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   弘法大師御遺告 文化遺産オンライン
御遺告
かつて空海の得度・受戒は「20歳得度、23歳受戒」説が信じられてきました。
それは真言宗教団が空海自筆として絶対の信頼をおく『御遺告』に次のように記されているからです。

二十の年に及べり。爰に大師岩渕の贈僧正召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向す。此こにおいて髪白髪を剃除し、沙弥の十戒・七十二の威儀を授けらる。名をば教海と称し、後に改めて如空と称す。(中略)吾れ生年六十二、葛四十一
意訳変換しておくと
空海二十歳の時に、岩渕の僧正を招いて、和泉国槙尾山寺に出でた。ここで髪を下ろし、沙弥の十戒・七十二の威儀を授けらた。その名を教海と称し、後に改めて如空とした。

『御遺告』はかつては自筆であるされていましたが、今ではあまりにもその内容に矛盾があって疑わしいとされるようになっています。早くは契沖阿閣梨なども『応需雑記』で偽作であるとのべ、新義真言宗豊山派の学者のあいだでも、否定説が強くなります。権田雷斧師は次のように述べます。

「断じて云く、御遺告の文章頗るほ指俗習にして、空海の詩文集等の文章と対照せば、甚拙劣粗荒なること火を見るが如し、具眼の人、誰か高祖の真作と信ぜん。否信ぜんと欲するも能はざるなり」(豊山派弘法大師一千年御遠忌事務局『文化史上より見たる弘法大師伝』(昭和八年)所載)

御遺告1P
御遺告
 『御遺告』という宗教的権威から解き放たれて空海の出家を考える研究者が現れるようになります。その場合に、史料学的となるのは公式記録である①『続日本後紀』(巻四)の空海卒伝と、空海自著である②『三教指帰』と③『性霊集』の3つになるようです。
①の『続日本後紀』の空海卒伝は、825年3月21日の入滅をうけて、25五日に大政官から弔問使発向とともにしるされたものです。
これ以上に確かなものはない根本史料です。空海卒伝は嵯峨太上皇の弔書にそえられたもので、空海葬送の棺前でよみあげられた追悼文の一部と研究者は考えているようです。内容も、簡明明瞭で要をえた名文で、『御遺告』の文章の比ではないと研究者は評します。このなかに、次のように記します。
「年三十一得度 延暦二十三年入唐留学

ここには31歳で得度したことが明記されています。教団の出す大師伝出版物は、かつてはこの「三十一」の横に小さく「二十一カ」を入れていたようです。しかし、「続日本後紀』の本文にはこれがありません。真言教団からすれば空海が、大学退学後に得度も受戒もせずに、優婆塞として放浪していたことは認めたくなかったようです。また、空海が31歳ではじめて公式得度して沙弥となった中年坊さんであるとは、教団の常識からすると考えらないことだったのかもしれません。のちには公式文書も、この31歳を得度ではなく、受戒(具足戒をうけて比丘僧となる)の年としてきました。かつての真言教団は『御遺告』と矛盾するというので、31歳受戒説さえも無視してきたことを押さえておきます。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
空海得度を記した度牒官符(太政官符)

 『続日本後紀』の31歳得度説については、以前にお話ししましたので簡単に要約しておきます。
江戸時代の『梅園奇賞』という書が、石山寺の秘庫で見たという空海得度の度牒官符(得度をみとめた公式記録)を影写して載せています。これは805(延暦24年)9月11日付で、空海の名前が見えますす。この日付は、空海は入唐中で、長安で恵果阿閣梨から金胎両部の灌頂をうけたころになります。つまり、日本にはいない頃です。度牒の内容は
①留学僧空海が、延暦22年(あとで、23年と書き人れ)4月7日に出家得度して沙弥となったこと
②それを延暦24年の日付で、2年後に証明したものであること
この内容については、優婆塞だった空海が入唐直前の31歳で得度して、その手続きが2年後に行われたことが定説化しているようです。
この度牒の奉行をした正五位下守左少弁藤原朝臣貞嗣、左大史正六位武生宿而真象も実在が証明されています。貞嗣の官位も「公卿補任」でしらべるとぴつたり合うようです。この度牒の史料的確実性が裏付けられています。

三教指帰 冒頭
三教指帰冒頭部
 空海(真魚)は『三教指帰』序に、次のように記します。
志学(十五歳)にして上京し二九(十八歳)にして櫂市(大学)に遊聴(遊学)した、

しかし、それ以後の31歳まで13年間の生活を、空海はまったく語りません。
大師伝にのせられた諸種の「伝説」も見ておきましょう。
①弘仁上年(816)「高肝山奏請表」(『性霊集」巻九)
「空海少年の日、好て山水を渉覧す」

②『三教指帰』序
「優に一沙門あり。余に虚空蔵求聞持法を呈す。(中略)阿国(阿波)大滝嶽に踏り攀じ、土州(土佐)室戸崎に勤念す」「或るときは金巌(加面能太気(かねのたき)=吉野金峯山)に登り、而して雪に遇ふて炊填たり。或るときは石峯(伊志都知能太気(いしつちのたけ)=石鎚山)に跨つて、以て根を絶つて戟何たり

これらをみると廻国聖の修行姿を伝えるものばかりです。これらの記述に従って多くの書物が「大学退学後の空海の青年期=山岳修行期」として描いてきました。
三教指帰(さんごうしいき)とは? 意味や使い方 - コトバンク

『三教指帰』一巻下に登場する仮名乞児(かめいこつじ)は、若き日の空海の自画像ともされます。

その仮名乞児が次のように云っています。
阿畦私度は常に膠漆(こうしつ)の執友たり。光明婆塞は時に篤信の檀主たり

ここからは仮名乞児が私度僧や優婆塞と深くまじわっていたことが分かります。そして彼は割目だらけの本鉢をもち、縄床(御座、あるいは山伏の引敷)をさげ、数珠・水瓶・錫杖を手に、草履をはいた行装だったと記します。
「三教指帰」(巻下)には、罪あるものの堕ちる地獄のありさまをくわしく語っています。
これも景成の「日本霊異記』にみられるような堕地獄の苦を説く唱導に似ています。ここから研究者は、空海は勧進もしていたのではないかと推察します。
性霊集鈔(04の001) / 臥遊堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
性霊集 益田池の部分
『性霊集』には、空海のつくった「知識勧進」の文がたくさんおさめられています。
その中には万濃池(讃岐)、益田池(大和)などの社会的作善があります。ここからは空海が律師・僧都の栄位を得ても、勧進聖的活動をわすれていない姿が見えます。他にも勧進関係の場面を挙げて見ると
①『性霊集』1巻8には、油や米の寄進をえて一喜一憂したこと
②「知識華厳会の為の願文」には、勧進願文の常套文句がもちいられていること。
③「高野山万燈会の順文」も、万燈会で一燈一灯を万人の作善であつめること
④「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」では、「一塵は大嶽を崇うし、 滴は広海を深うする所以は、同心豹力の致す所なリ。伏して乞ふ、諸檀越等、各々銭一粒の物を添へて、斯の功徳を相済ヘ」
と記されていること、
⑤同書(巻九)には「東寺の塔を造り本る材木を曳き運ぶ勧進」があること
⑥「鐘の知識を唱うる文」「紀伊国伊都郡高野寺の鐘の知識の文」などもあること、
以上からは空海には、優婆塞聖として知識勧進に関わった経験があることが裏付けられます。こうした空海の勧進の手腕を見込んで、嵯峨天皇は当時資金難でゆきずまっていた東寺の造営を委ねたとも考えられます。すぐれた勧進者は東大寺を再建した重源のように、土木建築や彫刻に秀でた配下の聖集団をもっていました。空海もやはり勧進聖集団を統率していたと考えることができそうです。だからこそ土木事業から仏像制作にいたるまで、いろいろな場面に対応できたのかもしれません。空海の消息をあつめた『高野雑筆』には、康守・安行のような勧進聖とみられる弟子も出てきます。
このように空海の18歳から31歳で入唐するまでの伝記のブランクは、優婆塞聖の生活を送っていたと研究者は推測します。
空海の庶民仏教家としての基礎は、このときに形成されたのではないでしょうか。数多くの社会事業もそのあらわれです。もちろんこの期に、顕密の学業や修行をつんだでしょうが、それはあくまでも私度優婆塞中のことです。そのため大師伝作者は、幼少年時代と入唐後の行跡をくわしく語りながら、青年時代は空白のまま残したのかも知れません。
 この空海の青年時代は、のちに現れる高野聖の姿にダブります。空海の衣鉢をついだのは、高野山の学僧たちだけでなく、高野聖たちも空海たらんとしたのかもしれません。

以上を整理しておくと
①真言教団は、空海の得度・受戒について『御遺告』に基づいて「20歳得度、23歳受戒」説をとる。
②しかし、学界の定説は『続日本後紀』の空海卒伝に基づいて「31歳得度」説が有力になっている。
③大学退学後、入唐までの空海青年期は謎の空白期で、史料は「山岳修行」以外には何も記さない。
④青年期の空海は優婆塞として、山岳修行以外にもさまざまな勧進活動を行っていた気配がある。
⑤そして、帰朝後は土木工事や寺院建設、仏像制作など多岐にわたる勧進集団を、配下において勧進活動も勧めた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献       テキストは「五来重 優婆塞空海   高野聖59P」
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空海の生涯は謎だらけなのですが、その中の一つが、いつ出家・得度を受けたかです。これについては、『遺告二十五ヶ条』には次のように記します。
二十の年に及べり。爰に大師岩渕の贈僧正召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向す。此こにおいて髪白髪を剃除し、沙弥の十戒・七十二の威儀を授けらる。名をば教海と称し、後に改めて如空と称す。(中略)吾れ生年六十二、葛四十一.

 遺告二十五ヶ条は、空海の言葉を記したとされてきましたので、真言宗にとっては疑うことの出来ない「聖書」でした。そのため「二十の年に及べり」から空海の得度については「二十歳得度」説がとられてきました。この説だと大学を途中で退学して、正式に出家した後に山林修行に入り、四国の山や海で修行をしたことになります。
 ところが戦後になって、「三十一歳得度説」が有力視されるようになってきました。

この説は、『続日本後紀』巻四、承和二年(825)二月庚午(二十五日)条の空海卒伝を根拠にします。この記録は、貞観十一年(869)8月成立の正史の一つで、空海の一番古い伝記にもなります。そこには、空海の得度・入唐と亡くなったときの年齢が次のように記されています。
年三十一にして得度す。
延暦廿三年入唐留学し、青龍寺恵果和尚に遇い、真言を稟け学ぶ。(中略)
化去の時、年六十三

ここには空海が31歳で得度し、延暦23年(804)に入唐したと記されています。「年三十一にして得度す。延暦廿三年入唐留学し」と、得度と人唐を書き分けていますので、このふたつが連続はしているが同時ではなかったとされてきました。つまり、入唐直前に得度したというのです。留学僧に選ばれ入唐するために、慌てて得度したようにも思えてきます。
 また、31歳まで得度していなかったとすると、四国での山林修行は正式の僧侶としてではなかったことになります。さらに踏み込むと、空海が仏教に正面から向かい始めたのはいつからなのかという問題にもなります。それは二十歳という早い時点ではなかったことになります。

もうひとつの問題は、空海の31歳が何年に当たるかです。
「化去の時、年六十三」から逆算すると、空海の誕生は宝亀4(773)とされるので、得度は数え年で延暦22(803)年のことになります。ここからは、卒伝の編者は、空海は延暦22年(803)年に出家し、翌年に入唐留学したと考えていたことがうかがえます。
 しかし、得度した31歳を、何年のこととするかについては、現在では延暦22(803)年説と23(804)説の2つがあります。どちらにしても、空海の出家は入唐と密接なかかわりがあるようです。今回は、空海の出家と入唐の関係を見ていくことにします。テキストは  武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」です。
空海の入唐留学については、次のように考えられてきました。
第16次遣唐使の第一回目は、延暦22年(803)4月16日に難波津を出帆します。ところが5日後に、瀬戸内海で暴風に遭って航行不能となります。そのため、この年の派遣はやむなく中止されます。この時には空海は乗船していなかったとされてきました。
 嵐に遭ったものは不吉だとして、渡航停止を命ぜられた留学僧の欠員補充のため、新たに選任された一人が空海だと云うのです。つまり、延暦23(804)年の第二回目の出帆に間に合わせるために「急遠あつめられた」のが空海だったという説です。
空海の出家・入唐の根本史料としては、「空海卒伝」以外に次の2つがります。
①延暦二十四年(805)九月十一日付太政官符(「延暦二十四年官符」)
②大同三年(808)六月十九日付太政官符(以下、「大同三年官符」)
今回は①の延暦24年大政官符を中村直勝氏蒐集の平安末期書写の案文を見ていくことにします。延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
延暦24年大政官符(中村直勝氏蒐集の平安末期書写の案文)

□政官符 治部省
留学僧空海 俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位
      上佐伯直道長戸口同姓真魚
右、去延暦廿二年四月七日出家□□、□
□承知、依例度之、符到奉行、
□五位下守左少丼藤原貞副 左大史正六位上武生宿爾真象
延暦廿四年九月十一日

「去る延暦廿二年四月七日出家口□」の日付は、空海卒伝の「年三十一にして得度す」の年とぴったりとあいます。つづいて、「省、宜しく承知すべし。例に依って之を度せよ。符到らば奉行せよ」とあります。この官符の趣旨は延暦二十二年(803)四月七日に出家した空海に、前例に準じて度牒を発給するよう、太政官から治部省に命じたものです。根本史料と云われる由縁です。

短い通達文ですが、それまでになかった空海についての次のような重要な情報がいくつも含まれています
①空海の本貫が讃岐多度郡方田郷であること
②空海の戸主(戸籍筆頭者)が正六位上 佐伯直道長であることで位階をもっていること
③空海の幼名が真魚であること
④延暦22年4月7日に出家したこと

この「延暦二十四年官符」が注目されるようになるまでは、空海の出家は22歳のことだとされていました。それがこの史料の出現で大きく揺さぶられることになります。旧来の立場からは偽書説も出されてきました。
空海 太政官符

この太政官符は、本物なのでしょうか?
この太政官符は、今は大和文華館に収蔵されているようです。この史料が知られるようになったのは、案外新しく戦後のことのようです。本当に本物なのでしょうか、偽書ではないのでしょうか?。研究者が、この史料をチェックして、どう評価しているのかを見ておきたいと思います。

「延暦二十四年官符」は、どのような形で「発見」されたのでしょうか。伝来を、まず見ておきましょう。
空海 太政官符2
「延暦二十四年官符」野里梅園編『梅園奇賞』所収

「延暦二十四年官符」が、はじめて紹介されたのは、文政十一年(1828)に発行された野里梅園編『梅園奇賞』二集だったようです。
太政官符 野里梅園編『梅園奇賞』二集
野里梅園編『梅園奇賞』二集
右中に「石山寺什太政官符」とあるので、石山寺に伝来したものを手本として発行されたことが分かります。しかし、それが注目を集めることはありませんでした。この官符が注目されるようになったのは、戦後になってからのようです。
ヤフオク! -「中村直勝」の落札相場・落札価格
中村直勝博士蒐集古文書

