瀬戸の島から

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俵物

前回は海の向こうの中国清朝のグルメブームが小豆島に海鼠猟の産業化をもたらした経過を次のようにまとめました。
①中国清朝の長崎俵物(海鼠の加工品いりこ)の高価大量買い付け
②幕府による全国の浦々に長崎俵物(煎海鼡・干なまこ・鱶鰭)の割当、供出命令
③浦々での俵物生産体制の整備拡充
 しかし、②から③へはなかなかスムーズには進まなかったようです。当初幕府は、各浦々の生産可能量をまったく無現した量を割り当てました。例えば松山藩は総計6500斤のノルマを割当られますが、供出量できたのはその半分程度でした。このため責任者である幕府請負役人や長崎会所役人は、何度も松山藩にやって来て、目標量に達しない浦々に完納するように督促します。尻を叩かれた浦の責任者は「経験もない。技術者もいない、資金もない」で困ってしまいます。
小豆島沖の海鼠取り
小豆島沖の海鼠漁
 俵物供出督促のために、幕府の長崎会所役人や請負商人など全国を廻って督促・指導しています。
小豆島にも巡回してきた記録が旧坂手村の壺井家に残されています。それを見ておきましょう。壺井家は、江戸時代に小豆島草加部郷坂手村の年寄を世襲した旧家です。壺井家の下に組頭が数名いて、坂手村行政の中心的役割を担っていました。壺井家文書には17世紀からの早い時代の庄屋文書が多数含まれていることが調査から分かっています。最も早いのは1623(元和9)の文書で、他村との出入りの際に結ばれた協定の内容が記されており、後の出入りの際の証拠文書として大切に保管されてきたようです。
小豆島へのフェリー航路一覧】マメイチへアクセスする5つの港と8航路を整理した – じてりん

 坂手村は小豆島を牛の形の例えると、「後ろ足の膝」の辺りになり、東の大角鼻、西の田浦半島に囲まれた坂手湾に面する村です。そのため、早くから漁業を主な生業とし、検地帳にも、物網9、魚青網5、鰈網1、手繰網6、船数38(7~石積)と記されています。江戸初期から漁業が発達し、寛永年間(1624~44)には、鰯網11、鯖網7、鯖網3を有しています。そして、近隣の堀越・田浦両村(苗羽村)の網と漁場を支配していました。
 1679(延宝7)年の検地帳には、戸数294軒1300人と記され、当時の草加部郷周辺各村よりも多くの人口を抱えたことが分かります。この背景には、漁業の盛行があったと研究者は考えています。そのため早い時期の文書には、漁業関係のものも残されています。周辺の各村との間の漁場争論の文書も数点あるようです。元禄期頃から漁業が次第に不振となると、出稼ぎによる人口流出が増加し、船乗りになる者が増えます。そして前回見たように江戸時代後期には長崎への俵物(煎海鼠)の有力産地として知られるようになります。

都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】 - 津山瓦版
東藩分(左側)が倉敷代官所支配下の小豆島
 江戸時代の小豆島は備讃瀬戸の戦略的な要衝として天領になっていて、備中倉敷代官所の管理下に置かれていました。
年月は分かりませんが、海鼠加工のための督促指導に、長崎から関係者が小豆島にやって来ることになります。それを迎えるための準備指示が倉敷代官所から文書で通知されます。それに対する準備OKの返書になります。
末十月十九日 指上ヶ申御請一札之事【壺井家文書55】
一 先達而度々御吟味被仰付候、小亘嶋猟浦七ケ村生海鼠為試長崎俵物請負人峰谷市左衛門、同所町人村山治郎左衛門共外猟師御差添、此度嶋方猟浦村々江御指越可被成旨石谷備後守様より御印状到来仕候二付、村々庄岸年寄百姓儀猟共被召出、御印状之趣御讀聞被成逸々承知仕候
一 右御試猟請負人并町人猟師到着之上、弥猟業有之事二候ハヽ、以来嶋方漁師共見馴、自仕覚候様可相成旨、且又外猟業之障等者堅不致様、於彼地被仰付御差越候儀被仰聞、本得共意候
一 右猟業中左迄無之義ヲ故障二申立候義決而仕間敷候旨被仰渡、往々二嶋方助成之為にも宣、第一御収納方指寄二も可相成候間、末々小百姓水呑二至迄得と利解申聞、心得違無之様可仕旨被仰渡承知仕候
有此度長崎御奉行様御印状之趣を以、嶋方猟業一件逐一被仰渡、私共罷出承知仕候処相違無御座候、依之御請一札指上ヶ申所、乃面如件
                  小豆島七ケ村
                    庄屋 印                                                   年寄 印
                                                百姓代印
                                                漁師代印
備中倉敷御役所
浅井作右衛門様
意訳変換しておくと
年不明10月19日日 指上ヶ申御請一札之事」
長崎俵物請負人の蜂谷市左衛門と町人村山治郎左衛門による小豆島での生海鼠(なまこ)猟に関する文書写し)

指上ヶ申御請一札之事
一 先だって仰せつけのあった小豆島浦七ケ村での生海鼠の長崎俵物請負人・峰谷市左衛門、同所町人の村山治郎左衛門と漁師の受入準備について、この度小豆島の浦村々に指導のためにやって来てくることについて石谷備後守様から書状で知らせがありました。そこで村々の庄屋や年寄・百姓・漁師を召出して、書状に書かれていた内容について手周知連絡し、各自が承知しました。
一 請負人と町人・指導漁師が小豆島に到着した時には、島の漁師は指導を受けて、自分たちにも出来るように技術修得を行うこと、また他の漁期都合で不参加者がでることのないように、申しつけました。
一 海鼠漁に差し障りのないように、他の漁業については操業しないように申し渡しました。嶋方の助成のためにも、割り当てられた数量を確保するためにも、小百姓・水呑から全員が一致して海鼠漁に取組むように、心得違いのないように申し聞かせました。
 長崎御奉行の御印状の趣旨を、小豆島浦々の漁師に申し渡し、私共全員が承知していることをお伝えします。如件
                  小豆島七ケ村
                    庄屋 印
                                                年寄 印
                                                百姓代印
                                                漁師代印
備中倉敷御役所
浅井作右衛門様
ここからは次のようなことが分かります。
①当時の小豆島は天領だったので、倉敷代官所を通じての長俵物請負人三名と指導漁師の視察訪問通達を小豆島の庄屋が受け取ったこと
②通達を受けた小豆島の庄屋は、受入準備を進めて、準備完了報告を倉敷代官に送ったこと
③小豆島の大庄屋与一左衛門は、村民への諸注意書をだしていること。
先ほど見たように、全国の浦々に海鼠加工を強制し、割当数量を供出していたこと、そのために技術指導の漁民も一緒にやってきていたことが分かります。しかし、地元漁民にとっては迷惑な話であったようです。彼らの本音は、次のようなものでしょう。
なんでわしらが、海鼠をとらないかんのか わしらはぴちぴちの魚をとる漁師や
海鼠猟の間は、その他の魚がとれんのか 営業妨害や
海鼠をとった上に加工もせないかんのか 手間なこっちゃ 
しかも安い値で買いたたかれる こんなんはやっとれんわ
普段は魚を獲っている漁民に海鼠を獲って、しかもそれを加工して、俵物として出荷せよというのは無理な話だったようです。海鼠は捕れない、加工も出来ない、しかし割当量は、きつく求められる。漁師達にはそっぽを向かれる。困難な立場に追い込まれたのは、庄屋たち村役人です。

打開策として、浜の庄屋たちが考え出したのが海鼠加工の技能集団を集団で移住させることです。
3 家船4
家船漁民の故郷・能地・二窓

 安芸忠海の近くの能地・二窓は、家船漁民の故郷ですが、煎海鼠(いりこ)加工の先進地域でもあったようです。
製造業者は堀井直二郎
生海鼠の買い集めは二窓東役所
輸出品の集荷先である長崎奉行への運搬は東役所
と分業が行われ、割当量以上の量を納めています。つまりここには、技術者とノウハウがそろって高い生産体制があったのです。
この状況は家船漁民にとっては、移住の好機到来になります。
小豆島周辺の各浦は、家船漁民集団を煎海鼠(いりこ)加工ユニットとして迎え入れるようになります。それまでは人目に付かない離れた岬の先などに無断で住み着いていたのが、大手を振って大勢の人間が「入植」できるようになったのです。迎え入れる浦の責任者(抱主)となったのは、村役人などの有力者です。抱主が、住む場所を準備します。抱主は自分の宅地の一部や耕地(畑)を貸して生活させることになります。そのため、抱主には海岸に近い裕福な地元人が選ばれたようです。その代償に陸上がりした漁民達は、がぜ網(藻打瀬)で引き上げられた海藻・魚介類のくず、それに下肥などを肥料として抱主に提供します。こうして、今まで浦のなかった海岸に長崎貿易の輸出用俵物を作るための漁村が18世紀後半に突如として各地に現れるようになったのです。
ぶらり歴史旅一期一会 |大三宅住宅(香川県直島町)
直島の庄屋三宅家
直島の庄屋三宅家には、家船漁師の故郷である安芸・二窓の庄屋とのやりとり文書が残されています。二窓の庄屋から次のような依頼文書が三宅家に送付されてきます。

「二窓から出向いた漁師たちを、人別帳作成のために生国に指定日に帰して欲しい」

当時は家船漁民は移住しても、年に一度は二窓に帰ってこなければならないのがきまりでした。それは「人別帳はずれの無宿」と見なされないためです。人別帳に記載されていないと「隠れキリシタン」と見なされたり、本貫地不明の「野非人」に類する者として役人に捕らえられたりすることもありました。人別帳に載せてもらうには、本人確認と踏み絵の儀式を、地元の指定されたお寺で指定日に済ませなければなりません。もうひとつは、檀家の数を減らさないという檀那寺の方針もあったようです。こうして「正月と盆に帰ってこなければならぬ」というきまりを、守るように厳命されていました。
 しかし、出ていた漁民からすれば、二窓に「帰省」しても家があるわけではありません。本村を出て世代交代している漁民もいます。人別帳作成のためだけには、帰りたくないというのがホンネでしょう。
 このような家船漁民の声を代弁するように直島の庄屋三宅氏は、次のような返事を二窓に送っています。
①『数代当地にて御公儀江御運上差し上げ、御鑑札頂戴之者共に有り之』
②『御公儀半御支配之者共』
③『(二窓漁民たちは)年々御用煎海鼠請負方申し付有之者共』
④『只今罷り下し候而、御用方差し支えに 相成る』
①には「能地からの出稼ぎ者は、長年にわたり直島で長崎俵物を幕府へ納めている者たちであり、鑑札も頂いている。幕府、代官には彼らを支配する道理があり、直島には彼らを差配する道理がある」
②③には、「二窓出身の漁民達は、幕府御用の煎海鼠(イリコ)生産を請け負うものたちで、公儀のために働く者達である。」
④には、2月から7月までは海鼠猟の繁忙期であり、この期間中に人別改のために帰郷せよというのは、当方の御用業務に支障が出る。

以上のような理由を挙げて、人別帳作成のための生地への「帰国」を断っています。直島にとっては、二窓漁民の存在は『御用煎海鼠請負方』のためになくてはならない存在となっていたことが分かります。
 二窓からやってきている漁民にすれば、真面目に海鼠を捕っていれば収入もあり、直島の庄屋にすれば、幕府から「ノルマ達成」のためには出稼ぎ漁民の力が必要なのです。両者の利害はかみ合いました。そして家船漁民は生国の元村二窓には、帰えらなくなります。同時に、海鼠猟とその加工が家船漁民集団によって担われていたことがうかがえます。
おおみやけ(大三宅)庭園 ― 国登録有形文化財…香川県直島町の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】
三宅家(直島庄屋)

直島庄屋は次のような内容を、二窓浦役所に通告しています。
①今後は寄留漁民に直島の往来手形を発行する
②直島の寺院の檀家になることを許す
これは直島庄屋の寄留漁民を『帰らせない、定着させる』 という意志表示です。家船漁民は、次のような利点がありました。
①年貢を二重に納めなくても済むこと。それまでは、漁場を利用する場合には、運上を納めた上に、本籍地の二窓にも年貢を納めていました。
②入漁地の住人として認められる事になれば、二窓とは何の関係も持つ必要がなくなります。
結局直島260人の他、小豆島、塩飽、備前、田井内の寄留漁民が二窓浦役所に納税しなくなり、人別帳からも外れていきます。
以上をまとめておくと
①戦国時代の忠海周辺は、小早川配下の水軍大将であった浦氏の拠点であった。
②「小早川ー浦氏ー忠海周辺の水夫」は、宗教的には臨済宗・善行寺の門徒であった
③関ヶ原の戦い敗北後に、毛利方についた浦氏水軍も離散し、多くが海に生きる家船漁民となった。
④家船漁民は優れた技術を活かして、新たな漁場を求めて瀬戸内海各地に出漁し新浦を形成するようになった。
⑤長崎俵物の加工技術を持っていた家船漁船は、その技術を見込まれて集団でリクルートされるようになった。
⑥彼らは生国の善行寺の管理から離れ、移住地に根ざす方向を目指すようになった。
⑦その契機になったのが幕府の俵物生産増産政策であった。
このような流れを背景に、二窓の漁民の移住・出漁(寄留)地の讃岐分一覧表を見ておきましょう。

海の民―漁村の歴史と民俗 (平凡社選書) | 河岡 武春 |本 | 通販 | Amazon
河岡武春著『海の民』平凡社より
二窓漁民の移住・出漁(寄留)地
 国 郡 地名    移住年 (寄留数)初出年代 筆数  
讃岐国小豆郡小豆島 安政6(1859)  3 享保18(1733)  32
  〃   小部            天保2(1831)  
  〃  小入部?           天保元(1830)  
  〃   大部            嘉永5(1852)  
  〃   北浦  安政3(1856)  6 文政2(1819)  
  〃   新開  嘉永4(1851)  5 天保12(1841)  
  〃   見目            天保6(1835)  
  〃   滝宮            文政5(1822)  
  〃   伊喜末 嘉永2(1849)  1 天保7(1836)  
  〃   大谷  文政2(1819)  7 延享2(1745)  15
  〃   入部  天保13(1842)  7 文政11(1828)  31
  〃   蒲生  安政6(1859)  2 安政5(1858)  
  〃   内海            文政9(1826)  

家船漁民定住地

讃岐国香川郡直島  弘化3(1846)  3 延享2(1745)  25
讃岐国綾歌郡御供所 嘉永3(1850)  6 天保4(1833)  11
  〃   江 尻 安政5(1858)  1 文久2(1862)  
  〃   宇多津           文化3(1806) 
讃岐国仲多度郡塩飽           文久2(1862)   55
     塩飽広島 嘉永4(1851)  2 天保6(1835)  
     塩飽手島 嘉永2(1849)  3 享保18(1833)  34
  塩飽手島カロト           文政11(1828)  
  塩飽手島江ノ浦           天保5(1834)  
      鮹 崎           文政6(1823)  11
      後々セ           文政6(1823)  
      讃 岐 嘉永4(1851)  3 享保6(1721)  34
 讃岐国 合 計    13例  49  25例  236

これを見て分かることは
①初出年代は、1745年の直島と小豆島大谷で、多くは19世紀以後であること
②地域的には天領の直島(25)・小豆島(32)と人名支配の塩飽(55)の島嶼部が多い。
③島嶼部以外では坂出・宇多津地域のみで、その他には史料的には見られない。
④高松・丸亀・多度津藩については、家船漁民を移住させての海鼠加工政策は採らなかった。
以上からは、家島漁民集団の讃岐への定住が本格化したのは19世紀になってからで、そのエリアは天領の小豆島・直島や人名支配の塩飽が中心であったといえるようです。そこには長崎貿易の俵物生産の割当量を確保しようとする倉敷代官所の意向を受けた現地の浦々の有力者の積極的な活動が垣間見えてきます。そのために家船漁民の移住政策が取られるようになり、19世紀後半には多くの新浦が開かれたことが考えられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 「日本山海名産図会 第四巻 生海鼠」には、次のように記されています。
○生海鼡(なまこ) 𤎅海鼡(いりこ) 海鼡膓(このわた)
是れ、珍賞すべき物なり。江東にては、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤。西海にては、讃刕小豆島、最も多く、尚、北國の所々にも採れり。
 中華は、甚だ稀なるをもつて、驢馬(そば)の皮、又、陰莖を以つて作り、贋物とするが故に、彼の國の聘使、商客の、此に求め歸ること、夥し。是れは、小児の症に人參として用ゆる故に、時珍、「食物本草」には『海參』と号く。又、奧刕金花山に採る物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「金海鼡(きんこ)」と云ふ。
        意訳変換しておくと
 海鼠は珍賞すべき品で、東国では、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤に多く、西海では讃岐小豆島が最も多い。また、北國でも獲れる。中国では海鼠を、非常に貴重な物として、驢馬(そば)の陰莖で贋物が出回るほどである。そのため中国からやってきた使節団や商客は海鼠を買って歸ること夥い。これは子供の虚弱症の薬として用いるためで、李時珍の「本草草木(食物本草)」には『海參』として紹介されている。また東北の金華山沖で獲れる物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含  むので「海鼡(きんこ)」と呼ばれている。

  ここからは次のようなことが分かります。
①中国では海鼠が本草草木で『海參』とされ、小児病の妙薬で朝鮮人参に匹敵するほど貴重なものであった。
②そこで長崎にやって来る中国使節団や商人たちは、海鼠を争って買って帰った。
③西日本最大の海鼠供給地が小豆島であった。
 
金華山の海鼠
                金華山沖の海鼠「海鼡(きんこ)」(栗氏千虫譜第8冊)
  海鼠はどんな風にして捕っていたのでしょうか?
 日本山海名産図会には、「讃州海鼠捕」と題された絵図も載せられています。
小豆島沖の海鼠取り
小豆島沖の海鼠取り
  海岸近くの岩礁の沖で船から玉網ですくっているようです。気になるのは右手の船の船主の漁民が筒にいれたものを海に流し込んでいる姿です。何を流しているのでしょうか? 

海鼠猟
  小豆島沖の海鼠取り(拡大図 筒から何かを海に流している)

註には次のように記されています。
○漁捕(ぎよほ)は、沖に取るには、䋄を舩の舳(とも)に附けて走れば、おのづから、入(い)るなり。又、海底の石に着きたるを取るには、即ち、「𤎅海鼡(いりこ)」の汁、又は、鯨の油を以、水面に㸃滴(てんてき)すれば、塵埃(ちり)を開きて、水中、透き明(とほ)り、底を見る事、鏡に向かふがごとし。然して、攩䋄(たまあみ)を以つて、是れを、すくふ。浅い海底の石に着いたなまこを捕るには、鯨の油を水面に落す。そうすると水中が透明となり、底が鏡のように見えるので、投網ですくう、
 
  意訳変換しておくと
○海鼠漁は、沖での漁法は、網を船の舳(とも)に附けて走れば、自然に入ってくる。また、海岸近くの岩に着いている海鼠を獲るときには、「海鼡(いりこ)」の汁か、鯨の油をを水面に㸃滴(てんてき)すると、海面の塵埃が開いて、水中が透き通って、海底が鏡のように見えるようになる。そこを玉網ですくふ。

ここからは海鼠漁には、引き網漁と玉網ですくう二つの漁法があったことが分かります。鯨油を垂らすと、海面が鏡のように開くというのは始めて知りました。引き網猟も見ておきましょう。
海鼠引き網
沖でなまこを獲るには、網を船につけて引く、これはすくい網の方法であるが、なまこを取るには他に重い石をつけて海底を引くこぎ網の方法もあった。 
海鼠引き網2
海鼠引き網

どんな海鼠を、獲っていたのでしょうか? 「和名抄」には、次のように記されています。

『老海鼡(ほや)』と云ふ物は、海参 則ち、「海鼡(いりこ)」に制する物、是れなりといへり。又、「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云ひて、斑紋(まだらのふ)あるものにて、是れ又、別種の物もありといへり。「東雅」に云、『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、「沙噀(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』云々。いずれ、是(ぜ)なることを知らず。されど、「海男子」は「五雜俎」に見へて、男根に似たるをもつて号(なづ)けたり。

意訳変換しておくと
○『老海鼡(ほや)』は、「海鼡(いりこ)」のことである。また「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云って、斑紋様のあるもので、別種のものとも云える。「東雅」には次のように記す。『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』云々。どれが正しいかよく分からない。しかし、「海男子」は「五雜俎」に載せられていて、男根に似ているのでそう呼ばれるようになったようだ。

海鼠2
「栗氏千虫譜第8冊」「黒ナマコ」又は「クロコ」

当時の海鼠は、どのようにして食されていたのでしょうか?
今の私たちは海鼠と云えば、そのまま切って生身で酒の肴にして食べます。しかし、生鮮魚介類の冷凍などが出来なかった時代には、海鼠はまったく別の方法で食べられていたようです。その加工方法を見ていくことにします。
『日本山海名産図会』は、なまこの加工については次のように記します。
煎海鼠(いりこ)に加工するには、 𤎅(い)り乾(ほ)すの法は、腹中(ふくちう)、三條の膓(わた)を去り、數百(すひやく)を空鍋(からなべ)に入れて、活(つよ)き火をもつて、煮ること、一日、則ち、鹹汁(しほしる)、自(おのづ)から出(い)で、焦黑(くろくこげ)、燥(かは)きて硬く、形、微少(ちいさ)くなるを、又、煮ること、一夜(や)にして、再び、稍(やゝ)大きくなるを、取り出だし、冷(さ)むるを候(うがゝ)ひ、糸につなぎて、乾し、或ひは、竹にさして、乾(かわか)したるを、「串海鼡(くしこ)」と云ふ。また、大(おほ)いなる物は藤蔓(ふじつる)に繋ぎ、懸ける。是れ、江東及び越後の產、かくのごとし。小豆島の產は、大(おほい)にして、味、よし。薩摩・筑刕・豊前・豊後より出づるものは、極めて小なり。

意訳変換しておくと
  海鼠を乾す手順は、①腹の中の三條の腹膓(はらわた)を取って、②數百を空鍋に入れて、強火で煮ること一日。すると鹹汁(しほしる)が出て、黒く焦げ、乾いて硬くなり、縮んで小さくなる。それをまた煮ること一夜、今度は少し大きくなったものを取り出だし、③冷えてから糸につないだり、竹にさして乾かす。これを「串海鼡(くしこ)」と云う。
 また、大きいもの藤蔓(ふじつでつないで懸ける。これは東国や越後でも同じ手法である。小豆島のものは大型で、味がいい。薩摩・筑紫・豊前・豊後産のものはこれに比べるとはるかに小さい。
ここには小豆島近海の海鼠は大型で、味もいいと評価されています。小豆島産海鼠は、品質がよかったようです。
  ここには煎海鼠(いりこ)加工の手順が次のように記されています。

海鼠加工


海鼠加工1
①腹の中の三條の腹膓(はらわた)を取って、

海鼠加工2
②空鍋に入れて、強火で煮ること一時間。
鹹汁が出て、縮んで小さくなったものをまた煮ること一夜、
海鼠加工3

海鼠加工4

④冷えてから糸につないだり、竹にさして乾かす。これを「串海鼡(くしこ)」と云う。
⑤小豆島のものは他国のものと比べると大型で、味がいい。
つまり小豆島の海鼠加工品は、評判がよく競争力があって市場では高く売買されたようです。
海鼠の加工品である煎海鼠(いりこ)は、どのように流通したのでしょうか?
 実は、これらが国内で流通することはなかったのです。
俵物
俵物
高校日本史では、俵物として長崎貿易での重要品として煎海鼠(いりこ)・干鮑・鱶鰭の三品を挙げます。1697(元禄10)年から金銀銅の決済に代えて、清国向けの重要輸出品になります。そのために俵物は幕府の統制品となり、抜げ売りや食用までも禁じられました。中国への輸出用のために生産されたのです。その集荷には長崎の俵物元役所があたりました。そして全国の各浦に生産量が割り当てられ、公定価格で取引されます。しかも割当量も過大であり、漁師のいない村や原料の海鼠を産しない村まで割り当てられました。他領から購入したり、家島漁師を雇って製造しても目標は達成できません。例えば松山藩の割当ては約5000斤でした。しかし、天保~弘化期10年間の出荷率は、幕府割当量の約6割に留まっています。
第40回日本史講座のまとめ② (田沼意次の政治) : 山武の世界史
 
長崎俵物方では督促と密売防止のため全国に役人を派遣して、各浦の調査・督促を行っています。そして各藩の集荷責任者の煎海鼠買集人や庄屋が集められ、割当量の調整等が行われています。まさに「外貨」を稼ぐために特化した海鼠の加工だったことが分かります。こうして、各浦の責任者にとっては、割当てられた海鼠イリコの生産確保が大きな負担となってきます。これに小豆島の庄屋たちは、どのように対応したのでしょうか? それはまた次回に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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     前回は瀬戸内海をめぐる石切場や石工集団について見ました。その中で最後に見た讃岐豊島石(土庄町)については、「日本山海名産名物図会」(寛政11年(1799)刊行)に2枚の挿絵入りで紹介されています。
豊島の石切場3
讃岐豊島石「日本山海名産名物図会」
一枚は左側が、洞内から石を切り出している姿が描かれています。右側は切り出された石に丸い穴を開けているように見えます。今回は、豊島石の記事を見ていきたいと思います。テキストは「国立国会図書館デジタルコレクション」の 豊島の細工場『日本山海名産図会』です。
まず、説明文を読んでみます。
  大坂より五十里、讃刕小豆島の邉にて、廻環三里の島山なり。「家の浦」・「かろうと村」・「こう村」の三村あり。「家の浦」は、家數三百軒斗り、「かろうと村」・「こう村」は、各百七、八十軒ばかり、中にも、「かろうと」より出づる物は、少し硬くして、鳥井・土居にこれを以つて造製す。さて、此の山は、他山にことかはりて、山の表より、打ち切り、堀り取るには、あらず。唯、山に穴して、金山の坑塲(敷口?))に似たり。洞口を開きて、奧深く堀り入り、敷口を縱橫に切り拔き、十町(約1㎞91m)、二十町の道をなす。採工、松明を照らしぬれば、穴中、眞黒にして 石共、土とも、分かちがたく、採工も、常の人色とは異なり。かく、掘り入るることを、如何となれば、元、此石には、皮ありて、至つて、硬し。是れ、今、「ねぶ川」と号(なづ)けて出だす物にて【「本ねぶ川」は伊豫也】、矢を入れ、破(わ)り取るに、まかせず。ただ、幾重にも片(へ)ぎわるのみなり。流布の豊島石は、その石の實なり。
 故に、皮を除けて、堀り入る事、しかり。中にも、「家の浦」には、敷穴、七つ有り。されども、一山を越えて歸る所なれば、器物の大抵を、山中に製して、擔ひ出だせり。水筒、水走、火爐(くはろ)、にて、格別、大いなる物は、なし。「がう村」は漁村なれども、石も「かろうと」の南より、堀り出だす。石工は山下に群居す。ただし、讃刕の山は、悉く、この石のみにて、弥谷・善通寺、「大師の岩窟」も、この石にて造れり。

豊島の石切場
豊島(小豆島土庄町の石切場)
意訳変換しておくと
大坂から五十里の讃岐小豆島の辺りにある周囲三里(12㎞)の島が豊島である。集落は家浦・唐櫃(かろうと)」・甲生(こう)村」の三村がある。その内、家の浦は、戸数三百軒ほどで、その他二村は、各180軒程である。

豊島観光 豊島石採掘場
          豊島石採掘場入口
唐櫃産の石材は、少し硬く鳥居や土居(建物土台)に使われる。豊島の石切場が他と違うのは、山の表面から切り出す露天掘りではなく、金山と同じように「敷口(坑道入口)」から、奧深くに堀り入ってり、十町(約1、1㎞)、二十町の坑道が伸びている。そのため採石のためには、松明を照らすので、洞内は眞黒で、石か土か見分けもつかず、石切工も真っ黒で、普通の人とは顔色が違う。
  「讃岐豊島石」と題された挿絵を見ながら確認していきます。
豊島の石切場左
讃岐豊島石「日本山海名産名物図会」(拡大図)

石切場は坑道の奥深くにあるとされています。坑道内部が真っ暗なので3ヶ所で。松明が燃やされて作業が行われています。
④の石工は、げんのを振り上げて石材に食い込んだのみに振り下ろし、石を割っています
⑤の男は、天井附近の切り出せそうな石材をチェックしているのでしょうか。それを⑥⑪の男が見ています。
⑦の男は、小さなげんのを持ち、⑧の男は棒のようなもので測っているのでしょうか、よく分かりません。
⑨⑩の男達は、のみを持ち切り出した正方形の大きな石に丸い穴を開けているようです。
右側も松明が灯されたそばで②③の男達が四角い石材に穴を開けています。
この絵を見て疑問に思うのは、
A どうして暗い坑道の中で石造物制作作業が行われているのか?
B ここで造られている石造物⑨⑩は、何なのか?

そして、次の説明文が、今の私にはよく読み取れません
かく、掘り入るることを、如何となれば、元、此石には、皮ありて、至つて、硬し。是れ、今、「ねぶ川」と号(なづ)けて出だす物にて【「本ねぶ川」は伊豫也】、矢を入れ、破(わ)り取るに、まかせず。ただ、幾重にも片(へ)ぎわるのみなり。流布の豊島石は、その石の實なり。
意訳変換しておくと
 こうして、坑道を堀り入って切り出すが、もともと豊島石は側面が硬い。それを「ねぶ川」(根府川石(安山岩)と称して出荷している。この石の加工は、楔で割るのではなく、幾重もの皮状の部分を片(へ)ぎ割るのである。豊島石の石造物は、へぎ残した部分ということになる。

先ほど見た②③や⑨⑩の石工たちが、四角い石に穴を開けていることと関連がありそうですが、よく分かりません。分からないまま意訳変換を進めます。
 家浦には7つの石切場(敷穴)がある。しかし、途中に峠があるのでそれを越えて運び出さなければならない。そのため製品の大部分は、山中で制作して、それを擔(にな)って運び出している。水筒(水道管や土管)、水走(みずばしり:厨の水場・洗い場)、火爐(くはろ:小型のかまど)などの生産が主で、大型のものはない。

もう一枚の「豊島細工所」と題された挿絵を見ながら説明文を「解読」していきます。

豊島の加工場2
        豊島細工所「日本山海名産名物図会」

①⑦は石切場から切石が背負われたり、担がれたりして細工所(作業所)まで下ろされています。説明文の「大抵を、山中に製して、擔(にな)ひ出だせり。」の通りです。

豊島の加工場左
豊島細工所(拡大図)「日本山海名産名物図会」
②は、運搬されてきた切石のストック分が積み上げられているようです。
③は燈籠ですが、描かれている数はひとつだけです。
④が、石切場でも粗加工されていたものの完成版のようです。この用途が分かりません。
⑤は④よりも大きくい四角形の石造物です。これが水走(みずばしり:厨の水場・洗い場)でしょうか。
⑥は、開放型の水筒(水道管や土管)でしょうか。
⑨は臼のようにもおもえますが、石工が中に膝下まで入って削っています。臼だったら、こんなに深く彫る必要はありません。長さが短いですが、土管のように見えます。大名屋敷のような遊水式庭園では、「水筒」やジョイントの器具が使われているようです。

豊島加工場拡大図

⑩は、臼にしては小さいようです。これが説明文に出てくる「火爐(くはろ)=火鉢」かも知れません。
⑪は手水石のようにも見えます。
⑫の石工が造っているのが、先ほど見た④⑪の「火爐(くはろ)」の製造工程のようでが、よく分かりません。

後日に「国立国会図書館デジタルコレクション」の「日本山海名所図絵」を眺めていると、こんなものを見つけました。

豊島産カマド

縁台の上に載せられた小型のカマドに、釜が載せられています。手前には、貯まった灰に火箸が突き刺しています。薪ではなく火鉢のように炭を使っていたようです。大坂辺りでは、こんなカマドが使われていたことが分かります。
 さらに、グーグルで「豊島石 + 竈」で検索してみると出てきたのが次の写真です。
豊島産カマド2
豊島石のかまど(瀬戸内民俗資料館)
瀬戸内民俗資料館の展示物で「豊島石のかまど」という説明文がつけられています。どうやら「日本山海名所図絵」の「豊島細工所」に描かれているのは、このコンパクトかまどに間違いないようです。

 豊島産カマド3

豊島石の五輪塔とか燈籠は、この時期には花崗岩製のものに押されて市場を奪われています。それに代わって、生産し始めたのが円形に掘り抜きやすい特徴を活かして、水筒(水道管や土管)、水走(みずばしり)、火爐(くはろ:小型のかまど)、火鉢などだったのではないでしょうか。
 さきほど分からないままにしておいた 「この石の加工は、楔で割るのではなく、幾重もの皮状の部分を片(へ)ぎ割るのである。豊島石の石造物は、へぎ残した部分ということになる。」という意訳もそう考えると間違ってはなかったようです。
  もうひとつの豊島石の作品として面白いのがこれです。
豊島に行くとよく見かけるものですが、石でできたかまくらみたいに見えます。この中には、仏様やお地蔵さんがいらっしゃいます。地蔵さんの「円形祠」です。これが火鉢やカマドの先なのか、円形祠が先なのかは、よく分かりません。どちらにしても同じ、技術・手法です。軟らかくて加工しやすい豊島石だからこその作品です。

豊島産

こちらは、徳島城にある豊島石の「防火用水槽」です。
豊島産防火用水(徳島城)」

正面には立派な家紋らしきものがあります。特注品だったのでしょう。豊島石は、石と石の間が粗く、浸透しやすいく水に弱いとされていました。防火水槽には向かないはずですが、よく見ると内側は白くモルタルが塗られているようです。
最後の部分を意訳しておきます
甲生村は漁村であるが、唐櫃の南に石切場がある。ここでは石工たちは、石切場の山下に群居している。讃岐の山は石材はこの石だけで、弥谷や善通寺の「大師の岩窟」も、豊島産石材で造られている。

  ここで注目しておきたいのが、讃岐には豊島石以外に石材はないとしていることです。弥谷寺や善通寺の岩窟や石造物も豊島産であるというのです。弥谷寺周辺には中世以来、天霧石で五輪塔などの石造物が数多く生産され、15世紀には瀬戸内海一円で流通していたことは以前にお話ししました。
弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
         天霧石産の五輪塔分布図
18世紀末になると、かつての弥谷寺周辺で活動した石工達や、石切場のことは忘れ去られていたようです。また、この記事内容を根拠にして、中世から近世の石造物は豊島石で造られたものとされてきた時代があります。それが天霧石であったことが分かったのは、近年になってからです。その「誤謬」の情報源が、ここにあるようです。
豊島石の産地
豊島石の産地
以上をまとめておくと
①18世紀末に書かれた「日本山海名産図会」からは、当時の豊島石の石切場が坑内の中にあったこと
②石の内部を繰り出し、円形に加工する石造物(火鉢・石筒、かまど)などが生産されていたこと
③18世紀末には、讃岐では製造物生産地としては豊島が最も有名で、天霧石や火山石は忘れ去られた存在となっていたこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
豊島の細工場『日本山海名産図会』「国立国会図書館デジタルコレクション」 

  弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
                天霧山石造物の分布図
讃岐の中世石造物の産地として、天霧石材を使用して多くの石造物を生産した弥谷寺の石工達のことを追いかけています。その発展と衰退過程は以前にお話しした通りです。そして、凝灰岩から花崗岩への転換についても見ました。今回は瀬戸内海の花崗岩石材を中心とした生産地めぐりをおこなってみたいと思います。テキストは「印南敏秀   石のある生活文化     瀬戸内全誌のための素描221P 瀬戸内海全誌準備委員会」です。

石船石棺|高松市
石船石棺(高松市国分寺町「鷲山石」産)

 石材には、軟らかい凝灰岩・砂岩・石灰岩と硬い花崗岩があり、中世後期までは加工が容易な凝灰岩の利用が盛んでした。例えば凝灰岩は、古墳時代の竪穴石槨や、石棺に使用されています。高松市国分寺町「鷲山石」やさぬき市「火山石」、兵庫県の「竜山石」は、畿内の古墳に船で運ばれています。
 飛鳥時代になって寺院が建立さるようになると、基礎の礎石や地覆石に石を利用しました。飛鳥では石舞台古墳のような巨石による横穴式古墳がつくられ、陸路の巨石の運搬には木製の修羅(しゅら=そり)が使われています。
古墳時代のそり出土、石材を運搬か 木更津で国内2例目:朝日新聞デジタル

奈良時代は唐の影響で石塔や石仏などがつくら始めます。
しかし、凝灰岩は風化しやすいためにあまり残っていないようです。平安時代になると、凝灰岩の岩肌に磨崖仏が彫られるようになります。瀬戸内地方では大分県臼杵市、国東半島の岩屋、元町、熊野磨崖仏があります。
対峙すると見えてくる新境地?大分・国東半島の磨崖仏巡礼 | 大分県 | トラベルjp 旅行ガイド
国東半島の熊野磨崖仏

 鎌倉時代に東大寺造営のためにやってきた南宋の石工集団によって、石造技術が進歩して、花崗岩の加工が可能になります。そうすると、硬くて風化しにくく、岩肌が美しい花崗岩で石塔や石仏が作られるようになります。
南大門 由縁 歴史 東大寺 南大門:鎌倉時代(1185–1333)に東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建(1199)。入宋経験のある重源によってもたらされたこの建築様式は大仏様(天竺様)と呼ばれました。  | 奈良 京都 散策サイト
東大寺獅子像(南宋石工による作品)

安土桃山時代になると安土城のような大きな石垣が作られ、滋賀県の穴太衆など石積技術が格段に進歩します。
その集大成となるのが徳川家による大阪城再建です。この石材切り出しや加工のために多くの石工達が、小豆島や塩飽などの瀬戸の島々に集められます。こうして技術交流などが進み、築城のために発達した石積技術は、その後は瀬戸内地方では塩田や耕地干拓、港湾や波止、石橋、石風呂など、いろいろな面に「平和利用」されるようになります。
岡山城下を守った巨大遺構~百間川「一の荒手(いちのあらて)」の現地公開を行いました~ - 教育委員会 フォトギャラリー -  岡山県ホームページ(教育政策課)
岡山市百間川の「一の手あらい」
  例えば、讃岐で満濃池再築や治水・灌漑工事を行った西嶋八兵衛は、築城の名人と呼ばれた藤堂高虎に仕えていた若者でした。彼は、高虎の名で二条城や大坂城の天下普請にも参加して、土木・建設技術や工人組織法を身につけたいました。生駒藩の危機に際して、藤堂藩からレンタルされた西嶋八兵衛は、藤堂高虎の指示を受けて、ため池築城などを行っていきます。それは大阪城などの天下普請に参加して得た土木技術を身につけていたからこそ可能であったことは、以前にお話ししました。

瀬戸内海の石材産地を東から順に見ていくことにします。
大阪府では、和歌山県境の和泉山脈付近から採掘した軟質の和泉砂岩が有名でした。
和泉の石工
摂州の石工職人(『和泉名所図会』(1796年)
『和泉名所図会』(1796年)には、次のように記されています。

「和泉石ハ其性細密にして物を造るに自在也 鳥取荘箱作(泉南郡岬町)に石匠多し」

そしてその作業場が描かれ、松の木陰の小屋周辺で、和泉石を使って燈籠や狛犬・臼・墓石を作る石工たちがいきいきと描かれています。

国玉神社 (大阪府泉南郡岬町深日) - 神社巡遊録
        国玉神社の狛犬(岬町)
精緻な狛犬の細工は難しく、優れた石工が多かった大阪府泉南郡岬町の加工場だと研究者は考えています。岬町は海沿いで海上輸送に便利で、瀬戸内地方の近世の狛犬の多くは、砂岩製で岬町から運ばれたものが多いようです。和泉砂岩の石造物は内陸の京都や奈良にも淀川の水運を利用して運ばれました。その中には、庭園の沓脱石や橋石などもあります。
 石工達が自立して仕事場を形成するのは、江戸時代後期になってからのようです。
江戸時代中頃まで、石工は大工などの下働きをする地位に甘んじていました。例えば江戸幕府が開かれた頃は、城の石垣など土木工事が石工の主な仕事でした。そして江戸城・大阪城や京都の大規模寺社などの仕事が一段落すると石工達は失業するものが増えます。帰国する家族持ちは別として、多くは周辺で生きていく道を探るしかありません。そこで、周辺の石切場を探しては、石の仕事を始めることになります。そのような中で、町民階級が経済力を高めると、石造物需要が増えます。その需要に応じた商品を作り出していくことになります。その中の売れ筋が、墓石(墓標)でした。当時は、墓石や、石仏を彫ったり、道祖神などを彫るなどの仕事が爆発的に増えていたのです。
 中でも腕の立つ石工は、燈籠などの神社に奉納されるミヤモノ(宮物)を作るようになります。
世の中が豊かになるにつれて、寺社や裕福な町民などからの注文は増え、仕事には困らなくなります。こうして江戸時代後期になると、多くの石像物が作られるようになります。かつては誰でもが墓標を作れるものではありませんでした。その規制が緩やかになると富裕になった商人層が墓標を建てるようになります。武士の石造墓標文化が町民にも流行り始めたのです。
 可愛らしい石仏が庶民にも買うことの出来る値段で普及するようになります。これはモータリゼーションの普及と同じように、ある意味では「石造物の大衆化」が進んだとも云えます。こうしてステロタイプ化した石造物が大量生産物されるようになります。その一方で、錦絵の美人画に影響を受けたような優しい観音様の石仏が生まれてきます。そして、あか抜けた洒落た観音様が好まれるようにもなります。江戸や上方の近郊の村々には、素朴な石仏より、歌舞伎などの影響を受けたあか抜けした石仏が多い、江戸から離れるほど素朴になって行くと云われるのも、「石造物の大衆化」の流れの中での現象と研究者は考えているようです。
しかし、石工の労働は厳しく辛いものでした。
硬い石を鑿を叩き、その粉塵を吸い込み胸を患うものが多かったようです。そのため石工の子供も、長男は別の仕事に就かせ、2男・3男を継がせて家の存続を図ったと云われます。
少し脇道にそれたので、もとにもどって石場廻りをつづけます。

神戸市東灘区の御影(みかげ)から運びだされた花崗岩は、鎌倉時代から高級石材として知られていました。
御影石の採石場(『日本山海名産図会』
 御影石の採石場(『日本山海名産図会』より)
  武庫御影石は、『日本山海名産図会』には
「摂州武庫、菟原の二郡の山中より出せり」、

『摂州名所図会』には、次のように記されています。
「武庫の山中より多く石を切出し・・・牛車のちからをもって日々運ぶこと多し」
「京師、大坂及び畿内の石橋、伽藍の礎石、あるいは鳥居、燈籠、手水鉢・・・」

ここからは切り出された石材が牛車で、湊まで運ばれ、石橋や伽藍礎石、鳥居、燈籠、手水鉢として船で京都や大阪に石材として運び出されていたことが分かります。
六甲山の花崗岩がどうして、「御影石」と呼ばれるようになったのでしょうか?
それは、石の積出港が現在の神戸市東灘区の御影だったからのようです。今でも御影石町、石屋川など石にまつわる地名が残っています。

中国地方の花崗岩の石材地を見ておきましょう。
日本有数の銘石「北木石」の歴史を尋ねて(岡山県笠岡諸島北木島) | 地球の歩き方
笠岡市北木島
笠岡市北木島には、日本有数の大規模丁場があり、日本銀行本店本館にも使用
福山市赤坂 赤坂石の小規模な丁場が点在
呉市倉橋島 国会議事堂などの大型建築や軌道石に使用
柳井市   目が細かく、墓石や土木材に利用
周南市黒髪島の徳山石(花崗岩) 大坂城築城のために開かれた丁場

四国の丁場を見ておきましょう。

高松市庵治の庵治石は日本最高級の良質花崗岩とされています。讃岐では、小豆島や塩飽の島々にも花崗岩の丁場が多くみられます。これらの多くは、大坂城築城のときに大量の石が切り出されて、船で運ばれたこと、そのために各藩は、何百人もが生活する石切職人小屋を建てたことなどは以前にお話ししました。大阪城の築造が終わった後も、周辺の島々にそのまま定住した職人がいたようです。

豊島の石切場
豊島の石切場跡

小豆郡土庄町の豊島の豊島石(凝灰岩)については、

『日本山海名産図会』に、採石場の丁場と加工場の2景が紹介されています。
豊島の石切場2
豊島の豊島石『日本山海名産図会』

豊島石の丁場は、大嶽山腹から坑道を採石しながら内部に堀りすすみ、大きな空洞が描かれています。説明文には、豊島石は、水に弱いが火には強い特徴をいかして、煮炊きに使う電や七輪、松の根株を燃やして明かりに利用した火でばちなどをつくっていることが記されています。なお、豊島石は苔がつきやすいため、造園材として名園の後楽園や桂離官でも利用されています。
豊島の加工場
豊島石の加工場(日本山海名産図会)
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「印南敏秀   石のある生活文化     瀬戸内全誌のための素描221P 瀬戸内海全誌準備委員会」
関連記事

 
DSC00702
昭和の嫁入り風景
讃岐では、昔の婚礼は嫁ぎ先の家で、親類や近所を招いた宴会が夕方から夜明けまで続きました。婿の母親が花嫁を仏壇に招いておがませ、納戸で夫婦盃をとりかわします。その後、納戸から座敷に移動すると押しぬきずしなどがでて、宴会のトリにメンカケ(鯛めん)がでました。
鯛そうめん 愛媛県 | うちの郷土料理:農林水産省
鯛めん(鯛+そうめん)
鯛めんのタイは、その家の家格をしめすともされて、大きいほどよろこばれました。鯛めんは鉄鍋に調味料をいれ、ハランを敷いて、タイをのせて20~30分煮ます。大皿にゆでたそうめんを盛り、煮たタイをのせます。しっぼく台に鯛めんをのせて伊勢音頭を歌いながら座敷の中央に運びました。そこで船歌をうたい、そうめんとタイをほぐしてもりあわせ参列者に配りました。
めでたい時こそ豪快に!うどんの上に鯛を乗せた『鯛麺』がウマい理由とは。(オリーブオイルをひとまわしニュース)
讃岐の鯛めん(鯛 + うどん)

 瀬戸内海の沿岸部や島嶼でも鯛めんは、婚礼にかかせないものだったようです。鯛めんには、「タイの大きさが家格をしす」ともされ、家の体面がかかっていたようです。鯛めんは婚礼のほかにも、祭りや新築祝など慶びの会食には欠かせないものでした。鯛が人々に食べられ、それが祝魚となったのは、いつ頃からなのでしょうか。今回は、讃岐と鯛の関係を追ってみたいと思います。テキストは「印南敏秀    祝事と鯛文化  瀬戸内全誌のための素描212P 瀬戸内海全誌準備委員会」です

2 日本列島では、いつ頃からタイを食べてきたのでしょうか。
青森市の三内丸山遺跡からは約50種の魚介類の骨が見つかっています。その中にはタイの骨もあります。ここからは漁具も出てきていて、タイを網漁、釣漁、モリ漁などでいろいろな方法で獲っていたことが分かります。縄文時代からタイは、食べられていたようです。

 弥生時代になると稲作中心になったためでしょうか魚食は、減少するようですが、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『古今集』、『延喜式』などには、タイがよく登場するので、タイは食べ続けられていたようです。例えば『延喜式』には、朝廷に11か国からタイが貢納されるとして、三河、伊勢、志摩の伊勢湾、和泉、紀伊、讃岐の瀬戸内海、若狭、丹後の若狭湾、筑前、筑後、肥後の九州西北部が挙げられています。ここで押さえておきたいのは、和泉だけが鮮魚で、他は都から遠いため加工品で、瀬戸内の紀伊と讃岐は背開きの塩干しが貢納されていることです。
天然真鯛の手作り干物 レシピ・作り方 by ゴイ51 【クックパッド】 簡単おいしいみんなのレシピが378万品
鯛の背開き
 讃岐の貢納品である「背開きの塩干し」は、だれがどこで作ったのでしょうか?
農民には魚は獲れませんし、加工もできません。塩を作り、船を操船し、魚を獲って加工するといのは「海民」たちに相応しい仕事です。備讃瀬戸の塩飽などの島々には、古代から住み着いた海民たちが塩を作りながら、それを各地に運び、交換する交易活動を行っていたことがうかがえます。貢納した以外の加工品は、交易品として流通したかも知れません。
仁尾の蔦島
仁尾沖の蔦島 手前が父母が浜
   仁尾沖に浮かぶ大蔦島・小蔦島は、11世紀末に 白河上皇が京都賀茂社へ御厨として寄進しました。
そして、海民たちが京都賀茂神社の神事に必要なお供え物を貢納するために神人(じにん)として奉仕するようになります。その中に、燧灘で獲れた魚介類があり、タイもふくまれていたはずです。仁尾の神人たちは、次第に賀茂神社の持つ権威や「特権」を背景に、瀬戸内海の交易や通商、航海等に活躍することになります。そして、仁尾浦は海上交易の活動の拠点であるだけでなく、讃岐・伊予・備中を結ぶ軍事上の要衝地・港町として発展していくことになります。仁尾は、賀茂神社に奉仕する人々を中核として浦が形成されていきました。
 つまり、魚介類の貢納が彼らの発展のスタートだったのです。そして、仁尾や塩飽などは海民(あま)の拠点であったこと、それが交易拠点に成長して行くことを押さえておきます。

  仏教思想を受けいれるようになった貴族達は肉食を避けて、儀礼食として魚介類を好むようになります。
はじめは中国の影響をうけてコイなどの淡水魚の利用が多かったようですが、それがしだいに海水魚に代わります。 
  『万葉集』には、柿本人麻呂が明石の漁の様子を次のように詠んでいます。
 あらたへの 藤江の浦に 鱸(すずき)釣る 
 白水郎(あま)とか見らむ 旅行く吾を     
              (『万葉集』巻三 252)

藤江の浦で鱸(すずき)を釣る土地の漁師と人は見るであろうか。官命によって船旅をしているこの私であるのに。〕

726(神亀3)10月10日、聖武天皇の印南野行幸に従ってきた山部赤人は次のように詠みます。
 印南野の 邑美(おうみ)の原の 荒栲(あらたえ)の 
藤井の浦に 鮪(しび)釣ると 海人船騒き  
塩焼くと 人ぞ多(さは)にある (『万葉集』巻六 938部分)

 印南野の邑美の原の藤井(藤江)の浦に鮪(=まぐろ)を釣ろうとして海人の船が入り乱れ、塩を焼こうとして人がいっぱい浜に集まっている。

ここからは、明石の藤江の沖では、すずきやまぐを釣る漁師の船が数多く出漁していたことがうかがえます。同時に、塩が焼かれているので製塩も行われていたことがうかがえます。明石も海民(あま)の拠点だったようです。
   以後の明石を呼んだ歌も見ておきましょう。鎌倉時代には、
 しまかけて おきのつり舟 かすむなり あかしのうらの 春のあけぼの 慈円 『捨玉集』882
 
夕なぎの ふぢ江の浦の 入海に すゞきつるてふ 
あまのをとめ子 衣笠内大臣(藤原家良) 『夫木和歌抄』巻27
 
あかしがた うらぢはれ行く あさなぎに 霧に漕ぎいる あまのつり舟 後鳥羽院 建保2年(1214) 『玉葉和歌集』739
 
 あかしがた 波ぢはるかに なるまゝに 人こそ見えね 
 あまのつり舟 順徳院 建保4年(1216)『玉葉和歌集』2088

 ここからは古代から中世にかけての明石では、「海人(あま)の釣舟」(海民たちの漁船)が出て、魚を捕り続けていた事が分かります。これは、瀬戸内海の島々や沿岸部にいた海民に共通する姿だったのでしょう。

これらの魚介類の中で、人々が別格とランク付けする魚が出てきます。
それがタイでした。タイは、日本周辺に13種類がいて、クロダイなどの黒いタイとマダイなどの赤いタイにわかれます。祝魚として喜ばれたのが、肌の赤色くて、形も美しいマダイです。
真鯛分布図

マダイは暖かい海を好み、北海道南部から本州、四国、九州にまで広く生息しています。マダイは味が淡自で癖がなく、生・焼く・煮るなどのいろいろな調理にもあいました。また身が筋肉質で腐りにくく、変質しにくく、ひと塩すると保存性も増します。こうして、マダイは祝魚の王様として、日本人に最も愛される海水魚になっていきます。
真鯛の産卵場所
マダイの産卵場所
マダイは春に水温があがると、水深100~200mの越冬場から産卵のために浅場へと回遊してきます。
瀬戸内海には、東の紀伊水道と西の豊後水道から産卵のためにやってきます。産卵が活発に行われるのは、水温が15~17°前後のときで、これは瀬戸内海では5月初めの八十八夜頃にあたるようです。産卵期を迎えたマダイは、産卵にそなえて脂がのり、味もよく、赤味もまして色鮮やかになります。桜の開花期にあたるので「桜鯛」、産卵のために群れて島のように見えたので「魚島鯛」とも呼ばれました。

 桜鯛
桜鯛

福山市の瀬戸内海に注ぐ芦田川河口の中洲に、中世の港町・草戸千軒町遺跡が埋まっていました。
中洲のごみ溜からはタイ、カサゴ、ウマヅラハキなどの大量の魚の骨が見つかっています。その中で一番多く出てくるのがタイの頭部のようです。大きなタイは体長1mをこえています。中世の港町の人達が、魚を大量に消費していたことが分かります。これらの鯛も、鞆の沖でとれたものが運ばれてきていたのでしょう。庶民が大量に消費すると同時に、武家社会でもタイは儀礼用として重視されるようになります。
真鯛 - マダイ - | Fのかがやき

 古代は貴族社会では、鯉が最上級の魚だったことは先ほど述べました。しかし。江戸時代になるとその評価は逆転して「鯛は大位、鯉は小位」と云われるようになります。

鯛百珍料理秘密箱
鯛百珍料理秘密箱
 『鯛百珍料理秘密箱』のように鯛専門の料理書まで刊行されています。江戸幕府がひらかれると魚の需要が高まり、江戸の魚を確保するため関東全域から運ばれるようになります。魚が痛みににくい冬は、駿河湾や富山湾らも運ばれました。
                                 イケフネ(活魚運搬船)
江戸時代のイケブネ(活魚運搬船)
江戸初期には瀬戸内海で獲れたタイも、イケフネ(活魚運搬船)で活きたまま江戸に運ばれたこともあったようです。幕府は大坂に10人の担当者をおいて、塩飽諸島の与島に生貴場をつくっています。しかし、イケフネで運ぶ途中で死ぬタイが多く、江戸まで十分な量のタイは送れませんでした。
 また海難事故も頻発に起きます。岡山県笠岡市の真鍋島は3~5月にかけてタイ網魚が盛んでした。延宝年間(1673~81年)に真鍋島のイケフネが、漁の最初と最後に江戸までタイ運んで高収入をえました。ところが1681(延宝9)年にイケフネが熊野灘で遭難して、5艘が行方不明、4艘が破損してしまいます。そのため江戸送りは取りやめになったようです。

イケフネ(活魚運搬船)2
イケブネ(活魚運搬船)
 江戸は無理でも、大坂までは充分に運べるようになります。
イケブネと呼ばれる生き魚専用の運搬船が開発されていたようです。船底に穴を開けて、海上ではそこに海水を環流させながら魚を運んできます。淀川に近づくと栓をして川水の進入を防ぎます。そうして船の上で一匹ずつ絞めて、血抜きをしながら雑喉場(魚市場)に入っていったようです。このイケブネがいたために、家船漁師達は、何日も海の上で操業できるようになります。家船漁師が一本釣りで釣った鯛を、船上で仕入れて大坂に運ぶ業者も現れます。網で獲るよりも、一本釣りで釣った魚の方が商品価値は高かったようです。


