瀬戸の島から

カテゴリ: 瀬戸の島と船

    「鎌倉新仏教」の通説がぐらついているようです。
かつては、鎌倉時代は天台・真言系や南都(奈良)の「旧仏教」(顕密仏教)が民衆の支持を失い、法然や親鸞、道元、日蓮らが唱えた「新仏教」が勢力を拡大してきたとされてきました。しかし、以前見たように四国への「新宗教」の伸張と信者の獲得は、思っていたよりもはるか後であったことが次第に分かってきました。浄土真宗の道場が讃岐で姿を現すのは、16世紀になってからです。近年の研究では、鎌倉時代は「旧仏教」が主流で、「新仏教」は少数派の異端に過ぎなかったと研究者は考えるようになっています。

真言律宗総本山 西大寺|JAFナビ|JAF会員優待施設
奈良・西大寺

 その中で南都・西大寺の叡尊は、旧仏教改革派の旗手として戒律復興を掲げ、弟子らの活躍で帰依者を全国に爆発的にひろげることに成功します。晩年には内紛の続いていた四天王寺の別当に就任して鎮静化をはかるなど、叡尊は後年「真言律宗」の祖と呼ばれるようになります。
 以上を整理しておくと、
①鎌倉時代に登場する新仏教は、開祖達が新たな教義を説くが、未だ「異端的存在」であった。
②そのため教団を組織し、全国的な活動を行えるまでには成長し切れていなかった。
③それに対して、鎌倉時代にめざましい発展を遂げるのが律宗西大寺であった。
つまり、鎌倉時代に最も教勢を拡大していたのが西大寺律宗と云うことになります。
ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会
叡尊

律宗西大寺を率いた叡尊とは何者なのでしょうか?
叡尊は建仁元年(1201)5月、現在の大和郡山市白土町で生まれます。父親は興福寺の学侶・慶玄。7歳で母親が亡くなり、醍醐寺の巫女の家の養子となります。4年後に養母も亡くし、11歳で醍醐寺の叡賢に預けられ、17歳で醍醐寺・恵操を師として出家、東大寺戒壇で受戒し、真言宗の官僧(官僚僧)になります。ここまでは順調に官僧(高級国家公務員)への階段を登ってきます。以後は、高野山などで修行を重ね、嘉禎元年(1235)1月に持斎僧(戒律を守る僧)を募集していた西大寺に入ります。

仏教の戒律とは不淫(セックスをしない)、不殺(殺生をしない)、不盗(盗みをしない)、不妄(うそをつかない)など僧侶たちの規範のことです。ところが、当時の僧侶は叡山延暦寺のふもとの坂本や南都の東大寺、興福寺の門前に僧侶が住む家が社宅のように並んでいました。そこには僧侶の妻子がおり、坊さんは妻子に見送られて修行に向か姿が当たり前になっていたのです。不淫の戒など無きに等しいありさまでした。

叡尊は僧たちを魔道から救うには戒律を厳しくする以外にない、と戒律復興運動を決意します。
覚盛(かくじょう)(1194〜1249)らと出会い、同志4人は嘉禎2年(1236)9月、東大寺法華堂で仏・菩薩から直接に受戒して戒律護持を誓う「自誓受戒」を挙行し、官僧を離脱します。これが叡尊のターニングポイントになるようです。官僧であったかどうかは重要でした。というのも、官僧たちには、死穢(しえ)などの穢れを避けることが求められ、活動上の制約があったかことは以前にお話ししました。これに対して官僧から離脱した遁世僧たちは、制約から自由となり、穢れに関わる社会活動に関与でるようになります。これが死者の救済という面では、決定的な一歩を踏み出すことになります。

創建1250年記念「奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝」 | 日本学術研究支援協会

 もともとの西大寺は奈良時代、仏教第一の政治を進めた称徳天皇が建立した寺院です。
しかし、創建当時には百を超えてあった堂宇が平安中期以降は数棟になり荒廃が進んでいました。叡尊が活動理念とした「興法利生」は、釈迦本来の仏教に立ち返り人々を救うことです。叡尊は「妻帯をしない、家族を持たない、財産を求めない」といった戒律を厳格に守ります。その清廉潔白な人柄に弟子が集まり、西大寺の再建が軌道に乗るようになります。
 仁治元年(1240)には忍性(1217〜1303)が弟子に加わってハンセン病患者や身体障害者、生活に困窮した物乞いら「非人」と呼ばれた社会的弱者の救済に乗り出します。
叡尊らは戒律復興運動、弱者救済、さらに庶民の働き口となる勧進事業を精力的に展開します。
そして、陸上や河川、海上の交通路の整備、耕地開発を進めます。一方、鎌倉に下った忍性の社会活動は、鎌倉幕府の要人の注目を集め、帰依者も増えます。こうして、叡尊は幕府から懇請されて鎌倉に出向き、帰依者は支配層から最下層まで貴賤の別なく広がるようになります。また、亀山上皇に授戒するなど朝廷からも信頼を得ます。叡尊は生涯で9万7710人に菩薩戒を授け、西大寺が直接、住持を任命した寺は全国に262寺、末寺総数は1500寺に上ったとされ、亀山上皇から興正菩薩の貴号が贈られます。

