんな「戦略」で、百姓達は「烈参」の場に臨んだのではないでしょうか。
一円保絵図 松の木」

 また、研究者は三条七里二五の坪に見える「松」にも注目します。
古来繁栄隆昌を意味する縁起のいい「松」が、善通寺伽藍の西行の松(H)とは対照的に、根も浮きあがり枯れ呆てているかのように描かれています。寺領のこの地が日照りで危機的状態にあることを強くアビールしているようにも思えます。中世ヨーロッパでは

「木が枯れるということは早魃、病害を意味し、人間の生活にも危機が迫っていることを示していた」

といいます。(阿部謹也『歴史と叙述――社会史への道』)
 日本でも『平治物語絵巻』第七紙の信西を斬る場面では、傍らに枯木が描かれています。これは死を象徴しているようです。
 南北朝期には、善通寺一円保が随心院納める年貢上納額は、非常に少なくなっていることが史料からは分かります。
それは、百姓たちの年貢引き下げ要求の「烈参」が繰り返し行われた結果だとも思えてきます。そのために随心院の受け取る年貢水準はだんだん少なくなったのかもしれません。もちろん、烈参と絵図作成は善通寺の後押しをうけていたはずです。本寺への年貢が軽減されることは、善通寺にとっても有利なことだったでしょうから。
善通寺一円保の減免要求を随心院が認めたのは、どうしてでしょうか
 それは、善通寺が弘法大師生誕地であり、曼荼羅寺が弘法大師伝説の舞台「我拝師山」を抱えるということが有力な要因だったのではないでしょうか。その「武器」を最大限に活かすために一円保絵図には、関係のないと思われる五岳や我拝師山が描かれたとしておきましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高橋昌明 「地方寺院の中世的展開」絵図に見る荘園の世界所収 東京大学出版会1987年

     一円保絵図 テキスト
 善通寺一円保絵図
善通寺には、明治40年(1907)に、本寺の京都随心院から持ち帰ったという墨で描かれた絵図があります。「讃岐国善通寺近傍絵図」で一般的には「一円保絵図」と呼ばれています。この絵図のテキストクリニック(史料批判)を行った論文を探していたのですが、なかなか出会えませんでした。

一円保絵図 テキスト2

 先日、何気なくアマゾンで検索すると、郵送代込みで352円なのを見つけてすぐにクリックしました。この本の中に載せられている高橋昌明「地方寺院の中世的展開」をテキストにして善通寺一円保絵図を見ていくことにします。
まず筆者は、この絵図はなぜ、京都の随心院にあったのかを探ります。  絵図裏書に次のように記されているようです。
善通寺□□絵図
徳治二年丁未十一月 日
当寺百姓等烈参の時これを進らす
一円保差図(別筆)
□は虫損
「当寺」とは文脈からいって随心院でしょう。「烈参」は「何事かを請願するとか申し出るとかするために、多くの人が一緒に行くこと」という意味だそうです。善通寺の百姓らが徳治二年(1307)本所の随心院に、なにかを要求するため上洛して、その際にこの絵図を提出したようです。何を要求したのかが、今後の問題となります。 
一円保絵図 原図
善通寺 一円保絵図
絵図は善通寺で作成されたようです。
幅約160㎝、縦約80、横6枚×縦2枚=計12枚の紙を貼りあわせた大きな絵図です。見れば分かるとおり、描かれている内容は左右で二つに区分できそうです。真ん中の太い黒帯が弘田川です。その西側(右)が五岳、東側(左)が条里制で区切られた土地と、その中に善通寺の伽藍と誕生院が見えます。これだけの絵図を書ける「職人」が善通寺にはいたようです。三豊にある中世の仏像には、善通寺の絵師がかかわったことが史料から分かります。絵師や仏師集団が善通寺周辺には存在したようです。
  上の絵図をトレスしたものがつぎの下の図です。

一円保絵図 全体

まず、この絵図で描かれている範囲を確定しておきましょう。
北側(下)からを見ていきましょう。
お寺の南の茶色のエリアが現在の「子どもと大人の医療センター」になります。ここは、弥生時代から古墳時代にかけて善通寺王国のコア的な存在であった所です。しかし、この絵図では、百姓の家が散在するのみです。お寺の周辺に形成された「門前町」に人々は「集住」し、この地区の「重要拠点性」は失われているようです。
 その西、弘田川を越えた所に「ひろ田かしら」という地名が書き込まれています。ここの東西の条里が北側の境界となるようです。ここから北の条里は描かれていません。
  西端を見てみましょう。右下角に「よしわらかしら」が見えます。
現在の吉原のようです。ここにも条里制跡は見られますが、その方位は善通寺周辺の条里制とは、異なっているように見えます。

  善通寺の東側の条里制のラインを見てみましょう。
ここで手がかりになるのは東の端に書かれた「よした」という地名です。現在の吉田でしょうが、ここには条里制跡は描き込まれていません。もちろん、丸亀平野全体に条里制は施行されていますので、敢えて書き込んでないということになります。
 南側は東に「おきのと」と西に「ありを□」から流れ出した水路が境となっています。これより南の条里制は、やはり描かれていません。考えられるのは描かれた部分が、善通寺の一円保に関係するエリアであったということです。それでは、条里制が描かれているのは、現在のどの辺りになるのでしょうか?
  現在の地図に落とすと、下図のようになるようです。
一円保地図1
一円保絵図東部分の現在の範囲
この範囲が善通寺の一円保のエリアだったと考えられます。もう少し拡大して見ましょう。
一円保絵図 現地比定拡大2
一円保絵図の現在のエリア
絵図で描かれている条里制エリアを確認しておきましょう
A 南側①~④のラインは、四国学院図書館から護国神社・中央小学校を西に抜けて行くもので、多度郡条里の6里と7里の境界線になる。
B 東側①~⑥(グランドホテル)のラインは旧多度津街道にあたり、古代においては何らかの境界線だったことがうかがえる。
C 北側ラインは⑤の瓢箪池→仙遊寺(大師遊墓)→宮川うどん→善通寺病院北側へと続く
D 西側は香色山と誕生院の間から、弘田川を越えて五岳の麓まで

   Aの①~④については、四国学院内での発掘調査から道路の側溝跡が見つかり、さらにそれを東に一直線にまっすぐ伸ばした飯山町の岸の上遺跡から出てきた側溝跡とつながることから、このラインが旧南海道だと研究者は考えているようです。つまり、一円保の南側は南海道で区切られていたことになります。
Bの旧多度津・金毘羅街道は、現在も大通りの東側を聖母幼稚園から片原通りまでは残っています。またB・Cは、中谷川の流路とも重なります。この川は、弥生時代から古墳時代に栄えた旧練兵場遺跡の北限でもあった川で、善通寺王国の成立に大きな役割を果たしたことが考えられます。
 ちなみに、佐伯氏が氏寺として最初に建てた仲村廃寺(伝導寺)は、⑥グランドホテルの西側のホームセンターダイキ周辺です。氏寺は、この川に隣接する地点に建立されています。古墳時代から7世紀前半の佐伯氏の拠点は、この付近にあったことを考古学的発掘の成果は教えてくれます。

金倉川 善通寺条里制
那珂郡・多度郡の条里制と南海道(推定)
  また、南海道の南側隣接する⑦からは多度郡の郡衙と推定できる建物群が見つかっています。
ここに建物群が姿を現すのは、7世紀末から8世紀初頭にかけのことで、南海道が東から伸びてきた時期と重なります。南海道を基準として条里制は引かれていきます。佐伯氏が先ほどの仲村廃寺周辺から⑦のエリアに拠点を移したのは、この時期なのでしょう。これに伴い氏寺も仲村廃寺から現在地に移し、条里制に沿う形で移築したことが考えられます。補足説明はこれくらいにして、先に進みましょう。
 
さきほどのトレス図と比べて、研究者は次の点を指摘します。
①絵図の東部と西部では「縮尺」が異なる。西の五岳山側は、東の3倍の縮尺になっている。
  絵図では東部と西部は半分・半分の割合だが、実際には西部の山側の方がその3倍以上の面積 がある。
②「おきのと」と「ありを□」は現在の壱岐湧と柿股湧になる。絵図では、ふたつの出水は一円保のすぐそばにあるように描かれているが距離的なデフォルメがある。実際にはかなりの距離がある。
全体像はこれくらいにして、もう少し詳しく各部分を見ていきましょう。
まず、一円保の範囲と周辺の郷との関係を地図で確認しておきましょう
一円保絵図 周辺との境界
善通寺一円保絵図の範囲
 東側の良田郷と隣接する条里制の部分から見ていきます。

金倉川 10壱岐湧水
善通寺東院と西院
 中央に善通寺伽藍とその東に誕生院があります。よく見ると、伽藍の周辺やその北方(下方)には多くの家屋が描かれています。
 
 集落を見ておきましょう
  建築物は、善通寺の東院や誕生院等を見ると、壁が書かれています。壁が書かれているのが寺院関係で、壁がない屋根だけの建物が民家だと研究者は考えているようです。絵図に描かれた民家を全部数えると132棟になるようです。それをまとまりのよって研究者は次のような7グループに分けています
第1グルーフ 善通寺伽藍を中心としたまとまり 71棟
第2グルーフ 左下隅(北東)のまとまり  5棟
第3グルーフ 善通寺の伽藍の真下(北)で弘田川東岸のまとまり                   11棟
第4グルーフ 中央やや右寄りの上下に連なる大きい山塊の右側のまとまり                   15棟
第5グルーフ 第4グループの右側のまとまり 17棟
第6グルーブ 第5グルーブと山塊をを挟んだ右側のまとまり                   6棟
第7グループ 右下隅(北西)のまとまり     7棟

 家屋が集中しているのは、善通寺伽藍周辺で71あるようです。
半分以上がお寺の周りに集まっていることになります。中世における「善通寺門前町」とも言えそうで、一種の「都市化現象」が進んでいたようです。
 善通寺市立郷土館に展示された「善通寺村絵図」(明治6年頃)には、伽藍の東南に17戸、東に79戸、北東に38戸、北西に53戸、西南に83戸、計270戸があったと記されます。江戸時代は、善通寺周辺に門前町が形成され、それ以外は水田が広がる光景が続いていたようです。
 お寺周辺の家屋は、七里八里の界線を境に上下に分けることができそうです。上は平安後期に、「寺辺に居住するところの三味所司等」(「平安遺文』3290号)とあるので、寺院関係者の住居と「くらのまち(倉の町)」など寺院の関連施設と研究者は考えているようです。
 これに対して、下側(北側)は百姓の家々ということになります。
善通寺の関係者は、僧侶たちと荘官層にわけられます。
荘官では田所の注記だけが見えますが、曼奈羅寺方面には惣追捕使の領所という注記もあります。「随心院文書」からは、善通寺には公文・案主・収納使・田所がいたことが分かります。また別の史料からは、次のような僧侶達がいたことが記されています。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。
一円保絵図 中央部

