瀬戸の島から

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 昨年11月30日付で、佐文綾子踊がユネスコ無形文化遺産リストに登録されました。その認証状が東京に届き、白川正樹会長が授与式に参加していだいてきました。そこ書かれていることを、翻訳アプリに読ませると次のように表示しました。

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風流踊り ユネスコ無形文化財認証状 
ユネスコ無形文化財リストへの登録は、無形文化遺産の認知度の向上とその重要性の認識を確保し、文化的多様性を尊重する対話の促進に貢献します。「風流踊り」 人々の願いや祈りが込められた神事の踊り。日本の提案により「風流踊り」の登録を認証します。
UNE事務局長 刻印日2022年11月30日
登録名は「Furyu-odori」です。どこにも佐文綾子踊の名称はありません。
この認証状に「添付」されたような形で頂いてきたのが、文化庁の認可状です。
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ここには「重要無形民俗文化財 綾子踊」と「保護団体 佐文綾子踊保存会」と明記されています。そして「ユネスコ無形文化財の一覧表に登録された「風流踊」を構成することを証す」とあります。
  全国の風流踊りを一括して、ユネスコ登録を実現させるというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てこないので、別途証明するために文化庁が発行した証書ということになるようです。
佐文綾子踊年表 重要無形民俗文化財指定に伴う後継者育成事業が今の綾子踊を支えている : 瀬戸の島から
 忘れられていた綾子踊りを「再発見」して、世に出してくれたのは中央の民俗芸能の研究者です。
幕末に編纂された西讃府誌に載せられていた綾子踊歌詞が、中世に成立していた閑吟集の中にあることを見つけます。そして、中世の風流踊りの流れを汲む踊りとして評価します。それを受けて、国や県が動き出すことになります。その中で大きな意味を持ったのが「国の重要無形民俗文化財指定(1976年)」だと私は考えています。これはただ指定して、認定書を渡すだけでなく、次のような具体的な補助事業が付帯していました。
①国の補助金で伝承者養成事業を行うこと
②その成果として、隔年毎の公開公演を佐文加茂神社で行うこと
③全国からの公演依頼への補助金支出
④公開記録作成と「佐文誌」の出版
 こうして隔年毎に公開公演を行うこと、そのために、事前にメンバー編成を行い、踊りの練習を行うことが慣例化します。これが回を重ねていくごとに芸司や地唄やホラ貝吹きなど、蓄積した技量が求められる役目は固定化し、後継者が育っていきました。

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綾子踊り(財田香川用水記念館にて)
 また、小踊りには小学生6人が、大踊りは中学生4人がその都度選ばれ、練習を積んで、大勢が見守る中で踊るという経験が蓄積されました。かつて小踊りを踊った子ども達が、今は綾子踊の重要な役目を演じるようになっています。彼らは「継承・保存」に向けても意識が高く、今後の運営の中心を担っていくことが期待できます。現代につながる綾子踊の基礎は、この時期に固められたと私は考えています。

 今年は、10月に郡上八幡、11月には東京の第70回全国民俗芸能大会(日本青年会館)の公演が予定されています。
33年前の第40回大会に出演し、この場で小踊を踊った小学生が、今は綾子踊の重要な役割を演じるポジションにいます。小・中学生達に大きな舞台に立つ経験を積むことも、綾子踊を未來につないでいく大切な手段のひとつだと思っています。綾子踊へのさまざまな人達からの支援に感謝します。
 

滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
上の滝宮の念仏踊りに参加していたまんのう町の風流踊組の主演者一覧表を見ると、真野・小松・吉野の郷の村々からの出演者によって分担されていたことが分かります。その総数は二百人を越える大部隊でした。今回は、出演者達がどんな人達だったのかを見ていくことにします。
 表で岸上村の分担人数を見ると「笛吹1・地踊5・鉦打7・棒突2・鑓5・旗2 計22名」となっています。
幕末の岸上村の庄屋・奈良亮助が残した文書には、この時の担当氏名が次のように記されています。

一、笛吹 朝倉石見(久保の宮神職)

一番最初に登場するのは笛吹で、久保の宮宮司が務めています。そして地踊については、次のように記されています。
①一、地踊          彦三郎
②一、同  古来仁左衛門株  助左衛門
③一、同  宇兵衛株同人譲渡 熊蔵出ル
②については本来は、仁左衛門が持っていた株だが、その権利で今回は助左衛門が出演するということのようです。③は宇兵衛が譲渡した株を熊蔵が手に入れ出演するということでしょう。この史料からは、誰でも出演できたわけではなく、それぞれの家の権利(株)として伝えられてきたことが分かります。つまり、世襲制で代々、決められた役を演じてきたようです。
 一方で、旗・鑓・棒突については、次のように記されています。
一、旗   二本 社面と白籐
一、長柄鑓 五本
一、棒突  三本 
ここには、出演予定者の名前がありません。旗・鑓・棒突については、「人夫」に任せていたので出演予定者名がないようです。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪大明神(三島神社)に奉納された念仏踊

 七箇村念仏踊は、夏祭りに踊られる風流踊りで祭礼・娯楽でした。それが各村々の神社をめぐって奉納されたのです。芸司や子踊り・時踊り・笛吹きは、それを演じる村の有力者が、その地位を誇示するという中世以来の宮座に通じる意味合いももっていました。奉納される神社の境内は、村の身分秩序の確認の場であったことになります。
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境内での風流念仏踊りを見物する人々。立ち見席の後ろには、見物桟敷が建てれている。これも宮座の有力者の所有物で、売買の対象にもなった。ここで風流踊りを見物できることがステイタスシンボルでもあった。

 なぜ七箇村念仏踊りは、踊られなくなったのでしょうか?
 それは有力者達だけで踊られる風流踊りが、時代に合わなくなってきたからでしょう。幕末になって発言権を高めた農民達は、自分たちも祭りに参加することを求めます。そして、誰もが平等に参加できる獅子舞や太鼓台(ちょうさ)を秋祭りに登場させるようになります。その結果、有力者達だけで演じられてきた風流踊は奉納されなくなります。そんな中で、近代になって七箇村風流踊を綾子踊りとしてリメイクしたのが佐文なのではないかと私は考えています。そうだとすれば、綾子踊りは七箇村風流踊を継承したものだということになります。
  参考文献  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年
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 ユネスコ無形文化遺産に香川県から滝宮念仏踊りと、綾子踊りが登録されました。滝宮念仏踊には、かつてはまんのう町からも踊組が参加していたようです。今回は、滝宮に風流踊りを奉納していた「那珂郡七箇村踊組」についてみていきます。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
まんのう町七箇村念仏(風流)踊り村別役割分担表

