瀬戸の島から

カテゴリ:讃岐古代史 > 讃岐の古墳

女木島遠景
髙松沖に浮かぶ女木島
女木島は高松港の赤燈台のすぐ向こうに見える島です。
映画「釣り場バカ日記」の初回では、ハマちゃんはここに新築の家を持ち、早朝の釣りを終えてフェリーで髙松支店に通勤していました。  高松港から一番近い島です。今は「瀬戸芸」の島として名前が知られるようになりました。
女木島丸山古墳2
女木島の丸山古墳
この島の見晴らしのいい尾根筋に丸山古墳があります。

女木島丸山古墳1
女木島丸山古墳3
説明版には、次のような事が記されています。
①5世紀後半の円墳で、直系約15m
②埋葬施設は箱式石棺で、岩盤を浅く掘り込んで石棺を設置し、その後に墳丘を盛土し、墳丘表面を葺石で覆っている。
③副葬品としては曲刃鎌、大刀と垂飾付耳飾が被葬者に着装された状態で出土している。
女木島丸山古墳5

研究者が注目するのは、被葬者が身につけていた耳飾りです。
この垂飾付耳飾は「主環+遊環+金製玉の中間飾+小型の宝珠形垂下飾」という構成です。この耳飾りの特徴として、研究者は次の二点を指摘します。
①一番下の垂下飾の先端が細長く強調されていること
②中間飾が中空の空玉ではなく、中実の金製玉であること
この黄金のイヤリングは、どこで造られたものなのでしょうか?
 
 高田貫太氏(国立歴史民俗博物館)は、次のように述べています。

「ハート形垂飾付き金製耳飾りは日本では50例ほどが確認されているが、本墳の出土品は5世紀前中葉に百済で作られたもので、日本ではほかに1例しか確認されていない。被葬者は渡来人か、百済と密接な関係を持った海民であろう」

   5世紀半ばに、百済の工房で作られたもののようです。それを身につけていた被葬者は、百済系の渡来人か、百済との関係を持っていた「海民」と研究者は考えているようです。それは、どんな人物だったのでしょうか。
今回は、丸山古墳の被葬者が見た朝鮮半島の5世紀の様子を見ていくことにします。テキストは「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」です。

女木島

 丸山古墳からは髙松平野だけでなく、吉備地域の沿岸部がよく見えます。
女木島は高松港の入口にあり、備讃瀬戸航路がすぐ北を通過して行きます。この周辺は、塩飽諸島から小豆島にかけての多島海で、狭い海峽が連続しています。一方、女木島は平地も少なく、大きな政治勢力を養える場所ではありません。この地の財産と云えば「備讃瀬戸の航路」ということになるのでしょうか。それを握っていた人物が、自分の財産「備讃瀬戸航路」を見回せる女木島に古墳を造営したと研究者は考えているようです。
そしてその人物は「海民」で、次の2つが考えられると指摘しています。
①在地集団の首長
②朝鮮半島百済系の渡来人
 ①②のどちらにしても彼らが朝鮮半島南部に直接出かけて、百済と直接に交流・交易を行っていたということです。
倭人については、次のような見方もあります。
季刊「古代史ネット」第3号|奴国の時代 ② 朝鮮半島南部の倭人の痕跡
対馬海峡の両側を拠点に活動していた海民=倭人
古代国家成立以前には、「国境」という概念もありません。船で自由に海峡を行き来していた勢力がいたこと。その一部が瀬戸内海にも入り込み定着します。これを①の在地の海民集団とすると、②は朝鮮半島に留まった海民集団になります。どちらにしてもルーツは倭人(海民)ということになります。
 従来の学説では、ヤマト政権下に編成され、管理下に置かれた海民達が朝鮮半島との交易を担当していたことに重点が置かれてきました。しかし、女木島の丸山古墳に眠る被葬者は、海民(海の民)の首長として、ヤマト政権には関係なく直接に百済と関係を持っていたと云うのです。朝鮮半島との交渉に、倭の島嶼部や海岸部の地域集団が関わっていたことを示す事例が増えています。女木島の丸山古墳に眠る百済産の耳飾りをつけた人物もそのひとりということになります。
 瀬戸内沿岸の諸地域は5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を採用しています。
今は陸続きとなった沙弥島の千人塚も、その系譜上で捉えられます。沙弥島千人塚
沙弥島千人塚(方墳)
瀬戸内海には女木島や沙弥島などの海民の拠点間で、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていたと研究者は想定します。それは別の視点で云うと、朝鮮半島からの渡来集団の受入拠点でもありました。女木島の場合は、その背後に岩清尾山の古墳群を築いた勢力がいたとも考えられます。あるいは吉備勢力とも、関係をもっていたかもしれません。どちらにしても、丸山古墳の被葬者は朝鮮半島と直接的な関係を持っていたことを押さえておきます。
女木島丸山古墳4

朝鮮半島の西・南海岸地域からは「倭系古墳」と呼ばれる古墳が出てきています。
倭系古墳1
南西海岸の倭系古墳
倭系古墳の特徴は、海に臨んで立地し、北部九州地域の中小古墳の墓制を採用していことです。その例として「野幕古墳とベノルリ3号墳」の埋葬施設を見てみましょう。
倭系古墳 竪穴石室

何も知らずにこの写真を見せられれば、日本の竪穴式石室や組石型石室と思ってしまいます。ベノルリ3 号墳の竪穴式石室は両短壁に板石を立てている点、平面形が 2m × 0.45m と細長方形で直葬の可能性が高い点などが、北部九州地域の石棺系竪穴式石室のものとほぼおなじです。
 次に副葬品を見てみましょう。 
韓半島出土の倭系甲冑
 朝鮮半島出土の倭系甲冑
野幕古墳(三角板革綴短甲、三角板革綴衝角付冑)、
雁洞古墳(長方板革綴短甲、小札鋲留眉庇付冑 2点)
外島1号墳(三角板革綴短甲)
ベノルリ3 号墳(三角板革綴短甲、三角板鋲留衝角付冑)
いずれの古墳からも倭系の帯金式甲冑が出てきます。
野幕古墳やベノルリ3号墳の2古墳から出土した主要な武器・武具類については、一括で倭から移入された可能性が高いと研究者は考えています。このように、野幕、雁洞、外島 1・2 号、ベノルリ3 号の諸古墳は、外表施設、埋葬施設、副葬品など倭系の要素が強く、倭の墓制を取り入れたものです。そして築造時期は、5世紀前半頃です。つまり、これは先ほど見た女木島丸山古墳の被葬者が活躍した年代か、その父親世代の年代になります。
このような「倭系古墳」の存在は、かつては日本の任那(伽耶)支配や高句麗南下にからめて説明されてきました。
しかし、 西・南海岸地域には朝鮮在地系の古墳も併存しています。これはこの地域では「倭系古墳」の渡来系倭人と朝鮮在地系の海民首長が「共存」関係にあったことを示すものと研究者は考えています。
「倭系古墳」の性格は、どのようなものでしょうか。
これを明らかにするために「倭系古墳」の立地条件と経済的基盤を研究者は見ていき、次のように指摘しています。
①「倭系古墳」は西・南海岸地域の沿岸航路の要衝地に立地する。
② この地域はリアス式の海岸線が複雑に入り組んでおり、潮汐の干満差が非常に大きく、それによって発生する潮流は航海の上で障害となる。
③ 特に麗水半島から新安郡に至る地域は多島海地域であり、狭い海峽が連続し、非常に強い潮流が発生する。そのために、現在においても航海が難しい地域である。
 ここからは西・南海岸地域の沿岸航路を航海するためには、瀬戸内海と同じように、複雑な海上地理や潮流を正確に把握する必要がありました。それを熟知していたのは在地の「海民」集団であったはずです。 
 高興半島基部の墓制を整理した李暎澈は、M1、M 2 号墳を造営した集団について、次のように記します。
  埋葬施設がいずれも木槨構造であり、副葬品に加耶系のものが主流を占めている点から、その造営集団は「高興半島一帯においては多少なじみの薄い埋葬風習を有していた集団」であり、「小加耶や金官加耶をはじめとする加耶地域と活発な交流関係を展開していた集団」

この集団が西・南海岸沿いの沿岸航路や内陸部への陸路を活用した「交易」活動を生業としていた「海民」のようです。このような海上交通を基盤としていた海民集団が西・南海岸地域には点在していたことを押さえておきます。
彼らは、次のようなルートで倭と百済を行き来していました。
①漢城百済圏-西・南海岸地域の島嶼部-広義の対馬(大韓・朝鮮)海峡-倭
②栄山江流域-栄山江-南海岸の島嶼部-海峡-倭
 倭からやってきた海民たちも、このルートで百済や栄山江流域などの目的地を目指したのでしょう。朝鮮半島からの渡来人たちが単独で瀬戸内海を航海したことが考えにくいように、西・南海岸地域を倭系渡来人集団だけで航行することは難しかったはずです。円滑な航行には複雑な海上地理と潮流を熟知する現地の水先案内人が必要です。そこで倭系渡来人集団は、西・南海岸地域に形成されていたネットワークへの参画を計ったことでしょう。そのためには、在地の諸集団との交流を重ね、航路沿いの港口を「寄港地」として活用することや航行の案内を依頼していたことが推測できます。倭の対百済、栄山江流域の交渉は、西・南海岸の諸地域との関わりと支援があって初めて円滑に行えたことになります。
 その場合、倭系海民たちは航行上の要衝地に一定期間滞在し、朝鮮系海民と「雑居」することになります。そのような中で「倭系古墳」が築かるようになったと研究者は考えています。逆に、朝鮮半島の海民たちも倭人海民の手引きで、瀬戸内海に入るようになり、女木島や佐柳島などの陸上勢力の手の届かない島に拠点を構えるようになります。それが丸山古墳の黄金イヤリングの首長という話になるようです。
 朝鮮半島系資料の分布状況を讃岐坂出周辺で見てみると、沙弥島に千人塚が現れます。そして、綾川河口の雌山雄山に讃岐で最初の横穴式石室を持った朝鮮式色彩の強い古墳が現れます。このように朝鮮半島系の古墳などは、河川の下流域や河口、入り江沿い、そして島嶼部などに分布しています。これは当時の海上往来が、陸岸の目標物を頼りに沿岸を航行する「地乗り方式」の航法であったことからきているのでしょう。このような状況証拠を積み重ねると、百済から倭への使節や、日本列島への定着を考えた渡来人集団も、瀬戸内の地域集団との交流を重ね、地域ネットワークに参加し、時には女木島や沙弥島を「寄港地」として利用しながら既得権を確保していったと、想定することはできそうです。古代の交渉は「双方向的」であったようです。

倭と百済の両国をめぐる5世紀前半頃の政治的状況は次の通りです。
①百済は高句麗の南征対応策として倭との提携模索
②倭の側には、鉄と朝鮮半島系文化の受容
このような互いの交渉意図が絡み合った倭と百済の交渉が、瀬戸内海や朝鮮半島西南部の経路沿いの要衝地を拠点とする海民集団によって積み重ねられていたと研究者は考えています。古代の海民たちにとって海に国境はなく、対馬海峡を自由に行き来していた姿が浮かび上がってきます。「ヤマト政権の朝鮮戦略」以外に、女木島の百済製のイヤリングをつけた海民リーダーの海を越えた交易・外交活動という外交チャンネルも古代の日朝関係には存在したようです。

以上をまとめておきます
①高松港沖の女木島には、百済製の黄金のネックレスを身につけて葬られた丸山古墳がある。
②この被葬者は、瀬戸内海航路を押さえた海民の首長であった。
③当時の瀬戸内海の海民たちは、5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を一斉に採用していることから、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていた。
④その拠点のひとつが女木島の丸山古墳、沙弥島の千人塚である
⑤彼らは鉄や進んだ半島系文化を手に入れるために、独自に百済との通商ルートを開いた。
⑥そのため朝鮮半島西南部海域の海民との提携関係を結び、瀬戸内海との相互乗り入れを実現させた。
⑦その交易の成果が丸山古墳の被葬者のイヤリングとして残った。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」
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          DSC05362
春日神社(琴平町)の本殿横の湧水 
 丸亀平野の扇状地上にある古い神社を訪れると、境内に湧水が湧き出しているところがいくつもあります。古代人にとって、大地からこんこんと湧き出し、耕地に注ぐ湧水は土地のエネルギーそのもので、信仰対象でもあったのでしょう。その湧水や人工的に作られた導水路に対して豊穣を祈願することは、ある意味では首長の権利であり役割であって、これをきちんと行うことが、地域支配の根拠(正当性)でもあったと研究者は考えています。
 これは古くから中国で「黄河を制する者が天下を制する」とされ、治水灌漑事業を行う者が、天下の覇者となることを正当化することと通じるものがあります。治水灌漑の土木事業の進展と共に、水に関する祭礼儀式が生み出されたとしておきましょう。湧水点は、聖地だったのです。
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            春日神社の湧水

 湧水地(水神)になんらかの宗教施設が加えられ、後に神社になっていったという仮説が湧いてきます。

琴平大井・春日神社

 例えば琴平周辺では、旧金倉川跡に南北に並んで鎮座する大井八幡・春日神社・石井八幡は、それぞれ境内に湧水地があります。そこから導水路が下流へと流れ出し、今でも水田の灌漑に使われています。この原初の姿を想像すると、弥生時代に稲作農耕が始まった時に、この湧水は下流の農耕集団の水源とされ、同時に信仰対象となったのではないかという気がしてきます。そして、時代が下ると宗教施設が設けられ、神社が姿を現すようになったというのが私の仮説です。今回は、湧水から神社はどのように生まれたを知るための読んだ文章の読書メモになります。テキストは「北条勝貴 古代日本の神仏信仰    国立歴史民俗博物館研究報告 第148集 2008年12月」です。
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大井八幡神社境内の湧水
古代の神社に祀られるようになった「神」は、古墳時代に生まれていると研究者は考えているようです。
前方後円墳での儀式は、喪葬と首長霊継承の関連で語られていました。しかし、墳墓の造出し部分の発掘成果によって、それだけではなく古墳は、首長が行ういろいろな宗教行為のパフォーマンスの場が古墳であったとされるようになってきました。古墳では、中央や地域の王権を支えるさまざまな祭祀が行われていたこと、それが、次第に古墳から離れて豪族居館や、神霊スポットへと移り、独自の祭祀空間を獲得していくようになります。その時期が5世紀後半~6世紀前半で、この時期が「神の成立」期だと研究者は考えているようです。  
 その原型は古墳時代には、登場していたと云うことです。

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大井八幡神社(琴平町)境内の北大井湧水
  井戸や川を祭祀遺跡として見るようになったのは、戦後のことになるようです。
少し、研究史らしきものを記しておきます。
1976年に、奈良盆地の纏向遺跡の報告書「纏向」が出されます。その中の「三輪山麓の祭祀の系譜」で、湧水に達するまで掘られた土墳から 容器・農具・ 機織 具 ・焼米・水鳥形木製品・ 舟形木製品・稲籾などが出土し、その湧水の隣には建物を伴う祭祀が行われていたことが分かってきました。これを「火と水のまつり」として「纏向型祭祀」と記されています。
 また文献史学の立場からも 風土記や日本書紀などに描かれた「 井 」や「井水」の祭儀の重要性が指摘されるようになり、古代日本の水神信仰の例が「延喜式」などからも説かれるようになります。さらに「風土記』に記されてた井泉とかかわる地名起源伝承から、地域首長が井水に対する祭祀を行う風習が各地にあったことも明らかにされます。
  そして「水の祭祀」については、次のように理解されるようになります。
常に湧きあ ふれ出る井泉の水の生命力・ 永遠性は、首長権の象徴にもなり、井水は首長権 の継承儀礼にも欠かせないものであるとともに、 地域首長にとって国の物代ともいえる聖水を大王に体敵する行為は大王への服属の証として 重要な儀礼となっていった

  水辺の祭祀は 、現在では次のふたつに分類されるようです。
①河川等の水の流れる所で行われた「流水祭祀」
②水の湧き出る所で行われたであ ろう「湧水点祭祀」
  その代表的な三重県の城の越遺跡を見ておきましょう。
湧水点祭礼 城の越遺跡1

  城之越遺跡は、新聞報道では「日本最古の庭園」と紹介されています。しかし、これは湧水を祭場に「加工」した湧水点祭祀跡です。それが、「庭(園)」にもなっていきます。この泉水遺構は,人工的に敷き詰められた石積みとともに約30年前に発掘されています。
湧水点施設1

同時に、儀式用の土器(高杯など)や刀剣型の木製品なども多数見つかっっています。これらの出土品から4世紀後半ごろに、ここで水に関する何らかの祭祀が行われていたようです。
湧水点祭礼1

祭祀遺構のすぐそばには、大型建造物の跡も見つかっていています。

湧水点祭礼 城の越遺跡4
城之越遺跡 湧水近くに建てられた建築物

この建物の分析から、次のような点が分かってきました。
①湧水に隣接してあった大型建物は、首長居館・居宅遺構であったこと
②湧水点祭祀の主宰者が地域首長層であったこと
③湧水点祭祀が古墳時代首長の実施する祭祀の中でも最も重要度の高いものであったこと
 さらに、この遺跡だけでなく井泉と大型建物がセットで出土している遺跡は各地にあり、その建物形式も共通していることが指摘されます。この背景には、首長層の間に湧水点祭祀について、なんらかの全国統一マニュアルがあったことが想定できます。

湧水点祭礼 城の越遺跡3
庭園の石組みのようにも見える城の越遺跡の湧水施設

 また、湧水点では、誓約儀礼も行われた可能性があるようです。「記紀神話」のアマテラスとスサノフの誓約とよく似ているとされます。とすると、古墳時代の水に関する儀礼が、記紀神話にも取り込まれていることになります
湧水点祭礼 飛鳥
飛鳥の水の祭礼遺跡

飛鳥の水の祭礼遺跡です。先ほど見た城の越遺跡との間には、約200年の隔たりがあります。しかし、飛鳥の施設が城の越遺跡の発展系であることは想像ができます。湧水の下に導水施設が組まれています。これはより奇麗な水を濾過する装置と研究者は考えています。
湧水点祭礼 飛鳥京跡苑池
飛鳥京跡苑池
  橿考研の岡林孝作調査部長は、次のように云います。
「飛鳥京跡苑池は宮殿の付属施設であり、流水施設も王権に関わる水のまつりの場だったと考えられる」

 飛鳥には、大王に関わる水祀りの施設が、酒船石遺跡などを含めて、いろいろな所に作られ、それは「庭」とも考えられてきたのです。そのため「庭園遺跡」という見出しを付ける記者も出てきます。これは、さきほど見た古墳時代の城之越遺跡の湧水点遺跡と導水遺跡の複合系遺跡と研究者は考えています。
 
以上をまとめておくと
①出水、湧水は弥生維持代から神聖なものとして信仰対象とされ水神が祀られた。
②古墳時代になると豪族によって、湧水周辺の開発と治水灌漑工事は行われ、湧水周辺には附属施設や豪族居館が建設されるようになった。
③さまざな儀礼が湧水周辺では、豪族主催の下に行われるようになり、湧水点遺跡や導水遺跡が整備されるようになる。
④周辺は石畳で聖域化されるなど、整備が更に進む。
⑤このような水の祭礼施設は、大和の大王のもとでも整備され、それが飛鳥の湧水点施設や流水施設である。

とすると、このような施設は讃岐の古墳時代の豪族も作っていたことが考えられます。佐伯氏支配下の善通寺周辺にも、このような水の祭礼に関わる施設があったのかもしれません。しかし、善通寺一円保絵図に描かれた壱岐の湧水や二頭湧水には、神社は描かれていません。ふたつの湧水に今も神社はありません。なぜ、壱岐や二頭湧水に神社が建立されなかったのかが私にとっては疑問なのです。
 それにたいして、最初に紹介した琴平の旧金倉川の伏流水の上に鎮座する大井神社・春日神社・石井神社には、後に神社が姿を見せます。さらに、荘園化されると春日神社のように荘園領主の九条家(藤原氏)の氏神である奈良の春日大社が勧進され、合祀されます。さらに後世には、八幡神までも合祀されていきます。そのもとは湧水に宿る水神信仰が出発点だったのかもしれません。
今日もまとまりのない内容になってしまいました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「北条勝貴 古代日本の神仏信仰    国立歴史民俗博物館研究報告 第148集 2008年12月」
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   青龍古墳1

前回に青龍古墳は、平地に築造された大きな古墳で、調査前には二重の濠を有すると云われ、前方後円墳とされていました。しかし発掘調査の結果は、青龍古墳に二重の濠はなく、前方後円墳でもないことが分かりました。濠ではなく広い周庭部を持つ珍しい大円墳だったのです。それが後世の改変を受けて、現在のような周壕を持つように見える姿になっていったよです。
まずは、それが明らかになる調査過程を見ておきましょう
調査では、10㎝間隔の等高図と要所にトレンチが何本か掘られます。
青龍古墳トレンチ調査

その結果、第1トレンチ西端の埋土上層から中世の土鍋片が多数、下層からは5世紀代のものと見られる須恵器片が1点と、最下層から埴輪片を含む土師器の小片がでてきました。ここからは5世紀の造成後に中世になって、掘り返されていることが分かります。遺構底部は、周壕と呼ぶほど深くはなく、底部も平坦なのです。これを考え併せると、周濠ではなく周庭を伴う円墳の可能性が出てきました。周庭の底部は東に向かって緩やかに上がり、続けて古墳南側に露出している周堤と外濠、それぞれの延長線上で同じような遺構が出てきます。
 周堤をさらに詳しく踏査すると、崩壊した複数の箇所に中世頃の土器片が見つかります。ここからは外濠及び周堤と考えられていた遺構は、中世の改変で造られたものと推測できます。
DSC03632
青龍古墳の周庭部
 周庭部と考えられる部分の第9トレンチを見てみましょう。上層からは土鍋等、多量の中世遺物が出ています。古墳裾部まで掘っても埴輪片などは出てきません。トレンチの南端では地山が緩やかに上がり、ここに埋土以外の人工的な盛土が確認されています。ここを周庭部端とすると、その幅は11m程です。人工的な盛土は、後世に造られた周堤部のようです。古墳南側から西側にかけて残る周庭部は、かつては水田だったようですが、近年は耕作されておらず湿地化し葦が生えています。ここは湧水量が極めて多く、湧水点も極めて浅くいため湿田であったことが予想できます。
以上を整理しておくと
①青龍古墳は、周囲に浅い周庭をともなう大型古墳であった。
②中世に周庭部などの土を用いて、周囲に周堤を築いた。
③南側の周庭は湧水量が多く、水田化されて利用されてきた
④周庭部の水田の水位調整のために、畝(陸橋)が造られて小さく間仕切り化された。

以上から青龍古墳は5世紀後半に築造された後に、中世に大規模な地形の改変が行われているようです。その改変時期については、遺構から中世の土器片が出土することから、改変されたのは南北朝~戦国時代頃と報告書は推察します。