 「再発見」のきっかけとなったのは昭和35年(1960)に、中村直勝氏が蒐集した古文書を収録した『中村直勝博士蒐集古文書』が出版されたことです。刊行時の解説は、簡略なものであまり注目を集めなかったようです。この中村直勝氏が蒐集した平安末期書写の案文を「中村蒐集官符」と研究者は呼んでいるようです。こうして、同じ内容の文書が2つ現れたことになりました。
『梅園奇賞』所収の「延暦二十四年官符」と「中村蒐集官符」は、どんな関係になるのでしょうか?
『中村直勝博士蒐集古文書』の解説は、次のような簡単なものでした。
「この案文の原本と思われるものが「梅園奇賞」二集に収められており、それも同じ個所が欠字になっている」

ここからは、これが「案文」であり、「梅園奇賞」所収のものが原本と考えられていたことが分かるだけです。そのためほとんどの研究家は無視したようです。
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 この問題を本格的に考察したのは上山春平氏でした。
上山氏は、「中村蒐集官符」の実物調査を踏まえた上で、『梅園奇賞』所収の官符の原本が「中村蒐集官符」そのものである、と結論付けます。その根拠を次のように述べています。
「虫損その他欠損部分の形状を入念に模写しているばかりでなく、文字の形まで実に精密に模写している」
文字を忠実に写した例として、「貞嗣」を「貞副」とする点と「朝臣」を右傍らに小さく追記してある。
つまり、「中村蒐集官符」が原本で、『梅園奇賞』所収の「延暦二十四年官符」が模写であるとしたのです。上山春平の報告で、この史料は広く世に知られるようになります。そこには、空海の得度が「延暦22年4月7日に出家」と明記さています。これは、それまで真言宗が採ってきた「二十歳得度」説を否定するものです。その結果、大きな反響を呼ぶことになり、「延暦二十四年官符」=偽作説まで出てきました。

空海 太政官符2

二つの史料を比べて見て、一目で分かるのは大政官印の有無です。
『梅園奇賞』所収の官符には「太政官印」が五つ描かれています。これに対して「中村蒐集官符」には全くありません。これをどう考えればいいのでしょうか?
 二つの官符を比較すると、『梅園奇賞』は「中村蒐集官符」の忠実な模写と考えるほかないことは、見てきた通りです。『梅園奇賞』の「太政官印」は、梅園が書き加えたものと考えるほかないようです。もし、『梅園奇賞』所収の官符が「中村蒐集官符」でなく、「太政官印」が捺された正式の官符を模写したとすると、署名の部分は本人の自著のはずですから書体が違ってかき分けらたはずです。また「貞嗣」を「貞副」と書き損じることも、「朝臣」のような傍書もありえないと研究者は考えています。どちらにしても、『梅園奇賞』が手本としたのが「中村蒐集官符」そのものであったことに変わりはないようです。「中村蒐集官符」は、今は掛幅装で紙の台紙に貼られているようです。
それを実際に見た研究者は、次のように報告しています
延暦二十四年九月十一日付の大政官符2

一行目 上端の字は、従来推定されているように、「太」とみなしてよい。
二行目は、通常の官符どおり一字下げで始まり、 一字目は残画から「留」とみなしてよい。
二行割注の最後、「真魚」の「真」は「魚」を墨書した上に「真」を重ね書きしている。
三行目、下端の三字は、空海の出家・入唐にかかわる、この官符のもっとも重要な箇所であるが、残念ながら判読不能というしかない。
この史料を用いる場合の問題点を、研究者は次のように挙げます
第一 この官符が正文なのか、案文なのか
第二 空海の年齢が記載されていない点。
第二 解文が付けられていない点。
第四 「延暦廿二年四月七日」は作為的な改点か否か。
第五 官符の日付・延暦二十四年九月十一日をどう理解するか。
第一は、「中村蒐集官符」は正文・案文のいずれであるのか、の問題です。
研究者は「中村蒐集官符」は案文であるとします。その理由として挙げるのが次の3点です
①まず書写されたのはいつかという問題です。かつて、藤枝晃氏は紙質とその筆跡から、延暦二十四年(805)当時の原文書であるとしました。しかし、その後は平安末期ごろに書写されたものとみています。
②二つ目は、正文であれば自分の署名は自著するはずなので、書き誤ることはありません。ところが「中村蒐集官符」では、「貞嗣」を「貞副」と書き、「朝臣」を傍書しています。正文では考えられない所があります。また、自著であれば、書体が異なっていなければならないのに、すべて一人の筆跡です。さらに、「真魚」の「真」が「魚」の上に重ね書きされている点も正文とはいえないと研究者は考えています。
③三つ目は、正文であれば「太政官印」が捺されているはずです。その痕跡すら見当たりません。このように、「中村蒐集官符」を正文とみなす要素は何一つありません。これは、案文のようです。
第二は、「延暦二十四年官符」に空海の年齢がないことです。
確かに、空海の本貫だけ記されて、年齢がないのは疑わしいといえます。しかし、この文書が備忘のための写し、すなわち案文であるとすれば、この文書を偽文書とみなす決め手とはなりえないと研究者は考えています。
第三は、解文、すなわち下の役所・被官から上申したときの文書がないことです。
確かに、この官符には解文にあたるものはありません。しかし、解文のない大政官符もいくつかあるようです。

第四は、日付の延暦24年9月11日を、どのように理解するかということです。
なぜならこの時は、空海の長安滞在中だからです。それなのに、なぜこの時期に発給されたのかという疑問、あるいは疑いです。「発見」当初は、これが最大の問題で、「偽作」とする根拠とされたようです。
  しかし、その後の研究の中で、この日付は、あまり大きな問題ではないとされるようになります。なぜなら、得度の日から二年以上遅れて度縁が発給された例がほかにもあるからです。
その例とは、最澄の度縁です。最澄は宝亀十一年(778)11月12日、近江国国分寺で得度しています。けれども、度縁が発給されたのは足かけ三年後の延暦二年(781)正月20日でした。これは官吏の事務処理の遅れ、つまり税の徴収に必要な帳簿作成の最終リミットにあわせて事務処理を行なったことによるものだったようです。空海の場合も同様のことが考えられます。この官符の発給の遅れは、私度僧のまま入唐したといった資格にかかわってのことではないこと、ましてや空海の責任でもなかったのです。現在では、事務的な手続き上の問題と考えられるようになっているようです。
以上から中村直勝氏が蒐集された平安末期書写の「延暦二十四年官符」は、信憑性の高い史料であると現在では考えられるようになっているようです。
さらに、その信憑性を高める理由として研究者が挙げるのがつぎの三点です。
第一は、「中村蒐集官符」の伝来の仕方です。この史料は単独で伝来してきました。そのため空海の伝記史料をはじめ、その他にまったく引用されていません。後世にある目的にのために偽作・改竄されていたのであれば、いろいろな所に引用され「活用」されたはずです。偽作とは、そのような目的のためにつくられるものなのですから。ところが「中村蒐集官符」には、そのような痕跡がまったくありません。「中村蒐集官符」は、空海の出家に関わる貴重な文書として、平安時代に書写されたものと研究者は考えています。
第二は正史の卒伝は、信頼できる史料に準拠して記録されたと考えられていることです。
とくに「空海卒伝」の場合、公的史料と個人的な史料の二つが使用されたと考えられます。「空海卒伝」の「年三十一にして得度す。延暦廿三年入唐留学し」の箇所は、公的史料が拠りどころとなったとされる所で、その公的史料とはほかでもない「延暦二十四年官符」(今はない原本)であったと研究者は考えています。
第3は、「中村蒐集官符」が書写されたころの空海の生年・没年についてです。
平安末期には空海の生年は宝亀五年(774)、亡くなったは承和二年(835)二月・62歳が定説とされていました。そうすると「空海卒伝」の「年三十一にして得度」した年次が延暦23(803)年となることが、当たり前のことだったのです。それにもかかわらず、「中村蒐集官符」は「延暦廿二年四月七日出家入唐す」と記すのです。ここには、当時の流れにおもねることのない立場を感じさせます。作為的なものはないと研究者は考えています。

 このようにして、「空海卒伝」「中村蒐集官符」から導き出される空海出家は、延暦二十二年の四月七日です。それは「留学の末に連なれり」は単なる謙譲の修辞ではなく、やはり空海は急遽に留学僧に選任されたことを裏付けているようです。これらの史料確認の上で、研究者は次のような説を組み立てていきます。
 第一回目の遣唐使船が難波津を出帆したのが延暦二十二年四月十六日でした。
とすると、「中村蒐集官符」にいう「延暦廿二年四月七日出家入唐す」は、遣唐大使への節刀の儀が終わり、まさに出帆が秒読みに入った時点になります。留学僧として入唐する許可が出されたので、官僧の資格を満たすために、あわただしく出家の儀式をすまされたことがうかがえます。
 1回目の出港の際には、空海は乗船していなかったというのが通説ですが、研究者はそれに対して次のような異論を出します。
 空海は延暦22年(803)4月16日、難波津を進発した第一回目の遣唐使船に乗り込んでいた。最初に選任された留学僧の一人であった。よって、空海の出家得度は延暦22年(803)4月7日であり、留学僧として入唐が許可されたのは得度の9日前であって、官僧の資格を満たすためにあわただしく得度をすませ、4月16日には船上の人となって難波津をあとにした

これは、裏返すと次のような主張でもあります。
①「中村蒐集官符」は案文ではあるけれども、その記載内容は信頼するに足るものである
②したがって、空海の得度は官符の記載どおり、延暦二十二年(803)四月七日であって、延暦23年4月7日を改竄したとみなす説は成り立たない。
③官符の日付・延暦24年9月11日から、空海が私度のまま入唐したとみなす説も成り立たない
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
         武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」

 空海は20年という期限を勅命で決められた留学僧でした。しかし、それを破って1年半あまりで帰国してしまいます。『請来目録』のなかで、空海は次のように記します。

「欠期ノ罪、死シテ余リアリト雖モ」

  欠期は、朝廷に対する罪で、身勝手に欠期することは「死シテ余リアリ」と認識していたことが分かります。そのためにも、自分の業績や持ち帰った招来品を報告することで、1年半でこれだけの実績を挙げた、これは20年分にも匹敵する価値があると朝廷に納得させる必要がありました。そこで遣唐使の高階遠成に託したのが「招来目録」です。ここには、空海が中国から持ち帰ったものがひとつひとつについて挙げられ、その重要性や招来意図の説明まで記されています。
  同時に、空海と恵果との出会いや密教伝授などについても記されています。実際に朝廷に提出した「帰国報告書」にもあたる根本史料でもあります。今回は、この招来目録の冒頭部分の原文と、読み下し文、現代語訳を並べて読んでいきたいと思います。テキストは「弘法大師 空海全集第2巻  新請来の経等の目録を上る表 真保龍餃訳」です。
招来目録冒頭1
空海の招来目録(京都大学)
読み下し文
新請来の経等の目録を上る表
入唐学法の沙門空海言す。空海去んじ延暦十二年をもつて、命を留学の末に街んで、津を万里の外に問ふ。その年の臓月長安に到ることを得たり。十四年二月十日、勅に准じて西明寺に配住す。ここにすなはち諸寺に周遊して師依を訪ひ択ぶに、幸に青龍寺の灌頂阿閣梨、法の号恵果和尚に遇ふてもつて師主となす。その大徳はすなはち大興善寺大広智不空三蔵の付法の弟子なり。経律を式釣し、密蔵に該通す。法の綱紀、国の師とするところなり。大師仏法の流布を尚び、生民の抜くべきを歎ず。我に授くるに発菩提心戒をもつてし、我に許すに灌頂道場に入ることをもつてす。 民の抜くべきを歎ず。我に授くるに発菩提心戒をもつてし、我に許すに灌頂道場に入ることをもつてす。
現代語訳
新請来の経などの目録をたてまつる表
入唐学法の沙門空海が申し上げます。
空海は去る延暦二十三年に留)の命令を受けて、海路万里を渡り唐土を訪れました。その年の十二月.都長安に到ることができました。翌二十四年二月十日、勅に従い西明寺を定められ住むことになりました。ここで早速諸寺を巡り、依りどろとなる師を尋ね選んでいくうちに、幸いに青龍寺の灌頂阿閣梨法号恵果和尚にめぐりあうことができましたので、この方を師と定めました。和尚は大興善寺大広智不空三蔵の付法の弟子であります。和尚は経典戒律を究め、真言密教に通達している仏法の統理であり、国の師とする方であります。
この大いなる師は、仏法のひろまることをねがい、人びとを救うべきことに心をくだいていました。私に発菩提心戒(はつぼさつしんかい)を授け、私に潅頂道場に入ることを許し、寿命潅頂を受け位を受けたのは一度でした。
招来目録冒頭2

読み下し文
  受明灌頂に沐すること再三なり。阿閣梨位を受くること一度なり。肘行膝歩して未だ学ばざるを学び、稽首接足して聞かざるを聞く。幸に国家の大造、大師の慈悲に頼つて、両部の大法を学び、諸尊の喩伽を習ふ。この法はすなはち諸仏の肝心、成仏の径路なり。国に於ては城郭たり。人に於ては膏映たり。この故に薄命は名をも聞かず、重垢は入ること能はず。印度にはすなはち輸婆(ゆば)三蔵負展(ふい)を脱冊し、振旦にはすなはち玄宗皇帝景仰(けいごう)して味を忘る。爾しより己還、 一人三公武を接へて耽翫し、四衆万民首を稽して鼓筐す。密蔵の宗これより帝と称せられ、半珠の顕教は旗を靡かして面縛す。
それおもんみれば鳳凰干飛するときは必ず尭・舜を窺る。仏法の行蔵は時を逐ふて巻舒す。今すなはち一百余部の金剛乗教、
現代語訳
ひじでにじり進み、ひざで歩くようにして、謹み深く近づき従って、まだ学んでいなかったことを学び、頭を地につけ礼拝し、両手で師の足に触れて礼拝しながら、まだ聞かなかった教えを聞きました。幸いに国家の大恩と大いなる師の慈悲によって、両部の大法を学び諸尊の喩伽を習いました。この法はすなわちもろもろの仏の肝心にして成仏の筋みちです。国においては城の如く迷いの賊におかされることなく、人にとっては安楽に豊かな暮らしができるものです。
だから不幸で寿命の短い人は、密蔵(教)の名前を聞くこともなく、迷いの深い人はこの教えに入ることもできません。インドでは善無畏三蔵が王位を捨て、中国では玄宗皇帝がその善無長三蔵を信仰して寝食を忘れたのです。これより以後、皇帝と最高位の高官たちがあとに続いて密蔵(教)を深く信仰し、出家の比丘、比丘尼はもとより、在家の善き男子、善き女子も万民ことごとく密蔵(教)に帰依し、密蔵(教)を説き論じています。このことより真言の教えは、諸宗の帝と呼ばれ、半分欠けた珠のような顕教は旗をなびかせてうしろ手にしばられ、顔を前につき出すようなかたちになってしまいました。

