瀬戸の島から

カテゴリ:まんのう町誌を歩く > 綾子踊りの里・佐文から



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オリンピック青少年センター
明治神宮に隣接するオリンピックセンターからバスで移動してきたのは
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日本青年館
全国民俗芸能大会にお呼ばれしてやってきました。この大会には、第40回大会にも参加しています。今回が第70回と云うことなので、約30年ぶりの参加になります。前回には、小学生の小踊りで参加していた子ども達が、いまは保存会の中心として担っていく存在になっています。

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午前中の10:30からリハーサルなので、9時に楽屋入りして着付けや化粧を開始します。

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日本青年館の楽屋での着付け
今年は4回目のお呼ばれ公演なので、着付けなどの準備もなれてきて、スムーズに進みます。


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後部客席からの入場
今回も入庭(いりは:入場)は、客席側からです。リハーサルなのでお客さんは入っていません。
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露払いを先頭に、ステージを一周して後方に一列に並びます。全国民俗芸能大会1
佐文綾子踊由来口上(保存会長)
この大会では、公演だけでなく「記録に残す」ということも目的のひとつになっているようです。そのため保存会長の口上などもリハーサルでは省略なしで、全部読み上げられました。できるだけ本番に近い形で、記録にのこしておきたいそうです。

綾子踊り由来昭和14年版
       雨乞踊由来(尾﨑清甫書:昭和14年版)
これを全部読み上げると、6分少々かかるので、短縮バージョンで対応することになりました。次は、棒と薙刀が踊る場所を演舞で確保します。そして、問答がはじまります。これも修験者たちの流儀を受け継いでいることは以前にお話ししました。民俗芸能を媒介した修験者や聖の存在が垣間見えます。

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棒と薙刀の問答
棒薙刀問答 尾﨑清甫まとめ版
棒薙刀問答(尾﨑清甫筆:昭和14年)
 いよいよ踊りのはじまりです。

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芸司(げいじ)の次の口上とともに踊りが始まります。
薙刀問答4 芸司口上1
芸司口上(尾﨑清甫筆:昭和14年)

普段は小踊りの子ども達は6人なのですが、直前にインフルエンザ感染などで、3人で踊ることになりました。

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「善女龍王」などの幟も2本、総勢34名でいつもの半分程度の編成になっています。
民俗芸能大会2
芸司の周囲に左から太鼓・鉦(僧服)・拍子(大団扇)・一番右が姫姿の大踊りが配されます。

民俗芸能大会4
芸司の左側

民俗芸能大会5
下手で待機する薙刀・露払い・幟持ち・法螺貝吹


民俗芸能大会6

本番の時間は50分です。最後に本番に向けての入場・立ち位置の確認が行われました。

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花笠を脱いで、最後の踊りの確認

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地唄の音量調整も行われます。
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余裕の笑顔です。準備完了

控室に帰って弁当を食べていると、記録のための係員がやってきて、用具や楽器を見せて下さいとのこと。廊下の床に団扇などを並べて寸法をはかり、イラストに書き上げていきます。

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団扇の寸法をはかり、イラストを仕上げていく記録員
研究者に聞くと、写真よりもイラストの方が特徴がよく掴めるそうで、図版に残しておくのも大切な作業のようです。

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質問を受ける太鼓
一方で、太鼓や笛・地唄などは、いろいろな質問を受けていました。
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質問を受ける笛
昼食後13:00開演。そのトップが佐文綾子踊りでした。残念ながら本番の写真は撮れていません。50分の公演後に、別室で文化庁や青年館などから表彰を受けました。

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いただいたペナントや感謝状
ペナントには第70回とあります。

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帰ってきて前回の平成2年にいただいたものを見てみると「第40回」とあります。佐文綾子踊りが、踊り継がれていることを実感できる記念品でもあります。30年間の間に、継承関わった人たちに感謝しながら青年館を後にしました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  まんのう町の教育委員会を通じて、町内の小学校から綾子踊りのことについて話して欲しいという依頼を受けました。綾子踊保存会の事務局的な役割を担当しているので、私の所に話が回ってきたようです。4年生の社会科の地域学習の単元で、綾子踊りを取り上げているようです。「分かりやすく、楽しく、ためになるように、どんな話をしたらいいのかなあ」と考えていると、送られてきたのが次の授業案です。

綾子踊り指導案

これを見ると6回の授業で、讃岐の伝統行事を調べています。
その中から佐文綾子踊を取り上げ、どのように伝えられてきたのか、どう継承していこうとしているのかまでを追う内容になっています。授業方法は子ども達自身が調べ、考えるという「探求」型学習で貫かれています。私の役割も「講演(一方的な話)」が求められているのではないようです。授業テーマと、その展開部を見ると次のように書かれています    
綾子踊りが、どうして変わらずに残ったのか考えよう。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
→ 何かで途絶えるかもしれないとおもったからじゃないかな
→ 忘れないようにしたかったから 口だけだと忘れてしまいそうだから
→ でも、どうしてここまでして残そうとしたんだろうか
→ それを保存会の方に聞いてみよう!
この後で、私の登場となるようです。さて、私は何を話したらいいのでしょうか?
尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊りの文書

ここで私が思い出したのは、1934(昭和9)年に、尾﨑清甫が書残している「綾子踊団扇指図書起」の次の冒頭部です。

綾子踊団扇指図書起
綾子踊団扇指図書起
 綾子踊団扇指図書起
 さて当年は旱魃、甚だしく村内として一勺の替水なく農民之者は大いに困難せる。昔し弘法大師の教授されし雨乞い踊りあり。往昔旱魃の際はこの踊りを執行するを例として今日まで伝え来たり。しかしながら我思に今より五十年ないし百年余りも月日去ると如何なる成行に相成るかも計りがたく、また世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。
 また人間は老少を定めぬ身なれば団扇の使う役人、もしや如何なる都合にて踊ることでき難く相成るかもしれず。察する内にその時日に旱魃の折に差し当たり往昔より伝来する雨乞踊りを為そうと欲したれども団扇の扱い方不明では如何に顔(眼)前で地唄を歌うとも団扇の使い方を知らざれば惜しいかな古昔よりの伝わりし雨乞踊りは宝ありながら空しく消滅するよりほかなし。
 よりてこの度団扇のあつかい方を指図書を制作し、千代万々歳まで伝え置く。この指図書に依って末世まで踊りたまえ。又善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
                                    昭和9(1934)年10月12日
 綾子踊団扇指図書起 最尾部分 1934年
   綾子踊団扇指図書起の最後の署名(1934(昭和9年)

右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也

小学4年生に伝わるように、超意訳してみます。
 今年は雨がなく、ひでりが続いて、佐文の人たちは大変苦しみました。佐文には、弘法大師が伝えた雨乞い踊(おど)りがあります。昔からひでりの時には、この踊りを踊ってきました。しかし、世の中の進歩や変化につれて、人の心も変わっています。そんな踊りで雨が降るものか、そんなのは科学的でない、と反対する人達もでてきて、佐文の人たちの心もまとまりにくくなっています。そして、ひでりの時にも、雨乞踊りがおどられなくなります。そのまま何十年も月日が過ぎます。そんなときに、ひどい日照りがやってきて、ふたたび雨乞踊りを踊ろうとします。しかし、うちわの振(ふ)り方や踊り方が分からないことには、唄が歌われても踊ることはできません。こうして、惜(お)しいことに昔から佐文に伝えられてきた雨乞踊りという宝が、消えていくのです。
 そんなことが起きないように、私は団扇のあつかい方の指導書を書き残しておきます。これを、行く末(すえ)まで伝え、この書によって末世まで踊り伝えてください。善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
ここには、「団扇指南書」を書き残しておく理由と、その願いが次のように書かれています。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
   尾﨑清甫「綾子踊り団扇指南書」の伝える願い
  綾子踊りの継承という点で、尾﨑清甫の果たした役割は非常に大きいものと云えます。彼が書写したと伝えられる綾子踊関係文書のなかで最も古いものは「大正3年 綾子踊之由来記」 です。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊り由来記
ここからは、大正時代から綾子踊りの記録を写す作業を始めていたことが分かります。
次に書かれた文書が「団扇指南書」で、1934(昭和9)年10月に書かれています。ちょうど90年前のことになります。この時点で、綾子踊りの伝承について尾﨑清甫は「危機感・使命感・決意・願い」を抱いていたことが分かります。彼がこのような思いを抱くようになった背景を見ておきましょう。
1939年に、旱魃が讃岐を襲います。この時のことを、尾﨑清甫は次のように記しています。

1934年)大干魃に付之を写す
   紀元2594年(昭和9:1934年)大干魃に付之を写す             尾﨑清甫写之
  字佐文戸数百戸余りなる故に、綾子踊について協議して実施することが困難になってきた。ついては「北山講中」として村雨乞いの行列で願立て1週間で御利生を願った。(しかし、雨が降らなかったので)、再願掛けをして旧盆の7月16日に踊ったが、利生は少なかった。そこで旧暦7月29日に大いなる利生があった。そこで、俄な申し立てで旧暦8月1日に雨乞成就のお礼踊りを執行した。

  ここからは次のようなことが分かります。
①大干魃になっても、佐文がひとつになって雨乞い踊りを踊ることが困難になっていること。
②そこで「北山講中(国道377号の北側の小集落)」だけで綾子踊りを編成して踊ったこと
③2回目の躍りで、雨が降ったこと
④そのため8月1日に雨乞成就のお礼踊りを奉納したこと

先ほど見た「団扇指南書起」には、次のようにありました。
「世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。」

 ここからは、この時点で雨乞い踊りをおどることについて、佐文でも意見と行動が分かれていたことがことが見て取れます。そのような中で、尾﨑清甫は「団扇指南書」を書残す必要性を実感し、実行に移したのでしょう。
尾﨑清甫
尾﨑清甫
5年後の1939(昭和14)年に、近代になって最大規模の旱魃が讃岐を襲います。
その渦中に尾﨑清甫はいままでに書いてきた「由来記」や「団扇指南書」にプラスして、踊りの形態図や花笠寸法帳などをひとつの冊子にまとめるのです。この文書が、戦後の綾子踊り復活や、国の無形文化財指定の大きな力になっていきます。

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尾﨑清甫の綾子踊文書を入れた箱の裏書き
最後に、小学校4年生の教室で求められているお題を振り返っておきます。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
これについての「回答」は、次のようになります。
①近代になって科学的・合理的な考え方からすると「雨乞踊り」は「迷信」とされるようになった。
②そのためいろいろな地域に伝えられていた雨乞い踊りは、踊られなくなった。
③佐文でも全体がまとまっておどることができなくなり、一部の人達だけで踊るようになった。
④それに危機感を抱いた尾﨑清甫は、伝えられていた記録を書写し残そうとした。
尾﨑清甫は、佐文の綾子踊りに誇りを持っており、それが消え去っていくことへ強い危機感を持った。そこで記録としてまとめて残そうとした。
讃岐には、各村々にさまざまな風流踊りが伝わっていました。それが近代になって消えていきます。踊られなくなっていくのです。その際に、記録があればかすかな記憶を頼りに復活させることもできます。しかし、多くの風流踊りは「手移し、口伝え」や口伝で伝えられたものでした。伝承者がいなくなると消えていってしまいます。そんな中で、失われていく昭和の初めに記録を残した尾﨑清甫の果たした役割は大きいと思います。

綾子踊り 国踊り配置図
綾子踊り隊形図(国踊図)
これを小学4年生に、どんな表現で伝えるかが次の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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佐文賀茂神社での練習風景

綾子踊りの概要は次のような流れです。

 薙刀持と棒持が中央に進み出て、口上を述べて薙刀と棒を使い、次いで地唄が座につき、芸司が口上の後歌い出し、踊りが始まります。

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賀茂神社への奉納

芸司は先頭で「日月」を書いた大団扇をひらかして踊り子踊、大踊、側踊の踊り子が並んで踊ります。踊り場の周囲を棒で垣を作り、四方には佐文村雨乞踊と、昇龍と降龍の幟の旗をおし立てた中で、「水の踊り」 「四国船」 「綾子踊」「小津々み」「花寵」 「鳥寵」「たま坂」「六調子」「京絹」「塩飽船」「忍びの踊」「かえり踊り」の十二段の地唄が歌われます。

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佐文綾子踊 芸司と太鼓

囃子は、太鼓、笛、鉦、鼓、法螺貝であって、シンプルで単調な踊りが続きます。ただ眺めていると変化もなく単調で眠くなってきそうです。

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佐文綾子踊(賀茂神社にて)

しかし、伝わる歴史を紐解くと節ぶしに、村人の雨乞いの悲願がこもり、天地の神がみにひと露の雨を降らせ給えと祈る心がにじみ出てくるようにも思えます。終わりに近づくにつれて、テンポが少しは焼くなり踊りは早くなります。

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佐文綾子踊の芸司と小踊り(佐文賀茂神社にて)
  
 尾﨑清甫の残した「綾子踊由来記」には、その由来について次のように書かれています 。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊之由来記(尾﨑清甫文書 昭和14年版) 
夫れ佐文雨乞踊と称えるは 古昔より伝来した雨乞踊あり 今其の由来を顧るに 往昔佐文村が七家七名則四十九名の事 其頃干ばつ甚だ敷 田畑は勿論山野の草木に到る迄 大方枯死せんと万民非常に困難せし事ありき 
当時当村に綾と云う人あり 
或日一人の①聖僧あり 吾れ衆生済度の為め 四国山間辺土を遍歴する者なるが何分炎熱甚だ敷く 焼くが如くに身に覚ゆ 暫時憩はせ給えとて彼の家に入り来る 綾は快く之を迎え 涼しき所へ案内して

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綾子踊之由来記(尾﨑清甫文書 昭和14年版)
茶などを進めたるが僧は歓びて之を喫み給いつつ 四方山の噺の内彼の僧は、此旱魃甚だ敷く各地とも困難の折柄当家の水利は如何がと尋ねられし故綾は自分の家には勿論困難なるが 当村としても最早一杓の水さえ無く空しく作物を見殺しにするより外に詮術なし 誠に難儀至極に達し居る旨を答たるに僧は更に今雨が降らば作物は宜布乎(宜しいか)と問わるる故綾は今幸い雨降りたらば作物は申すに及ばず、万民の為喜は何と喩え難き旨を答えたるに 僧は我れ今雨を乞わんと曰ければ 綾は之を怪み 如何程大徳の僧と雖も此の炎天に雨を降らす事は六ヶ敷(むずかし)く想と申しければ 僧の申さるるには如何に炎天なりと雖も 今我言う如く為せば 雨降る事疑いなしとの言なれば綾が貴僧の言は如何なる事なるか 出来得ずんば 何なりとも貴命に従う可しと②僧の曰く龍王に雨乞いの願をかけ踊をすれば雨降る事疑いなし。而して其の踊りをするには多くの人を要する故 村内にて雇い来たれとの言に
綾は命の通り人を雇わんと 所々を尋ね廻りしも干ばつの折とて何れも力の及ぶ限り田畑

綾子踊由来記 夫レ版3

作物の枯死を防ぐに忙しく 各家とも不在なれば帰りて其の由を報じつれば僧は更に 然らば此の家には小児幾人なりしやと問わるる故 綾は六人ありと答えければ 然らば其の児六人と汝等夫婦と我れと九人踊るべし 只此の外に親族の者を雇い来たれとの事に 綾は一束奔に兄弟姉妹合わせて四五人呼びたれば、僧は吾先ず立ちて踊る故に 汝等ともに踊るべしとて踊り始め愈々二夜三日の結願の日となりたるとき 僧の言わるるには蓑笠を着て団扇を携えて踊るべしとの言なる故 綾はあやしみ此の炎天に今直に雨降る事など有間敷く 蓑笠とは何の為ぞと中しつれば 僧の言わるるには否決して疑うべからず先ず踊れ而して踊り最中にして雨降り来りとて決して止めるべからず 若し踊りを中止するときは雨人いに少なし故に蓑笠を着して踊り 雨降り来りと雖も踊り終るまで止めることなく大いに踊れとの言いに 綾は仮令如何程の大雨降り来ればとて決して中止申さずと答えければ 先ず小児六人を僧の列におき ③僧自ら芸司となりて左右には綾夫婦を置き 親類の者に
綾子踊由来記 夫レ版4

太鼓鉦を持たせ其の後に置き 地歌を歌つて大いに踊りたるが 不思議なる哉 踊り央(なかば)にして一天俄に掻き曇り 雨しきりに降り来れば一同は歓喜の声諸共に踊りに踊りたり 雨亦次第に降りしきり篠突く如く大雨の音や、鉦の響きと相和して滝なす如く 勇ましさいわん方なく遂には山谷も流れん計りなりき 茲に踊りも堪え難くなりぬれば太鼓の音は次第に乱れ 終りの一踊りは唯急ぎ急ぎにて前後を忘れ 早め早めの掛声にて人いに踊りに踊りたり 此の雨ありたれば四方の人々馳せ来り 
 我も踊り彼も踊れと四方に立囲い踊りたり 此の因縁に依りて昔も今も側踊りの人数に制限なし 誠に善女龍王の御利生は何に喩えんものもなし
 唯勿体なし恐れ多き事となり 而して綾親子の者は踊り踊りて後に人聖僧に向い 歌または踊りの意味等を詳しく教え給えと乞いつれば 僧は乃詳しく教授し終えて将に立ち帰らんとせられ 綾及び小児等の名残りを惜しむ事尚乳児の慈母に離るるが如しければ 僧いとも哀に思われ 吾れ去りたるとても決して悔ゆる
綾子踊由来記 夫レ版5

事勿れ若し末世に到り如何なる干ばつあるとも 一心に誠を籠めて此の踊りをなせば必ず雨降るべし 然れば末世までも露疑わず 干ばつの時には一心に立願し此の雨乞いを為すべし 此の趣き末代まで伝えよと言い給いて立ち去り 
 後を見送り姿は霞の如く見えけん 因りて彼の聖僧こそは弘法人師なりと言い伝え深く尊び崇めけり 佐文綾子の踊りと言うは此の時より始まりたることにて世人の能く識る所なるが 干ばつの時には必ず此の踊りを行うを例とせり 而して綾子の踊りと称える名も此の因縁によりて名付けられしものなりと云う。
十郷村人字佐文
  尾崎 清甫    写之 印

意訳変換しておくと
佐文村に佐文七名という七軒の蒙族、四十九名がいた。昔、千ばつがひどく、田畑はもちろん山野の草や木に至るまで枯死寸前の状況で、皆がても苦しんでいたこその頃、村には綾という女性がいた。ある日、仏道によって、生きとし生けるものすべてを迷いの中から救済し、悟りを得させようと、四国を遍歴する僧がやって来た。僧は、暑いので少し休ませてもらいたいと、綾の家に入った。綾は快く僧を迎え、涼しい所へ案内をしてお茶などをすすめた。僧は喜んで喫み、色々と話をした。その中で、一千ばつがひどく、各地で苦しんでいる状況だが、綾の家の水利はどううかと尋ねられたので、綾は、「自分の家ももちろん、村としても一杓のよも無いひどい状況で、作物を見殺しにするしかない。本当に苦しい」と答えた。
すると僧は、「今雨が降ったら、作物は大丈夫になるか」と尋ねたので、「今雨が降ったら、作物はもちろん人々は喜ぶでしょう」と綾はと答えた。その答えに僧が「私が今、雨を乞いましょう」と言うので、綾は怪しみ、「いくら大きな徳がある僧でも、この炎天下に雨を降らせるのは無理と思います」と答えた。すると僧は、「今、私の言うようにすれほ、雨がが降ること間違いなしです」と言うので、綾は「できる限りやってみます」と答えた。僧は「龍王に雨乞いの願をかけ、踊りをすれば、間違いない。この踊りをするには多くの人が必要なので、村中の人たちを集めなさい」という。
 そこで綾はあちこちと田津根香寺歩いたものの旱魃から作物を守ろうとするのに忙しく、だれも家にはいない、帰ってきた綾が、誰もいないことを倍に話すと、「では、この家には何人子どもがいるか」と尋ねた。「六人」と答えると、「ではその子六人と綾夫婦と私の九人で踊りましょう。その他親族を集めなさい」と言う。綾は、走って兄弟姉妹合わせて四・五人呼ぶと、僧が「まず私が踊るので、皆も一緒に踊りなさい」と踊り始めた。二夜三日踊って、結願の日となっても雨は降りません。なのに僧侶は「今度は蓑笠を着て、団扇を携えて踊りなさい」と言う。綾は「この炎天下に雨が降るわけでもないのに、蓑笠は何のためですか」と怪しんで訊ねます。
「疑わず、まず踊りなさい。そして踊っている最中に雨が降っても、踊りを止めないこと。踊りをやめると、雨は少なくなるので、蓑笠を着て踊り、雨が降っても踊りが終わるまで止めずに、大いに踊りなさい」と僧は云います。綾は「例えどんな大雨が降っても、決してやめません」と答えた。まず子ども六人を僧の列に並べ、僧自らが芸司となって左右に綾夫婦を配置しました。親類の者には大鼓、鉦を持たせてその後ろに配し、地唄を歌つて大いに踊った。すると、不思議なことに、踊りの半ばには一天にわかに掻き曇り、雨が降り出したのす。 みんなは歓喜の声を上げながら踊りに踊った。雨は次第に激しくなり、雨音が鉦の響きと調和して、滝のように響きます。ついには山谷も流れるのではないかと思う程の土砂降りとなり、踊るのも大変で、太鼓の音も次第に乱れていきました。終わりの一踊りは、急いでしまい前後を忘れ、早め早めの掛け声の中で大いに踊った。・降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯があり、昔も今も側踊りの人数に制限はない。
善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。

踊りが終わってから、歌や踊りの意味などを詳しく教えてもらいたいと僧に乞うと、詳しく教えてくれ、帰ろうとした。綾や子どもたちが、赤ん坊が母親から離れがたいように名残を惜しむようすを見て、僧は心動かされ、「今後どのような千ばつがあっても、 一心に誠を込めてこの踊りを行えば、必ず雨は降る。末世まで疑うことなく、千ばつの時には一心に願いを込め、この雨乞いをしなさい。末代まで伝えなさい」と言って、立ち去った。
 見送っていると、まるで霞のような姿だったので、この僧は、弘法大師だと言い伝えられるようになり、深く尊び崇まれるようになった。佐文の綾子踊りと言うのは、この時から始まり、皆の知るところとなった。千ばつの時には必ずこの踊りを行うこととなり、綾子踊りと言うのも、ここから名付けられた。
  この由来書は、華道師範であった尾崎清甫氏によって戦前に書き写されたものです。

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尾崎清甫の残した文書
また、綾子踊りの地唄や踊り編成などの史料は、すべて彼が書き写したり、記録したもので尾崎家に現在でも保存されています。ちなみに「綾子踊り」は三豊の大水上神社周辺の各地域でも「エシマ踊り」として踊られていた形跡はあるのですが、記録として残っているのは佐文地区だけになっていました。それが国の無形文化財指定の決め手になりました。そういう意味でも尾崎氏の功績は大きいと言えます。

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尾﨑清甫の文書箱の裏書き

この口上書を読んで気になる点を挙げておきます。

①「聖僧あり 吾れ衆生済度の為め 四国山間辺土を遍歴する者遍歴の僧侶」とあります。綾子踊りを伝えたのは遍歴の僧侶(聖・修験者)とされます。
②「僧の曰く龍王に雨乞いの願をかけ踊をすれば雨降る事疑いなし」からは、空海の善女龍王信仰に基づく雨乞い踊りであることが分かります。
③「僧自ら芸司となりて左右には綾夫婦を置き」とあります。ここからは廻国修験者(聖)が、このおどりを綾子夫婦と六人の子ども達に伝授したことが記されています。つまり廻国聖が「芸能伝播者」であったことになります。
「因りて彼の聖僧こそは弘法人師なり」と、弘法大師で伝説に附会されていきます。

百石踊り 駒宇佐八幡神社(ふるさと三田 第16集)( 三田市教育委員会 編) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋

風流踊りの芸司について、兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊を見ておきましょう。

ここでは芸司は「新発意(新人僧侶)」と呼ばれています。その衣装は、白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧姿です。右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都の姿を表したものであると伝えられます。遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などの祭礼や芸能に関わっていたことは以前にお話ししました。百石踊りや綾子踊りの成立過程に、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。
新発意役(芸司)の持ち物を見てみましょう。
百石踊り - marble Roadster2
百石踊の新発意役(芸司)
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。民俗芸能にみられる「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。新発意役は僧形をし、聖の系統を表す大きな団扇や瓢箪・七夕竹などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べたりします。これは綾子踊りの芸司と同じです。
 しかし、時代の推移とともに新発意役の衣装も風流化し、派手になっていきます。僧形のいでたちで踊る芸能は少なくなり、麻の裃から、今では滝宮念仏踊のように金色の裃へと変わっていきました。これも「風流化」のひとつの道です。しかし、被り物・採り物だけは今でも、遊行聖の痕跡を伝えています。それは綾子踊りの芸司も同じです。
以上から綾子踊りの成立については、次のような要素が盛り込まれていることがうかがえます。
①芸能伝播者としての廻国僧(修験者や聖)
②歌われる歌詞の内容は中世の閑吟集にまで遡る
③雨乞い信仰としての善女龍王
④弘法大師伝説
私は最初は、①②から綾子踊りの成立は風流踊りに起源を持つもので、中世にまで遡れるものと考えていました。しかし、③は近世後半、④の弘法大師が伝えたというのも、歌詞内容が閑吟集などに出てくるので、中世の流行(はやり)歌で、弘法大師が教えたものではありません。同時に、弘法大師伝説が讃岐の民衆に拡がるのは案外遅くて、江戸中期以後になるようです。そうすると、この由来が書かれた時期は、案外新しいのではないかと思うようになりました。

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佐文綾子踊(まんのう町佐文 賀茂神社)
もうひとつ疑問なのは、この踊りを伝えられたのは綾子だったはずです。綾子が芸司を務めるの相応しいと私は感じます。ところが綾子は登場しません。どうしてなのでしょうか?
一つの説は、江戸幕府の芸能政策の「女人禁止令」です。中世の風流踊りには女性が登場していました。出雲の阿国の歌舞伎も女性が中心でした。しかし、江戸幕府は風紀上の問題から女性が舞台に上がることを禁止します。神に奉納される踊りなどからも女性が除かれていきます。こうして、綾子も踊りの場から遠ざけられたということは考えられます。

P1250667小踊り
佐文綾子踊の構成人数(尾﨑清甫写)小踊六人とある

もうひとつ私が気になるのが次の記述です。
先ず
小児六人を僧の列におき、僧自ら芸司となりて
左右には綾夫婦を置き
 
親類の者に太鼓鉦を持たせ其の後に置き」
①小児六人とは、小踊り
②は、芸司のあとに中団扇をもって控える拍子2人
③は親類のものが鉦太鼓
 ここからは、綾子踊りの中心部は、綾子の一族によって占有されていたことになります。つまり、この踊りがもともとは村の人々の合意の上に、始まったものでないことがうかがえます。綾子の家族と、親類の者達で踊られ初め、最初は参加していなかった人々は、雨が降りそうになってから参加したというのです。これは村の風流踊りとして根付いたものではなかった、突然に一部の一族によって踊られ始めたことを伝えている気配があることを押さえておきます。また。小踊六人がなぜ女装するかについては何も触れません。

P1250641
綾子踊りの写文書を残した尾﨑清甫
  この由来書をはじめ、綾子踊りの史料は戦前に尾崎清甫によって書き写されたものです。
P1250689奉納年月日
綾子踊り控記録」
その中に「綾子踊り控記録」として、過去に踊られた年月日と記録が次のように記されています。
① 文化十一(1814)年六月十八日踊
② 弘化三(1846)年 午 七月吉日
③ 文久元(1861)年 子 七月二十八日 延期と相成り 八月一日踊る成り。
④ 明治八年 七月六日より大願をかけ、十三日踊願い戻し。又、十五日、十六日、十七日、踊り、二度の願立てをなし、二十二日目の二十七日、又、添願として神官の者より、自願かけ身願後八月三日に踊り、十一分の雨があり御利生あり
⑥ 大正元年 旱魃。それより三ヶ年の旱魃につき、大正三年七月末日に踊り、御利生あり
ここからは次のようなことが分かります。
A 一番古い記録は19世紀初頭であること。
B 江戸時代の記録は日付だけで内容がないこと。
C 明治8年に雨乞いのために、何度も願掛けをして踊られたこと
D 旱魃の度に雨乞い踊りとして踊られた回数は、少ないこと

昭和9年由来書写後記

昭和9年7月16日の実施記録には次のような興味深いことが書かれています。

⑦ 昭和九年七月十六日 旱魅につき加茂神社にて踊る。大字佐文戸数百戸以上なるにつき、踊りの談示和合、難致に依り、北山講中として村雨乞踊りの行列にて、一週間の願を掛け祈念をなし、一週間にて御利生の雨少なし、再願を掛けた後、盆十六日に踊りまた御利生の雨少なし。それより旧七月二十九日大なる雨降り来り、それより俄に諸氏申し立てにより、旧八月朔日にお礼の踊りを執行せり。
仙峰斎  尾崎 清甫 之写置也。
意訳変換しておくと
 昭和9(1934)年7月16日 旱魅になり、加茂神社で踊った。大字佐文は、①戸数百軒以上になって、踊り実施に向けた合意が困難になってきた。②そこで、(佐文全体ではなく)北山講中(組)として村雨乞踊りの行列を一週間行って、願を掛け祈願した。しかし、一週間では御利生の雨は少なかった。そこで、再願を掛け、盆の8月16日に踊ったが、御利生の雨は少なかった。しかし、旧7月29日に恵みの大雨となった。そこで、お礼踊りを奉納しようということになり、旧八月朔日に雨乞い成就のお礼の踊りを(佐文全体で)行った。
  尾崎清甫がこれを書き写し置いた。
この記録は、どこかで聞いた話です。最初に紹介した綾子踊りの「由来口上書」と話の要旨がよく似ています。それは、次のような点です。
綾子踊りの最初は村人は畑仕事に忙しくて踊りには見向きもしなかったこと。そのため、綾子一族のみで踊ったこと。それが大雨を降らしたので、周りの人々もその輪の中に飛び込んで、ひとつになって踊ったこと。

P1250640
文書は最後に「仙峰斎 尾崎清甫 之写置也」とあります。
尾崎清甫氏が原本を書き写したことを示します。しかし、その原本は存在しません。原本がいつ頃書かれたものなか、またどこに保存されたいたのかも分かりません。そうなると、この文書類の中には尾崎清甫氏による「創作」もあったのではないかとも思えてきます。
以上 「綾子踊
由来口上書」を読みながら私が考えたことでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊の里 佐文誌

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 西讃府誌と尾﨑清甫
佐文綾子踊の書かれた史料
綾子踊についての史料は、次の2つしかありません
①幕末の西讃府志の那珂郡佐文村の項目にかかれたもの
②佐文の尾﨑清甫の残した書類(尾﨑清甫文書)
前回は、この内の②尾﨑清甫が大正3年から書き付けられ始めて、昭和14年に集大成されたことを見てきました。この過程で、表現の変化や書き足しが行われ、分量も増加しています。ここからうかがえることは、尾﨑清甫文書が従来伝えられてきたように「書写」されたものではなく、時間をかけながら推敲されたものであるということでした。西讃府誌の記述を核に、整えられて行ったことが考えられます。今回は、西讃府誌と尾﨑清甫文書を比較しながら、どの部分が書き足されたものなのかを見ていくことにします。

西讃府志 綾子踊り
        西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊

まず、西讃府誌に綾子踊りについて何が書かれているのかを見ておきましょう。(意訳)
佐文村に旱魃の時に踊れば、必験ありとして、龍王社と氏社の加茂神社で踊られる踊りがある。これにも滝宮念仏踊りと同様に下知(芸司)が一人いて、裃を着て、花笠を被り、大きな団扇を持つ。踊子(小躍)6人は、10歳ほどの童子を、女子の姿に女装し、白い麻衣を着せて、赤い帯を結んで、花笠を被り、扇を持つ。叉踊の歌を歌う者四人(地唄)は、菅笠を被り裃を着る。菅笠の縁には青い紙を垂らす。又、袴を着て、木綿(ユフ)付けた榊持が二人、又花笠キテ鼓笛鉦などを鳴らす者各一人。踊り始める前には、薙刀と棒が次のような問答を行う。

以前に紹介したので以下は省略します。
西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①佐文村では旱魃の時に、龍王社と加茂神社で綾子踊りが雨乞いのために踊られている
②その構成は形態は、下知(芸司)・女装した踊子(小踊)6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各一人などである。
③踊り前に、薙刀と棒の問答・演舞がある
④演舞の後、下知(芸司)の口上で踊りが開始される
⑤地唄が声を揃えて詠い、下知が団扇を振りながら踊り、小躍り、扇を振って踊る。
⑥鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。
⑦調子や節は、今の田歌に似ている。
⑧以下踊られる12曲の歌詞が掲載されている。

以上から西讃府誌には、次の3つの史料が掲載されていることを押さえておきます。
A 棒薙刀問答 B 芸司の口上 C 地唄12曲

残されている史料から引き算すると、これ以外のものは尾﨑清甫の残した文書の中に書かれていることになります。縁起や由来、各役割と衣装・持ち物などが書き足されたことになります。

尾﨑清甫史料
綾子踊に関する尾﨑清甫の残した文書

 前回に見た尾﨑清甫が残した史料は、そのような空白を埋めるものだったと私は考えています。しかし、大正3年から書き始められ、昭和14年にまとめられたものとでは、相違点があることを前回に指摘しました。それは由来書についても、推敲が重ねられ少しずつ文章が変化しています。それを次に見ておきましょう。

綾子踊り由来大正3年
綾子踊
由来 大正3年版
迎々 佐文雨乞踊と称えるは 古昔より伝来した雨乞踊あり 今其の由来を顧るに 往昔佐文村が七家七名の頃 其頃干ばつ甚だ敷 田畑は勿論山野の草木に到る迄 大方枯死せんと万民非常に困難せし事ありき 当時当村に綾と云う人あり 
或日一人の①聖僧あり 吾れ凡愚済度の為め 四国の山間辺土を遍歴する者なるが何分炎熱甚だ敷く 焼くが如くに身に覚ゆ 暫時憩はせ給えとて彼の家に入り来る 綾は快く之を迎え 涼しき所へ案内して茶などを進めたるが僧は歓びて之を喫み給いつつ 四方山(以下略)
綾子踊り由来昭和9年版
綾子踊由来 昭和9年版

 大正3年と昭和9年の由来に関する部分の異同は、
②「七家七名の頃」→「七家七名之頃 即ち七×七=四十九名」
の1点だけです。
綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊由来 昭和14年版
それが昭和14年版になると①と③が推敲されます。③は、それまでは「聖僧」がへりくだって「凡愚済度」のためと称していたのを、「衆愚済度」に改めています。これも弘法大師信仰を考えてのことかもしれません。小さな所ですが、ここでも推敲が繰り返し行われています。
この他、西讃府誌と「雨乞踊悉皆写」の相違点で気づいた点を挙げておきます。

西讃府誌と尾﨑清甫の相違点

以上をまとめたおきます。
①綾子踊りには、西讃府誌と尾﨑清甫の残した文書しかない。
②西讃府誌以外の記載は、尾﨑清甫が大正3年から書残したものである。
③それを昭和14年に、すべてまとめて「雨乞踊悉皆写」として記録に残している。
④その経過を見ると、加筆・訂正・推敲・図版追加などが行われている。
⑤以上から
「雨乞踊悉皆写」は書写したものではなく、尾﨑清甫が当時踊られていた綾子踊りを後世に残すために新たに「創作」されたものである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊りの里 佐文誌 176P

  県ミュージアムの学芸員の方をお誘いして、綾子踊史料の残されている尾﨑家を訪問しました。

P1250693
尾﨑清甫(傳次)の残した文書類
尾﨑家には尾﨑清甫(傳次)の残した文書が2つの箱に入れて保管されています。この内の「挿花伝書箱」については、華道家としての書類が残されていることは以前に紹介しました。今回は、右側の「雨乞踊諸書類」の方を見せてもらい、写真に収めさせていただきました。その報告になります。
 以前にもお話ししたように、丹波からやって来た廻国の僧侶が宮田の法然堂に住み着き、未生流という華道を教えるようになります。そこに通った高弟が、後に村長や県会議員を経て衆議院議員となる増田穣三です。彼は、これを如松流と称し、一派を興し家元となります。その後継者となったのが尾﨑清甫でした。

尾﨑清甫
尾﨑清甫(傳次)と妻
清甫の入門免許状には「秋峰」つまり増田穣三の名と印が押されていて、 明治24年12月、21歳での入門だったことが分かります。師匠の信頼を得て、清甫は精進を続け次のように成長して行きます。
大正9(19200)華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任
大正15年3月 師範免許(59歳)
昭和 6年7月 准目代(64歳)
昭和12年6月 会頭指南役免状を「家元如松斉秋峰」(穣三)から授与。(3代目就任?)
昭和14年 佐文大干魃 綾子踊文書のまとめ
昭和18年8月9日 没(73歳)
P1250691

  箱から書類を出します。毛筆で手書きされた文書が何冊か入っています。
P1250692

  書類を出して、箱をひっくり返して裏側を見ると、上のように書かれていました。
  尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊関係の史料

  何冊かの綴りがあります。これらの末尾に記された年紀から次のようなことが分かります。
A ⑩の白表紙がもっとも古くて、大正3年のものであること
B その後、①「棒・薙刀問答」・⑤綾子踊由来記・⑥第一図如位置心得・⑧・雨乞地唄・⑨雨乞踊地唄が書き足されていること
C 最終的に昭和14年に、それまでに書かれたものが③「雨乞踊悉皆写」としてまとめられていること
D 同時に⑪「花笠寸法和」⑫「花笠寸法」が書き足されたこと
  今回は⑩の白表紙で、大正3年8月の一番古い年紀のある文書を見ていくことにします。
T3年文書の年紀
        綾子踊り文書(大正3年8月版)
最初に出てくるのは「 村雨乞位置ノ心得」です。

T3 村雨乞い
 「村雨乞位置ノ心得」(大正3年8月版)
一、龍王宮を祭り、其の左右露払い、杖突き居て守護の任務なり。
二、棒、薙刀は龍王の正面の両側に置き、龍王宮並びに地歌の守護が任務なり。

T3
    「村雨乞位置ノ心得」(大正3年8月版)
三、地歌の位置、厳重に置く。
四、小踊六人、縦向かい合わせに置く。
五、芸司、その次に置く。
六、太鼓二人、芸司の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
七、鉦二人、太鼓の後に置き、その両側に笛二人を置く。
八、鼓二人、鉦の後に置く。
九、大踊六人、鼓の後に置く。
十、外(側)踊五十人、大踊の後に置く。

 この「村雨乞位置ノ心得」で、現在と大きく異なるのは「十、外(側)踊五十人、大踊の後に置く。」の記述です。  五人の誤りかと思いましたが、何度見ても五十人と記されています。また、現在の表記は「側踊(がわおどり)」ですが「外踊」とあります。これについては、雨乞成就の後に、自由に飛び込み参加できたためとされています。
「村雨乞位置ノ心得」に続いて「御郡雨乞位置ノ心得」と「御国雨乞位置ノ心得」が続きます。ここでは「御国雨乞位置ノ心得」だけを紹介しておきます。

T3 国雨乞い

T3 国雨乞2
御国雨乞位置ノ心得(大正3年版)
一 龍王宮を祀り、その両側で、露払い、杖突きは守護が任務。
二 棒、薙刀が、その正面に置いてある龍王宮、地歌の守護が任務。
三 地歌は、棒、薙刀の前に横一列に置く。
四、小踊三十六人は、縦四列、向かい合わせ  干鳥に置く。(村踊りは6人)
五、芸司は、その次に置く。
六、太鼓二人は芸司の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
七、鉦二人は太鼓の後におき、その両側に笛二人を置く。
八、太鼓二人は、鉦の後に置く。
九、太鼓二人は鼓の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
十、鉦二人は大鼓の後に置き、その両側に笛二人を置く。
十一、鼓二人は、鉦の後に置く。
十二、太鼓二人は鼓の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
十三、鉦は太鼓の後に置き、その両側に笛二人を置き、その両側に大踊二人を置く。
十四、鼓二人は鉦の後に置き、その両側に大踊四人を置く。
十五、大踊三十六人は、鼓の後に置く。
十六、側踊は、大踊の後に置く。

同じ事が書かれていると思っていると、「四 小踊三十六人」とでてきます。その他の構成員も大幅に増やされています。これは「村 → 郡 → 国」に準じて、隊編成を大きくなっていたことを示そうとしているようです。これを図示したものが、昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」には添えられています。それを見ておきましょう。

綾子踊り 国踊り配置図
    昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」の御国雨乞位置
これをすべて合わせると二百人を越える大部隊となります。これは、佐文だけで編成できるものではなく「非現実的」で「夢物語的」な記述です。また、綾子踊りが佐文以外で踊られたことも、「郡・国」の編成で踊られたことも記録にもありません。どうして、こんな記述を入れたのでしょうか。これは綾子踊りが踊られるようになる以前に、佐文が参加していた「滝宮念仏踊 那珂郡南(七箇村)組」の隊編成をそのまま借用したために、こんな記述が書かれたと私は考えています。
綾子踊り 国踊り配置図下部
昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」の御国雨乞位置

同時に尾﨑清甫は、「滝宮念仏踊 那珂郡南(七箇村)組」の編成などについて、正確な史料や情報はなく、伝聞だけしか持っていなかったことがうかがえます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3
佐文誌(昭和54年)の御国雨乞位置
「一 龍王宮を祭り・・」とありますが、この踊りが行われた場所は、現在の賀茂神社ではなかったようです。
大正3年版にはなかった踊隊形図が、昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」には、添えられています。この絵図からは、綾子踊が「ゴリョウさん」で踊られていたことが分かります。「ゴリョウさん」は、かつての「三所神社」(現上の宮)のことで、御盥池から山道を小一時間登った尾根の窪みに祭られていて、山伏たちが拠点とした所です。そこに綾子踊りは奉納されていたとします。
 「三所神社」は、明治末の神社統合で山を下り、賀茂神社境内に移され、今は「上の宮」と呼ばれています。その際に、本殿・拝殿なども移築されたと伝えられます。とすると当時は、祠的なものではなくある程度の規模を持った建物があったことになります。しかし、この絵図には、建物らしきものは何も描かれていません。絵図には、「蛇松」という枝振りの変わった松だけが描かれいます。その下で、綾子踊りが奉納されています。

綾子踊り 国踊り配置図上部

 また注意しておきたいのは、「位置心得」の記述順が、次のように変化しています。
A 大正3年の「位置心得」では「村 → 郡 → 国」
B 昭和14年の「位置心得」では「国 → 郡 → 村」
先に見たとおり、大正3年頃から書き付けられた地唄・由来・口上・立ち位置などの部品が、昭和14年に③「雨乞踊悉皆写」としてまとめられています。注意したいのは、その経過の中で、推敲の形跡が見られ、表現や記述順などに異同が各所にあることです。また、新たに付け加えられた絵図などもあります。
 綾子踊の文書については、もともと「原本」があって、それを尾﨑清甫が書写したもの、その後に原本は焼失したとされています。しかし、残された文書の時代的変遷を見ると、表現が変化し、付け足される形で分量が増えていきます。つまり、原本を書き写したものではないことがうかがえます。幕末の「西讃府誌」に書かれていた綾子踊の記事を核にして、尾﨑清甫によって「創作」された部分が数多くあることがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊りの里 佐文誌 176P

P1250626
「風流踊のつどい In 郡上」
やってきたのは岐阜県の郡上市。郡上市では「郡上踊り」と「寒水の掛踊り」のふたつの風流踊りがユネスコ認証となりました。それを記念して開かれた「風流踊のつどい In 郡上」に、綾子踊りもお呼ばれして参加しました。
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       郡上城よりの郡上市役所と市民ホール
2台のバスで総勢43名がまんのう町から約8時間掛けて移動しました。
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          郡上市役所と市民ホール
やって来たのは、市役所の下にある市民文化ホール。前日に、会場下見とリハーサルを行い、入庭(いりは)の順番や舞台での立ち位置、音量あわせなどを行いました。長旅の疲れを郡上温泉ホテルで流し、「郡上踊り」や「寒水の掛踊り」の役員さん達の親睦会で、いろいろな苦労話を聞いたり、情報交換も行えました。

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綾子踊の花笠(菖蒲の花がさされます)

8日(日)13:00からの開会式後のアトラクションで舞台に立ちます。小踊りの着付けには、1時間近くの時間がかかります。

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着付けが終わった大踊りの高校生と小踊り

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僧侶姿の鉦打ち姿の保存会長
今回は会場からの入庭(入場)でした。
IMG_E5971
佐文綾子踊(郡上市)
残念ながら踊っている姿を、私は撮影できませんでした。動画はこちらのYouTubeで御覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=-_tNK3DKbqU

