瀬戸の島から

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旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
旧練兵場遺跡と吉野ヶ里遺跡の面積比較 ほぼ同じ
旧練兵場遺跡は、吉野ヶ里遺跡とほぼ同じ50㌶の大きさがあります。町名で云うと善通寺市仙遊町で、明治に11師団の練兵場として買収されたエリアです。そこに戦後は、善通寺国立病院(旧陸軍病院)と農事試験場が陣取りました。国立病院が伏見病院と一体化して「おとなとこどもの医療センター」として生まれ変わるために建物がリニューアルされることになり、敷地では何年もの間、大規模な発掘調査が続けられてきました。その結果、このエリアには、弥生時代から古墳時代までの約500 年間に、住居や倉庫が同じ場所に何度も建て替えられて存続してきたこと、青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではなかなか出土しない貴重品が、次々と出てくること、たとえば青銅製の鏃(やじり)は、県内出土品の 9割以上に当たる約50本がこの遺跡からの出土ことなどが分かってきました。

十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺(善通寺市史NO3)

 つまり、旧練兵場遺跡は「大集落跡が継続して営まれることと、貴重品が多数出土すること」など特別な遺跡であるようです。今回は、発掘したものから研究者たちが旧練兵場遺跡群をどのようにとらえ、推察しているのかを見ていくことにします。
旧練兵場遺跡の周りの環境を下の地図で押さえておきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡周辺図

  遺跡は、善通寺の霊山とされる五岳の一番東の香色山の北側に位置します。五岳は現在でも余り変わりませんが、川は大きく変化しました。古代の丸亀平野の川は、扇状地の上を流れているので網の目のように何本にも分かれて流れていました。それが発掘調査や地質調査から分かるようになりました。

扇状地と網状河川
古代の土器川や金倉川などは、網目のような流れだった
 旧練兵場遺跡には、東から金倉川・中谷川・弘田川の3本の川の幾筋もの支流が流れ込んでいたようです。その流れが洪水後に作り出した微高地などに、弥生人達は住居を構え周辺の低地を水田化していきます。そして、微高地ごとにグループを形成します。それを現在の地名で東から順番に呼ぶと次のようになります。
①試験場地区
②仙遊地区
③善通寺病院地区
④彼ノ宗地区
⑤弘田川西岸地区
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
旧練兵場遺跡周辺遺跡分布図
 上図で鏡の出土した所をよく見ると、集落内の3つのエリアから出土しています。特に、③病院地区から出てきた数が多いようです。そして、仙遊・農事試験場地区からは出てきません。ここからは、旧練兵場遺跡では複数の有力者が併存して、集団指導体制で集落が運営されていたことがうかがえます。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図
旧練兵場遺跡群 拡大図

その中心が病院地区だったことが裏付けられます。これが古墳時代の首長に成長して行くのかもしれません。このように研究者は、青銅器を通して旧練兵場遺跡の弥生時代の社会変化を捉えようとしています。

旧練兵場遺跡の福岡産の弥生土器
 旧練兵場遺跡出土 福岡から運ばれてきたと思われる弥生土器
最初に前方後円墳が登場する箸塚の近くの纏向遺跡からは、吉備や讃岐などの遠方勢力からもたらされた土器などが出てきます。同じように、旧練兵場遺跡からも、他の地域から持ち込まれた土器が数多くみつかっています。そのタイプは次の2つです。
①形も、使われた粘土も讃岐産とは異なるもの
⑥形は他国タイプだが粘土は讃岐の粘土で作ったもの
これらの土器は、九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られるもので、作られた時期は、弥生時代後期前半(2世紀頃)頃のものです。
旧練兵場遺跡 搬入土器・朱出土地
搬入土器や朱容器の出土地点
土器が歩いてやって来ることはありませんので、土器の中に何かを入れて、運ばれてきたことが考えられます。「移住」「交易」などで滞在が長期に渡ったために、その後に善通寺の土を使って、故郷の土器の形を再現したものと研究者は考えているようです。どちらにしても、人の動きによって旧練兵場遺跡にもたらされたのです。ここからも、当時の人々が瀬戸内海という広いエリアの中で活発に交流していたことがうかがえます。

1善通寺王国 持ち込まれた土器
他地域から善通寺の旧練兵場遺跡に持ち込まれた土器
 このような動きは、同時代の讃岐の遺跡全てに云えることではないようです。旧練兵場遺跡が特別な存在なのです。つまりこの遺跡は、「讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった特別な集落」と研究者は考えています。
旧練兵場遺跡 鍛冶炉

旧練兵場遺跡では、鍛冶炉(かじろ)が見つかっています。
そこで生産された鏃(やじり)・斧・万能ナイフである刀子(とうす)が多量に出土しています。
旧練兵場遺跡 銅鏃

鉄器生産には、鍛冶炉での1000℃を超える温度管理などの専門的な技術と、朝鮮半島からの鉄素材の入手ルートを確保することが求められました。そのため鉄器生産は「遠距離交易・交流が可能な拠点的な集落」だけが手にすることがができた最先端製品でした。鉄生産を行っていた旧練兵場遺跡は、「拠点的な集落」だったことになります。旧練兵場遺跡の有力者は、併せて次のようなものを手に入れることができました。
①鉄に関係した交易・交流
②鏡などの権威を示す器物
③最先端の渡来技術や思想
 これらを独占的に手にすることで、さらに政治権力を高めていったと研究者は考えています。以上のように鏡や玉などの貴重品や交易品、住居跡からは、人口・物資・情報が集中し、長期にわたる集落の営みが続く「王国」的な集落の姿が浮かび上がってきます。
 BC1世紀に中国で書かれた漢書地理志には、倭人たちが百余りの王国を作っていたと書かれています。この中に、旧練兵場遺跡は当然含まれたと私は考えています。ここには「善通寺王国」とよべるクニがあったことを押さえておきます。

旧練兵場遺跡 朱のついた片口皿
旧練兵場遺跡の弥生終末期(3世紀)の土器には、赤い顔料が付いたものが出てきます。

「赤」は太陽や炎などを連想させ、強い生命力を象徴する色、あるいは特別なパワーが宿る色と信じられ魔除けとしても使われました。そのため弥生時代の甕棺や古墳時代の木簡や石棺などからも大量の朱が出てくることがあります。
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旧練兵場遺跡から出てきた朱には、次の2種類があるようです。
水銀朱(朱砂)とベンガラ

①ベンガラ(酸化鉄が主原料)
②朱(硫化水銀が主原料)
 ①は吉備地方から持ち込まれた高杯などに装飾として塗られています。今でも、岡山のベンガラは有名です。②は把手付広片口皿の内面に付いた状態を確認しているようです。把手付広片口皿とは、石杵や石臼ですりつぶして辰砂を液状に溶いたものを受ける器です。この皿が出てくると言うことは、旧練兵場遺跡で朱が加工されていたことを裏付けます。
旧練兵場遺跡 阿波の辰砂(若杉山遺跡)
阿波の若杉山遺跡(徳島県阿南市)の辰砂
 辰砂の産地は阿讃山脈を越えた若杉山遺跡(徳島県阿南市)が一大採掘地として知られるようになりました。
瀬戸内海から阿波西部には、古くから「塩の道」が通じていたことは、以前にお話ししました。その見返り品の一つとして朱が吉野川上流の「美馬王国」から入ってきていたことがうかがえます。

弘安寺同笵瓦関係図

 郡里廃寺(美馬市)から善通寺の同笵瓦が出土することなども、美馬王国と善通寺王国も「塩と朱」を通じて活発な交流があったことを裏付けます。このような流れの中で、阿波忌部氏の讃岐移住(進出)なども考えて見る必要がありそうです。そう考えると朱を通じて 阿波―讃岐ー吉備という瀬戸内海の南北ラインのつながりが見えて来ます。
このように善通寺王国は、次のようなモノを提供できる「市場」があったことになります。
①鍛冶炉で生産された銅・鉄製品などの貴重品
②阿波から手に入れた朱
それらを求めて周辺のムラやクニから人々が集まってきたようです。

以上、善通寺王国(旧練兵場遺跡)の特徴をまとめておくと次のようになります。
① 東西1km、南北約0.5kmの約50万㎡の大きな面積を持つ遺跡。 
② 弥生時代から鎌倉時代に至る長期間継続した集落遺跡。弥生時代には500棟を超える住居跡がある。
③ 銅鐸・銅鏃などの青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではめったに出土しない貴重品が出土する。 青銅製の鏃は、県内出土の9割以上に当たる約50本が出土。
④ 弥生時代後期の鍛冶炉で、生産された鏃・斧・刀子が多量に出土。
⑤朝鮮半島から鉄素材の入手のための遠距離交易・交流を善通寺王国は行い、そこで作られた鉄器を周辺に配布・流通。
⑥九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸エリアで見られるスタイル土器が出てくることから善通寺王国が備讃瀬戸エリアの物・人の広域な交流の拠点であったこと。
⑦辰砂を石杵や石臼で摺りつぶして液状に溶いたものを受ける把手付広片口皿から朱が検出された。これは、善通寺王国で朱が加工・流通していたことを裏付ける。 
⑧朱の原料入手先としては、阿波の若杉山遺跡(阿南市)で産出されたものが善通寺王国に運び込まれ、それが吉備王国の楯築(たてつき)遺跡(倉敷市)などへの埋葬にも用いられたと推測できる。ここからは、徳島―香川―岡山という「朱」でつながるルートがあったことが浮かび上がって来る。 
⑨ 硬玉、碧玉、水晶、ガラス製などの勾玉、管玉、小玉などの玉類が多量に出土する。これらは讃岐にはない材料で、製作道具も出てこないので、外から持ち込まれた可能性が高い。これも、他地域との交流を裏付けるものだ。
⑩旧練兵場遺跡は約500年の間継続するが、その間も竪穴住居跡の数は増加し、人口が増えていたことが分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  香川県埋蔵文化財センター 香川の弥生時代研究最前線  旧練兵場遺跡の調査から 
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 善通寺村略図2 明治
名東県時代の善通寺村略図
善通寺市史NO2を眺めていて、巻頭の上の絵図に目が留まりました。この絵図は、十一師団設置前の善通寺村の様子を伝えるものとして貴重な絵図です。この絵図からは次のような事が読み取れます
①五岳を霊山として、その東に善通寺と誕生院(西院)が一直線にあること
②善通寺の赤門(東門)から一直線に伸びが参道が赤門筋で、金毘羅街道と交差すること
③その門前には、門前町といえるものはなかったこと
以上から、十一師団がやって来る前の善通寺村は「片田舎」であったことを、以前にお話ししました。今回は、この絵図で始めて気づいたことをお話しします。
それは、絵図の右下部分に描かれた「4つの柄杓」のようなものです。
善通寺村略図拡大

善通寺村略図の拡大:右下に並ぶ「4つの柄杓?」
これは一体何なのでしょうか?
位置的には、善通寺東院の真北になります。近くの建造物を拡大鏡で見ると「仙遊寺」とよめそうです。そうだとすれば「4つの柄杓」は、仙遊寺の東側に並んで位置していることになります。ということは、西日本農業研究センター 四国研究拠点仙遊地区(旧農事試験場)の中にあったことになります。
旧練兵場遺跡 仙遊町
     旧練兵場=おとなとこどもの病院 + 農事試験場

そこで、グーグルでこのあたりを見てみました。赤枠で囲まれたエリアが現在の仙遊町で、これだけの田んぼが11師団の練兵場として買収されました。そして、周辺の多くの村々から人夫を動員して地ならししたことが当時の史料からは分かります。さらに拡大して見ます。

旧練兵場遺跡 出水群
農事試験場の周りを迂回する中谷川
青いラインが中谷川の流れです。赤が旧練兵場の敷地境界線(現在の仙遊町)になります。これを見ると四国学院西側を条里制に沿って真っ直ぐに北に流れてきた中谷川は、農事試験場の北側で、直角に流れを変えて西に向かっていることが分かります。
最大限に拡大して見ます。
旧練兵場遺跡 出水1
善通寺農事試験場内の出水

 農事試験場の畑の中に「前方後円墳」のようなものが見えます。現地へ行ってみます。宮川うどんの北側の橋のたもとから農事試験場の北側沿いに流れる中谷川沿いの小道に入っていきます。すると、農事試験場から流れ出してくる流路があります。ここには柵はないのでコンクリートで固められた流路縁を歩いて行くと、そこには出水がありました。「後円部」に見えたのは「出水1」だったのです。出水からは、今も水が湧き出して、用水路を通じて中谷川に流れ込んでいます。善通寺村略図を、もう一度見てみます。「4つの柄杓」に見えたのは、農事試験場に残る出水だったのです。
旧練兵場遺跡 出水3
善通寺農事試験場内の3つの出水
グーグルマップからは3つの出水が並んであるのが見えます。

それでは、この出水はいつ頃からあるのでしょうか?
旧練兵場遺跡の最新の報告書(第26次調査:2022年)の中には、周辺の微地形図が載せられています。カラー版になっていて、旧練兵場遺跡の4つの地区がよく分かります。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡微地形図(黄色が集落・黒が河川跡)
この地図で、先ほどの出水群を探してみると、仙遊地区と試験場地区の間には、かつては中谷川の支流が流れていたことが分かります。その支流の上に出水はあります。つまり、その後の条里制に伴う工事で、旧中谷川は条里にそって真っ直ぐに北に流れる現在の姿に流路変更された。しかし、伏流水は今も昔のままの流れであり、それが出水として残っている、ということでしょうか。

宮川製麺所 香川県善通寺市 : ツイてる♪ツイてる♪ありがとう♪
豊富な地下水を持つ宮川製麺

 そういえば、この近くには私がいつも御世話になっている「宮川うどん」があります。ここの大将は、次のように云います。

「うちは讃岐が日照りになっても、水には不自由せん。なんぼでも湧いてくる井戸がある。」

 また、この出水の北側の田んぼの中には、中谷川沿いにいくつも農業用井戸があります。農作業をしていた伯父さんに聞くと

「うちの田んぼの水が掛かりは、この井戸や。かつては手で組み上げて田んぼに入れよった。今は共同でポンプを設置しとるが、枯れたことはない」

と話してくれました。旧流路には、いまでも豊富な伏流水がながれているようです。川の流れは変わったが、伏流水は出水として湧き出してくるので、その下流の田んぼの水源となった。そのため練兵場整備の時にも埋め立てられることはなかったと推測できます。そうだとすれば、この出水は弥生時代以来、田んぼの水源として使われて続けてきた可能性があります。「農事試験場に残る弥生の米作りの痕跡」といえるかもしれません。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図 真ん中が旧中谷川
最後に地図を見ながら、以前にお話ししたことを再確認しておきます。
①旧練兵場遺跡には、弘田川・中谷川・旧金倉川の支流が網の目状にながれていた。
②その支流の間の微高地に、弥生時代になると集落が建ち並び「善通寺王国」が形成された。
③古墳時代にも集落は継続し、首長たちは野田院古墳以後の首長墓を継続して造営する
④7世紀末には、試験場南に佐伯直氏の最初の氏寺・仲村廃寺が建立される。
⑤続いて条里制に沿って、その4倍の広さの善通寺が建立される。
⑥善通寺の建立と、南海道・多度津郡衙の建設は、佐伯直氏が同時代に併行して行った。

ここでは①の3つの河川の流れについて、見ていくことにします。古代の川の流れは、現在のように一本の筋ではなかったようです。
旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡の流路(黒が現在の流れ、薄黒が流路跡)
古代の丸亀平野を流れる土器川や金倉川などは、網目状に分かれて、ながれていたようです。それが弥生時代になって、稲作のために井堰や用水路が作られ水田への導水が行われるようになります。これが「流れの固定化=治水・灌漑」の始まりです。その結果、扇状地の堆積作用で微高地が生まれ、居住域として利用できるようになります。 例えば、旧練兵場遺跡の彼ノ宗地区と病院地区の間を蛇行して流れる旧弘田川は、次のように変遷します。
①南側の上流域で、治水が行われ水流が閉ざされたこと
②その結果として微高地が高燥環境に移行し、流路埋没が始まる
つまり、上流側での治水・灌漑が微高地の乾燥化を促進させ、現在の病院周辺を、生活に適した住宅地環境にしたと研究者は指摘します。
 流路の南側(上流側)では、北側(下流域)に先行して埋没が進みます。そのためそれまでの流路も埋め立てられ、建物が建てられるようになります。しかし、完全には埋め立てません。逆に人工的に掘削して、排水や土器などの廃棄場として「低地帯の活用」を行っています。これは古代の「都市開発」事業かも知れません。

以上をまとめておくと
①明治前期の善通寺村略図には、善通寺村と仲村の境(現農事試験場北側)に4つの柄杓のようなものが書き込まれている。
②これは、現在も農事試験場内に残る出水を描いたものと考えられる。
③この出水は旧練兵場遺跡では、旧中谷川の流路跡に位置するもので、かつては水が地表を流れていた。
④それが古代の治水灌漑事業で上流で流れが変更されることで乾燥化が進んだ。しかし、伏流水はそのままだったので、ここに出水として残った。
⑤そして、下流部の水源として使用されてきた。
⑥そのため明治になって練兵場が建設されることになっても水源である出水は埋め立てられることなく、そのままの姿で残った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 旧練兵場遺跡調査報告書(第26次調査 2022年発行)

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善通寺東院の金堂
前回は、金堂や五重塔などの東院伽藍のスター的な存在を見てきました。しかし、これらは近世以後のモノばかりです。善通寺は「空海が父佐伯善通の名前にちなんで誕生地に創建した」といわれます。空海の時代のものを見たり、触れたりすることはできないのでしょうか。今回は、古代善通寺の痕跡を探して行きたいと思います。

 まず「調査」していただきたいのは、金堂基壇の石垣です。
現在の金堂は元禄時代に再建されたものであることは前回お話ししました。その時に作られた基壇の石組みの中に、変わった石が紛れ込んでいます。
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善通寺金堂基壇(東側)
基壇の周りを巡って見ると東西南北の面に、それぞれ他とは違う形をした大きな石がいくつか紛れ込んでいます。

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           善通寺金堂基壇(北側)
この石について「新編香川叢書 考古篇」は、次のように記します。

正面・西側・東側に組み込まれた礎石は径65cmの柱座をもち、北側礎石は径60cmの柱座を持つ。西側礎石は周囲に排水溝を持ち心礎と思われる。正面・北・東の3個は高さ1cmの造出の柱座を持つ。西側礎石の大きさは実測すると160×95cmで内径68cm幅およそ2.5cm、深さおよそ1cmの円形の排水溝を彫る。

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      善通寺金堂基壇(西側:1/3は埋まっている)

  もう一度見てみると、確かに、造り出しのある大きな礎石がはめ込まれています。また、大きな丸い柱を建てた柱座も確認することができます。これらの石は古代寺院に使われていた礎石のようです。よく見ると、特に西側のものは大型です。これを五重塔の心礎と考える研究者もいるようです。そうだとすると、善通寺には古代から五重塔があったことになります。以上からは次のようなことが推測できます。
①白鳳期に建立された古代の善通寺は中世に焼け落ち、再建された。
②中世に再建された伽藍は、戦国時代に焼け落ちて百年以上放置された。
③元禄年間に再建するときに、伽藍に散在した礎石を基壇に使った
 このように考えると、この礎石は空海時代の金堂に使われていた可能性が高くなります。古代善通寺の痕跡と云えそうです。触って「古代の接触」を確かめてみます。

1善通寺宝物館10
「土製仏頭」(善通寺宝物館)

もうひとつ、元禄の再建の時に出てきたものがあります。
宝物館に展示されている「土製仏頭」です。
これは粘土で作られた大きな頭で、見ただけでは仏像の頭部とは見えません。
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        「土製仏頭」(善通寺宝物館)
研究者は「目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭」と推定します。私には、なかなか「白鳳の仏像」とは見えてこないのですが・・。
印相などは分かりませんが、古代の善通寺本尊なので薬師如来なのでしょう。また小さな土製の仏のかけらもいくつかでてきたようです。それは、いまの本尊の中に入れられていると説明板には書かれています。
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         「土製仏頭」(善通寺宝物館)
 この「土製仏頭」が古代善通寺の本尊薬師如来であるということを裏付ける資料があります。
 鎌倉時代初期に高野山での党派闘争の責任を問われて讃岐に流刑となった道範は、善通寺に滞在し『南海流浪記』を書き記します。その中で、善通寺金堂のことを次のように記しています。
◎(平安時代に)お寺が焼けたときに本尊なども焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある
◎金堂は二層になっているが裳階があるために四層に見える
◎本尊は火災で埋もれていた仏を堀り出した埋仏
ここからは、平安時代に焼けた本堂が鎌倉時代初期までには再建されたこと、そして本尊は「火災で埋もれていた仏を張り出した埋仏」が安置されていたと記しています。
 その後、戦国時代の兵火で焼け落ち、地中に埋もれていたこと、それが元禄の再建で、掘りだされ保存され、現在に至るという話です。そうだとすれば空海が幼い時に拝んでいた本尊は、この「土製仏頭」のお薬師さまということになります。
1善通寺宝物館7
善通寺の白鳳期の瓦(宝物館)

 古代善通寺のものとして宝物館に展示されているのが瓦です。
 藤原京に瓦を供給した三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されていたことは以前にお話ししました。この時代には、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われてました。

善通寺古代瓦の伝播
善通寺瓦の伝播
 仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏は、丸亀平野の寺院造営技術の提供者だったことは以前にお話ししました。その中には7世紀末から8世紀初頭の白鳳期のものもあります。善通寺の建立は、この時期まで遡ることが出来ます。
1善通寺宝物館9
善通寺の白鳳瓦

「7世紀末の白鳳瓦」と「善通寺=空海創建説」とは、相容れません。空海が生まれたのは774年のこととされるので、生まれた時には善通寺はあったことになります。考古学的には「善通寺は空海が創建」とは云えないようです。

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善通寺金堂
このことについて五来重は「四国遍路の寺」で、次のように述べています。
鎌倉時代の「南海流浪記』は、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。善通は大師のお父さまの名前ではなくて、どなたかご先祖の聖のお名前で、古代寺院を勧進再興して管理されたお方とおもわれます。つまり、以前から建っていたものを弘法大師が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。
 空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が31歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 『南海流浪記』にも善通は先祖の俗名だと書かれています。

善通寺の古代寺院としての痕跡の4つ目は、条里制との関係です。
  中世に書かれた善通寺一円保絵図を見てみます。

一円保絵図 テキスト
善通寺一円保絵図(全体)
 右(西)に、五岳の山脈と曼荼羅寺や吉原方面、左に善通寺周辺が描かれます。黒く塗られているのが一円保の水源となる有岡大池でそこから弘田川が条里制に沿って伸びています。左上には2つの出水があり、そこからも用水路が伸びています。ここで、見ておきたいのは多度郡の条里制のラインが描かれていることです。善通寺の境内部分を拡大して見ます。
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善通寺一円保絵図(拡大)
①境内は二町(212㍍)四方で塀に囲まれています。ここが多度郡条里の「三条七里17~20坪」の「本堂敷地」にあたる場所になります。
②東院境内の上方中央の長方形の図は(G)南大門で、傍に松の大樹が立っています。
③南大門を入ったところに点線で二つ四角が記されています。これが五重塔の基壇跡のようです。五重塔は延久二年(1070)に大風のために倒れてから、そのあと再建されませんでした。
④中央にあるのは(A)金堂で、『南海流浪記』には
「二階だが裳階があるので四階の大伽藍にみえる」
とあります。この絵図では三階にみえます。その後には(E)講堂もあります。
 この絵図には、東院には様々な建築物が描かれています。そして敷地を見ると、4つの条里で囲まれているのが分かります。1辺は約106mですから、4つ分の面積となると212×212mとなります。ここからは善通寺が多度郡の条里の上にきれいに載っていることが分かります。ここからは、条里制整備後に善通寺は建立されたことになります。
善通寺条里制四国学院 
多度郡条里と善通寺・南海道の関係
丸亀平野の条里制は、南海道が先ず測量・造営され、これが基本ラインとなって条里制が整備されていきます。南海道は、多度郡では6里と7里の境界線になり、四国学院の図書館の下を通過していたことは以前にお話ししました。そして、善通寺も三条七里の中に位置します。
古代善通寺地図
   古代善通寺概念図(旧練兵場遺跡調査報告書2022年)
ここに至る経過を整理しておきます。
①7世紀末の南海道の測量・建設 
②南海道に沿う形で条里制測量
③多度郡衙の造営
④佐伯氏の氏寺・善通寺建立
①②③の多度郡における工事は、郡司の佐伯直氏が行ったのでしょう。これ以外にも、白村江の敗北後の城山城造営などにも、佐伯氏は綾氏などと供に動員されていたかもしれません。これらは、中央政府への忠誠を示すためにも必要なことでした。

 最後に、空海が生まれた8世紀後半の善通寺周辺を想像して描いて見ましょう。
岸の上遺跡 イラスト
鵜足郡の郡衙(黒丸枠)と南海道・法勲寺の関係
額坂を下りてきた南海道は、飯野山の南に下りてきます。南海道に接して北側には、正倉がいくつも並んで建っています。これが鵜足郡の郡衙(岸の上遺跡)です。その南には法勲寺が見えます。これが綾氏の氏寺です。南海道は、西の真っ直ぐ伸びていきます。そのかなたには我拝師山が見えます。南海道の両側に、整備中の条里制の公田が広がります。しかし、土器川や金倉川などの周辺は、治水工事が行わず堤防などもないので、幾筋もの川筋がうねるように流れ下り、広大な河川敷となっています。土器川を渡ると那珂郡郡司の氏寺である宝幢寺(宝幢寺池遺跡)が右手に見えてきました。金倉川を渡ると右手に善通寺の五重塔、左手に多度郡の郡衙(善通寺南口遺跡)が見えて来ます。ここが佐伯直氏の拠点です。
 ここからは南海道は、丸亀平野の鵜足・那珂・多度の3つの郡衙を一直線に結んでいたことが分かります。そして、その地の郡司達は郡衙の周辺に氏寺を建立しています。当然、彼らの舘も郡衙や氏寺の周辺にあったことが考えられます。

 今回は、普段は目に見えない以下の古代善通寺の痕跡を見てまわりました。
①金堂礎石
②「土製仏頭」(古代本尊の仏頭?)
③白鳳時代の善通寺瓦
④条里制の中の善通寺境内と南海道や郡衙との関係
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 八~九世紀になると讃岐の有力豪族たちは、それまでの姓を捨て自らの新しいアイデンティティーを求め、改姓申請や本貫地の変更申請をおこなうようになります。前回は、その中に、空海の佐伯直氏や円珍の因支首氏もいたことを見たうえで、関係文書から佐伯直氏と因支首氏の比較を行いました。今回は「円珍系図」が、誰によって作成されたのかを見ていこうと思います。 
日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
円珍系図(和気家系図)

 滋賀県の圓城寺には、「円珍系図(和気家系図)」が残っています。承和年間(834~848)のもので29.4×323.3cmの景行天皇から十数代後の円珍までの系図です。全文一筆でかかれていますが、円珍自筆ではないようで、別人に書写させたことが円珍の自筆で注記されています。その上に、円珍自筆の加筆があり、自分の出身氏族について注意を払っていたこと分かります。
 これは竪系図としては、わが国最古のもので、平安時代の系図のスタイルを示す貴重な史料として国宝に指定されています。

最初に因支首氏の改姓申請と円珍の動きを年表で見ておきましょう。
799年 氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出を命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
800年 那珂郡の因支首道麻呂・多度郡人同姓国益らが、前年の本系帳作成の命に従い,伊予和気公と同祖であること明記した系図を作成・提出。しかし、この時には改姓許可されず。
814年 円珍(広雄)讃岐那珂郡金倉郷に誕生。
828年 円珍が叔父の仁徳にともなわれて、最澄の直弟子である義真に入門
834年頃「円珍系図」の原型が作成される?
853年 新羅商人の船で入唐、
859年 円珍が園城寺長吏(別当)に補任され、同寺を伝法灌頂の道場とした。
860年 空海の弟真雅が東寺一長者となる(清和天皇の誕生以来の護持僧)
861年 多度郡の空海の一族佐伯直氏11人が佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡の因支首秋主や多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる
868年 円珍が延暦寺第5代座主となる。
891年 円珍が入寂、享年78歳。
  年表を見れば分かるように、この時期は、佐伯直氏出身の空海と弟の真雅が朝廷からの信頼を得て、大きな影響力を得ていた時代です。そこに、少し遅れて因支首氏出身の円珍が延暦寺座主となって、影響力を持ち始めます。地元では、それにあやかって再度、改姓申請を行おうという機運が高まります。佐伯直氏が佐伯宿禰への改姓に成功すると、それに習って、親族関係にあった因支首氏も佐伯氏の助言などを受けながら、2年後に改姓申請を行ったようです。
 改姓申請で和気氏が主張したのは、七世紀に伊予国から讃岐国に来た忍尾別君(おしおわけのきみ)氏が、讃岐国の因支首氏の女と婚姻して因支首氏となったということです。つまり、因支首氏は、もともとは伊予国の和気氏と同族であり、今まで名乗っていた因支首氏から和気氏への改姓を認めて欲しいというものです。伊予国の和気氏は、七世紀後半に評督などを務めた郡司クラスの有力豪族です。改姓によって和気氏の系譜関係を公認してもらい、自らも和気氏に連なろうと因支首氏は試みます。この系図は讃岐国の因支首氏が伊予国の和気氏と同族である証拠書類として作成・提出されたものの控えになるようです。ところが800年の申請の折には、改姓許可は下りませんでした。
寒川郡の讃岐国造であった讃岐公氏が讃岐朝臣氏に改姓が認められ、円珍の叔父に当たる空海の佐伯直氏が佐伯宿祢氏に改姓されていくのを見ながら、因支首氏(いなぎのおびと)の一族は次の申請機会を待ちます。そして、2世代後の866年に、円珍の「立身出世」を背景にようやく改姓が認められ、晴れて和気公氏を名乗ることができたのです。 改姓に至るまで半世紀かかったことになります。

まず円珍系図の「下」から見ていきましょう。
円珍系図3


系図の下というのは、一番新しい世代になります。
一番下の右に記される「子得度也僧円珍」とあります。これが円珍です。この系図からは「祖父道万(麻)呂 ー 父宅成 ー 円珍(広雄)」という直系関係が分かります。
天長十年(833)3月25日付の「円珍度牒」(園城寺文書)にも、次のように記されています。
沙弥円珍年十九 讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成戸口同姓広雄
  ここからは、次のようなことが分かります。
①円珍の本貫が 那珂郡金倉郷であったこと
②戸籍筆頭者が宅成であったこと
③俗名が広雄であったこと
これは、円珍系図とも整合します。ここからは円珍の本貫が、那珂郡金倉郷(香川県善通寺市金蔵寺町一帯)にあったことが分かります。現在の金倉寺は因支首氏(和気公)の居館跡に立てられたという伝承を裏付け、信憑性を持たせる史料です。

さて今日の本題に入って行きましょう。系図の制作者についてです。
円珍系図冒頭部

系図冒頭には、次のような円珍自筆の書き込みが本体の冒頭にあります。上図の一番下の横になっている一文です。実はこれをどう読むかが、制作者決定のポイントになります。

  □系図〔抹消〕天長乗承和初従  家□□於円珍所。

戦前に大倉粂馬氏は、「家」の次の不明の文字を、「丸」と判読し、この部分を人名の「家丸」とみなしました。そして、家丸は、円珍の叔父にあたる宅丸(宅麻呂、法名仁徳)のことします。宅丸(仁徳)が承和の初めに円珍を訪ねて、記憶をたどってこの系図を書き足したものであると推察しました。つまり、大倉氏は、この系図は承和年間に円珍が叔父の宅丸(宅麻呂)とともに編述したものと考えたのです。

「家」の下の不明の字を「丸」と判読し、欠損している部分を以上のように解釈することの判断は留保するにしても、この系図が、円珍の世代で終っていること、その次の世代がないことから、この系図は、承和の初め(834年ごろ)に書かれたものと研究者は考えています。

