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清少納言 鼓楼と清塚

金毘羅さんの大門の手前に時を告げた鼓楼が建っています。その下に大きな石碑があります。玉垣の向こうにあるのでほとんどの参拝客は、目の前の大門を見上げ、この石碑に気づく人はないようです。  立札には次のように書かれています。
清少納言 鼓楼と清塚立札

ここには清少納言が金毘羅さんで亡くなったこと、その塚が出てきたことを記念して建てられた石碑であることが記されます。清少納言は『枕草子』の作者であり、『源氏物語』を著した紫式部のライバルとして平安朝を代表する才女で、和歌も残しています。どうして阿波と讃岐で清少納言の貴種流離譚が生まれ、彼女の墓が金毘羅に作られたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは阿波・讃岐の清少納言伝説 羽床正明  ことひら52 H9年です。

 晩年の清少納言は地方をさまよって、亡くなったと云われるようになります。
そのため西日本の各地では彼女のお墓とそれにまつわる「清少納言伝説」が作られるようになります。才女が阿波・讃岐をさすらったというのは、貴種流離譚の一つで、清少納言の他に、小野小町や和泉式部の例があります。実際に彼女たちが地方を流浪したという事実はありません。しかし、物語は作られ広がっていくのです。それは、弘法大師伝説や水戸黄門伝説と同じです。庶民がそれを欲していたのです。
 それでは、才女の貴種流離譚を語ったのはだれでしょうか。
鎌倉時代以来、小野小町や和泉式部など和歌にひい出た女性は、仏の功徳を説くため方便に利用されるようになります。彼女たちを登場させたのは、地方を遊行する説経師や歌比丘尼や高野聖たちでした。その説話の中心拠点が播磨国書写山であり、のちに京都誓願寺だったようです。式部や小町の貴種流離譚に遅れて登場するのが清少納言です。小野小町と和泉式部と清少納言は才女トリオとして貴種流離譚に取り上げられ、物語として地方にさすらうようになります。これは弘法大師伝説や水戸黄門の諸国漫遊とも似ています。その結果として清少納言が各地に現れ、その塚や石碑が建立されるようになります。それは、中世から近世にかけてのことだと研究者は考えているようです。清少納言の墓と伝えられる「あま塚」と「清塚」(きよづか)が各地に残るのは、このような背景があるようです。
四国で最も古いとされている清少納言の墓・あま塚は、阿波鳴門にあります。
清少納言 尼塚鳴門

徳島県鳴門市里浦に現存している「あま(天・尼)塚」は、清少納言の墓として広く知られています。ここではその由来が次のように伝えられます。
清少納言は、晩年に父・清原元輔(きよはらのもとすけ)の領地とされる里浦(鳴門市)に移住した。ところが地元の漁師たちに辱(はずかし)めを受けた清少納言は、それを悲しんで海に身を投げて亡くなってしまった。このあと住民のあいだに目の病気が広まり、清少納言のたたりではないかと恐れられるようになった。住民たちは、清少納言の霊をしずめようと塚を建てた。

「あま塚」の名は、女性を表わす「尼塚」を意味したといわれています。後世になってあま塚のそばに「清少庵」が建てられ、そこに住んだ尼が塚を守り供養したというのです。

 しかし、あま塚は清少納言の墓ではなく、もともとは別人のものという説もあります。
①ひとつは大アワビをとって海で命を落とした海人(あま。漁民)の男挟磯(おさし)をまつったとする「海人塚」説
②二つ目は、鎌倉時代に島流しの刑に処された土御門上皇をまつったとする「天塚」説です。
ところが江戸時代に入ると、あま塚は清少納言の墓として有名になっていきます。そして、明治以後の皇国史観では②の土御門上皇をまつったとする「天塚」説で戦前までは祀られていたようです。いまでは里浦にある観音寺があま塚を「天塚」という名で管理し、清少納言の墓として一般公開しています。
清少納言 天塚堂

この「あま塚」の①「海人塚」説をもう少し詳しく見ていきましょう
『日本書紀』允恭天皇十四年九月癸丑朔甲子条には、海女男狭磯の玉取伝説が次のように記されています。
允恭天皇が淡路島で狩りをしたが島の神の崇りで獲物はとれなかった。神は明石沖の海底の真珠を要求し、要求が満たされれば獲物はとれると告げた。そこで海底でも息の長く続く海人、男狭磯(おさし)が阿波からよばれて真珠をとることになった。男狭磯は深い海底からに真珠の入った大鮑を胞いて海上に浮かび上がったが、無理をしたためか海上に浮かび上がった時には息絶えていた。天皇は男狭磯の死をいたみ立派な墓をつくった。今もその墓は、阿波にある。

これが男狭磯の玉取伝説です。ここからは古代阿波那賀郡には、潜女(もぐりめ)とよばれる海女の集団がいたことがわかります。また、阿波からは天皇即位の年だけに限って行われる大嘗祭に、いろいろな海の幸を神餞として献上していました。『延喜式』はその産物を、鰻・鰻鮨・細螺・棘甲扇・石花だと記しています。これらはいずれも加工されたもので、アワビ、アワビのすし、小さな巻貝のシタダミ、ウエ、節足動物のカメノテであったようです。これらも那賀郡には、潜女(もぐりめ)たちによって、獲られ加工されたものだったのでしょう。

明治32年に飯田武郷があらわした日本書紀の注釈書『日本書紀通釈』には、次のように記されています。
「或人云、阿波国宮崎五十羽云、同国板野郡里浦村錫山麓に古蹟あり。里人尼塚と云り。是海人男狭磯の墓也と、土人云伝へたりとそ云り聞正すへし」

ここからは、里浦の尼塚を里人は男狭磯の基と言い伝えてきたことが分かります。ところが日本書紀を根拠とする尼(海女)塚は、別の伝説に乗っ取られていきます。

清少納言 天塚堂2
徳島県鳴門市 天塚堂と清少納言像

それが清少納言にまつわる次のような伝説です。
清少納言が阿波に向かう途中で嵐にあって、里浦に漂着した。都生まれのひなにはまれな美人ということで、たくさんの漁民が集まってきて情交を迫った。彼女が抵抗したため、 一人の男が彼女を殺して陰部をえぐって、それを海に投げ入れた。それから間もなくその海はイガイが異常にたくさんとれるようになった。彼女が抵抗した際に「見ている者は目がつぶれる」と叫んだことが現実となり、目をやられる漁民が続出した。そこで彼女の怨念を払うため建てた塚が、今もこの地に残っている。
 
この「清少納言復讐伝説」が生まれた背景には、鎌倉初期にできた『古事談』の中の次の説話が、影響を与えているようです。それは、こんな話です。
ある時、若い公達(きんだち)が牛車にのって清少納言の家の前を通りかかった。彼女の屋敷が荒れくずれかかっているのを見て「清少納言もひどいことになったものだ」などと口々に言い合って、鬼のような女法師(清少納言?)が、すだれをかきあげて、「駿馬の骨を買わずにいるのかい」と言ったのを聞いて、公達たちはほうほうの体で逃げていった。
  
ここでは清少納言は「鬼のような女法師」として描かれています。まるで怨霊一歩手前です。清少納言がタタリ神となっていくことが予見されます。また「女法師」から彼女は、晩年は出家して尼になったという物語になっていきます。それが尼(海女)と尼塚が結び付いて、清少納言の尼塚伝説が生まれたと研究者は考えているようです。
どうやら「あま塚」は「海女塚 → 尼塚 → 天塚」と祀る祭神が変化していったことがうかがえます。
尼塚は海のほとりにあったところから、イガイとも結び付くことになります。

清少納言 イガイ
イガイ
二枚貝のイガイ(胎貝)は、吉原貝、似たり貝、姫貝、東海婦人という地方名をもっています。これらの名前からわかるように、イガイの身の形は女性の陰部に似ています。そのため女性の陰部が貝になったのが、イガイという伝説が生まれます。
尼塚の清少納言伝説は、海をはさんだ対岸の兵庫県西宮市にも伝えられています。
そこでは恋のはかなさを嘆いた清少納言は、自らの手で陰部をえぐって海に身を投げたので、陰部がイガイになったいうものです。これは阿波の伝説が伝播したものと研究者は考えているようです。
清少納言の墓所(天塚堂)/徳島鳴門 観音寺(牡丹の寺・清少納言の祈願寺)

鳴門里浦の尼塚伝説は、もともとは日本書紀に記された男狭磯にまつわるものでした。
それが時代が下るにつれて、清少納言に置き換えられ、忘れられていきます。このようなことはよくあることです。寺の境内の池の中島にあった雨乞いの善女龍王が、時代の推移とともに、いつの間にか弁才天として祀られているのをよく目にします。庶民は、常に新しい流行神の登場を望んでいるのです。神様にもスクラップ&ビルドがあったように、伝承にも世代交代があります。それは何もないとこからよりも、今まであったものをリニューアルするという手法がとられます。

 鳴門の尼塚伝説が、清少納言伝説に書き換えられていくプロセスを見ておきます。
鳴門市里浦に伝承された海人男狭磯の玉取伝説は中世になると、となりの讃岐国の志度寺の縁起にとり入れられて志度寺の寺院縁起となります。以前に紹介しましたが、再度そのあらすじを記しておきます。この物語は藤原不比等や、唐王朝の皇帝も登場するスケールの大きいものです。
藤原不比等は父鎌足の冥福を祈って興福寺を建立した。その不比等のもとへ唐の皇帝から華原馨・潤浜石・面向不背の三個の宝玉が送られてくることとなった。宝玉をのせた遣唐舟が志度沖にさしかかると、海は大荒れとなって船は難破した。海神の怒りを鎮めるため、面向不背の玉を海に投げ入れると、海は静かになった。
このことを不比等に報告すると、不比等は宝玉を取り戻す決心をして志度へやってきた。不比等は宝玉を探せないまま、いたずらに三年が過ぎたがこの頃に一人の海女と知り合った。二人の間にはまもなく男の子が生まれた。不比等は宝玉のことを海女に話した。海女は海底から海神に奪われた宝玉を取り返すことに成功したが、胸を切り裂いて傷口に宝玉をかくした時の傷のため、海上に浮かび上がった時には息絶えていた。海女の子の房前は母を弔うため、石塔や経塚を建てたがそれは今も志度寺の境内に残っている
志度寺 玉取伝説浮世絵

                 海女玉取伝説の浮世絵(志度寺縁起)

ここからは日本書紀の阿波の玉取伝説が志度寺縁起にとり入れられていることが分かります。 この縁起の成立は、14世紀前半と研究者は考えているようです。志度寺縁起の玉取伝説は、謡曲にとり入れられて「海士」となり、幸若舞にとり入れられて「大織冠」となり、近世には盛んにもてはやされ流布されていきます。また当時の寺では、高野聖たちは説法のため縁起を絵解に使用し、縁日などでは民衆に語り寄進奉納を呼びかけました。こうして志度寺の玉取伝説が有名になります。
 一方で鳴門里浦の尼塚の存在は次第に忘れ去られていきます。
 本来のいわれである玉取伝説は志度寺にうばわれて、古い尼塚が残るだけで、そのいわれもわからなくなったのです。そこで、室町後期~江戸前期の間に、清少納言の尼塚伝説が作り出されたようです。
いままでの経過を整理しておきます
①日本書紀の海女男狭磯の記述から海女(尼)塚が鳴門里浦に作られる
②しかし、その伝来は忘れられ、古墓の海女塚は尼塚と認識されるようになる
③代わって残された尼塚と、晩年は尼となったとされる清少納言が結びつけられる
④鎌倉時代以来、小野小町や和泉式部など和歌にひい出た女性は、仏の功徳をとくための方便に利用されて、説経師や歌比丘尼が地方を遊行して式部や小町の説話を地方に広めていった。
⑤その説話の中心の地が、播磨国書写山であり、のちに京都誓願寺であった。
⑥式部や小町の貴種流離諄の盛行によって、清少納言までが地方にさすらうこととなった
こうして清少納言は各地に現れ、その塚や石碑が建立されるようになります。

鳴門里浦の清少納言の尼塚伝説は、江戸時代になって金毘羅さんに伝えられます。
 金刀毘羅宮の「清塚」と呼ばれる石碑の謂われを見ておきましょう
 江戸時代の宝永7年(1710)、金刀毘羅宮の大門脇に太鼓楼(たいころう)を造営しようという時のこと、そばにあった塚石をあやまって壊してしまいました。するとその夜、付近に住んでいた大野孝信という人の夢に緋(ひ)の袴(はかま)をつけた宮女が現われ、悲しげな声で訴えました。自分は、かつて宮中に仕えていたが、父の信仰する金刀毘羅宮に参るため、老いてからこの地にやってきた。しかし旅の疲れからとうとうみまかりこの小さな塚の下に埋められ、訪れてくれる人もなく、淋しい日々を過ごしている。ところが今度は、鼓楼造営のため、この塚まで他へ移されようとしている。あまりに悲しいことだ、
というものでした。そして、かすかな声で一首の和歌を詠じました。
「うつつなき 跡のしるしを 誰にかは 問われしなれど ありてしもがな」 
はっとして夢から醒めたさめた大野孝信は、これは清少納言の霊が来て、塚をこわされた恨みごとをいっているのであろうと、一部始終を別当職に申し出たので、金毘羅大権現の金光院はねんごろに塚を修めたというものです。
 塚石が出てきたから130年後の天保15年(1844)になって、金光院は高松藩士友安三冬の撰、松原義質の標篆、庄野信近の書によって、現在の立派な碑を建てます。
清少納言 石碑

清少納言 碑文


と同時に金毘羅さんお得の広報活動が展開されたようで、3年後の江戸時代後期の弘化4年(1847)に、大坂浪花の人気作家である暁鐘成(あかつきのかねなり)が出版した「金毘羅参詣名所図絵」の中に、清少納言塚が挿絵入りで次のように紹介されています。

清少納言 金毘羅参拝名所図会
清少納言の墳(一の坂の上、鼓楼の傍にあり。近年墳の辺に碑を建てり)
伝云ふ、往昔宝永の年間(1704~11)、鼓楼造立につき、この墳を他に移しかへんとせしに、近き辺りの人の夢に清女の霊あらはれて告げける歌に、うつつなき跡のしるしをたれにかはとはれじなれどありてしもがなさては実に清女の墓なるべしとて、本のままにさし置かれけるとぞ。清少納言は、 一条院の皇后に任へし官女なり。舎人親王の曾孫通雄、始めて清原の姓を賜ふ。通雄、五世の孫清原元輔の女、ゆえに清字をもってす。少納言は官名なり。長徳・長保年間に著述せし書籍を『枕草子』と号く。紫氏が『源氏物語』と相並びて世に行はる。老後に零落して尼となり、父元輔が住みし家の跡に住みたりしが、後四国に下向しけるとぞ。(後略)

