瀬戸の島から

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           充真院
   桜田門で井伊大老が暗殺された後、幕府は治安維持の観点から大名の妻子を本国に移すように政策転換します。井伊直弼大老の実姉で、日向の延岡藩・内藤家に嫁いでいた充真院も64歳で、始めて江戸を離れ、日向への長旅につきます。充真院は当時としては高齢ですが、好奇心や知識欲が強く、「何でも見てやろう」精神が強くて、旅の記録を残しています。彼女は、金毘羅さんに詣でていて、その記述量は帰省中に立ち寄った寺社の中で、他を圧倒しています。それだけ充真院の金毘羅さんへの信仰や関心が高かったようです。前回は、金毘羅門前町の桜屋までの行程を見てきました。今回はいよいよ参拝場面を見ていくことにします。テキストは  神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」です。
幕末大名夫人の寺社参詣

内町④にある桜屋で休息をとった後に、本社に向かって出発です
   金毘羅に参詣するためには、今も昔も坂町からの長い階段を登らなければなりません。運動不足の64歳の大名夫人に大丈夫なのでしょうか、不安に覚えてきます。充真院は「初の御坂は五間(900m)もあらん」と記しています。まず待ち構えていたのこの五間(900m)の坂道です。

金毘羅全図 1860年
金毘羅全図(1860年)
充真院はこの坂道のことを次のように記します。

「御山口の坂は、足場悪くてするするとすへり(滑り)、そうり(草履)ぬ(脱)けさるやういろいろ、やうよう人々にたすけられ、用意に薬水杯持しをのみ、やすみやすみて・・」

足元がすべりやすいため草履が脱げないように、御付に助けられながら登り始めます。すべりやすい坂道を苦労して登ることは、高齢で歩くことに不慣れ充真院にとって苦難だったようです。準備していた水を飲んだり、立ち止まったりしながら登ります。
ここで押さえておきたいことは、次の2点です。
①1863年段階の坂町の坂は、石段化されておらず、滑りやすい坂道であったこと。
②参拝用の「石段籠」を使っていないこと。石段籠は、まだ現れていなかった?

坂道を登りきると次は石段が続きます。幾折にも続く石段を見上げて「石段之高き坂いくつも有て」と記します。そのうちに、「行程々につけて気分悪く、とうきしけれと」とあるので、気分が悪くなり、動悸までするようになったようです。「高齢 + 運動不足」は、容赦なく襲ってきます。しかも、この日は6月半ばといっても蒸し暑かったようです。気分が悪くなったのは、無理もないことです。

金毘羅伽藍
金毘羅伽藍図 本坊が金光院

しかし、ここからがながら充真院の本領発揮です。

「ここ迄参詣せしに上らんも残念と思ひ」

と、せっかくここ迄やってきて、参詣できないのは残念である、体調不良を我慢して石段を登り続けるのです。タフなおばあちゃんです。
「かの鰐口有し御堂の前には、青色の鳥居有」
「近比納りし由にて、誠にひかひか(ぴかぴか)して有り」
と、あるので御堂の青色の鳥居の所まで、ようやくたどりつきます。
しかし、ここまでで充真院は疲れ切っていました。

「生(息)もた(絶)へなんと思ひ、死ひやうく(苦)るしく成」

と、息が出来なく成りそうな程であり、死んでしまうのではないかと思うほどの苦しさだったと記します。それでも諦めません。
「さあらは急にも及ぬる故、少し休て上る方よし」  
「とうろう(灯籠)の台石にこしか(腰掛)け休居」
方針転換して、急ぐ必要はないので少し休憩してから登ろうということにして灯籠の台座の石に腰掛けて休みます。休んでいる間も「マン・ウオチング」は続けています。盲目の人が杖にすがりながら降りてくるのが見えてきます。それを見て、体が不自由な人も信心を持って参拝しているのに、このまま疲れたからといって引き返すのは「残念、気分悪い」と充真院は思います。そして、次のように決意するのです。
「御宮前にて死度と思、行かねしはよくよくノ、はち(罰)当りし人といわれんも恥しくて、参らぬ印に気分悪と思へは猶々おそろしく」
「夫(それ)より、ひと度は拝し度と気をは(張)り」
「又々幾段ともなく登り」
「死ぬのなら御宮に参拝してから死にたい、参拝しなければ罰当たりであると人に言われるのは恥ずかしい、参拝せずに気分が悪いというのはなおさら畏れ多い。とにかく一度は参拝しようと固く決意したのだ。頑張ろう」と自分にむち打ちます。そして再び登り始めます。

金毘羅本社絵図
金毘羅本社
 こうして、充真院は御堂(本社)にたどりつきます。
「御堂の脇に上る頃は、め(目)もく(眩)らみ少しいき(息)つきて」
「御堂のわき(脇)なる上り段より 上りて拝しけれと」
本堂に到着する頃には目が眩み息が少し荒くなっていました。それでも、本堂の横の階段から本堂に上がり参拝します。その時に、疲れ切っているのに、御内陣を自分の目で確認しようとしています。
「目悪く御内神(陣)はいとくろう(暗く)してよくも拝しかねしおり、やうよう少し心落付しかは薄く見へ、うれしく」
「御守うけ度、又所々様へも上度候へ共」
「右様成事にて、只々心にて思へる計にて御宮をお(下)りぬ」
意訳変換しておくと

日頃から目が悪く、物が見えにくいことに加えて、本堂内が暗いのでよく見えなかった。が、心が落ちついてからは薄っすらと見えてきた。目が暗さに慣れたからであろう。薄くでも見えたのでうれしかった。お守を授与されたり、他の御堂にも上がって拝みたいと思ったけれど、疲れが甚だしく、さらに目の具合も悪いので、希望は心に留め置いて、本堂を退出して下山することにした。

観音堂 讃岐国名勝図会
本社横の観音堂

下山路の石段の手前には観音堂があります。

案内の人から観音堂に上がって拝むかと聞かれますが、「気分悪く上るもめんとう(面倒)」なので外から拝むに留めます。苦しくても、外から拝んでいるところが、信心の深さかもしれません。
充真院が御付に助けられながら下山していることは、金毘羅側にも伝わります。
「本坊へ立寄休よと僧の来たりて、いひしまゝしたかひて行し所」

社僧がやってきて、本坊にあがって休憩するよう勧めたようです。その好意に甘え本坊に上がりで休息することになります。

金光院 表書院
金毘羅本坊(金光院)の表書院
本坊とは金光院のことです。充真院は金光院側が休憩するために奥の座敷に通されます。その際に、途中で通過した部屋や周囲の様子を、詳しい記述と挿絵で残しています。

表書院5

まず、玄関については
「りっは(立派)成門有て、玄関には紫なる幕を張、一間計の石段を上り」

と記し、挿絵として玄関先の造り石段、幕、その横の邸獨の植え込みと塀を描いています。挿絵には「何れもうろ覚ながら書」と添え書きをしていていますが、的確に描写です。

金毘羅表書院玄関
          表書院玄関
 玄関には社僧らが充真院を出迎えに出てきています。
そこから一間(180㎝)程の高さの箱段を上り、次に右に進み、さらに左に進むと一間半(270㎝)程の箱段を上がると書院らしい広い座敷があるところの入側を進む。この右へ廻ると庭があり少し流れもあり、植木もあり、向こう側では普請をしています。

金刀比羅宮 表書院4
 表書院
 ここで体むのかと思うと、さらに奥に案内されます。そこに釣簾の下がる書院がありました。これが現在の奥書院のようです。ここには次の間と広座敷があり、広座敷には床の間と違棚がついています。さらに入端の奥から縁に出て右に曲がると箱段があります。ここを上り折れて進むと、板張りの廊下があり直ぐ横の二間(360㎝)程の細長い庭のところに小さな流れがありがあり、朱塗りの橋が二つ架っています。この流れは、表座敷に面した庭に注ぎます。その向いに立派な経堂、さらに段を上り奥へと導かれ、十二畳程の座敷も通り過ぎ、ようやく休憩の部屋にたどり着いています。

5年ぶりに金刀比羅宮の奥書院公開!! | 観光情報 | ホテルからのお知らせ | 琴平リバーサイドホテル【公式HP】
奥書院
その部屋は大きな衝立や台子の有る上座敷で、
「立三間、横二間も座敷金はり付、其上之間之中しきりにはみすも掛け」、

とあるので、縦は三間(540㎝)、横が二間(360㎝)の広さで、周囲を金箔で装飾した豪華な部屋で、座敷の中仕切りとして御簾がかけてあったようです。その隣の上座敷にも釣簾が掛り、畳が二枚敷いてあった。その部屋の向こうには入側があり、庭が広がります。その向こうに讃岐富士が借景として見えてきます。
「庭打こし、海之方みゆる、さぬき富士と云はあの山かと市右衛門尋しかは、左也と云」

庭に出て海の方向を眺めると山が見えたので、市右衛門があの山は讃岐富士かと寺の者に尋ねたところ、その通りとの答えが返ってきます。
第57話 神の庭(奥書院)と平安・雅の庭(表書院) | 金刀比羅宮 美の世界 | 四国新聞社
奥書院の「神の庭」

庭にはよく手入れを施した植木や石灯籠が配してあります。丸い形に整えた皐月は折しも花盛りであった。上段を通りその向こうは用所、左側に行くと茶座敷と水屋が設けてあります。それをさらに行くと次の間があり、向いに泉水や築山がある庭という配置です。
 このように充真院が書いた記録には、書院の間取りが詳しく書かれています。
さっきまで苦しくて抱えられて下りてきていた人物とは思えません。「間取りマニア」だった充真院が、好奇心旺盛に周囲を珍しそう見回しながら案内される様子が伝わってきそうです。
 充真院は周囲を見た後に「座に付は、茶・たはこ(煙草)盆(出)し候」と、ようやく部屋に座り、出された茶や煙草で一服します。それから「気分悪く少し休居候」と体を横たえて休息をとっています。
「枕とて、もふせん(毛氈)に奉書紙をまきて出し候まゝ、よくも気か付て趣向出来候とわら(笑)ひぬ」
「ねりやうかん(練羊羹)と千くわし(菓子)出し候、至て宜敷風味之由」
金光院側が枕に使うようにと毛離をおそらく巻くか畳んで、奉書紙をかけて整えたものが用意してあるのを見て、充真院は良く気がついてくれたうえ趣向があると、うれしく愉快に感じ笑っています。さらに、と、練り羊羹と千菓子も用意してくれてあり、たいへん美味しかったと記します。疲れ果てた体に甘いお菓子はおいしく感じたようです。
下図2が休憩した部屋の挿絵です。


裏書院4

上が部屋とその周囲の間取り図で、下が休憩した部屋を吹き抜け屋台の視点で立体的に描いたものです。建物の間取観察は、充真院の「マイブ-ム」であったことは以前にお話ししました。「体調不良」だったというのに、よく観察しています。記憶力もよかったのです。上の間取り図には金光院側が用意した茶椀や菓子皿、煙草盆までが描き込まれています。この辺りは、現在の女子高校生のノリです。
 充真院が休憩している間に「八ツ比(午後2時)頃になっていました。御付の者たちは、充真院が体調不良となり、その対応に追われたので、昼食も摂れていません。そこで充真院は
「皆々かわリかわりに下山してたへん」
「そのうちには私もよからん」
と、御付たちに交代しながら下山して食事を摂るように勧めています。その言葉通りに、しばらくして充真院は気分が良くなったので、桜屋に戻ることとになります。
 金光院は、門前に駕籠を待機させます。それに乗って下山します。そのルートについては、次のように記します。
「少し道かわり候哉、石段もなく、初之たらノヽ上りの坂に出、桜やに行く」

ここからは、上りの道とは違った石段のない坂道を下って、桜屋に向ったことが分かります。
以上から私が気になった点を挙げておきます
①充真院参拝についての金毘羅側の対応が鈍いこと。
大名参拝や代参などについては、事前の通知があり、そのための使者の応対マニュアルに基づいて準備します。しかし、この記録を見ると、金毘羅側は本宮に充真院一行が現れるまで、やって来ることを知らなかったような気配がします。大名夫人の参拝と分かってから本坊の表書院に案内したように見えます。前日に、お付きの女中が先行したのは何のためだったのでしょうか。
②どうして金毘羅門前町で一泊しないのか?
早朝夜明け前に、多度津港に係留した関舟からスタートして、夜8時を過ぎて船に帰ってきます。
どうして金比羅の桜屋に泊まらないのでしょうか。宿場の本陣と違って、大名専用貸し切りなどが出来ず、一般客との同宿を避けるためでしょうか。それとも、幕末の藩財政難のための経費の節減のためでしょうか。多度津でも、町の宿には泊まっていません。当時の大名も御座船宿泊で、港には潮待ち・風待ちのために入港するだけだったのでしょうか。この辺りのことは、今の私にはよく分かりません。今後の課題としておきます。

また、善通寺の知名度が低いのも気になることです。充真院の旅行記には善通寺のことが出てきません。門前を通過しているので、触れても良さそうなのですが・・・。東国では、金毘羅と善通寺では知名度に大きな差があったようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
     神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」

決壊中の満濃池
金毘羅領と天領三村

 金毘羅大権現のお膝元・松尾の里(金毘羅)は、金光院院主が領主とする幕府の朱印地でした。そのため課役免除など「治外法権」的な面を持っていました。その東側の榎井村は、満濃池領の天領地で代官所は倉敷にあり、目が届きにくい面がありました。ある意味、金毘羅・榎井村は「朱印地 + 天領」で、幕藩体制下のなかでは「権力の空白地帯」であったようです。それがある意味で、庶民的な自由をもたらし、時にはデカダン風俗等を流行らせ、思想的には幕末の尊王攘夷思想を培養したとも考えられます。同時に、その自由さが門前町こんぴらの顔(文化)と富(経済)を支える発展の基盤になっていたのかも知れません。

金毘羅門前 全体

    こんぴら門前町を支えたひとつに「遊郭」があります。
 「遊廓」については「悪所」として、文化的な立場から捉え直そうとする動きがあるようです。その視点は、次の通りです。

「遊所は身分制社会の「辺界」に成立した解放区「悪所」であったから、日常の秩序の論理や価値観にとらわれない精神の発露が可能であった」

「悪所=遊所」を、文化創造の発信源として、そのプラス面を捕らえ返そうとする視座のようです。
 金毘羅の遊女の変遷を、研究者は次のよう時代区分しています。。
①参詣客相手の酌取女が出没しはじめる元禄期
②酌取女及び茶屋(遊女宿)の存在を認めた文政期
③当局側の保護のもと繁栄のピークを迎えた天保期
④高級芸者の活躍する弘化~慶応期
  そして、最初は禁止されていた「遊女」が門前町の発展のために公認され、制度化されていくプロセスがあったことを以前にお話ししました。同時に「芸を売る」芸者の登場と共に、新たな「文化」の芽生えを感じさえてくれました。
 また、遊女たちを支配する茶屋は、参詣客に食事や遊女を提供するだけではありませんでした。芝居小屋をつくり、その興行を勧進し、見物席チケット販売に至るまで、マルチな営業活動を繰り広げるようになります。
 興行的には赤字を続けた芝居小屋を支えたのは、遊女達に課せられた負担金でした。遊女の支払う貢納金なしでは、芝居興業はできなかったのです。門前町こんぴらの賑わいを支えていたのは、茶屋・遊女たちの陰の存在だったかもしれません。

