瀬戸の島から

カテゴリ:善通寺と空海 > 空海伝説を追いかけて

 琴平町に三水会という昔から活発な活動を続ける郷土史探究会があります。そこで満濃池についてお話しする機会がありました。しかし、資料も準備できず、ご迷惑をおかけしたと反省しています。そこで伝えきれなかったことの補足説明も込めて、文章にしておきます。

  満濃池の築造については、一般的に次のように記されるのが普通です。
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」

そして地元では「空海が造った満濃池」と断定的に語られることが多いようです。
 しかし、研究者たちは「空海が造ったと言われる満濃池」とぼかして、「空海が造った」と断定的には言わない人が多いようです。どうして「空海が造った満濃池」と云ってくれないのか。まんのう町の住民としては、気になるところです。知り合いの研究者に、聞いてみると次のような話が聞けましたので、紹介しておきます。
 空海=満濃池築造説は、どんな史料に基づいているのでしょうか?

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それは日本紀略(にほんきりゃく)です。「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に、次のように記されています。
 讃岐国言、始自去年、提万農池、工大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之 (以下略)
意訳変換しておくと        
 讃岐国司から次のような申請書が届いた。去年より万農池を堤防工事を開始したが、長さは広大であるが、動員できる民は少なく、成功は覚束ない。空海は、讃岐の土人であり、山中に坐禅せば、獣が馴れ、鳥が集まってくる。唐に留学し、多くのものを持ち替えた。空海は、讃岐で徳の高い僧として名高く、帰郷を待ち望んでいる。もし、空海が帰って満濃池工事に関わるならば、民衆はその姿を見るために雲が湧くように多数が満濃池の工事現場にあつまるだろう。空海は今は讃岐を離れ、京師に住むという。百姓は父母のように恋慕している。もし空海がやってくるなら、必ず人々は喜び迎え、工事にも望んで参加するであろう。願わくば、このような事情を考え見て、空海の讃岐帰郷が実現するように計らって欲しいと。この讃岐からの申請書に、許可を与えた。

ここに書かれていることを、そのまま信じると「空海=満濃池築造説」は揺るぎないように思えます。しかし、日本紀略の「素性」に研究者は疑問を持っているようです。この書は、正史のような文体で書かれていますが、そうではないようです。平安時代に編纂された私撰歴史書で、成立時期は11世紀後半から12世紀頃とされますが、その変遷目的や過程が分かりません。また編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないのです。つまり、同時代史料でもない2百年以後に編纂されたもので、編者も分からない文書ということになります。
 お宝探偵団では、「壺や茶碗は由緒が書かれた箱に入っていてこそ価値がある」ということがよく言われますが、文書も一緒です。それを書いた人や由来があってこそ信頼できるかどうかが判断できます。そういう意味からすると研究者にとっては「日本紀略」は同時代史料でもなければ、正史でもない取扱に注意しなけらばならない文書と捉えられているようです。「信頼性の高い歴史書」とは、研究者達はみなしていないようです。

弘法大師行化記
藤原敦光の「弘法大師行化記」
 研究者がなにかを断定するときには、それを裏付ける史料を用意します。
日本紀略と同時代の11世紀に書かれた弘法大師の説話伝承としては次のようなものがあります。
①藤原敦光の「弘法大師行化記」
②「金剛峯寺建立修行縁起」
③経範の「弘法大師行状集記」(1089)
④大江匡房の「本朝神仙伝」
この中で、空海の満濃池築造については触れているのは、①の「弘法大師行化記」だけです。他の書には、満濃池は出てきません。また満濃池に触れている分量は、日本紀略よりも「弘法大師行化記」の方がはるかに多いのです。その内容も、日本紀略に書かれたことをベースにして、いろいろなことを付け加えた内容です。限りなく「弘法大師伝説」に近いもので「日本紀略」を裏付ける文書とは云えないと研究者は考えているようです。つまり「裏がとれない」のです。

これに対して「空海=満濃池非関与」をうかがわせる史料があります。
萬農池後碑文

それが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)で、名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されていて、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されてるので、日本紀略と同時代の史料になります。碑文の内容は、次の通りです。
① 満濃池の築造の歴史
② 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(851~854)に行った築造工事の概要
③ その際に僧真勝が行った修法について
内容的には弘宗王の満濃池修復の顕彰碑文であることが分かります。
内容については以前にお話したので、詳しくはこちらを御覧下さい。


この碑文には、弘仁年間の改修に空海のことは一言も出てきません。讃岐国守弘宗王が築造工事をおこなった事のみが記されています。
つまり同時代史料は、空海の「空海=満濃池築造説」を疑わせる内容です。
以上を整理しておくと
①「空海=満濃池築造説」を記す日本紀略は、正史でも同時代史料でもない。
②日本紀略の内容を裏付ける史料がない
③それに対して同時代の「讃岐国萬濃池後碑文」は、「空海=満濃池築造説」を否定する内容である。
これでは、研究者としては「空海が築造した満濃池」とは云えないというのです。次回は考古学検地から見ていきたいと思います。
  満濃池年表 満濃池名勝調査報告書178Pより
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
818(弘仁9)万農池が決壊、官使を派遣し、修築させる。(高濃池後碑文)
820 讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池復旧を伺い、築池使路真人浜継が派遣され復旧に着手。
821 5月27日、万農池復旧工事が難航していることから、築池使路真人浜継らの申請により、 改めて築池別当として空海派遣を要請。ついで、7月22日、費用銭2万を与える。(弘法大師行化記。日本紀略)その後、7月からわずか2か月余りで再築されたと伝わる。
851 秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊する。(高濃池後碑文)
852 讃岐国守弘宗王が8月より万農池の復旧を開始。翌年3月竣工。人夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚を使用(高濃池後碑文)
881 万農池神に従五位を授けられる。(三代実録)
927  神野神社が式内社となる。
947 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、万濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
平安時代成立の「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される。
1020 萬濃池後碑が建立。
1021「三代物語」「讃岐国大日記」に「讃岐那珂郡真野池始めて之を築く」とある。これ以前に廃池となり、この時に、復旧を始めたと推測される。
1022 再築(三代物語。讃岐国大日記)
 平安時代後期成立の「今昔物語集」に満濃池が登場
1184 5月1日、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1201 「高濃池後碑文」成立。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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東北日本には「弘法とサケ」話型の伝説が広く伝わっています。
サケ漁の行われていた地域では、「弘法とサケ」の伝説が語られていたようです。この伝説には、自然界を法力で支配する者として漂泊の宗教者が登場します。たとえば、新潟県岩船郡山北町では、昔、カンテツボウズ(寺をもたない放浪の僧)が村を訪れ、人々は坊さんには生臭物は御法度であるということを知っていたにもかかわらず、サケを椿の葉に包んで強引に背負わせます。坊さんは怒って「ここには二度とサケを上らせない、椿を生えさせない」と呪文を唱えます。それ以来、サケが上らないし椿も生えない、という伝説が語られるようになります。

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千葉県香取郡山田町山倉でも、空海が東国巡錫の途次、この地の疫病流行に人々が苦しむのをみて哀れみ、龍宮より生贄としてサケを供します。それから初卯祭には、サケが贄魚とされるようになったとする伝説が伝えられています。ここからは、修験者がサケ漁に深く関わっていたこと、また修験者が特別な呪力を持っていたことが見えてきます。
サケと宗教者の繋がりを示す弘法伝説を、今回は見ていくことにします。テキストは「菅豊   サケをめぐる弘法伝説にあらわれる宗教者     修験が作る民族史所収」です。

修験がつくる民俗史―鮭をめぐる儀礼と信仰 (日本歴史民俗叢書) | 菅 豊 |本 | 通販 | Amazon
それでは、研究者が挙げる弘法大師伝説を読んでいきましょう。
事例1 青森県青森市
青森市の真ん中を流れる堤川は、上流で駒込川と荒川が合流するのである。むかしその駒込川には、サケがたくさん上って来た。たまたま弘法人師がここを通りかかったところ、村人がおおぜいでサケを取っていた。これを見て大師が、その魚を恵んでくれと頼んだところ、村人は川辺に生えていたアシを折り、それにサケを通して与えた。ところが、大師はこの川辺のアシにつまずいて倒れ、しかもアシの茎で片目をつぶしてしまった。そこで大師は大いに怒って、これからはこの川にアシも生えるな、サケも上るな、といった。そのことがあってから、荒川にはサケが上るにもかかわらず、駒込川には全く来なくなり、また川辺にアシも生えないようになった。                    

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事例3 山形県新庄市
むかし、むかし。泉田川じゃあ、せん(昔)には、うんと鮭のよが上る川でしたど。この村のちょっと先の村の人だ、すこだま(多量に)鮭のよば獲ってなおす。ほらほらど、魚、余るほど網さかげでな、いだれば、ほごさ、穢ったこん穢たね色の衣ば着たほえどこ(乞食)みでだ坊主が、切れだ草軽履いで来たもんだど。見れば見るほど良くなし衣ですけど。ほれば村の人だ(達)、本当にはえどこだど思ってしまいあんしたど。
「ほら、坊主。鮭のよば背負えや。ほれっ―」
「いらねごです。欲しぐありゃへん」
て、いらねていうなば、面白がつてですべ。ほれ、坊主の背中さ上げ上げしたなですと。そしてその鮭のよばな、あ葦さ包んで葛の蔓で背負わせだなですと。
「村の衆、ほんげいらねていったなば背負わせなだごんたら、この泉田川さ、鮭のよも来ねたていいべ。今度からこの泉田川さ水が来ねようにしてけっさげな。ええが。あ葦も葛の蔓もみながら無ぐすっさげてな。ええが、忘んねでいろよな」
汚れた衣着たこん穢だね様態の坊主がな、こういうど。村の人だ、
「なにい、このほえど野郎。なにぬがすどごだ。鮭のよもあ章も、葛の蔓も、こんげあるもの無ぐするえが、この鮭のよばあくへっさげて(与えるから)にし(汝)の背中さ、くっつげで行がしやれ」
ほの穢ねて穢ね衣の坊さんは、構んめが構んめだもんだし、衣の上から鮭のよば背負わらつてなおす。ヒタッ、ヒタッと、まだ(また)出掛げあんしたど。ヒタッ、ヒタッと歩きながら、
「来年からはこの川、絶対に水ば通さんね。この村には水通さねで、底通しするさげてな。あぶでね(勿体ない)ごどした鮭のよも、あ葦も葛の蔓も絶対に生やさねさげてな。覚えでろ」
て、言い捨てて行ってしまったど。村の人だ、
「何ば言う、このほえど坊主。さっさどけづがれ(行ってしまえ)。早ぐ行がしやれ」
と言つていだれば、本当に次の年からビダッ、と、水が上つてしまっだどは。ほして、あ章も葛の蔓もな、去年まであんげに(あんなに)蔓延ってグルン、グルン、と、絡まがったりして生えったものが、何も無ぐなってな。何ひとつ無ぐなってしまったなであんしたど。村の人だ、もう困ってなおす。
「あんげこん穢たね坊さんだげんども、あのお方こそ弘法様に違いねべちゃ。まず、まず、大変なごどしてしまったもんだはあ」
て、話し合ったなですと。                   
三陸水産資源盛衰史│25号 舟運気分(モード):機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター

以上の話には、旅の僧が呪術でサケがやって来るのを封じ込んでしまったことが記されています。
旅の僧は、「大成徳神」、「阿羅羅仙人」などのように、在地の祭神として語られる場合もあります。しかし、多くは弘法大師とされています。旅僧の意に反したために、呪文を唱えたりする呪法によってサケの遡上が停止されます。
その呪法のひとつとして、「石」が出てくる話を見ておきましょう。

  事例4 岩手県宮古市津軽石 234P
当村何百年以前の事に御座候や。北より南へ通る行人一人参り候て、最早、日暮れにも罷り成り候間一宿下さる可シと、無心仕り候得ば、亭主易き事に御座候え共、貴僧へ上げ申す物御座無く候。行人申すには、そなた衆、給べ申す物下され候て一宿給う可く候。支度は入り申さず候。左様ならば私共給べ候もの上げ申す可く候間、御一宿成さるべくと、とめ申候。朝に成り、行人申すには、紙包み一つ進上致し候、行く行くは村のちょうほうに相成る可くと相渡し、南の方へ参られ候。右紙包み仏だんへ上げ置き、行人出達後、夫婦いだして見申し候えば、石を包み置き申し候。是は何に成る筈、「めのこかて」を洗いながし、うしろの川へなげこみ申し候。然らば、一両年過ぎて、鮭斗らずも登り申し候、後は、村中朝々大勢参り取り申し候、老名共寄り合い、是は、ふしぎの仏神のおさずけと申す物に御座候。稲荷山にて湯釜を立て、いのり申す所に、たくせんに、宿くれ申す行人申すには「我を誰と心得候哉。我は大師に御座候。津軽方面廻り申す所に、津軽には宿もくれず、ことごとく「悪口」いたし、依って津軽石川より石一つ持参、当村の者へくれ申し候。夫れ故、鮭のぼり申すべし」と、たくせんに御座候。
 老名共「扱て扱て有難き仕合わせ、左様ならば村中老名共相談の上、此の度より津軽石」と、申しなしに御座候由、其の前、村名相知れ申さず候。何百年以前の事に御座候や、いいつたえにて、年号は知れ申さず候。                           (宮古市教育委員会市史編纂室 1981)

この弘法伝説は、大師が人々の歓待に報いるためにサケを授けたとする話です。
その呪法に石が用いられています。石は、サケを遡上させる霊的に特別な力をもっていることが描かれています。「弘法とサケ」の伝説が、特殊な石と関係して伝えられることは、東北や中部日本の日本海側に広がっていて特別な例ではないようです。石がどんな風に用いられているのかを見ていきます。

サーモンミュージアム(鮭のバーチャル博物館)|マルハニチロ株式会社

事例5 青森県青森市             
青森市の駒込川に、むかし大水が出て橋もなく、通行人が難儀したので、人夫が出て川渡しをした。ところがある日のこと、その日に限って川魚がたくさん群れて、人夫たちは夢中になって魚を捕っていた。そこへみすぼらしい破れ衣を着たひとりの旅僧がやって来て、川を渡してくれと頼んだ。すると人夫は、このかごに入れてある魚を担いでくれれば、渡してやろうといった。旅僧は仏に仕える身だから、殺生に手を貸すわけにはいかぬと断ると、それでは川を渡してやれぬという。
仕方なく旅僧は、魚のはいったかごを背負い、人夫に背負われて川を渡った。しかし立ち去りぎわにタモトかし小石を三つ取り出して川に投げ、「七代七流れ、この川に魚を上らせない」といった。それから駒込川に魚が上らぬようになったといわれる。           (森山 一九七六¨九六―九七)

       事例6 岩手県下閉伊郡岩泉町
下名目利のセンゴカケ渕は、毎朝サケが千尾も二千尾も掛ったといわれる渕である。また2㎞ほど下流の間の大滝では約200年位前に、もっこで三背おいずつもとれたという。
 この豊漁にわく朝、どこから来たか見すぼらしい旅僧が一尾所望していたのに、村人たちは知らん顔をしていた。旅僧は川の石をひとつたもとに入れてたち去り、下流の浅瀬にその石を沈めたら、そこに大滝(門の滝)ができ、ここから上流にはサケがのぼらなくなった。旅僧は弘法大師であった。

事例7 岩手県下閉伊郡田野畑村
明戸の浜から、唐松沢の入り、いくさ沢まで鮭が上って、明戸村富貴の時があった。行脚して来られた弘法大師を怪しい売僧といって追払ったので、大師は、この因業な人達を教化するために、唐松沢の入口にあった「恵美須石」を持ち上げて、空高く投げられた。石はそのまま行方知れず飛んでいってしまった。そして大師はそこについて来た卯ツ木のつえをさして行かれた。それから、さしも上った鮭がさっぱり上らなくなってしまった。大師が投げた「恵美須石」は南の津軽石に落ちて、それかい津軽石の鮭川は栄え出して今につづいている。

上の3つの事例では、石は次のように使われていました。
①小石を三つ取り出して川に投げ
②川の石をひとつたもとに入れてたち去り、下流の浅瀬にその石を沈めた
③「恵美須石」を持ち上げて、空高く投げ