前日のリハーサルでは、問題点が山積み状態だったのですが、本番では嘘のようにスムーズに進みました。わずか20分の舞台は、あっというまでした。着替えの後で、郡上市長さんからお礼の言葉をいただき、記念写真を撮りました。
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佐文綾子踊保存会(郡上市文化ホール)
 「風流踊り In 郡上」に招待していただいたことに感謝しながら
帰路に就きました。

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  佐文集落と 象頭山(左手中央の鎮守の森が賀茂神社)
「こんぴらふねふね」で有名な四国金毘羅さんが鎮座するのが象頭山。その象頭山の南側に、私たちのふるさと佐文はあります。佐文は小さな盆地で、水利の便が悪く水不足に悩まされててきました。その歴史は、日照りとの闘いの歴史でもありました。その地で踊り継がれてきたのが綾子踊りです。
綾子踊り 善女龍王
佐文綾子踊の善女龍王の幟
その謂われが次のように伝えられています。
 むかし、佐文七名といって七軒の豪族があったところ、綾という女がいた。ある旱魃の年に、草木も枯死寸前となり、村人は非常に苦しんでいた。ある日、諸国遍歴の僧に綾が住民の苦しみを話したところ、僧は住民をあわれみ、龍王に願いをこめて雨乞踊りをすれば降雨疑いなしと教えた。そこで村人を集め旅僧自ら芸司となり、綾夫婦の鉦、太鼓にあわせて踊ったところ、俄に一天かき曇り、滝の如く雨が降った。それより干天の年には、この踊りを行うことを例としてきた。以来、この踊りを踊ると、恵みの雨があったので、だれ言うことなく綾子の踊りとして現在に伝わっている。
 十二段の踊りを、笛・鉦・太鼓・鼓・法螺貝などに合わせて踊る節々に、先祖から受け継がれてきた雨乞いへの願いを感じます。綾子踊りを踊ることは、佐文地区に住む私たちにとっては、故郷に生きる証のようなものです。この踊りを途絶えることなく次世代へ伝承していきたいと思っています。

綾子踊り11
佐文賀茂神社への入庭(入場)
地元での2年に1度の公開公演では、隊列を組んで氏神さまの鎮守の森を目指して歩いて行きます。入場順は次の通りです。
露払 榊の枝をもって、道中を浄めながら会場に先導します。
幟  一文字笠に羽織姿で「佐文村」の幟に行列が続きます。
警固  五尺二寸棒を持って、踊り場の場所確保と警備を行います。

綾子踊り 山伏
手前が上り龍、青いのが台笠
幟(雲竜上り)  雨を呼ぶ龍善女龍王の昇り龍の姿です。
 (雲竜下り)  大雨を止ませる下り龍が続きます。

綾子踊り 棒と薙刀
薙刀と棒振りの清めの演舞・後に青い台笠
 棒振りと薙刀は、演舞と問答で踊る場を確保するとともにで会場を浄めます。
台傘  烏帽子をかぶり、ちはえを着た神職姿で、台笠を持ちます。

綾子踊り入庭 法螺・小踊り
法螺貝吹き
頭巾に袈裟の山伏姿です。踊りへの山伏たちの関わりが感じられます。
綾子踊り 役名入り
踊り位置(一番前が小踊り)
 中央に芸司、その両脇に拍子、その前が小踊り、手前が地唄
芸司全体の指揮者です。もともとは踊りを伝えた諸国遍歴の僧です。大きな団扇には日と月が書かれています。

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芸司と拍子(日と月の団扇を持つ)
拍子は、 中団扇と榊をもって踊ります。榊は龍王宮への御供えです。
太鼓 は、袴姿に白たすき掛けで黒足袋です。太鼓を肩からつるします。
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鉦(僧侶姿)
鉦は、僧侶姿で、白衣、茶の麻衣、黒足袋で、袈裟を架けて鉦を持ちます。一遍時衆の風流念仏踊りの影響がうかがえます。
鼓は、裃、袴姿で白足袋に、小脇差しを指します。
笛は、黒紋付きの羽織袴で、黒足袋に諸草草履を履きます。

綾子踊り入庭 小踊り
小踊り
小踊   花笠に小姫女仕立てで、小学生が踊ります。

綾子踊り 隊列 側踊・大踊り
綾子踊りの入庭
地唄 麻の上下に小脇差姿で、一文字笠をかぶって、青竹の杖を持ちます。         

綾子踊り 大踊り
大踊り
 大踊りは、大姫仕立てで帯は女物のはせ帯です。団扇には、面に雨乞い、裏に水と書かれています。今は中学生が演じています。

   綾子踊り 側踊り
            
側踊
 側踊は浴衣姿で紙つきの竹皮の笠を被ります。側踊は人数にきまりがありませんでした。雨乞い成就の時には、多くの人が参加して面白おかしく踊ったようです。

最後に全体の配置を見ておきます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3

綾子踊り「御国雨乞踊りの位置」佐文史誌177P
この絵図は、戦前に尾崎清甫氏が写したとされものです。「御雨乞踊り」とあり、郡・村で踊られる時と場所で、編成規模が違うことを伝えています。しかし、この規模については、疑義が残ります。それについては別の機会にお話しします。

綾子踊り 隊列表
現在の綾子踊りの役割位置
綾子踊り 全体後方から
綾子踊り 全体配置

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

綾子踊り碑文


参考文献
佐文誌167P
雨を乞う人々の歴史 綾子踊

 昨年11月30日付で、佐文綾子踊がユネスコ無形文化遺産リストに登録されました。その認証状が東京に届き、白川正樹会長が授与式に参加していだいてきました。そこ書かれていることを、翻訳アプリに読ませると次のように表示しました。

P1250238
風流踊り ユネスコ無形文化財認証状 
ユネスコ無形文化財リストへの登録は、無形文化遺産の認知度の向上とその重要性の認識を確保し、文化的多様性を尊重する対話の促進に貢献します。「風流踊り」 人々の願いや祈りが込められた神事の踊り。日本の提案により「風流踊り」の登録を認証します。
UNE事務局長 刻印日2022年11月30日
登録名は「Furyu-odori」です。どこにも佐文綾子踊の名称はありません。
この認証状に「添付」されたような形で頂いてきたのが、文化庁の認可状です。
P1250236

ここには「重要無形民俗文化財 綾子踊」と「保護団体 佐文綾子踊保存会」と明記されています。そして「ユネスコ無形文化財の一覧表に登録された「風流踊」を構成することを証す」とあります。
  全国の風流踊りを一括して、ユネスコ登録を実現させるというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てこないので、別途証明するために文化庁が発行した証書ということになるようです。
佐文綾子踊年表 重要無形民俗文化財指定に伴う後継者育成事業が今の綾子踊を支えている : 瀬戸の島から
 忘れられていた綾子踊りを「再発見」して、世に出してくれたのは中央の民俗芸能の研究者です。
幕末に編纂された西讃府誌に載せられていた綾子踊歌詞が、中世に成立していた閑吟集の中にあることを見つけます。そして、中世の風流踊りの流れを汲む踊りとして評価します。それを受けて、国や県が動き出すことになります。その中で大きな意味を持ったのが「国の重要無形民俗文化財指定(1976年)」だと私は考えています。これはただ指定して、認定書を渡すだけでなく、次のような具体的な補助事業が付帯していました。
①国の補助金で伝承者養成事業を行うこと
②その成果として、隔年毎の公開公演を佐文加茂神社で行うこと
③全国からの公演依頼への補助金支出
④公開記録作成と「佐文誌」の出版
 こうして隔年毎に公開公演を行うこと、そのために、事前にメンバー編成を行い、踊りの練習を行うことが慣例化します。これが回を重ねていくごとに芸司や地唄やホラ貝吹きなど、蓄積した技量が求められる役目は固定化し、後継者が育っていきました。

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綾子踊り(財田香川用水記念館にて)
 また、小踊りには小学生6人が、大踊りは中学生4人がその都度選ばれ、練習を積んで、大勢が見守る中で踊るという経験が蓄積されました。かつて小踊りを踊った子ども達が、今は綾子踊の重要な役目を演じるようになっています。彼らは「継承・保存」に向けても意識が高く、今後の運営の中心を担っていくことが期待できます。現代につながる綾子踊の基礎は、この時期に固められたと私は考えています。

 今年は、10月に郡上八幡、11月には東京の第70回全国民俗芸能大会(日本青年会館)の公演が予定されています。
33年前の第40回大会に出演し、この場で小踊を踊った小学生が、今は綾子踊の重要な役割を演じるポジションにいます。小・中学生達に大きな舞台に立つ経験を積むことも、綾子踊を未來につないでいく大切な手段のひとつだと思っています。綾子踊へのさまざまな人達からの支援に感謝します。
 

滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 陶の親戚に盆礼参りに行くことを伝えると、「ちょうど滝宮念仏踊りのある日じゃわ。一緒に見に行かんな」と誘われました。実は、私は今まで一度も見たことがないので、いい機会だと思って「連れて行ってください。お願いします」と頼みました。
 今年になって佐文綾子踊りの事務的な御世話をすることになって、いろいろなことを考えるようになりました。この際、滝宮念仏踊りを見ながら、佐文念仏踊りについて考えて見たいと思ったのです。
 昼食を済ませて少し早めに会場に向かいます。

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てっきり、滝宮神社で踊られるものと思っていたら、昼の会場は滝宮天満宮でした。滝宮神社では、朝の8;30から奉納が行われていたようです。炎天下に朝昼のダブルヘッター公演です。演じる方は大変だと思います。
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滝宮天満宮に奉納された御神酒
  拝殿にお参りに行くと各踊組からの御神酒が奉納されてありました。一升瓶は12本あり、1本1本に奉納組の名前が書かれています。12組の踊組が出演することがわかります。例年は、3組ずつの公演なのですが、今回はコロナ開けの特別公演で、惣踊りになるようです。下側に張られたグループ分けの紙を見ると、3組ずつがグループとなって、4公演となるようです。

滝宮念仏踊り 御神酒
滝宮天満宮に奉納された12本の御神酒(西分奴組を含む)
第1組 北村 千疋  萱原
第2組 東分 山田上 山田下
第3組 西村 石川  羽床上
第4組 北村 小野  羽床下
これが江戸時代の「南条組」だったようです。南條組が、今は旧綾南・綾上町の11組に分けて、その中から毎年3組ずつが1グループとして奉納します。そして5年に一度、11組全部で踊る総踊りが行われているようです。滝宮天満宮に奉納されていた12本の御神酒は、「西分組 + 11組の踊組」からのもののようです。
 4年で一巡して、5年目が惣踊りということになります。
 ここでは、「旧南條組=現滝宮念仏踊り」で、それが11組に分かれていること。11組で4グループを作って、そのグループごとで毎年奉納していることを押さえておきます。この11組の念仏踊り組の総称が、現在は「滝宮念仏踊り」と呼ばれているようです。
 別視点から見ると、この11組は中世には滝宮神社(滝宮牛頭天皇社)の信仰圏下にあったエリアで、踊り念仏が時宗の念仏聖によって伝えられた地域だと私は考えています。
幕末の西讃府誌には、滝宮念仏踊りのことが次のように記されています。(意訳)。
大日記には次のように記されている。延喜三年二月廿五日、菅原道真五十七歳の時、①雨乞成就に感謝して、毎年7月25日に瀧宮で舞曲祭を行う。俗にいう瀧宮の踊りとは、②七ケ村(まんのう町)南條・北條・坂本などの4ヶ所から年毎、異なる組の者が踊り込みを行う。但し、北條組については、踊り込み年が定まっていない。7月16日から25日までは、③各地域の神社に踊りが奉納される。しかし、瀧宮に奉納するのが主とされるので、④瀧宮踊と呼ばれている。

  整理・要約すると次の通りです。
①雨乞い踊りのために踊るとは書いていない。雨乞成就に感謝してとされていること。
②踊りを奉納するのは、七ケ村(那珂郡:まんのう町)・南條・北條・坂本(鵜足郡・丸亀市)の4ヶ所だったこと
③滝宮への奉納以前に、地元の各村神社に奉納されて、最後の奉納が滝宮牛頭天皇社であったこと。
④「滝宮念仏踊り」とは書かれていない。「瀧宮の踊り」「滝宮踊」であること

③には、17世紀には踊組は、七ケ村(那珂郡:まんのう町)・南條・北條・坂本(鵜足郡・丸亀市)がローテンションで務めていたとあります。七ケ村(那珂郡:まんのう町)と、北條組は今は奉納されていません。
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滝宮天満宮への滝宮念仏踊りの入庭(いりは)

西讃府誌を続いて見ていきます。
 この踊りは、普通の盆踊とは大きな違いがある。⑤下知(芸司)と呼ばれる頭目が、花笠を被って袴を着て、大きな団扇を打ち振って、「なつぱいぎうや(南無阿弥陀仏)」と云いながら曲節に併せて踊る。
小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、袴をつけ、襷(たすき)をかけて、下知の団扇にあわせて踊る。又鼓・笛・鉦を鳴らすものもいる。彼らはそれぞれ花笠・襷で、踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっている。しかし、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。こうして踊りが終ると、下知が「願成就なりや」と高かに云う。これが一場(ヒトニワ)で、一成(ヒトキリ)で、これを「なつばいどう」と呼ぶ者もある。
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 滝宮念仏踊り 滝宮天満宮への入庭(いりは=入場)
⑤の「下知(芸司)の由来について、見ておきましょう。
 以前にお話した兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊の「頭目」は「新発意(しんほつい)」と呼ばれます。

百石踊り - marble Roadster2
      百石踊の「新発意(しんほつい)」は僧服

新発意(下司)役は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装をし、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧の姿を表したものとされます。遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」だと研究者は考えています。
 百石踊は僧侶の扮装をした新発意役(新参僧侶)が主導するので、「新発意型」の民俗芸能のグループに分類されるようです。滝宮念仏踊りや綾子踊りも「頭目=下知(芸司)」が指導するので、このグループの風流踊りに分類されます。ちなみに綾子踊りも言い伝えでは、空海が踊りを綾子一族に教えたとされます。空海が「頭目」として踊りを指導したことになります。つまり、このタイプの「頭目=下知(芸司)」とは、もともとは踊りを伝えた「芸能媒介者」は修験者や聖達だったと研究者は考えています。

それは、下司の着ている服装の変化からも裏付けられます。
①古いタイプの百石踊の「下司」は「新発意(しんほつい)=僧侶」で、法衣のうえから白欅をした僧衣
②それが綾子踊りの芸司は「裃」で庄屋の格式衣装
③滝宮念仏踊りの下司(芸司)は、現在は陣羽織
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滝宮念仏踊りの入庭 陣羽織姿の下司たち
つまり、中世は僧衣であったものが、江戸時代に「裃」になり、現代は金ぴかの陣羽織に変化してきたことがうかがえます。

隣にやって来た地元の研究者が、次のように教えてくれました。

「戦前までは、各組の下司は、麻の裃を着て踊っていた。ところが麻やかすりの裃は、もうない。特注扱いで高価で手がでん。そこで、ある組の下知が派手な陣羽織にしたら、全部右へなれいになりました。」

 これを以前の私ならば「昔のままの衣装を引き継ぐのが大原則とちがうんかいなあ」と批判的に見たかもしれません。しかし、いまでは共感的に見ることができます。それは、ユネスコ登録が大きな影響を与えてくれたように思います。
風流踊り ユネスコ登録の考え方
ユネスコ文化遺産と無形文化遺産の違い

ユネスコ無形文化遺産の精神は、
「フリーズドライして、姿を色・形を変えることなく保存に努めよ」ではないようです。
ユネスコ

「無形文化財の変遷過程自体に意味がある。どのように変化しながら受け継がれてきたのかに目を向けるべき」といいます。
ユネスコ無形文化財の理念3

つまり、継承のために変化することに何ら問題はないという立場です。これには私は勇気づけられました。かすりや麻の裃にこだわる必要はないのです。金ぴかの陣羽織の方が「風流」精神にマッチしているのかもしれません。変化を受入れて、継続させていくという方に重心を置いた「保存」を考えていけばいいと思うようになりました。その対応ぶりが綾子踊りの歴史になっていくという考えです。

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「南無阿弥陀仏」幟(滝宮念仏踊り)

法螺貝が吹かれ、太鼓と鉦が鳴らされ、踊りが始まります。
3人の各組の下司が並んでおどりはじめます。西讃府誌には「なつぱいぎうや」と云いながら曲節に併せて踊る。」と記されていますが私には「なもあ~みどうや(南無阿弥陀仏)と聞こえてきます。これは念仏七遍返しといって、次のような文句を七回で繰り返すようです。
お―な―むあ―みどおお―え
お―な―むあ―みどお…え
お―な―むあ―あみどんどんど
は―なむあ―みどお―え
お―なつぼみど―え
は―な―んまいど―え
な―むで ノヽ /ヽ
単調なリズムの中で、下司が大団扇を振り、廻しながら飛び跳ねます。三味線のない単調さが中世的なリズムだと私は感じています。この踊りの原型が一遍や空也の踊り念仏で、それが風流化するなかで念仏踊りに変化していったと研究者は考えているようです。これも風流踊りの変遷のひとつのパターンです。

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下司達の惣踊り(滝宮念仏踊り)

もうひとつ気になるのは、江戸時代に那珂郡七箇村踊りが奉納していた踊りが念仏踊りだったのかという疑問です。
いまは「滝宮念仏踊り」と言われますが、西讃府誌には「瀧宮の踊り」「滝宮踊」とあります。江戸時代前半の史料にも、「滝宮念仏踊り」と表記されているものの方が少ないような気がします。そこで思うのが、ひょっとして、念仏踊りではなく、中には小歌系風流踊りを奉納していた組もあるのではないかという疑問です。特に七箇村の踊りが気になります。
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        滝宮念仏踊りのきらびかな花笠


以前にお話ししたように、国の無形文化財の佐文綾子踊りと七箇村の踊りは、ともに佐文がメンバーとして関わっていて、踊り手の構成が非常に近い関係にあります。七箇村の踊りは、佐文綾子踊りのように小歌系の風流おどりであった可能性があるのではと、私は考えています。つまり、奉納されていた踊りが、すべて念仏踊りではなかったという説です。これは今後の課題となります。
以上、滝宮念仏踊りを見ながら考えたことの一部でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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記念にいただいた滝宮念仏踊りの団扇です。

参考文献   綾川町役場経済課 ◎滝宮の念仏踊りの由来

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   佐文綾子踊り
「綾子踊り」の里の住人として、次のような疑問を持っています。
①雨乞い踊りとされているのに、詠われる歌は恋歌ばかりで雨に関する内容が少ないのはどうしてか。
②綾子踊りが風流踊りに分類されるのはどうしてか。
③滝宮神社に奉納されていた那珂郡南の七箇村念仏踊りの構成員だった佐文が、どうして綾子踊りを踊り始めたのか。
④七箇村念仏踊りと綾子踊りは、衣装などはよく似ているがどんな関係にあるのか。
⑤綾子踊りと、高瀬二宮神社のエシマ踊りとは、どんな関係にあるのか
⑥佐文で綾子踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになったのはいつからなのか。

 いまは各地で雨乞い踊りとされる風流踊りは、もともとは雨乞成就のお礼として奉納された風流踊りでした。
滝宮念仏踊りも坂本組の由緒には「菅原道真の雨乞い成就のお礼として踊った」と書かれています。近世後半になるまでは、雨乞いが行えるのは修行を経た験の高い僧侶や山伏にかぎるとされ、百姓が雨乞いをしても効き目があるとは思われていませんでした。そのため各藩は、白峰寺や善通寺に雨乞いを公的に命じています。村々の庄屋は、山伏たちに雨乞いを依頼しています。村人自身が雨乞い踊りを踊ることは中世や近世前半にははかったようです。
 そんな中で、綾子踊りの縁起は、雨乞い手法を空海から伝えられたとして、雨乞いのために踊ることを口上で明確に述べます。これをどう考えればいいのかが、私の悩みのひとつです。
 もうひとつは、綾子踊りの歌詞や踊り、鳴り物、衣装、幟などが、どのようにして佐文に伝えられたのか、別の言い方をすると、誰がこれを伝えたのかという問題です。風流踊りの研究者達は、諸国廻遊の山伏(勧進聖・高野聖)たちが介在したとします。それが具体的に見えてくる例を、今回は追って見ようと思います。テキストは「大森恵子 風流太鼓踊りのなかの勧進聖 踊り念仏の風流化と勧進聖153P」です。
百石踊り 駒宇佐八幡神社(ふるさと三田 第16集)( 三田市教育委員会 編) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋

研究者が取り上げるのは、兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊です。
駒宇佐八幡神社では、毎年11月23日の新穀感謝祭の日に、上谷と下谷の氏子が一年交代で百石踊りを奉納します。これはもともとは雨乞祈願の願成就のお礼踊りで、「願解き踊り」とも呼ばれていました。それが時代が下るにつれて、雨乞祈願の踊りとされます。

駒宇佐八幡神社|兵庫県神社庁 神社検索
百石踊り
百石踊りの踊り役構成は、次の通りです
①新発意役二名
②太鼓踊り子役一三~二〇名
③幡踊り子約二〇名
④鉄砲方二名、
⑤青鬼役一名
⑥赤鬼役一名
⑦山伏役二名
⑧笠幕持ち一名
⑨幟持ち役一名
駒宇佐八幡神社 百石踊り : ゲ ジ デ ジ 通 信

①の新発意(しんほつい)というのは「新たに仏門に入った者」のこことで、場所によっては「いつか寺を継いでいくこども」を「新発意」(しんぽち)ともよぶそうです。

研究者が注目するのは、この新発意役です。
その衣裳は僧形で、白衣のうえに墨染めの法衣を着て、裾をたくって腰でからげます。法衣のうえから白欅をして、背中で蝶結びにします。笠の縁を赤いシデで飾り、月と日(太陽)形の切り紙を貼った編笠を被り、右手に軍配団扇、左手に七夕竹を持つ。踊りが始まる直前に新発意役は口上を述べ、踊りの開始とともに太鼓役を先導して踊ります。
百石踊り(駒宇佐八幡神社) | ドライブコンサルタント
僧姿の新発意役

この役は口上を述べ、諸々の踊り役を先導します。このように百石踊りでは、僧侶の扮装をした新発意役が踊りの口上を述べたり踊りを先導したりするので、「新発意型」の民俗芸能のグループにも入れることができます。
 百石踊りは、さまざまな衣装の踊り役や、あるいはきらびやかに飾った「幡」や「笠幕」を所持する役などで構成されているので、「風流踊り」の一種とされます。特に笠幕持ち役は、下谷・上谷とも駒宇佐八幡神社境内にある岩倉(巨石)の前で、「笠幕」と呼ぶ神の依り代を踊りの間ずっと捧げ持ちます。笠幕とは、釣鐘状の造り物の上に金襴の打ち掛けを重ねて、きらびやかに飾った形です。側踊りの締太鼓を手に持つ「太鼓踊り子役」が、新発意役を取り囲むようにして踊るスタイルなので、百石踊りは「太鼓踊り」にも分類できます。
 戦前までは家格によって踊り役が決まっていて、新発意役を演じることができれば、たいへん名誉なこととされたようです。以上から百石踊りは、古態を伝える典型的な新発意踊りで「新発意型風流太鼓踊り」の特徴を伝える民俗芸能と研究者は考えています。

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百石踊りの新発意役

百石踊りの新発意役をもう少し詳しく見ていくことにします。
新発意役は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装をし、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都の姿を表したものであると伝えられます。元信という天台宗の遊行僧が文亀年間に生存し、雨乞祈席を修したかどうかは分かりません。ただ、遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などに関与したこと以前にお話ししました。百石踊り成立過程において、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。
研究者は注目するのは、次の新発意役の持ち物です。
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。本願の象徴として、
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
を好んで使用したとされます。彼らは大念仏を催して人々から頼まれたいろいろな祈願を行う際に、自分たちの属する教団の示す象徴が必要でした。そのシンボルが、瓢箪と七夕竹だったようです。空也系聖と禅宗系聖の両方を混合したのが高野聖になります。ここからは、採り物についても百石踊りの成立過程には、下級宗教者(高野聖など)の関わりがうかがえます。
民俗芸能にみられる「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。
 新発意役は僧形をし、聖の系統を表す瓢箪や七夕竹・団扇などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べることを押さえておきます。しかし、時代の推移とともに新発意役の衣装も風流化し、僧形のいでたちで踊る芸能は少なくなったようです。今では被り物・採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっています。その中で、僧姿で踊る百国踊りは、勧進僧の風流踊りへの関与を考える際に、貴重な資料となります。

百石踊りは「百穀踊り」とも記されています。
それは、大掛かりな踊りのため一回の踊りを奉納すると、百石の米が必要っだことに由来するようです。百石踊りの発生由来は「神社調書」のなかに、次のように記されています。
後柏原天皇文亀三年 天台僧元信国中遍歴の途、当社社坊天台宗弥上山常楽寺へ立寄り滞在せしところ、其夏大いに旱し民百姓雨を神仏に祈りて験なし時に、元信僧都之を慨き沐浴斎戒して八幡宮の森に忌籠り断食して祈る事、七日七夜に及ぶ。 二日目の子の刻頃元信眠を催し、士の刻頃其場に倒れたり、其時夢現の問多くの小男小女元信の周囲を取巻き、小男は手に鼓を打鳴し、小女は之に合わせて五色の幣を附けたる長き杖を突き、片手に日の丸の扇子を携え歌を奏しつゝ雨を乞ひしに、八幡大神は社殿の扉を開き出御の上、此有様を見そなはせしに、東南の風吹き起こて黒雲を生じ、中より大幣小幣列をなして下り来たると、夢みて醒むれば夜将に明けんとし、其身辺に大小の蛇葡萄せり、而も其蛇は大中小と順を正し、傍の老杉の本に登ると見るや、微雨点々顔面に懸るを覚へたり。(中略)
 巳の刻より降雨益々多く未申の刻より暴雨盆を覆すが如きこと三ヶ日に及び、諸民蘇生の思を起し喜び一方ならず、村民元信を徳とし、八幡宮へ願解祭を奉仕するに当り、 元信夢むところの小男小女の踊を仕組み、元信を頭として老若男女打ち揃い七日七夜境内に踊りて、雨喜の報塞祭を奉仕せり、之より年旱して祈雨の験有れば此踊を奉仕し、其種類も次の通なり。
  意訳変換しておくと
後柏原天皇文亀三(1503)年に、天台僧元信は諸国遍歴の際に、当社社坊(別当寺)天台宗弥上山常楽寺へ立寄り滞在していた。その夏は、大変な旱魃で、民百姓は雨を神仏に祈願したが効果はなかった。そこで、元信僧都は、これを憐れんで沐浴斎戒して八幡宮の森に忌籠り断食して、七日七夜祈った。 二日目の子の刻頃、元信は睡魔に襲われ、その場に倒れ眠り込んでしまった。その時に夢の中に、多くの小男小女が元信の周囲を取巻き、小男は手に鼓を打鳴し、小女はこれ合わせて五色の幣をつけた長い杖を突いて、片手に日の丸の扇子を携えて、歌を詠いつつ、雨乞い踊りを踊った。 この時に八幡大神は、社殿の扉を開きこのようすを見守った。すると、東南の風が吹き起こて黒雲が現れ、その中から大幣小幣が列をなして降ってきた。夢から覚めると、まさに夜が明けようとしている。その身辺に大小の蛇が多数現れ、大中小と順番に並んで、傍の老杉の木に登っていく。すると雨点が顔面に点々と降ってきた。(中略)
 巳の刻からは、雨は益々多くなり、未申の刻からは暴雨で盆を覆す雨が三ヶ日間降り続いた。これを見て諸民の喜びは一方ならず、元信の雨乞い成就を感謝して、八幡宮へ願解祭を奉仕するようになった。その際に、元信の夢中に表れた小男小女の踊を仕組み、元信を頭として老若男女打ち揃って七日七夜境内に踊りて、雨乞い成就の感謝と喜びを報塞祭として奉仕した。こうして旱魃の際には、雨乞成就の験があればこの踊りを奉仕するようになった。その種類は次の通りである。

要約すると次のようになります。
①元信と名乗った天台系の遊行聖が駒宇佐八幡宮の社坊(神宮寺・別当寺)に立ち寄り滞在中に、雨乞祈祷を行ったこと
②その踊り構成は、男女の子供たちが元信を取り巻き、男子は鼓を持って打ち鳴らし、女子は五色の御幣が付いた長い杖を突き、片手に日の丸の扇を持って歌を歌いながら踊るというものだったこと
③おびただしい蛇が現れ、列を成して老杉に登って行ったこと。
④蛇が老杉の先端に到着すると微雨が降り始め、そのうち豪雨になったこと。「蛇=善女龍王伝」説を汲んでいること
⑤氏子は、元信の夢告を信じ、夢のなかの雨乞踊りを再現し願解き(雨乞成就感謝)踊りとして踊った。
 以上のように、この踊りは雨乞祈願成就の感謝として踊られてきました。それがいつの頃からか、駒宇佐八幡神社の祭礼にも踊られるようになります。百石踊りは雨乞呪術のおどりであったことをここでは押さえておきます。百石踊りが雨乞祈願の目的で踊られるようになるのは、宝永七年(1710)のことで、以後旱魃の時に15回ほど踊られたことが宇佐八幡神社の記録に残されています。
ここからは駒宇佐八幡神社は、雨乞に霊験あらたかな神社として、地域の信仰を集めてきたことが分かります。そして18世紀前期からは、頻繁に雨乞代参をうけたり、雨乞祈祷を行っています。それを裏付けるのが次のような資料です。
①天和2年(1682)の「駒宇佐八幡宮縁起」の奥書に「「一時早魃之年勅祈雨千当宮須雙甘雨済泣於天下」とあること
②「駒宇佐八幡神社調書」にも城主九鬼氏による雨乞祈願が享保九年、明和二年、明和七年、明和八年などに、頻繁に行われたこと
雨乞いの百石踊り/三田市ホームページ
百石踊り
それでは、雨乞祈祷を行っていたのは誰なのでしょうか?
「駒宇佐八幡神社調書」には、雨乞祈祷は、駒宇佐八幡神社の別当寺であった常楽寺の社僧が行ったことが記されています。ここでは、駒宇佐八幡神社は江戸時代中期ころには、雨乞祈願に霊験あらたかな八幡神=「水神八幡」として地域の信仰を集めていたことを押さえておきます。
 百石踊りの芸態を伝えたのは誰なのでしょうか?
由来伝承には、「元信と名乗る天台系の遊行聖」と記されていました。ここからは、諸国を廻り勧進をした遊行聖の教化活動があったことがうかがえます。その姿が百石踊りの新発意役の僧姿として残存し、現在に至っているのでしょう。これを逆に見ると別当寺の常楽寺は、近世中期以降において遊行聖たちの播磨地方の拠点となり、雨乞や武運長久・豊穣祈願などを修する寺として、近畿地方一円に名を馳せていたことがうかがえます。このような理由で駒宇佐八幡神社のほかにも古来、武運長久の神とされ武士に信仰された八幡神が、雨乞に霊験ある神とも信じられるようになり、その結果、八幡神社に雨乞踊りが奉納されるようになったと研究者は考えています。
  以上播州の駒八幡神社と別当寺の関係、それをとりまく勧進僧(修験者・山伏)の動きを見てきました。
これを讃岐の滝宮念仏踊りに当てはめて、私は次のように考えています。
①滝宮念仏踊りが奉納されていたのは、牛頭大権現(現滝宮神社)であった。
②その別当寺は、龍燈寺で播磨の書写山などとのつながりが深い山伏寺であった。
③龍燈寺の勧進聖達は、牛頭大権現のお札を周辺の村々に配布して牛頭信仰を広めるとともに、同時に一遍時衆の踊り念仏を伝えた。
④こうして、周辺の村々から牛頭大権現(現滝宮神社)への踊り込みが行われるようになった。
⑤戦国時代から近世初頭には、牛頭大権現や別当寺(龍燈寺)も一時的に衰退し、踊り念仏も取りやめになっていた。
⑥それを「雨乞いのため」という大義名分をつけて復興したのが、高松藩藩祖の松平頼重である。
⑦こうして、もともとの龍燈寺の勧進僧(山伏)がテリトリーとしていた村々からの念仏踊りが復活した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  大森恵子 風流太鼓踊りのなかの勧進聖 踊り念仏の風流化と勧進聖153P」
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西讃府志に滝宮念仏踊と佐文綾子踊がどのように載せられているのかを、今回は見ておきたいと思います。

西讃府志 表紙
西讃府志
最初に滝宮念仏踊りを見ていくことにします。西讃府史には「滝宮踏舞」と題されています。
大日記曰く、延喜三年二月廿五日、菅氏(菅原道真)五十七歳、云々讃岐国民、至今毎歳七月二十五日、於瀧宮為舞曲祭之、俗謂瀧宮躍夫コノ踊ハ、七ケ村・南條・北條・坂本等ノ四処ヨリ年替ソニ是ヲ務ム、但シ北條ハイツノ年卜云定リナシ、七月十六日比ヨリ二十五日ノ比マデ、其アタリアタリノ氏社ニテ踊ル也、サレド瀧宮ヲ主トスンバ瀧宮踊卜云ナリ、
コハ盆踊ナドトハ其状大ニカハレリ、下知トテ頭タルモノ一人アリ、花笠フカブキ袴フ着テ、大キナル団扇ヲヒラメカシ、なつぱいぎうやヽ 卜云吉ヲ曲節トシテズヲドル、サテ小踊トテ十三二歳歳バカリノ童子花笠フカツキ袴フツケ、襷(たすき)ヲカケ彼下知ガ団扇ノマヽ二踊ル、又鼓笛鉦ナト鳴ス者アリ、イツレモ花笠襷ナドツケタリ、踊子鉦ウチ鼓ウチナドノ数モ定リアレド、各庭ニヨリ多少アリ、カクテ踏舞終リヌル時、彼下知ナル者、願成就なりや卜高フカニイフ、是ヲ一場(ヒトニワ)卜テ,一成(ヒトキリ)ナリ、又なつばいどう卜云者アリ、菅笠ノ縁二赤青ノ紙ヲ切リ垂レ、日月フ書ケル団扇ヲモチ、黒キ麻羽織キタルアリ、又なもでトテ、サルサマシテ、鉦モチタルアリ、此等幾十人卜云数ヲシラス、叉螺ナド吹モノモアリ、皆各其業アリト云、叉大浜浦ニモ瀧宮踊卜云ヲスル也、コハ名ノ同シキノミニテ、踊ハ尚常ニスル盆踊二異ナラズ、
  意訳変換しておくと
大日記には次のように記されている。延喜三年二月廿五日、菅原道真五十七歳、讃岐国は毎歳七月二十五日に瀧宮で舞曲祭を行う。俗にいう瀧宮の踊りとは、七ケ村(まんのう町)南條・北條・坂本などの4ヶ所から年毎に異なる組の者が踊り込みを行う。但し、北條組については、踊り込み年が定まっていない。7月16日から25五日までは、各地域の神社に踊りが奉納される。しかし、瀧宮に奉納するのが主とされるので、瀧宮踊と呼ばれている。

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滝宮念仏踊り(午前は 滝宮神社 午後は滝宮天満宮) 

 この踊りは、盆踊とは大きな相違点がある。下知(芸司)と呼ばれる頭目が一人いて、花笠を被って袴を着て、大きな団扇を打ち振って、「なつぱいぎうや」と云いながら曲節に併せて踊る。

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滝宮念仏踊の幟「南無阿弥陀仏」 
小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、袴をつけ、襷(たすき)をかけて、下知の団扇にあわせて踊る。又鼓・笛・鉦を鳴らすものもいる。彼らはそれぞれ花笠・襷で、踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっている。しかし、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

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滝宮念仏踊り 入庭

 こうして踊りが終ると、下知が「願成就なりや」と高かに云う。これが一場(ヒトニワ)で、一成(ヒトキリ)で、これを「なつばいどう」と呼ぶ者もある。

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滝宮念仏踊の花笠
菅笠の縁に赤・青の紙を垂らし、日月と書いた団扇を持って、黒い麻羽織を着る。又なもでトテ、サルサマシテ(?)、鉦を持つ者もいる。これらを併せると総勢は数十人を超える。叉法螺貝などを吹くものもいる。それぞれ各役目がある。叉大浜浦にも、瀧宮踊が伝わっている。名前は同じだが、こちらは普通の盆踊と同じである。


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滝宮念仏踊 惣踊り(滝宮天満宮)
西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①菅原道真の雨乞成就に感謝して捧げられたとは記されていない。「讃岐国は毎年7月25五日に瀧宮で舞曲祭を行う。」とだけ記す。また「滝宮念仏踊り」という表現は、どこにもない。
②瀧宮の踊込みに参加していたのは、七ケ村(まんのう町)・南條・北條・坂本などの4組であった
③4組が毎年順番で担当していたが、北條組については、踊り込み年が定まっていなかった。
④滝宮への踊り込みの前の7月16日から25日までは、各地域の神社に踊りが奉納されていた。
⑤この踊りは盆踊とちがって下知(芸司)が指揮した
⑥小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、下知の団扇にあわせて踊る。
⑦踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっていが、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

綾子踊り 全景
綾子踊り(佐文加茂神社)
次に西讃府志の「綾子踏舞」を見ておきましょう。

西讃府志 綾子踊り
西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊

佐文村二旱ノ時此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏社トニテスルナリ、是レニモ下知一人アリ。上下ヲ着、花笠カヅキ、大キナル団扇もテリ、踊子六人、十歳アマリノ量子ヲ、女千ノ姿二作リ、白キ麻衣ヲキセ赤キ帯ヲ結ビタレ、花笠ヲカヅキ、扇ヲモチタリ、叉踊ノ歌ウタフ者四人、菅笠ヲキテ上下ツケタリ、叉菅笠ノ縁二亦青ノ紙ヲ切テ付タルヲカヅキ、袴フツケ、木綿(ユフ)付タル榊持夕ル二人、又花笠キテ鼓笛鉦ナドナラス者各一人、
サテ踊始ントスル時 ヲカヅキ襷ヲ掛、袴フ高クカカゲ、長刀持夕ルガ一人、シカシテ棒持タルガ一人、其場二進ミ出、互ニイヒケラク、

意訳変換しておくと
佐文村に旱魃の時に踊れば、必験ありとして、龍王社と氏社の加茂神社で踊られる。これも下知(芸司)が一人いて、裃を着て、花笠を被り、大きな団扇を持つ。踊子(小躍)6人は、10歳ほどの童子を、女子の姿に女装し、白い麻衣を着せて、赤い帯を結んで、花笠か被り、扇を持つ。叉踊の歌を歌う者四人(地唄)は、菅笠を被り裃を着る。菅笠の縁には青い紙を垂らす。又、袴を着て、木綿(ユフ)付けた榊持が二人、又花笠キテ鼓笛鉦などを鳴らす者各一人。
 踊り始める前には、襷掛けし、袴着た、薙刀と棒持ちが、その場に進み出て、次のような問答を行う。

西讃府志 綾子踊り2
        西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2

踊り前の薙刀と棒振りとの問答
しはらく′ヽ、先以当年の雨乞所願成就、氏子繁昌耕作一粒萬倍と振出す棒は、東に向てごうざんやしゃ、某が振長刀は南に向てぐんだりやしゃ、今打す棒は西に向て大いとくやしゃ、又某か振長刀は北に向かいてこんごうやしゃ、中央大日、大小不動明王と打はらひ、二十五の作物、根は深く葉は廣く、穂ふれ、虫かれ、日損水損風損なきよう、善女龍王の御前にて、悪魔降伏切はらふ長刀は、柄は八尺、身は三尺、神の前にて振出は礼拝、叉佛の前はをがみ切、主の前は立ひざ切、木の葉の下はうずめ切、茶臼の上はまはし切、小づ主収手はちがへ切、磯うつ波はまくり切、向献はから竹割、逃る敵は腰のつがひを車切、打破うかけ廻り、西から東、北南くもでかくなは、十文字ししふつしん、こらん入(にゅう)、飛鳥の手をくだき、打はらひ、天の八重雲、いづのちわき、利鎌を以て切はらひ、今紳国の政、東西南北と振棒は、陰陽の二柱五尺二十ゑいやつと振出す、某つかふにあらねども、戸田は三、打しげんはしんのき、どうぐん古流、五方の大事、表は十二理に取ても十二本、しばはらひ、腰車、みけん割、つく杖、打杖上段中段下段のかゝうは、鶴の一足、鯉の水ばなれ、夢の浮橋、三之口伝、四之大手、悪魔降伏しづめんが為、大切之一踊、はや延引候へば、いざ長刀ぎの参うやつど」
 
綾子踊り 薙刀
綾子踊 薙刀問答

薙刀と棒振りの問答の後、いよいよ踊奉納が次のように始まります。

西讃府志 綾子踊り3
       西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2
カクテ暫ク打合サマンテ退ク、歌謡ノ者各其座ニツクナリ、サテ下知ノイヘルハ、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 サテ歌ウタフ者、歌書タル本を開き、馨ヲソロヘテウタフ、例ノ下知進ミ出、団扇ヲヒラメンテ踊ル、踊子三人ヅツ二行二並ピ、下知ガ団扇ノマヽ二扇ヲ打フリテ踊ル、鼓笛鉦ナド持タル、其カタヘ並立テ曲節ヲナス、其後二榊持タル人立テ共節毎ニヒイヨウナドト声ヲ発して、節ヲナスウタフ節ハ今ノ田歌ニイト似タリ、其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ
  意訳変換しておくと
  しばらく棒振りと薙刀による演舞が行われた後に退く。その後に、歌謡の者がそれぞれの定位置に着く。そこで下知(芸司)が次のように云う。、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 地唄は、歌書を開いて、声を揃えて詠う。下知が進み出て、団扇を振りながら踊る。小躍りは三人ずつ二行に並んで、下知の団扇に合わせて、扇を振って踊る。鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。調子や節は、今の田歌に似ている。最初に詠うのが水踊で、以下、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ。その歌詞は次の通りである。

西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①佐文村では旱魃の時に、龍王社と加茂神社で綾子踊りが雨乞いのために踊られている
②その形態は。下知(芸司)・女装した踊子(小躍)6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各一人などである。
③踊り前に、薙刀と棒持の問答・演舞がある(全文掲載)
④演舞の後、下知(芸司)の口上で踊りが開始される
⑤地唄が声を揃えて詠い、下知が団扇を振りながら踊り、小躍り、扇を振って踊る。
⑥鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。
⑦調子や節は、今の田歌に似ている。
⑧以下踊られる12曲の歌詞が掲載されている

西讃府志 郡名
西讃府志 那賀郡・多度郡・三野郡・苅田郡の郷名
   丸亀藩が領内全域の本格的地誌である西讃府志を完成させたのは、安政の大獄の嵐が吹き始める安政五(1858)年の秋でした。
これは資料集めが開始されてから18年目の事になります。西讃府志は、最初は地誌を目指していたようで、そのために各村にデーターを提出することを求めます。それが天保11(1840)年のことでした。丸亀藩から各地区の大庄屋あてに、6月14日に出された通知は次のようなものでした。(意訳変換)

加藤俊治 岩村半右衛門から提出されていた西讃・播磨網干・近江の京極藩領分の地誌編集について許可が下りた。そこで古代からの名前、古跡、神社鎮座、寺院興立の由来、領内の事跡などについても委細まで調べて書き写し、その村方周辺の識者や古老などの申し伝えや記録なども、その組の大庄屋、町方にあっては大年寄まで指し出し、整理して10月中までに藩に提出すること。

ここからは次のようなことが分かります。
①「旧一族の名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来」を4ヶ月後の10月上旬までに提出することを大庄屋に命じていること。
②家老・佐脇藤八郎からの指示であり、藩として取り組む重要な事柄として考えられていたこと
藩の事業として地誌編纂事業が開始されたようです。しかし、通達を受けた庄屋たちには、この「課題レポート」にすぐに答えるだけの史料や能力がなくて、何年たっても提出されない有様だったことは以前にお話ししました。各村々の庄屋からの原稿がなかなか提出されず、そのために発行までに18年もの歳月がかかっています。
 私が気になるのは、佐文綾子踊の記述の多さです。
滝宮念仏踊りに比べても分量が遙かに多く、詠われていた地唄の12曲総ての歌詞が載せられています。どうして綾子踊りが、これほど「特別扱い」されているのでしょうか? 滝宮念仏踊りや佐文の綾子踊りが西讃府志に載せられていると云うことは、地元の庄屋が藩への「課題レポート」に買き込んで提出したということでしょう。それをまとめて丸亀藩の学者たちは西讃府志を完成させました。逆に言うと、佐文村の庄屋が綾子踊りについて、詳細に報告したとことが考えられます。それが西讃府志に綾子踊りの歌詞が全曲載せられていることになったとしておきましょう。そして、その歌詞内容が中世に成立していた閑吟集の中にある歌にルーツがあることを中央の学者が気づきます。これが綾子踊りの重要文化財師指定の大きな推進力となったことは以前にお話ししました。
 同時に、幕末には綾子踊りが佐文で踊られていたことの裏付けにもなります。綾子踊りの史料については、地元では昭和になって書かれた史料しか残っていないのです。また、実際に踊らたという記録も明治になってからのものです。近世末に、綾子踊りが踊られていたという西讃府志の記録は、ありがたいものです。