 金毘羅門前町 高灯籠 大正2年
大正3年の高灯籠
今回は、明治以後のこんぴら遊女をとりまく変化をたどってみようと思います。
 万延元年(1860)秋、北神苑(琴電琴平駅東)の高灯寵が完成します。東讃地方の砂糖会所が発願し、金参千両を募金してできたものです。その門標の碑表に『講外燈上断』とあり、その碑側に、狂歌一首が、私には読めないような流麗な筆使いで刻まれています。ざれうたとはいえ、こんぴらの遊女たちの置かれた姿をよく捉えています。
   紅灯緑酒卜遊女と客と町衆と
   引請は茶屋阿り多けに 置屋中
   給仕めし毛里(飯盛) 跡は志らん楚
引請は「支える」で、ここではお客の評判等としておきましょう。
茶屋は客に飲食、遊興等をさせることを業とする店で、料理茶屋、引手茶屋などで、その中核的存在が「遊廓」です。置屋とは、芸妓、娼妓を抱えておく屋方で、茶屋からの注文に応じて、芸娼妓を派遣する業者です。飯盛女は江戸時代の宿場等で、旅人の給仕を専業とし、ときには売春行為も兼業した。飲食を給仕し、酒の酌をする女で「酌取女」とも呼ばれました。
 こんぴらの遊里は、繁盛するにつれて、町宿と遊女のトラブルもひん発するようになります。町方諸役はその解決のために、
酌取女を置く宿を「茶屋」と呼び、
酌取女を置かない宿を「旅龍」
と区別して、遊女の公認化への道を開きました。

鞘橋・芝居小屋・内町
鞘橋から内町・金山寺町周辺

そのころは、札の前、坂町、内町、金山寺町がこんぴら遊里の中心街でした。
香川県史近世2を、要約すると次のようになります。

『文政七年(1824)頃は、金山寺町界隈が、「遊廓」の街並みであった。旅籠を差し引き、残り八十軒を茶屋とすると、平均三人の遊女がいたとすると全体で240人近くなる。これは当時の金毘羅人口の約十分の一に当たる。』

 金毘羅参拝には、精進落としがつきもので「信仰と快楽」が「コインの裏表」の関係にあったようです。庶民の息抜きの場が、こんぴら門前町という「権力の空白地帯」に形成されます。それを権力者たちも「特定地域の寺社所領地」へ誘い込み、限定することで「安全弁」として容認していた風にも見えます。
 人びとが逗留すれば、それに比例して街は活気を呼び、商いも繁昌します。当時のこんぴらは、今風にの「街起こしイベント(奇策)」にたけていました。その最大の催しが、金毘羅さんの「ご開帳」です。厨子のとばりを開けて中の秘仏を、庶民におがませる行事です。人々は、秘仏を拝み見るためにイナゴのようにやって来て、信仰心を満足させます。そして、次の快楽を求めます。そこで用意された接待が、富くじ、芝居小屋、見せもの小屋、茶屋、みやげ物店等々です。自然に盛り場は、人で溢れるようになったでしょう。
 富くじとは、富突または富とも云ったようです。

17 富くじ

木札と紙札とがペアになっていて、木札を原牌、紙札を影牌と呼びました。影牌を売り出し、期限がくると公開で原牌を箱の中に入れ、上部の孔から錐で原牌を突き刺し、当札を決めるシステムです。今の宝くじのルーツです。これは庶民のギャンブル心を刺激しました。金毘羅金光院院主の山下家と姻戚関係にある京の五撮家の一つ九條家が、幕府の許可を得て、興行されていたので、別名「九條富」とも呼ばれていたようです。現在の公認ギャンブルです。この当辺の決定日には、多くの人が詰めかけました。

宝くじのルーツ、江戸時代の禁止ギャンブル「富くじ」とは【1等いくら ...

「遊廓」からは遊興代(線香代、揚代等の名目)の賦課金を徴収していました。
これが、刎銀とも「不浄金」とも呼ばれた貢納金です。この積立金で、建てられたのが金丸座です。この建物は富興行の場として建てられたものを芝居小屋として使っていました。つまり現在の「金毘羅大芝居」の前身である金丸座は「遊廓」の遊女たちの稼ぎで建てられたことになります。はなやかな上方歌舞伎興行を陰で支えていたのは遊郭であったようです。今でも金山寺町(現・小松町)には「富場」の古称が残っているようです。
4344104-04象頭山と琴平
金毘羅大権現 金毘羅参詣名所図会
 こんぴらさんには朱印地の特権を利用して「飲む、打つ、買う」の三拍子揃った「諸人快楽の歓楽街」が形作られていたようです。それが幕末期の道中案内や名所記等で広く喧伝されます。当時の旅行記の定番は、だいたい以下のような内容でした。

『ことひらの町は、旅龍屋軒をならべ、みやげ物売る店もいらかを競うている、京、大坂、兵庫、室津・鞆港からも金毘羅船が出入りし、丸亀、多度津、善通寺、弥谷寺から道は全て金毘羅に通じている。」

 こうして、こんぴらさんは社寺参詣番付の上位ランクの常連として、巷間に伝えられていきます。人々は「一生に一度は金毘羅参り」が夢となります。
鞘橋 明治中頃
大祭時の鞘橋
 明治維新でこんぴらさんは、二つの試練を受けます。
ひとつは、明治維新の神仏分離です。これにより寺院伽藍から神社への変身を迫られました。
 もうひとつは、明治5年10月20日の「公娼制度解放令」です。
しかし、これは神仏分離れに比べると影響は少なかったようです。その後も、貧しい家の少女たちが年季奉公という法の網の目をくぐって人身売買は続きます。「家」のため遊郭に身を沈める子女が数多いたのです。かけ声だけに終わった「公娼制度解放令」でした。
   遊女たちにとって、大きな変化は明治30年に訪れます。
DSC01455
内町
金山寺町から新地遊廓(栄町)への集団移転
こんぴら門前町の遊廓は、金山寺(きんざんじ)町 にあり、茶屋・賭場・富くじ小屋・芝居小屋なども立ち並ぶ遊興の地の中にありました。遊女の出入りする茶屋と芝居小屋は背中合わせにあり、遊女と芝居小屋は「同居」していました。

金毘羅門前町 芝居小屋
芝居小屋(金丸座)と背中合わせにあった遊郭

つまり、吉原のように密閉化された存在ではなかったようです。そのため文明開化が進むと「一般の商店や旅館と遊女が混在するのは、風俗上問題がある」と云われ初めます。その対応として、茶屋を特定のエリアに集めるという方策がとられることになります。集団移転先として選ばれたのが金倉川の向岸です
 明治33 (1900)年に、遊廓は現在の栄町に移転され、新地と呼ばれるようになります。
金山寺町は色街という性格は、失いますが「琴検」 と呼ばれた芸妓検番が置かれ、娯楽の地として賑わいを続けます。

戦前の読売新聞は公娼制度を奴隷制度とみなしていた!? - Togetter

 金倉川畔の栄町に集団移転した遊郭は、大正末期に「琴平新地」と名前を改め、女の館は軒をつらねて色里を形成します。それは、戦後の一時期まで盛況を極め、親方連(棲主)はわが世の春を迎えます。
7 琴平遊郭1

戦前の新地遊廓(栄町)は?
 新地遊廓の北側の入口は、高灯籠の隣のコトデン琴平駅横になります。かつては、この前は食堂や観光案内所が立ち並んでいたようです。そして 戦前は約2000坪の空地で、凧揚げや盆踊りが催されていたようです。
 昭和10年(1935)頃、ここで矢野サーカスが1カ月ほど興行したり、大相撲が来たこともあるようです。 この頃の琴平は、JR以外 に琴電(コトデン)、琴参(コトサン) (昭和 38年廃線)、琴急 (コトキュウ)(昭和 19年廃線)の4つの鉄道が乗り入れていました。各線の駅も新駅が相次いで完成し、多くの参拝客が乗り降りします。
 当時の琴平には2軒の映画館があったようです。1軒は、金毘羅大芝居の小屋 ・金丸座を引き継いだものです。 もう1軒は栄町の新地遊廓に隣接していた金陵座です。 金陵座は明治末期に外観を金丸座を真似て建てられた劇場風映画館でした。
さて、戦前の新地遊郭を図1で見てみましょう
新地内は、貸座敷でほどんどが占められていたことが分かります。その周辺 に旅館、料亭、カフェーが立ち並んでいます。ここを利用するのは、参詣客が主だったようです。旅館や料亭には、金山寺町の 「琴検」から芸者連が御座敷に通ってきました。 カフェーの蓄音器から流行歌が流れ、女給達が外で熱心に客の呼び込みをし、客は酒を飲んで歌ったり、ダンスホールほど広くない店内の机の隙間でダンスを踊ったりもします。
 しかし、それも日中戦争が激化する昭和15年頃になると、御座敷は軍によって禁止されます。それでも、遊廓は残されたようです。そこには日曜日になると善通寺の11師団の兵隊連が大勢やってきました。武運長久を祈願し、その後は精進払いという段取りだったようです。
 戦時中になると新地遊廓の客は、以前とは打って変わって兵隊ばかりになります。しかし、それも、戦局が悪化すると新地を訪れる者はいなくなり、静まり返ってしまいます。

 戦後の琴平新地 栄町は? 
敗戦後、日本を占領統治したGHQ(連合国軍総司令部)は、昭和21年に「公娼廃止」の指令を出します。これで、公娼制度は消えたはずでした。
戦後日本の公娼制度廃止における警察の認識

しかし、内実は管理売春を禁止しただけで、個人の自由意志による売春は「自由恋愛」と称して、エリア限定で容認されます。同年十二月の内務省通達は、一定地域内での「特殊飲食店」の営業を認めます。そのエリアは、警察署の地図に赤い線に囲まれていましたから、これらの特飲街を総称して「赤線地帯」と呼ぶようになります。

7 琴平遊郭45

こうして遊郭は前後も、「赤線」として生き残ったようです。かつての遊女屋は、警察の許可をもらって、新たな特殊飲食店の名で公然と売春行為を続けます。看板が変わっただけのようです。

DSC01456栄町 稲荷神社
栄町の稲荷神社
 琴平の新地栄町も、その例外ではなかったようです。
 敗戦直後の様子を当時の新聞は、次のように伝えます。
こんぴらの街には通称「金山游廓」があった。明治の末期、この金山寺遊廓は発展的に解消して金倉川畔の現在地に集団移転、のち大正末期に「琴平新地」と改称され、現在にいたった。敗戦後の混乱期、とくに二十二年から二十五年までの四年間が一番もうけたと業者は述懐する。
 ○…当時の琴平町は労組の全国大会があいついで開かれ、地元は”労組ブーム”を現出した。その語り草の一つに、新地が一番歓迎したのがなんと日教組の代議員だったという。事実、ある業者は労組のなかで最高の水揚げ高を示したのが日教組だったといっている。三十軒、約百五十人の従業婦をかかえて文字通り、わが世の春をオウ歌していた
ここからは、琴平新地に活気が戻ってきたことが分かります。
そして、戦前に廃止された芸者が琴平の町に再び登場します。 昭和27年7月に、全国の花柳界に先がけて 「琴平技蛮学校」が開校します。この学校を卒業 した芸者達は、戦後の琴平観光名物の一つとなっていきます。
昭和30年代には、琴平には5軒の映画館がありました。
そのうち次の3軒は栄町に集まっていました。 
希望館は戦前からあった金陵座を改名したもの
日本館は昭和28年に建設され、ダンスホールを併設
琴平松竹座は昭和31年に建設され、深夜上映館
ここからも、栄町が琴平の娯楽の中心の盛場だったことがうかがえます。

DSC01454
琴平栄町

 この頃の思い出を、当時の人は次のように語っています
「夕方四時半 くらいになると、映画館が大音量でスピーカーからレコードの歌を流すんですね。これが今では考 えられないほど大きな音で、これは宣伝効果が大きかったですよ。ひとたび歌を聞いてしまうと、 じゃ、映画でも行くかって気分になってしまうんです。」
戦時中に、すべての娯楽が国策のもとに奪われていた人々は、映画に夢中になります。5軒の映画館は、映画会社が別系列だったため上映作品が違っていて、映画館のはしごをする人も少なくなかったようです。映画館が、娯楽の殿堂あった時代です。
DJYSKさん の人気ツイート - 1 - whotwi グラフィカルTwitter分析

これに対し、新地の「特殊飲食店」(赤線遊郭)は、参詣客が商売相手でした。
そのことを地元の人は次のように話しています。
「子供の頃は新地の中を通っていっても全く相手にされんかったけれど、戦後はハタチ超えてたからね。映画館行くのに新地通ると近道だったんで、よく中を通っていったけれど、たまに新人のねえさんに"兄さん遊んでいかんの~?"って腕をつかまれたりしましたよ。 それを見た顔見知 りのベテランさんが "これっ、あの人は地元の人だよっ" と新人さんをたしなめているんです。声が聞こえてきちゃうんですよ。 あの頃は道に女の人がいっぱい並んでいたよ。」

 新地は、一般の民家や旅館に隣接していましたが、塀や柵に囲まれることはありませんでした。

7 琴平遊郭2
 琴平栄町
しかし、参詣客用に新町通り側に2カ所の入口があり、そのうちの一方にはアーチが建てられ、「新地入口」と書かれた傘のついた電気がぶら下がっていたといいます。

7 琴平遊郭 稲荷神社42
琴平栄町の稲荷神社
 遊女と稲荷神社は切っても切れない関係です。
お稲荷さんは性的な感染病に効能があると信じられてきました。栄町にも、映画館の希望館 (金陵座)のとなりに、稲荷神社があります。この稲荷は栄稲荷神社と呼ばれ、毎年8月に栄町の有志で夏祭りが行なわれ、当時は氷屋、果物屋、アイス屋など露店商が立ち並び、賑わっていたと云います。
DSC01453栄町 遊郭跡

 琴平随一の盛り場として名を馳せていた琴平新地のネオンを消したのは「売春防止法」でした。
この法律の第一条(目的)には
「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ…(下略)」、とし第二条で売春を次のように定義します。
 (定義)「売春」とは、対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交することをいう」
この法律が昭和32年4月1日から施行され、刑事処分が翌年から課せられることになります。
7 琴平遊郭売春防止法

 香川県警本部防犯課調べによると、昭和三十二年九月時点で、琴平新地の業者は三十軒、接客婦八十四人。すでに六軒が廃業し、残り三分の一も休業状態とあります。
 接客婦の出身地別では、
四国以外が31、四国島内30人、香川県内23人、近郷1人。
年齢別は、40歳を最高に大正生まれ6人、最年少は19歳、残りすべてが昭和生まれで、20~25五歳がもっとも多かったようです。
最後に、こんぴら遊郭の最後を記した新聞記事を見てみましょう
   