  ここでは老後は零落して尼となって、四国に下ったと記されてます。そして金毘羅でなくなったことにされます。こうして金毘羅は清少納言を迎え入れることになります。
清塚は、幕末には金毘羅さんのあらたな観光名所になっていったようです。
当時は、各地で流行神や新たな名所が作り出され、有名な寺社は参拝客や巡礼客の争奪戦が繰り広げられるようになります。そんな中で金毘羅さんでは金光院を中心に、常に新たな名所や流行神を創出していく努力が続けられていたことは以前にお話ししました。この時期は、金丸座が姿を見せ、金堂工事も最終段階に入り、桜馬場周辺の玉垣なども整備され、金毘羅さんがリニューアルされていく頃でした。そんな中で阿波に伝わる清少納言伝説を金毘羅にも導入し、新たな名所造りを行おうとした戦略が見えてきます。

 ちなみに清少納言の夢を見た大野孝信は他の地に移りましたが、その家は「告げ茶屋」と呼ばれていたと云います。現在の五人百姓、土産物商中条正氏の家の辺りだったようで、中条氏の祖先がここに住むようになり、傍に井戸があったことから屋号を和泉屋と称したと云います。
清少納言の伝説についてまとめておきましょう。
清少納言にまつわる三つの伝説地、兵庫県西宮・徳島県鳴門・香川県琴平のうち、中心となるのは鳴門です。鳴門や金毘羅の伝説は鳴門から伝わったものと研究者は考えているようです。西宮の清少納言伝説はイガイによって鳴門と結び付き、琴平の清少納言伝説は古塚によって鳴門と結び付きます。
しかし、鳴門で清少納言の尼塚伝説が生まれたのは、もともとは、尼塚は海女男狭磯の玉取の偉業をたたえてつくられたものです。しかし、玉取伝説が志度寺の縁起にとり入れられて、こちらの方が本家より有名になってしまったために、新たな塚のいわれを説く伝説が必要となって生み出されたも云えます。
いわれ不明の古塚が生き残るために、清少納言が結びつけられ、尼塚を清少納言の墓とする伝説が生まれました。しかし、尼塚を海女男狭磯の墓とする伝説が消えてしまったわけもなかったようです。そういう意味では、尼塚は二つの伝説によって支えられてきたとも云えます。
 清少納言は、各地に自分の塚がつくられて祀られるようになったことをどう考えているのでしょうか。
「それもいいんじゃない、私はかまわないわよ」と云いそうな気もします。日本には楊貴妃の墓まであるのですから清少納言の墓がいくつもいいことにしておきましょう。そうやって庶民は「伝説」を楽しみ「消費」していたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
阿波・讃岐の清少納言伝説 羽床正明  ことひら52 H9年
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土佐湾は九十九洋(つくもなだ)とも呼ばれ、数多くの漁業資源を昔から人々に提供してきました。その中でも「いうたちいかんちゃ おらんくの池にや、潮吹く魚がおよぎよる、ヨサコイ、ヨサコイ」とヨサコイ節で歌われているように、昔から鯨の回游エリアでもありました。土佐西部の足摺半島には「鯨野郷」という古代村落があったようで、沖合いにやって来る鯨からこの地名がつけられたのでしょう。

2土佐捕鯨1

 天正十九(1519)年、秀吉に仕えることになった長宗我部元親は、浦戸湾内に入り込んできた大きな鯨を、そのままの状態で、関白豊臣秀吉のもとに贈り、大阪の人びとを大いに驚かせたと『土佐物語』では伝えています。派手で人々を驚かすことが好きだった秀吉も喜んだことでしょう。秀吉の目指す「劇場都市国家」作りを、長宗我部元親は理解していたようです。
 今回は土佐の捕鯨と金毘羅信仰を探って見ることにします
以前に、土佐の捕鯨に関わる人たちが讃岐の金毘羅大権現の石段整備に寄進をしていることを見ましたが、今回は土佐側の背景を見ていこうと思います。テキストは
「広谷 喜十郎 土佐の古式捕鯨と金毘羅信仰 ことひら49号」です。
 
土佐の古式捕鯨は、寛永初(1624)年に安芸郡津呂浦の庄屋多田五郎右衛門が捕鯨組をつくり、藩庁の許可を得たときからはじまるとされるようです。五郎右衛門は、そのために紀州の熊野灘でおこなわれていた突取り式の捕鯨技術を習い受けています。そして鯨船十三艘を作って、室戸方面の沿岸で捕鯨をはじめます。創業5年目の寛永五年には、200人ほどの鯨取り漁師を養えるようになったようです。順調な滑り出しだったようです。
2土佐捕鯨3
 ところが次第に鯨がやってこなくなったことや技術力不足のために捕獲量が少なくなり、寛永十八(1641)年には捕鯨中止に追い込まれます。
それから10年後の慶安四(1651)年に、家老野中兼山は、他国の捕鯨団を招き捕鯨再開を計ります。

2土佐捕鯨 津呂港

野中兼山は室戸岬の先端近くに津呂の港を開きます。この港は室津港と同じく、掘り込み港です。港口を塞ぐように3つの大きな岩が海中にあったのを、『張扇式の堤』により取り囲み、中の海水を抜いてから大鉄槌やのみで砕いたと伝えられています。今、見ても雰囲気のある港で、非常に印象的でした。これは土佐から畿内方面への航路上で風待ちする港として重要な機能を持つようになります。同時に、新たに作られた港を捕鯨の拠点とするために、他国から捕鯨集団を招聘したようです。
 その時に六艘の船団を率いて、やって来たのが尾張国の尾池四郎右衛門です。彼は、室戸岬の安芸郡浮津浦と足摺岬の幡多郡佐賀浦の2ヶ所で捕鯨をはじめ、佐賀浦の沖で13頭の鯨を捕獲しています。それを記念した鰐口が作られて、佐賀浦の鹿島神社、室戸市の八王子宮や南国市の伊都多神社に奉納されています。しかし、これも長続きはしなかったようです。6年後の明暦三(1657)年には、尾池組は故郷・尾張に引き上げています。
 突取り法は、鈷だけにたよるきわめて原始的な捕獲法だったために捕獲量が上がらなかったようです。
このような中で、先進地の紀州では網で鯨を捕らえる方法が開発されます。新たに開発された網取捕鯨を学ぶために紀州に渡り、それを土佐に持ち帰り操業が開始されるのが天和三(1681)年のことです。この網による捕鯨方法の採用によって、土佐の捕鯨業は軌道に乗っていくようです。そして、津呂港(現室戸岬港)を拠点にふたつのグループが操業を行うようになります。
①津呂組 多田吉左衛門  →  奥宮氏
②浮津組 宮地武右衛門
が経営に当たり、以後、土佐での捕鯨は東の室戸方面、西の幡多郡窪津浦を基地として展開されていきます。

 津呂組は元禄六年から正徳二年の20年間に412頭を捕獲しています。年平均にすると20頭前後の捕獲になります。また、天保八(1839)年には、浮津組の宮地家が捕獲した鯨が千頭になったので、鯨を供養するために大きな位牌と梵鐘をつくり慰霊しています。

2土佐捕鯨 鯨位牌

それが宮地家の菩提寺である浮津の中道寺には、今も残っているようです。位牌は高さ約60㎝と大型で、「南無妙法蓮華経鯨魚供養」と大書されています。
2土佐捕鯨 鯨位牌2

室戸の発展の原点は津呂港にあるようです。
津呂に港が出来る前は、人家のまばらな寂しいところだったようです。近世になって、ここに港ができ捕鯨を中心とした漁業が盛んになるにつれて人家も増えます。二代藩主忠義が最蔵坊に津呂の港を掘ることを命じ、津呂権現の宮(王子宮)と屋敷を与え、津呂沖を往来する船の安全を祈願するように命じたとも伝わっているようです。
2土佐捕鯨4

古式捕鯨のスタイルについて
捕鯨組の当初は
勢子船十二艘
網船四艘
持双船二艘
市艇二艘の計二十艘で一団を構成していました。
後に網船十三艘、勢子船十五艘へと船を増やしています。

2土佐捕鯨 勢子船4
勢子船

勢子船一艘分に十二人、網船八人、持双船に約十人の乗組員が必要でしたので、全体では300余りの漁民たちが、海上で游泳している鯨を取り囲み、激闘を繰り広げたことになります。
 それだけではありません。何よりも鯨を発見し、知らせる「早期警戒システム」が必要になります。そのためには山見小屋に見張番を常駐させておかなければなりません。
2土佐捕鯨 山見小屋4
山見小屋

鯨発見の「しるし旗」が揚がると一斉に動き出せるように待機しておく必要もあります。沖合いの捕鯨船の合図に応え、沿岸にいて鯨納屋に連絡する人びと、陸上げされた鯨を解体する人びと、鯨納屋で鯨肉を取引きする人びとなどを数えると、大変な数の人びとが捕鯨業に参加していたようです。
2土佐捕鯨 鯨解体3

鯨肉の入札には、商札を持つ商人だけが参加できたようです
多い時には商札が177枚が発行されています。数多くの商人の参加があったようです。鯨肉や皮はそのまま塩漬されて大阪市場へ送られました。その運送船が「鯨五十集」といわれる船でした。
 「鯨一頭捕獲すれば七浦が賑わう」
といわれていたように、鯨肉は食用に、鯨油は灯火用や農薬用として利用価値があり、骨は細工物に、骨粕と鯨の血は肥料用に利用されてきました。骨粕は砂糖キビ畑の肥料として、九州方面に売られていたこともあったようです。

2土佐捕鯨 鯨解体4

 鯨は経済的に非常に高い価値をもっていました。

しかし、沖合いを泳ぐ鯨は捕まえることはできません。ただ沿岸に近づいた鯨を、網代に追い込んで捕獲するだけでした。それも百発百中というわけにはいかなかったようです。捕鯨人には、給与として米と酒は充分に支給されていたようです。そのため
「酒は水なり、米は砂と思え」

と、捕鯨人たちは鯨を捕獲したといえばすぐに宴席を設けて祝い、不漁といえば酒宴を張って景気づけをしています。彼らにとっては酒は欠かすことのできないものであったようです。
 特に不漁時の「神さまや仏だのみ」は欠かすことのできない重要な行事だったのです。まさに神頼みしかなく、捕鯨従事者は信心深い人びとにならざる得なかったのかもしれません。

室戸市にある土佐捕鯨創始者の多田家の墓地には、地蔵さまの形をした大きな墓が七基あります。
これは鯨供養の意味を込めてつくられたようです。また、鯨供養のためにつくられた地蔵が、もうひとつの捕鯨基地であった足摺岬の幡多郡窪津浦の海蔵院にもあります。
海蔵院の「鯨供養地蔵」
ここには
「へんろみち 文化九(1812)壬申 津呂組 為鯨供養也 施主鯨方当本 奥宮正敬立之」

と刻まれています。室戸の網元奥宮三九郎正敬が建てたことが分かります。奥宮家は、季節を変えて室戸と足摺の二つのエリアで操業していたようです。この窪津の鯨納屋のあった場所には、現在でも豊漁を祈願するための戎神社があります。その石灯龍には
「文化六(1809)己巳春建之 鯨場所中常夜燈 鯨方当本 元村住奥宮三九郎正敬
 
「法界萬霊 土州安喜郡元村住 施主奥宮三九郎正敬 文化十発酉年(1813)十一月吉日」

と刻まれています。窪津浦には、この他にもいくつかの常夜燈が捕鯨関係者によって寄進されているようです。これ以外にも
①文政十五(1832)年に奥宮三九郎は大きな石灯龍二基を寄進
②文政九(1826)年には安芸郡浮津浦商人の谷伴蔵が世話人になり、室津浦や浮津浦の鯨方商人の数人と共に琴平宮の手洗鉢を奉納。

窪津の戒神社脇の「法界萬霊地蔵」文化10(1813年)に奥宮正敬氏建立。

このように室戸の捕鯨網元奥宮正敬は、土佐の室戸や足摺の捕鯨エリアに鯨供養の灯籠などをいくつも寄進していることが分かります。
このような彼の寄進活動の一環が金毘羅さんへの石段整備だったのかもしれません。
四段坂の石段整備の石碑には下のように彼の名前が残されています。 

5 敷石四段坂55

この四段坂の銘文に見える宮地十太夫元貞と奥宮三九郎正敬は、二人だけで三段目の石段を全て奉納しています。それは文化8(1811)年のことです。こうしてみると、奥宮正敬は灯籠などを毎年のように、室戸か足摺か金毘羅さんに奉納していたことになります。土佐の捕鯨網元の信仰心の厚さを感じます。

参考文献「広谷喜十郎 土佐の古式捕鯨と金毘羅信仰 
ことひら49号」

6 玉垣四段坂1
四段坂と金毘羅本宮

金毘羅さんで一番最初に石段や玉垣が整備されたエリアはどこなのでしょうか?
それは本宮前の四段坂のようです。ここは、山下から上り詰めてきた参拝者が最後に登る坂です。坂下から見上げると本宮の姿が垣間見えます。本宮を仰ぎ見ながら登る聖なる空間と思われていたのかもしれません。
 この坂が石段に整備されたのは、次のような人たちからの寄進でした
①寛政十年(1798)江戸・上州・京都・奥州・大坂の飛脚問屋組合の奉納
②文化八年(1811)室戸岬周辺の室津浦・浮津浦・吉良川津の網元たち
③文化九年(1812)室戸岬周辺の浦々の人々から奉納
   それでは、四段坂に玉垣を寄進したのは、どんな人たちだったのでしょうか
いつものように「金毘羅庶民信仰資料集巻2」を取り出して、四段坂の玉垣分布図を見てみます。

6 玉垣四段坂2
  坂の右側がT37、左がT38という整理番号が打たれています。左のT38の玉垣を見てみましょう。
6 玉垣四段坂 丸亀奉納

6 玉垣四段坂 丸亀奉納2
下の写書きは、下側が右から始まっています。上の図とは逆になります

左側の親柱1には「圓龜(丸亀)玉垣講とあります。城下町丸亀の玉垣講による奉納のようです。この親柱の側面には
世話人 余島屋吉右衛門 森屋喜太郎名
石 工 丸亀 阿波屋勘七
とあります。まず石工について見てみましょう。
阿波屋甚七(丸亀)の金毘羅さんに残した玉垣は以下の通りです
 天保 七年(1836)  (T-8・10)
 天保十一年(1840)  (T-44)
 天保十三年(1842)  (T-38)
 天保十五年(1844)  (Tー26)
天保年間の短期間に集中しているようです。当時の職人は石工を含めて、一ヶ所に定住することなく、各地を渡り歩く人も多かったようです。腕がよければどこに行っても仕事はあったので、腕を上げるためにも各地を渡っていく職人がいたようです。甚七も丸亀に留まることなくローリングストーンとして流れて行ったのかもしれません。
  奉納者の名前の見るとそれぞれの屋号から、城下町丸亀の商人たちであることが分かります。彼らが金毘羅さんへの玉垣奉納のために講を組織し、建設資金を集めて石工の阿波屋に依頼したようです。
6 玉垣四段坂 丸亀奉納3

