瀬戸の島から

カテゴリ:金毘羅信仰と琴平 > 金刀比羅宮の近代


佐文誌には、1939(昭和14)年の大干魃の時に青年団が雨乞いのために、金刀比羅宮に参拝して神火を貰い受けてきたことが、白川義則氏の日記として次のように載せられていました。(意訳)。
(1939年)7月31日
③青年団員として金刀比羅宮で御神火を戴き、リレーで佐文の龍王山に運び、神前に供え雨乞祈願を行った。④佐文部落も今日は、龍王様に総参りして、みんなが熱心に雨を願って額づいていた。その誠心を神は、いつかなえてくれるのだろうか。雨がほしい。(意訳)

ここからは金毘羅さんが雨乞祈願先として選択されていることが分かります。そして金毘羅は近世から雨乞の聖地としても農民達の信仰を集めたいたという説もあります。これは本当なのでしょうか?

今回は金刀比羅宮の雨乞祈願について見ていくことにします。
テキストは「前野雅彦  こんびらさんの雨乞い ことひら59(平成16年)」です。
明治維新の神仏分離で、金毘羅さんは大権現という仏式スタイルから金刀比羅宮(神道)へと大きく姿を変えます。同時にそれまでなかった信仰スタイルを打ちだすようになります。それが「海の守り神」というスローガンです。ここで注意しておきたいのは「海の神様」という信仰は、金毘羅大権現時代にはあまり見られなかったことです。これは幕末から近代になって、大きく取り上げられるようになったものであることは以前にお話ししました。特に明治になって琴綾宥常によって設立された「大日本帝国水難救済会」の発展とともに拡がっていきます。ある意味では、明治の金刀比羅宮になってから獲得した信仰エリアともいえます。これと同じようなものが雨乞信仰なのではないかと私は考えています。
金光院の「金光院日帳」で、雨乞いに関する記事を見ていましょう
金光院日記は、金昆羅大権現の金光院の代々の別当が記した一年一冊の公用日記です。宝永5年(1715)から幕末まで続く膨大な記録ですが、公用的な要素が強くて、読んでいてもあまり面白いものではありません。それを研究者は雨乞記事を抜き題して、次のように一覧表化します。
金毘羅大権現への雨乞一覧 江戸時代
江戸時代の金毘羅大権現の雨乞記録(金光院日帳)

一番最初に、正徳3年(1713)7月2日に「那珂郡大庄屋ョリ雨乞願出」とあります。これが最も早い記録のようです。ここからは次のようなことが分かります。
①約百年間で、雨乞事例は15例と少ない。
②近隣の那珂郡や多度郡に限られている他には、高松藩や丸亀藩からも雨乞祈願があるだけであった
③祈願者は、庄屋や奉行・代官・山伏などで、そこには農民の姿は見られない。
これを見ると江戸時代の金毘羅大権現は、雨乞祈願のメッカとしては農民に認知されていなかったことがうかがえます。

以前にお話したように、讃岐各藩では雨乞祈願のための「専属寺院」が次のように指定されていました。
高松藩   白峰寺
丸亀藩   善通寺
多度津藩  弥谷寺
これらの真言宗の寺で、空海によって伝えられた善女(如)龍王を祀り、旱魃時には藩の命で雨乞祈祷を行っていたのです。正式な寺社では、公的な雨乞いが行われ、民間では山伏主導のさまざまな雨乞いが行われる「棲み分け現象」がとられていたことは以前にお話ししました。
 そし、明治時代の雨乞い記事は「名東県高松支庁より祈雨の祈祷を命じられる」と1例あるだけで、明治6年8月10日から17日まで雨乞祈祷が行われているだけです。明治・大正は、このような状況が続きます。
 それが大きく変化するのが1934(昭和9)年です。

 金刀比羅宮雨乞一覧1934年の旱魃
1934年の金刀比羅宮への雨乞祈願 
象頭山麓の村々を中心に、愛媛・高知・岡山など遠方から、雨乞いの祈祷に人々がやって来ています。この背景には、この年に西日本全体が大干魃に襲われたことがあるようです。時の香川県知事が「雨乞祈願」として、善通寺11師団長に大砲を大麻山に向けて発射することを依頼しています。また県知事は、各市町村に雨乞いを行うように通達しています。これを受けてさまざまな雨乞い行事が、旧村ごとに行われます。
この表からは次のような事が読み取れます。
①1934(昭和9)年7月2日から8月18日の間に67の団体からの雨乞祈願参拝があった。
②「祈願者 部落名他」という項目にあるように、祈願者が市町村ではなく「部落(近世の村)」であったこと
③旱魃深刻化する7月初旬から、大川郡・木田郡・香川郡など、香川県東部の村や町から始まった
④地元の仲多度郡からは「7月9日郡家村大林 11日十郷村買田 12日十郷村宮田」が7月中見える。
⑤8月になると、仲多度・三豊・綾歌郡などにも拡がっていくが、すべての村々が雨乞祈願におとづれているわけではない。
⑥佐文集落の名前はないので、この年の旱魃には金刀比羅宮への雨乞祈祷は行っていなかったようです。佐文が初めて金毘羅さんへ神火をもらいに行くのは、1939年からだったことが分かります。
「神火返上日」という欄があります。これはもらって帰った神火の返上日が記されています。神火は、験があってもなくても必ず返上しなければならなかったようです。

金毘羅さんからいただいた神火は、どのようにあつかわれていたのでしょうか? 武田明氏は、次のように記します。
讃岐の大川郡や綾歌郡の村々では雨が降らないとこんぴらのお山に火をもらいに行く。
  昔の村落の生活には若衆組の組織があったから何日も雨が降らぬ日がつづくと、村の衆がよりより相談の上、若衆に火をもらいに行ってもらう。割竹を数本巻いて、長さが一米ばかりのたいまつを作る。竹の中には火縄を入れて尖端にはボロ布などをつける。若衆はそれを持って行き、こんぴらさまの本宮で神前に供えた燈明の火をもらい、我村まで走って帰る。途中で火が消えてはならぬのでリレー式にうけついで、やっとわが村へ帰ると、其の火を村の氏神の燈明にうつして、村の衆一同で祈願をこめる。そうすると雨が浦然と降ってくるのだという。

 「神火」を持ち帰える時の注意は、次の通りでした。
①途中で休むと、そこに雨が降り自分たちの所に降らないとされたので、休まずにリレー式に走るように急いで持ち帰ること
②雨が降るのを信じて、カッパなど雨の対策をした装束でいくこと
③持ち帰った火で、大火(センダタキ)をたき、みのかさ姿で拝むこと
1939年の大干魃の時には佐文でも、持ち帰った神火を龍王山上に運び上げ、住民総出でわら束を持って登り、大火を焚いて総参りをして神前に額ずいて降雨祈願したことを以前にお話ししました。

以上から私が疑問に思うことを挙げてみます
①明治・大正期に金毘羅さんに雨乞いに訪れる集落はなかったのに、どうして昭和9年になって急増したのか。
 これを解く鍵が1934(昭和9)年の次の写真です。

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 盧溝橋事件(支那事変)2周年記念祈願参拝(金刀比羅宮)
この写真は1934(昭和14)年7月7日に始まった盧溝橋事件(支那事変)2周年記念祈願参拝の模様です。場所は、金刀比羅宮本宮前です。説明文には次のように記されています。
 皇威宣揚と武運長久の祈願祭を行った。遠近各地より参拝者が多く、終日社頭を埋め尽くした。写真は、県下青年団が団旗のもと参拝した時のようす。提供 瀬戸内海歴史民俗資料館)

ここに集まっているのは、武運長久を祈願する各町村の男女青年団員であることが分かります。この時期の日本は、満州事変を起こして終わりの見えない「日中15年戦争」に突き進んでいました。戦争の長期化への対応策のひとつとして政府が推進したのが戦意高揚のための神社への集団参拝です。
DSC01528
金刀比羅宮に奉納された武運長久を祈願する幟

靖国神社や護国神社と共に地方の主要な神社が対象として指定されます。香川県では明治以来、神社庁の拠点があったのは金刀比羅宮でした。そこで、県下からの集団参拝先として選ばれたのが金刀比羅宮になります。その時にこの運動の先頭に立ったのが各集落の青年団でした。この時期の青年団員にとっては、集団参拝と云えば金毘羅さんだったのです。
戦時中の金刀比羅宮日参動員
家族・一族の金刀比羅宮への集団参拝

その結果、県知事が「雨乞祈願」を通達したときに、東讃の青年団の若者達は、金毘羅さんへ集団参拝して「神火」をもらって帰ります。それが青年団ネットワークを通じて、周辺へも広がり青年団による「神火」受領が大幅に増えたと私は考えています。
DSC01531戦時下の金刀比羅宮集団参拝
                     戦時中の金刀比羅宮への集団参拝       
もうひとつの疑問は、それまでの佐文は、財田上の渓道(たにみち)龍王社から「神火」を迎えていました。それがどうして1939年の大干魃からは、金毘羅さんから迎えることに変更されたのか?
これも今説明してきた時流の中で、解けるように思います。
①満州事変後の国威発揚のための集団参拝の強制
②その先頭になって集団参拝を繰り返した青年団
③昭和の2つの大旱魃の際の「雨乞祈願」先として、金毘羅さんの選択
④それまでの雨乞信仰先であった財田上の渓谷龍王社から、金毘羅さんのへ転換

以上をまとめておくと、
①近世から大正時代までは、農民が金毘羅大権現を雨乞信仰先としていた史料はない。
②金毘羅さんが農民達の雨乞信仰の対象となるのは、国家神道のもとでの戦意高揚策が叫ばれるようになった戦前期のことである。
③それを定着させたのは、集団参拝を繰り返していた青年団が金毘羅さんの神火を迎えるようになってからのことである。

こうして見ると庶民信仰としての雨乞祈願が、時の国家神道に転換されたことになります。佐文ではそれまでの渓道龍王は次第に忘れ去られていきます。そして、戦後は金毘羅山からの「神火」のもらい請けだけが語り継がれることになります。

長い間、金刀比羅宮の学芸員を務めた松原秀明氏は「金毘羅信仰が庶民信仰」として捉えられることに疑問を持っていました。
そして金毘羅大権現の成長・発展の契機は、次の点に求められると指摘します。
①長宗我部元親の讃岐支配の宗教センターとしての整備
②金光院院主の山下家出身のオナツが時の生駒家の殿様の寵愛を受けたことによる特別な保護
③髙松藩初代藩主松平頼重による保護
④その後の各大名の代参や石造物などの寄進
⑤明治維新でいち早く金毘羅大権現(仏式)から金刀比羅宮(神道)への転身に対する新政府の保護
ここからは時の支配者や政権の保護を受けて、それを庶民達が追認していくという道筋が見えて来ます。庶民信仰の前に権力者の庇護があり、それを利用しながら信仰拡大に結びつけた行った姿が見えてきます。戦前の金毘羅さんへの雨乞祈願にも、そのようなパターンがあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       前野雅彦  こんびらさんの雨乞い ことひら59(平成16年)

      山下谷次(まんのう町)    
山下谷次像 仲南小学校(まんのう町)

まんのう町出身の国会議員・山下谷次(1872年3月30日 - 1936年6月5日)のことを調べていると、彼が金刀比羅宮が設立した明道学校の出身者であることを知りました。山下谷次は仲多度郡十郷村帆山(現在のまんのう町)の中農の四男として生まれています。決して豊かな家ではなく、父も早く亡くなったために、上の三人の兄たちは小学校卒業後は、家の農作業を手伝っていました。谷次の前にあった道は、兄たちと同じように家の仕事を手伝うことでした。ところがその道を変更するものが現れます。それが金刀比羅宮が開校させた明道学校でした。明道学校は開校当初は、特待生は授業料が無料だったのです。谷次の希望を受け止めた母親が、兄たちに説得し明道学校へ通うことになります。谷次が後に国会議員に成長して行く岐路に現れたのが明道学校だと私は考えています。そんなわけで、今回はこの明道学校について見ていくことにします。テキストは西牟田崇生 黎明期の金刀比羅宮と琴綾宥常」です。

ペリー来航の頃には、金毘羅大権現には正風館という塾がありました。それが明治維新期には、旭昇塾と名を換えて引き継がれていったとされます。しかし、旭昇塾についての文献は殆どありません、後の『明治43年 金刀比羅宮沿革取調草稿』の中に、次のように記されているだけです。
旭昇塾
当塾ハ、宝物館西方ノ岡ノ上二当ル場所二存セシモノニシテ、瓦葺二階建ナリキ、後名称ヲ明道学校卜改メタルガ、明治二十九年廃校卜同時二取払ヒタリ、
(『金刀比羅宮史料』第七巻)
意訳変換しておくと
当塾は、宝物館西方の岡の上にあったもので、瓦葺二階の建物であった。後に名称を明道学校と改めたが、明治29年に廃校となり、同時に取払われた。 
ここから分かるのは、旭昇塾が「宝物館西方の岡の上」にあったことだけです。その教育内容なども不明です。旭昇塾は、金刀比羅宮の神職や職員などの子弟の教育機関となっていたと研究者は考えています。
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明道学校跡付近の大楠

金刀比羅宮は1878(明治11)年4月に、明治維新以来の課題であった御本宮正遷座を終えます。これで神仏分離の混乱も一段落して社内も落ち着きを見せるようになります。そのような中で、地域社会の子弟を対象とした教育機関開設の動きが出てきます。
 当時中央では、 明治10年(1877)頃から神道の大教宣布の不振や、これに続く祭神論争に対して、政府内では神道の研究・教育センターとしての学校設立を求める動きが出されていました。これを受けて明治15年(1882)には、明治天皇が有栖川宮幟仁親王を総裁に任命し、飯田町に皇典講究所を開学させます。これが後の國學院です。
  このような中央の動きを受けて、香川県の神道の中心センターであった金刀比羅宮でも、神道の教育機関を立ち上げる構想が出てきます。当時、旭社で行われていた定期的な神道講習会も、思うような成果は挙げられていなかったようです。神道の国民生活へ浸透の担い手となる若き指導者たちの育成が急務とされたのです。そのような中で、金刀比羅宮附属の教育機関の設立構想が膨らんでいきます。その中心となったのがすでに設立されていた「皇典学会」です。「皇典学会」の事業としては三種類(教育、談論、編修)が掲げられていました。その中で学校は「教育部の現場機関」という位置づけでした。
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明道学校跡
「皇典学会教育部規則」と、細則「皇典学会教育部明道学校諸規則」を見ておきましょう。
皇典学会教育部規則
第一条 本部ハ本会規約ノ趣旨二拠り、 私立学校ヲ設立シテ、専ラ国典ヲ講明シ、兼テ支那、欧米ノ学二渉り、子弟ヲ教育スル者トス
第二条 学校ハ、先ツ其本校ヲ讃岐国琴平山二設ケ、漸次会員、生徒増員二従ヒ各地方二設置スヘシ
第三条 琴平山二置クモノヲ単二明道学校卜称シ、其各地方二置クモノヲ明道学校某地方分校卜称ス
第四条 学校諸規則ハ別冊ヲ編シ、之ヲ詳記セリ、就テ見ルヘシ
第五条 図書館、博物館、幼稚園ヲ漸次二開設ス
第六条 図書館ハ古今内外ノ書籍ヲ蒐集シテ庶人ノ縦覧ヲ許シ、会員二限り貸借スルコトアルヘシ
第七条 博物館ハ古今ノ器物、書画、物理、農エノ器械、動植、金石ノ見本等ヲ蒐集シ、庶人ノ縦覧ヲ許シ、会員二限り貸借スルコトアルヘシ
第八条 幼稚園ハ、幼子女ノ薫陶スル所トス
第九条 図書館、博物館、幼稚園ノ細則ハ、開設二随テ之ヲ編製ス、
(『金刀比羅宮史料』第十九巻、
ここには、琴平に本校を置いて、その後は各地に地方分校を開設していく計画が示されています。また学校だけでなく、附属の、図書館・博物館・幼稚園などの開設計画もあったことが分かります。学校教育と社会教育を総合した教育機関という構想がうかがえます。

