瀬戸の島から

カテゴリ: 中世の荘園(讃岐以外)

前回は現在の呉市の原型となる中世の「呉別符」の成立について、次のようにまとめました。
①国衙領安満郷呉浦の公文預クラスの開発領主呉氏は、岩清尾八幡神人の上分米出挙(=高利貸し)の融資を受けて「呉別符」の開発に着手した。
②その開発事業の中で、自分も石清水八幡宮の在地神人となった。
③そして、産土神として信仰を集めて来た亀山神社に石清水八幡官の祭神を勧請して、別宮とした。
 言い換えると、呉氏は神人の諸特権を得ることで、国衙権力の介入を排除するとともに、石清水八幡からの金融的支援を受け、呉浦の荒野の開発を進めたことになります。開発領主呉氏による開発は、同時に呉氏の八幡神人化と、呉別符の石清水八幡宮寺領化でもあったことを前回は見ました。今回は、その開発の進め方と景観変化を見ていくことにします。テキストは、前回に続いて「下向井龍彦  石清水八幡宮寺領呉別符の成立と海民」です
呉保 岩清水八幡荘園
中世の呉別符(保)
「呉別符(保)」の中心は、どこだったのでしょうか?
 呉別符(保)は石清水八幡宮寺領として建立されます。勧進された分社は、その荘園の中心近くの小高い岡の上に建てられることが多いようです。呉保の場合は、かつて亀山神社(旧八幡社)があった入船山です。入船山を中心に呉保は広がっていたと推測します。
 次にその境界を特定します。亀山神社の氏子組織は、宮原村・和庄村の人々を中心として構成されています。また、呉市市街地の中央をながれ、呉湾に注ぐ「堺川」は、その名の通り、和庄村と庄山田村を隔てる「境界の川」でした。この呼称がもっと古くまで遡れるなら、呉浦を別符方と浦方に分ける境界の川が境川になります。ここから旧宮原村・和庄村を呉別符の境域とします。

呉 居館
呉市の居館候補 竹土居
 それでは呉氏の居館は、どこにあったのでしょうか?

長迫小学校の西方に「竹土居」の小字があります。土居は中世武士の居館跡とされます。  土居を「清水」「岡田」「横田」「河原田」「榎田」「雑魚田」の小字が囲んでいます。ここから呉越えにかけては「鹿田」「免田」「(東・西・南)免田」の小字があります。ここから竹土居を、呉氏の屋敷地とそれを囲む門田、 そして給免田に由来する地名と研究者は推測します。「清水」は飲料水用・門田の灌漑用の取水地とすれば、この清水周辺に屋敷地があり、そこを拠点に呉氏は、この地域の荒野開発に乗り出したことになります。
かつての亀山神社(八幡宮)は、入船山にありました。
明治になって旧海軍呉鎮守府が呉に開設されることとなり、入船山にあった神社は現在地へ移転されます。その跡に軍政会議所兼水交社が建てられ、これが後に鎮守府司令長官官舎として利用されるようになります。入船山記念館の周囲には、「鳥居東」「鳥居西」「富畝」「宮下」「宮上楠」など、神社を中心に位置関係を示す小字がいまでもよく残っています。この元亀山神社が呉氏が、石清水八幡宮の祭神を勧請した呉別符の鎮守神だと研究者は考えています。

呉 亀山神社
入船山から塔の岡周辺が中世呉の「聖域」
 ①元亀山神社のすぐ南方(国立呉病院付近)には「善正地」「赤御堂」「堂場」「法名」「法名道下」など、寺院・堂舎に関係ある小字が集中します。これが八幡別宮の神宮寺②「善正寺」があったところです。
呉 亀山神社2

その南方には海に突き出すもう一つの尾根があり、その先端部分の南麓を「洗足(千束)」、その後方丘陵(現在の呉地方総監部=旧鎮守府、近世は宮原村庄屋青盛氏の居宅「月波楼」)は「塔ノ岡」と呼ばれていました。「塔ノ岡」はもともとは墓碑群のある丘で、「洗足」は、千僧供養に由来する地名で葬送供養を行う墓地だったと研究者は推測します。
 この地は、戦国期には「千束要害」と呼ばれる城郭が構えられていたので、墓地であったのは中世前期までのことになります。こうして見ると入船山から「塔ノ岡」の間は、神社・寺院・墓地を含む、「呉の聖域」エリアであったようです。しかし、この中世の聖域は、 今は跡形はありません。近代の「海軍」建設の際に、根こそぎ破壊されました。
 入船山の北側のかつての湾入部には「小走津」の小字が残ります。
「入船山」など地名からは、津泊の機能がこのあたりにあったことがうかがえます。また「塔ノ岡」寄りの道を「室瀬」と呼んでいたことが、戦国期の史料にはでてきます。「室」は、船の停泊地=港を指すので、「塔ノ岡」の北側湾入部も港だった可能性があります。中世には、2つの浜が湊の役割を果たしていたようです。
呉 近世地図
幕末の呉湊 1862(文久元)年
 江戸時代の呉港は、室瀬から尾根ごしの洗足南側に築港されたものです。室瀬の地先は新開が開け、町場が形成されていました。しかし、中世前期までは「亀山」と「塔ノ岡」のそれぞれの尾根先を自然の防波堤とする「入舟」=「小走津」や「室瀬」の地が、呉の港=「呉津」だったと研究者は考えています。


和庄村・宮原村の休山山麓には、次のような「――垣内」「――河内」の小字が点在します。
和庄村には「鹿田河内」「半兵衛垣内」「岡垣内」
宮原村には「(上・下)原河内」「空河内」「殿垣内」「富垣内」「下垣内」「庄地垣内」
呉 亀山神社
呉市宮原町土居内周辺の「垣内」

宮原村の場合は、すべて塔ノ岡尾根よりも南になります。今見てきたように、神社・寺院・津などが集まる港湾集落が呉浦の原型でした。これを元呉浦と呼んでおきましょう。呉氏が率いる住人たちは、その元呉浦の南方に開発の鍬を打ち込み、柴や卯の花の垣を巡らして周囲の荒野から区画し、出地を造成します。その爪痕が「垣内」地名として今日に残ったと、研究者は考えています。
元呉浦の南に「土居内」の小字があります。これが呉氏の宮原方面の開発拠点と研究者は推測します。
呉氏はここに建設した倉庫に八幡神人から借りた種子・農料を蓄積し、各「垣内」の小農民に開発料・農料として下行し、隷属関係を取り結び、領主支配を実現していったのでしょう。宮原高校の北側には「権ノ守」の小字があります。これは開発領主の通称に使われます。例えば、次のように「権ノ守」を名乗る人物がいました。
平安末期の能美荘に、荘方下司藤三権守宗能
鎌倉時代の仁治三年に殺害された安摩荘江田島小松文紀為宗は、「中権守」(中郷の小字がある)
呉別符の開発領主呉氏の一族にも「権守」を代々称していたものがいたのかもしれません。
以上から呉氏による呉浦の開発は次のように進められたことが推測できます。
①開発領主としての呉氏は、長迫町の「竹土居」に居館を構えていた。
②長迫町を拠点に鹿田・東畑・西畑などの呉越えに向けての土地を開発した。
③一方で、現在の千束要害跡や入船山の北側は浦・湊として機能していた。
④この湊を見下ろす入船山に鎮座していた龜山神社に、岩清水八幡の分霊を勧進した。
⑤当時は神仏混淆だったので、亀山神社を管理するのは社僧で、その寺が善正寺であった。
⑥こうして入船山周辺には、神社・寺院・津などが集まる集落形成されるようになった。これがが呉浦の原型となる中世の「元呉浦」である
⑦呉氏の一族は、石清水社神人の支援を受けながら「元呉浦」の南方の開発に着手する。
⑧その拠点となったのが宮原高校の北側の「権の守」の主人である。
⑨その開発地の痕跡として残るのが「○○垣内」という字名である。

しかし、研究者は次のようにも述べています。
 地名の魅力にとらわれ空想の世界に深入りし過ぎてしまったが、近世の小字から具体的に呉別符の景観を復元する一つの試みと理解していただきたい。荘園文書に現れる地名と照合してはじめて、地籍図の小字名は中世の特定の時期に存在したことを証明することができる。呉にはそのような文書は今のところない。したがって、地名を手がかりに推察した呉別符の景観は、検証する手だてのない、文字どおり想像にすぎない。ただ、呉においても、開発領主と農民による開発が12世紀前期までに行われたことはまちがいない。「呉別符」の名称がそのことを何よりも雄弁に語つている。

 石清水八幡宮は、瀬戸内海に港湾機能を持つ荘園を確保していました。
石清水八幡の荘園一覧

これが九州の笛崎八幡・宇佐八幡から石清水八幡宮までを結ぶ独自の海上交通体系と結びついています。呉別符は、石清水八幡宮の独自の海上交通体系の中で不可欠の中継港であったようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「下向井龍彦  石清水八幡宮寺領呉別符の成立と海民」

石清水八幡の荘園一覧
岩清水八幡宮寺領一覧表 安芸に呉保が見える

鎌倉時代になって、賀茂神社や石清水神社が瀬戸内海に多くの荘園をを設置して行くことを見てきました。それは神に供える神饌貢納地という以外に、神人たちを廻船人や問屋、金融業者に組織し、瀬戸内海の交易ルートの拠点とする戦略があったことが見えて来ます。それでは、各地の海民たちは、どのようにして神人に組織されていったのでしょうか。それを安芸国呉別符で見ていくことにします。テキストは「下向井龍彦  石清水八幡宮寺領呉別符の成立と海民」です。
呉保 岩清水八幡荘園2
安芸国の安芸郡安摩郷
 安摩荘は、和名抄郷の「安芸郡安満郷」をその前身とします。
 安芸国が貢納すべき調品目に塩、作物に「比志古鰯」があり、佐伯郡海部郷・安芸郡安満郷に住む海民集団は、調塩・海産加工品を貢納していたことが分かります。また、遣唐使船・遣新羅使船や官船・官米運京船の水手役も割り当てられたようです。
 安満郷は広島市安芸区矢野町から呉市におよぶ海岸から、対岸の江田島町・音戸町を含む広い地域とされます。安満郷はこのように、広島湾・呉湾・安芸灘の海面、沿海・島嶼部の浦・浜・江などを舞台に製塩・漁業を生業としていた海民集団が編戸によって郷として編成されます。
 安満郷の海民たちの活動を、研究者は次のように考えています。
①海民集団は各浦・島に住み着いて、原生林を製塩用燃料のために伐採した跡にできた荒野を焼畑に変え、しだいに分散・定住するようにる。
②海民集団は技術者集団でもあったので、製塩・漁業・海運など、さまざまな活動を展開するようになる。
③その中から成長してきた開発領主たちが、各浦・島の刀祢となり、公文預などに補任されていく。
④国衙領安満郷が立荘化されると各浦・島では、中央権門寺社の要求する塩・海産加工品=供御を貢納する荘園になっていく。
そして平安末期から旧安摩郷は、次のように荘園化していきます。
A江田島・波多見島・呉浦・矢野浦→「皇室領安摩荘」
B蒲刈島→「興福寺領日高荘」
C倉橋島→「摂関家勧学院領倉橋荘」
D呉浦の一部 → 石清水八幡宮領「呉別府(呉保)」
  Dの呉別符は、その名称から国衙領時代の呉浦の中にあったことがうかがえます。「別符」とは、開発領主が荒野開発を条件に、一定領域の領有を国衙に申請し、国衛の裁許を得て成立する特殊な徴税領域の一つです。「別符」はもともとは、開発の成功報酬として雑公事免除の特典を与えられ、所当官物を国衛に進納する国衙領のひとつでした。呉別符も、そのような存在だったはずです。それが国衙領呉浦の一部を割いて設定されたと研究者は考えています。その時期は、天永年間、呉浦をも含め、鳥羽法皇の動定によって安摩荘が建立される以前の11世紀末頃のことと研究者は考えています。
呉浦における別符申請=荒野開発を行ったのは、どんな人物だったのでしょうか?
それは呉浦の公文預クラスの開発領主で、「呉」を名字とする一族であったことが史料から分かるようです。鎌倉時代の嘉禎四年(1238)9月26日の「能美荘宛て藤原(吉田)資経家政所下文」に、次のように記されています。
江田島とつながる能美荘公文職の中村吉平が天福元年(1233)2月に亡くなります。そこで領家は「実賢」の妻になっていた吉平女を公文に補任します。この補任をめぐって争論となるのですが、ここに登場する公文職を帯する女性の夫「実賢」は、「能美氏略系」(『譜録』(能美太郎右衛門宣久)所収)に出てくる「左近左衛門尉実賢」だと研究者は指摘します。
 ここからは呉保の保司か公文だった呉実賢は、妻を通して能美荘公文職を、押領するための画策をめぐらしていたことが分かります。そして、「この呉実賢こそが呉別符を開発し、石清水八幡宮に寄進した開発領主の後裔」と研究者は判断します。つまり「呉浦」というのは開発領主の「呉」氏に由来するというのです。
ここでは、呉浦の原野に開発の鍬を打ち込んだ開発領主が呉氏であったことを押さえておきます。
 しかし、呉浦の開発を呉氏が、独自に企画し、自らの資本で周辺住民や浪人を募り、自力で推進したとは研究者は考えません。その背後には、それを支援する石清水八幡宮神人がいたと推察します。呉氏による別符設立は、石清水八幡宮神人の上分米(年貢=神物)出挙活動(開発資金融資)と密接な関係があったというのです。

江戸初期 『 石清水八幡宮 公文所(御網引神人) 』

江戸初期 『 石清水八幡宮 公文所(御網引神人) 』(複製)


1072(延久4)年9月5日の太政官牒によれば、延久荘園整理令の時点で、石清水八幡宮寺領は畿内近国6ケ国34ケ所にありました。ところが約90年後の保元三年には、104ケ所に急増して
います。もともと、石清水八幡官は伊勢神宮につぐ皇室第二の祖廟として崇敬をあつめてきました。それが白河・鳥羽院政期に急激に勢力を拡張していったことが分かります。白河・鳥羽両院はともに、頻繁に石清水八幡宮に行幸・奉幣・供養を行っています。また11世紀末からは、恩赦にあたって伊勢・八幡両社の訴えに触れた者は赦から除く、という赦文を出すようになります。特別な思い入れがあったことがうかがえます。
 大幅に荘園が増えた時期の石清水八幡宮寺の統括者は別当光清です。
彼は1103(康和5)年に別当に就任し、1125(天治二)年に退いた後も、長期にわたって実権を握っていた人物です。彼の女子美濃局は鳥羽法皇に寵愛され、光清は美濃局を通じて鳥羽法皇の支援を得ていたようです。石清水八幡宮の歴史において、別当光清という男は特筆すべき人物だと研究者は指摘します。鳥羽法皇と関係を深めた別当光清の社領拡張政策によって、石清水八幡宮寺領は12世紀前半に爆発的に増加します。
八幡神人の活動が活発化するのも、この時期と重なります。
神人は、「じにん」か「じんにん」と読み、辞書を引くと「神社の下級神職や寄人をさす」と書かれています。ここでいう神社の下級神職というのは、神社に常住することなく、仏事神事に奉仕する役職をさしています。 
 神人の所役は多岐にわたっています。古文書には、その所役として、次のようなものが記されています。

大山崎神人・公文・巡検使・大夫職・惣大工職・勾当・五師・例時衆達所・少綱・御綱・駕輿丁・小目代・神宝所・御馬副・宮寺・獅子・御鉾・童子・相撲・鏡澄・火長・火燈・御前払・袖幡・軾・神楽座・仕丁・香花・餝松・壁工・畳差・織手・漆工・紺掻・染殿・絵所・桧物師・塗師・黄染・・・

これは勝手に誰もが神人になれるというものではなく、八幡宮が補任するものでした。これが各荘園に勧進分社された神社でも神人が補任されます。それは代々世襲され今日に至っているようです。
 神人には、神饌供御・神役勤仕のための交通特権、拷訊免除の特権がありました。この特権を活用して、八幡神人は別当光清の指揮のもとで、瀬戸内海沿海地域で荘園拡大政策を展開していったことを押さえておきます。
 この時期から神人たちは、上分米(神物)を預かって諸国を往復して高利貸し活動を行うようになります。
上分(じょうぶん)とは、利益の一部を神仏に貢進した物で、転じて年貢所当一般を指します。地方の開発領主たちは、神人からのお金を借りて、「新規事業」を展開するようになります。そして石清水八幡宮の祭神を産土神に勧請し、分社を建立し、みずからも在地神人化していきます。次第に開発地の上分米を「神物」とみなして、国衙による課税を拒むようになります。 
 呉別符の成立と、別当光清の八幡神人による「上分米出挙活動=寺領拡大政策」は深い関係があると研究者は考えています。
そこには、次のような展開が予測できます。
①国衙領安満郷呉浦の公文預クラスの開発領主呉氏は、神人の上分米出挙(=高利貸し)の融資を受けて開発を進めた
②その中で、自分も石清水八幡宮の在地神人となった。
③そして、産土神として信仰を集めて来た亀山神社に石清水八幡官の祭神を勧請して、別宮とした。
 言い換えると、呉氏は神人の諸特権を得ることで、国衙権力の介入を排除すると同時に、石清水八幡からの金融的支援を受け、呉浦の荒野の開発を進めたことになります。開発領主呉氏による呉別符の開発は、同時に呉氏の八幡神人化と、呉別符の石清水八幡宮寺領化でもあったとしておきます。
 上賀茂神社や岩清水八幡神社の海民の神人化には、このような背景があったようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
          「下向井龍彦  石清水八幡宮寺領呉別符の成立と海民」です