 絵図に記されている僧侶名を階層的に区分してみましょう。
寺僧以上が
「さんまい(三味)」 (7)
「そうしゃう(僧正)」    (8)
「そうつ(僧都)」        (11)
「くないあじゃり(宮内阿闇梨)」  (12)
「三いのりし(三位の律師)」      (14)
「いんしう(院主)」              (15)
「しき□あさ□(式部阿閣梨か)」  (10)
 下級僧が
「あわちとの(淡路殿)」          (1)
「ししう(侍従)」                (9)
「せうに(少弐)」                (16)
「あわのほけう(阿波法橋)」      (17)
(数字は、絵図上の場所)
 これらの僧侶の房の位置から分かることは、寺僧たちの房は伽藍の近くにあり、下級僧の房はその外側に建ち並んでいます。絵図は僧侶間の身分・階層を、空間的にも表現しているようです。

その他にも、堂舎・本尊・仏具の修理・管理のための職人(俗人姿の下部)が、寺の周辺に住んでいた可能性が考えられます。
例えば、鎌倉初期の近江石山寺辺では、大工、工、檜皮(屋根葺き職人)、鍛冶、続松(松明を供給する職人)、壁(壁塗り職人)らがいたことが分かっています(『鎌倉遺文』九〇三号)。絵師や仏師が善通寺周辺にいたことは、仏像の銘文などからも史料的にも分かっているようです。しかし、絵図からはうかがい知れません。

 絵図の下方(北側)の家を見てみましょう。
金倉川 10壱岐湧水

右下の茶色で着色したゾーンは、善通寺病院のエリアになります。そこから東にかけてが現在の農事試験場の敷地にあたります。この地域は、
①善通寺病院周辺が、弥生時代の中核地域
②(20)(21)周辺が、仲村廃寺跡で古墳時代以後の中心地
であることが発掘調査から分かっています。そして、②を中心とするエリアに、名田が密集しているようです。名田らしき注記を挙げると
「光貞」が六ヵ所
「利友」が六ヵ所
「宗光」が五ヵ所
 これを名主だと考えることもできそうです。
名は徴税の単位で、荘内の各耕地(作人の各経営)はいずれかの名に所属させられていたとされます。年貢や課役も作人が直接領主に上納するのではなく、名の責任者である名主がとりまとめて納入させたようです。「光貞」「利友」「宗光」は、その徴税責任者名かもしれません。つまり、名主であったことになります。ちなみに「寺作」は9ヵ所で合計2町9反以上と注記されています。これが善通寺の直轄寺領なのでしょうか。
一円保絵図 北東部

  最後に東部エリアの用水路を見ておきましょう。
 条里制地割上に描かれた真っ直ぐな太線が水路になります。水路を東に遡っていくと「をきどの」「□?のい」と記された部分に至ります。これは出水で、水源を示しているようです。
この湧水は、現在のどこにあたるのでしょうか。
これは、以前にも見たように生野町の壱岐湧と柿股湧になります。
そこからの水路が西に伸びて一番東の条沿いに北上していきます。この条が先ほど見たように、旧多度津街道になります。
条里内の(2)の家屋は、護国神社 (1)は中央小学校あたりになるのでしょう。湧水からの水路は、次の条まで延びています。ここからは、地割の界線にそって灌漑用水路が作られ農業用水を供給していたことが分かります。よく見ると、坪内ヘミミズがはっているような引水を示す描き込みもあります。
 用水路がどこまで伸びているのかを見てみましょう。
それは、農業用水がどこまで供給されていたかです。用水路が伸びているのは、(20)(21)のある坪あたりまでです。それより北(下)には、用水路は描かれていません。
弥生・古墳時代には、多度津街道沿いに旧中谷川が流れていたことが発掘からも分かっています。
旧練兵場遺跡 変遷図1
弥生時代の旧練兵場跡 右側が中谷川


ところが、一円保絵図には中谷川が途中で涸れたように描かれています。これは旧練兵場(現農業試験場や善通寺病院のエリア)に灌漑用水は、届いていなかったということになります。ほんまかいな? というのが正直な感想です。 この絵図をもう一度見ると、用水路は2つの湧水のみに頼っているようです。
 金倉川からの導水水系が描かれてはいません。
 現在は、中谷川は金倉川からの導水が行われています。
一円保絵図 金倉川からの導水
現在の金倉川からの導水路

しかし、中世のこの時点ではそれが出来なかったのかもしれません。中世の権力分立の政治情勢では、荘園を越える大規模な用水はなかなか建設や維持が難しかったようです。建設のための「労働力の組織化」もできなかったのでしょう。例えば、この時期の満濃池は崩壊したまま放置され「池内村」が旧池底に「開拓」されていた状態でした。金倉川の導水路を確保することは難しく、善通寺一円保の用水源は、出水と有岡の池に頼る以外になかったようです。
 こうしてみると善通寺の百姓達が京都の本寺へ「烈参」したのも水に関係することだったのではないかと思えてきます。
今回は、この辺りにしておきましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献



前回は三野湾の大見・下高瀬・吉津の3つの地区の特徴について見てきました。今回は、中世の秋山家文書に見える地名を通じて、三野湾の復元に取り組んだ研究を見ていくことにします。テキストは「山本祐三  三野町の地名を考える ―中世関連地名と海岸関連地名 三野町の中世文書」です
西遷御家人・秋山氏の讃岐への移住について
 鎌倉幕府は元の再来に供えて、西国防衛力のアップという名目で西遷御家人を西国の要衝に送り込みます。三野湾の入口に位置する高瀬郷に、甲斐国からやってきたのが秋山氏です。西遷御家人は、東国での新田開発を通じて、高い治水・灌漑技術を持っていた技術者集団でもあったようです。地頭として入ってきた地域の未開発地域を積極的に開発していったことは以前に、土器川周辺の法勲寺地区で見た通りです。
 秋山氏が取り組んだのは、下高瀬郷の大見地区の谷田の開発です。中世を通じてこの地区は、谷田が開かれていきます。そのため開発名主の名前が今でも地名として残っているところが数多くあります。大見地区の農業生産力は、この時期に急速に高まります。その発展を背景に、大見は下高瀬より分離・独立していったようです。ちなみに大見の一番大きな水源が天霧山になります。そして、ここには死霊の赴く山として弥谷寺があります。この山が古くから霊山であったことがうかがえます。
 大見という地名が文書の中に表れるのは、南北朝期以後のことで、秋山家文書中の応安五(1372)年、沙弥日高(秋山泰忠)置文(遺言状)に、譲る所領の境を次のように記しています。
「 さかいの事ハ(境の事は)
ひかし(東)ハ 大ミ(大見)のさかい(境)を あさつ(朝津)の山をくたり 
にし(西)ハ たくま(詫間)のさかう(境)まつさき(松崎)まて  しうき(塩木)のミね(峰)をさかう(境)なり 
又みなミ(南)たけか(竹包)の志ちたん(七反)あまりゆつ(譲)るなり

これが大ミ(大見)が記録に出てくる最初のようです。相続させるエリアを次のように示しています。 
①東は朝津山を大見との境 
②西は詫間の境である松崎ー塩木山(汐木山ではない)まで
③南は竹包の七反地
このエリアを大見から分割して相続させたのでしょう。

三野町大見地名1
 
その約200年後の永禄三(1560)年、香川之景知行宛行状に
「替わりとして大見の内 久光・道重両名(久光・道重の名田)を扶持せしめ候」

と出てきます。ここでは大見という漢字になっています。南北朝期や戦国期に大見という地名が使われていたことが分かります。
下高瀬については、前回も触れましたので省略します。

吉津については、寛治三(1089)年の浪打八幡官(詫間の浪打八幡神社)放生会頭人番帳写(片岡家所蔵文書)に、
吉津・詫間・仁尾分 十二年廻」

として36名の頭人があげられています。その中に吉津が見えます。
 また貞治六(1367)年の宮年中行事番帳写(同前)にも
「吉津日天寺・吉津大光寺・吉津多門坊」
とあります。さらに明徳二(1391)年の宮放生会駕輿丁次第写には、吉津正元以下五名の名が挙がっています。ここからは平安時代末期には、吉津の地名が文書に残っていることが確認できます。吉津は、古代の行政区分からすると詫間郷に属していました。そのために、詫間郷の郷社的な存在であった波打八幡神社の氏子となっていたようです。吉津と下高瀬は行政区分が異なっていたという点は抑えておいた方がよさそうです。
 吉津の地名由来は、この地の海岸沿いに葦(よし)が生えていた津(港)であったことによると云われています。あるいは「良津(港)」が転じて吉津となったとも伝えられます。

三野湾に残る中世関連地名をもう一度見てみましょう
1 三野町中世地名

研究者が秋山家文書から抽出した中世地名が、地図上に赤字で示されています。番号中に見ていくことにします
①大道(おおみち)
 秋山家文書(1331)年の文書の中に、父の秋山源誓が子の秋山孫次郎泰忠に地頭職を譲る置文(遺言状)の中に「大道」が次のように出てきます。
 「さぬきのくにたかせのかうの事 (讃岐の国高瀬の郷の事)、
いよたいたうより志もはんふんおは(伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし(孫次郎泰忠譲るべし)」
 
高瀬郷の下半分、つまり今の下高瀬地域を子(泰忠)に譲るというものです。伊予大道は、善通寺から鳥坂峠を越えて、現在の国道11号沿いに高瀬を抜けていきます。近世の伊予街道と重なる部分の多いルートです。かつては、この道が南海道とされていた事もありました。しかし、現在では南海道は飯野山の南を真っ直ぐに西進し、善通寺の四国学院のキャンパスを通過し、大日峠を越えて高瀬を横切って六つ松に至っていることが分かっています。伊予大道は、古代末から中世以後に整備されたと研究者は考えているようです。
 この文書にあるように高瀬郷は、14世紀前半に伊予大道を境に南北に上下に分けられたことが分かります。同時に、この伊予大道(いよだいどう)が、現在の大見にある大道の地名に残されているのではないかと研究者は考えているようです。
②砂押(すなおし) 
「かさねてゆつりおく  (重ねて譲りおく)、
そうりやうまこ四郎に  (惣領孫四郎に)
たかせのかうのすなんしき(高瀬の郷の収納使職)」

これは秋山家文書中の永和一(1376)年の文書です。秋山泰忠が、孫でありながら嫡子として惣領にした孫四郎に所領を譲った置文です。泰忠は、置文(遺言状)を12通も残しています。いろいろと気がかりで心配なことが次々と出てきたのでしょう。その度に、新しい置文を書いたようです。ここには、高瀬郷の地頭職(収納使職=すなんしき)を惣領孫四郎に譲るとあります。「収納使職」が訛って「砂押」になったようです。
 「あさつの山(浅津の山)をくたり(下り)」の東側とあるので、現在の砂押の位置関係と合います。現在の大見小学校の南側にあたる地域です。惣領家に継承されたのですから重要なエリアであったことがうかがえます。ここを拠点に大見開発が進められたのかもしれません。また周辺には
「大見浜・浜堂・塩焼田・浜・蟹田地」

という地名が残ります。三野湾が入江となって直ぐそばにあったようです。塩焼田という地名からは、塩業が行われていたこともうかがえます。
 秋山氏の居館がどこにあったかは分かりませんが、有力候補地と考えられる地区です。