 「赤い灯は消えた。こんぴら名所の一つ赤線地帯
            ③山陽新聞・香川版 昭和33年4月5日所収。

去月三十一日午後十二時の最後のどたん場まで店を張って六十有余年の遊郭史に終止符を打った琴平新地。売春防止法全面実施後の同地を訪ねて、業者の転廃業、従業婦のその後などをきいてみた。
 ○…転廃業期における琴平新地の二十八軒の業者のフトコロ具合は、三分の一は一年以上の食いのばし可能、三分の一は一年以内ならまず安泰、あとは足元に火のついたも同然の組だったらしい。そこで問題の転業実体をみると理髪店、お好み焼、オートバイ修理と販売、魚屋などはまじめな転向だが、「女の城」で蓄えた財産をもとに高利貸を開業したのが二軒ある。また棲主が老人だったり未亡人だったりして「簡易旅館への板替」というのもある。
「検番事務所」は三十一日から「売家」のハリ紙が出されている。

昭和の記録と記憶(1958年) - 暮らしのなかで

○従業婦の更生保護の面はどうなったか。
スズメの涙ほどの更生資金の貸付を受けて自立しようとした者は1人もいない。その原因は貸付の条件がきびしいことやわずか数万円で抱束を受けたくないという女性心理が動いているためといわれる。最後まで店を張った五十余人の女性は、それぞれ棲主から最高二万円の退職金と旅費をもらって帰郷したというが、退職金名義にしろ、万と名のつく金を支給したのはほんの数軒、大半は旅費支給程度だった。
 これについて十川元副組合長は「業者もそれぞれフトコロ具合が違う。組合で統一の話も出たが実現不可能だった。それに従業婦自身もすでに今日あることをよく知っており、中には銀行預金八十余万円という者もあり、例外は別として、平均数万円の貯金はしているので、衝突はなかった」といっている。
新潟日報昭和三十三年(売春防止法施行時)の新聞記事 | お散歩日記

○…明るい話題の一つを拾うと
なじみ客とのロマンスが実を結び結婚にゴールインしたのが五組ある。だがこの半面には帰郷後、出身地で安住できる可能性のある者は約二割程度、その八割近くは帰っても家が貧しかったり、複雑な家族関係だったりして身のふり方にも困る気の毒な女性たちだ。
 抱え主さえどこへ行ったかわからない者、さらに行くあてのない従業婦が各棲にまだ二、三人は残留している。これらは毎月、家族(親ないし子供)ヘー万円近い送金をつづけていたクラスで、A子さんは「いまさら別の働き口を捜しても食って、着て、家に送金できる仕事はない。やはり水商売の世界に身を沈めるより仕方がない」と告白していた。
 一方帰郷したものの周囲の人々の異端者扱いや白眼視にがまんできないと再び舞いもどった例もある。普通旅館の仲居さんや土産品店の売子に転向した者もすでに半数近くが辛抱できず姿を消したという。これらの実例を拾ってゆくと、やはり場末の酒場や青線地帯へ流れ込んで。単独売春やひモ付売春のケースに再び転落しているのが実情といわれ、結局、いままでの赤線売春から潜行売春に移り変るものが多いと関係筋はみている。』

7 琴平遊郭7

こうして昭和33(1958)年に琴平新地遊廓の60年間の歴史は閉じました。
その後の栄町は、ソープランドやバー ・スナックが散在する 「夜の街」という性格は今でも持ち続けています。赤線当時は参詣客が主でしたが、今は地元の常連客がほとんどになっているようです。 栄町は、参詣客を相手にした門前町特有の賑やかな 色街から、赤線廃止後徐々に、地元の人に利用されるこじんまりとした小盛り場へと変遷してきたようです。
    おつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
因藤泉石  こんぴら遊廓覚書 
『売春防止法施行』で消えた赤線地帯  こんぴら 50号

 前 島 裕 美(まえしま ・ひろみ)
お茶の水女子大学大学院人間文化研究科
 香川県仲多度郡琴平町新地遊廓周辺の復原


 西遊草 (岩波文庫) | 清河 八郎 |本 | 通販 | Amazon

    前回は幕末の志士清川八郎が母親と金毘羅大権現を参拝したときの記録『西遊草』を見てみました。しかし、まだ金毘羅さんの山下までしか進んでいません。今回は階段を上って、境内に入っていきましょう。早速、『西遊草』本文を読んでいきましょう。

4344104-36大門前
大門(仁王門)手前の石段 (讃岐国名勝図解)
原文 
 市中より八丁ばかり急にのぼり、二王門を得る。いわゆる山門なり。「象頭山」といふ額あり。是まで家両岸に連れり。是よりは左右石の玉垣にて、燈篭をならべ、桜を植をきたり。
 壱丁余のぼりて右のかたに本坊あり。金毘羅の札をいだすところにて、守を乞ふもの群りあり。実にも金銀の入る事をびただしく、天下無双のさかんなる事なり。吾等も開帳札を乞ひ、夫より石段をのぼり、いろいろの末社あり。
意訳
  麓から8丁(800㍍)ほどの急な上りで仁王門に着く。山門で「象頭山」の額が掲げられている。ここまで階段の両側には店が連なっている。しかし、この仁王門から先は、左右は石の玉垣で、灯籠が並び、そこに桜が植えられている。
  一丁ほど行くと右手に本坊(別当寺の金光院、現在の表書院)がある。ここで金毘羅の札をもらう人たちが大勢詰めかけている。これだけの人が求めるので、金銀の実入りも大したものであろう。私たちもここで開帳札をいただく。本坊を後にして石段を登ると、いろいろな末社が迎えてくれる。
1 金毘羅 伽藍図1

①幕末の時点で、仁王門(現大門)まで、石段と玉垣の整備されていたようです。さらに仁王門から先の平坦地には、すでに桜が植えられていたことが分かります。現在では、ここを桜馬場と呼んでいます。桜馬場の右手には、金光院に従って金毘羅領を統治する各坊が現在の大門から宝物館に架けて並んでいました。そして、一番上にあるのが「お山の領主サマ」の陣屋=本坊(金光院)です。
1 金毘羅 伽藍図2

②金毘羅の札も本殿ではなく本坊(金光院=表書院)で、取り扱っていたことが分かります。清川八郎もここで御札を求めています。本坊(金光院)は、神仏分離後は社務所となります。

4344104-33金光院
金光院本坊 讃岐国名勝図解

17世紀までの参道は、金光院の所で右折していました。それが18世紀になると参道は左折するようになったようです。その参道をさらに行くと、大きな建物が前方に姿を現します。現在の旭社(旧金堂)です。
  
4344104-31多宝塔・旭社・二王門
薬師堂(金堂:現旭社)と多宝塔
原典 
壱丁ばかりにして、左の側、山にそひ、薬師堂(現旭社)あり。高さ五重塔の如くにて、結構を尽せし事いわんかたなけれども、近年の作りし宮ゆへ、彫ものなど古代のものに比すれば野鄙なる事なり。されど金銀にいとわず建立せしものと見へ、近国にて新規の宮の第一といふべし。前に参詣のもの休み廊下あり、是より参宮下向道と分る。
   中門あり。
至て古く見ゆ。天正甲申の年、長曾我部元親の賢木を以て建しものとぞ。少しはなれ、右に鐘楼あり。生駒侯のたつるところなり。鼓楼、清少納言の塚などあり。是より左右玉垣の中に讃岐守頼重公累代奉納の燈篭並びあり。夫外土佐侯、または京極侯の奉納あり。
意訳
一丁ばかり行くと左の山裾に薬師堂(金堂)が現れる。高さが五重塔ほどもあって、技術の粋をあつめたもののようだが、近年に作られた建物なので、彫物などは古代のものと比べると野卑で劣る。しかし、お金に糸目をつけずに建立したものだけあって、この付近で近年に作られた寺社建築としてはNO1のできばえといえるだろう。この薬師堂の前に、回廊が参拝者のための休憩所として提供されている。ここで、往路と帰路が別れる。
  往路を行くと中門がある。かなり古い建物に見える。長宗我部元親の寄進した木材で建てられたと云う。少し離れて鐘楼がある。これは生駒氏が寄進したものである。その他にも鼓楼や清少納言の塚がある。それから先には、高松藩祖の松平頼重が5回に分けて寄進した灯籠が並ぶ。他には土佐山内氏や丸亀京極氏の灯籠も見られる。
★「讃岐名所圖會」にみる金刀毘羅宮konpira2

①本坊(現表書院)から階段を上っていくと、大きな建物が現れてきます。これが現在の旭社です。
  「近年に作られた建物なので、彫物などは古代のものと比べると野卑で劣る」

と、古代の彫刻や建築物の方が雅で優れいるという清川八郎の美意識がうかがえます。本居宣長的なものの見方をもっています。そのため金毘羅大権現の「経営方針」などにも批判的な見方が所々に現れてきます。  しかし「近国にて新規の宮の第一といふべし」と、建物のできばえは評価しています。八郎は、この建物を「薬師堂」と記していますが実は、これは観音堂です。以前は薬師堂が建っていました。2年前に観音堂として完成したばかりでした。
「金堂上梁式の誌」には、次のように記されています。

「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」

DSC04048旭社

 今は旭社と呼ばれていますが文化3年(1806)の発願から40年をかけて仏教寺院の金堂として建立されました。そのため、建立当時は中には本尊の観音菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたといいます。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは破棄・焼却され今は何もなくがらーんとした空洞になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。これを八郎も見上げたのでしょう。
 この後には清水次郎長の代参のために森の石松がやってきます。
この金堂に詣って参拝を終えたと思い、本殿には詣らずに帰つたという俗話が知られています。確かに規模でも壮麗さでも、この金堂がこんぴらさんの中心と合点しても不思議ではなかったようです。
  金堂前の空間には灯籠が立ち並び、その下の空間には大きな多宝塔もあったことが当時の配置図からは分かります。まさに、旭社周辺は「仏教伽藍エリア」だったようです。それを、清河八郎は少し苦々しく思いながら本殿に進んでいったのかもしれません。
金毘羅山旭社・多宝塔1

  旭社から往路を進むと門をくぐります。戦国時代に土佐の長宗我部元親が寄進した門と伝えられます。明治になると「賢木(さかき)門」と呼ばれるようになり、寄進者の元親を貶めるエピソードと共に語られるようになります。後に、松平頼重によって仁王門が寄進されると、そちらが大門、この門が中門(二天門)と呼ばれるようになります。
  「右に鐘楼あり。生駒侯のたつるところなり。鼓楼、清少納言の塚などあり。」

とあります。現在の清少納言塚は大門の外にありますので、明治になって移されたようです。

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金毘羅大権現本殿  原文
 本殿は五彩色にして小さき宮なれども、うつくしき事をびただし。殊に参詣のもの多く群がりて、開帳も忽疎(おろそかである。なおざりにする。)にしてすぎたり。本殿の左より讃岐富士、また海、山、里などを一目に見をろし、景色かぎりなく、暫らく休み、詠めありぬ。本殿の側に銅馬、其他末社多くありて、さみしからぬ境地なり。
 殊に金毘羅は数十年已来より天下のもの信崇せぬものなく、伊勢同様に遠国よりあつまり、そのうへ船頭どもの殊の外あがむる神故、舟持共より奉納ものをびただしく、ゆへに山下より本殿までの中、左右玉垣の奇麗なる事、外になき結構なり。数十年前までは格別盛なる事もなかりきに、
近頃追々ひらけたるは、神も時により顕晦するものならん。いまは天下に肩をならべる盛なる神仏にて、伊勢を外にして浅草、善光寺より外に比すべき処もなからん。

神威のいちぢるしき事は、また人のしるところにして、金毘羅入口に朝川善庵の文をかきたる大石の碑にしたあめあり。神の縁記を委しくしらざれば、ここにしるさず。
 夫より備前やに帰り、一杯をかたむけ、象頭山のかたわきを七拾丁歩みて、山のうらにて善通寺にいたり、ハツ頃に山門の前なる内田や甚右衛門にやどる。
 
4344104-39夜の客引き 金山寺
4344104-07金毘羅大権現 本殿 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現本社 讃岐国名勝図解
意訳
  本殿は五色に彩られ小さな建物ではあるが、美しいことには限りない。しかし、参拝者が多く群がり、開帳を忽疎(おろそか・なおざり)にしてすぎているように思える。本殿の左からは讃岐富士、海・山・里が一望できる素晴らしい景色が広がる。しばらく休息し、詩句などを作る。本殿の側には銅馬や、摂社が多く立ち並ぶ。

4344104-08観音堂・絵馬堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂
  金毘羅は数十年程前から全国の人々から信仰を集めるように、伊勢神宮と同じように遠くから参拝者が集まるようになった。特に水上関係者の信仰が厚く、船主の奉納品がおびただしい。そして、麓から本殿まで玉垣が途絶えることなく奇麗にめぐらされている。このような姿は、他の神社では見たことがない。
 数十年前まではそれほど参拝客が多いわけでもなく、建物も未整備であったのが近頃になって急速に台頭してきたのは、神様の思し召しなのであろうか。今では天下に肩を並べる神社としては、伊勢は別にしても、江戸の浅草か長野の善光寺くらいであろうか。
  神威については、世間の人々がよく知るところで金毘羅の入口にも、朝川善庵(松浦侯儒官。名は鼎、宇は五鼎、号は善庵。江戸の人。古学派)による由緒が大きな碑文に刻まれていた。神の縁起を詳しく知らないので、ここには記さない。荷物を預けた備前屋に帰り、精進落としに一献傾けてから善通寺に向かう。象頭山の山裾を70丁(約7㎞)あるいて、善通寺に八つ頃(午後3時)についた。宿は山門前の内田屋甚右衛門にとった。

ここでも建物や眺望は褒めながらも、寺社の運営については「参詣のもの多く群がりて、開帳も忽疎(おろそかである。なおざりにする。)にしてすぎたり」と批判的に書かれています。数多く押し寄せる参拝客への対応が粗略に感じられたこともあるのでしょう。
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本殿よりの丸亀平野や瀬戸内海の眺望 讃岐富士がおむすびのよう

 その後の金毘羅大権現の発展ぶりについて
「数十年前までは格別盛なる事もなかりきに、近頃追々ひらけ・・・」
金毘羅は数十年程前から全国の人々から信仰を集めるように、」
と記されている点が興味深いところです。金毘羅は数十年ほど前まではたいしたことはなかったのに、突然のように全国から人々が参拝に訪れるようになったといいます。そこには、金毘羅は、古くからの神ではなく数十年前から全国に広まった「流行神」であると認識していたことがうかがえます。その流行神の急速な発展ぶりに、驚いているような感じです。

4344104-13鞘橋 潮川神事と阿波町
金刀比羅宮 鞘橋を渡る頭人行列

「金毘羅入口に朝川善庵の文をかきたる大石の碑にしたあめあり。神の縁記を委しくしらざれば、ここにしるさず。」

には、そのまま素直に受け取れない所が私にはあります。流行神として勃興著しい金毘羅に対して、批判的な目で眺めている八郎です。その彼が「神の縁記(由緒)を委しくしらざれば、ここにしるさず。」というのは素直には受け取れません。彼の知識からすれば書きたくない内容の由緒であったのではないかと穿った見方をしています。