平氏全盛時代を経て、鎌倉期になってからの瀬戸内海航路の支配権については、次の二つが注目されます。
①政治的には、西園寺家と北条氏一門の進出
②宗教的には、西大寺流律宗の進出
今回は①の西園寺家の瀬戸内海航路の掌握をめぐる動きを追っていることにします。
西園寺公経
西園寺公経(きんつね)
まず、伊予にたいする西園寺家の執着がきわめて強烈だった例を見ておきましょう。西園寺公経は、源頼朝の女婿一条能保との縁で、早くから鎌倉幕府に接近していた親幕派のひとりでした。実朝の横死後、その後継者を都から招くことがきまると、九条道家の男子(公経にとっては外孫)を頼朝の血筋をひくという理由で強く推し、第四代の将軍の位につけることに成功します。それが摂家将軍、のちの源頼経になります。この結果、鎌倉将軍の外祖父として京都の政界で重きをなし、その権勢は並ぶ者がないといわれるほどにのし上がっていきます。
西園寺公経が、はじめて伊予国の知行国主となったのは、1203(建仁3)年のことです。
続いて、3年後には周防国の知行国主にもなっています。こうして西園寺公経は、瀬戸内海の西の入口にあたる両国をおさえます。以後、伊予は鎌倉時代を通じて、西園寺家に継承されて、家領同然になっていきます。西園寺家のこの海域にたいする強い関心が、早くから動いていたことがうかがえます。
宇和郡
伊予国宇和郡
 吾妻鏡には1236(嘉禎二)年2月22日、西園寺公経が幕府に強要して、宇和郡を所領としてきた橘(小鹿島)公業の知行をやめさせ、これを自らものとしたことが記されています。このとき、所領を奪われた橘(小鹿島)公業は、次のように抗弁しています。
先祖が藤原純友を討ち取って以来この地に居住し、代々相伝してきた所領を、咎なくして奪われるのは不当である。

これに対して西園寺公経は、この所望が達成されなければ、「老後の眉目を失ふに似たり」として、自ら鎌倉に下向する意志を示し、ついに幕府も、これを受け入れたと記されています。こうして西園寺公経は、宇和郡を一円的所領として確保することになります。前太政大臣の地位にありながら、このような「下職」にどうして、これほどこだわる理由があるのでしょうか?
宇和島に対する公経の執念を、どう考えればいいのでしょうか?
これに対して研究者は、その意図を次のように指摘します。
「純友が日振島を根拠にしたという歴史からみても、海上交通の要地の掌握という点をおいはかんがえられない」

これを補足するのが1230(寛喜二)年に、豊後水道をはさんで宇和島対岸にあたる豊後の阿南郷(荘)を、公経が由原八幡宮に寄進し、自らの所領としていることです。「伊予宇和郡 + 豊後の阿南荘」を手中にすることで豊後水道の制海権を握ることになります。こうして西園寺家は、後の世に宇和郡にその一族を土着させ、足場を固め、ここを基盤に伊予の戦国大名にまでなっていくための足がかりを築いたことになります。
 それだけでなく、西園寺家は宇摩荘を手中にしています。伊予国知行国主として支配下においている国衛領をはじめ、船所などの諸機関の掌握を通じて、瀬戸内海の海上交通に大きな力をおよぼすようになったはずです。
 西園寺家の鎌倉時代の所領は、瀬戸内海沿海諸国に次のように分布していました。
周防国玖珂荘
安芸国沼田荘
備中国生石荘
備前国鳥取荘
播磨国五箇荘
摂津国富松荘
この中でも沼田荘は、公経のときに手に入れた所領で、その内部に、海民の拠点として知られる能地、忠海、渡瀬を含む浦郷を含む海上交通の要地です。西園寺家は家司橘氏を預所として、現地の経営に力を入れています。これらの事実からみて、西園寺家は瀬戸内海の海上交通に強い関わりをもっていたことがうかがえます。
3 家船4
沼田荘周辺
西園寺家の戦略は、北条氏の交通路支配を補完するものだったと研究者は考えています。
その中で研究者が注目するのは、北条氏一門の金沢氏の動向です。
武蔵の六浦・金沢(横浜市)を本拠し、金沢文庫を残したことで有名な金沢氏は、房総半島と海を通じて海運に密接に結びついてきました。それがモンゴル襲来の前後、伊勢・志摩をはじめ周防・長門・豊前の守護となり、さらに鎮西探題となって、肥前・肥後の守護を掌握します。そして東海道から瀬戸内海を通って九州にいたる海上交通のルートに強い影響力をおよぼすようになります。
金沢北条氏と鎌倉時代の繁栄 横浜市金沢区
北条氏と金沢氏の関係
金沢氏一門と西園寺家には、次のような強い結びつきがあったことを研究者は指摘します。
①金沢顕時(あきとき)の子顕実が伊予守に就任。これは知行国主西園寺家の下での国守であること。
②1307(徳治二)年、伊予国久米郡も、金沢の称名寺の寺用にあてられる金沢氏の所領となった。
③顕時のもう一人の子息貞顕が、西園寺実氏の女東二条院公子の蔵人になったこと
④貞顕の子で東寺長者にもなった顕助が、公経の女にとっては外孫にあたる実重の子で洞院実雄の外孫であった内大臣三条公茂の猶子となっていること
こうした金沢氏の西園寺家とのつながりは、決して偶然のことではなく、金沢氏の瀬戸内海交通にたいする支配と西園寺家のそれとが重なっていたことから生まれたものと研究者は考えています。このような結びつきによって瀬戸内海での影響力や支配力を、両者はたがいに相補い、より安定・強固なものにしていきます。

「伊予国をおさえ、院御厩別当として左馬寮を知行することで瀬戸内海交通を支配する」

というのが西園寺家の戦略だったようです。
実はこれには先例があったと研究者は次のように指摘します。
①兄頼朝と対立した源義経は、伊予守に任ぜられ、院御厩別当にもなっていること。
②頼朝と敵対関係にあった源義仲も、左馬頭になり、伊予守に補任され、院御厩別当になっていること。
③その際に義仲は、次のように強く要求し、いったん補任された越後守を嫌って、あえてその6日後に伊予守になっていること
「院ノ御厩別当二成テ、思フサマニ馬取ノランモ所得也トテ、押テ別当二成テケリ」(『源平盛衰記』34)

④ここからは、義仲に伊予守について強い執着がうかがること

 義経、義仲の立場に立って考えると、東国をおさえた頼朝に対抗し、西国にその勢力を固める必要に迫られていたはずです。そういう目で西国を見ると、その最重要戦略ラインは、淀川から瀬戸内海への交通路支配です。その根拠となる伊予守、御厩別当(左馬頭)の兼帯は、二人にとって、どうしても欲しいものだったはずです。
 さらに遡って、平氏の時期を見ておきましょう。
①忠盛以来、重衡、知盛が院御厩別当(左馬頭)になっていること
②重盛が1159(平治元)年に伊予守となり、清盛も伊予の知行国主になっていること。
③源義朝も伊予守、左馬頭になっていること。
④伊予守と御厩別当との兼帯は、1129(大治四)年の藤原基隆、翌年の藤原家保まで遡って確認できること。
  これをどう考えればいいのでしょうか。ここまでくれば両職の兼帯は偶然とはいい難いようです。伊予守、御厩別当(左馬頭)の兼帯は、淀川・瀬戸内海交通の支配、ひいては西国支配実現のための大きな足がかりだと、当時の支配者は認識していたようです。
日振島
日振島(豊後水道の戦略的要地?)

 伊予の宇和郡は近畿からは遠いところにあるように思えます。しかし、日振島を根拠として、瀬戸内海を席捲した藤原純友の軍勢は淀川にたちまち姿をみせています。伊予と淀川は、瀬戸内海という海のハイウエイーでつながっていたのです。
鎌倉時代の国際航路
鎌倉時代の国際航路

 藤原基隆から源義経、さらには西園寺家にいたるまでの、伊予国と院御厩領・左馬寮領支配の背後に、院の存在があったことを研究者は指摘します。   
鳥羽院の御厩別当となった平忠盛は、会賀・福地牧を支配するとともに、後院領肥前国神崎荘の預所として、日宋貿易を行っています。

日宋貿易
日宋貿易

白河上皇以後、後鳥羽上皇にいたるまでの院が、淀川、瀬戸内海、北部九州、さらには中国大陸にいたる河海の交通に、なみなみならぬ関心をもっていたことがうかがえます。平氏もそれを背景にして、独自な西国支配を固めていきました。西園寺家も、ある意味ではこれを踏襲していたことになります。こうした海への関心は、淀川沿いに楠葉牧を確保し、近江に大津御厩をもつ摂関家も、同じだったようです。1185(文治元)年以降、九条兼実が伊予の知行国主になっています。これもそのような流れの中で捉える必要があると研究者は考えています。
中島水産株式会社 おさかなぶっく

以上をまとめておくと
①白河上皇以後、後鳥羽上皇にいたるまでの院は、日宋貿易や瀬戸内海交易に関心をもっていた。
②それを受けて平氏は瀬戸内海の海賊討伐や航路整備を行い、瀬戸内海を「我が海」としようとした。
③その際に必要な部署が淀川水運支配のための「院御厩領・左馬寮領」であり、瀬戸内海支配のシンボルである伊予国であった。
④それは、後の義仲・義経にも受け継がれる。
⑤西園寺家にとって「伊予国」は瀬戸内海航路支配のために是非とも手に入れたいポストであった。
⑥宇和郡は豊後水道の制海権を得るために、是非とも手にしておきたいエリアであった。
⑦そのためにも西園寺公経(きんつね)は、大貴族でありながら横暴を通して宇和郡を手に入れた。
⑥それは瀬戸内海交通路支配のためのは、手にしておきたい場所だったからであり、その向こうに日宋貿易の富があったからである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」

  前回は京都の上賀茂神社の御厨(みくり、みくりや)と、その神人・供祭人の活動について見ました。そこからは上賀茂神社が御厨を拠点湊として、自前の瀬戸内海交易ルートを確保しようとする戦略が見えてきました。

忘れへんうちに Avant d'oublier: 一遍聖絵と時宗の名宝展 一遍聖絵巻9-12
石清水八幡神社(一遍聖絵)
今回は、上賀茂神社のライバルであった石清水八幡宮を見ていくことにします。
石清水八幡宮は、豊前の宇佐八幡宮(宇佐市)が9世紀半ばに勧請された神社です。そのため、瀬戸内海を通じて宇佐八幡のある北部九州と深く結びついていました。宇佐八幡と石清水八幡の影響力は、瀬戸内海諸国から山陰、九州にまで分布する荘園と別宮によってたどることができます。それでは、八幡宮神人が拠点とした浦(荘園)を見ていくことにします。

まず山陽道沿いの荘園・別宮の分布を一覧表で確認します
石清水八幡の荘園一覧

淡路国には鳥飼別宮(鳥養荘)、矩口荘、枚石荘がありました。
①鳥飼荘には「船所」があって、瀬戸内海の西からの船が目指す海上交通の中心的な位置にあります。石清水八幡宮が創建された貞観元年(859年)の数年後には、淡州鳥飼別宮として鳥飼八幡宮は建立されたと社殿は伝えます。
夢海游 淡路島 Blog | 淡路島の地名29

②播磨国の継荘、松原荘、船曳荘、赤穂荘、魚次(うおすき)別宮のうち、赤穂は製塩地としても有名で、ここも海民的な神人の根拠地だったようです。
③備前国には牛窓別宮、雄島別宮、片岡別宮、肥土荘(小豆島)などの別宮・荘園が分布しています。
牛窓は、兵庫北関には年間121艘が入関していて、室町期には廻船の最重要拠点でした。 小豆島の肥土荘は、延喜四年(904)、大菩薩の託宣によって「八幡宮御白塩地」として寄進された荘と伝えられ、大製塩地だったことは以前にお話ししました。
舞台】山と田に囲まれた神社 - 小豆島、肥土山離宮八幡神社の写真 - トリップアドバイザー
肥土山八幡神社と農村歌舞伎小屋
  小豆島での製塩は、平城宮木簡に「調三斗」の記事があるので、早い時期から塩を上納していたことが分かります。「御白塩」は肥土荘で、塩が作られ、畿内に送られていたことを教えてくれます。肥土八幡宮は、石清水八幡宮の別宮で平安末期に肥土荘が置かれた時に、勧請されています。肥土八幡宮の縁起によれば、「依以肥上庄可為八幡宮御白塩地之由」とあり、「白塩地」として位置づけらています。石清水八幡宮の神事用のために「御白塩」の貢納が義務づけられています。石清水八幡宮に必要な塩が、肥土で作られていたことが分かります。肥土荘の別宮の神人たちは、地頭や百姓による神人の殺害、刃傷などに抗議して、しばしば「蜂起」し、神宝を動かすなど神威に訴えていたことが『小豆島八幡宮縁起』には記されています。その肥土山の神人が廻船人であった直接の史料はありません。しかし、次のような状況証拠から廻船活動を行っていたことが推測できます。
①肥土荘の下司・公文であった紀氏一族が海民の流れをくんでいること
②1455(文安二)年の兵庫北関へ、塩を積んだ小豆島からの入船が23艘もあること。
ここからは「製塩 + 廻船」活動が小豆島の神人達によって活発に展開されていたことがうかがえます。さらに、片岡別宮も、江戸時代には、漁携・製塩が盛んであり、肥土荘と同じようなことを考えられます。
④備中国には水内北荘、吉河保、⑤備後国には御調別宮、椙原別宮、藁江荘などがありました。
備後の椙原別宮は、尾道の対岸の向島の西八幡社とされます。位置的にも、その神人が海上交通と関係していたことは十分に考えられます。

松永湾の荘園
松永湾の東岸の藁江荘(紫の枠が荘園エリア)

松永湾の東岸の藁江荘も塩浜が多く、大量の塩を社家に貢納していたことが知られます。 松永湾の東岸は、柳津や藤江の港があり、備後の表玄関に当たる場所でした。「兵庫北関入船納帳」には藁江船籍の船が何隻か見られ、当時この地が鞆・尾道と並ぶ瀬戸内の要港として栄えていたことが分かります。藁江庄の範囲は上図の通りで、北は柳津町、南は尾道市の浦崎町一帯にまで及んでいて、柳津町の西瑞には庄園の境界を意味する遍坊地(傍示(ぼうじ))という地名が残っています。庄内のほぼ中央に建つ金江の八幡神社は藁江庄の鎮守八幡と推定されます。庄園を見下ろす小高い丘の上に立てられ、かつてこの神社が京都の石清水八幡社の末社として荘園支配の一翼を担っていたことをよく示しています
⑥安芸には呉別符(呉保)、三入(みいり)保、松崎別宮がありました。
呉保 岩清水八幡荘園
呉保は現在の呉海上自衛隊周辺
その内の呉保は、現在の呉市の海上自衛隊の基地が並ぶ宮原周辺になり、岩清水八幡の分社が亀山神社とされます。呉保の形成については、次回に詳しく見たいと思いますので、今回は素通りします。
⑦周防国には石田保、遠石別宮、末武保、得善保、室積荘がありました。
遠石八幡宮・見どころまとめ・御由緒や交通アクセス、駐車場を解説 | 山口いいとこ発見!
           遠石(といし)八幡宮
周防の末武・得善両保に関係する遠石八幡宮(といし)は、周南市遠石にあり笠戸泊も含んでいました。 徳山は海上交通の要地でもあり、江戸時代の徳山藩の歴代藩主は、ここを氏神としています。
室積荘は山口県光市の陸繋島の室積半島がつくる良湾に沿って発達した港町。平安末期の『本朝無題詩』に「室積泊」として登場し、石清水八幡宮の室積庄となります。近世の室積浦は毛利藩室積会所が置かれ、防長米の積出し港として栄えました。

⑧長門国には位佐別宮、大美爾荘、埴生荘等がありました。
埴生荘は、山陽小野田市西部の海岸平野(埴生低地)に位置し、周辺を石山山地、津布田丘陵などの丘陵地に囲まれている良港でした。今川了俊の「道ゆきぶり」、宗祗の「筑紫道記」にも姿をみせます。
 
 瀬戸内海の山陽沿岸の岩清水八幡神社の荘園分布を見て気がつくことは、蟹眼沿いに等間隔的にまんべんなく下関まで続いていることです。海の神饌や塩の奉納だけを目的とするなら、近畿周辺で事足りるように思えます。それが等間隔に並ぶのは、沿岸沿い荘園を配置し、そこに廻船人を置き、自前の瀬戸内海交易ルートを形成しようとしていたことがうかがえます。。
次に、四国側に置かれた荘園を阿波から西へ見ていくことにします。
岩清水八幡一覧荘園一覧・四国

①阿波国の萱嶋(かやしま)荘、生夷(いくな)荘、櫛淵(くしぶち)別宮(櫛淵荘)、
このうちで兵庫北関に出てくる「阿波の別宮」は、萱嶋荘と研究者は推測します。『板野郡誌』には、岩清水八幡宮領となった萱島荘の別宮浦には、万寿2年(1025)別宮(べっく)八幡宮(現徳島市応神町吉成別宮八幡神社)が勧請されたとあります。