DSC03652
吉原からの天霧山
「中世の改変」とは、具体的になんなのでしょうか?
 吉原町の北西には、今は石切場となって、かつての姿を失ってしまった天霧山が目の前にあります。ここには西讃岐守護代の香川氏の居城「天霧城跡」がありました。香川氏は阿波の三好氏と対立し、その侵攻に悩まされていたのは以前にもお話ししました。16世紀後半の永禄年間には、善通寺に陣を敷いた三好勢力に対して籠城戦を強いられています。それ以外にも多くの戦闘が行われていて、付近には甲山城跡や仲村城跡等の関連遺跡があります。
青龍古墳と中世城郭

 青龍古墳は、我拝師山から張り出した尾根状地形の先端に更に7mの盛り土がされています。古墳からは周辺に視界を遮るものがないので、古墳北側に作られたテラス状平坦部に立てば正面に天霧山を仰ぎ見ることができたはずです。しかし、天霧城を攻める三好方が攻城拠点として築いた砦ではないようです。なぜなら、砦の正面は南側に、向けて武装強化されています。天霧城の出城的な性格が見られます。どちらにしても、戦国時代の天霧城攻防戦の際に、砦が置かれそのための改変を受けたと報告書は推測します。

青龍古墳地図拡大図
 
青龍古墳を中世の砦を兼ね備えた複合遺跡として考えれば、古墳の外濠とされていた遺構は堀であり、周堤は土塁だったことになります。墳丘の北側平坦部や傾斜地の構造も、納得ができます。城と云うには規模がかなり小さいので砦的なもので、にわか工事で造られた可能性もありますが、史料的に裏付けるものはありません。


一円保絵図 五岳山
善通寺一円保絵図 中央下のまんだら寺周辺が吉原地区

視点を変えれば、青龍古墳は、整然と区画された条里遺構の端にあります。
1307(徳治二)年に作成された「善通寺一円保絵図」(重要文化財)には、善通寺領を含めてこの付近の様子が記されています。この絵図が書かれた頃の善通寺は、曼荼羅寺との寺領境界をめぐる紛争がようやく確定し、新しく多くの所領が編入されました。鷺井神社は立地条件やその特異な構造から、荘園制のもとで神社でありながら他の重要な機能を果たしていた可能性があると報告書は指摘します。
一円保絵図 東部
一円保絵図

  以上をまとめておきます。
①青龍古墳は我拝師山中腹にある曼荼羅寺あたりから平野部に低く派生した尾根の先端を利用し、5世紀後半に築造された巨大な二段築成の円墳である。
②円墳の周囲には浅く削り込み整形した幅の広い周庭帯があることが分かった。周庭帯は傾斜地に造られた墳丘を巡っているため、下方はテラス状地形になっている。
③この時期の古墳は県下では数が少なく、しかも周庭帯を持つ古墳は特異な存在である。
④周濠を有するものも数は少なく、大川町の富田茶臼山古墳の他は善通寺市の菊壕と生野カンス塚、観音寺市の青塚古墳が知られている程度でる。しかもいずれも前方円墳ある。

青龍古墳 碗貸塚古墳との比較
碗貸塚古墳(観音寺市大野原町)との比較

  青龍古墳の広大な周庭部は、規模が大き過ぎます。なんらかの特別な使用目的があった施設なのでしょう。もしそうだとすれば、前方後円墳並みに計画的に造営された古墳であり、それ相当の被葬者が考えられます。
  当時の西讃岐は善通寺周辺を中心に佐伯一族の勢力範囲でした。有岡古墳群がその一代系譜の墓所とされています。それに対して、吉原を拠点とする首長が造った青龍古墳は、佐伯氏から前方後円墳造営に制限を受けていた可能性があることは触れた通りです。そのような関係の中で、特異で凝った周庭を持った円墳が造られたとしておきましょう。
この時に調査目的は青龍古墳の規模や形態の把握であったために、墳丘部の調査は行なわれていないようです。そのため縦穴式石室の構造や副葬品については分かりません。ただ石室は崩壊部分から出ている露出状況から見ると東西方位で、その位置から二基ある可能性もあるが、古い社殿が墳丘上にあったことから破壊されている可能性も報告書は指摘します。
ある。

青龍古墳拡大図3

この調査では、これまで言われて来たような二重の濠を有する前方後円墳ではないことが分かって、残念な気持ちにもなります。しかし、周庭部を含めての全長は78mの円墳で、その規模は大きく、県下では比類ない存在です。その勢力を善通寺王国の首長は配下に組み込んでいたことになります。善通寺王国の形成過程や構造を考える上では、いろいろな手がかりを与えてくれる古墳です。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

      青龍古墳 地図
                                                                                        
善通寺の吉原地区は、南側に五岳の急峻な山脈がそびえ立ちます。その中の盟主である我拝師山は弥生時代の人々からも信仰の山と崇められていたようで、銅剣や銅鐸が何カ所からも出土しています。古墳時代になると、独自の系譜を持つ首長墓も作り続けていますし、平安時代には曼荼羅寺が姿を現します。ここからは善通寺の練兵場遺跡を中心とする勢力とは、別の勢力がいたことがうかがえます。その吉原地区にあるのが青龍古墳です。この古墳はかつては、前方後円墳だとされていましたが、発掘調査によって円墳であることが分かりました。今回は、この古墳の発掘調査報告書を見ていくことにします。

青龍古墳俯瞰図
 善通寺市の吉原小学校の南東に鷺井神社の社叢がこんもりとした緑を見せています。この神社の本殿の後に、青龍古墳はあります。青龍古墳の東側に、本殿や拝殿が建っています。方墳部丘を削ったところに神社が建っています。
 青龍古墳地図拡大図

善通寺の古墳群で有名なのは有岡古墳群です。
「善通寺の王家の谷」ともされる有岡地区には、国の史跡に指定され整備の進んだ王墓山古墳を筆頭に、菊塚古墳や線刻画の岡古墳群がならびます。これらの首長が空海の祖先で、後の国造佐伯直氏に成長して行くと考えられているので注目度も高いようです。しかし、今回目を向けたいのは、五岳を挟んで有岡の反対側の吉原地区です。
 吉原地区は香色山・筆ノ山・我拝山及び中山・火上山(五岳山)北麓と五岳と呼ばれる連山が並びます。この山裾からは、銅剣や銅鐸が出ているので、麓には弥生時代からの集落があったことがうかがえます。古墳時代になると、大窪前方後円墳(積石塚)→ 中期の青龍古墳 → 後期吉原椀貸塚(巨石墳)など各時代の首長墓が継続して造られていくので、独自のエリアを形成していたことが分かります。吉原区域の古墳は、その多くが山裾部から高所に散在しています。平地にあった古墳は耕地開墾によって、ほとんどが消滅したようです。
その中で平野部の中央部には、鷺井神社の境内地には青龍古墳が残されています。墳墓が信仰対象となったおかげでしょう。

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目に効能のある鷺の井 その向こうの社叢が鷺井神社

鷺井神社の由来は古記に次のように記されています。
「仁寿元年(851)年、現在の境内から東100m程のところに一羽の青鷺が飛来し、ここに清水が吹き出していた。この清水は眼病に効果があるとの神託があり、住民は神水と崇めた。」

眼薬になる泉を鷺の井と呼んだようです。そのため戦国末期には、次のような話が生まれます。
「霧城主香川信景の子(または一族の子)桧之助頼景が眼を患った際、この神水により治癒したため、香川氏及び住民の厚仰するところとなった」

とも伝わります。この頃に青龍古墳を境内として、神社の原型が誕生したと調査書は記します。
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鷺井神社
 当初は青龍明神(青龍大権現)と呼ばれて、少彦名命を祀っていましたが、明治時代以降はこの地の小字「鷺ノ井(目に効能のある井戸)」から鷺井神社とされ、境内地全域に広がる古墳も信仰対象とされてきたようです。
青龍古墳1

発掘前の青龍古墳の地形を、調査書は次のように要約しています。
①墳丘の一部は削平され、神社の境内地となっている。周辺は水田地帯であり、南側の我拝師山から派生した尾根の先端部に構築されている。付近の標高は約20mである。
②墳丘の直径は約25mで、東側半分に社殿等が建設されている。
③そのため円墳か前方後円墳か分からない。恐らく円墳か帆立貝式古墳であろう。
④南北側と西側は旧状が保たれていて、特に南側から西側にかけては周庭帯や二重に巡らされた濠の形状が明確である。
⑤墳頂部は古い本殿があったため削平され、墳丘断面に石室と思われる石材の一部が露出している。
⑥鉄刀片の出土も伝わる。墳丘外面は表土の流出が著しく、埴輪片は確認されていない
⑦裾部において礫が多数みられるので、茸石の存在が予想される。
⑦墳丘周囲には幅18mの内濠・周庭が見られる。後世の開発・改変によるものか、構築時の地形に影響されたものであるのかは不明である。
 平面図だけ見ると、確かに周壕がめぐらされた前方後円墳のような気もしてきます。このような古墳の姿が農地開墾だけが原因で変形したとも、築造期の姿がそのまま残るとも考えにくく、「まことに奇異な形態」だと発掘前に担当者は記しています。
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青龍古墳が円墳か前方後円墳かは、どんな意味を持つのでしょうか
青龍古墳 編年表

 前期末から中期はじめ頃に見られる前方後円墳の減少と大型化は、なにを背景にしているのでしょうか。研究者は次のように考えているようです。
①各地域の政治的統合が進み、地域権力の寡占化が反映されている
②中期前半に前方後円墳が讃岐から消えるのは、大和政権との関係に劇的な変化があった
つまり、現代風に云うなら「町村合併で首長の数が減った」ということでしょうか。それにヤマト政権が関わっていると云うことです。

 青龍古墳 東讃編年表

①左側の高松平野では、前方後円墳祀りに参加しなかった岩清尾山勢力が次第に姿を消し、周辺部に前方後円墳が築かれ、最終的には今岡古墳に統合されていきます。
②津田湾周辺では、最初は津田湾周辺に造られた前方後円墳が、後背地に築かれるようになり
③最終的には、けば山古墳や三谷石船古墳のエリアまで統合した富田茶臼山古墳が登場します。これは四国最大の前方後円墳で、全長139mもありました。しかし、これに続く前方後円墳は、ここにもありません。このような前方後円墳の変遷は、他地域でも見ることができます。
丸亀平野の代表的な古墳を河川流域毎に歴史順に並べた編年図です。
青龍古墳 編年表
ここからは次のような点が読み取れます。
①ヤマトに卑弥呼の墓とも云われる前方後円墳の箸墓が造られた時期(第1期)に、丸亀平野でも首長墓とされる前方後円墳が各河川毎に登場している。
②第2期には、それが大型化し、領域が拡大する。しかし、三豊に前方後円墳は現れない。
③第3期には、地域統合が進み丸亀平野東部の前方後円墳は快天塚古墳だけになった。
ここでも初期には、河川流域毎にあった小さな前方後円墳が、だんだん減って最後に快天塚古墳が登場しています。
このプロセスを研究者は、どうかんがえているのでしょうか?
前期末から中期はじめ頃に見られる前方後円墳の減少と大型化について、研究者は次のように考えているようです。
①各地域の政治的統合が進み、地域権力の寡占化が反映されている
②中期前半に前方後円墳が讃岐から消えるのは、大和政権との関係に劇的な変化があった
 前方後円墳はただの墓ではなかったと研究者はかんがえています。前方後円墳に祀られる被葬者と、その後継者はヤマト連合のメンバーで、地域の首長であったというのです。その手始めに造営されたのが卑弥呼の墓ともされる箸墓で、このタイプの墓の造営は首長だけに許されます。前方後円墳は、ステイタスシンボルであり、自分が地域の支配者であることを主張するモニュメントでもあったことになります。そのためにヤマト連合政権に参加した首長たちは、自分の力に見合った大きさの前方後円墳の造営を一斉に始めたようです。讃岐は初期の前方後円墳が多いエリアになるようです。早くからヤマト連合政権の樹立に関わった結果かもしれません。
 その後、各流域では政治的統合が進みます。その結果、現代風に云うなら「町村合併で首長の数が減少」していきます。同時に周囲の首長を従属下においた快天塚の主の権勢は大きくなり、巨大な古墳が登場することになります。
三豊の特殊性   
しかし、こうした「首長権の統合」が進んだのは鳥坂以東のようです。三豊では7期になるまで前方後円墳は造られません。今述べてきた論理からすると、三豊はヤマト連合政権に参加していなかったことになります。確かに三豊の古墳には、石棺などにも九州色が強く出ています。ヤマトよりも九州を向いていたいのかも知れません。
 観音寺の一の谷池の西側に全長44mの青塚古墳(観音寺市)が築かれるのは五世紀後半になってからです。しかも、これも墳形は前方部が短い帆立貝式古墳です。帆立貝式古墳については、大和政権が各地の首長墓の縮小を図るため、規制をしたために出現した墳形と研究者は考えているようです。古代三豊の政治状況は、讃岐全体からみると異質です。ここは別の時間が流れているような気配がします。古代の三豊は「三豊王国」を形成していたとしておきましょう。

そのような中で弘田川流域の善通寺エリアでは、前方後円墳が「野田院 → 摺臼山 → 北向八幡」と継続されます。
ここからは快天塚の首長のテリトリーが土器川を越えては及ばなかったこと、善通寺王国は独立を守り抜いていることがうかがえます。
白方 古墳分布
白方の古墳群

さらに弘田川下流の目を転じてみると、白方湾の西の丘陵地帯には、いくつもの初期前方後円墳が並びます。しかし、善通寺勢力が「摺臼山古墳 → 北向八幡古墳」を築く頃になると白方湾から前方後円墳は姿を消します。ここでも大束川流域で信仰したことと同じ事が起こっていたようです。つまり、弘田川中流の善通寺勢力がその河口まで勢力を伸ばし、白方の首長たちを配下に組み入れたということでしょう。その結果、白方の首長たちは前方後円墳が築けなくなったと研究者は考えているようです。

青龍古墳拡大図3

そういう中で、登場するのが青龍古墳です。
   もし、青龍古墳が前方後円墳だとすると、首長が吉原地区にいたことになります。善通寺エリアには、北向八幡古墳が造られて以後の5・6期には前方後円墳が築かれていません。空白期です。つまり、善通寺地区から吉原地区に首長の交代があったことが考えられることになります。そういう意味でも青龍古墳が前方後円墳なのか円墳なのかは、私にとっては興味深いことでした。

青龍古墳と中世城郭
  発掘結果は「大型の円墳」でした。
前方後円墳ではなかった=青龍古墳の被葬者は、善通寺の首長の従属下に組み入れられ、ヤマト政権からは前方後円墳造営が認められなかったということになります。
 前方後円墳が作れなくなった元首長たちは、大型円墳や小規模な帆立貝式古墳などを築造するようになります。善通寺市の青龍古墳や多度津町の盛土山古墳は直径42mに二重の周溝をもち、埴輪や須恵器から五世紀後半とされています。それぞれ旧首長でありながら前方後円墳が築けなくなったための「代用品」とも考えられます。
 さらに時代が下り、善通寺勢力が有岡の谷に「王墓山 → 菊塚」と連続して横穴式の前方後円墳を築いた頃になると、白方や吉原地区ではさらに小型の横穴式円墳しか築けなくなっています。ここにはヤマト政権の全国支配と同じように、善通寺王権が周辺地域への直接支配の手を伸ばしていく姿がうかがえます。

 そういう意味で、吉原の青龍古墳や白方の盛土山古墳は、善通寺王国の従属下に組み込まれながらも、まだ旧首長としての力があったころの被葬者が眠っているのかもしれません。

 
古代讃岐には、4世紀後半から5世紀前半に、古墳の石棺をつくる技術者集団がいて、各地の豪族たちの需要に応じていたようです。石棺製作集団は次の2グループがありました。
①綾歌郡国分寺町鷲の山産の石英安山岩質凝灰岩を石材として用いた集団
②大川郡相地(火山)産の白色をした石英安山岩質凝灰岩を石材として用いた集団
①の鷲の山産の石棺は、海をわたって近畿にまで「輸出」されています。この石棺を作った技術舎集団を管理支配していたのが快天山古墳の被葬者、
②の相地産の石を使った集団を支配したのが、讃岐凡氏につながる人物と羽床正明氏は考えているようです。
快天塚古墳

快天塚古墳
快天塚古墳は4世紀後半につくられた全長約100mの讃岐有数の前方後円墳です。この古墳からは三基の石棺が出土し、
一号石棺からは舶載方格規矩文鏡と碧玉製石釧が、
二号石棺からは竹製内行花文鏡が、
三号石棺からは同じく傍製内行花文鏡

快天塚古墳第2号石棺

快天塚古墳第3号石棺
快天塚古墳の石棺

『播磨国風土記』印南郡の条には、羽床石が次のよう記されています。
帯中日子命(仲哀天皇)を神に坐せて、息長帯日女命(神功皇后)、石作連大来を率て、讃伎の国の羽若(羽床)の石を求ぎたまひき。

ここからは神功皇后が仲哀天皇のために、讃岐の国の羽若の石を求めて、古墳をつくろうとした物語が記されています。事実、大阪府柏原市からは、次の2つの讃岐の鷲の山産の石棺が見つかっています。
①柏原市安福寺の勝負山古墳出土と伝えられる鷲の山産の石棺のふた
②柏原市の松岳山古墳から長持形石棺
1柏原市安福寺の勝負山古墳出土
安福寺境内に安置されている割竹形石棺の蓋

 柏原市玉手町の安福寺境内に安置されている割竹形石棺の蓋は、勝負山古墳から出てきたという伝承があるようですが、棺身は見つかっていません。この石棺は、香川県の鷲ノ山産の凝灰岩をくり抜いて造られています。この石棺によって、玉手山古墳群の被葬者集団が、香川県の集団と何らかの関係をもっていたことがわかります。両小口面の縄掛突起は削りとられ、周囲には直弧文と呼ばれる直線と曲線を複雑につないだ線刻がみられます。何らかの呪術的な意味があるようです。
1柏原市kohunngunn

柏原市玉手山古墳群(3号墳が勝負山古墳)

②の松岳山古墳は後円部墳頂に組合式の石棺が露出していて、竪穴式石室が確認されています。
1柏原市河内松岳山古墳2

 この組合式石棺は、底石と4枚の側石、そして蓋石の計6枚の板状の石材が組み合わされています。古墳時代中期の大王墓などで使用される長持形(ながもちがた)石棺と同じタイプで、そのの初期タイプのものと研究者は考えているようです。 石棺の底石と蓋石は黒雲母花崗岩(くろうんもかこうがん)を使用されていますが、まわりを囲む側石4枚は香川県の鷲の山産の凝灰岩が使われています。快天塚古墳が築かれた時代に、鷲の山の石材が摂津柏原まで海を越えて運ばれていたようです。
1柏原市河内松岳山古墳
松岳山古墳の長持形石棺と石室周辺


 大阪府から、鷲の山石棺が出土したということは、「播鷹国風土記が」が事実をもとにして書かれたことがうかがえます。風土記にあるように讃岐で作られた石棺が各地に「輸出」されていたと云えそうです。同時に、快天塚の主と柏原の首長は、密接な関係にあったことがうかがえます。
 しかし、羽若(羽床)は快天塚古墳がある所で、石材を産するわけではありません。
石材は鷲の山産なのです。これをどう考えればいいのでしょうか。
  ①羽若は地名の羽床のことではなく、羽床を拠点とする勢力が管理支配していた羽床石とする説
快天山古墳の出現期には、国分寺エリアでは前方後円墳が作られなくなっています。そのため快天塚古墳の主は、国分寺方面まで支配エリアを広げていたと考えています。そうすると石材の産地である鷲の山は、その支配エリアに含まれます。快天塚古墳のある羽床地区は、この豪族の勢力基盤の拠点であったからこそ、この勢力基盤にちなんで羽床の石が羽若の石と誤伝されたと羽床氏は考えているようです。
快人山古墳のある綾歌町栗熊住吉と羽床は、わずかの距離です。快天塚古墳の主にとって羽床は、その勢力の中心となる重要な地区であり、そこから『播磨国風土記』のような誤伝が生まれたとしておきましょう。
蔵職の設置と鷲住王
「日本書紀」の履中天皇6年2月癸丑朔条には、讃岐国造の祖の鷲住王について次のように記されています。
二月の癸丑の朔に、鮒魚磯別王の女太姫郎姫・高鶴郎姫を喚して、後の宮に納れて、並に妃としたまふ。是に、二の濱、恒に歎きて日はく、「悲しきかな、吾が王、何処にか去りましけむ」といふ。天皇、其の歎ぐことを聞じめして、問ひて曰く、「汝、何ぞ歎息く」とのたまふ。
 対へて曰さく、「妾が兄鷲住王、為人力強くして軽く捷し、是に由りて、独八尋屋を馳せ越えて遊行にき。既に多くの日を経て、面言ふこと得ず。故、歎かくのみ」とまうす。
 天皇、其の強力あることを悦びて喚す。参来ず。亦使を重ねて召す。猶し参来ず。恒に住吉邑に居り。是より以後、廃めて求めたまはず。是、讃岐国造・阿波国の脚咋別、凡て二族の始祖なり。
意訳変換しておくと
履中天皇6年2月に、鮒魚磯別王の女太姫郎姫・高鶴郎姫のふたりを、後宮に入れて妃とした。二人の妃は「悲しいことよ、吾が王が、何処にか去ってしまいました。」と嘆くのを天皇が、聞いて、「どうして、悲しみ嘆くのか」と問うた。
 「私の兄鷲住王は、力強くて身も軽く捷く。独八尋屋を馳せ越えて遊行に行ってしまいました。長い月日が経ちますが帰ってきません。故に、悲しんでいます」と答えた。
 天皇は、妃の兄が秘めた力を持っていることに興味を持ち召喚した。しかし、やって来ない。再度召喚したが、やはりやって来ない。住吉邑から離れようとしない。そのため以後は、召喚しなかった。この鷲住王が、讃岐国造・阿波国の脚咋別の二族の始祖である。

ここには住吉邑に強力な能力を持つ鷲住王がいて、これを履中天皇は召喚しようとしたが応じなかったこと。鷲住王が讃岐国造・阿波国の脚咋別の始祖であることが書かれています。
それでは、鷲住王が住んでいた住吉邑というのはどこなのでしょうか。当然思い浮かぶのは摂津の住吉(大阪市住之江区)です。それなら摂津に住む鷲住王が、どうして讃岐国造になるのでしょうか。
ここで羽床氏は「異説」を出してきます。
鷲住王がすんだ住吉邑とは、大阪府の住吉ではなく、讃岐の国の栗熊村の住吉だ。そうでないと鷲住王が、讃岐の国造と阿波の脚咋別の二族の始祖となった説明がつかない。

というのです。これはすぐには私には受けいれられませんが先を急ぎます。
履中紀の物語は、『日本書紀』にあって、『古事記』にはありません。そこで、鷲住王の物語は、713年に撰進の命令が出された風土記のうちの『讃岐国風土記』にあったもので、『日本書紀』の編者が『讃岐国風土記』を見てとりいれたとの推定します。とにかく風土記がつくられた八世紀になっても、快天山古墳をもとにした鷲住王の物語は、讃岐で流布していたと推測します。
快天塚古墳周辺地図