「皇典学会教育部明道学校諸規則」を見ると、明道学校の教授内容(教科目)などが分かります。
皇典学会教育部明道学校諸規則
第一編 教  則
第一章 教旨
第一条 本校ハ国典ヲ基礎トシテ普通中学科ヲ授ケ、国体ヲ講明シ事理ヲ研究シ、以テ智識ヲ発育シ道徳ヲ涵養セシムル所トス
第二条 学科ヲ分ツテ本科、予科ノニトス
第二条 本科ハ古典、修身、歴史、法令、語学、英語、文章、算術、代数、幾何、地理、博物、物理、生理、化学、経済、記簿、書法、図画、体操トス
第四条 予科ハ就学時期ヲ失シテ、本科二入ルヘキ学カヲ有セサルモノヲ養成スルモノトシ、学科ハ之ヲ予定セス
第五条 本科、予科ノ外、別二須知科ヲ設ケ、余カヲ以テ講読セシムルコトアルベシ
第三章修行年限
第六条 終業年限ハ四ヶ年トス
第四章 学     期
第七条 学期ハ一ヶ年ヲニ期二別ケ、二月二十一日ヨリ七月廿日マテヲ前学期トシ、八月二十一日ヨリニ月二十ロマテヲ後学期トス
第八条 学級ヲ八級二別チ、毎級六ヶ月間ノ修業トス
第五章 授業 日
第九条 本校ハ左ノロヲ除クノ外、総テ授業スルモノトス
日曜日      大祭祝日
金刀比羅宮大祭日
夏期休業 七月二十一日より八月二十日まで凡川口‐11‐「「
冬期休業 十二月二十五日より一月五日まで
臨時休業ハ時二掲示スベシ
第十条 授業時数ハ一日六時トス
第二編 校  則
第一章 入  退  学
第一条 生徒ハ品行端正ニシテ、左ノニ項二適合スルモノヲ以テ、入学ヲ許ス
  第一項 小学中等科以上卒業ノ者、及十四年以上ニシテ第十五条ノ試業二合格ノモノ
  第二項 種痘又ハ天然痘ヲ為シタル者
第二条 入学期ハ毎年両度、定期二月七月試業ノ後トス、尤モ校ノ都合ニヨリ、臨時入学ヲ許スコトアルヘシ
第三条 入学期日ハ、之ヲ三十日以内二広告スヘシ
第四条 入学志願ノ者ニハ、第一号書式ノ入学願書及ヒ履歴書ヲ差出サシム
(『金刀比羅宮史料』第七十九巻、)

本科には古典、修身、歴史、法令、語学、英語、文章、算術、代数、幾何、地理、博物、物理、生理、化学、経済、簿記、圭[法、図画、体操の二十科目が設けられています。

 明道学校が開校準備を行なっていた頃、明治14年(1881)七月の文部省達『中学校教則大綱』によると、当時中学校は初等中学科四年・高等中学科二年の修業年限で、それぞれ次のような教科目を履修する規定になっていました。
初等中学科(初等科) 修身・和漢文・英語・算術・代数・幾何。地理・歴史・生物・動物・植物・物理・化学・経済・簿記・習字・図画及び唱歌・体操
高等中学科(高等科) 修身・和漢文・英語・簿記・図画及び唱歌・体操・三角法・金石・本邦法令・物理・化学
つまり、これらの科目を開設しないと中学校とは見なされなかったのです。金刀比羅宮の経営戦略としては、神道専門学校の設立を目指すものではなく、地域に開かれた中学校を目指していましたから、文部省のカリキュラムに準じたものではなりません。そのため英語も当然入ります。
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明道学校跡からの光景
当時は香川県には公立中学校がない時代でした。
そのため私立の中学校の存在意味が高かったようです。その背景を香川県史は、次のように記します。
明治十九年四月、中学校令が公布されて、一県一中学校の制に基づき、高松に置かれていた愛媛県第二中学校が廃止された。爾来、明治二十六年、香川県尋常中学校が設置されるまでの数年間、香川県に公立の中学校は全く途絶した。
この間隙を埋め、尋常中学の教育過程にのっとり、中等教育の役割を果たしたのが、私立坂出済々学館である。のち、その閉校に際し、功績を称えて香川県参事官は言う。明治十九年
「公立ノ中学校ヲ廃セシヨリ、我ガ讃ノ一国僅二琴平ノ明道学校卜微々タル一二ノ私塾」がみられる程度で、「仮令資産裕カニシテ有為ノ志ヲ懐クモノト雖モ、遠ク山海数千里ノ地ヲ践ムニアラザレバ、完全ナル小学以上ノ教科ヲ修ムル能ハズ、為メニ俊秀ノ子弟ヲシテ進修ノ念ヲ絶ツニ至ラシメタルモノ砂カラズ」、そこで坂出町の有志十数名が出資して、十九年夏、私立済々学館を設立した。(○中略)
 その後二十六年四月二十一日、
「今ヤ、時来り機熟シ、髪二県立中学校ノ設立ヲ観ル、因テ本日フトシ閉館ノ式ヲ挙ゲ、学生ヲシテ県立中学二入ラシム」
と、二年級以下の生徒六〇余名が香川県尋常中学校に編入を認められた。まさに公立中学校の代役を終えて、私立坂出済々学館は閉館した。教育熱心な有志に支えられて、中等教育の命脈は保たれていたのである。
(『香川県史』第五巻〔通史編 近代I〕、ルビ筆者)
  ここでは、私立坂出済々学館のことが主に書かれていますが、金刀比羅宮の明道学校も同じでした。香川県が愛媛県に合併され、「一県一中学校の制」で讃岐から県立中学校が姿を消した時代でもあったのです。 明道学校のカリキュラムが、当時の中学校の教育内容を意識した科目編成であることには、そんな背景もあったようです。

金刀比羅宮をめぐる動きを年表で見ておきましょう
明治14年 1881 水野秋彦、明道学校教授に任ぜられる。
明治15年 1882 古川躬行着任。
明治17年 1884 明道学校開校。
明治19年 1886 四国新道起工式。
明治20年 1887 電灯点灯。
明治22年 1889 大日本帝国水難救済会設立。琴平、丸亀間に鉄道布設。猪鼻峠新道工事完工。
明治23年 1890 久世光熙、琴陵家の養子となる。
明治25年 1892 宥常没53歳。南光利宮司となる。
明治29年 1896 明道学校廃校。善通寺に第11師団設置。
開講2年前に準備に向けて、水野秋彦を招いています。
彼の履歴書が『明道学校関係書類』の中に残っています。それを見てみましょう
(水野秋彦履歴)
                                       常陸国茨城郡笠間桂町三百五十四番地
茨城県士族
水野秋彦
嘉永二己西年十二月十三日生
当明治十六年八月二十三年九月
一 文久元年ヨリ同三年迄、新発田(しばた)藩浪士小川容斎二従テ漢学ヲ受ケ、慶応二年ヨリ明治三年迄、笠間藩賓礼教師鬼沢大海二従ヒテ皇学ヲ受ク
一 明治三年庚午十一月十五日、笠間藩史生二任シ、同四年辛木九月二日、旧藩主家従二雇ハレ、同五年壬申正月八日、笠間県学助教試補命セラル
一 明治七年二月十日、岩城国国弊中社都々古別神社権宮司に任じ、集中講義ニ補し、同年3月31日、大教院ヨリ、磐前県神道教導取締命セラレ、同八年二月二十日、依願免本官並職
一 明治十四年二月廿七日、琴平山明道教校教授二雇ハル
(『金刀比羅宮史料』第七十九巻)

ここからは、嘉永二年(1849)に常陸国笠間藩医士の家に生まれで、国漢の学を修め和歌にも秀でた人物であること。維新後は笠間県学助教試補や都々古別神社権宮、警視庁四等巡査などを経て、明道学校の前身旭昇塾教授として金刀比羅宮の招きでやってきたことが分かります。明治22年(1889)11月に41歳にて病没するまで、明道学校教長(校長)として神道や国典などを担当しています。
  この他にも明道学校で教鞭を執った人物を見ておきましょう。
金刀比羅宮の禰宜であった松岡調や地元では名の知られていた黒木茂矩(しげのり)らの名前も講師陣として挙げられています。しかし、これらは国学や神学の学者です。数学や理科などの理系科目や、英語など当時求められていた文明開化をリードする科目ではありません。そのような実学の教授たちを招致するのは、大変だったようです。

 英語の教師として埼玉から原猪作という人を招くことに成功しています。
その給料は、当時の校長の俸給の倍額にあたっていたようです。
遠くから招いた教師の補助には、特待生として入学させた成績優秀な生徒を当てています。最初に紹介した山下谷次も、授業料免除の特待生でしたから、「教師補助」を務めていたのかもしれません。そして、次世代の教授養成をねらいとしていたのかもしれません。しかし、原猪作は半年余りで琴平を去っています。

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明道学校跡からの眺め
伊佐庭如矢は、文政11年(1828)に松山城下の医師の三男として生まれています。
幼少の頃より学問を好み、28歳の時に私財を投じて松山城下に「老楳下塾」を開いて子弟教育にあたります。明治になると愛媛県庁吏員として、「城郭廃止令」によって取り壊そうとされていた松山城の保存を訴え、松山公園として開園させた手腕は高く評価されています。
 その後、明治16年(1883)には県立高松中学校長となりますが、さきほど見たように「一県一中学校の制」で高松中学が廃校になりリストラされたようです。それを、金刀比羅宮がスカウトします。明治19年(1886)4月に金刀比羅宮爾宜に就任し、明道学校校長も兼務しています。しかし、わずか半年余の在職の後に退職し、翌年には愛媛県道後町初代町長となっています。
こうしてみると講師陣はあまり長続きしていないようです。地方の私立中学校において、優秀な講師陣を揃えることは至難の業であったようです。

このような事業を行うための経済的な基盤は、どうだったのでしょうか?
 明治になって移動(旅行・参拝)の自由が保証されて、金毘羅参拝客は、明治になって増加したようです。参拝客たちがもたらす寄進物や奉納品はも増加します。そして、何よりの経済基盤となったのが以前にお話しした崇敬講社の全国展開です。このネットワークが張り巡らされいくにつれて、講員が増えると巨大集金マシーンとして働き始めます。
1崇敬講社加入者数 昭和16年
金刀比羅宮 崇敬講社新規加入数(明治16年)
この資金を使って、金刀比羅宮は本殿の遷宮や、明道学校などの新規事業、芸術家たちへの支援育成事業などにも積極的に取り組むことができたようです。お金の心配はしなくていい時代だったようです。鉄道や道路を新たに建設しようとする新規授業者は、資金援助をもとめて金刀比羅宮通いを行ったことが記録に残っています。
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明道学校跡付近の大楠
明治17年(1884)1月6日、旭昇塾は組織替えして、新たに地域の中等教育を担当する学校「明道学校」として開校します。
その場所は、宝物館の西にあたる「青葉岡」の大樟周辺だったようです。木造瓦葺2階建の八間に十八間、廊下付きの建物でした。
松岡調は『年々日記』に次のように記します。
六日 ことにてる、うらヽかにて春のことし、本日ハ学舎の開業の日なれハ、とくより明道館へものセハ、康斐、俊次、生徒をつとひて、教場なる学神を斎き奉るしたくセんとて、帳幕をはり、鏡をかけ真榊を置、中央に新しき檜のひもろきを置奉る、又昇降口にハ忌竹をさし、注連縄をハリ、日章のふらふを打ちがへてなびかセたるハ、開業式のさま見へたり、やう/\会幹、教師の人々出仕ありしか、 一時すきたりて副会長琴陵宥常ぬしもものセられたり、ほとなく会員もつとひたれハ、御祭式にかヽらんとす、会長深見速雄主の出仕あらねハ、宥常ぬし祭主つかうまつれけり、勝海ハ奉設長たり、まっ宥常ぬし、勝海、準吉等神雛の御前に進ミて一段拝ありて、宥常ぬしハ微音にて学神を招き本る、勝海和琴、準吉警躍つかうまつる、しハしの間に招神式ハてヽ両段拝、次に勝海、準吉、武雄、正雄、時叙等、御てなかにて御設御酒奉れり、此間奏楽あり、次に祭主祝詞を奏セリ、此祝詞ハ水野秋彦かつくりまつれると、

意訳変換しておくと
六日のことについて、うららかな春のような本日は学舎開業の日なので、明道館へ出向いてみると、康斐、俊次など生徒が集って、教場に学神を招く準備を行っていた。帳幕をはり、鏡をかけ真榊を置き、中央に新しき檜のひもろきを奉る、又昇降口に忌竹をさし、注連縄を張り、日章旗を挙げてなびかせている。開業式の準備が整うと、会幹、教師などの人々が集合してきた。一間空いて副会長の琴陵宥常も現れ、会員が集合した。御祭式が始まった。会長深見速雄主は不参加であるが、宥常が祭主を務め、勝海が奉設長である。宥常、勝海、準吉などが神雛の御前に進んで一段拝して、宥常が微音で学神を招き入れる、勝海和琴、準吉警躍で仕える。しばしの間に招神式は終わり、両段拝、次に勝海、準吉、武雄、正雄、時叙等、御てなかにて御設御酒が奉れた。その間も奏楽が奏でられる。次に祭主祝詞が読み上げられる。この祝詞は水野秋彦か作成したものであり、次のようなものであった。

明道学校開業国祭学神祝詞
琴平山之山上乃。朝日之日向処。夕日之之隠処。聳立在流学校乃高楼ホ。神離起大斎奉。皇神等乃広前。畏々毛白左久。世間乃人道。天地乃物 理。種々乃技芸等波。学ホ依ヽ覚明弁久。学ホ依人修成弁支物奈利斗。皇典学会員乃議計良久波。此会な教育、編韓、談論乃二部有流其中小毛。最重美之先須弁支波。世人ホ真道乎覚良之米。真理乎明米之米。万芸乎修之牟生。教育ホ古曽有祁礼。急速ホ。其学校乎開先物叙斗。議定之事乃隋(小。今姦明治十七年云茂乃歳初乃。今日乃生日之足ロホ。明道云美名負在此学校ホ。皇典 学会 々員。教員。学生。相集大。白三神等乃厳之御前″小。礼代乃物等十。横山―置在流古典。修身通之教訓L経古人申良小。言霊之幸御国乃言語斗。横ホ書成西洋語乎。惟年左太加ホ。歌詩乃詠法1。文洪文乃作則美外。法ホ実乎測量流算術。天地之万物乃理乎。博久知得流術々乎。阿夜ホ苛久。文字書支図画画久手乃芸乎。阿夜ホ愛久。落事無久令教給比。漏事無久令学給比人。此学校乃教育乃光乎。四方ホ偏久令輝。皇典学会乃功乎。大八洲国内体広久令施給開斗。天之八平手拍上人。恐々毛白須。
以下意訳のみ
この学会の主義を見事に言い表しているものである。
祝詞が終わると、最初のように両段拝があり、祭官が北方の座に着くと、御前に進みて一拝して、西北の方に向いた座について、古事記の天地初発の段を解いてた。それが終わると堀翁が進み出て語学の大意を述べる。次に秋彦が万葉集、敏足が中庸、荘三大が日本史、俊次がリードルの始め、沢蔵が算術の主意を述べた。この時に、俊次の英語を聞いて、心なき生徒の中には、初めて聞く英語に何を言っているのか分からず、くすくすと笑ふ者もいた。このように講義も無事に終った。
 私も会長に代って、御前に進み祝文をよんだ。荘三も進み出て、答辞をよむ。これも終わると、伶人発声し、その間に直会の御酒を、祭官を始め、生徒にいたる全員に振る舞われた。(以下略)(『年々日記』明治17年 83