大きいものシリーズ3・徳島市_a0148866_10181883.jpg
別宮(べっく)八幡宮の鳥居
 「離宮八幡宮文書」には、鎌倉時代末期の吉野川に「新関」が設置されて、水運の妨げになっていたことを、岩清水神社に属する大山崎油座神人が訴えた訴状があります。ここからは、京都大山崎の油座神人が原料の荏胡麻を運ぶために、吉野川を水運路として利用して、活発な活動を行っていたこと。それに対して通行税を徴収しようとする勢力がいたことが分かります。萱嶋荘は、吉野川河口に作られた荘園ですから、その流域の物資の集約と、廻船への積み替え拠点の役割を果たしていたことが考えられます。
    
②讃岐国には草木荘(仁尾)、牟礼荘、鴨部荘、山本荘、新宮、
7仁尾3
仁尾浦の南側にあった草木荘
 草木荘は、前回お話しした京都賀茂神社の神人達の拠点となった仁尾浦に隣接します。 1158(保元三)年12月3日の宣旨に石清水八幡の荘園として「山城国祖穀庄・讃岐国草木庄・同牟礼・」とあるので、この時点では石清水八幡の荘園として立荘されていたことが分かります。賀茂神社の御倉と接して、石清水八幡の庄屋があったことになります。
 草木荘の位置は、今ではカメラスポットとして有名になった父母が浜の奥の江尻川河口付近が考えられています。江尻川の下流は、現在でも満潮時なら小舟なら草木八幡宮の近くまで遡れます。かつてはもう少し西側を流れていた形跡があり、西からの風波を防げる河口は船溜まりとして利用されていた可能性があります。しかし、いまでは干潟が広がり港の機能は果たせません。この堆積作用は早くから進んでいたようで、中世には港湾としての機能を果たせなくなったようです。そのため港湾機能を低下させた石清水の神人たちの草木荘は、上賀茂社供祭大(神人)らが作り上げた仁尾浦の中に組み込まれていったと研究者は考えています。
7仁尾
仁尾の南側の江尻川周辺に立荘された草木荘
③伊予国に玉生(たもう)荘、神崎出作、得丸保、石城島、生名島、佐島、味酒(みさけ)郷などが分布しています。
このうち玉生荘、神崎出作、得丸保は、玉生八幡社の鎮座する松前の地にあります。松前浜は江戸時代、千人もの「猟師」が集住する古くからの漁業第一の浦で、領分内ではいずれの浦で網を引いてもよいという漁撈特権を保証されていました。そのため松前浜は、1688(元禄元)年には、家数192軒、人数1230人におよび、漁船82艘、16端帆1艘を保有する港に成長します。松前浜の漁師は、こうした特権を背景に、1558(万治元)年、他領となった小湊村と網代(漁場)の出入りから殺害事件を起こし、元禄一三年から享保三年(1718)には、二神村と網場をめぐって相論を起こすなど、活発な活動を展開します。幕末の、天保九年(1838)には、家数507軒、住民2042人、舟数129艘という大きな港町に成長しています。
 この浜村の女性たち自分たちの先祖を、漂着した公卿の娘滝姫とその侍女を祖とすると言い伝えるようになります。そして頭の上に魚をいれた盥をかついで「松前のおたた」といわれた魚売女として活動するようになります。この他にも松前には、十六端帆の大船が何艘もあって、「からつ船」「五十集」と呼ばれる遠隔地の交易にも従事していました。 このような廻船交易、漁撈特権、その女性の魚売りなど、この地区の港町の活動のルーツは、玉生荘に根拠をおいた、中世以来の海民的な八幡宮神人の特権にあったと研究者は考えています。

石清水八幡宮の荘園や別宮のすべてに、海民的な神人が活動していたわけではないでしょう。しかし、今見てきたように、石清水八幡神の権威を背景とした八幡宮神人の廻船、漁携、製塩等の活動が、加茂・鴨両社供祭人とともに、活発に展開されていたことはうかがえます。
 さらに注目すべきは、八幡宮の荘園・別宮が石見、出雲、伯畜、因幡、但馬、丹後等の山陰道諸国にも、濃密に分布していることです。石清水八幡宮の神人たちは、日本海西部の海上交通に深く関わっていたことがうかがえます。

以上見てきたことに加えて、石清水八幡宮は淀川の交通路も押さえることで瀬戸内海、九州・山陰にいたる海上交通に大きな力を行使していたのです。このルートを逆に通り、宋人を神人としていた宮崎八幡宮をはじめ、中国大陸、朝鮮半島からの影響が、八幡宮を通じて日本列島の内部に流入した研究者は考えています。そして、これらの荘園(浦)は、人とモノとお金と文化を運び伝えていく湊でもあったようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


参考文献  「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」

 仁尾の港町としての発展については、以前に次のようにお話ししました。
  白河上皇が京都賀茂社へ 仁尾沖に浮かぶ大蔦島・小蔦島を、御厨(みくり、みくりや)として寄進します。 御厨とは、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所のことで、転じて領地も意味するようになります。そこに漁撈者や製塩者などが神人として属するようになります。漁撈・操船・製塩ができるのは、海民たちです。
 もともと中央の有力神社は、近くに神田、神郡、神戸といった領地を持っていました。それが平安時代中期以降になると、御厨・御園という名の荘園を地方に持つようになります。さらに鎌倉時代になると、皇室や伊勢神宮、賀茂神社・岩清水八幡社などの有力な神社の御厨は、全国各地に五百箇余ヵ所を数えるほどになります。
  今回は、視点を変えて仁尾を御厨として支配下に置いた山城国賀茂大明神(現上賀茂神社)の瀬戸内海航路をめぐる戦略を見ていくことにします。テキストは「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」です。
まず、賀茂社・鴨社の「御厨」・「供祭所」があったところを見ておきましょう。
賀茂神社が
摂津国長洲御厨
播磨国伊保崎
伊予国宇和郡六帖網
伊予国内海
紀伊国紀伊浜
讃岐国内海(小豆島)
豊前国江嶋
豊後国水津・木津
周防国佐河・牛嶋御厨
賀茂社の場合は、
紀伊国紀伊浜御厨
播磨国室(室津)
塩屋御厨
周防国矢嶋・柱嶋・竃門関等

さらに、1090(寛治4)年7月13日の官符によって、白河上皇が両社に寄進した諸荘を加えてみると次の通りです。
①賀茂社 
摂津国米谷荘、播磨国安志荘・林田荘、備前国山田荘・竹原荘、備後国有福荘、伊予国菊万荘、佐方保、周防国伊保荘、淡路国佐野荘。生穂荘
②鴨社 
長門国厚狭荘、讃岐国葛原荘(多度津)、安芸国竹原荘、備中国富田荘、摂津国小野荘


ここからは、賀茂社・鴨社の「御厨」・「供祭所」が瀬戸内海の「海、浜、洲、嶋、津」に集中していたことが分かります。逆に言うと、瀬戸内海以外にはあまり見られません。これらを拠点に、神人・供祭人の活動が展開されることになります。
 神人(じにん、じんにん)・供祭人については、ウキには次のように記されています。
古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人である。社人(しゃにん)ともいう。神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、やがて、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった。彼らは神人になることで、国司や荘園領主、在地領主の支配に対抗して自立化を志向した。

上賀茂神社・下賀茂神社の御厨に属した神人は供祭人(ぐさいにん)と呼ばれ、近江国や摂津国などの畿内隣国の御厨では漁撈に従事して魚類の貢進を行い、琵琶湖沿岸などにおける独占的な漁業権を有していた。

石清水八幡宮の石清水神人は淀の魚市の専売権水陸運送権などを有し、末社の離宮八幡宮に属する大山崎神人は荏胡麻油の購入独占権を有していた(大山崎油座)。

神人・供祭人には、次のような特権が与えられました。
「櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)の通い路、浜は当社供祭所たるべし」
「西国の櫓・悼の通い地は、みなもって神領たるべし」
意訳変換しておくと
(神人船の)櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)が及ぶ航路や浜は、当社の供祭所で、占有地である」
西国(瀬戸内海)の神人船の櫓・悼の及ぶ地は、みな神領である」
そして「魚付の要所を卜して居住」とあるので、好漁場の近くの浜を占有した神人・供祭人が、地元の海民たちを排除して、各地の浜や津を自由に行き来していたことがうかがえます。同時に、彼らは漁撈だけでなく廻船人としても重要な役割を果たすようになります。御厨・所領の分布をみると、その活動範囲は琵琶湖を通って北陸、また、瀬戸内海から山陰にまでおよんでいると研究者は指摘します。

1250(観応元)年には、鴨社の「御厨」として讃岐「津多島(蔦島)供祭所」が登場します。
 最初に分社が置かれたのは、大蔦島の元宮(沖津の宮)です。こうして、海民たちが神人(じにん)として賀茂神社の社役に奉仕するようになります。それと引き替えに、神人は特別の権威や「特権」与えられ、瀬戸内海の交易や通商、航海等に活躍することになります。力を貯めた神人たちは14世紀には、対岸の仁尾浦に拠点を移し、燧灘における海上交易活動の拠点であるだけでなく、讃岐・伊予・備中を結ぶ軍事上の要衝地として発展していくことになります。
ここで注意しておきたいのは、「御厨では漁撈に従事して魚類の貢進を行い、周辺沿岸における独占的な漁業権を有していた。」という記述です。ここからは、御厨の神人・供祭人となったのは「海民」たちであったことがうかがえます。船が操船でき、漁撈が行えないと、これは務まりません。
また「魚類の貢進」の部分だけに注目すると、全体が見えてこなくなります。確かに、御厨は名目的には「魚類の貢進」のために置かれました。しかし、前回見たように「漁撈 + 廻船」として機能しています。どちらかというと「廻船」の方が、重要になっていきます。つまり、瀬戸内海各地に設置された御厨は、もともと交易湊の機能役割を狙って設置されたとも考えられます。それが上賀茂神社の瀬戸内海交易戦略だったのではないかと思えてきます。
①上賀茂神社は、山城の秦氏の氏神であること
②古代の秦氏王国と云われるのが豊前で、その中心が宇佐神宮であること
③瀬戸内海には古代より秦氏系の海民たちが製塩や海上交易・漁撈に従事していたこと
以上のようなことの上に、上賀茂神社の秦氏は、瀬戸内海各地に御厨を配置することで、独自の交易ネットワークを形成しようとしたとも考えられます。各地からの御厨から船で上賀茂神社へ神前に貢納物がおさめられる。これは見方を変えれば、船には貢納物以外に交易品も乗せられます。貢納物献上ルートは、交易ルートにもなります。それは「朝鮮・中国 → 九州 → 瀬戸内海 → 淀川河口 → 京都」というルートを押さえて、大陸交易品を手に入れる独自ルートを確保するという戦略です。この利益が大きかったことは、平清盛の日宋貿易からもうかがえます。そのために、清盛は海賊退治を行い、瀬戸内海に自前の湊を築き、航路を確保したのです。これに見習って、上賀茂神社は「御厨ネットワーク」で、独自の瀬戸内海交易ルートを形成しようとしたと私は考えています。ここでは「御厨は漁撈=京都鴨社への神前奉納」という面以外に、「御厨=瀬戸内海交易拠点」として機能していたことを押さえておきます。
7仁尾
中世の仁尾浦復元図
 仁尾浦は、室町時代になると守護細川氏による「兵船」の動員にも応じて、「御料所」としての特権を保証されるようになります。
そのような中で事件が起こるのは1441(嘉吉元)年です。仁尾浦神人は、嘉吉の乱(嘉吉元年、播磨守護赤松満祐が将軍足利義教を拭した事件)の際に、天霧山の守護代香川氏から船2艘の動員命令に応じて、船を出そうとします。ところが浦代官の香西氏が、これを実力阻止します。そして船頭を召し取られたうえに、改めて50人あまりの水夫と、船二艘の動員を命じられます。そのために、かれこれ150貫文の出費を強いられます。さらに、香西氏は徳役(富裕な人に課せられる賦課)として、50貫文も新たに課税しようとします。

仁尾 中世復元図2
仁尾浦中世復元図

 これに対して「代官香西氏の折檻(更迭)」のため神人たちがとった行動が、一斉逃散でした。
そのため「五、六百間(軒)」ばかりもあった「地下家数」が20軒にまで激減したとあります。ここからは次のようなことが分かります。
①仁尾浦の供祭人は、守護細川氏の兵船動員に応ずるなどの海上活動に従事していたこと
②「供祭人=神人}の海上活動によって、仁尾浦は家数「五、六百軒」の港町に成長していたこと
③仁尾は行政的に「浜分」と「陸分」に分かれ、海有縄のような「海」を氏名とする人や、「綿座衆」などの住む小都市になっていたこと。
④守護細川氏の下で仁尾湊の代官となった香西氏の圧政に対して、団結して抵抗して「自治権」を守ろうとしていること
   最初に見たウキの神人に関する説明を要約すると、次のようになります。
①神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、僧兵と並ぶ武装集団でもあったこと
②神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されてこと。
③神人になることで、国司や荘園領主、在地領主の支配に対抗して自立化を志向した。
これは、仁尾浦の神人がたどった道と重なるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」
関連記事

新見荘エリア
新見荘のエリア
新見荘は岡山県の高梁川の上流にあった荘園で、現在の新見市と神郷町に広がっていました。初めは皇室領、鎌倉時代末から東寺領となります。そのため百合文書の中に、伊予の弓削荘や播磨の黒田荘とともに多くの関係史料が伝わっているようです。特に、鎌倉時代中期と末期に、全荘にわたって検注が行われています。その時の詳しい土地台帳類が何冊も残っていて、村や耕地の状況を知る手がかりとなるようです。

新見の荘と呼ばれた荘園が、どのようにして、近世の「村」へと変化していくのでしょか。それをイラストで見ていきたいと思います。テキストは「朝日百科 日本の歴史 中世」です。

テキストでは、平安時代後期(院政期)→鎌倉時代→室町時代→江戸時代前期(元禄以前)の村の様子を、冬、春、夏、秋の季節順に描いています。一見すると左右同じような絵に見えますが、右側が平安時代後期、左側が中世になります。
新見荘1

このイラストは、ひとつの谷の模式図です。 一つの谷ごとに一つの名があり、交通路の通るサコの出口近くに屋敷があって、その中に名主の家が建ち、周囲に里畠が開かれています。谷沿いの川沿いの低湿地に水田が拓かれていて、これらを含めて屋敷のまわり一帯を垣内と呼びます。垣内の外、谷の対岸のサコには、作人が家を建て名主の水田を耕作しています。
新見荘中世1
平安末期
 山には至る所から煙がもうもうと立ち上っています。
焼き畑が行われていたようです。 焼畑耕作は山焼き、種まき、害虫駆除、収穫などあらゆる作業が、各谷・サコごとに共同で行われます。全員参加でないとできないので、名の人々を結びつける共同活動でもありました。種まき前の山焼きは、どこの谷でも同じころ行われたので、この時期の山々は白煙をあげる大火災のような光景だったのでしょう。焼畑のあとは、地面がむき出しになります。焼き畑の面積が広がれば広がるほど、わずかな雨でも土砂崩れが起きます。こうして、土地台帳類には、「崩」「流」などの耕作不能地になった注記が記されるようになります。これは土砂崩れの跡を示すもののようです。そのため交通路は、焼畑より高い所を通すようになります。山崩れを避けるために家・屋敷は、岩山の下などに建てられ、崩壊を避けるために屋敷周りには竹が植えられ、家は竹藪に囲まれるようになります。
新見荘中世2

平安末期(谷の下の方)

 一つの谷の名主は、用水源である谷や井の権利を持ち、屋敷・田畠を含む垣内を支配していました。作人は名主に従属し、作人小屋に住み、山畠耕作など共同作業を通して共同体員として働いていまします。
 しかし、中世になると作人の中にも、土を切り盛りし、ならす技術などを自らのものにして、サコの出口の新田を開発するようになります。その努力の結果、鎌倉時代中期になると名主の下から独立しようとする動きを示し始めるようになります。
谷には、それぞれ名主の名が見えます。谷の出口から大川(高梁川)までの緩傾斜地の「中須」には荘官など領主の名が見えます。名主の屋敷はやや小高い場所にあり、周囲や山腹には広大な焼畑が広がります。谷ぞいの湿地には、井(湧水・サコ)から水を引いたりして本田が開かれています。
 谷の住人は名主と作人です。名主が用水の権利を持ち、荘園主から請け負った垣内(屋敷と田畠)を支配し、迫(サコ)の小屋などに住む作人は、名主に従属する立場です。谷を取り巻く山腹には、広大な焼畑が展開されていまします。焼き畑農耕を行いながら、次第に谷田の開発を行っていったのでしょう。
 高梁川の流れに近い「中須」には荘官と、それに従属する百姓たちが住んでいまします。
これら百姓たちの実体は、谷の名主に近く、彼らはその下に作人たちを従えています。作人たちは小屋住まいです。
 注目しておきたいのは、川の中の中島は、この時代には手が入っていないことです。また、耕地と荒地の比率は、半分ずつくらいで、川の近くの低湿地はほとんど開発されない葦原状態だったことが分かります。

