瀬戸の島から

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前回は熊野や伊勢の御師(修験者)たちが髙松平野周辺の港や村々の檀那を廻って、お土産を配って伊勢詣を勧誘していたこと、その代償として初穂料を集めていたこと、そのテリトリーは讃岐の5つの郡に跨がることを見てきました。これは宗教的な見方を離れてながめると、広域エリアの有力者からの集金システムが機能していたことになります。これを徴税に「転用して利用」しようとする勢力も現れます。今回は備前において棟別銭の徴収を請け負った児島五流修験の動きを見ていこうと思います。テキストは「榎原雅治 山伏が棟別銭を集めた話 日本中世社会の構造」です。

棟別銭は、段銭と並んで室町幕府の重要な財源でした。
大まかに云うと、段銭は田数に掛けられ、棟別銭は家に課せられものでした。しかし、古代と違って中世は戸籍台帳は作られていません。守護所には、郷村の人口や戸数なども分かっていなかったようです。ある研究者は次のように述べています。

「室町期の守護体制下であらためて棟別設定の行われた徴証はなく、棟別銭の賦課台帳は守護職機能の属性の一として前代から継承されたと推測される」

なんとも頼りない話ですが、確かな戸数や人口も分からないのですから、各家の経済状況も分かるはずがありません。名主を通じての徴収ですから、そこだけ押さえていればよかったのでしょう。
網野善彦氏は、棟別銭と勧進の関係を次のように指摘します。
弘安九年(1286)の東寺造営の際に、大勧進憲静が朝廷に請って五畿内諸国から棟別十文の銭を「勧取」ることを許された点に注目します。これから棟別銭を「門付」勧進の体制化として、勧進の「堕落」という文脈の中で捉えます。

  「家々を遍歴するかわりに、国家機構を全面的に利用し、それに依存して、間別に銭を徴収、勧進の目的を達成しようとする」

これを逆の面から見ると、棟別銭は勧進聖の活動があってこそ、徴収することができたとも考えられることになります。

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応永十九年東寺修造料棟別銭
応永19年(1413)9月11日、幕府は東寺修造料として、出雲に段銭、丹後・越中・備前・備後・尾張に棟別十文の棟別銭を課します。備前では、この棟別銭を誰が徴収したかは、次の史料で分かります。
当時修造料備前国棟別事、小島(児島)山臥方申付候処、無正躰候、御屋形被仰付左右候は、殊畏入候、伽藍修理要脚候之間、可為御祈蒔専一候、尚々追而憑申外無他候、恐々謹言、
九月二十九日                          快玄
浦上三郎左衛門殿
この文書の端裏書には「棟別守護方状案」とありますが、内容から推察して守護方が発給したものではなく、東寺から守護赤松氏の重臣浦上氏に充てた書状だと研究者は考えているようです。研究者が注目するのは、次の部分です
「東寺修造料の備前国棟別銭については、小島(児島)山臥(伏)方へ申付けた候処」

ここには棟別銭微収を「児島山臥方」に命じたとあります。「児島山臥(山伏)方」は、児島五流修験のことでしょう。五流修験については、以前にお話ししましたが「復習」のためにので、宮家準氏の論文をそのまま引用します。
五流 備讃瀬戸
①が児島五流

五流修験は岡山県南部の児島半島に本拠を持つ修験集団である。その濫傷は平安時代中期熊野本宮長床に依拠した長床衆と呼ばれる熊野修験に求めることが出来る。長床衆は熊野本宮の神領中最大の児島庄に熊野権現を勧請し、これに奉仕する修験集団を形成した。この集団は役小角の高弟、義玄・義学・義真・寿元・芳元のそれぞれを開祖に仮託した、尊滝院、大法院、建徳院、伝法院、報恩院の五カ寺を中心としていることから五流と呼ばれた。その後平安時代末頃には児島の五流は、 一時衰退した。しかし鎌倉時代初期、承久の乱により、児島に配流された頼仁親工の皇孫によって五流の五カ寺が再興された。以後中世期を通して、五流修験は五流とそれをとりまく公卿からなる長床衆、社僧などを中心とする一山として繁栄した。五流山伏は、児島のみでなく熊野にも拠点をもち、皇族の流れをひくことから皇孫五流、あるいは公卿山伏と呼ばれ、院や貴族の熊野詣にあたっては先達として活躍した。

 五流修験が「児島山臥方」のようです。つまり東寺は、棟別銭の徴収を五流山伏に請負わせたのです。

どこいっきょん? 承久の乱と尊瀧院(そんりゅういん)・倉敷市
五流修験の尊瀧院

応永20(1414)年9月、備前から東寺に届いた現地報告には、次のように記されています。

  「取始候て四日目にて候やらん、野田と申所にてハ、すてに山伏共打ころされ候ハんするにて候」

意訳変換しておくと
  「棟別銭の徴収を始めて4日目に、野田という所で、山伏たちは打ち殺されそうになりました・・」

とあるので、山伏たちが実際に、棟別銭徴収に廻っていたことが分かります。これと同じように備前からの六通の現地報告書が東寺に残っているので事情が分かります。研究者が注目するのは、6通の報告書の現地差出人です。
四通は縁親
一通は縁秀
残る一通は無署名だが、筆蹟から推して縁親のもの
その内容はどれも徴収の進捗状況や守護との交渉経過についてです。現地報告を作成した縁親、縁秀が棟別銭徴収に大きな役割を果たしていたことが分かります。
では、彼らはいったい何者なのでしょうか。
文中に守護に対して使節を発遣するよう交渉しているので、守護配下の者ではないようです。では東寺の僧侶でしょうか。その可能性もないと研究者は考えています。それは、守護使の発遣を要請してきた東寺に対し、守護側は東寺が使を下向させるならば、守護使を出してもよいと回答してきているので、これ以前には東寺の使は備前にはやって来ていなかったと推測できるからです。
 その中で、縁親は4、5月ごろにはたびたび守護所である備前福岡に赴いて守護と交渉を重ねています。ここからも、彼が東寺の下した使である可能性はなくなります。とすれば残る可能性は五流山伏の一員だったということになります。

五流修験 清田八幡
清田八幡宮

児島の五流熊野権現の近くの清田八幡宮には、応永28年(1421)の棟札が残っています。
そこには「祝師西」の名があります。清田八幡宮は、熊野権現の御旅所で、その庄務は五流山伏が勤めていました。研究者が注目するのは、「縁親、縁秀、縁西」のいずれも「縁」の字が共通している点です。ここから彼らは五流山伏の一員だったのではないかと推察します。

五流 長床
焼失以前の五流長床

では五流山伏は、なぜ棟別銭徴収を命じられたのでしょうか。

日頃から東寺の命令を受けるような立場にあったのでしょうか。
徴収の始まる直前の応永20年4月末ごろ、縁親から東寺に届けられた書状の一節には、次のように記されています。

 先々不致沙汰在所を小寺方より注文を出候、うらに小寺判候、三社領あまた所々、此注文の在所皆国中大庄にて候、是を除候者、 いかほども取候ハんする分ハ候ましきよし申候、此外吉備津宮領・西御所御知行なと共儀候へく候程無正外事にて候、かヽる様者存知不中候て、愚身も領状申て候、後悔仕候、(下略)

意訳変換しておくと
「棟別銭を前々より免除されている在所の注文は小寺方(守縦代小寺備前入道)より提出された。皆大庄ばかりで、これを除くとどれほど徴収できるか疑わしい。そのうえ吉備津宮(備前一宮)や両御所一足利義満側室高橋殿)の所領も協力は期待できないだろうから、棟別は殆んど集められないかもしれない。このような状況は予想できたことで、私自身も(引き受けたことを)後悔している。」

研究者が注目するのは、最後の「かゝる様者存知不申候て、愚身も領状申て候、後悔仕候」という部分です。ここから、縁親は東寺の一方的な命令によって否応なく徴収にあたっているのではなく、断りたければ断ることもできた立場にあったことがうかがえます。つまり五流山伏は棟別銭徴収に何らかの成算をもって、東寺の要請を受けたようです。また東寺も、五流山伏に徴収できる能力を認めなければ、一国の棟別銭徴収を彼らに一任することはないと研究者は考えます。
その場合、 一番に思いつくのは、五流山伏が備前守護と密接な関係にあったのではないかということです。ところが、どうもそうではないようです。
 棟別銭が徴収され始めてからの様子を見ても、守護である赤松氏が五流山伏に協力的であったようには思えません。縁親らの書状には、4月中旬ごろから、直接備前守護所の福岡に出向いて、守護使の発遣を求めています。赤松側は一応これを了承したものの、6月に入ってもなかなかに動こうとはせず、何度も交渉を重ねているうちに、その経費だけでも十貫余に及んでいます。6月も半ばになってようやく、守護より東寺に、東寺が使を下向させるなら守護も使節を出そうという通知があり、盆を過ぎたころになって、ようやく徴収が始められたようです。しかし、それでもなお守護の全面的な協力は得られず、徴収の成果は散々でした。九月の初め、縁親は東寺に、幕府に働きかけて守護の協力が得らるようにして欲しい、と訴えています。このような経過を見ると、五流山伏と守護の間に親密なつながりがあったとは考えられません。
 五流山伏が棟別銭徴収を請け負ったのは、彼らが守護と特別なつながりをもっていたためではないとすれば、東寺は、いったい何を見込んで五流山伏に棟別銭徴収の詰負いを指名したのでしょうか。

五流 山伏寺判明図
神仏分離以前の五流各寺院跡

 それは修験者たちが初穂料集金のために、村々をめぐっていたからです。
 五流の修験者たちは、伊勢御師と同じように各村や港の有力者である檀那たちの間を、お土産を持ってめぐり、その代償として初穂料を「集金」していました。初穂料の代わりに、東寺に代わって棟別銭を徴収するという感覚だったのかも知れません。
廻檀(檀那めぐり)を行つていたのは、山伏だけでなく伊勢御師が有名です。
前回は讃岐の「さぬきの道者一円日記」で、高松周辺での伊勢御師の活動を見ました。今回は「丹後国御檀家帳」(神宮文庫所蔵天文七年(1538)を見てみましょう。
五流 日置
丹後国与謝郡の日置郷
これは伊勢御師・福井末高が残した丹後の檀那帳の冒頭の与謝郡の日置郷の部分です。
与謝郡分
一ひをき(日置)の郷一円里数あまたあり、ちぃさき村へは毎年音信不申候、
一ひおきしを(日置塩)浜 家弐拾軒計
  南大夫殿 かうぉや也
  (以下、二十名省略)
一ひをきむこ山の御城 御内衆家参拾軒計
(以下、二名省略)
一ひをさ田中むら 家八拾軒
 中垣小治郎との
(以下、五名省略)
一ひをきくわ田村 家八拾軒
 かうおや 川ら殿

このように、この檀那帳は村ごとに福井末高の檀那が書き連ねられています。村の数は百を超え、丹後全域に及びます。この檀那帳で研究者が注目するのは、それぞれの村の家数が書き上げられていることです。この家が檀那の数ではなく、村全体の家の数であることは、村ごとに名前の挙がっている檀那の数と家数の一致しないことからも明らかです。なぜ御師が家数を把握する必要があったののでしょうか。考えられる理由は次の通りです
①信者獲得・教線拡大のための資料として記録した
②丹後守護一色氏の意を承けてその領国支配の一環として記録した。
②だとすると、御師(修験者)は守護や戦国大名の間者(スパイ)としの役割も果たしていたことになります。土佐の長宗我部元親がブレーンや右筆集団に修験者たちを重用したという話ともつながってがきます。どちらにしても御師は、村の中に入り込み、村の家数を数えて記録しています。山伏の家数把握を明示する史料は今のところはないようですが、彼らも廻檀によって家数を把握していたことは、十分ありえることと研究者は考えています。