中世叡尊教団の全国的展開 | 剛次, 松尾 |本 | 通販 | Amazon

 叡尊教団の社会救済活動の一つに港の管理維持・河海支配がありました。
かつては、遣唐使派遣停止以後の影響を「国風文化」形成の要因になったなどと教科書には書かれていました。しかし、これは海外取引の「過小評価」だったようです。その後の研究で、日宋・日元・日明貿易の果たした役割は、考えられた以上に大きかったことが分かってきました。遣唐使廃止後も、それまで以上に、人・物・情報の国際交流は想像以上に進んでいたのです。
韓国新安沖の海底で発見された沈没船の積荷の中国陶磁器
新安沈没船から引き上げられた中国陶器
 例えば、1976年に韓国新安沖で引き上げられた新安沈没船を見てみると次のようなことが分かります。
①船は、全長28m、幅6,6m、重量約200屯
②元亨3(1323)年に中国(寧波)から日本に向かう途中で、新安沖で沈没
③積荷は、2万点の白磁・青磁、28トン、800万枚もの中国銅銭
④積荷の木札の墨書銘から、京都東福寺がチャーターした貿易船だった
こうした荷物を積んだ貿易船4艘ほどが船団を組んで貿易に従事し、鎌倉の和賀江津、六浦津などに入港していたのです。
 今度は足利尊氏が律宗西大寺の、鎌倉の極楽寺に対して出した文書を見ておきましょう。
飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事、元の如く、御管領あり、嶋築興行といい、殺
生禁断といい、厳密沙汰を致さるべし、殊に禁断事おいては、天下安全、寿算長遠のためなり、忍
性菩薩の例に任せて、其沙汰あるべく候、恐々謹言
ごくらく噸和五年二月十一日        尊氏
極楽寺長老                     
                                     『鎌倉市史 史料編第3』426号
この史料は、足利尊氏が、貞和五(1349)年2月11日付で、鎌倉の極楽寺に対して、「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」に関する支配権を今まで通りに認めたことを示しています。ここからは次のようなことが分かります。
①極楽寺は、飯島(和賀江津)の敷地で、着岸船から関米(一石につき一升、約1%)を取る権利を認められていたこと
②それは「嶋築興行」(飯島の維持・管理の代償)でもあったこと
③同時に、前浜の殺生禁断権が認められていたこと
④「忍性菩薩の例に任せて・・・」とあるので、これらの権利は忍性以来のことだったこと

①の関米(一石につき一升、約1%)については、新安沈没船の積荷は「2万点の白磁・青磁、800万枚の中国銭」でしたから、極楽寺の取り分1%は、200点の白磁・青磁、8万枚の銭ということになります。これが1船分の取り分です。これらが唐物の市で販売され、極楽寺の収益となります。
鎌倉の港
鎌倉の和賀江島
どのようにして、極楽寺は関税徴収権を手に入れたのでしょうか。
和賀江島は飯島ともいい、材木座海岸の、現光明寺の前浜あたりに突き出て造成された人工の岸壁です。岩を埋め立て、江を作ったとされます。今は、千潮時に黒々とした丸石が現れるだけで、これが鎌倉時代の港跡とは思えません。それまでは鎌倉の由比ヶ浜は遠浅ですので、中国船などの大型船は着岸できません。そこで武蔵国の六油津に入港していたようです。ところが、貞永元(1232)年7月12日に、念仏僧の往阿弥陀仏は、「舟船着岸の煩いをなくすために、和賀江島を築きたい」(『吾妻鏡』同日条)と、鎌倉幕府に申請します。時の執権北条泰時は、これを喜んで許可し、支援します。こうして和賀江津の工事は始まります。しかし、土砂の堆積などにより、その維持は難しかったようです。そこで、技術的な指導を含めて関わったのが忍性を中心とした極楽寺、つまり律宗傘下の技術者集団です。この成功報酬が、先ほど見た「着岸船積荷1%の関米(関税)ということになるようです。
 これに対して日蓮は『聖愚間答抄』で、次のように忍性を批判しています。
忍性 -救済に捧げた生涯-』展 レポート【奈良国立博物館 】│寺社参拝 法輪堂 拝観日記
鎌倉を拠点に社会活動を行った忍性

