瀬戸の島から

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前回は「高松七観音巡礼」をしながら次のような事を見てきました。
①近世初頭の高松周辺には、国分寺・白峰寺・根来寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・長尾寺が観音信仰の拠点となり、人々が「高松七観音巡礼」を行っていたこと。
②このメンバー寺院が、後の四国霊場札所と重なること
③ここからは中世の山林修行者や念仏たちが行っていた中辺路修行ルートが、近世に四国遍路道になっていったことがうかがえること。
④高松西部の五色台周辺の国分寺・白峰寺・根来寺については、本尊が同じ巨木から作られた千手観音という伝えがのこり、山林修行者の拠点として相互に結ばれていたこと。
今回は、高松七観音巡りの後半部の寺院をめぐっていくことにします。
  まずは、屋島寺の千手観音です。
千手観音が、中世に普及するのは、補陀落渡海信仰の影響があるとされています。その中心とされた背景には、那智の補陀落渡海山寺の千手観音が、熊野行者達によって補陀落信仰と共に勧進されたと研究者は考えているようです。
屋島寺の観音さまを研究者は、次のように評しています。

屋島寺千手観音
 屋島寺 十一面千手観世音菩薩
仏教において、衆生を救うため、観世音菩薩はあらゆる姿に変化します。十一面千手観世音菩薩もそのひとつで、頭上には表情を変化させた11の顔、11面をおき、42本の手で千本の手を表現しています。本像は、頭と身体の主要な部分をひとかたまりのカヤ材から彫刻し、像の内部は刳(く)り抜いていません。

屋島寺千手観音3

太い首にハリのある胸、バランス良く構成された脇手、安定感のある脚部と、その造形は見応えがあります。顔立ちは、ふくよかな頬と鼻、厚い唇などが特徴的で、個性的な造形は讃岐における造仏を思わせます。着衣のうち、膝下の部分などには、大小の波を交互にくりかえすようなひだ(翻波式衣文:ほんぱしきえもん)があらわされています。

P1120107 屋島寺 千手観音
       屋島寺 十一面千手観世音菩薩

制作時期は平安時代前期の10世紀の初め頃とみられ、香川県内でもとくに優れた平安彫刻といえます。頭上面およびすべての手は制作当初のものであり、さらに観音像の光を表現した光背がともにのこされていることも大変めずらしく貴重です。屋島寺の本尊として本堂に安置されていましたが、現在は同寺宝物館で公開されています。
 この千手観音の造作時期が平安時代前期で、「県内屈指の古像」とされていることを押さえておきます。

屋島寺縁起絵
屋島寺縁起の屋島寺
屋島寺の縁起について、『四国辺路日記』は次のように記します。
 先ツ当寺ノ開基鑑真和尚也。和尚来朝ノ時、此沖ヲ通り玉フカ、此南二異気在トテ、 此嶋二船ヲ着ケ見玉テ、何様寺院ヲ可建立霊地トテ、当嶋ノ北ノ峯二寺ヲ立テ、則南面山ト号玉フ。是本朝律寺ノ最初也。(中略)
其後、大師(弘法大師)当山ヲ再興シ玉フ時、北ノ峯ハ余り人里遠シテ、還テ化益難成トテ、 南ノ峯二引玉テ、嵯峨ノ天皇ノ勅願寺トシ玉フ、 山号ハ如元南面山尾嶋寺千光院ト号、千手観音ヲ造、本堂二安置シ玉フ、大門ノ額ヲハ、遍照金昭三密行所当都率天内院管門ト書玉フ。
  意訳変換しておくと
 屋島寺の開基は鑑真和上である。鑑眞が唐からやって来たときに、屋島沖を通過した。その際に、南に異常な気配を察して、屋島に船を着けて見てみると、寺院建立に最適の霊地だったので、屋島北峯に寺を立て、南面山と号した。つまり、屋島寺は、日本における最初の律宗寺院である。(中略)
その後退転していたのを、弘法大師が再興する際に、北峯は人里遠く布教には適していないとして、南峯に移した。そして、嵯峨天皇の勅願寺とし、南面山屋島尾千光院と号した。千手観音を造り、本堂に安置した。大門の額には、「遍照金剛三密行所当都率天内院管門」と書いた。

ここに書かれていることを要約しておくと
①開基は鑑眞で、屋島北峯に建立した寺は、日本で最初の律宗寺院であること
②退転して寺を弘法大師が復興し、南嶺に移し、自作の千手観音を安置したこと
③大門の額には、遍照金剛三密行所当都率天内院管門と書いた
①からは、屋島寺の歴史の中で、奈良西大寺の律宗集団が何らかの貢献を果たしていたことがうかがえます。その上に弘法大師伝説が接木されます。空海は門の額に、「遍照金剛は三密を行ずるところに当たり、しかも都率天(とそつてん)の内院の入口である」とあります。遍照金剛は大日如来の別名です。大日如来の浄土は都率天よりもはるかに格の高いところです。しかし、東寺の屋島寺には弥勒菩薩信仰もあったようで、都卒天の内院に入る関門だと書いています。
 ちなみに縁起で空海作とされる千手観音の造立は、空海入定後、数十年後のことになります。空海と同時代のものとはできないようです。また、ここには山林修行者の姿は見えて来ません。

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信貴山絵巻の飛鉢
  縁起には、屋島の飛鉢伝説が次のように記されています。

  其後、南都二赴キ給イテ、参内也。担当寺ニ、鑑真和尚所持ノ衣鉢ヲ留玉フ。 此鉢空二昇テ、沖ヲ漕行船具二飛下テ、斎料ヲ請。

意訳変換しておくと
  鑑真は、(瀬戸内海を航行し)奈良に入る時に。この寺を建立し、鑑真和尚の衣や鉄鉢を残した。この鉢は空を飛んで、沖ゆく船に下りたって、斎料(海関料・寄進)を集めた。

鉢が空を飛ぶことを飛鉢といって、その伝承がいろいろなお寺に残っています。例えば、越後には米山の沖を通る船に米を請うて、船頭が断わると鉄鉢が船のお米が全部山に運んできた。それで米山という地名になったという話があります。また修験者が修行をしていたときに、鉄鉢を飛ばして船から米を全部奪ってしまった話も伝えられています。沖行く船が航海安全のために、奉納品を寺や神社に納めていたことは、以前に庄内半島の三崎神社で話ししました。納めなければ災いが襲うのです。屋島寺も沖ゆく船から多く奉納品を受けていたことがうかがえます。
 鉢を飛ばして奉納品を集めるというのは神仙術です。
山岳宗教は、もとをただせば仙人(道教)の行から始まったもので、仙人の修行をしていると、不老不死の術を得る、からだが軽くなって飛べると考えられていました。それが「原始修験道」です。役行者以前は、そういうことができるのが修験者の理想だったことを押さえておきます。ここからは屋島寺には「山林修行者 + 弘法大師伝説 + 西大寺律宗(鑑眞)」などの痕跡があることがうかがえます。

屋島寺
屋島寺
屋島寺の地理環境を見ておきましょう。
①屋島山上に位置し、西には大きく広がる瀬戸内海があり、沖ゆく船の監視などにも最適
②海に突き出した地形で、補堕落渡海の行場としても適している
③周囲には多くの岩場があり、山岳修行の場として修験者が好みそうな要素あり。
  屋島が戦略的な要衝で、地形的にも山岳信仰の濃厚な寺であったことが分かります。そこに開かれた寺院の本尊が、平安時代前期(9世紀末期~)の「県内屈指の古像」である千手観音なのです。そういえば前回見た高松七観音の国分寺・白峰寺・根来寺もみな千手観音でした。
 また屋島寺は熊野神社を鎮守社としています。
寛文十年頃に高松藩が作成したとされる『御領分中寺々由来』の屋島寺の項には、次のように記されています。

当山鎮守十二社権現(熊野権現)、弘法大師之勧進之也

熊野権現を弘法大師が勧進したというのです。ここにも「熊野信仰 + 弘法大師信仰」の合体が見られます。いつ頃に熊野権現が勧請されたかは分かりませんが、周囲の状況から推察すると
①讃岐大内郡の増吽による水主三山への熊野権現勧進
②備中児島への新熊野(五流修験)の勧進
③佐佐木信綱の小豆島への熊野権現勧進
などと同時期のことと考えられます。熊野水軍の瀬戸内海交易の展開や、それに伴う熊野行者の活動などが背景にあると研究者は考えています。
 大内郡の与田寺で増吽が活躍していた時代の応永14(1407)年の「行政坊有慶吐那売券」には「八島(屋島)高松寺の引 高松の一族」とあり、屋島寺周辺に熊野先達がいたことが分かります。彼らによる勧進かもしれません。
 さらに屋島寺は近世初期の「熊野本地絵巻」を所蔵しています。この種の絵巻は、熊野比丘尼が絵解きした時に使用されたといわれます。ここからは、屋島寺にも熊野比丘尼がいたことがうかがえます。また境内に残る「血の池」も、熊野比丘尼の存在を補強します。

五剣山と壇ノ浦
五剣山と壇ノ浦の塩田
  屋島から東を望むと見えるのが五剣山です。
天を指すような岩稜は海から見ても目立つ山です。次に五剣山山中の八栗寺を巡っていきます。五剣山はその姿から備讃瀬戸を行く海人たちの目印となったことでしょう。そこへ熊野水軍とともに熊野行者がやってきます。彼らがまず探したのは、行場です。行場として五剣山は最適の条件を備えています。彼らが五剣山の行場を見逃すはずはありません。しかし、五剣山には屋島のように古い記録や仏像は残っていません。
 もともと八栗寺は、六万寺の奥院だったようです。
六万寺は源平合戦以前には、屋島を水軍拠点とした平家の保護を受けて、大いに栄えていたようです。その行場が五剣山で、そこに建立された奥の院が八栗寺という関係になります。中世には両寺は深い関係にありました。平家というパトロンを失った六万寺は衰退しますが、修験者や山林修行者の行場としての八栗寺は、その後も生き残っていきます。
 五剣山と八栗寺の名前の由来を、寂本は次のように記します。
 空海は思いを凝らして七日間、虚空蔵聞持法を修した。明星が出現した。21日目に五柄の剣が天から降った。この剣を岩の頭に埋めたことから、五剣山と呼ぶようになった。空海は千手観音像を彫刻して、建てた堂に安置した。千手院と号した。
 この山に登れば、八国を一望に見渡せるため、「八国寺」とも呼ぶ。空海が唐への留学で成果を挙げられるか試してみようと、栗八枝を焼いて、この地に植えた。たちまちのうちに生長した。そこで八栗寺と名を改めた。
 この地も空海が虚空蔵聞持法を修した聖地として、伝わっていたようです。そして空海は千手観音を残したとされています。空海修行の地とされた五剣山には多くの行者達がやってきて、行をおこなったようです。そこに現れたのが八栗寺ということになるようです。八栗寺は蔵王権現を祀り、山岳修行の行場に建立された山伏寺です。

八栗五剣山20111116_085558187
五剣山と壇ノ浦(讃岐国名勝図会)
中央の峰に祀られていたのが蔵王権現です。

五剣山2
八栗寺と五剣山(四国遍礼霊場記)
この峰には七つの仙窟があり、そこには仙人の木像や五智如来が安置されいたと云います。蔵王権現を祀ることから石鎚山と同じ天台系密教修験者の影響下の行場だったようです。中央には、空海が岩面に彫り込んだ高さ一丈六尺の大日如来像があり、そこで空海は求聞持法を行った岩屋があとも記します。絵図ではひときわ高く太く描かれた真ん中の峰が蔵王権現が祀られた峰にあたるようです。いまでも五剣山は、修行の山として機能している霊地です。