以上のような五流修験の山伏集団の特性と情報能力、初穂料徴収能力の慣行などを見込んだ上で、東寺は五流修験の山伏たちに軒別銭を徴収させようとしたのでしょう。

五流 四殿・五殿
児島五流
戦国期の五流一山が直面した課題は、何だったのでしょうか
①五流一山では、戦国時代の争乱で神領の多くを失ってしまいます。神領に頼らない一山の経営方法が求められます。
②戦乱で修験者たちに大きな実入りになっていた熊野詣でも衰退します。この結果、熊野本宮との関係自体も薄れていきます。代わって本山派の聖護院末寺として活動するようになります
このような時代の変化に、どのような対応策したのかをみておきましょう
室町時代になると、院の財源は「配札・祈祷」などの布教活動に求められるようになります。こまめに村々を歩いて初穂料を集めることが必要にとされるようになったのです。そのための「営業努力」が続けられます。五流修験では次のような「霞(かすみ=テリトリー)」が設定されていました。
尊滝院 塩飽七浦、備中松山・連島、肥前七浦、肥後
太法院 備前瓶井山・金山・脇田・武佐・御野、小豆島 作州(本山、桃山除)、日向
建徳院 伊予、安芸内豊田郡、紀伊の内日高郡 
報恩院 備前国岡山並四十八ヶ寺、作州本山・横山、備前西大寺
伝法院 讃岐、備後一万国並備中之内浅口郡 
ここからは5流(5つの院)が、それぞれテリトリーを持ち、その地域の山伏たちを統括して、布教活動を行っていたことが分かります。統一した組織体と云うよりは、5つの院の連合体と捉えた方がよさそうです。これを見ると、備前は報徳院の霞になっています。この霞が中世においても同様であったとすると、応永19年の棟別銭の集金には、報徳院の山伏が備前の村々を巡って集めたことになります。
 最後に棟別銭を負担する側から見ておきましょう。
棟別銭は、各家に一律に同額が課されたものではありません。戦国大名後北条氏や武田氏は、棟別銭は家の大小に応じて一定の差額を設けて賦課しています。戦国期のものとされる「菅浦文書」中の棟別掟には、村の家は「本屋」「かせ屋」「つのだ」に格付けされ、ランクを設けて、それぞれから相応の棟別銭が徴収されています。
 これらの例からは、室町期における棟別銭も、画一的に課されたのではなく、家の格付けを前提として差額を設けて、一定の格以上の家にのみ課されたと研究者は考えています。そのため棟数把握は、家屋の数を勘定すればすむというものではなく、村内部の情況に精通している必要があったはずです。
  同時に、棟別銭を求められる者と求められない者の二つに分類されます。さらに、軒別銭をいくら払ったかでも階層化されていきます。これは、軒別銭を集金する修験者のネットワークを通じて地域の人々にも周知拡大されていきます。
「あそこはいくら出したんな」
「ほんならうちも、同じだけでお願いします」
「うちは、その半分で・・・」
こんな会話は、鎮守の神社の新築寄付金集めの時によく聞きます。自分の家の格にあわせた額をはじき出しています。ある意味、風流踊りや猿楽の際の桟敷席順と同じです。何処に座っているかによって、その家の家格は決定されたのです。神社への奉納金も額によって、玉垣の大きさは変わりますが、これも家格とリンクします。その原型となるものが中世の村に姿を現していたようです。
卍極楽寺|和歌山県紀の川市 - 八百万の神
極楽寺
応安8年(1375)、紀伊国粉河庄東村で、極楽寺造営のための勧進が行われます。
そのときの史料には、80名近い村民たちからの勧進銭は、百文から五貫に至る10段階に分かれて集められています。また正長元年(1428)に行われた近江国今堀郷での大般若経勧進でも、村民からの勧進銭は50文から一貫文までの五段階に分かれています。
 村の鎮守や寺院の棟札・鐘銘などから、その造営が「村人」の勧進で行われたことが分かるものが数多くあります。ここに登場する「村人」とは村民一般を指す語ではなく、宮座の構成員である特定の有力村民のみを指す語でした。このような勧進のあり方を通して、村の中では、勧進に参加しうる層としえない層という形で、あるいは、参加しうる層の中でもどれほど出銭しうるかという形で、階層秩序、家の格付けがされていたのです。
  そして重要なのは、この秩序は一村内で確認されるのみではなく、より広い地域に信仰圏を有する寺社の造営への参加を通じて、村々を超えた広い地域の中で承認されたものとなっていたことです。
 たとえば、応永26(1419)年の近江国伊吹山観音寺の造営では、姉川流域の多くの村々の「村人」が奉加銭を寄進しています。村内での秩序が、より広い地域の場にもちこまれていることになります。これを研究者は次のように評価します。

「 つまり信仰圏に対応して重層的な勧進が存在しており、それに参加することによって、村内の秩序は一村内においてのみならず、より広い地域において承認を得たものとなりえたのである」

  東寺のための課せられた軒別銭を集めるという「徴税行為」について考えてきました。
この「徴税行為」を、守護は実施できる能力を持っていなかったと研究者は考えているようです。それは、徴税組織がなかったこともありますが、戸籍台帳を持たず、村々の戸数も掴んでいない守護所の武士たちに手におえるものではなかったのです。彼らには、村の一軒々々の家の格付けもできなかったでしょう。
 荘郷寺社における祭礼時の席順というかたちで、宗教的には、自然な形でそれができたのです。それも地域の有力者が自らランク付けを行う形で・・・。これは、別の言い方をすると「勧進を通して家々の格が地域的な承認を得た」ことになります。幕府が棟別銭を賦課するにあたって、この体系を賦課基準として「転用」したことになります。
 廻檀(檀那めぐり)のために各地を巡った山伏たちが書き留めている村の棟数とは、単なる家屋数ではなく、「勧進の体系」に則った、格付けされた家数だったと研究者は考えています。

  以上をまとめておくと
①室町時代の棟別銭は、各家々に画一的に課されたのではなく、家の格付けを前提として差額を設けて、一定の格以上の家にのみ課された
②そのため棟数把握は、家屋の数を勘定すればすむというものではなく、村内部の情況に精通している必要があった。
③そのため当時の守護所には、棟別銭を徴収する能力も情報も人員もなかった。
④そこで東寺は伽藍修復のために幕府に許された軒別銭の徴収を備前では、五流修験に請け負わせている。
⑤五集修験は、熊野・伊勢御師と同じように、お札を持って各村々の檀那をめぐりを日常的に行っており、村の情報などに精通し、地域の荘郷寺社への影響力も強かった。
⑥五流修験の修験者たちは、地域の祭礼の際の席次ランクなどから村の有力者の階層化情報を掴んでおり、それを棟別銭を集める際にも利用した。
⑦また、地域の祭礼を握る修験者によって進められる「募金活動」を、村の有力者も無碍には断り切れない部分もあった。
⑧信者組織が徴税マシーンとして機能するのを知った戦国大名の中には、これを積極的に活用しようとする者も現れる。こうして修験者組織と政治勢力が結びついていくことになる。
⑨徳川幕府は、政治勢力化した修験者勢力を嫌い、この力を削ぐ方向に動く。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

哲学者の梅原猛は「廃仏毀釈という神殺し」という次のような文章を山陽新聞に寄稿しています。(要旨)
 仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。
 江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。
「神々の殺害」という廃仏毀釈が五流一山に、どのように襲いかかったのかをみてみることにします
熊野神社(倉敷市児島) (10月27日) : 夢民谷住人の日記4
現在の児島 熊野神社

 五流一山は、神道の熊野神社と仏教の五流修験に分割されます。
神社には神職として旧祠官の大守有太と還俗した大願寺の宮本右藤太、下禰宜の高見弥三郎の三名が奉仕することになります。そして五流修験は神社からは追放されます。追放された修験者たちは、旧観音堂を本堂(現本地堂)として、吉祥院、智蓮光院、太法院、尊滝院、伝法院、建徳院、報恩院で一山を再形成します。これが現在の三重の塔のエリアになります。さらに明治6年には神社は、郷内村を氏子圈とする郷社熊野神社と名前を変えます。

五流 明治初頭の新熊野十二所権現
明治初年頃の五流一山

 一方修験者は、明治五年の修験道廃止後は聖護院を本寺として天台宗寺門派に所属することになります。
神仏分離で、五流の5院や公卿12院は壊滅状態になったようです。
田辺進、「親子で読む 続編郷内の歴史散歩」2005には、次のように記されます。
 今熊野十二所権現の鎮座する林村は、幕末の頃、凡そ162軒のなか45軒が山伏であり、修験道廃止によって、失業となる。五流尊瀧院のみ天台宗の寺院となり、後は全て還俗する。
 還俗後、このころ警察官・軍人の職業が生み出されたので、そちらに就業した人も多かったといい、五流伝法院の兄弟は軍人となり高官に出世したと伝える。伝法院も建徳院も大阪のほうに移るともいう。

 「幕末の頃、凡そ162軒のなか45軒が山伏」とあります。中世から比べると規模は縮小していたとはいえ、1/3近くの住民が山伏を生業としていたことがわかります。神仏分離で警察官や軍人に「転業」した人たちが多かったようです。

 修験者(山伏)関係の寺院を地図上で確認しておきましょう。
 五流 山伏寺判明図
  五流;
  建徳院(高槻市内藤家)
  報恩院(林・新見家)
  伝法院(大阪市三宅家)
八院:
  大泉院(林・三宅家)、正寿院(林・内藤家)
  観了院(林・本多家)、宝良院(林、岡田家)
非座衆35ヶ寺
  大願寺(今、宮本家)、西光坊(今、西方寺)串田
  有南院(今、一等寺)曽原、惣持坊(今、宝寿院)福江
  杉本坊(今、慈眼院)尾原、仁平寺(今、真浄院)林
  南之坊(今、大慈院)植松、法華寺(今、蓮華院)浦田
  神宮寺(禰宜屋敷) 是如院(報恩院の上手)
  蜜蔵坊(竹田の田の中)  多宝坊(宝良院の下手)
  宝生坊(木見、惣願寺)  清楽寺(祠官屋敷)
かつての五流長床衆の寺院跡を見ておきましょう。
五流 絵図

十二所権現本社の西側にあったのが大願寺です。今はなにもありませんが「中国名所圖會」巻之2「熊野神社全図」で、その姿を想像することはできます。「本社と別当寺」という関係がうかがえる絵図です。
明治の神仏分離で大願寺は廃寺になり、住職は神職となり、明治10年頃まで仕えたようです。明治7年桜井小学校が旧大願寺に新設され、旧大願寺客殿及や長床は教室として使用されます。そのためここには、旧学校跡の石碑が建っています。
五流 大願寺跡

大願寺の南は行者池で、その中島が桜井塚です。
今は陸続きになっています。この中島が、後鳥羽上皇の皇子桜井宮覚仁法親王の御墓所(「備前紀」)だとされます。石造十三重塔は、供養塔と云われ、初重の軸部(鎌倉中期)だけでしたが、皇国史観が高まる明治末になって、現在のように十三重石塔に再建されたものです。
五流 供養塔拡大部

◆後鳥羽上皇供養宝塔(重文):
 三重塔南にある供養塔です。承久の乱で流刑となっていた桜井宮覚仁親王と冷泉宮頼仁親王が 、父後鳥羽上皇一周忌供養のために仁治元年(1240)に建立したと伝えられます。かつては覆屋(御廟)を建て、一切経を納めた経蔵が付設されていたと云います。
五流 後鳥羽上皇御影塔
 

真浄院:(旧五流報恩院)
明治23年、かつての五流報恩院の土地建物を譲り受けて、移転したようです。報恩院の敷地は広かったようで、真浄院の敷地は、その南側1/3程度になるようです。寺号は「備前記」では「新熊野山仁平寺」、「備陽国誌」では「金光山妙音寺真浄院」とあります。現在、この寺は「金光山妙音寺真浄院」と公称します。「仁平寺」とは、十二所権現非座衆35ヶ寺中に見える寺号でなので、十二所権現の社僧の流れを汲む寺院のようです。
 
◆大仙智明権現:

