瀬戸の島から

カテゴリ: さぬき市の歴史

   長尾荘 古代長尾郷
 寒川郡長尾郷
前回に長尾荘について、次のような変遷を経ていることを見ました
①長尾荘は平安末期に興善院に寄進され、皇室関係者に伝領された。
②ただ承久の乱の時に幕府に没収され、領下職は二位家法華堂の所領ともなった。
③南北朝期以降は、二位家法華堂の所領として、醍醐寺三宝院の支配を受けることになった。
14世紀半ばに長尾荘の支配権を握った醍醐寺三宝院は、どのように管理運営を行ったのでしょうか。
今回は、三宝院の長尾荘の支配管理方法を見ていくことにします。テキストは、「山崎ゆり  醍醐寺領讃岐国長尾荘  香川史学16号(1986年)」です。
世界遺産 京都 醍醐寺:三宝院のご案内
醍醐寺三宝院 かつては修験道当山派の本山でもあった

三宝院には、長尾荘についての史料が残っていて、讃岐の在地勢力の動きがある程度見えてくるようです。史料をもとに、長尾荘の所務請負の状況を研究者が整理したのが下表です。(備考の番号は、三宝院文書の整理番号)

長尾荘 長尾荘の所務請負の状況

三宝院の長尾荘史料上の初見は、上図のように観応三(1352)年4月13日付の長尾右衛門尉保守の請文です。ここには、長尾右衛門尉保守が長尾荘の所務を年貢三百貫文で請負ったことが記されています。その内容は、年貢三百貫文を、4月中に50貫文、6月中に30貫文、9月中に50貫文、12月中に170貫文を、分割して納めるというもので、不法憚怠の時は所務を召放たれても文句は言わないことを記されています。長尾右衛門尉保守が、どんな人物なのかは分かりません。しかし、寒川郡長尾郷の長尾をとって姓としているので、土着の豪族であることは想像できます。
 ここからは、三宝院は、南北朝後に支配権を握った長尾荘を、長尾氏を名乗る土着豪族を代官に任命して年貢などの所務を請負わせていたことが分かります。僧侶などを長尾荘に派遣して直接に管理運営を行うと云う方法はとられていません。三宝院支配当初から所務請負制による支配が行われていたことを押さえておきます。
請負代官名の欄を見ると、3種類の層に分類できそうです。
①長尾右衛門尉保守や石河入道浄志、寒川常文のような武士
②緯副寺呂緯や相国寺周興のような寺僧
③沙汰人百姓等という地下人たち
それぞれの階層をもう少し詳しく見ておきましょう
①の長尾右衛門尉保守は土着豪族、石河入通浄志は守護代官、寒川常文は長尾荘の地頭
②の呂緯や周興は、京都にある寺の僧で、利財にたけた荘園管理を専門とするような寺僧
請負代官の任期をみてみると、その任期は短く、ひんばんに交代が行なわれています。
たとえば応永二(1396)年から応水八(1401)年までの6年間に、毎年かわりばんこに6人の代官が務めています。石河入道浄志などはわずか2カ月で交代しています。

どうして短期間に、代官が次々と交替しているのでしょうか?
研究者は、次のように考えているようです。
石河入道浄志2ケ月で交代させられているのは、沙汰人百姓等か請負った年貢額の方が銭に換算すると、石川人道が請負った二百貫文より多かったためのようです。三宝院は、より多くの請負額を提示するものがあれば、簡単に代官を交代させていたことになります。
 ところが石河入道浄志に替わった沙汰人百姓等も、その年のうちに堅円法眼に交代しています。堅円法眼も翌年には相国寺の僧昌緯に交代します。沙汰人百姓等、堅円法眼の交代の理由は、よく分かりません。ただ応永三(1396)年の年貢の教用状がからは、年貢未進により交代させられたと研究者は推測します。
 昌緯は応永四(1397)年と翌年の代官をつとめて交代。昌緯の改替理由もやはり年貢未進。未進の理由は、昌緯の注進状によると、地頭や沙汰人、百姓等の抵抗により下地が掠め取られて年貢の徴収が不可能であると記されています。
 そこで次は、300貫文で請負うと申し出た地頭寒川氏に交代
寒川氏は応永6(1398)年から3年代官を務めて相国寺の僧周興味に交代、寒川氏交代の理由は、寒川氏が年貢三百貫が高すぎるので250貫目にまけろと要求してきたためのようです。以上から、ひんぱんな代官交代の理由には、代官の年貢未納入があったことが分かります。

 年貢未納入の背景にあったものは何なのでしょうか?
①代官自身による押領
②地下百姓等の領主支配に対する抵抗
を研究者は指摘します。領主三宝院は何とか年貢を確保しようと、ひんばんに代官を交代させます。しかし、長尾荘をめぐる現地の動きに対応しきれていないようです。困ったあげくに、管理を委ねたのが地元の実力者である地頭の寒川氏ということになるようです。
 地頭寒川氏は昌緯の注進状によれば、それまでも沙汰人や百姓等と結託して、代官や領主三宝院に抵抗しているその張本人でもあります。領主の三宝院は、地頭寒川氏を代官に任じることの危険性を分かっていながらも、寒川氏の力にたよるより他に道がなかったようです。そして、応永八(1401)年以後の史料は、1410年までありません。これについては、後に述べることにします。
 応永17(1410)年、再び寒川氏が260貫文で請負って、永享12(1440)年、寒川氏の要求で、260貫文からが210貫文に引き下げられています。
この時に領主の三宝院は、寒川氏に次のように申し入れています
「雖然今度別而被申子細候間、自当年詠二年五拾貫分被閣候、働弐価拾貫候、(中略)
年々莫大未進候、百四十貫外被閣候、然而向当年請口五十貫被減少候、労以如御所存被中成候、自当年自今以後事相構不可有御無沙汰候」
ここには、次のようなことが記されています。
①寒川氏が年々多額の年貢未納入続けていること
②にもかかわらず、その未進分の帳消しにし、
③その上で寒川氏の要求をきき入れて50貫文引き下げていること
ここからは、寒川氏に頼らなければ長尾荘の支配ができなくなっていることが分かります。三宝院には、これ以後の長尾荘に関する文書は残っていません。長尾荘がこの頃から実質的に、寒川氏の支配下に入ってしまい、三宝院の支配は及ばなくなってしまったことを示すようです。
長尾庄をめぐる守護や地頭、農民たちの動きをもう少し詳しく見ていくことにします。
  応永四(1397)年に請負代官に補任された相国寺の僧昌緯は、荘園請負人のプロであったようです。彼が三宝院に提出した注進状には、当時の長尾庄をめぐる様子が記されています。契約した年貢が納められない理由として、注進状は次のような問題を挙げています。
地頭・沙汰人らが73町余りの土地を「除田地」として、年貢納入を拒否している。除田とする根拠は、地頭・公文・田所・下司などの「給田」「土居」「山新田」「折紙免」などである。しかも地頭土居内の百姓までもが、守護役に勤仕するといって領家方に従わず、領家方の主だった百姓26人のうちの三分の一は、地頭に従えばよいといって公事を勤めようとしない。領家方の百姓は年貢を半分ばかりだけ納入して、他は免除されたと云って納めようとはしない。さらに年貢・公事は本屋敷の分のみ納入して、他は新屋敷の分と号して納めようとしない。
 さらに守護代官と地頭は、領家方進上の山野などを他領の寺へ勝手に寄進してしまっている。この結果、下地・年貢・公事が地頭や沙汰人にかすめ取られて、領地支配が行えず、年貢も決められた額を送付できないない状況になっている
ここからは、地頭とぐるになって、除田地と称して年貢・公事の負担を拒んでいる荘官や、領家方に従おうとしない百姓たちの姿が見えてきます。地頭の煽動と強制の結果、そのような行動をとったとしても、百姓の中には、三宝院に対する反荘園領主的気運が高まっていたことが分かります。
昼寝山(香川県さぬき市)
寒川氏の居城 昼寝城の説明板

そして登場してくる地頭の寒川氏のことを、見ておきましょう。
寒川氏は、もともとは寒川郡の郡司をしていた土着の豪族で、それが武士団化したようです。細川氏が讃岐守護としてやってきてからは、その有力被官として寒川郡の前山の昼寝城に本城をかまえて、寒川・大内二郡と小豆島を支配していました。長尾荘 昼寝城
寒川氏の昼寝城と長尾荘
 寒川氏の惣領家は、細川氏に従って畿内各地を転戦し、京と本国讃岐の間を行き来していたようです。
先ほどの表の中に、応永年間(1410)年頃に長尾荘の地頭としてその名がみえる寒川出羽守常文・寒川几光は、惣領家の寒川氏です。 同じころに山城国上久世荘で公文職を舞板氏と競っていた人物と同一人物のようです。山城の上久世荘で常文は、管領に就任した細川満元の支持を受けて、一時期ではありますが公文職を手にしています。長尾荘での寒川氏の領主化への動きも、守護細川氏の暗黙の了解のもとに行われたと研究者は推察します。
 在地の地頭の周辺荘園への侵略・押領は、守護の支持の上でおこなわれていたことが、ここからはうかがえます。これでは、京都にいて何の強制力ももたない醍醐寺三宝院は、手のうちようがないのは当然です。ここでは、細川氏の讃岐被官の有力者たちが讃岐以外の地でも、守護代や公文職などを得て活躍していたことも押さえておきます。

 百姓たちの反領主的な動きは、百姓の権利意識の高揚が背景にあったと研究者は考えています。
その抵抗運動のひとつを見ておきましょう。
 研究者が注目するのは、相国寺の僧・昌緯が長尾庄の代官に補任される前年の応永3(1396)年のことです。この年に、一年だけですが「沙汰人百姓等による地下請」がおこなわれています。この地下請は、さきに300貫文で請け負った守護代官石河入道をわずか二ヵ月後に退けて、沙汰人百姓等が年貢米400石、夏麦62石、代替銭25貫文で請け負ったものです。
 さらに昌緯が注進状で地頭や沙汰人等が年貢をかすめとっていると訴えた2ヵ月後に、百姓の代表の宗定と康定の二人は、はるばると上洛して三宝院に直訴しています。そして、百姓の未進分は、34石のみで、その他は昌緯が押領していると訴えているのです。昌緯の言い分が正しいのか、百姓等の言い分が正しいのかは分かりません。しかし、地下請が一年だけで終わり、百姓等の代表が上洛した後に、三宝院は、次のような記録を残しています。
  去年去々年、相国寺緯副寺雖講中之、百姓逃散等之間、御年貢備進有名無実欺

意訳変換しておくと
去年・去々年と、相国寺の僧・昌緯の報告によると、百姓たちが逃散し、年貢が納められず支配が有名無実になっている。

ここからは昌緯の報告のように、百姓の側は逃散などの抵抗を通じて、三宝院の荘園支配に対して揺さぶりをかけていたことがうかがえます。沙汰人百姓等の動きの背景には、村落の共同組織の成長と闘争力の形成があったと研究者は指摘します。

このような状況の中で、寒川氏による地頭請が成立するようです。
 三宝院は最後の手段として、祈るような気持ちで寒川氏に長尾の支配を託したのかもしれません。しかし、寒川氏の荘園侵略は止むことがなかったようです。 ついに三宝院は「公田中分」に踏み切ります。この「公田中分」については、よく分かりませんが結果的には、三宝院は、長尾荘の半分を失っても残り半分の年貢を確実に手にしたいと考えたようです。
しかし、どんな事情によるものか分かりませんが、応永16(1409)年に、「公田中分」は停止され、もとのように三宝院の一円支配にもどされます。そして、再び寒川氏が請負代官として登場するのです。三宝院は「年々莫大未進」と記した文書を最後に、永享12(1440)年以降、長尾荘に関する文書を残していません。これは三宝院領長尾荘の実質的に崩壊を示すものと研究者は推察します。
 このような動きは、長尾寺にも波及してきたはずです。
それまでの保護者を失い、寒川氏の保護を受けることができなかった長尾寺の運命は過酷なものであったはずです。阿波三好勢や長宗我部氏の侵入以前に、長尾寺は衰退期を迎えていたことがうかがえます。

以上をまとめておきます
①室町初期の長尾荘では、寒川氏が職権を利用して醍醐寺三宝院の長尾荘を押領した
②寒川氏は、周辺荘園を横領することで地頭から在地領主への道を歩んでいた。
③また百姓たちは惣結合を強めて、年貢未進や減免闘争、請負代官の拒否や排除・逃散などの抵抗行動を激化させていた。
④このような長尾荘の動きに、領主三宝院はもはや対応できなくなっていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは、「山崎ゆり  醍醐寺領讃岐国長尾荘  香川史学16号(1986年)」です。

     長尾荘 古代長尾郷
寒川郡長尾郷周辺
 長尾荘は、寒川郡長尾郷を荘域とする荘園です。まずは、長尾・造田の立荘文書から見ていきましょう。
『伏見宮御記録』所収文書 承元二年(1208)閏四月十日後鳥羽院庁下文案
 院庁下す、讃岐国在庁官人等。
早く従二位藤原朝臣兼子寄文の状に任せ、使者国使相共に四至を堺し膀示を打ち、永く最勝四天王院領と為すべし、管寒河郡内長尾 造太(造田)両郷の事
   東は限る、石田並に神崎郷等の堺
南は限る、阿波の堺
西は限る 井戸郷の堺
北は限る 志度庄の堺
意訳変換しておくと
 後鳥羽院庁は、讃岐国の在庁官人に次の命令を下す。
  早急に従二位藤原朝臣兼子寄文の指示通りに、寒河郡内長尾と造太(造田)の両郷について、使者と国使(在庁官人)の立ち会いの下に、境界となる四至膀示を打ち、永く最勝四天王院領の荘園とせよ。境界線を打つ四至は次の通りである
  東は限る、石田並神崎郷等の境。
  南は限る、阿波国の境。
  西は限る 井戸郷の境
  北は限る 志度庄の境
「伏見宮御記録」は、かつての宮家、伏見宮家関係の記録です。伏見宮家は音楽の方の家元で、楽譜の裏側にこの文書が残っていたようです。鎌倉時代初めのもので承元二年(1208)、「寒河郡内長尾・造太(造田)両郷の事」とあって、大内郡の長尾と造田の両郷を上皇の御願寺の荘園にするという命令を出したものです。これが旧長尾町の町域となります。造田は、同じ時に最勝四天王院領となったので、いわば双子の荘園と言えそうです。

長尾荘は平安時代後期に皇室領荘園になり、南北朝期以降は醍醐寺宝院の支配下に入ります。三宝院には、長尾荘についての比較的豊富な史料が残っていて、支配の様子や讃岐の在地勢力の動きがある程度見えてくる荘園のようです。今回は、長尾荘について、その成立から三宝院の寺領になるまでを、追いかけて見ようと思います。テキストは、「山崎ゆり  醍醐寺領讃岐国長尾荘  香川史学16号(1986年)」です。

醍醐寺三宝院の支配に入る以前の長尾荘について、見ておきましょう。三宝院支配以前の長尾荘について記した文書は、次の二通だけのようです。
①長尾荘の初見文書でもある正応元(1288)年8月3日付の関東御教書
②喜元4(1306)年6月12日付の昭慶門院御領日録案

①の関東御教書では、前武蔵守(北条宣時)と相模守(北条貞時)が、越後守(北条兼時)と越後右近大夫将監(北条盛房)両名に、「二位家法華堂領讃岐同長尾庄」を下知状を守りよろしく沙汰するようにと申しつけたものです。この文書により、長尾荘か鎌倉後期の正応年間(1288)年頃に、二位家(北条政子の法華堂)の所領であったことが分かります。
②の昭慶円院御領同録案からは、長尾荘が興善院の所領であり、長尾庄を含む17ケ庄は「別当惟方卿以下寄付」によるものであることが分かります。興善院は鳥羽天皇の御願寺である安楽寿寺の末寺で、民部卿藤原顕頼の建立寄進になります。荘園寄進者の「別当惟方卿」は藤原惟方のことで、藤原顕頼の息子で、12世紀中頃の人物のようです。したがって、長尾荘は寄進者はよく分かりませんが、平安末期に興善院に寄進され、鎌倉末になっても興善院領として伝領されていたことが分かります。
以上の二つの文書からは、
①長尾荘は平安末期に興善院に寄進され、鎌倉末期に至っても皇室に伝領されていること
②一方で、鎌倉後期には二位家法華堂の所領ともなっていたこと
そして南北朝期以降は、二位家法華堂の所領として醍醐寺三宝院の支配を受けることになるようです。どうして鎌倉の法華寺の所領を、京都の醍醐寺三宝院が管理するようになったかについては、後ほど見ることにします。ここでは、文書には「二位家法華堂領」長尾荘として記載されてること。正確には「鎌倉二位家・右大臣家両法華堂領」長尾荘になること。つまり、長尾荘は二位家と北条政子と右大臣家(源実朝)のそれぞれの法華堂の共通した所領だったことを押さえておきます。長尾荘は、北条政子を供養するための法華堂の寺領だった時もあるようです。そして、幕府はこれを保護するように命じています。

では北条政子や源実朝の法華堂はいつ、どこに建立されたのでしょうか。
実朝の法華堂について、吾妻鏡に承久三(1221)年2月27日条に、次のように記します。
「今朝、於法華堂、修故右大臣第二年追善、二品沙汰也」

ここからは、政子が実朝の3年目の追善供養を法華堂で行ったことが分かります。
政子の法華堂については、吾妻鏡の嘉禄二(1226)年4月4日条に、次のように記されています。
②「如法経御奉納、右人将家、右府将軍、二品、三ケ之法華堂各一部也」

ここからは四代将軍頼経が頼朝、実朝、政子のそれぞれの法華堂に、如法経を奉納したことが分かります。
 実朝は承久九(1219)年、拝賀の儀を行った際、甥の公暁に殺され、その遺体は勝長寿院の境内に葬られます。一方、政子は嘉禄元(1225)年に亡くなりますが、その一周忌は同じ勝長寿院で行われているのでので、やはり政子も勝長寿院の境内に葬られたと研究者は考えています。

長尾荘 源氏の菩提寺でであった勝長寿院跡
源氏の菩提寺でであった勝長寿院跡 

   勝長寿院は頼朝が父義朝の恩に報いるために鎌倉の地に建立した寺で、義朝の首が葬られており、義朝の基所となった寺でもありました。そして、のちには実朝、政子も葬られ、源氏の菩提寺となった寺です。
   以上から実朝の法華堂は遅くとも承久三年(1221)までに、政子の法華寺は嘉禄二(1226)までに、それぞれの墓所のある勝長寿院の境内に建立されたと研究者は考えています。
廃寺となった幻の寺(勝長寿院)(Ⅱ) | 鎌倉の石塔・周辺の風景

平安末頃に興善院に寄進された長尾荘が、鎌倉の勝長寿院の境内に建立された法華堂の所領となったのは、どんな事情があったのでしょうか。
それを解くために、興善院の所領がどのように伝領されていったかを見ておきましょう。
①鳥羽上皇より女八条院に譲られ、鳥羽上皇没後は後白河天皇の管領下に入った。
②八条院から後鳥羽天皇女春華門院へ、
③次いで順徳天皇に伝わり後鳥羽上皇が管領
④承久の乱で一時幕府に没収されたが、すぐに後高倉院に返還
⑤その後、その女安嘉門院の所領となり
⑥亀山上皇女昭慶門院の所領となって亀山上皇の管領に帰し、
⑦南北朝期まで大覚寺統の所領として伝領
なかなか出入りがあって複雑ですが、基本的に長尾庄は皇室領で皇室関係者の所領になっていたことが分かります。その中で注目したいのは④の承久の乱で幕府に没収されていることです。この時に、長尾荘は実朝の法華堂に寄進されたことが分かります。幕府はある一定の権利を留保した上で皇室に長尾荘を返還したと研究者は考えています。
以上を要約すると次のようになります
①長尾荘は平安末期頃に、興善寺に寄進されて皇室領荘園となった
②しかし承久の乱で幕府に没収された。
③幕府によりその「領家職」が右大臣家法華堂に寄進され、上位の所有権である「本家職」が再び皇室に返還された
  ここに本家を皇室(興善院)、領家を右大臣家法華堂(のちには二位家。右大臣家両法華堂)とする長尾荘が成立し、南北朝期になるようです。
南北朝期に入ると、興善院領を含む大覚寺統の所領は、後醍醐天皇の建武の新政の失敗により室町幕府に没収されてしまい、多くの荘園は散逸してしまいます。しかし、長尾荘は二位家・右大臣家法華堂領として醍醐寺三宝院の管領下に入って存続します。その背景には、ある人物の存在があったようです。
長尾荘 三宝院門跡の賢俊
三宝院門跡の賢俊
長尾荘が三宝院の管領下に入ったのは、三宝院門跡の賢俊が貞和三(1347)年に鎌倉の法華堂の別当職を兼ねていたためのようです。
長尾荘 三宝院門跡の賢俊2
賢俊の年譜 左側が賢俊の年齢、右側が尊氏の年齢

賢俊は、建武三年(1336)二月に尊氏が九州に敗走する途中に、「勅使」として北朝の光厳上皇の院宣をもたらしたした僧侶です。これによって、尊氏は「朝敵」となることを免れます。当時の尊氏は、後醍醐天皇への叛旗を正当化するために北朝の承認を欲しがっていました。その証しとなる院宣の到来は、尊氏の政治・軍事上の立場に重要な転機をもたらします。 
 その功績を認められて賢俊は醍醐寺座主に補任され、寺内の有力院家を「管領」(管理支配)するようになり、寺内を統括する立場を強めていきました。寺外においても真言宗の長官である東寺長者、足利氏(源氏)の氏社である六条八幡宮や篠村八幡宮の別当にも任じられ、尊氏の御持僧として、尊氏や武家護持のために積極的に祈祷を行っています。また尊氏の信頼も厚く幕政にも関与し、多くの荘園を与えられて権勢を誇った僧侶でした。その三宝院門跡の賢俊が、鎌倉の法華堂の別当職を兼ねていたようです。
醍醐寺:三宝院 唐門 - いこまいけ高岡
醍醐寺三宝院

そのため法華堂の寺領である長尾荘は、幕府に没収されることなく、醍醐寺三宝院の支配下に入れられたようです。こうして、三宝院による長尾寺支配が14世紀の半ばからはじまるようです。その支配方法については、次回に見ていくことにします。
以上をまとめておくと
①長尾荘は平安末期に興善院に寄進され、皇室関係者に伝領された。
②ただ承久の乱の時に幕府に没収され、領下職は二位家法華堂の所領ともなった。
③南北朝期以降は、二位家法華堂の所領として、醍醐寺三宝院の支配を受けることになった。

長尾荘の支配拠点のひとつとして機能するようになるのが長尾寺ではないかと私は考えています。
歴代の長尾寺縁起は、以前にお話ししたように①から②へ変化していきます。
①中世は、行基開基・藤原冬嗣再興」説
②近世になると「聖徳太子・空海開基」説
その背後には、高野聖たちによる弘法大師伝説や大師(聖徳)伝説の流布があったことがうかがえます。どちらにしても、この寺の縁起ははっきりしないのです。
長尾寺周辺遺跡分布図
長尾寺周辺の遺跡分布図

  ただ、考古学的には境内から古瓦が出土しています。この古瓦が奈良時代後期から平安時代にかけてのものであることから、8世紀後半頃にはここに古代寺院があったことは事実です。さらに付近には南海道も通過し、条里制遺構も残ります。古代からの有力豪族の拠点であり、その豪族の氏寺が奈良時代の後半には建立されていたことは押さえておきます。
 長尾寺の一番古い遺物は、仁王門の前にある鎌倉時代の経幢(重要文化財)になるようです。
明倫館書店 / 重要文化財 長尾寺経幢保存修理工事報告書
長尾寺経幢 (きょうどう)(弘安六年銘)

経幢は、今は石の柱のように見えますが、8角の石柱にお経が彫られた石造物で、死者の供養のために納められたものです。お経の文字は、ほとんど読めませんが、年号だけは読めます。西側のものには「弘安第九天歳次丙戌五月日」の刻銘があるので弘安6年 (1283)、東側のものが3年後1286年とあります。
1長尾寺 石造物
             長尾寺経幢 

そして、正応元(1288)年8月3日付の関東御教書からは、長尾荘がこの頃に、
二位家(北条政子の法華堂)の所領となっていたこと見ておきました。つまり、経幢が寄進されたのは長尾荘が鎌倉の法華堂寺領となっていた時期に当たります。
 建てられた経緯など分かりませんが、モンゴル来寇の弘安の役(弘安4年)直後のことなので、文永・弘安の役に出兵した讃岐将兵の供養のために建立されたものという言い伝えがあるようです。
 さらに「紫雲山極楽寺宝蔵院古暦記」には、弘安4年に極楽寺の住職正範が寒川郡神前・三木郡高岡両八幡宮で「蒙古退散」祈祷を行ったことが記されているようです。もし、これが事実であるとすれば、文永・弘安の役に際に建立されたと言い伝えられる経幢の「補強史料」になります。
長尾寺経幢 (ながおじきょうどう)(弘安六年銘)
             長尾寺経幢

