瀬戸の島から

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地元の研究者を招いて、小さな講演会兼学習会を2ヶ月に一度開いています。今回のテーマは「讃岐鉄道と明治の近代化」です。講師の松井さんは、社会人として香川大学の大学院に入られて、このテーマについて研究を重ねて論文を出された方です。濃いお話が聞けるはずです。会場はまんのう中学校に隣接する建物です。興味があり、時間的に都合の付く方の参加を歓迎します。

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   高瀬町史の年表篇を眺めていると幕末の慶長2年のところに、次のような記事がありました
1866(慶応2)年
1月 坂本龍馬の斡旋で薩長連合成立
6月20日  丸亀藩 幕府の長州討伐に対しての警備強化通達に応えて、領内8ケ所に「固場」を置き郷中帯刀人に「固出張」と命じる(長谷川家文書
12月 多度津藩、横浜でミニュエール銃を百丁買い入れる
この年、多度津藩は50人編成の農民隊「赤報隊」を組織する

 第二次長州戦争が勃発する中で、濁流のように歴史が明治維新に向けて流れ出す局面です。多度津藩は、その流れの中で長州の奇兵隊を真似て、赤報隊を組織しています。一方、丸亀藩はと見ると「固場」を設置しています。これは何なのでしょうか。「固場」に光を当てながら、丸亀藩の幕末の動きを見ていきたいと思います。テキストは 小山康弘  讃岐諸藩の農兵取立 香川県立文書館紀要   香川県立文書館紀要NO4 2000年 

丸亀藩では慶応元(1865)年に第二次長州征伐に備えて、軍用人足の徴用が行われています。
ところが徴用に応じたのは20人に過ぎなかったと長谷川家文書には記されています。困った村々の庄屋たちは相談の上で、次のような口上書を藩に提出しています。

夫役人足之義は高割にて組分取計、村分ケ之所も右に順シ高割にて引分ヶ、村方においては鵬立之者相選、家別に割付人数国取にて繰出候事」
意訳変換しておくと
夫役人足の不足分については村高に応じて人数を割り当て、強健な者を選び、家ごとに割り当てる。以下、寺社井びに庄屋、組頭、五人頭、肝煎、使番の医師などは除き、十五歳より六十歳の者から差出す。

 つまり、村役人や医師は除いて、農家の家毎に強制的に割り当てるという案です。そして賃銀は一日拾匁位で、半分を藩より、半分は村方より出す。留守中の家族は宿扶持を支給し、農地は親類や村方で面倒を見る。出勤日数は適当に交替する。出夫の者が病死し、残された者が難渋する場合は御上より御救遣わす等が列記されています。
 藩にとっても、軍用人足の徴用は簡単にはいかなかったことがうかがえます。
幕末のすべて
第二次長州戦争

  第二次長州戦争が本格化すると、瀬戸内海沿岸の丸亀藩も領内監視体制を強化することを幕府から求められます。
その一貫として、翌年の慶応2(1866)年6月11日に設けられたのが「御固場」です。
「当今不容易形勢に付、郷中帯刀之者野兵と相唱、要路之場所え固めとして出張申付候」

意訳変換しておくと
昨今の不穏な情勢に対応するために、郷中の帯刀者を野兵として、街道の重要地点において、その場所の監視や固めのために出張(駐屯)を申しつける。

御固場の設置は、次の8ヶ所です。
左(佐)文村牛屋口、      (まんのう町佐文 伊予土佐街道)
大麻村にて往還南手処、   (善通寺大麻村 多度津往還)
井関村御番所、                 (観音寺市大野原町)
箕之浦上州様御小休場所 (豊浜町 伊予・土佐街道)
和田浜にて往還姫浜近分南手処、 (豊浜町)
観音寺御番所
仁尾村御番所
庄内須田御番所                 (詫間町須田)
そして取締り責任者に、次の者達が任ぜられます。
佐文村 宮武住左衛門、 寛助左衛門
大麻村 真鍋古左衛門、 福田又助
庄内 斉田依左衛門、 早水伊左衛門
仁尾村 松原得兵衛、 真鍋清左衛門
観音寺 勝村与兵衛、 須藤弥一右衛門
井関村 古田笑治、 西岡理兵衛
和田浜 藤寛左衛門、 渡辺半八
箕浦 大田小左衛門 早水茂七郎
この取り締まりを命じられた人たちは、どんな立場の人たちなのでしょうか
彼らは「野兵」と呼ばれた人たちで、大庄屋、庄屋を除く帯刀人だったようです。大麻村では、人数不足のために7月には、神原幸ら十人が新たに「出張」が命じられています。その働きに対して「御間欠これ無き様厳重相勤候様」と「礼状」が出されています。野兵は9月には58人に増員されます。

6月19日には、丸亀の商家大坂屋に数人の浪人が押し入り、番頭二人を殺害し、放火するという事件が起きます。残された書状には、「天下精義浮浪中」と名乗り、砂糖入札などを通じ、藩の要人と結託した奸商を成敗するとありました。巷では尊攘志士のしわざとの噂もあり、小穏な情勢が生まれていきます。このような状態を受けて、6月27日に、丸亀藩の京極佐渡守家来宛に幕府より次のような通達がきます。
「此度防長御討伐相成候二付、国内動揺脱た等も之れ有り、自然四国え相渡り粗暴之所行致すべくも計り難く候間、ゝ路之場所え番兵差出置、怪敷者見受候はゞ用捨無く討取候様致すべく根、其地近領え乱妨に及び候義も之れ有り候はゞ相互に応接速に鎮定候致すべく候」。
意訳変換しておくと
「この度の防長討伐については、国内の動揺もあり、その影響で四国へ渡り粗暴を働く者がでてくることも予想でる。ついては要路に番兵を置き、怪しい者を見受た時には、容赦なく討取ること。また、近隣で乱暴を働くような者が現れたりした時には、相互に協力し、迅速に鎮圧すること。」

御固場設置は、長州討伐にともなう不穏な情勢を、事前に絶つための治安維持のために設けられたようです。
御固場が、どう運営されたかを見ておきましょう。
 御固場に出仕する「野兵」への手当はなく、ボランテア的存在でしたが食事は出たようです。その経費について「御固メ所御役方様御賄積り書」には、次のように記されています。
「御役方様御賄之義は先づ村方より焚出候様、尤一菜切に仕り候ゝ仰付られ候、然に御手軽之御賄方には御座候へ共、当時諸色高直に御候間、余程之入箇に相見申候」
「一ヶ所一日之入筒高凡百五拾目、八ヶ所一日分〆高を貫弐百目に相成、一ヶ月二拾六貫日、当月より当暮まで六ヶ月分弐百冷六貫日、此金三千両に相成候様相見申候」
  意訳変換しておくと
「御固場に出仕する野兵の食事については、先づ村方で準備するように。内容は一菜だけでいいとの仰付けであった。確かに高価な賄いではないが、この節は物価も上がっているので、大きな経費になりそうだと話し合っている

「一ヶ所の御固場の一日当たりの経費として凡150目、八ヶ所では一日分合計1貫200目になる。これは一ヶ月で26貫芽、当月から今年の暮までの6ヶ月分では2弐百十六貫日、併せて三千両の見積もりとなる」

と、当初から多大な経費がかかることが危惧されていたようです。
周辺の住民は、御固場近隣の見回りに駆り出されています。

「敷地之者軒別順番にて三・四人づヽ見廻り仕らせ候ヶ処も御座候、(中略)如何様当今米麦高直故、家別廻り番当たり候ては迷惑之者御座候故に相聞申候
意訳変換しておくと
「地域内の者を家軒別に順番で、三・四人づつで見廻させている所もありますが・・(中略) 
当今は米麦の値段も上がり、家別の廻り当番が頻繁に当たっては(麦稈などの夜なべ仕事もできず)迷惑至極であるとの声も聞こえてきます。
御固場は、近隣の村々には迷惑だったようです

これに対して、9月2日には御用番岡筑後より指示があり、次の条目が御固場に張り出されます
一、御固所出張之者共心得筋之義は、取締役も仰付られ、一通規定も相立候由には候得共、猶又不作法之義これ無様厳重二番致すべき事
一、出番之義昼夜八人相詰、四人づゝ面番これ有、通行之者鳥乱ヶ間敷儀これ有候はゞ精々押糾申すべき事
一、組合々々之中、筆上直支配之者申合、油断これ無き様気配り令むべき事
一、面番之者仮令休足中たりとも、外方え出歩行候儀停止たるべき事
一、若病気にて出張相調い難き者これ有候節は、其持場出張之者共え申出候はヾ 与得見届け、弥相違これ無候得ば連名之書付を以て申出るべき事
一、非常之節、固場所にて早拍子木太鼓打候はゞ、其最寄り々々にて請継ぎ、銘々持場え駆付け相図中すべき事
一、非常之節、銘々持場を捨置、家宅を見廻り候義は無用之事
但、近火之節、代り番申遣置、引取候て不苦、盗難同断之事
一、出番中酒肴取扱い之義堅無用之事
右之条々堅相守申すべきもの也
意訳変換しておくと
一、御固所への出張勤務している者の心得については、取締役からの仰付であり、規定も出しているので、不作法がないように厳重に勤めること
一、勤務については昼夜8人体制で、4人づつが交替で監視に当たること。通行者による騒動が起きないようにし、もし発生すれば速やかに取り締まること
一、組内のメンバー同士は、意思疎通をはかり、上に立つ者の指示に基づいて、油断のないように  気配りすること。
一、当番のメンバーは休息中といえどもも御固所を離れて、外へ出歩くことのないように
一、もし病気で出張(勤務)ができない場合は、組のメンバーに申し出、メンバーが確認し、間違いないことを見届けた上で連名で書付(欠勤届)を提出すること
一、非常時には固場所で早拍子や太鼓を打ち鳴らし、最寄りの村々に知らせること、その際には早  急に持場へ駆付け対応すること
一、非常の際には、持場を捨てて、自分の家を見廻るようなことはしないこと
  ただし、火事の時には、番を交替し、引取ることを認める。盗難についても同じである
一、出番(勤務)中の酒肴は、堅く禁止する
  以上について、堅く守ること

長州征伐は幕府の苦戦が続き、8月11日になると将軍家茂死去を理由に征長停止の沙汰書が出されます。そして10月には、四国勢も引き揚げを開始します。これにともなって御固所も役目を終えたようです。6月に設置されてから約4ヶ月の設置だったことになります。
御固所が解散された後の治安維持は、村々に任されます。つまりは、村役人に丸投げされたことになります。以後の対応も問題ですが、それ以上の問題は、今までの御固所の運営経費の精算も済んでいなかったことです。この方が庄屋たち村役人にとっては心配だったようです。
 そんな中、11月21日になって、次のような通達が藩から廻ってきます。
一、太鼓鐘拍子木等鳴候はゞ、聞付け次第村方庄屋役人は得物持参、百姓は竹槍持参駆付け、妨方心配致すべき事。 
一、村庄屋役人罷出候節、村高張、昼は職持たせ、役人は銘々提灯持参致すべき事
一、村々において廿人歎廿五人歎壼組として其頭に心附候者二人位相立、万一之節は其頭之者方へ相揃付添組頭所え罷出、案内致し、指図を請罷出申候事」
意訳変換しておくと
一、太鼓・鐘・拍子木などが鳴るのを聞いたら直ちに、村方庄屋役人は武具を付けて、百姓は竹槍持参で駆付けるなど、騒動の早期鎮圧に心がけること
一、村庄屋役人が出動するときには、村高張、昼は職持たせ、役人はめいめいに提灯を持たせること
一、村々において20~25人を1組として、そのリーダーにしっかりとした者2人を立て、万一の時には、そのリーダーの者へ集合し、組頭の所へ出向き、指図を受けること
伝達された内容は、御固場条目を踏襲しているようです。
ここから分かるように、丸亀藩の御固場は、長州征討に伴う不穏な事態に対処するために設けられた軍用人足だったことです。それも長州征討が行われた慶応2年6月から10月にかけての、わずか4月間の設置だったようです。
   これは、隣の多度津とは大違いです。多度津藩の軍備近代化についての意義や評価をもう一度見ておきましょう。
白方村史は次のように評価します。
赤報隊は、地主や富農の子弟からえらばれ、集団行動を中心とする西洋式戦術によって訓練され、戦闘力も大きく、海岸防備や一揆の鎮圧、さらに維新期の朝廷軍に協力してあなどり難いものがあった」

三好昭一郎の「幕末の多度藩」には、次のように記されています。
「兵制改革展開の上で最大の壁は、何といっても家臣団の絶対数不足という現実であったし、藩財政の窮乏に伴って地方に対する極端な負担増を背景として発生することが予想される農民闘争に対して、十分な対応策を早急に講じなくてはならないという、二つの課題の同時的解法の方策が求められていた」

「沿海漁業権や藩制に対する丸亀藩のきびしい干渉や制約のもとで、宗藩からの自立をめざすための宮国強兵策として推進されるとともに、何よりも外圧を利用することによって、慢性的藩財政の窮乏を克服するための財源を得、さらに藩の支配力低下と農村荒廃による石高・身分制原理の引締めをめざそうとする意図をもって、藩論を統一し兵制改革に突破口を見出だそうとしたことも明らかな史実であった」

以上から多度津藩の軍備の近代化の意図と意義を次のようにまとめておきます。
①幕末の多度津藩は近代的な小銃隊を編成することを最重要課題とした。
②そのためには、武士層が嫌がるであろう銃砲隊を新たな農兵隊によって組織することで兵制改革を実現しようとした
③その軍事力を背景に、藩内の諸問題の打開を図るとともに、幕末情勢に対応する藩体制の強化をねらった。
このような多度津藩の取組に比べると、丸亀藩の対応の遅れが対照的に見えてきます。
丸亀藩では、多度津藩に比べると新たな兵制改革に取り組む意欲には欠けていたようです。丸亀藩でも、洋式銃隊は上級藩士の子弟で集義隊が編成されます。ところがペリー来航の翌年の元治元年(1854)6月、集義隊員の6人が脱藩事件を起こします。彼らが提出した建言書には次のように記されています。
「御向国御固め武備御操練等も御座遊ばさるべき御儀と存じ奉り候処、今以て何の御沙汰もこれ無く、右様御因循に御過し成され候ては、第一朝廷を御欺き幕府を御蔑成され候御義に相当り、実に以て国家の御大事恐燿憂慮の至りに存じ奉り候。依て熟慮仕り候処、御家老方には御重職の儀御奮発御配慮御座候有るべくは勿論の御儀には候へ共、全く以て姦人等両三輩要路に罷り在り、一己の利欲に相迷い、武辺の儀ハ甚だ以て疎漏」(村松家文書)

意訳変換しておくと
「国を守るための武備や操練などが行われるものと思っていましたが、今以て何の御沙汰もありません。このようなことを見逃しているのは、朝廷を欺き幕府を侮ることになります。実に以て国家の大事で憂慮に絶えません。なにとぞ熟慮の上に、家老方には重職に付いての件は、奮発・配慮の結果とは思いますが、この3人は全く以て姦人で、要路に居ること自体が問題で、一己の利欲に相迷い、武辺の儀ハ甚だ以て疎漏な輩です」(村松家文書)

 これだけでは訓練の中で何が起こっていたのかは分かりません。しかし、管理運営をめぐって反発する若者が脱藩したことは分かります。彼らはまもなく帰還しています。これに対する処罰も与えられた形跡はありません。所属隊から脱走しても責任が問われない軍隊だったことになります。

当時の丸亀藩では、原田丹下らの洋式訓練と佐々九郎兵衛らの和式訓練との対立が激しかったようです。藩主自らが「西洋銃砲でいく!」と決めて、突き進んだ多度津藩とは出発点からしてちがうようです。そして、その対立は明治元年の高松征討の際にまで続いていたようで、高松に向けてどちらが先に立って出発するかろめぐって和式と洋式が争ったという話が伝わっています。ここからは丸亀藩では、藩を挙げての兵制改革はほど遠い状態であったことがうかがえます。

以上をまとめておきます。
①多度津藩は、小藩故の身軽さから藩主が先頭に立って、軍制の西洋化(近代化)を推進し、農民兵による赤報隊を組織することに成功した。
②赤報隊を組織化を通じて藩内世論の統一にも成功し、挙国一致体制を取り得た。
③その成功を背景に、幕末においては土佐藩と組むことで四国における特異性を発揮しようとした。④一方、丸亀藩はペリー来航後も藩内世論の統合ができず、幕末の動乱期においても、その混乱を主体的に乗り切って行こうとする動きは見られなかった。
④それは長州戦争時に設置された御固場に象徴的に現れっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 小山康弘  讃岐諸藩の農兵取立 香川県立文書館紀要   香川県立文書館紀要NO4 2000年 

  讃州竹槍騒動 明治六年血税一揆(佐々栄三郎) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

本棚の整理をしていると佐々栄三郎の「讃州竹槍騒動 明治6年血税一揆」が目に入ってきました。ぱらぱらと巡っていると私の書き込みなどもあって、面白くてついつい眺めてしましました。約40年前に買った本ですが、今読んでも参考になる問題意識があります。というわけで、今回はこの本をテキストに、「血税一揆」がどんな風にして起こったのかを見ていくことにします。

明治六年(1873)6月26日 三野郡下高野村で子ぅ取り婆さんの騒動が起こります。
この騒動について、森菊次郎は手記「西讃騒動記」を残しています。
この人は三豊郡詫間町箱の人で、戦前、箱浦漁業会長などもした人で、昭和28年に86歳で亡くなっていますから、この一揆のときは六、七歳の子どもです。そのため自分の体験と云うよりも聞書になります。そのために事実と違うことも多く、全面的に信用できる史料ではありません。しかし、一揆に関する記録のほとんどが官庁記録なので、こうした民間人の記録は貴重です。

血税一揆 地図
子ぅ取り婆事件の起きた下髙野

子ぅ取り婆事件について、この手記は次のように記しています。
『子ぅ取り婆が子供をとっているとの流言飛語が一層人心を攪乱した。しかも実際にその子ぅ取り婆を認めたものはなかった。その子ぅ取り婆というのは、坂出町の精神病者でこれが、ちょうど騒動の起こりだった。

