瀬戸の島から

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    法然上人と増上寺|由来・歴史|大本山 増上寺
法然(増上寺) 
浄土宗を開いた法然は、延暦寺・興福寺など専修念仏に批判的な旧仏教教団の訴えで、建永二年(1207)3月16日、土佐国へ流されることになります。実際には土佐国まで行くことはなく、10か月ほど讃岐国にとどまって、その年の12月には赦免されて都へ帰っています。その間の様子を、「法然上人絵伝」で見ています。

瀬戸の港 日比と塩飽

今回は、都を出立して11日目の3月26日に到着した塩飽島(本島)を見ていきます。
塩飽地頭舘1
   讚岐国塩飽の地頭舘(法然上人絵伝 第35巻第1段)

  巻三十五〔第一段〕 三月十六日、讚岐国塩飽の地頭、駿河権守高階保遠入道西忍が館に着き給ひにけり。
 西忍、去にし夜の夢に、満月輸の光赫尖たる、袂に宿ると見て怪しみ思ひけるに、上人人御ありければ、このことなりけりと思ひ合わせけり。薬湯を儲け、美膳を調え、様々に持て成し奉る。上人、念仏往生の道細かに授け給いけり。中にも不軽(ふきょう)大士の、杖木・瓦石を忍びて四衆の縁を結び給ひしが如く、「如何なる計り事を廻らしても、人を勧めて念仏せしめ給へ、敢へて人の為には侍らぬぞ」と返すがえす、附属し給ひければ、深く仰せの旨を守るべき由をぞ申しける。その後は、自行化他(じぎょうけた)、念仏の外他事なかりけり。
意訳変換しておくと
  都を出立して11日目の3月26日に、塩飽の地頭、駿河権守高階保遠入道西忍の館に着いた。西忍は、出家入道の身であった。彼は、満月の光が自分の袂にすっぽりと入る夢を見ていたので、法然上人がお出でになるとという吉兆の知らせだったのだとすぐに思い当たった。そこで一行を舘に迎え、薬湯や美膳を調え、いろいろなところにまで気を配ってもてなした。
 法然は、念仏往生の道を細かいところまで西忍に指導した。中でも不軽(ふきょう)菩薩が、杖木・瓦・石で打ちたたかれた話をして、「どんな計り事を廻らしても、人に勧めて念仏させることが、その人のためになる」と返すがえす伝え、これを守るべしと申し渡した。その後は、自行化他(じぎょうけた)、念仏の外になにもないとも云った。
   
塩飽地頭舘2
     塩飽の地頭舘(法然上人絵伝 第35巻第1段)

入道西念は、自分の舘に法然一行を招き、歓待します。
①の畳の上に座るのが法然
②の下手の板戸を背に座っているのが主人の西念。出家入道なので僧服姿です。扇の柄ををトントンと板間につきながら「実は、先日、満月の光が私の袂に入る夢をみましてなあ・・」と、語り始めます。
③都から高僧がやってきたという知らせを聞いて、③の武将がお供を連れてやってきています。しかし、地頭の舘なので、いろいろな階層の人達の姿はありません。武士と僧侶だけで、庶民や女性の姿は見えません。木戸の奥を、見てみましょう。

塩飽地頭舘3
    塩飽の地頭舘(法然上人絵伝 第35巻第1段)
①奥では接待のための膳の準備が整ったようです。「心込めて、気をつけて運べよ」と指示しているのでしょうか。奥は棟がいくつも続き広い空間が拡がっています。塩飽は、瀬戸内海の流通センターの役割を果たし、人とモノが集まってくる所でした。そこを押さえた地頭の羽振りの良さがうかがえます。
②縁側の上に首飾りをつけた犬がいます。猫ではないようです。ペットとして室内犬的に飼われていた犬もいたようです。

塩飽地頭舘4
     塩飽の地頭舘の奥(法然上人絵伝 第35巻第1段)

「塩飽」とありますが、塩飽諸島のどの島に上陸したのでしょうか
中世の塩飽の島々は、バラバラで一体感はなかったようです。例えば、各島の所属は次のようになっていました。
①櫃石島は備前
②塩飽嶋(本島)は、讃岐鵜足郡
③高見島は、讃岐多度郡
④広島は、那珂郡

塩飽諸島絵図
塩飽嶋(本島)周辺の島々
ここからは中世の塩飽諸島は、備前国と讃岐国との国界、鵜足郡や那珂郡、そして多度郡との郡界があって、それぞれ所属が異なってひとまとまりではなかったことが分かります。近世には「塩飽諸島」と呼ばれるようになる島々も、中世は同一グループを形作る基盤がなかったのです。
 以上から「塩飽嶋=本島」で、 その他の島々を「塩飽」と呼ぶことはなかったようです。本島がこの地域の中核の島だったので、次第に他の島も政治、経済的に塩飽島の中に包み込まれていったと研究者は考えています。つまり、法然や後のキリスト教宣教師が立ち寄ったのも本島なのです。

「塩飽島=本島」が史料に最初に現れるのは、いつなのでしょうか。
「塩飽荘」として史料に現れる記事を年代順に並べて見ましょう。
①元永元年(1118) 大政大臣藤原忠実家の支度料物に「塩飽荘からの塩二石の年貢納入」
②保元4年(1156) 藤原忠通書状案に、播磨局に安堵されたこと、以後は摂関家領として伝領。
③元暦二年(1185) 三月に屋島の合戦で敗れた平氏が、塩飽荘に立ち寄り、安芸厳島に撤退
④建長五年(1253) 十月の「近衛家所領日録案」の中に「京極殿領内、讃岐国塩飽庄」
⑤建永二年(1207) 3月26日に法然が流刑途上で塩飽荘に立ち寄り、領主の館に入ったこと
⑥康永三年(1344) 11月11日に、信濃国守護小笠原氏の領する所となったこと
⑦⑧永徳三年(1383)二月十二日に、小笠原長基は「塩飽嶋」を子息長秀に譲与したこと。
ここからは次のような事が分かります。
①②からは、12世紀に摂関家藤原氏の荘園として伝領するようになっていたこと
③からは、12世紀後半に平清盛が日宋貿易や海賊討伐で瀬戸内海の海上支配を支配し、塩飽もその拠点となっていたこと。そのため屋島の戦い後の平家撤退時に、戦略拠点であった塩飽を経由して宮島に「転戦」していること。
④からは鎌倉幕府の下で、九条家を経て近衛家に伝領するようになっていたこと
⑥からは、小笠原氏の領地となっているが現地支配をともなうものではなかったこと
⑦からは「塩飽荘」でなく「塩飽嶋」となっているので、すでに荘園ではなくなっていること。つまり、14世紀後半には「塩飽荘」は荘園としては消滅していたことがうかがえます。

4 武士の成長とひろしま ~厳 島 神社 と 平 清 盛 ~
平清盛と日宋貿易における瀬戸内海ルートの重要性

  法然がやって来た13世紀初頭の塩飽を取り巻く状況を見ておきましょう。
平氏の支配下にあった讃岐は、源平合戦後は源氏の軍事占領下に置かれます。そして、1185年「文治の守護地頭補任の勅許」で、讃岐にも守護・地頭が設置されることになります。しかし、当初は、西日本の荘園には地頭は設置でず、それが現実化するのは、承久の変以後とされます。ちなみに、鎌倉時代の讃岐の地頭・御家人の補任地は次の22ヶ所です。
鵜足郡 法勲寺  二村
那珂郡 真野勅使(高井) 櫛梨保(島津) 木徳荘(色部) 金蔵寺(小笠原)
多度郡 善通寺 生野郷 良田郷 堀江荘(春日兼家) 吉原荘(随心院門跡) 仲村荘
三野郡 二宮荘(近藤) 本山荘(足立) 高瀬荘(秋山) ()は地頭名
地頭名は、ほとんどが東国出身の御家人で、讃岐出身の武士名はいません。地頭が配置されているのは、丸亀平野と三豊平野がほとんどです。東讃にはいません。これは、東讃の武将がいち早く源氏方についたのに対して、西讃の武士団が旧平家方に最後までいたので、領地没収の憂き目にあったようで、その後に西遷御家人が地頭として東国から乗りこんできたと説明されます。しかし、この一覧を見ると、塩飽に地頭は配置されていません。塩飽の地頭として登場してくる「駿河権守高階保遠入道西忍」の名前もありません。これをどう考えればいいのでしょうか?  その謎を解くために、20年ほど時代を遡って、平家が塩飽戦略拠点とした経過を見ておきます。
千葉市:千葉氏ポータルサイト 千葉氏ゆかりの史跡・文化財
平氏の撤退と源氏の追撃ルート

『玉葉』の元暦二年(1185)12月16日条に屋島合戦の後の平家の退路が次のように記されています。

伝え聞く、平家は讃岐国シハク庄(塩飽)に在り、しかるに九郎(義経)襲政するの間、合戦に及ばず引き退き、安芸厳島に着しおわんぬと云々、その時饉かに百艘ばかりと云々

ここには屋島を追われた平氏は、まず塩飽荘に逗留したこと、義経の追撃をうけて戦わずに安芸国の厳島に百艘余りで「転戦」したとされています。厳島神社は清盛をはじめとして平氏一門とかかわりの深い神社であり、戦略拠点でもあったとされます。どうやら平家は、塩飽も戦略拠点地としていたようです。
それでは、どうして平家が塩飽を支配下に入れていたのでしょうか?   丸亀市史1(606P)は、次のように推測します。
①塩飽荘は、藤原師実以来の摂関家領であった。
②本家の地位は師実より孫の忠実、さらにその子忠通へと伝領され、基実を経て近衛家の相伝となった。
③清盛は関白基実が没したときに、遺子基通に相統させ、未亡人の盛子の管理下に置き、実質的に 摂関家領の多くを平氏の支配下に入れた。
④こうして塩飽荘は平家支配下に組み込まれ、瀬戸内海の戦略的な要衝として整備された。
⑤源平合戦後に平家が落ち延びていくと、源氏は塩飽を直轄地として支配下に入れた。
⑥その際に「平家没官領」として、鎌倉から代官が派遣された。それが「得宗被官塩飽氏」である。
この北條得宗被官が「駿河権守高階保遠入道西忍」で、得宗家領の代官として塩飽にやってきていたと考えることはできます。得宗家領には平家没官領などの没収地が多くありました。塩飽という地名は塩飽諸島以外にはありません。この地を名字の地とする塩飽氏が得宗被官として、鎌倉時代の後半には登場してきます。以上から塩飽荘は平家没官領であり、得宗家領の代官が管理していた、その代官が「駿河権守高階保遠入道西忍」だとしておきます。
  
それでは入道西忍の舘があったのは、どこなのでしょうか?
1 塩飽本島
本島に「塩飽嶋」と注記されている(上が南)
その候補は、「①笠島 ②泊 ③甲浦」が考えられます。しかし、決め手に欠けるようです。
笠島城 - お城散歩
本島笠島は、中世山城と一体化した湊

①の笠島は、塩飽島(本島)北側にあり、山陽道を進むことの多かった古代・中世の船が入港するには、都合のいい位置です。しかし。笠島は中世の山城と一体的に作られた湊の雰囲気がします。一般的に、中世の武士団の拠点が湊と一線を画した所にある点からすると異色の存在といえます。ここは、海賊衆の鎮圧などのために香西氏などが進出してきた後に作られた湊と私は考えています。

そうすると残りは、島の南側の②か③になります。古代から塩が作られていたのは、②の泊になるようです。ここに海民たちが定着し、塩などの海産物を京に運ぶために海運業が育ち、そこに荘園が置かれたことは考えられます。つまり、古代の本島の中心は②にあった、そして①笠島は中世以後に軍事拠点として現れたという説です。そう考えると、法然が立ち寄った際には①笠島は、まだ姿を見せていなかったことになります。
 「泊=荘園政所説」に、さきほどみた「塩飽荘は平家没官領であり、得宗家領の代官が管理」説を加えると、得宗家領の代官としてやってきた入道西忍はどこに舘を構えたのか?ということになります。
地頭の舘は、支配集落のすぐそばには作られません。意図的に孤立した場所が選ばれていることが発掘調査からは明らかになっています。そうすると②の泊ではなく、①か③ということになります。そして①の出現は、南北朝以後とすると③の可能性もあります。このように決定力に欠けるために、どこか分からないということになります。
 西行が崇徳上皇慰霊のために讃岐に渡る際に、備中真鍋島で塩飽のことを次のように記しています。
「真鍋と中島に京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわく(塩飽)の島に渡り、商はんずる由申しけるをききて、真鍋よりしわく(塩飽)へ通ふ商人は、つみをかひにて渡る成けり」

意訳変換しておくと
(上方の船は)真鍋と中島で、京からの商人たちを下船させた。そこで様々な商品を商いして、また塩飽島に渡って、商いを行うと云う。真鍋から塩飽へ通う商人は、商品を売買したり、仕入れたりしながら塩飽を中心に活動しているようだ。

ここからは塩飽島が瀬戸内海を航行する船の中継地で、多くの商人が立ち寄っていたことがうかがえます。平安期には、西国から京への租税の輸送に瀬戸内海を利用することが多くなります。そのため風待ち・潮待ちや水の補給などに塩飽へ寄港する船が増え、そのためますます交通の要地として機能していくようになていたのです。人とモノと金が行き交う塩飽を治めた入道西忍の舘がその繁栄を物語っているように思えます。法然は、ここにしばらく留まったと伝えられます。
塩飽が備讃瀬戸の交易センターとして、さまざまな人とモノが行き交っていたことがうかがえます。

重要文化財の「絵巻物」2億円超で落札 文化庁は?(2021年11月22日) - YouTube

「拾遺古徳伝絵詞」には、法然の塩飽滞在について次のように記します。
「近国遠郡の上下、傍荘隣郷の男女群集して、世尊のごとくに帰敬したてまつりける」

塩飽本島は、瀬戸内海の交易センターで交通の便がよかったので、周辺の国々から多くの人達が法然を尋ね結縁を結んだというのです。

本島集落
塩飽嶋(本島)の集落
以上をまとめておきます
①讃岐に流刑となった法然一行は、京を出て11日目に塩飽島に到着した。
②塩飽島は、現在の本島(丸亀市)のことである。
③塩飽島の地頭は、出家して入道西忍と名のっていて、法然を歓待した。
④当時の塩飽荘は平家没官領で、得宗家領として代官が派遣され管理していた。それが入道西忍であった。
⑤入道西忍の舘がどこにあったかは分からないが、経済力を背景に豪壮な舘に住んでいた。
⑥ここに法然はしばらくとどまり、その後に讃岐に上陸していく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   屋島合戦と塩飽 丸亀市史1(606P)

兵庫北関入船納帳 讃岐船の港分布図
兵庫北関入船納帳に出てくる讃岐の港

中世前半期ごろまでは荘園の年貢の海上輸送は、「梶取(かじとり)」と呼ばれる人々によって行われていました。
彼らは自前の船を持たない雇われ船長で、荘園領主に「従属」する立場でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。 
讃岐の梶取について触れた史料はありませんが、当然いたはずです。
弘安二年(1279)の記録に「讃岐国林田郷並梶取名内潮人新開田」とあります。
阿野北平野の林田郷と梶取名内の潮人新開田は八坂神社領でした。ここからは、潮入新開に塩浜が開かれ、生産された塩は八坂神社へと送られたことが分かります。「梶収名」の名から梶取が林田郷にいたことがうかがえます。林田地区には現在でも「梶取」の地名が残っているのは以前にお話ししました。
 ここでは梶取は、荘園内で給田が与えられ、梶取名と称し名田経営をするとともに、名田作人を使って塩の生産も行ったいたと研究者は考えています。船長から名田主、そして塩浜経営と多角経営に乗り出す姿が見えてきます。
兵庫北関入船納帳 積載品目別積載量
兵庫北関入船納帳 入港した船の積載品

 兵庫北関入船納帳に出てくる60品目にも及ぶ積載品目を見ると、この時期の輸送船が年貢物輸送から商品輸送に移行していたことが分かります。それにつれて「梶取」は荘園に従属した「専属契約者」の立場から、船頭と呼ばれる立場に地位を向上させていくことは先ほど見たとおりです。専門の水運業者の登場です。兵庫北関入船納帳には、讃岐船籍の船頭が100余人登場します。今回は塩飽船の船頭について見ていくことにします。テキストは「橋詰茂   瀬戸内水運と内海産業 瀬戸内海地域社会と織田政権所収 」です。  

表11が船頭別の入関一覧表で、塩飽に22名の船頭がいたことが分かります。
兵庫北関入船納帳 塩飽船頭一覧
兵庫北関入船納帳 塩飽船籍の船頭一覧表
1445年の1年間に6回やって来ている太郎兵衛船については、次のようなことが分かります。
①積載品は塩が主体であること
②塩だけの時には積載量は400石なので、400石以上の大型船の船頭であったこと
③2月~12月の間に6回、ほぼ定期的に兵庫北関に入関していること
④2・9月は、塩の単独輸送だが、その他は穀類を少量合わせ載せていること
今度は、水沢船を見てみます
⑤積荷は塩が主であるが、穀物類・魚類・紙も混載していること
⑥3月26日と12月19日の便は、一日に2回記されていること
⑦5月19日の塩300石が最大積荷なので、350石程度の船であったこと
⑧太郎兵衛船の問丸は道裕で、水沢船は衛門九郎で両船の発注者が異なる。
①⑤からは太郎兵衛船と水沢船ともに、「讃岐船の積荷の8割は塩」と云われるように塩飽も塩輸送が中心の船団であったことが分かります。塩飽の塩生産については後で見ることにして、船の大きさを見ておきましょう。
讃岐船の規模を船籍毎に分類したのが下表です。
兵庫北関入船納帳 讃岐船の規模構成表

塩飽の欄を見ると、年間37隻が入港しています。その中で最も大きい船は400石以上で3回の入港です。②と併せて考えると、これが太郎兵衛船になるようです。350石が5回の入港で、⑦からこれが水沢船なのでしょう。ここからは一番多く入港している太郎兵衛船と水沢船が、塩飽船の中では一番大型船だったことが分かります。塩は最も利益があがる輸送品で、そこに島一番の腕利きの船頭と、新鋭大型船が投入されていたようです。
兵庫北関入船納帳 港地図
兵庫北関入船納帳に出てくる港
③の太郎兵衛船の入港間隔を見ると、約2ヶ月毎に兵庫関に姿を見せています。
塩飽と兵庫北関(神戸)は、潮待ち・風待ちを入れても普通は、1週間以内には着きます。片道1ヶ月はかかりません。そうすると、2ヶ月の間隔が空くというのは、塩浜での生産に関係がありそうです。2ヶ月待たないと次に出荷するだけの塩が生産できなかった、別の言い方をすると、太郎兵衛船を一杯にするだけの塩を確保するためには約2ヶ月かかった。季節によって塩の生産量は上下するので、太郎兵衛船の塩積載量もその都度変化したという仮説は出せそうです。そう考えると、真夏後の9月8日の積載量が400石が一番多いのも頷けます。2月9日便も400石の塩が積まれているのは、12月以後3ヶ月分だから・・・としておきましょう。

兵庫北関入船納帳 月別入港回数
兵庫北関入船納帳 讃岐船月別入港数
表2は、讃岐17港の船籍地ごとの月別の入港回数の一覧表です。
この表からは、次のようなことがうかがえます。
A冬期(12~2月)は北西偏西風が強く、瀬戸内海航路は休止状態にあったこと。運航しているのは嶋(小豆島)船にほぼ限定される
B8・9月も台風シーズンで運航が少ないこと
C11月が45回と最も多いのは、年末年始の物資輸送のため。
D7月29回、3・5月26回と、比較的に海上の穏やかなで順風時期に輸送が集中していること

近世後期の金比羅船の運行状況を見ても冬場には欠航や風待ちのための遅延で、なかなか船が大坂を出港せずに、船頭と喧嘩になった記録がいくつか出てきます。また、引田船など東讃の船は、夏場は淡路島の西側航路を使っていますが、冬が近づくと北西風を避けて東側航路に変更して、航行していたことが史料からも分かります。中世の瀬戸内海では冬期に長距離を航行する船はいなかったようです。
  そのような中で塩飽船の中に2月に航行した記録があります。これを先ほど見た表11で確認すると、太郎兵衛船と次郎五郎船で、2隻が同日の2月9日に入港しています。季節風の強い時期に、他の船頭が出港を控える中で船を出しています。ここからも船頭・太郎兵衛の腕がしっかりとしていたことがうかがえます。
 同日に2隻が入港している例を、他で見ておきましょう。
表11をもう一度見てみましょう。
兵庫北関入船納帳 塩飽船頭一覧
水沢船が3月26日と12月19日の便は、一日に2回記されていました。水沢が2艘の船を同時に操ってやってきたということではないようです。これは水沢が船頭ではなく、船主としてもう一艘を引き連れて入港してきたと研究者は考えています。船頭として自ら操船する場合と、雇船頭としての輸送があったことが分かります。水沢は2隻の船を持って、塩飽と畿内を定期的に行き来していたようです。水沢以外にも太郎左衛門も2月26日に、山崎ゴマと塩を積んで小型船で2回入関しています。彼の名前は、兵庫北関入船納帳には「泊 太郎左衛円」「かうの 太郎左衛門」と記されています。泊とかうの(甲生)は、現在も本島にある港名です。ここからは、太郎左衛門が船主で、泊・かうの両港の雇船頭を雇っていたことがうかがえます。
 7月16日の便船には「太郎左衛門枝船 浄空かうの」と記されています。これも「浄空」が甲生(かのう)の港の太郎左衛門の雇われ船頭だと研究者は考えています。水沢・太郎左衛門は、年間を通じて定期的に塩や穀類を運んできています。
 それに対して、年1回しかやって来ない船頭も多くあります。その積載品は大部分が塩ですが、山崎胡麻だけを積載している次郎五郎の船があります。これが山崎胡麻船と呼ばれた塩飽船だと研究者は考えています。山崎胡麻だけを専門に輸送する船でした。1回しかやって来ない船は、ほとんどが積載量が少ない小型船です。
以上から塩飽船の船頭を、研究者は次のように階層分けします。
①太郎兵衛のような有力船頭
②水沢のような船主と船頭を兼ねた者
③太郎左衛門に雇われた雇船頭
④年に一回しかやって来ない小型船の船頭
荘園に従属していた「梶取り」身分から階層分化が進んでうたことがうかがえます。
兵庫北関入船納帳 問丸

次に塩飽船の問丸について見ておきましょう。
  荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などでした。それが室町時代になると梶取りと同じように問丸も従属していた荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者や輸送業者へと脱皮していきます。問丸は年貢輸送・管理・運送人夫の宿所提供までの役をはたすようになります。その一方で、倉庫業者を営み、輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。そして港湾や主要都市では、物資の管理や中継取引を行う業者が現れてくるようになります。
『兵庫北関入船納帳』には、53名の問丸が出てきます。問丸は階層区分すると4グループに区分されるようですが、塩飽船の問丸はどうだったのでしょうか? 讃岐船の問丸を船籍毎に一覧表化したのが表12です。
兵庫北関入船納帳 船籍地別の問丸
兵庫北関入船納帳 讃岐船の問丸一覧

讃岐の船籍地と問丸との関係について、表12からは次のようなことが分かります。
①讃岐船の問丸は、「ひとつの港に一人の問丸」体制が多く、一人の問丸によって独占されていることが多い。。
②複数の問丸が関係している場合も、折半という関係は見られず、独占的な問丸を核として、残りの問丸が少量の物資を取扱っている。
③宇多津は、法徳の独占
④嶋(小豆島)船は道念の独占
⑤引田・三本松船は衛門太郎   衛門太郎は東讃岐の船を中心に取扱いを行っていた問丸?
⑥平山は、二郎三郎
⑦豊後屋は観音寺・丹穂(仁尾)船を独占的に収扱っていて、西讃岐を拠点とした問丸
⑩道裕は塩飽諸島のすべての物資を取扱っており、問丸の間において集荷地域を再編成したものと研究者は考えています。

改めて塩飽船の問丸を見てみましょう。
塩飽船は、道裕が24回、衛門九郎が8回、三郎二郎が5回で、道裕が中核の問丸で、それに衛門九郎と三郎二郎が食い込んでいます。②のパターンになるようです。
このうち道裕は、兵庫北関に入る船のすべての物資を扱う大型の問丸で、瀬戸内海ほぼ全域を商圏としていた超大物の問丸のようです。讃岐では、多度津・さなき・手嶋船も取扱を独占しています。多度津は守護代の香川氏の「専用港」的な性格を持っていました。香川氏は守護代特権である「国料船・過書船」の関税フリー特権を活かして、問丸の道裕と結んで海上交易の利益を上げていたと考えられる事は以前にお話ししました。
 塩飽での道裕は先ほど見た太郎兵衛船だけでなく、大蔵船などその他の船を使っても塩飽産の塩を畿内に輸送しています。また11月7日には、船頭の太郎衛門を詫間に派遣して「タクマ塩100石」とマメやゴマを積み込ませて畿内に輸送させています。多くの塩飽船が道裕の問丸ネットワークの中で動いていたことがうかがえます。
 塩飽船では、問丸の衛門九郎の占める割合も大きく、船頭水沢の船の6/7を扱っています。
  道裕が太郎衛門専用の問丸であったように、衛門九郎は水沢専用の問丸だったようです。ここからは、塩飽産の塩も、エリア毎に所有者が異なり、それに伴い集荷される港も異なること。当然、そこに馴染みの問丸も異なり、輸送に使用される船も違っていたことが推測できます。これは、小豆島北部の塩浜で生産された塩を牛窓船がとりあつかい、南部の内海・池田の塩浜の塩を地元の小豆島船が輸送していたことを裏付けるものと私は考えています。
 最後の問丸・三郎二郎は、5件だけの取扱で、しかもで塩飽船だけに登場します。塩飽船だけを取扱う小規模な問丸だったことが分かります。
本島集落

最後に塩飽での塩作りについて見ておきましょう。
本島では早い時期から塩作りが行われていました。7月14日の御盆供事に、「三石 塩飽荘年貢内」とあって、藤原摂関家領であった塩飽荘から塩が年貢として上納されています。その内の塩三石は、法成寺の盆供にあてられています。寺社の行事には、清めなどに塩が大量に必要とされました。塩飽の塩は宗教的な行事にも使われています。
 中世には塩飽(本島)のどこで塩が生産されていたのでしょうか。
これもはっきりとした史料はありません。ただ、島の北部にある砂浜地帯に「屋釜」という地名があります。これは塩を煮た釜を推測できます。また南部の泊の入江付近は、かつては海岸部が内側に入り込んでいて、干潟が広がっていたようです。その干潟を利用して塩浜が開かれていたと研究者は推察しています。

以上をまとめておきます
①塩飽では古代以来、塩作りが盛んで中世にも小豆島と並んで大量の塩が生産されていた。
②塩飽産の塩を運んだのは、塩飽船籍の船頭たちであった。
③五郎兵衛船は、塩飽塩300~400石を積んで、2ヶ月毎に畿内を往復している。
④それ以外の船も何隻もが塩飽塩の輸送に関わっている。
⑤塩飽塩の多くは、大問丸の道裕にチャーターされた塩飽船で運ばれ、道裕の管理下に置かれた
以上からは、この時代の塩飽側の船頭や船主は、問丸の道裕に従属的であったことがうかがえます。
 この商取引に宗教が入り込んでくると、問丸が信仰していた宗教が、その配下にあった瀬戸の港町にも浸透してくることになります。その典型的な例が以前にお話ししました牛窓の本蓮寺や宇多津の本妙寺の建立になります。日蓮宗門徒となった兵庫・尼崎港の問丸と牛窓や宇多津の海運業者を結ぶネットワークを使って、布教活動が展開されていったのです。同様の動きは、禅宗や浄土真宗などにもみられるようになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 橋詰茂    瀬戸内水運と内海産業  瀬戸内海地域社会と織田政権所収
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佐柳島

佐柳島は、今は猫の島として有名になりました。
この島は、塩飽七島には数えられていません。佐柳島に人びとが住みはじめたのは江戸時代になってからのようです。高見島から七つの株をもった人名が移住して開拓をすすめ、その後に他の島からも漁民が移り住み、しだいに集落が形づくられていったようです。このため佐柳島には人名株が7つありますが、塩飽全体の650株からするとわずかな数です。そのため人名制が島の歴史に及ぼした影響は、他の島にくらべると大きなものではなかったと研究者は考えています。

 真鍋島 八幡神社3
佐柳島の八幡神社 
明治初期の統計によると、戸数275のうち、農業3、漁業267、大工3、船乗渡世2となっています。大工や船乗りになって稼ぐ人がほとんどいなかった点に、塩飽七島との違いが見れます。佐柳島は、専ら漁で暮らしをたてる島として、「渡世」してきた島のようです。
 

高見島・佐柳島(17.06.14)
佐柳島
佐柳島本浦の北はずれに八幡宮があります。
本殿は昭和28年の改修、拝殿は昭和48年の新築で、銅板葺の緑の屋根が島の緑と調和しています。住む人が少なくなった集落の中を歩いてきた私には、こんなに立派な拝殿が建っていることを不思議に思えました。

真鍋島 八幡神社4
佐柳島の八幡神社

 拝殿には新築を記念して船を操縦する舵取機が奉納されていました。漁船のものとは思われない立派なモノです。よく見ると「神戸市在住佐柳島有志」と奉納者の名があります。その上の鴨居には、本殿改修寄附者の名を連ねた額が掲げられている。地元の人に混じり、次のように神戸や大阪からの寄附者の名が多くあります。
①神戸市在住 89名
②大阪市在住 35名
③神戸市給水所 40名
④住友神戸支店 16名
⑤神戸市大正運輸 14名
⑥神戸市日本組  9名
⑦大阪市住友 43名
役所や企業ごとに人びとの名前が記されています。神戸・大阪と佐柳島が、どのように結びつくのか私には分からず「疑問のおみやげ」として持ち帰りそのままになっていました。最近、それに応えてくれる書物に出会いました。今回は、佐柳島と神戸の関係を、読書メモ代わりに記しておきます。
真鍋島 八幡神社6
八幡神社(佐柳島)の鳥居と瀬戸内海
拝殿新築したときの世話人が、次のように話されています。
新田清市氏(明治35年生)は、神戸市給水所に定年まで務め、退職後に真鍋島にもどってきた方です。本殿改修寄附者の名を連ねた③神戸市給水所40名の一人になります。
わしらの入った大正のじぶんは、船舶給水所というて、神戸港にやってくる船に給水するのが仕事です。神戸が港町として開かれたのは、 一つには水が良かったためで、神戸の水は赤道を越えてもくさることがない、といわれました。
 神戸港へ入港した船への給水には、突堤に設けられた給水孔をつかっての自家給水と、沖に碇泊したまま水船をたのんで給水するものの二とおりがありました。神戸の良い水を水船でとどけるのが私たちの仕事でした。務めていたのは、ほとんどが佐柳島の人でした。
 船が港に入り繋留すると、何番ブイの船、何トン給水をたのむ、と船舶会社から給水所に連絡がはいります。すると、水船が本船に出むきます。私が入った当時は、木造の水船を曳船がひいて本船に近づき、蒸気でポンプを動かす「ドンキ船」が付き添って給水していました。
水船の大きさは30、50、100トンの三段階で、慣れた者が大きな船に、初心者は小さな船に乗るといった具合でした。乗組員はいずれも一人で、真中に大きな水槽を備え、前後にオモテとトモの二つの部屋がつくられていました。
「給水所に勤めるといっても、戦後しばらくまでは私たちは船住いでした。水船には女をのせてはいけないというきまりがありましたから、女房や子どもたちは島において働いていました。船の中で男手で煮炊きをするという不自由な生活でした」
曳舟には船長・機関長・機関部員・甲板員二名のあわせて五名が乗り組んでいました。みんな給水所につとめる人で、船長と機関長が吏員の職に就き、機関部員と甲板員はやとわれでした。島を出て給水所につとめるときは、だれもが傭人として入りました。水船に乗りたいという人がいると、島出身の先輩が所長にたのみこむという形がほとんどでした。
 傭人として二年つとめると試験をうけて雇員にすすみ、さらに二年後の試験で正式な吏員になる道がひらかれていました。吏員になるとそれまでの日給が月給にかわり、盆・暮れの帰省も心おきなくできて、暮らしむきも安定します。

 八幡宮の拝殿を建替時に、新田さんは島に帰って年金暮らしを送っていたようです。そして、発起人として寄附の呼びかけをすると、神戸や大阪で活躍する多くの佐柳島出身者から巨額の金が集まったようです。水船で働く仲間のなかには、吏員にすすめぬまま年老いてしまった人もいました。彼らからも同じように島へ志が寄せられてきたといいます。ここからは、神戸港の水船は佐柳島出身者によって運営されていたことが分かります。

真鍋島 八幡神社5
八幡神社(佐柳島)の鳥居
佐柳島出身者には、ハシケ(艀)にのって暮らしをたてる人びとも多くいようです。
八幡宮の本殿改修寄附者の額には、住友神戸支店、神戸市大正運輸、神戸市田本組、そして大阪住友と阪神の企業の人びとの名が記されていました。彼らは輸送会社や倉庫会社で働き、ハシケのりとして港湾労働で汗を流した人だちだったようです。ハシケは水船とちがつて、ふつう夫婦でのりこみ、子どもも船の中で育てたようです。また、見習いとしてやとわれた「若い衆」も同乗していました。
 住友運輸のハシケに夫と一緒にのっていたという岩本クニさん(明治42年生)のインタビュー記事には、次のように記されています。
 いまは楽させてもろうてますが、憶えてこのかた働きずめでした。小学校から帰ると、母親が百姓しよる畑のわきで乳飲み児の子守です。母は乳がでなかったので、背中に負うた児がよく泣きよりました。ハラすかしてな。マメをペチャペチャかみくだいては、口元にもっていったものです。日暮れちかくになると母より一足先に家に帰り、ご飯をたいてその児と二人で畑の母を待つ毎日でした。学校をおえると、こんどは岡山の紡績工場づとめです。主人といっしょになったのは20歳のときです。主人は14歳で神戸に出て、ハシケにのっていましたので、私もいっしょに船の中で暮らすようになったのです」

 こわかったのは、何といっても台風のときです。下の娘が三つくらいやったろうか、三十数年前に大嵐にあいました。避難の途中で、曳船のロープがプツンと切れてね。いあわせた船にやっとの思いで肪わせてもろうたが、今度は、その船ともども流されたんよ。二隻とも嵐にやられてしまうと思って、泣き泣きロープをほどいたのですが、 一時はもうダメかと思いました。せめて子どもの命だけはと思うて、トモに寝ていた娘をおこしてだきかかえました。海の中へとびこんだらだれかが助けてくれるのではないかと思うてね。そうこうしよるうちに救助船が近づき、命からがらのりうつったんです。

海が平穏であっても、海上での暮らしはちょっとの油断でたいへんなめにあいます。とくに幼児のいる母親は、たいへんだったようです。
ある夏の晩、ハシケの上で家族そろって夕涼をしていました。スイカを切ろうと下の娘に包丁を取りに行かせたんですが、なかなかもどってこない。上の娘に見に行かすと、あわてて帰ってきよるん。どうしたと聞くと「妹が海に浮いとるん、といいよるの」
 大いそぎで引上げたところ、息があった。水もさほど飲んでいないようで、ほっと胸をなでおろした。
「子どもはえろう元気なもんです。ケロッとした顔しておきあがって「おかあちゃんスイカ」といいよるんです。海の水をのんでまだスイカをほしがるんよ」
戦後間もない頃、配給米をもらいに出かけた夫が夜になってももどってこない。どうもヤミ米を買いに行ったと間違えられて、警察の留置所に拘束されているらしいとのこと。夜中の12時には、荷役の仕事がはいっているので、船を出さないわけにはいけん。曳胎の船長さんに、やんわり曳いてや、いうて私がハシケの船頭になって舵をとりました。上の娘が五つか六つくらいのときやったろうか。眠い目をこすりながらロープの上げ下げを手伝うてくれてね……」
ハシケでは、あるときは女が男の代役をつとめ、子どもまでその仕事を手伝ったようです。
 しかし、働きさえすれば白い米を思うそんぶん口にできることは幸せでした。ハシケを所有する会社からは、男・女・子どもを問わず一日一人五合の白米の配給がありました。それがハシケのりの大きな魅力です。
「年に何度か島に帰ると、少しずつ残しておいた米でおむすびを山のようにこしらえて、隣近所に配ったものでした。ええ土産物だと喜ばれました。ハシケの人はええなあ、と島の人にうらやましがられたものです」
と、戦後間もないころの物質が不足していた時代を岩本さんは回想しています。

ハシケの暮らしは、電気・水道・ガスがありません。そのため石油ランプを灯して明かりとし、煮炊きには、流木をひろったり、造船所で木の切れ端をもらつてきて燃料としました。野菜や日用品は、港に碇泊する船をめあてに巡回してくる「ウロウ船」から買います。ときには船からあがって、ハシケの女たちが連れだって市場に買出しに出かけることもありました。それは、息抜きのひとときで、ささやかな楽しみでした。

 洗濯と給水は、神戸港の突堤で行なっていました。
「水はほんとうは買わにゃいけんけど、私ら佐柳島のもんは、おおかたタダで使わせてもろうていました。 給水所の人が佐柳島の出の人でしたから、給水所のお役人がいくら厳格いうても、そのあたりはおおめにみてもろうていました」
 ある日、突堤で洗濯をしていたら、いつもとちがう人がみまわりにやってきました。そして、なにしよんぞととがめられました。よくみると、里の隣の家の息子です。実家の井戸によくもらい水にきていた家の子なので、子どものころからよく知っていました。そこで、すかさずこう云いました。。
「何いうとるん、あんた、うちの井戸でうぶ湯をつかったやないの」
その人は驚き、私の顔をまじまじと見て、なつかしさのあまり声をあげた。
「クニさんかいなあ。ほうかいなあ。なんぼでもとれや、かまわん、かまわん」

ハシケの船住いも昭和30年代半ばで終わりをつげたようです。
 岩本さんが神戸のまちへ陸上りすると、ハシケにのっていた佐柳島の仲間たちもしだいにそれにならい、近所に寄り添うように住みはじめます。そして、陸の家から弁当をもってハシケに通う暮らしに変わっていきます。
 そのころから神戸港の浚渫がすすみ、本船が埠頭に横づけされるようになり、コンテナ船なども登場し、荷役作業のあり方が変わっていきます。そして、ハシケや水船は姿を消して行きます。

真鍋島1
八幡神社の前の浜
 佐柳島の二人の話からは、神戸の水船やハシケなどの港湾運営に佐柳島の人々が縁の下の力持ちとして活躍していたことが分かります。
 佐柳島は近世になって入植された島なので、塩飽の島々のように船乗りや大工などの職人として、島外に出る伝統がありませんでした。しかし、神戸が近代的な港町として発展していく中で、ハシケヤ水船に関わり、その発展に寄与していたようです。
佐柳島歩きについては、こちらにアップしました。
ttps://4travel.jp/travelogue/11285847

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 宮本常一と歩いた昭和の日本 第五巻
中国・四国2 宮本常一とあるいた昭和の日本5』田村善次郎監修他 - 田舎の本屋さん

天正10年(1583)6月、本能寺で天下統一の事業半ばで信長は倒れます。代わって羽柴秀吉は、後継者の地位を固めると、翌年には、本願寺のあった石山の地に大坂城を築き、天下統一の拠点とします。そして1585年には、秀吉は土佐の長宗我部元親を討つための四国遠征軍を準備します。信長亡き後の混乱を予想していた長宗我部元親にとって、秀吉が意外なほどの早さで天下統一事業を立て直し、実行してくることに驚きと脅威をもって見ていたかもしれません。 
 このころ小豆島や塩飽は、秀吉の「若き海軍提督」と宣教師が名付けた小西行長によって統治され、瀬戸内海の海軍(輸送船)の軍事要衝的な性格を帯びていたことは以前にお話ししました。当然、塩飽にも行長の家臣が、船の準備をするために滞在していました。
小西行長と塩飽・小豆島の関係を年表で押さえておきます。
天正 8年(1580)頃 父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 播磨室津(兵庫県)を所領
天正10年(1582) 小豆島の領主となる
天正11年(1583) 舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 四国制圧の後方支援
天正14年(1586) 九州討伐で赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後,平戸(長崎県)に向かい,松浦氏の警固船出動を監督。
天正15年(1587) バテレン禁止令後に高山右近を保護。
  年表から分かる通り、行長は室津を得た後に小豆島・塩飽諸島も委せれていたようです。正式文書に、小西行長の名はありません。しかし『肥後国誌』やイエズス会の文献には、小豆島・塩飽の1万石が与えられていたと記します。天正十五年(1587)、秀吉に追放された切支丹大名の高山右近が行長の手で小豆島に匿われたことがイエズス会資料にあるので、塩飽・小豆島が行長の所領であったが分かります。天正10年に、秀吉に仕えるようになってすぐに室津を得て「領主」の地位に就いたようです。そして、小豆島と塩飽と備讃瀬戸の島々を得ていきます。行長が20代前半のことです。このように東瀬戸内海エリアを秀吉の「若き海軍提督」の小西行長が高速船で行き交い、海賊たちを取り締まり「海の平和」が秀吉の手で実現していきます。
 ところが芸予諸島周辺では、小早川隆景配下の能島村上氏は海賊行為を続けていたようです。天正13~14頃の秀吉が小早川隆景に宛た朱印状には、次のように記されています。
能島事、此中海賊仕之由被聞召候、言語道断曲事、無是非次第候間、成敗之儀、自此方雖可被仰付候、其方持分候間、急度可被中付候、但申分有之者、村上掃部早々大坂へ罷上可申候、為其方成敗不成候者、被遣御人数可被仰付候也、
九月八日                     (秀吉朱印)
小早川左衛門佐とのヘ
意訳変換しておくと
能島(村上武吉)の事については、今でも海賊行為(関銭取り立て)を行っていると伝え聞くが、これは言語道断の事である。これが事実かどうかは分からないが、もし事実であれば、秀吉自らが成敗をくわえるべきものである。しかし、小早川隆景の家臣なので措置は、そちらに任せる。再度、関銭取り立てなどの行為禁止を申しつける。ただし、申し開きがあるなら村上掃部(武吉)を大坂へ参上させよ。そちらで成敗しないのであれば、(秀吉)が直接に軍を派遣して処置する。
九月八日                     (秀吉朱印)
小早川左衛門佐(小早川隆景)とのヘ
 ここからは「海賊禁止」を守らずに、芸予諸島海域で関銭取り立てを続ける村上武吉への秀吉の怒りが伝わってきます。これに対して、小早川隆景を秀吉に全面的に屈することなく、配下の村上武吉を守り通そうとします。小早川隆景と武吉をめぐる話は以前にお話したので省略します。

「海の平和」実現のために天正16年(1588)7月に出されたのが「海賊禁止令」です。
これは、刀狩令と同時に出されていますが、この刀狩令に比べるとあまり知られていないようです。海賊禁止令は、次のような三条です。
3 村上水軍 海賊禁止令
秀吉の海賊禁止令(1588年)
意訳変換しておくと
一 かねがね海賊を停止しているにもかかわらず、瀬戸内海の斎島(いつきしま 現広島県豊田郡豊浜町の能島村上氏の管轄エリア)で起きたのは曲事(不法)である。
一 船を使って海で生きてきた者を、調べ上げて管理し、海賊をしない旨の誓書を出させ、連判状を国主である大名が取り集めて秀吉に提出せよ。
一 今後海賊行為が明らかになった場合は、藩主の監督責任として、領地没収もありうる
第一条からは、再三の警告に対しても関銭取り立てを続けている村上武吉に対して出されたものという背景がうかがえます。
第二条は、経済的には海の「楽市楽座」のとも云える政策で、自由航行実現という「秀吉による海の平和」の到来宣言とも云えます。まさに天下統一の仕上げの一手です。
  しかし、これは村上武吉などの海賊衆から見れば「営業活動の自由」を奪われるものでした。「平和」の到来によって、水軍力を駆使した警固活動を行うことはできなくなります。「海の関所」の運営も海賊行為として取り締まりの対象となったのです。村上武吉は、これに我慢が出来ず最後まで、秀吉に与することはありませんでした。
 これに対して塩飽衆は、どうだったのでしょうか。
その後の歩みを見てみると、塩飽衆は「海賊禁止令」を受けいれ秀吉の船団としての役割を務め、その代償に特権的な地位を得るという生き方を選んだようです。それは家康になっても変わりません。それが人名や幕府の専属的海運業者などの「権利・特権」という「成果」につながったという言い方もできます。 
 どちらにしても、中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海をから離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのような中で本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆だったことは以前にお話ししました。今回は、秀吉政権下での塩飽の動きをもう少し追いかけて見ましょう。
秀吉の九州遠征と塩飽
 海賊禁止令が出される2年前の1586年に、秀吉は塩飽島年寄中に朱印状を発給し、島津攻めのため、塩飽へ軍用船を出すことを命じています。当時の背景を見ておくと、秀吉は九州で抗争を続けていた薩摩の島津義久と豊後の大友宗麟に対して和睦勧告をします。それに対して、島津氏が無視したため、島津氏討伐のために九州へ出陣準備を進めます。豊後へ侵入した島津勢に対する大友勢の救援として、まず毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が主力として豊前へと向かいます。一方、四国征伐後に秀吉は、次の九州出陣に備えて四国への大名配置を行っていました。事前の計画通り、讃岐の仙石秀久が十河存保や長宗我部元親等の四国勢を従えて豊後へと出陣します。
 この時の九州遠征には、塩飽に対して輸送船徴発が行われています。それが秀吉朱印状に残されています。
豊臣秀吉朱印状(折紙)
 今度千石権兵衛尉俄豊後江被遣候、然者当島船之事、雖加用捨候五十人充乗候船十艘分可相越候、則扶持方被下候間、壱艘二水主五人充可能出候也、
八月廿三日                   (朱印)
塩飽年寄中
3塩飽 秀吉朱印状

意訳変換しておくと
 今度の仙石秀久の豊後出陣に際して、塩飽の輸送船を次の通り準備すること。50人乗の船十艘と1艘について水夫5人、合計50人を提供せよ。
八月廿三日                        (朱印)
塩飽年寄中
 これを見ると50人乗の船10艘と水夫50人を塩飽は負担することを命じられています。ここからは塩飽船は、秀吉直参の輸送船団にに組み込まれたことがうかがえます。
薩摩攻めの時には、次のように記されています。
御兵糧米並御馬竹木其外御用御道具、大坂より仙台(川内)江塩飽船二而積廻し候様二と、年寄中江被仰付、早速島中江船加子之下知有之

意訳変換しておくと
兵糧米や兵馬・竹木などの外の軍事物資について、大坂から薩摩川内へ塩飽船で輸送するようにとの、塩飽年寄中に申しつけられたので、早速に島中へ船水夫のことを伝達した

ここからは兵糧・武器の輸送を 塩飽船が行ったことが分かります。ここでも軍船は出していません。研究者は、この文書の宛先が「塩飽年寄中」となっていることに注目します。薩摩攻めの史料にも「年寄中江被仰付」と「年寄中」という言葉が見えます。ここからは年寄と称す何人かの年寄で、島を統治していたことがうかがえます。これが江戸時代の塩飽の四人の年寄につながっていくようです。ここでは、秀吉の九州攻略以降、塩飽は豊臣政権下に組み込まれていたと研究者は考えています。
  九州制圧が終わると朝鮮出兵への野望を膨らませながら秀吉は、小田原の北条氏攻めを行います。
秀吉にとっては「小田原攻め」は、戦略物資の輸送に関しては次に控える「朝鮮出兵」の事前演習的な所もあったようです。ここでも塩飽船が活動しています。兵糧米を大坂から小田原へと輸送していることが、次のように記されています。
「(塩飽)島中之船加子数艘罷出候処、御手船ハ勢州鳥羽浦二乗留メ、彼地二逗留致延引候、塩飽島ハ不残小田原へ乗届、御陣之御用立相勤中候」

意訳変換しておくと
塩飽島中の船や加子が数艘動員された。秀吉の御手船(直属輸送船)は鳥羽浦に留まりで逗留したが、塩飽船は全て小田原まで乗り入れ、兵粮や戦略物資を運び入れ、任務を果たした。