 昭和初期のタイの料理法を見ておきましょう。
『日本の食生活全集』(農山漁村文化協会)は、大正末から昭和初期ごろの各県ごとの食事を以下のように聞き取りしてまとめています。
鯛料理別県数
タイの調理と食事の記録は西日本に多く、他の魚と比べて大きな違いは大半が祝事などの儀礼行事に出された点です。日本の三大鯛の兵庫県明石・徳島県鳴門・和歌山県大地で、鯛料理が少ないのは、大坂・京都などの都市部に売られたからでしょう。漁民達にとって鯛は、食べるものではなく売る魚だったようです。
 タイの調理法は焼魚が一番多く、すし、刺身、煮付け、汁物、鯛めんと続いています。
鯛めんはそうめん業が盛んな瀬戸内地方の調理法で、婚礼の席になくてはならないものだったことは、最初に見たとおりです。「めで(タイ)」と、夫婦が仲むつまじく「細く長く(そうめん)」人生がおくれる願いをこめています。
鯛の浜焼」 | 有限会社山家鮮魚

タイの調理法の中に、塩田と結びついた浜焼きがあります。
三豊市の詫間塩田では、塩田経営者が浜子に命じて贈答用に浜焼きをつくらせていたそうです。浜子は昔の浜焼きを次のように述べています。
①鉄の平釜で海水を煮ると約110°Cで結晶はじる。
②結晶しはじめた塩を板囲いの中にいれて、内臓をとったタイをコモで包んで置く。
③その上から塩をのせて1時間おくと浜焼きができる
浜焼きのタイは、ほのかに甘みがあり、締まった身は淡白だと云います。塩味はほとんど感じず、ワサビ醤油や酢の物につけるとおいしいそうです。鯛の獲れる「魚島」の時期でも、浜焼きは浜子の日給以上したようです。そのため浜子が浜焼きのタイを食べることはなかったと述懐しています。
瀬戸内の伝統「鯛の濱焼き」を未来へ繋ぐ「おさかな工房まるせん」@志度: さぬき市再発見ラジオ あそびの達人
浜焼き鯛
  近世から祝い事になくてはならなくなったマダイは高級魚としての地位を確立します。明治になると農民達も、鯛を縁起物として珍重したために魚価は高値安定で高級魚の代表とされてきたようです。そのために、いろいろな料理法も生まれています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


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兵庫北関入船納帳

『兵庫北関入船納帳』(入船納帳)は、戦後になって「発見」された史料です。
3兵庫北関入船納帳

この史料には文安2(1445)年に、通行税を納めるために兵庫北関に入船してきた船の船籍や梶取名(船長)、問丸(持ち主)、積荷などが記されています。ここからは、当時の瀬戸内海の海運流通の実態がうかがえます。この史料の発見によって、中世の瀬戸内海海運や港などをめぐる研究は大幅に進んだようです。以前に、「入船納帳」に出てくる讃岐の港町については紹介しました。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg

今回は、讃岐船の「国料船」「過書船」について、讃岐守護代であった安富氏や香川氏が、どのように関わっていたのかを見ていくことにします。テキストは  橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力」です。
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                     兵庫沖の中世廻船(一遍上人絵図) 

 讃岐守護の細川氏は、足利氏の親族として幕府の中で重要な役割を果たし、京に在住していました。
そのために生活必需品を讃岐から海上輸送する船には、関税がかけられなかったようです。讃岐守護代の安富・香川などはは、「国料船」と呼ばれる関税フリーの輸送船の航行権を持っていました。ここからは、次のように考える研究者もいます。

「国料船を通じて見られる管理権が、単に国料船だけでなく、港津全体の管理権であったと考えられる」

つまり、安富・香川・十河氏の3氏は、「国料船」だけでなく、その船の母港の管理権も握っていたというのです。「兵庫北関入船納帳」に出てくる国料船は、備後守護山名氏と、細川氏の家臣である讃岐の香川・十河・安富の三氏だけに許された特殊な船だったようです。

「入船納帳」に出てくる国料船の記事を一覧表したの下図です。
兵庫北関入船納帳 国料船一覧

ここでは、讃岐3氏の国料船の船籍地に注目して見ていきます。3氏の拠点港は、次の港であったことが分かります。
①香川氏は多々津(多度津)
②十河氏は庵治・方本
③安富氏は方本・宇多津
このなかで研究者が注目するのは③の安富氏の国料船についての次の記述です。
三月六日
①方本     安富殿   国料   成葉   孫太郎
四月十四日
  元ハ方本成葉船頭
②宇多津    安富殿   国料   弾正 法徳

①の国料船は、3月6日に兵庫北関に入港してきた時には、船籍は方元(屋島の潟元)で、船頭は成葉、問丸が孫太郎、と記されています。ところが4月14日に入港してきた時には、②のように、船籍が宇多津、船頭が弾正、問丸が法徳に変更されています。そして註には「元ハ方本成葉船頭」(元は潟元の成葉が船長だった)と注記されています。そのまま理解すると①と②の船は、同一船で、もともとは「方本港の船頭成葉」の船であったということになります。とすると1ヶ月の間に、船籍が方本(成葉)から宇多津(弾正)へ移ったことになります。
もうひとつ研究者が、注目する記事を見ておきましょう。
四月九日
 本ハ宇多津弾正殿
③多々津(多度津)  賀河(香川)殿  国料   勢三郎   道祐

③の記事は多度津の香川氏の国料船の記述で、註には「本ハ宇多津弾正殿」の船と記されています。それまで宇多津船籍として運航されていた船が、多度津港に移動してきたことが分かります。

3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐の船籍一覧表

 これらの国料船の船籍移動を、どう理解すればいいのでしょうか?
これについて研究者は、次のように記します。
「香川氏の国料船はもとの船籍地が宇多津で船頭が弾正であったが、安富氏の船籍地移動と相前後して移動している。また十河氏の方本の国料船は安富氏のそれが宇多津に移って後の五月十九日を初見とする。それゆえ移動は安富氏だけの問題ではなく、香川・十河の両氏の船籍地にも及んだ全面的な変動であった。安富氏が宇多津へ移ると同時に香川氏は宇多津の管理を止めて多々津(多度津)に集中し、 一方十河氏は近傍の庵治のほか安富氏の移ったあとの方本の管理権をも得て、画港を管理するようになった。これは管領細川氏の京上物を輸送するための船であろう。
   細川勝元は管領就任を機として有力被官三氏の主要港津管理権を調整し再編成して、分国讃岐における権力基礎の安定と京上物の輸送の確保を図ったと考えられる」
以上を整理しておくと、港の管理権が次のように移動したようです。
①東讃守護代の安富氏は、西讃守護代の香川氏に代わって宇多津の管理権得た。その代償に、潟元の管理権は十河氏のものとなった。
②香川氏は、宇多津から多度津に移動し、多度津の管理権を得た。
③十河氏は、それまでの庵治の他に方元(潟元)の管理権は、安富氏から引き継いだ。
④細川勝元の管領就任にともなって、讃岐国元で港の管理体制についての変動があった。
  港名           旧来の管理者     新管理者
方元(潟元)港  安富氏 →   十河氏
宇多津港           香川氏 →   安富氏
多度津港     ?       香川氏  
注意しておきたいのは、これは港の管理権に限定された変更です。領土変更があったと云っているわけではありません。港に関しては、西讃の仁尾湊を、東讃の香西氏が管理してた例もあるので、港湾管理に関しては、守護代の権限とは別のルールがあったと研究者は考えているようです。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世宇多津海岸線の復元図

安富氏が管理することになった宇多津の繁栄ぶりを、見ておきましょう。
 阿野・鵜足郡では、室町期になると松山津にかわって宇多津が繁栄するようになります。この背景には、讃岐守護細川頼之が、守護所を宇多津に置いたことがあるようです。大束川は、かつては川津から現在の鎌田池を経て、坂出の福江方面に流れ出していたことは、以前にお話ししました。そのため、古代は坂出の福江や御供所が港として機能していました。それが、大束川の流路変更で、中世にはその河口になった宇多津が港町として機能するようになります。宇多津の後背地には、鎌倉期に春日社領となる川津荘がありました。そのため河口の宇多津が、年貢積み出し港として機能するようになります。

6宇多津2
中世宇多津の復元図

 康応元年(1389)2月、将軍足利義満が厳島神社への参詣の時に、宇多津の細川頼之の館へ両者の関係修復のために立ち寄っています。その時の様子が『鹿苑院殿厳島詣記』に次のように記されています。「群書類従』巻第233。
「此処のかたちは、北にむかひてなぎさにそひて海人の家々ならべり。ひむがしは野山のおのへ北ざまに長くみえたり。磯ぎはにつヽきて占たる松がえなどむろの本にならびたり。寺々の軒ばほのかにみゆ」

意訳変換しておくと

「宇多津の町のかたちは、北に向かって広がる海岸線にそって海人の家々が並んでいる。東は野山(聖通寺山)の尾根が北に長く伸びている。磯際の海岸線には、松並みが続き、建ち並ぶ寺々の軒がほのかに見える。

ここからは、宇多津が家々・寺々が軒を並べた大きな町並であったことが分かります。
 細川氏が讃岐と京との間を往来する時には、宇多津が利用されたのでしょう。そのために京の文化は、いちはやく宇多津へ伝わり、京に似せた寺院が丘の上には建ち並ぶようになり、細川氏の家臣が居住する屋敷が作られ、丘の下の海岸線沿いには多くの商工業者が集中して一大都市が形成されるようになります。そのために物資があつまり、集積され、輸送するための港が賑わうようになっていきます。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
江戸時代後半の宇多津

室町時代の讃岐国は、安富氏と香川氏が守護代として、讃岐を二分統治していたことは以前にお話ししました。
①安富氏 東方7郡 大内・寒川・三木・山田・香川東・香川西・阿野南条
②香川氏 西方6郡 豊田・三野・多度・那珂・鵜足・阿野北条
東方守護代であつた安富氏は、守護代就任当初から京兆家評定衆の一員として重任されていました。そのため在京し、讃岐を留守にしてすることが多ったので、一族を「又守護代」として讃岐・雨瀧山に置くようになります。一方、西方守護代であった香川氏は、ほぼ在国していたようです。そのため安富氏と香川氏の在地支配の方法は、おのずと違ってくるようになります。
 香川氏は地元に根付いて守護代権限を行使するとともに、その権限を利用して在地支配を早くから推し進めていきます。その動きを見ておくと
永徳元(1381)年 香川彦五郎(平景義)が、多度郡葛原荘内鴨公文職を京都の建仁寺永源庵に寄進
応永19(1422)年 香川美作人道が随心院領弘田郷代官職を請負う。美作入道は香川氏一族の一人ですが、その後に押領を図ったため代官職を能免されています。
守護代香川氏の動きについては、よく分からないことが多いのですが、 一族が各地の代官職を請け負って、やがてはその地位を利用して押領をしていく姿が、三野・秋山文書などからはうかがえます。守護代は、もともとは違乱停止の社会秩序を防衛する立場です。しかし、一族の押領を容認し、一族を用いての所領化を図っていく姿が見えてきます。応仁の乱後には、その動向が強くなり、細川氏に代わって丸亀平野や三野平野において、独自の支配権を確立していきます。香川氏は、戦国大名化への道を歩み始めていたと云えそうです。これは、讃岐を不在にしていた東方守護代の安富氏とは、対照的です。

最初に文安二年(1445)に、宇多津の港湾管理権が移動したことを「兵庫北関入船納帳」で見ました。
この目的は、讃岐における守護細川氏の権力基礎の安定と京上物の輸送の確保を計ることにありました。しかし、京都で管領職を務める細川氏にとっては、もっと深いねらいがあったようです。細川氏の立場に立って、それを見ておきましょう。
応仁の乱 - Wikipedia
細川氏の分国 青色
  当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々を分国支配していました。そのため備讃瀬戸の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。

6塩飽地図

その防衛拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。
宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津の管理権を任せることになったというストーリーが考えられます。宇多津の支配が安富氏に委ねられたときに、塩飽も安富氏の管理下に置かれたようです。
 つまり、宇多津・塩飽を安富氏に任せたのは、宇多津 ー 塩飽 ー備中児島を結ぶ備讃瀬戸の海上覇権をにぎるための戦略でもあったと研究者は考えているようです。
   その後の備讃瀬戸をめぐる動きについて簡単に触れておきます。
16世紀になり、細川氏と大内氏との間で、備讃瀬戸の制海権をめぐる抗争が展開されます。これに細川氏が敗れ、塩飽は大友方についた能島村上氏へと支配権は移動していきます。安富氏の塩飽支配は長くは続かなかったようです。
細川氏の隠され裏のねらいは、讃岐で勢力を拡大する香川氏の動きを抑止することです。
 香川氏は讃岐に残り、在地支配を強化する道を着々と歩んでいました。その際に、香川氏が守護所の字多津の管理権を握っていることは、香川氏の勢力拡大にプラス要因として働きました。その動きを阻止するために細川勝元は、信頼できる安富氏に宇多津を任せた。宇多津の管理権を、香川氏から奪った背景には、このような細川勝元の思惑があったと研究者は考えています。
道隆寺 中世地形復元図
堀江港の潟湖にあった道隆寺
応永六年(1399)に宇多津の沙弥宗徳が買い取った多度部内葛原荘の田地を、多度津の道隆寺に焔魔堂僧田として寄進しています。道隆寺は、中世の港として機能していた堀江港の港湾管理センターの役割を果たしていた寺院で、塩飽や庄内半島などの寺社を末寺に持ち、備讃瀬戸に大きな影響力を持った有力寺院だったことは以前にお話ししました。同時に、香川氏の保護を受けていたことも分かっています。その道隆寺に、宇多津の宗徳が田地を寄進しているのです。この宗徳が、どんな人物なのかは分かりません。ただ、土地を買い取るだけの経済力を持っていた人物であったことは分かります。彼は経済的発展を遂げている宇多津において、裕福な階層に属していたのでしょう。また徳の一字から見て、宇多津の問丸の法徳の一族とも推測できます。このような人物と結ぶことで、香川氏は経済力を向上させ勢力を拡大させていたことがうかがえます。これは守護の細川氏にとっては好ましいことではありません。それは、阿波の三好氏のような家臣登場の道にもつながりかねません。細川氏にとっては、宇多津の支配は重要な意味合いを持っていました。東讃岐に拠点を持つ安富氏を宇多津へと移動させたのは、このような思惑があったためだと研究者は考えています。
 
 宇多津を失った香川氏は、どうしたのでしょうか
  これに直接応える史料はないようです。考えられる事を箇条書きするのにとどめます
①堀江港に替わって、新たに桜川河口に新多度津港を開き、香川氏専用の港湾施設とした。
②白方に拠点を置いていた海賊衆山路氏を、配下に入れて輸送力や海上軍備の増強に努めた。
③三野方面へと勢力を伸ばし、三野氏や秋山氏を家臣団化した
④香西氏の代官を務める仁尾浦への介入を強めた。

応仁の乱を契機として、讃岐での細川氏の力は大きく減退し、在地の国人が活発に動きを見せるようになります。
それは守護細川氏の支配下から抜けだし、在地支配を強化していく道だったのでしょう。ところが、その前に阿波三好氏が侵人し、東讃岐の国人たちは従属していきます。
 その中にあって最後まで対抗したのは香川氏でした。香川氏が周辺国人たちを家臣団化し、戦国大名化していく様子がうかがえるのは、以前にお話した通りです。

以上をまとめておきます
①讃岐守護代の安富・香川氏は、関税フリーの国料船の運行権を持っていた。
②国料船の当初船籍は、安富氏が方元(屋島の潟元)、香川氏が宇多津であった
③その港湾管理体制が文安2(1445)年に変更され、宇多津を安富氏が管理するようになった④この背景には、守護細川氏の備讃瀬戸制海権や讃岐国内統治をめぐる思惑があった。
⑤備讃瀬戸に関しては、宇多津・塩飽を安富氏に任せることで制海権確保の布石とした
⑥讃岐統治策面では、台頭する香川氏の勢力拡大を阻止しようとした。
⑦しかし、応仁の乱の混乱で細川氏による讃岐支配体制が弱体化し、東讃は阿波の三好氏の配下に入れられていった。
⑧一方、西讃については西讃守護代の香川氏が戦国大名化し、最後まで「反三好」の旗印を掲げた。
⑨香川氏は、多度津港を拠点として瀬戸内海交易において経済的な富を獲得し、それが戦国大名化のための経済基礎となっていたふしかがある

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力所収
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    5 瀬戸内海
   
前回は室津・小豆島・引田を結ぶ海上ルートの掌握が、織豊政権の讃岐侵攻に大きな意味を持っていたこと、信長・秀吉軍の讃岐侵攻の際に後方支援の戦略基地として小豆島が重要な意味を持っていたことを見てきました。さらに織田軍が、このルートを越えて西進していくと重要になるのが、備前の下津井と備讃瀬戸の塩飽と宇多津を結ぶルートです。このルートの中核は塩飽です。その背後には村上水軍がいます。今回は、織豊政権が村上水軍にどのようように対応し、瀬戸内海西部の制海権を掌握していったのかを見ていくことにします。

織田政権は、石山戦争を契機として新たな水軍編成を進めていきます。
その担当を信長から任されるのが秀吉です。秀吉は「中国攻め」を担当していました。それは毛利氏との対決だけでなく、四国平定など瀬戸内海制海権の掌握とも関係します。そのため瀬戸内海の水軍編成と表裏一体の関係にありました。その手順を見ておきましょう。
 まず、大坂湾は木津川海戦以後は九鬼水軍が制海権を握っています。そこで秀吉は、瀬戸内海東部の警固衆を集めて織田水軍を編成します。それが以下のようなメンバーです。
播磨明石の石井与次兵衛、
高砂の梶原弥介
堺の小西行長
彼らが初期の織田水軍の中核となります。しかし、こうして編成された織田(秀吉)水軍は、村上水軍のような海軍力もつ強力な水軍ではありません。警固衆(海軍力)よりも、むしろ水運業(海運)に長けた集団であったことを押さえておきます。

信長政権において、瀬戸内海方面の攻略を担当したのは秀吉でした。
これは、よく「中国攻め」と呼ばれます。しかし、秀吉に課せられた任務は、中国地方だけでなく「四国平定」も、その中に含まれていました。秀吉は、一方では毛利氏と中国筋と戦いながら四国の長宗我部元親と戦いを同時並行で行って行くことが求められるようになります。その両面作戦実施のためには、後方支援や兵站面からも瀬戸内海の制海権は必要不可欠な条件となってきます。そのために大阪湾 → 明石海峡 → 播磨灘と、支配エリアを西へと拡大していきます。備讃瀬戸ラインから海上勢力を西へと伸ばしていくためには、塩飽は是非とも掌中に収めなければならない島となります。
 6塩飽地図

塩飽に関して、再度簡単に振り返って起きます。
 もともと塩飽は、東讃守護代の安富氏の支配下にあったようです。永正年間以前に塩飽は守護の料所で、安富氏が代官として支配していました。しかし、やがて支配権が安富氏から大内氏へ移っていきます。その後、永正5年(1508)頃、細川高国から村上宮内大夫宛(能島村村上氏)に対して讃岐国料所塩飽代官職が与えらています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に置かれていたことは以前にお話ししました。天文20年(1551)大内氏が家臣の陶晴賢に減ぼされると、塩飽は完全に村上氏の支配下に入れられ、村上氏の塩飽支配はより一層強化されます。つまり、小田勢力が塩飽方面に及んできたときに、塩飽は能島の村上武吉の支配下にあったようです。

1 塩飽本島
塩飽島(本島)周辺 上が南

 石山戦争が激化すると、信長は塩飽を配下に置くために天正5年に塩飽に朱印状を発給し、塩飽船の従来の権限を認めています。
特権を保障された塩飽は、信長方についたとされます。しかし、その後の動きを見ると、必ずしも信長方とは言いきれない面があると研究者は指摘します。どうも、能島村上氏の影響力が、その後も塩飽に及んでいたようです。淡路・小豆島を支配下においた信長にとって、塩飽の支配は毛利氏に打撃を与えるためにも重要な戦略課題になってきます。そのためには塩飽の背後にいる能島村上・来島村上・因島村上の三島村上氏への対応が求められるようになります。

3塩飽 朱印状3人分

天正九年(1581)4月、ルイスフロイスのイエズス会への報告書には、次のように記されています。
「(塩飽には)能島殿代官毛利の警固吏がいて、我等の荷物を悉く陸に揚げ、綱を解きこれを開かんとして騒いだ」

ここからは、塩飽には能島殿の代官と毛利の警吏がいたことが分かります。そうだとすると、塩飽はこの時点では、能島村上氏の支配下にあったことになります。これを打開するために信長は、秀吉に村上氏の懐柔政策を進めさせます。
1581年11月26日、能島の村上武吉は信長に鷹を献上したことが文書に残っています。
時期を考えると、石山戦争終結後に東進する信長勢力と、毛利氏との瀬戸内海をめぐる制海権抗争が激化している頃にあたります。村上武吉からすると、それまでの制海権を信長によって徐々に狭められていきます。対信長戦略として、硬軟両策が考えられたと研究者は考えています。その一つの手立てが自己保身を図るために信長方にすり寄る姿勢を見せたのが「鷹のプレゼント」ではないかと云うのです。信長方にしても、瀬戸内海西域の制海権を握らなければ、毛利氏に対して有利に立つことはできません。そのためには、武吉の懐柔・取り込みを計ろうとするのは、秀吉の考えそうな策です。両者の考えが一致したから「鷹の信長への献上」という形になったと研究者は推測します。
 秀吉は三島村上氏の切り崩しを図るとともに、蜂須賀正勝と黒田孝高に命じて乃美氏を味方にするための働きかけも行っています。しかし、この交渉は不成立に終わったようです。ここからは秀吉は、毛利氏の水軍の切り崩しのための懐柔工作が、いろいろなチャンネルを通じて行われていたことがうかがえます。

 3村上水軍
 秀吉の切り崩し工作は、10年4月に来島村上氏が毛利方を離れて秀吉方に味方するという成果として現れます。
さらに、来島村上氏を通じて、村上武吉にも秀吉から働きかけがあり、能島村上氏は秀吉方に傾き掛けます。この時に、小早川隆景は能島・来島村上氏が毛利から離反していることを因島村上氏に次のように知らせています。
就其表之儀、御使者被差越候、以条数被仰越候、惟承知候、両嶋相違之段無申事候、於此上茂以御才覚被相調候事簡要候、於趣者至乃兵所申遣候条、可得御意候、就夫至御家中従彼方、切々可有御同意之曲中置候上、不及是非候、雖然吉充亮康御党悟無二之儀条、於輝元吾等向後忘却有間敷候間、御家中衆へも能々被仰聞無異儀段肝要候、於御愁訴者随分可相調候、委細御使者へ中入候、恐々謹言、
卯月七日                          左衛門佐(小早川)隆景(花押)
意訳変換しておくと
最近の情勢について使者を派遣して知らせておく。両嶋(来島・能島)の離反については、無事に対応を終えて収集がついたので簡単に知らせておく。離反の動きを見せた来島・能島に対しては、小早川隆景と乃美宗勝が引き留め工作を行い、秀吉方につくことの非を訴えて、輝元公への御儀を忘れずに、使えることが大切である旨を家中衆へも伝えた。委細は御使者へ伝えてある。恐々謹言、

村上海賊ミュージアム | 施設について | 今治市 文化振興課
村上武吉
小早川隆景と乃美宗勝の引き留め工作で、村上武吉は毛利方になんとかとどまります。

武吉の動向にあわてた毛利氏は、村上源八郎に検地約定の書状を出しています。しかし、秀吉も村上通昌との私怨を捨てて信長方に味方するよう次のような説得工作をしています。
今度其島之儀申談候所、両島内々御意候哉、相違之段不及是非候、然者私之被申分者不入儀候間、貴所御分別を以、此節御忠儀肝要候、於様体者国分寺へ申渡候、恐々謹言、
卯月十九日                          羽筑秀吉(花押)
村上大和守殿
御宿

能島・来島村上氏への対応の状況は、村上系図証文に詳しく記されています。この中には来島村上氏は、秀吉に人質を出し味方につくことを承諾しています。また秀吉は武吉に、寝返り条件として次のような領地を示しています
「四国は勿論、伊予十四郡を宛行い、さらに塩飽七島の印を授け、上国警国の権益を与える」

 これらは秀吉お得意の「情報戦」の中で出されたものなので、信憑性には問題が残ります。「村上武吉が寝返った」という偽情報(偽文書)を流すことで、敵方の動揺を作り出そうとするのは情報戦ではよく行われることです。しかし、史料的には能島・村上武吉が秀吉に味方する旨が詳細に記されています。どうも一時的にせよ、村上武吉が秀吉と結ぼうとしたのは事実のようです。
 秀吉が村上武吉に味方するよう説得してからわずか5日後の4月24日の秀吉から備前上原氏に宛てた書状には次のように記されています。
「海上事塩飽・能島・来島人質を出し、城を相渡令一篇候」

また次の5月19日の近江溝江氏宛の書状にも同様の内容が記されています。                                            
一、海上之儀能島来島塩飽迄一篇二申付、何も嶋之城を請取人数入置候、然者此方警固船之儀、関戸迄も掛太目恣二相動候、何之道二も両国之儀、急度可任取分候条、於時宣者可御心易候、猶追々可中参候、恐々謹言、
天正十年五月十九日 秀吉(朱印)
溝江大炊亮殿
御返報
塩飽・能島・来島が秀吉の支配下に収まり、城が秀吉によって接収されたことが書かれています。ところが5月19日の段階では、能島村上氏は再び毛利氏に服属しています。この二通の書状は秀吉の巧妙な偽報告のようです。能島村上氏の去就は、周辺の海賊衆にとっては注目の的であったはずです。この書状をあえて公表することで、秀吉の支配が芸予諸島まで及んだことをひろげる意図も見えます。警固船が「関戸迄も掛太目恣二相動候」とあるように、安芸と周防の国境の関戸まで範囲を示していてしています。秀吉は、情報戦を最大限に利用しようとしたことがうかがえます。
 毛利から来島村上氏が離反して秀吉方についたという情報の上に、能島の村上武吉も寝返ったという偽情報は毛利方に大きな動揺を与えたはずです。どちらにしても、このような情勢下では、能島村上氏による塩飽支配も大きな動揺をもたらすことになります。こんな情勢下では、能島村上氏の塩飽への影響力は低下せざる得ません。
 このよう情報戦と同時並行で行われていたのが、二月以来の秀吉の備中攻めです。
3月24日に小早川隆景は、村上武吉に対して次のように塩飽を味方にするように切り崩し工作を指示しています。  
態御飛脚畏人候、如仰今度御乗船、以御馳走海陸働申付太慶候、従是茂以使者申入候喜、乃上警固之儀、一昨晩以来比々下津井相働候、雖然船数等不甲斐/\候之条、不可有珍儀候欺、塩飽島之趣等、従馬場方可被得御意候、陸地羽柴打下之由風聞候条、諸勢相揃可張合覚悟候、於手前者可御心安候、委曲有右二中含候之間、弥被遂御分別、御入魂可為本望候、猶期来音候、恐々謹言、
天正十年三月廿四日      左衛門佐(小早川)隆景(花押)
(村上)武吉
御返報
意訳変換しておくと
飛脚での連絡であるが、今度の出陣について、海陸における成果について多大な成果を挙げたことを喜んでいる。警固の件について、一昨晩から比々(日比)と下津井は相い働いているが、船数が不足し充分な成果を出せていない。ついては塩飽島について、馬場方に従い羽柴秀吉に下ったという風聞が流れている。諸勢の戦意高揚のためにも、塩飽に分別を説いて参陣を促して欲しい。

この後の4月4日には、毛利輝元から伊賀家久に対して同じような指示が出されています。秀吉の備中攻めに塩飽を味方に組み込むことの重要性を充分に認識していたことを示すものです。逆に見ると、この時点では、塩飽が毛利方に着いていなかったこと、秀吉方に付いていたことが分かります。
 武吉が毛利方で戦いに参陣したにもかかわらす、塩飽衆は村上武吉の命に背いて行動を共にしていません。
それを見て小早川隆景は、村上武吉に「塩飽に云うことを聞かせろ」と命じたのでしょう。逆の視点で見ると、この時には塩飽は武吉の支配下から離脱していたことがうかがえます。これ以後の塩飽と能島村上氏の関わりが分かるのは、天正12年(1584)12月10日付の武吉宛の隆景書状です。そこには「塩飽伝可被及聞召候条、不能申候」とあります。ここからは、塩飽が村上武吉の支配下から完全に離脱していることが分かります。
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 こうした中で6月に、信長が本能寺で明智光秀に討たれます。

秀吉は急遽、毛利氏との間に和議を結び、中国方面から兵を引きます。秀吉が姿を消した後の備讃瀬戸では、能島村上氏と来島村上氏と戦いが繰り広げられ、年末になりやっと終止符が打たれます。伊予方面での来島村上氏との抗争が激化する中で、能島の村上武吉には塩飽に関わっている余裕はなくなります。こうした村上氏の分裂抗争を横目で見ながら秀吉は海上勢力を西へ西へと伸ばしていきます。そして、能島村上氏の影響力の消えた塩飽を自己の支配下に置きます。来島村上氏の懐柔策がの成果が、村上水軍を分裂に追い込み、相互抗争を引き起こし、結果として村上水軍の塩飽介入の機会を奪ったのです。秀吉は、やはりしたたかです。
5 小西行長1
小西行長

そして、瀬戸内海東部エリアの「若き提督」として登場するのが小西行長です。
行長登場までの動きを振り返って起きます。秀吉が瀬戸内海東部の進出過程を再度押さえておきます。
①明石・岩屋・淡路・鳴門エリアは、石井与兵次衛と梶原弥介に
②播磨室津・小豆島・讃岐引田エリアは小西行長
③下津丼・塩飽・宇多津エリアは、小西行長が塩飽衆を用いて支配
①②③の総括を担当したのが仙石秀久でした。この中で、最終的には小西行長が抜け出して瀬戸内海東部全体の制海権を秀吉から任されるようになります。
どうして二十代の若い行長に、秀吉は任せたのでしょうか?
 それは小西行長がキリシタンだったからではないかと研究者は考えています。彼は堺の有力者を父に持ち、幼くしてキリスト教に入信しています。秀吉は、行長を播磨灘エリアの海の司令官、行長の父を堺の代官に任命しています。前線司令官の子を、堺から父が後方支援するという形になります。秀吉の期待に応え行長は、小豆島と塩飽を領地として持ちます。彼は高山右近を尊敬し、小豆島に「地上の王国」建設を進めます。この結果、行長はイエズス会宣教師から「海の青年提督」と称され、宣教師と深い移パイプを持つようになります。瀬戸内海を行き来した宣教師は、たびたび塩飽と小豆島に立ち寄っています。行長が、宣教師との交友が深かったことは以前にお話ししました。

5 高山右近
小豆島の高山右近
 ここには宣教師の布教活動ともうひとつの裏の活動があったと私は考えています。
それは南蛮商人からの火薬の原料の入手です。宣教師の口利きで、行長は火薬原料を手に入れていたのではないでしょうか。そのため、秀吉は行長を重要視していたという推測です。小豆島の内海湾には火薬の原料を積んだ船が入港し、その加工も小豆島で行い、出来上がった火薬が小豆島周辺に配備された諸軍に提供されていたという仮説を出しておきましょう。

室津・小豆島・引田・塩飽のエリアの制海権を秀吉から付与されたのは、小西行長でした。
天正13年頃に塩飽を訪れたフランシスコ・パショは、塩飽が行長の支配下にあったことを記しています。小豆島と塩飽は一体として行長に領有させ、四国平定の後方基地としての役割を果たします。秀吉のもとで、東瀬戸内海は行長に管理権が委ねられ、宣教師の報告書に行長が「海の司令官」と記されていることは、この時期のことになります。
これに対して、塩飽には海軍力(水軍)としての活発な活動は見られません。
塩飽は室町期以来、東瀬戸内海流通路を確保した輸送船団として活発な商船活動をしていました。塩飽の経済基盤は商船活動にあったと研究者は考えています。その点が芸予諸島の村上氏とは、大きく異っているところです。能島村上氏が塩飽を支配した目的は次の二点と研究者は考えています。
①塩飽衆の操船・航行技術の必要性
②水夫・兵船の徴発
備讃瀬戸から播磨灘にかけての流通路を持つ塩飽衆を支配下におくことは、村上氏の制海権エリアの拡大を意味します。村上氏は、海上警固料の徴収が経済基盤でした。しかし、この時期が来ると、それだけでは活動ができないようになっています。その解決のための塩飽支配だったと研究者は考えています。
 信長が早い段階で塩飽船の活動に対して朱印状を発給したのは、信長の瀬戸内海経済活動圏の掌握を図ったとされます。秀吉によって、後に塩飽が御用船方として支配下に組み込まれていくのも、水軍力よりも、海上輸送力に着目してのことと研究者は考えています。
 秀吉の瀬戸内海における制海権を手中に収めていく過程を見ると、信長亡き後もスムーズに進めています。
これは、秀吉が信長生前から瀬戸内海に関する権限を握っていたからでしょう。今まで見てきたように、東から明石・小豆島・塩飽・芸予諸島の地元勢力との関係を結んできたのは、すべて秀吉でした。そういう目で見れば、石井与次丘衛・梶原弥介・小西行長は、織円政権下の水軍であるというよりも、豊臣政権下初期の水軍ともいえます。彼らが後に秀吉水軍の中核をなし、村上氏を含む巨大水軍に成長していきます。その基盤となったのが大阪湾や明石の海賊衆だったといえるのかもしれません。
    以上をまとめておきます
①石山戦争の一環として、瀬戸内海の制海権を握る必要を痛感した信長は、その任務を秀吉に命じる
②秀吉は、中国攻めと淡路・四国平定を同時進行で進め、その兵員輸送や後方支援のために、瀬戸内海東部に制海権を掌握していく。
③その際に明石海峡や室津・小豆島・塩飽などの地元の海賊衆を傘下にいれ、水軍編成を行う。
④芸予諸島の村上水軍に対しては、懐柔策を用いて来島村上氏を離反させ、内部抗争を引き起こさせた。
⑤その間に、秀吉は備中へ侵入し、塩飽も傘下に置いた。
⑥本能寺の変後、信長亡き後も秀吉はそれまで進めてきた瀬戸内海制圧を進め、小西行長を「海の提督」として重用し、四国・九州平定の海上からの後方支援を行わさせる。
⑦これは、秀吉の構想の中では、朝鮮出兵へ向けての「事前演習」でもあった。
⑧同時に四国に配備された各大名達は、このような秀吉の構想を実現するための「駒」の役割を求められた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。なるものであった。
参考文献

 今回は石山戦争を契機として、織田政権が瀬戸内海の制海権掌握にどう取り組んだのか。同時に信長が四国への勢力伸張を、どのように図ろうとしたのかについて、見ておきます。テキストは 橋詰 茂 織豊政権の塩飽支配 瀬戸内海地域社会と織田権力所収  思文閣史学叢書2007年でです。
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鳥取城を攻撃していた秀吉は、黒田孝高(官兵衛)に淡路攻略を命じます。 
天正九年(1581)10月23日、秀吉は、岩屋の与一左衛門に対して次のような朱印状を与えています。
淡州岩屋舟五十七艘之事、此方分国中灘目廻船往来儀、不可有別候、猶浅野弥兵衛尉可申候也、
天正九年十月廿三日                            筑前守秀吉(花押)
淡州岩屋舟五十七艘之分、筑前守殿御分国中灘目廻船之儀、不可有御別之旨、被出御判候詑並に与一左衛門舟、諸公事御免許候也、
天正九年十月吉日                     浅野弥兵衛尉長吉(花押)
上の文書が、秀吉が浅野弥兵衛尉長吉に対して、岩屋の船57艘について秀吉分国内の沿岸への回船と往来の自由を認めること命じたものです。下の文書は、それを受けて、浅野弥兵衛尉長吉が与一左衛門の船には諸公事を免除することを伝えています。秀吉分国とは、播磨国沿岸から播磨灘一帯と淡路周辺を含むエリアと研究者は推測します。

 特権を与えられた与一左衛門は石井与次兵衛の一族で、岩屋の船団の統率者です。石井氏は、代々明石に居住していて、与次兵衛は明石沿岸の海賊衆の一人で、秀吉の中国攻略の早い時期からつながりを持ち、この時期には秀吉の配下にありました。与次兵衛の一族である岩屋のボス・与一左衛門を味方につけるために特権を与えたようです。
 秀吉は、自らの水軍を編成するために、与次兵衛を配下に抱え込んだのでしょう。
与次兵衛は、それに応えて明石を拠点として、明石海峡を掌握するために工作活動を行っていました。その成果が、対岸の岩屋の与一左衛門を秀吉陣営に引き込むという成果となって現れたことを示す史料です。与次兵衛はその後も、秀吉の水軍の中核部隊の指揮官の一人として活躍しています。こうして明石海峡の両岸を押さえた秀吉は、この水路の制海権を確実なものにしていきます。この戦略的な成果の上には、毛利水軍は手の出しようがなくなります。本願寺支援ルート回復が、不可能になったと毛利や本願寺に思わせるものでした。
麒麟がくる」秀吉に四国盗られた光秀!長宗我部と縁/ご挨拶 - 大河 映画 裁判 酒 愛猫“幸あれ…!!”清水しゅーまいブログ

 秀吉は11月中旬、淡路に渡って山良城を攻めて安宅貴康を降し、ついで岩屋城を陥落させて淡路全体を制圧します。
そして、淡路の支配を仙石秀久に、岩屋城を生駒親正に守備を命じています。仙石氏と生駒氏は、讃岐にとっては馴染みの武将です。後の四国遠征の主力として讃岐に進撃し、その軍功から讃岐国守となります。讃岐にやって来る前には、淡路の城持ちであったのです。
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 こうして秀吉は、四国へとつながる淡路を手に入れます。
次の目標は四国です。淡路を拠点として四国への進出を図ろうとします。この時点で、秀吉は明石・岩屋・淡路を結ぶルートを掌握したことになります。さらに、播磨灘を越えて四国方面に出て行こうとすれば、海上ルートとして重要になるのが、播磨の室津 ー 小豆島 ー 讃岐引田を結ぶラインです。このルートを確保できれば、東瀬戸内海の制海権を掌握したことになると秀吉は考えていたはずです。それは、後に話すように安富氏を支配下におくことによって実現しました。それでは、このエリアの管理・運用を誰に任せるかです。播磨灘周辺をめぐる年表を見てみましょう。
天正 8年(1580)頃 小西行長が父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 小西隆佐・行長が秀吉より播磨室津を所領として与えられる
天正10年(1582)6月本能寺の変で、信長に代わって羽柴秀吉が権力掌握
天正10年(1582) 行長が小豆島の領主となる
天正11年(1583) 行長が舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 行長が紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 行長が四国制圧の後方支援
 播磨灘から備讃瀬戸に至る東瀬戸内海の「海の提督」に任命されたのが若き小西行長でした。
小豆島を手に入れた秀吉は、堺商人出身の小西隆佐とその息子行長に統治を任せ、播磨の室津と併せて、東瀬戸内海支配の拠点としたのです。
近年辛労共候、乃兵糧取二はや小西弥九郎(行長)差返候間、早々室津へ追懸、弥九郎二相談、兵糧請取、舟二つミて早々可帰候、不可由断候也、
卯月十一日                                            秀吉 (花押)
この文書には宛名がありませんが、文中に出てくる小西弥九郎は行長のことです。ここからは、小西行長が兵糧に関しての輸送船を管理・運行していたこと、それを父隆佐が堺から後方支援していたことが分かります。天正九年の岩屋をめぐる抗争の時に出された文書のようですが、小西行長は、室津を拠点に播磨灘で活動していたことが裏付けられます。
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秀吉が播磨・備後での攻略を進めている間に、毛利撤退後の讃岐に侵攻してくるのが長宗我部元親です。
毛利と長宗我部の間には、「不戦協定」があった気配がします。長宗我部元親は、毛利が元吉合戦後に讃岐から撤退するのを見計らうタイミングで、阿波三好から讃岐山脈を越えて侵攻してきます。その後の讃岐をめぐる土佐軍の軍事行動と、秀吉の対応ぶりを年表で見ておきましょう

1578(天正6) 長宗我部元親の讃岐侵攻開始,藤目城・財田城落城  11・16  信長の水軍が毛利水軍を破る(第2次木津川海戦)
1579 4・-  羽床氏,長宗我部元親に降伏する(南海通記)
        香川信景,長宗我部元親と和し,婚姻関係を結ぶ
1580 天正8  長宗我部元親,西長尾山に城を築き,国吉甚左衛門尉を城主とする(南海通記)
   3・5  石山本願寺顕如,織田信長と和し、紀伊雑賀に退却〔石山合戦終わる〕
1582 4・-  塩飽・能島・来島が,秀吉に人質を出し,城を明け渡す 
   9・21 十河存保,阿波国勝瑞城の戦いに敗れ,虎丸城に退く 9・-  仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.屋島城を攻め長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
   10・-  阿波から長宗我部元親軍到着し,十河城一帯を焼き払う(南海通記)
   5・7  羽柴秀吉,備中高松城の清水宗治を包囲する
   6・2  明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
1583 天正4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う(仙石家譜)
   4・21  秀吉,柴田勝家の兵を破る「賤ヶ岳の戦〕
1584 6・11  長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
   6・16  秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年4・26  仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
   7・25  秀吉と長宗我部元親との和議が成立。土佐軍退却
   7・-  仙石秀久,秀吉から讃岐を与えられる.

  年表を見ると、1578(天正6)年に、長宗我部元親が阿讃山脈を越えて、讃岐への侵入を開始しています。その侵攻ルートは、現在の三豊地方から始まり、丸亀平野を経て東讃へと向かいます。阿波三好氏に敵対的な動きを見せていた西讃守護代の天霧城主・香川氏は、戦わずして長宗我部元親の軍門に降ります。そして、元親の次男を養子として迎え後継者にします。こうして香川氏は元親と姻戚関係を結び同盟軍として、以後の長宗我部元親の讃岐平定に協力していくことになります。
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 一方、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
安富氏は小豆島も支配下に置き、大きな力を国元で持っていたようです。しかし、京都での在勤が長くなり、讃岐を留守にすることが多くなると、次第に寒川・香西氏が勢力を伸ばし、安富氏の所領は減少していきます。そのような中で、長宗我部元親の侵攻が始まると耐えきれなくなって、安富氏は対岸の播磨に進出してきた秀吉に救いを求めたようです。
  秀吉が黒田官兵衛に宛てた書状には、当時の阿波・讃岐の情勢が次のように記されています。
書中令披見候、阿州相残人質共、堅被相卜、至志智被相越候者、尤候、行之様子、委細小西弥九郎二書付を以、申渡候、能々可被相談候、将亦雑説申候者、沙汰之限候、牢人共申出候者を搦取、はた物二かけさせ候、随而讃州安富人質召連、親父被相越候、彼表行之儀、何も具弥九郎可申候、恐々謹言、
天正九年九月廿四目                          筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿
意訳変換しておくと
書状は拝見した。阿州の人質の扱いについては、丁寧に取り調べて、志智などを見分したうえで、対応を行うのはもっともなことである。委細は小西弥九郎に書付で申渡した。よく相談して、雑説を申す者には、沙汰限で、牢人共の申出を搦取、はた物二かけさせ候、讃州の安富の人質を召し連れ、親父でやってきた。彼表行之儀、何も弥九郎に伝えてある。恐々謹言、
天正九年九月廿四目                          筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿

ここからは次のようなことが分かります。
①秀吉に、阿波や讃岐の多くの武将が庇護を求めて、人質を差し出していたこと
②秀吉は人質の才能・人格チェックを行い、使える者は育てて使おうとしていたこと
③出先の黒田官兵衛との連絡役を務めているのが小西弥九郎(小西行長)であること。
④小西行長が秀吉の「若き海の司令官」として、各地を早舟で飛び回っていたというイエズス会宣教師の報告を裏付けるものであること
⑤同時に、黒田官兵衛に対して小西行長と協議した上で進めることとあるように、行長は戦略立案などにも参画していた。
⑤最後に「讃州安富人質召連」と、多くの人質の中で、安富氏を「特別扱い」していること
讃岐の歴史

 秀吉にしてみれば、安富氏は「利用価値」が高かったようです。

それが何であったのかを研究者は次のように指摘します。
 安富氏は東讃守護代で、小豆島や東讃岐の港を支配下においていました。そして、引田や志度、屋島の港を拠点に運用する船団を持っていたと研究者は推測します。安富を配下に置けば、それらの港を信長勢力は自由に使えることになります。つまり、播磨灘沖から讃岐にかけての東瀬戸内海の制海権を手中にすることができたのです。言い方を変えると、安富氏を配下に置くことで、秀吉は、東讃岐の船団と小豆島の水軍を支配下に収めることができたのです。これは秀吉にとっては、大きな戦略的成果です。こうして秀吉は、戦わずして岩屋の与一左衛門を味方に付けることで、明石海峡の制海権を手に入れ、安富氏を保護し、配下に繰り入れることで東讃の港と廻船を手に入れたと云うことになります。秀吉らしい手際の良さです。
年表をもう一度見てみましょう
1582 9・- 仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
   6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年 4・26 仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
死闘 天正の陣
秀吉軍の讃岐への軍事輸送を見ると「小豆島より渡海」とあります。讃岐派遣の軍事拠点が小豆島であったことがうかがえます。
天正10(1582)年に、小豆島の領主に秀吉から任じられていたのは、小西行長でした。翌年には行長は、舟奉行に任命され塩飽も領有します。つまり、秀吉の讃岐出兵や後方支援を行ったのは舟奉行として小西行長であったことになります。それだけでは、ありません。さきほど見たように、行長は前線の黒田官兵衛と協議しながら戦略立案を行っていました。行長を四国平定のための影の功績者と秀吉は、評価したのでしょう。そして九州平定後は、加藤清正と同じ石高で九州の大名に若くして抜擢し、朝鮮出兵の立案計画を任せることになることは以前にお話ししました。
讃岐の歴史
  私は、小西行長の拠点となった室津・小豆島・塩飽は、毛利に対する港湾基地とばかり考えてきました。
しかし、秀吉の讃岐平定時の軍事輸送や後方支援体制を見ると、まさに瀬戸内海全域をカバーする戦略基地の役割を果たしていたことが見えてきます。特に、小豆島の持つ戦略的な意味は重要です。研究者たちが「塩飽と小豆島は一体と信長や秀吉・家康は認識していた」という言葉の意味がなんとなく分かってきたような気がします。

以上をまとめておくと
①信長と本能寺の石山戦争の一環として、本願寺支援ルートをめぐって瀬戸内海制海権をめぐる抗争が展開された。
②信長は、第2次木津川海戦で新兵器の鉄張巨大船で木津川河口の制海権を確保した。
③以後は、明石海峡の岩屋をめぐる攻防戦が続いたが秀吉は、岩屋の廻船実力者に特権を与えることで味方に付け、明石海峡の制海権を確実なものとした。
④同時に黒田官兵衛は淡路を攻略し、四国への道を開いた。
⑤秀吉配下の黒田官兵衛のもとには、土佐の長宗我部元親の侵攻を受けた阿讃の国人たちが保護を求めてやってきた。
⑥秀吉は、東讃守護代の安富氏を保護することで、労せずして東讃・小豆島の港を支配下に置き、播磨灘以東の制海権を手に入れた。
⑦秀吉は堺商人出身の小西行長に室津・小豆島・塩飽を領有させ「海の司令官」として、四国・中国・九州制圧の後方支援部隊して運用させた。
⑧長宗我部元親に対する秀吉の讃岐侵攻部隊は小豆島を戦略拠点としてして派遣されており、その輸送には小西行長の輸送船団が関わったことが考えられる。
このように秀吉の讃岐侵攻に小豆島は後方支援の戦略基地として重要な役割を果たしていたことが分かります。そして、小豆島から讃岐に海上輸送をうけ持ったのが小西行長と私は考えています。そうすると小豆島は北岸の屋形崎だけでなく、南岸の内海湾にも「戦略基地」が置かれていたことがうかがえます。それが、以前にお話しした小西行長による小豆島のキリスト布教とも関わってくるし、高山右近の小豆島潜伏にもつながるようです。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

天正10年(1583)6月、本能寺で天下統一の事業半ばで信長は倒れます。代わって羽柴秀吉は、後継者の地位を固めると、翌年には、本願寺のあった石山の地に大坂城を築き、天下統一の拠点とします。そして1585年には、秀吉は土佐の長宗我部元親を討つための四国遠征軍を準備します。信長亡き後の混乱を予想していた長宗我部元親にとって、秀吉が意外なほどの早さで天下統一事業を立て直し、実行してくることに驚きと脅威をもって見ていたかもしれません。 
 このころ小豆島や塩飽は、秀吉の「若き海軍提督」と宣教師が名付けた小西行長によって統治され、瀬戸内海の海軍(輸送船)の軍事要衝的な性格を帯びていたことは以前にお話ししました。当然、塩飽にも行長の家臣が、船の準備をするために滞在していました。
小西行長と塩飽・小豆島の関係を年表で押さえておきます。
天正 8年(1580)頃 父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 播磨室津(兵庫県)を所領
天正10年(1582) 小豆島の領主となる
天正11年(1583) 舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 四国制圧の後方支援
天正14年(1586) 九州討伐で赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後,平戸(長崎県)に向かい,松浦氏の警固船出動を監督。
天正15年(1587) バテレン禁止令後に高山右近を保護。
  年表から分かる通り、行長は室津を得た後に小豆島・塩飽諸島も委せれていたようです。正式文書に、小西行長の名はありません。しかし『肥後国誌』やイエズス会の文献には、小豆島・塩飽の1万石が与えられていたと記します。天正十五年(1587)、秀吉に追放された切支丹大名の高山右近が行長の手で小豆島に匿われたことがイエズス会資料にあるので、塩飽・小豆島が行長の所領であったが分かります。天正10年に、秀吉に仕えるようになってすぐに室津を得て「領主」の地位に就いたようです。そして、小豆島と塩飽と備讃瀬戸の島々を得ていきます。行長が20代前半のことです。このように東瀬戸内海エリアを秀吉の「若き海軍提督」の小西行長が高速船で行き交い、海賊たちを取り締まり「海の平和」が秀吉の手で実現していきます。
 ところが芸予諸島周辺では、小早川隆景配下の能島村上氏は海賊行為を続けていたようです。天正13~14頃の秀吉が小早川隆景に宛た朱印状には、次のように記されています。
能島事、此中海賊仕之由被聞召候、言語道断曲事、無是非次第候間、成敗之儀、自此方雖可被仰付候、其方持分候間、急度可被中付候、但申分有之者、村上掃部早々大坂へ罷上可申候、為其方成敗不成候者、被遣御人数可被仰付候也、
九月八日                     (秀吉朱印)
小早川左衛門佐とのヘ
意訳変換しておくと
能島(村上武吉)の事については、今でも海賊行為(関銭取り立て)を行っていると伝え聞くが、これは言語道断の事である。これが事実かどうかは分からないが、もし事実であれば、秀吉自らが成敗をくわえるべきものである。しかし、小早川隆景の家臣なので措置は、そちらに任せる。再度、関銭取り立てなどの行為禁止を申しつける。ただし、申し開きがあるなら村上掃部(武吉)を大坂へ参上させよ。そちらで成敗しないのであれば、(秀吉)が直接に軍を派遣して処置する。
九月八日                     (秀吉朱印)
小早川左衛門佐(小早川隆景)とのヘ
 ここからは「海賊禁止」を守らずに、芸予諸島海域で関銭取り立てを続ける村上武吉への秀吉の怒りが伝わってきます。これに対して、小早川隆景を秀吉に全面的に屈することなく、配下の村上武吉を守り通そうとします。小早川隆景と武吉をめぐる話は以前にお話したので省略します。

「海の平和」実現のために天正16年(1588)7月に出されたのが「海賊禁止令」です。
これは、刀狩令と同時に出されていますが、この刀狩令に比べるとあまり知られていないようです。海賊禁止令は、次のような三条です。
3 村上水軍 海賊禁止令
秀吉の海賊禁止令(1588年)
意訳変換しておくと
一 かねがね海賊を停止しているにもかかわらず、瀬戸内海の斎島(いつきしま 現広島県豊田郡豊浜町の能島村上氏の管轄エリア)で起きたのは曲事(不法)である。
一 船を使って海で生きてきた者を、調べ上げて管理し、海賊をしない旨の誓書を出させ、連判状を国主である大名が取り集めて秀吉に提出せよ。
一 今後海賊行為が明らかになった場合は、藩主の監督責任として、領地没収もありうる
第一条からは、再三の警告に対しても関銭取り立てを続けている村上武吉に対して出されたものという背景がうかがえます。
第二条は、経済的には海の「楽市楽座」のとも云える政策で、自由航行実現という「秀吉による海の平和」の到来宣言とも云えます。まさに天下統一の仕上げの一手です。
  しかし、これは村上武吉などの海賊衆から見れば「営業活動の自由」を奪われるものでした。「平和」の到来によって、水軍力を駆使した警固活動を行うことはできなくなります。「海の関所」の運営も海賊行為として取り締まりの対象となったのです。村上武吉は、これに我慢が出来ず最後まで、秀吉に与することはありませんでした。
 これに対して塩飽衆は、どうだったのでしょうか。
その後の歩みを見てみると、塩飽衆は「海賊禁止令」を受けいれ秀吉の船団としての役割を務め、その代償に特権的な地位を得るという生き方を選んだようです。それは家康になっても変わりません。それが人名や幕府の専属的海運業者などの「権利・特権」という「成果」につながったという言い方もできます。 
 どちらにしても、中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海をから離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのような中で本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆だったことは以前にお話ししました。今回は、秀吉政権下での塩飽の動きをもう少し追いかけて見ましょう。
秀吉の九州遠征と塩飽
 海賊禁止令が出される2年前の1586年に、秀吉は塩飽島年寄中に朱印状を発給し、島津攻めのため、塩飽へ軍用船を出すことを命じています。当時の背景を見ておくと、秀吉は九州で抗争を続けていた薩摩の島津義久と豊後の大友宗麟に対して和睦勧告をします。それに対して、島津氏が無視したため、島津氏討伐のために九州へ出陣準備を進めます。豊後へ侵入した島津勢に対する大友勢の救援として、まず毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が主力として豊前へと向かいます。一方、四国征伐後に秀吉は、次の九州出陣に備えて四国への大名配置を行っていました。事前の計画通り、讃岐の仙石秀久が十河存保や長宗我部元親等の四国勢を従えて豊後へと出陣します。
 この時の九州遠征には、塩飽に対して輸送船徴発が行われています。それが秀吉朱印状に残されています。
豊臣秀吉朱印状(折紙)
 今度千石権兵衛尉俄豊後江被遣候、然者当島船之事、雖加用捨候五十人充乗候船十艘分可相越候、則扶持方被下候間、壱艘二水主五人充可能出候也、
八月廿三日                   (朱印)
塩飽年寄中
3塩飽 秀吉朱印状

意訳変換しておくと
 今度の仙石秀久の豊後出陣に際して、塩飽の輸送船を次の通り準備すること。50人乗の船十艘と1艘について水夫5人、合計50人を提供せよ。
八月廿三日                        (朱印)
塩飽年寄中
 これを見ると50人乗の船10艘と水夫50人を塩飽は負担することを命じられています。ここからは塩飽船は、秀吉直参の輸送船団にに組み込まれたことがうかがえます。
薩摩攻めの時には、次のように記されています。
御兵糧米並御馬竹木其外御用御道具、大坂より仙台(川内)江塩飽船二而積廻し候様二と、年寄中江被仰付、早速島中江船加子之下知有之