綾子踊り4
佐文綾子踊 芸司と小踊(佐文加茂神社)

 もうひとつ気になるのが佐文は「まんのう町(真野・吉野・七箇村)+琴平町」で構成される七箇村滝宮踊りの中心的な構成員でもあったことです。それが、いろいろな問題から中心的な役割から外されていきます。それが佐文村をして、独自の綾子踊りの立ち上げへと向かわせたのではないかと私は考えています。七箇村の滝宮踊りと、綾子踊りの形態は非常に似ていることは以前にお話ししました。

Amazon.co.jp: 綾子踊 : 綾子踊誌編集委員会: Japanese Books
      祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史(まんのう町)

綾子踊のユネスコ登録を前に、まんのう町は「祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史」という報告書を出しています。これはPDFでネットからダウンロードする事も出来るので簡単に手にすることができます。これが綾子踊に関する今の私のテキストになっています。この報告書末に、綾子踊の年表が掲載されています。今回は、これを見ながら綾子踊がどのようにして、再発見され継承されてきたかを見ていくことにします。

中世の雨乞い踊りについては、以前に次のようにまとめました。
①中世の雨乞祈祷は、修験者など呪力ある者のおこなうものであった。
②村人達は、雨乞成就の時に感謝の踊りを、郷社などの捧げた。
これは、滝宮神社に奉納されている坂本念仏踊りの由来にも「菅原道真の雨乞祈願成就への感謝のために踊った」とかかれていることからも裏付けられます。また高松藩は白峰寺に、丸亀藩は善通寺に、多度津藩は弥谷寺に雨乞祈祷を命じていたのです。これらの真言修験者系の寺院は、空海以来の善女龍王神への雨乞いを公的に行ってきました。ここには庶民の出番はありません。中世や近世までは、神に雨乞ができるのは呪力のある修験者などに限られていて、何の力もない庶民が雨乞いを念じても効き目はないというのが一般的な考えだったことを押さえておきます。村人が雨乞祈祷を行ったのではなく、その成就感謝のために踊ていたのが、いつもまにか雨乞い踊りと伝えられるようになっていることが多いようです。
綾子踊年表1
綾子踊年表
  前置きが長くなりましたが、綾子踊年表を見ていくことにします
年表の最初に来るのは、1875年(明治8年)7月6日の次のような記事です。
七月六日より大順をかけ、十三日踊願い戻し 又十五日、十七日より、夫より二度の願立てをなし、二十三日めなり。それより二十七日めなり。又、添願として神官の者より、自願かけ自願後八月三日に踊り、十一分の雨があり御利生あり

意訳変換しておくと
7月6日に大願を掛けて、13日まで綾子踊を踊った。(それでも雨は降らないので)15日、17日に改めて二度の願立てをし直した。それでも雨は降らない。そこでさらに23日、27日に、添願として神官が自願した。自願後の8月3日に綾子踊を踊った所、十分の雨があった。これも踊りのご利益である

ここには次のようなことが記されています
①雨乞成就のために村人自らが綾子踊りを踊っていること
②7月6日に踊りを始めて、1週間連続で踊り続けたこと
③それでも降らないので願をかけ直し、さらに神官(山伏?)も雨乞祈祷した。
④その結果、雨乞い開始から約1ヶ月後に十分な雨が降ったこと
  最後は「踊りのご利益」としています。ここからは村人達が自分たちの力で雨を降らせたという意識をもっていたことがうかがえます。明治初年には、中世や近世の雨乞祈願とは異なる意識変化があったようです。自分たちで綾子踊を踊り、雨を降らせるというのは「近代的発想」とも云えます。しかし、頻繁にやってくる旱魃の度に、綾子踊りは踊られていたことを史料から確認することはできません。
 また、ここで注意しておきたいのは一番古い記録が明治初期のもので、それ以前のもにについては何もないことです。ここから綾子踊が実際に踊られるようになったのは、近世後半になってからだということがうかがえます。。
綾子踊り 善女龍王
善女龍王の幟(綾子踊・佐文賀茂神社)
 次に記録が残っているのは1934(昭和9)年のことです。
1934(昭和9)年7月16日 かんばつにつき加茂神社にて踊る
1939(昭和14)年かんばつにつき8月9日よりけい古
8月17日 加茂神社・龍王祠前で踊る
8月22日 自雨あり
9月 1日 雨あり
9月11日 お礼踊り

ここには、旱魃のために綾子踊りを踊るための次のような手順が記録されています。
 踊り実施決定 → 稽古 → 実施 → 降雨 → お礼踊り

しかし、本当に明治以後から戦前にかけて頻繁に綾子踊が踊られていたかどうかは、史料からは確認できないようです。
綾子踊りが世間から注目されるようになるのは、戦後のことです。それは、地元から動きではなく、外からの視線でした。丸亀藩が幕末に、各村々の庄屋に命じて提出させたレポートについては以前にお話ししました。そのレポートに基づいて、丸亀藩が編纂したのが西讃府志です。
幕末の讃岐 西讃府志のデーターは、庄屋たちが集め報告書として藩に提出したものが使われている : 瀬戸の島から

この時に、佐文村の庄屋は、綾子踊について報告しています。その中に、踊られる歌詞も記されていました。
西讃府志 綾子踊り
西讃府志の佐文綾子踊についての記述
この歌詞に注目したのが、中央の研究者たちです。ここに収められている歌詞は、中世に成立した閑吟集に起源を持つものがあります。こうして綾子踊りは、中世に起源を持つ風流歌の系譜の上にあるとされるようになります。それを受けて地元でも、記録・復興に向けた動きが出てきます。そして、各地に招かれての次のような公演活動も始まります。

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綾子踊の芸司と子踊り

戦後の復活
1953年12月12日 十郷村文化祭出演(十郷小学校)
     12月13日 香川県公会堂出演(高松市)
1954年8月21日 香川県文化財に指定 綾子踊公開(加茂神社)
1955年3月9日 琴電会社映画撮影 綾子踊公開(加茂神社)
1955年4月2日香川県無形文化財に指定
9月5日  香川県農業祭出演
1960年1月28日 中四国民俗芸能大会出演(岡山市天満屋)
1962年10月30日 仲南村文化祭出演(仲南東小学校)
1966年     4月10日 宮田輝司会 NHKふるさとの歌まつり出演
1968年9月10日 佐文核子踊保存会会則制定
1970年1月21日 第12回香川県芸術祭出演(高松市民会館)
1971年4月11日 国の重要無形民俗文化財として文化庁認定
     8月16日 文化庁選択芸能公開 於加茂神社
1972年8月18日 NHK金曜広場出演(NHK松山放送局)
  8月27日 綾子踊公開(加茂神社)
 11月19日 第15国香川県芸術祭出演(普通寺西中学校)
公開活動を通じて認知度を高め、「1955年 県無形文化財」に指定されます。しかし、これだけでは佐文住民とっては、あまり「意識変化」はなかったようです。大きなインパクトになったのは、1966年に宮田輝司会の「NHKふるさとの歌まつり」への出演です。NHKの人気番組に出演し、全国放送されたことは佐文住民にとっては、「自慢の種」となりました。認知度もぐーんと高まり、「佐文の誇り:綾子踊り」という意識が芽生え始めたのはこの当たりからです。
そして、71年には、国の重要無形文化財」に指定されます。注目度は高まり、NHKなどが頻繁に取り上げてくれるようになります。

綾子踊年表2
綾子踊年表2
1973年12月1日 仲南町文化祭出演(仲南中学校)
1975年8月24日 綾子踊公開(加茂神社)
1976年5月4日 文化庁が重要無形民俗文化財第一回を指定する
        同日 佐文綾子踊が国の重要無形民俗文化財に指定
     6月19日 文化庁より重要無形民俗文化財指定証書交付
     9月 5日 重要無形民俗文化財指定記念事業により綾子踊公開(加茂神社)
76年から三年間、国の補助金を受け、伝承者養成現地公開記録作成事業推進.)
1977年8月14日 重要無形民俗文化財指定の記念碑除幕式と綾子踊公開(加茂神社)
 8月26日 伝承者養成と綾子踊公開(加茂神社)
1978年9月3日 伝水者養成と綾子踊公開(加茂神社)
1979年6月10日 香川用水落成記念式典出演(香川町大野小学校)
7月15日 綾子踊を含む佐文誌編集企画
1980年10月25日 中四国民俗芸能大会出演(高知市RKCホール)
1982年9月 5日 綾子踊公開(加茂神社)
1984年9月 2日 綾子踊公開(加茂神社)
1986年8月24日 綾子踊公開(加茂神社)
1988年7月21日 瀬戸大橋架橋博覧会出演(同博覧会場)
1990年9月 2日 綾子踊公開(加茂神社)
    11月24日 第40回全国民俗芸能大会出演(東京 日本青年館)

綾子踊の継承にとって大きな意味をもつのが「1976年の国の重要無形民俗文化財指定」です。これはただ指定して、認定書を渡すだけでなく、次のような具体的な補助事業が付帯していました。
①三年間、国の補助金を受け伝承者養成事業を行い、隔年毎の公開公演を佐文賀茂神社で行うこと
②公開記録作成を行うと共に、「佐文誌」編集出版
③全国からの公演依頼に応じて行う公演活動に対する補助金支出
こうして隔年毎に公開公演を行う。そのために事前にメンバーを組織して、踊りの練習を公開1週間前から行うことがルーテイン化します。。回を重ねていくごとに芸司や地唄やホラ貝吹きなど、蓄積した技量が求められる役目は固定化し、後継者が育っていきました。また、子踊りには小学生高学年6人が、お踊りは中学生4人がその都度選ばれ、練習を積んで、大勢が見守る中で踊るという形が定着します。かつて、子踊りを踊った子ども達が、今は綾子踊の重要な役目を演じるようになっています。彼らは「継承・保存」に向けても意識が高く、今後の運営の中心を担っていくことが期待できます。現代につながる綾子踊の基礎は、この時期に固められたと私は考えています。

綾子踊り11
賀茂神社に向かう綾子踊の隊列(まんのう町佐文)

1990年代を見ておきましょう。

1992年8月21日 綾子踊公開(加茂神社)
11月 1日 日韓中3ヶ国合同公演出演(県民ホール)
1994年8月21日 綾子踊公開(加茂神社)
1995年2月16日 NHKイブニング香川出演(佐文集荷場)
5月27日 第3回地域伝統芸能全国フェスティバル出演(サンメッセ香川)
1996年8月25日 綾子踊公開(加茂神社)
11月 3日 ブレ国民文化祭総合フェスティバル出演(県民ホール)
1997年5月24日 第5回地域伝続芸能全国フェステンバル島根出演(出雲大社)
 8月31日 NHKふるさと伝承録画 賀茂神社
   10月25日 ブレ国民文化祭オーフニングフェスティバル出演(県民ホール)
1998年4月19日 国営讃岐まんのう公演フェスタ出演
 9月20日 仲南町民運動会40回大会出演(仲南中学校)
1999年10月30日 郷上民俗芸能祭出演(三木町文化交流ブラザ)
2000年8月27日 綾子踊公開(加茂神社)
国指定25周年記念として新潟県柏崎市の綾子舞を招待し、競演
        ※以降、隔年で加茂神社にて公開

この時期は、重要無形文化財指定後に固定化した隔年毎の一般公開が継承されています。同時に、対外的な出演依頼に応えて、各地で公演活動を行っています。

2000年代を見ておきましょう。
2004年10月14日 中四国芸能大会(琴平町金丸座)
2017年11月12日 柏崎古典フェスティバル2017にて綾子舞と共演
2022年11月30日 ユネスコ無形文化遺産に登録
2023年10月 8日 郡上八幡 出演(郡上市総合文化センター)
               11月25日  第70回全国民俗芸能大会(日本青年会館)に出演

これを見ると、対外公演が激減していることが分かります。この背景には何があるのでしょうか?
考えられる事を挙げてみると
呼ぶ側の財政問題 佐文綾子踊は役目が多く、50人近い大所帯での公演になります。これを1泊2日で呼ぶと、交通費や宿泊費だけで100万円をこえる予算が必要になります。民俗芸能よりも経費がかからずに、人が呼べるイヴェント編成を考えるのは担当者としては当然のなりゆきです。

そんな中で、今年になって佐文綾子踊に公演依頼が次のように入っています。その背景としては、次のようなことが考えられます
①コロナ中に大型イヴェントが実施できずに、財源が蓄積されていること
②風流踊りがユネスコ登録されて、注目度が集まっていること。

佐文綾子踊保存会も公開年ではないのですが、10月には郡上八幡、11月には東京の日本青年ホールでの公開に招かれています。
①佐文賀茂鴨神社での隔年毎の公開公演
②対外的なイヴェントへの出演
これは綾子踊の後継者養成にとっては重要な柱なのです。 第40回全国民俗芸能大会出演(東京 日本青年館:1990年11月24日)に出演し、青年会館ホールで踊った子踊りのメンバーが、今は綾子踊の重要な役割を演じるポジションにいます。それから33年ぶりに日本青年会館で踊ることになりました。彼らが今後の綾子踊りの継承・保存の中核メンバーとなっていくはずです。そのためにも、小・中学生達に大きな舞台に立って踊る経験を積ませたいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史(まんのう町)
関連記事

昨年の2022年 11月30日付けで 佐文綾子踊がユネスコ無形文化遺産リストに登録されました。その認証状が東京に届き、会長が授与式に参加していただいてきたのがこれです。

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ユネスコ世界無形文化資産 「風流踊」登録書

さび付いた私の頭は、英単語が消え去って判読不明。そこでスマホで写して、アプリに翻訳させると次のように出てきました。
                         
  ユネスコ無形文化遺産
このリストへの登録は、無形文化遺産の認知度の向上とその重要性の認識を確保し、文化的多様性を尊重する対話の促進に貢献します。
風流踊り」 人々の願いや祈りが込められた神事の踊り。
日本の提案により「風流踊り」のリストへの登録を認証します。私たちは、文化的多様性の重要性の認識を高め、尊重する対話の促進に貢献します。
UNE事務局長    刻印日:2022年11月30日 

冒頭の「convention」には、「①慣習、しきたり②会議、集会③大会参加者、出席者」という3つの意味があります。よく使われるのは②の意味ですが、ここでは③の参加者・構成員の意味のようです。 「heritage」は、継承物や遺産、伝統を意味する名詞で、後世に伝えるべき自然環境や、遺跡跡など、文化的、歴史的に受け継がれるものを指しています。例えば、「intangibie cultural heritage」で無形文化遺産という意味になるようです。
     
  そして登録名は「Furyu-odori」です。
その形容詞が「人々の願いや祈りが込められた神事の踊り」となっています。ここで気になるのは、ユネスコの認証状の中には「風流踊」とあるだけで、佐文綾子踊はどこにもありません。

もうひとつは、そのリストが日本政府によって提出された。それを、ユネスコが認めリストに登録したという形式がとられていることです。あくまで承認権者はユネスコなのです。ユネスコ世界遺産事業以後、ユネスコは権威を高めたように思います。遺産の保護活動以外に承認権者の地位を手にしたことが、その背景にはあるのではないかと私は勝手に考えています。
 この認証状に「添付」されたような形で頂いてきたのが、次の文化庁の書類です。
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綾子踊 文化庁の認証状
  内容的には、ユネスコ認証状の日本語訳版のようなものです。ただ、ここには「重要無形民俗文化財 綾子踊」と「保護団体 佐文綾子踊保存会」が明記されています。そして「ユネスコ無形文化財の一覧表に登録された「風流踊」を構成することを証す」とあります。
文化庁のユネスコへの「風流踊」提案書には次のように記されていました。
内 容 華やかな、人目を惹く、という「風流」の精神を体現し、衣裳や持ちものに趣向をこ らして、歌や笛、太鼓、鉦(かね)などに合わせて踊る民俗芸能。除災や死者供養、豊作祈願、雨乞いなど、安寧な暮らしを願う人々の祈りが込められている。祭礼や年中行事などの機会に地域の人々が世代を超えて参加する。それぞれの地域の歴史と風土を反映し、多彩な姿で今日まで続く風流踊は、地域の活力の源として大きな役割を果たして いる。

  いくつかの風流踊りを一括して、「風流踊」として登録するというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てきません。そこで、別途文化庁がそれを証明するために発行したのがこの証書ということになるようです。

どちらにしても、保存会会長からの指示は、これらに相応しい額を購入して、佐文公民館に掲げよというものです。早速、額選びにとりかかっています。この2つの証書を預かって、最初にしたのは、仏壇に供えることです。

そして、ユネスコ認証状がとどいたことを父に報告しました。父もかつては保存会会長を務めていたことがあります。2年に一度の地元の神社での一般公開や、東京や長岡での公演活動の準備に、尽力していた姿を思い出します。この知らせを歓んでいるはずです。
 今年は講演依頼がいつになく多い年になっています。その背景としては、次のようなことが考えられます
①コロナ開けで、伝統芸能公演ラッシュとなっていること
②風流踊りがユネスコ登録されて、注目度が高いこと。

佐文綾子踊保存会も公開年ではないのですが、10月には郡上八幡、11月には東京の日本青年ホールでの公開に招かれています。そのため公演メンバーが決められ、いろいろな下準備が進められています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

今年度から綾子踊りのスタッフに入ることになりました。その最初の活動が、財田の香川用水の水口祭への参加となりました。その様子をお伝えして、記録として残しておこうと思います。

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水口祭次第(6月11日 日曜)
阿波池田ダムで取水された香川用水が讃岐山脈をトンネルで抜けて、姿を見せるのが財田です。ここには香川用水公園が整備され、水口祭が毎年行われているようです。そこに綾子踊りも参加することになりました。
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佐文公民館 8:40出発
総勢36名がまんのう町の2台マイクロバスで出発です。
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やってきたのは財田町の香川用水公園。トンネルから姿を現した用水が、ここを起点に讃岐中に分配されていきます。会場は、紅白の幕が張ってある場所。まさに香川用水の真上です。その向こうには讃岐山脈が連なります。雨乞い踊りを踊るのは最適の場所かも知れません。
雨もあがったようです。天が与えてくれたこんな場所で、綾子踊りを奉納できることに感謝。

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控え室に入って、衣装合わせです。
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お母さん方の手を借りて、小踊りの小学生達の衣装が調えられていきます。
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こちらせは花笠のチェック。
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着付けが終わると、出演前に記録写真。
そして、会場に向かいます。
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踊りに参加する人以外に、それを支えるスタッフも10名余り参加しています。この日は総勢36名の構成でした。フル編成だと百人近くになります。

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小踊りのメンバーと最後の打合せです。
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いよいよ入場です
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かねや太鼓の素樸な音色が響きます。単調ですが、これが中世の音色だと私は思っています。
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踊りが始まります。芸司の団扇に合わせて、素樸な踊りが繰り返されます。しかし、踊りの主役は、小踊りの女装した男の子達です。中世の神に捧げる芸能では、小踊りは「神の使者」とされていました。小踊り以外は、私には「小踊りに声援をおくる応援団」にも思えます。
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新緑の中に、小踊りの衣装が赤く映えます。

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今回の公演は15分で、演目は3つ。あっという間の時間でした。
公演後に着替えて、うちたてのうどんをいただきました。

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 知事さんもうどんを食べていました。お願いすると気軽に写真に入ってくれました。参加者には、いい記念になりました。感謝

12:20 記念館を出発
12:40 佐文公民館帰着
13:00 弁当配布後に解散
以上、香川用水記念館の水口祭りへの参加報告でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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前回には那珂郡七箇村組念仏踊りについて、次のように整理しました。
①この踊りは、中世に小松・真野・吉野の各郷で風流踊りが郷社に奉納されていたものであること。
②それは地域の村々を越えた有力者によって組織された宮座によって総勢が200人を越える大スタッフで運営されていたこと。
③生駒藩取りつぶしの後、讃岐が東西二藩に分割されると、次のように踊組は分割されることになったこと。
A 高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
B 丸亀藩 西七ヶ村(買田・宮田・生間・追上・帆山・新目・山脇)と佐文村 
C 池御領(天領)  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
④天領・親藩・外様という「帰属意識」から対立が絶えず、いろいろな事件や騒動を引き起こしたこと
⑤しかし、19世紀になると運営は軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになったこと。
 実際の運営は、1組編成になっても次の東西2つの組に分けて行われていたようです。
東組(Aの高松藩の村々) 
西組(B・Cの天領と丸亀藩の村々)
1826(文政9)年の連絡指示系統は、以下の通りです。

那珂郡大庄屋・吉野上村の庄屋岩崎平蔵 → 総触頭・真野村庄屋三原専助 → 各庄屋

この年は、踊組内部の対立が顕在化します。
その発端は、阿野郡北條組の分裂でした。内部分裂した一つが七箇村組の後庭で踊らせてもらいたいと、阿野郡北の大庄屋を通じて、那珂郡の大庄屋岩崎平蔵(吉野上村)に申し入れます。これに対して岩崎平蔵は、踊組の意見を聞かずに「正保の刃傷事件から180年も経っているので、もう大丈夫だろう」と考えて、高松藩側の意志を確認しただけで、これを認めます。しかし、意見を求められなかった七箇村組の内には根強い反対意見もありました。岩崎平蔵の強引なやり方に反発する勢力の中心が「C 天領の小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)」の庄屋たちでした。天領の庄屋たちは、Aの高松藩の真野・吉野を中心とする運営について揺さぶりをかけてきます。
 それが、各村々の神社への踊り奉納の時に村役人が着る礼服についてです。
その年の最初の寄合の時に、池御領側から次のように申し出がありました。岸の上村の庄屋奈良亮助は、その申出を次のように記録しています。
 右寄合之節 苗田村年寄十右衛門右申出候ハ、先年ハ廿三日買田金毘羅二而上下着用致、
岸上村久保宮二而袴羽織二相成候所、中頃金毘羅二而上下着用致候二付、直二上下二而入庭(いりは)仕来り候得共、是ハ先年之通り袴羽織二而久保宮ヘハ入庭致候ベシと申出候二付、
真野村庄屋三原専助殿被申候ハ、先年ハ如何二御座候哉、拙者共役申併先政所伊左衛門始?、久保宮へ茂上下二而入庭仕来り被成レ居申候由返答有之候所、小松庄四ケ村之内五条・榎井・苗田三ケ村方申出候ハ、何連念仏一定之旧記等御取調之上、先年右古振之通被い成候而可然旨申出候。依之追而旧記取調十六日ニ池之宮而否返答可致旨専助殿申出候而、寄合相済申候段、
 当村組頭庄屋亮介へ申出候。依之亮助右十日夕方内々二而真野村庄屋専助殿へ掛合仕候所、委細専助殿承知有之、何連十六日二池宮二而、買田村庄屋貞彦方へ掛合返答致候条卜返答有之候。
尚又十五日、当村神職朝倉石見右茂、専助殿へ内々掛合仕候。然ル所旧記等根二入取調仕候所、格別委細之義も無之候得ハ、廿三日?礼服等相改候と有之儀ハ無二御座候。右之趣、明十六日池之宮二而買田村へ返答致候卜、専助殿方申出候由、石見方村方庄屋亮助へ串出候義二御座候。
意訳変換しておくと
 真野不動堂で会合の際に、苗田村年寄の十右衛門右が次のような申出を行った。
 もともと23日の買田・金毘羅(池御料を含む)への奉納の時には上下着用で、岸上村の久保宮の奉納の時には、袴羽織着用であった。ところが近年は金毘羅での奉納が上下着用のために、久保宮でも同じように上下着用となってしまった。ついては、久保の宮には先例通りに袴羽織で入庭するようにして欲しいと申出があった。
 これについて真野村庄屋三原専助殿が応えて云うには、先年とはいつのことなのか? 私が大庄屋を務めるようになってからは、久保の宮へは上下で入庭してきたと答えた。これに対して、小松庄四ケ村の五条・榎井・苗田三ケ村方は、旧記の記述を調べた上で、先例古式通りの作法・やり方を行って欲しいとの要望があった。このため旧記を調べて16日に満濃池池之宮での奉納の際に結果を伝えることにして、会合はお開きとなった。

 当村(岸上村)の組頭・藤堂から村方庄屋の奈良亮介へ申出があった。そこで庄屋亮助が10日夕方、内々に真野村庄屋専助殿へ掛合って、専助殿はこれを承知した、買田村庄屋貞彦方と相談した上で、16日の満濃池池宮での奉納の祭に、返答することになった。
 その前日の15日、岸の上村久保宮の神職朝倉石見右茂も、専助殿と内々に協議を行った。それによると旧記等などを調べてみたが、格別に問題点も見つからなかったということで、「23日に礼服に相改候」とは書かれていないとのこと。これを明日、池之宮と買田村庄屋へ返答する、専助殿へ伝えたとのこと。村方庄屋の亮助へも連絡済みである。
歴史編6 男物の羽織 | 着物あきない
羽織袴(平服)と裃(正装)

 池御領天領(五条・榎井・苗田)の庄屋たちは何が不満なのかを整理しておくと
①羽織袴と裃(上下)では、裃の方が「格上」の礼服であったこと。
②「池御料天領・五条村の大井宮」が格上で、「岸上村の久保宮」は格下と、自分たちの神社が格上だ天領の庄屋たちは考えて見下していたこと。
③とろが近年は、久保宮でも上下着用となってしまったことに不満を持つようになった。ついては、「古式通りに」岸上村の久保宮では袴羽織で参加するようにして欲しい
④しかし、記録にはそのようなことは何もかかれていない。
  要は、天領の大井神社と、岸上の久保の宮の上下関係がはっきりと分かる服装にせよと要求したようです。天領池御料民としての自尊心の現れかもしれません。
 封建制とは身分制で、それが目に見える形で確かめられるような「装置・服装」がともないます。儀式の際の服装などは、身分や役割で事細かく決められていました。祭りの境内での席次なども事細かく決められています。そこに参列する村役人の服装も暗黙の決まりがあったのです。
 大庄屋の岩崎平蔵は、この問題の解決を次の踊りが行われる年まで先送りすることとして、1826(文政九)年の踊り奉納は終了します。しかし、天領の庄屋たちはこれで済ませたわけではありませんでした。3年後の1829(文政12)年の念仏踊に向けて手ぐすね引いて待っていたのです
1829年の総触頭を務めることになったのは、岸上村庄屋の奈良亮助でした。
奈良亮助は、和漢の学も修めていた教養人でもあったことは前回お話しました。彼は立派な花押を使用していますし、文章などからも几帳面で、慎重な人柄がうかがえます。後年には満濃池の普請についての実績を残しています。
 当時は、真野村の庄屋は大庄屋の岩崎平蔵が兼帯していました。
そこで奈良亮助は、念仏踊に関してのみの権限で真野村庄屋役を勤め、念仏踊の総触頭となったようです。師匠の岩崎平蔵の下での、その見習いというところでしょうか。
 奈良亮助は、文化5(1808)年の時に総触頭安藤伊左衛門が書き残した「滝宮念仏踊行事取遣留」によって仕事を進めていきます。そのスタートは、7日1日に先例通りの案内状を、買田村庄屋で西領と小松庄の触頭である永原貞彦に送ることから始めています。同時に回状(回覧板)を、高松藩東組の庄屋たちに送って、7月7日に真野不動堂に集まるように通知します。回覧状は次の庄屋たちを起点に、周辺庄屋に回覧されていきます。
吉野上村庄屋岩崎平蔵
四条村庄屋岩井勝蔵
吉野下村庄屋久保東左衛門
七箇村庄屋金堂東左衛門
塩入庄屋小亀弥五郞
 こうして、最初の会合が7月7日に真野不動堂で開かれます。
 この時は丸亀領が藩全体の忌中のため、領民は他領へ出ることを許されていませんでした。そのため丸亀藩の村々(旧仲南町)が滝宮へ踊りに出向くことは許されません。そこで踊りの期日を忌中開けにすることにします。この結果、例年より約半月遅らせて、各村々の神社での踊興行を行うことが決まります。亮助は、その次第と日程を、翌々日の7月9日付で高松の郷会所の村尾浅五郎と安倍久一郎の両元締に報告しています。
そんな中で7月13日、西組の触頭を務める買田村庄屋の永原貞彦が岸上村の奈良亮助を訪ねてきてきます。
 買田村と岸の上村は、丸亀藩と高松藩にそれぞれ属していて、このふたつの村の間に当時は「国境」がありました。国境の買田峠を越えてゆけば、永原宅から奈良亮助の家までは、30分ほどで着く距離です。丸亀藩が忌中で「藩外出入り禁止」中でも、このくらいの行き来は、大目に見られていたようです。永原家はかつては丸山城の城主であったのが帰農して、買田村の庄屋となったと伝えられます。永原貞彦の居宅は、現在の恵光寺の下辺りにありました。西村ジョイの南側のR32号バイパス工事の際には、買田岡下遺跡が出てきています。ここからは、古代郡衙に準ずるような建物群も出てきていて、このあたりが那珂郡南部の開発拠点で、中心地だったことがうかがえます。
永原貞彦がやってきて奈良亮助に、伝えたのは次のような内容です。
 昨日五条村年寄喜三郎 私宅へ参り、前念仏寄合之節(文政九年7月7日不動堂)苗田村重左衛門右、兼而申出候村役人礼服之儀、村寄合談合候処、岸上久保宮二而、古来之通り袴羽織二而入哉、又ハ五条村大井宮二而一統上下用致候哉、両様御掛合之上相究不申、満濃池宮へ笠揃ニモ得罷出不申、尚踊子用意も不仕、其上入用銀等心得二指出・不申由申参候、依い之貞彦喜三郎へ掛合候、久保宮二而袴羽豚二而入候義(何之何年二而御座候哉、佃者共一向覚無い之、勿論念仏一条真野例先二而惣触頭、西(当村、東(岸上、東西社面元、依之古来占廿三日二当村、金毘羅山、岸上真野之所、出帳之村役人上下着用二而仕来リニ御座候由申答候。然ル所喜三郎心再ビ申候義、我等迪も上下着用之義と奉い存居申候処、苗田村重左衛門、弥左衛門共心申候、往古袴羽織二而御座候処、金毘羅山占帰り掛之義故、岸上村役人占挨拶有い之候二付、上下二而入候杯と申義二御座候由、喜三郎占申出候二付、拙者共岸上村役人占挨拶有い之候杯と申義何覚無い之候由申答候。
右様次第二付如何可い仕候哉。今日御内々御相談二罷越候。何連五条村大井宮へ上下二而入候得バ指支無い之哉卜奉い存候間、篤と岩崎氏へも御挨拶之上御返答承知仕度奉い存候。
  意訳変換しておくと
 昨日7月12日、五条村の年寄喜三郎が買田の私の家(永原貞彦)にやってきて、次のような申し出をして帰った。その内容は次の通り。
 前回3年前の文政9年7月7日に、真野不動堂での念仏寄合の際に苗田村の重左衛門から出された村役人の礼服の件についてである。先日の五条村寄合で話し合った結果、岸上村の久保宮への念仏踊り奉納の際には、村役人の礼服は古来の通り袴羽織で行いたい。また五条村の大井神社では上下着用に統一すること、このふたつのが認められないのであれば、満濃池の池の宮での笠揃に参加しない。また踊子も用意しない。その上に、入用銀なども納めないとの申し出であった。
 この申し出を受けて貞彦喜三郎と相談したところ、久保宮での奉納に村役人が袴羽織を着用したことについては、記録のどこにも書かれていないこと、記憶にもないとの返答であった。喜三郎が云うには、我等も久保の宮へ上下着用で参列するという案はどうでしょうかとの提案があった。そこで、苗田村の重左衛門、弥左衛門に、これを伝えて、昔は袴羽織での参列であったが、金毘羅山からの帰り道になるので、岸上村役人から挨拶があり、上下着用となったようだと伝えた。喜三郎からの申出を、岸上村役人から挨拶があったということは、記憶にないと伝えた。
 このような次第なので、どう取り扱っていいのか迷う所である。今日は内々に相談しにやってきたとのこと。五条村大井神社へ上下で参列が認められないのであれば、五条村は念仏踊りに参加しないとのことである。岩崎氏へも相談し、対応を協議したい。
 3年前に棚上げした礼服問題を、天領五条村の庄屋たちは蒸し返してきたのです。 
「岸上村の久保宮への念仏踊り奉納の際には、村役人の礼服は古来の通り袴羽織で行いたい。また五条村の大井神社では上下着用に統一すること」は、先ほど見たように「大井神社を格上として、久保の宮を格下」とするものです。これは池御料を代表しての五条村からの申し出です。ある意味池御料の面目がかかっているようです。
 「参加拒否、脱会もありうる」という強固な申し入れの背後には、池御料の支配役所である倉敷代官所の同意もとりつけていた気配もします。満濃池池御領の3つの村は、満濃池普請のために設けられた天領です。そのために普請行事は、この天領の大庄屋の指揮の下に行われてきました。周辺の庄屋たちの上に立つ存在でした。明治維新に満濃池を再興した長谷川佐太郎も、天領榎井村の大庄屋でした。それだけに自負心が強く、悪く云うと周囲の村々見下し、強引に押し通そうとする風があったようです。
総触頭の奈良亮助は、西組のまとめ役の買田村庄屋・永原彦助に次のように答えています。

 念仏一条ハ拙者引請、殊二当村久保宮へ古来上下二而入来候義ヲ、当年袴羽織二仕坏卜申義、其意難得奉存候。弥(いよいよ)往古袴羽織二而踊来候得ハ、譬(たとえ)如何様村役人?挨拶有之候共、右様相成候義ハ在之間敷、殊二御料所ハ念仏一条二而小松庄貴様触下之義、触頭之貴様二当村組頭共右挨挨有い之候杯と申義御存無い之、古来占仕来り之義、触下右彼是申出候義全ク目論見候義卜相見へ申候。併右様村役人共着用物之義二付、念仏ヲ差支させ御上様御苦労奉い掛候義 甚夕奉二恐入候。左候得共五条村大井宮計上下二仕候義も難二出来へ指合の上一統上下二而出張致候様仕候而如何二御座候哉。左候得バ論も無い之候間、先唐岩崎氏二内談之上、念仏組合之村々と談合可い致候。

意訳変換しておくと
 この度の念仏踊りについては、私が総責任者を引き受けています。岸の上の久保神社への奉納の際には、村役人は古来より上下着用であったのを、当年からは袴羽織に変更せよという申し入れに対して、同意できかねます。もともと昔は袴羽織であったという証拠資料は、どこの村役人がお持ちなのでしょうか? このような文書は見たことがありません。
 満濃池御料所は念仏踊りについては、小松庄の触下、触頭の立場に在り当村組頭共右挨挨有い之候杯と申義御存無い之、古来占仕来り之義、触下右彼是申出候義全ク目論見候義卜相見へ申候。
併せて村役人着用の服装については、念仏踊りに差し障りが出て、御上にお手数をおかけすることになれば、はなはだ恐入いることになります。
 この解決策として、五条村大井神社で上下で参列するように、他の寺社でも総て統一して裃(上下)で参加するようにしたいと考えています。このことについては、岩崎氏に相談した上、念仏組合の村々とも協議したします。

こうして亮介の奔走によって7月16日に、真野村の岩崎平蔵方で高松藩領側の村々の会合が開かれます。
高松領の六ケ村の庄屋が集まって、岩崎平蔵の意見に従って念仏踊興行を行うすべての宮々で、村役人は上下を着用することになります。奈良亮助は早速に、組頭の乙平を買田村の永原貞彦に遣わして、このことを伝えて、西領側と池御料側の同意を求めます。西領側というのが丸亀藩(旧仲南町の七か村と佐文)になります。
 この会合に集まった庄屋たちは、この後に新築された郷会所の落成祝の御歓びを申し上げるために髙松に連れ立って出発しています。翌日17日から大暴風雨となり、五人の庄屋は髙松の郡宿に逼留して天候の回復を待ちます、19日から高松の関係役人宅を回って、郷会所元〆で当用方の中西次兵衛に、今回の念仏踊りの礼服変更について天領からの異議申出があったことを報告して指示を仰いでいます。藩への「報告・連絡・相談」は、庄屋たちにとっては欠かすことの出来ない最重要業務だったことがうかがえます。

7月22日には、買田村庄屋永原貞彦が再び奈良亮助を尋ねて、次のように申入れます。
 念仏一件頃日御掛合被・下候処、早々御返答可い仕筈之処、大風雨二付延引仕候。昨日御料三ヶ村寄合相談仕候処、至極相談相詰り不い申、当年(金毘羅、滝宮計二而相済セ候義、尚亦池之宮二而笠揃之義も無用二仕、八月七日二榎井村興泉寺へ相揃、金毘羅山済せ、直二滝宮へ入込候様仕度段掛合被い下候様、喜三郎右申出候間、大風雨二付所々破損仕居申候二付、何卒御相談被・成可い被い下候。

意訳変換しておくと
 念仏踊りのことについて、いろいろと協議し、早々に御返答を頂いたところですが、今回の大風雨で延期することになりました。昨日、御料三ヶ村(五条・榎井・苗田)の寄合で相談したところ、いろいろな意見が出ましたが、今回については金毘羅と滝宮だけで済ませて、池之宮の笠揃も中止することにしました。8月7日に、榎井村の興泉寺に集合し、金毘羅山へ奉納し、その後すぐに滝宮へ奉納するという段取りです。喜三郎が云うには、大風雨でいろいろなところに被害が出て非常の際なので、今回は以上のように執り行うので了承頂きたいとのことである。

 これを受けて奈良亮助は、組頭滝蔵を岩崎平蔵方に遣わして、貞彦の申し出の内容を伝えます。
その際に、池の宮の笠揃踊だけは実施すべきであるという自分の意見も伝えます。これに対して岩崎平蔵は、池御料の申出通りに村々と相談してまとめるように指示しています。

 奈良亮介には、池御領の次のような「戦略」が分かっていたのでしょう。
①大暴風雨のための臨時対応を口実として、「興泉寺集合→金毘羅奉納→滝宮牛頭社踊り込み」の先例を作ること
②そして「池の宮の笠揃踊 → 各村々の村社を巡っての奉納 → 真野諏訪大明神 →  滝宮牛頭社踊り込み」という従来の手順を破ること。
③榎井村の興泉寺での笠揃踊が先例として、金毘羅奉納を中心とする念仏踊運営にしていくこと
④同時に運営主体を高松藩の真野・吉野郷から、池御領に切り替えていくこと
⑤これは、七箇村念仏踊りの分裂へとつながること

 このような危惧を持っていた奈良亮助は、次のような書状を書いています。
一筆啓上仕候。秋暑強御座候処、弥御安泰可い被い成二御勤・珍重不い斜奉い賀候。
 誠二頃日罷出緩々預二御馳走不い過い之奉い存候。然其節御噺申上候念仏踊一件、再買田村へ滝蔵ヲ以掛合候得共、何分御料所右申出之儀二付、来月7日興泉寺へ相揃候様、当領之処相談致呉候様申越候。右二付私篤と考合仕候処、満濃池之宮二相揃不申候得、当領之分金毘羅児島屋へ相揃候様仕候得如何二御座候哉。若又当年興泉寺へ相揃、後年池之宮へ笠揃無い之候時、榎井村興泉寺へ笠揃仕、夫右金毘羅相踊候杯と申義、例二相成候而不相済・義二奉い存候。夫右金毘羅町内二而相揃候得指支無之哉と奉い存候。如何二御座候哉。乍い憚御賢慮之上御指図可い被い下候。尚又御役所申出如何二御座候哉。是又別紙御一覧之上御加筆可い被。
 下候様奉二願上候。右之段御相談旁以二愚札一得こ御意一度如い斯二御座候以上。
  7月廿日       奈良亮助
   岩崎平蔵様
  意訳変換しておくと

一筆啓上仕候。残暑強く暑い日が続きますが、ご健勝のことと思います。ご無沙汰しておりますことをお許しください。この度の念仏踊の一件について、買田村へ滝蔵を遣わして掛合いました。しかし、池御領かっら申出のあった来月7日に榎井村興泉寺で笠揃をおこなうことについては、私たち高松藩の村々にとっては「寝耳に水」です。
 これについて私の対応策を述べさせてもらいます。
満濃池の池之宮に揃うのではなく、私たちも高松藩の村々も金毘羅の児島屋で相揃うのはいかがでしょうか。今回のように、興泉寺で笠揃いを行うことが通例となり、池之宮での笠揃がなくなくなった場合に、金毘羅相踊とは云えなくなります。金毘羅町内に集合して指図を仰ぐという案はいかがでしょうか。忌憚なき御指図を頂きたいと思います。また御役所への申出・報告は如何いたしましょうか。案文を作成しましたので、御一覧いただき加筆をお願いします。。
 下候様奉二願上候。右之段御相談旁以二愚札一得こ御意一度如い斯二御座候以上。
  7月廿日       奈良亮助
   岩崎平蔵様

 亮助の手紙も、大庄屋岩崎平蔵の意見を変更することはできなかったようです。
亮助は、岩崎平蔵の加筆・指示を得た次の書状を、高松の郷会所元締に提出しています。

 一筆啓上仕候、然念仏踊来ル廿九日満濃池之宮笠揃仕、夫右一日更り二村々宮々相踊候様相究候段、先日御申出仕候所、御料所占村役人共礼服着用方之義二付彼是申出差支二相成候段、丸亀御領買田村庄屋永原貞彦右掛合御座候得共、前々之仕振二致相違一候義二付而一統難い致二承知、色々取扱候得共相片付不申、然ル処此度之洪水二付、其郡々川長用水方等切損、依い之稲棉両作共砂入水押二相成、百姓共一同致二難儀候義二付、旁三ケ領相談之上、村々宮踊之分致二無田ヅ、来月7日前々之通榎井村興泉寺二相揃、夫占金毘羅相踊、直二滝宮へ入込候様仕度段相究メ申候間、左様御承知可被い下候。右為二御申出‘如い斯二御座候以上。
  7月28日 岸上村庄屋 奈良亮助
   野嶋平蔵様
   中西次兵衛様
  意訳変換しておくと
 一筆啓上仕候、念仏踊の7月29日満濃池之宮での笠揃仕について、7月1日から、各村々の神社での奉納が予定されている。先日、申出のあった池御料所の村役人の礼服着用の件について、丸亀領買田村庄屋の永原貞彦から協議申し出があり、従来の服装にもどそうとしたがまとめきれず、いろいろと取扱に苦慮している。
 そのような折に、洪水被害を受けて、郡内の川や用水も被害を受けて、稲棉などの耕地にも土砂や水が入ってしまった。そのため百姓たちは、その対応に追われている。そこで三ケ領で協議した結果、村々の神社への奉納は、今回は中止し、来月7日に、榎井村興泉寺二に合して、金毘羅山に奉納後に、直ちに滝宮へ踊り込む段取りとなった。そのように御承知いただきたい。右為二御申出如い斯二御座候以上。
  7月28日 岸上村庄屋 奈良亮助
   野嶋平蔵様
   中西次兵衛様
 

奈良亮助は、高松の郷会所へ書状を差し出した日に、高松藩領の塩入・七箇・吉野上下・四条の各村に回状を出して、8月7日に五条村の興泉寺へ参集するよう案内します。結果的には、池御料の村々の申し入れが、「暴風雨被害への非常措置」を理由にして、全面的に受け入れられたことになります。
 以上の動きを見ると、この決定至るキーパーソンは那珂郡の大庄屋と、高松藩の郷普請方小頭役を兼務する岩崎平蔵であったことがうかがえます。彼の意向が、この決定に大きく作用していたと研究者は指摘します。岩崎平蔵は、念仏踊の伝統を守ることよりも、倉敷代官所の意向や高松藩の立場を優越させてて動く「現実派」だったと云えそうです。
 1829(文政12)の念仏踊は、8月8日に滝宮への御神事奉納の踊りで終了します。しかし、村役人の礼服のことは未解決のままで、次の開催年に持ち越されることになりました。
 奈良亮助は、八月八日付で念仏踊が無事終了したことを郷会所に報告して、波瀾の多かったこの年の念仏踊の総触頭としての任務を締め括っています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」
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 まんのう町岸の上 寺山
岸上村(まんのう町 金倉川流域)
19世紀中頃の江戸時代後半に那珂郡岸上村(まんのう町)の庄屋だった奈良亮助は、几帳面な性格でいくつもの文書を残しています。 奈良亮助は、伯父の奈良松荘のもとで和漢の学を学んでします。伯父奈良松荘(1786ー1862)は、国学者で詩文を備後の菅茶山に学び、頼山陽と並び称せられと云います。郷里に帰り、金刀比羅の日柳燕石や三井雪航などに感化を与え、晩年は岸上村の奈良家に寄寓していました。その時に、奈良亮助はその教えを受けたようです。残された文書の中に「滝宮念仏踊行事取遺留」と題されたものがあります。
一番上には、「念仏踊の事」という記録が綴り込まれていて、次のような内容が記されています。
①滝宮念仏踊が法然上人によって、念仏布教の方法として採り上げられて発達したこと
②享保年中の滝宮での御神酒樽受取の前後争いに端を発して、念仏踊が中止になったこと
③元文四年六月晦日に雹が降って農作物が大被害を受けたこと
④この被害は滝宮への念仏踊りを行っていないことへの天罰との噂が拡がったこと
⑤そこで、寛保二壬戌年から七か村念仏踊が復活したこと
以上が、簡潔な筆致で記されています。
 この記録に続いて、文政九(1826)年から安政6(1859)年までの約30年間に、13回実施された七箇村組念仏踊のことが岸上村の庄屋記録に綴りこまれています。今回は、奈良亮助の残した文書を見ていくことにします。テキストは「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」です。
 