さて考えますと、鳳凰が飛ぶときはかならず古の聖皇帝尭・舜の仁徳をかえりみるといいます。御仏の教えの行われたり隠れたりするのは、時代をおって経典を巻いたりひろげたりするのと同じです。今ここに百余部の金剛乗教と
招来目録冒頭3
読み下し文
両部の大曼茶羅海会、請来して見到せり。波濤漢に波ぎ、風雨舶を漂はすといふといへども、彼の鯨海を越えて平かに聖境に達す。これすなはち聖力のよくするところなり。伏して惟れば、皇帝陛下、至徳天の如く、仏日高く転ず。人の父、仏の化なり。蒼生を悲しみて足を濡はし、仏嘱に鍾つて衣を垂る。陛下新たに旋磯を御するをもつて、新訳の経遠くより新たに戻れり。陛下海内を慈育するをもつて、海会の像、海を過ぎて来れり。恰も符契に似たり。聖にあらずんば誰か測らん。空海、闊期の罪死して余ありといへども、病に喜ぶ、難得の法生きて請来せることを。 一燿一喜の至りに任(た)ヘず。
  謹んで判官正六位上行大宰の大監高階真人遠成に附して奉表もつて聞しめす。ならびに請来新訳の経等の日録一巻を且もつて奉進す。軽しく威厳を顆して、伏して戦越を増す。沙門空海誠恐誠性謹言。
大同元年十月十二月
入唐学法沙門空海上表
現代語訳
両部の大曼茶雑海会を請来して、まのあたりに見ることができました。海の荒波は唐土にしぶきをそそぎ、暴風雨は私の乗った船を漂流させましたけれど、さしもの大海を渡りきることができ、無事陛下のもと、この国に帰ってきました。これはひとえに陛下のお徳の力のしからしむるところです。
 伏して思いますに、皇帝陛下のお徳は天のようにきわまりないので、み仏の日光も高く法を転じ照らすことができます。人の父でありみ仏の化身です。国民を哀れんで生死の海に足をぬらし、み仏の嘱望にこたえて国土を護り天下をよく治められています。陛下が新しく善政をしかれたので、新訳の経典が遠くから新しく来ました。陛下が海内の人びとを慈育されるので、両部曼茶経の仏像が海を渡ってきました。あたかもこれは符節を合わせ契りを結んだのに似ています。聖人でなければ誰がどうして予測することができたでしょうか。
空海、二十ケ年を期した予定を欠く罪は、死しても余りあります。が、ひそかに喜んでおりますのは、得がたき法を生きて請来したことであります。一たびはおそれ、 一たびは喜び、その至りにたえません。謹んで判官正六位上行大宰の大監高階真人遠成に付けてこの表を奉ります。ならびに請来した新訳の経等の目録一巻をここに添えて進め奉ります。軽がるしく陛下のご威厳をけがしました。伏しておそれおののきを増すばかりです。沙門空海誠恐誠性謹んで申し上げます。
              大同元年十月二十二日
              入唐学法沙門空海上表

以下には〔請来経等の目録〕が次のように記されます
(1)新訳旧訳の経典を計142部247巻、
(2)梵字真言讃など計42部44巻、
(3)論疏章など計32部170巻、
(4)仏菩薩金剛天等の像、曼荼羅、伝法阿闍梨等の影など計10舗、
(5)恵果から付嘱された道具9種
(6)恵果からの阿闍梨伝法の印信13種
これらが1点1点具体的に列挙され、説明まで付けられています。

「かつて日本に渡っていないものが、ほぼこの中にある」
と空海は云います。密教経典でもすでに日本に渡っているものは、省かれています。「日本に渡っていないものを持ち帰った」という言葉からは、目録中の経典類は唐に行くまでは空海も見たことがなかったものということになります。そうすると金剛頂瑜伽真実摂大経王経、金剛頂瑜伽略出念誦経、般若理趣経、菩提心論、般若理趣釈、などのほとんどの密教の経典類は、唐で初めて空海が触れたものだったことになります。目録にないのは大日経と虚空蔵求聞持法ぐらいです。
 以前にお話したように、空海の入唐については、次のような見解があります。
「一年半という短期間でありながら実に効率よく摂取されたもので、目的が明確に定まっていたことの表れではなかろうか。日本にいたときにすでに、密教体系の大筋を理解し、残すところは対面伝授の秘儀と潅頂だけになっていた」

 しかし、招来目録を見る限り空海は、ほとんどの密教経典に初めて長安で接したことが分かります。ここからは、入唐以前の空海が密教体系の大筋を理解していたとは云えないことが裏付けられます。

 空海の生きた奈良時代末に、密教についての情報がどのくらいわが国に入っていたのでしょうか。
 最澄の請来目録では、密教を念誦法門と呼んでいます。ここからは最澄も密教について「呪法に特色のある宗派」くらいに思っていたことがうかがえます。彼も密教の具体的な行法に目を奪われて、その本質にまでは分かっていなかったようです。最澄にしてこれでは、あとは押して図るべしです。当時のわが国では、密教は新式の呪法程度にしか認識されていなかったことになります。空海が持ち帰ってきた経典類の価値が分かる人はいなかったでしょう。空海自身も「密臓」という言葉を使っています。「密教」という言葉を使い始めるのは、もっと後であることは以前にお話ししました。当時は、大日経も金剛頂瑜伽略出念誦経も伝来し、写経されていたことは正倉院の写経所文書から分かっています。しかし、その意味を理解する者は、入唐以前の空海を含めていなかったと云えそうです。
 最澄にしても、自分の伝えた念誦法門の一々の行法に理由付けのあることぐらいは察していたかもしれません。それが空海に「今までの教学では解けない秘密の教法である」と言われて、あわてて勉強しますが、手持ちの貧弱な文献では見当もつかない。頬被りして済ます訳にもいかないので、弱った最澄が、空海に頭を下げて教えを乞うたというのが実態のようです。

 空海が密教を求めて入唐したという見方は、誤ってはいないとしても、正確ではないようです。
以前にもお話ししたように、渡唐前の空海に「密教」という概念があったかどうかも分かりません。金剛頂経の存在も知らなかった可能性の方が高いようです。「空海にあったのは、大日経を体得するという志なのだ。」と云う研究者もいます。
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          長安の絵師たち(弘法大師行状絵詞)
空海が持ち帰った品々は、どのようにして整えられたのでしょうか。
仏典などは新たに写経しなければなりません。
空海が持ち帰った経論は142部247巻にもなります。しかも、すべて日本にはまだ招来されていない新訳のものばかりです。この中の118部150巻は不空が翻訳したばかりの最新のものです。これらは恵果が青竜寺東塔で管理しているものですが、これを空海に渡すわけにはいきません。写経しなければなりません。そのために、恵果は二十余人の写経生に筆写を依頼したと招来目録には記されています。

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招来品を写経する写経生(弘法大師行状絵詞)

恵果がさずけたもののうち、曼陀羅は5種類23幅あります。
それに密教各祖の絵像が5種類15幅を加え、これらをあらたに絵師に描かせます。恵果は、それを長安の一流どころの絵師を用いたようです。帝室供奉の画工である李真など、十余人が青竜寺に招かれて筆をふるったと招来目録は記します。

弘法大師 誕生と長安での書写1
持ち帰る曼荼羅などを描く絵詞と見守る空海(弘法大師行状絵詞)

密具には、金属製品が多いようです。
五鈷、三鈷、独鈷、鈴、輪宝、渇磨、金剛板、金剛盤、溺水器といったものです。

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法具類を作成する官営工場から招かれたの職人たち(弘法大師行状絵詞)

 恵果はこれら法具類についても、宮廷の技芸員である鋳博士の楊忠信などに、たのんでつくらせています。ほかに、あらたに密教正嫡の阿閣梨の位についた空海が、正嫡の阿閣梨として持たねばならぬ付属物があります。日本の天皇家の例でいえば皇位継承のしるしである三種の神器のようなものでしょうか。これが「恵果からの阿闍梨伝法の印信」八種で、以下のものです。
(5)恵果から付嘱された道具8種
(6)恵果からの阿闍梨伝法の印信13種

招来目録 阿闍梨付属品
仏舎利八十粒
刻白檀仏菩薩金剛像等一寵
曲線大受茶羅尊四百四十七尊
白諜金剛界三摩耶曼茶羅百二十尊
五宝三摩耶金剛
金剛鉢子一具
牙床子
白螺只。
この八種はインド僧金剛智が南インドから唐へ渡ってくるとき招来品で、相続の証として金剛智から不空に伝えられ、不空から恵果に伝えられ、恵果から空海に伝えられたものです。コピーして複製品を作るわけにいきません。空海が持ち帰れば、唐には密教正嫡を証明する八種のシンボルがなくなることになります。これを立場を変えるとどうでしょうか。日本のある宗派の宗主が外国人によって継承され、帰国時に持ち帰られる・・・。これを本当に恵果は行ったのかと、改めて疑問がわいてきます。玉堂寺の珍賀らの僧侶たちが空海の潅頂に対して不穏な空気をみせたというのも当然のような気がしてきます。さらに恵果は、かれ自身が持っていた五点の品々を、自分の形代(かたしろ)として、空海にあたえています。

 最後に、空海と最澄の立場を比べてみましょう。
最澄は請益僧で還学生の資格でやって来ています。目的は唐から日本に必要な文物をもらってくることで、乗っていた船で還ってくる短期間留学です。このため請益の還学生には、身分の高い僧がえらばれることが多かったようです。最澄の場合、すでに内供奉十禅師という天皇の侍僧でした。最澄は入唐の際にも、自分専用の通訳僧を供にし、十分な経費も支給されていました。いわば、日本国代表として唐の文物なり思想なりを買い受けに行く役目です。ある意味、国の文化・宗教バイヤーで、国家を後ろ盾にして経費に糸目をつけずに買い入れることができる立場でした。ある意味、「天台宗を体系」を丸ごと仕入れに行ったとも云えます。そのため最澄は、資金も潤沢で、要人への贈り物もふんだんに用意していたようです。
 例えば天台山へ行ったときには州の長官・陸淳は、最澄を丁寧にもてなしています。そこには贈答作戦があったようです。また天台山では写経生を動員し、紙数にして8532枚という経典や注釈書を書写させて持ち返っています。これらについても、膨大な経費が必要とされたはずですが、その経費を心配する必要はなかったはずです。
最澄の立場と空海を比べて見ると、置かれた位置が初めから違うことが分かります。
 空海に課せられた義務は、20年間かかって密教を学ぶことです。最澄のように密教をシステムごと「移植」する義務はありません。そのための経費も持たされていません。司馬遼太郎はこれを「空海は、恵果から、 一個人としてゆずりうけた」と記します。その経費は、20年間の留学費をそれにあてたとします。しかし、見てきたようにそれだけでも賄いきれない経典や法具類の種類と量です。この「資金源」については、別に触れましたのでここでは省略します。
空海は、日本国から義務を負わせられず、経費をあたえられずして、密教を個人で「移植導入」してしまったことになります。国の仕事として天台宗導入を行った最澄に対し、空海の天台体系への視線は、つまらぬ存在をみるようなものであったとも司馬遼太郎は記します。それは、空海の帰国後の態度の痛烈さは、このあたりに根があると司馬遼太郎は指摘します。
空海は「私費で、そして自力で、真言密をこの国に導入したのです。
支離滅裂になってまとめきれません。悪しからず。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 司馬遼太郎 空海の風景(下)
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前回は、空海を唐から連れ帰ったのが判官・高階真人遠成の船であったことをお話ししました。遠成が乗っていった船と出港時期にについては、次の二つの説があるようです。
① 延暦の遣唐使の第四船として、同じく出発し、漂流の後に遅れて入唐したとするもの(延暦23年出発説)
② 『日本後紀』延暦二十四年七月十六日条記載の、第三船と共に出発したとするもの(延暦24年出発説)
その辺りのことを、今回は見ていこうと思います。
     テキストは「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」です。
 高階真人遠成とその船については、代表的な論考は次の通りです。
一、木宮泰彦『日支交通史』上巻、 1926年
二、大庭脩「唐元和元年高階真人遠成告身について―遣唐使の告身と位記」1967年
三、高木紳元「兜率の山・高野山への歩み」1984年
四、茂在寅男「遣唐使概観」1987年
五、佐伯有清『若き日の最澄とその時代』1994年
遠成の船が延暦の遣唐使の第四船だったかどうかの観点で、 これらの論考を分類すると次のようになります。
①第4船らしいと推測する立場  木宮泰彦・茂在寅男
②第4船であったと確定する立場   大庭脩・佐伯有清
③第3、第4船ではなく新造船であったという立場 高木紳元

①の「第四船らしい」と最初に推測したのは、木宮泰彦氏で次のように記します。
延暦の遣唐使の第四船は唐に赴いたか否か明らかでない。空海・橘逸勢等が判官高階遠成と共に大同元年八月に帰朝しているのは第四舶ならんか。

と、遠成の船が第四船であった可能性を約百年前に示唆しています。
②の第四船であった説を代表する大庭脩氏は次のように記します。
第三船は判官正六位上三棟朝臣今嗣が乗っていたので、第四船に高階真人遠成が乗っていたことは疑いなく、第四船の消息のみが全く不明ということになる。(中略)
第四船に乗船していた遠成は、恐らく風に流されて遭難したのであろう。そしてその経過を知るよすがもないが、九死に一生を得て唐に到り着き、長安まで行ったのであろう。その時期は明らかではないが、本告が元和元年正月二十八日付の中書省起草の勅であるから、大使葛野麻呂等一行が長安に滞在し、告身を授けられた貞元二十一年十二月よりまる二年後にあたる。(中略)
 彼は大使藤原葛野麻呂と共に帰って来なかった以上大使等の出発後に長安につき、帰国の便を待っていたのであろうから、長くみれば、約一年半は長安で生活していたと考えられる。
大庭脩氏のポイントを要約すると、次のようになります。
①遠成は大使葛野麻呂一行が長安を離れた永貞元年(805)2月10日より後に、長安にたどりついた。
②遠成の船は延暦22年(804)7月6日、肥前国松浦郡田浦を出帆した第四船であり、九死に一生を得て唐に到りついたものである
③遠成は、その後、長安に約1年半滞在した
つまり、第1・2船と同時に出港したが、何らかの理由で第4船は長安への到着が大幅に遅れ、長安にやって来たときには第1・2船の正使・副使は長安を離れた後であった。にもかかわらず遠成は、その後、長安に約1年半滞在し、帰国時に空海を伴ったという説になるようです。どうも私には合点がいかない説です。

同じく第四船であったとする佐伯有清氏は、次のように記します。
ちなみに第四船の消息は、まったく記録されていない。ただし第四船の遣唐判官の遠成が唐の元和元年(806)正月28日、唐朝から中大夫・試太子充の位階・官職を賜わっており、同年(大同元年)十月、留学僧の空海、留学生の橘逸勢をともなって帰国している。帰国の復命は、同年十二月十三日であった。この日に高階遠成は、遣唐の功を賞されて従五位上の位を授けられている。遠成の行動を追ってみると第四船は、難航のすえ、かなり遅れて唐に着岸したようである。遠成は、延暦二十四年の年末ごろに長安に入り、使命を果すことができたのである。