19 鮭文化とともにある、村上の暮らし | 003 かくも美しき里山の年寄りたち 佐藤秀明 Hideaki Sato | 日本列島 知恵プロジェクト

登場するのは弘法大師ばかりではありません。
事例8 岩手県? 此庭(陸中愧儡坂)
 谷川に村の長が魚梁瀬を掛けて毎年鮭を捕つて居た。或時一人のクグツ即ち此辺でモリコ又はイタコと呼ぶ婦人が通つたのを、村長等無体に却かしてかの鮭を負はせた。クグツは困労に堪えず人に怨んで死んだ。其時の呪詛の為に鮭は此より上へ登らなくなった。箱石は即ち卸して置いたクグツの箱の化したものである故に四角な形をして居る。

ここでは、弘法大師の代わりに、この地域で活躍する巫女やモリコ、イタコが登場します。
また六部や乞食坊主として描かれる場合もあるようです。「弘法とサケ」話型の伝説の主人公には、弘法大師に限らず漂泊する宗教者たちが選ばれているようです。行脚する宗教者の石の呪法は、石を川に投げ込む、しまい込む方法があるようですが、石に「真言」の文字を記すという呪法もあるようです。
以上のように、サケの遡上について、「石」が大きな力をもっているとする信仰があったことがうかがえます。ここから研究者は次のような仮説を設定します。
①「サケ→弘法→石」という繋がりから、サケにまつわる石の信仰を、弘法・六部・乞食坊主・イタコ等たちが儀礼化し、儀式として行っていたのではないか
②そのような信仰・口承文芸を、漂泊する宗教者が、流布・伝播してきたのではないか

まず①の仮説を考えてみましょう。
サケを誘引する石の伝承は、元修験の神主らによって儀礼化されています。その行為は弘法伝説などの説明体系によって裏づけられています。伝説の世界は、単なる空想ではなく、現実の世界で実際に行われていたことが書かれています。つまり登場する人物(宗教者)は、実在していたと研究者は考えています。
 伝説には弘法大師が石を川に投げ込む、あるいは川から石を拾うという場面が描かれています。
ところが、実際の津軽石のサケ儀礼には、宗教者が石を投げ込むような場面はないようです。しかし、民俗事象を細かく検討すると、宗教者が石を投げ込むことによって魚を寄せるという呪法は、いくつかの地域にあるようです。
たとえば、新潟県荒川中流にある岩船郡荒川町貝附では、10月末のサケ漁が始まる前、荒川から握れる程度の大きさの石を10個ほど拾ってきて、ホウイン(法印)に梵字を書いてもらうという民俗があったようです。ホリイシと呼ばれる文字の書かれたこの石は、川に均等に投げ込まれます。上流の岩船郡関川村湯沢ではサケが捕れなくなると、サケ漁をしている場所の川底でこぶし大の石を拾い、ホウインのところへ持て行きます。これをホウインに拝んでもらい、もち帰り川に投げ入れると、とたんにサケが捕れるようになったと伝えられます。
 サケではなくハタハタを捕るための儀礼ですが、秋田県男鹿の光飯寺には、10月1日浦々の漁師たちが小石をもってきて、これに一つずつ光明真言を一字書き、法楽加持します。それを漁師はもって帰り自分の漁場へ投げ入れたと伝えられます。
 このように、魚を寄せ集めるために石を用いる呪法を、宗教者が使っていたようです。
こうしてみると、弘法伝説に登場する宗教者の行為は、空想上の絵空事ではなく、実際の宗教者が現実に行っていたことだったことがうかがえます。そうだとすると、この弘法伝説が生まれた背景には、サケの漁撈活動に宗教者が関わっていたことがあったことになります。
次に、このような弘法伝説を漂泊の宗教者が伝播した、という仮説を研究者は裏付けます。
弘法伝説の拡がりについての研究は、その背景に聖や巡礼の聖地巡拝の全国的流行があったとします。とくに弘法大師を祖師とあおぎ、高野山に本拠を置く旅僧の高野聖たちが、全国を行脚、流浪するうちに広めていったとするのが一般的です。研究者は、その上に東北地方の弘法伝説には、大師信仰の基底にオオイゴ=タイシ(太子)信仰が横たわっていることを指摘します。大師信仰流布以前に「タイシ信仰」があったというのです。「弘法大師の名のもとに統一、遵奉して行った者の姿と、そこでの意志を確実に垣間みるような思いがする」と、弘法伝説を広げた宗教者集団のいたとを指摘します。
 
 研究者は、近世になっても「弘法様」と呼ばれる六部、巡礼者が活躍していたことを報告しています。
「弘法様」には、弘法伝説に登場する弘法大師のように、実際に恩を受けた家に突然と笈や奉納帳を置いていったり、呪いを教えていくなど特徴的な宗教活動を行っていました。この「弘法様」との交流の中で、さまざまな弘法大師伝説が生まれ、広げられていったことです。
そrを研究者は以下の三つのタイプに分類します。
①「弘法様」との関わりの経験諄として話者自身が登場する弘法伝説
②「弘法様」は実際に様々な呪法をもち、駆使していたらしいが、それを実際に目のあたりにした話者が観察者として生み出した「世間話」としての弘法伝説
③「弘法様」自体が伝えていった弘法伝説
このうちの②は弘法伝説の形成の場面で、③は、伝播、伝達の場面になります。

 宮城県石巻市生まれの松川法信は、現代の「弘法様」と呼ばれた人物です。
彼は一陸沿岸では青森県八戸地方から宮城県の牡鹿半島まで、日本海側では、秋田県山本郡八森町を北限に、南は山形県最上部の真室川町まで15年間にわたって修業に歩いていたようです。
そして行く先々で、弘法伝説の形成、伝播に一役も二役もかっています。それだけでなく新たな祭祀も創り出しています。
もちろん、現代の漂泊する宗教者松川法信が、中陛の高野聖や、近世の廻国聖へと結びつけることはできません。しかしかつては、このような廻国の主教者が様々な文物、情報を交流させる媒介者として活躍していたのです。綾子踊りにつながる風流踊りや、滝宮念仏踊りにつながる時衆念仏踊り、あるいは秋祭りの獅子舞なども、彼らを仲介者とすることによって広められたと研究者は考えています。
「弘法とサケ」伝説に、現実の宗教者の儀礼的な動作が反映された可能性があること、この伝説には、その話自身を流布させる宗教者の姿も投影されていることを押さえておきます。
 「弘法とサケ」伝説には、想像上の宗教者の活動を語ったものではなく、漂泊する宗教者が、石を用いてサケの遡上に関する呪法を執り行い、石の信仰の形成に大きくかかわったこと、それが修験系統の宗教者たちであったいうことです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
テキストは「菅豊   サケをめぐる弘法伝説にあらわれる宗教者     修験が作る民族史所収」


うどんのルーツと考えられている物には、次の4つがあるようです
その一は、昆飩(こんとん)
その二は、索餅(さくべい)
その三は、饉飩(ほうとん)                            
その四は、不屯(ぶとう)
では、このうちのどれが、饂飩の原形だったのでしょうか。饂飩のルーツを探って見ることにします。テキストは羽床正明 饂飩の由緒と智泉 ことひら65号(2000年)です
伊勢貞丈が1763年から22年間にわたって書き綴った『貞丈日記』には、次のように記されます
饂飩又温飩とも云ふ、小麦の粉にて団子の如く作る也、中にはあんを入れて煮たる物なり。昆飩(こんとん)と云ふはぐるぐるとめぐりて何方にも端のなきことを云う詞なり。丸めたる形くるくるとして端なき故昆飩という詞を以て、名付けたるなり。食物なる故、偏の三水を改めて食偏に文字を書くなり。あつく煮て食する故、温の字を付けて温飩とも云ふなり。是もそふめん(素麺)などの如くに、ふち高の折敷(おしき)に入れ、湯を入れてその折敷をくみ重ねて出す也。汁並び粉酷(ふんさく)さい杯をそへて出す事、さうめんまんぢうなどの如し。今の世に温どんと云ふ物は切麺也、古のうんどんにはあらず、切むぎ尺素往来にみえたり。

ここからは次のようなことが分かります。
①温飩の原形は小麦粉の団子で、中には「あん」を入れた。
②「昆飩」と呼ぶのは、細長くてぐるぐるまきで端がないのでそう呼ばれた。
③食物であるところから三水を食偏に改めて「饂飩」になり、熱くして食べるところから「温飩」と変化した。
④今の「温飩」は「切麺」というのが正しく、昔の「うんどん」とは違うものである
⑤うどんの原形は「饂鈍」である。
  ここで私が興味深く思えるのは、①の「団子の中にあんをいれた」という所です。讃岐の正月には、あん餅入りの雑煮が出てきます。このあたりにルーツがあるのでしょうか。どちらにしても古来の「饂飩又温飩」は、素麺のような切麺ではないとあります。現在のうどんからは想像できない代物であったことがうかがえます。

近世後期の喜多村信節の随筆集の『嬉遊笑覧』には、次のように記されています。
按ずるに、昆飩、後に食偏に書きかへたるなり。煮て熱湯にひたして進むる故、此方にて一名温飩ともいひしなり。今世、温飩は名の取違へなり。それは温麺(うーめん)にて、あつむぎといふものなりといへり。鶏卵うどんといふは、麺に砂糖を餡に包みたるものなり。これらを思ふに、其のもと饂飩なりしこと知らる。名の取違へにもあらず。むかし饂飩にかならず梅干を添えて食したとあって、「昆飩」は食偏に改めて「饂飩」になり、熱湯に浸して食べるゆえに「温飩」となった。

ここからは次のような事が分かります。
①昆飩は、食偏の饂飩に書きかられたのは、煮て熱湯にひたして食べるからである
②今の温飩とは間違いで、正しくは温麺(うーめん=あつむぎ)と書くべきである。
③鶏卵うどんは、麺に砂糖の入った餡に包んだものである。
④ここからは、その根源は饂飩だったことが分かる。名前を取違へているのではない。
⑤むかし饂飩にかならず梅干を添えて食したと言われる。
⑥ここからも「昆飩」が「饂飩」になり、熱湯に浸して食べるゆえに「温飩」となった。
ここにも③④には、餡を入れただんご(餅)をお汁の中に入れて食べていたことが書かれています。
雑煮にあん餅を入れる風習に、何らかの関係があるのかと思えてきます。それはさておき、本論にもどると、喜多村信節も饂飩は「温飩」に由来すると伊勢貞丈の説を支持しています。
  そうだとすると現在のうどんのルーツは、中国・唐菓子の昆飩(こんとん)ということになります。それが「昆飩 → 饂飩 → 温飩 → うどん」と変化してきたというのです。これが戦前までの「定説」だったようです。しかし、これは現在では疑問が持たれるようになっています。
源順が930年代に著した『和名抄』は、饂飩のことが次のように記されています
 饂飩は切り刻んだ肉を水を加えて捏ねた小麦粉で包んで、熱湯で煮たものだ。そして昆飩は豚肉・葱・胡椒などを小麦粉の生地で包んで茄でた中国料理の雲呑(わんたん)のことである。

ここからは昆飩の製造過程の中に「包丁で切る」という工程がないことが分かります。しかし、うどんには「包丁で切る」工程があります。「包丁で切る」という工程を含まない饂飩をうどんのルーツにはできないと研究者は考えているようです。ここから昆飩(こんとん)は、うどんのルーツではないとします。
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次にみていくのが唐菓子の索餅(さくべい)です。
索餅は小麦粉に水を加えて捏ねて手で引き伸ばしたもの二本を撚って縄のようにして、油で揚げた菓子です。奈良時代後期には、索餅は今日の干し饂飩のようなものになり、別名を麦索といい、売買されていたようです。
『正倉院文書』に「索餅茄料」とあり、『延喜式』には「索餅料」として糖(水飴)・小豆・酢・醤・塩・胡桃子をあげています。ここからは、小豆・糖を用いて菓子として食べ、酢・醤・塩・胡桃子などで味をつけて惣莱として食べていたとようです。

索餅も手で引き伸ばしてつくられるもので、製造過程の中に「包丁で切る」という工程はありません。饂飩の原形ではなかったとしておきます。ところが室町~江戸時代に登場する索餅は、その姿を変えて細くて素麺のようなものになっています。
『多聞院日記』文明十年(1418)五月二日条には次のように記されています。
「麦ナワト云フハ素麺ノ如くナル物也」

とあります。江戸時代中期の百科辞書「和漢三才図会』にも「按ずるに索餅、俗に素麺と云ふ也」とあって、麦素(索餅)が素麺のようなものであったことが分かります。奈良時代後期にの菓子の索餅から、千し饂飩に似た麺類の索餅に「変身」していたようです。これを別名「麦索」と呼んだようです。江戸時代になっても菓子と麺類、この二つの索餅が食べられていたことがうかがえます。現在、素麺の少し太いものを冷麦と呼んでいますが、室町~江戸時代の麺類の方の索餅は、丁度現在の冷麦のようなものであったと研究者は考えているようです。
3番目の饉飩(ほうとん)を見ておきましょう。
中国で六世紀前半に成立した『斉民要術』は、饉飩(ほうとん)を
「小麦粉に調味した肉汁を加えて捏ね、親指程の大さにして、二寸程の長さに切り、手の平で薄く伸ばして、熱湯で茄でたもの」

である記します。
これが『和名抄』には「干麺方切名也」であるとして、短冊状の扁平なもので、現在の群馬県のひもかわうどんのように長い帯のようなうどんだったことがうかがえます。
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群馬のひもかわうどん

藤原頼長の日記『台記別記』には、
「仁平元年(1151))八月、左大臣で氏の長者でもある頼長が春日大社に参詣した時、参道に問口六間(約11m)の饉飩をつくるための仮の小屋を建てて、伎女十二人を配し、楽人が酎酔楽を演奏するのに合わせて、伎女たちに饉飩をつくらせて、小豆の汁をそえて食べた」

とあります。この小豆の汁は糖(水飴)や甘葛(蔦の樹液を煮つめてつくった甘味料)が使われ、甘くしたことが考えられます。このように、平安末期に頼長の食べた饉飩は菓子としての性格が濃いものであったようです。
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  今でも山梨県では、小豆の汁粉の中に「ほうとう」を入れた「小豆ほうとう」をハレの日に食べる習慣があるそうです。また、ほうとうにはきな粉や飴をまぶして食べることから菓子としての性格があるようです。これは、先ほど見たように古代の貴族達が饉飩を菓子として食べていたことと関係するのかも知れないと研究者は考えているようです。

中尾佐助『料理の起源』(昭和47年)の51Pには、
中国華北ではアズキを軟らかに煮た汁の中にウドンを入れて煮込んだものも見た

あります。ここからは、華北では小豆や大角豆の汁の中に饂飩を入れて、煮込んで食べていたことが分かります。日本でも平安末期に頼長は、ほうとんに小豆の汁をそえて食べ、また、山梨県では今も小豆の汁粉にほうとうを入れて食べています。そして、山梨ではうどんのことを「ほうとう」と呼んでいます。ここからは、どうやらうどんのルーツは、ほうとんの可能性が高いと研究者は考えます。
最後に不屯(ぶとう)をみておきましょう。
うどん=不屯(ぶとう)起源説を紹介する記事が『四国新聞』(2009年2月8日付)に、載せられていました。要約して紹介します。
美作大学大学院の奥村彪生氏は、「日本のめん類の歴史と文化」と題する博士論文の中で、饂飩のルーツを次のように説明します。中国料理では饂飩は雲呑(わんたん)のことで、豚肉や葱、胡椒などを小麦粉でくるんで茄でたもので、昆飩と饂飩とは似ても似つかないものである。それに対して唐代に「不純」という切り麺があつて、これが発展したのが「切麺」で宋代に盛んにつくられた。切麺が13世紀前半に、禅宗の僧侶によって日本に伝えられた。饂飩が初めて文書に登場するのは、南北朝時代の1351年の法隆寺の古文書で「ウトム」とある。その後、饂飩に関する記述は、京都の禅寺や公家の記録に頻出するようになる。饂飩は13世紀の終わり頃に、京都の禅寺で発明された。初めて記録に登場するのは奈良だが、その後の記録の多くが京都に集中しているところから、饂飩の発祥の地は京都だ。
 江戸時代の記録によると、饂飩は茄でて水洗いしてから、熱湯につけて、つけ汁につけて食べていた。現在の「湯だめ」である。禅宗の僧侶が伝えた「切麺」は中細で、湯だめにすると伸びてしまうので、伸びない太い切り麺として発明されたのが饂飩である。不純は湯につけて食べるところから「温屯」になりになり、温の三水を食偏に改めて「饂」と作字し、混飩の「飩」を参考にして「饂飩」と書くようになった(「追跡シリーズ」四五七号、うどんのルーツに新説 中世京都の禅寺で誕生?)。
 ここで奥村氏は饂飩の起源は、13世紀前半に禅僧にによってもたらされた切麺にあると主張します。しかし、これには次のような反論もあるようです。
①切麺という名称があるのにわざわざ「不純」を引っ張り出してうどんの語源とする必要があるのか。
②つけ汁につけて食べるようになったのは醤油が広く普及した近世中期以降の食べ方で、中世にはつけ汁の食べ方はない。なぜなら醤油がなかったから。