親柱3に「天保十三年(1842)九月」とあります
この時期は、金毘羅さんにとって着工から30年近くを経た金堂(現旭社)が完成に向けてやっと姿を現し、周辺整備が進められる中でした。また、丸亀新港も姿を見せ、参拝客はうなぎ登りに増え続ける謂わばバブルの時代でした。上方からの金毘羅船を迎える丸亀も、そのおかげで大いに潤いました。
 そんな中で
「金堂の完成を祝して、我々もこの際に一肌脱ごうではないか、日頃お世話になっている金毘羅さんに、何かお返しができないものか」
という気運が盛り上がり、玉垣講の結成となったとしておきましょう。
 玉垣3には、もうひとつ見逃せない文字が刻まれています。
「船宿中」です。ここから並ぶ小柱には、丸亀の船宿の主人たちの名前が続くのです。もちろん金毘羅船でやってきた参拝客の旅籠です。
 十返舎一九の弥次喜多コンピが金毘羅詣でにやって来たときにも、船宿に泊まって、讃岐弁に悩まされる様子が滑稽に描かれていることを以前紹介しました。あの時の船宿は、金毘羅船の船頭が経営する旅籠でした。弥次さん喜多さんを船から自分の家(船宿)まで案内すると、奥さん(女将)が迎えてくれるという展開でした。金毘羅参拝客の急増で、こんな船宿は増え続けたのでしょう。彼らにとって「金毘羅さんは足を向けて眠ることはできない存在」だったかもしれません。玉垣奉納の話があれば喜んで応じたのではないでしょうか。
    この玉垣では親柱と親柱の間に13本の小柱があります。
13人×10区間=130人
130人を越える奉納者の名前が並びます。もしかしたら奉納希望者は、もっといたが柱の数が足りなくて名前が入れられない者もいた、先着順あるいは抽選で決めたということもあったかもしれません。あくまで私の想像です。
 昨日紹介した仁尾の塩田主塩田家や西讃一の地主大喜多家のように、一人で何本も奉納している人はいません。それだけ、商人たちの層が厚いことがうかがえます。さすが城下町丸亀というところでしょうか。

丸亀藩支藩の多度津藩の商人たちも頑張っています。

6 玉垣旭社下 多度津奉納T18
旭社下の石段左側の玉垣T18です。ここには親柱1の正面に
多度津、側面に問屋中 当所取次高松屋伊蔵 石工 久太郎

とあります。多度津の「問屋中」の檀那衆によって寄進された玉垣です。「問屋中」とは何なのでしょうか。「講」と似ていますが少し違うようです。「仲間≒連中」という意味合いのようです。
例えば商売人が仲間をつくったものとして
「問屋中・干鰯屋中(多度津) 藍師中(阿波)、茶碗場中・生魚商人中(明石)、魚買中(観音寺)、煙草中買仲間・干魚塩魚中買仲間・酒造家仲間・生鮑中買仲間・干鰯中買仲間(兵庫)」
海を生業の場とし、同じ仕事にたずさわる人がつくった仲間が作ったものには
「船頭中(丸亀)、船仲間(洲本)、小漁師中(観音寺)、廻船仲間(淡州)、船手若連中(大洲)」
などの名前が玉垣には見えます。海の神様として知られ始めた金毘羅さんへの信仰が、一緒に働く人々の連体感を強めるのに役立ったのかもしれません。 ここでは同業組合としての多度津藩の「問屋仲間」からの奉納としておきましょう。

6 玉垣四段坂 丸亀奉納4

多度津藩では親藩の丸亀藩の新堀湛甫に続けとばかりに、小藩ながら天保五年(1843)に着工し、4年後に竣工にこぎつけます。丸亀の新堀湛甫が一年余の工事で、工費も2千両余だったのに比べると、その額は5倍だったといわれます。これに協力したのが多度津の商人たちです。
 湛甫の完成後に多度津港を利用する船は増え、港も栄えるようになります。多度津港に立ち寄る船の多くは、松前(北海道)からの海産物とその見返りに大坂・瀬戸内海沿岸から酒や雑貨・衣料を運ぶ千石船や北前船でした。それに加えて、西国からの琴平詣での金比羅船も殺到するようになります。深い港は、大型船が入港することもできるために、幕末にはイギリスや佐賀藩、幕府の蒸気船が相次いで入港し、多度津港は瀬戸内海随一の良港としての名声を高めていきます。これに伴い町の商売も繁盛し、特に松前からもたらされる鰯や地元産の砂糖・綿・油等を商う問屋は数十軒を超え、港に近い街路は船宿や旅人相手の小店でにぎわいます。このような繁栄を背景に、丸亀に負けじと多度津商人たちが奉納したのがこの玉垣ということになるようです。
次に石工の那葉屋久太郎について見ておきましょう。
彼は金毘羅門前町に店を構え、幕末から明治にかけて次のように数多くの玉垣を残しています。
  弘化 三年(1846)  (T-20)
  弘化 四年(1847)  (T-5・6)
  嘉永 二年(1849)  (T-49)
  嘉永 四年(1851)  (T-47・48)
  嘉永 六年(1853)  (Tー22)
  嘉永 七年(1854)  (T-12・46)
  安政 七年(1860)  (T-4)
  万延 元年(1860)  (T-29)
  文久 元年(1861)  (T-28)
  慶応 三年(1867)  (Tー15)
  明治 六年(1873)  (T-30)
  年代不明(T-18・24)(T-19)(T-32)
  石工・久太郎の残した玉垣と金毘羅さんに残る玉垣の時代的推移表(下図)を見比べると
4 玉垣旭社前122

金堂完成の1845年前後から玉垣奉納が急増する。
玉垣空白部分も1860年と明治維新に整備され
1880年には参道の全てにが玉垣が立ち並ぶ
 その整備に大きな役割を果たしたのが石工久太郎ということになります。石工の推移時期については
①文化年間(一八〇四~一八)丸亀の石工・阿波屋甚七が手がけたものが多く
②天保年間(1830~44)になると、中心的石工として活躍するのが金毘羅の那葉屋久太郎(久太良)
ということになるようです。丸亀の甚七から金毘羅の久太郎にバトンタッチされていきます。そして久太郎の活動時期は長いのです。幕末から明治に作られた玉垣の殆どを、彼が手がけています。それだけ評判の良かった石工だったのでしょう。
6 玉垣旭社前 多度津奉納
旭社の前の広場の右側(南側)玉垣T24も多度津からの貢納です。
 
6 玉垣旭社前 多度津奉納2

ここの玉垣は、灯籠が前に並ぶようになったために見えにくくなってしまいました。T24の整理番号を打たれた玉垣に近づいてみると
多度津から寄進されたもので、親柱1の背面には「鰯屋中」と刻まれています。中は「仲間=同業組合」だとすると、鰯同業組合ということになります。
日持ちしない鰯がなぜ売り買いされるの?と、私も最初は疑問に思いました。食べるのではなく肥料になったようです。 干鰯は、文字の通り鰯を干したもので綿やサトウキビなどの商品作物栽培には欠かせないものでした。蝦夷地から運ばれてくる鯡油と同じく金肥と呼ばれる肥料で、使えば使うほど収穫は増すと云われていました。取粕というのは、油をとったかすですがこれも肥料になります。
   干鰯の場合は、綿花やサトウキビ、藍などの商品作物栽培が広がるにつれて、需要はうなぎ登りになります。瀬戸内海では秋になるとどこの港にも鰯が押し寄せてきましたので、干鰯はどこでも生産されていました。廻船の船頭たちは、情報を仕入れながら安価に入手できる港を探しながら航海して、ここぞという港で積み込んで、高く売れる港で売り払って利鞘をかせいだのです。
 多度津の後背地である弘田川流域でも、サトウキビや綿花が栽培されるようになると、干鰯の需要は高まります。新しくなった多度津港は大型船も入港しやすいので、鰯を積んだ船が以前にも増して入ってきます。それを取り扱う問屋の数も増えます。
もうひとつ気になるのが鰯問屋に名前を連ねる人たちの屋号です。
「大隅屋 播磨屋 尾道屋 出雲屋 塩飽屋 唐津屋 備前屋 伊予屋 阿波屋」
と他国地名の商人が多いように思えます。自分の出身地を表すものなかのか、取引相手を示すのか今の私には分かりませんが興味深いところです。
  
  闇峠右側の玉垣 小豆島からの奉納  T35
6 玉垣暗闇坂 小豆島1
金堂(旭社)から四段坂に繋がる闇峠右側の玉垣は、小豆島からの奉納です。親柱1には発起人8名の名前と、金毘羅での「定宿 森屋」が刻まれています。
 そして小柱には、大宝丸 観音丸 住吉丸と船名が並びます。以前に、小豆島の苗羽を母港とした廻船大神丸の活動を紹介したことがあります。この船はマルキン醤油の創業家である木下家の持ち舟ですが九州天草までを商圏として活動していました。また、弁財船金毘羅丸の模型も、草壁田之浦の船大工仁兵衛から奉納されています。
6 弁財船 小豆島奉納

草壁・田之浦の船大工仁兵衛から奉納

この玉垣と併せて見ると、廻船業が栄えていた小豆島らしさが感じられます。小豆島廻船の活動としては
① 赤穂からの製塩業者の移住による塩生産
② 小豆島産の塩と素麺を積み込んで、瀬戸内海各地で商いをしながら九州天草へ
③ 天草で小麦・大豆を買付け
④ 帰路に多度津で干鰯を売って
⑤ 小豆島へ帰港、小麦大豆を原料に素麺生産
という拡大再生産サイクルが動いていました。これは毛織物工業を核としてオランダが中継貿易で繁栄を遂げるのと、どこか似ているように私には思えてきます。
 このようなサイクルの中で廻船業や醤油業、素麺組合と小豆島は各産業が芽生え発展していきます。その経済力を背景にしての玉垣奉納なのでしょう。             
 四段坂下の真須賀神社前の玉垣 T36    小豆島から奉納その2

6 玉垣眞須賀神社前 小豆島奉納
  親柱2には「小豆島 金栄講」と講名があり、その小柱には「洲本 小堀屋」「志紫 市場講中」と淡路島の人や講名が見えます。小豆島の金毘羅講に商売のつながりのあった淡路島の人々がつきあいで参加したとも考えられます。どちらにしても、小豆島の商圏が淡路島にまで伸びていたことがうかがえます。
 さきほどのT35と併せると小豆島の奉納者の総数は150人を越えます。
6 玉垣暗闇坂 小豆島奉納

 以上を、昨日分も一緒に、県内の玉垣奉納をまとめてみると
①金堂完成(1845)に前後するように、周辺の玉垣整備も進められた。
②金堂周辺は、地元の丸亀藩と多度津藩の城下町の商人たち
③暗闇峠には小豆島の檀那衆たち
④書院前は、仁尾の塩田王塩田家
⑤桜馬場詰めの階段は、観音寺の檀那衆
⑥社務所の上の階段は、観音寺周辺の檀那衆たち
⑦そして、明治10年前後には参道は全て玉垣で結ばれた
つまり、これ以後は玉垣を寄進したくてもできない状態になったことになります。気がつくのは、高松からの寄進がありません。高松だけでなく高松藩の坂出や宇多津などの港町からのものが玉垣には見当たらないのです。これは、高松藩による「指導」、あるいは「藩への配慮」があったことがうかがえます。
 以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
印南敏秀 玉垣 
金毘羅庶民信仰資料集巻2

 

2

「金毘羅庶民信仰資料集巻2」を片手に玉垣めぐりをしてきました。この本には文化財に指定された金毘羅さんの鳥居・狛犬・石段・敷石・祈念碑・玉垣がすべておさめられています。今回は、地元讃岐の人たちの奉納した玉垣めぐりをしてみたいと思います。
6 玉垣書院下

桜馬場詰めT11 観音寺からの奉納玉垣
 まずは分布図で確認です。玉垣番号「T11」が三豊・観音寺周辺からの奉納のようです。これを分布図で見ると・・・桜馬場詰めの階段の玉垣のようです。向かって右側で、その背後は社務所のようです。
 T11の玉垣を紙面に起こしたのが下の表になります
6 玉垣書院下

ここには講名・取次者・奉納者や住所・奉納年月日・石工などが刻まれています。普通は一番最初の柱に、世話人や講名・奉納年月日があるのですがありません。
石段を登っていくと親柱3と4の笠石に「観音寺」という地名があります。また小柱には「小漁師中」とあります。「中=仲間」で同業者組合としておきましょう。ここでは、網元ではない小規模の漁師達が資金を出し合ったことがうかがえます。
親柱5のBに「富処(当所) 取次 森屋善太郎」とあります。
取次世話人で実質的な責任者で、金毘羅金光院と連絡事務や石工との連絡事務、支払会計などをすべて行った人物で、金毘羅門前町の大きな旅籠の主人などが務めることが多かったようです。
石工は「幾造」とあります。
幾造は、太田幾造で金毘羅の石工で、以下の4つの玉垣を残しています。
  慶応 三年(1867)  (T50)
  慶応 四年(1868)  (T11)
  明治十二年(1889)  (T13)
  明治十五年(1892)  (T39)
 石灯籠の初期のものは大坂を中心に、西日本各地の石工名前があります。それが、奉納がさかんになるにつれ、丸亀の石工に中心が移り、やがて、金毘羅の石工が多数を占めるようになります。わざわざ遠くから運ばなくても、地元で造れるようになったのでしょう。この背後には、金毘羅さんへの石造物奉納が増え、石工が住みついて生活できるだけの環境が整ったことが考えられます。
 その推移の時期をおおまかにいえば、
①丸亀の石工が多くなるのが文化年間(1804~18)
②金毘羅の石工にかわるのは天保年間(1830~44)
になるようです。
 玉垣と石燈龍を比べると、その細工は玉垣のほうが技術的に簡単です。最初は石燈龍を遠くの石工がつくり、わざわざ運んできたのは石灯籠の細工は高度の技術が必要で、加工できる職人が地元にはいなかったからでしょう。また、需要もなかった。それが、幕末期にはほとんどが金毘羅の門前町に住み着いた石工たちの手によって作られるようになります。
親柱5と6の間には小柱がありません。ここで一区切りして、親柱6から一連のつななりがはじまります。その親柱6のAに「慶応四年三月」と奉納年月日があります。この年は、10月からは元号が明治と変わる明治維新でもあります。1月の鳥羽伏見の戦いの後、金毘羅さんに「ええじゃないか」の騒乱と土佐軍の進駐占領、そして神仏分離が進められた年です。そのような中で、この玉垣は石工幾造の手で作られていたことになります。そして、奉納したのは笠石に刻まれた観音寺の人たちだったことが分かります。
6 玉垣書院下2

玉垣を奉納する場合、親柱の数が十数本あるのが普通です。
そして、平地では親柱と親柱の間には10本の小柱が入ります。小柱10×大柱10=100本という勘定になります。別の言い方をすると100人の名前が刻めるということです。そこで、一連の玉垣は100人近くの奉納者によって建立されたということになります。