 これを建立したのは地元の武士団の棟梁とも考えられます。
そうだとすれば寄進者は、長尾荘が北条政子をともらう法華堂の寺領であることを知った上で、この地域の信仰センターとして機能していた長尾寺に建立したのではないかと私は推測します。長尾寺は、長尾荘支配のための拠点センターに変身していったのではないかと私は思うのです。
 長尾寺の境内や墓地には、五輪塔など室町時代にさかのぼる石造物が残されているようです。そこからは、中世の長尾寺が信仰の拠点となっていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献

        雨瀧山城 山頂主郭部1
雨瀧山城 山頂部主郭部
雨瀧山の頂上にある三角形状の曲輪C1は、近世城郭の本丸にあたる所になります。そのため最大の広さと強固な防禦装置群が構築されているようです。今回は、雨瀧山の主稜線上の防御施設を見ていきます。テキストは、「池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  香川県文化財協会会報平成7年度」です。

まず、虎口とされる①の枡形Ca遺構を見ておきましょう。
雨瀧山城 山頂主郭部1拡大図
         雨瀧山城 山頂部主郭部拡大図
曲輪W2・S2方面からの通路は、曲輪C1の南側を回廊の様に通過します。その中央部辺りに、曲輪C1から南へ突出した①に枡形Ca遺構があります。この突出した地形を通過して曲輪C1へ入っていたようです。曲輪W2方面からCa台地へつづく通路には、横並びに三つ横矢ポイントが連続して並びます。同じように曲輪S2方面から①のCa台地につづく通路に対しても、曲輪C1南南東隅に石垣を使用した上下三段構造による大横矢拠点が待ち受けています。これら二方面からの通路に対して、曲輪C1には強固な防衛拠点の備えがあります。さらに突出させた台地地形構築から推測すると、ここが枡形形状の虎口遺構と研究者は考えているようです。
 もうひとつの虎口とされる②の枡形Cb遺構を見ていくことにします。
 曲輪N2方面からの通路の上に、帯状の空間地形Cbが見られます。曲輪N2からこのCbに登り、さらに東に回り込み、第2次大戦時に構築したと言われる監視所跡の切り込み(坂虎口)から、曲輪C1へ入るルートがあったと研究者は考えています。通路構築状況から見ると、通路の中間部にある帯状の空間地形Cbは、曲輪C1の枡形としての機能を果たし、尾根N方面に対する最終防衛拠点であったとことがうかがえます。
③ 曲輪C1大横矢拠点(堡塁か)
この横矢拠点は、S尾根方面から攻め寄せる敵を迎え撃つために、南南夷隅に石垣で上下三段構造の拠点を構築しています。一方、W尾根方面に対応する西隅は、竪堀と横堀を組み合わせた凸構造の構築がされています。最後の決戦場としての曲輪C1を守る防衛構造物と研究者は考えています。
以上から曲輪C1には、同一パターシ化された防衛構造物が配置されていて、縄張りには「ある一定の法則性」があり、かなり高度な築城技術が使用されていたことが分かると研究者は評価します。

本丸からに西尾根に続く曲輪W群を見ていきます。
雨瀧山城 山頂西部拡大図
雨瀧山城 曲輪W群

曲輪W群は、西の寒川方面の尾根からの攻撃を想定しています。曲輪C1防衛のために、曲輪W群にはさまざまな築城技術の使用が見られます。
 まず曲輪W5直下の尾根地形上の斜面に、堀切状の凹地形を削り出しています。さらに凹地形の南北両端の斜面に竪堀を落としています。これらの一連の構築物は、敵による斜面上の回り込み攻撃を阻止します。正面突破の敵勢力に対しても、凹地形の西側土塁と曲輪W5からの上下2段による横矢迎撃で撃退する備えです。またこの凹地形は、西尾根正面に平虎口を開口させ、その左右を土塁で固めた枡形虎回の機能をもあわせ持つ防衛拠点となっています。
  主郭西部の防禦構造物には、北側斜面上の5本の竪堀があります。
①凹地形の北斜面を遮断する竪堀
②曲輪W5北斜面を遮断する竪堀
③曲輪W2北斜面を遮断する竪堀
④曲輪C1北斜面を遮断する竪堀の西4本
で、北斜面上を攻め登る敵を阻止します。
以上の構造は、この城郭の中では最高の技巧性を見せる遺構だと研究者は評価します。

 南尾根の曲輪S群の虎口と通路について、見ていくことにします。
雨瀧山城 山頂南主郭部1拡大図
雨瀧山城 曲輪S群
曲輪S群は、南方の柴谷尾根方向からの攻撃を想定しています。
この方面の攻防ポイントは堀切S10になります。堀切S10を守るために、まず曲輪S8・7・6が防衛拠点と配置されています。堀切S10から上の通路は、次の2つが考えられるようです
①枡形虎口Sbに入り、曲輪S4下の斜面上を北西へ直進、曲輪S3の「登り石垣?」ラインが斜面を下がってくる地点で突き当たり、そこを折り返して曲輪S4へ登るか
②「登り石垣」部分を越えて直接に曲輪S4へ登る通路が見えてくる。この通路を登る。
 この通路方法からすると、小空地S5は上下一体性のある枡形虎口遺構そのものです。上段の空地は下段の枡形空間にたいして、武者隠し的空間として機能します。さらに西尾根の枡形遺構と同じ様に、曲輪S4と併せると、ここにも上下三段構えの立体防禦装置があったと研究者は指摘します。

南方の曲輪S群には、西尾根曲輪W群には、見られなかった土塁構築があります。
曲輪S6は東斜面側の南北に立つ自然の大岩間に、貴重な土塁構築と枡形虎口Scが作られていますので、何か特別な空間のようです。曲輪S7・8では、虎口Sdが敢えて尾根筋を避けて、西側にずらしています。そして、曲輪S7.8を防禦機能上、一対とした空間として配置しています。そのねらいは、東尾根櫓台地区SEを突破し、なだれ込んできた敵を、ここで阻止するための軍事空間のようです。特に曲輪S8の形を回廊状にしているのは、尾根斜面を登ってくる敵兵に対して、迎撃のための砲列を敷く足場にするためだったと研究者は考えています。

最後に雨瀧山城が、いつ、誰によって、どのような目的で造営されたのかを見ておきましょう。
 私は先入観から安富氏が、阿波の三好勢力に対して造営したもので、16世紀初頭には原型的なモノが姿を見せ、それが土佐勢侵攻の脅威が高まる中で整備されたものと思っていました。さてどうなのでしょうか。
『雨滝城発掘調査概要』(1982年)の報告によると、山頂部曲輪群からは、礎石と瓦を使用した建物群が出土しています。瓦が出てくる山城は、讃岐ではあまり聞きません。全国の中世城郭で、礎石建物の出土事例の初見は、次のようになるようです。
①横山城の大永年間1520~天文年間1550年
②観音寺城では天文年間1530~永禄年間1558年
③四国では「土佐では16C後半以降」
 そうすると雨瀧山城に礎石建物が建てられたのは、元亀年間(1569)の寒川氏問題での緊張時か、それ以後と研究者は推測します。
 瓦については、『調査概要』や『織豊期城郭の瓦』(1944)の報告によると、瓦制作技法はコビキA手法や紋様等より、織豊期の系譜を持つ瓦と判定されています。とすると、秀吉のもとで、讃岐制圧部隊として活動した仙石氏や生駒氏による改修・増築などが考えられます。その遺構年代は天正13(1585)年前後と研究者は考えています。とすると、安富氏のものか、仙石氏のものかについての判定は微妙な問題になるようです。

 別の視点から見てみましょう。
雨瀧山城の遺構の中で、特に目立つのは8ヶ所ある枡形空間です。城郭遺跡の中で、枡形の構築年代が古いものを並べると次のようになります
①京都嵐山城  永正4(1507)年  『多聞院日記』香西又六元長」
②京都中尾城  天文18(1549)年 『万松院殿穴太記』将軍足利義晴」
③近江小谷城攻の陣城群 天正元年(1571)(織豊期城郭)」
④讃岐勝賀山城 天正7(1579)年   香西氏」
⑤備前国児山城 天正9(1581)年  『萩藩 閥閲録』(宇喜多与太郎基家の陣城 )
これらの城郭との枡形の比較検討からも、雨瀧山城の遺構は天正期頃のものと推測できます。
上記の城の枡形を雨瀧山城のものと比べて見ましょう。
雨瀧山城 比較

比較からは、京都嵐山城・讃岐勝賀山城・讃岐雨瀧山城の枡形形状が同類型であることが分かっています。
3つの城の枡形の共通点を見ておきましょう。共通点は、堀切内部の空間を土塁等で一部仕切って、切り離した枡形空地を創出して構築した独特の形の枡形であることです。堀切と枡形を併用した形状の事例は限られます。
 さらに三城郭の共通項を探すといずれも築城者が、香西氏と安富氏という細川京兆家の関係者であることです。ここからは「細川系築城技法」とよべる技法があり、それを持った土木築城集団が細川氏周辺にいたことが見えてきます。
 三城郭の構築年代を考えると、天文年間から天正初期という時代は、信長の上洛以前で、細川・三好の勢力が京畿を支配していた頃になります。畿内で用いられていた築城工法を、香西氏や安富氏は讃岐の城の改修や新築に採用したようです。

 天正3年香西元成が堺の新堀に新城を築城したことが『信長公記』には記されています。
この時期に、香西氏は旧地である京都嵐山城も改修した可能性が高いと研究者は考えています。そうすると香西氏の讃岐の新城と築城された勝賀山城の枡形遺構も天正期あたりの構築と云えそうです。
 これは三城郭の年代及び築城系譜も一致することになります。

以上をまとめておきます。
① 雨瀧山城の東西両尾根上に対象にある「一本橋」と「陣地空地」を結合した複合遺構は、縄張り上で「パターン」を繰り返して使用している。
②畿内などで使用されている防禦施設(枡形)が採用されている。
③全体としても縄張りに「統一性」が見られる。
④雨瀧山城の縄張りは、築城時以前に「縄張図面」があった
⑤この縄張り構想は、細川系築城技法を持つ築城集団によってもたらされた。
そして、頂上の曲輪に建てられた礎石建物は、安富氏か織豊系大名のどちらが建てたものかは微妙な年代だが、建物配置状況や出土した織豊期瓦から織豊系大名によるものと研究者は判断します。具体的には、秀吉の命で天正13(1585)年に仙石氏が讃岐入国後に行った領国経営上の支城網群整備時に築城・改修された城郭群中の一城とします。仙石・生駒期になっても、讃岐の山城は改築・増強され軍事的機能を果たし続けていたのは、最近の勝賀城の発掘からも明らかになっています。
 ここからは、讃岐の中世山城の中には長宗我部元親や信長・秀吉の侵攻で陥落し、そのまま放置されたのではなく、改修・増築が行われ新たな軍事施設としてリメイクされていたことが改めて分かります。西長尾城や聖通寺山などの発掘から分かったことは、土佐軍は、旧来の山城に大幅な手を入れて増強していることです。それが東讃の雨瀧山城にもみえるようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  
            香川県文化財協会会報平成7年度

雨瀧山 居館跡2
 雨瀧山城 奧宮内居館跡

前々回は、東西尾根上の遺構をみて、雨瀧山城の城郭エリアを確認しました。前回は、居館跡や屋敷地群があった奥宮内エリアの建物群の配置などを見ました。
雨瀧山 居館跡奧宮内3

 居館跡とされる奥宮内を中心に「富田城下町」が形成されと研究者は考えているようです。
しかし、地図や現地を見る限りでは、私には見えてきません。研究者は何を材料にして「城下町復元」を行うのでしょうか。今回は、「城下町富田」の復元過程を見ていくことにします。 テキストは、池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。

前回見たように、居館跡は雨瀧山城南側のふもとである奧宮内にあることは、前回にお話しした通りです。
まず、奥宮内を囲む外郭の大堀を次のように想定します。
居館跡東側の「げじょうだに」から「のぶはん」を経て津田川の合流点の「てさき」に走る大溝地形を外堀とします。そして改修した津田川に連結させて、両堀を外郭としたL字ラインの内側に、奥宮内谷居館群とさらに宮内・大船戸両地区を結合させて「戦国期城下町・富田」が形成されていたとします。
 また、城下町の最大の防御網は、東側の大堀遺構と南側の津田川になります。仮想敵勢力が攻め寄せてくるのは、この方向からであったと考えていたことがうかがえます。そうだとすれば、仮想敵勢力は、次のように考えられます。
①城主が安富氏であった時代には、阿波三好勢力や土佐の長宗我部元親
②城主が仙石氏や生駒氏であった時代には、土佐の長宗我部元親
 外郭の大堀に囲まれた城下集落
このエリアには地形を表現した地名には次のようなものがあります。

「ごい」・「みいけ(御池?)」・「いけじり(「池尻)」・「たなか(田中)」・「のぶはん」「げじょうだに(下所谷)」「いずみたに(和谷」・「おおぜつこ(大迫古)」・「てのく」・「西野原」・「うらんたに(裏の谷)」・「すぎのはん」・「しんがい(新開)」等

町場形成に関連する地名には、次のようなものがあります
「本家」・「隠居」・「南屋敷」・「しもぐら(下倉)」・「こふや(小富屋)」・「おおふなとじんじや(大舟戸神社)」・「大日堂」等

これらの地名がある場所を下図で確認すると、現在の富田神社と旧御旅所・参道を軸線にする両側に散在していることが分かります。。ここからは富田神社の参道を中心軸して、町場が形成されていたと研究者は推測します。

雨瀧山城 商家町富田 

 河川港と港町
津田川に沿った付近には、「しもぐら」・「こふや」・「おおふなとじんじゃ」・「しんがい」等の地名が散在します。
「しもぐら」・「こふや」からは、川港倉庫群の存在
「おおふなとじんじゃ」からは、海上運行の祭祀した船頭や、船戸からは港があったことや、河川港とその港湾に働く人々がいたこともうかがえます。津田川を利用した河川交通の運航が行われ、この周辺には川港的機能を果たしていた「施設」があったと研究者は考えているようです。
雨瀧山城 城下町富田2 


富田荘の物産類が集結したのが船戸神社の下の「しもぐら」・「こふや」の川筋でしょう。ここからは富田庄の流通経済活動拠点とし、大船戸地区が考えられます。また宮内地区には、「本家」・「隠居」・「南屋敷」などの雨瀧山城や「守護代所」に関係した行政・統治機関の人々の居住地があったことが推測できます。
 経済活動の中心地としての津田川流域の大舟戸地区、
 政治的中心地としての富田神社周辺の宮内
それぞれ別の機能を持つ両地区を中心にして、「戦国期城下町」富田が出現したいたというのです。

雨瀧山城 髙松平野での位置
髙松平野の東端に位置する富田

確かに雨瀧山城の南側の富田エリアを巨視的に見ると、髙松平野の東の端にあたります。髙松平野に侵入しようとする勢力が、ここを拠点に勢力を養った例が古代にもありました。津田湾沿岸に古墳を築いた勢力は、ヤマト朝廷に近く、瀬戸内海南航路を紀伊の勢力と共に確保していたとされます。彼らは津田川を遡り、この富田の地で勢力を養い岩清尾・峰山勢力を圧倒していくようになります。その政治的シンボルが、この地にある富田茶臼山古墳とされます。古代においても、津田川は、津田港と富田を結ぶ基幹ルートであったことが推測できます。
雨瀧山城の主は、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
「兵庫入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」と記されています。室町幕府の最有力家臣は、山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。国料とは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。関所を通過するときに通行税を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。その権利を安富氏は持っていたようです。安富氏のもとで、多くの船が近畿との海上交易ルートで運用されていたことが考えられます。『納帳』には「讃岐富田港」は出てきませんが、富田荘の物資集積や搬入のために、小船による流通活動が行われていたことは考えられます。富田荘の「川港」の痕跡を、研究者は次のように挙げています
①「古枝=ふるえだ=古江?」で、港湾の痕跡
②「城前」は、六車城の麓で津田川の川筋で、荘園期富田の中心地。
③「市場」は、津田川の南岸にあり定期市の開催地。。
④「船井」は、雨瀧山城の西尾根筋先端にある要地で、船井大権現と船井薬師があり、港湾の痕跡
以上のように津田川沿いには、海運拠点であったと推測できる痕跡がいくつもあります。これらが分散しながら、それぞれに「港」機能を果たしていたことが推察できます。比較すれば、阿野北平野を流れる綾川河口が松山津や林田津などのいくつかの港湾が、一体となって国府の外港としての役割を果たしていた姿と重なり合います。これらの「港」を、拠点とする讃岐富田港船籍の小船が東瀬戸内海エリアで活動していたことが考えられます。
讃岐富田荘の港は、一般的には鶴箸(鶴羽)浦か津田浦と考えられています。
雨瀧山城 安富氏と海上交易
兵庫北野関入船納帳に出てくる讃岐の17港
  津田湾周辺では鶴箸(羽)が記されている

鶴箸(鶴羽)浦と津田浦は近世にも繁栄していた港です。特に鶴箸には「江田=えだ」の地名を残す港湾遺構もあり、『納帳』にも出てきます。しかし、富田荘との荷物のやりとりには相地峠を越える必要があります。それを避けるために、津田川を利用し富田荘内に川船を接岸する方法が取られていたことが考えられます。とすれば津田川流域には、河川交通の運用のために「讃岐富田港」があったはずだと研究者は指摘します。富田荘内を貫流する津田川(=富田川)に、「古枝=古江?」や「船井」などの川湊がいくつもあり、それが海岸線の後退に伴い、江戸期の「津田浦」の発展につながったとしておきましょう。

以上をまとめておきます

①雨瀧山城の居館跡は、奧宮内エリアを中心に「舟渡地区(津田川河岸) + 宮内地区(富田神社周辺)」までをエリアとして「城下町・富田」の町割りが行われていた。
②城下町富田の外堀は、「東の大溝遺構 + 南の津田川」であった。
③舟渡地区を中心に定期市が開かれ、川港もあり、ここが経済的な中心地であった。
④城下町富田は津田川を通じて、瀬戸内海東航路に接続していた。
⑤雨瀧山城西尾根筋の先端にある「船井」には、船井大権現と船井薬師があり、往時の繁栄と港湾の痕跡が推定できる。
⑥津田川流域には、河川交通の運用のために「讃岐富田港」があった?

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  香川県文化財協会会報平成7年度」

 雨瀧山 遺構図全体2
  
雨瀧山城の居館や屋敷地群は、どこにあったのでしょうか。
雨瀧山の南側の奥宮内を最有力候補と研究者は考えています。その居館跡を今回は見ておきましょう。 テキストは、池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。
  奥宮内は、富田神社の鎮座する奥まった谷に位置します。
 奥宮が居館跡だったすると、瀬戸内海交易に便利な津田湾側の北側裾部に居館を置かずに、あえて河川交通に頼る内陸部の南側裾部・富田荘に依拠していたことになります。古代にも、交通の大動脈である瀬戸内海の入江である津田湾ではなく、讃岐最大の前方後円墳の茶臼山古墳を内陸部平野の富田に築いた古代首長がいました。津田川流域のこの平野は、戦略的な魅力があるのかもしれません。
雨瀧山 居館跡2
雨瀧山城 奧宮内の居館跡
 奥宮内は、東側のげじょう谷の尾根筋と、てのく谷の尾根筋に挟まれた谷筋です。
ここには、宮内谷扇状地が形成されて、その先端に中池が築かれています。中池について、研究者は次のように考えています。もともとは、ここに土塁が築かれて、堀となっていた。それが後世にため池堤防に「転用」された。つまり、中池の堤防は、谷筋防衛のために遮断された大土塁であった云うのです。これを裏付けるように、平成6年のため池改修時の調査では、池の内部底土層の堆積が南北幅が5m程でしかなく、東西に細長い水堀であったことが確認できています。

雨瀧山 居館跡奧宮内1
        雨瀧山城 奧宮内の居館跡(拡大図1)

奥宮内は、南に傾斜した扇状地上の地形の上に屋敷地跡が残ります。
全体は次の3地区に分けられます。
① 西尾根下の小さな谷地形(おおぜっこ)
② 東尾根下の小さな谷間(いずみだに)
③ この小さな谷地形が合流した小扇状地(中池・小池・さくらんぽ)地区
各地区の機能は、次のようになります。
①②のおおぜっこ・いずみだに両地区は、飲料水の確保と畑地として利用していた空間地
③の中池・小池・さくらんぼ地区は、屋敷地や倉庫地
雨瀧山 居館跡奧宮内3

中池に面したL字形平地は、館の「表」として公的機能を持つ守護代所の建物等があったところで、地図上のA・B・Cは領主の表での屋敷部分で、A・Bは領主の奥の居館部分の建物があったところと研究者は推測します。
さらに、屋敷地周辺について、次のように推察します。
・上部のさくらんぼ地区は、厩屋等の建物があったところ
・中池の堤防が西尾根に接するところと、尾根との間に残る小空地が虎口で、城門のあった可能性
・虎口の背後地のⅠA屋敷地に接するところは、枡形機能を果たす空間地
・居館内を警護する家人は、小池の西側と東側尾根先端部の高台曲輪に駐屯
以上のように、ここには居館全域の監視・防衛に最適な地点であったことが想定できます。

 もう一度、「げじょうだに」(=下城谷か?)周辺を見ておきましょう。

雨瀧山 居館跡2

ここには居館地の東側防衛のために、軍事色濃厚な遺構群があります。
① 大堀
城山の稜線より一気に下る「げじょう谷」が、緩傾斜した谷地形あたりの「のぶはん」地区を通過して、さらに宮内地区と森清地区の境「ゴイ」・「ミイケ」・「タナカ」・「スナゴ」・「テサキ」を通り、津田川へ流入する谷間地形が広がります。この南北を貫流する谷筋を、城郭遺構の防衛線の「大堀」と研究者は考えています。
 特に谷地形の西側縁(宮内地区)は、湿地及び泥田地形であったようです。日葡辞書には「sunago=砂、または砂をまきちらしたように」から、このあたりは河川敷のようであったらしく、それが「タナカ」・「ミイケ」の地名からもうかがえます。
②   奥宮内の居館推定地の東側の「のぶはん」とは、何でしょうか?「のぶ」と「はん」に分けて考えると、「のぶ」=伸ぶ・延ぶ=のびる=空間的に長くひろがるとの意味になります。日葡辞書でも「nobu=せいたけがのぶる」で、地形の状況を示す言葉の意味になるようです。稜線より一気に下る「げじょう谷」と、暖傾斜状谷地形の「のぶはん」の谷内部より稜線を見上げると、天空に向かって一直線の「げじょう谷」空間が走り、「空間的に長くひろがる」の言葉の意味どおりの地形となると研究者は考えているようです。
③ 首切り地蔵尾根
「のぶはん」東壁の尾根は、東側面に自然地形を壁面状に加工したようすが見られます。城郭防禦の遮断線としての尾根ラインを構築したようです。中段付近には、堀切と「首切り地蔵」のある曲輪等が二段構築されています。今はこの堀切りは、柴谷峠に抜ける山道が通過していますが、往時も道として使用していたと考えられ、曲輪の存在は堀切道を通過する敵にたいして、防衛拠点としての機能を持つところと研究者は考えているようです。

   以上見てきた通り、奧宮内は、雨瀧山の南の谷の奧に南面して配置されていたと推測されています。
このレイアウトは、津田方面の海上交易よりも南方に広がる内陸盆地に主眼を置いたかのように思えます。これ対して、西讃守護代の香川氏が多度津の現桃陵公園付近に居館を置き、その背後に天霧城を築いています。香西氏も内陸から次第に海際に進出して、勝賀城を築いています。そこには、交易湊を確保して瀬戸内海交易に参加していこうとする意欲がうかがえます。それに対して、海に背を向けて居館を置いた安富氏のねらいはどこにあったのでしょうか。考えられるとすれば、阿波三好氏への備えを主眼として作られた城なのかも知れません。
 また、安富氏は古髙松港(屋島)・志度・引田に加えて小豆島の各港の管理権を握っていた節もあります。そのための経済的な機能を各湊にあり、政治的な居館を津田湊に置く必要がなかったのかもしれません。この辺りが今の私には、よく分からないところです。