この子ぅ取り婆が明治六年六月二十六日、坂出町から三野郡に入り込み、同日昼ごろ、比地中村の春日神社に来たり、拝殿でしきりに太鼓を打ち鳴らし、騒がしいので神職及び二、三の人々は懇諭、慰安を与えなどして行き先を問うたら、観音寺へ行くというので、早く行かぬと日が暮れると言い聞かせ、門前を連れ出し、観音寺へ行く道を教えて出立せしめたが、 最早、下高野の不焼堂(如来寺)へ行くまでに日没となってしまった。
夕涼みの多くの人々は、子ぅ取り婆が来たと大騒ぎし、婆が行く前後には多くの子供がつきまとった。その子供らの中の一人を老婆が抱きあげると、多勢の人々はこれを追っかけ、取り返した。しかし実際は取ったのではなく、その子供が大勢の人々に押し倒され転んで井戸の中へ落ちんとしたのを救いあげ、抱いたまま走って行ったのでした。 一犬吠ゆれば万犬吠ゆで、これが竹槍騒動の動機となった』
以上が「西讃騒動記」の発端の部分です。ここからは次のようなことが分かります。
①子ぅ取り婆というのは、坂出町の精神病者で
②明治6年6月26日、坂出町から三野郡に入り込み、昼ごろに比地中村春日神社にやってきた。
③日没時に下高野の不焼堂(如来寺)にやってきて騒ぎとなった
この他に、一揆のまとまった記録としては、次の2つがあるようです。
①一揆後の近い時期に官庁報告をまとめた「名東県歴史
②邏卒報告書などから材料を得た昭和9年発行の「旧版・香川県警察史
この内で②の「警察史」は、その発端をを次のように記します。
 『明治六年六月二十六日正午頃、第七十六区の内、下高野村へ散髪の一婦人現われ、附近に遊べる小児(当時の副戸長秋田磯太の報告によれば小児の父兄、姓名、自宅不明とあり)を抱き、逃げ去らんとしたり。これを眺めたる村民は、当時、児取りとて小児を拉し去り、その肝を奪ぅもの徘徊するとの風聞ありたる折柄とて、忽ち附近の農民寄り集まり、有無を言わせず、打殺さんとしたるを、村役人田辺安吉これを制し、故を訊さんため、先ずその婦人を自宅に連れ帰りたるに、村民増集、喧騒するを以て、日辺は比地大なる同区事務所(役場)へ報告、指揮を抑ぎたり。
 このとき事務所には戸長不在にて副戸長秋田磯太あり、兎に角その婦人を事務所まで同行すべく命じたり。然るに田辺宅附近に集まりし村民は日々に不同意を唱ぇ、田辺をして同行せしめず、田辺は止むなく再び事情を報告したりしに、秋田副戸長は田辺宅に出張し来り、門柱に縛しあるを一見するに頭髪の散乱せる様といいヽ眼使いといい、全く狂人としか思われず、何事を問ぬるも答うるところなく、住所、氏名さえ明らかならぎるをもって、徐々に取調べんと思いたるも、何分多人数集合せるを以て無用の者は退去すべく再三論したるも聴きいれず、彼是、押問答の内、戸長名東県歴史又駈けつけたり。
群集を説諭しヽ婦人は兎に角事務所へ連れ帰ることとなり、先ず戒めを解き門前に引出し、群集に示し、その何人なりやを訊したるも誰一人として知れるものなく、全く他村の者と定まりしがヽ狂婦は機をみて逃げ出さんとしたるを秋田副戸長はすかさずヽその襟筋をとらえて引戻したり。

然るに、このときまで怒気をおさえて見物せる群集は最早たまりかね、三つ股、手鍬をもって打掛かりしを以て戸長らはかろうじてこれを支え、狂婦をまた田辺宅に引き入れ警戒中、急報により観音寺邏卒(巡査)出張所より伍長吉良義斉は二等選率石川光輝、同横井誠作の二名を率い、急遠田辺宅に駈けつけたり。このときは既に無知の土民数百名、竹槍又は真槍を携え、田辺宅を取り囲み、吉良の来るをみるや、口を極めて罵詈し、騒然として形勢不隠なり。吉良は漸く田辺方に入り、ここにまたもや狂婦の尋間を開始したるも依然得るところなく、僅かに国分村の者なるを知り得たるのみ―』
 この経緯をまとめておくと、次のようになります。
①子ぅ取り婆が子どもを抱いて連れ去ろうとした
②それを村民たちが捉えて、なぶり殺しにしようとしたので村役人の田辺安吉が自分の家に連れて帰った
③戸長も駆けつけ、戸長役場に連行しようとしたが、取り囲んだ人々はそれを認めず騒ぎは大きくなった
④急報によって駆けつけた邏卒の姿を見ると群衆は、怒り騒然とした雰囲気に包まれた。

血税一揆 事件発生
下髙野

事件の起こった場所については、どの記録も下高野と記します。
地元では下高野の南池のほとりと伝えられているようです。南池は不焼堂(如来寺)から街道を百メートルあまり南へ行った付近にあります。不焼堂あたりから子供たちが、子ぅ取り婆さんにぞろぞろとつきまといはじめ、南池のほとりでこの事件が起こったものとしておきましょう。子ぅ取り婆さんに抱きかかえられた子供と、この子供の守をしていた人の家、及び村吏の田辺安吉の家もこの南池の近くにあります。
 豊中町本山のKさんの祖母は田辺安吉家から出た人ですが、この人は生前に、子ぅ取り婆さんは田辺家の門の柱に縛りつけられ、散々痛めつけられて見るも哀れな姿であったと語っていたという。子ぅ取り婆さんは、その愛児が池で蒻死したため発狂したとされます。つきまとう子をかかえて走ったのは、その子がわが子とみえたのかもしれません。
子ぅ取り婆さんについては、名前は塩津ノブ。 年齢は30代後半と(旧「観音寺市史」は記します。出身地については、
「西讃騒動記」は坂出町
「警察史」は志度町とも国分村とも書いています。
「豊中町誌」は『寒川郡志度の者』
「名東県歴史」は 『女は阿野郡国分村農、与之助の孫女』
信頼度の高い「名東県歴史」に従って国分村の者と研究者は推測します。
子ぅ取り婆さんに抱きかかえられた小児については
①「名東県歴史」は、「比地大村の農民某の妻二児を携え路傍に逍逢す」
②「警察史」は『小児の父兄、姓名、自宅不明』、『矢野文次の娘』
③地元の伝承では、「下高野村の南池近くの家の子で、後に成人して比地大村へ嫁した」

②の「警察史」は『矢野文次の娘』とあるのは、一揆の首謀者が矢野文次であったからのこじつけと研究者は指摘します。
①は、子ぅ取り婆さんが抱きかかえられた子を「二児」と記しますが、これは他の史料には見当たりません。抱きかかえたのは一人のようです。
「警察史」は続けて次のように記しています。
 一方、土民は、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるの諺の如く、何ら事実を知らざるものまで出で加わり、はては鐘、太鼓を打ち鳴らし、西に東に駈け回ることとて、さなきだに維新早々の新官憲の施政には万事猜疑の眼をもって迎えいたりし頑迷無知の徒、次第にその数を加え、殺気みなぎる』

村吏の田辺安吉の家を取り囲んだ群衆は、邏卒の姿を見て興奮したようです。その背景は、「維新早々の新官憲の施政には万事猜疑の眼をもって迎えいたりし頑迷無知の徒」から読み取れそうです。日頃から戸長や邏卒に「万事猜疑の眼」を向けていたようです。「警察が来たぞ!」という声に、テンションが上がったようです。

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早鐘が鳴らされた延寿寺
そして早鐘が打ち鳴らされます。早鐘は、今で云う非常招集サイレンで、火事や非常時の際にならされました。この早鐘は七宝山の麓の丘にある延寿寺のものでした。鐘を鳴らした矢野多造は、事件後の裁判で「杖罪」に処せられ、背中が青ぶくれにはれあがるほどたたかれたと生前に語っていたようです。

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              延寿寺本堂
 鐘が鳴りはじめると間もなく手に手に竹槍を持った農民が、比地大村や、竹田村方面から国木八幡前を、道一杯に長蛇をなして下高野へ押し寄せて来ます。こうして、竹槍農民の数はますます増えて来ました。

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国木八幡神社

観音寺邏卒出張所の吉良伍長の報告を見てみましょう

 『百方説諭すといえども集合の徒一切聞き入れず、四方よりますます奸民群集し、既に私共へ竹槍をもって突っかけ、切迫の勢いに相成り、手段これ無く―』

吉津邏卒出張所、北村伍長選卒報告。
『共に説諭を加え候へども何分頑愚にしてその意を弁ぜず、漸く右を平治すれば左沸騰し、間も無く人民数百人群集、暴言申しかけ、竹槍にて突っかからんとする勢い、とても防ぐべき策無きにつき―』

村吏の田辺安吉宅を取り囲んでいた群集は、やがて移動を開始します。国木八幡宮前をまっしぐらに比地大村友信の豊田戸長宅へ向かったのです。そして、戸長宅に火が付けられます。一揆の焼打ち第一号は豊田戸長宅になります。
 そのころ傷を負った豊田戸長は、身の危険を感じて七宝山麓の知人の家に逃れ潜んでいました。彼は知人から野良着を借り、野良帰りの農夫をよそおって帰途にしようとして、わが家の焼けるのを見たようです。地元の下高野村では、これ以外には高札場が毀されただけでした。
この騒ぎの中、子ぅ取り婆さんは姿を消しています。彼女のその後の消息については記録、伝承ともにありません。
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         延寿寺山門からの下髙野    
子ぅ取り婆は、子供の血をとる。という風評は以前からありました。
  明治5年の戸籍法(壬申戸籍)で役場が家族名、性別を各戸について調査したとき、血をとって外国人に売るためだという流言が流れたと云います。同じく明治五年、外国人指導の富岡製糸場の女工募集も「女工になって行けば外国人に血をとられる」との噂があったようです。
それでは、人々はこの流言を本当に信じていたのでしょうか。
農民が子ぅ取り婆だけを問題にしていたのであれば、子ぅ取り婆が狂人と分り、どこかへ消えていった段階でこの騒ぎはおさまったはずです。ところが、群衆はこの後、戸長、吏員宅、区事務所、小学校、邏卒出張所などを次々と襲っていきます。襲撃対象を見ると、明治維新の新政後に登場した村の「近代施設」ばかりです。江戸時代の襲撃対象となった庄屋や大商人の邸宅が対象となっていません。これをどう考えればいいのでしょうか。
 血税一揆を語る場合に、民衆が血を採られると勘違いしたのが契機となったと「民衆=無知」説で片づけられることが多かったようです。しかし、研究者はこれに対して異議を唱えます。「百姓を馬鹿にするなよ。それを知った上での新政府への新政反対一揆であった」というのです。
徴兵令とは】わかりやすく解説!!目的や内容(条件&免除規定)・影響など | 日本史事典.com

一揆の背景となった徴兵制を見ておきましょう
明治5年1月発布の徴兵令に関する太政官告諭に、次のような文句があります。
『凡そ天地の間に一事一物として税あらざるものなく、以て国用に充つ。然らば即ち人たるものは、もとより心力を尽し、国に報ぜざるべからず。世人これを称して血税という。その生血を以て国に報ずるの謂なり』

徴兵=「生血を以て国に報ずる」=血税という説明になっています。
血税は英語の「ブラッド タックス」で兵役を意味します。これを担当官は「徴兵=血税」と訳しました。この訳が一揆の原因となったというのです。それはこんな風に語られました。
血税の二字から、村々は次のような流言でもちきりになった。
「血税というのは若者を逆さづりにしてその血を異人に飲ませるのだそうだ」
「横浜の異人が飲んでいるぶどう酒というのがそれだ。赤い毛布や、赤い軍帽は若者の血で染めているのだ」
「徴兵検査は怖ろしものよ。若い子をとる、生血とる」
という噂が流言となって広がったようです。
「西讃騒動記」には、次のような一節があります。

血税の誤解から当時の三野郡、豊田郡の人心動揺をはじめ、遂に竹槍、薦旗の焼き打ち騒動を惹き起こし、各町村の小学校、役人の邸宅に放火し、暴状を極めた。徴兵告論を読んだ人が、我国には昔から武士が戦いのことには専ら関係しているため、我らは百姓を大切に農業に従事し、つつがなく租税を納めておればよい。しかるに、西洋にならって徴兵して、生血を取る御布令には少しも従うことは出来ぬと反対し、その声喧章、だんだん広がって騒がしくなって来たので、 県では容易ならぬこととして比地大村の豊田徳平、竹田村の関恒三郎、 本大村の大西量平の三戸長をして人民の誤解を解かせょうとしたので、三戸長はその命を受け、熱心に血税云々につき各村々を巡廻講話を行ったのであるが、人民は頑として聞き入れず……」

 ここからは、血税という流言だけでなく徴兵制そのものへの反対が民衆の間には根強くあったことが分かります。その中で地元戸長たちが徴兵制推進のために「県の命を受けて熱心に血税云々につき各村々を巡廻講話」を重ねますが「人民は頑として聞き入れ」なかったようです。徴兵制反対の人々にとって、推進の先頭に立つ戸長たちに敵意が向けられるようになったことがうかがえます。

実は、讃岐の一揆の一週間前に、鳥取県でも同じような一揆が起きています。これを政府に伝えた県庁報告書には、次のように記されています。(意訳)
『明治六年六月十九日に伯者国会見郡で農民が蜂起した。この一揆の背景には人民哀訴や歎願があったのではない。また巨魁、奸漢などの黒幕が企てたものでもない。ただ徴兵公布令を農民輩たちが、徴兵令の中の「血税」等の文字を誤解し、事実無根の流言を唱え、兵役は生血を搾り取られる、兵事とはただ名のみで、その実態は血を取るためであるという流言が広まったためである。
 これに加えて、鉱山での御雇外国人が、鉱山検査のため、山陰、山陽を巡回し、本管内を巡回する際にも、生血を搾られるという流言が流された。そのため民衆の中には、一層の恐怖感を抱き、、家族の数を知られないように表札を隠したりする者も現れる始末であった。
 これを見て戸長たちは驚き困惑し、懇々と説諭したが民衆は聞く耳を持たない。そして、ついに北条県下の人民が蜂起し、それが本県にも波及した。頑民(戸長の云うことを聞かない人々)は、徴兵募集の役人が来たときには、相共に竹槍や使い慣れた器杖で追い返すべしと相談した。
  六月十九日、会見郡古市村の農民勝蔵の妻いせが、山畑で耕作していると異状の者(邏卒)の姿を見て、絞血(採血)の者と勘違いして、家族を守るために、近隣の儀三郎の家に走り込んで次のように告げた
「異状の者がやってきました、気をつけて下さい」
儀三郎の家には、二十歳の男子があり日頃から搾血の説を聞いて、心痛めていた。そのためこれを聞いて狼狽して、走り廻って
「搾血の者来れり」と叫んで告げた
村の人々はこれを聞いて隣村にも伝えた。また、寺鐘を早打ちして緊急集合をかけた。これを以て各村は、一斉に蜂起すすることになった』
(上屋喬雄、小野道雄編「明治初年農民騒擾録」所収)

ここには当時の鳥取県の担当者が「無知蒙昧な民衆が血税の流言に惑わされて、一揆を起こした」と中央政府に報告していることが分かります。「血税一揆=流言説」です。 「西讃騒動記」「名東県歴史」「警察史」なども大体同じ論法です。しかし、これに対しては反対論もあったようです。

新聞(明治5年)▷「東京日日新聞」(創刊号、現・毎日新聞) | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives

明治七年二月七日の東京日々新聞に発表された「血税暴動は県側の詭弁」は、次のように反論します。
 血取りの説は「血税」以前から流布していたのであって徴兵令からはじまったものではない。従って徴兵反対一揆は血税の二字に原因するものではなく、それは県吏の民意を愚民観ですり代え、一揆の真因をぼかそうとする地方政治担当者の政治的作為によるものである。

一揆発生の明治六年に出版されたの横河秋濤著「開化の入口」という本には、次のように記されています。
『比の頃、徴兵とやら、血税とやらいって、大切な人の子を折角両親が辛苦歎難を尽し、屎尿の世話から手習い、算盤そこそこに稽古させ、これから少し家業の役にもたつようになったものを十七歳、或いは、二十歳より引上げて、ギャッと生れてから夢にも知らぬ戦いの稽古させ、体が達者でそろそろ役にもたつものは直ぐさま朝鮮征伐にやり――』

そして、大分県の徴兵反対一揆に立ち上った農民の一人は、次のように嘆いています。
「徴兵で鎮台に遣わされ、六、七年も帰して貰えないのでは全く困ったことになってしまう」

この頃、俗謡にあわせて、「徴兵、懲役一字の違い、腰にサーベル、鉄鎖り」という俗謡が流行になったともいいます。
ここからは農民は血取りを恐れていたのではなく、徴兵そのものに反対していたことがうかがえます。
警察の誕生と歴史
裸を取り締まる明治の邏卒(警察官)

血税一揆の際に、邏卒が上司へ提出した報告書を見てみましょう。
第四十九区(一揆波及地―阿野郡北村、羽床上、同下、山田上、同下の各村)
第五十五区(一揆波及地―同郡岡田上、同下、同東、同西、栗態東、同西の各村)
は、以前徴兵検査の節、所々山林へ集合し、度々説諭にまかり越し候区内なれば、農民共、此の虚(一揆蜂起)に乗じ発起すべきもはかり難きに付、情、知察のため午後二時頃より巡遣し、四時頃帰宅』
意訳変換しておくと
二つの区は、以前に徴兵検査について、山林へ集まって反対集会を開いていたところなので、度々説得に出かけた区内である。農民共が、この旅の一揆蜂起に参加するかどうか分からない情勢なので、偵察に午後二時頃より巡回し、四時頃に帰宅した』

滝宮邏卒出張所詰、平瀬英策報告。
『(鵜足郡)林田村の頑民、 既に説諭によって服従、 一時検査を受くるといえども余儘なお残炎、時あらば後燃せんとする気、もとよりその場動するものありて然り』
意訳変換しておくと
『(鵜足郡)林田村(坂出市林田町)の頑民(新政府反対派)たちは、 すでに我々の説諭によって服従し、徴兵検査を受けた者もいるが、心の中には今も残炎が残り、機会を見ては再び燃え上がろうとする雰囲気がある。もとよりその場動するものありて然り』

ここからは讃岐でも徴兵検査に反対する集会があちらこちらで開かれ、その度に邏卒や戸長が出向いて説諭を繰り返していたことが分かります。それが「血税」の流言だけのための反対運動ではないことは明らかです。「血税一揆」を流言によるものとするのは、民衆無知蒙昧説の上に胡座をかいた説と研究者は指摘します。
邏卒
              5代目菊五郎が演じた邏卒

上の史料からは一揆の頃には、すでに徴兵検査も行われ、徴兵検査で血が採集されないことは分かっていたはずです。ここからは人々が「血取り」反対したのではないと云えます。それでは何に反対したのでしょうか?
鳥取県一揆について農民の側から出した願書があります。それは次のように記されています。(「明治初年農民騒擾録」)
鳥取県一揆願書
一、米穀値段下げ仰せつけられ候こと。
二、外国人管轄通行禁止。
三、徴兵御繰出し御廃止仰せつけられ候こと。
四、今般騒動致し候条、発頭人御座無く候こと。
五、貢米、京枡四斗切り、端米御廃止仰せつけられ候こと。
六、地券合筆取調諸入費、官より御弁じ仰せつけられ候こと。
七、小学校御廃止、人別私塾勝手仰せつけられ候こと。
八、御布告板冊、代価御廃止。
九、太陽暦御廃止、従前の大陰暦御改め仰せつけられ候こと。
十、従前の通り半髪(丁髭)勝手仰せつけられ候こと。

ここには、徴兵反対の他にも、地券、小学校、太陽暦、斬髪令などの、この時期の新政府の出した政策に対する反対や、米価引き下げ、端米廃止などの生活に直結した要求が列挙されています。
先ほど見た政策担当者の県庁報告は、これらの事実を無視し、他に「哀訴歎願の根底あるに非ず」として、すべてを血税の誤解一色で塗りつぶそうとしていると研究者は指摘します。ある意味、一揆の原因を、愚民観ですりかえよう意図が見えてきます。