佐伯説は、遠成の船を第四船とみなし、遠成の長安到着を延暦24四年の年末ごろとします。

そのような中で高階真人遠成の入唐目的を新たな視点で語る新説が出てきました。高木諦元氏の説を見ておきましょう。
ちょうどその頃、高階真人遠成が遣唐判官として長安に入り、帰朝の途につくところであった。この時期に、高階遠成が国使として入唐した目的が何であったかは定かでない。『日本後紀』巻十三によれば、帰国した遣唐大使藤原葛野麿が節刀を返還し、朝廷に帰朝報告をしていた頃、詳しくいえば延暦二十四年(805)七月四日に、一般の船が肥前国松浦郡庇良(ひら)嶋、いまの平戸島から出帆して遠値嘉(おちか)島を目指し、唐国へ向おうとしていた。この船は第十六次遣唐使船四艘のうちの行方不明になった第3船であって、判官の三棟今嗣(みむねいまつぐ)らが乗船していた。運悪しく、この船は再び遭難して孤島に漂着し、浸水しはじめた。三棟今嗣らは射手数人を船に残して脱出し、かろうじて生きのびることができた。やがて績が切れて船は漂流しはじめ、積んでいた国信物などとともに行方が知れなくなった。任務を放棄したかどで、判官三棟今嗣は懲罰に付されている。
一年前に難破して入唐を果せなかった第3船を、いま再び渡海せしめようとしたのは、あるいは新たに即位した順宗への朝貢のためであったとも思える。ただ朝貢のためだけであったかどうかは定かでないけれども、しかし、どうしても使節を再び派遣しなければならなかったことは事実であった。三棟今嗣にかわって、遣唐判官には急拠、大宰府の大監であった高階真人遠成が任命された。『類衆国史』に「遠成は率爾に使を奉じて、治行(旅行の準備)に退あらず。その意、衿むべし」とあるのが、そうした事情をうかがわせる。また『朝野群載』には、高階遠成に対する唐朝の位記を載せて「その君長の命を奉け、我が会同の礼に超る。冥法を越えて万里、方物を三際に献ず」とある。「会同の礼」とは、常期ではなく事あるごとに来朝して礼謁することをいうから、やはり、高階遠成の入唐の目的は新帝への朝貢礼謁のためであったろう。(中略)
 高階遠成が長安へ到着した月日は定かでないが、慶賀の意を表すべき皇帝が予期していた順宗から憲宗にかわっていたとはいえ、所期の目的は達成したことになる。

高木説には、全く新しい視点が二つあります。
その第一は、『類衆国史』の「率爾に使を奉じて、治行に退あらず」に注目して、遠成は延暦24年7月に再び遭難した第三船の判官三棟今嗣にかわって急遽任命され、唐に向ったとみなすこと
第二は『朝野群載』所収の「会同の礼」に注目して、遠成入唐の目的は新帝への朝貢礼謁のためであったとしたこと
  この説は、派遣目的が分かりやすく時間系列も納得がいくので、小説などではこの説にもとづいて高階真人遠成の遣唐使船の登場が描かれることが多いようです。
しかし、この新説に対しては、次のような疑問点が研究者からは出されています。
第一の疑問点は、805年7月4日に難破した第3船の判官三棟今嗣にかわって、大宰府大監の高階遠成が急遽、遣唐判官に任命されたととする点です。しかし、これが可能であるためには、次のような手続きが求められます。
①第三船の遭難報告が太宰府から都にとどけられる
②朝議での再度の派遣決定と、派遣する官吏の選定
③新遣唐使船建造と新皇帝即位への貢納物の準備・調達
④出発
つまり、使節団長の首のすげ替えだけではすまない話のようです。
 高木説は「中国皇帝の代替わりの新帝への朝貢礼謁のための特別の派遣」としますが、そう簡単に進むことではないようです。まず、遣唐使を派遣するには莫大な費用が必要でした。たとえ、財政面の負担をクリアしても、派遣する官吏の選定があります。前回見たように遣唐使船には一隻について、150名前後のスタッフが必要でした。ただ単に頭数をそろえればいいのではありません。遣唐使は、知乗船事・訳語などの職掌別の専門家集団です。その上、遭難して死者を出した船に乗っていた者は、不吉であるとして忌み嫌われ、再び派遣されるスッタフからは、はずされました。つまり、大部分のスタッフを新たに選ぶ「人材一新」が求められます。これは短期間にできることではありません。
 新たに大宰府の大監を務めていた高階遠成に判官への就任命令が届いたのは、いつごろなのでしょうか。
それからスタッフ選定が行なわれたとしても、都から大宰府への連絡には駅伝制を使っても4~5日は要したようですので、太宰府の遠成への通達は早く見積もっても7月下旬になったはずです。

 すぐに再び遣唐使派遣を考えた場合、帰国したばかりの遣唐大使・藤原葛野麻呂らが乗船していた第一船と、判官の菅原清公らが乗っていた第二船を、派遣することは検討できます。しかし、一度東シナ海を航海したこの隻船は、長い航海のためにボロボロになっていたようです。すでに中国の福州から明州に回航された時点で、第一船は一ヵ月余りの修理を必要としていました。また、乗組員のすべてが大宰府近辺で確保できたかどうかも問題になります。このように考えてくると、船の調達も無理筋のような感じがしてきます。
 問題の第二は、新皇帝への土産物、すなわち貢納品の調達です。
『延喜式』巻三十、大蔵省の「賜蕃客例」には、大唐の皇帝への賜物の規定が事細かく記されています。遠成の入唐の目的が唐の新帝への朝貢礼謁であったとするならば、贈り物は欠かせません。
その準備に時間を要したはずです。前回見たように、通常の遣唐使派遣は3年前には、正使・副使が決定し、貢納品などの準備を整えていました。遠成が前任者にかわって急遽派遣されたという説は、船の確保と貢納品の調達という問題をクリアできないと研究者は考えています。
 次に遠成一行の長安到着がいつであったかを推察し、そのことから逆算して、遠成等の日本出発の時期を見ておきましょう。
遠成は、元和元年(806)正月28日、唐朝から「中大夫試太子中允」の位記を授けられています。ここからこの時点で長安に滞在していたことが分かります。それなら遠成らは、いつごろ長安に入ったのでしょうか。遠成一行が長安に到着したのは、位記を授けられた前年、すなわち延暦24年(805)の年末頃ではなかったかと研究者は推測します。それは、前年の第一船の高野麻呂一行が何としても新年の朝賀の儀に間に合うように、「星に発ち星に宿り、晨昏兼行す」と昼に夜をついで長安への旅を急ぎに急いだことから想起されます。大唐帝国に朝貢にやってくる各国の使節団は日本だけではありません。日本は朝貢国のひとつにしかすぎません。唐側は、新年の年賀の挨拶にやって来ることを最も重視していたようです。
 遠成も当然、「新皇帝による最初の新年朝賀の儀」への参加を目指していたはずです。だとすると逆算して、いつごろ日本を出発しなければならい計算になるのでしょうか。
 前年の第一・二船は7月6日に、肥前国田浦を出帆しています。
①福州に漂着した第一船の一行は、12月23日に長安到着
②明州に上陸した第二船の一行は、11月15日に長安到着
 翌年の正月の朝賀の儀に列席するためには、7月中の日本出発がタイムリミットだったようです。これを先ほど見た第三船の遭難から再度の派遣決定、派遣吏員の選定、船の確保と整備、貢納物の調達といったことを重ね合わせると、急遽遠成が遣唐使判官に任命されても、すぐに出発することは無理だったことが推測されます。
 以上から修理された第三船遭難後に、遠成が急遠判官に任命され、派遣されたとみなす説は無理筋だと研究者は考えているようです。

第4の疑問点は、遠成の入唐目的が新帝への朝貢礼謁だったという点です。
高木説は、遠成は第3船の判官今嗣にかわって派遣されたものとします。とすると、前任者であった今嗣の入唐の目的も、新帝への朝貢礼謁のためであったことになります。本当に、今嗣の入唐は新帝への朝貢礼謁のためだったのでしょうか。
新帝への朝貢礼謁のためとされる使節派遣は、いつ決定されたかという点を、時間的経過で追ってみます。
唐朝の皇帝が亡くなって、徳宗から順宗に移ったとの知らせがわが朝廷にもたらされたのは、第一船の遣唐大使・藤原葛野麻呂の帰国報告書によるものだったことはまちがいないでしょう。葛野麻呂は、延暦24年(805)6月5日、対馬島下県郡に帰着し、同月八日付で長文の帰国報告書を都に書き送っています。そこには、次のように記します。
廿一年正月元日於入己元殿朝賀。二日天子不豫。廿三日天子雅王(徳宗)通崩。春秋六十四。廿八日臣等於・五天門・立レ使。始着素衣冠。是日太子(順宗)即‐皇帝位・。

ここには、貞元21年(805)正月23日徳宗が64歳で崩御し、代わって1月28日順宗が帝位についたことが記されています。この6月8日付の帰国報告書は、当時の山陽道の駅伝の通信能力からして4~5日後には都に届けられていたはずです。この報告書をみて、ただちに新帝順宗への朝貢のための使節派遣が決定されたとは思えないと研究者は云います。派遣の議は、正使の藤原葛野麻呂の上京・復命をまち、直接詳しい報告をきいた上で、執り行なわれるというのが手順ではないかと云うのです。肥前から藤原葛野麻呂が上京し復命したのは7月1日です。
第3船が肥前を出帆したのは7月4日です。
第3船がずいぶん以前から出発の準備を万端ととのえていて、出発のゴーサインをまつばかりとなっていたとしても、時間的には間に合わない計算です。もし仮に、6月8日付の葛野麻呂の帰国報告書を見て、朝議で派遣決定がされたとしても、先ほど見たように150名もの遣唐使スタッフの選定、遣唐使船の確保、貢納物調達の時間を考えると、20日足らずの短期間に、出帆までこぎつけられたとは不可能と研究者は考えているようです。
 以上から遠成が、葛野麻呂の帰国報告書にもとづいて新帝への朝貢礼謁のために派遣されたとは云えないとします。今嗣の乗った第三船は、葛野麻呂の帰国とは全く別の目的・理由で、唐に向かったことになります。しかし、それがなんであったのかは分からないままです。

高階遠成の入唐が新帝への朝貢礼謁のためであったかどうかを肩書きの視点で見ておきましょう。
遠成の入唐の際の肩書の記載を年代順に見てみると、すべての史料が「日本国使判官」「遣唐判官」「判官」です。遠成の肩書は「判官」です。高階遠成が、新帝への朝貢礼謁という特別の任務を帯びて新たに派遣されたとすれば「遣唐判官」の肩書きは相応しくないと研究者は指摘します。今嗣にかわって遠成が派遣されたとしても、今嗣の肩書も「判官」でした。また今嗣が乗っていた船は「遣唐使第三船」と記されています。新帝への朝貢使として新たに派遣されたのであれば、正使も遣唐使船もその役割にふさわしい肩書をもって入唐したのではないかという疑問です。船も第三船ではなく、第一船とするのが相応しいはずです。しかし、今嗣・遠成の肩書はともに「判官」であり、今嗣の船は第三船と記されています。

    以上から研究者は次のように結論づけます。
①遠成の船は、第三船ではなかったこと。
今嗣の遭難から再度の派遣決定・出帆にいたる時間的経過、遠成の長安到着の時期などを勘案すると、遠成が今嗣にかわって派遣されたとみなすことはできない。第3船は、座礁し、貢納物を乗せたまま行方知れずとなっているので、遠成の船は第三船ではない。
②遠成の肩書はすべての史料が「日本国使判官」「遣唐判官」など「判官」と記す。
遠成は「判官」の資格で入唐したのであって、新皇帝即位祝賀の特別の任務を帯びて入唐したとは思えない。延暦の遣唐使の一員であったと考えるのが妥当。このときの遣唐使船四隻のなか、第一・二船は、無事に任務を終えて帰国し、第三船は、行方知れずとなっている。残るのは第四船だけでなので、遠成が乗った船は第四船だったとしか考えられない。
③大同元年(806)12月13日、遠成の復命記録には次のように記されているだけである。
 大同元年十二月壬申、遣唐判官正六位上高階真人遠成授従五位上、遠成率爾奉使、不違治行、其意可衿、故復命日持授焉、

ここには、簡単に入唐した事実が簡略に記されているだけです。もし特別の任務を帯びての入唐使節だったのなら、それにふさわしい文言があってしかるべしと、研究者は考えているようです。このことも、遠成の入唐が特別の任務を帯びたものでなかったことを物語るものだとします。

  以上から、高階遠成は、第三船の判官三棟今嗣にかわって派遣されたのではなく、入唐の目的も新帝への朝貢拝謁のためではなかったと研究者は結論づけます。だとすると遠成の入唐目的はなんだったのでしょうか。ここで最初に示した「遠成の船は延暦の遣唐使船の第四船」説にもどります。

記録に、「率爾に使を奉り、治行に違あらず」とあるので、遠成は延暦の遣唐使の派遣が決定された当初に任命された判官ではなかったと研究者は考えます。では、いつ選ばれたのでしょうか。延暦の遣唐使は延暦22年(803)4月16日難波津を出発しますが、5日後に瀬戸内海を航行中に嵐に遭い、この年の派遣は中止されたことは前回にお話しした通りです。そこで船の修理後、翌年7月6日に、四隻の遣唐使船はそろって肥前国松浦郡田浦を出帆します。しかし、翌日7日には第三・四船との火信がとだえてしまいます。
  このとき第三、四船は、おそらく再度遭難したと研究者は考えているようです。そして、第三船は座礁・漂流し行方不明となります。第四船は博多にもどり、改修を受け翌年の延暦24年になってあわただしく出発したというのです。その際に、それまでの判官では不吉だというので、新たな判官が選ばれます。それは大宰府に在住していた人々を中心に人選が行なわれます。

『日本後紀』延暦二十四年(805)七月十六日の条は、第三船の三たびの出発と遭難、そして判官今嗣らへの処罰のことだけしか記されていません。しかし、このとき第三船とともに第四船も出発していたと研究者は考えています。遠成がいつ長安に到着したかは分かりませんが、元和元年(806)正月28日、唐朝から「中大夫試太子中允」の位を賜わっています。ここからは遅くともこの年のはじめには長安に到着していたことになります。そして逆算すると、遅くとも前年の七月には九州を出発していなければならないことになます。それは第三船の出発した7月4日と、時間的にぴったり一致します。
  以上から、高階遠成は、延暦の遣唐使の一員であり、遠成の乗った船は第四船であったと研究者は考えています。
以上をまとめておくと次のようになります
①急遠判官に任命された遠成を乗せた第四船は、延暦二十四年(805)七月四日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆した。
②判官三棟今嗣の乗る第三船は、運悪く三たび遭難し、 ついに遣唐使の任務を果たすことができなかった。
③これに対して第四船の遠成は遅れて入唐を果たし、皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
   高階遠成がやって来なければ、空海は短期間で帰国することはできなかったのです。 高階遠成を「空海を唐から連れ帰った人物」として、評価しようとする動きもあるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 参考文献  「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」