五流 大仙智明権現

五流太法院跡の南の一画に大仙(大山)智明大権現の堂宇があります。太法院跡の西側には、多くの地蔵石仏が並びます。先述したように近世になると、五流修験の山伏が先達となって信者を伯耆大山に登拝する風習が盛んになります。その際の登拝許可などは五流山伏が握っていました。そのため各地から五流の山伏寺に、登拝許可を受けに来ました。こうした大山と五流山伏との関係から、大山智明権現が五流に勧請されたようです。智明権現の本地は、大山寺本尊地蔵菩薩になるようです。
覚城院も山伏廃止令で廃寺となったようです。
五流 覚城院

しかし、児島四国88ヶ所第53番札所が大願寺から移され、そのため覚城院堂宇は天台宗阿弥陀庵として、現在まで存続しました。本尊は阿弥陀如来坐像で、元の覚城院本尊と伝えられます。覚城院は明治維新まで十二所権現裏(北)にある福岡山に鎮座する福岡明神の別當でもあったようです。
寺院エリアの残る「新熊野十二所権現三重塔」を見ておきましょう。
五流 本山
右が三重の塔 左が長床(焼失)

熊野十二所権現社の長床前広場の東・段上に鐘楼・役行者堂と並んでいます。一辺4.3m、総高21.5m(青銅製相輪6.8m)の三重塔で、応仁の乱で焼失したものを、別当大願寺天誉上人によって、再興されます。しかし、安永から天明年中(1781-89)に倒壊したようです。それを、別当大願寺湛海が願主となり、文政3年(1820)に再興したものです。この時期には、善通寺の五重塔や金毘羅大権現の旭社も建立中であった時期になります。寺社の建築ラッシュの時代です。
  この塔の背後の上段には本地堂があります。
五流 日本第一熊野大権現本堂

かつては、「本堂、権現堂、観音堂」とも呼ばれていたようで、十一面観音立像を安置されています。大願寺廃寺になって、ここに遷されたようです。
五流 熊野十二所神社本社
長床が焼失して、さえぎるものがなくなった本社

神社エリアを見ておきましょう。
十二所権現の社殿です。
向かって左から、第三殿、第一殿、第ニ殿、第四殿、第五殿、第六殿となるようです。
五流 熊野十二所神社本社3

第1殿は春日造で第2殿と同規模、
第3殿は桁行3間梁間2間の入母屋造、
五流 三殿

第4殿及び第5殿は4間社流造、第2殿は明応元年(1492)の再建で重文(正面1間側面2間、春日造、正面1間向拝付設)
五流 第6殿

一番右側の第6殿は、1間社流造で、他の社伝よりも小振りです。
第2殿以外は、池田光政により正保4年(1647)再建とされますが、天保11年(1840)再建との古記録もあり、様式上からは天保11年再建とする方が妥当と研究者は考えているようです。
なお、現在、神社側の説明版には「熊野神社祭神は伊邪那美神、伊邪奈岐神、家都御子神、速玉之男神」とあります。ここには熊野の神達の名前はありません。それ以外にも記紀の神々(アマテラス、ニニギなど)が祭神として祀られているようです。
これだけを見ると、最初に挙げた梅原猛の「廃仏毀釈は、神々の殺害
」であったという言葉に真実みが出てくるように私には思えてきます。
五流 長床

 本殿の前にあった長床。
 長床は修験道場で、享保年中(1716-35)の再建と伝えられていました。瓦には、室町期のものが多く使われていて、室町期の建築を再興したものであろうとされていたようです。明和5年(1768)の再建との記録があるとも云われていたようです。13間×3間の長大な建築で、中央右2間が通路で、拝殿も兼ねます。
長床で、社殿は隠されていましたが焼失後は社殿が剥き出しになっていました。この方が開放的でよいと言う人もいますが、どうでしょうか。 
明治維新の神仏分離で次のような境界線が引かれたようです
①三重塔の建つ5段ほどの石階から上は五流山伏の所有地
②それ以外は熊野神社の所有地
この分割ラインでは、長床は神社の所有地の上に建っています。しかし、その機能上から建物は五流山伏の所有とされてきました。そのため、神社側は長床を拝殿として使用するため、五流側から「借用」という形をとってきたそうです。
 平成19年に再建されますが、以前の姿とは全く違う「近代的スタイル」の建築物になっています。

 参考文献
神 仏 分 離 あるいは 廃 仏 毀 釈備前新熊野十二所権現(五流修備前新熊野十二所権現(五流修験・五流尊瀧院・尊瀧院三重塔)
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_goryu.htm

五流 明治初頭の新熊野十二所権現

 江戸時代の五流一山は、本山派修験として聖護院に所属していましたが、実質的には岡山藩の宗教政策に支配されるようになります。今回は岡山藩と五流修験の関係を見ていきます。
岡山藩は、寺院を淘汰し、神社を整理するという独自の宗教政策を展開します。
この結果、五流一山でも、諸興寺、是如院、神宮寺、密蔵坊、多宝坊、惣堂大明神などが廃絶させられます。その後に吉備津彦神社の神主藤原朝臣光隆の義弟、大守隠岐橡が熊野権現の祠官として任用され、熊野権現境内の清楽寺跡に居宅を与えられます。そしてそれまでは社官・三昧僧・供僧が勤めていた御社の鍵の管理、年間六度の開扉ならびに遷宮、御社の掃除などの社役を勤めることになります。そのために神宮寺と是如院が還俗し、下禰宜となり下役として仕えます。
 岡山藩によって、五流を中心とする修験者、修理寺院である大願寺、祠官及び下禰宜の三者が奉仕する体制が作り出されたことになります。
そして寛文九年(1669)には、池田光政から次の折紙が出されています。
備前国児島郡林村之内高百六拾石、同郡宗津村之内高三拾石都合高百九拾石令寄附詑、全可社納也        
  寛文九年三月廿五日、光政公御在判
  惣山伏中 大守隠岐橡 大願寺 
ここからは五流が岡山藩の宗教政策の管理下に置かれたことが分かります。吉備津彦神社の神官を受けいれることで、五流の相対的な地位の低下につながりました。しかし、岡山藩の宗教政策は「飴と鞭」を巧みに使い分けています。ムチばかりではなく、保護も与えます。
五流 東山東照宮
玉井東照宮
 岡山藩の五流修験への保護を示す行事を見てみましょう。
正保元年(1644)池田光政が東山に勧請した玉井東照宮の祭礼・権現祭です。この祭礼で五流修験の建徳院が重要な役割を演じます。祭礼は東照宮勧請の翌年の正保二年(1645)九月十七日から初まっていますが、その中心は東山(岡山市)の東照宮から御旅所迄の御神幸です。この行列に寛文八年(1668)から五流修験を代表して建徳院が、岡山の多数の山伏を伴って参加するようになります。しかも五流の代表者が「権現同道」と叫ばないと行列が動かなかったくらい、重要な役割を演じていたようです。これは円満院が池田光政の島取藩時代の祈祷寺院で、移封と共に岡山に移されています。そのため円満院やその支配寺院である建徳院が重視されたことからきているようです。
 この他にも岡山藩では、五流修験の春秋の葛城・大峯修行や聖護院門跡の峰入への参加の際には、その都度銀子を与えています。また、後には春秋の峰入修行の護摩供に際して、池田家の家運長久の祈念も依頼するようになります。岡山藩は、硬軟織り交えた巧みな寺社政策を展開し、管理下に置いていったことが分かります。

五流 本山
五流本山

近世中期から後期にかけての五流一山の状況を見ておきましょう。
五流 絵図

 岡山藩の寺社抑止政策もあり江戸時代中頃の五流山では、諸院の多くが廃絶し、由伽山・有南院・清田八幡宮など関連社寺も離脱していきました。この結果、五流山は熊野権現を中心として林村内のみでこじんまりとまとまるという運営方法をとらざるを得なくなります。
五流 熊野十二所神社本社3

 その伽藍を見ると、本社は正保四年(1647)十一月池田光政の寄進になる第一殿・第二殿・第四殿・第五殿及び満山護法社。
五流 三殿

明応元年(1492)天誉再建の第三殿から成り、その近くに長床・観音堂・鐘楼などがあり、本社左脇には祠官屋敷、その左隣には大願寺が並びます。
五流 長床
焼失前の長床

 本社の裏につらなる蟻峰山の登山口には、宝永二年(1705)建立の地主神福岡明神の祠がありました。福岡明神には宝永六年に廃止された惣堂大明神の御正体も安置されます。この福岡明神は公卿覚養院が管理し、九月七日には合祀された惣堂大明神の祭典を行なっていたようです。
五流 山伏寺判明図

 山内には塩飽本島の吉祥院をのぞく五流五院、公卿・譜代と称する修験者の家来などの屋敷がありました。その数は、寛文年間には山伏十七戸、譜代二十八戸を数えました。中世の繁栄ぶりから比べると、その縮小ぶりがうかがえます。
 木見の諸興寺跡にはわずかに薬師・毘沙門の小堂を残すのみとなり、有南院と共に分派し、山内には譜代の葬式寺の真浄院のみが存続していたようです。ここを拠点とした修験者達はいずれも妻子と自分達で葬儀を行なっていました。
  
近世期の五流一山の年間行事を見ておきましょう
正月朔日、三月三日、五月五日、六月十五日、七月七日、九月九日の六回の御戸開の祭礼がありました。これらは早朝寅の刻に熊野権現の社殿を開扉し、供物をそなえ祈願などしたうえで中の刻に閉めるものです。八月七日・八日の一山の祭礼の際の八日、及び八月十五日にも開扉されます。この他では、夏九旬の間は熊野権現に夏供花が行なわれます。月毎の行事には、
毎月朔日 権現出仕御宝前誦経
七日 役行者講・権現御本地縁日・権現騰
十七日 御託寥・連歌講
十八日 権現出仕読経
二十八日 荒神講
の行事がありました。この時には、まず福岡明神に登り、そこから蟻峰山の峰伝いに弁財天・熊山・タコラ山(最高峰)・石鎚山をへて山を下り、毘沙門屏・七福神・諸興寺跡・頼仁親王御陵・稲荷社(森池上)から由伽山に到り、根引・行者の井戸・木見・薬師庵をへて福南山にのぼり妙見宮を拝します。それから、熊坂地蔵・熊野道・清田八幡宮をまわって長床に帰るという行程です。さすがは峰歩きで鍛えた山伏たちです。健脚だったようです。
 このうちの蟻峰山からタコラ山にかけては、金剛蔵王権現と大峯八大金剛童子がまつられていました。しかし、この時代には、まだ蟻峰山と福南山を金剛界・胎蔵界になぞらえたり、山内に宿や鼻をもうけることはなかったようです。ただ蟻峰山麓の毘沙門堂上には胎内くぐり、毘沙門堂そばには弘法大師の磨崖仏や不動の種子を刻んだ岩などが、描かれているようです。 
   五流修験では、次第に霞内の檀那からの布施が重要な財源になっていたことは、以前にも見ました。もう一度近世の各院の霞の範囲については、確認しておきましょう。
尊滝院  備前国松山。伊賀国(天正年間肥前・肥後の霞を失ったので、享保十六年聖護院門跡から新たに与えられた。
太法院  美作 備前、伯者(宝永二年の霞状)
建徳院  備前岡山並びに四十八ヶ寺、美作の一部
報恩院  伊予国一円。安芸国豊田郡、
     豊後国大野郡(文化六年の霞状)
伝法院  讃岐国、伊予国
吉祥院  塩飽七島、備中国松山除(宝永元年の霞状)
  このうち吉祥院は塩飽人名領の塩飽本島にあったので、宝永六年(1709)以来、池田藩の特別の許可を得て、扶持米(当時は三石、文化年間は十石)を送られるようになったようです。
 室町時代の霞(テリトリー)と比べるとは、変化があります。
伝法院が讃岐と伊予をテリトリーとしてしていたようです。旧山本町市には、地神(荒神さん)は
「備中児島からやってくる山伏たちが祀るようになったもので、ここに庵などが建てられお札などが配布された」
と記されています。三豊には、五流修験の伝法院の修験者たちがやってきてきた痕跡が残っています。
霞の授与に際しては、本山の京都聖護院門跡からその院に霞状が与えられます。
加えて岡山藩の寺社奉行と霞所在の郡奉行にも通達が行われます。これに基づいて、霞内に頭襟頭を置き、その下に組頭を配して平修験を統轄する組織が作り上げていました。これらの役職の任命は、霞を所持する五流各院が行ないますが、その手順は郡奉行にとどけると共に、そこから藩の寺社奉行に報告するという形が必要でした。また、霞内の修験者の先達号や僧官は五流から出しています。ただし権大僧都以上の僧官については、五流から輩出する権限はなかったようで、聖護院に仲介しする形をとっています。
 近世中末期になると、いくつかの院では霞の他に講を組織して、信者の獲得・掌握を行うようになります。
たとえば「寛政三年(1791)九月吉日報恩院現住宣誉」との奥書のある講員名簿「摂州浪華、当院帰依山上惣講中」には48の講とその先達名が記されています。
 また近世中期以降に、吉野の大峯山寺を支配した八島役講の一つに、堺の五流があります。これも近世期には五流一山と密接な関係を持っていたようです。この他にも現在岡山から広島にかけての村々で見られる山上講も近世中期頃に五流修験が組織化されたものと研究者は考えているようです。
 五流一山は早くから大山を修行の道場として重視し、霞内の修験者にも大山先達の免許・補任を出しています。
修験者は祈祷など行いますが、そのためにはパワーポイントを貯めなければなりません。それは厳しい修行によってのみ貯める事が出来ると考えられていました。そこで、中世の修験者(山伏)たちは、行場をもとめて全国を旅する事になります。白山や立山、石鎚などの行場が近くにあればいいのですが、五流修験の拠点である児島には、名のある行場がありません。そこで、修行のために小豆島や石鎚、そして伯耆大山(大仙)を、修行ゲレンデとしました。
 江戸時代に修験者の移動が規制されるようになると、五流修験は大山を公認行場として認められるようになります。そのため現在も五流一山の祖霊堂は、大仙智明権現と呼ばれています。大山は五流修験とっては、修行の「ホームグラウンド」だったのです。そして、かつての熊野行者が先達として、熊野に「檀那」を連れて参拝したように、岡山南地域の信者達を大山へと導く姿が見られるようになります。こうして岡山からは五流修験の山伏に率いられた人々の「大山詣で」が盛んになります。この先達を勤めた山伏たちを先祖とする寺社が備中や備後には、かつては数多くありました。
 