たしかに快天塚古墳は、栗熊の住吉の丘陵に、あたりを威圧するかのごとく築かれています。そして近くには住吉神社もあります。快天山古墳がもとになって、讃岐国造の祖の鷲住王の物語がつくられたと云える材料はあります。
 快天山古墳の主の先祖は、前方後円墳祀りを共有する「ヤマト政権」に初期から参加していたメンバーだったのでしょう。初期の前方後円墳が周辺からはいくつも見つかっています。連合政権のメンバーとして、先端技術や鉄器を手に入れ、大束川や綾川流域の開発を進め、栗熊から羽床の辺りに、あらたな拠点を構え周辺領域を支配するようになったのが快天塚古墳の主だったと私は考えています。
快天塚古墳第3号石棺2
快天塚古墳の第3号石棺

地方の首長にとって、ヤマト政権との関係は微妙なものがあったのではないでしょうか。同盟者であると同時に、次第に抑圧者の姿も見えるようになります。羽床エリアを拠点とする首長は、鷲の山の石棺製造集団を管理して、石棺を他の豪族に供給することでネットワークを広げようとしていたのかもしれません。それはヤマト政権の介入を許さないためであったかもしれません。しかし、快天塚古墳の主の後に起こったことを推察すると、ヤマト政権はこの地から石棺製造集団の引き離し、播磨などの石の産出地に移動させることを命じたようです。そして、快天塚古墳の後継者達は衰退していきます。それは快天塚続く前方後円墳がこのエリアからは姿を消すことからうかがえます。つまり、快天山古墳の後継者達はヤマト政権に飲み込まれていったようです。
古墳時代の羽床盆地と国分寺を見ておきましょう。
快天塚古墳編年表

羽床盆地では,快天塚古墳を築造した勢力が4世紀から5世紀後半まで盆地の指導的地位を保っていました。この集団は,快天山古墳の圧倒的な規模と内容からみて,4世紀中頃には羽床盆地ばかりでなく,国分寺町域も支配領域に含めていたと研究者は考えているようです。
上の古墳編年表を見ると国分寺町域では、4世紀前半頃に前方後円墳の六ツ目古墳が造られただけで、その後に続く前方後円墳が現れません。つまり、首長がいない状態なのです。
 その後も羽床盆地北部では、大型横穴式石室が造られることはありませんでした。羽床勢力は6世紀末頃になると勢力が弱体化したことがうかがえます。坂出地域と比較すると,後期群集墳の分布があまり見られないことから、坂出平野南部に比べて権力の集中が進まなかったようです。そして、最終的には坂出平野の勢力(綾氏)に併合されたと研究者は考えているようです。これは継続して前方後円墳を作り続け、古代寺院建立にいたる善通寺勢力とは対照的です。

以上をまとめておくと
①『播磨国風土記』にでてくる羽若(羽床)とは地名で、石棺を製作した集団が快天山古墳の主によって支配されていたところから、その支配者の中心勢力だった地名をとって誤伝された。
②快天山古墳は讃岐で2番目の規模をもつ古墳で、当時は善通寺勢力と拮抗する勢力を持っていた
③快天塚の主は、生前の権力と古墳の規模の大きさから、履中紀に鷲住王の物語がつくられ、風土記を経て『日本書紀』の中にとりいれられた
④石棺をつくった石工たちは通常は羽床に住み、鷲の山山麓に石棺をつくる仮設小屋を設け、仕事をした。
⑤飯山町西坂元には鷲住王の墓と伝えられる古墳があって、銅金具・刀剣・勾玉・管玉・土器が出土している。しかし、古墳は鷲住王のものではない。鷲住王の伝説を生み出したのは、住吉趾にある快天山古墳であった。
⑥快天山古墳の上に、快天和尚の墓がつくられ、快天和尚の墓として有名になると、鷲住王の墓が別のところに求められ、それが飯山町西坂元の鷲住王墓とされるようになった。
⑦しかし、古代(奈良時代)の人たちは、快天山古墳を鷲住王の墓としていた。

ちなみに、鷲住王は阿波国造の祖ともされています。


そのため讃岐以上に、阿波では鷲住王の拠点探しが昔から活発に展開されています。いまでも「鷲住王」で検索すると、数多くの説が飛び交っているのが分かります。一方、香川では「鷲住王」の知名度は低いようです。それは「神櫛王」が讃岐国造の祖という伝説が中世以後に拡大し、競合関係にあたる「鷲住王」は、故意に忘却されたからのようにも思えます。
 讃岐では日本書紀の履中紀の物語よりも、中世に作られた綾氏の出自を飾る神櫛王伝説の方が優先されるようになり「鷲住王」にスポットが当たることがなかったと云えるのかも知れません。
  快天山古墳を、讃岐国造の始祖となった鷲住王の墓と考える説があることを改めて心に刻みたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献


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弘田川とその上流の善通寺五岳山

善通寺と多度津は、古代から密接な関係がありました。内陸の善通寺に対して、その外港の機能を果たしていたのが多度津のようです。多度津は、その港の位置を時代と共に次のように変えてきたようです。
古代 弘田川河口の白方
中世 金倉川河口の潟湖の堀江
近世 桜川河口の多度津
それぞれの時代の港の様子を見ていくことにします。テキストは「 庄八尺遺跡調査報告書 遺跡の立地と環境」香川県教育委員会です
白方 弘田川
丸亀平野の弥生時代遺跡分布
古墳時代の弘田川と白方
DSC03915
弘田川と五岳

善通寺の誕生院の裏を流れる弘田川は、金倉川や土器川までが弘田川に流れ込んでいた痕跡が残っています。そのため、弘田川は古代には善通寺と白方を結ぶ「運河」の役割も果たしていました。それを示すかのように誕生院の西側の水路からは、古代の舟の櫂も出土しています。ここからは、善通寺王国と白方は、弘田川で結ばれていたことがうかがえます。そして、弘田川河口の白方には、瀬戸内海交易ルートに加わっていた海上勢力の首長達の古墳が点在しています。
白方 古墳分布
多度津町奧白方の古墳分布図
その古墳群を見ていくことにします。
①舶載三角縁四神四獣鏡が出土 した西山古墳 (消滅)
②全長 30mの 前方後円墳である黒藤山 4号墳、
③同 48mの御産盟山古墳
④多度津山西麓の鳥打古墳、葺石が散在し、埴輪が出土
など、前期を通じて首長墓墳が継続して築造されます。

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現在の弘田川河口 沖には高見島

これだけの初期前方後円墳が、白方に集中する背景をどう考えればいいのでしょうか。
まずいつものように地形復元を行いましょう。
弘田川河口部は、古代においては南に大きく入り込んで、現在の白方小学校の丘あたりまで入江であったようです。そして、入江の西北にある経尾山 (標高 138m)や 黒藤山 (同 122m)が 「やまじ」や「わいた」と呼ばれた季節風を遮る役割を果たし、天然の良港になっていました。そのため入江の奥に港が作られ、流通拠点の機能を果たしていたと研究者は考えているようです。現在の標高5mあたりまでは海の下だったとしると、安定した微高地は周囲の山の縁辺や山階地区の南の内陸部に求めなければなりません。
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バイパスが延びる現在の白方

 耕地が少ない白方に、前期古墳が集中している要因は津田古墳群と同じように、瀬戸内海の海上交通との関係が考えられます。

海岸寺の奥の院の上の稜線に作られた御産盟山古墳等は、備讃瀬戸を航行する船のランドマークとなったでしょう。白方エリアは、海上交易活動の拠点でもあり、早くから近畿勢力と協調関係に入ったことがうかがえます。同時に、弘田川背後の旧練兵場遺跡を拠点とする善通寺勢力とも協調関係にあったようです。白方は善通寺勢力の外港としても機能していきます。

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白方方面から望む五岳

 一方で、桜川・金倉川下流域には、前期古墳は見当たりません。古代の多度津の港は白方だったと研究者は考えているようです。

弘田川下流域の優位性は、古墳時代中期にも継続します。

盛土山古墳
盛土山古墳(多度津町白方) 背後は天霧山

 前期の首長墓の系列と一旦は断絶するようですが、中期になると約42mで二段築成の円墳、盛土山古墳が港の近くに姿をみせます。埋葬施設は組合せ式石棺とされ、大正4 (1915)年に、舶載画文帯環状乳神獣鏡 1、 鉄刀1、 璃瑠勾玉1、硬玉勾玉2、銅鈴1などが出土しています。最近の調査では、二重周溝が確認され、円筒・蓋等の埴輪も出てきているようです。 出土した埴輪等から 5世紀中頃の築造とされるようになりました。
 この盛土山古墳から西へ約60mの所に、一辺約10mの方墳、中東1号墳が発掘されました。周溝から円筒・朝顔形埴輪が出てきたので、盛土山古墳とほぼ同時期に築造と分かり、その陪家的な古墳とされているようです。
 この他にも北浦山古墳からは、箱式石棺から傍製捩文鏡や勾玉が出土し、西白方瓦谷遺跡では、数基の小規模な円墳に伴う周溝が検出され、須恵器等が出土しています。

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弘田川と天霧山

後期古墳も、弘田川流域を中心に展開します。
天霧山北東麓に向井原古墳、
黒藤山南麓に北ノ前古墳、
多度津山南西麓に宿地古墳
同北西麓に向山古墳
などが作られ続けます。これらは6世紀後半期~7世紀前半期の横穴式石室を埋葬施設とします。この中で葡萄畑の中にある向井原古墳は、一墳丘に二石室を有する古墳です。

白方 向原古墳
向井原古墳
善通寺の北原2号墳も二つの石室を持ちます。これは紀伊半島の紀伊氏に特有な墓制だと指摘する研究者もいます。そうだとすれば、白方、善通寺は紀伊氏の下で瀬戸内海航路の管理にあたり、対外的には鉄を求めて朝鮮半島への交易や経営に加わっていたのかもしれません。当時の紀伊氏のバックには台頭する葛城氏がいたようです。
 後期の古墳は、玄室長約3,88mの宿地古墳が最大で、それほど大きな石室ではありません。
多度津町
宿地古墳
同時代の善通寺の有岡エリアには、王墓山古墳、菊塚古墳、宮が尾古墳、大塚池古墳などの首長墓が築かれていますので、その組織下にあったようです。想像を働かせるのなら善通寺勢力の水軍部隊が白方勢力と言えるのかもしれません。

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宿地古墳からのぞむ大麻山と五岳

 善通寺勢力の王家の谷「有岡」に築かれた王墓山古墳は、横穴式石室を持つ前方後円墳で、九州系の石屋形が採用されています。紀伊氏と共に連合関係にあった九州勢力の姿が見え隠れします。

 多度郡の郡衛は善通寺にあったと考えられています。
そして、古墳時代以来、この地を支配する佐伯氏が郡司を勤め、氏寺の仲村廃寺や善通寺を建立したようです。同時に、東から伸びてきた南海道を整備し、それを基準に条里制を整えていきます。いわゆる奈良時代の律令体制下の多度郡の時代を迎えます。白方も多度郡に属し、8郷のうちの三井郷に含まれていました。
 多度郡の郡司には、先ほど述べたように
①国造級豪族 として佐伯直氏が
②中・下級豪族 として伴良田連氏
が、『類衆国史』等の史料に見えます。郡司層ではありませんが『 日本三代実録』にみえる因支首氏も、多度郡の中小豪族です。彼らは多度郡南部を基盤とする豪族されます。
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白方から見た津島と庄内半島

 奥白方中落遺跡からは、8世紀代の掘立柱建物跡6棟が検出され、周辺から皇朝十二銭のひとつ「隆平永費」 10枚 が重ねられて出土しています。何らかの祭祀儀礼に使用されたと研究者は考えているようです。また、近くの奥白方南原遺跡では、高価な緑釉陶器碗が出土しているので、周辺に下級官人か富農層の館があったのかもしれません。港湾施設の管理者としておきましょう。
白方周辺には、南北方向の約 30° 西に偏 した一町方格の条里型地割が見られます。

白方 丸亀平野条里制
丸亀平野の条里制 
こうした地割は、古代の土地表示システムに基づくものです。しかし、以前にお話ししたように、条里制が同時期に施工されたものでもないことも、最近の発掘調査から分かってきています。実際の施行は、中世になってからというエリアも多々あるようです。
例えば
①白方の東の庄八釈遺跡では、施工は9世紀代
②段丘上にある奥白方南原遺跡では、多度郡七条13里内部の坪界溝が検出され、溝より出土した最も古い遺物の一群は12世紀
③その約500m西に位置する奥白方中落遺跡の8世紀中頃の掘立柱建物跡は 、地割の方向と合致するので、8世紀施行
ここから②の南原遺跡の坪界溝は、中世になって改修されたものと研究者は考えているようです。このように近接したエリアでも条里制の施工時期には時間差があるようです。

古代南海道の位置について

金倉川 善通寺条里制
古代条里制と南海道
那珂郡の推定ラインを西へ直線的に伸ばして、多度郡の6里 と7里の里界線を南海道とする仮説が出されていました。那珂郡における南海道の推定には、余剰帯の存在が大きな根拠とされています。また、善通寺文書の宝治3(1249)年の讃岐国司庁宣には
「北限善通寺領 五嶽山南麓 大道」
とあり「五嶽山」を香色山・筆の山、我拝師山とすると、推定南海道のライン上に「大道」が通過することになり、その有力な仮説とされてきました。
 考古学の立場からは、善通寺市の四国学院大学図書館建設の際の発掘で出てきた7世紀代の直線溝を、南海道の側溝とする報告書が出ています。さらに、多度郡の6里と7里の延長上の飯山町岸の上遺跡からも側溝が見つかりました。この結果、この余剰帯が南海道であると考える研究者が増えているようです。どちらにしても南海道は、かつて云われていたように鳥坂峠を通過する伊予街道ではなかったようです。

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「白方湾」から見上げる天霧山

 空海が平城京に上っていった時に、白方からの舟で難波に向かったのでしょうか、それとも南海道を陸路辿り、紀州から北上したのでしょうか。興味ある所です。また、以前お話ししたように、空海の父は、瀬戸内海交易を手がけ大きな富を手にしていたのではないかという説が出ています。
そのため自船で、難波の住之江と頻繁に行き来していたのではないか。それが難波と平城京を結ぶ運河の管理権に関わる阿刀氏との交流を深め、その娘を娶ることになったのではないかという「新設」も出ていることも以前にお話しした通りです。そうだとすれば、まさに白方港は佐伯氏にとっては「金を産む港」だったことになります。多くの舟が出入りしていたことが考えられます。
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弘田川と天霧山 このあたりまでは入江だった

 多度津の港津としての機能は、中世にも維持されます。しかし、白方ではありません。
 道隆寺や多度津 (本台山)城跡が海に面した位置に立地するのは、古代以来の備讃瀬戸の海上拠点の掌握を狙ったものだったのでしょう。細川家文書にある正安3(1301)年の沙弥孝忍奉書に「堀江庄」が出てきます。鎌倉幕府地頭の補任地だったようです。その荘域には「堀江津」を含み、幕府の強い影響下に置かれていたようです。中世には、この「堀江津」が多度郡の中心的な港津として機能していたと研究者は考えているようです。

古代までは、弘田川下流域の白方でしたが、中世にはその役割が金倉川下流域に移動したようです。
白方が史料に登場しなくなります。その理由は、古代末以降の完新世段丘の形成で、弘田川河口部の埋積が進行し、港としての機能が維持できなくなったようです。
  一方、金倉川下流域では、堆積された土砂で砂州・潟の形成が進み、内陸部に港津が形成されます。

道隆寺 堀越津地図
「堀江」復元図と道隆寺
「堀江津」が具体的にどこにあったのかは分かりません。しかし、金倉川の河口付近の西岸に、「堀江」の地名があり、ここが「堀江津」だとされます。旧地形の復元図では、多度津山より砂州が北東方向に長く延び、一部途切れているもののその東端は、金倉川西岸にまで達します。この砂州の南側は、海水が流入して潟となっています。そして、桜川が緩やかに流入します。この内陸部側に港湾施設が設けられ「堀江津」と呼ばれていたと研究者は考えているようです。そして、内陸北端に道隆寺は建立されます。
 港には、それを管理する拠点と人材が必要です。中世にそれを担うのは僧侶達です。道隆寺は、備讃瀬戸を行き来する舟からのランドマークとしての機能と、港津の管理施設としての機能を兼ね備えた施設だったのでしょう。
 以前にも見たように、道隆寺は塩飽諸島から、庄内半島にかけての有力寺社を末寺として配下に納め、活発な宗教活動を展開すると同時に、交易活動の拠点でもあったようです。そして、そこを拠点とした僧侶たちは真言密教系の修験者の影がうかがえます。 道隆寺から南に伸びる町道は、鴨神社 ・金倉寺・善通寺を経て、中世南海道にアクセスしていたのです。

道隆寺山門

道隆寺には、開創から貞享 3年 までの寺歴を記 した「道隆寺温故記」があります。
これは天正16年頃に、古記録をもとに、住持良田が記されたものとされます。これによると、創建は平安時代初期に遡るとします。しかし、史料的にたどれるのは寺に伝わる鎌倉時代作とされる絹本着色星曼荼羅図からで、中世前期の建立と研究者は考えているようです。「堀江津」の成立と道隆寺の創建(再興?)は密接な関係があるようです。これについても以前にお話ししましたので省略します。

貞治 4(1365)年讃岐守護細川頼之に宛てた足利義詮御教書に次のように記されます
「讃岐国葛原庄、堀江津 両所公文職 云々」
ここからは、葛原庄と堀江津の公文職が兼務されていたことが分かります。葛原庄は賀茂神社領 となっていました。両所の公文職が兼務されていたことは、鎌倉幕府滅亡後は、堀江津が賀茂社の管理下に置かれていたことを意味します。
鴨脚文書「賀茂社社領 目録」の寛治4(1090)年 7月 13日 官符には、讃岐國葛原庄田地 60町が御供田として寄進されたことが見えます。以後弘安9(1286)年の鴨御祖大神宮政所下文の頃までには、現在の北鴨・南鴨の一帯は、賀茂社領葛原庄 として立庄されていたと研究者は考えているようです。
香川県多度津町 : 四国観光スポットblog
南鴨の鴨神社

南鴨にある鴨神社からは、鎌倉時代の亀山焼巴文軒丸瓦が出土しているほか、室町期以前の紙本大般若波羅蜜多経も所蔵されています。さらに、昭和22(1947)年には、本殿北側の老松の根元から 5,898枚 の銅銭が出てきました。この中には、漢の五鉄銭を最古銭とし、開元通宝や北宋~元銭が含まれていました。鎌倉時代終末期~室町時代前期の中世埋蔵銭の一例です。これだけの銭を「貯金(秘蔵)」勢力が、付近にはいたことを示します。
 南鴨の三宝荒神境内には、文安2 (1445)年の銘のある砂岩製の宝筐印塔があります。これは鴨神社の神宮寺とされる法泉寺のものだった伝えられます。
 以上のような「状況証拠」から鴨神社の創祀が鎌倉時代に遡ることは間違いと研究者は考えているようです。
 さらに鴨神社の勧進が、賀茂社領荘園の成立と無縁ではないこともうかがえます。その後、長亨2(1488)年賀茂社祝鴨秀顕当知行分所々注文案に至るまで、賀茂社による当庄の支配が続いていたようです。
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東白方の熊手八幡宮

 安楽寿院は、鳥羽法皇が離宮の東殿を寺 として、荘園 14箇 所を寄進して成立しました。その荘園のなかに「多度庄」があります。
多度庄の位置は、康治2(1143)年 の太政官牒をもとに
「三井郷の内の、大字三井の大部分を除いた地域全体」

とされます。この荘域は、東白方の熊手八幡宮の氏子の範囲と一致すると多度津町史は記します。
 現在、西白方の仏母院の境内には、熊手八幡宮境内から移転してきたと伝えられる嘉暦元(1326)年銘の凝灰岩製五重石塔があります。これから熊手八幡宮の創祀が、鎌倉時代以前に遡ることがうかがえます。12世紀後半には荘園の鎮守社が史料上に見られるようになります。荘民の精神的支柱 として熊手八幡宮が多度庄の鎮守社に取り込まれたのかもしれません。
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熊手八幡宮とその向こうに広がる備讃瀬戸 

その後「多度庄」は、高野山文書の天福2(1234)年の多度荘所当米請文などにみえ、鎌倉時代後期までは存続したようです。しかし、室町時代には「伝領不詳」となり、15世紀前半には、史料上から姿を消します。どこへ行ったのでしょうか

その犯人は、天霧城の主である香川氏が最も有力なようです。
 15世紀末からの内部抗争で讃岐守護細川京兆家が衰退していくのを契機に、守護料所の押領・所領化を勧めます。そして三野の秋山氏などの国人領主層の被官化等を進め、戦国大名化への道を歩み出します。多度庄や葛原庄が史料上から姿を消していく時期と、香川氏の伸張時期は重なります。天霧城周辺の荘園は、香川氏によって「押領」されたとする証拠は充分のようです。
現在の天霧城跡のアウトラインも、この頃に成立したようです。
天霧城 - お城散歩

本城跡の各曲輪には、堀や土塁、石塁、井戸、枡形虎口等の多数の防御施設が確認されています。これらの施設は、永禄6(1563)年頃の阿波守護三好氏や天正元 (1573)年 の金倉氏、天正 6(1578)年頃の土佐守護長宗我部元親らとの合戦への備えとして、増設されたものなのでしょう。

 一方、香川氏の居館は多度津城跡とされます。
多度津陣屋 多度津城 天霧城 余湖

 ここは桃陵公園として発掘されないままに開発されたので遺構が残っていません。香川氏が海浜部に居館を築いた理由として、港津である多度津を掌握し、過書船による利益の獲得が大きな目的だったとされます。香西氏や安富氏と同じく海上交易からの利益が香川氏の勢力伸張の元になっていたのでしょう。多度津の築城時期はわかりませんが、守護代として西讃を領有した14世紀終末期には築城されていたのではないでしょうか。
 この頃には、また賀茂社による葛原庄の支配は継続していました。そして堀江津が多度郡内の港津機能の大きな部分を担っていたようです。それが香川氏の勢力が伸びてくる15世紀末以降に、多度津城の下の桜川河口に港津機能は移動したと研究者は考えているようです。それは『兵庫北関入船納帳』に「堀江津」ではなく、「多々津」 と記載されるようになったことからもうかがえます。

以上、古代から中世にかけての多度津の港湾の移動と、その背景勢力について見てきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

津田湾古墳 地図2

津田湾に、なぜ多くの古墳が並ぶのかについては、多くの議論がされてきました。その中で、同じように古墳が並ぶ瀬戸内海の港町との比較でいろいろなことが分かってきたようです。まずは、その「研究史」を見ていくことにします。テキストは「古瀬清秀 岩崎山古墳群について    岩崎山第4号古墳発掘調査報告書 2002年」津田町教育委員会です。
昭和31年に、近藤義郎氏が牛窓湾岸の古墳についてその性格を研究ノートという形で次のように提示します。
津田湾 牛窓古墳群

 港町として栄えた牛窓には、天神山古墳を始めとする50mを越える前方後円墳5基が年代を追って順番に、平野の少ない牛窓湾岸に築造されます。それを「畿内勢力」が瀬戸内海ルートにおいた港湾拠点と関連づけます。「畿内勢力」の要請・後盾を得た吉備国邑久の豪族が、拠点港や交易ルートの管理権を握り活躍し、死後にこの古墳に埋葬されたという仮説を提示します。
 これが瀬戸内沿岸に造られた初期の前方後円墳について、最初に歴史的な位置づけを与えたものとなり、その後の研究の指標となります。

これを受けて昭和41年に、津田湾の岩崎山古墳群の発掘調査に参加した地元の六車恵一氏は、次のように発展させます。

津田湾古墳 奥崎4号墳

 津田湾岸の前半期古墳群は、牛窓と同じ環境にあること。そして岩崎山第4号古墳など5基の古墳に埋葬者は、海運、港湾泊地、水産等、水路防衛などの海を背景とした首長層であったこと。さらに瀬戸内海には古くより2つの航路があり、津田湾をその四国側ルートの拠点港に位置づけます。
ヤフオク! - 日本の考古学〈4〉古墳時代(上) 近藤義郎/藤沢...