新見荘2
右が室町時代 左が江戸時代

 中世には時代が下るにつれて、焼畑も行われなくなります。
山畠耕作が衰退したのです。その背景には、谷の迫田(さこた:谷沿いの湿地田)や高梁川の低湿地の開発があったと研究者は考えています。水田開発に伴い、山畠耕作の比重が低くなり焼畑が行われなくなったと云うのです。これは名ごとの共同作業の減少につながります。そして名の共同体解体や、作人の独立の動きを促進します。それまでの長い間の山畠耕作による山地の崩壊は、当然下流の河川沿いに土砂の堆積をもたらし、低湿地を拡大させていまします。

新見荘室町1
室町時代
 高梁川の河原に広がる低湿地を開拓するには、用・排水路を整備する必要がありまします。
この技術がなかったために、開発は遅れていまいします。
そんな中で承久3(1221)年、承久の乱で勝利を収めた鎌倉幕府は新見荘に地頭を派遣します。西遷御家人として下司に代わってやってきた東国出身の地頭は、湿地帯の広がる東国地方で開発を進めてきた経験と技術を持っていました。彼らの持っていた低湿地の用水、排水のための水路を開設する土木技術が役だったようです。この新技術で、今までは手のつけられなかった広い河原が水田開拓の対象になります。こうして河原や葦原であった低湿地が急速に水田に姿を変えていきます。

  新見荘政所跡
 
 関東からやってきた地頭は低湿地の中でも微高地を選び、開発の拠点となるところに政所④を置きます。
新見荘地頭方政所
新見荘 地頭方政所跡
 近くの川の中島には市②が立ち、地頭屋敷の近くには鍛冶屋が住みつくようになります。「中須」の下方から河原、中島など低湿地帯の水田開発は、室町時代・戦国時代とさらに拡大して行きます。この地域の中心は、川沿いに開けていきます。
 地頭方は毎月「2」の付く日(2日、12日、22日)に地図の2の上市井村(かみいちいむら)で、市庭を開くようになります。
「4」の付く日や「8」の付く日ではなく、「2」の付く日に市庭を開いたのには、次のような目論見がありました。地頭方は利益を生み出すために、まず川上の二日市庭で物資を集め、翌日に川下の①の三日市庭(現在の新見市街)で、売りに出したのです。三日市庭は二日市庭よりも規模が大きく、領家方や新見荘以外の人物とも取引をできる機会があったので、より多くの収益が見込めまします。二日市庭で集めた物資は舟に積み込まれ、その日のうちに高梁川を南に下り、翌日に三日市庭で売りに出されるという寸法です。
   ②の二日市庭は地図で見ると、地頭方の支配の拠点である③「地頭方の政所」の目と鼻の先にあります。地頭方は支配の拠点と経済・流通の中心地を、同じ場所に設けていたことが分かります。
新見荘領家政所

一方、領家方の東寺の③「領家方の政所」付近で市庭が開かれることはなかったようです。
江戸時代 

新見荘江戸時代
新見荘 江戸時代
江戸時代の大きな変化は、「中須」から河原一帯に散在していた屋敷が、すべて山ぞいの小高い場所に集中したことです。山裾への民家の集住化が起きたのです。これが近世の村の登場になります。定期的に襲ってくる洪水などへの対応策だったのかも知れません。結果としては、水田と住居が分離します。それは「生産現場と生活の場の空間的な分離」と云えるのかも知れません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 朝日百科 日本の歴史 中世

  
富貴寺のある蕗(ふき)の谷は、田染庄の最も北寄りのエリアになります。東から西に流れる桂川の支流の蕗川が造った谷に開かれた所で、中世には名田である糸永(いとなが)名が開かれ、その真ん中に富貴寺は建立されたようです。それは田染荘が成立して、まもない平安時代後期のことになります。
 富貴寺は、中世文書には「蕗寺」記されることが多いようです。
地名は「蕗」なので、「富貴」は好い字を後世にあてたのでしょう。中心となる堂の本尊に因んで蕗村の「阿弥陀寺」や「阿弥陀堂」とも呼ばれていたようです。このお寺を建立したのは、誰なのでしょうか。それを追ってみたいと思います。テキストは参考文献「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」
です。
研究者は富貴寺の大堂と本尊阿弥陀仏についてを次のように記します。
丘陵に南向きに建てられた大堂は、平安時代末の12世紀半ば以降のもので、一間四面堂形式の平安時代の阿弥陀堂として国宝に指定されている。一間四面堂の形式は、北の平泉の中尊寺金色堂やいわき市の白水阿弥陀堂などと同じスタイルで、平安末期に地方で作られた浄土教美術の優作である。金色堂が奥州藤原氏三代の墓堂であったこと、また富貴寺大堂の床下にも大石と穴が遺っているので、この大堂も墓堂ではないかとの説もがある。

 富貴寺大堂床下からは径 1.6m ほどのやや扁平な自然石の巨石が確認されているようです。五重塔の礎石のように、巨石下における何らかの埋納遺構があると推測できます。富貴寺大堂が墓堂であった可能性もあるようです。

富貴寺大堂は、もともとが 「阿弥陀寺(堂)」 と呼ばれていました。
これはその他の六郷山寺院とは、様相がちがいます。他の寺院が密教色の強いお寺であるのに対して、阿弥陀信仰中心の浄土教的色彩の濃い寺院ということです。大堂には本尊 ・ 阿弥陀如来像を安置する須弥壇(内陣)を中心に、その周りを外陣が取り囲む構造で、まさに阿弥陀堂と呼ばれる寺院建築の典型です。
 また、須弥壇仏後壁や四天柱、外陣小壁などに描かれた堂内壁画も、浄土教的主題が描かれています。大堂全体がまさに浄土信仰の実践の場、阿弥陀如来を観想するための施設として造られています。

 この寺がライトアップされるというので、前回に紹介した天念寺周辺をうろうろと歩いたあと、早めに富貴寺境内に隣接する宿に入りました。そして、温泉に入り、うとうととしながら日が暮れるのを待ちました。目が覚めるとすっかり夜の気配。慌てて、浴衣とサンダル履きで本堂に向かいます。多くの人が訪れてざわめいていることを予想したのですが・・・・誰もいないのです。
富貴寺2
富貴寺大堂

銀杏の紅葉の下にひっそりと佇む大堂を独り占めするという贅沢な時間を、阿弥陀さまからプレゼントされました。ここが私の極楽浄土と呟いてしまいました。縁台に座りながら、すり寄ってきた猫を膝に乗せて観想。至福の時を送らせていただいたことに感謝。

富貴寺阿弥陀如来

 本尊の阿弥陀如来については、次のように記されています。

定朝様式にのっとって、おだやかで整った寄木造の作品である。本尊の背面の壁や内陣の四隅の柱、そして内陣・外陣の小壁にいたるまでびっしり壁画が描かれている。本尊背後には阿弥陀浄土、外陣の小壁には東に薬師浄土、西に阿弥陀浄土、北に弥勒浄土、南に釈迦浄土が描かれている。絵師の腕前も正統的で、見事だ。

 残念ながら夜のため暗くて「びっしり書かれた壁画」は見えてきませんでした。この時には、本堂内部まではライトアップはされていません。また、剥落した部分も多いようです。

富貴寺本堂内部の復元
富貴寺大堂内部の復元(大分県歴史博物館)

後ほど、大分県歴史博物館に再現されているものをみるとなるほどなと云う感じになりました。確かに、中尊寺のような極楽浄土を指向する雰囲気が濃厚です。墓堂と云われる由縁がうかがえます。

 いったい誰がこれほど立派な寺を建立したのでしょうか。
この寺に残る最古の古文書は、鎌倉中期の貞応二年(1223)に、宇佐八幡宮大宮司・宇佐公仲の出した寄進状です。そこには次のような内容が記されています。
「この寺(=富貴寺)は、公仲の家の累代の祈願所にして、攘災 招福の勤め今に懈けたい怠なし」
田染荘内の末久名の田畠と、糸永名から切り離して大宮司家の用作(直営地)とした一町五反の田地、さらに荒野を(富貴寺に)寄進して長く免税地とする

ここには富貴寺が父祖代々の祈願所として宇佐大宮司の手によって建立されたことが記されています。それに続いて、公仲が田染荘内の末久名の田畑と糸永名の田一町五段を 「蕗浦阿弥陀寺(富貴寺)」 に寄進する内容です。

  その頃の宇佐大宮司家は、京都の藤原氏摂関家と強いつながりありました。
 当時は平安京では来世の極楽往生を願う浄土思想が広がるとともに、末法思想が流行した頃です。その末法の初年が 1052 年(永承 7)にあたり、当時の社会不安はそのためであるとされ、人々は浄土信仰によって来世に救いを求めます。関白 ・ 藤原頼通が宇治に平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立したのは1053 年(天喜元)です。
 宇佐宮でも、その頃から神宮寺である弥勒寺の僧達によって法会が盛んに行われるようになります。1083 年(永保 3)には、弥勒寺領向野郷の一角、津波戸山(杵築市山香町)に経塚が造営されています。もともと、宇佐宮には天台法華思想がすでに受容されていました。その上に連携関係にあった藤原氏が信仰していた浄土信仰を、そのまま受けいれることになります。その延長線上に、宇佐大宮司によって建立されたのが富貴寺大堂ということになるようです。

大堂の創建年代については、研究者は12世紀半~後半を考えているようです。
  この時期の宇佐大宮司といえば、1144 年(天養元)に大宮司の座について以来、半世紀にわたって宇佐宮支配の実権を握り、中央とも深い関係をもった宇佐公通です。彼こそが大堂建立の立役者と、研究者は考えているようです。
 宇佐公通は、本家-領家の関係にあった藤原摂関家にならって学び取った浄土信仰を富貴寺建設に活かそうとしたのでしょう。そのため、出来上がった大堂は、建築の細部や壁画 ・ 仏像などあらゆる造形に、当時の都で流行した技術や好みが反映しているのでしょう。まさに「都直輸入品」の建物なのです。

文書の中には「糸永(いとなが)名」という名がでてきます。
蕗川沿いに西に下っていくと、やがて桂川の本流と落ち合います。この付近までくると谷は広く、一面の水田が広がっています。付近の小字を「糸永」いいます。鎌倉中期の田染荘には90町分の田地があったとされます。その1/3の30町が糸永名でした。糸永名は、蕗川の谷を中心に、田染盆地の西北部から小崎川の流域にまで展開した名であったと研究者は推測します。富貴寺は、糸永名が成立した後に、名の中心部に宇佐人宮司一族のために墓堂として建てられたことになりそうです。そういう意味では、糸永名の中の富貴寺と云えそうです。 
以上をまとめておくと
①田染庄の中心部の開発が一段落した後に、蕗川沿いの開発が宇佐大社によって進められた。
②新たに開発された蕗側流域は「糸永名」と名付けられた
③その糸永名の中心部に、宇佐人宮司一族は阿弥陀信仰に基づく墓堂を建立した。
④それが蕗の阿弥陀堂であった
⑤それがいつしか富貴寺と呼ばれるようになった
富貴寺周辺地図

翌朝早朝に、蕗の谷を少し歩いてみました。

富貴寺 其の田版碑道標

富貴寺の門前を西に下り、さらにすぐ南に下りて蕗川を渡ると、こんな道標に出会いました。行ってみると蕗川のほとりに二基の板碑が並んで立っています。
富貴寺 其の田版碑1
其ノ田(そのた)種子板碑、高さ 195Cm 下幅 42Cm)
 左側には、 金剛界大日の種子「バン」
普賢の種子「アン」
文殊の種子「マン」の3文字
右側には、阿弥陀二尊の種字
富貴寺 其の田版碑3

それぞれの板碑の下方には、次のような銘文があるようです。 
左板碑の下方には
「建武元年(1334)甲戌八月廿四日」「山房尼法阿」「所奉  
 訪聖霊、沙弥道治、沙弥明照」
右板碑には「地蔵堂講衆」

ともに年号は建武元年(1324)ですが、右板碑の方が約3ヶ月造立が早いようです。。
ここからは次のようなことが分かります。
①周辺の人々が地蔵堂に集まり、「講」を結成していたこと
②その中の地蔵堂講衆がまず、右側の阿弥陀板碑を造立
③その3ケ月後に、「山房尼法阿」「道治」「明照」の3人が三尊種子板碑を造立
「山房尼法阿」は時宗の尼僧に、「道治」「明照」という沙弥であったことが分かります。

 この地点から少し下流には「地蔵堂」が今も残っています
富貴寺其の田 地蔵堂1
其之田の地蔵堂
なかには、地蔵菩薩とそれを礼拝する僧と女性を彫り出した磨崖仏がお祀りしています。ここが地蔵堂で「地蔵堂講衆」が講を開いていたことが考えられます。彼らがその信仰の証に、板碑を14世紀に造立した。その講の指導者が、「山房尼法阿」「道治」「明照」で、自分たちに帰依する講のメンバーたちに先に板碑を造立させ、その後に自分たちも並べて造立した、というストーリーも描けます。どちらにしても、中世の村での修験者や廻国業者たちの活動がうかがえる資料です。

この場所は「其の田」と呼ばれていたので、二基の板碑は「其之田板碑」とされています。
「其ノ田」とは「あて字」で、もともとは「園(薗)田」だったと研究者は考えています。屋敷や家の小さな園地(しゃえんじゃり;家庭菜園)を開拓して、田や畠としたのが「園」で、中世にはよくみられる地名です。かつてこの付近には、中世の小さな村があったようです。

其ノ田板碑への入口付近の小字名は「政所」です。
政所とは、もともと大貴族や幕府の家政機関か、あるいは荘園の現地支配機関のことです。ここは、武家方の田染荘政所があった所とされているようです。それが、江戸時代には庄屋の屋敷となりました。山の麓には竹林の中に、今もかなりおおきな空堀や土塁の跡が部分的に残っていて、防衛堅固な要地であることがわかっています。
ここから山を登ると、麓の堀や土塁の裏手の尾根には、二重の堀と土塁が造られています。これは麓の屋敷の背面を防御するものでしょう。以上から、この政所は富貴寺の建立よりさらに後の、室町時代から戦国時代の、まさに戦乱が日常化しつつあった時期に造られたもと研究者は推測します。
 この時代、田染荘の村々の支配権は、宇佐八幡宮から大名の大友氏や、その部下の武士団の手に移って行きます。田染荘には、蕗の政所と、盆地の東南の谷間の相原の政所の二つがありました。それぞれ大友氏の配下の武士が駐留して、荘内の支配に当たっていたようです。富貴寺と政所とが隣接しているところから、この付近が中世を通じて田染荘の政治的、そして宗教的中心の役割を果たしていたことがうかがえます。
以上をまとめておくと
①中世になって、宇佐大社によって新たに開かれた新名が糸永名。
②その地に、宇佐一族の墓堂(富貴寺)が建立され、一族の繁栄と浄土極楽往生を願う場となったこと。
③そして富貴寺へ糸永名の一部が寺領として寄進されたこと。
④その後の戦乱の中で、武士方の政所がここに設置されたこと。
この時期の富貴寺の立場は、困難なものであったことが考えられます。それを乗り切って富貴寺は存続していったことになります。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」

        上棟式の棟札 - マネジャーの休日余暇(ブログ版)
現在の棟札

中世の荘園の歴史を知ろうとするとき、頼りとなるのは京都や奈良の荘園領主の手もとに残された史料になるようです。地元の民家や寺社に中世文書が残されていることは、ほとんどありません。その中で棟札は、荘園の全体的な枠組みの手がかりを伝えてくれる地元の貴重な史料です。
 棟札とは、寺社の造営や修理のときに、その事業の願主、大工、上棟の年月日、造営の趣旨などを書いて、棟木に打ち付けた木札のことです。建物自体が老朽化して解体されたのちも棟札だけが残され保存されていることがあります。

天嶽院 | 山門屋根 茅葺替大修理・3 棟札調査

以前に見た坂出の神谷神社にも、中世に遡る棟札が何枚も保管されていました。式内社や荘園鎮守社であったような神社には、棟札が残されている場合があります。棟札からは何が見えてくるのでしょうか。今回は中世の地方神社の棟札を見ていくことにします。    テキストは「日本の中世」 村の戦争と平和 鎮守の森で  現代につづく中世 121Pです。
    棟札 武内神社2
                                                           
京都府相楽郡精華町の北稲八間荘の武内神社には、20枚もの棟札が保存されているようです。
時代的には、鎌倉時代末期から昭和にまでいたる造営棟札です。
棟札 武内神社
武内神社の棟札
年代的に二番めに古い延文三年(1358)の棟札には「神主源武宗」や大工のほかに、道念、了円など8人の名前が記されています。この8人がこの時代の北稲八間荘の有力者たちだったようです。
応永十年(1403)にも、ほぼ同じ内容のものが作られています。
文明四年(1472)のものになると、「神主源武宗」の下に「老名」として道法以下10名の名前が並びます。北稲八間荘の有力者たちが「老名」(オトナ)と呼ばれていたことが分かります。オトナは「長」「長男」とも表記されますが、十人という数が北稲八間のオトナの定数だったことが分かります。
棟札 武内神社3
武内神社拝殿