    雨瀧山城の主は、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
「兵庫入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」が出てきます。室町幕府の最有力家臣は山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。国料とは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。関所を通過するときに税金を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。通行税を支払う必要ないから積載品目を書く必要がありません。ただし国料船は限られた者だけに与えられていました。その権利を安富氏は持っていたようです。
 守護細川氏が在京であったために、讃岐の守護代たちも京都に詰めていたことは、以前にお話ししました。雨瀧山城の居館には安富氏の守護代事務所からさまざまな行政的な文書が届けられ、在郷武士たちの管理センターとして機能していました。津田湊を経て、京都と交易路も確保されていたのです。安富氏は小豆島も支配下に置き、大きな力を国元で持っていました。
 しかし、京都での在勤が長くなり、讃岐を留守にすることが多くなると、次第に寒川・香西氏が勢力を伸ばし、安富氏の所領は減少していきます。そのような中で、長宗我部元親の侵攻が始まると耐えきれなくなって、安富氏は対岸の播磨に進出してきた秀吉に救いを求めたようです。
 秀吉にしてみれば、安富氏は「利用価値」が高かったようです。
 安富氏は東讃守護代で、小豆島や東讃岐の港を支配下においていました。そして、引田や志度、屋島の港を拠点に運用する船団を持っていました。安富を配下に置けば、それらの港を信長勢力は自由に使えるようになります。つまり、播磨灘沖から讃岐にかけての東瀬戸内海の制海権を手中にすることができたのです。言い方を変えると、安富氏を配下に置くことで、秀吉は、東讃岐の船団と小豆島の水軍を支配下に収めることができたのです。これは秀吉にとっては、大きな戦略的成果です。こうして秀吉は、戦わずして安富氏を配下に繰り入れ、東讃の港と廻船を手に入れたと云うことになります。秀吉らしい手際の良さです。
年表をもう一度見てみましょう
1582 9・- 仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小
豆島より渡海.屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
   6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年 4・26 仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
秀吉軍の讃岐への軍事輸送を見ると「小豆島より渡海」とあります。讃岐派遣の軍事拠点が小豆島であったことがうかがえます。秀吉の讃岐平定時の軍事輸送や後方支援体制を見ると、小豆島は瀬戸内海全域をカバーする戦略基地の役割を果たしていたことが見えてきます。特に、小豆島の持つ戦略的な意味は重要です。研究者たちが「塩飽と小豆島は一体と信長や秀吉・家康は認識していた」という言葉の意味がなんとなく分かってきたような気がします。その目の前にあったのが、この城になるようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  
            香川県文化財協会会報平成7年度
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        雨瀧山城 説明看板
雨瀧山城の主である安富氏については、守護細川氏のもとで東讃の守護代を務めていたことは、以前にお話ししました。文献史料から指摘されているのは、次の二点のようです。
①讃岐守護代家安富氏が讃岐に所領を与えられたこと
②安富氏が寒川郡七郷へ侵攻して雨瀧山・昼寝山押領をしたこと
政治的経過はある程度は分かるのですが、それを雨瀧山城と結びつけて論じたものは、あまりないようです。雨瀧山城を縄張研究の視点から城郭遺構を見直し、築城者までもを探ろうとする論文に出会いましたので紹介します。テキストは、池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。今回は、雨瀧山城の範囲と遺構を縄張図で見ていきます。雨瀧山 遺構図全体
雨瀧山城全体遺構図

 尾根上に残る遺構は、次の3つに分けられるようです。
1 寒川方面主尾根NW遺構群
2 火山方面主尾根E遺構群
3 東尾根筋大堀切(柴谷峠)遺構群
 雨瀧山山塊の背骨ラインを形成する尾根は、東から2の火山遺構群を経て、本丸のある雨瀧山山頂を通って、北西に伸びる寒川尾根遺構群から津田川(富田川)へ落ちていきます。津田川(富田川)へ落ちる尾根裾部付近には、造田の春日神社や「河川港」と見られる「船井」が残っています。
雨瀧山 遺構図全体2

ここからは、古代荘園時代から尾根筋が雨瀧山頂部と河川港などをつなぐ通路として利用していたことがうかがえます。
 中世の雨瀧山城を拠点とした勢力は、瀬戸内海交易に便利な津田湾側の北側裾部を本拠地とはせずに、あえて河川交通に頼る内陸部の南側裾部・富田荘に依拠していたようです。この城の築城者が何者か、また築城の意図がなんであったのかを解く糸口があると研究者は指摘します。交通の大動脈である瀬戸内海の入江でなく、讃岐最大の前方後円墳の茶臼山古墳がある内陸部平野を拠点とした意図はなんっだのでしょうか?  それについては、後に考えるとして、まずは遺構を見ながら雨瀧山城の範囲を確定しておきましょう。

まず津田川に落ち込んでいく西方尾根 寒川方面主尾根NW遺構群を見ていくことにします。

雨瀧山城 寒川方面遺構図
雨瀧山城 寒川方面尾根上の遺構群

尾根に取り付いた攻め手を待ち受けているのは、狭い「一本橋(NWー4遺構)」です。尾根上の幅が約3m程の馬背状地形を、両側から空堀構築のように削り取り、その一部(幅約60㎝)を掘り残して、一本橋状(長さ約18m)に加工した痕跡があります。これを「一本橋=いっぽんばし」遺構と呼ぶようです。
   一本橋遺構とは、何なのでしょうか。
尾根上を攻撃してくる敵は、 一人ずつ一列縦隊で侵攻して来るのではなく、数人の集団で押し寄せてきます。一本橋装置は、一人ずつしか渡れません。隊列を崩して一列になる必要があります。そこを飛び道具で狙い撃つというしかけです。この遺構は、単に堀切と一本橋(土橋状)で、敵を遮断するというよりも、ここに敵を招き入れて迎撃することで、打撃を与えることを目的にしていると研究者は指摘します。そのために、橋を長くしているのです。単なる「土橋」ではなくて「一本橋」と呼ぶ由縁のようです。

雨瀧山城 寒川方面遺構図拡大
寒川方面尾根遺構図 拡大版
 空間地形NWー3遺構
一本橋を渡った所の空地(NWー3)は、「一本橋」の附属空間だと研究者は指摘します。この地点は、自然地形上のピーク地点で一本橋よりも、一段高い位置にあります。一本橋を敵兵が乗り越えてきた時には、坂を駆け上ってこの空間に飛び込んで来ます。それをここで待ち構える守備兵が周りから迎撃します。そのための陣地空間です。
ここに一本橋と陣地空間を配置したのは、偶然ではなく縄張り上の工夫と研究者は評価します。一本橋効果をより高めるために工夫された陣地割と云えます。 次のNWー2遺構は、堀切状遺構です。
その下の斜面にあるのが竪堀NWー5・6遺構です。
「馬の背」尾根上の「展望所」の下になります。このふたつの遺構は、NW1遺構方向に向けて、敵が尾根側面へ回り込むのを防ぐ竪堀のようです。竪堀NW5の東側面は、わざわざ土塁状に構築していて、城内側が優位になるように斜面上にしています。軍事的視点からも、ここが竪堀構築位置としては、最良地点だと研究者は評価します。
 堀切NW1遺構 西主尾根防禦の基幹となる堀切です。
 攻城側・城内守備側双方の接近戦が行われる所で、攻防戦の勝敗を左右する所です。守備側にとっては最後の遮断線であり、攻城側にとっても城郭主要部攻撃への拠点(西主尾根)の確保となり、双方ともに譲れない拠点になります。
以上、寒川方面の尾根上の遺構群を見てきましたが、主尾根防禦の構築物群に、「一本橋」・「陣地小空間」・「堀切」・の配列が確認できます。一定の「縄 張り技法」に基づく築城があったことがここからは分かります。
雨瀧山城 火山方面遺構図
            2 火山方面主尾根E遺構群(上図参照)
雨瀧山より火山に続く尾根は長く、何処までが雨瀧山系の尾根なのかよく分かりませんが、一般的にには柴谷峠辺りまでとされます。ただ尾根筋を、火山から雨瀧山へ向かって下っていくと、柴谷トンネルの上辺りの鞍部が、火山尾根の終点とも見えます。
この方面の防衛をどのように考えるか、または防禦物群の構築があったのかが、雨瀧山城の範囲を何処までとするかのポイントになります。
 一本橋(E5)遺構
火山に続く尾根筋がの傾斜地形の途中にも、「一本橋E5」があります。これは寒川方面主尾根にのNW4遺構と同じものです。ただこちらの遺構は、NW4よりもさらに規模が大きく、また弧状に湾曲させた形なので、さらに防禦機能を強化した「一本橋」に仕上がっているようです。この地点は、火山側へ登る傾斜地形上にあり、高低の逆転地で、防衛的には弱点地になります。その弱点を補完するための工夫として、一本橋を直線としないで、湾曲させる事で橋の上を走り抜けにくくして、守備側に射撃チャンスを確保しようとしたものと研究者は指摘します。そして「一本橋」があるこの地点を、雨瀧山城の東方面の城域をしめす遺構とします。ここから東に雨瀧山城は展開していたことになります。

雨瀧山城 火山方面遺構図拡大図
 2 火山方面主尾根E遺構群 拡大図
 空間地形E4遺構も、寒川方面主尾根で見られたNW3の遺構と同じ効果を狙った空間地形のようです。続くE3遺構も、小規模な「一本橋」遺構のようです。
 曲輪E2遺構 ここで城山から東へ続く尾根筋が、火山山系と分けられることになります。雨瀧山系の尾根筋を分ける象徴的なピーク地点とも云えます。頂上面は、曲輪としても十分な空間地形がありますが、現在は高圧線鉄塔が建っていて頂上地形状況はよく分かりません。位置や尾根筋上に孤立するピークの高さから、火山方面主尾根防衛の指揮所的機能を持つ曲輪であったと研究者は考えています。
以上からは、寒川方面の尾根防衛と同じように、こちらも「一本橋」で防衛する縄張り構造が見られ、縄張りに統一性があることがうかがえます。
雨瀧山城 東尾根
雨瀧山 東尾根筋柴谷峠方面遺構図
3 東尾根筋大堀切(柴谷峠)遺構群(上図)
富田地区と津田地区を結ぶ柴谷峠道は、今はトンネルで結ばれていますが、かつてはトンネル上に旧道があり、掘割地形となった峠に出ました。中世には、ここには城郭遺構である堀切があったはずです。当時ここは、城山尾根と火山尾根を遮断する大堀切だったと研究者は考えています。
雨瀧山城 津田浦方面尾根
4 津田浦方面泉聖天尾根NE遺構群(上図参照)
雨瀧山稜線SE4の小空地の北壁下から泉聖天が建っている元古墳に向けて伸びる尾根筋の間には、遺構は確認されていないないようです。しかし、元古墳のピークは、縄張りから考えると津田方面の戦闘指揮所としての曲輪があったと研究者は推測します。
① 屋敷地NE1遺構     岡
尾根先端裾部の東方向に下ったところに、通称「岡」と言われる屋敷地があります。この屋敷地周辺は、古代より開けたところで、屋敷地の南東側向かいに呉羽信仰の祭祀場があり、東下の海岸崖にも古墳とされる祭祀遺構が確認されています。この辺り一帯を、御座田と呼ぶので、古代からの集落地があったようです。この地区内で、屋敷地として一枚の広さと方形地形を見せる通称「岡」を特別な場所と見て、雨瀧山城に関連する屋敷地と研究者は考えています。
② 屋敷地NE2遺構  御殿
泉聖天が祀られている祠から東北方向に下ったところに、「御殿」と呼ばれる屋敷地があります。、ここは「岡」の地形と比べても、 一枚の広さや形状が狭く、周辺地形も手狭なので、屋敷地としての研究者の評価は少々劣るようです。
 地元の伝承では、ここに御殿があったとの説が有力なようです。
城門がここより移転して、現に火打山霊芝寺の門として残っているという研究者もいます。(『安富氏居館の謎』筑後正治)
 しかし、現在の寺門が雨瀧山城に関連する遺物かどうかは分かりません。調査結果からは、雨瀧山城の城門であるとする積極的な意見は見当たらないようです。むしろ江戸期に、藩主の別荘(御殿)を領地内の各地に設置していますが、そのひとつという意見の方が有力なようです。
③ 曲輪NE3遺構 ここは往時古代遺跡の前方後円墳でした。
今は、そこに泉聖天が建てられ、遺構調査はできないようです。先に述べたように、ここが戦闘指揮所として適所で、曲輪としての好地のようです。
 以上からは、この尾根筋を遮断する堀切は、構築時期に疑問が残り城郭遺構と判断できないと研究者は考えています。

 雨瀧山城の城郭プランがどの範囲まで及んでいるのかを見ました。
以上の防禦遺構から、雨瀧山城の範囲は、東西両尾根上の「一本橋」までと研究者は判断します。そして、津田方面では等利寺谷及び泉聖天古墳までとします。
 研究者が改めて注目するのは、「一本橋」と「陣地空地」を結合した複合遺構です。これは「ひとつのパターン」を繰り返して使用しています。現在では、パターン化は当たり前の工法ですが、中世ではそうではなかったようです。中世城郭での縄張りは、その場の地形にあった防禦構築物を、その場その場限りのものとして作っていくのが一般的です。ところが、雨瀧山城では、「あるパターン」の防禦構築物を繰り返して用いられています。また畿内などの他地域で使用されている「同一形状」の防禦施設が採用されています。そして、全体としても縄張りに「統一性」が見られます。
 ここからは、雨瀧山城の縄張りは、その場その場限りの発想ではなく、築城時以前に「縄張図面」があったこと。その構想とは、細川系築城技法を持つ者による縄張りだと研究者は指摘します。しかし、主郭部分には、織豊政権的な要素もあるようです。それは、また後に見ることにします。次回は、この城の主が生活した屋敷跡を見ていきたいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  
            香川県文化財協会会報平成7年度
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DSC08058
土器川から仰ぐ飯野山
前々回は、丸亀平野の高速道路工事前の発掘調査で出てきた条里制地割に関係した「溝」を見てみました。そこからは「溝」が7世紀末に掘られたものであり、そこから丸亀平野の条里制地割施行を7世紀末とすることが定説となっていることを押さえました。
前回は、弥生時代の溝(灌漑用水路)を見ることで、弥生時代後期には灌漑用の基幹的用水路が登場し、それが条里制施行期まで継続して使用されていたことを押さえました。そこには、灌漑用水路に関しては、大きな技術的な革新がなかったことが分かりました。そういう意味では、丸亀平野の条里制跡では、すべてのエリアに用水を供給するような灌漑能力はなく、従って放置されたままの広大な未開発エリアが残っていたことがうかがえます。大規模な灌漑用水路が開かれて、丸亀平野全体に条里制施行が拡大していくのは、平安末期になってからのようです。
飯山町 秋常遺跡航空写真
秋常遺跡周辺の航空写真(1961年)


 さて、今回も「溝」を追いかけます。今回は大束川沿いに掘られていた大溝(基幹的用水路)が、飯山町の東坂元秋常遺跡で見つかっています。この大溝がいつ掘られたのか、その果たした役割が何だったのかを見ていくことにします。テキストは「 国道438号改築事業発掘調査報告書 東坂元秋常遺跡Ⅰ 2008年」です。
飯山 秋常遺跡地質概念図
大束川流域の地形分類略図

東坂元秋常遺跡は、飯野山南東の裾部に位置します。大束川河口より5㎞程遡った左岸(西側)にあたります。遺跡の北西は飯野山で、東側を大束川が蛇行しながら川津方面に流れ下って行きます。この川は綾川に河川争奪される前までは、羽床から上部を上流部としていた時代があったようです。また、土器川からの流入を受けていた時もあったようで、その時代には流量も多かったはずです。また、大束川は流路方向が周辺の条里型地割に合致しているので、人工的に流路が固定された可能性があると研究者は指摘します。
このエリアの遺跡として、まず挙げられるのは、白鳳期の法勲寺跡で、この遺跡の南約2㎞にあります。

法勲寺跡
法勲寺跡

大束川中・上流域を統括した豪族の氏寺と考えられています。この寺院の瓦を焼いた窯が、東坂元瓦山で見つかっいますが、詳細は不明です。また平地部には、西に30度振れた方位をとる条里型地割りが残ります。法勲寺は、主軸線が真北方向なので、7世紀末に施行された周囲の条里型地割りとは斜交します。ここからは、条里型地割り施行よりも早く、法勲寺は建立されていたと研究者は考えています。

飯野山の南側エリアは、国道バイパスの建設が南へと伸びるに従って、発掘調査地点も増えました。
  飯山高校の西側の岸の上遺跡からは、倉庫群(正倉?)を伴う建物群が出てきていることは、以前にお話ししました。
「倉庫群が出てきたら郡衙と思え」と云われるので、鵜足郡の郡衙の可能性があります。同時に岸の上遺跡からは、南海道に附属すると考えられる溝跡もでてきました。こうなるとこの地域には、「鵜足郡郡衙 + 南海道 + 古代寺院の法勲寺」がセットであったことになります。これは、多度郡の佐伯氏本拠地であるの善通寺周辺と同じ様相です。この地域が、鵜足郡の政治的な中心地であった可能性が高くなりました。

岸の上遺跡 イラスト
古代法勲寺周辺の想像図 

さて、前置きが長くなりましたが秋常遺跡から出てきた「大溝SD01」を見てみましょう。
飯山 秋常遺跡概念図
東坂本秋常遺跡は、旧国道とバイパスの分岐点近くにあった遺跡です。東を流れる大束川の段丘崖の上にあったことが分かります。

飯山町 秋常遺跡 大溝用水路
大溝(SD01)は、古代の基幹的用水路
SD01は、延長約90mでA地区尾根端部の南縁辺を回り込むように開削されています。A2区屈曲部付近でSD02が、B-1区南端部でSD03がそれぞれ合流して、ゆるやかに北に流れていきます。
飯山町 秋常遺跡変遷図1
大溝(SD01)の変遷図

 流路SD01は、頻繁に改修された痕跡があり、長期にわたって利用された幹線水路のようです。8世紀後葉までには開削されたようで、完新世段丘が形成される11世紀代になると廃棄されています。SD01の脇には、現在は上井用水が通水しています。SD01廃絶後は、土井用水に付け替えられた可能性を研究者は指摘します。

大束川流域の古代の幹線水路は、以前に紹介した下川津遺跡や川津中塚遺跡があります。
弥生時代 川津遺跡灌漑用水路


その中で大束川流域の水路の中では、最も大型の水路になるようです。このエリアの開発を考える上で、重要な資料となります。
同じような幹線水路は、川津川西遺跡や東坂元三ノ池遺跡にもあります。
川津川西遺跡は、飯野山北東麓の集落遺跡で、調査区中央部で南北方向に流れる幹線水路SD135が出てきました。SD135は、N60°W前後の流路主軸で、直線状な水路です。調査区内で延長約38mが確認され、幅3,5~4,3m、深さ1.3~1.4m、断面形は逆台形状で、東坂元秋常遺跡SD01とよく似た規模です。底面の標高は9m前後で、標高差から北に流下していたようです。
 報告書では、出土遺物から8世紀後半~9世紀前半代の開削、13世紀代の埋没が示されていますが、開削時期はより遡る可能性があるようです。
東坂元三の池遺跡は、飯野山東麓の裾部の緩斜面地上に広がります。
飯山町 東坂元三 ノ池遺跡
東坂元三の池遺跡
この南部段丘Ⅰ面からは等高線に平行して掘られた幹線水路SD30が出ています。流路方向N43°Eの流路主軸で、ほぼ直線状に掘られた幹線水路です。調査区内で延長約13mが確認され、面幅2.4m、深0,9m、断面形は逆台形状です。埋土からは数度の改修痕跡が確認できます。溝の規模や性格から古代以降の開削のものと研究者は考えているようです。
飯山町 東坂元三 ノ池遺跡2
         東坂元三の池遺跡の古代水路

 周辺の各水路は8世紀後半には埋没が進行し、灌漑水路としての機能が低下しつつあったようです。開削時期については、8世紀中葉以前に遡り、廃絶時期は11世紀前後で、時期も共通します。
東坂元秋常遺跡から出てきたSD01と、今見てきた水路の位置関係を表示したのが第70図です。
飯山町 秋常遺跡 大溝用水路1

この図からは、各水路は飯野山東麓の段丘縁辺をめぐるように開削され、つながっていた可能性が出てきます。そして規模や埋土の堆積状況などもよく似ています。また使用されていた期間も共通します。これらの事実から、3つの遺跡は、3~5 km離れていますが、もともとは一本の水路で結ばれていた研究者は推測します。
 そして東坂元秋常遺跡SD01と東坂元三ノ池遺跡SD30に沿うように、現在は上井用水が流下しています。これを古代水路の機能が、今は上井用水に引き継がれている証拠と研究者は推察します。以上の上に、川津川西遺跡SD135を含めた3遺跡の幹線水路を「古上井用水」と一括して呼びます。

一本の灌漑水路であったとすると、その用水の供給先はどこだったのでしょうか?
飯野山東麓は、耕地となる平地が狭くて、大規模水路を建設しても、それに見合うだけの収量が期待できるエリアではありません。大規模な用水路を掘って、水田開発を行うとすれば、それは大束川下流西岸の川津地区だと研究者は考えます。
大束川下流エリアを見ておきましょう。
この地区は、バイパス+高速道路+インターチェンジ+ジャンクションなどの建設工事のために、大規模な発掘調査が行われています。そして、津東山田遺跡I区SD01、川津中塚遺跡SD Ⅱ 38、川津元結木遺跡SD10などで大型水路が確認されています。そして、それぞれに改修痕跡が見つかっていて、長期に渡って継続使用されたことが分かります。これらの水路も幹線水路として機能していたのでしょう。水路の開削時期は、9世紀頃までには開削され、11世紀頃には水路としての機能が衰退していたと研究者は考えています。こうした調査例より灌漑水路網が、遅くとも9世紀までには川津地区に整備されていたことがうかがえます。旧上井用水も、「古代川津地区総合開発計画」の一環として開かれたとしておきましょう。
飯山町 秋常遺跡灌漑用水1

現状水路との関係
①東坂元秋常遺跡SD01と東坂元三ノ池遺跡SD30に隣接して上井用水
②川津川西遺跡SD135に近接して西又用水
が、現在は灌漑用水として機能しています

文献史料で、現行水路との関係について見ておきましょう。
上井用水は、大窪池を取水源としています。大窪池がいつ築造されたかについては、根本史料はないようです。ただ、堤防にある記念碑には、高松藩士矢延平六が正保年間(1644~1648)が増築したことが記されているので、17世紀前葉以前に築池されていたと考えられます。
 また宝暦5年(1755)に高松藩が水利施設の調査を行った際に、鵜足郡内の結果をまとめた「鵜足郡村々池帳」には、大窪池の水掛り高は3,011石で、上法軍寺村以下、東坂元秋常遺跡周辺の東坂本村などへ通水されていたことが記されています。(飯山町編1988)、このなかに上井用水の通水域は、含まれていたのでしょう。上井用水は現在は、元秋常遺跡南部で用水の大部分を大束川へ落とし、一部が東坂元秋常遺跡東辺を北流して、東坂三の池遺跡東部で西又用水へ流入しています。
西又用水は、大束川本流より直接取水しています。
用水路で、西又横井より取水し、川津地区の灌漑に利用されています。西又横井の構築時期もよく分かりません。比較のために大束川に設置された他の横井について、その構築時期を見てみると、天保7年(1836 )に、通賢が築造した坂本横井が、もっとも古い例になるようです(飯山町1988)。横井築造の技術的な問題からの築造時期は、江戸中期以降と研究者は考えています。こうすると西又用水は、江戸前半期までに上井用水の延長部として整備されていたが、西又横井の構築により再整備されたものと考えられまする。
 上井用水の開削時期は17世紀前葉以前に遡り、飯野山南部の大束川西岸平地部を主要な灌漑域とする用水路であり、その一部は川津地区へ給水されていたとします。
 このように、大窪池築造という広域的な灌漑用水路網の整備が、17世紀前葉以前に遡る可能性を研究者は指摘します。そして、下流で行われた沼池増築や横井構築といった近世の開発は、新たな土木技術の導入や労働編成による、その量的拡大であったとします。
 そして、古代の古上井用水は、11世紀段階の埋没・機能停止を契機として、中世段階に上井用水へと切り替えられ継続された結果と考えているようです。
では、古上井用水の取水源は、どこなのでしょうか?