さらに六車氏は、昭和45年に刊行された河出書房新社の「日本の考古学」シリーズの中で、自説をさらに補強します。

 六車氏は担当した「瀬戸内」の中で、瀬戸内海の沿岸部や島嶼部の前期前方後円墳を「畿内勢力の拠点の形成」という視点で捉えます。その背景には「畿内勢力の朝鮮半島侵略の事業」として、そのルートになる瀬戸内海の海上権確保のための拠点設置という戦略があったことを指摘します。そして、津田湾岸の古墳もその拠点の一つで、難波津から西行し、芸予諸島で北岸航路に合流する瀬戸内海航路に合流するルートの一環だったとします。
津田湾 瀬戸内海の拠点港

 次いで角川書店の『古代の日本』シリーズで、間壁忠彦氏は次の点を指摘します。
 牛窓湾や津田湾、山口県平生湾などに並ぶ前方後円墳の築造年代が前期後半から中期前半に限定されること。それは「畿内勢力」の朝鮮半島進出時期と重なります。同時に、朝鮮半島進出に瀬戸内海沿岸勢力も深く関わったこと、それが彼らの性格を物語っていることを指摘します。津田湾岸の古墳群も4世紀後葉から5世紀にかけて作られたものです。
 こうして津田湾の前方後円墳は、讃岐東部の海上ルート確保と、朝鮮半島南部の拠点確保に強い意欲をもった首長墓として注目されるようになります。

 昭和57年に玉木一枝氏は、讃岐の前方後円墳の特徴について次のように指摘します。
①狭いエリアに限定されながらも、100基を越える前方後円墳が築造されていること
②それも墳長40m前後の小型前方後円墳が大半で
③前期に限れば、前方部の形態がバチ形を呈する
さらに昭和60年には、香川県における前期古墳の特質として
①墳長30~40mの小形の前方後円墳の多いこと
②それらには盛土古墳と積石古墳の2種類があり
③埋葬施設の主軸方向が東西指向が強い
ことをあげます。その上で、津田湾岸の岩崎山第4号古墳、龍王山古墳などは、この傾向に反して
④竪穴式石室は南北方向を向くこと
⑤刳抜式石棺が導入されていること
をあげ、津田湾岸の古墳が香川県内においては極めて特異な存在であることを指摘します。

津田湾岩崎山4号墳石棺
岩崎山第4号古墳の地元火山産の石棺
津田湾岸の前期古墳に畿内色が強いわけは?
以上の研究史からわかることは、瀬戸内海沿岸で前期前方後円墳が集中するエリアは、畿内勢力の対外交渉を担う瀬戸内海航路の港湾泊地で、「軍事・交易」的拠点であったと研究者は考えているようです。
 その拠点の一つが津田湾岸で、そのためここに築かれた前期古墳は、讃岐の他の地域とはかなり異なった性格をもつようです。
それでは「畿内勢力の地域拠点」とは、具体的にどんな意味を持っていたのでしょうか。
検討材料として、研究者は次の2点を挙げます。
①墳長50m以上の前期前方後円墳が3基も集中すること
②その埋葬施設に地元の火山産凝灰岩製の割抜き式石棺などが使用されていること
これらについて具体的な古墳のありようが次のように検討されます。
①について岩崎山第4号古墳、赤山古墳を具体的に見ていきます
この2つの古墳は、墳長60m規模です。
津田湾岩崎山4号墳石棺3
岩崎山第4号古墳の副葬品
前者からは「中国鏡2面、碧玉製腕飾り類5個以上、硬玉勾玉を含む多数の玉類、豊富な鉄器類」
後者からは「大型倭鏡2面、多量の玉類、多数の碧玉製腕飾り類」
といった副葬品目は、他の前方後円墳を圧倒します。
 この地域で前期・前方後円墳は古枝古墳、奥第3号、13号、14号古墳、中代古墳などがありますが、どれも墳長30m前後の小型です。また副葬品目は中国鏡1面、玉類、少量の鉄器類といった組合せが大半です。

  津田湾 奥古墳群

昭和48(1973)年に、津田湾岸から山一つ内陸側で奥古墳群の発掘調査が実施されました。
 寒川平野から津田湾に抜ける峠道を挟んで、たくさんの古墳(前方後円墳3基含む奥古墳群16基)がありました。昭和47(1972)年にゴルフ場が建設されることになり、発掘調査が行われます。この調査で、奥第10~12号などの弥生時代後期の墳丘墓や前方後円墳の奥第3、13、14号古墳が発掘されました。奥3号墳からは卑弥呼に関係するといわれている三角縁三神五獣鏡(魏鏡)も出土しています。これは京都椿井大塚山古墳出土のものと同范鏡です。
 また、奥14号墳は全長30mの前方後円墳で2基の竪穴式石室からは、銅鏡2枚の他に鉄製武器、鉄製工具、勾玉・管玉・ガラス玉などの装身具が発見されています。しかし、残念ながら今は消滅したようです。
  これらの古墳群の立地と変遷から次のようなことが分かってきました。
①奥古墳群は、津田湾西にある雨滝山山麓に、長尾平野と津田湾の両方を見下ろすように立地する。
②また、津田湾と長尾平野を結ぶ谷道ルートを見下ろす尾根に立地する。
 つまり、奥古墳群は内陸の平野部だけでなく、津田湾をも意識した立地になります。さらに重要なことは、この奥古墳群は津田湾の前期古墳より早い時期に造られていることです。そこに葬られた首長たちは、頭部を西に向けて東西方向に埋葬されます。墳丘の前方部はいずれもバチ形に近い形態で、埴輪類はありません。これらの特徴は、さきほど紹介したように玉本氏の指摘する「讃岐の前期古墳」の典型です。これを研究者達は「在地性(讃岐的特徴)の強い前方後円墳」と呼んでいます。
 それに比べて、津田湾岸の古墳をもう一度見てみましょう
  岩崎山第4号古墳は、柄鏡形の細長く延びる前方部をもち、南北方向に埋葬されています。これはすぐ北側の直径約30mの円墳、龍王山古墳でも同じです。このエリアでは南北に造られた狭くて長い6,1m竪穴式石室に埋設されています。また円筒埴輪のほかにも、多彩な形象埴輪類が出てきます。ここから「在地色」はうかがえません。それよりも畿内の首長墓のスタイルに似ています。
 
 ここまでだけで、内陸の奥古墳群と津田湾の前方後円墳を比べると、「畿内勢力が津田湾に進出・定着」し、瀬戸内海ルートの拠点港湾としたと早合点しそうになります。しかし、そうは言えないようです。
津田湾 古墳変遷図
まず古墳の築造変遷を上図で、見てみましょう。
①2期の積石塚の川東古墳、奥第3号古墳の築造に始まり、
②奥第14号古墳、古枝古墳、奥第13号古墳、赤山古墳、岩崎山第4号古墳、けぼ山古墳
と、両地域で継起的に築造され続けています。
ここからは津田湾と寒川平野の双方の首長たちは、対立関係にあったのではなく、むしろ並立依存関係にあったのではないかと研究者は考えているようです。そして、古墳のスタイルの違いを、ヤマト王権との関わり方の強弱に求めます。つまりヤマト王権へのベクトルが大きいほど古墳のスタイルから在地性(讃岐型特性)が消えて、畿内スタイルになっていくと考えます。

 雨滝山とその東隣にある火山の南側は長尾平野になります。
ここは高松平野の最東端に当たり、「袋小路」でもあります。この地点に、四国最大の前方後円墳である富田茶臼山古墳が周囲を威圧するように姿を見せます。それは、上図から分かるように、津田湾に大型の古墳が築造されなくなる時期と重なります。これをどう考えればいいのでしょうか。
かつては、これをヤマト政権による「東讃征服の武将の勝利モニュメント」と考える説もありました。ヤマトから派遣された武将によって、東讃がヤマトに併合され、その主がここに眠っているという説です。
冨田茶臼山古墳
富田茶臼山古墳

 しかし、現在では津田湾の親畿内勢力によって東讃の覇権が確立された結果、統合モニュメントとして富田茶臼山古墳が出現することになったと研究者は考えているようです。
 そうだとすると津田湾は、ヤマト政権の「瀬戸内海航路の拠点港湾」としての役割だけを担っていたのではなくなります。津田湾勢力は、寒川平野などの内陸部と一体化しつつあったと考えられます。その津田湾勢力の内陸進出を通じて、畿内勢力は津田湾勢力の後ろ盾として四国経営上、重要な地域であった讃岐東部を影響下に納めたということになります。その結果、東讃の古墳はこれ以後小型化し、同時に地域色を急速に失っていきます。

古墳終末期の讃岐の古墳造営状態を示す地図を見てみましょう。
綾北平野の古墳 讃岐横穴式古墳分布
大きな石室を持つ古墳が赤や紫の点で示されています。
東讃には大型石室をもつ古墳はありません。つまり、古墳を造れる地方豪族が不在であったことを物語ります。富田茶臼山古墳の後は、ヤマト王権の「直属化」が進んだとも考えられます。
津田湾岩崎山4号墳石棺2
火山産石材で造られた岩崎山4号墳石棺の石枕 

火山産石材を用いた割抜式石棺は、何を語るのでしょうか
研究者は、津田周辺で造られた石棺がどこに運ばれたのかを検討します。火山産の凝灰岩は津田湾のすぐ背後にそびえる火山がで産出します。地元では白粉(しらこ)石と呼ばれ、白っぽい色調で肉眼でも見分けができます。津田湾岸ではこの火山石が、岩崎山第4号古墳の石棺、赤山古墳の2基・3基の石棺、けぼ山古墳の石室蓋石などに使われています。
 最近の調査研究で、この火山産石棺が讃岐だけでなく他県にも「輸出」されていたことが分かっています。例えば
①岡山県吉井川流域の代表的な前期古墳、備前市鶴山丸山古墳の特徴的な形態の大型石棺
②徳島県鳴門市大代古墳の舟形石棺
③大阪府岸和田市久米田貝吹山古墳の突帯をもつ石棺
などです。これらはいずれもそのエリアを代表する前方後円墳か、は大型円墳です。
①の鶴山丸山古墳は、牛窓湾から吉井川を十数km北に遡った地域にある直径約55mの大型円墳です。
丸山古墳 - 古墳マップ

 竪穴式石室には大型の家形石棺が納められています。石棺の周囲から大、中型倭鏡30面以上、書玉製品などが出てきます。石棺の形からは、岩崎山第4号古墳より少し新しい時期の築造でとされます。
 この地域には先行する花光寺山古墳、新庄天神山古墳といった大型前方後円墳や大型円墳があり、組合せ式石棺や刳抜式石棺が使われています。花光寺山古墳は墳長100mと大型ですが、柄鏡形の前方部で、岩崎山第4号古墳と相似形の前方後円墳です。石棺は南北方向で、埴輪が並べられているのも津田湾岸の古墳とよく似ています。
 牛窓湾岸の古墳と吉井川東岸流域は、古代吉備世界の中において、特殊器台形埴輪を共有するエリアです。それは前方後方墳系列から始まる備中地域とは、古墳文化の異質とされます。吉井川流域の東岸域は、畿内地方の古墳文化に近いと研究者は考えているようです。
   この古墳の首長が眠っていた石棺は、瀬戸内海を越えて讃岐の津田湾の火山石で作られたものが運ばれてきています。刳抜式石棺や石室石材は非常に重いため、運搬には多大の労力と技術が必要とされます。にもかかわらず、讃岐から運ばれているのです。香川の津田湾の奥4号墳の首長と、この古墳の主とは「同盟関係」にあったのかもしれません。
津田湾 鳴門大代古墳jpg
鳴門市大代古墳
②の大代古墳は鳴門海峡を遠望する丘陵上にある墳長54mの前方後円墳です。
柄鏡形の前方部をもち岩崎山第4号古墳に、大きさや形が非常によく似ています。同じ設計図から造られたのかもしれません。岩崎山第4号古墳と比べてみると、副葬品の組合せなどからこちらの方が少し新しいようです。この古墳は後円部に南北方向に竪穴式石室が造られています。
津田湾 鳴門大代古墳の火山産石棺

そこに、津田湾の火山石製の舟形石棺が置かれています。津田から舟で運ばれてきたのでしょう。

③の久米田貝吹山古墳は大阪南部の、大阪湾を遠望できる標高35mの低い丘の上にあります。

津田湾 久留米田貝塚山古墳

 約130mの大型前方後円墳で、竪穴式石室の中に讃岐の火山石製割抜式石棺がありました。しかし、盗掘のため砕片だけになってしまいました。石棺片には突帯状の彫刻があるので、時期的には津田湾古墳群の岩崎山第4号古墳と同時代に作られたものとされます。石室石材には、徳島県吉野川流域産の紅簾石片岩が使われています。石室用材を鳴門から、そして石棺は讃岐の津田から舟で運んできた首長が葬られたようです。
  以下の3つの古墳の首長達は、紀伊水道を挟んで海のルートで結ばれていたことが分かります。
岸和田久米田貝吹山古墳 → 紀伊水道の四国側の鳴門市の大代古墳 → 東讃岐・津田湾岸の奥4号墳

ここで、もう一度津田湾岸の古墳に戻ることにしましょう。
香川県の前期前方後円墳は、次のような特徴がありました。
①墳形では前方部がバチ形に開く形態
②埋葬施設の主軸が東西方向を指向
③埴輪をもたない場合が多いといった特徴を示す。
これに対して、津田湾岸の古墳は、岩崎山第4号古墳・龍王山古墳のように前方部が細長く延び、埋葬施設の石棺は南北方向を向きます。ここから津田湾岸の前期古墳は、讃岐型の在地的なスタイルではなく、畿内的スタイルが強いことをもう一度確認しておきます。 
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岩崎4号墳測量図

この有り様は、津田湾だけでなく火山石製石棺等が運ばれた上のエリアの古墳にも共通するというのです。例えば、吉井川流域東岸の備前を代表する前期古墳は、畿内地方と強い連関性があることを見てきました。
その両者をつなぐ橋頭保として牛窓湾が近畿勢力によって打ち込まれます。同じように寒川平野の讃岐内陸部と畿内地方を結ぶ橋頭保として津田湾があったと研究者は考えているようです。
牛窓は、吉備中枢・備中勢力への牽制
津田は、高松の峰山勢力への牽制
が重要な役割だったのでしょう。どちらも畿内勢力の地方への進出と勢力拡大政策の窓口だったというのです。そして、畿内勢力が東吉備や東讃岐で覇権を確立した時には、その地域は地政学的意味を失います。それは「讃岐型前方後円墳」の築造が終わるときでもあったと研究者は考えているようです。
 津田湾岸の首長は単に水産、航海術、港湾泊地等の実権を掌握したから優勢を示したのでなく、畿内勢力の後ろ盾にしていたから地域で最優勢を維持できたのかもしれません。それが富田茶臼山の出現につながるのでしょう。
津田湾 古墳変遷図2

以上をまとめておきましょう。
①津田湾の古墳は、畿内勢力進出の橋頭保であった。そのため寒川などの内陸部の古墳も連携した動きを見せた。
②バチ形の前方部をもつ在地の前方後円墳の築造の流れの中に、極めて外来的な様相を示す前方後円墳の築造が赤山古墳、岩崎山第4号古墳、けぼ山など、4世紀中葉から5世紀初頭まで連続して築造され続ける。
③それは在地の首長の前方後円墳が墳長40m前後なのに対し、津田湾のものが一回り大きい60m規模であったことからもうかがえる。
津田湾岸の首長たちの努力が報われ、その役割を終えたとき、在地色をぬぐい去った冨田茶臼山古墳が悠然と姿を現します。そして以後は、単なる港湾泊地となった津田湾に、大型古墳が築造されることはなかったのです。
最後に津田湾の前方後円墳に葬られたのは、どんな人たちだったのでしょうか?
親畿内勢力の在地首長だったのか、あるいは畿内から派遣された首長であったかについては、研究者は「現状では不明」と答えています。
参考文献
1古瀬清秀 岩崎山古墳群について   
 岩崎山第4号古墳発掘調査報告書 2002年  津田町教育委員会

さぬき市歴史民俗資料館HP 考古室ガイドさぬきの古墳時代編

2近藤義郎「牛窓湾をめぐる古墳と古墳群」『私たちの考古学』10 1956(昭和31)年
3六車恵一「讃岐津田湾をめぐる四、五世紀ごろの謎」『文化財協会報特別号』香川県文化財保護協会
4六車恵一。潮見浩「瀬戸内」『日本の考古学』IV 河出書房新社1966年
5真壁忠彦「沿岸古墳と海上の道」『古代の日本』4 角川書店 1970年
6玉木一枝「讃岐地方における前方後円墳の墳形と築造時期についての一考察」『考古学と古代史』同志社大学考古学シリーズ1982年
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8渡部明夫「四国の割抜式石棺」『古代文化』46  1994年
9岡山県史編纂委員会編『岡山県史』第18巻 考古資料 1986年


 
  讃岐地には2000を超える横穴式石室墳が築かれたようです。しかし、多くは失われてしまいました。現在、石室の規模や形が分かっているのは、その約1/10の235になるようです。その玄室規模 (面積) をグラフで示すと次のようになります。
綾北 香川の横穴式古墳規模

ここからは次のようなことが分かります。
①玄室床面積5㎡前後の石室が最も多く、8㎡未満の横穴式石室 が 全体の約8割
②10㎡ 級の石室は26基で、全体の一割強
③13㎡を超える大型クラスはわずかに8基
ちなみに
床面積5㎡では、玄室長3,5m 幅1,2m 、
床面積8 ㎡では、   4m   幅2m ほどの広さになります。 
大形の横穴式石室墳(玄室床面積8㎡以上)がどこに多いか見てみましょう
綾北平野の古墳 讃岐横穴式古墳分布

A 石室が13㎡を越える大型古墳(赤)は、①大野原②綾北③善通寺にしかない
B また大型横穴式古墳は、大野原と綾北に集中する
C 東讃に大型巨石墓は少ない
D 中小河川沿いに大形石室墳が少なくともひとつはある。
A・Bからは、古墳時代末期において①大野原や②綾北平野を拠点にする有力者がいたことがうかがえます。
Cからは、東讃がすでにヤマト政権下の直接統治を受け始め、大型横穴式古墳を造れる首長達が少なくなったことを示すのかもしれません。
Dからは、律令制国家になると讃岐では河川水系ごとに「郡」を設置されます。河川毎に、大型横穴式古墳があるというのは、後の郡領相当の有力者をこのクラスの大形石室墳の造営者層と考えることも出来ます。しかし、巨石墳の分布上の偏りがはっきりと見えます。
ここでは、綾川河口の綾北平野に注目してみましょう。
綾北平野の8㎡を越える大形石室墳を紫色で示したのが下のグラフになるようです。
綾北 香川の横穴式古墳規模2

綾北平野に讃岐では超大型の横穴式古墳が多いことが改めて分かります。 研究者は次のようなグラフも用意しています

綾北 香川の横穴式古墳規模3

一番右のグラフで見方を説明すると、讃岐の13㎡ 超クラスの8基の地域別数を示したグラフです。真ん中に8基とあるのが讃岐にある古墳数です。綾北平野が赤、三豊が黄色で示されています。阿野郡北部にあたる綾北平野と椀貸塚古墳・平塚古墳などの3つの巨石墳が並ぶ大野原古墳群が突出しています。6世紀末期の蘇我氏全盛時代には、この2つのエリアに、讃岐の最強勢力はいたと言えそうです。
大型石室墳が集中する綾北平野の後期古墳 ( 横穴式石室墳 ) の分布を見てみましょう
綾北 綾北平野の横穴式古墳分布
全体で45の大型古墳(横穴式)があったようです。これらを分布からグルーピングする3つに分かれれるようです。

綾北 綾北平野の横穴式古墳分布2

ひとつは、城山温泉周辺の醍醐古墳群です。
ここには、綾北平野最大の巨石墳があります。醍醐 2 号墳 (15.8 ㎡) と同 3 号墳 (15.6 ㎡)です。 三豊 南 部 の 平塚古墳(大 野 原 古 墳 群 18.3 ㎡) に次ぐ規模で、このサイズの巨石墳は他に縁塚 4 号墳 ( 三豊南部 ) と大塚池古墳 ( 善通寺 ) が知られるだけす。 醍醐4号墳 (11㎡ ) と同7号墳 (10.9 ㎡ ) も他地域ではトップクラス巨石墳のクラスです。
 綾川を挟んだ蓮光寺山南麓の鴻ノ池周辺にも、ひとつのグループがあります。
山ノ神 2 号墳 ( 推定 10.6 ㎡ )、鴻ノ池 4 号墳 (10.4 ㎡ )を筆頭に巨石墳が集中します。巨大な石組みだけが鴻ノ池に残る鴻ノ池 1 号墳もこれらに匹敵する規模のようです。北側の烏帽子山中腹には、これらを見下ろすように、単独で綾織塚古墳 (13.8 ㎡)があります。
 平野南端の丘陵には新宮古墳(12.8 ㎡)が単独で立地します。

綾北平野に巨石墳が次々と造られたのは、いつなのでしょうか?
綾北平野に巨石墳が集中することの意味を知るためにも避けては通れない課題です。今のところ綾北平野では 6 世紀後半より以前の横穴式墳は見つかっていないようです。

坂出古墳編年

雄山山麓には6世紀前半代初期の横穴式石室を持つ雄山古墳群がありますが、古墳時代中期の後半段階以降、綾北平野は目立った古墳が確認できない空白エリアであったようです。
 大型石室墳の築造は新宮古墳から始まるようです。
そして、これと同時に中小形の横穴式石室墳も登場します。新宮古墳の石室は、大野原の椀貸塚古墳の特異な形態(複室構造)を引き継ぎ、その一部を省略したものと研究者は考えているようです。型式的には、椀貸塚古墳と平塚古墳の中間にあたるようです。つまり 
①椀貸塚古墳→ ②新宮古墳 →③平塚 

という系譜に位置づけられます。
年代は、羨道前面から出土した須恵器の特徴から6世紀末から7世紀初頭とされます。さらに、綾織塚古墳と醍醐3号墳の石室は、新宮古墳の特徴を簡略化させながら引き継ぐので、新宮古墳に続く時期と研究者は考えているようです。
 醍醐2号墳は、さらにもう一段階新しいもので、醍醐4号墳、鴻ノ池1号墳,同4号墳、山ノ神2号墳は醍醐3号墳や醍醐2号墳と並行して、同時期に造られたようです。
 玄室と羨道がほとんど一体化するなどニュースタイルの醍醐7号墳、同 8号墳、鴨庄1 号墳、お宮山古墳は、さらに新しい時期の古墳となるようです。
 そして醍醐7号墳で綾北平野の巨石墳築造は終わります。
この終焉期は横穴式石室は7世紀半ばの角塚古墳(大野原)や大石北谷古墳(旧寒川郡)に共通するので7世紀半ば頃と研究者は考えているようです。つまり、先述したように大野原や綾北平野で横穴式石室を持った大型墳が築かれるのは7世紀半ばまでなのです。それは中央での蘇我氏の全盛期と符合します。
ここで研究者は、次のような疑問を出します。
①新宮古墳が造られてから半世紀の間に綾北平野には、いくつの大型古墳が造られたのか。
②8㎡以上だと24の大型古墳が造られたことになるが、ひとつの氏族だけで半世紀で築けるのか
③半世紀だとせいぜい2世代か3世代の代替わりが行われたとすると
24÷2世代=12グループ 
24÷3世代=8グループ 
のこのクラスの墳墓を築きうるような有力グループの存在を考えなければならなくなる。
そんなに多くの有力者が綾北平野に並び立っていたのか?