ここからは、秀古の手船は鳥羽浦までしか行かなかったのに対して、塩飽船は太平洋の荒波を越えて小田原まで航行したと、操船能力の巧みさを自画自賛しています。秀吉は四国・九州遠征を通じて水軍編成を計っていきます。小田原攻めの時には、秀吉の直属の九鬼嘉隆の率いる水軍をはじめ、毛利水軍・長宗我部水軍・加藤嘉明水軍も動員され、相模湾には、水軍が蟻のはい出る隙間もないほど結集したと云われます。この時にも塩飽船は、軍船ではなく兵糧輸送船として徴用され活躍していることを押さえておきます。

北条氏を減ぼして全国統一を果たした秀吉の次の野望は、朝鮮半島でした。古代ローマ帝国と同じく領土拡大を行う事で、秀吉政権は成長してきました。領土拡大がストップすることは、倍々ゲームで成長してきた企業が成長0になることにも似ています。政権の存続基盤が失われることを意味します。それを秀吉は朝鮮出兵、中国への侵入という大風呂敷を広げることで帳尻を合わせようとしたのかもしれません。すでに九州遠征の時から「唐入り」の野心を膨らませていたのです。誇大妄想的な野望かも知れませんが、そのために取られた準備は用意周到なものでした。各地の城の修理や増築を行い備えた上で、朝鮮出兵の拠点として肥前名護屋城の普請を行います。また朝鮮への渡海のための船の建造を進め、全国の大名にも船舶の建造命令を出しています。
これにともない塩飽でも船の建造が行われたことが、次の秀次朱印状から分かります。
③豊臣秀次朱印状(折紙)
大船作事為可被仰付、其国舟大工船頭就御用、為御改奉行画人被指遣候間、成共意蔵入井誰々雖為知行所、有職人之事、有次第申付可上候者也、
十月十二日                   (朱印)
塩飽
所々物主
代官中
意訳変換しておくと
大船の造船を命じることについて、舟大工や船頭の雇用が必要なることが考えられるので、奉行を派遣して職人の募集を行う事、また危急の際なので、給料や人物にこだわることなく使える職人は、すべて雇用すること、

この文書には、年次がありませんが文禄九年(1592)と研究者は考えているようです。船大工の雇用に当たっては「蔵入並並に誰々雖為知行所」とあるように、少々人件費高くとも人間的に問題があっても使える職人は全て雇へという命令です。
 また、この文書で研究者が注目するのは宛先が「塩飽 所々物主 代官中」となっていることです。ここからは、この時期の塩飽には代官がいて、秀吉の直轄統治が行われていたことが分かります。この文書を受けた塩飽代官は、どうしたでしょうか。塩飽には中世以来の海上輸送の物流基地で船大工もいたでしょうがその数も限られていたでしょう。塩飽以外の地からも多くの船大工を呼び入れたはずです。そこで、各地からやってきた船大工句の間で、造船技術の交流・改良が行われたことは以前にお話ししました。同じ事は、小豆島でも同時並行で行われていたようです。

船を建造するだけでなく、塩飽船は朝鮮出兵にも動員されていることが、次の文書から分かります。

「文禄九年高麗御陣之時、七ケ年之間、御手船御用之節、豊臣秀次様御朱印を以、御用被為仰付、塩飽船不残、水主五百七拾余人、高麗並肥前日名護屋両所二相詰、御帰陣迄御奉仕候、其節之御朱印二通」

意訳変換しておくと
文禄九年の朝鮮出兵の時は、7年間に渡って、御手船御用を言いつかっていた。そして、豊臣秀次様から御朱印をいただき、御用を仰せつかり、塩飽船は残らず、水主570余人とともに、高麗と肥前の名護屋城の両方に詰めて、出兵が終わり帰陣するまで御奉仕した。その時の御朱印が二通ある。

塩飽勤番所に残された2通の朱印状は、文禄二年(1593)に豊臣秀次から出されたもので、次のような内容です。
豊臣秀次朱印状
名護屋へ医師三十五人並に下々共外奉行之者被遣候、八端帆継舟式艘申付、無由断可送届者也、
文禄二年二月二十八日                (朱印)
志はく(塩飽)船奉行中
これは名護屋へ医師35人と奉行衆を八端帆継舟二艘で送り届けよという命令書で、宛先は塩飽船奉行です。もう1通は竹俣和泉の名護屋派遣について、兵と軍資を継舟で送るように指示しています。
⑤豊臣秀次朱印状
竹俣和泉事、至名護屋被指下候、然者、上下弐拾人並荷物「儀」(後筆)十荷之分、継舟二て可送届者也、
文禄弐年三月四日                 (朱印)
塩飽船奉行中
この継舟というのは八端帆船のことと研究者は考えています。これ以前の元亀二年(1571)来島・因島衆との海戦に、塩飽の八端帆船三艘が活動しています。ここから塩飽船は、八端帆船が主役であったと研究者は考えているようです。ここでも、動員されているのは軍船ではありません。
では八端帆船とは、どのくらいの大きさの船だったのでしょうか?
当時は帆一反につき櫓四挺の割合になるようです。すると8端×櫓4=32挺櫓で、長さ約20尺程の船になります。そこに乗り組む水夫は、漕ぎ手が32人+αで、武者も同じくらい乗船するので70名程度になるようです。
村上水軍 小早船
毛利水軍書の「小早」(村上海賊ミュージアム)

毛利水軍書の「小早」と称される船にあたるようです。③で「大船作事可被仰付」とありましたが、塩飽が大船を多数保有していたなら、それほど建造する必要もなかったでしょう。それまでの塩飽には、大船がなく八端帆船が多数を占めていたため「大船作事」命令となったと研究者は推測します。
3  塩飽 関船

ここからも、塩飽は八端帆継舟による海上輸送にあたっていたことがうかがえます。塩飽船は、大坂と名護屋を結ぶ継舟として文禄の役に徴発されます。④⑤の文書の宛名は「塩飽舟奉行」となっています。船奉行の支配下のもとに、瀬戸内海を通じて大坂・九州名護屋の間の物資・軍兵輸送を塩飽船が担ったと研究者は考えています。

 確かに塩飽は、文禄の役に多くの船と水夫を出しています。
そのために江戸時代には、朝鮮出兵で活躍の証が秀吉・秀次朱印状で、それが徳川の「塩飽船方衆(人名)」につながったとされてきました。これは、本当なのでしょうか? 
 西国大名の朝鮮出兵に関する研究が進むにつれて、塩飽だけが特別に負担が多かった訳ではないことが分かってきました。九州大名と舟手の水軍大名は、本役(百石につき5人の動員)、四国・中国大名は四人役(百石につき四人)と、石高に応じて軍役(人夫と水夫)が課せられていたようです。人夫や水夫の負担が多い大名の中には、軍役の2/3に達する藩もあります。これから考えると、塩飽に対しても検地に基づく石高で、軍役負担が課されたようです。天正18年(1590)に塩飽で行われた検地では、650人の舟方が軍役負担者として義務つけられます。これをもとにした軍役が、朝鮮出兵の時にも課せられているようです。それは決して特別重い軍役ではないと研究者は考えています。
 今までの通説では、次のように云われてきました。
塩飽は文禄の役の際には、他と比較にならぬほど多くの船と水夫を出した。それは、塩飽が豊臣の御用船方であり、船舶が堅牢で水夫が勇敢かつ航海技術が優れていたからである

しかし、これは塩飽を美化したものに他ならないと研究者は指摘します。九州などでは塩飽以上に多くの一般民衆が人夫や水夫として徴発されている事実からすれば、塩飽のみが重い負担であったとは云えないようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 橋詰茂 織豊政権の塩飽支配 瀬戸内海地域社会と織田権力所収  思文閣史学叢書2007年
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  前回までに、塩飽の信長への従属関係を示す「信長朱印状(塩飽勤番所)見てきました。今回は、もう少し広い視野で塩飽を巡る瀬戸内海の勢力関係を見ておきましょう。

最初に、塩飽と能島村上氏の関係を見ておきましょう。いつから塩飽は能島村上氏の傘下に入ったのでしょうか?
永正五年(1508)、能島村上氏は、周防の大内義興が前将軍足利義植を擁して上洛した時に海上警固役を勤めた恩賞として、次のように細川高国から塩飽島代官職を与えられています。
就今度忠節、讃岐国料所塩飽嶋代官職事宛行之上者、弥粉骨可為簡要候、猶石田四郎兵衛尉可申候、謹言
卯月十三日         高国(花押)
村上官内大夫殿
この文書からは、16世紀初頭から塩飽は能島村上氏の支配下に入っていたことが分かります。この支配が戦国後期にも続いていたことは、永禄十三年(1570)6月に、村上水軍の統率者であった村上武吉が塩飽島廻舟に宛てた次の文書から裏付けられます。

豊後の戦国大名大友宗麟の家臣本多鎮秀の上方への航行に対して「便舟之儀、不可有異乱候」と命じていること、

ほぼ同じ頃、大友宗麟が村上武吉に対して、堺港まで家臣を差し上すについて、塩飽津における公事銭徴収を免除してくれるよう依頼していること

 その後、能島村上氏は毛利氏に従うようになるので、塩飽も村上氏を通じて毛利氏の支配下にあったことになります。
「毛利氏 ― 能島村上氏 ― 塩飽衆」という関係が大きく変化するのは、元亀二年(1571)になってからです。
この年の五月に、阿波三好氏の重臣篠原長房は、阿讃の兵を率いてふたたび備中児島に侵攻します。前回と異なるのは村上武吉が、豊後の大友氏と通じて毛利氏に背いていたことです。 一方、備前の浦上氏も大友氏の支援を受けて毛利氏に対して挙兵します。次の書状は大友宗麟が、村上筑後守らに宛てたものです。
今度村上武吉被申候、至塩飽表有現形、各被顕心底之段感悦候、弥至武吉以入魂堅固之御覚悟肝要候、猶自杵越中守可申候、恐々謹言、
二月十二日           宗麟
村上筑後守殿
村上内蔵太夫殿
村上源左衛門尉殿
村上輔三郎殿
村上平右衛門尉殿
村上丹後守殿
この宗麟書状からは、村上筑後守ら村上水軍が塩飽島(本島)を拠点に、塩飽衆を率いて備前の浦賀氏を支援していたことが分かります。この時の塩飽は村上武吉の反毛利勢力の拠点の一つであったようです。
 一方、三好方の篠原長房は宇多津に在陣して、児島に侵入した阿讃軍の総指揮に当っています。長房の子長重は、元亀二年正月に、宇多津西光寺に禁制を発した文書が残っています。これは、阿讃勢の字多津集結を示すものと研究者は考えています。これをまとめておくと次のような構図になります。
 塩飽本島 大友氏方 村上水軍ー塩飽衆
 宇多津  毛利氏方 阿波三好・篠原長房 

  能島村上氏が毛利氏と争っているときに、塩飽衆は能島に水と兵糧を送り込もうとします。その時の記録が毛利藩に残されています。
態申遣候、(中略)、沖口之儀能嶋要害為合力、阿州衆岡田権左衛門塩飽者共相催、以船手水兵糧差籠候処、沼田警固井来嶋・因嶋衆懸合、敵船八端帆三艘切取、宗徒之者数十人討果之由候、相残舟之儀務司麓繋置之、(下略)
七月十七日           輝元御判
内藤彦四郎殿
其外番衆中
意訳変換しておくと
報告いたします。(中略)村上武吉の能島は要害で、なかなか攻略が出来ない。そんな中で阿州衆の岡田権左衛門と塩飽衆が、船で兵糧を運びこもうとしたのを、沼田警固や来嶋・因嶋村上水軍が見つけ、敵船・八端帆三艘を拿捕し、乗組員数十人を討果した。残舟も務司城の麓に係留した、

これは毛利方の史料だから、割り引いてみなければならないものでしょう。それにしても、一方的な敗北だったようです。ここにも前回お話ししたように、塩飽衆の性格が現れているようです。つまり塩飽船の任務は、能島に水・兵糧を搬入することで、毛利水軍と合戦するための軍事行動ではなかったのです。塩飽は水軍ではなく、輸送部隊であったことが裏付けられます。

また、この文書の「阿州衆岡田権左衛門、塩飽の者共相催し」に研究者は注目します。
塩飽船は、村上一族の者によってではなく、阿波三好氏の岡田権左衛門に率いられて、兵糧輸送に出発したと読めます。ここでは、塩飽衆が次第に阿波の篠原長房の支配下に置かれ、それが、阿波三好氏、香西氏らの強い影響下に留まることになっていったと研究者は推測します。そして、香西氏が信長に着くと、その影響下にあった塩飽も信長傘下に入っていくという道筋が見えてきます。

1565 5・19 三好義継・松永久秀ら,足利義輝を攻め殺す(言継卿記)
1567 6・- 篠原長房,鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書)
1568 11・- 香西氏,阿波衆とともに,備前の児島元太の城を攻める.
       香西又五郎配下のもの,児島元太勢によって討たれる(嶋文書)
   6・- 阿波の篠原長房,讃岐国人を率いて備前で毛利側の乃美氏と戦う
   9・26 織田信長,足利義昭を奉じて入京する(言継卿記)
1569 6・- 篠原長房,鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1570 6・15 能島の村上武吉が塩飽衆に対して,大友義鎮配下本田鎮秀の堺津への無事通  行を命じる(野間文書)
   9・- 石山本願寺の顕如が,信長に対し蜂起する(石山戦争開始)
1571 1・- 篠原長重,鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書)
   5・- 篠原長房,備前児島に乱入する.
 6・1 足利義昭,小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡ることを請する     
   7・- 塩飽衆,阿波の岡田権左衛門に属し.伊予能島に兵粮を送るが,沼田警固衆   
       並びに来島・因島衆に襲われ船3艘・船方数十人討たれる
   8・1 足利義昭,三好氏によって追われた香川某の帰国援助を毛利氏に要請する.
   9・17 小早川隆景が岡就栄らに,讃岐へ渡海し,攻めることを命じる        
   10・3 足利義昭が吉川元春に,阿波・讃岐を攻めることを命じる(吉川家文書)
1573 5・13 三好長治が大内郡引田に船で襲撃し、篠原長房・長重父子を討つ
   8・- 宣教師がカブラルが塩飽島で8日間滞在。この間,宿の婦人がキリシタンとなる 7・4 足利義昭,山城槇島城で織田信長に対し再度挙兵する.ついで同月18日,信 長に降伏する〔室町幕府崩壊〕
1574 10・- 三好長治が三好越後守・篠原入道らに,勝賀城の香西氏を攻めさせるが,墜とせず退く
   10・- 三好越後守・大西覚養など寒川郡昼寝城を攻めるが落とせず退く
1575 4月、 河内高屋城に拠っていた三好康長(笑岩)が信長に服従
5・13 宇多津西光寺が石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する
   5・25 備前の浦上宗景が安富盛定に書を送り,宇喜多直家との合戦の状況を伝え,協力を求める
1576 2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)
 5月 淡路の安宅信康が、信長から毛利水軍に対する迎撃を命じらる。
7・13  毛利軍が,第一次木津川の戦いに勝利し,石山本願寺に兵粮を搬入する   
  8・29 宇多津西光寺が,石山本願寺顕如より援助の催促をうける
   この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める
1577 2・1 奈良玄蕃助が三好越後守より,鵜足郡津郷内皮古村を与えられる
   2・ 宇多津沖で毛利方の兵糧船が攻撃される。
   3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書)
    3・  三好長治が死亡
   7・- 元吉合戦 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う
   11・- 毛利氏が讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方および讃岐惣国衆と和す
1578 1        三好長治死亡後に、十河存保が堺から阿波に帰って来て、三好の家督を継ぐ
   この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
   この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する
  11・16  第2次木津川の戦いで、織田信長の水軍が毛利水軍を破る

1575年4月に三好康長(笑岩)は信長側につきます。その後信長の意を受けて、康長(笑岩)は阿波・讃岐の諸将への懐柔工作を行い、信長に従うように勧めます。翌76年には、その誘いに応じた天霧城の香川之景や勝賀状の香西佳清は信長に服します。以後、香川之景は信長から一字を与えられて信景と名乗ります。東讃の安富氏も羽柴秀吉を通して信長に従うようになります。これらは『南海通記』に記されていることなので、そのまま信じることはできませんが、香川之景がこのごろから名乗りを信景に変えているのは事実ですから、『南海通記』のこの記事も認めておくことにします。そうすると1577年2月に、宇多津沖で毛利方の兵糧船が攻撃されていることと辻褄は合います。信長方についた多度津の香川氏が、配下の水軍山路氏などに毛利船攻撃を命じたことがかんがえられます。その反撃として、村上水軍による信長方の船舶への「無差別攻撃」も行われるようになった可能性はあります。そのような中で信長が堺代官に命じたのが、「3・26の堺に至る塩飽船の航行保証(塩飽勤番所文書)」ということになります。
また阿波では、強硬な反信長派であった篠原長房が、1573年5月に三好長治によって討たれます。そしてその4年後の1577)3月には、その長治も亡くなってしまいます。翌78年1月に、十河存保が堺から阿波に帰って来て、三好の家督を継ぐことになります。存保は、それ以前から信長支配下の堺にいて、その影響下にあったようです。さらに淡路の安宅信康も信長に属していたようで、天正4年5月に、信長から毛利水軍に対する迎撃を命じられています。このような情勢のなかで、塩飽も信長方に強く引き付けられていったと研究者は考えています。

塩飽が信長方に引き付けられていた過程を見てきました。
しかし、注意しておきたいのは、塩飽水軍が信長の水軍に組み込まれたことを意味するものではないことです。信長の松井友閑宛の朱印状にあるように、塩飽船は塩飽と堺とのあいだを往来し、通商活動行っていました。また、塩飽衆が信長方にがついた時期を年表で見る限りは、塩飽船の軍事的輸送力を必要とするような軍事的緊張は見当たりません。塩飽船が上方と讃岐を結んで軍兵や軍事物資を輸送した様子はないようです。
 では、何のために塩飽船が堺港に出入りしていたのでしょうか?
それは主に通商のためだったとであろうと研究者は考えています。
塩飽本島笠島の年番を務めた藤井家に伝わる「塩飽島諸訳手鑑」の中の「塩飽嶋中御朱印頂戴仕次第」には、信長の朱印状について次のように記されています。
信長様御代之時塩飽嶋中な方々材木薪万事御用御使被成候御ほうひ廻船之御朱印塩飽嶋中堺之津にて被下候其刻御取次衆宮内卿法印以御取次頂戴仕候御事
意訳変換しておくと
信長様の時代には、塩飽嶋の方々は「材木薪万事御用御使」として、木材や薪を海洋輸送して、その褒美に廻船朱印状を堺湊でいただいた。その時の取次代官が衆宮内卿法印である。

 ここでは、塩飽船が材木・薪を廻船で運んだ、その恩賞に朱印状をもらったと記されています。塩飽船が運んでいた材木・薪は、 一部は軍事用に使われたかもしれませんが、多くは「方々より」の御用に使用された商品だったと研究者は考えています。
 『兵庫北関入船納帳』には、文安二年(1445)の一年間に兵庫北関を通った船は1900隻あまり記されています。その船舶は、塩、米や麦・胡麻などの雑穀、海産物、材木、そのほか膨大な量のさまざまな物資を西日本各地の港から上方へ運んでいます。そのうち材木の量は37000余石〆で、塩の10600余石につぐ量になります。これらの品々は上方の人々の生活にとって欠かせないものでした。阿波の三好氏の上方での成長も材木輸送と販売を経済的な基盤にしていたことが知られています。
 毛利水軍が、天正四年七月に木津川の戦いで信長水軍を破ったことによって、東瀬戸内海の制海権を掌握したと云われてきました。
 その制海権は、軍事物資を石山本願寺に搬入するルートを確保したという点では、その通りかも知れません。しかし、商品輸送をも含めた上方への流通路を手中に納めたとまではいえいようです。毛利氏は赤間関・尾道・鞆など主要な港町を直轄地や一門領として支配しました。しかし、領国内の港の船だけで瀬戸内海の商品流通をカバーするのはできません。また領国を超えて毛利氏の勢力下にない備前・播磨・讃岐などの東瀬戸内海沿岸諸国の港や船まで統制して、それらを毛利氏の流通支配下におくようなことはできるはずがありません。瀬戸内海沿岸諸国の船は、今まで通り内海を往来し、上方へ商品を運んでいたはずです。塩飽船もそのなかに交じって、材木その他の品々を積んで堺港に出入していたのでしょう。
 しかし、天正四年の木津川での信長水軍の敗北以後、東瀬戸内海エリアでの反信長派水軍(村上水軍)による海賊行為が活発になったことは想像できます。信長方とみなされた船への襲撃、掠奪は、頻繁に行われたでしょう。村上方を寝返って信長方に付いた塩飽船などは、眼をつけられて狙われたでしょう。こうした情況に対して、信長政権としては、塩飽船の航行の安全を保証することが必要となり、発したのが松井友閑宛の信長朱印状であったと研究者は考えています。
この時期は、木津川の戦いで信長水軍が一時崩壊した時期です。そんな時に海賊停止を命じた信長朱印状が、どれだけ実際の効力を持ち得たかは疑問です。これに対して、国島氏は次のように指摘します。

 封建権力は自己の支配下にあるもの、あるいは支配下に入れようとするものに対して、実効性の有る無しにかかわらず、その権利や安全を保証することを宣言しなければならない。眼前の情況にとらわれてそれをためらうなら、彼の権力は支持者を失って崩壊するだろう。またその保証がいつまでも空手形のままであっても、支持者が離反して権力は衰退する。信長政権は九鬼水軍を用いて、毛利水軍・紀州一揆水軍を壊滅させたことによって、保証を現実のものとし、権力の強大さを誇示した。

  塩飽は、その後も信長の配下に在り続けたように私は思っていました。
ところが、そうではないようです。その後の史料をみると、塩飽は再び毛利氏―能島村上氏の支配下に取り込まれています。どうして信長から村上武吉側に再び、立場を変えたのでしょうか
天正七年(1579)の2月から3月にかけて、毛利氏は、信長方とみられる備前児島や姫路の商船が九州へ下るのを阻止するため、備中鞆から周防柳井・大畠に到る領海で海上封鎖を行います。
  この時、鞆の河井源左衛門尉が鞆と塩飽の間の警備を命じられています。ここからは、塩飽がこの時期には毛利氏の海上警備の一翼を担っていることが分かります。
 また1581年3月(日本暦天正九年二月)、イエズス会巡察使バァリニャーノ一行を乗せて豊後を出発した船が、バァリニャーノとの約束に反して塩飽の泊に入港します。その時の塩飽には、能島村上氏の代官と毛利氏の警吏がいて、一行の荷物を陸に引き揚げて、綱を解きこれを開こうとして騒いだと宣教師の記録にはあります。ここからは塩飽が、村上武吉の支配下にあったことが裏付けられます。
 当時の東瀬戸内海をめぐる信長と毛利氏との争いを年表で見ておきましょう。
天正6年2月、播磨の別所長治が、10月には摂津の荒木村重が、本願寺に通じて信長に背く。
天正7年9月 荒木村重が伊丹城をすてて尼崎へ移って没落
   10月 毛利氏に属していた備前の宇喜多直家が信長に降伏、
  8年1月 別所長治が羽柴秀吉の攻撃をうけて播磨三木城で滅亡
    3月、石山本願寺が信長と講和し、法主顕如は大阪を去って紀州雑賀に退く。
天正9年10月 吉川経家の守る因幡国鳥取城が羽柴秀吉の包囲を受け、経家が開城。
このような背景の中で、塩飽の信長方から毛利方への転換したことになります。毛利氏は塩飽を、どのようにして取り込んだのでしょうか
研究者が指摘するのは、天正5年間7月の毛利氏の讃岐侵攻である元吉合戦です。元吉合戦については以前にお話ししましたが、簡単に振り返っておきます。
 多度郡元吉城にいた三好遠江守が、阿波三好氏に背いて毛利氏に寝返ります。これに対して阿波三好氏は配下の中讃の武将長尾・羽床氏らに元吉城攻撃を命じます。これに対して元吉城を護るために、毛利輝元は乃美宗勝らの警固衆を援軍として送り、毛利勢は多度津に上陸し、元吉城の西南摺臼山に着陣します。こうして天正五年間7月20日、毛利軍と長尾・羽床・安富・香西・田村・三好などの阿波・讃岐勢が激突し、後者が敗れ去ります。勝利した毛利軍は毛利一族の穂田元清を大将とする軍勢が派遣し、阿波・讃岐勢を威圧します。戦後の緊張関係が続く中で、鞆に亡命していたいた前将軍足利義昭が和平調停に乗りだし、毛利軍は11月には、長尾・羽床氏から人質をとって讃岐から引き揚げていきます。鞆の足利義昭の思惑は、毛利と三好を結ばせて信長に対抗させることでした。
  この合戦によって、毛利氏の勢力が讃岐におよぶことになったと研究者は考えています。
  『香川県史』はこの事情を次のように記します。
  「元吉合戦は、毛利氏の本願寺救援と瀬戸内海制海権奪回をめざす目的をもった戦いであった。讃岐を押えることにより、信長の制海権を破壊しようとしたのであった」

  讃岐を押さえると同時に、塩飽の支配を回復しようとするのは、毛利側にとっては当然の戦略です。だとすれば、塩飽は天正6年11月の第2次木津川の戦いでの毛利水軍の敗戦以前に、毛利側に取り込まれていたことになります。
 もし、そうだとすると塩飽の立場は強固に信長を支援するような立場ではなく、状況に応じての信長支援だったことが考えられます。信長からすれば「塩飽は信用ならぬもの」として猜疑心をもって塩飽の行動を見ていたことが考えられます。そのように見てくると、信長朱印状(塩飽勤番所)について、次のように解釈した橋詰茂説は妥当性をもつことになります。

塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したもの

 この解釈によれば「違乱之族」とは、密かに本願寺に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行う可能性のある塩飽船です。この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。

塩飽勤番所に保管されている信長朱印状をめぐる謎と疑問は、いろいろなことを私たちに考えさせてくれます。どちらにしても貴重な史料です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 
『香川県史2・中世』446P
山内譲著『海賊と海城・瀬戸内の戦国史』114P

   
前回は塩飽勤番所に保存されている信長朱印状は、塩飽に特権を認めたものでないという説を紹介しました。それを最初に「復習」しておきます。
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。
信長朱印状
 信長の朱印状(塩飽勤番所)
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
この文書の解釈について、通説では次のように解釈されてきました。

 堺湊に出入りする塩飽船については、これまで通り塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない特権を持っていた。つまり港に入っても、その周囲の船はよけろという「触れ掛り特権」を信長が再確認したものだ。これに違反する違乱の族がいれば成敗せよ、と堺代官・宮内部法印(松井友閃)に命じたものである

瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
橋詰茂 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 

これに対して、橋詰茂氏は、次のような異論を提示しました。
第1に、「触れ掛り」の特権を示すとするが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が「触れ掛り」を示す文言とはいえないこと。
第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、堺代官の松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権も持っていたように云うが、本来このような権限は、堺代官の持つ権限であること。
第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈にすぎない。
このような視点から信長の朱印状と云われる文書を、橋詰茂氏は次のように解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは本願寺に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行う可能性のある塩飽船です。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
この橋詰氏の「信長朱印状=塩飽特権付与説否定説」については、反論が出されています。
それを今回は見ておきましょう。テキストは「国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 」です。
まず他の信長発給文書との構成比較を行います。例として出されるのは、石山本願寺に味方する越前朝倉氏との対決姿勢を強めた信長が、越前と大阪のあいだの連絡を遮断するために出された文書です。
従当所大阪へ兵根を入事、可為曲事候、堅停止簡要候、若猥之族二をいては聞立、可令成敗之状如件、
四月五日           (信長朱印)
平野荘
 惣中
近江の姉川から朝倉のあいだの通行を商人も含めて、陸路・水路ともに一切禁上し、この禁令を破るものは成敗するように木下秀吉に命じています。
次の文書は、商人に紛れて本願寺に入ろうとするものがあるから、不審者は厳しく取り締るようにと細川藤孝に命じたものです。
従北国大阪へ通路之諸商人、其外往還之者之事、姉川より朝妻迄之間、海陸共以堅可相留候、若下々用捨候者有之ハ、聞立可成敗之状如件、
七月三日
細川兵部太輔殿
         (信長朱印)

 研究者が注目するのは、何に対して、どう取り締まれという具体的な名称が書かれていることです。これと天正五年の松井友閑宛の信長朱印状を比べて見ましょう。
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 塩飽船と石山本願寺との連絡を監視して取り締るように堺代官の友閑に命じたものであれば、秀吉や細川藤孝に命じたものとスタイルが同じになるとはずだと研究者は指摘します。文章表現や構造が違うと指摘します。つまり、秀吉や藤孝に出した命令書と松井友閑宛の書状とは性格が異なるとします。

 橋本氏は「違乱之族」を、裏切りの可能性のある塩飽衆としました。
しかし、国島氏は「塩飽船に保証された堺港出入を犯すもの」とします。つまり、反信長方を指すというのです。その理由として、前年七月に信長水軍を木津川口で破って勢いづいた毛利水軍・紀州の水軍は、堺港に出入りする塩飽船に対しても妨害行動をとりはじめます。それに対して、従来からの塩飽船の堺港出入を改めて保証し、それを妨げるものを成敗することを示す必要が生じたために出されてものとします。そして、松井友閑宛の信長未印状は、友閑によってただちに塩飽船の責任者に与えられたとします。
 この説では「違乱の族」とは、塩飽船を妨害する村上・紀伊水軍など反信長勢力を指すことになります。そしてそれを成敗するのは、堺代官ということになります。信長は、味方に付いた塩飽船の活動を保護するために、この朱印状を堺代官に出したという説です。

 この説には、次のような問題点が残ります。
 信長の松井友閑宛文書(信長朱印状)が塩飽にもたらされたのは、前回述べたように元禄13年以後のことです。元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。その時には、この朱印状があれば必ず取り上げているはずです。とすると元禄の時点では、塩飽にはなかったということになります。信長朱印状が登場してくるのは、享保になってからなのです。松井友閑宛の信長未印状は、すぐには塩飽にはもたらされていないようです。

 国島氏が反論点としてあげるのは「塩飽水軍」は軍事的に頼りになる存在だったのかということです。
信長が松井友閑宛に朱印状を発した目的は、塩飽衆を信長方に取り込むためというのがほぼ通説です。塩飽を取り込むとは、その水軍としての軍事力を取り込むことだと考えられてきました。 

瀬戸内海に於ける塩飽海賊史(真木信夫) / 蝸牛 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

真木信夫氏は次のように述べています。

「織田信長は古来海上輸送に大きな活躍をし、海上の戦闘にも強勇の名を轟かせている塩飽船に着目し、これを利用して天下統一の具に供しようとした。

それでは塩飽水軍の実力とは、どんなものだったのだったのでしょうか。
塩飽水軍と称しながら、村上水軍のような強大な軍事力を所持していたのか。海賊衆として瀬戸内海で活動しているが、海上軍事力は弱小であった。香西氏の児島合戦に参陣していることは前に述べたが、兵船の派遣であり、海上軍事力としては村上氏におよぶものではない。むしろ操船技術・航海術にたけた集団とのとらえ方が重要であろう。軍事力というより加子としての存在が大きかったのではなかろうか。船は所有していたが、その船を用いて兵を輸送する集団であり、自ら海戦を行う多くの人員は存在しなかったと考えられいる。

 ここからは以前にお話したように「塩飽水軍はなかった、あったのは塩飽廻船だった」と、研究者は考えていることが分かります。塩飽の水軍力は期待できるものではなかったようです。そうだとすると、
信長は「塩飽船を用いて安芸門徒の流通路の壊滅をはかり、そして塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはか」ることが期待できたかと問われると、「?」が漂います。

第一次木津川口の戦い - Wikipedia
第一次木津川の戦い 村上水軍の勝利で本願寺に兵粮輸送成功

 塩飽が信長方に寝返ったとされる時期は、毛利・村上水軍が織田水軍を木津川口に破って意気盛んな時期です。

そんな時期に塩飽は、村上水軍を敵にまわし、信長についたことになります。しかも海上戦闘力では、塩飽は村上水軍の足下にも及ばない存在なのです。本気で信長の命じるとおり、本願寺支援ルートの遮断を考えていたのでしょうか。ちなみに、塩飽船が村上水軍と戦ったという記録はありません。
船の戦い
信長の鉄船が登場した第2次木津川の戦い

 天正6年(1578)6月、大阪湾に新兵器の鉄船が姿を現します。
船の長さ約20m余り、幅32m、大砲三門を備えた大鉄船7隻です。伊勢の九鬼水軍に操られて、阻止しようとした紀州の門徒水軍をけ散らし、11月には木津川口で六百余艘の毛利水軍を壊減させます。この鉄船は信長の命令によって建造されたもので、天正5年の春ごろには建造が進んでいたようです。信長は毛利水軍・紀州門徒の水軍の壊減は、伊勢の九鬼水軍に担わせていたのです。
 以上からは信長は、塩飽勢に軍事的な期待はしていなかったことがうかがえます。
 信長が塩飽船に期待したのは、あくまで海上輸送ではなかったのでしょうか。村上水軍の交易船に代わって、塩飽船を重用するというものではなかったかと私は考えています。これは、備讃瀬戸から大阪湾にかけてのエリアで独占的な交易権を認められたものだった可能性があります。だからこそ、その利権に惹かれて、塩飽衆は村上武吉を裏切り、信長側についたのではないでしょうか。
 そういう意味では、「信長による塩飽水軍の軍事力取り込みという説」というのは、確かに疑問です。「信長による塩飽船への広大な市場提供」が塩飽を信長側に付けたと言い換えた方がよさそうです。

 以上、信長朱印状が塩飽に対しての行路独占を認めたものではないという新説への反論を見てきました。塩飽衆の海軍力は期待できるレベルではなかったという点には、教えられるものがあります。

以上から次のような説を、私は考えて見ました。
①信長は石山本願寺との長期戦を終わらせるには、毛利の本願寺支援ルートを遮断する必要があると考えた。
②軍事的には、九鬼水軍に鉄船造船を命じて対応させた。
③一方瀬戸内海の経済活動については、毛利配下にある村上水軍などの交易船の上方の寄港停止などの経済封鎖を行った。
④その際に、信長が交易権を与えたのが塩飽衆であった。
⑤そのため塩飽船は、村上水軍など反信長側の船舶から攻撃を受けるようになった。
⑥これに対して、信長は松井友閑宛文書(信長朱印状)で、塩飽船保護と危害を加える反信長方の船舶への成敗命令を堺代官に命じた。

⑤については命じただけで、実質的な軍事行動が行われることはありません。ただ「天下布武」を掲げる信長としては、このような形で威厳を示す必要があったと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
参考文献
「国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 」

信長朱印状
  信長の朱印状(塩飽勤番所)
   
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。 
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 信長朱印状は、もともとは折紙であったのを上下半分に切り、上半分を表装しています。縦14、9㎝・横41、3㎝で、朱印は縦5,5㎝、横4,7㎝の馬蹄形です。 印判がすわっていますが、これが信長の有名な「天下布武」の朱印です。讃岐にかかわりのある信長の朱印状はこれだけだそうです。宛先の宮内卿法印とは、信長が直轄領としていた和泉国堺の代官松井友閑のことです。

瀬戸内海に於ける塩飽海賊史(真木信夫) / 蝸牛 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この文書の解釈について、真木信夫氏『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』は、次のように記します。

「先々の如く」とあるのは従来より塩飽船に与えられていた「触れ掛り」と称する海上の特権を指したもので、堺港への上り下りの塩飽船は航海中にても碇泊中にても船綱七十五尋の海面を占有することのできる権利である。信長は従来よりのこの特権を再確認し、万一この占有海面を侵犯する者は処罰するようにと、堺の代官である宮内卿松井友閑に令したものである。

 これが従来の定説で、「触れ掛り特権」とは「塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない。港に入ってもその周囲の船はよけろ」という特権です。これを侵したものに対しては塩飽衆が「成敗」できることを信長が再確認したのだ、といわれていました。館内の説明書きもそう書かれています。

塩飽 信長朱印状説明
信長朱印状(塩飽院番所の説明書き)

 これに対して橋詰茂氏は「讃岐塩飽における朱印状の検討」の中で、次のような疑問を提出します。

第1に、「触れ掛り」の特権を示すと云うが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに、「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が、必ずしも「触れ掛り」を示す文言とはいえない。

第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権を持っているように考えているが、本来このような権限は塩飽船のみに与えられるものではない。これは堺代官の持つ権限である。

第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈である。

第3の指摘にを受けて、文書が発給された天正5年(1577)3月前後の讃岐の年表を見ておきましょう。
1575 天正3 (乙亥)
① 5・13 宇多津西光寺.織田信長と戦う石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する(西光寺文書)
1576 天正4 (丙子)
②8・29 宇多津西光寺向専,石山本願寺顕如より援助の催促をうける(西光寺文書)
 この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める(南海通記)
 2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)
③7・13 毛利軍が木津川の戦いで信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮を搬入する(毛利家文書)
1577 天正5 (丁丑)
④3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書 信長朱印状?)
⑤7・- 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う(本吉合戦)
 11・- 毛利方,讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方・讃岐惣国衆と和す(厳島野坂文書)
1578 天正6 
 この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
 この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する(耶蘇会士日本通信)
 11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る(萩藩閥閲録所収文書)
1582 天正10 4・- 塩飽・能島・来島,秀吉に人質を出し,城を明け渡す(上原苑氏旧蔵文書)
 5・7 羽柴秀吉,備中高松城の清水宗治を包囲する(浅野家文書)
 6・2 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。翌年には年表①にあるように宇多津の真宗寺院の西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、②のように蓮如からの支援督促も受けています。

 そのような中で起こるのが③の木津川の戦いになります。
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ベストセラーになった「海賊の娘」を読むと、大坂湾の海上突破は、安芸門徒と紀伊門徒との連携策で行われていたことがうまく描かれています。淡路岩屋をめぐっての信長と毛利の攻防は、安芸一揆水軍の本願寺への搬入ルート確保のための戦いでもありました。そして、もう少し視野を広げて見ると、安芸・紀伊門徒による瀬戸内海の制海権確保は、本願寺に物資や秤量を運び込むための補給ルート確保の戦いでもあったのです。

マイナー・史跡巡り: 荒木村重② ~石山本願寺~

本願寺派は、海からの補給ルートがあったために長きにわたって戦えたのです。信長は、それを知っていたために、遮断するための方策を講じます。それは瀬戸内海における水軍確保です。そのために行われたのが塩飽衆の懐柔策です。
 そういう目で讃岐と周辺の備讃瀬戸を見てみましょう。
1576(天正4)には、信長は多度津の香川氏や・勝賀城の香西氏といった国人領主を懐柔し、支配下に組み込んでいます。塩飽に影響力のある香西を配下に置くことによって、塩飽懐柔を進めたのでしょう。塩飽を配下に置くことで、毛利の本願寺・紀伊門徒とのパイプを遮断するという戦略が信長の頭の中には生まれていたはずです。それが功を奏して、塩飽を村上武吉から離脱させた後に出されたのが④の文書ということになります。

 塩飽衆が信長方についたこの年に、宇多津沖で安芸門徒の兵糧船が撃沈されています。これは塩飽水軍など信長方に付いた讃岐の海賊衆(水軍)によって行われたと研究者は考えているようです。この事件は、本願寺援助ルートへの脅威で、毛利側にとっては放置することはできません。塩飽を信長に押さえられた毛利は、その打開策として対岸の讃岐を押さえて備讃瀬戸航路の通行の確保を図ろうとします。それが⑤の讃岐出兵で、善通寺の元吉城(櫛梨城)をめぐっての三好氏との攻防になります。

1 櫛梨城1
元吉城(櫛梨山城)
これに毛利は勝利しますが、毛利の関心は瀬戸内海の制海権なので、備讃瀬戸沿岸の通行権が確保できるとすぐに讃岐から兵を引いています。以上を整理しておくと
①塩飽衆は、1577(天正5)年に村上武吉側から織田信長側に寝返った。
②従来の通説は、その代償として「信長朱印状」が塩飽に発給されたとされてきた。
③以後、塩飽は毛利・村上方とは対立する立場にたったことになる。
 このような状況の中で塩飽衆は、毛利水軍・安芸門徒の本願寺支援ルートを、妨害することを信長から求められます。裏返すと塩飽衆は、村上水軍からは攻撃対象になったことを意味します。このような中で、「触れ掛り」特権が与えられたとしても実際の効力はありません。また、村上水軍が制海権を持つ中で、塩飽船が特権を主張して自由航行できる状態ではなかったと研究者は指摘します。

そんな状況を加味しながら、橋詰氏は次のようにこの文書を解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは、寝返ったばかりで本願寺や村上水軍に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行った塩飽船なのです。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
 塩飽船は石山戦争下で、信長の支配下に組み込まれたのです。
信長の戦略は、塩飽船を用いて村上水軍による本願寺支援ルートの封鎖をはかること、代わって塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはかろうとすることでした。その責任者である堺代官・松井友閑に、この朱印状は宛てられています。塩飽に下された朱印状ではないという結論になります。塩飽は信長に服従したのであり、それを違えた場合には成敗すると、読むべしと云うのです。ここからは、堺代官である松井友閑を通じて、塩飽船を統括したことがうかがえます。
信長の朱印状のある松井友閑宛文書が、なぜ塩飽勤番所にあるのでしょうか?
この文書の初見は享保12年(1727)9月の宮本助之丞後室宛吉田有衛門等の覚書(宮本家文書「朱印状五通請取之党」)に登場するようです。ここからは、これ以前にすでに塩飽に伝わっていたことが分かりますが、どんな経路で伝わったかは分かりません。
 そして元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。ここからは信長朱印状が伝わったのはこれ以降で、享保12年までの間のことであったと研究者は考えているようです。そうだとすると、この時点まで塩飽衆はこの文書の存在を知らなかった可能性も出てきます。元禄まで塩飽になかった文書が、「触れ掛り特権」を保証する文書と云えるのかという問題も出てきます。

以上をまとめておきます
①  信長の朱印状と云われる文書は、塩飽に宛てられたものではなく、当時の堺代官宛てのものである
②この文書が塩飽に伝来したのは、元禄から享保の間のことで、もともと塩飽にあったものではない。
③この文書に対して後の塩飽人名衆は、信長が航行特権を塩飽に認めたもので、これに反する者は処罰する権限も与えたものと言い伝えてきた。
④それを批判することなく、そのまま戦後の研究書の中にも引き継がれ定説となってきた。
⑤しかし、「触れ掛り」特権をしめす文書はないし、これ自体が当時の法体系からしても超法規的で認めがいたものであるなどの疑問が出されるようになった。
⑥また、この文書を歴史的な背景というまな板の上に載せて、再検討する必要が求められた。
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    橋詰茂氏「讃岐塩飽における朱印状の検討」   
 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 
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瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

1550(天文19)年9月、一人の禅僧が和泉国堺の港を船で、瀬戸内海を西に向かいました。禅僧の名は守龍(しゅりゅう)。京都東福寺の僧です。守龍の旅の記録(『梅一林守龍周防下向日記』)を、手がかりにして、当時の瀬戸内海の港や海賊たちを見ていくことにします。  テキストは「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」です。
守龍の人物像についてはよく分からないようです。
ただ、1527(大永7)年の年末、1529(享禄2)年の立冬、翌30年の夏に、東福寺に参禅して修行したことが記録から確認できます。1550年の堺港からの出港も、寺領の年貢収取について、周防国に行って大内氏をはじめとする周防国の有力者と交渉するためだったようです。得地保は東福寺領の有力荘園で、その年貢収入は東福寺にとって欠かせないものでした。しかし、戦国時代になると以前にも増して、年貢収取が困難になっていたのでしょう。

守龍は1550年9月2日に京都を発ち、14日に堺津から出船しています。
乗船したのは、塩飽・源三の二端帆の船です。当時は舟の大きさは排水量や総重量でなく帆の大きさで表現したようです。そこに3百余人の乗客が乗り込み、「船中は寸土なき」状態であったと記されています。常客を満載した状態での航海です。

讃岐国絵図 正保国絵図.2jpg

塩飽本島 上が南

船頭である塩飽の源三について見ておきましょう。
 この船の船籍地である塩飽(丸亀市本島)は、備讃諸島海域の重要な港であり、同時に水運の基地でした。1445(文安2)年に兵庫北関に入関した上り船の記録である「兵庫北関入船納帳」には、塩・大麦・米・豆などを積み込んだ塩飽船が37回に入関していることが記録されています。これは宇多津に続いて、讃岐の湊では2番目に多い数です。ここからは塩飽を船籍地とする船が、備讃諸島から畿内方面に向けて活発な海上輸送活動を行っていたことが分かります。

兵庫北関1
 塩飽の水運力は、のちに豊臣秀吉・徳川家康らの目を付けられ、御用船方に指名され統一権力の成立にも貢献するようになります。それは、この時代からの活動実績があったことが背景にあるようです。後に、江戸幕府の保護を受けた塩飽の船方衆は、出羽・酒田地方の幕領の年貢米の海上輸送に携わり莫大な富をこの島にもたらします。その塩飽の船方衆の先祖の姿が、船頭の源三なのかもしれません。

DSC03651
兵庫沖をいく廻船 一遍上人図

 塩飽船は、瀬戸内の塩や米のような物資輸送に従事したことで知られています。
しかし、ここでの源三は、旅客を運ぶ人船=「客船」の船頭です。彼の船は、三百人を載せることができる二端帆の船でした。当時は、筵をつなぎ合わせた帆が一般的でした。幅三尺(約90㎝)、長さ六尺ほどの筵を何枚かつないで、それを一端(反)と呼びます。二端帆の船とは、幅10mほどの筵帆を備えていた船ということになります。『図説和船史話』には、九端帆が百石積、十三端帆が二百石積とあるので、源三船は百~二百石積の船だったことになります。

中世 瀬戸内海の海賊 海賊に遭遇 : In the pontoon bridge
     中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。
(石井謙治「図説和船史話」)


 室町から戦国にかけての時期は、日本の造船史上の大きな画期で、遣明船などには千石石積前後の船も登場します。それらと比べると、源三船は従来型の中規模船ということになるようです。乗組員が何人かなのは記されていません。
和船とは - コトバンク
         遣明船 当時の最大客船

 堺津を出港した守龍の船に、話を戻しましょう。
9月14日の辰の刻(午前八時)に堺を出港した船は、順風を得て酉の刻(午後六時)には兵庫津に着きます。翌日には「迫坂浦」に舟はたどり着きます。「迫坂浦」には、守龍は「シャクシ」と読み仮名をつけているので現在の赤穂市坂越のことのようです。ここで風雨が激しくなって、天候の回復を待つために三日間逗留しています。18日に「迫坂」を発って、その日は牛窓に停泊です。ここまでは順調な船旅でした。

瀬戸の港 坂越

ところが翌19日の午の刻(正午)、「備前比々島」の沖にさしかかったころに、海賊船が一艘接近してきます。
守龍は、その時も様子を次のように記します。
此において賊船一般来り、本船と問答す、少焉賊矢を放ち、本船衆これを欺て鏃を双べ鉄胞を放つ、賊船疵を蒙る者多く、須史にして去る、同申の刻塩飽浦に着岸して一宿に投ず
意訳変換しておくと
接近してきた賊船は、本船と「問答」をした。「問答」の内容は分かりません。おそらく通行料の金額についての交渉だろうと研究者は考えているようです。海賊が接近したときに、交渉することは船頭の重要な役目だったようです。この時には、交渉不成立で賊船は矢を放って攻撃してきました。これに対して鉄砲で応戦しています。賊船は多くの負傷者を出して撤退していきました。船は、そのまま航行を続けて申の刻(午後4時頃)に塩飽に入港します。塩飽は船頭源三の本拠港です。海賊との遭遇記事は短いものですが、ここからは瀬戸内の船旅や海賊についての重要な情報が得られるようです。