飯山町 秋常遺跡 大溝用水路3
この点で注目されるのが法勲寺です。法熟寺は、大窪池がある開析谷の開田部付近の微高地上に位置します。この寺は鵜足郡内唯一の白鳳期寺院で、郡領氏族であるとされる綾氏の氏寺として創建されたとされます。また大窪池から取水する現在の用水路は、法勲寺の西を北流して上井用水へとつながります。さらに大窪池の北西部の台地上にある東原遺跡は、7世紀中葉~奈良時代の大形掘立柱建物群が出てきていて、有力集団の居宅とされます。さらに谷部東方の台地上にある遠田遺跡からも、奈良時代の大形掘立柱建物が出てきています。
ここからは法勲寺を中心としたエリアが、古代において計画的・広域的に開発されたことが推測されます。
つまり、白村江から藤原京時代にかけての7世紀中葉から8世紀代にかけて、大窪池周辺では郡司層(綾氏?)による大規模開発が行われたと研究者は指摘します。
飯山町 秋常遺跡 土地利用図
法勲寺周辺の旧河川跡 土器川からの流路が見られる

 その一環として大窪池築池と灌漑用水路網の整備がなされたと云うのです。藤原京時代の郡家の成立とともに手工業生産や農業経営など、律令国家の政策のもと郡司層を核とした多様な開発が進んだことが明らかにされつつあります。
例えば讃岐の場合は、次のような動きが見えます。
①三野郡丸部氏による国営工場的な宗吉瓦窯群の創業開始と藤原京への宮殿瓦供給
②阿野郡綾氏による十瓶山(陶)窯群の設置
大束川流域の基幹的な用水路の設置は、同時期の上のような郡司層の動向とも重なり合うものです。それを補強するかのように、飯山高校の西側の岸の上遺跡からは、倉庫群(正倉?)を伴う建物群が出てきたことは、以前にお話ししました。こうなるとこの地域には、「郡衙 + 南海道 + 法勲寺」がセットであったことになります。これは、多度郡の佐伯氏本拠地であるの善通寺周辺と同じ様相です。この地域が、鵜足郡の政治的な中心地であった可能性が高くなりました。
 それを進めた政治勢力としては、坂出の福江を拠点に大束川沿いに勢力を伸ばした綾氏の一族が考えられます。
かれらが弥生時代から古墳時代に掛けて開発されていた河津地区を支配下に置き、さらにその耕地拡大のための灌漑用水確保のために、飯野山南部の丘陵部の谷間の湧水からの導水を行ったという話になるようです。そういう意味では、法勲寺は湧水の中心地に作られた古代寺院で、仏教以前の稲作農耕期には水がわき出る聖地として崇められていたことも考えられます。

以上をまとめておくと
①東坂元秋常遺跡は、飯野山と城山からのびる尾根が最接近する狭い平野部で、その東を大束川が流れる
②この遺跡からは、大束川の上面に掘られた藤原京時代の「大溝=基幹的用水路(SD01)」が出てきた。
③飯野山北麓の遺跡から出てきた基幹的用水路と、SD01は、もともとはつながっていた。
この最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   国道438号改築事業発掘調査報告書 東坂元秋常遺跡Ⅰ 2008年
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讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか



倭名類聚抄

「和名抄」は正式には「倭名類聚抄」と云うようです。倭は日本、名は品物の名前、物の名前のことで、「類」は分類の類、「聚(衆)」はあつめるという意味です。日本にいろんなものがある、その名前について分類して説明する、今風に云うとジャンル別の百科事典ということになるのでしょうか。
 これが書かれたのは、平安時代の半ばの承平年間の頃です。ちょうど、平将門が東国で反乱を起こし、西の方では藤原純友が反乱を起こすという承平天慶の乱のころになります。そのころ都にいた源順が、わが国最初の百科事典を作った、これが『和名抄』です。
 この中に全国にどんな地名があるのかも書かれていて、その中に讃岐の国のことも書かれています。
まず讃岐の国というのは都からどのくらい離れている、行くのにどの位かかるなんていうことから始まって、次に郡はどういうものがある、国府はどこにあるかまで記されています。便利なことに、いろんな地名・品物の名前に読み仮名が振ってあります。そして地名にも読み仮名があります。ただこの読み仮名は、万葉仮名の表記でなので、なかなか読めません。
和名抄 東讃部
近世の倭名類聚抄の讃岐

 一番最初は大内(おおうち)郡と読みます。読み仮名は「於布知」と表記されていました。そのまま読むとオフチだからオオチとなります。旧大内町は、平安時代以来の呼び名を踏襲していたことになります。郡の中身をみると引田・白鳥(シラトリでなくてシロトリ)、入野・与泰の4郷があったことが分かります。
 次の寒川郡は「サムカワ」と書いています。当時は濁点がなく濁りは表現できないので「サンガワ」でなく「サムカワ」とよむことになります。三木はミキなので読み仮名はありません。山田も、濁音なしの「ヤマタ」です。

和名抄 讃岐西部
   和名抄の香川郡以西の部分 郡名の下に郷名が記される

香川郡の中に、大野・井原・多配とあります。多配(タヘ)は、見慣れない地名ですが現在の多肥のことです。大田は、今は点が入って太田です。次の「笑原」問題です。「笑=野」で野原郷になります。野原郷は、今の高松市街地になります。坂田・成相(合)・河辺・ナカツマ・イイダ・モモナミ・カサオとなっています。
阿野(アヤ)郡は、糸偏の綾、綾絹の綾と読むと記しています。
次に鵜足(ウタ)、最初はウタリと呼んでいのが、後にウタと呼ばれるようになります。那珂ナカ・多度タド・三野ミノ、最後は刈田ですが、これは「カッタ」とつまっていたようです。
このうち刈田郡については平安時代の終わりごろ、十二世紀の半ばには豊田トヨタと呼ばれるようになりますています。トョダと濁っていたかもしれません。なぜ刈田が豊田に変わったのかわかりません。
 ここからは讃岐に11の郡があり、その郡の下にどんな郷があったのかが分かります。また、当時の表記も記されています。今回は和名抄に見える大内・寒川郡の郷名を見ていきたいと思います。テキストは 「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」です。

 和名抄 東讃部
この近世復刻版で、大内郡を見てみましょう。
「讃岐国第百二十二」
下に大内郡と郡名があり、その下に郷名と古名表記が記されています。振り仮名が「オホチ」と振ってあります。大内郡は、ローマ字表記もOCHIでした。これが奈良時代以来の読み方のようです。地元では「オオウチ」と呼ぶ人たちは少ないようです。

古代讃岐郡名

 大内郡には四つの郷名が記されています。
①引田、これは今の読みと全く同じで、比介多(ヒケタ)と読みます。
②白鳥、白鳥はシラトリではありません。之呂止利 (シロトリ)です。高徳線の駅の名前も白鳥(シロトリ)です。
③與泰(ヨタイ:与泰)で、旧大内町の与田のことです。
④入野(ニュウノ)と読んでいますが、丹生のニュウノです。
④の入野は爾布乃也(ニュウノヤ)と読んでいたようです。和名抄は都の役人が作った百科事典です。現地でどう読んでいたか、読み間違いしている所がたくさんあります。例えば、明治になって作られた国土地理院の地図も、漢字表記の分からない現地地名を適当な漢字に技官が置き換えて作られています。北アルプスの白馬岳も、地元の人たちは、田植えの代掻きの時期を教えてくれる山として、代馬(しろうま)と呼んでいたのを、役人は白馬(しろうま)と表記しました。白馬と表記されると駅名は、白馬(はくば)とよばれるようになります。ここから分かることは、地名は時代とともに変化していくことです。
讃岐の古代郡名2 和名抄
古代讃岐の郡と郷

次に寒川郡を見ておきましょう。
⑤難破(ナニワ)というのは、今はありません。後でみることにします。
⑥石田、伊之多(イシダ)と書いてありますが、石田高校がある石田のことです。
⑦長尾(奈賀乎)は今も変わっていません。
⑧造田は爽敗(ソウタ)と書いてありますが、地元では、ゾウダと濁って呼びます。
⑨鴨部・神前(加無佐木)と続いて、一番下に多知とありますが、多和の間違いのようです。

和名抄は、時代を経て何度も写本されたので、写し間違いがおきます。こんなふうに見ていくと、讃岐全体で90余りの郷が出てきます。
それでは、郷の大きさはどうだったのでしょうか。それが実感できる地図に出会いましたので紹介します。
讃岐の古代郡名2東讃jpg
古代大内・寒川の郷と位置と大きさ
この地図を見ると、郷の大きさがは大小様々なことが分かります。研究者は郷を次のような3つのタイプに分類します。
1 類型Ⅰ 郡の中心となる郷 神崎郷
2 類衛2 郡の周辺部となる郷          田和郷・石田郷・造田郷
3 類家3 郡の外縁部となる郷          引田郷・白鳥郷・与泰郷・入野郷・難破郷

郷の大きさは、類型ⅠやⅡは小さく小学校の校区程度、類型Ⅲになると旧引田町、旧白鳥町、旧大内町など旧町の広さほどもあったことが分かります。
郷は、どのようにして成立したのでしょうか?
 律令体制が始まった奈良時代の初めは、血縁関係のある一族で「戸」を組織しました。戸は、現在のような小家族制ではなく、百人を越えるような大家族制で、戸主を中心に何世代もの一族がひとつの戸籍に入れられました。その戸籍に書かれた人間を、男が何人、女が何人、何才の人間が何人というぐあいに数え上げ、水田を男はどれだけ、女はどれだけというぐあいに戸毎に口分田が支給されます。つまり、口分田は家毎ではなく、一戸(一族)毎にまとめて支給されたわけです。全部で何町何段という形でやってきた土地を、自分たちで分けろということです。役人にしてみれば、とにかく税が納まればいいし、口分田は戸毎に支給するので仲間内(戸内)で分けてくれたらいいんだというわけです。これで入りと出とが決まります。つまり班田主従の法というのは、戸単位に戸籍を作り、土地を分けたり税を集めたりするシステムでした。地方役所としては、一族や地域の人を束ねる役の人が欲しいんで、五十戸そろったら、それで一つの郷とします。郷は音では「ごう」ですが、訓では実際に「さと」と読みます。つまりそれが自分の村だということになります。こうして、だんだん人が増えてきて、五十戸ぐらいになったら郷が成立します。その郷名は、代表的な一族の名前を付けたり、その土地で昔から呼ばれている地名が付けたりしたようです。そして、郷長が置かれます
  荒っぽい説明ですが、これで郡の中心になる郷は小さく、周辺部にある郷は大きいことの理由が推測できます。つまり、50戸になったら新しく郷を新設するということは、類型1の郷は早くから開発が進み人口が多く、早い時点で50戸に到達したのでエリアが狭い。それに対して、類型Ⅲは、周縁部で人口が少なく50戸が広い範囲でないと確保できず広くなった。そして、その後も人口増加が見られなかったために新たな郷の分離独立はなかった、と云えそうです。そういう目で、ついでに西讃も見てみましょう。
讃岐古代郡郷地図 西讃
古代讃岐の郷 西讃

類型Ⅰの郷は、綾北平野・丸亀平野・三豊平野に集中し、そのエリアもおしなべて小型なものが「押しくら饅頭」をしているように並びます。そして、丘陵部に類型Ⅱ、さらに阿讃山脈の麓に広い面積をもつ郷が、どーんどーんと並びます。これは、それぞれの郷の形成史を物語っているようです。
もう一度、引田、白鳥、入野、与泰という大内郡の4つの郷を見ておきましょう。この4つの郷が中世にはどうなっていくのかを史料で見てみましょう
⑦[安楽寿院古文書]正応四年三月二十八日亀山上皇書状案
 浄金剛院領讃岐国大内庄内 白馬(鳥)・引田
⑦の「安楽寿院古文書」は鎌倉時代のもので、「浄金剛院領讃岐国大内庄内白馬(馬は鳥の誤写)・引田」とあります。ここからは大内郡全体が「大内荘」という浄金剛院の荘園になって、その中に白鳥、引田という所が含まれていたことが分かります。浄金剛院は、13世紀中頃(建長年間)に、後嵯峨上皇が建立し、西山派祖証空の弟子道観証慧を開山させた寺院で、浄金剛院流(または嵯峨流)の本山として多くの寺領を持っていたようです。
⑧[『讃岐志』所収文書】観応三年六月十九日足利義詮御判御教書案
 浄金剛院領讃岐国大内庄内白鳥・与田・入野三箇郷事
⑧の「讃岐志」は、江戸時代の地誌で、ここに収められた室町幕府三代将軍の足利義詮の教書案の中にも「浄金剛院領讃岐国大内庄内白鳥・与田・入野三箇郷事」とあります。⑦の史料と併せると大内荘は引田、白鳥、入野、与田の四箇郷のすべてを含んでいたことが分かります。つまり、四か郷全部が含んだまま大内郡は一つの荘園になったようです。巨大荘園大内荘の成立です。ひとつの郡がそのまま荘園になることを郡荘と呼びます。郡荘の成立自体は、全国的に見ると珍しいことではなく、よく起きているようです。一般的に云えるのは、都から離れた所ほど、大きな荘園ができています。つまり、中央政府の目が行き届かない所に巨大な荘園が生まれる傾向があったようです。律令制度の根幹である公地公民の原則を無視して、私有地化していくので目につきやすい中央部よりも、外縁部の方が都合が良かったのかもしれません。
 これを讃岐一国のレベルで見ると、郡庄と呼ばれる大きな荘園の出現は、大内荘のように讃岐の国のいちばん端の所で起きることになるようです。讃岐国府は坂出府中にありました。国司は国府にいて、讃岐を見ています。国司からすると国有地が荘園(私有地)になってしまうと税が入らなくなりますから、なるべく私有地(荘園立荘)の増加は抑えたいのが職務上の立場です。そうすると、国司の目の届く国府周辺を避けて、国府から遠い所で荘園化か進みます。そのため讃岐の荘園化も、中央部と外縁部では地域的な格差があったと研究者は考えています。つまり、国府周辺が最先進地域で、その周りに中間地域があって、その先に辺境地域があるという意識が国司にはあったと研究者は考えているようです。
今度は寒川郡の長尾・造田の立荘文書を見てみましょう。
⑨[『伏見宮御記録』所収文書 承元二年(1208)閏四月十日後鳥羽院庁下文案
 院庁下す、讃岐国在庁官人等。
  早く従二位藤原朝臣兼子寄文の状に任せ、使者国使相共に四至を堺し膀示を打ち、永く最勝四天王院領と為すべし、管寒河郡内長尾 造太(造田)両郷の事。
  東は限る、石田並に神崎郷等の堺。
  南は限る、阿波の堺。
  西は限る 井戸郷の堺
  北は限る 志度庄の堺・
意訳変換しておくと
 後鳥羽院庁は、讃岐国の在庁官人に次の命令を下す。
  早急に従二位藤原朝臣兼子寄文の状の通りに、寒河郡内長尾と造太(造田)の両郷について、使者と国使(在庁官人)の立ち会いの下に、境界となる四至膀示を打ち、永く最勝四天王院領の荘園とせよ。境界線を打つ四至は次の通りである
  東は限る、石田並神崎郷等の境。
  南は限る、阿波国の境。
  西は限る 井戸郷の境
  北は限る 志度庄の境
⑨の「伏見宮御記録」は、かつての宮家、伏見宮家関係の記録です。伏見宮家は音楽の方の家元で、楽譜の裏側にこの文書が残っていたようです。鎌倉時代初めのもので承元二年(1208)、後鳥羽院庁の命が「寒河郡内長尾。造太両郷の事」とあって、大内郡の長尾と造田の両郷を上皇の御願寺の荘園にするという命令を出したものです。これが旧長尾町の町域となったようです。長尾、造田は、同じ時に最勝四天王院領となった、いわば双子の荘園と言えそうです。
この荘園の東西南北の境界を、地図で確認しながら見ておきましょう。

讃岐の古代郡名2東讃jpg
立荘文書から、周辺にあった荘園や郷名が分かる
東は限る、石田並に神崎郷等の境。 
  造田と長尾の東は石田と神前です。
南は限る、阿波の境
  長尾の一番南は阿波に接しています。
西は限る、井戸郷の境
  井戸郷は三木町の一番東側になります。
北は限る 志度荘の境、
ここからは、造田・長尾の周囲には、それをとりこむように荘園や郷が鎌倉時代の初期(1208年)には、できあかっていたことが分かります。
寒川郡の郷名で、現在は行方不明なのが難破郷です。どこへ行ったのでしょうか?
手がかりになるのは「安楽寿院古文書」康治二年八月十九日太政官牒案(図1)には富田荘のエリアが次のように記されます。
字富田庄、讃岐国寒(川字脱)郡内にあり

富田荘の四至を見ておきましょう。
東は限る、大内郡境。確かに大川町の東側は大内郡旧大内町です。
西は限る、石田郷内東寄り艮の角、西は船木河並に石崎南大路の南泉の畔。
南は限る、阿波国境。
北は限る、多和奇(崎)、神前、雨堺山の峰。
これは多和の崎と神前の二つに接しているという意味で、具体的には、雨堺山の峰が境になるようです。雨堺の山は、雨滝山のことでしょう。雨滝山の分水嶺が荘園の境界となったようです。ここからは、富田荘が、かつての難破郷だったことがうかがえます。

ここで、研究者は雨滝山を中心に、周辺の郷や荘園の位置を確認していきます。

東讃 雨瀧山遺跡群
雨滝山遺跡とその周辺

津田の松原から南側を見ると、目の前にある山が雨滝山です。雨滝山を南側へ抜けると、寒川町の神前に出ます。先ほど見たように、かつての大内郡は、引田、白鳥、入野、与田で、だいたい地名が残っていました。これが一郡=一荘の大内庄という大きな庄名になりました。そのため大内郡は消滅しす。そこへ、「長尾、造田荘」と、富田庄の立荘の際にでてきた四至膀示の地名を入れて研究者が作成したのが下の地図になるようです。

讃岐東讃の荘園
中世の大内・寒川郡の郷と荘園

 例えば先ほど長尾・造田の立荘の際に、東の堺となった井戸郷というのは、左下の所に井戸と見えている所です。ここが三木町の井戸です。北側が志度、それから鴨部郷、神前、石田というぐあいに出てきます。そうすると、この地図の中にも難破郷が出てきません。立荘の際に出てくるのは富田庄です。難破郷が、どこかの時点で富田荘になったようです。旧大川町の富田には、茶臼山古墳という巨大な前方後円墳があります。古墳時代にはこのエリアの中心であった所で難破郷とよばれていたのです。現在の富田に、元の難破があったはずです。
どうして難破という地名が消えて、富田にすり変わったのでしょうか。これは、現在のところ分からないようです。

神崎郷も、後には荘園になって興福寺へ寄付されます。長尾も造田も荘園になりました。結局このあたりで荘園にならなかったのは、鴨部郷と石田郷の二か所だけです。鴨部郷は鴨部川の中流域です。その上流に石田郷はありました。
  こうしてみると、かつての東讃八町域は、ほとんどが荘園になってしまったということになります。べつの言い方をすると、古代の郷が中世には荘園になり、そして東讃8町として姿を変えて最近まで存続していたと云えるのかも知れません。
讃岐古代郡郷地図

「辺境変革説」という考え方があります。
中央のコントロールや統制の効かない辺境のカオスの中から、つぎの時代のスタイルが生み出されるという考えです。大内・寒川は国府のある府中から見れば「讃岐の辺境」だったかもしれません。しかし、京都を視点に見れば、寒川郡は南海道や瀬戸内海航路の入口にも当たります。もともと讃岐という意識よりも、阿波や紀伊・熊野との一体感の方が強く、海に向かっての指向が強かったようです。それが中央寺社の寺領となることで、国府のコントロールを離れて、自立性を一層強め、いち早く中世という時代に入っていったのが大内・寒川地域であるという見方もできます。
 それは以前にお話しした与田寺の増吽に、象徴的に現れているように私には思えます。
 与田山の熊野権現勧進由来などからは、南北朝初期には熊野権現が勧請されていたことがうかがえます。周囲を見ると、南朝方について活躍した備中児島の佐々木信胤が小豆島を占領し、蓮華寺に龍野権現を勧請しているのもこの時期です。背景には「瀬戸内海へ進出する熊野水軍 + 熊野本社の社領である児島に勧進された新熊野(五流修験)」が考えられます。熊野行者たちの活発な交易活動と布教活動が展開されていた時期です。その中で南北朝時代の動乱の中で、熊野が南朝の拠点となったため、熊野権現を勧進した拠点地も南朝方として機能するようになります。つまり
熊野本社 → 讃岐与田寺 → 志度寺・小豆島 → 備中児島 → 塩飽本島 → 芸予大三島

という熊野水軍と熊野行者の活動ルートが想定できます。このルート上で引田湊を外港とする与田山(大内郡)は、南朝や熊野方にとっては最重要拠点であったことが推測できます。そこに熊野権現が勧進され、熊野の拠点地の一つとされたとしておきましょう。そして、引田を拠点に東讃地域への勢力拡大を図っていきます。同時に、ここは熊野勢力にとっては、瀬戸内海の入口にあたります。その拠点確保の先兵となったのが熊野行者たちで、そのボスが増吽だったと私は考えています。どちらにしても、大内郡の与田寺や水主神社が、活発な活動が展開できたのは、早くから荘園化され国府の管理外にあったことがひとつの要因だったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献  「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」
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調査書に載せられている仏達を見ていくことにします。
近世に伽藍復興の際のお堂再建の順番は、
A観音堂(本堂)→ B阿弥陀堂 → C護摩堂 → D大師堂

のようです。それぞれのお堂を成り立ちを考えると
A「観音堂」(本堂)とその鎮守・天照大神(若宮)は、熊野行者が最初にもたらしたもの
B「阿弥陀堂」は、高野聖たちがもたらしたもの。
C「護摩堂」は、真言(改宗後は天台)密教の修験行者の拠点として
D「大師堂」は四国巡礼の隆盛とともに大師信仰の広がりの中で建立されもの。
   各お堂の成り立ちを見ても、熊野行者と高野山の念仏系聖たちの果たした役割は大きかったことが分かります。近世に再建された宗教施設は、この寺の宗教的重層性を反映したものなのでしょう。それでは、それぞれのお堂に、どんな仏達が安置されていたのか見ていくことにしましょう。

本堂に安置されている本尊・聖観音立像は秘仏
長尾寺は江戸時代前半までは「観音寺」と呼ばれ、観音信仰の拠点センターでした。その観音さまは、秘仏とされお目にかかることはできないようです。秘仏とされる聖観音の制作者とされる人たちを見ておきましょう。
聖徳太子(「御領分中寺々由来」)
行基(「補陀落山長尾寺略縁起」)
弘法大師(『四国辺路道指南』、『四国遍礼霊場記』)
など諸説あるようです。創建の由来と同じく分からないということのようです。ただ、近世まで長尾寺の本山だった宝蔵院の記録「古暦記」には、文永元年(1264)と永仁6年(1298)に開帳されたという記録はあるようです。また、天正年中に諸堂が焼失した際も本尊だけは遺されたこと(前出「略縁起」)などが伝えられています。
 過去に撮影された写真もあり、そこからは右手を屈腎して胸前におき、左手も胸前で蓮華を持つ立像であるようで、香川県教育委員会が実施した調査では、檜材寄木造、平安時代の作と報告されています。(『文化財地区別総合調査報告 第一集_香川県教育委員会、1972年)。
  しかし、これ以上は分かりません。

長尾寺 聖観音立像

秘仏本尊の前立像として安置されているのがこの観音様です
一見すると顔立ちや雰囲気が鎌倉時代風です。しかし、研究者は次のように指摘します。
 「窮屈そうな上半身や動きの少ない下半身、直線的な側面観や簡略化された背面の作風から、台座裏の墨書銘にみえる元禄6年(1693)正月頃の作とみて大過ないであろう。作者は地方仏師と思われる。」

台座裏に墨書名があるようです。見てみましょう。
長尾寺 聖観音墨書

奉寄進 元禄六
聖観音正月一八日 源英
讃岐高松藩初代藩主松平頼重の号は「龍雲軒源英」ですので、松平頼重によって寄進されたことが分かります。前々回にお話ししましたように、松平頼重はこの寺を天台宗の拠点寺院に仕立てていくために、元禄期に本堂や仁王門などを寄進しています。新しくなった本堂へ秘仏の前立像として寄進したのがこの観音さまだったようです。
松平頼重が保護した天台宗の寺としては、金倉寺と根来寺があります。
根来寺には、彼が京都の仏師に発注して造らせた見事な四天王像があります。もともとは、彼の隠居屋敷の護摩堂用のものだったのが、後に根来寺に移されたもののようです。このような仏像発注を見ても、松平頼重には宗教的なブレーンがいたことがうかがえます。思いつきや一時的な宗教心で行っているものではないようです。
 自分が日常的に祈る四天王は京都の仏師へ発注し、長尾寺の前立・世観音像は地方仏師というような「格差」も興味深いものがあります。
長尾寺 阿弥陀如来坐像11
 阿弥陀如来坐像

 最初に見たとき「ニッコリと微笑んでいるお地蔵さんみたいな阿弥陀さま」という印象でした。材質は何なの?という疑問も涌いてきました。報告書を見てみましょう
「肩上から顔面および背面上部は銅造で、頭部前面の地髪・肉醤部、体部および後頭部は鉄造。印相は阿弥陀定印(上品上生印)とみられる。鋳型は頭部の耳後ろから、体側部は両肘手に沿って膝に至る前後に分けて作られ、一鋳で造られているようにみえる(あるいは頭・体部別鋳かもしれない)。
また後頭部の形状からみて、元の肉醤部は現状より高かったように見える。背面から両肘にかけて鋳上がりの悪いところがあり、割れが入っている部分がみられる。」
つまり「肩から上は銅、躰と頭は鉄」でできているということのようです。銅と鉄との耐久性の問題もあるのでしょうが、銅で造られたお顔周辺部分はきちんと残っているが、躰の部分は腐食して錆落ちた状態のようです。しかし、それが「景色となり、味わい」を出しているようにも見えてきます。
 いつ頃のものなのでしょうか。調査書には、次のように記されています。
「頭部は大きな肉善や地髪に小粒の螺髪が整然と並んでいて平安時代後期の様式を示しているが、面貌表現には白鳳仏を想わせる微笑をたたえるなど違和感もみられるので、鉄造の体部とは同時に造られたのではなく、後世に体部に合わせて造られたのではなかろうか。体部は左胸から腹前にかかる平行線状の衣文線の表現や堂々とした側面観・背面観からみて平安時代後期の定朝様を踏襲した作と推定される。像底からみた形状にも安定感がある。