八栗五剣山
デフォルメされた五剣山

 澄禅の『四国遍路日記』に、八栗寺の住職から聞いた話として、次のように記します。

昔、義経が阿波の国へ上陸して屋島を目ざす途中、2月18日牟礼高松に来て、八栗寺へ押しかけてきた。その時にこの寺では僧侶が集まって観音講をしていた。ときの声が聞えたので、観音講に集っていた者はみんな後の山へ逃げたが、源氏の雑兵たちは寺へおし入って、観音講のためにつくっておいた釜二つに入っていた飯をよい兵糧があるといって配分して食べてしまった。そうして弁慶は鎧を着たままたわむれにお経を上げたので、皆の者がお互いに笑いあった

この話は、八栗寺独自のものでなく阿波の国の3番金泉寺や大山寺の話のコピー版です。もともとは『平家物語』に出ているもので、説経師や聖たちの「説話運搬者」によって、八栗寺にもたらされたものでしょう。ここで私が注目したいのは「僧侶が集まって観音講」を開いていたという所です。中世には、八栗寺でも観音信仰が強く、観音講が組織されていたことがうかがえます。これらの講に集まる人々が、聖や山伏を先達として、高松周辺の七観音霊場を「ミニ巡礼」していた姿が想像できます。ここでは中世には、千手観音を信仰する観音講が開かれていたことを押さえておきます。

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 志度寺の扁額「補陀落山」
志度寺の扁額には「補陀落山」と書かれています。
 さぬき市文化財保護協会発行「さぬき市の文化財」は、この寺の本尊十一面観音立像について、次のように記します。

  志度寺本尊の十一面観音立像は像高146cmで桧材の一木造りである。十一面観音は頭上に十一面の仏面をいただき、衆生の十一の苦しみを転じて仏果を得させる。広大な功徳を形に表した尊像であり、
頭上の仏面の正面3面は慈悲の相、
左方3面は慎怒相(しんぬそう)、
右方3面は白牙上出(はくげじょうしゅつ)の相、
後方1面は大笑(だいしょう)の相で、
頭頂1面は阿弥陀仏面を表している。
今まで見てきた高松七観音の本尊は、すべて千手観音でしたが、志度寺は十一面観音です。
この本尊の由来について、「志度道場縁起文」7巻の1編目の『御衣本縁起』は、次のように記します。

 近江の国に白蓮華という非常に大きな木があった。雷が落ちて琵琶湖に流れ出したが、その木の行さきざきで災いが起こるので、瀬田から宇治に、宇治から大坂に、そして瀬戸内海にまで流された。着岸したところで疫病がはやる、また突き出されて次の浦に流れつく。とうとう志度の浦に流れ寄って、それで十一面観音を刻んだ。

 これはどこかで聞いたことがあると思ったら、「長谷寺縁起」のSTORYとおなじです。長谷寺で観音さまになったはずの木が、禍を引き起こすので流され、流され、讃岐の志度までやってきて流れ着いた話になっています。そういえば白峯寺縁起も、補陀落から流れ着いた巨木で、国分寺・白峰寺・根来寺の千手観音は作られたと書かれていました。文保二年(1218)という年号があるので、鎌倉時代末にはできあがっていことが分かります。今まで見てきた寺の観音さまに比べると、少し遅れて現れたことになります。薗の尼という比丘尼が発願し「一幅二図シテ」絵図化したのが「御衣木之縁起」になります。
志度寺縁起 御衣木縁起部分
「御衣木之縁起」(霊木が志度に流れ着いた部分)
  この話の下敷きは、長谷寺縁起です。それを「流用」「改変」したのも説経師や高野聖などの「説話運搬者」だったのでしょう。志度寺の7つの縁起からは、寄進・勧進を進めた下級の聖たちが垣間見えてきます。
 志度寺の縁起は、どんな時に、どんな場所で語られていたのでしょうか?
 志度十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵を見せながら絵解きが行われていたのではないかと研究者は考えてます。囚果応報を説くことは、救いの道を説くことと同時に、志度寺に対する寄進・勧進などを促します。前世に犯したかも知れない悪因をまぬかれる(滅罪)ためには、仏教的作善を果たせと説きます。作善とは「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」などでした。
高野聖は、志度寺をどのように運営・プロデユースしたのか?
 聖たちがまずやらなければならなかったことは、勧進のために知識(信仰集団)を組織することです。講を結成して金品や労力を出しあって「宗教的・社会的作善」をおこなうことの功徳(メリット)を説くことでした。その反対に勧進に応じなかったり、勧進聖を軽蔑したためにうける悪報も語ります。奈良時代の『日本霊異記』は、そのテキストです。唱導の第1歩は、次の通りです
①縁起や諸仏誓願や功徳を説き
②釈尊の本生(前世)や生涯を語り、
③高僧の伝記をありがたく説きあかす。
これによって志度寺のありがたさを知らせ、信仰と作善の大切さを説きます。一般的には『今昔物語集』や『沙石集』が、このような唱導のテキストにあたるようです。
第2のステップは、伽藍造営や再興の志度寺の縁起や霊験を語ることです。
縁起談や霊験談、本地談あるいは発心談、往生談が地域に伝わる昔話を、「出して・並べて・くっつけて・・」とアレンジして、リニューアル・リメイクします。これらの唱導は無味乾燥な教訓でなく、物語のストーリーのおもしろさとともに、美辞麗句をつらねて人々を魅することが求められます。これが7つの志度寺縁起になるようです。
 
 4343286-40志度寺
志度寺(讃岐国名勝図会)
 盆の九日に、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。
さらに翌日の十日に参ると「万日参りの功徳」があると云われていたようです。こうして盆には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来るソラ集落の人たちたくさんやってきました。参詣者はこれを買って背中にさして、あるいは手に持って家に戻って来ります。これには先祖の霊が乗りうつっていると信じられていたようです。海から帰ってくる霊を、志度寺まで迎えに来たのです。帰り道に、霊の宿った樒を地面に置くことは御法度でした。樒は盆の間は、家の仏壇に供えて15日が来ると海へ流します。先祖を再び海に帰すわけです。ここからも志度寺は「海上他界信仰」の寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。まさに「死渡」寺だったのです。
十一面観音 志度寺
志度寺 十一面観音図
これを演出・プロデュースしたのが高野聖です。彼らは先達と鳴ってなって富裕層を、高野山へと誘引する役割も果たしました。そして、志度寺の周りには、聖たちの坊や庵・子院が並ぶことになります。

  最後に長尾寺を見ていくことにします。
  長尾寺は、もともとは志度寺の末寺だったと研究者は考えているようです。調査書に載せられている長尾寺の仏達を見ていくことにします。伽藍の建物の建立順番について調査報告書は、次のように推察しています。
A 観音堂(本堂)→ B 阿弥陀堂 →C 護摩堂 → D 大師堂
2 長尾寺 境内図寂然
長尾寺(四国遍礼霊場記)
それぞれの建物の成り立ちを考えると、次のようになります。
A「観音堂」(本堂)とその鎮守・天照大神(若宮)は、熊野行者が最初にもたらしたもの
B「阿弥陀堂」は、高野聖たちがもたらしたもの。
C「護摩堂」は、真言(改宗後は天台)密教の修験行者の拠点
D「大師堂」は四国巡礼の隆盛とともに大師信仰の広がりの中で建立。
 ここからは長尾寺を開いたのが熊野行者たちだったことがうかがえます。
長尾寺は江戸時代前半までは「観音寺」と呼ばれ、観音信仰の拠点センターでした。
残念ながら長尾寺の観音さまは、秘仏とされお目にかかることはできないようです。しかし、過去に調査されたことがあるようで、『文化財地区別総合調査報告 第1集 香川県教育委員会、1972年)には、次のように記されています。

右手を屈腎して胸前におき、左手も胸前で蓮華を持つ立像である。檜材寄木造、平安時代の作

  秘仏本尊の前立像として安置されているのがこの観音様です。

長尾寺 聖観音立像
長尾寺 本尊の前立仏の聖観音
一見すると顔立ちや雰囲気が鎌倉時代風の聖観音です。志度寺も聖観音でした。長尾寺は、志度寺の末寺からスタートしたとすると、それは当然のことかもしれません。
 この観音さまは、初代高松藩主・松平頼重が寄進したもので、台座裏に元禄6年(1693)正月の墨書銘があるので、17世紀後半の観音さまでです。しかし、本尊を模して作られた可能性はあります。

長尾寺 聖観音台座墨書
前立ちの聖観音台座の墨書 源英(松平頼重)の名が見える

以上、「高松七観音巡礼」をおこなってきました。その中で、千手観音が本尊として安置されている所が多かったようです。それはどうしてなのでしょうか? これを解く鍵は、熊野信仰との関わりです。

補陀洛山寺(ふだらくせんじ) 和歌山県東牟婁(むろ)郡那智勝浦町 | 静地巡礼
補陀洛山寺の三面千手観音

 補陀落信仰の中心となった熊野那智の補陀洛山寺(ふだらくせんじ)の本尊は、三面千手観音です。ここからは、熊野行者によって四国に補陀落信仰が持ち込まれ、その本尊として千手観音が作られたことがうかがえます。
 補陀落信仰を受けた「高松七観音」の寺院も、その開基に熊野行者が大きな役割を果たしたことが考えられます。そこに遅れて来るのが高野聖です。彼らは阿弥陀信仰と弘法大師信仰をもたらします。こうして、近世になると観音信仰から弘法大師信仰へと、信仰主体を交代させ四国霊場札所が姿を見せるようになるとしておきましょう。
 
 以上を整理しておきます。
①古墳時代以来、大和勢力の朝鮮との交易活動をになったのが紀伊勢力(後の紀伊水軍)であった。
②彼らは熊野信仰を持ち、熊野業者を航海の安全祈祷の祈祷師として乗船させて、瀬戸内海を行き来した。
③こうして熊野行者は熊野水軍の先達として、各地に拠点を構え、その地で行場を開くようになった。
④その代表例が、吉備の新熊野(五流修験)や、大三島神社の社僧集団であった。
⑤こうして、讃岐でも高松周辺の五色台や屋島・五剣山などには、早くから熊野行者が入り込み、行場を開き、そこに寺院を建立した。
⑥その際に本尊として安置したのが、熊野那智の補陀洛山寺(ふだらくせんじ)と同じ、千手観音であった。
つまり、高松七観音は熊野信仰で結ばれていたと私は考えています。そのため対岸の吉備の五流修験とも密接な関係があったように思います。
四国へんろの歴史 四国辺路から四国編路へ | 武田 和昭 |本 | 通販 | Amazon
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭  讃岐の七観音  四国へんろの歴史15P」
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調査書に載せられている仏達を見ていくことにします。
近世に伽藍復興の際のお堂再建の順番は、
A観音堂(本堂)→ B阿弥陀堂 → C護摩堂 → D大師堂

のようです。それぞれのお堂を成り立ちを考えると
A「観音堂」(本堂)とその鎮守・天照大神(若宮)は、熊野行者が最初にもたらしたもの
B「阿弥陀堂」は、高野聖たちがもたらしたもの。
C「護摩堂」は、真言(改宗後は天台)密教の修験行者の拠点として
D「大師堂」は四国巡礼の隆盛とともに大師信仰の広がりの中で建立されもの。
   各お堂の成り立ちを見ても、熊野行者と高野山の念仏系聖たちの果たした役割は大きかったことが分かります。近世に再建された宗教施設は、この寺の宗教的重層性を反映したものなのでしょう。それでは、それぞれのお堂に、どんな仏達が安置されていたのか見ていくことにしましょう。