極楽寺良観上人(忍性)は上一人より下万民に至て生身の如来と是を仰ぎ奉る。彼の行儀を見るに実に以て爾也.飯島の津にて六浦の関米を取ては、諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取ては、諸河に橋を渡す。(『昭和定本日蓮聖人遺文』第1巻 353P)
 
意訳変換しておくと
(鎌倉)極楽寺の良観上人(忍性)は、多くの人から生身の如来と尊敬されている。彼のやり方を見ると、まことにおかしい。飯島の津や六浦で関税を取ては、諸国の道を作り、全国七道に関所を構えて、通行税を取り立てる。その銭で、諸河に橋を渡す。
ここからは、次のようなことが分かります。
①飯島津で船から徴収した米は、諸国の道の造成にも使われていたこと。
②作った道に関所を作って、通行税を徴収していたこと
③さらに、それを資金に橋を架けていたこと
 飯島の関米徴収は、現在の光明寺のところにあった末寺万福寺が担当していたようです。また、鎌倉の化粧坂には鎌倉時代には燈炉堂がありました。そこでは夜に火が灯され海上を進む船の目印として灯台的役割を果たすようになります。これに関わって、唐招提寺系の律僧琳海(りんかい)が建治元(1251)年に開いた大覚律寺は、兵庫県尼崎にあった河尻燈炉堂の管理をまかされていました。ここからは次のような事が推察できます。
①鎌倉幕府からも鎌倉の海上交通管理を任されていた忍性が、鎌倉化粧坂の燈炉堂の管理も鎌倉末期には任されていたこと。
②全国の主要港に建立された律宗寺院は、港湾管理センターとしての役割を果たしていたこと。
 先ほど見た足利尊氏の文書には「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」とあって、前浜での殺生禁断権を認められています。これは「前浜での全面漁業禁止」ではありません。浜での一般人の禁漁と、漁民に対しては 一定の金品を寺院に寄附することで、漁を認める権利です。つまり極楽寺は漁民に対しての漁場管理権を握ったことになります。これは以前にお話しした叡尊が弘安9(1286)年に宇治橋を修造した時に、宇治川の殺生禁断権が叡尊に認められた「漁業権」と同じ扱いです。
 現在、千潮時に残る丸石の多くは、相模川・酒匂川および伊豆海岸から筏などにで運ばれてきたものとされています。
研究者は、そうした石を採取した川などの通行管理権を握っていた可能性が高いとします。
 ここでは次の事を押さえておきます。
①鎌倉の内港和賀江津を叡尊教団の関東における拠点寺院・極楽寺が握っていた
②六浦津は、金沢称名寺が管理責任を持っていました。
こうして律宗西大寺教団は、中国との交易利益を求めて、瀬戸内海に進出してきます。その際に尾道や博多などには、港湾管理センターとしての西大寺末寺が建立されます。そして、そこには律宗独自のモニュメントして、十三重石塔や巨大五輪塔などが建立されます。瀬戸内海沿岸に残る巨大石造物は、このような西大寺律宗の教線拡大の動きの中で押さえていく必要があるようです。

今日はこのあたりで、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」

俵物

前回は海の向こうの中国清朝のグルメブームが小豆島に海鼠猟の産業化をもたらした経過を次のようにまとめました。
①中国清朝の長崎俵物(海鼠の加工品いりこ)の高価大量買い付け
②幕府による全国の浦々に長崎俵物(煎海鼡・干なまこ・鱶鰭)の割当、供出命令
③浦々での俵物生産体制の整備拡充
 しかし、②から③へはなかなかスムーズには進まなかったようです。当初幕府は、各浦々の生産可能量をまったく無現した量を割り当てました。例えば松山藩は総計6500斤のノルマを割当られますが、供出量できたのはその半分程度でした。このため責任者である幕府請負役人や長崎会所役人は、何度も松山藩にやって来て、目標量に達しない浦々に完納するように督促します。尻を叩かれた浦の責任者は「経験もない。技術者もいない、資金もない」で困ってしまいます。
小豆島沖の海鼠取り
小豆島沖の海鼠漁
 俵物供出督促のために、幕府の長崎会所役人や請負商人など全国を廻って督促・指導しています。
小豆島にも巡回してきた記録が旧坂手村の壺井家に残されています。それを見ておきましょう。壺井家は、江戸時代に小豆島草加部郷坂手村の年寄を世襲した旧家です。壺井家の下に組頭が数名いて、坂手村行政の中心的役割を担っていました。壺井家文書には17世紀からの早い時代の庄屋文書が多数含まれていることが調査から分かっています。最も早いのは1623(元和9)の文書で、他村との出入りの際に結ばれた協定の内容が記されており、後の出入りの際の証拠文書として大切に保管されてきたようです。
小豆島へのフェリー航路一覧】マメイチへアクセスする5つの港と8航路を整理した – じてりん