 ここで五流修験の特徴を押さえておきましょう
 修験者の拠点は、行場の近くに形成されるのが普通です。しかし、五流修験は、熊野神社の社領に分祠されたのが始まりです。そのために行場が近くにありません。そのため五流修験は、熊野や大峯さらに大山・石鎚・小豆島などで修行せざるを得なかったようです。
 さらには瀬戸内海沿岸に新たな行場を求めて進出していきます。そして、そこに熊野権現を分社し、活動の拠点を確保していきます。それが、以前にお話しした塩飽本島の吉祥院や芸予諸島大三島の大山祇神社であったのでしょう。五流流修験が瀬戸内海沿岸の紀州・中国・四国・九州にかけて広範なテリトリーを持つようになったのは、このように外に向わざるを得ないベクトルがあったと研究者は考えているようです。
 もうひとつは、背後に熊野水軍の瀬戸内海進出があったことです。熊野水軍は備讃瀬戸の戦略的要衝である児島を押さえた上で、瀬戸内海全域の展開を行います。その水軍の偵察・情報収集部隊の役割を果たしたのが五流修験であったようです。そして、交易拠点に庵を開き、伝道活動の拠点とすると共に、熊野水軍の「支店」としても機能するようになります。修験者たちは、熊野詣でへの導引とともに、営業マンであったのかもしれません。これは、当時の有力寺社の瀬戸内海交易のパターンでもありました。五流修験の後に、熊野水軍ありということにしておきましょう。
  このこととが中世期の五流修験に大きな影響をおよぼしているとこ研究者は考えているようです。

近世期にも五流一山は、本山派修験内で特別の位置を与えられていたようです。
たとえば天保年間筆写の「本山近代先達次第」には、熊野三山検校宮三井長吏・聖護院御門跡の一品法親王を筆頭にして、熊野三山奉行若王子僧正、院室の住心院・積善院・伽耶院、豊前の求菩提山・筑前の竃門山の両座主があげられています。
 このあとに備前児島五流の報恩院・尊滝院・太法院・伝法院・建徳院・智蓮光院・塩飽の吉祥院がいずれも山号は新熊野山、長床宿老として記されています。
 さらにこれに続いて諸国の大先達・年行事・准年行事、御直院が記され、最後に別段をもうけて、児島公卿として一老附宝良院・覚城院・正寿院・宝乗院・大泉院・太法院付常住院・南滝院・観了院・千寿院・報恩院付本城院・尊滝院付青雲院・常楽院・備前矢掛一流公卿智教院、讃岐丸亀内伝法院下威徳院、同塩飽島吉祥院下真滝院があげられているのです。本山派修験内でこれだけの院が一括して所属し、しかも院室・座主につぐ位置を占めている例はないようです。ここからも五流一山が本山派内で別格視されていたと研究者は考えているようです。
 五流修験は本山派内で重要視された背景は、何なのでしょうか。
それは、聖護院門跡の御一代の御大峰・役行者千年忌・千百年忌、本山派修験の春の葛城・秋の大峯の峰入にあたって、五流修験が重要な役割をはたしていたことによるようです。例えば、聖護院門跡の一世一度の峰入では、五流修験のものが峰中修行の秘儀である小木、関伽の作法を門跡に伝授する指南役を勤めています。こうした門跡の峰入の供奉に際しては、岡山藩からの援助を受け、衣裳も権現祭の際に着用する藩のものを借りています。またそれに先立って、必ずホームゲレンデの伯者大山で修行をしたようです。
以上をまとめておきましょう
①近世には岡山藩の宗教政策により「規制と保護」を受けるようになった。
②林村の熊野権現ついては神職の介入を受けるようになり、五流修験、大願寺、祠官の三者が共同して奉仕するようになった。
③由加山の管理権を失い、多くの寺院が退転した
④五流修験は規模を縮小したものの、依然として中国・四国に霞を持ち比較的安定した宗教活動を展開していた。
参考文献


   備中児島を中心に大きな勢力を持っていた五流修験の起源について、前回はみてきました。
その結果、五流修験は熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に、中世になって形成されたのが修験集団であること。そして、活発な活動を展開するようになるのは13世紀になってからということが分かってきました。彼らは由来に「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであると考え、熊野本山との「幻想共同体」を作りだしていたようです。
 五流修験が次のステップを迎えるのは、承久の乱の際に後鳥羽上皇の息子達を迎え入れたことが契機になります。今回は、そこから見ていきましょう。

五流 後鳥羽上皇系図

 後鳥羽上皇の第四王子 冷泉宮頼仁親王が承久の乱に連座して、承久二年(1220)に児島に配流されます。これが五流修験の発展の原動力になっていきます。
『吾妻鏡』承久三年(1222)七月廿五日の条には、次のように記されます
「冷泉宮令遷二于 備前国豊岡庄児島の佐々木太郎信実 法師受一武州命丿令互子息等奉守護上之云云」

 児島の豊岡庄に配流された冷泉宮頼仁親王は、備前の国の守護佐々木信実にあずけられます。この頼仁親王の兄が桜井宮覚仁法親王でした。覚仁法親王は、建保五年(1217)十二月大阿闇梨青龍院覚朝について得度し、翌6年には、三井寺円満院住職として三井の長吏になっています。
 「五流伝記略」などによると、頼仁法親王は、承久二年(1220)に京都の戦乱をさけて、児島にやって来て尊滝院に庵室を設けて避難生活を送っていたようです。
 一方、翌承久三年に豊岡庄に流された頼仁親王も、林の尊滝院に移って共に生活するようになったようです。このために尊滝院を御庵室先達と呼ぶようになります。

 やがて延応元年(1239)、後鳥羽上皇は隠岐で亡くなります。
翌年の仁治元年(1240)の一周忌に両親王は、その遺徳をしのんで石塔、廟堂、経蔵などを建て供養します。この石塔が、後鳥羽上皇御影塔と呼れ、重要文化財の石造宝塔になるようです。

五流 後鳥羽上皇御影塔

この塔は昭和45年に解体修理が行なわれましたが、その時に塔身首部から火葬した骨片95、歯12、香木8片、鉄製細片などが発見されたようです。五流一山には、後鳥羽上皇が亡くなった後に死体を荼毘に付し、遺骨を三分して一つを隠岐、今一つを山城国、最後の一つをこの宝塔におさめたとの伝承があります。その伝承通りの遺物です。
頼仁親王は、守護の佐々木信実の娘を妻とし、二人の子供を残します。
宝治元年(1247)四月二十日、48歳で、尊滝院で亡くなります。亡骸は木見の諸興寺に葬り、墓地を若宮御霊殿と呼びます。
五流 若宮御霊殿

  一方、後鳥羽上皇の第6皇子が覚仁法親王です。
この地に流された兄頼仁親王(後鳥羽上皇の第4皇子)と共に、当時衰退しかけていた尊瀧院の再興に力を尽くしたとされます。
岡山の風 | 熊野神社(倉敷市林)|昭和48年 (1973年) 8月
 
岡山県倉敷市林の熊野神社参道の途中に池があり、その中に桜井塚という島があります。そこに、五流尊瀧院の大僧正となった桜井宮覚仁法親王の墳墓があります。桜井塚の十三重層塔と灯籠は、覚仁親王の墓と並んでありますが、親王のために建立されたものです。
倉敷市林・伝桜井宮覚仁法親王御墳墓 - 寮管理人の呟き

塔は約5m高さで、親王没の弘長3年頃の建立で、初重の軸だけが当初からのもので、その他は明治末年になって皇国史観の高まりの中で修復・再建されたものです。造灯籠は高さ約170㎝の豊島石製で、室町時代(14世紀初め頃)の作とみられています。これも後のになって、建立されたもののようです。
 ふたりの親王の墓を比べると、五流一山がふたりをどう評価していたがうかがえます。覚仁法親王の方が五流一山に残したものは大きかったと考えられていたようです。なぜかと云えば、覚仁法親王は宝治二年(1248)に、熊野三山ならびに新熊野三山検校となり、建長七年(1255)の後嵯峨上皇の熊野御幸に際しては、先達をつとめます。これが親王先達のはじめとなるからです。彼は文永三年(1266)四月十二日、59歳で亡くなります。
 覚仁法親王は、頼仁親王の長男道乗を、尊滝院の後継者とします。あわせて自分が所有していた肥後詫間郡之内大庄の八ヶ所、同郡の川尻庄の大部分を与えています。
後継者となった道乗の行った経営スタイルを見ておきましょう
①上沢氏から妻をめとり、宮家六党のうしろだてのもとに児島五流の再建(創建?)を進める。
②自らは五流一山の庄務となり、清田八幡宮・福南山・滝宮・通生神社に社領を与え、諸興寺・由伽寺・藤戸寺領などを定めた。
③尊滝院を長子澄意(次は二子頼宴)、伝法院を三子親兼、太法院を四子隆禅、報恩院を五子澄有、建徳院を六子昌範につがせて、自分の子供たちにより五流一山の再興を行った。
ここからは道乗によって、親王の子孫が五流一山の統率者になるというスタイルが出来上がったことが分かります。こうして一山の組織は整えられると共に、求心力も高まったようです。

 由伽山蓮台寺には、正安元年(1299)在銘の打懸札二枚が伝えられています。そのうちの一枚の裏に、親兼・隆遍・隆禅・隆有・宋助の名前が記されています。このうち親兼、隆禅は道乗の子になります。ここからは、道乗の子供や法資が熊野三山の一つである那智に比定された由伽山の経営に関係していたことが分かります。「岡山熊野三山」の連携が見えてくるのも、この時期からのようです。
こうして、五流一山は道乗によって組織化され、そのうしろだてとなった宮家六党らによって支配されるようになります。その神領は小島庄を中心として、波佐川庄、豊岡庄を含めて児島一円に及んでいたようです。