この表は文政12(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が踊組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。ここには各村の役割と人数が指定されています。この役割は「世襲」で、村の有力者だけが踊りのメンバーになれたようです。この表からは、次のような事が見えてきます。
①まず総勢が2百人を越える大スタッフで構成されたいたことが分かります。
スタッフを出す村々を藩別に示すと、次の通りです。
A 高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
B 丸亀藩 西七ヶ村(買田・宮田・生間・追上・帆山・新目・山脇)佐文村 
C天領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
まんのう町エリア 讃岐国絵図2
まんのう町周辺の近村々村々
まんのう町の村々(正保国絵図 17世紀前半で満濃池が池内村)

どうして、藩を超えた編成ができたのでしょうか。
それは丸亀藩と高松藩に分けられる以前から、この踊りが那珂郡南部の「真野・吉野・小松」の3つの郷で踊られていたからでしょう。七箇村踊組は、中世から踊り継がれてきた風流踊りだったようです。

那珂郡郷名
那珂郡南部の子松・真野・吉野の郷で、踊られていた
②滝宮に踊り込む前には、各村の神社に踊りが奉納されています。
7月17日の満濃池の池の宮から始まって
  18日七箇春日宮・新目村之宮
  21日五条大井宮・古野上村宮
  22日が最終日で岸上村の久保宮と、真野村の諏訪神社に奉納
  27日に滝宮牛頭大明神(滝宮神社)への躍り込みとなっています。
「諏訪大明神念仏踊図(真野諏訪神社)」に描かれた踊りが綾子踊りにそっくりであることを以前に紹介しました。
諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪大明神念仏踊図(真野諏訪神社)

そして役割構成も似ています。ここからは佐文の綾子踊りの原型は、「七箇村踊組」の風流踊りにあることがうかがえます。
③実は七箇村踊組は、もともとは東西2組ありました。
その内の西組は佐文を中心に編成されていたのです。ところが18世紀末に滝宮への奉納を廻って、なんらかのトラブルがあったようで、西組は廃止され1組だけになりました。その際に佐文村は下司など中心的な役割を失い、「棒付10人」だけに大幅に縮小されます。ここからは佐文が不祥事の責任をとらされたことがうかがえます。
 今まで踊りの中心を担っていた佐文にとって、これはある意味で屈辱的なことでした。それに対して、佐文がとった対応が新たな踊りを単独で出発させるということではなかったのではないでしょうか。こうして雨乞い踊りとして、登場してくるが綾子踊りだと推測できます。そうだとすれば、綾子踊りは那珂郡南部の三郷で踊られていた風流踊りを受け継いだものといえそうです。
綾子踊り67
佐文 綾子踊り
  参考文献  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年

 まんのう町には真野の諏訪神社に奉じられた「諏訪大明神念仏踊図」が保存されています。
私が最初に、この絵図を見たのは香川県立ミュージアムでの展示でした。その時には、次のような短い説明が付けられていました。(番号は図中番号と一致)
諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

①2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、
②日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知
③同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。
④花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいる。
⑤頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。」  
 この絵を最初に見たときには佐文の綾子踊りを描いたものと思いました。そのくらい似ているのです。その共通点を挙げて見ると
A舞台が神社の境内であること
B中央に大きな団扇を持った下司
C花笠を被った中踊りと6人の子踊り  
D警固の棒突や棒振・長刀衆など
ここからは念仏踊りが佐文の綾子踊りに大きな影響を与えていることがうかがえます。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
 また、念仏踊りの構成メンバーは、真野だけでなく、佐文・七箇村(東西)・岸上・塩入・吉野・榎井・五条・苗田などで編成され、総勢は二百人を越えていました。滝宮に踊り込む前には、各村の鎮守を何日も掛けて、奉納しています。ここで押さえておきたいのは、佐文も念仏踊りの構成メンバーで、この念仏踊りを踊っていたことです。

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踊りの周りの人たちと、その後の見物小屋

 現在の綾子踊りと異なるのは、踊りの周りに見物の桟敷小屋がぐるりと回っていることです。この見物小屋は真野村の有力者の特等席で、財産として売買もされていました。念仏踊組には、誰でも参加できたわけではなかったようです。中世以来の「宮座」のメンバーだけが参加を許されました。家によって演じる役目も「世襲」されていました。ある意味では念仏踊りを踊ることは、その家柄を誇示することでもあり、名誉あることだったようです。
  この絵を描かせたのは誰なのでしょうか?
満濃町誌は描かれた時期と、描かせた人物を次のように推測しています。右側の仮桟敷に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことです。

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  拝殿の正面に、袴姿で床几に座しているが各村の役人たちでしょう。⑥の日の丸の団扇を持っているのが総触頭の三原谷蔵のようです。ここからは、この絵を描かせた人物は、三原谷蔵で、自分の晴れ姿を絵師に描かせたという説を満濃町誌は採っています。
 参考文献  満濃町誌「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P  
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 今は、里山周辺の山々も利用価値がなくなり、人の手が入らずに竹が伸び放題になった所が多くなりました。しかし、江戸時代には田にすき込む柴木を刈るための「資源提供地」で入会権が設定されていたことを前回に見てきました。それは、時には入会林をめぐっての村同士の抗争も引き起きていたようです。
 象頭山の西斜面の「麻山」については、小松庄(琴平)の農民たちは入山料を支払い、鑑札を持参した上で、刈取りが認められていました。その中で佐文に対しては、鑑札なしの入山という有利な条件が設定されていました。ところが約70年後になると、佐文は周辺の村々と入会林争論を引き起こすようになります。その背景には何があったのかを、今回は見ていこうと思います。