入唐 遣唐使船

遣唐使船復元模型

空海と最澄は、延暦23年(804)七月出帆の遣唐使船で入唐を果たしています。この時の4隻の船の内の第1船に空海、第2船に最澄が乗船していました。この遣唐使船について、私はよく分かっていませんでした。特に、第3・4船の動きが不可解なのです。今回は、この2隻に焦点を当てながら九州をはなれるまでの動きを追ってみたいと思います。テキストは「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」です。
この時の遣唐使団について、従来から問題とされている点を挙げると次のようになるようです。
① 延暦の遣唐使の目的は何だったのか。わが国に何を持ち帰るために派遣されたのか。
② その成果は、どうだったのか。この遣唐使によって、何がわが国にもたらされたか。
③ 遣唐使の組織は、どのようであったか。
④ 遣唐使船の最後の寄港地はどこだったのか。
⑤ 延暦の遣唐使は、国書を持参していたのか
⑥ 空海が帰国時に乗船した判官高階真人遠成の船は、何の目的で再度入道したのか。はたして延暦の遣唐使の第四船だったのか否か。

この中の②については、空海と最澄による密教の請来がすぐに答えられます。しかし、その他については、今も議論が続いているようです。今回は③④⑥について、現時点で研究者はどのように考えているのかを見てみることにします。
③の遣唐使の組織について、研究者は次のような表を作成しています。
空海入唐 遣唐使スタッフと報酬
延喜式の遣唐使スタッフと手当表

遣唐使は「臨時業務」だったので、その都度編成されていました。そのため組織の規模・構成は、その都度異なるようです。延喜五年(905)に完成した『延喜式』には、遣唐使のスタッフに支給される手当が別表のように規定されています。今でもサラリーを見ると、組織におけるその人物の位置や重要度がある程度は分かります。そんな世俗的な視点で遣唐使たちへのサラリー(支給品)を見てみましょう。
ちなみに留学生・学問僧(留学僧)は「施四十疋、綿百屯、布八十端」とあります。これを上表で見ると副使のサラリーとほぼ同じ待遇であったことが分かります。ここからは、留学僧・還学僧に対する待遇の高さと期待がうかがえます。
 また大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語・学問僧・還学僧のスタッフには、「別賜」として彩吊と費布が別に支給される規定になっています。 ここからは、留学僧が遣唐使の中枢メンバーであったことがうかがえます。

延暦の遣唐使の総人員はどのくらいで、どんな人物が任命されたのでしょうか
延暦の遣唐使は、宝亀九年(778)12月の送唐客使以来、24年ぶりの派遣でした。延暦二十年(801)8月庚子(十日)遣唐使の任命が行なわれ、藤原葛野麻呂が大使に、副使には石川道益が任ぜられ、あわせて判官・録事それぞれ四名も発令されます。前後の遣唐使の総人員は、次の通りです
霊亀二年(716)八月癸亥(二十日) 557名
天平四年(732)八月丁亥(十七日) 594名
承和元年(834)正月       651名
ここから推測すると延暦の遣唐使も600名前後で構成され、四船に分かれて出発したとされています。その中で具体的な人名が分かっているのは、次表の二十数名だけのようです。これは本宮康彦・森克己・鈴木靖民・田島公の各研究者たちによって、明らかにされている人物名を表にしたのものです。

空海入唐 遣唐使スタッフ氏名一覧
○がついているのが、各研究者がスタッフであったと認める人物です。空海や最澄・橘逸勢などは、もちろん全員の○がついています。しかし、留学僧の霊仙・金剛・法道・護命・永忠に関しては、意見が分かれていようです。大使・副使・判官・録事などについては「定説」となっているようです。確定的な人物名を記しておきます。
大使 藤原葛野麻呂、
副使 石川道益、
判官 菅原清公・三棟今嗣・高階遠成。甘南備信影、
准判官 笠田作
録事 山田大庭・上毛野頴人、
准録事 朝野鹿取、
留学僧 空海・円基、
留学生 橘逸勢・粟田飽田麻呂、
請益僧(還学僧) 最澄
最澄の訳語僧 義真、
係徒 丹福成、
写経生 真立人、
碁師 伴小勝雄、
舞生 久礼真(貞)蔵(茂)・和爾部嶋継、
楽生 舟(丹)部頭麻呂
以上の二十三名は、ほぼ信じてよいと考えられているようです。

出発までの動きを年表で見ておきましょう。
801 8/10 大使に藤原葛野麻呂を、副使に石川道益を任ず。
また、判官・録事各四人を任ず〔紀略13〕
802 4/15 朝野鹿取を遣唐録事に任ず〔補任〕。
9/8 最澄、上表して入唐求法を請う〔叡山伝〕
9/12 最澄の入唐を許す〔叡山伝。釈書1〕
円基。妙澄、天台留学僧として入唐を許される〔叡山伝〕
10/20 最澄が、通訳として義貞を伴うことを請許される
803 2/4 遣唐大使以下、水手以上に物を賜う〔紀略13〕
 3/14 遣唐使に彩吊を賜う〔紀略13〕
   3/18 遣唐使等、朝堂院において拝朝す〔紀略13〕
 3/19 大使藤原葛野麻呂。副使石川道益に餞を賜う。
  葛野麻呂は御被三領・御衣一襲・金二百両、
道益は御衣一襲。金一百五十両を賜う〔紀略13〕
   4/2 大使・副使等辞見し、節刀を授けられる〔紀略13〕
   4/7 空海、出家得度す〔続後紀4〕。 一説に延暦23年
 4/9 空海、東大寺戒壇院にて具足戒を受く。 
 4/14 遣唐使、難波津頭において乗船す〔紀略13〕
 4/16 遣唐使、難波津を進発す〔紀略13〕
 4/21 遣唐使船、暴雨疾風に遭う。
明経請益生大学助教豊村家長、波間に没す
  4/23 大使藤原葛野麻呂、暴雨疾風に遭い渡航不能を報告す。
   右衛士少志日下三方を遣して、消息を問わしむ
4/25 大使藤原葛野麻呂等、上表す〔紀略13〕
4/28 典薬頭藤原貞嗣・造宮大工物部建麻呂等を遣して、遣唐舶ならびに破損雑物を修理せしめる〔紀略13〕
5/22      遣唐使、節刀を奉還す。
船舶の損壊により渡海するあたわざるによる
  延暦22年(803)発の遣唐使船は、2年前の801年8月には大使と副詞、判官などのメンバーが決定されています。同時に、船が安芸国で建造され始めたようです。そして、802年には最澄の短期留学僧としての派遣が決定しています。しかも、最澄には専属の通訳僧の同行も許されています。ところが空海の名前は、この時にはありません。空海がこの年の検討線に乗っていたかについては、次の2つの説があるようです。
① 延暦の遣唐使の最初から加わっていたとするもの(延暦22年説)
② 一度渡海に失敗し、再度の進発をした時点で加わったとするもの(延暦23年説)

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難波津 住吉神社の鳥居前の碑文
4隻の船が安芸から難波に回航され、諸物資を積み込み、使節が乗り込んだのは4月14日です。その2日後の16日に難波津を出港して瀬戸内海を西航して那津(博多)を目指しました。ところがそのわずか5日後の4月21日に瀬戸内海を航海中に暴風疾風に遭って碇が使用できず、制御不能となり破損し「航行不能」状態になってしまいます。そのため専門家を派遣して修理を行わせています。しかし、短期間で修繕できるものではなかったようで、5月22日には遣唐使団長は「船舶の損壊により渡海するあたわざるによる」と節刀を一時奉還しています。この時には難波津を出発して5日目に瀬戸内海で難破してしまったようです。どの辺りで難破したのか、5日目というと順調なら鞆か尾道あたりでしょうか。被害を受けたのは何隻かなどを知りたいのですが、史料には何も記されていません。

平城京歴史館/遣唐使船復元展示 | 徒然日記 (NO3)

 遣唐使船の歴代総数は40隻あまりですが、そのうち12隻が難破・遭難しています。
無事に渡海できる確率は2/3程度だったことになります。その理由として、従来は次のような理由が云われてきました。
①季節風を知らなかったこと、
②造船技術をはるかに上回る大きさの船を無理に造ったこと、
③前の航海の経験が次の航海にはほとんど生かされていなかったこと、
しかし、①③に関しては、次のような異論も出ています。
①の季節風については、遣唐使の航海に関する史料の検討から、風についての知識は現代のわれわれよりよく知っていて、従来の経験が生かされなかったわけではない。
②の船については、150名近くの乗船のために、全長16m、幅7m前後、総トン数で160トン前後のずんぐりした船だったと推定される。その当時、中国・朝鮮半島諸国で造られる大きい船でも、せいぜい70人乗り程度であったので、遣唐使船は特別大きな船だったことになります。
遣唐使船 ・ 奈良平城宮跡 (奈良県) - 気ままな撮影紀行
復元された遣唐使船(平城京公園)
これに関しては、専門家は、次の二つを指摘されています。
第一は、東シナ海を渡る航路をとる必要や、人とモノを載せる必要から技術力以上の大型の船を造らぎるえなくなり、構造的に無理があった
第二は、船の総重量や荷物を多く積み込みすぎたことも遭難の大きな要因であった。
つまりは、船の大型化と操船に問題があったようです。 延暦22年(803)発の遣唐使船も、同じような問題を抱えていたのでしょう。
 多島海で潮流の複雑な瀬戸内海は、当時の帆走技術では大きな船体の遣唐使船は、操船が難しくて自力航海することはできなかったと専門家は考えているようです。そのため多数の大船(準構造船)で、遣唐使船を曳航したようです。その中で、強風で流されての船体破損事故だったのでしょう。
船が修理されて、翌年に再度出港するまでの動きを年表で見ておきましょう。
804 1/13 □□朝臣今継、三棟朝臣を賜う〔後紀12〕
3/5 遣唐使、拝朝す〔後紀12・紀略13〕
3/25 大使藤原葛野麻呂。副使石川道益に餞を賜う。
とくに恩酒一堺・宝琴一面を賜う〔後紀12・紀略13〕
3/28 大使藤原葛野麻呂に節刀を授く〔後紀12。紀略13〕
  5/12 空海、大使藤原葛野麻呂とともに第一船に乗り、入唐の途に上る〔集記〕

 この時の遣唐使船は船の修理後、翌年延暦23年(804)3月28日に、改めて、大使藤原葛野麻呂に節刀を授けられています。そして、5月12日に大使藤原葛野麻呂が率いる4隻の船は難波津を出港していきます。この時に、第一船に空海も乗船していたと「集記」にはあります。前年の出港の際には、空海の名前はないようです。難破事件で一年遅れにならなければ、空海の入唐はなかったことになるようです。
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 難波津 住吉神社から出港する遣唐使船

東シナ海へ出て以後の動きを年表で押さえておきます。   
804年7/6遣唐使の一行、肥前国松浦郡田浦を出発す〔後紀12〕
7/7 第三船・第四船、火信を絶つ〔後紀12〕
7月下旬 第二船、明州郡県に到る〔叡山伝〕
8/10 第一船、福州長渓県赤岸鎮に到る。
鎮将杜寧・県令胡延汚等、新任の刺史未着任のため福州への廻航を勧む
9/1 第二船の判官菅原清公以下二十七名、明州を発ち長安に向かう
9/15 最澄、台州に牒を送り、明州を発ち台州に向かう〔叡山伝〕
9/18 兵部少丞大伴太「万里を新羅に派遣す。未審の二船が漂着した場合のためなり
9/26 最澄、台州に到る。
難波津から約2ヶ月足らずで、那津(博多)を経て、松浦郡田浦までやって来ています。4船は、ここから出発しています。
司馬遼太郎(『空海の風景』)に、次のように記します。
されていたのを読んだことがあるからです。

 船団は肥前の海岸を用心ぶかくつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、すこしずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島でもって、日本の国土は尽きる。 
 列島の最南端に、福江島がある。北方の久賀島と田ノ浦瀬戸をもって接している。船団はこの瀬戸に入り、久賀島の田ノ浦に入った。田ノ浦は、釣針のようにまがった長い岬が、水溜りほどの入江をふかくかこんでいて、風浪をふせいでいる。この浦で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待つ。風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本へ吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏をえらぶ。わざわざ逆風の季節をえらぶのだ。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。 
 やがて、船団は田ノ浦を発した。七月六日のことである。四隻ともどもに発したということは、のちに葛野麻呂の上奏文(『日本後紀』)に出ている。久賀島の田浦を出帆したということについては『性霊集』では、「本涯ヲ辞ス」という表現になっている。かれらは本土の涯を辞した。
 ここで司馬遼太郎氏が書いていることをまとめておくと
①最後の寄港地は、五島列島の久賀島の「田ノ浦」である。遣唐使大使の葛野麻呂が帰国後に提出した報告書(『日本後紀』)に、そう書かれている。
②最後の寄港地である久賀島の「田ノ浦」で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待った
③真夏の逆風の季節をえらんで出帆することから分かるように、当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。
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舳先で悪霊退散を祈祷する空海

①について『日本後紀』の葛野麻呂の報告書を確認してみましょう。
大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。
臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。
七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。
死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。
時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。死きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。と
そこで、船を向州に廻すことにして、十月三日に到着した。
新除観察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

 これが遣唐使大使の正式報告書です。ここには最後の寄港地は「肥前国松浦郡田浦従リ発シ 四船海ニ入ル。」とあります。
「肥前国松浦郡田浦」については、2つの説があるようです。
①ひとつは、現在の平戸の北端の田浦
②もうひとつは五島列島の久賀島の「田ノ浦」

7月6日に「田ノ浦」を発って以後の4船の航路をたどってみましょう。
 順風をとらえて東シナ海を西に進み西方沖で潮に乗って南下しようとします。ところが翌朝に逆風に遭い、強風と逆波にさえぎられて南下できなくなります。帆をあげて西南の風を背に五島列島のどこかに避難しようとしますが、済州島の方向に押し流されます。

  肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。

とあるので、夜八時~九時頃に、五島列島を遠く離れた西の海域で四船は、散りぢりになったようです。そして、福州近くの赤岸鎭に漂着する8月10日まで34日、東シナ海の潮流になすすべもなく浮かんでいたことになります。

空海入唐 空海と最澄の漂着地
三井楽を最終寄港地とする立場の航路図
 松浦郡田浦を出て、翌日の7月7日の夜には、漂流を始めたのです。最終寄港地は「肥前国松浦郡田浦」です。今の平戸市北端の田浦の岬の上には弘法大師像が建立され、平戸市と善通寺市が姉妹都市を締結しているようです。
平戸の史跡・名所案内|旅館田の浦温泉(公式ホームページ)
平戸市田浦の弘法大師像