瀬戸の港 日比1
日比港 明治の国土地理院地図

まず守龍が「比々島」と表現している日比(岡山県王野市)の港です。
日比は、備前国児島の南端東寄りにある港で、半島状に突出してた先端部の小さな入江です。東北西の三方を山に囲まれ、南だけが備讃瀬戸に向かって開けています。人江の北半分が近世に塩田化され、それが現在では埋め立てられて住宅地や工場敷地となっています。本来は瓢箪型の入江であったことが地形図や絵図からうかがえます。人江の西側にはかつては遊郭もあったという古い町並みが残り、東側の丘陵上には中世城郭の跡も見られます。城主の名をとって四宮城と呼ばれるこの山城は、標高八五メートルの通称城山を本丸とし、南に向かって細長く遺構を残している。もちろん日比の港を選んで立地した城であるが、同時に城跡からは、直島諸島や備讃瀬戸を一望のもとにおさめることができる。日比の港の景観は、中世の港の姿をよく伝えています。
同じような地形的条件を持った港としては、室の五郎大夫の本拠室津、守龍や、がこのあと立ち寄ることになる備後国鞆(広島県福山市)などがあります。
瀬戸の港 室津

室津は、播磨国東部の、播磨灘に向かって突き出した小さな半島の一角に開けた港でです。三方を山に囲まれ、西側だけが海に向かって開かれています。この港について、『播磨国風上記』は、次のように記します。
「室と号るゆえは、この海、風を防ぐこと室の如し、かれ、よりて名となす」

室というのは、穴ぐらのような部屋、あるいは山腹などを掘って作った岩屋などを指します。室津の港はまさに播磨灘に面したが穴ぐらのように小さな円弧状に湾入してできた港です。室津や日比のようなタイプの港は、他のどのタイプの港よりも波静かな海面を確保できます。周囲を山に囲まれているので、どの方向からの風も防ぐことができるし、狭い出口で外海と通じているだけなので、荒い波が港に入ってくることもありません。自然条件としては、最も優れた条件を持っています。
 室津や日比の港を見て不思議に思うのは、その規模の小ささです。
今の港を見慣れた目からすると、とても小さなスペースしか確保されていないように思えます。しかし、規模の小ささがポイントだった研究者は指摘します。小さい「室」であることと、小さな半島の先端に位置していることが重要な意味を持っているというのです。それは、すぐ港の外を通っている幹線航路へのアプローチの問題です。
中世の航海者たちは、風待ち、潮待ちのために日比や室津に入港しました。逆にいえば、風や潮の状況がよくなれば、すぐに港を出て幹線航路に乗ろうと待ち構えていたわけです。「月待てば潮もかないぬ 今は漕ぎいでな」の歌がぴったりときます。奥深い入江からゆっくりと出てきて幹線航路に向かうのでは間に合いません。すばやく幹線航路に出て、待っていた潮や風に乗る必要があります。そのためには、少々手狭でも、あまり奥の深くない入江のほうが都合がよかったと研究者は考えているようです。半島の先端で、すぐ目の前に航路がある方が、潮を利用して沖に出やすいということになります。
 それを裏付ける例を探してみましょう。
牛窓や室津の近くには大規模で、ゆったりと停泊できそうな入江や湾が他にあります。例えば山陽道沿いの相生です。

相生湾と室津

ここには奥深い入江があり、東寺領でのちに南禅寺領になった矢野荘那波浦のあったところで、矢野荘の倉敷地(年貢の積出港)の役割を果たしていました。ところが瀬戸内海の幹線航路を行き来する船が立ち寄った形跡はありません。また、鞆の港の東隣は、現在は埋め立てられていますが、かつては広大な入江がありました。そこには草戸千軒などの港町がありましたが、やはり幹線航路を行き来する船舶が停泊することはなかったようです。
 ここからは中世の瀬戸内海では、奥深い湾や入江よりも小さい″室″が船頭たちの求める港の条件だったことがうかがえます。そしてそのような港には、日比のように、港を見下ろす近くの丘陵上に港に、出入りする船を監視するための山城が築かれていました。波静かな小さな入江とそれを見下ろす山城はセットになって、中世の港は構成されていたようです。

 海賊との遭遇場面に戻ります
日比の沖で塩飽の船頭守龍の舟に接近してきた海賊は、日比の四宮城の城主で、この海域の領主であった四宮氏だったと研究者は推測します。四宮氏は、戦国期には児島南部の小領主、海賊として活動し、その姿は軍記物語などに登場します。
たとえば『南海通記』には、1571(元亀二)年に日比の住人四宮隠岐守が讃岐の香西駿河守宗心を誘って児島西岸の本太城(倉敷市児島塩生)を攻めて敗れたことが記されています。この記事は、記事に混同があり、そのまま事実とうけとるわけにはいかないようですが、このころの四宮氏の姿を知る一つの手がかりにはなります。
 また、 1568年には、伊予国能島の村上武吉が家臣にあてた書状のなかに、「日比表」での軍事行動について指示しています。この年、四宮氏は海賊能島村上氏の拠点本太城を攻めて失敗し、逆に能島村上氏に逆襲を受けたようです。

守龍の船に接近してきた海賊について、もう一つ重要な点はその勢力範囲です。
海賊船が船頭たちの反撃で引き上げていった後に、守龍たちの船は塩飽に入港しています。ここで不思議に思えるのは、塩飽と日比は、それほど離れていないのです。
瀬戸の港 日比と塩飽

本島が瀬戸大橋のすぐ西側にあり、日比は直島の西側で、直線距離だと20㎞足らずです。塩飽と日比とは同じ備讃瀬戸エリアの「お隣さん」的な存在の思えます。その日比の海賊が塩飽の舟に手を出しているのです。私は村上水軍のように、塩飽衆が備讃瀬戸エリアの制海権を持ち、敵対勢力もなく安全に航行をできる環境を作っていたものと思い込んでいましたが、この史料を見る限りではそうではなかったようです。また、日比の海賊のナワバリ(支配エリア)も狭い範囲だったことがうかがえます。四宮氏と思える日比海賊は、限られた範囲の中で活動する小規模な海賊だったようです。
 以上を整理しておくと瀬戸内海には、村上氏のように広範囲で活動する有力海賊がいる一方、日比の海賊のように限られたナワバリの中で活動する、浦々の海賊とでも呼ぶべき小規模な海賊が各地にいたとしておきましょう。
海賊撃退に塩飽客船は、「鉄胞」を使用しています。
鉄胞の伝来については、1543(天文12)年に種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられたとするのが通説です。それから7年しか経っていません。高価な鉄砲を塩飽の船頭たちは所有し、それを自在に使いこなしていたことになります。本当なのでしょうか?
  宇田川武久の『鉄胞伝来』には、鉄砲伝来について次のように記されています。
①鉄胞を伝えたのはポルトガル人ではなく倭寇の首領王直である
②その鉄胞はヨーロッパ系のものではなく東南アジア系の火縄銃である
③伝来した鉄胞が戦国動乱の中でたちまち日本全国に普及したとする通説は疑問がある
として、鉄砲は次のように西国の戦国大名から次第に合戦に利用されるようになったとします。
①1549年 最初に使用したのは島津氏
②1557年頃に、毛利氏が使い始め
③1565年の合戦に大友氏が使用
1550年(天文19)年に、塩飽の源三の船が「鉄胞」を使ったとすると、これらの大名用と同時か、少し早いことになります。種子島に最も近い南九州の島津氏が、やっと合戦に鉄胞を使い始めたばかりの時に、備讃瀬戸の船頭が鉄胞を入手して船に装備していたというのは、小説としては面白い話ですが、私にはすぐには信じられません。
しかし、その「鉄胞」が火縄銃ではないとしても、海賊船の乗組員に打撃を与える強力な武器であったことは確かなようです。村上水軍のように海賊たちは「秘密兵器」を持っていたとしておきましょう。
 少し視点を変えれば、塩飽の源三は、ここでは船頭として300人を載せた客船を運行していますが、場合によっては、自ら用意した武器で海賊にもなりうる存在だったことがうかがえます。
 このような二面性というか多面性が海に生きる「海民」たちの特性だったようです。

源三の舟は、9月19日、その母港である塩飽本島に停泊しました。それが本島のどこの港だったのかは何も記していません。笠島が最有力ですがそれを確かめることはできません。
 9月14日に堺を出ていますから順調な船旅です。しかし、塩飽がゴールではありません。常客は乗り降りを繰り返しながら翌日には出港し、20日には鞆に入港しています。そして23日には安芸国厳島に着きました。源三の船は、停泊地に少しちがいはありますが、航路は、次の場合とほとんど同じことが分かります。
①平安末期に厳島参詣の旅をした高倉院の航路
②南北朝時代に西国大名への示威をかねて厳島へ出かけた足利義満の航路
③室町時代に京都に向かった朝鮮使節宋希環の一行
守龍は、このあと厳島で小船に乗り換えて安芸の「尾方」(小方、広島県大竹市)に渡り、そこからは陸路をとっています。そして周防国柱野(山口県岩国市)、同富田(周南市)をへて28日に山口に着いています。半月ばかりの旅路だったことになります。
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 守龍は山口では、彼に課せられた課題である東福寺領得地保の年貢確保のために精力的に活動します。要人である陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来しています。時あたかも、陶晴賢が主君大内義隆に対してクーデターをおこす直前でした。そのようなきな臭い空気を感じ取っていたかも知れません。
 大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。帰路の航海については、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年
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石切場 本島
細川氏が石切場を拓いていた本島の高無坊山
前回に大阪城再築の石垣のために小豆島だけでなく、塩飽諸島の島々にも石切場が置かれた話をしました。中でも細川家や黒田家は、小豆島と塩飽の石切場を同時進行で拓いて操業していました。多くの石を大阪城の現場に提供することが大藩の面目でもあったようです。ある意味、面子を賭けた石垣合戦を戦っていたとも思えてきます。今回は、各島に設置された石切場がどのように組織され、運営されていたのか、石がどうのように運ばれたのかを見ていくことにします。テキストは「坂出市史 中世編 大阪城築城と塩飽諸島」です。

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塩飽本島高無坊山石切丁場跡

細川家と黒田家が割り当てられた石垣は?
第一期普請では、西・北・東の外堀と北外曲輪の石垣構築が行われました。普請場は、大名47名に割り振られ6組に編成されました。その中で、細川忠利は加藤忠広を組頭とする一組に所属しています。有力大名は、自分の力を誇示しようと「はれかましき所」である目立つ場所を希望します。
大阪城石垣 乾櫓 細川氏の石垣3pg
大阪城西の丸の乾櫓 その下の石垣が細川家によって積まれた

作事奉行の小堀政一(遠州)が細川氏に割り当てたのは「西の丸(二の丸)北の出角」です。この上に小堀遠州が乾櫓(いぬいやぐら)を建てることになります。乾櫓は、大手口から京橋口までおよそ230度の広い視野を持ちます。逆に言うと、どこからも見られる目立つ場所です。晴れがましい場所を指定されて、細川家の機運は高まったはずです。
大阪城石垣 乾櫓 細川氏の石垣
                乾櫓と細川家築造の石垣

 一方、黒田長政は田中忠政を組頭とする四組に所属し、大手北詰から南へかけての場所を担当しすることになります。ここもよく目立つところで、晴れがましい場所でした。
諸大名が築いた石垣をよく見ると、刻印が刻まれている石がいくつもあります。刻印が多くの人の人の目に触れるように石垣は築かれているようです。自分の刻印を見て、大名たちは晴れがましい気持ちになれたのでしょう。満足げに石垣を眺める殿様の姿を思い浮かべることができます。
 大阪城石垣 大名割当

 細川藩は「記録の細川藩」とも云われるほど、きちんと史料を残しています。それだけで私には尊敬に値する藩です。石切場関係の資料も保存してあります。例えば、塩飽での細川氏の採石責任者は、石丁場奉行として竹内音兵衛・沢形右衛門があたり、四組に分けられた組織が組まれていました。それぞれの組の頭は、長岡式部少輔・長岡右馬助・有吉平占・牧左馬允です。彼らは細川家の家老・重臣です。ここからは「天下普請」に対する細川家の並々ならぬ意気込みが感じられます。
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塩飽本島高無坊山石切丁場跡

石切場では、どのくらいの人が働いていたのでしょうか?
「塩飽石丁場にて御役人御着到前指引目録之事」は、本島の8ヶ月間の石切場の操業記録です。その延べ人夫数は149529人になります。一日あたりの稼働人夫数を計算してみましょう
総人夫数149529人 ÷ 8ケ月=一月約18750人  
人夫数18750人 ÷ 30日=一日の人夫数 625人
となります。本島の石切場の総人夫数は600人前後であったことが推測できます。これだけの数の人夫達が島にやって来て小屋掛けして、飯場生活を始めたことになります。これは本島にとっては、大変な出来事であったでしょう。
島にやって来た人たちには、いろいろな種類の人夫や技術者がいたようです。その内訳を坂出市史は、次のような表にしています。

大阪城石垣 本島石場の人夫種別構成の

私は最も多いのは、石の切り出し職人と思っていましたがそうではないようです。12の「山より石出し並に船に石つみ申夫数」です。これは石切場から船に積み込むまでの運搬作業員で、全体の約4割を占めています。以下を多い順に並べると
2 石場人夫  (石場の作業員)
3 波止築人夫    (石の積み出し湊工事の作業員)
1 石切人夫      (石切職人)
「四組」というのは、先に見たように4つの組に分かれて、それぞれの石切場で競い合って作業に当たっていたので、こんな名称で呼ばれたのでしょう。3の波止築人夫は、その名の通り輸送船の横付けされる波止場の建設・維持に当たっていた職人のことでしょう。重い石を船に安全に載せるためには、安定した波止場が必須でした。  
 面白いのは、4の「三間角二分すみ之石 山より出し船につみ申す」です。「4」と「12」にからは、石を船まで運ぶ人夫にランクがあったことが分かります。三間角石が貴重なために、熟練した人夫を使って、念入りに運んでいたことが推測できます。また、飯炊き人夫も20人に一人の割合で配置されています。「道具番」と呼ばれる石切道具や輸送に必要な修羅・滑車など修理職人も数多くいたことが分かります。

大阪城石垣 石切道具 小豆島
石切職人が使っていた道具(小豆島)
どんな生活を、彼らは送っていたのでしょうか。
石丁場での人夫たちは、小屋で共同生活を営んでいたようです。「塩飽御普請万覚」という史料には、石切場での細かな規定が書かれていて、厳しい管理体制がひかれていたことを、坂出市史は次のように紹介しています。
①「御普請衆町二てかい(買)物物法度(禁止)」とあります。本島の町に出て、買い物は禁止です。
②「御小屋ノ内へおんな(女)みだリニ人申候事かたく法度」と、小屋へ女性を連れ込むことも厳禁
違反者は、
「くわたい(過怠)栗石半坪申し付けられ」
「つな(綱)をかけ小倉へ下され」
といったように厳しい処罰が科せられています。厳しく取り締まらなければ、採石作業にあたる人夫の統制はとれなかったようです。これは管理する側も、大変な任務だったようです。

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       塩飽本島の石切丁場跡(高無坊山)

 石切場の操業は、いつまでも続くわけではありません。石垣が出来れば終了です。期間は2,3年です。そのため人夫は、日雇いで雇われていました。これは小豆島と同じ額で、日雇い一人当たり、八分の支払いです。これを御影(神戸市)の石切場の相場と比べると、かなり安かったようです。ここからは、少し遠くても安価な労働力で操業できる備讃瀬戸に石切場を設けた大名側の思惑がうかがえます。
石切場 本島2
本島の高無坊山切り出された石材
 1年に、どれくらいの石を切り出したのでしょうか。
 細川氏は、元和7(1621)年には塩飽で3252個、小豆島で881個を採石しています。私は小豆島が主で、本島は補完的な石切場だと思っていたのですが大違いです。塩飽が主で、小豆島の方が補完的ななのです。これにもびっくりしました。
 また、私は切り出された石は、すべて大坂へと運び出されたと思っていましたが、そうではないようです。
坂出市史は「塩飽より大坂ヘ積上せ申す御石数の覚」(中世篇193)を示して、次のように指摘します。
①元和7(1621)の本島で切り出した石の総数3252個
②本島から大阪に向けて搬送された1889個
生産数と出荷数の間には、大きな開きがあります。これはどういうことでしょうか?
 翌年の元和8(1622)年の記録からは、切り出された石232個が波止場や山丁場、道に置かれていたことが記されています。採石作業環境の整備に切り出された石が使われていたようです。

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塩飽本島・石切丁場跡(高無坊山)の案内図

翌年の元和8(1622)年の「塩飽より大坂着石之覚」には、次のように記されています。
①この年、塩飽で採石した石は3273個で、大坂に運ばれのは479個だった
②その中で実際に石垣に使われたのは118個で、残りの388個は大坂の波止場や山に置かれた
③島から搬出されなかった2225個は「沢村弥左衛門見申され、あしき(悪しき)石之由」であった。つまり、築城には不適な「悪しき石」であったというのです。
大坂輸送石数479 ÷ 島での採石数3273=約15%
石垣使用数 118 ÷ 島での採石数3273=3,6%
という数字になります。採石しても船に乗せられるのは、百個の内で15個、石垣使用に適合した石は百個の中に4個程度しかなかったことになります。これも、私にとっては驚きの数字でした。現在の工場でのこれだけの不良品生産は考えられません。
この数字をどう考えればいいのでしょうか?
 第一に考えられるのは、大坂の現場が築城用石材に求めた基準が厳しすぎたのかもしれません。大阪城の再建自体が「裏の目的」は、西国の外様大名の経済的弱体化にあったと云われます。そのため基準を厳しくしたのかもしれません。その基準の策定には、作事奉行を務めた小堀政一(遠州)ももちろん関わっていたのでしょう。
 厳しすぎる基準が石切場の監督者たちには伝わらず、当初は「質よりも量」がもとめられた結果かもしれません。よく分かりません。

大阪城石垣 石材運搬

 島から積み出されなかった石は、どうなったのでしょうか?

「当年はと(波止)に築き申し候、西川与介申し付け候ハ、悪敷石にて築き候へと申し付け候山」

意訳変換しておくと
「今年、波止を築いた時に、西川与介に申し付けて、悪しき石(不良品)で、築港させた」

ここからは、採石しながらも不適な石は、波上場を築くために使用されたことが分かります。大量に採石されて港に下ろされても、それらの石が必ずしも全て大坂へ輸送されたのではなかったことを押さえておきます。

大阪城石垣 残念石 小豆島
小豆島の残念石
 小豆島の石切場を訪ねると、湊付近に積み出されなかった石が「残念石」名付けられて並べられています。私は、石垣工事が終了した連絡が遅れて、採石作業が継続していたものがそのまま放置されたものと思っていました。しかし、それだけではなかったようです。残された石は、「基準外」「不良品」だった可能性が高いようです。しかし、私が見ただけでは、どこが不良品かは分かりません。それだけ基準が厳しかったとしておきましょう。

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塩飽本島の石切丁場跡(高無坊山)

しかし、それだけではないようです。大阪城の石垣作業現場の状況に合わせて、その時点で求められる石を島からは優先的に運び出していたようです。次第に切り出した石を、なんでもかんでも送るのではなく、現場に必要な石を送るという体制がとられていたというのです。
 大坂の現場で最初に必要になったのは石垣の一番下の根石です。その他の石が搬送されてきても使い物にならないのです。そのため、石切場を拓いて、採石はおこないますが、まず大坂に送ったのは根石だったはずです。その他の種類の石は、ストックされたことが考えられます。

大阪城石垣 石垣構造図

 石垣で特に重要な石は、隅角部に築かれる角石です。
三間角・二間角・角脇石などの大型の石で、これを切り出すのはなかなか難しかったようです。角石に接して築かれる石が築石ですが、これが大量に必要となります。石の大きさは次のように指定されていました。
「小口三尺・四尺の内に仕り、長さ九尺・六尺の間に申し付けらるべく候、御本丸の石垣、高さのはからひこれ有るべく侯間、右の石にて半分過もつき、そのたは申すに及ばず、次第々々にちいさくこれ有るべく候条、その用意申し付けるベく候事」(松井家文書)

ここには築石の寸法が指定されています。石の大きさは決まっていて、それに従って切り出さなければなりません。どんな大きさでもよかったのではないようです。

切り出された石材は、どのようにして海を渡ったのでしょうか?
これは詳しくは分かっていないようです。ただ史料には、次のように記されています。
段平塩飽に着く、石積みはじめ申し候」

ここからは、石の輸送には、段平船と呼ばれる専用船が塩飽にはあったことが分かります。段平船とは、船幅が広く船底が平で喫水が浅い船のことです。船体上面は板張りで、その上に石を積んだようです。石の輸送については、細川氏が独自の船を持っているわけではなかったようです。塩飽の船に輸送をまかせていたのです
 石船の確保や手配に、細川氏が塩飽の年寄に協力依頼をした次のような記録があります。
尚々、舟以下義万事御きもいり頼み入り候、以上、
明年大坂御普請二付て、仕置もの共少々差しのほせ中し候、万事御肝煎頼み入り存じ候、本行として西川与助・友田左郎兵衛・杉山藤兵衛罷り上り候、然るべく様頼み入り候、去年は竹内吉兵へ沢形右衛門罷り上がり候処によろず御馳走の通り承り届け畏れ存じ候、次に存分に候へ共、小袖二つこれを進めせしめ候間、追って承り中すべく候、恐々謹言、
                長岡式部少輔   興長(花押)
二月廿日                     小笠原民部少輔
                      長貞(花押)
吉田彦右衛門殿
御宿所

細川家の両家老から塩飽年寄である吉田彦右衛門に、大坂への船の手配を肝煎へ依頼してほしい旨が記されています。その手数として小袖2つを与えています。銀子や樽酒などを遣わす場合もあったようです。島の石切場の管理は、肝煎が担っており、それを年寄が掌握して、その状況を見据えながら小堀政一が支配していたという構図が見えてきます。
 石船は年寄を通じて、肝煎が差配する権限があったことがうかがえます。そのためには、肝いりに対しては丁寧な対応がとられています。 中世以来の塩飽の船と水主の存在が、大坂城築城石の輸送にも活かされていたことがうかがえます。同時に、石を運ぶための輸送船需要は急増し、「特需景気」が塩飽をつつんだことは容易に推察できます。これが新規船の築造につながったのかもしれません。

石の輸送は必ずしもスムーズに行われたのではなかったようです。
「十一は塩飽より積み上せ候へ共、船中にて船かやりすたり申し候」

「船かやり」とあるので、船が転覆して、塩飽で積み込んだ11個の石が海中に沈んだことが分かります。船1艘に、11ヶほどの石が積まれていたようです。
その船は、どの程度の大きさだったのでしょうか?
小豆島から大坂への石輸送を担つた中川氏が用いた船は、
「手加子三拾人、手船」

と記されています。30人の水夫達が手こぎで操船しての輸送だったようです。寛永6(1629)年からの江戸城普請の時は、伊豆からの石船は45人乗り三艘編成で当たっています。瀬戸内海は穏やかで輸送距離が短いため、江戸城普請より小型の船が使われたようです。
 石船で大坂へ運ばれた石は、どこへ陸揚げされたのでしょうか。
石は、石切場から集石地(積み出し地)へ集められ、そこから石船で海上輸送されました。そして石上場(陸揚げ地)まで、船で運んで陸揚げします。その石は、石置場へと陸送されて集められます。その後、用途に応じて普請丁場へと運ばていきました。
大阪城石垣 江の子島 石材集積地
細川家の石材集積地があった江の子島

塩飽からの石は、どこへ陸揚げされたのでしょうか。
大坂城代青山下野守忠裕家臣で、石役の鈴木浅右衛門が作成した『御石員数寄帳』という記録が残っています。これは19世紀初頭になって作られたもので、同時代史料ではありませんが参考にはなります。これを見ると石の種類と数・保管地が所有大名ごとに5つに区分して記されています。この中には、次のように記されています。
「細川越中守殿抱石として、岡山町栗石六十三坪二合五勺、木津川町に築石百二十九本、尻無川に角脇石一本」

 石材は、角脇石などは「本」で数えられ、栗石などは「坪・合・勺・才」などの体積で表されたようです。細川越中守の石は、大坂城と大坂湾の中間の木津川と三軒屋川の流域地域にある岡山町や木津川町、尻無川などにストックされていたようです。
さらに次のように記されます。
 「千手新左衛門はゑのこ島にて志わくより参候舟の石つみうつしの御奉行仕り候、私は京橋かぎ丁場に相い詰め申し候間、しかと存じ申さずしわくより石舟参らず候時は毎日御丁場に相い詰めきもをいり中し候事」

意訳変換しておくと
「千手新左衛門は、江の子島で塩飽から船で運ばれてくる石の積移しの奉行を務めていた。私は京橋の鍵丁場に詰めていて、よくは分からないが塩飽からの石舟がやってこない時には、毎日御丁場に詰めて仕事を行っていた。

 ここからは塩飽からの石船が「江の子島」に到着して、積み替えられていたと記されています。

えのこ島は、難波の八十島の一つ江の子島のことで、淀川河口に発達した三角州の一つで、西を木津川、南を阿波堀川、東を百間堀川に囲まれた島で、現在の中の島の南西になります。ここに陸揚げをし、その後、大坂城の近くまで輸送したのでしょう。

大阪城石垣 道頓堀の石揚場

黒田家の石揚場については、黒田家伝来の文書群(福岡県春日市奴国の丘歴史資料館所蔵の佐藤家文書)の中に、大坂城第二期普請にかかわる大坂市中の絵図が残されているようです。そこには、
黒田家が大坂城へ運び込んだ際の石の荷揚場の図と、関係者の滞在や資料保管のため借り上げた場所が示されています。それを見ると、石材輸送は木津川から道頓堀川か長堀川を経由して、東横堀川に入るルートが使われています。その途中の上図のような「御石上ケ場」(集石所)が設けられています。
①長堀川との合流地点に近い木津川の右岸沿いの寺島
②道頓堀川沿いの開発が遅れていた西半分両岸
塩飽諸島で切り出された石が、塩飽の石運搬専用船で瀬戸内海を通って運ばれ、本津川から市内の河川へと移動して陸揚げされ、これらの集積場所にストックされたことが分かります。

小豆島から輸送された石は、八軒屋と伝法で陸揚げされていたようです。八軒屋は大坂城すぐ近くで、桃山からの高瀬舟の到着湊があった所です。伝法は淀川河口で遠く離れています。伝法で陸揚げして、再度河川を利用して普請場近くへ運ばれたことが考えられます。少しでも大坂城の普請場に近い場所へと陸揚げしたいところですが、大量の石を保管する場所が必要になります。そのため遠い場所に陸揚げされ、求めに応じて川船に積み替えて「出荷」されていたようです。
 以上からは大坂に輸送された石も、直接に普請現場に送られたのではなく石置き場にストックされて、その後必要に応じて現場に運び込まれたことを押さえておきます。とすると、現場から石垣職人が石を見に来て、目に適った石だけを指定して運び出されたことも考えられます。職人が選ばなかった石は、いつまでも置いておかれることになります。これらが「不適合品(石)」となったのでしょう。
 不適合品となった石は、どうなったのでしょうか。よく分かりませんが、大坂の運河工事や雁木として使われたのでしょうか。寺社などの石垣として転用されたのかも知れません。

以上をまとめたおくと
①大阪城再建に使われる石材については、厳しい品質と基準検査があった。
②そのため切り出されても大半は大坂に運び出されずに、石材積み出し湊の築港工事などに使われた
③大坂に運ばれた石材は集石場にストックされ、必要に応じて石垣工事現場に搬入された。
④実際に石垣に使用された石は、採石数の4%に満たないものであった。
⑤そのため石切場から積みだし湊に至るルートには、数多くの不良品(残念石)が残っていた。
⑥本島の石切場の作業員は600人程度で、日雇い労働者で飯場暮らしであった。
⑦その中の4割が石の輸送に携わる労働者であった。
⑧労働者の賃金は、畿内の石切場の相場よりも安く、これが備讃瀬戸に石切場を求めた大名のねらいのひとつとも考えられる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   坂出市史 中世編 大阪城築城と塩飽諸島
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小堀遠州展 茶道を中心に近世初頭の文化を展開する(桑田忠親、田山方南、小堀宗慶、他) / ハナ書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」  / 日本の古本屋

江戸時代初期の塩飽と小豆島は、ともに幕府の支配下にありました。その管理に深く関わっていたのが小堀政一です。しかし、この名前を知っている人はあまりいません。が小堀遠州と聞くと知名度はぐっと上がります。高梁市のHPには、次のように記されています。
  江戸時代前期の大名、備中国奉行、茶人。幼名は作介。名は政一。遠州は通称。備中国奉行・小堀正次の子。1604(慶長9)年父を継ぐ。備中松山城普請をはじめ、頼久寺庭園の作庭などを行った。また、駿府城、禁裏、二条城などの作事に関わり、建築、造園に優れた才能を示した。また、将軍家茶湯指南として大名茶の中心となり、「綺麗さび」を特徴とする遠州流茶道の祖となった。

  高梁市のHPには小堀遠州として「駿府城、禁裏、二条城などの作事、建築、造園」「将軍家茶湯指南として大名茶人」に焦点が向けられています。しかし、彼は伏見奉行を長く務めた政治家であり、大阪城再建の作事奉行でもあったという点には触れられていません。つまり、業績としては、茶道や華道の元祖であり、庭園造作の名手としての文人の面が高く評価されています。しかし、先ほど触れたように小堀遠州は塩飽や小豆島の管轄者として、深くこれらの島に関わっていたようです。
小堀遠州展 : 生誕四百年記念(小堀遠州顕彰会, 日本経済新聞社 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 小堀遠州

   大坂城は慶長20年(1615)の大坂夏の陣で燃え落ちます。
その後、大坂は幕府直轄地となり、元和6年(1620)徳川2代将軍秀忠が大坂城の再建を始めます。秀忠は普請奉行の藤堂高虎に「石垣も堀も旧城の倍にせよ」と命じます。これまでにない巨石も多く使用させ、巨額の建設資金を大名たちにつぎ込ませて約10年の歳月をかけて大坂城は再建されます。築城は、次のように3期に分けて進められました。
第1期が元和6年~9年(1620~23)
第2期が寛永元年~3年(1624~26)
第3期が寛永5、6年  (1628~29)
大阪城の石垣「徳川の権力を誇示」
大阪城に運ばれた一番大きい石

大坂城再建の土木工事の総奉行は、秀吉の下で築城の名手と言われた藤堂高虎です。高虎のもとで、実際の建築工事に当たったのが幕府旗本の小堀政一(遠州)でした。彼は慶長6(1601)年、家康が伏見城を再築するときに作事奉行を務めて以来、駿府城、名古屋城、二条城など、家康に関係するほとんどの城の作事奉行を務めています。そして大阪城再建の際にも、作事奉行として城の周縁部の櫓や門の修繕を担当し、そして第二期工事では、天守本丸作事奉行を務めています。研究者の中には「大阪城再建の実質的総責任者は、小堀政一」と指摘する人もいます。この仕事ぶりを藤堂高虎は高く評価し、後には自分の養女を小堀政一に嫁がせています。高虎と遠州は義理の父子関係で結ばれていました。
伏見奉行所跡 - 京都市, 京都府

 一方、小堀遠州は、伏見奉行も務めていました。
伏見奉行は、西日本の天領などの管理もおこなっています。小豆島は天領で、塩飽も「人名領」ですが幕府直轄地です。つまり、このエリアの最高責任者は小堀であったことになります。
 そうした中で、大阪城の築城が始まります。
大坂城の築城は、西国大名に「天下普請」として義務付けられ、64の大名が参加します。諸大名は築城にあたり、石垣に必要な石を確保することが求められました。そのため各地の石切場が物色されます。 まず伏見城の石垣石が、淀川を下って大坂ヘ運ばれてきます。次いで南山城の加茂・笠置に石丁場が拓かれます。大坂周辺では、生駒山系西麓や東六甲山系にも多くの石切場が拓かれます。しかし、それでも足りません。そこで目が付けられたのが瀬戸内海の島の石切場です。石は船で運ばれます。島の石を運ぶのが便利と考えたのでしょう。しかし、大名所有の島は簡単には、掘らしてはもらえません。そこで目を付けられるのが、幕府支配下の島です。小豆島は天領で、塩飽は「人名領」で、どちらも幕府支配下です。各大名たちは、幕府との交渉し、これらの島からの石の切り出しを進めます。この交渉相手が小堀政一だったのです。
  大坂城に運ばれた石は、小豆島から運ばれたものが有名で、その他の島の石切場については、あまり知られていません。小豆島以外の塩飽の島々の石切場について、見ていくことにします。
  テキストは、坂出市史 中世編 大阪城築城と塩飽諸島です。

小豆島に4年ほど単身赴任で暮らしていたことがあります。
原付バイクで島中を走り回っている間に、いろいろなところに石切場跡があることに気付きました。いくつもの大名達が、石垣用の石を求めて、小豆島に「石切場キャンプ」を設置して、監督の武士団と職人たちを送り込んでいます。
石切場 牛窓前島
牛窓の前島の石切場跡
小豆島の周辺の島々をめぐる中で岡山の牛島の前に横たわる前島を訪れた時のことです。島の夕陽を見るために展望台に上がっていくと、そこがかつての「大坂城御用達の石切場島」であったことを示す案内板に出会いました。小豆島以外にも、石切場が開かれたことに気付きました。そしてこの時に改めて、徳川幕府による大阪城再建が「天下普請」であったこと、大名にとっては、まさに「石垣合戦」だったことを実感しながら沈む夕陽を眺めたのを覚えています。
岡山県 牛窓港からフェリーで前島に渡り、瀬戸内海の夕陽・朝日を望む! / Maejima Island Cruise ( Okayama, Japan  )【おうちで旅気分!】 - YouTube
 
それからながーい、ながーい月日を経て、小豆島以外の石切場について向かい合おうとしています。前置きは、このくらいにして・・・

塩飽諸島の状況を記した「塩飽島諸事覚』に、次のように記されています。
御用石丁場五ケ所 笠島・与島・青木浦・江之浦・櫃石島、右島之浦分二一ヶ所宛、右ハ大坂城御普請之時、塩飽島より石御取被成候」

意訳変換しておくと
塩飽諸島には御用石丁場が五ケ所ある。 笠島・与島・青木浦(広島)・江之浦(広島)・櫃石島の浦にあり、これらは大坂城再築城の際に、塩飽島より採石した所である

ここからは、笠島・与島・広島の青木浦と江之浦・櫃石島の島々の五ヵ所に石切場があったことが分かります。それがどこにあったのかは、分かりませでした。それが当時の様子を示す文献史料が近年出てきて、現地調査も行われたようで、坂出市史に紹介されています。これを見ていこうと思います。

石切場 本島
本島の高無坊山の西麓に切石が残る
まず本島の石切場です。
本島の石丁場については今までは、豊前小倉藩細川氏が塩飽本島に石丁場を拓いていたことは知られていました。しかし、具体的場所や規模は、ほとんど分からなかったようです。それが現地調査の結果、本島の高無坊山西麓一帯であることが分かってきました。高無坊山は本島のほぼ中央に位置する標高約200mの山で、山頂の西山麓を流れる西谷川の谷頭付近を中心に、多数の矢穴のある種石や刻印のある切石が散在しています。
石切場 本島2

残された石には、細川氏を示す刻印が刻まれ、細川氏が拓いた石切場だったことが分かります。発見されている刻印石は49ヶで、大阪城にも同じ刻印の石があるようです。切り出された石は、島の北部にある屋釜海岸へと運ばれたようです。 屋釜には積み出し跡があり、ここから大坂へ海上輸送されたのでしょう。

P1180897
        塩飽本島の高無坊山石切丁場跡

与島の石丁場について、 塩飽年寄の一人である吉田家には次のような文書が残されています。
尚々、石場の儀につきて、ご返事の通り島年寄中内証申し聞候につきて、おおかた石場相済み候、いよいよ其元においてしかるべき様仰せ付けられ下され候、共の意のため頼み候、
以上
わざと一筆啓上致し候、然らば塩飽島において右衛門佐請け取り候石場の儀、先日申し入れ候処ご返事並びに使い口上の通り御座候、別してお心添え恭く存じ本り候、すなわち右衛門佐ヘ申し聞かすべく候、それに就いて塩飽島年寄中申す談、塩飽島の内むかいかさ(笠)島・吉島の内、浦方両所請け取り申す分に大形相究め候、並びに島年寄中の内、一人罷り上られ候条、貴様まてご内意を得、その上にていよいよ相済み申すすべく由候、明所の儀候間、相違なく相い渡し候様に仰せ付けられ下さるべく候、拙者儀爰元仕り廻り候はば、自体大坂へ罷り上るべく候、左候はば以て成とも、御意を得るべき候、異彩はこのもの口上に申し含め候、
                                                              黒田市兵衛
二月二十四日
小堀権左様
意訳変換しておくと
石場(石切場)のことについて、ご返事の通りに島年寄中(塩飽の指導者)に申し聞かせて、確保ができました。小堀様の方から事前に指示していただいたのでスムーズにすすめることができました。感謝いたします。
以上
一筆啓上致し候、塩飽島(本島)において右衛門佐が受け取った石切場について、先日の申し入れに対して、配慮いただいたことに対して、返事並びに使い口上の通りお礼申し上げます。お心添えの結果を、右衛門佐ヘ申し聞かせ、塩飽島年寄中に伝えたということです。
 塩飽島(本島)の北向かいにある笠島・吉島(与島)に石切場を拓くことについて、両島の浦方の同意を取りつける所までは進みました。しかし、島年寄中の中には異論もあるようです。つきましえは小堀様の内意を得て、働きかけていただけないでしょうか。そして、笠島・吉島(与島)に石切場を拓くことことを仰せ付けられいただければ幸いです。拙者は今は国元ですが、昨今に大坂へ参りますので、御意を得るべきようお願いいたします。詳細については、使者が口上で申し上げます。
この史料は、筑前福岡藩黒田家の家臣である黒田市兵衛が小堀権在に宛てた書状です。宛名の  小堀権左は、大坂城作事奉行である小堀政一(遠州)の家臣小堀宗政です。
文中に「向かさ島(むかいかさ島)」「吉島」とあります。これは塩飽本島の笠島北方にある向島と与島を示します。ここからは本島以外の島にも黒田家の石切場があったことが分かります。

P1180898
        塩飽本島の高無坊山石切丁場跡
塩飽島は幕府直轄地で、小堀の支配下にありました。黒田家は小堀宗政に塩飽での石丁場を開くに際しての申し入れに対しての心添えの件に感謝しています。同時に、向島と与島で空所があれば渡すように島年寄に仰せ付けるよう依頼しています。本島にも細川氏の石丁場がありましたが、それだけでは足りなかたのでしょうか、それ以外の島で石丁場を求めていたのです。
同日付の年寄吉田彦右衛門宛の黒田市兵衛の文書があります。
これによると肝煎から石丁場を確保でき、手形を取り交わしたことに対して、彦右衛門へ銀子2枚を遣わしています。石切場の斡旋を小堀に申請すると同時に、島内にある石丁場を管理している肝煎に、年寄から話しをつけてもらっていたようです。石切場には肝煎が深く関わっているので、これをうまく利用しなければ確保が難しかったことがうかがえます。このような石切場確保交渉も、藩の重役が小堀政一に直接行っています。
小堀政一書状には「瀬屋」「ひつ島」「せいの島」が出てきます。
「ひつ石」は櫃石島、「瀬屋」「せいの島」は瀬居島を指すようです。ここからも本島だけでなく周辺の島々でも細川家は、石切場を開いていたことが分かります。
石切場 櫃石島

調査報告書が出されている櫃石島を見てみましょう。
櫃石島にもいくつかの刻印石が残されているようです。島の北西部の花見山の南に下った標高65~75mの地点に刻印石が散在していることが報告されています。調査報告書によると
①12個の刻印石・矢穴石があり、主として串団子形の記号が刻まれている
②最も大きい石は、長さ3m、幅2m、高さ1,2mの巨石で、串団子に「越前」の銘が添えられている
③刻印の「越前」は福井藩松平氏で、藩主松平忠直は第1期工事の北外堀・東外堀石垣を担当した
④そこに串団子形刻印石があり、櫃石島刻印石と同じである
ここからは櫃石島の石切場は、越前松平氏が拓いたことが分かります。福井藩は第1期のみの参画なので、石丁場は元和六(1620)年頃に開かれて、その後は閉鎖されたようです。
瀬居山頂磐座
瀬居島の磐座

 瀬居島にも石丁場が開かれていたことを示す史料を見てみましょう 
塩飽の年寄宮本・吉田宛の小堀政一の文書ですが、そこに瀬居島に石切り場を求めようとした武士たちの名前が出てきます。
以上
急度申し越し候、せいの島(瀬居)の内にて明所これ有るにつきて、岡島備中殿・前田美作殿お望みのよし候、右の所これ以前いつ方へも相渡さず構えこれなき候、明所において共にお渡しこれを
進むべく候、もし加藤左馬殿へ相渡し候石場へ相構え申す所においては、以来出入りこれ有るべき候は返し候間、渡し候事無用候、その為このごとき候、以上、
遠江
九月二十八日               □(花押)
宮本道意
吉田彦右衛門
  意訳変換しておくと
以下のことを急ぎ申し伝える。瀬居島の石切場予定地については、岡島備中殿・前田美作殿が入手希望しているが、ここはまだ誰に渡すかは決まっていない。 明所(空所・まだ石切場が拓かれていない所)を前田家に渡すように進めてもらいたい。また、加藤左馬殿へ渡していた石切場が不用で返還されるようになった時には、他者に渡すことのないように。以上、

瀬居島の明所(空所・まだ石切場が拓かれていない所)を岡島備中と前田美作が所望しているが、以前より誰にも渡していないとあります。ここに出てくる二人は加賀藩前田家の重臣です。ここからは前田家も瀬居島に石丁場を拓こうとしていたことが分かります。時期は第二期工事の始まる元和8年頃のことのようです。その後、前田家が瀬居島に石丁場を拓いたかどうかは分かりません。しかし、各藩が幕府管轄である塩飽の島々に石切場を拓こうと、塩飽支配のトップの幕臣小堀政一や、現地の本島の年寄りたちに接近し、「取得交渉」を行っていたことは分かります。各藩にとって、まずは石切場の確保が大阪城築城の最初の課題だったようです。
文中にもう一人出てくる加藤左馬は、伊予松山藩主加藤嘉明のようです。
この文意からは第一期工事には加藤氏は関わっていて瀬居島に石丁場を拓いていたようです。それが2期工事の石垣担当からは外れたのでしょうか、石切場の返還があることを、小堀は想定しています。与島の鍋島燈台が立っている湊付近には、加藤の刻印石らしき残石があるようです。加藤氏も塩飽諸島の与島に石切場を拓いていたことが裏付けられます。
P1180893
         塩飽本島の高無坊山石切丁場跡
以上をまとめておくと、塩飽には次のような石切場拓かれていたことが史料から分かります。
①本島の高無坊山西麓一帯に細川氏の石丁場
②向島・与島・櫃石島・瀬居島に黒田家の石切場
③櫃石島に、越前松平氏の石切場
④瀬居に加賀前田家と伊予松山加藤家の石切場
⑥与島に伊予松山藩の石切場
細川氏や黒田氏は、小豆島にも石切場を拓いていました。しかし、それだけでは需要に応じきれなかったようです。黒田氏も細川氏も、塩飽にも石切場を拓いていたのです。細川・黒田氏は、小豆島と塩飽の石切場を同時進行で拓いて操業していたようです。細川家の担当者の中では、瀬戸の石切場、小豆島作業所、本島作業所、向島作業所、与島作業所、櫃石作業所、瀬居作業所という組織図があって、責任者やスタッフ、一日の切り出し石数までインプットされ、塩飽と小豆島を一体として捉えられていた感じがします。その運営ぶりはまた次回に
以上をまとめておくと
①大阪城再建がスタートすると、各大名は石垣用の石の工面に奔走するようになる
②石切場として目を付けられたのが小豆島や塩飽の周辺の島々である。
③このエリアの島々は幕府直轄地であり交渉がやりやすく、海上輸送が可能であった
④当時、小堀政一(遠州)は伏見奉行であり、大阪城の作事奉行を兼務していた。
⑤そのため多くの大名が石切場の割当を求めて、小堀に相談や陳情を行っている。
⑥大阪城築城期の塩飽周辺は、各大名の石切場が姿を見せ、周囲からの注目を浴びる存在でもあった。
⑦小堀政一は、石切場斡旋調整だけでなく、塩飽廻船の便宜も図っている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 坂出市史 中世編 大阪城築城と塩飽諸島
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坂出市史に「廻船式目」のことが紹介されています。
廻船式目とは、「海の憲法」ともいえる海事法規で、海上運送における慣習法をまとめたものです。全国には60冊ほどが伝わっているようですが、奥書の年紀は貞応二(1123)で共通しているので、鎌倉時代前期には成立していたとされます。
  廻船式目には、海難・盗難・積荷損害などの事故への対応法が書かれています。
それが時の権力者から承認を得ながら、何度かの改変・追加などを経て室町時代後半期には、全国的に一定の共通理解と法的拘束力がもたれるようになっていきます。つまり中世以来「廻船式目」に定められた条項が遵守され、海事紛争の根拠法とされていたのです。「海の憲法」とも云われる由縁です。

 塩飽には、2つの廻船式目が伝来していたようです。そして、それらを書き写したものが各浦々の人名の家には残っています。その背景を坂出市史は、次のように指摘します。
①海路を遠国まで航海する大型廻船を所有していたこと
②諸国の廻船が海上交易のために寄港したこと
③その際に塩飽海域で海難事故・事件に巻き込まれた場合の対応法を知っておく必要があったこと。
そして、与島に伝わる船法度(廻船式目)を紹介しています。
これは塩飽寛政改革で新年寄に選任された与島岡崎家の当主次郎左衛門が、塩飽に伝わる「廻船式目」を種本にして、新たに書き写したものと研究者は考えているようです。これを見ていくことにしましょう。

タデ場 廻船式目 
 廻船式目
第1条は、難破船に関する事項です。
① 「一  寄船・流舟(難破船)は、その在所の神社・仏寺修理をなすべきこと、もしその船に乗る者おいては、舟主進退なすべきこと」

沖で難破した船が流れ着いたときの処置方が記されています。難破船は、誰の物か分からないので、近隣集落で船を解体して、寺社修理に充てることができたようです。乗組員がいれば、船主の進退を仰ぐとあります。通例では、当該乗組員の判断によると記すものが多いようです。
 第二条は「港に係留中の船が破損したり、積荷が濡れた時」のことです。
②湊(港)において繋ぎ船損ないしたる時は。その所より濡れたる物を干し、船頭に渡すべきなり。そのため帆別・碇役し湊を買たる(人港に際し支払う諸税)は、国主たりとも違乱あるべからざる事」

船を湊に係留中に、船が損傷したり、荷を濡らした場合は、現場で乾して船頭に渡せとあります。そのため、全ての権限は、船頭にあり、帆別・碇役などの津料(関税等)を支払った場合、荷物の取引に関して、その所の国主といえども勝手はできないとあります。港に係留された船の保全は、港管理者に責任があったことが分かります。
  第三条は、「(係留中の)大風時の係船の事」についてです。
③ 「一  繋ぎ船あまたこれありて大風ならば、その村よりも加勢をつかまつるは、まず風上なる船に加勢する事もつともなり。いかに風上の舟、綱碇ありといえども、風上の船流れかからば諸々の船繋ぎ止むるべからず、もし風上の舟おのれと綱を切り、風下の船に流れかかり二艘ともに損いならば、風下の船より最も風上の舟に存分これあるべき事」

 多くの船が係留されているときに強風が吹いたときには、まず風上の船に加勢せよとあります。どんなに風下の船が綱碇をしているといっても風上の船が流れてくれば全ての船をつなぎ止める事はできません。もし、風上の船の綱が切れて風下の船に流れかかり、両方とも破損したなら風下の船から風上の船に賠償させる権利(存分)があるというのです。
 「その村よりも加勢」とあるので、湊のある村では海難救助や災害防止のための出動が相互扶助として確立していたことがうかがえます。それを指揮する庄屋たちは、この慣習法を知っていないと、対応を誤ることになります。勤番所に置かれていた廻船式目を、真剣に書き写すリーダーたちの姿が浮かんできます。
   第6条は、船の盗難に関する事です。
⑥舟を盗まれ、本は賊船に取られ、北国の舟は西国にこれあり、西国の舟は北国にこれありといえども、この船を買取り廻船をすべからざる事、もし、荷物を積廻す船はこれあるにおいては、船主見合いにこの舟を取返し、船頭も迷惑たるべき事、かわりに付たる沙汰はたとい親子の間にて深々たるべき事