龍燈院・滝宮神社
滝宮牛頭権現(滝宮神社)と別当寺の龍燈院

前回にお話ししたように、初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、参加したのは4郡の4つの踊組でした。踊組の間には異常なほどの対抗心があって、いろいろな事件や騒動を起こしています。
 例えば、正保二(1645)年の時には、演じる場所・順番をめぐって、七箇村組の岸上村の久保の宮・神職が長刀で、北条組の小踊二人を切り殺すという事件があったことは前回お話ししました。このため北条組は、その後は48人の抜刀隊を編成して警固するようにしたとも伝えられます。また、七箇村組とは踊る年を変えて鉢合わせしないようにもしています。踊りはこのようなぴりぴりとした緊張感の中で奉納されていたようです。
滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り
 念仏踊りが復活した当初は、七箇村組は二組編成だったようです
1790年(寛政二)年の編成表を見ると、
①主役を勤める下知 真野村と佐文村からそれぞれ各一人、
②6人1組で子供が踊役を勤める小踊 西七箇村から一人、吉野上下村から三人、小松庄四ヶ村から二人の計六人、それと、佐文村単独で六人
③笛吹が岸上村と佐文村から一人宛、
④太鼓打が西七箇村と佐文村から一人宛、
⑤鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人宛、
⑥長刀振が真野村と佐文村から一人宛、
⑦棒振も吉野上下村と佐文村から一人宛、
⑧棒突は西七箇村四人、岸上村三人、小松庄四ヶ村三人の計10人に対して、佐文村は単独で10人
ここからは次のようなことが分かります。
A七箇村組には、次の東組と西組の二組があったこと。
東組 真野・吉野郷(高松藩領) 郷社 真野の諏訪大明神(諏訪神社)
西組 小松郷と西七箇村(池御領と丸亀藩)    郷社 五条村 大井八幡社
B 東組は高松藩の村々、西組は池御領(天領)と丸亀藩の村々から編成され、藩を超えた編成になっていたこと
C その中で、西組は佐文中心に編成されていたこと。ちなみに佐文は、ユネスコ登録になった綾子踊りの里でもあります。
七箇村組の編成からは、もともとはこの踊りが中世の郷社に奉納されていた風流踊りだったことがうかがえます。

まんのう町の郷
滝宮念仏踊り 那珂郡七箇村組(真野・吉野・小松郷)
那珂郡七箇村組をめぐる事件や問題を年表化しておきます。
享保年間(1716~36)龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番をめぐって、東西費が領組が騒動
1736(元文元)年 念仏踊は中止され、七箇村組は解体状態へ。
1739(元文四)年 6月の雹(ひょう)という異常気象で農作物被害甚大。念仏踊り中止のせいだとの声が拡がる
1742(寛保二)年 龍灯院の住職快巌の斡旋で、滝宮念仏踊への参加復活
1790(寛政二)年 東西二組の編成で、奉納が続く。
1808(文化五)年 「下知一人」となり東西2組編成から一組編成へ縮小
次に年表内容を、詳しく見ていくことにします。
享保年間(1716~36)の争いの原因は、滝宮牛頭天皇社(現滝宮神社)への踊奉納の時に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番です。踊りが終わった後に、どちらが先に御神酒樽を受け取るかをめぐる争いです。当時は樽はひとつしか準備されていなかったようです。おやつをもらう順番をめぐる子供の喧嘩のようにも思えます。しかし、背後には、高松藩・丸亀藩・池御料(天領)の三者の対立感情があります。天領の踊り手や役員達はプライドが高く、何かと周辺の住人達を見下すことがあったようです。東組には、高松藩(親藩)の住人ということで、外様の丸亀藩の西組の踊り手たちを見下します。こういう意識構造が、このようなハレの舞台で吹き出します。この結果、元文元年(1736)年以後は、七箇村組の踊りは中止に追い込まれてしまいます。
 3年後の1739(元文四)年の6月晦日に、季節外れの雹(ひょう)が降って東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を蒙ります。
「これは滝宮念仏踊を中止したための神罰である」という声が起こって念仏踊復活の気運が高まります。そして、滝宮牛頭権現(滝宮神社)の別当寺龍灯院の住職快巌の斡旋で、1742(寛保二)年から滝宮念仏踊への参加が復活します。龍灯院は対応策として、踊奉納を終えた七箇村東西組に対して、御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていています。事件事故に学んで、新たな対応策が出されています。しかし、二組の編成は対立感情による紛争の起こる危険を常に含んでいました。復活後は、東西二組編成で1790(寛政二)年まで続いたことが史料から確認できます。

まんのう・琴平町エリア 讃岐国絵図
念仏踊七箇村組の村々

 ところが1808(文化五)年には、1組で出演していることが史資料から分かります。この年の7月24日書かれた真野村・庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」滝宮大明神(神社)の別当寺龍燈院宛の報告には、この年の七箇村組の行列は、次のように記されています。
「下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人」

「下知一人、笛吹一人」ということは、一編成になったことを示すものです。「取遣留」の1808年7月25日の記事にも、龍灯院からの御神酒樽については、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」、口上を述べ終わると、御神酒樽は踊り場である神社から龍灯院が預かって直ちに持ち帰っています。そして、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を龍燈院の書院に招待して御神酒を振る舞っています。ここでも酒樽は1つしか準備されていません。1808年の時点で、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっています。
   ここからは1790(寛政二)年から1808(文化五)年までの間に、七箇村組のなかで大きな問題が起こったことがうかがえます。また、一番踊り手構成メンバーが削減されているのが佐文村です。佐文は西組の中心だったことは、先ほど見たとおりです。それが棒付10名に減らされているのです。七箇村組が二編成から一編成に縮小された背景には、佐文をめぐる問題があったことがうかがえます。19世紀初頭には、それまで東西2組で運営されていた七箇村組は一組となってしまったようです。
以上を整理しておきます。
①中世に小松・真野・吉野郷では、風流踊りが郷社に奉納されていた
②それは地域の村々の有力者による宮座で組織されていたが、戦国時代に中断していた
③それを初代高松藩主松平頼重が地域興しイヴェントとして復活した
④その時に参加したのは、4つの郡の郷社に奉納されいた風流踊りであった
⑤4つの踊組は対抗心が強く、いろいろな事件や騒動を引き起こした
⑥那珂郡七箇村組も、当初は東西2組編成であったが、18世紀初頭には、1組に「縮小」している。これも内部での騒動か事件があったことが考えられる。
こうして、19世紀になると軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年」
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 まんのう町には真野の諏訪神社に奉じられた「諏訪大明神念仏踊図」が保存されています。
私が最初に、この絵図を見たのは香川県立ミュージアムでの展示でした。その時には、次のような短い説明が付けられていました。(番号は図中番号と一致)
諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

①2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、
②日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知
③同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。
④花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいる。
⑤頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。」  
 この絵を最初に見たときには佐文の綾子踊りを描いたものと思いました。そのくらい似ているのです。その共通点を挙げて見ると
A舞台が神社の境内であること
B中央に大きな団扇を持った下司
C花笠を被った中踊りと6人の子踊り  
D警固の棒突や棒振・長刀衆など
ここからは念仏踊りが佐文の綾子踊りに大きな影響を与えていることがうかがえます。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
 また、念仏踊りの構成メンバーは、真野だけでなく、佐文・七箇村(東西)・岸上・塩入・吉野・榎井・五条・苗田などで編成され、総勢は二百人を越えていました。滝宮に踊り込む前には、各村の鎮守を何日も掛けて、奉納しています。ここで押さえておきたいのは、佐文も念仏踊りの構成メンバーで、この念仏踊りを踊っていたことです。

DSC01883
踊りの周りの人たちと、その後の見物小屋

 現在の綾子踊りと異なるのは、踊りの周りに見物の桟敷小屋がぐるりと回っていることです。この見物小屋は真野村の有力者の特等席で、財産として売買もされていました。念仏踊組には、誰でも参加できたわけではなかったようです。中世以来の「宮座」のメンバーだけが参加を許されました。家によって演じる役目も「世襲」されていました。ある意味では念仏踊りを踊ることは、その家柄を誇示することでもあり、名誉あることだったようです。
  この絵を描かせたのは誰なのでしょうか?
満濃町誌は描かれた時期と、描かせた人物を次のように推測しています。右側の仮桟敷に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことです。

DSC01885

  拝殿の正面に、袴姿で床几に座しているが各村の役人たちでしょう。⑥の日の丸の団扇を持っているのが総触頭の三原谷蔵のようです。ここからは、この絵を描かせた人物は、三原谷蔵で、自分の晴れ姿を絵師に描かせたという説を満濃町誌は採っています。
 参考文献  満濃町誌「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P  
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      諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
                   
中世以来、子松・真野・吉野郷で郷社に奉納されていた風流踊りが「那珂郡七か村念仏踊り」でした。
これは東西2組で構成され、二百人のを越える大部隊で編成されました。この2つの踊り組の西組は、下司(芸司)や子踊り・棒振・薙刀振・棒振りを佐文村が占めていて、佐文を中心に編成されていた組です。ところが19世紀末に、滝宮への奉納を廻って、なんらかのトラブルがあったようで西組は廃止され、1編成だけになります。そして佐文村のスタッフは、「棒付10人」だけに大幅に縮小されます。ここからは佐文をめぐって何らかのトラブルや不祥事があり、その責任をとらされたことがうかがえます。
 今まで踊りの中心を担っていた佐文衆にとって、これはある意味で屈辱的なことだったと思われます。それに対して、佐文が起こしたアクションが、新たな踊りを雨乞い踊りとして出発させるということです。こうして雨乞い踊りは生まれたのではないかというのが私の仮説です。
それでは綾子踊りは、どのようにして作り出されたのでしょうか。
新たな踊りを考える際に参考にしたのは、それまで自分たちが参加してきた「那珂郡七か村念仏踊り」です。もう一度、真野郷の諏訪大明神(諏訪神社)に奉納されていた「念仏踊図」を見てみましょう。この絵と現在の綾子踊りの共通点を挙げてみましょう。

DSC01527
「七か村念仏踊り」の芸司(下司)と子踊り
①花笠をかぶった芸司が「月と星」の団扇をもって踊っている
②赤い花笠を被った六人の子踊り(稚児)がそれに従っている
③棒振と薙刀振が試技や問答を行っている
④棒付きが場内警備について踊り区域を確保している。
⑤幟持ちがいる。
ここからは佐文がメンバーとして参加していた「那珂郡七か村念仏踊り」から多くのものを学び、綾子踊りに引き継いでいることがうかがえます。荒っぽく云うと、役目や衣装は、「七か村念仏踊り」そのまんまです。ちがうのは、まわりに建てられた宮座衆の「見物小屋」だけとも云えそうです。この見物小屋を消して「これが江戸後期の綾子踊りです」と云われても「ああそうですか」と答えそうになります。ここでは、綾子踊りの役目や衣装・持ち物は「七か村念仏踊り」から引き継いだものであることを押さえておきます。DSC01887
七箇村念仏踊図の棒振りと薙刀振り

問題は、この絵図の題名が「諏訪大明神念仏踊之図」とあり、歌われていた風流歌は念仏系であったことです。
現在の綾子踊りは、以前にお話ししたように「瀬戸内海の港町ブルース」のように、男と女の情話が数多く歌われる風流踊歌です。これが「七か村念仏踊り」で歌われていたとは思えません。この風流踊歌は、どこからやって来たのでしょうか。
 
ここで思い出されるのが以前に紹介した、高瀬町上栂の昔話に伝えられる「綾子踊り」です。
そこには次のようなことが語られています。
①時代は、東山天皇の時代とされるので、17世紀後半の元禄年間のこと。
②綾子踊りを伝えたのは、流刑で流された京都の公家の娘・綾子姫。
③綾子姫が船で向かう途中に嵐にあって金毘羅神に救われ、高瀬の上麻に住み着いた。
④旱魃が続いたときに、人々はいろいろな雨乞祈願をしたが効き目がなかった
⑥そこで綾子姫は「京の雨乞い踊り」を、上栂で踊ることを思い立つ。
その制作過程を、次のように記しています。

 「雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました」
 
ここからは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」が上麻の上栂に導入され経緯がうかがえます。
畿内で踊られていた「雨乞い踊り」とは、どんなものだったのでしょうか。
風流舞には、つぎのような融通性があったことは前々回にお話ししました
      「疫病神送りの乱舞には、何を歌ってもよかったから」

これは、雨乞い踊りにも適応されます。綾子姫が踊った踊りも、当時の流行っていた風流踊りであったことが予想されます。また、「綾子」という伝説上の人物を、取り去ってしまうと、当時の仁尾や観音寺・多度津などの港町で歌われていた風流踊歌が雨乞い踊りの中に「転用」されたことが考えられます。
 「上栂綾子踊り」の起源については、綾子自体が17世紀の人物になります。
また、「金毘羅神=海の神様」として登場します。金毘羅神が海上安全祈願の対象として世間に認知されるのは19世紀になってからであることは以前にお話ししました。ここからは、この物語が江戸時代後半になって作られたものであることが分かります。
 また京都や奈良などでは、雨乞いは真言僧侶や修験者(山伏)など呪力のある修行を積んだ人物が行うもので、雨が降った時にそれに感謝して踊るのが雨乞踊りでした。人々は「雨乞い祈願」のために踊っていたわけではないようです。「雨乞成就感謝」のために、自分たちが普段踊っていた風流踊りを踊ったのです。これは滝宮念仏踊りも同じです。坂本念仏踊りの由来には「菅原道真が祈願して雨が降ったことに感謝して踊る」と記されています。ここでも「降雨成就感謝踊り」であったことが分かります。
 ところが、「上栂綾子踊り」は、京から流刑された綾子姫が京都の雨乞い踊りを参考にして「創作」した踊りで、その目的は「雨乞い祈願」だったというのです。ある意味、民衆による民衆の手による雨乞いがここに生まれたと云えるのかもしれません。18世紀後半から19世紀にかけて上栂では、雨乞いのために綾子踊りが踊られるようになったとしておきます。
 以上をまとめておきます
①「上栂綾子踊り」の起源は、18世紀末から19世紀にかけてのものであること。
②綾子踊り以前に、すでに「善女龍王信仰」などの雨乞祈願の行事が行われていたこと
③先行する雨乞行事があるにもかかわらず、あらたな百姓主導の雨乞い踊りが導入されたこと
④そして、それは時宗念仏系の踊りではなく、近畿で流行っていた風流系のものあったこと。

上栂には、この「上栂綾子踊り」の祈念碑が戦後に建てられています。
そこには、佐文より前から綾子踊りを踊っていたことが記されています。綾子踊りの本家本元は上栂であるとの主張にも読み取れます。そうだとすると、上栂から佐文へはどのように移植されたのでしょうか。
 尾﨑傳次氏が書き写したという綾子踊りの由来には、弘法大師伝説が語られています。
それは旅の僧(弘法大師)が綾子に、踊りを伝授したという内容です。しかし、綾子踊りは中世の風流踊りで、歌われている歌も風流歌です。弘法大師のずーと後に作られたものです。弘法大師が生まれた時には、こんな歌や踊りもなかったのです。
 また「善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。」と雨乞いの神として善女龍王の力を讃えますが、この神も讃岐にもたらされるのは近世になってからであることは以前にお話ししました。つまり、この由来は古代にまで遡るものがなにもないことになります。描いた人物は弘法大師信仰をもつ山伏か聖が考えられます。
 
以上の状況証拠の上に、想像力を膨らませて綾子踊り誕生物語を描いて見ましょう。
山伏 七箇村念仏踊りの件の顛末については、聞きましたぞ。大変なことになりましたな。
庄屋 わたしども佐文にとっては厳しいお裁きです。棒付十人の参加しか認められなくなりました。
山伏 それは村の衆も気落ちしていることでしょう。
庄屋 その通りです。念仏踊りへ芸司や子踊りを出すのは佐文の誇りでもありまたので。若衆の中   には、棒振りや薙刀振りは憧れでもありました。それが出せないのは辛いことです。村の空気も沈んでしまします。
山伏 それでは、新しい踊りを佐文だけで始めてはどうですか。
庄屋 そんなことができるのですか
山伏 わたしがよく通う上栂では、新しく綾子踊りという雨乞い踊りを近頃、踊るようになっています。お上も毎年踊る盆踊りには目くじらたてて取り締まりも行いますが、日照りの時の「雨乞い踊り」と云えば、見て見ぬ振りをしているようです。
庄屋 はいはい、そのことは隣村なので知っております。それを佐文で踊るというのですか?
山伏 もちろん隣村で踊られているのを、そのまま佐文に持ってきて踊るのでは芸がありません。
庄屋 それでは、どうするのですが。
山伏 佐文には、今まで参加してきた「七か村念仏踊り」のやり方が伝わっています。衣装もあります。それを使って、踊りや歌はまったく別のものにするのです。上栂綾子踊りで歌われているものや、近辺の村々の盆踊りなどで踊られている歌や踊りを使えばいいのです。それは私が考えましょう。
庄屋 それはありがたいことです。村の衆の気持ちも、晴れるでしょう。よろしくお願いします。
こうして、佐文単独の雨乞い踊りである綾子踊りが、山伏の手でプロデュースされていきます。
    高瀬町史には、 寛政二年(1790)に大水上神社(二宮神社)に奉納された「エシマ踊り」が次のように記されています。
 羽方村のニノ宮社(大水上神社)の雨乞い祈祷の文書(森家文書「諸願覚」)
 右、旱魅の節、右庄屋え雨請い願い、上ノ村且つ御上より酒二本御鯛五つ雨乞い用い候様二仰せ付けられ下され候、尤も頂戴の役人初め太左衛門罷り出で候、代銀二て羽方村指し上げ口口下され候、雨請いの義は村々思い二仕り候様仰せ付けられ候、
右に付き、七月七日 ニノ宮御神前、千五百御神前、金出水神二高松王子エシマ踊り興行いたし、
踊り子三十人計、ウタイ六人計、肝煎、触れ頭サシ候、村中奇今通り、百姓・役人・寺社・庄屋立ち合い相勤め候、寺社御初尾米一升宛御神酒御神前え上げソナエ候、寺社礼暮々相談の故、米五升計差し出し候筈二申し談じ候、右支度の覚え
1 大角足  飯米四斗計
1 一酒壱本
1 昆布 干し大根 にしめ 壱重
1 同かんぴょう 椎茸 壱重
1 昆布 ゴマメイワシ 壱重
    但し是 金山水神高松王子へ用候
    是御上より御肴代下され候筈、
 右、踊り相済み、バン方庄屋処二て壱踊り致し、ひらき申し候
意訳変換しておくと
 羽方村(高瀬町)のニノ宮社(大水上神社)の雨乞い祈祷に関する文書(森家文書「諸願覚」)
 旱魃の時に、羽方村の庄屋へ雨請いを願い出た。その際に上ノ村(財田町)と、お上から酒二本と御鯛五つが雨乞いのためにと捧げられた。頂戴の役人と太左衛門が罷り出で、代銀で羽方村に下された。雨請いについては、村々でそれぞれのやり方で行うようにと仰せ付けられた。そこで、7月7日、ニノ宮社の神前、千五百御神前、金出水神二高松王子でエシマ踊りを興行した。踊り子は30人ほどで、歌い手は6人、肝煎、触れ頭サシ、村中は今通りで、百姓・役人・寺社・庄屋が立ち合って奉納した。寺社は御初尾米一升宛と御神酒を御神前え供え、寺社への礼については相談の上で、米五升ほどを送ることを協議手して決めた。この神前への支度供えについては次の通りである。(以下略)

ここには、干ばつの時に、村役人に願い出て雨乞い踊りが興行されたことが記されています。それに対して、藩からもお供え物が送られ、雨乞い祈祷のやり方については、それぞれの村のやり方で置こうなうように指示されたとあります。

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大水上神社境内の千五百王皇子祠

そこで、羽方村では二宮神社、境内の千五百王皇子祠と金出水神、上土井の高松皇子大権現に「エシマ踊り」を雨乞のために奉納したとあります。ここからは雨乞祈願に関しては、踊りを踊ることも含めて各村の独自性に任されていたことが分かります。
エシマ踊りの編成については「踊り子三拾人計、ウタイ六人計」とあり、綾子踊りの編成に近いことが分かります。
どのような踊りか、歌詞の内容なども伝わっていないので分かりません。しかし、盆踊としても当時三豊周辺で踊られいた風流系小歌踊の可能性が高いことは、財田の「さいさ踊り」と、綾子踊りに共通する歌がいくつもあることから推測できます。ここからは次のような流れも考えられます。

①京の風流踊り
②瀬戸内海の港町で女達が踊った風流踊り
③港町の後背地への風流踊りの拡大
④雨乞い踊りへの転用とエシマ踊りの誕生
⑤高瀬町麻上栂の「綾子踊り」
⑥佐文綾子踊り

以上をまとめておくと
①「七ヶ村念仏踊り」の中心的な存在を追われた佐文は、新たな雨乞い踊りを作り出した
②その際に役目や衣装、隊系などは今まで参加していた「七ヶ村念仏踊り」を継承した。
③一方、踊りや歌に関しては、高瀬の二宮神社に奉納されていた「エシマ踊り」のものを採用した。
④その結果、服装や役目など見た目には「七ヶ村念仏踊り」に近い形で、歌や踊りは風流系のものが採用されることになった。
こうして、綾子踊りは「七箇村地か念仏踊り + エシマ踊り」というスタイルになった。

こうして誕生した綾子踊りは、次のように今までにない風流踊りの性格をもちます。
①雨乞成就感謝の躍りではなく、農民が雨乞い祈願のために踊る雨乞祈願の踊りであること。
②宮座制でなく、盆踊りのように誰でもが参加できる風流踊りであること。
②については、綾子踊りの由緒書きの中に、次のように記します。
    降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯から、昔も今も綾子踊りに側踊りの人数に制限はない。

ここにも、中世的な宮座制から村人全員参加制への転換が、この機会に行われたことがうかがえます。以上は、私の推論であくまで仮説です。事実ではありませんので悪しからず。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

真野郷の郷社であった諏訪神社には、幕末に奉納された風流踊りの様子を描いた絵図が「諏訪大明神念仏踊図」が残されています。
そこには、芸司が大きな団扇を持って、その後には六人の女装した子踊りや薙刀振りや棒振りが描かれていることは以前にお話ししました。これは、現在の綾子踊りの形態とよく似ています。綾子踊りが、諏訪神社で踊られていた風流踊りから大きな影響を受けていることがうかがえます。
それを裏付けるのが、諏訪神社での風流踊りには佐文村も参加していたことです。
中世の郷社は、郷村内の村々の信仰の中心でした。この時期には、まだ村ごとの神社は姿を見せていません。村ごとに村社が建立されるようになるのは18世紀になってからです。その後、中世の祭礼に代わって獅子舞や太鼓台などが主役になっていきます。ここに描かれているのは、それ以前の郷社の祭礼様式です。それを、各村々から選ばれた踊り手たちが、郷社である諏訪神社に集まって踊りを奉納しています。そして、この数日後には牛頭明神を祭る滝宮天皇社(滝宮神社)にも奉納されます。これを私はかつては「雨乞い踊り」と思っていました。それは、現在の滝宮念仏踊りが雨乞い踊りとされているからです。しかし、「滝宮念仏踊り」は、次の二点から雨乞い「祈願」の踊りとは云えないと私は考えるようになりました。
①坂本念仏踊りの由来には、「菅原道真の雨乞い成就へのお礼のため踊られた」とあること。つまり、祈願ではなく成就への感謝のために踊られたとされている。
②中世の「雨乞い踊り」とされてきた奈良のなむて踊りなども、同様で「雨乞い成就祈願」であること。中世には雨乞祈願ができるのは験のある僧侶や修験者のみが行うものとされていたこと。
③「那珂郡七か村念仏踊り」の幕末の記録には、旱魃で給水作業が忙しいので、今年は「念仏踊り」を延期しようと各村々の協議で決めていること。つまり、踊り手たちも自分たちが踊っている踊りが雨乞い祈願のために踊られているとは思っていなかったこと。
以上からは「那珂郡七か村念仏踊り」は、もともとは雨乞い祈願の踊りではなく、ただの風流踊であったと考えるようになりました。それが近世になって、高松藩主松平頼重が踊りを再開するときに、ただの風流踊りではまずいので、社会的公共性のあるが「雨乞い踊り」として意味づけされたのではないかと考えています。

DSC01883
見物人の背後に建つ桟敷小屋(見物小屋)

それでは中世の念仏踊りは、何のために踊られていたのでしょうか。

その謎は、この絵の周囲に建てられた桟敷小屋からうかがえます。これは踊りを見物するために臨時に建てられた見物小屋です。そして、小屋には、所有者の名前が記入されています。真野村の大政所(大庄屋)の三原谷蔵の名前もあります。つまり、この見物小屋は中世以来の宮座を構成するメンバーだけに許された特等席で、世襲され、時には売買の対象でもあったことは以前にお話ししました。
 また、芸司などの演じ手の役目も、宮座のメンバーで世襲されています。ここからは、この踊りが中世に遡る風流踊りで、真野・吉野郷と小松庄の宮座メンバーによって諏訪大明神(神社)に奉納されていたことが分かります。ここでどんな踊りが踊られていたのか、またどんな風流歌が歌われていたのかも分かりません。ただ絵の題目には「那珂郡七か村念仏踊り」とあるので、風流系の念仏踊りが踊られたいたようです。
DSC01882
桟敷席には、それぞれ所有者の名前が記されている

それを真野村の有力者が桟敷小屋の高みから見物します。そして、庶民はその下で押し合いへし合いながら眺めています。彼らは、頭だけが並んで描かれています。彼らの多くは、この踊りにも参加できません。これが中世的な風流踊りだったようです。ここでは、「那珂郡七か村念仏踊り」は宮座による運営で、だれもが参加できるものではなかったことを押さえておきます。
 これに対して、各村々に姿を現すようになった鎮守では、新たな舞が奉納されるようになります。

DSC01429

それが獅子舞です。
獅子舞は、宮座制に関係なく百姓たちが参加できました。次第に、祭りの主役は夏祭りの「風流踊り」から秋祭りの獅子舞や太鼓台へと主役が交代していきます。そして、農民たちの全員に参加権与えられた獅子舞は、年々盛んになります。
 一方、各村々の有力者による宮座制で運営されたいた風流踊りは、踊り手の確保が困難になり運営が難しくなります。こうして明治になると、滝宮大明神に奉納されていた風流踊り(念仏踊り)は、姿を消して行きます。「那珂郡七か村念仏踊り」が姿を消した原因を挙げておくと
①中世以来の郷社に奉納された祭りで、各村々からの踊り手たちによって編成されていたため、村々の協議や運営が難しく、まとめきれなくなったこと
②運営体制が宮座制で、限られた有力者だけが踊り手を独占し、開かれた運営体制ではなかったこと
③各村々に村社が整備されて、秋祭りに獅子舞や太鼓台が現れ、祭礼の中心がそちらに移ったこと
 滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
「那珂郡七か村念仏踊り」の構成表を見ておきましょう。
ここからは次のようなことが分かります。
①役目が各村々に振り分けられ、どこの村からどんな役をだすのかが決まっていたこと
②真野郷と小松荘の各村々から踊り手や役目が出されて編成されている
③踊りの中心である下知(芸司)は、真野村から出されている
④全体のスタッフが2百人を越える大部隊で編成されたいたこと
⑤鉦打ちが新旧併せて60人と最も多いこと。
⑥子踊り・ホラ貝・薙刀振り・棒振り・幟など、現在の綾子踊りの構成と共通する役目が多いこと
ここでは、佐文村も江戸時代末期まで、「那珂郡七か村念仏踊り」のメンバーであったことを押さえておきます。
 次に寛政2(1790)年の「那珂郡七か村念仏踊り」(福家惣衛著・讃岐の史話民話164P)の佐文のスタッフ配分は、次のようになっていました。
下知1人、小踊6人、螺吹2人・笛吹1人、太鼓打1人と鼓打2人、長刀振1人、棒振1人、棒突10人の計25人。

先ほどの表では約40年後の文政12年(1829)には棒突10人だけになっています。このことは、佐文村に配分されていたスタッフ数が大きく削られたことを示します。
 問題はそれだけではありません。七箇村組の構成そのものが、大きく変化しています。
編成表を比較してみると、寛政2年には踊組は東と西の二組の編成です。そして、下知は真野村と佐文村から各1人ずつ出されています。ここからは1790年までは「那珂郡七か村念仏踊り」には、次の2つの踊組があったことが分かります。
①東組(真野村中心)
②西組(佐文村中心)
②の西組における佐文の役割を見ておきましょう。
6人一組になって踊役を勤める小踊は、踊りの花でもあります。
それが東組では西七箇村から1人、吉野上下村から3人、小松庄四ヶ村から2人の計6人で構成されていました。ところが、西組は佐文村は単独で6人を出しています。
DSC01887
念仏踊りの花形 棒振りと薙刀振り

さらに、佐文から出されていた役目を挙げておくと、子踊りと並んで花形の薙刀振りや棒振りも次の通りです。
長刀振が真野村と佐文村から1人、
棒振も吉野上下村と佐文村から1人
棒突は西七箇村四人。岸上村三人、小松庄四ヶ村3人の計10人に対して、ここでも佐文村は、10人を単独で出しています。
ここからも滝宮念仏踊の那珂郡南組は、佐文村が西組の中心的な存在であったことが裏付けられます。それが何らかの理由で、中心的な位置から10人の棒付きを出すだけの脇役に追いやられた事になります。どんな事件があったのでしょうか?
 想像を膨らませて、次のような仮説を出しておきましょう。

  佐文村が不祥事(事件)を起こし、その責任を取らされて西組は廃止され、さらに佐文は「役目枠縮小」を余儀なくされ、「棒付き10人」のみを送りだせるだけになった。

この仮説を支える材料を探して見ましょう。
 高松藩・丸亀藩・池御料の三者に属する村々には日頃の対立感情がありました。「那珂郡七か村念仏踊り」が中世に真野郷社の諏訪神社や、小松荘の大井神社に奉納するためにスタートした頃は、郷村の団結のための役割を果たしていました。

那珂郡郷名
真野郷と子松庄

ところが近世になって、この地域は次の三つに分断され行政区が異なることになります。所属する藩が次のように違うようになったのです。
①小松荘が天領の榎井・五条・苗田と丸亀藩の佐文に分割
②真野郷の真野・東七箇村+吉野郷などの高松藩領
③真野郷の西七箇村(旧仲南町)などの丸亀藩。
ここで一番いばったのは①の天領となった村々です。ただ小松荘で天領とならなかったのは佐文です。①の天領の村々からは、運営権を握っていた佐文や真野に対して、何かと文句が出たようです。また、②の親藩髙松藩に属した村々も、外様小藩の丸亀京極藩の住人に対して優越感をもち、見下すような言動があったことは以前にお話ししました。その中で西組の中心でありながら、丸亀藩に属し、他村からの批判を受けがちな佐文は、とかく過激な行動を取ることが多かったようです。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社と別当の龍燈院

  享保年間(1716~36)には、滝宮への踊奉納の際に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順位のことで、東西の踊り組の間で、先後争いが起こしています。そのために元文元年(1736)年以後は、念仏踊は一旦中止され、七箇村組は解体状態になります。それから3年後の元文4年の6月晦日に、夏に大降雹(ひょう)があって、東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を受けます。これは滝宮念仏踊を中止したための神罰であるという声が高まり、関係者の間から念仏踊再興の気運が起こります。龍灯院の住職快巌の斡旋もあって、寛保2(1742)年から滝宮念仏踊は復活します。滝宮龍灯院の斡旋案は、踊奉納をした七箇村組に対して「今後は御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避ける」というものでした。しかし、東西二組編成は、再度の紛争が起こる危険をはらんでいました。
 文化五(1808)年7月に書かれた真野村の庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」の7月24日の龍燈院宛の報告には、次のように記されています。

 七箇村組の行列は、下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人の一編成になっている。取遣留の七月廿五日の龍灯院からの御神酒樽の件は、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」と口上を述べ終わると、御神酒樽は龍灯院へ預かって直ちに持ち帰り、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を書院に招待して御神酒を振る舞った。

 ここからは、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院は接待準備しているのが分かります。この時点で、東西2組編成だったのが1組になり、佐文のスタッフが大幅に減らされたようです。それは、寛政2(1790)年から文化5(1808)年までの18年間の間に起こったことと推察できます。
 あるいは、佐文村の内部に何かの変化があったのかもしれません。それが新たに佐文独自で「綾子踊り」を行うと云う事だったのかもしれません。どちらにしても南組が二編成から一編成になった時点で、佐文は棒振り10人だけのスタッフとして出す立場になったのです。

  以上をまとめておきます
①初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、那珂郡南組(七箇村組)は東西2編成で出場していた。
②その西組は佐文村を中心に編成されていた。
③しかし、藩を超えた南組は対抗心が強く、トラブルメーカーでもあり出場が停止されたこともあった。その責任を佐文村は問われることになる。
④その対策として那珂郡南組は、1編成に規模を縮小し、佐文村のスタッフを大幅に縮小した。
⑤これに対して佐文村では、独自の新たな雨乞い踊りを始めることになった。
⑥それが現在の「綾子踊り」で、念仏踊りに対して風流踊りを中心に据えたものとなった。
⑤⑥は、あくまで私の仮説です。事実ではありません。悪しからず。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P
関連記事

綾子踊りユネスコ登録
 綾子踊りのユネスコ登録が間近と言われます。それは全国の「風流踊」のひとつとして登録されるようです。雨乞い踊りも風流踊りのひとつのジャンルとして分類されていることをおさえておきます。綾子踊で歌われている歌も風流踊歌のひとつということになります。
たまさか
綾子踊歌 たまさか(邂逅)
 前回までの綾子踊歌を見てみて気づいたことは、歌詞の中に雨乞いについての内容は、ほとんどないことです。
ほとんどが瀬戸内海を行き交う船と、船乗りと港の女達の恋歌や情歌で、まるで演歌の世界でした。その内容も、わかったような、分からない歌が多いのです。その理由のひとつが、歌詞の意味を伝えようとするのが主眼ではなく、当時流行の風流なフレーズが適当に繋がれているからでしょう。まるで、サザンオールスターズの歌詞のようです。意味不明で、適当な固有名詞やフレーズが雰囲気を作り出していくのです。そのため、解釈せよと云われても、「解釈不能」な歌も数多くありました。最初は、もともとの歌詞が歌い継がれる中で、崩されり、替え歌となって、こうなったのかと思っていましたが、そうではないようです。どうしてこんな歌詞が雨乞い踊りとされる綾子踊りに歌われるようになったのでしょうか。

綾子踊り風流パンフレット

風流踊歌には、次の3系統があると研究者は考えています。
①田楽系統
もともとは広島の囃子田のように太鼓を打ってはやす田の行事が、丘に上がって風流化したもの
②念仏踊系統
中央に本尊を置いて、その周りを念仏を唱えながらめぐる一遍の念仏踊りが風流踊となったもの
③疫病神送り乱舞が風流踊化したもの
  風流踊りの特徴の一つが、老若男女が誰でも参加して踊るという点にあります。  それは以上の3つの系統が入り交じっていることが、それを可能にしていると研究者は指摘します。風流踊については①②については、なんとなく知っていました。しかし、③の「疫病神送り乱舞が風流踊化したもの」という系統については、私は知りませんでした。この系統について見ておきましょう。

京都やすらい踊り

風流踊りでよく知られているのは、京都の「やすらい花」です。
 春に花が散る際に疫神も飛び散ると言われ、その疫神を鎮める行事として行われきたと言われます。現在の行事について、今宮神社のHPには次のように記されています。
 (前略)
 祭の中心は「花傘」です。「風流傘」(ふりゅうがさ)とも云い、径六尺(約180㎝)位の大傘に緋の帽額(もっこう)をかけた錦蓋(きぬかさ)の上に若松・桜・柳・山吹・椿を挿して飾ります。この傘の中に入ると厄をのがれて健康に過ごせると云われています。
祭礼日は町の摠堂に集まり「練り衆」を整え街々を練りながら当社へ向かいます。春の精にあおられ陽気の中で飛散するといわれる疫神。「やすらい花や」と囃子や歌舞によって疫神を追い立てて、風流傘へと誘い、紫野社へと送り込みます。花傘に宿った疫神は、摂社疫社へと鎮まり、この一年の無病息災をお祈りしています。
    今宮神社の境内では、2組8人の大鬼が大きな輪になってやすらい踊りを奉納します。桜の花を背景に神前へと向かい、激しく飛び跳ねるように、そしてまた緩やかに、“やすらい花や”の声に合わせ安寧の願いを込めて踊ります。
 ここからは、花を飾った風流花傘を中心に行列を組み、町の辻々で踊りながら今宮神社境内の疫神社に送るというものであることが分かります。
やすらい祭

この祭りの起源については、鳥羽法皇が亡くなり、保元の乱が起きた1156年3月に京中の子ども達が柴野神社に参って、太鼓や笛を鳴らして乱舞したのが始まりとされます。風流の花笠を指し飾って、みんなが声を揃えて次のような風流歌を歌いながら踊ったとあります。
はなやさきたるや やすらい花や
やとみくさの花 やすらい花や
 梁塵秘抄口伝集巻第十四「花笠、歌笛太鼓」には、柴野神社の踊りが次のように記されています。
「ちかきころ久寿元年(1151年)三月のころ、京ちかきもの男女紫野社へふうりやうのあそびをして、歌笛たいこすりがねにて神あそびと名づけてむらがりあつまり、今様にてもなく乱舞の音にてもなく、早歌の拍子どりにもにずしてうたひはやしぬ。その音せいまことしからず。
傘のうへに風流の花をさし上、わらはのやうに童子にはんじりきせて、むねにかつこをつけ、数十人斗拍子に合せて乱舞のまねをし、悪気(原註:悪鬼とも)と号して鬼のかたちにて首にあかきあかたれをつけ、魚口の貴徳の面をかけて十二月のおにあらひとも申べきいで立にておめきさけびてくるひ、神社にけいして神前をまはる事数におよぶ。
京中きせん市女笠をきてきぬにつつまれて上達部なんど内もまいりあつまり遊覧におよびぬ。夜は松のあかりをともして皆々あそびくるひぬ。そのはやせしことばをかきつけをく。今様の為にもなるべきと書はんべるぞ。」
意訳変換しておくと
「久寿元年(1151年)3月頃、京周辺の男女が紫野社へ風流踊り服装で、歌や笛太鼓、摺鐘などを持って「神あそび」と称して群がり集まっている。今様でもなく、乱舞の音もなく、早歌の拍子どりともちがって歌い囃す。その調子は今までに聞いたことがない。
傘の上に風流の花を指して、童子に「はんじり」を着せて、胸に「かつこ」をつけて、数十人で拍子に合せて乱舞のまねをして、悪気(悪鬼)という鬼の姿をした赤い垂れを首につけて、魚口の貴徳の面を被って12月の鬼洗いのような姿で現れ、わめき叫び狂う。そして神社に参り、神前を回ること数度におよぶ。
京中の貴賤が市女笠を被って、この様子を見に来る。夜は松のあかりを灯して、皆々が遊び狂う。その時に歌われることばをここに書き付けておく。それが今様の為になるかもしれない。」
柴野の今宮さんは、もともとは疫病神でした。
疫病神を祀って疫病が流行らないことを祈ったことになります。これがやがて年中行事になります。その季節が、花の散る頃なので「鎮花(はなしずめ)祭」という雅な言葉で呼ばれるようになります。平安の現実と、それを伝えるフレーズはかけ離れていることに、驚かされます。
ここで注目したいのは「はなさきたるや」の風流踊歌です。
この歌はもともとは、美濃の田歌だと研究者は指摘します。どうして田歌が、疫病神送りに歌われるようになったのでしょうか? これに対して研究者は次のように答えます。
  「疫病神送りの乱舞には、何を歌ってもよかったから」

  この答えには、私は拍子抜けしてしまいました。疫病神送りには、それなりの「テーマソング」が考えられ、そのテーマに沿った歌詞が歌われているものという先入観があったのです。しかし、当時は、参加者のよく知っている流行歌でもよかったのです。そのために疫病神送りに、「はなやさきたるや やすらい花や」という雅な歌が歌われたのです。このミスマッチが「鎮花(はなしずめ)祭」という名称とともに、私たちにシュールさを感じさせるのかも知れません。一昔前なら、村の盆踊りに、流行の昭和演歌が歌われ踊られたのと似ているようにも思えます。
鹿島踊り(伊豆)
鹿島踊り(伊豆)
もうひとつ「鹿島踊り」を見ておきましょう。
 鹿島踊は鹿島神宮の信仰に関係があるようですが、今では茨城県鹿島神宮では踊られていません。相模湾沿いに小田原市から伊豆東海岸一帯にかけて21ケ所の神社で伝承されていますが、本家の茨城県鹿島神宮には今は伝承されていません。伊豆の鹿島踊りは、歌も、踊りも、衣装も、よく似ているので、そのルーツは一つのようです。白丁という白装束で、踊り手がけがれない白の乱舞を見せてくれます。
 鹿島踊りのルーツは、その名の通り常磐の鹿島地方にあるようでが、ここでは、疫病神や疱瘡神を送るために弥勒歌が歌われていました。弥勒歌とは、弥勒の来訪を賛美する祝歌です。弥勒信仰にちなむ芸能で,弥勒歌などを歌いながら踊るのですが、その発祥の地が鹿島なので鹿島踊りとも呼ばれたようです。疫病神送りに、祝歌というのもミスマッチのような気がしますが、ここでも先ほどの「参加者が知っている歌ならなんでもOK」というルールが適用されたようです。

現在伝わっている風流踊歌の中には、次のような点が見えると研究者は指摘します。
①踊り手自身がアドリブ的に、互いに歌い返すタイプ
②音頭的に、歌詞がどんどん継ぎ足されて、延々と詠い踊られるタイプ
こんなタイプは、踊り手と歌い手が一緒なので、踊るだけでなく、歌も満足しようとする気持ちが強かったようです。そのため踊歌には長いものが選ばれる傾向があります。そして、その延長線上には、知っている歌なら何でも、歌って踊ってみようということになります。これはかつての田舎の盆踊りと一緒です。最初はお決まりの歌詞がありますが、次第に飛び込みでアドリブ的な歌が歌われ、その内に流行演歌などが歌われるようになります。先祖供養というよりも「デスコ的雰囲気」が生まれ、「なんでもありあり」状態になります。これが雑多な庶民性で、新たな創造物が生まれ出す源になったのかもしれません。
  「疫病神送りの乱舞(風流踊)には、何を歌ってもOK」という指摘を受けて、綾子踊りの成立について、次のような過程を考えてみました。
①瀬戸内海を行き来する船乗りと港の女の恋歌や情歌が風流歌として、各港を中心に広がった。
②多度津や仁尾・観音寺などの港町の女達が歌った風流踊歌がその後背地に拡大した。
③そして郷村の盆踊りなどに、風流踊歌が「転用・混在」することになった。
④その例が、真野郷の郷社である諏訪神社に奉納された「那珂郡七か村念仏踊り」で、これは念仏系の風流踊りであった。
⑤この踊りは真野郷の村々で編成され、宮座によって運営された。
⑥「那珂郡七か村念仏踊り」、各村々の鎮守社にも奉納され、最後に牛頭天王を祭る滝宮神社にも奉納されるようになった。
⑦については、三豊市財田町のさいさい踊りの歌詞の中に、綾子踊りと共通するものがあることなどからもうかがえます。同じような風流踊りが中世の三豊やまんのう町周辺では歌い踊られていたのでしょう。それが盆踊歌に「転用・混合」されて入り込み、神社などに奉納されるようになった。
 南北朝統一から応仁の乱、明応の政変と戦乱の中で庶民が力を蓄えるようになります。そんななかで、一遍が普及させた踊り念仏が、庶民の民間信仰に娯楽を伴う念仏長田となり、盂蘭盆会と結びつくようになります。そして、それは当時の人の意表をついた派手な様相である風流(ふりゅう)とも合流し、いろいろな風流踊りが誕生します。さらに、江戸時代になると盆踊りに風流踊歌が取り込まれていくようになります。そのような流れの中で綾子踊りも生まれたようです。

風流踊り

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  本田安次「風流踊考」
関連記事

     綾子踊り 塩飽船
 
綾子踊り 塩飽船
しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ 津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンー
さかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ 津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`
多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
意訳変換しておくと
塩飽船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も塩飽船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。

入港する船とそれを迎える遊女の船の名告りシーンが詠われています。
港に入ってくる碇泊した塩飽船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりだというのです。