佐文周辺地域
佐文と周囲の村々
 正徳5(1715)年6月に神田村と上ノ村(財田)・羽方(高瀬)の3ケ村庄屋が連名で、佐文村を訴えて、次のような訴状を丸亀藩に提出しています。(要約)
佐文 上の村との争論

意訳変換しておくと
「財田の上ノ村の昼丹波山の「不入来場所」とされる禁足地に佐文の百姓達が、無断で近年下草苅に入って来るようになりました。昨年4月には、別所山へ大勢でおしかけ、松の木を切荒す始末です。佐文の庄屋伝兵衛方ヘ申し入れたので、その後はしばらくはやってこなくなりました。すると、今年の2月にまた大勢で押しかけてきたので、詰問し鎌などを取り上げました。(中略)今後は佐文の者どもが三野郡中へ入山した時には「勝手次第」に処置することを、御公儀様へもお断り申上ておきます。」

 これに対して佐文庄屋の伝兵衛からは、次のような反論書が提出されています。
佐文 上の村との争論 佐文反論

意訳変換しておくと

「新法によって財田山への佐文の入山は停止されたと財田衆は主張し、箸蔵街道につながる竹の尾越で佐文村の人馬の往来を封鎖する行動に出ています。春がやって来て作付準備も始まり、柴草の刈り取りなどが必要な時期になってきましたが、それも適わずに迷惑しています。新法になってからは財田方の柴草苅取が有利に取り計らわれるようになって、心外千万です。」

 ここからは上の村は、竹の尾越を封鎖する実力阻止を行っていたことが分かります。
入会林をめぐる対立の背景には、丸亀藩の進める「新法=山検地」があったようです。
山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を、5年ごとに調査する形で行われています。そして、検地を重ねる度に入会林が藩の直轄林(御林)に組み込まれ、縮小されていきます。佐文が既得権利を持っていた「麻山」周辺の入会林も縮小されます。そのために佐文の人たちは、新たな刈敷山をもとめて、昼丹波山・別所山・神田山(二宮林)へ入って、柴草を刈るようになったようです。これが争論の背景と推測できます。
 これに対する丸亀藩の決定は、「取り決めた以外の場所へ入り申す義は、少しも成らるべからざる由」で、「新法遵守」の結論でした。佐文の既得権は認められなかったようです。
 この10年後の享保10(1725)年の「神田村山番人二付、廻勤拍帳」という史料からは、村有林や入会林を監視するために神田村は「山番人」を置くようになっていたことが分かります。それまでは、村と村の境は、曖昧なところがあったようですが、山林も財産とされることで、境界が明確化されていきます。このような隣村との境界や入会権をめぐる争論を経て、近世の村は姿を整えていくことになります。今は、放置されている集落周辺の山々は、江戸時代には重要な「資源提供地」で争いの対象だったようです。
参考文献  「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」高瀬町史史料編 511P
  文責 池内 敏樹

刈敷山2

 以前に江戸時代の飯野山や大麻山などの里山は、芝木刈りのために裸山になっていたことをお話ししました。今回は、刈敷(かれしき)山として、里山がどのように管理されていたのかを見ていくことにします。
 1640(寛永17)年に、お家騒動で生駒藩が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。この時に幕府から派遣された伊丹播磨守は、讃岐全域を「東2:西1に分割せよ」という指示を受けていました。そのために再検地を行って、新しい村を作って、高松藩と丸亀藩に分けて境界を引きます。 その際に両藩の境界がまたがる那珂郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争が起る可能性が出てきます。それを避けるために、関係村々の政所の意見を聞いた上で、まんのう町周辺の里山の入会(いりあい)権を次のように定めています。
1仲之郡∂柴草苅申山之事

刈敷山への入会権を定めた部分を書き抜いてみると次のようになります。
松尾山  苗田村・木徳村
西山 櫛無村・原田村
大麻山 与北村・郡家村・西高篠村
羽間山  垂水村・高篠村
一、仲郡と多度郡の農民が東西七ヶ村の山や満濃池周辺へ入り、柴木苅りをおこなうことを認める。ただし、従来通り手形(鑑札札)を義務づけること。
一、三野郡の麻山については、子松庄(琴平)に鑑札付きで認める。ただし、佐文の者は、鑑札札なしで苅る権利を認める。
 ここからは、金毘羅さんの神領以外の松尾山・西山(琴平町)や大麻山・東西の七箇村や満濃池周辺の里山に、入会権が設定されていたことが分かります。誰でも山に入れたわけではないようです。「札にて刈り申す山」と記されているので、入山に際しては許可証(鑑札)が発行されていて、何匁かの支払いが義務づけられていたようです。

下草鑑札
刈敷山への入山鑑札
 それに対して佐文に対しては「同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」とあります。佐文の住人は、札なしで自由に麻山の柴木を刈ることができるとされています。どうして佐文に、このような「特権」が与えられていたのかについては、史料からは分かりません。 


草を刈る図
他の文書には、次のように記されています。
「多度郡(多度津町・善通寺市)には山がないので、多度郡の者は那珂(仲)郡の山脇・新目・本目・塩入で柴木を刈ることを許す。」

ここからは柴木刈りが解禁になる日には、多度郡の農民たちが荷車を引いて、鑑札をもって山脇や塩入まで柴木刈りに入ってきていたことが分かります。丸亀平野の人々が霊山としていた大川山や尾野瀬山は、里から見上げる遠い山ではなく、実際に農民たちが柴木を刈るために通い慣れた馴染みの山でもあったようです。旱魃の時に、大川山や尾野瀬山から霊水を持ち帰って、雨乞祈願を行ったという伝承も、こんなことを知った上で聞くと、腑に落ちる話になります。ちなみに宮田の民芸館(旧仲南北小学校)には、里山への入会鑑札が展示されています。化学肥料が普及する戦後まで、里山での柴木草刈りは続けられていたようです。         
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  参考文献   満濃町誌293P         山林資源
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 幕末の開国は、文明開化をもたらしますが、一方でさまざまな感染症も入ってきます。その中でコレラ(虎列拉)はもっとも厄介なものでした。コレラは激しい下痢と嘔吐を引き起こし、脱水症状と高熱で意識不明なって、3日ほどで死にいたる病気で「三日コロリ」とと呼ばれて恐れらました。県下のコレラ患者の発生・死者数が香川県史には下表のようにまとめられています。