本堂に安置されている本尊・聖観音立像は秘仏
長尾寺は江戸時代前半までは「観音寺」と呼ばれ、観音信仰の拠点センターでした。その観音さまは、秘仏とされお目にかかることはできないようです。秘仏とされる聖観音の制作者とされる人たちを見ておきましょう。
聖徳太子(「御領分中寺々由来」)
行基(「補陀落山長尾寺略縁起」)
弘法大師(『四国辺路道指南』、『四国遍礼霊場記』)
など諸説あるようです。創建の由来と同じく分からないということのようです。ただ、近世まで長尾寺の本山だった宝蔵院の記録「古暦記」には、文永元年(1264)と永仁6年(1298)に開帳されたという記録はあるようです。また、天正年中に諸堂が焼失した際も本尊だけは遺されたこと(前出「略縁起」)などが伝えられています。
 過去に撮影された写真もあり、そこからは右手を屈腎して胸前におき、左手も胸前で蓮華を持つ立像であるようで、香川県教育委員会が実施した調査では、檜材寄木造、平安時代の作と報告されています。(『文化財地区別総合調査報告 第一集_香川県教育委員会、1972年)。
  しかし、これ以上は分かりません。

長尾寺 聖観音立像

秘仏本尊の前立像として安置されているのがこの観音様です
一見すると顔立ちや雰囲気が鎌倉時代風です。しかし、研究者は次のように指摘します。
 「窮屈そうな上半身や動きの少ない下半身、直線的な側面観や簡略化された背面の作風から、台座裏の墨書銘にみえる元禄6年(1693)正月頃の作とみて大過ないであろう。作者は地方仏師と思われる。」

台座裏に墨書名があるようです。見てみましょう。
長尾寺 聖観音墨書

奉寄進 元禄六
聖観音正月一八日 源英
讃岐高松藩初代藩主松平頼重の号は「龍雲軒源英」ですので、松平頼重によって寄進されたことが分かります。前々回にお話ししましたように、松平頼重はこの寺を天台宗の拠点寺院に仕立てていくために、元禄期に本堂や仁王門などを寄進しています。新しくなった本堂へ秘仏の前立像として寄進したのがこの観音さまだったようです。
松平頼重が保護した天台宗の寺としては、金倉寺と根来寺があります。
根来寺には、彼が京都の仏師に発注して造らせた見事な四天王像があります。もともとは、彼の隠居屋敷の護摩堂用のものだったのが、後に根来寺に移されたもののようです。このような仏像発注を見ても、松平頼重には宗教的なブレーンがいたことがうかがえます。思いつきや一時的な宗教心で行っているものではないようです。
 自分が日常的に祈る四天王は京都の仏師へ発注し、長尾寺の前立・世観音像は地方仏師というような「格差」も興味深いものがあります。
長尾寺 阿弥陀如来坐像11
 阿弥陀如来坐像

 最初に見たとき「ニッコリと微笑んでいるお地蔵さんみたいな阿弥陀さま」という印象でした。材質は何なの?という疑問も涌いてきました。報告書を見てみましょう
「肩上から顔面および背面上部は銅造で、頭部前面の地髪・肉醤部、体部および後頭部は鉄造。印相は阿弥陀定印(上品上生印)とみられる。鋳型は頭部の耳後ろから、体側部は両肘手に沿って膝に至る前後に分けて作られ、一鋳で造られているようにみえる(あるいは頭・体部別鋳かもしれない)。
また後頭部の形状からみて、元の肉醤部は現状より高かったように見える。背面から両肘にかけて鋳上がりの悪いところがあり、割れが入っている部分がみられる。」
つまり「肩から上は銅、躰と頭は鉄」でできているということのようです。銅と鉄との耐久性の問題もあるのでしょうが、銅で造られたお顔周辺部分はきちんと残っているが、躰の部分は腐食して錆落ちた状態のようです。しかし、それが「景色となり、味わい」を出しているようにも見えてきます。
 いつ頃のものなのでしょうか。調査書には、次のように記されています。
「頭部は大きな肉善や地髪に小粒の螺髪が整然と並んでいて平安時代後期の様式を示しているが、面貌表現には白鳳仏を想わせる微笑をたたえるなど違和感もみられるので、鉄造の体部とは同時に造られたのではなく、後世に体部に合わせて造られたのではなかろうか。体部は左胸から腹前にかかる平行線状の衣文線の表現や堂々とした側面観・背面観からみて平安時代後期の定朝様を踏襲した作と推定される。像底からみた形状にも安定感がある。

この仏像は
頭部の螺髪は平安時代後期
表情は白鳳仏の微笑み
体部は平安後期の定朝様
と時代が異なる要素が混じり込んでいるようです。そのために銅製の頭部は
「鉄造の体部とは同時に造られたのではなく、後世に体部に合わせて造られたのではなかろうか。」
と研究者は考えているようです。  整理すると
①白鳳時代に銅製で全体が造られた。
②その後、体部と頭部の螺髪が破損した
③それを平安後期に鉄製で補修した。
ということでしょうか。
  「ニッコリと微笑んでいる」という最初の印象は「白鳳仏の微笑み」からきているものだったようです。びっくりしました。
長尾寺 阿弥陀如来坐像

平安時代後期になると木彫仏が主流になりますが、それでも少数は木彫風の金銅仏が造られていたようです。それは飛鳥・奈良時代の様式と少しちがうものでした。また、鉄で造られた仏も、朝鮮半島の新羅では多く造られています。しかし、日本では少数派で鎌倉時代にわずかに造られているに過ぎないようです。そうした状況からすると本像も鎌倉時代に作られた可能性もでてきます。しかし、研究者は

「後頭部の立ち上がりや胸から腹に至る衣紋線、膝前の衣の処理などには平安時代の様式が認められるので、ここでは平安時代後期の造像とみておきたい。また、数少ない鉄造仏として注目したい」

と結論づけています。

 平安時代後期に修復されたこの阿弥陀さまを、長尾寺にもたらしたのはどんな人たちだったのでしょうか。
 中世のこの寺を考える場合には、志度寺を抜きにしては考えられません。志度は瀬戸内海の熊野水軍の寄港地として発展し、その港の管理センターとして志度寺が発展します。その管理は、熊野行者達が担うようになります。そして、熊野行者は補陀洛渡海の行場としての志度寺と山岳宗教の拠点となる女体山の大窪寺を「辺路」するようになります。
 さらに、室町時代になると高野山の念仏系聖たちがやってきて周辺農村部への勧進と布教活動を進めます。
彼らは次第に村々に迎えられ、そこに庵を結び定住していくようになります。長尾は志度寺のヒンターランドで、その寺域の中に入っていました。長尾寺は、そのような志度寺の子院のひとつとして生まれたと研究者は考えているようです。
 阿弥陀信仰や念仏信仰をもたらしたのは高野聖たちであり、彼らの登場が阿弥陀仏の出現と阿弥陀堂建立につながるというのが私の仮説です。長尾寺の本堂に安置される阿弥陀仏は、高野聖たちが熊野水軍の舟に載せられ志度までやってきて、それを陸路で長尾まで運んできたものと勝手に私は想像しています。
 近世になって長尾寺は真言宗から天台宗に改宗され、阿弥陀信仰は忘れ去られ、阿弥陀堂も再建されなくなります。そこに祀られていた阿弥陀さまも安住場所を失い、本堂に移ってきたものなのではないでしょうか。
長尾寺 不動明王
長尾寺の不動明王立像(本堂)

この不動さまを見たときの私の印象は「上半身と下半身が別物のよう・・・洗練されていない素人ぽい不動さま」でした。逆に見ると、専門の仏師の手によらない半素人の修験者が造ったのかも・・・と思えたりもしました。
専門家の評価を見てみましょう。
全体に大まかで荒々しい表現や太く頑丈な足柄およびその腐朽状況からみて15世紀頃の地方作と推定される。なお、台座裏に墨書銘(写真91)があり、享保3年(1718)に台座が新補されたことが分かるが、像自体は室町時代頃の作とみて良いと思われる。

室町時代の在地仏師の作品という評価のようです。江戸時代に造られて台座裏に墨書があるようです。見てみましょう
長尾寺 不動明王墨書銘

享保3年(1718)吉日 長尾観音寺不動
補堕落山観音院長尾寺
為春月妙香尼 秋月妙花尼 菩提也
施主 寒川郡石田村山王
   遠藤藤左衛門 為二世安全
この時点では、地元ではまだ「長尾観音寺」と呼ばれていたことが分かります。施主の石田村山王の遠藤藤左衛門が、「春月妙香尼と秋月妙花尼」の「菩提」のために寄進したとあります。
 長尾寺の「過去帳」(古文書古記録3-1)には、寒川郡石田村の遠藤伝次郎家の先祖に、正徳4年(1714)3月20日に死去した「春月妙香信女」と、遠藤金左衛門家の先祖として、享保2年(1717)9月21日に死去した「秋月妙香信女」が記されているようです。台座の「春月妙香尼」「秋月妙香尼」はこの両名のようです。ここから、このお不動さまの台座は、「秋月妙香信女」が亡くなった翌年に供養のために寄進されたことが分かります。石田村山王は、山王権現周辺で現在の寒川支所の辺りになるようです。
 この時期は、松平頼重やその子達によって進められた「元禄期の長尾寺再建」により伽藍が一新した時期です。その後は鐘楼の鐘や各堂内の備品などが、地域の有力者の寄進によって整えられていく時期でもありました。そのような中での石田村山王の庄屋からの寄進のようです。不動さまは室町時代、その台座は江戸の享保年間のものということになります。
このお不動さまは、どこにいらっしゃったのでしょうか。
  いまは本堂にいらっしゃいますが、もともとは護摩堂に安置されていたのではないかと私は考えています。
長尾寺 黄不動

今、護摩堂に安置されているのは黄不動立像(写真99)のようです。
 黄不動立像とは円珍と関係のある仏で、比叡山や唐に渡る際に再三、身の危険を救われたとされます。文章博士・三善清行の『天台宗延暦寺座主円珍和尚伝』(902年)には、次のように記されます。
承和5年(838年)冬の昼、石龕で座禅をしていた円珍の目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧めた(「帰依するならば汝を守護する」)。円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っていると答えた。その姿は「魁偉奇妙、威光熾盛」で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に銘じて写させた。

 黄不動は後世に模作されたものが、現在6つほどのこっているようです。そのひとつが長尾寺のこの像になります。ここからは、この像が真言宗から天台宗に改宗された後に、円珍由来の黄不動として造られたことがうかがえます。そして、今まで安置された護摩堂に、旧来の不動さまに替わって置かれたと私は考えています。そして旧来のお不動さまは、本堂に安置されるようになったのではないでしょうか。これも「観音寺から長尾寺」へのリニューアル策の一環であったのでしょう。

長尾寺 毘沙門天立像4
 昆沙門天立像

頭に宝冠を被り、右手に戟を持ち、左手は・・・今は何もありませんが宝塔を捧げ持っていたはずです。邪鬼ではなく地天女及び二鬼(尼藍婆、毘藍婆)の上に立つはずですが・・・???
 見るからに西域風の出で立ちです。兜跋毘沙門天(とばつ びしゃもんてん)と呼ばれるとおり、兜跋国(現中国ウイグル自治区トルファン)出身のお方です。この方は、一人の時には毘沙門天と呼ばれますが、4人組ユニットの「四天王」のメンバーの時には、多聞天と呼ばれます。守備エリアは、北方です。
 この毘沙門天は、様式的には先ほど見た不動明王さまと共通点が多く、同じ仏師の手で同時期に造られたものではないかと研究者は考えているようです。
 なお、足下に踏みつけている邪鬼は、彩色は後に塗り直されていますが、当初の作とみられ、顔の表情や筋肉表現には見るべきものがあり、15世紀室町期の地方作と研究者は考えているようです。
長尾寺 毘沙門天台座墨書銘
  