研究者が投げかけているのは、飛鳥のヤマト政権が豪族連合政権であったように、綾北平野にも讃岐の有力豪族グループがここに結集していたのではないかという仮説です。
綾川流域の平地を見下ろす山腹の各所に、巨石墳が分かれて築かれている事実はこの推測に合います。それでも醍醐古墳群や山ノ神・鴻ノ池の古墳群に属する巨石墳は多過ぎるかもしれません。これら自体が複数グループの有力者の共同墓所的な性格を持つのなら説明ができます。
 
綾北平野の隣接地域では、逆の展開が読み取れるようです。
綾川を遡った羽床盆地では、古墳時代中期から後期の初めまで津頭東古墳、津頭西古墳、般若ヶ丘古墳などの有力墳が連続して築かれていました。ところが後期半ば以降は、大形の横穴式石室墳が築かれることはありませんでした。額坂峠を越えた城山西南麓一帯には、中期末から後期後半までには国持古墳、久保王塚古墳など有力墳がありますが、新宮古墳以降には大型石室墳はでてきません。
 国分寺盆地でもや大形の横穴式石室を持つ石ヶ鼻古墳がありますが、石室形態から新宮古墳に先行するものです。新宮古墳以後は、横穴式石室墳はありません。
 こうした状況を踏まえて、研究者は次のような仮説を提出します。
  古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。
大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。
 このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)

 この立場に立つと、次のような事が描けるようになります
①6世紀末に蘇我氏は、物部氏を破り、物部氏の持っていた瀬戸内海の拠点を自己の支配下におさめた
②物部氏の支配下にあった大野原・三野津・綾北平野は蘇我氏の影響下に入った。
③綾北平野の勢力は、大野原勢力と同盟し新たな技術や文化を取り入れた
④そして、綾北平野の入口に大野原勢力から学んだ大型横穴式古墳を造営した
⑤新宮古墳は、綾川流域や周辺地域の統合のモニュメントでもあった
⑥以後、連合関係を形成した有力者達は綾北平野の開発を進め、それぞれの拠点に「墓域」を開き大型墳墓を次々と造営していく。
⑦蘇我氏の失脚後も、白村江以後の臨戦態勢の中で勢力を維持し朝鮮式山城を城山に築く。
⑨このような危機感の中で指揮権を握り、他地域の豪族よりも一歩ぬきんでた力を持つようになる。
⑧さらに律令体制下においては、府中への国衙誘致を行い、南海道整備なども進めた

ここからおぼろげながら見えてくることは、7世紀前半は綾北平野が讃岐の「飛鳥」だったといいうことでしょう。ここに周辺の有力豪族が集中して拠点を置いていたことがうかがえます。そのために、ヤマト政権から白村江以後の臨戦態勢下で朝鮮式山城の築城を命じられて時にも、この地を守るために城山を選んだのでしょう。さらに、律令体制が整えられる7世紀末に、国府をこの地に造営し、南海道を整備したのもこの地を拠点とする勢力だったのでしょう。それを、綾氏とする考えもあります。
  しかし、綾氏単独の支配エリアではなかった。複数の有力豪族が拠点を置く政治空間だったというのは面白いと思います。

以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献
         大久保徹也(徳島文理大学)  坂出市綾北平野の巨石墳

     
1三豊の古墳地図

まず古代三野郡を取り巻く旧地形を見ておきましょう。
①北部で袋状に大きく湾入する三野津湾と、そこに注ぐ高瀬川旧河口部の不安定な土地(低地)
②南部で宮川・竿川が財田川に合流する地点周辺に広がる低地
①・②ともに条里型の施工は、中世になって行われたと考えられ、平野部に古代の集落は見つかっていません。現在のように平野が広がり、水田が続く光景ではなく、三野平野は古代は入江の中だったようです。これに、古代以前の集落遺跡の立地を重ねると、せまい耕地と、それを取り巻く微髙地にポツンポツンとはなれて集落が散在していたようです。
三野 宗吉遺跡1

宗吉窯から見る三野津湾
三野津湾の新田化は近世になってから
 三野津湾には、高瀬川と音田川が注いでいますが、流れが急で大量の土砂を流域に運びました。高瀬川は三野津湾に注ぐ手前で、葛ノ山(標高97m)と火上山から南西に延びる支丘(標高100m前後)が、行く手をふさぐように張り出しています。しかも、ここが音田川との合流点です。
DSC00012
合流点に建つ横山神社
そのためこのあたりから上流は、土砂が堆積し湿地になっていたようです。この付近の字名「新名」は、中世以降の開発であることをうかがわせます。ここには条里型地割が引かれていますが、その施行は中世にまで下がると研究者は考えているようです。
DSC00016
「新名」付近に溜まった土砂は河口部まで続き、三角州と自然堤防を形作ります。この自然堤防上に、鎌倉時代末期に建立されるのが日蓮宗の本門寺です。つまり、本門寺の裏は海で舟でやってこれたのです。三野津中学校は海の中でした。
DSC00055
本門寺付近を流れる高瀬川
 土砂の流入を加速化したのが伐採による「山野の荒廃」だったようです。そのため三野津湾は土砂で埋まり、近世にはそこが干拓され新田化されることになります。そして現在の姿となります。

DSC00076
 以上のような環境は、古代の稲作定住には不適です。
西からやってきた弥生人達は三豊平野・丸亀平野では、それぞれ財田川や弘田川の河口に定住し、次第にその流域沿いにムラを形作っていき、それがムラ連合からクニへと発展していきました。しかし、三野エリアでは平野が未形成で、ムラが発展しにくい環境であったようです。これが三野地区の停滞要因となります。そのため古墳を作る「体力」がなかったのです。これでは、前方後円墳もできません。ある意味、ヤマト政権にとって経済的・戦略的意味がない地域で「空白地帯」として放置されたのかもしれません。

三野平野1
復元地形に古墳を書き入れたものが上図です。
 三野郡域には前期末の矢ノ岡古墳と、葺石と埴輪列を伴う中期後半の円墳・大塚古墳以外に、3~5世紀の前期・中期古墳がありません。古墳の築造が活発になるのは、6世紀中葉のタヌキ山古墳を始まりとして、6世紀後葉~7世紀前葉に限られます。また前方後円墳もないのです。これも生産力の未発展としておきましょう。
古墳時代後期になって現れた三野エリアの古墳を見ておきましょう。
11のグループに分けられますが、この中で石室の規模から「準大型」にランク付けできるのは石舟1・2号墳(麻地区Ⅶ群)・延命古墳(XI群)の3つだけです。石舟古墳は玄室天丼石を前後に持ち送る穹寫的な構成から丸亀平野南部地域との関係性を、また延命古墳は片袖式で畿内的な要素を指摘できると研究者は指摘します。また古墳が集中する地域は、IV~Ⅵ群がまとまる高瀬郷域周辺であり、高瀬川旧河口域が中心地域と考えられます。しかし、この地域では大型とされる延命古墳や石舟古墳群(麻地区)は、中心部から離れた外縁にあります。なぜ中心部から遠く離れた所に、大型古墳が作られたのでしょうか。課題としておきましょう。

南海道と三野郡の設置 地図の太い点線が南海道です
南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
②南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
③郡境と南海道を基準ラインとして条里制引かれたが、その範囲は限定的であった。
 「和名類聚抄」には、三野郡は
勝間・大野・本山・高野・熊岡・高瀬・託間
の7郷が記されています。この他に、阿麻(平城宮木簡)・余戸(長岡京木簡)の2郷が8世紀の木簡には記されているようです。しかし、余戸郷の所在地については手がかりがありません。阿麻(海)郷は、託間郷と同じが、その一部である可能性が高いと研究者は考えているようです。
古墳時代以後の三野郡内の「生産拠点」を地図に書き入れたのが下図です。
三野平野2
まず古代の三野郡の復元図から読み取れることを重複もありますが確認しておきましょう。
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。

三野 宗吉遺跡1
ここからは、生産地拠点が三野津湾沿岸と河川流域の丘陵部に展開していることが分かります。その生産拠点を押さえておきます。
須恵器生産地の三野・高瀬窯跡群は、三野津湾の南・東側と高瀬川上流域丘陵部(託間・高瀬・勝間郷)
宗吉瓦窯跡は、三野津湾南岸部の丘陵地帯(託間郷)に立地。
 郷を越えた託間郷の荘内半島からの燃料薪調達が可能になって以後は大量生産が実現
③高瀬郷内の東大寺の柚山は、三野津湾北側の毘沙古山塊周辺
④阿麻郷での塩生産は、山名「汐木(しおぎ)山」より、三野津湾から荘内半島沿岸部にかけての塩田を想定
⑤865年(貞観7)に停廃された託間牧は、妙見山の北東麓の本村中遺跡を想定。轡(くつわ)や鏡板などの馬具が出土
 こうした沿岸部と周辺の開発に対し、南海道以東(以南)の阿讃山脈までつながる広大な山間部では、生産・原材料供給地としての役割をこの時点においては果たしていなかったようです。
 7世紀前半までは「低開発地域」であった三野郡に、突然に讃岐で最初の仏教寺院が建立されるのはどうしてなのでしょうか。また、それをやり遂げた氏族とは何者なのでしょうか?
参考文献 
佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論
 

                        

 
Ⅰ大野原八幡神社
明治35年(1902)の『香川県讃岐國三豊郡大野原村 鎮座郷社八幡神社之景』です。ここには約120年前の大野原の八幡神社が描かれています。神社の建物、玉垣、石垣等の配置がよく分かりますが現在とあまり変わらないようです。本殿の後ろに碗貸塚古墳があるのですが、それを書き手は意識しているようには見えません。古墳の開口部のあたりを見ると、土塀巡らされて、石垣の中央部には縦長の巨石があるように見えるのが、今とちがうところでしょう。
この図中には「椀貸塚ノ縁由」として
「相傅ノ昔 塚穴二地主神在リテ 太子殿卜云フ 神霊著シキヲ以テ庶テ穴二入ルモノナシ・・」
と記されています。 ここには「椀貸伝説」とともに、横穴(古墳石室)が「奥の院」として神社の聖域とされ人々の信仰を集めてきたことが分かります。椀貸塚古墳は、大野原八幡神社の本殿の後に神域として祀られ続けて来たのです。そのために、近世の大野原開発の際にも破壊を免れたと言えます。しかし、無傷で残っているのではないようです。古墳と現在の建築物等の関係はどうなっているのか、測量図をみながら再度確認しておきましょう。
1碗貸塚古墳1

碗貸塚古墳の測量図を見て分かることを挙げておきます
①直径37.2mの大型円墳の墳丘高は現状値で9.5mあり、盛土築造である。
②墳丘周囲には二重の周濠と周堤がある。内濠と周堤の幅はほぼ同じで約8m。
③周濠を含めた墓域の直径は70mあり、その占有面積は約3,850㎡。
④石室は両袖式の大型横穴式石室。羨道十前室十玄室(後室)複室構造。
⑤石室規模は全長14.8m、玄室長6.8m、玄室最大幅3.6m 玄室高3.9m、玄室床面積24.6㎡。玄室空間容積は72.7㎡で、全国規模の容量をもつ。
⑥表面観察では葺石や段築は確認できない。
⑧東側には、後から作られた岩倉塚古墳がある。
⑨墳丘南側には大野原八幡神社の本殿、
③東側も応神社と小学校の校庭として削られている。
④北側の周壕は慈雲寺墓地となっている
大野原古墳群調査報告書Ⅰ」は、新たな発見として周堤・周壕をもつ古噴であったことを挙げています
中期古墳の前方後円墳では、伝応神陵や伝仁徳陵のように外堤がめぐり、水をたたえている姿をすぐに思い出します。大型の前方後円墳と周壕は、セットとして私たちにインプットされています。しかし、古墳後期になると外堤は姿を消していきます。逆に、古墳後期の大型円墳に周堤があるのは珍しくなるようです。数少ない周堤を持つ大型円墳に共通するのは、国造クラスの各地域の最有力者の墓に用いられているのです。椀貸塚古墳は、巨大な石室と周堤を持ちます。さて、どんな人物が葬られたのでしょうか?
  碗貸塚古墳の復元イメージは、こんな姿になるようです
1碗貸塚古墳2
 椀貸塚古墳は、複室構造の横穴式石室で、これは九州に系譜がたどれるようです。また周堤をもつ大型円墳は豊前や日向に多いようです。ここでも三豊の古墳は、九州との関係を濃密に漂わします。
復元イメージ図から私がすぐに思い出したのは、下の日向の西都原古墳群の鬼の舌古墳です。
1鬼の窟古墳

 こんな古墳が30年おきに3つ大野原の扇状地台地に並んで作られたのです。これは近くの南海道を通る人たちや瀬戸内海をゆく船からも見えたようです。まさに、三豊の新しいモニュメントだったのです。
1周堤古墳
この時期の後期首長墓で周堤をもつ古墳は、九州の西都原古墳群の大型横穴式石室を持つ206号墳のように国造クラスの抜きんでた首長の古墳に限定されます。そこから大野原の首長は「四国地域の大物」よ想定できるようです。
1大野原古墳 比較図

  碗貸塚古墳の次に作られたのは、平塚・角塚のどちらなのでしょうか? 報告書は
「玄室側壁の石積みの段数の変化では、椀貸塚古墳5段→平塚古墳4段→角塚古墳1段となり、段数の減少傾向が認められ、同時に使用石材の巨石化と壁面の平滑化が進行している。」など5つの点を挙げて、
築造順を「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」としています。
さらに、大野原古墳群のモデルになったのは母神山錐子塚古墳で、それを継承していると研究者は考えているようです。
それでは平塚から見ていきましょう。
 平塚は、八幡神社の御旅所で祭りの舞台にもなります。そのために神輿台や参拝道が作られ封土が削られて薄くなり、石室へ水が浸入しているようです。

1大野原古墳 平塚
①直径50.2mの大型円墳
②墳丘高は現状値で約7m。
③墳丘周囲には幅8.4mの周濠が廻り、それを含めた直径66.7m、その占有面積は約3,490㎡。
④墳丘の大部分は盛土で築造れ、段築・葺石・埴輪は見られない。
⑤両袖式の大型横穴式石室で、玄室の下半1/3程度は流土で埋没。石室規模は、全長は13.2m、玄室長6.5m、玄室最大幅3m玄室高2.6m、玄室床面積18.3㎡、玄室空間容積41.3㎡
次に角塚です。この古墳はその名の通り方墳であることが分かりました。
昭和30年頃に撮影された航空写真では円墳に見え、現在の噴丘表面の大部分は昭和の造成で作られたものであるため方墳か円墳か分かりませんでした。報告書はトレンチ調査から次のように方墳と判断しています。
①長軸長約42m×短軸長約38mの方墳で、推定墳丘高は9m。
②周囲には幅7mの周濠が巡り、周濠を含む占有面積は約2,150㎡。
③葺石、埴輪は出てこない。
④両袖式の大型横穴式石室で、平面を矩形を呈し、玄門立柱石は内側に突出する。
⑤石室全長は12.5m、玄室長4.7m、玄室趾大幅2.6m、玄室長ヱ4mの規模であり、玄室床面積10.1㎡、玄室空間容積25㎡。
⑥周濠底面(標高26m)と現墳丘頂部との比高差は約9mで、讃岐最大規模の方墳であること
大野原の3つの古墳群の特徴は、何なのでしょうか?
報告書は次のように指摘します。
「6世紀後葉から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が3世代に渡って築造された点に最大の特色がある」
さらに、次のような点を挙げます。
①周堤がめぐる椀貸塚古墳、さらに大型となり径50mをはかる平塚古墳、そして大型方墳の角塚古墳というように時期とともに形態を変えていること
②石室は複室構造から単室構造へ、玄室平面形が胴張り形から矩形へ、石室断面も台形から矩形へと変化し、九州タイプから畿内地域の石室への変化が見えること
③三世代にわたる首長墳のる変化が目に見える古墳群であること
どちらにしても、6世紀後半から7世紀前半にかけて椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳と順番に首長墳が築造した大野原勢力の力の大きさがうかがえます。中央では蘇我氏が権力を掌握していく時期に、大野原を拠点とする勢力は讃岐という範囲に留まらず、四国地域内においても突出した存在であったようです。
四国最大規模の巨石墳群としての大野原古墳の他地域へ与えた影響は?
 讃岐で最初に横穴式石室を導入したのは丸山古墳です。しかし、それに続く盟主墳は採用していません。それが築造を停止していた前方後円墳(善通寺の王墓山古墳、菊塚古墳、母神山古墳群の瓢箪塚古墳)が再び築かれる時期に、重なるように横穴式石室墳が姿を見せるようになります。
 この時期の石室は、それぞれが特徴的で個性的な様式でモデルがなかったようです。石室用材は小形で、玄室床面積も10㎡を超えるものはありません。

1大野原古墳 比較図
 それが母神山の瓢箪塚古墳に続く盟主墳の錐子塚古墳に大型横穴式石室が採用されます。複室両袖型石室で、玄室床面積は12㎡を越え、玄門部と羨道部に立柱石を内側に突出させて配置するタイプです。このタイプの石室が大野原古墳群に引き継がれていきます。そして、使用石材の大型化、前室と羨道の一体化と連動した羨道規模の長大化などの流れができあがります。
「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」の変化の中で作られた様式が讃岐各地の石室に導入されていったと研究者は考えているようです。例えば、国府が築かれる綾川下流域では、痕跡化した複室構造を認める新宮古墳、前室と羨道は一体化するが羨道天井部を一段下げて高架した綾織塚古墳など、これらには大野原古墳群からの影響がうかがえます。新宮古墳や綾織塚古墳を経て、醍醐2号墳で「完成形」に至るのですが、それは大野原古墳群がたどったルートと同じです。このように讃岐各地の大型石室墳は、大野原の石室がモデルになっていると研究者は考えているようです
 また築造された当時は、椀貸塚、平塚は讃岐最大規模石室をもつ古墳でした。角塚古墳の築造段階も、この大きさの石室は他にはなかったようです。このように「讃岐における横穴式石室の構築、なかでも大型石室墳の構築は大野原古墳群が主導」したと評価することができるようです。
 ところが7世紀後半になると大野原勢力の活動が低調化します。
 確かに南海道が通過し、柞田駅や柞田郷の設置され、古代寺院である青岡大寺(安井廃寺)が建立されます。しかし、それまでのように讃岐の他地域に比べて突出した存在ではなくなります。
対照的に三豊北部の三野郡には、活発な活動を示す勢力が現れ、輝きを増していきます。四国最初の古代寺院・妙音寺を建立する勢力です。この勢力は妙音寺の岡の下を流れる二宮川流域を勢力としてした集団で、畿内型横穴式石室を持つ延命古墳を築いた後は、いち早く古代寺院建立に着手します。その際に必要な瓦生産を開始した宗吉瓦窯跡は、その後藤原宮瓦の生産を始め、官営工房としての役割を担うとともに、今は丸亀平野の池の中に塔石だけが残る宝憧寺にも提供するようになります。

1三豊の古墳地図
 つまり、大野原の勢力が角塚という末期古墳の築造を行っていたときに、三豊北部の勢力は古代寺院の建立を始めていたのです。それだけではなく中央政府の技術支援を受けて、最新鋭「宗吉瓦」工場を三野に誘致し操業を開始し、藤原京に送り出すという国家事業にも参加していたことになります。
 つまり、7世紀後半の「大化の改新」から「壬申の乱」に架けての時期に、三豊の中心は大野原から笠田・三野に移ったのです。蘇我氏へのクーデター、壬申の乱における天武派と天智派の対立などが地方政治にも影響を及ぼしたことが考えられますが、これ以上の深読みは控えておきましょう。
参考文献 大野原古墳群Ⅰ 観音寺遺跡発掘調査報告書15



         
1高屋神社
            
 観音寺市は讃岐の西の端で、西に燧灘が開けています。古代は、その海から稲作も伝えられたようです。室本遺跡出土の「鋸歯重弧文壷」等からは、弥生時代の籾後がついた壺も出土しています。
 有明浜に上陸した弥生人は、財田川やその支流の二宮川などの流域に遡り、稲作農耕を初め集落を形成し、青銅器祭儀を行うようになります。
観音寺地区の青銅祭器分布を、見てみると次のようになります。
①観音寺市・古川遺跡から外縁付鉦式銅鐸1口、
②三豊市山本町・辻西遺跡から中広形銅矛1口、
③観音寺市・藤の谷遺跡から細形銅剣1口、中細形銅剣2口
ここからは、銅鐸・銅矛・銅剣の「3種の祭器」がそろっているのが分かります。こんな地域は全国でも、善通寺と観音寺くらいで、非常に珍しい地域のようです。北エリアには3種の祭器を用いる3種の祭儀集団がいたことがうかがえます。
もうひとつは、青銅器が出ているのは柞田川の北側のエリアで、南側の大野原エリアからは見つかっていないことです。
さて、これらの集団の関係は「対抗的」か、「三位一体的連合体」の、どちらであったのでしょうか?
これを考えるために善通寺市の様子を見てみましょう。
善通寺・瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口と中細形銅矛1口が出土し、出土地は分かりませんが大麻山からは大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。
我拝師山遺跡では平形銅剣4口と1口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。新旧祭器が一ヶ所に埋納されたことから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀のあったと研究者は考えているようです。
 同じように三豊平野中央部北エリアにも銅鉾、銅剣、銅鐸の3種の祭儀のスタイルが異なる3集団があり、対抗しながらも一つにまとまり、地域社会を形成して行ったと推測できます。
 一方、柞田川の南側の大野原エリアは柞田川左岸沿いに遺跡が分布しますが、青銅祭器は出ていません。ここでは、祭器を持たず北エリアに従属する集団があったようです。つまり、三豊平野では進んだ北側、遅れた南側(大野原)という構図が描けるようです。
   