明治の感染症1コレラ
明治香川県のコレラ患者数推移

この表らは次のようなことが分かります。
①1890(明治23)年と1895(明治28)年の2度にわたってコレラが大流行した
②その死亡率は6割を超えている
 2度目のピークは、1898年(明治28)です。この年は、日清戦争が勝利に終わり、大陸から多くの兵士達が帰還してきます。それに伴って、患者が増えたようです。この年の香川県の患者総数は約2300人で、その内の約1500人が亡くなっています。コレラの罹ると三人に二人は亡くなっていたことになります。当時の人々が、 コレラを「コロリ」と呼んで、何よりも恐れた理由が分かるような気がします。
 細菌学者コッホがコレラ菌を発見したのは1883(明治十六)年のことですから、当時は「予防治療」に打つ手がなかったようです。
どんな対応がとられたのかを見てみましょう。
 患者が発生すると、後追い的「消毒」と、避(隔離)病院への「隔離」策をとるぐらいでした。1879年の流行では、知事も感染し、3月1日から始まっていた琴平山博覧会は6月末までの予定でしたが、コレラのため、6月15日に繰り上げて閉会しています。

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 1887(明治20)年には、県は「伝染病予防規約方法書」を定め次のような指示を出しています。
①飲料水は必ず濾過器を通し、また暴飲暴食をせず、飲食物に気を付けること、
②患者発生の場合は、家族はもちろん、五人組親も直ちに組長へ、組長は戸長役場へ届け出ること、
③伝染病の懸念あるときは、届出の処置と同時に、その家の「交通遮断」(隔離)を行うこと。
 ここからは「水や生ものなどの衛生に気をつけて、早期発見と隔離に努める」というのが方針だったことがうかがえます。日本人の衛生概念の高まりはコレラ対策の中から生まれてきたとも云えそうです。
コレラ病アリ」強権的な衛生行政がもたらした監視社会 専門家「歴史繰り返すな」 | 毎日新聞
  隔離先は「避病院」と呼ばれました。
これはいつもは開院しているわけではなく、感染患者が出ると「隔離」収容するための市町村立の病舎でした。そのため施設も貧弱で、医療施設とは呼べないものもあったようです。
感染病に罹災した上に、家族全員が隔離され、周囲から差別を受けるという二次被害もあったことが当時の新聞からは分かります。
  「ハフキン式予防液」の接種が始まるのは、明治も後半になってからです。1902年(明治35)年には、香川県下では約20万人が予防接種を受けています。それでも患者数は県下で2745人、うち死亡者1784人(死亡率65%)の猛威ぶりです。期待された予防接種もあまり効果はなかったようです。
 戦後になると医療の発達や公共衛生の向上を背景に、感染病を国内から駆逐しいくことに成功します。感染病の面でも「安心安全な国」を築き上げたと思っていました。しかし今、目の前に展開されている光景をみると、それはある意味「幻想」であったようです。わたし達は、新たなウイルスと今後も向き合わなければならないことを教えてくれます。しかし、それは百年前とは同じ条件や環境ではありません。より高い医療・衛生環境を背景に立ち向かって行けます。
 わたしにできることは、対処法をよく知ること、頭を冷やすこと、フェイクニュースを流さないこと、おびえないこと、不安がらないことくらいかなと思っています。
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 藤沢周平の「回天の門」の主人公・清河八郎は、幕末に尊攘派の志士として活躍した人物です。彼は26歳の時(1856年)に、母親を連れて金毘羅参りにやって来ています。その旅日記『西遊草』の中に、丸亀からの道中でみた飯野山について、次のように記しています。
飯野山と坂出 御魚堂
飯野山や周辺の里山にも大きな木はない
 付近の子どもが次のように教えてくれた。
 「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」と。このあたりには高い山はなく、摺鉢をふせたような山がぽつりぽつりと見える。そして、山には木々が生えていない。その山々が時々、雲に隠れてまた現れ、様々な姿を見せてくれる。
 ここからは次の2つのことが分かります。
①飯野山は、年に一度しか登ることが許されていなかったこと。霊山として「禁足」された聖なる山だったこと。
②周囲の里山には「木が生えていない=裸山」だったこと。
4344102-34飯野山と飯神社

先に進んで金毘羅での記述を見てみましょう。

 金毘羅の町の賑わいは凄まじい。屋根の着いた橋(鞘橋)を渡ると、そこからは両端に旅籠が軒を並べる内町だ。見事な造りの家ばかりである。お腹も空いたので備前屋という店で昼御飯をとり、そこに荷物を預けて参拝する。金毘羅山は、その名の通り象の頭ようで、草木もない。しかし、神社があるところは山形の仙人林と同じように木々が茂り、大きな森となっている。

 ここには、象頭山も草木がない裸山だったと記します。神社がある所だけが森となっているというのです。これは本当なのでしょうか。

思い当たるのが安藤広重の浮世絵「讃岐象頭山遠望」です。

みんなの知識 ちょっと便利帳】歌川広重・六十余州名所図会/大日本六十余州名勝図会《讃岐 象頭山遠望》

清川八郎が金毘羅にやって来た同じ年に描かれたものです。まんのう町羽間の「残念坂(見返坂)」を上り下りする参拝者の向こうに象が眠るように象頭山が描かれています。山は左側と右側では大きく色合いが違います。なぜでしょう?