  この台座裏にも上のような墨書銘があります
「享保三(1718)成天初冬吉日」
「右為真元円照 春花智清 各菩提也」
「寒川郡石田村山王 施主為二世安全 遠藤藤左衛門」
さきほどの不動明王の台座寄進者の「遠藤藤左衛門」と同じで、寄進日も字体も同じです。「過去帳」には、寒川郡石田村山王の遠藤伝次郎家の先祖に、正徳元(1711)年6月21日に死去した「真元円照信士」と、正徳6(1716)年3月9日に死去した「春花智清信尼」が記載されています。台座の「真元円照」「春花智清」は、この2人のようです。墨書銘から、享保3(1718)年初冬に遠藤藤左衛門が先祖の菩提供養のために、不動明王立像の台座とともに寄進したようです。

 ここで遠藤伝次郎が享保3年に寄進したのは台座だけなのか、それとも2つの仏像も一緒に寄進したのかという疑問が涌いてきます。不動さんと毘沙門天さんは、同時代・同一工房で造られた可能性を研究者は指摘していました。ここからは次のような2つのことが考えられます。
①不動明王と毘沙門天はセットで、従来から長尾寺に伝来していた。それに台座をそろえて寄進した
②享保3年に、2つの仏像と台座をそろえて遠藤氏が寄進した

報告者は、「松平頼重によって寄進された前立の聖観音立像の脇立としてセット」したと考えているようです。遠藤氏が室町時代の仏像に新たな台座をつけて寄進したということでしょう。しかし、これに対しては、私は違和感を感じます。先ほど述べたように、この寺の成り立ちとして修験者が守護神し、護摩堂にまつる不動明王が祀られていたはずだからです。新たに天台宗の黄不動明王を招いたとしても、従来ものを破棄するとは考えにくいのです。しかし、不動さまと毘沙門天はセットであったとすると、それまで毘沙門天はどこにいらっしゃたのかという疑問も涌いてきます。「今後の検討課題」ということにしておきましょう。
長尾寺吉祥天

最初の印象は「華やかな吉祥天 しかし、顔立ちは古風」という感じでした。近代に「加飾」(お色直し)されてされているようです。そのために身につけてものがモダンで近代風に見えます。しかし、頭のてっぺんなど見えない部分は加飾されず、木質部がそのまま露出しているようです。白髪染めがされていないようなものかもしれません。そこからみえる木質は、腐朽状況から近代のものではなく「相当の年月を経てきた」もののようです。
 そう言われて改めて全体を見てみると量感はふくよかです。
「側面観や大きな足柄など、平安時代の様式が看取される。」

と研究者は評価します。顔立ちが古風と感じたように、天平美人につながるものがあるような気がしてきます。近代のお化粧直しは、もとの彩色や木質部分を削り直して彩色が施されたようで、原型が分かりにくいようです。しかし、「平安時代の作であった可能性」を研究者は指摘します。
長尾寺 弥勒如来

 左手を与願印、右手を触地印とする珍しい印相の弥勒如来です。
この印相は日本ではほとんどなく、中国や朝鮮半島で如来の通印とされるものです。顔立ちがお茶目で、おもわず微笑んでしまいそうになります。指も長いです。研究者はこの仏を次のように評価します。

長い指の表現など様式から見て朝鮮半島・高麗時代の作、または中国の作とみられる。この印相の如来は韓半島でよくみられる。また韓半島では日本以上に弥勒信仰が盛んであった。
 朝鮮半島の高麗時代の作品と考えているようです。伝来の経緯は分かりませんが、秀吉の朝鮮侵略の際の「戦利品」というのが考えられます。

最後に大師堂の大師達を見ておきましょう
大師堂は、弘法大師信仰の広がりと共に、どこの霊場にも宗派に関係なく江戸時代注記頃から姿を見せるようになります。そこに安置されるのはもちろん弘法大師像です。しかし、ここは天台宗のお寺ですからどうなのでしょうか?どんな大師さんがいらっしゃるのでしょうか。長尾寺の大師堂には3人の大師がいらっしゃいます。
  
長尾寺 弘法大師座像

真ん中に弘法大師、
長尾寺 天台大師

向かって右側が天台大師
長尾寺 円珍坐像

左が卵頭がトレードマークの智証大師という並びになっています。
天台宗のお寺らしい大師堂という感じです。3つの大師像を見ると、同一仏師の作だということは一目で分かります。大師堂が作られた時に、都の仏師に同時に発注したもののようです。それは18世紀前半のことでしょう。それを示す墨書名はないようです。

お堂とそこに安置されている仏達を見てきました。それは長尾寺の成り立ちを考えることにもつながるようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献 
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年

長尾寺 本堂と境内 1921年

仁王門から真っ直ぐに本堂に近づいていくと違和感を持つのは屋根の形です。天守閣に見られる入母屋の千鳥破風が正面に出ています。それを下の唐破風が受け止めている印象です。なぜわざわざこんな荘厳(デザイン)にしたのだろうかという疑問がわいてきます。その疑問を抱きながら調査報告書で本堂の項目を読んでいきます。本堂については次のように記されます。

[柱間装置]
正面中央間は諸折の桟唐戸、正面両脇間と両側面第1間。第2間は横舞良戸を引違とし室内側に明り障子1枚が立つ。その他各間は白壁とする。内部の内外陣境は透かし格子戸引違。
[床 組]
切石の束石に床束立ち、大引に根太組。外陣は板敷、内陣は板敷で手前側に畳3枚を敷く。脇陣は各々9畳の畳敷とする。
長尾寺 本堂平面図
長尾寺本堂平面図

本堂の歴史について見ておきましょう。
①8世紀後半の瓦が出土しているので周辺有力豪族の氏寺として、建立された。
②中世の本堂は不明だが戦国時代末期に本堂以外は兵火により灰焼に帰したと伝える。
③江戸時代に入り、生駒氏によって再興されたと伝わる
④初代高松藩主松平頼重が天和3年(1683)11月、真言宗から天台宗への改修を命じ、以後伽藍の整備が集中的に進められた。
松平頼重によって改修された本堂については、蓮井家文書(156-201「覚」)に記述があるようです。
それによると、元禄7年初頭、「長尾寺観音堂御再興奉行」に郡奉行矢野孫八郎組の永井孫吉が命じられています。
4月6日には「観音堂御普請、大工頭領多兵衛・甚左衛門てうな始」とあります。この日から観音堂の普請が始まったようです。
2ヶ月後の6月6日には「観音新堂棟上ヶ」とあり、6月初旬には棟上げが行われています。さらに、
「八月十三日迄二観音本堂・二王(仁王)堂・阿ミた(阿弥陀)堂迄普請相済、同日より長尾寺寺(ママ)諸材木てうな始」
とあります。ここからは、観音堂の他に仁王堂や阿弥陀堂の普請も同時に行われていて、8月中旬にはある程度まで終了していたようです。
長尾寺 棟札(観音堂再興5) (1)

しかし、長尾寺に残る観音堂(本堂)や阿弥陀堂再興の棟札(棟札5・9)の年代は、元禄14年(1701)9月18日です。蓮井家文書の記録とは一致しません。
普請が終わった後も手が加えられ、元禄14年になって落成したと研究者は考えているようです。このときの本堂(観音堂)の大きさは棟札(棟札5・8)から三間半四方の規模だったことが分かります。
松平頼重によって建立された本堂は、幕末の嘉永7年(1854)には拡張され「五間半四面」で建て直されています。それが現在の本堂です。幕末にはそれだけの「需要」があり大型化が必要とされたようです。その背景は何だったのでしょうか。それは後で考えることにして、幕末に大型化し再建されたことを押さえておきます。建設後百年以上経った昭和35年(1960)と平成19年(2007)に、屋根の雨懸り部材や、内部の建具などの改修が行われたようです。このように長尾寺の本堂は、棟札や記録等から近世以降の沿革がはっきりしていて貴重です。

長尾寺 本堂千鳥破風

専門家の本堂の評価を聞いてみましょう。
「来迎柱が本屋背面柱筋まで後退し、内陣脇陣境が開放的な平面形式に特徴があるほか、向拝をはじめ各所に用いられた彫刻の豊かさも特筆される。また、千鳥破風の桟唐戸の構えは、年に一回、一月七日に行われる大会陽(だいえよう)の際に開かれ、その前に櫓を組んで住職が宝木を投下する(現在は餅を撒く)ために使われるもので、当堂における最大の特徴といえる。
入母屋屋根の垂木は、向拝部の平行垂本を除き、すべて扇垂木として雄大な外観を呈する。妻飾り、二重虹梁など、新材に補修の痕跡が認められるものの、江戸時代末の大型三間堂として貴重である。」
長尾寺 本堂会陽舞台

ここからは、「千鳥破風の桟唐戸の構え」が大会陽の時に、住職が宝木を投下するための舞台に変身することが分かります。確かにこの本堂を見ながら変わっているなあと思っていたのですが、宗教イヴェントの晴れ舞台になるのです。

 大祭や開帳などの宗教イヴェントが大衆化し、19世紀になって大型化するといままでにないような参拝者が集まるようになります。そのため大衆的な人気や祭礼イヴェントを持つ寺院では本堂が大型化していきます。金比羅さんの金堂(現旭社)や善通寺の誕生院の本堂が大型化するのもこの時期です。同時に、本堂前の空間をできるだけ広く取るようなレイアウトが伽藍配置にされるようになります。これもそこで繰り広げられるイヴェントを意識したもののようです。
長尾寺 本堂と境内 1909年

長尾寺でも大会陽のための本堂が幕末に登場し、それが現在まで大切に維持されてきたようです。長尾地区だけでなく周辺のイヴェントセンターの場としての役割を求められ、それに応えるための宗教空間が出現したとしておきましょう。そして、その公的役割を果たしていたからこそ、明治に30年間も仮郡庁として機能を果たしたのででしょう。
長尾寺 西大寺会陽1

それでは、「大会陽」とは何なのでしょうか?
 この行事を今でも行っているのは、岡山県西大寺です。昔は、長尾寺と西大寺は会陽の音が響きあっていると云われたようです。西大寺の会陽の音は志度寺や長尾寺に響いてくる。その晩、耳を地面に付けて、その響き聞いた人には幸運があるということが、江戸時代の俳句の歳時記には書いてあるようです。海を挟んで志度寺に伝わっていたものを、長尾寺が継承していたと研究者は考えているようです。
 西大寺の場会は、シソギ(神木・宝木)と称する丸い筒を奪い会います。
西大寺文化資料館:西大寺会陽の宝木
西大寺の寛政9年の牛玉宝木(神木)

 所によっては、1つの寶木を割って『陰』『陽』の2本にわかれるようにしたところもあるようです。その場合は福男は2人出ることになります。これに香を塗り込み、牛玉宝印(ごおうほういん)で包みます。包み方はそれぞれの寺、神社で異なるようで、何重にも包んだり、お札や小枝とともに包んだりしたようです。
会陽って何だろう-寺社の紹介(備前地区)