 観音寺で最初の古墳は、鹿隈錐子塚古墳(高屋町)のようです。
  近年の考古学は、卑弥呼後の倭国では「前方後円墳祭儀」を通じて同盟国家を形成し、拠点をヤマトに置いた、その同盟に参加した首長が前方後円墳を築くことを認められたと考えるようになっています。国内抗争を修めて、朝鮮半島での鉄器獲得に向けてヤマトや吉備を中心とする各勢力は手が結び、同盟下に入ります。讃岐に作られた初期の前方後円墳群は、その同盟に参加した首長達のモニュメントとも言えます。それは津田湾から始まり、高松・坂出・丸亀・善通寺と各平野に初期前方後円墳が姿を見せます。中期になると平野を基盤にした豪族諸連合の統合が成立したことを象徴するように、各平野最大の前方後円墳が築造され、その後は善通寺市域を除いて前方後円墳の築造は終わります。前方後円墳は豪族の長の墓として始まり、平野の諸連合を支配する連合首長の墓として発達し、そして終わると研究者は考えているようです。
  ところが鳥坂峠の西側の三豊平野には、初期や前期の前方後円墳はありません。
三豊平野では前方後円墳の築造は、ワンテンポ遅れて始まり、善通寺と同じテンポで後期に入っても前方後円墳を築造し続けます。そして6世紀中葉になって、前方後円墳は終了し、それを継いで横穴式石室を持つ円墳の築造が始まります。
   三豊では前方後円墳は古墳中期になって登場するのです。遅い登場です。
1青塚古墳

三豊平野で最初の前方後円墳が築造されるのは、青塚古墳です。
一ノ谷池の西側のこんもりとした鎮守の森が青塚古墳の後円部です。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられ、現在でも地域における「祭祀センター」の役割を果たしているようです。墳長43m・後円部径33mで、前方部が幅13m/長さ10mの帆立貝式前方後円墳でしたが、前方部は失われました。後円部は2段築成で、径25mの上段に円筒埴輪列が巡ていました。幅1.2mと1mの2重の周濠があり、葺石の石材が散在しています。
 この青塚古墳は、香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。前方部は削られて平らになっていますが、水田となっている周濠の形から短いものであったことがうかがえます。後円部頂上には厳島神社がまつられて、古墳の原形は失われています。発掘調査がおこなわれていないため、埋葬施設は不明です。しかし、縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、かつて盗掘にあったようです。この石棺は讃岐産のものではなく、阿蘇溶結凝灰岩が使用されていて、わざわざ船で九州から運ばれてきたものです。ここからも、三豊平野の支配者が大和志向でなく、九州の勢力との密接な関係があったことをうかがわせます。この古墳は、その立地や墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造されたものと思われます。

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 もうひとつ九州産の石棺が使われているのが観音寺の有明浜の円墳・丸山古墳です。
この古墳は初期の横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されています。丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓と研究者は考えているようです。三豊平野では後期になっても、九州型横穴式石室を採用するなど、九州地方との強い関係が石室様式からもうかがえます。このあたりが三豊地区の独自性で、讃岐では「異質な地域」と云われる所以かもしれません。東のヤマトよりも、燧灘の向こうにある九州勢力との関係を重視していた首長の存在が見えてくるようです。

1母神山
 古墳後期に入ると北エリアの母神山に前方後円墳・瓢古(ひさご)塚古墳が現れます。
この古墳も青塚古墳と同じように周濠(幅3~4m)を巡らし、墳長44m、後円部径26m・高さ5・7m、前方部幅2 3m・長18m・高さ5・lmの規模で、同時期の首長墓とされます。母神山唯一の前方後円墳で、埋葬施設は不明ですが、同時期の善通寺市の王墓山古墳のような横穴式石室を持っているのではないかと研究者は考えているようです。周濠からは一般的な円筒埴輪のほが須恵質の円筒埴輪や須恵器片などが出土しています。
 位置的にも青塚古墳に近接するので、青塚古墳の首長権を継承するリーダーのものと研究者は考えているようです。
つまり、三豊平野においては、古墳中期になって青塚 → 瓢箪塚と続く前方後円墳群が形作られていたと考えられます
  母神山は、その名の通り母なる神の山で、祖霊の帰る山として信仰を集めていたようで、6世紀前半になると、50基を超える古墳群が作られ、県内屈指の後期古墳群になっていきます。
   そのような古墳群の中に、6世紀後半には円墳の錐子(かんす)塚古墳が築造されます。
  この古墳は「総合運動公園」のスポーツ・グラウンドに隣接する公園の中に整備・保存されています。梅の時期には、良い匂いが漂います。前方後円墳のひさご塚から200mほどしか離れていませんので、ひさご塚と同一の首長系列に属する盟主墳と見られ、6世紀後半の築造と考えられています。
 径48m/高さ6.5mの円墳で、全長9.82mの両袖型横穴式石室が南に開口していますが、入口は鍵がかかって入ることは出来ません。羨道・前室・玄室を備えた複式構造ですが前室は形骸化し、羨道[長さ1.2m×幅1.45]、玄室[長さ5.6m×幅2.55m×高さ3.2m]です。何回かの盗掘を受けていますが、出土遺物は豊富です。金銅製単鳳環頭太刀柄頭1、鞘口金具1、三葉環頭柄頭1、鍔1、鉄刀2、銅鈴6、飾り金具4、刀子1、鋤先1、鉄鏃・玉類・須恵器などです。
 石室については前室に短い羨道がつけられる構造であり、その祖形は山口県防府市の黒山三号墳に求められるようです。石室全体は「端整に構築され美しささえ感じられる」と研究者は云います。この石室こそが讃岐の後の横穴式石室のモデルになったと研究者は考えているようです。以上をまとめておくと
①三豊平野には、前期の前方後円墳はありません。
②三豊平野では前方後円墳の築造は、他地域よりもワンテンポ遅れて中期に始まる
③善通寺と同じテンポで後期に入っても前方後円墳を築造し続ける。
④6世紀中葉になって、前方後円墳は終了し、それを継いで横穴式石室を持つ円墳の築造が始まる。
⑤それが母神山・鑵子塚古墳
鑵子塚古墳は、後期の母神山古墳群の草分けとなります。
前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へと古墳のスタイル変わっていますが、三豊平野の北エリアの豪族長の墓域は母神山から動くことはなかったようです。しかし、この古墳に続く首長墓は、母神山からは姿を消します。そして、墓域は柞田川の南エリアである大野原に移ります。
錐子塚の次の首長墓は南エリアに現れるのです。それが大野原の椀貸塚です。
それまで豪族長の墳墓のなかった南エリアに周濠の径が70mもある県下最大の横穴式石室墳が突如出現します。それまで、大型古墳を築造できなかった後進エリアの大野原に碗貸塚が現れる背景は何なのでしょうか?
 かつては、柞田川の北側の大野原に突然現れた巨石墳は「ヤマト勢力が讃岐の西端に打ち込んだ楔」であり「ヤマトの屯倉」的な性格で、在地性ない中央勢力であると考えられたこともありました。しかし、考古学の立場から調査報告書は
「錐子塚→椀貸塚→平塚→角塚」
の順で、同一勢力の首長墓として築造されたと記します。
  つまり、母神山勢力に敵対的な勢力が突然に大野原に現れたのではないのです。母神山を自分たちの御霊が帰る霊山として信仰していた集団が、柞田川を越えて大野原に進出し、そこに巨大横穴式石室を持つ古墳を築き始めたのです。母神山勢力の発展拡大と研究者は考えているようです。
 そして、新天地の大野原の地に、次のような順に巨石古墳を築いていきます。
①貸椀塚古墳が6世紀後半、
②平塚が7世紀初め、
③角塚が7世紀の前半。
 特に、最初に作られた椀貸塚は、玄室の規模が、玄室長6.8m、最大幅3.6m、最大高約3.9mもあり、床面積は22.3㎡、容積では約80㎡になります。これを四国内の古墳と比べると、母神山錐子塚クラスが床面積10~12㎡程度で、貸椀塚は、倍の規模になっています。畿内中枢部の横穴式石室と比べて見ても床面積では、奈良見瀬丸山古墳(約30㎡)、石舞台古墳(27㎡)、吉備地域では例外的に巨大な横穴式万石室であるコウモリ塚占墳(28㎡)など、遜色がないことが分かります。
1大野原神社
 江戸時代初期の開墾が始まって間もない正保2年(1645)の『大野原開墾古図』です。古図の中心部には大野原八幡神社とその背後に描かれているのが椀貸塚古墳のようです。こんもりとした墳丘とそれを取り巻くような周濠らしきものが見えます。これが、紙資料で確認できる椀貸塚の初見のようです
 40年後の貞享2年(1685)の『御宮相績二付万事覚帳』に神社の修理を行った時の記録が残されています。その中の「地形之覚」には神社を拡張したことが次のように記されています。
「‥拾三間四尺 但塚穴の口きわより玉垣のきわまで 今までは塚穴石垣きわより玉垣まで拾弐間弐尺」、
「一 塚穴二戸仕ル筈・・」
「一 塚穴之左者廣ケ石垣も仕筈」
「一 右両方之堀り俎上者塚之両脇又者馬場の両脇小塚ノ上取申筈」
とあり神社にある塚穴=椀貸塚古墳の当時の状態がうかがえます。
「古今 讃岐名勝圖綸』にも次のような記載があります
  八幡幡社 大野原八幡宮の社後椀貸穴の上にあり 一説に或内なる於社なりと云いかか走手侍。」
「塚穴十一と其塚説 相傅此地開拓の時百七十蛉ある中今中の残るは柘貸平塚角塚豆塚。傅口椀塚は地主神を太子殿と称し穴へ入者なし 村人椀を得んことを乞へは倍せり 一時中姫人此塚上に在す感神祠に用あり食叛吾悉皆借て事足せり後に村人借て一箸を失せり 夫より止と云営時開墾の時此穴に入る人あり 神人告て八幡を祭れと依て 此穴を奥の院と云。」

  ここには「椀貸伝説」とともに、大野原開墾の際に古墳の横穴石室に入った人に「神人告て八幡を祭れ」「此穴を奥の院と云。」と記され、横穴が「奥の院」として神社の聖域とされ人々の信仰を集めてきたことが分かります。今も椀貸塚古墳は、大野原八幡神社の本殿の後に神域として祀られています。

 明治時代の資料には、明治35年(1902)の『香川県讃岐國三豊郡大野原村 鎮座郷社八幡神社之景』があり
神社の建物、玉垣、石垣等の配置が詳細に描かれています。椀貸塚古墳の開口部の付近は、土塀が設けられ、石垣のほぼ中央部には縦長の巨石が存在しているが現在と異なる点です。この図中には
「椀貸塚ノ縁由」として「相傅ノ昔塚穴二地主神在リテ太子殿卜云フ 神霊著シキヲ以テ庶テ穴二入ルモノナシ・・」
と記されます。
1碗貸塚古墳1

調査報告書の碗貸塚古墳の測量図は、いろいろなことを教えてくれます。分かることを挙げておきます
①碗貸塚古墳の横穴石室自体が「奥の院」とされ、信仰対象となっている。
②墳丘南側には大野原八幡神社の本殿、東側には応神社が設けられ、墳丘は開削されている。
③東側も応神社と小学校の校庭として削られている。
④墳形・規模直径37.2mの円墳で、外周施設として二重周濠と周堤があった。それを含めると範囲は径70mになり、占有面積は約3,850㎡の大きな古墳だった。
⑤碗貸塚古墳の東に、後から作られた岩倉塚古墳がある。
⑥表面観察では葺石や段築は確認できない。
1碗貸塚古墳2
  復元するとこんな姿になるようです。どこかでみたような姿です・・・
 
1鬼の窟古墳
宮崎県西都原古墳群 鬼の窟古墳
西都原でみたこの古墳が思い出されます。どちらにしても、ここに3つ並ぶ巨石墳のうちで最初に作られた碗貸塚古墳は九州的な要素が色濃く感じられます。それが平塚・角塚と時代を下るにつれてヤマト色に変わって行くようです。その社会的な背景には何があったのでしょうか?
それでは最後に、母神山から大野原に連綿と首長墓を築き続けて来た古代豪族は?・
大野原古墳群の被葬者像については、紀氏が想定されてきました。
周辺に「紀伊」「木の郷」の地名が残り、また『和名抄』に刈田郡紀伊郷や坂本郷(紀氏と同族の坂本臣との関係)が記されているからでです。そして、紀氏は、紀伊や和泉から西方、阿波や讃岐にひろく分布を広げていて、瀬戸内海の南岸ルートを押さえた豪族ともされます。
 大野原古墳群の最後の巨石墳墓である角塚古墳の被葬者が埋葬されたのち、孝徳朝の立評により刈田評が成立したというのが定説で、その子孫が評督、さらに郡領になったと研究者は考えているようです。その段階の紀伊氏の拠点は大野原古墳群から1km東北にあたる青岡廃寺の周辺にあったと推測されています。
次回は大野原の3つの巨石墳を見ていくことにします。
  
参考文献 大野原古墳群Ⅰ 観音寺遺跡発掘調査報告書15
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   前回は3世紀後半に前期の前方後円墳を積石塚で造営した坂出周辺の次の3つの勢力を見てきました。そのうちの
①金山勢力(爺ヶ松古墳・ハカリゴーロ古墳,横山経塚1号~3号墳,横峰1号・2号墳)
②林田勢力(坂出平野北東)
の集団は,5世紀になると前方後円墳を築造するだけの勢力を保つことができず,小規模古墳しか造れなくなっていることが古墳編年表からも分かります。その背景には、ヤマト政権の介入があったのではないかと考えらることを紹介しました。
 かつては「前方後円墳」祭儀を通じて同盟者であった綾川周辺の首長達の子孫は、ヤマト政権からは遠ざけられ勢力をそぎ取られていったのです。これは西日本においては、よく見られる事のようです。
 さて、かつての首長達に替わって勢力を伸ばす集団が現れます。新興勢力の新たな首長は6世紀後半頃には、前方後円墳の築造をやめて、大型横穴式石室の築造を始めます。これを古墳編年表で確認すると大型横穴式石室を築造した地域は,5世紀後半に有力古墳を築造した地域とは重ならないことが分かります。改めて「勢力交替」が行われたことがうかがえます。新たなリーダーとなった3つの勢力を見ておきましょう
坂出古墳3

  平野南西端部の勢力は、
白砂古墳から新宮古墳まで有力古墳を,4世紀から6世紀にかけて一貫して造り続けています。この集団が最も強い勢力をもち,坂出平野における指導的地位を持っていたと考えて良さそうです。
 平野南西部の勢力は、
4世紀には勢力が弱かったのが、王塚古墳の時期(5世紀後半頃か)以降になって勢力を伸ばし,大型横穴式石室をもつ醍醐古墳群を作り上げます。巨石墳を集中的に築造した6世紀末頃から7世紀前半にかけて大きな力を持っていたようです。
 平野南東端部の勢力は,
弥生時代後期から墳墓を築造していたようですが、4世紀から6世紀中頃までは勢力は強くありませんでした。それが6世紀末になって穴薬師(綾織塚)古墳を築造し,勢力を強化したようです。
坂出古墳編年
 これに対して,平野北東部(雌山周辺)に古墳を築造した集団は、4世紀には積石塚の前方後円墳を築造し勢力を保持していたようですが、5世紀以降になると徐々に勢力を失い、6世紀末以降には弱体化しています。

羽床盆地の古墳
坂出周辺部の羽床盆地と国分寺を見ておきましょう。
羽床盆地では,快天塚古墳を築造した勢力が4世紀から5世紀後半まで盆地の指導的地位を保っていました。この集団は,快天山古墳の圧倒的な規模と内容からみて,4世紀中頃には羽床盆地ばかりでなく,国分寺町域も支配領域に含めていたと研究者は考えているようです。このため国分寺町域では、4世紀前半頃に前方後円墳の六ツ目古墳が造られただけで、その後に続く前方後円墳が現れません。つまり、首長がいない状態なのです。
羽床古墳編年
 その後も羽床盆地北部では、大型横穴式石室が造られることはありませんでした。羽床勢力は6世紀末頃になると勢力が弱体化したことがうかがえます。坂出地域と比較すると,後期群集墳の分布があまり見られないことから、坂出平野南部に比べて権力の集中が進まなかったようです。そして、最終的には坂出平野の勢力に併合されたと研究者は考えているようです。

国分寺の古墳
 国分寺町域は、4世紀前半頃に小さな前方後円墳が築かれますが,先ほど述べたように快天山古墳を代表とする羽床盆地の勢力に併合され,古墳の築造がなくなります。
 以上をまとめると,阿野郡では6世紀末頃には坂出平野南部に大型横穴式石室を築造した三つの集団が勢力をもち、全域を支配領域としていたと研究者は考えているようです。注目しておきたいのは、これはヤマト政権における蘇我氏の台頭と権力掌握という時期と重なり合うことです。
綾川周辺の三つの集団は,7世紀中頃以降になると古墳を造ることをやめて,氏寺の建立を始めます。
平野南西端部に古墳を築造した集団は7世紀中頃に開法寺
南西部に古墳を築造した集団は7世紀末頃に醍醐廃寺
南東端部に古墳を築造した集団は7世紀後半に鴨廃寺
この三つの寺院は奈良時代にも存続していますから奈良時代にも勢力をもっていたことが分かります。
れでは綾川周辺に巨石墳を造り、氏寺を建立する古代豪族とは何者でしょうか?
  文献史料見る限りに,7世紀後半から8世紀以降の阿野郡の有力氏族としては綾公しかいません。
  これについては
  ①三つの集団はそれぞれ別の氏族であったが,その中の一つの氏族だけが残ったとする解釈
  ②三つの集団を総称して綾氏と呼んでいた
 の2つが考えられます。
 三つの集団のそれぞれが建立した開法寺,醍開醐廃寺,鴨廃寺については綾南町陶窯跡群で瓦が一括生産され,各寺院に配布されています。このことは,綾南町陶窯跡群の経営管理権を,これら3寺院を建立した集団が持っていたことがうかがえます。
 また、この三つの集団は綾川周辺の約3km四方ほどの狭い地域に近接して古墳群(墓域)を営んでいました。坂出平野の中で近接して居住していたため,日常的に密接な交流があったことがうかがえます。そうした関係を背景にしておそらくは婚姻関係を通じて,綾氏として一つの擬似的な氏族関係を作り上げていたと考えられます。6世紀末頃になると綾氏は羽床盆地,国分寺地域へも勢力を拡大し,その領域が律令時代に阿野郡と呼ばれるようになったというストーリーが描けそうです。
   以上のように、綾氏は坂出平野南西端部(新宮古墳)に古墳を築造した集団を中心として,平野南部に三つの古墳群を築造した集団からなり,古墳時代初期まで系譜をたどることができることになります。さらに,平野東南端部の方形周溝墓は,弥生時代後期まで系譜が遡る可能性もあります。そうだとすれば,綾氏は古墳時代のある段階に外部から移住してきた氏族ではなく,この地域で成長した氏族だといえます。
 綾川河口の綾氏の成長を古墳から見てきました。
ここまでやって来て気づくことは善通寺の佐伯氏との共通する点が多いことです。佐伯氏も中村廃寺と善通寺のふたつの氏寺を建築しています。接近して建立されたふたつの古代寺院は謎とされますが、佐伯氏という氏族の中の「本家と分家」と考えることも出来そうです。同じく時期的に隣接する王墓山古墳と菊塚古墳の関係も、佐伯氏の中の構成問題とも考えることもできます。

こうして、綾川流域を支配下に治めた綾氏は大束川河口から鵜足郡方面への進出を行い、飯野山周辺へも勢力を伸ばしていくことになります。同時に、讃岐への国府設置問題においても地理的な優位性を背景に、自分の勢力圏内に誘致をおこない、讃岐の地方政治の指導権を握ったのかもしれません。さらに、白村江敗北後の軍事的緊張の中で造営された城山城建設にも中心として関わっていたかもしれません。そのような功績を通じて綾川上流に最新のテクノロジーをもつ須恵器・瓦の大工場を誘致し、その管理・運営を通じてテクノラートへの道も切り開き、在郷官人としても活躍することになります。
 そして、平安末期からは武士化するものも現れ、讃岐最大の武士団へと成長していきます。それが香西・福家・羽床など一門は、出自は綾氏と信じられていたのです。そこに「綾氏系譜」が作られ、神櫛王伝説が創作され、一門の団結を図っていこうとしたのでしょう。どちらにしても綾氏は古代から中世まで、阿野郡や鵜足郡で長い期間にわたって活躍し一族のようです。
参考文献
渡部 明夫      考古学からみた古代の綾氏(1)    綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-
    埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか



 考古学の発掘調査報告書は、私のような素人には読んでも面白みがないことが多いのですが、積み重ねられた発掘から明らかになった材料を組立って、今までになかった世界をひらく論文が出てくることがあります。戦後の考古学は、文献史料ではなしえなかった日本の古代史の書き換えをせまる「証拠」を突きつけてきました。古墳などの編年調査が進むにつれて、古墳をして讃岐の古代史を語らせる研究が発表されるようになっています。今回は、古代の阿野郡の古墳から古代豪族綾氏にせまる研究を紹介します。
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上の地図を見ると、綾川下流域の平野部周辺に約100の古墳が分布します。
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その中でも特に密集度が高いのは,
①城山東麓の西庄町醍醐~府中町西福寺(平野南西部)
②蓮光寺山西麓の加茂町山ノ神(平野東南端部)
③雄山の東・南麓を中心とした高屋町から大屋富町・青海町にかけて(平野東北部)
のエリアで規模の大きな古墳群があるのが分かります。
  古墳の密集地に有力な古代豪族がいたことは推察できますが、この分布図だけでは歴史的な流れは分かりません。これらの古墳相互のいつ頃作られたのか、そして築造順番はどうなのか歴史的な「縦」のつながりを見ていく必要があります。それがこの坂出市周辺の編年表です。
坂出古墳編年
  この表は横軸がエリア、縦軸が築城年代順に区分けされたものです。例えば坂出エリアでⅠに属する最も古い古墳は、北東部(林田周辺)の雌山2号墳・南西部の白砂古墳、そして鵜足郡との境(金山トンネル東)にある爺ケ松古墳となります。坂出エリアに最初に古墳を作り上げた勢力は、この3つのエリアを拠点にしていたことがうかがえます。
これらの古墳の築造年代はいつ頃になるのでしょうか。
(1)香川県の古墳編年の基準は?
I期
出現期の古墳で、前方後円墳は前方部がバチ状に広がり,持送りの顕著な長大な竪穴式石室,舶載鏡のみをもつことをなどが特徴。3世紀末前後の古墳。
Ⅱ期
彷製鏡,碧玉製腕飾類,刳抜式石棺の出現期の古墳。時期は4世紀前半頃。
Ⅲ期
円筒埴輪回,彷製鏡,碧玉製腕飾類,刳抜式石棺などを特徴とする古墳。時期は4世紀中頃
Ⅳ期
Ⅲ式の円筒埴輪,滑石製模造品,長方板皮綴式短甲などをもつ古墳。時期は5世紀前半頃。
Ⅴ期
須恵器,眉庇付冑,三角板鋲留式短甲,三環鈴などをもつ古墳。時期は5世紀後半頃。
Ⅵ期
K10型式の須恵器をもつ古墳。香川県では横穴式石室の出現期にあたる。時期は6世紀前半Ⅶ期: 横穴式石室を内部主体とする群集墳,時期は6世紀後半~7世紀初頭頃。
Ⅷ期
TK217 ・ TK46型式の須恵器をもつ古墳。時期は7世紀前半~中頃。
以上のように埋葬品の土器や装飾品、武器、埋葬施設などによって8期に分類されています。
坂出古墳1
それでは、この「古墳編年表」で一番最初に姿を現した前方後円墳はどれになるのでしょうか。
Ⅰ期の前方後円墳は3つあります。
「ハカリゴーロ古墳」の画像検索結果