戦後になって研究者があらためて、系図の「得度僧仁徳」「得度也僧円珍」のところを、調べて次のように報告しています。
①「得度」の二字の下に薄く「宅麻呂」と書かれているように見える
②「得度也僧円珍」のところの「得度」の二字の下にも、薄く字がみえ、「広雄」と読める
   「仁徳=宅麻呂」で、仁徳は円珍の叔父に当たります。そして「円珍=広雄」です。
 以上から大倉粂馬氏は、この系図の筆者は仁徳(宅麻呂)だったと推測します。その理由は、自分が系図の作者なので「得度僧仁徳」と記して、本名を省略したのではないかというのです。そして、これが通説となっていたようです。

しかし、これには疑問が残ります。「得度僧仁徳」の下に、もと宅麻呂(宅丸)の名前が書いてあったことが分かってきたからです。それなら地元の那珂郡で作成された系図が、宅麻呂や円珍の手元に届いた時に、仁徳が俗名を消して、得度名を書き入れたと考える方が合理的です。

もう一度「円珍系図」の冒頭文「……承和初従  家□□於円珍所」にもどります。
佐伯有清氏は、「家」の字の上に「開字」があることに注意して読みます。この「家」の箇所は、円珍が敬意を表するために一字分あけたのであると推測します。そうだとすると「家」の字から判断すると、「家君」、あるいは「家公」など、それに類する文字が書かれてあった可能性が強いことになります。そうすると、この意味は次のようにとれます。
「この系図は、承和の初めに家君(父)より、円珍の所に送ってきたものである」

  つまり、円珍系図は、地元の那珂郡で作られたものを円珍の父宅成が送ってきたことになります。これは仁徳(宅麻呂)や円珍は、この系図の作成には、関与していないという説になります。

そういう視点で見ると、改姓を認められた者は、那珂郡と多度郡の因支首氏のうちの45名に及びますが、円珍系図には那珂郡の一族しか記されていません。多度郡の因支首氏については、一人も記されていません。これをどう考えればいいのでしょうか。
円珍系図2
多度郡の改姓者は、円珍系図にはひとりも書かれていない

 ここからは、この系図を書いた人にとって、多度郡の因支首一族は縁遠くなって、一族意識がもてなくなっていたことがうかがえます。同時に、円珍系図を書いた人は那珂郡の因支首氏であった可能性が強まります。

それでは那珂郡の因支首一族で、改名申請に最も熱心に取り組んでいたのは誰なのでしょうか。
円珍系図 那珂郡

それが因支首秋主になるようです。
 貞観9(879)年2月16日付の「讃岐国司解」の申請者筆頭に名前があることからもうかがえます。那珂郡の秋主からすれば、多度郡の国益や男綱(男縄)、そして臣足らは、血縁的にかなり掛け離れた人物になります。その子孫とも疎遠になっていたのかもしれません。そのために多度郡の一族については、系図に入れなかったと研究者は推測します。そういう目で多度郡と那珂郡の系図を比べて見ると、名前の書き落としがあったり、間柄がちがっている点が多いのは多度郡方だと研究者は指摘します。現在では、この円珍系図は地元の那珂郡の因支首一族のもとで作られたと考える研究者が多いようです。

  以上をまとめておくと
①因支首氏の改姓申請の際の証拠資料として、因支首氏は伊予の和気公と同族であることを証明する系図が制作された。
②この系図は申請時に政府に提出されたが、写しが因支首氏一族の円珍の手元に届き、圓城寺に残った。
③この系図の制作者としては、円珍の叔父で得度していた仁徳とされてきた。
④しかし、地元の那珂郡の因支首氏によって制作されたものが、円珍の父から送られてきたという説が出されている。
⑤どちらにしても、空海の佐伯直氏と、円珍の因支首氏が同じ時期に改姓申請を行っていた。
⑥古代豪族にとって改姓は重要な意味があり、自分の先祖をどの英雄や守護神に結びつけるかという考証的な作業をも伴うものであった。
⑦その作業を経て作られた因支首氏の系図の写しは、圓城寺で国宝として保管されている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」
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生野本町遺跡           
生野本町遺跡(善通寺氏生野町 旧善通寺西高校グランド)

 多度郡の郡衙跡の有力候補が生野本町遺跡です。この遺跡は善通寺西高校グランド整備のための発掘調査されました。調査報告書をまとめると次のようになります。
①一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。
②遺跡の存続期間は7世紀後葉~9世紀前葉
③中心域の西辺に南北棟が2棟、北辺に東西棟が3棟の大型掘立柱建物跡
④中心の微髙地の一番高いところに郡庁設置?
ここからは条里制に沿って大型建物が計画性を持って配置されていることや、正倉と思われる倉が出てきています。「倉が出てきたら郡衛と思え!」がセオリーのようなので、ここが多度郡の郡衛跡と研究者は考えています。また、条里制に沿って建物群が配置されているので、南海道や条里制とほぼ同じ時期に作られたようです。

稲木北遺跡 条里制
下側の太線が南海道 多度郡衙はそれに面した位置にある

この郡衛の建設者として考えられるのは、空海を生んだ佐伯直氏です。

佐伯直氏は、城山城の築城や南海道・条里制施行工事に関わりながら国造から郡司へとスムーズにスライドして勢力を伸ばしてきたようです。そして、白鳳時代の早い時期に氏寺を建立します。それが仲村廃寺で、条里制施工前のことです。しかし、南海道が伸びて条里制が施行されると、この方向性に合う形でさらに大きな境内を持った善通寺を建立します。つまり、二つの氏寺を連続して建てています。

四国学院側 条里6条と7条ライン

四国学院内を通過する南海道跡(推定)の南側

 同時に、多度郡司の政治的な拠点として、新たな郡衛の建設に着手します。それが生野本町遺跡になるようです。そういう意味では、佐伯直氏にとって、この郡衛は支配拠点として、善通寺は宗教的モニュメントして郡司に相応しいシンボル的建築物であったと考えられます。
 今回は、この郡衙て展開された律令時代の地方政治の動きを、中央政府との関係で見ていこうと思います。テキストは「 坂上康俊   律令国家の転換と日本  講談社」です。

 地方における郡司の立場を見ておきましょう。
   律令国家は、かつての国造を郡司に置き換えます。そして、国造の朝廷への服属儀礼の大部分を郡司に引き継がせることで、スムーズに律令体制へと移行させました。律令下では、佐伯直氏のような郡司クラスの地域の有力者は、これまでのように勝手に人々を自らの支配下に置いたり、勢力を拡大したりすることはできなくなります。
 その一方で、多度郡司というポストを手に入れます。郡司からすれば国司の言うことさえきいておけば、後は中間で利益を挙げることができました。地方有力者にとって郡司は、「おいしいポスト」であったようです。郡司にとっての律令体制とは、「公地公民」の原則の下に自分の権益が失われたと嘆くばかりのものではなかったことを押さえておきます。 

考古学の成果からは、9世紀から10世紀にかけては、古代の集落史において、かな劇的な変化があった時代であったことが明らかにされています。
古代集落変遷1
信濃の古代集落存続期間
上の信濃の古代集落の存続期間を見ると、次のようなことが分かります。
①古墳時代から継続している村落。
②7世紀に新たに出現した集落
③集落の多くが9世紀末に一時的に廃絶したこと。
 ①の集落も8世紀末には一旦は廃絶した所が多いようです。近畿の集落存続表からも同じような傾向が見られるようです。ここからは6世紀末から7世紀初頭にかけてが集落の再編期で、古墳時代からの集落もこのころにいったん途切れることがうかがえます。これをどう考えればいいのでしょうか。
いろいろな理由があるでしょうが、一つの要因として考えられるのは条里制です。条里制が新たに行われることによって、新しい集落が計画的に作られたと研究者は考えているようです。

それでは、9世紀から10世紀にかけて、それまでの集落の大半が消滅してしまうのはどうしてなのでしょうか。これは、逆に言えば、中世に続くような集落の多くは、若干の空白期間をおいて平安時代後期(11世紀)になって、新しく作られ始めたことになります。この時期は、ちょうど荘園公領制という新しい制度が形成される時期にあたります。このことと集落の再興・新展開とは表裏の関係にあると研究者は考えています。
 つまり、条里制という人為的土地制度が7世紀に古代集落を作り出し、律令制の解体と共に、古代の集落も姿を消したという話です。また上の表から分かるように、古墳時代から続いてきた集落も、十世紀にはいったん途絶えるとようです。ここから西日本では、平安時代のごく初期に、集落の景観が一変したことがうかがえます。

稲木北遺跡 三次郡衙2

それでは各地の郡衙が存続した期間を見ておきましょう。
郡衙というのは、郡司が政務を執ったり儀式を行うところである郡庁と、それに付属する館・厨家・正倉・工房などからなる郡行政の中心的な施設です。
郡衙遺跡変遷表1

上表からは次のようなことが分かります。
①7世紀初頭前後に、各地の郡衙は姿を現す
②早い所では、8世紀前半には郡衙は姿を消す。
③残った郡衙も10世紀代になるとほとんどの郡衛遺跡で遺構の存続が確認できない。
ここからは、郡衙は律令制が始まって百年後には、衰退・消滅が始まり、2百年後には姿を消していたことが分かります。9世紀後半から10世紀にかけて、それまで律令国家の地方支配の拠点であった郡衛が機能しなくなっていたようです。こうして、郡司制度に大きな改変が加えられます。その結果が、郡衛(郡家)の衰退・消滅のようです。
ちなみに、多度郡衙候補の生野本町遺跡の存続期間も7世紀後葉~9世紀前葉でした。空海の晩年には、多度郡衙は機能停止状況に追い込まれ、姿を消していたようです。
稲木北遺跡 三次郡衙
 三次郡衙(広島県三次市) 正倉が整然と並んでいる

郡衙の衰退で、まずみられるのが正倉が消えていくことです。
  さきほど「倉が並んで出てくれば郡衛跡」と云いましたが、その理由から見ておきましょう。律令体制当初は、中央に収める調以外に、農民が納入した租や使う当てのない公出挙(くすいこ)の利稲(りとう)は、保存に適するように穀(稲穂)からはずされた籾殻つきの稲粒にされて、郡衙の倉に入れられました。多度郡全域から運ばれてきた籾で満杯になった正倉には鍵をかけられます。この鍵は中央政府に召し上げられ、天皇の管理下に置かれてしまい、国司でさえも不動穀を使用するには、いちいち天皇の許可が必要でした。そのため倉は不動倉、中の稲穀は不動穀と呼ばれることになります。こうして郡衙には、何棟もの正倉が立ち並ぶことになります。
 不動倉(正倉)を設ける名目は、いざという時のためです。そもそも神に捧げた初穂である租を大量にふくんでいますのですから、おいそれと使ってはならないというのが、最初のタテマエだったようです。ところが、その不動穀が流用され、中央政府に吸い上げられるようになります。不動穀流用の早い例としては、東国の穀を蝦夷征討の軍糧に流用したものがあります。それが恒常化していくのです。
 現実はともかく郡衙には正倉と呼ばれる倉があって
「あそこに貯えられていますお米は、おじいさん、おばあさん、そのまた先の御先祖様達が、少しずつ神様にお供えしてきたもので、私たちが飢饉にあったら、天子様が鍵を開けてみんなに分けて下さるのですよ」

というのが理念だったようです。
 ある意味では、立ち並ぶ正倉は律令支配を正当化するシンボル的な建築物であったのかもしれません。生野本町遺跡だけでなく多度郡には稲木北遺跡からも複数の倉跡が出てきています。また、飯野山の南側を走る南海道に隣接する岸の上遺跡からも倉跡が出てきました。これらも郡衙か準郡衙的な施設と研究者は考えているようです。

 研究者が注目するのは、この正倉の消滅です。
本稲を貯めておく所が正倉でした。しかし、8世紀後半になると設置目的が忘れられ、徴税されたものは、さっさと中央に吸い取られてしまうと倉庫群は必要なくなります。そればかりではありません。郡庁は、郡司が政務を執り、新任国司や定期的に巡行してくる国司を迎えるなど、儀式の場としても機能していた建物でした。これが消えます。この背景には、郡司の権威の哀退があったようです。
 8世紀に設置された時の郡司には、かつての国造の後裔が任じられて、権威のある場所であり建物でした。それがこの間に郡司のポストの持つ重要性は、大きく低下したことを示しています。古代集落と郡衙の消滅という現象も、律令体制の解体と関わりがあったと研究者は考えています。

受領国司

その変化を生み出したのが受領国司の登場のようです。
菅原道真が讃岐から帰った後の10世紀になると、政府は税制の大転換に踏み切ります。 従来の人頭税(じんとうぜい)をやめて、官物・臨時雑役(ぞうやく)という土地税を徴収することにします。そして、この徴収は、これまでの郡司にかわって、国司が請け負うことになります。その見返りとして、政府は国司に任国の統治を一任することにします。「税を徴収して、ちゃんと政府に納めてくれるなら、あとは好きにしてよろしい!ということです。その結果、受領国司は実入りのいいオイシイ職業となり、成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)が繰り返されることになります。
 郡司に代わって徴税権を握った国司は、有力農民である田堵を利用します。新しい徴税単位である名(みょう)の耕作を田堵に任せ、税の納入を請け負わせるのです。このように、名の経営を請け負う田堵を、とくに負名(ふみょう)と呼びます。田堵(負名)のなかには、国司と手を結んで大規模な経営をおこなう、大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれる者も現れます。彼らは、やがて開発領主と呼ばれるまでに成長します。
田堵→負名→大名田堵→開発領主

さらに、開発領主の多くは在庁官人となり、国司不在の国衙、いわゆる留守所(るすどころ)の行政を担うようにもなります。

 受領国司は、王臣家の手下たちを採用し、徴税と京への輸送・納入任者である専当郡司に任命もします。これは、いままで富豪浪人として、あれこれと国司・郡司の徴税に反抗してきた者たちを、運送人(綱丁)にしてしまうことで、体制内に取り組むという目論見も見え隠れします。こうして国司から任用された人々は、判官代などといった国衙の下級職員の肩書きをもらいます。
 受領は、負名(ふみょう)や運送人(綱丁)などの地域の諸勢力を支配下に置いて、軒並み動員できる体制を作り上げました。こうなると郡司に頼る必要はありません。受領にとって、旧来の郡司の存在価値は限りなく低下します。同時に、その拠点であった郡衙の意味もなくなります。各地の郡衙が10世紀初頭には姿を消して行くという背景には、このような動きが進行していたようです。  
 このような中で地方の旧国造や郡司をつとめていた勢力も、中央貴族化することを望んで改名や、本貫地の京への移動を願いでるようになります。空海の佐伯家や、円珍(智証大師)の稻首氏もこのような流れに乗って、都へと上京していくのです。

  多度郡衙と空海と菅原道真との関係で見ておきましょう
空海が善通寺で誕生していたとすれば、その時に多度郡衙は生野本町に姿を見せていたはずです。その時の多度郡司は、空海(真魚)の父田公ではありません。
1 空海系図52jpg
空海の系図 父田公は位階がない。戸籍筆頭者は道長

田公は位階がないので、郡長にはなれません。当時の郡長候補は、空海の戸籍の筆頭者である道長が最有力だと私は考えています。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符1
  延暦24年9月11日付 太政官符 
ここには「佐伯直道長戸口 同姓真魚(空海幼名)」とあります


道長の血筋が佐伯直氏の本流(本家)で、いち早く佐伯氏から佐伯直氏への改名に成功し、本籍を平城京に移しています。それが空海の高弟の実恵や道雄の家系になると研究者は考えているようです。空海の父田公は、佐伯直氏の傍流(分家)で改名も、本籍地移動も遅れています。

 空海の生まれたときに、善通寺と多度郡衙は姿を見せていたでしょう。
岸の上遺跡 イラスト
飯野山の南を東西に一直線に伸びる南海道

後世の弘法大師伝説には、幼い時代の空海は、善通寺から一直線に東に伸びる南海道を馬で府中にある国学に通学したと語ります。国学に通ったかどうかは、以前にお話しように疑問が残ります。
 それから約百年後の9世紀末に、国司としてやって来ていた菅原道真の時代には、国府から額坂を越えて馬を飛ばして、多度郡の視察にやって来た道真の前に、善通寺の伽藍の姿はあったかもしれません。しかし、多度郡衙はすでになかった可能性があります。この間に、多度郡衙には大きな変化があったことになります。

10世紀になると郡衛が衰退・消滅したように、国衛も変貌していきます。
国衙遺跡存続表1

8世紀の半ばに姿を見せるようになった各国の国衙は、中央政府の朝堂配置をコピーした国庁が造営され、それが9世紀代を通じて維持されます。しかし、10世紀になるとその基本構造が変化したり、移転する例が多く見られるようになることが上図からも分かります。これも郡衙の場合と同じように、律令体制の解体・変質をが背景にあると研究者は考えています。
 それまでの儀礼に重点をおいた画一的な平面プランには姿を消します。そして、肥前国国衙のように、10世紀に入ると極端に政庁が小さくなり、姿を消していく所が多いようです。しかし、筑後や、出羽・因幡・周防などの国府のように、小さくなりながらも10世紀を越えて生き延びていく例がいくつもあります。讃岐国府跡も、このグループに入るようです。やがて文献には、国庁ではなく国司の居館(館)を中心にして、受領やその郎党たちによる支配が展開していったようすが描かれるようになります。
受領国司

  以上をまとめておきます
①旧練兵場遺跡は、漢書地理志に「倭国、分かれて百余国をなす」のひとつで、善通寺王国跡と考えられる。
②この勢力は古墳時代には、野田院古墳から王墓山古墳まで連綿と首長墓である前方後円墳を築き続ける
③この勢力は、ヤマト政権と結びながら国造から郡長へと成長し、城山城や南海道建設を進める。
④郡司としての支配モニュメントが、生野本町遺跡の郡衙と氏寺の善通寺である。
⑤空海のが生まれた時代は、郡衙は多度郡の支配センターとして機能し、戸籍などもここで作られた。
⑥しかし、8世紀後半から律令体制は行き詰まり、郡衙も次第に縮小化するようになる。
⑦菅原道真の頃に成立した国司受領制の成立によって、郡司や郡衙の役割は低下し、多度郡衙も姿を消す。
③以後は受領による『荘園・公領制』へと移行していく

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「 坂上康俊   律令国家の転換と日本  講談社」
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宗吉瓦窯 想像イラスト
三野郡の宗吉瓦窯跡 
 三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されているように、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われていたことが分かってきました。前回は、仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏が、丸亀平野の寺院造営技術の提供センターとして機能したという説を紹介しました。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺KA101Aを祖型とする軒丸瓦の系譜
 善通寺周辺の瓦工房では、7世紀末には技術の吸収から製品供給へと、段階が進んでいたと研究者は考えているようです。今回は善通寺から土佐への瓦製造の技術移転を見てみることにします。テキストは、「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です
この時期の讃岐地方の軒丸瓦のデザインの中には、瓦当中央の蓮子を方形に配置するものがあります。扁行唐草文軒平瓦の中には、包み込みによって瓦当面と顎を形成する技法が用いられています。この軒丸瓦の文様と軒平瓦の技法の2つを比較検討するという手法で、但馬地方(兵庫県北部地方)と土佐と讃岐善通寺の瓦工人集団がつながっていたことを研究者は明らかにしています。今回は、そのつながり見ていくことにします。

善通寺白鳳期の瓦
    善通寺他出土 十六弁素弁蓮花文軒丸瓦(ZN101)
この軒丸瓦は善通寺と仲村廃寺の創建の瓦とされてきました。2カ寺に加えて、次の寺院から同笵瓦が出土しています。
①平成11年に丸亀市の田村廃寺跡
②平成12年に高知市の秦泉寺廃寺跡
③平成13年に伊予三島市の表採資料から同笵関係を確認
善通寺同笵瓦 田村廃寺
善通寺(ZN101)と同笵瓦

この丸瓦とセットになる軒平瓦は、善通寺、仲村廃寺では扁行唐草文軒平瓦ZN203とされています。田村廃寺、秦泉寺からも同型式が出土しています。これらの瓦を実際に研究者は手にとって、善通寺のZN101と田村村廃寺、秦泉寺の3カ寺の型木の使用順を明らかにしてきます。
その手がかりとなるのは、型木についた傷の進行状態です。
善通寺同笵瓦 傷の進行

土佐奏泉寺の瓦は、拓本でも木目に沿った3本のすじ傷がはっきりと分かり、一番痛みが激しいようです。次に田村廃寺の丸瓦は、はっきりした右側の1本(a)と、この時点で生じつつあった左側の1本(c)がかすかに確認できます。これに対しZN101に見えるのは、右側の1本(a)だけです。以上から型木は「善通寺ZN101→田村廃寺→秦泉寺」の順番に使用されたと研究者は考えています。

田村廃寺伽藍周辺地名
田村廃寺の伽藍想定エリアの地図

丸亀の田村廃寺を見ておきましょう。
この寺は以前にも紹介しましたが、丸亀市田村町の百十四銀行城西支店の南東部が伽藍エリアと考えられています。地形復元すると古代には、すぐそこまで海岸線が迫っていた所になります。臨海方の古代寺院です。讃岐の古代寺院が、地盤が安定した内陸部の南海道周辺に立地しているのとは対照的な存在になります。

田村廃寺 軒丸瓦3
 TM107 やや粗く1~7mm程度の砂粒を含む。善通寺・仲村廃寺出土のものと同箔品である。白鳳期末から奈良時代初期

拓影の木型傷を比較することで田村神社の軒丸瓦TM107と善通寺ZN101と同笵であることを確認します。セットの扁行唐草文軒平瓦も瓦の右肩の木型傷などからZN203Bと同笵であるあることを確認します。田村廃寺には軒丸瓦と軒平瓦がセットで、善通寺(佐伯氏)から提供されていたことになります。
 善通寺や仲村廃寺建立の際の窯跡で焼かれた瓦が製品として提供されたのか、木型だけが提供されたかは分かりません。私は製品を提供したと推察します。善通寺の瓦工人集団に、引き続いて、田村廃寺の瓦を焼く依頼が造営氏族(因首氏?)からあったという説です。
  ちなみに善通寺(佐伯氏)から提供された同笵瓦は、第Ⅱ期工事に使われたものとされます。金堂は別の瓦が作られ、その後に建築された塔に使用されたと考えられます。
善通寺・弘安寺の同笵関係
善通寺と同笵瓦の関係

善通寺と田村廃寺で使われた木型の痕跡は、四国中央市の一貫田地区にも残されています。
1978年に伊予三島市下柏町一貫田地区の土塁の中から軒丸瓦の小片が発見され、松柏公民館に保管されてきました。それが2001(平成13年)に伊予三島市で採取されていた瓦が同笵関係にあることが確認されました。研究者は実際に手にとって、善通寺瓦と蓮子、間弁の位置関係を比較し、同笵品であると結論づけます。一貫田地区には古代寺院があったとされますが、本来の出土地(遺跡)は分かりません。讃岐の善通寺と田村廃寺で使われた型木が、工人たちとともに移動し、四国中央市での古代寺院建立に使われたとしておきましょう。

秦泉寺廃寺21

次に同笵型木が使用されたのが土佐の秦泉寺(じんぜんじ)廃寺です
秦泉寺は、寺名から秦氏が造営氏族だったことがうかがえます。創建は、出土した軒瓦から飛鳥時代末(白鳳期)の7世紀末葉頃とされ、土佐最古級に位置づけられる古代寺院になります。発掘調査では伽藍遺構は分かっていませんが、創建瓦の一部は、阿波立善寺と同笵なので、阿波の海沿いルート「海の南海道」からの仏教文化の導入がうかがえます。
 寺域の西約4㎞には土佐神社や土佐郡衙推定地があるので、土佐郡の政治拠点と想定されます。
また、寺域周辺では、吉弘古墳をはじめとする秦泉寺古墳群があって、6世紀頃から古代豪族の拠点だったことが分かります。この勢力が寺院建立の造営氏族だったのでしょう。また古代の海岸線を復元すると、寺域南側の約200mの愛宕山付近までは海で、愛宕山西側の入江を港(大津・小津に対して「中津」と称された)として、水運活動も活発に行っていたようです。
秦泉寺廃寺1
浦戸湾の地形復元図 古代の秦泉寺廃寺は海に面していた
 
秦泉寺の造営氏族について、報告書は次のように記します。
当寺院跡の所在する高知市中秦泉寺周辺は、古くから「秦地区」と呼称されている。「秦」は「はだ」と奈良朝の音で訓まれている。土佐と古代氏族秦氏との関連は早くから論議されているため省略するが、秦泉寺廃寺跡の退化形式の軒丸瓦が採集されている春野町大寺廃寺跡は吾川郡に属し、『正倉院南倉大幡残決』のなかに「天平勝宝七歳十月」「郡司擬少領」として「秦勝国方」の名が記され、秦泉寺廃寺跡と大寺廃寺跡は秦氏の建立による寺院跡であることが推定されている。秦泉寺廃寺跡を建立した有力氏族として秦氏を候補に挙げることについては賛同したい。
 なお、秦氏だけが寺院跡建立に関与した有力氏族であったのかは不明で、秦姓の同族や出自を同じくする別姓氏族・同系列氏族の存在を勘案することも必要ではないかと考える。ここでは、秦氏などの在地有力氏族によって秦泉寺廃寺跡・大寺廃寺跡などが建立されたことを考えておきたい。 
  報告書も造営氏族の第1候補は、秦氏を考えています。
比江廃寺跡・秦泉寺跡からは,百済系の素弁蓮華文軒丸瓦や,顎面施文をもつ重弧文軒平瓦など,朝鮮系瓦が数多く出土しています。これも前回見た但馬の三宅廃寺と共通する点です。浦戸湾周辺を拠点とする勢力が朝鮮半島や,日本列島内で朝鮮半島からの影響が強い地域と交流を行っていたことがうかがえます。
岡本健児氏は『ものがたり考古学』の中で、比江廃寺や秦泉寺廃寺の特徴を、次のように述べています。
「藤原宮や平城京式の影響が全くと言ってよいほど認められない」
「土佐国司の初見は『続日本紀』天平十五年(743年)六月三十日の引田朝臣虫麻呂の登場を待たなければならず、8世紀初頭の段階では、土佐はまだ大和朝廷の影響下に浴してはいなかった。
 ここに指摘されているように、秦泉寺廃寺のもうひとつの特徴は、中央からの瓦の伝播があまり見られないようです。地方色が強く、非中央的な性格と云えるようです。ここにも中央に頼らなくても独自の海上交易路で、寺院建立のための人とモノを準備できる秦氏の影が見えてきます。
 秦泉寺廃寺跡からは平安時代前期頃以後には、新たな瓦は見つからないので改修工事が行われなくなり、廃絶したと推定されます。

平成12年度の発掘調査で、善通寺と同笵の16弁細単弁蓮花文軒丸瓦、扁行唐草計平瓦が出土しました。
  もう一度、傷の入った軒丸瓦を見てみましょう。
善通寺同笵瓦 傷の進行

木目に沿うように大きく3本の傷があります。これが善通寺と同笵であることの決め手の傷です。同時に軒平瓦も善通寺と同笵のものがあり、「包み込み技法」という善通寺と独自技法が使われています。そのため型木だけが移動したのではなく、瓦工人集団も善通寺から土佐にやってきたと研究者は考えているようです。
 このように見てくると、善通寺側に主導権があるように思えます。善通寺(佐伯直氏)が、まんのう町の弘安寺や丸亀の田村廃寺へ瓦を提供し、土佐の秦泉寺廃寺には型木や瓦工人を派遣する地方の「技術拠点」という見方です。ところが、秦泉寺廃寺は技術受容だけでなく、送り手でもあったことが分かっています。秦泉寺廃寺と同じ同笵瓦を使用した寺院がいくつかあるようです。
秦泉寺廃寺3


 これをどう考えればいいのでしょうか。
  私は善通寺の造営者である佐伯氏の技術力とネットワークを示すものと考えていました。佐伯氏が善通寺造営の際に編成した工人集団を管理し、友好関係にある周辺有力者の寺院建立を支援していたという見方です。
 しかし、見方を変えると寺院造営集団「秦氏カンパニー」の出張工事とも思えてきました。
①秦氏が寺院建立の工人集団を掌握し、佐伯氏からの求めに応じて、善通寺造営に派遣した。
②仲村廃寺や善通寺の姿を見せると、周辺豪族からも寺院建立依頼が舞い込み、設計施工を行った。
③秦氏の瓦工人は、持参した型木(善通寺で製作?)で仲村廃寺・善通寺・弘安寺・田村廃寺の瓦を焼いた。
④丸亀平野での造営が一段落すると、土佐で最初の寺院造営を一族の秦氏がおこなうことになり、お呼びがかかり、そこに出向くことになった。
⑤その際に、善通寺や田村廃寺の軒丸瓦の型木も持参した。しかし、使い古された型木で作った瓦には何カ所もの傷があり、施主の評価はいまひとつであった。
⑥土佐でも、新たな寺院造営の設計施工を依頼された。その際には、土佐で新たに作った型木を用いた。
このような秦氏に代表されるような渡来系の工人グループの動きの方に主導権があったのではないかと思うようになりました。当時は白村江敗戦で朝鮮半島からの渡来人が大量にやってきた時代です。彼らの中の土木・建築技術者は、城山や屋島などの朝鮮式山城の設計築城にあたりました。南海道や条里制施行の工事を行ったのも彼らの技術なしでは出来ることではありません。同時に、この時期の地方豪族の流行が「氏寺造営」でした。それに技術的に応えたのが秦氏の下で組織されていた寺院造営集団であったという粗筋です。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」
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天日槍(あめのひぼこ)を祭る出石神社の流域を流れるのが円山川です。その支流・穴見川沿いの三宅集落に慈等寺があります。この寺の下の斜面が三宅廃寺跡になります。すぐ近くには、式内社の大壬生部兵主(おおみぶべひょうず)神社や中嶋神社が鎮座しています。渡来系秦氏の痕跡が色濃く残る地域です。
 三宅廃寺は田嶋守の末裔として但馬国造家を名乗る三宅氏によって建立された寺院で、この地域では最も古い白鳳寺院と位置づけられています。発掘調査によって、隣接する西側の山斜面から瓦窯が発見され、他地域の寺院との瓦の比較ができる貴重な資料を提供してくれます。
善通寺との関連 三宅廃止の瓦
但馬国府・国分寺館ニュースより

但馬地方の古代瓦と同笵関係にあるものや、コピーされたと考えられるものがいくつも見つかっています。例えば、海を越えた新羅のデザインがストレートに持ち込まれているものがあります。また前回に見たまんのう町の弘安寺跡から出てきた瓦と、よく似たものが三宅廃寺からも出てきています。
善通寺との関連 三宅廃止の瓦2

但馬の古代寺院は中央や畿内からも影響を受けていますが、新羅や讃岐からの影響も受けているようです。つまり、「中央から地方へ」だけでなく「地方同士の交流」が頻繁に行われていたことがうかがえます。これは中央中心に語られていた古代史に、別の視点を与えてくれます。瓦を通じた交流については、その背後には、秦部氏の存在が見え隠れします。今回は弘安寺の瓦と但馬三宅廃寺の瓦を比較していくことにします。
テキストは   蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。

三宅廃寺の軒丸瓦の中に無文の外区の中に、弁端の丸い9枚の単弁を飾るものがあります。
善通寺との関連 三宅廃寺の瓦3

この瓦は畿内の大寺院の系譜ではなく、地方起源とされてきましたが、その起源がどこかは分かりませんでした。それが讃岐からの影響を受けた瓦であることが分かってきました。
善通寺との関連 三宅廃寺の瓦4
左2つが三宅廃寺、右が徳島県の郡里廃寺(立光寺)のもの
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦

まんのう町弘安寺の瓦で郡里廃寺と同笵瓦
三宅廃寺とまんのう町弘安寺の瓦の比較を行うと、弁の数が違いますので一目見て同笵ではないのは分かります。しかし、両者の間には断面形状や細部に共通点があると研究者は考えます。それを踏まえた上で、三宅廃寺の瓦が讃岐起源であることを指摘したのが上原真人氏です。
上原氏は讃岐極楽寺や弘安寺の細単弁軒丸瓦と三宅廃寺の関係を次のように指摘します。
①蓮子の配列
蓮子は2列もしくは3列に同心円状に配されることが多いが、 2つの型式は、方形あるいは格子状に配されるという特徴を持つ。
②花弁形状
 単弁に分類されるが、弁端の丸い花弁は中心が窪み、そこに端の九い子葉を一本配するもので、この時期に最も一般的な単弁形式である山田寺式とは異なり、弁の形状は川原寺式軒丸瓦の複弁を2つに分割したものに近い。
③間弁の形状
 間弁の両端は互いに連結して弁区を取り巻く形になっており、外側に傾斜して外区を形成する。鋸歯文を巡らせる場合は、この外区に大柄な文様を巡らせる。
④周緑の形状・・・・間弁の外周に低い平縁を巡らす。
⑤氾の立体感。・・・抱全体が凹凸の激しい作りとなっている。
⑥圏線の省略・・・・蓮子周環、中房圏線等の細部の作りを省略している。
以上から三宅廃寺と弘安寺の瓦は、どちらも川原寺式軒瓦の系譜から派生した単弁形式がベースにあると指摘します。さらに次のように述べています。

「祖型以来の花弁の印象をよく残している反面、細部の造りには省略が見られる」

 実際の木型製作過程では、造瓦工人の手間を減らすために省略が行われたというのです。周縁部や蓮子の配列は特徴的で、木型制作者とその工人集団の個性がうかがえるようです。それでは、この「省略」がおこなわれたのは、どこの工房なのでしょうか?