鳥取県一揆の願書でも分るように、徴兵だけが問題だったのではない。そのことは讃岐のこの一揆の経緯にも現われています。というのは、豊田戸長が真っ先に焼き打ちをかけられたのには理由があったからです。
「大見村史」に次のように記されています。
維新のはじめ、当郡比地大村、岡本村を管轄する戸長に豊田徳平なるものあり、此の者と同地人民との間に三升米とて公費の徴収に関し葛藤を生じ、故障申し立ての結果、終に人民の失敗に帰し、体刑に処せられたれば之を遺恨に思い、豊田戸長に報いんとする折柄、徴兵令の非議を豊田戸長に提起したるに戸長曰く、徴兵は風説の如く疑うべきに非ず、又、血税は決して血を採る意義に非ず、若し万一そのことありたる暁は予が首を渡すことを誓う、と。 一同はそのことを聞き、 一段落を告げたり。
 又、明治五年、県令を以て庶民の剃頭束髪(丁髭)を廃止され、其の実行を否む者に対しては吏員をして断髪の強制執行をなしたり。事態かくの如くなるを以て頑民は彼を思い、これを顧りみ不満に耐えず、疑惑、誤解交々起これり。時に明治六年六月二十六日、当郡岡本村に於て児取り婆の所為発生したり』(傍点、引用者)
ここからは、血税一揆が起こる前に、この地域では「三升米事件」や徴兵制検査・断髪強制など新政府の進める政策をめぐって、戸長と村民との間に対立が起こっていたことが分かります。
 
  子ぅ取り婆さんの騒動が、これらの積もり積もった戸長や邏卒への不満や反発に火をつけて暴発させたようです。そこには、人々の新政府への不満があったのです。
DSC07031
大見村遠景
  以上をまとめておくと
①明治5年になると新政府への期待は失望から反発へと転換していった。
②明治政府の徴兵制や義務教育制の強制は、人々にとっては新たな負担の増加で反対運動の対象となった
③民衆の反対運動への説得や圧迫のために、戸長や邏卒が活発に活動した。
④そのため戸長や邏卒は明治政府の手先として、反感・反発対象となった。
⑤そのため一揆が起こると戸長宅や邏卒事務所(駐在所)は攻撃対象となった。
⑥政策責任者や警察では、この一揆の原因を「無知蒙昧な民衆の血税への誤解」としたために、一揆の本質が伝わらないままになっている。
一揆の本質は、期待外れの明治新政府への不満と反発が背景にあった。それは香川県だけでなく、周辺の県でも同じような運動がおこっていることからいえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      と佐々栄三郎の「讃州竹槍騒動 明治6年血税一揆」
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坂本龍馬 まとめ - 速魚の船中発策ブログ まとめ
龍馬亡き後に、海援隊を再組織する長岡謙吉(左端)
 前回までに鳥羽伏見の戦い後に、再結成された海援隊の動きを見てきました。それは、海援隊が塩飽と小豆島の天領を自己の占領下に置くという戦略でもありました。隊長の長岡謙吉の思惑は成功し、小豆島では、岡山藩の介入を排除しながら、塩飽では小坂騒動を平定しながらこれらの島々を占領下に置くことに成功します。こうして、次のような組織系統が形成されていきます。
①塩飽に八木(宮地)彦三郎
②小豆島に岡崎山三郎(波多彦太郎)
この二人を統治責任者として配置し、丸亀(海援隊本部)から長岡謙吉が管轄するという体制です。更にその上に、土佐藩の川之江陣屋が予讃の「土佐藩預り地」を統括するという指揮系統になります。
長岡謙吉 - Wikipedia
長岡謙吉
海援隊隊長の長岡謙吉は、丸亀で何をしていたのでしょうか?
彼が郷里の者に宛てた私信(2月13日付け:近江屋新助宛)には次のように記されています。
私は、高松征伐の先発として、高松城占領に向かったために小豆島や塩飽諸島のことには関わらなかった。讃岐の島嶼部を3分割して、小豆島は波多彦太郎、塩飽は八木彦三郎にまかせ、私は丸亀の福島にいて全体を統括した。公務の合間には、私塾を開いて京極候の幼君を初め、同地の子弟に和漢洋の学問を授けた。時折管内の本島、草加部(小豆島)を巡視したようで、その際には塩飽の土民が上下座して敬ひ拝する

ここには長岡は、「丸亀の福島にいて全体を統括」と記されています。彼が拠点の宿としたのは、太助灯籠などの灯籠が立ち並ぶ丸亀港の東側にあった旅宿「中村楼」(平山町郵便局向かい)であったようです。ここは、金毘羅船頻繁に出入りする港に面した所で、多くの旅籠や店が軒を並べた繁華街でした。人とモノが集まり、情報と人の集積地でもあったところです。拠点とするのには適していたかも知れません。高松討伐の際に、土佐軍幹部が使った宿でもあるようで、何らかの協力関係があったのかも知れません。
丸亀新堀1
金毘羅船の出入りでにぎわう丸亀湊
また長岡は、次のように記しえいます。
 「私塾を開いて丸亀藩主の京極候の幼君を初め、同地の子弟に和漢洋の学問を授け」

最初にこれを読んだときには、「また大法螺を吹いているな、藩主の息子を教えるなどと・・」と思いました。ところが、これはどうやら事実のようです。
遍照寺 (香川県丸亀市新浜町 仏教寺院 / 神社・寺) - グルコミ
白蓮社があった遍照寺(丸亀市新浜町)
  海援隊本部は「白蓮社」に置かれとされてきました。
「白蓮社」は、現在の福島町隣りの新浜町にある遍照寺にあった御堂であることが、最近の丸亀市立資料館の調査で分かってきたようです。
丸亀新堀湛甫3

長岡の別の私信には1月27日、丸亀藩の要請により、「白蓮社」に私塾開塾し、長岡が「文事」を教え、「岡崎」が「武事」担当したとあります。門人約20人で、その運営には、丸亀藩の土肥大作や、金毘羅の日柳燕石、高松藩の藤川三渓が協力したようです。土肥や草薙燕石は、土佐軍の進駐によって、丸亀藩や高松藩の獄中にあったのを解き放たれた「元政治犯」でした。
  土肥大作は丸亀藩の勤王家で慶應2年以来幽閉されていたのを、1月18日に長岡謙吉が丸亀藩への使者として訪れた際に赦免されます。そして、陸路高松に進軍した丸亀藩兵(長岡謙吉も合流)を参謀として率いた人物で。御一新後の丸亀藩政改革の中で、重要な役割を担う立場にありました。土肥と長岡は、親密な関係にあったことがうかがえます。
DSC06658


長岡は、この時期に金毘羅さんから軍資金の提供を引き出しています。彼の1月下旬頃の書簡に、
「(1月)廿一日隊士二人と象頭山ニ至り金千両ヲ隊中軍用ノ為メニ借ル」

とあります。また、琴陵光重『金刀比羅宮』193 頁には、長岡謙吉の千両の借用証書が紹介されています。この返礼に、長岡は1月24日には、金毘羅大権現別当の松尾寺金光院の重役・山下市右衛門に「懐中銃」を進物として送り、親交を求める書状を送っています。これには千両に対するお礼の意味があったと研究者は考えているようです。
  また軍資金千両の使い道は、以下のように記されています。
「蒸気船壱艘 小銃五百挺 書物三十箱戦砲五挺」

 塩飽で組織した志願兵部隊の梅花隊の装備や海援隊の艦船購入に宛てられたようです。ちなみに鳥羽伏見の戦い以後に、再結成された海援隊のメンバーは操船も出来ませんでしたし、持ち舟もなかったことは以前にお話した通りです。
 なお、金光院は3月には神仏分離令により廃寺となり、金刀比羅宮は海援隊の統治下に置かれることになります。『町史ことひら 3 近世 近代・現代 通史編』400 頁には、明治3年(1870)9 月、長岡謙吉は融通された千両について個人による年賦返済を申し入れています。これにたいして金刀比羅宮は、借用証書を川之江の役所に返上し棄捐した記されています。

ここで海援隊の動きを年表を見てみましょう。(香川県史より抜粋)
1・20 塩飽諸島が土佐藩預り地となり,高松藩征討総督が八木彦三郎に事務を命じる
1・21 長岡謙吉が「隊士二人と象頭山ニ至り金千両ヲ隊中軍用ノ為メニ借ル」
1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
1・27 金光院寺領(金毘羅大権現)が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
1・27 丸亀藩の要請により、長岡謙吉が丸亀「白蓮社」に私塾開塾
1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる
2・ 9 朝廷から土佐藩へ、讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書が出される
2・-  塩飽諸島で土佐藩が1小隊を編成し、梅花隊と名づける.
2・20 長岡謙吉が上京(長岡私信)
3・-  小豆島東部3か村(草加部・大部・福田)土佐藩預り地となる
4・12 海援隊が土佐藩から小豆島・塩飽鎮撫を正式に認められた
4・15 海援隊が占領管内に布令を出す(?)
4・29 土佐藩による海援隊の解散命令
5・17 小豆島や琴平は新設された倉敷県に編入
5・23 八木彦三郎が塩飽等を倉敷県参事島田泰夫に事務を引き継ぎ
・ 1 直島・女木島・男木島3島から土佐藩兵の撤退。 

ここからは1月末から2月中旬にかけて、土佐軍と海援隊の占領地の組織が形作られていったことが分かります。こうして、海援隊は海軍に必要な操船技術(塩飽水主)、兵力(梅花隊)、石炭の確保に成功したこと、さらに。金刀比羅宮から軍資金も調達していたのです。当初の狙い通りの成果を挙げたといえるでしょう。
長岡謙吉(海援隊第二代目隊長)の写真 | 幕末ガイド
長岡謙吉
長岡の私信には、切迫した情勢や戦闘的な描写は見られません。
四国にやって来て彼らは、一戦もしていません。長岡は、戊辰戦争のさなかも、丸亀に落ち着いて塾を開き、大漁を祈る塩飽島の臨時大祭の手配に腐心したり、小豆島の神懸山(寒霞渓)に登って景勝を楽しみ詩吟したりしています。また、土佐の近江屋新助には次のような私信も送っています
「どうぞどうそ御家内一同島めぐりニ御出可被下候、芝居入二御覧一度候一笑一笑」
「こんぴらさまへ御参りニ家内不残御出...」
「何も不自由ハナケレドモ女の字ニハ困り入申事ニテ 隊中の壮士時時勃起シテ京京ト申ニ困り入申候」
と、金毘羅大芝居見物に金毘羅参拝を誘ったり、と呑気な様子を書き送っています(慶應4(1868)年2 月13 日付け)。ここからは、長岡謙吉の立位置がうかがえます。
  
 また年月は分かりませんが、この頃に長岡謙吉が美馬君田(阿波出身で琴平で活動していた勤王家)に宛てた書簡(草薙金四郎「長岡謙吉と美馬君田」71 頁)には、次のように記されています。「當地」(丸亀?)で「書肆文具一切」を扱う店を開店したので、「鐵砲其他西洋もの一切」も販売するために「長崎之隊士へ申通し、上海より直買に為仕含に御座候」と、その営業計画が述べられています。
鉄砲を始め、西洋のあらゆるものを取り扱う貿易会社を開店した。長崎の旧海援隊に依頼して、上海から直接仕入れる予定である。

ここからは次のようなことがうかがえます。
①長岡謙吉は、塾以外に貿易会社を丸亀に開店していたこと。
②海援隊の長崎グループからの仕入れを考えており、彼らとの関係は持続していたこと
このような動きからは長岡謙吉の目指したのは、天領の無血開城であり、その後の平和的な戦後統治であったと研究者は考えているようです。
2丸亀地形図
当時の丸亀
私が分からなかったのは、2月20日に長岡が上京することです。
この辺りのことを、長岡は土佐の親友に次のように私信で伝えています。
2月20日に火急な御用があり、上京した。以後、京都に留ることになった。用件は正月以来、占領している塩飽・小豆島についてのことだった。この両島については、朝廷からの内命で占領・統治を行っていたが、各方面から異議が出るようになった。そこで、正式な任命状をいただけるように運動した結果、4月12日に土佐藩の京都屋敷御目附小南殿より別紙の通りの「讃州島御用四月十二日付辞令書」をいただけることになった。御覧いただくと共に、伯父や親類の人へも安心するように伝えていただきたい。以下略     四月十三日認             弟 殉 
廣陵老契侍史 
   
ここには次のようなことが書かれています。
①塩飽・小豆島の占領支配については、朝廷からの内命が海援隊に下りていた
②両島の占領について各方面から異議が出るようになったために2月20日、上京したこと
③その結果、4月12日に海援隊が小豆島・塩飽の占領軍として土佐藩から正式に認められたこと

しかし、以前にも指摘したとおり、2月9日には朝廷から土佐藩へ、讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書が出されて、岡山藩も撤退しています。天領をめぐる対立は解消済みと私は考えていました。どうして、上京し、朝廷に対して工作を行う必要があったのか、私には分かりませんでした。別の言い方をするのなら、2月20日から4月12日までは、京都にいて何をしていたのかという疑問です。まず、それをさぐるためにこの時に朝廷に提出した2つの建白書を見てみましょう。
  【建白A】石田英吉、長岡謙吉、勝間桂三郎、島田源八郎、佐々木多門の海援隊士 5 名の連名の建白書。
「元来貧地ニテ生活之為ニ而己終身日夜困苦罷在候上徳川之暴政苛酷ニ苦シミ難渋仕候儀見聞仕実ニ嘆敷奉ㇾ存候既ニ先達テ四国近海塩飽七島之居民私怨ニ依テ紛擾争闘及民家ヲ放火シ即死怪我人夥敷有ㇾ之打捨置候ハハ如何成行候モ難ㇾ計早速同所ヘ罷越悪徒ヲ捕窮民ヲ救人心鎮定致候段於二播州一四條殿下(遠矢注:中国四国追討総督・四条隆謌)ヘ御達申上候通ニ御座候塩飽スラ如ㇾ此ニ御座候得ハ況テ佐渡ヶ島新島三宅島八丈島ハ流人モ多ク罷在兼テ人気モ不穏此節柄別テ貧窮ニ迫リ擾亂仕候儀眼前ニ御座候間」、
  意訳変換しておくと
天領の島々はもともと貧困で、生活のために日夜困苦しています。その上、徳川の暴政苛酷に苦しみ難渋してきました。私たちが見聞したことも実に嘆かわしきありさまです。先達っては、四国塩飽七島の島民が私怨のために紛争を起こし、民家に放火し、使者や怪我人が数多く出ました。(小坂騒動のこと)。これを打捨てて置くことはできませんので、早速出向いて、悪徒を捕らえ窮民を救い、人心を鎮めたところです。このことについて播州一四條殿下(中国四国追討総督・四条隆謌)へ報告した通りです。塩飽でさえもこのような有様です。佐渡ヶ島・新島・三宅島・八丈島ハ流人も多く、不穏な時節柄なので貧窮も加わり騒乱が起きることが予想されます。
 そこで、御仁政の趣旨を布告すれば彼らは感涙することでしょう。私どもは先年、彼地に行って民俗や民情を調査いたしました。(真偽不明)。そこで、私たちはそれら島々へ渡り「布告」し「民心ヲ鎮定」を行いたいと考えます。島々には徳川の命を受け航海術を修練した者もいます。(長崎海軍伝習所における塩飽水夫などのこと?) さらに屈強な者を選抜し航海技術を伝授し、将来的には海軍ヘと発展させるように、仰せ付けいただければ兵備も充実することでしょう。

【建白B】長岡謙吉と石田英吉の 2 名連名の建白書
「先般、塩飽七島の島民の紛争について、私どもが鎮撫したことについて、播州で四條殿下ヘ報告いたしました。この島民達を朝廷の海軍ヘ採用するように献策いたします。讃岐の小豆島も塩飽と同じように、鎮撫中ですので、この両島ともに鎮撫命令を下し置きいただけるようにお願いいたします。以上」

 この2つの建白書(A・B)は2月中(日付不明)に、土佐藩ではなく新政府に対して出されています。ここがまずポイントです。交渉相手を土佐藩ではなく、直接に新政府を相手としていることを押さえておきます。
建白書Aでは、塩飽での騒動鎮圧と平定の実績を報告をした上で、その支配権の追認を求めています。つまり、新政府による海援隊の塩飽占領支配の保証です。いままでは、土佐藩から委託・下請けされた権限だったのを、新政府から直接認められることで、より強固なものにしようする思惑があったことがうかがえます。つまり、これは岡山藩などに対する対外的な意味合いよりも、土佐藩内部の海援隊による塩飽・小豆島東部占領支配に対する異論封じ込めを狙ったものだったとも思えてきます。
 そして、塩飽の水夫たちを、新政府の海軍に重用することを求めています。さらに、天領であった佐渡島や八丈島・三宅島を、海援隊が占領支配することも新たに求めています。
全体的に見ると、建白の意図は、島々の水夫の「海軍」への徴用とそれを理由とした海援隊による塩飽・小豆島鎮撫の正当化にあると研究者は考えているようです。
 平尾道雄氏は、「坂本龍馬 海援隊始末記』253 頁)で次のように指摘しています。
「諸島鎮撫の目的は、ただ「王化を布く」というだけではなく、すすんで土地の壮丁たちを訓練して、新政府のために海軍の素地をなさんとしたところに終局の目的があったようである」

建白書のAとBを比較してみると、Aは小豆島について何も触れていません。それに対して、Bは小豆島鎮撫の実績を取り急いで長岡と石田だけで、追加報告したものと研究者は考えているようです。そうすれば、A→Bの順に得移出されたことになります。
龍馬と安田の海援隊士 高松太郎・石田英吉展 | 高知県の観光情報ガイド「よさこいネット」

 また、一番最初に名前が出てくる石田英吉は、鳥羽伏見の戦い後に長岡や八木彦三郎らが丸亀に渡った時に乗船した土佐船「横笛」の船将です。ここからは、以後はそのまま備讃瀬戸グループに合流したことがうかがえます。しかし、この建白直後に、備讃瀬戸グループから離脱し長崎グループに鞍替えしています。意見が合わなかったようです。そして、戊辰戦争へと石田は参戦していきます。
 この建白書を出した後の4月12日、長岡謙吉に次のような正式な任命書が渡されます。渡された場所は、土佐藩の京都藩邸で、土佐藩大監察小南五郎衛門から渡されます
      長 岡 謙 吉
爾来之海援隊其儘を以て讃州島に御用取抜勤隊長被仰付之
辰四月十二日
八木彦三郎
波多彦太郎
勝間圭三郎
岡崎恭介
桂井隼太
橋詰啓太郎
島橋謙吾
武田保輔
得能猪熊
島田源八朗
島村 要
堀 兼司
長岡謙次郎
右面々讃州島に御用被仰付長岡謙吉に附属被仰付之
この文書からは、次のようなことが分かります。
①長岡謙吉の配下いた海援隊12名が「讃州島ニ御用被仰付 長岡謙吉ニ附屬被仰付候事」となったこと
②長岡謙吉が正式に海援隊隊長となり、讃州島(塩飽・小豆島)の占領統治者に任命されたこと
「海援隊其儘ヲ以テ」とあるので、「新海援隊」ではなく、旧来からの海援隊を引き継ぐのは長岡であることも認められたことになります。「讃州島」とありますが、実態は「塩飽」に限定されず備讃瀬戸全体にまたがるエリアであったことを研究者は指摘します。
 ここからは、2月20日に上京して以来、新政府に働きかけていた「塩飽・小豆島鎮撫」が、ある意味成就したことを意味します。しかし、長岡が望んだように新政府からの任命状ではなく、土佐藩からの任命状であったことは押さえておきます。

次なる疑問は、次の通りです
①なぜ海援隊本流の長崎グループ(古参メンバー)ではなく備讃瀬戸グループが、この時期にわざわざ「爾来之海援隊其儘」の海援隊であると、土佐藩は認定したのか?
②長岡の海援隊の動きを土佐藩は、どのように見ていたのか?