 この時期の五流一山の状況を見てみましょう。
弘長二年(1262)二月の奥書がある「長床六十三箇条式目」には、次のような事が記されます。
 まず児島の庄全体は、長床衆一同の領で、権現結縁の者が生活する所とされています。そして次のように記されます
一山の運営は長床衆の下知に従って庄官及び両政所が行なう。その際両政所は行事を支配し、庄官は百姓を支配する。政所や庄官になるのは長床の座衆のみである。しかしいくら長床の座衆でも熊野常住の者や京都に留まっているものがなることは出来ない。なお政所は百文、庄官は百五十文の支給を受ける。
社寺に関しては、まず修理をおこたらず、祭礼に専念せよ。
もっとも神社、寺院、供僧の加増は禁止する。また社寺の奉仕者の職を在俗者にゆずることも禁じる。
 長床の地は一般の人々は入れない殺生禁断の地で、百姓が茸をとったり、漁人が貝などをとることも禁じす。
なお、修行の道場は質素であったようで、社殿にはたたみやござをしいてはいけない。修行道場である福南山の供米は、庄官の得分でまかなえ。
 その他に、一山の行事としては六月会、峰入、霜月大師講、後鳥羽上皇追善の大乗会などがあげられています。この「六十三箇条式目」には、二十一名に及ぶ署名が並びます。おそらくこの人々が当時の長床衆の主要な者と考えられます。

 前回に、お話ししたように児島は「吉備の中海」に面し備讃瀬戸の戦略的要衝でした。
戦略的な要衝は、争奪戦の対象になり戦乱に巻き込まれるのが世の常です。中世期には、五流一山は、度々戦乱にまきこまれます。その際に、熊野は南朝の拠点でしたから五流一山も南朝方に荷担します。結果としては、負け戦の連続になり神領を減らしていくことになります。その過程を見ておきましょう。
 南北朝の戦乱に活躍した児島高徳は、児島五流の出身といわれています。
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彼は後醍醐天皇の隠岐脱出を知ると一族のものと馳参じ、その功によって児島を得ています。そして尊氏の反乱後は、熊山城、福山城などで反幕の兵をあげます。南北朝の争を記した「太平記」には、児島高徳をはじめ修験者の活躍について、くわしく記されています。
 また「洞院公定日次記」の応永七年(1400)十月の条に「太平記」の作者として、小島法師が挙げれています。こうしたことから、「太平記」の作者を児島の五流山伏と考える研究者もいるようです。

南北朝時代の暦応三年(1340)には、児島の佐々木(飽浦)信胤が反幕の兵をあげ、小豆島にせめ入ります。
五流 佐々木

 そして、吉野朝廷に大将軍の下向を要請します。吉野では、これに応えて脇屋義助を派遣します。義助は吉野から高野山をへて田辺にでて、ここで新宮別当湛誉から熊野の水夫、武具、兵糧などを与えられ、三百余般の船にのって船出します。そして淡路の武嶋に行き、さらにここから備前の児島につき信胤と同船して、伊予今治におもむいています。ところが義助は、伊予の国府で病死し、信胤も敗れてしまいます。
 佐々木信胤は五流と親族関係で、熊野水軍も佐々木方に荷担しました。両者に関係をもつ五流一山も当然、南朝方につきます。幕府の高師直は、これに対する処罰として児島の常山より東側を五流一山から没収します。この結果、五流一山は児島の西半分のみを社領として活動を続けることになります。
 その上に、応仁の戦乱にまきこまれます。
 五流一山の覚王院は、細川勝元と所縁がありました。その権威をかりて山内でおもいのままに振舞い反感をかっていたようです。応仁の乱は、細川勝元と山名持豊が争ったわけですが、覚王院に反感を持っていた五流一山の者は、山名方に味方し、覚王院を亡ぼそうと画策します。
 これを知った覚王院円海は備中国西阿知に退きます。そして応仁二年(1468)三月二十日夜、細川方の兵をかりて五流一山に乱入し伽藍僧堂を一宇も残らず焼きはらってしまいます。こうして以後、覚王院と五流一山の確執は長く尾をひくことになります。
 応仁の乱後、幕府はこの五流一山の衆徒の争を罰して、神領をさらに減らします。その結果、近隣十七村、約8000石になってしまいます。
このような窮状の中で、再建計画を打ち出したのが大願寺の天誉です。
 彼は応仁の乱で廃墟になった一山の再建を志し、文明元年(1469)から長享元年(1487)にかけて四国を中心として諸国を勧進し、資財や資金を集めます。そして明応元年(1492)に一山の再建に成功します。
 しかしこの再建直後の明応年間に、残っていた児島十七村の熊野権現神領が、常山城主の謙野土佐守及び同肥前守に押領されてしまうのです。伽藍は再建されましたが、神領を失ってしまったのです。そこで管領細川政元にかけあいますが、一向に要領をえません。
 そのような中で永正四年(1507)、管領となった大内義弘のはからいで児島のうち林庄、曾原庄、火打庄(今の福江)の三ヶ村が五流一山に返されることになります。
 しかし、天文十六年(1547)には、一山を追われた覚王院円海の子孫との因縁から再び戦乱に巻き込まれます。
五流一山へ帰山を許されないことに恨みを抱いていた覚王院円海の子孫は、阿波の三好長慶の兵を借りて、一山に乱入して火をかます。この時には一山の者が結束して、これを防いだために、楼門や長床を焼失したのにとどまったようです。この時に焼かれた長床は、元亀二年(1571)大納言増印が資財をあつめて、天正の始めに再建しています。

 このような五流一山の神領への押領や侵入にたいして、本山である京都の聖護院門跡道応が動きます。
彼は、西国廻国の際に毛利元就に接見し、五流一山の保護を求めます。吉備への進出のプラス材料になると考えた元就は、五流近隣の城主へ五流の保護を命じます。加えて永禄十一年(1868)十月二十六日に、三ヶ村の界に輝元と元就の名で神領である事を明示した制札を建てています。こうして、大内氏から与えられた神領三ヶ村は、毛利氏の庇護のもとに安堵されることになります。
 修験者(山伏)が武力集団化するのは、古代以来のことです。
五流一山も武力集団化していたようで、一山の修験者が従軍僧として戦陣に加わることは日常化していたようです。彼らは、「知識人」でもあったので右筆・外交官・葬儀・戦闘記録・祈祷師など、いろいろな業務を担当していたようです。
 たとえば元亀二年(1571)春、讃岐国の香西駿河入道宗心が、児島の本太城の能勢修理を攻めた時のことです。五流の建徳院が能勢修理の陣に加わり、雨乞をして大雨を降らせ、能勢修理はそれに乗じて打って出て宗心を打ちとったという記録が残っています。五流修験が戦争で、重要な役割をはたしたことが分かります。
 こうした五流一山の武力や情報収集力、その背後にある熊野水軍などに注目する勢力も出てきます。
それが秀吉です。秀吉は、山陽・四国制圧のためには瀬戸内海の制海権を握ることが不可欠であることに早くから気付いていたようです。当時は備讃瀬戸の制海権は、毛利氏に属する村上水軍が握っていました。それに対抗しようとしたのか、天正十年(1882)秀吉は、長床衆の加勢を求めて使者として蜂須賀小六を五流に送っています。しかし、五流一山は毛利氏への帰属が強く、この時には応じなかったようです。そのため秀吉から、林、火打、曾原の三ヶ村も没収されてしまいます。全ての神領を失った一山では、天正十一年(1883)、使者を京都に派遣し、照高院道澄を通して秀吉に歎願します。この結果、天正十七年(1589)になって、秀吉の配下となった小早川隆景から、堪忍料として百石を与えられています。この百石の社領は後には、宇喜多秀家にもひきつがれます。

戦国期の五流一山が直面した課題は、何だったのでしょうか
①五流一山では、神領の多くを失ってしまいます。神領に頼らない一山の経営方法が求められます。
②戦乱で修験者たちに大きな実入りになっていた熊野詣でも衰退します。この結果、熊野本宮との関係自体も薄れていきます。代わって本山派の聖護院末寺として活動するようになります
このような時代の変化に、どのような対応策したのかをみておきましょう
室町時代になると、院の財源は「配札・祈祷」などの布教活動に求められるようになります。
特に戦国時代になって、神領のほとんどを失ってからは、この動きが強まります。五流修験では原則として「霞(かすみ=テリトリー)」は、五流のみが所持していました。公卿は五流のいずれかに属して、直接に配札などの活動をおこなっていたようです。五流それぞれの霞は次のようになります。
尊滝院 塩飽七浦、備中松山・連島、肥前七浦、肥後
太法院 備前瓶井山・金山・脇田・武佐・御野、小豆島  
    作州(本山、桃山除)、日向
建徳院 伊予、安芸内豊田郡、紀伊の内日高郡 
報恩院 備前国岡山並四十八ヶ寺、作州本山・横山、
    備前西大寺
伝法院 讃岐、備後一万国並備中之内浅口郡 
ここからは5流(5つの院)が、それぞれテリトリーを持ち、その地域の山伏たちを統括して、布教活動を行っていたことが分かります。
統一した組織体と云うよりは、5つの院の連合体と捉えた方がよさそうです。また各院の霞は、前回に見た縁起で主張される「熊野権現」分祠地と重なるようです。
 
室町時代の五流一山の衆会、講、饗などの年中行事を見ておきます。
これらの行事は長床衆を中心として行なわれていました。行事の名称を見ると、初雪、月見などの饗、連歌会、管絃講、公達集会や公達庚申などが見られます。地方の山伏にしては、洗練された諸行事が数多く行なわれていると研究者は指摘します。これは五流修験が、常に京都や熊野におもむいたり、早くから院や公卿の先達をしてきたことから、身につけた教養や作法なのかもしれません。
「後法興院記」の明応二年(1493)四月十九日の条には、児島の山伏二人が聖護院門跡の京都入りのお供をしていたことが記されています。こうしたこともあって五流修験は、京都でもよく知られた山伏であったようです。児島の五流修験は、都でも聖護院末の異色の修験者として受けとめられていたとしておきましょう。

戦国期の五流の伽藍や関連宗教施設を最後に見ておきます
①伽藍整備については、明応年間に大願寺の天誉によって再建され整備されて。本社・若殿・西宮・中西社から成る社殿を中心として、長床・観音堂・三重塔・神楽殿・御供殿・鐘楼・仁王門が立ち並んでいます。さらに元亀天正の頃までには、行者堂、楼門、唐門、回廊、一切経蔵、千体仏堂、後鳥羽院の御廟堂、覚仁法親王の御廟堂が再建されています。この他に修験の院坊、大願寺、神宮寺などの社僧の本堂、庫裡が山内各所に姿を見せていました。戦国期の地方寺院としては、瀬戸内では有数の規模を誇っていたようです。
 当時の児島には、五流のどんな関連社寺があったのでしょうか。
五流 岡山熊野三山

まず新宮にあたる木見の諸興寺があります。ここには新宮権現の本地薬師(恵心作)をまつった薬師堂、阿弥陀堂、若宮殿、御廟堂が立ち並んでいました。その他にも、紀州の神倉に比定された背後の山には毘沙門堂もあります。
那智にあたる由伽山には、権現堂と本地堂があり、本地堂には那智権現の本地十一面観音がまつられていました。その南には、紀州の那智同様に滝があり、滝宮があります。この他五流の山伏が那智権現に参詣する際に垢離をとった井戸があり、五流の井戸と呼ばれていました。
その他の関連宗教施設を列挙しておきましょう
①応永三十一年(1424)五流一山総録の智蓮光院宜深が一山の菩提寺として作った有南院
②有南院の近くには、熊野権現の御旅所の清田八幡宮
 熊野権現の祭礼の際には神輿や神馬は、本宮(林)を出て、新宮(木見)をへたうえで、清田八幡宮へ渡御し、神事の法楽ののちに本宮に帰ったと伝えられます。現在この神社には、
 至徳四年 (1387)三月
 嘉慶元年 (1387)十一月
 応永十九年 (1412)十一月
 応永二十九年(1422)二月
 永禄八年 (1565)九月
の五枚の棟札が伝えられています。そこには五流一山の関係者の名前が記されています。ここからは、清田八幡宮が五流一山において重視されていたことが分かります。