 天正三年(1574)のものをみると、オトナのうち一人に「政所」という肩書きが付きます。ここからは十人のオトナのうちの一人が、交替で政所という世話役を務めるようになったことがうかがえます。神主の名乗は、慶長13年(1608)まで「武宗」でした。ここからは「源武宗」が神主家の代々の当主に世襲される名前であったことが分かります。
江戸時代にはいると、神主は紀姓の田中氏に交替しています。
かわって「フシヤゥ」という役名が登場するようになります。「フシヤウ」とは検非違使庁の下級職員の「府生」のことだと研究者は指摘します。中世後期になると京都周辺の荘園の荘官級武士の中には、朝廷の下級職員に編成され、重要な儀式のときにだけ出仕して、行列の一員などの役を演ずる者が現れます。「フシャウ」とは、そういう位置にある者で、具体的には「源武宗」を指すようです。そうだとすると旧神主家が、神主の地位を失ったのちも村の中で一定の地位を保っていたことになります。しかし、それも元文三年(1738)を最後に姿が見えなくなります。
 江戸時代には、北稲八間荘はそのまま北稲八間村となり、瑞竜寺、朝倉氏、寛氏の三つの領主に分割されました。領主ごとに庄屋が置かれ、それぞれ寺島氏、川井氏、田中氏が勤めます。かれらは家筋としては、オトナたちと重なります。こうした家筋の人々は、おそらく壮年期には庄屋を務め、長じてはオトナ、すなわち村の古老として武内神社の祭礼や造営などを指揮したようです。
 また元禄十三年(1700)以後の棟札には「鹿追」と呼ばれる役職がみえるようになり、五人から十人の名前が連記されています。鹿などの獣害駆除を直接の任務とする村の若者たちの代表と研究者は考えているようです。
 以上のように神主、オトナ、庄屋、鹿追、それに繁呂寺の住職の名前を書き連ねるのが、江戸時代の武内神社の棟札の定番だったようです。おもしろいことに嘉永五年(1853)の棟札には、「鹿追 このたび勝手につき手伝い申さず候」と記されています。幕末を迎え、オトナ、庄屋といった村内の古老や壮年層と若者たちの間に、何らかの対立が発生していたようです。

 近代を迎えると、国家、社会体制の中での村の位置づけは大きくかわっていきます。
神社の祭礼、造営についていえば、古式が尊重されているようです。下は明治30年(1897)の棟札です。

棟札 武内神社4
これをみると、神主は社掌、庄屋は区長と名をかえています。しかし記されている内容や形式はおおむね古式に従ったものです。オトナという文字はみえませんが、氏子総代とされる三名の名前が見えます。明治以後になってオトナは「氏子総代」に変わったようです。
 中世には、オトナとか沙汰人と呼ばれる人々は祭礼、祈祷などのほか、年貢の村請、湯起請に象徴される刑事事件の解決など幅広い村政を担っていました。それが江戸時代になると、徴税や一般的な村政にかかわる権限は庄屋に移管され、オトナの権限は宗教的な行事に限られたようです。つまり江戸時代に村の政教分離が行われたことになります。そして、その延長上にあるのが今の氏子総代になるようです。
 棟札は集落によって作られ、村に残されたモニュメントとも云えます。棟札から、中世の村のようすがわかる事例をもう一つ見ておきましょう。
棟札 日吉神社
日吉神社(宮津市)

丹後半島の宮津市岩ヶ鼻の日吉神社の棟札を見てみましょう。
この神社には天文十八年(1549)11月19日の日づけをもつ三枚の棟札があります。
棟札 日吉神社2

右側二枚の棟札からは次のようなことが分かります。
①中世にはこの地が伊爾(祢)荘(官津市・与謝郡伊根町)と呼ばれていたこと
②日吉神社が伊爾荘の一宮(荘園鎮守)であったこと
③伊爾荘は「延永方」と「小嶋方」に分かれていたこと

さらにる文献史料ともつきあわせると、「延永方」は「西方」「東方」に分かれ、
「東方」と「小嶋方」は幕府奉行人の飯尾氏の所領、
「西方」はこの地の国人松田氏の所領
であったことがわかります。棟札の銘からは、飯尾氏の支配部分においても松田氏が代官として伊爾荘を仕切っていたことがうかがえます。

研究者が注目するのは、一番左の棟札です。
多くの名前が列記されています。これを見ると格名前に権守とあります。権守を辞書で調べると「守(かみ)(国司の長官)、または、頭(かみ)(寮の長官)の権官(ごんかん)。」と出てきます。この棟札には、権守の肩書きを持つ偉そうな人たちばかりのように思えます。ところが、これは村人たちの名前だというのです。これが遷宮の時の「御百姓中官途」の顔ぶれだというのです。
 中世後期の村では、村人に村が「官途」(官位)を与えていました。
具体的には「権守」「介」「大夫」「衛門」「兵衛」などです。これらの官途の名称は、朝廷が使っていたものをコピーしたものです。権守、介はそれぞれ国司の長官と次官であり、衛門、兵衛はそれぞれ衛門府、兵衛府のことです。また大夫と大は五位(正五位、従五位)のことになります。しかし、村における官途付与はもちろん朝廷の正式の任免手つづきを経たものではありません。ある年齢に達したときや、鎮守の造営に多額の寄付を行ったときなどに、村の合議によって官途が与えられていたようです。

中国古代帝国の形成と構造 : 二十等爵制の研究(西嶋定生 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 西嶋定生の「二十等爵の研究」を思い出させてくれます。
① 秦朝発展の原因のひとつは開発地に新たに設置した「初県」(新村落)にあった。
②初県では人的秩序形成のために国家が定期的に位階を配布し、人間のランク付けを行った。
③ハレの場である社稷祭礼の際には、その位階ランク順に席につき、官位の高い老人や有力者が当然上位に位置し、会食も行われた。
④この座席順が日常生活でのランク付けに用いられた。
この手法と日本の中世神社で行われていたことは、なんとなく響き合うものを感じます。アジア的長老支配の手法といえるのかもしれません。
京都府宮津市の神前式|天然記念物の花々が咲き乱れる「山王宮日吉神社」とは
日吉神社本殿
話を日吉神社に戻します。
官途の名乗を許されると「官途成」と呼ばれます。
官途成すると、その村の成人構成員として認知を受けたことになります。江戸時代の庶民に「○衛門」「○兵衛」「○介」といった名前が多いのは、中世村落での官途成に由来があるようです。江戸時代になると、こうした名前も親の命名で自由につけられるようになりますが、中世には、村の許可を得てはじめて名乗れる名前でした。村の官途にも上下の秩序があったようです。「衛門」「兵衛」などは、比較的簡単に名乗ることが許可されたもので、下位ランクの官途だったようです。
それに対し最高位は、この棟札に出てくる「権守」です。
彼らも若いころは「衛門」や「兵衛」などの官途を名乗ったのでしょう。それが年齢を重ねるとともに「大夫」へ、さらに「権守」へと「昇進」していったようです。「権守」までくれば村のオトナで、指導者です。そういう目で見ると、伊爾荘の日吉神社も、オトナたちが遷宮事業の中心となっていたのが分かります。
 遷宮完了を記念して、右側2枚は、荘の代官を勤めている国人たちが納めた者です。そして左側のものは、村の指導者(オトナ=権守)たちが、自分たち独自の棟札を神社に納めものです。そこには、鎮守を実質的に維持・管理するのは自分たちだという自負と、この機会にその集団の結束や団結を確認する思いを感じます。棟札には、村を運営した人々の存在証明の主張が込められていると研究者は指摘します。
ヤフオク! -「棟札」の落札相場・落札価格

2つの神社の棟札を見て養った「視力」で、坂出の神谷神社に残る棟札を見てみましょう。

神谷神社本殿2
神谷社殿社殿
この神社の社殿は香川県に2つしかない国宝建築物のひとつです。大正時代に行われた大改修の時に発見された棟木の墨書銘に、次のように記されていました。
正一位神谷大明神御費殿
建保七年歳次己如二月十日丁未月始之
 惣官散位刑部宿祢正長
ここからは、承久元(1219・建保七)年に、本殿が建立されたことが分かります。

神谷神社棟札1460年
   今度は一番古い年紀を持つ上の棟札(写)を見てみましょう。
表が寛正元(1460)年で、「奉再興神谷大明神御社一宇」とあります。「再興」とあるので、それ以前に建立されていたことが分かります。建築にあたった大工と小工の名前が並んで記されます。そして真ん中の一行「奉再興神谷大明神御社一宇」からは当時の神谷神社が神谷大明神と呼ばれていたことが分かります。  その下に来るのが改修総責任者の名前です。「行者神主松本式部三代孫松本惣左衛門正重」とあります。
神谷神社は明治の神仏分離までは「神谷大明神」で、神仏混淆の宗教施設で管理は別当寺の清瀧寺の社僧がおこなっていました。「行者神主」にそのあたりのことが現れていることがうかがえます。
さて私が興味をひかれるのは最後の行です。
「当村政所並惣氏子共栄貴祈所 木(?)政所並惣氏中」とあります。ここに出てくる「政所」とは何なのでしょうか? 
先ほど見た京都の武内神社の天正三年(1574)の棟札にも、オトナのうち一人に「政所」という肩書きがありました。そして十人のオトナのうちの一人が、交替で政所という世話役を務めるようになったことをみました。それと同じ意味合いだとすると、神谷村のオトナ(有力者)たちということになります。しかし、ここでは「当村政所」とだけ記し、具体的な氏名は書かれません。

神谷神社棟札2枚目


その後の16世紀後半から百年毎棟札を並べたのが上図です
この3つの棟札を比べると次のようなことが分かります。
①地域の有力者の手で、定期的に社殿の遷宮(改修)が行われてきたこと
②遷宮の行者神主は代々松元氏が務めていること
③村の檀那等(氏子)の祈祷所として信仰を集めてきたこと
④中世は脇坊の僧侶(山伏)による勧進活動で改修が行われていたのが、江戸時代になると「本願主」や「組頭」の肩書きをもった「オトナ」衆によって改修が行われるようになっている。
そして、オトナ(有力者)の名前が具体的に記されています。
神谷神社にも 中世のオトナ → 江戸時代の庄屋 → 明治以後の顔役 神社総代という流れが見られるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「日本の中世」 村の戦争と平和 鎮守の森で  現代につづく中世 121P


               日根野荘1 

和泉国日根荘(大阪府泉佐野市)は、研究者に取り上げられることの多いフィールドです。ここは公家九条家の所領でした。16世紀初頭、前関白九条政基が後柏原天皇の怒りをこうむり、4年あまりここで蟄居生活をおくります。
日根野荘2
日根野荘 大入地区の絵図(上の写真部分) 

彼が日野荘で体験したことは、初めて見聞きすることばかりで、興味をひかれることが多かったようです。ここに滞在中に村で起きたもめごと、農村の年中行事、紀伊の根来寺と和泉守護細川氏の二つの勢力のはざまで安泰を求めて苦悩する村の指導者たちの姿などを、政基は筆まめに書き残しています。これが『政基公旅引付(まさもとこうたびひきつけ』です。

日野荘3

『政基公旅引付」は『新修泉佐野市史 史料編』に注釈とともに現代語訳も載っているので私にも読むことが出来ます。日野荘の雨乞いや神社について、焦点を絞って見ていくことにしましょう。テキストは   日本の中世12   村の戦争と平和  141P 鎮守の森で」です。

日根野荘 風流踊り
洛中洛画図    風流踊り
日野荘の孟蘭盆行事を見てみましょう。
政基が入山田に下った最初の年、文亀元年の7月11日の宵、槌丸村の百姓たちが政基の滞在している大木村の長福寺にやってきて、堂の前で風流(ふりゅう)念仏を披露します。風流念仏とは、きらびやかな衣装を着け、歌い踊りながら念仏を唱えるものです。派手な飾り付けをした笠をかぶったり笠鉾をともなうこともありました。要するに盆踊りの原型です。
 13日の夜には船淵村の百姓がやってきて風流念仏を披露し、さらにいろいろな芸能も演じて見せます。どうせ田舎者のやぼったいものだろう、とたかをくくっていた政基は、思いがけず水準の高い腕前に、次のようにうなっています。

「しぐさといいせりふといい、都の名人にも恥じないものだ」

まんのう町諏訪神社の念仏踊り
まんのう町諏訪神社の念仏踊り(江戸時代後半)

翌14日には大木村、15日には菖蒲村がやってきて、風流念仏を披露します。注目されるのは、その翌日のことです。月が山の頂にのぼるころ、日野荘内の四ヵ村衆が荘鎮守の滝宮に集まり、そこで全員で風流念仏を踊っています。つまり惣踊りになるのでしょう。さらにそのあと、船淵の村人によって能の式三番と「鵜羽」が演じられてお開きとなります。ここからは次のようなことが分かります。
①戦国初期の日野荘では、盆行事として、四つの集落がそれぞれに風流念仏を演じるような「組織」を持っていたこと
②四つの集落は一堂に会して、披露するような共同性もあったあわせもっていたこと
③そのレベルが非常に高かったこと
女も修行するぞ!日本最古の霊場、大阪・犬鳴山で修験道体験 | 大阪府 | トラベルjp 旅行ガイド
犬鳴山七宝滝寺と七宝の瀧
天変地異の生じたときも、四つの村は揃って鎮守で祈祷を行っています。
 政基が日野荘に下った文亀元年は日照りでした。政基の日記には、梅雨のただ中であるはずの旧暦五月でさえ、雨が降ったのは七日だけで、六月のはじめには「百姓たちは甘雨を願っている」と日照りが続いたことを記します。それは七月に入っても変わりません。そこで、7月20日、滝宮で犬鳴山七宝滝寺の山伏たちか雨乞祈祷をはじます。
犬鳴山七宝瀧寺 | かもいちの行ってきました!
七宝滝寺の行場
七宝滝寺は役行者が修行したとされる修験の行場で、山伏の活動の拠点です。
三日のうちに必ず雨を降らせてみせよう、それでだめなら七宝の滝で、それで,だめなら不動明王のお堂で祈祷しよう、なおだめなら滝壺に鹿の骨か頭を投げ入れ、神を怒らせることによって雨を降らせてみせよう。山伏たちはそんな啖呵ををきったと記します。
犬鳴山 七宝瀧寺/イヌナキサンシチホウリュウジ(大木/寺) by LINE PLACE
      七宝滝寺の祈祷場 後には不動明王

 村の雨乞いの主導権を握っていたのは、山伏だったようです。
山伏の祈祷に四ヵ村の村人たちも参加します。祈祷を始めて三日目の7月23日の昼下がり、にわかに滝宮の上に黒雲が湧き、雷鳴がとどろいました。滝宮の霊験あらたかに雨が降るかと思われましたが、雲は消え、さらに五日間、晴れつづけます。それでも村人が祈蒔をつづけていたところ、28日の夕方近くになって、今度は犬鳴山の上空に黒雲が湧き、入山田中に待望の大雨が降ります。雨は入山田にだけ降り、隣の日根野村や熊取村には一滴も降らなかったと記します。翌日からは数日間雨が続き、なんとか滝宮の神も面目を保つことができました。
平成芭蕉の旅語録〜泉佐野日本遺産シンポジウム 中世荘園「日根荘遺跡」 | 【黒田尚嗣】平成芭蕉の旅物語
火走神社

 雨を降らせてくれた神様へのお礼をすることになります。
8月13日、四ヵ村の村人たちは滝宮(火走神社)に感謝の風流踊りを捧げることになります。船淵と菖蒲は絹の旗、大木と土丸の集落は紺の旗を押し立てて滝宮に参り、いろいろな芸能や相撲を奉納しています。村人たちが扮装して物真似芸や猿楽などを演じたようです。猿楽は政基の滞在している長福寺の庭先でも再演されました。その達者ぶりに政基は、「都の能者に恥じず」と、その達者ぶりに驚いています。ここからは雨乞祈願や祭礼も、荘園鎮守を核として4つの村が共同で行っていたことが分かります。
日野荘 火走神社
火走神社(和泉名所図絵)

 荘園鎮守(荘園に建立された神社)とは、どんな役割を担っていたのでしょうか。 
 荘園鎮守は、荘園が成立したときに荘園領主がみずからの支配を正当化するために勧請したものです。そのため勧進された仏神は、荘園領主を目に見える形で体現する仏神であることが多かったようです。例えば
①摂関家や藤原氏の氏寺興福寺を荘園領主とする荘園であれば、藤原氏神の春日権現、
②比叡山領であれば山王権現(日吉社)
③賀茂社領であれば賀茂社
が鎮守として勧進されるという具合です。
これらの神は外からやって来た外来神になります。いわばよそ者の神様です。この外来神だけを勧請したのでは、荘民たちは、そっぽを向いたでしょうし、反発したかも知れません。これは大東亜帝国の建設を叫ぶ戦前の日本が、占領下のアジア諸国に神道を強制し、神社をソウルや台北に勧進し、それまでの在地信仰を圧迫したのと同じような発想で、巧みな支配とは云えません。
 荘園に勧進された神々は、荘園領守の氏神とともに、その土地在来の神(地主神)があわせて祀られることが多かったようです。例えば比叡山の修行道場である近江国葛川(大津市)では、比叡山が勧請した地主神社の境内に、葛川の地元神である思古淵明神を祀っています。ここからは、地元民が信仰していた神々を荘園領主の支配イデオロギーの中にたくみに組み込んでいったことがうかがえます。

大木火走神社秋祭りの担いダンジリ行事 | 構成文化財の魅力 | 日本遺産 日根荘

日野荘の鎮守滝宮は、大木にある現在の火走(ひばしり)神社です。
滝宮という名前からも、七宝の滝のかたわらにある七宝滝寺と神仏混淆して一体的な関係にあったようです。七宝滝寺は、九条家の氏寺で、九条家の繁栄を祈願する寺です。七宝の滝は日根野をうるおす樫井川の上流にあり日根荘の水源にあたります。九条家は水源に、みずからの保護する寺院を建立すことによって、日根荘の開発者であり支配者としての正当性を目に見える形で示そうとしたようです。「水を制する者が、天下を制する」の言葉が、ここでも生きてきます。そして、その宗教的なシンボルモニュメントとして七宝滝寺であり、火走(ひばしり)神社を建立したということになります。
 水源にあることが人々の篤い信仰の裏付けとなっていきます。このように荘園鎮守と荘園の水源は、セットになっていることが多いようです。