それを解く鍵は、海援隊に対して土佐藩から出された通告文にあるようです。
①占領地に於ける租税については、申告された人口、戸数等に基づき検討中であるから決定次第連絡する予定であること、
②宗門改(キリシタン摘発を目的とする住民調査)を「川の江出張所」(川之江陣屋のこと)に提出すること
③海援隊士の経費は島々の租税により支給する予定だが、指示があるまで待つこと、
④「土兵」(梅花隊)の経緯や経費についても③に同じこと、
⑤学校の経費について③に同じこと、
⑥⑦商船・船舶については「従前のままになしおくこと」(詳細不明)
⑧船の旗号は「紅白紅旗」(土佐藩の旗)を使用すること
⑨諸事につき「川の江出張所」に伺いをたてること。

①③④⑤については、現地徴収して占領経費に使用してよいかという問い合わせへの回答のようです。土佐藩の回答は「まだ、現地徴収してはならない」という答になります。⑧の船の旗については、土佐藩のものを使用せよと云うことです。専門家は、「紅白紅旗(にびき)は土佐藩の船印であり、海援隊のオリジナルシンボルマークなどではない」(『空蝉のことなど』148 頁)と指摘します。あくまで、海援隊は土佐藩の配下であり、下請的な存在なのです。
アート短歌・気まぐれ文学館 海援隊旗

⑨は海援隊が独自に判断し、勝手な施策を行うなということでしょう。ここでも、土佐藩の配下であることをわきまえよとも読み取れます。
①③④⑤の現地徴収と経済的なことについては、塩飽諸島・小豆島等統治の占領費に土佐藩の財政が耐えられなくなったことが背景にあるようです。4月9日に小崎左司馬、毛利恭助(土佐藩京都留守居役)が連名で新政府の弁事役所に、占領地からの租税を運営費に充てたいと伺い出ています。このことと①③④⑤は関連するようです。たしかに、小坂騒動後の復興資金は、土佐藩から出されていました。
 『山内家史料 幕末維新 第九編』110~111頁には、占領経費が膨らんだ要因を小坂騒動により「人家漁船等夥敷焼失致シ 出兵救民之入費」で、復興支援費がかさんだことを挙げています。
 またその後5月9日に、土佐藩から再度伺いを出した文面には、次のように記されています。
「去四月民政御役所ヘ申出候處 右地租税之員數届出候様御沙汰有之則牒面寫ヲ差出申候」
「島島取締之儀兎角於弊藩難二取續候間御免之上可然御評議被仰付度奉存候」
意訳変換しておくと
4月に新政府の民政御役所ヘ申出たように、塩飽・小豆島の地租税の員數調査については写しを提出済です。」
「塩飽諸島や小豆島の占領管理については、財政的にもとにかく困難な状態で藩は苦慮しております。できれば本藩による管理停止を仰せ付けいただけるようにお願いいたします。
土佐藩は塩飽・小豆島の統治任務から撤退したいと新政府に云っているのです。ちなみに新政府は、これを却下しています。
20111118_172040437下津井ノ浦ノ後山 扇峠より南海眺望之図

当時の占領実態をうかがえるものとして『小豆郡誌』143 頁には、占領経費600円を受け取るため年寄・長西英三郎らが京都まで行ったものの、70日滞在しても受領できず空しく帰島したというエピソードが紹介されています。
 また、宮地美彦「維新史に於ける長岡謙吉の活動(補遺)」10 頁には、塩飽本島から小豆島へ梅花隊が派遣された際、十数人の旅費として「一分銀百円」が支給されます。本島で現地採用された隊士らは「わずかにこれだけの人數が、本島から小豆島に行くのに、これほどの大金をくれるのは、土佐は富んでいるわ、と非常に驚いた」というエピソードがあります。こうした放漫な支出も政費を圧迫したのかもしれません。
5 小西行長 小豆島1

 土佐藩の台所を預かる財務担当者にしてみれば、駐留経費も出ず、現地徴収も許されずに、藩の持ち出しばかりがかさむ「塩飽・小豆島鎮撫」からは、早く手を引かせたいというのが本音だったようです。私は「現地徴収」によって占領にかかる経費は充分賄われ、そこからあがる経費が土佐藩の財政を潤していたのではないかという先入観をもっていましたが、そうではなかったようです。土佐軍の「討伐・占領」は経済的には見合うものではなかったのです。
3 塩飽 泊地区の来迎寺からの風景tizu

 土佐藩は、藩主山内容堂の意向を受けて「高松・松山でも長期駐屯による民心離反防止、民心獲得のために次のような処置を行っています。
①松山城下で商家を脅した兵士の斬罪処分
②川之江で土佐藩兵により火災となった石炭小屋への金三十両の補償など
海援隊による小坂騒動鎮定なども、その延長上にあると研究者は考えているようです。
その背後には次のような思惑が土佐藩にはあったと研究者は指摘します。
「元々中央政府の土佐藩に対する高松・松山征討命令は土佐藩からの内願により実現したもので、土佐藩による高松、松山両藩の接収は「占領」と言うより「保護・救済」を意図したものである。その背景には、この時期すでに中央における薩長勢力の拡大に対抗するという底意がある。」

 つまり、土佐藩には領土的な野心や経済的な思惑はなく、高松・丸亀藩への討伐遠征は、薩長勢力に対抗するための四国勢力の団結を図るためのものであったというのです。それが、四国会議の開催につながっていきます。四国における指導権を土佐藩が握ること、そのためにも親藩である高松・松山を押さえ込むこと、そして土佐寄りの立場に立たせるようにすること。そのためには、征服者としての横暴な統治政策は慎まなければなりません。反薩長の立場に四国をまとめ、土佐が盟主とた四国十三藩の統一体をどう作り上げていくかという課題を、土佐藩の政策担当者は共有していたことになります。
  そうだとすれば、高松・松山藩の謹慎処分が解ければ、土佐占領軍が撤退することになんら異議は、ないでしょう。同時に、塩飽・小豆島から撤退することが次の課題になることは、当然のことでしょう。
1 塩飽本島
塩飽本島(南が上)
このような土佐藩の対応ぶりと、海援隊を率いる長岡謙吉の思惑は大きく食い違っていきます。
先ほどから見たように、備讃瀬戸の要衝の島々を占領管理下に置くことで、海援隊の存在意義は高まるし、新政府の水夫供給地とすることで海援隊の未來も開けてくると長岡達は考えていたはずです。塩飽からの早期撤退という土佐藩の意向に従うことはできません。そうなれば、土佐藩から離れ、自立・独立路線を模索する以外にありません。それが2月20日以後の長岡の上京と、新政府に対する塩飽・小豆島の占領統治の承認を得るという献策活動ではなかったのでしょうか。

4月12日に土佐藩から正式の任命書をもらうと、4月15日付で海援隊は占領管内へ次のような布令を出します。
布  令
御一新の御時節につき、御上に対して何事によらす捨て置かずに、連絡や報告を行うこと
一、昨年までの年具未納分について、いちいち詮議はしないので、各村で調査し、明白に分かる分については申し出ること
一、このような時節なので、当地で小銃隊を組織することになった。ついては、年齢17歳から30歳までで志願する者は兵籍に編入することにする。期日までに生年名前記入し、申し出ること。
 これについては、道具給料など迷惑をかけぬように準備すること
一、小豆島三ケ村御林については、期日を決めて入札を行う
一、直島御林、閏月5日に入札を行う
  それぞれの民兵の備えのための施策を仰せつける。入札を希望する者は予定額を記入し、申し出ること
以上、各村役人へもらさず伝達すること。この触書は、最後には下村出張所へ返却すること。以上。
四月十五日
長岡謙吉
波多彦太郎
八木彦三郎
草加部村
大部村
福田村
男木島
女木島
塩飽島
村々役人中

ここからは、次のようなことが分かります。
①これらの島々からの徴税減額を行おうとしていたこと
②現地志願兵の編成を計画していたこと
③そのためにかかる経費を、御林(幕府御用林)の入札で賄おうとしていたこと。
つまり、海援隊の活動に関わる資金も人員も「現地調達」しようとしていたことが分かります。さらに、この時点では「半永続的な占領」政策を考えていたこともうかがえます。これは、土佐藩の意向を無視したものです。

②については、すでに本島で現地の人名師弟たちを採用した「梅花隊」を組織していました。それを、占領地の全エリアで行おうとするものです。「土民を募集して兵卒を訓練し、共才能ある者は抜燿して士格にも採用」するという「人材の現地登用」策です。

4月18日に、長岡謙吉は8 ヶ条の海軍創設の建白書を新政府に提出しています。
①総督一名 :「宮公卿任之」
②副総督三名:「公卿諸侯任之」
③参謀十名・副参謀二十名:「草莽間ヨリ特抜ス」
④海軍局:「瀬海ノ地ニ於テ 巨厦ヲ造築ス兵庫蓋其地ナリ」
⑤局 費:「徳川氏封地中ニ就テ八分ノ三ヲ採リ局中ノ緒費ニ抵」「或ハ暫ク關西諸國ニ散在セル徳(川)領及ヒ旗本領ヲ収用スルモ亦可ナリ」、
⑥船艦:「徳川氏ノ戦艦ヲ収用シ諸費局中ヨリ出ツ」
⑦局中規律:「洋人數十名ヲ招請シ天文地理測量器械運用等一切ノ諸課ヲ教導セシメ或ハ一艦毎ニ教導師一二名ヲ乗ラシム而シテ學則軍律悉ク洋式ニ従フ」、
⑧生徒:「海内ノ列藩ニ課シ有才ノ子弟ヲ貢セシム」
 さきほど見た2月の建白書A・Bを土台にして、海援隊長としての所見を明確にしたものと研究者は考えているようです。天領占領を前提に、水夫徴用、費用の割当、幕府海軍の接収を行い、その土台の上に外国人教員と各藩子弟を瀬戸内海(神戸)に集め施設を作るという構想のようです。建白は短文で、具体性と情報量に乏しいものです。内容的には「近代海軍の創設」というより、海援隊の理念(「海島ヲ拓キ」)を拡張した「水軍」に近いものをイメージしているようです。⑧の生徒を「列藩」の「有才ノ子弟」から集めるのに対して、⑨の幹部である参謀・副参謀をわざわざ「草莽間ヨリ」選ぶとしています。これは、海援隊の幹部就任を想定しているようにも読めます。この建白が採用されることはありませんでした。

木戸孝允日記の慶應4年(1868)4月29日の条に長岡謙吉が木戸を訪れたことが記載されています。ここからは、4月末になっても長岡はまだ京都にいたことがうかがえます。2月20日に上京して以後、2ヶ月以上にわたって長岡は、丸亀を留守にしていたのです。

土佐藩のコントロールから離れ自立性を強める海援隊に対して、4月29日土佐藩は次のような解散通告を出します
「昨年深き思召有之、海陸援隊御組立相成候より、各粉骨を盡し、出精有之候處、爾後時勢變革、今日に至り候ては、王政復古、更始御一新の御趣意に奉随、一先御解放之思召有之候間、各其心得、隊中不漏様可被申聞候」。

 この解散命令は、長崎で、土佐家老深尾鼎・参政真辺栄三郎が、長崎グループ宛(大山壮太郎・渡辺剛八)に出しています。なぜ、長岡謙吉の備讃瀬戸グループ宛てではなかったのでしょうか。どちらにしても、長岡謙吉の海援隊長任命からわずか一ヶ月での解散になります。その背景には何があったか、研究者は次のように考えているようです。
ひとつの仮説として、長岡謙吉の土佐藩によるコントロール不能化の進行。
①土佐藩の方針を無視した年貢半減令
②現地徴用による独立軍隊化(梅花隊)
③長岡が丸亀藩の政治顧問に就任するなど、丸亀藩との密接化
以上からは草莽集団化していく海援隊を、土佐藩要人からは危険視するようになっていたと研究者は考えているようです。また、土佐藩には財政負担から塩飽・小豆島から撤退の意向があったことは、前述した通りです。
長岡謙吉書簡には、次のような記述が見えます
慶應4年(1868)1月
「此挙(塩飽・小豆島鎮撫)ハ暗ニ 朝意ヲ請ヒシ事ナルカ故ニ本藩ノ指示ニヨルニアラス」
慶應4年(1868)4 月 13 日付
「両島(塩飽・小豆島)之變は勿論公然たる総督並に朝命を奉じて取締候へ共俗吏之論も有之様に相覚え申候間猶又分明之上命を拝せん」
と書くなど、塩飽・小豆島占領管理を土佐軍の指示によるものではなく、朝意(朝廷の意向)に基づくものだと記しています。これは、土佐藩からの自立性を主張することにつながります。そういう目で見ると、4月12日付けの土佐藩による長岡の海援隊長任命は、海援隊が藩の統制下にあることを、再確認させ認識させるための「儀式」であったのかもしれないと研究者は指摘します。それを、長岡は無視した行動を続けたことになります。それを受けての解散命令だったようです。
  塩飽・小豆島の占領統治にあたっていた海援隊員や土佐人はどうなったのか?
 その後、海援隊メンバーは倉敷県等へ任官します。5月16日に、倉敷代官所は「倉敷県」に生まれ変わります。そして、塩飽諸島は6月14日に倉敷県の管轄となり、7月には八木彦三郎から倉敷県大参事島田泰雄に事務引継ぎが行われています。小豆島、直島、女木島、男木島も 7月に八木彦三郎から倉敷県へ事務引継ぎが行われています。つまり、海援隊の支配はわずか4か月間で終わります。
倉敷陣屋・代官所
倉敷代官所は現在のアイビースクウェアにあった

 倉敷代官所の旧支配地であった塩飽諸島、小豆島・直島・女木島・男木島は、土佐藩預り地でした。そこで鎮撫していた海援隊士たちは、そのまま倉敷県に任官することになります。つまり、海援隊員から県職員にリクルート(or配置転換)されたことになります。倉敷県の職員を見ると知県事:小原與一、以下、権知事(No.2):波多彦太郎、会計局:島田源八郎、刑法局:岡崎恭助、軍務局:島本虎豹など、計35名中32名が土佐藩出身で占められています。
 塩飽の責任者であった八木彦三郎も倉敷県設置と同時に、同県大属(NO5)となり、すぐに「金毘羅出張所御預り所長」(軍務、庶務、刑法、会計を兼務)に任命され、琴平に転出します。
天領倉敷代官所跡 - 本町7-2

長岡謙吉は、どうなったのでしょうか?
海援隊長ですから倉敷県の知事に就任したのかと思っていると、どうもそうではないようです。6月9日に新たに設置された三河県の知県事(No.1)に任命されます。その判県事(No.2)は、なんと土肥大作が指名されました。『愛知県史 資料編 23 近世 9 維新』124~125 頁には、次のように記されています。
「慶應四年六月 三河県赴任に伴う事務執行方法につき知事長岡謙吉より伺書写」(6月14日)には、「私儀兼テ敞藩ヨリ小豆諸島引渡方被申付有之候間、不日ニ相仕舞次第彼地ヱ罷越申候、此条前以奉申上置候」

とあり、突然に、知らない土地へ転出させられとまどっていることがうかがえます。
 「土肥大作と勤皇の志士展」パンフレット(丸亀市立資料館)には、土肥大作が三河県の判県事に任命されたのは、6月15日で、23日に赴任していることが記されています。
先ほど見たように、長岡と土井は高松城占領以後は非常に親密な関係にありました。ある意味、「丸亀の長岡謙吉私塾」の塾長と副塾長が三河県の知事と副知事に任命されたようなものです。二人揃って大栄転のように思えます。ところが長岡は、なぜかその月の28 日に免官されています。
倉敷代官所井戸 クチコミ・アクセス・営業時間|倉敷【フォートラベル】
倉敷代官所の井戸
倉敷県には、その後のどんでん返しが用意されていました。
翌年の明治2年8月に、土佐藩士は、倉敷県のポストから一掃されることになります。その経過は次のように記されています。
「如此人員ハ多キモ土州人ナレハ、原、慷慨ヨリ出デ、或ハ脱走シテ未帰籍不ㇾ成者有、都テ疎暴、政事上甚激烈ニ渉リ、人民大ニ苦シム 于ㇾ時七月初旬自二東京一被ㇾ召、小原、(略)上京、於二彼地一免職、餘ハ御用状態、八月十三日不ㇾ残免職被二仰渡一、即十五、十六之此より、逐々
出立、九月初悉皆引取ニ相成タリ」
意訳変換しておくと
このように免職されたのは土佐人ばかりであった。中には慷慨して脱走し、帰庁しなかった者もいる。まさに粗暴な政治的仕打ちであり、人々は大いに苦しめられた。
 ある職員は七月初旬に東京へ出張ででかけ、(略)上京中に免職される始末。8月13日から免職が言い渡され、十五、十六人が首を切られ、九月初めには、ほとんどの土佐人職員が職を失った。

『倉敷市史(第十一冊)』25 頁には
「土州藩不残御引払之御沙汰有之、知事様東京へ御出張被遊、其儘本国エ御引取」

とあります。琴平で在職中の八木以外の全員の土佐出身の職員に免職を言い渡し、知事は東京に引き上げ、そのまま本国に引き取った、というのです。
 また、福島成行「新政府の廓清に犠牲となりたる郷土の先輩」『土佐史談』第 32 号(1930 年)には、倉敷県庁勤めの岡崎恭介が、東京出張中に「職務被免」とされ、京坂を彷徨っているうちに路銀を使い果たし宿泊にも困るようになり、各地の不平士族と親密に結びついていく過程が克明に語られています。
 ここからは、配置転換されて1年後には、土佐人はほとんど全員が解雇になったことが分かります。この思惑はなんなのでしょうか。
①長岡を除く主だったメンバーは倉敷県へいったん配置転換し
②長岡はメンバーから引き離され一人だけ三河県知事に任命され、直後に免官となり
③その後、時を置いて倉敷県に再雇用した全員を解雇する
という新政府の筋書きが見えてきます。
このような措置に対する怒りが、先ほど見たように土佐人を自由民権運動に駆り立てる一つのエネルギーになっていくようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    テキストは遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)


 
6塩飽地図


 前回は海援隊による小豆島東部の占領について、お話ししました。今回は、塩飽の占領支配について見ていこうと思います。その際に避けては通れないのが「小坂騒動」です。これは土佐軍が、高松城占領している間に、塩飽本島で起きていた騒乱です。この事件に対して、海援隊が、どんな事後処理をして塩飽を占領下に置いていくのかを今回は見ていくことにします。
テキストは遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)です。
本島集落

まず塩飽本島の小坂集落と人名との関係を見ておきましょう
 小坂集落は、安芸からやって来た能地(のうじ)系の家船(えぶね)の漁民達が陸上がりして作った「出村」と研究者は考えているようです。江戸初期に安芸の能地(現三原市)からやってきて、小坂浦に居着いたのが始まりのようです。家船の漁業風俗も残っていました。人名達は、もともとは「幕府のお抱え船団」として、変なプライドをもっていましたからもともとは漁業はしませんでした。しかし、周囲の海には広大な漁業権を持っていますから、それを貸し出すことで、多くの収入も得ていました。そこへ、家船漁民がやってきて「出村」と形成したのが小坂集落です。ですから日頃から差別を受けていたのです。
3 家船3