③九免明(くめんみょう) 
秋山家文書中に九免明(くめんみょう) は出てきません。この地名は公文名に由来し、高松市新田町に公文名、まんのう町にも公文の地名が残ります。公文は、荘園の記録・文書など公文書を取り扱っていた役所があった所です。その役所が名田と呼ばれる私有地を持っていて、その土地からあがる収入を役所の費用に充てていました。つまり公文名とは公文の名田という意味で、後には名主そのものを指すようにもなるようです。高瀬郷の公文の名田がここにはあったとしておきます。そして、公文名が九免明に転訛したと研究者は考えているようです。
④道免(どうめん) 
似たような地名に道免があります。位置的には大道の近くになります。大道の管理維持のための経費を当たられた免田(年貢を免除された田)が設けられました。その代償に、官道である大道の改良工事などに労働力や資材の提供を求められたのでしょう。同じような地名に道免と南原の間に坂免(釈迦免=しゃかめん)がありますが、詳細は不明です。

⑤田所(たどころ)
大化改新以前の豪族の私有地として田荘がありましたが、大化改新により廃止されたと云われます。田所は、これに関連するものではないかとも思われますが、よく分かりません。
⑥法華堂(ほっけどう) 
秋山家文書中の秋山一忠自筆之系図に
「下高瀬法花(華)堂 久遠院 ゐんかう(院号)高永山 さんかう(山号)本門寺 じかう(寺号)」

と出てきます。中世には本門寺は法花堂と呼ばれていたようです。法花堂が中核施設であったことがうかがえます。 本門寺は、高瀬郷を領した秋山氏が創建された西国で最も古い日連宗寺院です。地元では高瀬大坊のと親しみを込めて呼ばれています。

 建武元(1334)年 祖父と共に讃岐にやって来た秋山泰忠は、晩年になって、日仙を招き法華堂を建立します。これが現在の本門寺です。
4 塩飽大工 本門寺

本門寺を中心にして、法華宗は周辺に広がっていきます。これは、全国的にも早い時期の日蓮宗の布教形態です。秋山氏の氏寺として本門寺は創建され、発展をしていきます。
 泰忠の祖父阿願は法華信仰に深く、帰依していたようです。泰忠はその影響を受け、小さいときから法華信仰に馴染んでいたのでしょう。故郷の甲斐国を離れ、幼くして遠く讃岐までやってきた泰忠にとっては、南北朝の動乱の戦いを繰り返す中で心を癒すために、法華経への信仰心を深めていったのでしょう。彼は晩年に置文(遺言状)を12も書いていますが、その中にも子孫に法華宗への信仰を強く厳命しています。このように秋山泰忠により本門寺は創建され、秋山一族の保護の元に領民に法華宗が広められていきます。これが後の高瀬郷皆法華信仰圏が成立する背景のようです。その出発点となるのが、この法華堂のようです。
4 塩飽大工 本門寺2

⑦原(はら)・樋之口(ひのくち) 
秋山家文書中の香川之景(天霧城主)知行宛行状に
「三野郡高瀬郷水田分内 原・樋口、三野掃部助知行分並びに同分守利名内、真鍋三郎五郎買徳の田地」

とあります。永禄四(1561)年の文書で、原・樋口・守利の地域にある土地を合戦の恩賞として天霧城主の香川氏が秋山兵庫助に与えたものです。ここに出てくる原は、現在の大見の原で、樋口は下高瀬の樋口と研究者は考えているようです。
原は現在は原・小原・原上・下原・原南等に分割されています。また大見原と下高瀬原に分けて呼ばれたりもしているようです。
 また樋口については下高瀬に中樋・樋之前・樋之口がある。樋口は現在の下高瀬小学校や百十四銀行の周辺で、旧三野町の中心地になります。三野町役場そばの橋は三野橋といい、その一つ上流の橋は樋前橋と呼ばれています。守利(もりとし)については、これがどこに比定されるか分かりません。
 この文書からは戦国時代には、秋山氏は守護代の香川氏から恩賞をもらう立場にあったあったことが分かります。つまり香川氏の家臣団として、軍事行動に参加していたようです。
⑧東浜(ひがしはま)・西浜(にしはま) 
中世三野湾 下高瀬復元地図


秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に
「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事
右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、
一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

とあります。親の泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。泰忠は、本門寺を建立した人物です。泰忠の息子たちの世代に移り変わっています。ここに出てくる新はま東村(新浜東村)は、現在の東浜、西村は現在の西浜、中村は現在の中樋あたりを指しすものと研究者は考えているようです。
他の文書にも
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
等が譲渡の対象として記載されています。ここからも秋山氏は、この辺りで塩田を持っていたことが分かります。作られた塩は、仁尾の海運業者によって畿内に運ばれ販売されていたようです。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
 この文書からは泰忠の所領が、三人の息子に分割相続されていたことが分かります。この分割相続が秋山氏の力を弱めていくことになるようです。経済的に立ちゆかなくなった惣領家は、大事な土地を切り売りしていることが残された文書からは分かります。

⑨打上(うちあがり)・竹田(たけだ)
 
中世三野湾 復元地図

秋山家文書中の香川之景判物に
一 三野野郡打上の内 国ケ分 是は五郎分なり・・・
一 同郡高瀬の郷の内 武田八反、是も真鍋三郎五郎買徳、有坪かくれなく候」
とあります。天霧城主で守護代の香川之景が帰来善五郎に打上と武田の土地を所領として安堵した文書です。打上は葛山(前山)の麓の地区で、高瀬町新名と三野町吉津にまたがります。現在の高瀬ー詫間線が通っている地区です。葛山の南麓の打上から新名村西下にかけての地区は、江戸時代初期に新名新田として干拓されるまでは浅海でした。満潮時には打上のあたりに海水が打ち寄せていたと云われます。そのため湿地帯で、耕作には不適な土地でした。
 武田は現在の大見の竹田のことのようです。
 秋山家文書中の泰忠の置文には、次のような多くの名前が付いた名田が出てきます。
あるいハミやときミやう (あるいは宮時名)、
あるいハなか志けミやう (あるいは長重名)、
あるいハとくたけミやう (あるいは徳武名)、
あるいは一のミやう   (あるいは一の名)、
あるいハのふとしミやう (あるいは延利名)
又ハもりとしミやう   (又は守利名)
又はたけかねミやう   (又は竹包名)、
又ハならのヘミやう   (又はならのへ名)
このミやうミやうのうちお(この名々の内を)、めんめんにゆつるなり(面々に譲るなり)」
とあります。多くの名前が並んでいるように見えますが、「ミやう」は名田のことす。名主と呼ばれた有力農民が国衛領や荘園の中に自分の土地を持ち、自分の名を付けたものとされます。名田百姓村とも呼ばれ名主の名前が地名として残ることが多いようです。特に、大見地区には、名田地名が多く残ります。しかし、その多くは近世の検地実施と共に消えていったようです。
久光(ひさみつ)・道重(みちしげ) 
秋山家文書中の香川之景知行宛行状(永禄三(1569)年に、次のようにあります。
「替わりとして大見の内久光・道重両名扶持せしめ候」
と見えます。
これも久光とか道重という名前の名主がいて、ここは私(久光)の土地ですよ、とか、ここは私(道重)の土地ですよ、と標示した名残なのでしょう。それが地名となって中世に使用されていた名残です。
 豊中町の比地大にある友信や石成も、友信という名前の名主が持っていた名田、また石成という名前の名主が持っていた名田であったと伝わる集落です。これらの村を名田百姓村と呼びます。
1名田百姓村

大見あった久光・道重は、今はそれに当たる地名が見当たりません。小地名や小字名あるいは屋号等に残っているかもしれませんが、それは今後の課題となります。
重光(しげみつ) 秋山家文書中のちやうほうらうとう売券に
「さぬきのくにたかせのかうのうち 志けみつのまへらうとう」

あります。ちやうほうは秋山長房とも考えられ、長房が「志けミつ」の地を誰かに譲り渡した、というものです。「志けミつ」を漢字変換すると「重光」が考えられます。前後関係から重光は旧高瀬町と旧三野町との境あたりにあった地名と考えられるようです。

以上、秋山文書に現れる中世地名を追いかけてみました。復元地図と併せながら見ていくと、面白い発見がいくつもあります。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三  三野町の地名を考える ―中世関連地名と海岸関連地名
         
三野町の中世文書所収

1 承久の乱

承久の乱後、勝利した鎌倉幕府は後鳥羽上皇に与した貴族(公家)や京都周辺の大寺社の力をそぐためにその荘園に、新たに地頭を置きます。これを新補地頭(しんぽじとう)と呼びます。 
丸亀平野では、1250年代以前に置かれたことが史料で確認できる地頭職6つのうち
法勲寺(鵜足郡)
櫛無保
金蔵寺領
善通寺領(那珂郡)
の四箇所が新補地頭です。
1 承久の乱2

新補地頭職には、東国の御家人たちが任命されてやってきます。政治的には、幕府の西国支配強化の尖兵として送り込まれてきたのです。彼らは武装集団で、守護が現在の県警本部長とすれば、
地頭は「市町村の警察署長 + 税務署長」

といったところでしょうか。
 彼らにとっては、勝者として新たな任地に乗り込んでいく占領軍のような気分もあったようです。そして、讃岐人との間には「言葉の壁」「文化の壁」もあったはずです。さらにオーバーな言い方をすると、言葉もなかなか通じないような「異邦人」であったかもしれません。地縁関係がない「よそ者」ですから年貢の取り立てなども容赦が無く「泣く子と地頭は勝てぬ」という諺が生まれることにもなります。どちらにしても、新たな支配者としてやって来た東国の武士集団は、讃岐においてもカルチャーショックをもたらしたようです。
1 承久の乱4j守護配置pg

 少し遅れて弘安年間(1278~88年)にやってきたのが甲斐源氏の秋山光季はその典型と云えそうです。
 彼は三野郡高瀬郷に拠点を構えて移り住みます。秋山氏は宗教的には熱心な日蓮信徒だったので、本門寺という日蓮宗の氏寺を建立します。そして、一族だけでなく、後には高瀬郷全体を日蓮宗に改宗していくことを進めます。清教徒によるアメリカ開拓と新世界建設のイメージとダブってくる光景です。このような鎌倉新仏教にによる宗教活動・文化活動は讃岐では初めてのことだったようで、周辺に大きな影響を与えます。
 また、彼らは軍事集団として百姓に寄生していただけではありません。自らが開発領主として、周辺開発に乗り出していきます。秋山氏のような西遷御家人は、東国で治水灌漑に取組み、先進的な技術と経験を持っていました。その経験を生かし、三野湾の干拓や丘陵部の耕地化などに積極的に乗り出していきます。
飯山国持居館1
 