ここで私が気になるのは、開校式典に、会長深見速雄が出席していないことです。これをどう考えればいいのでしょうか。当時の会長深見速雄と琴綾宥常の関係が以前から気になるのです。大事な式典に欠席するのは、ある意味で異常です。名目的存在に留まり、式典などにも参加していなかったのでしょうか。それは置いておいて、式典を見ていきましょう。
①学神を神簾(ひもろぎ)に招神して神崎勝海以下の奉仕で献餃
②斎主は水野秋彦の起草になる「明道学校開業日祭学神祝詞」を奏上
③祭典の後に、明道学校教授代表による講義
 講義は、先ず松岡調が『古事記』天地初発の段を講じ、
 次に堀秀成がわが国の言語学の大意を述べ、
 次に水野秋彦が『万葉集』を講じ
  敏足が『中庸』を講じ
 伊藤荘三が『大日本史』を講じ
 中村俊次がリードル(英文講読)を行ない
 大西沢蔵が算術の主意を講ずる
などです。殊に参列者の中には中村俊次によるリードル(英文講読)の際に、「心なき者ともハ、何吏を云ならんと思へるかくづくづ笑ふあり、」との松岡調は指摘します。初めて聞く外国語の不可思議さは、ある意味ではおかしさでもあったのかもしれません。

どうして明道学校と名付けられたのでしょうか?
明治14年(1881)6月20日に校長の水野秋彦が説教講究会でで、次のように述べています。
「今日し初むる講説の会はしも、皇大御国の本教の神道を明らめ究むる会にして」「わが国の本教たる神道を明らめ究める会」

つまり、「明道」とは「神の道を明らかにする」意であったようです。

 明道学校の廃校について
明道学校の存在意味のひとつは、讃岐から中学校がなくなったことを埋めることでした。明治19年(1886)四月に施行された『中学校令』(明治19年勅令第一五号)の第六条には、次のように規定されています。
尋常中学校ハ各府県二於テ一校ヲ設置スヘキモノトス、但土地ノ状況二依り文部大臣ノ許可ヲ得テ数校ヲ設置シ、又ハ本文ノ一校ヲ設置セサルコトヲ得、(『中学校令』)

 愛媛県と併合された香川県では、県庁所在地の松山にあった「愛媛県第一中学校」のみが残され、高松にあった「愛媛県第二中学校」は、一府県一中学校の原則規定にしたがって廃止されました。そのため讃岐には公立(県立)の中学校がなくなっていたことは、先ほど見たとおりです。
明道学校は、明治19年(1886)から26年(1892)まで讃岐に公立(県立)中学校がなかったために、私立中学校として坂出の済々学館とともに存在意義があったともいえます。しかし、1896年に丸亀に丸亀中学校(分校)が建学されると、ある意味で存在意義をなくしたようです。
 しかし、金刀比羅宮の附属学校、図書館・学芸館(宝物館)は、地方での学芸奨励という面からのアプローチは当時としては注目される試みだったと云えます。最初に紹介したように、まんのう町帆山出身の山下谷次にとっては、この明道学校がなければ世に出ることもなく、国家議員になることもなかったのです。彼にとってはまさに人生のスタートを切るチャンスを与えてくれた学校だったと私は考えています。

以上をまとめておくと
①金刀比羅宮は明治10年代になって、神仏分離への対応が一段落し、崇敬講社が軌道に乗り始めると、教育事業への投資を考えるようになった。
②それは皇典学会の「教育部門の附属機関」という形で、具体的には明道学校の建学という形になった。
③そのため将来の神道指導者の要請と同時に、「一府県一中学校」の原則で讃岐に中学校がなくなったことを受けての受け皿としても機能する学校作りを目指した。
④経済的なゆとりがあったので全国から有能な教師を招こうとしたが、なかなか長く定着してくれる講師陣は少なく、英語や理系科目の教師陣の招聘には苦労したことがうかがえる。
⑤結果、金刀比羅宮の附属学校として、国学や神学には強いが上級学校に進学するための「進学指導」には手薄になり、丸亀中学が出来ると存在意味を失い廃校となった。
⑥しかし、金刀比羅宮の附属機関としての教育機関という発想は、その後にも活かされ、附属図書館や附属学芸館(宝物館)の開設につながることになり、地域文化の拠点として機能していくことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。⑦

参考文献
         西牟田崇生 黎明期の金刀比羅宮と琴綾宥常」


  江戸時代後期になると、自分の家の出自をより良く見せたり、争いごとを有利に進めるために偽物の系図屋や古文書屋が活動するようになります。その時に作られた偽文書が現代に多く残されています。江戸時代の椿井政隆という人物は、近畿地方全域を営業圏として、古代・中世の偽の家系図や名簿を売り歩いた、偽文書のプロでした。彼の存在が広く知られるようになる前までは、ひとりの手で数多くの偽文書が作られたことすら知られておらず、多くが本物と信じられてきました。
  椿井政隆は、地主でお金には困っていなかったようですが、大量の偽文書を作っています。その手口を見てみると、まずは地元の名士、といっても武士ではない家に頻繁に通い、顔なじみになって滞在し、そこで必要とされているもの、例えば土地争いの証拠資料、家系図などを知ります。滞在中に需要を確認するわけです。それで、数ヶ月後にまたやってきて、こんなものがありますよと示します。注文はされていなくて、この家はこんなもの欲しがっているなと確認したら、一回帰って、作って、数ヶ月後に持っていきます。買うほうもある程度、嘘だと分かっていますが、持っていることによって、何か得しそうだなと思ったら地主層は買ったようです。
 滋賀県の庄屋は、椿井が来て捏造した文書を買ったことを日記に書いています。自分のところの神社をよくするものについては何も文句を言わずに入手しているのです。実際にその神社は、椿井文書通りの位置づけになって今に至っているといいます。
 こうなると「商売」というより、何か自然に『偽の歴史』ができていった感じです。いくつかの資料をまとめて5両という領収書も残っています。五両(現在換算50万円)で、証拠や夢を買うことになります。買ったほうにしたら、裁判に勝てるし、場合によったらうちはいい家柄だとか言える。地主にとっては、高い買い物ではなかったのかもしれません。

 今回は金刀比羅宮に残る5つの偽文書を見ていきたいと思います。
テキストは「羽床雅彦   中臣宮処氏本系帳と金刀比羅宮所蔵偽文書について  こんぴら68 162P」です。

(1)「釈迦堂田地寄進状」
奉寄進
子松庄松尾釈迦堂免田職事、合陸段者、右件相免田職者、天長地久御願円満、殊者為本家領家地頭願所安穏泰平故也、寄進如件、
  康安二(1362)年壬丑四月十五日  預所 平保盛(花押)

ここには、小松荘松尾寺の釈迦堂に平保盛(花押)が康安二(1362)年壬丑四月十五日に免田を寄進したとされます。
しかし、長年にわたって金刀比羅宮の学芸員を務めた松原秀明の労作である「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇、金刀比羅宮社務所発行」は、残された史料や棟札から釈迦堂の創建は延宝五年(1677)としています。つまり、康安2年には釈迦堂はありません。

(2)「三断香田地寄進状」
奉寄進
松尾寺三断香免田職事、合弐段者、在坪六条九里四坪末弘名無是田也、右件於免田職、為金輪聖王天長地久、殊者当庄本家領家沙汰人、御息災延命増長福寿現等安穏、及生善所庄内豊饒社人快楽故也、働任承者之旨、所奉寄進如件、
庄安二歳次辛亥年十一月十八日 預所僧頼系(花押)
(3)貞治元年「金昆羅堂田地寄進状」
奉寄進、松尾寺金毘羅堂免田職事、合壱段者、在坪六条八里廿五坪但本庄是末重名内、右件者、金眈羅堂免田者、為金輪聖王天長地久御願円満、殊者領家地頭庄官沙汰人諸人快楽故也、傷任承知状如件、
貞治元年(1362)壬寅三月十八日  新庄御方預所僧頼景(花押)
(5)永治二年「金昆羅堂田地寄進状」
奉寄進、子松庄松尾寺金昆羅堂田地事、
右件者免田職者、天長地久御願円満、殊者為本家領家地頭預所安穏泰平故、被仰下任旨寄進如件、
永治二(1142)年壬成二月二十六日  平量次(花押)
(3)(5)の文書に出てくる金昆羅堂については、以前にお話ししたように元亀四年(1573)の創建棟札が残っています。金比羅堂は長尾一族の宥雅によって元亀四年(1573)に創建されたことは地元の研究者たちが明らかにし、「町史ことひら」にもそう記されています。13世紀まで金毘羅神の登場を遡らせることは出来ません。金毘羅神は16世紀後半に、修験者たちによって新たに作り出された流行神と研究者たちはは考えています。
(4)「鐘楼堂田地寄進状」は、
奉寄進、松尾寺鐘楼免田職事、合参百歩者、御寺方久遠名無是田也在坪六条八里十一坪、右件者免田職者、為金輪聖王天長地久御願円満、殊者当庄本家領家地頭預所安穏泰平故也、働為寄進如件、康暦元(1379)年己未九月十七日  御寺方御代官 頼景 判

(4)の文書の鐘楼堂については、松原秀明撰『金昆羅庶民信仰資料集 年表篇』には、元和六年(1620)に生駒正俊が建立寄進したものとしています。松原氏は金刀比羅宮に残された棟札・記録を調べて年表を作成しています。敷田は棟札・記録などの根本史料に当たらずに偽文書を作成し、破綻をきたしたようです。また、五つの文書には「天長地久」が全て入っています。時代が異なる文書に、全て記されるというのも不自然です。そして、これらの5つの文書が、同一人物によって偽作されたと研究者は指摘します。
 こうして松原秀明氏は、これの文書が後世の偽作と判断し、「金刀比羅宮に近世以前の史料はない」としました。それ以後に書かれた香川県史や町史ことひらも、同じ立場をとっています。

この偽文書は、いつだれによって、何の目的のために作られたのでしょうか?
『中臣宮処氏本系帳』という文書があります。この書は、古代讃岐の山田郡の有力豪族「中臣宮処氏」の存在を示す史料です。本系帳には原書であって、孝徳天皇の大化三年(646)3月に中臣宮処連静が書いたものだと記されています。これを書いたのが国学者の敷田年治です。彼は『中臣宮処氏本系帳考證』下巻には、本系帳は天平六年(734)3月15日に中臣宮処連静麻呂が書いたものとも記されます。
整理すると「中臣宮処氏家牒』は大化三年(646)に中臣宮処連静が書き、「中臣宮処氏本系帳』は天平六年(734)に中臣宮処連静麻呂が書いたいうのです。
「中臣宮処氏本系帳考證』下巻には、次のように記されています。
「この書は讃岐の国の人、本條半兵衛が今(明治26年1893)から32年か33年前に難波に持ってきたものだが、半兵衛は何の書物か知らず、明治11年(1878)9月18日に難波の道頓堀で焼失してしまった。しかし、これ以前に或る人がこの本系帳と家牒を借りて書き写し、家牒の方は半分も書き写さない内に持ち主が返すよう督促したので返した。明治21年(1888)春に半兵衛の息子の小野幸四郎が或る人が書き写した本系帳を持って来て、私(敷田年治)に見せたので考證を加えて出版することにした。家牒の方は十枚程残っていたが、鼠に喰われて四枚程になってしまった」

この史料を本物と判断した『讃岐の歴史』は、中臣宮処連について次のように記します。
このほか、(山田郡の)県主に任ぜられた豪族には、天児屋根命を祖とする中臣宮処連の一族や、武殻王を祖とする綾氏がいた。山田郡では、天児屋根命より出た中臣宮処連静足が和銅二年に、同静麿が養老三年にそれぞれ大領に任じられた。その居址は現在の高松市西前田町にあったという。

三、中臣宮処氏本系帳には、何が書かれ、どこに問題点があるのでしょうか
(疑間1)『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の迦麻行大人命の条には、
綾県主(あがたぬし)迦麻抒大人命は巻向の日知宮(ひしりのみや)に天の下治しめし天皇の大御子、夜麻登多郡(やまとたける)天皇命の御子、多郡迦比古(たけかいこ)王命の御子、迩美麻(にみま)大主命の御子、那岐迩麻(おきにま)大主命の御子也。

とあって、綾県主(あがたぬし)迦麻抒大人命が巻向の日知宮に天の下治しめし天皇(景行天皇)―夜麻登多郡天皇(日本武尊)―多郡迦比古(神櫛王)王命―迩美麻大主命―那岐迩麻大主命―迦麻抒大人命と続く系譜にあることを記します。
 しかし、この系譜は以前にお話したように、南北朝時代の頃に法勲寺の僧侶達によってつくられた『綾氏系図』の系譜をそのままパクったものです。南北朝時代作成の『綾氏系図』が天平六年(734)作成の『中臣宮処氏本系帳』に採録されることはありあせん。中世に作られた系図が、古代の文書に載っていることになります。これがまず問題点1です。
疑間2は『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の中臣宮処連静比古の条です。
此の静比古多麻岐の郎女(いらつめ)にあひて生める子静老、又栗田臣伊那其(いなご)の女美豆保の郎女に姿ひて生める子奴那美麻呂(ぬなみまろ)此は中臣御田代連、高屋連らの祖也、次に清比古、次に稚富比古此は中臣粟井連らの祖也。

ここでは静比古の子の稚富比古を中臣栗井連の祖としています。そしてその本拠地を苅田郡紀伊郷粟井里とします。しかし、粟井を本拠としていたのは中臣栗井連ではなくて、忌部氏です。紀伊郷栗井里には讃岐の国の延喜式内社24社の栗井神社(観音寺市)があって、その祭神は天太玉命(あめのふとのみこと)で、これは忌部氏の祖神です。
 また、延喜式内社の多度郡の大麻神社(善通寺)の祭神も天太玉命で、三豊郡豊中町竹田には忌部神社があって、この忌部神社の周辺は今でも忌部と呼ばれています。讃岐忌部の本拠地は苅田郡紀伊郷栗井里で、ここから分かれ出た忌部の一派が豊中町竹田及び豊中町忌部に住むようになり、また、別の一派は多度郡生野郷大麻里に住むようになったとされています。
 大同二年(807)に、斎部広成が、平城天皇の指示で選した『古語拾遺』には、
手置帆負命之孫、矛竿を造り、その裔今分かれて讃岐の国に在る。讃岐の国毎年調庸の外に八百竿を貢ぐ、是其の事等の証也。

とあつて、讃岐忌部は毎年800本の矛竿を貢納していたと記されています。また『延喜式』には、
凡枠木千二百四十四竿、讃岐国十一月以前差綱丁進納、

とあって、『延喜式』が完成した937年には毎年1244の矛竿を貢納し、引き続いて讃岐忌部氏の勢力が強かったことおがうかがえます。
 苅田郡紀伊郷栗井里は枠木を貢納した忌部氏が住む村で、紀伊郷も「木」郷を嘉字二字表記にしたため「紀伊」郷になったもので、古代は和歌山を拠点とすする紀伊氏の勢力下だったとされます。ここには中臣氏の祖神の天児屋根命を祀った神社はなく、中巨粟井連という氏族の気配はありません。これが問題点2です。。

『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の中臣宮処静見臣の条には、
此の静依臣粟国麻殖直県主の祖忌部首玉代の女奴那佐加比売に妾ひて主める子鶴見臣、亦静見大人と謂う、中臣笠井連等の祖先