DSC01390善通寺
  善通寺(当時は五重塔はない)
   善通寺は弘法大師の誕生の地にして、至ってやかましき勅願所なり。されども宮は格別誉むべきほどの結構にもあらず。本堂の前に大師衣かけ松あり。三本の中にいづれも高大なるふりよき松なり。松の下に池あり。御影の池といふ。古しへ大師入唐せんとせし時、母のなげきにたへず、法を以て此池水にその身の影をのこせし池とぞ。善通寺といふももと大師の父善通(よしみち)の宮居せし処ゆへ、名づくるとぞ。その外名処もあらんなれど、さある事もなければ略しぬ
意訳
 善通寺は弘法大師の生誕の地であり、勅願所である。しかし、伽藍はさほどたいしたことはなく立派でもない。本堂の前に大師の衣架け松があり、3本とも高く枝振りもいい。松の下には池がある。御影池という。弘法大師が入唐の際に母の悲しみや心配・不安を除くために、この池の水面に自分の姿を写し残したと伝えられる。善通寺という名前も、もともとは大師の父善通からとられたものだという。その他に名所と云われるところはあるが、たいしたことは無いので省略する。
 
1丸亀金毘羅案内図1

当時は丸亀港にやってきた金毘羅参拝客は
「丸亀 → 金毘羅 → 善通寺 → 曼荼羅寺(出釈迦寺が後に独立) → 弥谷寺 → 海岸寺 → 道隆寺 → 金蔵寺 → 丸亀」

と巡礼していたようです。これは、もともと地元の人たちが行っていた「七ヶ寺参り」を、金毘羅参拝客も巡礼するようになったようです。ここには、地元の「地域巡礼」を全国区の巡礼エリアにグレードアップするための仕掛け人がいたはずです。それについては、以前お話ししましたので省略します。
 




八郎は国学的な素養をベースにした教養人ですから仏教寺院については、どちらかというと辛口に評価する傾向があるようです。善通寺についても、空海の生誕地であることのみで「その外名処もあらんなれど、さある事もなければ略しぬ」といたって簡単です。

 この後に、母子は新しく完成したばかりの多度津新港から宮島方面に向けて、出港していきます。清河八郎が幕末の激流の中に飛び込んでいく前の母との「思い出旅行」だったのかもしれません。しかし、記録をのこしてくれたおかげで170年後の私たちは、当時のことを知る大きな手がかりとなります。感謝

金毘羅さんの大祭は10月10日に行われるので、地元では「お十日(おとうか)さん」と呼ばれています。
大祭5
 現在の祭は、十月九日十日十一日のいわゆるお頭人(とうにん)さんとよんでいる祭礼行列です。これは十月十日の夜、本社から山を下って神事場すなわちお旅所まで神幸し、十一日の早朝からお旅所でかずかずの神事があり、十一日は山を上って再び本社まで帰るというスケジュールです。
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しかし、本社をスタートしてお旅所まで神幸し、そこで一日留まり、翌々日に本社に還幸するという今のスタイルは、神仏分離以後のもののようです。それ以前は、神事場もありませんから「旅所への神幸」という祭礼パレードも山上で行われていたのです。
その祭がどんなものであったか「金毘羅山名勝図会」の記述で見てみましょう。
「金毘羅山名勝図会」は19世紀前半に上下二巻が成立したものです。これを読むと大祭は次のふたつに分けて考える事が出来るようです
山麓の精進屋で何日にもわたる物忌と
その忌み龍りの後で、山上で行なわれる各種神事
そして、江戸時代に人々が最も楽しみにしたのが山麓から山上の本宮に到る頭人出仕の行列で、それが盛大なイヴェント委だったようです。当時の祭礼行列は下るのではなく、本宮に向けて登っていたのです
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大祭行事に地元の人たちはどんな形で参加していたのでしょうか
 金毘羅大権現が鎮座する小松荘は苗田、榎井、四条、五条の四村からなります。この四村の中には石井、守屋、阿部、岡部、泉、本荘、田附の七軒の有力な家があって、その七軒の家を荘官とよんでいました。大頭人になるのはこの七軒の家の者に限っていました。中世の宮座にあたる家筋です。その家々が、年々順ぐりに大頭人を勤めることになっていたようです。
9月1日がくると大頭屋の家に「精進屋」と呼ぶ藁葺きの家を建てます。柱はほりたてで壁は藁しとみで、白布の幕が張られます。その家の心柱の根には、五穀の種が埋められます。
9月8日は潮川の神事です。
この日がくると瀬戸内海に面した多度津から持って来た樽に入れた潮と苅藻葉を神事場の石淵に置き、これを川上から流して頭人、頭屋などが潮垢離をします。この日から男女の頭人と、瓶取り婆は毎日三度ずつ垢離を取り、精進潔斎で精進屋で忌みごもりをするのです。
9月9日は大頭屋の家へ、別当はじめ諸役人が集まります。
青竹の先に葉が着づきのままご幣をつけて精進屋の五穀を埋めた柱のところへ結びつけて、その竹を棟より少し高く立てます。
9月10日はトマリソメと言って、この日から大頭屋の家の精進屋で頭人たりちが正式に泊ります。
10月1日は小神事です。
10月6日は「指合の神事」です。
来年の頭屋について打合せる神富が大頭屋の家の精進屋で行なわれます。この時に板付き餅といって、扇の形をした檜の板の上に餅をおき板でしめつけます。これはクツカタ餅ともよばれます。この餅は三日参り(ミツカマイリ)の時の別当や頭司、山百姓などの食べるものだといいます。
10月7日は小頭屋指合の神事です。
10月10日は、いよいよ頭人が山上に出仕する日です。
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頭人は烏帽子をかぶり白衣騎馬で武家の身なりで出かけます。先頭には甑取りの姥が緋のうちかけで馬に乗って行きます。アツタジョロウ又はヤハタグチと呼ばれるこの姥は月水のない老婆の役目です。乗馬の列もあって大名行列になぞらえた仮装パレードで麓から本社への坂や階段を登って行きます。この仮装行列が祭りの一番の見世物となります。
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頭人は金光院の客殿で饗応をうけ、本社へ参詣し、最後に三十番神社で奉幣をします。
10月11日は、観音堂で饗応の後、神輿をかつぎ出して観音堂のまわりを三度まわります。これが行堂めぐりです。ここには他社の祭礼に見るようなミタマウツシの神事もなく、神輿は「奥坊主」が担ぎます。
 神輿には頭人が供奉します
頭人は草鮭をはき、杖をついて諜(ゆかけ)を身につけます。このゆかけは、牛の皮をはぎとって七日の内に作ったもので臭気があるといいます。そして杵を四本かついで行きます。小頭人は花桶花寵を肩にかけて行きます。山百姓(五人百姓)は金毘羅大権現のお伴をしてやって来た家筋の者ですが、この人たちは錐やみそこしや杓子等を持って行列に参加します。そして神輿が観音堂を三巡りすると、神事は終わりとなります。
金毘羅山本山図1

 この神事が終わると、観音堂で祭事に用いた膳具のすべては縁側から下へ捨てます。
祭事に参加した者はもとより、すべての人々がこの夜は境内から出て行きます。一年中でこの夜だけは誰も神前からいなくなるのです。この日神事に使った箸は木の根や石の下などに埋めておく。また箸はその夜、ここから五里ばかり離れた阿波の箸倉山(現在三好郡池田町)へ守護神が運んで行くともいわれます。

金毘羅参詣名所圖會」に見る象頭山松尾寺金光院zozuzan

11日の祭事が終わると、山を下りて精進屋へ行き小豆飯を炊いて七十五膳供えます。
14日は三日参りの式です。これは頭屋渡しとも云われ、本年の頭屋から来年の頭屋へと頭屋の仕事を引き渡す儀式です。
16日は火被の神事で、はらい川で精進屋を火にかけて焼きます。
 以上が「金毘羅山名勝図会」に記録された金毘羅大祭式の記事です。
江戸末期の文化年間の金毘羅大権現の祭礼はこのようなものでした。これを読んでいると分からないことが増えていきます。それをひとつひとつ追いかけてみましょう。
DSC01214
大祭の1ヶ月以上前から大頭人を担当する家では、頭人の忌み寵りの神事が始まっています。
大頭屋は小松荘の苗田、榎井、四条、五条の荘官の中より選ばれていました。しかし、これらの村々には次のような古くからの氏神があって、いずれもその氏子です。
 苗田  石井八幡
 榎井  春日神社
 四条  各社入り組む
 五条  大井八幡
これらの社の氏子が大祭には金毘羅大権現の氏子として参加することになります。これは地元神社の氏子であり、金毘羅さんの氏子であるという二面性を持つことになります。現在でも琴平の祭りは「氏子祭り」と「大祭」は別日程で行われています。
それでは「氏神」と「金毘羅さん」では、成立はどちらが先なのでしょうか。
 これは、金毘羅大権現の大祭の方が後のようです。金比羅さんが朱印領となった江戸時代になってから、いつとはなく金毘羅大権現の氏子と言われ始めたようです。ここにも金毘羅大権現は古代に遡るものではなく、近世になって登場してきたものであることがうかがえます。
DSC01211
鞘橋(一の橋)を渡って山上に登る祭礼行列

次に、およそ二ヶ月にもおよぶ長い忌寵の祭です。
これは大頭屋の家に建てられる「精進屋」で行なわれます。
「精進屋」の心柱の下には五穀の種子を埋めるとありました。その年に穫れたもので、忌寵の神事の過程で五穀の種子の再生を願う古代以来の信仰から来ていると研究者は考えています。
 また、五穀の種子を埋めた柱に結わえつけた青竹を、棟より高くかかげて立てて、その尖端は青竹の葉をそのままにしておいて、ご幣を立てるとあります。これは「名勝図会」の説明によると「遠く見ゆるためなり、不浄を忌む故なり」と述べていまますが、やはり神の依代でしょう。ここからは精進屋が、頭人達の忌寵の場というだけでなく、神を招きおろすための神屋であったことがうかがえます。

DSC01362
元禄の祭礼屛風
 明治の神仏分離で大祭は大きく変化しました。例えば今は、神輿行列は本社から長い石段を下りて新しく造営された神事場へ下りてきて、一夜を過ごします。しかし、明治以前は、十月十日に大頭屋の家から行列を作って山上に登っていく行列でした。
DSC01332
 祭礼行列に参加する人たちが「仮装」して高松街道をやってくる様子

その行列の先頭にアツタジョロウとよぶ甑取りの姥が参加するのはどうしてでしょうか
 甑取りというのは神に供えるための神酒をかもす役目の女性です。それがもはや月水のない女であるということは、古代以来の忌を守っていることを示すものと研究者は指摘します。
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木戸を祭礼行列の参加者が入って行くのを見守る参拝者達

三十番社について
 山上に登った頭人は本社へ参詣してから三十番神社へ詣でて奉幣すると記されますが、三十番神社については古くからこんな伝承が残っています。
 三十番神社はもともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやって来て、この地を十年間ばかり貸してくれと言った。そこで三十番神が承知をすると大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった
と云うのです。
 このような神様の「乗っ取り伝承」は、他の霊山などにもあり、金毘羅山だけのものではありません。ここでは三十番神がもともとの地主神であって、あとからやって来た客神が金毘羅大権現なのを物語る説話として受け止めておきましょう。なにしろ、この大祭自体が三十番社の祭礼を、金毘羅大権現が「乗っ取った祭礼」なのですから。
 本社と三十番神に奉幣するというのは、研究者の興味をかき立てる所のようです。
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祭礼後の膳具は、どこへいくのか?
山上における祭は十日の観音堂における頭人の会食と、十一日の同じ献立による会食、それからのちの神輿の行堂巡りが主なものです。繰り返しますが、この時代はお堂のめぐりを廻るだけ終わっていたのです。行列は下には下りてきませんでした。
 諸式終わると膳具を全て観音堂の縁側より捨てるのです。これを研究者は「神霊との食い別れ」と考えているようです。そしてこの夜は、御山に誰も登山しないというのは、暗闇の状態を作りだし、この日を以って神事が終わりで、神霊はいずれかへ去って行こうとする、その神霊の姿を見てはならないという考えからくるものと研究者達は指摘します。
 翌日、観音堂の縁側より捨てられた膳具はなくなっています。神霊と共に、いずれかへ去って行てしまったというのです。どこへ去って行ったのか?

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 ここに登場するのが阿波の箸蔵寺です。
この寺は
「祭礼に使われた箸は箸蔵寺に飛んでくる」
と言い出します。その所以は
「箸蔵山は空海が修行中に象頭山から帰ってきた金毘羅大権現に出会った山であること、この山が金毘羅大権現の奥の院であること、そのために空海が建立したのが箸蔵寺であること」
という箸蔵寺の由緒書きです。
金毘羅大権現 箸蔵寺2

私の興味があるのは、箸を運んだ(飛ばした?)のは誰かということです?
 祭りの後の真っ暗な金比羅のお山から箸倉山に飛び去って行く神霊の姿、そして膳具。なにか中世説話の「鉢飛ばし」の絵図を思い浮かべてしまいます。私は、ここに登場するのが天狗ではないかと考えています。中世末期の金毘羅のお山を支配したのは修験者たちです。箸蔵寺も近世には、阿波修験道のひとつの拠点になっていきます。そして、金毘羅さんの現在の奥社には、修験者の宥盛が神として祀られ、彼が行場とした断崖には天狗の面が掲げられています。箸倉寺の本堂には今も、烏天狗と子天狗が祀つられています。天狗=修験道=金毘羅神で、金比羅山と箸蔵山は結ばれていったようです。それは、多分に箸蔵寺の押しかけ女房的なアプローチではなかったかとは思いますが・・・
 天狗登場以前の形は十一日の深夜に神霊がはるかなる山に去って行くと考えていたのでしょう。いずれにしても十一日の夜は、この大祭のもっとも慎み深い日であったようです。


 
DSC01362

以前にも紹介した讃岐の金毘羅宮の「元禄祭礼図屛風」で、歌舞伎や人形浄瑠璃の芝居小屋について、説明不足だと指摘されました。その部分のみを補足します。

DSC01342 鞘橋 こりとり


 この屛風図は右隻は金倉川を真ん中にして、鞘橋を渡る「頭人行列」を始めとして金毘羅参りで賑わう参道の光景を描いています。まずは、鞘橋付近の情景です。
DSC01344 鞘橋 コリトリ


金倉川で身を清めて山上へ参拝を済ませます。その後は、精進落としのお楽しみです。内町から南の金山寺の道に入っていくと・・
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金倉川の河畔には、歌舞伎や相撲・見世物などの小屋が六座描かれており、道も溢れんばかりの賑わいぶりを見せています。よく見ると川沿いに建てられた曲芸などの見世物小屋が二本の御幣をたてるだけで、寂しげな感じがします。それに対して、道を隔てた西側は歌舞伎や人形芝居・相撲興行の小屋は共に槍を横たえた櫓を上げ、看板も掲げた立派なものです。
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 黒い幕を張った人形芝居の小屋が描かれています。
地方興行ということで、周囲を竹矢来で囲んだ小屋で、櫓の下の鼠木戸の部分だけが板塀です。そのため後ろ側の囲いの横には、木戸銭を払わずに鐘の隙間から覗き見をする人がいます。舞台は櫓の正面には、位置していないように見えますが研究者によれば、絵師が舞台を描こうとしたための構図上の問題とされます。小屋の中には桟敷席らしきものはありません。見物人は土間に腰を下ろして舞台を見上げています。舞台は平側を正面にした建物の中央部分に切妻の屋根をのせたような形になっています。
 人形が出ている手摺は二段です。全体の手摺の形式は「西鶴諸国はなし」のものとよく似ていると専門家は指摘します。
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 舞台を数えると八体の武者人形が出ています。さらに「本手摺」の前に「前手摺」には、二体の人形が出ています。上手と下手には山の装置が置かれていて、人形は中央部に出ているようです。
低い手摺を使用する場合には、地面を掘り下げることもあったようです。
『尾陽戯場事始』に
「享保二丁酉より戌年頃 稲荷社内にて稽古浄瑠璃といふ事はじまり 手摺一重にひきくして 地を掘り通し 其中にて人形をつかへり 尤人形の数 五つ六つに限る」