中世から近世前期まで、饂飩は味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、饂飩も醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。ここからも「うどん=不屯(ぶとう)」説は成立しないと研究者は考えているようです。
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うどんの歴史文書の初見記録は奈良です。しかし、その後の記録の多くは京都に集中しています。
ここからは、うどんは奈良で発明されて、京都にいち早く伝えられ、京都から全国各地に広がっていったという仮説が考えられます。
平安時代の日本では、中国のように肉食が普及していません。そのため饉飩(ほうとん)も肉汁は使わないで、小麦粉に水を加えてこねて薄く伸ばし、包丁で短冊状に切って熱湯でゆでて、醤や塩で味をつけて惣莱として食べたり、糖や甘葛を用いて甘くした小豆の汁をそえて菓子として食べていたとしておきましょう。
 うどん誕生の背景を、羽床氏は次のようにストーリー化します。
 鎌倉時代に禅宗の僧侶が、点心(食事が朝・晩の二食であった時代に、二食の間に食べた軽い食事)を伝えます。そして、点心の習慣が盛んになった時に、かつては良く食べられいたのに忘れられたようになっていた饉飩(ほうとん)が再び注目を集めるようになり、点心として食べるようになります。饉飩は作業手順が複雑で、簡単につくれるものではありませんでした。それが南北朝時代前半に、奈良のある僧侶が作業工程の効率化を生み出します。それは、水を加えてよく捏ねた小麦粉を薄く伸ばして、乾いた小麦粉を振り掛けて、くっつかないようにしてから折りたたんで包丁で切って、効率よく作れるようにするというものです。これを「ほうとん」と呼んでいました。それがいつしか「ほ」が失われて、「うとん」とか「うとむ」と呼ぶようになります。さらに「と」を濁らせて、「うどん」とか「うどむ」と呼ぶようになります。さらに、うどんは温めて食べるところから「温飩」と書くようになり、食物であるところから三水を食偏に改めて「饂飩」と書くようになったというのです。

 うどんは、小麦粉に水を加えて良く捏ね、様々に成形して加熱した食品です。これは中国の食文化の影響下で成立した食品で、製造過程の中に「包丁で切る」という工程を含むのは唐菓子の饉飩だけです。これが最もうどんのルーツにに近いし、うどんの語源も饉飩(ほうとん)である可能性が高いと羽床氏は考えているようです。
うどんが登場するのは、中世以降のこと 
歴史的な文書にうどんが登場するのを挙げて見ましょう
①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎学林で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」として、「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」と説明
⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも「饂飩」
以上から14世紀以降は「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれ、安土桃山以降は「切麦」と呼ばれていたようです。きりむぎは、「切ってつくる麦索」の意で、これを熱くして食べるのをあつむぎ、冷たくして食べるのをひやむぎと呼んだようです。

讃岐に、うどんが伝えられたのはいつ?
DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや

元禄時代(17世紀末)に狩野清信の描いた上の『金毘羅祭礼図屏風』の中には、金毘羅大権現の門前町に、うどん屋の看板をかかげられています。中央の店でうどん玉をこねている姿が見えます。そして、その店先にはうどん屋の看板がつり下げられています。この店以外にも2軒のうどん屋が描かれています。


1 うどん屋の看板 2jpg

讃岐では、良質の小麦とうどん作りに欠かせぬ塩がとれたので、うどんはまたたく間に広がったのでしょう。後に「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。
 江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になります。氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)など、特別な日の御馳走として、各家々でつくられるようになります。半夏生に、高松市の近郊では重箱に水を入れてその中にうどんを入れてつけ汁につけて食べ、綾南町ではすりばちの中にうどんを入れて食べたといいます。
 それでは、うどんは讃岐へいつ伝えられたのでしょうか。先ほど見たように、「うどん」が日本に登場するのは室町後期の奈良地方です。それが京都で流行し、讃岐に伝えられるのは安土桃山時代と研究者は考えているようです。逆に言うと、空海の時代にはうどんは日本にはなかったのです。うどんについては、讃岐では「空海が唐から持ち帰った」という「空海伝説」が語られています。それを最後にみえおくことにします。
空海の弟子・智泉は讃岐国にうどんをを伝えたか?    
うどんの製法を智泉が讃岐に持ち帰ったというのです。智泉は滝宮天満宮(その別当寺の滝宮竜燈院)出身の僧侶と云われてきました。そのため滝宮を「うどん発祥の地」とする説があるようです。
木原博幸編「古代の讃岐』(昭和63美巧社)256頁には、智泉について次のように記されています。
智泉は延暦八年(789)に讃岐国で生まれた。父は滝宮天満宮の宮司であった菅原氏、母は佐伯氏の出身で空海の姉であった。九歳の時、空海に伴われて大安寺に入り勤操大徳に師事して延暦23年に剃髪受戒した。天長元年(824)九月には、高雄山寺の最初の定額僧の一人に加えられたが、健康にすぐれず、翌二年二月十四日、37歳の若さで高野山東南院で没した。

「讃岐に生まれた人間。空海 下」(四国新聞『オアシス』第337巻、2005五年、四国新聞社発行)には、
智泉は、滝宮竜燈院(現在の滝宮天満官)に嫁いだ空海の姉の子であり、大師が九歳から奈良に連れてゆき、仏教の勉強をさせた程の器。(中略)
空海は智泉を、将来は教団を任せられる人物のひとりと考えていましたが、健康を害して三十七歳で死去。
  両方とも、智泉を滝宮天満官の宮司家である菅原氏の出身で、その母を空海の姉と記します。しかし、この説には無理があると羽床氏は指摘します。なぜなら智泉が生まれたのは延暦八年(789)で、菅原道真が活躍するのはその百年後のことです。太宰府に左遷された菅原道真がなくなるのは延喜三年(903)です。つまり、智泉の時代には滝宮天満宮はまだありません。存在しない滝宮天満宮の官司家の出身することはできません。また、智泉の母を空海の姉とするのも、根拠がありませんし、年齢的にも無理があるようです。「智泉を滝宮天満宮の宮司家や竜燈院の出身とする説は根拠のない虚説」「智泉は滝宮天満官の官司家や竜燈院の出身ではなかつたし、その母が空海の姉というのも嘘」と厳しく批判します。
 さらに空海が日本にうどんを伝えたという俗説も、饂飩は南北朝時代前半に誕生したもので、空海の時代にはないものであって、空海が伝えたものではないことは、資料で見てきた通りです。智泉の生きた頃にはうどんは、まだ生まれていないのです。空海や智泉の生きた頃には、現在の干し饂飩に似た素索(索餅)や饂飩の原形の饉飩はあったことは資料から裏付けられます。しかし、麦索は饂飩に似ていても饂飩ではなく、空海や智泉を饂飩を伝えた人物とすることはできないのです。「滝宮=饂飩発祥の地」説は、資料に基づいたものではない「虚説」と専門家は批判します。

以上をまとめておくと、うどんはそのルーツを中国に持ち、それがいまのような形になるのは中世以後のことで、付け麺で食べられるようになるのは、醤油が普及する江戸時代後期になってからのようです。

参考文献 羽床正明 饂飩の由緒と智泉 ことひら65号(2000年)
関連文献 

  前回は弘法清水伝説が「泉と託宣」にかかわって、古代の祭祀に関係があったことみてきました。今回は別の視点から弘法清水伝説を見ておきたいと思います。この伝説に共通するのは、弘法大師が善人または悪人の家にやってくることです。この国の古代信仰にも家々に客人として訪れる神がいたようです。これを客人(まろうど)神と呼びます。この神は、ちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形になります。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためのようです。
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 客人(まろうど)神の例として研究者は「常陸国風土記』の富士と筑波の伝説を挙げます。
大古、祖神尊(みおやのまみのみこと)が諸神のところを巡っていました。駿河の幅慈(富士)の神は、新嘗の祭で家内物忌をしていたので、親神なれどもお泊めしなかった。そこで祖神尊はこの山を呪われたので、この山には夏も冬も雪ふりつもり、人も登らず飲食も上らないのだという。
 この祖神尊が筑波の神に宿を乞うたところ、新嘗の物忌にもかかわらず神の飲食をととのえて敬い仕え申した。そこで祖神尊は大いによろこばれて、
愛しきかも 我が胤 魏きかも 神宮
あめつちのむた 月日のむた
人民つ下ひことほぎ 飲食ゆたかに
代のことごと日に日に弥栄えむ
千代万代に 遊楽きはまらじ
と祝福せられたので、筑波は今に坂東諸国の男女携え登って歌舞飲食をするのです
二見町◇蘇民将来
スサノウの宿泊を断る弟の招来

客人神の伝説は、京都の祇園社の武塔天神が有名です。

『釈日本紀』の『備後風土記逸文』には蘇民将来の話として載せられています。この物語は、旧約聖書のモーゼの「出エジプト」を思い出させる内容です。その話の筋はこうです。
昔、北海に坐した武塔神(スサノウ)が南海の神の女子を婚いに出でましたとき、日が暮れたので蘇民と将来という兄弟の家に宿を乞われた。しかるに弟の将来は富めるにもかかわらず宿をせぬ。兄の蘇民は貧しいにもかかわらず、宿を貸し、栗柄を御座として来飯をお供えした。
蘇民将来の神話

後に武塔神が来て前の報答をしようといい、蘇民の女の子だけをのこして皆殺してしまった。そのとき神の日く、
吾は速須佐能雄(スサノウ)の神なり。後の世に疫気あらば、汝蘇民将来の子孫と云ひて茅の輪を腰の上に著けよと詔る。詔のまにまに著けしめば、その夜ある人は免れなむ
武塔天神はスサノオで、疫病の神です。そのため宿を貸した善人の蘇民の娘だけを助けて、他は流行病で全減したようです。まさに、モーゼと同じ恐ろしさです。これが家に訪ね来る客人神で、その待遇の善し悪しによって、とんでもない災難がもたらされることになります。これは、前々回に見た、弘法清水伝説とおなじです。水を所望した僧侶を、邪険に扱えば泉や井戸は枯れ、町が衰退もするのです。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民招来の木札
  この神話伝説について研究者は次のように指摘します。
「この段階では道徳性が導人されており、善と悪を対比する複合神話の形式をとっている。その発展過程よりすれば客人神の災害と祝福を説く二種の神話が結合したものとみることができる。
 しかもなお原始民族の神観にさかのはれば、神は恐るべきがゆえに敬すべき威力ある実在とかんがえられたから、悪しき待遇と禁忌の不履行にたいして災害をくだす神話が生まれ、次にこの災禍を避けて福を得る方法としての祭祀を物語る神話がきたのであろう。攘災と招福は一枚の紙の裏表であるが、客人神としての大師への不敬が泉を止めたという伝説、したがって井戸を掘ることを禁忌とする口碑はきわめて古い起源をもつものとおもわれる。
 
ここにも意訳変換が必要なのかも知れません。
  水をもらえなかったくらいで、泉を枯らしてしまう無慈悲で気短で恐ろしい人格として弘法大師が描かれるのはどうしてかというのが疑問点でした。その答えは、弘法大師以前の神話では、恐るべき客人神として描かれていたのが、いつの頃からか弘法大師にとって代わられたためと研究者は考えているようです。客人神は、弘法大師に姿を変えて引き継がれたというのです。
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しかし、客人神は上手に対応すれば災いがもたらされることはありません。そればかりか人間の祈願に応えて幸福をあたえてくれます。畏怖心や威力が大きければ大きいほど、その恩寵もまた大きいとかんがえられたようです。ここからは、大師が善女からの水の供養のお礼に泉を出したという伝説は、悪女のために泉を止めたという伝説と表裏一体の関係にあると研究者は考えているようです。
蘇民将来とは?(茅の輪の起源)-人文研究見聞録
 客人神の二つの面が大師にも描かれているのです。
その結果、この種の伝説の性格として、道徳意識は潜り込ませにくかったようです。しかし、後世になってこの伝説が高野聖などの仏教徒の管理に置かれると変わってきます。弘法清水伝説として、道徳的勧懲が強調されて、教訓的色彩が強くなります。そして、厳しく罰する話の方は落とされていくようにもなるようです。
 信濃国分寺 蘇民将来符、ここにあり | じょうしょう気流
 伝説の中の弘法大師が、神話の中の祖神尊や武塔神のように、人々の家々を訪れめぐるとされていたことは押さえておきましょう。
ここからは、次のような話が太子伝説の一つとして流布するようになります。
「今でも大師は年中全国を巡り歩かれるから、高野の御衣替には大師の御衣の裾が切れている」

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地方によると「修行大師」と呼ばれる弘法大師の旅姿がとくに礼拝される所もあるようです。これは古代の家々を訪れ巡る客人神を祀るという古代祭祀の痕跡なのかもしれません。固定した建造物となった神社でおこなわれる今の神祭には、登場しない神々です。

古来は、家々に神を招きまつる祭祀が、一般的であったようです。
そして、弘法清水伝説の中にあらわれる弘法大師は、このような家々に私的に祀られた神の姿をのこしたものなのかもしれません。だから、人々は親しみ深いものとして、語り継いできたようです。そして、この親しさが、弘法清水伝説を今まで支えてきた精神的な根拠と研究者は考えているようです。
修行大師像

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重著作集第4巻 寺社縁起と伝承 弘法大師伝説の精神的意義(中)        法蔵社
客人神

 弘法大師の三つ井戸
大師井戸伝説は、古代の神話の泉(井戸)信仰に「接ぎ木」されたもの考える説があるようです。それでは、古代の人たちは、泉をどのように見ていたのでしょうか。
実在した?海の国、竜宮城 その3(ワイ的歴シ11)|はじめskywalker|note
「古事記」の海幸と山幸の神話に出てくる泉を見てみましょう。
山幸彦がうしなわれた釣針をもとめて綿津見宮に行き、宮門のそばにある井戸の上の湯津香木(ゆずかつら)にのぼって海神の女を待つシーンです。
こゝに海神の女豊玉毘売の従婢、玉器を持ちて水汲まむとする時に、に光あり。仰ぎて見れば麗しき壮夫あり。いと奇しとおもひき。かれ火遠理命、その婢を見たまひて水を得しめよと乞ひたまふ。婢乃ち水を酌みて玉器に人れてたてまつりき。ここに水をば飲なたまはずして、御頸の玉を解かして、口に含みて、その玉器に唾き入れたまひき。こゝにその典い器に著きて婢政を得離たず。かれ典杵けながら豊玉毘売命に進りき。云々
  意訳変換しておくと
海神の女豊玉毘売の従婢が玉器で水を汲もうとすると、井に光が差し込んだきた。仰ぎ見ると麗しき男が立っていた。男は火遠理命で、その婢に水を一杯所望した。婢は水を酌んで玉器に入れて、差し出した。しかし、男は水を飲まずに、首の玉を外して、口に含んで、その玉器に唾き入れた。

読んでいてどきりとするエロスを感じてしまいます。こんなシーンに出会うと古典もいいなあと思うこの頃ですが・・・それは置いて先に進みます。
ここに登場する泉(井戸)を研究者は、どのように考えているのでしょうか
「井が神の光をうつす」ということは「巫女と泉と託宣」を暗示していると云います。泉に玉を落とすということは泉を神とかんがえ、玉をその御霊代とかんがえた証拠とします。
青い泉だけでない由緒ある神社 - 泉神社の口コミ - トリップアドバイザー
  たとえば常陸多賀那坂上村水本の泉神社の泉は『常陸国風土記』にも出てくる名勝です。
ここには霊玉が天降り、そこから霊泉が涌出するようになったという伝説があります。泉神社の御神体はその霊玉だと伝えられます。また、この泉は片目魚の伝説ある那珂郡村松村の大神宮の阿漕浦(泉神社の南二里)と地下で通していると云います。