 坂手村は小豆島を牛の形の例えると、「後ろ足の膝」の辺りになり、東の大角鼻、西の田浦半島に囲まれた坂手湾に面する村です。そのため、早くから漁業を主な生業とし、検地帳にも、物網9、魚青網5、鰈網1、手繰網6、船数38(7~石積)と記されています。江戸初期から漁業が発達し、寛永年間(1624~44)には、鰯網11、鯖網7、鯖網3を有しています。そして、近隣の堀越・田浦両村(苗羽村)の網と漁場を支配していました。
 1679(延宝7)年の検地帳には、戸数294軒1300人と記され、当時の草加部郷周辺各村よりも多くの人口を抱えたことが分かります。この背景には、漁業の盛行があったと研究者は考えています。そのため早い時期の文書には、漁業関係のものも残されています。周辺の各村との間の漁場争論の文書も数点あるようです。元禄期頃から漁業が次第に不振となると、出稼ぎによる人口流出が増加し、船乗りになる者が増えます。そして前回見たように江戸時代後期には長崎への俵物(煎海鼠)の有力産地として知られるようになります。

都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】 - 津山瓦版
東藩分(左側)が倉敷代官所支配下の小豆島
 江戸時代の小豆島は備讃瀬戸の戦略的な要衝として天領になっていて、備中倉敷代官所の管理下に置かれていました。
年月は分かりませんが、海鼠加工のための督促指導に、長崎から関係者が小豆島にやって来ることになります。それを迎えるための準備指示が倉敷代官所から文書で通知されます。それに対する準備OKの返書になります。
末十月十九日 指上ヶ申御請一札之事【壺井家文書55】
一 先達而度々御吟味被仰付候、小亘嶋猟浦七ケ村生海鼠為試長崎俵物請負人峰谷市左衛門、同所町人村山治郎左衛門共外猟師御差添、此度嶋方猟浦村々江御指越可被成旨石谷備後守様より御印状到来仕候二付、村々庄岸年寄百姓儀猟共被召出、御印状之趣御讀聞被成逸々承知仕候
一 右御試猟請負人并町人猟師到着之上、弥猟業有之事二候ハヽ、以来嶋方漁師共見馴、自仕覚候様可相成旨、且又外猟業之障等者堅不致様、於彼地被仰付御差越候儀被仰聞、本得共意候
一 右猟業中左迄無之義ヲ故障二申立候義決而仕間敷候旨被仰渡、往々二嶋方助成之為にも宣、第一御収納方指寄二も可相成候間、末々小百姓水呑二至迄得と利解申聞、心得違無之様可仕旨被仰渡承知仕候
有此度長崎御奉行様御印状之趣を以、嶋方猟業一件逐一被仰渡、私共罷出承知仕候処相違無御座候、依之御請一札指上ヶ申所、乃面如件
                  小豆島七ケ村
                    庄屋 印                                                   年寄 印
                                                百姓代印
                                                漁師代印
備中倉敷御役所
浅井作右衛門様
意訳変換しておくと
年不明10月19日日 指上ヶ申御請一札之事」
長崎俵物請負人の蜂谷市左衛門と町人村山治郎左衛門による小豆島での生海鼠(なまこ)猟に関する文書写し)