 一方、人名株を持っている上層階級は、土地からの上がりだけではなく、海からの運上金や漁業権も持っていました。だから株を持たぬ民衆は事あるごとにお金を払わなくては何もできません。「人名による自治」と云われますが、それは人名による人名のための統治であったとも云えます。
3塩飽 ieyasu 印状
 
 幕府からすれば、塩飽に650人分の水夫と船をいつでも提供することを義務づけていたことになります。それは、平和時には朝鮮通信使やオランダ総督の航海への水夫動員や、アメリカに赴く咸臨丸への水夫提供などがありました。ところが幕末の動乱期になると、長州遠征のような実戦への輸送部隊としての動員が命じられるようになります。
 これに対して、幕府も不安定で長州へ従軍することの危険もあるので、人名達はみな嫌がって尻込みします。それで、小坂の漁民に頼んで長州に派遣します。つまり、人名は自らが出向くのではなく、支配下にある漁民達に水夫として従軍させたわけです。アテネの古代民主制は、従軍すれば参政権が得られるシステムでした。小坂の漁民達も従軍を根拠に、人名枠の配布をもとめます。それも、たった2名分です。これに対して人名側は、これも認めようとしません。そういう中で、鳥羽伏見の幕府軍の敗北と「御一新」のニュースが伝わります。それを聞いて、日頃の憤懣が爆発した小坂漁民は、塩飽勤番所を襲撃します。その仕返しにその翌日、人名勢が小坂浦を焼き討ちします。これが小坂騒動です。
 この事件では18人の小坂浦の漁民が殺され、人名の人たちによって全村が焼き払われました。小坂浦の墓には、この時の犠牲者となった18人の名前が彫られた碑が残っています。その碑も人名の供養塔と比べると格段の差があります。本当に小さな碑です。ここにも、人名と小坂浦の漁民の関係がよく表われているのかもしれません。
本島 小坂騒動記念碑
小坂騒動の犠牲者一八人を弔う墓(本島 小坂)

研究者は、小坂騒動の経緯を、次の一次資料から時系列に並べます
①人名側の文書「塩飽勤番所仮日記」塩飽人名所有。現在閲覧不可)
②小坂側の文書「八島神社誌」(小坂所蔵)

「慶應4年1月17日」
:鳥羽伏見の戦況(徳川軍敗走)を知った小坂浦漁民が、身分制打破(差別撤廃要求)の好機到来と考えて、泊浦の人名有力者7家に代表を派遣して、人名株2人分の譲渡を要求。これを人名側は拒否。
「1月18日」
人名代表が小坂浦にて妥協案(「代り人名」の譲渡)を提示。これを小坂側は拒否。小坂浦漁民が徒党(約300人)を組み、泊浦の年寄等の邸宅に乱入・打壊を働き、勤番所へ強訴。年寄の依頼で、2人の住職(正覚院観音寺、宝性寺)が仲裁、解決を約束。これで、小坂浦漁民は撤収。
「1月19日」
人名側の拠点である塩飽勤番所は、臨戦体制を整える。一方、小坂浦漁民は勤番所の朱印状を奪うことを計画して、武装蜂起。この時に海岸線を通らず裏をかいて泊山を越えて奥所地区を襲撃し、背後から勤番所に迫るルートで進軍。これに対して、惣年寄・高島惣兵衛が招集した笠島浦若衆が勤番所の備付の火縄銃20挺で、八幡神社で迎撃し戦闘状態へ。人名側(大倉忠助)と小坂側(与之助)の双方に死者がでますが、銃のない小坂勢は、総崩れとなり退却。人名側の高島惣兵衛は、小坂勢の再度の襲来に備えて塩飽11島に召集命令(まわしぶみ)発令。それに応えて、夜までには各島々から人名衆が集まってきます。この時に動員された島人は千人程度だった。木烏神社に本営設置して、小坂集落襲撃を決定。
「1月19日夜~20日未明」
:人名勢が小坂浦を襲撃、浜辺の船200余りを奪い逃亡を阻止し、全集落を焼払う。小坂側犠牲者18名。生存者約480人全員が勤番所の牢・物置等に収用。
「1月21日」
2日にわたって小坂集落を燃やし尽くした火の手は、21日になってようやく鎮火。23日頃になって人名衆は来迎寺に集まり、今後の対応を協議中。
来迎寺 (香川県丸亀市本島町 仏教寺院 / 神社・寺) - グルコミ


 この模様を対岸の丸亀から眺めていたのが、高松城占領のために丸亀に集結した土佐軍でした。
丸亀からは牛島があるので、直接は小坂集落は見えません。しかし、燃え上がる炎は夜空を焦がし、異変は丸亀にも伝わったようです。小坂集落が襲撃された1月19日は、高松城占領のために土佐軍が丸亀に集結していた日にもなります。軍の参謀を務めていたのが後の板垣退助です。
 塩飽・小豆島東部は天領あつかいとされ、朝廷による没収地の対象となっていました。そのため高松城占領後に、土佐軍は海援隊のメンバーを小坂集落に派遣します。その時の責任者だったのが八木彦三郎になります。彼は、塩飽後には鎮撫として金毘羅に乗りこんでくることになります。私が、注目する人物です。彼について、詳しく見ておくことにします。
24 宮地彦三郎
海援隊隊員 八木彦三郎について 

坂本龍馬が中岡慎太郎と京都の近江屋の二階で襲われたのは、1867(慶応三)年11月15日5ツ半(午後9時)過ぎだったとされます。その日の昼頃に、龍馬や慎太郎に近江屋の前で会った一人の海援隊士がいました。それが八木彦二郎です。八木は11月11日頃、長岡謙吉と共に土佐藩主山内容堂の命を受けて、英国の公使に信書とみやげを贈るために大坂に下っていました。その使命を終えての帰途、近江屋にいた隊長の坂本に報告に来たようです。その時、坂本は無用心にも、近江屋の二階から顔を出していたと云われます。映画などで演じられるシーンを再現すると
  「おお、八木かっ無事帰ったか。ご苦労じゃった。まあ、上がれ。お前にも話したいことかある』龍馬は2階から八木の顔を見てそう言った。脇から中岡も顔を出し『上がれ、上がれ」と声をかけた。八木は『いや、まだ旅装のままですから、 ひとまず、帰宿して、そのうちうかがいます」と答えて、その場は別れた。帰宿して、しばらくして「今、近江屋に刺客が入り、坂本、中岡の両隊長がやられた」との報を受けて、あわてて馳せ参したが、坂本は一言二言ばかり話して問もなく忠が絶えた。

当時、八木は大橋慎二(橋本鉄猪)という土佐の佐川出身の同志と某ソバ屋に下宿していたようです。短銃を懐にして同志と共に、京都霊山に龍馬と慎太郎の葬儀を行ないます。その後、下手人と信じた紀州の三浦休太郎を、油小路花屋町天満屋に襲っています。八木彦二郎は龍馬の元気な姿を、最後に見知っていた海援隊士ということになります。
八木彦三郎の生い立ちから見てみましょう
八木の本姓は宮地です。諱は真雄、幼名は亀吉又は源占、のち庫吉と称し、後年梅庭、梅郎、如水などと号したようです。1839(天保十)年10月15日、高知城下の新町、団渕に生れます。田渕は、武市瑞山が道場を開いたところで、堀割に近い商業ゾーンの一角に当たります。父は宮地六崚真景という藩士で、兄常雄、妹きわの3人兄弟です。彼は、近くの徳永千規に国学を学び、また田内菜国にも国学、漢学の手ほどきを受けます。
 さらに佐藤一斎門の陽明学者南部静斎や、洋学者として名をなした細川潤次郎にも和漢の学を学んだと伝えられます。加えて砲術は、海部流の能見久米次、藩の砲術師範・田所左右次に人間してその技を学び、剣は当時本町「乗り出し」に道場をかまえる麻田勘七に師事します。その中でも砲術に熱心だったようです。病身の母を助け、学問にも精進したので、藩から褒詞や褒賞をもらったこともあるようです。これだけ見ると優秀な模範少年だったことがうかがえます。
   十五、六歳の頃、御普請方一雇、川普請、港普請に従事します。
この土木工事の経験が、後年の琴平での架橋工事や堤防工事に活かされるようになるのかも知れません。その後は、上方修行を経て、1861(文久元)年 新規御召出しにより、下横目(警察官兼裁判官)となって上京します。この京都勤務中に出会ったのが坂本龍馬です。龍馬は、勝海舟の口ききで山内容堂から脱藩の罪を許され、形式ばかりの七日間謹慎を命ぜられます。その時の警護役が、彦二郎だったようです。彦次郎は龍馬を大阪から京都へと護送しますが、その間、退屈であった龍馬は、当時の世情について八木と話し合う機会があったのかもしれません。 
 龍馬との出会いは、彼を脱藩へと駆り立てます。帰京した八木は、京の藩邸を脱走します。
彼は名を変え、五条坂の陶器商吉兵衛方へ通勤し、絵付けの仕事などをしながら、夜はひそかに土佐の北添倍摩などと連絡をとりながら、志士活動に挺身したようです。しかし、そのうち大病にかかり佐々木定七の養子となり、佐々木三樹進と名のったり、梅国家の用人となり神田淳次郎と名を変えて、辛酸の日々をおくることになります。
1867(慶応三)年6月、坂本龍馬と後藤象二郎は、長崎を立って上京中でした。
八木は、後藤を旅宿に訪ねて、その心中を述べ、海援隊に入ることを願い出ます。龍馬にもその願いは通し、許可されたようです。長岡謙吉は、八木の境遇を気の毒に思ったようで、支度料十両と絹の袴一着、オランダ製の時計を贈ったといわれます。以後、彼は長岡と行を共にする海援隊員として八木彦二郎を名のるようになります。
Fichier:Kaientai.jpg — Wikipédia
海援隊集合写真 一番左が長岡謙吉 真ん中が坂本竜馬

龍馬暗殺後の海援隊は、メンバーが分裂して消滅状態になっていたようです。
このような中で、鳥羽伏見の戦いの後に、長岡謙吉と八木彦三郎はチャンス到来と、土佐出身の志士たちに呼びかけて海援隊を再結成します。そして、高松討伐を命じられた土佐軍を助けながら勢力を拡充するという戦略を立て、四国川之江にやってきます。そして、土佐軍の偵察・斥候活動などをおこなっていたようです。高松城占領の際にも、事前に高松周辺の上陸地点の下見などを行っています。
 その活動のリーダーが八木彦三郎でした。彼に率いられた海援隊が、偵察のために鎮火したばかりの小坂に上陸したのは1月22日のことだったようです。ちなみに、私の最初のイメージとしては海援隊ですから自分たちの軍艦(輸送船)を持ち、それを自由に操船して備讃瀬戸を動き回っていたと勝手に思っていたのですが、どうもそうではないようです。まず、この時期の海援隊には持舟はありません。四国にやってきたのも土佐船に便乗してのようです。そして、彼は船も操船出来なかったようです。龍馬の下にいた海援隊のメンバーとは違うのです。海援隊の再結成の知らせを聞いて、新しく入隊してきた者がほとんどです。出来ないのが当たり前です。
 009-1.gif
現在の小坂集落
それでは、本島の小坂浦に上陸した八木彦三郎は、どんな対応を取ったのでしょうか?
  多くの文献は、八木彦三郎の率いる海援隊が来島第一陣としています。しかし、「新編丸亀市史 2 近世編」は、1月23日に中村官兵衛・嶋田源八郎ほか7~8人がまずやってきて、翌日24日に八木彦三郎が来島したと記します。これは長岡謙吉書簡(慶應 4 年 1 月下旬頃か、林英夫(編)『土佐藩戊辰戦争資料集成』470 頁)に
「廿二日塩飽七島・小豆島民居争闘死人怪我人アリ人家ヲ放火シ騒擾甚シト聞ク、石田・中村等数輩渡海…」

の内容と一致します。

 やって来た海援隊に対して、人名衆の惣年寄・高島惣兵衛等はどんな反応を見せたのでしょうか?
「小坂ノ援軍ニアラズヤト疑ヒ騒グコト甚し」とあります。海援隊のメンバーを「小坂の援軍」と疑ったようです。ここからは、突然に現れた海援隊が何者か理解できなかったことが分かります。そこで
「島内の者に疑義挟む者の有るを以て、間民の鎮撫は引續き之を致すべきにつき、一應丸亀金輪御本陣の方へ使者を出すことを差し許されたし」

と、丸亀に使者を出して確認しています。この時に使者となったのが龍串節斎という医師です。彼は後に、琴平鎮撫の八木のスタッフとして参加する人物です。
 「節斎は(丸亀)御本陣で島民等の不心得を懇諭せられ、早々歸島して鎮撫使の命に従ふべき旨申聞かされ、恐惶して歸島復命した」( 宮地美彦「贈正五位長岡謙吉(下)」9 頁)

事実だったので、恐れながら島に帰り報告したとあります。
  こうして鎮撫使と認められた海援隊は、塩飽勤番所に本陣を移し、ここを土佐藩塩飽鎮撫所とします。
「玄關ニ三葉柏ノ幔幕ヲ張リ、仝ジ紋所ノ高張提灯ヲ吊シ、門前ニ土州支配所ノ高札ヲ建テ」とあるので、人名の勤番所を、海援隊が乗っ取った形になったようです。
本島 土佐藩紋所
土佐藩の紋所三葉柏


八木彦三郎の取った措置を見ていきましょう
①幽閉状態にあっ小坂浦住民全員を牢から解放します。
②加害者である人名指導者の惣年寄等に対しては、どんな措置が執られたのでしょうか
「治メ方ヨロシカラザルヲ以テ(略)厳科ニ處スベキ所、(略)特別ノ御仁政ニヨリ一週間ノ閉門謹慎

 他の史料も「一週間の謹慎」が多く、「十日間の譴責禁慎」「年寄に手鎖三〇日の刑」と記すものものもありますが、「徒党を組んでの殺人・放火」に対しての処罰としては、非常に軽微な内容のように思えます。
 さらに「其後ハ一切御構ヒナク、従前通リノ勤メ方仰付ケラレシ」と「形式的な処罰」にとどめたことが分かります。ここからは人名組織の統治機能をそのまま利用する形で、塩飽占領を行おうとする思惑があったことがうかがえます。この時点で、海援隊のメンバーは総勢13名で、塩飽にやって来ているのは、その内の数名なのです。「直接占領」などは望むべくもありません。既存の人名組織の協力・利用なしでは、占領政策は行えません。そうだとすれば騒動の張本人であろうとも、人名指導者達を厳罰に処することはできません。
「一週間後に高島は再び禮服着用で出頭し、前日の罪を許し以後は別儀なく、前役其の儘を以て忠勤を勵む様にとの申渡をうけて罷り退つた」( 福崎孫三郎「八島神社誌」59 頁)

という措置も納得がいきます。
 また、福崎孫三郎「八島神社誌」には、年寄(人名)が役人として引き続き鎮撫所(旧塩飽勤番所)で海援隊を補佐していたこと。また、小坂復興事業で人名が資材調達などで海援隊から多額の支払いを受けていたことが、角田直一『十八人の墓』236~237 頁には指摘されています。

 一方、家を焼かれた小坂浦漁民のために「土佐ゴヤ」(藁葺き大長屋の仮説住宅)を小坂浦の3か所に建築します。また『新編丸亀市史 2 近世編』807頁には、救恤米(助成米)が2月9日、金2百両の助成金が3月7日に配給されたと記されています。これは、土佐藩から出された「救援金」だったようです。
 季節は真冬のことですからこれによって救われた人たちも多かったようです。しかし、小坂に留まらずに「家船(えふね)」仲間の港に「亡命」した漁民達も数多くいたことを下津井川の史料は伝えます。

八木は、塩飽本島で新たな「組織」を作り出します。
先ほども見てきたとおり海援隊のメンバーでだけでは、塩飽と小豆島の占領政策は行えません。治安維持部隊も必要です。そこで八木は、・塩飽諸島の17~30歳の男子の志願者を集めて「梅花隊」(1個小隊)を創設します。応募してきた者達から人名衆の子弟を選び、隊の幹部に登用します。その顔ぶれを見ると、高島覺平(惣年寄・高島惣兵衛の子)・森嘉名壽・高島省三[高島惣兵衛の養子]、田中眞一、高倉善次郎、西尾侑太郎、横井松太郎などです。小坂からも松江甚太郎、山田丈吉、長本平四郎、溪口四郎造が梅花隊に入隊しているようです。
 「梅花隊」は小銃500挺を装備し、軍事訓練を始めます。これは、金毘羅大権現から借り入れた資金が使われました。梅花隊の訓練の様子が
「字七番新田ニ約五反歩ノ調練場ヲ構ヘ、毎日勇壮ナル調練ヲ行ヒシ」として、総勢「三十人ノ将卒」

と福崎孫三郎「八島神社誌」60頁には記されています。梅花隊は、明治3年7月に金毘羅で解隊されるまで、存続します。この隊に参加した人たちの中から次の本島や広島を担う戸長や村長達が現れるようです。
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 海援隊は、小坂浦漁民を救ったのか?と研究者は問い直します。
 海援隊を「島民之緒民ハ活キ佛さまトテ拝ミ申候」と記す土佐側の史書があります。例えば八木の業績について、宮地美彦「維新当時の土佐藩と予讃両国との関係79 頁)は次のように記します
塩飽に入って描虜を放ち張本人や、島役人等の罪を糾し、寛典を以て乱ル鎮め、人心を安堵し、救済を以て乱後の窮民を助け生業に励げました。是に於て島民は敵、身方の隔てなくその政治に悦服して八木の外出する時は、生佛様だ生佛様だと云つて土民は土下座して拝したと云うことである。 
 又八木が勤番所に居た頃、顔面に睡物が出て発熱甚だしく医師が大患である一命にかかわる様な事があるかも知れぬ」と診断した。その時本島の若者は毎日丸亀の福島で潮垢離して松尾村の金毘羅宮(金毘羅宮)参詣して治癒を祈願したと云ふ話も残つて居る。
   八木や海援隊のメンバーを神と讃え神聖視しているというのです。

小坂浦での八木の「神化」プロセスを見ておきましょう
明治3年(1870)、海援隊士を祭神とする「土州様」を大山神社に合祀88。
大正7年(1918)、海援隊13名の名前が分かり「十三とさ神社(重三神社)」に改称
大正8年(1919)、小坂山の山上にあった大山神社を現所在地に移転(地図・写真参照)。
昭和9年(1934)、実際に塩飽を担当したのが13人のうちの数名であることを知り、八木彦三郎・島村要の頭文字から「八島神社」と改称。
24 宮地彦三郎
重三神社の御神体には、長岡謙吉や八木彦三郎など十三名の氏名が記されています。

小坂騒動を後世の人たちは、どう位置づけ評価しているのでしょうか?
①福崎孫三郎『塩飽小坂小誌』
騒動を鎮撫した海援隊を「小坂ノ更生再建ニ援助を與ヘラレン為政者」と称賛し、隊士には「八木彦三郎殿」、「長岡謙吉様」と敬称をつけています。
②吉田幸男『塩飽史―江戸時代の公儀船方』
小坂騒動は海援隊(土佐藩)の扇動に小坂漁民が踊らされたもので「土佐の陰謀」と主張し、海援隊の行動を「悪行」とします。