とあります。浄瑠璃にも地面を掘って低い手摺を使ったことが分かります。

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   金山寺町は、元禄時代には精進落としの街として、芝居小屋や人形小屋・相撲興行・見世物小屋が立ち並ぶ空間として繁盛するようになります。そして百年後にはここに常設小屋の金丸座が姿を現すことになります。
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  元禄祭礼図屏風の全体像については、こちらで紹介しました。
      
 参考文献
 人形舞台史研究会編、「人形浄瑠璃舞台史 第二章 古浄瑠璃、義太夫節併行時代」

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  イメージ 8 
幕末に四国の金毘羅門前町の丸亀街道の一里塚に、姿を現したのがこの高灯籠です。
この灯籠の建設資金
総工費3,000両は、寒川を中心とする東讃岐の砂糖作りに関わる人たちの寄進で賄われました。これだけの募金が集められた高松藩の砂糖産業について見ていきましょう。
 砂糖は、讃岐三白の一つとして塩と綿とともにその名が知られるようになります。現在でも、高級甘味料「和三盆」として生産が続けられています。
関連画像
和三盆糖
砂糖生産の始まりは?
 讃岐国は昔から水不足に悩まされてきました。この克服のために、高松藩五代藩主松平頼恭は干害に比較的強いサトウキビ(甘薦)の栽培に注目し、鹿児島藩からの技術導入を図ります。藩命を受けた藩医池田玄丈や大内郡湊村(東かがわ市湊)の医師向山周慶ら多くの人々の努力によって、サトウキビの栽培、製糖の技術や砂糖づくりの道具が確立されていきます。そして領内各地に砂糖の生産・製造が広まります。特に大内・寒川・阿野郡で盛んになります

ちなみに、甘藷植え付け面積の推移をみると、
天保五年(1835)1210町
弘化元年(1844)1750町、
嘉永元年(1848)2040町、
安政三年(1856)3220町、
安政五年(1858)3715町
と着実に増加しています。
「讃岐 砂糖 歴史」の画像検索結果
サトウキビを絞る砂糖車
 高松藩で生産・製造された砂糖は、寛政六年(1794)に大坂、文化年間(1804)には江戸に積み出された記録があります。さらに販路が紀伊、明石や尾道などの瀬戸内沿岸、酒田・出雲崎・温泉津など日本海沿岸まで拡がったことが、各地の湊町に残る廻船問屋の顧客名簿である「諸国御客船帳」から分かります。
「大坂砂糖問屋」の画像検索結果
 文化十一年(1814)に江戸の小川顕道が書いた随筆集『塵塚談』では、讃岐国産の白砂糖は
「白雪の如く、舶来にいささかおとらず」
と、高い評価を受けるようになります。
さらに大坂市場でも高い市場占有率を誇るようになり、天保元年(1830)から同三年までの白砂糖の大坂への積登量の平均は、積登高全体の54%のシェアを高松藩が占めています。この背景には「樽一杯の砂糖が樽一杯の銭」と云われるほど砂糖が利潤の高い商品作物であったからです。
 さて、文政初年の高松藩の財政というと、
水害や旱ばつによって年貢収入が減り、さらに江戸屋敷での経費もかさみ、財政は火の車状態でした。このため大坂の商人から多額の借金があり、その借金の返済も天保三年には返済猶予を願うほどでした。まさに多重債務状態にあったのです。
 
そこで高松藩では財政難の克服のため砂糖に注目します。
砂糖売り上げの利潤を、借金返済に廻す流通統制を始めます。この流通統制は文政二年(1819)に始まりますが、砂糖会所を設置するなど大坂の砂糖市場を利用して、利益を上げようとするものです。この「流通統制」は大坂の砂糖市場との結びつきを強めながらも、荷主や船主の裁量で大坂以外でも売り捌くことまでは制限したものではありませんでした。「緩やかな統制」だったのです。
 この政策が結果的にはプラスに働き、利潤を求めて全国各地に高松藩の砂糖が流通していくもとになります。こうして高松藩は財政難を解消し、天保末ごろには軍用資金や災害備金を貯えるまでになります。明治維新の廃藩置県の際は、高松藩から香川県へ多額の引継金があったほどです。
「北前型弁才船」の画像検索結果
 ところで、砂糖流通は船が担っていました。
砂糖を運ぶ船を砂糖船といい、その中で藩から公認された船を砂糖組船と呼びました。砂糖組船は各浦に設けられ、五艘一組で組織されます。こうして浦々の砂糖役人と大坂の砂糖商人が砂糖市場や砂糖船の活動を通じて深く結びつくようになります。
「讃岐砂糖 灯籠」の画像検索結果
そのつながりを東讃の港に残る常夜燈や玉垣に見てみましょう。
天保14年の大内郡引田浦の波止普請にあたっては、引田村庄屋や浦役人だけでなく、引田浦の砂糖組船、隣郡の寒川郡津田浦の砂糖船持中、大坂砂糖問屋や大坂砂糖会所からも寄付が寄せられています。
同浦の氏神である誉田八幡宮に現存する嘉永六年(1853)奉納の玉垣は、大坂渡海船持中が世話人となり大坂砂糖問屋嶋屋奥兵衛・阿波屋儀助・丸屋喜之助か奉納しています。そのp5年後の安政五年(1858)に建てられた大鳥居にも、寄付者として大坂砂糖問屋の名が見えます。
 引田浦の隣村の馬宿浦(東かがわ市馬宿)の山王宮にある天保一三年の常夜燈も、大坂砂糖問屋の丸屋喜之助や馬宿浦砂枡組船中・渡海船持中が奉納したものです。
 大内郡三本松浦(同市三本松)の前山天満宮にも嘉永四年大坂砂糖問屋佐野屋繁蔵から奉納された玉垣が残ります。
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このような中で、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)に次のような寄付状が金毘羅山の金光院に提出されます。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、高灯籠の寄進を願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。
「北前型弁才船」の画像検索結果
そこには、砂糖産業が船によって支えられているという意識があったように思えてきます
 
 サトウキビの生産にあたって、サトウキビの苗は香川郡香西浦(高松市香西本町など)や阿野郡乃生浦(坂出市王越町)から移入されました。また油粕や干鰯などの肥料、中和剤となる牡蝸殼は、備前・備中国から船で運ばれてきました。砂糖産業に関する生産・製造に関する材料も船で運ばれていたのです。
「北前型弁才船」の画像検索結果
 高松藩の財政を支えた砂糖の流通は、船が担っていたと言えます。
讃岐国は全国的な市場である大坂に近いだけでなく、平野が狭い分、各湊が後背地に比較的近い、つまり生産地と積出港が近接しているという地理的条件も砂糖の生産と流通に適していたと研究者は指摘します。
「北前型弁才船」の画像検索結果
                           
参考文献 萩野 憲司 讃岐三白「砂糖」の流通 香川県歴史学会編香川歴史紀行

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大きな屏風絵が金刀比羅宮に残されたいます。
この屏風絵は二双から成り、「清信筆」の署名と「岩佐」(方印)、「清信」(円印)の押印がありますので、作者が狩野休円清信であることがわかります。描かれた時期は、元禄年間(1688~1703)とされています。
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 二双になっているのは、二王門から上のところを描いた山上の図と、二王門から下を描いた山下の図とに分かれているからです。屏風絵のテーマは、十月十日の金刀比羅宮の大祭で、頭人行列を中心に金毘羅の町のにぎわいが描かれています。この絵を見ながら、今から約三百年前の元禄時代の大祭で賑わう金毘羅の門前町の様子を見てみましょう。 
DSC01397大門祭礼図

日蓮の命日であるお会式(えしき)と金毘羅さんの関係は?
汪戸時代のはじめになると全国の大きな寺社のお会式(えしき)、御開帳の祭礼に盛大な市が立つようになります。お会式(おえしき)は、日蓮の命日の10月13日にあわせて行われる法要のことです。日蓮の命日の前夜(10月12日)はお逮夜(おたいや)と呼ばれ、各地から集まった信徒団体の集まり(講中)が、行列し万灯や提灯を掲げ、纏を振り、団扇太鼓や鉦を叩き、題目を唱えながら境内や寺の近辺を練り歩きました。古くは、提灯に蝋燭を灯し、団扇太鼓を叩きながら参詣する簡素なものだったようです。それが、江戸末期から明治時代に町火消たちが参詣に訪れるようになると纏を振るようになり賑やかになったようです。日蓮宗の寺では、境内に鬼子母神を祀る場合が多く、鬼子母神の祭りを兼ねる場合も多いようです。また、寺によっては花まつりではなく、お会式や千部会に稚児行列が出る場合があります。
 どうして日蓮のお会式が金毘羅大権現に関係あるの?
  戦国末期に、インドからこの山に招来した金毘羅神は新参者です。信仰する信者集団もいなかったために法華宗の祀った守護神である三十番社の祭礼を、奪って金比羅堂の祭礼に「接ぎ木」するという荒療法を行いました。そのために金毘羅大権現の大祭には法華八講の祭礼が色濃く残るとともに、開催日も日蓮の命日であるお会式前後の十月十日になっているようです。
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 十月十日の祭礼当日の門前町ことひらを見ていきましょう
 高松道からやって来た頭人行列の動きに合わせて東(右)から西(左)に町並みの様子をたどります。まず行列は木戸をくぐります。ここが天領である池料と金毘羅社領の境でした。
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この木戸は、ここからが社領の入口であることを示す役割を持っていました。この木戸を抜けると金毘羅領です。図には、頭人の奴行列の道具を持って金毘羅領に入ろうとしているところが描かれています。それを参拝者が、道の端に寄って、行列を眺めています。
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すぐに鳥居が迎えてくれて、その手前で北からの道が合流しています。ここが丸亀街道の終点になります。丸亀街道からの参拝客を併せて、より大きくなった人の流れは、西(左)へと進みます。
新町の街並み
 この辺りは「新町」と呼ばれる町で、延宝3年(1675)に天領との土地交換で新しく寺領になった所です。それから20年余りで、道の両側には、板屋根の店棚がすき間なく並ぶ門前町を形成しています。地替えは、金毘羅さんには大きなプラスになったようです。 

新町の店は、道に面したところに簡単な棚を作り、その上に商品を並べているようです。よく見ると店の奥行は浅く、間取りは一部屋ほどですぐ裏に抜けます。裏は庭になっていたり、畑になっていたりします。この時期の新町は「新興商店街」で大店のお店はなく小さい店が並んでいたようです。
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 新町の町並みを木戸口の辺りから順にみてみましょう。
道の南側(下方)には、小さな宿屋と思われる家が並んでいます。屋根は板葺きがほとんどで、その中に茅葺きの屋根がポツンポツンと混じっています。その中には、生け花を飾った床の間のある部屋をもつ家や、主人と思われる人が魚を料理している家、食事の用意をしている家、参詣の旅人らしい人が横になり休んでいる家などが鞘橋まで続きます。
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 向かいの家並み(上方)の家並みでは
木戸口のところからめし屋、うどん屋と並び、丸亀道で一旦途切れます。そして、鳥居から魚屋、古着屋(服屋?)、道具屋(小間物屋?)、さらに同じような品物を並べた古着屋と続いて、屋根の付いた鞘橋のたもとにやってきます。
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 鞘橋のたもとに来たところで、川を見ると・・。裸になって泳いでいる人が・・・
最初、この絵を見たときの私の感想です。これは素人の見方です。
本当は金毘羅山に参拝するために、ここで身を清めているのです。鞘橋の下は、沐浴(コリトリ)場として神聖な場であったことを、この絵から知りました。
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鞘橋のたもとのところにも南からの道が合流しています。これが阿波からの阿波街道です。こちらからもたくさんの参詣人がやって来ています。阿波道の角のところには陶器屋が陶器類を並べています。
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身を清めて鞘橋を渡ると、町並みの南側には宿屋と思われる家並みが続いています。
 さらに西(左)へ進むと、この辺りから内町に入ります。
道の南側は宿屋(茶屋)がずっと続いています。入母屋の瓦屋根で立派な建物で、大きな庭もあります。内町は、「高級旅館街」として門前町の中心的な町として栄えていきます。先ほどの新町の宿屋は板葺屋根でしたので「格」が違うようです。後の史料からは茶屋二七軒、酌取旦雇宿六軒の計三三軒があったことが分かります。 「讃岐国名勝図絵」に
「南海中の旅舎、三都に稀なる規模にて当地秀逸と謂べし」と讃えられた「とらや」
は延享四年(1747)に入口・玄関の普請が分限不相応として閉門を命じられ、破風・玄関・式台を取り除いてやっと許された大旅館でした。その他にも、芳橘楼(ほうきつろう)・余島屋などの大旅館と共に、天保の打ちこわしで破壊対象になる米屋・酒屋・油屋などの大商店が軒を並べていました。
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 南側に対して、北側は鞘橋を渡ったすぐのところが服屋(古着屋か)です。その横に、北から合流する道があります。ここが多度津街道のゴールです。多度津道沿いの店は、角が服屋です。その隣(絵で見ると奥側)には、馬方が馬を数頭休めています。馬継所なのかもしれません。残念ながら、そこから奥はきちんと描かれていません。道を挟んだ向かい側は、煎餅らしいものを焼いている店があります。参詣客が、店主に注文しているようにも見えます。何を焼いているか分かりませんが、気になるところです。

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その隣の多度津道と本道との交差する角に当たる所は、惣菜屋(めし屋?)のようです。食べ物を売る見せも多いようです。
一方北側を見ると、惣菜屋の隣は、弓師の店です。続いて、小間物屋、道具や、二軒分の家が空いて、桶屋と続きます。 
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そして、西へ進んでいくと登り坂になって行きます。坂の両側にも、食べ物屋、うどん屋、宿屋、うどん屋、服屋、あめ屋と続きます。
参道の上り口に当たるこの辺りには札場があったので、札ノ前町と呼ばれました。
そして、その上には大門までの両側に階段状に町が形成されます。札之前町には一一軒、坂町には四軒の茶屋がありました。この両町は、参詣客が両側を見ながら参道を登って行く所で、土産物屋や飲食店が建ち並んでいます。
 代表的な土産物には、上鈴(神鈴了延命酒・薬草・金毘羅団扇・天狗面・白髪素麺(宝暦十=一七六〇年、素麺師かも屋甚右衛門が移住し、製造が始まったと伝えられる)・びっくりでこなどがありました。なかでも、金毘羅大権現の神徳を象徴する土産として特に有名になったものに、大門付近などで売られた金毘羅飴があります。あめ屋の向かい、少し斜め上辺りから南西(左)に、伊予からの道(伊予街道)が合流しています。
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伊予街道沿いの町並みが谷川町です。
 延宝三年の地替図では本殿への参拝道が脇道で、伊予街道の方が本道のように描かれ、谷川町が奥の広谷墓地に向かって伸びて賑わっている様子が描かれていました。それから30年余りで状況は逆転して、この屏風絵では参詣道の方がはるかににぎやかになっているようです。谷川町は伊予街道のゴール地点として食べ物屋が建ち並んで、にぎやいだ雰囲気があります。                                                                                    
 これより上、大門(二王門)までは坂町です。
この町並みには宿屋と思われる店がずっと並んで描かれています。大門を入ると、そこは山上と呼ばれる境内です。これからは金光院家中の家が続きます。
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芝居小屋が並ぶ金山地町の賑わい
 さて山上の様子は、またの機会にして、ここからやってきた道を鞘橋まで引き返します。
先ほど見た高級旅館の裏が入っていくと、賑やかな呼び込みの声や音楽が聞こえてきて、芝居小屋が姿を見せます。 ここが金山寺街です。参拝を済ませた客が、願を掛け終えた安堵感・開放感に浸りながら精進落としをする場所です。この辺りは金山寺町と呼ばれ、かつては金山寺というお寺があったと伝わりますが史料は残りません。
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 街に入ると、ちょうど歌舞伎小屋が立ち、中では歌舞伎が演じられているようです。常設の芝居小屋である金丸座が建つのは百年後のことです。
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さらに奥へ行くと、浄瑠璃を演じている小屋もあります。道を挟んだ向かい側には、別な歌舞伎小屋も見えます。参詣客は、歌舞伎・浄瑠璃などを十分に楽しんで、あとそれぞれの村、家へ帰っていったのであろう。この屏風絵には、金毘羅の大祭の賑わいがリアルに描かれています。