船が盗まれることもあったようです。盗まれた船と分かった時には、日本中のどこにあっても持ち主に返却すること、その船が何回も転売されていて所有権は無効となる。また、盗船の雇われ船頭も盗船であることを知らなくても免責にならない。

このように海難事故や船をめぐる事件についての対応のために、中世にはこんな慣習法ができていたこと自体が驚きです。しかも、瀬戸内海というエリアだけでなく日本列島全体で遵守されていたというのですから。逆に考えると、海上交易(廻船)活動が広範囲に鎌倉時代には行われていたことにもなります。

千石船

さて、今回私が一番気になったのが、次の第7・8条です。 第7条は、「借船」に関する規定です。
⑦ 「借舟をし、もし、その舟損したるといえども、借りて弁えざるべき事、但し、舟床をすめす舟主の分別無き所を押さえて出船し、その舟損したる時は借り手の弁えにたるベき事」
船のレンタルとその運用について、荷主などが契約して借船を運航する場合、船の損害は、船主が責任を負います。また、荷主が、船主に対して契約料を未払いや無断出港した場合などは、借り手の責任となったようです。
 塩飽廻船は、古来より前払いの運賃積みで運行されてきました。その根拠となったのがこの項目だと研究者は考えているようです。
第8条は、船虫喰についてです。
 私は「船虫喰」とは、海岸でゴキブリのように這い回るフナムシと思っていました。フナムシとフナムシクイはまったく別種のようです。
タデ場 フナクイムシ3
フナムシクイの着床
フナクイムシは水中の船木に穴を開けてそこに住みつき、船材を穴だらけにしてしまいます。世界中の木造船が苦しめられてきた船の天敵です。ウキで検索すると、次のように記されています。
「フナクイムシ(船喰虫)は、フナクイムシ科 (Teredinidae) に属する二枚貝類の総称。ムシとついているが、実際は貝の仲間である。英語ではshipworm、ドイツ語ではSchiffsbohrmuschelnあるいはPfahlwurmer、フランス語ではtaret commun、台湾では船蛆蛤と呼ばれる」

  これを放置しておくと船底は穴だらけになって浸水してきます。船の耐久年数も縮めます。
タデ場 フナクイムシ1

この対応策としてとられたのが船タデです。ウキは、次のように記します。
 
船をタデ場に揚げ、藁・苫などを燃やして船底を熱し、船板中の船食虫を殺すとともにしみ込んだ水分を取り去ること。船の保ちをよくし、船足を軽くするために行なう。「牛島諸事覚」

火を燃やす作業所を「焚場」(たで場)と呼んだと云います
タデ場 フナクイムシ2
木材に巣くったフナクイムシの一種
それでは廻船式目に船虫食いが登場する第8条を見てみましょう

⑧ 「一  借船をし、その船虫喰いたる時は、借り手損たるべき事、但し、舟付きこれあるにおいては借り手気遣及ばざる事、借り手油断においては弁えあるべき事」

意訳変換しておくと

船をレンタルして運航していた際に、メンテナンス不備で虫食いの被害で損害を与えたときには、借手の責任となる。ただし、専門のメンテナンス水夫が同乗の場合は、この限りではない。レンタル側のお雇い船頭が油断して虫食いが発生した場合も、同様に責任がある。

 先ほど見たように廻船の虫食いは、深刻な場合は廃船になることもあります。そのためには普段からの注意と、定期的な整備が必要でした。「舟付きこれあるにおいては」とあるのので、メンテナンス専用の水夫が同乗する場合もあったようです。

条文に明記されているのですから、船タデを定期的に行い廻船を良好な状態で維持管理し、長持ちさせることは、廻船関係者にとっては常識であったことが分かります。また、船底に付着する海藻や貝類も船足を遅くする元凶なので、これを取り除く作業も同時に行われました。
 それでは船タデ作業は、どこで行われたのでしょうか?
   備讃瀬戸を挟んだ備後の鞆の浦からはタデ場遺構が確認されています。調査報告書は次のように述べています。
タデ場 鞆の浦2
石畳を敷いたようにみえるタデ場跡(鞆の浦)

①石敷され,一辺が50~100cm程度の上面が平坦な板状の石材で作られている。
②その範囲は約23×13m。石材の一部には,石を割ったときの跡(矢穴痕)が残る。
③岩盤は,自然の岩盤とは異なり,全体的にほぼ平坦であり人工的に削平したもの
④平坦に削平された岩盤と,石敷や石列の設置で,全体として平坦な「場」ができあがっている。
タデ場 鞆の浦1

また文書にも、タデ場を裏付ける次のような文書があるようです。
・文政10年(1827年)の河内屋文書には,時代と共に船の規模が大きくなり,焚場が狭くなってきたため,敷石したり岩・石を削平して浜全体で大船10艘の焚船ができるようにしたこと

この記述は、先ほど見た遺構の「石敷・石列・加工の可能性のある岩盤」と一致します。
・近世の鞆の町並みを記録した2枚の絵図面〔元禄~宝永年間(1688~1710年)沼名前神社蔵及び文化年間(1804~1817年)と推定されるもの・〕には両方とも,同じ場所に“焚場”あるいは“タデ場”の記載があること。

このタデ場(焚場)は大正時代の始めまでは、多くの船に利用されていたようです。当時は、千石船が50杯/月、300~500石の船が130杯/月も利用する瀬戸内では、最大級の焚場のひとつだったようです。江戸時代の港町に、タデ場が残っている所は今ではほとんどありません。潮が引くと石畳造りのタデ場が現れます。

kaisenn廻船5

 以前にお話ししましたが、タクマラカン砂漠のオアシスはキャラバン隊を惹きつけるために、娯楽施設やサービス施設などの集客施設を競い合うように整備します。瀬戸の港町もただの風待ち・潮待ち湊から、船乗り相手の花街や、芝居小屋などを設置し廻船入港を誘います。船乗りたちにとって入港するかどうかの決め手のひとつがタデ場の有無でした。船タデは定期的にやらないと、船に損害を与え船頭は賠償責任を問われることもあったことは廻船式目で見たとおりです。また、船底に着いたフジツボやカキなどの貝殻や海藻なども落とさないと船足が遅くなり、船の能力を充分に発揮できなくなります。日本海へ出て行く北前船の船頭にとって、船を万全な状態にしておきたかったはずです。
 船頭に人気があった船タデ場のひとつが、鞆にあったことはみてきました。ところが、鞆の船タデ場の管理者たちがライバルししていたのが塩飽与島のタデ場です。わざわざ与島のタデ場を取り上げて、自分たちのタデ場の方が古くからあり、処理能力や腕もよく、経費も安いと記します(鞆浦河内屋文書)。ここからは、鞆と与島は、どちらもタデ場発祥の地として競い合っていたことがうかがえます。同時に、近世瀬戸内の同業者の間では、船タデの由来・由緒が共有されていたことも分かります。ちなみに与島の小地名に「たてば」というところがあるようです。これは、もともとは「タデ場」のあったところなのでしょう。

1 塩飽諸島

瀬戸内海の干満差は、船タデ場に適していたようです。
瀬戸内海の平均干満差は約3~4mで、一日に2回干満があります。ちなみに東北から日本海方面では、千満差は、30㎝しかないそうです。また九州の有明海などは、干満差が6mを超えます。このため日本海岸では、船の下に入ることも出来ません。一方有明浜などでは磯や浜に船台を設けても、高すぎて船底に届きません。干満差3mというのは、作業にはちょうどいいようです。

坂出市史を参考に、船タデの作業開始を時間順に並べて見ましょう。
①満潮時にタデ場に廻船を入渠させる。
②船台用の丸太(輪木)を船底に差し入れ組み立てる。
③干潮とともに廻船は船台に載り、船底が現れる。
④船底のフジツボや海藻などを削ぎ取りる
⑤タデ草などの燃材を燃やして船底表層を焦がす。
⑥船食虫が巣喰っていたり、船材が含水している場合もあるので、防虫・防除作業や槙肌(皮)を使って船材の継ぎ目や合わせ日に埋め込む。
⑦同時に、漏水(アカの道)対策や補修なども行う。

タデ場での作業は、通常は「満潮―干潮―満潮」の1サイクルで終了です。しかし、船底の状態によつては2、3回繰り返すこともあったようです。この間船乗りたちは、船宿で女を揚げてドンチャン騒ぎです。御手洗の船宿の記録からは、船タデ作業が長引いているという口実で、長逗留する廻船もあったことが分かります。「好きなおなごのおる港に、長い間おりたい」というのが水夫たちの人情です。
 船の整備・補修技術や造船技術も高く、船タデ場もあり、馴染みの女もいる、そんな港町は自然と廻船が集まって繁盛するようになります。そのためには港町は「経営努力」と船乗りたちへのサービスは怠ることができません。近世後期の港町の繁栄と整備は、このようなベクトルの力で実現したものだと私は考えています。
タデ場 鞆の浦3
近世の造船所
  「塩飽水軍」は存在しなかった、あったのは「塩飽廻船」と前回に記しました。
塩飽衆は、武力装置としての水軍力よりも、航海術を駆使し、人やモノを各地に海上輸送することを得意にしていたのです。加えて塩飽の廻船の強みは、船舶を維持管理する能力の高さではないかと坂出市史は指摘します。そのひとつが塩飽のタデ場であったのではないでしょうか。塩飽のタデ場は鞆の浦と同じように諸国の廻船関係者から高い評価を得て、大型廻船の出入りが絶えなかったのです。それは、塩飽に安定した収入源と、船大工たちの雇用の場を作り出していました。塩飽繁栄のささえのひとつでした。

最後に現役のタデ場を見ておきましょう。
タデ場 鞆の浦4

鞆の浦の港の中の光景です。漁船には今も木造船が残っています。雁木を利用して、船を揚げて「タデ場」として利用しています。
タデ場 鞆の浦5

木造船時代は、どの漁村でも船タデが行われていました。
丸太のコロで木造船を浜に引き上げ、船底に付着している海藻や貝類をかき落とし、松葉や杉葉やススキをタデ草(船タデの燃料)として燃やし船底を焼きます。その際、船の船霊さまは船タデをすると熱いのでしばらく船から離れていただく儀式をします。タデ草を動かす棒の事をタデ棒と呼びます。船タデが終わるとタデ棒で船底を3回叩きます。それは離れてもらっていた船霊さまに船タデが終了したことを知らせ、船にお帰りいただく合図だったと伝わります。ちなみに鞆の浦では、タデ草の代わりにバーナーで燻っていました。現代版の「タデ草」です。形を変えて、漁村ではタデ場が残っているようです。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献   坂出市史 中世編  塩飽廻船と廻船式目 123P



  2015年5月号 村上水軍と塩飽水軍 ひととき(ウェッジ社)
塩飽水軍といったことばをよく聞きますがその実態はどうだったのでしょうか?
芸予の村上水軍と同じような水軍が塩飽にもいたのでしょうか?芸予諸島を中心に活動した村上水軍は、村上武吉の活躍で小説などにも取り上げられ有名です。これと同じように、備讃瀬戸で活動した集団を塩飽水軍と称してきました。しかし、研究が進むにつれて分かってきたことは、塩飽水軍は村上水軍ほど活発な活動を行っていないということです。
『南海通記』に塩飽と海賊衆について、次のように記されています。
讃州諸島ヲ命ジ給フ、家資即諸島二兵士ヲ遣シテ守シメ、直島塩飽島二我ガ子男ヲ居置テ諸島
ヲ保守シ、海表ノ非常ヲ警衛ス、足宮本氏高原氏ノ祖也
意訳変換しておくと
(香西)家資は讃州諸島の支配を命じられ、備讃諸島に兵士を進駐させて警備させた。直島と塩飽島には息子を置いて守らせ、海上交通の警固を行った。これが、宮本氏や高原氏の祖先である」

ここには、香西家資の息子が塩飽の宮本氏や高原氏の祖と伝えています。確かに、香西氏は備讃瀬戸を中心に海賊衆を統括し、それぞれの島に拠点を構えています。その拠点が塩飽(本島)でした。
1 塩飽本島
方位は北が下

なぜ塩飽が海賊衆の拠点となったのでしょうか?
     
塩飽は備讃瀬戸の中央にあり、古代から畿内と九州を結ぶ海のハイウエーのジャンクションで、同時にサービスエリアのような役割を果たしてきました。それだけでなく「塩の島・荘園」として、年貢塩を輸送するために船と乗組員(海民)がいました。中世の海民は、輸送船団員であり、同時に海賊衆でした。その海民の統率リーダーが、宮本氏や高原氏であたったということになります。
 南北朝期の瀬戸内海の海賊衆の動きを見ておきましょう。
この時期には海賊衆も南北に分かれて対立します。南朝方についたのは海賊衆も多くいました。これは南朝方の熊野水軍と熊野行者のオルグ活動があったからだと考えられます。熊野行者は児島の「新熊野=五流修験」を拠点に、瀬戸内海エリア全体への布教活動を展開したことは以前にお話ししました。そして芸予諸島では、大山祇神社の鎮座する大三島に拠点を築き、そこから伊予の忽那衆や越知氏への浸透を図ります。そのため芸予の海賊衆は南朝方として登場する勢力が多いようです。
  また、備前国児島郡の佐々木信胤も五流修験と連携する熊野海賊衆と行動を共にして、小豆島を占領し、備讃瀬戸を中心とする東瀬戸内海の制海権掌握をねらいます。
 このような情勢の中で、塩飽は北朝勢力の拠点でした。
そのため貞和四/正平三(1348)年4月、南朝方の忽那衆の攻撃を受けることになります。戦いの情況はよく分かりません。この時の攻撃対象は塩飽海賊衆の高原氏で、その拠点は本島北東端の笠島にあったと研究者は考えているようです。街並み保全地区に指定された笠島集落の東にある尾根上に山城跡が残されています。
笠島城 - お城散歩
笠島集落の東の尾根にある笠島城址
この城は、本島の水軍(海賊)の拠点山城とされます。
麓の笠島の港町と湾への直接的な支配・管理の意図がはっきりと見える城郭配置がされています。また、この城に籠もる勢力は、陸上交通で他地域とつながる後背地がありません。海上交通だけに頼った集落と山城の立地です。ある意味、村上水軍の能島との共通性を感じることもできます。『南海通記』を信じるとすれば、これが香西氏の子孫になる高階氏の居城で、高松の香西氏と何らかの従属関係にあったと云うことになります。室町期になると、海賊衆は警固衆として守護のもとへ抱え込まれていきます。 
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室町時代後半になると、守護大名は海上での武装集団として水軍を組織するようになります。

その先駆けが毛利氏と村上氏の関係に見られます。毛利元就は天文二十二(1553)の厳島合戦で陶晴賢を打ち破りますが、この時に毛利側に与して勝利をもたらしたのが、因島・能島・来島の三島村上衆の組織する水軍でした。毛利元就の家臣団に属したものではなく、一時的な「援軍」艦隊と考えた方がよさそうです。これを後世の軍記者は「村上水軍」と記すようになります。その実態は、3つの村上氏の「連合艦隊」で、もともとは「寄せ集めの海賊衆」であったのです。それが永禄年間(1558~70)後半には毛利氏の水軍としてまとまりをもって動くようになり、西瀬戸内海一帯で大きな影響力を誇示するようになります。その時のカリスマ的な指導者が能島の村上武吉です。
村上武吉

それでは塩飽水軍の場合はどうなのでしょうか?      
  南北朝期の海賊衆が、どのように水軍に組織化されたかを示す史料はありません。ただ、後に武吉の子孫たちが萩や岩国の毛利藩の家臣となり、船奉行を務めるようになります。彼らは己の家の存在意義のために、「海戦兵法書」や「村上氏の系図類」を残します。この史料が「村上水軍」を天下に知らしめる役割を果たしてきました。
 塩飽水軍には、これに類するモノがありません。それは、大名の家臣となるものが居なかったこともあります。彼らは「人名」になりました。塩飽勤番所に大事に保管されているのは、信長・秀吉・家康の朱印状です。ここには、大名の家臣化として生きる道を選んだ村上氏と、幕府の「人名」として、特権的な船乗り集団となった塩飽衆の生き方(渡世)の仕方にも原因があるような気がします。

16世紀初頭の備讃瀬戸をめぐる状況をみておきましょう。
永正五(1508)年頃の細川高国の文書には、次のように記されています。
今度忠節に就て、讃岐国料所塩飽島代官職のこと、宛て行うの上は、いささかも粉骨簡要たるべく候、なお石田四郎兵衛尉中すべき候 謹言
卯月十三日          高国(花押)
村上宮内太夫殿
意訳変換しておくと
この度の(永正の錯乱)における忠節に対して、讃岐国料所の塩飽島代官職に任ずる。粉骨砕身して励むように、なお石田四郎兵衛尉申すべき候 謹言
卯月十三日          高国(花押)
村上宮内太夫殿

村上宮内太夫は能島の村上隆勝のことです。これは永正の錯乱に関わる書状のようです。細川高国が周防の大内義興と連携して、細川澄元と争います。その際の義興上洛の時に、警固衆として協力した恩賞として、塩飽代官職を能島の村上隆勝に与えたものです。塩飽は高国政権下では細川家の守護料所でしたが、政権交代で塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったことが分かります。この代官職がどのようなものであったかは分かりませんが、村上氏へ代官職が移ったのは、瀬戸内海制海権をめぐる細川氏と大内氏の抗争が、大内氏の勝利に終わったことを示します。同時に、それまで備讃瀬戸に権益を持っていた讃岐安富氏の瀬戸内海からの撤退を意味すると坂出市史は指摘します。

個別「藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』」の写真、画像 - 書籍 - k-holy's fotolife

 永生10(1513)年には、周防の大内義興は足利義植を将軍につけ、管領代として権力を得ます。彼は上洛に際して瀬戸内海の制海権掌握のために、村上氏を警固衆に抱え込みます。さらに義興は、能島の村上槍之助を塩飽へ派遣して、味方するよう呼びかけています。これに応じて、香西氏は大内氏に属し、香西氏に従っていた塩飽衆も大内氏のもとへ組み込まれていきます。義興の上洛に協力した村上氏は、恩賞として塩飽代官職を今度は、大内氏から保証されています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に入ります。
「周防大内義興 ー 能島 村上槍之助 ー 讃岐 香西氏 ー 塩飽衆」

という支配体制ができたことになります。
 細川政元の死去によって、大内氏の勢力は大きく伸張します。
細川氏の支配地域が次々と大内氏に奪われていきます。16世紀になると細川氏に代わって大内氏が瀬戸内海での海上勢力を伸張させていき、備讃瀬戸の塩飽も抱え込んだのです。大内氏は能島村上氏を使って、瀬戸内海を掌握しようとします。その際に、村上氏にとっても塩飽は、東瀬戸内海進出の足がかりとなる重要な島です。ここに代官職を得た能島村上氏がこれを足がかりにして塩飽を支配するようになります。
大内義興はの経済基盤は、日明貿易にありました。そのために明国との貿易を活発に進めようとします。
その際に、明からの貿易船の警固を村上衆だけでなく、塩飽衆へも求めてきます。また永正17(1520)年大内氏が朝鮮出兵の際には、塩飽から宮本体渡守・同助左衛門・吉田彦左衛門・渡辺氏が兵船3艘で参陣したと『南海通記』は記します。これが本当なら塩飽衆は、瀬戸内海を越え、対馬海峡を渡るだけの船と操船技術をもっていたことになります。 大内氏の塩飽衆抱え込みは、日明貿易の貿易船警固だけでなく、朝鮮への渡海役も視野に入れていたようです。

天文十八(1549)年、三好好長慶が管領細川晴元と対立した時のことです。

三好長慶と細川晴元

香西元成は晴元に味方して摂津中島に出陣します。この時に塩飽の吉田・宮本氏は、元成の命で兵船を率いて出陣しています。このように、畿内への讃岐兵の輸送には、船が用いられています。西讃岐守護代の香川氏も山路(地)氏という海賊衆を傘下に持ち、山路氏の船で、畿内に渡っていたことは以前にお話ししました。塩飽衆も香西衆の輸送を担当していたようです。

元亀二(1571)年2月、備前児島での毛利氏との戦いにも、塩飽衆は輸送船団を提供しています。
また、毛利氏と敵対した能島村上氏が、拠点の能島城を包囲された時には、阿波の岡田権左衛門とともに兵糧を運び込んでいます。

村上隆勝が塩飽代官職を得て以降、武吉の代になっても村上氏による塩飽支配が続いていたことは次の文書から分かります。
本田治部少輔方罷り上られるにおいては、便舟の儀、異乱有るべからず候、そのため折紙を以て申し候、恐々謹言
永禄十三年六月十五日                                武吉(花押)
塩飽島廻船
意訳変換しておくと
(大友宗麟の命を受けて)本田治部少輔様が上京する際の船に対して違乱を働くな、折紙をつけて申しつける。
永禄十三(1570)年六月十五日                 武吉(花押)
塩飽島廻船

本田治部少輔は、豊後国海部郡臼杵荘を本貫地とする大友宗麟の家臣です。彼は大友家の使者として各地を往来していました。花押のある武吉は能島の村上武吉です。船の準備と警固を命じられているのは塩飽衆です。
ここからは次のようなことが分かります。
①塩飽衆が、能島村上武吉の管理下にあったこと
②塩飽衆が平常は、備讃瀬戸を航行する船に「違乱」を働いていたこと
③それを知っている村上武吉が、本田治部少輔の船には「違乱」をせず、無事に通過させよと指示していること
この指示に対して、宗麟は村上衆に「塩飽表に至る現形あり、おのおの心底顕されるの段感悦候」と書状を送っています。また、堺津への使節派遣にあたり、堺津への無事通行の保障と塩飽津公事の免除を求めています。その際のお礼として甲冑・太刀を贈って礼儀を尽くしています。
 瀬戸内海を航行する船にとって、備讃瀬戸は脅威の海域であり、塩飽を支配している村上氏に対しての礼儀を尽くすのが慣例になっていたようです。西国大名たちには、瀬戸内海を航行する時に西瀬戸内海と東瀬戸内海の接点になる塩飽諸島は重要な島でした。そこを支配している村上氏の承認なくして、安全な航行はできなかったようです。
 村上掃部頭に宛てられた毛利元就・隆元連署状には次のように記されています。
一筆啓せしめ候、櫛橋備後守罷り越し候、塩飽まで上乗りに雇い候、案内申し候」
意訳変換しておくと
一筆啓せしめ候、櫛橋備後守の瀬戸内海通行について、塩飽まで「上乗り(水先案内人)」を雇って、案内して欲しい

ここには、塩飽まで航海について、水先案内人をつけて、航路の安全と通行確保と警固依頼をしています。命じているのではなく依頼しているのです。ここにも能島村上衆が毛利の直接の家臣ではなく、独立した海賊衆として存在していたことがうかがえます。
塩飽をめぐって大名たちは、自分たちに有利な形で取り込みを図ろうとします。それだけ塩飽の存在が重要であったことの裏返しになります。
  永禄から元亀年間(1558~73)にかけて、瀬戸内海をめぐる情勢が大きく変化します。安芸の毛利氏は、永禄九(1566)年に、山陰の尼子氏を滅ばし、その勢力は九州北部から備中まで及ぶようになります。毛利氏に対抗するように備前・播磨に浦上・宇喜多氏が勢力を伸ばします。このような中、元亀二(1571)年になると、毛利氏は浦上・宇喜多を討つために備前侵入を開始します。すでに備前・備中の国境近くの備前国児島の元太城は毛利方の支配下に落ちていました。
元太城は海中に突き出た天神鼻の半島部に位置し、三方が海に面した要害の地です。
この年五月、阿波三好氏の家臣で讃岐を支配していた篠原長房は、阿波・讃岐の兵を率いて備前児島の日比・渋川・下津丼の三ヵ所ヘ上陸します。下津丼に上陸した香西元載は、日比城主・四宮行清と合流し島吉利が守る元太城を攻撃します。東の堀切まで攻め寄せた時、急に激しい雨と濃霧に包まれた中で、城兵の逆襲にあい、香西元載は打ちとられ、四宮氏も敗走したと『南海通記』は記します。そして阿讃勢は児島から撤退します。
 これに対して、足利義昭は小早川隆景に対して6月12日付けの文書で、毛利に亡命中の「香川某」を支援して讃岐に攻め込むことを要請しています。
児島での合戦に塩飽は、どのように関わっていたのでしょうか。
塩飽衆は早くから香西氏の支配下にあったことは述べてきました。そのため児島攻めには直島の高原氏とともに、阿讃勢を児島へと輸送しています。しかし、この時期の塩飽は村上氏の支配下にありました。そのため毛利氏は村上氏を通じて、塩飽を味方につけるために動きます。ところが能島の村上武吉は、裏では周防の大内氏や阿波の三好氏とつながっていたようです。複雑怪奇です。

 それに気づいていた毛利氏は、能島村上氏の支配下にある塩飽の動向には十分注意しています。塩飽衆の中には、三好氏配下の香西氏に従う者もいたからです。そのために毛利氏がとったのが塩飽衆の抱え込み工作です。小早川隆景は、乃美宗勝にこの任務を命じます。宗勝は、後の石山本願寺戦争の際の木津川の戦いで大活躍する人物で、小説「海賊の娘」にも印象的に描かれています。また、その翌年に讃岐の元吉城(琴平町櫛梨城)の攻防戦に、毛利方の大将として多度津に上陸し、三好軍を撃破しています。

 塩飽衆の抱き込み工作の際に、小早川隆景から宗勝に宛てられた書状には次のように記されています。
「塩飽において約束の一人、未だ罷り下るの由候、兎角表裏なすべし段は、申すに及ばず候」

ここには寝返りを約束した塩飽衆が、まだ味方していないことが記されています。さらに六月十三日付の宗勝の書状には「篠右宇見津逗留」とあります。「篠」とは、篠原長房のことで「宇見津」は宇多津のことで、篠原長房は児島から宇多津へ撤退しており、長房が再度備前へ渡海することはないと判断する報告をしています。

以上、だらだらと村上水軍と「塩飽水軍」を対比しながら見てきました。両者には決定的な違いがあると坂出市史は、次のように記します。
①塩飽衆は軍事力を持つ集団ではなく、輸送船団である
②塩飽衆は村上水軍のような強大な軍事力は持つていない。
③むしろ操船技術・航海術に長けた集団で、水主として輸送力の存在が大きかった
④船舶は持っているが、軍船というより輸送船が中心で、海戦を行うだけの人員はいなかった。
⑤戦時に船と水主が動員されるのであり、戦闘集団いわゆる水軍としての組織は十分ではなかった。
 整理しておくと、塩飽衆は時の権力者に海上輸送力を利用され、その存在が注目され、誇示されるようになります。それが江戸時代の人名制という特権の上に誇張され、「塩飽水軍」という幻が作り出されたとしておきましょう。
このように塩飽は、信長や秀吉がその勢力を瀬戸内海に伸ばしてくる以前から、瀬戸内海制海権の覇権上最重要ポイントでした。そのため毛利と対抗するようになった信長は、塩飽の抱き込み工作を計ります。また、四国・九州平定から朝鮮出兵を考える秀吉も、塩飽を直轄地として支配し、「若き海の司令官」と宣教師から呼ばれた小西行長の管理下に置くことになります。その際に、東からやって来た信長・秀吉・家康は、塩飽(本島)だけを単独で考えるのではなく、小豆島と一体のものとして認識し、支配体制を作り上げていったと坂出市史はしてきます。

       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

弘前藩では西回り航路が開けるまでは、輸送方法がなく「商品価値」なく山林資源は温存されてきました。
 それに目を付けたのが塩飽の丸尾氏です。丸尾氏は弘前藩と木材の独占契約を結び、船で大坂や江戸に運ぶという新事業を興します。今回は、その過程を追ってみたいと思います。テキストは「丸亀市史896P 近世前期に見る塩飽廻船の動き」です。
廻船

まず近世初頭の塩飽衆の置かれた状況を振り返っておきましょう。
16世紀後半に信長が航行特権を与えたのを契機に塩飽は特別な存在になっていきます。秀吉は650人の水夫達の動員の代償として1250石を与え、その租税免除や、自治を許す破格の待遇を与えます。

3塩飽 朱印状3人分

 これは徳川幕府にも引き継がれ、塩飽は御用船方として城米の輸送や城普請の資材運搬、役人の送迎を一手に引き受けることになります。河村瑞賢が西回り航路開設を行った際には、その手足と成って活動しました。新井白石は「塩飽の船は完堅精好。郷民は淳朴」と高く評価しています。巧みな操船術に加え、船造りの技術や温和な気風も塩飽の声価を高めたのでしょう。
 戦国時代に各地で活躍した海賊衆(海の武士)たちの中で、塩飽衆が得た条件は破格のものであったことは以前にお話ししました。それは、芸予諸島の村上水軍の末裔達が辿った道と比べるとよく分かります。
横町利郎の岡目八目

 川村瑞賢は、城米船の運行について、次のように幕府に提言しています
①城米船は幕府が直接雇って運賃を支払う官船とすること
②その船は北国・山陰方面の航行に慣れた讃岐の塩飽、備前の日比浦、摂津の伝法・河辺などの船を雇う
 この提案は採用され、塩飽廻船の多くが城米御用船として幕府に直接雇われ西廻り航路に従事することになりました。これは塩飽衆が、幕府お抱えの廻船集団になったことを意味します。全国に散らばる天領の年貢米(城米)の大坂・江戸への輸送権を得たのです。そして、諸藩もこれに「右へなれい」と従います。年貢米輸送のために塩飽の船は、全国の各地に姿を見せるようになります。
 こうして塩飽は採石には船472隻、船乗り3460人で、日本列島を縦横無尽に駆け巡り、塩飽は一大海運王国を築くことになります。このような活躍が塩飽の島々に大きな富をもたらし、大舟持ちを何軒も登場させることになります。塩飽廻船の中には、城米だけでなくその他の商品の独占権を得て、商圏を拡大しようとする者も現れます。
それが丸尾氏です。丸尾氏の弘前藩での木材産業への参入を見ていきます。 
寛文十二(1671)年以後、塩飽廻船は城米輸送を任務として運送業に従事し、成長していました。そのことが「江戸登御用材廻船日記」の記事からも裏付けられます。
元禄四年(1691)6月「大坂御雇い船の船頭塩飽作右衛門と中す者の船五月二十八日の大風にて渡鹿領塩戸村二て破損」といういった塩飽の船頭が米の輸送に従事していて大風で難破したこと
元禄五年4月25日に塩飽某という船頭の船が八艘難船したことを記したこと、
元禄14年5月5日には、「一同八百石積敦賀着 塩飽立石徳兵衛」と塩飽船が敦賀に着いたこと。
このように塩飽船の米輸送の記事がみられます。
ここからは塩飽廻船が敦賀や日本海側でも活躍していたことが分かります。弘前藩も塩飽廻船が城米を扱うお得意さんでした。そのために塩飽船は弘前藩の深浦にもやってきました。そこで見たのが周辺に残された豊かな森林資源です。ここには良質なツキ(ケヤキ)やカツラなどの樹種に恵まれた木々が豊富にありました。
塩飽と弘前藩2

 元禄二(1689)年に塩飽の船頭八左衛間が、翌年から材木を運送したい旨を前金を添えて、津軽藩材木役人に願い出ます。こうして、塩飽船による木材の積出し・輸送が始まります。元禄九(1686)年になると塩飽牛島の丸尾与四兵衛が登場してきます。彼は弘前の商人藪屋儀右衛門と連名で次のような願書を蟹田町奉行へ提出ます。
「私ども当地蟹田え十二ケ年以来御払い材木下され買い請け売り買い仕り候、 (中略) 蟹田御材木御入付銀壱ケ年二五拾貫目宛、当子ノ年より酉ノ年迄拾ケ年の間、年々山仕中え仰せ付けられ(中略) 御定め直段残らず拙者買い請け候様に成し下され度存じ奉り候」
意訳変換しておくと
「私どもは当地蟹田へ参りまして十二年に渡って、御払材木を買請けて参りました(中略)
蟹田御材木について銀壱ケ年25貫目を毎年お納めしますので、今年から10年間、材木の買付を独占的に行う事を仰せ付けいただけないでしょうか(中略) そうすれば材木はすべて拙者の方で買い請けいたします。
内容を確認しておくと
これまでの実績を踏まえて、入付銀を出すので材木の買請けを独占させてくれという内容です。そのために、材木の山出し費用はすべて負担し、50貫目を奉行に差し出すといった条件を提示しています。さらに、江戸の商人よりの御用金上納のこと、去年の不作時に3000俵の米を藩のために調達したことなどこれまでの業績を挙げ、材木の切り出し候補の山として四か所の留山とすることを求めています。
 この願書は受理されます。翌年の元禄十(1697)年4月には、塩飽の船頭丸尾善四郎が今別湊にやって来て材木を積み込んでいます。元禄十一(1698)年6月には
「江戸廻舟米材木積み登し候、舟頭筑前久左衛間、塩飽古兵衛二廻状二通相調え、勘定奉行笹森治左衛門方えこれを遣わす」

とありますので、その後も、丸尾家による木材積み出しが行われていたことが分かります。 
元禄十(1697)年6月13日には、
一六百五拾石積      船頭 塩飽伊左衛門
一六百五拾石積      同 同 嘉右衛門
一八百弐拾石積      同 同 孫左衛門
一五百八拾石積      同 筑前弥六
右四艘江戸御雇い今別江着き何も御材木積船二御座候旨中し立て候二付き、廻状例の通り相認めこれを遣わす
ここからは、江戸雇いの塩飽船が四艘やってきたことが分かります。
元禄十二(1699)年7月には、丸尾与四兵衛手船二艘・塩飽立石左兵衛手船一艘が、元禄十四年五月に、五日摂州二茶屋次兵衛船五艘の一つに塩飽立石徳兵衛の八〇〇石積船が、六日には塩飽市之丞の八〇〇石積船、塩飽立石松右衛門の七七〇石積、大坂備前屋甚兵衛の七八〇石積の三艘がそれぞれ鯵ケ沢湊へやって来ています。このように、塩飽廻船が江戸商人の雇い船として津軽の材木輸送に積極的にかかわっていることが分かります。

 材木輸送が順調に進むようになると、津軽藩側でもその利益の大きさが分かるようになります。
元禄13年には丸尾弥左衛門に御用金1700両を申しつけています。これに対して弥左衛門は、御用金としてではなく材木の前金として差し出すと主張します。翌14年に藩側は、九尾与四兵衛と結んだ約束に違約があるとして取引の中止を申し出ます。藩の挙げる理由は次の通りです
「然れ共、当年より亥ノ年迄七ヶ年の間三拾貫目宛、自分柾取り御礼金は御免下され度」

と指摘し、さらに、船への積み込みに際しても二割引いて、また礼金も六〇両引いての額を支払うように運用してきた。藩側の損が非常に多い。その上、与四兵衛一人に任せていたのでは蟹田町の者共も難儀する、
 という内容です。「与四兵衛一人に任せていたのでは蟹田町の者共も難儀する」というように、外部資本の塩飽丸尾氏が利益を吸い上げ、地元資本の利益になっていない木材政策のあり方への不満が高まってきたことがうかがえます。しかし、結果的には、約束の年数10年間は丸尾与四兵衛に材木輸送はやらせようということになったようです。
 しかし、契約期限がおわると弘前藩は「地元産業の育成」をめざすようになります。そして、藩領内のさまざまな人々が関わる体制を作り出していきます。例えば、山林から木を伐り出し、木材へ加工していたのは麓村の杣(そま)や百姓たちです。そして、塩飽廻船に代わって木材輸送のためには、大坂や十三(現五所川原市)で雇われた船主たちが乗りこみます。彼らと福沢屋の間を仲介していたのは、三国屋・播磨屋といった深浦の船問屋たちです。ここからは、塩飽商人への独占付与という丸投げから、藩内の地元産業の雇用と育成をはかる方向に向きを修正した様子がうかがえます。
 塩飽と深浦
 明治初期の松前藩 深浦港(蓑虫山人画)

塩飽廻船が松前の木材の独占的な取扱権を握っていた頃の江戸では、綱吉の宗教政策による寺院の建立ラッシュ、元禄八年、同十年、同十一年の連続大火が起こっています。このため木材の需要はうなぎ登りでした。商人が各地の材木確保に乗り出すのは当然のことです。その動きの中に塩飽廻船も参入していたようです。これは西廻航路が整備された際に幕府直雇いとして城米輸送で活躍することで、培った優秀な航海技術と経験があったからこそと云えます。
牛島(うしじま)
 丸尾氏の牛島

 元禄7年(1694)、二代目丸尾五左衛門の重次は69歳で亡くなりますが、その名は三代目重正、四代目正次へと引き継がれていきます。全盛期は最高は、元禄16年(1703)の11,200石で、320石から1,150石積みの廻船を13艘も持っていたといわれています。それはちょうど弘前藩の木材輸送と販売権を独占していた時期にあたります。城米以外にもあらたに木材も取り扱うようになって、船を増やしたのかも知れません。
 讃岐には、「沖を走るは丸屋の船か まるにやの字の帆が見える」という古謡が残っていますが、これはこの頃のものだといわれます。
塩飽本島絵図
塩飽諸島 牛島は本島の南にある小さな島(上が南になっている)

 享保元年(1716)、徳川吉宗が8代将軍に就任し、享保の改革を進めます。
その一環として享保5年(1720)城米を安く運ぶために、それまでの直雇方式から廻船問屋請負方式へ変更します。そして運用を江戸商人の筑前屋作右衛門に任せます。いわゆる「民営化」です。この結果、塩飽の船持衆は、今までのように直接幕府から荷受けすることができなくなります。そして、廻船問屋に従属する雇船として安く下請けされるようになります。荷受けに参入してきた業者は、それまでに技術力や経験をつんできた者達でした。きびしい競争に塩飽船は市場を奪われていき、塩飽の廻船数は減少していきます。ちなみに、牛島には、宝永(1704~11)から享保7年(1722)には45~49艘の廻船があったといわれていますが、享保13年(1728)には23艘とそれまでのほぼ半数に減っています。
塩飽廻船の隆盛と衰退

 特権を失い、競争力を弱めた塩飽廻船は、どのように生き残りを図ったのでしょうか
塩飽船籍の船は減ったが船員達は、困らなかったと考える説があります。なぜなら技術や経験を持った塩飽水夫達は、どこの船でも引っ張りだこだったからです。乗る船は、和泉や摂津の他国舟でも、それを動かしているのは塩飽水夫ということも数多く見られたようです。つまり、没落したのは丸尾家のような大船持ちで、船員達の仕事がなくなった訳ではないのです。そのために塩飽に帰って来ることは、少なくなったが塩飽への送金は続いたようです。塩飽が急激に衰退したとは云えない部分がここにはあるようです。
千石船

以上をまとめておきます
①塩飽廻船は、幕府直雇いの城米船として独占的な運行権を得て大きく発展した。
②元禄年間になると、丸尾家は米だけでなく津軽藩領の木材の江戸輸送をはじめさらに利益を上げた。
③享保の改革で、独占体制の上にあった城米輸送の特権を失い、丸尾家などの大船主は姿を消した。
④しかし、その後も瀬戸内海交易や他国の船の船員として、塩飽水夫の活躍は続いた。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献     テキストは「丸亀市史896P 近世前期に見る塩飽廻船の動き」
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坂本龍馬 まとめ - 速魚の船中発策ブログ まとめ
龍馬亡き後に、海援隊を再組織する長岡謙吉(左端)
 前回までに鳥羽伏見の戦い後に、再結成された海援隊の動きを見てきました。それは、海援隊が塩飽と小豆島の天領を自己の占領下に置くという戦略でもありました。隊長の長岡謙吉の思惑は成功し、小豆島では、岡山藩の介入を排除しながら、塩飽では小坂騒動を平定しながらこれらの島々を占領下に置くことに成功します。こうして、次のような組織系統が形成されていきます。
①塩飽に八木(宮地)彦三郎
②小豆島に岡崎山三郎(波多彦太郎)
この二人を統治責任者として配置し、丸亀(海援隊本部)から長岡謙吉が管轄するという体制です。更にその上に、土佐藩の川之江陣屋が予讃の「土佐藩預り地」を統括するという指揮系統になります。
長岡謙吉 - Wikipedia
長岡謙吉
海援隊隊長の長岡謙吉は、丸亀で何をしていたのでしょうか?
彼が郷里の者に宛てた私信(2月13日付け:近江屋新助宛)には次のように記されています。
私は、高松征伐の先発として、高松城占領に向かったために小豆島や塩飽諸島のことには関わらなかった。讃岐の島嶼部を3分割して、小豆島は波多彦太郎、塩飽は八木彦三郎にまかせ、私は丸亀の福島にいて全体を統括した。公務の合間には、私塾を開いて京極候の幼君を初め、同地の子弟に和漢洋の学問を授けた。時折管内の本島、草加部(小豆島)を巡視したようで、その際には塩飽の土民が上下座して敬ひ拝する

ここには長岡は、「丸亀の福島にいて全体を統括」と記されています。彼が拠点の宿としたのは、太助灯籠などの灯籠が立ち並ぶ丸亀港の東側にあった旅宿「中村楼」(平山町郵便局向かい)であったようです。ここは、金毘羅船頻繁に出入りする港に面した所で、多くの旅籠や店が軒を並べた繁華街でした。人とモノが集まり、情報と人の集積地でもあったところです。拠点とするのには適していたかも知れません。高松討伐の際に、土佐軍幹部が使った宿でもあるようで、何らかの協力関係があったのかも知れません。
丸亀新堀1
金毘羅船の出入りでにぎわう丸亀湊
また長岡は、次のように記しえいます。
 「私塾を開いて丸亀藩主の京極候の幼君を初め、同地の子弟に和漢洋の学問を授け」

最初にこれを読んだときには、「また大法螺を吹いているな、藩主の息子を教えるなどと・・」と思いました。ところが、これはどうやら事実のようです。
遍照寺 (香川県丸亀市新浜町 仏教寺院 / 神社・寺) - グルコミ
白蓮社があった遍照寺(丸亀市新浜町)
  海援隊本部は「白蓮社」に置かれとされてきました。
「白蓮社」は、現在の福島町隣りの新浜町にある遍照寺にあった御堂であることが、最近の丸亀市立資料館の調査で分かってきたようです。
丸亀新堀湛甫3

長岡の別の私信には1月27日、丸亀藩の要請により、「白蓮社」に私塾開塾し、長岡が「文事」を教え、「岡崎」が「武事」担当したとあります。門人約20人で、その運営には、丸亀藩の土肥大作や、金毘羅の日柳燕石、高松藩の藤川三渓が協力したようです。土肥や草薙燕石は、土佐軍の進駐によって、丸亀藩や高松藩の獄中にあったのを解き放たれた「元政治犯」でした。
  土肥大作は丸亀藩の勤王家で慶應2年以来幽閉されていたのを、1月18日に長岡謙吉が丸亀藩への使者として訪れた際に赦免されます。そして、陸路高松に進軍した丸亀藩兵(長岡謙吉も合流)を参謀として率いた人物で。御一新後の丸亀藩政改革の中で、重要な役割を担う立場にありました。土肥と長岡は、親密な関係にあったことがうかがえます。
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長岡は、この時期に金毘羅さんから軍資金の提供を引き出しています。彼の1月下旬頃の書簡に、
「(1月)廿一日隊士二人と象頭山ニ至り金千両ヲ隊中軍用ノ為メニ借ル」

とあります。また、琴陵光重『金刀比羅宮』193 頁には、長岡謙吉の千両の借用証書が紹介されています。この返礼に、長岡は1月24日には、金毘羅大権現別当の松尾寺金光院の重役・山下市右衛門に「懐中銃」を進物として送り、親交を求める書状を送っています。これには千両に対するお礼の意味があったと研究者は考えているようです。
  また軍資金千両の使い道は、以下のように記されています。
「蒸気船壱艘 小銃五百挺 書物三十箱戦砲五挺」

 塩飽で組織した志願兵部隊の梅花隊の装備や海援隊の艦船購入に宛てられたようです。ちなみに鳥羽伏見の戦い以後に、再結成された海援隊のメンバーは操船も出来ませんでしたし、持ち舟もなかったことは以前にお話した通りです。
 なお、金光院は3月には神仏分離令により廃寺となり、金刀比羅宮は海援隊の統治下に置かれることになります。『町史ことひら 3 近世 近代・現代 通史編』400 頁には、明治3年(1870)9 月、長岡謙吉は融通された千両について個人による年賦返済を申し入れています。これにたいして金刀比羅宮は、借用証書を川之江の役所に返上し棄捐した記されています。

ここで海援隊の動きを年表を見てみましょう。(香川県史より抜粋)
1・20 塩飽諸島が土佐藩預り地となり,高松藩征討総督が八木彦三郎に事務を命じる
1・21 長岡謙吉が「隊士二人と象頭山ニ至り金千両ヲ隊中軍用ノ為メニ借ル」
1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
1・27 金光院寺領(金毘羅大権現)が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
1・27 丸亀藩の要請により、長岡謙吉が丸亀「白蓮社」に私塾開塾
1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる
2・ 9 朝廷から土佐藩へ、讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書が出される
2・-  塩飽諸島で土佐藩が1小隊を編成し、梅花隊と名づける.
2・20 長岡謙吉が上京(長岡私信)
3・-  小豆島東部3か村(草加部・大部・福田)土佐藩預り地となる
4・12 海援隊が土佐藩から小豆島・塩飽鎮撫を正式に認められた
4・15 海援隊が占領管内に布令を出す(?)
4・29 土佐藩による海援隊の解散命令
5・17 小豆島や琴平は新設された倉敷県に編入
5・23 八木彦三郎が塩飽等を倉敷県参事島田泰夫に事務を引き継ぎ
・ 1 直島・女木島・男木島3島から土佐藩兵の撤退。 

ここからは1月末から2月中旬にかけて、土佐軍と海援隊の占領地の組織が形作られていったことが分かります。こうして、海援隊は海軍に必要な操船技術(塩飽水主)、兵力(梅花隊)、石炭の確保に成功したこと、さらに。金刀比羅宮から軍資金も調達していたのです。当初の狙い通りの成果を挙げたといえるでしょう。
長岡謙吉(海援隊第二代目隊長)の写真 | 幕末ガイド
長岡謙吉
長岡の私信には、切迫した情勢や戦闘的な描写は見られません。
四国にやって来て彼らは、一戦もしていません。長岡は、戊辰戦争のさなかも、丸亀に落ち着いて塾を開き、大漁を祈る塩飽島の臨時大祭の手配に腐心したり、小豆島の神懸山(寒霞渓)に登って景勝を楽しみ詩吟したりしています。また、土佐の近江屋新助には次のような私信も送っています
「どうぞどうそ御家内一同島めぐりニ御出可被下候、芝居入二御覧一度候一笑一笑」
「こんぴらさまへ御参りニ家内不残御出...」
「何も不自由ハナケレドモ女の字ニハ困り入申事ニテ 隊中の壮士時時勃起シテ京京ト申ニ困り入申候」
と、金毘羅大芝居見物に金毘羅参拝を誘ったり、と呑気な様子を書き送っています(慶應4(1868)年2 月13 日付け)。ここからは、長岡謙吉の立位置がうかがえます。
  
 また年月は分かりませんが、この頃に長岡謙吉が美馬君田(阿波出身で琴平で活動していた勤王家)に宛てた書簡(草薙金四郎「長岡謙吉と美馬君田」71 頁)には、次のように記されています。「當地」(丸亀?)で「書肆文具一切」を扱う店を開店したので、「鐵砲其他西洋もの一切」も販売するために「長崎之隊士へ申通し、上海より直買に為仕含に御座候」と、その営業計画が述べられています。
鉄砲を始め、西洋のあらゆるものを取り扱う貿易会社を開店した。長崎の旧海援隊に依頼して、上海から直接仕入れる予定である。