 この上に牛玉宝印を何枚も糊で貼って離れないようにして、筒のままで何万という裸男の中に放り込みます。奪い会っているうちに割れてしまうので、最後に二人の人がこれを手に入れることになります。時には、割れずに一人が手中にすると、モロシソギといって二倍の賞品がもらえたようです。
会陽って何だろう-寺社の紹介(備前地区)

この神木の中にある牛王宝印とは、神社や寺院が発行するお札、厄除けの護符のことです。神社では牛王神符ということもあります。略して牛王(ごおう)・牛玉とも書かれて、中世文書には良く登場してきます。もともとはカラス文字とも呼ばれ、熊野神社で用いられていたもののようです。それが熊野行者の全国展開と共に各地の神社仏閣に広がっていきました。
 そして牛王宝印は、厄除けのお札としてだけでなく、その裏面に誓約文を書いて誓約の相手に渡す誓紙としても使われるようになります。牛王宝印によって誓約するということは、神にかけて誓うということであり、もしその誓いを破るようなことがあれば、たちまち神罰を被るとされました。
牛王宝印- 熊野の本宮・速玉・那智、天川村の龍泉寺: Neko_Jarashiのブログ
 牛王宝印を熊野ではカラス文字を使ってデザインしています。
ひとつひとつの文字が数羽のカラス(と宝珠)で表されているのです。そのため、熊野の牛王宝印は俗に「おカラスさん」とも呼ばれます。
 牛王宝印のカラスの数は増減しますが、現在の牛王では、本宮は88羽、新宮は48羽、那智は72羽のカラス文字で五つの文字が表わされています(右の写真は本宮の牛王宝印)。
本宮の烏の数が88羽なのと、中世の熊野行者が四国辺路の原型を形作ったとされることから「四国88ヶ寺」の88もここから来ているのではないかという新説も最近は出されています。
熊野三山の烏牛王符だけが「牛王(牛玉)宝印」じゃない!~各地の牛玉札のバリエーション&蒐集の記録と探訪記~(随時更新) (2ページ目) -  Togetter

 牛王のなかで最も神聖視されていたのは熊野の牛王でした。
とくに武将の盟約には必ずといっていいほど、熊野牛王が使われいます。『吾妻鏡』には、源義経が兄・頼朝に自らの誠実を示すための誓約文を熊野牛王に書いたことが記されています。熊野の神への誓約を破ると、熊野の神のお使いであるカラスが三羽亡くなり、誓約を破った本人は血を吐いて地獄に堕ちるとされていました。
 また、熊野牛王を焼いて灰にして水で飲むという誓約の仕方もありました。熊野牛王を焼くと熊野の社にいるカラスが焼いた数だけ死ぬといわれます。その罰が誓約を破った人に当たって即座に血を吐くと信じられ、血を吐くのが恐くて、牛王を飲ますぞといわれると、心にやましいものがある者はたいがい飲む以前に自白をしたと云います。元禄赤穂事件では、赤穂浪士が討ち入り前の連判状に熊野牛王を使ったようです。
 このように熊野牛王は誓約に用いられた他にも、家の中や玄関に貼れば、盗難除けや厄除け、家内安全のお札にも霊験あらたかとされました。こうしてこのカラス文字で書かれた札自体が信仰の対象となっていきます。仏前でみんなで奪い合うのにふさわしいお札だったようです。
 同時に、ここには熊野信仰と熊野行者の活動がうかがえることに注意しておきたいと思います。志度寺には熊野行者の影響も多かったようです。そして、志度寺を通じて長尾寺にもその影響は及んでいたことがうかがえます。

 長尾寺の絵巻物で「会陽」を見ると、西大寺と同じように、神木だけでなく串牛玉をたくさん上から投げています。そうすると、たくさんの人がそれを拾っていくことができます。当事の人たちにとって牛王宝印というのは本尊さんの分霊と考えられていたようです。分霊をいただいて自分の家へ持って帰っておまつりをすると、観音さんの霊が自分の家に来てくださる、そんな思いで参加していたようです。

 餅撒きというのがありますが、これも御霊を配る神事です。
長尾寺 西大寺会陽2

撒かなくても手渡しでいいのではないかと思うのですが、それでは「福」は来ないのだそうです。投げてもらって、みんながワーッと行って取る。争うということに功徳を認める。それが会陽というものの精神のようです。
 どうして会陽とよぶのでしょうか。
 それも西大寺を見れば分かります。西大寺の場合はシソギ(宝木・神木)を投げ下ろすまで、それに参加する人々は地押しをしなければいけません。その地押しのときに「エイョ、エイョ」という掛け声をかけます。「エイョウ、エイョウ」と地面を踏む。近ごろは「ワッショイ、ワッショイ」になってしまったようですが、お年寄りたちは「エイョウ」といったと伝えます。地面を踏むことによって悪魔を祓う。相撲の土俵で四股を踏むのと同じことだと民俗学者は云います。立ち会いの前に、力士が鉄砲を踏むのと同じのようです。起源は相撲と同じようです。
 四股を踏むのは悪魔祓いの足踏みです。
その足踏みを「ダダ」と呼ぶそうです。東大寺のお水取には「ダッタソ」があります。このときの掛け声がエイョウで、漢字を当てると「会陽」となるようです。
以上をまとめておくと
①古くから寺社では神木を奪い合う行事が行われていた
②その際に悪魔払いに「エイヨウ」とうかけ声と共に地面を踏んだ。
③これが漢字表記されて「会陽」となった。
④この行事は、熊野行者の瀬戸内海進出とともに、各地の神社仏閣に広げられた。
⑤その際に、熊野行者は神木に「牛玉宝印(ごおうほういん)」を入れて、熊野信仰とリンクさせた。
⑥会陽は西大寺や善通寺・長尾寺には近世には伝わり、大イヴェントになった。
⑦この行事を行うためには大きな空間が必要なため伽藍の再レイアウトが求められるようになった。
⑧長尾寺では、護摩堂・本堂・大師堂を一直線にして、会陽の展開スペースを確保した
⑨同時に、幕末に本堂を大型化する際に、宝木を投げるための舞台装置として千鳥破風妻造りの屋根が登場した。この前に櫓が組まれ、そこから宝木が投げられるようになった。
⑩長尾寺の本堂は会陽の会場として、地域のシンボルタワーの役割も果たすようになる。
⑪また長尾寺は長尾街道と志度・大窪街道の交差する要衝にあるため、明治には郡役場が30年近くに渡って置かれた。
長尾寺は、四国霊場の札所であると同時に、地域の文化センターや祭礼センターとしても機能してきた歴史を持つようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 長尾寺本堂 装飾

   参考文献 
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年

   中世末期に長尾寺は、戦乱に巻き込まれて衰退したようです。
『補陀落山長尾寺略縁起』には
「寺の縁起・記録等、天正年中の比、国家の擾乱によりて、皆ことごとく焼失、諸堂と同じく灰焼となるに本尊は不思議に残った」

と記されます。天正年間(1573~92)に兵火のため諸堂は焼失したと、讃岐の有力寺院と同じような記述が見えます。 また『讃岐国名勝図会』には「文明年中兵火にかかり」とあるので、それ以前の文明年間(1469~87)にも焼失した可能性もあります。しかし詳しいことは分かりません。

近世になっての長尾寺の復興は、どのように進められたのでしょうか
讃岐の名所の和歌や社寺由緒等をまとめた延宝5年(1677)の「玉藻集」には、次のように記されます。
「(略)本尊観音、立像、長三尺弐寸。弘法大師作。亦阿弥陀の像を作り、傍に安置し給ふ。鎮守天照太神。むかしは堂舎雲水彩翠かゝやき、石柱竜蛇供せしか共、時遠く事去て、荒蕪蓼蓼として、香燭しはしは乏し。慶長のはじめとかや、国守生駒氏、名区の廃れるをおしみ再興あり」

ここからは、当時の境内が、かつての壮麗な伽藍の姿を失い、「時遠く事去て、荒蕪蓼蓼」とた寂しい状況だった様子が分かります。それを惜しんだ生駒家が再興したと云いますが、その具体的な内容は記されていません。
2 長尾寺 境内図寂然

元禄2年(1689)の『四国偏礼霊場記』に描かれた長尾寺の挿絵です。
真念らの情報をもとに高野山の僧寂本がまとめたもので、天下泰平の元禄時代を迎えて、長尾寺の伽藍が次第に整備されている様子が読み取れます。観音堂(本堂)以外にも、鎮守である天照大神を祀る社殿や、高野の念仏聖の拠点であった阿弥陀堂は復興しています。また入口には仁王門らしき建物も見えますし、長尾街道には門前町も形成されています。そして、観音院と呼ばれる庫裡も姿を見せています。
元禄2年(1689)の時点で、長尾寺がここまで復興していたようです。
長尾寺の復興推進の力になったのは何だったのでしょうか。
 讃岐の近世の復興は、天正15年(1587)に讃岐へ入部してきた生駒氏によって始められます。宗教的には、流行神の一つとして生み出された金比羅神を保護し、330石もの寄進を行い金毘羅大権現へ発展の道を開いたのも生駒氏です。讃岐の近世を幕開けたのは、生駒氏ともいえます。
 玉藻集には、荒廃していた長尾寺に再興の手を差し伸べたのは生駒家2代目一正だったとあります。また『讃岐国名勝図会』も
「慶長年中 生駒一正朝臣堂宇再興なしたまひ
と記します。ここからは、慶長年間に、長尾寺を初めとする札所寺院の復興が生駒氏によって始められていたことが分かります。
これは、阿波や土佐に比べると讃岐は、札所復興のスタートが早かったようです。
 それでは生駒時代に長尾寺の復興は、どのレベルまで進んだのでしょうか。
天下泰平になり復興が進み、中世の修験者や六十六部のようなプロの参拝者に替わって、アマチュアの「四国遍路」が段々増えてくる中で、承応2年(1653)に、四国辺路に訪れたのが澄禅です。彼の「四国遍路日記」には、長尾寺が次のように記されています。
長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺。八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ 七ケ所ナリ」

彼は、当代一流の学僧でもあり、文章も要点をきちんと掴んでいます。ここからは、次のような事が分かります。
①本堂は南向きで、本尊が聖観音、
②寺の名前は長尾寺ではなく観音寺と呼ばれていたこと
③国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に当寺を加えて讃岐七観音と呼ばれていた。
②③から、この時にはこの寺は観音寺と呼ばれ観音信仰の拠点だったようです。東讃の札所霊場では、讃岐七観音が組織されていたことが分かります。
①では伽藍については、本堂のみです。その他のお堂については何も触れていません。澄禅は、その他の霊場のお堂については全て触れています。書いていないのは、本堂以外にお堂がなかったと推測できます。生駒藩によって再興されたのは、この時点では本堂だけだったとしておきましょう。
 寛永17(1640)の生駒騒動によって生駒藩が取りつぶされた後、東讃岐に入ってきたのが水戸の松平氏です。
高松藩初代藩主の松平頼重は、独自の宗教戦略を持っていたようです。彼の宗教政策のいくつかを挙げてみると
①藩主松平家菩提樹である仏生山法然寺の創設と高位階化
②金毘羅大権現の朱印地化と全国展開
③京都の真宗興正寺との連携と興正寺派の寺領内での保護
  ただ保護するだけではなく、彼の寄進保護の背後には政策的な狙い隠されていたように思われます。

寛文9年(1669)に、松平頼重が領内寺院の由来等を報告させた「御領分中寺々由来」には長尾寺は「讃州宝蔵院末寺」の真言宗寺院として
「正保年中、松平讃岐守頼重被再興之事」