「梶を押へて名告りあふ」の類例を、見ておきましょう。
①しはくふね(塩飽船)かや君まつは 風をしづめて名のりあをと 花ももみぢも一さかり ややこのおどりはふりよや見よや いつおもかげのわすられぬ…(天理図書館蔵『おどり』・やゝこ)
②しわこふね(塩飽船)かやきぬ君松わ かち(梶)おをさへてなのりあう(越後・綾子舞、嘉永本.『語り物風流二』・常陸踊)
③イヨヲ 塩飽船 彼君まつわ/ヽ イヨヲゝ梶をしつめて名乗りあふトントン(土佐手結・ツンツクツン踊歌・塩飽船)
④四百(塩飽)船かよ君まつは 五百舟かよ君まつは 梶をしづめて名のりあふ(『巷謡編』安芸郡土佐おどり・十五番 おほろ)72
⑤しわこおぶね君待つは 風をひかえておまちあれ(兵庫。加東郡・百石踊・しわこ踊『兵庫県民俗芸能誌』)

「名告りあお」は、船同士で、相手を確かめる約束事だったようです。
説教浄瑠璃「さんせう(山椒)太夫」では、夜の直江浦沖で、人買船同志が相手をたしかめあう場面があります。そこでは自分を名告り、相手の存在もたしかめています。

「塩飽船かや君待つは」の展開例を、研究者は次のように挙げられています。
①兵庫県・加東郡・東条町秋津 百石踊(『兵庫県の民俗芸能誌』
一、しわこおぶね(塩飽船) 君待つは 風をひかえておまちあれ
二、心ないとはすろすろや 冴えた月夜にしら紬
三、抱いて寝た夜の暁は 名残り惜しやの 寝肌やうん
四、君は十七 俺ははたち  年もよい頃よい寝頃
五、こなた待つ夜の油灯は 細そて長かれとろとろと
港の女と船乗りが奏でる港町ブルースの世界につながりそうです。

  ここで思い出されるのが「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」です。
法然上人絵図 室津の遊女
「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」
 この絵図は、讃岐に流刑となる法然上人の舟が室津を出港する場面を描いているとされてきました。この絵図からは、次のようなことが分かります。
①当時の瀬戸内海を行き来していた中世廻船が描かれている。
②船には、法然一行以外にも、商人たちなどが数多く乗船している。
③この船は塩飽までいくので、塩飽廻船として瀬戸内海を行き来していたのかもしれない。
一隻の小舟が近寄ってきます。乗っているのは、友君という遊女です。当時室津の町は、瀬戸内海でも有数の港町で、都からの貴人を今様や朗詠などで接待することを仕事とする遊女が多くいたようです。友君も、源平合戦で没落した姫君の一人とされます。

法然と友君の間で次のような事が話されたと伝えられます。
友君が遊女としての行く末への不安を拭うことができず、法然上人に、次のようにを尋ねた。
「私のこれまでの行いによる罪業の重さは承知しております。どうすればこのような身でも、死後の救いの道は開かれるのでしょうか」
法然上人は、「たしかに、あなたの罪は軽くない。ほかに生きる道があれば生き方を変えるのもひとつ。もし変えることができないのであれば、阿弥陀さまを信じてひたすらにお念仏を申しなさい。阿弥陀さまは罪深いものこそ救ってくださるのです。決して自分を卑下してはいけません」
友君はその答えに涙を流して喜んだ。その後、彼女は出家して、近くの山里に住み念仏一筋に生きて往生を遂げたとされる。
   つまり、この場面は出港する法然上人が船上から友君を教化する場面だとされます。高僧に直接話しかけることが難しかったため、友君は舟に乗って上人のもとまで向かったというのです。

法然上人絵伝を読む - 歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー
 
しかし、「塩飽船」の歌詞などから推測できるのは、このシーンは「出船」ではなく、「入港」場面ではないのかという疑問です。
つまり、「しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ」シーンが描かれているのではないかということです。 
  神崎も、神埼川と淀川の合流地として、また瀬戸内海と京を結ぶ港として栄えた港町です。平安時代には「天下第一の楽地」とまでいわれていました。ここでは法然と遊女の話が次のように伝えられます。

 神崎の湊に法然さまが乗った舟が着いたときのことです。宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました。舟には他に吾妻・刈藻・小倉・大仁(あるいは代忍)という四人の遊女が乗っていました

 ここで注目したいのは、「宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました」とある点です。これも見方を変えると「君まつは 梶を押へて名乗りあふ」のシーンになります。そういう目でもう一度、室津の遊女船を見てみると、梶を押しているのは、女(遊女)です。

道行く人たち―法然上人絵伝 : 座乱読無駄話日記live
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
以上から、これは瀬戸の港町で一般的に見られた遊女船の名告りシーンと私は考えています。
当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。
遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 舵を取ったのは一番の年長者の「老」で、少が一座の主役「若」に笠を差し掛けます。主役の遊女は、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘うのです。
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。このような場面を歌ったのが「塩飽船」ということになります。
 そうだとすると、遊女は法然上人に身のはかなさを身の上相談しているのでなく、船のお客に対して「どうぞお上がりになって、休んでいかれませんか」と「客引」していることになります。

法然上人絵伝「室津遊女説法」画 - アートギャラリー
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
そういう目で船上の法然を見てみると、確かに説法をしているようには見えません。困惑している様子に見えます。

港に入港する船は、「塩飽船」→「堺船」→「多度津船」の順番に詠われます。塩飽と多度津は備讃瀬戸の海上交通の重要な港町でした。堺は繁栄ずる瀬戸の港町の頂点に立つ町です。綾子踊りで一番最初に踊られる「水の踊り」にも、登場していました。

三味線組歌では、次のような類例があります。
堺踊りはおもしろや、堺踊はおもしろや、堺表で船止めて、沖の景色をながむれば、今日も日吉や明日のよやあすのよや、ただいつをかぎりとさだめなのきみ(『日本伝統音楽資料集成』(3)

瀬戸内海の港町へ、船が入港しそれを出迎える遊女船の出会いシーンがうかがえます。今までに見てきた綾子踊歌の中の「四国船」「綾子」「小鼓」「花籠」「たまさか」「六調子」、「塩飽船」は、この続きになります。そういう意味では、瀬戸内海を行き来する船と港と船乗りと女達の「港町ブルース」であると私は考えています。廻船の航海活動が風流歌から連続性をもって見えてきます。


『巷謡編』土佐郡神田村・小踊歌・じゆうごかへり踊・豊後(『新日本古典文学大系』・64巻)には、塩飽が次のように歌われます。
○備後の鞆をも今朝出して ヤアー 今は塩飽の浜へ着く
○塩飽の浜をも今朝出して  ヤア今は宇多津の浜へつく
  広島県の鞆の浦 → 塩飽へ → 讃岐宇多津へと、潮待ちしながら航海を続ける廻船の姿が歌われています。

室津の遊女
揚洲周延筆「東絵昼夜競」室の津遊女(江戸時代)

以上をまとめておくと
①「塩飽船」に歌われる「梶を押へて名乗りあふ」というのは、入港する船とそれを迎える遊女船の名乗りのシーンを歌ったものである。
②当時は入港する船を、遊女船が出迎え招き入れたことが日常的に行われていたことがうかがえる。③江戸時代の御手洗などでも、このような風習があったので近世になっても遊女たちが「梶を押へて名乗りあふ」ことは行われていた。
④そういう目で、「法然上人行状絵図」の室津での遊女教化場面は、「見送りシーン」でなく、遊女の名告シーンとも思える。

  どちらにしても「塩飽船」というフレーズが、中世には瀬戸内海を行き来する廻船の代名詞になっていたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 綾子踊り 六調子
綾子踊り 六調子

五嶋(ごとう)しぐれて雨ふらはば  千代がなみたと思召せ    千代がなみたと思召せ
ソレ リンリンリンソレリンリンリンソレリンリンリン

八坂八坂が七八坂 中の八坂が女郎恋し 中の八坂が女郎恋し
ソレ リンリンリンリンリンソレリンリンリンリンリン

雨もふりたが水も出た 水も出た 渡りかねたが横田川 渡りかねたが横田川
ソレ リンリンリンリンリンソレリンリンリンリンリン
意訳変換しておくと
(一)女 あなたが帰ってゆく道中、時雨が来たら、それは、わたし(千代)が、別れを惜んで流す涙だと思って下さい。
(二)男 道中の坂を越えるたびに、あなたへの恋しさが募るばかり)
(三)男 帰りの道中、横田川を渡りかねています。そのわけは、雨が降り水量が増したからばかりではなさそうです。あなたの宴でのおもてなしが、とてもたのしかったから、お別れがつらいのです。

六蝶子には「勇ましくうたう。速い調子でうたう。」という注がついています。
「六蝶子」は「六調子」です。1番の歌詞から見ていきましょう。最初に出てくる「ごとう=五島」のようですが、九州長崎の五島列島を中心とする島々なのかどうか、よく分かりません。登場する「ちよ」は女性名で、後朝(きぬぎぬ)の別れの台詞です。千代が名残惜しんで歌います。「ちよ」は、この歌の歌い手(自身)です。
2番の「七坂八坂と越えて行く」の歌い手は、「ちよ」と別れてゆく男の科白です。七坂八坂と越えて分かれていく「千代」との別れを詠います。
3番目では、大雨となって道中の横田川が増水して超すに越せない状態になったようです。恋の名残が暗にうたわれているようです。千代と別れて帰る男の道行。別れが辛くて恋しさが募ってくるという所でしょうか。

  ○ごとう(語頭)がしぐれて雨ふらす 
  これもをどり(踊り)のご利生かや

◎千代の男を送り出す別れ涙が雨となった。別れ雨は「涙雨」で、「七坂八坂」の坂を、別れ難くて、越えかねるというの心情が伝わってきます。この心情は、現在の演歌で詠われる「酒は女の涙か、別れ雨」的な心情に受け継がれてきています。こんな歌が、どんな場面で歌われたのでしょうか?
六調子は「酒宴歌謡」で、中世には宴会で踊り付で詠い踊られたと研究者は考えています。
①「ごとうしぐれて」 =送り歌
②「八坂八坂」 =立ち歌
③「雨もふりたつ」 =立ち歌
さらに酒宴の送り歌と立ち歌の関係で見ると、次の通りです。
○もはやお立ちかお名残り惜しや もしや道にて雨などふらば(大分県・直入郡・送り歌)
○もはや立ちます皆様さらば お手ふり上げて ほろりと泣いたを忘りようか(同。立ち歌)
宴会もお開きとなり、招待側が送り歌を歌い、見送られる側が席を立って「立ち歌」を歌います。

「六調子」は、次のように各地に伝わっています。
①広島県・山県郡・千代田。本地・花笠踊・六調子(本田安次『語り物風流二』)
②広島県・山県郡加計町「太鼓踊」。六調子(同)
③広島県・安芸郡田植歌の六調子。(『但謡集』)
④山口県・熊毛郡・八代町・花笠踊・六調子踊(本田安次『語り物風流二』)
⑤熊本県・人吉市・六調子は激しいリズムで、ハイヤ節の源流ともされる。
⑥鹿児島県・熊毛郡の六調子。岡山県の「鹿の歌」の歌を「六調子」と呼ぶ。(『但謡集』)
六調子は、調子(テンポ・リズム)のことで、綾子踊の「六調子」は「至って勇ましく(はやい調子)」でうたわれる記されています。

中世の酒宴の流れを、研究者は次のように図解します。
綾子踊り 六調子は宴会歌

酒宴(酒盛)は歌謡で始まり、やがて座が盛り上がり、時が流れて歌謡で終わります。祝いやハレの場の儀礼的な色合いの濃い酒宴においては、次のように進行されます。
①まずめでたい「始め歌」があり、人々の間にあらたまった雰囲気を作り出す
②次にその時々の流行小歌や座興歌謡として、参加者によって詠われる。
③宴もたけなわになると、酒宴でのみ歌うことを許されている卑猥な歌やナンセンス歌謡、参加者のよく知っている「思い出歌謡」なども詠われる。
④最後に終わ歌が詠われる。

①では、迎え歌に対して、招いてくれた主人やその屋敷を讃めて挨拶とする客側の挨拶歌謡があって、掛け合いとなります。
②の終わ歌は、送り歌と立ち歌が詠われます。これも掛け合いのかたちをとります。

 このように中世の宴会場面で歌われたものが16世紀初頭に当時の流行歌集『閑吟集(かんぎんしゅう)』に採録されます。
   南北朝から室町の時代になると白拍子や連歌師、猿楽師などの遊芸者が宮中に出入りするようになり、彼らの歌う小歌が宴席に列する女中衆にも唄われるようになります。それらを収めたのが『閑吟集』です。流行歌集とも言える閑吟集が編纂されたのは、今様集『梁塵秘抄』から約350年後の室町時代末期(16世紀初頭)のことです。  
 巫女のような語り口調で謡わているのが特徴のようですが、後の小唄や民謡の源になっていきます。これらの小唄や情歌は宴会歌として、人々に歌い継がれ、船乗りたちによって瀬戸の港町に拡がり、風流踊りの歌として、「盆踊り」や「雨乞い踊り」などにも「転用」されていったようです。
綾子踊の「六調子」は「至って勇ましく(はやい調子)」でうたうと注記されています。ここまでの歌と踊りは、緩やかですがこの当たりからアップテンポにしていく意図があるのかも知れません。詠われる内容も「別れの浪が雨」で「大雨となって川が渡れない」です。雨乞い歌に「転用」するにはぴったりです。

参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」

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綾子踊り(まんのう町佐文 賀茂神社)
綾子踊りに詠われている歌詞の内容について、前回までは見てきました。そこには中世の小歌などに詠われた瀬戸内海を行く船や港町の様子、そして男と女の恋歌が詠われていました。雨乞い踊りの歌なので祈雨を願う台詞がでてくると思っていたので、ある意味期待外れの結果に終わっています。
 さて今回は6番目の「たまさか(邂逅)」です。
たまさか
綾子踊り たまさか(邂逅)

一 おれハ思へど実(ゲ)にそなたこそこそ 芋の葉の露ふりしやりと ヒヤ たま坂(邂逅)にきて寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ

二 ここにねよか ここにねよか さてなの中二 しかも御寺の菜の中ニ ヒヤ たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとのかねが  アラシャ

三 なにをおしゃる せわせわと 髪が白髪になりますに  たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとの かねが   アラシャ

意訳変換しておくと
わたしは、いつもあなたを恋しく思っているけれど、肝心のあなたときたら、たまたまやってきて、わたしと寝て、また朝早く帰つてゆく人。相手の男は、芋の葉の上の水王のように、ふらりふらりと握みどころのない、真実のない人ですよ

一番の「解釈」を見ておきましょう。
「おれ」は中世では女性の一人称でしたから、私の思いはつたえたのに、あなたの心は「芋の葉の露 ふりしやり」のようと比喩して、女が男に伝えています。これは、芋の葉の上で、丸い水玉が動きゆらぐ様が「ぶりしやり」なのです。ゆらゆら、ぶらぶらと、つかみきれないさま。転じて、言い逃れをする、男のはっきりしない態度を、女が誹っている様のようです。さらに場面を推測すると、たまに気ままに訪れる恋人(男)に対して、女がぐちをこぼしているシーンが描けます。用例は次の通りです
○かづいた水が、ゆりゆりたぶつき(『松の葉』・巻一・裏組・賤)
○許させませよう 汲んだる水は ゆうりたぶと、とき溢れる(広島市・安芸町・きりこ踊『芸備風流踊り歌集』)
この歌の題名は「たまさか(邂逅)」ですが、これは「たまたま。まれに」という意味のようです。
○恋ひ恋ひて、邂逅に逢ひて寝たる夜の、夢は如何見る、ぎしぎしと抱くとこそ見れ(今様・『梁塵秘抄』・四六〇番、
○思ひ草 葉末にむすぶ白露の たまたま来ては 手にもたまらず
(『金葉和歌集』・巻七・恋・源俊頼)
○恋すてふ 袖志の浦に拾ふ王の たまたまきては 手にだにたまらぬ つれなさは(『宴曲集』・巻第三・袖志浦恋)
○枯れもはて なでや思草 葉末の露の、玉さかに 来てだに手にも たまらねば(同・巻第二・吹風恋)
以上を見てみると「たまさかに」は、港や入江の馴染みの女達・遊女たちと、そこに通ってくる船乗りたちの場面だと研究者は推測します。なじみの男に、対して話しかけたことばが「たまさかに」で、女達の常套句表現だったことがうかがえます。
○「たまさかの御くだり またもあるべき事ならねば わかみやに御こもりあつて」(室町時代物語『六代』)
この歌は何気なく読んでいるとふーんと読み飛ばしてしまいます。しかし、研究者は「恐縮するほど野趣に富んだ猛烈な歌謡である」と評しています。何度も読み返してみると、なるほどポルノチックにも思えてきます。それを堂々と詠っているのが中世らしい感じがします。「たまさかに」という言葉は、当時は女と男の間でささやかれる常套句で、艶っぽい言葉であったことを押さえておきます。

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綾子踊り
  それを理解した綾子踊りの歌詞を改めて見てみましょう。
1番が「たま坂(邂逅)にきて 寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ」で、たまたまやってきた男と、夜明けの鐘が鳴るまで・・・」とあからさまです。
2番の歌詞は、「ここに寝よか ここに寝よか さて菜の中に しかも御寺の菜の中」と続きます。アウトドアsexが、あっけらかんと詠われています。丸亀藩の編纂した西讃府志には、初期のものには載せられていますが、後になると載せられていません。艶っぽすぎで載せられなかったと私は考えています。そして、この歌詞をそのまま直訳して載せることは、町史などの公的な機関の出す刊行物では、できなかたのかもしれません。それほど詠われている内容はエロチックを越えて、ポルノチックでもあるのです。
綾子踊り たまさかに2
遊女と船乗りの男との「たまさか」の世界を見ておきましょう。
たまさかは、遊女達が男たちに対して、口にしていた常套句でした。酒盛りや同衾する男へ、遊女がその出逢いを、「たまさかの縁」「たまさかに来て」と言った伝統があるようです。
『万葉集』以来の雨乞風流踊歌・近世流行歌謡に出てくる「たまさかの恋」の代表的なものは次の通りです。
古代
○たまさかに我が見し人をいかならむ よしをもちてかまたひとめ見む(『万葉集』・巻十一・二三九六)
中古中世
○恋ひ恋ひて 邂逅(たまさか)に逢ひて寝たる夜の 夢は如何見る ぎしぎしぎしと抱くとこそ見れ(『梁塵秘抄』・二句神歌・四六〇番
中世近世
〇たまさかに逢ふとても、猶濡れまさる袂かな、明日の別れをかねてより、思ふ涙の先立ちて(『艶歌選』・3番)
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綾子踊り
3番の歌詞に出てくる「せはせはと」を見ておきましょう。
「閑吟集』には、次の小歌があります。
○男 わごれうおもへば安濃の津より来たものを をれふり事は こりやなにごと(77)
○女 なにをおしやるぞ せはせはと うはの空とよなう こなたも覚悟申した(78)
意訳変換しておくと
男「おまえのことを思って、安濃の津よりわざわざやってきたのに、その機嫌の悪さは何事か」
女「何をおっしゃるのか せはせはと・・」と女が言い返しています。
「せはせはと(忙々)」とは「せわせわしい人。しみったれて こせこせしており その態度のいやらしい人」の意味で使われています。言いわけをしたり、しみったれたことを言ったして、なかなかやって来なかった男をなじっているようです。それが小歌になって、宴会の席などで詠われていたのです。ちなみに、このやりとりからは、男は安濃の津の船乗りで、その女は馴染の人、または遊女かそれに近い存在と研究者は推測します。
せわせわの類例を見ておきましょう。
○何とおしやるぞ せわせわと 髪に白髪の生ゆるまで  (兵庫県・加東郡・百石踊・『兵庫県民俗芸能誌』)
○うき人は なにとおしやるぞ せわせわと 申事がかなうならば からのかゝみ(で)、ななおもて  (徳島県・板野郡・嘉永四年写『成礼御神踊』)


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綾子踊り
佐文に近い三豊市財田町「さいさい踊」には、「豊後みさきおどり」が伝承しています。
ぶんごみのさき からのかがみは のをさて たかけれど みたいものかよ のをさて 
ぶんごみのさき ぶんご女郎たち 入江入江で 船のともづなに のをさて 針をさす
船のともづなに のをさて 針をさすよりも あさぎばかまの のをさてひだをとれ なおもだいじな のをさて すじの小袴
意訳変換しておくと
豊後の岬 唐の鏡は美しく磨かれ 高価だけれども 見たいものよ、 
豊後の岬 豊後女郎たちは 入江入江で 船のともづなに  針をさす
船のともづなに  針をさすよりも 浅黄袴ひだをとれ なおもだいじな  すじの小袴

詠っているのは、船乗りの男です。詠われている「ぶんご女郎」は、豊後の入江入江の港に、入港する船を待っている女達です。船乗りたちからすると、恋女であり、馴染の女性で、つまり遊女です。研究者が注目するのは、「船のともづなに針をさす」という行為です。これには、どんな意味があったのでしょうか?
参考になるのが 三豊郡和田雨乞踊歌「薩摩」の、次の表現です。
①薩摩小女郎と 一夜抱かれて朝寝し(て)起きていのやれ ボシャボシャと薩摩のおどりを一踊り
②薩摩の沖に船漕げば 後から小女郎が出て招く 舟をもどしやれ わが宿へ 舟をもどしやれ わが宿ヘ
この歌に詠われているのは、港町での船乗りの男達と、港の女達との朝の別れの場面です。船出した舟を曳き戻し、船乗りの男を我がもとに留めておこうとする遊女の姿がうたわれています。そのひとつの行為が、船のトモ綱に針を刺す「呪術」だったと云うのです。男たちを行かせまいと、遊女は船のとも綱に針を刺し留めようとしたのです。これは遊女達の間に、受け継がれてきた「おまじない」だったのでしょう。遊女が男の心意と行動を、恋の針でしっかりと刺して、射とめる呪的行為としておきましょう。こんな行為は、歴史の表面や正史には現れません。浦々の女達の、その世界だけの「妖術」とも云えます。そんな行為が、風流歌には「化石」となって残されています。綾子踊歌「たまさか」は、瀬戸内海を行き来する廻船と女達の「入江の文化」を、伝えているといえそうです。
 これらの小歌が讃岐の港町でも宴会の席などでは、船乗りと女達の間で詠われたのでしょう。
観音寺や仁尾・三野の港町に伝えられた小歌や風流踊りが、背後の村々にも伝えられ、それが盆踊りとして踊られ、神社に奉納されるようになったと推測できます。中世の郷社では、この風流踊りの奉納は宮座によって行われていました。そのため神社の境内には、宮座を形成する有力者が桟敷小屋を建てる権利を得ていたことは以前にお話ししました。今では村の鎮守の祭りは、ちょうさや獅子舞が主流ですが、これらが登場するのは近世後半になってからです。中世の郷社では、風流踊りが奉納されていたことを押さえておきます。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪神社の風流踊り(まんのう町真野 19世紀半ば)

 それを示すのが財田の「さいさ踊り」や綾子踊りであり、諏訪神社(まんのう町真野)の風流踊りということになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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今までに12ある綾子踊歌の4つを見てきました。
「1水の踊り」「2 四国船」は、瀬戸内海航路の港や難所、そして、水夫たちが歌われて「港町ブルース」の世界でした。「3綾子」には、綾子の恋の歌で、「4小鼓(こづつみ)」は、情事を詠った艶っぽい歌でした。ここまで見る限りは、雨乞いを一生懸命に祈る、願うというような歌は見当たりません。そろそろ「雨乞い歌」らしい台詞が出てくるのでしょうか。
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花籠

今回は5番目に踊られる「花籠」を見ていくことにします。

綾子踊り 花籠
綾子踊り 花籠
一、花寵に 玉ふさ入れて もらさし人に しらせしんもつが辛苦の つんつむまえの ヒヤ 一 花つむ前の ヒヤ ソレ うきや恋かな せうたいなしや うきや恋かな たまらぬ ハア とに角に
二、花寵に 我恋いれて もらさし人に 知らせしん もつがしんくの つむ前の ヒヤ 一花つむ前の ヒヤ ソレ  つきや恋かな せうたいなしヤ  うきや恋かな砲まらぬ ハア とに角に
三、花寵に うきなを入れて もらさし人に しらせしん もつが辛苦の つむ前の ヒヤ 一 花つむ前の ヒヤ うきや恋かな  せうたいなしや  うきや恋かなたまらぬ ハア 兎二角に
意訳変換しておくと
花籠に恋文を入れて、人には知られないようにと、秘めておくのは、辛いことだよ。しかし、花籠では、すぐに漏れてしまいますよね.

花籠に入れるものが「たまふさ(恋文)→ わが恋 → 浮き名」と変化していきます。この花籠の原型は、 『閑吟集』の中にあると研究者は指摘します。
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『閑吟集(かんぎんしゅう)』は、16世紀初頭に成立した、当時の流行歌集です。 室町時代に流行した「小歌」226種と、「吟詩句(漢詩)」「猿楽(謡曲)」「狂言歌謡」「放下歌(ほうかうた」などを合わせて、311首が収録されています。
座頭 - Wikipedia
座頭
これらは座頭などの芸能者が宴席などで詠っていた歌とされます。そのため艶っぽいものや時には、ポルノチックなものまで含まれています。また自由な口語調で作られた小歌で、実際に一節切り、縦笛によって伴奏され、口謡として歌われたものです。内容的には、恋愛を中心として当時の民衆の生活や感情を表現したものが多く、江戸歌謡の基礎ともなります。
没後50年、松永安左エ門 「電力の鬼」の信念を支えた茶の心|【西日本新聞me】

『閑吟集』の最後を締めくくるのが、「花籠」です。
①花籠に月を入て 漏らさじこれを 曇らさじと 持つが大事な(三一〇番)
②籠かなかな 浮名漏らさぬ籠がななふ(三一一番)
①を意訳変換しておくと
縁側の花籠に 月の光が差し込む
この光を逃さないように 遮るものがないように  この貴重な時間を出来るだけ長く保ちたい
(男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・・)
 花かごの中に閉じこめられた月をしっかり持っている女性、という幻想的なイメージも浮かんできます。それはそれで美しい歌ですが、『閑吟集』は、それだけでは終わりません。

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「花籠」が女性、「月」が男性というお約束があるようです。
そうすると、漏らすまいとしているものは何なのでしょうか、それを持つ(持たせる)事が大切なようです。つまりは、性行為の比喩を描いていると研究者は指摘します。
『閑吟集』は、宴席での小歌なども再録されているので、掛け言葉・縁語を交えての猥歌も出て当然なのです。今で云うとエロチックで、ポルノ的な解釈ができる場面が沢山出てきて楽しませてくれます。
 別の見方をすれば、遊女の純愛の歌と解釈することも出来ます。

愛する男性を我が身に受け入れても、その事は自分の胸の内しっかり秘めて、決して外には漏らさないようにしよう。男の心を煩わしさで曇らさないために、

 さらには、“月”は男女の間の愛情とか、自分の幸福とか、つかめそうでつかめない、努力しなければすぐに網目をすり抜けいってしまう、そんなもの比喩と考えても意味が通りそうです。
 エロチックでポルノチックで清純で、幻想的で、いろいろに解釈できる「花籠」は、戦国時代には最も人気があって、人々にうたわれた流行小歌でした。それが各地に広がって行きます。そして、花籠には「月」に代わっていろいろなものが入れられて、恋人に届けられることになります。綾子踊りの花籠では、花籠に次のものが入れられています。
1番に 玉ふさ(玉章)で「書状=恋文」
2番に わが恋
 3番に  浮き名
綾子踊り 花籠3

前回見た「小鼓」と同じように、『閑吟集』の小歌に遡ることができます。綾子踊歌が中世小歌の流れの上に歌い継がれていることが分かります。

佐文周辺でに伝わる「花籠」を見ておきましょう。
①花籠に浮名を入れて 洩らさでのう人に知らせしん もつがしん     (徳島県板野郡・神踊・花籠)『徳島県民俗芸能誌』
財田 さいさい踊り
財田町石野のさいさい踊

香川県三豊市財田町石野・さいさい踊の「花籠たまずさ踊」では次のように歌います。
②花籠にたまずさ(恋文)入れて ひんや 花籠にたまずさ入れて む(も)らさじの人にしらせずや ア もとがしんく(辛苦)で つむわいの つむわいの
③花籠にうきなを入れて(以下同)
④花籠に匂ひ入れて (以下同)
ここからは、佐文の近隣の財田でも、「花籠」が歌い踊られていたことが分かります。佐文だけに伝えられたのではなく、風流歌として、三豊一帯で謡い踊られていたようです。
つぎの「漏らさじ」とは、「人に知らせまいとして、大事に、秘めやかに・・」という意味です。
311番の類歌には、次のような歌われます。
竹がな十七八本ほしやま、浮名や洩らさじのな籠に組も(『松の葉』・巻一・裏組・みす組)

 以上をまとめておきます
①『閑吟集』には、座頭などの芸能者が宴席などで詠っていた歌などが311首載せれている。
②これは自由な口語調で作られた小歌で、縦笛によって伴奏され、口謡として歌われた。
③これが風流歌として各地に拡がり、この小唄を核にして替歌や、小唄の合体などを行われ各首の風流歌が生まれた。
④綾子踊りの花籠と財田のさいさ踊りの「花籠」の歌詞は、よく似ているので、西讃一帯で歌われていたことがうかがえる。
⑤盆踊りなどでは、最初は先祖供養のオーソドックスなものから始まり、時を経るに連れて次第に猥雑な歌詞も歌われた。
⑥郷社では小屋掛けがされて風流歌が盆踊りとして踊られた。その中に人気のあった「花籠」なども紛れ込んだ。
⑦雨乞成就のお礼のために踊りが奉納されるときに、盆踊りが「転用」された。
こんなところでしょうか。
どちにしても、綾子踊りに「花籠」が詠い踊られている事実は、その由来で述べられている「綾子踊り=弘法大師伝授」説とは、次の点で矛盾します。
①歌われている歌詞が16世紀までしか遡ることは出来ない。
②弘法大師が、こんな艶っぽい歌を綾子に伝えたとは、考えられない。
あくまで弘法大師伝授というのは、伝説のようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」

        
前回までは綾子踊りに謡われる風流歌が「港町ブルース」のように、当時の瀬戸内海の港町や行き交う船の船乗りや港などを舞台にした歌詞が作られていることを見てきました。
今回は、一転して「恋の歌」です。雨乞い踊りに、どうして恋の歌が歌われるのかと疑問に思いますが、少し付き合ってください。 
綾子踊りで3番目に踊られるのは「綾子(綾子踊)」で、歌詞は次の通りです。

綾子踊り 3綾子の歌詞
「綾子踊り 綾子」の歌詞

一、恋をして 恋をして ヤア わんわする 親の ヤア 知らずして
あんあの子は いんいつも ソレ 夏やせをする ウンウノヤ あらんや 夏やせをする ウンウノヤ 
あんあじきなや ヒヤ ひうやに ひうやに ヤア やらに やりうろ やりうろ
二、我が恋は 我が恋は ヤア 夕陽にむこう 沖の石 ふんふみかやさんされて ヤア ソレ ぬるぬるそで エンエンエノヤ あらんや ぬるぬるそで エンエノヤ あんあじきなや ヒヤ ひうやに ひうやに ヤア やらに やりうろ やりうろ
三、我が恋は我が恋はヤアほん細谷川の丸木橋ふんふみかやさんされて ヤアぬれぬる袖エンエンエノヤあんあじきなやひうやにひうやにヤア やらにやりうろ や
意訳変換しておくと
綾子は恋をして、その心は、いつも「わんわ」して、身は細ります。親はそれと知らず、夏痩せをしているのであろうと思っている。実は恋の痩せなのです。

2.3番は、 一転して失恋の「袖の涙」が歌われます。和歌の類型表現でです。そして全てに「さて雨が降り候」を加えて、雨乞風流踊であることが強調されます。内容を詳しく見ていきます。

「綾子」が身も細るほどの恋をしたようです。
「恋をして 恋をして ヤア わんわする わか恋は」の「わんわする」とは、恋に夢中になり、心奪われてしまっている状態をさすようです。次のような表現例を、研究者は挙げています。

①恋をせば 峰の薬師お参りやれ 峰の薬師は恋の神
           (柏崎市・越後綾子舞「恋の踊」)

恋の踊には、「一つとや」「二つとや」と歌ってゆく数え歌系があります。その例になるようです。「あんあの子は  いんいつも ソレ 夏やせをする」というのは、夏痩せと思えたのは、実は恋のためであったということです。

二番の「沖の石 ふんふみかやさんされて  ぬるぬるそで 」の「沖の石」についての例は次の通りです。
②我恋は潮千に満ちぬ沖の石、何時こそ乾く暇もない(備後地方・田植歌『哲西の民謡』)
③わが袖は汐千に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間ぞなき(『千載和歌集』・巻十二恋二こ二條院讃岐。
④沖の石とはおろかの沙汰よ乾く間もなきわが涙…(『落葉集』・第七・「沖の石」)
⑤見るにつけ聞くにつけ、胸に迫りし数々の、袖も乾かぬ沖の石(吟曲古今大全)
⑥汐千に見えぬ沖の石の乾く間もなき袖の露…(同・沖の石)
意訳変換しておくと
「汐が引いた状態でさえ、その存在がわからない沖の石のように、あの人には私の恋心は気付かれないでしょう。実は深く恋い焦がれているのですよ。

「沖の石」というのは、片思いのキーワードのようです。
三番の「細川谷の丸木橋」が謡われる例としては、次の通りです。
①我恋はほそ谷川のまろ木ばし(丸木橋) ふなかへされてぬるヽ袖かな (「平家物語』巻九・小宰相。『淋敷座之慰』。通盛口説木遣)
②我が恋は 細谷川の丸木橋 ふみかへされては ぬるんるゝ袖かや(『松の落葉』巻第六・四十四 地つき踊.)
③我が恋は  細谷川の丸木僑 ふみかへされてぬるる袖かな
(山口県・南條踊歌、「但謡集』)
④わが恋は細谷川の丸木橋 渡るおそろし 渡らにや殿御に あわりやせぬ(大阪府・泉大津・念佛踊歌. )

わが恋が「細川橋の丸木橋」に例えられています。自分の気持ちを伝えなければ届かないし、それを伝えることは怖いし、躊躇する乙女心という所でしょうか。「細川橋の丸木橋」といえば、自分の思いを告げようか告げまいか悩む乙女というイメージが当時の人たちにはあったようです。ここでは、綾子の「わが恋」が「「細川橋の丸木橋」と云うことになるのでしょうが、見てきた通り、ここにも雨乞い的な雰囲気は一切ありません。 「綾子」は、秘めた恋心に苦しむ恋歌としておきます。
研究者が注目するのは全てに出てくる「あんあじきなやひうやにひうやに」の「あじ(ぢ)きなや」です。
このことばは「中世小歌全体の抒情にかかわることば」で「中世小歌の常用の心情語」と研究者は指摘します。『日葡辞書』には、次のように記します。
「アヂキナイ」 情けないこと あるいは嫌気を催させたり、気落ちさせたりするようなことにかかわって言う。あぢきなく あぢきなう」

帚木119-3】古文単語「あぢきなし」とは | 源氏物語イラスト訳で受験古文のイメージ速読

「中世小歌」のキーワードのようです。用例を見ておきましょう。
①沖の門中(となか)で舟漕げば 阿波の若衆に招かれて あぢきなや 櫓が押されぬ(「閑吟集』・一三三)
②北野の梅も古野の花も 散るこそしよずろヽ あぢきなや(『宗安小歌集』‐50)
③見るも苦しみ 見ねば恋しし あぢきなの身や(隆達節)
④吉野のさくら花見る姫も あんじきなあや こしもとこしもと いざやたちより花を見る(香川県三豊郡、さいさい踊・「吉野のさくら踊」)

  次は、4番目が小鼓(つづみ)です。この歌は、もう少し艶っぽい内容になります。
一、君は 小津々み(小鼓) 我しらず ヒヤ 川(皮)をへだてて 恋をめす ソレ うんつんつれなの 君の心に、 イア さて 雨が降り候
二、こまにけられし道草も ヒヤ 露に一夜の宿をかす ソレ うんつんつれなの 君の心にゃ ヤア さて 雨が降り候
三、水にもまれし うき草も ヒヤ 蛍に 一夜の宿をかす ソレ うんつんつれなの 君の心にゃ ヤア さて雨が降り候
意訳変換しておくと
わたしが恋するあなたは、「小鼓」のようなもの。わたしは、その小鼓を打つ演奏者だよ。鼓の皮を打つと美しい音色を奏でます。それなのに、いつもつれないね。

この「小鼓」は、『言継卿記(ときつぐきょうき)』紙背と『宗安小歌集(そうあんこうたしゅう)』に、次のように載せられています。
『言継卿記』(大永七(1527・五月十四日条の紙背。)
①身(私)は小つヽみ きみはしら(調)へよ  川(皮)をへたててね(寝)にをりやる
「宗安小歌集』(一一五番)
②おれ(私)は小鼓 とのは調めよ 皮(川)をへだてて ね(音)におりやある ね(寝)におりや
『言継卿記』と『閑吟集』は、ほぼ同じ16世紀前半の成立です。①・②はともに、女性が自分を「小鼓」だと歌っています。「ね」は「音と寝」を掛けます。二人は川(皮)に隔てられているので、川を越えて、川の道を通って逢いに来るです。恋人(男性)は、鼓の緒を締めたりゆるめたりする奏者であるということ。「皮」は鼓に張られた皮に「川」を掛けています。「寝におりやる」とあるので、人間の肌の皮を暗示して、艶っぽい歌です。まさに「艶歌」に通じます。

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もう少し用例を楽しんでおきましょう。
①我は小鼓ノ 殿御は調よ かはを隔てて  かはを隔てて ねにござる 花の踊りをノ 花の踊りを 一踊り(『松の葉』・巻一・浮世組)
②いとし若衆との小鼓は締めつ緩めつノ調べつつ ねに入らぬ先に 鳴るか鳴らぬか なるかならぬか(同)
③手に手を締めてほとほとと叩く 我はそなたの小鼓か(隆達節二八九)
④きみはこつゞみ しらべの糸よ いくよしめてもしめあかぬ(『延宝三年書写踊歌』・やよやぶし)
⑤そもじやこつゝみ われはしらべよヒヤア かはをへだてゝ のうさて かわをへだてゝ ねにござれ(駿河志太郡徳山村・盆踊歌)
⑥おれは小鼓 殿は知らぬ 川を隔てゝげに呼ぶ ホチヤラニ/ヽ ヮーローヒューヤラーニ
(阿波国神踊歌 徳島県 板野郡 神踊歌 『徳島県民俗芸能誌』)
⑦そもじやこつゞな われらはしらべよ かわをへだてて のふきて かわをへだててねにござれ(静岡県 榛原郡 徳山盆踊歌)
  ⑥には「おれ」とありますが、中世はこれが女性の一人称だったようです。女性のことです。「ぬしの小鼓となりたい」なんていうのは、江戸の小歌の中にもよく出てきます。

二番の「こま(駒)にけ(蹴)られし道草も  露に一夜の宿をかす」を見ておきましょう。
「駒」は馬で、駒に踏みにじられた道草も、露に一夜の宿を貸す、ということでしょうか。転じて路傍の草のように、相手を思うやさしい心を持ちなさい。私の恋心「下心」を、わかって受け入れて下さいという口説き文句になります。その他の用例を見ておきましょう。
人にふまれし道芝は 一路に一夜のやとをかす あら堅そんじやこの宿は(滋賀県草津市上笠・雨乞踊)
3番の「水にもまれし うき草も  蛍に 一夜の宿をかす」の用例を見ておきましょう。
  我が恋は 水に燃えたつ蛍々 物言はで 笑止の蛍 (閑吟集59)

意訳変換しておくと 
私の恋は、水辺で燃え立つ蛍のよう。物も言えない哀れな蛍よ

 「笑止の蛍」の「笑止」というのは、現在ではあざ笑うとか、失笑や冷笑の意味で使いますが、もともとの意味は気の毒なとか、かわいそう、痛ましいことといった意味だったようです。「水に」には「見ずに」がかかります。
  「蛍」は「火垂」で「思い(火)」の縁語として使われます。 
現在の演歌の歌詞のキーワードが「酒と女と涙」のように、「蛍」も閑吟集の決まり文句であったようです。この歌を「鑑賞」すると、多分、忍ぶ恋をしているのでしょう。恋しい人の顔を見ることも出来ず、好きとも言えず、ただじっと耐え忍んで思い続ける恋心の切なさ。なんてかわいそうな私……。そう言ってため息をついているのでしょうか。自分の柄とも思えない忍ぶ恋をしてしまった、そんな自分自身を仕様がないとひっそりと嗤っている、そんな姿が描けそうです。
「道草」と「露」、「浮草」と「蛍」の恋の情をうたう部分は、古浄瑠璃『上るり御前十二段』(浄瑠璃御前十二段)・「まくらもんたう(枕問答)」に次のように記されます。
○さてもそののち御さうし(御曹司)は、かさねてことばをつくされける、いかに申さん上るりひめ(浄瑠璃姫)、むかしかいまにいたるまでたけのはやし(竹の林)かたか(高)いとて とうりてん(塔利天)まてとヽかぬもの、たに(谷)のたかいとてみねのこまつ(峯の小松)にかけささず、九ちようのとう(九重塔)かたかいとて、いかなるいや(賤)しきてうるい(鳥類)つはさ(翼)か、はねうちたてゝと(飛)ふときは、九ちうのとう(九重塔)をもした(下)にみる。こま(駒)にけられしみちしば(道芝)も、つゆ(露)に一やのやと(宿)はか(貸)す。みつ(水)にもまれしかわやなぎ(川柳)も、ほたる(蛍)に一やのやどはかす、かせ(風)にもまれしくれたけ(呉竹)もことり(小鳥)に一やのやと(宿)はかす、
たんだ(只、)人にはなさけあれ、なさけは人のためならず、うきよ(浮世)はくるまのはのごとく、めぐりめぐりてのちのよわ、わがみのためになるぞかし
(『浄瑠璃御前十二段』元和寛永頃古活字版。「古浄瑠璃正本集』第一)
意訳変換しておくと
それでも御曹司は、重ねて次のように言われた。どう言ったらいいのはよく分かりませんが、お聞き下さい(浄瑠璃姫)、昔から今に至るまで竹の林が高いからといって、塔利天までには届きません。谷が深いと云っても峯の小松)に影は指しません。九重塔か高いとて、空飛ぶ鳥たちは翼を持ち、羽ばたいて飛べば、九重塔をも下に見ます。駒に蹴られた道芝も、露に、一夜の宿は貸します。水にもまれる川柳も、蛍に一夜の宿は貸します。風にもまれし呉竹も小鳥に一夜宿は貸します。
 只、人にはなさけがあります。なさけは人のためだけではありません。浮世はまわる車輪のように、めぐりめぐりて後の世、我が身のためになることもあるのです。
ここには、「恋の情けを尊しとすべし」ことが御曹司の口を借りて説かれています。こういう発想・表現が中世の風流踊歌の一つの特質だと研究者は指摘します。
 綾子踊りの「小鼓」には、当時流行していた風流歌の「恋歌」が「頭取り」され、三連ともに最後に「雨が降り候」の一句を「接木」して、「雨乞踊歌」としています。ここまでを整理しておきます。
①16世紀前半に成立した閑吟集などに収められた恋歌が「流行歌」として世間に広がった。
②風流踊りの中に「恋歌」が取り込まれて踊られるようになる。
③風流踊りが盆踊りや雨乞い踊に「転用」されて踊られるようになる。
④こうして、中世に読まれた恋歌が「雨乞い踊り」の歌詞にアレンジされながら歌い継がれることになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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庄内半島 三崎灯台
荘内半島の先端と三崎灯台 右奧が紫雲出山 左側(北)が備讃瀬戸

前回は綾子踊りの最初に謡われる「水の踊」を見てみました。そこには「堺・池田・八坂」の町が登場していました。今回は二番目に踊られる「四国船」の歌詞内容を見ていくことにします。

綾子踊り2 四国船
綾子踊り 2四国船 
一、四国 箱の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす 匂いやつす ヒヤヒヤ
ニ、四国 阿波の鳴門の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
三、四国 土佐の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
意訳変換しておくと
四国、箱の岬(阿波の鳴門、土佐の岬)の、潮の流れの速いことよ。この灘を航海する船は、ここぞとばかり、全身全霊で、辛さを堪えて越えてゆくよ。
最初に出てくる「箱の岬」というの現在の荘内半島の最西端の岬ことのようです。まず庄内半島のことを角川の地名辞典423Pで押さえておきます。
①七宝山脈の一部をなす陸繋島で、大浜と鍋尻の間はかつて海であったのが、土砂の堆積と隆起により、陸続きとなった。
②ここを船は運河で、あるいは台車に載せられ越えていて、そこに鎮座していたのが船越八幡神社である。
③古くは三崎(御崎)半島と呼ばれたが、明治23年の荘内村(大浜・積・箱・生里)の成立とともに荘内半島を呼ばれるようになった。
④江戸期は丸亀藩の支配下で、六浦二島で荘内組を構成した。
ここからは荘内半島が明治以前には「三崎(御崎)半島」や「箱の岬」と呼ばれていたことを押さえておきます。