軒丸瓦の系譜関係を整理したのが下の第17図です。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺起源の軒丸瓦の系譜図

横軸X形式の変遷について、次のように研究者は次のように述べています。
①善通寺(KA101A)は川原寺式以降の複弁8弁蓮華文に花弁を分割して単弁16弁としたもので、3重の蓮子配列、三角縁の鋸歯文などは、その名残りである
②Xl(KA101A他)の蓮子を省略してX2(KA101B他)が作られた。
③X2の花弁内の子葉省略してX3(ZN101他)が連続的に作り出された
④X ll(TM105)については、X1~3の変化と比べると、蓮子数の減少、弁数の減少(15弁)など原型式との落差が大きく、田村廃寺の中でX3をもとにして作られた
縦軸Yについては
①Y1(KA102、GK101他)についてはXlの要素を改変して作り出したとする方向
②Y2(GK102他)がまず存在し、Xlの要素を取り入れて作り出した
どちらにしてもYlが作られた後、これを省略してY3(三宅廃寺出土瓦)につながっていくという流れになります。讃岐の軒丸瓦が但馬の三宅廃寺に影響を与えていることになります。

XY両形式ともに、Xl~X3、Y1.Y3には、形式の変化に次のような一定の規則性があります
①氾(木型)が連続的に変化する型式群
②文様の変化が固有の寺院内でのみ起きる形式群
これらの変化には、背後に改作した工人グルーの存在がうかがえます。
①は広い範囲での生産活動を念頭に置いて、組織的かつ継続に仕える木型が作られた
②は、①がもたらされた寺院で、そのコピー版瓦が作られた
次に研究者は、①のベースとなった木型を製作した拠点瓦窯がどこにあったを推測します。
①の工人をかかえる地域(寺院)を、X1とY1の両方の形式を持つまんのう町の弘安寺がまず候補に挙げます。さらに後継の型式を引き継ぎ、周辺寺院や瓦窯に瓦製品供給や、氾の提供を行なったことが確認できる善通寺と仲村廃寺を加えて、この3ヶ寺がグループのが丸亀平野の瓦工房の核であると研究者は指摘します。
善通寺の軒平瓦系譜
善通寺起源の平瓦の系譜
 同じように軒平瓦の展開系譜について見てみても善通寺、仲村廃寺の軒丸瓦だけが、扁行唐草文軒平瓦との共伴します。この2カ寺で、他寺に先がけて扁行唐草文形式が登場しています。ここからは平瓦の製造でも、善通寺を中心とする佐伯氏周辺の工人たちの活動が先行していたことがうかがえます。

善通寺の木型は他の寺院建立に貸し出された
善通寺・仲村廃寺グループが最初に使用した軒平瓦ZN203の木型は、 各地の寺や工房に貸し出されています。この木型は、奈良時代以降のものとされる善通寺出土の瓦と同笵の均正唐草文様平瓦で、土佐山田町の加茂ハイタノクボ遺跡からも出土しているので、その後もかなり長い期間にわたっていろいろな所を移動していることがうかがえます。
さらに、木型だけでなく工人も移動していたと研究者は考えているようです。
善通寺、仲村廃寺での瓦製造が最も早く、善通寺周辺を中心に工人集団の活動は継続します。その一方で、木枠を持って、各地へ出造りに赴いたと研究者は考えています。その裏付けは次回にするとして・・

 このように佐伯氏の元に工人集団が組織され、いくつもの木型が作られ、それがスットクされ、求めに応じて木型だけでなく工人の派遣にまで応じる体制ができていたことが浮かび上がってきます。中央からの技術提供や工人派遣という道だけでなく、当時の地方有力者は一族意識や地縁関係などで遠くの集団とも結びつき、人とモノとのやりとりを行っていたことが分かります。
 そのための交易路や航路を通じて、交易なども活発におこなわれていたことが推測できます。
 佐伯氏は、外港として多度津白方を交易港として瀬戸内海交易を活発に行っていた気配があることは以前にお話ししました。佐伯氏の財力の多くが、その瀬戸内海交易に支えられていたと考える研究者もいます。寺院建立に関する関係技術やノウハウも、佐伯氏の「交易品」の一部であったのかもしれないと私は考えています。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは  蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。
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   青龍古墳1

前回に青龍古墳は、平地に築造された大きな古墳で、調査前には二重の濠を有すると云われ、前方後円墳とされていました。しかし発掘調査の結果は、青龍古墳に二重の濠はなく、前方後円墳でもないことが分かりました。濠ではなく広い周庭部を持つ珍しい大円墳だったのです。それが後世の改変を受けて、現在のような周壕を持つように見える姿になっていったよです。
まずは、それが明らかになる調査過程を見ておきましょう
調査では、10㎝間隔の等高図と要所にトレンチが何本か掘られます。
青龍古墳トレンチ調査

その結果、第1トレンチ西端の埋土上層から中世の土鍋片が多数、下層からは5世紀代のものと見られる須恵器片が1点と、最下層から埴輪片を含む土師器の小片がでてきました。ここからは5世紀の造成後に中世になって、掘り返されていることが分かります。遺構底部は、周壕と呼ぶほど深くはなく、底部も平坦なのです。これを考え併せると、周濠ではなく周庭を伴う円墳の可能性が出てきました。周庭の底部は東に向かって緩やかに上がり、続けて古墳南側に露出している周堤と外濠、それぞれの延長線上で同じような遺構が出てきます。
 周堤をさらに詳しく踏査すると、崩壊した複数の箇所に中世頃の土器片が見つかります。ここからは外濠及び周堤と考えられていた遺構は、中世の改変で造られたものと推測できます。
DSC03632
青龍古墳の周庭部
 周庭部と考えられる部分の第9トレンチを見てみましょう。上層からは土鍋等、多量の中世遺物が出ています。古墳裾部まで掘っても埴輪片などは出てきません。トレンチの南端では地山が緩やかに上がり、ここに埋土以外の人工的な盛土が確認されています。ここを周庭部端とすると、その幅は11m程です。人工的な盛土は、後世に造られた周堤部のようです。古墳南側から西側にかけて残る周庭部は、かつては水田だったようですが、近年は耕作されておらず湿地化し葦が生えています。ここは湧水量が極めて多く、湧水点も極めて浅くいため湿田であったことが予想できます。
以上を整理しておくと
①青龍古墳は、周囲に浅い周庭をともなう大型古墳であった。
②中世に周庭部などの土を用いて、周囲に周堤を築いた。
③南側の周庭は湧水量が多く、水田化されて利用されてきた
④周庭部の水田の水位調整のために、畝(陸橋)が造られて小さく間仕切り化された。

以上から青龍古墳は5世紀後半に築造された後に、中世に大規模な地形の改変が行われているようです。その改変時期については、遺構から中世の土器片が出土することから、改変されたのは南北朝~戦国時代頃と報告書は推察します。

DSC03652
吉原からの天霧山
「中世の改変」とは、具体的になんなのでしょうか?
 吉原町の北西には、今は石切場となって、かつての姿を失ってしまった天霧山が目の前にあります。ここには西讃岐守護代の香川氏の居城「天霧城跡」がありました。香川氏は阿波の三好氏と対立し、その侵攻に悩まされていたのは以前にもお話ししました。16世紀後半の永禄年間には、善通寺に陣を敷いた三好勢力に対して籠城戦を強いられています。それ以外にも多くの戦闘が行われていて、付近には甲山城跡や仲村城跡等の関連遺跡があります。
青龍古墳と中世城郭

 青龍古墳は、我拝師山から張り出した尾根状地形の先端に更に7mの盛り土がされています。古墳からは周辺に視界を遮るものがないので、古墳北側に作られたテラス状平坦部に立てば正面に天霧山を仰ぎ見ることができたはずです。しかし、天霧城を攻める三好方が攻城拠点として築いた砦ではないようです。なぜなら、砦の正面は南側に、向けて武装強化されています。天霧城の出城的な性格が見られます。どちらにしても、戦国時代の天霧城攻防戦の際に、砦が置かれそのための改変を受けたと報告書は推測します。

青龍古墳地図拡大図
 
青龍古墳を中世の砦を兼ね備えた複合遺跡として考えれば、古墳の外濠とされていた遺構は堀であり、周堤は土塁だったことになります。墳丘の北側平坦部や傾斜地の構造も、納得ができます。城と云うには規模がかなり小さいので砦的なもので、にわか工事で造られた可能性もありますが、史料的に裏付けるものはありません。


一円保絵図 五岳山
善通寺一円保絵図 中央下のまんだら寺周辺が吉原地区

視点を変えれば、青龍古墳は、整然と区画された条里遺構の端にあります。
1307(徳治二)年に作成された「善通寺一円保絵図」(重要文化財)には、善通寺領を含めてこの付近の様子が記されています。この絵図が書かれた頃の善通寺は、曼荼羅寺との寺領境界をめぐる紛争がようやく確定し、新しく多くの所領が編入されました。鷺井神社は立地条件やその特異な構造から、荘園制のもとで神社でありながら他の重要な機能を果たしていた可能性があると報告書は指摘します。
一円保絵図 東部
一円保絵図

  以上をまとめておきます。
①青龍古墳は我拝師山中腹にある曼荼羅寺あたりから平野部に低く派生した尾根の先端を利用し、5世紀後半に築造された巨大な二段築成の円墳である。
②円墳の周囲には浅く削り込み整形した幅の広い周庭帯があることが分かった。周庭帯は傾斜地に造られた墳丘を巡っているため、下方はテラス状地形になっている。
③この時期の古墳は県下では数が少なく、しかも周庭帯を持つ古墳は特異な存在である。
④周濠を有するものも数は少なく、大川町の富田茶臼山古墳の他は善通寺市の菊壕と生野カンス塚、観音寺市の青塚古墳が知られている程度でる。しかもいずれも前方円墳ある。

青龍古墳 碗貸塚古墳との比較
碗貸塚古墳(観音寺市大野原町)との比較

  青龍古墳の広大な周庭部は、規模が大き過ぎます。なんらかの特別な使用目的があった施設なのでしょう。もしそうだとすれば、前方後円墳並みに計画的に造営された古墳であり、それ相当の被葬者が考えられます。
  当時の西讃岐は善通寺周辺を中心に佐伯一族の勢力範囲でした。有岡古墳群がその一代系譜の墓所とされています。それに対して、吉原を拠点とする首長が造った青龍古墳は、佐伯氏から前方後円墳造営に制限を受けていた可能性があることは触れた通りです。そのような関係の中で、特異で凝った周庭を持った円墳が造られたとしておきましょう。
この時に調査目的は青龍古墳の規模や形態の把握であったために、墳丘部の調査は行なわれていないようです。そのため縦穴式石室の構造や副葬品については分かりません。ただ石室は崩壊部分から出ている露出状況から見ると東西方位で、その位置から二基ある可能性もあるが、古い社殿が墳丘上にあったことから破壊されている可能性も報告書は指摘します。
ある。

青龍古墳拡大図3

この調査では、これまで言われて来たような二重の濠を有する前方後円墳ではないことが分かって、残念な気持ちにもなります。しかし、周庭部を含めての全長は78mの円墳で、その規模は大きく、県下では比類ない存在です。その勢力を善通寺王国の首長は配下に組み込んでいたことになります。善通寺王国の形成過程や構造を考える上では、いろいろな手がかりを与えてくれる古墳です。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

      青龍古墳 地図
                                                                                        
善通寺の吉原地区は、南側に五岳の急峻な山脈がそびえ立ちます。その中の盟主である我拝師山は弥生時代の人々からも信仰の山と崇められていたようで、銅剣や銅鐸が何カ所からも出土しています。古墳時代になると、独自の系譜を持つ首長墓も作り続けていますし、平安時代には曼荼羅寺が姿を現します。ここからは善通寺の練兵場遺跡を中心とする勢力とは、別の勢力がいたことがうかがえます。その吉原地区にあるのが青龍古墳です。この古墳はかつては、前方後円墳だとされていましたが、発掘調査によって円墳であることが分かりました。今回は、この古墳の発掘調査報告書を見ていくことにします。

青龍古墳俯瞰図
 善通寺市の吉原小学校の南東に鷺井神社の社叢がこんもりとした緑を見せています。この神社の本殿の後に、青龍古墳はあります。青龍古墳の東側に、本殿や拝殿が建っています。方墳部丘を削ったところに神社が建っています。
 青龍古墳地図拡大図

善通寺の古墳群で有名なのは有岡古墳群です。
「善通寺の王家の谷」ともされる有岡地区には、国の史跡に指定され整備の進んだ王墓山古墳を筆頭に、菊塚古墳や線刻画の岡古墳群がならびます。これらの首長が空海の祖先で、後の国造佐伯直氏に成長して行くと考えられているので注目度も高いようです。しかし、今回目を向けたいのは、五岳を挟んで有岡の反対側の吉原地区です。
 吉原地区は香色山・筆ノ山・我拝山及び中山・火上山(五岳山)北麓と五岳と呼ばれる連山が並びます。この山裾からは、銅剣や銅鐸が出ているので、麓には弥生時代からの集落があったことがうかがえます。古墳時代になると、大窪前方後円墳(積石塚)→ 中期の青龍古墳 → 後期吉原椀貸塚(巨石墳)など各時代の首長墓が継続して造られていくので、独自のエリアを形成していたことが分かります。吉原区域の古墳は、その多くが山裾部から高所に散在しています。平地にあった古墳は耕地開墾によって、ほとんどが消滅したようです。
その中で平野部の中央部には、鷺井神社の境内地には青龍古墳が残されています。墳墓が信仰対象となったおかげでしょう。

DSC03616
目に効能のある鷺の井 その向こうの社叢が鷺井神社

鷺井神社の由来は古記に次のように記されています。
「仁寿元年(851)年、現在の境内から東100m程のところに一羽の青鷺が飛来し、ここに清水が吹き出していた。この清水は眼病に効果があるとの神託があり、住民は神水と崇めた。」

眼薬になる泉を鷺の井と呼んだようです。そのため戦国末期には、次のような話が生まれます。
「霧城主香川信景の子(または一族の子)桧之助頼景が眼を患った際、この神水により治癒したため、香川氏及び住民の厚仰するところとなった」

とも伝わります。この頃に青龍古墳を境内として、神社の原型が誕生したと調査書は記します。
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鷺井神社
 当初は青龍明神(青龍大権現)と呼ばれて、少彦名命を祀っていましたが、明治時代以降はこの地の小字「鷺ノ井(目に効能のある井戸)」から鷺井神社とされ、境内地全域に広がる古墳も信仰対象とされてきたようです。
青龍古墳1

発掘前の青龍古墳の地形を、調査書は次のように要約しています。
①墳丘の一部は削平され、神社の境内地となっている。周辺は水田地帯であり、南側の我拝師山から派生した尾根の先端部に構築されている。付近の標高は約20mである。
②墳丘の直径は約25mで、東側半分に社殿等が建設されている。
③そのため円墳か前方後円墳か分からない。恐らく円墳か帆立貝式古墳であろう。
④南北側と西側は旧状が保たれていて、特に南側から西側にかけては周庭帯や二重に巡らされた濠の形状が明確である。
⑤墳頂部は古い本殿があったため削平され、墳丘断面に石室と思われる石材の一部が露出している。
⑥鉄刀片の出土も伝わる。墳丘外面は表土の流出が著しく、埴輪片は確認されていない
⑦裾部において礫が多数みられるので、茸石の存在が予想される。
⑦墳丘周囲には幅18mの内濠・周庭が見られる。後世の開発・改変によるものか、構築時の地形に影響されたものであるのかは不明である。
 平面図だけ見ると、確かに周壕がめぐらされた前方後円墳のような気もしてきます。このような古墳の姿が農地開墾だけが原因で変形したとも、築造期の姿がそのまま残るとも考えにくく、「まことに奇異な形態」だと発掘前に担当者は記しています。
DSC03622

青龍古墳が円墳か前方後円墳かは、どんな意味を持つのでしょうか
青龍古墳 編年表

 前期末から中期はじめ頃に見られる前方後円墳の減少と大型化は、なにを背景にしているのでしょうか。研究者は次のように考えているようです。
①各地域の政治的統合が進み、地域権力の寡占化が反映されている
②中期前半に前方後円墳が讃岐から消えるのは、大和政権との関係に劇的な変化があった
つまり、現代風に云うなら「町村合併で首長の数が減った」ということでしょうか。それにヤマト政権が関わっていると云うことです。

 青龍古墳 東讃編年表

①左側の高松平野では、前方後円墳祀りに参加しなかった岩清尾山勢力が次第に姿を消し、周辺部に前方後円墳が築かれ、最終的には今岡古墳に統合されていきます。
②津田湾周辺では、最初は津田湾周辺に造られた前方後円墳が、後背地に築かれるようになり
③最終的には、けば山古墳や三谷石船古墳のエリアまで統合した富田茶臼山古墳が登場します。これは四国最大の前方後円墳で、全長139mもありました。しかし、これに続く前方後円墳は、ここにもありません。このような前方後円墳の変遷は、他地域でも見ることができます。
丸亀平野の代表的な古墳を河川流域毎に歴史順に並べた編年図です。
青龍古墳 編年表
ここからは次のような点が読み取れます。
①ヤマトに卑弥呼の墓とも云われる前方後円墳の箸墓が造られた時期(第1期)に、丸亀平野でも首長墓とされる前方後円墳が各河川毎に登場している。
②第2期には、それが大型化し、領域が拡大する。しかし、三豊に前方後円墳は現れない。
③第3期には、地域統合が進み丸亀平野東部の前方後円墳は快天塚古墳だけになった。
ここでも初期には、河川流域毎にあった小さな前方後円墳が、だんだん減って最後に快天塚古墳が登場しています。
このプロセスを研究者は、どうかんがえているのでしょうか?
前期末から中期はじめ頃に見られる前方後円墳の減少と大型化について、研究者は次のように考えているようです。
①各地域の政治的統合が進み、地域権力の寡占化が反映されている
②中期前半に前方後円墳が讃岐から消えるのは、大和政権との関係に劇的な変化があった
 前方後円墳はただの墓ではなかったと研究者はかんがえています。前方後円墳に祀られる被葬者と、その後継者はヤマト連合のメンバーで、地域の首長であったというのです。その手始めに造営されたのが卑弥呼の墓ともされる箸墓で、このタイプの墓の造営は首長だけに許されます。前方後円墳は、ステイタスシンボルであり、自分が地域の支配者であることを主張するモニュメントでもあったことになります。そのためにヤマト連合政権に参加した首長たちは、自分の力に見合った大きさの前方後円墳の造営を一斉に始めたようです。讃岐は初期の前方後円墳が多いエリアになるようです。早くからヤマト連合政権の樹立に関わった結果かもしれません。
 その後、各流域では政治的統合が進みます。その結果、現代風に云うなら「町村合併で首長の数が減少」していきます。同時に周囲の首長を従属下においた快天塚の主の権勢は大きくなり、巨大な古墳が登場することになります。
三豊の特殊性   
しかし、こうした「首長権の統合」が進んだのは鳥坂以東のようです。三豊では7期になるまで前方後円墳は造られません。今述べてきた論理からすると、三豊はヤマト連合政権に参加していなかったことになります。確かに三豊の古墳には、石棺などにも九州色が強く出ています。ヤマトよりも九州を向いていたいのかも知れません。
 観音寺の一の谷池の西側に全長44mの青塚古墳(観音寺市)が築かれるのは五世紀後半になってからです。しかも、これも墳形は前方部が短い帆立貝式古墳です。帆立貝式古墳については、大和政権が各地の首長墓の縮小を図るため、規制をしたために出現した墳形と研究者は考えているようです。古代三豊の政治状況は、讃岐全体からみると異質です。ここは別の時間が流れているような気配がします。古代の三豊は「三豊王国」を形成していたとしておきましょう。

そのような中で弘田川流域の善通寺エリアでは、前方後円墳が「野田院 → 摺臼山 → 北向八幡」と継続されます。
ここからは快天塚の首長のテリトリーが土器川を越えては及ばなかったこと、善通寺王国は独立を守り抜いていることがうかがえます。
白方 古墳分布
白方の古墳群

さらに弘田川下流の目を転じてみると、白方湾の西の丘陵地帯には、いくつもの初期前方後円墳が並びます。しかし、善通寺勢力が「摺臼山古墳 → 北向八幡古墳」を築く頃になると白方湾から前方後円墳は姿を消します。ここでも大束川流域で信仰したことと同じ事が起こっていたようです。つまり、弘田川中流の善通寺勢力がその河口まで勢力を伸ばし、白方の首長たちを配下に組み入れたということでしょう。その結果、白方の首長たちは前方後円墳が築けなくなったと研究者は考えているようです。

青龍古墳拡大図3

そういう中で、登場するのが青龍古墳です。
   もし、青龍古墳が前方後円墳だとすると、首長が吉原地区にいたことになります。善通寺エリアには、北向八幡古墳が造られて以後の5・6期には前方後円墳が築かれていません。空白期です。つまり、善通寺地区から吉原地区に首長の交代があったことが考えられることになります。そういう意味でも青龍古墳が前方後円墳なのか円墳なのかは、私にとっては興味深いことでした。

青龍古墳と中世城郭
  発掘結果は「大型の円墳」でした。
前方後円墳ではなかった=青龍古墳の被葬者は、善通寺の首長の従属下に組み入れられ、ヤマト政権からは前方後円墳造営が認められなかったということになります。
 前方後円墳が作れなくなった元首長たちは、大型円墳や小規模な帆立貝式古墳などを築造するようになります。善通寺市の青龍古墳や多度津町の盛土山古墳は直径42mに二重の周溝をもち、埴輪や須恵器から五世紀後半とされています。それぞれ旧首長でありながら前方後円墳が築けなくなったための「代用品」とも考えられます。
 さらに時代が下り、善通寺勢力が有岡の谷に「王墓山 → 菊塚」と連続して横穴式の前方後円墳を築いた頃になると、白方や吉原地区ではさらに小型の横穴式円墳しか築けなくなっています。ここにはヤマト政権の全国支配と同じように、善通寺王権が周辺地域への直接支配の手を伸ばしていく姿がうかがえます。

 そういう意味で、吉原の青龍古墳や白方の盛土山古墳は、善通寺王国の従属下に組み込まれながらも、まだ旧首長としての力があったころの被葬者が眠っているのかもしれません。

昭和の時代には、丸亀平野のため池は弥生時代には出現していたと考えられていました。
 当時は、津島遺跡(岡山市)や古照遺跡(愛媛県松山市)の発掘が大きく取り上げられ、その影響もあったようです。
3.西根堰と水路網にみる歴史的風致 (1)はじめに 桑折町周辺は産ヶ沢川による扇状地が発

しがらみ堰
の発掘は大きく取り上げられ、弥生時代の灌漑技術が過大評価されたこともあるようです。しがらみ堰が作れるのなら、自然の窪みを利用した小規模な堤防もつくることが出来るようになり、それがため池灌漑へ移行し、農地を拡大していったというストーリーになっていきました。そのため、丸亀平野のため池の発生も、弥生期か古墳時代にまでさかのぼると考えられました。
 そして、丸亀平野のため池の発生については、次のような仮説が出されました。
2 丸亀平野のため池と遺跡
  
①昭和27年の3回の洪水調査から丸亀平野の洪水路線を明らかにし、弥生式遺跡の立地、ため池の配置を地図上に落としてみる。
②そうすると弥生遺跡が、いずれも洪水路線に隣接する微高地に立地すること
③ため池が洪水路線に沿って、鈴なりのように連なっていること
以上から次のように、研究者は推測しました。
水田が広がるにつれて、自然の窪みを利用した小規模な堤防をもつ初期ため池灌漑がスタートした。大規模古墳の土木工事は、そのままため池の堰堤工事に転用できるし、労働力の組織化もできるようになった首長は、丸亀平野の凹地にため池を築造することで、水田開発を大規模に進めていくことになる。

  以上が「丸亀平野における弥生・古墳時代の初期ため池灌漑」説です。しかし、現在ではこれは余り顧みられることのない「過去の説」になっているようです。
DSC06130

 それでは、現在はどのようにかんがえられているのでしょうか
 20世紀末に丸亀平野では、国道11号バイパス工事や、高速道路建設によって、「線」状に発掘調査が進み、弥生時代の遺跡が数多く発掘されました。その中には、溝の幅が2mを超える「大溝」や「基幹的灌漑水路」と呼称される主要な灌漑水路も出土しています。これらの分水路を組み合わせで、水田への水は引かれていたと発掘報告書は報告します。
例えば坂出IC周辺の川津遺跡からは、下のような水路が出ています。

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ここでは、旧大束川から分岐した用水路が川津中塚遺跡を経て、下川津遺跡まで連続して続いていました。しかし、この段階では、何㎞も先から導水路を設けて広い範囲をカバーするような灌漑水路ははないと、研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 地形区分図

 以前に見たように善通寺王国の都である旧練兵場遺跡でも、微髙地周囲を網の目のように流れる中谷川(旧金倉川?)から導水された水路は、さほど長いものではありません。居住区から遠く離れた水源から取水する必要がなかったようです。
 古墳時代も、このような状況に変化はありません。
弥生時代後期に開かれた灌漑水路の多くは、古墳時代を通じて機能・維持されますが、なぜかこれらの多くは古墳時代後期の6世紀末葉から7世紀前葉に埋没・放棄されます。その理由は不明です。7世紀前半は断絶の時代なのかも知れません。
南海道 条里制与北周辺

 7世紀末になると律令国家の建設が進み、それに伴って目に見える形で南海道が東から伸びてきます。南海道を基準に条里制ラインが引かれます。そして南海道沿いには、各郡司達は郡衙を整備し、氏寺を建立し、自らの支配力を目に見える形で誇示するようになります。
川津一ノ又遺跡
そしてこの時期に、丸亀平野にため池が始めて出現します。
川津一ノ又遺跡(坂出市)では、7世紀後葉に築造されたため池が出てきています。大きさは推定で約3ha、復元堤高は約1mで、上流側の大束川から水を取り入れ、灌漑水路で各水田へ導水していたようです。
 このため池が「条里制実施にともなう水田面積の拡大への対応」のために、作られたと思いたいのですが、どうもそうではないようです。川津のため池の堤高や池敷面積から想定して、ため池築造により灌漑エリアが格段と広がった様子はうかがえないと研究者は云うのです。ため池築造が耕作地の拡大を目指したものではなく、途中に貯水場を設けることで「安定した農業用水の供給をはかることが目的」があった研究者は考えているようです。また、灌漑域も郷エリアを超えるものではありません。

満濃池灌漑エリアと条里制
 丸亀平野の条里制については、発掘から次のような事が分かっています
①7世紀末の条里地割はmラインが引かれただけで、それがすぐに工事につながったわけではない。
②丸亀平野の中世の水田化率は30~40%である。
①については、条里制工事が一斉にスタートし耕地化されたのではないようです。極端な例だと、中世になってから条里制に沿う形で開発が行われた所もあるようです。場所によって時間差があるのです。つまり、条里制によって7世紀末から8世紀に、急激な耕地面積の拡大や人口増加が起きたとは考えられないようです。
 現在私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになった光景です。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。つまり「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。
金倉川 10壱岐湧水

中世の善通寺一円保(寺領)を、例にしてみましょう
①一円保の水源は、二つの出水と弘田川でまかなわれていた。
②14世紀後半になって、弘田川上流の有岡の谷に、有岡池を築造した
つまり、善通寺の寺領(?)である一円保は、金倉川から取水は行っていません。これが私にとっては謎です。もし満濃池が空海によって築造されたとすると、その最大の受益者は空海の実家の佐伯家でしょう。
1空海系図2

空海の弟は、多度郡の郡司を勤めていたようで、業績を表彰された記録が正史に残ります。満濃池築造の際には、郡司だったかもしれません。そうだとすると、満濃池の利水に関して大きな発言権を持っていたと考えられます。当然、満濃池から善通寺周辺への灌漑路を整備し、それによって水田や畠などの開発に乗り出したはずです。
 しかし、満濃池から善通寺までの用水路なんて、この時代に整備・維持できたのでしょうか。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺生野町辺りの旧金倉川流路跡
わたしは金倉川を使えば、いいのではないかと思っていました。しかし、古代の金倉川や土器川は流路が定まらず、堤防もないためにいくつもの流れになって丸亀平野を流れ下っていました。そこに堰を設けて導水するなんてことができたのでしょうか。
金倉川と条里制

 もしそれが可能だったとしたら、どうして中世には善通寺一円保は金倉川から導水せず、有岡池の築造を選んだのでしょうか。古代にできていたことが、中世にはできなくなった理由がつけられません。
 もうひとつは、古代において多度郡の佐伯家が用水不足からため池を必要としていたのなら、まず取りかかるべきは有岡池だったのではないでしょうか。最初から満濃池である必要はありません。
一円保絵図 金倉川からの導水
現在の導水水路で、これは一円保には描かれていない

 土木モニュメントは、古墳を例にすると小形のものから作られ始めて、様式化し、大型化するという段階を踏みます。それまで丸亀平野になかった超大型のため池が、突然姿を現すというのも不自然です。まさに弘法大師伝説のひとつなのかもしれません。
 築造費用についても、当時の国司は空海が讃岐に帰ってきて、満濃池修築を行ってくれるなら、修築費も国が出す必要はないと云っています。手弁当で人々が参加することを前提としているのかも知れませんが、資材などの経費は必要です。だれが出すのでしょうか。これは、佐伯家が出すと云うことなのではないでしょうか。そこまでした、佐伯家にとって満濃池は必要だったのでしょうか。もし満濃池の築造の必要性があるとすれば、多度郡司である空海の弟の国家への貢献度を高め、位階を上げるためという理由付けはできるかもしれません。 
弘法大師御影 善通寺様式


 空海による満濃池修築というのは考古学的には疑問があるようです。しかし、今昔物語などには満濃池は大きな池として紹介されています。実在しなければ、説話化されることはないので、今昔物語成立期には満濃池もあったことになります。古代の満濃池については、私は分からないことだらけです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
香川清美「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)
まんのう町教育委員会 満濃池名勝調査報告書 第3章歴史的環境
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以前に旧練兵場遺跡について紹介しましたが、その後に平成12年度に開かれたシンポジュウム資料を入手しました。ここには、この遺跡の持つ特徴がコンパクトにまとめられていますので、メモ代わりにアップしておきます。
金倉川 善通寺遺跡分布図

旧練兵場遺跡は、現在の「子どもと大人の医療センター」から農事試験場を含む広大なエリアになります。国立病院の建て替えに伴い西側部分が発掘対象となり、何次にも渡る調査が行われ、分厚い報告書が何冊も出ています。しかし、素人の私が読んでもなかなか歯が立ちません。コンパクトにまとめて、問題点を指摘してくれるシンポジウム資料などは有難い「教材」になります。