③角田直一『十八人の墓―備讃瀬戸漁民史』には、「土佐をたって高松藩鎮撫にむかいつつあった六百名の土佐の武士たち」と海援隊が、「自由民権」と「平等」の思想から小坂の解放を行ったと「土佐軍・海援隊=解放軍」説を主張します。

書き手の立ち位置によって、小坂騒動の性格や評価が大きくことなることが分かります。

海援隊は、小坂の解放者だったという説には、次のような点から私には納得は出来ません。
①小坂浦漁民蜂起の最大の目的である人名株譲渡を実現させていない。
②島の統治実務は従来の政治機構(人名制)のままで、変革・改革もなし
③梅花隊にも人名衆を登用。
ここからは、小坂漁民の生命は救ったが「自由と平等」をもたらす解放者ではなかったことが分かります。

どうして海援隊は塩飽や小豆島などの備讃の島々を占領下に置こうとしたのでしょうか。
研究者は、次のような要因を挙げます。
①地政学:「長州征伐」の際の石炭貯蓄地=瀬戸内海上交通の要所であること
②海軍に必要な「塩飽水夫」の供給地であること、咸臨丸の水夫の多くが塩飽出身者
③いろは丸事件で長岡謙吉は海援隊文司として海難事故に対応し、備讃瀬戸を熟知
④海援隊規約「海島ヲ拓キ五州ノ与情ヲ察スル等ノ事ヲ為ス」の実践。⇒塩飽島・小豆島の鎮撫、及び佐渡島・伊豆七島の鎮撫構想(建白)へ

以上から長岡や八木のプランは次のようなものであったことが推察できます
①鳥羽伏見の戦い後、解体消滅していた海援隊を復活させ、「土佐軍の高松藩討伐」に参加する。
②その際に、備讃瀬戸の天領を占領し、統治することによって海援隊の組織を培養し強化していく。
その場所として、塩飽や小豆島はもってこいの島だと考えたのではないでしょうか。こうして、土佐藩が高松・松山藩の無血占領を行っている間に、土佐藩からの「下請け事業」的に塩飽と小豆島を占領し、支配下に置くことに成功します。

  以上をまとめておきます
①鳥羽伏見の戦い後、御一新のかけ声と共に塩飽本島では小坂騒動が起きた
②これは、人名側によって小坂漁民は制圧され、拘留された。
③そこにやってきたのが土佐軍のもとで偵察活動を行っていた海援隊である
④海援隊の八木彦三郎は、漁民を解放し救済した
⑤一方、人名側には厳罰を課せず従来通りの統治を許した
⑥さらに、人名の師弟を登用し梅花組を組織して、新たな軍事組織の形成を目指した。
⑦ここからは、海援隊は小坂の解放者とは云えず、従来の組織を温存しながら支配する占領者の性格が強い。
⑧海援隊は、丸亀の本部(長岡謙吉)・塩飽(八木彦三郎)・小豆島の草壁と備讃瀬戸に「海援隊」トライアングル」地帯を支配下に置いて、ここを拠点にして新たな海軍力の形成を新政府に献策していくことになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)
  谷 是「土佐海援隊士八木彦二郎と琴平」 ことひら45号
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Fotos en 天領倉敷代官所跡 - 本町7-2
天領倉敷代官所跡(倉敷アイビースクエア内)

讃岐の天領没収を行ったのは?
 
「是迄徳川支配いたし候地所を天領と称し居り候は言語道断の儀に候、此度往古の如く総て天朝の御料に復し、真の天領に相成り候間、右様相心得べく候」
意訳変換しておくと
「これまで徳川幕府が天領と称して広大な領地を支配してきたことは言語道断のことである。よって、この度、総て朝廷の御料にもどし、真の天領にすることにした。以上のこと、心得るように」

朝廷は1868(慶応四)年1月10日、鳥羽伏見の戦いの勝利を受けて、徳川慶喜の処分と幕府直轄の土地(天領)の没収を布告しす。これで讃岐にあった天領も没収されることになります。今まで倉敷代官所が管理していた讃岐に天領は以下の通りでした。
①池御領(那珂郡五條村(669石)。榎井村(726石)・苗田村(844石)
②小豆島の東部三か村(草加部村・福田村・大部村)
③直島・男木島・女木島 
④大坂町本行支配の塩飽諸島(高1250石)
⑤高松藩領にある四か所の朱印地(金毘羅大権現寺領等)
以上が没収対象となり、土佐藩の「預り地」となりました。これは土佐藩が朝廷から、朝敵となった高松・松山両藩の征討とその地の天領没収を命じられていたからです。土佐藩兵は高松城に向かう進軍の途中、1月19日には、丸亀に駐屯します。
この時に、丸亀沖の塩飽本島では大騒動が起きていたようです。
これを小坂騒動と呼びます。情勢を聴いて高松藩征討深尾総督は、海援隊の八木(本名宮地)彦二郎を本島に派遣して騒動を鎮圧させます。そして、塩飽勤番所に土佐藩塩飽鎮撫所を設置して塩飽諸島を管轄することになります。
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 土佐藩塩飽鎮撫所が置かれた塩飽勤番所

ここで当時の海援隊のことについて見ておきましょう。
坂本龍馬が亡くなって以後は、
①九州長崎表の方は菅野覺兵衛が
②上方々面は、長岡譲吉が
指揮するという体勢になって分裂していたようです。
 1868(慶応4=明治元年)正月に、鳥羽伏見の戦で幕府軍がやぶれ四国の高松、松山藩は朝敵とされます。これに対して朝廷は、土佐藩に対してこの2藩の追討命令を出し、錦旗を下賜します。
 長岡謙吉・八木彦二郎の思惑と行動を推測するのなら、土佐藩と行動を共にして、瀬戸内海での活動場所を得ようということではないでしょうか。大坂にいた尊皇派の藤沢南岳を訪ねて、高松藩の帰順工作を進めたのもその一環です。その後、二人は伊予の川之江に向かいます。そして土佐から川之江に到着したばかりの土佐藩の討伐軍に、次のような情勢報告を行います
①鳥羽伏見の戦況と、その後の上国の情勢
②高松・.松山藩追討の詔が下ったこと
③京都の土佐責任者・本山只一郎が錦旗を奉じてやってきていること。それが、まもなく川之江に到着すること
 この情報を得た土佐軍は、軍議を開いて次のような行動を決定します。これについては、以前にお話ししましたので要約します。
①松山藩御預地の幕領川の江を占領すること
②丸亀藩を加えて高松藩を討伐、占領すること
③その後に、松山征伐を行う事。
この決定に大きな影響をあたえたのが若き日の板垣退助だったようです。
こうして、長岡と八木は、土佐軍に従い、行動を共にすることになります。
土佐軍が朝廷から求められていた「討伐・占領」は、高松藩だけではありませんでした。エリア内の幕府の天領も含まれていました。これも没収しなければなりません。今まで倉敷代官所が讃岐で管理していた天領は先ほど見たとおりです。

高松を無血占領した後、土佐軍は、高松駐屯部隊と上京部隊・松山討伐支援隊の3隊に分かれます。瀬戸内海に浮かぶ島々を占領・管理する能力も員数も土佐軍にはありません。このためこの方面の占領管理のために土佐藩は「新」海援隊を組織します。ある意味、土佐藩の「下請け委託」です。
 長岡や八木の脳裏には、ここまでが事前に織り込み済みであったと私は考えています。つまり、土佐藩の高松討伐を聴いたときに、ふたりは土佐軍に協力し、参軍する。その代償として、海援隊の復活再興と備讃瀬戸の天領をその管理下に置くこと。そして、将来的には瀬戸内海の海上交易の要地である塩飽と小豆島を拠点にして、海援隊の存在価値を高めるという「行動指針」が、すぐさま浮かんだのではないでしょうか。そのために、川之江にむかったのでしょう。川之江の軍議で、高松占領後の方針もきまります。そこには、高松城占領後は備讃瀬戸の島々は「新海援隊」を組織し、彼らが島嶼部の管理を行うと云う密約もあったのかもしれません。ちなみに長岡は、朝廷から「讃岐島討伐の内命」が讃岐に行く前に下されていた、と郷里に送った私信には記しているようです。
 しかし、海援隊による小豆島・塩飽の占領支配はすんなりとは始まりません。
都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】 - 津山瓦版
津山郷土博物館発行「津山藩と小豆島」より小豆島絵図  岡山から見た小豆島らしく南北が逆転している。
  津山藩が作成したものなので東側の天領は何もかかれていない

まず、小豆島の「討伐鎮撫=占領」の経緯を見ておきましょう。

 江戸時代の小豆島は東部3か村が幕領地として倉敷代官所の支配下にありました。それに対して西部六か村(土庄村・淵崎村・小海村・上庄村・肥土山村・池田村)は、天保九年(1838)から津山藩領となっていました。東部3ケ村が没収される際に、西部六か村も影響が及びます。
 高松城が無血占領された直後の1月23日に岡山藩の役人が草加部村に来て、村役人らに維新の趣旨を説明し、朝廷に二心なきの誓紙を差し出させます。同時に西部六か村の大庄屋たちにも、同じ誓紙を出させています。これは、岡山藩の越権行為のように思えますが、当時は津山藩が朝敵の嫌疑をうけて、詰問のため岡山藩から鎮撫役と兵が差し向けられていたという背景があります。そのため津山藩の飛び地領土である小豆島へも岡山藩の藩士が派遣されたようです。
 津山藩は1月21日に開城して恭順の意を示します。そこで25日の至急使で小豆島の村役人に宛て、「国元のところ少しも別条これなく、 決して相変り候わけござなく……」と記した書面を送り届けて、西部六か村は今までどおり、津山藩領として支配することを知らせています。
一方、天領の東部3か村へは2月5日に再び岡山藩の役人がやってきます。
草加部村の清見寺を出張所として、旧幕領地の管理を始めます。さらに盗賊取締りなどを名目に、藩士を派遣して「軍事占領下」に置きます。このような岡山藩の動きに対して、警戒心を抱いた土佐藩は強硬策に出ます。海援隊士の波多彦太郎らと塩飽・直島・男木島・女木島から徴兵した高島磯二郎・田中真一・西尾郁太郎ら数十人を草加部村に上陸させ、下村の揚場柳詰めに次のような立札を立てます。
「此度、朝命を以て予讃天領鎮撫仰付候事」

そして、極楽寺に土佐藩鎮撫所を設けて兵を駐屯させたのです。こうして、草壁村にはふたつの占領軍が駐屯するという事態になります。両藩はお互に「占領権」を主張します。

極楽寺
土佐軍が駐屯した極楽寺

 土佐側は、朝廷からの命を背景に岡山藩の撤退を迫ります。同時に、朝廷に働きかけて土佐藩へ、備前・讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書を出させます。これが2月9日のことでした。この辺りが当時の土佐藩と岡山藩の政治力の差なのかもしれません。これを受けて2月15日に、岡山藩は清見寺に置いていた番所を開じて引揚げていきます。
御朱印】清見寺(小豆島)〜小豆島八十八ヶ所巡り第21番〜|ナオッキィのチャリキャンブログ

こうして、土佐藩は鎮撫所を極楽寺から清見寺に移して、島民に対して次の触書きを出します。
当国諸島土州御領所、御公務・訴訟・諸願等一切向後下村出張所え申出可く候、尤も塩飽島えの儀は当時八木彦二郎出張に付、本島役所へ申可く候、右の趣組々の老若役人共えも洩さぬ様相伝へ触書は回達の終より下村役所え返さる可く候 以上
此度朝命を以て豫讃天領銀撫被仰付候事
戊辰二月            土佐藩
意訳変換しておくと
讃岐諸島の土州預かり所の公務・訴訟・請願などの一切は、今後は下村出張所へ申出ること。もっとも塩飽島については八木彦二郎がいる本島役所(勤番所)に申し出ること。以上のことを、組々の老若役人たちに洩さぬように伝へること。この触書は回覧終了後は下村役所へ返却すること。以上
この度、朝命を以て伊予・讃岐の天領鎮撫を仰せつかったことについて
戊辰二月            上 佐 藩

小豆島は、土佐藩鎮鎮撫下に置かれ、実質の占領支配は海援隊が行う事になったようです。
その後、この事情を岡山藩は、京都の辯事宛に次のように報告しています
  讃岐国塩飽島々の儀は備前守(岡山藩)領分児鳥郡と接近にこれ有り候処、上方変動後、人民動揺の模様に相見え候に付、取り敢ず卿の人数渡海致させ、鎮撫の義取計らい置き申候、同国直島の義は去る子年(元治元年)御警衛仰付られ居り申す場所故、鎮撫方の者差出し収調べ致し申候、同小豆島倉敷支配の分、盗賊徘徊致し候様に付、是れまた人数指出し鎮撫致し置き中候、然る処土州より掛合これ有り、右三島の儀は土佐守(土佐藩)収調所に付、同藩へ受取り申度き由に候間、夫ぞれ引波し仕り候、尤も非常の節は時宜に寄り、右島々へ備前守人数差し出し候儀もこれ有る可き旨申談じ候、此段御届け申上げ候様、国元より申付越候 以上
二月九日    池田備前守家来沢井宇兵衛
意訳変換しておくと
  讃岐の塩飽島々については備前守(岡山藩)領分児鳥郡と接近している。そのため上方変動(鳥羽伏見の戦い)後に、人民動揺の様子が見えたので、とりあえず藩士を派遣し、鎮撫を行ってきた。また直島については、元治元年に警衛を仰付けられた場所なので、鎮撫方の藩士を派遣し占領下に置いた。同じく小豆島東部の倉敷支配(天領)については、盗賊徘徊の気配もあったので、ここにも藩士を派遣し、鎮撫にあたった。しかし、これについては、土佐より次のような申し入れがあった。この三島のについては、朝廷より土佐守(土佐藩)に討伐・占領が命じられているので、同藩へが取り占領するべきものなりと。そのため土佐藩に引渡た。もっとも非常の折りであり、これらの島々へ備前藩主が藩士を派遣し鎮撫したのも、先を案じてのことであると申し入れた。このことについて以上のように報告します。と国元より連絡があった。 以上
二月九日    池田備前守家来沢井宇兵衛

こうして土佐藩は、幕府の天領であった「塩飽ー小豆島ー琴平」を管理下に置いたことになります。

土佐藩の小豆島・塩飽占領について、戦前に書かれた高知の史書は次のように記します。
此等島民は一般に文化の度が極めて低く祀儀風俗等も至つて粗野であったから、最初全島民に対して御維新の御趣意を誘論し、聖旨を奉外して各生業を励み、四民協力し鴻恩に酬い奉るべきことを誓はじめ、勤めて之が感化開発に尽力したと云ふことである。 
 而して豫讃天領鎮撫の内命を受けて出張した海援隊は、当時土佐藩の名において、その重任にあたり、其の海援隊として私に行動することはなかった。

   ここには占領地は、御一新を理解しない「文化の度が極めて低く祀儀風俗等も至つて粗野」な地で、それを「文明開化」する役割を担った土佐人、そしてそれに恭順し、発展する占領地という図式が見られます。これは、当時進められていた「大東亜共栄圏建設」のための日本の役割と、相通じるイデオロギーであるようです。「讃岐征伐」の時に、土佐で記された討伐記のイデオロギーが時間を越えて、戦前の「大東亜共和圏構想」を正当化する論理になっていたことが分かります。
海援隊のリーダー達は、塩飽や小豆島の地の利を活かして、瀬戸内海の海運交易の拠点としようと半永続的な支配を考えていた節があります。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)


 讃岐史談(讃岐史談会編) / 光国家書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 「師匠からまだまだ勉強が足らんな、読んどかないかん本がよーけあるで。終活のために本も整理ししよるけんに、これだけ持って帰って」といただいた本の中にあったのが「讃岐史談」です。そのまま何年間も「つん(積)読」状態にあったのですが、最近手に取ってみると、私にも興味が持てそうな論文がいくつか見えてきました。これも成長かもしれません。
 今回はその中から、明治維新時の土佐軍の讃岐占領について記した文章を見ていくことにします。この論文は戦争始まる前に、琴平の草薙金四郎氏を中心に創設された「讃岐史談会」の機関誌に載せられたものです。これが1977年に復刻版として出されています。
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その中に収められている「宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)」が今回のテキストです。
 この論文の面白い所は、戦前の土佐の研究者によって書かれているところです。そのため「郷土愛」が強く出ていて、香川県人の私が読むと「占領軍の目から見た讃岐」という姿が見えてきます。香川県人には書けない表現も随所にでてきます。
 私の問題関心としては、
①明治維新直後の土佐軍の金毘羅占領
②金毘羅大権現の神仏分離の際の金光院院主宥常の動き
この両者が同時代的に不透明で、よく見えてこないのです。このテキストを通じて、土佐占領下にあった金毘羅の情勢が見えてくればと思います。そのためには、少々遠回りですが、鳥羽伏見の戦い前後の高松藩と土佐藩の動きから初めて行きたいと思います。
1 鳥羽伏見の戦い

1868(慶応四・(明治元年)正月2日の鳥羽・伏見の戦い後、情勢は激しく動くようになります。
1月10日には、将軍・徳川慶喜と以下の藩主たちの官位が削られ、次のような措置が出されます。鳥羽伏見の戦いに参戦した高松藩も朝敵のメンバーの中に含まれています。
徳川慶喜・奥州合図藩主、勢州桑名藩主、讃州高松藩主、豫州松山藩主、備中松山藩主、上総太川喜藩主
右者此度慶喜奉欺 天朝反状明白既兵端を開候に付追討被仰出候 依之右之輩随賊反逆頴然候間被止官候事
意訳変換しておくと
「右者はこの度の慶喜の天朝に叛き兵端を開いたことにより、追討をもうしつける。以上の輩は反逆者である間は官位を停止する。」

鳥羽伏見の戦い後、新政府は徳川慶喜追討令を発します。同時に、後攻の憂いをなくすため、西日本の徳川家一門・譜代大名を押さえる任務を土佐・備前・長州などに命じます。なかでも、新政府が畏れたのが、高松・松山・大垣・姫路・備中松山の5藩です。高松藩は、徳川将軍家の一門であるとともに、鳥羽伏見の戦いに、旧幕府軍として参戦したことが、朝敵とされ征討の対象となりました。

トピックス)「高松、松山を征伐すべし」 明治天皇、土佐藩に命令 御沙汰書見つかる: 歴史~とはずがたり~
【御書写 土佐少将宛(高松・松山征討令)

 新政府は11日に、土佐藩主山内豊範(土佐少将)あてに、伊予松山藩と讃岐高松藩と、その領内の幕領地に対する討伐・占領の命を沙汰します。そこには、次のように記されています。
丸亀藩が高松藩を征伐? : 88 Partners Inc.
徳川慶喜反逆妄挙を助候條其罪天地不可容に付讃州高松、豫州松山、同川の江を始是迄幕領総て征伐没収可有之 被仰出宜軍威を厳にし速に可奏追討之功之旨御沙汰候事
正月十一日
但両國中幕領之儀は勿論幕吏卒の領地に至るまで総て取調言上可有之 且人民鎮撫偏に可服王化様可致処置候事
土佐少将へ
征服被 仰付侯御御紋御旗二流下賜候事
正月十一日
意訳変換しておくと
徳川慶喜の反逆妄挙を助けた諸侯の罪を、天下に受けいれられるものではない。よって讃州高松、豫州松山、川之江とその幕領(天領等)を総て征伐没収すること。軍威を厳しくして速やかに追討追討することを土佐藩主に沙汰する
正月十一日
但し両國の幕領地(天領)については、旗本等の領地に至るまで総て取調て、報告すること。その際に、人民鎮撫・王化に注意を払っておこなうこと。
土佐少将へ
征服のための軍事行動については、天皇家の御紋御旗二流を下賜する
正月十一日
錦の御旗|西郷どん(せごどん)おゆうが縫う錦旗(きんき)は鳥羽・伏見の戦いで戦況を一変させた官軍のしるし! | おもしろきこともなき世をおもぶろぐ