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  吉田東伍「大日本地名辞書」の讃岐国には、次のように記します。
「箱御埼(三崎)。讃州の西極端にして、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と相対し、二海里余を隔つ。塩飽諸島は北東方に碁布し、栗島最近接す。埼頭に海埼(みさき)明神の祠あり。此岬角は、西北に向ひ、十三海里にして備後鞆津に達すべし。其間に、武嶋井に宇治島、走島あり。
  『鹿苑院(義満)殿厳島詣記』(康応元年)に、鞆の浦の南にあたりて、宇治、はしり(走)など云、島々あり、箱のみさきと云も侍り。へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
など云へるは、実に正確の状也。
 水路志云、三埼は、讃岐国の西北角にして、塩飽瀬戸と備後灘とを分堺す。即東方より航走し来る者、此に至り北して三原海峡、南して来島海峡、其分るヽ所なり
荘内半島と鞆
荘内半島の位置

意訳変換しておくと
箱御埼(三崎)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。足利義満の『鹿苑院殿厳島詣記』(康応元(1389)年には、次のように和歌に詠まれている。
へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
これはまさに正確な記録と云えよう。水路志には、次のように記されている。
 三崎(荘内)半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
②14世紀末に、足利義満が安芸の宮島参拝の帰路に、鞆から荘内半島に至る笠岡諸島を通過している。
③荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
海埼(みさき)明神の祠があったこと、鞆・尾道航路と来島・九州航路の分岐点であったことを押さえておきます。
庄内半島と鞆

『金毘羅参詣名所図会』(弘化四(1847)2月刊)には「箱ノ岬」として、次のように記します。
荘内半島 箱の岬 大浜神社 金毘羅参詣名所図会

「仁保(仁尾)の浦より西北の方にあり。本山の荘よりつゞきて、其間七里の岬なりと言。海上に突出ること抜群にして、左右にくらぶるものなし。箱浦ともいふ浜の方に御崎(三崎)明神の社あり。村中の生土神(うぶすな)なり」

意訳変換しておくと
仁保(仁尾)の浦の西北の位置する。本山荘より続く、七里の岬である。海に突出しているので、左右に障害がなく展望が開ける。箱浦という浜の方には、御崎(三崎)明神の社があり、村中の生土神(うぶすな)となっている。

ここにも「御崎(三崎)明神」がでてきます。しかし、その場所は「箱浦の浜」とされています。

『古今讃岐名勝図会』(嘉永七(1854)年には、「御崎(三崎)明神」について次のように記します。

「讃岐国中、西へ指出たる端なり(中略)
祈雨に験あり祈雨神とも称へり。社の二丁北に、海中に大石あり大幸石といふ。今は絶えたり。又曰く、赤頸の狼等を神使と言い、毎月十九日に見ゆと云。」

ここからは次のようなことが分かります。
①三崎大明神は「祈雨に験あり。祈雨神とも称へり。」とされ、雨乞信仰の神でもあったこと
②三崎神社の社の北の海中には、大幸石という大石があって神の使いとされる「赤首の狼」とされ、毎月19日は、海中から現れたこと。
ここでは、神霊としての信仰対象として、「大幸石」があり「赤首の狼」伝承があったことを押さえておきます。
なお「大幸石」については、「今は絶えたり」とあります。現在は「大幸石」に代わって燈台の沖の「御幸石」が名所となっているようです。

庄内半島 御幸石.3jpg
三崎灯台の下の御幸石

  『全讃史』(明治13年刊)には、「箱の岬」について、次のように記します。
箱御崎。生利(なまり)の浦に有。長く海中へ出る事、三里といへり。御崎(三崎)大明神の祠有 往来の舟、皆、帆を下け、拝して過れり。
打わたす御崎の神はわたつみを幾千代かけて守り給はん 

ここには「往来の船、皆、帆を下け、拝して過れり」とあります。海を行く船人達が、海路安泰を願って、帆を下げて、御崎(三崎)大明神を拝みながら通過していったことを伝えます。これは、古代以来の船人たちの河川や海の境界に鎮座する神への礼拝エチケットだったのかもしれません。庄内半島だけのことではなく、古代以来多くの船が行ってきた習俗だったと研究者は考えています。

日本海事慣習史(金指 正三) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
金指正三『日本海事慣習史』(昭和42年刊)には、「船行」の中で次の文を引用しています。

「霊神ノ立玉フ峰ノ麗ヲ過ニハ、帆ヲスルト云テ、帆ヲ八分ニサグベシ。霊神ヲ敬フ心ナリ」

意訳変換しておくと

霊神が鎮座する峰の麓を船で航行するときには、帆を八部にまで下げることが慣例であった。これが霊神を敬ぶ心である」

 瀬戸の島の断崖の上や、岬の先端に祀られた祠に対して、静かに礼拝をしながら船乗りたちは船を通過させたようです。そして、荘内半島の先端に鎮座する三崎神社に対しても、船乗りたちはこの礼をとっていたことが分かります。
今度は中世の三崎神社を、修験者の海の行場という視点で見ておきましょう。
四国霊場形成史 八幡信仰に弘法大師伝説が「接木」されている観音寺の『讃州七宝山縁起』 : 瀬戸の島から
讃州七宝山縁起
  観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』には、次のような事が書かれています。
 空海が仏宝を観音寺から庄内半島に続く山塊に納めたので、七宝山と号すること、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいうこと。また七宝山にある7つの行場を33日間で行峰(修行)する中辺路ルートがあることが記され、その行場として、次の寺が挙げられています。
初宿 観音寺(琴弾神社別当寺)
第二宿は稲積神社(高屋神社)
第三宿は経ノ滝(不動の瀧)
第四宿は興隆寺(本山寺奥の院)
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺(三崎神社の別当寺)
結宿は曼荼羅寺我拝師山。
七宝山縁起 行道ルート3
七宝山の中辺路の宿泊寺院
 こうしてみると、観音寺から岩屋寺まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったことが分かります。
DSC00417
神正院(詫間町生里)
 その第六宿が荘内半島の神宮寺です。
 この寺は現在の神正院(詫間町生里)で、三崎神社の別当寺であったようです。三崎神社の管理・運営は、このお寺の社僧がおこなっていたことになります。
DSC00409
神宮院の三崎大権現のお堂 
権現からは修験者の拠点であったことがうかがえます。

彼らは山林修行者で修験者でもありました。行場での修行のひとつが、海に突きだした岬と、山の断崖を何度も行き来し「行道」することでした。荘内半島の三崎神社も「七宝山中辺路」ルートの行場として、多くの修験者たちを集めていたのでしょう。
 そして、五来重の説くように、岬の先端では修行の一環として大きな火が焚かれたはずです。それが「龍燈」で、沖ゆく船の船乗りの信仰を集めることになります。つまり、三崎神社は修験者たちの行場であると同時に、船乗りたちの航海安全を願う神社であり、その別当寺を神正院が務めていたことになります。
庄内半島 三崎神社3
三崎神社とその先の三崎灯台(荘内半島先端)
以上から三崎神社の性格や役割をまとめておきます。
①備讃瀬戸・備後灘・燧灘を分ける境界に位置する宗教施設
②岬の先端の行場としての宗教施設
③龍燈が焚かれる「燈台的な機能」や「海運情報センター」
④雨乞いに験がある権現で、管理は別当寺の社僧
燈台のある三崎の先端に向かって四国の道を歩いて行くと三崎神社の手前に、注連柱が立っています。
荘内半島 関の浦
注連柱と「関の浦」の説明版
その注連柱には「廣嶋縣御調郡吉和漁■」と刻まれています。「御調郡吉和」は、現在の尾道市西部にあたります。尾道の漁民たちによって奉納されたことが分かります。三崎神社は、荘内半島周辺だけでなく、遠く尾道や三原などの人々の信仰をも集めていたようです。
 それでは安芸の信者たちは、どのようにして三崎神社に参拝に来たのでしょうか。それを教えてくれるのが、ここに立っている四国の道の
説明板で、次のように記されています。

関ノ浦
 この道を二百メートルほど下ったところに、関ノ浦と呼ばれる砂浜のきれいな小さな入江があります。その昔、鎌倉・室町時代に、沖を通過する船舶から通行税をとっていた所で、山口県の上関【かみのせき】、中関【なかのせき】、下関【しものせき】と共に四大関所と呼ばれるほど重要な関所でした。
 また、明治、大正、昭和の初期までは、漁船が水の補給をしたり潮待ちのための休けい所となってにぎわいました。特に盛漁期には、酒、菓子、日用品などを販売する店が開かれていたといいます。きれいな砂浜の近くには、今でも真水が湧き出ている井戸が二つあり、当時をしのばせています。時は流れ、現在では三崎神社の夏祭の時以外訪れる人もなくひっそりとしていますが、入江の美しさだけは昔のままです。
荘内半島 三崎神社と関の浦

三崎神社の北側の浜には「関の浦」という「浦(港)」があり、
ここには沖ゆく船に飲み水を提供する井戸があり、潮待ちの休息所となっていたこと、さらに中世には「海関」で関銭を徴収していたというのです。尾道の船乗りたちも、ここに立ち寄り潮待ちをしていたのかもしれません。そして大祭などには、船を仕立ててやってきて、関の浦に船を着け、三崎神社に参拝したことが考えられます。

荘内半島 関の浦の井戸
関の浦に残る井戸跡
海の関所を設置し、通行税を徴収していたのは、どんな勢力でしょうか。
それは関銭を山口県の上関・中関・下関を支配下に置いていた海賊衆(海の武士たち)が想定できます。具体的には、芸予諸島に拠点を置き、備讃瀬戸までをテリトリーにした村上海賊衆です。16世紀前半に、村上衆は九州の大友氏に味方して、その功績として塩飽を支配下に置いています。備讃瀬戸南航路を行き交う船の関銭を、ここで徴収していたことは考えられます。そうだとすれば、ここには村上水軍の部隊が常駐していたのかもしれません。それは、讃岐を支配する守護の細川氏にとっては目障りな存在であったはずです。そのために細川氏は、仁尾を西讃岐の海上警備拠点として整備・組織していこうとしたのかもしれません。
 また、海上交通の要衝には宗教施設が建設され、僧侶たちが「管理センター職員」として服務するようになります。
その手法からすれば、ここに鎮座する三崎神社(大権現)は、関の浦(港)の管理センターであり、情報提供センターでもあったはずです。それを別当寺の神宮院が統括していたことになります。
 秀吉の海賊禁止令で、海の関所は取り払われました。しかし、関の浦はその後も潮待ち港として利用され、その山の上に建つ三崎神社は行き交う船の船乗りの信仰を集め続けたのでしょう。それは、この神社の信仰圏の拡がりからうかがえます。

庄内半島 三崎神社
三崎神社の参道石段
 どちらにして三崎神社に続く石段の立派さなどを見ると、辺境の岬に建てられたものとは思えない風格があります。それは、備讃瀬戸の航路に面した宗教施設で、瀬戸内海を行き来する船全体から信仰を集めていたことが背景にあることを押さえておきます。
四国別格二十霊場(二)・第7番札所 出石寺: ORANGE PEPPER
四国霊場別格 出石寺

同じような性格の寺院としては、愛媛県の三崎半島の付け根の山にある出石寺が挙げられます。
 孤立した山の上で出石山が繁栄した理由としては、次のようなことが考えられます。
①古代以来の霊山として、人々の山岳信仰を集めていたこと
②古代以来の瀬戸内海南航路の要衝で、九州を含め広い信者を集めたこと。
③空海伝説があるように真言系の山岳宗教の行場であったこと
徳島の四国霊場の焼山寺や大瀧寺などは、修行のために山上で大きな火を定期的に燃やしたと伝えられます。火を焚かないことには修行にならなかったのです。それは、海ゆく船からは「灯台」の役割を果たすようになり、紀州の水運関係者の信仰を集めるようになっていったことは以前にお話ししました。ここでも同じようなことが起こったのではないかと私は考えています。
 つまり、瀬戸内海南航路を使って、九州に渡って行く場合に、この地は三崎半島の付け根にあたり航路上の要地になります。そこを押さえるという戦略的な価値は大きかったはずです。そして、九州へ渡る船を誘導し、九州からの船を迎え入れる「海運指揮センター」としての役割を中世の出石寺は持っていたのではないでしょうか。
 そう考えると、庄内半島の三崎神社も同じようなことが考えられま

 どちらにしても、庄内半島の北側は、備讃瀬戸の重要航路で、この付近の島々の港はその「黄金航路」と直接的に結びついていて、「人とモノとカネ」が行き交う大動脈があったことは押さえておきます。 
庄内半島 三崎神社2
三崎神社の石段
少し寄り道をしすぎたようです。
四国船の歌詞である「箱の岬の潮の速さに沖漕ぐ船はにほひやつす」に近い他の表現を、研究者は次のように挙げます。
①伊豆や三島に沖こぐ船は泊る夜より枕も揺り驚かす(奈良県吉野郡・篠原踊歌)。
②徳島県鳴門市大麻町神踊歌の「四国踊」には、
「此処はどこぞととひければ音に聞こえし」の型で、「阿波の徳島」「土佐の高知」「伊予の道後」、そして「讃岐の字多津」がうたわれています。
「にほひやつす」については、次の2つを研究者は考えています。
①沖を漕いでゆく船(船人)が、難所を全力を出しきって、苦労難儀して通過して行く様子をうたっている
②「箱の岬、阿波の鳴門、土佐の岬」などの難所で、そこに祀られている神へ祈念して、ここぞとばかりに威勢良く水夫達が漕いでゆく様を謡っている
このような中で綾子踊りの四国船では、鳴門や室戸とともに三崎(荘内)半島が取り上げられ、その最初に謡われていることになります。中世の西讃地域の人々にとって、三崎半島は重要な意味をもつエリアで、そこに鎮座する三崎神社の知名度は高かったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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綾子踊り 全景
綾子踊り まんのう町佐文賀茂神社
綾子踊歌は、次の十二の組踊歌から成っています。
1水踊。 2四国 3綾子 4小鼓。 5花籠  6鳥籠  7邂逅(たまさか)8六調子(「付歌」を含む)。 9京絹 10塩飽船 11しのび 12帰り踊り

綾子踊りは雨乞い踊りなので、歌詞の内容は、降雨祈願のことが謡われているものとかつては思っていました。小さい頃は、何が謡われているのかも気にせずに佐文の住人として、この踊りに参加していました。ところが年月を経て、歌詞の内容を見てみると、雨乞い的な内容のフレーズは、ほとんど見当たらないことに気づきました。出てくるのは艶っぽいオトナの情愛の歌と、瀬戸内海航路を行き交う船と港のことばかりです。まるで「港町ブルース」の世界なのです。どうして、こんな艶っぽい歌が、雨を切実に祈願する綾子踊りで謡われ、踊られていたのか。また、この風流歌の起源はどこにもとめられるのか。それが長年の疑問でした。
 それに答えてくれるのが、「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」です。これをテキストにして、綾子踊歌の起源と内容を見ていくことにします。

綾子踊りで、最初に謡われるのは「水の踊り」です。
綾子踊り 水の踊


一、堺の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ 雨が降ろと ままいの ソレ  しつぽとぬうれて ソレ 水か水か サア こうちござれ こうちござれ
二、池田の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ雨が降ろと ままいの ソレ しつぽとぬうれて ソレ 水か 水かサア こうちござれ こうちござれ
三、八坂の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ 雨が降ろと ままいの ソレ しつぽと ぬうれてソレ 水か 水かサア こうちござれ こうちござれ

「さかひ(堺)の町、池田の町、八坂の町」の3つの町が登場します。

頭の町の名前が変わるだけで、後のフレーズは三番まで同じです。三つの町に雨が降ること、その雨に「しつぽと濡れる」ことが謡われます。これを「人々の雨を乞う願い、雨を降らせようとする強い気持ちで包まれた歌」と研究者は評します。
 ここに出てくる「堺・池田・八坂」の町は、現在のどこに当たるのでしょうか?
「さかい(堺)」は、南蛮貿易や商工業で栄えた堺市でしょう。瀬戸内海交易の最大拠点で、西の博多とともに中世には繁栄していた港町でした。瀬戸内海を行き来する廻船のゴールでもあり、文化の中心地で、憧れの地でもあったようです。
堺の港が、登場すると風流歌や雨乞い踊歌を挙げると次の通りです。
○あれに見えしはどこ浦ぞ 立目にきこえし堺が浦よ 堺が浦へおしよせて    (香川県三豊郡・和田・雨乞踊歌)
○さかへおとりわおもしろやヽ さかへさかへとおしやれども 一化の都にますわゑな      (新潟県刈羽郡・越後綾子舞・堺踊嘉永本他)
○堺の浜を通りて見れば あらうつくしのぬりつぼ竿や  (徳島県阿南市・神踊・殿御踊歌)
○堺ノ浦ノ千石船ハ ドナタヘマイルタカラブネ  (徳島県名東郡・佐那河内村・神踊歌)
○ここは堺か面白やア かたにおろしてあきないしよ あきなゐおどりはひとおどり(徳島県徳島市。川内町あきない踊り
こうしてみると堺の港は、瀬戸内海を行き交う船にとって象徴的な町として、風流歌の中に取り込まれて各地で謡われていたことが分かります。それでは、「池田」「八坂」は、どうなのでしょうか。考えつくのは
池田の町=阿波池田?
八坂の町=京都の八坂?
ですが、どうもピンときません。これらの町も「堺」とともに、めでたく豊かさを象徴する町として出てくるとしておきましょう、その中でも「堺の町」は、瀬戸内海文化エリアの中で繁栄する港町のイメージとして登場し、謡われていることを押さえておきます。
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綾子踊り 団扇には「雨乞い」裏が「水」

次に「広いようで狭い」「しっぽと濡れて」です。

この類型句を挙げて見ると次の通りです。
○堺の町は広いようで狭い 一夜の宿を借りかねて 森木の下で夜を明かす 夜を明かす  (順礼踊『芸備風流踊歌集』)
○遠州浜松広いようで狭い 横に車が二挺立たぬ(『山家鳥虫歌』・遠江)
○遠州浜松広いよで狭い 横に車が横に卓がやんれ 一丁も二丁目三丁目も…  (新潟県刈羽郡・越後綾子舞・堺踊嘉永本他)
ここに出てくる「広いようで狭い」という表現は、その街道が狭いこと云っているのではなく、むしろ、道も狭いと感じさせるほど、町が繁盛し人々で賑わっていることを伝えていると研究者は指摘します。浜松は、東海道のにぎやかな海道の要所です。18世紀後半の『山家鳥虫歌』に、このような表現があるので、近世民謡の一つのパターン的な表現方法のようです。いわば現在の演歌の「恋と涙と酒と女」というような決まり文句ということでしょうか。綾子踊「水のおどり」は、その決まり文句が入ってきているとしておきます。

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次は「しつぽと」についてです。
『宗安小歌集』に、次のような表現があります。
「しつぽと濡れたる濡れ肌を今に限らうかなう まづ放せ」(一七五番)
艶っぽくエロチックな表現です。しかし、「濡れ肌」でなく「町がしっぼと濡れる」です。これは堺の町など三つの町が、めぐみの雨によって、十分にしっとりとうるおい、蘇ったありさまを表現していると研究者は評します。しかし、それだけではありません。
 中世の『田植草紙』系田植歌には、色歌・同衾場面をうたう情歌にもよく出てきます。こんな表現を民衆は好みます。だから風流化として各地に広まったのでしょう。そして、その根っこでは、人間の「繁殖」と稲の豊穣を重ねて謡われていたと研究者は評します。ここでは、豊作を願う農民たちの祈り歌の思いが込められていたとしておきます。
どうして綾子踊りの最初に、「水おどり」(雨のおどり)が踊られるのでしょうか?
それは綾子踊の目的が雨乞いにあるからと研究者は指摘します。雨が降って身が濡れること、夕立雲が湧き出てくる様子も、豊穣の前兆としてうたわれます。「水おどり」も歌謡・芸能の風流の手法として、農耕の雨を呼ぶ「呪歌」であると云うのです。雨が降ることを確信を持って謡うこと、また祈願が叶って雨が降ったときの歓喜が「雨よろこび」の歌となります。
西讃府志 綾子踊り
西讃府志 『雨乞踊悉皆写』
幕末に丸亀藩が編纂した『西讃府志』・巻之三の『雨乞踊悉皆写』には、「綾子路舞」について、次のように記します。

佐文村二旱(日照)ノ時、此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏神ノ社トニテスルナリ」

これに続いて、祭礼の人数・役割・位置・衣装等が詳しく記されます。
西讃府志 綾子踊り3
西讃府志 『雨乞踊悉皆写』 最後に踊りの順番が記されている
その一番最後に、踊の順を次のように記します。
 其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠、次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ馴日、次ナルヲ忍び 次ナルヲ帰り踊 ナドト、十二段ニワカテリ
ここでも「水の踊」が全十二段の、最初に置かれています。
綾子踊りは、雨を呼ぶための呪術的祭礼歌謡です。そのために、雨を期待し、表明する歌謡として伝承されてきました。
しかし、雨乞い踊りと云われる中に、雨が降ったことに感謝するために踊られるものもあります。
例えば、滝宮神社に奉納される坂本念仏踊りには、「菅原道真の祈雨成就に感謝して踊られる」と、その由来に書かれています。雨乞い踊りではなく、もともとは「雨乞成就への感謝踊り」なのです。
 奈良大和の「なむて踊り」も、雨乞い踊りではなく、降雨感謝の踊りです。そして、その踊りは、風流盆踊りが借用されたもので、内容は風流踊りでした。これが雨乞い踊りと混同されてきたようです。

綾子踊り 善女龍王
綾子踊り 善女龍王の幟

 中世では素人が雨乞いを祈願しても神には届かないという考えがあったようです。
丸亀藩が正式に雨乞いを命じたのはは善通寺、髙松藩は白峰寺だったのは以前にお話ししました。そこでは、高野山や醍醐寺の雨乞い修法に則って「善女龍王」に、位の高い僧侶が祈祷を捧げました。村々でも、雨乞は山伏や近郷の祈祷寺に依頼するのが常でした。自ら百姓たちが雨乞い踊りを踊るというのは少数派で、中世においては「異端的で、先進的」な試みだった私は考えています。
 そういう意味では、佐文の綾子に雨乞い踊りを伝授したという僧侶は、正式の真言宗の僧侶ではありません。それは、山伏や高野聖たちであったと考えた方がよさそうです。雨乞いは、プロの修験者や真言僧侶など霊験のあるものが行うもので、素人が行うものではないという考えが中世にはあったことを、ここでは押さえておきます。

綾子踊り 善女龍王2

 以上見てきたように「水の踊」に登場するのは「堺・池田・八坂」です。讃岐近郊の地名は登場しません。この歌が瀬戸内海を行き交う船の寄港地などで風流歌として歌われ、それが盆踊りに「借用」され、讃岐でも拡がったこと。佐文では、さらにそれをアレンジして「雨乞踊り」に「借用」して踊られるようになったことが考えられます。
最後に意訳変換しておくと
繁昌する堺の町(池田の町、八坂の町)は、広いようで狭いよ。雨乞踊の祈願が叶って雨が降り、人々は蓑よ笠よと騒いでいるが、田も野もそして町も、しっぽりと濡て潤い、蘇りました。この「水が水が」とうたう水の歌が、佐文に水を呼ぶ。うれしいことだよ、めでたいことだよ。

 「雨乞踊の最初に、願いどおりの結果になつたことを、前もってうたい、世の中を祝った予祝歌謡」と研究者は評します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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綾子踊|文化デジタルライブラリー
綾子踊り 棒振と薙刀振り(まんのう町佐文 賀茂神社)

綾子踊りは、踊りが始まるまでは、次のような流れで進められて行きます。
①踊り役が入場する前に、龍王宮を祭り、左右に榊をもって露払をする
②台傘持が入り、幟持四名が続き、その後唐櫃、龍王の御霊、柱突、棒振、薙刀振、山伏姿の法螺貝吹、小踊、芸司、太鼓、鼓、笛、地唄、側踊の順に入場して、それぞれの位置につく。
③初めの位置取りは、棒と薙刀が問答を行うため、地唄、警固などが神前定位置に進み、その他は神社の随身門を入ったところに、社前に広場を作る。
④棒振と薙刀振の所作(棒振が進み出て四方を払い、中央で拝して退くと、薙刀振が出て中央で拝し、薙刀を携えて西東北南と四方を払い、再び中央を払い、また四方を払う。薙刀の使い方には、切りこむ形、受けの形、振り回す形などがある。)
⑤棒振と薙刀振とが中央で向かい合い、掛け合いの問答をする
⑥台傘持が来て、棒振と薙刀振の頭上に差掛けると、二名は退場。

綾子踊り 薙刀
綾子踊り 薙刀振り
③④⑤の棒振と薙刀振によって行われる問答は次のようなものです。
棒 暫く暫く 先以て当年の雨乞い 諸願成就 天下泰平 国土安穏 氏子繁昌 耕作一粒万倍と振り出す棒 は 東に向かって降三世夜叉 
薙 抑某(ソモソレガシ)が振る薙刀は 南に向かって輦陀利(ぐんだり)夜叉 
棒 今打ち出す棒は 西に向かって大威徳(だいいとく)夜叉 
薙 又某が振る薙刀は 北に向かって金剛夜叉
棒 中央大日大聖不動明王と打ち払い 薙 切り払い 棒 二十五の作物 薙 根は深く
棒 葉は広く 薙 穂枯れ 棒 虫枯れ 薙 日損 水損 風損なきように 
棒 善女龍王の御前にて 悪魔降伏と切り払う薙刀 柄は八尺 身は三尺 
薙 神の前にて振り出すは 棒 礼拝切り 薙 衆の前は 棒 立趾切り 薙 木の葉の下は 
棒 埋め切り 薙 茶臼の上は 棒 廻し切り 薙 小づまとる手は 棒 違い切り 
薙 磯打つ波は 棒 まくり切り 薙 向かう敵は 棒 唐竹割り 薙 逃る敵は 
棒 腰のつがいを車切り 薙 打ち破り 棒 駈け通し 薙 西から東 棒 北南 薙 雲で書くのが 棒 十文字 薙 獅子奮迅 棒 虎乱入 薙 篠鳥の 棒 手を砕き 雨の八重雲 雲出雲の 池湧きに 利鎌を以って 打ち払い 薙 切り払い 棒 今神国の祭事 薙 東西 棒 南北と振る棒は 陰陽の二柱五尺二寸 薙 ヤッと某使うにあらねども 棒 戸田は 薙 三つ打ち 棒 自現は 薙 身抜き刀軍 古流五法の大事 命

問答の最初に登場するのは、東西南北の守護神と不道明王の五大明王たちです。これらは、修験者たちの崇拝する明王です。続く問答も、山伏たちの存在が色濃くします。
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宇和島藩の旧一本松村増田集落の「はなとり踊」を見てみましょう。
「はなとり踊り」には、山伏問答の部分「さやはらい」があります。「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、踊りの最初に増田集落では修験者がやっていたと伝えられます。山伏と民俗芸能の関係を考える際の史料になるようです。
増田はなとりおどり】アクセス・イベント情報 - じゃらんnet
    はなとりおどり(愛南町増田)
「さやはらい」の問答部分は次の通りです。
善久坊  紺の袷の着流し、白布の鉢巻、襟、草履ばき、腰に太刀と鎌をさし、六尺の青竹を手にしている。
南光坊  同じいで立ちだが、鎌はさしていない。南光坊が突っ立ち、行きかける。善久坊をやっと睨んで声をかける。
南光坊  おおいそもそもそこへ罷り出でたるは何者なるぞ。
善久坊  おう罷り出でたるは大峰の善久坊に候、今日高山尊神の祭礼にかった者。
南光坊  おう某は寺山南光院、’今日高山尊神の御祭礼の露払いにかった者、道あけ通らせ給え。
善久坊  急ぐ道なら通り給え。
南光坊  急ぐ急ぐ。
 南光坊行きかける。善久坊止める。両者青竹をもって渡り合う。鉦・太鼓の囃子、青竹くだける。これを捨て南光坊は太刀、善久坊は鎌で立ち廻る。善久坊も刀を抜いて斬りむすぶ。勝敗なく向かい合って太刀を合掌にした時、[さやはらい]一段の終りとなる。
 ここからは「さやはらい」に登場するのは山伏で、はなとり踊が山伏の宗教行事であることが分かります。はなとり踊りの休憩中に希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打って、さいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。

  行事全体を眺めると、この踊りをプロデュースしたのは山伏だったことがうかがえます。
里人の不安に応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは山伏たちだったのです。この視点で、讃岐の佐文綾子踊りを見てみると、行列の先頭にはホラ貝を持った山伏が登場します。行列が進み始めるのも、踊りが踊られ始めるのもホラ貝が合図となります。また棒振と薙刀振が登場し、「さいはらい」を演じます。これらを考え合わせると、綾子踊の誕生には山伏が関与していたことがうかがえます。

山伏(修験者)武術と深く関わっていた例を見ておきましょう。
 幕末に、まんのう町の公文の富隈神社の下に護摩堂を建てて住持として生活していた修験者がいました。木食善住上人です。上人は、石室に籠もり断食し、即身成仏の道んだことでも有名です。
  また上人は修験者として武道にも熟練して、その教えを受けていた者もたくさんいたといいます。特に、丸亀藩・岡山藩等の家中に多く、死後には眼鏡灯(摩尼輪灯)2基が、岡山藩の藩士達が、入定塔周辺に寄進設置されています。このように山伏の中には、薙刀や棒術、鎖鎌などに熟練し、道場的な施設を持つ者もいたのです。そういう視点から見れば、山伏たちが雨乞い踊りや風流踊りをプロデュースする際に、踊りの前に武術的な要素をお披露目すすために取り入れたのかも知れません。
市指定 お伊勢踊り - 宇和島市ホームページ | 四国・愛媛 伊達十万石の城下町
伊勢踊り
もうひとつ綾子踊りと共通するものが宇和地方にはあります。
 伊勢踊りです。これは旧城辺町僧都の山王様の祭日(旧9月28日に)に行なわれる踊りです。男の子供6人が顔を女のようにつくり、女の長儒絆を着て兵児帯を右にたらし、巫子の姿をして踊ります。これも山王宮の別当加古那山当山寺の瑞照法印が入峯の時に、伊勢に参宮して習って来て村民に伝えたといわれています。
「男子6人の女装での風流踊り」という点が、綾子踊りとよく似ています。それを、村に導入したのが、山伏であると伝わります。綾子踊りも、このようなルートで導入された可能性もあります。

綾子踊|文化デジタルライブラリー
綾子踊り 6人の子踊り
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
松岡 実  「山伏の活躍」 和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』所収(吉川弘文館、昭和36年)
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綾子踊り11
綾子踊り(まんのう町佐文) 賀茂神社への行進

2年に一度公開されている綾子踊りも、前回はコロナ禍で中止されました。今年は3年ぶりの開催が予定され、佐文では準備が始まっています。そこで、この際に綾子踊りについて、日頃から疑問に思っていたことを洗い出して、調べて行こうと思います。
 テキストは最近発行された「祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史」まんのう町教育委員会 平成30年」です。この冊子は、全国の風流踊りを一括してユネスコの文化遺産に登録するために、教育委員会が編集・発行したもので、専門家による綾子踊りの分析が行われています。

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綾子踊り 賀茂神社
まずは、綾子踊の起源と由来を押さえておきます。
綾子踊りの国の文化財指定で大きな決め手になったのが、踊りの歌詞や由来などについて記した記録でした。これは、戦前に佐文の華道家の尾﨑傳次(号清甫)氏が、古文書を書き写したものです。
尾﨑傳次について、最初に紹介しておきます。
彼は明治3年3月29日に佐文に生まれています。傳次が生まれた翌年明治4年に、宮田の法然堂の住職を務めたいた如松斉は法然堂を出て、生間の庵に隠居して華道に専念するようになります。その庵に多くの者が通い如松斉から未生流の流れをくむ華道を学んだ。如松斉から手ほどきを受けた高弟の中に、佐文の法照寺5代住職三好霊順がいました。霊順は、如松斉から学んだ立華を、 地元の佐文の地で住民達に広げていきます。尾﨑傳治も若いときから法照寺に通い霊順から手ほどきを受け、入門免許を明治24年12月に21歳で得ています。その際の入門免許状には「秋峰」とあります。後の七箇村長で国会議員を務めた増田穣三のことです。
 この前年には、如松斉の七回忌に宮田の法然堂境内に慰霊碑が建てられます。この免状からは、穣三が未生流から独立し「如松流」の第2代家元として活動していたことが分かります。尾﨑傳次は、その後も熱心に如松流の華道の習得に努め、増田穣三が代議士を引退後には直接に様々な教えを学んだようです。
 尾﨑家には、傳次が残した手書きの「立華覚書き」が残されています。孫に当たる尾﨑クミさんの話によると、祖父傳次が座敷に閉じこもり半紙を広げ何枚も立華の写生を行っていた姿が記憶にあると話してくれました。
 傳次はその後も精進を続け、大正九(1920)年には、華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任しています。大正15年3月に師範免許(59歳)を、続いて昭和6年7月に准目代(64歳)、最後に昭和12年6月には会頭指南役の免状を、「家元如松斉秋峰」(穣三)から授かっています。傳次は、そういう意味では田舎にありながら「華人」であり「文化人」でもあったようです。失われていく綾子踊りの記憶を、きちんと残しておこうという使命感と能力があったのでしょう。傳次は戦中の昭和18年8月9日に73歳で亡くなります。
 亡くなる前年2月に、長男である沢太(号湖山)に未生流師範を授けています。沢太は小さい頃から父傳次より如松流の手ほどきを受けていたというから、代替わりという意味合いもあったのかもしれない。
 その後、沢太は戦後の昭和24年9月には荘厳華教匠、昭和25年10月には嵯峨流師範と未生流以外の免状を得て、昭和27年には香川司所評議員、33年には地方幹事に就任し、未生流のみならず香川の華道界のために尽力した。一方、沢太は父傳次の残した文書を参考に、戦後の綾子踊り復活に際して、芸司としても中心的な役割を果たすことになります。これも、華道を通じて尾﨑家に養われてきた文化的な素養の力があったからだと私は考えています。
尾﨑傳次が書き写したという綾子踊りの起源についてについて、見ておきましょう。(現代訳版)

佐文村に佐文七名という七軒の豪族、四十九名がいた。昔、千ばつがひどく、田畑はもちろん山野の草や木に至るまで枯死寸前の状況で、皆がとても苦しんでいた。その頃、村には綾という女性がいた。ある日、四国を遍歴する僧がやって来た。僧は、暑いので少し休ませてもらいたいと、綾の家に入った。綾は快く僧を迎え、涼しい所へ案内をしてお茶などをすすめた。僧は喜んでお茶を飲みながら、色々と話をした。その中で、旱魃がひどく、各地で苦しんでいるが、綾の家ではどううかと尋ねられた。そこで綾は、「自分の家ももちろん、村としても一杓の水も無い状況で、作物を見殺しにするしかない。本当に苦しい」と答えた。
すると僧は、「今雨が降ったら、作物は大丈夫になるか」と尋ねたので、「今雨が降ったら、作物はもちろん人々は喜ぶでしょう」と綾は答えた。その答えに僧が「それでは私が今、雨を乞いましょう」と言う。綾は怪しみ、「いくら大きな徳がある僧でも、この炎天下に雨を降らせるのは無理と思います」と答えた。すると僧は、「今、私の言うようにすれほ、雨が降ること間違いなしです」と言う。そこで綾は「できる限りやってみます」と答えた。僧は「龍王に雨乞いの願をかけ、踊りをすれば、間違いない。この踊りをするには多くの人が必要なので、村中の人たちを集めなさい」という。
 そこで綾はあちこちと村中とたずね歩いたものの日照りから作物を守ろうとするのに忙しく、だれも家にはいない。帰ってきた綾が、誰もいないことを僧に話すと、「では、この家には何人子どもがいるか」と尋ねる。「六人」と答えると、「ではその子六人と綾夫婦と私の九人で踊りましょう。その他親族を集めなさい」と言う。綾は、走って兄弟姉妹合わせて四・五人呼ぶと、僧が「まず私が踊るので、皆も一緒に踊りなさい」と踊り始めた。

 二夜三日踊って、結願の日となっても雨は降りません。なのに僧侶は「今度は蓑笠を着て、団扇を携えて踊りなさい」と言う。綾は「この炎天下に雨が降るわけでもないのに、蓑笠は何のためですか」と怪しんで訊ねます。
「疑わず、まず踊りなさい。そして踊っている最中に雨が降っても、踊りを止めないこと。踊りをやめると、雨は少なくなるので、蓑笠を着て踊り、雨が降っても踊りが終わるまで止めずに、大いに踊りなさい」と僧は云います。綾は「例えどんな大雨が降っても、決してやめません」と答えた。まず子ども六人を僧の列に並べ、僧自らが芸司となって左右に綾夫婦を配置しました。親類の者には大鼓、鉦を持たせてその後ろに配し、地唄を歌つて大いに踊った。すると、不思議なことに、踊りの半ばには一天にわかに掻き曇り、雨が降り出したのす。 みんなは歓喜の声を上げながら踊りに踊った。雨は次第に激しくなり、雨音が鉦の響きと調和して、滝のように響きます。ついには山谷も流れるのではないかと思う程の土砂降りとなり、踊るのも大変で、太鼓の音も次第に乱れていきました。終わりの一踊りは、急いでしまい前後を忘れ、早め早めの掛け声の中で大いに踊った。 降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯から、昔も今も綾子踊りに側踊りの人数に制限はありません。善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。
踊りが終わってから、歌や踊りの意味などを詳しく教えてもらいたいと僧に乞うと、詳しく教えてくれ、帰ろうとした。
綾や子どもたちが、名残を惜しむようすを見て、僧は心動かされ、「今後どのような千ばつがあっても、 一心に誠を込めてこの踊りを行えば、必ず雨は降る。末世まで疑うことなく、千ばつの時には一心に願いを込め、この雨乞いをしなさい。末代まで伝えなさい」と言って、立ち去った。見送っていると、まるで霞のような姿だったので、この僧は、弘法大師だと言い伝えられるようになり、深く尊び崇まれるようになった。佐文の綾子踊りと言うのは、この時から始まり、皆の知るところとなった。千ばつの時には必ずこの踊りを行うこととなり、綾子踊りと言うのも、ここから名付けられた。

ここには次のようなことが分かります。
①雨乞い踊りを伝えたのは、四国巡礼の旅の僧侶で弘法大師であったとする弘法大師伝説の1パターンであること。
②「龍王に雨乞いの願をかけ」とあり「善女龍王」信仰による雨乞いであること。
③雨乞い踊りを2夜3日踊ったのは、綾子の一族だけであったこと
④雨乞い踊りの内容や謡われた歌については何も書かれていないこと。
⑤雨を降らせるための雨乞い踊りが綾に伝授されたこと

 綾子踊りは、中世の風流踊りの流れを汲む雨乞い踊りです。
それは16世紀初頭に成立した「閑吟集」に載せられた歌がいくつも、歌詞の中に登場することからも分かります。つまり、綾子踊りは中世の風流踊りが地方伝播に伝播し、それが雨乞い踊りに「転用」されたものと研究者は考えています。そうだとすると、弘法大師の時代にまで綾子踊りの起源を遡らせることはできません。中世以来伝わってきた風流踊りが、弘法大師伝説の拡がりとととに空海に結びつけられたとしておきます。

空海が雨乞いの際に祈願した「善女龍王」が讃岐にもたらされたのも、17世紀後半のことです。
「浄厳大和尚行状記」には、次のように記します。

浄厳が善通寺で経典講義を行った延宝六年(1678)の夏は、炎天が続き月を越えても雨が降らなかった。浄厳は善如(女)龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦すること一千遍、そしてこの陀羅尼を血書して龍王に捧げたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。

ここには、高野山の高僧が善通寺に将来された際に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞の修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を浄厳が建立したことが記されています。それが善女龍王です。善女龍王が讃岐に勧進されるのは17世紀になってからのようです。以後、善女龍王は三豊の威徳院(高瀬町)や、本山寺(豊中町)にも安置され、信仰を集めるようになります。逆に言うと、真言寺院では雨乞い祈祷は善女龍王を祀る寺院で、修行を積んだ験の高い選ばれたプロの宗教者が行うもので、素人が雨乞いなどを行っても効き目はないと考えられていたのです。
 それでは、綾子踊りと空海を結びつける「弘法大師伝説」を作り出したのは誰なのでしょうか?
  それがこの由来に登場する「四国を遍歴する僧」なのでしょう。遍歴僧とは、具体的には高野聖や六十六部廻国僧・修験者・山伏などが考えられます。例えば高野聖たちは、善通寺や弥谷寺や白峰寺などを拠点に、周辺の郷村への布教活動を展開し、浄土阿弥陀信仰や弘法大師伝説を広げていました。あるものは、郷村に建立されたお堂や神社に住み着く者もありました。歌人として知られる西行も「本業」は、高野聖で勧進聖でした。そのため善通寺周辺に逗留し、我拝師山での修行もおこなっています。
 彼らは布教の手段として、「芸事」を身につけていました。
それが見世物芸であったり、風流踊りや歌のでもあり、西行の場合は短歌であったともいえます。連歌師のなかには、漂泊の高野聖たちも数多くいたようです。ここで押さえておきたいのは、高野聖や修験者たちはプロの宗教者であると同時に、人々への布教や人寄せのために「サイドビジネス」として芸事を身につけたいたということです。  それが寺の勧進や、定期的な開帳などには演じられ、人寄せに大きな力を発揮していたのです。
 江戸時代になると廻国の修験者や高野聖たちが移動を禁じられ、定住を強制されるようになります。
あるものは、帰農して庄屋に成っていくものもいますし、あるものは薬草の知識を活かして、漢方薬の製造や販売を手がけるようになるものも現れます。しかし、多くのものは、郷村の神社やお堂に住み着き、お寺の住職や神社の神主たちと棲み分け、分業しながら野地域住民たちの宗教世界をリードしていく道しか残されていませんでした。例えば、現在は神社から配布されている蘇民将来のお札などは、神仏分離以前は山伏たちの収入源でもありました。
山伏たちがどんな風に、村々に入り込み、どんな活動をしていたのかを見ておきましょう。
 高松市の南部で仏生山法然寺がある香川郡百相(もあい)村に残る庄屋文書を見ておきましょう。今から200年ほど前の文政6(1823年)、この年は田植えが終わった後、雨が降らなかったようです。大政所の残した「御用日帳」には、5月17日に次のように記されています。
  「干(照)続きに付き星越え龍王(社)において千力院え相頼み雨請修行を致す」

日照りが続いたために、農作物へ悪い影響が出始めたようです。そこで「千力院」に依頼して、星越龍王社で「雨乞修行」を行っています。「千力院」は、修験道者(山伏?)のようです。最初に雨乞い依頼をいているのが山伏であることを押さえておきます。
 「千力院」の雨乞い祈祷は、効き目がなかったようです。そこで4日後の21日には、今度は大護寺の住職にも雨請を依頼しています。大護寺というのは、香川郡東の中野村にあった寺院で、高松藩三代藩主恵公が崇信し、百石を賜り繁栄した寺です。
  それでも雨は降りません。そこで6月からは鮎滝(香川町鮎滝)の童洞淵での雨乞いの修法を命じています。童洞淵での雨乞いは、どんなことが行われていたのでしょうか?
別所家文書の中に「童洞淵雨乞祈祷牒」というものがあり、そこに雨を降らせる方法が書かれています。その方法とは川岸に建っている小祠に、汚物をかけたり、塗ったりすることで雨を降らせるというものです。深い縁で大騒ぎするとか、石を淵に投げ込むとか神聖な場所を汚すことによって、龍王の怒りを招き、雷雲を招き雨を降らせるという雨乞いが各地で行われています。

  ここからは次のようなことが分かります。
①まず最初に、山伏による祈祷
②次に寺院による祈祷
③最後に、鮎滝(香川町鮎滝)の童洞淵での雨乞いの修法
③については、ひとつの村だけでなく、各村々から当番が参詣し、雨が降るまで雨乞いを行うもので中世の郷村的な雨乞い行事でもあり、大規模かつ継続的なものであった。
ここからは村の雨乞祈願については、段階があり、だんだん規模が大きくなっていたようです。これらの雨乞祈願の中に山伏が入り込んでいることをここでは押さえておきます。