先ずやって来たのは国道11号バイパスの金山トンネル東側の奥池です。この上に坂出地区で最も古い前方後円墳・爺ゲ松古墳があります。この古墳は、古代の阿野郡と鵜足郡の境界であった城山と金山の間の低い鞍部に位置します。そのため拠点が阿野郡にあったのか、鵜足郡にあったのかよく分かりません。しかし、現地に立ってみると視界が広がるのは東方面の阿野郡です。そして瀬戸内海も見通せます。瀬戸内海の交易・防衛に関わった勢力が最初に作り上げた前方後円墳なのかもしれません。
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爺が松古墳の縦穴式石室
 この古墳は積石塚で、全長は49.2mで、盛り土で築造した前方部はバチ状に広がるとともに,大きな持送りが顕著な竪穴式石室で、古式の形態を示していて前期古墳の特徴を表しています。
 この古墳と同時進行で作られていたのが、善通寺の大麻山の頂上近くの野田院古墳です。
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善通寺勢力は爺ゲ松古墳と同じように前方部は盛土、後円部は積石塚というスタイルで前方後円墳を登場させています。ここからは、坂出や善通寺の勢力が大和や吉備を中心に作られた「前方後円墳」同盟に参加していたと同時に、讃岐の独自性を主張していると研究者は捉えているようです。
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 平野北東部林田町の雌山山頂部にある雌山2号墳も
後円部を積石で,前方部を盛土で造した積石塚の前方後円墳です。これも前方部がバチ状に広がることから爺ケ松古墳とほぽ同時代のものとされます。
 平野南西端部の城山東麓に立地する白砂古墳は,
大きな後円部に短くバチ状にひらく前方部をもつ前方後円墳で、奈良県の石塚古墳に似ていることからI期のものとされています。
  坂出地区の1期に属するこれらの3つの前方後円墳は、重要な意味を持ちます。考古学者達が考えている背景を簡略化して示すと次のようになります。
①卑弥呼死後の3世紀後半以後、初期前方後円墳が西日本で一斉に姿を現す
②これは「前方後円墳」祭儀を通じて、各地の首長等が同盟関係に入ったことを意味する
③その本部はヤマト(纏向遺跡?)に置かれた。
④ヤマトは吉備等の瀬戸内海の諸勢力と連合し、瀬戸内海通航を支配下に置く
⑤ヤマトは朝鮮半島に進出し、鉄の交易権をにぎり勢力をる
⑥ヤマトは同盟国であった吉備を弱体化させ、自己の勢力をさらに伸ばしていく。
つまりⅠ期の前方後円墳に眠る首長達は、①②③④に関わった可能性があると言うことになります。「前方後円墳」という舞台の上で、首長霊の交替儀礼が行われたのでしょう。爺ケ松古墳の首長も吉備勢力やヤマト勢力と結び、人と物の交流を行うと同時に、目の前の備讃瀬戸の「安全保障」を担当していたのかもしれません。
 そういう中で、この同盟関係にはどちらかというと積極的には関わらない勢力がいました。
石船積石塚石清尾山古墳群 前方後円墳
それが高松の峰山の勢力です。ここには周囲が「前方後円墳祭り」を取り入れた同盟に参加するのに、頑なに独自の墳墓スタイルを守ろうとします。これに対して、ヤマト勢力は周辺部に自己勢力を「培養・育成」して包囲網を形成して、追い落としにかかっていきます。また津田湾には配下の船団・軍団を送り込み「ヤマト直属海軍」勢力の拠点を築きます。それらの子孫は、後には内陸部に入り開発を進め富田茶臼山古墳を築くことになります。
 話がそれてしまったようです。もう一度、坂出の古墳編年表を見てみましょう。
坂出古墳編年
1期に前方後円墳が出現したエリアはⅡ期(4世紀前半)にも、引き続いて前方後円墳を築造しているのが分かります。

 爺ケ松古墳の上のみかん畑の丘の上には、積石塚のハカリゴーロ古墳が築かれます。
竪穴式石室から邦製内行花文鏡,定角式鉄鏃を出土しています。この古墳は国道11号バイパスの奥池から集落の間を抜けて北へ登った鞍部から右のみかん畑の中の道に入り、そのまま稜線を辿っていくと山頂部にあります。いまはほとんど人が近づかず、全面をイバラやツタがおおって、説明を受けなければ古墳と分かる人はいないでしょう。
ハカリゴーロ(積石塚)古墳saginokuchi
 この古墳は前方部、後円部ともに積石で構築された全長約42㍍の前方後円墳で、標高約125㍍の尾根上あり、前方部は西を向いているようです。築造時は海の方も見えたのかもしれませんが、今は視界は開けません。

ハカリゴーロ(積石塚)古墳100224-053
後円部に東西主軸の竪穴式石室があります。石室は半壊の状態ですが安山岩の板石、割石を積みあげて築かれていて、床面には粘土が敷かれていました。墳丘は採石の被害によって後円部の一部が変形しています。石室西側の小口付近から一内行花文鏡と鉄鏃が出土しており、坂出市郷土資料館に保管されています。

 また,平野北東部の雌山山頂部では方墳(雌山1号墳),円墳(雌山3号墳)の2基の積石塚が築造されます。しかし、前方後円墳はここにはなく、雌山の東北にあたるスベリ山に経の田尾1号墳が築造されています。

坂出古墳2
             
 一方,城山の南に連なり,鵜足郡との境をなす横山の尾根上には積石塚の前方後円墳である横山経塚1号・2号墳が築造されるようになります。
前方後円墳は先ほども言いましたが首長交代の最高儀式の舞台でしたので、首長だけに築造が許可された地位シンボルの役割も果たしました。4世紀前後の坂出には3つの勢力があり、それぞれが前方後円墳を築き始めたことになります。
ところが編年表を見るとⅢ期(4世紀中頃)には爺ヶ松古墳・ハカリゴーロ古墳の後に続く古墳がありません。
古墳の築造は北に移動し常山の西丘陵上に、盛土の前方後円墳である川津茶臼山(蓮尺茶臼山)古墳に移ります。この古墳は墳丘は、積石塚からヤマト風の盛土様式に変化し、彷製三角縁三神三獣鏡などの出土したと伝えられますが今は破壊されてしまいました。また,聖通寺山の北端の積石塚の円墳(聖通寺山古墳)は,5世紀に下る積石塚がみられないことからⅢ期のものとされます。
 初期の前方後円墳である爺ヶ松古墳・ハカリゴーロ古墳,横山経塚1号~3号墳,横峰1号・2号墳には、後続の古墳がないのです。これをどう考えればいいのでしょうか? 以上をまとめると次のようなります
①坂出の前期前方後円墳は、積石塚で4世紀を中心に築造され,遅くとも5世紀前半には姿を消している
②積石塚のもつ地域色は、被葬者の地域的主体性の反映と考えられる
③坂出北西部では積石塚の聖通寺山古墳・土盛の前方後円墳である川津茶臼山(蓮尺茶臼山)古墳・田尾茶臼山古墳からなる有力な古墳群が5世紀初頭頃に終了している
以上から「その頃に首長層の地域的主体性が大きく制限されるような政治的変化」があったと研究者は考えているようです。もう少し分かりやすく説明すると「積石塚」という様式は「ヤマト」の盛土様式に対して「独自的・在地性」を主張するものであり、政治的にはヤマトに対しての「一定の独自性をもった同盟者」を自認していた讃岐の首長達のこだわりを表すものだと考えているようです。ヤマト政権にとっての課題は、これらの同盟者を「臣下」にしていくことでした。
 先述したように高松の峰山勢力を駆逐した後は、坂出の新興勢力を支援し、独立性を保とうととする金山勢力や雌山勢力に圧迫を加える外交政策をおこなったのかもしれません。これを「首長層の地域的主体性が大きく制限されるような政治的変化」と研究者は考えているようです。
 これはかつての同盟者である吉備への政策とおなじです。そのようなヤマト政権の外交政策の転換を見抜き、柔軟(従順)に対応したのが善通寺勢力だったのではないかと私は考えています。善通寺勢力は、最初の野田院古墳は積石塚で造りますが、その後の平地部に作られた磨臼山古墳以後の首長墓は盛土山で造営します。この辺りに、善通寺勢力のヤマト政権へ「従順性」が見えるようにも思えます。
 坂出平野西部に積石塚の爺ケ松古墳・ハカリゴーロ古墳を築造した集団や,横山の尾根上に積石塚を築造した集団は,こうした変化の中で衰退し,古墳築造はできなくなります。また,綾川平野北東部の集団は,前方後円墳を築造するだけの勢力を保つことができず,これ以後は小規模古墳が見られるだけになります。つまり、初期に積石塚の前方後円墳を築造した集団は、衰退に追い込まれているのです。
 それでは、綾川周辺に横穴式の巨石墳を築き、国府を府中に「勧誘」したのはどのような勢力なのでしょうか。
旧首長に変わり、ヤマト政権の臣下として保護と支援を受けて成長していったの勢力とは?
それが綾氏だと研究者は考えているようです。そのことについては、また次回に・・
参考文献
渡部 明夫
      考古学からみた古代の綾氏(1)
    綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-
    埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

   
1
  
  考古学の発掘調査報告書は読んでいて、私にとってはあまり楽しいものではありません。その学問特性から「モノ」の描写ばかりだからです。そのモノが何を語るのか、そこから何が推察できるのかを報告書の中では発掘者は語りません。それが考古学者の立ち位置なのだから仕方ないのでしょう。だから素人の私が読んでも「それで何が分かったの?」と聞きたくなる事が往々にしてあります。

善通寺史(総本山善通寺編) 書籍
 そんな中で図書館で出会ったのが「善通寺史」です。
この本は善通寺創建1200年記念事業として総本山善通寺から出版されたものですが、書き手が地元の研究者で、今までの発掘の中で分かったことと、そこから推察できる事をきちんと書き込んでいます。「善通寺史」の古代編を読みながら「古代善通寺王国」について確認しながら、膨らましたし想像やら、妄想やらを記したいと思います。
1旧練兵場遺跡89
まず丸亀平野における稲作の開始です
  丸亀平野の中でも、善通寺市付近は、稲作に適した条件を満たしていたようで、弥生時代に大きく発展した場所のひとつです。漢書地理志の「分かれて百余国をなす」と記された百余りの国のひとつだったかも知れないと近頃は思うようになりました。
丸亀平野で稲作を始めた弥生時代前期の遺跡としては
①丸亀市の中ノ池遺跡、
②善通寺市の五条遺跡
③善通寺市から仲多度郡にかけて広がる三井遺跡
などが平野の中央に散らばる形で、多数の集落遺跡が知られています。私は、これらが成長・発展し連合体を形成して、善通寺王国へ統合されていくものと考えていたのですが、どうもそうではないようです。この本の著者は次のように述べます。

  「それらの集落遺跡はその後は存続せず、弥生時代中期になると人々の生活の拠点は現在の善通寺市の低丘陵丘陵部に集まり始める」

弥生前期の集落の多くは長続きせず、消えていくようです。その中で、継続していくの旧練兵場遺跡群のようです。この辺りは看護学校・養護学校・大人と子どもの病院の建設のために、発掘が毎年のように繰り返された場所です。その都度、厚い報告書が出されていますが、目を通しても分からない事の方が多くてお手上げ状態です。そのような中で「善通寺史」は、この遺跡に対して、次のような見方を示してくれます
1旧練兵場遺跡8
 旧練兵場跡出土の大型土器
もともとの「旧練兵場」の範囲は「国立病院+農事試験場」です。
そのため今までは「旧練兵場遺跡」と呼ばれてきました。しかし、
「近接した同時期の遺跡すべてをあわせて、旧練兵場遺跡
と呼んではどうかというのです。つまり、周辺の遺跡を含め範囲を広げて、トータルに考えるべきだというのです。確かに、報告書の細部を見ていても素人には分からないのです。もっと巨視的に、俯瞰的に見ていく必用があるようです。それでは、発掘順に遺跡群見て行く事にしましょう。

古代善通寺地図

1984年発掘 遺跡群西端の彼ノ宗遺跡
この遺跡群の中で最初に発掘されたエリアです。弥生時代中期から後期にかけての40棟以上の竪穴住居と小児壷棺墓一五基、無数の柱穴と土坑群がみつかり、その上に古墳時代の掘建柱建物跡二棟とそれに伴う水路が出てきました。また二重の周溝をもつ多角形墳の基底部など夥しい生活の痕跡が確認されています。ここからは、弥生から古墳時代にまで連続的に、この地に集落が営まれており、人口密度も高かったことが分かります。

1仙遊遺跡出土石棺(人面石)059
入れ墨を施した人の顔
 1985年発掘 彼ノ宗遺跡から東に約500m程の仙遊町遺跡   
ここは宮川うどんから仙遊寺にあたるエリアで、ここからは弥生時代後期の箱式石棺と小児壷棺墓三基が発見されています。このエリアは「旧練兵場遺跡内の墓域」と考えられているようです。また、箱式石棺の石材には、線刻された入れ墨を施した人の顔の絵がありました。
1旧練兵場遺跡7

『魏志倭人伝』には、倭国の入れ墨には「地域差」があったことが記されています。香川や岡山、愛知で発見されている入れ墨の顔は、よく似ています。また入れ墨石材の発掘場所が墓や井戸、集落の境界など「特異な場所」であることから入れ墨のある顔は、一般的な倭人の顔ではなく特別な力を持ったシャーマン(呪い師)の顔を描いたものではないかと考えられています。香川・岡山・愛知を結ぶシャーマンのつながりがあったのでしょうか?
旧練兵場遺跡地図 

 もうひとつ明らかになってきたのは、多度津方面に広がる平野にも数多くの集落遺跡が散在することです。
1987年発掘 旧練兵場遺跡群から北方五〇〇mの九頭神遺跡、
 弥生時代中期から後期頃の竪穴住居や小児壷棺墓・箱式石棺墓等が確認されました。
九頭神遺跡から東には稲木・石川遺跡が広がります。ここでも弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居群や墓地、中世の建物跡などが多数確認されました。さらに、中村遺跡・乾遺跡など多数の遺跡が確認されています。
これらの集落遺跡に共通するのは「旧地形上の河道と河道の間に形成された微高地」に立地すること、そして「同時期に並び立っていた」ことです。また、そのなかには周囲に環濠を廻らせたムラも登場しています。 このように同時並立していた周辺のムラ(集落遺跡)も含めてとらえようとすると「旧練兵場遺跡群」という呼び方になるようです。  
旧練兵場遺跡群周辺の弥生時代遺跡
旧練兵場遺跡周辺の弥生遺跡
旧練兵場遺跡は古代善通寺王国の中心集落だった
この遺跡の報告書を読んでみましょう。
このうち善通寺病院地区とされる微高地の 1つ では南北約 400m、 東西約 150mの範囲において中期中葉か ら終末期までの竪穴住居跡 209棟 、掘立柱建物跡 75棟、櫓状建物跡 3棟、布掘建物跡 4棟、貯蔵穴跡、土器棺墓などを検出している。他の微高地 も同程度の規模 を持つため、本遺跡が県内でも最大級の集落跡であるといえる。そうしてこれ らの遺構群は、まとまりごとに見られる属性の違いか ら機能分化が指摘 されている。
また出土遺物にも銅鐸、銅鏃、銅鏡などの青銅器、鉄器、他地域か らの搬入土器など特殊なものが数多く見られる。「旧練兵場遺跡群」(10と 近接する遺跡 (稲木遺跡、九頭神遺跡、今回報告す る永井北遺跡など)の関係については 「大規模な旧練兵場遺跡を中心 として、小規模な集落が周辺に散在する景観を復元できる」 とされ、本遺跡の周辺地域で集中して出土する青銅器を継続して入手 した中心的な拠点であつたことも指摘 されている。こうした様相から地域の中核をなす遺跡 と位置づけられている。
この遺跡が弥生時代の讃岐における最大集落であり、他地域との活発な交流・交易が行われていたようで、その中から威信財である青銅器も「継続して入手」していたと記します。

DSC03507
           
この拠点集落が祭器として使用した青銅器について見ておきましょう。 善通寺市内から出土した青銅器の代表的なものは、次の通りです。
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
①与北山の陣山遺跡で平形銅剣三口、
②大麻山北麓の瓦谷遺跡で平形銅剣二口・細形銅剣五口・中細形銅鉾一口の計八口、
③我拝師山遺跡からは平形銅剣五口・銅鐸一口、北原シンネバエ遺跡で銅鐸一口
など、数多くの青銅器が出土しています。
こうしてみると香川県内の青銅器の大半は善通寺市内からの出土であることが分かります。善通寺の讃岐における重要さがここからもうかがえます。青銅器が出土した遺跡は、善通寺から西に連なる五岳の丘陵部にあたります。これらの青銅器は、旧練兵場遺跡群や周辺部のムラが所有していたものが埋められたものでしょう。

.1善通寺地図 古代pg
 九州や大和の遺跡でも、青銅器は大きな集落遺跡の近くから出てきます。このことから善通寺周辺のムラが、祭礼に用いた青銅器を、霊山とする五岳の山々の麓に埋めたと考えられます。この時点ではムラに優劣関係はなく並立的連合的なムラ連合であったようです。それが次第にムラの間に階層性が生まれ、ムラの長を何人も束ねる「首長」が出現してくるようになります。
1善通寺王国 持ち込まれた土器

 こうしたリーダーは3世紀後半になると、首長として古墳に埋葬されるようになり、大和を中心とする前方後円墳祭祀グループに参加していきます。
首長の館跡などは、まだ善通寺周辺では見つかっていません。「子どもと大人の病院」周辺は、新築のたびに発掘調査が進みました。しかし、その東側には広大な農事試験場の畑が続きます。この辺りが善通寺王国の首長の館跡かなと期待を込めて私はながめています。

1旧練兵場遺跡3

 卑弥呼が亡くなった後の三世紀末頃に、首長墓は前方後円墳に統一されていきます。
墓制の統一は、これまで多くのクニに分かれていた日本が、前方後円墳に関わる祭礼を通じて、ひとつの統一国家となったことを示していると研究者は考えているようです。敢えて呼び名をつけるなら「前方後円墳国家の出現」と言えるのかも知れません。善通寺周辺部でも、三世紀後半に旧練兵場遺跡群を中心に飛躍的な発展があったようです。

旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡
 それを大麻山に作られた埋葬施設の変化から見てみましょう。
 古代人には「祖先神は天孫降臨で霊山に降り立ち、死後はその霊山に帰り御霊となる」という死生観があったといわれます。大麻山は、祖先神の降り立った霊山で、自分たちもあの山に霊として帰り子孫を見守る祖霊となると考えていた人たちがいたようです。大麻山中腹では、卑弥呼と同時代のものと思われる弥生時代後期末頃の箱式石棺墓群が三〇基以上も確認されています。この中には、積石を伴うものや副葬品として彷製内行花文鏡がおさめられたものもあります。
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有岡大池から仰ぎ見る大麻山
 大麻山を霊山と仰ぎ見て、そこに墓域を設定したのはだれでしょうか。
 それは旧練兵場遺跡の首長たちだったようです。彼らが霊山と仰ぐ大麻山に、箱式石棺墓を造り始め、最終的には野田野院古墳へとグレードアップしていきます。

1hakosiki
大墓山古墳後円部の裾部分から出てきた箱形石棺
善通寺の前方後円墳群は、野田院古墳がスタートです。
それに先行するのが、弥生時代の箱式石棺墓になります。この間には大きな差異があります。社会的な大きな転換があったこともうかがえます。しかし、その母胎となった集落はやはり旧練兵場遺跡であったことを押さえておきます。

2野田院古墳3
    大麻山8合目の野田院古墳 向こうは善通寺五岳
 いよいよ野田院古墳の登場です。
改めて、その特徴をまとめておきましょう
①大麻山北西麓(標高四〇五m)のテラス状平坦部という全国的にも有数の高所に立地する
②丸亀平野では最古級の前方後円墳である。
③前方部は盛土、後円部は積み石で構築されている。
 野田院古墳は、特別史跡の指定に向けて発掘調査が行われました。
その調査結果は、研究者も驚くほど高度な土木技術によって古墳が造られていたことを明らかにしました。「傾斜地に巨大な石の構造物を構築する際に、基礎部を特殊な構造に組み上げていることで、変形や崩落を防いでいる」と報告書は述べます。

2野田院古墳2
野田院古墳(後円部が積石塚、前方部が盛土)

この技術はどこからもたらされたのか、言い方を変えれば、
この技術をもった技術者は、どこから来たのでしょうか?
 「古代善通寺王国」では、稲木遺跡で弥生時代後期末頃の集石墓群が確認されているようです。しかし、

「小規模な集石墓が突然に、大麻山の高い山の上に移動して、構築技術を飛躍的に進化させて野田院古墳に発展巨大化した」

というのは「技術進化の法則」では、認められません。
 類似物を探すと、海の向こうです。朝鮮半島ではこの頃、高句麗で数多くの積石塚が作られています。研究者は、善通寺の積石塚との間に共通点があることを指摘します。渡来説の方が有力視されているようです。
2野田院古墳1
野田院古墳
 野田院古墳の首長は、何者か?
  野田院古墳には、継承されている部分と、大きな「飛躍」点の2つの側面があります。継承されているのは、霊山の大麻山に弥生時代の箱式石棺墓から作られ続けた埋葬施設であるということでしょう。「飛躍」点は、その①技術 ②規模の大きさ ③埋葬品 ④動員力などが挙げられます。
 別の言い方をすれば、今までにない技術と動員力で、大麻山の今までで一番高いところに野田院古墳を作った首長とは何者かという疑問に、どう答えるのかということだと思います。
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 手持ちの情報を「出して、並べて推測(妄想)」してみましょう。
①丸亀平野では最古級の前方後円墳であり、霊山大麻山の高い位置に作られている。
 ここからは、並立する集落連合体の首長として、今までにない広範囲のエリアをまとめあげた業績が背後にあることが推測できます。その結果、今までの動員力よりも遙かに多くの労働力を組織化できた。それが古墳の巨大化となって現れた。