まず旧練兵場遺跡の地形復元図を見てみましょう。
この遺跡は、北流するふたつの川にはさまれた微髙地に立っています。ひとつは弘田川で有岡大池から流れ出し、誕生院の裏側(西)を取って北流していきます。遺跡の西側の境界となっています。
 もうひとつが中谷川で源流は大麻山東山麓の大麻で、四国警察学校に至り、大通り(県道24号)の側溝となって北流し、農事試験場の北東部のコーナで大きく西流し、甲山寺(四国霊場)あたりで合流します。ちなみに中谷川は現在は小さな川ですが、かつては金倉川の旧ルートであったようです。
この二つの川の合流点の南に旧練兵場遺跡は広がります。これまでに発掘調査が行われた面積は約2、2万㎡で、遺跡の全面積は約50万㎡と言われますからまだ4%しか発掘は終わっていないことになります。
旧練兵場遺跡 地形区分図

まず、遺跡の大きさを資料で確認しましょう
①弘田川と中谷川に挟まれたエリア面積は約50~70ha
②生活域となりうる微高地(周辺より高い地形)は約25ha
③水田などに利用された低地部分が20~40ha
発掘から復元された地形は、幾筋もの支流が流れ、その間にできた自然堤防のような微髙地の上に、それぞれの集落が現れます。地形復元については、以前にお話ししましたので省略します。
 これまで発掘された丸亀平野の遺跡と比べると、格段に規模が大きいことが分かります。
旧練兵場遺跡からは環濠が出てきません。
 これをどう考えるかは別にして、遺跡の範囲をどこまでとするかが難しいようです。微高地と微高地の間の低地部を含めて遺跡面積を計測すると、50haになるようです。これを吉野ヶ里遺跡(佐賀県)、池上・曽根遺跡(大阪府)、唐古・鍵遺跡(奈良県)などの各地域の環濠集落と比較するために縮尺を同じにして並べたのが下の図です。
旧練兵場遺跡 弥生時代の拠点集落規模

吉野ヶ里遺跡よりも広いのにびっくりします。しかし環濠をもたない比恵那珂遺跡群(福岡県)や、文京遺跡を有する道後城北遺跡群(愛媛県)と比較すれば、それらを下回る規模になります。環濠があるかどうかで、大きな違いがあるようです。
 それにしても、香川県内ではずば抜けて大規模な古代の集落跡であることは確かなようです。当時、西日本に姿を現しつつあった小国家のひとつだったのかもしれません。
旧練兵場遺跡のもう一つの特徴は、集落が継続して営まれていることだと研究者は考えているようです。
 弥生中期後半以後は、すべての微高地で建物が確認され、それが終末期まで続きます。弥生時代の全期間に渡って途切れることなく、集落が続いているのです。弥生時代の拠点集落は、中期末から後期にかけて廃絶するものがほとんどです。この現象を 「集団の再編成」などと研究者は読んでいるようです。しかし、具体的に何がどう変わったのか、一つの遺跡で追いかけることができるのは少ないようです。ところが、その断絶がなく継承している旧練兵場遺跡は「弥生社会の変化」が何であったのかを知ることができる「貴重な資料」でもあるようです。
旧練兵場遺跡 縦穴式住居変遷

住居の推移の中では、
①多角形住居が出現する後期後半
②方形住居に統一される終末期
に研究者は注目しています
①については、この時期に登場する多角形住居には南九州のいわゆる花弁形住居に似た「張出部」をもつものが見つかっているようです。ここからは、他地域の住居との影響がうかがえるようです。つまり、「平形銅剣=瀬戸内海文化圏」のリーダーとして、九州勢力や吉備勢力と活発な交流が始まったことがうかがえます。
②については、それまではいろいろな形だった住宅が終末期に方形住居に統一されます。しかも住居の方向性をみると、微高地のどの地区の住居も北から20°ほど東に振った方向に向いて建てられるようになります。それまでは建物方向はバラバラだったことから比べると、すべての集落がひとつのまとまりとして意識されるようになったことを示すものと研究者は考えているようです。これがオウとクニの誕生につながるのかもしれません。

旧練兵場遺跡 掘立柱建物変遷

<掘立柱建物>
掘立柱建物は住居でなく倉庫として使われたと研究者は考えているようです。
掘立柱建物(倉庫)が登場するのは中期後葉になってからです。梁行が2.5~3.5mで、桁行は短いものもあれば、長いものもある(図5-5)。出現期の中期後葉は面積が20㎡を超えるものが3棟出てきています。
 讃岐地域の中期の掘立柱建物の面積は、平均15㎡ほどであるから、それよりも一回り大きいことになります。
 面白いのは、面積の大小に関わらず梁行の長さは一定なのです。つまり、面積を大きくするには行方向に建物を伸ばしています。収納物の重量を主として桁柱で支える構造です。このような点も掘立柱建物を米や物資を蓄える倉庫とみる理由のようです。生産力と向上と、備蓄品の増加が背後にはあったのでしょう。  

旧練兵場遺跡 居住区1の掘立柱建物

もう一つの特徴は、柱穴が平面方形だと研究者は指摘します。
近隣の矢ノ塚遺跡・西碑殿遺跡や、庄内半島の紫雲出山遺跡で見つかった掘立柱建物の柱穴も方形だったようです。これは讃岐西部の特徴と研究者は考えているようです。
 掘立柱建物は、後期後半以後には姿を消します。
終末期も多数の竪穴住居はありますが掘立柱建物(倉庫)は見つかっていません。後期のある段階から倉庫姿を消す現象は、讃岐だけでなく吉備でもみられるようです。その背景については、後ほどに廻します。
  旧練兵場遺跡からは近畿地方の「方形周溝墓」、北部九州の「甕棺墓」などのような埋葬場所は見つかっていません。
ただ、小児用と推定される土器棺墓が後期後半に見つかり、終末期には一カ所にまとめられる傾向がみられるようです。
旧練兵場遺跡 石棺墓

  遺跡内に墳墓が作られるのは、弥生後期後半になってからです。
 仙遊調査区では人面を線画した箱式石棺が見つかっています。しかし、終末期になると遺跡内からは成人墓はなくなります。集落外に墓域を造るようになったようです。
旧練兵場遺跡 王墓山古墳石棺墓

周辺からは、王墓山古墳の下層に箱式石棺が集中する場所が見つかっています。
旧練兵場遺跡 香色山石棺墓

また香色山山頂周辺には、多数の土器棺や箱式石棺が出ています。このように終末期には、墓を集落の外に作るようになりますが、小児墓だけは集落内に埋葬され続けます。

微高地内には小規模な水路が網目のように流れます。
旧弘田川や旧中谷川から低地に網目状に伸びる小さな水路が数多く見つかっています。河川から伸びる水路は、弘田川と中谷川の合流点あたりの水田域に水を配る用水路であったと研究者は次のように指摘します。
居住域に近い水路は、生活雑器類の廃棄場ともなっていたようで、何回かの堀直しや人工的な埋め立てなど行われていた。水田維持のための用水路修繕や居住域の拡大などが埋め立てなども行われていた。

遺跡内で水田遺構はまだ見つかっていません。人口が増加するにしたがって、微髙地周辺の居住地が埋め立てられていきます。水田面積は次第に減少したと推定されます。遺跡内の水田面積は約18haだったと研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 弥生時代年代区分

発掘された竪穴住居の数からおよその人口を研究者は次のように推定しています
  後期後半には、西・東の2つの居住区をあわせて1500~2000人の人口規模だったします。そうすると18haの水田からの米の収穫量では、2ヶ月足らずになくなってしまいます。年間を通して、人口を維持するには、もっと広い範囲に水田が広がっていたと考えなければならないようです。
中谷川を北に越えると、金倉川の河川水系になります。
そこには九頭神遺跡をはじめとして、小規模な遺跡が点々と存在します。周辺の集落とは、弥生時代中期以来、利水の利害関係から始まり、水田維持・水路造成の労働力や矢板・杭など大量に必要となる木材、集団祭祀に必要な祭祀具など、様々な物資のやりとりが行われていたと研究者は考えているようです。
 例えば、旧練兵場遺跡では木材を伐採するための石斧は、3本だけです。一方で、天霧山東麓斜面から採集された石斧は、20本を超えています。ここからは、弘田川水系エリアでは、木材の伐採や粗製材が特定の場所や集団によって、比較的まとまった場所で行われ、交換・保管されていたことが予想されます。
 イメージを広げると、弘田川河口の多度津白方には海民集団が定住し、瀬戸内海を通じての海上交易を行う。それが弘田川の川船を使って旧練兵場遺跡へ、さらにその奥の櫛梨山方面の集落やまんのう町の買田山下の集落などの周辺集落へも送られていく。つまり、周辺村落との間には、生産物や物資の補完関係があったのでしょう。
 旧練兵場遺跡は丸亀平野西部の小国家として、周辺集落を影響下に置くようになっていったことが考えられます。それがその後の野田院古墳の造営につながっていくのかもしれません。周辺の集落の求めるものは、鉄でしょう。鉄を提供できることが指導者の条件だった時代だったようです。

住居の型式や倉庫のあり方など、集落の内容の変化に話を戻しましょう。
後期前半までは竪穴住居と掘立柱建物(倉庫)はセットで存在します。ところが、後期後半になると倉庫が姿を消し、終末期には住居が小形化し均質化して、方向も棟筋をそろえて配置されるようになるのは先ほど見たとおりです。何かしらの統制が加わったことがうかがえます。
 墳墓を見ると、後期後半に箱式石棺墓や土器棺墓が姿を見せます。そして、終末期には成人墓が集落の外部に設けられ、丘陵の上に作られるようになります。
このような動きの中で、最も重要な時期は後期後半にあると研究者は考えているようです。
  倉庫が姿を消したのは、それまで微髙地の集落単位で管理していた米などが、一括管理されるようになったからだとします。
後期後半からは鉄器・青銅器・装身具の出土量が増えます。伊予や吉備などの他地域の土器が出てくるようになるのもこの時期です。後期後半以降は、丸亀平野の周辺集落との関係とは別に、遠く離れた瀬戸内海の「小国家」の関係が活発化したことがうかがえます。
この時期の彼ノ宗調査区ST09では、小形倣製鏡がでてきています。
これはそれまでの平形銅剣や銅鐸などの青銅祭祀具が、古墳時代に引き継がれる「鏡」ヘと変化したことを示すものだと研究者は考えているようです。
旧練兵場遺跡 銅鐸・銅剣と道鏡

鏡は、個人帰属的性格の強い祭器です。箱形石棺や古墳にも埋葬されるようになりますし、卑弥呼の鏡好きは有名です。シャーマン達は、自前の鏡で占うようになったのです。
人口が1000人を超えた旧練兵場遺跡は、それを統括する社会システムが必要になってきます。
  「約50年後に出現する前方後円墳(野田院古墳)は、この地域の首長の墳墓とみて差し支えない。」

と研究者は記します。
 先ほど見たように、終末期の住居が規格化されていたことを、それを住民に徹底させる階層社会が現れたとみることができます。つまり、オウ(首長・王)の登場です。
  しかし、強力な首長権力が外部からやって来て、この時期から急速に階層社会ヘと変化したとは研究者は考えません。継続して続いてきた旧練兵場遺跡からは、外部からの侵入者の存在や征服の痕跡は見えないからです。
 この時期に急速に組織強化が図られるのは、旧練兵場に居住する集団が積極的に外部との交渉を行い始めた結果だと研究者は考えます。対外的な活動や交渉の目的は「鉄」の入手でした。
 後期後半から終末期にかけて香色山の流紋岩が砥石として使用され始めます。それまでの石器用の砂岩や安山岩の砥石とはちがって、きめが細かく粘りのある石材です。その後、中世まで砥石石材として使用され続けています。このように、香色山の砥石から見ても後期後半に、鉄器化が急速に進んだのは明らかです。鉄資源を入手するために、瀬戸内海を広域的に動き回り、各地の拠点集落と交易や情報交換、人的な交流が求められるようになったのでしょう。単独で鉄を入手することが難しければ団結・連合も行います。それが前回お話しした「平形銅剣文化圏」の形成だったのかもしれません。鉄の入手なくしては、周辺集落をつなぎ止めておくこともできません。鉄の入手は、小国家の存続条件になっていきます。あるときには北部九州勢力に組入り、あるときには近畿勢力に荷担し、朝鮮からの「直輸入の仕入れ」に参加するなど、外交方針までもが鉄の入手とリンクする時代だったのかもしれません。
私が気になるのは、善通寺地域の初期首長は鉄の入手のために、何を「売り物」にしたのかという点です。

以上をまとめておきます
①旧練兵場遺跡では弥生時代中期から人口集中がみられ、同じ場所で人口密度を高めながら後期を迎えた。
②弥生時代後期後半以後の住居の変化や、祭祀具の変化から見て、首長権力という古墳時代に続く 下地が形成され始めていること
③後期後半~終末期の倉庫群や首長居館などの大形建物などはいまだ見つかっていない。
④古墳時代前期になると、突然集落内の住居が激減するが、この要因は明らかではない。

以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 森下英治  旧練兵場遺跡の集落構造 旧練兵場遺跡シンポジュウム資料 平成12年


2有岡古墳群2jpg
善通寺の背後の我拝師山や大麻山は、甘南備山の山容で霊山として信仰されてきたようです。ここからは、数多くの青銅器が出てきています。
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況

 善通寺・瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口と中細形銅矛1口が出土しています。出土地は分かりませんが大麻山からは大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。我拝師山遺跡では平形銅剣4口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。青銅祭器が一ヶ所に埋納されていたことから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀のあったと研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 銅剣出土2jpg

これらの青銅祭器を使って祭礼を行っていたのは、旧練兵場遺跡の集落の首長(シャーマン)のようです。かつては銅鐸と銅剣は
「銅鐸(近畿)文化圏と銅剣・銅矛(九州)文化圏のどちらかに属する勢力がせめぎ合うことを示す証拠」

のように云われてきました。しかし、島根の荒神谷遺跡からは銅鐸と銅剣が同時に埋葬されて出てきました。我拝師山からも、銅鐸と銅剣は一緒に出ています。今では、銅剣と銅鐸が相対立するシンボルとは考えられなくなってきました。
 この旧練兵場遺跡では、いろいろな青銅器祭祀を使って祭礼を行っていたと研究者は解釈するようになっています。
青銅祭器のエリア分類を確認しておきます。
①銅鐸は近畿地方を中心とした青銅祭器であり
②銅剣・銅矛は九州地方を中心として盛行したものである。
②の銅剣は、中細形銅剣と平形銅剣の大きく2つに分かれます。讃岐に関連するのは平形銅剣です。善通寺の瓦谷から出てきた平形銅剣をみてみましょう。

旧練兵場遺跡 平形銅剣
弥生時代中期 前1世紀~1世紀 長46.0㎝ 幅11.1㎝ 厚0.3㎝

銅剣は、弥生時代前期に朝鮮半島よりもたらされます。弥生時代中期には早くも国産化が始まりますが、その際に実用品であった武器形の青銅器は、大型化・祭器化してこんな形になるようです。身は薄く先も丸く、刃は研がれていません。武器としての実用性はまったくなくなっています。茎や樋が痕跡のようにかろうじて残るだけです。
 それでは、この平形銅剣はどんな地域から出てくるのでしょうか。
 旧練兵場遺跡 平形銅剣讃岐分布図

    香川県では、上の図から分かるとおり丸亀平野の善通寺周辺に集中していることが分かります。
 平形銅剣の出てくる範囲を愛媛に広げてみてみましょう
旧練兵場遺跡 平形銅剣愛媛分布図

  平形銅剣について愛媛県史には次のように記されています。
 愛媛の平形銅剣は41本と爆発的にその数が増加している。これらの地域別の内訳は東予地方17本、中予地方21本、南予地方3本となり、県下均一に分布しているとはいい難い。最も出土数の多い中予地方も一本を除いたすべてが、松山市の城北地域に集中している。特に石手川の右岸の扇状地の扇端部に近い松山市道後今市(もと一万市筋)から10本、樋又から7本、道後公園東から3本と、狭い範囲に集中している。これら平形銅剣を出土した三ヶ所はいずれも至近距離にあり、周辺には弥生中期から後期にかけての遺跡がほぼ全面にわたって分布している。この地域は水に恵まれた地域でもあり、古くから稲作が行われていたことは土居窪遺跡の調査によっても明らかである。
 これら東・中予地方の銅剣の出土分布をみると、沖積平野の広さと出土数との間に明らかに相関関係を認めることができる。このことは沖積平野における人口数、すなわち統合集団の数をあらわしているともいえるし、その埋納の状態から小国家群が統合される状況をうかがうこともできる。
   愛媛県からは銅鐸が出てきません。非ヤマト色の強いエリアなのです。出てくるのは銅剣と銅矛がほとんどです。その内の平形銅剣を見てみると、松山の特定地域に集中しているのが分かります。旧練兵場遺跡のような拠点になる弥生集落があったことが分かっているようです。そこからは「小国家群が統合される状況」が見えてくると指摘します。

旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏
青が平形銅剣の分布エリア

 ちなみに、芸予諸島の島嶼部からは出てきません。また、瀬戸内海の対岸である広島や岡山からは、出てきますが松山や善通寺に比べるとその数は少ないようです。松山と善通寺が平形銅剣文化圏の中心なのです。
 ここまでをまとめておくと
①北九州の銅鉾文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏の中間地帯にあって、平形銅剣が出土している広島・愛媛・香川・徳島・岡山南部は平形銅剣文化圏という一つの文化圏を形成している。
②その中でも平形銅剣は松山平野や丸亀平野の大規模集落周辺から多くが出土している。
③そのため平形銅剣は松山平野での作られた可能性も指摘されている。
また、平形銅剣を出土するエリア地域は、弥生中期末の凹線文土器の出土範囲と重なります。単に青銅器だけでなく、交易や文化・人的な交流が瀬戸内海を通じて、瀬戸内海の「小国家群」が舟で活発に行われていたことがうかがえます。善通寺の旧練兵場遺跡も、この瀬戸内海・平形銅剣エリアの重要メンバーだったことが推測できます。

「平形銅剣文化圏」形成の背景は何なのでしょうか?
 平形銅剣は、瀬戸内沿岸の小国家が新しく作りだした自分たちの独自のシンボルだったと研究者は考えているようです。その背景には、弥生時代中期(BC2C前後)になって、高まる北部九州の政治的権力の脅威に対して、瀬戸内のクニグニが抱くようになっていた強い政治的緊張があったとします。銅鐸でも銅矛でもない新しいタイプの祭器を採用し、そのもとでの「同盟・連合」を計ったというのです。それは北九州勢力への脅威に対抗するためだった推測します。
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏2

 クニやオウが現れた弥生時代中期の動きを見ておきましょう。
それにはマツリの変化が手掛かりとなようです。
 北部九州で中期前葉(前二世紀後半)に始まった青銅のマツリの第1段階は、銅鐸と銅剣・銅矛の共存でした。
①北部九州では、銅矛と銅戈が祭器シンボルになっていきます。
②近畿周辺では、銅鐸が青銅祭器マツリのシンボルになります。
③その中で、瀬戸内は銅鐸と銅剣の共存を図りながらも、しだいに平形銅剣をシンボルとしていくようになります。
 こうして、中期後半(前一世紀後半~一世紀前半)第Ⅱ段階には、それぞれの地域が独自のマツリのシンボルを掲げだしたようです。
 なぜそんな現象が生まれることになったのでしょうか?
 それはいち早く国家を生み、苛酷な階級社会に足を踏み入れた北部九州と、未だ縄文的階層社会を引きずりながら祭祀的に統合をはかり国家を生み出しつつあった西日本との違い

と研究者は考えているようです。「国家統合の進んだ北九州、遅れた近畿」ということでしょうか。
 北部九州が銅剣や銅矛などの武器形青銅祭器を、シンボルとした背景には、小国家同士の戦いがあったようです。武力をもって自らのクニを守り、他を威嚇することが日常化した中では、武器形はシンボルとしては素直に受けいれられるオブジェだったのでしょう。
 一方、近畿周辺のいまだ緊迫感がさほど現実的でなく、農業の経済的発展を重視するような社会では、穀霊を加護し、生産の安定をはかってくれる呪器(銅鐸)がシンボルに選ばれたと研究者は考えているようです。

 旧練兵場遺跡で平形銅剣を使ったマツリが行われた時期は、いつなのでしょうか?
善通寺瓦谷からは製作時期が違う中細形銅剣、同銅矛、平形銅剣の3型式の青銅祭器が一括埋納されていました。古くから伝わっていたものを長く使っていたようです。その中で最も型式的に古いものは瓦谷7号中細形銅剣のようです。現在まで、中細形銅剣の最も古い鋳型は、九州と近畿で1例ずつ出土しています。(佐賀県姉遺跡中期初頭~中尋兵庫田能遺跡中期前葉末~中葉)。瓦谷の例は、これらより型式的には後のものになるようなので、平形銅剣の祭器が行われたのは中期後葉と研究者は考えているようです。
旧練兵場遺跡 弥生時代年代区分

漢書地理志が「楽浪海中に倭人あり 分かれて百余国をなす」と記す時代です。
高校日本史B】「『漢書』地理志」 | 映像授業のTry IT (トライイット)

百あまりの小国家のひとつが松山平野や丸亀平野にはあったのかもしれません。それは、平形銅剣文化圏の中心国であったとしておきましょう。
三豊市高瀬町北条出土の平形銅剣

旧練兵場遺跡で平形銅剣が使用されなくなった時期はいつなのでしょうか。
旧練兵場遺跡の西にあたる観音寺市の一の谷遺跡からは、平形銅剣の破片が柱穴に廃棄された状態で出土しています。破片の状態ということと、出土状況、再加工を施した痕跡があることなどから、青鋼祭器としての機能を失っていたものが再加工されて何かに使われていたようです。それがいつ頃のことなのかは、一緒に出てきた土器などがないのでよく分からないようです。しかし、一の谷遺跡が終末期の集落であることから、弥生終末期の時期には破棄されたと研究者は考えているようです。卑弥呼の登場が3世紀前半ですから、その50~100年前の倭国大乱以前のことになります。

旧練兵場遺跡の特徴の一つが弥生時代から古墳時代末期に至るまでの遺跡が継続して見られる事です。
平形銅剣マツリが行われていた当時の旧練兵場遺跡の集落を見てみましょう。
旧練兵場遺跡 変遷図4
 弥生時代後期初頭~前半(図6)

 この時期には居住エリアが12ケ所に増えます。これが「善通寺王国」の原型になるようです。
①居住域3は住居が密集し、人口密集率がもっとも高いエリアです。
②居住域3と居住域2の間の凹地からは、松山・吉備・西部瀬戸内・河内等の他地域からの搬入土器が集中して出ています。
③居住域3には九州タイプの長方形で2本柱構造の竪穴住居が豊前の搬入土器ととも出てきました。
④居住域2の竪穴住居内からも他地域からの搬入土器が出てきた。
ここからは、瀬戸内海を通じた交易活動が活発化し、瀬戸内海沿岸の小国家から搬入された土器が増えているようです。また九州タイプの住居や豊前の土器が出てくることは、そこからの移入者や「常駐駐在員」がいたことがうかがえます。外部との交流が活発化するにつれて、居住域2・3は、遺跡のコア単位に成長し、外部との交流を受け持つ施設に特化したようにも見えます。

青銅器マツリが終焉を迎え、平形銅剣などが埋葬された弥生時代終末期の旧練兵場遺跡を見てみましょう。
旧練兵場遺跡 弥生時代終末期
 弥生時代後期後半(図8)

居住エリアは15ケ所に増えています。旧練兵場遺跡のスタート時点では、善通寺病院地区の居住域3に遺構が集中していました。それが、この段階では、分散的な傾向を示すようになります。
①中でも居住域8は、竪穴住居が密集し「コア地区」で、その周辺に子集落が形成されています。
②居住域2で鍛冶遺構をもつ竪穴住居が確認されています。小さな鍛冶規模のようですが、鉄製品を王国内で自給できる体制が生まれたようです。これ以降には、確実に鉄器が増加していきます。
③居住域内に土器棺墓(群)が造られるようになります。人面文が描かれた仙遊遺跡の箱式石棺墓や土器棺墓も、この時期のものと研究者は考えているようです。 
 鉄の普及が集団を大きく変えていくことになるようです。鉄を手に入れるために、旧練兵場遺跡は何を見返り商品として提供したのでしょうか。疑問は膨らむばかりです。
青銅器データ集

 銅剣については小林行雄が、銅鉾が外洋航行に伴う祭器であるのに対し、平形銅剣は瀬戸内海沿岸にのみ集中して発見されていることから、内海の海の神への祭祀の祭器としています。
しかし、愛媛県や香川県の銅剣の出土地をみると島嶼部からの出土が全くありません。ここからは、平形銅剣を瀬戸内海の海上交通にかかわる祭器とすることはできないようです。また、松山市今市出土の平形銅剣には鹿の絵が鋳出されています。これは銅鐸の狩猟図と共通します。平形銅剣も豊作を祈り、あるいは農耕を称える農耕儀礼に使われたと多くの研究者は考えているようです。

 四国では見つかっている平形銅剣は136本です。その内、松山平野と丸亀平野で6割を占めるようです。この二つの地域を中心に、東進してくる九州勢力への脅威に備えるための連合のシンボルとされたのが平形銅剣を祭器とするマツリだったようです。
 そして、卑弥呼が現れる3世紀になると銅剣や銅鐸は埋められ、姿を消します。代わって登場するのが鏡になるようです。
旧練兵場遺跡 銅鐸・銅剣と道鏡

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

    1善通寺宝物館11

 この顔を最初に見たときには、お宅は何者?という印象でした。
今も善通寺の宝物館の階段を上がった入口に、白鳳瓦と並んで迎えてくれます。善通寺の創建に関わるものなのだろうと思いましたが、仏像とは思えません。金堂などの壁面に掛けられたものかと思っていました。後になって、これが善通寺創建当初の本尊と考えられていると知って、驚いたことを思い出します。

1善通寺宝物館10

 最近改めて、この仏頭にお会いする機会がありました。改めて、拝ませていただきました。この藁荷混じりの粘土に作られた仏さまのお顔のようです。
DSC04087

専門家の見立てを見てみましょう。
 長さが36.5㎝におよぶことなどから、丈六の如来像の面部にあたると推定される。表層仕上げの中土がほとんど失われ、鼻先などを欠失する。
 しかし、稜線を隆起させて大きな弧を描く眉や、蒙古装を明瞭に刻んで上瞼を微かにうねらせつつ目尻をあげる細い目、口角を強く引き締めた唇、頬のふくらんだ顔の輪郭など、総じて整ったバランスと厳しさをしめすその顔立ちには奈良時代中頃の仏像に共通する趣が感じられる。
 奈良時代の塑像は国分寺・国分尼寺の造営などにともない全国的に展開したと推定され、断片も各地で発掘されているが、そのなかにあっても本品のような大型面部の遺存は稀であり、また正統的な作風から中央と密接な関係にあった工人の手になることが推測されるなど、当時の讃岐地方の先進性を知るうえで貴重な遺品として注目される。
 粘土で作られた奈良時代の大型仏像で、「中央の工人による正当な作風」と評されています。

DSC04088

奈良時代と云うことは、空海の生まれた時代です。善通寺は、佐伯氏の氏寺として白鳳時代に創建されたとされます。奈良時代になって本尊として作られ安置されたものということが考えられます。
この「如来系頭部」について、後世の史料が、どう伝えているのかを見てみましょう。

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 江戸時代の元禄九年(1696)の『霊仏宝物目録』には、善通寺の宝物一覧リストです。その一番最初に次のように記されています。
  土彿薬師如来 
四階金堂之本尊 則弘法大師自作而丈六之尊像也」

ここからは
①如来系頭部が土仏と呼ばれ薬師如来で
②金堂の本尊で
③弘法大師作の丈六尊像
と伝わっていたことが分かります。
 13世紀の道範の『南海流浪記』 から分かることは?   
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高野山の寺務を掌る執行という地位にあった道範は、金剛峯寺と大伝法院との間で起きた紛争の責任を取らされて、讃岐に流されました。仁治四年(1243)正月のことです。彼が建長元年(1249)五月に赦されて高野山に帰るまで六年間の讃岐生活を綴った『南海流浪記』は鎌倉中期の讃岐の様子を知る好資料です。道範は守護所のあった宇多津の橘藤左衛門高能という御家人のところに預けられましたが、行動はある程度自由だったようで、3月には高野山の開祖空海の誕生地善通寺を訪れています。
 道範が見た善通寺は、創建当時の堂舎・宝塔などの多くは失なわれて礎石だけになっていたようです。
しかし創建時の金堂は残っていました。この金堂は二階七間で、空海が学んだ唐の青竜寺を模して、二階に少し引き入れて裳階(建物の軒下壁面に造られた廂様の差掛)があるので、四階の大伽藍のように見えたと次のように記しています。
「御作ノ丈六ノ薬師三尊四天王像イマス。皆埋(握)佛ナリ。後ノ壁二又薬師三尊半出二埋作ラレタリ」

ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師御作の丈六の薬師三尊と四天王が安置されていたこと
②これらはみな埋仏(提仏の誤りで、粘土で作った塑像のこと)だったこと
③うしろの壁にも薬師三尊が浮彫(埋作)されていたこと

当時の善通寺金堂は、どんな姿をしていたのでしょうか。
  それをうかがわせてくれるのが道範が去ってから約半世紀後の徳治2年(1307年)に製作された「善通寺ー円保差図」です。ここには善通寺周辺の寺領(一円保)と条里制・灌漑用水などが書き込まれています。
金倉川 10壱岐湧水

東院と西院を拡大して見ましょう
1善通寺一円保

14世紀初めの善通寺には、4階建てに見える本堂を中心に、多くの堂宇が立ち並んでいたことが分かります。
  中央のAが金堂のようです。
道範は、次のように証言しています。
「二階七間也、青龍寺の金堂ヲ被摸タルトテ、二階二今少々引入リテ層あるが故二、打見レハ、四階大伽藍也、是ハ大師御建立、千今現在セリ」

と証言しています。青龍寺は、唐密教を空海に授けた恩師の寺の名です。それを模したお寺だといいます。そうすると、善通寺は8世紀末に建立された白鳳期の寺院とされているので、この建物は創建時ものではないことになります。「空海建立」とすれば、その後の9世紀に空海が再建・修造したことになります。
  金堂の左下にあるのがBが。宝塔か法華堂のようです
「本法花堂卜云フ、大師御建立二重ノ宝塔現存ス、本五間、令修理之間、加前広廂一間ヲ云々」
とあります。
宝塔の左下はC護摩堂で、道範の時代には「破壊」していたとあります。ここに記されているのでその後に再建されたのでしょう。
宝塔の左上、金堂の横にあるのがDが御影堂。
金堂の下にあるのはE講堂、
右下はF常行堂のようで、
「七間ノ講堂ハ、破壊シテ後、今新タニ造営」
「五間常行堂御作ノ釈迦ノ像イマス、同ジク新二造立」

と記されています。
境内を示す四角枠の上辺中央のGが南大門でしょう。
そばには大きな松が描かれています。道範はこれを
「其門ノ東脇二、古大松、寺僧云、昔西行、此松ノ下二七日七夜籠居」

と書き残してくれています。西行は、当時の知識人の憧れる人物でした。西行と関係のある所は、「聖地」扱いされていました。西行は、崇徳上皇の御霊をともらうために讃岐白峰寺に、仁安二年(1167)にやってきます。その後は、空海の生誕地である善通寺の背後の霊山である我拝師山近くに三年間逗留します。空海が捨身行を行った行場で修行を行ったようです。『山家集』にも我拝師山・筆の山に登ったこと、伽藍四門の額が破壊されて心細かったことなどが書かれています。西行は、歌人として有名になりますが、高野の念仏聖でもあったことをうかがわせてくれます。
伽藍から誕生院(西院)にむけて二本の直線が描かれています。
「金堂の西に一ノ直路有り、 一町七丈許りなり」

と書かれたこの道を進むと、板葺の唐門に正面の築地塀、三方柴垣の誕生所に至ります。中央の建物は、建長元年(1249)建立の道範自身か導師となって鎮壇法を修した御影堂のようです。この年に、道範は許されて高野山に帰っていきます。
善通寺一円保絵図 伽藍拡大図jpg