この仏像は
頭部の螺髪は平安時代後期
表情は白鳳仏の微笑み
体部は平安後期の定朝様
と時代が異なる要素が混じり込んでいるようです。そのために銅製の頭部は
「鉄造の体部とは同時に造られたのではなく、後世に体部に合わせて造られたのではなかろうか。」
と研究者は考えているようです。  整理すると
①白鳳時代に銅製で全体が造られた。
②その後、体部と頭部の螺髪が破損した
③それを平安後期に鉄製で補修した。
ということでしょうか。
  「ニッコリと微笑んでいる」という最初の印象は「白鳳仏の微笑み」からきているものだったようです。びっくりしました。
長尾寺 阿弥陀如来坐像

平安時代後期になると木彫仏が主流になりますが、それでも少数は木彫風の金銅仏が造られていたようです。それは飛鳥・奈良時代の様式と少しちがうものでした。また、鉄で造られた仏も、朝鮮半島の新羅では多く造られています。しかし、日本では少数派で鎌倉時代にわずかに造られているに過ぎないようです。そうした状況からすると本像も鎌倉時代に作られた可能性もでてきます。しかし、研究者は

「後頭部の立ち上がりや胸から腹に至る衣紋線、膝前の衣の処理などには平安時代の様式が認められるので、ここでは平安時代後期の造像とみておきたい。また、数少ない鉄造仏として注目したい」

と結論づけています。

 平安時代後期に修復されたこの阿弥陀さまを、長尾寺にもたらしたのはどんな人たちだったのでしょうか。
 中世のこの寺を考える場合には、志度寺を抜きにしては考えられません。志度は瀬戸内海の熊野水軍の寄港地として発展し、その港の管理センターとして志度寺が発展します。その管理は、熊野行者達が担うようになります。そして、熊野行者は補陀洛渡海の行場としての志度寺と山岳宗教の拠点となる女体山の大窪寺を「辺路」するようになります。
 さらに、室町時代になると高野山の念仏系聖たちがやってきて周辺農村部への勧進と布教活動を進めます。
彼らは次第に村々に迎えられ、そこに庵を結び定住していくようになります。長尾は志度寺のヒンターランドで、その寺域の中に入っていました。長尾寺は、そのような志度寺の子院のひとつとして生まれたと研究者は考えているようです。
 阿弥陀信仰や念仏信仰をもたらしたのは高野聖たちであり、彼らの登場が阿弥陀仏の出現と阿弥陀堂建立につながるというのが私の仮説です。長尾寺の本堂に安置される阿弥陀仏は、高野聖たちが熊野水軍の舟に載せられ志度までやってきて、それを陸路で長尾まで運んできたものと勝手に私は想像しています。
 近世になって長尾寺は真言宗から天台宗に改宗され、阿弥陀信仰は忘れ去られ、阿弥陀堂も再建されなくなります。そこに祀られていた阿弥陀さまも安住場所を失い、本堂に移ってきたものなのではないでしょうか。
長尾寺 不動明王
長尾寺の不動明王立像(本堂)

この不動さまを見たときの私の印象は「上半身と下半身が別物のよう・・・洗練されていない素人ぽい不動さま」でした。逆に見ると、専門の仏師の手によらない半素人の修験者が造ったのかも・・・と思えたりもしました。
専門家の評価を見てみましょう。
全体に大まかで荒々しい表現や太く頑丈な足柄およびその腐朽状況からみて15世紀頃の地方作と推定される。なお、台座裏に墨書銘(写真91)があり、享保3年(1718)に台座が新補されたことが分かるが、像自体は室町時代頃の作とみて良いと思われる。

室町時代の在地仏師の作品という評価のようです。江戸時代に造られて台座裏に墨書があるようです。見てみましょう
長尾寺 不動明王墨書銘

享保3年(1718)吉日 長尾観音寺不動
補堕落山観音院長尾寺
為春月妙香尼 秋月妙花尼 菩提也
施主 寒川郡石田村山王
   遠藤藤左衛門 為二世安全
この時点では、地元ではまだ「長尾観音寺」と呼ばれていたことが分かります。施主の石田村山王の遠藤藤左衛門が、「春月妙香尼と秋月妙花尼」の「菩提」のために寄進したとあります。
 長尾寺の「過去帳」(古文書古記録3-1)には、寒川郡石田村の遠藤伝次郎家の先祖に、正徳4年(1714)3月20日に死去した「春月妙香信女」と、遠藤金左衛門家の先祖として、享保2年(1717)9月21日に死去した「秋月妙香信女」が記されているようです。台座の「春月妙香尼」「秋月妙香尼」はこの両名のようです。ここから、このお不動さまの台座は、「秋月妙香信女」が亡くなった翌年に供養のために寄進されたことが分かります。石田村山王は、山王権現周辺で現在の寒川支所の辺りになるようです。
 この時期は、松平頼重やその子達によって進められた「元禄期の長尾寺再建」により伽藍が一新した時期です。その後は鐘楼の鐘や各堂内の備品などが、地域の有力者の寄進によって整えられていく時期でもありました。そのような中での石田村山王の庄屋からの寄進のようです。不動さまは室町時代、その台座は江戸の享保年間のものということになります。
このお不動さまは、どこにいらっしゃったのでしょうか。
  いまは本堂にいらっしゃいますが、もともとは護摩堂に安置されていたのではないかと私は考えています。
長尾寺 黄不動

今、護摩堂に安置されているのは黄不動立像(写真99)のようです。
 黄不動立像とは円珍と関係のある仏で、比叡山や唐に渡る際に再三、身の危険を救われたとされます。文章博士・三善清行の『天台宗延暦寺座主円珍和尚伝』(902年)には、次のように記されます。
承和5年(838年)冬の昼、石龕で座禅をしていた円珍の目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧めた(「帰依するならば汝を守護する」)。円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っていると答えた。その姿は「魁偉奇妙、威光熾盛」で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に銘じて写させた。

 黄不動は後世に模作されたものが、現在6つほどのこっているようです。そのひとつが長尾寺のこの像になります。ここからは、この像が真言宗から天台宗に改宗された後に、円珍由来の黄不動として造られたことがうかがえます。そして、今まで安置された護摩堂に、旧来の不動さまに替わって置かれたと私は考えています。そして旧来のお不動さまは、本堂に安置されるようになったのではないでしょうか。これも「観音寺から長尾寺」へのリニューアル策の一環であったのでしょう。

長尾寺 毘沙門天立像4
 昆沙門天立像

頭に宝冠を被り、右手に戟を持ち、左手は・・・今は何もありませんが宝塔を捧げ持っていたはずです。邪鬼ではなく地天女及び二鬼(尼藍婆、毘藍婆)の上に立つはずですが・・・???
 見るからに西域風の出で立ちです。兜跋毘沙門天(とばつ びしゃもんてん)と呼ばれるとおり、兜跋国(現中国ウイグル自治区トルファン)出身のお方です。この方は、一人の時には毘沙門天と呼ばれますが、4人組ユニットの「四天王」のメンバーの時には、多聞天と呼ばれます。守備エリアは、北方です。
 この毘沙門天は、様式的には先ほど見た不動明王さまと共通点が多く、同じ仏師の手で同時期に造られたものではないかと研究者は考えているようです。
 なお、足下に踏みつけている邪鬼は、彩色は後に塗り直されていますが、当初の作とみられ、顔の表情や筋肉表現には見るべきものがあり、15世紀室町期の地方作と研究者は考えているようです。
長尾寺 毘沙門天台座墨書銘
  
  この台座裏にも上のような墨書銘があります
「享保三(1718)成天初冬吉日」
「右為真元円照 春花智清 各菩提也」
「寒川郡石田村山王 施主為二世安全 遠藤藤左衛門」
さきほどの不動明王の台座寄進者の「遠藤藤左衛門」と同じで、寄進日も字体も同じです。「過去帳」には、寒川郡石田村山王の遠藤伝次郎家の先祖に、正徳元(1711)年6月21日に死去した「真元円照信士」と、正徳6(1716)年3月9日に死去した「春花智清信尼」が記載されています。台座の「真元円照」「春花智清」は、この2人のようです。墨書銘から、享保3(1718)年初冬に遠藤藤左衛門が先祖の菩提供養のために、不動明王立像の台座とともに寄進したようです。

 ここで遠藤伝次郎が享保3年に寄進したのは台座だけなのか、それとも2つの仏像も一緒に寄進したのかという疑問が涌いてきます。不動さんと毘沙門天さんは、同時代・同一工房で造られた可能性を研究者は指摘していました。ここからは次のような2つのことが考えられます。
①不動明王と毘沙門天はセットで、従来から長尾寺に伝来していた。それに台座をそろえて寄進した
②享保3年に、2つの仏像と台座をそろえて遠藤氏が寄進した

報告者は、「松平頼重によって寄進された前立の聖観音立像の脇立としてセット」したと考えているようです。遠藤氏が室町時代の仏像に新たな台座をつけて寄進したということでしょう。しかし、これに対しては、私は違和感を感じます。先ほど述べたように、この寺の成り立ちとして修験者が守護神し、護摩堂にまつる不動明王が祀られていたはずだからです。新たに天台宗の黄不動明王を招いたとしても、従来ものを破棄するとは考えにくいのです。しかし、不動さまと毘沙門天はセットであったとすると、それまで毘沙門天はどこにいらっしゃたのかという疑問も涌いてきます。「今後の検討課題」ということにしておきましょう。
長尾寺吉祥天

最初の印象は「華やかな吉祥天 しかし、顔立ちは古風」という感じでした。近代に「加飾」(お色直し)されてされているようです。そのために身につけてものがモダンで近代風に見えます。しかし、頭のてっぺんなど見えない部分は加飾されず、木質部がそのまま露出しているようです。白髪染めがされていないようなものかもしれません。そこからみえる木質は、腐朽状況から近代のものではなく「相当の年月を経てきた」もののようです。
 そう言われて改めて全体を見てみると量感はふくよかです。
「側面観や大きな足柄など、平安時代の様式が看取される。」

と研究者は評価します。顔立ちが古風と感じたように、天平美人につながるものがあるような気がしてきます。近代のお化粧直しは、もとの彩色や木質部分を削り直して彩色が施されたようで、原型が分かりにくいようです。しかし、「平安時代の作であった可能性」を研究者は指摘します。
長尾寺 弥勒如来

 左手を与願印、右手を触地印とする珍しい印相の弥勒如来です。
この印相は日本ではほとんどなく、中国や朝鮮半島で如来の通印とされるものです。顔立ちがお茶目で、おもわず微笑んでしまいそうになります。指も長いです。研究者はこの仏を次のように評価します。

長い指の表現など様式から見て朝鮮半島・高麗時代の作、または中国の作とみられる。この印相の如来は韓半島でよくみられる。また韓半島では日本以上に弥勒信仰が盛んであった。
 朝鮮半島の高麗時代の作品と考えているようです。伝来の経緯は分かりませんが、秀吉の朝鮮侵略の際の「戦利品」というのが考えられます。

最後に大師堂の大師達を見ておきましょう
大師堂は、弘法大師信仰の広がりと共に、どこの霊場にも宗派に関係なく江戸時代注記頃から姿を見せるようになります。そこに安置されるのはもちろん弘法大師像です。しかし、ここは天台宗のお寺ですからどうなのでしょうか?どんな大師さんがいらっしゃるのでしょうか。長尾寺の大師堂には3人の大師がいらっしゃいます。
  
長尾寺 弘法大師座像

真ん中に弘法大師、
長尾寺 天台大師

向かって右側が天台大師
長尾寺 円珍坐像

左が卵頭がトレードマークの智証大師という並びになっています。
天台宗のお寺らしい大師堂という感じです。3つの大師像を見ると、同一仏師の作だということは一目で分かります。大師堂が作られた時に、都の仏師に同時に発注したもののようです。それは18世紀前半のことでしょう。それを示す墨書名はないようです。

お堂とそこに安置されている仏達を見てきました。それは長尾寺の成り立ちを考えることにもつながるようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献 
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年

長尾寺 本堂と境内 1921年

仁王門から真っ直ぐに本堂に近づいていくと違和感を持つのは屋根の形です。天守閣に見られる入母屋の千鳥破風が正面に出ています。それを下の唐破風が受け止めている印象です。なぜわざわざこんな荘厳(デザイン)にしたのだろうかという疑問がわいてきます。その疑問を抱きながら調査報告書で本堂の項目を読んでいきます。本堂については次のように記されます。

[柱間装置]
正面中央間は諸折の桟唐戸、正面両脇間と両側面第1間。第2間は横舞良戸を引違とし室内側に明り障子1枚が立つ。その他各間は白壁とする。内部の内外陣境は透かし格子戸引違。
[床 組]
切石の束石に床束立ち、大引に根太組。外陣は板敷、内陣は板敷で手前側に畳3枚を敷く。脇陣は各々9畳の畳敷とする。
長尾寺 本堂平面図
長尾寺本堂平面図

本堂の歴史について見ておきましょう。
①8世紀後半の瓦が出土しているので周辺有力豪族の氏寺として、建立された。
②中世の本堂は不明だが戦国時代末期に本堂以外は兵火により灰焼に帰したと伝える。
③江戸時代に入り、生駒氏によって再興されたと伝わる
④初代高松藩主松平頼重が天和3年(1683)11月、真言宗から天台宗への改修を命じ、以後伽藍の整備が集中的に進められた。
松平頼重によって改修された本堂については、蓮井家文書(156-201「覚」)に記述があるようです。
それによると、元禄7年初頭、「長尾寺観音堂御再興奉行」に郡奉行矢野孫八郎組の永井孫吉が命じられています。
4月6日には「観音堂御普請、大工頭領多兵衛・甚左衛門てうな始」とあります。この日から観音堂の普請が始まったようです。
2ヶ月後の6月6日には「観音新堂棟上ヶ」とあり、6月初旬には棟上げが行われています。さらに、
「八月十三日迄二観音本堂・二王(仁王)堂・阿ミた(阿弥陀)堂迄普請相済、同日より長尾寺寺(ママ)諸材木てうな始」
とあります。ここからは、観音堂の他に仁王堂や阿弥陀堂の普請も同時に行われていて、8月中旬にはある程度まで終了していたようです。
長尾寺 棟札(観音堂再興5) (1)

しかし、長尾寺に残る観音堂(本堂)や阿弥陀堂再興の棟札(棟札5・9)の年代は、元禄14年(1701)9月18日です。蓮井家文書の記録とは一致しません。
普請が終わった後も手が加えられ、元禄14年になって落成したと研究者は考えているようです。このときの本堂(観音堂)の大きさは棟札(棟札5・8)から三間半四方の規模だったことが分かります。
松平頼重によって建立された本堂は、幕末の嘉永7年(1854)には拡張され「五間半四面」で建て直されています。それが現在の本堂です。幕末にはそれだけの「需要」があり大型化が必要とされたようです。その背景は何だったのでしょうか。それは後で考えることにして、幕末に大型化し再建されたことを押さえておきます。建設後百年以上経った昭和35年(1960)と平成19年(2007)に、屋根の雨懸り部材や、内部の建具などの改修が行われたようです。このように長尾寺の本堂は、棟札や記録等から近世以降の沿革がはっきりしていて貴重です。

長尾寺 本堂千鳥破風

専門家の本堂の評価を聞いてみましょう。
「来迎柱が本屋背面柱筋まで後退し、内陣脇陣境が開放的な平面形式に特徴があるほか、向拝をはじめ各所に用いられた彫刻の豊かさも特筆される。また、千鳥破風の桟唐戸の構えは、年に一回、一月七日に行われる大会陽(だいえよう)の際に開かれ、その前に櫓を組んで住職が宝木を投下する(現在は餅を撒く)ために使われるもので、当堂における最大の特徴といえる。
入母屋屋根の垂木は、向拝部の平行垂本を除き、すべて扇垂木として雄大な外観を呈する。妻飾り、二重虹梁など、新材に補修の痕跡が認められるものの、江戸時代末の大型三間堂として貴重である。」
長尾寺 本堂会陽舞台

ここからは、「千鳥破風の桟唐戸の構え」が大会陽の時に、住職が宝木を投下するための舞台に変身することが分かります。確かにこの本堂を見ながら変わっているなあと思っていたのですが、宗教イヴェントの晴れ舞台になるのです。

 大祭や開帳などの宗教イヴェントが大衆化し、19世紀になって大型化するといままでにないような参拝者が集まるようになります。そのため大衆的な人気や祭礼イヴェントを持つ寺院では本堂が大型化していきます。金比羅さんの金堂(現旭社)や善通寺の誕生院の本堂が大型化するのもこの時期です。同時に、本堂前の空間をできるだけ広く取るようなレイアウトが伽藍配置にされるようになります。これもそこで繰り広げられるイヴェントを意識したもののようです。
長尾寺 本堂と境内 1909年

長尾寺でも大会陽のための本堂が幕末に登場し、それが現在まで大切に維持されてきたようです。長尾地区だけでなく周辺のイヴェントセンターの場としての役割を求められ、それに応えるための宗教空間が出現したとしておきましょう。そして、その公的役割を果たしていたからこそ、明治に30年間も仮郡庁として機能を果たしたのででしょう。
長尾寺 西大寺会陽1

それでは、「大会陽」とは何なのでしょうか?
 この行事を今でも行っているのは、岡山県西大寺です。昔は、長尾寺と西大寺は会陽の音が響きあっていると云われたようです。西大寺の会陽の音は志度寺や長尾寺に響いてくる。その晩、耳を地面に付けて、その響き聞いた人には幸運があるということが、江戸時代の俳句の歳時記には書いてあるようです。海を挟んで志度寺に伝わっていたものを、長尾寺が継承していたと研究者は考えているようです。
 西大寺の場会は、シソギ(神木・宝木)と称する丸い筒を奪い会います。
西大寺文化資料館:西大寺会陽の宝木
西大寺の寛政9年の牛玉宝木(神木)

 所によっては、1つの寶木を割って『陰』『陽』の2本にわかれるようにしたところもあるようです。その場合は福男は2人出ることになります。これに香を塗り込み、牛玉宝印(ごおうほういん)で包みます。包み方はそれぞれの寺、神社で異なるようで、何重にも包んだり、お札や小枝とともに包んだりしたようです。
会陽って何だろう-寺社の紹介(備前地区)

 この上に牛玉宝印を何枚も糊で貼って離れないようにして、筒のままで何万という裸男の中に放り込みます。奪い会っているうちに割れてしまうので、最後に二人の人がこれを手に入れることになります。時には、割れずに一人が手中にすると、モロシソギといって二倍の賞品がもらえたようです。
会陽って何だろう-寺社の紹介(備前地区)

この神木の中にある牛王宝印とは、神社や寺院が発行するお札、厄除けの護符のことです。神社では牛王神符ということもあります。略して牛王(ごおう)・牛玉とも書かれて、中世文書には良く登場してきます。もともとはカラス文字とも呼ばれ、熊野神社で用いられていたもののようです。それが熊野行者の全国展開と共に各地の神社仏閣に広がっていきました。
 そして牛王宝印は、厄除けのお札としてだけでなく、その裏面に誓約文を書いて誓約の相手に渡す誓紙としても使われるようになります。牛王宝印によって誓約するということは、神にかけて誓うということであり、もしその誓いを破るようなことがあれば、たちまち神罰を被るとされました。
牛王宝印- 熊野の本宮・速玉・那智、天川村の龍泉寺: Neko_Jarashiのブログ
 牛王宝印を熊野ではカラス文字を使ってデザインしています。
ひとつひとつの文字が数羽のカラス(と宝珠)で表されているのです。そのため、熊野の牛王宝印は俗に「おカラスさん」とも呼ばれます。
 牛王宝印のカラスの数は増減しますが、現在の牛王では、本宮は88羽、新宮は48羽、那智は72羽のカラス文字で五つの文字が表わされています(右の写真は本宮の牛王宝印)。
本宮の烏の数が88羽なのと、中世の熊野行者が四国辺路の原型を形作ったとされることから「四国88ヶ寺」の88もここから来ているのではないかという新説も最近は出されています。
熊野三山の烏牛王符だけが「牛王(牛玉)宝印」じゃない!~各地の牛玉札のバリエーション&蒐集の記録と探訪記~(随時更新) (2ページ目) -  Togetter

 牛王のなかで最も神聖視されていたのは熊野の牛王でした。
とくに武将の盟約には必ずといっていいほど、熊野牛王が使われいます。『吾妻鏡』には、源義経が兄・頼朝に自らの誠実を示すための誓約文を熊野牛王に書いたことが記されています。熊野の神への誓約を破ると、熊野の神のお使いであるカラスが三羽亡くなり、誓約を破った本人は血を吐いて地獄に堕ちるとされていました。
 また、熊野牛王を焼いて灰にして水で飲むという誓約の仕方もありました。熊野牛王を焼くと熊野の社にいるカラスが焼いた数だけ死ぬといわれます。その罰が誓約を破った人に当たって即座に血を吐くと信じられ、血を吐くのが恐くて、牛王を飲ますぞといわれると、心にやましいものがある者はたいがい飲む以前に自白をしたと云います。元禄赤穂事件では、赤穂浪士が討ち入り前の連判状に熊野牛王を使ったようです。
 このように熊野牛王は誓約に用いられた他にも、家の中や玄関に貼れば、盗難除けや厄除け、家内安全のお札にも霊験あらたかとされました。こうしてこのカラス文字で書かれた札自体が信仰の対象となっていきます。仏前でみんなで奪い合うのにふさわしいお札だったようです。
 同時に、ここには熊野信仰と熊野行者の活動がうかがえることに注意しておきたいと思います。志度寺には熊野行者の影響も多かったようです。そして、志度寺を通じて長尾寺にもその影響は及んでいたことがうかがえます。

 長尾寺の絵巻物で「会陽」を見ると、西大寺と同じように、神木だけでなく串牛玉をたくさん上から投げています。そうすると、たくさんの人がそれを拾っていくことができます。当事の人たちにとって牛王宝印というのは本尊さんの分霊と考えられていたようです。分霊をいただいて自分の家へ持って帰っておまつりをすると、観音さんの霊が自分の家に来てくださる、そんな思いで参加していたようです。

 餅撒きというのがありますが、これも御霊を配る神事です。
長尾寺 西大寺会陽2

撒かなくても手渡しでいいのではないかと思うのですが、それでは「福」は来ないのだそうです。投げてもらって、みんながワーッと行って取る。争うということに功徳を認める。それが会陽というものの精神のようです。
 どうして会陽とよぶのでしょうか。
 それも西大寺を見れば分かります。西大寺の場合はシソギ(宝木・神木)を投げ下ろすまで、それに参加する人々は地押しをしなければいけません。その地押しのときに「エイョ、エイョ」という掛け声をかけます。「エイョウ、エイョウ」と地面を踏む。近ごろは「ワッショイ、ワッショイ」になってしまったようですが、お年寄りたちは「エイョウ」といったと伝えます。地面を踏むことによって悪魔を祓う。相撲の土俵で四股を踏むのと同じことだと民俗学者は云います。立ち会いの前に、力士が鉄砲を踏むのと同じのようです。起源は相撲と同じようです。
 四股を踏むのは悪魔祓いの足踏みです。
その足踏みを「ダダ」と呼ぶそうです。東大寺のお水取には「ダッタソ」があります。このときの掛け声がエイョウで、漢字を当てると「会陽」となるようです。
以上をまとめておくと
①古くから寺社では神木を奪い合う行事が行われていた
②その際に悪魔払いに「エイヨウ」とうかけ声と共に地面を踏んだ。
③これが漢字表記されて「会陽」となった。
④この行事は、熊野行者の瀬戸内海進出とともに、各地の神社仏閣に広げられた。
⑤その際に、熊野行者は神木に「牛玉宝印(ごおうほういん)」を入れて、熊野信仰とリンクさせた。
⑥会陽は西大寺や善通寺・長尾寺には近世には伝わり、大イヴェントになった。
⑦この行事を行うためには大きな空間が必要なため伽藍の再レイアウトが求められるようになった。
⑧長尾寺では、護摩堂・本堂・大師堂を一直線にして、会陽の展開スペースを確保した
⑨同時に、幕末に本堂を大型化する際に、宝木を投げるための舞台装置として千鳥破風妻造りの屋根が登場した。この前に櫓が組まれ、そこから宝木が投げられるようになった。
⑩長尾寺の本堂は会陽の会場として、地域のシンボルタワーの役割も果たすようになる。
⑪また長尾寺は長尾街道と志度・大窪街道の交差する要衝にあるため、明治には郡役場が30年近くに渡って置かれた。
長尾寺は、四国霊場の札所であると同時に、地域の文化センターや祭礼センターとしても機能してきた歴史を持つようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 長尾寺本堂 装飾