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②造営を可能にする技術者集団がいた。先ほど述べた高句麗系の集団の渡来定着を進め配下に入れた豪族が、「群れ」の中から抜け出して、権力を急速に強化した。
③ヤマト政権から派遣された新しい支配者がやってきて、地元首長達の上に立ち、善通寺王国の主導権を握った。それが、後の佐伯氏である。
今の時点での私の妄想は、こんなところです。 
支離滅裂となりましたが、今回はこれまでにします。
最後までおつきあいいただいてありがとうございました。
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参考文献 笹川龍一 原始古代の善通寺 善通寺史所収


 
 善通寺の五岳山と大麻山の間の有岡は、古代の「王家の谷」です。神が天から下ったおむすび型の甘南備山がいくつもぽかりぽかりと並び牧歌的にも感じられます。天孫降臨の主は大麻山の頂上近くの野田野院古墳に葬られ、以下磨臼山古墳から大墓山古墳に至るまでいくつかの首長墓の前方後円墳が東から西へと一直線に続きます。この首長墓の子孫と目される佐伯氏が、古墳に変わって建立したのが善通寺であるというのが定説となっているようです。
  さて、今日のお題はその首長墓たちではなく宮が尾古墳です。
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この古墳は装飾古墳に分類され線刻画が石室に刻まれている古墳として有名です。装飾古墳が残っているのは四国では香川県だけのようで、七基、坂出市に四基で西讃の丸亀平野縁辺に集中しています。
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 その中で宮が尾古墳には、玄室奥壁の大きな一枚岩に、上から人物群・騎馬人物・多くの人が乗船した船・船団などが、玄室と羨道の西側側壁には三体の武人像が線刻されています。どれを見ても幼稚園児が書いたような絵で、発見当時は「後世の落書き」とも思われたこともあったようです。
 確かに、同時期の大陸の古墳の壁画には比べようもありません。
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 しかし、よく見ると武人は髭を結い、腰にベルトを付けて柄頭に大きな装飾の付いた太刀を帯び、下半身はズボンのような着衣で靴を履いている様子まで、硬い岩に描き上げています。騎馬人物も馬には面繋・手綱・鞍(前輪・後輪)・鐙・障泥などが細かく描かれていて、船も何艘もあり船団を形成しているようです。今では、宮が尾古墳の線刻図は、このように数多くの情報が含まれた貴重な絵画資料と見なされ、歴史的評価も高いようです。
さて、この絵は何を物語っているのでしょうか?
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いろいろな仮説が出されてきました。その一部を紹介しましょう。
時間的な推移と共に上のシーンから①→②→③→④と進みます。
仮説A 大陸からの渡来、騎馬民族征服説
①戦いで敗れた部族が部族長の死を悼んでいる
②祖国を追われて船で海を越えて新天地へやって来た
③新兵器の馬を連れてきて「騎馬戦術」で征服者となった
④九州から瀬戸内海を経て大和に上陸し政権を樹立した=騎馬民族征服説
仮説② 高句麗・好太王との交戦説(戦前は「朝鮮討伐」として)
①高句麗・好太王との戦いの戦死者
②ヤマト政権は朝鮮半島の権益拠点の加耶地方を防備のために海を越えて出兵
③その際に騎馬技術を習得
④多くの「戦利品」とともに凱旋」
この2つのSTORYが代表的なものでしょう。
共通するのは、朝鮮半島に深い関わりがあることを示しているのではないかということです。
 近年、この絵の一番上の場面に関する興味深い説が出されています。古代の葬儀場面ではないかというのです。
最上部に描かれた人物群をよく観察してみてください。
ここには5人の人物と1つの構造物が描かれています。
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①この場面の中心は人物群の中央に描かれた小さな家のような構造物です、
②その前では二人の人物が直立し両手を大きく広げて向かい合っています。何かの儀式を行っているようです。あるいは右の人物は横たわる死体と考える研究者もいます。
③その右上方には三人の人物が描かれていますが、両手は下ろしていて、そこで行われている儀礼を見守っているように見えます。
人物たちの行動の違いが描き分けられています。
 この古墳の線刻画の発見後に、同じ大麻山東麓の南光古墳群や夫婦岩1号墳でも線刻画が確認されました。そこに描かれていたのは宮が尾古墳の奥壁に描かれた小さな家のような構造物でした。
 善通寺の線刻画の「構造物」と同じようなものが描かれている群集墳があります。
大阪府柏原市の高井田横穴群です。
ここには横穴墓の数は162基、線刻壁画が描かれた古墳が27基もあります。壁画に描かれているのは、人物、馬、船、家、鳥、蓮の花、木、葉、意味不明の記号とさまざまで、何を描いたのか理解できない線刻もたくさんあります。
27基の横穴墓の中でもっとも有名なのは、第3支群5号墳です。
玄室(げんしつ)から入口を見た場合の羡道(せんどう)の右側にあたる壁に、船から下りてくる人物が描かれています。
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一番上には、両端が反り上がったゴンドラ型の「船に乗る人物」が描かれています。この人物は左手に槍あるいは旗と思える棒状のものをもって船の上に立ち、丈の長い上衣を幅広の帯でしめ、幅の広いズボンも膝の部分で縛っています。
船の両端には二人の小さな人物が描かれていて、右側の人物は碇(いかり)を引き上げ、左側の人物はオールを漕いでいるようです。
その左には「正装の人物」が描かれています。
船に乗っている男と同じ服装をしていますが、先のとがった靴を履き、耳の横で頭髪を束ねた美豆良(みずら)という髪型をしているのが分かります。
その下の人物は「袖を振る女性」で裳(も)と呼ばれるひだのあるスカートをはいています。「船に乗る男」を出迎えるように、あるいは見送るように、盛んに両手を振っています。 
  瀬戸内海を航海し難波の港に到着姿か、西に向けて出航していく姿か、どちらにしてもここにも船と航海が描かれています。
さて、ここの線刻画にも善通寺と同じように小さな家のような構造物が描かれている古墳がいくつかあります。調査報告書では、それを「殯屋(もがりや)」と想定しています。
 それは古事記にも登場する喪屋とそれに伴う葬送儀礼が思い起こされます。貴人が亡くなった時その場に喪屋を立て、遺体を安置し、その場で様々な葬送儀礼が行われました。民俗事例でも墓上施設として殯屋の残存形態として様々な形状のものが報告されています。

ポピュラーな物としては、円錐形に竹や木を立てて周りを木の葉などで覆うようなものが知られています。善通寺市や高井田で見られる小さな家のような構造物の線刻画は、それに似ています。善通寺の南光古墳群の線刻では、小さな家のような構造物だけで、人物は描かれていません。
殯屋は死者を外敵から守る魔除けと、被葬者を封じる両方の性格を持っていたとされます。その効果を古墳の内部に持ち込むために、このような絵が描かれたと研究者は考えます。つまり、宮が尾古墳の壁画は殯屋とその周辺で行われた葬送儀式が描かれたものであり、善通寺市内の他の装飾古墳は、殯屋だけを描いたのではないかというのです。殯屋は細い本や竹を立てて、その周囲を縄や木の葉で覆う構造です。その竹や木にも霊力が宿ると考え、それらを壁画に描くことによって殯屋の霊的な力を石室にも持ち込もうとしたというのが「葬儀・殯屋説」です。
 坂出市の樹葉文のグループの場合は、
殯屋をおおって聖なる木の葉を壁面に描くことで、石室に殯屋と同じような性格を持たせようとしたのではまいでしょうか。善通寺の南光古墳群では殯屋が中心に描かれ一部に樹葉文も見えます。坂出市の鷺ノロー号墳には樹葉文が中心に描かれ、その間に横倒しになった小さな家のような構造物の線刻も見えます。
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坂出市の鷺ノロー号墳の樹葉文は殯屋?
さて、この線刻画を描いたのはだれでしょうか?
その人物もこの絵の中に描かれています。どの人物だと思いますか。
ひとり離れている一番左の人物が、この葬送儀式を執り行うシャーマンです。彼(彼女)が葬送儀礼を主導し、線刻画も描いたのです。そこには、地域毎のシャーマンの個性が表れます。同じ死生観を持ち、葬送儀礼を司るシャーマンでも、どこに重点をおいて描くのか、絵の上手下手などの「個性」があらわれ表現の違いが生まれてきます。しかし、共通の死生観や葬儀儀礼をもつ「同族」と思っていたはずです。
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最後に大阪府柏原市の古墳群の中で、最も古いとされる高井田山古墳について見ておきましょう。
この古墳は横穴公園整備事業の作業中に高井田山の頂上で見つかったもので、5世紀後半から5世紀末にかけて築造された直径22mの円墳です。石室は薄い板石を積み上げた初期横穴式石室で「近畿地方では最も古い横穴式石室」とされます。副葬品の中に、古代のアイロンと言われる青銅製の火熨斗(ひのし)が出てきました。火皿に炭火を入れて使われたと見られており、日本で2例目の出土品です。
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 ここを調査した柏原市立歴史資料館の桑野一幸さんは、次のように言います
「ここで見つかった横穴式石室は、出土した須恵器から判断すると、5世紀末のもの。しかも、百済の影響を直接受けています。つまり、最古級の畿内型横穴式石室なんです。そして韓国のソウルに、可楽洞、芳夷洞という百済の古墳がありますが、ここの横穴式石室と似ています。」
 つまりこの古墳は、6世紀頃に百済から直接畿内に渡来した首長の墓と考えられるようです。そのような氏族と同じ死生観や葬儀儀礼をもつ一族が善通寺周辺にいて、そのシャーマンが古墳の石室に線刻画を刻んだというSTORYが考えられるようです
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参考文献 笹田 龍一 香川県下の装飾古墳に見られる葬送思想 香川歴史紀行所収


  どうして讃岐に阿蘇石の石棺が運ばれてきたのか。 

「銭形砂絵」の画像検索結果

観音寺の琴弾八幡神社の裏の山からは有明海をバックに寛永通宝の砂絵が松林の中に描かれているのが見えます。
 広がる海は、燧灘。古代にはこの海を越えて九州から、重い石棺がはこばれてきたようです。三豊と九州との関係を色濃く示す古墳を訪ねて見ましょう。 
  丸山古墳2
 丸山古墳(観音寺市室本)

丸山古墳は燧灘を見下ろす丸山(標高50m)の頂上にあります。
西側は燧灘が広がり、遠浅の有明浜が南北に長く続きます。この丘に立つと自然と西に開けた燧灘を意識します。
この丘の上に、明治になって丸山神社(当時は「山祇殿社」)の社殿が建設されることになり、墳丘の南半分が削平され、石室が破壊され、石棺が現われたようです。
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 調査が行われたのは戦後になってからで、一時は前方後円墳とも言われました。しかし、何回かの調査の結果、径35m、高さ3.5mの中期円墳で、讃岐で最初に横穴式石室を採用した古墳とされるようになりました。出土品は葺石があり、円筒・衣蓋埴輪のほか馬形・鳥形・偶蹄目の動物埴輪が出ています。
丸山古墳横穴式石室
丸山古墳の横穴式石室
 遺物には、鉄剣1、鉄刀1、鉄製品片(短甲片か?)があります。出土した円筒埴輪片から5世紀中葉~後半の築造が考えられています。
構造的には、扁平な板石や割石を小口積みで持ち送りした石室は南北方位で「現存長4m×推定幅3.7m×高さ2.5m以上」と讃岐のこの時期のものとしてはかなり大きいものです。
この古墳の特徴的なのは、九州の影響が色々なところに見られることです。
香川県観音寺市室本町 丸山古墳 | 古墳探訪記
丸山古墳の石棺
石室構造は肥後形に近く、複数人を埋葬する初期型の横穴式石室と考えられているようですが、その特徴である石障はありません。石棺は刳抜式舟形石棺(長さ192cm×幅105m)で、棺蓋は寄棟屋根型で短辺部の傾斜面にやや上向きの縄掛け突起が付いています。
九州には舟形石棺と肥後系の横穴式石室が共存する古墳は知られていないようです。そういう意味では「変な古墳」なのです。 

丸山古墳
丸山古墳 横穴式石室と石棺

この古墳の変わっている点は?

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刳り抜き式家型石棺(藤井寺市長持山古墳5C)・阿蘇溶結凝灰岩

この石棺は、讃岐の国分寺町の鷲の山石や津田火山石ではなく九州の阿蘇溶結凝灰岩が使われています。ちなみに当時の讃岐は、国分寺町の鷲の山石や津田火山石を用いた「石棺生産国」で、それを畿内や播磨・吉備にも「輸出」していました。ところがこの古墳の主は、讃岐産の石材ではなく阿蘇石製の石棺をわざわざ九州から運び込んで来ています。さらに、この古墳が作られた古墳時代中期半ばには、讃岐における石棺の製作は、ほぼ終わりかけています。いわば「流行遅れ」の石棺と最先端の横穴式石室という組み合わせになります。ヤマト政権よりも九州の同盟者を優先しているかのようにも思えます。この丸山古墳の被葬者と九州の勢力との関係とは、どんなものであったのか興味が湧きます。
次に三豊平野の青塚古墳を見に行きましょう。
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            青塚
三豊の古代条里制の起点になった菩提山(標高312m)から舌状に北に伸びてくる丘陵台地の末端に青塚はあります。近くには一ノ谷をせき止めて作られた一の谷池があります。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられていて、地域における祭祀センターの役割を果たしてきたことが分かります。
 青塚古墳は香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。
その気配が現在の地形からも見て取れます。前方部は上半が削平されていていますが、水田となっている周濠から考えれば、短いもので帆立貝型だったとされます。現状からは、墳丘の全長44m、後円部径30m、周濠の幅9mの前方後円墳がが考えられます。縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、盗掘にあっているようです。
問題は石棺で、丸山古墳と同じ阿蘇溶結凝灰岩が使われていることです。
この古墳は立地、墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造された古墳だとされます。とすると丸山古墳とは同時期になります。あちらは横穴式石室で円墳、こちらは前方後円墳の帆立型形式ですが、九州から同じ石材が同時期に運ばれてきていることになります。 
 屋島の先端の長崎鼻古墳(高松市屋島)も同じ阿蘇石が石棺に使われています。
「高松市 長崎の鼻古墳」の画像検索結果
  
この古墳は屋島の先端、長崎ノ鼻の標高50メートルにある全長45メートルの前方後円墳です。墳丘は3段に築成され、各段には墳丘が崩れないための葺石が葺かれています。目の前は瀬戸内海で、女木島や男木島がすごそばに見えます。立地から海上交通に関係の深い豪族の墓であろうと考えられていました。発掘するとまさに、その通りに後円部にある主体部から、阿蘇熔結凝灰岩製の舟形石棺が確認されました。これは観音寺市丸山古墳・青塚古墳に続く3例目となります。   
 この長崎鼻古墳は墳丘出土の遺物や舟形石棺の形状から、それよりも50年ほど古い5世紀初頭頃の古墳であるようです。ちなみに、この長崎鼻には幕末には高松藩によって砲台が築かれた場所でもあります。今もその砲台跡が古墳と共に残ります。 

このように讃岐の古墳に、九州の石棺が運び込まれています。

恐らく熊本県で作られて、それが讃岐に運ばれてきたということなのでしょう。どのような方法で、どんな人たちが、何のために九州からわざわざ石棺を運んできたのでしょうか。これらの古墳に眠る被葬者と、九州の勢力とはどんな関係にあったのでしょうか。いろいろな疑問が沸いてきます。

最初に見た丸山古墳と青塚古墳は、燧灘の西の端にあたります。両古墳のあたりは、『和名抄』の讃岐国刈田郡坂本郷や同郡紀伊郷の週称他の近くです。この「紀伊郷」との関係について岸俊男氏は次のように考えているようです。
 紀伊郷は紀氏との関係がある地名であること。紀氏とその同族が瀬戸内海の交通路を掌握して大和勢力の水軍として活躍した四国北岸の拠点の一つが紀伊郷である。

この説と九州から海路を運ばれた阿蘇の石による石棺を用いた丸山古墳や青塚が隣接するのです。
和歌山・大谷古墳
大谷古墳の九州阿蘇産の石棺

そして、室本丸山や青塚と同じ時期に、紀伊国の和歌山市大谷古墳でも九州阿蘇の石による石棺がはるばると運ばれて使用されているのです。大谷古墳は、和歌山県では有数の古墳で、副葬遺物に朝鮮半島との関係が深いとされる品物を数多くもっていたことで知られています。
大谷古墳 クチコミ・アクセス・営業時間|和歌山市【フォートラベル】

これらのことは、青塚と室本丸山古墳の被葬者が、海上の交通と深くかかわっていたことを物語っています。
 これと同じ石棺は、愛媛県の松山市谷町の蓮華寺にもあります。出土した古墳は分かりませんが、きっと近所から出たのでしょう。松山市といえば、のちに『日本書紀』や万葉の歌で熟田津とよばれる港が古代史の土で注目されるところです。そうした海上交通の拠点の地で、海上交通とかかわる痕跡を、五世紀後半の石棺は示していると研究者は考えているようです。

もう少し大きい視点からこの古墳が作られた5世紀を見てみましょう
  5世紀後半と言えば文献的には「倭の五王」、考古学的には「巨大古墳の世紀」と言われます。大王墓は大和盆地から河内平野の古市と百舌鳥の地へと移動し、大山古墳(現仁徳陵)、土師ミサンザイ古墳など、超巨大前方後円墳が出現する時代です。それはヤマトの王権が確立する時代とも言えます。 

 大和王権の「支配の正当性」は、何だったのでしょうか?

 そのひとつは、鉄をはじめとする必需物資や先進技術・威信財を独占し、それを「地方に再分配とする公共機能」です。この政策を進める中で、ヤマト政権は、各地の首長に対する支配力を強めていきます。

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 4世紀からの多数の倭人の渡航は、半島南部の支配のためではなく、半島側の要請にもとづく軍事援助や、その見返りとして供給されるヒトとモノを独占的に手に入れることでした。そのためには、優れた海上輸送能力や軍事力をもつ勢力と手を組むのが一番手っ取り早い手段です。ヤマト政権は吉備王国を初めとする勢力と手を組み「朝鮮戦略」を進めます。
 その際に、重要となるのが朝鮮半島への交通ルートの確保です。
朝鮮半島からの人と物の輸送ルートである瀬戸内海の重要性は5世紀になると一層高まり、それを担った吉備の力はますます大きいものとなります。吉備の王達は古市・百舌鳥の大王墓に劣らぬ造山古墳や作山古墳が造られます。
「吉備王国」の画像検索結果
 
   しかし、一方でヤマト政権は吉備勢力に頼らない次のような新たな瀬戸内海ルート開発も進めます。

大和(葛城氏) → 紀ノ川 → 和歌山(紀伊氏) → 瀬戸内海南岸(讃岐沖) → 松山(伊予) → 日向

 この新ルート開発をになったのが葛城氏配下の紀伊氏で、それに協力したのが日向の隼人たちではないかと考えられています。 

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 日向灘に面した西都原古墳群の示すものは?    

 5世紀には日向にも大形前方後円墳が次々と出現し、女狭穂塚古墳や男狭穂塚古墳が築造されます。女狭穂塚古墳は古市の仲ッ山古墳の3/5スケールの相似形の規格で、文献的にも応神の妃の一人に日向泉長姫が、仁徳の妃の一人に日向諸県君牛諸の娘髪長姫がいることを伝えています。
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 こうしたヤマト王権の日向重視の背景には、日向灘に開いた潟港を中継点として関門から豊後水道を南下し、南海道で畿内に至る新たな海上ルートの開拓があったようです。また、この地域独特の墳墓である地下式横穴からは、大量の鉄製武器類が出土します。ここからも彼らが朝鮮半島への軍事力の主力部隊であったことがうかがえます。控えめに見ても、ヤマト王権の半島侵攻に重要な役割を担っていたといえます。日向地域がもつ重要性とその勢力の王権への同盟・参画が、のちに天孫降臨や神武東征神話を生む背景となったのではないかと考えられます。

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こうして、五世紀のヤマト王権(河内大王家)は「朝鮮への道」を独占的にることで王権を強化していきます。
それまでの
都がヤマトとその周辺に置かれていた中で、古市・百舌鳥に造墓した仲哀は、はるか関門海峡の長門穴門豊浦に都を造営します。応神は大和軽嶋明宮のほか吉備や難波大隅宮にも都したと記紀は伝えます。仁徳の難波高津宮、反正の丹比柴耐宮と難波津周辺への宮の造営が伝えられるのも、瀬戸内ルートの整備や河内平野の開発と無関係ではないようです。 
瀬戸内海ルートで河内潟に入る外交使節や交易の船舶は、難波津や住吉津に近づくと右手に百舌の巨大な大王墓を目の当たりにします。難波宮京極殿の北西で発見された法円坂遺跡の立ち並ぶ巨大倉庫群は、まさに倭の五王時代の王権直轄のウォーターフロントの倉庫群といえます。川船で河内潟から大和川をさかのぼり、ヤマトを目指すと、今度は古市の大王墓群を通り抜けます。倭王の威容を海外に示すのに、これ以上の演出は当時はありません。

同時期に、三豊に九州からの石棺は運ばれてきます。

熊本で作られた石棺が讃岐に運ばれたのは瀬戸内海南岸ルートでしょう。そして、運ばれた豪族同士には「特別なつながり」があったことが考えられるます。その特別なつながりが何かと言えば、大和政権の「水軍の道」ではないでしょうか? それが「紀伊氏」の疑似血縁集団だったのかもしれません。どちらにしても、これらを結ぶ拠点には「大和政権の水軍を構成する集団」がいたことが考えられます。そして、三豊の被葬者の埋葬葬儀の際に九州の同盟勢力から古墳造営の技術者が派遣され、石棺も提供されたという推察が出来ます。また、同盟関係と言うよりも古代地中海における母都市と植民都市のような関係かもしれません。どちらにしろ「人や物」が瀬戸内海航路を用いて、活発に交流していたことを示す証です。
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以上をまとめておくと
①5世紀にヤマト政権は、紀伊氏による瀬戸内海南ルートの開発を進めた。
②これによって紀伊氏一族の水軍拠点が四国側に開かれた。
③三豊の紀伊郷もその名残りであることが考えられる。
④瀬戸内海南ルートは、日向の西都原の勢力を加えることによって大きな水軍力となった。
⑤この水軍力が対外的には、朝鮮半島との交易を有利に展開することにつながった。
⑥国内的には、同盟国であった吉備勢力の弱体化へつながった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。



三豊の勢力は近畿よりも九州、そして朝鮮を向いていたのかもしれません。それが、その後の三豊の独自性につながる原点かもしれません。 九州から運ばれてきた石棺を見ながら、そんなことを考えました。




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