とあって、中臣宮処連静依臣を中臣笠居連の祖とします。しかし東寺の果宝が観応三年(1352)に編述した『東宝記』収載の天暦11年(957)2月26日の大政官符には、綾公文包や香川郡笠居郷戸主綾公久法の名があり、綾公が住んでいたとが分かります。久法の子孫は中世には香西という武士になって活躍します。ここからも笠居郷は綾公の勢力エリアで、中臣笠居連が住んでいたということを裏付けられる史料はありません。他の歴史資料と矛盾する内容である中臣栗井連や中臣笠居連が登場する『中臣宮処氏本系帳』は、疑わしい文書とされます。

中臣宮地連については、次のような記録があります
『姓氏録』左京神別に中臣宮地連は大中臣同祖とあり、
『姓氏録』和泉国神別に宮処朝臣は大中臣朝臣同祖とあり、
『推古紀』十六年六月条及び二十年二月二十日条に中臣宮地連鳥麻呂が見え、
『続日本紀』天平元年二月十日条に中臣宮処連東人が見え、
ここからは中臣宮処氏の本拠は和泉国で、その一族が都に出て左京に家を構えたことが分かります。実際に畿内では中臣宮処連が分布していています。讃岐にも宮処という地名があるところから、讃岐の宮処にも中臣宮処連がいたとする『中臣宮処氏本系帳』という偽書がつくられたと研究者は推測します。

以上から『香川県の歴史』は、『中臣宮処氏本系帳考證』について次のような評価を下しています。
『中臣宮処氏本系帳考證』(明治二十六年三月、敷田年治の考證出版)によれば、県主は山田郡宮処(高松市東山崎町)に住みその祖先は天児屋根命で、その子孫は中臣氏であろうといわれるが、歴史家の間ではその真疑が疑われている。これを信用することはできないだろう。『中臣宮処氏本系帳』は明治時代前期に敷田年治が作成した偽書である可能性が高いのである。

つまり『中臣宮処氏本系帳』は、明治時代前期に敷田年治によって作成された偽書と研究者は考えているようです。

讃岐山田郡
 
中臣宮処連が拠点としたという山田郡宮処(高松市東山崎町)を見ておきましょう。
 琴電長尾線高田駅の北に広がる土地がかつての山田郡宮処郷であったようです。宮処郷の喜多に鎮座する宮処八幡宮(高松市前田西町)周辺に中臣宮処連が住んでいたと『中臣宮処氏本系帳』は記します。宮処郷に中臣宮処連が住んでいた痕跡はあるのでしょうか?
『続日本紀』天平十三年(七四一)三月十四日条によると聖武天皇は国分寺・尼寺建立の詔を出します。しかし、国分寺・尼寺の建立は進みません。そこで、三年以内に完成させたら子孫が郡司職を世襲を認めるという法令を、天保勝宝元年(749)2月27日に出しています。讃岐では国分寺・尼寺と同笵の瓦が、寒川郡の長尾寺、三木郡の始覚寺、山田郡の拝師廃寺・山下廃寺、香河郡の百相廃寺・田村神社、那珂郡の宝幢寺から出土しています。ここからは、寒川郡、三木郡、山田郡、香河郡、那珂郡の郡司が国分寺・尼寺の建立に参加したことがうかがえます。
『図録東寺百合文書』二十一号文書は、
山田郡牒 川原□□
合田中校出田一町三百五十歩、牒去天平宝字五年巡察□□出之田混合如件、□□□伯姓今依国今月廿二日符□停止□□、為寺田畢、傷注事牒、牒至准状、□符、

天平宝字七年十月廿九日
大領外正八位上綾公人足 少領従八位凡直 主政従八位下佐伯 復擬主政大初位上秦大成 主帳外小初位下秦
寺印
正牒者以宝亀十年四月十一日讃岐造豊足給下

ここからは天平宝字七年(763)に山田郡の大領は綾公人足、少領は凡直某だったことが分かります。
 綾公(君)は隣の香河郡から、凡直は寒川郡からの移住者(勢力拡大)と研究者は考えているようです。先に入ってきたのは綾公で、古墳時代後期には移住して久本古墳・山下古墳・小山古墳などの巨石墳を築造し、奈良中期になると拝師廃寺・山下廃寺などを建立したようです。綾公人足は八世紀中頃に山田郡の大領となり、国分寺や尼寺が建立された天平宝字七年(762)頃は大領だったことが、この史料号)からは分かります。
 天平19(747)年に国分寺・尼寺建立に参加し、その功績が認められ氏寺の拝師廃寺や山下廃寺を国分寺の同笵瓦で建立しています。こうして山田郡北半は綾公、南半は凡直が支配したようです。中世になると綾公の子孫は高松(船木)という武士になり、凡直の子孫は十河・植田・三谷・池田・由良・神内・中村などの武士になってそれぞれ活躍しますが、凡直の子孫の方が羽振りが良かったようです。
  考古学的な史料からも山田郡に中臣宮処連一族の痕跡をみつけることはできません。
以上から「中臣宮処氏本系帳』は歴史学者の間では偽書とされ、これを考証出版した敷田年治も信用できない人物とします。
敷田年治 - 帆足先生的収蔵
敷田年治
敷田年治と金刀比羅宮の繋がりをしめすものがあります。
『金毘羅庶民信仰資料集 年表篇』の明治20年(1887)9月28日条に、
「宥常、国学者敷田年治を自宅に招き饗応」

とあるのです。金刀比羅宮の琴陵宥常が何のために敷田年治を自宅に招いて饗応したのでしょうか?
最初に示した金刀比羅宮の偽文書を作成したお礼として自宅に招いて饗応した可能性が高いと研究者は指摘します。敷田年治が金刀比羅宮の偽文書をつくったとすると、『中臣宮処本系帳』も敷田年治がつくった偽書である可能性はますます高くなります。最初に偽書作成の裏側を見たように、偽書を作っていた人物はプロで、依頼によってどんな文書も偽作していたのです。ひとつだけ偽文書を作ったというのは考えにくく、ひとりがいくつもの偽文書を作っているのが通常なのです。
中臣宮処氏本系帳考証. 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

『中臣宮処氏本系帳考証』は明治26年(1893)3月に出版されています。
金毘羅さんの偽文書も明治20年(1887)9月~明治26年(1893)9月までの間に、つくられたと推測できます。敷田は金昆羅堂・鐘楼堂・釈迦堂の創建について記した棟札・記録を良く調べないで偽文書をつくりました。そのために、これらの棟札の記述と矛盾する内容が見つかり、偽文書であることが露呈してしまいました。そして、彼が考證出版した『中臣宮処氏本系帳』も偽書である可能性が高いとされてしまいました。敷田は、依頼に応えて、これ以外の偽書もつくった可能性もあります。そういう需要が当時の寺社にはあったことが分かります。
中臣宮処氏本系帳考証. 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 なぜ金刀比羅宮の琴綾宥常は、敷田年治に偽書の作成を依頼したのでしょうか
考えられるのは、明治の神仏分離に伴う祭神の転換です。神仏分離前は、金毘羅大権現という神仏混淆神が祀られていました。それが廃仏毀釈で追放され、神道の金刀比羅宮は大国主命と崇徳上皇を祭神として祀るようになります。その際に、崇徳上皇との縁が求められるようになります。そのためには崇徳上皇が流刑になった時には、金毘羅大権現や松尾寺は存在していないと辻褄があわなくなります。琴綾宥常にとって、12世紀には松尾寺があったことが証明できる年代の入った文書が必要になったのでしょう。そこで、国文学者としても名前が知れていた敷田年治に依頼したことが推測できます。その裏交渉を行ったのは、禰宜の松岡調であったと私は考えています。松岡調は、骨董品や文書のコレクターでもあり、それが現在の志度の多和神社の文庫となっています。そのようなコレクションを通じて、松岡調は敷田年治と深いつながりがあったことがうかがえます。松岡調の周辺には、後に護国神社宮司となる矢原氏がいましたが、矢原氏の周辺にも偽文書の存在があるように思えます。
 

武田信玄が年貢の減免等を行ったということが書かれているが、江戸時代の終わりに自分たちも税の減免をしてほしい、と訴える証拠の資料として捏造されたもの。これに類するものが甲州にはいくつもある。

江戸時代の甲府周辺では、武田信玄の偽物の手紙が量産体制で作られ、どんどん売られていたようです。
偽文書屋が商売として成り立っていたのです。信玄の偽文書がたくさんある地域は、特定の地域で、大名がいないエリアに限定されるようです。天領などの方が、わが家はかつての信玄の家来だ、と言いやすかったようです。伊賀・甲賀でも、かつては自分たちは忍者だったといくらでも言い放題の地域があります。チェック体制のなかった江戸時代は、由緒を主張したもの勝ちだったようです。
 江戸後半になると由緒を語ることによって、社会的な地位が実際に上がっていく。急にお金持ちになっても、俺はかつてから有力な家だ、と言うとその地位が村の中で安定します。さらにもう少し後になると、武士身分もお金で買えるようになってきます。いきなり武士身分を買うのではなくて、中世は武士だ、今は農民だけど、改めてお金で買って、今はもとの武士に戻ったんだ、という言い方ができます。
  そういう意味で、家の系図や寺社の由緒はそのランクを上げて行くための必須アイテムとなります。こうして、有力な寺社には偽文書がいくつも作られ、正当性や建立起源の古さを主張する根拠して使われるようになります。
 金毘羅さんも祭神変更に対応して、より古い由緒が求められるようになったとしておきましょう。
以上をまとめておくと
①金刀比羅宮には、今は偽書とされる5つの「古文書」があった。
②それらは、松尾寺の鐘楼や金比羅堂が12世紀にはあったことを証明するものであった。
③これらの偽文書は明治に琴綾宥常が国学者(プロの偽作者)に依頼して作らせたものであった。
④その背景には祭神となった崇徳上皇時代には、松尾寺や金毘羅堂があったことを示す必要があったためである。
⑤しかし、松原秀明の調査研究によって松尾寺は16世紀後半に創建されたものであり、それを遡る棟札も古文書もないことが明らかにされた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   中臣宮処氏本系帳と金刀比羅宮所蔵偽文書について  こんぴら68 162P

       
3根室金刀比羅宮 地図

コロナ流行の前に北海道・道東の木道廻りと称して、岬の先端や砂州の背後の湿地に設けられた木道をいくつか歩いて廻りました。その時に、気づいたのが金比羅神社が道東の各漁村に鎮座していることです。特に根室半島周辺には、濃厚な分布度合いを感じました。どうして、道東にはこんなに金毘羅さんが鎮座しているのだろうかという疑問が沸いてきました。
そのような中で出会ったのが「真鍋充親   根室金刀比羅神社の建立由来と高田屋嘉兵衛について  こんぴら所収」です。これをテキストに、根室周辺の金毘羅さんを見ていくことします。
3根室金刀比羅宮
根室の金刀比羅神社

根室に一泊し、早朝に根室港の高台に立つ金刀比羅神社を訪ねます。
広い神域を持ち、近代的な社伝を持つ立派な神社です。展望台からは、港が眼下に広がり、海が見えます。そして、そこには大きなる展望台高田屋嘉兵衛の銅像がオホーツク海を見つめて立っています。高田屋嘉兵衛とこの神社は深いつながりがあるようです。

3根室金刀比羅宮 高田屋嘉兵衛PG

この神社の由緒については「金刀比羅神社御創祀百八十年記念誌」や「参拝の栞」に次のような年表が載せられています。
宝暦四年(1754)納沙布航路開かれ、根室に運上屋を置く
安永三年(1774)飛騨屋久兵衛、根室場所請負う
天明六年(1786)最上徳内・千島を探検
寛政四年(1792)露使節ラックスマン根室に来航し、通商を求む
寛政十年(1798)近藤守重が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。
寛政十一年(1799)高田屋嘉兵衛が択捉航路を開く。幕府東蝦夷地を直轄す。
 文化三年(1806)高田屋嘉兵衛、根室に金刀比羅神社を創祀
文化八年(1811) 露艦長ゴロウニンを国後で捕える。高田屋嘉兵衛送還され、ゴロウニンの 釈放に尽力、九月解決す。
天保八年(1837) 藤野家にて金比羅神社を祭祀す。
天保九年(1838) 社殿改築。
天保十年(1839) 山田文右衛門漁場請負。
弘化元年(1844) 浜田屋兵四郎、白鳥宇兵衛漁場請負う。
嘉永二年(1849) 藤野嘉兵衛再び漁場を請負い社殿修築す。松浦武四郎択捉島を探険 石燈龍奉納(納者柏屋船中藤野屋支配人)
安政元年(1854) 日露和親条約締結
明治二年(1869) 蝦夷を北海道と改称。開択使役所設置する。
明治五年(1872) 根室病院創設。温根沼に渡船場開設。
明治六年(1874) 根室本町へ遷宮
明治九年     咲花小学校開校。
明治十年     西南戦争勃発。根室一円の氏神として崇敬。
明治十一年    根室、函館聞の定期航路開設。
 明治十四年  琴平丘新社殿に遷宮。社格が御社。
明治十五年  開拓使を廃して、根室、函館、札幌県をおく。
明治十九年  本殿新築。拝殿修管。
大正七年   県社に昇格
大正十年   鉄道開通、国鉄根室駅開業。
 
 この年表には、根室金刀比羅神社の創建は文化3年(1806)のこととされています。この年に高田屋嘉兵衛が漁場請負権を得た際に、海上安全・漁業、産業の振興などを祈願して、祠宇を今の松ヶ枝町に建立し、金刀比羅大神を奉斉したとあります。
しかし、当時は神仏混交で金比羅さんは「金毘羅大権現」で権現さんです。金刀比羅というのは、明治以後の神仏分離後に使われるようになった用語です。ここでは金毘羅大権現としておきます。明治十四年に「琴平丘新社殿に遷宮」とあるので、それ以前は別の所に鎮座していたようです。高田屋嘉兵衛が創建したときの祠はどこにあったのでしょうか?