   参考文献 
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年

          香川県四国八十八箇所霊場と遍路道 調査報告書12 長尾寺調査報告書(香川県教育委員会) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋

図書館を覗いてみると長尾寺の調査報告書が入っていました。いつものように、のぞき見てみることにします。長尾寺がいつ出来たかについては、同時代史料がなく分からないというのが結論のようです。
しかし、報告書はできるだけの史料を集めて、分からないことを史料に語らせています。それにつきあってみましょう。
87番札所 長尾寺の『大師堂拝観』に行ってきました(*^▽^*)♪@長尾: さぬき市再発見ラジオ あそびの達人

①江戸時代中期の『補陀落山長尾寺略縁起』には、

天平11年(739)に行基が本尊の聖観音菩薩を刻んで安置したことに始まり、天長2年(825)に藤原冬嗣が再興したという。いわゆる行基開基説です。しかし、再興に藤原氏が登場するのはなぜでしょうか?よく分からないまま、読み進んで行くことにします。
②『讃岐国名勝図会』には、良峰安世が諸堂を修造し、地名にちなんで長尾寺に改めたと記されます。
③長尾寺は、中世から近世初期まで極楽寺宝蔵院(さぬき市長尾東)の末寺であったようです。極楽寺の寺歴をまとめた『紫雲山極楽寺宝蔵院古暦記』では、天長2年に藤原冬嗣が建立したとします。再び藤原冬嗣の登場です。
続いて近世の縁起・由来を見てみましょう。
④寛文9年(1669)に各郡の大政所が寺社の由緒を提出した『御領分中宮由来・同寺々由来』では、延暦年間(782~806)に空海が創建し、本尊聖観音は聖徳太子の作とします。
⑤讃岐最初の地誌で延宝5年(1677)の『玉藻集』には
「此寺はもと聖徳太子開建ありしを、弘法大師、霊をつつしみ紹隆し給ふと云う」
と云うのです。
⑥明和5年(1768)の序文がある『三代物語』でも聖徳太子の草創で、後に空海が修造し、正観音菩薩をつくり安置したとします。
   こうしてみると、次のような変化が読み取れます
中世は、行基開基・藤原冬嗣再興」説
近世になると「聖徳太子・空海開基」説
この変化の背後には、高野聖たちによる弘法大師伝説や大師(聖徳)伝説の流布があったことがうかがえます。私の師匠の口癖は
「だいたい札所の寺というは、由緒が分からなければ開基は行基か弘法大師となるもの」

だそうです。この寺もその例にもれず
「聖徳太子開建ありしを、大師(弘法大師)霊をつゝしみ紹降し玉ふといへり」

と四国遍礼霊場記には記されて、聖徳太子や弘法大師の登場となります。つまり、この寺の縁起がはっきりしないことを示しています。このように長尾寺の成立については、いろいろな説がありますが、どれも後世の史料で信頼性のあるものではないようです。確かにこれでは研究者は「不明」とする以外にないでしょう。

 ただ、考古学的には境内から古瓦が出土しています。
この古瓦が奈良時代後期から平安時代にかけてのものであることから、8世紀後半頃にはここに古代寺院があったことは事実のようです。
さぬきの古代時代

ここは南海道も通過し、条里制遺構も残ります。古代からの有力豪族の拠点であり、その豪族の氏寺が奈良時代の後半には建立されていたは云えるようです。

長尾寺周辺遺跡分布図
長尾寺周辺の遺跡分布図 
私が疑問に思ったのは、長尾寺の由来に志度寺との関係が出てこないことです。以前に見たように「状況証拠」からは、中世には志度寺に拠点を置く高野聖たちの周辺地域での勧進活動などが活発に行われていたことがうかがえることはお話ししました。これには何も触れられません。
遍路・87番札所 長尾寺(ながおじ ・香川県 さぬき市) : 家田荘子ブログ ~心のコトバ~

2 中世の長尾寺
中世における長尾寺の動向についても、文献史料がなく分からないことだらけです。残されたモノ(遺物)を見ていく他ないようです。
この寺の一番古い遺物は、仁王門の前にある鎌倉時代の経幢(重要文化財)になるようです。
長尾寺経幢 (ながおじきょうどう)(弘安六年銘)

経幢(きょうどう)は、今は石の柱のように見えますが、8角の石柱にお経が彫られた石造物で、死者の供養のために納められたものです。お経の文字は、ほとんど読めませんが、年号だけは読めます。西側のものには「弘安第九天歳次丙戌五月日」の刻銘があるので弘安6年 (1283)、東側のものが3年後1286年とあります。
 
明倫館書店 / 重要文化財 長尾寺経幢保存修理工事報告書

建てられた経緯など分かりませんが、モンゴル来寇の弘安の役(弘安4年)直後のことなので、文永・弘安の役に出兵した讃岐将兵の供養のために建立されたものという言い伝えがあるようです。13世紀後半には、有力者からこれだけの石造物を寄進される寺院があったということになります。
1長尾寺 石造物
長尾寺の経幢(きょうどう)

中世の長尾寺は、近隣の極楽寺の末寺だったと報告書は云います
 本寺であった極楽寺は真言宗寺院です。そうするとその末寺であった長尾寺も、この時期には真言宗であったことになります。寛文9(1669)の『御領分中宮由来・同寺々由来』に「讃州宝蔵院末寺」として「真言宗 寒川郡長尾寺」と記されているが裏付け史料になります。ただ大正15年(1926)の「大川郡誌』には次のようにあります。

「長尾寺が天和3年(1683)に、天台宗の実相院門跡の末寺となった」
「始メ法相宗、次二天台宗、中古真言宗二転ジ、今又天台宗二復帰ス」

ここからは大川郡史が書かれた時には、このことを記した寺の記録があったのでしょうが、今はこのようなことを記す史料は長尾寺には残っていないようです。三豊の大興寺や多度津の道隆寺のように、真・天台両勢力が併存した時期があり、しだいに高野聖の活発化と共に真言宗が優位になったとしておきましょう。
 「紫雲山極楽寺宝蔵院古暦記』には、弘安4年に極楽寺の住職正範が寒川郡神前・三木郡高岡両八幡宮で「蒙古退散」祈祷を行ったことが記されているようです。もし、これが事実であるとすれば、文永・弘安の役に際に建立されたと言い伝えられる経幢の「補強史料」になります。
 境内や墓地には五輪塔など室町時代にさかのぼる石造物が残されているので、中世の長尾寺が信仰の拠点となっていたことがうかがえます。しかし、石造物も仏像と一緒で「有力寺院」に集まってくるので、すぐには判断できないようです。報告書は「さらなる検討が必要」としています。

香川県さぬき市 長尾寺 彫刻1 | yasakuhinmokurokuhakoのブログ

中世の長尾寺の活動について、別の視点から探ってみましょう。
讃岐の名所の和歌や社寺由緒等をまとめた延宝5年(1677)の「玉藻集」には、長尾寺が次のように記されています。

「(略)本尊観音、立像、長三尺弐寸。弘法大師作。亦阿弥陀の像を作り、傍に安置し給ふ。鎮守天照太神。むかしは堂舎雲水彩翠かゝやき、石柱竜蛇供せしか共、時遠く事去て、荒蕪蓼蓼として、香燭しはしは乏し。慶長のはじめとかや、国守生駒氏、名区の廃れるをおしみ再興あり」

ここからは次のようなことが分かります。
①長尾寺の本尊は観音立像で、大きさは1㍍ほどの小ぶりな仏で、弘法大師作とされていた。
②阿弥陀仏が傍らに安置されていた。
③鎮守は天照大神であった
④かつての壮麗な伽藍の姿を失い、もの寂しい状況だったのを慶長年間に生駒家が再興した
注目したいのは本尊の他に阿弥陀如来像があり「傍らに安置」していたほか、境内に天照大神を祀る鎮守社があった神仏混淆の伽藍であったことです。
これより12年後に出版された「四国偏礼霊場記』には、長尾寺の境内が描かれています。真念らの情報をもとに高野山の僧寂本がまとめて遍路のための案内パンフレットして元禄2年(1689)に刊行されたものです。長尾寺については「玉藻集」の記事を引用して

「さし入に二王門あり。寺の前 遍礼人の寄宿所有」

と書き加えてあります。この絵は貞享年間(1684~88)頃の長尾寺の実際の景観を描いたもののようです。
2 長尾寺 境内図寂然

この絵図からは次のようなことが分かります。
①境内の北側中央に「観音堂」(本堂)があり、右横に「天照太神」、その下に「阿弥陀」と書かれた小堂が見えます。阿弥陀像を本尊を祀る観音堂のすぐそばに安置していたようです。これは「玉藻集」の記述と合致します
②観音堂左下の「観音院」と記された2棟の建物が客殿のようです。下方の境内入口には仁王像を安置する仁王門があります。
③門前に描かれた方形の箱のように見えるのは、水路にかかる橋のようです。
④仁王門左上の建物は、接待用「茶堂」と研究者は考えているようです。
⑤境内に接する長尾街道の両脇には家が建ち並び、「茶屋」と書かれた家があります。拡大すると中には黒い茶釜らしきものが描かれています。これが「さし入に二王門あり。寺の前 遍礼人の寄宿所有」の施設かもしれません。記録によると善根宿などは、宿泊は無料か、それに近いくらい安価であったようです。しかし、食費はそれ相応の値段だったことが分かります。
   17世紀後半の長尾寺には門前らしきものが姿を見せ、遍路に対しての宿泊サービスも提供されるよいになっていたことがうかがえます。
  「玉藻集」と「四国偏礼霊場記」には、共通して描かれているものがあります。
その中で「観音堂」(本堂)と、その右横の「天照太神」、その下の「阿弥陀」に焦点をあてて、当事の信仰形態を探ってみましょう。
まず観音堂について見てみましょう。
世の中が平和になり、参拝者が段々増えてくる中で、承応2年(1653)に、四国辺路に訪れたのが澄禅です。
1四国遍路日記

彼の「四国遍路日記」には、長尾寺が次のように記されています。
長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」

彼は、当代一流の学僧でもあり、文章も要点をきちんと掴んでいます。ここからは、次のような事が分かります。
①本堂は南向きで、本尊が聖観音、
②寺の名前は長尾寺ではなく観音寺と呼ばれていたこと
③国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に当寺を加えて讃岐七観音と呼ばれていた。
②によると、江戸時代の初期までは観音信仰の拠点として「観音寺」と呼ばれていたようです。③には観音信仰は長尾寺だけのものではなく坂出から高松に至る海岸沿いの札所の多くがメンバーとなって「七観音」を組織していたことが分かります。善通寺を中心とした「七ケ所詣り」のような集合体が、あったことがうかがえます。

観音寺と呼ばれていたのが、いつ頃から長尾寺になったのでしょうか。
承応2年(1653)の『四国遍路日記』では「観音寺」
承応4年(1655)の宗門改帳においても「長尾西村 観音寺」とあるようです。
それが長尾寺になるのは、この寺が真言宗から天台宗に改宗して以後のことのようです。寛文9年(1669)の『御領分中宮由来・同寺々由来』には「長尾寺」とあり、この頃から長尾寺の表記が一般的になったようです。改宗や新たな末寺編成が行われた天和3年には、寺名も長尾寺に定まっていたのでしょう。貞享4年(1687)の真念の遍路案内記『四国辺路道指南』には「長尾寺」として登録されています。
遍路・87番札所 長尾寺(香川県さぬき市) : 家田荘子ブログ ~心のコトバ~

 長尾寺の鎮守がどうして天照大神なのか。

熊野の若一王子(にゃくいちおうじ)は、神仏習合若王子(にゃくおうじ)とも呼ばれます。若一王子の本地仏は、十一面観音で、天照大神瓊々杵尊と同一視され混淆されます。いまでも若一王子は若宮として、熊野本宮大社熊野速玉大社では第4殿、熊野那智大社では第5殿に祀られ、天照大神のこととされているようです。
 もちろん、若宮は天照大御神ではありません。熊野の信仰が出来たときに、新宮に伊井諾尊、那智に伊非再尊ということにしたために、若宮は伊許諾・伊井再尊の間に生まれた子どもということになったようです。そのために、熊野では天照大御神になってしまったようです。そういういきさつから若宮といわれるものは若王子を祀っています。若宮すなわち若王子の「王子」は海の神様です。簡略化すると

「長尾寺の本尊聖観音 = 天照大御神 = 熊野の若宮
 =若王子 = 海の神様」

というように混淆・権化してきたようです。ここからは、長尾寺の鎮守はもともとは海の神様だったことがうかがえます。熊野行者が背中に背負ってきた観音様を祀り、その化身の若宮(=天照大神)を守護神とした例は数多くあります。
 例えば、高野聖の一員として修行を重ねていた西行が善通寺にやってきて、勧進活動を3年間行っています。その間に善通寺の背後にそびえる五岳の我拝師山にある修行場の捨身が瀧について「わかいし」と書いています。「わかいし」と「若一王子」のことです。西行のころには、まだ若一王子が札所に祀られていたことが分かります。

なぜ、海に関係する「若王子」が長尾寺の鎮守となったか
 それは熊野行者が観音信仰と補陀落信仰を志度寺にもたらしていたことと関係するようです。その仮説を順番に並べてみましょう。
①仏教以前に、志度の砂堆上に海との間を祖霊が行き来する霊場があった。
②そこへ熊野行者がやって来て、海とつながりのある観音信仰と補陀落信仰を「接木」して神仏混淆を行った。そして、霊場の管理センターとして志度寺が現れた。守護神は「若王子」とされた。同時に志度寺は志度港の管理センター役割を果たすようになる。
③その後、高野山から高野聖たちが阿弥陀信仰をもってやって来て志度は浄土へつながる場所とされた。
④高野聖たちの中には、念仏聖もおり、勧進と布教活動を周辺で行った。
⑤当初は志度寺周辺にいた念仏聖たちの中には、周辺部の村々に迎え入れられて定着するものも現れた。
⑥志度寺の後背地の長尾には、志度寺の子院となる寺院が数多く姿を見せるようになる。
⑦長尾寺の山号が志度寺と同じ補陀落山なのは、もともと長尾寺が志度寺の子院であったのが、その後に独立したためである。
⑧近世に「弘法大師伝説」が四国霊場に広まってくると、天台宗ではあるが大師堂を建立する。
私が今考えているストーリーは、こんなものです。
上のストーリに17世紀後半の「四国偏礼霊場記』に見られる長尾寺の宗教施設を落とし込んでいくと、次のようになります。
A「観音堂」(本堂)と守護神の天照大神は、②の熊野行者がもたらしたものです。
B「阿弥陀堂」は、③④の高野聖たちがもたらしたもの。
C「大師堂」は⑧の大師信仰の拡大の中で建立された。
つまり、長尾寺の17世紀の宗教施設は志度寺の宗教的重層性を反映したものであるというのが今の私の仮説なのです。調査書を読んでいて、刺激を受けて筆があらぬ方に走り出してしまいました。テーマの「調査報告書を読む」からは、大きく逸脱した内容になってしまいました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年

志度寺には「讃岐国志度道場縁起(海女玉取伝説)」とよばれる、14世紀前半につくられた縁起があることを前回はお話ししました。この「縁起」は、能にとり入れられて「海人」となり、幸若舞にとり入れられて「大職冠」となったといわれます。「讃岐国志度道場縁起」は中世芸能の担い手達からも注目されていたことがうかがえます。
 志度道場縁起は漢文で書かれているので、簡単に現代語に意訳して見ます。
 藤原鎌足がなくなって後、その子である不比等は父の菩提を弔うために、奈良に興福寺を建立してその本尊として丈六の釈迦仏を安置しようとした。その時鎌足の妹は美人の誉れが高く、そのうわさは唐にまできこえ、唐の高宗皇帝の切なる願いにより、唐にわたって皇后となっていた。
 この妹が兄の寺院建築のことを聞いて、たくさんの珍宝を送ってきた。その中に不向背の珠という天下無双の宝玉があった。これらの珍宝を積んだ船が、瀬戸内海の讃岐房前の浦(志度)にさしかかると、にわかに暴風が吹き波は荒れ狂い、船は転覆しそうになった。そこで珠を守るため珠を入れた箱を海中に沈めようとしたところ、海底から爪が長く伸び毛に蔽われた手が出てきて、その箱をうばいとってしまった。唐の使いは都に着いてその仔細を不比等に報告すると、非常に残念に思った不比等は珠がうばわれた房前の浦までやってきた。
 不比等はその地で、海底でも息の長く続く海人の娘と結婚し、三年が過ぎると二人の間に、一人の男の子が生まれた。この時になって初めて不比等は自分の素姓を明かし、唐から送られた宝玉がこの海で龍神にうばわれたことを話した。そして、その宝玉を何とかして取り返したい旨を妻に告げると、彼女は死を覚悟で珠を取って来ようとする。
その際、気にかかるのは残される子のことである。海人は自分がもし命をおとすようなことになれば自分の子を嫡子としてとり立ててくれるよう約束して、龍宮を偵察するために海にもぐって行く。
 海人は一旦海底を偵察した後で、自分が死んだら後世を弔ってほしいと遺言して多くの龍女たちに守られた玉を取り返そうとして腰に長い縄を結び付けて玉を得ることができたら、合図に縄を引くから引き上げてくれるように頼んで再び海中の人となった。舟の上では合図を今か今かと待っていると、かなりの時聞か過ぎて縄が引かれたので、急いで引き上げると海人は、玉をとられたと知った龍王が怒って追いかけ、四肢を食いちぎった無残な死体となっていた。
志度寺 玉取伝説浮世絵
海女玉取伝説の浮世絵

 海人の死体は近くの小島に安置され、人々が嘆き悲しみながらよく見ると、乳の下に深く広い疵がありその中に求める玉が押し込められていた。そこでその小島を真珠島と名づけ、島の南西の浜の小高いところにある小堂に海人の遺体を安置し、寺を建てて志度道場と名づけ、なくなった海人のために仏事供養を行なった。
 玉は不比等が都に持って帰り、興福寺の釈迦仏の眉間に納められた。海人と不比等の間に生まれた子は房前と名づけられ、十三才の時に母のなくなった房前の浦に行き、母の墓を訪れると地底より母の吟詠の声が聞こえてきたという。

 以上が縁起の、大体のあらすじです。この話については前回にもお話ししましたので、今回は、この縁起は何をよりどころに生まれてきたかに焦点を絞って見ていくことにします。

  二、書紀の玉取り伝説
 志度道場縁起のタネ本と目されるのが『日本書紀』允恭天皇十四年九月条にある次のような記述だと研究者は考えているようです。
 天皇、淡路島に猟したまふ。時に大鹿・猿・猪、莫々紛々に、山谷に満てり。炎のごと起ち蝿のごと散ぐ。然れども終日に、一の獣をだに獲たまはず。是に、猟止めて更に卜ふ。島の神、崇りて日はく、「獣を得ざるは、是我が心なり。赤石の海の底に、真珠有り。其の珠を我に祠らば、悉。に獣を得しめむ」とのたまふ。
  爰に更に処々の白水郎を集へて、赤石の海の底を探かしむ。海深くして底に至ること能はず。唯し一の海人有り。男狭磯と日ふ。是、阿波国の長邑の人なり。諸の白水郎に勝れたり。是、腰に縄を繋けて海の底に入る。差須曳かりて出でて日さく、「海の底に大蝶有り。其の処光れり」とまうす。諸人。皆日はく、「島の神の請する珠、殆に是の腹の腹に有るか」といふ。亦人りて探く。爰に男狭磯、大腹を抱きて認び出でたり。
 乃ち息絶えて、浪の上に死りぬ。既にして縄を下して海の深さを測るに、六十尋なり。則ち腹を割く。実に真珠、腹の中に有り。其の大きさ、桃子の如し。乃ち島の神を祠りて猟したまふ。多に獣を獲たまひつ。唯男狭磯が海に入りて死りしことをのみ悲びて、則ち墓を作りて厚く葬りぬ。其の墓、猶今まで在。とある、

これが男狭磯の玉取り伝説で す。意訳しておきましょう。

 天皇が淡路島に猟に行ったときに大鹿・猿・猪、などが山谷に満ちて炎のようにたち、蝿のように散る。しかし、一日が終わっても、1頭の獣さえ捕らえることはできない。そこで、猟を止めて占った。島の神が云うには、「獣が獲れないのは、私の仕業である。赤石(明石)の海の底に、真珠がある。それを我に奉ずれば、たちまち獲物は得ることができるようにしよう」と云う。
 そこで処々の白水郎(海に潜るのが上手な漁師)を集めて、赤石の海の底を探がした。海は深くて底まで潜れるものがいない。唯一、海人の男狭磯が潜れるという。彼は阿波国の長邑の人で、どこの白水郎よりも潜ることにすぐれていた。腰に縄を繋けて、海の底に入って行った。海から出てきて云うには「海の底に大きな蝶々貝があります。その中から光がしますと云う。人々が口をそろえて言うには、「それこそが島の神が求めている珠にちがいない」いいます。そこで男狭磯は、また海に探く潜り、大腹を抱いて上がってきましたがすでに息絶えていました。縄を下して海の深さを測ってみると六十尋あった。貝の腹を割ると、まさに真珠が中にあった。その大きさは桃の実ほどもある。これを島の神に捧げて猟をしたところ、たちまちにして多くの獣を得ることができた。男狭磯が海に入って、亡くなったことを悲しみ、墓を作り厚く葬むった。其の墓は今もあると云う。

これが、男狭磯の玉取り伝説です。
物語のポイントは、志度道場縁起も書紀の允恭紀・男狭磯も、息の長く続く秀れた海女がいて、海中深く潜って珠を得た後に、亡くなるという点では全く一緒です。
 幕末から維新にかけて書かれた「日本書紀通釈」によると、
「或人云、阿波国人宮崎五十羽云、同国板野郡里浦村鰯山麓に古蹟あり。里人尼塚と云り、是海人男狭磯の墓也と、土人云伝へたりとそと云り、聞正すへし」
これも意訳すると
「伝承では、阿波の人・宮崎五十羽が伝えるには、板野郡里浦村鰯山の麓に古蹟がある。。里人は「尼塚」と呼ぶ。これが海人・男狭磯の墓であると地元の人たちは伝る」

ここからは江戸末期から明治の初め頃にかけて、阿波の板野郡には男狭磯の墓と伝承される古蹟があったことが分かります。この古蹟は今もあり、鳴門市里浦には尼塚と呼ばれる宝飯印塔があるようです。
 この古蹟の伝承書紀に載せられているのですから、それよりも古いことは明らかです。
『延喜式』巻七、神祗の大嘗祭の条には、
 阿波国、一漱並布一端、木綿六斤、年色十五缶し瓢根合漬十五缶、乾羊蹄、躊鴉、橘子各十五簸皿剋・鰻鮨十五増、細螺、輯甲羅、石花等廿増特認四・其幣五色薄絢各六尺、倭文六尺、木綿、麻各二尺、葉薦一枚、作具鏝、斧、小斧各四具、鎌四張、刀子四枚、範二枚、火讃三枚、並壇濁、及潜女心曜造酒

とあって、天皇即位の大嘗祭には、阿波忌部と那賀郡の海女たちによって、いろいろの神饌が差し出されていたことが分かります。
 允恭紀に出てくる海人・男狭磯も那賀郡(長邑)の人で、『延喜式』でも那賀郡に海女の集団がいたことがわかるので、男狭磯の物語は那賀郡の海女集団によってつくられ伝承されたと研究者は考えているようです。
 そして、この海女集団は大嘗祭の神饌の献上を通して、阿波忌部とも密接な関係にあったようです。男狭磯の物語は、那賀の海女と阿波忌部氏の間に、伝承されてきた物語であるという仮説が出来そうです。
 阿波忌部は麻殖・名方・板野の三郡に分布していたといわれ、板野郡に男狭磯の墓と伝えられる古蹟があるのは自然です。それでは、この阿波忌部と那賀郡の海女の間で伝承された物語が、どのようにして中央に伝えられ、『日本書紀』に採録されるようになったのでしょうか。
 男狭磯の物語は書紀にあって、古事記にはありません。
そこで、『阿波国風土記』は720年以前に成立し、紀の編者はこれを見て書紀の中にとり入れたということも考えられます。そうすると『阿波国風土記』は、諸国の『風土記』の中でも、成立年代の早い方の一つであったことになります。

以上を時代順に並べると次のようになるようです。
①阿波には古くから那賀郡の海女の集団と忌部によって伝承される男狭磯の物語があった。
②この説話は板野郡の尼塚を中心にして伝承され、中世になって志度道場縁起の中にとり入れられた
③それが、さらに能「海人」や幸若舞にもとりいれられ、中世芸能として発展した
  
 以上をまとめておきましょう
①阿波の那賀郡には古くから、那賀の潜女とよばれる海女の集団がいて、男狭磯の物語を伝承していた
②この海女の集団は、大嘗祭の神饌を通して阿波忌部と密接な関係を持ち、そのため男狭磯の物語は忌部にも伝えられた
③それが板野郡に尼塚という伝承地となって伝えられるようになった
④この男狭磯の物語は、『阿波風土記』の中にとり入れられ、さらに『日本書紀』の中にとり入れられることになった。
⑤男狭磯の物語は、今は伝わっていない『阿波国風土記』の一つの物語であった可能性がある。
⑥中世になって阿波の男狭磯の物語が隣国の讃岐・志度寺の縁起の中にとり込まれた。
 それが志度道場縁起である
⑦志度道場縁起は、能にとり入れられて「海士」となり、幸若舞にとり入れられて「大職冠」となった。「海士」は世阿弥の頃からあった古曲であると云われます。中世には讃岐も阿波も管領となった細川氏の支配地でしたから、志度道場縁起が能にとり入れられる素地があったのかもしれません。このように、海人の玉取り伝説は、古代に遡る可能性のある古い物語のようです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 海人の玉取伝説と志度寺縁起    ことひら
    -古代伝承の継受を中心に1

前回に「志度寺縁起絵」の中に描かれた中世の志度の「港」をみてみまた。そしたら「志度寺縁起って、なーにー?」と問われました。志度寺縁起が何者かであるのを答えるのは私の力の及ぶところではありません。私の考える「志度寺縁起」を備忘録代わりに残しておくということにします。
志度寺縁起 6掲示分

6篇からなる壮大な縁起で、全体が一つの物語。
 縁起絵自体は6本の大きな絵図です。日本に現在残っている縁起絵の中でいちばん大きなものと云われているようです。一幅が巻物の二・三巻に相当する大きさなので、絵巻物にすれば二十巻ぐらいのボリュームがあります。
 そこに物語が順序を追って描かれていて、上から下に、下から上に進む大胆な構成の絵を幅物にしてあります。それに長い漢文の詞書が付いています。縁起物語をかたる絵解き材料だと云われています。つまり、行事の時に多くの信者に、これを見せながら絵解物語を語ったのでしょう。ある意味、大きな大きな6篇の紙芝居と云えるかもしれません。編名は
「御衣木之縁起」
「讃州志度道場縁起」
「白杖童子縁起」
「当願暮当之縁起」
「松竹童子縁起」
「千歳童子蘇生記」
「同一蘇生之縁起」
絵は6つですが、その絵を見ながら語られるのは7つの縁起です。
それでは、順番に見ていくことにします。ご開帳・・・・!