 現在では玉垣奉納は、神社の社務所に願い出れば、奉納金を納めるだけです。受付順に奉納者の名前がならぶことになります。隣同士の関係は無関係です。
 しかし、当時はそうではありませんでした。
例えば「玉垣講」の寄進の場合は、世話人と玉垣に名前が掘られた人たちの間に講員同士というつながりがあります。金比羅講で参拝したメンバーに呼びかけて玉垣奉納に賛同する人々を集め、奉納金を集めるのが現地世話人の仕事になります。玉垣の柱の数と支払金額は前もって分かっています。予定通りに集まらなければ、資金力にゆとりのある人に何本分かの金額をお願いすることもあったでしょう。それでも集まらない場合は、自腹を切ったこともあるかもしれません。
6 玉垣書院下5
T11 桜の馬場詰右側の玉垣 親柱26 観音寺
  このT11は小柱の数が少ないようです。
それは急な階段のために構造的に親柱間を短く取らなければならず、その結果ここでは小柱3本だけになっています。もちろん親柱に名前の刻まれた方が奉納金は多かったことは云うまでもありません。それだけ有力者であったということでしょう。
6 玉垣書院下3

ここには、現在でも営業を続ける馴染みの店の名前もあります。150年近く前の明治維新に玉垣を奉納した先祖に連なる人たちが今も同じように観音寺で商売を続けているようです。
 
書院下石段の玉垣T13・14・15  三豊観音寺周辺からの奉納
6 玉垣書院下6 大野原2jpg

この玉垣は大門から直進してきた参道が書院前に登っていく階段にあります。
親柱1に「慶応四年八月」とありますので、T11が「慶応四年3月」でしたから同じ年の夏に引き続いて作られたことが分かります。石工は多度津の「和泉屋常吉」とあります。金毘羅の石工ではないようです。多度津の石工はめずらしいようです。
小柱には「洗心館」が並びます。これが何者であるのか、旅館なのか、運動団体なのか、今の私にはわかりません。次には平田正節の名前が並びます。先ほどの「世話人=空き柱自腹説」によると、目標金額に達しなかった部分を「洗心館と平田正節」が埋めたということになります。この二人がT13奉納の中心人物のようです。
  この玉垣群が先ほどのT11と違うところは
T11 観音寺旧市街の檀那衆
T13・14・15 観音寺周辺の郡部の檀那衆
という点です。T13には、辻村・大野原・河内邨の地名が掘られています。
讃岐一の大地主 大喜多家の玉垣    T14の親柱11・12
6 玉垣書院下6 大喜多

  T14の親柱11には「何某」とあります。現代風に云うなら「匿名希望」なのでしょうか。どんな人物だったか、あるいは、なぜ匿名にしなければならなかったのか想像力が刺激されます。
6 玉垣書院下6 大喜多.2jpg
 起点になる親柱12には「河内邨 大喜多卿英」とあります。大喜多家については以前にもお話ししましたが、「西讃一の地主」と云われると同時に、サトウキビ栽培から砂糖製造など手広く商いにも手を伸ばしていた最有力家です。地元の河内村の鎮守にポケットマネーで太鼓台を寄付したりしています。今でもその太鼓台は現役のようです。「何某」というのも実は、大喜多家のことではないかと思えてきたりします。

   仁尾の塩田王 塩田家の奉納玉垣  T15

6 玉垣書院下7siota 2

T14の反対側の上部に並ぶのがT15です。ここの玉垣は変わっています。下の絵のように小柱がないのです。
6 玉垣書院下7siota

親柱1Aに寄進者が西讃仁尾 石登講とあり 
   B 発願 吉田太良右エ門 塩田調亮利亘
   C 奉納日が慶応3年3月吉日とあります。
奉納者の氏名は、塩田と吉田のふたつだけです。仁尾を代表する二つの檀那衆が明治維新の前年に、奉納したものであることが分かります。塩田家は、仁尾塩田の持ち主で仁尾一の財力があったと云われます。明治になっての三豊女学校の講堂への寄付金額などを見ても、仁尾の塩田家と、先ほど見た河内の大喜多家の二家が飛び抜けていたことを思い出します。
 以上見てきた玉垣の奉納順を見てみると、次のようになります
①慶応3年(1867)3月 T15 仁尾の塩田・吉田家
②慶応4年(1668)3月 T11 桜馬場詰め 観音寺の檀那衆
③慶応4年(1668)8月 T13・14・15   書院下石段の玉垣 三豊観音寺周辺
   ここからは想像できるストーリーは?
「知っとるか? 仁尾の塩田家と吉田家が、金毘羅さんに玉垣を奉納したげな」
「知っとる、知っとる。それも、親柱にしか名前を掘ってないらしいで。小柱はないんやそうな」
「なんかもったいないような気がするわ。儂の名前でも入れてくれたらええのに・・・」
「あほゆうな。場所も社務所の前の一等地らしいで」
「さすがは、塩田王やのお」
「ほんまや、けど聞いた話では観音寺の檀那衆も負けじと奉納する話が進みよるらしいわ」
 仁尾の塩田家の玉垣寄進が、周囲に波紋を与え広がって行く様子がうかがえます。 これをまねるように明治15年に茶屋前石段左に現れたのが玉垣T16です。
6 玉垣書院下8

これも小柱には何も刻まれません。親柱だけに「当国三野郡笠岡村 鳥取天道」とあります。

6 玉垣書院下82

T15の二人奉納に刺激されて、現れた一人奉納がT16だったとしておきましょう。鳥取天道が何者であるのかは、今の私には分かりません。
以上をまとめておくと
①明治を迎える直前に金毘羅大権現の社務所周辺の玉垣整備を行ったのは三豊の檀那衆であった
②それは仁尾の塩田王塩田家の奉納にはじまり、観音寺旧市街から、大野原や辻のような郡部にも広がった
③そして、河内の大喜多家も奉納している
おつきあいいただき、ありがとうございました。

  
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幕末の「金毘羅参詣名所圖會」[1847]に描かれた象頭山松尾寺金光院を見てみましょう
大門をくぐって桜馬場からの参道は、石段も玉垣も見えません。ここを登りきると、金堂(現旭社)前の広場にたどり着きます。金堂は、三万両という巨費をかけて2年前(1845)に完成したばかりでした。清水次郎長の代参でやってきた森の石松が、これを金毘羅大権現の本社と勘違いして帰ったと伝えられますが、それほど立派な建物です。当時は「西国一の建物」とも云われたようです。
 この金堂の下には多宝塔が建っています。真言密教の寺であることの存在証明のようなモニュメントです。この他にも鐘楼などの建物が建ち並ぶ姿が描かれます。金毘羅大権現の境内は、神社と云うよりは仏教伽藍と呼ぶ方がふさわしかったことがよく分かります。
 さて今回は玉垣を見ていきます。金堂の右側の石段は、下り専用です。ここには、石段がまっすぐに描かれています。しかし、玉垣は見えません。まだ作られていないようです。さらに、金堂の登ってくる左下の坂道を見ると、ここには石段もないように見えます。

それから7年後の「讃岐名所圖會」(1854)に描かれた金堂です。
★「讃岐名所圖會」にみる金刀毘羅宮konpira2

描かれた角度がちがいます。作者は、新たな構図から描かれた俯瞰図をめざしたのでしょう。金堂と多宝塔の位置に注意しながら90度くらい回転させた構図になります。蟻のように参拝者が描かれて金毘羅さんの「繁盛ぶり」が伝わってきます。
 旭社周辺の様子を、7年前の絵図と比較してみると・・・・
①旭社前の坂道は、石段が整備され玉垣もある。
②灯籠が立ち並んでいる
③二天門が移築され、前に鳥居が建立されている
④二天門に続く参道には長い回廊(休息所)ができている
⑤一直線であった本宮からの下り道が90度に曲がって下りてくるようになっている。
今回は脇目を振らずに玉垣に集中するために①②のみを追いかけます
  それでは、多宝塔から金堂へ上がっていく玉垣はいつ整備されたのでしょうか?

★「讃岐名所圖會」にみる多宝塔2

  それをしるための工具が「金毘羅庶民信仰資料集巻2」です。
4 玉垣旭社前
「金毘羅庶民信仰資料集巻2」

ここには文化財に指定された鳥居・狛犬・石段・敷石・祈念碑・玉垣がすべておさめられています。たとえば、多宝塔から金堂への坂道の玉垣には、右側がT22、左側がT23の番号が打たれています。そして、その親柱と小柱に刻まれた奉納者氏名や住所・奉納年月日・取次者・石工までが載せられています。
それでは玉垣T22を見てみましょう。
 
4 玉垣旭社前11
一番下の起点になる親柱に刻まれた奉納年月日は
嘉永6(1853)年五月吉日です。「讃岐名所圖會」(1854)が描かれた前年に、この玉垣は完成したようです。その下に名前があるとのは、取次世話人で実質的な責任者で、資金集めや支払い、金毘羅金光院と連絡事務などをすべて行った人物で、大きな旅籠の主人などが務めることが多かったようです。
そして、親柱と親柱に小柱が5本あります。そこに寄進者の名前が刻まれることになります。ここには「米屋周助」とあります。5本目は「米屋周次郎」とありますから、跡継ぎでしょうか。そんなことを想像していると、何かしらドラマが生まれそうな気がしてきます。
さて、これを寄進したのはどこの人たちなのでしょうか?
それは、この玉垣の一番上の最後の親柱8に刻まれています。

4 玉垣旭社前12
  親柱8にはもう一人の世話人の住所が「予州松山三津濱(浜)」とあります。松山の外港で繁栄した三津浜の商人たち寄進した玉垣だと分かります。親柱6と7の間の小柱には「海上安全」とありますので、三津屋は廻船問屋など海に関係した商売に携わっていたのかもしれません。
今までの所を確認しておきましょう。
 玉垣を奉納する場合、親柱の数が十数本あるのが普通です。
一連の玉垣は100人近くの奉納者によって建立されたということになります。そして、奉納年月日や願主、世話人は、端の親柱の1ヶ所にしか彫られていません。したがって一連の玉垣の親柱、小柱に彫られた多くの人名は、何らかの関係で結ばれた人々と考えられます。

4 玉垣旭社前90

 玉垣はそれまでの灯籠や鳥居などに比べ、ひとりひとりの名前を親柱・小柱に大きく彫りつけることができます。長い参道を登る金毘羅さんの参拝客にとってはいやが上にも目に入ってきます。これは奉納者にとっては魅力であったはずです。金比羅講で参拝した裕福な商人たちが、まだ繋がっていない玉垣をみて、ここに私たちの名前を刻んだ玉垣を奉納しようと話し合い、定宿の旅館の主に相談すれば、後の事務手続はすべてやってくれます。お金を支払うだけです。
 こうして、境内の長い参道に玉垣が短期間に出来上がっていったようです。
4 玉垣旭社前122

   金堂が30年近い工期を経て完成するのが1845年でした。
金堂完成に併せて石段や敷石などの周辺整備も進みます。それと同時歩調で玉垣整備が進められたのがこの表からはわかります。その契機になったのが金堂完成なのでしょう。ここでも石の玉垣が姿を現したのは幕末になってからで、思ったよりも新しいことが分かります。

  それでは、石の玉垣が現れる以前は、どうだったのでしょうか?
 『金毘羅参詣続膝栗毛』を書いた十返舎一九は、『讃岐国象頭山金毘羅詣』(文化七年-1810)に桜馬場あたりのことを、次のように記しています。
  「坊舎の桜樹は朱の玉垣と等く美し」
ここからはこの時の桜馬場の玉垣は、奈良時代のような朱塗りの木造であったことが分かります。鳥居が木造から石造に代わったように、玉垣も最初は木造で、それが幕末期に石の玉垣が大量に出現するようになったのです。玉垣建立の年代をしめした上表からも、江戸時代の末期から石造玉垣が急増していったことが分かります。。
この向かいのT23の玉垣は、どんな人たちの寄進なのでしょうか?

4 玉垣旭社前1222
T23の玉垣の寄進年月日を見ると寛成8(1796)年10月7日とあります。T22よりも半世紀も前のものです。初期に作られた玉垣の一つです。左側の玉垣はできても右側はなかなか姿を見せなかったようです。10月10日の大祭の前にやって来て奉納の儀式を終えたのかもしれません
 この玉垣には「玉垣講」とあります。
玉垣講には、大洲城下講中、米湊村・宮之下村講中(大洲城下講中)、小豆島厚演講中、明石吹上村講中・井出村講中・和坂村講中(明石玉垣講中)、松山城 下大唐人四丁目講中など、城下町や村単位の講があったことが分かります。この玉垣は大洲の玉垣講ですが、特徴的なのは大洲城下だけでなく周辺の村々の講中も加わっていたようです。
   地名でなく、おめでたい言葉がつけられた講もあります。
 鶴亀講、栄講、賓来講、金吉講、永代講、繁栄講、繁昌講中、栄壽講、金豊講などで、兵庫の鶴亀講、栄講などに見られるように、商人たちの講で、商売繁昌を願ってつけられることが多かったようです。
  講のあり方を示す言葉が名称になったものもあります。
 月参和順講(大洲)・初日講(兵庫)月参和順講は、毎月、講から代表の参拝者を出していたところからつけられた名前でしょう。初日講は、毎月の一日に参拝者を出すか、あるいは、その日ごとに集まって金毘羅さんを拝むなどしていたのでしょう。
4 玉垣旭社前12224

こうした人々の信仰心に支えられて、玉垣寄進は幕末に爆発的に増えて、急速に金毘羅さんの境内は整備されていったようです。どこにもないような玉垣と石段と灯籠の続く参道を人目みたいとと参拝客は増え続けたのです。
以上をまとめておきます。
①19世紀になり東国からの金比羅詣が増え、参拝客は増加した。
②これを背景に、1845年に総工費三万両をかけた金堂が完成した。
③新たな観光名所とするために金堂周辺の整備が進められた。
④その一環が参道の石段化や玉垣・灯籠の整備であった。
⑤こうして19世紀半ばには、金毘羅さんの参道は、石で白く輝く参道に生まれ変り、周辺の寺社と差別化が進み、さらなる参拝客の増加へとつながった。
⑥周辺の寺社の坂道が石段化し、玉垣で囲まれるようになるのは、幕末以後の明治になってからのことであった。

   以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

 前回は重要有形民俗文化財の指定を受けた鳥居10基の内で、境内にある4基を見て回りました。今回は、残り6基を見ていきます。これらは琴平に集まってくる5本の金毘羅街道の起点に作られたものです。しかし、時の流れの中で最初に建てられた所から移動しているのもあるようです。
 古い順に鳥居を並べてみると、次のようになります  
①1782 天明二 高藪(現北神苑)  粟島 廻船中 徳重徳兵衛 
②1787 天明七 二本木(現書院下) 江戸 鴻池儀兵衛他 
③1794 寛政六 牛屋口       予州 績本孫兵衛
④1794 寛政六 奥社道入口     当国 森在久       
⑤1848 嘉永元 阿波町(現学芸館前)三好郡講中
⑥1855 安政二 新町        当国 武下一郎兵衛
⑦1859 安政六 一ノ坂(撤去)   予州 伊予講中   
⑧1867 慶応三 賢木門前      予州 松齢構       
⑨1878 明治11 四段坂御本宮前  当国 平野屋利助・妻津祢
⑩1910 明治四三 闇峠       京都 錦講         
3 高藪町の鳥居