象頭山遠景 浮世絵 A

 向かって左側は、金毘羅さんの神域です。右側は、古代から大麻山と呼ばれた山域です。現在は、この間には防火帯が設けられ行政的には左が琴平町、右が善通寺市になります。
 ここからは次のようなことが推論できます。
左側は金毘羅さんの神域で「不入森」として、木々が切られることはなかった。右の善通寺側は、伐採が行われ山が裸になっている。 その背景には、里山の青草や木の若芽を刈り取り、田植前の水田に敷きこんで腐食させ根肥とする刈敷(かれしき)が盛んに行われたためです。そのため里山の木々が春前には大量に切られました。そして、山裾は畠になり、だんだん高くまで開墾されていきます。耕地開発が最も進んだ頃には、まんのう町の里山も丸裸のはげ山だったのかもしれません。それが時を超えて、今は自然に帰っていると見ることもできます。 
本堂より讃岐富士 絵はがき

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満濃池「讃岐国名勝図会」池の宮

 災害記録から色々なことを学び防災に役立てようという動きが広まっています。歴史に学ぶという視点で幕末の満濃池の決壊を見てみましょう。ペリー来航の翌年1854年7月に満濃池は決壊します。これについては「大地震の影響説」と「工法ミス説」があります。通説は「地震影響説」で各町史やパンフレットはこの立場です。しかし、近年見つかった史料は、工法上の問題があったことを示しています。

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満濃池の底樋と竪樋とゆる
長谷川喜平次の提案で木樋から石樋へ 
 満濃池の底樋は、かつては木製で提の下に埋められました。そのため数十年ごとに交換する必要がありました。この普請は大規模なもので、讃岐国全土から人々が駆り出されました。そのために「行こうか、まんしょうか、満濃池普請、百姓泣かせの池普請」というような里謡が残っています。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(補足)

 このような樋管替えの負担を減らしたいと考えていた榎井村庄屋の長谷川喜平は、木製樋管から石材を組み合わせ瓦石製の樋管を採用することにしました。その時に決壊時に流された石材が金倉川から改修工事で見つかっています。
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満濃池の石造底樋官(まんのう町かりん会館)
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工事は嘉永二(1849)年の前半と、嘉永6(1853)年の後半の二期に分けて行われます。この画期的な普請事業の完成に喜平次は
「伏替御普請、奉願上書面之通、丈夫二皆出来候」
と誇らかに役所へ報告しています。これで樋管替の普請から解放されるという思いが伝わってきます。

 しかし、近年に榎井村の百姓総代が倉敷代官所へ提出した文書が直島の庄屋から見つかりました。そこには次のように書かれています。
「石樋の接合のために、前回の普請箇所を掘った所、土圧等により石樋の蓋の部分が十三本、敷石が三本破損していた。(中略)そのため、上下に補強用の桟本を敷き、その上に数千貫の大石を置いたが、桟本が腐って折れると、上に置かれた大石の重さで蓋石が折れ、石樋内に流れ込み、上が詰まってしまい堰堤は崩れるであろう。」

 これ以外にも関係者からは、次のようなという風評があったようです。
「破損部分が見つかっており、それに対して適切な処置ができておらず、一・二年以内に池が破損するだろう」

つまり、木樋から石樋に変えた画期的な普請は、関係者の間では「欠陥工事」という認識があったのです。
 三 嘉永7年7月9日 満濃池決壊
 嘉永六(1853)年11月普請がようやく終ります。翌年のゆる抜きも無事終え、田植えが行われました。その後、6月14日に強い地震が起こり、7月5日に池守りが底樋の周辺から濁り水が噴出しているのを発見します。そして4日後には、堤防は決壊するのです。
この後、満濃池は16年間、明治維新を迎えるまで決壊したまま放置されるのです。どうして修復されなかったのでしょうか?  それはまた次回に・・。

満濃池結果以後1869
決壊したまま放置された満濃池 池の中を金倉川が流れる
 
参考文献 芳渾直起 嘉永七年七月満濃池決壊 香川県立文書館紀要
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満濃池 底樋

満濃池の樋(ユル)は木製でしたので、定期的に交換しないと朽ちて堤が崩壊してしまいます。そのために堤を何カ所に分けて、数年ごとに樋替え普請(工事)が行われました。これには、水掛かりに関係なく讃岐全域から人々が動員されました。つまり、三豊や高松の農民も動員されたのです。大きな出費や労力を負わされた人々は
「行こか まんしょか(やめようか) 満濃普請 百姓泣かせの池普請」
と歌ったといいます。

ため池普請2

 大野原(観音寺市)の井関村庄屋・佐伯家には、文政三(1820)年の池普請に参加した佐伯民右衛門が残した「満濃池御普請二付庄屋出勤覚書」があります。この記録から池普請に動員された人たちを見てみましょう。
 この時の普請は、堤の外側を掘り下げ、木製底樋の半分を交換するものでした。現在の観音寺市大野原町の和田組の村々からは、約三百名の人足が動員されています。その監督役として、民右衛門は箕浦の庄屋小黒茂兵衛と満濃池にやってきます。九月十二日の早朝に出立した人足集団は、財田川沿いの街道をやって来て昼下がりに宿泊地に指定された帆山(旧仲南町帆山)に到着します。そして、丸亀藩役人衆への挨拶に行っています。ちなみに帆山までが丸亀藩、福良見は高松藩でした。ここに当時の「国境」があったのです。そのため丸亀領の帆山の寺院などに分宿したようです。食料持参の自炊で、手弁当による無償動員なのです。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(補足)

 翌日、太鼓の合図で周囲に分宿していた人たちが集まってきます。それが「蟻が這うように見えた」と記します。十三日は雨天で工事は休み、十四日もぬかるみがひどく休日。十五、十六両日は工事を実施。和田組村々の人足は、三班に分かれて工事を行っています。
DSC00824

 ところが事件が発生します。和田組の人夫が立入禁止区域に入って、用を足したことを見咎められ、拘束されたのです。これを内済にしようと、民右衛門は奔走。その結果、池御料側の櫛梨村庄屋庄左衛門らの協力により、ようやく内々に処理することにこぎつけます。そのためか十六日は、事件を通じて顔見知りになった櫛梨村と和田組村々の人足が、同じ班に入って作業を行っています。

DSC00823

 同日昼下がりに、民右衛門は五日間の役目を終え、夜更けに帰宅しています。庄屋として責任を果たし、安堵したことでしょう。
 三豊の百姓にとって自分たちの水掛かりでもない満濃池の普請に、寝泊まりも不便な土地でただ働きをさせられるのですから不満や不平が起きるのは当たり前だったのかも知れません。しかし、一方で民右衛門のように「事件」を通じて他領他村の人々との交流が生まれ、人的なネットワークが形成されるきっかけにもなりました。また満濃池普請という当時の最先端技術についての情報交換の場になり、地元での土木工事に生かされるという面もあったようです。財田の大久保諶之丞も若い頃に、この普請に参加して土木工事技術を学んだようです。それが後の四国新道工事に活かされていきます。
満濃池遊鶴(1845年)
満濃池遊鶴図(1845年) 
当時は鶴が池のまわりを舞っていたようです