 高田屋嘉兵衛が根室にやって来た当時は、根室や国後、択捉島海域は北方漁業の宝庫として着目され始めた時でした。同時に、ロシア国との間に北辺緊急を告げていた時でもあったことは司馬遼太郎の「菜の花の丘」に詳しく描かれています。
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幕府は根室を直轄して、その開発と警備に当ったることにします。そして幕命により漁場を請負った高田屋嘉兵衛は、北方海域における航路の開拓と、漁業振興に心血を注ぎ、その安泰と繁栄を祈り、祠宇を建て金毘羅大権現を勧進したようです。そして、又弁天島(旧大黒島)には市杵島神社を建立したと記されます。もともと弁天島はアイヌの聖地であり、信仰を集める島でもあったようです。
3根室金刀比羅宮6
港の沖の弁天島(旧大黒島)に鎮座する市杵島神社
 
安政元年(1854)村垣範正が残した東蝦夷の巡視日記には、次のように記されます。
「弁天社及び金毘羅大権現は、文化三年高田屋嘉兵衛、当場所請負を命ぜられ、漁業満足祈願のため、社殿を箱館に於て切組み、当地に着するや、直ちに建立せしものなり」

とあります。建立当時の社殿は函館で材木が整えられて、船で根室まで運ばれて、組み立てられたようです。
 高田屋嘉兵衛によって建てられた金毘羅大権現の祠は、どのように引き継がれていったのでしょうか。
年表には「天保八年(1837) 藤野家にて金比羅神社を祭祀す。」とあります。高田屋嘉兵衛の後を受けて、漁場請負権を得たのが藤野嘉兵衛です。彼が高田屋嘉兵衛が約30年前に創建した社殿改築を行ったようです。極寒の地なので、30年毎位で改築する必要があったことがうかがえます。改築の翌年・天保10年には、藤野嘉兵衛は肴場請負を山田文右衛門に譲り、根室を去っています。
3根室金刀比羅宮syuinn 3

年表にはありませんが、明治3年の文書には、次のように記されています。
「明治三年四月に、藤野家の根室人である蛯子源之助及び妻ハツの両氏は、信仰篤く、数年の立願を以て、黄金三十八両を献じて、讃岐に於て、御神像を奉製し、金刀比羅宮にて入魂式典を執行し、藤野家の手船「宗古丸」に奉乗して、同年五月本殿に奉鎮する」

 ここからは廻船業を営む藤野家の一族で根室に住む蛯子源之助とその妻ハツが讃岐の金刀比羅宮に参拝し、そこで「神像」を作り、自社の手船に載せて持ち帰えり、社殿に祀ったことが分かります。幕末から明治初期には廻船業者などの富裕な信者によって、社殿が維持されていたようです。
3根室金刀比羅宮 高田屋嘉兵衛2PG
高田屋嘉兵衛(根室金刀比羅神社蔵)

  高田屋嘉兵衛については「百八十周年記念祭記念誌」に、次のように記されます。
「高田屋嘉兵衛(1769~1827) 
明和六年淡路国都志本村に生まれる。兵庫に出て水主となり、苦労の末、寛政八年辰悦丸を新造し。船持船頭となる。その後北方漁場の重要さに着目し、函館に進出し、遂に幕府の信用を得て、蝦夷地御用船頭となり、文化二年(1805)には根室漁場を請負い、その卓越した識見と、商魂を以て、当地方の漁業振興に力を尽した。
 文化九年(1812)択捉島よりの帰途、国後島泊沖で露艦ディアナ号に捕えられ、カムチャツカへ連行され、幽囚の身となるも、常に日本の外交に心を尽し、露国の信用を得て、当時日露間の大きな問題となっていた、ゴローニン釈放等に奔走し、協定成立に努力す。
 文政元年家業を弟に譲り、淡路に隠退。文政十年病歿、享年五十九才。彼は当神社を創始した信仰深い人であったばかりでなく、北方漁業開発の偉大な商人でもあり、根室の礎を築いた功労者でもあった。」
高田屋嘉兵衛は、地元では「北方漁業開発の偉大な商人でもあり、根室の礎を築いた功労者」としてリスペクトされているようです。この神社に彼の銅像があるのが納得できます。
高田屋嘉兵衛の銅像建立趣意書も見ておきましょう
 この地方の開拓には、まことに多くの人々の尽力があった。然し高田屋嘉兵衛が活躍した当時は、鎖国と封建制の厳しい体制下であり、露国の南下、原住民とのあつれきが続いた厳しい時でもある。
遠隔寒冷の未知の北海に帆船を進めての開拓は、嘉兵衛の高邁な勇気と才覚、練達せる航海技術に加えるに徳実で誠実溢れる人柄、開拓にかける大きな使命感と責任感がこれをなさしめたものといえる。
 択捉島航路の開拓と産業開発に就て見ると、宝暦二年(1754)から寛政年間にかけて、北海道周辺は、外国船の出没が続き、また原住民の和人襲撃騒動などがあり、幕府としてその対策に努力している。そして寛政十年、幕府は180名からなる巡察隊を二手に分けて派遣したのもその一策といえる。
 根室、国後、択捉島に渡って「大日本恵登呂府」の標柱を建て、更めて旧来の領土である事を宣言した。露国勢力は度々択捉島に迫り、我が国としては、同島を「日本領土」として明示する事は急を要していた。然しそこには一つの大きな障害があった。それは国後島と択捉島との間に流れる海峡であった。この海は「魔の水道」と呼ばれ、濃霧に覆われる事多く、潮流は荒れ狂い、原住
民の小舟は度々遭難し、その為に開拓に必要な人員や物資の大量輸送は不可能になった。
 寛政十一年函館に進出した嘉兵衛は「蝦夷地御用船頭」を命ぜられ、根室、国後島、厚岸で交易を始めていた。前年択捉島を調査した近藤重蔵は、嘉兵衛の優れた航海術に着目し、厚岸に於て嘉兵衛に会い、状勢の緊迫と、択捉島開拓の緊急を説き、大型船による択捉島航路の開拓を要請した。嘉兵衛は快くこれを承諾し、重蔵と共に、根室から国後島に渡り、同島のアトイヤ岬から、潮の流れを観察し、苦心の結果、三筋の海流が、狭い海峡で一筋となり、択捉島ベルタルベの突端に激突する事をつきとめ、安全な航路を見究め、自ら約十屯の宜温丸を操船し渡海に成功したのであった。
同島に上陸した彼は、詳に調査し、国後島に待つ近藤重蔵に報告した。この安全な航路の開拓は、幕府のその後の同島警備と開発に大きな進展を見せたぱかりでなく、高田屋の事業発展にも大きく連なっていった。
 択捉島航路開拓に成功した嘉兵衛は、幕府直轄制下にも拘らず、択捉島場所請負を命ぜられた。
翌寛政十二年三月、手船「辰悦丸」他五隻の船に、米、塩、衣類等をはじめ、漁場開設に必要な漁具、漁網、建築資材、大工労働者、更に医者、医療具を乗せ、幕吏近藤重蔵外数十人と共に、択捉島に渡り、上陸した彼は、海岸各地を調べて、十七ヶ所に漁場を設け、原住民達に漁具を与えて、日本式漁法を教え、その漁獲量に応じて生活に必要な物資を与えたので、彼等の生活水準は上り、渡島当初八百余人だった原住民の人口は、時と共に増え、。噂を聞いて渡島してきた者を合せると千二百人にもなった。
 嘉兵衛の下に、喜んで稼動し、それまでは日露両国の勢力の狭間に置かれていた原住民の不安と苦悩は消え、日本国民としての自覚を持つ様になった。原住民達も、日本式漁法に慣れるに従い漁狭量も飛躍的に上昇した。主なる商いは海産物であり、海獣皮、熊皮、狐皮、鳥羽などがあげられた。享和三年(1803)のサケ、マスの漁獲量は一万八千石に上り、内七千五百石は塩蔵、他は魚粕、魚油として内地に運送した。殊に魚粕は肥料として増産に寄与した。
 択捉島開拓は当初露国勢力の千島列島南下に対抗する最前線基地として、警備と原住民の撫育に重点がおかれたが、嘉兵衛の活躍によりその目的は達せられ、更に同島の豊富な資源の開発は、高田屋の事業を進展させ、幕府の財政に大きく寄与する事となり、根室や函館のその後の発展にも連なった。

  これを小説化したのが「菜の花の沖」なのでしょう。
そして根室の金刀比羅宮は、県社として周辺漁港に分社・勧進されていきます。根室周辺に金毘羅社が多いのは、この神社の「布教活動」の成果でもあるようです。
3 納沙布金毘羅大権現 4
納沙布岬の金刀比羅神社
そして、敗戦までは根室は「最果ての港」と云うよりも、千島列島の島々への拠点港として機能します。そのため北方領土の島々にも、金比羅神社を始め多くの神社が分社・勧進されることになります。敗戦時には次のような神社が鎮座していたようです。
 国後島 近布内神社
  り  老登山神社
 志発島 東前金刀比羅神社
  り  稲荷神社
 水晶島 金刀比羅神社
 多楽島 金刀比羅神社
     市杵島神社
     大海龍王神社
 色丹島 色丹神社
 これらの神社の御神体は敗戦後は、根室の金刀比羅神社に祀られているようです。
3根室金刀比羅宮2

以上をまとめておくと
①高田屋嘉兵衛によって根室に金毘羅大権現が勧進された
②その後、金毘羅大権現は根室の氏神様として信仰を集めるようになった。
③そして明治以後には、金刀比羅宮が周辺漁村へも勧進されるようになった。
④千島列島の島々にもかつては金刀比羅宮が勧進され祀られていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献

    「真鍋充親   根室金刀比羅神社の建立由来と高田屋嘉兵衛について  こんぴら所収」

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
琴陵宥常(ことおかひろつね)
 金毘羅大権現の最後の別当職は「宥常(ゆうじょう)」です。
彼は、明治の神仏分離の激流の中で、金刀比羅宮権現を神社化して生き残る道を選びます。そして、自らも還俗して琴陵宥常(ことおかひろつね)と名乗ることになります。彼が神仏分離の嵐とどのように向き合ったかについては、以前お話ししました。今回は、彼の結婚について焦点を絞って見ていきたいと思います。
  テキストは「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で
1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

  金毘羅大権現は、金光院の院主が「お山の殿様」でした。
金毘羅大権現は神仏習合の社で、最高責任者は、金光院の院主でした。社僧ですから妻帯できません。したがって跡目は実子ではなく、一族の山下家から優秀な子弟から選ばれていました。宥常の先代の金光院院主は、宥黙で優れた別当で和歌を愛する文化人でもありました。しかし、病弱だったようで、そのために早くから次の院主選びが動き出していたようです。 
皇霊殿遥拝式2

 山下家一族の中に、宇和島藩士の山下平三郎請記がいました。
その二男の繁之助(天保11年(1840)正月晦日生)の神童振りは、一族の中で噂になるほどで白羽の矢が当たります。宥黙は信頼できる側近の者を宇和島藩に派遣して、下調査を重ねた上で琴平・山下家への養子縁組みを整わせます。嘉永2年(1850)11月29日、10歳の繁之助は、次期院主として金毘羅に迎えられたのです。これが先ほど紹介した宥常で、18代別当宥黙(ゆうもく)の後継者に選ばれます。そして安政4(1857)年10月22日に第19代別当に就任しました。宥常18歳の時です。これを進めた琴平の山下家当主の盛好は、次のような歌を詠んでいます。
  「今日よりは象の御山の小松菊
       千代さかえ行く末や久しき」   
 ちなみに宥常は父平三郎、母おつ祢の二男で、兄弟姉妹は兄と妹3人の5人兄弟でした。宥常は、安政五年六月八日、徳川将軍家定公に御目見、同年七月十二日孝明天皇に拝謁しています。そして、明治維新を28歳で迎えることになります。何もなければ彼は、このまま金光院別当として生涯を過ごすはずでした。しかし時代は明治維新を迎え大きく変わります。「御一新」の嵐は、象頭山のにも吹き荒れます。
なぜ宇和島藩の藩士の子が、後継者に選ばれたのでしょうか。
 それは先述したとおり、金毘羅大権現のトップは山下家の一族の中から優秀な子弟から選ばれるよいうルールがあったからです。 山下家一族のうち、中の村(三豊郡)の山下助左衛門盛寿の男、盛昌、山下輿右衛門については
「延宝二年(1675)甲寅年、伊達侯に仕う。知行二百石、中奥頭取」
とあります。財田の出身の山下家の一族の中に、宇和島藩の伊達家に仕官した者がいました。それが山下盛昌で、俳諧が上手な文化人であったようです。山下盛昌は、琴平宮本社の棟札にも名が残っているので、恐らく金光院の関係で京、大坂へも上った際に、徘徊のたしなみを身につけたのでしょう。
 あるときに、金毘羅さん参詣した伊達家重役が彼の俳諧に傾倒し、宇和島まで同道し仕官を奨めたという話が伝えられます。時の藩主は、七万石に減石されていたのを元の十万石に高直したとされる名君伊達宗貳です。山下盛昌という人物に、文化人だけではない何かを見いだしたのでしょう。
 伊達家に仕えた山下盛昌は、中奥頭取にまで出世しています。彼が現実的経世的知識をそなえ、藩主の信頼を得ていたことがうかがえます。盛昌の叔父も宇和島藩の梶谷家(知行二百石)へ養子に入っています。こうして、山下家を通じて金毘羅さんは宇和島藩とのつながりを持っていたようです。
白峰神社例祭 …… 奥社遥拝


  琴平・山下家の盛好による嫁探し
 山下盛好の日記には
「小松を藤原朝臣に改め琴陵を廃し、小松屯に仕度申出候得共叶不申」明治二巳七月二十二日

とあります。宥常は金毘羅大権現を、神社化することで生き残る道を選びました。そして自らも還俗します。その結果、「嫁取り」の話が出て来ることになります。
 その候補者選びの方針は、「結婚相手を京都公卿の姫」に求めることだったようです。関係する高松藩松平家などから迎えるという選択もあったはずですが、公家から迎える道を選びます。御一新の時代、天皇家に近い公家との新たな関係を築くことが今後の金刀比羅宮の発展につながると考えたのでしょう。それでは、具体的に候補者をどのように選んだのでしょうか。
白峰神社例祭2

 具体的な候補者選びを行ったのは、琴平・山下家の盛好だとされています。彼の日記「山下盛好記」には、次のように記されています。
「御簾中 称千万姫・正二位大納言胤保卿御女 安政元申九月二日生レ玉フ」
「己レ今年両度上京六月二日 始テ保子姫御目見」
 盛好は二度上京し、交渉に当たったようで「辛労甚シ」とも書いています。千万姫は三十二才を迎えていましたが「才色兼備のお姫様、美しく漓たけた誠におやさしい」と宥常に報告します。これを聞いて、宥常は喜び「頬を染め厚く厚く礼を述べた」と、盛好は記しています。

潮川神事

結納や諸手続についての覚書が残されているので、見ておきましょう
一、御願立御日限之事但シ御下紙拝見仕度候事
  御内約御治定之上御結納紅白縮緬二巻差上申度候事 
  但シ右代料金五十両 差上度候事
  御家来内二ハ御肴料御贈申候事
一、御主従御手当金二百五十両差上申度候事 
  但シ御拵之儀 当方之御有合二而宜敷御座候事伏見御着 
  迄之警固入費金十五両差上候
  御乗船ヨリ当方マデ 御賄申上候御見送り御家来御開之
  節 同様京都迄御賄申上候事
  居残り御女中御手当金前後十五両御贈申候事
一、御供之儀 伏見御家政之内壱人御老女壱人御女中壱大
  御半下壱人刀差壱人御下部壱大二御省 略被下度 下部
  壱人当方ヨリ相廻シ申恨事 女中老人壱ケ年又ニケ年見
  合二而御嘔巾度似事
一、御由緒書拝見仕度候事
一、御内約御治定ノ上 先不取敢御肴料差上度候事
  但シ御家来内江モ同様御贈申上度候事
一、御土産物総而御断申上候事
一、御姫様御染筆御所望申上度候事
  右之件二御伺申上度営今之御時節柄二付可成丈御省略之御取計奉願候也
                 琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山 下 真 澄
 
意訳変換しておくと
一、日取りや時間については、下紙(添付書)で確認すること
  御内約が整った上で、御結納は紅白の縮緬に巻いて差上ること。
  但し、代料金は五十両。御家来内には、御肴料をお贈りするこ
  と。
一、主従手当金として二百五十両を差上げること 
  但し、拵之儀(伏見までの警固費十五両)
  御乗船から金刀比羅宮までの費用、家来の京都までの見送り費用
  居残り女中の御手当金など、合わせて十五両
一、御供について、伏見御家、老女、女中、半下、刀差 御下部
  をひとりずつつけること。この費用については当方が負担するこ 
  と。女中老人は、1年か2年お供する予定である。
一、御由緒書を準備し拝見すること
一、御内約が決定した上で、御肴料を差上げること。但し御家来にも
同様の贈り物を準備すること
一、御土産物は、すべてお断りすること
一、姫様の御染筆(揮毫)を、所望すること
  以上についてお伺い申し上げ、御一新の時節柄に付き、省略できるものは省くようにお願いしたい。
            琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山下真澄

 私が気になるのは婚礼費用です。
ここに出てくる数字だけだと650両前後になるようです。明治元年に新政府から求められて、貢納した額が1万両でした。この翌年に、神仏分離で廃物され蔵の中に収められていた仏像などを入札販売していますが、その時の一番高額で落札されたのは、金堂(現旭社)の丈六の薬師如来でした。その値段が600両と松岡調の日記には記されています。それらから比べると高額な出費とは、私には思えません。
金毘羅大権現 旭社
旭社(旧金堂)