と記されています。これが事実ならば、頼重は入封して間もない正保年中(1640年代)に長尾寺を再興したと記します。しかし、具体的にどの建築物を寄進したのかは触れていません。「玉藻集」等の史料でも、頼重の再興については何も記されません。「歴史的な裏」がなかなか取れず、本堂を再興したのは生駒氏か松平氏か判断する信憑性のある史料がないようです。「四国遍路日記」で見たように1653年段階では、長尾寺には本堂しかないとすると、松平頼重が再興した建物は何だったのでしょうか。考えられることは、次の通りです。
①本堂は生駒氏が再興した。
②生駒騒動で建設途上になっていた本堂を、松平頼重が完成させた。
私は、入国直後のこの時点では松平頼重が長尾寺を保護する理由がなかったとおもいます。長尾寺の優先順位は、低かったはずです。長尾寺が松平頼重の視野の中に入ってくるのは、もう少し後だったのでは内でしょうか。
 『改訂 長尾町史(下巻)』には、天和3年(1683)から貞享2年(1685)にかけて、傷んでいた本堂の茅葺き屋根を修復したと記します。茅葺き屋根なら何年かに一度は、やり替えないといけません。これを修復というのでしょうか。どちらにしろ時期や内容、規模等は分からないにしても、1680年代には松平家の保護を受けるようになり、何らかの修理等が引き続いて行われたことはうかがえます。そこには、なんらかの思惑が松平頼重にはあったはずです。

 それに続く記録は、貞享4年(1687)、真念が四国を歩いて書いた「四国辺路道指南」です。そこには長尾寺は、次のように短く記されています。
「平地、南むき。寒川郡なが尾(長尾)村。本尊正観音 立三尺六寸、大師御作」

ここには伽藍の様子は、ほとんど書かれていません。そして、最初に見た『四国偏礼霊場記』元禄2年(1689)ということになります。
 松平頼重は長尾寺を天和3年(1683)に、真言宗から天台宗に改宗させて実相院門跡の末寺にしています。
それは長尾東村の本寺極楽寺の支配を離れるということです。中世から近世当初には「観音寺」と呼ばれ観音信仰の拠点であったこの寺は、この「改宗」を契機に「長尾寺」と名を改め、長尾村の有力寺院・長尾寺として本寺から自立し独自の道を歩み始めることになります。松平頼重によって、同じく真宗から天台宗に改修させられて札所寺院には根来寺があります。根来寺の改修にも松平頼重の思惑があったことは、以前にお話しした通りです。つまり、根来寺とともに長尾寺を天台宗に改宗し、高松藩における天台寺の拠点とする宗教方針が明確になってきたのでしょう。それは真言勢力への「牽制勢力養成」という戦略的な意図があったと私は考えています。
 天台宗に替わった天和3年頃には、それまで茅葺であった本堂を瓦葺きにする修復が進められたようで、貞事2年(1685)に落慶した記録があります。同時にお堂なども建立され始めたようです。それが四国偏礼霊場記に記されているようです

『四国偏礼霊場記』に描かれているのは、元禄期の造営が行われる以前の長尾寺の姿なのです。
松平頼重の長尾寺伽藍整備は、天台宗に改宗し長尾寺と「改名」してからがスタートでした。
長尾西村の庄屋であった蓮井家に伝わる「蓮井家文書」に次のような記事があります。元禄7(1694)
4月 観音堂(本堂)の普請が始まり、
6月 棟上げ、
8月「観音堂」「二王門」「阿弥陀堂」の普請終わり
と、本堂をはじめ仁王門と阿弥陀堂が同時進行で建てられていたことが分かります。これは「長尾寺略縁起」が「今の堂、二王門等は頼重建立で元禄7年に造営した」という記述と一致します。

長尾寺 聖観音立像
        松平頼重が本尊の前立像として寄進した聖観音立像

また元禄6年に松平頼重が本尊の前立像として聖観音立像(彫刻3)を寄進していることとも時期的に矛盾しません。こういうやり方は、金毘羅さんへの寄進や奉納と同じです。「短期間に集中して、しかも継続的」な寄進を行うのです。
長尾寺 棟札(観音堂再興5) (1)
長尾寺観音堂の再興棟札 元禄14年の年紀が見える

 しかし、長尾寺が所蔵する観音堂と阿弥陀堂の再興棟札(棟札5・9)は、元禄14年(1701)9月のもので、2代藩主松平頼常の名が記されています。縁起は元禄9年、棟札は元禄14年となり、両者の普請時期は一致しません。
考えられるのは、つぎのようなことでしょうか。
①頼重の後で、頼常の代に再び改築が行われたのか、
②元禄7年で終わらず手を加えながら後年完成した
頼重は元禄8(1695)年4月に亡くなっていますので、そんな事情もあったのかもしれません。
 なお、この時に阿弥陀堂は再建されることはありませんでした。
長尾寺 阿弥陀如来坐像11
         阿弥陀堂本尊だった阿弥陀如来
中世の高野山系の念仏聖の拠点であった阿弥陀堂は再建されることなく姿を消します。中世に勧進聖として活躍した彼らの痕跡は消されていきました。
 仁王門については、この時に建てられたものが修理を経ながら今日に至っているようです。そうすると、境内では最も古い建築物となります。

元禄期(1688~1704)の松平頼重や頼常が進められた境内整備状況を年表化しておきましょう
元禄2年 頼常が長尾寺に殺生禁断の制札を与える、
元禄6年 寺領5石寄進。頼重は前立像にあたる聖観音立像を寄進
元禄7年 本堂・阿弥陀堂・仁王門・御成門再建。
     本堂内陣の厨子はこの本堂再建時のものと伝え、戸張に
     「三ッ葉葵」の紋が施されている
元禄14年 本堂及び阿弥陀堂が再建され、棟上げが行われた
元禄期  釣鐘が当地の有志木戸広品によって造られた
宝永7年(1710) 鎮守・天満宮の創建され(棟札10)、
享保3年(1718)、元禄年間の釣鐘が壊れたので、本戸伊通が一族で釣鐘を新造
享保年間初頭 護摩堂が「再建」
 天台宗の拠点寺院にふさわしい伽藍造りが目指されたと私は考えています。仏生山の法然寺とある意味同じような宗教的・政治的威信が求められたのでしょう。元禄期に藩主によって進められた改修を受けて、その後は地域の人々の手によって境内整備等が行われたようです。
これを進めたのが当事の長尾寺住職・了意だったようです。
彼は元文4年(1739)に逝去し、その墓が住職墓域にありますが、こらが長尾寺に残る墓では一番古いようです。長尾寺の住持は隠居や逝去するまでその任を務めることよりも「栄転」することの方が多かったようです。その栄転先は、鶴林寺や金倉寺、実相院門跡など他の天台宗寺院だったようです。ある意味、長尾寺がそれらの転住先の寺院に次ぐ位置にあったことが分かります。ここからも新たに天台宗の有力寺院を作り出すという松平頼重の意図がうかがえます。

長尾寺 阿弥陀如来坐像
阿弥陀如来像
このような状況を伝えるのが、寛政12年(1800)の「四国遍礼名所図会」です。本文には
「本堂本尊聖観世音立像〈御長三尺二寸、大師の御作〉、大師堂(本堂の裏に在〉、天神社(大師の前に在〉」

と記されます。著者九幕主人は「長尾寺門前にて一宿」して、これを書いたようです。
長尾寺 四国遍礼名所図会

この絵を見ると、大師堂が本堂裏にあると書かれているので、
①境内北側中央にある宝形造の堂字が本堂、
②右奥のやや小ぶりな建物が大師堂
③本堂左横の入母屋造の堂字が護摩堂
④大師堂の前方、境内右端奥にあるのが天満宮で、
⑤その手前が宝筐印塔
⑥仁王門は街道からやや奥に建ち、門前には2基の経幢
⑦仁王門前には、境内南端に沿って水路をまたぐ橋
⑧仁王門を入って左の建物は茶堂の可能性
⑨その奥には格子のある小さな建物が見えるが不明
⑩左奥には茅葺屋根の下方を瓦葺にした客殿・庫裏
⑪客殿の土塀に設けられた二つの間のうち護摩堂側は御成門
⑫門前には藁葺きの家屋が並ぶ門前町があり、遍路者や街道を通る人々のための宿等が営まれている。
この絵を見て気づくことは
A 現在の境内の中心的な建物であるる本堂、大師堂、護摩
  堂の三棟が、この頃には整えられていたこと
B 今の境内から比べると大師堂がかなり後方にあったこと
C 阿弥陀堂が消え、代わりに鐘楼が描かれていること。

長尾寺 阿弥陀如来坐像11
長尾寺の阿弥陀堂の本尊だった阿弥陀仏坐像

(3)19世紀前半頃の長尾寺
 幕末から明治初期にかけて全国を遊歴した松浦武四郎は、天保7年(1836)に四国八十八ヶ所を参拝し、弘化元年(1844)に「四国遍路道由雑誌」としてまとめています。そこには長尾寺については、次のように記されています。
「(略)長尾村ニ至る。少しの町家、二王門並びに茶堂等有。八十七番補陀落山観音院長尾寺、従八十六番萱り、在道斗也。此寺は聖徳太子之開基なりと云博ふ。其後大師再興し給ひしとかや。本尊は御長三尺六寸。正観音。聖徳太子之御作なりとかや。境内大師堂=鎮守之社有。」

ここからは門前に「少しの町家」が並び、「二王門」や「茶堂等」のほか「大師堂」「鎮守社」があったことがわかります。さして初めて「茶堂」が明記されています。「二王門並二茶堂等」という記述から、仁王門近くに建っていたとがうかがえます。
 遍路者等の供養記録「他檀家過去帳」にも「茶堂」のことが記されています。
遍路の息絶えた場所では「二王門」に次いで「茶堂」が多いようです。また、安政7年に没した金沢出身の「鏡心法師」よいう人物は、「当山茶堂居三年」とあり、茶堂で3年居住した後に亡くなっています。遍路としてやってきて、その後に参拝者への接待の場である「茶堂」の管理人を務めていたのかもしれません。
この頃の景観を描いたのが、嘉永7年(1854)刊行の『讃岐国名勝図会』です。
本文では境内については、次のように記します。
「本尊聖観音〈行基大士作)、大師堂、護摩堂、○鎮守社(天満宮)」、
「寺記曰く、当寺は天平十一年行基菩薩草創なり。天長二年この国の刺吏良峰安世諸堂を修造して、地名によりて今の寺号に改む。文明年中兵火にかかり、慶長年中生駒一正朝臣堂宇再興なしたまひ、天和年中国祖君源英公(松平頼重)この寺をもって国中七観音の一とす。その余、国分寺。白峰寺・根香寺・屋島寺・八栗寺・志度寺これなり。寺領を賜ひ度々御修造なしたまふ」
とあります。
 挿図は、長尾寺境内と門前の様子を、近隣の西善寺、秀円寺と共に俯瞰して描いています。

長尾寺 『讃岐国名勝図会

①境内の中央奥に「本堂」が南面して建ち
②右横に「大師堂」
③左横に「護摩堂」
④かつては奥まったところにあった大師堂が、本堂に並ぶ位置に出てきています
各堂の配置は、今と同じになりました。しかし、詳しく見ると
「本堂には千鳥破風がなく、大師堂と護摩堂も入母屋造であるなど、建物の姿は現在と異なる」

と研究者は指摘します。現存の本堂は、『讃岐国名勝図会』刊行と同じ年に再建されているので、描かれているのはそれ以前の姿のようです。
87番札所 長尾寺の『大師堂拝観』に行ってきました(*^▽^*)♪@長尾: さぬき市再発見ラジオ あそびの達人
長尾寺大師堂