まずは①北神苑(高灯籠公園)の鳥居です。
 この鳥居はもともとは、多度津街道の高藪口に建っていました。写真のように鳥居が建てられると灯籠が並んでいくようになり、多度津からの参拝客を迎える玄関口の役割も果たしていました。
 ところが昭和48年、この鳥居に生コントラックが衝突し一部が壊れてしまいます。そのために安全性を考え、高燈龍の南側正面に移されたようです。移築の背景には、モータリゼーションの普及で狭い旧街道にも車が入ってきて、通行の邪魔になり出したという社会的背景があるようです。道路拡張と共に、旧街道を跨いでいた鳥居は「邪魔者」として取り除かれたり、移築されるようになります。しかし、移築先は高灯籠の正面で一等地です。今では最初からここにいたような顔で、建っています。

3 高藪町の鳥居2
 この鳥居は花崗岩製の明神鳥居で、約240年前の天明二年(1782)に粟島廻船中によって奉納されています。今ある鳥居の中では最も古いものになるようです。粟島(三豊市詫間町)は庄内(三崎)半島の沖合に、3枚のプロペラの様な形で浮かぶ小島です。ここは塩飽諸島と同じように古くから優れた船乗りのいたところで、江戸時代になり海上運送がさかんになると、廻船の船主、あるいは船乗りとなって活躍し、島に大きな富をもたらします。この鳥居は海上運送で大きな役割をはたした粟島廻船の船主や船乗りたちによって奉納されたようです。
3 鳥居meisyou
 この鳥居の奉納経過を、残された資料から見てみましょう。
建立の前年安永十年(1781)に建立願が次のように出されています。
 乍恐奉願上口上之覚
笠石共惣高 壱丈六尺五寸一 
石ノ鳥井 横中ノ庭サ地際二而内法り壱丈六尺
柱ふとささし渡り 壱丈五寸
右者丸亀御領阿波嶋(粟島)庄屋徳右衛門
御宮山江御立願御座候二付、此度御願申上建申度由御座候、数年私方常宿二而熟懇二仕候、
何卒御願申上呉候様ニト申參候、右願之通被為仰付被下候ハバ難有奉存候、
右之段宜被迎上被存候様卜奉願上候。
  以上
          内町 中嶋屋長七
 安永十年丑四月十六日
          組頭 嘉原治殿
意訳すると
恐れながら次の通り鳥居奉納について願い出ます
笠石も含めて全体の高さは壱丈六尺五寸 
石造の鳥居で 笠石を除くと内法は壱丈六尺
柱の長さは 壱丈五寸
この鳥居を、丸亀藩の阿波嶋(粟島)庄屋徳右衛門が、お宮へ奉納をお願い申し上げます。この旅の奉納願いは数年前より考え、計画してきたことです。何とぞ、お聞き届けいただき、この計画書通りに許可していただければ有難いことです。以上通り、謹んでお願いいたします。
            以上  内町中嶋長七
 阿波嶋(粟島)の庄屋徳右衛門(徳兵衛の間違い)は、鳥居に名前が刻まれている「取次 徳重徳兵衛」のことで、内町中嶋屋長七とあるのが「世話人富所、中嶋屋長七」のことです。つまり、粟島の徳兵衛が金毘羅参拝の際に、定宿としている内町の中嶋屋長七に粟島廻船中が鳥居を奉納する願いをもっていると相談をもちかけ、それを長七が金毘羅当局に聞きとどけてもらえるようにと組頭嘉原治に申し出た文書です。
 しかし、この申し出は一度では聞きとどけられなかったようす。
翌年の天明二年(1882)3月15日に再び同じような書状が長七から嘉原治に出されています。
 なぜ許可が下りなかったのでしょうか。
 それは建立を申請した場所に問題があったからのようです。
「高松様並びに京極御両家其外他國諸侯方より萬御寄附物留記」の天明2年4月朔日の項に次のような記録があります。
高藪町入口江 石鳥居丸亀領粟嶋 庄屋徳右衛門より寄附
 但一之坂上り口江相建中度願出候得共、御神前より一ノ阪迪鳥居之数四ツニ相成不宜候二付及断高藪町入口江取建候事
意訳すると
高藪町入口へ石鳥居が丸亀領粟嶋の庄屋徳右衛門より寄附された。
ただし、最初は一之坂上り口へ建設願い出されたが、ここは神前から一ノ阪までの鳥居の数が四つ目になるため宜しくない。そのためにこの場所に建てることは断り、高藪町入口へ変更した。
一之坂上り口は、内町方面からの参拝道と、伊予土佐方面からの参拝道が出会い、金毘羅五街道すべての道が一つになるところで、最も参拝客で賑わうところです。そのため札場も置かれていました。奉納者の気持としては、より神前に近く、より多くの参拝者の目にふれる所に建てたいと願うのは当然のことです。しかし、金毘羅さんにも思惑があります。この時点では一ノ坂に鳥居をたてるのは「不吉」と判断したようです。結局、一ノ坂上り口ではなく高藪入口に建立するこで許可が下りたようです。

3 高藪町の鳥居3
   ところで、この鳥居の笠の部はバランスを失なっていると研究者は指摘します。その理由は、笠を中央で支える額束が短かすぎるためだと云います。これについては嘉永七年(1854)の11月の金光院当局の書きとめた記録に次のようなものがあります。
新町石島居柱損少し西へ傾き、高藪口石鳥居笠木四寸斗喰違候由申出手常申付候へども及暮笠木等も難出来、今晩は番人附置通行人用心可致、明朝より足いたし飯高藪口ハ外二明地有之候ゆへ鳥居下ハ縄張いたし通不中段夜四ツ時村井為右工門拙宅へ来り申出候事
意訳すると
新町の石島居の柱が損傷し西へ傾き、高藪口の石鳥居も笠木が四寸ほど食い違っていると報告があった。今晩は監視人を付けて通行者に用心するように知らせ、明朝より対応することにした。高藪口は周りに空き地があるので、鳥居の下は縄張して通行禁止にした。夜四ツ時に村井為右工門がやってきて以上の報告を受けた。

  嘉永七年(1854)の大地震は、讃岐にも大きな被害を与えました。前年に底樋工事を行った満濃池も工法ミスから堤防が決壊し、金毘羅の町も多くの橋が流されます。地震の揺れで、この鳥居も笠木が中央部で、四寸(21㎝)喰違ったとあります。このとき笠木をうける額束もいたみ修理を行ったのが、今の姿ようです。今では鳥居の建っていた一帯は家が建ち並んでいますが、その当時は空地がいっぱいあったことも分かります。

  書院下の鳥居       丸亀街道の起点・二本木の金鳥居
3 二本木鳥居

現在、境内の書院下に建つ青銅製の黒く見える大鳥居は、もと丸亀街道が金毘羅領に入ってすぐのところに建っていました。上図の右手に建っている黒い鳥居です。ここには、丸亀街道をはさんだ両脇に一里塚の松と桜の大樹があったところから二本木と呼ばれていました。そのためこの鳥居も二本木の鳥居と呼ばれるようになります。
 丸亀からこの鳥居までは百五十町、今でもここには「百五十町」と書いた町石があります。丸亀から馬や駕寵できた参拝者も、ここからさきは歩いて参拝したと云われます。
 この鳥居は天明七年(1787)、九月に発願され、翌年5月には完成しています。願主は、江戸茅場町の鴻池儀兵衛で、さすがに豪商鴻池一族が中心となっただけに手際もよいものです。

3 金鳥居2
   その間の経過を史料で見ていきましょう。
天明八年正月に、鴻池儀兵衛、世話人鴻池太良兵衛・同栄蔵の連名で、鳥居の各部寸法、および青銅の重量を記したものが提出されています。先ほどの場合もそうでしたが奉納を願うときには、奉納物の寸法も書き添えています。それは、鳥居を建てる用地が問題となるからでしょう。
 「二本木鳥居用地覚書」によると、
 天明八申三月、江戸鴻ノ池儀兵衛抒中田藤助と申仁施主二而二本木下之唐金鳥井寄進有之、則三月廿二日右藤助十人斗大召連到着有之、廿五日尊勝院此方多聞院同道二而二本木下地とこ見分候處、追々尊勝院より藤助へ及相談東西場所田地 禰右衛門持地高屋禰右衛門持地五間四方相調相済書附也
意訳すると
 天明八(1789)申三月、江戸の鴻ノ池儀兵衛が而二本木に唐金(青銅)鳥居を寄進した。
3月22日に 藤助が関係者を連れてやって来た。25日尊勝院と多聞院が同道して、二本木の建設予定地を下見し、具体的な建設地点を確認した。その上で、建設予定地の持ち主である禰右衛門と高屋禰右衛門の同意を取り付け、書類も提出させた。
 こうして、用地も整い二ヶ月後の五月に完成します。高灯籠が姿を現すのは幕末ですので、この鳥居の姿は、ランドマークとして旅人の目を奪い、丸亀街道を通った人の旅日記にも必ず記されるようになります。菱谷平七の旅日記には
道の中に大なるからかねの鳥居あり、江戸の人びとの建てるよし
とあります。金毘羅の町の人たちも親しみを込めて「かねんとりい(金鳥居)」と呼ぶようになりました。
1 金毘羅 高灯籠1

 ところが25年後の文化十一年(1814)10月26日の夜に台風による大風が吹いて、この鳥居は倒れてしまいます。この灯籠はみんなから愛されるものになっていましたから、丸亀と金毘羅の多くの人々のボランテイアなどによって、4年後の冬に再建にとりかかり、文化同十五年の二月二十七日に完成します。
3高灯籠
明治時代の写真
 再建から約80年後の明治三十五年再び倒れるのです。このときは、しばらく倒れたまま放置されたようです。再再建されるのは大正になってからで、大正元年九月に姿を見せます。この時の再建には、大阪四天王寺生まれの十二代朝日山四郎右衛門の寄附や、同じく大阪の鋳縫人の協力によって行われたようです。そして10年後に、二本木から現在の書院下に移されます。

3 金鳥居

 命あるものは死に、形あるものは壊れるのが必定です。出来上がった時には、その立派さから壊れたり朽ちたりすることまで考える人はあまりいません。しかし、半世紀も経つと青銅や石の灯籠でも壊れるのです。それが修理され維持されていくのは、信仰という心で結ばれた人たちの手がさしのべられたからなのかもしれないと思うようになりました。 この鳥居は天明八年に建立されてから現在まで、江戸・大坂・丸亀・金毘羅といった多くの人々の協力で維持されてきたようです。
この鳥居の履歴をまとめておきます。
天明七年 (1787年)丸亀街道、金毘羅町口の二本木に建立
文化11年(1814年)大風により破損倒壊
文化15年(1818年)再建
明治35年(1902年)8月28日、破損取壊し
明治45年(1912年)6月10日、再建起工
明治45年(1921年)10月9日、金刀比羅宮社務所南側に移転建立

  牛屋口の鳥居

3 牛屋口鳥居2

 土佐伊予方面からの参拝者は、伊予川之江から讃岐の豊浜に入り、伊予見峠を越えて佐文(さぶみ)の牛屋口から金毘羅領に入りました。牛屋口は、象頭山のちょうど鼻の部分にあたり、街道最後の峠で金毘羅領への入口でした。ここは、琴平から豊浜方面に抜ける新道が別ルートでできたため、むかしの雰囲気が残る数少ないスポットです。ここの狛犬は個人寄進により川之江の石工によって掘られたもので特徴があります。この狛犬については、以前に紹介しましたの省略して先へ進みます。狛犬の向こうに鳥居が建ち、それに続く道筋の左側は、石垣を築いた上に土佐から奉納された石燈龍が並び建ちます。
 
3 牛屋口鳥居
 さてここの鳥居ですが、寛政六年(1794)の銘があり、この峠に2番目に現れた奉納品のようです。一番早いのは前年に奉納された参拝碑です。それに続いて、石燈龍が明治はじめにかけて次々と奉納され、立ち並んでいくようになります。ここでも奉納品のスタートは鳥居です。
   この牛屋口の鳥居は花崗岩製の明神鳥居で、予州宇摩郡野田村(愛媛県宇摩郡土居町野田)の績木孫兵衛宗信により奉納されたものです。 績木家は代々庄屋をつとめた名家で、野田村の金毘羅信仰の中心にいた家です。これも個人寄進で左側の柱に奉納者の績木孫兵衛宗信の名前だけが刻まれています。

  学芸参考館前の鳥居   阿波街から移された阿波鳥居
 
3 阿波町鳥居

南神苑(神事場)から新町に至る一帯を阿波町と云います。阿波から金毘羅に来た人々が、まずこの町に入ってきたからこの地名がついたようです。現在、学芸参考館前に建つ鳥居は、もともとは阿波町の人口、南神苑の東側に建っていました。ところが、多度津街道の鳥居と同じで、自動車の時代をむかえ、大型車が通りぬけできないようになります。石鳥居を保存する上でも、通行円滑のためにも移転されることになります。それで昭和三十年代のはじめ解体され、学芸参考館の前方に移されたようです。
 この鳥居は、嘉永元年(1848)に阿波国三好郡講中の数多くの人たちによって奉納されています
三好郡は阿波国では西端で、金毘羅とは阿讃山脈をはさんで背中合わせの関係にあります。人的・経済的な関係も深かったようです。鳥居の銘文にある講中の村々を見てみましょう。
 東山・昼間・足代(三好町)太刀野・太刀野山・芝生(三野町) 中庄・西庄・西庄山・加茂(三加茂町) 辻・西井川(井川町) 池田・州津・西山(池田町)
と吉野川の両岸に分布する村々です。その中心部にあたる昼間村から講元引請人と世話人四人を出しています。この近くには「金毘羅さんの奥社」を自称する箸蔵寺があります。箸蔵寺は真言密教系の修験者の寺で、いつの頃からか金毘羅大権現を祀るようになり、周辺に金毘羅信仰を広げていきます。そのため信者たちは、本家の金毘羅さんにも定期的にお参りする人が増えてくることは以前にお話ししました。箸蔵寺は今も金毘羅大権現を祀る寺院ですが、その境内の玉垣には日本に留まらず朝鮮や中国東北部からの信者の寄進が数多く見られます。戦前に至るまで活発な宗教活動が行われたいたことがうかがえます。それが現在の立派な仏教伽藍にも現れているのでしょう。
そのような中で昼間村を中心とした集金マシーンが働き、鳥居の寄進となったのではないかと私は考えています。
  新町の鳥居   高松街道の起点
3 新町の鳥居

 新町の鳥居は、旧高松街道の新町商店街の中に建っています。花崗岩製の明神鳥居で、安政二年(1855)、高松市川部町の武下一郎兵衛によって奉納されたものです。これも個人奉納です。
 一郎兵衛は、中讃から東讃にかけての酒と油の販売権をもっていた人で、盛期には使用人が百人をこえ、掛屋・札差といった金融業など手広く商をしていた商人です。この鳥居が奉納された頃は、彼の事業の最盛期でもあったようです。
 この鳥居には、笠木の裏側に剣先型の彫り込みが見え、不動明王の種子と願文が彫られていると研究者は云います。残念ながら私には確認できません。この彫り込みは建造物の棟札をイメージしたものと研究者は考えているようです。
 しかし、掘られているのが不動さまというところ引っかかってくるものがあります。不動明王は修験者の守神です。奉納者と修験道に何らかの関係があったのではと勘ぐってみたいのですが、いかんせん資料がありません。
 新町には以前から鳥居が建っていました。金毘羅さんへ奉納された鳥居のなかで街道に建てられたものとしては、新町のものが一番古いのではないかと研究者は考えているようです。
 元和七年(1621)に、「新町に鳥居が建った」という最初の簡単な記事があるようです。
 次は寛永十年(1633)でと『古老伝旧記』の中に次のように記されています。
   新町石之華表(鳥居)之事
 寛永十契酉年造立(朱)
「施主当國岸之上村荒川安右衛門」
  惣高さ壱丈八尺弐寸 笠木厚壱尺八寸
  内のり壱丈三尺三寸 笠木長弐丈五尺
  柱廻り目通にて 五尺六寸
  右鳥居は古は木にて有之也