 これに対して五島列島の三井楽町柏崎の海辺には、「辞本涯」(「本涯を辞す」)と刻まれた石碑が建っているようです。
三井楽(みみらくの島)(五島市)
三井楽町柏崎の「辞本涯」 
三井楽も空海が参加した第十六次遣唐使船団の最終寄港地だと名乗りを上げているようです。しかし、つまり平戸と、三井楽では最終寄港地をめぐる争論が展開されてきたのです。

 最澄の乗った第2船は、7月下旬に、明州郡県に漂着し、9月1日には判官菅原清公以下27名が、明州を発ち長安に出発しています。
それでは第3・4船は、どうなったのでしょうか。
「空海の風景」には、次のように記されています。

「第三、第四両船、火信応ゼズ」と書いている。火信とは、松明もしくは火縄をふることによって、たがいに所在をたしかめあうことであった。第三船はこの時期に海没してしまったらしい。第四船にいたっては海没の証拠すらなく、ついに行方が知れなくなってしまっている。
  
   司馬遼太郎氏は、第3・4船は海に消えたというのです。
しかし、史書には2隻は遭難エリアから那ノ津(大宰府)に引き返していることが記されています。そして、船体修理後に翌年の延暦24年7月4日に、肥前国松浦郡庇良島(平戸の田ノ浦)から、遠値賀島(五島列島の福江島)に向けて出港しています。瀬戸内海での難破から数えると3度目の出港になります。ところが第三船は、出港まもなく南風の逆風によって孤島に漂着し、判官三棟は船を捨てて上陸します。船は水夫らとともに海上に流され、ついに行方知らずとなってしまったようです。

空海入唐 田浦

第3船の難破事件は大宰府から朝廷に、次のように報告されています。
 遣唐使第3船は、805年7月4日、肥前国松浦郡庇良島から遠値嘉島をさして出帆したところ、南風にあって孤島に漂着し、船は岩間にはさまれ、海水に満たされてしまった。そこで責任者の今嗣らは岸に上がって脱出した。が、船の積荷は公物・私物何一つとして船からおろす暇もなかった。船には数名の射手を残していたが、結が切れて漂流しはじめ、その行方はわからなくなった

  これは、責任問題となったようです。船を見捨て下船した今嗣に対する処罰記事が「日本後紀」にはあります。
船の最高責任者の使命を忘れて、みずからの命をながらえることのみを考え、船の積荷を放棄し、下船した責任を問うて厳罰を加えるべし、との勅が下されます。これは、当然のことでしょう、船長が乗船者がいる舟を放棄しているのですから。どちらにしても、第3船は3度目の出航後に、五島列島の北で座礁難破し、漂流を開始し行方不明になります。3度出港し、一度も渡海できなかった船になるようです。
  最後に第4船を見ておきましょう
第四船は、延暦24年(805)7月4日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆します。今見たように第三船は、運悪く三たび難破します。これに対して、遣唐副使判官の高階真人遠成(たかしなりまひとうとなり)を乗せた第四船は、「三度目の正直」で中国にたどり着きます。高階遠成は、大同元年(806)正月,皇帝の代替わりの新年朝貢の儀にも参列する栄華を得ます。この時に空海は、密教伝授を終え、恵果が亡くなった直後だったのです。そこに、突然に、遣唐使がやってきたことになります。前回、お話ししたように、空海はこの期をとらえて本国に帰ろうとし,やてきた高階遠成に相談したのでしょう。空海の唐留学は20年の予定でした。それをわずか1年半で切り上げて帰国できるようになったのは、この遣唐使船がやってきたからです。それだけではありません。
入唐 『与本国使諸共帰啓一首』
「与本国使諸共帰啓」
空海が皇帝に「与本国使諸共帰啓」を上申書を提出することを認めたからです。これは、現地での彼の独断です。帰国後に朝廷からの処罰を受ける可能性もあったはずです。もし、遠成の許可がなければ、空海の帰国は実現しなかったのです。そういう意味では、遠成は空海の密教招来に手を貸すという大役を果たしたことになります。また彼は皇帝代替わりの新年朝貢の儀にも参列し、中国の史書に名前をとどめる栄誉をうけてもいます。ちなみに空海の名前は、史書にはありません。また他の中国側の史料にも空海の名前はありません。

高階遠成略年譜──空海を連れて帰った人   
806 1 空海・橘逸勢が、高階真人遠成とともに帰国することを請う(性霊集5)
806 8 遠成が空海等とともに、明州を発ち、帰国の途につく
806 10/22 空海が高階真人遠成に託して「新請来経等目録』を進献す(御請来目録)
806 12/13 遣唐判官正六位上高階真人遠成、復命す。
この日、従五位上を特授される(類衆国史99)
811 5/10 従五位上高階真人遠成、主計頭となる
   6/16 従五位上高階真人遠成、民部少輔となる(同右)
812 3/12 民部少輔高階真人、高雄山寺において空海から結縁灌頂を受く
12/19 「従五位下少輔高階真人遠成」と民部省符に署名す(平安遺文1)
813 2/13 従五位上高階真人遠成、大和介となる(日本後紀22)
815 1/7 従五位上高階真人遠成、正五位下に叙せらる(日本後紀24・類衆国史99)
816 1/7 正五位下高階真人遠成、従四位下に叙せらる(類衆国史99)
818 3/21 散位従四位下高階真人遠成、卒す。年六十三(日本紀略前篇14)
  

以上をまとめておくと
①空海が遣唐使の留学僧に選ばれる前年に、遣唐使船は一度出港していた。
②しかし、その時には出航後わずか5日後の瀬戸内海で難破し、航行不能となった。
③翌年に改めて遣唐使船は出港するが、この時に空海は第1船に乗り組んでいる。
④平戸の北の田浦を出た4船は、五島列島を目指すが強風にあり散りじりになった
⑤空海の乗った第1船と、最澄の乗った第2船は、それぞれ中国に漂着し、長安を目指した。
⑥しかし、第3・4船は船に大きなダメージを受けて博多に引っ返し、1年かけて修理した。
⑦そして、再再度出港したが第3船は、孤島に漂着し破船・漂泊、
⑧第4船は3度目の挑戦で入唐を果たし、遣唐副使判官の高階真人遠成長安を皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」

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遣唐使船の船頭で悪霊退散を祈願する空海

空海の入唐求法について書かれた本の中には、空海は唐に出発するまえに、次のことを知っていた記すものがあります。
①密教には、「灌頂」が不可欠であり、面授を必要とすること。
②「灌頂」の師となる恵果和尚が長安におられること。
③「灌頂」には、それほどの期日を要しないこと。

確かに空海の灌頂受法は、足かけ三ヵ月でした。それを空海が事前に知っていた。そのため最初から空海は20年も長安に留まるつもりはなかった、短期間での帰国を考えていた、というものです。空海を超人化するストーリーとしては、こちらの方が人々に受けいれやすいので、最近の小説などではこの説で空海の入唐求法を描くものが多いようです。たとえば次のような筋書きです。
①四国などの山林修行での神秘的体験から密教への指向を強める若き日の空海
②修験と密教の統合のための模索と大日経読破
③大日経を読んだだけでは密教を「獲得」できない。潅頂儀式のための入唐求法
つまり、空海は密教の8割方を理解した上で、あとは書物では分からない潅頂関係だけを学ぶために目的を限定して入唐したという説です。しかし、前回お話ししたように、入唐以前の空海は「密教」という言葉を使っていません。「密蔵」という言葉を使っています。ここからは、入唐以前には空海は「密教」という全体概念をしらなかったことがうかがえます。密教の一部を知っていても、密教全体を分かっていたというレベルには達していなかったと研究者は考えているようです。
「空海入唐目的=潅頂受法」説の代表が、平井宥慶「弘法大師入唐の意図」で、ここには次のように記されています。
我々がかんがえる大師の入唐意図、それも「唯一」の意図を述へなければならないときがきた。我々は、大師は灌頂受法のため、それも日本を出発するときからそのことをきちんと意識しておらるものだ。その第一の資料は、〈帰啓〉の文である。
 ここで述べられた内容は、長安城にあって、般若三蔵と恵果和尚に遇い、五部・喩伽の灌頂法に沐したという事実で、しかもそれ「唯一」であるということになる。いうなれば、これが入唐の成果である。
 いま灌頂受法を堂々と宣言しているのは、その事実によほどの自信と自負が存在することを認めなければならない。その自信と自負は長安へ行ってたまたま受法できたから、ということで生まれるものであろうか。これは、出発以前に大師の心内に確平たる目的意識として確立していたればこそ、と思考するものだ。ということは必然的に、恵果和尚に遇うことも計算にはいっていたということになる。大師はそういう大陸の情報をいかにして手に入れていたか、残念ながら我々はまだその直接証拠をみいだしていない。
・灌頂受法がきわめて重大事であること 究極の法であることは論を待たない。(中略)密教の授受は師弟の面綬によらなければ不可能だ。
 この灌頂という受法行為なら、それほど期日はかからない。少なくとも20年はかからない。大師はもしかしたら、闘期の罪の状態で帰国があり得ることを予測していたことも考えられる。(以下略)
ここからは、平井氏は空海は入唐以前に密教の全体像を知った上で、入唐目的を潅頂受法のためと絞り込んでいたとします。そして、短期間での受法も可能であったと入唐以前に考えていたというのです。その根拠を「帰啓」に求めます。「帰啓」とは何なのでしょうか。〈帰啓〉とは、『与本国使諸共帰啓一首』(本国の使に与えて共に帰らんと請う啓)の略称のようです。「本国の使」とは、遣唐判官・高階真人遠成のことを指すようです。この遠成が帰国する船に便乗して一緒に帰りたい、と願いでたときの文章が、この〈帰啓〉です。

空海と惠果
恵果と空海

〈帰啓)が書かれるにいたった経緯を、見ておきましょう。
恵果阿闇梨は、空海への授法で使命を終えたかのように、永貞元年(805)12月15日、青龍寺東塔院で亡くなります。空海は、弟子を代表して、師の生涯を讃嘆する「恵果和尚の碑文」の撰文と揮音宅を行なったとされます。葬送の儀式は、翌年正月17日の埋葬の儀で、一段落したのでしょう。〈帰啓)は、この直後に書かれたようです。
 実は、この時に唐にやってきていたのが遣唐副使判官高階真人遠成(たかしなりまひとうとなり)でした。彼は、大同元年(806)正月,皇帝の代替わりの新年朝貢の儀に、参列しています。空海を乗せてきた船が帰国したばかりなのに、どうしてすぐに遣唐使船がやってきたのでしょうか。次の2つの説が出されています。
①皇帝代替わり使節団として新たに派遣された
②空海の入唐時に派遣された第4船が難破修理後に、遅れて到着した。
このことについては、別の機会に詳しく見るとして、ここでは空海が密教伝授を終え、恵果が亡くなった直後に、遣唐使船が現れたということを押さえておきます。
空海はこの期をとらえて本国に帰ろうとし,唐朝に啓を上奏します。
これが「与本国使諸共帰啓」のようです。もともと、空海の唐留学は20年の予定でした。それをわずか1年半で切り上げて帰国しようというのです。前代未聞のことです。これも空海にとって織り込み済みであったとする小説もあります。
 もし、この願いが許されなかったら,江南の貿易者の日本行きの私船で帰ることができたでしょうか。それは国費留学生という身分からして、できない相談だったようです。留学生は,皇帝の認可を受けて長安に滞在している以上,唐を離れるのは皇帝の許可が必要でした。その許可は,日本国を代表する大使の奏上がなければ許可されることはありません。それが律令のルールでした。もし、空海が高階遠成の船で帰国しできていなければ、その帰国は20年先だったかもしれませんし、阿倍仲麻呂のように帰国ができなかった可能性もありました。そうすれば真言密教も,高野山も姿はなかったことになります。
そういう意味では、空海の生涯を大きく支配した一文が『与本国使諸共帰啓一首』ということになるようです。
入唐 『与本国使諸共帰啓一首』
          空海書 与本国使諸共帰啓

この書は,縦約30㎝,横55㎝の紙本で、現在は御物として保存されているようです。大同元年(806)の正月に唐の都長安で書写されたもので、18行,238字の上書です。
最初に題名として『与本国使諸共帰啓一首』と書かれていますが、下に行くほど左に曲がっています。バランスもよくありません。次に「留学学問僧の空海啓す」とあります。この文章中には欠語や誤謬があることが指摘されています。上奏書とは思えない書体と内容です。

 「空海は,これを元にして楷書で浄書し大唐皇帝に奏上した」

と研究者は考えているようです。そして,草稿として書かれたこの書が,空海の書箱に収められ,帰朝にあたって持参されたという筋書きになります。

『与本国使諸共帰啓一首』の本文を見ておきましょう。
ア、留住学問の僧、空海啓す。某(それがし)、器、楚材に乏しく、聡、五行を謝せり。謬(あやま)って求撥(ぐはち)を濫りがはしくして、海を渉って来る。
イ、草履を著けて城中を歴るに、幸いに中天竺国の般若三蔵、及び内供奉恵果大阿闇梨に遇いたてまつって、膝歩接足して彼の甘露を仰ぐ。
ウ、遂に乃ち、大悲胎蔵・金剛界大部の大曼荼羅に入って、五部の喩伽の灌頂法に沐す。冶(さん)を忘れて読に耽り、仮寝(かりね)して大悲胎蔵・金剛頂等を書写す.己でに指南を蒙って、之の文義を記す。兼ねて胎蔵大曼茶羅一鋪、金剛界九会大曼茶羅一鋪を図す〈並びに七幅丈五尺〉。丼せて新翻訳の経二百巻を写し、繕装畢ヘなんとす。
エ、此の法は、仏の心、国の鎮なり。熟(わざわ)いを攘(はら)い、祉(さいわ)いを招くの摩尼、凡を脱(まぬか)れ聖に入るの嵯径なり。是の故に、十年の功、之を四運に兼ね、三密の印、之を一志に貫く。此の明珠を兼ねて、之を天命に答す。
オ、たとい、久しく他郷に客たりとも、領(くび)を皇華に引かん。白駒過ぎ易く、黄髪何(い)かんがせん。今、腫願(ろうかん)に任えず。奉啓不宣。謹んで啓す。
意訳変換しておくと
  本国の使に与へて共に帰らむと請ふ啓一首
ア 留住(留学)学問の僧空海が上奏いたします。私空海の器(器量・才能)は乏しく,聡明さは応奉には及びません。仏法を求めてはるばる海を渉ってやってまいりました
イ 草履をすり減らし師を求めて歩き廻り、城中(唐の長安)を巡るに、幸ひにも中天竺國(インド中部)の般若三蔵の供奉(宮中の内道場に供奉する僧)恵果大阿闍梨にお会いすることができました。膝歩接足(膝であゆみ,師の足に頭をつけて,礼拝すること・師への礼)して彼の甘露(教え)を仰ぎ。
ウ ついに大悲胎蔵金剛界大部(一切の法門統摂した教え)の大曼荼羅に入って,五部瑜伽(五智の瓶水を頭上に注ぐこと・瑜伽は相応の意であり,金胎両部に通ずること)の灌頂法(インド古代の国王即位式にならった密教伝承の儀式)を伝授されました。
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密教経典の写経をおこなう僧
濃(食事)を忘れて讃に耽る,假牒して大悲胎蔵(大日経類)金剛頂(金剛頂経類)等を書き写し、指南を受けて文義(意味内容)を記しました。兼ねて胎蔵大曼荼羅鋪(一幅),金剛界九會(金剛界の諸仏の像)大曼荼羅一鋪を写しました。さらに七幅丈五尺拝のせて新翻鐸輕二百鯨巻を書写して、繕装(表装)も終えました。
弘法大師 誕生と長安での書写1
書写作業を見守る空海
エ この法は仏の心で,仏法の真髄は國の鎮(鎮護国家法)でもあります。禍をはらいのけ、善福を招く摩尼宝珠は凡夫を脱れ、聖に入る峻厘(近路)です。それゆえに二十年の功を一年で兼ね具えることができるました。三密の印(身・口・意の三秘密の印契。密教の教え)を一心によく体得することができました。この明珠(明月のような光を放つ宝珠)を兼ねて、これを之を天命(桓武天皇の勅命)に応えようと思います。