意訳変換しておくと
兵糧米や兵馬・竹木などの外の軍事物資について、大坂から薩摩川内へ塩飽船で輸送するようにとの、塩飽年寄中に申しつけられたので、早速に島中へ船水夫のことを伝達した

ここからは兵糧・武器の輸送を 塩飽船が行ったことが分かります。ここでも軍船は出していません。研究者は、この文書の宛先が「塩飽年寄中」となっていることに注目します。薩摩攻めの史料にも「年寄中江被仰付」と「年寄中」という言葉が見えます。ここからは年寄と称す何人かの年寄で、島を統治していたことがうかがえます。これが江戸時代の塩飽の四人の年寄につながっていくようです。ここでは、秀吉の九州攻略以降、塩飽は豊臣政権下に組み込まれていたと研究者は考えています。
  九州制圧が終わると朝鮮出兵への野望を膨らませながら秀吉は、小田原の北条氏攻めを行います。
秀吉にとっては「小田原攻め」は、戦略物資の輸送に関しては次に控える「朝鮮出兵」の事前演習的な所もあったようです。ここでも塩飽船が活動しています。兵糧米を大坂から小田原へと輸送していることが、次のように記されています。
「(塩飽)島中之船加子数艘罷出候処、御手船ハ勢州鳥羽浦二乗留メ、彼地二逗留致延引候、塩飽島ハ不残小田原へ乗届、御陣之御用立相勤中候」

意訳変換しておくと
塩飽島中の船や加子が数艘動員された。秀吉の御手船(直属輸送船)は鳥羽浦に留まりで逗留したが、塩飽船は全て小田原まで乗り入れ、兵粮や戦略物資を運び入れ、任務を果たした。

ここからは、秀古の手船は鳥羽浦までしか行かなかったのに対して、塩飽船は太平洋の荒波を越えて小田原まで航行したと、操船能力の巧みさを自画自賛しています。秀吉は四国・九州遠征を通じて水軍編成を計っていきます。小田原攻めの時には、秀吉の直属の九鬼嘉隆の率いる水軍をはじめ、毛利水軍・長宗我部水軍・加藤嘉明水軍も動員され、相模湾には、水軍が蟻のはい出る隙間もないほど結集したと云われます。この時にも塩飽船は、軍船ではなく兵糧輸送船として徴用され活躍していることを押さえておきます。

北条氏を減ぼして全国統一を果たした秀吉の次の野望は、朝鮮半島でした。古代ローマ帝国と同じく領土拡大を行う事で、秀吉政権は成長してきました。領土拡大がストップすることは、倍々ゲームで成長してきた企業が成長0になることにも似ています。政権の存続基盤が失われることを意味します。それを秀吉は朝鮮出兵、中国への侵入という大風呂敷を広げることで帳尻を合わせようとしたのかもしれません。すでに九州遠征の時から「唐入り」の野心を膨らませていたのです。誇大妄想的な野望かも知れませんが、そのために取られた準備は用意周到なものでした。各地の城の修理や増築を行い備えた上で、朝鮮出兵の拠点として肥前名護屋城の普請を行います。また朝鮮への渡海のための船の建造を進め、全国の大名にも船舶の建造命令を出しています。
これにともない塩飽でも船の建造が行われたことが、次の秀次朱印状から分かります。
③豊臣秀次朱印状(折紙)
大船作事為可被仰付、其国舟大工船頭就御用、為御改奉行画人被指遣候間、成共意蔵入井誰々雖為知行所、有職人之事、有次第申付可上候者也、
十月十二日                   (朱印)
塩飽
所々物主
代官中
意訳変換しておくと
大船の造船を命じることについて、舟大工や船頭の雇用が必要なることが考えられるので、奉行を派遣して職人の募集を行う事、また危急の際なので、給料や人物にこだわることなく使える職人は、すべて雇用すること、

この文書には、年次がありませんが文禄九年(1592)と研究者は考えているようです。船大工の雇用に当たっては「蔵入並並に誰々雖為知行所」とあるように、少々人件費高くとも人間的に問題があっても使える職人は全て雇へという命令です。
 また、この文書で研究者が注目するのは宛先が「塩飽 所々物主 代官中」となっていることです。ここからは、この時期の塩飽には代官がいて、秀吉の直轄統治が行われていたことが分かります。この文書を受けた塩飽代官は、どうしたでしょうか。塩飽には中世以来の海上輸送の物流基地で船大工もいたでしょうがその数も限られていたでしょう。塩飽以外の地からも多くの船大工を呼び入れたはずです。そこで、各地からやってきた船大工句の間で、造船技術の交流・改良が行われたことは以前にお話ししました。同じ事は、小豆島でも同時並行で行われていたようです。

船を建造するだけでなく、塩飽船は朝鮮出兵にも動員されていることが、次の文書から分かります。

「文禄九年高麗御陣之時、七ケ年之間、御手船御用之節、豊臣秀次様御朱印を以、御用被為仰付、塩飽船不残、水主五百七拾余人、高麗並肥前日名護屋両所二相詰、御帰陣迄御奉仕候、其節之御朱印二通」

意訳変換しておくと
文禄九年の朝鮮出兵の時は、7年間に渡って、御手船御用を言いつかっていた。そして、豊臣秀次様から御朱印をいただき、御用を仰せつかり、塩飽船は残らず、水主570余人とともに、高麗と肥前の名護屋城の両方に詰めて、出兵が終わり帰陣するまで御奉仕した。その時の御朱印が二通ある。

塩飽勤番所に残された2通の朱印状は、文禄二年(1593)に豊臣秀次から出されたもので、次のような内容です。
豊臣秀次朱印状
名護屋へ医師三十五人並に下々共外奉行之者被遣候、八端帆継舟式艘申付、無由断可送届者也、
文禄二年二月二十八日                (朱印)
志はく(塩飽)船奉行中
これは名護屋へ医師35人と奉行衆を八端帆継舟二艘で送り届けよという命令書で、宛先は塩飽船奉行です。もう1通は竹俣和泉の名護屋派遣について、兵と軍資を継舟で送るように指示しています。
⑤豊臣秀次朱印状
竹俣和泉事、至名護屋被指下候、然者、上下弐拾人並荷物「儀」(後筆)十荷之分、継舟二て可送届者也、
文禄弐年三月四日                 (朱印)
塩飽船奉行中
この継舟というのは八端帆船のことと研究者は考えています。これ以前の元亀二年(1571)来島・因島衆との海戦に、塩飽の八端帆船三艘が活動しています。ここから塩飽船は、八端帆船が主役であったと研究者は考えているようです。ここでも、動員されているのは軍船ではありません。
では八端帆船とは、どのくらいの大きさの船だったのでしょうか?
当時は帆一反につき櫓四挺の割合になるようです。すると8端×櫓4=32挺櫓で、長さ約20尺程の船になります。そこに乗り組む水夫は、漕ぎ手が32人+αで、武者も同じくらい乗船するので70名程度になるようです。
村上水軍 小早船
毛利水軍書の「小早」(村上海賊ミュージアム)

毛利水軍書の「小早」と称される船にあたるようです。③で「大船作事可被仰付」とありましたが、塩飽が大船を多数保有していたなら、それほど建造する必要もなかったでしょう。それまでの塩飽には、大船がなく八端帆船が多数を占めていたため「大船作事」命令となったと研究者は推測します。
3  塩飽 関船

ここからも、塩飽は八端帆継舟による海上輸送にあたっていたことがうかがえます。塩飽船は、大坂と名護屋を結ぶ継舟として文禄の役に徴発されます。④⑤の文書の宛名は「塩飽舟奉行」となっています。船奉行の支配下のもとに、瀬戸内海を通じて大坂・九州名護屋の間の物資・軍兵輸送を塩飽船が担ったと研究者は考えています。

 確かに塩飽は、文禄の役に多くの船と水夫を出しています。
そのために江戸時代には、朝鮮出兵で活躍の証が秀吉・秀次朱印状で、それが徳川の「塩飽船方衆(人名)」につながったとされてきました。これは、本当なのでしょうか? 
 西国大名の朝鮮出兵に関する研究が進むにつれて、塩飽だけが特別に負担が多かった訳ではないことが分かってきました。九州大名と舟手の水軍大名は、本役(百石につき5人の動員)、四国・中国大名は四人役(百石につき四人)と、石高に応じて軍役(人夫と水夫)が課せられていたようです。人夫や水夫の負担が多い大名の中には、軍役の2/3に達する藩もあります。これから考えると、塩飽に対しても検地に基づく石高で、軍役負担が課されたようです。天正18年(1590)に塩飽で行われた検地では、650人の舟方が軍役負担者として義務つけられます。これをもとにした軍役が、朝鮮出兵の時にも課せられているようです。それは決して特別重い軍役ではないと研究者は考えています。
 今までの通説では、次のように云われてきました。
塩飽は文禄の役の際には、他と比較にならぬほど多くの船と水夫を出した。それは、塩飽が豊臣の御用船方であり、船舶が堅牢で水夫が勇敢かつ航海技術が優れていたからである

しかし、これは塩飽を美化したものに他ならないと研究者は指摘します。九州などでは塩飽以上に多くの一般民衆が人夫や水夫として徴発されている事実からすれば、塩飽のみが重い負担であったとは云えないようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 橋詰茂 織豊政権の塩飽支配 瀬戸内海地域社会と織田権力所収  思文閣史学叢書2007年
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  前回までに、塩飽の信長への従属関係を示す「信長朱印状(塩飽勤番所)見てきました。今回は、もう少し広い視野で塩飽を巡る瀬戸内海の勢力関係を見ておきましょう。

最初に、塩飽と能島村上氏の関係を見ておきましょう。いつから塩飽は能島村上氏の傘下に入ったのでしょうか?
永正五年(1508)、能島村上氏は、周防の大内義興が前将軍足利義植を擁して上洛した時に海上警固役を勤めた恩賞として、次のように細川高国から塩飽島代官職を与えられています。
就今度忠節、讃岐国料所塩飽嶋代官職事宛行之上者、弥粉骨可為簡要候、猶石田四郎兵衛尉可申候、謹言
卯月十三日         高国(花押)
村上官内大夫殿
この文書からは、16世紀初頭から塩飽は能島村上氏の支配下に入っていたことが分かります。この支配が戦国後期にも続いていたことは、永禄十三年(1570)6月に、村上水軍の統率者であった村上武吉が塩飽島廻舟に宛てた次の文書から裏付けられます。

豊後の戦国大名大友宗麟の家臣本多鎮秀の上方への航行に対して「便舟之儀、不可有異乱候」と命じていること、

ほぼ同じ頃、大友宗麟が村上武吉に対して、堺港まで家臣を差し上すについて、塩飽津における公事銭徴収を免除してくれるよう依頼していること

 その後、能島村上氏は毛利氏に従うようになるので、塩飽も村上氏を通じて毛利氏の支配下にあったことになります。
「毛利氏 ― 能島村上氏 ― 塩飽衆」という関係が大きく変化するのは、元亀二年(1571)になってからです。
この年の五月に、阿波三好氏の重臣篠原長房は、阿讃の兵を率いてふたたび備中児島に侵攻します。前回と異なるのは村上武吉が、豊後の大友氏と通じて毛利氏に背いていたことです。 一方、備前の浦上氏も大友氏の支援を受けて毛利氏に対して挙兵します。次の書状は大友宗麟が、村上筑後守らに宛てたものです。
今度村上武吉被申候、至塩飽表有現形、各被顕心底之段感悦候、弥至武吉以入魂堅固之御覚悟肝要候、猶自杵越中守可申候、恐々謹言、
二月十二日           宗麟
村上筑後守殿
村上内蔵太夫殿
村上源左衛門尉殿
村上輔三郎殿
村上平右衛門尉殿
村上丹後守殿
この宗麟書状からは、村上筑後守ら村上水軍が塩飽島(本島)を拠点に、塩飽衆を率いて備前の浦賀氏を支援していたことが分かります。この時の塩飽は村上武吉の反毛利勢力の拠点の一つであったようです。
 一方、三好方の篠原長房は宇多津に在陣して、児島に侵入した阿讃軍の総指揮に当っています。長房の子長重は、元亀二年正月に、宇多津西光寺に禁制を発した文書が残っています。これは、阿讃勢の字多津集結を示すものと研究者は考えています。これをまとめておくと次のような構図になります。
 塩飽本島 大友氏方 村上水軍ー塩飽衆
 宇多津  毛利氏方 阿波三好・篠原長房 

  能島村上氏が毛利氏と争っているときに、塩飽衆は能島に水と兵糧を送り込もうとします。その時の記録が毛利藩に残されています。
態申遣候、(中略)、沖口之儀能嶋要害為合力、阿州衆岡田権左衛門塩飽者共相催、以船手水兵糧差籠候処、沼田警固井来嶋・因嶋衆懸合、敵船八端帆三艘切取、宗徒之者数十人討果之由候、相残舟之儀務司麓繋置之、(下略)
七月十七日           輝元御判
内藤彦四郎殿
其外番衆中
意訳変換しておくと
報告いたします。(中略)村上武吉の能島は要害で、なかなか攻略が出来ない。そんな中で阿州衆の岡田権左衛門と塩飽衆が、船で兵糧を運びこもうとしたのを、沼田警固や来嶋・因嶋村上水軍が見つけ、敵船・八端帆三艘を拿捕し、乗組員数十人を討果した。残舟も務司城の麓に係留した、

これは毛利方の史料だから、割り引いてみなければならないものでしょう。それにしても、一方的な敗北だったようです。ここにも前回お話ししたように、塩飽衆の性格が現れているようです。つまり塩飽船の任務は、能島に水・兵糧を搬入することで、毛利水軍と合戦するための軍事行動ではなかったのです。塩飽は水軍ではなく、輸送部隊であったことが裏付けられます。

また、この文書の「阿州衆岡田権左衛門、塩飽の者共相催し」に研究者は注目します。
塩飽船は、村上一族の者によってではなく、阿波三好氏の岡田権左衛門に率いられて、兵糧輸送に出発したと読めます。ここでは、塩飽衆が次第に阿波の篠原長房の支配下に置かれ、それが、阿波三好氏、香西氏らの強い影響下に留まることになっていったと研究者は推測します。そして、香西氏が信長に着くと、その影響下にあった塩飽も信長傘下に入っていくという道筋が見えてきます。

1565 5・19 三好義継・松永久秀ら,足利義輝を攻め殺す(言継卿記)
1567 6・- 篠原長房,鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書)
1568 11・- 香西氏,阿波衆とともに,備前の児島元太の城を攻める.
       香西又五郎配下のもの,児島元太勢によって討たれる(嶋文書)
   6・- 阿波の篠原長房,讃岐国人を率いて備前で毛利側の乃美氏と戦う
   9・26 織田信長,足利義昭を奉じて入京する(言継卿記)
1569 6・- 篠原長房,鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1570 6・15 能島の村上武吉が塩飽衆に対して,大友義鎮配下本田鎮秀の堺津への無事通  行を命じる(野間文書)
   9・- 石山本願寺の顕如が,信長に対し蜂起する(石山戦争開始)
1571 1・- 篠原長重,鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書)
   5・- 篠原長房,備前児島に乱入する.
 6・1 足利義昭,小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡ることを請する     
   7・- 塩飽衆,阿波の岡田権左衛門に属し.伊予能島に兵粮を送るが,沼田警固衆   
       並びに来島・因島衆に襲われ船3艘・船方数十人討たれる
   8・1 足利義昭,三好氏によって追われた香川某の帰国援助を毛利氏に要請する.
   9・17 小早川隆景が岡就栄らに,讃岐へ渡海し,攻めることを命じる        
   10・3 足利義昭が吉川元春に,阿波・讃岐を攻めることを命じる(吉川家文書)
1573 5・13 三好長治が大内郡引田に船で襲撃し、篠原長房・長重父子を討つ
   8・- 宣教師がカブラルが塩飽島で8日間滞在。この間,宿の婦人がキリシタンとなる 7・4 足利義昭,山城槇島城で織田信長に対し再度挙兵する.ついで同月18日,信 長に降伏する〔室町幕府崩壊〕
1574 10・- 三好長治が三好越後守・篠原入道らに,勝賀城の香西氏を攻めさせるが,墜とせず退く
   10・- 三好越後守・大西覚養など寒川郡昼寝城を攻めるが落とせず退く
1575 4月、 河内高屋城に拠っていた三好康長(笑岩)が信長に服従
5・13 宇多津西光寺が石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する
   5・25 備前の浦上宗景が安富盛定に書を送り,宇喜多直家との合戦の状況を伝え,協力を求める
1576 2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)
 5月 淡路の安宅信康が、信長から毛利水軍に対する迎撃を命じらる。
7・13  毛利軍が,第一次木津川の戦いに勝利し,石山本願寺に兵粮を搬入する   
  8・29 宇多津西光寺が,石山本願寺顕如より援助の催促をうける
   この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める
1577 2・1 奈良玄蕃助が三好越後守より,鵜足郡津郷内皮古村を与えられる
   2・ 宇多津沖で毛利方の兵糧船が攻撃される。
   3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書)
    3・  三好長治が死亡
   7・- 元吉合戦 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う
   11・- 毛利氏が讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方および讃岐惣国衆と和す
1578 1        三好長治死亡後に、十河存保が堺から阿波に帰って来て、三好の家督を継ぐ
   この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
   この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する
  11・16  第2次木津川の戦いで、織田信長の水軍が毛利水軍を破る

1575年4月に三好康長(笑岩)は信長側につきます。その後信長の意を受けて、康長(笑岩)は阿波・讃岐の諸将への懐柔工作を行い、信長に従うように勧めます。翌76年には、その誘いに応じた天霧城の香川之景や勝賀状の香西佳清は信長に服します。以後、香川之景は信長から一字を与えられて信景と名乗ります。東讃の安富氏も羽柴秀吉を通して信長に従うようになります。これらは『南海通記』に記されていることなので、そのまま信じることはできませんが、香川之景がこのごろから名乗りを信景に変えているのは事実ですから、『南海通記』のこの記事も認めておくことにします。そうすると1577年2月に、宇多津沖で毛利方の兵糧船が攻撃されていることと辻褄は合います。信長方についた多度津の香川氏が、配下の水軍山路氏などに毛利船攻撃を命じたことがかんがえられます。その反撃として、村上水軍による信長方の船舶への「無差別攻撃」も行われるようになった可能性はあります。そのような中で信長が堺代官に命じたのが、「3・26の堺に至る塩飽船の航行保証(塩飽勤番所文書)」ということになります。
また阿波では、強硬な反信長派であった篠原長房が、1573年5月に三好長治によって討たれます。そしてその4年後の1577)3月には、その長治も亡くなってしまいます。翌78年1月に、十河存保が堺から阿波に帰って来て、三好の家督を継ぐことになります。存保は、それ以前から信長支配下の堺にいて、その影響下にあったようです。さらに淡路の安宅信康も信長に属していたようで、天正4年5月に、信長から毛利水軍に対する迎撃を命じられています。このような情勢のなかで、塩飽も信長方に強く引き付けられていったと研究者は考えています。

塩飽が信長方に引き付けられていた過程を見てきました。
しかし、注意しておきたいのは、塩飽水軍が信長の水軍に組み込まれたことを意味するものではないことです。信長の松井友閑宛の朱印状にあるように、塩飽船は塩飽と堺とのあいだを往来し、通商活動行っていました。また、塩飽衆が信長方にがついた時期を年表で見る限りは、塩飽船の軍事的輸送力を必要とするような軍事的緊張は見当たりません。塩飽船が上方と讃岐を結んで軍兵や軍事物資を輸送した様子はないようです。
 では、何のために塩飽船が堺港に出入りしていたのでしょうか?
それは主に通商のためだったとであろうと研究者は考えています。
塩飽本島笠島の年番を務めた藤井家に伝わる「塩飽島諸訳手鑑」の中の「塩飽嶋中御朱印頂戴仕次第」には、信長の朱印状について次のように記されています。
信長様御代之時塩飽嶋中な方々材木薪万事御用御使被成候御ほうひ廻船之御朱印塩飽嶋中堺之津にて被下候其刻御取次衆宮内卿法印以御取次頂戴仕候御事
意訳変換しておくと
信長様の時代には、塩飽嶋の方々は「材木薪万事御用御使」として、木材や薪を海洋輸送して、その褒美に廻船朱印状を堺湊でいただいた。その時の取次代官が衆宮内卿法印である。

 ここでは、塩飽船が材木・薪を廻船で運んだ、その恩賞に朱印状をもらったと記されています。塩飽船が運んでいた材木・薪は、 一部は軍事用に使われたかもしれませんが、多くは「方々より」の御用に使用された商品だったと研究者は考えています。
 『兵庫北関入船納帳』には、文安二年(1445)の一年間に兵庫北関を通った船は1900隻あまり記されています。その船舶は、塩、米や麦・胡麻などの雑穀、海産物、材木、そのほか膨大な量のさまざまな物資を西日本各地の港から上方へ運んでいます。そのうち材木の量は37000余石〆で、塩の10600余石につぐ量になります。これらの品々は上方の人々の生活にとって欠かせないものでした。阿波の三好氏の上方での成長も材木輸送と販売を経済的な基盤にしていたことが知られています。
 毛利水軍が、天正四年七月に木津川の戦いで信長水軍を破ったことによって、東瀬戸内海の制海権を掌握したと云われてきました。
 その制海権は、軍事物資を石山本願寺に搬入するルートを確保したという点では、その通りかも知れません。しかし、商品輸送をも含めた上方への流通路を手中に納めたとまではいえいようです。毛利氏は赤間関・尾道・鞆など主要な港町を直轄地や一門領として支配しました。しかし、領国内の港の船だけで瀬戸内海の商品流通をカバーするのはできません。また領国を超えて毛利氏の勢力下にない備前・播磨・讃岐などの東瀬戸内海沿岸諸国の港や船まで統制して、それらを毛利氏の流通支配下におくようなことはできるはずがありません。瀬戸内海沿岸諸国の船は、今まで通り内海を往来し、上方へ商品を運んでいたはずです。塩飽船もそのなかに交じって、材木その他の品々を積んで堺港に出入していたのでしょう。
 しかし、天正四年の木津川での信長水軍の敗北以後、東瀬戸内海エリアでの反信長派水軍(村上水軍)による海賊行為が活発になったことは想像できます。信長方とみなされた船への襲撃、掠奪は、頻繁に行われたでしょう。村上方を寝返って信長方に付いた塩飽船などは、眼をつけられて狙われたでしょう。こうした情況に対して、信長政権としては、塩飽船の航行の安全を保証することが必要となり、発したのが松井友閑宛の信長朱印状であったと研究者は考えています。
この時期は、木津川の戦いで信長水軍が一時崩壊した時期です。そんな時に海賊停止を命じた信長朱印状が、どれだけ実際の効力を持ち得たかは疑問です。これに対して、国島氏は次のように指摘します。

 封建権力は自己の支配下にあるもの、あるいは支配下に入れようとするものに対して、実効性の有る無しにかかわらず、その権利や安全を保証することを宣言しなければならない。眼前の情況にとらわれてそれをためらうなら、彼の権力は支持者を失って崩壊するだろう。またその保証がいつまでも空手形のままであっても、支持者が離反して権力は衰退する。信長政権は九鬼水軍を用いて、毛利水軍・紀州一揆水軍を壊滅させたことによって、保証を現実のものとし、権力の強大さを誇示した。

  塩飽は、その後も信長の配下に在り続けたように私は思っていました。
ところが、そうではないようです。その後の史料をみると、塩飽は再び毛利氏―能島村上氏の支配下に取り込まれています。どうして信長から村上武吉側に再び、立場を変えたのでしょうか
天正七年(1579)の2月から3月にかけて、毛利氏は、信長方とみられる備前児島や姫路の商船が九州へ下るのを阻止するため、備中鞆から周防柳井・大畠に到る領海で海上封鎖を行います。
  この時、鞆の河井源左衛門尉が鞆と塩飽の間の警備を命じられています。ここからは、塩飽がこの時期には毛利氏の海上警備の一翼を担っていることが分かります。
 また1581年3月(日本暦天正九年二月)、イエズス会巡察使バァリニャーノ一行を乗せて豊後を出発した船が、バァリニャーノとの約束に反して塩飽の泊に入港します。その時の塩飽には、能島村上氏の代官と毛利氏の警吏がいて、一行の荷物を陸に引き揚げて、綱を解きこれを開こうとして騒いだと宣教師の記録にはあります。ここからは塩飽が、村上武吉の支配下にあったことが裏付けられます。
 当時の東瀬戸内海をめぐる信長と毛利氏との争いを年表で見ておきましょう。
天正6年2月、播磨の別所長治が、10月には摂津の荒木村重が、本願寺に通じて信長に背く。
天正7年9月 荒木村重が伊丹城をすてて尼崎へ移って没落
   10月 毛利氏に属していた備前の宇喜多直家が信長に降伏、
  8年1月 別所長治が羽柴秀吉の攻撃をうけて播磨三木城で滅亡
    3月、石山本願寺が信長と講和し、法主顕如は大阪を去って紀州雑賀に退く。
天正9年10月 吉川経家の守る因幡国鳥取城が羽柴秀吉の包囲を受け、経家が開城。
このような背景の中で、塩飽の信長方から毛利方への転換したことになります。毛利氏は塩飽を、どのようにして取り込んだのでしょうか
研究者が指摘するのは、天正5年間7月の毛利氏の讃岐侵攻である元吉合戦です。元吉合戦については以前にお話ししましたが、簡単に振り返っておきます。
 多度郡元吉城にいた三好遠江守が、阿波三好氏に背いて毛利氏に寝返ります。これに対して阿波三好氏は配下の中讃の武将長尾・羽床氏らに元吉城攻撃を命じます。これに対して元吉城を護るために、毛利輝元は乃美宗勝らの警固衆を援軍として送り、毛利勢は多度津に上陸し、元吉城の西南摺臼山に着陣します。こうして天正五年間7月20日、毛利軍と長尾・羽床・安富・香西・田村・三好などの阿波・讃岐勢が激突し、後者が敗れ去ります。勝利した毛利軍は毛利一族の穂田元清を大将とする軍勢が派遣し、阿波・讃岐勢を威圧します。戦後の緊張関係が続く中で、鞆に亡命していたいた前将軍足利義昭が和平調停に乗りだし、毛利軍は11月には、長尾・羽床氏から人質をとって讃岐から引き揚げていきます。鞆の足利義昭の思惑は、毛利と三好を結ばせて信長に対抗させることでした。
  この合戦によって、毛利氏の勢力が讃岐におよぶことになったと研究者は考えています。
  『香川県史』はこの事情を次のように記します。
  「元吉合戦は、毛利氏の本願寺救援と瀬戸内海制海権奪回をめざす目的をもった戦いであった。讃岐を押えることにより、信長の制海権を破壊しようとしたのであった」

  讃岐を押さえると同時に、塩飽の支配を回復しようとするのは、毛利側にとっては当然の戦略です。だとすれば、塩飽は天正6年11月の第2次木津川の戦いでの毛利水軍の敗戦以前に、毛利側に取り込まれていたことになります。
 もし、そうだとすると塩飽の立場は強固に信長を支援するような立場ではなく、状況に応じての信長支援だったことが考えられます。信長からすれば「塩飽は信用ならぬもの」として猜疑心をもって塩飽の行動を見ていたことが考えられます。そのように見てくると、信長朱印状(塩飽勤番所)について、次のように解釈した橋詰茂説は妥当性をもつことになります。

塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したもの

 この解釈によれば「違乱之族」とは、密かに本願寺に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行う可能性のある塩飽船です。この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。

塩飽勤番所に保管されている信長朱印状をめぐる謎と疑問は、いろいろなことを私たちに考えさせてくれます。どちらにしても貴重な史料です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 
『香川県史2・中世』446P
山内譲著『海賊と海城・瀬戸内の戦国史』114P

   
前回は塩飽勤番所に保存されている信長朱印状は、塩飽に特権を認めたものでないという説を紹介しました。それを最初に「復習」しておきます。
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。
信長朱印状
 信長の朱印状(塩飽勤番所)
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
この文書の解釈について、通説では次のように解釈されてきました。

 堺湊に出入りする塩飽船については、これまで通り塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない特権を持っていた。つまり港に入っても、その周囲の船はよけろという「触れ掛り特権」を信長が再確認したものだ。これに違反する違乱の族がいれば成敗せよ、と堺代官・宮内部法印(松井友閃)に命じたものである

瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
橋詰茂 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 

これに対して、橋詰茂氏は、次のような異論を提示しました。
第1に、「触れ掛り」の特権を示すとするが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が「触れ掛り」を示す文言とはいえないこと。
第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、堺代官の松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権も持っていたように云うが、本来このような権限は、堺代官の持つ権限であること。
第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈にすぎない。
このような視点から信長の朱印状と云われる文書を、橋詰茂氏は次のように解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは本願寺に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行う可能性のある塩飽船です。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
この橋詰氏の「信長朱印状=塩飽特権付与説否定説」については、反論が出されています。
それを今回は見ておきましょう。テキストは「国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 」です。
まず他の信長発給文書との構成比較を行います。例として出されるのは、石山本願寺に味方する越前朝倉氏との対決姿勢を強めた信長が、越前と大阪のあいだの連絡を遮断するために出された文書です。
従当所大阪へ兵根を入事、可為曲事候、堅停止簡要候、若猥之族二をいては聞立、可令成敗之状如件、
四月五日           (信長朱印)
平野荘
 惣中
近江の姉川から朝倉のあいだの通行を商人も含めて、陸路・水路ともに一切禁上し、この禁令を破るものは成敗するように木下秀吉に命じています。
次の文書は、商人に紛れて本願寺に入ろうとするものがあるから、不審者は厳しく取り締るようにと細川藤孝に命じたものです。
従北国大阪へ通路之諸商人、其外往還之者之事、姉川より朝妻迄之間、海陸共以堅可相留候、若下々用捨候者有之ハ、聞立可成敗之状如件、
七月三日
細川兵部太輔殿
         (信長朱印)

 研究者が注目するのは、何に対して、どう取り締まれという具体的な名称が書かれていることです。これと天正五年の松井友閑宛の信長朱印状を比べて見ましょう。
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 塩飽船と石山本願寺との連絡を監視して取り締るように堺代官の友閑に命じたものであれば、秀吉や細川藤孝に命じたものとスタイルが同じになるとはずだと研究者は指摘します。文章表現や構造が違うと指摘します。つまり、秀吉や藤孝に出した命令書と松井友閑宛の書状とは性格が異なるとします。

 橋本氏は「違乱之族」を、裏切りの可能性のある塩飽衆としました。
しかし、国島氏は「塩飽船に保証された堺港出入を犯すもの」とします。つまり、反信長方を指すというのです。その理由として、前年七月に信長水軍を木津川口で破って勢いづいた毛利水軍・紀州の水軍は、堺港に出入りする塩飽船に対しても妨害行動をとりはじめます。それに対して、従来からの塩飽船の堺港出入を改めて保証し、それを妨げるものを成敗することを示す必要が生じたために出されてものとします。そして、松井友閑宛の信長未印状は、友閑によってただちに塩飽船の責任者に与えられたとします。
 この説では「違乱の族」とは、塩飽船を妨害する村上・紀伊水軍など反信長勢力を指すことになります。そしてそれを成敗するのは、堺代官ということになります。信長は、味方に付いた塩飽船の活動を保護するために、この朱印状を堺代官に出したという説です。

 この説には、次のような問題点が残ります。
 信長の松井友閑宛文書(信長朱印状)が塩飽にもたらされたのは、前回述べたように元禄13年以後のことです。元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。その時には、この朱印状があれば必ず取り上げているはずです。とすると元禄の時点では、塩飽にはなかったということになります。信長朱印状が登場してくるのは、享保になってからなのです。松井友閑宛の信長未印状は、すぐには塩飽にはもたらされていないようです。

 国島氏が反論点としてあげるのは「塩飽水軍」は軍事的に頼りになる存在だったのかということです。
信長が松井友閑宛に朱印状を発した目的は、塩飽衆を信長方に取り込むためというのがほぼ通説です。塩飽を取り込むとは、その水軍としての軍事力を取り込むことだと考えられてきました。 

瀬戸内海に於ける塩飽海賊史(真木信夫) / 蝸牛 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

真木信夫氏は次のように述べています。

「織田信長は古来海上輸送に大きな活躍をし、海上の戦闘にも強勇の名を轟かせている塩飽船に着目し、これを利用して天下統一の具に供しようとした。

それでは塩飽水軍の実力とは、どんなものだったのだったのでしょうか。
塩飽水軍と称しながら、村上水軍のような強大な軍事力を所持していたのか。海賊衆として瀬戸内海で活動しているが、海上軍事力は弱小であった。香西氏の児島合戦に参陣していることは前に述べたが、兵船の派遣であり、海上軍事力としては村上氏におよぶものではない。むしろ操船技術・航海術にたけた集団とのとらえ方が重要であろう。軍事力というより加子としての存在が大きかったのではなかろうか。船は所有していたが、その船を用いて兵を輸送する集団であり、自ら海戦を行う多くの人員は存在しなかったと考えられいる。

 ここからは以前にお話したように「塩飽水軍はなかった、あったのは塩飽廻船だった」と、研究者は考えていることが分かります。塩飽の水軍力は期待できるものではなかったようです。そうだとすると、
信長は「塩飽船を用いて安芸門徒の流通路の壊滅をはかり、そして塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはか」ることが期待できたかと問われると、「?」が漂います。

第一次木津川口の戦い - Wikipedia
第一次木津川の戦い 村上水軍の勝利で本願寺に兵粮輸送成功

 塩飽が信長方に寝返ったとされる時期は、毛利・村上水軍が織田水軍を木津川口に破って意気盛んな時期です。

そんな時期に塩飽は、村上水軍を敵にまわし、信長についたことになります。しかも海上戦闘力では、塩飽は村上水軍の足下にも及ばない存在なのです。本気で信長の命じるとおり、本願寺支援ルートの遮断を考えていたのでしょうか。ちなみに、塩飽船が村上水軍と戦ったという記録はありません。
船の戦い
信長の鉄船が登場した第2次木津川の戦い

 天正6年(1578)6月、大阪湾に新兵器の鉄船が姿を現します。
船の長さ約20m余り、幅32m、大砲三門を備えた大鉄船7隻です。伊勢の九鬼水軍に操られて、阻止しようとした紀州の門徒水軍をけ散らし、11月には木津川口で六百余艘の毛利水軍を壊減させます。この鉄船は信長の命令によって建造されたもので、天正5年の春ごろには建造が進んでいたようです。信長は毛利水軍・紀州門徒の水軍の壊減は、伊勢の九鬼水軍に担わせていたのです。
 以上からは信長は、塩飽勢に軍事的な期待はしていなかったことがうかがえます。
 信長が塩飽船に期待したのは、あくまで海上輸送ではなかったのでしょうか。村上水軍の交易船に代わって、塩飽船を重用するというものではなかったかと私は考えています。これは、備讃瀬戸から大阪湾にかけてのエリアで独占的な交易権を認められたものだった可能性があります。だからこそ、その利権に惹かれて、塩飽衆は村上武吉を裏切り、信長側についたのではないでしょうか。
 そういう意味では、「信長による塩飽水軍の軍事力取り込みという説」というのは、確かに疑問です。「信長による塩飽船への広大な市場提供」が塩飽を信長側に付けたと言い換えた方がよさそうです。

 以上、信長朱印状が塩飽に対しての行路独占を認めたものではないという新説への反論を見てきました。塩飽衆の海軍力は期待できるレベルではなかったという点には、教えられるものがあります。

以上から次のような説を、私は考えて見ました。
①信長は石山本願寺との長期戦を終わらせるには、毛利の本願寺支援ルートを遮断する必要があると考えた。
②軍事的には、九鬼水軍に鉄船造船を命じて対応させた。
③一方瀬戸内海の経済活動については、毛利配下にある村上水軍などの交易船の上方の寄港停止などの経済封鎖を行った。
④その際に、信長が交易権を与えたのが塩飽衆であった。
⑤そのため塩飽船は、村上水軍など反信長側の船舶から攻撃を受けるようになった。
⑥これに対して、信長は松井友閑宛文書(信長朱印状)で、塩飽船保護と危害を加える反信長方の船舶への成敗命令を堺代官に命じた。

⑤については命じただけで、実質的な軍事行動が行われることはありません。ただ「天下布武」を掲げる信長としては、このような形で威厳を示す必要があったと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
参考文献
「国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 」

信長朱印状
  信長の朱印状(塩飽勤番所)
   
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。 
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 信長朱印状は、もともとは折紙であったのを上下半分に切り、上半分を表装しています。縦14、9㎝・横41、3㎝で、朱印は縦5,5㎝、横4,7㎝の馬蹄形です。 印判がすわっていますが、これが信長の有名な「天下布武」の朱印です。讃岐にかかわりのある信長の朱印状はこれだけだそうです。宛先の宮内卿法印とは、信長が直轄領としていた和泉国堺の代官松井友閑のことです。

瀬戸内海に於ける塩飽海賊史(真木信夫) / 蝸牛 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この文書の解釈について、真木信夫氏『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』は、次のように記します。

「先々の如く」とあるのは従来より塩飽船に与えられていた「触れ掛り」と称する海上の特権を指したもので、堺港への上り下りの塩飽船は航海中にても碇泊中にても船綱七十五尋の海面を占有することのできる権利である。信長は従来よりのこの特権を再確認し、万一この占有海面を侵犯する者は処罰するようにと、堺の代官である宮内卿松井友閑に令したものである。

 これが従来の定説で、「触れ掛り特権」とは「塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない。港に入ってもその周囲の船はよけろ」という特権です。これを侵したものに対しては塩飽衆が「成敗」できることを信長が再確認したのだ、といわれていました。館内の説明書きもそう書かれています。

塩飽 信長朱印状説明
信長朱印状(塩飽院番所の説明書き)

 これに対して橋詰茂氏は「讃岐塩飽における朱印状の検討」の中で、次のような疑問を提出します。

第1に、「触れ掛り」の特権を示すと云うが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに、「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が、必ずしも「触れ掛り」を示す文言とはいえない。

第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権を持っているように考えているが、本来このような権限は塩飽船のみに与えられるものではない。これは堺代官の持つ権限である。

第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈である。

第3の指摘にを受けて、文書が発給された天正5年(1577)3月前後の讃岐の年表を見ておきましょう。
1575 天正3 (乙亥)
① 5・13 宇多津西光寺.織田信長と戦う石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する(西光寺文書)
1576 天正4 (丙子)
②8・29 宇多津西光寺向専,石山本願寺顕如より援助の催促をうける(西光寺文書)
 この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める(南海通記)
 2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)
③7・13 毛利軍が木津川の戦いで信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮を搬入する(毛利家文書)
1577 天正5 (丁丑)
④3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書 信長朱印状?)
⑤7・- 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う(本吉合戦)
 11・- 毛利方,讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方・讃岐惣国衆と和す(厳島野坂文書)
1578 天正6 
 この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
 この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する(耶蘇会士日本通信)
 11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る(萩藩閥閲録所収文書)
1582 天正10 4・- 塩飽・能島・来島,秀吉に人質を出し,城を明け渡す(上原苑氏旧蔵文書)
 5・7 羽柴秀吉,備中高松城の清水宗治を包囲する(浅野家文書)
 6・2 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。翌年には年表①にあるように宇多津の真宗寺院の西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、②のように蓮如からの支援督促も受けています。

 そのような中で起こるのが③の木津川の戦いになります。
 サーフK - 村上海賊の娘。 - Powered by LINE
ベストセラーになった「海賊の娘」を読むと、大坂湾の海上突破は、安芸門徒と紀伊門徒との連携策で行われていたことがうまく描かれています。淡路岩屋をめぐっての信長と毛利の攻防は、安芸一揆水軍の本願寺への搬入ルート確保のための戦いでもありました。そして、もう少し視野を広げて見ると、安芸・紀伊門徒による瀬戸内海の制海権確保は、本願寺に物資や秤量を運び込むための補給ルート確保の戦いでもあったのです。

マイナー・史跡巡り: 荒木村重② ~石山本願寺~

本願寺派は、海からの補給ルートがあったために長きにわたって戦えたのです。信長は、それを知っていたために、遮断するための方策を講じます。それは瀬戸内海における水軍確保です。そのために行われたのが塩飽衆の懐柔策です。
 そういう目で讃岐と周辺の備讃瀬戸を見てみましょう。
1576(天正4)には、信長は多度津の香川氏や・勝賀城の香西氏といった国人領主を懐柔し、支配下に組み込んでいます。塩飽に影響力のある香西を配下に置くことによって、塩飽懐柔を進めたのでしょう。塩飽を配下に置くことで、毛利の本願寺・紀伊門徒とのパイプを遮断するという戦略が信長の頭の中には生まれていたはずです。それが功を奏して、塩飽を村上武吉から離脱させた後に出されたのが④の文書ということになります。

 塩飽衆が信長方についたこの年に、宇多津沖で安芸門徒の兵糧船が撃沈されています。これは塩飽水軍など信長方に付いた讃岐の海賊衆(水軍)によって行われたと研究者は考えているようです。この事件は、本願寺援助ルートへの脅威で、毛利側にとっては放置することはできません。塩飽を信長に押さえられた毛利は、その打開策として対岸の讃岐を押さえて備讃瀬戸航路の通行の確保を図ろうとします。それが⑤の讃岐出兵で、善通寺の元吉城(櫛梨城)をめぐっての三好氏との攻防になります。

1 櫛梨城1
元吉城(櫛梨山城)
これに毛利は勝利しますが、毛利の関心は瀬戸内海の制海権なので、備讃瀬戸沿岸の通行権が確保できるとすぐに讃岐から兵を引いています。以上を整理しておくと
①塩飽衆は、1577(天正5)年に村上武吉側から織田信長側に寝返った。
②従来の通説は、その代償として「信長朱印状」が塩飽に発給されたとされてきた。
③以後、塩飽は毛利・村上方とは対立する立場にたったことになる。
 このような状況の中で塩飽衆は、毛利水軍・安芸門徒の本願寺支援ルートを、妨害することを信長から求められます。裏返すと塩飽衆は、村上水軍からは攻撃対象になったことを意味します。このような中で、「触れ掛り」特権が与えられたとしても実際の効力はありません。また、村上水軍が制海権を持つ中で、塩飽船が特権を主張して自由航行できる状態ではなかったと研究者は指摘します。

そんな状況を加味しながら、橋詰氏は次のようにこの文書を解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは、寝返ったばかりで本願寺や村上水軍に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行った塩飽船なのです。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
 塩飽船は石山戦争下で、信長の支配下に組み込まれたのです。
信長の戦略は、塩飽船を用いて村上水軍による本願寺支援ルートの封鎖をはかること、代わって塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはかろうとすることでした。その責任者である堺代官・松井友閑に、この朱印状は宛てられています。塩飽に下された朱印状ではないという結論になります。塩飽は信長に服従したのであり、それを違えた場合には成敗すると、読むべしと云うのです。ここからは、堺代官である松井友閑を通じて、塩飽船を統括したことがうかがえます。
信長の朱印状のある松井友閑宛文書が、なぜ塩飽勤番所にあるのでしょうか?
この文書の初見は享保12年(1727)9月の宮本助之丞後室宛吉田有衛門等の覚書(宮本家文書「朱印状五通請取之党」)に登場するようです。ここからは、これ以前にすでに塩飽に伝わっていたことが分かりますが、どんな経路で伝わったかは分かりません。
 そして元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。ここからは信長朱印状が伝わったのはこれ以降で、享保12年までの間のことであったと研究者は考えているようです。そうだとすると、この時点まで塩飽衆はこの文書の存在を知らなかった可能性も出てきます。元禄まで塩飽になかった文書が、「触れ掛り特権」を保証する文書と云えるのかという問題も出てきます。

以上をまとめておきます
①  信長の朱印状と云われる文書は、塩飽に宛てられたものではなく、当時の堺代官宛てのものである
②この文書が塩飽に伝来したのは、元禄から享保の間のことで、もともと塩飽にあったものではない。
③この文書に対して後の塩飽人名衆は、信長が航行特権を塩飽に認めたもので、これに反する者は処罰する権限も与えたものと言い伝えてきた。
④それを批判することなく、そのまま戦後の研究書の中にも引き継がれ定説となってきた。
⑤しかし、「触れ掛り」特権をしめす文書はないし、これ自体が当時の法体系からしても超法規的で認めがいたものであるなどの疑問が出されるようになった。
⑥また、この文書を歴史的な背景というまな板の上に載せて、再検討する必要が求められた。
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    橋詰茂氏「讃岐塩飽における朱印状の検討」   
 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 
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多度津港 船タデ場拡大図
       多度津港の船タデ場(金毘羅参詣名所図会4巻1846年)

 以前に「塩飽水軍は存在しなかった、存在したのは塩飽廻船だった」と記しました。そして、塩飽の強みのひとつに、造船と船舶維持管理能力の高さを挙げました。具体的な船舶メンテナンス力のひとつとして紹介したのが船タデ場の存在でした。しかし、具体的な史料がないために、発掘調査が行われている福山市の鞆の浦の船タデ場の紹介で済ませ、塩飽のタデ場は紹介することが出来ませんでした。昨年末に出された「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島   22P」を読んでいると与島にあった船タデ場が史料を用いて詳しく紹介されていました。今回は、これをテキストに与島の港と船タデ場を見ていきたいと思います。

どんな舟が与島に立ち寄ったのでしょうか?
与島港寄港船一覧

坂出市史は、上のような廻船の与島寄港表を載せています。
右側の表は、寄港した58艘を船籍の多い順に並べたものです。
上位を見ると阿波13艘、日向7艘、尾張7艘などと続き、東は越後・丹後の日本海側、伊豆・駿河・遠江の太平洋側、西は筑前、薩摩まで全国の舟が立ち寄っていることが分かります。全国廻船ネットワークのひとつの拠点港だったことがうかがえます。 
 左の表は与島に寄港した船が、次に目指す行き先を示します。
142と圧倒的に多いのが丸亀です。次に、喩伽山参りで栄えた備前田ノロ湊が25件です。ここからは与島港が西廻り海運、備讃の南北交流などの拠点港としての機能を果たしていたことがうかがえます。しかし、周辺には塩飽本島があります。本島が海の備讃瀬戸ハイウエーのSAの役割を果たしていたはずです。どうして、その隣の与島に、廻船が寄港したのでしょうか。

その答えは、与島に「タデ場」があったからだと坂出市史は指摘します。
 船たで場については、以前にお話ししたので、簡単に記します。
廻船は、杉(弁甲材)・松・欅・樫・楠などで造られていたので、早ければ3ヶ月もすると、船喰虫によって穴をあけられることが多かったようです。これは世界共通で、どの地域でもフナクイムシ対策が取られてきました。船喰虫、海藻、貝殻など除去する方法は、船を浜・陸にあげて、船底を茅や柴など(「たで草」という)で燻蒸することでした。これを「たでる」といい、その場所を「たで場」「船たで場」と呼んだようです。

 与島のたで場を見ておきましょう。 
与島タデ場跡 造船所前 

与島の「たで場」は与島のバス停「造船所跡」、辻岡造船所の付近の地名で「たてば」といわれている場所にあったようです。
坂出市史は、次のような外部史料でタデ場の存在を確認していきます。
1番目は、「摂州神戸浦孫一郎船 浦証文」(文化二年11月3日付)には次のように記します。
「今般九州肥前大村上総之介様大坂御米積方被仰付、(中略)
去月十二日大坂出帆仕、同十五日讃州四(与)嶋二罷ドリ、元船タデ、同十六日彼地出帆云々」(金指正三前掲章日)
意訳変換しておくと
この度、九州肥前大村藩の大坂御米の輸送を仰せつかり、(中略) 去月十二日大坂へ向けて出帆し、同十五日讃州与島に寄港し、船タデを行った後に、同十六日に与島を出帆云々」

ここには、肥前の大村藩の米を積み込んで、大阪に向けて就航した後で、「船タデ」のために「四(よ)嶋」に立ち寄ったことが記されています。

タデ場 鞆の浦2
鞆のタデ場跡遺跡(福山市)

2番目は、備後福山鞆の浦の史料「乍恐本願上国上之覚」です。
この史料は、文政六(1823)年から始まった鞆の港湾整備の一環として、千石積以上の大船も利用できるような焚(タデ)場の修復を、鞆の浦の居問屋仲間が願いでたものです。
然ル処近年は追々廻船も殊之外大キニ相成り、はん木入レ気遣なく、居場所は三、四艘計ニ□□、元来御当所之評判は大船十艘宛は□□焚船致し申事ハ、旅人も先年より之評判無□承知致し、大船多入津致申時は居問屋共一統甚込申候、古来は塩飽・与島無御座候処、中古より居場所気付段々普請致し繁昌仕候へとも、塩飽・与島其外備前内焚場より汐頭・汐尻共ニ□□惟二さし引格別之違御座候故…」

意訳変換しておくと
近年になって廻船が大型化し、船タデ場に入れる船は三、四艘ほどになっています。もともとは鞆の浦の船タデ場は、大船十艘は船タデが行える能力があると云われていました。大船が数多く入港した時には、船タデを依頼されても引き受けることが出来ずに、対応に苦慮しています。
 古来は塩飽・与島に船タデ場はありませんでした。そのため鞆の船タデ場が独占的立場で繁盛していました。ところが中古よりタデ場が、塩飽与島やその他の備前の港にもできています。そのため鞆の浦もその地位を揺るがされています。
 ここからは、古来は塩飽与島に船タデ場はなく、鞆の浦が繁昌していたこと、それが与島や備前に新興の焚場が作られ、鞆の浦の脅威となっていることが分かります。与島の船タデ場は、鞆の浦からも脅威と見られるほどの能力や技術・サービス力を持っていたとしておきましょう。
3番目が、小豆島苗生の三社丸の史料(寛政十年「三社丸宝帳」本下家文書)です。
ここにも塩飽・与島が出てきます。三社丸は、小豆島の特産品(素麺・塩)を積んで瀬戸内海から九州各地の各湊で売り、その地の特産品を購入して別の湊で売って、その差額が船主の収益となる買積船でした。小豆島の廻船の得意とする運行パターンです。その中に与島との関係を示す次のような領収書が残っています。
塩飽与嶋
六月二十四日
一 銀二匁六分   輪木  
一 同四匁                茅代
一 同四匁      はません(浜占)
                          宿料
〆拾匁六分
    壱百弐文替
又 六分六厘   めせん
〆 壱拾壱匁弐分六厘
船タデ入用
一 百六十文                しぶ弐升   
一 百もん                  酒代       
一 三分六厘                笠直シ
一 百もん                  なすひ代   
一 五十五もん              御神酒代   
〆九六
四匁六分八厘 ○
合十五匁九分四厘
七月弐拾日
内銭弐拾匁支出
残四匁壱分六厘
取スミ、
八月十二日
この史料からは、船タデ経費として次のような項目が請求されていることが分かります。
①船を浜に揚げて輪木をかませ固定する費用
②船タデ用に燃やすの茅の費用
③浜の占拠料である浜銭
④与島での宿代
⑤この時は防腐・防水剤としての渋の費用

4番目は、引田廻船の史料(年末詳「覚」人本家文書)です。
一 三匁九分  輪木
一 六拾五匁 
一 四匁       宿代
〆 七十二匁弐朱九分
差引       内金 壱匁弐朱   
右の通り請取申候、以上、
よしま 久太夫(塩飽与嶋浦中タデ場)(印)
六月十六日
三宝丸 御船頭様
この史料からは、大内郡馬宿浦の三宝丸は、輪木・茅・宿代の合計72匁9分を与島の年寄の久太夫に払っています。同時に、与島の久太夫が船タデ場を「塩飽与嶋浦中タデ場」を管理していたことが分かります。この人物がタデ場の所有者で経営者と、思えますがそうではないようです。それは後に、見ていくことにして・・・
今度は、本島の塩飽勤番所に残された史料を見ていきます。
文政二(1819)年の「たで場諸払本帳」は、与島のタデ場を1年間に利用した594艘の廻船の記録です。
与島船タデ場 利用船一覧

タデ場の記録としては、全国的にも珍しく貴重な史料のようです。坂出市史は、その重要性を次のように指摘します。
第一に、与島のたで場に寄った廻船の船籍が分かること。
廻船船籍一覧表 24は、船籍地が分かる廻船318艘の一覧表です。これを見ると、日向41、阿波31、比井27、日高17、神戸14などが上位グループになりますが、その範囲は日本全国に及ぶことが分かります。
第二は、船タデの作業工程と、費用が分かります。
与島タデ場 輪木・茅代一覧
上表からは、船タデ作業の各項目や材料費が分かります。
①船タデ作業の時に船を固定する「輪木」代
②船底部を燻蒸する材料の茅代
③船を浜揚げして輪木なしでたでる平生の場合の費用
この表をみると、一番多かったのは輪木代が三匁四分~三匁九分で486件です。茅代は輪木代つまり廻船の大きさによって最大80匁です。輪木を使わない平生(ひらすえ)は、49件で茅代のみとなっています。この史料の最後には次のように記されています。
「惣合 二〇貫三九七匁一分五一厘 内十三貫二五四匁一分
茅買入高引 残七貫一四匁五厘
卯十二月二十一日浦勘定二入済 船数大小五九二艘」

ここからは、一年間の利用船が592艘で、その売上高が約20貫で、支出が茅代約13貫、差し引き7貫あまりが収益となっていたことが分かります。坂出市史は、次のように指摘します。
「収益は多くはないように見えるがより重要なことは、その収支が浦社会で完結されていたことである」

 全ての収益が地元に落とされるしくみで、地域経済に貢献する施設だったのです。

 船タデで使われる茅(草)は、どのように手に入れていたのでしょうか
私は周辺の潟湖などの湿地に生える茅などを使っていたのかと思っていましたが、そうではないようです。幕末期には尾州廻船が茅を摘んで入港していることが史料から分かるようです。また、慶応2(1866)年10月、坂出浦の川口屋松兵衛は「金壱両三歩」で大量のたで草を荷受けしています。このたで草が与島に供給された可能性があります。どちらにしても船タデ用の茅は、島外から買い入れていたようです。その費用が年間銀13貫になったということなのでしょう。
与島船タデ場 茅購入先一覧

表26は、与島でのたで草の人手先リストです           
買入先が分かる所を見てみると、「タルミ=亀水」「小予シ満= 小与島」「小豆し満= 小豆島」など周辺の島々や港の名前が並びます。買入量が多いのは、圧倒的に小豆島です。小豆島の船の中には、島で刈られた茅を大量に積んで与島に運んでいたものがいたようです。中世には、讃岐の船は塩を運んでいたと云われます。確かに塩が主な輸送品なのですが、東讃からは薪なども畿内に相当な量が運ばれていたことを以前にみました。また。江戸時代には、製塩用の塩木や石炭を専門に運ぶ船を活動していました。船タデ場で使う茅なども船で運ぶ方が流通コストが安かったのでしょう。まさに「ドアtoドア」ならぬ「港から港へ」という感覚かも知れません。
 どのくらいの量の茅が買い入れられていたのでしょうか?
表からは163958把が買い入れられ、その費用が14貫746匁5厘だったことが分かります。史料冊子裏面に「岡崎氏」とあります。ここからは与島のたで場経営が与島庄屋の岡崎氏の判断で行われ、塩飽勤番所に報告されたようです。