 拡大すると境内の東端、大師堂の前方には台座に並ぶ3つの仏像らしきものが見えます。これが現在大師堂横にある石造の三世仏のようです。石仏の下方に手水舎が描かれ、右横の現薬師堂が建つ近辺には小さな建物が見えます。これが何なのかは分かりません。その横には「鐘楼」が建ち、長尾街道沿いの境内南端の土塀は、現在のように鈎型に窪んでいません。仁王門に真っ直ぐ連なるように描かれています。
 門前には、2基の経幢と、水路にかかる橋が見えます。仁王門を入って左の建物は、先ほどの史料から茶堂でしょう。
境内奥を見ると、本堂と護摩堂、さらに左の「納経所」まで貫くように渡り廊下が真っ直ぐに続いています。納経所横の二層の建物には「鼓楼」とあり、隣接する「方丈」の土塀の角に建っていたようです。しかし、この絵図の他には、その存在を示す史料等はないようです。

長尾寺

 方丈の土塀には御成門があり、その奥に庭を画する塀の一部が見える。御成門の手前に見える本殿と拝殿、鳥居の上には「鎮守」と記されいます。ここから18世紀には、境内の東側にあった鎮守社(天照大神)が、現在と同じ西側に移されたことが分かります。
 さらに、鎮守社は本堂等のある境内との間を南北に延びる土塀で画され、境内中心部の外に位置するような配置となっています。現在はこの上塀がなくなり、鎮守堂を西端に配置することで、境内中央に広い空間が生まれました。大きな宗教的イヴェントを行うための空間が確保できたことになります。納経所や鼓楼、茶堂などは今はなくなっていますが、今から200年前には、主要な建造物が今日とほぼ同じ位置にあったことが分かります。
 また、境内南の長尾街道を見ると、参詣者だけでなく往来する多くの人々の姿が描かれています。街道の賑わいと、そこに面して立地する長尾寺の「都市の寺院」としての性格を伝えているようです。
長尾寺 毘沙門天立像4
長尾寺 毘沙門天
19世紀後半頃の長尾寺                   
幕末のペリー来航の翌年嘉永7年(1854)9月に、本堂(観音堂)が再建されます。ところが、2ヶ月後の11月に安政の大地震が発生し、「鐘楼・客殿・釣屋・長屋・大師堂」などが大破します。すぐに修造が行われますが鐘楼は再建されずに、鐘は仁王門に吊されたと伝えられます。
長尾寺(四国88箇所:第87札所 香川県)
長尾寺本堂
地震後の復興の様子を年表化してみましょう。
安政2年(1855) 天満宮拝殿の修理。灯籠(境内石造物8)が建立
延元年(1860)  天満官の鳥居(境内石造物22)建立
文久3年(1863) 灯籠一対(境内石造物7)が奉納
明治元年(1868) 10月、護摩堂が再建。露盤宝珠は11代藩主松平頼聰寄進。これは藩主が藩知事となる前年のことで、高松藩主として長尾寺に遺した最後の足跡になる
明治33年(1900) 天神社(「天満自在天社」)再建の上棟
明治36年    天神社の「青銅臥牛梅形手洗鉢」と「三角形水屋」が完成
「青銅臥牛梅形手洗鉢」と「三角形水屋」は、菅原道真の没後一千年大祭紀念のため調えられた奉納物で、手洗鉢は高松工芸学校長であった黒木安雄の図案だったようですが、今は不明となっているようです。三角形水屋は、長尾寺客殿の中庭に今も遺されています。

明治維新後の長尾寺にとって大きな事件は、明治15(1882)に郡役所が長尾寺に置かれたことです。
 長尾史に掲載されている当時の部役所職員の写真を見ると、御成門を背景に撮影され、門柱に看板らしきものも見えるようです。ここから御成門とその奥の客殿が仮庁舎として使用されたことがうかがえます。庁舎としての使用期間は、明治15年(1882)から大正6年(1917)に郡役所庁舎が新築され移転するまで30年以上続いたようです。
 明治42年(1909)発行の『四国霊場名勝記 全』24には、この頃の境内を写した写真が掲載されています。
長尾寺 本堂と境内 1909年

今から110年ほど前の写真になります。本堂と護摩堂は現在と同じ再建後の姿で、本堂前の線香立(境内石造物17)や、雨受一対(境内石造物20)も見えるようです。本堂前の一対の灯籠は、文久3年銘灯籠(境内石造物7)のようですが、現在はこの場所にはありません。注目したいのは、燈籠の手前にある2つの石造物です。
1長尾寺 石造物

これは、前回に紹介したの経幢のようです。近世には仁王門前にありましたが、明治には本堂前に移されていたようです。「改訂 長尾町史1上巻)』には、
「明治26年(1893)に門内に移し、同45年(1912)に元の位置に戻した」

と記されています。経幢が本堂前にあった時の姿をを記録した貴重な写真かもしれません。
 境内全体が写されていないのでよく分かりませんが、本堂、護摩堂、大師堂をつなぐ渡り廊下は、現在のものとは形が違うようです。また、地面を見ると参道の石敷がなく、本堂前には今よりも多くの松の木が生えていたことが分かります。

20世紀以降の長尾寺           
20世紀になると、境内の造営のことが「[過]去霊簿」に次のように記されています
「参道敷石仁工門筋塀墓地移転 大仏(注:師ヵ)堂再建」
棟札からも
明治44年(1911) 筋塀18間の新造(棟札13)
大正2年(1913) 栗林公園の北の「雌ノロ御門」を、払い下げを受け、移築して新たに東門設置
大正7年(1918) 郡役所が境内から転出
大正10年(1921) 大師堂上棟と完成
郡役所の転出を受けて大師堂再建をはじめ、改めて境内全体の整備が行われたようです。
当時の写真が、大正10年(1921)発行の『四国人十八ヶ所写真帖 完』にあります
長尾寺 本堂と境内 1921年

本堂右横に僅かに見える大師堂の屋根形状から、大師堂専建以前に撮影されたと研究者は指摘します。画面中央にあるのは安政2年(1855)奉納の灯籠(境内石造物8)で、今はやや東側に移されています。地面を見ると、仁王門の方向から玉堂、大師堂をつなぐように参道が敷石で敷かれているのが分かります。参道整備に伴って、灯籠などの移動が行われたようです。
 この後、大正15年に現在の太子堂が完成します。
そして、渡り廊下で本堂と結ばれていきます。こうしてみると長尾寺の現在の姿は、約百年前に整えられたものであることが分かります。その間に何度かの大修理を重ねているのはもちろんですが・・
長尾寺 不動明王
長尾寺 旧護摩堂本尊の不動明王

以上をまとめておきます
①境内出土の古瓦から、奈良時代には仏堂があったと考えられる
②縁起によれば天正年中に境内諸堂を焼失し、17世紀前半に生駒家により再興されたという。
③『四国偏礼霊場記』からは、17世紀後半には現在と同じ場所に境内があり、南向きの本堂のほか、観音院(客殿等)や街道に開かれた仁王門が建ち、町家が並ぶ門前の街道に茶屋などがあった
④阿弥陀堂など失われたものもあるが、境内の立地や建物構成は現在と同じで、遍路道も確認できる。
⑤元禄期に松平家による造営等により諸堂が整えられた
⑥寛政12年(1800年)の「四国遍礼名所図会」には、中心となる本堂、大師堂、護摩堂と思われる三棟の堂宇が建ち、仁王門や客殿、御成門なども現在とほぼ同じ場に描かれている。
⑦19世紀前半には、大師堂・本堂・護摩堂が横一列に並ぶレイアウトとになり、鎮守社も境内西側に移され、祭礼空間として広いスペースが生み出された。
⑧幕末に本堂が再建されたが、地震で複数の建造物が大破したが、鐘楼など一部を除いて復旧した。
⑨明治には30年以上にわたって客殿等が郡役所仮庁舎として使用され、境内は公的空間として機能した
⑩庁舎移転後に、大正15年(1926)の大師堂再建など境内整備が進められた。

長尾寺 現在の伽藍配置図

長尾寺 建物変遷表

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献 
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年
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          香川県四国八十八箇所霊場と遍路道 調査報告書12 長尾寺調査報告書(香川県教育委員会) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋

図書館を覗いてみると長尾寺の調査報告書が入っていました。いつものように、のぞき見てみることにします。長尾寺がいつ出来たかについては、同時代史料がなく分からないというのが結論のようです。
しかし、報告書はできるだけの史料を集めて、分からないことを史料に語らせています。それにつきあってみましょう。
87番札所 長尾寺の『大師堂拝観』に行ってきました(*^▽^*)♪@長尾: さぬき市再発見ラジオ あそびの達人

①江戸時代中期の『補陀落山長尾寺略縁起』には、

天平11年(739)に行基が本尊の聖観音菩薩を刻んで安置したことに始まり、天長2年(825)に藤原冬嗣が再興したという。いわゆる行基開基説です。しかし、再興に藤原氏が登場するのはなぜでしょうか?よく分からないまま、読み進んで行くことにします。
②『讃岐国名勝図会』には、良峰安世が諸堂を修造し、地名にちなんで長尾寺に改めたと記されます。
③長尾寺は、中世から近世初期まで極楽寺宝蔵院(さぬき市長尾東)の末寺であったようです。極楽寺の寺歴をまとめた『紫雲山極楽寺宝蔵院古暦記』では、天長2年に藤原冬嗣が建立したとします。再び藤原冬嗣の登場です。
続いて近世の縁起・由来を見てみましょう。
④寛文9年(1669)に各郡の大政所が寺社の由緒を提出した『御領分中宮由来・同寺々由来』では、延暦年間(782~806)に空海が創建し、本尊聖観音は聖徳太子の作とします。
⑤讃岐最初の地誌で延宝5年(1677)の『玉藻集』には
「此寺はもと聖徳太子開建ありしを、弘法大師、霊をつつしみ紹隆し給ふと云う」
と云うのです。
⑥明和5年(1768)の序文がある『三代物語』でも聖徳太子の草創で、後に空海が修造し、正観音菩薩をつくり安置したとします。
   こうしてみると、次のような変化が読み取れます
中世は、行基開基・藤原冬嗣再興」説
近世になると「聖徳太子・空海開基」説
この変化の背後には、高野聖たちによる弘法大師伝説や大師(聖徳)伝説の流布があったことがうかがえます。私の師匠の口癖は
「だいたい札所の寺というは、由緒が分からなければ開基は行基か弘法大師となるもの」

だそうです。この寺もその例にもれず
「聖徳太子開建ありしを、大師(弘法大師)霊をつゝしみ紹降し玉ふといへり」

と四国遍礼霊場記には記されて、聖徳太子や弘法大師の登場となります。つまり、この寺の縁起がはっきりしないことを示しています。このように長尾寺の成立については、いろいろな説がありますが、どれも後世の史料で信頼性のあるものではないようです。確かにこれでは研究者は「不明」とする以外にないでしょう。

 ただ、考古学的には境内から古瓦が出土しています。
この古瓦が奈良時代後期から平安時代にかけてのものであることから、8世紀後半頃にはここに古代寺院があったことは事実のようです。
さぬきの古代時代

ここは南海道も通過し、条里制遺構も残ります。古代からの有力豪族の拠点であり、その豪族の氏寺が奈良時代の後半には建立されていたは云えるようです。

長尾寺周辺遺跡分布図
長尾寺周辺の遺跡分布図 
私が疑問に思ったのは、長尾寺の由来に志度寺との関係が出てこないことです。以前に見たように「状況証拠」からは、中世には志度寺に拠点を置く高野聖たちの周辺地域での勧進活動などが活発に行われていたことがうかがえることはお話ししました。これには何も触れられません。
遍路・87番札所 長尾寺(ながおじ ・香川県 さぬき市) : 家田荘子ブログ ~心のコトバ~