  この屏風絵が描かれた元禄年間(17世紀末)の金山寺町の広場には、所狭しと小屋が架けられ、芝居が興行されていたのです。
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 江戸中期以降、全国に131か所もの歌舞伎小屋が散在していました。
その場所と規模を伝えるものに「諸国芝居繁栄数望」(天保十一年子之十一月大新板)という芝居番付が残っています。そこには金毘羅大芝居は金沢・宮島などと並んで、西の前頭六枚目の最上段に「サヌキ金毘羅市」と名前が載っています。ここからは金毘羅の芝居が西国における第一級の芝居として、高い知名度と人気があったことが分かります。
 井原西鶴の「好色一代男」の中にも、安芸の宮島と金毘羅の賑わいを、旅芸人に語らせるシーンがあります。元禄年間おいては、金毘羅の賑わいは有名であったようです。しかし、それに引かれて東国から参拝者が押し寄せるようになるのには、まだ百年の歳月が必要でした。
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 この絵からは人寄せのために芸能や見世物などが催されにぎわうこんぴらの様子が伝わって来ます。金毘羅信仰が盛んになるにつれて、市立と芸能は共に栄え、門前町ことひらは一層繁栄するようになっていった様子が分かります。
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参考文献 金毘羅門前町 町史ことひら 127P~

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ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュ

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 ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュでした。
まずは、本堂(現旭社)の再建工事が40年にわたる長き工期を終えて完成を迎えます。
「金堂上梁式の誌」には
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」と書かれています。
ちなみに、式では投げ餅が一日に七五〇〇、投げ銭が一五貫文使われています。そのにぎわいがうかがえます。

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 今は旭社と呼ばれていますが文化3年(1806)の発願から40年をかけて建築された仏教寺院の金堂として、建立されました。そのため、建立当時は中には本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたといいます。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは破棄・焼却され今は何もなくがらーんとした空洞になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。
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清水次郎長の代参をした森の石松が、この金堂に詣って参拝を終えたと思い、本殿には詣らずに帰つたという俗話が知られています。確かに規模でも壮麗さでも、この金堂がこんぴらさんの中心と合点して不思議でなかったでしょう。
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 金堂が完成すると境内では、金堂のすぐ前に手水鉢・釣り灯箭・井戸の寄進(弘化二年)、坂の付け替え(嘉永二年)、廻廊の寄進(安政元年)などの整備が進みます。また、町方では、嘉永三年(1850)に銅鳥居から新町口までの間に、江戸火消し四十八組から石灯龍が寄進され「並び燈籠」として丸亀街道沿いに整備されます。
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   高灯寵の建造  

 このような中で、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)に次のような寄付状が金光院に提出されます。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、子の晋四郎が父・甚左衛門の鎮志願いに発起し、金光院へ寄付を、高灯籠の完成後に願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。次の史料からそれがうかがえます。 
高灯籠の事
 右 発起人 高松御領寒川郡津田浦上野甚右衛門、同志度浦岡田達蔵、引請人志度浦岡田藤五郎、寄付人寒川郡申一統 嘉永七寅年十月願書を以て申し出、嘉永八卯年則安政二年二成正月十三日願い済み二相成り申し候、安政五午年三月二日ヨリ十月二十三日迄二石台出来、同未年四月十八日ヨリハ月二十九日迄二灯箭成就仕り候事
ここには、高灯寵の建設過程が簡単に記されています。意訳すると
安政元年(1854)10月に上野甚右衛門が総代発起人となって高灯寵建築の願書を差し出し、翌安政二年に許可になった。翌年の三年には、さっそく地堅めのための相撲を挙行し、四年の二月から地築きに取り掛かる。そして、五年に石台が完成し、六年八月には灯龍が完成したのである。
   年表にすると
1854嘉永7年建築願書
1857安政4年地築
1858安政5年石台完成
1859安政6年燈寵造立
1860万延元年9月最終完成
こうして出来上がった高灯寵の大きさは次のようになっています。
「石台高さ5間3尺(約10m)、石台下端幅51尺(約5.45m)、石台上端幅28尺(約8.48m)、総高15間」

ところが安政2年に書かれた播磨屋嘉兵衛の見積仕様書によると
「石台高さ二一尺五寸、石台下端幅四一尺、石台上端幅二八尺、総高63尺」
で計画されています。つまり、出来上がった実物は1,5倍になっていたのです。そのいきさつは、よく分かりませんが「瀬戸内海を行く船からよく見えるように少し高くした」と地元では言い伝えられています。
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 この高灯籠建設に関する募金額について「高灯籠入目総目録」と記された史料が残されています。それを見ると「一金三千両内子三拾六両郡中寄附」と書かれており、以下寄付した人名と金額が並んでいる。ちなみに、発起人総代の上野甚左衛門は、四〇〇両という大金を寄付しています。また、「郡中寄附」として1036両もの額が集まっています。名前は記されていませんが募金に応じた人々が数多くいたのです。この募金には前山村・小田村・原村をはじめに、富田・津田・牟礼・大町・鶴羽・是弘・神前・志度・石田といった寒川郡内のすべての村が漏れる事なく網羅されています。その上に、郡内は「萬歳講」、郡外は「千秋講」という当時流行の「講」を組織して集められています。
これだけの募金が集められた経済力の源は何だったのでしょうか?
 東讃においては寛政元年(1789)ころより、薩摩に習って砂糖生産が行われるようになります。そして、天保六年(1835)の砂糖為替金趣法の実施などで軌道に乗るようになります。ちなみに、高松藩の甘藷植え付け面積の推移を簡単にみると、
天保五年1210町程度であったものが
弘化元年(一八四四) 一七五〇町、
嘉永元年(一八四八)二〇四二町、
安政三年(一八五六)三二二〇町、
安政五年(1858)三七一五町と着実に増加しています。
では、なぜ金毘羅への寄進になったのか。それは、大坂などへ砂糖を運ぶ際の船の安全を祈願することでもあったと言われます。
 
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総工費3,000両のうち1,036両という費用が寒川郡中の砂糖生産を背景として、経済的な成長を遂げた人々の寄付で付で賄われました。ちなみに1835天保6年に建てられた金丸座が1000両、金堂(旭社)が20000両です。

工事を担当したのは、塩飽大工の山下家の末裔である綾豊矩です。彼の父は金毘羅さんの金堂建築に棟梁として腕を振るった名大工でした。その子豊矩が最初に手掛けた大規模建築が高灯籠でした。
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 上の絵はこんぴら町史の図版編に収められている高灯籠を描いたものです。これを見て、高灯籠とは思えませんでした。それは、周辺の様子が今と全く違うからです。まず、この絵には湖面か入江のように広い水面が描かれていますが、今の金倉川からは想像も付きません。高灯籠の足下近くまで川岸が迫っているように見えます。
 この絵からは高灯籠が丸亀街道と金倉川の間に建てられていますが、周囲は河原であったことが分かります。
もう少しワイドに見てみましょう。

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日清戦争後の明治28年(1895)の「金刀比羅神山全図」です。
右下から左に伸びているのが丸亀街道、その途中に先ほどみた高灯籠がロケットのように建ち、その境内の前には大きな鳥居と一里松が見えます。もう少し部分的に拡大してみましょう 
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右手からは煙をはいて讃岐鐡道の豆蒸気機関車が神明町の琴平駅に入ってきています。その手前に平行して走るのが大久保諶之丞によって開かれた四国新道。そして、金倉川が高灯籠の間を流れます。
もちろん、まだ金倉川に大宮橋は架かっていません。
 鳥居と大きな木に注目して下さい。

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丸亀街道の高灯籠方面を眺めた明治30年ころの写真です。

丸亀街道を南から北に向かって撮影されています。いくつかの気になるものを映り込ませています。まず黒い鳥居。これは天保年間に江戸の鴻池一族により寄進されたものですが、この後の明治36年に崩れ落ちてしまします。その後、修復されて現在は社務所南に建っています。右手には江戸の火消組などから寄進された灯籠が並んでいます。灯籠の前には櫻の苗が植えられています。それが今も春には花を咲かせます。灯籠の向こう側には「一里松」と親しまれた大きな松がまだ建材です。今は、姿を消しました。
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1900年前後の高灯籠周辺は空き地

土讃線が財田まで伸びて新琴平駅が開業するのは1923年のことです。その時に駅前から真っ直ぐに高灯籠の前を通って神明町に伸びる道路が作られますが、この写真には、その道路はありません。この時代も高灯籠の周りは空き地です。高灯籠と金倉川の間には木造家屋が建っていますが、約30年後にこの辺りに琴電琴平駅が姿を見せるようになります。その前に、この家屋は洪水で姿を消します。
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大正年間に大雨により琴平町内を流れる金倉川は、大洪水となり護岸を崩し、橋を流しました。
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その普及後の護岸がこれです。石組み護岸に補強され、ここに線路が敷かれて琴電琴平駅が姿を現すのが1926年のことでした。
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参考文献 町史 ことひら 

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琴平に3番目に乗り入れた琴電(コトデン)

第一次大戦後の1920年代に琴平には4つの鉄道が乗り入れていました。今回は3番目に乗り入れてきた琴電(コトデン)について見てみましょう。まずは、いつものように年表チェック
1899                   讃岐鉄道が丸亀ー琴平間で開業
1923  5月21日 琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1923  8月 5日 琴参(コトサン)善通寺-琴平間開通 琴平駅が開業
1929  3月15日 琴電(コトデン)が、琴平町へ乗り入れ開始
1929  4月28日 土讃線 財田-阿波池田間完成。
1930  4月 7日 琴平急行電鉄(コトキュウ)坂出 - 電鉄琴平間を開業
1935 11月28日 土讃線が小歩危でつながり、高松・高知間が全通。
1944  1月    琴平急行が不要不急線として営業休止。
宇高連絡船の就航が、琴電誕生のきっかけに 
 明治末に高松と岡山県の宇野港を結ぶ宇高航路が開設されると、高松は四国の玄関口として、人が集まるようになります。それまでの大阪から丸亀や多度津の港に上陸して金比羅さんを目指すという流れから、大阪から鉄道で岡山を経由して宇高連絡線で四国の玄関口高松へ入るという流れが主流になります。それが、高松から門前町琴平を直接結ぶ鉄道建設の気運につながります。
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1920年代の高松港と連絡船
地元主導による会社設立
 大正9年(1920)に県内の有力者大西虎之介や、四国水力発電の社長景山甚右衛門らが中心となって電気鉄道の免許を得ます。しかし、その後の戦後恐慌や関東大震災による経済の混乱で資本が集まりません。実際に会社を設立したのは大正13年(1924)7月になってからでした。当時の『香川新報』は
「資本金五百萬円の琴高電鉄具体化す。其の内四百萬円は発起人が引き受け(後略)」
と長らく棚上げとなっていた琴高電鉄(後の琴電)の着工の目処が着いたことを報じています。設立時の発起人を見てみると、
大西虎之介・景山甚右衛門・鎌田勝太郎らが名前を通ね、創立準備委員も大西虎之介、井上耕作、蓮井藤吉、細渓宗一、細渓宗次郎、加藤謙吉、鎌田勝太郎、景山甚右衛門、竹内秀輔、武田謙、中村実、中村新太郎、中村健一、熊田長造、福沢桃介、合田房太郎、安達賢、寒川桓貞、木村淳、三輪繁太郎、瀬尾等、広瀬小三郎
であり、地元主導がうかがえます。そして、資本金500万円の内の8割に当たる400万円をこの発起人が出資することになります。先行する3つの電車会社と、資本力が違うし経営も安定します。
 この設立発起人の中に福沢桃介の名前が見えます。彼は福沢諭吉の娘婿で「多度津の七福人」の総帥・景山甚右衛門が四国水力電気の再スタートの際に「三顧の礼」をとって形だけではあるが社長として迎え入れた経緯があります。ここでも「名前を貸した」程度で、その他の人たちは地元の有力者です。この辺りが「外部資本」が中心となった琴参(コトサン)との違うところでしょうか。
「讃岐の阪急電鉄」をめざした琴電
 琴平電鉄は、先行する高松電気軌道、東讃電気軌道が軌道線であったのに対して、当初から本格的な高速電気鉄道として着工されます。
 先行する讃岐の3つの電気軌道電車と比べると、設備が一つ上のランクで立派な設備をもち「讃岐の阪急」といわれたようです。
 例えば、軌間は広軌(1435mm)を採用し、架線電圧は当時の地方鉄道としては珍しく1500Vを採用しています。架線柱はボオル結構式四角鉄柱が採用され、銀色に輝く架線柱の連なる様子は人目を惹きました。畑田変電所には1500V用としては、我が国初のドイツ・シーメンス社製の600kW水銀整流器が2台設置されました。鉄橋は日本橋梁製のプレートガーダー橋、各駅のプラットホームはコンクリート造でした。
 各駅の建築に際しては、社長の大西虎之助が自分の目で阪急、南海、阪神を視察しています。そして、栗林公園駅は南海の羽衣駅、挿頭丘駅は阪急の仁川駅を参考にして、当時としては讃岐では今まで見たことのないような都会的なセンスの駅舎が姿を現します。
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「乗降客で賑わう滝宮駅」ではありません。「電車見物」で賑わっているようです。