今度は、1939(昭和14)年の佐文での雨乞い祈願の記録です。
この時に綾子踊に参加した白川義則氏(17歳)が、その様子を日記に次のように残しています。(現代語要約)
 この年は、春から雨が降らず、五月は晴天続きで雨はわずか一日、半日の降雨が二回のみで、あとはすべて晴れであった。六月に入ってもまとまった雨は降らず、曇で少雨の日が五回であった。
七月になっても梅雨の雨はなく、しかたなしに池の水を使って、田植えを始めた。田植えは終わったが雨降らず、溜池の水が十日には乏しくなってしまう。
七月の記録では四日に少雨、十八日に夕立少しあり、新池の水も干上がる。二十四日に佐文の上地域のみで夕立の少雨、連日晴天続きであった。雷雲近づくも音だけで降雨なし。
28日に龍王山上の祠の前に雨乞い用の拝殿を建てる。
  この日より、京都から招いた行者が降雨祈願のお籠りに入る。
30日には、水田が乾燥によってひび割れを生じ、稲の葉が巻く。
21日は、青年団員が金刀比羅官に赴き、雨乞い用の聖火を貰い受けてくる。この日、地域住民が龍王山上にわら東を持って登り、大火を焚き総参りをする。
8月も晴天続きで、多少の雨も降ったが焼け石に水。1日に、ため池からの水を一分割にする相談があり、二日には雨乞いの食事の当番が我が家にもあたり、龍王祠まで弁当を持っていく。三日には住民が総参りをして、善女龍王に降雨を願ったところ、朝のうちに少雨があったので、金刀比羅官へ聖火を戻しに行く。
 6日は自分も早朝七時から夕方七時まで、龍王山上の拝殿でお籠りをして、行者の祈祷にあわせ雨を念じる。
9日は、地区全体で綾子踊をする相談をした。
出演者の役割が決まり、自分は地唄よみをすることになる。10日は、米が取れそうにないので、救荒作物のイモづるを挿すが乾燥がひどく、収穫は期待できない。11日から16日まで綾子踊の練習。
地唄よみの衣装である袴を我が家で準備する。16日は、踊り手が全員神社に集まり、明日にそなえて練習の仕上げをする。
17日は、午前8時に王尾村長宅に集合し、行列してここから出発。まず神社で一回踊る。行列を整えて、龍王山上に登り、祠の前で一回踊り、それから神社に引き返して、お旅所と神前でそれぞれ1回踊った。神社には大勢の見物人がやってきて、大変賑やかだった。
18日、笛の木池の水をすべて放出して、池が空っばになった‥
23日、地区で一番大きい空池(そらいけ)と井倉池が干上がった。
底水に集まった小魚を皆で獲って持ち帰った。
24日、琴平町から東方面では雷雨があったが、佐文地区にはまったく雨の気配すらない。
25日、救荒作物のコキビの種を蒔いた。
30、立ち枯れた田んぼの稲は、真白く変色した。

  ここでも綾子踊りの前に、次のような雨乞い修法が行われていたことが分かります。
龍王山上の祠の前に雨乞い用の拝殿を建て、京都から招いた行者が降雨祈願のお籠りに入っています。そして、21日は、青年団員が金刀比羅官に赴き、雨乞い用の聖火を貰い受けています。その日のうちに、地域住民が龍王山上にわら束を持って登り、大火を焚いて総参りします。それでも雨は降らないので、最後の手段として、綾子踊りの準備にかかります。ここでも最初から綾子踊りを踊っているのではないことを押さえておきます。最初は、山伏による祈祷なのです。
  その山伏が戦前には佐文にはいなくて、京都から呼び寄せたというのも初耳でした。現在でも綾子踊りの編成の中には、ホラ貝を吹く山伏の姿が見えます。
 IMG_1379

 秋祭りに舞われている獅子舞は、江戸時代後半になって各村々に登場してきたものであることは、以前にお話ししました。
各村々で、登場する獅子に特徴がありますが、踊りにも流派があるようです。その流れを遡るとまんのう町(旧仲南町)や、高瀬町の獅子舞は、五毛(まんのう町)に発すると云われます。これもどうやら獅子舞を持芸とする山伏が五毛にいたようです。そのため各地の獅子舞が指導者(山伏)を招き、それぞれの流派を伝授されたようです。ここにも村祭りなどのプロデュースを山伏が行っていたことがうかがえます。
 そういう目で見ると、佐文の綾子踊りも山伏によるプロデュースではないかと私は考えています。それが由来では、弘法大師伝説で空海により伝えられたとされたと思うのです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
    「祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史」まんのう町教育委員会 平成30年」
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 今は、里山周辺の山々も利用価値がなくなり、人の手が入らずに竹が伸び放題になった所が多くなりました。しかし、江戸時代には田にすき込む柴木を刈るための「資源提供地」で入会権が設定されていたことを前回に見てきました。それは、時には入会林をめぐっての村同士の抗争も引き起きていたようです。
 象頭山の西斜面の「麻山」については、小松庄(琴平)の農民たちは入山料を支払い、鑑札を持参した上で、刈取りが認められていました。その中で佐文に対しては、鑑札なしの入山という有利な条件が設定されていました。ところが約70年後になると、佐文は周辺の村々と入会林争論を引き起こすようになります。その背景には何があったのかを、今回は見ていこうと思います。

佐文周辺地域
佐文と周囲の村々
 正徳5(1715)年6月に神田村と上ノ村(財田)・羽方(高瀬)の3ケ村庄屋が連名で、佐文村を訴えて、次のような訴状を丸亀藩に提出しています。(要約)
佐文 上の村との争論

意訳変換しておくと
「財田の上ノ村の昼丹波山の「不入来場所」とされる禁足地に佐文の百姓達が、無断で近年下草苅に入って来るようになりました。昨年4月には、別所山へ大勢でおしかけ、松の木を切荒す始末です。佐文の庄屋伝兵衛方ヘ申し入れたので、その後はしばらくはやってこなくなりました。すると、今年の2月にまた大勢で押しかけてきたので、詰問し鎌などを取り上げました。(中略)今後は佐文の者どもが三野郡中へ入山した時には「勝手次第」に処置することを、御公儀様へもお断り申上ておきます。」

 これに対して佐文庄屋の伝兵衛からは、次のような反論書が提出されています。
佐文 上の村との争論 佐文反論

意訳変換しておくと

「新法によって財田山への佐文の入山は停止されたと財田衆は主張し、箸蔵街道につながる竹の尾越で佐文村の人馬の往来を封鎖する行動に出ています。春がやって来て作付準備も始まり、柴草の刈り取りなどが必要な時期になってきましたが、それも適わずに迷惑しています。新法になってからは財田方の柴草苅取が有利に取り計らわれるようになって、心外千万です。」

 ここからは上の村は、竹の尾越を封鎖する実力阻止を行っていたことが分かります。
入会林をめぐる対立の背景には、丸亀藩の進める「新法=山検地」があったようです。
山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を、5年ごとに調査する形で行われています。そして、検地を重ねる度に入会林が藩の直轄林(御林)に組み込まれ、縮小されていきます。佐文が既得権利を持っていた「麻山」周辺の入会林も縮小されます。そのために佐文の人たちは、新たな刈敷山をもとめて、昼丹波山・別所山・神田山(二宮林)へ入って、柴草を刈るようになったようです。これが争論の背景と推測できます。
 これに対する丸亀藩の決定は、「取り決めた以外の場所へ入り申す義は、少しも成らるべからざる由」で、「新法遵守」の結論でした。佐文の既得権は認められなかったようです。
 この10年後の享保10(1725)年の「神田村山番人二付、廻勤拍帳」という史料からは、村有林や入会林を監視するために神田村は「山番人」を置くようになっていたことが分かります。それまでは、村と村の境は、曖昧なところがあったようですが、山林も財産とされることで、境界が明確化されていきます。このような隣村との境界や入会権をめぐる争論を経て、近世の村は姿を整えていくことになります。今は、放置されている集落周辺の山々は、江戸時代には重要な「資源提供地」で争いの対象だったようです。
参考文献  「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」高瀬町史史料編 511P
  文責 池内 敏樹

      まんのう町諏訪神社の念仏踊り
                      念仏踊り(まんのう町諏訪神社)

  滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。最近は4郡だけになってしまった。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを西四郡のみで再興させた

滝宮念仏踊りは風流踊りで、もともとは雨乞い踊りではなかったようです。喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)には、次のように記されています。
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。

ここには雨乞い祈願をしたのは菅原道真で、その成就に感謝して百姓たちがお礼のために踊ったと記されています。奈良のなむて踊りも、もともとは盆に踊られた風流踊りで、それが雨乞い成就の際に感謝の気持ちを込めて踊られるようになったことは以前にお話ししました。滝宮念仏踊りも、中世の時宗の念仏踊りが風流化したもので、それが丸亀平野の各郷村で盆踊りとして踊られていたものと私は考えています。

那珂郡 讃岐国図 高松市歴史資料館
正保讃岐国絵図(高松市歴史資料館) 17世紀前半の那珂郡

 近世になって滝宮に奉納することを許されたのは、4つの組です。それは近世の村切りによって村が出現する前の荘郷エリアで編成されています。例えば、那珂郡の七箇村組は、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の三つの領の13ヶ村にまたがる踊組です。その村名を挙げると、真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文の13の村です。これは中世の小松・真野・吉野郷エリアにあたります。                         
まんのう町の郷
古代中世の荘郷

 七箇村踊組は、ただ滝宮で1回踊るだけではなかったようです。その前に、7月7日から盛夏の一ヶ月間に、構成員の各村の神社などを周り、60回近い踊興行を行い、最後に真野の諏訪神社でに奉納した後に滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。先ほどの諏訪神社の絵図も、その途上の「巡業」の時の様子が描かれたもののようです。 
  以上をまとめておくと次のようになります。
①中世の時宗念仏踊りが風流化し、丸亀平野の郷荘の盆踊りとして踊られるようになった。
②それが旱魃の際の雨乞いのお礼として、各郷で組織された集団が滝宮の牛頭天王神社(滝宮神社)に奉納された。
③近世になって一時的に中断していた踊りを、髙松藩初代藩主が復活させた。
④以後、事件などで中断期をはさみながら江戸時代末期まで奉納された。
⑤この念仏踊りは、中世の郷村時代に編成されたために、近世の村を越えたメンバーで編成されている。
⑥踊手や桟敷席などには宮座の存在が色濃く残っている。

私に分からないのは、どうして中世に「村」を越えて荘郷規模で組が編成されたのかという点です。
これについてヒントを提供してくれる本に出会いましたので、見ていくことにします。テキストは「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能  日本中世社会の構造 2000年」
日本中世地域社会の構造 (歴史科学叢書) | 榎原 雅治 |本 | 通販 | Amazon

中世の鎮守の機能について、研究者は次のように押さえています。
第一には、荘郷鎮守は百姓が五穀豊穣、現世安穏・後生善処を祈願する祈りの場でした。しかし、それだけではありません。荘郷内の平和を祈願する場所だからこそ、公的な場所でもありました。聖なる場所であり、公的空間でもある鎮守を掌握したものが支配者として正当性をもちえたともいえます。中世の武士団が地元の有力な寺社を保護したのも、支配を円滑にするには寺社を押さえ保護者であることをしめすことがポイントになることを、経験的に学んだ結果なのかも知れません。
第2に鎮守では、荘郷政所による検断(けんだん)が行われました。
 検断とは「検察」+「断獄」=「検断」で、不法行為)を検察してその不法をの罪を裁くことです。中世の検断は、鉄火取り、湯起請といった鎮守の場での神裁の形をとります。郷社の鎮守は神聖な裁きの場でもあったのです。
第3に、荘郷鎮守は荘郷内のメンバーの身分秩序会の確認の場でもありました。
鎮守の宮座が名主層によって独占されていて、百姓層はそこから排除されていたことや、新興の勢力が宮座に加入する場合には、右座・左座というように旧来からの座株所有者とは区別されていたことをみれば分かります。また寺社の棟札や梵鐘の銘文には、地頭・荘官以下、名主や百姓の名前がそれぞれの奉加額とともに記され、荘内の身分秩序が一目で分かるように示されています。家の格まで視覚的に表現されていました。毎年、繰り返される祭礼行事では、荘官以下の百姓たちの身分序列の確認の場でもあったのです。

次に、荘郷の寺社がネットワークを形成していく具体例を、近江国坂田郡(現長浜市)の長浜八幡神社で見ていきます。
神社ご朱印巡り7 「長濱八幡宮」(滋賀県長浜市) | sadahachi.com

長浜八幡宮は八幡庄の鎮守で、室町中期の永享年間に堂塔建立が行われています。永享7年(1435)の勧進猿楽の際の桟敷注文井奉加帳(史料B)と、永享11年(1429)の塔供養の際の奉加帳(史料C)が残されています。史料Bを見る前に、当時の猿楽の席次について「予習」しておくことにします。
長浜神社 糾瓦猿楽桟敷図
京都札河原勧進猿楽桟敷注文
寛正5年(1464)の京都札河原勧進猿楽桟敷注文およびその付図(図2)があります。そこには、猿楽は円形の舞台で演じられ、その周囲に見物桟敷が設けられています。桟敷の中心(真下)は「神之座敷」です。「御前」が「神之座敷」の前という意味です。これを中心に、向正面に向かって注文の記載順に座っていきます。御前の両隣に公方夫妻(足利義政・日野富子)が座り、次いで対面に向かって関白、門跡、管領、有力守護、奉公衆と、およその身分の序列に従って席が決められていたことが分かります。
長浜八幡宮の猿楽桟敷の舞台設営もこれと同じような席順であったのでしょう。上演の際の席次は、どうなっていたのでしょうか
長浜神社 猿楽桟敷

座敷注文の記載順を見ておきましょう。
文中に「御前ヨリ東」「御前ヨリ西」とあるので、桟敷の席次を意識した順のようです。そしてその順序は「次第不同」とされていますが、そうはいいながら注文の端から奥に向かって、荘官・殿原層から村へという、序列があることがうかがえます。
下に続く
長浜神社 猿楽桟敷2
この席順を模式図化すると下図のようになります。

長浜神社 猿楽桟敷概念図2

長浜八幡神社の猿楽桟敷の配置については、以下のようになります。
桟敷の中央に荘官・殿原層・荘郷鎮守の僧や神官
末席には名主層
桟敷と舞台の間の「地居」に桟敷に昇れない層
猿楽鑑賞の座が、地域の身分秩序を目に見える形で示す場になります。参加者にとっては、自分の席がどこにあり、前後はどうなっているのかは大きな意味を持ったことでしょう。それは、そのまま「家の格付け」を示す者でもあったことになります。
研究者は史料に出てくる次の字句に注目します。
史料Bの奉加帳部分に「八坂 八人中」
史料Cに「イコマ(生駒)ノ宮村人」
Bの八坂社は祗園保の鎮守で、生駒宮は平方庄の鎮守です。八坂社や生駒の宮の「村人」が長浜の八幡宮に寄進しています。「村人」ということばは、近江においては村民一般ではなく、宮座の構成員である「オトナ層」を指す用語のようです。奉加帳に「八坂八人中」「イコマノ宮村人」などの名前が見えるということは、 この地域の荘郷鎮守の関係が、単なる寺社と寺社の関係ではなく、オトナ層同士の宮座と宮座の連帯関係でもあったと研究者は考えています。
こうした荘郷鎮守の関係は、どのような役割を果たしていたのでしょうか。
 それは地域の身分秩序を確認する場として機能していたと研究者は指摘します。表2は史料Bの桟敷注文に見えるおもな人物を荘郷別、身分別にまとめたものです。
長浜神社 猿楽桟敷注文票

ここに出てくるメンバーを見ると、八幡庄を中心とした荘郷から荘官層、殿原層、名主百姓層がそれぞれに桟敷料を払って、このイベントに参加していたことが分かります。つまり、実際に猿楽が上演されるときには、次の二つの階層が桟敷の上で目に見える形で確認できることになります。
単独で見物席を確保できる荘官層、殿原層、
村単位でなければ確保できない名主百姓層
また、新興の者はこの場に座る座を確保することによって、自らの位置を可視的に地域社会に承認させることができるという仕掛けになっています。
これらの史料に出てくる寺社を地図に落としたのが図1です。
長浜神社 ネットワーク

ここからは長浜八幡宮や観音寺をはじめ福永庄の神照寺、山階庄の本国社など、この地域の荘郷鎮守を中心とした寺社の造営などに、周囲の荘郷から寄進が出されています。地域的な連帯関係があったことが見えてきます。中世の寺社は、単独で存在していたのではないということです。これらを結びつけていたのが修験者たちになるようですが、それについてはまた後ほどみることにします。
長浜 大原観音寺
大原観音寺

長浜の東方にある大原観音寺は、大原庄の鎮守的な寺院です。ここにも応永26年(1419)の本堂造作日記(史料D)が伝わていて、奉加者の名前が記されています。

長浜神社 史料D

史料Dには、大原庄内外の村々の「村人」が奉加者として名前があります。「村人」というのは、先ほども見たように荘郷内の支配層のことです。各荘郷の「村人」が寺社のネットを通じて、荘郷を超えた広い地域社会の中に現れて、認められていることになります。寺社のネットは、村内の身分序列を、荘郷を超えた地域社会で承認していく役割を果たしていたことになります。
 さらに重要なことは身分だけでなく、「村」の存在自体、寺社のネツトを通して地域社会の中で承認されるものだったというのです。
荘郷内に「村」が政治的・経済的な主体として登場してくるのは鎌倉末期のことです。これを承認する体制は、荘園公領制の中にはありません。新たに登場した室町期の守護も荘郷の枠組みを超えて「村」を領国支配体制の中に位置づけることはありませんでした。そのような中世社会の中にあって唯一「村」を承認するシステムが、寺社の地域的ネットだったと研究者は指摘します。荘郷鎮守の地域的ネットに認めてもらうことで、「村」は「村人」という内部の身分秩序とともに、地域的な承認を獲得していったと研究者は考えています。つまり、このような寺社ネットに登録されないと、他の荘郷から村としても、指導者としても認めてもらえることがなかったことになります。
少々荒っぽいですが、これを丸亀平野の那珂郡南部で起きていたことに当てはめると、次のようになります。
①那珂郡南部の真野郡は、真野の諏訪神社を荘郷神社としていた。
②小松・真野郷は各村からの宮座構成員の「村人」メンバーで、念仏踊りが組織され諏訪神社に奉納された。
③その際には、踊り手は宮座メンバーに限られていたので、踊りに参加する人たちは小松荘や真野郷の「村人(有力者)」を相互認知する機会となった。
④神社の境内に設置された桟敷席も、エリア指定の世襲制で宮座メンバー以外は建てることができなかった。桟敷席に座ると云うこと自体が、地域での階層位置を示すもので、「村」での権勢表示の場でもあった。
ここからは丸亀平野の荘郷のなかでも、「村 ― 荘郷 ― 地域」のネットワーク化が進んでいたこと、そして、村内の身分秩序や村自体の存在が荘郷を超えた広い地域の中で公認されていく様子が見えてきます。その場が荘郷の鎮守であり、そこで踊られる念仏踊りであったことになります。そして、荘郷鎮守の地域的な関係とは、寺社の相互扶助によって成り立っていたようです。
  真野郡の諏訪神社は、滝宮の牛頭天王社と、近江八幡社の近隣寺社と同じように修験道関係者を通じた相互扶助関係があったことがうかがえます。それだけの勢力を牛頭天王社別当寺の龍燈寺に集まる修験者たちは持っていたことになります。

 中世の名主層の世界観は、次のようなものだったと研究者は考えています。
地域的な秩序を維持するためには、荘郷鎮守の維持が必要である。荘郷鎮守を維持するためには村内の身分秩序を維持することが必要だ。逆にいえば、荘郷鎮守を維持することは、その荘郷のみにとって意味をもつものではなく、地域全体の秩序を保つための義務なのである。この地域に対する義務を果たすことによって、荘郷内の宮座運営の体制、すなわち荘郷内の身分秩序は、地域社会の中で認められているのだ

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能  日本中世社会の構造 2000年」
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  入会林の覚え書き 1641年
山入会(入会林)付覚書(大麻山周辺の入会林について)

生駒藩お取りつぶし後に、讃岐が二つの藩が出来て、丸亀藩に山崎家が入ってくることになったのが1640年のことでした。その時に、大麻山周辺をめぐる中世以来の入会林の既得権が再確認されて文書化されます。そこには入山料を支払い、入山鑑札を持参した上で、小松庄(琴平)の農民たちに大麻山の西側の「麻山」への入山が認められていました。ところが佐文の農民に対しては、鑑札なしの入山が許されていました。その「特権」が古代以来、佐文が「麻分」で三野郡の麻の一部と認識されていたことからくるものであったことを前回は見てきました。
 入山権に関して特別な計らいを受けて有利な立場にあった佐文が、それから約70年後の正徳五(1715)年になると、周辺の村々と紛争(山論)を引き起こすようになります。その背景には何があったのかを、今回は見ていこうと思います。テキストは、「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」です。
佐文周辺地域
佐文周辺の各村(佐文は那珂郡、他は三野郡)

正徳5(1715)年6月に、神田と上ノ村・羽方の3ケ村連名で、丸亀藩に次のような「奉願口上之覚」が提出されています。

佐文 上の村との争論
山論出入ニ付覚書写(高瀬町史資料編160P)
意訳変換しておくと
一、財田の上ノ村の昼丹波山の「不入来場所」とされる禁足地に佐文の百姓達が、無断で近年下草苅に入って来るようになりました。そこで、見つけ次第に拘束しました。ところが今度は昨年四月になると、西の別所山へ大勢でおしかけ、松の木を切荒し迷惑かえる始末です。佐文の庄屋伝兵衛方ヘ申し入れたので、その後はしばらくはやってこなくなりました。すると、今年の二月にまた大勢で押しかけてきたので、詰問し鎌などを取り上げました。
佐文 上の村との争論2

このままでは百姓どもの了簡が収まりませんので、口上書を差し出す次第です。村境設定以前に、上ノ村山の中に佐文の入会場所はありませんでした。30年以来、南は竹ノ尾山の一ノかけから上、西は別所野田ノ尾から東の分については入会で刈らせていました

一、神田山について
前々から佐文村は、入会の山であると主張しますが、そんなことはございません。先年、神田庄屋の理左衛門の時に、佐文の庄屋平左衛門と心易き関係だったころに、入割にして、かしの木峠から東之分を入会にして刈り取りを許したといいます。これは近年のなってことでので、大違です。由□□迄参、迷惑仕候
 以上のように入山禁止以外にも、今後は佐文の者どもが三野郡中へは入山した時には「勝手次第」に処置することを、御公儀様へもお断り申上ておきます。三ヶ村の百姓は、前々から佐文の入山を停止するように求めてきましたが、一向に改まることがありません。そのためここに至って、三ケ村の連判で訴え出た次第です。御表方様に対シ迷惑至極ではございましょうが、百姓たち一同の総意でありますので口上書を提出いたします。百御断被仰上可被下候、以上        
正徳五(1715)年六月   
     
三野郡神田村庄屋   六左衛門
          同神田村分りはかた(羽方)村庄屋  武右衛門
上ノ村大庄屋字野与三兵衛
庄野治郎右衛門様
  神田村(山本町)・羽方村(高瀬町)と上ノ村(財田町)の庄屋が連名で、丸亀藩に訴えた書状です。佐文の百姓が上ノ村との村境を越えて越境してきて、芝木刈りなどを勝手に行っていること、それが実力で阻止されると、神田村の神田山にも侵入していること、それに対して強硬な措置を取ることを事前に藩に知らせ置くという内容です。
佐文 地図2

 これに対して佐文からは、次のような口上書がだされています。

佐文 上の村との争論 佐文反論
   佐文からの追而申上候口上之覚 (高瀬町史史料編158P)
  意訳変換しておくと
一、この度、財田之衆が新法を企て、朝夕に佐文村からの入山に対して差し止めを行うようになって迷惑を受けていることについては、2月28日付けの書面で報告したとおりです。佐文村からの入山者は勾留すると宣言して、毎日多くの者が隠れて監視を行っています。こちらはお上の指図なしには、手出しができないと思っているので、作付用意も始まり、柴草の刈り取りなどが必要な時期になってきましたが、それも適わない状態で迷惑しています。新法になってからは財田方の柴草苅取が有利に取り計らわれるようになって、心外千万であると与頭は申しています。

一、新法によって財田山へ佐文の入山は停止されたと財田衆は云います。朝夕に佐文から侵入してくる証拠としてあげる場所(竹の尾越)は、箸蔵街道につながる佐文村の人馬が往来する道筋です。そこには、馬荷を積み下ろしする場所も確かにあります。2月14日に、この通行を突然に差し止めることを上ノ村側は通告してきました。が、竹の尾越は佐文の人馬が往来していた道なので、馬の踏跡や馬糞まで今でも残っています。佐文以外の人々も、何万の人たちがこの道筋を往来してきました。吟味・見分するとともにお知りおき下さい。(以下破損)
一、先に提出した文書でも申上げた通り、財田側は幾度も偽りを為して、出入り(紛争)を起こしてきました。財田方の言い分には、根拠もなく、証拠もありません。度々、新法を根拠にしての違法行為に迷惑しております。恐れながらこの度の詮儀については、申分のないように強く仰せつけていただけるよう申し上げます。右之通、宜被仰上可被下候、以上  
正徳五未四月十三日      佐文村庄屋 伝兵衛 印判
同村与頭覚兵衛 
同同村五人頭弥兵衛
同同村惣百性中
山地六郎右衛門殿
佐文の言い分をまとめてみると次のようになります。
①「新法」を根拠に、財田上ノ村が旧来の入会林への佐文側の入山を禁止し、実力行使に出たこと
②その一環として、箸蔵街道のに続く竹の尾峠の通行も規制するようになったこと
③佐文側が「新法」について批判的で、「改訂」を求めていること。

両者の言い分は、大きく違うようです。それは「新法」をどう解釈するかにかかっているようです。新法とは何なのでしょうか?
貞享5年(1688)年に、丸亀藩から出された達には、次のように記されています。
「山林・竹木、無断に伐り取り申す間敷く候、居屋鋪廻り藪林育て申すべく候」

意訳変換しておくと
「林野(田畑以外の山や野原となっている土地)などに生えている木竹などは藩の許可もなく勝手に切ってはならない、屋敷の周囲の藪林も大切に育てよ

というものです。さらに史料の後半部には「焼き畑禁止条項」があります。ここからは、藩が田畑だけでなく山林全体をも含めて支配・管理する旨を宣言したものとも理解できます。この達が出る前後から、藩側からの山林への統制が進められていったようです。
 そのひとつが山検地であると研究者は指摘します。
山検地は、丸亀藩の山林への統制強化策です。山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を調査する形で行われています。京極高和が丸亀へ入部した万治元(1658)年の5月に、山奉行高木左内が仲郡の七ヶ村から山林地帯を豊田郡まで巡回しています。これが山検地の最初と研究者は考えているようです。検地の結果、山林については次の4つに分類されます
①藩の直轄する山林
②百姓の所有する山林
③村や郡単位での共有地となっている山林
④寺社の所有する山林
そして、5年毎に山検地は行われますが、検地を重ねる度に山林が藩の直轄林(御林)に組み込まれていきます。そして、入会地が次第に縮小されていきます。この結果、佐文が既得権利を持っていた「麻山」や「竹の尾越」周辺の入会地も縮小されていったことが推測できます。一方で、佐文でも江戸時代になって世の中が安定化すると、谷田や棚田が開発などで田んぼは増えます。その結果、肥料としての柴木の需要はますます増加します。増える需要に対して、狭まる入会地という「背に腹は刈られぬ状況」の中で、佐文の住民がとったのが「新法=山検地(?)」を無視して、それ以前の入会地への侵入だったようです。
①南は、竹の尾越を越えた財田上の村(財田町)方面
②南西は、立石山を越えた神田村(山本町)方面
③西は、伊予見峠を越えた羽方村(高瀬町)
佐文 地図2

これらの山々でも、入会地縮小が進んでいたようです。それが「新法」だったと私は考えています。特権として認められたいた麻山の旧入会地が狭められた結果、入るようになったのが①~③のエリアで、それも新法で規制を受けるようになったのかもしれません。どちらにしても丸亀藩の林野行政の転換で、入会林は狭められ、そこから閉め出された佐文が新たな刈敷山をもとめて周辺の山々に侵入を繰り返すようになったことがうかがえます。
 佐文村の百姓が藩が取り決めた境を越えて昼丹波山・別所山・神田山(二宮林)へ入って、柴草を刈ったことから起こった紛争の関係書類を見てきました。これに対する丸亀藩の決定は、「取り決めた以外の場所へ入り申す義は、少しも成らるべからざる由」で、「新法遵守」でした。佐文の既得権は認められなかったようです。
 これから享保10(1725)年には「神田村山番人二付、廻勤拍帳」という史料が残っています。これは「山番人」をめぐる神田・羽方両村の争いに関する史料です。ここからは、佐文との山争論の10年後には、村有林や入会林を監視するために「山番人」が置かれるようになったことが分かります。また、「御林」に山番人が監視にあたると、今まで入会地とされてきた場所は次第に「利用制限」されていきます。それまでは、村と村の境は、曖昧なところがあったのですが山林も財産とされることで、境界が明確化されていきます。山の境界をめぐって、藩の山への取り締まりは強化されていきます。
 しかし、百姓たちからする「御林(藩の直轄山林)」は、もともとは自分たちの共有林で入会林であった山です。そこに入山ができなくなった百姓たちの反発が高まります。そうして起こったのが享保17年の乙田山争論のようです。このような隣村との境界や入会権をめぐる争論を経て、近世の村は姿を整えていくことになります。
琴南林野 阿野郡南川東村絵図(図版)
阿野郡南 川東村絵図
(まんのう町川東地区の御林(緑色)と野山(赤色)を色分けした絵図
 中世の各郷による山林管理体制を引き継いだ生駒時代には、野山・山林の支配は村を単位にして、藩主と個人的関係のある代官や地元の有力者を中心に行われていました。とくに大麻山・琴平山と麻山の周辺の山林は、佐文のように古い体制を残しながら支配が複雑に入り組んでいました。それがきちんとした形に整えられていくのは享保年間ごろと研究者は考えています。生駒家時代の林野に対する政策は、京極藩で確立する林野政策の過渡的な形態を示しているようです。
まんのう町の郷
古代中世の各郷
 以上をまとめておくと
①生駒時代には、大麻山は入会林で鑑札を購入しての周辺村々の芝木刈りのための入山が認められていた。
②麻山の鑑札による入会林として利用されていたが、佐文は鑑札なしでの芝木刈りが認められていた
③丸亀京極藩は、田畑以外に山林に対しても山検地を始め、入会林を「御林(藩の直轄林)」へと組み込みこんでいった。
④「御林」の管理のために「山番人」が置かれるようになり、入山規制が強まる。
⑤こうして「麻山」周辺への入山規制が強化されるにつれて、佐文は南部の財田や神田への山林への侵入をするようになった。
⑥これに対して財田上の村、神田村、羽方村の3ケ村連名で「新法」遵守を佐文に求めさせる抗議書が提出された。
⑦丸亀藩の決定は「新法遵守」で、あらたに設定された境界を越えての入山は認められなかった。
⑧このような入会林や村境界の争論を経て、近世の村は確立されていく
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」

佐文と満濃池跡
讃岐国絵図 佐文周辺

まんのう町佐文は、金刀比羅宮の西側の入口にあたる牛屋口があった村です。角川の地名辞典には、次のように記されています。
古くは相見・左文とも書いた。地名の由来は麻績(あさぶみ)が転訛して「さぶみ」となったもので、古代に忌部氏によって開拓された土地であるという(西讃府志)
 金刀比羅官が鎮座する山として有名な象頭山の西側に位置し、古来から水利の便が悪く、千害に苦しんだ土地で、竜王信仰に発した雨乞念仏綾子踊りの里として知られている。金刀比羅宮の西の玄関口に当たり、牛屋口付近には鳥居や石灯籠が多く残っている。阿波国の箸蔵街道が合流して地内に入るので、牛屋口(御使者口)には旅館や飲食店が立ち並んで繁盛を続けた。「西讃府志」によると、村の広さは東西15町。南北25町、丸亀から3里15町、隣村は東に官田、南東に追上、南に上之、西に上麻・神田、北に松尾、耕地(反別)は37町余(うち畑4町余。屋敷1町余)、貢租は米159石余。大麦3石余。小麦1石余。大豆2石余、戸数100。人口350(男184・女166)、牛45。馬17、
伊予土佐街道が村内を通過し、それに箸蔵街道も竹の尾越を超えて佐文で合流しました。そのため牛屋口周辺には、小さな町場もあり、荷駄や人を運ぶ馬も17頭いたことを、幕末の西讃府志は記します。

佐文は、1640年の入会林の設定の際に有利な条件で、郡境を越えた麻山(大麻山の西側)の入会権を認められていることを以前にお話ししました。この背景を今回は見ていくことにします。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺
讃岐那珂郡 赤い短冊が3つあるのが金比羅 その南が佐文 
 1640(寛永十七)年に、お家騒動で生駒家が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。
この時に幕府から派遣された伊丹播磨守と青山大蔵は、讃岐全域を「東2:西1」の割合で分割して、高松藩と丸亀藩の領分とせよという指示を受けていました。その際に両藩の境界となる那珂郡と多度郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争が後に起ることを避けるために、寛永十八(1641)年十月に、関係村々の庄屋たちの意見書の提出を求めています。これに応じて各村の庄屋代表が確認事項を書き出し提出したものが、その年の10月8日に提出された「仲之郡より柴草刈り申す山の事」です。 
入会林の覚え書き 1641年

意訳変換しておくと
仲之郡の柴木を苅る山についての従来の慣例は次の通り
松尾山   苗田村 木徳村
西山 櫛無村 原田村
大麻山 与北村 郡家村 西高篠村
一、七ヶ村西東の山の柴草は、仲郡中の村々が刈ることができる
一、三野郡の麻山の柴草は、鑑札札で子松庄が刈ることを認められている
一、仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている
一、羽左馬(羽間)山の柴草は、垂水村・高篠村が刈ることができる
寛永拾八年巳ノ十月八日

ここには、芝草刈りのための従来の入会林が報告されています。注意しておきたいのは、新たに設定されたのでなく、いままであった入会林の権利の再確認であることです。ここからは中世末には、すでに大麻山や麻山(大麻山の西側)には入会林の既得権利が認められていたことがうかがえます。

DSC03786讃岐国絵図 中讃
讃岐国絵図(丸亀市立資料館) 
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山とされています。
また、三野郡「麻山」(大麻山の西側)は、仲郡の子松庄(現在の琴平町周辺)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証で、札一枚には何匁かの支払い義務を果たした上で、琴平の農民たちの刈敷山となっていたことが分かります。
  大麻山は、仲郡、多度郡と三野郡との間の入会地だったようです。
ちなみに象頭山という山は出てきません。象頭山は近世になって登場する金毘羅大権現(クンピーラ)が住む山として名付けられたものです。この時代には、まだ定着していませんでした。
ここで押さえておきたいのは、4条目の「同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」です。
仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人は、札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。麻山と佐文とは隣接した地域ですが郡境を越えての入山になります。佐文には特別の既得権があったようです。佐文が麻山を鑑札なしの刈敷山としていたことを押さえておきます。
 庄屋たちからの従来の慣例などを聞いた上で、伊丹播磨守と青山大蔵少は、新たに丸亀藩主としてやってきた山崎甲斐守に、引継ぎに際して、次のようなの申し送り事項を残しています。
入会林の覚え書き2 1641年

意訳変換しておくと
一、那珂郡と鵜足郡の米は、前々から丸亀湊へ運んでいたが、百姓たちが要望するように従前通りにすること。
一、丸亀藩領内の宇足郡の内、三浦と船入(土器川河口の港)については、前々より(移住前の宇多津の平山・御供所の浦)へ出作しているが、今後は三浦の宇多津への出作を認めないこと。
一、仲郡の大麻山での草柴苅については、従前通りとする。ただ、(三野郡との)山境を築き境界をつくるなどの措置を行うこと。
一、仲郡と多度郡の大麻山での草柴苅払に入る者と、東西七ヶ村山へ入り、草柴苅りをおこなうことについて双方ともに手形(鑑札札)を義務づけることは、前々通りに行うこと
一、満濃池の林野入会について、仲郡と多度郡が前々から入山していたので認めること。また満濃池水たゝきゆり はちのこ採集に入ること、竹木人足については、三郡の百姓の姿が識別できるようにして、満濃池守に措置を任せること。これも従前通りである。
一、多度郡大麻村と仲郡与北・櫛無の水替(配分)について、従来通りの仕来りで行うこと。右如書付相定者也

紛争が起らないように、配慮するポイントを的確に丸亀藩藩主に伝えていることが分かります。入会林に関係のあるのは、3・4番目の項目です。3番目の項目については、那珂郡では大麻山、三野郡では麻山と呼ばれる山は、大麻山の西側のになるので、今後の混乱・騒動を避けるためには、境界ラインを明確にするなどの処置を求めています。
4番目は、大麻山の入会権については多度郡・那珂郡・三野郡の三郡のものが入り込むようになるので、混乱を避けるために鑑札を配布した方がいいというアドバイスです。
 こうして大麻山と麻山に金毘羅領や四条・五条村・買田村・七箇村などの子松庄およびその周辺の村々が芝木刈りのために出入りすることが今までの慣例通りに認められます。子松庄の村々では麻山へ入るには入山札が必要になります。札は「壱枚二付銀何匁」という額の銀が徴収されていたと研究者は考えています。
 「佐股組明細帳」(高瀬町史史料編)に佐股村(三豊市高瀬町)の入会林について、次のように記されています。
「先規より 財田山札三枚但し壱枚二付き三匁ツヽ 代銀九匁」

これは、入会地である財田山への入山利用料で、3枚配布されているので、一年間で三回の利用ができたことになります。鑑札1枚について銀3匁、3枚配布なので 3匁×3枚=銀9匁となります。
 麻村では8枚の山札使用、下勝間村では4枚の使用となっています。財田山は、固有名詞ではなく財田村の山といった広い意味で、佐俣や麻村・下勝間村は、財田の阿讃山脈の麓に柴草を取りに入るために利用料を払っていたということになります。同じ三野郡内でも佐股、上・下麻、下勝間村は、財田の刈敷山に入るには「札」が必要だったことを押さえておきます。
 各村への発行枚数が異なるのは、どうしてでしょうか?
 各村々と入会林との距離の遠近と牛馬の数だと研究者は考えています。麻村の場合は、秋に上納する山役米について、次のように記されています。
「麻村より山札出し、代米二て払い入れ申す村、金毘羅領、池領、多度郡内の内大麻・生野・善通寺・吉田両村・中村・弘田・三井、三野郡の内上高瀬・下高瀬」

山役を納めなければならない村として、金毘羅領、池領の村々と多度郡・三野郡の各村が挙がっています。これらは先ほど見た「山入会に付き覚書」の中に出ている地域です。ここからは、1640年以後、大麻山・麻山への入山料がずっと続いていたことが分かります。

他の村の刈敷山に入るときには有料の鑑札を購入する必要があったようです。
そのような中で「佐文の者は、先年から鑑札札なしで(三野郡の麻山の柴木を)苅る権利を認められている」という既得権は、特異な条件です。どのようにして形成されたのでしょうか。その理由を考えてみます。

佐文1
西讃府志 佐文の地誌部分

西讃府志には、佐文について次のように記します。
「旧説には佐文は麻積で、麻を紡ぐことを生業とするものが多いので、そうよばれていた」

麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となったと伝えます。ここからは、西隣の麻から派生した集団によって最初の集落が形成されたと伝えられていたようです。確かに佐文は地理的に見ても三方を山に囲まれ、西方に開かれた印象を受けます。古代においては、丸亀平野よりも高瀬川源流の麻盆地との関係の方が強かったのかもしれません。
佐文5
佐文と麻の関係

麻盆地を開いた古代のパイオニアは忌部氏とされ、彼らが麻に建立したのが麻部神社になります。これが大麻山の西側で、その東側の善通寺市大麻町には、大麻神社が鎮座します。
DSC09453
大麻神社
 大麻神社の由来には、次のように記されています。
 阿波忌部氏が吉野川沿いに勢力を伸ばし、阿讃山脈を越えて、谷筋に定着しながら粟井神社の周辺に本拠を置いた。そして、粟井を拠点に、その一派が笠田、麻に広がり、麻峠を越えて善通寺側に進出し大麻神社の周辺にも進出した。それを裏付けるように、粟井神社が名神大社なのに、大麻神社は小社という格差のある社格になっている。

ここには阿波忌部氏が讃岐に進出し、三豊の粟井を拠点としたこと、そこから笠田・麻を経て大麻神社周辺へ「移住・進出」したと伝えます。
大麻神社随身門 古作両神之像img000024
大麻神社の古代神像 

「大麻神社」の社伝には、次のような記述もあります。
「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」
「大麻山(阿波)山麓部から平手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」
ここには阿波と讃岐の忌部氏の協力関係と「麻」栽培がでてきます。また讃岐忌部氏が毎年800本の矛竿を中央へ献上していたことが記されています。讃岐は、気候が温暖で、樫などの照葉樹林の成育に適した土地ですから、矛竿の貢上がされるようになったのでしょう。弥生時代の唐古遺跡から出土した農耕具の大部分は樫でつくられているといいます。材質の堅い樫は、農具として、最適だったようですし、武器にも転用できます。 善通寺の古代豪族である佐伯直氏は、軍事集団出身とも云われます。ひょっとしたら忌部氏が作った武器は、佐伯氏に提供されていたのかもしれません。
 讃岐忌部氏は、矛竿の材料である樫や竹を求めて、讃岐の地に入り、原料供給地のとなる大麻山周辺の山野を支配下に置いていったのでしょう。 讃岐忌部は、中央への貢納品として樫木の生産にあたる一方で、周辺農民の需要に応じるための、農具の生産も行なっていたと考えられます。讃岐忌部の居住地として考えられるのが、次の神社や地名周辺です。
①粟井神社 (観音寺市大野原町粟井)
②大麻神社 (善通寺市大麻町)
③麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
④忌部神社   (三豊市豊中町)
⑤高瀬町麻 (あさ)
⑥高瀬町佐股(麻またの意味)
⑦まんのう町佐文(さぶみ、麻分(あさぶんの意味)
 佐文と大麻山
大麻山を囲むようにある忌部氏関係の神社と地名

佐文を含む大麻山周辺は、忌部氏の勢力範囲にあったことがうかがえます。
大麻山をとりまくエリアに移住してきた忌部氏は、背後の大麻山を甘南備山としてあがめるとともに、この山の樫などを原料にして木材加工を行ったのでしょう。近世に金毘羅大権現が台頭してくるまでは、大麻山は忌部氏の支配下にあって、樫など木材や、麻栽培などが行われていたとしておきましょう。そのような大麻山をとりまくエリアのひとつが佐文であったことになります。当然、古代の佐文は、その背後の「麻山」での木材伐採権などを持っていたのでしょう。それは律令時代に郡が置かれる以前からの権利で、三野郡と那珂郡に分離されても「麻山」の権利は持ち続けたます。それが中世になると小松郷佐文でありながら、三野郡の麻山の入会林(刈敷山)として認められ続けたのでしょう。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺2
讃岐国図(生駒藩時代)
生駒藩の下で作られた讃岐国絵図としては、もっとも古い内容が描かれているとされる絵図で佐文周辺を見てみましょう。
  多宝塔などが朱色で描かれているのが、生駒藩の保護を受けて伽藍整備の進む金毘羅大権現です。その西側にあるのが大麻山です。山の頂上をまっすぐに太い黒線が引かれています。これが三野郡と那珂郡の郡境になります。赤い線が街道で、金毘羅から牛屋口を抜けると「七ケ村 相見」とあります。これが佐文のようです。注目して欲しいのは、郡境を越えた三野郡側にも「麻 相見」があることです。
 ここからは、次のようなことが分かります。
①佐文が「相見」と表記されたこと
②「相見」は、かつては郡を跨いで存在したこと
西讃府志には「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となった」と記されていました。これは、西讃府志の記述を裏付ける史料になります。

麻部神社
麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
以上をまとめておくと
①大麻山周辺は、木工加工技術を持った讃岐忌部氏が定着し、大麻神社や麻部神社を建立した。
②大麻山は、忌部氏にとって霊山であると同時に、木工原料材の供給や麻栽培地として拓かれた。
③大麻山の西側の拠点となった麻は、高瀬川沿いに佐文方面に勢力エリアを伸ばした。
④そのため佐文は「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)」とも呼ばれた。
⑤麻の分村的な存在であった佐文は、麻山にも大きな権益を持っていた。
⑥律令時代になって、大麻山に郡境が引かれ佐文と麻は行政的には分離されるが文化的には、佐文は三野郡との関係が強かった
⑦中世になると佐文は、次第に小松(郷)荘と一体化していくが、麻山への権益は保持し、入会権を認められていた。
⑧そのため生駒騒動後の刈敷山(入会林)の再確認の際にも、「仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている」と既得権を前提にした有利な入会権を得ることができた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  