ここからは次のようなことがうかがえます。
①長岡謙吉は、塾以外に貿易会社を丸亀に開店していたこと。
②海援隊の長崎グループからの仕入れを考えており、彼らとの関係は持続していたこと
このような動きからは長岡謙吉の目指したのは、天領の無血開城であり、その後の平和的な戦後統治であったと研究者は考えているようです。
2丸亀地形図
当時の丸亀
私が分からなかったのは、2月20日に長岡が上京することです。
この辺りのことを、長岡は土佐の親友に次のように私信で伝えています。
2月20日に火急な御用があり、上京した。以後、京都に留ることになった。用件は正月以来、占領している塩飽・小豆島についてのことだった。この両島については、朝廷からの内命で占領・統治を行っていたが、各方面から異議が出るようになった。そこで、正式な任命状をいただけるように運動した結果、4月12日に土佐藩の京都屋敷御目附小南殿より別紙の通りの「讃州島御用四月十二日付辞令書」をいただけることになった。御覧いただくと共に、伯父や親類の人へも安心するように伝えていただきたい。以下略     四月十三日認             弟 殉 
廣陵老契侍史 
   
ここには次のようなことが書かれています。
①塩飽・小豆島の占領支配については、朝廷からの内命が海援隊に下りていた
②両島の占領について各方面から異議が出るようになったために2月20日、上京したこと
③その結果、4月12日に海援隊が小豆島・塩飽の占領軍として土佐藩から正式に認められたこと

しかし、以前にも指摘したとおり、2月9日には朝廷から土佐藩へ、讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書が出されて、岡山藩も撤退しています。天領をめぐる対立は解消済みと私は考えていました。どうして、上京し、朝廷に対して工作を行う必要があったのか、私には分かりませんでした。別の言い方をするのなら、2月20日から4月12日までは、京都にいて何をしていたのかという疑問です。まず、それをさぐるためにこの時に朝廷に提出した2つの建白書を見てみましょう。
  【建白A】石田英吉、長岡謙吉、勝間桂三郎、島田源八郎、佐々木多門の海援隊士 5 名の連名の建白書。
「元来貧地ニテ生活之為ニ而己終身日夜困苦罷在候上徳川之暴政苛酷ニ苦シミ難渋仕候儀見聞仕実ニ嘆敷奉ㇾ存候既ニ先達テ四国近海塩飽七島之居民私怨ニ依テ紛擾争闘及民家ヲ放火シ即死怪我人夥敷有ㇾ之打捨置候ハハ如何成行候モ難ㇾ計早速同所ヘ罷越悪徒ヲ捕窮民ヲ救人心鎮定致候段於二播州一四條殿下(遠矢注:中国四国追討総督・四条隆謌)ヘ御達申上候通ニ御座候塩飽スラ如ㇾ此ニ御座候得ハ況テ佐渡ヶ島新島三宅島八丈島ハ流人モ多ク罷在兼テ人気モ不穏此節柄別テ貧窮ニ迫リ擾亂仕候儀眼前ニ御座候間」、
  意訳変換しておくと
天領の島々はもともと貧困で、生活のために日夜困苦しています。その上、徳川の暴政苛酷に苦しみ難渋してきました。私たちが見聞したことも実に嘆かわしきありさまです。先達っては、四国塩飽七島の島民が私怨のために紛争を起こし、民家に放火し、使者や怪我人が数多く出ました。(小坂騒動のこと)。これを打捨てて置くことはできませんので、早速出向いて、悪徒を捕らえ窮民を救い、人心を鎮めたところです。このことについて播州一四條殿下(中国四国追討総督・四条隆謌)へ報告した通りです。塩飽でさえもこのような有様です。佐渡ヶ島・新島・三宅島・八丈島ハ流人も多く、不穏な時節柄なので貧窮も加わり騒乱が起きることが予想されます。
 そこで、御仁政の趣旨を布告すれば彼らは感涙することでしょう。私どもは先年、彼地に行って民俗や民情を調査いたしました。(真偽不明)。そこで、私たちはそれら島々へ渡り「布告」し「民心ヲ鎮定」を行いたいと考えます。島々には徳川の命を受け航海術を修練した者もいます。(長崎海軍伝習所における塩飽水夫などのこと?) さらに屈強な者を選抜し航海技術を伝授し、将来的には海軍ヘと発展させるように、仰せ付けいただければ兵備も充実することでしょう。

【建白B】長岡謙吉と石田英吉の 2 名連名の建白書
「先般、塩飽七島の島民の紛争について、私どもが鎮撫したことについて、播州で四條殿下ヘ報告いたしました。この島民達を朝廷の海軍ヘ採用するように献策いたします。讃岐の小豆島も塩飽と同じように、鎮撫中ですので、この両島ともに鎮撫命令を下し置きいただけるようにお願いいたします。以上」

 この2つの建白書(A・B)は2月中(日付不明)に、土佐藩ではなく新政府に対して出されています。ここがまずポイントです。交渉相手を土佐藩ではなく、直接に新政府を相手としていることを押さえておきます。
建白書Aでは、塩飽での騒動鎮圧と平定の実績を報告をした上で、その支配権の追認を求めています。つまり、新政府による海援隊の塩飽占領支配の保証です。いままでは、土佐藩から委託・下請けされた権限だったのを、新政府から直接認められることで、より強固なものにしようする思惑があったことがうかがえます。つまり、これは岡山藩などに対する対外的な意味合いよりも、土佐藩内部の海援隊による塩飽・小豆島東部占領支配に対する異論封じ込めを狙ったものだったとも思えてきます。
 そして、塩飽の水夫たちを、新政府の海軍に重用することを求めています。さらに、天領であった佐渡島や八丈島・三宅島を、海援隊が占領支配することも新たに求めています。
全体的に見ると、建白の意図は、島々の水夫の「海軍」への徴用とそれを理由とした海援隊による塩飽・小豆島鎮撫の正当化にあると研究者は考えているようです。
 平尾道雄氏は、「坂本龍馬 海援隊始末記』253 頁)で次のように指摘しています。
「諸島鎮撫の目的は、ただ「王化を布く」というだけではなく、すすんで土地の壮丁たちを訓練して、新政府のために海軍の素地をなさんとしたところに終局の目的があったようである」

建白書のAとBを比較してみると、Aは小豆島について何も触れていません。それに対して、Bは小豆島鎮撫の実績を取り急いで長岡と石田だけで、追加報告したものと研究者は考えているようです。そうすれば、A→Bの順に得移出されたことになります。
龍馬と安田の海援隊士 高松太郎・石田英吉展 | 高知県の観光情報ガイド「よさこいネット」

 また、一番最初に名前が出てくる石田英吉は、鳥羽伏見の戦い後に長岡や八木彦三郎らが丸亀に渡った時に乗船した土佐船「横笛」の船将です。ここからは、以後はそのまま備讃瀬戸グループに合流したことがうかがえます。しかし、この建白直後に、備讃瀬戸グループから離脱し長崎グループに鞍替えしています。意見が合わなかったようです。そして、戊辰戦争へと石田は参戦していきます。
 この建白書を出した後の4月12日、長岡謙吉に次のような正式な任命書が渡されます。渡された場所は、土佐藩の京都藩邸で、土佐藩大監察小南五郎衛門から渡されます
      長 岡 謙 吉
爾来之海援隊其儘を以て讃州島に御用取抜勤隊長被仰付之
辰四月十二日
八木彦三郎
波多彦太郎
勝間圭三郎
岡崎恭介
桂井隼太
橋詰啓太郎
島橋謙吾
武田保輔
得能猪熊
島田源八朗
島村 要
堀 兼司
長岡謙次郎
右面々讃州島に御用被仰付長岡謙吉に附属被仰付之
この文書からは、次のようなことが分かります。
①長岡謙吉の配下いた海援隊12名が「讃州島ニ御用被仰付 長岡謙吉ニ附屬被仰付候事」となったこと
②長岡謙吉が正式に海援隊隊長となり、讃州島(塩飽・小豆島)の占領統治者に任命されたこと
「海援隊其儘ヲ以テ」とあるので、「新海援隊」ではなく、旧来からの海援隊を引き継ぐのは長岡であることも認められたことになります。「讃州島」とありますが、実態は「塩飽」に限定されず備讃瀬戸全体にまたがるエリアであったことを研究者は指摘します。
 ここからは、2月20日に上京して以来、新政府に働きかけていた「塩飽・小豆島鎮撫」が、ある意味成就したことを意味します。しかし、長岡が望んだように新政府からの任命状ではなく、土佐藩からの任命状であったことは押さえておきます。

次なる疑問は、次の通りです
①なぜ海援隊本流の長崎グループ(古参メンバー)ではなく備讃瀬戸グループが、この時期にわざわざ「爾来之海援隊其儘」の海援隊であると、土佐藩は認定したのか?
②長岡の海援隊の動きを土佐藩は、どのように見ていたのか?

それを解く鍵は、海援隊に対して土佐藩から出された通告文にあるようです。
①占領地に於ける租税については、申告された人口、戸数等に基づき検討中であるから決定次第連絡する予定であること、
②宗門改(キリシタン摘発を目的とする住民調査)を「川の江出張所」(川之江陣屋のこと)に提出すること
③海援隊士の経費は島々の租税により支給する予定だが、指示があるまで待つこと、
④「土兵」(梅花隊)の経緯や経費についても③に同じこと、
⑤学校の経費について③に同じこと、
⑥⑦商船・船舶については「従前のままになしおくこと」(詳細不明)
⑧船の旗号は「紅白紅旗」(土佐藩の旗)を使用すること
⑨諸事につき「川の江出張所」に伺いをたてること。

①③④⑤については、現地徴収して占領経費に使用してよいかという問い合わせへの回答のようです。土佐藩の回答は「まだ、現地徴収してはならない」という答になります。⑧の船の旗については、土佐藩のものを使用せよと云うことです。専門家は、「紅白紅旗(にびき)は土佐藩の船印であり、海援隊のオリジナルシンボルマークなどではない」(『空蝉のことなど』148 頁)と指摘します。あくまで、海援隊は土佐藩の配下であり、下請的な存在なのです。
アート短歌・気まぐれ文学館 海援隊旗

⑨は海援隊が独自に判断し、勝手な施策を行うなということでしょう。ここでも、土佐藩の配下であることをわきまえよとも読み取れます。
①③④⑤の現地徴収と経済的なことについては、塩飽諸島・小豆島等統治の占領費に土佐藩の財政が耐えられなくなったことが背景にあるようです。4月9日に小崎左司馬、毛利恭助(土佐藩京都留守居役)が連名で新政府の弁事役所に、占領地からの租税を運営費に充てたいと伺い出ています。このことと①③④⑤は関連するようです。たしかに、小坂騒動後の復興資金は、土佐藩から出されていました。
 『山内家史料 幕末維新 第九編』110~111頁には、占領経費が膨らんだ要因を小坂騒動により「人家漁船等夥敷焼失致シ 出兵救民之入費」で、復興支援費がかさんだことを挙げています。
 またその後5月9日に、土佐藩から再度伺いを出した文面には、次のように記されています。
「去四月民政御役所ヘ申出候處 右地租税之員數届出候様御沙汰有之則牒面寫ヲ差出申候」
「島島取締之儀兎角於弊藩難二取續候間御免之上可然御評議被仰付度奉存候」
意訳変換しておくと
4月に新政府の民政御役所ヘ申出たように、塩飽・小豆島の地租税の員數調査については写しを提出済です。」
「塩飽諸島や小豆島の占領管理については、財政的にもとにかく困難な状態で藩は苦慮しております。できれば本藩による管理停止を仰せ付けいただけるようにお願いいたします。
土佐藩は塩飽・小豆島の統治任務から撤退したいと新政府に云っているのです。ちなみに新政府は、これを却下しています。
20111118_172040437下津井ノ浦ノ後山 扇峠より南海眺望之図

当時の占領実態をうかがえるものとして『小豆郡誌』143 頁には、占領経費600円を受け取るため年寄・長西英三郎らが京都まで行ったものの、70日滞在しても受領できず空しく帰島したというエピソードが紹介されています。
 また、宮地美彦「維新史に於ける長岡謙吉の活動(補遺)」10 頁には、塩飽本島から小豆島へ梅花隊が派遣された際、十数人の旅費として「一分銀百円」が支給されます。本島で現地採用された隊士らは「わずかにこれだけの人數が、本島から小豆島に行くのに、これほどの大金をくれるのは、土佐は富んでいるわ、と非常に驚いた」というエピソードがあります。こうした放漫な支出も政費を圧迫したのかもしれません。
5 小西行長 小豆島1

 土佐藩の台所を預かる財務担当者にしてみれば、駐留経費も出ず、現地徴収も許されずに、藩の持ち出しばかりがかさむ「塩飽・小豆島鎮撫」からは、早く手を引かせたいというのが本音だったようです。私は「現地徴収」によって占領にかかる経費は充分賄われ、そこからあがる経費が土佐藩の財政を潤していたのではないかという先入観をもっていましたが、そうではなかったようです。土佐軍の「討伐・占領」は経済的には見合うものではなかったのです。
3 塩飽 泊地区の来迎寺からの風景tizu

 土佐藩は、藩主山内容堂の意向を受けて「高松・松山でも長期駐屯による民心離反防止、民心獲得のために次のような処置を行っています。
①松山城下で商家を脅した兵士の斬罪処分
②川之江で土佐藩兵により火災となった石炭小屋への金三十両の補償など
海援隊による小坂騒動鎮定なども、その延長上にあると研究者は考えているようです。
その背後には次のような思惑が土佐藩にはあったと研究者は指摘します。
「元々中央政府の土佐藩に対する高松・松山征討命令は土佐藩からの内願により実現したもので、土佐藩による高松、松山両藩の接収は「占領」と言うより「保護・救済」を意図したものである。その背景には、この時期すでに中央における薩長勢力の拡大に対抗するという底意がある。」

 つまり、土佐藩には領土的な野心や経済的な思惑はなく、高松・丸亀藩への討伐遠征は、薩長勢力に対抗するための四国勢力の団結を図るためのものであったというのです。それが、四国会議の開催につながっていきます。四国における指導権を土佐藩が握ること、そのためにも親藩である高松・松山を押さえ込むこと、そして土佐寄りの立場に立たせるようにすること。そのためには、征服者としての横暴な統治政策は慎まなければなりません。反薩長の立場に四国をまとめ、土佐が盟主とた四国十三藩の統一体をどう作り上げていくかという課題を、土佐藩の政策担当者は共有していたことになります。
  そうだとすれば、高松・松山藩の謹慎処分が解ければ、土佐占領軍が撤退することになんら異議は、ないでしょう。同時に、塩飽・小豆島から撤退することが次の課題になることは、当然のことでしょう。
1 塩飽本島
塩飽本島(南が上)
このような土佐藩の対応ぶりと、海援隊を率いる長岡謙吉の思惑は大きく食い違っていきます。
先ほどから見たように、備讃瀬戸の要衝の島々を占領管理下に置くことで、海援隊の存在意義は高まるし、新政府の水夫供給地とすることで海援隊の未來も開けてくると長岡達は考えていたはずです。塩飽からの早期撤退という土佐藩の意向に従うことはできません。そうなれば、土佐藩から離れ、自立・独立路線を模索する以外にありません。それが2月20日以後の長岡の上京と、新政府に対する塩飽・小豆島の占領統治の承認を得るという献策活動ではなかったのでしょうか。

4月12日に土佐藩から正式の任命書をもらうと、4月15日付で海援隊は占領管内へ次のような布令を出します。
布  令
御一新の御時節につき、御上に対して何事によらす捨て置かずに、連絡や報告を行うこと
一、昨年までの年具未納分について、いちいち詮議はしないので、各村で調査し、明白に分かる分については申し出ること
一、このような時節なので、当地で小銃隊を組織することになった。ついては、年齢17歳から30歳までで志願する者は兵籍に編入することにする。期日までに生年名前記入し、申し出ること。
 これについては、道具給料など迷惑をかけぬように準備すること
一、小豆島三ケ村御林については、期日を決めて入札を行う
一、直島御林、閏月5日に入札を行う
  それぞれの民兵の備えのための施策を仰せつける。入札を希望する者は予定額を記入し、申し出ること
以上、各村役人へもらさず伝達すること。この触書は、最後には下村出張所へ返却すること。以上。
四月十五日
長岡謙吉
波多彦太郎
八木彦三郎
草加部村
大部村
福田村
男木島
女木島
塩飽島
村々役人中

ここからは、次のようなことが分かります。
①これらの島々からの徴税減額を行おうとしていたこと
②現地志願兵の編成を計画していたこと
③そのためにかかる経費を、御林(幕府御用林)の入札で賄おうとしていたこと。
つまり、海援隊の活動に関わる資金も人員も「現地調達」しようとしていたことが分かります。さらに、この時点では「半永続的な占領」政策を考えていたこともうかがえます。これは、土佐藩の意向を無視したものです。

②については、すでに本島で現地の人名師弟たちを採用した「梅花隊」を組織していました。それを、占領地の全エリアで行おうとするものです。「土民を募集して兵卒を訓練し、共才能ある者は抜燿して士格にも採用」するという「人材の現地登用」策です。

4月18日に、長岡謙吉は8 ヶ条の海軍創設の建白書を新政府に提出しています。
①総督一名 :「宮公卿任之」
②副総督三名:「公卿諸侯任之」
③参謀十名・副参謀二十名:「草莽間ヨリ特抜ス」
④海軍局:「瀬海ノ地ニ於テ 巨厦ヲ造築ス兵庫蓋其地ナリ」
⑤局 費:「徳川氏封地中ニ就テ八分ノ三ヲ採リ局中ノ緒費ニ抵」「或ハ暫ク關西諸國ニ散在セル徳(川)領及ヒ旗本領ヲ収用スルモ亦可ナリ」、
⑥船艦:「徳川氏ノ戦艦ヲ収用シ諸費局中ヨリ出ツ」
⑦局中規律:「洋人數十名ヲ招請シ天文地理測量器械運用等一切ノ諸課ヲ教導セシメ或ハ一艦毎ニ教導師一二名ヲ乗ラシム而シテ學則軍律悉ク洋式ニ従フ」、
⑧生徒:「海内ノ列藩ニ課シ有才ノ子弟ヲ貢セシム」
 さきほど見た2月の建白書A・Bを土台にして、海援隊長としての所見を明確にしたものと研究者は考えているようです。天領占領を前提に、水夫徴用、費用の割当、幕府海軍の接収を行い、その土台の上に外国人教員と各藩子弟を瀬戸内海(神戸)に集め施設を作るという構想のようです。建白は短文で、具体性と情報量に乏しいものです。内容的には「近代海軍の創設」というより、海援隊の理念(「海島ヲ拓キ」)を拡張した「水軍」に近いものをイメージしているようです。⑧の生徒を「列藩」の「有才ノ子弟」から集めるのに対して、⑨の幹部である参謀・副参謀をわざわざ「草莽間ヨリ」選ぶとしています。これは、海援隊の幹部就任を想定しているようにも読めます。この建白が採用されることはありませんでした。

木戸孝允日記の慶應4年(1868)4月29日の条に長岡謙吉が木戸を訪れたことが記載されています。ここからは、4月末になっても長岡はまだ京都にいたことがうかがえます。2月20日に上京して以後、2ヶ月以上にわたって長岡は、丸亀を留守にしていたのです。

土佐藩のコントロールから離れ自立性を強める海援隊に対して、4月29日土佐藩は次のような解散通告を出します
「昨年深き思召有之、海陸援隊御組立相成候より、各粉骨を盡し、出精有之候處、爾後時勢變革、今日に至り候ては、王政復古、更始御一新の御趣意に奉随、一先御解放之思召有之候間、各其心得、隊中不漏様可被申聞候」。

 この解散命令は、長崎で、土佐家老深尾鼎・参政真辺栄三郎が、長崎グループ宛(大山壮太郎・渡辺剛八)に出しています。なぜ、長岡謙吉の備讃瀬戸グループ宛てではなかったのでしょうか。どちらにしても、長岡謙吉の海援隊長任命からわずか一ヶ月での解散になります。その背景には何があったか、研究者は次のように考えているようです。
ひとつの仮説として、長岡謙吉の土佐藩によるコントロール不能化の進行。
①土佐藩の方針を無視した年貢半減令
②現地徴用による独立軍隊化(梅花隊)
③長岡が丸亀藩の政治顧問に就任するなど、丸亀藩との密接化
以上からは草莽集団化していく海援隊を、土佐藩要人からは危険視するようになっていたと研究者は考えているようです。また、土佐藩には財政負担から塩飽・小豆島から撤退の意向があったことは、前述した通りです。
長岡謙吉書簡には、次のような記述が見えます
慶應4年(1868)1月
「此挙(塩飽・小豆島鎮撫)ハ暗ニ 朝意ヲ請ヒシ事ナルカ故ニ本藩ノ指示ニヨルニアラス」
慶應4年(1868)4 月 13 日付
「両島(塩飽・小豆島)之變は勿論公然たる総督並に朝命を奉じて取締候へ共俗吏之論も有之様に相覚え申候間猶又分明之上命を拝せん」
と書くなど、塩飽・小豆島占領管理を土佐軍の指示によるものではなく、朝意(朝廷の意向)に基づくものだと記しています。これは、土佐藩からの自立性を主張することにつながります。そういう目で見ると、4月12日付けの土佐藩による長岡の海援隊長任命は、海援隊が藩の統制下にあることを、再確認させ認識させるための「儀式」であったのかもしれないと研究者は指摘します。それを、長岡は無視した行動を続けたことになります。それを受けての解散命令だったようです。
  塩飽・小豆島の占領統治にあたっていた海援隊員や土佐人はどうなったのか?
 その後、海援隊メンバーは倉敷県等へ任官します。5月16日に、倉敷代官所は「倉敷県」に生まれ変わります。そして、塩飽諸島は6月14日に倉敷県の管轄となり、7月には八木彦三郎から倉敷県大参事島田泰雄に事務引継ぎが行われています。小豆島、直島、女木島、男木島も 7月に八木彦三郎から倉敷県へ事務引継ぎが行われています。つまり、海援隊の支配はわずか4か月間で終わります。
倉敷陣屋・代官所
倉敷代官所は現在のアイビースクウェアにあった

 倉敷代官所の旧支配地であった塩飽諸島、小豆島・直島・女木島・男木島は、土佐藩預り地でした。そこで鎮撫していた海援隊士たちは、そのまま倉敷県に任官することになります。つまり、海援隊員から県職員にリクルート(or配置転換)されたことになります。倉敷県の職員を見ると知県事:小原與一、以下、権知事(No.2):波多彦太郎、会計局:島田源八郎、刑法局:岡崎恭助、軍務局:島本虎豹など、計35名中32名が土佐藩出身で占められています。
 塩飽の責任者であった八木彦三郎も倉敷県設置と同時に、同県大属(NO5)となり、すぐに「金毘羅出張所御預り所長」(軍務、庶務、刑法、会計を兼務)に任命され、琴平に転出します。
天領倉敷代官所跡 - 本町7-2

長岡謙吉は、どうなったのでしょうか?
海援隊長ですから倉敷県の知事に就任したのかと思っていると、どうもそうではないようです。6月9日に新たに設置された三河県の知県事(No.1)に任命されます。その判県事(No.2)は、なんと土肥大作が指名されました。『愛知県史 資料編 23 近世 9 維新』124~125 頁には、次のように記されています。
「慶應四年六月 三河県赴任に伴う事務執行方法につき知事長岡謙吉より伺書写」(6月14日)には、「私儀兼テ敞藩ヨリ小豆諸島引渡方被申付有之候間、不日ニ相仕舞次第彼地ヱ罷越申候、此条前以奉申上置候」

とあり、突然に、知らない土地へ転出させられとまどっていることがうかがえます。
 「土肥大作と勤皇の志士展」パンフレット(丸亀市立資料館)には、土肥大作が三河県の判県事に任命されたのは、6月15日で、23日に赴任していることが記されています。
先ほど見たように、長岡と土井は高松城占領以後は非常に親密な関係にありました。ある意味、「丸亀の長岡謙吉私塾」の塾長と副塾長が三河県の知事と副知事に任命されたようなものです。二人揃って大栄転のように思えます。ところが長岡は、なぜかその月の28 日に免官されています。
倉敷代官所井戸 クチコミ・アクセス・営業時間|倉敷【フォートラベル】
倉敷代官所の井戸
倉敷県には、その後のどんでん返しが用意されていました。
翌年の明治2年8月に、土佐藩士は、倉敷県のポストから一掃されることになります。その経過は次のように記されています。
「如此人員ハ多キモ土州人ナレハ、原、慷慨ヨリ出デ、或ハ脱走シテ未帰籍不ㇾ成者有、都テ疎暴、政事上甚激烈ニ渉リ、人民大ニ苦シム 于ㇾ時七月初旬自二東京一被ㇾ召、小原、(略)上京、於二彼地一免職、餘ハ御用状態、八月十三日不ㇾ残免職被二仰渡一、即十五、十六之此より、逐々
出立、九月初悉皆引取ニ相成タリ」
意訳変換しておくと
このように免職されたのは土佐人ばかりであった。中には慷慨して脱走し、帰庁しなかった者もいる。まさに粗暴な政治的仕打ちであり、人々は大いに苦しめられた。
 ある職員は七月初旬に東京へ出張ででかけ、(略)上京中に免職される始末。8月13日から免職が言い渡され、十五、十六人が首を切られ、九月初めには、ほとんどの土佐人職員が職を失った。

『倉敷市史(第十一冊)』25 頁には
「土州藩不残御引払之御沙汰有之、知事様東京へ御出張被遊、其儘本国エ御引取」

とあります。琴平で在職中の八木以外の全員の土佐出身の職員に免職を言い渡し、知事は東京に引き上げ、そのまま本国に引き取った、というのです。
 また、福島成行「新政府の廓清に犠牲となりたる郷土の先輩」『土佐史談』第 32 号(1930 年)には、倉敷県庁勤めの岡崎恭介が、東京出張中に「職務被免」とされ、京坂を彷徨っているうちに路銀を使い果たし宿泊にも困るようになり、各地の不平士族と親密に結びついていく過程が克明に語られています。
 ここからは、配置転換されて1年後には、土佐人はほとんど全員が解雇になったことが分かります。この思惑はなんなのでしょうか。
①長岡を除く主だったメンバーは倉敷県へいったん配置転換し
②長岡はメンバーから引き離され一人だけ三河県知事に任命され、直後に免官となり
③その後、時を置いて倉敷県に再雇用した全員を解雇する
という新政府の筋書きが見えてきます。
このような措置に対する怒りが、先ほど見たように土佐人を自由民権運動に駆り立てる一つのエネルギーになっていくようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    テキストは遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)


 
6塩飽地図


 前回は海援隊による小豆島東部の占領について、お話ししました。今回は、塩飽の占領支配について見ていこうと思います。その際に避けては通れないのが「小坂騒動」です。これは土佐軍が、高松城占領している間に、塩飽本島で起きていた騒乱です。この事件に対して、海援隊が、どんな事後処理をして塩飽を占領下に置いていくのかを今回は見ていくことにします。
テキストは遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)です。
本島集落

まず塩飽本島の小坂集落と人名との関係を見ておきましょう
 小坂集落は、安芸からやって来た能地(のうじ)系の家船(えぶね)の漁民達が陸上がりして作った「出村」と研究者は考えているようです。江戸初期に安芸の能地(現三原市)からやってきて、小坂浦に居着いたのが始まりのようです。家船の漁業風俗も残っていました。人名達は、もともとは「幕府のお抱え船団」として、変なプライドをもっていましたからもともとは漁業はしませんでした。しかし、周囲の海には広大な漁業権を持っていますから、それを貸し出すことで、多くの収入も得ていました。そこへ、家船漁民がやってきて「出村」と形成したのが小坂集落です。ですから日頃から差別を受けていたのです。
3 家船3

 一方、人名株を持っている上層階級は、土地からの上がりだけではなく、海からの運上金や漁業権も持っていました。だから株を持たぬ民衆は事あるごとにお金を払わなくては何もできません。「人名による自治」と云われますが、それは人名による人名のための統治であったとも云えます。
3塩飽 ieyasu 印状
 
 幕府からすれば、塩飽に650人分の水夫と船をいつでも提供することを義務づけていたことになります。それは、平和時には朝鮮通信使やオランダ総督の航海への水夫動員や、アメリカに赴く咸臨丸への水夫提供などがありました。ところが幕末の動乱期になると、長州遠征のような実戦への輸送部隊としての動員が命じられるようになります。
 これに対して、幕府も不安定で長州へ従軍することの危険もあるので、人名達はみな嫌がって尻込みします。それで、小坂の漁民に頼んで長州に派遣します。つまり、人名は自らが出向くのではなく、支配下にある漁民達に水夫として従軍させたわけです。アテネの古代民主制は、従軍すれば参政権が得られるシステムでした。小坂の漁民達も従軍を根拠に、人名枠の配布をもとめます。それも、たった2名分です。これに対して人名側は、これも認めようとしません。そういう中で、鳥羽伏見の幕府軍の敗北と「御一新」のニュースが伝わります。それを聞いて、日頃の憤懣が爆発した小坂漁民は、塩飽勤番所を襲撃します。その仕返しにその翌日、人名勢が小坂浦を焼き討ちします。これが小坂騒動です。
 この事件では18人の小坂浦の漁民が殺され、人名の人たちによって全村が焼き払われました。小坂浦の墓には、この時の犠牲者となった18人の名前が彫られた碑が残っています。その碑も人名の供養塔と比べると格段の差があります。本当に小さな碑です。ここにも、人名と小坂浦の漁民の関係がよく表われているのかもしれません。
本島 小坂騒動記念碑
小坂騒動の犠牲者一八人を弔う墓(本島 小坂)

研究者は、小坂騒動の経緯を、次の一次資料から時系列に並べます
①人名側の文書「塩飽勤番所仮日記」塩飽人名所有。現在閲覧不可)
②小坂側の文書「八島神社誌」(小坂所蔵)

「慶應4年1月17日」
:鳥羽伏見の戦況(徳川軍敗走)を知った小坂浦漁民が、身分制打破(差別撤廃要求)の好機到来と考えて、泊浦の人名有力者7家に代表を派遣して、人名株2人分の譲渡を要求。これを人名側は拒否。
「1月18日」
人名代表が小坂浦にて妥協案(「代り人名」の譲渡)を提示。これを小坂側は拒否。小坂浦漁民が徒党(約300人)を組み、泊浦の年寄等の邸宅に乱入・打壊を働き、勤番所へ強訴。年寄の依頼で、2人の住職(正覚院観音寺、宝性寺)が仲裁、解決を約束。これで、小坂浦漁民は撤収。
「1月19日」
人名側の拠点である塩飽勤番所は、臨戦体制を整える。一方、小坂浦漁民は勤番所の朱印状を奪うことを計画して、武装蜂起。この時に海岸線を通らず裏をかいて泊山を越えて奥所地区を襲撃し、背後から勤番所に迫るルートで進軍。これに対して、惣年寄・高島惣兵衛が招集した笠島浦若衆が勤番所の備付の火縄銃20挺で、八幡神社で迎撃し戦闘状態へ。人名側(大倉忠助)と小坂側(与之助)の双方に死者がでますが、銃のない小坂勢は、総崩れとなり退却。人名側の高島惣兵衛は、小坂勢の再度の襲来に備えて塩飽11島に召集命令(まわしぶみ)発令。それに応えて、夜までには各島々から人名衆が集まってきます。この時に動員された島人は千人程度だった。木烏神社に本営設置して、小坂集落襲撃を決定。
「1月19日夜~20日未明」
:人名勢が小坂浦を襲撃、浜辺の船200余りを奪い逃亡を阻止し、全集落を焼払う。小坂側犠牲者18名。生存者約480人全員が勤番所の牢・物置等に収用。
「1月21日」
2日にわたって小坂集落を燃やし尽くした火の手は、21日になってようやく鎮火。23日頃になって人名衆は来迎寺に集まり、今後の対応を協議中。
来迎寺 (香川県丸亀市本島町 仏教寺院 / 神社・寺) - グルコミ


 この模様を対岸の丸亀から眺めていたのが、高松城占領のために丸亀に集結した土佐軍でした。
丸亀からは牛島があるので、直接は小坂集落は見えません。しかし、燃え上がる炎は夜空を焦がし、異変は丸亀にも伝わったようです。小坂集落が襲撃された1月19日は、高松城占領のために土佐軍が丸亀に集結していた日にもなります。軍の参謀を務めていたのが後の板垣退助です。
 塩飽・小豆島東部は天領あつかいとされ、朝廷による没収地の対象となっていました。そのため高松城占領後に、土佐軍は海援隊のメンバーを小坂集落に派遣します。その時の責任者だったのが八木彦三郎になります。彼は、塩飽後には鎮撫として金毘羅に乗りこんでくることになります。私が、注目する人物です。彼について、詳しく見ておくことにします。
24 宮地彦三郎
海援隊隊員 八木彦三郎について 

坂本龍馬が中岡慎太郎と京都の近江屋の二階で襲われたのは、1867(慶応三)年11月15日5ツ半(午後9時)過ぎだったとされます。その日の昼頃に、龍馬や慎太郎に近江屋の前で会った一人の海援隊士がいました。それが八木彦二郎です。八木は11月11日頃、長岡謙吉と共に土佐藩主山内容堂の命を受けて、英国の公使に信書とみやげを贈るために大坂に下っていました。その使命を終えての帰途、近江屋にいた隊長の坂本に報告に来たようです。その時、坂本は無用心にも、近江屋の二階から顔を出していたと云われます。映画などで演じられるシーンを再現すると
  「おお、八木かっ無事帰ったか。ご苦労じゃった。まあ、上がれ。お前にも話したいことかある』龍馬は2階から八木の顔を見てそう言った。脇から中岡も顔を出し『上がれ、上がれ」と声をかけた。八木は『いや、まだ旅装のままですから、 ひとまず、帰宿して、そのうちうかがいます」と答えて、その場は別れた。帰宿して、しばらくして「今、近江屋に刺客が入り、坂本、中岡の両隊長がやられた」との報を受けて、あわてて馳せ参したが、坂本は一言二言ばかり話して問もなく忠が絶えた。

当時、八木は大橋慎二(橋本鉄猪)という土佐の佐川出身の同志と某ソバ屋に下宿していたようです。短銃を懐にして同志と共に、京都霊山に龍馬と慎太郎の葬儀を行ないます。その後、下手人と信じた紀州の三浦休太郎を、油小路花屋町天満屋に襲っています。八木彦二郎は龍馬の元気な姿を、最後に見知っていた海援隊士ということになります。
八木彦三郎の生い立ちから見てみましょう
八木の本姓は宮地です。諱は真雄、幼名は亀吉又は源占、のち庫吉と称し、後年梅庭、梅郎、如水などと号したようです。1839(天保十)年10月15日、高知城下の新町、団渕に生れます。田渕は、武市瑞山が道場を開いたところで、堀割に近い商業ゾーンの一角に当たります。父は宮地六崚真景という藩士で、兄常雄、妹きわの3人兄弟です。彼は、近くの徳永千規に国学を学び、また田内菜国にも国学、漢学の手ほどきを受けます。
 さらに佐藤一斎門の陽明学者南部静斎や、洋学者として名をなした細川潤次郎にも和漢の学を学んだと伝えられます。加えて砲術は、海部流の能見久米次、藩の砲術師範・田所左右次に人間してその技を学び、剣は当時本町「乗り出し」に道場をかまえる麻田勘七に師事します。その中でも砲術に熱心だったようです。病身の母を助け、学問にも精進したので、藩から褒詞や褒賞をもらったこともあるようです。これだけ見ると優秀な模範少年だったことがうかがえます。
   十五、六歳の頃、御普請方一雇、川普請、港普請に従事します。
この土木工事の経験が、後年の琴平での架橋工事や堤防工事に活かされるようになるのかも知れません。その後は、上方修行を経て、1861(文久元)年 新規御召出しにより、下横目(警察官兼裁判官)となって上京します。この京都勤務中に出会ったのが坂本龍馬です。龍馬は、勝海舟の口ききで山内容堂から脱藩の罪を許され、形式ばかりの七日間謹慎を命ぜられます。その時の警護役が、彦二郎だったようです。彦次郎は龍馬を大阪から京都へと護送しますが、その間、退屈であった龍馬は、当時の世情について八木と話し合う機会があったのかもしれません。 
 龍馬との出会いは、彼を脱藩へと駆り立てます。帰京した八木は、京の藩邸を脱走します。
彼は名を変え、五条坂の陶器商吉兵衛方へ通勤し、絵付けの仕事などをしながら、夜はひそかに土佐の北添倍摩などと連絡をとりながら、志士活動に挺身したようです。しかし、そのうち大病にかかり佐々木定七の養子となり、佐々木三樹進と名のったり、梅国家の用人となり神田淳次郎と名を変えて、辛酸の日々をおくることになります。
1867(慶応三)年6月、坂本龍馬と後藤象二郎は、長崎を立って上京中でした。
八木は、後藤を旅宿に訪ねて、その心中を述べ、海援隊に入ることを願い出ます。龍馬にもその願いは通し、許可されたようです。長岡謙吉は、八木の境遇を気の毒に思ったようで、支度料十両と絹の袴一着、オランダ製の時計を贈ったといわれます。以後、彼は長岡と行を共にする海援隊員として八木彦二郎を名のるようになります。
Fichier:Kaientai.jpg — Wikipédia
海援隊集合写真 一番左が長岡謙吉 真ん中が坂本竜馬

龍馬暗殺後の海援隊は、メンバーが分裂して消滅状態になっていたようです。
このような中で、鳥羽伏見の戦いの後に、長岡謙吉と八木彦三郎はチャンス到来と、土佐出身の志士たちに呼びかけて海援隊を再結成します。そして、高松討伐を命じられた土佐軍を助けながら勢力を拡充するという戦略を立て、四国川之江にやってきます。そして、土佐軍の偵察・斥候活動などをおこなっていたようです。高松城占領の際にも、事前に高松周辺の上陸地点の下見などを行っています。
 その活動のリーダーが八木彦三郎でした。彼に率いられた海援隊が、偵察のために鎮火したばかりの小坂に上陸したのは1月22日のことだったようです。ちなみに、私の最初のイメージとしては海援隊ですから自分たちの軍艦(輸送船)を持ち、それを自由に操船して備讃瀬戸を動き回っていたと勝手に思っていたのですが、どうもそうではないようです。まず、この時期の海援隊には持舟はありません。四国にやってきたのも土佐船に便乗してのようです。そして、彼は船も操船出来なかったようです。龍馬の下にいた海援隊のメンバーとは違うのです。海援隊の再結成の知らせを聞いて、新しく入隊してきた者がほとんどです。出来ないのが当たり前です。
 009-1.gif
現在の小坂集落
それでは、本島の小坂浦に上陸した八木彦三郎は、どんな対応を取ったのでしょうか?
  多くの文献は、八木彦三郎の率いる海援隊が来島第一陣としています。しかし、「新編丸亀市史 2 近世編」は、1月23日に中村官兵衛・嶋田源八郎ほか7~8人がまずやってきて、翌日24日に八木彦三郎が来島したと記します。これは長岡謙吉書簡(慶應 4 年 1 月下旬頃か、林英夫(編)『土佐藩戊辰戦争資料集成』470 頁)に
「廿二日塩飽七島・小豆島民居争闘死人怪我人アリ人家ヲ放火シ騒擾甚シト聞ク、石田・中村等数輩渡海…」

の内容と一致します。

 やって来た海援隊に対して、人名衆の惣年寄・高島惣兵衛等はどんな反応を見せたのでしょうか?
「小坂ノ援軍ニアラズヤト疑ヒ騒グコト甚し」とあります。海援隊のメンバーを「小坂の援軍」と疑ったようです。ここからは、突然に現れた海援隊が何者か理解できなかったことが分かります。そこで
「島内の者に疑義挟む者の有るを以て、間民の鎮撫は引續き之を致すべきにつき、一應丸亀金輪御本陣の方へ使者を出すことを差し許されたし」

と、丸亀に使者を出して確認しています。この時に使者となったのが龍串節斎という医師です。彼は後に、琴平鎮撫の八木のスタッフとして参加する人物です。
 「節斎は(丸亀)御本陣で島民等の不心得を懇諭せられ、早々歸島して鎮撫使の命に従ふべき旨申聞かされ、恐惶して歸島復命した」( 宮地美彦「贈正五位長岡謙吉(下)」9 頁)

事実だったので、恐れながら島に帰り報告したとあります。
  こうして鎮撫使と認められた海援隊は、塩飽勤番所に本陣を移し、ここを土佐藩塩飽鎮撫所とします。
「玄關ニ三葉柏ノ幔幕ヲ張リ、仝ジ紋所ノ高張提灯ヲ吊シ、門前ニ土州支配所ノ高札ヲ建テ」とあるので、人名の勤番所を、海援隊が乗っ取った形になったようです。
本島 土佐藩紋所
土佐藩の紋所三葉柏


八木彦三郎の取った措置を見ていきましょう
①幽閉状態にあっ小坂浦住民全員を牢から解放します。
②加害者である人名指導者の惣年寄等に対しては、どんな措置が執られたのでしょうか
「治メ方ヨロシカラザルヲ以テ(略)厳科ニ處スベキ所、(略)特別ノ御仁政ニヨリ一週間ノ閉門謹慎

 他の史料も「一週間の謹慎」が多く、「十日間の譴責禁慎」「年寄に手鎖三〇日の刑」と記すものものもありますが、「徒党を組んでの殺人・放火」に対しての処罰としては、非常に軽微な内容のように思えます。
 さらに「其後ハ一切御構ヒナク、従前通リノ勤メ方仰付ケラレシ」と「形式的な処罰」にとどめたことが分かります。ここからは人名組織の統治機能をそのまま利用する形で、塩飽占領を行おうとする思惑があったことがうかがえます。この時点で、海援隊のメンバーは総勢13名で、塩飽にやって来ているのは、その内の数名なのです。「直接占領」などは望むべくもありません。既存の人名組織の協力・利用なしでは、占領政策は行えません。そうだとすれば騒動の張本人であろうとも、人名指導者達を厳罰に処することはできません。
「一週間後に高島は再び禮服着用で出頭し、前日の罪を許し以後は別儀なく、前役其の儘を以て忠勤を勵む様にとの申渡をうけて罷り退つた」( 福崎孫三郎「八島神社誌」59 頁)

という措置も納得がいきます。
 また、福崎孫三郎「八島神社誌」には、年寄(人名)が役人として引き続き鎮撫所(旧塩飽勤番所)で海援隊を補佐していたこと。また、小坂復興事業で人名が資材調達などで海援隊から多額の支払いを受けていたことが、角田直一『十八人の墓』236~237 頁には指摘されています。

 一方、家を焼かれた小坂浦漁民のために「土佐ゴヤ」(藁葺き大長屋の仮説住宅)を小坂浦の3か所に建築します。また『新編丸亀市史 2 近世編』807頁には、救恤米(助成米)が2月9日、金2百両の助成金が3月7日に配給されたと記されています。これは、土佐藩から出された「救援金」だったようです。
 季節は真冬のことですからこれによって救われた人たちも多かったようです。しかし、小坂に留まらずに「家船(えふね)」仲間の港に「亡命」した漁民達も数多くいたことを下津井川の史料は伝えます。

八木は、塩飽本島で新たな「組織」を作り出します。
先ほども見てきたとおり海援隊のメンバーでだけでは、塩飽と小豆島の占領政策は行えません。治安維持部隊も必要です。そこで八木は、・塩飽諸島の17~30歳の男子の志願者を集めて「梅花隊」(1個小隊)を創設します。応募してきた者達から人名衆の子弟を選び、隊の幹部に登用します。その顔ぶれを見ると、高島覺平(惣年寄・高島惣兵衛の子)・森嘉名壽・高島省三[高島惣兵衛の養子]、田中眞一、高倉善次郎、西尾侑太郎、横井松太郎などです。小坂からも松江甚太郎、山田丈吉、長本平四郎、溪口四郎造が梅花隊に入隊しているようです。
 「梅花隊」は小銃500挺を装備し、軍事訓練を始めます。これは、金毘羅大権現から借り入れた資金が使われました。梅花隊の訓練の様子が
「字七番新田ニ約五反歩ノ調練場ヲ構ヘ、毎日勇壮ナル調練ヲ行ヒシ」として、総勢「三十人ノ将卒」

と福崎孫三郎「八島神社誌」60頁には記されています。梅花隊は、明治3年7月に金毘羅で解隊されるまで、存続します。この隊に参加した人たちの中から次の本島や広島を担う戸長や村長達が現れるようです。
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 海援隊は、小坂浦漁民を救ったのか?と研究者は問い直します。
 海援隊を「島民之緒民ハ活キ佛さまトテ拝ミ申候」と記す土佐側の史書があります。例えば八木の業績について、宮地美彦「維新当時の土佐藩と予讃両国との関係79 頁)は次のように記します
塩飽に入って描虜を放ち張本人や、島役人等の罪を糾し、寛典を以て乱ル鎮め、人心を安堵し、救済を以て乱後の窮民を助け生業に励げました。是に於て島民は敵、身方の隔てなくその政治に悦服して八木の外出する時は、生佛様だ生佛様だと云つて土民は土下座して拝したと云うことである。 
 又八木が勤番所に居た頃、顔面に睡物が出て発熱甚だしく医師が大患である一命にかかわる様な事があるかも知れぬ」と診断した。その時本島の若者は毎日丸亀の福島で潮垢離して松尾村の金毘羅宮(金毘羅宮)参詣して治癒を祈願したと云ふ話も残つて居る。
   八木や海援隊のメンバーを神と讃え神聖視しているというのです。

小坂浦での八木の「神化」プロセスを見ておきましょう
明治3年(1870)、海援隊士を祭神とする「土州様」を大山神社に合祀88。
大正7年(1918)、海援隊13名の名前が分かり「十三とさ神社(重三神社)」に改称
大正8年(1919)、小坂山の山上にあった大山神社を現所在地に移転(地図・写真参照)。
昭和9年(1934)、実際に塩飽を担当したのが13人のうちの数名であることを知り、八木彦三郎・島村要の頭文字から「八島神社」と改称。
24 宮地彦三郎
重三神社の御神体には、長岡謙吉や八木彦三郎など十三名の氏名が記されています。

小坂騒動を後世の人たちは、どう位置づけ評価しているのでしょうか?
①福崎孫三郎『塩飽小坂小誌』
騒動を鎮撫した海援隊を「小坂ノ更生再建ニ援助を與ヘラレン為政者」と称賛し、隊士には「八木彦三郎殿」、「長岡謙吉様」と敬称をつけています。
②吉田幸男『塩飽史―江戸時代の公儀船方』
小坂騒動は海援隊(土佐藩)の扇動に小坂漁民が踊らされたもので「土佐の陰謀」と主張し、海援隊の行動を「悪行」とします。

③角田直一『十八人の墓―備讃瀬戸漁民史』には、「土佐をたって高松藩鎮撫にむかいつつあった六百名の土佐の武士たち」と海援隊が、「自由民権」と「平等」の思想から小坂の解放を行ったと「土佐軍・海援隊=解放軍」説を主張します。

書き手の立ち位置によって、小坂騒動の性格や評価が大きくことなることが分かります。

海援隊は、小坂の解放者だったという説には、次のような点から私には納得は出来ません。
①小坂浦漁民蜂起の最大の目的である人名株譲渡を実現させていない。
②島の統治実務は従来の政治機構(人名制)のままで、変革・改革もなし
③梅花隊にも人名衆を登用。
ここからは、小坂漁民の生命は救ったが「自由と平等」をもたらす解放者ではなかったことが分かります。

どうして海援隊は塩飽や小豆島などの備讃の島々を占領下に置こうとしたのでしょうか。
研究者は、次のような要因を挙げます。
①地政学:「長州征伐」の際の石炭貯蓄地=瀬戸内海上交通の要所であること
②海軍に必要な「塩飽水夫」の供給地であること、咸臨丸の水夫の多くが塩飽出身者
③いろは丸事件で長岡謙吉は海援隊文司として海難事故に対応し、備讃瀬戸を熟知
④海援隊規約「海島ヲ拓キ五州ノ与情ヲ察スル等ノ事ヲ為ス」の実践。⇒塩飽島・小豆島の鎮撫、及び佐渡島・伊豆七島の鎮撫構想(建白)へ