一円補差し図をもう一度見てみましょう。金堂の上には、縦に二つ点線の四角が見えます。
金堂すぐ上のものには真ん中に小さな丸があります。これが塔の心礎のようです。
『平安遺文』に延久二年(1070)に、大風のため転倒したと記される五重塔跡のようです。だと研究者は考えているようです。こうしてみると、善通寺の伽藍配置は四天王寺式だったようです。
 さらによく見ると、金堂の右手鐘楼のすぐ右に、やはり点線の四角があります。これも西塔跡ではないかと研究者は指摘します。鎌倉末期の善通寺文書に「両基の塔婆顛倒せしむるによって……」とあります。ここからは「両基の塔婆=ふたつの塔」があったことがうかがえます。
この一円補差し図は、いろいろなことを教えてくれます。

その後の善通寺は、永禄元年(1558)の阿波の三好実休の天霧城攻防戦も際に、本堂は焼け落ちたと伝えられます。
この「土仏(埋仏)」の裏面には、火中痕跡が残っています。善通寺の金堂基壇の南側からは奈良時代中葉以前の瓦が大量に出土しています。「南海流浪記」に記される「金堂後壁に半出の薬師三尊」が、現在の宝物館に展示されている「如来系頭部」と研究者は考えているようです。

今までのことをまとめておきましょう。
①白鳳時代に条里制に沿う形で善通寺は、佐伯氏によって建立された
②奈良時代に本堂には塑像の丈六薬師如来像が安置された
③鎌倉時代にやってきた道範は、それを見ている
④戦国時代の阿波三好氏の天霧城攻防戦の撤退時に本堂は焼け落ち、頭部だけが残った
⑤江戸時代には、仏頭は創建時の薬師如来のものであると伝えられてきた。
ここからは、この仏塔が善通寺創建時からの本尊釈如来像である可能性が強いことが分かります。そうだとすると、空海は幼い日からこの薬師如来を身近に見てきたことになります。もちろん現在の姿とは大きく異なっていたものでしょうが・・・。
 そして、この薬師さまは、幼い日の空海の見守っていたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

稲木北遺跡
稲木北遺跡は、大型建築物がいくつも出てきたことから多度郡の郡衛跡候補とされているようです。どんな遺跡なのか調査報告書を見ていきます。この遺跡は善通寺市稲木町にあり、国道11号坂出丸亀バイパス建設工事のために平成17年度に発掘調査が行われました。
稲木北遺跡 上空写真

位置は、新たに作られたバイパスと旧11号線の分岐点の南側です。上の写真では、国道北側に見えるのが新池になります。道路手前の掘り返されている部分が発掘されたエリアになるようです。
 新池の西側には丸亀城からの街道が通っていました。稲木遺跡を南に越え行くと、すぐに伊予街道と合流します。そこには永井湧水があり、殿様が休息所に使っていた建物があったようです。丸亀の殿様も国内巡視には、この道をよく利用しています。

稲木北遺跡 上空写真2
 この遺跡からは、古代の郡衛跡を思わせるような大型の掘立柱建物跡や柵列跡がでてきました。これらは左右対称に整然と配置され、柵列跡でかこまれたエリアは一辺約60mになります。これは、全国の郡衛政庁と同じ規模にです。そうだとすると、ここは多度郡の政庁があった可能性が高くなります。まずは、調査報告書に従って、遺跡を見ていくことにします
稲木北遺跡 配置図

  調査区域はバイパス工事で立体化される拡張部のみで上記の4区になるようです。
稲木北遺跡が、どんな所に立地していたかを見ておきましょう。
稲木北遺跡 地形復元図

等高線が引かれた地図を見ると①②ともに微髙地のうえにあることが分かります。
①の西側に河道跡が見えます。これが遺跡の西端を区切っています。
②は東側に河道跡があります。同じくこれがエリアの境界となるようです。
この遺跡の東約1,3kmには金倉川があり、この旧河道の中に頭一つ出ていた微髙地上にあります。上の第5図からは遺跡の東西で旧河道の存在を見て取れます。旧河道が8世紀代の遺構群の東・西限のようです。
稲木北遺跡 遺構配置図

  出てきた柱跡をつないでいくと、大きな掘立柱建物跡が8棟出てきました。それを復元してみると、次のようになるようです。
稲木北遺跡 復元想像図2

これらの掘立柱建物群は、8世紀前半から半ばにかけて、同時に立ち並んでいたと研究者は考えているようです。ここからは次のようなことが分かります。
①大型の掘立柱建物跡8棟
大型柵列跡2基(SA4001とSA2001)で東西の柵で囲まれている
③建物跡は多度郡条里坪界線に沿って建っている
④建物レイアウトは、東西方向への左右対称を意識した配置に並んでいる。
⑤対称の関係にあるの基準線からの距離だけでなく、建物跡の種類や規模についても対応する。
⑥柵列跡の内部では床束建物(Ⅲ 区SB3001)が中核建物群
⑦柵外では総柱建物の倉庫群(東の2棟・西の1棟)があって、機能の異なる建物が構築されている。
⑧柵列跡の区画エリアは東西約60mで、全国の郡衛政庁規模と合致する。
⑨ 見つかった遺物はごく少量で、硯などの官衛的特徴がない
⑩ 出土した土器の時期幅が、ごく短期間に限られている

ここからは、稲木北遺跡(8c前葉~中葉)が、大型建物を中心にして、左右対称的な建物配置や柱筋や棟通りに計画的な設計上の一致があることが分かります。

 それでは郡衙(郡家)とは、どんな施設だったのでしょうか。何を満たせば郡衙と云えるのでしょうか
 郡衙は文献史料によって、「郡庁」「正倉」「館」「厨家」「門」「垣」などの施設があったことが分かっています。
 律令の「倉庫令」には、郡衛設置について次のように規定されています
①倉は高くて乾燥した場所に設けること、
②そばに池や濠を掘ること
③倉から五〇丈(約150m)以内には館舎を建ててはならない
ここからは、郡衙は低湿地には作ってはならなかったことが分かります。また、多くの倉(正倉)が立ち並ぶエリアがあったようです。今は正倉院といえば、奈良にある東大寺の宝物庫の正倉院のことをすぐに思い浮べてしまいます。しかしもともと、正倉とは建物をさすのではなく、国家所有の倉庫群の一郭をさすことばだったのです。発掘で、倉庫群が出てくれば郡衙にまちがいないようです。
 倉庫(正倉)以外にも郡衛には、次のような施設(建築物)がありました。
稲木北遺跡 郡衙の構造

「郡庁」は、郡衙の政庁であり、郡司らが執務するところ。
 郡庁は、「庁屋」「副屋」「向屋」など数棟の建物から構成されていたようです。全国の郡衙復元図を見てみましょう。
上総国新田郡家跡の配置図です。
稲木北遺跡 新田郡衙遺跡

 中央に(1)郡庁があり、その真ん中に庁屋があり、左右に「副屋」「向屋」など数棟の建物が建っていたことが分かります。
  「倉から五〇丈(約150m)以内には館舎を建ててはならない」という規定通り、郡庁と(2)(3)正倉(倉)は、距離を置いて設置されています。また正倉も規則性をもって建てられています。しかし、周囲を囲む堀は不整形です。
稲木北遺跡 新田郡衙遺跡復元図

   豪族居宅型の郡庁
 郡庁の中には地方豪族の居宅から発展してきたものもあると研究者は考えているようです。古い時代の地方豪族の居宅の形が郡庁に踏襲されているというのです。郡司が国造など地方豪族の流れをくむ者から選ばれていたことを考えるとそれは、当然考えられることでしょう。これを「豪族居宅型」の郡庁と呼んでいます。その代表がこの新田郡家遺跡のようです。

  それに対して左右対称の強い規格性を見せるのが広島県の三次郡衙です。
稲木北遺跡 三次郡衙
  三次郡衙は、庁屋を中心に左右対称に建物群が配置され、周囲の塀も規格性を持っています。そして正倉も、その南と東に集中して並んでいます。
稲木北遺跡 三次郡衙2

  これらの郡衙跡と稲木北遺跡の復元図を比較してみましょう。
  稲木北遺跡 復元想像図2

 庁舎を中心に建物が左右対称に配されています。正倉は掘建柱塀の東西の外側に距離を置いてあったことが分かります。発掘エリアが広がればもう少し数が増える可能性もあります。これは郡衙跡の可能性大のようです。
 
しかし、実は多度郡の郡衙跡候補はすでに発掘されているのです。
それが善通寺の生野本町遺跡です。
生野本町遺跡 

この遺跡は善通寺西高校グランド整備のための調査で現れた遺跡で、
①一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。
②遺跡の存続期間は7世紀後葉~9世紀前葉で、稲木北遺跡より少し先行し、しかも存続期間が長い
③中心域の西辺に南北棟が2棟、北辺に東西棟が3棟の大型掘立柱建物跡
④中心域(郡庁?)は微髙地の一番高いところに設置
 郡衙的な色合いが強い遺跡です。
生野本町遺跡の南 100mには、生野南口遺跡があり、次のようなのもヶ出土しています。
⑤8世紀前葉~中葉の床面積 40㎡を越える庇付大型建物跡 1棟
⑥杯蓋を利用した転用硯
生野本町遺跡に隣接するので、郡庁に属する建物であると研究者は考えているようです。

 稲木北遺跡と生野本町遺跡を比べると、多度郡の郡衙跡候補地としてはどちらもその可能性があるように思えます。しかし、この二つの現存期は7世紀後半から8世紀初頭にかけてになります。つまり同時併存していた遺跡なのです。多度郡に2つ郡衙があったとは考えられません。
次の3つの要素を加えるとぐーんと生野南口遺跡が有利になるようです
A 生野本町遺跡の北側には、南海道が通っていた。
B 有力豪族である佐伯直氏の本拠地に近いこと 
C 仲村廃寺や善通寺が造営されていること
Aの推定南海道については、以前にお話ししたように次のような根拠から四国学院内を通過していたという説が有力になっています.

DSC01748
①多度郡条里地割の6里 、7里 の里界線沿いが南海道の有力な推定ラインとなる。
②多度郡の東側の那珂郡では、この推定ライ ンに沿つて余剰帯 (条里型地割において南北幅が東西幅に比べて10mほ ど広い坪の連続する箇所)があり、これを西側へ延長した位置にあたる。
③13世紀代の善通寺文書において五嶽山南麓に延びるこの道が「大道」と記載 されている
そして、四国学院大学構内遺跡同遺跡からは②の推定南海道の位置とぴったりと合う所で、併行して延びる2条の溝状遺構が見つかっています。この遺構は7世紀末~8世紀初頭に掘られたもので、その方向は条里型地割と一致し、溝状遺構の幅は約8,5mです。ここから南海道の道路側溝である可能性が高いと研究者は考えているようです。
稲木北遺跡 多度郡条里制

  全国の郡衛の多くは主要街道の近くに設置されています。
それは中央集権的な国家体制作りからすれば、当然の立地条件だったのでしょう。かつては、伊予街道=南海道とされきましたが、先ほど見たように南海道が善通寺の現市街地を貫いていたと、現在の研究者の多くは考えています。そのため生野南口遺跡がぐーんと有利になります。また南海道の建設工事が7世紀末から8世紀初頭とすれば、生野南口遺跡の多度郡衛の設置時期とも重なります。
  この時代の西讃地方で行われていた土木建設工事を挙げてみると
 7世紀半ば       三野郡に讃岐初の古代寺院・妙音寺が丸部氏
       (?)によって造営開始
663 日本,百済軍が唐,新羅軍に敗れる(白村江の戦い)
667 近江大津宮に遷都.瀬戸内沿岸に山城築造(大和国・高安
城,讃岐国・屋嶋城)
672 壬申の乱
695 藤原京造営 宮殿に三野郡の宗吉瓦窯の瓦使用
         三野郡の妙音寺完成  
    稲木北遺跡(多度郡郡衛?)完成

生野南口遺跡周辺の有力豪族と云えば、空海を生んだ佐伯直氏です。
現在の誕生院は佐伯氏の館で、空海の生誕地であると云われますが、それを実証する史料はありません。『類衆国史』には、9世紀前半に佐伯鈴伎麻呂が大領 (郡司)となっています。それ以前には、佐伯直氏の館跡との関係を直接的に示す遺跡は分かりません。しかし、善通寺には、他地域を凌ぐ寺院や古墓があります。
 まず寺院については仲村廃寺、善通寺があります。
仲村廃寺は、原型に近い川原寺式軒丸瓦や法隆寺式の軒平瓦などが出土し、奈良時代まで多くの種類の軒瓦が使用されています。善通寺跡からも白鳳期から平安期にかけての多種類の軒瓦が出てきていて、両寺とも盛んに造寺活動が行われていたことが分かります。これらの背後には佐伯直氏の活動がうかがえます。
 一方、古墓については8世紀中葉~9世紀代の火葬墓群が筆の山の南麓、東麓で見つかっています。このうちカンチンバエ古墓では銅製骨蔵器が使われ、畿内で貴重で珍しい材質なようです。佐伯氏と思われる有力豪族が存在していたことがうかがえます。
稲木北遺跡 条里制

稲木北遺跡付近を本拠地とした豪族としては因岐首氏が考えれます
因岐首氏については『日本三大実録』に「多度郡人因支首純雄」らが貞観8年 (866年)に 改姓要求の申請を行つた結果、和気公が賜姓された記事がありますので、多度郡に因岐首氏という豪族がいたことは確実です。
 500年後の1423年の「良田郷田数支配帳事」には、多度郡良田郷内に 「稲毛」 という地名が記されています。この「稲毛」を因岐首氏の 「因岐」からの転化と研究者は考えているようです。そして、良田郷を因岐首氏の本拠地とします。この説に従えば、稲木北遺跡は良田郷に属しますので、8世紀初頭には因岐首氏がこの地域を本拠地としていた可能性は高くなります。。
 智弁大師はこの因岐首氏の出身で、その系図を残しています。
それは『和気系図』と呼ばれ、今は国宝となっています。その系図には始祖である忍尾別君から因支首純雄らの世代までが記されています。また、忍尾別君が伊予国から移住し、因岐首氏と婚姻し、因岐首氏の姓を名乗るようになったということも記されています。この伊予からの移住時期を7世紀中頃と研究者は考えているようです。つまり、大化の改新から白村江の敗北の前後に、伊予からやって来た豪族というのです。ここからは次のようなことが考えられます。
佐伯直氏の郡衙       多度郡部の生野本町遺跡
因岐首氏(和気氏)の郡衛     多度郡部の稲木北遺跡
しかし、見てきたように佐伯直氏と因岐首氏の勢力を比べると、これは佐伯直氏に軍配があがります。例えば、古代寺院の造営という点からしても多度郡南部には、同時期に仲村廃寺と善通寺があります。壬申の乱以後も佐伯直氏は、勢力を保持し郡司の座にあったと考えられます。
それでは、善通寺に郡衛(生野本町遺跡)があったのに、なぜ稲木の地に新たに郡衛ぽい施設を作ったのでしょうか。
稲木北遺跡の同時代に並立していた遺跡を見てみましょう
①稲木遺跡では「口」の字形の官衛的な建物配置、
②金蔵寺下所遺跡では河川管理祭祀
③西碑殿遺跡と矢ノ塚遺跡は鳥坂峠の麓という交通の要衝に立地する
といったそれぞれの機能的側面を持っていたます。 
 7世紀半ば以後に、伊予から多度郡北部にやって来て急速に力を付けた新興勢力の因岐首氏の台頭ぶりを現すのがこれらの遺跡ではないかと研究者は考えているようです。
 因岐首氏による多度郡北部の開発と地域支配のため新たに施設が作られ、
「既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡」

と研究者は指摘します。つまり、新興勢力の因岐首氏による多度郡北部の新たな支配拠点として、この官衛的な施設は作られたというのです。
 しかし、この施設は長くは使われませんでした。
非常に短期間で廃棄されたようです。使用痕跡が残ってあまり残っていないのです。例えば土器などの出土が極めて少ないようです。また、硯や文字が書かれた土器なども出てきません。つまり、郡衛として機能したかどうかが疑われるようです。
 因岐首氏の台頭で藤原京時代に、多度郡の第2郡衛的性格を持って作られた稲木北遺跡の建築物は、律令体制の整備が進む奈良時代になると放棄されたようです。そこには多度郡の支配を巡る佐伯直氏との対立もあったのかもしれません。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
稲木北・永井北・小塚遺跡調査報告書2008年

前回は、旧金倉川の流路について見てみました。
金倉川 7 生野町地図
上の地図で赤枠で囲まれたエリアが旧生野村で、そこにかつての金倉川(白矢印)が流れ込んでいたことを示しています。
前回のことをまとめてみると、次のようになります。
①弥生・古墳時代には壱岐湧水方面から北上する旧金倉川の河道が生野町や吉田町に幾筋もになって流れ込み、氾濫原となっていたこと、
②その中で、生野南口から四国学院には舌状に伸びる微髙地があって、この上に7世紀後半から奈良時代には、多度郡郡衙らしき遺跡が姿を見せるようになったこと
③旧金倉川の堆積作用は、奈良時代までには終わり凹凸が平坦化していったこと
④平坦化が終わった段階で、条里制や南海道建設などの大規模公共事業が行われたこと
⑤その主体が多度郡郡司の佐伯氏と考えられること
それでは、金倉川の沿いの氾濫原とされたエリアは、どんな状態だったのでしょうか。それを、今回は探って見たいと思います。テキストは「細川泰幸 善通寺生野について  善通寺文化財教会報25 2006年」です。
まず、考古学者達が捉えている金倉川の流路と条里制の関係を見ておきましょう。
  金倉川と条里制
 黒い部分が山になります。①と②が併行して流れているのが、東のの櫛梨山と西の磨臼山に挟まれて一番流路が狭くなるところです。
そこに①金倉川(旧四条川)と②旧金倉川が並立して流れていたと全讃府史は記します。旧金倉川は磨臼山を抜けると洪水時には生野町や吉田町に流れ込み氾濫原を形成したことがうかがえます。
                        
まず、生野という名前の由来を考えて見ましょう
  「西讃府誌」「仲多度郡史」には、「生野」の地名のいわれを「イカシキ野」と記しています。古語辞典には「イカシ」は
①いかめしい、厳かである
②ひどく 盛んである。勢いがある。
③おそろしい。楽しい。荒々しい。
と出ています。筆者は「イカシキ野」の解釈を、「いかめしい野・荒々しい野」と解釈しているようです。

「遊塚」という宇名があったと云います。そのエリアは
東は与北の中川原と西務主から、
西は善通寺市役所の大半、
南は綴道から、
北はガスト善通寺店前にある吉田病院横の小川
にあたると古老たちは、話していたといいます。このエリアが、一面のうっそうとした森であり荒れ地だったというのです。ざっと考えただけでも何十㌶の広さになります。多くの氾濫原は開墾されて、水路が通されて水田化されていき、森は姿を消していきました。現在、金倉川流域で残っているのは多度津町の葛原にある八幡の森だけでしょうか。そのような森が明治の終わりまで市役所から尽誠学園を越えて、現在の金倉川まで広がっていたというのです。

 作者は小さい頃に祖父の兄から聞いたこととして、次のような話を
語ります

「おらは小学校のころ、井脇君の家(東務金の井脇正則氏の祖父)へ遊びに行って、遊びに夢中になり、気がつくとはやあたりが薄暗くなっていて、あわてて走って帰ったが、このトトヤ(魚)道も、今の道の半分ぐらいしかなく、雑木の大木が左右から垂れ下がって、こわかったもんだ」

とよく話していたと云います。 与北の東務金から森が続き「雑木の大木が左右から垂れ下がって、こわかった」というのです。
ここからも旧金倉川流域は氾濫原として、昭和の初め頃までは放置されていた所があり、大きな森として残っていたことが分かります。

もう少し古い時代のこととして、親戚のおじいさんに聞いた話を次のようにも伝えます
「おらが15、6の頃におやじと一緒に麦まきが終わると、ここの田んぼの木を切り倒して荒れ地を開墾して、稲のできる田にしたんだ」

というお話を聞いたと云うのです。それは、陸軍11師団がやってきた後の明治の40年前後のことだといいます。乃木大将がやって来たときにも「遊塚」には森がまだまだ繁っていて、それを開墾して田んぼにする人も現れていたようです。乃木将軍も金蔵寺からの通勤に、この森を通ったことがあるかもしれません。
 尽誠学園が生野町の現在地にやってきた時には、校地として水田を買ったのでしょうか、森を買ったのでしょうか?。私は森を買った可能性が強いと思います。

どうして生野村の東部は、「いかめしき野」だったのでしょうか?
 地図を見れば分かるように磨臼山と櫛梨山の間は直線にして約700mぐらいしかありません。
金倉川 9磨臼山と櫛梨山

かつては、ここを土器川も流れていたことは前回にお話しした通りです。そして全讃史には、この間を旧金倉川と旧四条川が並んで流れていたと記します。一旦狭められ速くなった流れが開放されると色々な方向にほとばしり出ます。この間を流れる川の名前は変わっても、何百年何千年の昔から洪水が起こるたびに氾濫し、流れを変化させ弘田川の方へも流れ込む暴れ川だったようです。その結果が、流域を氾濫原として埋め、土地の凹凸を平面化する結果となったことも前回にお話しした通りです。
 そして、氾濫原の荒地は自然のまま放置され、森となって残ったのでしょう。また森のまわりにも荒野が広がっていたようです。そのため現在の土讃線が明治に線路がひかれ、現在の国道319号が四国新道として建設されたのも、この沿線が旧金倉川の荒れ地で買収費用が安く、容易に手放す人たちが多かったからだと伝えられます。

 香色山は、佐伯氏の祖廟があり、聖なる霊山です。
 ここから東に広がる善通寺市街を見ると、条里制に沿って街作りをしたということが実感できます。筆岡、吉原、稲木、竜川あたりの水田をグーグル地図で見てもきれいに方形に区切られ条里制の名残りがみられます。しかし、生野町の上原、原、小原、東務主、西務主の水田の形をみると、てんでん、ばらばらの形です。これらは一斉に条里制に基づいて開かれたのでなく、金倉川流域の荒地の低湿地を少しずつ開発したことを物語っています。しかし、乃木大将が馬で走った森や荒地の「いかめしき野」(遊塚)は、今はどこにもありません。
金倉川 10壱岐湧水
善通寺一円保差図 二頭湧水は②?

二頭湧水は上吉田、下吉田、稲木の三村が水懸りですが、
早魅時には善通寺領の申し立てによれば、善通寺領分の田んぼも取水権を持っていたようです。それは、上の「善通寺一円保差図」を見ても分かるとおりです。②の二頭湧水からの用水路が善通寺の一円保寺領の方に続いているのが描かれています。そのため既得権利として、寛政9年と文化14年、そして文政6年と3回に渡って、善通寺は丸亀藩へ提訴しています。その内容は、早魅で有岡大池の水もなくなってしまったときの対応策についてです。善通寺の申立ては、寺領分が水を必要とした時に、上吉田村に書面を提出すると、三村の村役人が話し合って、寺領の取水日を返答する。ところが三村も水がほしくてたまらないので、取水日をはっきりと示さない。そのため善通寺が丸亀藩に提訴するということになります。
 壱岐湧水などについても、そのような既得権利を善通寺は主張していたようです。そのため本寺に訴えるために「一円保絵図」を控訴史料として作成したのではないかと研究者は考えているようです。

善通寺市デジタルミュージアム 壱岐の湧 - 善通寺市ホームページ
壱岐の湧水

もう一度、壱岐の湧水と、柿の又出水を見てみましょう。
 小学校にプールが出来る前の昭和40年代までは、子ども達がこの湧水で泳ぎまわっていたと云います。しかし、壱岐湧水に比べて、柿の又湧水は、水がきたなかったし、まわりは葦と雑草が生い茂って泳ぐ気にはならなかったと作者は云います。そのためでしょうか、現在整備されていのは壱岐湧水だけです。
金倉川12柿の股湧水
 二つの出水は絵図を見ると、条里制地割線上に西に、真っ直ぐと伸びていきます。
この一番上の条里制地割ラインはいったい現在のどの辺りになるのでしょうか?
最初私は、尽誠学園から西に真っ直ぐ伸びて四国管区警察学校や自衛隊本部(師団師令部)道の前を通る道を考えていました。しかし、現在の地図に落としてみると次のようになるようです。
金倉川11 条里制と湧水
絵図に合わせて南北が逆になっています

絵図は寺領周辺は詳しく描いていますが周辺部はデフォルメされていることが分かります。一円保絵図の一番南のラインは四国学院と護国神社を通過しています。これが多度郡の6里と7里の境界線にあたるようです。

金倉川 善通寺条里制

ちなみに四国学院の図書館建設のためのための発掘調査から6里と7里の境の溝が出てきています。そして、そこには側溝もあることから南海道の可能性が高くなっています。つまり、絵図の一番南ラインは南海道でもあったようです。
 ここからは壱岐湧水からの導水ラインは、二頭湧水を越えて北上し、善通寺一高辺りから真っ直ぐに、南海道沿いに西に伸びて四国学院のキャンパス内で(2)に接続していたことになります。
さらにその用水は現在の護国神社や中央小学校を抜けて、善通寺の南大門の南に当たる①に至ります。ここから条里制地割に沿って北に導水されていたことがわかります。この周辺に善通寺の寺領は集中していたようです。
  四国学院や善通寺東院は微髙地にあります。しかし道を越えた護国神社や西中・中央小学校は、四国学院よりも1,5mほど低くなっているようです。この地帯は水田であったことが推測できます。壱岐湧水の水は、ここまでひかれ寺領を潤していたとしておきましょう。

  前回に四国学院の東側は旧金倉川から分かれた支流が流れていて、氾濫原だったと考古学者は報告していることをお話しました。
そして、今日のテキストでは、11師団がやって来る20世紀初頭まで、現在の市役所から金倉川までは「いかめしき野」の森で、その周辺は荒れ野が続いていたという「証言」を聞きました。壱岐湧水からの用水は四国学院まで、森と荒野を抜けてやってきていたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「細川泰幸 善通寺生野について  善通寺文化財教会報25 2006年」

.1善通寺地図 古代pg
       
 旧練兵場遺跡とは、その名の通り戦前までは11師団の練兵場があったことから名付けられた名称です。今は東側が国の農事試験場として畑が広がっています。西側は、旧国立病院エリアになり「子どもと大人の医療センター」という長いネーミングの病院にリニューアルし、そこに看護学校や特別支援学校も併設するユニークな施設群を形成しています。かつて、ここの集中治療室で10日ほどお世話になり、その後一般病棟で過ごしたことがあります。その時に、手にした旧練兵場の分厚い調査報告書を眺めた思い出があります。
1旧練兵場遺跡5

 その後の発掘で次のような事が明らかになってきています。
①旧練兵場遺跡は弥生時代中期中葉から継続した大規模集落である
②他地域との交流を通じて鏡片・ガラス玉・銅鏃などの貴重品を多く保有する集落である
③県内の弥生時代の銅鐸・平形銅剣等の多くの青銅器が旧練兵場遺跡周辺に集中している
④善通寺病院遺跡が竪穴住居や掘立柱建物の集中から旧日練兵場遺跡の中枢部であった
⑤竪穴住居群は生産活動や対外交渉など異なる機能をもち、大規模集落の中で計画的にレイアウトされていた
つまり、この病院の立っているところが古代善通寺王国のコア施設を構成する所であったようです。
弥生時代のこの周辺の地形は、どんな地形だったのでしょうか?
その当事の復元地形の変遷図を今回は見てみましょう。
旧練兵場遺跡は、弘田川水系と金倉川水系が合流する扇状地の扇端付近にあり、旧河道や凹地といくつかの微高地があったと研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 全体図1
地図はクリックで拡大します
発掘調査から明らかになった旧河川は、地図上の黒い帯のような部分で2本あります
①旧河道1は、弘田川西岸遺跡から彼ノ宗遺跡ヘ向かう現弘田川の旧河道
②旧河道2は、仙遊遺跡東側から善通寺病院の北東部を通り北西へ流れる旧河道
①が上の地図の左下側の流れで、②が右上側の流れになります。旧練兵場遺跡の集落は、このふたつの旧河道にはさまれた微高地にあったようです。
集落の変遷を見てみましょう
弘田川の西側遺跡からは、弥生時代の遺構面から縄文時代後期土器がまとまって出てきています。また、善通寺病院の旧河道2からは、縄文時代晩期の刻目突帯文上器の出でてきています。ここからは近くに縄文人達の集落があり、ここを拠点に生活していたことがうかがえます。
旧練兵場遺跡 変遷図1

弥生時代前期~中期前葉(図2)
最初に竪穴住居・掘立柱建物が姿を見せるエリアは、
①善通寺病院区
②彼宗地区
③弘田川西岸地区
で、居住域1には50㎡を超える大型掘立柱建物が姿を見せます。遺構分布からは、この時期は彼ノ宗地区が集落の中心部だったようです。
  また、旧弘田川河床跡からは舟の櫂も出土しています。当事は小さな川船は、弘田川河口の海岸寺からこの辺りまでは上ってこられていたようです。②③は、旧弘田川沿いに立地し、小さいながら川湊的な機能も持っていたのではないでしょうか。

旧練兵場遺跡 変遷図3

 弥三時代中期後葉~末葉(図4)
 前時代と比べると、居住域が拡大し、居住域は8ヶ所に増えます。
①東の仲村廃寺地区(現ダイキ周辺)や四国農業試験場地区でも村落形成が始まる。
②居住域1・2には掘立柱建物が集中して建てられるようになり、貯蔵エリアが形成され始めたこがうかがえる。

旧練兵場遺跡 居住区1の掘立柱建物

③掘立柱建物にも、1間×1間の柱構造の大型化したものが登場し、前段階からの梁間1間タイプのものと混在して使用される。ここからは、掘立柱建物群の中での「機能分化」があったことがうかがえます。
④彼ノ宗地区の居住域8の掘立柱建物の柱穴からは、朱の精製遺物と見られる石皿が出土した。朱の原産地の徳島県名東遺跡の活動が始まるのもこの時期からで、県内でも初期の事例となります。
⑤居住域1からは、古墳時代以降の遺構に混入して扁平紐式銅鐸片が出土した。この時代に埋納された可能性が高い。
地図を見ると西側エリアでの居住区や掘立柱建物の質的量的な発展と、旧河道2を越えた東部エリアへの拡大が同時進行で進んだ時期になるようです。


旧練兵場遺跡 変遷図4
 弥生時代後期初頭~前半(図6)
 前段階と比べると、居住エリアが拡大しています。集落全体では12ケ所に増えています。この段階の居住域の広がりが「善通寺王国」のその後の集落形態の原型になるようです。
①住居が集中するのは居住域3で、人口密集率は善通寺王国でもっとも高いエリアである。
②居住域3と居住域2の間の凹地には、四国島内・吉備・西部瀬戸内・河内等の他地域からの搬入土器が集中する。
③居住域3には九州タイプの長方形で2本柱構造の竪穴住居が豊前の搬入土器ととも出てきた
④居住域2でも数は少ないが竪穴住居内から他地域からの搬入土器が出てきた。
⑤居住域2・3は、この段階で遺跡のコア単位に成長し、外部との交流に特化した機能をもつようになった。
旧練兵場遺跡 各居住区の配置図