 これに関連するのが日向児湯郡下穂北村妻の都万神社の御池で、ここにも次のような玉と片目鮒の伝えがあります。
この池の岸に木花開耶姫が遊んでいたとき、神の玉の紐が池に落ちて鮒の日を貫き、それよりこの池には片目鮒が生ずるようになった。それでこの社では玉紐落と書いて鮒とよみ、鮒を神様の眷属と称えるという(『笠狭大略記』)。その他、玉の井、玉蔭井、玉落井、などの名でよばれる泉はいずれも玉と関係があり、泉を神とした時代の信仰をしめすものと研究者は考えているようです。つまり、泉そのものが神と考えられていた時代があったと云うのです。
次に神功皇后の伝説にも、泉は聖地として登場します。
『播磨国風土記』の針間井(播磨井)は、この地が神によって開かれた土地であるとし、次のように記されています。
息長帯日売(おきながたらしひめ)の命、韓国より還り上らし時、御船この村に宿り給ひしに、 一夜の間に萩生ひて根の高さ一丈許なりき。乃りて萩原と名づけ、すなはち御井を開きぬ。故、針間(はりま)井といふ。その処墾かず、又神の水溢れて井を成しき。故、韓清水と号く。その水、朝に汲め下も朝を出でず。こゝに酒殿を作りき。ム々
意訳変換しておくと
息長帯日売(=神功皇后)の命で、韓国より生還した際に、御船をこの村に着けて宿った。すると一夜の間に萩が一丈ほど成長した。そこでこの地を萩原と名づけ、御井を堀開いた。そのため針間(はりま播磨)井と呼ばれる。そして、この井戸の周辺は開墾せず、神の水溢れて湧水となったので、韓清水と名付けた。その水は、朝夕に汲んでも尽きることがない。そこで酒殿を造った。ム々

   息長帯日売(=神功皇后)が上陸した土地は、一夜のあいだに萩が覆い茂る聖地で、神を祭るべき霊地であったようです。そこに神祭のために御井が掘られます。そして開墾されることなく神聖なる土地として管理され、祭のために酒を醸すべき酒殿が造られたとあります。

『常陸国風土記』の夜刀の神の伝説にも「椎の井」の話があり、これは夜刀の神のかくれた池と伝えられます。井を掘り出したのではありませんが、この池の主が蛇であるとします。すなわち池が神の住家であるとするのです。
水の神が蛇であるという信仰は現代ではよく知られています。
そして蛇は姿を変えて龍となります。つまり「蛇=龍」なのです。龍と雨乞いは、空海により結びつけられ「善女龍王」信仰になります。しかし、その前提には、「雨乞い」と「龍蛇」の間を、古代の「水(泉)の神」信仰が結びつけていたと研究者は指摘します。泉信仰があって、古代の人々は「善女龍王」伝説をすんなりと受けいれることができたようです。ある意味、ここでも「泉信仰」に「善女龍王」伝説は「接ぎ木」されているのかも知れません。弘法清水伝説の源泉を遡れば古事記や日本書紀の神話にまで、たどり着くと研究者は考えているようです。
泉が神話に、どんなふうに登場するのでしょうか。そのシーンは3つに分類できると研究者は考えているようです。
第1は穢れを浄める場としての泉です。
古代祭礼は、神主は神僕であるとともに神自体でした。今、私たちが祀る神々の中には、もとは神への奉仕者であったらしい神(人)もいるようです。神に仕える者が身を清めるための泉は、祭祀に必須条件となります。これが弘法清水伝説の伊勢多気郡丹生村の「子安の井」では、産婦の水垢離(コリトリ)にのみもちいられ、これを日常用に汲めばかならず崇りがあるとされます。尾張知多都生路村の「生路井」のように、穢れあるものがこれを汲めば、すぐに濁ってしまうとつたえられます。
 人が神に仕えるためには、身を清める場が必要でした。それが聖なる神の住む泉だったのです。この考えは修験道にも入り込み「コリトリ」のための瀧修行などへ「発展」していくようです。
第二に泉は、神祭に必要不可欠だった酒醸造の聖地になります。
 居酒屋では今でも、御神酒と呼んだりします。御神酒は、祭礼の際に君臣和楽するためや、神人和合の境地をつくり出す「手段」として必要不可欠なものでした。酒は、託宣者を神との交感の境に導くための「誘引剤」としても用いられました。御神酒は、神と人のあいだの障壁をとりのぞき、神語を宣るに都合のいい雰囲気を作り出す役割も果たします。こうして託宣者は「御託をなヽらべる」ことができるようになります。 酒は神物であり、神から授けられたものだったのです。
『古事記』中巻にある「酒楽の歌」は、こうした信仰を歌いつたえたものなのでしょう。
この御酒は、吾が御酒ならず、酒(くし)の上、
常世にいます、石立たす、少名御神の、
神壽(かむはぎ)、壽狂ほし、豊壽、壽廻(はぎもとほ)し、献(まつ)り来し、御酒ぞ、涸ずをせ、さゝ
  意訳変換しておくと
この御酒は、私たちの御酒ではなく、天の上、常世にいらっしゃいます少名御神のものです。
神を祝い、豊作を祝い愛で、喜びをめぐる、
献(祀り)がやってきた、御酒ぞ、枯らすことなく浴びるほど飲め
涌泉伝説には、酒の泉の伝説もかなりあるようです。そして、養老瀧の酷泉伝説につながっていくものも数多くあります。たとえば『播磨国風土記』には印南郡含芸の甲に酒山の酒泉が涌出した話があり、揖保郡萩原の里の韓清水にも酒殿が立てられたことが記されています。また『肥前国風土記』、基粋の郡、酒殿の泉にも酒殿があり、孟春正月の神酒を醸したようです。
泉の第3の効用は、ここで託宣が行われたことです。
原始神道のもっとも大きな特色は託宣だと研究者は云います。
託宣を辞書で調べると次の通りです
託宣」(たくせん)の意味
「神が人にのりうつり、または夢などにあらわれて、その意思を告げ知らせること。神に祈って受けたおつげ。神託。→御託宣」
 
 戦後直後の昭和の時代には、まだ選択者が「市子、守子、県、若、梓神子など死霊生霊の口寄せ」として残っていた地域もあったようです。中世には八幡神は、この託宣を使って八幡信仰を全国に広げました。それを真似るように熊野、諏訪、白山なども好んで巫女に憑って託宣を下しました。大きな神社でなくても、「祟の神さん」といわれる祠のような小さな神社でも、巫女達が託宣を下しました。
たたりはたたへ(称言)、またはたとへ(讐喩)と語源をおなじくする託宣の義」

と研究者は指摘します。これには巫女、市児、山伏の類から僧侶までもくわわります。それは託宣の需要が多く、その収入も多かったからでしょう。
 『大宝令』『僧尼令』には、僧尼の古凶卜相、小道鳳術療病者を還俗させる法令があります。養老元年(717)4月の詔にも、僧尼の巫術卜相を禁ずるとあります。ここからは、奈良時代には託宣が盛んに行われていたことがうかがえます。託宣が古代祭祀のかなり大きな部分を占めていたようです。
日本巫女史|国書刊行会

 しかし、奈良時代になると託宣は託宣のための託宣であって、古代の祭儀としての託宣とは、かなりかけ離れていたようです。その背景には、神への奉仕者と託宣者とが分化したことが挙げられます。神社をはなれた漂泊の託宣者が手箱や笈を携えて祈疇と代願をおこなうようになります。神社専属の神子はんや神主からは、彼らは「歩き巫、叩き巫、法印、野山伏」と侮りをうけるようになっていきます。

それでは、託宣(神託)は、どこでおこなわれていたのでしょうか
  それは神が住む泉で行われたと研究者は考え、次のように記します。
  巫女は林下の泉に臨んでこれをのぞき見、ある所作をなすことによつて悦惚たる人神の境地にはいり、時間的・空間的な制約を超脱して神意を宣ることができたのであろう。

これは現在でも、選択者の流れを汲む市子、縣たちは必ず水を茶碗に汲んで笹の葉でかきまわし、所謂「水を向け」を行った後に託宣を告げます。これは、泉で託宣が行われた時の痕跡と研究者は考えているようです。
日本最古いの一つとされる数えられる安積の采女の歌とには、
浅香山かげさへ見ゆる山の井の浅き心を吾おもはなくに

この歌に出てくる「山の井」は、采女が託宣をおこなうべき場所であった井戸とも考えれます。また小野小町、小野於通、和泉式部などの全国に足跡を残す女性たちも『和式部』の作者であるよりは、実は采女であったと考える研究者もいるようです。これも采女が泉にゆかりをもとめた証となります。

原始信仰にとって、泉とは一体なんのなのでしょうか?     
  『古事記』『日本書紀』は、死後に行く世界、現世から隔絶された世界、すなわち幽界を「よみ」として、これに黄泉または泉の文字をあてます。泉を幽界への通路、または幽界を覗き見るべき鏡とかんがえたことがうかがえます。そして研究者は次のように述べます。
 泉は林間樹下に蒼然と湛えて鳥飛べば鳥をうつし、鹿来れば鹿をうつし、人臨めば人を映す。泉は、古代人にとって神秘以上のものであったろう。鏡を霊物とする思想が泉を霊物とする思想から発展したとかんがえるのは、あながち無理な想像ではあるまい。かがみということば自身「影見」であり、泉の上に「かがみ(屈み)見る」から出たということも思える。
 鏡が幽界、地獄界をうつすというかんがえは野守の鏡のみならず、松山鏡の伝説にもある。中世の地獄、古代の幽界は遡れば現世から隔絶された世界、顕国の彼方の世界、常世、神の世界である。ゆえ泉に拠って神人の交通を企てるということは、古代人にとってはきわめて自然のこととかもしれない。姿見の井戸などの幽怪なる伝説も、こうした泉の霊用をかんがえてはじめて理解し得るのである。
泉信仰から鏡信仰へとスライド移行して行ったというのです。
古代の神泉伝説で、采女がなぜか投身人水をします。どうしてなのでしょうか?
  これは古代祭祀における人身供犠と関係があるようです。 フレーザーは未開民族のあいだにおける人身供犠について次のように述べます。
  人身供犠記(生け贄)は。古代社会にとっては普通のことで、それは穀神にささげられる生贄であり、人を殺すことによって土地を肥し収穫を増すという信仰から出ている。それゆえ南洋諸島の人身供犠には、できるだけ肥った人を選ぶ。

『今苦物語集』巻二十六、〔飛騨国の猿神生贄を止むる語第八〕などでも供えられる僧は、できるだけ食べさせて肥らされます。この話は人身御供をとる猿神を身代わりの僧が退治する話です。そこでは、年々選ばれる人身御供は未婚の美女でなければならず、これを供えることによって猿神の神怒を和げ、田畠の収穫を増加させたされています。
ファイル:人身御供.gif - Docs

 巫女は古代の祭祀では最終的には、神になることを求められます。そのためには泉に身を投ずることによって神として祀られた時代があったと研究者は考えているようです。この国の祖先たちは、このような死を単なる死と見ずに、死を通じて永遠の生命を獲得するとかんがえたようです。しかし、生のままの人身御供ということは、古墳時代の埴輪の登場にみられるようにだんだん「時代遅れ」の感覚になります。そこで、人間の代わりに魚の片目を潰して池に放すこととなります。池に放すのは、人間にとっては死ですが、魚にとっては生であり放生です。この日本古来の人身御供を慈悲放生のシーンへと巧みに換えたのは、仏教の功績のひとつなのかもしれません。
 このようにして泉は、古代祭祀において重要なシーンを演じてきました。そのためいくつもの神話が生まれ伝説化します。そのうえに弘法清水伝説や大師井戸は「接ぎ木」されたと研究者は考えているようです。しかし、どうして弘法大師が選ばれたのでしょうか。考えられることを挙げておくと次のようになります
①中世の精神生活における仏教の絶対優位、とくに密教的なるものの優勢ということ、
②弘法大師の法力、加持力
③古代信仰とその伝説の荷担者が密教と親近性をもっていたこと、
しかし、これだけでは説明はつきません。古代の神々と弘法大師が混同されるような何かがあったと考えたいところです。この泉の由来はと聞かれて、どなたか尊い方が来て出された泉だという伝承があった上で、それこそ弘法大師だったのだと納得されるには、何かかくれた根拠が必要です。2段構えの説明が求められます。
  「大師は太子であって神の子である」

という柳田国男の説がよぎります。
古代の泉の廻りをうろうろしただけのとりとめのない話になってしまいました。しかし、大師井戸の背後には、古代の泉伝説が隠されているという話は私にはなかなか面白い話でした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重作集第四巻 寺社縁起と伝承文化 


善通寺と空海 : 瀬戸の島から

弘法大師伝説のなかに、「弘法清水」や「大師井戸」とよばれる涌泉伝説があります。
まんのう町真鈴峠に伝わる「大師井戸」については、以前紹介しました。この伝説について民俗学の研究者達は、どんな風に考えているのかを見ていくことにします。テキストは「五来重作集第四集 寺社縁起と伝承文化 弘法大師伝における弘法清水    273P」です

この伝承は、民間伝承と太子伝に載せられているものの二つがあります。最初に太子伝に載せられた「大師井戸」を追いかけてみましょう。
1弘法大師行状記

  一番古いのは寛治一年(1089)の『弘法大師行状集記』〔河内国龍泉寺泉条第七十七〕で、次のように記されています。
この寺は蘇我大臣の大願で、寺を建設するのにふさわしい所が選ばれて伽藍が建立された。ところがこの寺に昔からある池には悪龍が住むと伝えられ、山内の池に寄りつく人畜は被害を受けた。そこで大臣は冠帯を着帯して爵を持ち、瞬きもせずに池底を七日七夜の間、凝視し続けた。すると龍王が人形として現れて次のように伝えた。大臣は、猛利の心を発して祈願・誓願した、私は仏法には勝てないので、他所に移ることにする。そうつげると元の姿に復り、とどろきを残して飛び去った。
 その後、池は枯渇し、山内には水源がなくなってしましった。伽藍は整備されたが、水源は十数里も遠く離れた所にしかなく、僧侶や住人は難儀を強いられた。そこで大師が加持祈誓を行うと、もともと棲んでいた龍が慈心になって池に帰ってきた。以後、泉は枯れることなく湧きだし続け絶えることがない。そこで寺名を改めて龍泉寺とした。

ここからは、次のような事が分かります。
①もとから龍が住むという霊地に、寺が建立されたこと
②そのため先住者の龍は退散したが、泉も枯れたこと
③弘法大師が祈祷により、龍を呼び戻したこと。そして泉も復活したこと
寛治一年(1089)の文書ですから、弘法大師が亡くなって、約150年後には弘法清水の涌出伝説は出来上がっていたことが分かります。
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後の『和漢三才図会』は、この清水を龍穴信仰とむすびつけて、次のように記します。
昔此有池、悪龍為害、大臣(蘇我大臣)欲造寺、析之、龍退水渇建寺院、後却患無水、弘法加持
涌出霊水、今亦有、有一龍穴常以石蓋ロ、如旱魃祈雨開石蓋忽雨 (『和漢三才図会』第七十五、河内同龍泉キ村龍泉寺)
意訳変換しておくと
昔、この寺には、悪龍が害をなす池があった。蘇我大臣が寺を作ることを願い、龍を退散させると水が涸れた。寺院はできたが、水がなく不自由していた。そこで、弘法大師が加持しすると霊水が涌き出した。今でもこの寺には、龍穴があるが、日頃は石で蓋をしている。旱魃の時には、この石蓋を開けるとたちまちに雨が降る。

ここには、後半に旱魃の際の際の雨乞いのことが付け加えられています。どちらにしても、弘法清水伝説は、水の神の信仰と関係あると研究者は指摘します。
☆駅長お薦めハイク 大淀町散策(完)弘法大師井戸と薬水駅 : りんどうのつぶやき