   佐文5
        高瀬町の上栂 金刀比羅宮のある象頭山の裏側にあたる                
高瀬町の上栂には、次のような雨乞いおどりの話が伝わっています。
江戸時代の話です。東山天皇の御代に、京都に七条実秀という人がおりました。七条実秀(さねひで)の綾子姫は、小さいころから美しくかしこい女性でした。ところが、あるとき、どんなことがあったのかわかりませんが、おしかりを受けて、讃岐の国へ送られることになりました。当時、女の人の一人旅はなにかと不自由がありましたから、姫のお世話をするために沖船という人が付きそってきました。
瀬戸内海を渡る途中、船があらしにあいました。綾子姫は、船の中で
お助けください、金刀比羅様。無事に港へ着きますように。たくさんの人が乗っています。
お助けください、金刀比羅様
と、一心においのりをしました。
金刀比羅様は海の神さまです。船は無事に港へ着くことができました。綾子姫はたいへん感謝して、金刀比羅宮へ行き、ていねいにお礼参りをしました。
その後、綾子姫は、金刀比羅様の近くに住みたいと思い、象頭山の西側の上栂の土地に家を定めました。沖船さんは少し坂を下った所にある東善の集落に住むことになりました。

綾子姫と沖船さんがこの地に住むようになってから何年かたちました。
ある年、たいへんな日照りがありました。何日も何日も雨がふらず、カラカラにかわいて、田んぼに入れる水がなくなり、農家の人たちはたいへん困りました。農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたが、ききめはありませんでした。この様子に心をいためられた綾子姫は、沖船さんを呼んでこう言いました。
なんとか雨がふるように雨乞いをしたいと思うのです。
あなたは京の都にいたときに雨乞いおどりを見たことがあるでしょう。思い出しておくれ。そして、わたしに教えておくれ」

   わかりました。やってみます」

沖船さんは家に帰るとすぐ、紙とふでを出して、雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました
綾子姫は、沖船さんが書いてきたものに自分の工夫を加えて、歌とおどりが完成しました。二人は、喜びあって、さっそく歌とおどりの練習をしました。それから、雨乞いの準備に取りかかりました。

準備ができた日、綾子姫と沖船さんは、農家の人たちに伝えました。

あすの朝早く、村の空き地へ集まってください。雨を降らせるおいのりをするのです

次の朝早く、村の空き地で、綾子姫と沖船さんは、みのと笠をつけて、歌いおどりながら、雨を降らせてくださいと天に向かって一心にいのりました。家の人たちも、雨が降ることをいのりながら、いっしょにおどりました
すると、ほんとうに雨が降り始めました。にわか雨です。農家の人たちおどりあがって喜びました。そして、二人に深く感謝しました。
その後、綾子姫も沖船さんも、つつましく過ごして、 一生を終えたたいうことです。

 ふたりのことは年月とともにだんだん忘れられていきました。
このときの雨乞いの歌とおどりも、行われることがなくなりました。
ふたりのことが忘れられかけたあるとき、東善の人びとは沖船さんをしたって沖船神社を建てました。昔は東善にありましたが、今は麻部神社の中へ移されています。綾子姫のことも忘れないようにと、石に刻まれて、上栂の墓所に建てられています。

 この昔話には、高瀬町の上栂で「綾子踊り」が踊られたことが伝えられています。
① 時代は東山天皇の時代(1675年10月21日 - 1710年1月16日)で、17世紀後半の元禄年間にあたります。
② 綾子踊りを伝えたのは、七条実秀(さねひで)の娘・綾子姫ということになっています。七条家は藤原北家水無瀬流の公家で、江戸時代の石高は200石です。
③ 綾子姫が讃岐に流刑になり、船で向かう途中に嵐にあって金毘羅神に救われたとされます。金毘羅信仰が海難救助と結びつくのは19世紀になってからですから、この話の成立もこのあたりのことだったのでしょう。
④ 旱魃が続いたときに「農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたが、ききめはありませんでした」とあります。
 ④からは、すでにいろいろな雨乞祈願がされていたことがうかがえます。
5善通寺
          善通寺東院境内の善女龍王社 
高瀬地方で「雨乞いのために神に祈ること」は、高瀬町の威徳院や地蔵寺で行われていた「善女龍王信仰」が考えられます。山で火を焚くことは、山伏たちの祈祷でしょう。それでも効き目がなかったので、綾子姫は「京の雨乞い踊り」の上栂への導入を思い立つのです。
その制作過程を、次のように記しています。
 
 「雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました」
 
ここからは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」が導入されたことがうかがえます。さてそれでは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」とは、どんなものだったのでしょうか。

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        なむて踊りの絵馬(奈良県高取町 小島神社)

これについては奈良で踊られた「なむて踊り」を紹介したときに、お話ししました。ここでは、百姓たちが雨を降らせるために踊ったのではなく、雨を降らせた神様へのお礼のために踊っていました。言うなれば「雨乞い踊り」ではなく「雨乞い成就感謝」のための踊りだったのです。
 雨乞いは山伏や寺院の僧侶など、特別な霊力をつけた人が行うものです。当時の人たちにとって、霊力のない普通の百姓が雨を降らせるなどというのは、恐れ多い考えでした。滝宮念仏踊りの由来にも、「菅原道真が祈願して雨が降ったので、そのお礼に百姓たちが念仏踊りを踊った」と記されています。ここからも雨乞いのために踊られたという「綾子踊り」は、江戸時代の終わりになって登場したものであることがうかがえます。
5善通寺22
佐文の綾子踊り

 綾子姫が踊った踊りも、当時の畿内で踊られていた雨乞い成就のりを踊りをアレンジしたもののようです。それでは、畿内の百姓たちは雨乞い成就の時には、どんな踊りを踊っていたのでしょうか。それが当時の盆踊りなどで踊られていた風流踊りと研究者は考えています。 佐文に伝わる綾子踊りの歌詞を見ても、雨乞いを祈るようなフレーズはどこにもありません。そこにあるのは、当時の百姓たちの間で歌われ、踊られていた風流踊りなのです。

 以上から分かることは、
①綾子踊りの起源は18世紀末から19世紀にかけてのものであること。
②綾子踊り以前に、すでに「善女龍王信仰」などの雨乞祈願の行事が行われていたこと
③先行する雨乞行事があるにもかかわらず、あらたな百姓主導の雨乞い踊りが導入されたこと
④そして、それは時宗念仏系の踊りではなく、近畿で流行っていた風流系のものあったこと。

以前に紹介したように高瀬町史には、大水上神社(二宮神社)に「エシマ踊り」という風流系の雨乞い踊りが伝わっていたことが記されています。これが上栂の綾子踊りの原型ではないかと私は推測します。しかし、上栂には綾子踊りを伝えるのは昔話だけで、史料も痕跡も何もありません。
 佐文の綾子踊りが国指定の無形文化財に指定されるのに刺激されて建てられた碑文があるだけです。この碑文の前に立って、いろいろなことを考えています。


江戸時代に、村々で踊られた風流踊りや盆踊り、あるいは村祭りの獅子舞などをプロデユースしたのは山伏であったという話を以前にしました。今回は、宇和島藩で山伏たちが宗教活動以外に関わっていた文化活動や芸能活動を見ていこうと思います。テキストは
松岡 実  「山伏の活躍」 和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』所収(吉川弘文館、昭和36年)
篠山権現

 篠山は「篠山権現」が祀られ、土佐と宇和の両方から信仰を集める霊山でした。
ここを、さまざまな山伏たちが聖地として、宗教活動を展開していたようです。その中に宇和地方で踊られていた「はなとり踊」があります。旧一本松村正木のはなとり踊は、篠山権現を中心とした行事でした。
オヤびんの記憶 -篠山 (1065ml:高知県宿毛市・愛媛県南宇和郡愛南町)

その由来を埜仲伊太郎氏の筆記は、次のように記します。

 そもそもはなとりの由来は、花賀という悪者がでて集落を荒して困ったのを、花踊戦術をつかって打取ったことに始まる。ところがその後、火災や不幸が続いて人々をを不安におとし入れた。それを、占ってもらったところ花賀の災とわかり、篠山に十一面観世音として祭り、毎年旧十月十八日花踊を踊って花賀の霊をなぐさめるようになった。これが一本松村正木の花とり踊の由来である。

 踊は、早朝一番に篠川で禊ぎして、それから篠山に登ります。

そして、天狗堂前で踊り、中店屋(ナカデンヤ)のお堂・オドリ駄場・御在所クラモト(山本真一郎元山伏家)宅庭・蕨岡庄屋前の五ヵ所で踊を奉納していました。それが後には、正木集落の権現堂・観喜光寺・庄屋前の3ヶ所に簡略化したようです。御在所の山本家は、元篠山山伏です。昔は山本家の修験者を中心に二人の修験者による「さやはらい」行事が行なわれていました。

はなとりおどり・正木の花とり踊り
正木のはなとりおどり
その後に謡われるはなとりの歌は、次のようなものでした。
    ここ開けよ、やあまん(山伏)おとうり。
    さぞや開けずば、
    上り踏ねこす。
  念仏
    いんよう
    なむおいどう
    なむおみどんよ
    なむおい            ‘’
   ぜんごぜ
   ぜんごぜは万のてききよ
  I さぞや松より
   前に之を書く  (以下略)
「ぜんごぜ」は旧城辺町中大堂智恵光寺旧跡大堂にあったゼソゴゼ松と関係があるとされます。内容自体は、山伏とゴゼの問答と伝えられています。また、はなとり踊は、視点を変えると刀と鎌との武術の習練をかねた民俗芸能ともされます。
ムトウーフリムクイーサカテーウチコンーオリシキクルマーエフリーツキアゲーネジキリ

などの踊の手は、そのまま武道の型ともされ、山伏の指導で武術修練を行なっていたという伝えもあるようです。とすると、山伏は武術指南も行っていたことになります。本当なのでしょうか?
はなとりおどり・正木の花とり踊り
増田のはなとり踊

 旧一本松村増田集落のはなとり踊は、山伏問答の部分「さやはらい」が近年まで原型で残っていたようです。
「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、増田集落では修験者がやっていたと云います。恐らく他地区のはなとり踊りでも、「さやはらい」は必ず修験者が勤めていたものと研究者は考えています。山伏と民俗芸能の関連を解明する史料になるようです。
「さやはらい」の部分は大体次の通りです。
善久坊  紺の袷の着流し、白布の鉢巻、襟、草履ばき、腰に太刀と鎌をさし、六尺の青竹を手にしている。
南光坊  同じいで立ち、ただし鎌をさしていない。まず南光坊が突っ立ち、行きかける。善久坊をやっと睨んで声をかける。
南光坊  おおいそもそもそこへ罷り出でたるは何者なるぞ。
善久坊  おう罷り出でたるは大峰の善久坊に候、今日高山尊神の祭礼にかった者。
南光坊  おう某は寺山南光院、’今日高山尊神の御祭礼の露払いにかった者、道あけ通らせ給え。
善久坊  急ぐ道なら通り給え。
南光坊  急ぐ急ぐ。
 南光坊行きかける。善久坊止める。両者青竹をもって渡り合う。鉦・太鼓の囃子、青竹くだける。これを捨て南光坊は太刀、善久坊は鎌で立ち廻る。善久坊も刀を抜いて斬りむすぶ。勝敗なく向かい合って太刀を合掌にした時、[さやはらい]一段の終りとなる。

この後、はなとり踊へと移っていきます。この問答からは、次のようなことが分かります。
①登場するのは大峰山の善久坊と宿毛・寺山の南光院で
②両者が高山尊神への祭礼の露払いへ出向く途上での鞘当て事件
③最初は、青竹での武闘のやりとり
④最後は太刀と鎌での立ち回り
これを見ると登場するのは山伏で、はなとり踊が山伏の宗教行事であることが分かります。昔は法印(山伏)の行なっていた清めの式では、般若心経と次のような清めの言葉を述べられていました。
  きわめてきたなきものよ
  つみとがけがれをはらい玉え
  きよめ玉え
  六根清浄・六根清浄
ここには六根清浄と、山伏お決まりの言葉がでてきます。
  ここに出てくる増田の高山尊神の敵は、石鎚権現で、石鎚山に詣ると死ぬと地元では云われてきたようです。ここからは石鎚の蔵王権現に対抗的な山岳信仰の道場が、このエリアにはあったことがうかがえます。これをさらに突っ込んで推測すると増田の斎払いは、本山派(天台系)と当山派(真言系)の対立を表しているのかもしれません。また、青竹の打ち合いは、土佐の神事「棒打ち」の影響がみられ、踊りの刀は破邪の剣、平常嫌う逆さ鎌は破魔除災を表しているともされるようです。どちらにしても、あっちこっちに山伏の影響が見えます。
 さいはらいに出てくる寺山南光院は、石鎚権現の対抗候補の有力寺院です。
この山伏寺は、宿毛市の四国霊場39延光寺の奥の院になります。南光院のについては以前にもお話ししましたが、ここ出身の宥厳は、長宗我部元親の讃岐侵攻に従軍し、無住となった松尾寺(金比羅さん)を、讃岐統治の総本山にするために預けられ修験者です。後の史料では、この寺は当山派の四国惣元締め的な山伏寺院であったと自称しています。確かに、当時は属する修験者も多かったようで、幡多地方の最有力寺院であったようです。この寺の歴史も古く、南光院流秘法によって諸病封じの祈祷も行なっていたようです。

また、はなとり踊りの休憩中に希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打ってさいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。

  この行事の全体を眺めても、この踊りをプロデュースしたのは山伏だったことがうかがえます。
里人の不安に応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは山伏たちだったとしておきます。この視点で、讃岐の滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りを見てみると、行列の先頭にはホラ貝を持った山伏が登場します。行列が進み始めるのも、踊りが踊られ始めるのもホラ貝が合図となります。また太刀払いも登場し、「さいはらい」を演じます。これらを考え合わせると、讃岐の雨乞い踊りにも山伏が関与していたことが考えられるようです。

もうひとつ綾子踊りと共通するものが宇和地方にはあります。
 伊勢踊りです。これは旧城辺町僧都の山王様の祭日(旧9月28日に)に行なわれる踊りです。男の子供6人が顔を女のようにつくり、女の長儒絆を着て兵児帯を右にたらし、巫子の姿をして踊ります。これも山王宮の別当加古那山当山寺の瑞照法印が入峯の時に、伊勢に参宮して習って来て村民に伝えたといわれています。
「男子6人の女装での風流踊り」という点が、綾子踊りとよく似ています。それを、村に導入したのが、山伏であると伝わります。綾子踊りも、このようなルートが考えられるのではないでしょうか。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
松岡 実  「山伏の活躍」 和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』所収(吉川弘文館、昭和36年)
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滝宮念仏踊 那珂郡南組

この絵図は、まんのう町真野の諏訪神社で踊られた那珂郡南組(七箇村組)の念仏踊の様子が描かれています。 私が最初に、この絵図を見たのは香川県立ミュージアムの「祭礼百態」の展示でした。その時には、次のような短い説明が付けられていました。
2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知、同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。また花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいる。また、下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。  

  この絵図については以前にも紹介しましたが、満濃町誌をながめていると、この絵図について書かれている文章がありました。それをテキストにしながらもう一度、紹介したいと思います。
テキストは満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「満濃町誌」1100Pです
町誌は、この絵図がいつ書かれたのかを探っていきます。
そのヒントのひとつは、この絵の中に隠されているようです。右側の仮桟敷に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことになるようです。
滝宮念仏踊り 2

 「金刀比羅宮文書御用留文 文久二年七月二十六日」には
「那珂郡の大政所三原谷蔵の使の者有り、来る二十八日に念仏踊が踊り込みたい旨の申込あり云々」

と書かれています。
  1862年の7月26日に、那珂郡の政所(大庄屋)である三原谷蔵の使いが金毘羅大権現にやってきて、7月28日に、念仏踊を金比羅で行いたいという連絡があったと記します。

 この滝宮念仏踊りは、ひとつの村だけで構成されているのでなく、いくつもの村のメンバーが参加します。そのために、滝宮での本番の前に、構成員の村の鎮守を巡って踊ります。そのスケジュールも決まっていました。「吉野村史」には、1742年の念仏踊りの組織や踊り場所日程について、次のように記録しています。
那珂郡南部念仏踊り組
寄合場所 真野村字東免
踊組人員割(合計二〇四人)
真野村 下知一人、長刀一人、鉦打二人、地踊二人、棒突一人 長刀三人
岸上村 笛吹一人、鉦打五人、地踊り一人 旗五人、長刀槍十人
吉野上下村
    棒振上村一人、小踊上村二人、鉦打上村三人、地踊上村五人・下村二人、長柄槍 下村五人、旗上村二人、小踊上一人・下一人、新鉦打下村六人・上村二人
小松庄
   小踊四条一人・五条一人、地踊四条三人・榎井二人・五条二人・苗田二人、
笠飾四村各一人、太鼓打苗口・榎丼各一人、長柄槍一二人、旗九人
東七箇村 鉦打一〇人、法螺貝一人、地踊七人、旗二人、棒突三人、新鉦打一人
西七箇村
  太鼓打一人、鉦打一二人、小踊一人、法螺貝一人、地踊二十三人、旗八人、
長柄槍八人、棒突四人、新鉦打二人
踊場所及庭数
七月十六日 満濃池の宮五庭
七月十八日 七箇春日宮五庭、新目村之官五庭
七月廿一日 五条大井宮五庭、古野上村営七庭
七月廿二日 十郷買田宮七庭
七月二十三日 岸上久保宮七庭、真野宮九庭、吉野下村官三庭、榎井興泉寺三庭
              右寛保二戌年七月廿一日記

文久二(1862)年の時には、榎井の興泉寺と、金毘羅山を終えて、岸上村の久保宮で踊り、最後に真野村の諏訪神社で九庭踊って、その年の踊奉納を終了することになっていたようです。以上の史料から、この絵図は文久二年七月二十八日の夕方に、真野村の諏訪神社で行われた踊奉納を描いたものと研究者は考えているようです。
 もう一度絵図を見てみましょう。
正面が、諏訪神社の拝殿です。手前に屋根だけ描かれているのが神門でしょう。ここからは、境内の拝殿前で踊興行が行われていたことが分かります。陣笠を被って、踊りのまわりを警固しているのが長刀や槍を持った警固衆なのでしょうか。そのまわりに、大勢の人が頭だけ描かれています。
滝宮念仏踊 那珂郡南組

 見慣れないのがその背後の仮小屋です。正面の拝殿前に四棟、左側の内に八棟、その手前外に二棟、右側の内に八棟、総計三二棟の仮小屋が描かれています。その中では、ゆったりと念仏踊りを見守る人たちがいます。下の「一般大衆」とは「格差」があるようです。
これは以前にお話したように、宮座の構成メンバー達だけに認められた権利の桟敷です。
桟敷の使用者名(宮座メンバー)を見てみましょう。
①正面左から右へ「ゲシヨ(下所の永吉」「ヨシイタケヤ富之進」「ヨシイ彦兵衛」「カミマノ(上真野)広右衛門〉と続きます。この正面に桟敷の権利を持っている人たちが宮総代を勤めていた人々と研究者は考えているようです。
②左側には「ミヤ(宮)朝倉」「ヨシイ折平」「ヨシイ庄助」「ミシマ(三島)アイサコ多喜蔵」「ミシマ文蔵」「ニシマノ(西真野)ゴーロ長五郎」「ヨシイ治右衛門」「ハカバ藤作」「ミシマカ蔵」「ヒラバヤシ亦作」と並びます。「ミヤ(宮)朝倉」は、宮司でしょうか。
③右側には「ヨシイ喜二郎」「ヨシイアナダの藤蔵」「光教寺」「カミマノ大政所三原谷蔵」「カミマノ五左衛門」「ミヤウテ喜太郎」「ヒラキタハヤシ二五郎」「宮西伊二郎」と書きこまれています。

滝宮念仏踊 那珂郡南組3

踊りはすでに始まっています。拝殿の正面に、祥姿で床几に座しているが七箇村組の村役人でしょう。日の丸の団扇を持っているのが念仏踊の総触頭の三原谷蔵のようです。豆粒のように、黒く白く描かれているのが踊りの見物人と対照的です。ここからは、この絵を描かせた人物も浮かび上がってきます。
①三原谷蔵が自分の晴れ姿を絵師に描かせた。
②宮司が絵師に依頼し、三原谷蔵に晴れ姿を描かせてプレゼントした
絵に作者名はありませんが、四条派の手法が見られるところから郡家村の大西雪渓か、あるいは雪渓について四条派の技法を修めたと伝えられる、吉野上村五毛出身の東条南渓の作ではないかと研究者は考えているようです。

中央で笠を被って帯刀して、手に日月の団扇を持っているのが、踊りで中心的な役割を勤める下知役です。これも真野村の者が勤めることになっていて、その家筋も決まっていたようです。ここからは、地侍や名主たちを中心とする中世の宮座の形がうかがえます。宮座については、岸上の久保神社の桟敷についての所で、以前にお話ししましたので省略します。
滝宮念仏踊り 2

  中央の下知役が、日月の団扇を打ちふって、「ナンマイ、ドウヤ。ナンマイ、ドウヤ。」と唱えると、警固役がこれに唱和して、鉦、太鼓、笛、鼓、法螺貝が鳴り響き、踊り子が美しく踊り舞う、という姿が描き込まれています。周囲には「南無阿弥陀仏」と、染めぬいた職が十数本立てられています。また、赤い笠鉾が二本立っていて目を引きます。
滝宮念仏踊 那珂郡南組5

 手前に描かれているのは棒突きです。棒を振って踊場を清め、地固めをし、踊場を確保しています。これは、踊りの最初の所作を現したものです。
滝宮念仏踊七箇村組の総触頭は真野村の政所が勤め、念仏踊の寄合は必ず不動堂で行われたようです。そして、順年毎の念仏踊の最後の踊りは必ず諏訪神社で九庭踊って納めとなっていたようです。

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佐文綾子踊り(まんのう町佐文賀茂神社)
この絵図を最初に見て私が感じたのは、佐文の綾子踊りに似ていることです。類似点を挙げると
①  神社の境内で演じられているスタイル
② 日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知
③ 同じく花笠を被った中踊り
④ 花笠を被った6人の子踊り
⑤ 棒を振って踊場を清め、地固めをし、踊場を確保する棒突。
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幟に書かれている「南無阿弥陀仏」を「善女龍王」に替えて、これが江戸時代に踊られていた綾子踊りですと云われて見せられれば、そうですかと見てしまいそうです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳(那珂郡南組)
 この表は、文政十二(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が念仏踊七箇村組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。 総勢が2百人を越える大スッタフで構成されたいたことが分かります。そして、スタッフを出す村々も藩を超えています。
高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
丸亀藩 西七ヶ村・塩入村・佐文村
天 領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
ここからは、滝宮念仏踊りが讃岐一国時代から踊られていたことがうかがえます。
 この表で注目したいのは佐文村です。
佐文には、国無形民俗文化財に指定されている綾子踊りが伝わっています。私は、佐文は綾子踊りがあるので、滝宮の念仏踊り組には参加していないものと思っていました。しかし、ここには、構成村の一つとして佐文村の名前があります。

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 しかも、寛政二(1790)年の念仏踊の構成(福家惣衛著・讃岐の史話民話164P)を見てみると、佐文のスタッフ配分は次のようになっています。
下知一人、小踊六人、螺吹二人と笛吹一人、太鼓打一人と鼓打二人、長刀振一人、棒振一人、棒突一〇人の計25人。

ところが約40年後の文政12年には棒突10人だけになっています。このことは、佐文村に配分されていたスタッフ数が大きく削られたことを示します。
 問題はそれだけではありません。これによって七箇村組の構成そのものが変化しています。編成表を比較してみると、寛政二年には踊組は東と西の二組の編成でした。一人で踊りの主役を勤める下知が真野村と佐文村から各1人ずつ出ていました。また、6人一組になって踊役を勤める小踊は、西七箇村から1人、吉野上下村から3人、小松庄四ヶ村から2人の計6人で構成されていました。ところが、佐文村は単独で6人を分担しています。さらに、
お囃子役や警固役を勤める螺吹が東七箇、西七箇と佐文から各二人、
笛吹が岸上村と佐文村から一人、
太鼓打が西七箇村と佐文村から一人、
鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人、
長刀振が真野村と佐文村から一人、
棒振も吉野上下村と佐文村から一人、
棒突は西七箇村四人。岸上村三人、小松庄四ヶ村3人の計10人に対して、ここでも佐文村は、10人を単独で出しています。
ここからは滝宮念仏踊の那珂郡南組は、佐文村が西組の中心的な存在であったことが分かります。それが何らかの理由で佐文は、中心的な位置から10人の棒付きを出すだけの脇役に追いやられた事になります。どんな事件があったのでしょうか?
 想像を膨らませて、次のような仮説を出しておきましょう。
 南組と佐文村の間に、何らかの対立が生じ、その結果佐文は「スタッフの規模縮小」を余儀なくされた。その対応として、佐文は独自に新たな「綾子踊り」をはじめた。その際に、踊りを念仏踊りから風流踊りに取り替えて、リニューアルさせた。
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 七箇村組は東西二組の編成だったために、二組がお互いに技を競い、地域感情も加わって争いが起こることが多かったようです。
享保年間(1716~36)には、滝宮神社への踊奉納の際に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順位のことで、先後争いが起こっています。この争いの背後には、高松藩・丸亀藩・池御料の三者の日頃の対立感情があったようです。
 そのために元文元年(1736)年に念仏踊は一旦中止され、七箇村組は解体状態になります。それから3年後の元文4年の6月晦日に、夏に大降雹(ひょう)があって、東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を受けます。これは滝宮念仏踊を中止したための神罰であるという声が高まり、関係者の間から念仏踊再興の気運が起こります。龍灯院の住職快巌の斡旋もあって、寛保二(1742)年から滝宮念仏踊は復活したようです。復活後は、那珂郡南組は東西二組の編成が、寛政二年まで続きます。

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 この間、滝宮の龍灯院は踊奉納をした七箇村組に対して、問題の御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていたといいます。しかし、二組編成は再度の紛争が起こる危険をはらんでいました。
 文化五(1808)年7月に書かれた真野村の庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」の7月24日の龍燈院宛の報告には、次のように記されています。
 七箇村組の行列は、下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人の一編成になっている。取遣留の七月廿五日の龍灯院からの御神酒樽の件は、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」と口上を述べ終わると、御神酒樽は龍灯院へ預かって直ちに持ち帰り、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を書院に招待して御神酒を振る舞った。

 ここからは、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっていたことが分かります。この時点で、佐文のスタッフが大幅に減らされたようです。それは、寛政二年から文化五年までの32年間の間に起こったと推察できます。
 あるいは、佐文村の内部に何かの変化があったのかもしれません。それが新たに佐文独自で「綾子踊り」を行うと云う事だったのかもしれません。どちらにしても南組が二編成から一編成になった時点で、佐文は棒振り10人だけのスタッフとして出す立場になったのです。
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 以上から推察すると、新たに始めた「綾子踊り」が諏訪神社で踊られていた念仏踊りと非常に似ているのも納得がいきます。そういう目で見ると、下知や子踊りの姿は、念仏踊りに描かれている姿とよく似ています。
  以上をまとめておきます
①初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、那珂郡南組(七箇村組)は東西2編成で出場していた。
②その西組は佐文村を中心に編成されていた。
③しかし、藩を超えた南組は対抗心が強く、トラブルメーカーでもあり出場が停止されたこともあった。その責任を佐文村は問われることになる。
④その対策として那珂郡南組は、1編成に規模を縮小し、佐文村のスタッフを大幅に縮小した。
⑤これに対して佐文村では、独自の新たな雨乞い踊りを始めることになった。
⑥それが現在の「綾子踊り」で、念仏踊りに対して風流踊りを中心に据えたものとなった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P
  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら 昭和63年
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綾子踊り(まんのう町佐文 賀茂神社)
  風流踊りのユネスコ文化遺産への登録が間近となってきました。全国の風流踊りを一括して登録するようです。登録後の動きに備えて、まんのう町佐文の綾子踊りの周辺も何かしらざわめいてきました
 どうして各地に残る念仏踊り等が一括化されるのでしょうか。
 各地に伝わる風流踊りのルーツをたどると念仏踊りにつながっていくからのようです。そのつながりはどうなっているのか、私にはもうひとつよく分かりません。そこで今回は、念仏踊りから風流踊りへの「成長」プロセスを見ておこうと思います。それが佐文綾子踊りの理解にもつながるようです。テキストは五来重 踊念仏と風流 芸能の起源です。
「念仏踊」は「踊念仏」の進化バージョンです。とりあえず次のように分類しておきましょう。
踊り念仏 中世の一遍に代表される宗教的な踊り
念仏踊り 近世の出雲阿国に代表される娯楽的な踊り
踊念仏は「をどり念仏」とか「踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の念仏」、あるいは「踊躍念仏」とよばれていました。踊りながら太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らし、念仏を唱えることを言います。
 起源は平安時代中期の僧空也にあるとされています。
その後、鎌倉時代に一遍(1239~1289)が門弟とともに各地を巡り歩いて、踊り念仏を踊るようになります。彼らは一念の信を起こし、念仏を唱えた者に札を与えました。このことを賦算(ふさん)と呼びます。一度の念仏で極楽往生できると約束された喜びを表現したのが「踊り念仏」であるとされています。

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一遍は、興奮の末に煩悩を捨て心は仏と一つになる、と民衆に踊り念仏を勧めました。
"ともはねよ かくても踊れ こころ駒 
みだのみのりと きくぞうれしき"

という一遍の歌にもあるように、踊ることそのものによって仏の教えを聞き、それを信じることによって心にわく喜びを得るというのが一遍の踊り念仏の考え方です。
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  『国女歌舞伎絵詞』には、次のような台詞があります
今日は二月二十五日、貴賤群衆の社参の折柄なれば、かぶきをどりを始めばやと思ひ候。まづ、念仏をどりを始め申さう
ここからは、歌舞伎おどりの前に、念仏踊りが踊られていたことが
分かります。浅井了意の『東海道名所記』には、次のように記されています。
「出雲神子におくに(出雲阿国)といへる者」が五条の東の河原で「やや子をどり」をしたばかりでなく、北野の社の東に舞台をかまえて、念仏をどりに歌をまじへ、ぬり笠にくれなゐのこしみのをまとひ、売鐘を首にかけて笛、つづみに拍子を合せてをどりけり。

ここからは踊念仏が、近世に入って宗教性を失って、「やや子をどり」や「かぶきをどり」などの娯楽としての念仏踊りに変化していく様子が見えてきます。  
踊り念仏の起源を、追いかけておきましょう。
「弥陀の称名念仏」というのですから、浄土信仰にともなって発生したもであることは分かります。称名念仏は次のふたつから構成されます
①詠唱するに足る曲調
②行道という肉体的動作をともなうもの
このふたつが念仏を拍子にして踊る「踊念仏」に変化していきます。この念仏をはじめたのは比叡山の慈覚大師円仁であり、その基になったのが五台山竹林寺につたわる法照流五会念仏だったことは史料から分かるようです。
入唐求法巡礼行記(円仁(著)、 深谷憲一(訳)) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 念仏は浄土信仰の発展とともに、浄土往生をねがう念仏にかわっていきます。念仏の出発点は、詠唱(=コーラス)でした。この上に後の念仏芸能が花が開くことになるようです。ここで押さえておきたいのは、浄土教団の念仏だけが念仏ではなかったことです。
それでは当時の念仏コーラスとはどんなものだったのでしょうか?

慈覚大師円仁のつたえた五会念仏は、『浄土五会念仏踊経観行儀』に、次のように記されています。

此国土(浄土)水鳥樹林、諸菩薩衆無量音楽、於二虚空中、
一時倶和二念仏之声

そして『五会念仏略法事儀讃』には、
第一会 平声緩念  南無阿弥陀仏
第二会 平上声緩念 南無阿弥陀仏
第三会 非緩非急念 南無阿弥陀仏
第四会 漸急念    南無阿弥陀仏
第五会 四字転急念 阿弥陀仏
とあるように、緩急転の変化のある声楽であったことが分かります。でも「楽譜」はありません。つまり、寺院の中に大切のおさめられた経典の中には、残されていないということです。しかし、民間の中に広がった融通念仏には、そのコーラス性が重視されて発展していったものがあるのではないかと研究者は考えているようです。

1 融通念仏
 融通念仏
大原の良忍によって作曲された融通念仏は、念仏合唱の宗教運動だったされます。
美しい曲譜の念仏を合唱することによって、芸術的エタスタシーのなかで宗教的一体感を体験する運動です。それと同時に、その詠唱にあわせた踊念仏がおこなわれ、これが融通大念仏とよばれるようになります。これには狂言まで付くようになり、壬生狂言にも正行念仏という詠唱念仏と行道があったようです。

「大原の良忍」の画像検索結果

  大念仏も鎌倉時代中期には、「風流」化して娯楽本位となり、批判を浴びるようになっています。
『元亨釈書』の「念仏」には、次のように記されています。
元暦文治之間、源空法師建二専念之宗、遺派末流、或資千曲調、抑揚頓挫、流暢哀婉、感人性喜人心。士女楽聞、雑沓群間、可為愚化之一端央。然流俗益甚、  動衡二伎戯、交二燕宴之末席・(中略)
痛哉、真仏秘号、蕩 為鄭衛之末韻。或又撃二饒馨、打跳躍。不レ別二婦女、喧喋街巷其弊不足言央。
意訳変換しておくと
元暦文治(平安末の12世紀末)には、源空(法然)法師が専修念仏を起こした。その流れを汲む宗派は競って念仏を唱え、二千曲を越える念仏調が生まれた。その曲調は、抑揚があり、調べに哀調が漂い、人々の喜びや悲しみを感じるものであった。そのため男女を問わず、雑沓の群衆は、この旋律に愚化され、俗益は甚しきものがあった。これでは、伎女の踊りや宴会の末席と変わらない・(中略) 痛むべきかな、真仏秘号への冒涜である。或いは、鉦を打ち、飛びはねる者も現れる始末。男女の見境なくし、巷で行われる。

ここからは、美しい曲調で哀調を込めて切々と念仏が謡われ、鉦を打って踊念仏が踊られていた様子が伝わってきます。しかも念仏が、俗謡(鄭衛之末韻)化していたことも分かります。これに対して他宗派の僧侶や知識人からは、批判の声も上がっていたようです。しかし、一般民衆はたのしみ、歓迎していたようです。だから爆発的な拡がりを見せていくのです。こうして踊念仏は、多くの風流をくわえながら、現在各地方に見られるようないろいろな姿の風流踊念仏に成長していくことになります。
踊念仏といえば一遍がです。それでは、一遍の踊念仏はどんなものだったのでしょうか。
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『一遍聖絵』(巻四)には、 一遍の踊念仏は空也の踊念仏を継いだもと次のように記されています。
抑をどり念仏は、空也上人、或は市屋、或は四条の辻にて始行し給けり。(中略)
それよりこのかた、まなぶものをのづからありといへども、利益猶あまねからず。しかるをいま時いたり機熟しけるにや、同国(侵漑鴎)小田切の里、或武士の屋形にて聖をどりはじめ給けるに、道俗おほくあつまりて結縁あまねかりければ、次第に相続して一期の行儀と成れり。
意訳変換しておくと
踊念仏は、空也上人が市屋や四条の辻にて始めたものである。(中略)
空也の踊りを学び継承しようとする者もいたが、人々に受けいれられず広がらなかった。そのような中で一遍は、時至り機熟したりと信濃の小田切の里や、武士の館で聖踊りを踊り始めたところ、僧侶や民衆が数多く集めって来て、宗教的な効果が大なので、次第に継続して踊るようになった。それがひとつの恒例行事のようになった。
ここからは、一遍以前に空也の乱舞的踊念仏がおこなわれていたことが分かります。
1 空也踊り念仏
空也の念仏踊り

これに対して一遍の踊念仏は融通念仏の曲譜に合せて踊る芸能的な踊念仏だったと研究者は考えているようです。
 一遍の生涯は「融通念仏すすむる聖」(『一遍聖絵』巻三)であったし、「三輩九品の念仏」(『一遍聖絵』巻三)という音楽的念仏に堪能だったようです。三輩九品の念仏は九品念仏の中でも、声のいい能声の僧をあつめておこなうものでした。
  一遍の踊念仏は、僧の時衆と尼の時衆が混合して踊るものでした。それは後の盆踊のような趣があったでしょう。これが踊念仏の風流化に道をひらく性格のものだと研究者は考えているようです。

九品念仏は、遊行の乞食のような聖によってうたわれていたようです。            
鎌倉末期の『徒然草』(百十五段)には、次のように記されています。
宿河原といふところにて、ぼろぼろおほく集りて、九品の念仏を申しけるに、(中略)
ぼろばろといふ者、むかしはなかりけるにや。近き世に、ばろんじ、梵字、漢字など云ひける者、そのはじめなりけるとかや。世をすてたるに似て我執ふかく、仏道をねがふに似て闘語をこととす。放逸無意のありさまなれども、死を軽くし、(後略)
意訳変換しておくと
京の宿河原に、乞食のような聖が多数集まって、九品の念仏を唱えている、(中略)
ぼろばろ(暮露)などと云う者は、むかしはいなかったのに、近頃は「ばろ(暮露ん字)、梵字、漢字」など呼ばれる者たちが、その始まりとなるようだ。世捨て人にしては我執がふかく、仏道を説くに喧嘩のような言葉遣いをする。放逸無意のありさまであるが、滅罪で人々の死を軽くし、(後略)
ここには、半僧半俗の聖が九品念仏を謡っている様子が描かれています。
その姿は近世の無宿者の侠客に似た生き方をしていたようです。その名も「しら梵字」とか「いろをしと申すぼろ(暮露)」などとよばれています。暮露は「放下」(放下僧)と同じ放浪の俗聖で、禅宗系の遊行者で、独特の踊念仏を踊ったとされます。
 これに対して「鉢叩」が空也系の念仏聖なのでしょう。暮露と放下と鉢叩は『七十一番職人尽歌合』に図も歌も出ています。少し寄り道して覗いてみましょう。
1 暮露
暮露

暮露は半僧半俗の物乞いで、室町時代には尺八を吹いて物を乞う薦僧(こもそう)となります。のちの虚無僧(こむそう)はこの流れだとされ「梵論字(ぼろんじ)。梵論梵論(ぼろぼろ)」とも表記されます。

1 放下と鉢叩
放下と鉦叩き 
放下も大道芸のひとつです。
「放下」という語は、もともと禅宗から出た言葉で「一切を放り投げて無我の境地に入ること」を意味するもです。そこから「投げおろす」「捨てはなす」という意味が派生して鞠(まり)や刀などを放り投げたり、受けとめたりする芸能を行う人たちのことを指すようになります。もともとは、禅宗の聖のようです。

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  鉢叩(はちたたき)も大道芸のことですが、もともとは踊念仏を踊る時宗信徒で、空也を始祖と仰いだようです。

1  踊り念仏

   暮露と放下と鉢叩がつたえたとされる踊念仏が奥三河には残っています。
地元では、これを大念仏とか盆念仏、念仏踊、提灯踊、掛け念仏、あるいははげしい跳躍をする踊り方から「はねこみ」などと呼んでいます。道に灯される切子灯籠には、今でも「暮露」と書かれています。
はねこみは、「はねこみ」「念仏」「手おどり」の3つから構成されています。「はねこみ」は、下駄に浴衣姿の若者が初盆宅の供養や先祖供養のために、輪になって片手に太鼓を提げ、もう一方の手には太くて短い撥を持ち、笛の音に合わせて太鼓の皮と縁を交互に打ち鳴らしながら、片足で飛び跳ねながら踊ることから始まります。
 次いで、中老衆と呼ばれる年配の方が「なむあみだぶつ」となどと鉦を叩きながら、念仏を唱えあげます。最後に、円形の輪を組んで手おどりが行われます。」
「はねこみ踊り」の画像検索結果

「はねこみ」の語源は、片手に提げた太鼓を飛び跳ねながら叩き踊るところに由来があるようです。ここからは奥三河に残る踊念仏が、念仏聖や高野聖・時衆聖などによってこの地に伝えられたものであること、それを民衆が時代の中で「風流」化していったものであることがうかがえます。
 奥三河の大念仏では、暮露系の踊念仏と放下系の放下大念仏とが混在しています。
放下大念仏は、風流の大団扇を背負うのも特色でが、暮露の踊念仏の方でも団扇をもつものがすくなくないようです。それにしても、どうしてこんなおおきな団扇を背負うようになったのでしょうか。それは後で考えることにして、先に進みます。
 『七十一番職人尽歌合』では、放下は笹に短冊をつけた負い物を背負い、ササラの代りにコキリコを打っています。放下も「やぶれ僧」ともよばれたことが歌によまれています。ここからも放下と暮露は重なっていたことがうかがえます。
月見つゝ うたふ疇うなの こきりこの
竹の夜声の すみ渡るかな
やぶれ僧 えばしきたれば こめはらの
男とみてや しりにつくらん
この「やぶれ僧」から「ぼろぼろ」の名称が出たと研究者は考えているようです。そして短冊をつけた笹の負い物が、幣の切紙をつけた割竹になって、現在の踊り姿になっていることがうかがえます。
研究者は次のように指摘します。
①踊念仏の「風流」化は、このような負い物や持ち物や服装からおこり、
②詠唱念仏は和讃や法文歌から「小歌」や盆踊歌や「くどき」に変化する
4mもあるヤナギやシナイを背負ったり、大きな太鼓を胸につけたり、華美な花笠をかぶって、女装までして、盆踊歌や恋歌をうたうのを、踊念仏、大念仏と称するのはそのためだと云うのです。

1 踊り念仏の風流化

放下と暮露は、念仏の軌跡の中に大きな足跡を残しているようです。
彼らが京の河原に道場を構えて、念仏を詠唱したことは先ほど見た『徒然草』(百十五段)であきらかです。『平戸記』(仁治三年十月十三日)にも、淀の河原に九か所の念仏道場があったことが次のように記されています。(意訳のみ)
今朝、淀津に向かうために鳥羽から川舟に乗って下る。
淀には西法法師が住んでいる島がある。その他にも、9ヶ所の道場があり、九品念像を信仰している。(中略)
そのため近頃は、男女が群衆となって結縁のために集まってくる。そして見物も開かれている。
(中略) 九品道場を見てみると、美しく筆に記しがたい程である。その後、上品上生道場に向かった。ここにも多くの人々が集まっていた
ここからは、瀬戸内海の物流拠点としての賑わいを背景に、淀津には多くの宗教施設が現れていたことが分かります。西法法師は勧進聖で他は暮露の輩と研究者は考えているようです。
  このように河原に道場をかまえる九品念仏は、その他でも見られたようです。
念仏踊り -2022年- [祭の日]

尾張の知多半島の阿久比川の河原では、九品念仏の行事が行われていたようです。
 これは「虫供養」とよばれ、1950年頃までは、河原に九棟あるいは十棟の仮屋をしつらえ、弥陀三尊や来迎図、十三仏などの本尊をかけて、村の念仏講が四遍念仏や百万遍念仏を行っていたと云います。
「三河の放下大念仏」の画像検索結果

 三河の放下大念仏も、放下念仏のスタイルである「ほろ」(「ホロ背負い」)をそのままのこしています。踊子の負い物である団扇は高さ3,5m幅1.5mの大きなものです。これは「放下僧」のもつ団扇が風流化したものと研究者は考えているようです。

とくい能「放下僧」 - 大阪中心 The Heart of Osaka Japan – 大阪市中央区オフィシャルサイト 地域情報ポータルサイト

 『七十一番職人尽歌合』の放下と、金春禅竹作の謡曲「放下僧」のあいだには、多生の違いがあるようですが、放下僧は勧進の頭目で、配下の輩が放下だったようです。つまり、親の仇討ちをする下野国牧野左衛門某兄弟は、兄は放下僧、弟は放下となって放浪することになっています。
この頃人の翫び候ふは放下にて候ふ程に、某(弟)は放下になり候ふべし。御身(兄)は放下僧に御なり候へ。

とあって、仇にめぐり会って次のような問答します。
「さて放下僧は何れの祖師禅法を御伝へ候ふぞ。面々の宗体が承りたく候」、
「われらが宗体と申すは、教外別伝にして、言ふもいはれず説くもとかれず。言句に出せば教に落ち、文字を立つれば宗体に背く。たゞ一葉の融る。風の行方を御覧ぜよ」
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歌謡 放下僧
ここからは、放下僧と放下は禅宗系の念仏聖であることが分かります。暮露も禅宗系です。両者の共通点が見えてきたようです。
 兼好法師が「ぼろぼろ」どもの「死を軽くして、少しもなづまざるいさぎよさ」をほめたたえていますが、これも禅から出ているようです。そして、放下僧が数珠ももたず袈裟もかけずに、団扇と杖をもっていたことが謡曲のなかにかたられています。
その団扇についての禅間答を見てみましょう
「又見申せば控杖に団扇を添へて持たれたり。団扇の一句承りたく候」
「それ団扇と申すは、動く時には清風をなし、静かなる時は明月を見す。明月清風唯動静の中にあれば、諸法を心が所作として、真実修行の便にて、われらが持つは道理なり」
ということで、お伴の放下のほうは弓矢とコキリコをもっています。