2 中世の長尾寺
中世における長尾寺の動向についても、文献史料がなく分からないことだらけです。残されたモノ(遺物)を見ていく他ないようです。
この寺の一番古い遺物は、仁王門の前にある鎌倉時代の経幢(重要文化財)になるようです。
長尾寺経幢 (ながおじきょうどう)(弘安六年銘)

経幢(きょうどう)は、今は石の柱のように見えますが、8角の石柱にお経が彫られた石造物で、死者の供養のために納められたものです。お経の文字は、ほとんど読めませんが、年号だけは読めます。西側のものには「弘安第九天歳次丙戌五月日」の刻銘があるので弘安6年 (1283)、東側のものが3年後1286年とあります。
 
明倫館書店 / 重要文化財 長尾寺経幢保存修理工事報告書

建てられた経緯など分かりませんが、モンゴル来寇の弘安の役(弘安4年)直後のことなので、文永・弘安の役に出兵した讃岐将兵の供養のために建立されたものという言い伝えがあるようです。13世紀後半には、有力者からこれだけの石造物を寄進される寺院があったということになります。
1長尾寺 石造物
長尾寺の経幢(きょうどう)

中世の長尾寺は、近隣の極楽寺の末寺だったと報告書は云います
 本寺であった極楽寺は真言宗寺院です。そうするとその末寺であった長尾寺も、この時期には真言宗であったことになります。寛文9(1669)の『御領分中宮由来・同寺々由来』に「讃州宝蔵院末寺」として「真言宗 寒川郡長尾寺」と記されているが裏付け史料になります。ただ大正15年(1926)の「大川郡誌』には次のようにあります。

「長尾寺が天和3年(1683)に、天台宗の実相院門跡の末寺となった」
「始メ法相宗、次二天台宗、中古真言宗二転ジ、今又天台宗二復帰ス」

ここからは大川郡史が書かれた時には、このことを記した寺の記録があったのでしょうが、今はこのようなことを記す史料は長尾寺には残っていないようです。三豊の大興寺や多度津の道隆寺のように、真・天台両勢力が併存した時期があり、しだいに高野聖の活発化と共に真言宗が優位になったとしておきましょう。
 「紫雲山極楽寺宝蔵院古暦記』には、弘安4年に極楽寺の住職正範が寒川郡神前・三木郡高岡両八幡宮で「蒙古退散」祈祷を行ったことが記されているようです。もし、これが事実であるとすれば、文永・弘安の役に際に建立されたと言い伝えられる経幢の「補強史料」になります。
 境内や墓地には五輪塔など室町時代にさかのぼる石造物が残されているので、中世の長尾寺が信仰の拠点となっていたことがうかがえます。しかし、石造物も仏像と一緒で「有力寺院」に集まってくるので、すぐには判断できないようです。報告書は「さらなる検討が必要」としています。

香川県さぬき市 長尾寺 彫刻1 | yasakuhinmokurokuhakoのブログ

中世の長尾寺の活動について、別の視点から探ってみましょう。
讃岐の名所の和歌や社寺由緒等をまとめた延宝5年(1677)の「玉藻集」には、長尾寺が次のように記されています。

「(略)本尊観音、立像、長三尺弐寸。弘法大師作。亦阿弥陀の像を作り、傍に安置し給ふ。鎮守天照太神。むかしは堂舎雲水彩翠かゝやき、石柱竜蛇供せしか共、時遠く事去て、荒蕪蓼蓼として、香燭しはしは乏し。慶長のはじめとかや、国守生駒氏、名区の廃れるをおしみ再興あり」

ここからは次のようなことが分かります。
①長尾寺の本尊は観音立像で、大きさは1㍍ほどの小ぶりな仏で、弘法大師作とされていた。
②阿弥陀仏が傍らに安置されていた。
③鎮守は天照大神であった
④かつての壮麗な伽藍の姿を失い、もの寂しい状況だったのを慶長年間に生駒家が再興した
注目したいのは本尊の他に阿弥陀如来像があり「傍らに安置」していたほか、境内に天照大神を祀る鎮守社があった神仏混淆の伽藍であったことです。
これより12年後に出版された「四国偏礼霊場記』には、長尾寺の境内が描かれています。真念らの情報をもとに高野山の僧寂本がまとめて遍路のための案内パンフレットして元禄2年(1689)に刊行されたものです。長尾寺については「玉藻集」の記事を引用して

「さし入に二王門あり。寺の前 遍礼人の寄宿所有」

と書き加えてあります。この絵は貞享年間(1684~88)頃の長尾寺の実際の景観を描いたもののようです。
2 長尾寺 境内図寂然

この絵図からは次のようなことが分かります。
①境内の北側中央に「観音堂」(本堂)があり、右横に「天照太神」、その下に「阿弥陀」と書かれた小堂が見えます。阿弥陀像を本尊を祀る観音堂のすぐそばに安置していたようです。これは「玉藻集」の記述と合致します
②観音堂左下の「観音院」と記された2棟の建物が客殿のようです。下方の境内入口には仁王像を安置する仁王門があります。
③門前に描かれた方形の箱のように見えるのは、水路にかかる橋のようです。
④仁王門左上の建物は、接待用「茶堂」と研究者は考えているようです。
⑤境内に接する長尾街道の両脇には家が建ち並び、「茶屋」と書かれた家があります。拡大すると中には黒い茶釜らしきものが描かれています。これが「さし入に二王門あり。寺の前 遍礼人の寄宿所有」の施設かもしれません。記録によると善根宿などは、宿泊は無料か、それに近いくらい安価であったようです。しかし、食費はそれ相応の値段だったことが分かります。
   17世紀後半の長尾寺には門前らしきものが姿を見せ、遍路に対しての宿泊サービスも提供されるよいになっていたことがうかがえます。
  「玉藻集」と「四国偏礼霊場記」には、共通して描かれているものがあります。
その中で「観音堂」(本堂)と、その右横の「天照太神」、その下の「阿弥陀」に焦点をあてて、当事の信仰形態を探ってみましょう。
まず観音堂について見てみましょう。
世の中が平和になり、参拝者が段々増えてくる中で、承応2年(1653)に、四国辺路に訪れたのが澄禅です。
1四国遍路日記

彼の「四国遍路日記」には、長尾寺が次のように記されています。
長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」

彼は、当代一流の学僧でもあり、文章も要点をきちんと掴んでいます。ここからは、次のような事が分かります。
①本堂は南向きで、本尊が聖観音、
②寺の名前は長尾寺ではなく観音寺と呼ばれていたこと
③国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に当寺を加えて讃岐七観音と呼ばれていた。
②によると、江戸時代の初期までは観音信仰の拠点として「観音寺」と呼ばれていたようです。③には観音信仰は長尾寺だけのものではなく坂出から高松に至る海岸沿いの札所の多くがメンバーとなって「七観音」を組織していたことが分かります。善通寺を中心とした「七ケ所詣り」のような集合体が、あったことがうかがえます。

観音寺と呼ばれていたのが、いつ頃から長尾寺になったのでしょうか。
承応2年(1653)の『四国遍路日記』では「観音寺」
承応4年(1655)の宗門改帳においても「長尾西村 観音寺」とあるようです。
それが長尾寺になるのは、この寺が真言宗から天台宗に改宗して以後のことのようです。寛文9年(1669)の『御領分中宮由来・同寺々由来』には「長尾寺」とあり、この頃から長尾寺の表記が一般的になったようです。改宗や新たな末寺編成が行われた天和3年には、寺名も長尾寺に定まっていたのでしょう。貞享4年(1687)の真念の遍路案内記『四国辺路道指南』には「長尾寺」として登録されています。
遍路・87番札所 長尾寺(香川県さぬき市) : 家田荘子ブログ ~心のコトバ~

 長尾寺の鎮守がどうして天照大神なのか。

熊野の若一王子(にゃくいちおうじ)は、神仏習合若王子(にゃくおうじ)とも呼ばれます。若一王子の本地仏は、十一面観音で、天照大神瓊々杵尊と同一視され混淆されます。いまでも若一王子は若宮として、熊野本宮大社熊野速玉大社では第4殿、熊野那智大社では第5殿に祀られ、天照大神のこととされているようです。
 もちろん、若宮は天照大御神ではありません。熊野の信仰が出来たときに、新宮に伊井諾尊、那智に伊非再尊ということにしたために、若宮は伊許諾・伊井再尊の間に生まれた子どもということになったようです。そのために、熊野では天照大御神になってしまったようです。そういういきさつから若宮といわれるものは若王子を祀っています。若宮すなわち若王子の「王子」は海の神様です。簡略化すると

「長尾寺の本尊聖観音 = 天照大御神 = 熊野の若宮
 =若王子 = 海の神様」

というように混淆・権化してきたようです。ここからは、長尾寺の鎮守はもともとは海の神様だったことがうかがえます。熊野行者が背中に背負ってきた観音様を祀り、その化身の若宮(=天照大神)を守護神とした例は数多くあります。
 例えば、高野聖の一員として修行を重ねていた西行が善通寺にやってきて、勧進活動を3年間行っています。その間に善通寺の背後にそびえる五岳の我拝師山にある修行場の捨身が瀧について「わかいし」と書いています。「わかいし」と「若一王子」のことです。西行のころには、まだ若一王子が札所に祀られていたことが分かります。

なぜ、海に関係する「若王子」が長尾寺の鎮守となったか
 それは熊野行者が観音信仰と補陀落信仰を志度寺にもたらしていたことと関係するようです。その仮説を順番に並べてみましょう。
①仏教以前に、志度の砂堆上に海との間を祖霊が行き来する霊場があった。
②そこへ熊野行者がやって来て、海とつながりのある観音信仰と補陀落信仰を「接木」して神仏混淆を行った。そして、霊場の管理センターとして志度寺が現れた。守護神は「若王子」とされた。同時に志度寺は志度港の管理センター役割を果たすようになる。
③その後、高野山から高野聖たちが阿弥陀信仰をもってやって来て志度は浄土へつながる場所とされた。
④高野聖たちの中には、念仏聖もおり、勧進と布教活動を周辺で行った。
⑤当初は志度寺周辺にいた念仏聖たちの中には、周辺部の村々に迎え入れられて定着するものも現れた。
⑥志度寺の後背地の長尾には、志度寺の子院となる寺院が数多く姿を見せるようになる。
⑦長尾寺の山号が志度寺と同じ補陀落山なのは、もともと長尾寺が志度寺の子院であったのが、その後に独立したためである。
⑧近世に「弘法大師伝説」が四国霊場に広まってくると、天台宗ではあるが大師堂を建立する。
私が今考えているストーリーは、こんなものです。
上のストーリに17世紀後半の「四国偏礼霊場記』に見られる長尾寺の宗教施設を落とし込んでいくと、次のようになります。
A「観音堂」(本堂)と守護神の天照大神は、②の熊野行者がもたらしたものです。
B「阿弥陀堂」は、③④の高野聖たちがもたらしたもの。
C「大師堂」は⑧の大師信仰の拡大の中で建立された。
つまり、長尾寺の17世紀の宗教施設は志度寺の宗教的重層性を反映したものであるというのが今の私の仮説なのです。調査書を読んでいて、刺激を受けて筆があらぬ方に走り出してしまいました。テーマの「調査報告書を読む」からは、大きく逸脱した内容になってしまいました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年

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