こうして段取りが整った後、明治4年8月29日、山下盛好はお姫様をお迎えするため、粟井玄三、仲間の福太、房吉を連れ三度目の上京をします。そして約1ヶ月後の9月30日に、千万姫と共に丸亀港に還ってきます。その夜九ツに駕で丸亀を出発、丸亀街道を進んだようです。途中、小休止をニケ所でとり、無事に中屋敷へ到着します。
「御姫様御元気にて御休息。老女とよ、女中おゆき、家令の築山恒利大夫と挨拶をかわす。」
と記されます。その後の盛好記には、次のように記されています。

宥常殿報 恐悦至極ノ態 下山セシハ夜モホノボノ明渡り候事

「夜モ ホノボノ明渡り候事」に盛好の、満足感と大任を果たした安堵感がうかがえます。そして、3日後の「十月二日夜、御婚礼千秋万才目出度く」とあります。翌日、廣橋正二位大納言胤保殿へ逐一報告済と記るされています。
 18歳で出家し、金光院別当となった時には、仏に仕える身となりました。もう家庭をもつことは、なくなったと思っていた宥常は、32歳で妻帯することになったのです。そして一男二女を設けます。これを契機にするかのように、金刀比羅宮には追風が吹くようになります。
 金比羅講に代わって、近代的なシステムに整備されたは、多くの信者を組織化し、金刀比羅宮へと送り込むようになります。まさに「金を生むシステム」として機能するようになります。そこから生まれる資金を背景に、宥常は博覧会や新たな神道学校作りなどに取り組めるようになります。事業的にも、家庭的にもまさに「追い風に帆懸けてシュラシュシュシュ」だったのかもしれません。

 最後に宥常が21才の時に、京に上がって天皇に拝謁の時の記念として、御厨子を京で作らせ盛好に贈っています。自分を、院主に付けてくれた感謝の意だったのかもしれません。そこには次のように記されています
   奉献御厨子
    右意趣者為興隆仏法国家安穏
    殊者山下家子孫繁栄家運長久
    而已敬白
   万延元康中歳二月吉辰
      金光院権大僧都 宥常
 また「京師堀川 綾小路正流仏工 田中弘造 刻」ともあります。
この御厨子は、今は山下家の菩提寺の山本町の宋運寺(盛好の遠祖、山下宗運建立)に保管されているようです。この奉献厨子の中には、山下家云々とあります。ここからは、二人の間には山下家としての同族意識があったことがうかがえます。金毘羅大権現の影の実力者として山下家は山内に、大きな影響力を持ち続けていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
1琴綾宥常 肖像画写真

琴綾宥常 高橋由一作

参考文献
「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で

 金毘羅さんの博覧会は明治12年の方が有名ですが、それより6年前に明治6年(1873)3月1日に金刀比羅宮(当時は「事比羅宮」)社務所書院を会場として、第1回博覧会が開かれています。今回は、この時の博覧会について見ていきたいと思います

 禰宜(ねぎ)職であった松岡調は、「展覧会の引札(広告案内パンフレット)」が刷り上がってきたときことについて、次のように記しています。
  九日 とくより社務所にものせり、
(○中略)過日にゆるされたる展覧会のひき札(広告)を、今日より御守処にて詣つる人々に分布させつ、此彫したは、己かものして彫セたるなり、
 方今宇内ノ各国博覧会卜云ヲ開テ、天産ノ品ニョリテ其国ノ風気ノ善ヲ知リ、人造ノ物ニョリテ其民ノエ芸ノ妙ナルヲ徴シ、就中古器旧物二至リテハ時勢ノ推遷、制度ノ沿革ヲ追観センカ為、互二徴集ヲ鼓舞スル克卜ハ成レリ、サレバ其意二体シ、皇国中二於テモマヽ其設アリ、此ニョリテ今度官許ヲ乞テ、来酉年三月朔ヨリ四月望マテ、金刀比羅宮社務所二於テ展覧会ヲ設テ、神庫ノ諸品ヲ始、其他各地ノ物品、新古廳密二不拘、コトコトク之ヲ群集シテ、互二図ノ栄誉、エノ精妙、古今ノ変遷ヲシラシメント欲ス、故二四方ノ君子、秘蔵ノ奇品、古器等ヲ資シ来テ、此席二加列セン事ヲ翼フニナン、物品差出ノ規、売却交易ノ則等ハ、厳重二定タリ、当町内町虎屋、備前屋、桜屋三軒ノ内ヲ会談所卜設ケ置レハ、物品等持参ノ諸君子、先彼所へ到着有テ、巨細ノ規則ヲ尋問為給ヘカシ、
      明治五年壬申八月十日
                琴平山社務所
          (『年々日記』明治五年 三十五、)
 意訳すると、
先日認可された展覧会のひき札(広告)を、今日から御守販売所での配布を始めた。今回作成したものは、各国博覧会が天産品によってその国の気風を知り、国民が作ったもので、その国のエ芸のすぐれた所を表す、また、古器旧物からは、時勢の推遷、制度の沿革などを知ることができる。それは互の出展品を集め鼓舞ことにもつながる。このような目的のために、皇国の展覧会が各地で開かれるようになった。
 この度、博覧会の開催を、来酉年三月から四月まで、金刀比羅宮社務所で展覧会を開き、神庫の諸品を始め、その他各地元物産、新古廳密関わらず、ことごとくこれを集めて、互いの栄誉、精妙、古今の変遷を世に知らしめたいと思う。そのためにも、全国の人々が秘蔵する奇品、古器等を展覧会に出品することをお願いしたい。物品輸送屋・納入、売却交易などについては規則を定め厳重に取り扱う。内町の虎屋、備前屋、桜屋の3軒を会談所にするので、物品等を持参じた諸君は、ここで詳細の規則を確認していただきたい。
      明治五年壬申八月十日
ここには、開催目的が
①「天産ノ品ニヨリテ其国ノ風気ノ善ヲ知リ、人造ノ物ニヨリテ其民ノエ芸ノ妙ナルヲ徴シ」と、出品された品々を通じて全国各地の風気(風俗)や工芸のすばらしさを知ること
②「就中古器旧物二至りテ時勢ノ推遷、制度ノ沿革ヲ追観セシカ為」と、古器旧物(わが国古来の文化遺産)を見聞することで、時勢の推遷(移り変わり)、制度の沿革(変遷)などを知り
③「互二国ノ栄誉、エノ精妙、古今ノ変遷ヲシラシメント欲ス」と、国家の栄誉、産業の素晴らしさ、古今の変遷などを広く知らしめることを目的に掲げています。そして、当初の開会期間は「酉年三月朔ヨリ四月望マテ」だったようです。 こうして讃岐一円に出品を呼びかけ、展示品の提供を依頼しています。
どんな展示品が集まったのでしょうか。目録が残っているので、その一部を見てみましょう。集まった出品物と( )内が出品者です。
雅楽器類・舞楽装束類・舞楽面類
和琴(社蔵)・大倭舞装束(同)・琵琶(石清尾八幡宮蔵)
納蘇利面(白峯寺蔵)・翁面(社蔵)、蹴鞠装束(琴陵宥常出品)
・鞠(同)などの蹴鞠用具類、
弘法大師作観音木像・二王石像(垂水村大師堂蔵)
法隆寺百万塔(寺井寛吾出品)
長曽我部元親所持数珠(七ヶ村吉田某蔵)
以下仏像仏具類、
数珠百種(当村合葉文岳蔵)
土佐国産貝類(片岡正雄出品)
鯨歯(当村多田嘉平出品)以下鳥獣類
霞砂糖(黒羽村永峯某出品)諸国米穀井菓類以下農海産物、
高松望陀織縞・阿筋藍玉(阿州堀北民次出品)
越後雪踏(寺井寛吾出品)以下衣料その他日用品類など。
後水尾天皇御寄附天正長大判(社蔵)
慶長小判・丁銀・豆板銀・和漢古銭(松岡調出品)
諸国紙幣銭貨類、尾張瀬戸急須・古備前大水瓶(当村山下某出品)・南蛮水指以下茶道具類・青質富士石(琴陵宥常出品)・
水晶玉(片岡正雄出品)・金剛砂(当村菅善次郎出品)・馮瑠石(神恵院出品)以下玉石類など。
崇徳天皇御軍築(西庄村白峯宮蔵)
楠公朝敵御免綸旨(楠正信出品)
柿本人丸像(松岡調出品)
明人書画扇面帖(高松石田廬出品)
擲躊大木(当村守屋某出品)
虎皮・熊皮(鴨部村佐藤某出品)
奥筋金砿(琴陵宥常出品)・石炭油・洋犬・七面鳥

ここから分かることは、骨董的なお宝類が主で「産業革命の申し子」的な蒸気機関や機械類はないようです。どちらかというと、江戸時代の寺院の「開帳」の変化バージョンとも思えます。結果はどうだったのでしょうか?
開会式に供えて琴平警察に対して、場内整理のために「邏卒(巡査)両名其手先3名毎日当社博覧会入口へ出張の事」と、計5名の派遣要請をしています。
 そして幕を開けてみると、拝観者は思ったよりも多かったようです。そのため期間半ばの3月24日には、次のような会期延長を求める文書が名東県知事宛に出されています。
     博覧会日延長願
 当宮博覧会四月中旬迄願済の所、来ル五月三十一日まて日延仕度、此段奉願候也、
酉三月廿四日
           事比羅宮 権禰宜 宮崎冨成
                 同  松崎 保
                禰 宜 松岡 調
                 同  大久保 来
                権宮司 琴陵宥常
 名東県 権 令 林 茂平殿
 名東県 参 事 久保断三殿
 名東県 権参事 西野友保殿
   「第三十九号  右御聞届二相成候事」
         (『町史ことひら』2 現代 史料編)
予定では4月半ばまでの会期であったようですが、それを5月31日までさらに一ヶ月半の会期延長申請が名東県(権令)林茂平宛に出されています。これは、そのまま認められたようです。
  この時の入場者数などを記した記録がないので、どのような収支決算になっていたのかは分かりません。
なぜ、明治5年という段階で金毘羅さんは、こんな大きなイヴェントをやろうとしたのでしょうか。
 前年の明治4年(1871)10月10日から11月11日までの間、京都の西本願寺大書院を開場に「京都博覧会」が開催されています。これが、国内で最初に本格的に「博覧会」と称して開催されたものになるようです。
 この「京都博覧会」は、東京遷都で首都としての地位を失って、京都の商工業界は落ち込んで沈滞気味だったようです。そこで京都を活気付け、景気回復と新生明治の啓蒙を目的として、三井八郎右衛門(越後屋呉服店・三井両替店)・小野善助(井筒屋小野組・本両替商)・熊谷久右衛門(直孝・鳩居堂第七代当主)などの京都市内の有力商人が主催したものでした。
 10月10日に開場し、通り券(入場券)は、一朱・特別展観は二朱で、33日の期間中に1万人以上が観覧します。
本博覧会の広告文中に、
 西洋諸国二博覧会トテ、新発明ノ機械古代ノ器物等ヲ善ク諸人二見セ、知識ヲ開カセ新機器ヲ造リ、専売ノ利ヲ得サシムル良法二倣ヒ、一会ヲ張ランド御庁二願ヒ奉リ、和漢古器ヲ書院二陳列シ、広ク貴覧二供センコトヲ思フ、夫レ宇宙ノ広キ古今ノ遠キ、器械珍品其数幾何ナルヲ知ラズ、幸二諸君一覧アラバ、智識ヲ開キ、必目悦ゲソメ、其益頗ル広大ナリ、故二大人幼童共二幾度モ来観ヲ希フ而己。
 但物品ヲ出サンド望ム人ハ、会場二持来り玉へ、落手券ヲ渡シ謹テ守護シ、会終ラハ速二返却シ、薄謝ヲ呈セントス、但御庁ヨリ警固人数ヲ下シ賜フ故二御懸念シ玉ハス、数品ヲ出シテ此会ヲ助ケ玉へ 
 通り券ハ当地町々ニテ、一枚価金一朱宛二求メ玉へ他所並臨時来客ハ、会場門衛ニテ求玉フベシ
  未十月        博覧会社中 謹白    
                        
当時西欧諸国で開催されていた博覧会を真似たものですが、意義について「新発明の機器類を展示」し「おもしろさとともに智識を広める」ものであることが述べられています。
 この成功をバネに京都では以後、毎年のように博覧会が開かれ、しかも規模を拡大していくのです。この京都の動きに触発されたことが金刀比羅宮の広告などを見ても分かります。でも、京都と金毘羅では都市規模が違います。京都でやっていることを、そのまま四国の地方都市(?)が真似るという大胆さに、私は驚かされます。
 
 明治という新しい時代の扉は開かれましたが、鉄道や蒸気汽船はまだまだ四国には姿を見せません。目に見える形で、四国の村々に明治維新はまだやって来ていない時期です。そんな時期に、讃岐一円だけからでも、これだけの品々を集めて、展示公開するという企画力と実行力には目を見張らされます。これをやり遂げた後の金刀比羅宮の当事者の自信と感慨は、大きかったと思われます。

 明治6年の金刀比羅宮博覧会の意義は?
明治5(1872)年という年は、年表で見れば分かるように、まだ明治維新後の神仏分離の余波覚めやらぬ時期です。そのような中で、四国琴平の地でこのような博覧会が開催されたことは、大きな意味があったと研究者は考えているようです。
 明治維新を経て文明開化へと歩み始めた時代に、全国に先駆けて琴平の地においてこのような「博覧会」を開こうとした人々の先見性と実行力と勇気が当時の金刀比羅宮のスタッフの中にあったということでしょう。
  それでは、この企画の中心にいたのは誰なのでしょうか。
先ほど見た名東県への申請書類の中に出てくるのは  次の5名です。
 権禰宜 宮 崎 冨 成
     松 崎   保
 禰 宜 松 岡   調
 同   大久保   来
 権宮司 琴 陵 宥 常
この中で金刀比羅宮の年表に登場してくる人物を見てみましょう
明治5年 1872 松岡調、事比羅宮禰宜に任ぜられる。
 琴陵宥常、事比羅宮宮司に任ぜられる。
 仏像、雑物什器等売却後に、残った仏像焼却。
明治6年 1873 博覧会開催。
 深見速雄、事比羅宮宮司に補せられる。
明治7年 1874 事比羅宮崇敬講社設立。
明治8年 1875 元観音堂取崩し、本宮再営。
 三穂津姫社創建。
 別当宥盛に厳魂彦命と諡し、威徳殿を厳魂神社と改称。
明治9年 1876 宥常、事比羅宮宮司解任、禰宜となる。
明治10年1877 本宮上棟。
 琴平山大博覧会。コレラ流行で途中で中止。
明治13年1880 第2回琴平山大博覧会。火雷社改築。
明治15年1882 古川躬行着任。
明治16年1883 明道学校開校。
明治19年1886 宮司・深見速雄死亡、代わって宥常が就任

この年表からうかがえるのはM5に禰宜に就任した松岡調の存在の大きさです。
この時期の金刀比羅宮にとって大きな新規事業を並べてみると
①M5年 仏像仏具の売却・償却
②M6年 第1回博覧会の開催
③M7年 金刀比羅宮崇敬講社設立
④M8年 本宮再営・三穂津姫社創建 
⑤13年 第2回琴平山大博覧会。
とイヴェントが目白押しだったことが分かります。③や⑤の準備書面や申請書類はほとんどが松岡調が書いています。また⑤の最高責任者として開催を取り仕切っているのも松岡調です。そして、日清戦争まで、松岡調によって金刀比羅宮は取り仕切られていた気配がします。