以上から長岡や八木のプランは次のようなものであったことが推察できます
①鳥羽伏見の戦い後、解体消滅していた海援隊を復活させ、「土佐軍の高松藩討伐」に参加する。
②その際に、備讃瀬戸の天領を占領し、統治することによって海援隊の組織を培養し強化していく。
その場所として、塩飽や小豆島はもってこいの島だと考えたのではないでしょうか。こうして、土佐藩が高松・松山藩の無血占領を行っている間に、土佐藩からの「下請け事業」的に塩飽と小豆島を占領し、支配下に置くことに成功します。

  以上をまとめておきます
①鳥羽伏見の戦い後、御一新のかけ声と共に塩飽本島では小坂騒動が起きた
②これは、人名側によって小坂漁民は制圧され、拘留された。
③そこにやってきたのが土佐軍のもとで偵察活動を行っていた海援隊である
④海援隊の八木彦三郎は、漁民を解放し救済した
⑤一方、人名側には厳罰を課せず従来通りの統治を許した
⑥さらに、人名の師弟を登用し梅花組を組織して、新たな軍事組織の形成を目指した。
⑦ここからは、海援隊は小坂の解放者とは云えず、従来の組織を温存しながら支配する占領者の性格が強い。
⑧海援隊は、丸亀の本部(長岡謙吉)・塩飽(八木彦三郎)・小豆島の草壁と備讃瀬戸に「海援隊」トライアングル」地帯を支配下に置いて、ここを拠点にして新たな海軍力の形成を新政府に献策していくことになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)
  谷 是「土佐海援隊士八木彦二郎と琴平」 ことひら45号
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大般若経 正覚寺
塩飽本島正覚院の大般若経 1巻巻頭
香川県には、大般若経がいくつかの寺や神社の残されているようです。このお経は全部揃えると600巻にもなり、かなりの分量になります。常備するためには写経する必要があります。以前に、平城京の都で行われていた国の写経所で行われていた工程を見ましたが、人手と資材のかかる大事業でした。中世になると地方の有力寺院でも大般若経の写経が行われるようになります。例えば、大川郡の与田寺は増吽よって「瀬戸内の写経センター」として機能していたことは、以前にお話しした通りです。増吽に周辺には、日頃から写経に携わっていた僧侶のネットワークが形成されていていました。そして写経依頼が出されると、瀬戸内海沿岸や阿波の僧侶達が宗派を超えて「結衆」し、担当を任された巻の写経を行っていたことを以前に見ました。
 それでは、寺や神社に納められた大般若経は、どのように「活用」されていたのでしょうか。
大般若波羅蜜多経(略して大般若経)は、この経を供養するものは諸々の神によって、護られると説かれました。そのために多くの人々に信仰され、災いを除くためにその転読が盛んに行われてきました。転読とは、一体何なのでしょうか?
讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から

 大船若緑六百巻を全部読むことは無理です。
そこで、いろいろな「省略」法が考えられます。例えばチベットのラマ教では、お経を納めた経蔵のまわりを回るとを読んだのと同じ功徳があるとされるようになります。わが国でもお経が収められた六角経蔵や八角経蔵をぐるぐる回っていたようです。そして、大般若経の場合は、お経を一巻一巻広げて、十人なら十人の坊さんが並んで、それぞれ三行か五行ずつ読んでいくという転読スタイルが出来上がったようです。
 地方では「ショーアップ化」されたいろいろな転読スタイルが行われるようになります。
例えば、紀州の山間部では、お経の巻物を本堂の床に転がし、巻頭部分だけを読み巻き戻すというスタイルも登場します。熱が入ってくると、巻物は投げたようで、かなり手荒に扱われたようです。当然、傷みます。そういう意味では、大般若経は破損する経典だったのです。そのため補修修繕が欠かせなかったようです。しかし、このような目に見える形の祈願を庶民は好みます。中世になると転読に便利なように巻物から「折り本」に、形が変えられます。
大般若経 転読

折り本の先を扇形に開いて、片方からサラサラと広げては、その間に七行、五行、三行と読んでいきます。それが悪魔払いだということになり、般若声といわれる大きな声で机をたたいて読んでいくスタイルが定着します。庶民にとっては、こちらの方がショーアップ化されて「ありがたみ」があるように思えたのでしょう。これが各地の寺院や神社の祭礼にも取り込まれていきます。
 当時は、神仏混淆で、神社の祭礼も別当寺の社僧が取り仕切っていた時代です。僧侶達が主役となる大般若経転読の行事は、急速に郷村に広がります。このような動きが大般若経の写経活動の背景にあったことを押さえておきます。こうして大般若経の転読は、豊作析願、祈雨・止雨祈願、疾病抜除、その他災害を防ぎ、安寧維持のために盛んに行われるようになります。
大般若経 箱担ぎ
箱に入れられた大般若経を担いでの村まわり
 
四国霊場の本山寺では近世には、大般若経六百巻が村回りをしていたようです。
大般若経のお経の入った箱を担いで村を回ります。これも地域を回って読む一つのやり方ですから、「転読」といえるのかもしれません。住職が手にするのは「理趣分」という四百九十五巻のうち一冊だけです。それを各家々で七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。この際に、折り本からです風を「般若の風」と呼びました。この風に当たれば病気にならないというのです。有難いお経の起こす風が信仰対象になっていたようです。

 大般若経は全六百巻もあるお経です。
それを備えるための書写や版経の刊行は大事業でした。その実現のためには、大きな資力や人的な結集を必要とされました。作成後も、それを維持するためには多くの費用と努力が求められます。逆に、大般若経がどのように作られたか、それがどのように維持されてきたのか、あるいは退転したのかについての研究が進むにつれて、いろいろなことが少しずつ分かってきたようです。今回は、塩飽本島の正覚院に残された大般若経が、どのようにしてここにやってきたのかを追いかけて見ましょう。
テキストは「加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です
香川県丸亀市本島町泊の寺院一覧 - NAVITIME
正覚院
本島泊の妙智山観音寺正覚院は真言宗醍醐派の寺院で、塩飽諸島きっての古利として知られています。
この寺は京都の醍醐寺を開いた理源大師聖宝の生誕地という伝承もあり、現在も広く信仰を集めています。そして今でも護摩法要が営まれるなど密教山岳寺院の性格を色濃く残しています。中世には修験者たちの活動の舞台となった気配がします。

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正覚院(丸亀市本島)
 「正徳三年六月改」とある『塩飽島諸訳手鑑』によれば塩飽諸島には真言宗寺院33ヶ寺、天台宗1ヶ寺、浄土宗2ヶ寺があったと伝えます。真言宗寺院が圧倒的に多かったことが分かります。正覚院は、その中でも真言宗寺院の本山として大きな位置を占めていました。この寺には国指定重要文化財や県指定、九亀市指定の文化財がいくつかあります。
観光・イベント・スポーツ:歴史・文化財:正覚院 木造観音菩薩像 | 香川県 丸亀市

その中でも国指定重文の本尊観音菩薩坐像は脇侍の不動明王像、毘沙門天像とともに鎌倉時代初期のすぐれた中央作とされます。その他にも鎌倉時代初期の線刻十一面観音鏡像等もあり、正覚院の由緒を物語るものになっています。
正覚院 夏まつり】アクセス・イベント情報 - じゃらんnet
正覚院の夏祭り
 正覚院は寺伝では空海開基、聖宝中興としていますが、そこまで遡るのは文献史料の上では難しいようです。しかし、寺のある泊地区は古来からの本島の中心地区であったようです。
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正覚寺には、九亀市指定文化財の大般若経があります。
現在は「二〇六帖」が確認され、全て折本のようです。これらは次の2種類に分類できるようです
①南北朝時代の写経で、表紙が渋引きし刷毛目文様の193帖
②鎌倉時代建保五年(1217)の奥書のある写経で、藍色表紙の11帖
①の南北朝以前の193帖を書写の時代で分けると、次のようになるようです
平安時代院政期 一帖
鎌倉時代前期 五帖
南北朝時代 百八十三帖
室町時代 三帖
江戸時代 一帖
大般若経は、最初にお話ししたように「投げられるお経」でしたから、破損や散逸が起きます。その度に不足の巻を補写・購入・寄進等によって補充していくことになります。そのために異なる時代、異なる装填の経典が混じってくるようになるようです。

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正覚院

この寺の大般若経が揃えられたのは南北朝時代のことなのに、鎌倉時代のものと思われる巻が含まれているのは、どうしてでしょうか。
①勧進の際の収集経(新たに写経されたものでなく既存流通の巻を購入した)
②後に欠けた不足の巻を寄進等などで補完したときに、鎌倉時代前期に書写されたものが、やってきて600巻の中に加えられた
などが考えられます。奥書に、勧進が開始されたとみられる文和四年よりも前の巻もあるようです。そして、もとからこの寺にあったものではないようです。大般若経は移動する経典なのです。それでは、いつどこからこのてらにやってきたのでしょうか?

大般若経 正覚院第1巻奥書

上の巻第一には「文和四年十月十一日 始之」とあります。讃岐の守護細川繁氏治政下で、三野の秋山泰忠が本門寺を建立していた頃の文和四年(1355)十月に、この巻から書写が開始されたようです。巻第五百七十二・五百七十三には「願主」という文言があります。書写事業の願主がいて、さらにそれを進める勧進者がいたことが分かります。しかし「願主」の下は空白です。そのため、誰がどのような動機でこの事業を開始したか分かりません。奥書があるのは巻第四百代に入ってからで、それを列記すると、次のようになります
巻第四百七      延文二年十一月八日
巻第四百九      延文二年十一月十三日
巻第四百九十二   延文二年十一月二十三日
巻第五百十七  延文二年十一月十四目
巻第五百二十七 延文二年十一月十八日
巻第五百二十八 延文二年十一月二十一目
巻第五百三十二 延文一二年二月二十日
巻第五百五十二一 延文二年十二月十三日
巻第五百七十一 延文三年二月十九日
巻第五百七十二 延文三年二月十八日
巻第五百七十三 延文三年二月十日
巻第五百八十八 延文三年二月十六日
巻第五百八十九 延文三年二月一日
延文二年(1357)十一月から翌年二月にかけて、巻次を追って書写が進行していることがうかがえます。四ヶ月間で二百巻の書写ペースです。文和四年十月から延文二年十月まで約二年間で四百巻を書写したことになります。大般若経の書写には、十年くらいはかかることはよくありました。それからすれば、このペースは速い方です。書写スタッフが充実していたことがうかがえます。スタッフは僧侶だけで、俗人はいないようです。僧侶でその所属の分かるものを挙げて見ると、次のようになります。
①巻第四百七・四百九    讃州安国寺北僧坊 明俊
②巻第五百十七      如幻庵居 比丘慈日
③巻第五百二十七      讃岐州宇足長興寺方丈 恵鼎
④巻第五百二十八      讃州長興知蔵寮 沙門聖原
⑤巻第五百五十三    讃州綾南条羽床郷西迎寺坊中 
同郷大野村住 金剛佛子宥伎
⑥巻第五百七十二・五百七十三
讃岐國仲郡金倉庄金蔵寺南大門大賓坊 信勢
①の安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が、夢窓疎石の勧めにより、元弘以来の戦死者の供養をとむらい平和を析願するため、各国守護の菩提寺である五山派の禅院を指定した寺院です。讃岐では宇多津の長興寺が安国寺に宛てられたとされます。
③④の長興寺は細川氏の守護所の置かれた宇(鵜)足郡宇多津に細川顕氏が建立した神宗寺院のようです。真木信夫氏は『丸亀の文化財 増補改訂』の中で、①③④を挙げて安国寺は長興寺であることを示すものとしています。しかし、①③④は同じ延文二年十一月に書写されています。もし長興寺が安国寺に指定されたとすると、一寺の寺が二つの寺名を使っていたことになります。そんなことがあるのでしょうか。
②の如幻庵については、何も史料がありません。禅宗系寺院の庵室の可能性を研究者は指摘するのみです。
⑤羽床の西迎寺は今はありません。綾南条羽床郷とあるので宇多津から南方の阿野郡内にあった寺のようです。同じく⑤の大野村についても分かりません。書写をした宥伎は金剛佛子とあるので西迎寺は密教寺院であったようです。
愛媛県越智郡玉川町の龍岡寺蔵大般若経巻第五百九十八奥書には、西迎寺のことが次のように記されています。
迂時康暦第三辛酉二月参拾日 讃洲綾南條羽床郷西迎寺坊中令書写畢 金剛資有俊

ここからは羽床郷にあった西迎寺では、約30年後の康磨三年(1381)にも大般若経の書写が行われていたことが分かります。羽床は南の山を超えるとまんのう町種子の金剛院と近い位置にあります。金剛院からは多くの経塚が出土しています。金剛院は書経センターで、宗教荘園の役割を果たしていたことを報告書は記します。その周辺部の寺院でも大般若経の書写が行われていたことがうかがえます。

⑥の金蔵寺は智証大師円珍ゆかりの寺院で那珂部(善通寺市)にある天台宗寺院で、四国霊場でもあります。その大宝坊は応永十七年三月の金蔵寺文書に見える「大宝院」の前身のようです。
この寺は、多度津の道隆寺と共に、写経センターとして機能するようになります。経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していきます。大川郡の与田寺と同じような役割を果たしていたと私は考えています。
 この他にも、所属の分からない巻第四百九十三・五百八十八書写の金剛佛子宥海、巻第五百七十一書写の金剛仏子宥蜜も「金剛」がつくので密教僧であり、宥伎との関係が推測されます。

以上からは、僧侶等は真言や天台など宗派にかかわらず書写事業に参加していたことがうかがえます。
大般若経の書写には、「知識」を広く結縁するという願いがあるためか宗派の枠を越えて行われます。当時の讃岐では、増吽のいた大川郡の与田寺が書写センター的な役割を果たして、いくつもの大般若経の書写を行っていることは以前お話ししたとおりです。また奥書にみえる寺は、宇多津のヒンターランドの讃岐国中央部に当たります。おそらく奥書記載のない他巻の結縁者も、多くはその圏内の者であったと研究者は考えているようです。

 その中でも中心的な位置をしめた寺院は、どこでしょうか。
①~⑥までの中で云えば、「願主」の記載のある巻第五百七十一・五百七十三を書写した金蔵寺のようです。金蔵寺が書写事業の中心であったことは、この大投若経のその後の変遷からも分かるようです。
以上をまとめておくと次のようになります
残された奥書からからは、文和四年(1355)に写経事業が始まり、延文二年(1358)年頃には全巻が完成したことが分かります。これは異例の速いスピードでした
  その70年後に、一部が失われたか破損したようで永享八年(1426)に補写された巻もあります。そして、延徳三年(1491)に、多度郡道隆寺の僧が願主となって、那珂郡下金倉惣蔵社の所有となっていた大般若経一部六百巻を折り畳む事業が行われます。これが最初の改装で、巻物から旋風葉にスタイルが変更されたようです。

 延文三年(1358)に完成した大般若経が、どこに納められたかは分かりません。
しかし、その後に破損が生じたためか永享七年(1435)に那珂郡杵原宝光寺の慶宥により書写され補充されています。宝光寺という寺は今はありませんが、慶宥は三宝院末弟とあるので真言宗醍醐寺系の寺院に関係ある僧侶だったのでしょう。那珂郡杵原は、現在の九亀市柞原町で、宇多津と金蔵寺との中間にあたります。宝光寺僧が書写補配したことから、この周辺部に大般若経が置かれていたことはうかがえます。

大般若経 正覚院 下金倉
讃州仲郡金倉下村の惣蔵社の「御経」と読めます

 どこに保管されていたのかが分かるのは延徳三年(1491)になってからです。
下金倉村の惣蔵社(官)の常住経として保管されるようになったことが上の奥書から分かります。下金倉は金倉川河口の右岸で、金蔵寺の北方約3kmの地です。しかし、惣蔵社という神社は、今はありません。
延徳三年は、書写が完成した延文三年から130年以上も経っていますが、もしかしたら最初からこの惣蔵社に置かれていたのかもしれません。近年の各地の大般若経調査で明らかになったことのひとつに、明治の神仏分離以前は神社に大般若経があったことです。大般若経が村落での信仰の対象として、神社の祭礼で使用されていたのです。そういう視点からすれば、大般若経書写が最初から惣蔵社に奉納するために行われたとかんがえることもできます。宗派を越えた結縁者(書経参加者)のネットワークからは金蔵寺という一寺院へ納めるためというよりも、地域での信仰の対象であった神社に備えるために行われた可能性が高いと研究者は考えているようです。

大般若経 正覚院道隆寺願主 2
巻第六百の奥書
 延徳三年の奥書には他にも興味深い記載があるようです。
それは、上の巻第六百の奥書です。ここには
「讃州多度郡於道隆寺宝積院奉如件」

とあり、全六百巻が多度那道隆寺宝積院で「折られている」ことが分かります。「折る」とは、巻物を折本に改装することです。この時に巻子本から旋風葉に変わったようです。軸を取り外して、一定の行数で折り畳み、前後の表紙と包背布を付けることは、私が思うような簡単な作業ではないようです。これには専門の経師の技術が必要でした。大規模な修理や改装になるので「再興」とみなされ、発願者がいる場合もあります。この場合も「再興事業」の大願主として道隆寺の権大僧都祐乗と権少僧都祐信の二人の名が最後に記されています。

大般若経 正覚院道隆寺願主

 巻第四百七には、祐信は道隆寺別当と記されます。
道隆寺は以前にもお話ししたように「海に開かれた寺院」として、塩飽や白方、庄内半島などの寺社を末寺として、地域の中核寺院の機能を持つようになっていました。その道隆寺が惣蔵社の大般若経の折本化を行ったようです。
道隆寺 中世地形復元図
中世の堀江湊と道隆寺周辺の復元図
道隆寺は、金倉川を隔てて下金倉の西側に位置します。
道隆寺文書には永正八年(1511)頃には、下金倉に道隆寺の所領があったと伝えます。延徳三年頃には、下金倉にあった惣蔵社を末寺とするようになっていたのかもしれません。それが改装事業をおこなう契機になったのでしょう。

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木烏神社(塩飽本島 泊)

それでは、下金倉にあった大般若経がどうして塩飽に移されたのでしょうか? 
下の巻第四・三百八・三百二・三百二の奥書からは、惣蔵社の大般若経が天正十三年(1585)には海を渡って塩飽島(本島)泊浦の木鳥宮(神社)の経典となっていたことが分かります。木烏神社は本島泊の鎮守社です。
大般若経 本島木烏神社

 ここには、木鳥宮経典として社殿から出さずに護持されるべきものであったが、「衆分流通」であると記します。「流通」とは、もともとは仏の教えを広めるという意味ですが、ここでは鎮守神祭祀を担う泊浦住民共通の経典という意味のようです。ここからは、この大般若経が木烏神社で年中行事や臨時の転読等に用いられていたことが分かります。
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   木烏神社本殿から鳥居方面を眺める 直ぐ向こうが備讃瀬戸

 この年に西山宝性寺住持秀憲が破損していた六巻を修復し、不足の巻を補っています。西山とは泊の西山で、宝性寺はかつては正覚院の末寺であり、木烏神社とも関係があった寺院だったようです。
なぜ大投若経がこの島に移されたのか、それはいつのことかなど詳しいことは分かりません。ただ、道隆寺と正覚院は同じ醍醐寺系の寺院として密接な関係にあったようです。
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正覚寺
正覚院の『道隆寺温故記』を年代順に並べ、年表化してて見ましょう。

弘治二(1556)年九月二十日 道隆寺僧秀雄が正覚院尊師堂の供養。
天正三年(1575)二月十八日 道隆寺の良田が正覚寺本堂の入仏供養導師を勤めています。
天正十八年(1590)年   秀吉の塩飽朱印状発行 
文禄元(1592)年 道隆寺の良田が正覚寺に移り、道隆寺院主として正覚院を兼帯
慶長十年(1605)十月十六日 良田が塩飽で死亡。
以前にもお話しした通り、道隆寺の布教戦略は塩飽への教線ラインの参入拡大で、本島の正覚寺を通じて、塩飽の人とモノの流れの中に入り込んでいくものでした。そのために道隆寺院主の良田は、正覚院を兼帯し本島で生活していたようです。ここからは道隆寺にとって、塩飽本島は最重要の拠点だったことがうかがえます。それが下金倉にあった大般若経を、塩飽泊浦に移す背景になったと研究者は考えているようです。分かるのは、戦国時代に道降寺信仰圏内にあった下金倉の惣蔵社から、塩飽本島に移されたという事実だけです。  
 その大般若経が現在の正覚寺移ったのは、近代になってからのようです。その理由については、よく分かっていないようです。

以上をまとめておくと次のようになります。
①14世紀半ばに、金蔵寺が願主となり大般若経600巻が書写された。それがどこに納められたかは分からない。
②この大般若経は、15世紀末には那珂郡の下金倉惣蔵社の所有となっていたことが分かる。
③それを、多度郡道隆寺が願主となって、「折り本」化するスタイル変更が行われた
④戦国時代末に道隆寺の塩飽布教の一環として、下金倉の惣蔵社(官)の大般若経は、本島の木烏神社に移され、別当寺のもとで祭礼に使用された。
⑤明治の神仏分離などで、別当寺が退転する中で、仏具とともに正覚寺に移された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です

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塩飽本島の笠島集落
江戸時代の塩飽諸島は、朱印状を与えられた廻船の島として特別な位置を持つようになります。
天正十八(1590)年秀吉の朱印状によって、塩飽島1250石が、船方650人の領知するところとなります。船方(水主)650役の島として、秀吉の直轄領に指定され、小田原攻や朝鮮出兵に関わりました。この朱印状は、家康によって安堵され、江戸時代も幕府の直轄領として、650人の水主役を果し「船方御用相勤」を続けます。
 このような島は、他にはありません。芸予諸島の村上水軍と比べると、非常に有利な条件で中世の財産を、近世に持ち込むことができたと云えるかもしれません。このように塩飽島の水主役は、秀吉の天下統一・対外政策とかかわって設定されたものであることを前回はみてきました。
 江戸時代半ばになると、その性格を次第に変えていくようになります。戦時の後方支援という役割から朝鮮通信使や長崎奉行の送迎など幕府の政治・外交上に関係する海上輸送業務に従事することが任務になっていきます。
 塩飽島における政務は人名から選ばれた「年寄・庄屋・年番」などによって行われました。
近世初期に「年寄」を勤めたのは入江氏・真木氏・古田氏・宮本氏などです。寛永以後は、吉田氏と宮本氏を中心に自宅を塩飽政所と称し、浦(本島と広島)や島に置いた庄屋・年番を続轄して支配が行われました。そのため世襲化した年寄の支配がだんだん強大となり、人名内部からも反発が生まれ、寛政元年年四月には巡見使へ政所改革の訴願が行われます。これを契機に、行政改革が行われたことは以前にお話しした通りです。
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 この改革の一環として、政務センターとしての勤番所が建設され、ここで塩飽島の行政が行われるようになります。
塩飽島の行政は、この寛政改革によって塩飽政所行政(年寄の自宅)から塩飽勤番所行政へと変り、組織的にガラス張りで行われるようになったともいえます。そして年寄を中心とする勤番所行政は、明治五年まで続くことになります。
 近世初頭の年寄支配の強さの背景として、研究者は次のような要因を挙げます
①中世以来の在地土豪の出身であり、土地所持者であったこと
②船方の棟梁で廻船業者であり、社会的地位が高く、経済力が卓越していたこと
年寄たちが「土地所有 + 廻船業者」によって経済力をもっていたことが大きかったようです。宝永元年八月「塩飽嶋中納方配分帳」(塩飽勤番所保管文書)からは、当時の年寄四人の年寄役が、飛び抜けた配分高を得ていたことが分かります。その年寄の残したものを見てみましょう。
年寄役の一人である笠島浦の吉田彦右衛(彦右衛門は世襲名)は、笠島浦の奥まった所に約271坪の屋敷をもっていました。
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そして、菩提寺の浄土宗専称寺境内には「塩飽笠嶋之住人吉田彦右衛門家永」と刻まれた大きな「人名墓」と呼ばれる墓石を残しています。これは高さ2,3m、幅75㎝・厚さ44㎝の逆修墓石で、寛永四(1627)年八月四日に建立されたものです。
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この他にも家永(長)は、八幡宮(泊浦宮之浜)の大鳥居を、寛永五年六月に年寄宮本家とともに奉献しています。大鳥居には「塩飽嶋政所吉田彦右衛門家長」と刻まれています。寛永年間頃の政所(年寄)吉田彦右衛門家永が、豊かな財力を持っていたことがうかがえます。
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 泊浦の年寄宮本家も吉田彦右衛に並ぶ財力の持主だったようです。
年寄宮本半右衛門も、笠島の吉田家が「人名墓」を建てた同じ年の寛永四(1627)年に、初代宮本伝太夫の墓を作っています。
塩飽島(香川県丸亀市本島町)泊浦木烏神社鳥居 八幡神社鳥居と 小烏 (こがらす) 神社鳥居は薩摩石工、 紀加兵衞 (きのかへい)  作である。寛永四年(一六二七)作である。 木烏神社 甲生浦、徳玉神社(安徳天皇は屋島敗戦後塩飽に移られた)
木烏神社(泊浦)の大鳥居

同時に木烏神社(泊浦)の大鳥居を、薩摩の石大工紀加兵衛に製作させ奉献しています。寛永年間には、笠島浦の吉剛家と泊浦の宮本家は、豊かな財力をきそい合っていたようにも見えます。八幡宮の大鳥居建立には吉田彦右衛門家長をはじめとする吉田家が中心となり、それに宮本家も加わっています。また木烏神社の大鳥居建立には宮本半右衛門正信をはじめとする宮本家が中心となり吉田家も加わり建立しています。この時期、年寄の両家を中心として塩飽島は、廻船業などで繁栄し、黄金時代を迎えていた時代です。それが立派な墓石や大鳥居の建立となって、今に残っているのでしょう

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このような塩飽の繁栄は、いつまで続いたのでしょうか。
廻船業は競争時代に突入し、相対的に塩飽島の地位は低下していきます。明和二(1765)年八月「塩飽嶋明細帳」(塩飽勤番所保管文書)には、次のような記録が残っています
一、船数大小合三百弐拾壱艘
七艘    千百石積より千四百石積迄    廻船
五拾七艘 四百五十石積より三十石積迄  異船
拾壱艘    五十石積より入石積迄      生船
弐拾三艘  三拾五石債より弐十石積迄    柴船
八十八艘  弐拾五石積より八石積迄    通船
百三十三艘 十三石積より五石積迄      猟船
式艘    三十石積            網船
嶋々之者共浦稼之儀、先年者廻船多御座候而、船稼第一二付候得共、段々廻船減候二付、異船稼並猟働付候者茂御座候、且又他国江罷越、廻胎小舟之加子働仕、又ハ大工職付近国江年分為渡世罷出候、老人妻子共農業仕候
意訳変換しておくと
塩飽では、かつては廻船が多くあり船稼が第一だった。ところが、明和2(1765)年になると塩飽島の人々の職業は、廻船を中心とする船稼から、廻船・異船(貸船)・猟働・他国の廻船・小舟の加子働きや大工職などで出稼ぎする者が多くなり、老人子共は島に残り農業を行うようになってしまった。

これは、島の窮状を訴えるための文書なので、そのままには受け取れませんが、廻船中心に栄えた経済繁栄が失われ衰退しつつあることを危機感を持って訴えています。
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笠島集落

正式文書に「人名」と言う言葉は出てきません。「船方」が正式な呼び名です。
 年寄は別な表現をすれば、船方650人のメンバーの一人でもありました。近世初期の年寄は、一族で多くの船方を担当したはずです。この船方を何時の頃からか塩飽島においては、人名と呼ぶようになります。しかし、江戸時代には公式文書には、この呼称は使用されていません。使われているのは「船方」(水主)です。それも年寄と大坂船手奉行・大坂町奉行との間の文書のやりとりの中に限られ、年寄からの文言に対して具体的に指示する必要から便宜上使用しているだけだと研究者は指摘します。
 明治になっての維新後秩禄処分の金禄公債証書交付願のやりとりの中でも、政府は水主という言葉を使用し、人名という言葉は全く使用していません。つまり近世・近代において人名という呼称は、塩飽島で私的に使用されてはいますが、公的には使用されていなかったことは押さえておきたいと思います。
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笠島集落
それでは「人名」という言葉が広がったのは、いつからなのでしょうか。
塩飽島の人々の間で、人名に対する認識が深まるのは、版籍奉還・秩禄処分の問題を通してのことのようです。金禄公債証書交付願の運動(明治9年~34年頃まで)を通して、人名650人の結束は強められていきます。その動きを見てみましょう。笠島町並保存地区文書館展示史料には、明治になっての豊臣神社の勧進運動の記録が残っています。
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尾上神社(笠島浦)
笠島浦では、明治14年11月に、人名78人が、尾上神社境内へ豊臣神社(小祠)の新設を那珂多度部長三橋政之宛願い出て、許可されます。その願文には次のように記されます。(意訳)
 維新によって領知権は消滅したが、秀古の発拾した朱印状によって島民の生活は支えられた、その恩に報ゆるために笠島の人名同志78八人が相談して、「豊霊ヲ計請シ歌祥デ悠久二存仁セン」として、豊臣神社(小祠)の新設した。その経費は人名78人の献金で、維持費は人名の共有山林を宛てた。

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笠島の尾上神社
笠島の尾上神社の上り口にある豊臣神社の前には、二本の石柱が立っています。向って左の石柱には
「国威輝海外」(表)、
「当浦於七十八人 明治三十一年一月元旦建之」(裏)
右の石柱には
「忠勤致皇室」(表)
「天正年間征韓之役従軍塩飽六百五十中」(裏)
と刻まれています。この二本の石柱は、日清戦争の勝利と秀吉の朝鮮出兵を歴史意識としてダブらせて建てられたようです。日清戦争の勝利記念と自分たちの先祖の朝鮮出兵が結びつけることで、ナショナリズムの高揚運動と、人名の子孫としてのプライドを忘れまいというる意図が見えてきます。このように豊臣神社や石柱の新設建立に、笠島浦の人名は結束して行動しています。この豊臣神社のある尾上神社の境内には「一金四百円 当浦人名中」(年不記)刻まれた寄付金の石柱もあります。
塩飽島(香川県丸亀市本島町)泊浦木烏神社鳥居 八幡神社鳥居と 小烏 (こがらす) 神社鳥居は薩摩石工、 紀加兵衞 (きのかへい)  作である。寛永四年(一六二七)作である。 木烏神社 甲生浦、徳玉神社(安徳天皇は屋島敗戦後塩飽に移られた)
 今度は泊浦の木烏神社境内を見てみましょう。ここには、次のような刻字のある石碑が泊浦人名90人によって建てられています。
「豊公記念碑海軍大将子爵斉藤実書」(表)
「塩飽嶋中人名六百五拾名之内泊浦人名九拾人 昭和三年十一月建之」(裏)
以上のように本島の笠島浦・泊浦を歩いただけでも「人名」と刻した石柱・記念碑などがいくつも目に入ってきます。朱印状の船方650人は人名として昭和期まで結束して活躍していることが分かります。
3  塩飽  弁財船

 天正十八(1590)年の秀吉朱印状の「船方六百五十人」の船方は、戦時の水主役が勤まる650人であったはずです。しかし、江戸時代の天下泰平の時代になると、水主役の代銀納が行われるようになります。
広島の江の浦庄屋七郎兵衛の安永八年の記録「江ノ浦加子竃数並大小船数」には、次のように記されています。
加子(水主)一人役株を持つ八左衛門は、職業(渡世)は木挽、同喜十郎は農業、同太治郎は異船(貸船)商売、同新七は農業、同治郎左衛門は廻船加子働、同喜兵衛は加子
ここからは加子役株(人名株)を持っている人たちの職業(渡世)は色々であったことが分かります。つまり船方(水主)650人という実質的な夫役負担者から、水主役とは関係のない職業の者が、水主株所持者(船方・人名持者)になっていたようです。

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 人江幸一氏保管文書によると幕末、人名持(人名株、船方・水主・人名)という表現がよくみられるようになります。例えば次のような人たちです。
人名持百姓何某・人名持船方何某・人名持大工何某・人名持庄屋何某・人名持年番何某・人名持弥右衛門・人名持三郎後家たつ・入名持長左衛門後家とよ・人名持彦吉後家さゆ・人名持兼二右衛門後家さよ
ここからは「大工や後家」の人たちまで人名株を持っていたことがうかがえます。水主役とは、戦時召集には水夫として活躍するはずでしたが、そこに「後家」も名を連ねているのです。

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さらに、人江幸一氏保管文書の安政三年「辰麦年貢取立帳」(泊浦)に「人名株弐口五人二而割持」とあります。安政五年「午責年貢取立帳」(泊浦)には「小人名持分」として、人名一株未満の所持者を「小人名」と呼び、十二人の小人名の名前が記載されています。ここからは幕末には、人名一人役(一株)が複数人によって分割所持されていたことが分かります。
以上の例から、研究者は次のように指摘します。
①水主役に従事できない人々の水主役(株)の所持が進行していた
②水主一人役(株)が、複数人によって所持されるという水主役株の分化が進行していた
これは、近世初頭の人名設置からすると、水主役(船方役・人名役)の形骸化が進行していたと云えます。
この背景には、人名株を一人前でなくても所持したいという願望があったのでしょう。このように朱印状の船方六百五十人の仲間になりたいという願望が、塩飽島の人々には強くあったようです。塩飽島において船方(人名)株を持つことが、一つのステータスと考えられていたのです。
 慶応四年一月人名(株)のない小坂浦の者達が人名二人前を要求して小坂騒動が起こったことは、その象徴としてとらえることができよう。そのような意識は明治以後も強く、「人名社会」という言葉が使用され、「人名」と刻したさまざまな石柱や記念碑を造らせたともいえよう。
咸臨丸で太平洋を渡った塩飽の水夫|ビジネス香川

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「加藤優


3塩飽 朱印状3人分
上から家康・信長・秀吉の朱印状(塩飽勤番所) 
 
現在塩飽動番所には、次の5点の朱印状が保管されています。
   発行年月      発行者    宛先
 ①天正五年三月二十六日 織田信長 官内部法印・松井有閑
 ②天正十四年八月二十二日 豊臣秀吉 塩飽年寄中
 ③文禄元年十月二十三日 豊臣秀次 塩飽所々胎生、代官中
 ④慶長慶長二十八日    徳川家康   塩飽路中
 ⑤寛永七年八月十六日   徳川     塩飽路中
  これらについては、以前にお話ししましたので、今回は触れません。今回お話しするのは、この中にはありません。写しだけが伝わる天正十八年二月晦日の秀吉朱印状についてです。 

3塩飽 秀吉朱印状

勤番所に残っている秀吉の朱印状は、天正14年もので、船方の動員についてのものです。その四年後のものが、1250石の領知を650人の船方(水主)に認めた認めたもので、所謂「人名」制度の起源となる文書になります。そういう意味では、もっとも重要な文書ですが勤番所には残されていません。文書がないのに、その内容が分かるのは「写し」が残っているからです。「塩飽嶋諸事覚」(『香川叢書二』所収)に「御朱印之写」として記されているようです。どうして、最も大切な朱印状が残されてないのでしょうか。また、どんな内容だったのでしょうか。それを今回は見ていきたいと思います。
塩飽勤番所

 「香川県仲多度郡旧塩飽島船方領知高処分請願書写」明治34年1月の「備考」には、次のように記されています。
「此朱印書は第二号徳川家康公ノ朱印書拝領ノ時 還却シタルモノニテ 今旧記二依リテ之ヲ記ス」(『新編丸亀市史2近世編』)

ここには「秀吉朱印状は、家康公の朱印状をいただいたときに返却したので伝わっていない。そのために「旧記」に書かれている秀吉朱印状の内容を写し補足した」と記されています。「旧記」とは『塩飽嶋諸事覚』のことでしょう。
 これについて真木信夫氏は、次のように指摘します
「享保十一年(1727)九月に年寄三人から宮本助之丞後室に宛てた朱印状引継書にも記載されていないので、慶長五年(1600)徳川家康から継目朱印状を下付された時、引き替えにしたものではなかろうかと思われる」(『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』143P)
 ここからは、秀吉の天正十八年二月晦日の朱印状は、享保の時代からなかったこと。家康からの朱印状をもらった時に、幕府に返納したと研究者も考えていることが分かります。そのために、塩飽には伝来していないようです。勤番所に、「人名」を認めた秀吉朱印状がないことについては納得です。
それでは秀吉朱印状写には、何が書かれていたのでしょうか。
  秀吉朱印状写(「塩飽嶋諸事覚の写し)
御朱印之写
塩飽検地
一 式百式拾石     田方屋敷方
一 千三拾石       山畠方
千弐百五拾石
右領知、営嶋中船方六百五拾人江被下候条、令配分、全可領知者也。
天正十八年二月        太閤(秀吉)様御朱印
            塩飽嶋中
3塩飽 家康朱印状
家康の朱印状
これを、後に出された家康の朱印状と比べて見ましょう
塩飽検地之事
一 式百式拾石     田方屋敷方
一 千参拾石        山 畠 方
合千弐百五拾石
右領知、常嶋中胎方六百五拾人如先判被下
候之条、令配分、全可領知者也
慶長五年      小笠原越中守奉之
九月廿八日
大権現御朱印(家康)
          塩飽嶋中
  秀吉の朱印状と比較して気付くのは、ほとんど同じ形式・内容であることです。秀吉の朱印状を安堵したものだから、家康のものは同文でもいいのかもしれません。しかし、発行する側の秀吉と家康の書紀団はまったく別物です。前例文章を見て参考にして作ったということは考えられません。違うときに、違う場所で作られた文書にしては、あまりにも似ていると研究者は考えます。発給主体が異なるのに、これほど似た文になるのだろうかという疑念です。
死闘 天正の陣
秀吉の四国平定図

 また秀吉朱印状は検地により高付けが行われています。その時の名寄帳が二冊残っています。そのうちの「与島畠方名よせの帳」には、天正十八年六月吉日の日付になっています。これは朱印状よりはるかに後の日付です。検地帳の方が先に作成されるとしても、名寄帳はそれからあまり日を経ずに作成されるのが普通です。どうしてなのでしょうか?
 朱印状の発行日の天正十八年二月晦日は、塩飽の船方衆が兵糧米輸送に活躍した小田原の北条氏攻めに秀吉が出発する前日にあたります。その功績に対しての発給とも思えますが・・・
以上のことから『塩飽嶋諸事党』所載の秀吉朱印状写には「作為」があると研究者は考えているようです。
家康朱印状に「如先判」とあるので、先行する秀吉の朱印状があったことは確かです。どうして作為あるものを作らなければならなかったのでしょうか。その背景を、研究者は次のように推理します。

『塩飽嶋諸事覚』所載の秀吉朱印状は、おそらく後世に「如先判」とあることに気づいた者が、先行する秀吉朱印状があって然るべきであると考えて、家康朱印状を例にして造作した。日付は小田原陣出陣前日に設定した。

そして、本物の写しは別の形で伝えられていると考えます。それが、「塩飽島諸訳手鑑』(『新編九亀市史4』所収)の末尾に近い個所にある「御朱印之写」とします。
塩飽検地之事
一 式百弐拾石ハ円方屋敷方
一 千三拾石ハ 山畠方
右千二百五拾石
右之畠地当嶋中六百五拾人之舟方被下候条令配分令可為領知者也
年号月日
御朱印
  これは、従来は慶長五年の家康朱印状とされてきました。しかし、家康朱印状は別に掲載されているので、研究者は内容からみて秀吉の発給したものと考えます。日付と宛所が空白なことも、掲載の時点ですでに知ることができなかったのであり、かえって真実に近いと研究者は考えているようです。続いて「塩飽嶋中御朱印頂戴仕次第」という項があり、その中に、次のように記されています。

太閤様御代之時、御陣なとニ御兵糧並御馬船竹木其外御用之道具、舟加子不残積廻り、相詰御奉公仕申付、御ほうひ二御朱印之節、塩飽嶋中米麦高合千弐百五拾石を六百五拾人之加子二被下候、其刻御取次衆京じゆ楽二頂戴仕候御事、
意訳変換しておくと
太閤様の時代に、戦場の御陣などに兵糧や兵馬・船竹木などの道具を舟加子が舟に積んで運ぶことを、申付られた。その褒美に朱印状をいただき、「塩飽嶋中」に米麦高1250石を650人の水夫に下された。その朱印状は京都の聚楽第で取次衆から頂戴したものである。

ここからは、この朱印状写しが秀吉からのもので、聚楽第で取次衆から受け取ったことが分かります。そして「人名」という文字はでてきません。
塩飽勤番所跡 信長・秀吉・家康の朱印状が残る史跡 丸亀市本島町 | あははライフ
朱印状の保管箱 左から順番に納められて保管されてきた

最後に秀吉朱印状写(「塩飽嶋諸事覚」の写し)を、もう一度見ておきましょう。秀吉朱印状の前半部分は検地状で、後半が領地状となっている珍しい形式です。検地実施後に明らかになったの土地面積を塩飽島高として、塩飽船方650人に領知させています。この朱印状の船方650人の領知を、どのように理解したらいいのでしょうか。
 検地による高付地(田方・屋敷方・山畠方)合計1250石を「配分」して領知せよといっています。ここで注意したいのは、塩飽島全体を「配分」して領知せよといっているのではないことです。

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朱印状箱を入れた石棺
 この朱印状が発給された天正18年2月前後の情勢を確認しておきましょう。
1月 秀吉は、伊達政宗に小田原参陣を命じ、
2月 秀吉は京都を出陣
4月 小田原城を包囲
7月 北条氏直を降伏させ、小田原入城
19年1月秀吉は沿海諸国に兵船をつくらせ、9月 朝鮮出兵を命じる。
つまり、四国・九州を平定後に最後に残った小田原攻めを行い、陣中で念願の朝鮮出兵の段取りを考えていた時期に当たります。
3  塩飽 関船

海を渡って朝鮮出兵を行うためには海上輸送のため、早急に船方(水主役)の動員体制を整えておく必要がありました。海上輸送の立案計画は、小西行長が担当したと私は考えています。行長は、四国・九州平定の際には鞆・牛窓・小豆島・直島を領有し、瀬戸内海を通じての後方支援物資の輸送にあたりました。それを当時の宣教使達は「海の若き司令官」と誇らしげにイエズス会に報告しています。行長は、操船技術に優れていた塩飽島の船方(水主)を、直接把握しておきたかったはずです。行長の進言を受けて、塩飽への朱印状は発行されたと私は考えています。

5 小西行長1
小西行長

 領知とは一般的に領有して知行することです。そのまま読むと屋敷を含む1250石の土地とその土地に住む百姓(農民・水主・職人・商人などをまとめの呼称)とを支配し知行することです。百姓を支配するとは、百姓に対して行政権・裁判権を行使することであり、知行するとは年貢を徴収することになります。しかし、塩飽島は秀吉の直轄地ですから、百姓の行政および裁判は代官らが行います。従って船方650人の中から出された年寄は、代官の補佐役に過ぎなかったようです。つまり船方650人には行政権と裁判権は基本的にはなかったといえます。
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朱印状石棺を保管した蔵(塩飽勤番所)
 同じように江戸時代には、幕府の直轄地でした。時代によって変化しますが大坂船奉行・河口奉行・町奉行の支配を受けています。ここからは、塩飽船方衆(人名)は、領知権のうちの年貢の徴収権が行使できたのに過ぎないと研究者は指摘します。限定された領知権だったようです。
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船方650人は、塩飽にすむ百姓(中世的)です。配分された田畑については、自作する場合と小作に出す場合とがありました。自作の場合には作り取りとなり、小作の場合には、小作人から小作料を徴収します。つまり船方650人は、農民と同じように1250石の配分地を所持(処分・用益)していたことになります。ただし、その土地には年貢負担がありません。
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以上、秀吉発給の朱印状の領知(権)の内容をまとめると、次のようになります
①1250石を領知した船方650人は、年貢徴収権と所持権を併せ持った存在であった。
②以後、明治三年まで両権を併有していた。
しかし、これについては、運営する塩飽人名方の年寄りと、管理する幕府支配所の役人との間には「見解の相違」があったようです。
人名(船方)側の理解では、塩飽島の領知として貢租を徴収(年貢・小物成・山役銀・網道上銀など)していました。それに対して幕府の役人達は、1250石の高付地の領知と理解していましたが、運用面において、曖昧部分を残していたようです。両者が船方650人の確保などのために妥協していたと云えます。
3 塩飽 軍船建造.2jpg

 享保六年勘定奉行の命をうけ、大坂川口御支配の松平孫太夫が、塩飽島の「田畑町歩井人数」等の報告を年寄にさせています。
その時に、朱印高1250石以外の新開地は別に報告するよう命じ
ています。正徳三年の「塩飽嶋諸訳手鑑」には、すでに269石7斗5升2合5勺の新田畑があったことは伏せています。そして、塩飽年寄は田畑反別は地引帳面を紛失したのでわからないし、また朱印高の外に開発地(見取場)はないと報告しています。それを受け取った松平孫太夫は、その通りを御勘定所へ報告しています。ここからは、幕府の役人が朱印状の領知を塩飽嶋全体でなく、1250石の田畑屋敷に限る領知と考えていることを年寄は知っていた節が見えてきます。年寄のうその報告を吟味もせずに、そのまま大坂川口御支配松平孫太夫が御勘定所へ報告したのは、両者の「阿吽の呼吸」とみることも出来ます。塩飽島の年寄と大坂の支配者との間には、いわゆる「いい関係」ができていて、まあまあで支配が行われていたと研究者は考えているようです。
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人名の墓
そういう目で、塩飽島の寛政改革を見てみると、大坂の役人が穏便な処置で対応しようとしたのも納得がいきます。それにたいして、江戸の幕府中枢部は厳しい改革をつきつけます。これも、当時の塩飽年寄りと大坂の役人との関係実態を反映しているのかも知れません。
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明治維新後の近代(請願書)になると、人名と政府との間に領知についての対立がおきます。
人名の領知の考えは、近世人名の領知の理解をうけつぎ、1250石の領知は、塩飽島全体の領知とします。これに対して明治政府は、幕府の理解を受け継ぎ、塩飽島の領知ではなく、1250石の高付地の領知と理解します。そして、明治3年領知権を貢租徴収権として人名から没収します。また人名(船方)650人は百姓でもあり、従って1250石の所持者であるとして、版籍奉還時に土地を没収することなく、地租改正では1250石を、人名所持地としてその土地所有権を認めます。
 この時の政府の年貢徴収権と所持権の理解が、人名が平民に位置づけられたにもかかわらず、貢租の1/10を支給する根拠になります。そして明治13年に一時金として貢租の三年分を支給する(差額)という、もう一つの秩禄処分を人名に対して行う論処となったようです。これに対して、人名たちは華族・士族と同じように金禄公債証書の交付を要求する運動を起します。しかし、これは実現しなかったようです。
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以上を次のようにまとめておきます
①水主(人名制)の塩飽領知権を認めた朱印状は残されていない
②それは、家康から同内容の朱印状を下賜されたときに幕府に「返還」されたためである。
③後世の智恵者が「秀吉朱印状」がないのはまずいと「写し」として偽作したものが伝来した
④それ以外に、実は本物の「写し」も伝わっていた
⑤塩飽領知権については、塩飽年寄りと幕府の大坂役人との間には「見解の相違」があったが、両者は「阿吽の呼吸」で運用していた。
⑥それが明治維新になって、新政府と人名の間の争論となり、これを通じて人名意識の高まりという副産物を生み出すことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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参考文献
  「加藤優
   塩飽島の人名 もう一つの秩禄処分  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」

   

             

                         
  現在の塩飽諸島の範囲は本島・牛島・広島・手島・与島・岩黒島・情石島・瀬居島・沙弥島・佐柳島・高見島の11島で、これは江戸時代もほぼ同じです。江戸時代は、塩飽諸島全体を「塩飽島」と呼んでいたようです。それでは、それ以前の中世は、どうなのでしょうか。中世の史料には「塩飽嶋」は、出てきますが「本島」は、登場しません。そこから研究者は「塩飽島=本島」だったのではないかという説をだしています。今回は、この説を見ていくことにします。テキストは、「加藤優   塩飽諸島の歴史環境と地理的概観 徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です。