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密教法具の作成
オ もしこのまま大唐帝国の客として,遣唐使を待っていたら白駒(歳月)は過ぎ去ってしまいます。私は老人となって髪が黄色になってしまいます。今,随願(いやしい願い)ではありますが奉啓不宣(述べつくさないの意)謹むでまう啓す。

 帰国できるがどうか、空海の生涯のターニングポイントで書かれた奏上文です。内容的には、くどくどと述べることなく簡潔でシンプルです。中国の古典や詩句の一部が各所にちりばめられていて、その素養の高さを示す内容です。しかも、その中に長安での空海の学究,求道の内容が網羅されていて,帰国して果すべきことも暗示され,その言わんとすることも伝わってきます。中国の担当官僚の心を動かす文章と云えるようです。
ここには空海の帰国の意志が表明されていますが、なぜ、帰国を決意したのでしょうか。
その理由としては、次のことが考えられます。
①長安には、恵果和尚に勝る阿閣梨がいなかったこと、
②この機会を逃せば、いつ帰国できるかわからなかったこと、
ちなみに、つぎの遣唐使が長安にやってきたのは、32年後の承和五年(838)12月、空海が亡くなってから3年後のことです。
 帰国を決意した最大の理由の一つは、恵果阿閣梨が亡くなったこと、その師が臨終に際して残した遺命であったと、研究者は考えているようです。恵果の遺命は、その後の空海の宗教的・社会的活動の指針となった、判断に困ったようなときには、空海の脳裏に、師の生涯とともにこの遺命が思い起こされたと云うのです。
圓應寺|円応寺|真言宗智山派 大慈山|山形市|永代供養 » 弘法大師・空海 恵果和尚からの密教伝授
 恵果と空海
恵果和尚の遺命とは、『御請来目録』にみられる次の文章です。

ア、今、此の上の縁尽きぬ。久しく住すること能はず。宜しくこの両部大曼茶羅、 一百余部の金剛乗の法、及び三蔵転付の物、並びに供養の具等、請う、本郷に帰りて海内に流伝すべし。編かに汝が来れるを見て、命の足らざるを恐れぬ。今、則ち授法の在る有り。経像の功、畢んぬ。

イ、早く郷国に帰り、もって国家に奉り、天下に流布して蒼生の福を増せ。然れば四海泰く、万人楽しまん。是れ則ち、仏恩を報じ、師の徳を報ずるなり。国の為には忠、家に於ては孝なり.

意訳変換しておくと
ア、今まさに、師と弟子として縁が尽きようとしている。ここに及んで、長安に留まるべきではない。この両部大曼茶羅や一百余部の金剛乗の法、及び三蔵転付の物、並びに供養の具等を、本郷(日本)に持ち帰り、国内に伝えるべし。以前から汝(空海)が長安にやって来ることは分かっていたが、私の余命の及ばないことを怖れていた。今、授法は全て終わった。経像の功も引き継がれた。

イ、しかる上は一日も早く郷国(日本)に帰り、もって国家に奉り、天下に流布して、民人たちの蒼生(善福)のために尽くせ。そうすれば四海は治まり、万人は平穏な生活が送れるようになる。これこそが仏恩を報じ、師の徳に報いる道である。国の為には忠、家におては孝である。

 ここには「一日も早く郷国(日本)に帰り、もって国家に奉り、天下に流布」せよと恵果は空海に命じたと書かれています。この恵果和尚の遺命を受けて、空海は帰国を決意するようになったと研究者は考えているようです。つまり、空海は入唐以前から潅頂を含めて密教伝授が短期間で終わるとは思っていなかったとするのです。もっと突っ込んで云うと、空海は入唐以前には、潅頂がどんなものかを分かっていなかったことになります。
 空海が入唐するまでに、『大日経』を読んでいたことは間違いないと研究者は考えているようです。とすると、「灌頂」なることばは知っていたでしょう。しかし「灌頂」が具体的にどんなものであるのかについては、正しく理解していたとは云えないようです。

先ほど見たように、空海の入唐求法について書かれた本の中には、空海は唐に出発するまえに、次のことを知っていた記すものがあります。
①密教には、「灌頂」が不可欠であり、面授を必要とすること。
②「灌頂」の師となる恵果和尚が長安におられること。
③「灌頂」には、それほどの期日を要しないこと。

③については、確かに空海の灌頂受法は、足かけ三ヵ月でした。それを空海が事前に知っていたとすれば、短期間の滞在でよい還学僧(請益僧)でよかったのではないでしょうか。事実、同行した最澄は、こちらを選択しています。どうして空海は、二十年も滞在しなければならない長期の留学僧となったのでしょうか。

 別の視点から見てみましょう。本来の潅頂は、3ヵ月で終わるものだったのでしょうか。
天長八年(831)10月24日付の比叡山・円澄らの書状は、持明灌頂(結縁灌頂)を受法した最澄とその師・空海との次のようなやりとりが記されています。
   即ち、和上(空海)に問うて云はく、大法の儀軌を受けんこと、幾月にか得せしめんや、と。(空海が)答えて日はく、三年にして、功を畢えん、と。

ここには、ずっと伝法灌頂の受法を願っていた最澄が、実際に空海から受法した灌頂は結縁灌頂であったこと。そこで、最澄は「念願の伝法灌頂を受けるには、いく月ほどの修行・勉学が必要であろうか」と質問します。これに対して、空海は「あなたの能力をもってしても、あと3年修学してください」と答えた、と記されます。

伝法灌頂について | 嗚呼!日々是☆サマーディ-------------Momoのブログ

 最澄が最初の持明灌頂(結縁灌頂)を受けたのが弘仁三年(812)のことですから、それから数えると19年が経っています。それに加えて、最澄でも「あと3年の修行が必要」と答えているのです。空海が恵果和尚から三ヵ月あまりで受法されたことは基準にはならない、つまり、あの伝授は特別なものであったと空海は考えていたようです。

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 今日残る史料からも、空海が入唐される以前の史料には、灌頂受法がわが国行われたの記録は見当たらないことを研究者は報告し、次のように記します。
  密教儀礼としての灌頂をわが国で最初に行なったのは最澄であり、それは延暦二十四年(805)九月、高雄山寺においてのことであった。この時期は、ちょうど空海が恵果和尚からの三度にわたる灌頂受法を、とどこおりなく終えた時期にあたる。ここからは、空海の入唐以前に、わが国の仏教界で、密教儀礼の灌頂については、十分に理解していた人物がいたとは思えない。

入唐 遣唐使船

以上まとめておくと、次のようになります。
①空海入唐の動機・目的は、最初から密教受法や灌頂受法のためであったのではない。
②それは青年時代の四国での求聞持法修行によって体感した強烈な神秘体験の世界が、どんな世界であるかを探求する道のりの延長線上にあった。
③唐に渡り、はじめて室戸で体験した「神秘的世界」が密教なる世界であったことを知り、その世界を究めることを決意した。
④その導師となったのが恵果で、彼の遺命で短期での帰国を決意するようになった。
⑤皇帝への帰国願いが『与本国使諸共帰啓』で、これが受けいれられ帰国が許された。
⑥空海が「密教」という言葉を使うようになったのは、帰国後のことである。
前回と結論は同じになります。
  空海と密教との出逢いは、体験的には20歳のころに求聞持法を修したときに遡ります。その世界が密教なる世界であることをはっきりと悟ったのは、入唐後の長安だったという説です。「はじめに体験ありき」と研究者は考えているようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年
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[本/雑誌]/弘法大師空海の研究 オンデマンド版/武内孝善/著|neowing
       
 「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」を読み返していると、空海入唐求法についての疑問点とされることが次のように挙げられていました。
①入唐の動機。目的は何か。
②誰の推挙によって入唐できたのか。
③どんな資格で入唐したのか。入唐の資格は何か。
④入唐中に最澄との面識はあったのか。
⑤長安での寄宿先の寺院はどこであったか。
⑥大量に持ち帰った経典・曼荼羅・密教法具などの経費の出所はどこか。
⑦帰国したとき乗った高階真人遠成の船はどのような役目の船であったか。
⑧空海は入唐して何を持ち帰ったか。入唐の成果は何か。

②~⑧の疑問に対しての研究状況が次のように記されています。
②誰の推挙だったかについては、次のような人物が考えれている
空海の師匠とみなされてきた勤操
おじが侍講を務めていた伊予親王
空海の一族佐伯氏
DSC04549遣唐使船

③入唐の資格については、
私費の留学生や大使の通訳などとみなす説もあるが、正式の留学僧であったことは空海の著作から間違いない。
④空海と最澄との面識については、
ふたりが出逢っていたとすれば、博多の津が考えられるが、帰国後、両者が著したものには入唐中に二人が出会った記述はない。入唐中、両者には面識はなかったと研究者は考えています。
⑤長安における寄宿先について、櫛田師は次のように記します。
「在唐の坊を予め連絡してから入唐したであろう」
永忠僧都の推挙によってこの西明寺と指示されたので喜んで入唐の志を堅くしたのであろう」
「空海入唐の斡旋の労も或いはこの永忠和尚の力によったものかも知れない」
この説によると、永忠と空海の間には、入唐以前からなんらかのやりとりがあったことになります。そして、長安で世話になる寺院については永忠から西明寺を推薦されていたと記します。
しかし、研究者は『日本後紀」所収「永忠卒伝」の記録には、永忠は宝亀の初めに入唐留学し、延暦の末に空海が入唐したときの大使藤原葛野麻呂とともに帰朝した、という記録があることを指摘します。この記録からは、二人がはじめて出会ったのは長安だったことになります。現在のように、事前に連絡を取り合うことは出来ません。櫛田説は再考される必要があると研究者は指摘します。

弘法大師 誕生と長安での書写1
長安での空海 曼荼羅図などの作成
⑥入唐に要した経費の出所ですが、空海がどれほどの資金を持参したかは分かりません。
櫛田師は、「もとより空海には莫大な財源も資産もなく、秀れた門閥でも、氏でもなかった」と記します。
しかし、空海の生家である讃岐国の佐伯直氏は、海運交易などで相当の経済力を備えていた、と考える研究者もいます。膨大な招来品のなかには、師の恵果和尚から贈られた品々も少なくなかったでしょうが、空海みずからが資金を出して入手した品々も多々あったと思われます。しかし、それらを明記したリストがない以上は、どれが「私費購入品」かも分かりません。したがって、空海かどれほどの資金を持参したかも、分からないというしかないようです。
⑦帰朝したときの高階遠成の船については、空海が入唐したときの第四船が有力
以上のように、問題点に対する現時点での「とりあえずの答」を簡潔に示してくれます。私にとってはありがたい本です。

①の入唐の動機・目的について、もう少し詳しく追いかけてみましょう。
空海の生涯には、いくつかのエポンクメーキングなできごとがあります。その最大のものの一つが虚空蔵求聞持法との出逢いであり、いま一つが入唐求法の旅であったと私は考えています。この二つは、別々のことがらではありません。入唐の出発点が求聞持法との出逢いで、両者は連続しているのです。それを並べると次のようになります。
①求聞持法との出逢い
②平城京の大学からのドロップアウト
③四国の辺路修行と室戸での求聞持法修得
④大日経との出会いと入唐決意

まず、求聞持法との出逢いから見ておきましょう。
空海の出家宣言の書といわれる『三教指帰』の序文は、若き日の空海の足跡を知ることができる唯一の史料です。現在の『三教指帰』は、24歳のとき著された『聾蓄指帰』に、唐から帰国後に序文と最後の「十韻の詩」を書き改め、あわせて題名を『三教指帰』と改めた、とみるのが通説のようです。
その『三教指帰』序文には、求聞持法との出逢いが、つぎのように記されています。
ア、髪に一(ひとり)の沙門あり。余(われ)に虚空蔵聞持の法を呈す。其の経に説かく、「若し人、法に依って此の真言一百万遍を誦ずれば、即ち、 一切の教法の文義、暗記することを得」と。

(現代語訳)
ここに一人の僧がいて、私に虚空蔵求聞持の法(虚空蔵菩薩の説く記憶力増進の秘訣)を教えてくれた。その秘法を説く『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』には、「もしも人々がこの経典に説かれている作法にしたがい、虚空蔵菩薩の真言「ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」を百万遍唱えれば、あらゆる経典の教えの意味。内容を理解し、暗記することができる」と説かれている。

イ 大聖の言葉を信じて跳炎をさんずいに望む。阿国大瀧獄に登り攀(よ)じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。
(現代語訳)
そこで私は、これは仏陀のいつわりなき言葉であると信じて、木を錐もみすれば火花が飛ぶという修行努力の成果に期待し、阿波の国の大滝岳によじのばり、上佐の国の室戸崎で一心不乱に求聞持法を修した。私のまごころが仏に通じ、あたかも谷がこだまを返すように、虚空蔵菩薩の象徴である明星が、大空に姿を現した。

最後の「谷響きを惜しまず、明星来影す」は、空海が体験した事実を、ありのままに記されたものと研究者は考えています。すなわち、「谷響きを惜しまず、明星来影す」とは、 一心に虚空蔵菩薩の真言、ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ
(虚空蔵尊に帰命します。オーン、怨敵と貪欲を打ち破る尊よ、スヴァーハー)を唱えていると、こだまが必ず返ってくるように、求聞持法の本尊・虚空蔵菩薩の象徴である明星が、私に向かって飛び込んできた、つまり虚空蔵菩薩と合一した、 一つになった、と解されます。

ここには、机上空間からでは分からない、体験したものでないと分からない、つまり「強烈な神秘体験」が記されています。

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室戸での求聞持法修行
求聞持法を求める中で、強烈な神秘体験に出逢った空海のその後は、この体験の法則化に向かいます。つまり、世界とはいかなるものかを探求する道程であり、いろいろな僧にみずから体験した世界を語り、それがいかなる世界であるかを問い続けます。そして仏典のなかに解答を求め、解明・研鑽に精魂をかたむけたのでしょう。
 そのひとこまとして、『御遺告』が語るように、『大日経』をひもといたけれども、納得できる解答を見出せないまま悶々としていた、といったシーンが語られます。