日根神社
 
水源に建つのが火走神社であるとすれば、樫井川から引かれた用水の分岐点に立つのが鎮守大井関明神(日根神社:泉佐野市日根野)です。
日野荘 日野神社 井川
 井川(ゆかわ) 日根神社から慈眼院本坊前の境内を流れる。

 井川と呼ばれ、土丸の取水口から日野神社の境内に引き込まれ、そこからあちこちに分水されていきます。この用水が日根荘の中世開発に重要な役割を果たしたと考えられています。そして、水の取り入れ口であり、分水点に鎮守が建立されているのが日根神社になるようです。
由緒 | 日根神社公式
『和泉国五社第五日根大明神社図』江戸時代後期

このような用水路網と宗教施設の立地関係は、讃岐三野平野の高瀬川の用水路網にも見られます。

東国からやってきた西遷御家人の秋山氏は、高瀬川沿いの用水路整備を進める上で、その分岐点毎にに本門寺の分院を建立していきます。そして、その水回りのエリアの農民を檀家に組織しています。こうして「皆法華衆」という法華神と集団を作り上げて行きます。農業油水の供給を受けるためには、法華宗になることが手っ取り早い環境が作られていたとも云えます。
 また丸亀平野の満濃池用水路の主要な分岐点にも、庵やお堂などの宗教施設がかつてはあったことが分かります。そこでは、「お座」や「講」などの庶民信仰の場となっていたようです。水利権と信仰が織り交ぜられて日常化されていたのです。
田植え 田楽踊り
中世の田植え踊り
鎮守における祭礼は、農事暦と深い関係にあることは民俗学が明らかにしてきたことです。
農事暦で中世農村の年中行事を見てみると、 
①一年の農作業の開始と小正月(正月)
②田植えの開始と水口祭(四月)
③畠作物の収穫と孟蘭盆(七月)
④米の収穫と秋祭り(八月末もしくは九月はじめ)
⑤一年の農作業の終了とホタキ(十一月)
などは密接に関わっていることがうかがえます。
 入山田の滝宮で孟蘭盆に風流念仏が行われていたことは見ました。収穫の済んだ稲藁を積み上げて燃やし、来年の豊穣を祈るホタキも滝宮に七宝滝寺の僧を集めて行われていました。また日根野村の大井関明神では四月の水口祭が行われていました。山城国伏見荘(都市伏見区)でも、荘鎮守の御香官(現御香宮神社)で小正月の風流笠や九月初旬の秋祭りが行われていました。荘園鎮守で繰り返される年中行事は、 一年の農事暦と深くかかわっていました。このような立地状況や年中行事からも荘園鎮守は農業神としての性格を併せ持っていたことが分かります。それが住人の信仰に深く関わる源になります。
もともとは荘園鎮守は荘園領主の支配装置として設けられたものです。
それが時代が移り荘園領主がいなくなっても、荘園鎮守が存続し、祭礼がその後の引き継いで現在に至るものがあります。その背景には、鎮守社の二面性のひとつである農業神としての性格があったと研究者は考えているようです。
    荘園に勧進されて建立された「荘園鎮守」を見るときの参考にさせていただきます。感謝
    
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
    日本の中世12   村の戦争と平和  141P 鎮守の森で
関連記事

小川荘で行われていた祭礼芸能を見る前に、中世期の越前地方の芸能史的背景を考えておく必要があるようです。室町時代の京都の公家や僧侶の日記『看聞日記』や『満済准后日記』には、越前猿楽の名がよく見えると云います。
1田楽と能
中世期の越前には、独自の専業猿楽芸団がいたようです。
小山荘からも遠くはない丹生部越前町の越知神社には、正和三年(1314)二月十九日付の「大谷寺小白山三月三日御供方々下行次第事」という文書があります。その中に「小飯一具を猿楽方へ下行し」たという文言があます。これを「越知山年中行事」などをあわせ読むと、猿楽衆の活発な活動が見えてくると研究者は云います。
白山神社 (平泉寺白山神社) 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー
 小山荘の北、勝山市平泉寺町の白山神社でも、猿楽が古くから演じられていたようです。大永四年(1524)六月の臨時祭には、守護朝倉孝景が猿楽衆に五貫文の祭礼料をあたえています。(平泉寺文書)。京都に芸団が上洛していることや、あちこちに中世期作の能面を残していることなどからしても、専業の猿楽者が越前に常住し、社寺の祭礼などで演じていたことがうかがえます。
猿楽・申楽・散楽とは - コトバンク

越前の猿楽衆については、後藤淑氏によって次のような事が明らかにされています。
①福井県池田町水海に古い形式の猿楽能が残り、それが岐阜県本巣市根尾能郷の猿楽能と関係づけられそうなこと、
②中世の面打の上手に越前者福来がおり、永亨七年一月一十一日条に越前猿楽福来という者の名が出ること、
③世阿弥の『中楽談儀』にも、越前の面打の系譜として石王兵衛・龍有衛門・夜叉・文蔵・小牛・徳若などの名がある
④中世の面が勝山市滝波白山神社、越前市大滝神社、同郡池田町月ヶ瀬大洗磯崎神社、須波阿須疑神社などに残ること
⑤その他にも大谷寺旧蔵などのものが知られること、
⑥前田家所蔵面、梅若家所蔵面の銘により「越前国熊太夫」という者がいたこと、
⑦美濃同長滝白山神社(現岐単県郡上市)で行なわれる延年の能を、越前国大和五郎大夫が教えに行つていたこと(慶安二年(1650)「修正延年之次第」)
 しかし、越前猿楽の実態はについては、もうひとつはっきりしないようです。
1池田町水海の鵜甘神社

そのような中で研究者が注目するのは池田町水海の鵜甘神社の猿楽能で、田楽踊りや古式な猿楽能が伝わります。この神社は、地図で見ると分かるとおり、小山荘の村々とは宝慶寺のある山を隔てて隣に位置します。また小山荘の川原、打立とは同じ谷筋の奥という関係になります。今ではこの谷筋で古い猿楽能を残すのは、水海一ヵ所です。
福井県:池田町地図 - 旅行のとも、ZenTech

しかし、研究者はかつては次のような村々に、猿楽や翁舞が演じられていたと指摘します。
①近くには稲荷村の稲荷大明神正月六日の行事に、翁舞と猿楽能が
②その奥の月ヶ瀬村の小白山薬師堂正月十三日の行事に翁舞が、
③さらに奥の志津原村白山神社では、正月十七日に翁舞が、
④小山荘折立郷の隣村小島村(現小畑)の春日社にも、正月十四日に翁の神事
そして、水海の鵜甘神社正月十五日の行事ということになります(現二月十五日)。これを、どう考えたらいいのでしょうか。

前回に小山荘では、各郷(近世の村)毎に神社があり、領主から保証された祭田が附属し、年中行事や芸能(猿楽・翁舞)が行われてきたことを見てきました。それが、現在の池田町の足羽川沿いにあった旧村々の神社でも行われていたと研究者は考えているようです。それを、順番に並べると、足羽川沿いに稲荷社→薬師堂→白山社→春日社→鵜甘社となります。つまり、小川荘の祭礼・芸能は、そのまま山一つ隔てた地に近世まで伝承されていたことになります。

鵜甘神社の年に一度の神事!水海の田楽能舞とは【国の重要文化財・池田町】 | Dearふくい|福井県のローカルメディア

 今は水海の鵜甘神社に残る祭礼芸能は、翁舞・猿楽能の他にも、「からすとび・祝詞・あまんじやんごこ・あま」と称する芸能が演じられています。これは田楽踊り的要素もありますが、構成的には一種の「延年」であると研究者は指摘します。また、水海鵜甘神社の翁舞や猿楽能は、現在は地元の人々によって演じられています。そして、稲荷・志津原・月ヶ瀬には、芸能はなくなっています。しかし、翁三面をはじめ能面が大切に祀られています。「越前名蹟考」によれば、江戸時代後期にはこれらの芸能は、村人が演じるようになっていたようですが、中世期には専業の猿楽者が村々の楽頭職を持っていて演じていたと研究者は考えます。
 それを裏付ける一つの証拠が翁舞を演じる日が、少しずつずれていることです。これは、ひとつの猿楽集団が順番に村々を訪れて、神社本殿に祭祀する翁面を取り出して舞っていったからだとします。

それでは、田楽などを踊った芸能者はどこからきたのでしょうか
宝慶寺の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|13万件以上の神社仏閣情報掲載

 水海の集落の東山中にある曹洞宗の宝慶寺に研究者は注目します。北条氏一族がこの付近の地頭職を有していた事は、前回に見ました。宝慶寺は北条時頼の菩提と、北条一族のために建立された寺です。この寺には、正安元年の「沙弥知円他寄進状」(宝慶寺文書)に「依為深山勝地、無円島耕作之儀、人跡民家隔境」と記されています。ここからは人里から遠く離れた山中に曹洞宗の「二宝修練道場」として建立されたことがうかがえます。しかし永禄九年(1566)の「宝慶寺寺領日録」の門前には、33名の地代納入者が記されています。その中には酒屋。大工などの肩書きがみられます。どうやらお寺の門前には民家が建ち並び村としての景観を見せるようになっていたようです。
水のある風景を求めて:【キャンプ下見】 宝慶寺いこいの森(福井県大野市) 2019富山うまいもんツアー2日目(3)

 研究者が注目するのは、この問前住人の中に「猿楽小五郎」という人物がいる事です。禅宗の寺では付近の小祠・小堂と同じように猿楽を奉納することがあったようで、門前に猿楽者が住んでいたことが分かります。推測を働かせると、小五郎という猿楽者の先祖は、門前に住みつき、宝慶寺の楽頭職を有すると同時に、付近一帯の神社や、小祠・小堂の祭礼猿楽、市祭りの猿楽を一手に引き受けていたというストーリーが描けそうです。水海鵜甘神社の猿楽能伝来の伝承が、北条時頼と結びついていることも、宝慶寺門前住の猿楽者との関係がうかがえます。

  小山荘の「田数諸済等帳」には、黒谷御領家方の場合には、一石五斗の猿楽給が記されていたことが記されています。その他の神社でも猿楽田が一反から二反は準備されています。若狭国三方郡藤井天満宮の延文四年(1359)の猿楽気山人夫楽頭職給が一反で、分米二石三斗、同じく山西郷の観応二年(1351)の文書では一石四斗とあるから、小山荘における猿楽給もほぼ同じ額になります。もちろん「田数諸済等帳」に記された小山荘の祭礼猿楽や、その近隣の猿楽が、すべて宝慶寺門前住の猿楽者の手になったというわけではないでしょう。平泉寺鎮守白山神社や、越智山大谷寺の小白山祭礼を担当した猿楽者も居たでしょうし、この地域最大の神社で会った篠座神社には、専属の猿楽者が居た可能性もあります。宝慶寺門前住の猿楽者は、いくつもの猿楽座のうちの一つにすぎません。しかし、越前の中世には、多くの猿楽座が並立して存在できる条件が整っていたと考えることはできそうです。
 偶然にた小山荘(大野市西南部の一地域)の史料は、今から見ると小祠・小堂としか思えない村堂の祭礼にも祭田が確保され、芸能が行われていたことを教えてくれます。別の見方をすれば、それだけ猿楽者の需要は多かったことになります。 
中世村落で祭祀と芸能が土地定着化し、自分たちのために、自分たちの手で祭祀を行なう小祠・小堂が勧請されていく姿を見てきました。そのパターンの特色を、研究者は次のようにまとめています。

①祭祀圏が地縁的共同体という比較的小地域的であること。
②祭祀構成が、中世期前半に地方に定着化した山岳密教系寺院や、その息のかかつた荘園鎮守社的的な有力社寺の祭祀構成をコンパクトにし、より民俗化したものであること
③祭祀や芸能を行なうものが主として専業者ではなく、共同体内の者であること,
④この祭祀と芸能の伝播者や育成者が、山岳密教系の下級宗教者であること,
⑤行なわれる芸能は、共同体の強い願いである豊穣祈願を織り込んだ正月行事が中心である
⑥その上に旧仏教系寺社の祭礼や法会の中心芸能である旧楽踊り・猿楽能の翁舞・呪師芸・神楽系の祈祷芸能などが、独自に民俗化して行なわれる。そこには特色よりも共通性の方が強く見られる。

しかし、越前ではもともと有力社寺に付属していた専業猿楽者を、仏神田の確保によつて村落のの祭礼にまで引きずり込み、それによって独自に越前猿楽と呼ばれる専業芸能集団を生み出したようです。この点は中世後期に畿内地方の郷村を中心に、宮座組織を基盤にして猿楽能が演じられていくことにつながる先駆的な動きとも云えます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献「 山路興造 中世芸能の底流  第二章 中世山村における祭祀と芸能」

今回は中世越前の宮座と祭礼・芸能について見ていきます。 今回もテキストは「 山路興造 中世芸能の底流  第二章 中世山村における祭祀と芸能」です。
継体天皇の考察④(越前の豪族)|古代史勉強家(小嶋浩毅)|note

越前は継体天皇の出身地で古代においては、日本海交易の重要拠点でした。そのため奈良時代には東大寺などの手によって初期荘園が開拓されます。九頭竜川を遡った山間部の大野郡にも、平安時代には都人の支配の手が入っています。九頭竜川とその支流真名川などがつくり出す広い盆地は、豊かな山中の耕作地とされていたようです。
 この大野盆地の南部から、背後の山中一帯にわたる広大な地は、小山荘と呼ばれる荘園でした。平安時代の応徳二年(1086)、大野盆地の北西の地二百余町は、越前日司源高実の寄進によって、醍醐寺円光院の荘園として牛原荘が立荘されます。藤原道長の曾孫成通も、いつの頃からかその南に続く小山郷および西に山を隔てた川原郷一帯の地数百町を、私領とするようになります。この小山郷の地は大野市南部、川原郷は足羽郡美山町(現福井市)から今立郡池田町にまたがる地です。
福井県:大野市地図 - 旅行のとも、ZenTech

このうち大野盆地南部を郷域とした小山郷は、院政朋に入ると小山荘と呼ばれる安楽寿院領となります。小山荘が院政期に安楽寿院領になったといっても、それは藤原成通が朝廷(安楽寿院)を本所としたのであって、領家職は自分の手元に残しておいたようです。のちにこの領家職は藤原氏一族の氏神である奈良の春日社に寄進されます。
 鎌倉時代に入ると三代将軍源実朝は、この小山荘と近隣の泉荘の地頭に、北条義時を任じます。建保四年(1216)二月十七日付の、代官を派遣するよう下知したことを皇室に告げた文書が残っています(三浦文書)。
宝慶寺 (福井県大野市): 日本隅々の旅 全国観光名所巡り&グルメ日記
宝慶寺(ホウキョウジ)
小山荘の地頭については、その後の詳細は分かりません。しかし、小山荘内の木本村の西山中に宝慶寺という曹洞宗寺院が、鎌倉五代執権北条時頼の菩提のために建立されています。ここからはこの地に地頭として北条氏族の力が続いて、働いていたことがうかがえます。

小山荘域を歩くと、 地頭方・領家方に中分された痕跡が研究者には見えてくるようです。たとえば長承二年の「官宣旨案」にその名の見える木本(このもと)は、大野盆地の南端、宝慶寺のある山中へ清滝川沿いに登る山際にある村落です。集落のほぼ中央に小川が流れ、それを境に木本地頭と木本領家にはっきり分けられました。神社も
①領家方には、高於磐座神社(古くは春日社)
②地頭方には白山神社
に分けられ、小堂も地頭方には観音堂・薬師堂やカメソ下(神の堂?)と呼ばれる堂が祀られ、古い民家には堀が廻らされていて、中世風の色濃い佇まいです。
 同じく一つ西の谷にある阿難祖領家・阿難祖地頭(集落の小川が境)、木本の東にある平沢地頭・平沢領家、その北の森政地頭・森政領家など、地名をたどるだけでも、中世のある時期に村落を二つに割る形で、下地中分がなされたことがうかがえます。小山荘の領家職がいつ頃に、奈良春日社に寄進されたかは分かりません。

研究者が注目するのは、興福寺・春日社関係史料を多く集めた保井芳太郎文書(現大理図書館蔵)の中にある「春日社領越前国大野那小山庄田数諸済等帳」(永享十二年(1440)四月)という史料です。
これは小山荘の領家職をもっていた春日社が、田数・年貢・公事物などの明細を荘官や百姓に報告させ、それを書き留めたものです。この文書の特徴は、村毎に「地下之引物」として、仏神田を詳細に報告している所です。百姓側からの領家に対する引物の注進なので、これによって当時の荘園村落の祭祀の様子がうかがえます。引物とは、平安時代頃に馬を庭に引き出して客へ贈っていたことからきた言葉とされます。 やがて馬の代わりに「馬代(うましろ)」として金品を贈るようになり、次第に引き出物は酒宴の膳に添える物品や、招待客への土産物をさすようになったと言われています。
 史料によると、当時の春日社領小山荘は、西小山郷・井嶋郷・舌郷・黒谷・深江郷・飯西村・院内・下郷・縁新宮地・下穴間・上佐々俣郷・下秋字の領家方と、折立郷・河原郷の範囲です。すなわち平安時代に藤原成通が領した小山郷・川原郷の領域が中分されたとはいえ、そのエリアはほぼ保たれていたことになります。