志度寺縁起 御衣木縁起
「御衣木之縁起」クリックで拡大します
「御衣木之縁起」のあらすじ
 近江の国に白蓮華という大きな大きな木がありました。雷が落ちて琵琶湖に流れ出しますが、その木は霊木で行さきざきで災いを引き起こします。瀬田から宇治に、宇治から大坂に、そして瀬戸内海にまで流されます。着岸したところで疫病がはやる、また突き出されて次の浦に流れつく。とうとう志度の浦に流れ寄ります。それで志度では、霊木で十一面観音を刻みました。
というのが「御衣木之縁起」です。これは、どこかで聞いたことのある話です。それもそのはず「長谷寺縁起」そのものです。本来は志度ではなくて、大和の当麻の村に留まって、百年間、疫病をはやらせていたのが、徳道上人が仏像に刻んで当麻寺ができたという話を、あちこちにつなぎ合わせた「パクリ」で、地方の寺院にはよくあることです。それも文化伝達のひとつの形としておきましょう。「商品登録」「著作権」もない時代のことです。
 この絵には、上から下へに霊木が流れ着く所で起きる禍が描かれています。
志度寺縁起 御衣木縁起部分
志度寺に現れた十一面観音と当時の志度寺周辺

最後に流れ着いたのが一番下に描かれる志度寺です。そこで禍を与えていた霊木が十一観音に生まれ変わっていく場面になります。志度寺が砂堆の東端にあり、南側は潟湖が広がっていたことが分かります。
1「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」

また、製作年代が文保二年(1318)、発願者が「薗の尼」という比丘尼の名前と「一幅二図シテ」と書かれていますので鎌倉時代末には出来上がっていたことが分かります。
志度道場縁起

志度寺縁起の中で、最も有名なのが「讃岐志度道場縁起」の「海女の玉取り」話です。
この絵は、志度寺の本堂にレプリカが置いてあります。この物語の主人公は、なんと藤原不比等なのです。物語は、一人の海女の悲しい伝説として伝えられています。 
 時は千三百余年前、天智天皇のころ。藤原鎌足が亡くなり、唐の第三代皇帝、高宗に嫁いでいた不比等の娘は父の追善のため、三つの宝物を贈った。
 しかし、都への船が志度浦にさしかかると、三つの宝物のうち「面向不背(めんこうふはい)の玉」が竜神に奪われてしまった。鎌足の子の不比等は玉を取り戻すため、身分を隠して志度へ。海女と契り、一子房前をもうけた。不比等は数年後、素性を明かし、玉の奪還を海女に頼む。
 海女は「わたしが玉を取り返してきましょう。その代わり、房前を藤原家の跡取りに約束してください」と竜宮に潜っていった。
 龍神との死闘の末、海女は自分の胸を切り裂いて、乳房に宝玉を隠します。
志度寺 玉取伝説浮世絵
浮世絵絵の玉取伝説 左端が玉を胸に隠した海女

腰に命綱をつけた海女の合図があり、不比等が綱をたぐると、海女の手足は竜に食いちぎられていました。しかし、十文字に切った乳房の下には、玉が隠されていたのです。
海女の玉取り物語 « 一般社団法人さぬき市観光協会

不比等は約束通り海女の生んだ房前を藤原家の嫡子とします。
若干13歳で大臣となっていた房前は、東大寺建立のため全国を行脚していた行基について志度に訪れます。その時に母の死の理由を知ります。房前は、母を偲んで志度寺の堂を広く立て直し、そこに千基の石塔を建て菩提を弔むりました。
 母を供養した房前はその後も活躍し、藤原家の栄華へとつながったとさ。
これが『海女の玉取り物語』です。ストーリーとしては「子の出世へ、命を投じる海女(母)」の物語です。しかし、登場してくる相手役が藤原不比等なのです。この絵を見ながら絵解きを聞いた人々には「志度寺=藤原家の菩提寺」ということを自然に信じるようになったでしょう。 同時に
「藤原不比等が亡き妻の墓を建立し「死渡道場」と名付けた。この海辺は極楽浄土へ続いている」と人々は信じるようになります。後世に「死渡が変化して志度」になった。その名は町の名称にもなった

と、近世の歴史書には書かれるようになります。
 いつ、どこの、だれが物語を創作したのかは分かりませんが、平安末期のプリンス、後白河天皇が今様の和歌を記した「梁塵秘抄」に「志度」という地名が登場する程、朝廷では志度は名の通った土地だったようです。その後も、この物語は語り続けられます。そして能にも取り入れられて能「海士」が作られます。
志度寺 玉取伝説能

 この能の成立背景には、興福寺と志度寺(香川県)を結んで瀬戸内海に教線を拡大する西大寺流律宗の活動があったようです。律宗が中世絵画の傑作『志度寺縁起絵』を生み出した要因だというのですが、それは又の機会にすることにします。

1志度復元イラスト 白黒
 海女が息を引き取った真珠島は、今は埋め立て地の丘になっていてます。
後世は弁天様が祀られているので「弁天」の方が地元では通りがいいようです。現在でも10月の多和の秋祭りの次の週末には、志度寺にてお経があげられていると云います。志度寺の境内には、こけむした海女の墓があります。

 志度寺縁起の3つ目は「白杖童子縁起」です。
 
志度寺縁起 白杖童子縁起・当願暮当之縁起

主人公は貧しい馬借の白杖童子です。馬借は「馬借一揆」に登場する流通業者です。白杖童子が一つのお堂を建てたいという願を立てていましたが、完成しないうちに死んでしまいました。しかし願を立てたという功徳だけで、閻魔の庁で
「お前を帰すが、志度の道場にかならずお堂を建てよ」
といわれて帰ってきます。
 白杖童子が地獄にいるとき、一人の女が鬼に道いかけられていました。白分が蘇生させてもらえるよりも、哀れな女を先に蘇生させてやってほしいと頼んだところ、お前は感心だというので、若い女も共に放免されて、この世に蘇生します。その女は讃岐守をしているたいへんな金持ちの娘だったので、夫婦になって三年間でこの寺を建てた、めでたし、めでたしという話になっています。
  この絵から読み取れるのは

志度寺 白杖童子縁起・当願暮当之縁起

①閻魔大王が登場すること。上の絵図の右半分が閻魔庁で、門外には赤鬼に死者が伴われて連行されています。中には正面に閻魔大王はじめとする「十王」のメンバーが待ち構えています。十王とは、冥土で亡者の罪を裁く十人の判官です。
 この縁起を見に集まった人たちは、説教法師の話を身を乗り出して聞いたことでしょう。同時に「十王信仰」がこのようにして絵解きを通じて広められていったうかがえます。この時代に地方の真言有力寺院は競うように「十王堂」を、建立することになります。
②もうひとつは、このお話の「落ち」はどこにあるのでしょうか
それは「寄進するものは、救われる」という善行の教えでしょう。このような教えが人々の間に広まっていたからこそ、有力寺院は大規模な造営・改築事業ができたのです。
4番目の縁起は「当願暮当之縁起」で、満濃池の龍の話です。
前編に登場した白杖童子がこの寺を三年かかって建てて供養した場所に、当願と暮当という二人の猟師が結縁のためにお参りにやってきたという所から話は始まります。二つの物語をつなげる手法としては、なかなかうまく作られています。
 当願が堂の前に座っているうちに心身朦朧として、立とうとおもっても立てなくなってしまいます。暮当は当願が帰らないので、探して道場に来てみたら、顔だけは当願で、からだは蛇になっています。当願が
「白分は蛇になってしまった。弘法大師の造った満濃地に沈めてほしい。そこに住みたい」

と云います。そこで、暮当は蛇になった当願を背負って満濃に放した。三日目に当願はどうなっているだろうと見にいったら、当願が「お前にこれをあげる」といって一眼をくり抜いて差し出したと書かれています。
 大蛇や龍の眼をもらうと、すべての願いがかなうという話はいたるところにあります。暮当が酒壷の底に沈めると、美酒になった、汲めども汲めども尽きなかったという話も、よくある果てなし話をうまく取り入れています。不思議におもった妻がそれを発見して、みんなに吹聴してしまいます。
 国司がそれを聞きつけて献上せよというので、暮当はしかたなく差し出します。その評判が朝廷にも聞こえて、朝廷に差し出せというので、朝廷に差し出したところ、こんどは宇佐八幡がそれを欲しいといいだした。その玉を宇佐に運ぶ途中で、遊女となじんだ船頭が龍神に取り返されたのを、遊女の自己犠牲によって取り返したというたいへん紆余曲折のある物話になっています。昔話の手法を縁起の中にうまく取り入れているようです。
 5・6番目の「松竹童子縁起」「千歳童子蘇生話」です。、

志度寺縁起 阿一蘇生

松竹童子が25歳で早死にしていまいます。すると観音の使いがやってきて「葬式は三曰待て」と云います。そのまま置いておいたところ、3日目に松竹童子が生き返っていうには、閻魔の庁で志度寺再興の命令を受けたというのです。その閻魔の庁の描写も非常に細かく、絵そのものもなかなかのできばえです。志度寺修造を条件にして帰されたので、松竹童子は母親と共に出家して、洛中を勧進して廻ります。勧進して集めたお金は、多くはありませんが、それを志度寺に献上します。二人は寺のわきに庵室を追って住み、お参りに来る人々の助勢を願って、ついには五間四面の礼堂を建てた。母親は六十歳で亡くなり、松竹童子は蓮華寿という法名を得て、七十二歳で亡くなったという話がドキメンタリー風に書かれているようです。

志度寺縁起 阿一蘇生部分

 最後が「同一蘇生之縁起」になります。
 阿一なる者が死からよみがえって、志度寺再興のために勧進を行います。ところが、この時代は勧進したお金をごまかす輩も現れたようです。それを防ぐためにいろいろな誓いを立てさせられる話が出てきます。
 絵巻物の最後は
「もし嘘をいったならば血を吐いて死ぬ。梵天、帝釈天、曰本国中大小の神祇は罰をくだすであろう」

となっています。絵解きは、たんに寺の縁起を話るにとどまらず、寺の寄進(募金)のために使われました。最後の一巻で、集められたお金は、このように確実に志度寺再興のために使うということを物語として語ります。今で云う「説明責任」を果たしていいるのでしょうか。勧進に応じた人々を安心させる工夫が感じられます。
 志度寺縁起は志度寺の宝物館に保管されているようです。いちどに全部は、出ていませんが、一巻か二巻ずつ出しているようです。

この志度寺縁起を知ると
藤原不比等が亡き妻の墓を建立し「死渡道場」と名付けた。
この海辺は極楽浄土へ続いている」
死渡が変化して志度になった。その名は町の名称にもなった。
という由緒が、素直にすとんと受け止められるから不思議です。これが縁起絵図や物語の魅力であり魔力なのでしょうか。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

1志度復元イラスト カラー

中世の港町の地形復元作業が香川県でも進んでいるようです。今回は志度を取り上げてみます。テキストは「上野 進 中世志度の景観 中世港町論の射程 岩田書院 2016年刊」です。
1志度復元イラスト 白黒
中世志度の港の位置を確認しておきましょう。港の中心は、志度寺が所在する志度浦(王の浦)と研究者は考えているようです。中世の港は宇多津や野原(高松)の発掘から分かるように、長い砂浜にいくつかの泊が並んで全体として港として機能していました。志度では
①志度浦の北西にあたる房前
②志度浦の東北にあたる小方・泊
までの範囲一帯で港湾機能を果たしていたと研究者は考えているようです。志度浦は、近世後期の『讃岐国名勝図会』に
「工の浦また房崎のうらともいへり」

と記され、近世になっても、北西の房前浦と一体的に捉えられていたことがうかがえます。

1中世志度港の復元図1

小方は、嘉慶二年(1388)に「小方浦之岡坊」で大般若経が書写されています。

ここからは、この浦に大般若経を所蔵する古寺(岡坊)があったことがわかります。中世の港の管理センターは、寺院が果たしていました。それは、
野原(現高松港)の無量寿院
宇多津の本妙寺
多度津堀江の道隆寺
仁尾の覚城寺
観音寺の観音寺
など、港と寺院の関係を見ると納得がいきます。この付近にあった岡坊も港の管理センターとしての機能を果たし、周辺には町場が形成されていたようです。
3 堀江
多度津の堀江津と道隆寺の関係を中世復元図見て見ると

瀬戸の港町形成に共通する立地条件としては、砂州が発達し、それが防波堤の役割を果たし、その背後の潟湖の砂浜に中世の港はあったようです。志度もその条件が当てはまります。志度浦の東北に位置するは、北西風をさける地の利を得た天然の良港だったでしょう。古くから停泊し宿る機能があったことから「泊」と名がつけられたとしておきましょう。
 鎌倉時代後期~南北朝時代に成立した「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」を見てみましょう。
1「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」
「御衣木之縁起」
1「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」

この絵からは次のようなことが分かります。
①西の房前や小方・泊には家々が集まって町屋が形成されている
②房前は、舟も描かれ、寄港場所であった。
③志度寺の南には潟湖が大きく広がっている。
④志度寺は砂堆の上に建っている
⑤潟湖の入口には、木の橋が架かっていて塩田と結ばれている。
⑥真珠島は、陸とつながっていない。
⑦志度寺周辺に町場集落があった。
1「志度寺縁起絵」の「阿一蘇生之縁起」

1「阿一蘇生之縁起」
阿一蘇生之縁起
「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」と「阿一蘇生之縁起」に描かれた地形と現在の地形を比較して見てみましょう。志度の町場は、志度湾の砂堆の上にあり、砂堆の東側・南側は大きな潟(潟湖、ラグーン)跡と研究者は考えているようです。低地が広がる志度寺とその東側との間にはあきらかな段差があります。志度寺は、この安定した砂堆の上に建っています。
 それを証明するように「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも志度寺が砂堆上に描かれています。また志度寺の由来を記した「志度寺縁起」にも、志度寺の前身となる小堂について
「彼ノ島(=真珠島)ノ坤方二当り、海浜ノ沙(いさご)高洲ノ上二一小堂アり」
と記されています。これも、志度寺がやや高い砂堆の上にあったことを裏付ける史料です。
  砂堆の東側には、近世初期に塩田となり、明治40年頃まで製塩が続けられたようです。
現在も塩屋の地名が残り、塩釜神社があります。「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも真珠島の南側に塩田が見えます。中世の早い時期から小規模な塩田があったことが分かります。塩釜神社の北側には、砂洲斜面と見られる段差があります。この付近に、潟出口に面して砂洲があったようです。「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも、砂堆から東側の真珠島へ延びた砂洲が描かれていて、縁起絵の内容とあいます。
砂堆の南側については、中浜・田淵・淵田尻など海浜や淵に関連する地名が残ります。
とくにJR志度駅の南側一帯には低地が広がり、さらにその南方の政池団地付近は直池とよばれ、葦が繁茂する沼地だったようです。それが大正初年の耕地整理事業で埋め立てられます。このあたりまで潟湖だったのでしょう。
志度浦東北の小方は、近世には鴨部下庄村に属し、かつえは「小潟」と表記されていたようです。
その名の通りに後背地が潟跡跡で、今は低地となっています。古文書に
「鴨部下の庄はもと入江なりしも、上砂流出し陸地となれり」

とあるようです。微地形の起伏などに注意しながらこの辺りを歩いてみると、海岸沿いの街道はやや高い所にあり、潟跡跡の低地とは明らかな段差があるのが分かります。
 かつての真珠島

  真珠島は、志度と小方との間にある島でした。
海女の玉取り伝説にちなんで名づけられた島で、志度寺の由来を記した「志度寺縁起」に
「玉ヲ得タル之処、小嶋之故真珠嶋と号名ス」

と記されます。大正時代のはじめに陸続きとなり、戦後に周りが埋め立てが進み、今はは完全に陸地になってしまいました。しかし、周りを歩いてみると島の面影をとどめています。ここは志度寺の鬼門になるので、山頂(標高7,6m)に弁財天を祀るようになったので、江戸時代には「弁天」とよばれて崇敬されてきたようです。また、海にやや突き出した小高い山として、海側から近づく舟にとってはランドマークの役割を果たしていたとのでしょう。
蘇る聖地/香川県さぬき市志度町/真珠島/瀬織津姫/青龍/竜宮城/2019/10/18 |  剣山の麓よりシリウスの女神いくえと龍神・空が愛のあふれる世界を取り戻すため活動中

次に、志度の町場と道についてみてみましょう。

1志度寺 海岸線復元 街道

  町場は、東端の志度寺を起点に、海沿いに西へ向かう志度街道を軸に展開します。地図を見ると志度街道(点線)は、砂堆の頂部に作られていることが分かります。街道沿いの町場が中世前期まで遡るかは分かりませんが、守護細川氏による料所化との関連も考えられます。
しかし、戦国期以降に整備された可能性もあります。町場の起源は、発掘してみないと分からないということでしょう。
 江戸時代には、高松藩はここに、志度浦船番所や米蔵を置いていました。平賀源内の生家もこの街道沿いにあります。『讃岐国名勝図会』には真覚寺・地蔵寺など寺院や家々が志度街道に沿って密集して描かれています。
 志度寺から南の造田を経て長尾に至る阿波街道があり、志度は陸路によって後背地の長尾につながっていました。志度寺の後背地にあたる長尾には、八世紀後半に成立したといわれる長尾寺があります。志度寺と長尾寺はともに「補陀落山」という海にちなむ山号を持ちます。長尾寺が志度寺の「奥の院」であったと考える研究者もいるようで、ふたつのお寺には親密な交流があったようです。長尾寺にとって志度は、沿海岸地域に対する海の窓口の役割を果たしていたのでしょう。いまも歩き遍路は、志度寺から長尾寺、そして結願の大窪寺へと阿波街道を歩んで生きます。

中世の志度寺周辺の交通体系は、志度寺門前から海沿いの東西の道とともに、志度寺から南へ延びる道が整備されて行ったようです。志度寺は、東西・南北の道をつなぐ交通の要衝に位置し、人やモノの集散地となっていきます。中世の志度は海と陸の結節点に位置していたといえます。
 地名と地割を見ておきましょう。
砂堆にある町場は、寺町・田淵・金屋・江ノロ・新町などから構成されていたようです。その周囲に塩屋・大橋・中浜などの地名が残ります。町域の西側に新町・今新町の地名があります。ここから江戸時代の町域拡大は、志度街道沿いに西側へと進んだことが考えられます。町割は志度寺門前の空間が「本町」であったとしておきましょう。

町域は標高3mの安定した砂堆上にあり、町場周辺では塩屋~大橋が(0,6m)、中浜(1,8m)で他より低くいので、この付近に低地(潟)が広がっていたことがうかがえます。
 また、寺町と金屋の間に「城」の地名が残ります。
中世の志度城館跡(中津城跡・中州城跡)があったと伝えられますが遺構は確認されていないようです。ただ、この付近が中世領主の拠点となった可能性はあります。志度城城主は、安富山城守盛長とも、多田和泉守恒真であったともいわれているようです。
 志度街道の両側には短冊形地割が残り、明治~昭和初期の町家が散在します。街道の南北両側にも街路がありますが、町域全体を貫くものではありません。これは近代以降に、断続的に低地へ町域が拡大したことを示すようです。本来的な町割は、 一本の街路(志度街道)の両側に設定されていたと研究者は考えているようです。
志度の古い町並み

では、志度はどんな地形環境の変化を受けてきたのでしょうか?
幅広く安定した地形は、志度寺から西へ続く砂堆が古くから形成されていたことによると研究者は考えているようです。砂堆の東側・南側に入り組んで広がる潟は、その内岸が古代から寄港場所となっていた可能性があります。しかし、早くから潟湖は埋まり湿地状になっていきます。そして中世になると潟の内岸は、港湾としては使用できなくなります。一部は塩田となったようです。
 「志度寺縁起絵」のうち「御衣木之縁起」や「阿一蘇生之縁起」をもう一度見てみましょう。
潟の出口に簡単な橋が架けられ、潟の沿岸では塩田が造られています。また内陸部に広がる潟の内岸には舟がないのに、海に面した砂堆北側には舟があります。ここからは砂堆北半部が着岸可能で港機能があったようです。とくに「阿一蘇生之縁起」では、海に面した砂堆北半部の西側に舟が着岸しています。古代は、潟湖の内側が港だったのが、中世には潟が埋まって寄港場所が変化したようです。

中世志度の景観について、研究者は次のようにその特徴をまとめています。
①港町としての志度は、海浜部の砂堆の上にあった。
砂堆の東・南側には潟(入江)があって、砂丘の東側には真珠島に向かって砂洲があった。海に突き出した小高い真珠島は、海側からはランドマークとして機能した。「志度寺縁起絵」に描かれた志度の景観は、基本的に鎌倉時代末期~南北朝時代の現地の実態を踏まえて描かれている。
②中世の志度の港湾機能は、海に面した砂堆の北側にあった。
「志度寺縁起絵」には砂堆の北西に舟が着岸している。もともとは、潟の内岸の方が船着場として適地だが埋没が進んで、寄港場所を潟の内岸から海岸沿いに変化させていった。近世の『讃岐国名勝図会』には、砂堆西側の玉浦川の河日周辺に舟がつながれている様子が描かれいる。玉浦川は、砂堆背後の潟の排水を目的として近世に開削された可能性がある。
③志度湾岸には孤立した条里梨地割群が残る。志度南側は早くから耕地化されていた可能性がある。
④砂堆東側に志度寺が位置し、その門前から西側に延びる志度街道沿いに町場集落が広がる。志度寺は交通の起点であり、長尾など後背地にとっては沿海岸地域への窓口となった。志度寺は港湾の管理センターでもあった。
⑤志度湾には志度寺を中心とした志度のほか、房前・小方・泊など複数の浦があった。中世の志度はこれらの複合的な港湾から構成されていて、それぞれに町場があった。「志度寺縁起絵」には房前・小方・泊には家々が密集して描かれている。