与島のたで場は、どのように管理・運営されていたのでしょうか。
私は、経営者と職人たちの専門業者が船タデ作業を行っていたのかと思っていました。ところがそうではないようです。与島のたで場については、浦社会全体がその運営に関わり、地域に収益をもたらしていたようです。
そのため船タデ場の管理・運営をめぐって浦役人と浦方衆との間で利害対立が生まれ、「差縫(さしもつ)れ」となり、控訴事件に発展したことがあるようです。坂出市史は文政四(1831)年に起こった「たで場差縫れ一件」を紹介しています。この一件について「御用留」は、与島年寄りの善兵衛からの書状を次のように記します。
一 文政四巳たで場差配の儀、争論に及び、私差配仕り来たり候場所、三月浦方の者横領二引き取り指配仕り候に付き、御奉行所へ御訴訟申し上げ、追々御札しの上、御理解おおせられ」

意訳変換しておくと
一 文政四巳(1831年)のたで場差配について、争論(訴訟事件)となりました。これについては、私(善兵衛)が差配してきた場所を、三月に浦方衆が力尽くで差し押さえた経緯がありますので、御奉行所へ訴訟いたしました。よろしくお取りはからいをお願いします

 この裁断のための取り調べは、管轄官庁のある大坂で行われたようです。そこで支配管轄の大坂奉行所役人から下された内容を岡崎氏は次のように記します。。

安藤御氏様・寺内様・田中様御立合にて丸尾氏並拙者御呼出し上被仰候は、たで場諸費用之儀対談相済候迄、論中の儀ハ前々の通り算用可致旨被仰候
たで場差配として浦方談之上、善兵衛指出有之処、善兵衛引負銀有之候共、其方へ拘り候儀ハ無之、浦方の者引受差配可致旨被仰候、
浦役人罷上り候諸入用の儀、其方申分尤二て候得共、浦役人之儀ハ浦方惣代之事二候間、浦方談之通り割人半方ハ指出可申旨被仰候、
右の通り被仰、且又御利解等も有之候二付、難有承知仕、引取申候、
意訳変換しておくと
安藤様・寺内様・田中様の立合のもとに、丸尾氏と拙者(岡崎氏)が呼び出され以下のように伝えられた。
第1に、たで場諸経費については、これまで通りの運用方法で行うこと
第2に、たで場差配(管理運営)は浦方衆と相談の上で行うこと、確かに、タデ場には善兵衛の私有物や資金が入っているが、タデ場は浦役人の善兵衛の私有物ではない。「浦方之者」全体で管理・運営すること。
第3は、浦役人の大坂へ上る諸経費について、その費用の半分は、たで場の収支に含まれる
以上の申し渡しをありがたく受け止め、引き取った。

ここからは、タデ場が浦役人の個人私有ではなく、浦全体のものであり、その管理運営にあたっては合議制を原則とすることを、幕府役人は求めています。たで場の差配は、浦役人(年寄)をリーダーとして、浦方全体の者が引き請けて運営されていたことが分かります。浦社会にとっては、地域所有の「修繕ドック」を、共同経営しているようなものです。そして、これが浦社会を潤したのです。

与島の「たで場」の共同管理を示す史料(「御用留」岡崎家文書)を見ておきましょう。
一 同三日、たで場居船弐艘浮不申二付、汐引之節浮支度として浦方居合不残罷出候、‥(後略)…

意訳変換しておくと
 同三日、たで場に引き上げられている2艘の船について、汐が引いた干潮に浮支度をするので、浦方に居合わせた者は残らず参加すること、‥(後略)…

ここからは次のようなことが分かります。
①与島の「たで場」は、2艘以上の廻船が収容できる施設であったこと
②島民全員が、タデ場作業に参加していたこと

もうひとつ幕末の摂州神戸の網屋吉兵衛が役所に、提出したタデ場設置願書には、次のように記されています。
「播州の海岸には船たで場がなく、諸廻船がたでる場合は讃州多度津か備後辺り(鞆?)まで行かねばなりません。そのため利便性向上のために当港へのタデ場設置を願いでます。これは、村内の小船持、浜稼のもの、また百姓はたで柴・茅等で収入が得られ、村方としても利益になります。建設が決まれば冥加銀を上納します」

 ここからは次のようなことが分かります。
①播州周辺には、適当な船タデ場がなく、播州船が多度津や備後の港にあるタデ場を利用していたこと
②タデ場が浦の住人だけでなく、周辺の農民にも利益をもたらす施設であったこと
ここでは②のタデ場が「浦」社会全体の運営によって成立していたことと、それが地域に利益をもたらしていたことを押さえておきます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島   22P」
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瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

1550(天文19)年9月、一人の禅僧が和泉国堺の港を船で、瀬戸内海を西に向かいました。禅僧の名は守龍(しゅりゅう)。京都東福寺の僧です。守龍の旅の記録(『梅一林守龍周防下向日記』)を、手がかりにして、当時の瀬戸内海の港や海賊たちを見ていくことにします。  テキストは「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」です。
守龍の人物像についてはよく分からないようです。
ただ、1527(大永7)年の年末、1529(享禄2)年の立冬、翌30年の夏に、東福寺に参禅して修行したことが記録から確認できます。1550年の堺港からの出港も、寺領の年貢収取について、周防国に行って大内氏をはじめとする周防国の有力者と交渉するためだったようです。得地保は東福寺領の有力荘園で、その年貢収入は東福寺にとって欠かせないものでした。しかし、戦国時代になると以前にも増して、年貢収取が困難になっていたのでしょう。

守龍は1550年9月2日に京都を発ち、14日に堺津から出船しています。
乗船したのは、塩飽・源三の二端帆の船です。当時は舟の大きさは排水量や総重量でなく帆の大きさで表現したようです。そこに3百余人の乗客が乗り込み、「船中は寸土なき」状態であったと記されています。常客を満載した状態での航海です。

讃岐国絵図 正保国絵図.2jpg

塩飽本島 上が南

船頭である塩飽の源三について見ておきましょう。
 この船の船籍地である塩飽(丸亀市本島)は、備讃諸島海域の重要な港であり、同時に水運の基地でした。1445(文安2)年に兵庫北関に入関した上り船の記録である「兵庫北関入船納帳」には、塩・大麦・米・豆などを積み込んだ塩飽船が37回に入関していることが記録されています。これは宇多津に続いて、讃岐の湊では2番目に多い数です。ここからは塩飽を船籍地とする船が、備讃諸島から畿内方面に向けて活発な海上輸送活動を行っていたことが分かります。

兵庫北関1
 塩飽の水運力は、のちに豊臣秀吉・徳川家康らの目を付けられ、御用船方に指名され統一権力の成立にも貢献するようになります。それは、この時代からの活動実績があったことが背景にあるようです。後に、江戸幕府の保護を受けた塩飽の船方衆は、出羽・酒田地方の幕領の年貢米の海上輸送に携わり莫大な富をこの島にもたらします。その塩飽の船方衆の先祖の姿が、船頭の源三なのかもしれません。

DSC03651
兵庫沖をいく廻船 一遍上人図

 塩飽船は、瀬戸内の塩や米のような物資輸送に従事したことで知られています。
しかし、ここでの源三は、旅客を運ぶ人船=「客船」の船頭です。彼の船は、三百人を載せることができる二端帆の船でした。当時は、筵をつなぎ合わせた帆が一般的でした。幅三尺(約90㎝)、長さ六尺ほどの筵を何枚かつないで、それを一端(反)と呼びます。二端帆の船とは、幅10mほどの筵帆を備えていた船ということになります。『図説和船史話』には、九端帆が百石積、十三端帆が二百石積とあるので、源三船は百~二百石積の船だったことになります。

中世 瀬戸内海の海賊 海賊に遭遇 : In the pontoon bridge
     中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。
(石井謙治「図説和船史話」)


 室町から戦国にかけての時期は、日本の造船史上の大きな画期で、遣明船などには千石石積前後の船も登場します。それらと比べると、源三船は従来型の中規模船ということになるようです。乗組員が何人かなのは記されていません。
和船とは - コトバンク
         遣明船 当時の最大客船

 堺津を出港した守龍の船に、話を戻しましょう。
9月14日の辰の刻(午前八時)に堺を出港した船は、順風を得て酉の刻(午後六時)には兵庫津に着きます。翌日には「迫坂浦」に舟はたどり着きます。「迫坂浦」には、守龍は「シャクシ」と読み仮名をつけているので現在の赤穂市坂越のことのようです。ここで風雨が激しくなって、天候の回復を待つために三日間逗留しています。18日に「迫坂」を発って、その日は牛窓に停泊です。ここまでは順調な船旅でした。

瀬戸の港 坂越

ところが翌19日の午の刻(正午)、「備前比々島」の沖にさしかかったころに、海賊船が一艘接近してきます。
守龍は、その時も様子を次のように記します。
此において賊船一般来り、本船と問答す、少焉賊矢を放ち、本船衆これを欺て鏃を双べ鉄胞を放つ、賊船疵を蒙る者多く、須史にして去る、同申の刻塩飽浦に着岸して一宿に投ず
意訳変換しておくと
接近してきた賊船は、本船と「問答」をした。「問答」の内容は分かりません。おそらく通行料の金額についての交渉だろうと研究者は考えているようです。海賊が接近したときに、交渉することは船頭の重要な役目だったようです。この時には、交渉不成立で賊船は矢を放って攻撃してきました。これに対して鉄砲で応戦しています。賊船は多くの負傷者を出して撤退していきました。船は、そのまま航行を続けて申の刻(午後4時頃)に塩飽に入港します。塩飽は船頭源三の本拠港です。海賊との遭遇記事は短いものですが、ここからは瀬戸内の船旅や海賊についての重要な情報が得られるようです。

瀬戸の港 日比1
日比港 明治の国土地理院地図

まず守龍が「比々島」と表現している日比(岡山県王野市)の港です。
日比は、備前国児島の南端東寄りにある港で、半島状に突出してた先端部の小さな入江です。東北西の三方を山に囲まれ、南だけが備讃瀬戸に向かって開けています。人江の北半分が近世に塩田化され、それが現在では埋め立てられて住宅地や工場敷地となっています。本来は瓢箪型の入江であったことが地形図や絵図からうかがえます。人江の西側にはかつては遊郭もあったという古い町並みが残り、東側の丘陵上には中世城郭の跡も見られます。城主の名をとって四宮城と呼ばれるこの山城は、標高八五メートルの通称城山を本丸とし、南に向かって細長く遺構を残している。もちろん日比の港を選んで立地した城であるが、同時に城跡からは、直島諸島や備讃瀬戸を一望のもとにおさめることができる。日比の港の景観は、中世の港の姿をよく伝えています。
同じような地形的条件を持った港としては、室の五郎大夫の本拠室津、守龍や、がこのあと立ち寄ることになる備後国鞆(広島県福山市)などがあります。
瀬戸の港 室津

室津は、播磨国東部の、播磨灘に向かって突き出した小さな半島の一角に開けた港でです。三方を山に囲まれ、西側だけが海に向かって開かれています。この港について、『播磨国風上記』は、次のように記します。
「室と号るゆえは、この海、風を防ぐこと室の如し、かれ、よりて名となす」

室というのは、穴ぐらのような部屋、あるいは山腹などを掘って作った岩屋などを指します。室津の港はまさに播磨灘に面したが穴ぐらのように小さな円弧状に湾入してできた港です。室津や日比のようなタイプの港は、他のどのタイプの港よりも波静かな海面を確保できます。周囲を山に囲まれているので、どの方向からの風も防ぐことができるし、狭い出口で外海と通じているだけなので、荒い波が港に入ってくることもありません。自然条件としては、最も優れた条件を持っています。
 室津や日比の港を見て不思議に思うのは、その規模の小ささです。
今の港を見慣れた目からすると、とても小さなスペースしか確保されていないように思えます。しかし、規模の小ささがポイントだった研究者は指摘します。小さい「室」であることと、小さな半島の先端に位置していることが重要な意味を持っているというのです。それは、すぐ港の外を通っている幹線航路へのアプローチの問題です。
中世の航海者たちは、風待ち、潮待ちのために日比や室津に入港しました。逆にいえば、風や潮の状況がよくなれば、すぐに港を出て幹線航路に乗ろうと待ち構えていたわけです。「月待てば潮もかないぬ 今は漕ぎいでな」の歌がぴったりときます。奥深い入江からゆっくりと出てきて幹線航路に向かうのでは間に合いません。すばやく幹線航路に出て、待っていた潮や風に乗る必要があります。そのためには、少々手狭でも、あまり奥の深くない入江のほうが都合がよかったと研究者は考えているようです。半島の先端で、すぐ目の前に航路がある方が、潮を利用して沖に出やすいということになります。
 それを裏付ける例を探してみましょう。
牛窓や室津の近くには大規模で、ゆったりと停泊できそうな入江や湾が他にあります。例えば山陽道沿いの相生です。

相生湾と室津

ここには奥深い入江があり、東寺領でのちに南禅寺領になった矢野荘那波浦のあったところで、矢野荘の倉敷地(年貢の積出港)の役割を果たしていました。ところが瀬戸内海の幹線航路を行き来する船が立ち寄った形跡はありません。また、鞆の港の東隣は、現在は埋め立てられていますが、かつては広大な入江がありました。そこには草戸千軒などの港町がありましたが、やはり幹線航路を行き来する船舶が停泊することはなかったようです。
 ここからは中世の瀬戸内海では、奥深い湾や入江よりも小さい″室″が船頭たちの求める港の条件だったことがうかがえます。そしてそのような港には、日比のように、港を見下ろす近くの丘陵上に港に、出入りする船を監視するための山城が築かれていました。波静かな小さな入江とそれを見下ろす山城はセットになって、中世の港は構成されていたようです。

 海賊との遭遇場面に戻ります
日比の沖で塩飽の船頭守龍の舟に接近してきた海賊は、日比の四宮城の城主で、この海域の領主であった四宮氏だったと研究者は推測します。四宮氏は、戦国期には児島南部の小領主、海賊として活動し、その姿は軍記物語などに登場します。
たとえば『南海通記』には、1571(元亀二)年に日比の住人四宮隠岐守が讃岐の香西駿河守宗心を誘って児島西岸の本太城(倉敷市児島塩生)を攻めて敗れたことが記されています。この記事は、記事に混同があり、そのまま事実とうけとるわけにはいかないようですが、このころの四宮氏の姿を知る一つの手がかりにはなります。
 また、 1568年には、伊予国能島の村上武吉が家臣にあてた書状のなかに、「日比表」での軍事行動について指示しています。この年、四宮氏は海賊能島村上氏の拠点本太城を攻めて失敗し、逆に能島村上氏に逆襲を受けたようです。

守龍の船に接近してきた海賊について、もう一つ重要な点はその勢力範囲です。
海賊船が船頭たちの反撃で引き上げていった後に、守龍たちの船は塩飽に入港しています。ここで不思議に思えるのは、塩飽と日比は、それほど離れていないのです。
瀬戸の港 日比と塩飽

本島が瀬戸大橋のすぐ西側にあり、日比は直島の西側で、直線距離だと20㎞足らずです。塩飽と日比とは同じ備讃瀬戸エリアの「お隣さん」的な存在の思えます。その日比の海賊が塩飽の舟に手を出しているのです。私は村上水軍のように、塩飽衆が備讃瀬戸エリアの制海権を持ち、敵対勢力もなく安全に航行をできる環境を作っていたものと思い込んでいましたが、この史料を見る限りではそうではなかったようです。また、日比の海賊のナワバリ(支配エリア)も狭い範囲だったことがうかがえます。四宮氏と思える日比海賊は、限られた範囲の中で活動する小規模な海賊だったようです。
 以上を整理しておくと瀬戸内海には、村上氏のように広範囲で活動する有力海賊がいる一方、日比の海賊のように限られたナワバリの中で活動する、浦々の海賊とでも呼ぶべき小規模な海賊が各地にいたとしておきましょう。
海賊撃退に塩飽客船は、「鉄胞」を使用しています。
鉄胞の伝来については、1543(天文12)年に種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられたとするのが通説です。それから7年しか経っていません。高価な鉄砲を塩飽の船頭たちは所有し、それを自在に使いこなしていたことになります。本当なのでしょうか?
  宇田川武久の『鉄胞伝来』には、鉄砲伝来について次のように記されています。
①鉄胞を伝えたのはポルトガル人ではなく倭寇の首領王直である
②その鉄胞はヨーロッパ系のものではなく東南アジア系の火縄銃である
③伝来した鉄胞が戦国動乱の中でたちまち日本全国に普及したとする通説は疑問がある
として、鉄砲は次のように西国の戦国大名から次第に合戦に利用されるようになったとします。
①1549年 最初に使用したのは島津氏
②1557年頃に、毛利氏が使い始め
③1565年の合戦に大友氏が使用
1550年(天文19)年に、塩飽の源三の船が「鉄胞」を使ったとすると、これらの大名用と同時か、少し早いことになります。種子島に最も近い南九州の島津氏が、やっと合戦に鉄胞を使い始めたばかりの時に、備讃瀬戸の船頭が鉄胞を入手して船に装備していたというのは、小説としては面白い話ですが、私にはすぐには信じられません。
しかし、その「鉄胞」が火縄銃ではないとしても、海賊船の乗組員に打撃を与える強力な武器であったことは確かなようです。村上水軍のように海賊たちは「秘密兵器」を持っていたとしておきましょう。
 少し視点を変えれば、塩飽の源三は、ここでは船頭として300人を載せた客船を運行していますが、場合によっては、自ら用意した武器で海賊にもなりうる存在だったことがうかがえます。
 このような二面性というか多面性が海に生きる「海民」たちの特性だったようです。

源三の舟は、9月19日、その母港である塩飽本島に停泊しました。それが本島のどこの港だったのかは何も記していません。笠島が最有力ですがそれを確かめることはできません。
 9月14日に堺を出ていますから順調な船旅です。しかし、塩飽がゴールではありません。常客は乗り降りを繰り返しながら翌日には出港し、20日には鞆に入港しています。そして23日には安芸国厳島に着きました。源三の船は、停泊地に少しちがいはありますが、航路は、次の場合とほとんど同じことが分かります。
①平安末期に厳島参詣の旅をした高倉院の航路
②南北朝時代に西国大名への示威をかねて厳島へ出かけた足利義満の航路
③室町時代に京都に向かった朝鮮使節宋希環の一行
守龍は、このあと厳島で小船に乗り換えて安芸の「尾方」(小方、広島県大竹市)に渡り、そこからは陸路をとっています。そして周防国柱野(山口県岩国市)、同富田(周南市)をへて28日に山口に着いています。半月ばかりの旅路だったことになります。
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 守龍は山口では、彼に課せられた課題である東福寺領得地保の年貢確保のために精力的に活動します。要人である陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来しています。時あたかも、陶晴賢が主君大内義隆に対してクーデターをおこす直前でした。そのようなきな臭い空気を感じ取っていたかも知れません。
 大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。帰路の航海については、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年
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坂出市史に「廻船式目」のことが紹介されています。
廻船式目とは、「海の憲法」ともいえる海事法規で、海上運送における慣習法をまとめたものです。全国には60冊ほどが伝わっているようですが、奥書の年紀は貞応二(1123)で共通しているので、鎌倉時代前期には成立していたとされます。
  廻船式目には、海難・盗難・積荷損害などの事故への対応法が書かれています。
それが時の権力者から承認を得ながら、何度かの改変・追加などを経て室町時代後半期には、全国的に一定の共通理解と法的拘束力がもたれるようになっていきます。つまり中世以来「廻船式目」に定められた条項が遵守され、海事紛争の根拠法とされていたのです。「海の憲法」とも云われる由縁です。

 塩飽には、2つの廻船式目が伝来していたようです。そして、それらを書き写したものが各浦々の人名の家には残っています。その背景を坂出市史は、次のように指摘します。
①海路を遠国まで航海する大型廻船を所有していたこと
②諸国の廻船が海上交易のために寄港したこと
③その際に塩飽海域で海難事故・事件に巻き込まれた場合の対応法を知っておく必要があったこと。
そして、与島に伝わる船法度(廻船式目)を紹介しています。
これは塩飽寛政改革で新年寄に選任された与島岡崎家の当主次郎左衛門が、塩飽に伝わる「廻船式目」を種本にして、新たに書き写したものと研究者は考えているようです。これを見ていくことにしましょう。

タデ場 廻船式目 
 廻船式目
第1条は、難破船に関する事項です。
① 「一  寄船・流舟(難破船)は、その在所の神社・仏寺修理をなすべきこと、もしその船に乗る者おいては、舟主進退なすべきこと」

沖で難破した船が流れ着いたときの処置方が記されています。難破船は、誰の物か分からないので、近隣集落で船を解体して、寺社修理に充てることができたようです。乗組員がいれば、船主の進退を仰ぐとあります。通例では、当該乗組員の判断によると記すものが多いようです。
 第二条は「港に係留中の船が破損したり、積荷が濡れた時」のことです。
②湊(港)において繋ぎ船損ないしたる時は。その所より濡れたる物を干し、船頭に渡すべきなり。そのため帆別・碇役し湊を買たる(人港に際し支払う諸税)は、国主たりとも違乱あるべからざる事」

船を湊に係留中に、船が損傷したり、荷を濡らした場合は、現場で乾して船頭に渡せとあります。そのため、全ての権限は、船頭にあり、帆別・碇役などの津料(関税等)を支払った場合、荷物の取引に関して、その所の国主といえども勝手はできないとあります。港に係留された船の保全は、港管理者に責任があったことが分かります。
  第三条は、「(係留中の)大風時の係船の事」についてです。
③ 「一  繋ぎ船あまたこれありて大風ならば、その村よりも加勢をつかまつるは、まず風上なる船に加勢する事もつともなり。いかに風上の舟、綱碇ありといえども、風上の船流れかからば諸々の船繋ぎ止むるべからず、もし風上の舟おのれと綱を切り、風下の船に流れかかり二艘ともに損いならば、風下の船より最も風上の舟に存分これあるべき事」

 多くの船が係留されているときに強風が吹いたときには、まず風上の船に加勢せよとあります。どんなに風下の船が綱碇をしているといっても風上の船が流れてくれば全ての船をつなぎ止める事はできません。もし、風上の船の綱が切れて風下の船に流れかかり、両方とも破損したなら風下の船から風上の船に賠償させる権利(存分)があるというのです。
 「その村よりも加勢」とあるので、湊のある村では海難救助や災害防止のための出動が相互扶助として確立していたことがうかがえます。それを指揮する庄屋たちは、この慣習法を知っていないと、対応を誤ることになります。勤番所に置かれていた廻船式目を、真剣に書き写すリーダーたちの姿が浮かんできます。
   第6条は、船の盗難に関する事です。
⑥舟を盗まれ、本は賊船に取られ、北国の舟は西国にこれあり、西国の舟は北国にこれありといえども、この船を買取り廻船をすべからざる事、もし、荷物を積廻す船はこれあるにおいては、船主見合いにこの舟を取返し、船頭も迷惑たるべき事、かわりに付たる沙汰はたとい親子の間にて深々たるべき事

船が盗まれることもあったようです。盗まれた船と分かった時には、日本中のどこにあっても持ち主に返却すること、その船が何回も転売されていて所有権は無効となる。また、盗船の雇われ船頭も盗船であることを知らなくても免責にならない。

このように海難事故や船をめぐる事件についての対応のために、中世にはこんな慣習法ができていたこと自体が驚きです。しかも、瀬戸内海というエリアだけでなく日本列島全体で遵守されていたというのですから。逆に考えると、海上交易(廻船)活動が広範囲に鎌倉時代には行われていたことにもなります。

千石船

さて、今回私が一番気になったのが、次の第7・8条です。 第7条は、「借船」に関する規定です。
⑦ 「借舟をし、もし、その舟損したるといえども、借りて弁えざるべき事、但し、舟床をすめす舟主の分別無き所を押さえて出船し、その舟損したる時は借り手の弁えにたるベき事」
船のレンタルとその運用について、荷主などが契約して借船を運航する場合、船の損害は、船主が責任を負います。また、荷主が、船主に対して契約料を未払いや無断出港した場合などは、借り手の責任となったようです。
 塩飽廻船は、古来より前払いの運賃積みで運行されてきました。その根拠となったのがこの項目だと研究者は考えているようです。
第8条は、船虫喰についてです。
 私は「船虫喰」とは、海岸でゴキブリのように這い回るフナムシと思っていました。フナムシとフナムシクイはまったく別種のようです。
タデ場 フナクイムシ3
フナムシクイの着床
フナクイムシは水中の船木に穴を開けてそこに住みつき、船材を穴だらけにしてしまいます。世界中の木造船が苦しめられてきた船の天敵です。ウキで検索すると、次のように記されています。
「フナクイムシ(船喰虫)は、フナクイムシ科 (Teredinidae) に属する二枚貝類の総称。ムシとついているが、実際は貝の仲間である。英語ではshipworm、ドイツ語ではSchiffsbohrmuschelnあるいはPfahlwurmer、フランス語ではtaret commun、台湾では船蛆蛤と呼ばれる」

  これを放置しておくと船底は穴だらけになって浸水してきます。船の耐久年数も縮めます。
タデ場 フナクイムシ1

この対応策としてとられたのが船タデです。ウキは、次のように記します。
 
船をタデ場に揚げ、藁・苫などを燃やして船底を熱し、船板中の船食虫を殺すとともにしみ込んだ水分を取り去ること。船の保ちをよくし、船足を軽くするために行なう。「牛島諸事覚」

火を燃やす作業所を「焚場」(たで場)と呼んだと云います
タデ場 フナクイムシ2
木材に巣くったフナクイムシの一種
それでは廻船式目に船虫食いが登場する第8条を見てみましょう

⑧ 「一  借船をし、その船虫喰いたる時は、借り手損たるべき事、但し、舟付きこれあるにおいては借り手気遣及ばざる事、借り手油断においては弁えあるべき事」

意訳変換しておくと

船をレンタルして運航していた際に、メンテナンス不備で虫食いの被害で損害を与えたときには、借手の責任となる。ただし、専門のメンテナンス水夫が同乗の場合は、この限りではない。レンタル側のお雇い船頭が油断して虫食いが発生した場合も、同様に責任がある。

 先ほど見たように廻船の虫食いは、深刻な場合は廃船になることもあります。そのためには普段からの注意と、定期的な整備が必要でした。「舟付きこれあるにおいては」とあるのので、メンテナンス専用の水夫が同乗する場合もあったようです。

条文に明記されているのですから、船タデを定期的に行い廻船を良好な状態で維持管理し、長持ちさせることは、廻船関係者にとっては常識であったことが分かります。また、船底に付着する海藻や貝類も船足を遅くする元凶なので、これを取り除く作業も同時に行われました。
 それでは船タデ作業は、どこで行われたのでしょうか?
   備讃瀬戸を挟んだ備後の鞆の浦からはタデ場遺構が確認されています。調査報告書は次のように述べています。
タデ場 鞆の浦2
石畳を敷いたようにみえるタデ場跡(鞆の浦)

①石敷され,一辺が50~100cm程度の上面が平坦な板状の石材で作られている。
②その範囲は約23×13m。石材の一部には,石を割ったときの跡(矢穴痕)が残る。
③岩盤は,自然の岩盤とは異なり,全体的にほぼ平坦であり人工的に削平したもの
④平坦に削平された岩盤と,石敷や石列の設置で,全体として平坦な「場」ができあがっている。
タデ場 鞆の浦1

また文書にも、タデ場を裏付ける次のような文書があるようです。
・文政10年(1827年)の河内屋文書には,時代と共に船の規模が大きくなり,焚場が狭くなってきたため,敷石したり岩・石を削平して浜全体で大船10艘の焚船ができるようにしたこと

この記述は、先ほど見た遺構の「石敷・石列・加工の可能性のある岩盤」と一致します。
・近世の鞆の町並みを記録した2枚の絵図面〔元禄~宝永年間(1688~1710年)沼名前神社蔵及び文化年間(1804~1817年)と推定されるもの・〕には両方とも,同じ場所に“焚場”あるいは“タデ場”の記載があること。

このタデ場(焚場)は大正時代の始めまでは、多くの船に利用されていたようです。当時は、千石船が50杯/月、300~500石の船が130杯/月も利用する瀬戸内では、最大級の焚場のひとつだったようです。江戸時代の港町に、タデ場が残っている所は今ではほとんどありません。潮が引くと石畳造りのタデ場が現れます。

kaisenn廻船5

 以前にお話ししましたが、タクマラカン砂漠のオアシスはキャラバン隊を惹きつけるために、娯楽施設やサービス施設などの集客施設を競い合うように整備します。瀬戸の港町もただの風待ち・潮待ち湊から、船乗り相手の花街や、芝居小屋などを設置し廻船入港を誘います。船乗りたちにとって入港するかどうかの決め手のひとつがタデ場の有無でした。船タデは定期的にやらないと、船に損害を与え船頭は賠償責任を問われることもあったことは廻船式目で見たとおりです。また、船底に着いたフジツボやカキなどの貝殻や海藻なども落とさないと船足が遅くなり、船の能力を充分に発揮できなくなります。日本海へ出て行く北前船の船頭にとって、船を万全な状態にしておきたかったはずです。
 船頭に人気があった船タデ場のひとつが、鞆にあったことはみてきました。ところが、鞆の船タデ場の管理者たちがライバルししていたのが塩飽与島のタデ場です。わざわざ与島のタデ場を取り上げて、自分たちのタデ場の方が古くからあり、処理能力や腕もよく、経費も安いと記します(鞆浦河内屋文書)。ここからは、鞆と与島は、どちらもタデ場発祥の地として競い合っていたことがうかがえます。同時に、近世瀬戸内の同業者の間では、船タデの由来・由緒が共有されていたことも分かります。ちなみに与島の小地名に「たてば」というところがあるようです。これは、もともとは「タデ場」のあったところなのでしょう。

1 塩飽諸島

瀬戸内海の干満差は、船タデ場に適していたようです。
瀬戸内海の平均干満差は約3~4mで、一日に2回干満があります。ちなみに東北から日本海方面では、千満差は、30㎝しかないそうです。また九州の有明海などは、干満差が6mを超えます。このため日本海岸では、船の下に入ることも出来ません。一方有明浜などでは磯や浜に船台を設けても、高すぎて船底に届きません。干満差3mというのは、作業にはちょうどいいようです。

坂出市史を参考に、船タデの作業開始を時間順に並べて見ましょう。
①満潮時にタデ場に廻船を入渠させる。
②船台用の丸太(輪木)を船底に差し入れ組み立てる。
③干潮とともに廻船は船台に載り、船底が現れる。
④船底のフジツボや海藻などを削ぎ取りる
⑤タデ草などの燃材を燃やして船底表層を焦がす。
⑥船食虫が巣喰っていたり、船材が含水している場合もあるので、防虫・防除作業や槙肌(皮)を使って船材の継ぎ目や合わせ日に埋め込む。
⑦同時に、漏水(アカの道)対策や補修なども行う。

タデ場での作業は、通常は「満潮―干潮―満潮」の1サイクルで終了です。しかし、船底の状態によつては2、3回繰り返すこともあったようです。この間船乗りたちは、船宿で女を揚げてドンチャン騒ぎです。御手洗の船宿の記録からは、船タデ作業が長引いているという口実で、長逗留する廻船もあったことが分かります。「好きなおなごのおる港に、長い間おりたい」というのが水夫たちの人情です。
 船の整備・補修技術や造船技術も高く、船タデ場もあり、馴染みの女もいる、そんな港町は自然と廻船が集まって繁盛するようになります。そのためには港町は「経営努力」と船乗りたちへのサービスは怠ることができません。近世後期の港町の繁栄と整備は、このようなベクトルの力で実現したものだと私は考えています。
タデ場 鞆の浦3
近世の造船所
  「塩飽水軍」は存在しなかった、あったのは「塩飽廻船」と前回に記しました。
塩飽衆は、武力装置としての水軍力よりも、航海術を駆使し、人やモノを各地に海上輸送することを得意にしていたのです。加えて塩飽の廻船の強みは、船舶を維持管理する能力の高さではないかと坂出市史は指摘します。そのひとつが塩飽のタデ場であったのではないでしょうか。塩飽のタデ場は鞆の浦と同じように諸国の廻船関係者から高い評価を得て、大型廻船の出入りが絶えなかったのです。それは、塩飽に安定した収入源と、船大工たちの雇用の場を作り出していました。塩飽繁栄のささえのひとつでした。

最後に現役のタデ場を見ておきましょう。
タデ場 鞆の浦4

鞆の浦の港の中の光景です。漁船には今も木造船が残っています。雁木を利用して、船を揚げて「タデ場」として利用しています。
タデ場 鞆の浦5

木造船時代は、どの漁村でも船タデが行われていました。
丸太のコロで木造船を浜に引き上げ、船底に付着している海藻や貝類をかき落とし、松葉や杉葉やススキをタデ草(船タデの燃料)として燃やし船底を焼きます。その際、船の船霊さまは船タデをすると熱いのでしばらく船から離れていただく儀式をします。タデ草を動かす棒の事をタデ棒と呼びます。船タデが終わるとタデ棒で船底を3回叩きます。それは離れてもらっていた船霊さまに船タデが終了したことを知らせ、船にお帰りいただく合図だったと伝わります。ちなみに鞆の浦では、タデ草の代わりにバーナーで燻っていました。現代版の「タデ草」です。形を変えて、漁村ではタデ場が残っているようです。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献   坂出市史 中世編  塩飽廻船と廻船式目 123P



    前回は瀬戸内海船の石船と砂舟の歴史を見てみました。今回は、石炭船を見ていきたいと思います。テキストは  宮本常一著作集49 塩の民俗と生活214P 石炭と石炭船です。
1石炭運搬船

 日本列島では塩を海の潮からつくってきました。その行程の最後には煮詰めるという手順が欠かせません。そのために燃料としての大量の木材が必要とされ、塩田付きの汐木(塩木)山が確保されるようになります。しかし、塩の生産が増えれば増えるほど、消費する木材も増え、塩木山ははげ山化していくことになります。こうして、近世になると瀬戸内海周辺の塩田地帯では、燃料用の木材不足に悩まされるようになります。
 その解決法のひとつが石炭の利用です。
今回は、石炭がどのように塩田で用いられるようになったのか、またその輸送はどのように行われたかを見ていくことにします。
石炭はいつどこで使われるようになったのでしょうか。
 正保二年(1645)に板行された『毛吹草』という書物の長門の項に「舟木石炭」という言葉がでてきます。この書物は寛永一五年(1638)には成立していたようですから、山口県厚狭郡船木(宇部市)周辺では、そのころから石炭の採掘がはじまっていたことがうかがえます。舟木で採掘された石炭は、小野田の赤崎周辺に運ばれ塩焼きに用いられていたようです。それは小野田市の赤崎神社の境内に、約350年前の石炭ガラの堆積があることから分かります。赤崎神社の北の竜王町は、現在は住宅地になっていますが、もとは塩浜だった所です。このあたりの海岸には、百姓小浜とよばれる小さい揚浜塩田がたくさんあり、赤崎神社の北側もその一つであったようです。
 宇部赤崎神社

ここからは宇部周辺では、製塩のために石炭を使うことは17世紀に始まってたことが分かります。しかし、なぜか周辺には広がってゆかなかったようです。その理由はよくかっていません。
塩田での石炭使用の普及は
 明和九年(1771)三月、安芸厳島に安芸・備後・伊予・周防・長門の五カ国の塩田業者が集まって、塩の生産過剰に対して「休浜法」の協議をしています。その際に
「塩並二石炭相場、時々無怠通合候事」

という一条があります。塩と石炭の相場については、怠りなく互いに連絡しあうという合意内容です。ここからは、18世紀後半には石炭が燃料として使用されていたことがわかります。その石炭は、多くは船木・小野田・宇部などから運ばれてきたものでした。百年かけて、塩田での石炭使用が広がっていったことがうかがえます。
北九州でも石炭が燃料として着目されるようになったのは17世紀に入ってからです。
元禄四年(1669)のケンペルの『江戸参府旅行日記』に、黒崎(北九州市八幡西区)で見分したことを次のように記します。
「数力所の石炭坑あり(案内の藩役人が)我等に甚だ珍奇なるもの、注目すべきものとし教えてくれた」
ここからは、17世紀後半に北九州では石炭採掘が行われ市場に出回っていたことが分かります。
  12年後に完成した『筑前国続風土記』(貝原益軒)には、次のように記されています。
「燃石、燃 遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像の処々の山野に有之、村民是を掘りて薪に代用す。遠賀、鞍手殊に多し。頃年糟屋の山にてもほる」
意訳変換しておくと
燃石(石炭)は遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像などの山野にあって、村民はこれを掘って薪の代用にしている。なかでも遠賀、鞍手は産出量が特に多い。近頃は糟屋でも採掘するようになった。

とあって、17世紀後半には盛んに石炭を掘るようになっていたことが分かります。筑前の隣の豊前地方でも石炭はそのころ掘られていましたが、それが製塩のため利用されるようになったのは、明和年間になってからのようです。

 このような中で石炭利用の先進地域である筑前の遠賀郡若松(北九州市若松区)の庄屋和田佐平は、塩焼竃の下部に鉄網を敷いて石炭を焚くと火力がつよく経済的であることに気づきます。これを長州の塩田主に売り込もうと石炭を船に積んで三田尻に持って来ます。彼は、宇部地区では石炭を製塩燃料に使っていることを知っていたのかもしれません。三田尻では石炭の使用法をまだ知りませんでした。そのため異国者の佐平のセールスを相手にする者がなく、商談は成立しません。佐平はやむなく石炭を海に捨てて帰国したといわれます。これも宇部以外では、石炭を製塩には使っていなかったことを示すことを裏付ける話です。

1防府・三田尻塩田
1928年国土地理院地図
 三田尻の浜主たちが佐平のすすめを思い出したのか、豊前の塩浜が石炭を使用していることを聞いて、塩竃の築造を学び、石炭を試用してるのは安永七年(1778)になってからです。その結果、その効果の大きいことに驚き、すぐに筑前から石炭を買い付けを始めます。ここからも、石炭の使用が広がるのは18世紀後半になってからということが裏付けられます。こうして石炭の使用エリアは西から東に広がっていきます。
 三田尻の帆船は、筑紫の遠賀川口につめかけて瀬戸内海沿岸に運ぶようになります。
天保八年( 1837)には6880万斤(4,1万トン)が採掘され、地元消費は60万斤だけです。そのほとんどが他国に「輸出」されていたようです。そのうち最大の購入所は、三田尻塩浜で4565万斤という数字が残っています。筑紫の石炭産出量の約5/7は、三田尻の塩田主が買っています。三田尻が筑紫の最大のお得意さんでした。

  石炭需要の高まりを他の地域も指をくわえて見ているはずもありません。
1宇部市 居能
1928年国土地理院地図 宇部線がかつての海岸線
各地で炭鉱が開かれるようになります。その筆頭が、宇部小野田地区です。宇部は今では海を大きく埋め立て大きな臨海工業都市になっていますが、昔は海岸に松原が並ぶ光景が続いていました。その松原の外側は砂浜、内側は水田です。石炭が掘られたのは水田の東の丘陵地②です。そこに竪坑を掘って、そこから掘り出していました。掘り出された石炭は、ザルに入れて天粋棒で担いで海岸まで運ばれます。それが船に積まれて各地の塩田に運ばれていきました。一荷を一振とよび、 一振一六貫すなわち100斤という計算になります。
明治になると炭坑から海岸までレールが敷かれ、炭車に石炭を積んで後を押して海岸まで運び出されるようになります。海岸には何十というほど桟橋がならんでいて、炭車を桟橋の先まで押していき、そこに横着けにしている船にバラ積みします。その船は普通のイサバやバイセンなどとは違って、船べりには垣板がなく、丸太をふたつに割ったものを打ちつけて丈夫に作ってあります。普通の帆船は米を積むのが主で、何石積みというように容量で大きさを示していました。その中で最も大きいものが千石船でした。
それに対して石炭を積む船は、土船または胴船とよばれました。
容量ではなく重量積み、すなわち斤で大きさをはかったのです。二〇万斤も積める船は大きいほうでした。土船というのは土や砂を積む船のことです。17世紀に入ると、内海沿岸では埋立てや干拓が相次いで行なわれ、また塩田も多く築造されるようになります。埋立てのためには、たくさんの土を必要とします。その土は背後の山を切り崩して用いることもありましたが、背後が平地なときには埋立用の土が手に入りにくくなります。そこで近くの島や岬などの土を切り崩して、船に積んで運んでくるようになります。ここで活躍するのが土船です。現在風にいうなら「海のダンプカー」といった所でしょうか・・・
土船は瀬戸内海のいろいろな所にいたようです。
特に倉橋島・能美島に多かったようです。その土船も石炭を積むようになっていきます。宇部市の①居能は、もと北前船の多いところでした。居能の船は日本海岸を山形・秋田方面まで行って米を積んで帰り、下関の亀山の下にずらりと並んでいる米蔵にそれを納めました。彼らの役割はここまでです。いったん米倉に入れられた米は、時期をうかがって大阪・兵庫へ運び出されていきます。そのときには、瀬戸内専用の別船が担当していました。居能など瀬戸内海の千石船は一時は、北前航路専用で運用されていた時期があるようです。しかし、18世紀後半になると近畿や瀬戸内海の北前船は、日本海エリアの船に押されて撤退する船が多くなります。いわば活動場所を失ったのです。
1石炭運搬船

 宇部での石炭の産出が増えるにつれて、北前船に乗つていた人たちが石炭船に乗替えるようになります。
彼らは北前船の経験から土船の規模をを大きくして、より多くの石炭を積めるタイプの船を作ります。胴の張った船だったので胴船と呼ばれたようです。居能の北前船やイサバが胴船に切り替えられるようになったのは明治30年(1871)ごろでした。
 埋立てが進むにつれて、宇部には⑥新川という新しい港が造られました。ここには千トンの船も着岸可能だったので、石炭の荷役はここで行われるようになります。そうすると居能の船も新川を中心にして活躍することになります。石炭需要はうなぎ登りですから船主として新造船を投入したいところです。しかし、船乗りがそろいません。居能の人は代々船乗りですからみな水夫として働きます。それでも足りません。そこで宇部周辺の者を水夫として雇おうとしますが、農民は水夫には向かなかったようです。水夫不足という課題を抱えることになります。
 石炭の産出は年々増加し、塩田からの石炭需要も増えます。しかし、船員は確保できない。そうなると次に考えることは、船を大きくして一度に運べる量を増やすことです。いまの海運業界の対応と似ています。
1スクーナー型帆船

こうして明治40年(1907)ごろから腰の高いスクーナー型帆船が造られるようになります。これは黒船または合の子船とも呼ばれたようです。石炭を積むために造られた船です。土船は腰が低く、風浪にも弱く沈没の危険性も高かったようですが、この点でもスクーナー型帆船は改良されています。
土船は「斤積み=重量計測」でしたが、スクーナー型帆船になるとトン積み計算になります。
石炭は炭坑から浜までかごで運ばれ、100斤を一振として取り扱ってきました。それがさきほど述べたように日清戦争前後の明治27年頃に、王子炭破塙が炭坑から海岸までレールを敷いて炭車で運ぶようになったときに、炭車の箱を500斤入りにします。これを半トンとして計算するようになります。つまり「500斤=80貫」、「1トン=270貫」から、「半トン=135貫」になります。500斤を半トンとして計算すると、実際には半トンは55貫も軽いことになりますが、当時はそれでいくことになったようです。こうして炭車の石炭をいくつ積むかで、船の大きさは測られるようになります。 10箱ならば5トン、 100箱なら50トンということです。そして明治40年ごろになると、炭箱も大きさを一定にして、四箱で1トンに標準化されます。
 炭車が利用されることによって、積み降ろしも操作も楽になります。スクーナー型帆船の登場で船の大型化と安全性・操作性が高まると、外部からの新規参入者も出てくるようになります。このときに採用された船員は、島根県出身者が多かったようです。こうして大正時代になると、宇部には100隻をこえる石炭船が出現するようになります。

 宇部には、瀬戸内海各地から石炭を積みに船がやってくるようになります。
それは阿知須・岐波[宇部市]、三田尻、上関の白井田、広島県の能美・倉橋が多かったようです。前回もお話ししたように能美・倉橋は土船・石船の多いところでした。山田洋次監督の「故郷」の陰の主役は石船でした。広島湾周辺の埋立地で働いていた石船の中には、石炭船に転身するものが出てきます。それを真似て、広島県の幸崎・音戸や、愛媛県の伯方や今治の波方からも石炭船に転業した船がやってくるようになります。

 石炭掘りは、たいへんもうかる仕事だったようです。
初めは掘った石炭を共同組合が集めて売っていました。それを船を持っている者が買いとって、それぞれの塩田へ持って行って売るという訪問販売スタイルでした。買ってくれる塩田まで船で運んでいきました。注文を受けての輸送ではないので買い手がつかないと、斎田(徳島県鳴門市)まで行ったこともあるようです。ここまでくると投げ売りで安くても売ってしまうこともあったと口伝は伝えます。
石炭売りは訪問販売でしたので、すべて現金取引きでした。
石炭も採掘方法が進み産炭が多くなると、炭坑自身も資金力をつけて、自前の船を持って売り歩くことも多くなります。これを直売と呼びます。売りさきは石炭問屋が多かったようですが、塩田の浜主のところへ売ることもでてきます。こんな状態が明治30年ごろまで続きます。日清戦争が終わり日本の産業革命が本格化する明治30年をすぎると石炭大型船(黒船)は、大阪の工場へ向かう船が多くなり、塩田の比率は低下していきます。その中で、小型の土船型船の多くは、それまで通り塩田へ石炭を売って瀬戸内海を回っていました。石炭の流通路が大きく変わりつつあったのです。
 こうして昭和になると瀬戸内海には石炭を満載した船が、西から東へと連なるようにして運行されるようになるのです。その寄港地として、大崎下島の御手洗の花街は輝き続けます。

以上をまとめておくと
①石炭は17世紀に宇部周辺の塩田で使用されるようになった
②これが周辺に拡大していくのは18世紀後半になってからのこと
③最初は石炭を買い取った石炭船が瀬戸内海の塩田主を訪ねて売りさばく訪問販売で現金支払いだった
④次第に、各地の石船や土船が石炭船に転業し、宇部に石炭の買い出しに訪れるようになる
⑤明治になると千石船から石炭船に乗り換える水夫が増えるなど、実入りのいい仕事であった。
⑥しかし、当時の船乗りは「特殊技能職」で人手が揃わず、資本力のある船は大型化した。
⑦日清戦争後の第2次産業革命の進行は石炭需要を大幅に増大させ、京阪工業地帯へ石炭を運ぶ船は機帆船と成り大型化した。
⑧御手洗などの色街の最大のお得意さんは、石炭船の船乗りであった。
⑨小型の土船は相変わらず地元の塩田へ宇部の石炭を運び続けた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     宮本常一著作集49 塩の民俗と生活214P 石炭と石炭船
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山田洋次・名作映画DVDマガジン 2013年4/2号 【付録】 「故郷」復刻版ポスター 講談社 本/雑誌 - Neowing

1972年公開の山田洋次監督「故郷」は、瀬戸内海の倉橋島で石船で生計を立てていた夫婦が工業化の波の中で、島での生活を諦めて故郷を捨てる決断をするまでを描いた作品でした。見終わった後に心にずっしりとしたものが残った記憶が今でもあります。この映画の影の主役は「石船」でもありました。
塩田 石船
映画「故郷」の蔭の主役 石船
船が石を運ぶ、海のダンプカーのような役割を果たし、それが夫婦で運営されていることも印象深いことでした。瀬戸内海の石舟の歴史について、知りたいなとかねてから思っていたのですが宮本常一の著作集を読んでいると出会うことができました。今回は読書メモ代わりに瀬戸内海の石舟を見ていきます。テキストは宮本常一著作集49 塩の民俗と生活221P 石船・砂船です。
塩田 石垣
波止浜塩田の堤防石垣と雁木
 日本で石垣が盛んに築かれるようになったのは、城郭の築造が盛んになる中世末からのようです。
この時代の石垣の多くは、穴太衆が積む石垣のように大きな石の間に小さい石をはさんだものです。 ところが、近世になって海岸埋立てのための石垣や波止(防波堤)が築かれるようになると、それでは波が小さな石をぬきとって石垣を崩していきました。そのために大きい石のみを積み重ね、その石のからみあいによって破壊されることを防ぐようにするようになります。そのために使われるようになるのが花崗岩です。

瀬戸内海は1300年前には火山の密集地帯で、活発な火山活動を行っていましたから花崗岩は各地に分布しています。東から見ても、兵庫県男家島・西ノ島、香川県小豆島・豊島・庵治町、岡山県大島、香川県櫃石島・与島・小与島・広島、岡山県北木島・白石島、愛媛県越智大島、広島県倉橋島・能美島、山口県浮島・黒髪島などと東西に並びます。
塩田石の採石場 北木島
北木島の採石場跡(岡山県笠岡市)
 小豆島は大坂城の石垣の石を出したところといわれ有名です。しかし、周辺の島々を訪ねて歩いていると各大名の石切場として大阪城に石を出したという島がたくさんあります。当然、採石場のあるところには石船が多かったことは家島をみても分かります。石船というのは石を積むのに適した造りの船で、頑丈でした。船底を浅くして石の積みおろしに便利なように造り、船べりが高くはありませんから、波には弱かったようです。映画「故郷」で活躍していた石船も、江戸時代からの石船の延長線にあるようです。
塩田 故郷2
荷を下ろすときには船体を大きく傾けて滑り落とす石船
  江戸時代の海岸の埋立ての手順を見ておきましょう
①遠浅地形の石垣を築こうとするところへ捨石をする。
②届石を海中に投げ捨て、千潮のときにはその石群が水面へ出るようにする。
③するとその石の周囲に砂が集ってきて、州ができる。
④そして捨石群が列に置かれていれば自然に長い州ができ、そこへ石垣をついていく
⑤最後は干潮時でも干上がらぬ所が出てきます。そこを残して石垣を積み上げ、大潮の干上がりのとき、せきとめをする。
塩田復元 宇多津1
宇多津の復元塩田

ここからは置石をポイントに並べていくことがポイントであることが分かります。また、石垣を組む作業が出来るのは干潮の限られた時間だけです。そのため塩田のような大きな干拓を行なうときには10年以上もかかることがあったようです。
  映画「故郷」の舞台となった広島県能美島にも石船が昔から多かったと宮本常一は指摘します。
小型のものは、大黒神島から屑石を主として広島湾岸の埋立地の捨石として運んでいました。この島には自然のままの屑石が多く、それをかき集めては船に積んで運び、帰りにはその地の塵芥をもらい受けて持ち帰り、これを堆肥にして畑に入れたといいます。映画でも出てきましたが、資本力のある家は、船を大型化していきます。そして、石を運ぶよりも、宇部や九州から石炭を塩田へ運ぶようなります。これは大崎や油良の石船も同じて、石船の多くが石炭運搬船に変わっていったようです。
塩田 故郷石船3

  瀬戸内海の石船や石工は、塩田築造にも大きく関わっています。
広島県生口島南岸にはかつては小さい入浜塩田が多くありました。その塩田の石垣は越智大島からやってきた石工によって築かれたものが多く、石も大島から船で運んだきた伝えられます。そして、そのまま定着し塩田経営者になった者も多かったと云うのです。塩田の石垣作りを依頼されてやってきて、傍らに自分の塩田を作って塩田主に変身したということになります。

生口島には、砂船乗りが多かったようです。
干拓地を作るのなら土を運びますが、塩田の場合には砂を多く運ぶことになります。この島では土船といわず砂船と呼んでいたこともそれを裏付けます。明治時代には300隻をこえる砂船がいたとされます。船は大きいものではなく、石船をさらに小さくしたようなもので、たいてい夫婦で乗っていたようです。ここにも、昭和の石船につながる姿が見えてきます。
塩田復元 宇多津2
砂が敷かれた塩田 宇多津

 塩田築造が遅くまで行われたのは生産条件がよかった讃岐です。
讃岐を稼ぎ場にしていた砂船の船頭は次のように回顧しています
石垣の築造が進むと、次には塩田に入れる砂を運ぶ。粗い砂はどこの砂浜のものを採ってもよかった。塩田の近くの場所で、砂がとれる所に冥加金をおさめて船へ砂を運び込む。築造地へ行って、その砂を田面にまいてゆく。船から陸へあゆみの板をかけ、砂を皿籠に入れて天粋棒で担いで運ぶ。荷揚げしてしまうと、また砂を採りにいく。満潮時でないと船を塩浜の中へ乗り入れることができないので、稼ぎの時間は限られていて、毎日砂をあげる時間が違っていたのが辛かった。
 粗妙をまき終わって粘土を入れ、その上に目の細かい砂をまく。これはどこの砂でもいいものではなかった。愛媛県の新居郡の浜まで採りにいかねばならなかった。新居郡で手に入らないと大分県の海部郡の海岸にも採りに行った。

  砂船の多かったのは生口島の南側ばかりでなく、生口島の東南の生名島や徳島県の撫養にも多かったようです。
大正時代になると、塩田築造はほとんどなくなり、砂を運ぶ仕事がなくなります。
仕事場をなくした船は貨物運搬に転ずるものが多かったようです。しかし、中には大阪付近の川ざらいの仕事に携わる者も出てきます。川底の砂をすくいあげて運ぶのです。いわゆる河川改修工事にあたるのでしょうか。
 大正12年(1923)の東京震災の後は、東京から仕事が舞い込み、焼跡の瓦礫を深川付近の低地埋立てのために運びます。これをきっかけにして瀬戸内海から東京に進出した者が多く現れます。彼らは船を家として働く家船生活で、子供たちも親と共に船で生活するようになります。瓦礫運搬の終わった後は、利根川の改修工事が舞い込みます。このようにして隅田川を根城にしていた水上生活者は、瀬戸内海から出かけて行った砂舟業者が多かったようです。
 戦後、陸上ではトラック輸送によって土が運ばれるようになり、水上では浚渫船が活躍するようにると、砂船や土船は隅田川から姿を消すことになります。
 その後、臨海工業地帯の造成のための大規模な埋立工事が行われるようになります。しかし、ここには瀬戸内海の砂船には登場の機会はありませんでした。大型化されシステム化された企業の活躍の場となっていったのです。
 映画「故郷」は「人類の進歩と調和」を掲げた万博を終え、「大きいことはいいことだ」とCMが歌いあげていた1970年代前半の日本を見事に切り抜いて見せてくれます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献
 宮本常一著作集49 塩の民俗と生活221P 石船・砂船

弘前藩では西回り航路が開けるまでは、輸送方法がなく「商品価値」なく山林資源は温存されてきました。
 それに目を付けたのが塩飽の丸尾氏です。丸尾氏は弘前藩と木材の独占契約を結び、船で大坂や江戸に運ぶという新事業を興します。今回は、その過程を追ってみたいと思います。テキストは「丸亀市史896P 近世前期に見る塩飽廻船の動き」です。
廻船

まず近世初頭の塩飽衆の置かれた状況を振り返っておきましょう。
16世紀後半に信長が航行特権を与えたのを契機に塩飽は特別な存在になっていきます。秀吉は650人の水夫達の動員の代償として1250石を与え、その租税免除や、自治を許す破格の待遇を与えます。

3塩飽 朱印状3人分

 これは徳川幕府にも引き継がれ、塩飽は御用船方として城米の輸送や城普請の資材運搬、役人の送迎を一手に引き受けることになります。河村瑞賢が西回り航路開設を行った際には、その手足と成って活動しました。新井白石は「塩飽の船は完堅精好。郷民は淳朴」と高く評価しています。巧みな操船術に加え、船造りの技術や温和な気風も塩飽の声価を高めたのでしょう。
 戦国時代に各地で活躍した海賊衆(海の武士)たちの中で、塩飽衆が得た条件は破格のものであったことは以前にお話ししました。それは、芸予諸島の村上水軍の末裔達が辿った道と比べるとよく分かります。
横町利郎の岡目八目