 室町時代の五流一山は、五流と公卿を中心とした修験者から成る座衆と大願寺を中心とした非座衆から成りたっていました。しかし、実際の運営は座衆が行なっていたと研究者は考えているようです。「新熊野権現御伝記」には、元亀・天正頃の長床結衆寺院(座衆)として、次のような院が記されます
建徳院、尊滝院、吉祥院、伝法院、報恩院、太法院、智蓮光院、覚城院、南滝坊、常住院、本城院、青雲院、宝蔵院、大弐(出家当住)、俊雀(千手院当住)、正寿院、少納言(大善院当住)
 ここには塩飽本島の吉祥院が新たに加わって「五流」が六ヶ院に
なっています。建徳院、尊滝院、吉祥院、伝法院、報恩院、太法院が五流で、その他は公卿になります。
 塩飽本島の吉祥院が「五流」に加えられた経緯を示す史料はないようです。推測するなら、塩飽本島は塩飽水軍の拠点で早くから五流が関係していた備讃瀬戸の戦略的拠点です。そのために、本島に新たに五流の一院をもうけ、一山の運営に参加させるようになったとしておきましょう。どちらにせよ、塩飽本島に、五流の拠点が置かれていたことは押さえておく必要があります。

以上をまとめておきましょう。
①中世に後鳥羽上皇の子孫とされる道乗によって児島の地に五流修験は確立される。
②この時期に五流修験は備前国の守護の佐々木一族など宮家六党の後だてのもとに熊野神領の児島庄を支配し、熊野権現に奉仕する形ができた。
③しかし、この時期も児島に本拠をおくとともに、熊野にも拠点を持って先達として積極的に活動していた。
④南北朝時代以来のたびたびの戦乱で神領による財政的な支えが不可能とななったことに加えて、熊野信仰そのものも衰退した
⑤このため児島の修験者は熊野から独立して、自分達自身の手で一山を守り信者を獲得して行くようになった。
⑥五流修験者は瀬戸内沿岸で活動し、中国・四国から九州をテリトリーとする霞が成立するのはこの時期である。
⑦五流修験は、霞の檀那への配札や加持祈祷などの収入に活路を見出すようになる。
このように考えれば「長床縁由」に記される「熊野権現勧請譚」や、「聖武天皇や孝謙天皇の御代の伝承」は、信者をひきつけるためにこの頃に考え出された物語と思えてきます。
 どちらにしても五流は、戦争や内乱に屈することなく、縁起をととえ積極的に宗教活動を行なうことによって新たな信者を獲得し、その後の五流修験の活動基盤を作っていったと言えます。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

五流修験、発祥の地 「熊野権現の春」 | 岡山の風

 修験者たちの四国辺路の行場巡りの修行が、近世の四国霊場札所めぐりの原型であったといわれるようになっています。そのために、四国における修験者たちの活動に、焦点が当てられて研究成果がいくつも出されるようになりました。それらを読んでいて、気になるのが五流修験です。五流修験は倉敷市の児島半島に本拠を置いた修験集団でした。彼らの教団の形成と讃岐や四国との関係に焦点を当てて見ていこうと思います。
 五流修験の拠点である児島半島の「地理的な復元」をいつものように、最初に行っておきましょう。
五流修験 児島地図

 児島半島は、かつては島で北側には「吉備の中海」が拡がっていました。この海域は、近世に至るまで近畿と九州を結ぶ最重要のルートでした。古代吉備王国は、この備讃瀬戸の要衝を押さえて近畿勢力の有力な同盟者に成長して行きます。
最初に簡単に児島修験の概略を確認します。 
平安時代中期頃に、熊野本宮長床の一族と名乗る修験者たちが児島にやってきてます
 彼らは、熊野本宮の神領の中で最大の児島庄に熊野権現を勧請し、これに奉仕する修験集団を形成します。この集団は、自分たちの開祖を役小角の高弟、義玄・義学・義真・寿元・芳元として、尊滝院、太法院、建徳院、伝法院、報恩院の五ヶ寺を開きます。この5つの寺院から彼らは「五流」と呼ばれるようになります。

その後、平安時代末頃には児島の五流は、一時衰退したと云います。
しかし、承久の乱が起こり、後醍醐天皇の息子達が児島に流刑となっり、その子孫が院主となり五流の五ヶ寺は再興されます。
以後中世期を通して、五流修験は醍醐天皇の流れをくむ公卿からなる長床衆、社僧などを中心とする一山として繁栄します。五流山伏は、児島だけでなく熊野にも拠点をもつようになります。また、皇族の流れをひくことから皇孫五流、あるいは公卿山伏と呼ばれ、院や貴族の熊野詣にあたっては先達として活躍することになります。
五流修験は熊野権現を勧進していますから本山派に所属していました。
しかし、その組織の中に中国・四国から九州の一部に霞を持ち、霞内の先達に哺任を出すなど、本山派内でも別格的な位置を与えられていたようです。
  備讃瀬戸の制海権掌握のための拠点としての児島
五流 吉備の穴海
 
先ほど見たように児島の地は、現在では半島になっていますが、中世初期までは、その名の示すように島でした。熊野権現が勧請された林村は、水鳥灘の人江で、瀬戸内海の東の要所である備讃瀬戸の制海権を掌握するための拠点として重要戦略拠点でもあったようです。
 古代には吉備王国がこの水路を押さえて、瀬戸内海航路の管理権を握っていたことは先述したとおりです。源平の戦いでも争奪戦が展開されます。室町時代には、細川家が吉備と讃岐の守護職を得て備讃瀬戸の管理権を握っていました。戦略地点は戦いの時には、攻防戦の対象となります。このために児島五流も源平、南北朝、戦国時代などの戦乱にまきこまれていきます。
 近世期の五流修験
京都の聖護院内では、九州の宝満・求菩提などの座主と共に、院室につぐ位置を与えられ、公卿も各国の大先達につぐ位置を与えられていたようです。そして歴代の聖護院門跡の峰入の時には開伽、小木の指南役をつとめています。それだけでなく、本山派の春の葛城入峰、秋の大峯入峰でも重要な役割をはたしていました。
 中央でも重要な役割を担っていた五流修験に対して、地元の岡山藩は保護と管理の両面の宗教政策を巧みに使い分けて、管理下に置いていこうとします。まず、五流一山にそれまでの修験と、修理寺院大願寺のほかに新たに祠官を加えて、これらに百九十石の社領をあたえて保護します。特に山伏にはこのうち百石を与えると共に、門跡の峰入や葛城・大峯の峰入にあたっては、その都度銀子を与えています。
五流修験は、中四国の霊山である大山・石鎚の修験者を掌握していました
 五流の山内には、大仙智明権現がまつられ、石鎚山に擬せられた行場もあります。
赤い鐘楼門がとても目立っている - 大仙院の口コミ - じゃらんnet

大山や石鎚へは五流修験者たちの修行ゲレンデでした。同時に、彼らは先達として、多くの信者をこれらの霊山に参拝に連れて行きます。以前にお話ししたように、大山への岡山からの参拝を組織したのは、五流修験者たちでした。彼らは信者の里に庵を結び、それが発展して寺になった所も数多くあるようです。

 明治の神仏分離により、熊野権現は郷社熊野神社となり、大願寺は退転します。

五流 尊瀧院

 修験者は、五流筆頭の尊滝院を中心として結束し、聖護院末の修験集団を形成します。そして第二次大戦後は、尊滝院を総本山とする宗教法人「修験道」を結成し、中国・四国を中心に全国各地に教師・信者をもつ修験集団として活動するようになります。

  これが五流修験の概略です。これでは、よく分からないのでもう少し詳しく各時代毎に見ていくことにします。

五流修験の縁起では、児島への熊野権現の勧進をどのように記しているのでしょうか。「長床縁由」などの諸縁起を見てみましょう。
は次のような伝承をのせています。
 修験道の開祖役小角は韓国連広足の彿言によってとらえられようとした時、朝廷の追捕の手をさけて熊野本宮にかくれていた。しかし自分のために母親が捕えられたと聞いて自ら縛につき伊豆の大島に配流された。
 その時義学らの五大弟子を中心とする門弟三百余人は、王難が及ぶことをおそれて熊野本宮の御神体を奉持して、権現を無事に安置しうる霊地を求めて船出した。
 そして淡路の六嶋、阿波の勝浦、讃岐の多度、伊予の御崎(佐田岬)、九州各地などを三年間にわたってさまよい、これらの場所にそれぞれ権現を分祀した。ただし御神体そのものを安置しうる霊地はまだ発見しえなかった。
ここで伝えようとしていることは
①自分たちは、修験道の開祖役小角の五大弟子につながる法脈であること
②法難に際して、聖地熊野本宮の神体をもって瀬戸内海方面に亡命したこと
③瀬戸内海沿岸の淡路・阿波・讃岐・伊予、九州をさまよい権現を分祠したこと。
など、自分たちの集団のよるべき法脈と、瀬戸内海のテリトリーが主張されます。
 ここで私が注目しておきたいのは権現分祠先として「讃岐の多度」があることです。

五流 備讃瀬戸

多度郡は、空海を産んだ佐伯氏の本貫で善通寺がある郡になります。その郡港として古代に機能していたのが弘田川の河口にある白方(多度津町)です。ここには近世になって「空海=白方誕生説」を流布した父母院・熊手八幡・海岸寺・弥谷寺があります。
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多度津町白方の熊手八幡 その向こうに広がる備讃瀬戸

これらの寺院に残された寄進物を見ると信者達には、備讃瀬戸を挟んだ備後や備中の人たちが名前が見えます。さらに絞り込んでいくと、彼らは五流修験の下に組織された人たちではなかったのかと思えてくる状況証拠があります。
 つまり、大山や石鎚への蔵王権現信仰と同じく、白方にも熊野権現が分祠され、それを五流の修験者たちが祀り、彼らが先達として備後・備中の信者達を連れてきたのではという仮説です。実は、これは小豆島の島遍路巡りをして思った事でした。吉備から見て南に開ける海の向こうにある補陀落や観音信仰の霊地としての小豆島や白方は見られていたのではないかという筋書きです。
 後に、その霊地に弘法大師大師伝説が接ぎ木されていくパターンです。これは、観音寺が八幡信仰と観音信仰の上に、弘法大師伝説が接木されるのと同じような手法です。

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白方=空海誕生地説の拠点だった海岸寺奥の院からの備讃瀬戸

 この動きを進めたのが五流修験であったとすれば、「空海=善通寺生誕説」にこだわる必要はありません。彼らは善通寺とは別の系譜の修験者たちです。新たに「空海=白方生誕説」を流布し、白方の宗教施設のさらなる「集客力アップ」を目指したのではないかというのが私の仮説です。
 中世に多度郡白方に置かれた宗教施設は、児島五流の影響をうけていたとしておきます。