 車両は全て新品で、汽車製造会社製の1000形及び日本車輛製の3000形を各5両、さらに、昭和3年(1928)には加藤車輛製の5000形を購入しています。当時としては最新鋭の半鋼製ボギー車で、機器類も制御器、パンタグラフは米国・ウエスチングハウス社、ブレーキはスイス・クノール社、モーターはドイツ・アルゲマイネ社製というように舶来品を多数装備しています。当時の地方私鉄電車としては、ランクが相当高い車両で、乗客が履物を脱いで乗車したという話もも残っています。そして、高松~琴平間を当時の省線(国鉄)よりも40分も短い1時間前後で走り「高速鉄道」「立派な設備」というイメージを利用者に植え付けるのに貢献しました。琴平電鉄は「讃岐の阪急」をめざしたのです。
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 琴平に伸びてきた琴電の線路は、6年前に南に延びた省線(鉄道省の鉄道=国鉄)の土讃線と終着駅手間でクロスします。このために、土讃線は金倉川から新琴平駅までは高く土盛りされ土讃線の下を琴電が通るように事前に設計されていたようです。
琴電の開通
大正15年(1926)12月21日に栗林公園~滝宮間が開業
昭和 2年(1927)3月15日には滝宮~琴平間、
        4月22日には栗林公園~高松間が開業
琴平全線(31㎞)が開通します。
駅は高松、栗林公園、太田、仏生山、一宮、円座、岡本、挿頭丘、畑田、陶、滝宮、羽床、栗熊、岡田、羽間、榎井、琴平の17ヵ所。全区間の運賃は65銭でした。

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 琴電琴平駅

 「コトデン」が、琴平町へ乗り入れたのは昭和2年(1927)3月15日の春の日でした。沿線の駅舎は、阪急などの駅舎を参考にしたと前述しましたが、終着駅の琴平駅だけは別格でした。この駅だけは、地元の高松工芸高校建築科の建築家に、門前町にふさわしい駅舎を依頼しました。それが、金倉川と高灯籠の間のスペースに姿を見せたのです。この地は、金倉川の洪水で護岸が流された所を整備して確保した所です。
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この写真は、修学旅行で琴平に宿泊した小学生達を宿の主人が琴電琴平駅のホームまで見送りに来ているシーンだそうです。壺井栄の「二十四の瞳」の中にも、遠足で小豆島の子ども達が金比羅宮に参拝するシーンがあったような記憶があります(?)
多角化経営を目指す琴電の手法は?
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しかし、琴電の経営は厳しかったようです。沿線は内陸部の田園地帯で人口が少なかったことや、昭和初期の金融恐慌なども重なり、開業後は業績不調が続きます。このため会社は沿線の祭事等の開催に合わせて運賃割引を行ったり、女給仕が生ビールや洋食を販売する納涼電車を走らせたり、挿頭丘と滝宮に開設した納涼余興場を売り出し、乗客を増やそうとあの手この手の営業活動を行います。

また、阪急の商売に習って、岡本駅の隣に遊園地を作ったり、郊外駅周辺での住宅団地の造成など沿線開発にも取り組みました。
 また琴平電鉄は、電力会社として配電事業の認可を受けており、沿線周辺への電力供給を行えました。そのため、鉄道沿線に沿って事業を営んでいた岡田電燈株式会社を買収し、会社収益の大きな支えとします。
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戦時下に、電車会社3社を統合し、高松琴電気鉄道が誕生

 日中戦争が勃発し、戦時体制が色濃くなった昭和13年(1938)8月、鉄道・バス会社の整理統合をはかるため陸上交通事業調整法が成立します。金刀比羅宮の門前町琴平は、4つの鉄道が集中し鉄道過密状にあったため「交通事業調整委員会」での審議の結果、この法律の適用地域に指定されます。
 その結果、政策的に鉄道会社の統合が促進されます。
まず、配電統制令によって鉄道に先行して各社の電力部門が統合され、四国配電株式会社(後の四国電力)が発足し、各社はやむなくドル箱だった電力事業を失います。電力事業を分離した四国水力は解散し、鉄道部門はバス会社と統合し讃岐電鉄となります。
 昭和18年(1943)11月1日に琴平電鉄、高松電気軌道、讃岐電鉄の3社は統合し、高松琴電気鉄道が誕生します。社長には琴平電鉄の社長であった大西虎之介が就任しました。
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高松空襲と琴電
 昭和20年(1945)7月4日未明、高松空襲により高松市内線全線と、市外線の栗林公園前~瓦町間は壊滅的な被害を受けます。琴平線の車両は避難して無事でしたが、長尾・志度線の車両は20形、30形、50形、散水車100形など6両が全焼します。本社の社屋は焼失を免れますが、琴電高松(瓦町)駅舎が半壊、今橋駅舎、出晴駅舎は全焼し、今橋の変電所と車庫も焼夷弾で被災します。
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10角形という珍しい形だった河原町駅の空襲後の姿 この後、蘇り駅舎として使用 

色々な会社の電車が琴電にやって来るようになった背景は?

 終戦後、復興の動きが増すにつれ電車の利用者は急激に増加します。しかし、車両は戦災などで不足してました。しかも、物資不足で車両を増備したくてもメーカーの生産能力は低下しています。絶対的に車両が不足している上に、新車両を購入できる目処もなかったのです。そこで運輸省が音頭をとって、新車を優先的に都市部の大手電鉄へ割り当てます。その代わりに、新車の割り当てを受けた大手私鉄は地方私鉄に中古の代替車両を提供する仕組みが作られます。
 琴電でも新車のモハ63系電車の割り当てを受けた東武鉄道から昭和22年(1947)に3両の電車の供出を受けます。これを皮切りに、東急と山陽電鉄、さらには国鉄からも車両提供を受けています。
 しかし、終戦直後の混雑はあまりにも激しかったため、供出車だけでは足りずに国鉄から戦災で焼けた貨車を6両を購入し「客車に改造」して走らせました。貨車を電車に改造したこの車両11000形には一般客から「乗客を貨物扱いしている」という批判もあったようですが、「歩くよりは、電車に乗れた方がいい」という声の方が当時は強かったようです。
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この貨車改造車の1000形は昭和23年(1948)8月から約3年7ヵ月間使用されました。この時期を「戦後の混乱期」と呼ぶのも頷けます。

金比羅芝居小屋の建設と運営に、遊女達の果たした役割は? 

金比羅門前町 金山寺町周辺
天保九年(1838)に、茶町が密集していた金山寺町は大きな火災にみまわれます。残された被害記録から当時の町屋の様子が分かります。
それによると、この町筋の総家数は八四軒で、その内茶屋・酌取女旦雇宿は二十三軒です。他の記録では三十二軒ともあります。他に金光院家中四軒、大工四軒、明家(明屋)六軒、茶屋用の座敷三つ、油場一つ、酒蔵一軒、その他四二軒です。
この町筋の1/3が茶屋・酌取女旦雇宿(=遊女をおく茶屋)だったことが分かります。
      掛け小屋時代の仮設の金比羅金山寺町の芝居小屋

金比羅では表向きは「遊女」は存在せず「酌取女」と書かれました。
酌取女をおく宿が茶屋で、置かない宿は旅籠と区別されます。表通りに面して茶屋・酌取女日雇宿が多く、それは間口が狭く、奥行の深い「うなぎ床」の建物でした。そして仮設の芝居小屋は、茶の並ぶ金山寺の裏通りにありました。金山山町の茶屋と芝居小屋は、背中合わせの位置関係だったのです。

 また表通りの茶屋・酌取女日雇宿は「水帳付」とされている者が多く、賃貸ではなく屋敷自体の所有者でした。茶屋の主人は、建物も自前の檀那が多かったのです。ここからも茶屋・酌取女日雇宿の繁盛ぶりがうかがえます。 
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2、芝居小屋建設に茶屋は、どのように関わっていったか

 かつては、役人や一部の商人のみの町であった金山寺町は、天保期を境に芝居小屋・富くじ小屋といった「悪所」が立ち現れ大変貌を遂げ、茶屋・酌取女旦雇宿を大きく成長させます。むしろ茶屋が町と芝居小屋をもりたてていく存在になったともいえます。
そして芝居小屋 + 富くじ + 遊女 の相乗効果で繁栄のピークを迎えます。
常設の芝居小屋建設の過程で、茶屋と遊女はどのような関わりを持ったのでしょうか?
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芝居小屋建設をリードしたのは、茶屋の主人達でした。 

 それまで、年三回の芝居興行の度に立て替えられていた仮芝居小屋を、瓦葺の定小屋として金山寺町に建てたいという願いを、町方の者が組頭に提出したのは、天保五年(1834)十二月のことです。この願書に対して、翌年二月五日高松藩より金光院へ許可が下ります。
 それを受けて金光院は、芝居小屋建設に伴う「引請人」と「差添大」という役職を町方の者に命じます。
「町方」からは、どんな人たちが選ばれたのでしょうか
まず差添人の「麦屋」は内町の茶屋、そして花屋も茶屋です。つまり、遊女達を置く茶屋の旦那衆が主体となって芝居小屋建設は進めれたことが分かります。

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 九月には小屋の上棟で完成をみ、十月にはこけら落としの興行を行っています。芝居小屋の完成を間近に九月一日には、町中で「砂持」の祝いをしたとあります。
芝居定小屋土地上ヶ申候。付、今明日砂持初り、芸子・おやま・茶や之若者共いろいろ之出立晶、町中賑々敷踊り廻り砂持候斜
と、芸子・おやまが町中を賑やかに踊り祝ったことが記されています。定小屋建設が町の人々、特に茶屋連中にとって大きな期待をもって迎えられた様子がうかがえます。芝居の存在は彼らにとって「渡世一助」のものであり、芝居と門前町の繁栄は両者不可欠なものと当時の彼らは考えていたようです。

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芝居の興業も茶屋・旅寵屋連中が主体となっています。
常設小屋のこけら落としの興業者の最後に名前がある「大和屋久太郎」は、文政七年の「申渡」に「旅人引受人」として任命されている人物ですが、ここでは「芝居興行の勧進元」としての役割も担っています。つまり、今風に言うと旅館組合(=茶屋組合)が芝居小屋の建設、そして興行勧進元としての役割を担っていたのです。

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芝居見学は、宿泊と芝居鑑賞券付きのパックツアーで

 芝居見物座席の買取予約用に用いたとされる「金毘羅大芝居奥場図噺」によると、平場桝席の上には当時一流の旅寵・茶屋の屋号の書込みがありました。これはあらかじめ茶屋・旅寵屋別に座席の販売が行われていたことを意味します。現代と同様、宿泊と芝居鑑賞券付きのパックツアーが存在したということです。また芝居興行の際に配るパンフレットにも、「茶屋茂木屋/新町」などと茶屋・旅寵屋の広告などが掲載されています。
 このように茶屋と芝居小屋の関係は非常に密接だったのです。
茶屋は参詣客に宿と食事と遊女を提供する場所であると同時に、芝居小屋を作り、芝居勧進元を務め、見物席を売るプレイガイドとしての役割をも担っていたのです。

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 遊女には、どのような徴収金が課せられていたのでしょうか。
まず、金毘羅の遊女の徴収金は大きくわけて二種類ありました。
一つは 「刎銀」です。これは、遊女たちの稼ぎの一部を天引きしたものです。酌取女・おやまの稼ぎの2%が「刎銀」としてまず宿場方へ、次に年寄、そして多田屋次兵衛へと渡る徴収制度です。宿場方(町方役人)が茶屋を通して遊女の稼ぎの一部を取り立てているのです。これは「宿場積金」として芝居興行だけでなく町の財政全般に組み込まれました。この「宿場積金」については、慶応二年(一八六六)の記録からは内町・金山寺町からの遊女からの天引きが、つまり刎銀が収入部分の大半を占めているのです。イメージ 6
二つめは「雑用銀」で、遊女一人一人に対する「人頭税」です。
「旅人引請人」である大和屋久太郎によって置屋から徴収されています。この支出部をみてみると、支出七〇貫余のうち、芝居関係費用が約三三貫にもなっています。宿場にとって芝居は大きな負担でもあったのです。
 「宿場積金指出牒」に詳細記載のある十四年間のうち黒字利益のあった年は、わずか六年だけでです。後は赤字を出しながら芝居興行を続けているのです。金比羅門前町に参拝客を寄せるためには、赤字続きでも芝居興行をうつほかはなかったのです。その赤字補填は、遊女達への徴収金で支払われていたのです。このあたりの事情は、現在の金比羅大芝居と共通する部分がありそうです。
「街興し」のためのイヴェントが、赤字を重ねて行政が補填する。しかし、利益を得ている人たちもいるので止められない。江戸時代は、遊女から天引きされたお金が補填に使われていたのです。
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遊女たちが影の存在として支えた金比羅大芝居

 茶屋は、参詣客に食事や遊女を提供するだけでなく、芝居小屋をつくり、その興行を勧進し、見物席の販売を担うまでのマルチな営業活動を繰り広げています。そこで働く遊女達も、種々の負担金を通して、芝居小屋の経営、ひいては門前町自体の財政をも支えていたわけです。
「こんぴらさん」と親しまれ、讃岐が誇るこの一大観光地も、江戸時代に遡れば、それを大きく支えていたのは茶屋・遊女たちといった陰の存在と言えるのかもしれません。

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 金毘羅の遊女の変遷をたどってみると・・・

①町の一角に参詣客相手の酌取女が出没しはじめる元禄期
②酌取女及び茶屋(遊女宿)の存在を認めた文政期
③当局側の保護のもと繁栄のピークを迎えた天保期
④高級芸者の活躍する弘化~慶応期
以上四つの時期に区切ることができます。前回①~③を見ました
今日は④高級芸者の活躍する弘化~慶応期を見て行きます。
元禄以来、取り締まってきた酌取女に対して緩和策がだされます。慶応四年(明治元、1868)には、町方の茶汲女(酌取女)の徘徊について、
近村の神仏詣や遊楽は日帰り、
船場までの客見送り一夜泊り
大雨のときは一日限りの日延べが許されます。
ここからは遊女が参拝客を多度津や丸亀の港まで見送って、そこで何泊も逗留している実態があったことがうかがえます。その背景には、参詣客からのさまざまな要望や、遊客獲得のためにそうせざるをえなかった事情があったのでしょう。こうして、当局側の妥協策が積み重ねられます。
御開帳に芸子百五十人のパレード
 万延元年(1860)に行われた金毘羅大権現御開帳の「御開帳記録」には、遊女屋花屋房蔵が次のような記録を残しています。 
内町はねりものなく、大キなる鳥居と玉垣を拵へ、山桜の拵ものをそこくへ結付、其内へ町内の芸子舞子不残、三味線飯太飯笛小きうなどを携へ囃子立て、町中を歩行 町内の若い衆は、こんじやう二桜の花盛りの揃え着もの着る、
是もぽっちは札之前二同じ、此時芸子百五十人斗り居候
茶屋の並ぶ内町衆は、町内の芸子が残らず参加し、三味線や太鼓・笛などで囃し立てパレードしたとあります。ここには酌取女・飯盛女ではなく、新しく「芸子」「舞子」の登場がします。その数芸子百五十人という多くの人数が記されているのです。
 「金比羅 名妓」の画像検索結果

この「芸子」を、酌取女とどう区別すれば良いのでしょうか?