 政府は琴綾宥常を社務職に任命し、願出のあった宮司職には最後まで就けませんでした。そして、鹿児島出身の深見速雄を宮司に任命します。彼が金刀比羅宮に着任するのが明治6年(1873)3月20日です。まさに、博覧会の開催中のことになります。
ここで①宮司  深見速雄  ②社務職 琴綾宥常 ③禰宜 松岡調 という体制が出来上がります。
 金刀比羅宮博覧会の成功をステップとして、崇敬講社設立や御本宮社殿の再営工事へと進んでゆきます。
 金刀比羅宮(当時は事比羅宮)では、明治7年(1874)2月21日に教部省宛に宮殿再営の願書を提出しています。それが認められると御本宮社殿の改築諸工事に取りかかり、明治10年(1877)4月15日に上棟祭を行い、翌年の11年(1878)4月15日に新営なった社殿への本殿遷座祭(正遷座祭)が斎行されています。
 このような経緯を見ると明治6年(1873)の「金刀比羅宮博覧会」は、本宮再営正遷座祭のプレイベントの役割を果たしたのではないかとも思えてきます。これらの企画・立案・実行などでも大きな力を発揮したのが松岡調で、彼はビッグイベントを取り仕切ることで、山内における地盤を固めていったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
黎明期の金刀比羅宮と琴陵宥常 | 西牟田 崇生 |本 | 通販 | Amazon

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭

 明治7年に国の進める神道国教化政策に沿って、信徒の組織化のために金刀比羅宮が崇敬講社(以下・講社)を設立したことを、前回はお話ししました。金刀比羅宮には、「金刀比羅宮崇敬講社」の講員(会員)名簿(=講帳)が約14000冊ほどが保存されているようです。それらの「講帳」の約半数の調査が行われ、報告書として『金刀比羅宮崇敬講社講帳目録』が出されています。これをテキストにして、講帳から見えてくることを挙げていきましょう。
 報告書のはしがきには、講帳について次のような指摘がされています。
①講帳は、北海道から沖縄までの全国の会員を網羅するものである
②取次定宿名とあるのは、講員がそれぞれ属した講元のことである。「定宿」が地域の名簿作成の責任者となっている。
③「筆乃晦→桜屋源兵衛」とあるのは、講員株が講元筆乃海から講元桜屋源兵衛へ売却されたことを示している。つまり、講員名簿は「定宿」間で売買されていた。
④講元は「定宿」(その地域の旅館)で、講員と日常的に接触し、一方で金刀比羅宮参詣の際には宿泊していた
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 朝祭

 「崇敬講社講帳」の記載内容については
江戸時代に隆盛をきわめた参詣講には「伊勢講・高野山講・出羽三山講・白山講・大山講・立山講等」などがあります。これらの講帳には、戸主だけが記されています。それでは金刀比羅宮の場合は、どうだったのでしょうか
『金刀比羅宮崇敬講社講帳』の記載内容の実際を見てみましょう
「講帳」第壱号の巻頭部分を見ると、
名東県下讃岐国第廿一大区五小区那珂郡琴平村居住
明治七年十一月一日入構
               琴 陵 宥 常 印
                  当戌三拾六歳
  同         妻   千 萬 二拾一歳
  同    死去   長男  千 盾   壱歳 
            長女  瑞 枝 十年十ヶ月
            次女  八千代 九年一ヶ月
            三女  勝 也 六年十ヶ月
            四女  賢 子 二年七ヶ月
とあります。当時は前年から香川県は廃止され「阿波+淡路+香川」で名東県になっていました。一番最初に記されている人物は、金刀比羅宮社務職の琴陵宥常です。金刀比羅宮講帳には各戸の戸主が筆頭にかかれ、そのあとに続けて妻・小供・同居人の順に家族全員の名前が記され、さらに戸主との続柄、年齢までが記入されているのです。
続いて、一人置いて
名東県下讃岐国第廿一大区五小区那珂郡琴平村寄留
         松岡 調 印 当戌四拾五歳
   死亡 母  脇屋里喜      五拾七歳
   死亡 妻  松岡須磨      二拾九歳
   死亡 長男同 徳三郎       十八歳
      長女同 喜 志        八歳
      次女同 安 佐        五歳
      次男同 多 平        一歳
      
と続きます。松岡調は、すでに何回も登場していますが、讃岐の神仏分離政策の中心人物で辣腕を振るい、それが認められて、当時は金刀比羅宮の禰宜職についていた人物です。
 ここからは「講帳」第壱号は、事比羅宮社内の講者名簿であることが分かります。次いで第弐号が坂町、以下札ノ前・愛宕町・高藪町・金山寺町・谷川・奥谷川・片原町・阿波町・内町・西山・新町と琴平村内各町から榎井村の人々へと人講名簿が続きます。
 象頭山のお膝元のエリアでは、明治8年(1875)7月頃までには崇敬講社への加入が終わり、その後四国全域からさらに全国に広がる講社入講が進められていったことがうかがえます。
 金刀比羅宮の崇敬講が、家族ぐるみで講員を把握しようとしていた狙いはなんなのでしょうか。
 この内容であれば、世代が変わっても講員を追いかけることができます。永続的に利用できる台帳の作成を狙っていたようです。ここまで見てくると、これはどこかで見たことのあるシステムに似ています。そうです。中世の熊野信仰の熊野行者の先達と檀那の関係に、よく似ているようです。熊野行者の歴史に学んでいる様子がうかがえます。 

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭2

 調査対象になった7277冊の「崇敬講社台帳」は、全体の半分に当たります
帳簿の形態は美濃紙ニッ折  版の袋綴で、用紙は有罫の美濃紙に書かれているものを、1冊約50枚毎に綴じ込んでいるようです。7277冊の冊数を地域別にみると、
第1位四国2832冊(38・8%)
第2位中国2457冊(33・7%)
第3位近畿620冊、
第4位中部502冊、
第5位九州391冊、
第6位関東203冊
第7位北陸163冊
第8位北海道・東北113冊
とで、中四国で全体の3/4を占めます。
 旧国別ベスト10を挙げてみると
1 土佐842冊
2 伊予814
3 阿波524
4 備中484
5 出雲466
6 備前297
7 伯耆308
8 丹波276
9 美作266
四国・中国地方の冊数が多いようです。しかし、地元の讃岐が見えません。

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭3

年代的に、いつごろからこの帳簿が作成されたかをみてみると、
金刀比羅宮が「金刀比羅宮崇敬講社」の設立を教部省に願い出でのが
明治7年2月です。その翌年の明治8年から播磨・備前・備後・讃岐・伊予の名簿作成が始まっているようです。明治9年になって、先ほどのベスト10の伯署・丹波を除く8か国が、作成を始めています。地域的には中国・四国は明治9~12年頃に作成されています。それ以外は、3,4年遅れてスタートしています。金刀比羅宮は、まず地元から講社を再編成し、次第にその範囲を同心円的に全国に押しひろげていったことがうかがえます。

奉納品 崇敬講社看板 
 講元(取次定宿)は、江戸時代の金毘羅講の御師の系譜を引く家柄と研究者は考えているようです。
 彼らが講を組織化し、お札やお守りを全国各地へ定期的に配布します。それだけでなく彼らは、会員名簿を作成し、組織強化の原動力になったようです。同時に、この名簿は熊野行者の「檀那」名簿とおなじで「金のなる木(名簿)」でもありました。金毘羅さん指定の「定宿」の「金看板」と共に、売買の対象となったことは、先ほど見たとおりです。このような経済的な利益が背後にあったことも、「定宿」が熱心に講員獲得に動いた背景なのでしょう。
 江戸時代に象頭山で修行した「金毘羅行者」たちが、全国に散らばり金毘羅信仰を広め、先達として、金毘羅さんに誘引するとスタイルの近代バージョンとも思えてきます。
 
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月9日 朝祭

 「金刀比羅宮崇敬講社規則」には「講員は少なくとも年に一度は、事比羅宮に参拝すること」と定められています。

講員は、これにに従わなければなりません。香川県内の講員は「総参り」と称して講員全員が揃って参拝したようです。遠隔地の講員の場合には、江戸時代と同じように交代で「代参」するスタイルがとられました。
講員の参拝には、一般の参拝者とは異なる取扱いが行われたようです。特別扱いということでしょうか。例えば、一般の参拝者には許されていなかった「内陣入り」という拝殿に上がって参拝祈祷することが許されました。また、「講社守」(「一代守」とも称した)といわれる講員だけが手にできる特別の守札もありました。さらに、講員や講社からの奉納物の取次などについても便宜が計られるなど、「金刀比羅宮崇敬講社」の講員に対しては、一般の参拝者とは異なった特別接遇が行われていたようです。これは、ありがたみが増すと共に、自尊心が擽られます。悪い気にはなりません。「講員になっていてよかった」と、思ったとしておきましょう。
 こうして、講員はうなぎ登りに増え、明治22年(1889)5月頃には講社員300万人を越えるまでになります。
1崇敬講社加入者数 昭和16年

図11からは、太平洋戦争に突入する昭和16年の各県の新規会員数が分かります。
①東京・大坂・愛知・兵庫などの都市圏で新規講員の数が多いこと
②四国の愛媛・高知も新規加入者が多い
③それに対して、香川・徳島の伸びが鈍化しています。飽和状態に近づいてきたのでしょうか。
④領土的拡大や膨張とともに台湾。朝鮮・樺太・関東州・満州などからの加入者も増えている

実際に金毘羅詣は、どのような形で行われていたのでしょうか。
 丸亀市通町の崇敬講社の金毘羅参拝の様子を見てみましょう。
  竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕
これも母から聞いた話である。①通町には年三回、二五銭ずつを積み立てて、金ぴらまいりをする敬神講があった。②毎年五月十日に、大体百人一組で、丸亀から汽車で琴平へおまいりに行った。
③休憩所は登茂屋久兵衛(現在舟々せんべいを売っているあたりだった)、ここは間口も広く奥行き深く、山を形どった庭、それに座敷も広かった。九時頃宿屋へ着くと、まず風呂にはいり、浴衣に着かえるとお茶漬がでる。鰭の煮付けにフキをあしらった皿物、かし椀(香味、カマボコ、麹など)、漬け物といった膳立てである。

 茶漬けが終わると、④一同勢揃いしてお山にのぼり、本社拝殿に詣でて、お祓いを受ける。そして、拝殿で八乙女の神楽舞を拝観する。囃子(ハヤシ)方は、男四人宛両側に並び、せき鉦(ショウ)、笛などの楽器を奏し、紫の袴の巫女(ミコ)が琴を弾ずる。舞が終ると内陣にはいって今度は金の御幣でまたお祓いを受ける。これで約一時間かかる。
   お山を降りて、⑤社務所では千畳敷(書院のこと)を拝観、つぎに大広間でお膳につく。簡単なものであるが、これがなかなか有り難いのである。背の高い、丸型に押し抜いた赤飯が、白紙を敷いた高坏(タカツキ)に盛られ、木皿にはスルメと昆布、盃には宮司が御神酒を注いでくれる。その上に紅白の折り物が出る。
 それからいよいよ最後の行事である⑥神籤(カミクジ)を各人がひくのである。これが当日の第一の楽しみであり、またこれが金比羅敬神講の山場でもある。三等まで賞品がつく。
 籤引きが終われば、⑧一同宿屋に帰って会席膳について寛ぎ、おまいりもここに終了となるのである。
全予算七五円のうち、二五円はお山に奉納、五〇円が宿屋の支払いだったという。
   ここからは次のような事が分かります。
①年三回、25銭ずつを積み立てて、金毘羅詣りを敬神講があった
②毎年5月10日に、百人一組で、丸亀から汽車で琴平へおまいりに行った。
③崇敬講社指定の休憩所(定休み)は登茂屋久兵衛で、九時頃宿屋へ着くと、風呂に茶漬を食べた。
④一同勢揃いして、本社拝殿に詣でて、お祓いを受け、拝殿で八乙女の神楽舞を拝観する。
⑤社務所では千畳敷(書院のこと)を拝観、つぎに大広間でお膳につく。
⑥最後の行事である神籤(カミクジ)をひく。これが当日の第一の楽しみであった。
⑦籤引きが終わると、宿屋で会席膳で寛ぎ終了となる。
⑧全体の予算七五円のうち、25円はお山に奉納、50円が宿屋の支払いだった
街毎に金毘羅講があり、会費を徴収して、5月に100人の団体で金比羅にお参りしていたようです。汽車で琴平駅について、すぐにお参りするのかと思えばそうではありません。まずは、崇敬講社の指定する宿屋(定休)で、お風呂に入り身を清めて、浴衣に着替えて茶漬けを食べてからです。
奉納品 崇敬講社看板 定休
 
 江戸時代の元禄年鑑に書かれた屏風絵には、金倉川に架かる鞘橋の下で、コリトリ(禊ぎ)をする信者の姿が描かれています。お風呂に入って、身を清めてから参拝するというのも「コリトリ」の発展変形バージョンかもしれません。
 講員の参拝ですから次のような「特別扱い」を受けています
④拝殿に上がってお祓いを受け、八乙女の神楽舞を拝観
⑤社務所書院の千畳敷の拝観とお膳
講員をお客様として、神社側も接待していた様子がうかがえます。
 隣近所の人たちと連れだって、新緑の5月の象頭山に登るのは、ある意味レクレーションでもあったし、古代以来の霊山への参拝の系譜につながるものであったかもしれません。

DSC01531戦時下の金刀比羅宮集団参拝
戦時下の戦勝祈願のための金刀比羅宮日参

 このような講員組織を、近代日本の国家は、国家神道の一部に組み込んでいきます。日中戦争が激化すると、地域での金刀比羅宮への参拝を半強制化するようになります。太平洋戦争に突入すると、順番を決めて地域代表の日参化を強制するようになります。それが、可能であったのも明治の時代から金比羅講が組織化され、地元の人たちが金毘羅詣でを日常生活の中に取り入れていたから出来たことかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 
西牟田 崇生  金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会
竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕

    各地に金毘羅への参詣講、寄進講ができて人々の金毘羅信仰は幕末にかけて急速な高まりを見せます。しかし、江戸時代には、これらの講を全国的に組織化しようとする動きはありませんでした。各藩の分立主権状態では、それは無理な話だったのかもしれません。
 しかし、明治になって維新政府は神道国教化政策の一環として、信徒集団の組織化を各神社に求めるようになります。そこで明治7年、金刀比羅本宮崇敬講社が結成されます。これは時流に乗り、入講手続きをして会員となる信者が増え、7年後の明治14年には、講員が200万人を超えます。これを契機に神道事務局の直属して、金刀比羅崇敬教会と公称することになります。さらに、明治22年には、講員300万人にまで膨らみます。この積立金基金が大日本帝国水難救済会の創立資金となったことは、以前にお話しした通りです。

 会員の特典のひとつが「安心して、安価で信頼の出来る指定業者」が利用できることでした。
「讃岐金刀比羅教会」の崇敬講社に指定されたのは「定宿」「乗船定問屋」「定休」です。
奉納品 崇敬講社看板 定休

「定休」は参拝の講員が休憩するところ、「定宿」は宿泊するところで、講社が指定した定宿に看板を渡して掲げさせます。
 講員は定宿に泊まれば割引になり、一方宿屋の方は「金比羅指定のお宿」ということで一般の参拝者もこの看板を見て安心して泊まるわけで、客の増加につながり、また、名誉なことでもあったようです。そのため、この看板は「金看板」とも云われたようで、この看板があるのとないのでは、宿のランクも利益も大きく違ってきたようです。この看板さえ掛かっていれば、全国からの金毘羅を目指す参拝客が利用してくれたのです。しかも、団体で・・。
それでは「定問屋」とは、何でしょうか?
奉納品 崇敬講社看板 