 1 塩飽本島
本島は「塩飽嶋」と表記されている

 「塩飽」が史料に最初に現れるのはいつなのでしょうか。まずは塩飽荘」として史料に現れる記事を年代順に並べて見ましょう。
元永元年(1118) 大政大臣藤原忠実家の年中行事の支度料物に塩飽荘からの塩二石の年貢納入
保元死年(1156)七月の藤原忠通書状案に、播磨局に安堵されたこと、以後は摂関家領として伝領。
元暦二年(1185)三月十六日に屋島の合戦で敗れた平氏が、塩飽荘に立ち寄り、安芸厳島に撤退したこと。
建長五年(1253)十月の「近衛家所領日録案」の中に「京極殿領内、讃岐国塩飽庄」
建永二年(1207)三月二十六日に法然が土佐にながされる途上で塩飽荘に立ち寄り、領主の館に入ったこと
康永三年(1344)十一月十一日に、信濃国守護小笠原氏の領する所となったこと
永徳三年(1383)二月十二日に、小笠原長基は「塩飽嶋」を子息長秀に譲与したこと。
この時には、すでに現地支配をともなう所領ではなかったようです。また「塩飽荘」でなく「塩飽嶋」となっていることに研究者は着目して、すでに荘園としての内実が失なわれていたと考えているようです。以後は「塩飽荘」は荘園としては消滅したようです。

それでは中世の「塩飽嶋」とは、どこを指していたのでしょうか?
 仁安二年(1167)、西行は修行のために四国にやって来る道筋で備中国真鍋島に立ち寄ったことを「山家集」に次のように記しています。
1 塩飽諸島

「真鍋と申島に、京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわく(塩飽)の島に渡り、商はんずる由申けるをききて 真鍋よりしわくへ通ふ商人はつみをかひにて渡る成けり」
   意訳変換しておくと
「真鍋という島で、京からの商人達は下船し、運んできた商品の商いを行いった。その後は塩飽の島に渡って、商いを行うと云う。真鍋島から塩飽へ通う商人は、積荷を積み替えて渡って行く」

 西行の乗った船は、真鍋島に着いたようです。商人の中には、そこで舟を乗り換えて「しわくの嶋」に向かう者がいたようです。塩飽は真鍋島への途上にあるので、どうして寄港して下ろさなかったのかが私には分かりません。しかし、ここで問題にするのは、西行が「真鍋と申島」に対して「しわくの島」と表記していることです。「しわくの島々」ではありません。「しわくの島」とは個別の島名と認識していることがうかがえます。「塩飽嶋」をひとつの島の名称とした場合、塩飽諸島中に塩飽島という名の島はありません。ここからは、後世に地名化した「塩飽荘」は、本島を指していたことがうかがえます。つまり、塩飽島とは本島であったと研究者は考えているようです。

 その他の中世史料には、どのように表記されているのかを研究者は見ていきます
①正平三年(1348)四月二日の「大蔵大輔某感状」に、伊予国南朝方の忽那義範が「今月一日於讃岐国塩飽之嶋追落城瑯」とあります。これは「塩飽之嶋」の城を攻め落とした記録ですが、これは、古城跡の残る本島のことです。

3兵庫北関入船納帳.j5pg
『兵庫北関入船納帳』
②『兵庫北関入船納帳』には、文安二年(1445)2月~12月に兵庫北関を通過した船の船籍地が記されています。それによると塩飽諸島地域では「塩飽」「手嶋」「さなき」(佐柳島)の三船籍地があります。そのうち「塩飽」が圧倒的に多く37船で、その他は「手嶋」が1船、「さなき(佐柳島)」が3船です。塩飽船の多くは塩輸送船に特化していて、塩飽が製塩の島であることは古代以来変わりないようです。「塩飽」船籍の船頭に関して「泊」「かう」という注記が見られます。「泊」は本島の泊港、「かう」は甲生で同じく本島の湊です。ここからも「塩飽」は、本島であることが裏付けられます。
 塩飽諸島に含まれる「塩飽」「手嶋」「さなき」の3地域が異なる船籍として表記されていることは、互いの廻船運用の独立性を示すものでしょう。
 比較のために小豆島を見てみましょう。
塩飽諸島の島々よりはるかに大きく、港も複数あった小豆島の船籍は「嶋(小豆島)」の一船籍のみです。これは島内の水運業務が一元的に管理されていたことを示すようです。このことから推せば、「塩飽」の船籍に手島・佐柳島は含まれないのだから、江戸時代の「塩飽島=塩飽諸島」のような領域観は中世にはなかったことになります。
 それでは広島・牛島・高見島等の島が『入船納帳』に見られないのはどうしてなのでしょうか。
①水運活動をしていなかったか、
②「塩飽」水運に包摂されていたか
のどちらかでしょうが、②の可能性の方が高いでしょう。そうだとすれば当時の「塩飽=本島」の統制範囲が見えてきます。

家久君上京日記」のブログ記事一覧-徒然草独歩の写日記
島津家久の上京日記のルート

天正三年(1575)四月の島津家久の上京日記には、次のように記されます。
「しはく二着、東次郎左衛門といへる者の所へ一宿」し、翌日は「しはく見めくり候」と見て歩き、翌々日は「しはくの内、かう(甲生)といへる浦を一見」し、福田又次郎の館で蹴鞠をしています。
「しはく二着」というのは、島津家久が「塩飽=本島」に着いたことを示しているようです。その島に「かう(甲生)」という浦があることになります。これも「本島=塩飽」説を補強します。
1 塩飽諸島

近世以前に塩飽諸島のそれぞれの島が、どこに所属していたかを史料で見ておきましょう。    
①備前国児島に一番近い櫃石島は「園太暦』康永三年(1244)間二月一日の記事(『新編丸亀市史4史料編』60頁)によれば備前国に属しています。13世紀には櫃石島は、塩飽地域ではなかったことになります。
②応永十九年(一四一二)二月、四月頃、塩飽荘観音寺僧覚秀が京都北野社経王堂で、 一切経書写供養のため大投若経巻第五百四を書写しています。その奥書の筆者名には「讃州宇足津郡塩飽御庄観音寺住侶 金剛仏子覚秀」と記しています(〔大報恩寺蔵・北野天満宮一切経奥書〕『人日本史料 第七編之十六)。この観音寺は本島泊の中核的寺院であった正覚院のこととされています。ここからは、本島は宇足津郡(鵜足郡)であったことが分かります。
③弘治二年(1556)九月二十日の「讃州宇足郡塩飽庄尊師堂供養願文」(『新編九亀市史4史料編』九)は、本島生誕説のある醍醐寺開基聖宝(理源大師)のための堂建立に関する願文です。その中に
「抑当伽藍者、当所無双之旧跡、観音大士之勝地、根本尊師霊舎也」

とあり、これも正覚院に建立されたものであることが分かります。ここでも本島の所属は「宇足郡」です
④正覚院所蔵大般若経巻第四(天正十二年(1585)六月中旬の修理奥書には、次のように記されています。
「讃州宇足郡塩飽泊浦衆分流通修幅之秀憲西山宝性寺住寺」

泊浦は本島の主要湊のひとつです。
②③④からの史料からは、中世後期の本島は鵜足郡に属していたことが分かります。
次に、塩飽諸島西南部の高見島について見ておきましょう。
⑤享禄三年(1530)八月ニー五日の「高見嶋善福寺堂供養願文」(香川叢書)の文頭には「讃州多度郡高見嶋善福寺堂供養願文首」と記されます。ここからは高見島は多度郡に属していたことが分かります。佐柳島は高見島のさらに西北に連なります。佐柳島も多度郡に属していたと見るのが自然です。
尾上邸と神光寺 | くめ ブログ
広島の立石浦神光寺
④延宝四年(1676)一月銘の広島の立石浦神光寺の梵鐘には「讃州那珂郡塩飽広島立石浦宝珠山神光寺」とあります。広島は那珂郡に属していたようです。

以上を整理すると、各島の所属は次のようになります。
①櫃石島は備前
②塩飽嶋(本島)は、讃岐鵜足郡
③高見島は、讃岐多度郡
④広島は、那珂郡
ここからは今は、中世には櫃石島と本島、高見島や広島の間には、備前国と讃岐国との国界、鵜足郡や那珂郡、そして多度郡との郡界があったことが分かります。近世には塩飽諸島と一括してくくられている島々も、中世は同一グループを形作る基盤がなかったようです。つまり「塩飽」という名前で一括してくくられる地域は、なかったということです。
 以上から、「塩飽嶋」は近世以前には本島一島のみの名であり、 その他の島々を「塩飽」と呼ぶことはなかったと研究者は指摘します。それが本島がこの地域の中核の島であるところから、中世以後に他の島も政治、経済的に塩飽島の中に包み込まれていったのではないかという「塩飽嶋=本島」説を提示します。
3塩飽 朱印状3人分
上から家康・信長・秀吉の朱印状(塩飽勤番所)
「塩飽島=塩飽諸島」と認識されるようになったのはいつからなのでしょう。
それは、豊臣秀吉の登場以後になるようです。秀吉が、塩飽の人々を御用船方衆として把握するようになったことがその契機とします。この結果、天正十八年に地域全体の検地が行われます。これによって「塩飽島」の範囲が確定されます。検地に基づき朱印状を給付して1250石の田・屋敷・山畑を船方650人で領知させます。この朱印状が「人名」制の起源になります。「塩飽島」と称するようになったのは、それ以後なのです。
 しかし、それでは本島を区別するのに困ります。そこで「塩飽島」を本島と呼ぶようになったと研究者は考えているようです。そうだとすれば、戦国時代に吉利支丹宣教師が立ち寄り、記録に残した「シワク(塩飽)」は、本島のことになります。
3塩飽 秀吉朱印状

以上をまとめておくと
①中世は現在の本島を「塩飽嶋」と呼んだ。「塩飽島=本島」であった
②本島周辺の備讃の島々は、国境や郡境で分断されていて「塩飽諸島」という一体性はなかった。
③秀吉の朱印状で水主(人名)に領知されて以後、「塩飽嶋」が周辺島々にも拡大されて使用されるようになった。
④そのため中世以来「塩飽嶋」と呼ばれてきた島は「本島」とよばれるようになった。
⑤キリスト教宣教師の記録に記される「しわく島」は本島のことである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「加藤優
   塩飽諸島の歴史環境と地理的概観 徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」

              
ザヴィエルが日本にやてきたころの讃岐の情勢は?
 ①守護細川氏が衰えた結果、武士間の対立抗争が激化
 ②分裂状態に乗じて阿波の三好氏の讃岐進出が始まる。
 ③三好氏の西讃侵入と、天霧城主の香川之景の従属。
 ④信長が三好氏を破ると、讃岐武士団も相続いで信長の支配下に
 ⑥天正六年(1578)に土佐の長宗我部元親が讃岐侵攻。
このように十六世紀後半の讃岐は、中世来から近世への大きな歴史の転換期にさしかかっていたようです。うち続く戦乱の中で、民衆たちは心の平安を求め、新しい時代の生き方を模索していたのかもしれません。それに応じるように。新しい宗教運動が展開されていました。讃岐にも阿波郡里の安楽寺から讃岐山脈の峠を越えて、浄土真宗興正寺派の教線が急速に伸びてきたのもこの時代です。
 一方、目を海に転じると行き交う船には、今まで目にしたことのない「南蛮人」が乗り込みキリスト教の布教のために、瀬戸内海を往来し始めていました。イエズス会の宣教師達は、その際の拠点として本島に立ち寄っています。
今回は本島に立ち寄った宣教師達を視ていくことにします。
彼らは個人で布教に日本にやって来ているわけではありません。イエズス会という巨大な宗教団体の一員として、神との契約に基づいてやっていていました。その組織は軍隊的でさえありました。自分の活動については上司に定期的に報告する義務がありました。エリアの総括本部では、それを本国やバチカンに年次報告として定期的に送っていました。その記録が残っているのです。もちろんラテン語で書かれています。
『1598年の日本におけるキリスト教界報告:日本の王、太閤様(豊臣秀吉)の死について』(ほか3書簡収録)

パシオ、ゴメス『1598年の日本におけるキリスト教界報告
:日本の王、太閤様(豊臣秀吉)の死について』


6 塩飽と宣教師 ルイス・フロイスLuis FIols
フロイス
    
 イエズス会ルイス・フロイスLuis FIols神父,
同宿少年3,4名,キリシタン3,4名 (インド人1名,シナ人1名を含む)
アルメイダ1565年10月25日付書簡フロイス「日本史」
永禄七年(1565)に、フロイスがアルメイダなど四人の宣教師と一緒に、寒い12月に伊予の堀江から6日かかって、塩飽に上陸しています。これが記録上、宣教師が塩飽島に寄港した最初の記録のようです。
6 塩飽と宣教師 瀬戸内海地図

 彼らの塩飽に至る経路を見てみると、平戸を1564年11月10日出発。キリシタン大名として有名な豊後の大友宗麟に会うために臼杵に上陸し、その後に府内(今の大分市)に移動し、宗麟と会見します。大分港から出航しようとしますが、晩秋の北西風が続いたために府内に1カ月の滞在をを余儀なくされています。好天になった1565年1月1日になってやっと出航します。
 この時期の瀬戸内海廻船は、冬には船を動かさないことがセオリーだったので、無理な航海だったようです。伊予の堀江で8日滞在後に、1月中旬に塩飽に到着しています。当時の塩飽は、海のハイウエー瀬戸内海のサービスエリアのような役割を果たしていました。塩飽にやって来て、船を乗り換えて目的地をめざす人たちが多かったようです。
「塩飽まで行けば、なんとかなる」「まずは塩飽を目指せ」

というのが旅人の常識であったようです。それだけ塩飽が瀬戸内海ネットワークの重要な拠点であったことが分かります。
 しかし、時期が悪かったようです。冬の瀬戸内海を航海する船は少なかったようです。正月の塩飽には堺行きの便船なく、海賊を心配しながら小舟で坂越(サコシ、現在赤穂市東部にある小港)に移ります。そこで10日程便船を待ち1月27日に堺に上陸し、31日に京都に着いています。この時の平戸から京都の旅は、風向きや船便が悪く80日近くを要しています。
  宣教師が塩飽に立ち寄ったことが分かる最初の史料なのですが、残念ながら塩飽のことは何も触れられていません
6 塩飽と宣教師 ルイス・フロイスnihosi

1574年(天正2年2月~)  日本布教長フランシスコ・カブラル
  カブラルは、イエズス会の日本布教区の責任者でした。日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的だったために、後に巡察師ヴァリニャーノに批判され、解任されます。

 カブラルは、第2回の五畿内巡察行のために、当時の伝道センターである「シモ」(西九州)の口之津を1573年9月7日出発し、島原・府内(大分市)・博多・下関などを経て山口に到着します。ここで3ヶ月滞在・伝道した後に、翌年2月岩国から堺へ向かう船に乗り込みます。春が来るのを待っていたのかもしれません。しかし、患っていた熱病が悪化します。それを助けたのが異教徒の「海賊船頭」です。
7安芸川尻

この船頭は安芸川尻の九郎右衛で自宅にカブラルを連れて行き20日程療養させています。このあと一行は、九郎右衛の船で塩飽(本島の泊港?)に送られてきます。この時期は、村上水軍が塩飽までも支配下に置き、瀬戸内海に「海の平和」がもたらされていた時代です。川尻の船頭は村上水軍の配下にあったのかもしれません。船の通行に問題はなかったようです。しかし、カブラルの病気は良くなりません。塩飽でも8日間の療養を余儀なくされます。

6塩飽地図

この間、同行のトルレス修道士は、塩飽の人々に説教を行ないます。その結果、世話になっていた宿の主婦が受洗します。この女性が讃岐で最初のキリシタンのようです。宿の主人は、その勇気がなかったようで、この時には洗礼をうけていません。しかし、8年後の1581年4月14日付フロイス書簡には
「塩飽の我等の宿の主人であるキリシタンその他が・・・」
「塩飽での良き協力者」
と書かれているので、のちにキリシタンになったようです。が、彼の受洗入信の記録はないようです。
   カブラルが世話になった「宿の主人」については、どういう人物か分かりません。
彼は、カブラルを自宅で療養させ塩飽まで送り届けた安芸川尻の船頭「九郎右衛門」の友人だったようです。また、塩飽の有力者で立派な家を持ち、この時から
「我々(イエズス会士たち)が通過する時には、いつも宿を提供してくれる地元の顔役」(「日本史」1581年記事)

だったとも記します。そして、1585年フランシスコ・パシオ神父一行が豊後から塩飽にやってきた時は、塩飽の領主である小西行長から島の代官と共に、この「宿の主人」にも事前に歓待依頼の手紙が来た程の存在でした。
 ここからは瀬戸内海を行き来する宣教師がふえ、塩飽へ寄港することが多くなるにつれて、キリスト教に改宗し布教活動を助ける人たちが現れていたことが分かります。

 カブラルが回復すると出港しますが、塩飽から堺への途上では多数の海賊船に襲われることもあったと記します。海の関所の通行料「関銭」徴収が、このエリアではまだ行われていたことがうかがえます。 3月末には堺に到着し、4月中旬には入洛し、京都にやってきていたた織田信長に再度謁見しています。

1577年 (天正4年12月)8日間  ルイス・フロイス神父 

ルイス・フロイスは、その後10年余り「ミヤコ地区」の布教長として京都周辺の布教活動に関わっていました。カブラルの命で、オルガンチーノ神父に交替して京都を離れることになります。それが1576年の大晦日で、年を越えた1月3日に兵庫から豊後へ向う船に乗船します。途中海賊船数隻の追跡を受けたと記しますが、無事「塩飽の港」(泊港)に着きます。これが彼にとっては塩飽、二度目の滞在になります。ここで、塩飽以西の航路の案内人が来るまで8日間滞在しています。
 当時は、先ほども述べましたが塩飽は、村上水軍の支配下にありました。
 芸予諸島から村上水軍の「上乗り案内人」がやって来て「関銭」を支払って、その代償に航海の安全が保証されるシステムでした。
 それに対して塩飽以東の航路については、先ほども見たように、海賊船の出没が記録されています。しかし、攻撃を受けているわけではないので「関銭」を船上で納めていたのかもしれません。同時に、このエリアは村上水軍や塩飽衆の勢力範囲でなかったことがうかがえます。
 塩飽での滞在中にフロイスは、宿(3年前に主婦がこの地域で初めてのキリシタンになった家)の主人や家族を含め人々に数回説教し、質疑に答えています。そのうちの数名はキリシタンになりたいと希望しますが、長く滞在できなかったので、後日の機会に延期しています。
 たまたま宿の隣人が重病を煩っていて、宿の主人からせがまれたフロイスが手持ちの薬剤を与えたところ、快方に向かいます。そのため「名医」の評判が立ち、宿の家は怪我人病人を連れてきて薬を懇願する人々で一杯になつた、という余談も記しています。フロイスらしい筆まめさが出ています。「現世利益・病気退散」が行える宗教家を、庶民は求めていたのです。
 フロイスは、このようにして8日間を塩飽で過ごします。そして、天正4年12月30日(西暦に変換すると1577年1月18日)に、次なる任務地である豊後に到着しています。
5 堺南蛮貿易

  1581 (天正9年2月) イエズス会巡察師ヴァリニャーノ
(同伴者 ルイス。フロイス神父, 他に神父3名,修道±3名)
「1581年度イエズス会日本年報」(G.コエリコ執筆),
6 塩飽と宣教師 ヴァリニャーノ
ヴァリニャーノ
 イエズス会巡察師ヴァリニャーノは、フロイス等を伴い、1581年3月8日豊後府内(大分市)を出発して畿内に向かいます。出発に先だって、山口の国主毛利(輝元)が、自領の港や塩飽港(当時毛利領)に寄港するバテレンをすべて捕らえるよう命令しているとの情報を得ます。加えて『我々(イエズス会士たち)が通過する時にはいつも宿を提供してくれる地元の一人の顔役』からも、塩飽の港に入らないように伝える手紙が送られてきます。しかも乗船予定の船頭は、織田信長やイエズス会に敵対する大坂の浄土真宗の信者だったので、一層不安になります。しかし、彼の船以外に便船はありません。乗る外なかったようです。
 大友宗麟は船頭に塩飽など、毛利勢力下の港に立ち寄らないように約束させますが、船頭は約束に反して塩飽の泊(Tamari←Tomario paragemとも)港に入港します。一行は恐怖でパニック状態になりますが、泊港で過ごした一昼夜の間は、毛利の代官が不在だったので拘束されることはなかったようです。しかし「常宿の主人」は、できるだけ早く塩飽を離れるようにと助言します。
 それに従って翌日には出港し、寄港予定だった室津や兵庫の港には寄らず、淡路の岩屋港に寄港します。ここでも一晩過ごしただけで、青年漕ぎ手30人の快速船を用立てて、折しも吹く西風を受けて堺へと向かいます。ところが兵庫沖で待ち構えていた大きな海賊船(通行税取り?)が追いかけてきます。結局、堺の港の直前でで追い付かれ、求める金銭を支払ったと記します。
 ここからは「関銭」の徴収方法が、村上水軍のように「上乗り」制度というスマートな方法でなく、現地徴収方法だったことがうかがえます。このエリアの海賊たちが組織化されていなかったようです。
 堺に上陸したのは、豊後を出て10日目の3月17日のことです。寄港地に長逗留せずに、最短で目的地を目指すと瀬戸内海は、この程度で航海可能だったことが分かります。

 このあとヴァリニャーノは、約5ヶ月間、畿内のミヤコ地区を巡察し、織田信長にも何度か謁見する機会を得て厚遇されています。
 ちなみに9月初めに近畿視察を終えて、豊後に戻る時は土佐沖航路で約1ケ月を費やして豊後に戻っています。それだけ往路で経験した「海賊と毛利氏からの危険」を避けたかったのでしょう。

1585年7月12日(天正13年6月15日)フランシスコ・パシオ
[史料]パシオ1585年7月13日付牛窓発信書簡

7月6日(陽暦)パシオ神父は、堺へ向かって豊後佐賀関を出発し、6日後の12日に塩飽に到着します。当時の瀬戸内海は、秀吉が四国平定のための軍勢集結準備の真っ最中でした。牛窓と小豆島を秀吉から与えられた小西行長は、東瀬戸内海の制海権を握って活動中でした。「海の司令官」として、行長は四国遠征の最後の連絡のために各拠点を忙しく巡回していた時期になります。
 行長は父と共に入信していて、当時は高山右近を見習い、小豆島にキリスト教の「地上の楽園」建設を目指している最中でした。そのためイエズス会宣教師から見ると頼りになる「青年海軍指令官」でした。
 その行長から塩飽の殿Tono(ここでは代官)に対して、室津までの船の用意と歓待が依頼されていたようです。「我等が同地を通過する時に泊る宿の主人」にも、行長から同様の手紙がだされていました。
 塩飽に派遣されてきた行長家臣の案内で、パシオは日比(現在岡山県玉野市)に渡ります。翌早朝、四国派遣軍の輸送船団を指揮する行長の姿を見ています。行長は「十字架の旗を多数立てた大船」でパシオを大いに歓待し、堺への軽快な船と護衛兵士を用意し、送りだしています。それが、翌々年の九州遠征後の秀吉のバテレン追放令で、小豆島が右近の亡命先になるとは、この時点では思ってもみなかったことでしょう。

1586年4月  イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョ
ルイス・フロイス神父, 外に神父3名,修道±3名
ガスパル・コエリョ
1586年3月6日準管区長コエリョは、フロイス等を伴い、大坂に向かって長崎を出発します。秀吉は翌年の九州平定に向けて、キリスト教勢力の協力を取り付けようとします。その代償として、秀吉から布教の特許状が出ることになったようです。そのためのキリスト教側の使節が大坂に派遣されることになります。
 航路は、西彼杵半島の西岸沿いの海路で平戸を回り、博多・下関・上関等を経て塩飽にやってきます。塩飽到着は4月10日(天正14年2月22日)前後です。この時の塩飽滞在については、フロイス「報告書」にも「日本史」にもはっきりした記事は残されていません。
「報告書」に
「アゴスチニヨ弥九郎殿(小西行長)は、船をもって我等を迎えるため(塩飽に)家臣数人を遣わした。」

とあります。小西行長は、四国平定が終わった後も「海の青年司令官」として、秀吉の命令で瀬戸内海の各地に命令を伝え、現地司令官と協議を重ねてる忙しい日々を送っていたようです。先を急ぐ使節団に早舟の手配を行ったかもしれません。そうだとすれば塩飽への寄港・滞在はなかったでしょう。大阪城に向けての急ぎ旅だったので、潮待ちで滞在したとしても短期間だったでしょう。
 塩飽からは室津・明石・兵庫を経て、4月24日(邦暦3月6日)に堺に上陸します。長崎から50日かかった、と記されています。10日後の5月4日コエリョは、神父・修道士達を伴って大坂城に入り、秀吉に謁見し、1ヶ月半後に待望の布教特許状が下されます。
   大任を果たし意気上がるコエリョー行は、7月23日に豊後へ向かって堺を出発します。
この時に小西行長からひとつの要望がありました。
それは行長が「地上の楽園」の建設を行っていた小豆島に、布教のために適任者を派遣して欲しいという願いでした。「海の司令官=行長」の要望を断るわけにはいきません。そこで、一行に加えられた大坂のセミナリヨのグレゴリオ・デ・セスペデス神父が小豆島に派遣されることになります。彼は牛窓で一行と分かれ、日本人修道士ジアンと共に小豆島に入り布教活動を始めます。そして短期間に1400人余に授洗したと報告しています。
 コエリョー行は、室津牛窓を経て能島の海賊頭とイエズス会員達の安全通行を交渉した後、伊予に赴きます。復路では塩飽には立ち寄っていないようです。
 伊予に立ち寄った目的は、四国平定後に伊予領主となった小早川隆景に会うためです。
毛利・小早川氏は、それまでキリスト教布教には好意的でなかったようです。それを秀吉の布教特許状を頼りに、山口と伊予に教会のための土地を要望します。これに対して、隆景の反応は以外にも好意的で2ヶ所とも許可されます。伊予で数日過ごした後、豊後の臼杵に到着しています。ここからは彼らの布教拠点が、豊後臼杵であったことが分かります。

その後、伊予道後の隆景から与えられた地所には、教会堂や司祭館が建てられたと云います。この時期が宣教師にとっては、日本布教に大きな展望が開け期待が膨らんでいた時期でした。翌年の7月、九州遠征終了後に秀吉は、伴天連追放令を出すのです。松山の教会も破壊されたようです。
  
 初めて塩飽に宣教師が寄港してから、秀吉のバテレン追放令までの宣教師の通ったルートを見てきました。そこからは、次のような瀬戸内海交通路とキリスト教の布教ルートが見えてきます。
①1556年を境として、キリスト教布教の中心地は山口から豊後に移ると、宣教師の出発地点も、豊後に移動している。
②大内氏にかわって毛利氏が実権を握り、キリスト教を禁止するようになると、宣教師の航行路は瀬戸内海北岸ルートを避けて、南岸ルートに変化し伊予ルートが多くなる
③瀬戸内海航行の各船頭間には、密接な連絡網があり相互に航行範囲の分担があった
④瀬戸内海航路の終着地点としての堺が、交易物資の独占的な集積地となり、その富を背景に新しい文化の享受地となっていた。
⑤宣教師は、イルマン(修道士)や日本人改宗者を伴い、行く先々で民衆と交わり、医療・教育・社会活動などを通じて信者を獲得している。
⑥永禄3年(1560)には、将軍足利義輝から教会保護の約束をとり、
⑦永禄12年(1569)には、織田信長から布教許可を得て、
「上からの布教」方法も取り入れた積極的な布教活動を行った。
 その結果、信者数は宣教師の報告によれば次のように増加しています。
 元亀元年(1570) 2~3万人
 天正9年(1582)  15万人、
 天正18年(1590) 25万人
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  下の表は明治5年の壬申戸籍に基づいて作成された集落別職業別戸数です。
3  塩飽 戸籍$pg

塩飽の各集落の職業別戸数にもとづいて、地区ごとの大工比率が出されています
(イ)は大工数で総計は707人
(エ)が地区戸数で塩飽全体の総戸数が2264戸
(イ)÷(エ)=(オ)で、全体で31%、3軒に1軒が大工
ということになります。
細かく見ていくと本島の大浦・尻浜・生ノ浜、広島の茂浦・青木・市井、豊島の7集落は、半数以上が大工です。漁民の数と大工の数が、ほぼ一緒なのです。漁民の多い本島小阪、佐柳島、瀬居島には大工が少ないようです。
 私は塩飽の大工について、次のように考えていました。
廻船業で活躍した人たちは、海上運送業業の不振と共に漁業に進出するようになった。同時に、造船業に従事していた船大工が宮大工や家大工に「転進」したと、勝手に考えていました。しかし、この表からは私の予想しなかった塩飽の姿が見えてきそうです。
塩飽の大工集団がどのように形成されたのかを探ってみましょう。
まずは塩飽に木材加工職人や船大工が大量に入ってきた時代があります。その時代のことを見てみることから始めましょう
文禄元年の豊臣秀次の塩飽への朱印状に、塩飽代官に朝鮮出兵に向けての「大船」を作ることが命じられたことが記されています。時の代官は、そのための船大工や木材を集めます。この時代の塩飽や小豆島は、キリシタン大名の小西行長の支配下にありました。堺の通商ネットワークに食い込んでいる小西家によって各地から船大工をはじめとする造船技術者たちが塩飽本島に集められ、大船建造のための「造船所」がいくつも姿を現したのでしょう。そこでは朝鮮出兵のための軍船が造り続けられます。
3  塩飽 関船

この時には「関船」という軍船を短期間で大量に作ることが求められました。そのため技術革新と平準化が進んだと研究者は考えているようです。
  この時に新開発されたのが「水押(みよし)」だと云われます。
3  塩飽  水押

水押は波を砕いて航行することを可能にし、速力が必要な軍船に使われるようになります。それが、江戸初期には中型廻船にも使われるようになり、帆走専用化の実現で乗員数減にもつながります。船主にとっては大きな経済的利益となります。これが弁才船と呼ばれる船型で、塩飽発祥とも言われますが、よく分かりません。
3  塩飽  弁財船

この弁財船をベースに千石船と呼ばれる大型船が登場してくるようです。
 江戸時代になると塩飽は、廻船業を営む特権的な権利を持ちます
 そのために造船需要は衰えません。また、和船は木造船なので、海に浮かべておくと船底に海草や貝殻が生じ船脚が落ちます。それを取り除くためには「船焚(タデ)」が必要ですし、船の修繕も定期的に行なわなければなりません。
4 船たで1
船焚(タデ)で船底を焦がして、フナムシを駆除
牛島の丸尾家や長喜屋などの大船持になると、専用の修繕ドッグを持っていたと伝えられます。このように塩飽には、大小の船持が多くの船舶を持っていて、高い技術を持った船大工も数多く揃っていたのではないでしょうか。そこで作られる廻船は優れた性能で、周囲の港の船主の依頼も数多くあったのかもしれません。こうして、近世はじめの塩飽には、船大工が根付く条件が備わっていたのではないかと研究者は考えているようです。
  塩飽の造船所については、ドイツ人医師・シーボルトが「江戸参府紀行」に、次のように書き残しています
 文政九年(1826)6月12日の本島・笠島港の見聞です。
 六フイートの厚さのある花崗岩で出来ている石垣で、海岸の広い場所を海から遮断しているので、潮が満ちている時には、非常に大きい船でも特別な入口を通って入ってくる。引き潮になるとすっかり水が引いて船を詳しく検査することが出来る。人々は丁度たくさんの船の蟻装に従事していた。そのうち、いく隻かの船の周りでは藁を燃やし、その火でフナクイムシの害から船を護ろうとしていた。
  ここからは次のような事が分かります。 
①花崗岩の石垣で囲まれた造船所ドッグがあり、潮の干満の差を利用して入港できる
②引潮の時に何艘もの船がドッグに入って艤装作業が行われている
③藁を燃やし船焚(タデ)作業も行われている
造船所の構造と船タデの様子が、よく分かります。そして、ここは下関と大阪の間で、船を修理するのにもっとも都合のよい場所だという註釈まで加えられているのです。笠島浦に行った時に、この「造船所跡」を探しましたが、いまはその跡痕すらありませんでした。ちなみに、備後の鞆には残っているようです。

4 船たで場 鞆1
            鞆の船焚場跡

従来の説では、塩飽の宮大工は船大工が「陸上がり」したものだと云われてきました。
 塩飽で船持が鳴りを潜めた時代に、船大工から家大工への「転身」が行なわれたというのです。造船や修繕の需要が少なくなって、仕事がなくなった船大工が宮大工になることで活路を見い出したという説です。瀬戸内海を挟んだ岡山県や香川県には、塩飽大工が手がけた社寺が幾つも残っています。それらの寺院や神社建築物の建立時期が、塩飽回船が衰えた18世紀半以降と重なります。

3 吉備津神社
 例えば、岡山県吉備津神社がそうです。
備中一の宮にあるこの建物は鳥が翼を拡げたような見事な屋根を持ち「比翼入母屋造吉備津造」で名高いものです。この本殿・拝殿の再建・修理が宝暦九年(1759)から明和六年(1769)にかけて行なわれています。そのときの棟札には、泊浦(塩飽本島)出身の「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」と工匠の名前が墨書されています。
 
4 塩飽大工 棟札
吉備津津神社本殿修造の棟札。
下部中央には「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」の名がある(岡山県立博物館蔵)


以前にも紹介しましたが、善通寺の五重塔も塩飽大工の手によるものです。幕末から明治にかけて長い期間をかけてこの塔を再建したのも塩飽大工左甚五郎です。
  彼らは浦ごとに集団を組んで、備中や讃岐から入ってくる仕事に出向いたようです。それが次第に仕事先の丸亀や三豊の三野、金毘羅あたりに定住するようになります。このように塩飽の宮大工が、船大工に「転身」したという従来の説は、大筋では納得のいくものです。しかし、これに対して「異議あり」という本が出ました。これがその題名もそのもの「塩飽大工」です。この本は、地元の研究会の人たちによる備讃瀬戸沿岸の塩飽大工の手による建築物の調査報告書的な書物です。
4 塩飽大工
その中で、調査を通じて感じた「違和感」が次のように記されています。
自分の家を家大工に立てさせた宮大工
 塩飽本島笠島浦の高島清兵衛は宮大工で、1805文化2年に月崎八幡神社鐘楼堂(総社市)を弟子の高島輿吉、高島新蔵とともに建ています。同じ文化2年に清兵衛の自宅を、隣浦の大工妹尾忠吉に建てさせているのです。その棟札に宮大工の清兵衛一族の名はないというのです。つまり、宮大工として出稼ぎに出ている間に、島の自宅を地元の家大工に建てさせているのです。ここには、船大工、宮大工、家大工の間に、大きな垣根があったことがうかがえます。宮大工が片手間に民家を建てることや、船大工が宮大工の仕事に簡単にスライドできるようなものではないようです。それぞれの仕事は、私たちが考えるよりもはるかに分化し、専業化していたようです。
その例を、この本ではいくつかの視点から指摘していますので見ていきます。
例えば、技術面でも船大工と宮大工に求められたものは異なります
船大工は秘伝の木割術に基づき、材の選定、乾燥、曲げ、強度、耐久性、水密と腐食防止等、高度な設計技術と工作技術が求められます。舵・帆柱等は可動性、内装には軽さと強さといった総合的な技術が必要であることに加えて、莫大な稼ぎにかかわるため短期間で完成させなければならないという条件があります。
宮大工は、本堂のような建造物を、数十年という長い年月をかけて、神仏の坐する場所にふさわしい格調と荘厳に満ちたものにする専門技術が求められました。そこには彫刻技術が必須です。
 船は木材の曲げと水密技術が多用されます。それに対して寺社は、曲りを使わずに屋根の曲線は精密な木取りで実現します。宮大工は船大工に比べて非常に高価ないい大工道具を使ったといいます。船は実用性優先で、寺は崇高で洗練されたものでなけらばなりません。
 このように見てくると、従来から云われてきた
「塩飽大工は船大工の転化で、曲げの技術を堂宮造りに活かした」
という説は成り立たないと「塩飽大工」の筆者は云います。棟梁格が臨機に船大工と宮大工を兼ねたということは考えられないとして、塩飽には宮大工と船大工の二つの流れが同時に存在していたとします。
 ただ、小さな民家の場合は、船大工でも宮大工でも片手間で建てることができます。船乗りという仕事は、海の上で限られた人数で、船を応急修繕しなければならないこともあります。みんながある程度の大工技能を持っていたようです。江戸中期までは、冬場は船が動きませんでした。仕事のない冬の季節は、大工棟梁のもとで働く「半水半工」が塩飽にはいたかもしれません。
 ① 廻船業の視点からの疑問
 塩飽の大型船は確かに1720享保5年を境に急激に減っています。
  この背景には幕府の城米の輸送方針の変化があったようです。
 塩飽全体の廻船数は
正徳三年(1713) 121艘
享保六年(1721) 110艘
明和二年(1765)  25艘
寛政二年(1790)   7艘
確かに北前船は激減していますが、実は塩飽の総隻数は漸減なのです。 
3  塩飽人口と船数MG

これは塩飽船が北前船から瀬戸内海を舞台とする廻船に「転進」したことがうかがえます。
塩飽手島の栗照神社を調査したある研究者の報告を紹介します。
北前船の絵馬が5枚あるというので出向いたところ、文化初年(1805頃)を下らない1500石積の大型弁才船が描かれてるものがあったようです。これは北前船の船型ではなく、奉納者はすべて大坂の船主で、船は大坂を拠点にする瀬戸内海の廻船であったことがうかがえます。報告者はこう記します。
「弁才船というのは型の呼称であって、北前船というのは北陸地方を中心とする日本海沿岸地域の廻船の汎称である。戦後日本海運史研究で北前船が一躍表面に出て、北前船が戸時代海運を代表する廻船だったかのように誤解されてしまい、いつの問にか弁才船即北前船と錯覚する向きも出てきた」
 つまり江戸後期になると、弁才船の多くは大坂を拠点に瀬戸内海を走るようになっていたというのです。

3  塩飽  弁財船2
弁財船
その多くは船主が大坂商人で、借船あるいは運行受託になっていたと研究者は考えているようです。
 塩飽の1790寛政2年、400石積以上の廻船数はわずか7隻と記されています。しかし、「異船」が57隻もあります。「異船」と何なのでしょうか?これが持ち主は大坂商人で、乗り組んでいたのは塩飽の船頭に水夫たちだったのではないか、それが東照神社絵馬のような船ではないかと筆者は推測します。
 全国各港に残る入船納帳や客船帳は、江戸中期以降塩飽船の数が減ることを「塩飽衰退の証拠」としてきました。確かに塩飽船主でないため塩飽とは記録されませんが、船頭や水主に塩飽人が混乗する船は多かったと考えられます。
 以上のように塩飽船籍の船は減ったが乗る船はあったので、水主の減り方は緩やかだったとするのです。
明治5年時点でも、塩飽戸数の1割にあたる210戸が船乗りです。文化、文政、文久、万延といった江戸後期の塩飽廻船中が寄進した灯篭や鳥居が、そこかしこにあることからも、塩飽の海運活動の活発さがうかがえます。
次は乗組員(水主)の立場から見てみましょう。
 船乗りは出稼ぎで、賃雇いの水主です。彼らにとって乗る船があればよいのであって、地元船籍にこだわる必要はありません。腕に覚えがあれば、船に乗り続けられます。賃金の面でみても、水主の方が魅力的だったようです。塩飽の水主は多くが買積船に乗り、賃銀に歩合の比率が大きかったため、固定賃銀の運賃積船よりも稼ぎが多かったようです。塩飽の船乗りは、船主は代わっても船に乗り続けていたのです。
 塩飽牛島に自前の造船所を持っていた塩飽最大の船主丸尾家は、
 江戸中期になると、拠点を北前船の出発地である青森へ移します。それは、船造りに適したヒバ材が豊富なで所に造船所を移すというねらいもあったようです。与島にも1779安永8年頃に造船所を造っていますが、そこは小型船専用でした。千石船が入ってくるのは船タデと整備のためだったようです。
 司馬遼太郎の「菜の花の沖」には、廻船商人の高田屋嘉兵衛の活躍と共に、当時の経済や和船の設計・航海術などが記されています。そこにも大型船の新造は、適材を経済的に入手でき、人材も豊富な商業都市・大坂で行われていたことが描かれていました。経済発展とともに大量輸送の時代が訪れ、造船需要は拡大しました。このような中で、塩飽の船大工が考えることは、仕事のある大阪へ出稼ぎやは移住だったのではないかと作者はいいます。確かに塩飽に残り宮大工に転じたと考えるよりも無理がないかもしれません。ちなみに、200石以下の小型船は塩飽でも建造され続けているようです。機帆船や漁船は昭和40年代まで造られていて、船大工の仕事はあったのです。
 船大工は家大工よりも工賃が高かった
 大坂での大型弁才船の船大工賃は家大工に比べて4割程度高かったと云います。塩飽でも1769明和6年に起きた塩飽大工騒動に関する岡崎家文書に、当時の工賃が記されています。
船大工は作料1匁8分、
家大工・木挽・かや屋は1匁7分とある。
日当1分の差は大きく、これも船大工からの転業は少なかったと考える根拠のひとつとされます。この額は、大坂の千石船大工に比べると半分程度になるようです。塩飽の腕のある船大工なら大坂へ出稼ぎに出たいと思うのも当然です。家大工との工賃差が大坂より小さいのは、塩飽では小型船しか作らなくなっていたからでしょう。
誰が大工になったのか
 最初の疑問である
「浦の3軒に1軒は大工の家」という背景をもう一度考えて見ます。これは、は江戸を通じて大工が増え続けた結果だと作者は推測します。その供給源は、どこにあったのか、何故増えたのかを考えます。
人的資源の供給源は「人名株を持った水主家の二男三男」説です。
  以前見た資料を見返してみましょう。
  元文一(1727)年、対岸の備中・下津井四か浦は、塩飽の漁場への入漁船を増やして欲しいと塩飽年寄に次のように願い出ています
 塩飽島の儀、御加子浦にて人名株六百五拾人御座候右の者共へ人別に釣御印札壱枚宛遣わせらる筈に御座候由、承り申し候、六百五拾人の内猟師廿艘御座候、残りは作人・商船・大工にて御座候、左候へば御印札六百余も余慶有るべきと存じ候……。
  ここでは下津井の漁師たちが「塩飽は好漁場を持っているのに人名の船は2艘しかなく、残りは「作人・商船・大工」だと云っています。
  明和二(1765)年の廻船衰退の際の救済申請所には、塩飽の苦境が記されています。
 島々の者 浦稼渡世の儀、先年は回船多く御座候に付、船稼第一に仕り候得共、段々回船減じ候に付、小魚猟仕り候者も御座候。元来小島の儀に御座候得者、島内に渡世仕り難く、男子は十二三歳より他国へ罷り越し、大工・・
と、塩飽には仕事がないので12、3才から宮大工や家大工の弟子になり、棟梁について他国へ出稼ぎに出ていると、島の困窮を訴えっています。
 ここからは塩飽には18世紀から大工が多くいたことが分かります。この上に次のようなストーリーを描きます
① 島には古くから続く宮大工家があった
② そこに人名株を持った次男・三男が預けられた
③ 素質のある者は宮大工になり、並の者は家大工になった。
④ 名門宮大工家には弟子たちが養子入りした事例が多いのは、技術の伝承目的もあった
  このようにして、宮大工の棟梁が住む浦には大きな大工集団がうまれていったのです。
塩飽本島の春の島巡礼をお接待を受けながら歩いていると、大きな墓石に出会います。
3  塩飽  人名墓
幕府はたびたび
「百姓町人の院号居士号は、たとえ富有者や由緒有る者でも行ってはならず、墓碑も台石共で高さ4尺(約121cm)まで」
と、「墓石制限令」をだしています。しかし、水主家や大工家の墓は、この大きさを超え名字を記したものが数多くあります。このような大きな墓が建てられること自体、宮大工の人名の家は裕福だったようです。
  以上をまとめておきます。
①秀吉の朝鮮出兵の際に、塩飽は関船の造船拠点となり、多くの船大工がやってきた
②短期間で大量の関船を造るために「水押」などの新技術が採用された
③江戸時代になっても塩飽は廻船拠点として、造船・修繕需要があり船大工は定着していた。
④これに対して、宮大工の系譜を引く集団も中世以来存在した。
⑤廻船業が普請になると、廻船業者の次男たちは宮大工の棟梁に預けられた
⑥浦毎に組織された大工集団は、備前・備中・讃岐の寺社建築に出稼ぎに呼ばれるようになる
⑦その結果、腕の立つ棟梁のいる浦には、その弟子たちを中心に大工集団が形成された。
こうして形成された山下家の大工集団からは、出稼ぎ先の三豊に定着し、三野の本門寺や仁尾の寺社の建築物を手がける者もあらわれます。そして、その中からは以前に紹介したように、琴平に移住して、旭社(旧金堂)建立の際には棟梁として活躍する者もあらわれるのです。
   備讃瀬戸の真ん中の塩飽に住んで、周囲の国々をテリトリーにして活躍する宮大工集団がいたのです。それが明治の戸籍には痕跡として残っているようです。

参考文献 高倉哲雄・三宅邦夫 塩飽大工 塩飽大工顕彰会

塩飽勤番所
「1150石の領主」となった塩飽人名には、どんな里役(義務)があったのでしょうか?
 戦時においては船を持って参戟し、この軍隊や城米を目的地まで運ぶのが、御用船方を命じられた塩飽の役目でした。注意しておきたいのは「水軍」ではなく「輸送部隊」であったことです
 この外に長崎奉行の送迎があります
 長崎は江戸時代には、唯一外国に開いた貿易港です。その長崎奉行は長崎の市政や貿易を担当し、九州大名の監督や密貿易の取締りにあたる長官です。定員は二人で任期は一年、交替で長崎に赴任しました。塩飽は承応三(1654)年以来、交替する奉行を大坂から小倉まで送り、さらに任期を終えた奉行を待って、大坂まで送迎するのも御用船方の任務でした。これには50人前後の水主(かこ)が、2ヶ月近く動員されています。
 また、朝鮮通信使400人ほどの使節団が、将軍の代替わりごとに来日します。
江戸時代を通じて12回来ていますが、この使節団を大坂川口から淀まで、川船で輸送することが塩飽に命じられました。塩飽か実際に出動したのは、享保4年、延享5年、宝暦14年の三回です。享保のときには、大坂で5671の水主を雇い、延享には銀三八貫目余、宝暦には銀四〇貫目余が支出されています。その外、城普請の資材の運搬とか、幕府が派遣する上使の運送などの御用を務めています。
   北前船 塩飽廻船の栄光
  当時の「大量輸送」の主役は船です。研究者の計算によると、千石石の米を輸送するのに、
①1000石 ÷ 馬一頭の積載量四斗(俵二俵) 
          =12500頭の馬と同数の馬子
②1000石 ÷ 千石船 =1艘
という計算になります。千石船は、乗組員が十数人で動かせます。食事・宿泊費を考えると、輸送距離が長くなっても、船の方が断然経済的です。酒田港で船積みされた城米は、日本海、瀬戸内海を通って大坂へ、更に江戸へとつなぐ西廻り航路によって輸送されるようになります。この航路は、約1300キロの長距離です。しかし、太平洋側の東廻り航路より安全で、運賃も米百石について
①東廻りの22両2分
②21両
1両ほど安かったので、日本海側の物資は西廻り航路が選ばれるようになります。これらの船が金になる物資を積んで瀬戸内海を上っていくのです。一艘の北前船が寄港するだけで、その港は潤いました。
塩飽廻船の最盛期を過ぎていますが、正徳三年(1713)の記録によれば、
①当時の塩飽船数総数   476艘で、
②150石積~200石積 112艘
③200石積~300石積 360艘
で、毎年7万石の東北の城米を運んでいます。往路には塩、砂糖、織物など瀬戸内の産物を積み、帰路には、米以外に魚肥、塩干魚、昆布などを買い入れています。
 当時の塩飽の人口は10723人、そのうち船稼者3460人です。それでも船乗りが足らなかったようで、北岸の備中児島から多くの水主を雇っています。
3  塩飽人口と船数MG