東国からやってきた地頭たちの住まいは、どんなものだったのでしょうか。
彼らは東国での館を、讃岐の地に再現します。発掘で出てきた武士の居館跡は、全国的な統一性・共通性が見られます。これは各地域で独自に発展したと云うよりも、東国からやって来た西遷御家人が「東国基準の居館」を任地に建て、それを基準に広まったと考えられます。
そんな居館跡が高松でも発掘されています
 旧高松飛行場のあった高松市林町は、京都妙法院領の林庄にあたります。ここからは13世紀の武士の居館跡が出てきています。条里型地割の中に、約一町四方を大溝で囲み、その中に主屋・厩・倉と「庭(広場)」という建物配置になっています。ここでも、まんのう町吉野の大堀遺跡と同じように、大溝は地域の用水網に組み込まれています。この居館の主は「地域開発の主体者」であると研究者は考えているようです。
 主屋周辺からは、普通の集落からは出てこない素焼きの皿(カワラケ)が大量に出てきます。このカワラケは、それまで讃岐からは出てこなかった鎌倉的な形です。東国の御家人たちが地頭として定着し、構えた居館跡というイメージが浮かびます。この居館に周辺の人々を招いて酒宴が開かれていたのでしょうか。「よそ者」が地域に溶け込むための努力を行っていたのかもしれないと考えるのは、酒好きの私だけでしょうか。
 また馬の歯も見つかっています。
東国武士の騎馬姿が連想できるだけでなく、耕地開発に牛馬が使われた可能性を研究者は指摘します。この居館跡は、林庄の中心部の微高地からやや下がった低湿地部で、未開墾地だったところのようです。飯山町の法勲寺の「サコ田」と同じように、残された未開墾地の開発(再開発)に取り組んだ領主の住まいと研究者は考えているようです。
 もうひとつ注目したいのは、周囲に集落がないことです。
小規模な建物がまばらにあるだけです。ここからは近世のように集落が密集して村落を形成するというスタイルではないことがうかがえます。領主の居館の周辺に、屋敷が散在する「散村」スタイルの村落形態だったことが分かります。ここからは、この時期の耕地開発と経営が小範囲ごとに行われ、なかなか安定軌道に乗っていなかったと研究者は考えているようです。
飯山地頭一覧

 鵜足郡法勲寺領の地頭職になった壱岐時重とは? 
 上の表は、記録に残る鎌倉時代の讃岐の地頭一覧です。
法勲寺地頭職を得た壱岐時重も、承久の変後に讃岐に置かれた新補地頭の一人です。『吾妻鏡』に、彼の地頭職を巡る判決が次のように記されています。
(建長二年五月)
廿八日突巳、讃岐国法勲寺地頭職壱岐七郎左衛門尉時重、令兼帯本補新補両様之由、雑掌就訴申之、有評定、経年序之由、地頭難中之、無其理之間、於一方者可被停止、然者可為本司跡鰍、将又可為新補歎、随望申、可被仰下、可注申一方之旨、今日被仰下、云々
書き下すと
 廿八日、発巳、讃岐国法勲寺地頭職壱岐七郎左衛門尉時重、本補新補両様を兼帯せしむるの由、雑掌之れを訴え申すに就いて、評定有り、年序を経るの由、地頭之れを申すといえども、其の理無きの間、一方に於いて者停止せらるべし、然らば本司の跡たるべきか、はた又、新補たるべきか、望み申に随って、仰せ下さるべし、一方注中すべきの旨、今日仰せ下され、云々
 ここに出てくる法勲寺とは法勲寺領のことで、荘・郷などと同格に扱われています。法勲寺荘との関係は分からないようですが、寺の経営する、もともと井上郷内の公領(国有領)であったものが荘園化したものと研究者は考えているようです。その地頭職持っていた壱岐七郎左衛門尉時重が「本補と新補」の両方の権利を主張したのに対して、評定では、その理はないので、一方どちらかを選ぶようにとの裁定が降された。とあり、壱岐尉時が法勲寺領の地頭であったことが分かります。
 しかし、壱岐時重や壱岐氏については、よく分からないようです。
 一つの説は、承久の変の時に京都守護として在京していた伊賀光季の子に「時重」と名乗る者がいます。そのため伊賀光季の息子と、同一人物だと考える説です。
 2つ目の説は、下総国葛西荘出身で奥州黒沢に所領がある葛西時奥がいます。この葛西氏の諸系図には、仁治元年(1240)に讃岐に移ったとあるので、これを壱岐時重と考える説です。
 壱岐時重の名は、『吾妻鏡』康元元年(1256)6月2日条にも出てきます。
ここでは、時重は幕府から次のように命じられています。
「近年、奥州街道において夜討・強盗が度々蜂起して往還の旅行者の煩いとなっているので街道の警備に当たるように」

この命を受けて時重は、同族または兄弟の壱岐六郎左衛門尉ら24人とともに奥州街道の盗賊掃討に当たっています。これらの人々は、すべて奥州街道筋に所領を持つ地頭御家人です。まさに治安維持のための地頭の職務にふさわしい活動です。ということは、この時期には時重は、まだ讃岐にやって来ていなかったことになります。
 『吾妻鏡』には、壱岐時重と同時期に活躍する葛西七郎時重の名前が見えます。
 このふたりが同一人物がどうかも分かりません。岩手県に伝わる「葛西氏諸系図」には、壱岐時重を葛西三郎清重の子としています。葛西清重は、下総国葛西荘を本拠とし、文治五年(1189)の源頼朝の奥州征伐に従軍し、奥州総奉行に補任された幕府の功臣です。清重が陸奥に所領を得て、葛西氏は大勢力となり勢力を拡大します。しかし、豊臣秀吉の小田原攻めに遅参し、葛西七郡すべてを失い滅亡するようです。
 「葛西氏諸系図」には、時重の讃岐法勲寺地頭のことが記され、仁治元年(1240)に、讃岐へ赴いたことが記されているようです。これを信じると、壱岐時重は葛西氏の出身になります。
 飯山町史によると飯山町の葛西姓の家には、中世に香西郡円座保に来住し、その後に法勲寺地区へ円座の技術をもって移住したと伝えが残っているようです。葛西氏としてやってきて、讃岐で壱岐氏に改名したとしておきます。
 どちらにしても、壱岐時重は地頭として法勲寺にやって来て、居館を構えたようです。その居館がどこにあったかは分かりません。しかし、候補地の一つとして、以前見たように讃岐富士の麓のダイキ飯山店に眠っている居館跡が考えられます。ここも中世の大束川支流跡に堀を巡らした居館でした。ここを拠点に。周辺の未開発地の開発に乗り出していったのでしょう。その一族の中には、土器川の氾濫原や大窪池の谷筋のサコ田の開発を行うものも現れます。かれらは開発地に屋敷を構え、武士団を発展させて行ったのかもしれません。
丸亀市川西町にあった二村庄の開発領主は「悪党」?
 この時期の開発領主が、どのように地域支配をおこなっていたのかがうかがえる史料は数少ないようです。そんな中で丸亀市川西町にあった二村庄で、その一部を垣間見ることができます。
 まず、1204~06年(元久年間)に鵜足郡二村郷のうち、荒野部分が興福寺領として荘園化します。それを地元で押し進めたのは開発領主・藤原貞光という人物です。藤原を名乗るので、讃岐藤原の一族で古代綾氏につながる人部かもしれません。当時は荒野を開発した者に、その土地の所有権が認められました。そこで彼は土器川の氾濫原を開発し、その権利の保証を、藤原氏の氏寺で大和の大寺院でもある興福寺に求めます。未開墾地は二村郷のあちこっちに散らばっていたので、管理がしにくかったようです。そこで寄進を受けた興福寺は、これを条里の坪付けによりまとめて管理しやすいように、国府留守所と協議して庄園の領域を整理しようとします。しかし、これは寄進側の藤原貞光にしてみれば、自分の開発した土地が興福寺領と公領のふたつに分割支配され、自分の持ち分がなくなることになります。貞光にとっては、思わぬ展開になってしまいます。ある意味、興福寺という巨大組織の横暴です。
 このピンチを、貞光は鎌倉の御家人となることで切り抜けようとします。しかし、当時の鎌倉幕府と公家・寺社方の力関係から興福寺を押しとどめることはできなかったようです。興福寺は着々と領域整理を進めます。万事に窮した貞光は、軍事行動に出ます。1230年(寛喜2)頃、一族・郎党と思われる手勢数十人を率いて庄家(庄園の管理事務所)に押し寄せ、乱暴狼藉を働きます。これに対して興福寺は、西国の裁判権をもつ鎌倉幕府の機関・六波羅探題に訴え出て、貞光の狼藉を止めさせます。貞光は「悪党」とされたようです。

この事件からは次のような事が分かります。
①鎌倉時代に入って、土器川氾濫原の開発に手を付ける開発領主が現れていたこと
②開発領主は、貴族や大寺社のお墨付き(その結果が庄園化)を得る必要があったこと
③その慣例に、鎌倉幕府も介入するのが難しかったこと
④貞光は手勢十数人を動員できる「武士団の棟梁」でもあったこと
⑤興福寺側も、藤原貞光の暴力的な反発を抑えることができず、幕府を頼っていること
この騒動の中で興福寺も、配下の者を預所として現地に派遣して打開策を考えたのでしょう。どちらにしても、荘園開発者の協力なくしては、安定した経営は難しかったことが分かります。
 
   藤原貞光にとっては、踏んだり蹴ったりの始末です。
せっかく開発した荘園を興福寺と国府の在庁役人に「押領」されたのも同じです。頼りにした興福寺に裏切られ、さらに頼った鎌倉幕府から見放されたことになります。「泣く子と地頭に勝てぬ」という諺が後にはうまれます。しかし、貞光にとっては、それよりも理不尽なのが興福寺だと云うかもしれません。それくらい旧勢力の力は、まだまだこの時期には温存されていたことがうかがえます。
貞光の得た教訓を最後に挙げておきます
①未開墾地の開発に当たっては慣例的な開発理由を守り
②よりメリットある信頼の置ける寄進先を選び
③派遣された預所と意志疎通を深め、共存共栄を図ること
これらのバランス感覚が働いて初めて、幕府御家人(地頭)としての立場や権利が主張できたのかもしれません。
13世紀から14世紀前半にかけては、讃岐国内でこのような実力行使を伴った庄園内の争いが多発しています。それを記録は「狼藉」「悪党」と治者の立場から記しています。しかし、そこからは開発領主としての武士たちの土地経営の困難さが垣間見えてきます。その困難を乗り越えて、登場してくるのが名主たちなのでしょう。
参考文献 飯山町史

  
丸亀平野の条里制 地形図
 丸亀市飯山町の法軍寺には、中世以来の地名が残っています。
そんな地名を追いかけて見ると何が見えてくるのでしょうか。
地図を片手に、法勲寺を歴史散歩してみます。まずは法勲寺の位置を確認しておきます. 
飯山法勲寺開発1地図

 法勲寺荘は土器川の東岸、飯野山の南側で鵜足郡に属し、古代の法勲寺を中心に早くから開けた地域です。エリアの東側を大束川が北流し、飯野山の東を通って川津方面に流れていきます。今は小さな川ですが、古代においてはこの川沿いに開発が進められたと研究者は考えているようです。古代地名を復元した飯山町史の地図がテキストです。
飯山法勲寺古地名全体
この地図を見て分かることは
①大束川流域の上法勲寺は条里制地割が全域に残り、古代から開発が進んだ地域であること
②西部の東小川は、土器川の氾濫原で条里制地割が一部にしか見えない
③また大窪池の谷筋や丘陵地帯も条里制地割は見えないこと
土器川の右岸は、氾濫原で条里制地割は見えません。古代の開発が行われなかった「未開発地域」だったようです。そこへ中世になると開発の手が伸びていくようになります。地図を見ると、太郎丸・黒正・末広・安家・真定や、東小川の森国・国三郎など、中世の人名だった地名が見られます。これらは、名田を開発したり、経営した名主の名前が付けられたものと思われます。