 また、多度津以外の「淡路の六嶋、阿波の勝浦、讃岐の多度、伊予の御崎(佐田岬)」にも、熊野権現を分祠したと云います。これは、古代のことではなく、後世における五流修験の活動範囲と私は考えています。さらに縁起をみていくことにします。
 瀬戸内海をさまよううちに、義学は船を東に向けるよう神託を受けた。これに従って東に舵を向け備中と備前の境まできた時、山上から呼声が聞えてきた。この場所が現在の倉敷市呼松である。この声にひかれて更に梶を南にとり柘榴の浜(現在の児島下の町)に到着した。
 すると海浜の石の上に白髪の老人が左手に経巻、右手に賊斧を持って立っていた。老人は、ここから北に進むと如意宝満の峰という霊地がある、そこに権現を鎮座すると良い。自分は地主神の福岡明神であるが、今後は熊野権現を護持しようと語った。義学らは喜んで上陸し柘榴の浜に寺を作った。これがのちの惣願寺である。
 一行は教えられた通りに北に道をとり、福南山の山麓をへて峠(のちに熊坂峠と呼ばれた)を越えて福岡邑に到着した。なおこの途中、福南山の麓で休憩して堂を作り地蔵をまつった。これが現在の熊野地蔵である。
 さて福岡の地に着いた一行は、熊野十二社権現の御神体を安置してまつりを行なった。大宝元年(701)三月三日のことであったという。
またあわせて境内に地主神の福岡明神を勧請した。その御神体は柘榴の浜で老人が立っていた石である。熊野権現の到来を喜び迎えた村人は同年の三月十五日に仮の御社にまつり、什物をはこび込んだ。やがて六月十五日には十二社権現すべての御社が完成した。爾来熊野権現が福岡の邑に鎮座された三月三日は同社の大祭とされている。また仮宮を造られ什物がととのえられた三月十五日には負事の賀、十二社権現の御社が完成した六月十五日には祭典が行なわれるようになったという。
 以上が「長床縁由」などに見られる児島への熊野権現の勧請物語です。近世の写本「五流伝記略」には、天平宝字五年に木見に宮殿を建てて新宮諸興寺とし、同じく児島の山村に那智山を移して新熊野山由伽寺を開いたと記します。これらがはたして史実かどうかは分かりません。
五流 岡山熊野三山

つまり、自分たちは熊野長床の子孫であり、新たに児島の地に熊野権現を開いたという「新熊野」伝説を主張しています。これをそのまま信じることはできませんが、この縁起類が書かれた時代の背景をうかがえることはできそうです。
 さらに、聖武天皇が神領を寄進し、孝謙天皇の御代に堂宇が整ったこと、そして児島の地に新宮及び那智の権現も勧請されたという縁起が、後世に作られたと研究者は考えているようです。

 「尊滝院世系譜」では尊滝院の開基を義学とします。
以下二世義玄、三世義真、四世寿元、五世芳元と役小角の五大弟子を並べ、六世神鏡、七世義天、八世雲照、九世元具を記します。9世の元具が死亡した永観(983)年間以降、承久2年(1220)の覚仁法親王による再興までの間、同院は中絶して寺院は荒廃したとします。
 寺院の縁起は「①古代の建立 → ②中世の荒廃 → ③近世の復興」というパターンで書かれたものが多いようです。③の場合は「復興=創建」と、読み直した方がいい場合もあります。六世から九世迄の四人のうち神鏡以外の三人については、具体的な活動が伝承されているようです。しかし、史料を検討した研究者は
「実在の人物であるとはいいがたく、後世に付会して作られた伝承」
という疑いの目で見てます。   

縁起の中で主張する「五流修験=熊野本宮長床衆亡命集団」説も検討しておきましょう
和歌山県・熊野にゲストハウスikkyuをつくった森雄翼さんの目標は「地球一個ぶんの暮らし」を体感できる宿にすること | ココロココ  地方と都市をつなぐ・つたえる

本家の熊野本宮長床衆は、大治三年(1128)の記録に
長床三十人是天下山伏之司也、自古定寺三十ケ寺 此外山伏中は余多委口伝」

とあり、百五拾町歩の社領が与えられています。
熊野長床衆の行事には延久元年(一〇六九)の「社役儀式之事」によると、
元旦の衆会への出仕
一月七日から七日間の祈念
夏百日間の寵山修行
院や貴族たちの峰入の先達
などの重要な役割を果たしています。この長床衆の中心をなしていたのが五流といわれる五つの院坊です。そしてその代表が執行でした。
 室町時代に成立した「両峰問答秘紗」によると、平安時代末から鎌倉時代初期の熊野長床五流は、「尊・行宗・僧南房、報・定慶・千宝房、太・玄印・龍院房、建・覚南・覚如房、覚・定仁・真龍房」で、いずれも晦日山伏です。
 この「尊」は尊滝院、報は報恩院、太は太法院、建は建徳院、覚は覚城院の略号のようです。例えば、尊滝院の行宗は、嘉応二年(1170)44歳で長床(直任)執行となり、文治三年(1187)四月、後白河法皇の病気を治した功により少僧都になっています。また西行が大峯入りをした際の先達としても知られています。
 このように本家の熊野五流山伏達は、平安時代末期から鎌倉時代初期に熊野を拠点とした先達として活動していることが史料から分かります。また、熊野において特に院や貴族などの峰入に際して重要な役割をはたします。
後鳥羽天皇、皇子ゆかり 「熊野権現」 | 岡山の風

それでは、児島の五流長床衆は、どうなのでしょうか。
 児島の長床五流の活動は、史料からは見いだせません。つまり、児島の五流修験が由来で主張する「熊野長床五流の亡命者」は、史料的には説明できないようです。
しかし、中世初期の「熊野本宮御神領諧国有之覚事」には
『八千貫、従内裏御寄進 大祀殿修理領、備前児島

とあります。ここからは、熊野本宮の大祀殿修理八千貫を児島五流が寄進していることが分かります。この寄進額は、熊野の神領中では最大の貫数になります。児島の地が熊野本宮の重要な神領であったことは分かります。
経済的だけでなく、この児島の地は瀬戸内海における水軍の重要な拠点であったことは先述しました。
そのため純友の乱、源平の争いなどの時にも児島の地は、争奪戦が展開されます。

五流 源平の戦い

とくに佐々木盛綱の渡海が謡曲にもうたわれた元暦元年(1184)の源範頼と平行盛の藤戸の戦は、児島が舞台です。
五流 藤土の戦い

この児島を掌握することが、源氏にとっても平氏にとっても重要なことであったことがうかがえます。

 藤戸の戦を勝利に導く敵前渡海をした佐々木盛綱は、その功により源頼朝から、児島の波佐川の庄を与えられます。
これに対して、五流修験は、次のように幕府に対して激しく抗議します
児島の地は天平二十年、聖武天皇から神領として賜ったもの故、その一部の波佐川の庄を盛綱に割譲することは出来ぬ

一山の代表真滝坊は鎌倉におもむき、そこで27年間にわたって訴願を続けています。これに対して承元四年(1210)になって、五流の訴えが認められ、波佐川の庄が五流一山に返されています。五流一山ではこの決定をてこに、熊野長床衆や熊野水軍をうしろだてにして、児島一円を拠点とする強力な修験集団を作りあげていったようです。
こうして、13世紀になって熊野五流は、熊野水軍の舟に児島五流の僧侶(修験者)たちが乗り込み、瀬戸内海交易を活発に展開するようになります。熊野詣での信者を、五流の先達が導引して、熊野水軍の定期船が運ぶという姿が見られるようになります。この時期には、芸予諸島の大三島や塩飽の本島などには、熊野水軍の「定期船」が就航していたと考える研究者もいるようです。瀬戸内沿岸における熊野信仰は、児島五流の修験者が強く関わっていたことがうかがえます。
 また、縁起に記さた瀬戸内海沿いの多度郡などに熊野権現が分祠されたのも、この時期のことだったのではないかと私は考えています。

 こうしてみると五流修験の起源を、古代にまで遡って考えるのは難しいようです。
熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に、中世になって形成されたのが修験集団が児島五流と言えそうです。そして、活発な活動を展開するようになるのは13世紀になってからのようです。その際に彼らは「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであるという「幻想共同体」を生み出したとしておきましょう。

以上をまとめておくと、
①児島は熊野神社の社領となり、熊野権現が勧進された
②備讃瀬戸の要所である児島は、熊野水軍の瀬戸内海における重要拠点となり、熊野権現信仰の布教拠点にも成長して行った。
③義天が福南山で虚空蔵求聞を行い妙見をまつったり、雲照が清田八幡宮を熊野権現の御旅所にするなどして、吉備の熊野三山が整えられて行った。
④しかし、この時期の五流修験の本拠は熊野であり、児島は熊野長床五流の拠点にすぎなかった
 五流修験が次のステップを迎えるのは、承久の乱の際に後鳥羽上皇の息子達を迎え入れたことが契機になります。それは、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

                             
 今まで登ってきた山に霊山と呼ばれる山がいくつもあります。昔から人々の祈りの対象となり、その山で宗教活動が行われてきた山です。
なぜ霊山と云われるようになったのか、
またそこで宗教活動を行っていた集団とは何なのか?
その霊山信仰が広まったの背景は?
山に登りながら考えてきた事をまとめておこうと思います。
そんなことで中四国の霊山を、取り上げて見ていきたいと思います。
大山1
伯耆大山

まず最初に取り上げるのは大山です。
 大山は『出雲風土記』には大神嶽と記され、大国主命が国引の時に杭にした山とされています。『延喜式』には、大山には会見郡に大神山神社が鎮座すると記されます。大山神は大山の山宮にまつられた山の神で、大神山神社は里宮にあたるとされています。つまり、明治の神仏分離までは、山上には神社はなかったようです。お寺だけがあったのです。
 また、このは地元では古代から「死霊のおもむく山」とされてきたようです。
亡くなった死者の霊は、大山の谷間に集まり、その後に天上に帰って行くという死生観があったようです。
  この姿は、現在の下北半島の恐山の風景に似ているのかもしれません。死霊が集まり、冥界に去って行くところ、或いは冥界から帰ってくる山、その橋渡しをするシャーマンたち。古代の日本の霊山ではどこでも見られた姿かも知れません。
 そこに渡来神としての仏教が伝来します。
大山寺塔頭洞明院に伝わる『大山寺縁起』には大山の開山について、次のように記します。
出雲国玉作(島根県八束郡玉湯町玉造)の猟師依道が、たまたま美保の浦を通りかかった時に、海底から金色の狼があらわれた。狼は依道をいざなうかのように、どんどん逃げて大山山中の洞に入り込んだ。今がチャンスと依道が矢をつがえて、狼をうち殺そうとすると、矢先に地蔵菩薩があらわれた。驚き恐れる依道の前で、狼が老尼にかわり「私は登攬尼という山の神だが、あなたに一緒に地蔵菩薩をまつってもらいたいと思って狼に姿を変えてここまで導いたのだ」と語った。これを聞いた依道は発心して出家し、金連と名のった。
 金連は山中で仏法を学び修行にいそしんだが、やがて釈迦如来を感得し、南光院をひらいてこれを祭った。さらに阿弥陀如来を感得して祀ったのが、西明院であるという。
 この話を要約すると
①この山の神に導かれた依道が大山山中で地蔵菩薩を感得し、これを智明権現としてまつり、
②さらに釈迦をまつる南光院、
阿弥陀をまつる西明院をひらき、
④これとは別に大日如来と不動明王をまつる中門院がひらかれた
という「霊山への仏教伝来」伝説が記されています。大山が受けいれた仏は
 地蔵 → 釈迦 → 阿弥陀 → 大日(不動)の密教仏
となるようです。
最初に、大山が受けいれた仏は「地蔵菩薩」で、智明権現という形で受け入れたようです。
また、渡来神(客神)である地蔵菩薩は、押しかけてきたのではないようです。地元の山の神に頼まれて祀ったことになっています。背景には、神仏習合の進む中世の雰囲気があるのでしょう。
「地蔵霊験記」には、
  彼権現ハ地蔵ノ応化トソ、大智明神トアラワレ玉イ、和光利物新二在ス、
何ソ忽ノ義ヲ致サシ
ありますので平安後期には「大智明神」、「大智明菩薩」、「権現」などと呼び、その本地を地蔵とする垂述信仰が大山寺には成立していたようです。