  参考文献 大野原町史

  満濃池 西嶋八兵衛復興前1DSC00813
  
 幕末の「讃岐国名勝図会」には、源平の戦いの最中の元暦元年(1184)の大洪水で決壊してから、満濃池跡は
「五百石ばかりの山田となって人家なども建ち、池の内村と呼ばれた」
と記しています。それでは、満濃池はどのようにして再築されたのでしょうか。「満濃池営築図」を見ながら再築の様子を追ってみましょう。
まんのう町 満濃池営築図jpg
 この図絵に描かれているのは、崩壊から450年間放置された江戸時代初めの堤付近の姿です。
①の上から下に伸びる道路のように見えるのが金倉川で、川の中には石がゴロゴロと転がっています。
②の中央の島のように見えるのが池の宮があった丘で
③の右側の流れは「うてめ」(余水吐)の跡ですが、川のように描かれています。
③金倉川を挟んで、左右に丘があります。古代の満濃池は、この丘を堰堤で結んでいました。
④左(東)側が「護摩団岩」で、空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる所です。今は、この岩は満濃池に浮かぶ島となってほとんどが水面下です。
⑤右上の池の内側に当たる所に注目してください。ここに数軒の民家と道、農地を区切るあぜ道が描かれています。これが、池跡にあった「池内村」のようです。
満濃池DSC00881
「うてめ(余水吐け)」の奥には、家屋や田んぼが描かれている

 絵図の上部には、文字がぎっしりと書かれています。ここには寛永5年(1628)10月19日の鍬始め(着工)から、同8年(1631)2月の上棟式(完工)までの日付ごとの工程、奉行・普請奉行の氏名、那珂・宇多・多度3郡の水掛高、そして最後に、西嶋八兵衛による矢原正直との交渉が記されています。
満濃池の再築に向けて、二人の間で何が話し合われたかを推測してみましょう。
再築工事開始の二年前、寛永3年(1626)8月に、生駒藩奉行の西嶋八兵衛が池ノ内村の矢原正直方へやって来た。毎年の日照りについて相談がなされた。そこで、正直は池の内に所持している田地を池の復興のために残らず差し出すことを申し出た。
 つまり、この図に描かれている田畑や家屋が池の内村で、その領主が矢原家であったようです。満濃池を再築するにあたっては、土地の持ち主であり、有力者である矢原家の協力を欠くことができなかったのでしょう。  
 この功績に対して生駒藩は矢原家を満濃池を管理する池守に任じ、同時に池上下において五〇石を与えます。
 「讃岐国名勝図会」の「神野神社の釣燈篭銘文」からは、矢原家の歴代当主が氏神である神野神社の社殿の再建を願主として行っていたことが分かります。つまり、矢原家は池内村の領主であったようです。
 こうして、堰堤が出来上がり水がためられると池の内村は、池の中に姿を消すことになったのです。
満濃池史
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
820年讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池修築を伺い、築池使路真人浜継が派遣され修築に着手。
821年5月、復旧難航により、築池別当として空海が派遣される。その後、7月からわずか2か月余りで再築。
852年秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852年8月、讃岐国守弘宗王が万農池の復旧を開始し、翌年3月竣工。
1022年 満濃池再築。
1184年5月、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1628年 生駒藩西嶋八兵衛が満濃池再築に着手。
1531年 満濃池、再築
1649年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋前半部を石製底樋に改修。
1653年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋後半部を石製底樋に改修,
1654年 6月の伊賀上野地震の影響で、7月5~8日、満濃池の樋外の石垣から漏水。8日には櫓堅樋が崩れ、9日九つ時に決壊。満濃池は以降16年間廃池。
1866年 洪水のため満濃池の堤防が決壊して金倉川沿岸の家屋が多く流失し青田赤土となる。長谷川佐太郎、和泉虎太郎らが満濃池復旧に奔走。
1869年 高松藩執政松崎渋右衛門、長谷川佐太郎と満濃池視察。
    8月、満濃池、岩盤の掘削によって底樋とする工事に、軒原庄蔵を起用`満濃池の復旧工事に着手。
    9月、岩盤の掘削工事に着手。
1870年3月、石穴底樋貫通。6月、満濃池堤防復旧。7月、満濃池修築完了

  参考文献
 香川大学名誉教授 田中健二 歴史的史料からみた満濃池の景観変遷 満濃池名勝調査報告書

 町報に満濃池が国の名勝指定のことが伝えられていました。そこで、今回は満濃池が消えていた中世の様子を見ていくことにします。
 幕末の「讃岐国名勝図会」(1854年)は
「平安末期に、大洪水により堤は崩壊して跡形もなくなり、石高500石ばかりの山田となり、人家も置かれて、池内村と呼ばれた」

と記します。旧満濃池の底地は、耕地化され集落ができて池内村と呼ばれていたと言うのです。本当なのでしょうか?
  史料から中世の状態を確かめましょう。
堤防崩壊から百年以上経った14世紀初頭の「昭慶門院御領目録」には、亀山上皇が皇女に譲った讃岐の29の荘園の郷名が記されています。そこには、吉野郷や吉野新名とならんで「万之(満濃)池」の郷名が見えます。その下には秦久勝という知行人(土地を治める人物)の名もあります。秦久勝は、亀山上皇の家臣です。つまり「万之池」は、旧満濃池が再開発されて荘園となり、領有していた地元開発領主が、国司の収奪から逃れるために亀山上皇に寄進し、泰久勝が上皇の荘園管理人として「万之池」を支配していたことが分かります。しかし、その時の現地の開発領主が誰なのかは、記されていません。なお、当時は「まんのう池」でなく「まの池」と呼ばれていたことも分かります。
 その後「万之池」は京都の上賀茂社の社領に移ります。
上賀茂神社には「長禄二年(1457)五月三日」の日付の入った次のような送状が残されています。
「合わせて六貫六百文といえり。ただし口銭を加うるなり。右、讃岐国萬乃池内御公用銭、送り進すところくだんのごとし   賀茂御社沙汰人御中       瀧宮新三郎 」
これは讃岐在住の瀧宮新三郎が荘園主の上賀茂神社に提出した年貢請負の契約書です。内容は「讃岐国万萬乃池内」の領地を請け負いましたので、その年貢として銀6貫600文を送金します。ただし「口銭」料も入っています」とあります。「口銭」は手形決済の手数料です。この時代には、すでに手形決済が可能でした。また、請負人の瀧宮新三郎は、その姓から現在の滝宮を拠点とする綾氏に連なる武士団の統領かもしれません。
 以上の史料から池跡地は、田地化が進み、讃岐の国人が請け負って上賀茂社へ年貢を納めていたことがわかります。
しかし、「池内村」という地名はでてきません。荘園の表記は「万乃池」です。「池内村」と表記されているのは、江戸時代初の「讃岐国絵図」(丸亀市立資料館所蔵)が初めてのようです。