大束川旧流路
国土地理院の土地利用図です。中世には土器川は大束川に流れ込んでいたことが分かります。
東小川の各エリアを拡大して見ていきます。  まず中方橋のあたりです。
飯山法勲寺古地名新名出水jpg


新名という地名は、もとからあった名田に対して、新しく開発された所をさします。地図に見える東小川の新名出水は、土器川からわき出す出水があったのでしょう。これを利用して中世になって、それまで水田化されていなかった氾濫原の開発に乗り出した名主たちがいたようです。その新名開発の水源となったので「新名出水」なのでしょう。地図で、開発領主の痕跡をしめす地名を挙げると
「あくらやしき」「蔵の西」「馬場」「国光」「森国」「馬よけば」

が見えます。新名出水から用水路で誘水し、いままで水が来なかった地域を水田化したことが推察できます。新田の開発技術、特に治水・潅漑にかかわる土木技術をもった勢力の「入植・開発」がうかがえます。
飯山法勲寺古地名2jpg

 さきほどの中方橋のさら北側のエリアになります。ここには
「明光寺又・円明院出水・首なし出水・弘憲寺又・障子又」
などの古地名が見えます。
「出水」は分かりますが「又」とは何でしょうか?
「又」は用水の分岐点です。出水や用水分岐点は、水をめぐる水争いの場所にもなる所で、重要戦略ポイントでした。そんな所は、竜神信仰の聖地としたり、堂や庵などを建立して水番をするなど、農業経営維持のためのしくみが作られていきます。ここにも「堂の元(下)」という地名がみえますからお堂が用水管理のための施設として建立され、時には寝ずの番がここで行われたのかもしれません。こんなお堂がお寺に成長していくことも多かったようです。

 東小川の「障子又」は、「荘司」に由来するようです。
この付近に荘園の管理者、つまり実質的な荘園支配者であった荘司の屋敷か、彼の直接経営する名田があったのでしょう。居館のそばにお堂があったのかもしれません。それが、阿波安楽寺からの伝道者の「道場」となり、農民たちに一向信者が増えると真宗寺院に成長していくというのが丸亀平野でよく見られるパターンのようです。

 土器川東岸の東小川が開発されたのは、いつ、誰によってなのでしょうか?
 飯山町史は鎌倉後期のこと考えているようです。そして、開発の先頭を切ったのは、地頭などとして関東から移住してきた東国の御家人やその関係者であったとします。確かに、彼らは関東を中心とした広大な湿地帯や丘陵地帯で開発を進めてきた経験と新技術を持っていました。それを生かして、自分たちの領域の周辺部の未開拓地であった氾濫原の開発を進めたというのは納得がいく説明です。
飯山法勲寺古地名大窪池pg

この地図は、東小川の土器川沿いに「川原屋敷」や「巫子屋敷」などがあり、「ぞう堂」という地名も見えます。その背後の丘陵地帯に大窪池があ。法勲寺跡の南側に伸びていく緩やかな傾斜の谷の先です。しかし、この池が姿を見せるのは、近世になってからです。相争い分立する中世の領主達に、こんな大きな池を作り出す力はありません。彼らには古代律令国家の国司のように「労働力の組織化」ができないのです。満濃池も崩壊したまま放置され、その池跡が開発されて「池内村」ができていた時代です。大窪池のある台地は、「岡田」と呼ばれますが。ここが水田化されるのは近世になってからのようです。話を元に戻します。
 今見ておきたいのは、この大窪池の下側の谷筋です。
ここは谷筋の川が流れ込み低湿地で耕作不能地でした。これを開拓するしたのが関東の武士たちです。彼らは湿地開発はお得意でした。氾濫原と共に、谷の湿地も田地(谷戸田)化して行ったようです。サコ田と呼ばれる低湿地の水田や氾濫原の開発と経営は、鎌倉時代の後半に、関東からやって来た武士たちによって始められるとしておきましょう。それが、東小川や法勲寺の地名として残っているようです。
  讃岐にやって来た関東の武士たちとは、どんな人たちだったのでしょうか。
飯山地頭一覧
  飯山町史に載せられている讃岐にやってきた武士たちのリストです。全てが実際に讃岐にやって来たわけはなくて、代理人を派遣したような人もいます。例えば那珂郡の櫛無保の地頭となった島津氏は、薩摩の守護職も得ています。後に、島津藩の殿様になっていく祖先です。島津氏は、荘官を派遣して管理したようです。その居館跡が「公文」という名前で、現在も櫛無には残っています。
 法勲寺を見ると壱岐時重という名前が出てきます。
彼が法勲寺庄の地頭となったようです。彼の下で、法勲寺や東小川の開発計画が進められたのでしょうか? いったいどんな人物なのでしょうか?それはまた、次の機会に・・・
以上をまとめておきます。
①飯山町法勲寺周辺は、条里制地割が全域に残り古代から開発が進んだ地域である。
②それに対して東小川は、土器川の氾濫原のため開発が遅れた
③この地域の開発は、鎌倉中期以後にやってきた関東武士たちによって行われた。
④彼らは出水から用水路を開き新田を拓いた。
⑤それが「出水・又・屋敷・堂・障子」などの古地名として現在に伝わっている
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史

   
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『八坂神社(祇園社)記録』(増補続史料大成)
 (応安五年(1372)十月廿九日条)
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。

前回は、この史料から京都の祇園社(八坂神社)の社領となっていた大野荘(三豊史山本町)の代官が年貢を手形で決済したことを見ました。今回は大野荘の管理にあたっていた武士をを追いかけてみます。
「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」
とあります。ここからは「際符=手形」を近藤氏の家臣が、八坂神社から年貢督促のために派遣された社僧伊予房と同道して上洛したことがわかります。そして、大野荘の管理を行っていたのが近藤氏であったようです。
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 室町時代に応仁の乱で活躍した武士の家紋を集めた「見聞諸家紋」には「藤原氏近藤、讃岐二宮同麻」とあって、室町期には二宮、麻のふたつの近藤氏がいたことが分かります。
①二宮近藤氏は、大水上神社領を中心とする二宮荘を根拠地
②麻近藤氏は、麻を拠点に勝間、西大野に所領を持っていた
この史料に出てくるのは②の麻近藤氏のようです。
近藤氏がどのように「押領」したのかを年表で見ておきましょう。
讃岐守護の細川氏の下で、北朝方として活動していたようです。
1354 文和3 8・4 
幕府,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田における新宮三位房の濫妨停止を,守護細川繁氏に命じる
1355 文和4 7・1
守護細川繁氏,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田の下地を祗園社執行顕詮に打渡すよう,守護代秋月兵衛入道に命じる
同年7・4近藤国頼,祗園社領西大野郷の年貢半分を請負う
1361 康安1 7・24
細川清氏,細川頼之と阿野郡白峯山麓で戦い,敗死する.
 10・- 細川頼之,讃岐守護となる
1363 貞治2 8・24 
足利義詮,祗園社領三野郡西大野郷における近藤国頼の押領停止を,守護細川頼之に命じる
14世紀半ばの祇園社領大野郷では、新宮三位房による濫妨(乱暴)が行われており、これに手を焼いた祇園社は幕府に訴え出ています。この訴えに対する幕府の対応は、新宮三位房を排除し、代わって麻の近藤国頼に代官職を任せるというものでした。これが近藤氏の大野郷進出のきっかけとなったようです。
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近藤氏の麻城へ「たけのこ道」を行く
 しかし、その8年後の貞治二(1363)年には、近藤国頼は祇園社に訴えられ「押領停止」を、命じられています。これを命じているのが新しく讃岐守護になった細川頼之です。この時期から近藤氏による「押領」は始まっていたようです。そして、その後も八坂神社と国頼の争いは続きます。

1368 応安1 6・17 守護細川頼之,祗園社領西大野郷の下地を領家雑掌に打渡すよう,守護代細川頼有に命じる. 
   9・20 守護代細川頼有,重ねて祗園社領西大野郷における近藤国頼代官の違乱を止め,下地を領家雑掌に打渡すよう,守護使田村弥三郎入道・大庭六郎左衛門入道に命じる
1369 応安2 9・12 守護細川頼之,祗園社領西大野郷所務職を近藤国頼に宛行うよう口入する.
  12月13日,祗園社領西大野郷所務職を近藤国頼に宛行う
応安元(1368)年、細川頼之は調停に乗り出します。領家職の下地を渡付するように近藤国頼に守護使を通じて命じます。その一方で翌年に頼之は、国頼の言い分にも耳を傾け、近藤国頼の代官職継続をはかります。国頼は年貢の三分の一を代官得分とするという条件で代官職請負契約を結んでいます。

細川頼之1

 この文書の端裏には「矢野左衛門口入大八色云し」とあり、矢野遠村の仲介で近藤氏と八坂神社の和解がおこなわれたことがうかがえます。守護の細川頼之が近藤国頼の権益確保を図ったのは、当時の讃岐をめぐる軍事情勢が背景にあった研究者は考えているようです。

細川頼之4略系図
当時の政治情勢を年表で見ておきましょう。
1371 応安4 三野郡西大野郷,大旱魃となる
 1372 応安5 伊予勢(河野軍)侵入し,讃岐勢は三野郡西大野郷付近に布陣
1377 永和3 細川頼之,宇多津江(郷)照寺を再興
1379 康暦1 3・22 細川頼之,一族を率い,讃岐に下る
 諸将,足利義満に細川頼之討伐を請い,義満は頼之の管領を罷免
1388 嘉慶2 この年 幕府,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田の役夫工米の段銭を免除
1389 康応1 3・7 守護細川頼之,厳島参詣途上の足利義満を宇多津の守護所に迎える
1392 明徳3 3・2 守護細川頼之没し,養子頼元あとを嗣ぐ
伊予河野氏が西讃に侵入してきた
 細川頼之が調停に乗り出した応安元(1368)年は、後村上天皇が亡くなり南朝が吉野に拠点を移し、南北間の抗争が再燃する時期です。細川頼之にとって、予想される伊予との抗争に備えて、西讃の武将達との関係強化に努める必要がありました。
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 伊予の河野氏は、一時的には九州に逃れていましたが、この年に伊予に戻り、南朝方として反撃を開始します。そして応安五(1372)年には、讃岐に侵攻し、大野郷に布陣するのです。先ほど見た祇園社への年貢が手形で納められたのは、この年のことなのです。近藤氏にとっては、まさに寺領が他国者によって踏み荒らされる状況でした。

DSC05491麻城

一方讃岐守護の細川頼之は、管領として河内・伊勢等での南朝軍との転戦で、地元讃岐に援軍を派遣できません。讃岐の武将達は苦しい戦いを強いられます。にもかかわらず近藤氏ら西讃の武将達は、侵入してきた伊予軍を大野荘近辺で迎え撃って、そこからの進軍を許しませんでした。ある意味で細川頼之の「恩=土地」に対し、近藤国頼が「忠=軍事力」で「奉公」し、「一懸命」を実践する時だったのかもしれません。 
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その後、讃岐細川方は攻勢に転じて、逆に伊予領内に侵入していきます。
①応安八(1375)年に伊予三島社に細川頼之の願文が納められていること
②永和三(1377)年に伊予府中の能寂寺に細川頼之が禁制が出していること
などから讃岐勢力が、伊予の府中あたりまでを勢力圏にしていたことが分かります。
細川頼之 54
西条周辺までが細川氏の支配領域に含まれている