正倉院文書と写経所の研究 | 山下 有美 |本 | 通販 | Amazon

正倉院には国営の書写所があり、何十人ものプロの書写生がいて仏典を書き写して、国分寺や中央寺院に提供していたことは以前にお話ししました。
 正倉院文書には『大日経』が最初に天平九年(737)に書写されたこと、それから宝亀六年(775)にいたるまでに、十数本の『大日経』が書写・伝存していたことが記録されています。

1大日経写経一覧 正倉院

それらを年代順に一覧表にしたのが上表です。
ここから『大日経』が何回も書写されていること、なかでも空海が登場する直前の宝亀年間に8回と集中して写されていることが分かります。奈良朝末には『大日経』の写本が畿内には、何種類も出回っていたのです。空海が、大日経を探し求めれば、それらの一つを目にすることも可能だったようです。しかし、これを見ても「ダメだ 分からない、この国では納得てきる答はえられない」との結論に達したのでしょう。そのため空海は、最後の手段として、唐に渡ることを考えたと研究者は考えています。
御遺告
御遺告
『御遺告』のこの部分を意訳しておくと、次のような事が記されています。
①二十歳のとき、槙尾山寺において勤操僧正(岩淵贈僧正)にしたがって出家し、教海と称し、のちに如空と改めたこと。
②このとき、仏前において「諸仏よ、私に不二の教えを示したまえ」と一心に祈願したこと。
③この結果、「なんじの要めるところは『大日経』なり」との夢告を得たこと。
④久米寺の東塔下で、『大日経』を探じ求めて、ひとあたり拝見したけれども、理解できないところが多々あり、それを問いただすところもなかったこと。
⑤そこで、唐に渡ることを決意し、延暦23年(804)5月12日出発したこと。
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       久米寺の東塔下で、『大日経』を読む空海

ここからは、次のようなことが分かります。
①空海は勤操僧正(岩淵贈僧正)によって槙尾山寺において出家したこと。そして「教海」「如空」と名を換えたこと
「不二」の教えを学ぶために「大日経」を捜し求めたこと
③久米寺の東塔下で、『大日経』を手にしたが理解できないことが数多くあったこと
④そのために唐に渡る決心をしたこと
御遺告はかつては、空海の遺言とされてきました。そのためこれが入唐動機の定説でした。
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このような定説を踏まえた上で、福田亮成著『弘法大師の教えと生涯』は、空海が真言密教を大成できた理由として、次のような要因を挙げます。
①大師は中国語が堪能であったこと。
②研究の目的は明確に密教に定められていたこと。
③長安に密教の名師がおり、直ちに面授できることを願っていたこと。
④唐の新訳仏典、特に「金剛頂経系諸儀軌」を中心にして、その蒐集に目的を定めていたこと。
⑤その他、文化一般にわたリグイナミックな関心をもっていたこと。たとえば筆の製作技術のマスター、詩文や書の研究など。
そして次のように結論づけます。
以上のような諸問題は一年半という短期間でありながら実に効率よく摂取されたのであった。これは大師の優秀さもさることなから、目的が明確に定まっていたことの表れではなかろうか

これに対して、こには先入観があると武内孝善は指摘します。
空海が入唐以前に、「密教」や「灌腸」ということばの意味を理解していたかどうか、もう一度立ち止まって考える必要があるというのです。確かに、入唐以前の空海が、密教経典を読んでいたことは間違いないでしょう。しかしながら、今日われわれが用いるような形での「密教」「潅頂」という言葉の概念を、入唐以前の空海が明確にもっていたか、といえばそうとは言い切れないようです。
これを別の表現にいいかえると、次のような疑問になります。
①空海は、「密教」なる言葉をどこで知ったか。
②いつ、どこで、明確に意識されるようになったか。
③密教という言葉の概念をどのように押さえ、使っているのか
このような問題意識のもとに、空海の著作に「密教」という言葉がどのように使われているか、をひとつひとつ確認していきます。これにつきあうことは遠慮して、結論だけを追いかけます。
①については、空海の著作で「密教」という言葉を、自分の言葉として意識的に使っているのは、九ヵ所だけであること
②については、空海が「密教」という言葉を使いはじめるのは、弘仁五年(813)頃ごろからであること。
つまり、入唐以前には空海は「密教」という言葉を使っていないことを指摘します。
  それではそれ以前は、空海はどのような言葉を使っていたのでしょうか。
「大唐神都青龍寺・恵果和尚の碑」と『御請来目録』では、空海は「密教」に替わる言葉として「密蔵」という言葉を使っています。このふたつの文書には、合計19ヵ所に、「密蔵」が使われています。それは「密教」に置き換えられる意味で使われているようです。
以上をまとめておくと
①空海は、在唐中および帰国直後には、「密蔵」という言葉を使用していたこと
②空海が「密教」なる言葉を、自分の言葉として意識的に使用するのは、弘仁四、五年(813)ごろからであったこと
③それも10ヵ所足らずで、限定的にしか使用していないこと
つまり、入唐以前には、空海には「密教」という概念はなかったことがうかがえます。潅頂に関しても同じようなことがいえるようです。密教という概念がないのに「密教」を学びに行くのは、不自然です。

どのような手続きで、空海が遣唐使の一員に選らばれたのかは分かりませんが、空海は留学僧として入唐を果たします。
留学の期間は、20年でした。ちなみに最澄は、短期留学僧を選んでいます。貞元20年(805)2月11日、遣唐大使・藤原葛野麻呂らが長安を去ったあと、空海は西明寺の永忠の故院にうつり、留学僧としての本格的な生活が始めます。恵果和尚と出逢うまでの三ヵ月余りの間、空海は持ち前の好奇心から、長安城内をくまなく歩いたのでしょう。

空海と惠果
恵果和尚と空海

ここからはフィクションで小説風にいきます
ある日、いつものように長安の寺を訪ね歩いていました。ある寺の灌頂道場に足をふみいれた空海は、驚き立ち尽くします。そこには、室戸で求聞持法を修めたときに体験した神秘の世界が、そっくりあったからです。その灌頂道場の壁は、仏たちで満ち満ちて、曼茶羅か余すところなく描かれていました。曼荼羅と向かい合ったときに、それまでの空海の疑念は、氷解しました。空海は、かつて神秘体験した世界が、密教なる世界であったことを初めて知り、密教なる世界があること、長安ではじめて体感したのです。
 空海は、四国で求聞持法を行ったときに、体験的には密教の世界にまで到達していた、密教の世界を体験的には知っていた、と研究者は考えているようです。そして、空海自身のなかに、生命を賭けても唐に渡るだけの突き動かすような動機が生まれたのでしょう。その源は「強烈な神秘体験」だったということになるようです。
DSC04587青竜寺での恵果と空海
青竜寺での恵果と空海の出会い
 では、空海が曼茶羅と対峙した西安の寺はどこであったのであったのでしょうか。研究者は、ふたつの寺院を想定しています。
一つは恵果和尚を訪ねるまえ、般若三蔵や牟尼室利三蔵からサンスクリット語・インドの諸宗教などを学んだとみなされている禮泉寺
 一つは恵果和尚が住んでいた青龍寺東塔院の灌頂道場です。
禮泉寺については、空海自身『秘密漫茶羅教付法伝』、の恵果和尚の項に、次のように記します。
空海が入唐した貞元二十年(804)、恵果和尚は弟子・義智のために禮泉寺において金剛界大曼茶羅を建立し、開眼供養会を行なった、

青龍寺東塔院の灌頂道場に関しては、『広付法伝』の恵果和尚の項に、恵果和尚の直弟子の一人呉慇が撰述した師の伝記『恵果阿閣梨行状』を、次のように引用しています。
①大師、ただ心を仏事に一(もっばら)にして、意を持生にとどめず。受くるところの錫施は、一銭をも貯えず、即ち曼茶羅を建立して、法を弘め、人を利せんと願う。
灌頂堂の内、浮屠(ふと)の塔の下(もと)、内外の壁の上に、悉く金剛界、及び大悲胎蔵両部の大曼茶羅、及び十一の尊曼茶羅を図絵す。衆聖備然として、華蔵の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜して、密厳の旧(ふる)き容(かたち)に還る。 一たび観(み)、 一たび礼するもの、罪を消し福を積む。
③常に門人に謂(かた)りて日はく、金剛界・大悲胎蔵両部の大教は、諸仏の秘蔵、即身成仏の路なり。普く願はくば、法界に流伝して有情を度脱せん。

ここには「灌頂堂はあたかも大日如来のさとりの世界が出現したかの観があった」とあります。つまり、ここで全ての疑問が氷解し、悟ったと研究者は考えています。

以上まとめておくと、次のようになります。
①空海入唐の動機・目的は、最初から密教受法のためとか、灌頂受法のためであったのではない。
②それは青年時代の求聞持法の修行によって体感された強烈な神秘体験の世界が、どんな世界であるかを探求する道のりの延長線上にあった。
③唐に渡り、はじめて室戸で体験した「神秘的世界」が密教なる世界であったことを知り、その世界を究めることを決意した。
④恵果和尚と出逢い、和尚の持っていた密教の世界を継承し、わが国に持ち帰った。

  空海と密教との出逢いは、体験的には20歳のころに求聞持法を修したときに遡ります。その世界が密教なる世界であることをはっきりと悟ったのは、入唐後の長安だったという説です。「はじめに体験ありき」と研究者は考えているようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年

 空海には謎の行動がいくつかあります。そのひとつが帰国後の九州滞在です。
弘法大師・空海は下関市筋が浜町に帰国上陸した! | 日本の歴史と日本人のルーツ

空海は806年8月に明州の港を出帆しますが、いつ九州へ着いたのかを記す根本記録はないようです。10月23日に、自分の留学成果を報告した「御請来目録」を宮廷に提出しているので、それ以前に帰国したことはまちがいありません。ここで、多くの空海伝は入京を翌年の秋としています。とすれば九州に1年いたことになります。この根拠は大和国添上郡の虚空蔵寺について、「正倉院文書抄」が大同二年頃に空海が建立したと書かれているからです。
空海―生涯とその周辺 (歴史文化セレクション) | 高木 〓元 |本 | 通販 | Amazon

しかし、この文書については、高野山大学の学長であつた高木伸元は、『空海―生涯とその周辺―』の中で、この記述は後世の偽作だと論証しています。そして空海が入京したのは、大同四年(809)4月12日の嵯峨天皇の即位後のことであるとします。そうだとすると、空海は2年半も九州に居たことになります。
 どうして、空海は九州に留まったのでしょうか。あるいは留まらざる得なかったのでしょうか。
この答えは、簡単に出せます。入京することが出来なかったのです。空海は長期の留学生として派遣されています。阿倍仲麻呂の例のように何十年もの留学生活が課せられていたはずです。それを僅かな期間で、独断で帰国しています。監督官庁からすれば「敵前逃亡」的な行動です。空海は、そのために自分の持ち帰ったものや書物などの目録を提出して、成果を懸命に示そうとしています。しかし、それが宮廷内部で理解されるようになるまでに時間が必要だったということです。そこには最澄の「援護射撃」もあったようです。まさに九州での空海は、査問委員会のまな板の上に載せられたような立場だったと私は考えています。
スポット | たがわネットDB
香春神社
それでは、その間に空海は何をしていたのでしょうか?
その行動はまったく分からないようです。研究者は、二年半の九州滞在中に、宇佐や香春の地など、秦氏関係地をたずねて、その地にしばらく居たのではないかと推測します。この期間が結果として秦氏との関係を深めることにつながったと云うのです。
伊能忠敬が訪れた香春神社がある香春町の街並み。後方は香春岳の一ノ岳 写真|【西日本新聞ニュース】
香春岳のふもとに鎮座する香春神社(秦氏の氏神)
「空海=宇佐・香春滞在説」を、裏付けるものはあるのでしょうか?
①秦氏出自の勤操は、空海が唐に行く前から、虚空蔵求聞持法を通してかかわっていた
②空海は故郷の讃岐でも秦氏と親しかった
③豊前の「秦王国」には虚空蔵菩薩信仰の虚空蔵寺があった。
④虚空蔵寺関係者や、八幡宮祭祀の秦氏系の人々は、唐からの帰国僧の空海の話を聞こうとして、宇佐へ呼んだか、空海自身が八幡宮や虚空蔵寺へ出向いた(推理)
⑤最澄は入唐前に香春岳に登り、渡海の平安を願ている。最澄が行ったという香春へ、空海も出向いた(推理)
⑥「弘法大師年譜』巻之上には、空海は航海の安全を祈願して香春神社・宇佐八幡官に参拝し、「賀春明神」が「聖人に随いて共に入唐し護持せん」と託宣したと記す。
⑦空海は虚空蔵信仰の僧であった。
⑧和泉国槙尾山寺から高雄山寺へ入寺した空海は、「宇佐八幡大神の御影を高雄寺(高雄山神護寺)に迎えている」と書いている。虚空蔵寺のある宇佐八幡宮に空海がいたことを暗示している。


空海に虚空蔵求聞持法を教えたといわれている勤操は、空海の師と大和氏は考えています。そして、次のように推測します。
「勤操が空海帰国直後から叡山を離れ、最澄の叡山に戻るように云われても、戻らなかったのは九州の空海に会うためとみられる。延暦年間、勤操は槇尾寺で法華経を講じていたというから九州から上京した空海を棋尾山寺に入れたのも、勤操であろう。」

 この期間に勤操は「遊行中」で所在不明となっている。唐から帰国して九州にいた空海に会って、虚空蔵求聞持法についての新知識を聞いたりしていたのではないか

「空海が帰国し、槇尾山寺から高(鷹)尾山寺に移たのも、秦氏出身の勤操をぬきには考えられない」

以上のような「状況証拠」を積み重ねて、2年半の九州滞在中に空海は師である勤操と連絡をとりながら、八幡宮の虚空蔵寺や香春岳をたずねたのではないかと大和氏は推察します。

虚空蔵寺跡

  虚空蔵寺は、辛嶋氏の本拠地辛嶋郷(宇佐地方)に7世紀末に創建された古代寺院で、壮大な 法隆寺式伽藍を誇ったようです。その別当には、英彦山の第一窟(般若窟)に篭って修行したシャーマン法蓮が任じられます。宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺は、この虚空蔵寺を改名したものです。秦氏には、蚕神や漆工職祖神として虚空蔵菩薩を敬う職能神の信仰があったようです。
法蓮は新羅の弥勒信仰の流れを引く花郎(ふぁらん)とも言われます。
彼は7世紀半ば(670頃)に、飛鳥の法興寺で道昭に玄奘系の法相(唯識)を学びます。そして、「秦王国」の
霊山香春山では日想観(太陽の観想法)を修し、医術(巫術)に長じていたとされます。
 このような秦氏の拠点と宗教施設などで、
空海は九州での2年半の滞在を過ごしたのではないか。その中で今まで以上に、秦氏との関係を深めます。それを受けて、秦氏は一族を挙げて、若き空海を世に送り出すための支援体制を形成してきます。その支援体制の指揮をとったのが空海の師・勤操ということになるのでしょうか。大和氏の描くシナリオは、こんな所ではないでしょうか。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係 続秦氏の研究」

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