 岸之上村の荒川安右衛門が木の鳥居にかえて石の鳥居を建てたとあります。木の鳥居は元和七年のもので、11年後に石の鳥居に建てられたということでしょう。しかし、この鳥居は嘉永七年(1854)末に火事や地震で倒れ、取除かれてしまったようです。その翌年になって建てられたのが現在の鳥居になるようです。

3 新町鳥居
 元禄時代の「祭礼図屏風」には、前の鳥居が描かれています。その位置は高松街道と丸亀街道が出会う合流点です。つまり今の鳥居より50㍍ほど金毘羅さん寄りに建っていたようです。
 文化年(1804~17)の末頃に書かれた『中国名所図絵』には、この鳥居について
「石鳥居(丸亀街道から)新町を行常り角にあり。右は參詣道、左は高松街道(後略)」
と記されます。
屏風図をもう一度見てみましょう。ここには10月10日の大祭に、お山に上がっていく頭人行列の人々が枯れています。彼らは高松街道(右)をやって来て、金毘羅さん(左)に動いていきます。それを見守る人々の姿も描かれています。注意してみて欲しいのは、白い鳥居の前で高松街道と丸亀街道が合流し、人々が密集していることと、その右手に白い柵(木戸)があることです。ここが金毘羅領と天領の榎井村の境界であったようです。現在の鳥居が建っている位置は、このあたりになるようです。現在地になってからは、丸亀街道をやって来た人たちがこの鳥居の下をくぐることはなくなりました。
   前回も触れましたが、金毘羅さんの石鳥居で現在残っているものは近世後半のものです。近世前半のものはありません。金毘羅さんだけでなく鳥居自体が中世以前のものは少ないようです。ほとんどが近世中期以後と考えてよいと研究者は云います。その理由としては
①石鳥居を造る技術をもつ石工が全国的に少なかった
②鳥居は大きくて重量で運搬も大変であった
こういったことを合せて考えると、寛永十年に高さ5,5㍍と小形ではあっても石鳥居が奉納されていることは誇るべき事なのだと思います。

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1 金毘羅 伽藍図2

前回に続いて金毘羅さんの狛犬を見て歩記(あるき) します。
訪れるのは「金毘羅庶民信仰資料集2」に紹介されているように古い順なので、場所が前後しますが悪しからず。よろしけらばおつきあいください。

 大門前の狛犬  河内国全域の村々から享和元年(1801)に奉納
 こんぴらさんへ交通安全のお守りを買いに②金刀比羅宮の表参道 | 土佐 ...
石段を登って行くと両側のお土産店の上に大きな建物が見えてきます。その前には下乗の木札が建ちます。これが大門で、かつての仁王門です。しかし、神仏分離で仁王様は撤去され焼かれてしまい、大門と名前が変わりました。今は参道をはさみ狛犬が向かいあっています。
1 金毘羅 大門狛犬11
 
右側(阿)
〈基壇一段〉
正面 大坂谷町二丁目
   世話人
   亀屋善兵衛
〈基壇二段〉
正面 堂島涜二丁目
   大塚屋宗八
   舟橋村松永氏
   鴻池新田
   箕輪村弥三兵衛
   同村 弥三右工門
   八尾座村塚口源七
   川辺村源右工門
   河湯油方
右面 河州
右面 長田村源三右ヱ門
   同村市兵衛
   稲 田 村
   高井田村
   上若江村善左ヱ門
   下若江村彦兵衛
   小坂合村
   菱屋新田
   三島新田
   萱 振 村
   御 厨 村
   稲葉村善助
左面 享和元辛酉十月吉日
左面 川辺村田中氏
   水本村元右ヱ門
   毛人谷村茂八
   箕南備幸右ヱ門
   南別井村
   北別井村
   山 城 村
   伯 原 村
   市村新田七良兵衛
   二俣新田
   安中新田右ヱ門
   中山村甚右ヱ門
裏面 木戸村徳兵衛
   松原村半左ヱ門
   岩 室 村
   今 熊 村
   円 明 村
   太田村七良左ヱ門
   長田村妻右ヱ門
   近江堂村
この狛犬は、高さ三尺余と大門前におかれる狛犬にしては少し小ぶりな印象です。しかし、形は小さくとも基壇に「河州」と大きく二文字が彫り込まれています。河州とは河内国のことで、河内国全域の広い範囲の村々の名前が基壇には見えます。これらの村々から享和元年(1801)に奉納されたもののようです。
 銘文中に「菱屋新田」「三島新田」「鴻池新田」というのが見えます。これは、元禄17年(1704))に行なわれた大和川つけかえ工事の後の旧大和川筋や、深野池・新開池を埋め立てて出来た新しい村だそうです。中でも宝永四年(1707))に大坂の豪商鴻池善右衛門によって開発された鴻池新田は200町歩(約二平方キロメートル)におよぶ広大なものでした。このような新田開発で開かれた耕地には、稲作が行われるのではなく、綿花が栽培され有名な河内木綿の産地になります。
 北前船が運んでくるニシン粕などの金肥を使えば使うほど、良い綿花が大量に出来たと云います。ニシン粕などの金肥なしでは、綿花栽培はなかったのです。讃岐のサトウキビ栽培と同じように、北前船への依存度が高かったようです。東讃の砂糖産業に関わる農民たちが高灯籠を寄進するように、河内の木綿産業に関わる人たちにも金毘羅信仰が広がっていたことがうかがえます。
2

 正面基壇の一番最後にある「河州油方」とあるのは、灯油用の油を商った人々のことだそうです。
北河内地方は、米の裏作として菜種の栽培もさかんで、菜種から絞りとっだ種油は灯油用として大坂に集められ、多くは江戸への「下り物」となっていたようです。このように河内地方の村々は「天下の台所」の大坂に近く、はやくから大坂と結びついて、農村とはいっても貨幣経済が浸透していました。この狛犬の世話人大坂谷町二丁目の亀屋喜兵衛がどういった人かは分からないようです。しかし、大坂の町場だけでなく河内の村々から寄附を集めているのは、新田開発などで潤う村々の経済的な発展があったことがうかがえます。
 なお、この狛犬には頭に角がなく、獅子です。大門は神仏分離以前は、松尾寺の仁王門で仁王像が立っていました。寺社であったので、その前に狛犬でなく獅子が置かれたのでしょう。
1 金毘羅 真須賀神社1

                      真須賀神社の狛犬 
 真須賀神社は、賢木門をくぐってまっすぐに進んだ突き当たりにある摂社です。もともとは神仏分離以前には、ここには不動明王を本尊とする本地堂が建っていました。したがって、この狛犬もどこかからここへ移動してきたようです。

1 金毘羅 真須賀神社狛犬12

右側(吽)          
 正面 紀州   壽永講   若山(和歌山)   
右面 願主
    日高屋平左衛門
   元掛世話人
    有田屋文右衛門
   世話人
    粟村屋禰兵衛
    駿河屋荘兵衛
    船所村新九郎
    桶屋助五郎
    有本村徳三郎
    田中屋楠右ヱ門
    山東屋傅蔵
    雑賀屋清蔵
裏面 南紀和歌山住
    石工 辻 林蔵
〈基壇二段〉
裏面 富所取次 備前屋幸八
この狛犬は右が口を開いた阿、左が口を閉じた吽で頭上に角があります。獅子と狛犬で一対をなす一般によく見られる狛犬のペアです。奉納は「紀州若山(和歌山)」の「壽永講」で、文化七年(1810)に奉納されています。
 石質は大門前の狛犬と同じ砂岩です。大阪府と和歌山県の境には、和泉山脈が東西に横たわり、中世以来、ここから和泉砂岩の良質の石材が切り出されてきたようです。そのため和泉地方には、石工も多くいました。この狛犬の作者、石工辻林蔵のいた和歌山市の石工については、よく分かりません。しかし、和泉地方の石工と交流があったようで、先ほど見た大門前の狛犬と真須賀社の狛犬は全体のプロポーションや前後の肢の表現がよく似ていると研究者は考えているようです。
1 金毘羅 賢木門狛犬1
  賢木門前の狛犬 
   この狛犬は、賢木門前の石段の左右に向かいあっています。
1 金毘羅 賢木門狛犬21

 基壇2段目の正面に発起人の名古屋の藤屋松兵衛・同瀬戸物方と飛騨高山の井筒屋源左工門があります。そして3、4段目には、「尾州名古屋」を中心に、「大坂」「信州飯田」(長野県飯田市)「濃州高山」「江州」「東部」「東都」と非常に広い範囲の人々からの奉納です。どうやってこれらの人々からの寄進を集めたのか、その人的なネットワークに興味がわきますが資料はありません。
 「明治三年十月吉日」とありますから、神仏分離直後の十月十日の大祭にあわせて奉納されたようです。この狛犬は、この賢木門くぐった先にある前回紹介した遥拝所の狛犬と非常によく似ていると研究者は指摘します。遙拝所の狛犬は、天明元年(1781)に松江惣講中から奉納されています。こちらは明治3年ですから約110年後のものになります。狛犬の高さは、この狛犬のほうが五寸程大きいようです。しかし、全体のプロポーション、なかでも特徴あるたてがみや尾の毛束の手法、狛犬をのせる円形の台座や牡丹の彫り物などは共通します。さらに石質も共に凝灰岩製ですが、賢木門前の狛犬のほうが若干簡略化されているようです。110年前に奉納された狛犬をモデルに、江州で作られたのかもしれません。
  この賢木門前の狛犬の基壇には「石工久太良」とあります。
久太良(久太郎)は地元琴平の石工で、幕末から明治にかけて金毘羅さんに奉納された石造物を数多く手がけた名工です。しかし、ここでも久太郎が関わったのは台石だけで、狛犬は完成品が持ち込まれています。硬質の花崗岩と軟質の凝灰岩では、彫る技術も、道具も異なるようです。久太郎のつくった石造の奉納物はみな花崗岩製です。独特の様式および石質の類似性から考え、賢木門前の狛犬も、雲州地方から完成品を運んできたと研究者は考えているようです。
 この狛犬のように基壇だけを地元の石工がつくる例は、青銅製の燈龍や狛犬、あるいは一部の石造の狛犬に見られます。その方が運送の手間を省くことが出来ます。
1 金毘羅 三穂津姫社の青銅製狛犬g

                        三穂津姫社の青銅製狛犬
 三穂津姫社の社前にの青銅製の狛犬です。
1 金毘羅 三穂津姫社の青銅製狛犬21g

 右が口を開いた阿、左が口を閉じた吽であるが頭上に角は見えません。全体に細身で、それがかえって精悍な印象をあたえています。製作は青銅器具の製造で全国に知られる富山県高岡市の竹中製作所です。青銅製の台座の銘文には、愛知金明講が昭和四十八年十月に参拝百年を記念して奉納したことが刻まれています。
1 金毘羅 三穂津姫社の青銅製狛犬1g

 愛知金明講は、幕末、今の愛知県西春日井郡西枇杷島町に住む佐藤定蔵が、目の病いに罹り金毘羅さんに祈願したところ、お蔭があって全快します。それで金毘羅さんへの信仰を深めると同時に、周囲の人々にも勧めて金明講をつくったのがはじまりで、六代定蔵さんまで金明講の講元は代々佐藤家がつとめたようです。
 西枇杷島町は濃尾平野のほぼ中ほどで、名古屋市に隣接するという地の利もあって金毘羅講は急速に発展し、大正のはじめ頃の三代目定蔵が講元のとき「愛知金明講」「名古屋金明講」「乙金明講」に発展分化したようです。金明講は団体参拝をするので、講員が多くなりすぎると参拝が難しくなるようです。適度の人数というのがあるようです。
 講元として名前が彫られている定蔵は、初代定蔵から六代目、講元としては五代目になるようです。
彼が講元を勤めた戦前は300人、昭和30年には専用列車で500人の参拝者を出したといいます。しかも、昭和39年までは現在のように十月十日の大祭だけでなく、三月十一日の春祭にも参拝していたようです。もっとも参拝者は全員が講員というわけでなく、希望者があれば自由に参加することができるシステムだったようです。そのため毎年参拝をくりかえす講員よりも、何年かに一度、講の参拝に加わる人が多かったと云います。こうした参拝者の構成は、狛犬奉納者についても同じことがいえるようです。
 銘文には、発起人9人、世話人22人、功労者21人と、会社名などを含め451人の奉納者名があります。発起人は世話人と同じく、狛犬奉納に関して寄附を集めるなど実務的な世話をした人々で、高額寄附し奉納推進に大きな功績をはたした人々です。また、功労者はかつての世話人たちで高齢者が多いようです。彼らの師弟が発起人となっている人もいます。
 私は寄附したのは、ここに名前の刻まれている人たちだけだと思っていました。ところがそうではないようです。銘文を彫る場所の都合で彫られなかった人々が、数多くいるのです。そのために、狛犬の台座のなかには寄附者全員の名を書いたものが納められているそうです。その数は約800人といいます。こうしたなかには、奉納の呼びかけで講員ではないけれども、参拝に参加した人などが寄附をしたようです。 愛知金明講は、代々の講元、および世話人といった人々の努力によって維持されてきたようです。
 愛知金明講からの奉納は、この狛犬に限らないようです。琴電琴平駅前の大宮橋詰の高さ15㍍のの大鳥居は、参拝50年の記念に建てられたもので金刀比羅宮に奉納された鳥居としては最大のものです。こうした奉納が行われたのは、遠い愛知県に金毘羅信仰が根付いていたからこそでしょう。

1 金毘羅 高灯籠1
              高灯籠の丸亀街道の狛犬                       
 高燈龍のすぐ東側、丸亀街道の旧金毘羅領入口にいる狛犬です。
もともと、ここは丸亀から4里の位置で、一里塚の大松が参拝客を迎えた場所です。丸亀街道をやって来た人たちにとっては金毘羅の町の入口でもありました。そのためここには、天明八年(1788)に奉納された青銅製の「金鳥居」が建てられました。この金鳥居は名物となり、金毘羅の町を描いた一枚刷りの絵図にも、良く描かれています。幕末には、ここに高灯籠が姿を見せ、一里塚の大松や金灯籠とともに描かれるようになります。
1 金毘羅 高灯籠1