  槙尾寺の智恵水の伝承の三段変化
  『弘法大師行状集記」の〔槙尾柴千水条第―五〕には、槙尾山智恵水のことが次のように記されています。まずホップです。
此寺是依為出家之砌、暫留住之間、時々以檜葉摩浄手、随便宜投懸椿之上 其檜葉付椿葉、猶彼種子今芽生、而椿葉生附檜木葉、或人伝云、大師誓願曰く、我宿願若可果遂者、此木葉付彼木葉
意訳変換しておくと
この寺では弘法大師が出家する際に、しばらくここに留まり生活した。その時に、ときどき檜葉を揉んで手を浄めた。それを、椿の木に投げ置いた。すると檜葉がそこで成長して、椿葉の上に檜が茂るようになった云う。これは弘法大師の誓願に、「我、願いが適うものなら、この木葉をかの木葉につけよ」からきているのかもしれない

ここには、檜葉を揉んで手を浄めたことはでてきますが、湧水や井戸のことについてはなんら触れられていません。それが約20年後の永久、元永ごろ(1113)の『弘法大師御伝』では、次のように変化します。  これがステップです。
和泉国槇尾山寺、神呪加持、平地
、此今存之、号智恵水、又以木葉按手投棄他木、皆結根生枝、今繁茂也
  意訳変換しておくと
和泉国の槇尾山寺には、神に願って加持すれば、平地から清泉が涌きだすという。これを智恵水と呼んでいる。又木葉を手で揉んで他の木に付けると、生枝に根を付けて繁茂する。

ここでは「智恵水」が加えられています。うけひの柴手水が弘法清水に変化したようです。
せいざんしゃ.com / [仏教百事問答]塵添壒嚢鈔―抄訳
それが『塵添墟嚢妙』巻十六の〔大師御出子受戒事〕になると次のように「成長」していきます。ジャンプです。
空海が槙尾寺に滞在していた時に、住持がこの寺には泉がないことを嘆いた。そこで弘法大師は次のように云われた、悉駄太子が射芸を学んで釈種とその技量を争われた。弦矢が金鼓を貰ぬいて地に刺さると、そこから清流が湧きだし、水は絶えることなく池となった。それを人々は箭泉と呼ぶようになった。と
 ならば私もと、空海が密印を結んで加持を行うと、清泉が湧きだだし、勢いよく流れ出した。これを飲むと、精神は爽利になるので智恵水と名付けられた。

  ここにはインドの悉駄太子の射芸のことまで登場してくるので、民間伝承ではありません。当時の高野山の僧侶達の姿が垣間見れるようです。
河野忠研究室ホームページ 弘法水

整理すると板尾山智恵水とよばれる弘法清水は、次のように三段階の成長をとげていることが分かります。
①檜葉を揉んで、手を浄めそれを椿の上に投げっていた。これはうけひの柴手水の段階
②そこへ智恵水が加えられ
③智恵水のいわれがとかれるようになる
これが槙尾寺の弘法清水の形成過程のようです。
以上からは、弘法清水の伝説は11世紀末には大師伝に載せられるようになり、ある程度の成長をとげていたことをが分かります。しかし、「弘法大師伝」という制約があるので、自由に改変・創造して発展させることはできなかったようです。大師伝の編者たちは、大師の神変不可思議な出来事に驚きながらも、おっかなびつくりこれを載せていた気配がします。
大師の井戸 - 橋本市 - LocalWiki

次に、民間伝承で伝えられてきた「大師井戸」を見てみましょう。
 民衆のあいだに広がった大師井戸伝説は、大師の歴史上の行動にはまったくお構いなしに、自由にのびのびと作られ成長していくことになります。
  寛永年(1625)刊の「江戸名所記』にのせられた谷中清水稲荷の弘法清水伝説は、この種の伝説の1つのパターンです。見てみましょう。
谷中通清水のいなりは、むかし弘法大師御修行の時此所をとをり給ひしに、人に喉かはき給ふ。
一人の媼あり。水桶をいたゞき遠き所より水を汲てはこぶ。大師このうばに水をこひ給ふ。媼いたはしくおもひ本りて水をまゐらせていはく、この所更に水なし。わが年きはまりて、遠きところの水をはこぶ事いとくるしきよしをかたり申しけり。又一人の子あり。年ころわづらひふせりて、媼がやしなひともしく侍べりと歎きければ、大師あはれみ給ひ、独鈷をもつて地をほり給へば、たちまちに清水わき出たりしその味ひ甘露のごとく、夏はひやヽかに冬は温也‐いかなる炎人にもかはくことなし。大師又みづからこの稲荷明神を勧請し給ひけり。うばが子、此水をもつて身をあらふに病すみやかにいへたり。それよりこのかた、この水にてあらふものは、よくもろもろのやまひいへずといふことなし、云々
  意訳変換しておくと
谷中通の清水の稲荷は、昔に弘法大師が御修行の際に通られた所です。その時に喉が渇きました。すると、一人の媼が水桶を頭に載せて、遠くから水を汲んで運んできます。大師は、この媼に水を乞いました。媼は、不憫に思い水を差し出しながら次のように云います。「ここには水がないのです。私も年取って、遠くから水を運んでくるのは難儀なことことで苦しんでいます。」「子どもも一人いるのですが、近頃患い伏せってしまい、私が養っています」と歎きます。
 これを聞いて、大師は憐れみ、独鈷で大地を掘りました。するとたちまちに清水が湧き出します。その味は甘露のようで、夏は冷たく冬は温かく、どんな日照りにも涸れることがありません。そして大師は、この稲荷明神を勧請しました。媼の子も、この水で身を洗うと病は、たちまち癒えました。以後、この水で洗い清めると、どんな病もよくなり、癒えないことがないと云います。
弘法大師ゆかりの湧水!大阪・四條畷「照涌大井戸」 | 大阪府 | LINEトラベルjp 旅行ガイド
ここからは次のようなことが分かります。
①親切な女性の善行が酬いられて清水が涌出したこと、
②この女性には、病気の子どもがいること
③大師が独鈷をもって清水を掘り出すこと、
④この清水に医療の効験あり、ことに子供の病を癒すこと、
⑤ここに稲荷神が勧請されていること、
この「タイプ1」弘法清水は、女性の善行が酬いられて泉が涌出する話です。ここでは弘法大師が慈悲深き行脚僧として登場します。
これに似た伝説として、上野足利郡三和村大字板倉養源寺の「弘法の加治水」(加持水)を研究者は挙げます。
往昔、婦人が赤子を抱き、乳の出が少ないのを嘆きながらたたずんでいた。そこに、たまたま行脚の僧が通りかかり、その話を聞いた。僧侶が杖を路傍に突き立てて黙疇すると水が噴出した。旅僧は「この水を飲めば、乳の出が多くなる」と告げた。飲んでみるとその通りであった。この旅僧こそ弘法大師であった

  『能美郡誌」には次のように記されています。
能登の能美郡栗津村井ノ口の「弘法の池」は村の北端にある共同井戸であり、昔はここに井戸がないために遠くから水を汲んでいた。ある時、大師が来合わせて、米を洗っている老婆に水を乞うたのでこころよく供養した。すると大師は旅の杖を地面に突き立てて水を出し、たちまちにこの池ができたという。
 
これらの説話では、大師が使うのは、杖になっています。
「錫杖や独鈷、三鈷などとするのは、仏者らしい作為をくわえた転移」と研究者は考えているようです。もともとは、杖で柳の木だったようです。
勝道上人の井戸と弘法大師』 - kuzuu-tmo ページ!
四国の伊予および阿波の例を見てみましょう
伊予温泉郡久米村高井の西林寺の「杖の淵」、阿波名西郡下分上山村の「柳水」など、いずれも大師に水を差し上げた女性の親切という話は脱落していますが、大師が杖によって突き出されたという清水です。阿波の柳水の話には、泉の傍に柳の柳が繁っていたというから、その杖は柳だったようです。 (『伊予温故録』阿州奇事雑話)。

女性の親切に大師の杖で酬いた説話の中で、涌出した泉が温泉であったという話もあるようです。上野利根那川場村の川場温泉につたわる弘法清水伝説です。この温泉は「脚気川場に療老神」といわれるほどの脚気の名湯とされてきたようです。それにはこんな伝説があるからです。
 昔、弘法大師巡錫してこの村に至り行暮れて宿を求めた。宿の主人は、大師をむかえて家に入れたが洗足の湯がなかった。すると大師は主人のために杖を地に立てて湯を涌かした。それでこの湯は脚気に効くのであり、風呂の傍に弘法大師の石像をたてて感謝しているのだという(『郷土研究』第2編)

研究者が注目するのは、次のポイントです
①大師に洗足の湯を出すこと
②この温泉が脚気に効くということ、
③大師が水を求めるのでなく宿をかりること
これは大師伝説の弘法大師が、「行路神」の性格や祭の日に家々をおとずれる「客人神」の要素をもっていたと研究者は考えているようです。
以上のように、この「タイプ1」に属する説話に共通の特色は、
①大師が行脚の途次水を求め、これを与えた女性の親切が酬いられて泉が涌き出したこと、
②大師は杖を地面に突き立てて泉を出したこと、
広告広場 隠れたお大師さまの足跡 お大師お杖の水 otsuenomizu 10

次にタイプ2「  弘法大師を粗略に扱い罰を受ける」を見てみましょう。 大師にたいして不親切な扱いをしたために、泉を封じられた話です。
会津耶麻郡月輪村字壺下の板屋原は、古くは千軒の繁華なる町であった。ところが、昔、弘法大師がこの地を通過した際に、ある家に立ち寄り水を求めた。家の女がたまたま機を織っていて水を持参しなかった。大師は怒って加持すると水は地下にもぐって出なくなった。さしもの繁華な町もほろびたとつたえている
(『福島県耶麻郡誌』)。

   常陸西茨城郡北山村字片庭には姫春蝉という鳴き声が大きな蝉がいます。これも大師に関係ありと、次のように伝えらます。
昔、一人の雲水が片庭に来って、家の老女に飲水を乞うた。老女は邪怪にも与えなかった。然るにこの僧が立ち去るや否や老女の家の井戸水は涸れ、老女は病を得て次第に体が小さくなって、ついに蝉になってしまった。これがすなわち姫春岬で、その雲水こそ弘法大師であった
(『綜合郷上研究』茨城県下巻
「水一杯のことで、そこまでするのか? 弘法大師らしくない」というのが、最初の私の感想です。道徳観や倫理観などがあまり感じられません。何か不自然のように感じます。

若狭人飯郡青郷村の関犀河原は、比治川の水筋なのに水が流れません。もとはこの川で洗濯もできたのに、ある洗濯婆さんが弘法大師の水乞に応じなかったため、大師は非常に立腹せられて唱え言をしたので、川水は地下を流れるようになってしまった。(若狭郡県志』)。
 阿波名西郡上分上山村字名ケ平の「十河原」には、弘法大師に水を与えなかったため、大師が杖を河原に突き立てると水は地中をくぐって十河原になったと伝えます「郷土研究」第四編)。
  「大師の怒りにふれて井戸を止められた」という話は、自分の村や祖先の不名誉なことなのではないのでしょうか。それを永く記憶して、後世に伝えると云うのも変な話のように私には思えます。どうして、そんな話が伝え続けられたのでしょうか。
浜島の人たちは昔から、海辺の近くに住んでいたので井戸が少なく、たいへん水に不自由をしていました。 また、井戸があっても海が近いのでせっかく掘った井戸水も塩からかったりすることがあったのです。  今から、二百年も前のある年に、長い間日照りが ...

次の弘法清水伝説は「タイプ1+タイプ2」=タイプ3(複合バージョン)です 
 ここでは善人と忠人が登場してきて、それぞれに相応した酬いをうけます。ここでも悪人への制裁は過酷です。それは、弘法大師にはふさわしくない話とも思えてくるほどです。
 弘法清水分布の北限とされる山形県西村山郡川十居村吉川の「大師井戸」をみてみましょう
 大師湯殿山を開きにこの村まで来られたとき、例によって百姓家で水を求められた。するとそこの女房がひどい女で、米の磨ぎ汁をすすめた。大師は黙って、それを飲んで行かれた。ところが驚いたことには、かの女房の顔は馬になっていた。
 大師はそれから三町先へ行って、また百姓の家で水を所望された。ここの女房は気立てのやさしい女で、ちょうど機を織っていたがいやな顔もせずに機からおりて、遠いところまで水を汲みに行ってくれた。大師はそのお礼として持ったる杖を地面に突き立て穴をあけると、そこから涌き出た清水が現在の大師井戸となったという。
この説話の注目ポイントを確認しておきましょう
①邪悪な女房が大師にたいして不親切に振舞ったため禍をうけ
②親切な女房が大師に嘉せられて福を得たこと、
③大師に米の磨ぎ汁をすすめたこと
④邪悪な女房の顔が馬になったということ
⑤善良な女房が機を織っていたこと
これらについて研究者は次のように指摘します。
①については、弘法大師伝説の大師と、古来の「客人神」との関係がうかがえる
②米の磨き汁も、大師講の信仰に連なる重要な暗示が隠されている
③馬になった女房は、東北地方に多い馬頭形の人形、すなわちオシラ神との関係が隠されている
大垣市湧き水観光:十六町の名水 弘法の井戸 : スーパーホテル大垣駅前支配人の岐阜県大垣市のグルメ&観光 ぷらり旅
  常陸鹿島郡白鳥村人字札「あざらしの弘法水」も同村人字江川と対比してつたえられています。
この話では江川の女は悪意でなく仕事に気をとられて水を与えなかったとなっていますが、それにたいしても大師は容赦しません。去って次の集落に入ると、杖を地に突きさして清水を出します。その結果、札集落には弘法水があり、江川集落は水が出ないのだと伝えられます。(『綜合郷L研究』茨城県)

どうしてこんな厳しい対応をする弘法大師が登場するのでしょうか?
現在の私たちの感覚からすると「そこまでしなくても、いいんではないの」とも思えます。一神教信仰のような何か別の原理が働いているようにも思えます。これについて研究者は次のように述べます
わが民族の固有信仰における神は常に無慈悲と慈悲、暴威と恩寵、慣怒と愛育、悪と善の二面をもち、祭祀の適否、禁忌の履行不履行によって、まったく相反する性格を人間の前にあらわされるものだからである。

確かに「古事記』『風土記』等に出てくる客人神は、非常に厳しい神々で曖昧さはありません。それが時代が下るにつれて「進化=温和化」(角が取れた?)し、次第に慈悲と恩寵の側に傾いていったようです。古き神々は人を畏怖させる力を持っていて、それを行使することもあったのです。インドのインデラやユダヤ教のエホヴァ(ヤーベ)と同じく怒れる神になることもあったようです。その神々に弘法大師が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説に生まれ変わっていくようです。
 ここにみえる二重人格のような弘法大師は、古来の「客人神」の台木の上に接ぎ木されています。それが複合型伝説というタイプの弘法大師伝説となっていると研究者は考えているようです。
井戸寺:四国八十八箇所霊場 第十七番札所 – 偲フ花
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「五来重作集第四集 寺社縁起と伝承文化 弘法大師伝における弘法清水    273P」


弘法大師については、実像と死後に作られた伝説とがあり、これが渾然一体となって大きな渦(宇宙)を作り出しているようです。ここでは、それをとりあえず次のふたつに分けておきます。
太子伝  史料等で明確に出来る年表化が可能な事項
大師伝説  大師死後に生み出された民間伝承・信仰
大師伝説が大師伝の中にあらわれたのが、いつ頃のことなのでしょうか
大師没後255年の寛治三年(1089)、東寺の経範法務の『弘法大師御行状集記』が一番古いようです。この本は『今昔物語集』と同じじ時代のもので、霊異説話集の影響を受けたせいか、大師行状の中の伝説的部分に強い関心を示す大師伝と言われます。
その序には、次のように記されています。(意訳)
大師が人定したのが承和二年乙卯で。現在は寛治三年己巳で、その間に255年の歳月が過ぎた。入城直後の行状には、昼夜朝暮(一日中)いろいろな不思議なことを聞かされたが、時代が離れるに従って、伝え聞くことはだんだん少なくなり、1/100にも及ばなくなった。これはどうしたことだろうか。これより以後、末代のために、伝え聞いたことは、すべて記録に残すことにする。後々に新たな事が分かれば追加註していく。