⑥他の居住域は、竪穴住居4~7棟程度に掘立柱建物が2棟程度付属する小規模な単位と見られる(図7)。また、掘立柱建物は、本段階をもって消滅する。
旧練兵場遺跡 変遷図5
 弥生時代後期後半(図8)
居住エリアが15ケ所に増えています。この遺跡の始まり段階ではは、善通寺病院エリアの「居住域3」に遺構が集中していました。それが、この段階では分散的な傾向を示すようになります。そして居住域1~3、彼ノ宗地区の「居住域5」に主要遺構の分布が見られるようになります。「居住域3」では、多角形住居がまとまって見られます。これは「都市機能の過度集中に対する分散策」がすすんだのでしょうか。
①川向こうの四国農業試験場は大規模な発掘調査が実施されていませんが、過去のトレンチ調査にから次のような事が分かっています。
居住域8は、竪穴住居が密集
住居住域7~9、11~14は中心的な居住域を補完する小規模な居住単位
ここでも居住地8が副都心のような形で、その周辺に子集落が形成されているようです。
②居住域2で鍛冶遺構をもつ竪穴住居が1棟確認されています。小さな鍛冶規模のようですが、鉄製品を王国内で自給できるようになったようで、これ以降には確実に鉄器が増加します。
③居住域内に土器棺墓(群)が造られるようになります。人面文が描かれた仙遊遺跡の箱式石棺墓や土器棺墓も、この時期のものと研究者は考えているようです。
旧練兵場遺跡 変遷図6
弥生時代終末期~古墳時代初頭(図9)
 居住域の分布は前段階と大きな変化はないようですが、小さな居住域が姿を消して居住エリアが減っているようです。
①川向こうの仲村廃寺地区では、遺構の再編成が行われたようで竪穴住居・一部円形・多角形住居が見られますが、ほとんどが方形住居に姿を変えています。そして方形竪穴住居は、南北方向へ主軸を揃えて建てられています。なんらかの新たな「強制力」が働きはじめたようです。
②居住域1・2には一辺が約8mの大型方形住居が登場します。家族のあり方にも何らかの変化が起こっていたのかもしれません。
③貴重品として「居住域1・2・5」から鏡片が出土しています。
④「居住域3」からは水晶製の玉未成品(多角柱体)が出土しています。ここに工房があったのでしょうか。
⑤弘田川西岸地区の居住域7の大型土坑からは鍛冶炉があった痕跡があり、集落の周辺で操業していたことがうかがえます。

古墳時代前期以後
 古墳時代前期から中期後半までの期間は、遺構の分布が見られなくなり、集落は解体したようです。この集落の解体は何を意味するのでしょうか? どちらにしても古墳時代の前期から中期に善通寺王国は一度、「滅亡」したのかもしれません。そして、古墳時代中期になると再び竪穴住居群が現れ、後期には広範囲に竪穴住居群が展開するようになるのです。
 以上をまとめておくと

①旧練兵場遺跡の居住域の形成は、弥生時代中期中葉に善通寺病院地区と彼ノ宗地区を中心に始まった。
②弥生時代後期初頭から集落の拡大が始まり安定する。
③仲村廃寺地区と四国農業試験場地区の居住域が消滅・移動を繰り返しているのに対して、善通寺病院地区と彼ノ宗地区、弘田川西岸地区の居住域が安定的に営まれる
④集落の中心となる善通寺病院地区でも遺構内容の変化は著しい。
⑤掘立柱建物が消滅する後期後半以後は善通寺病院地区の居住域1が遺構分布の中心となり、同時併存で最大30棟前後の竪穴住居が分布する。
  居住域の交流・生産活動については
①他地域との交流を示す搬入土器・鏡片がある。
②後期初頭から前半期には居住域3に搬入土器が集中するが、それ以後は特に集中する居住域は見られない。
③鏡片は終末期に居住域1・2、居住域5で出土しており、中でも居住域1に集中する。
④他地域との「外交・交易機能」をはたしてした居住域3は、終末期にはその機能を居住域1に移している。
⑤後期後半期に居住域2で鍛冶炉をもつ竪穴住居、終末期には居住域7南部において鍛冶炉があった
 善通寺王国の首長達の眠る古墳群と、この村落の変遷図を結びつけるとどうなるのでしょうか。
  古墳時代の後期には、善通寺王国の「死者の谷」ともいわれる有岡の谷に、王墓山古墳や菊塚古墳が首長墓として築かれる時期でもあります。その形成母体となった村落を古墳時代後期に再生された旧練兵場跡の勢力と考えればいいのでしょうか。そうだとしても、首長の屋形らしきものは発掘からは姿を見せていないようです。善通寺の誕生院は、空海誕生の佐伯氏の館の上に建つと伝えられてきました。その伝え通り、誕生院周辺に首長の屋形はあったのでしょうか。

そして、7世紀後半には古代寺院中村廃寺が居住地10に姿を見せることになります。それは、短期間で現在の善通寺東院へと移され再建されていくようです。この2つの古代寺院の出現をどう捉えればいいのでしょうか。わかったことが増えると分からないことも、それにつれて増えるようです。まだまだ謎が多い旧練兵場遺跡と有岡古墳群と善通寺と佐伯氏の関係です。
参考文献

  
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讃岐国司藤原経高は、なぜ寺領の集中、一円化を行ったのでしょうか。
 平安時代の末の11世紀後半になると律令制度の解体に対して、中央政府は租税改革を行い増税政策を展開します。それまでなかった畠地への課税、在家役の徴収などの新たな課税が地方では行われるようになります。これは、善通寺のようなわずかな寺領からの収入に頼り、国衛の支配に対しても弱い立場にある地方寺院にとっては、この新しい課税政策はおおきな打撃となったようです。
 善通・曼荼羅寺の本寺である東寺も、国に干渉して末寺寺領を保護するほどの力はありません。そればかりか本寺維持のために善通寺などの末寺からの年貢収奪に力をそそいでいたことは、前回に見たとおりです。また善通寺や曼荼羅寺としても、寺領耕作農民の年貢怠納や「労働力不足」に悩んでいました。
 一方、讃岐にやって来た良心的な国司の立場からすると、租税の取り立てだけがその役目ではありません。国内の寺社を保護し、興隆を図ることも国司の大切な勤めです。まして善通寺のような空海ゆかりの寺です。準官寺として国の安泰を祈る役目を担っている寺院を、衰退させることは重大な職務怠慢にもなりかねません。
3善通寺4images
このような中で打開策として実施されたのが善通寺寺領の一円化です。
 これは古代以来、ばらばらに散らばっていた寺領を善通寺周辺に集めて管理し、財源を確保しようというものでした。この一円寺領の状態を示すのが久安元年(1145)十二月に国・郡の役人と善通寺の僧が作成して国衛に報告した善通・曼荼羅寺寺領注進状です。
 東寺末寺 善通曼荼羅両寺事
 口口中村・弘田・吉原三箇郷内口口口口口口
 口口口口段二百二十歩
 常荒二段   (荒廃してしまった畑)
 畠六十八町二段百八十歩
 作麦三十七町九段百口口歩
 口口丁九段
 常荒十九丁四段  
 河成一丁三段    (河成=川洲になってしまった田畠)
 四至(境界)   (東西南北四方の境界)
 限良田郷堺 
 限口口郷堺
 西限三野郷堺 
 限中津井北堺
在家拾五家   (一円保の耕作担当農家15軒=労働力)
 仲村郷 正方 智円 近貞 国貞 清成 正宗 清武 喜楽 嬬
 弘田郷 貞方 末時
 吉原郷 貞行 近成 円方 真房
 善通寺
    仲村郷五十九丁五段
    田代二十丁三段六十歩
    見作九丁九段百八十歩
    年荒十丁三段二百三十歩   (年荒=休耕地)
    畠三十八丁七段百二十歩
    作麦十九丁一段三百歩
    年荒十四丁二段六十歩
    河成四段百八十歩
    在家九家
 三条
  七里
  二坪一丁七  公田二段半見作也 年荒七段半  作大貞末
  三坪一丁七  公田定見作四段 年荒六段    作大正方
  四坪一丁七  公田定見作 年荒一段
        畠七段 作麦六段        作大正方
     (中 略)
  十七、一丁  本堂敷地 (三条七里17坪)
  十八、一丁  同 敷地
  十九、一丁  同 敷地
  廿、 一丁  同 敷地
    (中 略)
    八里
二坪一丁  公田定年荒      作人友重
三,一丁  公田八反年荒     在所為貞
      畠二反麦之
四、一丁  公田七反見作一反年荒六反 作人友重
      畠三反年荒
    (中 略)
 右、件の寺領田畠、去閏十月十五日御庁宣に依れば、件の二箇所先例に任せ本寺に付し其の沙汰せしむ可きの状、宣する所件の如し者(ということであるので)、寺家使相共に注進せしむる所件の如し、
久安元年十二月 日 
       図師秦正清
       郡司綾貞方在判
       寺使僧胤口在判
             国使
                大橡綾真保在判
                散位中原知行在判
 この史料には何郡何条何里何坪と記されていることと、多度郡の条里制が明らかになっていますので、記された耕地場所が分かります。この注進状に記された耕地の条里呼称を、坪ごとの作人と合わせて条理の上にあらわすと次の図のようになります。
この史料と図から分かることをまとめてみましょう。
3善通寺HPTIMAGE

①史料には三条七里17~20坪が「本堂敷地」とあります。絵図で見ると敷地は4坪で212㍍×212㍍の2町四方の面積が善通寺の伽藍であったことになります。現在の約2倍の伽藍だったことが分かります。
②散在していた寺領が、三条七里の善通寺と六条八里の曼荼羅寺の周辺に集められたことがよく分かります。
③坪の中に記入されているのが住人ではなく耕作者です
④寺領の中に仲村と弘田郷の境があるので、仲村・弘田・吉原の三つの郷にまたがっています。
⑤境界(四至)は、東は良田郷、西は三野郡、北は中津井北、南は生野郷に接しています。
⑥吉原郷の六条八里十八坪、方一町の本堂敷地が曼荼羅寺。
⑦一円保の田地面積を合計すると三七町三段一八〇歩。
⑧「常荒二段」とあるのは、荒廃して耕作できなくなった田地。
⑨畑地は総面積六八町二段一八〇歩で、常荒一九丁四段、その他氾濫などで川洲になってしまった田畠(川成)が一町三段あります。各坪は大部分が、田と畠の両方を含んでいます。この時代は、全ての土地が水田化されてはいません。畑作地が多く残っていたことが分かります。
⑩年荒と記されている所は休耕地。この時代は灌漑未整備や農業技術が未発達で連作ができなかったため、ある期間休耕にする必用があったようです。
⑪善通・曼荼羅寺領の場合、休耕しているのは田が21町八段あまり、畠が20町五段もあります。
⑫実際に作付されて収穫のあった見作地は、田が14町三段ほど、畠が28町一段です。
⑬在家一五家とあるのは、寺領域に住家をもつ農民が15五家あり、彼らに課せられる在家役が善通寺に納入されていたようです。
 一円化寺領のねらいは? 
 一円化された寺領をみると、土地と労働力がセットになって寺のまわりに配置されたことが分かります。これがもたらすプラス面としては、次の2点が考えられます。
①分散していた寺領が、国司の権力によって善通寺と曼荼羅寺の周辺に集められて支配がしやすくなった
②田畠数も増加し、15軒の農家も土地に付属して、徴収も行いやすくなった。 
これだけ見ると、これを実施した讃岐国司に善通寺は大感謝したと思われます。
その思惑通りに進んだのでしょうか?
善通・曼荼羅寺が置かれていた困難な状況は寺領一円化によって一挙に解消したのでしょうか。事態はそれほど簡単ではないようです。
 久寿三年(1156)五月に国衛に差し出した文書のなかで、善通・曼荼羅寺所司は散在寺領の時と一円寺領の時との地子物の徴収について、
「右件の仏事料物等、一円に補せられざる時に於いては、寺領夏秋の時、検注を以て地子物を勤仕せしむ。而るに一円せらる後は、彼の起請田官物の内を以て勤仕せしめ来る処に」

と述べています。一円化が行われる以前の散在寺領の時は、寺領を夏と秋の二回調査して年貢の額を決めて徴収していたが、一円化された後は、起請田から徴収された官物の内から納入されるようになったというのです。官物とは、国衛が支配下の公領から徴収する租税、起請田とは、官物の徴収責任者がそこからの官物の納入を神仏に誓って(起請して)請け負った田地のことです。
 つまり、一円化寺領からの地子物の徴収は、直接善通寺あるいは東寺によって行われるのではなく、国衛が、起請田として定めた田地(これが一円寺領とされたもの)から官物を徴収し、その内から一定額を寺に地子物として送ってくるということのようです。善通寺は徴税作業に直接に関わることがなくなったのです。
 そうすると、善通・曼荼羅両寺の周辺に集められた土地は、名目的には寺領とよばれていますが、租税・課役の徴収などの実質的支配は国衛によって行われていたようです。これは寺領いうものの、実態は公領です。寺領の面積が拡大したようにみえるのも、実は国衛が善通寺に渡す官物の額が従来の寺領地子額に見合うように、起請田の広さをを設定したためではないかと研究者は考えているようです。

保延四年(1228)に讃岐国司藤原経高は、国司の権限によって、散在寺領を移し替えて両寺の周辺にまとめました。その目的を整理すると
①寺領を寺周辺の一定地域にまとめて設定することで、
②その地域内に住居を持つ住民に課せられる在家役を寺側に納めさせて、
③寺家の修理・雑役不足の問題を解決し、
④農民に対する支配力の弱い善通寺による年貢徴収に代わって、国衛が寺領耕作農民から徴収した官物のうちの一定額を年貢として善通寺に送付する
⑤以上の「改革」で善通寺の財政を安定させようとした
⑥国衛が間に入ることによって、本寺(京都東寺)の過重な収奪をコントロールしようとした
以上の一円化政策について、研究者は
「善通寺と曼荼羅寺が追い込められていた状況を打開する適切な措置」

であった評価します。後の鎌倉時代にはこの一円化が善通・曼荼羅寺の中心寺領の基本的枠組となっていくのです。

 しかし一円化政策は、次の二つの大きな問題があったようです。
①寺の収入は、善通・曼荼羅寺が直接一円寺領を耕作している農民から地子を取り立てるのではなく、国衛が徴収した官物のなかから寺側と約束した額を取り分けて送ってくるという形で得られたこと。

 これは国司が代わり国衛が約束を守らず、納入物を送ってこなければ、その収入は途絶えてしまうことになります。

②一円化政策は、国司の権限によって行われたことです。中央政府の法令ではありません。彼のあとに就任した国司が、違う考えを持っていたら、同じく国司の権限によって、一円寺領を解消することもできます。

この問題はまもなく現実のものとなったようです。
 経高の次の国司は、一円化政策を引き継ぎました。しかし、その次の代の国司は、政策を変更し、一円寺領を解消し、もとの散在寺領に返してしまいました。久寿三年の解状で、善通・曼荼羅寺所司は、引用した文章に続けて次のように言っています。

「散在せらるるの間、その沙汰無きの間、もっとも仏威絶えるに似たり、ここに一円を留め散在さるれば、本の如く彼の留記帳顕然なり。件の地子物を以て勤仕せしめんと欲す。」

 一円化政策が取り止めになり、国衛からの納入物の送付という沙汰(処置)が無くなった善通・曼荼羅寺は、寺の留記帳(資財帳)に記載されている元の散在寺領から地子物を徴収しようとしました。しかし寺領一円化の間に、寺は徴税に関わっていませんでした。ふたたび散在した寺領に対する寺の支配力はすっかり弱まっていました。
 さらに、一円寺領が取り消されて寺の周辺が元の公領にもどったため、寺領の中に生活していることで寺に与えられていた15家の百姓の労働力が得られなくなります。逆に寺の周辺に居住する僧たちに公領在家役がかかってくるようになります。このため僧たちの多くが、重い負担に堪えかねて逃亡して、残ったわずかの住僧たちによって仏事が営まれる有様になります。この様子を善通・曼荼羅寺所司たちは、
「上件の条々非例の事、国衛の焉めには畿ならずと雖も、御寺の焉めには三百余歳を経し恒例の諸仏事等まで欠怠せるの故、最も愁うべく悲しむべし

 これらの在家役や国役は国衛にとっては、何ほどの額ではないけれども、寺にとっては三百余年も続いた仏事ができなくなってしまうほどの打撃なのだと、非痛な叫びをあげ、悲憤をつのらせています。
 僧侶達は「末法の時代」に入ったという時代認識がありました。自分たちの善通寺を取り巻く状況こそが「世も末」に思えたはずです。前回にお話ししたように、その現実への悲憤と逃避のために、香色山山頂に経塚は埋められたのかもしれません。
 このように設置当初の一円保は、国司交代の度に設置と廃止を繰り返します。これが制度として定着するのは、もう少し時間が必用でした。
 この頃、平安時代も終わりに近づき、都では平氏が保元の乱(1156))、平治の乱(1159)に勝利して、ライバルの源氏を倒し、栄華の道を進もうとしていました。そして讃岐国では、善通寺が、本寺と国衛の支配の間にはさまれて、苦難の道を歩んでいたのです。

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参考文献 平安時代の善通寺の姿 善通寺史所収


  
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藤原道長全盛期の11世紀の半ばまでは、準官寺としてまた東寺の末寺として、寺領や仏事において順調に発展してきた善通寺です。ところが11世紀後期になると、いろいろな困難が降りかかり、前途に陰りが見えてくるようになったようです。その困難の一つは、本寺である東寺の支配強化(圧迫)にあるようです。
東寺の財政政策の転換は、末寺の善通寺を圧迫しました
 東寺の財政は、丹波国大山荘や摂津国の荘園からの年貢収入もありましたが、その多くは国家から与えられた封戸に頼っていました。東寺の封戸は遠江国一五〇戸、伊豆国五〇戸など約一千戸ほどが与えられていましたが、11世紀の後半になると、律令体制の緩みで封戸収入が全く入らないようになります。そのため東寺は堂塔の荒廃や仏事の減退がひどくなってきたようです。そこで東寺は、財政の中心を封戸から荘園や末寺の納入物に移すことで、体勢を立て直す方針に転換します。こうして、荘園や末寺への支配強化の手始めとして、本寺から別当と呼ばれる全権委任者が派遣されるようになります。

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東寺からやって来た別当がどんなことを行ったか見てみましょう。
「見納二十二石九斗二升七合、已に別当御運上、別当御方々用途料十六石八斗五升」
この別当というのが、東寺から善通寺管理のために派遣された僧のことです。彼は延与という名で別当職として延久三年十一月に善通寺に下ってきました。着任するやいなや善通寺に納入されていた田地子四七石五斗七升七合のうち、二二石九斗二升七合を京都に送ってしまいます。更に一六石八斗五升を、別当及び別当に付き従っていた人々の用途料として消費しました。そのため善通寺が費用として使用できる地子米は、残った七石八斗だけになってしまいます。別当延与は、畠迪子(年貢)においても、納入された六石三斗のうち三石を京都に運上しています。
 現在風に言うと、支店の売り上げ利益を本社からやってきた支店長が吸い上げて、本社に相違金しているようなイメージでしょうか。支店では活動資金すら不足する状況になります。善通寺の仏事や修理ができなくなります。善通寺では、延久二年(1070)に大風で五重塔一基と三間一面の石川彭が倒れてしまっており、塔の再建は無理だが常行堂は何とか建て直そうと、古材木を集めて修造に取りかかる手はずになっていたようです。ところが、延与の地子(年貢)収奪のために、それも不可能になりました。

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 このような別当の「非道」に対して善通寺の僧侶達も黙っていたわけではありません。
延久四年の二月に上京して、東寺長者を兼ね、延与の非道を止めさせてくれるよう訴えました。その訴状には次のように書かれています。
「件の延誉(与)非道を宗と為し、全く燈油仏聖(仏供)ならびに修理料等を留め置かず、茲に因って寺中方々仏事、堂舎の修理等ほとんど欠怠す可く(なおざりになり)、その中大師御関日料(御忌日料)なお以て押し止む(支出しない)、況んや余の仏事をや(他の仏事はなおさらである)」
 しかし、改まることはなかったようです。これは別当の行っていることは、「末寺(支店)から富を吸い上げて本寺(本社)を守る」という東寺の財政政策に基づいていたのですから。本展の指示通りに支店長は動いていたのです。

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 善通寺は、この後もたびたび本寺や国司に対して訴えをくり返したようです。しかし、改善はされません。それどころか、12年ほどたった応徳元年(1084)十一月、
京都の讃岐国司(遙任)から讃岐の留守所(国衛)に次のような文書が届きます。
「本の如く別当の所勘(管理)に随って雑事を勤行すべし」とあり、国府は善通寺に「本別当を以て寺務・雑事を執行せしむべし。」
との命令を伝えてきました。こうして、財政部門や寺務を完全に東寺から派遣される別当に掌握されたのです。これ以後、善通寺は東寺の末寺として支配されることになります。善通寺の寺領からの収入が、京都の東寺に流れるようになります。

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次に別当による経営のための組織改編が行われます。
11世紀末以後の文書には「善通曼荼羅寺所司」とあるので、善通寺と曼荼羅寺が一つとして経営されていたことが分かります。所司の構成員は、天治元年(1214)の「善通曼荼羅寺所司等解」によると権別当二人、上座・寺主・都維那の「職名」が見えます。これらの権別当以下は善通寺、曼荼羅寺の僧が任命されていますが、この上に立つ本別当の地位には本寺である東寺の僧がすわり、両寺を支配したようです。

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11世紀末期のもう一つの大きな問題は、地方政治の変化です。
11世紀になると貴族、大寺社の所領である荘園の増加に対して、中央政府は国司に対して国衛領の減少をくい止め、国の財政を維持するように指示します。特に藤原氏を外戚としないで即位した後三条天皇は、記録所という役所を設けて積極的に荘園整理に着手し、国司の荘園圧迫が強化されるようになります。
 このような荘園圧迫策が善通寺の寺領にも及んでくるようになります。
11世紀初めには、国司が国役公事と称して、雑役を善通寺の僧侶への課税追加
11世紀後半には、それまで無税であった荒廃した水田を畠地にした「春田」への課税追加
12世紀初めには、在家役として、住家や屋敷地、畠地などを単位として、田畠以外の桑・苧麻・漆等の畠作物や手工業品、労役などを取り立て開始。
善通曼荼羅両寺所司の国衛(留守所)への訴えによると、曼荼羅寺の域内に住む百姓に対して牛皮・鹿皮・会料米などの雑役や春田分の労役が課せられているのが分かります。両寺所司らは、このような国衛の課税増徴が続けば法華八講や彼岸会などの仏事ができなくなってしまうと訴えています。
11世紀後半から12世紀にかけて善通寺は難しい状況に追い込まれ、苦難の梶取を迫られていたようです。
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りに、風流歌が踊られるのか?



 
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11世紀の初めに藤原道長が
この世をば我世とぞ思う望月の かけたることもなしと思えば
 と、藤原家の威勢を詠んだ同じ年の五月十三日に、善通寺の政安という僧が、四ヶ条の請願を京都の東寺に提出しています。その請願書から当時の善通寺の姿がぼんやりとみえてきます。最初に
「讃岐国多度郡善通寺 寺司解し申し請う(お願い申し上げる)本寺裁の事」
とあります。ここからは東寺が善通寺の本寺となっていることが分かります。東寺は弘仁十四年(823)に嵯峨天皇より空海が賜わり、高野山とならんで真言密教の根本道場とした寺です。京都駅の南西にあり、新幹線からも日本一の高い五重塔が見えますし、「見仏記」ファンには見逃すことの出来ない仏さんの宝庫です。どうして善通寺が当時の末寺になったのかは、よく分からないようです。まあ、東寺は空海が真言密教の根本道場として定めた寺ですし、善通寺はその大師が誕生した寺ですから、本末関係が生まれても不自然ではないでしょう。
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 善通寺は官寺化されていた。         
政安の東寺への請願書の第二条には、
  「右の寺(善通寺)代々の国掌御任の中、二十八箇寺の内として、国定によって公役を勤行す」
とあります。この頃は、国司が定めた公役を行う寺院が讃岐には28あり、善通寺もその一つだと言っています。古代の寺院は鎮護国家ですから、その使命は、国家の安泰と繁栄を祈ることです。そのため聖武天皇は奈良の都に大仏を建立し、全国に国分寺と国分尼寺を設置しました。天皇や国家によって建てられ国家の保護をうける寺院を官寺といいます。平安時代になると、国分寺だけでなく、地方豪族が建てた私寺が官寺に準ずる地位を与えられ、鎮護国家の祈祷を命じられる例が多くなりました。これを定額(じょうがく)寺というようです。
 善通寺は、初めは空海の生家・佐伯氏が建立した氏寺でした。
それを空海が整備再建したとされています。つまり、佐伯氏の私寺としてスタートした善通寺が、この時点では準官寺の扱いを受けるようになっていたようです。これには本寺の東寺の強力な後押しがあったのかもしれません。平安時代の中期から後期にかけて、政界や宗教界に空海の親戚筋の人が出ていることからも善通寺は大きな力を持って活動していたことがうかがえます。
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「国定によって公役を勤行」とありますがが、課せられた「公役」とはどんなものだったのでしょうか?
まずは、「国家安泰、鎮護国家」の祈祷を勤行することです。善通寺も、平安時代や鎌倉時代の文書に、
「就中(とりわけ)、当国殊に雨を祈らしめ給うに、此の御寺の霊験掲焉なり(いちじるしい)。掲って代々の国吏皆帰依致さしむ」
「代々の国掌(国司)御祈祷の拗(その場所)、国土人民福田成熟の霊験地なり。これに由って、国郡共に仏事ならびに修理を勤仕せしめ給う所なり」
といった文言が見えます。ここからは讃岐国内の祈雨や豊作の祈祷を行って霊験があり、国司や民衆の信仰をうけていたと自ら述べています。
 この公役には、他にもいろいろな雑役が含まれていたようです。善通寺はそれらの負担を「本寺の勢いに依って」免除されていました。ところが、去年(寛仁元年)、国司がほかの寺々と同じように雑役を課してきたので、もとのように免除になるように本寺の東寺の力で取り計らってもらいたいというのが、政安の申請書の2番目のお願いです。
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中央の有力寺院と地方寺院が本末関係を結んだ場合、プラスの面とマイナスの面があったようです。
 プラスの面をあげれば、この場合のように本寺の力で、租税免除などの特権を手に入れたり、国司の横暴を排除することもできる場合がありました。地方の寺院は、課税やその他の点で国司の支配を強く受けます。しかし国司は中央政府から与えられている権限によって支配しているわけですから、地方寺院が直接国司と交渉しても、その支配を変えさせたり排除したりすることはできません。やはり朝廷にも大きな影響力をもっている東寺や興福寺などの大寺院に頼って、中央政府-国家に働きかけてもらうのが、要求を実現する早道だったようです。善通寺の要請の多くが、朝廷や国に対してではなく、まず本寺の東寺に宛てて出されているのは、そんな事情があるようです。

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 東寺への申請書の第一条と第三条には善通寺の寺領のことが記されています。
当時の善通寺の寺領は、多度郡と隣の那珂郡に散らばっていたようです。これらの寺領がどのようにして成立したのかは分かりません。考えられるのは建立した佐伯一族からの寄進です。寄進された土地は、もともとは租税がかかっていましたが、定額寺に認められ、国の保護を受け、仏事や修理のために寺領の租税が免除されるようになっていたようです。
当時、善通寺は寺領から年貢として二〇石あまりを徴収していたことが史料から分かります。ところがこの政安の申請書によると、
寺領を耕作している農民たちは、年貢を納めなければならないという心がない。ある農民などは、一町の田地を耕作していながら地子は全く納めていないという有様である
と記しています。
 善通寺領の田畠の耕作は、寺直属の下人に農具を与えて耕作をさせるというような直接経営ではなかったようです。寺領の周辺に住む農民に田地を預けて作らせる預作(小作のこと)だったようです。そのため農民たちは国衛領の農民で、公領の田地を耕作しており、そのかたわら善通寺の寺領も小作していたのです。その結果、荘園領主直属の小作人ではなく、自立性の強い農民だったことがうかがえます。善通寺領への年貢を、なかなか納めなかったのもそんな背景があったようです。

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善通寺の寺司である政安の申請状は、第四条で次のように請願しています。
善通寺は讃岐国内で一、二と言われる寺で、建立の堂塔房舎の景観は他の寺より勝っている。が、田畠の地子が乏しいため、雑役を勤める下人は一人もいないという実状である。そこで本寺から国に頼んで、浮浪人を二〇人ほどを寺に下し給わって寺の修理や雑役に使うことができるようにしていただきたい

という内容です。
 善通寺の伽藍が讃岐でNO1を争うほどに整備されていたことが、ここからはうかがえます。創建から300年近くを経て、準官寺化されここまでは順調な発展ぶりだったようです。
 しかし、問題もあったようです。当時は善通寺が、農民から年貢を取りたてる事はできますが、彼らを雑役に使うことはできませんでした。だから必要な雑役人(労働力)は賃金を払って雇わなければなりません。そのためには年貢が入らなければ、それもできないということになります。そこで申請書の第四条のポイントは、寺で自由に使える労働力が欲しい。東寺の方から二十人ほどの浮浪人を使えるように讃岐国府に働きかけて欲しいというものでした。
以上、寛仁二年(1018)の政安の東寺宛ての解状(申請書)からは次のようなことが分かりました
①善通寺が、東寺の末寺として、また国の準官寺として発展してきたこと、
②寺領耕作の農民の年貢怠納や、寺の修理や雑役のために働く雑役人の不足に悩まされていた
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 平安時代の善通寺では、どんな仏事が行われていたのでしょうか?
 先ほどの申請書から約40年後の天喜四年(1056)に善通寺の役僧たちが作成した「善通寺田畠迪子支配状」が残されています。ここでの「支配」とは、仕事を配分するという意味です。「田畠迪子支配状」とは、年貢を仏神事料や修理料などに配分してそれぞれの勤めを行わせるために作成されたもので「予算配分書」的な文書のようです。ここからは当時の善通寺で行われていた仏事の様子がうかがえます。どんな仏教イヴェントが行われていたのが見ていきましょう。
免田地子米ならびに畠迪子物等を以て仏神事を勤修すべき支配勘文の事 
合(計) 四十八石六斗  
田地地子(年貢) 米三十二石二斗  
畠地子(年貢) 十六石四斗
  
修理料  十六石九斗 
道観聖人忌日料 五斗
「予算配分書」ですから仏事や修理の費用として配分される田のと畠の地子(年貢)の総額が最初に記されています。収入総額四八石六斗のうちの、一六石九斗が修理料に充てられ、残りが仏事の費用に充てられています。田地の迪子(年貢)は三二石二斗で、40年前が二〇石でしたから約1,6倍に増えています。「寺領内の未墾地の開発が進んだ」「新しく田地の寄進や買得などがあった」としておきます。畠も田地も開発が進められて、耕地面積も大幅に増加したようです。  
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①「春秋大門会 祭料一石三斗 毎月八日御仏供六斗 定灯油一斗八升」
 春秋大門会祭というのは、春と秋の二季に南大門あたりで行われていた祭りとしか推測のしようがありません。毎月八日の御仏供六斗、常燈油一斗八升(各一年分)が計上されています。四月八日がお釈迦様の誕生日なので、供物を捧げ、燈明を点していたようです。
②「 大師御忌料 二石 二斗仏供 八斗八大師御霊供八前科 一石僧供御酒料」
 空海の入定は承和二年(835)三月二十一日で、この大師御忌日の法会は、大師ゆかりの善通寺にとって最も重要な行事であったはずです。東寺ではこの日、御影供といって大師の画像(御影)を供養する法会が行われるようです。善通寺でも、二斗の仏供は大師直筆と伝えられるいわゆる瞬目の御影に供えられていたのかもしれません。
 次の「八大師」もよく分かりませが、研究者は
「真言密教を伝えた伝持八祖、竜猛、竜智、金剛智、不空、善無畏、一行、恵果、空海の八祖」
ことと推測します。真言宗寺院では、八祖の霊前に各一斗ずつ八斗の供物を今でも行うようです。一石の僧供は、仏事を勤めた僧に対する費用で、御酒料の名目で出されています。それに似たようなことが行われていたのでしょう。
④「修正月料四石五斗 三箇日夜料
    一石大餅百枚料 燈油一升五合直三斗
    一石八斗僧供料」四回
    一石五斗導師御布施
修正会ですが、これは年の始めに天下太平・五穀豊穣・万民快楽などを祈願する法会で、元日から三日間ないし七日間行われたようです。善通寺では三日の夜に行われ、その間の仏供として大餅百枚(地子一石)、燈明(燈油一升五合、地子三斗で購入)が供えられています。勤仕の僧への供養料が一度について五斗、別に食費として粥料一斗、計一石八斗、法会全体を首座として主導する大導師の御布施が一石、初夜の導師の御布施五斗、総計四石五斗が修正月料として計上されています。