 「泉州堺」(大阪府堺市)の富貴講による奉納で、篭屋伊兵衛と池宮九兵衛が講元です。篭屋内中・米荷廻船中・南薪中買仲・柳力世話中など、名前を見ているだけでもさまざまなな職種の人々が参加していることが分かります。総数は122名だそうです。
 この狛犬は寛政七年(1795)の奉納ですから黒い金鳥居ができて7年後に、寄進されたようです。以後、この狛犬を起点にして街道沿いには富士見町にいたるまで灯籠が並んでいくことになります。その灯籠建立のスタートを告げる狛犬です。しかし、この付近の灯籠は、砂岩が使われているので欠損がめだちます。


  JR琴平駅前の狛犬     多度津街道の入口にあったもの
文化・文政の頃河内楠葉栄講の奉納した狛犬(阿)
1 金毘羅 JR駅前狛犬1

 右側(阿)
 〈基壇一段〉 右面 河州楠葉さかへ講
 〈基壇二段〉
  右面 中村屋半左ヱ門
  左面 取次新町  大工荘右ヱ門
     大坂取次  多田屋新右ヱ門
     丸亀船宿  大和屋傅次郎
     石工    丸亀  中村屋半左ヱ門
 この狛犬は、もともとは多度津街道の金毘羅入口にいましたが、今はJR琴平駅前広場に移されています。狛犬は砂岩、基壇は花崗岩です。 
1 JR琴平駅前狛犬

「河州楠葉」の「さかえ(栄)講」からの奉納です。楠葉は京都との県境に近い淀川沿いの村で、今は大阪府枚方市になるようです。石工は丸亀の中村屋半左ヱ門ですが、紀年銘がありません。取次の大坂船宿多田屋新右工門と丸亀船宿大和屋傅次郎の二人は、金毘羅山内に奉納された石燈に取次として共に名前を連ねていますので、だいたい19世紀前半の文化年間の奉納と考えられます。

1 金毘羅 備前焼狛犬1
  備前焼の一ノ坂口の狛犬               
 一ノ坂の登り口(札ノ前)のもと鉄製の鳥居が建っていたすぐ後脇に据えられている狛犬です。 右が阿、左が吽で頭上に角をはやした通例の狛犬です。高さが約五尺の大きなものですが、通常と違うのは備前焼で作られていることです。奉納は備前岡山の「長柴講」で、紺屋町講中・久山町講中他、69名の名前が見られます、天保十五年(1844)に奉納されたものですが、基壇には天保十三年(1842)の紀年銘があるので、基壇が先に出来ていたようです。
 備前焼は、岡山県備前市伊部を中心に古くからつづいた焼物で、壷を中心にさまざまなものがつくられてきました。備前焼の狛犬もその一つで近世、岡山を中心に数多く残されているようです。この狛犬は、伊部の木村長十郎他六人の細工人によってつくられたようです。彼らは木村一族の人々で、長十郎は金毘羅の他、岡山市の高松稲荷の狛犬にも細工人として名前が残っているようです。
1 金毘羅 備前焼狛犬1
   右側(阿) 
    〈狛犬の左腹部刻名〉    正面
     備前國
      伊部村御細工人
       木村長十郎友直
       同新七郎貞泰
       同儀三郎貞幹
     天保十五年
       辰三月吉旦   作
 
  牛屋口に建つ寛政六年(一七九四)の石鳥居の前の砂岩の狛犬
1 金毘羅 牛屋口狛犬1

「西條新居郡多喜潰」(愛媛県新居浜市多喜浜)の岡本政治郎が個人で、弘化二年(1845)に奉納しています。基壇部に石工銘があり、愛媛県川之江市の泉屋清兵衛と分かります。猫足を形どった二脚の基壇は、ユーモラスで独特な感じがします。
1 金毘羅 牛屋口狛犬12
以上、金毘羅さんの狛犬めぐりでした。おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 参考文献 印南 敏秀  狛犬 
              「金毘羅大権現信仰資料集NO2」

 西遊草 (岩波文庫) | 清河 八郎 |本 | 通販 | Amazon

    前回は幕末の志士清川八郎が母親と金毘羅大権現を参拝したときの記録『西遊草』を見てみました。しかし、まだ金毘羅さんの山下までしか進んでいません。今回は階段を上って、境内に入っていきましょう。早速、『西遊草』本文を読んでいきましょう。

4344104-36大門前
大門(仁王門)手前の石段 (讃岐国名勝図解)
原文 
 市中より八丁ばかり急にのぼり、二王門を得る。いわゆる山門なり。「象頭山」といふ額あり。是まで家両岸に連れり。是よりは左右石の玉垣にて、燈篭をならべ、桜を植をきたり。
 壱丁余のぼりて右のかたに本坊あり。金毘羅の札をいだすところにて、守を乞ふもの群りあり。実にも金銀の入る事をびただしく、天下無双のさかんなる事なり。吾等も開帳札を乞ひ、夫より石段をのぼり、いろいろの末社あり。
意訳
  麓から8丁(800㍍)ほどの急な上りで仁王門に着く。山門で「象頭山」の額が掲げられている。ここまで階段の両側には店が連なっている。しかし、この仁王門から先は、左右は石の玉垣で、灯籠が並び、そこに桜が植えられている。
  一丁ほど行くと右手に本坊(別当寺の金光院、現在の表書院)がある。ここで金毘羅の札をもらう人たちが大勢詰めかけている。これだけの人が求めるので、金銀の実入りも大したものであろう。私たちもここで開帳札をいただく。本坊を後にして石段を登ると、いろいろな末社が迎えてくれる。
1 金毘羅 伽藍図1

①幕末の時点で、仁王門(現大門)まで、石段と玉垣の整備されていたようです。さらに仁王門から先の平坦地には、すでに桜が植えられていたことが分かります。現在では、ここを桜馬場と呼んでいます。桜馬場の右手には、金光院に従って金毘羅領を統治する各坊が現在の大門から宝物館に架けて並んでいました。そして、一番上にあるのが「お山の領主サマ」の陣屋=本坊(金光院)です。
1 金毘羅 伽藍図2

②金毘羅の札も本殿ではなく本坊(金光院=表書院)で、取り扱っていたことが分かります。清川八郎もここで御札を求めています。本坊(金光院)は、神仏分離後は社務所となります。

4344104-33金光院
金光院本坊 讃岐国名勝図解

17世紀までの参道は、金光院の所で右折していました。それが18世紀になると参道は左折するようになったようです。その参道をさらに行くと、大きな建物が前方に姿を現します。現在の旭社(旧金堂)です。
  
4344104-31多宝塔・旭社・二王門
薬師堂(金堂:現旭社)と多宝塔
原典 
壱丁ばかりにして、左の側、山にそひ、薬師堂(現旭社)あり。高さ五重塔の如くにて、結構を尽せし事いわんかたなけれども、近年の作りし宮ゆへ、彫ものなど古代のものに比すれば野鄙なる事なり。されど金銀にいとわず建立せしものと見へ、近国にて新規の宮の第一といふべし。前に参詣のもの休み廊下あり、是より参宮下向道と分る。
   中門あり。
至て古く見ゆ。天正甲申の年、長曾我部元親の賢木を以て建しものとぞ。少しはなれ、右に鐘楼あり。生駒侯のたつるところなり。鼓楼、清少納言の塚などあり。是より左右玉垣の中に讃岐守頼重公累代奉納の燈篭並びあり。夫外土佐侯、または京極侯の奉納あり。
意訳
一丁ばかり行くと左の山裾に薬師堂(金堂)が現れる。高さが五重塔ほどもあって、技術の粋をあつめたもののようだが、近年に作られた建物なので、彫物などは古代のものと比べると野卑で劣る。しかし、お金に糸目をつけずに建立したものだけあって、この付近で近年に作られた寺社建築としてはNO1のできばえといえるだろう。この薬師堂の前に、回廊が参拝者のための休憩所として提供されている。ここで、往路と帰路が別れる。
  往路を行くと中門がある。かなり古い建物に見える。長宗我部元親の寄進した木材で建てられたと云う。少し離れて鐘楼がある。これは生駒氏が寄進したものである。その他にも鼓楼や清少納言の塚がある。それから先には、高松藩祖の松平頼重が5回に分けて寄進した灯籠が並ぶ。他には土佐山内氏や丸亀京極氏の灯籠も見られる。
★「讃岐名所圖會」にみる金刀毘羅宮konpira2

①本坊(現表書院)から階段を上っていくと、大きな建物が現れてきます。これが現在の旭社です。
  「近年に作られた建物なので、彫物などは古代のものと比べると野卑で劣る」

と、古代の彫刻や建築物の方が雅で優れいるという清川八郎の美意識がうかがえます。本居宣長的なものの見方をもっています。そのため金毘羅大権現の「経営方針」などにも批判的な見方が所々に現れてきます。  しかし「近国にて新規の宮の第一といふべし」と、建物のできばえは評価しています。八郎は、この建物を「薬師堂」と記していますが実は、これは観音堂です。以前は薬師堂が建っていました。2年前に観音堂として完成したばかりでした。
「金堂上梁式の誌」には、次のように記されています。

「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」

DSC04048旭社

 今は旭社と呼ばれていますが文化3年(1806)の発願から40年をかけて仏教寺院の金堂として建立されました。そのため、建立当時は中には本尊の観音菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたといいます。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは破棄・焼却され今は何もなくがらーんとした空洞になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。これを八郎も見上げたのでしょう。
 この後には清水次郎長の代参のために森の石松がやってきます。
この金堂に詣って参拝を終えたと思い、本殿には詣らずに帰つたという俗話が知られています。確かに規模でも壮麗さでも、この金堂がこんぴらさんの中心と合点しても不思議ではなかったようです。
  金堂前の空間には灯籠が立ち並び、その下の空間には大きな多宝塔もあったことが当時の配置図からは分かります。まさに、旭社周辺は「仏教伽藍エリア」だったようです。それを、清河八郎は少し苦々しく思いながら本殿に進んでいったのかもしれません。
金毘羅山旭社・多宝塔1

  旭社から往路を進むと門をくぐります。戦国時代に土佐の長宗我部元親が寄進した門と伝えられます。明治になると「賢木(さかき)門」と呼ばれるようになり、寄進者の元親を貶めるエピソードと共に語られるようになります。後に、松平頼重によって仁王門が寄進されると、そちらが大門、この門が中門(二天門)と呼ばれるようになります。
  「右に鐘楼あり。生駒侯のたつるところなり。鼓楼、清少納言の塚などあり。」

とあります。現在の清少納言塚は大門の外にありますので、明治になって移されたようです。

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金毘羅大権現本殿  原文
 本殿は五彩色にして小さき宮なれども、うつくしき事をびただし。殊に参詣のもの多く群がりて、開帳も忽疎(おろそかである。なおざりにする。)にしてすぎたり。本殿の左より讃岐富士、また海、山、里などを一目に見をろし、景色かぎりなく、暫らく休み、詠めありぬ。本殿の側に銅馬、其他末社多くありて、さみしからぬ境地なり。
 殊に金毘羅は数十年已来より天下のもの信崇せぬものなく、伊勢同様に遠国よりあつまり、そのうへ船頭どもの殊の外あがむる神故、舟持共より奉納ものをびただしく、ゆへに山下より本殿までの中、左右玉垣の奇麗なる事、外になき結構なり。数十年前までは格別盛なる事もなかりきに、
近頃追々ひらけたるは、神も時により顕晦するものならん。いまは天下に肩をならべる盛なる神仏にて、伊勢を外にして浅草、善光寺より外に比すべき処もなからん。

神威のいちぢるしき事は、また人のしるところにして、金毘羅入口に朝川善庵の文をかきたる大石の碑にしたあめあり。神の縁記を委しくしらざれば、ここにしるさず。
 夫より備前やに帰り、一杯をかたむけ、象頭山のかたわきを七拾丁歩みて、山のうらにて善通寺にいたり、ハツ頃に山門の前なる内田や甚右衛門にやどる。
 
4344104-39夜の客引き 金山寺
4344104-07金毘羅大権現 本殿 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現本社 讃岐国名勝図解
意訳
  本殿は五色に彩られ小さな建物ではあるが、美しいことには限りない。しかし、参拝者が多く群がり、開帳を忽疎(おろそか・なおざり)にしてすぎているように思える。本殿の左からは讃岐富士、海・山・里が一望できる素晴らしい景色が広がる。しばらく休息し、詩句などを作る。本殿の側には銅馬や、摂社が多く立ち並ぶ。

4344104-08観音堂・絵馬堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂
  金毘羅は数十年程前から全国の人々から信仰を集めるように、伊勢神宮と同じように遠くから参拝者が集まるようになった。特に水上関係者の信仰が厚く、船主の奉納品がおびただしい。そして、麓から本殿まで玉垣が途絶えることなく奇麗にめぐらされている。このような姿は、他の神社では見たことがない。
 数十年前まではそれほど参拝客が多いわけでもなく、建物も未整備であったのが近頃になって急速に台頭してきたのは、神様の思し召しなのであろうか。今では天下に肩を並べる神社としては、伊勢は別にしても、江戸の浅草か長野の善光寺くらいであろうか。
  神威については、世間の人々がよく知るところで金毘羅の入口にも、朝川善庵(松浦侯儒官。名は鼎、宇は五鼎、号は善庵。江戸の人。古学派)による由緒が大きな碑文に刻まれていた。神の縁起を詳しく知らないので、ここには記さない。荷物を預けた備前屋に帰り、精進落としに一献傾けてから善通寺に向かう。象頭山の山裾を70丁(約7㎞)あるいて、善通寺に八つ頃(午後3時)についた。宿は山門前の内田屋甚右衛門にとった。

ここでも建物や眺望は褒めながらも、寺社の運営については「参詣のもの多く群がりて、開帳も忽疎(おろそかである。なおざりにする。)にしてすぎたり」と批判的に書かれています。数多く押し寄せる参拝客への対応が粗略に感じられたこともあるのでしょう。
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本殿よりの丸亀平野や瀬戸内海の眺望 讃岐富士がおむすびのよう

 その後の金毘羅大権現の発展ぶりについて
「数十年前までは格別盛なる事もなかりきに、近頃追々ひらけ・・・」
金毘羅は数十年程前から全国の人々から信仰を集めるように、」
と記されている点が興味深いところです。金毘羅は数十年ほど前まではたいしたことはなかったのに、突然のように全国から人々が参拝に訪れるようになったといいます。そこには、金毘羅は、古くからの神ではなく数十年前から全国に広まった「流行神」であると認識していたことがうかがえます。その流行神の急速な発展ぶりに、驚いているような感じです。

4344104-13鞘橋 潮川神事と阿波町
金刀比羅宮 鞘橋を渡る頭人行列

「金毘羅入口に朝川善庵の文をかきたる大石の碑にしたあめあり。神の縁記を委しくしらざれば、ここにしるさず。」

には、そのまま素直に受け取れない所が私にはあります。流行神として勃興著しい金毘羅に対して、批判的な目で眺めている八郎です。その彼が「神の縁記(由緒)を委しくしらざれば、ここにしるさず。」というのは素直には受け取れません。彼の知識からすれば書きたくない内容の由緒であったのではないかと穿った見方をしています。