このような趣意で、できるだけ多くの大師に関する伝聞を記録しようとしています。そのために、大師の奇蹟霊異も多く集められ収録されているようです。注目したいのはこの時点で、すでに多数の伝説が語り伝えられていて、記録されていることです。『弘法大師御行状集記』に収録されている弘法大師伝説を挙げて見ます。
1、板尾山の柴手水の山来。
2、土佐の室戸に毒龍異類を伏去すること。
3、行基菩薩出家前の妻と称する播磨の老姫、大師に鉄鉢を授くること。
4、唐土にて三鈷を上すること。
5、豊前香春(かすい)山に木を生ぜじめること。
6、東大寺の大蜂を封ずること。
7、わが国各所の名山勝地に唐より伝来の如意宝珠をうづむること。
8、神泉苑祈雨の龍のこと。
9、祈雨に仏合利を灌浴すること。
10観行にしたがって其の相を現ずること。
11五筆和尚のこと。                                         5
12伊豆柱谷山寺にて虚空に大般若経魔事品を吉すること。
13応天門の額のこと
14河内龍泉寺の泉を出すこと。
15大師あまねく東国を修行すること。
16陸奥の霊山寺を結界して魔魅を狩り籠めること。
17生栗を加持し蒸茄栗となし供御して献ずること。
18日本国中の名所をみな順礼し、その御房あげて計うべからざること。
19高野山に御入定のこと。
20延喜年中(901~)、観賢僧正、御人定の巌室に大師を拝することの
以上の項目を見てみると、のちの大師伝が伝説としてかならずあげるものばかりです。
「弘法大師伝説」の画像検索結果

『弘法大師御伝』(11世紀末)と『高野大師御広伝』(12世紀)になると、弘法大師伝説はさらに増えます。ふたつの弘法大師伝に追加された項目を挙げると次のようになります。
1、唐にて大師の流水に書する文字、龍となること
2 大師筆善通寺の額の精霊と陰陽師晴明の識神のこと。
3、大師筆皇城皇嘉門の額の精霊のこと。
4、土佐国の朽本の梯(かけはし)に三帰をさずくること
5、石巌を加持して油を出すこと。
6、石女児を求むれば唾を加持して与えるに児を生むこと。
7、水神福を乞えば履を脱いでこれを済うこと。
8、和泉の国人鳥郡の寡女の死児を蘇生せしむること。
9、摂津住古浦の憤のこと。
10行基菩薩の弟子の家女に「天地合」の三字を柱に書き与うるに、その柱薬となること。
11河内高貴寺の柴手水に椿の本寄生すること。
12天王寺西門に日想観のこと。
13高雄寺法華会の曲来と猿の因縁。
14讃岐普通寺・曼荼羅寺の塩峰と念願石のこと。
15阿波高越山寺の率都婆のこと。
上の大師伝説は、伝記の本文から離して「験徳掲馬」の一条を立てて別立てにしています。そしては次のようなことが序文に書かれています。
今、大師御行状を現したが 神異を施し、効験を明らかにすために、付箋を多く記した。世俗では多くの弘法大師伝が語られるようになり、それが多すぎて、詳しく年紀をしるすことができない。書くことができないものは、左側に追加して記すことにした。

年紀(年表)に、民間に伝わる大師伝説を入れていこうとすると、無理が起きてきたようです。弘法大師伝説が多すぎて、年紀の中に入りきれなくて、はみ出さざるを得なかったのです。世に伝わる大師伝説を全て収録しようとすると、大師伝の中に伝説がどんどん流入してきます。その結果、「或人伝云」「或日」「世俗説也」「世俗粗伝」などの註記を増やす以外に道がなくなったようです。

 私は最初は、弘法大師伝説は歴代編者の「捏造」と単純に考えていました。
しかし、どうもそうではないようです。世の中に伝わる弘法大師伝説が時代とともに増え続けていたのです。つまり、生み出され続けたのです。編者は世俗の説(弘法大師伝説)にひきずられる形で書き足していたようです。
「弘法大師伝説」の画像検索結果

深賢の『弘法大師行化記』二巻は、奥書に編集方針が次のように記されています。
この書の上巻裏書には、やや詳しく大師の伝説をのせています。しかし、ここでは「世俗説也」「彼土俗所語伝也」の註があります。伝記と伝説を区別すべきものであるという編集姿勢が見えます。そして、この伝が書かれた鎌倉初期までに、大師伝中の大師伝説は固定したようです。これから新たに伝に加えられるものは出てきません。

 しかし、鎌倉時代末以後に書かれた大師伝のスタイルは大きな変化を見せるようになります。
このころの大師伝は伝記と伝説のあいだの区別がまったくうしなわれてしまうのです。そして、伝記と云うよりも奇瑞霊験に重点を置き説話化していきます。
 これは鎌倉中末期という時代に『法然上人行状絵図』『一遍上人絵伝』などの高僧絵伝が多数つくられたことと関係するようです。これとおなじ時期に、弘法大師初めての絵図である『高野大師行状画図』十巻が作られます。これは他の高僧絵伝の説話化とおなじで絵入物語です。
「高野大師行状画図」の画像検索結果

 正中一年(1325)の慈尊院栄海の『真言伝』に見える弘法大師伝などは、まさにこの行状画図路線をいくものです。
こうして伝説は伝記の中に織り込まれて説話化、物語化するようになります。この傾向が進むと次第に大師伝説は、「歴史」として扱われるようになります。そうなると編者の次の課題は、大師の奇瑞霊異の伝説がいつのことであったのかに移っていきます。伝説に年紀日付を付けて、年表化する作業が始まります。こうなると伝説と歴史事実との境がなくなります。「伝説の歴史化」が始まります。
その研究成果が結実したものが報恩院智燈の『弘法大師遊方記』四巻(天和四年(1684)になるようです。
その成果を見てみましょう
①大滝獄捨身が延暦十一年(791)、大師19歳とされ、
②播州に行基の妻より鉢を受くる奇伝と伊豆桂谷山寺の降魔は延暦12年、大師20歳
③横尾山に智慧水を湧かし、高貴寺の泉の檜木に椿を寄生せしめる伝説が大同二年(807)
こうして「遊方記」では、編者の智燎の手に負えない伝説は、みな捨てられてしまいます。その上、伝悦をそのまま歴史事実とする無理は寂本の『弘法大師伝止沸編』一巻(貞享三年(1685)によつて指摘せられます。そして、高野開創の逢狩場神や逢丹生神の物語なども、紀年を附すべき事実でないことがあきらかにされていくのです。
 これ以後、大師伝説は大師伝の編者にとっては、あつかいに苦慮する部門になっていきます。
これはそれまでの編者が、伝記と伝説のちがいや立場を認識することなしに、「伝記の伝説化」や「伝説の伝記化」を行ってきた結果とも云えます。これに対して、この区別を認識して不審は不審、不明は不明のままに、伝えられてきた記録をもらさず集録したものが得仁上綱の『続弘法大師年譜』巻六です。できるだけ多く採録して、後の世代に託すとする態度には好感が持てます。多くの集録された史料の中から伝説の変化がうかがえます。
 以上をまとめておくと
①初期の弘法大師伝では、伝記と伝説は分けて考えられていた
②その間にも民間における弘法大師伝説は、再生産され続けた
③増え続ける弘法大師伝説をどのように伝記に記すのかが編者の課題となった。
④宗法祖信仰が高まるにつれて伝記は説話化し、伝記と伝説の境目はなくなっていった
⑤弘法大師伝説も年紀が付けられ年表化されるようになった。
しかし、これは編者の捏造とおいよりも、弘法大師伝説の拡大と深まりの結果である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重 弘法大師伝説の精神史的意義 寺社縁起と伝承文化所収


前回は、大学中退後の空海が正式に得度し、修行生活に入ったと絵巻物には書かれていることを見ました。平城京の大学をドロップアウトして、沙門として山林修行に入った空海のその後は、絵巻ではどのように描かれているのでしょうか。今回は空海の山林修業時代のことを見ていきます。舞台は、四国の阿波の太龍寺と土佐の室戸岬です。
まず、山林修行のことが次のように記されます

〔第二段〕空海の山林修行について
大師、弱冠のその上、章塵(ごうじん)を厭ひて饒(=飾)りを落とし、経林に交はりて色を壊せしよりこの方、常しなへに人事を擲って世の煩ひを忘れ、常に幽閑を栖(すまい)として寂黙を心とし給ふ。
山より山に入り、峰より峰に移りて、練行年を送り、薫修日を重ぬ。暁、苔巌の険しきを過ぐれば、雲、経行の跡を埋み、夜、羅洞の幽(かす)かなるに眠れば、風、坐禅の窓を訪ふ。煙霞を舐めて飢ゑを忘れ、鳥獣に馴れて友とす。
意訳変換しておくと
大師は若い頃に、世の中の厭い避けて、出家して山林修行の僧侶の仲間に入って行動した。人との交わりを絶って世間の憂いを忘れ、常に奥深い山々の窟や庵を住まいとして、行道と座禅を行った。
山より山に入り、峰より峰に移り、行く年もの年月の修行を積んだ。
 夜明けに苔むす巌の険しい行道を過ぎ、雲が歩んできた道跡を埋める。夜、窟洞に眠れば、風が坐禅の窓を訪ねてくる。煙霞を舐めて餓を忘れ、鳥獣は馴れてやがて友とする。
  ここからは、空海が山林修行の一団の中に身を投じて、各地で修行を行ったことが記されています。

   当時の行者にとって、まず行うべき修行はなんだったのでしょう?
 それは、まずは「窟龍り」、つまり洞窟に龍ることです。
そこで静に禅定(瞑想)することです。行場で修行するという事は、そこで暮らすということです。当時はお寺はありません。生活していくためには居住空間と水と食糧を確保する必用があります。行場と共に居住空間の役割を果たしたのが洞窟でした。阿波の四国霊場で、かつては難路とされた二十一番の太龍寺や十二番の焼山寺には龍の住み家とされる岩屋があります。ここで生活しながら「行道」を行ったようです。そのためには、生活を支えてくれる支援者(下僕)を連れていなければなりません。室戸岬の御蔵洞は、そのような支援者が暮らしたベースキャンプだったと研究者は考えているようです。ここからすでに、私がイメージしていた釈迦やイエスの苦行とは違っているようです。

 行道の「静」が禅定なら、「動」は「廻行」です。
神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回ります。修行者の徳本上人は、周囲500メートルぐらいの山を三十日回ったという記録があります。歩きながら食べたかもしれません。というのは休んではいけないからです。
 円空は伊吹山の平等岩で行道したということを書いています。
「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになっています。江戸時代には、ここで百日と「行道」することが正式の行とされていたようです。空海も阿波の大瀧山で、虚空蔵求聞持法の修行のための「行道」を行い、室戸岬で会得したのです。

それを絵詞は次のように記します。
或は、阿波の大滝の岳に登り、虚空蔵の法を修行し給ひしに、宝創(=剣)、壇上に飛び来りて、菩薩の霊応を顕はし,件の例〈=剣〉、彼の山の不動の霊窟に留まれり)、

意訳変換しておくと
あるときには、阿波の大瀧山に登り、虚空蔵の法を修行していると、宝創(=剣)が壇上に飛んできた。これは菩薩の霊感の顕れで、この時の剣は、いまも大瀧山の不動の霊窟にあるという。
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大瀧山の不動霊窟で虚空蔵法を念ずる空海と 飛来する宝剣

空海の前の黒い机には、真ん中に金銅の香炉、左右に六器が置かれています。百万回の真言を唱えれば、一切のお経の文句を暗記できるという行法です。合掌し瞑想しながら一心に真言を唱える空海の姿が描かれます。
  雲海が切れて天空が明るなります。すると雲に乗った宝剣が飛んできて空海の前机に飛来しました。空海の唱えた真言が霊験を現したことが描かれます。雲海の向こう(左)は、室戸に続きます。
室戸での修行
或は、土佐(=高知県)の室戸の崎に留まりて、求聞持の法を観念せしに、明星、口の中に散じ入りて、仏力の奇異を現ぜり。則ち、かの明星を海に向かひて吐き出し給ひしに、その光、水に沈みて、今に至る迄、闇夜に臨むに、余輝猶簗然たり。大凡、厳冬深雪の寒き夜は、藤の衣を着て精進の道を顕はし、盛夏苦熱の暑き日は、穀漿を絶ちて懺悔の法を凝らしまします事、朝暮に怠らず、歳月稍(ややも)積もれり。
意訳変換しておくと
 土佐(高知県)の室戸岬に留まり、求聞持の法を観念していた。その時に明星が、口の中に飛んで入り、仏力の奇異を体で感じた。しばらくして、明星を海に向かひて吐き出すと、波間に光が漂いながら沈んでいった。しかし、燦然と輝く光はいつまでも輝きを失わない。闇夜に、今も輝き続けている。厳冬の深雪の寒い夜でも、藤の衣を着て精進の道を励み、盛夏苦熱の暑き日は、穀類を絶って木食を行って、懺悔法を行うことを、朝夕に怠らず、修練を積んだ。

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 画面は右の太龍寺の霧の海からは、左の土佐室戸へとつながっています。 大海原は太平洋。逆巻く波濤を前に望む岬の絶壁を背にして瞑想するのが空海です。拡大して見ましょう。
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幾月もの行道と瞑想の後、明星が降り注いだと思うと、その中の星屑の一つが空海の口の中にも飛び込んで来ました。空海の口に向かって、赤い流星の航跡が描かれています。このような奇蹟を身を以て体感し悟りに近づいていきます。ここまではよく聞く話ですが、次の話は始めて知りました。
〔第三段〕  空海 室戸の悪龍を退散させる 
室戸の崎は、南海前に見え渡りて、高巌傍らに峙(そばだ)てり。遠く補陀落を望み、遥かに鐵(=鉄)囲山を限りとせり。松を払う峯(=峰)の嵐は旅人の夢を破り、苔を伝ふ谷の水は隠士の耳を洗ふ。村煙渺々(びょうびょう)として、水煙茫々たり。呉楚東南に折(↓琢)く、乾坤日夜に浮かぶ」など言ふ句も、斯かる佳境にてやと思ひ出でられ侍り。大師、この湖を歴覧し給ひしに、修練相応の地形なりと思し召し、やがて、この所に留まりて草奄(庵)など結びて行なひ給ひしに、折に触れて物殊に哀れなりければ、我が国の風とて三十一字を斯く続け給ひけるとかや。
法性の室戸と聞けど我が住めば
 有為の波風寄せぬ日ぞなき
又、夜陰に臨むごとに、海中より毒竜出現し、異類の形現はれ来りて、行法を妨げむとす。大師、彼等を退けむが為に、密かに呪語を唱へ、唾を吐き出し給ふに、四方に輝き散じて、衆星の光を射るが如くなりしかば、毒竜・異類、悉くに退散せり。その唾の触るヽ所、永く海浜の沙石に留まりて、夜光の珠の如くして、昏(くら)き道を照らすとなむ。
意訳変換しておきます。
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海の中から現れた毒龍 
室戸岬の先端は太平洋を目の前にして、後に絶壁がひかえる。遠くに観音菩薩の住む補陀落を望み、その遥かに鉄囲山に至る。松を払うように吹く峰の嵐は、旅人の夢を破り、苔をつたう谷の水は行者の耳を洗ふ。村の煙が渺々(びょうびょう)とあがり、水煙は茫々と巻き上がる。
 思わず「呉楚東南に折(↓琢)く、乾坤日夜に浮かぶ」などという句も浮かんでくる。
 空海は室戸周辺を見てまわり、修行最適の地として、しばらくここに留まり修行をおこなうことにした。この周辺は、何を見ても心に触れるものが多く、三十一字の句も浮かんでくる。
   法性の室戸と聞けど我が住めば
         有為の波風寄せぬ日ぞなき
 浜辺の松が、強い海風にあおられて枝が折れんばかりにたわむ。海は逆巻く怒濤となって押し寄せる。そして夜がくるごとに、海中より毒竜がいろいろな異類の姿で現はれて、大師の行法を妨げようとする。そこで大師は、密かに呪語を唱へて、唾を吐き出した。すると四方に輝き散じて、あまたの星の光をのように飛び散り、毒竜・異類は退散した。その唾が触れた所は、海浜の沙石に付着して、夜光の珠のように、暗い道を道を照らしていたという。
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現れた毒龍や眷属に向かって、空海は一心不乱に呪文を唱え、目を見開き海に向かって唾を吐き出します。唾は星の光のように、辺りに四散します。すると波もやみ静かになります。見ると毒龍や異類も退散していました。
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毒龍に向かって唾を吐き出す空海