12日正午に土佐藩に下賜された錦の御旗は、川原町の土佐藩邸を出発して四国・川之江に向かって進んで行きます。この時のメンバーは大目付本山只一郎と下目付2人、飛脚3人で、行列は足軽4人と郷士2名の後に御旗が続き、その後に徒目付が続くという隊列だったようです。
つまり、讃岐高松藩と伊豫松山藩が朝敵となり、その討伐が土佐に命じられたということになります。そのシンボルがこの旗です。
土佐藩15代藩主 山内容堂(豊信)
山内容堂
これに先立って1月6日に、土佐藩の老公山内容常は京都藩邸から高知藩庁へ、「京都に異変が起ったので朝延守護のために、藩兵を出来るだけ多く派遣するように」という指示を出しています。土佐藩では、この指示を受けて、早速出兵の準備に取りかかかります。しかし、その後の情報はなかなか入ってきません。

そのような中で、13日に遠征隊のメンバーが次のように決定します。
総督  近習家老・深尾成質
御仕置役 小南五郎右衛門、
大目付   森確次
大軍監兼大隊司令 乾退助(板垣退助)
土佐軍の讃岐討伐部隊

彼らが「迅速隊」八小隊の600人を率いることになります。
 その階層構成は以下の通りです
①深尾丹波手勢 40人
②郷侍8人、郷士121人・士48人・小者138人・
③雇兵(年季夫) 692人
④庄屋子弟    34人
⑤医師5人 若党6人
 総勢1085人です。
これを見ると郷士、徒士、地下浪人、庄屋の師弟からで構成される混成部隊で、服装も陣綱織に伊賀袴、代刀に大細筒という代物で、当時としてもなかなか奇抜なものだったようです。
 1月12日に高知城下の致道館に集合した兵は、山内豊信の閲兵をうけて七ツ刻(午後四時)、高知を出発していきました。

一行は陸路で高松に向かいます。ルートは次の通りです
①13日 石渕に泊り
②14日 穴内で昼食、本山で宿泊
③15日未明 本山を出発し吉野川に出て、川口で昼食、立川で宿泊。この夜大雪
④16日御殿集合、七ツ(午前四時)に御殿を出発して笹ケ峰に登る。積雪三尺ばかりですべり倒れる者多く、馬立にて昼食。京都から帰国する使者と出合い様子を聞き、平山越上分で勢揃して川之江に下る。
⑤17日は川之江に滞在。
士氣は盛んでしたが、この時点では、京都に向かうつもりで編成されています。自分たちが高松藩や松山藩の討伐占領軍になるとは思ってもいなかったことは押さえておきたいと思います。つまり、川之江までやってきても、どこに向かうかも、なにをしたらいいのかも分かっていなかったということです。そのため以後の動きがとれません。軍目附の谷守部は、高知藩庁へ引返えして、藩命を再確認する始末です。
  そんな中で18日に伊予・讃岐天領地統治の藩命を受けた海援隊の長岡謙吉、八木彦三郎等が部下を率いて船で川之江に到着します。そして、土佐軍の陣営にやって来て、上方の形勢を伝え、錦の御旗が到着することを告げます。
板垣退助の写真(若い頃) | 幕末ガイド
若い頃の板垣退助
これを聞いて討幕派の先鋒であった板垣退助は次のように鼓舞したと伝えられます。
「事態既に此に至つて尚決せずば社陵を如何せん、他日妄挙の責め或は至らば我二三輩、死あるのみ。死して社稜の為めにするも亦丈夫の一快事ではないか」
意訳変換しておくと
「事態は既にここまで進んでいる。この期に及んで行動を起こさなければ、社陵に顔向けできないことにもありうる。後日になって妄挙の責めを受ければ、我らの内の二三の輩が腹を切ればいいことだ。死して後世に名を残すのも、男丈夫の快事ではないか」

 板垣は自分たちが高松藩討伐軍に「変身」し、高松に向けて「転進」することを主張します。これに指揮官達は同意します。こうして、川之江で高松・松山藩への討伐軍は「誕生」したのです。その手始めに、土佐軍が行ったのは、松山藩管理下にあった川之江支配所役人に対して、立退きを命じることでした。役人たちはこれに従い、退去したようです。こうして討伐軍は、まず川之江を「無血開城」させることに成功します。川之江は土佐軍の占領下に置かれ、次のような高札が建てられます
当分天領土州領地
此度 朝命を以豫讃天領取調被 仰付候に付向後萬事土州代官へ可申出候事、
但貢税方度先旧来之通可相心得事
慶應四年正月
意訳変換しておくと
当分の間、土州領とする
この度 朝命で豫讃天領の管理を土佐が仰せつかった。以後、萬事のことは土州代官へ申し出ること。ただ、貢税や法律については旧来の通と心得るべし
18日に、深尾総督は丸亀藩説得のために差添役の乾三州郎と、海援隊の長岡謙吉を、丸亀に向かわせます。その途上で、島坂峠で錦旗を立てて、京都から行進してきた大監察山本只一郎の一行と劇的な出会いを果たします。こうして土佐軍は、高松征討の錦旗を手中にします。同時に京都の情勢が有利に運んでいることを知ります。
 丸亀落主京極朗徹は、乾、長岡を迎へ入れ恭順の意を表し、土佐藩兵を迎へ入れることに同意します。この背景には、土佐藩の参勤交替ルートが「本山ー新宮ルート」になって、仁尾から丸亀藩の御座船を借用して瀬戸内海を渡るようになっていました。その際の船の借用や水夫手配などで、家臣同士の親密な交流もあったようです。その際の人脈などが活かされて、スムーズなやりとりが行われた伝えられます。
 その後の川之江から丸亀に至る土佐軍の動きを見ておきましょう
⑥18日 京都よりの倫旨と錦御旗一流を受取り、五ツ(午後八時)に川之江を出発、和田浜(現・豊浜町)の荒磯を歩き、姫浜(旧豊浜町)にて休息。食事、本山寺にて休息。食事して夜明け
⑦19日 本山寺出発、鳥坂で昼食、八ツ(午後二時)に丸亀に着き、福島屋などに宿泊
2020年03月 : 瀬戸の島から
高松城と東浜
これに対して高松藩は、どのように対応したのでしょうか。香川県史で高松藩の動きを見てみましょう。

大坂から鳥羽伏見の敗残兵を乗せた船が1月10日に高松に帰ってきます。すでに三宅勘解山らによって伏見の戦況の様子が報告されていましたが、その後は西風が吹き続け、上方からの便船がなく、その後の様子は分からなかったようです。そのため6日以降の大坂方の不利や、朝敵になったことは知りませんでした。そのため高松では、その後の戦況を心配しながらも、まだ人々の間には動揺はなかったようです。そのような中で十日に大坂を出帆した便船が、12日昼、高松に帰ってきます。飛脚や船頭加子・乗合の者から、
①京都より錦御旗を押立て官軍が破竹の勢で大坂に入って来たこと
②大坂方が朝敵となったこと
③大坂城が炎上した
ことなどが知らされます。さらには、今夜中にも官軍が軍艦で、高松城を攻撃するなどのフェイクニュースが流れされ、市中は動揺します。家中の隠居子供までが夕方から夜中にかけて追々登城します。この武士たちの今までにない姿を見た町方の者は、動揺し家財を収片づけ、老幼婦女らが立退きはじめます。そのため市中は大騒ぎとなります。町奉行は目付や押の者を町方に差し向けて、騒ぎの鎮圧につとめます。また代官らも出て騒ぎを鎮めます。そのためか夜半には平静にもどったようです。しかし、この不安と騒ぎは、周辺の村々にも波及します。そのため1月17日には、大政所から各村に次のような通達が出されています。
「此度朝命に依り京大坂にて御屋敷指上げ遊され候義に付き、 此度申渡しの趣諸事相慎み百姓共騒しく仕らず様に申付べき事」

さらに建札にて、家居は表門を開じておくこと、商売は密かにすることなどが通知されています。
 12日夜になると、光宗五郎八らが大坂から帰国します。そして、今度の戦は、「一と通りの謝罪では済されず」と重臣や藩主に報告します。
 14日夜半になって、藤沢恒太郎・山崎周祐(大坂寄留高松浪人)が高松に帰ってきて、次の報告を行います。
「八日に征討将軍仁和寺官が大坂に着き、西本願寺掛所を本陣として、高松・松山・大垣・姫路に対し、征討軍の派遣を命じたこと」
 恒太郎は、高松藩の儒者で藤沢南岳と号していました。
藤沢南岳 - JapaneseClass.jp
藤沢南岳(恒太郎)

父の昌蔵は号をを東眩と称して有名な文人だったようです。その子の恒太郎は、当時は大阪にいました。恒太郎は、尊王攘夷派でしたから高松藩が進路選択を誤ったと激憤していました。そのため長岡や八木の説得工作に賛同して、一命をかけて高松藩の恭順に努めることを誓います。こうして、恒太郎は早舟で高松に帰り、人脈ルートを使って藩内の恭順工作を行います。藤沢恒太郎(南学)は
「今度のことは重役の伏罪(切腹)処置によるほか無し」

と具体的な対応措置を進言します。
 この進言に対して、藩主松平頼聰は直ちに頼該(左近)・頼績の御連枝や大老・年寄の隠居を召出した上で、藩のとるべき道を衆議させます。出てきた意見は、次の2つです。
①責任者を罰して官軍に恭順すべしとする恭順派
②官軍を迎え撃つべしという徹底抗戦派
両者の意見は、譲ることがありません。後世の書には、最終的には藩主が次のように云って決定したと伝える書もあります。
「汝輩は今日に至つても猪ほかつ大義を誤り君國を危うして恥ず、何の面目あって我が祖宗の廟に謁せんとするか、芍も恒太郎の忠言を聴かぎらんとせば先づ我が首を刎ねよ」

しかし、あまりにこれは明治以後の「皇国史観」による作文で、浪花節調です。
興正寺について|本山興正寺
京都興正寺
香川県史を下に、場面を再現すると次のようになるのではないでしょうか。
16日になって、京都西本願寺派の興正寺の摂信上人からの使者・内田外記が到着します。高松藩は、興正寺と姻戚関係を何重にも結び、深いつながりがありました。その親書には、次のように記されていました。
「重職業伏罪(切腹)の実効相立るような急な御処置有るべし」

そして、使者は口頭で次のように述べます。
「鳥羽・伏見の戦いで指揮をとっていた家老を処断して十二万石の城地と領民を差し出せば寛典に処するというのが官中の空気です」

これを聞いた頼聡は
「和平のほかあるまい。あとはよきにはからえ」
といってその場を立ちます。そこにいた松平左近は
「大殿さま、ご決断どおり恭順と決まった。藩士どもは下城せよ。
小夫兵庫、小河又右衛門両名は全責任をとって切腹し十二万石を救え」
といい放ちます。
「両名とも不服はあろう。その胸中は察するが、なにごともお家のためであるぞ」
と、これまで主戦論者だった大久保主計大老は手のひらを返すようにいった。小河又右衛門と小夫兵庫の切腹が決まります。

こうして藩主松平頼聰の名で朝廷へ御赦免の歎願書が上奏されることになります。その窓口として興正寺御門跡へ、御赦免の歎願書を至急其筋へと届けてもらうように依頼します。
17日には、鳥羽伏見の戦で隊長を勤めた三宅勘解由、寛謙介に自宅謹慎を命じ、足軽頭に見守らせます。18日には、家中全ての者に対して討伐軍の到来に備えて次のような通達が出されます。
①万一討手を差し向けられても、武器を所持しないこと
②決して手向かいしないこと
③麻の上下にて登城のこと
④御城外役所へ出向く役人は平服のこと相心得ること
などを申渡します。そうして18日夜に、小夫兵庫・小河又右衛門に切腹を命じます。
①兵庫は檀那寺正覚寺(二番丁)、
②又右衛円は弘憲寺(浜ノ丁)
で、親類同道で、寺の玄関から方丈へ通り、切腹の座につき切腹します。両人とも自宅より寺までは乗輿・侍槍・挟箱・長柄傘の年寄作法通り行われます。両人の首級は検使が持ち帰り、死骸は親類に引渡されます。遺族へは三十人扶持が与えられて当分間は、屋敷に留まることが許されます。夜になって首級は頼聰の書付と共に姫路城に滞在していた将軍官に指出すために、本使芦沢伊織・副使本行彦坂彦四郎・先導藤沢恒太郎(南学)・山崎周祐が飛脚船で出帆していきました。
高松藩の責任者 小夫兵庫・小河又右衛門の首実検(姫路城にて)

こうした処置の上で、19日夜に、頼聰は城を出て浄願寺(五番丁)に入り謹慎します。
寺の山門・勝手間とも閉じ、勝手門くぐり戸より出入りします。諸役所も寺に移し、老中二人ずつ宿番し、御用達・近習ら以下昼夜詰切り、御城には老中・番頭・奉行。御助田守居番頭・徒日付・御徒士などが詰めます。20日には、嗣子らが広日日寺(天神前)に入り、鳥羽伏見の戦いに参加した主だった者12人を町奉行へ預け、朝敵の汚名から遁れる行動を開始します。


丸亀城から高松城に至る土佐軍の移動ルートを見ておきましょう。
土佐軍は20日卯の上刻に、陸路3小隊、海路5小隊、丸亀・多度津勢の三手に分けて、丸亀藩の4小隊を先陣として丸亀を出発していきます。
①そのうち海路ルートをとったのが総督深尾成質は乾(板垣)退助が率いる五小隊です。この部隊は丸亀藩が用意した船数十艘で海路で、高松の西浜に上陸します。これが九ツ(正午ごろ)です。
②陸路を高松に向かった三小隊と先鋒の丸亀藩兵は八ツ(午後2時ごろ)高松に着き、海路部隊と合流し真行寺に入ります。丸亀・多度津藩兵は石清尾八幡宮・五智院に布陣しました。
真行寺(香川県高松市扇町1丁目)- 日本すきま漫遊記
土佐軍が布陣した真行寺
 これに対して高松藩家老、大久保飛弾、白井着見は無刀麻裃着で真行寺にやってきて、次の降伏歎願書を差出したといいます。。
臣頼聰今般朝敵に付御追討被 仰出候段重々奉恐入候 右は慶喜上京に付食料警固被申付従来の形行不得止在坂の人数出張候由之処 去三日於伏見表混乱中官軍共相辯不申誤て発砲仕候趣に付右様被 仰出候儀と奉恐察候全 頼聰所存に毛頭無御座候得共偏に平日家来共教諭不行届故之儀と後悔至極奉恐入候 素より先非開悟仕候間何卒慨往之儀御宥免被成下候は、向後奉封天朝屹度抽忠節奉報御厚恩度方今更始御一新之折柄 頼聰微哀御諒察之下従前之罪過御寛容之程伏而奉敬願候誠恐誠捜    頓首謹言
正  月            頼 聰 花 押
意訳変換しておくと
私、頼聰は朝敵とされ、追討される身となったことについて、恐れ入っております。将軍慶喜上京の際の、食料警固を担当していましたが今までのスタイルでは、役目を果たすことが出来ないので、派遣する人数を増やしていました。そのような中で、去三日に伏見鳥羽で混乱の中で官軍に遭遇し、誤認して発砲することになってしまいました。この事については申し出たとおり、頼聰の所存ではありません。日頃からの家来への指導に、不行届けの所があったと今になって、後悔しております。現在、新政府に対して弁明中なので、猶予をいただきたくお願い申し上げます。今後は天朝に忠節を尽くし、これから始まる御一新に、頼聰は微力ながら協力していく覚悟ですので従前の罪に対して寛容していただけるようお願い致します。
別に口舌に代へて左の上申書を出しています。P
先般出張之人数総督として家老小夫兵庫在京為仕辯維而家老小河叉右衛門在京並に在坂為仕御座候所関東方へ左祖仕終に於伏見表混雑中渦誤とは乍中官軍へ及砲褒私儀不臣之罪に陥候様成行重々奉恐入候私儀素より愚暗に罷在不排名分順逆家来共へ教諭方不行届故之事には御座候得共右両入之者心得不宜奉封
天朝大不敬之罪難逃依之 右両人共誅殺を加首級奉献上候 全私儀向後改心 天朝之御為奉儘忠節候験迄に御座候此上天覆之御仁恩被為垂私儀従前之罪過御赦免被成下度伏而奉懇願候 以上
正  月           頼 聰

これに応接したのは乾三四郎でした。家老が引き上げると、申下刻(午后四時)に総勢は真行寺を出て高松城に向かいます。錦の御旗を先頭に、一番丸亀兵・二番海手兵、二番陸手兵の順で、高松城南大手門に進軍します。総勢は数字的には1500人ほどになっていたようです。

6 高松城 天守閣1
明治の高松城
 大手門までやってくると、城内をめがけて大砲が向けられ空砲が撃たれます。それに続いて、大小の砲銃が空に向けて連発されたと云います。太鼓御門より桜門を通り、三の丸玄関から入ります。城内には、降参の二字を書いた白旗が建ち、家臣たちは高張提灯に火を灯して追手門外に上下座して、これを迎えます。「下に下に」の下座触れの町役人を先頭に大鼓門から玄開にかかり総督、大軍監等は進んでいきます。この日、入城の際は雨が降っていたようで、軍中の誰かがが残したという次のような歌が伝えられています。
「常磐木の操もなくて春雨にぬれてそ落る高松の城」

6 高松城 俯瞰図16

  表書院で総督深尾丹波は、高松藩大老大久保主計・間島沖に対し城地・国内人民を朝廷に返上するようにとの勅命を伝えます。そして、下のような降伏書を受取り、老臣大久保飛弾の案内で本城内を改めて、受取を終わります。

臣頼聰此度 勅命を以追討被仰付萬々奉恐入候 悔悟伏罪罷在候 為其共城地人民等可本差上之此上御寛大之御処置被 仰付候得者国内一統誠に以難有仕合奉存候 何分宜御取成被下候様 伏て奉歎願候。誠恐誠性頓首謹言。
正月     頼聰  在押
 意訳変換しておくと
臣頼聰はこの度 勅命を以って追討される身となりました。 罪を認め、城地や人民を返上いたしますので、この上はなにとぞ寛大なご処置を仰せ付けいただければ、国内の共々有難き仕合にございます。何分よろしくお取成しいただけるように伏て歎願いたします。頓首謹言。