以上から次の課題として見えてくることは
①中世讃岐の港湾には、国府の港であつた松山津をはじめ、志度や宇多津、仁尾、観音寺などがあります。これらは砂堆の背後の潟湖に船着場がありました。ところが中世には堆積作用で埋没が進み、港湾機能が果たせなくなり衰退する港もでてきます。松山津や多度津の堀江は、そうして衰退した港かもしれません。でも、潟が埋まって浅くなり、船着場・船溜りとしての機能が失われても、志度は港湾機能を維持し繁栄しています。その要因はどこにあったのでしょうか。志度の場合は、港湾の管理センターの役割を果たしていた志度寺の存在が大きかったのではないかと研究者は考えているようです。
この世とあの世の境「志度寺」 : おかやま街歩きノオト(雑記帳)

 もうひとつは、砂堆上に志度寺や多度津の道隆寺、野原(現高松)の無量寿院は建てられています。
なぜ、地盤が弱く建設適地とは思えない砂堆や砂洲に寺社がつくられたのでしょうか?
「洲浜」は絵画等のモティーフとされることが多かったようです。それは神仏の宿る聖域としての意味があったからだと研究者は指摘します。志度寺が砂堆・砂洲に位置した要因についても、聖なる場所というイメージがあったのかもしれません。
 島根県の出雲大社がわざわざ斐伊川の悪水の排水点に建てられたのも、そのコントロールを神に祈る場所であったとする指摘もあるようです。水をつかさどる寺社と潟の排水等との関係もあったのではないかと研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

テキストは「上野 進 中世志度の景観 中世港町論の射程 岩田書院 2016年刊」でした。

南北朝後の長尾荘の領主となったのは醍醐寺三宝院です。三宝院には長尾荘に関する史料が残されています。その史料から長尾荘の所務請負の状況を研究者が整理したのが下表です。
(備考の番号は、三宝院文書の整理番号)

長尾荘 長尾荘の所務請負の状況
            
上表で応永四年(1397)に、荘園管理を請け負った僧・堅円法眼(判官)が残した長尾荘の年貢納入の決算書が残っています。どんなふうに年貢が決められ、どんな方法で京都に送られていたのかが見えてくる史料です。まずは史料を見ておきましょう。
応永四年(1397)讃岐国長尾庄年貢算用状(三宝院文書)
讃岐国東長尾 応永3未進分 御年貢事
 合
一、米六十五石五;十一石一斗 海上二分賃これを引く。
  尼崎まで 残る五十四石四斗、この内十五石太唐米
一 麦三十四石内 六石海上二分賃、これを引く、尼崎まで
  残る廿八石、この内一石二斗もみ、麦不足、これを入る
  又五十四石四斗内 海上二分賃、 
  尼崎より京都まで九石六升六合
  定御米四十五石三斗三升四合
  又ニ十八石内 海上二分賃、
  尼崎より京都まで四石六斗 六升八合
  定麦二十三石三斗三升二合
都合六十八石六斗六升四合 京定め右、算用の状くだんのごとし。
 応永四年二月十六日 光長(花押)
 長尾荘の現地管理者堅円法眼が荘園領主の醍醐寺三宝院に年貢を運んだときのものです。何にいくらいったという計算をしています。運ばれた年貢は米と麦です。
  まず、「米六十五石五斗内」とあります。
一石は百八十㍑、だいたいドラム缶一本分です。
  「十一石一斗、海上二分賃これを引く、尼崎まで」、
 どこの湊から出たのは分かりませんが津田港か三本松、或いは引田が候補地になるのでしょう。そして、尼崎へまず運んでいます。そして「海上二分賃」とあります。これが船賃だそうです。
定額料金制度でなく、積荷の2割が運賃となるのです。ここからは、当時の運送業者の利益が大きかったことがうかがえます。船主に大きな富が集まるのも分かります。積荷の2割が輸送代金とすると

 積荷六十五石五斗×0,2=13石

になるはずですが、決算書には「十一石一斗」となっています。だいたいの相場が1/6ぐらいだったとしておきましょう。この時代はそろばんもまだ入ってきていないようです。占いの時に使う棒みたいな算木をおきながら計算しています。計算結果もよく間違っているようです。
2 赤米
太唐米=赤米
太唐米は何でしょうか?
  「残る五十四石四斗」で、この内「十五石太唐米」と出てきます。
これは「赤米」と呼ばれる米だそうです。これが讃岐で赤米栽培が行われていたことを示す最初の資料になるようです。室町時代に讃岐で赤米が栽培されていたのです。赤米は、今では雑草扱いにされて、これが田圃に生えていたらヒエと一緒に抜かれるでしょう。赤米はジャポニカ米でなく、インディカ米です。粒が長い外米の一種で、病害虫や塩害に強い品種です。そのため、海を埋め立てた干拓地の水田には向いた米だったようです。特に三豊で作られていたことが分かっています。

2 赤米2

 ここでは普通の米が足りなかったから、十五石太唐米(赤米)を足しておいたと記されます。
  「麦が三十四石、六石海上二分賃、これを引く、尼崎まで」

三十四石に対して六石、六分の1近くが運賃です。こうして船で、尼崎まで運びました。そこからは、川船に乗せ替えて京都まで運びます。次は川船の運賃計算です。

  「又五十四石四斗内、河上二分賃、尼崎より京都まで、九石六升六合、定御米」

納める年貢の量(=最初に積んだ米量)から、船運賃を次々に引かれていきます。そして、残ったものが東寺に納められたようです。尼崎から京都まで、川舟で運びますがこれには何回もの積み替えが必要でした。その都度、運賃計算が行われ、東寺に納める年貢は少なくなっていきます。
一番最後の「都合」というのは、すべて合わせてという意味です。ここでは合計という意味になるのでしょうか。

「都合六十八石六斗六升六合」

のはずですが、ここでは、四合になっています。「京定め」とありますが、これが荘園領主の三宝院に納めるべき年貢の量です。
 当時の年貢計算は、「京定め」から逆算して都に着いたときこれだけ必要だから、川での運賃を足す、海での運賃を足す、讃岐から運び出すときには、これだけの量を積んでおかなければならないとうい計算方法のようです。ここからは、年貢が、運ぶ側が運賃も人件費も負担する原則であったことが分かります。律令時代納税方法を継承しています。それを計算したのがこの算用状です。この計算ができるのはある程度の「教育」が必要になります。これができるのは「僧侶」たちということになるのでしょう。
 算用というのは決算のことです。で、結局運賃がこれだけ要りました、最終的にこれだけ納めることになりました、というのを示しているようです。ただ、こういう形で米や麦を運ぶというのは大変なことだったので、次第に銭で納める代銭納に換わって行きました。次回は、代銭納について見ていこうと思います。
長尾荘 古代長尾郷
古代の寒川郡長尾郷の周辺郷
さて、この頃の長尾荘を取り巻く情勢はどうだったのでしょうか
 讃岐の守護職は室町時代を通じて管領の細川氏が世襲しました。守護職権を代行する代官として守護代があり、東讃の守護代は安富氏でした。津田・富田中・神前の境界となっている雨滝山(253m)にある雨滝城が、安富氏の城跡です。また、長尾荘は、建武の新政の挫折によって幕府に没収された後に醍醐寺三宝院が管理するようになったようです。
長尾荘 昼寝城


   このくらの予備知識をもって、年表を見てみましょう。
1389 康応1 3・7 
守護細川頼之,厳島参詣途上の足利義満を宇多津の守護所に迎える
1391 明徳2 4・3 
細川頼之,足利義満の招きにより上京する.
1392 明徳3 3・2 
守護細川頼之没し,養子頼元あとを嗣ぐ
足利義満の政権が安定して、失脚していた細川頼之を宇多津に迎えにやってきた頃です。
1396 応永3 
2・19 
安富盛家,寒川郡造太荘領家職を200貫文で請け負う
2・19 石河浄志,寒川郡長尾荘領家職を200貰文で請け負う
4・25 醍醐寺三宝院領寒川郡長尾荘の百姓・沙汰人,同荘領家方を年貢400石・ 公事物夏麦62石ほかをもって請け負う
この年 若狭堅円法眼が長尾荘沙汰人・百姓等にかわり,領家方を請け負う
1397 応永4 2月 長尾荘から年貢納入(讃岐国長尾庄年貢算用状)
12月 長尾荘の給主相国寺僧昌緯,同荘の地頭・沙汰人・百姓等が除田・寄進・守護役などと称して給主の所務に従わぬことを注進する.4年・5年両秋の年貢は,百姓逃散などにより未納
1398 応永5 2・15 長尾荘の百姓宗定・康定が上洛して昌緯の年貢押取・苅田等を訴える
長尾荘をめぐる事件を年表に沿って追ってみます
14世紀末(1396)2月19日に、守護被官の
沙弥石河浄志が、200貫文で請負います。しかし,わずか2ヶ月後には村落の共同組織である惣の地下請に変更されます。請負条件は、年貢米400石・夏麦62石・代替銭25貫文の契約です。ところがこれも短期間で破棄され、今度は相国寺の僧昌緯に変更になります。荘園請負をめぐって、有力名主と地元武士団、それと中央から派遣の僧侶(荘園管理役人)の三者の対立が発生していたようです。
翌年12月には、昌緯が醍醐寺三宝院に次のような注進状を送っています。
①地頭・沙汰人らが地頭・下司・田所・公文の「土居」「給田」,各種の「折紙免」,また「山新田」などと称し,総計73町余を除田と称して,年貢の納入を拒否している
②「地頭土居百姓」は守護役を果たすと称して領家方のいうことに従わない
③領家方の主だった百姓36人のうちの3分の1は、公事を勤めない
④守護方である前代官石河氏と地頭が結んで領家方の山を勝手に他領の寺に寄進してしまった
⑤百姓らは下地米90余石について,前代官石河氏のときに半分免が行われ,残る40余石についても去年より御免と称して納入を行わない
ここには、守護や地頭をはじめとする武士の介入や,農民の年貢減免闘争・未進などの抵抗で、荘園管理がうまくいかないことが書かれています。
  これに対して農民達は、昌緯のやり方に対して逃散で対抗し、この年と翌年の年貢は納めません。さらに農民代表を上洛させて、昌緯の年貢押取などを訴えるのです。その結果,昌緯は代官を解任されています。
 室町時代初期の長尾荘に次のような問題が発生していたようです。
①現地での職権を利用して在地領主への道を歩む地頭
②百姓達の惣結合を基礎に年貢の未進や減免闘争
③請負代官の拒否や排除を行うまでに成長した農民集団
このような動きに領主三宝院は、もはや対応できなくなったようです。そこで,現地の実力者である地頭寒川氏に荘園の管理をいっさいゆだねることにします。そのかわり毎年豊凶にかかわらず一定額の年貢進納を請け負わせる地頭請の方法を採用します。
 寒川氏は寒川郡の郡司を務めてきた土着の豪族で,当時は讃岐守護の細川氏の有力な被官として主家に従って各地を転戦し,京都と本国讃岐の間を行ききしていました。
 当時の東讃岐守護代・寒川出羽守常文(元光)は,京都上久世荘の公文職を真板氏と競っていた人物で、中央の情勢にも通じた人物です。現地の複雑な動きに対応できなくなった三宝院は,守護細川氏の勢力を背景に荘園侵略を推し進める寒川氏に,その危険性を承知しながらも荘園の管理をまかせざるを得なかったのでしょう。
1399 応永6 2・13 
長尾荘地頭寒川常文,同荘領家職を300貫文で請け負う
1401 応永8 4・3 
相国寺僧周興,長尾荘を請け負う(醍醐寺文書)
1404 応永11 7・- 
寒川元光(常文),東寺領山城国上久世荘公文職を舞田康貞に押領されたことを東寺に訴える.以後十数年にわたり寒川氏と舞田氏の相論つづく(東寺百合文書)
1410応永176・21 
寒川常文,三宝院領長尾荘領家方年貢を260貫文で請け負う
 こうして応永6年に寒川常文は,300貫文で請け負うことになります。ところが寒川常文は、早速300貫文は高すぎると値切りはじめ,やがてその値切った年貢も納めません。そこで三宝院は、領下職を寒川常文から相国寺の周興に、変更し同額の300貫文で請負いさせています。
 しかし、これもうまくいかなかったようです。9年後の応永17年には再び常文に260貫文で請負いさせています。40貫の値引きです。ところがこれも守られません。三宝院の永享12年12月11日の経裕書状案には
「年々莫太の未進」
とあるので、長い間、未納入状態が続いていたことが分かります。所領目録類に長尾荘の記載はされていますが、年貢納入については何も記されなくなります。おそらくこの頃から,長尾荘には三宝院の支配は及ばなくなり、寒川氏に「押領」されたことがうかがえます。

   14世紀末・足利義満の時代の長尾荘の情勢をまとめておくと
①台頭する農民層と共同組織である惣の形成と抵抗
②武士層の荘園押領
などで荘園領主による経営が行き詰まり、年貢が納められない状態が起きていたことが分かります。
 最初に見た「讃岐国長尾庄年貢算用状(三宝院文書)」は、長尾荘から三宝院に年貢が納められていた最後の時期にあたるようです。こうして荘園からの収入に頼っていた中央の寺社は経済的な行き詰まりを見せるようになります。その打開のために東大寺は、末寺への支配強化をはかり、末寺の寺領から年貢を収奪するようになります。そのために苦しめられるのが地方の末寺です。中世・善通寺の苦闘はこのようにして始まります。

参考文献    田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 香川県立文書館紀要3号(1999年)
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 長尾寺 もともとは志度寺と同じ寺?
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長尾寺
 
八十七番は補陀落山長尾寺です。長尾寺の中の観音院が現在本坊ですので、長尾寺観音院と「観音院」がうしろに付きます。天台宗です。補陀落山という山号がつくのはだいたい海岸のお寺で、八十六番の志度寺も補陀落山志度寺です。ですから、山号が同じということは、もとは同じ寺だったと推定できます。 
御詠歌は
あしびぎの山鳥の尾の長尾寺 
秋の夜すがらみ名をとなへよ
『四国損礼霊場記』によりますと、だいたい寺というは行基菩薩なりの開基、あるいは弘法大師の開基ということであり、この寺もその例にもれず、次のように記されています。
「聖徳太子開建ありしを、大師(弘法大師)霊をつゝしみ紹降し玉ふといへり」

聖徳太子と弘法大師を登場させるのは、もうひとつ縁起のはっきりしないことを示していると研究者は考えます。 推論すると、志度寺は熊野水軍の瀬戸内海進出の拠点港に開かれた寺のようです。それは補陀落渡海と観音信仰からも裏付けられます。その行者たちは、行場として女体山に大窪寺を開きます。志度寺と行場を結ぶ東西のルートと南海道が交わる所に、志度寺の行者の一つの院が分かれてできたのが長尾寺と研究者は考えています。
 縁起では、「
聖徳太子が始めて、弘法大師が修補した、本尊は弘法大師が作った」とあり、はっきりしないということを押さえておきます。
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 本尊の観音さんの立像は長三尺二寸、あまり太きくありません。 
大師の作也。又、阿弥陀の像を作り、傍に安じ給ふ。鎮守天照大神なり。 さし入るに二王門あり。
 熊野行者たちによって開かれた志度寺は、後には高野聖の拠点となり、死者供養のお寺になり、阿弥陀信仰が広がります。そのため分院であった長尾寺も阿弥陀信仰の拠点となります。阿弥陀の像を作った、そして観音さんのかたわらに安置したとあります。ここからも熊野行者から高野聖へ修験者の信仰が交代したことがうかがえます。
研究者が注目するのは、鎮守が天照大御神だということです。
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長尾寺
現在は長尾街道沿の街道に面して仁王門があります。

 中に入ると広い池がありますけれども、門のあたりは狭くて、両側に店屋がすぐ追っています。いまの池のあるあたりは、もとは遍路の宿で森の茂った境内だったようです。いまでも老松のみごとな庭園があります。龍や蛇が石の住に巻きついて、本尊さんを龍も蛇も拝んでいます。けれども、中世には寺が荒れていたようです。
『四国遍礼霊場記』が書かれた江戸時代の初めぐらいは、たいへん寂しい寺であった。お香やお灯明もしばしば絶えがちであったと書いています。
 戦国から安土桃山時代にかけては遍路どころではありませんが、世の中が落ちつくにつれて遍路が盛んになります。『四国損礼霊場記』が書かれたのは元禄元年です。このころにはまだ寂しいお寺であったようです。
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 江戸時代の末のころになると、遍路はふたたび衰えて、明治の初めぐらいには無住のところが多かったようです。八十八か所の中の半分ぐらいは無住だった。そこへ遍路で行った者が落ちついて、やがて住職になったというところがあります。あるいはゆかりの寺から住職が来て、そこで寺を興隆したということもありました。

 『四国領礼霊場記』は、慶長年間(1596~1615年)のころに生駒親正が豊臣秀吉から讃岐をもらって、名刹再興をしたと書いています。その次に松平氏が来るわけです。長尾寺は慶長年間ごろに再興されたものとおもわれます
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長尾寺本堂

この寺の奥の院は玉泉寺で、俗称「日限地蔵」です。

 現在でも、長尾寺の住職が隠居したら玉泉寺に入るという隠居寺になっているそうです。また、長尾寺の山号が志度寺と同じ筒陀落山であることとあわせて考察すれば、志度寺の一院が独立したという推定ができます。
87番奥の院(曼荼羅9番) 霊雲山 玉泉寺
 玉泉寺
志度寺にたくさんあった何々院、何々院の中の一つが独立して海岸から町のほうに出ていった。奥の院にあった寺が南のほうに出ていって、街道筋に長尾寺ができた。すなわち志度寺は海岸から2㎞奥まで寺域であったと考えてよいでしょう。

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この寺には、一月七日に「会陽」という行事があります。

この会陽は岡山県の西大寺の会陽と響きあっています。
つまり、長尾寺の会陽の音は西大寺のほうで聞こえる。西大寺の会陽の音は志度寺や長尾寺に響いてくる。その晩、耳を地面に付けて、足会を聞いた会は幸運があるということが、江戸時代の俳句の歳時記に善いてあります。
 四国の霊場で会陽の残っているのは善通寺と長尾寺だけです。
おそらくこれも志度寺にもとあったものを、長尾寺が継承しているのだとおもいます。
 会陽について筒単に説明しておきます。

岡山県側では、お年寄りは「エョウ」とはいわないで「エイョウ」と発音します。たいていこういう庶民参加の行事は、掛け声を行事の名前にするのです。
 西大寺の場会は、シソギ(神木・宝木)と称する丸い筒を奪い会います。
もともと筒は二つに割れています。その中に牛王宝印を巻いてあります。
それを二本入れてあります。それを筒状のもので覆って、その上をまた牛玉宝印で何枚も糊で貼っていって、離れないようにして、筒のままで何万という裸男の中に放り込む。奪い会っているうちに割れてしまうので、最後に二人の人がこれを手に入れることになります。まれに割れずに手中にいたしますと、モロシソギといって二倍の賞品がもらえます。
 長尾寺の絵巻物、で「会陽」を見ると、西大寺と同じように、やはり串牛玉をたくさん上から投げています。ですから、たくさんの人がそれを拾っていくことができます。牛王宝印というのは本尊さんの分霊です。分霊をいただいて自分の家へ持って帰っておまつりをすると、観音さんの霊が自分の家に来てくださるということになります。
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長尾寺境内
餅撒きというのがありますが、これも御霊を配る神事です。

 手わたしでいただいたのでは福がありません。
投げてもらって、みんながワーッと行って取る。争うということに功徳を認める。それが会陽というものの精神です。どうして会陽というかといいますと、西大寺の場合を見ればよくわかります。西大寺の場合はシソギ投下、牛玉宝印を投げ下ろすまで、それに参加する人々は地押しをしなければいけません。その地押しのときに「エイョ、エイョ」という掛け声をかけます。
 観音堂の横に柱が西本立っています。それはいまでも変わらないようです。
そして、梯子に手を掛けて、「エイョウ、エイョウ」と地面を踏む。近ごろは「ワッショイ、ワッショイ」になってしまったようですが、お年寄りたちは「エイョウ」といったと話しておられます。それは地面を踏むことによって悪魔を祓う。相撲の土俵で四股を踏むのと同じことです。これに手をかけるのは力士が鉄砲を踏むのと同じです。相撲と起源を同じくします。
 四股を踏むのは悪魔祓いの足踏みです。
その足踏みが「ダダ」です。東大寺のお水取の場合はダッタソといいます。これをダッタソと発音しますので、ダッタン人の舞楽というような説ができました。このときの掛け声がエイョウで、漢字を当てると「会陽」となります。           
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 そういうことで、長尾寺の会陽は志度寺の会陽が分離して長尾寺に継承された可能性があるので、長尾寺はもとは志度寺と同じところにあったと考えられます。志度寺と長尾寺の一体性は十分に考えられることです。

 長尾寺の鎮守が天照大御神であるということは、いろいろな解釈ができます

天照大御神は熊野では「若宮」としてまつられています。
もちろん、若宮は天照大御神ではないのです。熊野の三所権現はただの熊野権現です。新宮・本宮・那智の三所のほかに、横に若宮の御殿が独立している重いお宮です。
 ところが、熊野の信仰がでぎたとぎに、新宮のほうは伊井諾尊、那智のほうは伊非再尊ということにしたために、若宮は伊許諾・伊井再尊の間に生まれた子どもということになって、天照大御神になったわけです。
 そういういきさつがありまして、実際には若宮といわれるものは若王子だったのです。若一王子というものが三所権現のなかに入ったのです。那智と新宮と本宮とで位置はそれぞれ変わりますが、権現がそろうことは変わりがありません。
 若宮すなわち若王子の「王子」は海の神様です。
 したがって、長尾寺の鎮守は海の神様だということが推察されます。伊予のあたりのお寺には札所に王子があります。西行が善通寺の西にある我拝師山について書いたものの中にも「わかいし」とあるので、西行のころには、まだ若一王子が札所にあったことがはっきりしていました。
 こういういくつかの事例から、歴史的には長尾寺も志度寺の一部であって、志度寺が分離してここに来て、観音信仰と補陀落信仰とが奥までもってこられたのだという推論ができます。

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お堂については、仁王門が阿讃街道に面しています。

そこに石徐という石の柱があります。徐とは柱という意味です。
その柱にお経が書いてあるというので緩徐ともいいます。たいへんに珍しいことに、弘安六年と弘安九年の二本の経徐が残っています。お経の文字はほとんど読めませんが、年号だけは読めております。重要文化財になっています。

 本堂に向かって右のところに大師堂と薬師堂があります。
薬師信仰は海の薬師が非常に多い。その薬師信仰があるということにも、志度寺との関係が考えられます。
札所になりますと何宗でも大師堂ができます。
領主の命令によって真言宗から天台宗に変わりました。
真言宗のお寺には、常行堂はありません。常行堂は必ず天台宗にあるお堂ですので、そのときに建てられたものだろうと推定されます。しかも、志度寺に法草堂があって、常行堂のほうが分かれて長尼寺に来たと考えられます。法草堂と常行堂はいつでもペアになってあるものです。
 比叡山では現在、西塔の向かって左側に常行堂、向かって右側に法草堂があります。ここで法華ハ皿講、常行三昧が行われます。
常行三昧というのは、真ん中に阿弥陀さんを置いて念仏をうたう堂僧が、その周囲を回りながら念仏を唱える。常行三昧はやがて不断念仏というものになります。
 不断というのは、常行三昧は九十日間ずっとやめないというのが伝統だからです。したがって、ここに勤める堂憎は専門の念仏のうたい手です。そういう者が十二人なり二十四人なり四十八人なりが詰めていまして、交代で不断念仏をうたいます。こういうものができましても、江戸時代になると実際には行われないのです。

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 江戸時代になると、寺の伽藍の体裁として天台寺院だったら常行堂がある。そういうことで常行堂は建ちますが、とりたてて修行はなかったようにおもいます。ですから、ここに常行堂があるということは天台宗に変わったときに造られたと考えられます。 それから、天満天自在天堂があります。これは菅原道真をまつったものです。
特別の意味はありません。

おもしろいのは風呂があるということです。

 別所が少し離れたところにあります。大きなお寺がありますと、そこに奉仕する人たちの住むところを別所といいます。同時に、そこを風呂地といったりします。
 紀州の由良に、興国寺といって、たいへん大きなお寺がありますが、この寺に別所があります。別所に風呂という場所があります。風呂に四人の虚無憎がいました。
これが尺八の虚無僧の始まりです。いろいろな記録や興国寺の伝承にそうあります。
 このへんはちょっと謎があります。全国どこに行っても、虚無憎がいたところを風呂地といいます。虚無僧と呼ぼれる寺の奉仕者が、アルバイトというか、風呂を沸かして、人々を入れて収入としていたと考えられます。
 最近では福島の会津あたりにたくさんの風呂があり、虚無僧がいた。のちになると虚無僧そのものが尺八を吹くより風呂のほうに転業してしまうということが研究者によって明らかになっています。
 長尾寺の別所の場合は、蒸風呂で、風呂は小さいものです。薪で石を焼いて、それを水の中に放り込むやりかたでした。

五来重:四国遍路の寺より

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