この中の「井嶋郷」(近世の猪島村)の仏神田を最初に見てみましょう。
 領家方の場合、広田が三八町五反、郷内の仏神田やその他を引いた公田が六町八段小一五歩と報告されています。郷内には熊野神社があり、そこには常住の神主がいたようで、「田数諸済等帳」は神主取役分として、布一端・綿三〇日・山葵などが記されています。今も熊野神社は、猪島の字医王寺に鎮座しますが、社殿だけが覆堂におさまる小さなものになっているようです。しかし「田数諸済等帳」によると、井嶋郷領家方の仏神田は熊野神社だけでも計三町あったと記されます。その内訳は、次のようになります。
一段 油田 一段 元三田
一段 佐幣田  五段 三月八日田
一段 五月五日 一段 七月七日田
五段 九月九日田 一段 御神楽田
二段 御油田 二段 猿楽田
二段 馬駕(駆)田 一段 鐘ツキ田
七段 修理田
とあり、それに続けて、
  又、道寄之地蔵堂田事
一段 修理田 一段 大師講田
一段小 弥勒堂田
  又、荒嶋之御神田
二段 七月七日田 二段 九日田
二段 修理田 一段 アヤ田
以上壱町小
最初に出てくる「一段 油田」は「ゆでん」ではなく「あぶらでん」とよむようです。「灯油田」とも表記しますが、祭礼用の照明胡麻油を栽培するための祭田です。「一段 元三田」の「元三」とは、元日から三日までの三が日のことです。現在の「正月三が日」の祭礼経費を賄う祭田になります。以下をみると、中世の熊野神社は、多くの祭田(神田)をもっていたことが分かります。そして、正月を初め月々の祭事が行われる地域の中核神社で、その経済的な裏付けも祭田によってされていてます。境内の小祠・小堂にも、それぞれ行事田が付けられていたと研究者は考えているようです。
 「道寄の地蔵堂」については、荒嶋山を祀る小祠は今も付近の畦にあり、少し離れた四辻に六地蔵が祀るれています。このお堂にも修理田と大師堂のためのための祭田が設けられています。
 熊野神社は元々は、熊野信仰によって開かれたもので常駐したという神主も熊野行者的な性格で、熊野への先達活動のリーダー的な存在だったのかもしれません。また、この地域の熊野行者の活動センターであったことは考えられます。

井嶋郷には、他にも「熊野地蔵堂御神田」が、次の様に注進されています。
一段 行(オコナイ)田  大師講田
一段 修理田       一段 松尾神田
一段□ 十烈稲荷田     一段 虚空蔵堂行田
仮屋一間 同修理方 一段 市祭猿楽田
仮屋一間  住吉修理方 三段 山脇阿弥陀堂
以上壱町大六十―歩 仮屋弐間
松尾神・稲荷・虚空蔵堂・住吉・阿弥陀堂と、いろいろな堂舎が地蔵堂にはあり、それぞれに祭田が付けられています。郷内には熊野神社と地蔵堂のふたつを合わせると、仏神田は五町一段六〇歩という広さになります。ただ熊野地蔵堂は、今はどこにあったのか分からないようです。熊野神社に遠くない民家の軒に地蔵を祀る小祠があるので、それで地蔵堂跡かもしれないと研究者は考えているようです。

 現在の熊野神社には、中世期に神主が常住し多くの行事田を持ち、月毎に祭礼が行われ、村落生活の支えとなっていたような面影はありません。また村の景観からも、これだけ多くの仏神田をもった社や堂があったことなど想像できないと研究者は驚きます。
  ここからは中世に荘園の鎮守社として領主達から祭田を付けて保護されていたこの熊野神社は、近世には村落の鎮守社とはならなかったことがうかがえます。村の鎮守社は、中世と近世では交替したということです。古代の荘園が解体する中で、新たに登場した地縁共同体の惣郷では、別の神社が祀られ、鎮守社となっていったとしておきましょう。中世以来の神社が衰退したこともあるようです。これは丸亀平野でもあったはずです。

 話を大野市猪島の熊野神社にもどします。
今は「昔の栄華、今何処」的な雰囲気ですが、わずかな名残はあるようです。史料では旧暦三月八日は祭礼日とされていますが、今も地域では一ヵ月遅れの四月八日に祭りを行っているようです。正月一日には神社前で火を焚いて夜明かしをするといいます。これも、もともとは元三(正月)の行事の痕跡なのかもしれません。残された史料には、中世には、十月八日の祭礼はもとより、元三・五月五日・七月七日・九月九日の節供の祭、毎月一日朔幣の法奉幣などのための祭田が設けられていたことがわかります。行事日ごとの神楽料や、祭祀の時に演じられた猿楽料は、祭田によって賄われていたことが分かります。

虚空蔵堂では「虚空蔵堂行田」とあるので、行(オコナイ=芸能)が行われていたこと。熊野地蔵堂では「市祭猿楽田」とあるので、この地で開かれた市の市祭りにも猿楽が演じられていたことが分かります。

次に小山郷をみてみましょう。小山荘の中心地は、西小山郷にあったようです。この地が現在のどこにあたるかも、よく分からないようです。ただ小山荘内の西にあたるらしいこと伝わるので、舌郷の北にあたる右近次郎の地あたりらしいと研究者は考えているようです。現在のJR大野駅の南に鎮座する春日神社周辺です。
クリスマス前の神頼み?結のまちにそびえ立つ「良縁の樹」(福井県大野市春日)

「田数諸済等帳」には、この春日神社が鎮座する西小山郷が冒頭に挙げられ、その仏神田が次のように記されています。
五段 修理田  一段 元三田一段 正月 行(オコナイ)田
一段 二月行田  一段 二月十一日猿楽田 一段 三月三日田
一段 五月五日田  一段 七月七日田   一段 九月九日田
一段 御神楽田 一段 御通夜田 一段 御アヤ田
一段 御注連田   半 油田
以上壱町来段半 春日御神田
一段  住吉田 一段 市祭猿楽田 一段 篠蔵(ヤブサメ)社・□(熊)野社
以上参段
五段 修理田   一 元三田 一段 正月行田
一段 正月七日田 半 延年田 一段  二月行田
一段 三月三日田 一段 五月五日田 一段 放生田
一段 九月九日田  一段 御神楽田 一段 御通夜田
一段 注連田   一段 猿楽田 一段 油田
一段 アヤ田    一 篠蔵(ヤブサメ)役田
以上弐町半 大杉御神田
都合庫町壱段百姓等注進分
ここからは、この地には荘園鎮守社的性格をもった春日社と、大杉社という井嶋郷の熊野神社と並ぶ比較的大きい社があったことが分かります。春日社では五節供田や正月・二月のオコナイ田が確保されいます。二月十一日の祭礼の猿楽や神楽のための経費を賄う神田もあります。修理改修のための修理田も五段が確保されています。
  一方、大杉社の方も節供田のほか、正月・月のオコナイ田もあります。さらにそれとは別に正月七日に祭祀があり、その際には「延年」があったことが分かります。祭礼の期日は分かりませんが、猿楽・神楽のための費用田もあり、放生会も行なったようです。祭礼や芸能は、互いに競い合うように演じられたようです。
西小山郷の特色は、井嶋郷とおなじように市が開催されていたことです。猿楽田があるので、市の際には田楽も奉納されていたようです。各郷には、それぞれ中核となる神社が勧進され、地域の文化・祭礼センターだけでなく、市などの流通活動まで管理していた気配がうかがえます。

しかし、小川荘の神社は、これだけでは終わりません。もっと大きな寺院があったようです。
延喜式内社 | 篠座神社 | 福井県大野市
研究者が注目するのは、篠座神社行事田です。
  篠座神社は式内社で現在の大野市街地の南、篠座に鎮座します。この篠座は小山荘の荘域からは、わずかに外れているようです。荘園領主とは、建前上は関係のない神社と考えられます。今まで見た来たように、郷(近世の村にほぼ相当)単位の中で、複数の小祠・小堂を祀っています。ところが一方で、郷や荘などの行政単位を超えた大型神社があります。それが篠座神社なのです。この神社が荘園成立以前から存在する古社であることを物語ります。この神社の祭礼には、多くの村々が参集していたようです。それはそれぞれ村々に、この神社の神田があることから分かります。
 当時の篠座神社の祭礼規模を見てみましょう。
 神社鎮座地の南側の、それも領家方の村々からだけでも、流鏑馬・一物・相撲・朔幣などのための費用田を認めさせ、その範囲も、篠座神社に近い西小山郷・深江(深井)郷などはもとより、佐開郷・木本郷、遠く美濃境に近い秋宇(現秋生)あたりからも寄進銭が届けられています。篠座神社の祭礼には当然、猿楽なども演じられていたようで「大野寺社縁起」には、神社什宝として尉面と女面が残されていることが記されています。
篠座神社(福井県大野市篠座/神社) - Yahoo!ロコ
以上をまとめておきましょう。
①小川荘には、郷単位の中核寺院が複数あり、それぞれに年中行事の祭田を持っていた
②さらに小さいエリアの地蔵堂なども村落には祀られ、そこにも祭田はつけられていた。
③その上の古社である篠座神社は、荘園エリアを越えての信仰権をもっていた。
こうしてみると三重の信仰エリアがあり、それが祭田という形で領主から認められていたことになります。しかし、中世から近世への激動期の中で、荘園制解体と共に①②の中には領主の保護を失うと共に衰退していった神社があったことが分かります。私にとっては、荘園の神社祭礼が、たとえ小祠・小堂であっても仏神田という経済的裏付けがされて、きちんと行なわれていたことは驚きでした。このような祭田をもった中世の寺院が、今は姿を消しているものもあるのです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献「 山路興造 中世芸能の底流  第二章 中世山村における祭祀と芸能」

前回は、播磨の住吉神社に伝わる中世前期の祭礼芸能を見てきました。今回は若狭国三方郡地方の延暦寺や奈良春日社領の荘園を見ていこうと思います。テキストは「 山路興造 中世芸能の底流  第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に」です。

若狭では、かつての荘園の範囲を氏子圏とした神社に芸能が伝承されているようです。これは荘園領主が本家から勧進した鎮守社に、祭礼芸能も同時に持ち込んだためです。その際には、経済的裏付けとしての荘園内に神田や芸能田を確保したうえで、荘民に所役を割り当てています。それが若狭には、今も残っているようです。
日本秘湯を守る会 虹岳島温泉の粋なオッチャンブログ 春祭り 宇波西神社にお参りを

福井県三方郡三方町気山の宇波西(うわせ)神社は、
鎌倉時代には耳西郷と呼ばれる国衛領に鎮座する古社でした。耳西郷は鎌倉末期には領家職が東二条女院によって奈良春日社に寄進され、南北朝期には地頭職が天龍寺領と移っていきます。その後幾たびかの変遷を経て、字波西神社の祭祀は、耳西郷の村々によって担われるようになります。四月八日の祭礼は、旧耳西郷の気山(中山・市・中村・寺谷・切追)、牧口、大藪、金山、郷市、久々子、松原、笹田、日向、海山、北庄の村々が奉仕しています。宇波西神社の祭礼の特色は、これらの村々が定められた神餞と御幣を持って参詣することです。神社境内には各村の仮屋があって、献般を済ませた後は村ごとにそこに座を占めて饗宴を開き、当番村が繰り広げる上の舞・獅子舞・田楽などの芸能を楽しむのです
詩情あふれる神事☆宇波西神社(4月8日)『王の舞』/若狭美浜温泉 悠久乃碧 ホテル湾彩のブログ - 宿泊予約は<じゃらん>
宇波西(うわせ)神社の王の舞
祭礼で芸能を演じる村は、次のように決まっているようです。
①王の舞が海山・大藪・金山の三村が1年宛ての交替分担
②獅子舞が郷市・松原・久々子の交替制
③田楽は日向が2年、牧口が一年の交替
これは神社にある大永二年(1522)の「上瀬宮毎年祭礼御神事次第」に記された、当時の神事に献供を寄せた村と一致します。約五百年の歴史があるようです。
王の舞とは - コトバンク

 祭礼では、今では前日から当日の朝にかけて、それぞれの村で宮座が行なわれ、それを済ませてから総鎮守の宇波西神社に舟でやって来るという段取りになっています。しかし、これは宮座が開放されて以降の形式で、古くは耳西郷内の各村浦に住んいた選ばれた上層農漁民たちによる惣宮座があったと研究者は考えているようです。神社の鎮座する気山には、「気山モロト」と呼ばれる特定の家のみで継承する宮座が今も残されています。彼らは、謡の間に若狭鰈や桜の一枝を馳走にして献を重ねていきます。ここからは、春未だ浅い早朝の上方五湖を、舟で渡って神餞を運ぶ素襖・烏帽子の村人たちの姿と、中世期の若狭に生きた人々の姿がダブって見えてくると研究者は云います。
国津神社の神事[県指定] 若狭町観光情報 Discover Wakasa
 三方町には、伊勢神宮の所領向笠(むかさ)の範囲を氏子圏とする向笠国津神社の四月二日の祭祀もあります。これも
①興の村(王の舞と獅子舞を担当)、
②流鏑馬村(流鏑馬は廃絶)、
③大村(田植舞を担当)、
④田楽村(田楽を押当)
の四つの宮座によって行われています。
また、大炊寮の所領であった田井保の範囲を氏子に持つ多由比神社では、四月十八日の祭礼に、宮座によって田楽・上の舞・獅子舞・細男舞が演じられます。このように若狭の特徴は、保や荘園などの中世前期の氏子範囲を宮座とする神社の祭祀が、現在まで残されていることだと研究者は指摘します。

猿楽と面

南山城の宮座
若狭の勧進された鎮守社では、荘園単位の宮座によって演目が演じられていました。それに対して畿内の惣村の宮座では、専業猿楽者を祭礼に招聘する方式がとられます。権門勢家という後ろ盾を失った猿楽者が、その生き残り策として、力を付け始めた惣村を芸能市場に選んで、積極的に売り込みを図ったようです。惣郷の鎮守社の祭礼に、神を出現させるという役割で、猿楽者が登場するようになるのです。そのスタイルを具体的に見てみましょう。
 猿楽者は、社の遷宮に際し「方堅」という呪術を行なうことで惣村に進出していました。それがさらに進んで、春秋の祭礼にも登場するようになります。神格を持った「翁面」をご神体として本殿に祀らせ、それを春秋の祭礼に取り出して猿楽者自身が舞い、神の姿として見せるというスタイルです。
MMDアクセサリ配布】翁面3種+父尉配布 / キツネツキ さんのイラスト - ニコニコ静画 (イラスト)

現在でも各地の神社には、南北朝期から室町時代の翁・二番艘・父尉(ちちのじょう)の三面がご神体に準じて祀られていることがありますが、それはこの時に使われていたようです。
 惣村の自治活動の先進地と云われ、15世紀末には、一揆によって八年間の自治支配を実現した南山城地方では、宮座をこの方式によって運営する所が多かったようです。
岡田国神社(京都府木津川市木津/神社(増強用)) - Yahoo!ロコ
岡田国神社

京都府木津市の岡田国神社には、境内中央に建つ拝殿を利用した能舞台を中心に、両側に見物の桟敷となる仮屋(長床)が残されています。祭礼には長床でおける宮座行事が終了した後、この拝殿に橋掛かりを設け、郷が楽頭職を与えた猿楽者が能を演じていたようです。特別なときには、いくつもの猿楽座が呼ばれて競演することもあったようです。
伏見経済新聞 - 広域伏見圏のビジネス&カルチャーニュース

 見物する座席は、惣郷の勢力関係によって、細かく決められていました。ハレの場における村のステイタス確認儀式の場でもあったようです。桟敷には上層農民である殿原桟敷と、その家族たちの女房桟敷、そして一般農民の地下桟敷の別があります。ここからは当時の惣村の内部構造などもある程度うかがえます。同時に中世農民がハレの日の興奮を、自治組織の運営にうまく組み込んでいった知恵も知ることができます。
中世 田植絵図1


 いつの時代でも、農民にとっては米の不出来が大問題であったはずです。残された絵図を見ると、中世の農民は、祭りを神祭りの場としてハレの行事に組み込み、一日を楽しんだ様子が伝わってきます。
それを研究者は次のように描きます
田を植える役の早乙女たちは、この日ばかりはこざっばりとした労働着に、新しい笠に身を固め、凛々しい姿で田植を囃す早男(立人)たちの目を意識しています。
大川田植 牛耕 

 また田植が田の神を迎えての神事であった時代には、美しく飾った自慢の牛たちを、何十頭も田んぼに入れて、熟練の牛使いがそれを見事に歩かせて田を鋤くのが、どこの地方でも見られたようです。
田植え 田楽踊り