 川村瑞賢は、城米船の運行について、次のように幕府に提言しています
①城米船は幕府が直接雇って運賃を支払う官船とすること
②その船は北国・山陰方面の航行に慣れた讃岐の塩飽、備前の日比浦、摂津の伝法・河辺などの船を雇う
 この提案は採用され、塩飽廻船の多くが城米御用船として幕府に直接雇われ西廻り航路に従事することになりました。これは塩飽衆が、幕府お抱えの廻船集団になったことを意味します。全国に散らばる天領の年貢米(城米)の大坂・江戸への輸送権を得たのです。そして、諸藩もこれに「右へなれい」と従います。年貢米輸送のために塩飽の船は、全国の各地に姿を見せるようになります。
 こうして塩飽は採石には船472隻、船乗り3460人で、日本列島を縦横無尽に駆け巡り、塩飽は一大海運王国を築くことになります。このような活躍が塩飽の島々に大きな富をもたらし、大舟持ちを何軒も登場させることになります。塩飽廻船の中には、城米だけでなくその他の商品の独占権を得て、商圏を拡大しようとする者も現れます。
それが丸尾氏です。丸尾氏の弘前藩での木材産業への参入を見ていきます。 
寛文十二(1671)年以後、塩飽廻船は城米輸送を任務として運送業に従事し、成長していました。そのことが「江戸登御用材廻船日記」の記事からも裏付けられます。
元禄四年(1691)6月「大坂御雇い船の船頭塩飽作右衛門と中す者の船五月二十八日の大風にて渡鹿領塩戸村二て破損」といういった塩飽の船頭が米の輸送に従事していて大風で難破したこと
元禄五年4月25日に塩飽某という船頭の船が八艘難船したことを記したこと、
元禄14年5月5日には、「一同八百石積敦賀着 塩飽立石徳兵衛」と塩飽船が敦賀に着いたこと。
このように塩飽船の米輸送の記事がみられます。
ここからは塩飽廻船が敦賀や日本海側でも活躍していたことが分かります。弘前藩も塩飽廻船が城米を扱うお得意さんでした。そのために塩飽船は弘前藩の深浦にもやってきました。そこで見たのが周辺に残された豊かな森林資源です。ここには良質なツキ(ケヤキ)やカツラなどの樹種に恵まれた木々が豊富にありました。
塩飽と弘前藩2

 元禄二(1689)年に塩飽の船頭八左衛間が、翌年から材木を運送したい旨を前金を添えて、津軽藩材木役人に願い出ます。こうして、塩飽船による木材の積出し・輸送が始まります。元禄九(1686)年になると塩飽牛島の丸尾与四兵衛が登場してきます。彼は弘前の商人藪屋儀右衛門と連名で次のような願書を蟹田町奉行へ提出ます。
「私ども当地蟹田え十二ケ年以来御払い材木下され買い請け売り買い仕り候、 (中略) 蟹田御材木御入付銀壱ケ年二五拾貫目宛、当子ノ年より酉ノ年迄拾ケ年の間、年々山仕中え仰せ付けられ(中略) 御定め直段残らず拙者買い請け候様に成し下され度存じ奉り候」
意訳変換しておくと
「私どもは当地蟹田へ参りまして十二年に渡って、御払材木を買請けて参りました(中略)
蟹田御材木について銀壱ケ年25貫目を毎年お納めしますので、今年から10年間、材木の買付を独占的に行う事を仰せ付けいただけないでしょうか(中略) そうすれば材木はすべて拙者の方で買い請けいたします。
内容を確認しておくと
これまでの実績を踏まえて、入付銀を出すので材木の買請けを独占させてくれという内容です。そのために、材木の山出し費用はすべて負担し、50貫目を奉行に差し出すといった条件を提示しています。さらに、江戸の商人よりの御用金上納のこと、去年の不作時に3000俵の米を藩のために調達したことなどこれまでの業績を挙げ、材木の切り出し候補の山として四か所の留山とすることを求めています。
 この願書は受理されます。翌年の元禄十(1697)年4月には、塩飽の船頭丸尾善四郎が今別湊にやって来て材木を積み込んでいます。元禄十一(1698)年6月には
「江戸廻舟米材木積み登し候、舟頭筑前久左衛間、塩飽古兵衛二廻状二通相調え、勘定奉行笹森治左衛門方えこれを遣わす」

とありますので、その後も、丸尾家による木材積み出しが行われていたことが分かります。 
元禄十(1697)年6月13日には、
一六百五拾石積      船頭 塩飽伊左衛門
一六百五拾石積      同 同 嘉右衛門
一八百弐拾石積      同 同 孫左衛門
一五百八拾石積      同 筑前弥六
右四艘江戸御雇い今別江着き何も御材木積船二御座候旨中し立て候二付き、廻状例の通り相認めこれを遣わす
ここからは、江戸雇いの塩飽船が四艘やってきたことが分かります。
元禄十二(1699)年7月には、丸尾与四兵衛手船二艘・塩飽立石左兵衛手船一艘が、元禄十四年五月に、五日摂州二茶屋次兵衛船五艘の一つに塩飽立石徳兵衛の八〇〇石積船が、六日には塩飽市之丞の八〇〇石積船、塩飽立石松右衛門の七七〇石積、大坂備前屋甚兵衛の七八〇石積の三艘がそれぞれ鯵ケ沢湊へやって来ています。このように、塩飽廻船が江戸商人の雇い船として津軽の材木輸送に積極的にかかわっていることが分かります。

 材木輸送が順調に進むようになると、津軽藩側でもその利益の大きさが分かるようになります。
元禄13年には丸尾弥左衛門に御用金1700両を申しつけています。これに対して弥左衛門は、御用金としてではなく材木の前金として差し出すと主張します。翌14年に藩側は、九尾与四兵衛と結んだ約束に違約があるとして取引の中止を申し出ます。藩の挙げる理由は次の通りです
「然れ共、当年より亥ノ年迄七ヶ年の間三拾貫目宛、自分柾取り御礼金は御免下され度」

と指摘し、さらに、船への積み込みに際しても二割引いて、また礼金も六〇両引いての額を支払うように運用してきた。藩側の損が非常に多い。その上、与四兵衛一人に任せていたのでは蟹田町の者共も難儀する、
 という内容です。「与四兵衛一人に任せていたのでは蟹田町の者共も難儀する」というように、外部資本の塩飽丸尾氏が利益を吸い上げ、地元資本の利益になっていない木材政策のあり方への不満が高まってきたことがうかがえます。しかし、結果的には、約束の年数10年間は丸尾与四兵衛に材木輸送はやらせようということになったようです。
 しかし、契約期限がおわると弘前藩は「地元産業の育成」をめざすようになります。そして、藩領内のさまざまな人々が関わる体制を作り出していきます。例えば、山林から木を伐り出し、木材へ加工していたのは麓村の杣(そま)や百姓たちです。そして、塩飽廻船に代わって木材輸送のためには、大坂や十三(現五所川原市)で雇われた船主たちが乗りこみます。彼らと福沢屋の間を仲介していたのは、三国屋・播磨屋といった深浦の船問屋たちです。ここからは、塩飽商人への独占付与という丸投げから、藩内の地元産業の雇用と育成をはかる方向に向きを修正した様子がうかがえます。
 塩飽と深浦
 明治初期の松前藩 深浦港(蓑虫山人画)

塩飽廻船が松前の木材の独占的な取扱権を握っていた頃の江戸では、綱吉の宗教政策による寺院の建立ラッシュ、元禄八年、同十年、同十一年の連続大火が起こっています。このため木材の需要はうなぎ登りでした。商人が各地の材木確保に乗り出すのは当然のことです。その動きの中に塩飽廻船も参入していたようです。これは西廻航路が整備された際に幕府直雇いとして城米輸送で活躍することで、培った優秀な航海技術と経験があったからこそと云えます。
牛島(うしじま)
 丸尾氏の牛島

 元禄7年(1694)、二代目丸尾五左衛門の重次は69歳で亡くなりますが、その名は三代目重正、四代目正次へと引き継がれていきます。全盛期は最高は、元禄16年(1703)の11,200石で、320石から1,150石積みの廻船を13艘も持っていたといわれています。それはちょうど弘前藩の木材輸送と販売権を独占していた時期にあたります。城米以外にもあらたに木材も取り扱うようになって、船を増やしたのかも知れません。
 讃岐には、「沖を走るは丸屋の船か まるにやの字の帆が見える」という古謡が残っていますが、これはこの頃のものだといわれます。
塩飽本島絵図
塩飽諸島 牛島は本島の南にある小さな島(上が南になっている)

 享保元年(1716)、徳川吉宗が8代将軍に就任し、享保の改革を進めます。
その一環として享保5年(1720)城米を安く運ぶために、それまでの直雇方式から廻船問屋請負方式へ変更します。そして運用を江戸商人の筑前屋作右衛門に任せます。いわゆる「民営化」です。この結果、塩飽の船持衆は、今までのように直接幕府から荷受けすることができなくなります。そして、廻船問屋に従属する雇船として安く下請けされるようになります。荷受けに参入してきた業者は、それまでに技術力や経験をつんできた者達でした。きびしい競争に塩飽船は市場を奪われていき、塩飽の廻船数は減少していきます。ちなみに、牛島には、宝永(1704~11)から享保7年(1722)には45~49艘の廻船があったといわれていますが、享保13年(1728)には23艘とそれまでのほぼ半数に減っています。
塩飽廻船の隆盛と衰退

 特権を失い、競争力を弱めた塩飽廻船は、どのように生き残りを図ったのでしょうか
塩飽船籍の船は減ったが船員達は、困らなかったと考える説があります。なぜなら技術や経験を持った塩飽水夫達は、どこの船でも引っ張りだこだったからです。乗る船は、和泉や摂津の他国舟でも、それを動かしているのは塩飽水夫ということも数多く見られたようです。つまり、没落したのは丸尾家のような大船持ちで、船員達の仕事がなくなった訳ではないのです。そのために塩飽に帰って来ることは、少なくなったが塩飽への送金は続いたようです。塩飽が急激に衰退したとは云えない部分がここにはあるようです。
千石船

以上をまとめておきます
①塩飽廻船は、幕府直雇いの城米船として独占的な運行権を得て大きく発展した。
②元禄年間になると、丸尾家は米だけでなく津軽藩領の木材の江戸輸送をはじめさらに利益を上げた。
③享保の改革で、独占体制の上にあった城米輸送の特権を失い、丸尾家などの大船主は姿を消した。
④しかし、その後も瀬戸内海交易や他国の船の船員として、塩飽水夫の活躍は続いた。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献     テキストは「丸亀市史896P 近世前期に見る塩飽廻船の動き」
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塩飽本島の笠島集落
江戸時代の塩飽諸島は、朱印状を与えられた廻船の島として特別な位置を持つようになります。
天正十八(1590)年秀吉の朱印状によって、塩飽島1250石が、船方650人の領知するところとなります。船方(水主)650役の島として、秀吉の直轄領に指定され、小田原攻や朝鮮出兵に関わりました。この朱印状は、家康によって安堵され、江戸時代も幕府の直轄領として、650人の水主役を果し「船方御用相勤」を続けます。
 このような島は、他にはありません。芸予諸島の村上水軍と比べると、非常に有利な条件で中世の財産を、近世に持ち込むことができたと云えるかもしれません。このように塩飽島の水主役は、秀吉の天下統一・対外政策とかかわって設定されたものであることを前回はみてきました。
 江戸時代半ばになると、その性格を次第に変えていくようになります。戦時の後方支援という役割から朝鮮通信使や長崎奉行の送迎など幕府の政治・外交上に関係する海上輸送業務に従事することが任務になっていきます。
 塩飽島における政務は人名から選ばれた「年寄・庄屋・年番」などによって行われました。
近世初期に「年寄」を勤めたのは入江氏・真木氏・古田氏・宮本氏などです。寛永以後は、吉田氏と宮本氏を中心に自宅を塩飽政所と称し、浦(本島と広島)や島に置いた庄屋・年番を続轄して支配が行われました。そのため世襲化した年寄の支配がだんだん強大となり、人名内部からも反発が生まれ、寛政元年年四月には巡見使へ政所改革の訴願が行われます。これを契機に、行政改革が行われたことは以前にお話しした通りです。
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 この改革の一環として、政務センターとしての勤番所が建設され、ここで塩飽島の行政が行われるようになります。
塩飽島の行政は、この寛政改革によって塩飽政所行政(年寄の自宅)から塩飽勤番所行政へと変り、組織的にガラス張りで行われるようになったともいえます。そして年寄を中心とする勤番所行政は、明治五年まで続くことになります。
 近世初頭の年寄支配の強さの背景として、研究者は次のような要因を挙げます
①中世以来の在地土豪の出身であり、土地所持者であったこと
②船方の棟梁で廻船業者であり、社会的地位が高く、経済力が卓越していたこと
年寄たちが「土地所有 + 廻船業者」によって経済力をもっていたことが大きかったようです。宝永元年八月「塩飽嶋中納方配分帳」(塩飽勤番所保管文書)からは、当時の年寄四人の年寄役が、飛び抜けた配分高を得ていたことが分かります。その年寄の残したものを見てみましょう。
年寄役の一人である笠島浦の吉田彦右衛(彦右衛門は世襲名)は、笠島浦の奥まった所に約271坪の屋敷をもっていました。
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そして、菩提寺の浄土宗専称寺境内には「塩飽笠嶋之住人吉田彦右衛門家永」と刻まれた大きな「人名墓」と呼ばれる墓石を残しています。これは高さ2,3m、幅75㎝・厚さ44㎝の逆修墓石で、寛永四(1627)年八月四日に建立されたものです。
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この他にも家永(長)は、八幡宮(泊浦宮之浜)の大鳥居を、寛永五年六月に年寄宮本家とともに奉献しています。大鳥居には「塩飽嶋政所吉田彦右衛門家長」と刻まれています。寛永年間頃の政所(年寄)吉田彦右衛門家永が、豊かな財力を持っていたことがうかがえます。
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 泊浦の年寄宮本家も吉田彦右衛に並ぶ財力の持主だったようです。
年寄宮本半右衛門も、笠島の吉田家が「人名墓」を建てた同じ年の寛永四(1627)年に、初代宮本伝太夫の墓を作っています。
塩飽島(香川県丸亀市本島町)泊浦木烏神社鳥居 八幡神社鳥居と 小烏 (こがらす) 神社鳥居は薩摩石工、 紀加兵衞 (きのかへい)  作である。寛永四年(一六二七)作である。 木烏神社 甲生浦、徳玉神社(安徳天皇は屋島敗戦後塩飽に移られた)
木烏神社(泊浦)の大鳥居

同時に木烏神社(泊浦)の大鳥居を、薩摩の石大工紀加兵衛に製作させ奉献しています。寛永年間には、笠島浦の吉剛家と泊浦の宮本家は、豊かな財力をきそい合っていたようにも見えます。八幡宮の大鳥居建立には吉田彦右衛門家長をはじめとする吉田家が中心となり、それに宮本家も加わっています。また木烏神社の大鳥居建立には宮本半右衛門正信をはじめとする宮本家が中心となり吉田家も加わり建立しています。この時期、年寄の両家を中心として塩飽島は、廻船業などで繁栄し、黄金時代を迎えていた時代です。それが立派な墓石や大鳥居の建立となって、今に残っているのでしょう

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このような塩飽の繁栄は、いつまで続いたのでしょうか。
廻船業は競争時代に突入し、相対的に塩飽島の地位は低下していきます。明和二(1765)年八月「塩飽嶋明細帳」(塩飽勤番所保管文書)には、次のような記録が残っています
一、船数大小合三百弐拾壱艘
七艘    千百石積より千四百石積迄    廻船
五拾七艘 四百五十石積より三十石積迄  異船
拾壱艘    五十石積より入石積迄      生船
弐拾三艘  三拾五石債より弐十石積迄    柴船
八十八艘  弐拾五石積より八石積迄    通船
百三十三艘 十三石積より五石積迄      猟船
式艘    三十石積            網船
嶋々之者共浦稼之儀、先年者廻船多御座候而、船稼第一二付候得共、段々廻船減候二付、異船稼並猟働付候者茂御座候、且又他国江罷越、廻胎小舟之加子働仕、又ハ大工職付近国江年分為渡世罷出候、老人妻子共農業仕候
意訳変換しておくと
塩飽では、かつては廻船が多くあり船稼が第一だった。ところが、明和2(1765)年になると塩飽島の人々の職業は、廻船を中心とする船稼から、廻船・異船(貸船)・猟働・他国の廻船・小舟の加子働きや大工職などで出稼ぎする者が多くなり、老人子共は島に残り農業を行うようになってしまった。

これは、島の窮状を訴えるための文書なので、そのままには受け取れませんが、廻船中心に栄えた経済繁栄が失われ衰退しつつあることを危機感を持って訴えています。
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笠島集落

正式文書に「人名」と言う言葉は出てきません。「船方」が正式な呼び名です。
 年寄は別な表現をすれば、船方650人のメンバーの一人でもありました。近世初期の年寄は、一族で多くの船方を担当したはずです。この船方を何時の頃からか塩飽島においては、人名と呼ぶようになります。しかし、江戸時代には公式文書には、この呼称は使用されていません。使われているのは「船方」(水主)です。それも年寄と大坂船手奉行・大坂町奉行との間の文書のやりとりの中に限られ、年寄からの文言に対して具体的に指示する必要から便宜上使用しているだけだと研究者は指摘します。
 明治になっての維新後秩禄処分の金禄公債証書交付願のやりとりの中でも、政府は水主という言葉を使用し、人名という言葉は全く使用していません。つまり近世・近代において人名という呼称は、塩飽島で私的に使用されてはいますが、公的には使用されていなかったことは押さえておきたいと思います。
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笠島集落
それでは「人名」という言葉が広がったのは、いつからなのでしょうか。
塩飽島の人々の間で、人名に対する認識が深まるのは、版籍奉還・秩禄処分の問題を通してのことのようです。金禄公債証書交付願の運動(明治9年~34年頃まで)を通して、人名650人の結束は強められていきます。その動きを見てみましょう。笠島町並保存地区文書館展示史料には、明治になっての豊臣神社の勧進運動の記録が残っています。
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尾上神社(笠島浦)
笠島浦では、明治14年11月に、人名78人が、尾上神社境内へ豊臣神社(小祠)の新設を那珂多度部長三橋政之宛願い出て、許可されます。その願文には次のように記されます。(意訳)
 維新によって領知権は消滅したが、秀古の発拾した朱印状によって島民の生活は支えられた、その恩に報ゆるために笠島の人名同志78八人が相談して、「豊霊ヲ計請シ歌祥デ悠久二存仁セン」として、豊臣神社(小祠)の新設した。その経費は人名78人の献金で、維持費は人名の共有山林を宛てた。

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笠島の尾上神社
笠島の尾上神社の上り口にある豊臣神社の前には、二本の石柱が立っています。向って左の石柱には
「国威輝海外」(表)、
「当浦於七十八人 明治三十一年一月元旦建之」(裏)
右の石柱には
「忠勤致皇室」(表)
「天正年間征韓之役従軍塩飽六百五十中」(裏)
と刻まれています。この二本の石柱は、日清戦争の勝利と秀吉の朝鮮出兵を歴史意識としてダブらせて建てられたようです。日清戦争の勝利記念と自分たちの先祖の朝鮮出兵が結びつけることで、ナショナリズムの高揚運動と、人名の子孫としてのプライドを忘れまいというる意図が見えてきます。このように豊臣神社や石柱の新設建立に、笠島浦の人名は結束して行動しています。この豊臣神社のある尾上神社の境内には「一金四百円 当浦人名中」(年不記)刻まれた寄付金の石柱もあります。
塩飽島(香川県丸亀市本島町)泊浦木烏神社鳥居 八幡神社鳥居と 小烏 (こがらす) 神社鳥居は薩摩石工、 紀加兵衞 (きのかへい)  作である。寛永四年(一六二七)作である。 木烏神社 甲生浦、徳玉神社(安徳天皇は屋島敗戦後塩飽に移られた)
 今度は泊浦の木烏神社境内を見てみましょう。ここには、次のような刻字のある石碑が泊浦人名90人によって建てられています。
「豊公記念碑海軍大将子爵斉藤実書」(表)
「塩飽嶋中人名六百五拾名之内泊浦人名九拾人 昭和三年十一月建之」(裏)
以上のように本島の笠島浦・泊浦を歩いただけでも「人名」と刻した石柱・記念碑などがいくつも目に入ってきます。朱印状の船方650人は人名として昭和期まで結束して活躍していることが分かります。
3  塩飽  弁財船

 天正十八(1590)年の秀吉朱印状の「船方六百五十人」の船方は、戦時の水主役が勤まる650人であったはずです。しかし、江戸時代の天下泰平の時代になると、水主役の代銀納が行われるようになります。
広島の江の浦庄屋七郎兵衛の安永八年の記録「江ノ浦加子竃数並大小船数」には、次のように記されています。
加子(水主)一人役株を持つ八左衛門は、職業(渡世)は木挽、同喜十郎は農業、同太治郎は異船(貸船)商売、同新七は農業、同治郎左衛門は廻船加子働、同喜兵衛は加子
ここからは加子役株(人名株)を持っている人たちの職業(渡世)は色々であったことが分かります。つまり船方(水主)650人という実質的な夫役負担者から、水主役とは関係のない職業の者が、水主株所持者(船方・人名持者)になっていたようです。

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 人江幸一氏保管文書によると幕末、人名持(人名株、船方・水主・人名)という表現がよくみられるようになります。例えば次のような人たちです。
人名持百姓何某・人名持船方何某・人名持大工何某・人名持庄屋何某・人名持年番何某・人名持弥右衛門・人名持三郎後家たつ・入名持長左衛門後家とよ・人名持彦吉後家さゆ・人名持兼二右衛門後家さよ
ここからは「大工や後家」の人たちまで人名株を持っていたことがうかがえます。水主役とは、戦時召集には水夫として活躍するはずでしたが、そこに「後家」も名を連ねているのです。

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さらに、人江幸一氏保管文書の安政三年「辰麦年貢取立帳」(泊浦)に「人名株弐口五人二而割持」とあります。安政五年「午責年貢取立帳」(泊浦)には「小人名持分」として、人名一株未満の所持者を「小人名」と呼び、十二人の小人名の名前が記載されています。ここからは幕末には、人名一人役(一株)が複数人によって分割所持されていたことが分かります。
以上の例から、研究者は次のように指摘します。
①水主役に従事できない人々の水主役(株)の所持が進行していた
②水主一人役(株)が、複数人によって所持されるという水主役株の分化が進行していた
これは、近世初頭の人名設置からすると、水主役(船方役・人名役)の形骸化が進行していたと云えます。
この背景には、人名株を一人前でなくても所持したいという願望があったのでしょう。このように朱印状の船方六百五十人の仲間になりたいという願望が、塩飽島の人々には強くあったようです。塩飽島において船方(人名)株を持つことが、一つのステータスと考えられていたのです。
 慶応四年一月人名(株)のない小坂浦の者達が人名二人前を要求して小坂騒動が起こったことは、その象徴としてとらえることができよう。そのような意識は明治以後も強く、「人名社会」という言葉が使用され、「人名」と刻したさまざまな石柱や記念碑を造らせたともいえよう。
咸臨丸で太平洋を渡った塩飽の水夫|ビジネス香川

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「加藤優


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  柱島(はしらじま)は、安芸灘の南西に並ぶ柱島群島の本島です。北は倉橋島、江田島、南は屋代島とその属島、東は中島をはじめとする忽那諸島に囲まれ、これらの島々のちょうど真ん中にあります。今は岩国市に属しますが、中世末までは山口県大島郡に属し、南北朝のころは伊予の中島を中心とした忽那七島のひとつになっていました。当時の忽那七島は松山市の野忽那島・睦月島・中島・怒和島・津和地島・二神島と、周防大島郡の柱島で構成されていたようです。つまり、周防と伊予という国境を越えての「連合」になります。このように柱島の所属がいろいろ変わるのは、この島が陸からやってきた人たちによって開拓されたものではなく、「海民」の手によって開拓されたことに由来すると研究者は考えているようです。

この島は古くは、讃岐・仁尾と同じ京都賀茂神社社領のひとつでした。
賀茂神社は瀬戸内海に早くから進出し、多くの社領を持っていました。「賀茂注進雑記」によると、全国各地に42カ所を数える社領の中で瀬戸内海にあるものが次の16ケ所です。
播磨安志庄、林田庄、室塩屋御厨、備前山田庄、備後竹原庄、有福庄、伊予菊万庄、佐方保、周防伊保庄、矢島(八島)、竃戸関(上関)、柱島、和泉深日庄、箱作庄、淡路佐野庄、生穂庄

このほかにも「賀茂社古代庄園御厨」には、寛治四年(1090)年7月12日付文書に月供料として次の6つが記されています。
播磨同伊保崎・伊予国宇和郡六帖網・伊予国内海・讃岐国内海・豊後国水津・周防国佐河(佐合)・牛島御厨

この中ある周防の佐合島も牛島も小さい島です。それは後の弘安元(1278)年に讃岐・仁尾の蔦島が、同じように賀茂神社の御厨に指定されたのとよく似ています。こうした小さい島が御厨として寄進されたのは海産物の供進のためです。供物を採取・提供していたのが「供祭人」です。
「御厨供祭人者、莫卜附要所令中居住一之間、所じ被免・本所役也、傷櫓樟通路浜、可為当社供祭所・」

ここには「莫卜附要所令中居住一之間」とあるので御厨の供祭人が定住しないで海上漂泊をしていたことが分かります。柱島や蔦島も、そうした海人が漁業シーズンにやって来て漁労を行なった漁場の一つであったようです。
 これらの島の産土神が賀茂神社なので、御厨(みくろ)の海人が次第に島に定住するようになったことがうかがえます。そういう人たちの定住は、採塩の作業と結びついていると研究者は考えているようです。おなじ賀茂神社の社領であった八島・佐合島・牛島などにも、おなじように製塩跡がみられるからです。
 例えば上関島(長島または竃島ともいう)の蒲井には、山地の均等地割が見られるので、塩木山があったことがうかがえます。これは前回もお話ししたように、「海人が陸上がりして採塩した」ことを示すものです。
9柱島地図
 
その後の柱島をめぐる情勢を見ておきましょう
「柱島旧記」からは、室町後期には桑原氏がこの島の支配者になっていたことが分かります。桑原氏の先祖は、青山五郎兵衛といって備後田島の出身者のようです。その先祖は、芸予諸島・能島村上氏の御部屋(隠居分家)と記されています。つまり、備後の田島は、村上氏が地頭だったようです。ここからは桑原氏が、能島村上氏につながる系譜に絡んでいたことが見えてきます。
 初め青山五郎兵衛は倉橋島を拠点としていましたが「法体」となって柱島にきて、「辻本」を勤めたと云います。辻本というのは島の僧役を勤める者のようです。同時に、年貢を取り立て領主に納める役目を果たしています。その年貢が誰に納められたかは分かりません。しかし後には毛利元清に納めたとありますから、元清の所領になったこともあるようです。
9柱島と大島の西芳寺地図

 青山五郎兵衛の弟四兵衛は陶晴賢の小姓となっていましたが、厳島合戦に敗れて柱島に帰り、出家して僧となり、周防大島へ渡って森村の西方寺を創建したと記します。しかし、桑原氏系図(「萩藩閥閲録」)では、桑原五郎兵衛元国が、朝鮮侵略の後、森村に退隠して僧となり寺を建てたのが西方寺だとあります。
  一方、周防大島の森にある西方寺の「西方寺縁起」には、
桑原四兵衛が兄で、五郎兵衛は弟、厳島合戦に敗れて柱島に渡り、五郎兵衛は島司富永角兵衛の養子となり、四兵衛は森村に居住して西方寺を建てたとあります。どちらが正しいかは分かりませんが、備後田島から来た青山という者が、周防大島の桑原氏と姻戚関係を持ち、桑原氏が大島海賊の統領の一人であったことから、その配下に属して桑原を名乗ったと研究者は考えているようです。
9柱島地図拡大

 青山五郎兵衛との関係はよく分からないのですが、桑原杢之助という者が島司を勤めていたときのことです。
中富弾右衛門という者が杢之助を頼って来て島に住みついていまします。ところがこの男は、荒者で周りのものも手を焼くようになったようです。そこで、そのままにしておいては、どんなことを仕出すかわからないと、みんなで相談して、柱島西ノ浜へ網漁に行ったとき、杢之助の指図で大勢で討ち取ってしまいます。討たれた弾右衛門には、小次郎という子があり、能島の「海賊大将」の村上武吉に仕えていました。
 父が討たれたと聞いて、小次郎はひそかに桂島にやってきて、杢之助夫婦を夜討ちにします。そこで能島武吉は柱島を中富小次郎に与えたというのです。小次郎には子がなったので、末弟万五郎が跡を継ぎます。彼は、毛利元清に仕えた後に、柱島庄屋になっています。また、中富氏一族の者で桑原氏の跡をたて、桑原氏も庄屋を中富氏と交代で勤めています。
「柱島旧記」は江戸中期に中富氏一族の者が、口述と過去帳を頼りに書いたもので、叙述に混乱はあるようです。しかし、そのなかに信憑性のあるものもあります。この史料から分かることは
①桂島の支配者層は、島外から新しく来た者であり、武力で容易に島民を支配することができた
②支配者が、さらに強力な島外の勢力(村上氏)かに結びつくことによつて、その島が島外支配者の所領になった
こういう支配体制は平安末期にすでに、真鍋島・忽那島でも見られるので、瀬戸内海では珍しいことではなかったようです。その中で、柱島には古い住民の組織が残ったようです。その背景には島の製塩がありました。
9柱島砂浜


次に、桂島の製塩組織について見てみましょう。
柱島は柱十二島とよばれてきたように、次の12の島からなっています。
本島・端島・小柱島・続島。長島・フクラ島・鞍掛島・黒島・伊ケ子島(伊勢小島)・中小島・手島・保高島

近世初期までは本島に人が住んでいただけで、他は無人島でした。そしてその土地利用は
①黒島・伊勢ガ小島が、牧島(牧場)
②その他は桂島の揚浜塩田の「薪島」
でした。
『玖珂郡志』によると、
「柱島本屋敷四十五軒ナリ。御討入(中富弾正が)ノ後、田畠塩浜山ヲモ厚薄組合セ、割方有之。今以其通ニテ、夫ヨリ一カマチ(一株内)卜云。右四十五軒ノ内、内証不勝手二付テ、売方仕候連モ半カマチ迄、売ラセ申候。半カマチ過候テハ売方不レ被差免候由。悉ク売方候ハ勝手次第り本屋敷ノ者、一カマチノ内ヲ四分一計所持仕候テハ御役目不・得仕二一付テ也。但手島・ホウ高・端島・続島モ塩付ノ山配ノ内也。珂子屋敷四十五軒、内一軒歓喜寺、内一軒庄屋、内二軒両刀爾、内一軒山守、内一軒小触。右六軒現人差出ナシ。残九人役目相勤候也」
意訳すると
「柱島本屋敷には45軒の家があり、御討入(中富弾正が)の後は、田畠塩浜山を組合せて、均等に所持するシステムで運営してきました。今でもその通りで、この1単位を「一カマチ(一株内)」と呼びます。45軒の中で、経済的な困窮のために、売りに出すものもいますが、それは「半カマチ」までです。それ以上を売ることはできません。
 ただし、手島・ホウ高・端島・続島の塩付も「カマチ」に含まれます。45軒の内で歓喜寺、庄屋、両刀爾、軒山守、小触。右六軒は今は差出がありません。残九人役目で勤ています」
ここからは次のような事が分かります。
①塩焼(製塩)を行いながら、藩の水夫役を勤めていたこと
②「享保村記」には、何子屋敷四二軒の石高八石四斗は引石、すなわち無税になっていること。

同じ郡志には、次のような記述もあります。
「今津草津屋吉左衛門屋敷ハ、柱島船子、今津へ罷出候時ノ屋敷也。是ハ或時、船子、御用二付テ罷出、滞溜仕候処、誠、野伏体ニテ罷居中ヲ、今津ノ御一人被見付、御領ノ者雨露二触レテハ不相済候間止宿ノ場所支配可レ致トテ、日屋掛ノ所、今ノ草津屋々敷 支配有レ之候。然処二吉左衛門先祖、草津ョリ柱島へ罷越滞溜イタシ候。島中ノ者申様、今津ノ船子屋敷へ普請仕罷居候得バ此後船子御用二付テ罷出候時、宿二可レ仕候卜申談.草津屋、今津へ移居申候。依レ之何子御用二付テ罷出、吉左衛門処二滞留仕候テモ、宿銭卜申事ハ無レ之、今以其分ノ由也。」とある。
意訳すると
今津の草津屋吉左衛門の屋敷は、柱島船子たちが、今津へ出向いたときに使用する屋敷です。これは昔、船子が御用で出向いて、滞在しなければならなくなったときに、小屋掛けしたのが始まりです。今津の人がこれを見て、賀茂神社の御領の者が雨露に濡れているのは忍びないと、宿の場所を提供した所へ小屋掛けしたものです。今の草津屋敷は、このようにして出来ました。
 ところが草津屋吉左衛門の先祖が草津から柱島へやってきて、住み着くようになりました。島中の者がいうには、草津屋が今津の船子屋敷へ新たな屋敷を構え、その後は船子御用を申しつけられ、今津へ移居しました。これより「何子御用」について今津に出向いた際にも、吉左衛門屋敷に滞留しても、宿銭を支払うことはありませんでした。今以其分ノ由也。」とある。
ここからは次のような事が分かります。
①「船子屋敷」は桂島の船子たちが、今津に出向いたときの仮小屋だった。
②それを今津の者が小屋掛けをし、柱島の者が普請して建てた。
つまり、藩の制度として作れたものではないことが分かります。ここからも、桂島の島民が、陸の住人ではなく、「海民・海人」の流れをくむ人たちであったことが分かります。

それでは島に42軒の家のあったころは、いつごろなのでしょうか
それは慶長検地の時と、研究者は考えているようです。
寛永三年検地のときは「屋敷四五軒共」とあります。そこには庄屋・寺・刀爾なども含まれているので、寛永よりさらにさかのぼった時代と考えられます。そして家が増えていっても、船子屋敷として石高を免ぜられたのは「四二屋敷」で、その屋敷の広さは一戸当り三畝でした。この屋敷はもともとは慶長以前から受け継がれてきた揚浜塩田でした。慶長当時に分割したものではありません。それ以前からこの島に住む者が、分家する時には、均等に三畝ずつの塩田を与えられたようです。その中でも、寺は倍の六畝です。そして、刀爾といえども屋敷の広さは三畝で、一般百姓と同じです。
 ここからは「四二軒」の人たちは、海から島上がりして定住したものの子孫だと研究者は考えているようです。これらの人々は、漁民として網漁も行なっていました。
それは先ほど見たように
「島にやって来た暴れん坊の中富弾右衛門を、みんなで相談して、柱島西ノ浜へ網漁に行ったときに討ち取った」

という記述からも分かります。
また、享保九年(1724)に、桂島には
「六端帆1隻、三端帆11隻、十二端帆船1隻」

の船がり、あると記されています。十二端帆というのは大きさから見て船曳船で地引網漁に使われていた船と考えられます。ここからもこの島が、網漁の島であったことが裏付けられます。網漁業を行なうためには網代が必要になります。地曳網ならば、どうしても船を寄せる島または海岸が必要です。柱島島民は周囲の島々に網代を求め、同時にそこへ占有権を確立していったようです。
このようにして桂島の海民達は、周囲の島を属島にしていきます。
それが製塩の「薪島=塩木島」としての利用にもつながるようになります。一つの島を中心にして無人島を11も属島に持つということは、瀬戸内海にも珍しい例のようです。それは、もともとはこの島が網漁業の島であることを物語るようです。百姓島ならば薪島を1つや2つは持っている例はあります。しかし、桂島のように広域にわたって島を持つ例はあまりありません。

柱島は近世に入って岩国藩に属することになり、その海上生活技術が買われて岩国藩の何子(船子)役を仰せつかったようです。
 桑原氏が、この島に来住したころから、忽那七島の連合体から離脱していきます。桑原氏の厳島合戦参加とその敗北がひとつの契機となって、島民が武器を捨て、完全に生産民化していきます。「柱島旧記」にも、桑原氏が持っていた刀を林某に与えて、武士ををやめた記事があります。
 岩国藩の何子(船子)になっても、操舟技術と労力を夫役として藩に提供する立浦式の船子にすぎなかったようです。岩国藩には、安芸浦から今津に移った水夫が別にいました。それらは足軽の資格を持ち、扶持五石を与えられ武士の下層に属していました。桂島の支配者達は、生産民の道を選ぶしかなかたのです。

 柱島は慶長検地の行なわれた時に、山林および農地の割替が行なわれ42等分されます。さらに寛永三年の検地の時のことを「享保村記」は、次のように記します
「田畠塩浜トモニ厚薄組合セ、本屋軒四五軒二分配、山ヲモ塩浜二応ジテ夫々分割方被仰付申タル也、付田畠塩浜井二山ヲ軒別へ割付被下候、尤一軒別ノ割方ヲ一トカマチト島人イヘリ」
意訳すると
田畠や塩浜を組合せて本屋軒の45軒に均等分配した。山も塩浜に応じて、それぞれ均等に分割した。田畠・塩浜(塩田)並びに、山を一軒毎に均等分割し、その一軒の単位を「一トカマチ」と島の者は云う」

ここからは慶長・寛永の江戸時代初期に「田畑+塩田+塩木山」を45軒で割って、均等に分割したことが分かります。
ここからは桂島の当時の人たちが「構成員の平等性・均等性」に、価値観を置く集団であったことうかがえます。これは、陸の人間の発想にはない「海民」の価値観です。
船乗りとして、東シナ海を荒らし回った倭寇軍団の組織原理の中にも見られますし、村上水軍の規範意識の中にも見えます。それを、海からやって来た桂島の人たちは受け継いていたことを示すと研究者は考えているようです。

この島の塩浜は揚浜で、総面積は三町五反二八歩です。
塩田の枚数は、北浜14枚、長浜3枚、中浜・西浜46枚で、合計63枚で、島の周辺全体に分布していました。浜に赤土をたたきつけて塀のように塗り、その上に砂をまき、潮を打って日にさらします。塩屋は23軒しかありませんから、一枚一軒の制ではなかったようです。
人口増加と土地不足に、どのように対応したのか?   
寛永三年の割替の後は、土地割替は行われていませんので、本家四五戸の株は固定しました。しかし、製塩が順調に発展すると戸数は増えます。寛文年間(1661~)のころには108戸に増えています。そして、飽和状態になり享保1年(1777)年には、89戸に減っています。
 こうして増えた家は間脇(分家)とよび、本家に附属する家として、独立した一戸とは見なされなかったようです。しかし、実際には屋敷・耕地なども同じように分けたために、分家を出すためにその家の土地所有は細分化されます。この結果、土地所有の「階層分化」がおきます。しかし、それは農村部のように有力な者が耕地を買い集めた結果の階層分化ではありません。そのため大土地所有者は、島には現われません。
 このような人口増加や分家問題、ひいては土地不足に対して、取られた方策が移民です。
文政13(1830)年、黒島ヘの分村移住が始まります。その際にも、徹底した土地の平等分割が行われています。このように、柱島に住みついた海民たちは「均等性」を求めるのです。上にたつ支配力があまり強くなかったためか、後々まで引き継がれていったようです。柱島は江戸時代には外からの刺激が少なく、生産条件が、農業主体とならず、漁業と製塩に重点をおいたことで、中世以来の古い構造を残したとも云えます。

これと対照的なのが、隣島の端島です。
 
9柱島と端島

端島は柱島の属島ですが、ここを開いたのは柱島島民ではありませんでした。明暦4(1659)に、能美島大原の農民・安宅又右衛門の一族が、やってきて6軒の家を建てて住み着きます。その後、開墾も進み、享保12(1727)年には、石高80石余りになり家屋数も23軒に増えています。
しかし、この島が目指したスタイルは柱島とはちがいます。
この島に移住したのは農民で、農民の性格を強く持っていました。耕地は平等分割されず、未開地を開墾できるだけの力のある者が、本家から分け与えられた土地を併せ持って分家します。そのため耕地をひらくことのできない家は、分家することもなく、叔父坊主と言って、兄の家で働きつつ一生を終わったようです。したがって、 一家の家族員は7、8人が多く、10人を超えるものも数多くあったことが残された戸籍から分かります。
 そして習俗を異にする、桂島の通婚も少なかったようです。島が小さく、その上、南半のミカベ山が柱島の塩木山で、柱島民によって四五に等分せられていたため、そこに入りこみ開墾することも許されません。「享保村記」には、船はわずかに一隻あるだけで、それも漁労用ではなく、島外との連絡に用いられているにすぎなかったと記されます。海に出て、漁を行うという姿勢は 、端島には明治になるまで見えません。
 この二つ島の違いをどう見ればいいのでしょうか。
並んだ近隣の島で、地理的条件が似ていても、生産方法や社会構造が似てくるとは限らないことが分かります。そこには、主体となる人間集団の価値観や理念も関わってくるようです。それは「新大陸」と呼ばれるアメリカ大陸でもラテン世界とアングロサクソン世界では、その後の発展過程が大きく違っていくのと同じなのかもしれません。
 海上生活から陸上がりした「海民」が、製塩や農耕に従った島嶼社会には、柱島と相似た現象がみられると研究者は指摘します。これが庄内半島や塩飽・直島・屋島・小豆島などの中世揚浜塩業が行われた地域にも当てはまるのかどうか、今後の課題となりそうです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献  宮本常一    塩の民俗と生活 

           
 瀬戸内海沿岸の地図を見ていると、「泊」「津」「浦」「浜」のついた地名が数多く出てきます。
1「泊」とついた地名は、「船の泊」だといいます。
「泊(とまり)」は、遠浅になっている所が多いようです。古代は、遠浅の砂浜に船を着けていました。すると潮がひくにつれて船が浜に、安定して座ります。海が少々荒れても、次の満潮時までは船は安全に係留されます。そういう所が、船の停泊地となり「泊」と呼ばれたようです。現在の岸壁に囲まれた港のイメージとは違っています。
2「津」もあります。
難波津・住吉津・兵庫津・大津・など聞き慣れた地名があります。讃岐の宇多津、中津、多度津、三野津などは、古代の郡港があった所と云われます。津は、巨船が停泊可能だったようです。
3「浦」と呼ばれる所もあります。
これは、漁村が多かったようです。近世になると、浦は漁村に限られてきます。
4そして「浜」という地名があります。これは塩浜のあった所が多いようです。

中世の揚浜塩田は、床を作ってその上に砂を載せ、それに海水を散布して、鍼水を採るため、そこを浜床とか床浜と呼びました。小字の名には、それが海岸地方の遠浅の海には見られます。ここも塩浜跡の候補と考えられます。
揚げ浜塩田

塩田跡の痕跡は、浜の後ろの山や畑にも残されています。
  海に面した畑が海から山へ縦割りに地割されているところがそうです。これは塩山跡で塩浜についた山で、はじめは製塩用の薪を切っていたのが、後には畑に開墾されたようです。そういう畑のある所には揚浜があったと研究者は考えているようです。このような風景は小豆島の内海湾の海岸線を歩いていると見えてきます
製塩が行われていた地形は?
 中世の地形復元を行ってみると、もともとは深い入江になっていたと考えられるところがあります。その入江の中ほどに弓形の砂州が発達して、その内側に潟沼や潟州(ラグーン)が形成されていることが多いようです。ここに「泊」として、瀬戸内海交流の拠点となる集落が形成されます。そして、砂州を利用して揚浜塩田も作られるようになります。これが近世の入浜塩田に、成長して行きます。
 塩浜には、「藻塩を焼く」と云われたように燃料としての薪が大量に必要とされます。そのために「塩(汐)木山」が背後の山に確保されていきます。

8塩田 周防大嶋全体
中世の揚浜塩田跡のある周防大島

 中世の揚浜式の塩田の例を 周防大島に見てみましょう。
周防大島には、慶長15年(1610)の「検地帳」と寛永二年(1625)の「坪付帳」があります。そこには塩浜の面積が書き込まれてた「浜」がいくつかあります。
 揚浜には二つのスタイルがあったことが分かります。
①砂浜がいつも海から出ているもの、つまり揚浜です。
②浦の奥に砂嘴が発達して、その内側に潟州を持ち、その潟州を利用したもの
②の潟州は満潮時には海水が入って来て入海となります。しかし、潮が引くと干潟になる塩田です。干潮で潮が引いた後に、日干しされた砂を採って、これに海水を注いて鹹水を採ったようです。こちらの方が「労力削減」ができて、効率的です。しかし、日中が満潮の時は、作業は行えません。そこで砂嘴の先端、潮の入口をせきとめて、満潮時に必要なだけ海水を入れて、日干しさせる方法が考え出されるようになります。それが後の入浜塩田になります。
 このように次のような条件がそろう所は揚浜塩田に最適地でした。
①入江を持ち
②広がる砂浜
③砂嘴も発達して内潟を抱いている
こんな場所は、小豆島や本島にはたくあります。
次に、揚浜塩田の構造を見てみましょう。

8塩田 周防大嶋和佐1
周防大島の和佐の海岸
周防大島で、古い遺構を残存しているのは和佐の塩田です。
 元文三年(1738)の『地下上申』を見ると、揚浜一七枚、畝数五反一畝(0,5㌶)なので、一枚の大きさは平均三畝(約3㌃)になります。石高は25石5斗です。1畝(せ)は一反の1/10で、約0.992㌃です。
三畝が生産単位ならば16戸分にあたるわけで、寛永二年のころには20戸が塩を造っていたようです。当時の和佐全体の戸数は30戸ですから、塩を作らない家が10戸あったことになります。これは和佐の領主平岡氏の家臣であったようで、この郷で生活していたようです。つまり江戸時代初期の和佐は、戸数30戸、製塩業20戸、その他10戸で成立していたようです。

8塩田 周防大嶋和佐2

和佐の塩浜の経営構造を押さえておきましょう
一枚の揚浜の年生産高の約50石です。和佐東浜の塩田17枚で、856石になります。ただし、浜一枚で年間に釜屋を使用する日数は24日のみです。 一昼夜で7釜炊き、三回塩水[戯水]をつぎ足して、 一釜で三斗を得る計算です。ここから生産高は七釜で二石一斗になり、24日で50石4斗になります。これを俵詰めします。一俵は6斗入りですから、一浜で84俵、17浜で1428俵になります。
  浜子は浜1枚に四人で17浜ですから合計68人。塩浜には一枚に一頭ずつ牛が必要でした。
その他の浜道具としては、各浜ごとに次のような物がいります
①六斗入りの打桶   1一つ
②塩水を担ぐ担いタゴ 3
③ジョレン      1
④浜鍬        3
⑤振杓        1
こうした浜を一戸が一枚ずつを4人の労働力で経営していたようです。4人の家族労力による自営経営です。このように塩浜は、均等に分割されていたようです。逆に言うと、4人の労働力で操業可能なのは、この広さまでの塩田だったようです。これ以上の広さがあっても、逆に人手が足らなくなります。中世の揚浜塩田は小規模だったのです。
8塩田 周防大嶋和佐

それでは耕地はどうだったのでしょうか。
和佐は、検地図では図1のように耕作地が21に区画されています。そのうち6つが水田で、他の15が畑地です。一見すると区画面積はさまざまで、均等ではないように見えます。しかし、詳しくみると、水田の東冷田・吉平・九十岡・末通・折田・神田二の6区画を除くと、残りの畑地15のうちの6が二つ以上に分割されているのが見えてきます。分割される前は、畑地同士はほぼ同じ面積で均等であったようです。つまり、畑地に開墾される前は「塩木山」でだったのが、製塩用の薪をとるために利用され、切りつくした後が畑に開墾された研究者は考えているようです。整理すると、
①中世の和佐は、二、三の家を除いては、どの家も塩浜を経営する塩業従事者であったこと。
②塩木山は、平等に割り付けられていたこと
③中世末に、入浜塩田が現れると生産性が低く、効率の悪い揚浜の東浜塩田は衰退したこと
④近世初期に検地が行なわれた時、残った製塩家の数に応じて塩木山を平等分割されたこと。
⑤塩木山が開墾され畑地となったこと
が分かります。図1からは、畑地の区画境が、海岸からほぼ直角に山頂に向かって通っているのが見て取れます。それが以上の経過を物語っていると研究者は考えているようです。
 どちらにしても、この和佐の村は、海から来た者による開拓痕跡が強く残っています。海からやってきた「海民」は、どんな人たちだったのでしょうか。史料はありませんので想像力を膨らませると
①中世揚浜塩田の生産技術を持った弓削島の技術者集団の一部が、戦乱・抗争でなどで本拠地を逃れ、大島に新天地を求めた。
②戦国時代末期の村上水軍の亡命者たちの定住。
などが思いつくところです。

これに対して和佐の西隣の森集落や、北隣の神ノ浦集落を見てみましょう。
ここは区画線の引かれ方が和佐とは、かなりちがうと研究者は指摘します。図1で森集落の畑地の区画線をもう一度見ていましょう。確かに複雑に折れ曲がっています。これは、森や神ノ浦が早くから山麓緊落として発達した所であり、複雑な境界線を持つ畑地や山林区画が形成されていたからのようです。
 ここからは、最初から農耕を目的にして本土から渡って来た森集落の祖先と、海から来て陸上がりした「海民」との生活様式の差が表されていると研究者は考えているようです。
和田も海岸線沿いに「浜割」が見られます。

8揚浜塩田 和田

図2で黒いメッシュ部分が旧塩田跡です。今では、ここに家が建ち集落になっています。しかし、ここには先住の山麓集落があったようです。海岸線から奥へ行けば行くほど区画線が複雑に折れ曲がったものになっています。これは「先住者」のテリトリーだった地域です。そこへ海からやって来た「海民」が海岸沿いに、均等に土地を分けて揚浜塩田を開いたようです。そして薪は、先住者のテリトリーを侵すことなく、周辺の無人島の山から切り出してきたようです。
 このように和田集落は先住者である畑作農耕者いる所へ、海からの海民が入り込み塩田を開いて住み着いたという事になるようです。両者の間に「棲み分け」が成立したのでしょう。

8塩田 揚浜塩田

近世初期に周防大島で揚浜を経営した村は数多くあり、当時の揚浜総面積は9町5畝23歩になるようです。
これをひとつの経営単位を三畝一枚して計算すると、約300枚の揚浜があったことになります。一枚で年間塩10石を生産するとして、約3000石の塩生産石高になります。当時の大島は、戸数は約2000戸で、1戸平均5人とすれば人口は1万人程度であったと考えられます。すると島民の塩の消費量は1000石を越えることはなかったでしょうから、多くは島外へ売られていたことになります。近世になって入浜式の大規模塩田が姿を見えるまでは島の重要産業だったことが分かります。

もうひとつ研究者が指摘するのは、周防大島で畑作率の高いのは和佐や和田なと島東部で、そこに揚浜が多かったことです。
その背景には何があったのでしょうか?
島の開発の大きな原動力は、本土からの移住と水田開拓でした。水田開発が可能なエリアでは、農耕民の渡島によって開拓が進み、村落が成立していきます。それは本土と同じような農耕集落が形成されます。
 ところが水田開発が不可能な所では、陸地は牧場などに利用せられてきました。瀬戸の島でも、日本海の隠岐のように牛が放し飼いにされていたのです。確かに古代においては、瀬戸内海沿岸や島には「牧」が開かれていたことを示す史料が残されています。
 漁民が定住した浜で、揚浜経営可能の砂浜を持つ所では自然に製塩が始められるようになります。同時に製塩のためには山の木を切ります。その跡が開墾され畑になっていきます。それは自然の成行きだったのかもしれません。こうして畑作と製塩を生業とする村が海沿いにできます。しかし、これは漁村ではありません。浦ではないのです。
 弓削島・因島・生名島・岩城島・佐島・周防大島をはじめ、中世以前に製塩が行なわれたとされる姫島・柱島・能美島・大崎上島・新居大島・塩飽島・小豆島などは、どこも畑作を主体とする島です。そしてそれらの島々には、山を海岸から頂に向かって縦割りにし、その割られた所が段々畑にひらかれている光景が、かつては見えていました。「耕して天に至る」の景色です。
耕して天に至る 歴史遺産で育つ、究極のじゃがいも | 健菜通信 | 健菜倶楽部

 塩を生産するためには、大量の薪を必要だったことは何回もお話ししました。そのため、塩浜には薪を供給する山がついているのが普通で、塩(汐)木山という地名が今に残ります。それでは、塩木山が先住者との関係や地理的な制約から確保できない場合はどうしていたのでしょうか
 そんな場合には近くの無人島を「薪島」にしていた所もあります。
たとえば、山口県岩国市柱島は、早くから塩を焼いた島でしたが、この島には11の属島がついていて、柱十二島とよばれていたようです。
8塩田 無人島塩木島

今は干拓で陸続きになってしまいましたが岡山県笠岡市の神島も塩を焼いた島ですが、沖合の片島・明地・稲積・高島・小高島・白石島などを薪島としていたようです。また、香川県直島も古代以来、塩を生産しており、直島をめぐる10の属島は、薪島であったようです。
  塩田の面積が広ければ広いほど、薪山・薪島の面積は広かったはずです。逆に考えると
「属島を多く持つ島は、製塩が盛んであった」

と考えられます。そうだとすると属島を多く持つ兵庫県家島群島、香川県小豆郡豊島、香川県塩飽本島、真鍋島なども、中世以前には塩の有力な生産地であったことがうかがえます。そして、それらの地域からその推察は近畿に運ばれた塩の量から裏付けられます。

こういう視点で瀬戸内海を見ていくと、中世以前の揚浜のあった所が浮かび上がってきます。香川県では、次のような所で中世に揚浜製塩が行われていたと研究者は考えているようです。
①引田町
②小豆郡内海町馬木・新開・片城、池田町、
③木田郡庵治村
④高松市
⑤丸亀市塩飽本島生之・尻()浜、
⑥丸亀市
⑦三豊市詫間町箱・室・仁老・大・栗島京・永・東風
⑤三豊市三野町浜・新

以前に甲州からやってきた西遷御家人の秋山氏が三野津湾で揚浜塩田を経営していた話をしましたが、このような背景があったことを押さえておきたいと思います。
 海民の陸上がりして定住したとみられる島々では、親方や支配者の家を除いて、財産も家屋敷も平均化していたのです。それが徹底して行なわれたのが岩国市の柱島のようです。それは、また別の機会に
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 宮本甞一    塩の民俗と生活 

   18世紀半ばすぎから19世紀初頭の半世紀で御手洗の人口は4倍に激増しています。
寛延元年(1748) 戸数 83
明和五年(1768) 戸数106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
明治5年(1872) 戸数369
そして、明治10年(1877)には400戸を越えています。このあたりが御手洗の繁栄のピークだったようです。そして明治20年代に入ると、戸数はしだいに減少に転じていきます。それは塩飽や小豆島など島嶼部の港が共通にたどる道です。
どうして、明治二〇年代に瀬戸内海の港町の勢いが失われていくのでしょうか。いくつかの要因がありますが
まず第1に考えられるのが鉄道の到来です。
 日清戦争の際に広島に大本営が置かれるのは、広島まで鉄道が延びていたからです。明治27年の日清戦争の開戦時には、鉄道が広島までやってきていたのです。これは輸送革命をもたらします。輸送手段の主役は、船から鉄道へと代わっていくことになります。人とモノの流れが変わります。芸予の人たちは、船で大阪に向かっていましたが山陽沿いに鉄道が走るようになると、尾道や三原に出て鉄道に乗るようになります。御手洗をはじめとする瀬戸の港町は「瀬戸内海という海のハイウエーのSA(サービスエリア)」の地位を、次第に追われるようになったようです。
 2つめは、ライバル港の登場です。
明治になると、御手洗の北側にある大崎上島の東をぬける航路が整備されます。この航路に沿って燈台建設などが進められ、そのルート沿いの木之江や鮒崎が御手洗のライバル港として現れます。それまで御手洗を中心に形成されていた商業圏が崩れ始めます。
3つめは、船の変化です。
7 機帆船