DSC01390善通寺
  善通寺(当時は五重塔はない)
   善通寺は弘法大師の誕生の地にして、至ってやかましき勅願所なり。されども宮は格別誉むべきほどの結構にもあらず。本堂の前に大師衣かけ松あり。三本の中にいづれも高大なるふりよき松なり。松の下に池あり。御影の池といふ。古しへ大師入唐せんとせし時、母のなげきにたへず、法を以て此池水にその身の影をのこせし池とぞ。善通寺といふももと大師の父善通(よしみち)の宮居せし処ゆへ、名づくるとぞ。その外名処もあらんなれど、さある事もなければ略しぬ
意訳
 善通寺は弘法大師の生誕の地であり、勅願所である。しかし、伽藍はさほどたいしたことはなく立派でもない。本堂の前に大師の衣架け松があり、3本とも高く枝振りもいい。松の下には池がある。御影池という。弘法大師が入唐の際に母の悲しみや心配・不安を除くために、この池の水面に自分の姿を写し残したと伝えられる。善通寺という名前も、もともとは大師の父善通からとられたものだという。その他に名所と云われるところはあるが、たいしたことは無いので省略する。
 
1丸亀金毘羅案内図1

当時は丸亀港にやってきた金毘羅参拝客は
「丸亀 → 金毘羅 → 善通寺 → 曼荼羅寺(出釈迦寺が後に独立) → 弥谷寺 → 海岸寺 → 道隆寺 → 金蔵寺 → 丸亀」

と巡礼していたようです。これは、もともと地元の人たちが行っていた「七ヶ寺参り」を、金毘羅参拝客も巡礼するようになったようです。ここには、地元の「地域巡礼」を全国区の巡礼エリアにグレードアップするための仕掛け人がいたはずです。それについては、以前お話ししましたので省略します。
 




八郎は国学的な素養をベースにした教養人ですから仏教寺院については、どちらかというと辛口に評価する傾向があるようです。善通寺についても、空海の生誕地であることのみで「その外名処もあらんなれど、さある事もなければ略しぬ」といたって簡単です。

 この後に、母子は新しく完成したばかりの多度津新港から宮島方面に向けて、出港していきます。清河八郎が幕末の激流の中に飛び込んでいく前の母との「思い出旅行」だったのかもしれません。しかし、記録をのこしてくれたおかげで170年後の私たちは、当時のことを知る大きな手がかりとなります。感謝

1 清原八郎
 藤沢周平の「回天の門」の主人公 清河八郎について
「回天の門」中で、幕末の尊攘派の志士であり儒学者であった主人公の清河八郎を、藤沢周平は次のように記しています
「清河八郎は、故郷清川を家出という形で上京し、何の後ろ盾もない中、高い志のもと、人との繋がりを大切にし、類まれなる説得力で、幕末の数多くの同士をまとめていった。」

 藤沢周平は恩師が記念館の館長であった縁もあって、2年をかけて記念館に足を運び、展示資料を読み解くなどして、八郎の生涯を調べたそうです。この中で幼少の日々から、志半ばにして討たれるまでの八郎の行動と、彼を取り巻く人物たちを、史実に基づきながら丁寧に追っていくことで、八郎の人物像が描かれていました 
 その清河八郎が、安政二年(1855)26歳の時に、母親を連れて金毘羅さんにやって来ています。
母を連れての大旅行の出発のきっかけは?
  安政2年正月下旬、八郎が26歳の時です、神田三河町の清河塾が開塾3ヶ月にして延焼してしまいます。八郎は失意のまま山形の実家に帰ってきます。ぽっかりとあいた時間と心を埋めるために、母親の亀代が望んでいた伊勢詣でに出ることになったようです。下男の貞吉を連れて、春先の雪が残る3月20日に山形の清川をスタートします。まずは伊勢を目指します。しかし、当時の「伊勢詣で」は、伊勢だけにあらず・・」でした。その参拝ルートを見てみましょう。
①最上川を川船で下って、酒田港へ
②酒田から北前船で越後へ
③越後から北国街道で、善光寺詣で
④女人禁制の福島の関を避けながら木曽道を行き、
⑤途中伊那谷から大平街道を通り、中山道、追分、伊勢街道で伊勢詣
⑥奈良・京都・大阪・兵庫、播磨の「西国三十三ヶ寺巡礼」
⑦姫路書写山にお参り後に、岡山から四国に渡って丸亀へ
⑧讃岐の金毘羅・善通寺に詣で、
⑧多度津から船で瀬戸内海をクルージングしながら宮島
⑨さらに周防岩国の錦帯橋を渡って
⑩帰路に、残りの三十三ケ寺巡礼
という欲張り旅行は、半年を越える大旅行でした。今の私たちからするとびっくりするような長旅です。しかし、当時の東国からの人たちは
「善光寺 + 伊勢参り + 西国三十三ヶ寺 + 金毘羅 + 宮島 」
というのが基本的な伊勢詣でプランだったようです。一生に一度の「伊勢参り」ですから、ついでに「何でも見たやろう、参っておこう」的な巡礼パターンが一般化していたのです。日本人の好奇心・旅行好きはこの当たりからもう形作られていたのかもしれません。おそるべし、ご先祖様です
紀州加田より金毘羅絵図1
 清河八郎は、旅先の風俗を細やかに観察した旅日記を『西遊草』と題して残しています。その記録の意図を次のように記しています。
  我記するところの事を案じ、一世に一度は必ず伊勢いたさるべきなり。されども道中の労をしのび、孤燈のもとにて思ひのままをしたためたる此『西遊草』なれば、大人見識の見るに供するにあらず。但児童、小婦の伊勢参ばなしに、旅中のあらましをさとさんために、しるしおくのみ。

ここでは「想定読者」を「世の中の大人に見せるものではない」とし、後日、弟や妹が伊勢参りをする際、旅中のあらましをさとすため」の私的な作であると断っています。
DSC06658

その「丸亀・金毘羅・善通寺」の部分をのぞいてみることにします
(安政二年)五月十五日
 丸亀は讃州にて京極氏の城下なり。
城は築きたての山城にして、楼櫓列なり、しもより眺みるに、美事なる事いわんかたなく、あたかも村上の城に類して、またはるかに念の入りたるなり。町家も多く、殊に金毘羅渡海の港なれば、客船の往来たゆる間もなく、実ににぎわひの地なり。且金毘羅とは百五拾町へだてたり。されども象頭山は僅目の前に見ゆれども、路のめぐりめぐりするゆへ、遠迂になるなり。
 舟より直になはやなる家にて衣類をととのへ、且朝食をなしぬ。是日もやはり入梅の気にして、晴雨さだまらず。時々雨衣を被りき。此辺西南にひらけたる事かぎりなく、且四国富士といふ小山、路よりわづか壱里ばかりへだて、突然として景色あり。「常に人をのぼさず。七月十七日頃に一日群がりのぼる」と路中の子供はなされき。
 すべて此辺高山はまれにて、摺鉢をふせたるごとき山、処々にあり、いづれも草木不足なり。時々雲霧に顕晦いたし、種々の容体をなせり。
意訳 
丸亀は讃岐の国にあり、京極様の城下町である。
城は山の上に築かれた山城で、楼閣が列を成して並び下から眺めると、その見事さは言い表せないほどで念が入った造りだ。町家も多く、金毘羅船の終着港でもあり、そのため客船の往来は絶えることなく、殷賑をきわめている。丸亀と金毘羅は150町(15㎞)ほど離れている。見た目には、象頭山はすぐ近くに見えるが、道はまわりめぐり続くので案外遠い。。
 金比羅船から下船し「なはや」という店で衣服を整えて、朝飯をとる。天気はこの日も梅雨入りに近いためかはっきりとしない。時々、雨具をつけて丸亀街道を進んでいく。このあたりは西南に方面に広く開けた地形で、「四国富士」という小山が街道から一里ほど向こうに突き出た山容を見せている。
  「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」
と、付近の子どもが教えてくれた。
この当たりには高い山はなく、摺鉢をふせたような山がぽつりぽつりと見える。そして、山には木々が生えていない。その山々が時々、雲に隠れてまた現れ、様々な姿を見せてくれる。
岡山の児島からの船で丸亀港に着きます。船を下りて朝食をとっていますので、潮時の関係で夜に備讃瀬戸を渡ってきたようです。金毘羅参拝後に丸亀に引き返してくる場合には、十返舎一九の「弥次喜多」のように荷物を宿に預けてお参りにいきます。しかし、この母子は多度津から宮島へ行く予定なので荷物を持って、旅姿に着替えて丸亀街道を歩むことになります。
289金毘羅参詣案内大略図

 道中に「四国富士」(讃岐富士)が出てきます。
  「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」
と、土地の子ども達が教えてくれたと云います。
 ここからは、当時は年に一度しか登ることが許されていなかったことが分かります。霊山として「禁足」された聖なる山だったようです。「讃岐富士禁足」に触れた史料に、私は初めて出会いました。
 この時代の旅行記と今の旅行案内を比べると、大きく違うこととして私が思うのは
①宿の名前は必ず記すが、その善し悪しの評価はない
②食事も、内容や味には触れない
③街道の道案内記事はない。
考えて見れば筆で合間に記録するとすれば、それほど多くの情報を残すことは出来ないという制約もあったのでしょう。
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 金毘羅までやって来ました。
金毘羅参詣のもの群がりて道中にぎにぎしく、やすらひながら昼頃に金毘羅麓にいたる。
 入口に金鳥井あり。夫より石燈篭並びあり。勿論昨年の洪水にて余程損じたるとて、いまだ全備せざりき。金毘羅の町は賑ひいわんかたなく、市中に屋根の付たる橋(鞘橋)を渡し、夫より両端旅篭や軒をならべ、いづれも美事なる家ばかりなり。
 空腹に及しかば、備前やなるにて午食をいたし、荷物をあげをき、参詣する。吾は再びなれば(八郎は7年前の嘉永元年に詣でている。)案内よく覚ゆ。金毘羅山は実にも名の如く象頭に異ならずして、草木まれなり。唯々宮の安置する処は、吾国の仙人林の如く草木繁りあり。いと森々たるありさまなり。 
意訳
 金毘羅街道をいく参拝者は数多く、道中は賑わっていている。休みを取りながら昼頃に金毘羅の麓に着いた。
 町の入口に鉄の鳥居(現高灯籠付近)があり、そこからは灯籠が並ぶ。昨年の洪水で大きな被害を受け、完全に復興していないと云うが金毘羅の町の賑わいは凄まじい。屋根の着いた橋(鞘橋=一の橋で参道に当時は参道に架かっていた)を渡ると、そこからは両端に旅籠が軒を並べる内町だ。見事な造りの家ばかりである。
 お腹も空いたので備前屋という店で昼御飯をとり、そこに荷物を預けて参拝する。私は初めてではないので、案内はよく覚えている。金毘羅山は、その名の通り象の頭ようで、草木もない。しかし、神社があるところは山形の仙人林(郷里清川の仙人堂をめぐる杉林)と同じように木々が茂り、大きな森となっている。
  丸亀から琴平まで4里(16㎞)足らずです。
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その一里塚の大きな松が、かつては現在の高灯籠付近にはあったようです。そこにあった鉄の大きな鳥居は、現在は美術館横の石段に移されています。灯籠の一部はJR琴平駅前広場に移されていますが、一部は今でも交番付近に並んでいます。
 ここで注意しておきたいのは
「昨年の洪水で大きな被害を受け、完全に復興していない」
と出てくる「昨年の洪水」です。これは、以前にお話しした満濃池の決壊による被害のことのようです。
この時には鞘橋をはじめとする琴平の橋が殆どながされています。
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「屋根の着いた橋(=鞘橋)」を渡ったとありますので、この時点では復興していたのかもしれません。どちらにしても、洪水の被害を受けながらも、金毘羅には多くの参拝客が訪れ賑わっていたことが分かります。鞘橋を渡った内町の旅籠外の家並みも美しいと褒めています。
讃岐の里山は、はげ山だった?
次に私が気になるのが
「金毘羅山は実にも名の如く象頭に異ならずして、草木まれなり。唯々宮の安置する処は、吾国の仙人林の如く草木繁りあり。いと森々たるありさまなり」
の部分です。
丸亀街道から周囲の山々をみた時にも
「すべて此辺高山はまれにて、摺鉢をふせたるごとき山、処々にあり、いづれも草木不足なり。」
とあります。山は
「象頭に異ならずして、草木まれなり」
「いづれも草木不足なり。」
で、宮宮の鎮座する所は
「吾国の仙人林の如く、草木繁りあり」
なのです。これは、何を表しているのでしょうか?
  思い当たるのが象頭山の浮世絵です
1 象頭山 浮世絵

清川八郎が母親と金毘羅さんにやって来た同じ年の安政2年(1855)に、広重によって描かれた  の「讃岐 象頭山遠望」です。岡田台地からの「残念坂」を上り下りする参拝者の向こうに像が眠るように象頭山が描かれています。
 山は左側と右側では大きく色合いが違います。なぜでしょう?
最初は、「赤富士」のような「絵心」で、彩りを美しく見せるために架空の姿を描いたものなのかと思っていました。しかし、だんだんと、これは当時のそのままの姿を描いているのでないかと思うようになりました。
 向かって左側は、金毘羅大権現の神域です。右側は、古代から大麻山と呼ばれた山域です。現在は、この間には防火帯が設けられ行政的には左が琴平町、右が善通寺市になります。
ここからは私の仮説です。
左側は金毘羅さんの神域で「不入森」として、木々が切られることはなかった。しかし、右の善通寺側は、伐採が行われ「草木不足」となり、山が荒れている状態を描いているのではないでしょうか?
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歌川広重の「山海見立相撲 讃岐象頭山」を見ると、山が荒れ、谷筋が露わになっているように見えます。背景には、以前お話ししたように田畑に草木をすき込み堆肥とするために、周辺の里山の木々が切られたことがあります。この時期に芝木は大量に田畑にすき込まれ肥料にされました。里山の入会権をめぐって、周辺の村々が互いに争うようになり、藩に調停が持ち込まれた時代です。

 そして、瀬戸の島々も「耕して天に至る」の言葉通り、山の上まで畑が作られ森が失われていった頃と重なります。残った緑も薪や肥料に伐採されたのです。ある意味、山が木々に覆われた光景の方が珍しかったのかもしれません。だから、浮世絵師たちは好んで木々の緑の神域と、はげ山のコントラストのある光景を描いたのかもしれません。もし、当時のこの場所に立って、周りを見渡すと見える里山は、丸裸のはげ山だったのかもしれません

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 あくまで私の仮説です。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
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琴平での忘年会の終わった後、海の神様金比羅さんに詣でました。

夜の9時過ぎ、参道には照明がついていますが、人はいません。

大門に到着。ここからが神域です。



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桜馬場の闇の中を抜けて旭社まできました。

広場の回廊には、吊し灯籠に灯りが入っています。

楠の巨木の枝を、ムササビが舞いました。


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最期の急な石段を登ると本殿前にでます。

照らし出されて石畳が、非日常的な雰囲気をつくり出します。


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扉の閉じている本殿に、今年のお礼をしました。


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そして、引き返します。

誰にも出会わなかった夜の参拝。

少し怖かったけれど、神を少し身近に感じた気になりました。

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