「金比羅 遊å\³ã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ
「芸者」は、広く酒席や宴席で遊芸を売る女性とされています。事実、幕末江戸には芸で身を立て自分で稼いで生きる自立自存の「町芸者」(芸子)が多くいました。金毘羅の「芸子」の中にも、昨日紹介した廓番付などから、江戸のように高い芸を身につけた女性と酌取女同格の者、両種の「芸子」が共存していたのではないでしょうか。
幕末の金毘羅は名妓が多く、それが文人の手によって描かれています。
 文久二年(1864)、西讃観音寺の入江、上杉、桃の舎ぬしの三人が、金比羅参詣ののち芳橘楼に宿り遊んだ「象の山ふ心」という作品があります。ここには歌舞音曲に秀でた小楽、小さへ、雛松、小かやなどの芸妓が登場します。
 また、榎井村の詩人で勤王の志としても知られる日柳燕石や高杉晋作などと共に酒席に侍り、尊王攘夷に一役かった勤王芸者と呼ばれる女性の存在も確認できます。

 明治二年(一八六九)十一月六日、もと幕府の騎兵奉行、外国奉行、会計副総裁を歴任し、のち朝野新聞社長となった成島柳北は「航薇日記」の中で、
「此地の女校書は東京の人に多く接したれば衣服も粗ならず。歌もやゝ東京に近き所あり」
と訪問地金毘羅の芸妓の印象を語っています。
 関連画像
 「遊廓」については「悪所」としての文化的な立場から論じる研究が進んできました。この説は「遊所は身分制社会の「辺界」に成立した解放区「悪所」であったから、日常の秩序の論理や価値観にとらわれない精神の発露が可能であった」としています。
 悪所=遊所を文化創造の発信源説です。

金比羅門前町も、このような芸者が多数いて座敷遊びの土壌があったことが、金比羅舟船などの唄が生み出された背景なのでしょう。
   金比羅舟船は元々は金刀比羅宮の参詣客相手に座敷で歌われた騒ぎ唄の一種でした。 騒ぎ唄とは江戸時代に、遊里で三味線や太鼓ではやしたてて、うたったにぎやかな歌のことです。転じて、広く宴席でうたう歌になります。
琴平のお座敷芸子衆の金毘羅船舟の小気味よいテンポ、情景豊かに詠まれた歌詞、 お座敷遊びとしての面白さが、この唄の魅力です。金比羅参拝を終えて、精進落としで茶屋で芸子と遊んだ富豪達が地元に帰り、大坂や京都のお座敷で演じて見せて、それが全国に繋がったのではないでしょうか?

琴平の稲荷神社 
遊郭といえば、稲荷神社。性病(梅毒)の予防に稲荷が効果があると信じられていました。

参考文献 林 恵 近世金毘羅の遊女
       

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金比羅の街に、遊女達が現れたのはいつ頃でしょう?

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近世の金比羅の街は、金毘羅大権現という信仰上の聖地と門前町という歓楽街とがワンセットの宗教都市として繁栄するようになります。参拝が終わった後、人々は精進落としに茶屋に上がり、浮き世の憂さを落としたのです。それにつれて遊郭や遊女の記録も現れるようになります。
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金比羅の街にいつ頃、遊女達が現れたのかをまず見てみましょう
 遊女に関する記録が初めて見えるのは元禄年間です。
元禄二年(1689)四月七日の法度請書に
遊女之宿堅停止 若相背かは可為重罪事」
禁止令が出されています。禁止令が出されると言うことは、遊女が存在したと言うことです。元禄期になって、遊女取締りが見えはじめるのは、金毘羅信仰の盛り上がりで門前町が発展してきたことが背景にあります。そして、遊女の存在が門前町を監督する金光院当局の取締対象となり始めたのでしょう。

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金比羅奉納絵馬 大願成就

  享保期、多聞院日記の書写者であった山下盛好は、覚書に
「三月・六月・十月の会式には参詣客殊に多く、市中賑わいとして遊女が入込み、それが済むと追払ったが、丸亀街道に当たる苗田村には風呂屋といって置屋もあり、遊女は忍び忍び横町を駕でやって来た
というような記録を残しています。町方に出没する遊女に当局側も手を焼いていたようです。
 享保13年(1728)6月6日、金光院当局は町年寄を呼び上げ、再度遊女取締強化を命じています。しかし、同15年3月6日の条には
「御当地近在遊女 野郎常に徘徊仕り」
「其外町方茶屋共留女これ有り、参詣者を引留め候」
とありあす。遊女を追放することはできなかったようです。
 
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寛政元年10月9日の「日記」には
「町方遊女杯厳申付、折々町廻り相廻候」
とあるように、役人を巡視させ監視させますが、同年11月25日の条には
中村屋宇七、岡野屋新吉、幟屋たく、右三人之内江 遊女隠置相知レ戸申付候
と、宿屋の中に遊女を隠し置くところがでてきます。
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享和2年(1802)春、金毘羅参詣を記した旅日記『筑紫紀行』の中で、旅人菱谷平七が金毘羅の町の様子について
「此所には遊女、芸子なんと大坂より来りゐるを、宿屋、茶屋によびよせて、旅人も所のものもあそぶなり」
と記しているように、金毘羅はこの頃から、金毘羅信仰の高まりとともに一大遊興地の側面を見せはじめています。以上から、金光院当局は、何度も禁止令を出し遊女取締を打ち出しますが、あまり効果があがらなかったようです。 

  「遊女」から「酌取女」「飯盛女」とへの呼称変更

「飯盛å\³ã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ
こうして文政期になると、遊女を一切認めない方針で治安維持に努めてきた当局側か、もはや「金毘羅には遊女がいます」という黙認の形をとらざるをえない状況になってきます。
 まず、呼称の変更です。それまでの「遊女」という表現から、「酌取女」「飯盛女」といった呼称に変えます。「遊女」という露骨な表現を避け、「酌取女」「飯盛女」といった一見売春とはかけ離れた下働に従事する女性を想像させるこの呼称をあえて使用します。

文政6年(1823)2月2日夜、遊女の殺害事件が起きます。

場所は内町糸屋金蔵方で、同町金屋庄太郎召遣の酌取女ゑんが高松藩の一ノ宮村百姓与四郎弟鉄蔵(当時無宿)に殺されたのです。犯人は六日後に自首。遺体は、ゑんの故郷京都より実父と親類が貰い受け、2月20日には一件落着となりました。
 しかし、このこの事件は大きなスキャンダルとなり、金光院当局側に相当なダメージを与えたようです。というのもこの後、金光院側から町方へ酌取女のことで厳しい達が出されるのです。

それが「文政七申三月酌取女雇人茶屋同宿一同へ申渡 並請書且同年十月追願請書通」として残っています。そこには、今までの触達にないいくつかの条項が盛り込まれています。 
「此度願出之内(中略)酌取女雇入候 茶屋井酌取女差置候宿 此度連印之人名。相限り申度段願之通御聞届有之候」「酌取女雇入候宿屋。向後茶屋と呼、酌取女不入雇宿屋 旅篭屋と名付候様申渡候」
とあり、酌取女を置く宿を「茶屋」として、当局側か遊女宿の存在を認めたのですこうして酌取女を置く「茶屋」が急速に増えます。

当時、金比羅全町で茶屋は95軒ありました。
①金山寺町には、全体の約三九%の三七軒、
②内町は約三五%の三三軒、
金山寺町と内町両町だけで全体の 約七四%の茶屋がありました。仮に一軒に三人の酌取女がいたとすれば、両町においては二百人を超える酌取女が働いていたということになります。文政年間には、他の職業から遊女宿に転業するものも増え、金山寺町と内町は遊女宿が軒を並べて繁盛するのです。
  文政7年の「申渡」は、それまでの「遊女禁止策」に代わって、制限を加えながらも当局側か遊女宿の存在を認めたもので、金毘羅の遊女史におけるターニングポイントとなりました。
 
天保年間の全国遊郭番付には、金毘羅門前があります。

「諸国遊所見立角力並に直段附」によると讃岐金毘羅では、上妓・下妓の二種類のランク付けがあったようで、上妓は二十五匁、下妓は四匁の値段が記されています。 これを米に換算すると、だいたい上は四斗七合弱、下は六升七合弱に当たるようです。相当なランク差です。
それでは「上妓」とは、どんな存在だったのでしょうか?
 天保3年(1832)9月、当時金毘羅の名奴ともてはやされた小占という遊女がいました。彼女が、高松藩儒久家暢斎の宴席へ招かれるという「事件」が起きます。。これは大きな話題となりました。
 この頃すでに、売春を必ずしも商売とせず、芸でもって身をたてる芸妓がいたようです。先の廓番付にみられる値段の格差など考えれば、遊女の中でも参詣客の層にあわせた細分化されたランク付けがあったのでしょう。

麦湯のå\³ã€‚麦茶を提供する「麦湯店」の看板娘(『十二ケ月の内 六月門涼』渓斎英泉 画)の拡大画像

天保期の金毘羅門前町の発展を促したものに、金山寺町の芝居定小屋建設があります。この定小屋は、当時市立ての際に行われていた富くじの開札場も兼ね備えていたともいわれます。茶屋・富くじ・芝居といった三大遊所の確立は、ますます金毘羅の賑わいに拍車をかけました。
 天保4年(1833)2月、高松藩の取締役人は酌取女に対し、芝居小屋での舞の稽古を許可しています。さらに、
「平日共徘徊修芳・粧ひ候様申附候」
とあるように、酌取女の服装に対しても寛大な態度を示しています。
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花下遊女図 江戸新吉原講中よりの金比羅さんへの寄進絵馬

遊女をめぐる事件
 いくらかの自由を与えられた酌取女の行動は、前にも増して周囲の若者へ刺激となります。1842年の天領三ヶ所を中心とした騒動は、倉敷代官所まであやうく巻き込みそうになるほどの大きな問題に発展します。事の起こりは、周辺天領から
「若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多いので、倉敷代官所へ訴え出る」
という動きでした。慌てた金光院側が榎井村の庄屋長谷川喜平次のもとへ相談に行きます。結局、長谷川の機転のよさで、もし御料の者が訴え出ても取り上げないよう倉敷代官所へ前もって願い出、代官所の協力も得ることになりました。 その時の長谷川の金毘羅町方手代にむかって
「繁栄すると自分たち御料も自然と賑わうのだから、なんとか訴える連中をなだめましょう」
と言っています。当時の近隣村々の上層部の本音がかいまみえます。
 この騒動の後、御料所と金毘羅双方で、不法不実がましいことをしない、仕掛けないという請書連判を交換する形で一応騒動は決着をみています。
江戸時代のタバコ

 行動の自由を少しずつ許された金毘羅の遊女が引き起こす問題は、周囲に様々な波紋を広げました。しかし、それに対する当局側の姿勢は、「門前町繁栄のための保護」という形に近っかたようです。上層部の保護のもと、天保期、金毘羅の遊女は門前町とともに繁栄のピークを迎えます。
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参考文献 林 恵 近世金毘羅の遊女
 
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     讃岐の大麻山・五岳山は牧場だった?

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江戸時代初期、讃岐の生駒騒動により生駒家が改易となった時に引継史料として書かれた『生駒実記』に、こんな記事を見つけました。
「多度郡 田野平らにして山少し上に金ひら有り、
大麻山・五岳山等の能(よ)き牧有るに又三野郡麻山を加ふ」
多度郡は、平野が多く山が少ないが、山には金毘羅さんがある。
大麻山・五岳山(現、善通寺市)等には良好な牧場があって、これに三野郡の麻山が加えるということでしょう。牧とは牛馬が放たれて牧場となっていたと言うことでしょうか?

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ただ、大麻山と麻山とは一つの山の裏表で、多度郡側が大麻山、三野郡側は麻山と呼ばれている山です。現在は、琴平山(象頭山)と大麻山の二つのピーク名がついていますが、もともとは一つの山です。象頭山は、後の時代になって金毘羅さん側でつけられた呼称です。古くは大麻山でした。

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生駒高俊が琴平門前町の興泉寺に寄進した林

 大麻山に近接する山に地福寺山があり、ここに生駒高俊から興泉寺へ寄進された林がありました。
興泉寺(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅

興泉寺は、真宗興正寺派の寺院で、中世の本庄城のあった所とも言われています。もともとは金毘羅新町にありましたが、元禄元年の大火で類焼後この地に移転してきました。鐘楼には元和6年(1620)生駒正俊建立の額があります。鐘楼が寄進された時期に、林も寄進されたのでしょう。
 ちなみに幕末に高杉晋作を匿った日柳燕石(くさやなぎえんせき)が一時期住まいとして使用していた呑象楼(どんぞうろう)は、この寺の住職の隠居部屋でした。 燕石の幼名が刻まれた井戸枠も残っています。

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興泉寺の林への牛馬立ち入り禁止

 興泉寺に寄進された林に対して、寛永十四年閏三月十日の五ヶ村・金光院請書という文書には、
興泉寺林に牛馬を入れない、下木も伐らない
と約束しています。五ヶ村というのは買田・四条・五条・榎井の五村であり、金光院は現在の金刀比羅宮です。この五村は、おそらく大麻山と琴平山を牧場として利用していた地域だと研究者は考えているようです。これ以後は、大麻山などに近い地福寺山の興泉寺林に牛馬を入れない旨の誓約を興泉寺に対して出しています。それ以前には、この山も牧場として利用されていたのでしょう。
 どうやら本当に、大麻山には牛馬が放たれていたようです。
三野郡・多度郡・仲郡にまたがる大麻山・麻山山塊とこの近辺の山々一帯は、良質な飼い葉や柴草を供給する山だったようです。

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牛馬を入れることが出来なくなった百姓達は、どうしたのでしょうか?
寛永18年(1642)10月8日の「仲之郡より柴草刈り申す山の事」と入会の地について各村の庄屋が確認した史料には、
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山
として扱われていた記述があります。
 また、「麻山」は仲郡の子松庄(現在の琴平町)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証で、札一枚には何匁かの支払い義務が課せられていました。仲郡、多度郡と三野郡との間の大麻山・麻山が入会地であったことを示す史料です。
 しかし、仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人には札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。佐文は麻山に隣接した地域であることから既得権が強い入会地となっていたのでしょう。これらからも大麻山と麻山およびその周辺の山々は、地味の豊かなためか牧や入会地などとして多面的に利用されていたことが分かります。
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しかし、このようなバランスは寛永十八年以後の郡切や村切が進むことによって、きしみを見せ始めます。
京極丸亀藩の時代になると、正徳五年(1715)の史料に、財田上ノ村昼丹波山へ仲郡佐文の百姓が入ったことで山論(山の利用をめぐる上での争い)が発生したことが記されています。これをきっかけに、神田山でも同様の事件が起こったと記されています。
さらに、約十年後の享保十年には、神田山に山番が置かれ入会地としての利用に制限が加えられるなど、山の境界をめぐってさらに取り締まりが強まっていったことが分かります。
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貞享五年(1688)に丸亀藩から出された達には、
「山林・竹木、無断に伐り取り申す間敷く候、居屋鋪廻り藪林育て申すべく候」
という条文があります。
林野(田畑でなく、山や野原となっている土地)などに生えている本竹などは藩の許可もなく勝手に切ってはならない、屋敷の周囲の藪林も大切に育てよとのお達しです。さらに史料の後半部にある焼畑禁止条項を見れば、藩が田畑のみならず山林全体をも含めて支配・管理しようとしたことが分かります。これは丸亀藩が田畑のみならず山林全体を支配することを示したもので、藩側からの山林への統制が進められていったのです。
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そのひとつが山検地でした。

山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を調査する形で行われました。先ほどの佐文・財田山・神田山などでも入会地の境界設定が進み入会地が縮小していったのです。山騒動の背後には、このように入会地の縮小でそれまでの既得権を失っていく農民達の怒りが背後にあったのです。
1 象頭山 浮世絵

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