 明治後半になると、江戸時代以来の帆船に変わり機帆船の数が増えはじめます。この時代になると人もモノも鉄道に流れ、北前船の姿は消えます。瀬戸内海物流の主役は、石炭になります。北九州の石炭を大阪に運ぶ機帆船が多くなります。この船は御手洗に入港しますが、その積み荷の石炭を御手洗商人が買い入れて、地域で売るということはできません。御手洗商人の活躍の場が無くなったのです。
 また、機帆船は焼玉エンジンを積んだ動力船なので、それまでの帆船のように風待ち、潮待ちを重ねながら航海をするということはなくなります。目的地の大坂を目指して、御手洗を素通りしてしまう船が多くなります。それに加えて、先ほど行ったように大崎上島の木之江、鮒崎が寄港地として台頭します。減った船を、ライバル港と奪い合うよう状況になっていったようです。
 それまで、芸予諸島西部の商業圏を、江戸時代に広島藩の海駅だった下蒲刈島の三之瀬と御手洗が二分してきました。ところが大正時代にはいると、大崎上島の木之江がめざましい成長をとげ、御手洗の北部の商圏は木之江のものとなっていきます。 御手洗を中心とする経済圏が、次第に狭められていきます。

 4つめは、焼玉エンジンが海のストロー現象を引き起こします。
7 御手洗 焼玉g
動力船の一般化によって島の人々の線の行動範囲は、ぐーんと広がりました。尾道、竹原、今治などの大きなまちに、一日で往復できる時代がやってきたのです。島の人たちは、動力船に乗り合わせて「都会」に買物にでかけるようになります。動力船が普及する前は、手こぎ船で往復できる御手洗、三之瀬、木之江というまちが商圏でした。御手洗商圏を動力船が突き崩してしまったのです。近年の高速道路や新幹線が、お洒落な人たちを三宮や梅田まで買い物に出かけさせるようになったのと似ています。百年前のストロー現象が瀬戸内海で起きていたのです。
  「繁栄」を続けていたのは、御手洗のどの地区なのでしょうか?
当時の地籍図からそれが読みとれるようです。明治28年の地籍図には、地租徴税のために御手洗の10の町毎にの宅地評価ランクが1~5等で示されています。ここからは屋敷地の評価価値を読みとれます。評価が高い町は、活発な活動が行われていると考えられます。
 
7 御手洗 M28

 一等の黒い宅地部分はは、住吉町の海岸通りと相生町です。
住吉町は、江戸時代後期に新しい波止場築かれ、船宿、置屋のある歓楽街として賑わいをみせてきました。それが、帆船がまだ多かった明治二〇年代には、寄港する船乗り相手に賑わいを維持していたことがうかがえます。また、相生町は、御手洗の商業の中心地です。中継的商業が衰退しても、賑わいの「残照」が残っていたようです。

 二等の斜線部分は、蛭子町と、住吉町、榎町、天神町のI部です。
蛭子町は、住吉神社の前の波止場が出来る前までは、北前船の荷揚げ場の中心でした。そのため蛭子町は、相生町にも増して賑わいをみせたところと思われますが、この頃には多くの宅地が二等となっています。
   三等の格子状部分、常盤町に多く分布します。
常盤町は、今でも古い町並みを残す一角で、江戸時代のある時期までは、御手洗の商業の中心であったところでした。しかし、明治二〇年代には、相生町、蛭子町より等級は落ちています。かつての賑わいがなくなっていたことがうかがえます。
それでは、これが16年後の明治44年には、どう変化しているでしょうか?
明治44年版は、25ランクに細分化されています。しかし、一等の黒い部分が一番高く評価されている宅地であることに変化はないようです。
7 御手洗 M44
 前回の明治28年に一等だった住吉町は、一~三等の三ランクに区分されています。大東寺付近が一等で、南に行くと三等となるようです。しかし、住吉町がトップランクなの変わりないようです。石炭をはこぶ機帆船が主流になっても、船員たちは大坂からの帰路には、馴染みの女がいる住吉町に立ち寄る者は少なくなかったようです。
「好きなオナゴがおれば、わざわざその港に寄ったものです」
という船宿の主人の言葉が思い出されます。
 16年前は二等であった相生町は九等まで下がっています。蛭子町は、大部分が10等です。やはり、住吉町の色町の輝きは船乗りを引きつける魅力があったようです。
戦前の御手洗の「主力商品」は、なんだったのでしょうか?
7 御手洗 交易表

  一番下の昭和13年の輸入金額でみると、最も多いのは「弁甲」とあります。私は、最初は「鼈甲」と勘違いしていて、不思議に思っていたことがあります。弁甲とは、九州日向産の杉のことです。これが木造船には最もいい用材とされたようです。それが御手洗港の輸入取扱額の半分以上を占めます。丸太材も10%ありますので、6割は木材ということになります。輸出に至ると、「弁甲」は8割近くになります。
 明治には米の取扱が半分だったのが、主役は「弁甲」に代わっているのが分かります。この背景には何があったのでしょうか?
弁甲は宮崎から御手洗に送られてきて、ここから阪神地方へと送られていたようです。丸太材は宮崎、高知、徳島から御手洗にはいり、やはり阪神地方に運ばれています。
 瀬戸内海は、古くから「海民」の活躍の場であり、その機動力として多くの船が作られてきた土地柄です。御手洗の近くにも広島県倉橋島や岡山県牛窓などの船大工が集まり、船造りが盛んな所がありました。
 明治末期から大正時代にかけ、その船大工の伝統をもとに、大規模な造船地が生まれてきます。大正時代にはいると巨大な造船地帯を形成するようになり、第一次世界大戦の戦争景気ではおびただしい数の船が作られて、造船景気を生み出します。
 御手洗の港で弁甲が大量に取引されるようになったのも、芸予諸島の造船地帯の勃興が背景にあったようです。御手洗は、弁甲産地の宮崎と、主な需要地の阪神地方のほぼ中間に位置し、また、瀬戸内各地に造船地帯を背後に持ちます。そのことが御手洗を船材の中継地としての役割を持たせることになったと研究者は考えているようです。
 もちろんそこには、中継的商業の伝統のノウハウが御手洗に根づいていたこともあります。御手洗は大正時代に「北前船の米」から、「造船所で使う弁甲」の中継地へと転進したようです。
 しかし、これも木造船から鋼鉄船へと変わる時代がやって来ます。それに対応する術は、なかったようです。

 現在の御手洗で、約百年前の昭和初年からの商売を引き続いて行っている家は、10軒もないと言います。大きな変動の中で多くの人が、ここから出て行ったのです。
 御手洗のまちを歩くと、塗寵造りの商家の二階の格子窓をぶちぬき、物干し場をとりつけたり、表通りの倉庫が蜜柑納屋に変わっている光景がかつてはありました。商家の多くが仕舞屋に変わったばかりでなく、いつの頃からか町中にみかん農民が住みはじめたのです
 戦後、御手洗の商業がまったくふるわなくなると、人びとは家を空けて、他の土地に稼ぎに出かけ、そのまま出先に住みつく人が増えました。あるいは旅稼ぎに出かけず、店をしまったまま老後を御手洗ですごした人もいました。その家もいつしか代替わりをし、次の世代を受けつぐ者が、よその土地で暮らしをたてはじめます。そこで、その空家を買い取り、新たな人びとが御手洗の地に住みついていったのです。
 戦後、住民が交替した家を研究者が調べてみると、現在の212戸の中で、53戸までが大長出身者であったようです。大長集落は、「大長みかん」で有名なところです。かつては、「農船」(農耕船)で、周辺の無人島に出作りに出かけていました。その範囲は、芸予諸島のほか、呉市から竹原市にかけての山陽沿岸、菊間町から今治市にかけての四国地方までも及んでいたことがあります。
 大長みかんはブランド化され、みかん農家は豊かになりました。このため末子相続制のこの集落では、自立した長男たちが分家の際に御手洗の空家を手に入れるようになったのです。そのためかつては商家だった家屋に、みかん農家が入り、みかんの納屋が建てられているという姿が普通に見られたこともありました。
 何もなかった御手洗の浜に、潮待ち風待ちに入り込んだ船を相手に商売を始めたのも大長の人たちでした。社会変動の中で、人びとがまちをあとにした後に、かつての親村である大長から人々が入って行って住み始めるのを、先祖たちはどんな風に見ているのでしょうか。
 いろいろなよそ者がやってきたが、最後は地元の大長の者の手に帰ってきたと、苦笑いしているのかもしれません。
参考文献  廻船寄港地御手洗町の繁栄とそのなごり
                

広島県呉市「御手洗」は懐かしい故郷のような町並み | 広島県 | LINE ...
 江戸時代の街並みは、大火災に見舞われた経験をどこも持っています。御手洗のまちも、元文、宝暦、文政、天保と、四度の火災にみまわれているようです。なかでも宝暦九年(1759)宝暦の大火は、延焼が127世帯におよんでいます。全世帯が300軒余りでしたから半数近くの家が失われたことになります。この大火の後、まちでは年寄紋右衛門(柴屋)以下四名が、豊田郡代官所にあて、救助を願い出で次のような家屋再建の用材を求めています。
壹軒分諸入用左之通
柱八本 長貳間廻り壹尺六七寸
梁、桁六本 長貳間廻り壹尺六七寸
合掌、向差、角木、拾本 壹丈壹尺位
家なか、垂木、ゑつり、ぬいほこ 共大から竹三乗 貳尺五寸手抱
藁 三拾乗 五尺手抱
縄 貳乗半 三拾尋操
   ここからは火災後に、どのような構造の家が建てられたかが推察できると研究者は云います。
「壹軒分諸入用左之通」とありますので、一軒の家再建のために次の材料を用いるということなのでしょう。この材料を使って再建されたのは、二間四方の藁葺き家だったようです。
①柱八本 長貳間廻り壹尺六七寸
 梁、桁六本 長貳間廻り壹尺六七寸
 柱を一間間隔に四方にたて、柱の上に四本の桁と二本の梁をのせて木組みをした構造
②合掌とは、草屋根をささえる材、
③向差とは、妻側で草屋根をささえる材、
④角木は、家屋の四隅にわたして草笛根をささえる材
で、それぞれ、四本、二本、四本の計10本が必要です。
⑤家なか(屋中竹)は、合掌材の上にくくる竹。
⑥ゑつりは、藁の下地をなす桟竹
⑦ぬいほこは、藁をおさえる矛竹
⑧藁の量や縄の長さ 
ここからは、宝暦九年の大火で、更地になった跡地にあまり時をおかずに、御手洗商人たちは同規格の新たな家屋を一斉に新築していったことがうかがえます。一八世紀中期という時代は「戦後の高度経済瀬長期」と同じように、そんな再築方法が進められるだけの経済力と機運があった時代だったようです。

 今、常盤町に残る「妻入り本瓦葺き、塗寵造り」の家屋は、デザインだけでなく防火建築としても優れたものだと研究者たちは評価しています。それは「モデル住宅」を基準に、工法やデザインを共通にして建てられた建物群だからできたのではないかと研究者は考えているようです。常盤町では、古い土蔵をとりこわした際に、安永期(1772~80)の棟札が出てきたそうです。その頃には、すでに主屋の再建が一段落し、土蔵を建てる時代に移っていたのかもしれません。
 瀬戸内海の港町を歩くと「妻入り本瓦葺き塗寵造り」の町屋建築物がその「街並みの顔」となっている姿をよく見かけます。この建築様式は、18世期中期に確立されたと云われます。御手洗に今日に残る町並みも、
①宝暦の大火の後に、二間四方の藁葺き建物群が再建された
②その後、安永期にかけて現在のタイプに再建された
と研究者は考えているようです。それは
「御手洗の商人が、中継的商業を興しながら財力を築き、その力をもって生み出した町並み」
であるようです。

19世紀はじめの御手洗の人たちの職業は?
文政二年(1819)の「国郡志御編集下弾書出し帳」には、次のように記します。
当村町形勢気候民戸産業之事(前略)
御手洗町之儀者
問屋中買店商  三歩(3割)
船宿客屋風呂等焚キ渡世仕候もの三歩(3割)
農業並びに船抄日雇中背相混シ渡世仕候もの四歩(4割)
つまり、①問屋仲買人が3割  ②船宿・風呂屋が3割 ③農業と日雇い4割  という職業構成だったようです。当時、大長村と御手洗町をあわせた家数は、736軒。うち百姓481軒、社人2軒、医者4軒、町人118軒、職人13軒、浮過(日雇い)118軒とあります。百姓は大長に住んでいたので、
736軒 - 百姓481軒= 255軒
が御手洗の戸数と考えられます。そして、その3割が商人であり、日雇い無産階級の人々と同数であったということになります。
 三割を占める問屋、仲買、店商いは、どのような品物をあつかっていたのでしょうか?
  穀物 あいもの 荒物 小間物 酒 塩 薪 茶 味噌 醤油 酢 油 粕 蝋燭 呉服類 木綿 綿 紙 章汗子 銘酒 瀬戸物 琉球芋 桃 柿 諸茸類、金物細工もの類 野菜類 かう類
 以上の29品目です。主力商品は穀物(米)でした。3月から8月までは北国登りの廻船をを扱い、日本海の荒れはじめる9月から翌年の2月には、伊予、中国、九州の米穀を扱っていたようです。
  この頃には、御手洗は周辺の島々の商圏の中心地になっていました。そのため周囲の米需要を御手洗の米穀問屋が引きうけていたようです。芸予諸島の耕地は、水田耕作をするところが少なく、江戸時代は、麦や甘藷の栽培が主流でした。この畑は明治期を迎えると桃や蜜柑等の果樹園に変わり、以後も水田となることはありませんでした。そのため、島じまでは裕福な人たちは、御手洗商人から米を買っていたようです。寄港する船が購入する米も、少なくはなかったのでしょう。御手洗には、米の小売業を営む者が戦前まで多かったようです。
 小間物屋が多いのも、この町の特徴ですが遊女屋の女性たちの需要があったようです。船宿、客屋、風呂屋等については、次のように記します。
   茶屋については、
(前略)右遊女平常勤方之儀者、昼者かりと唱宿屋或者船杯ヘモ遊二参り申候、夜分者暮合頃より夜店ヲ出し時節流行之唱歌ヲ唱ひ三味線小弓杯ひき 四つ時限り夜店相仕舞申候
とあり、夜昼となく賑わいをみせていた様子がうかがえます。室町時代に、外交使節団長としてやってきた李氏朝鮮の儒学者が
「日本の港では、昼間から遊女が客を町中でひいている」
と、おどろいていましたが、時は経っても変わらない光景が日本にはあったようです。
   風呂屋については
 風呂屋之儀者貸座敷と中懸ヶ行燈ヲ出し 遊女芸子等すすめ候儀二御座候
とあり、風呂屋が貸座敷となり、客に遊女をすすめていたようです。
前回もお話ししましたが船乗りたちは船宿に到着すると茶湯の接待を受けた後,風呂に入り酒宴に興じます。この時に馴染みの女性が湯女として世話し、宴会にも侍ります。船宿に泊まるのは原則は船頭だけでしたが、船員の中には「ベッピン」と呼ばれる芸娼妓を伴い,船宿や旅館で一夜を共にすることも少なくなかったようです。置屋は,こうした芸娼妓たちの居住の場でした。芸娼妓たちは,置屋から船宿や料理屋へ出張したり,おちょろ船に乗って沖に出たりするだけでなく,置屋へ客を引き入れる場合もあったと云います。これらの業種は, 千砂子波止に近い築地通り沿いの住吉町にあったのです。住吉神社が姿を現して以後は、ここが御手洗の歓楽街だったようです。
   舟稼ぎ、旦雇、中背(沖仲仕)等については記載がありません
 船の荷物の積み卸しなどの作業には港湾労働者が必要です。彼ら「無産階級」が戸数の4割を占めていたことにも注意しておく必要があります。御手洗に来れば稼ぎ口があり、よそからの参入者を受けいれる土地柄であったのです。当然、人口流動性も高くなります。
7 御手洗 8北
  千砂子波止と住吉神社の出現が御手洗に何をもたらしたのか・
 19世紀になると御手洗には、北前船や各藩の廻船と共に、仲買商人や文人墨客など、沢山の船や人が集まる様になりました。そんな中でこの港の課題として浮かび上がってきたのが、港入口の岩礁の存在です。ここが難所となり、船を傷つけることがあったようです。そこで、幕府は広島藩に指示し、千砂子波止の着工を命じます。難工事の末、文政12年(1829)に完成した石造りの波止場は、当時「日本一無双の大波止」として、全国の船乗りに知られるようになります。
7 御手洗 波止場98北

 これの波止場の完成を契機に御手洗港は、ますます北前船が立ち寄るようになり、多くの物資が集まる巨大な経済圏の中心になっていきます。 この波止場の完成を記念して、広島藩はこの波止場に住吉神社の勧進建立計画を作成します。そして、有力者に神社建設の寄進の話を持ちかけるのです。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

住吉神社の建立資金を出したのは、だれなのでしょうか?
広島藩の勘定奉行が話を持ち込んだのは、藩の蔵本で大坂商人の鴻池善右衛門でした。善右衛門は、即座に社殿の寄付を申し出ます。彼の頭の中の算盤には、御手洗の巨大な商圏を手中に収めておこうという算段があったのかもしれません。御手洗の経済規模は、それだけの投資をしても惜しくないものに成長していたのです。
  こうして造営は、鴻池家の寄進によって進められることになります。社殿寄付の話がまとまると、天保元年(1830)年5月から境内の埋め立てが始まります。 工事の材料入手や夫役が「波止鎮守社住吉大神宮寄進帳」に詳しく残されています。
 埋め立てに先だって海辺に長さ30間の石垣が築かれます。石垣のために1446石の石が付近の村から寄進されています。寄進したのは予州北浦、御調郡鰯島、安芸郡坂村、安芸郡呉村、瀬戸田村、大長村、大河原田村などの有力者30名です。船で、御手洗に運ばれてきたのでしょう。
 次に、埋立作業の人夫のことが記されます。
付近の東野村、沖浦村、中野村、明石方村、原田村、大串村、大長村、豊島村、久比村、大浜村、斎島の島じまの庄屋が世話方になり千人を超える人夫が集められ工事が始まります。さらには、芸予諸島以外の山陽側の田万里村、小阪村、七宝村、竹仁村、小泉村の庄屋も世話方となり、工事に力をかし、人夫を送り込んできます。御手洗の商圏エリアの有力庄屋たちが協力していることがうかがえます。   
 そして、地固めの際には茶屋の遊女が総出で繰り出し、華やかな踊りを披露して、港は祭り気分に湧きたったようです。その姿をひと目見ようと、近在近郷より見物入が舟を仕立てて群をなしてやってきたと記されています。新しい港の完成と、その守り神となる住吉神社の勧進事業は、一大イヴェントに仕立てられていきます。人を呼び込むことが、港町や門前町の必須課題なのです。
  海が埋め立てられ造成されると、上棟式が行なわれます。
鴻池氏の寄進になる社殿の材は、大阪から積み出されて船で御手洗に運ばれました。同時に、大工棟梁、金具屋、屋根屋も大阪からやって来ます。波止ができ、その鎮守の住吉神社が姿を現すようになると、住吉町は御手洗の新しい表玄関となります。次々に家が建ちはじめ、紅燈あでやかな町並みが出来ていきます。この海沿いの街に建ち並んだのは、船宿と置屋だったといいます。この街並みには住吉神社の由来から住吉町と呼ばれるようになります。
  現在の住吉神社を訪ねて、その歴史を感じてみましょう
 住吉神社は御手洗の斎灘を眼前にひかえた街の南端に鎮座しています。
呉市豊町御手洗住吉町 船宿cafe若長 - 大之木ダイモ|広島、呉の ...

この境内には創建時の奉納物が数多く残されています。大坂の鴻池家により建立されたという歴史から大坂と関係したものが多いようです。まず、迎えてくれるのは境内入口に高くそびえる石造高燈寵です。これには「太平夜景」と刻まれ、天保三年(1832)、金子忠左衛門、男十郎右衛門と寄進者の名が記されています。この金子氏は、三笠屋を屋号とする御手洗の庄屋です。
 境内入口にかかる太鼓橋は、もとは木造でした。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

それを明治43年に、鞆田幸七、今田愛兵衛の寄進により、伊予の今治から石工を呼び寄せて石造りに改修しています。
 鳥居は、文政13年(1830)、大阪の和島屋作兵衛が寄進したものを、大正2年、「住吉燥浜組合」が世話人となり改修しています。
7 御手洗住吉神社3
 拝殿の前に建つ一対の狛犬には、天保4年(1833)若胡屋亀女と刻まれています。御手洗で最大の勢力を誇った遊女屋からの奉納物です。手水鉢には、文政一三年大坂岩井屋仁兵衛と寄進者の名が刻まれています。
 参道両側に建ち並ぶ30基余りの常夜燈もみごとです。
その中で、鳥居前のひときわ目立つ位置におかれた常夜燈は、文政13年多田勘右衛門が尾道の石工に刻ませたものです。多田家は、竹原屋を屋号とする御手洗の年寄を勤めた家です。ほかの常夜燈にも寄進者の名が刻まれています。その中には大阪からの海部屋、和島屋、岩片、竹雌唯、町波屋、河内屋、住吉屋、姫路屋などからの奉納があります。九州延岡の石見屋からも寄進も混じっているようです。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

 境内をとり囲む玉垣も住吉神社造営の時につくられたものです。
そこには多くの御手洗商人の名と共に、若胡屋、堺屋、扇屋内何某と遊女の源氏名もあります。住吉神社造営にあたり、彼女たちが競い合うように寄付をしているのが分かります。売られて来た身の行く末を案じて、神仏にすがることが唯一よりどころだったのかもしれません。
7 御手洗住吉神社5

しかし、この港の色町は「遊郭」とは、云えないと考える研究者もいるようです。
特に19世紀になって現れた住吉街は,千砂子波止の目の前に現れた歓楽街ですが、ここには「廓」がありません。女たちの生活と地域住民の間に垣根がないのです。地域住民と芸娼妓,船乗りが同じ、商店や施設を利用していました。大崎下島の若い男性が芸娼妓と懇意にしたり,芸娼妓が「地域住民の一員」として祭礼や運動会へ参加したりして、人的交流もあったといいます。これは「廓」に囲まれた遊郭とは、性格を異にします。女たちが地域に溶け込んでいたのが御手洗のひとつの特徴と云えるのかもしれません。

 19世紀初めに姿を現した新しい波止場と、その守護神である住吉神社の勧進は新しい御手洗の玄関口となりました。そして、その海沿いには歓楽街が姿を現したのです。そして、この歓楽街は機帆船の時代になっても生き残り、戦後の買収禁止法が出来るまで生きながらえていくことになります。
以上をまとめておくと
①17世紀末に埋立地に新しく常葉町が作られた。
②しかし、宝暦の大火で焼け野原になってしまった
③復興計画により同一規格の家屋が常葉町には並んで建った
④そして、この町が新しい御手洗の中心商店街となっていく
⑤18世紀初頭に新しい波止場と住吉神社が建立された
⑥そこは新しい玄関口として機能し、周辺は歓楽街となった
⑦そして、御手洗で最も最後まで活気がある場所として戦後まで存続した。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 港町御手洗の歴史一昭和33年(1958) 以前
年次
寛文 6年(1666)  御手洗への移住開始
延宝 (1673~8 1) 大長村から 18軒の商人が移住
貞享 2年(1685) 島外から商人が移住する
     4年(1707) 小倉から勧請した恵比寿神社を建て替える。
正徳 3年(1713) 町年寄役が設置される。
事保 2年(1717) 弁天~蛭子海岸線の埋め立て開始する。
事保 9年(1724) 若胡屋が広島藩から営業免許を受ける。
延享 2年(1745) 船燥場(ふなたでば)を設遣
:      年(1759)   大火が発生。
文政11年(1828) 広島藩が新たに市街地の開発を計画
文政13年(1830) 大波止ができる。大坂商人・鴻池善右衛門(広島藩蔵元)らが住吉神社を寄進
明治20年 (1887) 飛地交換分合により,大長村から独立
明治22年 (1889) 市制・町村寄せの施行で御手洗町となる。
大正 2年 (1913) 御手洗~尾道間の定期旅客線が就航
昭和33年 (1958)   売春紡止法の施行により,置屋業が廃業

旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

  御手洗が発展期を迎えたのは、18世紀半ばすぎの寛延から19世紀初頭の享和期にかけてのようです。
寛延元年(1748) 戸数 83
明和五年(1768) 戸数106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
   御手洗の戸数は、この半世紀で四倍近くに激増しています。
  シルクロード沿線のオアシス都市では、やってくるキャラバン隊商隊の数と、その都市の経済力は比例関係にあるといわれます。そのためオアシス都市は宿泊場所やサライ(市場)などの設備投資を怠りませんでした。一方、キャラバン隊へのサービスも充実させていきます。その中にお風呂や娼婦を提供する宿も含まれました。キャラバン隊に嫌われた中継都市は滅びるのです。
 この時代の瀬戸内海の港町にも同じような圧力がかかっていたように私には思えます。港町は廻船を引きつけるためにあの手この手の戦略を練ります。廻船への「客引きサービス合戦」が激化していたのです。その中で、御手洗は新しい港町でネームバリューもありません。沖往く船を引きつけ、船員たちをこの港に上陸させるための秘策が練られます。その対策のひとつが「茶屋・遊女屋」設置だったようです。この申請に対して、広島藩は許可します。
日本の町並み遺産
 そして若胡屋、堺屋、藤屋、海老屋の4軒に許可が下り、遊女屋が開かれることになります。
文政二年(1819)の「国郡志御編集下弾書出し帳」によると、
①若胡屋              40人
②堺屋(酒井屋)、藤屋(富土屋)  20人
③海老屋(のち千歳屋)       15人
の遊女を抱えていたと記されています。4軒あわせると百名ちかいの遊女がいたようです。
どんな人たちが遊女屋を開いたのでしょうか?
文化12年(1815)ころの町の記録「町用覚」に次のように記されています。
 若胡屋の元祖は権左衛門といへるものにて広嶋中の棚にありて魚の店を業とするものなりしに、いかなるゆへにや知か上ノ関二住居し、上ノ関にてはめんるい屋の株なりしよし、享保の頃より茶屋子供をつれ船後家の商売をいとなミ此湊にかよひ得意をもとめなしミをかさねしに、かねて船宿をたのミし肥前屋善六といへるものの世話となり小家をかり見せ(仮店)なと出し、いつしか此所の帳に入り住人とハなりぬ(後略)
  ここからは、次のようなことが分かります。
①若胡屋はもともとは広島城下で魚屋を営業していた海に関係ある一族のようです
②いつの頃からか上関(周防)に住み、めんるい屋の株を持って営業するようになった
③それが享保の頃に、御手洗にやって来て「船後家(?)」を営むようになった
④その後、土地の船宿の世話で陸に上がり、小家を仮店舗としてこの土地の者として登録されてるようになった。
分からないのは「茶屋子供をつれ船後家の商売」です。今は触れず後に廻します。「此の所の帳に入る」とは、正式にこの町の住人になったということのようです。
御手洗町並み保存地区 呉市豊町御手洗 | ツーリング神社巡り 狛犬 ...
もうひとつの桜屋を見てみましょう
 堺屋が御手洗に来たのは、若胡屋に少し遅れたころのようです。
 堺屋は安芸郡蒲刈の茶屋なりしか、延享寛延の頃より若胡屋に等しく此湊へ船にて後家商ひしか、陸にあかり蒲刈へかへりて正月年礼なとして此所へ来りたる事旧式たりしか、亭主増蔵栄介ふたりとも打つりきて不仕合して難渋にせまり一跡かまかり、引取しかいよく極難に降して公借なと多くなり蒲刈の手を放しきり寛政の頃至り此所へ入帳して本住居となりぬ
 意訳整理すると
① 堺屋は蒲刈(三の瀬?)の茶屋であったが延享寛延の頃に若胡屋と同じように、この港で船の「後家商い」を行うようになった。
②御手洗に出店しても40年ほどの間は、御手洗へ「住人登録」せず、正月と盆には郷里の蒲刈に帰って行事を済ませ、再び御手洗に稼ぎに来るといった形をとっていた。
③その後、御手洗に移住したが、不都合な事件に出会い難渋し、ついには蒲刈の商売を手放し、正式に御手洗の住人となった。
お知らせ: HPA・Photo・ワークス
御手洗の沖に停泊する廻船 
 若胡屋、堺屋が商売としていた「船後家」とは?
 沖に碇泊する船に小舟を漕ぎ寄せ、船乗りの身のまわりの世話や、衣服のつくろいから洗濯など一切を行ない、夜は「一夜妻」として伽をつとめるものです。どうも藩の公認以前から「後家商い」船を使ってやっていたことになります。桜屋の場合は、蒲刈から出張してきていたものが御手洗を拠点にするようになります。そしていつの間にか「陸上がり」して、人別帳に登録される正規の住人になっていたようです。面白いのは、船に女たちを載せて、よその港町に出かけ、そこに出店をもうけて、やがては住みつくという方法は、どこか「家船(えしま)漁民」に似ている感じがします。この「漂泊」は「海の民の」の子孫の姿かもしれません。彼らは、御手洗を拠点としてからも、鞆、尾道、宮島、大三島などさかんに出向いている記録が残っています。
花街ぞめき Kagaizomeki
  何のために女たちを船に積んで、港に移動していたのでしょうか
鞆、尾道、宮島、大三島に共通するのは、どこも大きな社寺があります。その祭礼の賑わいをあてこんで船で出稼ぎに行ったようです。船さえあればどこにでも行くことができ、商売もできたのです。

 四国伊予の大洲藩の船宿の建物が今も住吉町に残っています。
子孫の木村氏は、今から半世紀前に船宿のことについて、次のように語っています。
船宿の暮らしは、海を眺めているのが商売でした。沖になじみの船が見えると、まずは風呂を沸かします。風呂といっても、浴槽に狭い五衛門風呂です。船宿の主人が伝馬船に乗り、沖の船を出迎えに行きます。その時の挨拶は「風呂が沸いたけえ、おいでてつかあさい」というのが決まり文句でした。
 沖に碇泊する船の乗組員には、豆腐を手土産にするならわしでした。豆腐は、味噌汁の具とするものでしたが、船乗りは、豆腐が時化よけにきくと信じていました。
 船乗りが宿に着くと、茶湯の接待が行なわれます。宿の主人は、まずは船乗りに航海の労をねぎらいます。一休みすると、船乗りたちが風呂に入り、潮風にさらされた身体を流します。このとき置屋から遊女がかけつけてきます。遊女は、湯女として船乗りの背中を流します。
 港が夕闇につつまれると、酒宴がはじまります。船乗りのもとには、なじみの遊女がはべり、三味や太鼓もにぎやかに夜がふけるまで、宴がつづきました。戦前までの住吉町は、今日の姿からは想像のできないほどの賑わいがあり、夜ふけでも灯の消えた家は一軒もなく、船宿では大戸をおろすこともありませんでした。
 宴が終わると、船乗りたちはそれぞれ船に帰っていきます。
船頭のみが船宿で寝泊りします。次の朝、船頭は船宿に祝儀をおいて船に戻っていきます。祝儀の額については、定まった額はありません。船頭の心付けといった程度でした。船宿の収入のほとんどは、夜の飲食の代金でまかなわれていました。
「好きなオナゴがおれば、わざわざその港に寄ったものです」船宿を営んだ木村さんはそう話しています。
おちょろ船 御手洗 大崎上島

 先ほど話したように、港が繁栄するためには、あの手、この手で沖往く船を引きつける必要があったことを改めて知ります。
この話から分かることは
①船宿は、お風呂と宴会の場を提供するだけで、船員は泊まらない。泊まるのは船頭だけ
②船宿の収入の夜の飲食の代金でまかなわれていた。
③置屋から遊女が呼ばれいろいろな世話をした
④遊女たちが船を引きつける大きな役割を果たしていた
  おちょろ船 御手洗 大崎上島
 同じ頃の讃岐を見ると、次のようなことがおこなわれていた頃です。
①上方からの金比羅詣で客を迎えるためのに丸亀新港建設
②九州方面からの金比羅詣客の受入のための多度津新港建設
③金毘羅大権現の金丸座の建設と富くじ、歌舞伎上演
備讃瀬戸と芸予諸島の間には共通する「事件」が起きていたことが分かります。そして、瀬戸内海の物流は明治に向けて、さらに発展していくのです。

7 御手洗 ti北

 御手洗は、江戸時代になって新たに開かれた港町です。
近くには下蒲刈島に三の瀬という中世以来の有力な港町があります。それなのにどうして一軒の家もなかった所に、新しい港が短期間に姿を現したのでしょうか。
   それは、航海技術の進歩と船の大型化、そして御手洗の置かれたロケーションにあるようです。瀬戸内海航路は、中世まではほとんどが陸地に沿って航行する「地乗り」でした。現在のように出発港から目的港まで、どこにも寄港せずに一気に航海するようなことはありません。潮待ち、風待ちをしながらいくつもの港町に立ち寄りながらの航海でした。
   例えばそれまでの地乗り航路は
7 御手洗 航路ti北
①伊予津和地島から安芸の海域に入り、
②倉橋島南端の鹿老渡(かろうど)を経て
③下蒲刈島三之瀬に寄港し、
④豊田灘にはいって山陽沿岸を、竹原、三原、尾道と通って鞆へ
と進むルートが一般的でした。
 ところが、以前お話ししたように朝鮮出兵の際に軍船として用いられてた「関船」の「水押」などの造船技術が民間の廻船にも使われるようになります。今風にいうと「軍事先端技術の民間への導入」ということになるのでしょうか。また、船頭の航海技術も一気に上がります。それが北前船の登場につながるのです。腕の良い船頭の中には、それまでの潮待ち、風待ちの「ちまちま」した航海から、大崎下島の沖の斎灘を一気に走り抜けていく航路を選ぶようになったのです。これを「沖乗り」というようになります。
風待ちの港、御手洗
赤が地乗り、黄色が沖乗り航路
 沖乗りルートは
①倉橋島から斎灘を一気に渡り
②伊予大三島と伯方島にはさまれた鼻栗瀬戸をぬけ
③岩城島、弓削島を経て鞆へ
向かいます。倉橋島から大三島にかけての斎灘には、多くの島が浮かんでいます。西から下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島(以上広島県)、岡村島、小大下島、大下島(愛媛県)ですが、これらの島じまの南岸をみると、直接南風をうけるため天然の良港はなく、集落もほとんどありませんでした。それまでの多くの集落は、小島にはさまれた瀬戸にのぞんで風当たりの少ないところを選んでつくられていました。しかし、小島にはさまれた瀬戸の多くは、潮の流れが速く、上げ潮や引き潮のときは、繋船ができないほどの沿岸流が流れます。斎灘から豊田灘にかけては、北東方向に潮の流れがあり、ほとんどの瀬戸は、斎灘から北東方向を向いてぬけています。そのため大型船が湊に入ったり、係留するには不向きでした。

御手洗 (呉市) - Wikiwand
 ところが、大崎下島と岡村島にはさまれた御手洗水道は、斎灘から北西方向にぬけているのです。それに加えて御手洗水道の北には、現在は橋で結ばれている中島、平羅島、初島が並んで浮かび、潮流や風をふせぐ防波堤の役割を果たしてくれます。そのため、この瀬戸は潮の流れがゆるやかでした。大崎下島の東岸の岬の内側にある御手洗が船着場として注目されるようになったのは、そうした自然条件があったからのようです。
 沖乗りの大型船が、この海峡に入り込むようになったのは、江戸時代になってからです。
 大崎下島では、寛永一五年(1638)、安芸藩による「地詰」が行なわれています。地詰とは非公式な検地のことで、地詰帳によると御手洗地区には、
田が二町二反五畝一八歩
畠が六町四反二畝九歩、
あわせて八町六反七畝二七歩の耕地
が記録されています。しかし、屋敷は一軒も記録されていません。近くの大長や沖友の農民が、出作りの耕地として所有していたようです。 
 御手洗に屋敷割り記録が残るのは寛文六年(1666)からです。
 幕命をうけた河村瑞賢が西回り航路を開く少し前になります。しだいに北前舟の沖往く船の数が増え、なかには潮待ち、風待ちのために寄港する船も出てくるようになります。それを目あてに、大長や沖友など周辺の人びとが移り住み、にわかにまちが形づくられたようです。御手洗の屋敷割りは、制度的には寛文六年(1666)ということになっていますが、それよりも早く人々が集まり住むようになっていたようです。それは、港町といっても小さなものだったでしょう。
広島藩の藩の保護育成政策を受けた御手洗
当時は、農地をつぶして屋敷地にすることは禁止されていましたが、御手洗は特別に許されていたようです。また、海を埋め立てて屋敷をつくることも行なわれています。しかも、地子免除であったようです。ここからは広島藩が、新興港町・御手洗に人びとが移り住むことを奨励していたことがうかがえます。
御手洗の戸数が記録にあらわれるのは、それから80年後で
寛延元年(1748) 戸数83
明和五年(1768) 人家106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
   と18世紀後半の半世紀で御手洗の戸数、人口は四倍近くに増加します。そこで藩は、文化五(1808)年に、御手洗の大長村からの分離独立を行い、新たに町庄屋が任命します。
 斎灘に浮かぶ芸予賭島でそれまで広島藩の重視してきた港は、下蒲刈島にある三之瀬でした。

三之瀬は、広島城下の南東30㎞に位置し、ここに番所を設け用船を常備し、船頭、水夫をおいて公用に備えていました。御手洗は、城下から約45キロ離れ、伊予境に近くにあるために不便と考えられたのか、最後まで番所が設けられることはありませんでした。それが御手洗に「自由」な発展をもたらしたのかも知れません。
 御手洗のまちを歩いてみましょう。
 御手洗は、斎灘につきだした小さな岬の周囲をぐるりととりまく形で町並みがひろがっています。船が桟橋に近づくと、岬の先端に、海に向かって建てられた石鳥居が目に入ってきます。
  蛭子神社の鳥居です。
港町 | ShimaPro BLOG
明治22年の再建で、沖からのランドマークの役割を果たしていました。まずは、やってきた報告と新しい出会いを祈念して蛭子神社に向かいます。境内は、樹木もなく瀬戸の潮風が吹きぬける海辺の社といった印象です。入母屋造り瓦葺きの社殿が迎えてくれます。
境内には、一対の常夜燈を除いて古い奉納物はありません。この常夜燈は、寛政元年(1789)、御手洗で遊女屋を営む若胡屋権左衛門と、商人新屋定蔵・吉左衛門が尾道の石工につくらせて寄進したことが銘文に刻まれています。
御手洗(蛭子神社)「チョロは出て行く」の案内板 | 古今東西散歩
 蛭子神社は、御手洗の商人が篤い信仰を寄せた社であったようです。この神社がいつ創建されたかは分かりませんが「九州の小倉から勧請されたもの」と伝えられるようです。創建当初は、梁行二尺五寸、桁行三尺五寸の柿葺きの小さな祠であったと云います。
 まちの発展に歩調を合わすように社殿は改修がくりかえされ、境内が整えられていきます。記録にあらわれる最初は、宝永四年(1707)で、御手洗に町年寄がおかれたのを祝うかのように姿を現します。以後、次のように定期的な改修が行われます。
元文四年(1739)本殿の前に拝殿がつくられた。
明和四年(1764)その拝殿が新たに建て替えられる。
安永八年(1779)社殿屋根が瓦葺きに葺き替えられる。
このように改修が行なわれたのは、御手洗の港が発展し、商人たちの「資本蓄積」が行われたことが背景にあるのでしょう。
 蛭子神社の西には弁天様を祀った尾根筋が海に向かってのびています。この二つの山の鼻にはさまれたところに、天満宮が鎮座しています。ここは背後の山が谷をつくるところで地下水脈に恵まれたところです。境内には、古い井戸が掘られています。瀬戸内海を行く交易船が昔から港に求めたものは、まずはきれいな水です。絶えることのない泉があることが必須条件です。ここから南にある荒神様も窪地となり、いくつかの井戸があります。このふたつのエリアが、御手洗が港として開発される際のチェックポイントだったのでしょう。
御手洗の10の町筋について  
7 御手洗地図1
御手洗には、複雑に入りくんだ細い路地がいく本もめぐらされ、まちが形づくられています。町名を挙げると大浦、弁天町、上町、天神町、常盤町、相生町、蛭子町、榎町、住吉町、富永町の10町になるようです。
 それらのまちの表情は、それぞれ少しずつ違っています。
西方の大浦から見て行きましょう
大浦は明治中期までは、町外れで人家が三軒しかないさびし所い所だったようです。後に海岸を埋め立て家々が建ち、今日では隣の弁天町と町並みつづきになっています。かつてはここには「貯木場」があったようで、造船材をたくさん浮かべてあったと云いますが、今はその面影もありません。
  大浦の隣の弁天町は、弁財天が祀られている山の鼻付近にひろがるまちです
弁天社本殿は、間口四尺、奥行三尺程のトタン屋根の小さなな祠です。境内には材木問屋大島良造奉納の鳥居が建ち、須賀造船所奉納の手水鉢がおかれています。寄進者から海にゆかりの人びとに信仰された社なんだなと勝手に想像します。この弁天社がいつ創建されたかは分かりません。しかし、現在地に移されたのは、文化年間(1804~18年の約2百年前のことで、庄屋柴屋種次が境内地と材料を寄進して建てたものと伝えられています。
漁師が住んでいた弁天町の長屋
 今の状態からは想像しにくいのですが弁天社の地先は、もともとは海に突き出した埋め立て地でした。そして海際から奥に続く道幅二間程の細い街路には、軒が低くたれこめた長屋が並んでいたようです。長屋一戸分の間口は三間半で、なかにはそれをさらに半分に仕切った家もありました。屋敷の奥行は、六間半余りです。長屋の建物は、四間半の奥行で、いずれも裏に一間ほどの庭があり、さらにその後に奥行一間余りの納屋があります。ここには、どんな人が住んでいたのでしょうか?
 この弁天様の先の突き出した埋立地には、漁民が住んでいたと云います。御手洗は、港でありながら漁民の数は少なかったようです。それは、この港の成立背景を思い出せば分かります。何もないところに、入港する大型船へのサービス提供のために開かれた港です。漁師はもともとはいないのです。港の人口が増えるにつれて、魚を供給するために漁民が後からやって来たのです。まちのはずれの土地を埋め立て、そこに漁民が住みついたのです。漁師が活動していた港が発展した町ではないのです。ここでは後からやって来た漁師は長屋暮らしです。
7 御手洗 北川家2
   弁天様から天満宮へつながる道筋沿いの町が上町です。
 ここには、平入り本瓦葺き塗寵造りの昔ながらの町家が何軒か残っています。しかし、壁はくずれおちています。大半は「仕舞屋(しもたや)」です。辞書で引くと「1 商店でない、普通の家。2 もと商店をしていたが、今はやめた裕福な家」と出てきます。この町筋に商家はありませんが町並みや街路の様子から早い時期につくられたまちだと研究者は考えているようです。御手洗はこのあたりから次第に開けていったようです。いわば御手洗の「元町」でしょうか。

 天満宮がこの地に移されたのは、神仏分離後の明治四年のことのようです。

それまでは、満舟寺境内に三社堂があり、そこに菅原道真像が祀られていたようです。神仏分離で
明治初年に、この地に天満宮の小祠が建てられ菅原道真像が移され
大正六年に、今の社殿が建てられたようです。

 先述したようにここが「御手洗(みたらい)の地名発祥の地といわれるのは、きれいな湧き水があったからでしょう。そのため、ここに港町がつくられる際に、まず人家が建てられたのもこの周辺だったと研究者は考えているようです。
天神町には、瓦葺きの白壁のあざやかな御手洗会館が建っています。
日本の町並み遺産

今は公民館としてつかわれているようですが、この建物は「若胡屋」という御手洗で最も大きな遊女屋の建物を改造したものです。御手洗会館の前には、やはり白壁造りの長屋門を構えた邸宅があります。
豊町御手洗の旧金子家住宅の公開 - 呉市ホームページ
これが、御手洗の庄屋を勤めた金子家の屋敷です。このようなモニュメント的な建物が並んでいることからも、天神町が、かつての御手洗の中心であったと研究者は考えているようです。
 天神町から御手洗郵便局の角を左に折れると常盤町です。
ここは、古い町並みが一番残っている町です。妻入り本瓦葺き塗寵造りの家が軒を連ねています
①もと酒・米穀問屋を営んだ北川哲夫家
②金物屋の菊本クマヨ家
③醤油醸造を行なう北川馨家
などは御手洗商人の家構えをよく残しています。
御手洗街並みレポート

 上町と天神町が、自然の地形を利用して山麓に街並みが作られているのに対して、常盤町はどちらかというと人工的なまち並みのイメージがします。ある時代、海を埋め立てて作られた街並みではないかと研究者は考えているようです。そのため、屋敷は街路に沿って整然と区画されています。町家も、同じ時期に一斉につくられたようで、よく似た規模とデザインです。御手洗が港町として繁栄の頂点にあった時に、今までの街並みでは手狭になって埋め立てが行われ、そこに競い合うように大きな屋敷が建てられたというストーリーが描けます。そして、それまでの古い町筋の上町や、天神町に代わって、常盤町が御手洗のセンターストリートになっていったようです。
   常盤町から海に向かって三本の小路がのびています。
①旧大島薬局横の小路はやや道幅が広く、小路に沿って人家が並んでいます。ここには古い木造洋館を利用した旅館などもあり、昭和初期の港町の雰囲気が残ります。
②北川哲夫家の左右にある小路は、杉の焼板を腰壁とした土壁の建物がつづいています。港とともに繁栄をきわめた商家の屋敷構えが、小路の景観にあらわれています。
 御手洗郵便局から蛭子神社に向かう道筋が相生町です。
ここは本通りと呼ばれ、明治、大正、昭和初期にかけて、御手洗の商業の中心として賑わいをみせた通りです。この町の町家の多くは、繁盛した大正から昭和初期にかけて建て替えられたようで、、総二階建て、棟の高い家屋が多いようです。
 目印になる昌文堂は、もとは、酒・醤油の小売りをしていた家でした。それが明治42年に、本屋と新聞店として開業し、この港町に新しい時代の息吹きを伝えました。この店は、大崎下島唯一の書店で、戦前までは下島から大崎上島まで、教科書の販売独占権を持っていました。そのため店先には「国定教科書取次販売所」とケヤキ板に墨書きした古めかしい看板が、掲げられていました。
 昌文堂の三軒隣の新光堂は、時計を形どった看版が目印です。

明治
17年に神戸で時計修理の技術を修得した松浦氏が、船員が数多く立ち寄るこのまちで店をひらき、珍しかった時計を売りはじめます。時代の最先端の時計を売ることが出来る豊かさがこの港はあったのです。このように相生町は、常盤町と同時代に新しく御手洗の商業の中心地となった街並みのようです。
 ところで相生町には、伝統的な町家は二軒しか残っていません。どうしてでしょうか? 
それは、このまちが御手洗の商業地として賑わい、資本蓄積が行われ、それにともない建替えがくりかえされてきたためだと研究者は考えているようです。都会でも資本力のある店は、早め早めに店を建て替えて、お客を引きつけようとします。そのため有力な商店街に、古い建物は残りません。逆説的に云うと
「建て替えるお金がないところに古い建物が残る」
といいうことになるのかもしれません。神様はこういうプレゼントの仕方をするのかもしれません。
 蛭子神社付近が、蛭子町です。
岬を中心にコ字型の町並みがあります。御手洗商人の篤い信仰を得た蛭子神社のおひざもとのまちです。ここは相生町の町並みとつづきとなっていて、明治から昭和初期まで賑わいが残りました。
 蛭子町には、江戸時代からつづく旧家が何軒か残っています。神社裏側の七卿館は、幕末に三条実美をはじめとする七卿が宿とした家で、江戸時代に庄屋を勤めた竹原屋多田氏の屋敷跡です。
ひろしま文化大百科 - 御手洗七卿落遺跡
竹原屋多田氏の屋敷跡
 竹原屋が御手洗に移住したのは、貞享二年(1685)ですので、御手洗のパイオニア的な存在になります。また、脇屋友三家は、九州薩摩藩の船宿を勤めた家です。さらに蛭子町の町はずれにある鞆田稔家は、海鼠壁の意匠が目を引く構えで、明治期に力を蓄えた商家です。この家については前回に紹介しました。
瀬戸内海の道・大崎下島|街道歩きの旅
鞆田家
蛭子町には、昭和初期に建てられた洋館が多く残っています。鞆田家の前には、別荘として建てた洋館が海に向かって今も建っています。この洋館は、もともとは芸妓の検番としてつくられたもののようです。芸子たちがお呼びがかかるまでここで、海を見ながら過ごしていたのかもしれません。
 蛭子神社の近くで医院を開業する越智家も昭和初期の洋風建築です。
とびしま海道・山と龍馬と戦跡とロケ地:5日目(5)』大崎下島・豊島 ...
昭和になるとハイカラな建物が好まれ、競い合うように洋風建築物が現れたことが分かります。蛭子町は昭和初期には御手洗で一番モダンな雰囲気の町だったようです。
 蛭子町の南が榎町です。
Solitary Journey [1792] 江戸時代から昭和の初期までに建てられた ...