以上をまとめておくと、
①当時の讃岐は、伊予河野氏と抗争中で、そのためにも近藤氏のような西讃の国人を掌握しておく必要があった。
②その一貫として、細川頼之は大野荘をめぐって対立していた近藤国頼と八坂神社の間を取り持ち、調停した
となるようです。

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伊予との「臨戦状態」の中でも、大野荘は京都の八坂神社に対し、年貢、灯油、仕丁を負担したことが『八坂神社記録』の応安四年と五年の両年の記録に記されています。灯油は現物で祇園社に納めています。これは西大野郷内の名(地区)ごとに徴収されたものです。また、祇園社に労役として奉仕する仕丁も近藤氏は出していますが、それがしばしば逃亡しており、その都度、祇園社は近藤氏に通報しています。近藤氏は、祇園社と対立をはらみながらも、祇園社への宗教的な奉仕は果たしていたようです。
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 室町期の近藤国房
 近藤氏の菩提寺である財田の伊舎那院からは
「大平三河守国房法名道覚 応永元年七月二十四日」
と没年を書いた竹筒が出土しています。これは麻近藤氏の国頼の次の世代の当主・国房のことだと研究者は考えているようです。
 また、讃岐国内の段銭徴収の際に、金蔵寺領名主、沙汰人に対し、段銭徴収方式を条々書にしている文書があります。段銭は一段当たり三〇文が徴収されており、寺社領、御料所、同所々人給分も除外しないなどの事柄が記されています。この中には近藤国房が守護細川氏の使者としてこの旨を申し入れたことが記されています。細川氏の讃岐家臣団の中で、近藤氏がある程度の立場にあったことが分かります。
 国房の居城については『西讃府志』には、知行寺山城(現山本町大野・神田)の城主として大平伊賀守国房の名前が記されています。この城を根拠地として西大野郷を支配していたのかもしれません。
 ところが明徳四(1394)年に、国房は西大野郷を押領した罪に問われて、所領を没収されてしまい、その翌年に死去します。今まで見てきたように近藤氏の大野郷への「押領」は、昔から続いてきたことなのに、なぜこの時には「所領没収」という厳しい処分が出たのでしょうか。今の私には分かりません。
 国房の次の当主・国有は、西大野の上村を領有したといいます。
「大野村両社記」には、大野は上下に分かれ、下村は祇園社の負担に応じなかったと記します。上村については、麻近藤氏を通じ年貢が納入されたようです。文安三(1446)年には、麻近藤氏にあてて、10貫文の受け取りが祇園社から出されています。年貢額が70年前の応安年間の半額になっています。荘園領主側の立場の弱体化がここにもうかがえます。しかし、半額にはなっていますが麻近藤氏が年貢を、祇園社に送り続けていることがうかがえます。以前見た長尾の荘では、14世紀に入ると醍醐寺三宝院には未払い状態が続いていたことを思い出すと対照的です。それだけ、国房の時の西大野押領による領地没収処分がの効き目が継続していたのかもしれません。別の視点からすると祇園社の方が幕府への影響力が強かったのかもしれません。あるいは、大野郷に勧進された祇園社への信仰が高まり、それが本社への「納税」を自主的に行う機運を作り出すようになったのかもしれません。単なる想像で裏付けの史料はありません。 
 国有の時代は、所領を没収され経済的にも苦しい状況に近藤氏は追い込まれていたようです。
この時代にこんな讃岐侍の話が広がりました。
「麻殿」という讃岐の武士が京都で駐屯していた。「麻殿」は貧しいことで知られ、「スキナ」を「ソフツ(疎物)」としていた。人々の嘲笑をかっていることを知った麻氏は
「ワヒ人ハ春コソ秋ヨ中々二世の「スキナノアルニマカセテ」
という和歌を詠んだ。これに感じ入った守護細川満元は、旧領を返還した。田舎者と馬鹿にされていたが、和歌のたしなみの深い人物であった。
というのです。
ここからは次のような事がうかがえます
①近藤氏のような讃岐武士団が細川氏に従軍し、京都にも駐屯していた。
②京での長期間の駐屯で、教養や遊興・趣昧など教養を身につける田舎侍も現れた。
③「旧領返還」されたのは、大野の代官職のことか?
④ 細川満元の時代とあるので、麻近藤氏の国有が最有力。
それを裏付けるように、
①享徳三(1454)年に、足利義政から近藤越中守(麻近藤氏)に対して、西大野郷代官職と勝間荘領家職の安堵
②文明五(1473)年には、祇園社から十年契約で、二〇貫文の年貢を請負
とが記録されています。これが、かつて没収された「旧領の返還」だったのかもしれません。
 その後の近藤氏は・  
 応仁の乱で活躍した武士の家紋を集めた「見聞諸家紋」に麻近藤氏のものが見えます。また、細川政元の命で阿波・讃岐の兵は、伊予の河野氏を攻撃します。この戦いに麻近藤国清も参加していましたが、戦陣中に伊予寒川村で病死しています。
近藤国敏は阿波三好氏と連携強化
 その次の国敏は、阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化します。これが近藤氏衰退のターニングポイントになります。近藤氏が阿波三好氏と結んだのに対して、西讃岐の守護代として自立性を強めていた天霧城の香川氏は織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます
    織田信長=天霧城の香川氏  VS 阿波の三好氏=麻近藤氏
この結果、敗れた三好側についた近藤も所領を没収されます。それが香川氏配下の武将たちに与えられたようです。近藤氏の勢力は、この時期に大きく減退したと考えられます。
 近藤氏の没落 
 そして、長宗我部元親の讃岐侵攻が始まり、讃岐の戦国時代は最終段階を迎えます。麻城は、侵攻してきた長宗我部の攻撃を受け落城したと伝えられます。近藤家の城主国久は、麻城の谷に落ちて死んだと伝えられ、その地は横死ヶ谷と呼ばれています。
 高瀬町史には長宗我部元親の家臣に与えられた所領に麻、佐股、矢田、増原、大野、羽方、神田、黒島、西股、長瀬といった近藤氏の所領が記されていることが指摘されています。近藤氏は長宗我部元親と戦い、所領を失ったようです。その所領は土佐侍たちに分け与えられ、土佐の人々が入植してきたようです。その後の近藤氏の様子は分かりません。しかし、近世の神田村に神主の近藤氏、同村庄屋として近藤又左衛門の名が見えます。近藤氏の末裔の姿なのかもしれません。

以上を、私の想像力交えてまとめておくと次のようになります
①麻地区を拠点としていた近藤氏は、14世紀半ばに京都祇園神社の大野荘の代官職を得ることによって大野地区へ進出した
②讃岐守護の細川頼之は近藤氏など西讃地方の国人侍と連携を深め、伊予勢力の侵攻を防ごうとした。
③そのため伊予勢力の圧迫がある間は、細川氏は近藤氏などを保護した。
④大野荘から京都の祇園神社に年貢が手形で運ばれたのもこのような伊予との抗争期のことである。
⑤この時期から荘園領主の祇園社と代官の近藤氏の間では、いろいろないざこざがあった。しかし、伊予との緊張状態が続く中では、細川頼之は祇園社からの訴えを聞き流していた。ある意味、近藤氏にとってはやりたい放題の状況が生まれていたのではないか。
⑥平和時になって、これまで通りの「押領」を続けていたが「所領没収」の厳罰を受ける。
⑦この処罰の効果は大きく、以後近藤氏は15世紀後半ころまで、年貢を祇園社に納め続けている。
⑧大野郷と祇園社は近世に入っても良好な関係が続く背景には、近藤氏の対応があったのではないか。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 高瀬町史

                          

       
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大野の須賀神社(祇園さん) 
前回は年貢計算書でしたが、今回は手形決済です。年貢を手形決済で行ったのが大野荘です。大野荘は、財田川が山域から平野部に流れ出す三豊市山本町の扇状地に開けた地域で、洪水に苦しめられた所です。ここは京都祇園宮の社領でした。荘園ができると、本領の神々が勧進されるのが常でした。大野郷では京都祇園宮の牛頭天王(須佐之男命)を産土神と勧進します。香川郡に大野があるので、これと区別するために西大野と呼ばれたようです
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大野郷の祇園神社
 貞享5(1688)年の当社記録『大埜村両社記』には
「古老相伝ヘテ曰夕、昔牛頭天皇アリ。光ヲ放チテコノ山上ノ北二飛ビ来タル。其所今現ニアリ、コレニヨリ宮殿ヲカマエ、コレヲ祀ル」

とあります。毎年京都の祇園宮への王経供養のための御料として指定されてからは、隆盛を極めたようです。

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『大埜村両社記』には
「大埜地五百石ヲ以テ社領二付シ、七坊ヲ割テ神事ヲ守ル。富栄知ル可キナリ。大社タルヲ以テ毎歳洛ノ祇園ヨリ燈料胡麻三解ヲ課ス
とあり、毎年本宮である京都祇園宮へ燈料として胡麻三石を供進していたようです。今も、この胡麻を収納したと思われる字上岡・字上川原・字南川原の三ヵ所に塚が残っています。
  この程度の予備知識を持って「八坂神社記録」を見てみましょう。
『八坂神社記録』(増補続史料大成) (応安五年(1372)十月廿九日条)
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。
 八坂神社は、京都の祇園神社のことです。14世紀後半の南北朝時代の記録になります。一行目に
  「西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々」
とあります。ここからは祇園神社に納められる年貢は二十貫で銭で納めていたことが分かります。前回見た長尾荘が醍醐寺三宝院に納めていたのは、米麦の現物納入でしたから、こちらの方が進んでいたようです。
ぜに 

 銭一貫=銭千枚ですから納めるべき年貢は銭二万枚です。当時の銭は、日本では鋳造されずに中国の宋銭や明銭を海外交易手に入れて、国内で「流用」していました。そのため何種類もの中国製銅銭が流通していましたが、どれも同価値扱いでした。重さは、十円王より少し重くて一枚五グラム程度です。そうすると、2万枚×5グラム=100㎏になります。100㎏の硬貨を讃岐から都まで運ぶのは、現在でも大変です。
 そこ代銭納の登場です。これは年貢を現物で納めるのに対して、銭で納めることです。しかも、実際には実物の銭は動きません。手形決済システムなのです。
  伊予房という人物が出てきます。
この人は八坂神社の社僧で、西大野まで年貢を集めに来ています。年貢がスムーズに納められれば取り立てにくることはないのですが、大野荘の現地管理者がなかなか年貢を持ってこないので、京都から取りに来たようです。その場合にかかる旅費などの経費は、自分で払うことになります。
「今年年貢当方」で、八坂神社に納められる分は二十貫。
「この内一貫在国根物」とあり、「根物」というのは必要経費です。つまり、食事をしたり、泊まったりというその必要経費に一貫を使いました。
「又一貫上洛根物に取ると云々。」 
これは上洛、つまり都に運ぶ費用になります。ですから合計二貫文が引かれ、都合十八貫文になります。その後に「この際符」という聞き慣れない言葉が出てきます。後に見ることにして先に進みます。