 指揮者との掛け合いで歌われる早乙女たちの田植歌は、豊穣を祈る呪歌でした。それは時間の推移によって歌詞が決まっていて、時には笑いを誘うバレ歌を交えて、労働の疲れを忘れさせます。それを囃す男たちの楽も、腰太鼓・摺りささら・鼓などが用いられ、賑やかに撥が五月晴れの空に舞います。全員の意気が揃うと、早乙女の笠の端が一斉に揺れて、歌声が卯の花を散らす。
この日ばかりは無礼講で、田主の裁量で酒がふんだんに振る舞われ、その女房は田の神の嫁たる「オナリ」に扮して、昼の食事を運ぶ。この夕ばかりは性の解放さえされたのは、そのいずれもが秋の菫一穣を願う儀式の一部であったからにはかならない。
月次風俗図屏風(一) - 続 壺 齋 閑 話
 平安時代の貴族たちは、この田植えさえも一大イベントとして鑑賞対象として記録に残しています。(栄華物語)。現在でも広島県の山間部や島根県の一部には「囃子田」とか「花田植」とか呼ばれて、地主の大きな田んぼを、太鼓を囃しなから植え行事が残されていました。
塩原の大山供養田植、庄原に伝わる4年に1度の牛馬安全祈願行事

そこで歌われた田植え歌の歌詞が「田植草子」と呼ばれる中世の庶民が育てた文芸の代表として、国文学の研究対象になってきたようです。この他にも正月行事には「田遊び」と称して、一年の稲作過程を神の前で模擬的に演じてみせたりすることもあったようです。それが近世には、絵図として描かれ、都市の裕福な階層の人気を集めたりもします。ある意味、農作業の「啓蒙書」の役割も果たしたのかも知れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山路興造 中世芸能の底流 
 第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に

 いつの時代も農民にとって、実りの秋は何よりうれしい季節です。古代以来、彼らは自分たちの精神的依り処を、先祖の神や自然神を祀ることに求め、里から見上げる甘南備山を霊山として崇めてきました。そこに、国家や領主によって鎮守社が勧請されると、その氏子の一員に組織されるようになります。中世になり、国衙や荘園の力が衰えるようになると、上層農民たちは、この社を精神的紐帯として、血縁や地縁による地域集団を形成するようになります。そして、結束を固めるために祭祀組織を再構成するようになります。これが宮座の誕生につながるようです。
今回は、宮座の果たした役割について見ていこうと思います。
    テキストは「 山路興造 中世芸能の底流  第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に」です
楽天ブックス: 中世芸能の底流 - 山路興造 - 9784872946376 : 本

 国衛や荘園領主などが、所領に鎮守社を勧請して祭祀するのは、神に豊穣を祈るという精神的「勧農」が目的だったようです。その場合には、荘園領主によって「神田」などが設定されて、祭礼のための経済的裏付けがなされていました。つまり、古代の祭礼は、荘園領主たちの経費で賄われ、そこで行われる伎楽や舞楽も専門演技者が雇われてやってきました。つまり古代の地方寺院の祭礼運営には、農民たちが関わるものはなかったようです。しかし、中世後半になると古代システムが崩壊しはじめます。新たなる神祭りの方策が必要に成ってきます。そこで登場してくるのが宮座のようです。
京都府京都市西京区 松尾大社
松尾神社(京都市西京区)

宮座の一番古い記録は、山城国葛野郡の松尾神社(京都市西京区)とされています。
渡来系の氏族秦氏の氏神を祀った松尾社は、古代末には葛野郡一郡の神社に成長していました。朝廷から奉幣のある四月祭をはじめ、六月の御田代神事(御川植祭り)や九月の九日会などは、平安京の右京西七条に、在家や田畠を持つ富裕な者を座衆とする祭祀集団のなかから経費が集められています。そして、その年の一切の祭祀の責任を持つ頭人が差配するというスタイルが出来上がっていたことが史料から分かります。(元久元年(1204)3月5日付「官宣旨」松尾大社文書)
 神社祭祀や寺院法会を、頭人を定めて行ういう制度は早くからみられます。それを社寺周辺の有力住民に座を組織させ、その中から頭人を選んで行わせるというスタイルは新システムです。これは都周辺の農村部が早かったようです。
 宮座に関して残る松尾寺文書の最初の記録は、神社側が座衆の運営上の問題点を指摘した内容です。ここからは、農民側がこの組織を自分たちの結束に利用しようとする気配は、まだうかがえません。上層農民側が自らの土地を自らの手で守るという自治意識が生まれるには、もう少し時間がかかるようです。
松尾大社 | 京都の観光スポット | 京都観光情報 KYOTOdesign
         松尾神社(京都市西京区)

 中世農民は、生きるために仕事に追いまくられる生活でした。そういう意味では彼らの日々の生活は単純です。一年を単位とする自然の巡りを相手に、一日中労働に追いまくられる以外の生活は考えられなかったはずです。秋の収穫しても、神を頼りの一喜一憂を繰り返すので、これといった手立てを講じる術もありません。また、襲いかかってくる戦乱や収奪に対しても、天災と同じように諦めと、生活の知恵でしたたかに対抗するのが精一杯だったのかもしれません。
 それだけに、ケの日々とは正反対の異次元世界である「ハレ」の日に、思い切り精神を開放させる知恵を彼らは生み出していました。ケの日々が苦しければ苦しいほど、また単調であれば単調であるほど、ハレの目を待ちわびる思いは大きく、その爆発力も大きかったようです。
 一年の巡りを区切る最大のハレの日は、鎮守の祭礼です。もともとは領主の側で一切の準備をしたこの行事が、その設営・運営が有力農民の力に委ねられるようになります。そうなると農民の側は、神の出現する異次元世界を、地域住民の結束の場として積極的に取り込み、惣村の精神的紐帯を生み出し、強めていくイヴェントして活用するようになります。なにかしら現在の「町興し行事」と重なる部分があるような気がしてきます。
 ここに新しい宮座が誕生し、中世から近世ににかけて機能していくことになるようです。それでは、いろいろな郷村を尋ねて、宮座の運営方法などを覗いてみましょう。  
上鴨川住吉神社 - 加東市/兵庫県 | Omairi(おまいり)
上鴨川の住吉神社 茅葺きの割拝殿の向こうに朱塗りの本殿
最初に訪れるのは兵庫県加東市)社町上鴨川の住吉神社です
この神社を研究者は次のように紹介します。
黄金色の稲穂がなびく谷田の外れ、集落からはやや離れた小高い杜に、住吉神社は鎮座している。その境内に続く石段を登りきって振り返ると、そこには何世紀も変わらないなつかしい村の風景がある。幾百年も前から、村人が祭りのたびに営々と踏み固めた境内に入ると、正面の一段高い石積みの上に、萱葺きの割拝殿が建つのが目に人る。その奥に鎮まる朱塗りの本殿は、明応二年(1493)の造営で、重要文化財の指定を受けるが、近年の解体修理ですっかり新しく甦っている。石段の脇、拝殿と対峙して建つ舞台は、風雪にやや傾きかけてはいるが、萱葺きの屋根に曼珠沙車がぼつんと咲いているのが印象的である。境内の奥に大きく場所を占める吹き抜けの長床。本殿や境内を囲むようにひっそりと並ぶ小宮。どの一つをとっても、時間を超越した物のみが持つ存在感を宿して、しっかりとそこに在る。
住吉神社 (加東市上鴨川) - Wikiwand
朱塗りの本殿
 この神社は中世の研究者にとっては、一度は訪れてみたい神社のようです。10月4日・5日の祭礼になると、研究社たちが全国から大勢集まってくるようです。その目的は、この神社の祭礼に残る宮座行事と、それにともなう芸能です。そこには鎌倉時代末期から南北朝期にかけての惣村の姿が、垣間見られるからのようです。
加東遺産巡礼コース | 加東市観光協会

 この地は、今では高速道路の中国道がすぐ南を通るようになって便利になりましたが、近世には播磨の丹波国境に近い辺境の村でした。しかし中世は、村の東にある清水寺が西国三十三所の札所の一つで、京都からほぼ真西にルートをとって、亀山(現亀岡市)から丹波篠山を通り、南西に丹波古市―小野原を経て播磨海岸部で山陽道と結ぶ裏街道が、この上鴨川を抜けていました。源義経が平家を追って、一ノ谷に向かったコースなるようです。つまり、中世は交通の要衝にあったことになります。

この地は、名前の通り古代以来、摂津住吉大社の荘園でした。
住吉大社の『住吉大社神代記』には、播磨国賀茂郡の椅鹿山(はしかやま)を杣山(森林資源)として領有していたとあります。椅鹿杣山は播磨から有馬・丹波に亘る広大な地域で、この杣山の一部がのちの多紀郡小野原荘となったとされます。『住吉大社神代記』には奈良時代に「播磨国賀茂郡椅鹿領地田畠九万八千余町」を神領としたと記します。「椅鹿領」の一部が上鴨川になるようです。

播磨・丹波の住吉神社
    丹波・播磨の境の住吉神社の分布図 朱○が住吉神社

 これは播磨と丹波の両国に跨がる広いエリアになります。
このエリアには、住吉神社が村ごとに鎮座しています。住吉神社の密集地帯です。これは、この地域が摂津住吉大社の荘園「小野原荘」であったからのようです。鎌倉時代の文保年間(1317~19)に、小野原荘の氏神として 住吉大社の分霊が小野原の地に勧請、創建されます。その後、13世紀半ばの『続左丞抄』所収の注進状によると、椅鹿領は「大河荘・久米荘・古井荘・比延荘・小野原」などの荘園に分割されています。すると、分割された荘園にも、住吉神社は分社・勧進されていきます。こうしてこのエリアには住吉神社が広まったようです。
⛩上鴨川住吉神社|兵庫県加東市 - 八百万の神
上鴨川住吉神社

 上鴨川は、付近の下鴨川・馬瀬・畑・池ノ内とともに、大河荘を形成していました。上鴨川の住吉神社は、大河荘の鎮守社として領主の摂津住吉入社を勧請した社になります。現在の社殿が明応2年(1493)の造立ですが、その棟札からはそれ以前の正和五年(1316)、永享六年(1434)にも造立されていることが分かります。現在は重要文化財に指定されています
 中世末期には、荘園の細分化が進みます。そして大河荘は、上鴨川・下鴨川・馬瀬・畑・池ノ内と小村に分化して近世を迎えます。同時に、神社もそれぞれの近世村にさらに分社されます、そのため、上鴨川に鎮座した大河荘の荘鎮守住吉神社も、上鴨川一村の村鎮守となって今日に至ったようです。
 そういう意味では、現在の宮座の形態は、必ずしも中世宮座そのものではないようです。細分化され小型化した宮座なのです。上鴨川の宮座は、古くは「二十四軒株」と呼ばれた宮座株の家のみが、左座・右座に分かれて運営してきたようです。宮座を開放してからは、二十四軒株の者が左座、それ以外の者が右座に付くようになっています。この二十四軒株も、近世初頭に村宮座に変化した時に固定された可能性が高いと研究者は考えているようです。

篠山市の今田住吉神社(篠山市今田町)は、は虚空蔵山麓に鎮座し、兵庫陶芸美術館がすぐ南にあります。本殿は葺春日造に唐破風付き、垂木は二軒、斗供は三手先組、精緻な彫り物が木鼻・蛙股・妻飾などに施されています。今は覆屋根に囲まれていますが、野晒しの期間が長かったためか傷みが目立つようです。
 この神社は今でも小野原荘の荘官であった公文・下司・田所の後裔という「三職」が宮座の祭祀権を持っています。宮座に残る「三職党書」には、康永二年(1343)に荘官が私領を付近の和田寺に寄進して摂津に引き揚げた時、その祭祀権を在地の有力武士であった三軒の家に託したとあります。この三職を核に、荘域内各村の有力農民がそれを補佐する形で、北座・中座・南座の三座を構成されています。

大河荘の中世宮座も、荘官などを中心とした荘域有力農民層によって構成されていたはずです。その時代の宮座の形を知る史料は残されていません。しかし、祭礼の際に繰り広げられる芸能には、年齢階梯によって決められた宮座運営の方式が残り、中世宮座の面影がうかがえると研究者は考えているようです。その宮座をみていくことにしましょう。

上鴨川住吉神社の宮座

 上鴨川の住吉神社の宮座は、長男のみで構成されいます。
7、8歳で「若い衆の座」に入って、12、3歳前で与えられた役目を勤めあげると、それからの八年間を「清座」に在籍します。それを済ませてはじめて「年寄」として、村政などを決定する正式の座に加人することが認められます。「若い衆の座」は、村落共同体の運営に直接関わることはないようですが、祭りに関する権限の一切は彼ら「若い衆」に委ねられています。入座以降、若い衆の座の総責任者である「横座」として、祭りの一切を指揮して「清座」に入るまで、それぞれに年齢序列によって多くの役々が綿密に決められています。その過程の一つずつに責任を持たすことで、共同体の必要とする人材育成と教育の意味を兼ねていると研究者は指摘します。座の先輩が先生であり、卒業者たる清座がそれを監督する役目のようです。 若い衆に任せた祭礼については、「年寄」衆は一切口出しをすることはありません。
舞堂に集まった宮座の座衆。堂内で衣装を整え、笛や鼓を奏でる=加東市上鴨川
舞堂に集まった宮座の座衆。堂内で衣装を整え、笛や鼓を奏でる

 よそ者が調査研究と称して、重要文化財に指定されている猿楽能の面を調べに来ても、その年の「オンソク番」(祭りの衣装や道具を1年間管理する役)を勤める二人の少年の立合いなしには、それを収める箱の蓋をあけることさえできなかったようです。この2人の「オンソク番」のうち上位の少年は、その年の祭りで直会の宿を受け持ち、翌年は頭屋の控え、その翌年には頭屋として一家を挙げて神儀など祭礼の準備を担当します。そして、三年目には禰宜控え、四年目に禰宜 (副横座)を勤め、五年目に横座として祭りの総指揮にあたるという運びになります。この役がまわってくるのは、二十歳を過ぎてからになります。この大役を無事果たし、祭りの終了後に横座の象徴である太刀が副横座に渡され、年寄衆の座での報告が済むと、はじめて清座入りを果たすことになります。清座の初年度には一年間を通じて神社のお守りをする「神主」の役があり、それを勤めあげねば一人前にはなれません。ここには詳細でしっかりとした役割分担があります。このような行事を担う中で、村落を担う次の世代の人材が養成されていったようです。「祭りの準備」は、人作りの一環であったともいえます。
そして、研究者が注目するのは、この中で彼らの一生の評価が決まる晴舞台でもあったことです。先輩達の評価が将来の共同体での役割を決定し、嫁の世話にまで影響があったと云います。

上鴨川住吉神社の宮座行事
宮座「若い衆」の祭礼行事一覧

上鴨川住吉神社の祭礼に伝わる芸能も中世色が濃いと、研究者は次のように指摘します。
①副横座が鳥甲(とりかぶと)に太刀を帯び、鼻高面を付けて舞う「リョンサン」と呼ぶ舞は、平安時代末期から鎌倉期にかけての祭礼芸能である「上の舞」
②ビンザサラ四人・締太鼓三人・鼓一人・銅拍子(チョボ)一人の計九人の少年が躍る田楽躍りや、曲芸をみせる高足、獅子舞、御神楽(神主役が宵宮で鳳女舞を舞う)など、いずれも中世期に中央の大社の祭礼に演じられた芸能
であるぐ
③「いど・万歳楽・六ぶん。翁・宝物・冠者・父尉」と呼ぶ「翁猿楽」が、市北朝頃の作品である面とともに伝承されている。
③については、南北朝期に大和猿楽の観阿弥・世阿弥が能の様式を大成した頃の翁舞とは別の、その原型ともいえるもので、語りを主とした芸態を残しているようです。「いど」は現在の露払、「万歳楽」は三番聖、「六ぶん」「翁」「宝物」は翁舞に相当します。冠者・父尉は中央の翁舞ではすでに演じなくなっています。これらの芸能は、その一つずつが中世期の流行芸能です。そして、ただ伝承されているだけでなく神楽(巫女舞)・王の舞・獅子舞・田楽という芸能群とセットで残っているのは非常に珍しく貴重だと研究者は指摘します。
兵庫県加東市 上鴨川住吉神社 神事舞 on 2015-10-4 その5 田楽 - YouTube

たとえば後白河法皇が勧請したと伝える京都新日吉神社の小五月会の祭礼には、「神楽・王舞・師子・田楽・流鏑馬」が演じられています。(『経俊卿記』建長八年(1256)五月九日条)、同じく後白河法阜が描かせたという『年中行事絵巻』の祗園御霊会の行列には「王舞・巫女・田楽・師子・細男」などの姿がみえます。いまは、他では見ることの出来ない舞楽がここでは、今も村の若者達によって受け継がれているのです。
上鴨川住吉神社の神事舞、厳かに奉納 : KOTOコレ2017

 ここからは古代には中央の大寺院や神社で奉納されていた伎楽や舞楽が、地方に分社された神社にもたらされて、演目も変わりない形で演じられていたことが分かります。同時にそれを演じるのは、かつてのように旅芸人たちによるものではないのです。祭りの準備は「若い衆」と呼ばれる地元の若者達の手によって担われるようになります。    若者達は祭りを担当するだけでなく、その準備・運営を行う事によって将来の「村落共同体」の指導者を育成する役割も果たしていました。
上鴨川住吉神社の神事舞

 このようにして祭礼を通じて、惣郷のメンバー達は村落共同体への帰属心を高め、団結心を育んだのです。まさに祭りは「人を育て、村をまとめる」ためのイベントして機能していたことが分かります。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献             山路興造 中世芸能の底流
 第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に

このページのトップヘ