ここでは「陰陽師」と同じように、祈祷師のようなまじないで毒龍や悪魔を退散させます。まさにスーパーヒーローです。
次は場面を移して、金剛頂寺です。
〔第四段〕
室戸の崎の傍らに、丹有余町を去りて勝地あり。大師、雲臥(うんが)の便りにつきて草履の通ひを為し、常にこの制に住み給ひし時、宿願を果たさむが為に、 一つの伽藍を立てられ、額を金剛定寺と名け給へり。此の所に魔縁競ひ発りて、種々に障難を為しけり。大師、則ち、結界し給ひて、悪魔と様々御問答あり。
「我、こヽに在らむ限りは、汝、この砌に臨むべからず」
と仰せられて、大なる楠木の洞に御形代(かたしろ)を作り給ひしかば、其の後永く、魔類競ふ事なかりき。彼の楠木は、猶栄へて、枝繁く葉茂して、末の世迄、伝はりけり。その悪魔は、同国波多の郡足摺崎に追ひ籠めらると申し伝へたり。
 昔、釈尊、月氏の毒龍を降し給ふ真影を窟内に写して、隠山の奇異を示し、今、大師、土州(土佐)の悪魔を退くる影像を樹下に残して、古今の勝利を施し給ふ。何ぞ、唯、仏陀の奇特を怪しまむ。尤も、又、祖師の霊徳を尊むべき物をや。
  意訳変換しておくと

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金剛定(頂)寺に現れた魔物や眷属達
室戸岬の30町(3,3㎞)ほど西に、景色の良い勝地があった。大師は行道巡りのために室戸岬とここを往復し、庵を建てて住止していたが、宿願を果たすために、一つの伽藍を建立し、額を金剛定寺と名けた。ところがここにも魔物が立ち現れて、いろいろと悪さをするようになった。そこで大師は、結界を張って次のように言い放った。
「我、ここにいる間は、汝らは、ここに近づくな」
DSC04524

 そして、庭に下りると大きな楠木の洞に御形代(かたしろ=祈祷のための人形)を掘り込んだ。そうすると魔類は現れなくなった。この楠木は、今も枝繁く繁茂しているという。
その悪魔は、土佐の足摺岬に追い籠めらたと伝へられる。
 大師は、土佐の悪魔を退散させ自分の姿を樹下に残して、勝利の証とした。仏陀の奇特を疑う者はいない。祖師の霊徳を尊びたい。
ここには、室戸での修行のために 西方20㎞離れた所に金剛定寺を建立したとあります。ここからは行場が室戸岬で、寺はそこから遠く離れたところにあったことが分かります。金剛定寺と室戸岬を行道し、室戸岬で座禅するという修行が行われていたことがうかがえます。
 絵詞に描かれた金剛頂寺は、壁が崩れ、その穴から魔物が空海をのぞき込んでいる姿が描かれています。退廃した本堂に空海は住止し、日夜の修行に励んだと記されます。
五来重氏は、この金剛定(頂)寺が金剛界で、行場である足摺岬が奥の院で胎蔵界であったとします。そして、この両方を毎日、行道することが当時の修行ノルマであったと指摘します。もともとは金剛頂寺一つでしたが、奥の院が独立し最御崎寺となり、それぞれが東寺、西寺と呼ばれるようになったようです。この絵詞で舞台となるのは西の金剛頂寺です。

DSC04521

 空海の修行するお堂の周りに、有象無象の魔物が眷属を従えてうごめいています。そこで、空海は修行の邪魔をするな、この決壊の中には一歩も入るな」と威圧します。そして、空海がとった次の行動とは?
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 庭先の大きな楠の下にやってきます。この老樹には大きな洞がありました。大師は、ここに人形を彫り込めます。一刻ほどすると、そこには大師を写した人形(真影)が彫り込まれていました。以後、魔物は現れませんでした。という伝説になります。これは、金剛頂寺にとっては、大きなセールスポイントになります。
 これに続けと、他の札所もいろいろな「空海伝説」を創り出し、広めていくことになります。江戸時代になるとそれは、寺にとっては大きな経営戦略になっていきます。

今回紹介した大師の修行時代を描いた部分は、「史実の空白部分」で謎の多い所です。
それをどのように図像化するかという困難な問題に、向き合いながら書かれたのがこれら絵巻になります。見ているといつの間にか、ハラハラどきどきとしてくる自分がいることに気づきます。ある意味、ここでは空海はスーパーマンとして描かれています。毒龍などの悪者を懲らしめる正義の味方っです。勧善懲悪の中のヒーローとも云えます。それが「大師信仰」を育む源になっているような気もしてきました。作者はそれを充分に若手いるようです。他の巻では説話的な内容が多いのですが、この巻では様々な鬼神を登場させることによって、「謎の修業時代」を埋めると共に、「弘法大師伝説」から「弘法大師神話」へのつないで行おうとしていると思えてきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
     小松茂美 弘法大師行状絵詞 中央公論社1990年刊
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稚児大師像 与田寺

  戦後の空海研究史については、以前にお話ししました。その中で明らかになったのは、空海が一族の期待を裏切るような形で、大学をやめ山林修行の道を選んでいたことです。これは私にとって「衝撃」でした。「空海=生まれながらにして仏道を目指す者」という先入観が崩れ落ちていくような気がしたのを思い出します。
 佐伯一門の期待の星として、平城京の大学に入りながら、そこを飛び出すようにして山林修行の道を選んだのです。これは当時の私には「体制からのドロップアウト」のようにも感じられました。ある意味、エリート学生が立身出世の道を捨てて、己の信じる道を歩むという自立宣言であったのかも知れません。それまでの「弘法大師伝説」では、空海はどのような過程で仏門へ入ったとされていたのでしょうか。
弘法大師行状絵詞に描かれた「空海出家」のプロセスを見て行くことにします。

〔第四段〕             
大師、天性明敏にして、上智の雅量(がりょう)を備ヘ給ふ。顔回(=孔子の弟子)が十を知りし古の跡、士衡(しこう=陸機。中国晋代の人)が多を憂へし昔の例も、斯くやとぞ覚えける。こゝに、外戚の叔父、阿刀大足大夫(伊予親王の学士)、双親に相語りて日く、
「仏弟子と為さむよりは如かじ、大学に入りて経史を学び、身を立て、名を挙げしめむには」と。
此の教へに任せて則ち、白男氏に就きて俗典を学び、讃仰(さんごう)を励まし給ふ。遂に、即ち延暦7年(788)御歳十五にして、家郷を辞して京洛(けいらく)に入る。十八の御歳、大学に交わり、学舎に遊び給ふ。直講・味酒浄成(うまざけきよなり)に従ひて
「孟子」「左伝」『尚書』を読み、岡田博士に逢ひて、重ねて「左氏春秋」を学べり。大凡(おおよそ)、蛍雪の勤め怠りなく、縄錐(じょうすい)の謀心を尽く給いしかば、学業早く成りて、文質相備はる。千歳の日月、心の中に明らかに、 一朝(↓期)の錦繍、筆の端に鮮やか
  意訳変換しておきます
大師は天性明敏で、向学心や理解力が優れていた。中国の才人とされる孔子の弟子顔回や、陸機の能力もこのようなものであったのかと思うほどであった。そこで、母の兄(叔父)・阿刀大足は、空海の両親に次のように勧めた。
「仏弟子とされるのはいかがかと思う。それよりも大学に入りて経史を学び、身を立て名を挙げることを考えてはどうか」と。
この助言に従って、阿刀大足氏に就いて俗典を学び、研鑽を積んだ。そして延暦7年(788)15歳の時に、讃岐を出て平城京に入った。
十八歳の時には、大学に入り、学舎に遊ぶようになった。直講・味酒浄成(うまざけきよなり)から「孟子」「左伝」『尚書』の購読を受け、岡田博士からは、「左氏春秋」を学んだ。蛍雪の功を積み、学業を修めることができ、みごとな文章を書くことも出来るようになった。
 ここには、空海の進路について両親と阿刀大足の間には意見の相違があったことが記されます
①父母は   「仏弟子」
②阿刀大足大  「経書を学び、立身出世の官吏」
一貫して佐伯家の両親は仏門に入ることを望んでいたという立場です。  それでは絵巻を見ていきましょう。
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このシーンは善通寺の佐伯田公の館です。阿刀大足からの手紙を大師が読んでいます。そこには
「仏門よりかは、大学で経書を学び、立身出世の道を歩んだ方がいい。早く平城京に上洛するように」

と書かれています。
 佐伯直の系譜については、以前にも紹介しましたが、残された戸籍を見ると一族の長は「田公」ではありません。田公には兄弟が何人かいて、田公は嫡子ではなく佐伯家の本家を継ぐものではなかったようです。佐伯家の傍流・分家になります。また、田公には位階がなく無冠です。無冠の者は、郡長にはなれません。しかし、空海の弟たちは地方人としてはかなり高い位階を得ています。

1 空海系図

 父田公の時代に飛躍的な経済的向上があったことがうかがえます。
それは田公の「瀬戸内海海上交易活動」によってもたらされたと考える研究者もいます。このことについても以前に触れましたのでここでは省略します。
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   平城京に向けて善通寺を出発する馬上の真魚(空海幼名)

絵図だけ見ると、どこかの武士の若君の騎馬姿のようにも見えます。叔父阿刀大足からの勧めに従って平城京に向かう真魚の一団のようです。これが中世の人たちがイメージした貴公子の姿なのでしょう。いななき立ち上がる馬と、それを操る若君(真魚)。従う郎党も武士の姿です。
 空海の時代の貴族達の乗り物は牛車です。貴族が馬に跨がることはありません。ここにも中世の空気が刻印されています。また、田公は弘田川河口の多度津白方湊を拠点にして交易活動をいとなんでいた気配があります。そうだとすれば、空海の上洛は舟が使われた可能性の方が高いと私は考えています。
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   平城京での阿刀大足と真魚の初めての出会いシーン

阿刀大足は、伊予親王の家庭教師も務めていて当時は、碩学として名が知られていました。館には、門下の若者達が詰めかけて経書を読み、議論を行ってる姿が右側に描かれます。左奥の部屋では、讃岐から上洛した真魚と阿刀大足が向き合います。机上には冊子や巻物が並べられ、四書五経など経書を学ぶことの重要性が説かれたのかもしれません。この時点での真魚の人生目標は阿刀大足により示された「立身出世」にあったと語られます。
阿刀大足の本貫は、もともとは摂津の大和川流域にあり、河川交易に従事していたと研究者は考えているようです。そのために空海の父田公と交易を通じて関係があり、その関係で阿刀大足の妹が田公と結婚します。しかし、当時は「妻取婚」ではなく、夫が妻の下へ通っていくスタイルでした。そのため空海も阿刀氏の拠点がある大和川流域で生まれ育てられたのではないかという説も近年には出されています。
1 阿刀氏の本貫地
〔第五段〕出家学法 空海が仏教に惹かれるようになったのは?
御入洛の後、石渕(=淵)の僧正勤操(ごんぞう)を師とし仕へて、大虚空蔵、並びに能満虚空蔵等の法を受け、心府に染めて念持し給ひけり。この法は、昔、大安寺の道慈律師、大唐に渡りて諸宗を学びし時、善無畏(ぜんむい)三蔵に逢ひ奉りて、その幽旨を伝へ、本朝に帰り来りて後、同寺の善儀(↓議)大徳授く。議公、又、懃(↓勤)操和尚に授く。和尚此の法の勝利を得給ひて、英傑の誉れ世に溢れしかば、大師、かの面授を蒙りて、深く服膺(ふくよう)し給へり。しかあれば、儒林に遊びて、広く経史を学び給ひしかども、常は仏教を好みて、専ら避世の御心ざし(↓志)深かりき。秘かに思ひ給はく 「我が習ふ所の上古の俗典は、眼前にして一期の後の利弼(りひつ)なし。この風を止めて如かじ、真の福田を仰がむには」と。則ち、近士(=近事)にならせ給ひて、御名を無空とぞ付き給ひける。延暦十六年〈797〉朧月の初日(=十二月一H)、『三教指帰』を撰して、俗教の益なき事を述べ給ふ。其の詞に云ぐ、「朝市の栄華は念々にこれを厭ひ、巌藪の煙霞は日夕にこれを願ふ。軽肥流水を見ては、則ち電幻の嘆き忽ちに起こり、支離懸鶉を見ては、則ち因果の憐れび殊に深し目に触れて我を勧む。誰か能く風を繋がむ。
 ここに一多の親戚あり。我を縛るに五常の索(なわ)を以てし、我を断はるに忠孝に背くといふを以てす。余、思はく、物の心一にああず、飛沈性異なり。この故に、聖者の人を駆る教網に三種あり。所謂、釈(迦)。李(=老子)・孔子)なり。浅深隔てありと雖も、並びに皆聖説なり。若し一つの網に入りなば、何ぞ忠孝に背かむ」と書かせ給へりcこの書、一部三巻、信宿の間に製草せられたり。元は『聾書指帰』と題し給ひけるを、後に『三教指帰』と改めらる。その書、世に伝はりて、今に絡素(しそ)の翫(もてあそび)び物たり。
意訳変換しておくと
「勤操 大安寺」の画像検索結果
空海に虚空蔵法を伝えた勤操(ごんぞう)

空海は入洛後に儒教の経書を学んでいただけではなかった。石淵の勤操を師として、大虚空蔵法を授かり、念持続けるようになった。この法は、大安寺の道慈律師が唐に渡って諸宗を学んだ時に、善無畏(ぜんむい)三蔵から伝えられたもので、帰国後に、同寺の善儀に受け継がれた。それを懃(勤)操和尚は修得していた。英傑の誉れが高い勤操(ごんぞう)から個人的な教えを受けて、大師は深く師事するようになり、仏教に関しての知識は深まった。
 そうすると、儒学を学んでも、心は仏教にあり、避世の志が深かまってきた。当時のことを大師は『三教指帰』の中で、このように述べている
「私が学ぶ儒学の経典は、立身出世という眼前のことだけに終始し、生涯をかけて学ぶには値しないものである。こんな心の風が次第に強くなるのを止めることができなくなった。真の私の歩むべき道とは?」
 そして、近士(=近事)になり、無空と名乗るようになる。延暦十六年〈797〉朧月の初日に『三教指帰』を現して、儒教や道教では、世は救えないことを宣言した。その序言に次のように記した「朝廷の官位や市場の富などの栄耀栄華を求める生き方は嫌でたまらなくなり、朝な夕な霞たなびく山の暮らしを望むようになりました。軽やかな服装で肥えた馬や豪華な車に乗り都の大路を行き交う人々を見ては、そのような富貴も一瞬で消え去ってしまう稲妻のように儚い幻に過ぎないことを嘆き、みすぼらしい 衣に不自由な身体をつつんだ人々を見ては、前世の報いを逃れられぬ因果の哀しさが止むことはありません。このような光景を見て、誰が風をつなぎとめることが出来ましょうか!
  わたくしには多くの親族がいます。叔父や、大学の先生方は、儒教の忠孝で私を縛り、出家の道が忠孝に背くものとして、わたくしの願いを聞き入れてくれません。
  そこで私は次のように考えました。
「生き物の心は一つではない。鳥は空を飛び魚は水に潜るように、その性はみな異なっている。それゆえに、聖人は、人を導くのに、仏教、道教、儒教 の三種類の教えを用意されたのだ。 それぞれの教えに浅深の違いはあるにしても、みな聖人の教えなのだ。そのうちの一つに入るのであれば、どうして忠孝 に乖くことになるだろうか」
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勤操(ごんぞう)の住房 建物の下は懸崖で下は幽谷 

ここで空海は虚空蔵法を学んだとします。
これが善無畏(ぜんむい)三蔵から直伝秘密とされる虚空蔵法じゃ。しかと耳にとめ、忘れるでないぞ。
ここからは弘法大師行状絵詞では、虚空蔵法を空海に伝えたのは、勤操(ごんぞう)としていたことが分かります。

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   和泉国槙尾寺での空海剃髪
廊下から見ているのは都から駆けつけた空海の近習たちという設定。 剃髪の儀式は戒師の立ち会いの下で、剃刀を使う僧が指名され人々が見守る中で、厳かに行われる儀式でした。ここでは左側の礼盤に座るのが勤操で、その前に赤い前机が置かれ、その上で香炉が焚かれています。