⑤  御八講料八石五斗 五斗仏供十坏料 講師御布施八石
 御八講というのは法華八講のことで、法華経八巻を朝と夕に一巻ずつ、四日問にわたって講説したようです。講師は八人で、その御布施が一石ずつ計八石、仏供は五斗を8つに分けて盛って供えたようです。
⑥  二八月三箇日夜 不断念仏料三石六斗 仏供料三斗十二坏料 僧供料三石
絶間なく称名念仏を唱え続けることを不断念仏というようです。そのための行事が二月と八月にそれぞれ三日間行われています。その費用として、仏供料三斗、僧供料三石、別に非時料つまり食事料三斗が支出されています。
⑦ 西方会料七石 一石法花(華)経一部直巳畠 
  五斗阿弥陀仏ならびに同経直巳畠地子
  仏供一石 講師布施一石 講師五斗 楽所ならびに御人等録物三石
西方会というのは、その名称からして西方極楽浄土を祈念する仏事だろうと研究者はいいます。この行事のために、法華経一部が畠迪子一石、阿弥陀仏像と阿弥陀経が畠迪子五斗で購入されています。この時期に新しく始められた仏事のようです。仏供一石、講師布施一石と五斗のほかに楽所や舞人などに対する録物三石が支出されています。ここからは、当時の善通寺には「楽団」があり音楽や舞を伴ったにぎやかな行事が、新たに生み出されていたようです。「伽藍が讃岐で1,2位」と言われるくらいに立派なことと合わせて、仏事も充実しており、衆目を集める寺院であったことがうかがえます。

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最後に次のような起請文がついています
右、免田地子ならびに畠地子等支配定むる所の起請件の如し、賦剋田見作畠見作増減有る時に於ては、相計って勤修に立用すべし、寺家司この例を以て永く惜留すること無く之を行え、若し留貪の司有らば住持三宝大師聖霊護法天等澄明を垂れんか、若し起請に誤らずして仏神事を勤修する司は、世々生々福徳寿命を身に受け、後生は必ず三会期に値遇せしめん、後々の司この旨を存じて、
敢て違失せざれ、故に起請す、
    天喜四年十二月五日 
     住僧  在判
     大法師 在判
     大法師 在判
     大法師 在判
     証成大行事
      大麻(おおあさ)大明神
      雲気(くもげ)明神
      塔立(とうりゅう)明神
      蕪津(かぶらつ)明神
     判
 件の地子物等、支配起請勘文に任せ在地司ならびに氏人等澄を加署す、
     勘済使綾  在判
     惣大国造綾 在判
文末に「故(ことされに)に起請す」とあるのは、この配分に不公平がないこと、この配分を受けたものは怠りなく仏神事を勤修することを神仏に誓ったことばです。当時の起請文の最後につけられる常套句です。証成大行事としてあげられている大麻大明神ほか四柱の神々は、その誓いをうけて確かなものとする神々です。

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大麻神社と雲気神社は、式内社として善通寺の南に鎮座する神社です。
 同時にこのうち大麻大明神、雲気明神、蕪津明神は大歳明神、広浜明神と共に善通寺の鎮守神で、五社明神として境内の大楠の下に今でも祭られています。ここには仏教がこの地に現れる以前の「神々の連合」が垣間見える気もします。つまり、佐伯氏の勢力範囲が大麻神社や雲気神社にまで及んでいたことを物語るのではないか。ここは、古墳時代のこの地の豪族連合の合同神祭りが行われていた聖地で、そこに仏教寺院が建立されたのではないかという妄想を私は抱いています。
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参考文献 平安時代の善通寺 善通寺史所収

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善通寺はいつ、誰が建立したのでしょうか。創建には次の3つの説があります。
①大同二年(809)に弘法大師によって創建された 
   → 空海建立説
②弘法大師の父佐伯善通が創建したとする説
   → 空海の先祖(父善通)建立説
③佐伯の先祖が建立し、空海の修造説       
   → 先祖建立説  + 空海修繕
それぞれの説を見ていくことにしましょう。
第一の大師建立説は、
寛仁二年(1018)五月十三日付で善通寺司が三ヶ条にわたる裁許を東寺に請うたときの書状に、
「件の寺は弘法大師の御建立たり。霊威尤も掲焉なり」
とあります。ここにはただ「弘法大師の建立」と記すだけで、それがいつのことであったかは記されていません。
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第二の空海の先祖建立説は、
延久四年(1072)正月二十六日付の善通寺所司らの解状に
「件の寺は弘法大師の御先祖建立の道場なり」とみえます。
 また、高野山遍照光院に住した兼意が永久年間(1113)に撰述したといわれる『弘法大師御伝』にも
「讃岐国善通寺曼荼羅寺。此の両寺、善通寺は先祖の建立、又曼荼羅寺は大師の建立なり。皆御住房有り」
とあります。
   鎌倉時代になると、先祖を佐伯善通と記す史料があらわれます。
それは承元三年(1209)八月日付の讃岐国司庁から善通寺留守所に出された命令書(宣)で、
「佐伯善通建立の道場なり」とあります。
 以上、今日のこる善通寺に関する史料のうち、最古の文書には大師建立説がみられましたが、その後は大師の先祖が建立したとする説が有力視されてれてきたことがわかります。ただ注意しておきたいのは、鎌倉時代には先祖の名を善通としますが、善通を大師の父とはみなしていないことです。

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 以上の二つの説を足して割ったのが、第三の先祖の建立、大師再建説です。
そのもっとも古い史料は、仁治四年(1243)正月、大伝法院との騒動によって讃岐に配流された高野山の学僧道範の『南海流浪記』です。そこには、
「そもそも善道(通)之寺ハ、大師御先祖ノ俗名ヲ即チ寺の号(な)トす、と云々。破壊するの間、大師修造し建立するの時、本の号ヲ改められざルか」
とあります。
ここでは空海の再建後も、先祖の俗名がつけられた善通寺の寺号が改められなかったとしています。つまり、善通の名は先祖の俗名と記されています。なお、道範は文暦元年(1234)七月、仁和寺二品親王道助の教命をうけて『弘法大師略頌紗』を撰述し、そこには、さきにあげた『弘法大師御伝』の一文が引用されています。したがって、『南海流浪記』の記述は「善通寺は先祖の建立」説をふまえて書かれていることは間違いないと研究者は考えているようです。
  ここまでの史料は建立者については触れていますが、いつ建てられたのかについては触れていません。
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しかし、江戸時代中期になると空海の父善通建立説が登場します
『多度郡屏風浦善通寺之記』には建立の年次が次のように明記されるようになります。
 弘法大師は唐から帰朝された翌年の大同二年(807)十二月、父佐伯田君(ママ)から四町四方の地を寄進され。新しい仏教である密教をあますところなく授けられた師・恵果和尚が住していた長安青龍寺を模した一寺の建立に着手した。この寺は弘仁四年(813)六月完成し、父の法名善通をとって善通寺と名づけられた
   ここで弘仁四年の落成と善通寺が父の法名にもとづいた命名であったことを記します。そして江戸時代の『多度郡屏風浦善通寺之記』にもとづく説が、現在の善通寺の公式の見解となっています。そのため由緒やパンフレットでは「空海建立 善通=空海の父」と記されることになります。
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 しかし、これは今までに見てきた史料から問題・矛盾があることがすぐに分かります。
第一には、空海が三十一歳のときに正式の僧侶になるために提出した戸籍に出てくる戸主の名は道長です。この度牒はいまは厳島神社に残っています。これは奈良時代の史料であり、根本史料になります。戸主とされている道長は、お父さんかお祖父さんの名前だと研究者は考えています。資料的には、道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。そして、古い平安・鎌倉時代の史料に「善通=空海の父」とは記されていません。
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第二には「善通=空海の父」説の成立年代が江戸時代中期ときわめて新しいことです。
平安・鎌倉期の史料に書いてあることを、江戸時代の後の資料に基づいて否定することは、歴史学的には「非常識」と言えます。
また、考古学的な視点からしても、善通寺の境内からは奈良時代前期にさかのぽる瓦が出土し、塑造の薬師如来像面部断片も伝えられています。つまり、空海が誕生する半世紀前から佐伯氏の氏寺は建っていたというのが考古学の現在の答えです。
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  空海は現在の西院にあった佐伯氏の館で生まれ、そびえ立つ五岳と氏寺・善通寺を仰ぎ見ながら真魚は育った。自分の家の氏寺は遊び場で本堂や諸堂、そこにある本尊、そこにいる一族の僧侶たちは身近なものであったと、私は考えています。なお、真魚は母の実家阿刀氏の拠点である摂津で生まれたという説も出されていますが、ここでは触れません。
白鳳時代に建立された善通寺の姿は?
道範の『南海流浪記』には、鎌倉時代の金堂について次のように記されます。
金堂ハ二階七間也。青龍寺ノ金堂ヲ模セラレタルトテ、二階二各今引キ入リテモゴシアルガ故ニ、打見レバ四階大伽藍ナリ。是ハ大師御建立、今現在セリ。御作ノ丈六薬師三尊、四天王像イマス。皆埋仏ナリ。後ノ壁二又薬師三尊半出二埋作ラレタリ。七間ノ講堂ハ破壊シテ後、今新タニ造営、五間常堂同ク新二造立。
 意訳すると
金堂は、長安の青竜寺に習った様式で二層になっているが、裳階があるために四層の大伽藍に見える。これは大師が建立したものである。空海作の丈六の薬師三尊、四天王が鎮座するが、全て「埋仏」である。後ろの壁には薬師三尊が半分だけ土に埋まっていて、半分だけ上に出ている。金堂の後の七間の講堂は壊して、新たに「五間常堂(常行堂?)」を造立した。

白鳳期のお寺が地震などで壊れたときに、本尊の薬師如来や四天王などが建物の中に埋まっていたを掘り出して祀っていたことが分かります。それが半分だけ埋まっている状態なので「埋仏」と呼んでいたようです。本堂が崩れ落ちた中から本尊を掘り出して、祀ったものだったのでしょう。
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 善通寺は、奈良時代に火災にあって、長い間放置されたままの状態にあって、仏も「埋仏」となっていたのが、鎌倉時代初期にやっと再建されます。しかし、この金堂も戦国時代の永禄元年の兵火で焼け、本尊が破壊され埋もれたのを首だけ掘り出したものが、現在の宝物館にある仏頭のようです。
 『南海流浪記』には
四方四門に間頭が掲げられていて、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあった。善通之寺ハ大師御先祖ノ俗名ヲ 即寺号ト為ス云々、破壊之間、大師修道道立之時」とあり、善通は空海の父ではなく先祖の聖の名前だろうと言われていたこと、壊れたのを空海が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったようだ
と記します。
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現在の金堂は元禄時代に再建されたもの
東院の金堂は戦国時代の永禄元年(1558)の阿波から侵入した三好実休の兵火で焼けてます。それが再建されるのは、約140年後の江戸時代も天下泰平の元禄時代になってからです。それが現在の金堂です。
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この金堂再建の際には、境内に転がっていた
白鳳期の礎石を使って基壇を作りました。
そのために、現在の本堂の基壇の中には、何個かの古代寺院の礎石が顔をのぞかせています。礎石は花尚岩や安山岩製で、柱座がはっきりと浮き出ているのですぐに見つけることができます。金堂基壇の正面側・西側・東側にある礎石の柱座の直径は65㎝、北側の柱座の直径は60㎝もあります。この礎石の上に、空海が仰ぎ見た白鳳期の古代寺院が建っていたようです。
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 西側に見える礎石の柱座の周囲には、配水溝かあり塔心礎ではないかと考えられています。そうすれば五重塔もあったことになります。この金堂の下には、白鳳期のものがまだまだ埋まっているようにも思えます。でもいまは、江戸時代初期の本堂が建っておりますから残念ながら取り出すことはできません。
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 元禄十一年の再建された際には、大きな土製仏頭が出てきたようです。
目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と研究者は考えているようです。鎌倉時代に道範が見た本尊と考えられます。どんな印相をしていたのかなどは分かりません。しかし、これが本尊の薬師如来の仏頭なのかもしれません。青銅製や木像でない塑像を本尊というのがいかにも地方の古代寺院という感じが私にはします。この薬師本尊を真魚も拝みながら育ったのかもしれません。
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   以上をまとめると
①7世紀後半の白鳳時代に佐伯氏は最初の氏寺・伝導寺を建立した
②しかし、短期間で廃棄され、白鳳から奈良時代に現在地に善通寺が移された
③空海が生まれた時に氏寺はすでにあり、善通寺と呼ばれていた
④平安時代に崩壊し、本尊薬師如来などは半分埋まり「埋仏」状態であった
⑤鎌倉時代初期に、長安の青竜寺に似せて再建され、埋仏もそのまま祀られた
⑥戦国時代16世紀半ばに兵火で焼け落ちた
⑦江戸時代の元禄期に再建されたものが現在の金堂である
以上 最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
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参考文献 善通寺の誕生 善通寺史所収
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古代人には、次のような死生観があったと民俗学者たちは云います。

祖先神は天孫降臨で霊山に降り立ち、
死後はその霊山に帰り御霊となる

御霊となって霊山に帰る前の死霊は、霊山の麓の谷に漂うとかんがえたようです。また、稲作に必用な水は霊山から流れ出してきます。その源は祖先神が御霊となった水主神が守ってくれると信じていました。
1
五岳の南側麓の有岡地区
 練兵場遺跡群から南西に伸びる香色山・筆ノ山・我拝師山の五岳と、その南の大麻山にはさまれた弘田川流域を「有岡」と呼んでいます。このエリアからは住居跡など生活の痕跡があまり出てきません。それに比べて、多くの古墳や祭祀遺跡が残されています。ここからは霊山に囲まれた有岡エリアは、古くから聖域視されていたことがうかがえます。古代善通寺王国の首長達にとって、自分が帰るべき霊山は大麻山と五岳だったようです。そして、ふたつの霊山に囲まれた有岡の谷は「善通寺王国の王家の谷」で聖域だったと、私は解釈しています。
1善通寺有岡古墳群地図
 善通寺王国の王家の谷に築かれた前方後円墳群
 有岡地区には弥生時代の船形石棺に続き、7世紀まで数多くの古墳が築かれ続けます。大麻山の頂上付近に天から降り立ったかのように現れた野田院古墳の後継者たちの前方後円墳は、以後は有岡の谷に下りてきます。そして、東から西に向かってほぼ直線上に造営されていきます。それを順番に並べると次のようになります。
①生野錐子塚古墳(消滅)
②磨臼山古墳
③鶴が峰二号墳(消滅)
④鶴が峰四号墳
⑤丸山古墳
⑥王墓山古墳
⑦菊塚古墳
地図で確認すると先行する古墳をリスペクトするように、ほぼ直線上に並んでいるので、「同一系譜上の首長墓群」と研究者は考えているようです。この中でも有岡の真ん中の丘の上に築かれた王墓山古墳は、整備も進んで一際目を引くスター的な存在です。

2王墓山古墳1
王墓山古墳
 王墓山古墳は、古くから古代の豪族の墓と地元では伝えられてきました。
そのため山全体が王(大)墓山と呼ばれていたようです。大きさは全長が46m、後円部の直径約28mと小型の前方後円墳です。大正時代には国によって現地調査が行われ、昭和8年に刊行された「史蹟名勝天然記念物調査報告」に国内を代表する古墳として紹介されています。
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王墓山古墳の横穴部 

この古墳の最初の発掘調査は、1972年度に実施されました。当時は、墳墓全体がミカン畑で、所有者が宅地造成を計画したために記録保存を目的として調査が実施されたようです。ところが開けてみてびっくり! その内容をまとめておくと
①構築は古墳時代後期(六世紀後半)
②全国的に前方後円墳が造られなくなる時期、つまり県下では最後の前方後円墳(現在では菊塚がより新しいと判明)
③埋葬石室は県下では最も古い形態の横穴式石室=前方後円墳の横穴式石室
④玄室内部からは九州式「石屋形」が発見。→九州色濃厚
2王墓山古墳2

「石屋形」というのは、当時の私は初めて耳にする用語でした。
これは石室内部を板石で仕切り、被葬者を安置するための構造物だそうです。熊本を中心に多く分布するようですが、四国では初めての発見でした。石室構造は九州から影響を受けたものです。ここに葬られた人物は、ヤマトと同じように九州熊本との関係が深かったことがうかがえます。埋葬された首長を考える上で、重要な資料となると研究者は考えているようです。
 王墓山古墳は盗掘を受けていたにもかかわらず、石室内部には数多くの副葬品が残されていました。その副葬品は、赤門筋の郷土博物館に展示されています。 
1王墓山古墳1

ここの展示品で目を引くのは「金銅製冠帽」です。
冠帽とは帽子型の冠で、朝鮮半島では権力の象徴ででした。冠帽を含め金銅製の冠は国内ではこれまでに30例程しか出ていません。ほぼ完全な形で出土したのは初めてだったようです。しかし、出土時には、その縁を揃えて平らに潰して再使用ができないような状態で副葬されていました。権力の象徴である冠は、その持ち主が亡くなると、伝世することなく使用できないようにして埋葬するというのが当時の流儀だったようです。
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善通寺郷土博物館
 王墓山古墳の副葬品で、研究者が注目するものがもうひとつあります。
それは、多数出土した鉄刀のうちのひとつに「銀の象嵌」を施した剣があったのです。象嵌とは刀身にタガネで溝を彫り金や銀の針金を埋め込んで様々な模様の装飾を施すものです。ここでは連弧輪状文と呼ばれる太陽のような模様が付けられていました。刀身に象嵌の装飾を持つ例は極めて少なく、これを手に入れる立場にこの被葬者はいたことがわかります。
 6世紀後半、中央では蘇我氏が台頭してくる時代に有岡の谷にニューモデルの横穴式前方後円墳を造り、中央の豪族に匹敵する豪華な副葬品を石室に納めることのできる人物とは、どんな人だったのでしょうか。
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 「この人物は、後に空海を世に送り出す佐伯氏の先祖だ」

と研究者の多くは考えているようです。
 大墓山古墳と奈良斑鳩の法隆寺のすぐ近くにある藤ノ木古墳の相似性を研究者は次のように指摘します。
 王墓山古墳と同じように六世紀後半の構築である藤ノ木古墳でも冠は潰されて出土していて、同じ葬送思想があったことがわかります。また、複数出土した鉄刀の1点に連弧輪状文の象嵌が確認されているほか、複数の副葬品と王墓山古墳の副葬品との間には多くの類似点があることが判明しています。そのため、王墓山古墳の被葬者と藤ノ木古墳の被葬者の間には、何かつながりがあったのではないかと考えられています。
ロマンの広がる話ではありますが、大墓山はこのくらいにして・・・

王墓山ほどに注目はされていませんが、発掘で重要性ポイントがぐーんとあがった古墳があります。

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 それが菊塚古墳です-もうひとつの佐伯氏の墓?
この古墳は、有岡大池の下側にあり、後円部に小さな神社が鎮座しますが、原型はほとんどとどめていません。これが古墳であるとは、誰もが思わないでしょう。しかし、築造当時は、弘田川をはさんで王墓山古墳と対峙する関係にあったようです。全長約55mの前方後円墳で、後円部の直径は約35m、更に周囲に平らな周庭帯を持つため、これを含めると全長約90m、幅は最大で約70mという大きさで、大墓山より一回り大きく「丸亀平野で一番大きな古墳」だということが分かりました。
 発掘前は、その形状から古墳時代中期の構築ではないかと考えられていたようです。しかし、後円部に露出した巨大な石材の存在や埴輪を持たない点などから、王墓山古墳よりやや後に作られた古墳であることが分かりました。そして平成10年の発掘調査によって、王墓山古墳と同じ横穴式石室で、その中に「石屋形」も見つかりました。
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一番右側が「石屋形」
 石室上部は盗掘の際に壊されて、石室内部も多くの副葬品が持ち去られていました。しかし、副葬品の内容や石室の規模・構造などから、王墓山古墳と同様に首長クラスの人物の墓とされています。さらに石室や副葬品の内容を検討したところ、ふたつの古墳が築かれた時期は非常に近いことが分かりました。ここから大墓山と菊塚に葬られた人物は、6世紀後半の蘇我氏が台頭してくる時代に活躍した佐伯一族の家族の首長ではないかと研究者は考えているようです。

1菊塚古墳

 有岡の小さな谷を挟んで対峙するこの二基の古墳を比較すると、墳丘や石室の規模は菊塚が一回り大きいようです。それが両者の一族内での関係、つまり「父と子」の関係か、兄弟の関係なのか興味深いところです。
 有岡の谷に前方後円墳が造営されるのは、菊塚が最後となります。そして、その子孫達は百年後には仏教寺院を建立し始めます。その主体が、佐伯氏になります。大墓山や菊塚に眠る首長が国造となり、律令時代には地方や区人である多度郡の郡司となり、善通寺を建立したと研究者は考えているようです。つまり、ここに眠る被葬者は、弘法大師空海の祖先である可能性が高いようです。

参考文献 国島浩正 原始古代の善通寺 善通寺史所収


   
1
  
  考古学の発掘調査報告書は読んでいて、私にとってはあまり楽しいものではありません。その学問特性から「モノ」の描写ばかりだからです。そのモノが何を語るのか、そこから何が推察できるのかを報告書の中では発掘者は語りません。それが考古学者の立ち位置なのだから仕方ないのでしょう。だから素人の私が読んでも「それで何が分かったの?」と聞きたくなる事が往々にしてあります。

善通寺史(総本山善通寺編) 書籍
 そんな中で図書館で出会ったのが「善通寺史」です。
この本は善通寺創建1200年記念事業として総本山善通寺から出版されたものですが、書き手が地元の研究者で、今までの発掘の中で分かったことと、そこから推察できる事をきちんと書き込んでいます。「善通寺史」の古代編を読みながら「古代善通寺王国」について確認しながら、膨らましたし想像やら、妄想やらを記したいと思います。
1旧練兵場遺跡89
まず丸亀平野における稲作の開始です
  丸亀平野の中でも、善通寺市付近は、稲作に適した条件を満たしていたようで、弥生時代に大きく発展した場所のひとつです。漢書地理志の「分かれて百余国をなす」と記された百余りの国のひとつだったかも知れないと近頃は思うようになりました。
丸亀平野で稲作を始めた弥生時代前期の遺跡としては
①丸亀市の中ノ池遺跡、
②善通寺市の五条遺跡
③善通寺市から仲多度郡にかけて広がる三井遺跡
などが平野の中央に散らばる形で、多数の集落遺跡が知られています。私は、これらが成長・発展し連合体を形成して、善通寺王国へ統合されていくものと考えていたのですが、どうもそうではないようです。この本の著者は次のように述べます。

  「それらの集落遺跡はその後は存続せず、弥生時代中期になると人々の生活の拠点は現在の善通寺市の低丘陵丘陵部に集まり始める」

弥生前期の集落の多くは長続きせず、消えていくようです。その中で、継続していくの旧練兵場遺跡群のようです。この辺りは看護学校・養護学校・大人と子どもの病院の建設のために、発掘が毎年のように繰り返された場所です。その都度、厚い報告書が出されていますが、目を通しても分からない事の方が多くてお手上げ状態です。そのような中で「善通寺史」は、この遺跡に対して、次のような見方を示してくれます
1旧練兵場遺跡8
 旧練兵場跡出土の大型土器
もともとの「旧練兵場」の範囲は「国立病院+農事試験場」です。
そのため今までは「旧練兵場遺跡」と呼ばれてきました。しかし、
「近接した同時期の遺跡すべてをあわせて、旧練兵場遺跡
と呼んではどうかというのです。つまり、周辺の遺跡を含め範囲を広げて、トータルに考えるべきだというのです。確かに、報告書の細部を見ていても素人には分からないのです。もっと巨視的に、俯瞰的に見ていく必用があるようです。それでは、発掘順に遺跡群見て行く事にしましょう。

古代善通寺地図

1984年発掘 遺跡群西端の彼ノ宗遺跡
この遺跡群の中で最初に発掘されたエリアです。弥生時代中期から後期にかけての40棟以上の竪穴住居と小児壷棺墓一五基、無数の柱穴と土坑群がみつかり、その上に古墳時代の掘建柱建物跡二棟とそれに伴う水路が出てきました。また二重の周溝をもつ多角形墳の基底部など夥しい生活の痕跡が確認されています。ここからは、弥生から古墳時代にまで連続的に、この地に集落が営まれており、人口密度も高かったことが分かります。

1仙遊遺跡出土石棺(人面石)059
入れ墨を施した人の顔
 1985年発掘 彼ノ宗遺跡から東に約500m程の仙遊町遺跡   
ここは宮川うどんから仙遊寺にあたるエリアで、ここからは弥生時代後期の箱式石棺と小児壷棺墓三基が発見されています。このエリアは「旧練兵場遺跡内の墓域」と考えられているようです。また、箱式石棺の石材には、線刻された入れ墨を施した人の顔の絵がありました。
1旧練兵場遺跡7

『魏志倭人伝』には、倭国の入れ墨には「地域差」があったことが記されています。香川や岡山、愛知で発見されている入れ墨の顔は、よく似ています。また入れ墨石材の発掘場所が墓や井戸、集落の境界など「特異な場所」であることから入れ墨のある顔は、一般的な倭人の顔ではなく特別な力を持ったシャーマン(呪い師)の顔を描いたものではないかと考えられています。香川・岡山・愛知を結ぶシャーマンのつながりがあったのでしょうか?
旧練兵場遺跡地図 

 もうひとつ明らかになってきたのは、多度津方面に広がる平野にも数多くの集落遺跡が散在することです。
1987年発掘 旧練兵場遺跡群から北方五〇〇mの九頭神遺跡、
 弥生時代中期から後期頃の竪穴住居や小児壷棺墓・箱式石棺墓等が確認されました。
九頭神遺跡から東には稲木・石川遺跡が広がります。ここでも弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居群や墓地、中世の建物跡などが多数確認されました。さらに、中村遺跡・乾遺跡など多数の遺跡が確認されています。
これらの集落遺跡に共通するのは「旧地形上の河道と河道の間に形成された微高地」に立地すること、そして「同時期に並び立っていた」ことです。また、そのなかには周囲に環濠を廻らせたムラも登場しています。 このように同時並立していた周辺のムラ(集落遺跡)も含めてとらえようとすると「旧練兵場遺跡群」という呼び方になるようです。  
旧練兵場遺跡群周辺の弥生時代遺跡
旧練兵場遺跡周辺の弥生遺跡
旧練兵場遺跡は古代善通寺王国の中心集落だった
この遺跡の報告書を読んでみましょう。
このうち善通寺病院地区とされる微高地の 1つ では南北約 400m、 東西約 150mの範囲において中期中葉か ら終末期までの竪穴住居跡 209棟 、掘立柱建物跡 75棟、櫓状建物跡 3棟、布掘建物跡 4棟、貯蔵穴跡、土器棺墓などを検出している。他の微高地 も同程度の規模 を持つため、本遺跡が県内でも最大級の集落跡であるといえる。そうしてこれ らの遺構群は、まとまりごとに見られる属性の違いか ら機能分化が指摘 されている。
また出土遺物にも銅鐸、銅鏃、銅鏡などの青銅器、鉄器、他地域か らの搬入土器など特殊なものが数多く見られる。「旧練兵場遺跡群」(10と 近接する遺跡 (稲木遺跡、九頭神遺跡、今回報告す る永井北遺跡など)の関係については 「大規模な旧練兵場遺跡を中心 として、小規模な集落が周辺に散在する景観を復元できる」 とされ、本遺跡の周辺地域で集中して出土する青銅器を継続して入手 した中心的な拠点であつたことも指摘 されている。こうした様相から地域の中核をなす遺跡 と位置づけられている。
この遺跡が弥生時代の讃岐における最大集落であり、他地域との活発な交流・交易が行われていたようで、その中から威信財である青銅器も「継続して入手」していたと記します。

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この拠点集落が祭器として使用した青銅器について見ておきましょう。 善通寺市内から出土した青銅器の代表的なものは、次の通りです。
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
①与北山の陣山遺跡で平形銅剣三口、
②大麻山北麓の瓦谷遺跡で平形銅剣二口・細形銅剣五口・中細形銅鉾一口の計八口、
③我拝師山遺跡からは平形銅剣五口・銅鐸一口、北原シンネバエ遺跡で銅鐸一口
など、数多くの青銅器が出土しています。
こうしてみると香川県内の青銅器の大半は善通寺市内からの出土であることが分かります。善通寺の讃岐における重要さがここからもうかがえます。青銅器が出土した遺跡は、善通寺から西に連なる五岳の丘陵部にあたります。これらの青銅器は、旧練兵場遺跡群や周辺部のムラが所有していたものが埋められたものでしょう。

.1善通寺地図 古代pg
 九州や大和の遺跡でも、青銅器は大きな集落遺跡の近くから出てきます。このことから善通寺周辺のムラが、祭礼に用いた青銅器を、霊山とする五岳の山々の麓に埋めたと考えられます。この時点ではムラに優劣関係はなく並立的連合的なムラ連合であったようです。それが次第にムラの間に階層性が生まれ、ムラの長を何人も束ねる「首長」が出現してくるようになります。
1善通寺王国 持ち込まれた土器

 こうしたリーダーは3世紀後半になると、首長として古墳に埋葬されるようになり、大和を中心とする前方後円墳祭祀グループに参加していきます。
首長の館跡などは、まだ善通寺周辺では見つかっていません。「子どもと大人の病院」周辺は、新築のたびに発掘調査が進みました。しかし、その東側には広大な農事試験場の畑が続きます。この辺りが善通寺王国の首長の館跡かなと期待を込めて私はながめています。

1旧練兵場遺跡3

 卑弥呼が亡くなった後の三世紀末頃に、首長墓は前方後円墳に統一されていきます。
墓制の統一は、これまで多くのクニに分かれていた日本が、前方後円墳に関わる祭礼を通じて、ひとつの統一国家となったことを示していると研究者は考えているようです。敢えて呼び名をつけるなら「前方後円墳国家の出現」と言えるのかも知れません。善通寺周辺部でも、三世紀後半に旧練兵場遺跡群を中心に飛躍的な発展があったようです。

旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡
 それを大麻山に作られた埋葬施設の変化から見てみましょう。
 古代人には「祖先神は天孫降臨で霊山に降り立ち、死後はその霊山に帰り御霊となる」という死生観があったといわれます。大麻山は、祖先神の降り立った霊山で、自分たちもあの山に霊として帰り子孫を見守る祖霊となると考えていた人たちがいたようです。大麻山中腹では、卑弥呼と同時代のものと思われる弥生時代後期末頃の箱式石棺墓群が三〇基以上も確認されています。この中には、積石を伴うものや副葬品として彷製内行花文鏡がおさめられたものもあります。
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有岡大池から仰ぎ見る大麻山
 大麻山を霊山と仰ぎ見て、そこに墓域を設定したのはだれでしょうか。
 それは旧練兵場遺跡の首長たちだったようです。彼らが霊山と仰ぐ大麻山に、箱式石棺墓を造り始め、最終的には野田野院古墳へとグレードアップしていきます。

1hakosiki
大墓山古墳後円部の裾部分から出てきた箱形石棺
善通寺の前方後円墳群は、野田院古墳がスタートです。
それに先行するのが、弥生時代の箱式石棺墓になります。この間には大きな差異があります。社会的な大きな転換があったこともうかがえます。しかし、その母胎となった集落はやはり旧練兵場遺跡であったことを押さえておきます。

2野田院古墳3
    大麻山8合目の野田院古墳 向こうは善通寺五岳
 いよいよ野田院古墳の登場です。
改めて、その特徴をまとめておきましょう
①大麻山北西麓(標高四〇五m)のテラス状平坦部という全国的にも有数の高所に立地する
②丸亀平野では最古級の前方後円墳である。
③前方部は盛土、後円部は積み石で構築されている。
 野田院古墳は、特別史跡の指定に向けて発掘調査が行われました。
その調査結果は、研究者も驚くほど高度な土木技術によって古墳が造られていたことを明らかにしました。「傾斜地に巨大な石の構造物を構築する際に、基礎部を特殊な構造に組み上げていることで、変形や崩落を防いでいる」と報告書は述べます。