賽の河原1

 さて、大山に招かれた地蔵菩薩への期待は、冥界と現世の境にいて、死者の亡魂を導くというものです。
地蔵さんは墓地の入口に六地蔵を建てたり、葬送の時に六地蔵をまつる習いは今でも広く見られます。 古来より大山を「死霊のおもむく山」としてきた周辺の人々にとっては「地蔵信仰」は、新たな霊力のある「仏」としてすんなりと受け入れられたのではないでしょうか。
賽の河原2
次第に、近世の大山寺には次のような光景が見られるようになります。
   里の人々は、四十九日に大川寺の金門の上の「さいの河原」で石を積むようになります。三十三年目の弔いあげに、大山寺の阿弥陀堂で小さな塔婆を作ってもらい、河原で石を積んでから、川に流す人も出てきます。盆の時に阿弥陀堂に参詣したり、盆花を採りに大山を訪れる人もでてきます。
  死者の着物を持って大山寺に参り、附近の地蔵に着せると死者に逢えるとか、供養になるといわれるようになります。とくに幼児の死んだ場合には、御利益があると云われるようになります。
  大山山麓の人びとが、先だった親のためのに、あるいはは子供を失った親が「さいの河原」に登って、小石を積み、亡き親や亡き幼な子の菩提を弔うようになるのです。石を積むこと自体が死者への孝徳とされていました。ことに死んだ子供のためへの祈りは悲痛です。
これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なるさいの河原の物語
聞くにつけても哀れなり、 二つや三つ四つ五つ 十にもたらぬみどり子が 
さいの 河原に集りて 父上恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は 
この世の声とはこと変り 悲しさ骨身をとおすなり
 大山の山はだをおおう荒涼とした眺めはいかにも「さいの河原」の説話にふさわしく、今もあちこちに小さな石積みが見られます。

大山寺1

 かつて若い頃に何泊かの山行を終えて、この河原に下りてきて重いザックを下ろして、石に腰をかけてバスの時間を待っているときのことです。この石積みが死者への供養塔であること、ここが死者と生者の交歓の場であることを地元出身の先輩から聞きました。今まで見えていた風景が別のものに見えてくるようなショックを受けた事をいまでも覚えています。
 実際に実の子を失ったような悲しみを持ちながら「あの世とこの世」の境に身を置く体験がなければ、なかなか他者に伝わるものではないでしょう。
しかし、この空間に身を置くことを求めて多くの人たちが「参拝者」としてやってくるようになるのです。とくに、遠く離れた岡山南部の人たちの姿が近世後半には増えていきます。その背景には何があったのでしょうか?
備中では「大山」を勧請し「大仙」として祀る寺院が出てきます。
小田郡、浅口郡、井原市の一円では大仙院、大仙堂が現れるのです。そして、大山に行けない人々は、毎月旧の二十四日に参るとか、年の暮れと初めに参るようになります。死者が出ると、肉親者は一週間以内に参る、三五日、あるいは四九日などの中陰あけに参る、新仏の時には毎月参るなど必ずしも一定してはいないようです。
旅探 たびたん】明王院
天台宗明王院
  浅口郡鴨方町六条院、天台宗明王院の大仙堂は、その縁起には、次のように記されています。

白川天皇の王女、提子内親王が六条御所で崩ぜられたのを弔うために永長二年(1097)、大島郷を寄進して荘園とされ、地蔵堂を建立されたのが六条院という地名の起源であるとのべます。注目したいのはその後に、延宝元年(1673)洪水のため諸堂宇が埋没した時に、浅口郡五万人の大びとに勧進して、往古より縁由の深い大山智明権現を勧請して大仙堂と称した。

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笠岡市の大仙院
 笠岡市の真言宗大仙院は、勧進した人物名も分かります。
高橋興左衛門は、かねてから大川寺の智明権現(地蔵菩薩)を信仰していたが、偶偶大病にかかり平癒の祈願をこめて全快した。そこで、元禄5年(1692)に草庵を建てて、大山より智明権現の尊像を勧進し安置したのが起源である。後に彼は出家して政範と称した。

今でも本堂の左右の戸棚には、死者の衣類や生前の持ち物があふれています。本堂前の水向け地蔵に塔婆を供えて水をたむけることは、大川寺の作法通りです。この大仙院の餐銭箱に饅頭を供えると、その饅頭が冥途にいる子供の所に飛んで行くともいわれます。境内に
「法印政範上人、宝永六己年五月廿八日、
南無大師遍照金剛(右)南無地蔵大菩薩(左)」

の碑文のある石塔があります。
このように大山から勧進された「大仙堂」が今でも、地域の信仰を集めているのです。

これをプロモートしたのは、どんな組織なのでしょうか。
それは岡山県児鳥に本拠を持つ、かつては中四国の多くの修験道者達を影響下に置いた「五流修験」といわれています。五流修験は修験道の開祖とされる役行者が国家から弾圧を受けて投獄・遠島送りになった時に、その弟子達が熊野から児島に亡命してきて「新熊野」を打ち立てたのが始まりとされます。そして、中世から近世にかけて大きな影響力を持つようになります。
 岡山藩南部の修験者の多くは、この五流修験に組織化されていたようです。
修験者は祈祷など行いますが、そのためにはパワーポイントを貯めなければなりません。それは厳しい修行によってのみ貯める事が出来ると考えられていました。そこで、修験者(山伏)たちは、行場をもとめて全国を旅する事になります。白山や立山、石鎚などの行場が近くにあればいいのですが、五流修験の拠点である児島には、名のある行場がありません。そこで、修行のために小豆島や石鎚、そして大仙へと足を伸ばす事になります。江戸時代には、五流修験は大山を行場とするようになります。そのため現在も五流一山の祖霊堂は、大仙智明権現と呼ばれています。
 大山は彼らにとっては修行の「ホーム」だったのです。かつての熊野行者が先達として、熊野に「檀那」を連れて参拝したように、岡山南地域の信者達を大山へと導く役割を果たします。こうして岡山からは五流修験の山伏に率いられた人々の「大山詣で」が盛んになったようです。
大山地蔵1

子供の死んだ時は、子どもの着物を持って行き大山に続く地蔵に着物を着せるといいます。
  確かに、阿弥陀堂から続く街道の地蔵は、新しい頭巾やいろいろな布切れを身につけていて、ファッショナブルだと感じた事があります。
死霊の集まる霊山=大山と地蔵信仰 それに岡山の人々を結びつけたのは修験者達だったようです。

 

近世初頭の金毘羅さんは、どのように見られていたのでしょうか?

「修験道 天狗」の画像検索結果
 
当時の参拝姿を描いた絵図には、ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿が描かれています。江戸時代の人々にとって天狗面は、修験道者のシンボルでした。
 幕末の勤王の志士で日柳燕石は次のような漢詩を残しています
夜、象山(金毘羅さんの山号)に登る
崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
満山の露気清に堪えず、
夜深くして天狗きたりて翼を休む
十丈の老杉揺らいで声有り
 ここにも天狗が登場します。当時の人々にとって、金比羅の神は天狗、象頭山は修験道の山という印象であったようです。

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金毘羅宮奥社 ここには天狗となった宥盛が祭られている
金毘羅神(大権現)を、金光院は公式にはどんな神だと説明していたのでしょうか。
薬師瑠璃光如来本願功徳経には、次のように記されています。
「爾時衆中有十二薬叉大将俱在会坐。所謂宮比羅大将...」
薬師如来十二神将の筆頭に挙げられ、
「此十二薬叉大将。各有七千薬叉以為眷属。」
金毘羅神は、ガンジス川のワニの神格化を意味するサンスクリットのKUMBHIRA(クンビーラ)の音写で、薬師如来十二神将(天部)の筆頭で、「宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅」と表記されます。十二神将としては宮比羅大将、金毘羅童子とも呼ばれ、水運の神とされていました。つまり仏教の天部の仏のひとつということです。
新薬師寺 公式ホームページ 十二神将
新薬師寺のクビラ大将

それがインドから象頭山に飛来したというのです。ところが金毘羅に祭られていた金毘羅神とクビラ大将とは似ても似つかない別物でした。江戸時代の金毘羅の観音堂近くに祭られていた金毘羅神を見た人たちは、次のような記録を残しています。
「生身は岩窟に鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える」
これは、役行者や蔵王権現など修験道の神そのものです。その金比羅神が象頭山の断崖の神窟に住み着きます。その地は人の立ち入りをこばみ、禁をやぶると暴風が吹きあれ、災いをもたらすと説きます。今日でも神窟は、本殿背後の禁足林の中にあり、神職すら入れないようです。 ã€Œé‡‘比羅ç\žã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ 
金毘羅大権現像
 ギメ東洋美術館

最初にこの金毘羅大権現像を見たときは、びっくりしました。まるでドラゴンボールのサイヤ星人の戦士のように思えたからです。神様と思い込んでいたから戸惑ったので、最初から仏を守る天部の武人像姿と思っていれば違和感なく受けいれられたのかもしれません。
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本殿から奥社に向かう参道の入口

つまり、金光院は金毘羅神について、次のようにふたつの説明を使い分けていたようです。

①幕府・髙松藩などへの説明 インドより渡来したクビラ神②実際に祭られていたのは  初代院主宥盛の自らが彫った自像

金毘羅神が修験者の姿をしていると伝えられたのはなぜ?

 それは山内を治めていた別当・金光院の初期の院主が修験道とかかわりが深かったからです。例えば、現在の奥の院に神として祀られている金毘羅神は、慶長11年(1606)、自らの姿を木像に刻み、その底に「入天狗道沙門金剛坊像」と彫り込んでいます。
 この金剛坊像、すなわち宥盛の像は、元々は現在の本殿脇に祀られていましたが、参拝者に祟るため、観音堂の後堂に祀りなおされ、最終的には奥社に祀られます。
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金毘羅宮奥の院 岩場は修験者等の行場でもあった
奥社は、金比羅信仰以前から修験者の行場として聖地だったところです。列柱岩が立ち並んで切り立っていて行場には最適です。宥盛も修験者として、ここで業を行っていたのかもしれません。

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金毘羅宮奥の院の威徳巌
 神窟の暴風や金剛坊の祟りにみられる神秘的な信仰要素は、修験特有のものです。このように金毘羅信仰の誕生には、山岳信仰や修験道の要素が入り込んでいます。この二つの信仰が合わさって、風をあやつる異形の天狗となり、海難時に現れ救済する霊験譚や海難絵馬に登場するようになったのかもしれません。
五来重(仏教民俗学)は修験道について、次のように述べています。
「天台宗、真言宗の一部のようにみられているけれども、仏教の日本化と庶民信仰化の要求から生まれた必然的な宗教形態であって、その根幹は日本の民俗宗教であり神祇信仰である」
 修験道の解明は日本の庶民信仰(金毘羅信仰を含む)の解明につながるとの思いが託されているようです。

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 磐の上には烏天狗と(左)と天狗(右)がかけられています。
明治の神仏分離で金毘羅大権現を初め、修験道色は一掃された金毘羅さんです。しかし、ここにはわずかに残された修験道の痕跡を見ることができます。  

奥社に祀られる 金光院別当宥盛(ゆうせい)の年譜

①高松川辺村の400石の生駒家・家臣井上家の嫡男として生まれる。高野山で13年の修行後に真言僧
②1586(天正14)年 長宗我部の讃岐からの撤退後に高野山より帰国。
 別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
③1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍 
    堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける。 金比羅神の「由来書」作成。金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
④修験僧としてもすぐれ「金剛坊」と呼ばれて多くの弟子を育て、道場を形成。
⑤土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首につかせる。   
⑥真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る  高野山南谷浄菩提院の院主兼任
⑦三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと切り替えていく作業を行う。
⑧1606(慶長11)年 自らの岩に腰を掛る山伏の姿を木像に刻む
⑨1613(慶長18)年1月6日 死亡
⑩1857(安政4)年 朝廷より大僧正位を追贈され、名実共に金比羅の守護神に
⑪1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り「厳魂神社」
⑫1905(明治38)年 神殿完成、これを奥社と呼ぶ
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金毘羅宮 巌魂神社(奥社)
ちなみにこの厳魂神社を御参りして、記念に私が求めたのは・・・

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このお守りでした。
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天狗が描かれ「御本宮守護神」と記されています。宥盛は神となり守護神として金毘羅宮を守っているのかもしれません。

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