「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」

近藤という人物が西大野荘の代官
です。近藤氏は、麻城主(高瀬町)城主で、麻を拠点に大野方面にも勢力を伸ばしていた地元の武士です。大野荘の代官である近藤氏が「際符」で年貢を持参して一緒に、上洛することになったようです。ところが、
「今日近藤他行、明日問答すべきの由伊子房申す」
とあり、どうやら今は近藤氏がどこかへ行って不在であるので、明日協議を行うことになったといいます。
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ここまでを整理すると、
①この年は荘園領主の使が、十八貫の年貢を取り立てに大野荘にやってきた。
②そこで代官近藤氏が「際符」で、京都に持参することになった。
  さて「際符」とは、なんでしょうか?
「際符」は正式の名称は割符と書いて「さいふ」と読むそうです。「さきとる、さく」という意味で「さいふ」となります。符というのは札の意味で、今の為替と同じです。この時代は「加わし」と呼んでいたようで、それが「ためかえ」で、「かわせ」に変化していくようです。ここでは「際符=為替」としておきます。つまりは、「遠隔地取引に用いられる信用手形」=「手形決済」です。この時代すでに讃岐の西大野と都の間では、手形決済が行われていたことになります。
それでは、この手形は誰が発行したのでしょうか?
また、どうやって換金したのでしょうか?
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)

「際符」は、運送業者を兼ねた商人である問丸が地方の荘園で、米・麦などの年貢を購入し、代金相当の金額と京都・山崎・堺などの替屋(割符屋)の名を記した割符を荘官に発行します。荘官は、都の荘園領主のもとへ割符を届け年貢の決済を行うというシステムのようです。荘園領主は受け取った「際符」を替屋に持って行って支払日の契約を取決め、裏書を行い(裏付け)を行い現金化したようです。
 この時も讃岐財田大野で問屋が発行した「際符」を、近藤氏の家臣が伊予房と同道して京都までやってきたのです。祇園社は、六条坊内町の替屋でそれを現金に換えています。
「際符」に書かれている内容は
①金額 銭十八貫文
②持参人払い 近藤氏
③支払場所 京都の何町の何とか屋さんにこれを持って行け
④振り出し人の名前
のみが書いてあったと研究者は考えているようです。ちなみに実物は、まだ見つかっていないそうです。このように代銭納というのは、実際に現金(大量の銅銭)を動かすのではなく手形決済という方法で行われたようです。確かに都まで、大量の銭を運ぶのは危険です。二十貫文=100㎏の銭は腹巻きにも入れられませんし、運ぶのは現実的ではありません。決済のためには責任者が都まで出向く必要はあったようです。
 大野荘でも代官を務める地元の近藤氏と、荘園領主の八坂神社との関係は悪化していきます。そこには、やはり「押領」があったからです。以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
次回は近藤氏が大野荘をどのように「押領」していったのかをもていきます。
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参考文献    田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 香川県立文書館紀要3号(1999年)

 

南北朝後の長尾荘の領主となったのは醍醐寺三宝院です。三宝院には長尾荘に関する史料が残されています。その史料から長尾荘の所務請負の状況を研究者が整理したのが下表です。
(備考の番号は、三宝院文書の整理番号)

長尾荘 長尾荘の所務請負の状況
            
上表で応永四年(1397)に、荘園管理を請け負った僧・堅円法眼(判官)が残した長尾荘の年貢納入の決算書が残っています。どんなふうに年貢が決められ、どんな方法で京都に送られていたのかが見えてくる史料です。まずは史料を見ておきましょう。
応永四年(1397)讃岐国長尾庄年貢算用状(三宝院文書)
讃岐国東長尾 応永3未進分 御年貢事
 合
一、米六十五石五;十一石一斗 海上二分賃これを引く。
  尼崎まで 残る五十四石四斗、この内十五石太唐米
一 麦三十四石内 六石海上二分賃、これを引く、尼崎まで
  残る廿八石、この内一石二斗もみ、麦不足、これを入る
  又五十四石四斗内 海上二分賃、 
  尼崎より京都まで九石六升六合
  定御米四十五石三斗三升四合
  又ニ十八石内 海上二分賃、
  尼崎より京都まで四石六斗 六升八合
  定麦二十三石三斗三升二合
都合六十八石六斗六升四合 京定め右、算用の状くだんのごとし。
 応永四年二月十六日 光長(花押)
 長尾荘の現地管理者堅円法眼が荘園領主の醍醐寺三宝院に年貢を運んだときのものです。何にいくらいったという計算をしています。運ばれた年貢は米と麦です。
  まず、「米六十五石五斗内」とあります。
一石は百八十㍑、だいたいドラム缶一本分です。
  「十一石一斗、海上二分賃これを引く、尼崎まで」、
 どこの湊から出たのは分かりませんが津田港か三本松、或いは引田が候補地になるのでしょう。そして、尼崎へまず運んでいます。そして「海上二分賃」とあります。これが船賃だそうです。
定額料金制度でなく、積荷の2割が運賃となるのです。ここからは、当時の運送業者の利益が大きかったことがうかがえます。船主に大きな富が集まるのも分かります。積荷の2割が輸送代金とすると

 積荷六十五石五斗×0,2=13石

になるはずですが、決算書には「十一石一斗」となっています。だいたいの相場が1/6ぐらいだったとしておきましょう。この時代はそろばんもまだ入ってきていないようです。占いの時に使う棒みたいな算木をおきながら計算しています。計算結果もよく間違っているようです。
2 赤米
太唐米=赤米
太唐米は何でしょうか?
  「残る五十四石四斗」で、この内「十五石太唐米」と出てきます。
これは「赤米」と呼ばれる米だそうです。これが讃岐で赤米栽培が行われていたことを示す最初の資料になるようです。室町時代に讃岐で赤米が栽培されていたのです。赤米は、今では雑草扱いにされて、これが田圃に生えていたらヒエと一緒に抜かれるでしょう。赤米はジャポニカ米でなく、インディカ米です。粒が長い外米の一種で、病害虫や塩害に強い品種です。そのため、海を埋め立てた干拓地の水田には向いた米だったようです。特に三豊で作られていたことが分かっています。

2 赤米2

 ここでは普通の米が足りなかったから、十五石太唐米(赤米)を足しておいたと記されます。
  「麦が三十四石、六石海上二分賃、これを引く、尼崎まで」

三十四石に対して六石、六分の1近くが運賃です。こうして船で、尼崎まで運びました。そこからは、川船に乗せ替えて京都まで運びます。次は川船の運賃計算です。

  「又五十四石四斗内、河上二分賃、尼崎より京都まで、九石六升六合、定御米」

納める年貢の量(=最初に積んだ米量)から、船運賃を次々に引かれていきます。そして、残ったものが東寺に納められたようです。尼崎から京都まで、川舟で運びますがこれには何回もの積み替えが必要でした。その都度、運賃計算が行われ、東寺に納める年貢は少なくなっていきます。
一番最後の「都合」というのは、すべて合わせてという意味です。ここでは合計という意味になるのでしょうか。

「都合六十八石六斗六升六合」

のはずですが、ここでは、四合になっています。「京定め」とありますが、これが荘園領主の三宝院に納めるべき年貢の量です。
 当時の年貢計算は、「京定め」から逆算して都に着いたときこれだけ必要だから、川での運賃を足す、海での運賃を足す、讃岐から運び出すときには、これだけの量を積んでおかなければならないとうい計算方法のようです。ここからは、年貢が、運ぶ側が運賃も人件費も負担する原則であったことが分かります。律令時代納税方法を継承しています。それを計算したのがこの算用状です。この計算ができるのはある程度の「教育」が必要になります。これができるのは「僧侶」たちということになるのでしょう。
 算用というのは決算のことです。で、結局運賃がこれだけ要りました、最終的にこれだけ納めることになりました、というのを示しているようです。ただ、こういう形で米や麦を運ぶというのは大変なことだったので、次第に銭で納める代銭納に換わって行きました。次回は、代銭納について見ていこうと思います。
長尾荘 古代長尾郷
古代の寒川郡長尾郷の周辺郷
さて、この頃の長尾荘を取り巻く情勢はどうだったのでしょうか
 讃岐の守護職は室町時代を通じて管領の細川氏が世襲しました。守護職権を代行する代官として守護代があり、東讃の守護代は安富氏でした。津田・富田中・神前の境界となっている雨滝山(253m)にある雨滝城が、安富氏の城跡です。また、長尾荘は、建武の新政の挫折によって幕府に没収された後に醍醐寺三宝院が管理するようになったようです。
長尾荘 昼寝城


   このくらの予備知識をもって、年表を見てみましょう。
1389 康応1 3・7 
守護細川頼之,厳島参詣途上の足利義満を宇多津の守護所に迎える
1391 明徳2 4・3 
細川頼之,足利義満の招きにより上京する.
1392 明徳3 3・2 
守護細川頼之没し,養子頼元あとを嗣ぐ
足利義満の政権が安定して、失脚していた細川頼之を宇多津に迎えにやってきた頃です。
1396 応永3 
2・19 
安富盛家,寒川郡造太荘領家職を200貫文で請け負う
2・19 石河浄志,寒川郡長尾荘領家職を200貰文で請け負う
4・25 醍醐寺三宝院領寒川郡長尾荘の百姓・沙汰人,同荘領家方を年貢400石・ 公事物夏麦62石ほかをもって請け負う
この年 若狭堅円法眼が長尾荘沙汰人・百姓等にかわり,領家方を請け負う
1397 応永4 2月 長尾荘から年貢納入(讃岐国長尾庄年貢算用状)
12月 長尾荘の給主相国寺僧昌緯,同荘の地頭・沙汰人・百姓等が除田・寄進・守護役などと称して給主の所務に従わぬことを注進する.4年・5年両秋の年貢は,百姓逃散などにより未納
1398 応永5 2・15 長尾荘の百姓宗定・康定が上洛して昌緯の年貢押取・苅田等を訴える
長尾荘をめぐる事件を年表に沿って追ってみます
14世紀末(1396)2月19日に、守護被官の
沙弥石河浄志が、200貫文で請負います。しかし,わずか2ヶ月後には村落の共同組織である惣の地下請に変更されます。請負条件は、年貢米400石・夏麦62石・代替銭25貫文の契約です。ところがこれも短期間で破棄され、今度は相国寺の僧昌緯に変更になります。荘園請負をめぐって、有力名主と地元武士団、それと中央から派遣の僧侶(荘園管理役人)の三者の対立が発生していたようです。
翌年12月には、昌緯が醍醐寺三宝院に次のような注進状を送っています。
①地頭・沙汰人らが地頭・下司・田所・公文の「土居」「給田」,各種の「折紙免」,また「山新田」などと称し,総計73町余を除田と称して,年貢の納入を拒否している
②「地頭土居百姓」は守護役を果たすと称して領家方のいうことに従わない
③領家方の主だった百姓36人のうちの3分の1は、公事を勤めない
④守護方である前代官石河氏と地頭が結んで領家方の山を勝手に他領の寺に寄進してしまった
⑤百姓らは下地米90余石について,前代官石河氏のときに半分免が行われ,残る40余石についても去年より御免と称して納入を行わない
ここには、守護や地頭をはじめとする武士の介入や,農民の年貢減免闘争・未進などの抵抗で、荘園管理がうまくいかないことが書かれています。
  これに対して農民達は、昌緯のやり方に対して逃散で対抗し、この年と翌年の年貢は納めません。さらに農民代表を上洛させて、昌緯の年貢押取などを訴えるのです。その結果,昌緯は代官を解任されています。
 室町時代初期の長尾荘に次のような問題が発生していたようです。
①現地での職権を利用して在地領主への道を歩む地頭
②百姓達の惣結合を基礎に年貢の未進や減免闘争
③請負代官の拒否や排除を行うまでに成長した農民集団
このような動きに領主三宝院は、もはや対応できなくなったようです。そこで,現地の実力者である地頭寒川氏に荘園の管理をいっさいゆだねることにします。そのかわり毎年豊凶にかかわらず一定額の年貢進納を請け負わせる地頭請の方法を採用します。
 寒川氏は寒川郡の郡司を務めてきた土着の豪族で,当時は讃岐守護の細川氏の有力な被官として主家に従って各地を転戦し,京都と本国讃岐の間を行ききしていました。
 当時の東讃岐守護代・寒川出羽守常文(元光)は,京都上久世荘の公文職を真板氏と競っていた人物で、中央の情勢にも通じた人物です。現地の複雑な動きに対応できなくなった三宝院は,守護細川氏の勢力を背景に荘園侵略を推し進める寒川氏に,その危険性を承知しながらも荘園の管理をまかせざるを得なかったのでしょう。
1399 応永6 2・13 
長尾荘地頭寒川常文,同荘領家職を300貫文で請け負う
1401 応永8 4・3 
相国寺僧周興,長尾荘を請け負う(醍醐寺文書)
1404 応永11 7・- 
寒川元光(常文),東寺領山城国上久世荘公文職を舞田康貞に押領されたことを東寺に訴える.以後十数年にわたり寒川氏と舞田氏の相論つづく(東寺百合文書)
1410応永176・21 
寒川常文,三宝院領長尾荘領家方年貢を260貫文で請け負う
 こうして応永6年に寒川常文は,300貫文で請け負うことになります。ところが寒川常文は、早速300貫文は高すぎると値切りはじめ,やがてその値切った年貢も納めません。そこで三宝院は、領下職を寒川常文から相国寺の周興に、変更し同額の300貫文で請負いさせています。
 しかし、これもうまくいかなかったようです。9年後の応永17年には再び常文に260貫文で請負いさせています。40貫の値引きです。ところがこれも守られません。三宝院の永享12年12月11日の経裕書状案には
「年々莫太の未進」
とあるので、長い間、未納入状態が続いていたことが分かります。所領目録類に長尾荘の記載はされていますが、年貢納入については何も記されなくなります。おそらくこの頃から,長尾荘には三宝院の支配は及ばなくなり、寒川氏に「押領」されたことがうかがえます。