大東寺の大楠が高くそびえ、ここには仕舞屋が並んでいます。満舟寺の石垣もみごとで、苔むした石が、野面積みで高く積みあげられています。
満舟寺石垣/豊地区 - 呉市ホームページ
 大東寺から海岸に沿って南にのびる町並みが住吉町です
まちの南端には住吉神社が祀られています。ここは斎灘に面したところて南風をまともにうける所で、台風などの時には被害が出ました。そのため御手洗がひらかれた時には、人家もないところでした。
 ところが文政11年(1828)に、ここに波止が築造されると、ここは御手洗の新しい玄関口なり人家が建ちこむようになります。船もこの波止場に着いたり、沖に停泊してここから渡船で行き来するようになります。波止のたもとに大坂から勧進された住吉神社が祀られたのは、その時期のことのようです。
 住吉町の山側が、富永町です。
このまちの裏手は小さな谷となっていて地下水脈に恵まれた土地のようです。この町の由来は、よく分からないようです。あまり商業が盛んでもなく、仕舞屋が並んでいます。
    隣の住吉町は船宿や置屋が建ち並びぶようになり、歓楽街として発展するようになります。この港には、オチョロ船という小舟が夜になると現れました。
おちょろ船 御手洗 大崎上島
船に遊女を乗せて沖に碇泊する船に漕ぎ寄せるのです。遊女は、船乗りの一夜妻をつとめました。彼女たちを船乗りは「オチョロ」と呼んだようです。この富永町は、このオチョロを乗せた伝馬船を漕ぐことを生業とした「チョロ押し」が多く住むまちだったと云われます。

         
大崎下島は、 大長みかんの島として知られています
今はとびしま街道のいくつかの橋で結ばれ呉市の一部となっています。芸予諸島のこの島も半農半漁の村で、明治の初め頃までは桃の木が山に多かったそうです。明治の終り頃に、温州ミカンの栽培が始まってから大きく変貌していきます。
大崎下島 - Wikipedia

 みかんのブランド化に成功するきっかけが選果機の導入だったといいます。
みかんは箱につめて出荷しますが、昭和の初め頃は、下の方には小さいのをつめ、上の方に大きなのを並べるのがあたりまえで、これをアンコとよんでいたそうです。買う方も不平を言いながらも、それを商習慣の一つとして受け取っていた時代です。このような「小さな不正」は、みな当前えに思っていたのです。
 そんな中で大正の終り頃、アメリカ農務省の嘱託として渡米した田中長三郎博士は、アメリカで機械選果機を見て感心します。これを輸人して選果して品質をそろえたら、きっと市場の信用を得て商品の価値を高めるだろうと考えました。そこで、3台の選果機を買って日本に送ります。その機械を導入して機械選果をはじめたのが、静岡・和歌山と大長だったようです。中には
「高い機械を買って選果して粒をそろえて売るのは、粒の小さいものが売れなくなり割に合わないし、もうからない」
という声も強かったようです。しかし、実際に選果機でより分けて大きさをきめ、それにあわせた定価をつけてみると、買う方は安心して買えるのでかえって信用が高まり「大長ミカン」のブランド力がいちじるしく上がったのです。
大長みかん Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com
 プライドを持った農民たちは美味しいミカン作りに熱中するようになります。
売り上げも上がるので生産意欲もあがり、それまでサツマイモが植えられていた畑に次々とみかんの苗木を植えられるようになります。畑が足らなくなると、今度は誰も住まない沖の島々も買いとって、そこをミカン畑にしていったのです。そして
「大長のミカン畠は三〇〇ヘクタールであるが、島外にはそれ以上のミカン畑がある」
とまで言われるようになります。
島の末子相続がもたらしたものは?
 この島の人たちが、島外にミカン園をひろげるようになったのは、もう一つ原因があるといわれます。それはこの島の末子相続の風習です。長男が嫁をもらうと、少々の土地をもらって分家します。長男たちは、みかんを植えれば収益はあがるので、無人島に土地を買い足たし開墾して、みかん畑にしていきました。
 末子相続の風習は、芸予の漁民の間に昔からあったようで、そうした漁民たちが陸上りすると、その風習が農村社会にも引き継がれたようです。そのため、島では兄弟の関係がフラットで家長制度が緩かったと民俗学者は云います。
 大長のみかん農家は船を利用して、他の島々へ耕作に出かけていきました。
大崎下島・大長』を写真と紀行文で紹介 | 島プロジェクト

そのため大長の港は、かつては農耕船がいっぱい舫われていました。


寅さんも「難波の恋の物語」のロケシーンでムームーを行商したことがあります。この時はバックに多くの農耕船が映り込んでいました。しかし、今はその港に耕作船の姿はほとんど見られなくなりました。港の近くの公園に、一艘の耕作船が引き上げて展示されていました。
 ちなみに分家したみかん農家の長男たちが屋敷を求めたのが御手洗です。
ここにはかつての港町として栄え、大旦那の屋敷や店が軒を並べていました。しかし、昭和になるとその繁栄にも陰りが見え始め、歯が抜けるように商人たちは屋敷を残し御手洗から出て行きました。その後に移り住んだのが大長のみかん農家の長男たちだったようです。御手洗の街歩きをしていると、大きな商家風の建物に出会います。しかし、今そこに住んでいるのは商家の子孫たちばかりではないようです。

7 御手洗 北川家2
その中の一軒「北川家」をのぞいてみましょう。
瀬戸内海航路で「沖乗り」が行われるようになり、御手洗が潮待ち港として発展し始めるのは、江戸時代の後半になってからです。それまでここは、何もない海岸だったようです。港町の繁栄に引かれて周辺の大長から移り住む有力者が出てきます。北川家もそんな一軒だったようです。

 北川家の祖は吉郎右衛門で、もともとは大長の農家です。
末子相続によって、大長の家をついだのは次男兵次で、長男恵三郎が御手洗に出て商いを営むようになります。その後を継いだ喜兵衛は問屋商人として財をなし屋号を「北喜」とします。過去帳から喜兵衛は文化期に生またことが分かりますから、その活躍は天保期からあとの19世紀前半から半ばになるようです。喜兵衛の
①三男 定助が「北喜」をつぎ、
②五男 豊助が分家して「北豊」を興します。
「北豊」は廻漕店を営み、豊助の子利吉の代には、大正丸、北川丸をもち、御手洗と尾道のあいだを往き来して、廻船問屋として活躍します。
 その後、分家の成功を見て大長の本家をつぎ農業にいそしんだ兵次の孫仁太郎も御手洗に出て商いを営みだします。その家が「北仁」です。仁太郎は弘化期の生まれですから、その活躍は幕末の慶応から明治にかけてのことと考えられます。「北仁」は、蓄えた財力をもとでに金融業も営み、次第に大崎下島の土地を買い集めます。
 昭和になって廻船業が衰退すると「北仁」の当主は、商売をやめますが島は出て行きませんでした。先祖が手に入れた土地でみかん作りに乗り出すのです。みかん農家として島に生きる道を選んだ「北仁」の屋敷が残っています。この家は、常磐町の中ほどの海側に奥深くのびた作りになっています。
7 御手洗 北川家
②間口は約四間余りで、主屋の北に庭園があり、土蔵・離れ座敷が奥に建つ。別棟は渡り廊下で結ばれている。
③離れ座敷は、大正時代の建築で、入畳二室と茶室から成る数寄屋普請で、北川家が商家として全盛を誇った時代の建物。
④主尾は、妻入り塗籠造り本瓦葦きの伝統的な様式

この主屋は、北川家が御手洗進出以前に建てられていたものと研究者は考えているようです。つまり、以前に住んでいた人から買ったということでしょう。台所はのちに増築したもので、店の横の板敷きも改造した部分であるので、この増築部分を除くと、庭に沿って建屋が一列に並ぶという町家の間取りになります。
 廻船業から金融業、そしてみかん農家へと明治以後の北川家の活動の舞台となった家屋がここには、そのまま残っています。
  親子2代で御手洗の町長を務めた鞆田家を見てみましょう
7 御手洗 鞆田家
この家も幕末頃に佐藤家が立てたものを、後に鞆田家が購入したようです。佐藤家は屋号「里惣」で、幕末に船持ちとして活躍し、一代で財を築き、急成長をとげた家といわれます。その後、日清戦争を前にして軍港呉防備のために能美島に砲台が建設されることになり、「里惣」はこの仕事を請負います。ところが、工事に失敗し家運を傾けます。その際にこの「里惣」の屋敷は、そのころ金融業で羽振りの良かった鞆田家の手にわたったようです。
御手洗のクチコミ -重厚ななまこ壁の家 | 地球の歩き方[旅スケ]
 鞆田家は、それまでは住吉町に住んでいたようで屋号は「鞆幸」でした。
幕末から明治20年にかけて海産物・穀物問屋を営み、あわせて金融業にも手をひろげていた資産家です。「鞆幸」(ともこう)を名のったのは、幕末に活躍した祖父幸七に由来しているといいます。この辛七の子が市太郎で商売は行わず、医者として開業します。頼りになる
人物だったようで、明治後半には御手洗町長を勤めています。その間も、大崎上島や愛媛県岡村島、中島方面の土地を集積しています。
 市太郎の跡をついだ子は、教員となり、戦前は父と同じく町長を勤めています。先ほども云いましたが鞆田家が「里惣」(さとそう)と呼ばれる佐藤家の屋敷を買い取って、住吉町に移ったきたのは、明治三〇年ころです。
  この鞆田家の家屋を、研究者は次のように紹介しています

7 御手洗 鞆田家2
①主屋は「里惣」が全盛を誇った幕末のころのもの
②主屋は、間口四間半の妻入り塗籠造りで、脇に間口二間の平入り家屋を別棟でとりつけた造り。
③一階の開口部には当時の蔀が残されている。二階外壁の一部は、海鼠壁の凝った意匠がある。
④主屋の屋根は、寄棟桟桟瓦葺きで、御手洗の伝統的な町家の形式とは異なる。
⑤屋敷取りは、主尾の真に広い庭園を配し、土蔵、湯殿、二棟の離れ座敷を構え、それぞれが渡り廊下で結ばれている。
⑥道路をへだてた海辺には昭和10年ころに建てられた木造洋館があり、別宅としてつかわれている。
⑦主屋の間取りは通庭に沿って店、中の間、座敷の三重が一列に並ぶ
⑧台所は以前は土間につきでた板敷き、後に改造を加えて部屋とした
⑨土間の入口右手にある部屋は、市太郎が医業を営む際に用いた
御手洗の町家は、有力者の家でも通り庭に沿って部屋が二列に並ぶ造りは、ほとんどないようです。そこに中継的商業をなりわいとした問屋商人の住まいの特色があると研究者は考えているようです。

御手洗に残された有力者の家屋の遍歴を見ていると、その家を舞台に活躍した「栄枯盛衰」が見えてくるような気がします。都会では残されることのない幕末や明治の木造建築物が何軒も残っていることに驚かされると共に、そこには一軒一軒の歴史があることを改めて気づかせてくれます。
御手洗地区ガイドマップ | 田中佐知男のスケッチによる御手洗案内地図
参考文献 谷沢明 瀬戸の街並み 港町形成の研究

  

    海賊禁止令以後に行き場をなくした海賊たちが、家船(えふね)漁民の祖先ではないかというストーリーを以前にお話ししました。それに対して、小早川氏の中世以来の海賊対策に、家船漁民たちの問題はあると考える研究者もいます。この家が12世紀の終り以来、芸予地方にいたことが、大きな爪跡を残しているというのです。今回は「家船漁民=小早川氏原因説」を追いかけて見ようと思います。

まず、小早川氏について押さえておきます。
 小早川氏は毛利元親の息子隆景が養子に入って、大きな活躍をするようになりますが、元々は関東からやって来た「東遷御家人」です。その先祖を土肥実平と云い伊豆の土肥を出身地とした武士です。そのまえは平良文から出ているようです。その子孫の実平は、はじめ土肥郷にいましたが、源平戦の功によって、その北の相模の早川荘を与えられます。そして、その子の遠平(とおひら)の時に、安芸国沼田荘の地頭となって関東から下って来たようです。安芸では小早川を名乗るようになります。ここまでの「経歴」を見ても分かるように、もともとは海に縁のない家です。
 この家が芸予諸島の島々に進出するようになったのは、
沼田新荘の住人が海賊をはたらいたのを討伐したのがきっかけのようです。建保年間(1221年)の頃のことなので、安芸にやってきて土地勘や武士相互の人間関係にも不慣れな時に、海に出て行き「海賊討伐」を行うのは大変です。まず、一族には船を操船する者がいなかったでしょう。漁民か商船の船人をやとわなければなりません。そこから小早川氏のとった対応は、船を提供する漁民や商人には特権を与えて保護するけれども、海賊系の漁民に対しては冷くあたったと研究者は考えているようです。さらに、広島県下の漁民で周囲からいちだん低く見られたものの多くは、小早川氏に抵抗した系統の家ではないかとも云います。このような「差別」は、伊予側の漁村には見られないようです。
 なぜそのようになったのかを史料的に「証明」することはできないようですが、状況証拠として小早川氏の漁民分断政策が大きく影響しているのではないかという「仮説」を出します。

 小早川氏は、五代目の朝平も14世紀前半に海賊討伐で幕府から報償されています。芸予の「海賊」たちにとっては「嫌な家」という感じだったようです。といっても、中世の海賊と武士とは表裏一体です。小早川氏の領内にも、海賊は多かったようです。
 何度も取り上げますが応永二七(1420)年に、室町幕府の将軍に会うためにやってきた李朝儒家・老松堂の『日本行録』にも、渡子島・蒲刈・高崎など、小早川の領内で海賊に逢っています。どうも鎮圧しきれい状況だったようです。しかし、権威に従わない漁村に対しては、たえず圧迫は加えていたようで、他の浦に与えたような特権は与えずに冷遇していたようです。
   のちの広島藩には、玖波・江波・仁保島、向洋・長浜などに、特権を持った漁民がでてきます。特権を持ち保護された漁村は本浦として水夫浦として藩の勤めを果たし、それ以外の浦は藩との結びつきが弱かったようです。後者には、二つのグループがあって、
一つは近世に入ってから漁業をはじめたもので釣浦に多い。
一つは近世以前からの家船漁民で「海上漂泊」者です
このような状況証拠から、海賊鎮圧の役をおびた小早川氏からにらまれているような浦が差別視されたのではないかという「仮説」が出てくるようです。
もう一度整理して、さらに時間を進めます
①小早川氏は武力をもっているけれども船の操作には弱い。
②そこで漁民を軍船の水夫として使用し、協力的な浦には特権を与え水夫浦とする。
③小早川氏の正和三(1224)年と元応元(1319)年の海賊討伐は伊予の海賊であった
④この頃から伊予の海賊との間に敵対関係を生じた
⑤承久の変の功績で、竹原荘の地頭として海岸に進出する
⑥その結果、康永元(1342)年頃から「海への進出」が始まる
 「小早川家文書」からその進出過程を見てみましょう。
①生口島への進出、おなじ年にさらに因島へ
②翌年には伊予・弓削島を押領。
③さらに越智大島から大崎上島・佐木島・高根島・大崎下島にまで勢力をのばす
瀬戸内しまなみ海道|瀬戸内の島々|特集|広島県公式観光サイト ...

こうして芸予諸島を支配下に置くようになると、小早川氏自体が水軍的性格(海賊的?)を持つようになってきます。そして生口島を領有した小早川惟平は朝鮮貿易に参入し、その名は高麗にまで知られるようになります。
小早川氏と漂泊漁民について 
小早川氏から圧迫を受ける立場になった漁民は、はじめは芸予諸島の島々にいたようです。水軍力がなかった頃の小早川氏にとっては、攻めて行くにもいけなかったでしょう。海賊行為を働いた村上・多賀谷・桑原氏などの拠点は、どの勢力も島にありました。
村上水軍と海賊停止令 | けいきちゃんのブログ
 ところが豊臣秀吉の海賊鎮圧政策によって、これらの海賊は芸予諸島の島々から姿を消してしまいます。
それは討伐によって、全滅したためではないようです。そこで行われたのは、島にいた漁民たちの本土への強制移住だったと研究者は考えているようです。以前紹介した家船漁民の拠点である三原市能地なども、その「強制移住先」だというのです。能地だけでなく竹原市二窓・豊田郡吉名村・同郡川尻町・呉市長浜などは、近世以前は小さな漁村でしたが、近世に入って急に大きくなったようです。それは島の「海賊」たちの「指定移住先」であったという仮説です
 そうしたなかでも、三原市能地はテグリ網漁を主とした浦です。船を家にして瀬戸内海の各地を回る者が多く、よい漁場を見つけるとその付近に仮小屋をして、そこへ住み着いてしまうこともあったことは以前お話ししました。
 テグリ網で操業する家船漁民の生活は?
手繰網使用図 | 漁具画像
小さな網で、二人乗りか三人乗りの小さな船に網を積み、魚のいそうな網代へゆくと、浮樽に錨をつけて海に入れ、樽に綱の一端をつけておいて、一定の長さの綱を海中にはえ、そのさきに網をつけてあって、その網を半円形に海へ入れる。その先はまた綱をはって樽のあるところまで戻り、船を横にしてオモテとトモにいて二人で網をひきあげるのである。
 後には船を横にして帆を張り、網を海中に入れたものをそのままひいてゆき、適当なところまでゆくとひきあげる方法もとった。網にのるものは雑魚が多く、雑魚は主として釣漁の餌として売り、のこりは村々を女が売ってまわったものである。
 ハンボウという浅いたらいを頭にのせて売り歩くのが能地の女たちの一つの姿であった。売るといっても金をもらうことは少なく、たいていはイモ・ムギなどのような食物と交換した。
 この漁は夜おこなうことが多かったので、夜も沖にいることが多く、しぜん、女も船に乗り、子供ができれば子供も船の中で暮して大きくなっていった。
人口圧の高まりと、その打開策は? 
   時が経つにつれて人口増の圧力や「強制移住」策の緩和が行われ、「指定移住先」からの「脱出」が可能になったのではないでしょうか。そして、2つの道が開けてくるようになります。
 ①新天地の浦への移住
 ②強制移住以前の祖先のいた漁村への回帰
下蒲刈島の人々の選択は?
安芸灘とびしま海道|瀬戸内の島々|しまなみ|広島県公式観光サイト ...
今は呉市となってとびしま街道で本土とつながるようになった下蒲刈島の宝永二(1705)の村明細帳には、船が18艘しかなかったことになっています。家も34戸です。かつて、この島に三之瀬と呼ばれ朝鮮からの使節団が寄港するような港がありました。それが戸数34戸まで激減していたことが分かります。
 それが、宝永から100年ほどたった1805年ごろには310艘に増えています。かつての賑わいを取り戻しているのです。ここからも、島々にいた海賊は禁圧令によって島を追いはらわれ、一時、本土の指定された浦に強制移住された。それが18世紀になって追々と島へ帰ってくる者もいたかえっていったというストーリーが描けるのではないかと研究者は考えているようです。
18世紀の瀬戸内海をかえたのはサツマイモです。
甘藷 – 有限会社 新居バイオ花き研究所
このイモが栽培されるようになって、急速に人口が増えます。増える人口を養うために山がひらかれてイモ畑になります。増える人口に対応するために、天に向かって島の狭い土地が耕されます。そして「耕して天に至る」という光景が見られるようになります。幕末に瀬戸内海を黒船でクルージングした外国人が、瀬戸内海の美しさを賞賛しますが、そのビューポイントが山の上まで耕された段々畑でした。
耕して天に至る棚田・段畑 ―大地への刻印
 水平方向にも耕地開発の手は進められます
蒲刈島の周辺の島々では、山船(耕作船)が姿を現します。ずんぐりとして幅の広い船で、人々はこれに乗って小さな島の畑へ耕作にいくようになります。何よりもまず食料を確保することが島民にとっては大切でした。海賊行為は、島の食料不足が原因でもあったのです。
こうして強制移住地に閉じ込められていた家船漁民は、新天地を目指すか、故郷に帰って農民となるかの道を選ぶようになったのではないのでしょうか。
農船|岩城島
山船(耕作船)

 最後に、家船漁民を先祖とする豊島の漁民を見ておきましょう。
豊島 (広島県) - Wikipedia
この島も今はとびしま街道で陸と結ばれ、呉市に編入されています。この島をグーグルで見ると分かりますが、ゆるやかな傾斜面に家がびっしりと立て込んでいます。明治から現在までに、最も人口が増え発展した漁村ではないかとある研究者は云います。明治初年の記録には、漁家の数は14戸とあります。それが多いときには700戸を越えていました。
 漁船にはどの船の側面にも漁船番号が記されています。その頭に府県の記号が書かれます。広島県は「H」です。このHの頭文字が書かれた漁船が、長崎や対馬・平戸まで行って操業していました。そのほとんどがこの島からの「出稼船」(かつての家船漁民)です。そして、平戸や天草などに枝村を作ってきました。
 その操業スタイルは次のようなものだったといいます
目的の漁場へ着くと近くの漁港へ行っていって、漁業組合に挨拶し、民家に宿を借りる。民家の一間を借りて持ってきた行李をあずけておき、漁からかえってきたときや雨の日はそこで休み、風呂や食事の世話も依頼する。いわゆるる船宿である。行李の中には晴着も入れてあって、その地の祭などのときには村人同様に盛装してお宮へもまいる。その村の人たちからお宮や寺への寄付をたのまれれば義理を欠かすようなことはない。山口県平郡島の寺で寄付者の名をかいたものを見ていると、豊島のものが多いのでおどろいてきいてみると、漁にきた人たちの寄付であった。
 また村の寺に報恩講などがあれば、漁を休んでまいる。広島に近い海田市の寺の報恩講に見知らぬ参拝者がたくさんあるので、土地の人がきいてみると豊島の者が漁に来ていてまいったのだと言った。
 けんか早いのも豊島の特色だ。血の気が多いのであろう。が、とにかく世間のつきあいをよく心得た人たちであり、そのことによって、広い海を自由自在に活動しているのである。

 ひとつの漁村が活気を持って活動していくためには好漁場をいくつももっていることがひとつの条件のようです。
しかし、漁場を持たなかった家船漁民の子孫たちは、瀬戸内海を越えて東シナ海を舞台に活動していたようです。それれは先祖が倭寇と呼ばれた活動した舞台でもあったようです。
以上をまとめておくと
①東遷御家人として安芸にやってきた小早川氏は、当初は海は苦手であった。
②そのために地元の「海民」の協力を得て、水軍を編成し「海賊退治」を行った。
③小早川氏に協力するのが「水軍」で、敵対するのが「海賊」と識別(差別)された。
④芸予諸島に進出するようになり因島・能島の「村上水軍」を従えるようになる。
⑤海賊禁止令後に、海賊たちは強制移住され指定移住地での居住を強制されるようになる
⑥18世紀にサツマイモが人口増大をもたらし「人口圧」が急激に膨らむ。
⑦あるものは、家船漁船で新天地を求めて「開拓民」となった
⑧あるものは、故郷に帰り帰農し「耕して天に至る」道を選んだ。
⑨家船漁民の伝統を持つ浦では、豊島漁民のように東シナ海で操業するものもいた
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 宮本常一 「瀬戸内海 芸予の海」 

  

 
5 小西行長像5

 小西行長は、関が原の戦いで西軍に味方し戦って破れ、打ち首となります。切腹は自らの命を自らの手で奪う行為なのでキリスト教徒として拒否したようです。
 また、行長は肥後北部を領有した加藤清正とライバル関係に描かれます。忠君愛国が尊ばれた戦前には、キリシタンで忠臣清正に対する敵役と描かれたために、非常に人気のない武将だったようです。1980年、宇土城跡に建てられたこの行長の銅像に対しても、「銅像を打ち壊す」「公費の無駄遣い。許せない」といった怒りの声が寄せられたようです。そのため除幕式の翌日から2年近くトタン板で覆われていたといいます。彼がどのように、見られてきたかがうかがえます。

 前回は小西行長の「海の司令官」として颯爽と備讃瀬戸をゆく姿や小豆島での「神の王国」作りの様子を見てみました。今回は行長とキリスト教をめぐる情勢を高山右近との関係で見てみようと思います。まずは行長の出自を押さえておきましょう。
堺の小西家とは、どんな家だったのでしょうか

5
 小西家については、家の系譜も分かりませんし、いつ頃から、どのようにして堺に住みついたかも分からないようです。ただ堺の開口神社には、小西家一族が出てくる文書がいくつか残っています。ひとつは天文六年(1537)、石山本願寺が細川勢によって破壊された堺の坊を再建する計画をたてた時に、小西宗左衛門という人物が酒、竹木を整えて、力を貸したため本願寺に招かれたことを記します。

5 堺会合衆
 もうひとつはその翌年、この宗左衛門が堺と明との貿易再興に石山本願寺が尽力したことに木屋宗観と、一緒にお礼に訪れています。本願寺は堺から経済的資力を受けていました。小西宗左衛門は、本願寺と堺の関係に重要な役割を果たす会合衆の一人であったようです。
 しかし、小西宗左衛門が小西行長と、どういう関係にあるかまでは分かりません。堺には小西と名乗る一門が沢山いたのです。その一族の一人ということにしておきます。
小西一党の中には、ザビエルに接近する者もいたようです。

5 堺会合衆2

そのひとりが行長の父小西隆佐です。
ザビエルは鹿児島から瀬戸内海を経て都にのぼり、日本での布教許可を得ようとします。その時に、ザビエルは堺の豪商、日比屋了珪に宛てた紹介状を持っていました。そのため、日比屋の案内で京で布教活動の許可嘆願を行う一方で、日本最大の仏教大学のある比叡山に興味を持ち訪問を熱願します。その際に日比屋了珪は、京にいた小西隆佐に紹介状を書いています。その紹介状を持ってきたザビエルを、隆佐は従僕をつけて坂本に案内させています。小西一族が宣教師と接触したのは、これがはじめてになるようです。日本に最初にやって来た宣教師であるザビエルです。そういう意味では、小西家は早い時期に宣教師と接触したことになります。
 ザビエルが天文20(1551)に日本を去った後の永禄2年(1559)には、ヴ″レラが豊後から堺にやって来て、京や堺で布教活動を行います。この時には、日比屋了珪の家族と40人の市民たちとが洗礼を受けています。

5 堺南蛮貿易

 行長の父隆佐が洗礼を受けたのは、いつ?
シュタイシェソ神父の『キリシタン大名』によると、隆佐は

「行長と共に大坂城で高山右近の感化を受けて改宗した」

と書かれています。そして、フロイスの1569年6月1日付の書簡は、次のように記します。
「隆佐は当地方における最も善良な基督教徒だ」

 フロイスは、この4年前の永禄八年(1565)に、松永久秀が将軍足利義輝を殺し、京の宣教師を追放した時に、隆佐によって保護されながら逃れた経験があります。それから3年後には、織田信長に謁見を求めてやってきたフロイスを安土まで送り、知人の家に泊らせ、自分の息子に世話をさせたのもこの隆佐です。
 ここからは1565年から69年までの間に、隆佐とその家族たちが受洗したことがうかがえます。行長は1558年頃に生まれたようですから洗礼の時には7~9歳くらいであったことになります。
小西隆佐の受洗の動機は何だったのでしょうか。
遠藤周作は「小西行長伝」で、次のように記します。

我々は日比屋了珪や隆佐一家を必ずしも宗教心に溢れた堺商人だとただちに断言はできぬ。逆に当時の堺商人は現世的で快楽主義者の多かったことは石山本願寺の蓮如上人ものべている

 確かにフロイスも、次のように堺商人の快楽主義と不信心ぶりを嘆いています。

「堺に建てられた教会では1ヵ月の間、日夜話をきく者が絶えなかったが、これは他国者で市民ではなかった。市民は傲岸で罪ぶかく神の貴い話を聞く資格はない」

 日比屋了珪や隆佐の受洗の動機も最初は、「商人としての金儲け」だったようです。堺商人たちは、南蛮貿易の利益のための改宗を厭わなかったようです。ザビエルを世話した日比屋了珪にしてみれば、次のように考えていたのかも知れません。

「南蛮と堺との貿易をなめらかにするためには、まずおのれたちが受洗することだ」

じれは大友宗麟のように、南蛮船による利をえるため宣教師たちを保護し、自分も洗礼を受けたのと同じ手法です。そして貿易商人は、異人の扱いにも馴れています。
 いずれにせよ、この時期に小西隆佐は、妻子と洗礼を受けたようです。しかし、父が功利的な改宗者ならば、子もその父や母に従って受洗したにすぎなかったと考えるのが自然です。その信仰が「本物」になるまでには、幾たびかの「試練」を通過する必要がありました。そのひとつが高山右近との出会いだったのかもしれません。

   10年近く経った時の小西行長は、秀吉から備讃瀬戸航路海域の支配を任された「海の司令官」に成長していました。
5 小西行長 小豆島2

行長の快速船団には十字架旗が掲げられ、領地小豆島に「神の国」の建設を進めていたのは前回見た通りです。ある意味、秀吉の野望と行長の出世と信仰が相反することなく、人生のベクトルが一つの方向を向いていた幸せな時代だったのかもしれません。九州への遠征も島津に苦しめられるキリシタン大名を救う「聖戦」と信じることができた頃です。
   天正15(1587)年に、秀吉は大軍を九州に送り込みます。
島津に突きつけた九州和平案の条件に応じなかったためと云いますが、そんなことは口実です。

「太刀も刀もいらず、手つかまえたるべく候」

と秀吉は豪語しています。四国制圧の時と同じく、秀吉軍と九州の領主達の間には、大きな軍事力の格差が生まれていました。秀吉の心の中には、島津攻略は二の次だったかもしれません。この作戦の裏の狙いは、やがて行う大陸侵攻の兵糧の調達や整備演習で、朝鮮侵攻基地としての博多の再興にあると秀吉は考えていた節があります。

5 秀吉の九州討伐

九州討伐作戦は小西父子にとって、その能力を秀吉から問われた戦いでした。
彼ら親子は、秀吉が自分たちを引きたててきたのは一族の持つ水上輸送力と財務能力と、そして堺という貿易都市を背景にした財力によるものであることをよく分かっていました。水上輸送力があるゆえに行長は、瀬戸内海諸島の管理権を与えられ、四国、九州作戦に兵站責任者に登用されているのです。財務能力と堺をバックに持つゆえに隆佐は大坂城のブレインに昇進し、堺奉行に抜擢されたのです。まさに九州遠征は、小西家の力を見せるチャンスです。その成功の向こうに、さらなる飛躍があると信じていたでしょう。
 そして、大量の兵糧や馬糧など戦略物資の畿内からの後方輸送の任務に就きます。前年に、軍勢30万人分の兵糧米と2万頭分の兵車とが集められます。島津征伐だけには多すぎる量です。これは次の朝鮮出兵の準備であり、その調達には畿内の豪商が動員されます。
 堺奉行の小西隆佐も石田三成、大谷吉継たちとともに、前代未聞の大作戦に必要な軍需品や兵糧の補給に当たります。隆佐たちが集めたこのおびただしい兵糧や軍需品は兵庫、尼崎から瀬戸内海をへて赤間関(下関)まで船で輸送されました。その指揮を行ったのが行長です。文字通り父子一体となって大輸送作戦の立役者として働きます。本能寺の変以後の秀吉陣中において、華々しい功をたてるチャンスのなかった若き輜重隊長に活躍の場が与えられたのです。 行長領となっていた小豆島や塩飽にも船や水夫の動員令が出たはずです。
  塩飽諸島に宮本、吉田、妹尾、
  小豆島には寒川氏、
  直島には 高原氏
  などの水軍衆がいたはずです。彼らがどのような動きをしたのか史料には伝わっていません。

秀吉は行長が使い物になると見るや、兵站輸送以外にも次々と新しい仕事を与えます。
 まず朝鮮出兵のための玄海灘渡航計画の立案と、対馬の宗氏に朝鮮国王の朝貢を交渉させる任務です。行長がこうした特殊任務を秀吉から命ぜられたのは、秀吉家臣団の中で最も朝鮮通と見なされていたからだと研究者は考えているようです。
 もともと小西家は堺の薬種問屋と言われています。朝鮮人参をはじめとする高価な薬草の多くは朝鮮から仕入れたものでした。そのため小西家の持船が朝鮮に渡航し、言葉にも通じていた可能性もあります。そういう意味では隆佐や行長が当時の日本人のなかでは朝鮮について一番、知識を持っていたのかもしれません。また、切支丹である彼は秀吉の命をうけ、大村、有馬の領主と接触しています。そして同じ信仰を持つ領主たちの説得に当っています。こうして九州作戦は、わずか二ヵ月で終ります。秀吉は6月7日には、博多に凱旋します。
 そして6月19日、秀吉はバテレン追放令を突然に出します。
    
5 小西行長 バテレン追放令

     『吉利支丹伴天連追放令』原文
 定
1 日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
2 其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
3 伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
4 黑船(貿易船)之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
5 自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。
已上
天正十五年六月十九日     朱印
(意訳)
1 日本は自らの神々によって護られている国であるのに、キリスト教の国から邪法をさずけることは、まったくもってけしからんことである。
2 (大名が)その土地の人間を教えに近づけて信者にし、寺社を壊させるなど聞いたことがない。(秀吉が)諸国の大名に領地を治めさせているのは一時的なことである。天下からの法律を守り、さまざまなことをその通りにすべきなのに、いいかげんな態度でそれをしないのはけしからん。
3 キリスト教宣教師はその知恵によって、人々の自由意志に任せて信者にしていると思っていたのに、前に書いたとおり日本の仏法を破っている。日本にキリスト教宣教師を置いておくことはできないので、今日から20日間で支度してキリスト教の国に帰りなさい。キリスト教宣教師であるのに自分は違うと言い張る者がいれば、けしからんことだ。
4 貿易船は商売をしにきているのだから、これとは別のことなので、今後も商売を続けること。
5 いまから後は、仏法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、いつでもキリスト教徒の国から往復するのは問題ないので、それは許可する。
第2条で、大名がキリスト教を強制すること、寺社を破壊することが禁止されています。「権力者が禁止令をだすのは、現実にその行為が行われていた」というセオリーが適応されます。キリシタン大名の支配地ではキリスト教強制が行われていたようです。
3条で宣教師に対しては20日以内の国外退去を求めています。しかし、次の条では宣教師は追放するが黒船(貿易船)はウエルカムよ、貿易は今まで通り続けましょうと云います。宣教師には腕を振り上げて威嚇した後、商人に対しては笑顔で迎えているような印象です。商売と宗教は別ですから、今後も宜しくという内容に読み取れます。
 この文書の補足として口頭で以下のことが周知されたようです。
①この禁止令に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰する
②大名によるキリスト教への強制改宗は禁止するものの、民衆が個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは自由
大名が信徒となるのも秀吉の許可があれば可能
この①②の補足を見れば、事実上の信仰の自由を保障する内容のようにも思えてきます。 この内容からキリスト教徒追放令ではなく、バテレン追放令なのです。 バテレンとは、ポルトガル語で「神父」padreです。国外追放されるのはキリスト教徒でなく、宣教師たちなのです。江戸時代のキリスト教禁止令とは大きく違う内容です。
  バテレン追放令で秀吉がねらったキリシタン大名は誰?
 フロイスによれば秀吉は全切支丹に棄教するよう強制し、拒否する場合は宣教師と共に国外に追放すると威嚇したといいます。しかし、実際には黒田官兵衛や小西行長には教えを棄てるようにしむけることはありませんでした。宣教師の国外追放と同時に、この追放令には秀吉のもう一つの狙いがあったと研究者は考えているようです。
 秀吉は、利益になることと不利益になることの区別は、冷徹に計算した上で手を打っています。この中には、キリシタン大名を分断し、ある大名を孤立化させる内容が忍び込ませてありました。それは高山右近です。
右近への厳しい対応の背景は?

5 高山右近
 キリスト教禁止を行えば宣教師たちが九州のキリシタン領主たちが手を組んで建ち上がり、反抗的姿勢を示すかもしれぬという恐れを秀吉は考えていたはずです。実際に、追放令後に今後の対応を考えるために平戸に集まった宣教師の一部から「日本占領計画」が提案されています。その際には、高山右近が最も頼りとなる人物であり、反乱の中心に担ぎ上げられる存在になる可能性が高い人物でした。なぜなら秀吉から見れば、右近だけが利害得失を離れて宣教師の味方となる人間であったからです。右近は「危険なる存在」だったのです。権力者にとって、危険をはらむ存在(仮想敵)は早く取り除かなければなりません。逆に云えば蒲生や黒田や行長は右近にくらべ「危険なる人物」と秀吉は考えていなかったことになります。

5 小西行長 バテレン追放令2

  追放令に小西行長は、どのように対応したのでしょうか?
 行長は黒田孝高や蒲生氏郷だちと同じように翌日には、秀吉に妥協しています。その理由は、布告のなかの次の2項目の解釈です
①百姓たちの切支丹信仰は自由だが、それ以上の者は許しを求めねばならぬ
②領主たるものは切支丹信仰を領民に強制してはならぬ
という項目があったからです。つまり、この二項目を守る限り、自分たちの信仰は認められる解釈できるのです。その後の動きを見ると
①蒲生氏郷はその後、棄教
②行長は、フスタ船で眠っている宣教師を秀吉に引き渡し
という行為が見られます。秀吉の威嚇の前には屈服しているのです。
それに対して、高山右近は、どんな対応をとったのでしょうか
 関白の使者の詰問を受けた右近は、ためらうことなく
「信仰は棄てぬ。領地は秀吉に還す」
という回答をします。秀吉は、この返答を予想していなかったようで、翻心して自分に仕えるよう再度の説得の使いを送ります。妥協案として明石領は没収するが、肥後に国替えを命ぜられた佐々成政に帰属するよう提案します。しかし、右近は考えを曲げなかったようです。
  彼は、9年前の荒木村重事件を経験しています。
荒木村重に従っていた右近は、村重の信長への反乱という事件にあいます。キリスト教を保護する信長と、主人の村重への義理との間に苦しんだ結果、領主としての地位を棄て、僧侶のように信仰のみに生きようとして家臣団に別れを告げた経験があります。その苦しい思いを味わった右近は、二度と権力者の道具、一つの歯車になることはならないと心に誓っていたのだと思います。彼の信仰は「本物」になっていたのです。
 翌朝、右近は家臣たちに自らの決意を述べて去って行きます。
「余の一身に関しては、いささかも遺憾に思うことはない。汝等にたいする愛ゆえにのみ、悲哀と心痛をおぼえるばかりである。余は汝等が余のために戦いにおいて共々、うち勝ってきた大きな危険に生命を賭したことを忘れず、その功に報いたいと望んでいる。にもかかわらず現状では汝等は余の手から現世の報いはできぬから、限りなく慈悲ぶかいデウスが、その栄光の御国において永遠、完全なる報いを汝等に厚く与えることを信じている。(中略)
 家臣たちはこの言葉に号泣し髪を切って共に追放の苦しみを味わいたいと誓った。右近はただ三、四人の者だけを連れていくことを明らかにした。」(プレネステーノ「ローマーイェズス会文書」)。
 右近は明石の領地を信仰のためすべて棄てたのです。
小西行長との違いは明らかです。秀吉のバテレン追放令は、キリシタン大名の信仰をためされる「踏絵」でもあったようです。そして、秀吉が差し出した踏絵を前にして敢然と首をふったのは右近だけだったのです。秀吉の読み通りでした。
  兄のように尊敬してきた高山右近のとった行動を見て、小西行長はどう感じたのでしょうか?
誰もが一度は自分のとった行為を正当化します。しかし、右近の烈しい信仰を見て、それができぬ自分にうしろめたさと恥ずかしさとを同時に感じたのではないでしょうか。その良心の補償のためにも右近を保護せねばならぬと思うようになったのではないかと遠藤周作は小説の中で、語ります。
 右近が博多湾上の孤島に移り、それから瀬戸内海の淡路島に逃れることができたのは、おそらく小西行長のひそかな援助があったからでしょう。前回にも述べた通り、行長は「海の司令官」として、瀬戸内海航路の管理者でしたから管理下にある船に高山右近を潜ませることは簡単であったはずです。堺に帰還する行長の船に、同船させたかもしれません。
高山右近が追放された今、宣教師たちの頼みの綱は行長です。
 京にいた前日本副管区長のオルガンテーノは、大坂や堺などの畿内の宣教師に行長の所領である播州の室津に集まるよう呼びかけます。行長の保護がほしかったのでしょう。しかし、行長は動きません。フロイスは
「行長は宣教師たちに冷たかった」
と書いています。
当時の行長の心境を遠藤周作は次のように描きます。
「行長は怯えていた。彼の信仰は今までたびたびくりかえしたように真実、心の底に根をおろしたものではなかった。六月十九日の夜、蒲生氏郷などと共に関白の威嚇に屈服した彼は今、自分も右近と同じ運命をたどることがこわかったのである。そのくせ彼は毅然たる右近の勇気ある信仰者に転び者が殉教者に感じたようなうしろめたさと恥ずかしさを感じていた。そのくせ自分の領地である室津に宣教師が集結することを怖れ、これ以上、宣教師たちの悲劇に巻きこまれたくなかったのだ。」

 室津に追放宣言を受けた宣教師たちが集結しているのが、秀吉の耳に入ればどうなるのでしょうか?
5 室津1

 集結した近畿の宣教師たちの退去を求めて室津にやってきた行長に対して、オルガンティーノは日本に留まることを主張します。行長とオルガンティーノの間で烈しいやりとりがなされたようです。そして、
「行長は連れてきた結城弥平次ジョルジと三時間、一室にとじこもった」
と宣教師の報告書は記します。
 三時間の間に、この二人が語りあったことは何だったのでしょうか
後の行長の行動を追うと分かってきます。それは秀吉の眼をかすめ、秀吉をだまし、いかにオルガンティーノを自分の領内にかくし、信徒たちをひそかに助けるか、その経済的援助はどうするかを彼等は話し合ったと遠藤周作は考えているようです。
 このような時に、淡路島に隠れていた高山右近は、行長の家臣・三箇マンショと室津にやってきます。右近の登場でそれまでの雰囲気は激変します。右近は行長たちに向って、
「我々が今日まで行ってきた数々の戦争がいかに無意味なものであったか、そして今後、行う心の戦いこそ苦しいが、最も尊い戦いなのだと熱意をこめて語った。それは地上の軍人から神の軍人に変った右近の宣言であり、彼は今後、どんな権力者にも仕えない」
と誓ったといいます。
 こうして行長と右近たちは協議して次のことを決めます。
①オルガンティーノと右近を小豆島にかくすこと
②神父と右近とは二里はなれて別々に住むが、万一の場合はこの室津に近い結城弥平次の新知行地に逃げること
これは行長にとっては危険な行為です。国外退去命令の出た宣教師を自領の小豆島にかくまい、その援助をするのは明らかに秀吉にたいする裏切です。しかし考えて見ればこれは、堺商人が権力者にとってきた処世術かもしれません。表では従うとみせて、裏ではおのれの心はゆずらぬという商人の生き方です。関白に屈従しているとみせかけて、巧みにだますこと。これがこれからの行長の生きる姿勢になります。
 室津でこような「会議」が開かれたのは天正十五年(1587)の陰暦6月下旬から7月上旬であったようです。行長の成長には、バテレン追放令と高山右近の犠牲とが必要だったようです。

   室津は瀬戸内海の湊として、多くの人たちが利用してきました。法然上図には女郎とのやりとりが描かれています。しかし、行長をしのぶものは何もありません。室津は、行長にとって「魂の転機」となった場所だと遠藤周作は云います。

  小豆島に潜伏した、右近やオルガンティーノの動向は?
5 小西行長 小豆島1

 オルガンチーノ神父が、長崎などの司祭・修道士に宛てた書簡には次のように記されます
「我ら(他にコスメ修道士、同宿のレアン)が今いる所は、誰もいない一軒家で、他の家々からは 小銃の一射程距離ほど離れており、四方山のほかは見えず、外からは誰一人来ませんでした。
 この島の住民はきわめて素朴で、アゴスチーノ(小西行長)が当地に置いております隊長に、万事において従っています。この隊長は、非常に善良なキリシタンで、我らが発見されないように、最大の注意を払っております。三名のキリシタンが、我らの居所を知っているだけで、彼らが必需品を届けてくれるのです。」
 また、髙山右近一家(妻子)の住まいについては、
①オルガンチーノ神父たちの住まいからは「2レグア」 (8km) の距離にあって、
②右近は時々単身で 訪ねて来て、2,3日泊まって、語り合いの時を持ったと
記します。続けて
右近は剃髪して迫害と窮乏の中に妻子と共に、 つつましく暮らしており、そして 歓喜に満ちて、何事もなかった如く見える。右近は、日本では戦争で領地を失い・殺され、あるいは死に至る者が少なくないのに、彼らに比し、自分はイエズス・キリストを愛するために 領地を失ったのであって、大いに喜ぶべきことであると語り、日々信仰心を増し、一切をデウスに任せ奉り、デウスのため 生命を失う準備を進めている。こうして、関白の権威に屈せず、何ものをも怖れず、暴君 および 悪魔に対し、光栄ある勝利をおさめた。」( 1587年 ・ 年報 )
と、右近の近況と信仰心の成長を伝えています。
 髙山右近が 潜伏した場所は、どこなのでしょうか?
小豆島の郷土史家は
①右近潜伏地を中山
②オルガンチノ潜伏地を肥土山
と推定しています。

5 小西行長 小豆島5

  前回、行長が宣教師を連れてきて半ば「強制改宗」を行い、1ヶ月で1400人の洗礼を行った場所が内海湾一帯の草壁地区と推測しました。さらに隠れ場を
「今いる所は、誰もいない一軒家で、他の家々からは 小銃の一射程距離ほど離れており、四方山のほかは見えず、外からは誰一人来ません」
とあるので、海が見えない山の中の孤立した所のようです。そうだとすれば、中山や肥土山はぴったりのロケーションです。ここには、千枚田や農村歌舞伎小屋があり今は観光客も訪れるようになりましたが、隠れ家を置くには最適です。
5 小西行長 小豆島81

  ところで、小豆島は彼ら以外にも多くの亡命者を受けいれた節があります
  それは右近の明石領内のキリシタンたちです。彼らに、右近追放の一報が明石に届いたのは追放令から数日後の1587年の7月末だったようです。留守を預かっていた右近の父・飛騨守と弟太郎右衛門は、右近が棄教せず毅然として一浪人の道を選んだことを知って、嘆くどころか、胸を張ってほめたたえたといいます。
 「師よ、喜ばれよ。天の君に対する罪で領国を失ったのならば、われらも等しく名誉を失うが、棄教しなかったためであるなら、大いに喜ぶべきこと。少なからず名誉なこと」
と、むしろ満足気にさえ見えたと伝えます。しかし、2000人近くもいた明石のキリシタン領民や家臣の家族らにとって即刻領地を退去せよとの知らせは、酷なものでした。行く当てもなく、仮に頼る先があったとしても荷物を運ぶ手押し車も小舟もなく
「真夜中まで街中を駆け回るありさま」
だったといいます。右近の一族や重臣の中には、右近と共に行長の支配する小豆島や塩飽に「亡命」した者がいたのではないかと私は考えています。つまり、当時の小豆島には
①行長による強制改宗による地元信者
②明石やその他からの亡命信者
③右近やオルガンティーノのような要人信者
の3種類の信者たちがいたことをここでは押さえておきます。
行長の宇土への転封

5 小西行長 宇土城jpg
 右近等が小豆島に潜伏したのもつかの間、翌年の天正16年(1588)、小西行長は秀吉によって小豆島から肥後南部の宇土(現在の熊本県宇土市)・24万石に転封されます。秀吉が肥後の北半国、二十六万石の領主としたのが加藤清正です。清正が陸戦将校ならば、行長はは軸重、輸送の輸送隊長で後方支援部隊の責任者です。
5 小西行長 領地1

秀吉の頭にあったのは、朝鮮出兵でしょう。
おびただしい兵力、兵糧を海をこえて朝鮮に運ぶ必要がある。そのためにも行長を肥後の南半国におくのは悪くない。しかも、天草の切支丹国衆たちを抑えるには、同じ信仰者の者がいい。そしてライバル意識を持つ清正と競い合わせる。一挙三得じゃ」
という感じでしょうか。こうして、同年輩の水と油のようにあい合わぬ二人の若者が肥後という国を背中合わせに支配することになります。
 小豆島1万石から宇土24万石への破格の抜擢の意味を行長は分かっていたはずです。
喜びと云うよりも、当惑の方が大きかったのではないでしょうか。秀吉の野心の道具として、朝鮮出兵を仕切る立場に立たされたのです。かつての行長なら嬉々としてうけたでしょう。しかし、バテレン追放令の高山右近の生き様を間近に見た今は違います。そして、今は秀吉を裏切り、右近を小豆島に匿っているのですから・・・。

 この頃は讃岐では、毛利・島津に備えての瀬戸内海防備ライン整備の一貫として、秀吉に命じられた生駒親正が高松城の築城に着手した頃です。行長の転封に従って、高山右近も九州・宇土に向かいます。しかし、右近は間もなく加賀金沢城主の前田利家に客将と1万5千石の扶持で迎えられます。行長の心の重荷の一つが下ろされたのかもしれません。
 この後に展開される朝鮮出兵で、交渉を任された行長が秀吉に偽って明と和平講和を結ぼうとするのは、秀吉に対するある意味での裏切りです。しかし、それは心理的には右近を小豆島に隠したときから始まっていたのかもしれません。
 秀吉亡き後の関ヶ原の合戦では、行長は豊臣側につき捕らえられます。
この時、行長はキリシタンであることを理由に切腹を拒否します。そして戦犯として恵瓊とともに京の六条河原で斬首されます。享年42歳とされます。この死に様に、キリスト教徒としての成長を私は感じます。
5 小西行長 バテレン追放令6

 最後に小西行長の後の小豆島を見ておきましょう。
行長の宇土転封後に、代わって小豆島の支配者となったのはの、片桐且元(かたぎりかつも)です。  彼は柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍し、一番槍の功を認められて賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた人物です。この時、秀吉から戦功を賞されて摂津で三千石を与えられるようになります。
 以後奉行として活躍し、道作奉行としての宿泊地や街道整備などの兵站に関わっています。天正15年(1587年)の九州遠征では、小西行長とともに後方支援を担当し、主に軍船調達に関わっていたようです。武闘派のように思われがちですが、実務的な仕事もできるタイプの武将だったようです。そのためこの頃から実施されるようになった検地の責任者として各地の検地帳に名前を残しているようです。彼の下では、バテレン追放令は、有名無実化していましたからキリスト教信者への組織的な弾圧があったとは思われません。
 その後江戸幕府の天領となると宗門改が厳しくなります。
①元和元年(1615)長崎奉行兼堺奉行の長谷川佐兵衛藤広、
②元和4年(1618)に伏見奉行の小掘政一(遠州)
③正保4年(1647)から幕府の直轄地
彼らの下で、次第に宗門改が厳しく行われるようになります。
 特に寛永7年(1630)の小掘遠州の時には、かなりの信者が捕らえられ、転宗させられたようです。小掘遠州は、茶人、造園家としてよく知られていますが、実務的な官僚でもあり宗門改にも真面目にとりくんだようです。そのため小西行長の時代から根を下ろしていたキリスト教信者が踏絵を踏まされ、あぶり出され改宗を迫られたようです。
 それでも、小豆島では以後もかなりの人数の隠れキリシタンがいたのではないかと云われます。それを裏付けるように、隠れキリシタンのものではないかと云われる墓が多く残っています。見る場所によっては十字架に見えるというのです。その多くは、旧家や旧庄屋のものです。有力者が信者であったことを示すもので、高山右近時代の「亡命信者」の子孫たちだったのかもしれません・彼らは、寺社奉行の管轄であるため治外法権となる寺の境内や、屋敷の中に囲いを作って墓を祀っていたようです。今も、屋根を横から見ると十字に見える墓や、小さく十字が刻まれた墓などが、各所にあります。
5 堺会合衆haka

 また、寛永14年(1637)、九州で島原の乱が起きます。
この乱と小豆島とはいろいろな形で結ばれていたようです。この乱は、島原藩の肥前島原半島と、唐津藩の肥後天草諸島の農民をはじめとするキリシタンたちが起こした反乱ですが、天草は小西行長が小豆島から転封された領地です。そのため、行長の家臣だった多くのキリシタン浪人が乱には参加していたとされます。乱の指導者・天草四郎時貞の父も行長の家臣の一人だったと云うのです。
 この乱は、翌年の寛永15年(1638)に、原城が陥落して鎮圧されます。その時に篭城の3万7千人が全滅しました。この中の多くは農民で、耕作者を失った島原半島南部は荒廃しす。そこで、幕府は農民移住政策をとり、全国から農民を移住させ復興を図ることにします。天領である小豆島にも移住者を出すことが求められます。そのため、小豆島から島原半島南部一帯に多くの人たちが移住しています。移住者の決定に当たっては
①坂手庄屋高橋次右衛門のようにくじ引きで移住した者
②生活困窮のため自ら進んで移住した者
などがいたようですが「公儀百姓」として集団移住した家は、内海町田浦、坂手、池田町中山、土庄町笠ヶ滝など1000軒以上もあったようです。
 その後も移住元と移住先という小豆島と天草地方の関係はその後も長く続きます。
例えば以前にも紹介しましたが、マルキン醤油の持ち舟の弁財船は、瀬戸内海を抜けて天草まで下り交易活動を行っています。その際に船が出て行くときには、島の塩や素麺・醤油を積んで、帰路航路には小麦や鰯かすなどの肥料が積まれています。丸金醤油は小豆島からの移住者たちを相手に、塩や素麺・醤油を売り、その帰路には原料の小麦を買って帰っていたようです。
   長くなりましたがおつきあいいただき、ありがとうございました。

5 小西行長1

若き日の小西行長は小豆島や塩飽の領主であったようです。領主として島に「神の王国」を作ろうとし、後には追放された高山右近をこの島に匿ったとイエズス会の宣教師は報告しています。
小西行長と小豆島・直島の関係を探ってみます。
小西行長が秀吉に仕えるまでのことは,よくわかっていません。
一説には,備前・美作(岡山県)を治めていた宇喜多直家に仕えており,直家が羽柴(豊臣)秀吉を通じて織田信長に降伏した際の連絡役を務めていたといわれています。
その後の行長の出世ぶりを年表で見ておきましょう
天正8年(1580)頃 父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 播磨室津(兵庫県)で所領を得て
天正10年(1582) 小豆島(香川県)の領主となり
天正11年(1583) 舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 四国制圧の後方支援
天正14年(1586) 九州討伐で赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後,平戸(長崎県)に向かい,松浦氏の警固船出動を監督。
天正十五年(1587) バテレン禁止令後に高山右近を保護
  年表から分かる通り、行長は室津を得た後に小豆島・塩飽諸島も委せれていたようです。正式文書に、小西行長の名はありません。しかし『肥後国誌』やイエズス会の文献には、小豆島・塩飽の1万石が与えられていたと記します。天正十五年(1587)、秀吉に追放された切支丹大名の高山右近が行長の手で小豆島に匿われたことがイエズス会資料にあるので、塩飽・小豆島が行長の所領であったが分かります。天正10年に、秀吉に仕えるようになってすぐに室津を得て「領主」の地位に就いたようです。そして、小豆島と塩飽と備讃瀬戸の島々を得ていきます。行長が20代前半のことです。
 彼の所領を一万石ほどの「小さな島」と考えるのは大間違いです。
5 瀬戸内海

小豆島や塩飽は海のハイウエーである瀬戸内海のSAサービスエリアであり、ジャンクションでもあったのです。1万石の領土を任されたと云うよりも東瀬戸内海航路の管理・運営を任されたと考えた方がいいと私は思うようになっています。小西行長が秀吉に仕えるようになって4年、何か大きな戦功があったのかといえば「NO」です。本能寺の変の後、明智光秀や柴田勝家との戦いの中に彼の名前は出てきません。同世代の加藤清正や福島正則が「賤ヶ岳の七本槍」と勇名を馳せるのとは対照的です。長宗我部元親への四国遠征の際にも、後方支援で戦略物資を運んでいた輸送船団の若き司令官にしかすぎません。戦績もない青年将校が、戦略的要地の司令官に抜擢されているようです。先ほど触れた加藤清正は、当時は三千石です。戦場に出ず血を流すことのない主計将校、輜重武官として蔑んでいた行長が自分より秀吉の評価が高いことは、清正には愉快ではなかったはずです。
 秀吉はなぜ若い行長を抜擢したのでしょうか
  謎をとく一つの手がかりは、行長の父小西隆佐の存在だと研究者は考えているようです。
 同じ時期に行われた堺のトップ人事について宣教師フロイスは、次のような書簡をインド管区長に送っています。
「堺市においては切支丹にとって大いに悦ぶべきことが起った。同市の領主(奉行)が関白殿の怒りにふれて職を奪われ、奉行が二人おかれるようになった。代った一人は異教徒で、他の一人は隆佐と称し、切支丹の名をジョウチソという人である」(イエズス会『日本年報』)
 このフロイスの書簡のうち「同市の領主が関白殿の怒りにふれ」という部分が、信長以来の堺の代官が秀吉の怒りに触れて罷免され、隆佐が堺の代表者に任命されたと報告しています。この隆佐は行長の父なのです。改めて確認しておくと次のようになります。
  ①父・隆佐が堺の堺奉行
  ②子・行長が、小豆島・塩飽諸島と室津の領主
これには、人使いのうまい秀吉の思惑があったはずです。朝鮮出兵に向けた野望のために、父子二人を一体として使おうとしたのだと研究者は考えているようです。そのために堺と瀬戸内海交易路の戦略拠点である島と港を父子に与えたというのです。今風に云えば、
 父親は通産省の高官に、
 子は瀬戸内海の運輸省と海上保安庁の地元長官に
同時抜擢した人事処遇ということになるのでしょうか。秀吉はやがて行う九州制圧やその後の朝鮮出兵に向けて、軍兵、兵器、兵糧の海上輸送を行う船団の管理運営できるが人物の育成を行っていました。四国遠征では仙石秀久にその役割をやらせてみたのですが、秀吉の目にはかないませんでした。やはり武士や百姓出身の人間には、船や港や交易のことは分からないようです。そこで、抜擢されたのが堺商人の次男・小西行長だったようです。つまり商人出身の侍なのです。
  この時代の行長は、宣教師たちからは「海の司令官」と呼ばれていたようです。
その颯爽とした登場ぶりを史料から見てみましょう
天正13(1585)年の『イエズス会日本年報』
パードレ・フランシスコ・パショが豊後より都に赴く途中にて認めたる書翰
 七月六日「我等は佐賀関Sanganoxequiを出発し、12日に塩飽(Xluaquu)に着いた。途中海賊に會はず、風がなかったため常に櫓で進んだ。塩飽に着いて海の司令長官アゴスチニョ(小西行長)が異教徒である当地の殿に書翰を送り、予が到着した時、室までの船をあたえ、大いに飲待せんことを依頼した由を聞いた。アゴスチニョは、また我等が同地を通過する時に泊る宿の主人に、同じ趣旨の書翰を送った。
 同地には、またアゴスチニョ(行長)の家臣である青年キリシタンが一人居り羽柴筑前殿 (FaxibaChicugendono)(秀吉)の土佐、讃岐、阿波及び伊予の四国に派遣する軍隊を輸送するため、船の準備に塩飽に来た由を語り、アゴスチニョは同地より十レグワの所にて艦隊を待受けてゐる故、もし彼のもとに行かんと欲すれば、その船にて同行すべしと言った。
 予はこの招待に応じ、日比と称する地に着いたとき、未明に到着するはずである故そこにて彼を待つやう伝えられたた。アゴスチニョは果して、翌早朝多数の船を率ゐて到着し、十字架の旗を多数立てた大船に乗り、同所にゐた貴族達に面会することなく、直にわが船に来り、予をその船に移して大いに歓待した。ついで小舟に乗り、手に杖を待って、兵士を乗船せしめ、船を出航せしめたが、甚だ短き時間に沈着に一切を行った。然る後その船に還り、我等か暫く語った後、予に一艘の軽快な船をあたへ、直に堺に向ふため書翰ならびに兵士をあたえた。
ここからは次のようなことが分かります。
①小西行長が「海の司令長官」と宣教師から呼ばれ、室津を拠点としていた
②塩飽は当時は「異教徒の当地の殿」が治めていたこと
③行長の家臣が四国遠征準備のために塩飽にやってきていた
④十字架旗を立てた船団で日比にやってきた小西行長と歓談した
⑤小西行長の準備した快速船で堺に向かった
 行長は室津と小豆島の領国を持つ領主であると同時に,秀吉と諸大名を取り結ぶ「取次」として動き,秀吉の命令を伝達するだけでなく,現地の情勢に応じて武将と相談し,秀吉の命令意図を実行できる立場にあった研究者は考えているようです。
 四国遠征直前に、部下を塩飽に派遣し船の動員についての打合せを「塩飽代官」と行わしたり、自ら快速船団を率いてあっちこっちを巡回打合せを行う若き「海の司令官」姿がうかがえます。