私は、金毘羅さん御用達の問屋だと最初は思っていましたが、大面違いでした。「乗船」を読み飛ばしていました。
 四国以外からの参拝者は、必ず瀬戸内海をわたらなければなりません。瀬戸内海の船旅は、十返舎一九が弥次喜多コンビに金毘羅詣でをさせたときに描かれているように、東国の人にとって魅力なクルージングでもありました。丸亀・多度津の港も整備され、江戸時代の18世紀中頃からは大坂から金毘羅船と称する定期船も出るようになっていたことは、以前にお話ししました。[定船定問屋]は、こうした参拝客をはこぶ出船所に掲げられたものでした。看板はケヤキの一枚板です。

1虎屋玄関表
内町の虎屋
交通の不便な時代、遠く離れた霊場へ参拝するのは庶民にとっては、金銭的にも難しいことでした。
そこで、信仰を同じくする人々が参拝講をつくり、少しずつ積みたてた金で代参者を月ごとや、年に一度代参させるシステムが出来上がります。こうして、都市部を中心に金比羅講が組織され、地元で毎月の参拝や会食を行い。その時に会費積み立てていくようになります。そして、積立金で代表者を四国の金毘羅さんに「代参者」として送り出します。
 こうして、講員になっていれば一生に一度は金比羅詣りが出来るようになります。これが江戸や大坂での金比羅ブームの起爆剤のひとつになったようです。このような日常的な宗教活動が、金比羅への灯籠寄進などにもつながっていくようです。

大坂平野町の「まつ屋卵兵衛」の崇敬講社定宿の「ちらし」です。
1崇敬講社 御宿広告

 金毘羅崇敬講社では、それまで交渉のあった各地の旅宿を定宿に指定し、目印になる旗と看板を配布しました。その看板を右側に、旗を左側に入れて、ちらしを作って配布したようです。赤と黄色のコントラストが鮮やかで、今までにないもので評判になったことでしょう。
 冒頭に「讃州金毘羅蒸気出港所」「各国蒸気船取扱問屋」とありますから、いち早く金比羅航路に蒸気船を投入していたことがうかがえます。ちなみに「まつ屋」は、崇敬講社の定宿の中で、「大坂ヨリ中仙道筋」の一等取締に就任しています。

DSC01188

こちらは、短冊形で先ほどの「松屋」に比べると小形です。
船問屋や定宿では、これらをお土産がわりに無料で宿泊客に配布したようです。各船問屋が使用していた自慢の「金比羅船」も描き込まれていて、意気込みのようなものを感じます。
  このような定宿や船問屋のセールス活動が、ますます金毘羅さんへの参拝客の増加につながることになったようです。

 しかし、戦後になって車での参拝が多くなるにしたがって参拝講をわざわざつくらなくても気軽に参拝出来るようになると、このシステムは次第に衰退していくことになります。そして、昭和の終わり頃には、琴平の旅館にこの講社看板を掲げているところはなくなったようです。
 木札は旅館の玄関に掲げられたので、1m後の大きなものです。
古くなった木札は「御霊返し」といって、参拝時に返納され、新しいもの交換されたようです。そのために、金刀比羅宮に200点近い数の木札が保管されていたようです。中には広島県尾道市の富永家と香川県詫間町の森家のように、長い間自分の家に祀っていたものを、一括してお宮に納めたものもあります。定宿や定問屋は、琴平だけでなく金比羅参拝路のネットワークの各港の宿に配布されていたことが分かります。
 木札は形によって、いつ頃のものかが分かるようです。
神仏分離以前はの江戸時代のものは、形が剣先型で、上部が剣のように尖っています。これは先日お話ししたように、金比羅の御守札は、護摩堂で、二夜三日の護摩祈祷した後に、別当の金光院(一部に多聞院)が出していました。
 しかし明治以降には、神仏分離で護摩堂は壊され、本尊の不動明王もも片付けられて、蔵の中にしまい込まれてしまいました。それと共に、剣先型の形式のものはなくなります。ただ大木札中に明治以降金刀比羅宮から独立し、正当性を巡って明治後半に裁判でも争うことになった松尾寺配布のものも一部混じっているようです。松尾寺も独自の講制度を運用していたことがうかがえます。
 この看板を掲げた宿や船問屋は、金比羅客誘致や広報活動を先頭に立って行います。
そして金毘羅街道の整備や、丁石や灯籠などの建立にも取り組むようになります。また、金比羅さんへの寄進活動などにも積極的に参加します。明治になっても、金毘羅詣で熱は冷めることはなかったようです。その集客システムとして機能したのが崇禎講社だったようで

参考文献 印南 敏秀  信仰遺物 金毘羅庶民信仰資料集
                                                                              

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
                                                          
 明治維新直後の神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

5月に、維新政府が宥常に最初に命じたのは、御一新基金御用(一万両)の調達でした。1845年に完成し、「西国一の建物」と称された金堂(現旭社)の建設費が2万両でした。その半額にあたります。6月下旬までに、半額の5000両調達の旨請書を差出します。それに対して、新政府から出されたのが宥常を「社務職に任じる」というものでした。以下、宥常の京都での活動状況を見てみましょう。
7月 観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月13日,弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習。多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受け,
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
そして、翌年の明治2(1869)年2月,宥常は京都を発ち,月末に丸亀へ約1年ぶりに帰ってきます。
ここからは、神社化に供えて監督庁関係との今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々が贈られていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼が社神式修行指導のためにやってきて、神社経営全体への指導助言を行ったようです。
三月には,御本宮正面へ
「当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事」

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。引き続いて、山内の改革を矢継ぎ早に行います
明治2年6月 はじめて客殿で大祓の神式を行い,
10月10日の会式も神式に改めます。それまでは「山上」で行われていたのを、神輿が御旅所(現神事場)まで下って渡御する現スタイルに改められます。
明治4年6月,国幣小社に列し官祭に列せられ
10月15日,神祇官から大嘗祭班幣目録が下賜されます。
明治5年4月月,宥常は権中講義に任じられ,布教計画見通し立てるよう教部省から指示されます。これに対して、5月には早速に,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館の設置案を提出しています。
これには多くの経費が必要で、上京していた宥常は資金調達のため一旦帰国しています。その後に行われたのが、六月の仏像・仏具・武器・什物の類の「入札売却」であったことは、以前にお話しした通りです。
1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像3
宥常

明治6年3月,鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任して来ます。宥常は、京都滞在の折りに何度も宮司への就任願いを提出しています。しかし、新政府が任じたのは社務職であったのです。そして、実質的な責任者として松岡調が禰宜として就任しています。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月になってのことです。この当時、宥常は金刀比羅宮のトップでは、なかったことになります。このことは、注意して置かなければなりません。金刀比羅宮の記録は、このところを曖昧にしようとする意図が見え隠れするように思えます。
明治8年1月,御本宮再営の事業が開始され、翌年9月の4月に仮遷座,
明治10年4月に上棟祭が行われます。
この費用は,官費を仰がずに、すべて金刀比羅宮で賄ったようです。そのため落成の際に,内務省から宥常に褒美を下賜された記録があります。
  このように、見ると神仏分離から10年間で金比羅さんは、仏閣から神社にスムーズに移行したかのように見えます。しかし,この間に金刀比羅当局者が受けた衝撃や打撃も大きかったようです。 たとえば、明治元年1月には、土佐軍が新政府軍として讃岐に進行して、金比羅(琴平)に駐屯します。ある意味、この時期の琴平は土佐軍の軍事占領下に置かれたことになります。そして、金刀比羅宮に5000両の明納金を求めます。金毘羅さんは、この時期に京都の新政府に1万両、土佐藩に5000両を貢納したことになります。それを支える経済力があったということでしょう。
 土佐藩占領は,徳年の11月まで続き,それ以後は倉敷県の管轄から丸亀県・愛媛県を経て,香川県に所属することになります。
しかし、幕藩体制下で朱印地として認められていた行政権は失われます。さらに,明治4年2月に神祇官から出された「上知令」で、境内地を除く寺社領の返還を命ぜられます。これは、寺院の経済的基盤が失われたことを意味します。にも関わらず、神社となった金刀比羅宮は新たな社殿建設を初めて行くのです。そこには、明治という新時代がやって来ても金毘羅さんにお参りする人たちの数は減らなかったことがうかがえます。これは、行政からの「攻撃」を受けた四国霊場の札所が大きな打撃を受け、遍路の数を大きく減らしたことと対照的な動きです。
DSC01636金毘羅大祭図

宥常は明治政府に対しては、全く忠実でした。反抗や抵抗的な動きを見つけることはできません。
それでも,宮司に仰付られたいという願いは聞き届けられず,明治6年3月,鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任して来ます。その下での社務職を務めることになります。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月に深見速雄が亡くなった後のことです
また,彼は元々は真言宗の社僧です。礼拝の対象は、仏像や経巻でした。それを売却し,焼き捨てるということに,何らかの感慨を抱いたはずですが、それに対する記録も残されていないようです。
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭2


金刀比羅宮は、「勅祭の神社」とか「国幣小社」にランク付けはされましたが,それに頼っておればよいというものでありません。金毘羅大権現の名声を維持するためには,何か新しい施策を講ずる必要があると、若い社務職は考えていたようです。
1 金刀比羅宮蔵 講社看板g
 金刀比羅宮崇敬講社 定宿看板

明治7年2月に,そのために教部省宛に「金刀比羅宮崇敬講社」(略・講社)の設立を願い出ています。
信者へ直接的に働きかけ,これまで区々であった参詣講・寄進講を組織的に発展させ,金比羅の繁栄を一層確実にしようとする狙いがあったようです。講社については厖大な量の「講帳」が残っているようですが、「講帳」と関係資料を突き合わせ講社の実体を明らかにする研究は、まだ手が付けられていないようです。
 しかし、この講社の組織は「集金マシーン」として機能するようになり、金刀比羅宮に新たな資金供給源となったようです。ある意味、講社は「金の成る木」でした。宥常の最大の業績とされる「帝国水難救済会」も講社員の積立金によって、創設されています。

DSC01245
 
明治19年3月に宮司の深見速雄が亡くなり、宥常が宮司の座に着きます。名実共に、金刀比羅宮のトップになった訳です。
 その年の10月、イギリスの貨物船「ノルマントン号」が紀州大島沖で座礁沈没します。イギリス人乗組員は全員脱出して助かりましたが、乗り合わせていた日本人23人は船に取り残され全員が水死します。、同船船長に対する責任は、極めて軽微であり、日本国民の感情を大きく傷つけます。この水難事故は幕末に締結した日本と諸外国との間で結ばれていた不平等条約がからみ、大きな国際問題になります。このような水難事件に対して「海の神様」を標榜する金刀比羅宮として、出来ることは何かを宥常は考えたようです。

 「帝国水難救済会五十年史」によると,宥常はかねてから,
「神護は人力の限りを尽して初めて得られるもので,徒に神力にのみ依頼するのは却て神に敬意を失する」

と考えていたと記します。そこで、何とかして現実に海上遭難者を救うべき方法と組織を作り出したいと思っていたようです。
1 黒田清隆 日記 水難防止
黒田清隆伯の「環游日記」のロシアの水難救済協会の紹介部分

たまたま明治20年11月に出版された黒田清隆伯の「環游日記」の中に,ロシアの水難救済会の記事のあるのを見て,これこそ自分が探し求めていたものだと,「晴雲一時に舞れる心地がして勇躍,救済会の創設に取りかかった」とあります。
 明治21年8月,上京した宥常は,救済会設立のことを福家安定に相談します。
翌22年3月,再度上京して,その時は総理大臣に就任していた黒田清隆にも意見を聞き,また海軍に関係が深いことから海軍次官樺山資紀に相談すると,水路部長肝付兼行が協力してくれることになります。他にも逓信省は商船を管轄するので、管船部長塚原周造にも相談します。その他鍋島直大・藤波言忠・清浦奎吾等なども、この会の趣旨に讃同してくれ、何回かの協議を行います。
当時、金刀比羅宮崇敬講社の講員は300万人を越えいました。その積立金を,救済会設立資金に流用できる手はずになっていたようです。
こうして明治22年5月,正式に「帝国水難救済会設立願」を那珂多度郡長を経由して香川県知事に提出します。10月には,鍋島直大を副総裁に,琴陵宥常を会長に、本部を讃岐琴平に置き,支部を東京・大阪・函館に置くことに決まります。東京支社は、東京芝公園海軍水交社の建物を譲り受けています。そして11月3日(旧天長節)に,琴平本部での開会式後に,多度津救済所で遭難船救助の演習を行っっています。12月には各府県知事に本会役員として会員募集を行ってくれるよう依頼することを決めます。
1有栖川宮威仁親王

翌年明治23年4月には,有栖川宮威仁親王が総裁に就任することになります。こうして,宥常の長年の希望であった水難救済会は,着実な第一歩を踏み出していきます。ここへ来るまでに,宥常が救済会のために使った私財は多大なものであったと言われています。
 明治25年2月に宥常が53歳で亡くなります。
1琴綾宥常 肖像画写真
琴綾宥常 高橋由一作

これを契機に水難救済会の本部は東京に移されます。救済会を国家的事業として発展させてゆくための選択だったのでしょう。そして、生まれだばかりの救助会の帆には、時代の追い風が吹きます。
金刀比羅の宮は畏し舟人が流し初穂を捧ぐるもうべ - 八濱漂泊傳

明治28年日清戦争勃発前後になると、海軍軍艦からの流初穂(流し樽)が多く届けられるようになります。
4月 軍艦筑波から,
7月 磐城から,
明治28年4月 水雷母艦日光丸
6月 再度軍艦磐城から,
9月 軍艦龍田
からの流初穂が届けられています。この傾向は、戦後も続き、10年後の日露戦争の時には、さらに増加傾向を見せるようになります。この頃になると、軍艦だけでなく
海軍軍用船喜佐方丸
海軍運送船広島丸
連合艦隊工作船関東丸
横須賀海運造船廠機関工場造船部関東丸
陸軍御用船盛運丸
津軽海峡臨時布設隊新発田丸
などの陸海軍の御用船からの流初穂も含まれるようになります。これが次第に、一般商船,運送船などからの流初穂の奉納につながっていくようです。
モルツマーメイド号 金刀比羅宮 ( 7 ) | 札所参拝日記のブログ

 明治39年から大正初年までを見ても,
加賀国江沼郡槻越大家七平手船翁丸
東洋汽船株式会社満洲丸
大阪商船株式会社大知丸
日本郵船株式会社和歌浦丸
越中国新湊町帆船岩内丸
越中国氷見町八幡丸
日本郵船株式会社横浜丸
北海道小樽正運丸
加賀国江尻郡橋立村七浦丸
などから奉納が見えます。
 ここから見えてくることは「流樽」というのは、
①日清戦争前後に海軍軍艦 → ②軍関係の船舶 → ③日露戦争前後に民間船
へと拡大していたことが見えてきます。起源は、近代に海軍軍艦が始めたもので、江戸時代に遡る者ではないようです。

 これらはみな流初穂が本社まで届いたので,記事としても残っています。しかし、時には届かない場合もあったようです。明治39年12月,軍艦厳島からの初穂の裏書には,
「奉納数回せしも果して到着せしや否や不分明なれば今回御一報を乞う」

と書かれていたようです。
 以上の記事の見える船の所属機関・所有者を見ると,北海道から九州まで日本全域にわたっています。ここからは、金刀比羅宮が海上守護の神として,広く厚い信仰を集めるようになっていたことがうかがえます。これも神社に転進させた宥常が「海の神」という自覚を持ち,水難救済会創設という国家の仕事を代行するような活動を起したことから始まったようです。
参考文献
  松原秀明                神仏分離と近代の金刀比羅宮の変遷
                                                          

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