     しかし、塩飽廻船の全盛期も元禄年間くらいまででした。
諸国廻船を使って、町人が塩飽廻船よりも安い運賃で城米の運送を請け負い始めたのです。享保五年に幕府は、北国・出羽・奥州の城米の東廻りによる江戸への廻米を江戸の廻船問屋筑前屋作右衛門に命じ、翌年には越前の城米も西廻りによる運送も彼に命じます。つまり城米の運送を町人に請け負わせることにします。これまでの城米の「雇直送方式から請負雇船方式」へ切り換えられたのです。城米運送の御用船として塩飽廻船の持っていた特権はなくなります。船賃競争に破れた塩飽の廻船数は、西回り航路の舞台から時代に「退場」していくことになります。
 牛島の廻船は享保六年は43嫂ありました。しかし、7年後には約半分の23嫂に激減しています。この背景には幕府の城米の輸送方針の変化があったようです。
 塩飽全体の廻船数は
正徳三年(1713) 121艘
享保六年(1721) 110艘
明和二年(1765)  25艘
寛政二年(1790)   7艘
と急激に減っています。これは塩飽の地域経済に大きな影響と変化をもたらします。
明和二年(1765)に勘定奉行に差し出した書状には
 島々の者浦稼ぎ渡世の儀、先年は廻船多くご座候に付、船稼ぎ第一につかまつり候えども、段々廻船減じ候に付、小魚猟つかまつり候者もご座候、元来、小島の儀に候えば、島内にて渡世つかまつり難く、男子は十二三歳より他国へまかり越し、廻船、小船の加子、または大工職つかまつり、近国へ年分渡世のためまかりいで候、老人妻子ども畑作渡世っかまっり候
 とあり、
①かつては、廻船が多く船稼ぎで生活していたこと
②ところが廻船業が衰退し、漁場を行う者や
③島には仕事がないので、島外に出て水夫や大工になること
など、かつての塩飽の栄光も影を失って、寛政期の困窮の時代を迎えることが分かります。
塩飽の人名制度について、もう一度見ておきましょう
 秀吉は塩飽領1250石を650人の船方に与えました。人名と呼ばれた人たちは、もともとは本島・牛島・与島・櫃石島・広島・手島・高見島の七つの島に住んでいましたが、後に沙弥島・瀬居島・佐柳島や石黒島を開拓移住したので、最終的には11の島で暮らしていました。
 人名が最も多いのは本島の305人で約半数が本島にいました。本島と広島は浦毎に配分し、その他の島では、島毎に配分しています。その保有状況は、地区によって違っていて、一人一株の所もあれば、地区全体で共有している所もあります。また、分家や譲渡によって、一株をいくつにも分割している例もあるようです。つまり人名株を持っている人は、650人よりも多いことになります。
 これについて、享保六年に支配役所へ差し出した書付に
 役水主六百五拾人の事 役水主の儀、先年より家きまりおり申す儀はご座無く候、役目勤めかね申す者は、段々差し替え申し候、この儀常々年寄、庄屋よく吟味つかまつる事にご座候、人数の儀は浦々高に割符つかまつり、何拾人と申す儀相きまりおり申し候
とあるように、非常時の動員に対して、650人分の水夫を準備しておくことが第1に求められたことのようです。
人名組織の年寄について
 4名の年寄は、泊浦と笠浦のそれぞれの名家が世襲したようです。彼らは朱印状を守り、大坂奉行所からの通達などの政務を行いました。非常時には年寄が庄屋を集めて協議し、決定し難い事項は大坂奉行所へ申し出て指示を受けました。
 年寄の下に浦毎に庄屋・組頭が置かれていたようで、次のような文書があります。
 島中の庄屋拾八人ご座候、組頭と申す儀は浦々にて百姓の内二三人宛 組頭と定め置き、庄屋に相添え御公用ならびに浦の用事相勤め申し候 但し、二三年宛順番につかまつり候、右組頭共相替わり候節は、庄屋方より年寄共方へ相断り申し候、庄屋共の儀は、先年より代々家相続相勤め居り申す者共多くご座候、是又、よんどころなき儀ご座候て、庄屋役指し上げ候者ご座候節は、年寄共吟味の上指図つかまつり候
意訳すると次のようになります
 庄屋は18人、組頭は浦毎に2,3人で庄屋を助け、協議しながら浦運営に当たっている。ただし、2,3年毎の輪番制で、交替する場合は庄屋より年寄りに相談がある。庄屋はほとんどが世襲しているが、やむを得ず庄屋役を召し上げる場合は、年寄りと協議の上で行っている。
さらに次のように記します。
① 年寄職は、本島で一番大きい笠島浦、泊浦のどちらかから出すのが慣例になっている
② このふたつの浦には組頭は置いていない。
③ 庄屋には役料をだしているが、組頭は無給である。
 天領としての支配は、大坂川口奉行、大坂町奉行が交互に行っていたようです。これらの支配所からは毎年、見聞使が視察に来て、諸島を巡見しています。
塩飽の人名組織の財政については?
塩飽の表高は1250石ですが朱印状により幕府には、一文も納める必要はありません。全て島内で裁量に任されていたようです。それらは積み立てられて、つぎのような項目に支出されました。
①長崎奉行役の賃金
②島中の者が御用のため大坂へ出張雑用、
③島内の会合の必要経費
この他に「小物成」収入として、山林からの山手銀、塩浜年貢、網の運上銀があります。この中で最大の収入となったのは、島外からの入漁者や島内の人名網元への運上銀でした。
3 塩飽運上金

この額が年を追って増加し、幕末頃には銀96貫と、総収入の7割を越えるようになったことは前回お話ししたとおりです。
 年と共に幕府からの総員命令で支出は増え、赤字財政が続き、人名からの臨時徴収によって補てんするようになります。廻船業が順調なときならある程度の負担は、本業のもうけで埋め合わせが出来ました。しかし、その本業が成り立たなくなった状態では、負担が増えることに絶えられなくなる人名たちも出てきます。こうして、人名の間で財政問題をめぐる保守派と改革派の対立が顕在化するようになります。
 改革派が直訴で要求したことは?
 巡見使がやって来ることを知った改革派の人名達は、笠島浦の小右衛門、惣兵衛を中心に、泊浦の来迎寺に集まり、この機会に島中の窮状を訴え、人名組合の公費削減や年寄の不正支出について巡見使に直訴することを申し合わせます。
 1789年4月19日、御料巡見使一行が、丸亀から笠島浦の宿舎に入ります。翌日から船で塩飽諸島を巡回し、25日には巡見を終えて、次の巡見の地直島へ向かって出港していきました。当日の船数は、御召船一般、御先乗船一般、漕船六般、御供船三般、御荷物船三般、台所船一般、合計15艘と記録されています。この時の巡見使は、天領である塩飽 → 直島 → 小豆島という巡検が予定されていたようです。巡見使の後を追った小右衛門、惣兵衛の二人は、小豆島の土庄で面会を求め、塩飽の庄屋、水主百姓惣代の連印による「乍恐奉願上口上」と題された願書を提出します。その内容は、
①島入用の支出を抑えること、
②年寄による島入用の流用を禁ずること、
③島財政を圧迫する年寄の大坂への出向を減らすこと
などで、年寄の不正流用追求や、人名の負担を軽減するために人名組織の改革を求める内容でした。この願書は、巡見使の取り上げるところとなり、塩飽の年寄をはじめ庄屋、年番が大坂へ呼び出されて取り調べを受けます。そして、3年後の寛政四年(1792)5月3日「御仕置御下知書」が出されます。下知書は、関係者に以下のような処分を下しました。
①塩飽の四人の年寄は「役儀取り上げ押し込み」
②大坂支配所の与力二人は「追放」、同心四人は「切米取り上げ」
③塩飽の庄屋達は「過料」。
これに対して直訴した二人は
「直訴は不埓であるが、個人の身勝手に行ったものではないからと「急度叱り置く」
と微罪に終わりました。
 当時は松平定信による寛政の改革が進行中です。「政治刷新」を標榜する当局は、不正役人の処分を厳格に行ったようです。また、訴えた二人に越訴の罪を問わなかったことは、年寄りたちの不正を認め、訴訟の正当性を認識したもので、改革派寄りの「判決」だったと研究者は考えているようです。
 「判決」の中で、四人の年寄役については、財政実状を把握せずに無駄な支出を増やし濫費を行った責任が問われています。つまり、訴願の発端は財政問題でしたが、その人名組織の運営ををめぐる年寄役の行動が問われる内容となっています。この直訴事件の「判決」を受けて、人名組織の改革案が話し合われ次のような新ルールが決まります。
①いままで年寄の自宅で政務をとっていたのを、新しく役場を建て、年寄はここで執務する。
②年寄役場の中に「室蔵」をつくって織田信長以来の朱印状を保管する
③年寄の四人制を二人制の年行司に改め、会計担当の庄屋を常勤させて年寄の相談に応じ、決裁し難いことは、惣島中の会合で決める。
④年寄の世襲制を廃止し、一代限りで退役する。
そして新しい年寄(2名)と会計担当に次の3名が入札(選挙)で次のように選ばれます。
牛島の丸尾喜平治              塩飽きっての船持
笠島浦 高島惣兵術            困窮直訴の代表者
泊浦  石川清兵衛            人名の最も多い泊浦の年番
新しい「年寄役場」は寛政十年(1798)6月4日に落成式を迎えます。これが現在の塩飽勤番所で、事件中に仮安置していた郷社八幡宮から、朱印状を移して年寄が勤務することになります。朱印状は御朱印庫と呼ばれる石の蔵に保管されるようになります。勤番所の建物は、新政を象徴するモニュメントでもあるようです。しかし、その後の人名組織の辿った道のりを見てみると、疑問に思えてもきます。
 当時の風潮の中では、旧年寄たちは、旧来の伝統に守られた権威と保守派の人脈の上に立っていました。しかし、入札(選挙)によって選ばれた新年寄には、権威もなければ組織だった人脈もないのです。
 以後、人名組織の中では庄屋や年番の発言力が増し、後ろ盾を持たない年寄を軽視した訴訟事件や、年番招集の会合が公然と行われるようになります。これを「民主的」と呼ぶことも出来るでしょうが、年寄に対抗する人名達の発言力が強くなり、対立含みで運営が行われていくことになります。地域の有力者による「密室政治から開かれた政治」への代償を支払うことを余儀なくされるのです。
 参考文献  木原教授(香川大学)塩飽廻船と勤番所
 (『受験講座・社会』第110号。福武書店、1985年)
                                                

        
  中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海から離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのような中で、本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆でした。その上、「人名」という特権も手に入れます。
3  塩飽地図
 豊臣秀吉は、650人の軍役負担の代償として、2150石(塩飽諸島全体の石高)の領地権を保障する朱印状を出しました。この特権は人名権と呼ばれ、以後家康にも継承されます。こうして、塩飽諸島は大坂町奉行所に直轄する天領ですが、人名権をもつ島民によって自治が行われるようになります。
しかし、この特権の中に周辺の漁業権も含まれていたことはあまり知られていません。
3 塩飽境界図
塩飽(涌)は、塩(海流)が涌き、魚が豊富な備讃瀬戸に位置します。その広い海域の漁場占有権を、塩飽は同時に手に入れていたのです。この塩飽の独占的な漁場エリアが上の地図です。「山立て」の技法で、遠くの山など目印になるものをいくつも組み合わせる形で塩飽の漁場権は設定されています。そのため非常に複雑で、私は何度見ても理解できません。まあ、それは別に置いておいて、今回は塩飽人名の独占漁場をめぐる問題を見ていくことにします。
        塩飽の人名は、漁業はやらなかった。
 塩飽の周りは好漁場が広がる海でしたが、人名達は当初は漁業を行っていませんでした。それは人名達が海民として、航海技術を武器に廻船業で莫大な富を手にしていた経済的優位が背景にあります。
 彼らは、島中(とうちゅう)と称する自治組織を作って島の政務を行いました。「人名」たちは、株を持たない漁師らを「間人(もうと)」と呼んで差別しました。間人には御用船方となる権利がなく、それに伴う朱印高の配分や島の自治に関わる権利もありません。一方で、人名は水夫役の徴用を間人に肩代わりさせ、その費用の一部を負担させることもしています。
「人名たるものは魚を獲ったりはしない」
というヘンなプライドが漁業への進出を妨げていたようです。

元文一(1727)年、対岸の備中・下津井四か浦は、塩飽の漁場への入漁船を増やして欲しいと塩飽年寄に次のように願い出ています
 塩飽島の儀、御加子浦にて人名株六百五拾人御座候右の者共へ人別に釣御印札壱枚宛遣わせらる筈に御座候由、承り申し候、六百五拾人の内猟師廿艘御座候、残りは作人・商船・大工にて御座候、左候へば御印札六百余も余慶有るべきと存じ候……。
この口上には、塩飽の人名650人の内に、漁師の船は2艘しかない。残りは、商船や大工である。されば人名の漁業権は、600以上あまっているはずだと云っています。
 そして、人名の漁業権を保障する「釣御印札」を売って欲しい、あるいは賃貸して欲しいと持ちかけています。ここからは、18世紀になっても人名達の中で、漁業に従事している者は非常に少ないことが分かります。それを対岸の下津井の漁民達は羨望の眼差しでみているような感じです。「漁業権を使わないのなら売ってくれるか貸してくれ」ということのようです。
   それでは、豊かな海はどう利用されていたのでしょうか。
3  塩飽漁場地図
それは、下津井の漁民が申し出たように、周りの漁民から入漁料を取って使わせていたのです。
   廻船業の衰退と漁業運上
3 塩飽運上金

 これは「塩飽島中請払勘定帳」で、漁業運上金(入漁料収入)の人名組合の財政収入に占める割合を示したものです。享保年間には、わずか6%だったものが19世紀の天保年間になると約50%、そして幕末の慶応年間になると70%を越える比重になっています。
  漁業運上収入(入漁料収入)が、大きく増えた背景は何なのでしょうか。
 そこには、塩飽を取り巻く経済状況の変化があったようです。享保期の幕府による廻米政策の転換が引き金でした。これによって、塩飽に繁栄をもたらした廻船業は、急速に衰退します。これは、人名達に大きな打撃を与えます。
明和二(1765)年の次の史料に、当時の塩飽の苦境が記されています。
 島々の者 浦稼渡世の儀、先年は回船多く御座候に付、船稼第一に仕り候得共、段々回船減じ候に付、小魚猟仕り候者も御座候。元来小島の儀に御座候得者、島内に渡世仕り難く、男子は十二三歳より他国へ罷り越し、
意訳すると
①島々の人名達は、かつては廻船業で稼ぎも多かった
②最近は、廻船は少なくなり、漁業を生業とする者も出てきた
③小さな島なので仕事がなく男は12、3歳になると他国へ出て行く
このような状況が、人名たちがそれまで見向きもしなかった漁業への進出背景にあったようです。
    人名達は、どのようなかたちで漁業に参入したのでしょうか
塩飽の領海では、次の四種類の漁業が行われるようになります。
 ① 人名による大網(鯛・鰆)    、   `
 ② 人名を中心とした小漁業
 ③ 小坂浦(本島)の手繰漁業
 ④ 下津井四か浦など他領漁民の領海内操業
  まず①の人名の大網経営を見ておきましょう
3 塩飽 鯛網3

①は、高級魚の鯛・鰆網漁です。これは何隻もの船や何十人もの労働力が必要な漁法でした。そのため家族経営的な家船漁民が手が出せるものではありません。そこで、人名による入札請負制が行われたようで、有力な人名が落札します。しかし、実際に操業するのは、熟練したよその業者たちが請け負ったようです。人名が落札した物件を、下請け業者にやらせるシステムです。幕末の史料からは落札人として手島の人名・藤井家の名前が見えます。
  藤井家に伝えられる「大漁覚帳」からは、人名の網漁経営が分かります。
①漁の期日や番船の手配についてたびたび寄合が開かれた
②漁獲物をどのように分配したか
などが詳しく記されています。漁獲物の配分は次のように行われています。
①本方(請負人)は、役魚・本方分を合計した66%
②網方(直接操業者)は34%パーセント
③本方の40%(全体の26、4%)が番船(監視船)費用
番船は漁場での違法操業者の摘発や、漁獲量のチェックなどを任務としています。番船の監視で漁獲高が正確に把握され、魚一匹まで正確に記録して配分されています。番船は、下請け業者を監視する役割も果たしていたようです。
 こうして人名は落札すると自分の手は使わずに、下請けさせるという方法で「漁業に進出」する方法をとるようになります。人名としての特権を、充分に活用していると云えるのかもしれません。そして、入札金は人名組合に入漁料収入として納めます。許可する漁場と網を増やせば増やすほど人名組合の収入は増えます。
        幕末の塩飽漁業の問題は?
 当時最も高価に取引されたのは鯛・鰆でした。そのため人名達は、この鯛・鰆網の操業の邪魔にならない限りで、その他の入漁を許してきたようです。しかし、幕末になると鯛・鰆網の優先待遇を脅かす動きが出てきます。
① 塩飽人名の新規漁業の出現・発展と、漁業者の増加
② 小坂浦漁業の新しい動向と人名漁業との対立
③ 他領漁民との紛争、とくに下津井大畠村との相論
 廻船業の衰退は、人名達の中から大工や他廻船の乗組員に転職をさせる一方、漁業をほとんど行わなかった人名の浦々にも、一部半農半漁の漁場に従事する者が増えてきたことは、お話した通りです。
 嘉永二(1849)年の塩飽の浦別漁船数の総数は811艘ですが、これは百年前と比べると大幅に増加しています。新規参入の入名達が小漁業を始めたことがうかがえます。
  
3 塩飽 流瀬網
 問題は新規参入漁民の漁法でした。「打流瀬網漁」という網を使うのが当時の主流でした。
これは袋網の両方に袖網をつけ、風力や潮力を利用して引く底引網の一種のようです。安友5(1858)には塩飽島内で200以上の流し網を行う船があり、その中心は瀬居島と佐柳島でした。そして、この運上金も人名組合の大きな財源になってきます。
 そうなると「流瀬網」VS「鯛・鰆網」という漁場での新たな紛争が多発するようになります。
これは「小資本の人名」 VS 「大資本の人名」という構図でもあります。人名間でも両極分解が進み、両者の対立が目に見える形で現れ始めました
寛政七(1795)年には、高見島の鯛網漁場を侵犯したということで、佐柳・高見両浦漁民の間で紛争が起きます。これに対して島中年寄り達は、流瀬網は鯛網代場に入らぬようにとの裁定を下しています。
 
3 塩飽  鯛網2

  以上をまとめておきます。
①塩飽には土地以外にも好漁場の漁業権が認められいた。
②人名達はそこで漁業をすることはなく、他地域の漁民から入漁漁をとって資金としていた。
③幕府の廻船政策の変更で、塩飽の優位が崩れる塩飽廻船業は苦境に陥った
④そこで、漁場が見直され、新規に漁業に参入する人名が現れる
⑤資本を持つ人名は、鯛・鰆網漁の操業権を落札し、業者に下請けさせた。
⑥資本を持たない人名は、新漁法である流瀬網漁を行うようになった
⑦流瀬網と鯛・鰆網は操業場所や時期が重なり人名同士の対立も招くようになった。
   参考文献  浜近仁史 近世塩飽漁業の諸問題   丸亀市史
 

 

               

6塩飽地図

西行が備中真鍋島で詠んだ中に
「真鍋と中島に京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわくの島に渡り、商はんずる由中けるをききて、真鍋よりしわくへ通ふ商人は、つみをかひにて渡る成けり」

とあります。ここからはしわく(塩飽)が瀬戸内海を航行する船の中継地で、多くの商人が立ち寄っていたことが分かります。平安期には、西国から京への租税の輸送に瀬戸内海を利用することが多くなります。そのため風待ち・潮待ちや水の補給などに塩飽へ寄港する船が増え、そのためますます交通の要地として機能していくようになったようです。
 時代は下って『イエズス会年報』やフロイスの『日本史』に、塩飽は常に「日本著名なる」としてされ、度々寄港している様子が報告されています。このように、塩飽は古代から瀬戸内海における船の中継地として栄えてきました。その塩飽の水軍について見ていきます。
       塩飽荘の立荘と塩生産 
海上交通の要地には、早くから荘園が立荘されます。塩飽もそうです。初見は保元元年(1156)の藤原忠通書状案言に添えられた荘園目録に「塩飽讃岐国」と見えます。塩飽荘は藤原頼通の嫡子師実のころには摂関家領となっていて、その後、次のように所有権が移ります
 摂関家藤原忠実 → 愛人播磨局 → 平信範女 

そして、源平合戦の時には、平氏の拠点となっています。平氏が摂関家領の塩飽荘を押領していたのかもしれません。
 鎌倉時代末期には、北条氏の所領となりますが、建武の新政で没収され、南北朝の動乱を経て、幕府より甲斐国人小笠原氏に与えられたようです。当時の塩飽荘の実態は分かりませんが、『執政所抄』の七月十四日御盆恨事の項に
塩二石 塩飽御荘年貢内」

とあるので、年貢として塩が納められていたことが分かります。
 また『兵庫北関入船納帳』からは、塩飽の塩がいろいろな船によって大量に運ばれていることが分かります。塩飽も芸予諸島の弓削荘と同じように、「塩の荘園」だったようです。
 塩の荘園であった塩飽の海民は、塩輸送のため海上輸送にたずさわるようになります。「瀬戸内海=海のハイウエー」のSA(サービスエリア)として、多数の船舶が寄港するようになります。塩飽の港まで来て、目的地に向かう船を待つという資料がいくつもあります。塩飽はジャンクションの役割も果たしていました。
 また、通行に慣れない船のためには、水先案内もいたでしょう。こうして、塩飽の海民は海上に果り出す機会が多くなり、やがては自らの船を用いて航行するようになります。船は武装するのが当たり前でした。自然に「海賊衆」の顔も持つようになります。これはどこの海の「海民」も同じです。この時代の海民は専業化していません、分業状態なのです。

3 塩飽 泊地区の来迎寺からの風景tizu

海賊討伐をきっかけに備讃瀬戸に進出した香西氏
 
藤原純友の乱以前から瀬戸内海には「海賊」はいました。平清盛が名を挙げたのも「海賊討伐」です。鎌倉時代中ごろになると、再び瀬戸内海に海賊が横行するようになります。そこで寛元四年(1246)讃岐国御家人・藤左衛門尉(香西余資)は、幕府に命じられて海賊追捕を行っています。この時のことが「南海通記』に次のように記されています。
 讃岐国寄附郡司、藤ノ左衛門家資兵船ヲ促シ、香西ノ浦宮下ノ宅二勢揃シテ、手島比々瀬戸二ロヨリ押出シ 京ノ上茄ニテ船軍シ、柊二降参セシメ百余人ヲ虜ニシテ京六波羅二献シ、鎌倉殿二連ス、北条執事感賞シ玉ヒテ、讃州諸島ノ警衛ヲ命ジ玉フ、家資即諸島二兵ヲ遣シテ守シメ、直島塩飽二我ガ子男ヲ居置テ諸島ヲ保守シ、海表ノ非常ヲ警衛ス、是宮本氏高原氏ノ祖也―又宮本トハ家資居宅、宮ノ下ナル欣二宮本ト称号スル也。

 『南海通記』は、享保四年(1719)に香西成員が古老たちの聞き書きを資料に著した書で、同時代の記録ではありません。また滅び去った香西一族の「顕彰」のために書かれているために、どうしても香西氏びいきで、史料的価値に問題があると研究者は考えているようです。しかし、讃岐にとっては戦国時代の資料では、これに代わるものがないのです。「史料批判」を充分に行いながら活用する以外にありません。

3 香西氏 南海通
南海通記

 ここでも香西氏の祖にあたる香西家員が登場してきます。内容に誇張もあるようですが『吾妻鏡』の記事と同じような所もあります。確認しておきましょう。
①讃岐の郡司である藤ノ(藤原)左衛門家資が海賊討伐のための兵船出すことを命じた。
②香西ノ浦宮下に集結し、海に押し出した。
③京ノ上茄(地名?)で戦い、百人余りを捕虜にして京都六波羅に送った
④鎌倉殿に連なる北条執事は感謝し、讃州の島々の警護役を命じた
⑤香西家資は諸島に兵を駐屯させ、直島塩飽には息子達を派遣して支配させた。
⑥これが塩飽の宮本氏や直島の高原氏の祖先である。
⑨香西氏の子孫は、宮ノ下(神社下)に館があったので宮本と呼ばれるようになった
  以上からは
①香西氏は海賊討伐を契機に備讃瀬戸に進出した。
②海賊を討伐し、備讃瀬戸エリアの警備をまかされた
③警備拠点として直島・塩飽に館を構えた
④海賊退治を行った香西家資の子が塩飽海軍の宮本氏の祖
⑤宮本氏により塩飽の海賊衆は統轄されるようになる。
これが塩飽海賊草創物語になるようです。

3  塩飽  山城人名墓

こうして、香西氏の子孫である宮本家が塩飽海賊=海軍のリーダーとして備讃瀬戸周辺に勢力を伸ばしていくようです。しかし、塩飽海賊衆が史料上に名を表わすようになるのは南北朝期に入ってからです。

3 香西氏
 
朝鮮の使節団長と船の上で酒を飲んだ香西員載
 以前にも紹介しましたが、室町時代に李朝から国王使節団がやってきています。その団長である宋希璟(老松堂はその号)が紀行詩文集「老松堂日本行録」を残しています。ここには、瀬戸内海をとりまく当時の情勢が異国人の目を通じて描かれています。
 足利将軍との会見を終えての帰路、播磨(室津)から備前下津井付近を通過します。目の前には、本島をはじめとする塩飽諸島が散らばります。海賊を恐れながらびくびくしてた宋希璟の船に、護送船団の統領らしき男が乗り込んできて、一緒に酒を飲もうと誘ったというのです。男は「騰貴識」は名乗りますが、これは香西員載のことのようです。彼は、将軍から備讃瀬戸の警備を任された香西氏の子孫に当たるようです。「老松堂日本行録」からは「騰貴識=香西員載」が警国衆を率いる立場にあったことが分かります。この時期の塩飽や直島は香西氏の支配下にあり、水軍=海賊稼業を行っていたことが分かります。
 15世紀の香西氏に関する資料をいくつか見ておきましょう。
①1431年7月24日
 香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。 香西氏は、この時まで丹波の守護代を務めていたことが分かります。
②嘉吉元年(1441)十月 「仁尾賀茂神社文書」
 讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。
                  
③同年七月~同二年十月(「仁尾賀茂神社文書」県史11 4頁~)
 仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護 細川氏に訴える。
②からは香西氏が三豊の仁尾の浦代官を務めていたことが分かります。先ほどの朝鮮回礼使の護送船団編成の際にも仁尾は用船を命じられています。これは、浦代官である香西氏から命じられていたようです。
③は父(元資)が亡くなり、子の香西豊前になって、仁尾ともめていることが分かります。香西氏が直島・塩飽などの備讃瀬戸エリアだけでなく、燧灘方面の仁尾も浦代官として押さえていたようです。仁尾は軍船も出せますので、燧灘エリアの警備も担当してたのでしょう。
④長享三(1489)年八月十二日(「蔭涼軒日録」三巻) 
 細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。
「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」
同年八月十三日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。(「蔭涼軒日録」同前、三巻四七一丁三頁、
 
④からは応仁の乱後の香西氏の隆盛が伝わってきます。
香西氏は東軍の総大将・細川勝元の内衆として活躍し、以後も細川家や三好家の上洛戦に協力し、畿内でも武功を挙げます。当主の香西元資は、香川元明、安富盛長、奈良元安と共に「細川四天王」と呼ばれるようになります。その頃に開かれた「犬追物」には香西一族が300人も集まってきて、細川政元と交遊しています。
  いつものように兵庫関入船納帳で、塩飽船の入港数と規模を見ておきましょう。
兵庫北関2
上から2番目が塩飽です    
①入港数は、宇多津について讃岐NO2で37回です
   ②船の規模は300石を越える大型船が8隻もいます。船の大型化という時代の流れに、最も早く適応しているようです。
  積み荷についても見ておきましょう。
3 兵庫 
③ 塩が飛び抜けて多く「塩輸送船団」とも呼べるようです。
④その他には米・麦・豆などの穀類に加えて、山崎胡麻や干し魚もあります。
能島村上氏による塩飽支配
 細川政元の死後、周防の大内氏が勢力を伸張させるようになります。永正五年(1508)に大内義興は足利義枝を将軍職につけ、細川高国が管領、義興が管領代となります。義興は上洛に際し、東瀬戸内海の制海権の掌握のために次のような動きを見せます。
①三島村上氏を警囚衆として味方に組み込みます。
②さらに、大友義興は能島の村上槍之劫を塩飽へ遣わして、寝返り工作をおこないます。
これに対して、香西氏は細川氏から大内氏に乗り換えます。
そして、塩飽衆も大内氏に従うようになったようです。大内義興の上洛に際し、警固衆として協力した能島村上氏に、後に恩賞として塩飽代官職が与えられています。こうして、塩飽は能島村上氏の配下に入れられます。この時期あたりから能島村上氏の海上支配エリアが塩飽にまでのびていたことが分かります。塩飽は香西氏に属しているといいながらも、実質は能鳥村上氏の支配下におかれるようになったようです。
大友氏は、積極的な対外交易活動を展開します
 大内義興は、明へ貿易船を派遣して、その経済的独占をはかろうとするなど交易の利益を求め、活発な海上活動を展開します。その中に村上水軍の姿もあります。当然、塩飽も動員されていたことが考えられます。
永正十七年(1520)朝鮮へ兵船を出した時、塩飽から宮本佐渡守・子肋左衛門・吉田彦右折門・渡辺氏が兵船三艘で動員されています。この時期には、備讃瀬戸に限らず朝鮮海峡を越えて朝鮮・明へも塩飽衆の活動エリアは拡大していたようです。これが倭寇の姿と私にはダブって見てきます。
村上武吉の塩飽の支配 
永正年間(1504~)には能島村上氏が塩飽島の代官職を握り、塩飽はそれに従うようになります。それから約50年後の永禄年間に村上武吉宛の毛利元就・隆元連署状がだされています。そこには
「一筆啓せしめ候、樹梢備後守罷り越し候、塩飽迄上乗りに雇候、案内申し候」
とあり 能島の村上武吉に塩飽までの乗船を依頼しています。
また、永禄末期ごろに、豊後の大友宗麟の村上武吉宛書状には、大友宗麟が堺津への使節派遣にあたり、村上武吉に対して礼をつくして堺津への無事通行の保証と塩飽津公事の免除とを求めています。
  これらから能島村上武吉が塩飽の海上公事を握っていたことが分かります。
村上武吉は、塩飽衆へ次のような「異乱禁止命令」を出しています
「本田鸚大輔方罷り上においては、便舟の儀、異乱有るべからず候、其ため折帯(紙)を以て申し候、恐々謹言、 永禄十三年
塩飽衆が備譜瀬戸を航行する大友氏の船に異乱を働いていたことを知り、これを止めさせる内容です。備讃瀬戸の制海権を握り、廻船を掌握していたのは村上武吉だったのです。堺へ航行する大友船にとって、塩飽海賊のいる備譜瀬戸は脅威エリアでしたが、これで塩飽衆は大友船には手が出せなくなります。
天正九年(1581)の宣教師ルイス・フロイスの報告書によれば、塩飽の泊港に入港したときのこととして、能島村上の代官と、毛利の警吏がいたと記しています。
 村上武吉の時代には、能島村上氏の制海権は、西は豊後水道から周防灘、東は塩飽・備前児島海域にまでおよんでいたことになります。備譜瀬戸の塩飽を掌握下におくことは、東西の瀬戸内海の海上交通を掌握することになります。そのためにも戦略的重要拠点でした。このように戦国時代の塩飽は、能島村上氏の支配下にあり、毛利氏の対信長・秀吉への防衛拠点として機能していたようです
 児島合戦に見る塩飽衆の性格は? 
 戦国末期になると、安芸の毛利氏は備中・美作を攻略し、備前にも侵入しようとします。当時備前は浦上宗景・浮田直家の支配下にありました。元亀二年(1571)勢力回復をはかる三好氏は、阿波・讃岐衆を篠原長房が率いて児島へ出陣します。この戦いを児島合戦と呼び、阿讃衆騎馬450、兵3000が出陣したと伝えられます。
 香西元歌(宗心)は、児島日比浦の四宮隠岐守からの要請で参陣します。この時に、香西軍の渡海作戦に塩飽衆が活躍したと云います。香西氏が古くから塩飽を支配しており、香西軍の海上勢力の一翼を担ったのが塩飽衆であっことは触れました。
 塩飽の吉田・宮本・瀬戸・渡辺氏は、直島の高原氏とともに船に兵や馬を乗せて瀬戸内海を渡ったのです。当時の児島は「吉備の穴海」と呼ばれる海によって陸と離れた島でした。そのため水軍の力なしで、戦うことはできなかったようです。塩飽を味方につけることは最重要戦略でした。この時には、塩飽に対し事前工作が毛利方からも行われていたようです。毛列氏は村上水軍を主力に水軍を編成しますが、塩飽衆もその配下に組み込まれたようです。
小早川陸景が配下の忠海の城主である乃美(浦)宗勝へ送った書状に
 「塩飽において約束の入、未だ罷り下るの由候、兎角表裏なすベしは、申すに及ばず」
とあります。毛利氏の塩飽衆を陣営に抱え込み、敵側の兵船とならないよう監視するとともに、塩飽衆と宇多津のかかわりを恐れていたことがうかがえます。水軍なしでは戦えない瀬戸内海の状況を示すと同時に、備讃瀬戸における塩飽衆の存在の大きさが分かります。
  塩飽衆は「水軍」ではなく「廻船」?
 児島合戦を見ていて分かるのは、塩飽は参陣していますが、それは兵船の派遣であり、海上軍事力としてはカウントされていないことです。操船技術・航行術にたけた海民集団ですが、軍事カというより加子(水夫)としての存在が大きかったように見えます。言い方を変えると、船は所有していますが、その船を用いて兵を輸送する集団であり、自ら海戦を行う多くの人員はいなかったと研究者は考えているようです。
村上氏が塩飽支配を行ったのは、一つに塩飽衆の操船・航行術の必要性と、加子・兵船の徴発にあったと思えます。瀬戸内海制海権を握りたい能島村上氏にとって、備讃瀬戸から播磨灘にかけて航行することの多い塩飽船を支配下に組み込めば、下目から上目すべての航行を操ることができることになります。
 また別の視点から見れば、瀬戸内海東部航路を熟知していない能島村上氏には、熟知している塩飽衆が必要だったとも云えます。先ほど見たように『兵庫北関入船納帳』に出てくる塩飽船の数は、讃岐NO2でした。商船活動が活発な東瀬戸内海流通路を握るには塩飽衆が必要だったのです。それは、次に瀬戸内海に現れる信長・秀吉・家康も代わりません。彼らは「朱印状」で保護する代償に、御用船や軍船提供を塩飽に課したのです。しかし、水軍力を期待したものではなかったようです。近世になって「水軍」という言葉が一人歩きし始めると、中世の「塩飽水軍」がいかにもすぐれたものであるかのように誇張されるようになります。
 村上水軍と塩飽水軍は、同じものではありません。前者は強大な海上軍事カをもつ集団なのに対して、後者は 海上軍事力よりも操船技術集団と研究者は考えているようです。

 






 
塩飽勤番所

 塩飽本島の春の島遍路に参加し突然の雨にあいました。雨宿りのために緊急避難したのが塩飽勤番所でした。誰もいない中、寒さに震えながら最終便のフェリーを待っていました。少し落ち着いてきたので、管内を見せてもらって驚いたのは「信長・秀吉・家康」の三人の朱印状がここにはあるのです。
3塩飽 朱印状3人分

びっくりしました。もちろんホンモノは塩飽勤番所に御朱印蔵と呼ばれる蔵を作り、石の櫃の中に入れて保存されています。なぜ、ここに3人の朱印状があるのだろう。彼らにとって、塩飽の重要性とはなんだったろうかという疑問が私の中でわいてきたのを思い出します。そんなわけで長年放置されてきた疑問に向き合うことにします。

 まずは塩飽本島の地理的・戦略的な位置について確認しておきましょう。

3 塩飽 tizu
備前・備中と讃岐との真ん中にあるのが塩飽です。瀬戸内海を行き来する船を監視するには、塩飽を押さえれば北側を航行しようが南側を航行しようが監視しやすい島です。室町時代は、細川家が備中と讃岐の守護を世襲化し、この本島を中心に瀬戸内海西部を押さえていました。その力が弱まってくると、新たな勢力による争奪戦が始まります。そして、西から芸予諸島の勢力が及ぶようになります。
  〔屋代島村上文書〕細川高国宛行状
 今度忠節に就て、讃岐国料所塩飽代官職のこと、宛て行うの上は、いささかも粉骨簡要たるべく候、なお石田四郎兵衛尉申すべく候、謹言
  卯月十三日       高国(花押)
 村上宮内大夫殿
  花押の主は細川高国で、室町幕府の管領です。「讃岐国料所代官職のこと」とありますが、幕府の直轄地とし村上宮内大夫を塩飽代官に命じたことを示す文書です。代官に任じられた村上宮内大夫は能島村上氏の頭領のようです。当時は因島・来島・能島村上を三島村上と呼び、そのうち最も勢力をもっていたのが能島村上です。この史料からは16世紀の初頭には、塩飽諸島は能島村上氏の支配下にあったことが分かります。
3塩飽地図
  次の史料は塩飽が村上武吉の支配下にあった事を示すものです。
〔野間文書〕村上武吉書状
 本田治部少輔方罷り上らるにおいては、便舟の儀、異乱有るべからず候、そのため折帯をもって申し候、恐々謹言
    永禄十三年
     六月十五日        武吉(花押)
      塩飽島廻舟
時代が下って戦国時代のものです。花押は能島村上の当主・武吉のものです。豊後の戦国大名大友氏の家来である本田治部少輔が都へ上るので、「便舟の儀、異乱有るべからず」と船の便を図ってやるように、村上武吉が塩飽に命じています。ここからも塩飽は、引き続いて村上水軍の支配下にあったことが分かります。信長の勢力が瀬戸内海に及ぶ以前は、塩飽は村上水軍の傘下にあり、命令を受ける立場であったことを確認しておきましょう。
その上で信長の朱印状を見てみましょう。
信長朱印状
堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
  (松井友閃)
   宮内部法印

 印判がすわっていますが、これが信長の有名な「天下布武」の朱印です。実物は初めて見ました。讃岐にかかわりのある信長の朱印状はこれだけだそうです。この朱印状についての従来の説は、
 船から七五尋の範囲は塩飽船以外はいっさい航行できない。港に入ってもその周囲の船はよけろという特権をもっていた。その
「触れ掛り特権」を信長が再確認したのだ、
といわれていました。館内の説明書きもそう書かれています。「触れ掛か特権」とは
「堺港への上り下りの塩飽船は航行中にても碇泊中にても船網七五尋の海面を占有することのできる権利」
で、これを侵したものに対しては「成敗」することを塩飽側に認めたものされてきました。しかし、「触れ掛り」特権を示す史料はありません。言い伝えをもとに「触れ掛り」特権を塩飽衆が主張してきたにすぎないようです。
 そのために再検討が必要だと研究者は考えているようです。
まず、朱印状の出された背景や時期を考えなければならないというのです。時期は、石山本願寺との宗教戦争の真っ最中です。本願寺は生き残りのために、各地へ檄を飛ばして兵糧や軍資金を納入しろと命じます。それに応えて、讃岐からも宇多津の西光寺は、青銅七〇〇貫・米五〇石・大麦小麦一〇石二斗を搬入しています。それに対しての本願寺から礼状が残っています。
 また広島の「安芸一向宗門徒」は、毛利氏と結んで村上水軍の船で大坂へと攻め上り、木津川で信長軍を打ち破ります。それに対して、信長は鉄でできた船を建造して村上水軍に大打撃を与えます。これを石山戦争と呼んでいます。
 瀬戸内海は村上水軍が制海権を握っています。信長は毛利の村上水軍に対抗する海軍力を、東瀬戸内海で作らなければならなかったのです。そこで塩飽に目をつけます。東瀬戸内海の流通圏を握った者が、この戦いに勝てる。そして、天下布武の近道になる。塩飽を抱え込めば、それが可能になると信長は判断したのでしょう。そのような状況下で、この朱印状は出されています。このような背景を押さえて上でもう一度この朱印状を見てみると、以下のような不審点がでてくるようです。
①宛先が塩飽中宛でない。塩飽に対して出された文書でない
②「成敗すべき」とは塩飽船が成敗権を持っていることになるが、当時の法制からみて考えられない。
 以上からこの朱印状の内容は
 塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入に関しては問題なく対処せよ、もし勝手な行動(本願寺に味方する)をしたならば成敗することを、堺奉行の松井友閑に達したもの
  つまり塩飽船の自由特権を認めたものではなく、非本願寺勢力であることを確認した内容とします。 塩飽船は信長の支配下に組み込まれたのです。信長の戦略は、塩飽船を用いて村上水軍による瀬戸内海の流通路の封鎖をはかり、代わって塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはかろうとしていたのです。その責任者である松井友閑に、この朱印状は宛てられています。
 塩飽は信長に服従したのであり、それを違えた場合には成敗すると、読むべしと云うのです。その確認のために、出されたもので塩飽に特権を認めたものではないとします。どちらにせよここで確認しておきたいのは、塩飽は村上側から信長側に移ったということです。以後、信長方の有力船団として働くことになります。
 
 現在塩飽動番所には、次の5点の朱印状が保管されています。
   発行年月      発行者    宛先
 ①天正 五年三月二十六日 織田信長 官内部法印・松井有閑
 ②天正十四年八月二十二日 豊臣秀吉 塩飽年寄中
 ③文禄 元年十月二十三日 豊臣秀次 塩飽所々胎生、代官中
 ④慶長慶長二十八日    徳川家康   塩飽路巾
 ⑤寛永七年八月十六日   徳川     塩飽路中
    
 ②の秀吉の朱印状は天正十四年のものです。
               (仙)
    今度 千(仙)石権兵衛尉俄豊後へ遣わされ侯、然者当島船の事、用捨を加え侯といえども、五十宛乗り候船十嫂分担越すべく候、則ち扶持方下され候間、壱嫂二水主五人宛まかり出ずべく侯也、
      八月廿二日      (秀吉朱印)
    
             塩飽年寄中
3塩飽 秀吉朱印状

「九州討伐」のために千石権兵衛尉(仙石秀久)の軍を豊後へ輸送するために、50人乗る船を10艘、一艘に水主5人を塩飽から出すように命じたものです。仙石秀久は、讃岐領主に任じられたばかりで、塩飽もその領内にありました。彼は九州攻めの四国総大将として出陣し、戸次川の戦いで大敗し失脚していきます。その九州攻めに際しての輸送船の手配命令書です。秀吉の支配下に置かれ、戦いのために船と水主を出すように軍役が課せられているのが分かります。
    薩摩攻めの時には
 御兵狼米ならびに御馬・竹本・その外御用道具、大坂より仙台(川内)へ塩飽船にて積廻し侯様にと、四年寄中へ御付けられ、早遠島中へ船加子の下知これ有り」
と、兵器等の後方支援物資の輸送を塩飽船が担当しています。注意しておきたいのは、村上衆と違っているのは、「水軍ではなく海運」に従事していることです。実際の戦闘には参加していません。
 このように、九州攻め以降は秀吉の支配下に組み込まれ、関東の小田原の後北条氏攻めにも太平洋を越えて兵糧米の輸送を成功させています。
3 塩飽 軍船建造
朝鮮出兵の軍船の建造を命じられた塩飽
 天正十九年(1591)秀吉は朝鮮侵略の準備として、全国の大名に船舶の建造を命じています。その一貫として、塩飽で船の建造が始まります。大船建造のためには、舟大工・船頭の技術者が必要となります。そこで、奉行を派遣して職人の徴集を行っています。塩飽に置かれた代官が技術者の募集活動を行った文書が残っています。
  秀吉の甥の秀次の出した朱印状も残されています

3塩飽 秀次朱印状
 ⑥文禄二年(1593)の朱印状です。引退した秀吉に代わって秀家の名前で出されています。朝鮮出兵で多くの兵士が傷ついたのでしょう。その医療部隊として医師35名が佐賀の名護屋城に派遣されることになったようです。そのための船を準備するように命じられています。船の大きさまで指示されています。宛先は「しわく船奉行」となっていますので、この時期には塩飽に、代官が置かれ直接支配が行われいたことが分かります。
3 塩飽AA高部ね
このように塩飽船は、大坂と名護屋を結ぶ連絡船として徴発されたようです。塩飽船奉行の管理下で、瀬戸内海を通じての大坂・名護屋の間の物資・軍兵輸送を塩飽船が担当していたことが分かります。この総括責任者が小西行長になるようです。塩飽は、この時期瀬戸内海航路の管理センターの役割を果たしてのです。他の港とは比較にならない程多くの船と水夫を出しています。まさに中央政権の直接支配下に軍港・後方支援センターとして組み込まれ、多くの人とモノが行き交ったようです。
次が家康の朱印状です

3塩飽 家康朱印状

    関ヶ原の戦いに勝利した直後に出されています。豊臣方は敗れますが、その勢力は西日本には残っています。家康の当時の戦略課題のひとつは「瀬戸内海防衛体制の強化」でした。毛利・島津などの豊臣恩顧の大名たちが刃向かった時に備えるために、沿岸の防衛体制を築く必要がありました。瀬戸内海沿岸の徳川方の大名たちが、海に浮かぶような「水城」を築くのは家康の意向ではなかったかと私は考えています。讃岐を安堵された生駒氏が高松城の築城に本気で取りかかるのも、関ヶ原の戦い以後のことのようです。
 そのような中で、塩飽の戦略的な価値に家康も気づきます。「塩飽を味方につけたい」ということで、塩飽に朱印状が出されます。そして、検地を行って2150石を船方650人に宛行うのです。
 これは秀吉の朱印状を引き継ぐようですが、「六五〇人」は舟方の総数を示すものではないようです。塩飽に対する軍役負担として650人を命じたものと研究者は考えているようです。つまり塩飽においては、いついかなる場合でも650人の舟方が軍役に出ることを義務づけられていたということです。650人は、特定個人をさすのではなく、軍役負担数を示すと研究者は考えているようです。その扶持米として2150石が与えられたのです。秀吉の時の朝鮮出兵などへの動員は、これに基づいた「軍役負担」だったとようです。この650人が江戸時代には「人名」と称されるようになっていきます。そして人名制という新たな制度で、塩飽は統治されていくようになるのです。
以上のように三つの朱印状が塩飽に残っているのは「信長・秀吉・家康」が塩飽の戦略的な価値を理解して、味方に引き込もうと力をそそいだ結果だったようです。確かに、人名という権利は保障されました。しかし、塩飽船の自由な航行は終わります。
 「海賊禁止令」をどう受け止めたのか?
少し時間を戻します。秀吉は天正十六(1588)年に、刀狩令と一緒に「海賊禁止令」をだしています。これは信長以来の「楽市楽座」政策の延長上で「海の平和」を実現するためのものでした。まさに天下統一の仕上げの一手です。これを村上武吉や塩飽衆は、どのように感じたのでしょうか。
海賊衆にとっては、「営業活動の自由」の禁止を意味するものでした。「平和」の到来によって、水軍力を駆使した警固活動を行うことはできなくなります。「海の関所」の運営も海賊行為として取り締まりの対象となったのです。村上武吉は、これに我慢が出来ず最後まで、秀吉に与することはありませんでした。
 これに対して塩飽衆はどうだったのでしょうか。彼らのその後の歩みを見てみると、「海賊禁止令」を受けいれ秀吉の船団としての役割を務め、その代償に特権的な地位を得るという生き方を選んだようです。それは家康になっても変わりません。それが人名や幕府の専属的海運業者などの「権利・特権」という「成果」につながったという言い方もできます。 
 どちらにしても、中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海をから離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのようななかで、本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆だったようです。
 参考文献 橋詰 「中世の瀬戸内 海の時代」

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