巻 二〔第一段〕                      
大師、遂に學門を逃れ出で、山林を渉覧して、修練歳月を送り給ひしに、石渕(=淵)の勤操、その苦行を憐れみ、大師を招引し給ひて、延暦十二年〈793〉、御年二十と申せし時、和泉国槙尾といふ寺にして、髪を剃りて、沙弥の十戒、七十二の威儀を授け奉る。御諄、教海と号し給ふ。後には、改めて如空と称せらる。
 同十四年四月九日、東大寺戒壇院にして、唐僧泰信律師を嘱(↓屈)して伝戒の和尚として、勝伝・豊安等の十師を卒して潟磨教授とし、比丘の具足戒を受け給ふ。この時、御名を空(海)と改めらる。
しか在りしよりこの方、戒珠を胸の間に輝かし、徳瓶を掌の内に携ふ。油鉢守りて傾かず、浮嚢惜しみて漏らす事なし。大師御草の牒書、相伝はりて、今に至る迄、登壇受成の模範と仰げり。
意訳変換すると
大師は遂に學門を逃れ出て、山林を行道する修練歳月を送りはじめます。師である勤操は、その苦行を憐れみ、大師を呼び戻して和泉国槙尾寺で、髪を剃りて、沙弥の十戒、七十二の威儀を授けます。これが延暦十二年〈793〉、20歳の時のことです。そして教海と名乗り、その後改めて如空と呼ばれるようになります。
その2年後の延暦十四年(795)四月九日、東大寺戒壇院で、唐僧泰信律師を伝戒の和尚として、勝伝・豊安等の十師を教授とし、比丘の具足戒を受けました。この時に、名を空(海)と改めます。
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東大寺の戒壇院の朱塗りの回廊が見え隠れします。
剃髪から2年後に、今度は東大寺で正式に具足戒を受けたと記されます。これを経て僧侶としての正式な資格を得たことになります。
戒壇院の門を入ると、大松明が明々と燃え盛っています。儀式の先頭に立つのが唐僧泰信律師で遠山袈裟を纏っています。その後に合掌して従うのが如空(空海)のようです。

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  切石を積み上げて整然と作られた戒壇の正面に舎利塔が置かれています。その前に経机と畳壇が置かれます。ここに座るのが空海のようです。
 以上をまとめておくと、次のようになるのでしょうか。
①空海は叔父阿刀大足の勧めもあって平城京に上がり、大学で儒教の経書をまなぶ学生となった
②一方、石淵の勤操から虚空蔵法を学ぶにつれて儒教よりも仏教への志がつよくなった。
③こうして、一族や周囲の反対を押し切って空海は山林修行の道に入った
④これに対して、勤操は空海を呼び戻し槙尾寺で剃髪させた
⑤その後、空海は東大寺で正式に得度した
  これが、戦前の弘法大師の得度をめぐる常識であったようです。
しかし、戦後の歴史学が明らかにしたことは、空海の得度は遣唐使に選ばれる直前であって、それ以前は沙門であったことです。
空海 太政官符
延暦24年の太政官符には、空海の出家が延暦22(802)年4月7日であっったことが明記されています。これは唐に渡る2年前の事になります。それまでは、空海は沙門(私度僧)であったのです。
 沙門とは、正式に国家によって認められた僧ではなく、自分で勝手に僧として称している「自称僧侶」です。空海は沙門として、各地での修行を行っていたのです。つまり、「絵詞」などに描かれている④⑤の東大寺での儀式は、フィクションであったことになります。大学をドロップアウトして、山林修行を始めた空海は沙門で、それが唐に渡直前まで続いたことは押さえておきます。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
 高野山としては、沙門(私度僧=非公認)という身分のままで各地を修行したというのでは都合が悪かったのでしょう。そこで東大寺で正式に得度したと云うことになったようです。
以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

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 空海については、さまざまな伝説が作られ語り継がれてきました。それは、高野聖などによって各地に広められていったようです。では、その原型となったものは何なのでしょうか。それはひとつには、空海の生涯を描いた絵伝巻物ではないかと思います。巻物を通じて空海の生涯は語られ、伝説化し、それを口伝で高野聖たちが庶民に語ったのでないのでしょうか。そこで今回は、絵巻物で空海の生涯がどのように描かれ、語られてきたのかをみていくことです。
テキストは 小松茂美 弘法大師行状絵詞 中央公論社1990年刊です。
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  まずは「誕生霊瑞」の段から見ていきます。

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孝徳天皇の御時、初めて佐伯の姓を賜はれり。其の祖、日本武尊に随ひて東夷(=蝦夷)を鎮めし功勲、世に覆ふによりて、讚岐国に地を班(わか)ち賜ひき。この所に家居して、胤葉相継ぎて、子孫県令たり。尊堂(母)は阿刀の氏の人也。
夢に天(竺国(=インド)より牢人飛び来りて懐に入ると見て、妊胎あり。
光仁天皇の御宇、宝亀五年〈七七四〉に当たりて、十二の建辰を満ち、十指の爪掌を合はせて、辛酉の日を以て誕生の瑞を示せり。懐妊月余つて、佳期歳に満ちしかども、着帯身を苦しめず、出産の事穏やか也。
彼の聖徳太子の斑鳩に述を垂れ、広智三蔵の神竜に生を降し給ひし奇異の佳祥も、知斯くやと覚え侍り。
意訳変換しておきます。
空海の生まれた佐伯直家は、孝徳天皇の時に、初めて佐伯の姓を賜わった。その祖は、日本武尊に随って東夷(=蝦夷)を鎮めた功勲が認められ、讚岐国に所領を得た。ここに家居して、子孫は県令を代々勤めてきた家柄である。母は阿刀氏出身である。
 母親が天竺(=インド)から聖人が飛んできて、懐に入る夢を見て、懐妊したという。
光仁天皇の御宇、宝亀五年〈774〉に、手を合はせて、辛酉の日に生まれるという吉兆を見せた。懐妊して、出産予定日を過ぎても生まれなかったが、母親は着帯などで苦しむことはなく、出産も穏やかであった。聖徳太子の斑鳩での誕生や、広智三蔵の神竜に生を降した出産もこんな様子だったのだろうと思える。
続いて、絵を見ていきましょう
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讃岐国屏風ヶ浦の大師の生家。佐伯直田公の屋敷。多度郡郡司らしい地方豪族の館。
広い庭には犬が飼われています。
けたたましい鳴き声で鳴き立てる犬の声に「何事ぞ 朝早くからの客人か」といぶかる姿
板戸を開けて外をうかがうのが大師の父田公のようです。
その奥に夫婦の寝室が見えます。枕をして寝入るのが大師の母。

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空中に雲に乗った僧侶が描かれます。母君の夢の中に、インドより飛来した聖人が懐に入ろうとするシーンです。
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屋敷の裏手は、下部達の部屋。
寝乱れる男達の姿
早くも起き出した親子の使用人。
父は水を汲み馬屋に運び、子どもは箒で庭掃除
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中庭には厩があり、異変を感じた馬が蹄で床を蹴り上げます。
厩の屋根は板葺きで、重しに木が乗せられています。その向こうには、三鉢の盆栽が並んでいます。この絵巻が書かれたのは14世紀後半のこととされます。その頃には、禅僧達を通じて盆栽ももたらされていたようです。
ここまでの冒頭シーンを見ると、寝殿造りの本宅や厩があり、馬がいます。まるで中世の武士の居館を見ているような気になります。書かれた時代の空気がしっかりと刻印されています。「誕生霊瑞」は、旧約聖書の「マリア受胎告知」を連想させます。空海の誕生が神秘な物として描かれます。

〔第二段〕    大師蓮華座に載って仏と話す

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大師、御年五、六歳の間、夢に常に八葉の蓮花の上に坐して、諸仏と物語すと御覧ぜられけり。
しかあれども、父母にもこれを語り給はず。況や他人をや。
耶嬢(=父母)偏へに慈しみ奉りて、たな心(掌)の玉をも玩ぶが如し。御名をば、多布度(↓貴とうと)物とぞ申しける。
意訳変換しておきます
大師が五、六歳の頃に、いつも夢の中でみることは、八葉の蓮花の上に座って、諸仏と物語することでした。しかし、その夢は父母にも話しませんでした。もちろんその他の人にも。父母は大師を、手の中の玉を玩ぶように慈しみ、多布度(↓貴とうと)物と呼びました。
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蓮華上に座して仏達と夢の中で談話する大師
同じシーンを別の絵巻で見てみましょう。
弘法大師行状図画3
高野大師行状図画  蓮華に乗り仏と語り合うエピソードは「稚児大師像」のモチーフともなっていく
次は泥土で仏を作って礼拝した話です。
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十二歳の御時、父母相語り給ふ様、「我が子は昔の仏弟子なるべし。夢に大竺の聖人来りて、懐に入ると見て妊胎せり。しかあれば、この子を以て仏家に入れ、沙門となして釈氏を継がしむべし」と。幼少の御耳に是を聞き給ひて、深く喜ぶ御心あり。
幼き御歳なれども、更に芥鶏の遊び、竹馬の戯れなくして、常に泥上を以て仏像を作り、卓木を以て童堂を建て内に据へ礼拝するを事とし給ひけり。
意訳変換すると
十二歳の頃には、父母は「我が子は昔の仏弟子なのでしょう。夢の中に天竺からの聖人が飛来して、懐に入るのを見たら懐妊しました。そうならば、この子を仏門に入れ、沙門とて釈氏を継がさせましょうか」と、話し合いました。それを聞いて、大師は深く喜んだようです。
 幼いときから闘鶏や竹馬の戯れなどには興味を示さずに、いつも泥土で仏像を作り、卓木で堂舎堂を建て、内に据へて礼拝していました。
弘法大師 行状幼稚遊戯事
高野大師行状図画の同じシーン
 
 できだぞ! 今日もりっぱな仏様じゃ。早う御堂に安置しよう。
真魚(弘法大師幼名)は、毎日手作りの泥仏を作って、安置する。
その後は地に伏して深々と礼拝します。兄弟達もそれに従います。

〔第3段〕 四天王執蓋事」
朝廷から讃岐国に派遣された巡察使が、他の子どもたちと遊ぶ大師の後ろに四天王が従う様子を見て驚き、馬から降りて拝礼したという場面を描きます。

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されば、勅使を讚岐国へ下されたりけるに、大師幼くして、
片方の章子に交はりて遊び給ひけるを見奉りて、馬より下り、礼拝して日く、「公は凡加人にあらず。その故は、四人天王白傘を取りて前後に相随へり。定めて知りぬ、これ前生の聖人なりといふ事を」と。
意訳変換すると
民の愁いを問ひ、官吏の誤りを糺すために、当時は巡察使を地方に派遣していました。讃岐へ派遣された勅使が、善通寺にもやってきました。大師は幼いので、周りの子ども達と一緒に遊んでいました。それを見た巡察使は突然に、馬を下りて、礼拝してこういったというのです
「あの方は、尋常の人ではありません。四天王が白傘を持って、前後に相随っているのが私には見える。あの方の前生が聖人であったことが分かる」と。
その後、隣里の人々は、この話を伝えて、大師を神童と呼ぶようになりました。
弘法大師 行状四天王執蓋事
「四天王執蓋事」
 画面右には大師の頭上に天蓋を差しかける持国天はじめ、増長天、広目天、多聞天の四天王が大師を守ります。この左側には馬から降りた勅使が拝礼している様が描かれていますが省略します。

   以上が弘法大師行状絵詞の「誕生霊瑞」に描かれた空海の幼年期のエピソードです。
  東寺蔵の「弘法大師行状絵詞」十二巻本は、応安七年〈1274〉より康応元年〈1289〉までの15年の間に制作されたもので、弘法大師の絵伝の中では、もっとも内容の完備したものとされます。しかし、何かが足りないような気がします。
五岳我拝師山での捨身行のエピソードが抜けています。これを補っておきましょう。

弘法大師高野大師行状図画 捨身
      「誓願捨身事」(第四段)

六~七歳のころ、大師は善通寺の背後にある我拝師山から請願して身を投げます。そこに仏が出現して大師を受け止めたというシーンです。ここは熊野行者の時代から行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していたようです。西行や道範らも弘法大師修行の憧れの地であったようで、ここを訪れ修行しています。
 しかし、この弘法大師行状絵詞には載せられていません。

  稚児大師像の成立
 幼年期の空海を描いた像は、独立してあらたな信仰対象を生み出して行きます。それが「稚児大師像」です。幼年姿の空海の姿がポートレイト化されたり、彫像化され一人歩きをするようになります。その例を見ていましょう。
稚児大師像 与田寺
 稚児大師像  興田寺13世紀

画面いっぱいに広がる光輪のなかで、たおやかに花開いた蓮華の上に合掌して坐る幼子。愛らしさとのなかにも気品漂う幼少時の姿です。「弘法大師御遺告」の冒頭に、空海は弟子たちに次のように語ったとされます
「夫れ吾れ昔生を得て父母の家に在りし時、生年五六の間、夢に常に八葉蓮華の中に居坐して諸仏と共に語ると見き。然ると雖も専ら父母に語らず、況や他の人に語るをや。この間、父母ひとえに悲しみ字を貴物と号す。」
 絵詞の文章が「弘法大師御遺告」の文章をそのまま引用しているのが分かります。ある意味、それを絵画で表現するのが弘法大師行状絵詞のひとつの使命であったのかもしれません。
専門家の評価を見ておきましょう。
禿型の髪はきれいに杭られ、白色の肌、上品な衣服が高貴な育ちにあることをイメージさせる。切金で縁どられた光輪の内部は、金泥と群青を塗る。著彩には明度があり裏彩色などの効果かとも思われる。白い小花文を散らした小袖は、褐色の地色の間に金泥を注している.髪部は濃い群青を塗った上に墨で細かく毛筋を描く。肉身を描く線は細く鋭い。目は、瞳を墨でくくり中心に墨をおき、虹彩を金泥で塗り、目尻と目頭には群青をぼかす。実在空海の幼少期の姿が、人間を超えて捉えられる。
 今度は善通寺の御影堂の稚児大師像を見てみましょう。
弘法大師稚児像
善通寺誕生院
 頭髪を美豆良(みずら)に結い、抱衣(ほうい)を着て、腹前に重ねた両手に五輪塔を捧げ持ち、木目をあらわにした着衣部には、金泥で雲文を描いている。美豆良を結った童子形の立像には、聖徳太子十六歳の姿をあらわした孝養太子像の作例が数多く知られているが、本像の形姿はその影響を受けたものと考えられ、また、腹前に捧げ持つ五輪塔は、弘法人師と同体とされる弥勒菩薩の図像に基づく表現とみなされる。ふつくらとした九顔の面相、わずかに厳しさをはらんだ表情などに理想化された弘法大師の姿をみてとることができる。

 寺伝では、大師の叔父・佐伯道長卿の作とされますが、専門家は江戸時代のものと考えているようです。江戸時代になって善通寺で作られた物のようです。 江戸時代になると善通寺では、空海やその父や母の像が作られ始めます。
その背景には、伽藍勧進のための開帳があったことは以前にお話ししました。
京都や江戸で開帳を行う際に、善通寺の呼び物は「空海誕生の地」です。そこで欲しい展示物は? と考えると空海の幼年期の姿や、その父や母の姿ということになります。開帳の目玉として、空海の稚児大師像は展示されるようになり、それが信仰対象にもなっていったようです。弘法大師信仰のひとつの発展系です。そして、父母像も登場します。
空海父 佐伯善通
  空海の父親は、現在の善通寺周辺にあたる讃岐国多度郡を本拠とした当地の有力豪族佐伯直氏の一族田公です。
空海母

 空海の母は、学者の家系である阿刀氏出身の女性とされます。
ちなみに現在も善通寺は父を善通とし、母を「玉寄姫」てしています。そのためこの像も善通公と「玉寄姫」像と呼ばれています。このふたつの専門家の評価を見ておきましょう。
ふたつの像は一木造で、「善通」公像は衣冠東帯を着けた貴族の姿である。母「玉寄姫」像は頭から衣を被り、薄い緑色の地に青海波風(せいがいは)の文様をあしらつた衣を身に着けている。それぞれの厨子には左記の銘文が陰刻され、高祖大師すなわち弘法大師の作とされるが、作風から江戸時代、おそらくは厨子が制作された明和八年(1771)をさほど遡らない時期の作と推定される。

空海の両親像があるのは、善通寺だけでしょう。
まさに誕生院にふさわしい像とも云えます。江戸や上方での開帳の際にも珍しくて人気を集めたようです。イエスとマリアのように母子愛を刺激するのかも知れません。
以上、弘法大師行状絵図の生誕と幼年期について見てきました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

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