松平頼聰 - Wikiwand
松平頼聰
これより先藩主であった頼聰は引退し、土佐藩に次の伏罪の書を贈ったと、宮地美彦は記します。
此度御追討被 仰蒙候に付御使者を以御口上之趣へ申聴候誠以奉恐入候 素より伏罪仕候に付御手向仕候義は毛頭無御座候 右に付別紙の趣にて京都大坂表へ嘆願中にも御座候間 何卒御討入之儀は御猶予被成下御寛典之御虎置被 仰付候
御執成之程偏に奉懇願候     以上
正月   日      頼聰臣
大久保飛弾
白 井  石 見
意訳変換しておくと
この度、追討の身となり、土佐侯に御使者を通じて口上を伝えることについて、まことに恐れ入ります。もとより、罪に服することを決め、手向かうつもりは毛頭ありませんでした。このことについて、別紙の通り京都大坂表へも敬願中です。なにとぞ、討伐についてはご猶予いただき、寛容な処置をいただけるように仰せ付けいただけるようお願いいたします。

城の受取後に、土佐軍は大鼓御門前・西浜高橋・東新橋の三か所に、川之江と同じように、次の高札を立てます
当分土佐預り地」
此度天命を以朝敵追討之為め当地へ兵隊被差向候 虚悔悟伏罪之上は残忍之御産置不被為在に付人民安堵夫々産業速に可相営事
慶應四辰正月月廿日          土佐大監察
意訳変換しておくと
この度、天命を以って朝敵追討のために当地へ兵隊を差し向けた。罪を認め悔い改める上は、残忍な対応は行わないので、人民は安堵して夫々の産業に営事すること
慶應四辰正月月廿日          土佐大監察

しかし、香川側の史料は高札に書かれたのは「当分土佐預り地」だけだったと記されます。土佐藩が預り地とした高松藩の土地と人口は、次のように記されています。
  讃州高松領地高収調帳
当分山内土佐守預
大内郡 寒川郡 三木郡 山田郡 香川郡 阿野郡 鵜足郡 那珂郡  二百四十六か村
十二万石  拝領高
四万九百七十石二斗  込高
四万七百四十四石七斗八升二合  新田高
合計二十万一千七百十四石九斗八升二合
家数六万七千三百六十三戸
人口二十七万四千百二十九人
納り米九万八千六百六十八石七斗九合

1月21日深尾総督、小南五郎右衛円、森灌次と谷口・平尾の二小隊と丸亀の一小隊及小荷駄方だけが高松に駐屯・残留することになります。乾退助、片岡健吉は六小隊を率いて丸亀に引返し、そこから乗船して京都に向かいます。また、大目附役・本山只一郎も錦旗を押し立てて、高松城を発します。町役人の「下に下に」の下座触れを先頭に、馬上悠々と丸亀に引返します。そこから彼らは、松山城の討伐に向かいます。  先鋒隊の任務を終えた丸亀・多度津藩の赤報隊も、この時に帰路に就きます。こうして高松城接収は、軍事衝突も混乱もなく整然と短期間で行われたようです。

24日は、土佐軍の谷口隊が直島・塩飽七島などの天領地に渡り「土佐預地」の高札を建てています。また高松藩主が謹慎している浄願寺前には、監視のための土佐番所が設置されます。
26日になると、桐間将監が率いる土佐第二軍の総勢928人(手勢52人・郷侍75人・郷士327人・士96人・小者78人。医者2人。若党17人、雇兵380人)が高松に着き、城下町の所々に駐屯します。しかし、3日後の28日には高松を離れていきます。こうして2月2日日には深尾丹波手勢の一部を残こしてすべての土佐兵は、上京していきます。軍事占領と云っても土佐軍の総勢はこの時期には50人足らずで、ほとんどは城内にいました。
6 高松城 4

2月20日午後、土佐軍の総督深尾丹波が浄願寺に謹慎中の松平頼聰をたずね、高松藩からの嘆願が朝廷で聞きとどけられたことを伝えます。土佐軍の手によって、天守閣入口の封印が解かれ、太鼓御門前ら三か所に建てた「土佐預り地」の高札も取り除かれます。こうして四ツ半(午後十時)時頃に藩主らは、33日ぶりに城中に帰えります。
 翌21日には、土佐番所も閉じられ、土佐兵は高松から引きあげていきました。土佐軍の高松城占領は、わずか1ヶ月あまりで幕をとしたことになります。これは、その他の藩に比べると最短です。
その背景を研究者は次のように指摘します。
①鳥羽・伏見の戦いの現場の責任者である小夫兵庫・小河又右衛門の首級、および藩主名の嘆願書を姫路に出張していた山陽道鎮撫総督四条隆謌に素早く提出したこと。
関東征伐の従軍志願、軍資として、兵糧米の献納、および金8万両を献金

③姻戚関係にある興正寺門主摂信が新政府に高松藩宥免を働きかけたこと。

④高松藩主は病気のため在国中で、鳥羽伏見での高松藩兵の行動は藩主の意志ではない。新政府軍に発砲した罪は幾重にもお詫びし、新政府の裁きを待つ旨を述べたこと。

 トラブルが起こった時には、起こったことを素直に謝罪し、その善処を速やかに行うことが重要だといわれます。この時の素早い高松藩の謝罪嘆願運動は、現在のトラブル処理の手本なのかもしれません。


土佐藩が引き上げていった後の2月25日に、頼聰は高松を出船し、29日には京都の興正寺に入り謹慎します。
同時に、世話になった興正寺にお礼も述べ、今後の対策も協議します。そして2月19日、高松藩兵100人の入京が許さます。この間にも高松藩は、朝廷に対し糧米の献納、金8万両の献金をおこない、関東出兵を歎願しています。これも興正寺との協議の中で出てきた対応策かも知れません。
 こうして4月15日に、松平頼聰の謹慎が許され、22日には官位が復されます。しかし、「高松藩朝敵事件」で高松藩は大きなダメージを受けました。高松藩の失ったものは、大きなものがありました。それは金銭的なもの以外に、「朝敵」とされたことでした。これによって四国における親藩としてのリーダシップが失われたのです。それは松山藩も同じです。
 代わって維新後の四国のリーダー藩として登場してくるのが、占領軍となった土佐藩です。土佐藩は、天領があった瀬戸内海の小豆島や直島・塩飽を自己の支配下に置くという野望を見せます。同時に、「四国の道は金毘羅に通じる」と云われた琴平(旧天領 + 金毘羅大権現寺領)を支配下に置いて、ここで四国会議の開催を行うようになります。そのような動きを、松山藩も高松藩も押しとどめたりコントロールする力はすでに「朝敵事件」でなくなっていました。土佐藩を中心に維新の四国の政治と社会は回り始めることになります。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)

1868 (慶応4年・明治1年)〈慶応4年9月8日改元〉
   1・2 高橋源吾らが豊田郡で赤心報国団を結成.翌年,朝命により五稜郭で戦う
   1・3 鳥羽街道で高松藩兵が薩摩藩兵と,4日には長州軍と交戦し退却(戊辰役)
   1・10 朝廷,高松藩主松平頼聰の官位を剥奪.薩摩・安芸・長門・因幡・土佐・津藩に高松・松山・大 垣・姫路藩討伐を命じる(高松県史)
   1・10 朝命により薩摩藩等が高松藩大阪蔵屋敷,京都屋敷没収を通告
   1・11 藤澤恒太郎(南岳),山崎周祐が,薩摩藩士を通じて小松宮征討総督に陳
       謝を嘆願.別に長谷川宗右衛門も嘆願書を提出(高松市史年表)
   1・14 藤澤恒太郎,山崎周祐が高松に帰国,朝敵事件の解決は重役の伏罪に依るほか無しと進言
   1・16 興正寺門跡の直書が高松藩へとどき,松平頼該(左近)の意見もあって,重役伏罪による赦免嘆 願を決める(香川県近代史)
   1・17 多度津藩に御所の車寄せ前御門警備を命じられたとの通知(富井泰蔵覚帳)
   1・17 高知藩使者片岡健吉が丸亀藩に高松征討の勅命を伝達
   1・18 高松藩家老小夫兵庫正容(43)小河又右衛門久成(27)が,朝敵事件の責任を負って切腹
   1・18 高松藩主松平頼聰が朝廷に赦免の嘆願書を提出
   1・19 朝廷が多度津藩に高松征討を仰せ付ける(富井泰蔵覚帳)
   1・19 高松征討の土佐藩兵が丸亀に到着.多度津藩では服部喜之助が足軽30人を率い,夜九ツ半(午 前1時)高松へ向けて出発
   1・19 高松藩主松平頼聰が城を出て浄願寺に入り謹慎する(香川県近代史)
   1・20 丸亀藩兵が土佐藩岡正記の指揮下に入り,土肥大作を参謀として高松へ進軍
   1・20 土佐藩兵が高松に入る.総督深尾丹波から高松藩大老大久保主計に勅命を伝達,
市中3か所に「当分土佐預り地」の高札を立てる(内・香川県史)
   1・20 塩飽諸島が土佐藩預り地となり,高松藩征討総督が八木彦三郎に事務を命じる
   1・21 多度津藩兵帰還のため,高松城下を出発(富井泰蔵覚帳)
   1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
   1・25 朝廷,高松藩の謝罪を聞き届け,後日,関東追討の命には忠勤を励むようにとの達し.翌日,藩 主頼聰は寛大な処置に恩謝状を提出(高松県史)
   1・27 金光院寺領(那珂郡4か村)が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
   2・15 朝廷,松平頼聰に赦免の御沙汰書を伝達するよう土佐藩に示達(高松県史)
   2・15 朝廷,松平頼聰に入京を命じる.家来随従者100人とする
   2・20 征討軍総督深尾丹波が,松平頼聰に赦免の沙汰を伝達.同日,土佐藩預り地の高札を撤去
   2・21 高松の土佐番所を閉じ,土佐藩兵が引き揚げる
   2・25 松平頼聰が午後8時,水手御門から大阪へ出帆。3月1日京都に着き興正寺にて謹慎
   2・- 塩飽諸島で土佐藩が1小隊を編成し海援隊と名づける.のち梅花隊と改称,明治3年7月解隊
   2・- 高松藩が朝廷に対し軍用費8万両(12万両のうち)献金を願い出る.3月10日聞き届けられる
   3・- 小豆島東部3か村(草加部・大部・福田)土佐藩預り地となる
   4・15 松平頼聰の謹慎が解かれる(香川県近代史)

コレラ感染拡大図 1885年
コレラ感染拡大図(明治12年)

今から130年前の明治20年代には、コレラ・赤痢・天然痘・再帰熱・腸チフスなどが香川県でも大流行していたようです。明治20年代前半は、凶作、米価の暴騰が続き、その日の生活に飢える貧窮民が多数生まれました。それに追い打ちを掛けたのが、感染症です。当時の香川県の様子を見ていこうと思います。テキストは香川県史 近代2 明治前期の衛生 427Pです

県下のコレラ患者の発生・死者数が県史には下表のようにまとめられています。
明治の感染症1コレラ
この表からは次のようなことが分かります。
①1890(明治23)年と1895(明治28)年の2度にわたってコレラが大流行した
②その死亡率は6割を超えている
一回目のピークである1890年(明治22)では、約2000人の患者がでて、その内の7割が亡くなっています。この年は、7月中旬から流行の兆しが見え、10月に発生数が最大に達し、12月初旬に終息したようです。2度目のピークは、1898年(明治28)です。この年は、日清戦争が終わり、大陸から多くの兵士達が帰還してきます。それに伴って、患者が増えたようです。この時には香川県の患者総数は約2300人で、その内の約1500人が亡くなっています。
下の表は、1890(明治23年)のコレラ流行の際に高松避病院に入院したコレラ患者の年齢別内訳です。

明治の感染症1コレラ 年齢別

これを見ると、コレラ患者の死亡率は、年齢と共に高まっています。40歳を越えると、 コレラにかかることは死を意味したようです。当時の人々が、 コレラを「コロリ」と呼んで、何よりも恐れた理由が分かるような気がしてきます。この時のコレラは、山田香川郡で多発し、海岸、河川に近い個所から広がっています。

赤痢も大流行したのが、下の表から分かります。
明治の感染症1赤痢

 日清戦争の開戦時の1894(明治27)年には7000人を越える患者が出ています。以後は減少しますが患者発生は続きます。私が驚いたのは赤痢の死亡率の高さです。赤痢は感染しても、死に至ることはないものと思っていました。しかし、それは抗生物質が作り出されて以後の話のようです。それ以前には赤痢も30%を越える死亡率だったことが分かります。
 先ほど見たように、コレラは1895(明治28)年に第2のピークを迎えていました。加えて赤痢の流行です。明治20年代後半の香川県は、疫病に襲われ続けていたことが分かります。次に腸チフスを表27で見てみましょう。
明治の感染症1腸チフスpg

腸チフスのピークは、明治22年、24・25年、28・29年の3回のようです。24年の発生は那珂郡、多度郡に多く見られ、6月には毎日30名から80名の発生が記録されています。日清戦争終了後の明治28年の流行の多発地は、小豆、鵜足、高松、多度などの96か村から出ています。瀬戸内海に面する地域から発生者が出て、周辺に拡大していく様子がうかがえます。このときの死亡率は、約18%程度になります。死亡率は低いようです。
この他にも天然痘があります。
明治30年で総計した数字として患者総数249名、死者61名という記録が残っています。これを見ると、天然痘患者の発病数は他の伝染病に比べると少ないようです。また死亡率は約18%以下で推移しています。これは、天然痘対策が当時としては一番進んでいたことが背景にあるようです。
1891(明治24)年6月月に香川県は、衛生組合規定を定めて、種痘を徹底して行う事を明記しています。そういう中で1893(明治26)年に、大阪と兵庫で天然痘流行の兆しが見えると、いち早く25歳以下の未種痘者約16万人に種痘を行っています。また、天然痘が発生した村には、その村の住民全員への種痘を義務づけています。このような対策が天然痘の拡散を防ぐとこにつながっていきます。そして、その他の感染病も天然痘対策を教訓に整備されていきます。
最後に「再帰熱」を見ておきましょう。これは回帰熱とも呼ばれたようですが耳慣れない病名です。
  ウキを見ると次のようにあります。
回帰熱(かいきねつ、relapsing fever)は、シラミまたはダニによって媒介されるスピロヘータの一種ボレリア Borrelia を病原体とする感染症の一種。発熱期と無熱期を数回繰り返すことからこの名がつけられた。

「発熱期と無熱期を数回繰り返す」ために熱が引くと「治った」と勘違いして、放置して感染が拡大する厄介な病気のようです
回帰熱は、香川県では1896(明治29)年に始めて患者が出ます。
この病気の発生推移を、発生当初から詳しく追った表が県史近代434Pに載せられています。
明治の感染症1回帰熱

ここから見えてくることを挙げておきましょう
①温かくなりシラミやダニが活発に動き出す5月に患者が急速に増え始めます。
②6月末になると急速に患者が増え始め、ピークに達します。
③死亡率も6月になると10%を越えます
④11月初旬までに総数4179人の患者を出し、その内の497人が死亡しています。

 明治23年8月19日付の『香川新報』には、「衛生と実業との関係」と題する社説には、「労働者、無産者の疾病・伝染病などの衛生問題は、工場生産の効率に悪影響を及ぼす」と、生産性の面からの衛生対策の必要性を論じています。こうした時代背景もあって、帝国憲法が発布された1889(明治22)年ごろから、窮民医療を志す民間病院が県下にも創設されはじめます。
1889年1月 真言宗青年伝燈会が慈恵病院
1891年2月 丸亀衛戊病院の軍医と看護人が丸亀博愛病院を設立
この2つは、どちらも窮民施療を設立の主旨としている病院です。
また衛生組合規定が出来てからは、各地で衛生談話会が開かれるようになります。そこでは伝染病予防、伝染病心得、清潔法などの講話や幻灯会が、小学校や神社、寺院、芝居小屋など、庶民に身近な場所で行われるようになります。この談話会の講演者は、警察署長や医師、県の検疫委員が務めています。
帝国生命保険株式会社) 虎列刺病予防法 明治28年7月13日印行 / 伊東古本店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
コレラ病予防法

内務卿・大久保利通が通達した明治10年の「虎列刺病豫防(よぼう)心得書」は、石炭酸(フェノール)による消毒や便所・下水溝の清掃などの予防対策が載せられています。また第13条では、「『虎列刺(コレラ)』病者アル家族」で看護に当たる者以外は、他家に避難させて「妄(みだ)リニ往来」することを許さずとあります。

「伝染病は公衆衛生の母である」といわれます。日本ではコレラ流行によって衛生観念が一気に高まったことがうかがえます。幕末・明治前期の人々は、風聞(フェイクニュース)に惑わされながらも、身辺を清めて換気をし、外出を控えるなどの努力をしています。そして、流行が過ぎ去るまで耐え忍ぶしかなかったのです。

コレラ予防 明治

県や高松市は、明治20代にいろいろな伝達を出しています。
それは、コレラ・腸チフス・天然痘などの予防と、清潔法、消毒に関するものが多いようです。また、コレラの拡大に対しては、交通遮断など、ロックダウン的な措置もとっています。これは、日清戦争の帰還兵がもたらす伝染病の拡大防止という視点以外に、兵士への病気感染を未然に防ぐという思惑も見えます。
先人の感染症との闘い知ろう 福岡市博物館「やまいとくらし」展|【西日本新聞me】

 伝染病の感染者に対して、各市町村に隔離病院が設けられます。
しかし、この時期の隔離病院は名ばかりで、廃屋に等しい個人の家を借り受け、看守人を置いただけで隔離を重点としたものでした。中には、蚕を飼うような家が、隔離所になった例もあるようです。さらに、設置に際しては、近隣から苦情も出ます。県市町村は、隔離所の民家探しや場所の選定に苦慮したようです。そのため設置場所として、山林に近いところやスラム地区が選ばれたことが新聞には報道されています。しかも、医者の十分な回診態勢はありません。
 患者が発生すると、その家族や近隣地域に消毒がが行われた。そこにやって来て、検疫にあたる警察官の態度は、患者をあたかも悪魔でも扱うような有様であった、と記されています。
コレラ病アリ」強権的な衛生行政がもたらした監視社会 専門家「歴史繰り返すな」 | 毎日新聞
 120年前の感染病に襲われた香川県の対応を見ていると、現在のコロナに対する対処法と比較したくなります。同時に、当時は感染病対策が始まったばかりで、その感染恐怖の中でとるべき対策も限られていたようです。行政による組織的で効果的な対応は戦後になって始まったことが分かります。そして、その成果の上に、私たちは「感染病を克服した」と思っていたのです。しかし、コロナの登場は、それが幻想であったことを私たちに突きつけているようにも思えます。これからも新たな感染症は登場し、その克服のための戦いが繰り返される。感染病との戦いに終わりはないと思わなければならないのかもしれません。
コレラ地蔵 丸亀市垂水

  丸亀市亀水町の「コレラ地蔵」
垂水町の土器川生物公園の駐車場横には、小さな墓地があります。その入口に鎮座するのがこのお地蔵さんです。顔立ちが長く、私の第一印象は「ウルトラマンに似とる」でした。ニコニコしながら近づいてみると説明版には次のように書かれていました。

コレラ地蔵 丸亀市垂水3

  開国の産物として、幕末から明治に掛けてから何度もコレラが大流行します。1879(明治12)年には全国で10万人以上の方が亡くなりました。そのコレラの波は20世紀になるまで何度も押し寄せ、多くの人々の命を奪っていったようです。
 亡くなった人々を供養するともに、生き延びたことへの感謝の念もあったのかもしれません。この地蔵様のお顔からは慈悲と悲しみといとおしさが感じられます。合掌
コレラ地蔵 丸亀市垂水2

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 香川県史 近代2 明治前期の衛生 427P

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