   14世紀末・足利義満の時代の長尾荘の情勢をまとめておくと
①台頭する農民層と共同組織である惣の形成と抵抗
②武士層の荘園押領
などで荘園領主による経営が行き詰まり、年貢が納められない状態が起きていたことが分かります。
 最初に見た「讃岐国長尾庄年貢算用状(三宝院文書)」は、長尾荘から三宝院に年貢が納められていた最後の時期にあたるようです。こうして荘園からの収入に頼っていた中央の寺社は経済的な行き詰まりを見せるようになります。その打開のために東大寺は、末寺への支配強化をはかり、末寺の寺領から年貢を収奪するようになります。そのために苦しめられるのが地方の末寺です。中世・善通寺の苦闘はこのようにして始まります。

参考文献    田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 香川県立文書館紀要3号(1999年)
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13世紀半ばに、柞田荘が比叡山の日吉社領となり立荘されるまでの過程を見てきました。最後に、日吉神社がどのようにして、柞田荘を支配したのか、その拠点はどこにあったのかを探って見ることにします。

柞田荘 日吉神社2
  日吉神社が分祠される
有力貴族や神社に荘園化されると、その氏神が分祠されるのが通常です。例えば藤原氏は春日神社を、賀茂神社の社領となった仁尾には賀茂神社が分祠されます。柞田荘は日吉神社の社領となったので、当然日吉(枝)神社がやってくることになります。
 『香川県神社誌」には、
「当社は柞田荘が日吉社の社領となったことを契機として分祀された」と記します。編纂当時の氏子は、字下野・八町・油井・大畑・上出在家の390戸とありで、旧柞田村内の神社としては、式内社とみられる山田神社の915戸に次ぐ規模です。荘園化されて以後に荘政所が設けられたとすると、荘園領主である日吉社を分祀した山王の地が候補の第一となると考えるのは当然です。このため
荘政所の一番候補は、荘内の字山王に鎮座する旧村社日枝神社周辺とされてきました。
   国道11号から少し入った所に大きな樟が何本も繁った中に立派な社殿があります。となりには延命寺の境内が隣接します。本殿の裏が、お寺の本堂のようになっています。神仏習合時代は、延命寺が別当寺であったのでしょう。それが明治の神仏分離によって引き離された歴史が伝わってきます。
 神域の前には大きな広場があり、ここが祭礼の時には何台もの「ちょうさ(太鼓台)」が集まってくるのでしょう。この真ん中にある樟の下に「柞田駅」の道標(説明版)が立てられていました。
柞田荘 柞田駅

柞田駅跡と大きな字では書かれていますが、よく読むと「この付近にも柞田駅があったと伝えられます」と断定はしていません。どこにあったかは分かっていません。
しかし、南海道がどこを通っていたかは、次第に明らかになってきました。かつては「伊予街道=南海道跡説」が称えられていましたが、今では南海道は別のルートであったことが分かってきています。太点線が南海道推定ルートになります。高速道路よりもまだ東になります。
柞田荘 日吉神社
  次の候補は「公文明」という小字名です。
これは、日枝神社の北東で柞田川の北側になります。南海道には近い場所です。『香川県神社誌』には、字公文明には、荒魂神社が祀られていたと記します。現在の公文明神社が鎮座する所です。公文名とは、郷や荘などの官人である公文に職分として給付される給田畠からなる名(名田)の呼び名です。ここから、その近辺に公文が住んでいた館があったと研究者は考えているようです。
  13世紀の柞田荘で起きた殺人事件から分かることは?
 柞田荘が立荘されて約30年後の弘安6年(1283)、柞田荘で殺人事件が起きます。これを朝廷に訴えた文書が残っています(祝部成顕申状(『兼仲卿記』紙背文書)
 訴えた人   日吉社の祀官成顕
 訴えられた人 祀官成顕の兄・成貫
 罪状     兄成貫が柞田荘の地頭弘家と地頭代政行と「庄家」に乱入し、成顕の代官仏縁法師を斬り殺した
この殺人事件からは次のような事が分かります。
①近江の日吉社の祀官成顕は、代官仏縁法師を派遣して柞田荘を管理させていた
②代官仏縁法師は「庄屋」で「業務」を行っていた。庄屋が支配拠点であった
③加害者の「弘家」は、柞田荘の地頭。姓は不明。
④近江日吉神社から派遣されていた代官と地元の地頭の間での対立があった背景にある
 13世紀末には、地元「悪党」の台頭で次第に「正常な経営」ができなくなっていることがうかがえます。
 この殺人事件から約60年後のち、南北朝時代の貞和4年(1348)5 月27 日の讃岐守護細川顕氏遵行状には、柞田荘地頭の名前が記されています。そこには
岩田五郎頼国・同兵庫顕国
とあります。また嘉慶元年(1387)11月26日の細川頼有譲状(細川家文書)に
「くにたのちとうしき ゆわたのそうりやうふん」(柞田の地頭職岩田の惣領分)
という地頭の名前が見えます。殺人事件で訴えられた「地頭弘家と地頭代政行」も、この岩田氏の先祖になる人物かもしれません。
 どちらにしても、14世紀には柞田荘の地頭職を岩田氏が世襲するようになり「押領」が行われ、日吉神社の柞田荘経営は困難になっていったと研究者は考えているようです。

  殺人現場の「庄屋」は、柞田荘の「現地支配機関」の荘所・荘政所?
それでは殺人事件の現場となった「庄屋」は、どこにあったのでしょうか?それが先ほど第2候補に挙げた公文明神社です。ここは地図で見ると分かるように、南海道より1〜2坪の近い距離です。南海道と柞田川右岸に沿うことから、柞田駅はここにあったと考える研究者もいます。そして、柞田駅の建物が荘所に転用されたします。立荘後に、すでにあった屋敷を荘政所として使っていたという推察です。このためここが第2候補になるようです。
 ただ次のような問題が残ります。
柞田荘の東側の境界線がほぼ南海道と重なるのに「大路」・「作道」・「大道」などの表記はまったく残っていないことです。たとえば康治2年(1143)8 月19日の太政官牒案(安楽寿院古文書)には、寒川郡富田荘の四至に
「西は限る、石田郷内東寄り艮角、西船木河ならびに石崎南大路南」
弘長3 年(1263)12月日の讃岐国留守所下文写(善通寺文書)には、多度郡生野郷内善通寺領の四至に
「東は限る、善通寺南大門作道通り」、「北は限る、善通寺領五嶽山南麓大道」と、
南海道らしき道が出てきます。
しかし、柞田荘では巽の膀示を打った地点で、単に「道」とのみ書かれているだけです。つまり、南海道と見られる道が 柞田荘内に取り込められているのです。南海道が活発に利用されていたのなら、荘園に取り込まれることはなかったはずです。前回に柞田荘の東側の境界が推定南海道のルートであることを見てきましたが、実際には「南海道」をイメージさせる用語は出てきません。「紀伊郷界」などとしか記されていないようです。
これは何を意味するのでしょうか。
①現南海道推定ルートが間違っている
②南海道の主要機能は、この頃にはほかのルートへ移動していた
というところでしょうか。
南海道は多度・三野両郡境を大日峠で越えていますが、鎌倉時代末期以降、それとは別に両郡境を鳥坂峠で越える「伊予大道」が重要度を増したようです。そして、伊予大道が幹線道路として用いられるようになったことが考えられます。
 確かに母神山の西側の南海道推定ルートを辿ってみると、舌状に張り出した丘をいくつも越えていかなければならず高低差があったことが分かります。それに比べて、現国道11号に隣接して伸びる伊予街道は平坦です。利用者にとっては、伊予大道の方が数段便利だったと思います。直線をあくまで重視した南海道は、利用者の立場に立たない官道で、中世には使われなくなった部分がでてきていたようです。
  以上、柞田荘全体をまとめておくと以上のようになります。
①柞田荘の荘域は、中世的郷である柞田郷の郷域を受け継いだものである
②そのため耕地だけでなく燧灘の漁業権までも含みこんでいた。
③周辺の郷・荘との境界線は、郷界線がそのままつかわれている
④境界は、条里施行地域においては、里界線や官道が用いられている
⑤条里制外で、南方の姫江庄と接する地域においては別の基準線が用いられていた。
⑥柞田郷は、柞田荘の立荘で消滅し、その領域支配は柞田荘に引き継がれた。
⑤柞田荘の拠点である庄家(荘政所)は、「伊予大道」に面した日枝神社の近くの「山王」にあった。
⑥13世紀には南海道はすでに「廃道」状態になっていて、柞田荘に取り込まれている。
⑦南海道に代わって伊予大道が幹線として利用されるようになっていた。

    参考文献
 田中健二  日吉社領讃岐国柞田荘の荘域復元