  小豆島でのキリスト教布教は、どのように行われていたか?
翌年の1586(天正十四年)に小豆島での布教の様子が次のように報告されています
 パードレが堺より出発する前、アゴスチニョ九郎殿(小西行長)は備前国の前に在って、小豆嶋と称し、多数の住民と坊主が居る嶋に、同所の安全のため2カ所の城を築造することを命じた。彼の最も望むところは、この嶋に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんことであると言う。
 この嶋は備前に近く、同所より八郎殿の国に入る便宜かある故、同地にパードレー人を派遣せんことを求めた。彼は我等のよい友である故、船二艘を準備し、水夫及び兵士を付してパードレを豊後に送ることとした。パードレは右の希望を聞いてこれに応じ、我等の主のために尽くさんとして、大坂のセミナリョよりパードレー人をさいた。
 八六年七月二十三日 堺を発し右のパードレを同行して、かの小豆島(堺より四十レグワ=160㎞)の前に到る。
牛窓と称し同じくアゴスチニョ(行長)に属する町に彼を残した。右のパードレは同日、Giaoと稀する日本人イルマンと共に出発して小豆島に向った。嶋の司令官であるキリシタンの貴族も同行した。我等の主は、この派遣を大いに祝福し給うた。ビセプロビンシヤルのパードレが今居る長門の下関の港に着いた後一ヵ月半を越えざるうちに、大坂より来た書翰の中に、小豆嶋に留ったパードレの書翰があった。その中につぎに這べることが記してあった。
 予は備前国の港牛窓においてビセプロビンシヤルのパードレと別れ、その命に従って小豆嶋に赴いた。同所にはキリシタンー人もなく、わが聖教については少しも知らなかった。が、土人に勤めて同伴した日本人イルマンの説教を聴かしむることを始め、第一日には百人を超ゆる聴衆が集まり、彼等の半数以上はよく了解してキリシタンとならんことを望んだ。彼等は、またその聴いたところに驚き、この時まで神仏の事を知らず、盲目であったことを悟り、十人または十二人は諸人の代表として坊主のもとに行き、誠の故の道についことにつき彼等に教ふべきことあらは聞くべく、もしなければキリシタンとなるであらうと言った。
 坊主等は心中に悲しんだが、答へることができず、無智を自白し、彼等の望むとほりにすべく、自分達もまた聴聞し、もし彼の教に満足したらば彼等と同じくするであらうと言った。この坊主等は直に来ってデウスの教を聴き、満足して五十余人と共にキリシタンとなる決心をした。我等はカテキズモ(教理問答)の説教を受けてこの新しきキリストの敬介を開いた。が、我等の主デウスは、この人達の心中に徐々にに斎座の火を燃やし給ひ、1ケ月に達せざるうち、約一レグワ半(約6㎞)の間に接績してゐた村々において、千四百を超ゆる人達に洗礼を授けた。
 新しきキリシタン等は大いなる熱心をもって長さ七ブラサを超ゆる立派な十字架をここに建て、神仏は一つも残さず破壊した。また聖堂を建てるため四十ブラサ(約八八㍍)四方の場所を選んだが、その周囲には樹木が繁茂し、地内には梨、無花果及び蜜柑の樹が多数あった。アゴスチヌス(行長)は自費を持って、ここによい聖堂を建て瓦を持ってこれを覆ふ考である。この嶋の人々は甚だ質朴かつ真面目であり、今まで日本において見たうちでキリシタンとなるに最も適したものである。
 一村においては男女小児が皆改宗してキリシタンとなり、キリシタンとなることを欲しない者が僅か五、六人残っていた。が、我等の主の御許により、悪魔がその一人に憑いて非常に苦しめ、彼を通じて諸人の驚くことを語った。他の五、六人の異教徒はこれを見て、一レグワ余りの道を急いで予が滞在してゐた村に来り、彼等に説教し、悪魔が彼等を苦しむる前に洗礼を授けんことを請うた。よってこれをなしたが、新しきキリシタン等はこれを見て一層信仰を堅うした。
当時の行長の国作りのお手本は、先輩キリシタン大名である高山右近でした。
5 高山右近

右近は秀吉からも天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに6万石の領地を与えられ「神の国の地上での実現」をめざしていました。小西行長は、それを見習って国作りを小豆島で行おうとしていたようです。その一端が、イエズス会の立場から描かれています。
  行長の望むところは「この嶋に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんこと」として、どのような布教活動が行われていたかを上記の報告から確認しておきます。
宣教師が派遣されて、布教活動が行われます。
①小豆島の北側対岸の牛窓も行長の所領であったこと
②宣教師に「嶋の司令官であるキリシタンの貴族(=代官)」と同行したのは三箇マソショは結城弥平治ジョルジの両説有り
③場所は分からないが宣教師による布教活動が行われた
③1日目から百人を超ゆる聴衆が集まり、1ケ月で1400人を超える人達が洗礼を受けた
④信者は長さ七ブラサを超ゆる立派な十字架を建て、神仏は一つも残さず破壊した。
⑤聖堂建設場所が選ばれ、(行長)は瓦葺きの聖堂を建設する予定であった
模範とする高山右近の領地では、2つの相反する宗教政策が行われたことが記録されています。
①右近の領内の寺社記録は「右近が領民にキリスト教への入信強制を行い、さらに 領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。」と入信強制と神仏破壊が行われたと記録します。
②キリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかった。しかし、右近の影響力が大きかったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたとします。
どちらにせよ、急速な入信者の増大は、自然発生的なものではないようです。そして、神仏破壊も行われているようです。こうして、小西行長の領地ではキリスト教の布教が領主の支援を受けて行われ、急速な信者獲得が行われ、その成果を誇示するように大きな十字架も建てられたようです。
さて、このときに宣教師たちがやって来て布教を行い十字架が立てられて場所はどこなのでしょうか

5 小西行長2

まずセスペデスの上陸地の条件は、牛窓との航路があったことです。
牛窓と小豆島との海上航路については、いくつかのルートが考えられます。上陸地の候補地をを、『海潮舟行日記』(文政六年)で探してみましょう。

5 小西行長5
 福田 家百軒    湊廣シ西風ノ外懸り無之、
 草加部 家数八十軒  何風ニモ吉大船何程モ懸ル、
 池田 家百八十四軒 湊内廣シ何肢モ懸ル、
 土庄  家百八十一軒 舟懸り無之浅シ、
 渕崎 家九十五軒  入口西ヨり、湊上々何赦モ懸ル、
 伊木洲江  家百軒  湊悪シ、
 屋形崎 家三十四軒 舟懸り無之、
 小海  家三十六軒 是ヨリ備前ノ牛窓へ三リ、
 大部  家百二十八軒 西風南風懸リ
牛窓に一番近いのは小海です。ここは中世以来の廻船業者が活動する湊で、牛窓との便数も多かったようです。しかし、周辺の人家数や人口が少なすぎます。小豆島の北側にある集落では1400人の人々を集めるのは無理があるようです。
 この布教から約160年後の延享三年(1746)の『小豆島九ケ村高反別明細帳」には、宗門改の結果、「転び切支丹類族」が新たに見つかった集落を挙げています
草加部村 54人
肥土山村  5人
上庄村に  3人
渕崎村に  2人
そして、草加部の項目には次のような記事があります。
「尤も以前は池田村、小海村、福田村にも御座侯得ども、死失仕り、只今にては当村ばかりにて御座侯」。
 つまり、草加部の他に、池田、小海、福田にも、かつてはキリシタン信者がいた「死失仕り」っていないだけだと記します。単純に考えると、セスペデスの布教活動地はこの四つの村の一つに絞られるのかもしれません。しかし、後にも触れますが秀吉のバテレン禁止令以後、右近の信者たちが小豆島へ「亡命」してきています。その時の神社が隠れ住んだ可能性もありますので確かなことは分かりません
 
セスペデスが布教を行った場所について考えてみましょう。
 ①旧約六キロメートル連続した村々がある。
 ②約一か月間に1400人以上がキリシタンとなった。
 ③十五メートル以上の十字架が建てられた。
 ④キリシタソ達によって神仏が一つ残らず破壊された。
 ⑤聖堂を建てるための約88㍍平方の土地がある
 ⑥行長の支配の中心地に当り、館が築かれていた。
人口面からすれば内海湾に面して苗羽、安田、草壁、西村というような連続した村が続く島で一番の人口密集地帯である草加部村(内海町草壁地区)が有力でしょう。先ほど見た、「転びキリシタン類族」も54人と多く、ここに小豆島で最も大きなキリシタン信徒集団があったことがうかがえます。
天正十五年(1587)の『薩藩旧記後集』にも
室津へ未刻御着船、夫より小西のあたけの大船御覧有、すくに大明神へ御参詣有といへ共、南蛮宗格護故悉廃壌也、身応て御帰宿
と書かれ、小西行長による神社仏閣破壊が室津でも行われていたことが分かります。
そして地元の「草加部ハ幡宮柱伝紀」には、
「いづれの乱世やらんに、長曽我部とやら小西とやらん云う人、小豆島へ渡り来て、いづれの郷の宮殿もみな焼亡す」
とあり、この地区で小西行長による神社仏閣の破壊が行われたことを記します。しかし、これらも「状況証拠」で決定打ではありません。あえて想像するなら内海湾を見下ろす草壁の丘の上に大きな白い十字架が建てられた時代があったかもしれないくらいに留めておきます。
以上を整理すると
①秀吉が長宗我部と戦うために四国遠征軍の準備をしている時に、東瀬戸内海の「海の司令官」は小西行長だった
②彼は室津を拠点に、小豆島、塩飽の1万石の若き領主であり、同時に秀吉と諸大名を取り結ぶ「取次」として瀬戸内海を動いていた。
③行長は高山右近をお手本に、小豆島を「地上の神の国」とすべく宣教師に布教を依頼
④領主の半ば強制で人々は大量入信し、短期間で1400人の洗礼者を獲得した
⑤そのモニュメントとして大きな十字架を建てた。その場所は内海湾周辺が有力である

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
5 小西行長3

参考文献 遠藤周作 小西行長伝 鉄の首軛(くびき)
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4 塩飽大工
  
前回は「塩飽大工」という本に導かれながら島の大工の活動を見てきました。そこからは明治当初の塩飽では700軒を越える家が大工を生業としていたこと、それは3軒に1軒の比率になることなど、大規模な大工集団がこの島々にはいたことを見えてきました。塩飽は人名の島、廻船の島でもありますが、大工の島でもあったことが改めて分かりました。
3  塩飽 戸籍$pg

もう一度、明治5年の壬申戸籍に基づいて作られた上表を見ていきます。
ここには各浦毎の職業別戸数が数字化されています。例えば、本島の笠島(上から3番目)は、(カ)列を見ると人名が95名がいたことが分かります。ここが中世以来の塩飽の中心であったことが改めてうかがえます。(イ)列が大工数です。(エ)が笠島の全戸数ですので、大工比率は(オ)38%になります。
大工比率の高い集落ベスト3を挙げると、
①大浦 65%、 72軒
②生ノ浜61%  43軒
③尻浜 58%  28軒
で3軒に2軒は大工という浦もあったようです。
「漁村だから漁師が住んでいた」
という先入観は捨てないと「海民」の末裔たちの姿は見えてこないようです。ちなみに小坂浦は漁業230軒で、大工数は4軒です。そして、人名数は0です。ここが家船漁民の定着した集落であることがうかがえます。
 人名の次男たちが実入りのいい宮大工に憧れて、腕の良い近所の棟梁に弟子入りして腕を磨き、備讃瀬戸周辺の他国へ出稼ぎに行っていたことを前回はお話ししました。
どんな所に出稼ぎに行っていたのでしょうか?
備讃瀬戸沿岸地域の棟札調査からは、塩飽大工の活動地域が見えてきます。
4 塩飽大工出稼ぎ先

表の見方の説明のために、本島の泊浦(上から4番目)を見てみましょう。泊浦は本島の南側に開けた集落で、中世以来讃岐とのつながりの強い集落です。ここには50人の大工が明治5年にはいました。
彼らの先輩たちが残した寺社建築物が、どこに残っているかがわかります。
「倉敷・玉野」、「浅口倉敷」と讃岐の三野郡(現三豊市)の3つのエリアが群を抜いて多いようです。この3つが泊の大工集団のお得意さんであったことが分かります。
他の大工集団の動きを、「塩飽大工」では次のように指摘しています
・本島笠島  
総社市新本地区と井原市に多い。井原は大津寄家が大規模で参画人数が多くなっている。
・本島大浦  倉敷市に集中し、備中国分寺五重塔(総社市)に関与
・本島生ノ浜 倉敷市と総社市が多い。橘家の活動が大きい。
・本島尻浜  岡山県を広く活動。矢掛の洞松寺、大通寺が目立つ。
・本島福田  矢掛町、笠岡市が多い。明治には丸亀もあり
・広島    讃岐が多い。東坂元村(丸亀市)へ移住した都筑家の影響か?
・高見島   倉敷市に限定し、中でも連島地区が多い。
 この表から塩飽大工の出稼ぎ先について見えてくることは
①圧倒的に倉敷市が多く、次に総社市で、このふたつで5割を超える
②備前池田領、讃岐松平領など「大藩」が少ない。
③浦によって、出稼ぎ先が固定している。
④17世紀までは讃岐への出稼ぎが多く、18世紀になると備中が全体の7割近くを占める
  これらの背景を研究者は、次のように分析します。
①②については、岡山・高松の大きな藩はお抱えの宮大工集団がいるので、塩飽大工に出番はなかった。
③については、例えば本島泊浦から三野郡に29の寺社の建造物を建てているが、それは、泊浦の山下家が高瀬、三野、仁尾へ移住し、移住後も島からの出稼ぎが続いたため。
 各浦の宮大工集団には、お得意先ができてテリトリーが形成されていたようです。それでは、讃岐を活動の舞台とした泊浦の山下家の動き追っていくことにします。
4塩飽大工 山下家

山下家は上から4番目になります。その寺社建築は
①17世紀初めに極楽寺(牛島)から始まり
②以後は、讃岐の仁尾で、八幡神社(仁尾)→賀茂神社(仁尾)を手がけるようになります
塩飽大工で最も多い建築物を残す大工集団で、活動期間が長く人数も多かったため次のような分家が出ています
もう少し詳しく山下家本家の活動について見ておきましょう

4 塩飽大工 極楽寺
牛島極楽寺 「無間(むげん)の鐘」
丸尾家と同じくこの島を拠点としていた長喜屋宗心が1677年に寄進したという梵鐘
①1620元和6年 極楽寺(与島)建立から聖神社まで80年間で16の建造物造営、 極楽寺は、牛島を拠点に活躍した塩飽廻船の丸尾家の菩提寺です。檀那は丸尾家で、財力に任せた寺社建築を、棟梁として出がけたのでしょう。この時の経験や技術力が後に活かされます。
②与島での仕事と同時進行で仁尾でも活動しています。
 高見島や粟島での神社の仕事を請け負った後で、仁尾から依頼が来るようになります。1631寛永8年から60年間の間に、仁尾の賀茂神社・履脱(くつぬぎ)八幡神社に6つ建造物を造営・再建しています。与島での仕事と並行する形で仁尾でも神社建築を行っています。後には羽大神社と恵比寿神社も再建します。
③1671延宝2年 地元泊浦の木烏神社再建
④1687貞享4年 冨熊八幡神社(丸亀市) 本殿、1707宝永4年 同拝殿建立。
⑤1710宝永7年 高瀬(三豊市)の森神社を建立。
⑥1822文政5年 沙弥島(坂出市)の理源大師堂建立
 泊山下本家は泊浦に住みながら三野の仕事場に、長年船で出向いていたのでしょう。もちろん毎日「通勤」出来るわけはありません。三豊に家を構え出張所のような存在ができ、それが、高瀬、三野、仁尾へ移住し、分家(支店)となっていったようです。
高瀬山下家の活動について
山下家本家から分かれた泊山下分家は、九兵衛実次に始まり、理左衛門実義、小左衛門実重と続きます。この家系の理左衛が寛文年間(1670年頃)に高瀬へ移住し、高瀬山下家が始まったようです。
泊山下分家の実績を詳しく見ておきます
 棟札による高瀬山下家の建造物
 氏名      居住 建造年     建造物      所在  
山下理左衛門実義 新町 1671 寛文11 弥谷寺千手観音堂 三野町
山下理左衛門真教    1676 延宝4 八幡宮      高瀬町
山下七左衛門   新町 1681 延宝9 弥谷寺御影堂   三野町
山下七左衛門   新町 1683 天和3 弥谷寺鐘楼堂   三野町
山下利左衛門豊重    1696 元禄9 賀茂神社長常   仁尾町
山下理左衛門豊重 新町 1699 元禄12 賀茂神社社殿   仁尾町
山下利左衛門豊重 下高瀬新町1702 元禄15 履脱八幡神社拝殿 仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下甚兵衛理左衛 新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下理左衛    新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村  1710 宝永7 森神社      高瀬町
山下理左衛門豊重 新名村  1716 享保元 善通寺鐘楼堂   善通寺市
山下甚兵衛賞次  新名村  1718 享保3 宗像神社     大野原町
山下甚兵衛賓次  新名村  1718 享保3 中姫八幡神社   観音寺市
山下利左衛門豊重 新名村  1722 享保7 賀茂神社長床   仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村  1723 享保8 賀茂神社幣殿拝殿 仁尾町
山下甚兵衛賞次  新名村  1724 享保9 千尋神社    .観音寺市
山下利左衛門   新名村  1724 享保9 千尋神社     観音寺市
山下理左衛門豊之 新名村  1734 享保19 賀茂神社釣殿   仁尾町

ここから琴平移住?
山下太郎右衛門  苗田村  1760 宝暦10 善通寺五重塔(,建始)琴平町
山下理右衛門豊春      1823 文政6 石井八幡宮拝殿  琴平町
山下理右衛門豊春      1824 1文政7 石井八幡宮    琴平町
                琴平綾へ改名
越後豊章    高藪町  1837 天保8 金刀比羅宮旭社  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1841 天保12 金刀比羅宮表書院 琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1849 嘉永2 金刀比羅宮寵所  琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮米蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮通夜堂 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮法中部屋琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1854 嘉永7 金刀比羅宮廻廊  琴平町
綾九郎兵衛門豊矩 高藪町  1857 安政4 金刀比羅宮宝蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6 金刀比羅宮奥殿  琴平町
綾九良右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6 金刀比羅宮高燈寵 琴平町
綾坦三      高藪町  1875 明治8 金刀比羅宮神饌所 琴平町
綾坦三      高藪町  1877 明治10 金刀比羅宮本宮  琴平町
  (作成:高倉哲雄)
①高瀬山下家の三野郡最初の作品は、弥谷寺千手観音堂(三豊市三野町・1671寛文11年)のようです。
この棟札の高瀬山下家の棟梁の居住地は「新町」とあるので、すでに下高瀬新町に移住していたようです。それから25年後に利(理)左衛門豊重が棟梁として仁尾の賀茂神社(三豊市仁尾町1696元禄9年)を建てています。仁尾へは元禄までは山下本家が直接に出向いていましたが、この時から以降は、高瀬分家が仁尾を担当するようになります。これは、40年間も続く大規模で長期の仕事だったようです。
仁尾の仕事の後に、高瀬山下家の棟札が見つかっていないようです。
分家と考えられる新名村を居住とする棟梁の名前はありますが、高瀬新町の山下家の棟梁の棟札は三豊では見つかりません。高瀬山下家「空白の90年」が続きます。この時期の高瀬山下家は困窮していたようです。その打開のために、金毘羅さんの麓の苗田(のうだ)へ移住したのが太郎右衛門です。
 彼は、善通寺に売り込みを行って受け入れられ、善通寺五重塔(三代目)の材木買付に関わったことが、再興雑記(1760宝暦10年)に出てきます。ただし、五重塔の棟札には彼の名がありませんので、棟梁格ではなかったのでしょう。
 これをきっかけに高瀬山下家は再興の機会をつかんだようです。
石井八幡宮(琴平町苗田)の棟梁として理右衛門豊春が棟札に記されています。しかし、これには彼の居住地は記されていませんので、苗田に住んだ太郎右衛門の系なのか、高瀬の系なのかが分かりません。
 1831天保2年に、金毘羅大権現の旭社(旧、金光院松尾寺金堂)の初重上棟の脇棟梁に綾九郎右衛門豊章の名前が見えます。
4 塩飽大工 旭社

これは山下理右衛門豊章が金光院の山下家との混同を避けるために「綾氏」に改名した名前だとされます。二重の上棟時には棟梁となり、以後は金毘羅大権現のお抱え大工として華々しい活躍をするようになります。彼の居住地は金毘羅さんの高藪町になっています。
 豊章という名前からは、豊春の子ではないかと研究者は推測していますが、確証できる資料はないようです。その子の豊矩がは、高燈寵を建て、明治になると名を坦三と改めて、金刀比羅宮本宮の棟梁を務めています。

4 塩飽大工 旭社2
  以上から幕末に金毘羅さんで活躍した大工のルーツは、
塩飽本島泊の山下家 → 高瀬山下家 → 琴平へ移住し改名した綾氏
塩飽大工の系譜につながるようです。

  次に【三野山下家】 を見てみます。
三野山下家の過去帳が下表です。
4 塩飽大工 三野山下家

①最も古い棟梁は弥平治(1697元禄10年11月13日)になるようです。屋号が大貴屋となっていて、本来の屋号塩飽屋ではないのですが元禄以前に汐木(三豊市三野町)へ移住していたようです。
②棟札に初めて名が出るのは、吉祥寺天満宮(1724享保9年)の山下治良左衛門です。その後、吉祥寺と本門寺のお抱え大工のような存在として、両寺院の建築物を手がけています。そして、江戸末期には領主が立ち寄るほどの格式の家になっていたようです。
最後に仁尾山下家を見ておきます 
4 塩飽大工 仁尾山下家

仁尾と塩飽の関係は、1631寛永8年の賀茂神社鐘楼堂に始まり、それ以後賀茂神社天神拝殿(1694元禄7年)までは泊山下家が出向いています。そして、1696元禄9年賀茂神社長常からは、高瀬山下家に代わっています。仁尾居住の山下家とはっきりしているのは賀茂神社門再建(1800寛政12年)の藤十郎からです。
 仁尾山下家には安左衛門妻佐賀の位牌(1804文化元年没)が残ります。この位牌から安左衛門または子の藤十郎がこれより一世代前に、塩飽本島から仁尾へ移住したと推測できます。ただ、仁尾山下家は高瀬から分家移住という可能性もあるようです。
 仁尾と塩飽大工の関係は350年以上も続き、確かなものだけでも履脱八幡神社、賀茂神社、金光寺、吉祥院、常徳寺、羽大神社、恵比寿神社があります。仁尾の寺社建築の多くは、塩飽大工の手によって建てられたようです。
最後に三野山下氏が残した本門寺の建物を見ておきましょう

4 塩飽大工 本門寺
  本門寺は高瀬大坊と呼ばれる日連正宗派のお寺です。この寺は東国からやって来た秋山氏が建立した寺で、西国で最初に建立された法華宗寺院の一つとされます。広く静かな境内には山門、開山堂、位牌堂、客殿、御宝蔵(ごほうぞう)、庫裡など、立派な堂宇が建ち並んでいます。この寺には、次のような棟札が残り、三野山下家との関係を伝えます。
1726享保11年 前卓  工匠    山下治良左衛門藤原義次
1727享保12年 宝蔵  大工頭領  山下治良左衛門吉次 

1781天明元年 本堂  棟梁    汐木住人山下浅治郎
          旅棟梁同所 山下吉兵衛 山下守防
          後見 丸亀住人 三好与右衛門宣隆
           丸亀住人  藤井善蔵近重
          大工世話人 比地村 九左衛門
1811文化8年 大法宝蔵 大工棟梁 山下治良左衛門暁清 
1819文政2年 庫裡 棟梁禰下治郎左衛門暁次
           後見 森田勘蔵喜又      
1822文政5年庫裡 棟梁 山下治郎左衛門暁次
           後見 藤井善蔵近重      
しかし、この中で現存するのは本堂だけのようです。

4 塩飽大工 本門寺2
「桁行5間 梁間5間 入母屋造 向拝1興 本瓦葺 総欅造」
日蓮聖人の御影が座すので御影堂とも呼ばれ、本門寺一門の本堂として御会式を始め重要な儀式が行われる所です。建て始めから棟上げまで58年もかかっています。
「塩飽大工」には次のように紹介されています
側面は角柱、正面は円:札、組物は出組。中備墓股は波や草花文様が凝っており風格がある。長押と頭貫の間を埋める連子と、両併面の荘重甕が上品である。軒二軒角繁(のきふたのきかくしげ)。妻飾りは二重虹梁大瓶東で、結綿は鬼面が虹梁を噛む。虹梁間の慕股は、二羽の島が羽を円形に広げて向かい合う二つの円と一羽が大きく羽を円形に広げた一つの円で珍しい。隅垂木を担ぐ力士像は良い表情をしている。向拝は角柱、組物は連三斗、正面墓股の龍や木鼻の獅子は躍動感がある。内部にも木鼻の獅子や墓股など外部と同系の彫刻が施されている。

 隅垂木を担ぐ力士像は近重作と銘があります。後見人の藤井善蔵近重が彫っているようです。
 以上をまとめると
①塩飽大工は浦毎に大工集団として棟梁に率いられて活動した
②讃岐三野郡には、本島泊の山下家の大工集団がやってきて島嶼部の粟島などの神社を手がけた
③その後、仁尾や託間の寺社建築を手がけ、出稼ぎ先に定住する分家も現れた
④高瀬山下家は、琴平への移住し綾氏と改名し、金毘羅大権現の旭社(小松尾寺金堂)の棟梁として活躍
⑤三野山下家は、日蓮宗本門寺のお抱え大工として活躍
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 高倉哲雄・三宅邦夫 塩飽大工 塩飽大工顕彰会

  下の表は明治5年の壬申戸籍に基づいて作成された集落別職業別戸数です。
3  塩飽 戸籍$pg

塩飽の各集落の職業別戸数にもとづいて、地区ごとの大工比率が出されています
(イ)は大工数で総計は707人
(エ)が地区戸数で塩飽全体の総戸数が2264戸
(イ)÷(エ)=(オ)で、全体で31%、3軒に1軒が大工
ということになります。
細かく見ていくと本島の大浦・尻浜・生ノ浜、広島の茂浦・青木・市井、豊島の7集落は、半数以上が大工です。漁民の数と大工の数が、ほぼ一緒なのです。漁民の多い本島小阪、佐柳島、瀬居島には大工が少ないようです。
 私は塩飽の大工について、次のように考えていました。
廻船業で活躍した人たちは、海上運送業業の不振と共に漁業に進出するようになった。同時に、造船業に従事していた船大工が宮大工や家大工に「転進」したと、勝手に考えていました。しかし、この表からは私の予想しなかった塩飽の姿が見えてきそうです。
塩飽の大工集団がどのように形成されたのかを探ってみましょう。
まずは塩飽に木材加工職人や船大工が大量に入ってきた時代があります。その時代のことを見てみることから始めましょう
文禄元年の豊臣秀次の塩飽への朱印状に、塩飽代官に朝鮮出兵に向けての「大船」を作ることが命じられたことが記されています。時の代官は、そのための船大工や木材を集めます。この時代の塩飽や小豆島は、キリシタン大名の小西行長の支配下にありました。堺の通商ネットワークに食い込んでいる小西家によって各地から船大工をはじめとする造船技術者たちが塩飽本島に集められ、大船建造のための「造船所」がいくつも姿を現したのでしょう。そこでは朝鮮出兵のための軍船が造り続けられます。
3  塩飽 関船

この時には「関船」という軍船を短期間で大量に作ることが求められました。そのため技術革新と平準化が進んだと研究者は考えているようです。
  この時に新開発されたのが「水押(みよし)」だと云われます。
3  塩飽  水押

水押は波を砕いて航行することを可能にし、速力が必要な軍船に使われるようになります。それが、江戸初期には中型廻船にも使われるようになり、帆走専用化の実現で乗員数減にもつながります。船主にとっては大きな経済的利益となります。これが弁才船と呼ばれる船型で、塩飽発祥とも言われますが、よく分かりません。
3  塩飽  弁財船

この弁財船をベースに千石船と呼ばれる大型船が登場してくるようです。
 江戸時代になると塩飽は、廻船業を営む特権的な権利を持ちます
 そのために造船需要は衰えません。また、和船は木造船なので、海に浮かべておくと船底に海草や貝殻が生じ船脚が落ちます。それを取り除くためには「船焚(タデ)」が必要ですし、船の修繕も定期的に行なわなければなりません。
4 船たで1
船焚(タデ)で船底を焦がして、フナムシを駆除
牛島の丸尾家や長喜屋などの大船持になると、専用の修繕ドッグを持っていたと伝えられます。このように塩飽には、大小の船持が多くの船舶を持っていて、高い技術を持った船大工も数多く揃っていたのではないでしょうか。そこで作られる廻船は優れた性能で、周囲の港の船主の依頼も数多くあったのかもしれません。こうして、近世はじめの塩飽には、船大工が根付く条件が備わっていたのではないかと研究者は考えているようです。
  塩飽の造船所については、ドイツ人医師・シーボルトが「江戸参府紀行」に、次のように書き残しています
 文政九年(1826)6月12日の本島・笠島港の見聞です。
 六フイートの厚さのある花崗岩で出来ている石垣で、海岸の広い場所を海から遮断しているので、潮が満ちている時には、非常に大きい船でも特別な入口を通って入ってくる。引き潮になるとすっかり水が引いて船を詳しく検査することが出来る。人々は丁度たくさんの船の蟻装に従事していた。そのうち、いく隻かの船の周りでは藁を燃やし、その火でフナクイムシの害から船を護ろうとしていた。
  ここからは次のような事が分かります。 
①花崗岩の石垣で囲まれた造船所ドッグがあり、潮の干満の差を利用して入港できる
②引潮の時に何艘もの船がドッグに入って艤装作業が行われている
③藁を燃やし船焚(タデ)作業も行われている
造船所の構造と船タデの様子が、よく分かります。そして、ここは下関と大阪の間で、船を修理するのにもっとも都合のよい場所だという註釈まで加えられているのです。笠島浦に行った時に、この「造船所跡」を探しましたが、いまはその跡痕すらありませんでした。ちなみに、備後の鞆には残っているようです。

4 船たで場 鞆1
            鞆の船焚場跡

従来の説では、塩飽の宮大工は船大工が「陸上がり」したものだと云われてきました。
 塩飽で船持が鳴りを潜めた時代に、船大工から家大工への「転身」が行なわれたというのです。造船や修繕の需要が少なくなって、仕事がなくなった船大工が宮大工になることで活路を見い出したという説です。瀬戸内海を挟んだ岡山県や香川県には、塩飽大工が手がけた社寺が幾つも残っています。それらの寺院や神社建築物の建立時期が、塩飽回船が衰えた18世紀半以降と重なります。

3 吉備津神社
 例えば、岡山県吉備津神社がそうです。
備中一の宮にあるこの建物は鳥が翼を拡げたような見事な屋根を持ち「比翼入母屋造吉備津造」で名高いものです。この本殿・拝殿の再建・修理が宝暦九年(1759)から明和六年(1769)にかけて行なわれています。そのときの棟札には、泊浦(塩飽本島)出身の「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」と工匠の名前が墨書されています。
 
4 塩飽大工 棟札
吉備津津神社本殿修造の棟札。
下部中央には「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」の名がある(岡山県立博物館蔵)


以前にも紹介しましたが、善通寺の五重塔も塩飽大工の手によるものです。幕末から明治にかけて長い期間をかけてこの塔を再建したのも塩飽大工左甚五郎です。
  彼らは浦ごとに集団を組んで、備中や讃岐から入ってくる仕事に出向いたようです。それが次第に仕事先の丸亀や三豊の三野、金毘羅あたりに定住するようになります。このように塩飽の宮大工が、船大工に「転身」したという従来の説は、大筋では納得のいくものです。しかし、これに対して「異議あり」という本が出ました。これがその題名もそのもの「塩飽大工」です。この本は、地元の研究会の人たちによる備讃瀬戸沿岸の塩飽大工の手による建築物の調査報告書的な書物です。
4 塩飽大工
その中で、調査を通じて感じた「違和感」が次のように記されています。
自分の家を家大工に立てさせた宮大工
 塩飽本島笠島浦の高島清兵衛は宮大工で、1805文化2年に月崎八幡神社鐘楼堂(総社市)を弟子の高島輿吉、高島新蔵とともに建ています。同じ文化2年に清兵衛の自宅を、隣浦の大工妹尾忠吉に建てさせているのです。その棟札に宮大工の清兵衛一族の名はないというのです。つまり、宮大工として出稼ぎに出ている間に、島の自宅を地元の家大工に建てさせているのです。ここには、船大工、宮大工、家大工の間に、大きな垣根があったことがうかがえます。宮大工が片手間に民家を建てることや、船大工が宮大工の仕事に簡単にスライドできるようなものではないようです。それぞれの仕事は、私たちが考えるよりもはるかに分化し、専業化していたようです。
その例を、この本ではいくつかの視点から指摘していますので見ていきます。
例えば、技術面でも船大工と宮大工に求められたものは異なります
船大工は秘伝の木割術に基づき、材の選定、乾燥、曲げ、強度、耐久性、水密と腐食防止等、高度な設計技術と工作技術が求められます。舵・帆柱等は可動性、内装には軽さと強さといった総合的な技術が必要であることに加えて、莫大な稼ぎにかかわるため短期間で完成させなければならないという条件があります。
宮大工は、本堂のような建造物を、数十年という長い年月をかけて、神仏の坐する場所にふさわしい格調と荘厳に満ちたものにする専門技術が求められました。そこには彫刻技術が必須です。
 船は木材の曲げと水密技術が多用されます。それに対して寺社は、曲りを使わずに屋根の曲線は精密な木取りで実現します。宮大工は船大工に比べて非常に高価ないい大工道具を使ったといいます。船は実用性優先で、寺は崇高で洗練されたものでなけらばなりません。
 このように見てくると、従来から云われてきた
「塩飽大工は船大工の転化で、曲げの技術を堂宮造りに活かした」
という説は成り立たないと「塩飽大工」の筆者は云います。棟梁格が臨機に船大工と宮大工を兼ねたということは考えられないとして、塩飽には宮大工と船大工の二つの流れが同時に存在していたとします。
 ただ、小さな民家の場合は、船大工でも宮大工でも片手間で建てることができます。船乗りという仕事は、海の上で限られた人数で、船を応急修繕しなければならないこともあります。みんながある程度の大工技能を持っていたようです。江戸中期までは、冬場は船が動きませんでした。仕事のない冬の季節は、大工棟梁のもとで働く「半水半工」が塩飽にはいたかもしれません。
 ① 廻船業の視点からの疑問
 塩飽の大型船は確かに1720享保5年を境に急激に減っています。
  この背景には幕府の城米の輸送方針の変化があったようです。
 塩飽全体の廻船数は
正徳三年(1713) 121艘
享保六年(1721) 110艘
明和二年(1765)  25艘
寛政二年(1790)   7艘
確かに北前船は激減していますが、実は塩飽の総隻数は漸減なのです。 
3  塩飽人口と船数MG

これは塩飽船が北前船から瀬戸内海を舞台とする廻船に「転進」したことがうかがえます。
塩飽手島の栗照神社を調査したある研究者の報告を紹介します。
北前船の絵馬が5枚あるというので出向いたところ、文化初年(1805頃)を下らない1500石積の大型弁才船が描かれてるものがあったようです。これは北前船の船型ではなく、奉納者はすべて大坂の船主で、船は大坂を拠点にする瀬戸内海の廻船であったことがうかがえます。報告者はこう記します。
「弁才船というのは型の呼称であって、北前船というのは北陸地方を中心とする日本海沿岸地域の廻船の汎称である。戦後日本海運史研究で北前船が一躍表面に出て、北前船が戸時代海運を代表する廻船だったかのように誤解されてしまい、いつの問にか弁才船即北前船と錯覚する向きも出てきた」
 つまり江戸後期になると、弁才船の多くは大坂を拠点に瀬戸内海を走るようになっていたというのです。

3  塩飽  弁財船2
弁財船
その多くは船主が大坂商人で、借船あるいは運行受託になっていたと研究者は考えているようです。
 塩飽の1790寛政2年、400石積以上の廻船数はわずか7隻と記されています。しかし、「異船」が57隻もあります。「異船」と何なのでしょうか?これが持ち主は大坂商人で、乗り組んでいたのは塩飽の船頭に水夫たちだったのではないか、それが東照神社絵馬のような船ではないかと筆者は推測します。
 全国各港に残る入船納帳や客船帳は、江戸中期以降塩飽船の数が減ることを「塩飽衰退の証拠」としてきました。確かに塩飽船主でないため塩飽とは記録されませんが、船頭や水主に塩飽人が混乗する船は多かったと考えられます。
 以上のように塩飽船籍の船は減ったが乗る船はあったので、水主の減り方は緩やかだったとするのです。
明治5年時点でも、塩飽戸数の1割にあたる210戸が船乗りです。文化、文政、文久、万延といった江戸後期の塩飽廻船中が寄進した灯篭や鳥居が、そこかしこにあることからも、塩飽の海運活動の活発さがうかがえます。
次は乗組員(水主)の立場から見てみましょう。
 船乗りは出稼ぎで、賃雇いの水主です。彼らにとって乗る船があればよいのであって、地元船籍にこだわる必要はありません。腕に覚えがあれば、船に乗り続けられます。賃金の面でみても、水主の方が魅力的だったようです。塩飽の水主は多くが買積船に乗り、賃銀に歩合の比率が大きかったため、固定賃銀の運賃積船よりも稼ぎが多かったようです。塩飽の船乗りは、船主は代わっても船に乗り続けていたのです。
 塩飽牛島に自前の造船所を持っていた塩飽最大の船主丸尾家は、
 江戸中期になると、拠点を北前船の出発地である青森へ移します。それは、船造りに適したヒバ材が豊富なで所に造船所を移すというねらいもあったようです。与島にも1779安永8年頃に造船所を造っていますが、そこは小型船専用でした。千石船が入ってくるのは船タデと整備のためだったようです。
 司馬遼太郎の「菜の花の沖」には、廻船商人の高田屋嘉兵衛の活躍と共に、当時の経済や和船の設計・航海術などが記されています。そこにも大型船の新造は、適材を経済的に入手でき、人材も豊富な商業都市・大坂で行われていたことが描かれていました。経済発展とともに大量輸送の時代が訪れ、造船需要は拡大しました。このような中で、塩飽の船大工が考えることは、仕事のある大阪へ出稼ぎやは移住だったのではないかと作者はいいます。確かに塩飽に残り宮大工に転じたと考えるよりも無理がないかもしれません。ちなみに、200石以下の小型船は塩飽でも建造され続けているようです。機帆船や漁船は昭和40年代まで造られていて、船大工の仕事はあったのです。
 船大工は家大工よりも工賃が高かった
 大坂での大型弁才船の船大工賃は家大工に比べて4割程度高かったと云います。塩飽でも1769明和6年に起きた塩飽大工騒動に関する岡崎家文書に、当時の工賃が記されています。
船大工は作料1匁8分、
家大工・木挽・かや屋は1匁7分とある。
日当1分の差は大きく、これも船大工からの転業は少なかったと考える根拠のひとつとされます。この額は、大坂の千石船大工に比べると半分程度になるようです。塩飽の腕のある船大工なら大坂へ出稼ぎに出たいと思うのも当然です。家大工との工賃差が大坂より小さいのは、塩飽では小型船しか作らなくなっていたからでしょう。
誰が大工になったのか
 最初の疑問である
「浦の3軒に1軒は大工の家」という背景をもう一度考えて見ます。これは、は江戸を通じて大工が増え続けた結果だと作者は推測します。その供給源は、どこにあったのか、何故増えたのかを考えます。
人的資源の供給源は「人名株を持った水主家の二男三男」説です。
  以前見た資料を見返してみましょう。
  元文一(1727)年、対岸の備中・下津井四か浦は、塩飽の漁場への入漁船を増やして欲しいと塩飽年寄に次のように願い出ています
 塩飽島の儀、御加子浦にて人名株六百五拾人御座候右の者共へ人別に釣御印札壱枚宛遣わせらる筈に御座候由、承り申し候、六百五拾人の内猟師廿艘御座候、残りは作人・商船・大工にて御座候、左候へば御印札六百余も余慶有るべきと存じ候……。
  ここでは下津井の漁師たちが「塩飽は好漁場を持っているのに人名の船は2艘しかなく、残りは「作人・商船・大工」だと云っています。
  明和二(1765)年の廻船衰退の際の救済申請所には、塩飽の苦境が記されています。
 島々の者 浦稼渡世の儀、先年は回船多く御座候に付、船稼第一に仕り候得共、段々回船減じ候に付、小魚猟仕り候者も御座候。元来小島の儀に御座候得者、島内に渡世仕り難く、男子は十二三歳より他国へ罷り越し、大工・・
と、塩飽には仕事がないので12、3才から宮大工や家大工の弟子になり、棟梁について他国へ出稼ぎに出ていると、島の困窮を訴えっています。
 ここからは塩飽には18世紀から大工が多くいたことが分かります。この上に次のようなストーリーを描きます
① 島には古くから続く宮大工家があった
② そこに人名株を持った次男・三男が預けられた
③ 素質のある者は宮大工になり、並の者は家大工になった。
④ 名門宮大工家には弟子たちが養子入りした事例が多いのは、技術の伝承目的もあった
  このようにして、宮大工の棟梁が住む浦には大きな大工集団がうまれていったのです。
塩飽本島の春の島巡礼をお接待を受けながら歩いていると、大きな墓石に出会います。
3  塩飽  人名墓
幕府はたびたび
「百姓町人の院号居士号は、たとえ富有者や由緒有る者でも行ってはならず、墓碑も台石共で高さ4尺(約121cm)まで」
と、「墓石制限令」をだしています。しかし、水主家や大工家の墓は、この大きさを超え名字を記したものが数多くあります。このような大きな墓が建てられること自体、宮大工の人名の家は裕福だったようです。
  以上をまとめておきます。
①秀吉の朝鮮出兵の際に、塩飽は関船の造船拠点となり、多くの船大工がやってきた
②短期間で大量の関船を造るために「水押」などの新技術が採用された
③江戸時代になっても塩飽は廻船拠点として、造船・修繕需要があり船大工は定着していた。
④これに対して、宮大工の系譜を引く集団も中世以来存在した。
⑤廻船業が普請になると、廻船業者の次男たちは宮大工の棟梁に預けられた
⑥浦毎に組織された大工集団は、備前・備中・讃岐の寺社建築に出稼ぎに呼ばれるようになる
⑦その結果、腕の立つ棟梁のいる浦には、その弟子たちを中心に大工集団が形成された。
こうして形成された山下家の大工集団からは、出稼ぎ先の三豊に定着し、三野の本門寺や仁尾の寺社の建築物を手がける者もあらわれます。そして、その中からは以前に紹介したように、琴平に移住して、旭社(旧金堂)建立の際には棟梁として活躍する者もあらわれるのです。
   備讃瀬戸の真ん中の塩飽に住んで、周囲の国々をテリトリーにして活躍する宮大工集団がいたのです。それが明治の戸籍には痕跡として残っているようです。

参考文献 高倉哲雄・三宅邦夫 塩飽大工 塩飽大工顕彰会

塩飽勤番所
「1150石の領主」となった塩飽人名には、どんな里役(義務)があったのでしょうか?
 戦時においては船を持って参戟し、この軍隊や城米を目的地まで運ぶのが、御用船方を命じられた塩飽の役目でした。注意しておきたいのは「水軍」ではなく「輸送部隊」であったことです
 この外に長崎奉行の送迎があります
 長崎は江戸時代には、唯一外国に開いた貿易港です。その長崎奉行は長崎の市政や貿易を担当し、九州大名の監督や密貿易の取締りにあたる長官です。定員は二人で任期は一年、交替で長崎に赴任しました。塩飽は承応三(1654)年以来、交替する奉行を大坂から小倉まで送り、さらに任期を終えた奉行を待って、大坂まで送迎するのも御用船方の任務でした。これには50人前後の水主(かこ)が、2ヶ月近く動員されています。
 また、朝鮮通信使400人ほどの使節団が、将軍の代替わりごとに来日します。
江戸時代を通じて12回来ていますが、この使節団を大坂川口から淀まで、川船で輸送することが塩飽に命じられました。塩飽か実際に出動したのは、享保4年、延享5年、宝暦14年の三回です。享保のときには、大坂で5671の水主を雇い、延享には銀三八貫目余、宝暦には銀四〇貫目余が支出されています。その外、城普請の資材の運搬とか、幕府が派遣する上使の運送などの御用を務めています。
   北前船 塩飽廻船の栄光
  当時の「大量輸送」の主役は船です。研究者の計算によると、千石石の米を輸送するのに、
①1000石 ÷ 馬一頭の積載量四斗(俵二俵) 
          =12500頭の馬と同数の馬子
②1000石 ÷ 千石船 =1艘
という計算になります。千石船は、乗組員が十数人で動かせます。食事・宿泊費を考えると、輸送距離が長くなっても、船の方が断然経済的です。酒田港で船積みされた城米は、日本海、瀬戸内海を通って大坂へ、更に江戸へとつなぐ西廻り航路によって輸送されるようになります。この航路は、約1300キロの長距離です。しかし、太平洋側の東廻り航路より安全で、運賃も米百石について
①東廻りの22両2分
②21両
1両ほど安かったので、日本海側の物資は西廻り航路が選ばれるようになります。これらの船が金になる物資を積んで瀬戸内海を上っていくのです。一艘の北前船が寄港するだけで、その港は潤いました。
塩飽廻船の最盛期を過ぎていますが、正徳三年(1713)の記録によれば、
①当時の塩飽船数総数   476艘で、
②150石積~200石積 112艘
③200石積~300石積 360艘
で、毎年7万石の東北の城米を運んでいます。往路には塩、砂糖、織物など瀬戸内の産物を積み、帰路には、米以外に魚肥、塩干魚、昆布などを買い入れています。
 当時の塩飽の人口は10723人、そのうち船稼者3460人です。それでも船乗りが足らなかったようで、北岸の備中児島から多くの水主を雇っています。
3  塩飽人口と船数MG

     しかし、塩飽廻船の全盛期も元禄年間くらいまででした。
諸国廻船を使って、町人が塩飽廻船よりも安い運賃で城米の運送を請け負い始めたのです。享保五年に幕府は、北国・出羽・奥州の城米の東廻りによる江戸への廻米を江戸の廻船問屋筑前屋作右衛門に命じ、翌年には越前の城米も西廻りによる運送も彼に命じます。つまり城米の運送を町人に請け負わせることにします。これまでの城米の「雇直送方式から請負雇船方式」へ切り換えられたのです。城米運送の御用船として塩飽廻船の持っていた特権はなくなります。船賃競争に破れた塩飽の廻船数は、西回り航路の舞台から時代に「退場」していくことになります。
 牛島の廻船は享保六年は43嫂ありました。しかし、7年後には約半分の23嫂に激減しています。この背景には幕府の城米の輸送方針の変化があったようです。
 塩飽全体の廻船数は
正徳三年(1713) 121艘
享保六年(1721) 110艘
明和二年(1765)  25艘
寛政二年(1790)   7艘
と急激に減っています。これは塩飽の地域経済に大きな影響と変化をもたらします。
明和二年(1765)に勘定奉行に差し出した書状には
 島々の者浦稼ぎ渡世の儀、先年は廻船多くご座候に付、船稼ぎ第一につかまつり候えども、段々廻船減じ候に付、小魚猟つかまつり候者もご座候、元来、小島の儀に候えば、島内にて渡世つかまつり難く、男子は十二三歳より他国へまかり越し、廻船、小船の加子、または大工職つかまつり、近国へ年分渡世のためまかりいで候、老人妻子ども畑作渡世っかまっり候
 とあり、
①かつては、廻船が多く船稼ぎで生活していたこと
②ところが廻船業が衰退し、漁場を行う者や
③島には仕事がないので、島外に出て水夫や大工になること
など、かつての塩飽の栄光も影を失って、寛政期の困窮の時代を迎えることが分かります。
塩飽の人名制度について、もう一度見ておきましょう
 秀吉は塩飽領1250石を650人の船方に与えました。人名と呼ばれた人たちは、もともとは本島・牛島・与島・櫃石島・広島・手島・高見島の七つの島に住んでいましたが、後に沙弥島・瀬居島・佐柳島や石黒島を開拓移住したので、最終的には11の島で暮らしていました。
 人名が最も多いのは本島の305人で約半数が本島にいました。本島と広島は浦毎に配分し、その他の島では、島毎に配分しています。その保有状況は、地区によって違っていて、一人一株の所もあれば、地区全体で共有している所もあります。また、分家や譲渡によって、一株をいくつにも分割している例もあるようです。つまり人名株を持っている人は、650人よりも多いことになります。
 これについて、享保六年に支配役所へ差し出した書付に
 役水主六百五拾人の事 役水主の儀、先年より家きまりおり申す儀はご座無く候、役目勤めかね申す者は、段々差し替え申し候、この儀常々年寄、庄屋よく吟味つかまつる事にご座候、人数の儀は浦々高に割符つかまつり、何拾人と申す儀相きまりおり申し候
とあるように、非常時の動員に対して、650人分の水夫を準備しておくことが第1に求められたことのようです。
人名組織の年寄について
 4名の年寄は、泊浦と笠浦のそれぞれの名家が世襲したようです。彼らは朱印状を守り、大坂奉行所からの通達などの政務を行いました。非常時には年寄が庄屋を集めて協議し、決定し難い事項は大坂奉行所へ申し出て指示を受けました。
 年寄の下に浦毎に庄屋・組頭が置かれていたようで、次のような文書があります。
 島中の庄屋拾八人ご座候、組頭と申す儀は浦々にて百姓の内二三人宛 組頭と定め置き、庄屋に相添え御公用ならびに浦の用事相勤め申し候 但し、二三年宛順番につかまつり候、右組頭共相替わり候節は、庄屋方より年寄共方へ相断り申し候、庄屋共の儀は、先年より代々家相続相勤め居り申す者共多くご座候、是又、よんどころなき儀ご座候て、庄屋役指し上げ候者ご座候節は、年寄共吟味の上指図つかまつり候
意訳すると次のようになります
 庄屋は18人、組頭は浦毎に2,3人で庄屋を助け、協議しながら浦運営に当たっている。ただし、2,3年毎の輪番制で、交替する場合は庄屋より年寄りに相談がある。庄屋はほとんどが世襲しているが、やむを得ず庄屋役を召し上げる場合は、年寄りと協議の上で行っている。
さらに次のように記します。
① 年寄職は、本島で一番大きい笠島浦、泊浦のどちらかから出すのが慣例になっている
② このふたつの浦には組頭は置いていない。
③ 庄屋には役料をだしているが、組頭は無給である。
 天領としての支配は、大坂川口奉行、大坂町奉行が交互に行っていたようです。これらの支配所からは毎年、見聞使が視察に来て、諸島を巡見しています。
塩飽の人名組織の財政については?
塩飽の表高は1250石ですが朱印状により幕府には、一文も納める必要はありません。全て島内で裁量に任されていたようです。それらは積み立てられて、つぎのような項目に支出されました。
①長崎奉行役の賃金
②島中の者が御用のため大坂へ出張雑用、
③島内の会合の必要経費
この他に「小物成」収入として、山林からの山手銀、塩浜年貢、網の運上銀があります。この中で最大の収入となったのは、島外からの入漁者や島内の人名網元への運上銀でした。
3 塩飽運上金

この額が年を追って増加し、幕末頃には銀96貫と、総収入の7割を越えるようになったことは前回お話ししたとおりです。
 年と共に幕府からの総員命令で支出は増え、赤字財政が続き、人名からの臨時徴収によって補てんするようになります。廻船業が順調なときならある程度の負担は、本業のもうけで埋め合わせが出来ました。しかし、その本業が成り立たなくなった状態では、負担が増えることに絶えられなくなる人名たちも出てきます。こうして、人名の間で財政問題をめぐる保守派と改革派の対立が顕在化するようになります。
 改革派が直訴で要求したことは?
 巡見使がやって来ることを知った改革派の人名達は、笠島浦の小右衛門、惣兵衛を中心に、泊浦の来迎寺に集まり、この機会に島中の窮状を訴え、人名組合の公費削減や年寄の不正支出について巡見使に直訴することを申し合わせます。
 1789年4月19日、御料巡見使一行が、丸亀から笠島浦の宿舎に入ります。翌日から船で塩飽諸島を巡回し、25日には巡見を終えて、次の巡見の地直島へ向かって出港していきました。当日の船数は、御召船一般、御先乗船一般、漕船六般、御供船三般、御荷物船三般、台所船一般、合計15艘と記録されています。この時の巡見使は、天領である塩飽 → 直島 → 小豆島という巡検が予定されていたようです。巡見使の後を追った小右衛門、惣兵衛の二人は、小豆島の土庄で面会を求め、塩飽の庄屋、水主百姓惣代の連印による「乍恐奉願上口上」と題された願書を提出します。その内容は、
①島入用の支出を抑えること、
②年寄による島入用の流用を禁ずること、
③島財政を圧迫する年寄の大坂への出向を減らすこと
などで、年寄の不正流用追求や、人名の負担を軽減するために人名組織の改革を求める内容でした。この願書は、巡見使の取り上げるところとなり、塩飽の年寄をはじめ庄屋、年番が大坂へ呼び出されて取り調べを受けます。そして、3年後の寛政四年(1792)5月3日「御仕置御下知書」が出されます。下知書は、関係者に以下のような処分を下しました。
①塩飽の四人の年寄は「役儀取り上げ押し込み」
②大坂支配所の与力二人は「追放」、同心四人は「切米取り上げ」
③塩飽の庄屋達は「過料」。
これに対して直訴した二人は
「直訴は不埓であるが、個人の身勝手に行ったものではないからと「急度叱り置く」
と微罪に終わりました。
 当時は松平定信による寛政の改革が進行中です。「政治刷新」を標榜する当局は、不正役人の処分を厳格に行ったようです。また、訴えた二人に越訴の罪を問わなかったことは、年寄りたちの不正を認め、訴訟の正当性を認識したもので、改革派寄りの「判決」だったと研究者は考えているようです。
 「判決」の中で、四人の年寄役については、財政実状を把握せずに無駄な支出を増やし濫費を行った責任が問われています。つまり、訴願の発端は財政問題でしたが、その人名組織の運営ををめぐる年寄役の行動が問われる内容となっています。この直訴事件の「判決」を受けて、人名組織の改革案が話し合われ次のような新ルールが決まります。
①いままで年寄の自宅で政務をとっていたのを、新しく役場を建て、年寄はここで執務する。
②年寄役場の中に「室蔵」をつくって織田信長以来の朱印状を保管する
③年寄の四人制を二人制の年行司に改め、会計担当の庄屋を常勤させて年寄の相談に応じ、決裁し難いことは、惣島中の会合で決める。
④年寄の世襲制を廃止し、一代限りで退役する。
そして新しい年寄(2名)と会計担当に次の3名が入札(選挙)で次のように選ばれます。
牛島の丸尾喜平治              塩飽きっての船持
笠島浦 高島惣兵術            困窮直訴の代表者
泊浦  石川清兵衛            人名の最も多い泊浦の年番
新しい「年寄役場」は寛政十年(1798)6月4日に落成式を迎えます。これが現在の塩飽勤番所で、事件中に仮安置していた郷社八幡宮から、朱印状を移して年寄が勤務することになります。朱印状は御朱印庫と呼ばれる石の蔵に保管されるようになります。勤番所の建物は、新政を象徴するモニュメントでもあるようです。しかし、その後の人名組織の辿った道のりを見てみると、疑問に思えてもきます。
 当時の風潮の中では、旧年寄たちは、旧来の伝統に守られた権威と保守派の人脈の上に立っていました。しかし、入札(選挙)によって選ばれた新年寄には、権威もなければ組織だった人脈もないのです。
 以後、人名組織の中では庄屋や年番の発言力が増し、後ろ盾を持たない年寄を軽視した訴訟事件や、年番招集の会合が公然と行われるようになります。これを「民主的」と呼ぶことも出来るでしょうが、年寄に対抗する人名達の発言力が強くなり、対立含みで運営が行われていくことになります。地域の有力者による「密室政治から開かれた政治」への代償を支払うことを余儀なくされるのです。
 参考文献  木原教授(香川大学)塩飽廻船と勤番所
 (『受験講座・社会』第110号。福武書店、1985年)