まんのう町 満濃池のない中世地図
図の中央の金倉川を、源流にさかのぼっていくと小判型の中に「池内」と記されています。村名が小判型で示されていますので「池内」は村名です。この後の寛永年間(1633)に西嶋八兵衛による再築がなされ、池内村は姿を消すことになります。そして、満濃池が450年ぶりに姿を現すことになります。
参考文献 
  香川大学名誉教授 田中 健二 
 歴史資料からみた満濃池の景観変遷    
 満濃池名勝調査報告書
  

 大川山 割拝殿から
中寺廃寺割拝殿跡から見上げる大川山

大川山を仰ぎ見る中寺廃寺の礎石に座って考えたことが今回のお題です。中寺廃寺からは銅製の密教法具である錫(しやく)杖(じよう)や三鈷杵(さんこしよう)の破片が出土しています。そこから修験者が、寺院が建てられる前から小屋掛け生活して、周辺の行場を回りながら「修行」をしていたことがうかがえます。また、出土した法具は、空海が唐から持ち帰る以前の古い様式のものです。つまり「空海以前」に中寺廃寺は存在し、行者達の修行が行われていたようです。

大川山 中寺廃寺

 空海が密教を志した8世紀後半は、呪法「虚空蔵求聞持法(ごくぞうぐもんじほう)」の修得のため、山林・懸崖を遍歴する僧侶が現れた時期でした。中寺廃寺は、これにうってつけの場所で壊れた法具の破片は厳しい自然環境の中、呪力修得にむけ厳しく激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を、物語っているようにも思えます。そして、その中に若き空海の姿もあったかもしれません。

まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺の仏塔復元図
 大川山信仰に始まるこの聖地に、仏堂・割(わり)拝(はい)殿(でん)や僧房などが建てられ、讃岐国の中で重要な山岳寺院に発展していくのが十世紀頃とされます。ところで山岳修行は、寺院というハコモノがなくともできます。
ではなぜ、この時期に、この山奥に寺院が建立されたのでしょうか。
 まず、その立地条件です。今は「山奥」ですが、かつては讃岐と阿波をつなぐ「街道」がいくつも近くを通っていました。また周辺山間部は、炭・漆・粉板(屋根葺き材)などの産地として有名で、豊富な山の資源が得られる場所でもありました。平安時代には、地方豪族や大寺院による山野の囲い込みと開発が進んだと云われます。こうした動きと山岳寺院の建立とは深い関わりがあるようです。同時期の金倉寺や道隆寺など、平野部での新たな寺院建設も、平野や海浜部での開発と関係します。これらが十世紀前後からの「第二の寺院建設ブーム」を生みだし、学問寺や修行道場(山岳寺院)といった今までにないスタイルの「思索の場としての寺院」が生まれる背景があります。その整備が後の空海をはじめとする讃岐出身の高僧輩出を、もたらすことにつながります。

大川山 中寺廃寺割拝殿
中寺廃寺割拝殿復元図

 中寺廃寺が、修行の場から山岳寺院へと変貌し、建物が建設されはじめるのが十世紀前後です。
それは、山岳寺院のネットワーク形成のスタートでもありました。この寺の西には野口ダムの谷を挟んで尾野背寺、さらに讃岐山脈の稜線をたどれば中蓮寺から雲辺寺と山岳寺院が山上に続きます。それは遠く石鎚まで伸びています。そして目を里に向ければ、種子には宗教荘園が開かれ金剛院が、その宗教センターとして機能するようになります。これらの山岳密教寺院は孤立していたのでなく、行(ぎよう)場(ば)ネットワークとして結ばれていたのです。各地に開かれた行場を「辺路修行」することが「四国遍路」につながります。つまり、ここは四国霊場の原初的な姿が見える所でもあるのです。
参考文献

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 図書館で何気なく郷土史コーナーの本達を眺めていると「尊光寺史」という赤い立派な本に出会いました。手にとって見ると寺に伝わる資料を編纂・解説し出版されたもので読み応えがありました。この本からは、真宗興正寺派がまんのう町へどのように教線を拡大していったのかが垣間見えてきます。尊光寺が真宗を受けいれた戦国時代末期の情勢と、長尾城主の長尾氏の動きを見ておきましょう。

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まんのう町種子のバス停から見える尊光寺

  長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。
そのためか讃岐の大名となった生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、孫の孫一郎も尊光寺に入ります。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだのです。長尾城周辺の寺院である善性寺・慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。
 まんのう町での真宗伝播に大きな役割を果たしたのが徳島県美馬市郡里の安楽寺です。
この寺は興正寺の末寺で、真宗の四国布教センターの役割を担うことになります。カトリックの神学校がそうであったように、教学ばかりか教育・医学・農業・土木技術等の研修センターとして信仰的情熱に燃える若き僧侶達を育てます。そして、戦国時代になると彼らが阿讃の峠を越えて、まんのうの山里に布教活動に入ってきます。山沿いの集落から信者を増やし、次第に丸亀平野へと真宗興正寺派のお寺が増えます。

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尊光寺
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと伽藍が整のっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、今から見ればちっぽけな掘建て小屋のようなものです。そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。
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六字名号

そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えます。農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていきます。この点が他の宗派との大きな違いなのです。ですから、山の中であろうと道場はわずかな場所で充分でした。
 縁日には、村の門徒が集まり家の主人を先達に仏前勤行します。正信偈を唱え御文書をいただき、安楽寺からやってきた僧侶の法話を聞きます。そして、非時を食し、耕作談義に夜を更かすのが習いでした。
 やがて長尾氏のような名主層が門徒になると安楽寺から領布された大字名号を自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花器を置いて仏間にしました。それがお寺になっていた場合もあります。
  尊光寺も長尾氏出身の僧侶で、この寺の中興の祖と言われる玄正の時に総道場建設が行われ、1636年には安楽寺の末寺になります。安楽寺の支配に属する寺は、江戸時代には、讃岐50、阿波21、伊予5、土佐8の合計84ヶ寺に達し四国最大の真宗寺院に発展します。讃岐の末寺の多くは中讃に集中しています。中讃に真宗(特に興正寺派)の寺院がたくさんあるのは、安楽寺の布教活動の成果なのです。

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尊光寺から見える種子集落と阿讃山脈
 本寺末寺関係にあった寺院は、江戸時代には阿讃の峠を越えて安楽寺との交流を頻繁に行ます。また、讃岐布教の最前線となった讃岐側の山懐には、勝浦の長善寺や財田の宝光寺などの大きな伽藍を誇る寺院が姿を見せます。
 さらに、お寺の由緒に
「かつては琴南や仲南の山間部にあったが、江戸時代のいつ頃かに現在地に移転してきた」
と伝わるのは、布教の流れが「山から里へ」であったことを物語っています。このため中西讃の真宗興正寺派の古いお寺は山に近い所に多いようです。
  最後に確認したいことは、この布教活動という文化活動は、瀬戸内海を通じて海からもたらされた物ではないということです。流行・文化は、海側の町からやって来るという現在の既成概念からは捉えられない動きです。 もう一度、阿讃の峠を通じたまんのう町と阿波の交流の実態を見直す必要があることを感じさせてくれました。

  新しいことは当分の間は書けそうにないので、これまでにまんのう町報のために書いてきた原稿を転載することにします。悪しからず。今回は、100年前の琴平以南の土讃線延長工事についてです。

琴平駅から南の土讃線建設は、どこから始まったか?                
今から130年前の1889(明治22)年5月21日に、丸亀・琴平間で「陸蒸気」が走り始めます。四国で2番目の鉄道開通でした。多度津駅構内での式典に参列した財田の県会議員・大久保諶之丞は祝辞の最後を
「(鉄道)を四州一巡スルニ至ラシメバ、貨多ヲ加へ運送便ヲ得ルヤ必セリ、是ノ時二当テ塩飽諸島ヲ橋台トナシ山陽鉄道二架橋連結セシ」

と未来への大きな「夢と課題」を語りました。しかし、その後の鉄道は琴平から南にはなかなか伸びません。高知への路線が決定して、線路建設が始まるのは第一次世界大戦が終わって2年後の1920(大正12)年4月3日)のことです。琴平までの鉄道開業から30年以上の年月が経っていました。
 開業時の琴平駅は現在の琴参閣ホテルにあり、ここが終点駅でした。土讃線が琴平を通過するには線路を琴平市街の東側に移し、新しい駅舎を作る必要がありました。そこで、ルート変更が行われます。現在の大麻神社前の踏切から左にカーブして金倉川を渡り、直進した所に新駅が建てられることになります。ところが、ここに問題が起きます。当時、認可を受けていた高松ー琴平を結ぶ「コトデン」の線路と交差するのです。そこで、その解決策として土讃線を土盛りして、コトデンの線路の上を高架させる策がとられます。このために、新琴平駅と金倉川までの区間は高く土盛りする必要が出てきました。

コトデン 土讃線交差
コトデンの線路を跨ぐ土讃線高架 後は象頭山

琴平駅と土讃線の土盛り用土砂は、どこから運ばれてきたの?
 当時の新聞「香川新報」には着工後6ケ月たった進捗状況を
「工事にあたっては三坂山より東の神野方面にはトロッコで土砂を運び、西の琴平新駅方面には豆機関車で運搬している。新駅から旧線の分岐点である大麻までの工事は、来月下旬頃に着工予定」

と記されています。また1年経った5月30日の記事には
「鉄路の土盛はほとんど全部終えて、新琴平駅の土盛り作業が小機関車に土運車十数輛をつないで三坂山より運搬して、土盛りし既に大部分埋立てられている」

とあります。  つまり、工事の起点は三坂山であったことが分かります。
まんのう町三坂山切通
まんのう町三坂山切通 ここから盛土はトロッコ列車で琴平駅方面に運ばれた
さて、それでは「三坂山」とはどこにあるのでしょうか?
三坂山は、土讃線と現在の国道32号バイパスが交差する南西側の小さい丘のような山で、すぐ東側を金倉川が流れています。この山の裾の三坂山踏切に立ち琴平方面を眺めてみると、まっすぐに線路が琴平に向かってゆるやかに下って行くのが見えます。ここを切り崩した土砂で整備した上に土讃線のレールは敷かれていったのです。そして、琴平駅もここから「豆機関車」で運ばれた土砂で土盛りされた上に建っているのです。ちょうど百年前の話になります。
 また新聞には
「塩入・財田間の工事も京都の西松組が請負って、本年3月に起工し、目下各方面に土盛をして軽便軌道を敷いて手押土運車で土砂を運んでいる。しかし、これから農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定である」

 確かにかつては「5月麦刈り、6月田植え」で農繁期になり、農家はネコの手も借りたい忙しさでした。線路工事は、農家の男達の冬場の稼ぎ場としては、いい働き口でしたが本業の「田植え」が最優先です。そのため工事は「停滞」するというのです。
まんのう町三坂山踏切
三坂山踏切からの象頭山

工事開始から4年目の春、琴平・財田間の開通日を迎えて次のように報じます。
1919 大正8年9月 実測開始 
1920 4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)
1920 大正 9年4月 3日 土讃線琴平~財田着工。
1923 大正12年5月21日
1923 大正12年5月21日 土讃線琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
 

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