2野田院古墳2
野田院古墳(後円部が積石塚、前方部が盛土)

この技術はどこからもたらされたのか、言い方を変えれば、
この技術をもった技術者は、どこから来たのでしょうか?
 「古代善通寺王国」では、稲木遺跡で弥生時代後期末頃の集石墓群が確認されているようです。しかし、

「小規模な集石墓が突然に、大麻山の高い山の上に移動して、構築技術を飛躍的に進化させて野田院古墳に発展巨大化した」

というのは「技術進化の法則」では、認められません。
 類似物を探すと、海の向こうです。朝鮮半島ではこの頃、高句麗で数多くの積石塚が作られています。研究者は、善通寺の積石塚との間に共通点があることを指摘します。渡来説の方が有力視されているようです。
2野田院古墳1
野田院古墳
 野田院古墳の首長は、何者か?
  野田院古墳には、継承されている部分と、大きな「飛躍」点の2つの側面があります。継承されているのは、霊山の大麻山に弥生時代の箱式石棺墓から作られ続けた埋葬施設であるということでしょう。「飛躍」点は、その①技術 ②規模の大きさ ③埋葬品 ④動員力などが挙げられます。
 別の言い方をすれば、今までにない技術と動員力で、大麻山の今までで一番高いところに野田院古墳を作った首長とは何者かという疑問に、どう答えるのかということだと思います。
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 手持ちの情報を「出して、並べて推測(妄想)」してみましょう。
①丸亀平野では最古級の前方後円墳であり、霊山大麻山の高い位置に作られている。
 ここからは、並立する集落連合体の首長として、今までにない広範囲のエリアをまとめあげた業績が背後にあることが推測できます。その結果、今までの動員力よりも遙かに多くの労働力を組織化できた。それが古墳の巨大化となって現れた。

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②造営を可能にする技術者集団がいた。先ほど述べた高句麗系の集団の渡来定着を進め配下に入れた豪族が、「群れ」の中から抜け出して、権力を急速に強化した。
③ヤマト政権から派遣された新しい支配者がやってきて、地元首長達の上に立ち、善通寺王国の主導権を握った。それが、後の佐伯氏である。
今の時点での私の妄想は、こんなところです。 
支離滅裂となりましたが、今回はこれまでにします。
最後までおつきあいいただいてありがとうございました。
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参考文献 笹川龍一 原始古代の善通寺 善通寺史所収


四国学院のキャンパス内を南海道が通っていた?
古代善通寺地図

南海道想定ルート 四国学院のキャンパス内を横断している

四国学院の図書館新築に伴う発掘調査が2003年に行われました。その際に出てきた条里制の溝が南海道に付属する遺構ではないかとされています。その後、飯山町のバイパス工事に伴う遺構からも同じような溝が検出されました。その溝は条里制に沿って飯山町と四国学院を東西に一直線に結んでいることが分かりました。ますます古代南海道跡であるとの「状況証拠」が強まりつつあります。

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 飯山町岸の上遺跡の推定南海道の溝跡
旧来は南海道は、伊予街道と同じで鳥坂峠を越えているとする説が有力でした。しかし「考古学的発見」がそれを塗り替えています。どのような形で南海道のルートは明らかになっていったのでしょうか? 
四国学院大学は、戦前には旧陸軍第十一師団の騎兵隊の兵舎があったところです。
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現在でも二号館やホワイトハウスは騎兵隊の建物をそのまま使っています。戦前は、ここで馬が飼われ広い敷地では騎兵訓練が行われていたのです。
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   我拝師山をバックに建つホワイトハウス 旧騎兵隊施設
そのキャンパスの中に新しい図書館を建設することになり、発掘調査が2003年に行われました。考古学の発掘調査からどんなことが分かったのでしょうか? 
普段は、あまり読まない発掘調査報告集のページをめくってみましょう。
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新設された図書館
古代は、四国学院がある所はどんな場所だったのでしょうか?
調査報告書は、図書館敷地(発掘現場)周辺の現在地勢を確認していきます。それによると、この付近は旧金倉川の氾濫原西側の標高約31mの微高地の上にあります。北西約500mにある善通寺旧境内よりも約5m高いようです。
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また、発掘後に新しくできた図書館の東側には今は人工の小川が流れています。ところが古代にも、ここには旧金倉川の旧河道があったことが分かりました。その伏流水は、今でも四国学院敷地東側の市道の暗渠になった溝の中を流れているそうです。
 遺跡の西側は、護国神社・旧善通寺西高校の間には道路を挟んで約1,5mの高低差があり、小河川(中谷川)が流れています。この河川が遺跡の西端を示しているようです。南側は、市道拡張時に立会調査を行った結果、ここからも旧河道が出てきました。この旧河道が、この遺跡と生野本町遺跡を区切っていたようです。
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 以上から、この遺跡は東西南の三方を河川で区切られ微髙地にあったようで、
学校敷地の北西側を中心に東西400m、南北250mの範囲に広がっていると考えられます。この内2003年の調査区は図書館建設予定地全域で、広さは南北41.5m、東西33mでした。
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ホワイトハウスとその隣の図書館

時代順に発掘現場を覗いてみましょう。
第1期:弥生時代後期 灌漑用の溝のみ 住宅地はなし
 遺物が出てくるのは、弥生時代後期からです。この面からは竪穴住居など集落に直接かかわるものは出てきませんでした。しかし、注目すべきは「溝3」で、北西から南東万向に横断し、幅約2m、深さ0.5mで、断面V字状で非常に深く溝内からは弥生土器が出土しています。この溝は、この遺跡の500㍍北にある旧練兵場遺跡の濯漑用の溝と規模・形状が似ています。「溝3」が濯漑用の幹線水路で、そこから導水する水路が幾本も伸びていたようです。
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ここで思い出したのが善通寺一円保絵図(上図)です。
これは中世に起きた水争いの裁判の際に、当時の名主達が作成したと云われています。真ん中にあるのが善通寺で、三層(?)の本堂と、二重塔(多宝塔?)が現在地に描かれています。そして、その西方には誕生院も姿を見せています。有岡大池を源流とする弘田川が誕生院の裏を弘田川が流れています。注目すべきは東南(地図左上)の水源です。これは現在の壱岐と二頭の湧水と考えられています。ここからの水が用水路を通じて西に流され、条里制に沿って北側に分水されている様子がうかがえます。特に二頭からの導水された水は東中学校の前を通って、四国学院の南に導かれていたように思えます。

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一円保絵図の拡大図
このような灌漑設備が弥生時代後期に遡る可能性があります。四国学院内のこの溝を流れていたを流れていた水は二頭湧水からもたらされ、旧練兵場方面に導水された可能性があることを記憶に留めておきます。
本論に戻りますが、この時代の四国学院キャンパスは水田でした。人が住む集落は北側の現在の市街地周辺にあったようです。
第II期:7世紀前半~中葉    集落が形成される時期です。
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 蘇我氏が全盛を誇る7世紀前半に、水田だった所に竪穴住居・掘立柱建物、大規模な溝が相次いで現れます。しかも竪穴住居が6基が同時期に作られます。主軸を同じくする掘立柱建物3棟も作られ、また小規模な掘立柱建物や柵列も作られ集落としての姿が整います。これを「四国学院村」と名付けておきましょう。
注目したいのは、掘立柱建物を壊して短期間の内に条里地割に沿って集落内の建物が計画的に配置・整理されている点です。これは条里地割りのに伴う「開発整備」が行われたと見ることができます。
 もうひとつの注目点は東西に掘られた溝が、条里地割りである溝1の南側約9.0mに平行している点です。これを両側の溝に挟まれた部分の解釈として、余剰帯や道であった可能性が考えられます。これが南海道に結びついていくのです。
第3期:7世紀後半~末   竪穴住居などの建物はほとんどが廃絶
 遺構としては溝は3本残りますが、四国学院村の建物はほとんどが姿を消します。つまりこの時期には集落としての機能は終わり、溝のみが残っていたようです。
近 代
古代後半から近世にかけての遺構は全くでてきませんでした。田畑などに利用されていたようです。明治後半になると、この場所は旧陸軍の用地として使用されることになります。この時期の遺構として掘立柱建物が出てきました。この建物は2間×4間の大型のもので柵で区切られていることなどから、第十一師団騎兵隊の兵舎や厩舎と考えられます。

以上から四国学院大学構内遺跡は7世紀前半から中葉が遺跡の中心であったと考えられるようです。この時期に竪穴住居、掘立柱建物、溝が一斉に展開します。そして7世紀後半になると急に姿を消すのです。
四国学院側 条里6条と7条ライン
この時期の様子を善通寺周辺遺跡と比較してみましょう。
 近接する遺跡として、南西約0.3kmの位置に所在する生野本町遺跡があります。旧善通寺西高校のグランド作成の際に発掘されたこの遺跡は、柵で囲まれた条里地割と平行あるいは直交する溝が出てきました。報告者は、この溝を区画溝群と評価し、7世紀後半~8世紀前半の時期としています。また、この遺跡の柵列を掘立柱建物の一部と解釈すると約50㎡に復元でき、郡衛など官衛的要素を持った建物群と考えることもできる遺跡です
 さらに、南接する生野南口遺跡からは、40㎡を超える庇付大型掘立柱建物が出てきました。転用硯も出土しているので、二つの遺跡を含むこの一帯は、庶民が居住する集落とは異なる性格をもつと考えられ、多度郡衛の関連施設と推定されます。そうだとすれば空海の先祖達は、国造としてここで多度郡の政務を執っていたのかもしれません。伝えられるように空海が香色山の麓の佐伯家本宅で生まれたとすれば、そこから空海の父は、ここまで通っていたことになります。

 一方、四国学院大学構内の遺跡では、最大の掘立柱建物でさえも約25㎡程度で、大型の掘立柱建物の基準(40㎡以上)には及びません。統一性のない建物配置からも「官衛的要素」は見られず一般集落であったようです。ただし、一般集落からは出てこない「異質な遺物」が出土しています。
「四国学院村」から出てきた珍しいものは?
 土師質土玉・フイゴの羽口・須恵器・円面硯・瓦が出てきました。
 土師質土玉は竪穴住居の竃中から出土しました。住居を廃絶する時に祭礼用具として使用されたものと考えられます。このような風習は古墳時代にもみられ、旧練兵場遺跡の古墳時代の住居の竃中からも土玉が出てきました。住居を壊して土に返す際に、土玉を置いて祈るという風習が四国学院にあった村にも継続されているようです。
 フイゴの羽口は、住宅内や溝から破片が出土しています。関連遺物と考えられる鉄犀が溝から、砥石が竪穴住居から出土しました。しかし、点数が少ないことや周囲に炉跡遺構も確認されなかったことから、精錬・鍛冶などの製作集団による工房があったとは言えないようです。集落内での日常的な道具の製作など小規模に操業されていたと考えられています。
遺物からみた「四国学院村」の性格は?
硯や瓦の存在は、当遺跡の性格を知る上で重要です。硯は、文字が読み書きできる高位の一部の者しか持てなかったものです。また瓦は、中村廃寺出土瓦と同箔ですが出土個数が少なく、ここにに瓦葺の建物があったとは考えられません。屋根瓦としてではなく、何らか別の理由でここに運び込まれたものでしょう。どちらにしても、ここに住んでいた人が仲村廃寺と何らかの関係があったことは考えられます。
 以上から、この遺跡あるいは周辺に仲村廃寺と関係のある集団の拠点があったことがうかがえます。その集団とは、善通寺地区の「王家の谷」である有岡地区に首長墓である前方後円墳を東西に一列に並べて何世代にも渡り造営し続けた佐伯氏以外には考えられません。佐伯氏は、仏教が伝わるといち早く古墳造営から古代寺院建立へと切り替え、中村廃寺を造営します。その瓦制作にこの村の住人達も関わっていたのかも知れません。
発掘された溝と条里制の地割の関係を探っていくと
 
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これで普通の発掘報告書は終わるのです。ところがこの報告書の凄いところはここからです。図書館敷地に残る溝が、多度郡の条里制の地割のどの部分に当たるのかを丁寧に当てはめていったのです。それが南海道発見につながる糸口となって行きます。
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赤い実線が条里制地割 点線が南海道推定ルート

 
調査区域である図書館敷地の南端には、条里型地割に平行する溝があることが分かりました。この溝が条里型地割であることを、どうすれば証明できるのでしょうか? 細かいデーターを地図上に落とし込んだ結果、溝は坪界溝とほぼ合致することが分かりました。すなわち、東西方向の溝が里境の溝だったのです。
 次に発掘調査により検出した条里型地割の遺構などを元に、さらに大縮尺の地図にはめ込みると、東西方向の溝は多度郡六里と七里の境の溝であったことが分かりました。
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ピンクの部分が南海道 幅は8~9㍍ その両側に溝がある

さらに、先行する研究者は南海道を次のように想定していました
鵜足郡六里・七里境、
那珂郡十三里・十四里境、
多度郡六里・七里境を直進的に西進し、
善通寺市香色山南麓にいたる直線道路を想定。(金田1987)
つまり、この溝が多度郡の六里と七里の境界であるとすれば、予想していた南海道の位置とピッタリ合うことになります。そして道の両側には溝があるのです。
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 以上の想定を、出てきた溝と合せてみると・・・
① 溝1南側の溝状遺構群を一連の遺構としたときの幅は?
  幅は東側で9m、中央付近で約8.5m、西側で約8.5mと、ほぼ平行しています。
② 県内で発掘された南海道駅路推定地の幅約12m、三谷中原遺跡の幅約10mよりは細いものの、他の伝路が幅6m程度の所もあるので、この遺構か南海道であった可能性は否定できないと結論づけます。
発掘調査報告会の時点で注目されたのは?
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「空海の生まれた時代の村か 佐伯氏の村か」などの新聞の見出し記事に見られるとおり、空海との関連についてでした。南海道についてはあまり関心は持たれなかったのです。ところが、後の発掘で飯山町のバイパス工事現場でも同じような南海道推定ライン上に二条の平行する溝が検出されたのです。そして、その地点と善通寺の四国学院の溝とは一直線につながることが分かってきたました。こうして旧来の鳥坂峠越えの伊予街道=南海道説は舞台から姿を消しつつあります。それに代わって条里制沿いに側溝をもつ9~6㍍の大道が南海道であることが定説になってきました。
その発見のきっかけが四国学院の図書館工事に伴う発掘調査だったのです。

参考文献  県教委 四国学院大学校内遺跡 発掘調査報告書2003年


 
 善通寺の五岳山と大麻山の間の有岡は、古代の「王家の谷」です。神が天から下ったおむすび型の甘南備山がいくつもぽかりぽかりと並び牧歌的にも感じられます。天孫降臨の主は大麻山の頂上近くの野田野院古墳に葬られ、以下磨臼山古墳から大墓山古墳に至るまでいくつかの首長墓の前方後円墳が東から西へと一直線に続きます。この首長墓の子孫と目される佐伯氏が、古墳に変わって建立したのが善通寺であるというのが定説となっているようです。
  さて、今日のお題はその首長墓たちではなく宮が尾古墳です。
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この古墳は装飾古墳に分類され線刻画が石室に刻まれている古墳として有名です。装飾古墳が残っているのは四国では香川県だけのようで、七基、坂出市に四基で西讃の丸亀平野縁辺に集中しています。
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 その中で宮が尾古墳には、玄室奥壁の大きな一枚岩に、上から人物群・騎馬人物・多くの人が乗船した船・船団などが、玄室と羨道の西側側壁には三体の武人像が線刻されています。どれを見ても幼稚園児が書いたような絵で、発見当時は「後世の落書き」とも思われたこともあったようです。
 確かに、同時期の大陸の古墳の壁画には比べようもありません。
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 しかし、よく見ると武人は髭を結い、腰にベルトを付けて柄頭に大きな装飾の付いた太刀を帯び、下半身はズボンのような着衣で靴を履いている様子まで、硬い岩に描き上げています。騎馬人物も馬には面繋・手綱・鞍(前輪・後輪)・鐙・障泥などが細かく描かれていて、船も何艘もあり船団を形成しているようです。今では、宮が尾古墳の線刻図は、このように数多くの情報が含まれた貴重な絵画資料と見なされ、歴史的評価も高いようです。
さて、この絵は何を物語っているのでしょうか?
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いろいろな仮説が出されてきました。その一部を紹介しましょう。
時間的な推移と共に上のシーンから①→②→③→④と進みます。
仮説A 大陸からの渡来、騎馬民族征服説
①戦いで敗れた部族が部族長の死を悼んでいる
②祖国を追われて船で海を越えて新天地へやって来た
③新兵器の馬を連れてきて「騎馬戦術」で征服者となった
④九州から瀬戸内海を経て大和に上陸し政権を樹立した=騎馬民族征服説
仮説② 高句麗・好太王との交戦説(戦前は「朝鮮討伐」として)
①高句麗・好太王との戦いの戦死者
②ヤマト政権は朝鮮半島の権益拠点の加耶地方を防備のために海を越えて出兵
③その際に騎馬技術を習得
④多くの「戦利品」とともに凱旋」
この2つのSTORYが代表的なものでしょう。
共通するのは、朝鮮半島に深い関わりがあることを示しているのではないかということです。
 近年、この絵の一番上の場面に関する興味深い説が出されています。古代の葬儀場面ではないかというのです。
最上部に描かれた人物群をよく観察してみてください。
ここには5人の人物と1つの構造物が描かれています。
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①この場面の中心は人物群の中央に描かれた小さな家のような構造物です、
②その前では二人の人物が直立し両手を大きく広げて向かい合っています。何かの儀式を行っているようです。あるいは右の人物は横たわる死体と考える研究者もいます。
③その右上方には三人の人物が描かれていますが、両手は下ろしていて、そこで行われている儀礼を見守っているように見えます。
人物たちの行動の違いが描き分けられています。
 この古墳の線刻画の発見後に、同じ大麻山東麓の南光古墳群や夫婦岩1号墳でも線刻画が確認されました。そこに描かれていたのは宮が尾古墳の奥壁に描かれた小さな家のような構造物でした。
 善通寺の線刻画の「構造物」と同じようなものが描かれている群集墳があります。
大阪府柏原市の高井田横穴群です。
ここには横穴墓の数は162基、線刻壁画が描かれた古墳が27基もあります。壁画に描かれているのは、人物、馬、船、家、鳥、蓮の花、木、葉、意味不明の記号とさまざまで、何を描いたのか理解できない線刻もたくさんあります。
27基の横穴墓の中でもっとも有名なのは、第3支群5号墳です。
玄室(げんしつ)から入口を見た場合の羡道(せんどう)の右側にあたる壁に、船から下りてくる人物が描かれています。
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一番上には、両端が反り上がったゴンドラ型の「船に乗る人物」が描かれています。この人物は左手に槍あるいは旗と思える棒状のものをもって船の上に立ち、丈の長い上衣を幅広の帯でしめ、幅の広いズボンも膝の部分で縛っています。
船の両端には二人の小さな人物が描かれていて、右側の人物は碇(いかり)を引き上げ、左側の人物はオールを漕いでいるようです。
その左には「正装の人物」が描かれています。
船に乗っている男と同じ服装をしていますが、先のとがった靴を履き、耳の横で頭髪を束ねた美豆良(みずら)という髪型をしているのが分かります。
その下の人物は「袖を振る女性」で裳(も)と呼ばれるひだのあるスカートをはいています。「船に乗る男」を出迎えるように、あるいは見送るように、盛んに両手を振っています。 
  瀬戸内海を航海し難波の港に到着姿か、西に向けて出航していく姿か、どちらにしてもここにも船と航海が描かれています。
さて、ここの線刻画にも善通寺と同じように小さな家のような構造物が描かれている古墳がいくつかあります。調査報告書では、それを「殯屋(もがりや)」と想定しています。
 それは古事記にも登場する喪屋とそれに伴う葬送儀礼が思い起こされます。貴人が亡くなった時その場に喪屋を立て、遺体を安置し、その場で様々な葬送儀礼が行われました。民俗事例でも墓上施設として殯屋の残存形態として様々な形状のものが報告されています。

ポピュラーな物としては、円錐形に竹や木を立てて周りを木の葉などで覆うようなものが知られています。善通寺市や高井田で見られる小さな家のような構造物の線刻画は、それに似ています。善通寺の南光古墳群の線刻では、小さな家のような構造物だけで、人物は描かれていません。
殯屋は死者を外敵から守る魔除けと、被葬者を封じる両方の性格を持っていたとされます。その効果を古墳の内部に持ち込むために、このような絵が描かれたと研究者は考えます。つまり、宮が尾古墳の壁画は殯屋とその周辺で行われた葬送儀式が描かれたものであり、善通寺市内の他の装飾古墳は、殯屋だけを描いたのではないかというのです。殯屋は細い本や竹を立てて、その周囲を縄や木の葉で覆う構造です。その竹や木にも霊力が宿ると考え、それらを壁画に描くことによって殯屋の霊的な力を石室にも持ち込もうとしたというのが「葬儀・殯屋説」です。
 坂出市の樹葉文のグループの場合は、
殯屋をおおって聖なる木の葉を壁面に描くことで、石室に殯屋と同じような性格を持たせようとしたのではまいでしょうか。善通寺の南光古墳群では殯屋が中心に描かれ一部に樹葉文も見えます。坂出市の鷺ノロー号墳には樹葉文が中心に描かれ、その間に横倒しになった小さな家のような構造物の線刻も見えます。
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坂出市の鷺ノロー号墳の樹葉文は殯屋?
さて、この線刻画を描いたのはだれでしょうか?
その人物もこの絵の中に描かれています。どの人物だと思いますか。
ひとり離れている一番左の人物が、この葬送儀式を執り行うシャーマンです。彼(彼女)が葬送儀礼を主導し、線刻画も描いたのです。そこには、地域毎のシャーマンの個性が表れます。同じ死生観を持ち、葬送儀礼を司るシャーマンでも、どこに重点をおいて描くのか、絵の上手下手などの「個性」があらわれ表現の違いが生まれてきます。しかし、共通の死生観や葬儀儀礼をもつ「同族」と思っていたはずです。
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最後に大阪府柏原市の古墳群の中で、最も古いとされる高井田山古墳について見ておきましょう。
この古墳は横穴公園整備事業の作業中に高井田山の頂上で見つかったもので、5世紀後半から5世紀末にかけて築造された直径22mの円墳です。石室は薄い板石を積み上げた初期横穴式石室で「近畿地方では最も古い横穴式石室」とされます。副葬品の中に、古代のアイロンと言われる青銅製の火熨斗(ひのし)が出てきました。火皿に炭火を入れて使われたと見られており、日本で2例目の出土品です。
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 ここを調査した柏原市立歴史資料館の桑野一幸さんは、次のように言います
「ここで見つかった横穴式石室は、出土した須恵器から判断すると、5世紀末のもの。しかも、百済の影響を直接受けています。つまり、最古級の畿内型横穴式石室なんです。そして韓国のソウルに、可楽洞、芳夷洞という百済の古墳がありますが、ここの横穴式石室と似ています。」
 つまりこの古墳は、6世紀頃に百済から直接畿内に渡来した首長の墓と考えられるようです。そのような氏族と同じ死生観や葬儀儀礼をもつ一族が善通寺周辺にいて、そのシャーマンが古墳の石室に線刻画を刻んだというSTORYが考えられるようです
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参考文献 笹田 龍一 香川県下の装飾古墳に見られる葬送思想 香川歴史紀行所収


           

 道隆寺-山伏が再興した寺

道隆寺の建立者道隆と善通寺の建立者善通は兄弟?

七十七番桑多山道隆寺の本尊は薬師如来です。
御詠歌は「ねがひをば仏道隆に入りはてて菩提の月を見まくほしさに」
道隆というこのお寺を建てた人の名前を詠み込んだ歌です。
「道隆寺文書」(『香川叢書』史料篇②収)には
①14世紀初頭(一三〇四)の発願状があって、沙弥本所(山伏)による寺の由来が記されていること。
鎌倉時代末期の嘉元二年に、領主の堀江殿が入道して、本西と名乗ったこと。
③讃岐国仲郡鴨庄下村地頭の沙弥本所は、庄内の道隆寺を氏寺として崇敬してきたが、その由来をたずねると、内大臣藤原道隆と善通寺の善通は兄弟であること
がこの縁起は書いています。

道隆の兄の善通は善通寺の善通と云います。
 大領は郡長さんに当たりますから、多度郡の郡長さんが善通寺の善通で、お寺を再興したので功徳といっています。善通は白鳳期の「善通寺」を再興した人です。しかし、この人物が空海の父や祖父とは別人であることは「善通寺」のところで述べました。
①兄の善通が多度郡に善通寺を建てたのを見て、仲郡に道隆寺を建立したこと。
②ふたつの寺が薬師如来を本尊としているのは、兄弟建立という理由によること。
③道隆寺は、もともとは法祖宗か何かのお寺でしたが、その後衰退します。
④それを山伏の本所が再興したので、山伏の所属する真言宗になりました。
⑤本堂と御影堂と本尊、道具、経論、などが建立され伽藍が整備できたようです。

白鳳期ごろのお寺は、渡来人が建てた寺が多いようです。

現在の飛鳥・白鳳期の寺址は、三百か寺ぐらい数えられますが、これはやはり渡来人が建てたと考えられます。飛鳥・白鳳期にかけて秦河勝が山城平野を開拓。それに南のほうでは、稲荷山を建てた秦中京伊侶具が非常に富み栄えました。秦中京は秦の本家という意昧でしょう。
 ここにひとつ濯漑の問題があります。
渡来人が日本人を使いながら、潅漑用水を造ってつぎつぎと開拓を行うことができたのは、水準器をもっていたからです。水がどちらに流れるかを水準器で測りながら用水路を造っていきます。当時は、日本人にはその技術がありません。そのうちに日本人もすっかり習得してしまったので、渡来人は不要の存在となり、次第に没落します。そうして、白鳳期のお寺もだんだんに衰退していったのです。
やがて勧進聖やその地方の援護者なりが出てきて、これを再興します。道隆寺にもこんな構図が考えられます。
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 道隆寺の縁起は、次のような悲しい物語です。

もと一大桑園があったが、大平時宝(七四九―五七)のころに、和気道隆が誤って乳母を弓で射殺してしまいます。その菩提のために、桑の木で薬師如来を刻み小堂を建てます。その後、弘法大師が薬師如来の大像を刻んで、桑の木で作った小さな薬師如来を胎内に納めて本尊とします。一方で、観音の像を刻んで観音堂の本尊としたということになっています。

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しかし、現実には

白鳳期の寺を道隆という山伏が再興したとするのが事実。

資料から推察できるのは次のようなことです。
 この寺は、和気氏が俗別当として、管理権を手中にしていました。
和気氏は、智証大師の和気氏と同族です。その関係から智証大師は、ここに五大尊示伽・降三世・軍茶利・会剛夜叉・大威像)の像を刻んだとされています。しかし、智証大師は平安時代初期の人で、金堂の中にあるのは鎌倉時代の五大尊ですから、この話は時代がずれています。
 道隆寺でおもしろいのは、中世に何度も田地寄進が行われ、弘法大師の御影供(弘法大師の三月二十一日の法要)、伽藍三時供養法、道隆寺鎮守花会(法花会)、一切経供養会、焙魔堂供養などが行われていることです。特に戦国時代の16世紀初めのの阿弥陀堂、阿弥陀像造立は、この寺の隆盛ぶりを示しています。

 
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これらは道隆寺が山伏寺になってからのことです。

道隆寺の住持が塩飽島に聖宝尊師のお堂建てています。
聖宝尊師は、醍醐寺の像験道の開祖に当たる方です。
これは道隆寺がこのあたりの山伏を支配していたことを示しています。
「道隆寺文書」によって室町時代の、大峰の入峰を捨身といっていたことがわかります。この文書以外ではまだ見たことかありません。
この文書では修験について、次のようなことも書かれています
入峰するということは自分の身を捨ててしまうことだ、死ぬことだと考えていたことがはっきり文章になっています。山に人るのは死ぬことである、よって山から出てきたときは生まれ変わっていると、修験の本質についてもきちんと書かれています。 そういう意味で、「道隆寺文書」は修験道の史料としても非常に貴重です。


 

白鳳期の古代寺院善通寺と空海
善通寺は、空海が父佐伯善通の名前にちなんで誕生地に創建したといわれてきました。
しかし、近頃の発掘によりその説は覆されているようです。まず、発掘調査で白鳳にさかのぼる善通寺の前身寺院が明らかとなってきました。中村廃寺と呼ばれてきたものです。行って見ましょう。
古代善通寺地図

聖母幼稚園の西側、つまり善食の南側に墓地があります。
近世には伝導寺という寺院があり、その墓地だけが残っています。

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その墓地の中に入っていくと、大きな石があります。
これが礎石のようです。

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ここからは白鳳期の瓦も出ており、8世紀には中村廃寺と呼ばれてきた古代寺院があったようです。

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この北側は、農事試験場から国立病院に続く地域で弥生時代から連続して、住居跡が密集していたことが分かっています。この集団の首長は、甘南備山の大麻山の頂上付近に野田院古墳を造営し、その後の継承者は茶臼山から善通寺地域の「王家の谷」とも言える有岡に、前方後円墳の首長墓を
丸山古墳 → 大墓山古墳 → 菊塚古墳
と連続して造っていきます。寺院が建立され始めると、いち早くこの地に古代寺院を作り上げていきます。彼らは時代を経るに従って、首長から国造へと成長していきます。それが佐伯家なのでしょう。

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 そうだとすれば、真魚(空海の幼名)が生まれたときに善通寺の前身寺院(中村廃寺)はすでに姿を見せていたことになります。しかし、この寺院は火災にあったのでしょうか、
最近は南海沖地震規模の大地震によるという説もでています。原因は分かりませんが短期間で放棄されます。そして、現在の善通寺の東院に再建されるのです。
 
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 白鳳時代の寺院は平安時代の半ばには焼け落ちたようです。
 その後の平安時代後期には、国衙政治の圧迫を受けて善通寺は困窮状態に陥っていたことが文献研究で明らかになっています。
鎌倉時代に讃岐に流刑になった道範は『南海流浪記』で善通寺のことを次のように書き記しています。
「お寺が焼けたときに本尊さんなども焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある」
「金堂は二層になっているが、裳階があるために四層に見える」
「本尊は火災で埋もれていた仏を張り出した埋仏だ」
とありますので鎌倉時代初期までには、新しく再建されたことが分かります。
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この金堂も永禄元年1558の三好実休の兵火で焼け落ちます。しかし、当時は戦国時代の戦乱期で約140年近くは再建されず、善通寺には金堂がない時代が続きました。
 それが再建されるのは元禄の落ち着いた世の中になってからです。
この時に、散乱していた白鳳期の礎石を使って四方に石垣を組んだので高い基壇になりました。基壇部側面には大同2年(807)の創建当初の白鳳期のものとおもわれる石が使われているといいます。見に行きましょう。

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本堂基壇に近づいていくと・・・

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確かに造り出しのある大きな礎石がはめ込まれています。
大きな丸い柱を建てた柱座も確認することができます。
他にも探してみると、

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 4個の礎石があるのが分かります。この基壇の中には、白鳳期のものがまだまだ埋まっているようにもおもえてきました。
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丸亀藩の保護を受けて元禄年間に金堂の復興工事が始まります。

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その際に敷地から発見された土製仏頭は、巨大なことと目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と推定されています。印相等は不明ですが古代寺院の本尊薬師如来として、塑像を本尊としていたかけらが幾つもでてきました。それは、いまの本尊の中に入れられていると説明板には書かれていました。
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最後に善通寺という寺名について
五来重:四国遍路の寺は次のように述べています。
鎌倉時代の「南海流浪記』は、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。普通は大師のお父さまの名前ではなくて、どなたかご先祖の聖のお名前で、古代寺院を勧進再興して管理されたお方とおもわれます。つまり、以前から建っていたものを弘法大師が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。
 空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。
弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が三十一歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。この度牒はいま厳島神社に残っていますが、おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 『南海流浪記』にも善通は先祖の俗名だと書かれています。


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