指上ヶ申御請一札之事
一 先だって仰せつけのあった小豆島浦七ケ村での生海鼠の長崎俵物請負人・峰谷市左衛門、同所町人の村山治郎左衛門と漁師の受入準備について、この度小豆島の浦村々に指導のためにやって来てくることについて石谷備後守様から書状で知らせがありました。そこで村々の庄屋や年寄・百姓・漁師を召出して、書状に書かれていた内容について手周知連絡し、各自が承知しました。
一 請負人と町人・指導漁師が小豆島に到着した時には、島の漁師は指導を受けて、自分たちにも出来るように技術修得を行うこと、また他の漁期都合で不参加者がでることのないように、申しつけました。
一 海鼠漁に差し障りのないように、他の漁業については操業しないように申し渡しました。嶋方の助成のためにも、割り当てられた数量を確保するためにも、小百姓・水呑から全員が一致して海鼠漁に取組むように、心得違いのないように申し聞かせました。
 長崎御奉行の御印状の趣旨を、小豆島浦々の漁師に申し渡し、私共全員が承知していることをお伝えします。如件
                  小豆島七ケ村
                    庄屋 印
                                                年寄 印
                                                百姓代印
                                                漁師代印
備中倉敷御役所
浅井作右衛門様
ここからは次のようなことが分かります。
①当時の小豆島は天領だったので、倉敷代官所を通じての長俵物請負人三名と指導漁師の視察訪問通達を小豆島の庄屋が受け取ったこと
②通達を受けた小豆島の庄屋は、受入準備を進めて、準備完了報告を倉敷代官に送ったこと
③小豆島の大庄屋与一左衛門は、村民への諸注意書をだしていること。
先ほど見たように、全国の浦々に海鼠加工を強制し、割当数量を供出していたこと、そのために技術指導の漁民も一緒にやってきていたことが分かります。しかし、地元漁民にとっては迷惑な話であったようです。彼らの本音は、次のようなものでしょう。
なんでわしらが、海鼠をとらないかんのか わしらはぴちぴちの魚をとる漁師や
海鼠猟の間は、その他の魚がとれんのか 営業妨害や
海鼠をとった上に加工もせないかんのか 手間なこっちゃ 
しかも安い値で買いたたかれる こんなんはやっとれんわ
普段は魚を獲っている漁民に海鼠を獲って、しかもそれを加工して、俵物として出荷せよというのは無理な話だったようです。海鼠は捕れない、加工も出来ない、しかし割当量は、きつく求められる。漁師達にはそっぽを向かれる。困難な立場に追い込まれたのは、庄屋たち村役人です。

打開策として、浜の庄屋たちが考え出したのが海鼠加工の技能集団を集団で移住させることです。
3 家船4
家船漁民の故郷・能地・二窓

 安芸忠海の近くの能地・二窓は、家船漁民の故郷ですが、煎海鼠(いりこ)加工の先進地域でもあったようです。
製造業者は堀井直二郎
生海鼠の買い集めは二窓東役所
輸出品の集荷先である長崎奉行への運搬は東役所
と分業が行われ、割当量以上の量を納めています。つまりここには、技術者とノウハウがそろって高い生産体制があったのです。
この状況は家船漁民にとっては、移住の好機到来になります。
小豆島周辺の各浦は、家船漁民集団を煎海鼠(いりこ)加工ユニットとして迎え入れるようになります。それまでは人目に付かない離れた岬の先などに無断で住み着いていたのが、大手を振って大勢の人間が「入植」できるようになったのです。迎え入れる浦の責任者(抱主)となったのは、村役人などの有力者です。抱主が、住む場所を準備します。抱主は自分の宅地の一部や耕地(畑)を貸して生活させることになります。そのため、抱主には海岸に近い裕福な地元人が選ばれたようです。その代償に陸上がりした漁民達は、がぜ網(藻打瀬)で引き上げられた海藻・魚介類のくず、それに下肥などを肥料として抱主に提供します。こうして、今まで浦のなかった海岸に長崎貿易の輸出用俵物を作るための漁村が18世紀後半に突如として各地に現れるようになったのです。
ぶらり歴史旅一期一会 |大三宅住宅(香川県直島町)
直島の庄屋三宅家
直島の庄屋三宅家には、家船漁師の故郷である安芸・二窓の庄屋とのやりとり文書が残されています。二窓の庄屋から次のような依頼文書が三宅家に送付されてきます。

「二窓から出向いた漁師たちを、人別帳作成のために生国に指定日に帰して欲しい」

当時は家船漁民は移住しても、年に一度は二窓に帰ってこなければならないのがきまりでした。それは「人別帳はずれの無宿」と見なされないためです。人別帳に記載されていないと「隠れキリシタン」と見なされたり、本貫地不明の「野非人」に類する者として役人に捕らえられたりすることもありました。人別帳に載せてもらうには、本人確認と踏み絵の儀式を、地元の指定されたお寺で指定日に済ませなければなりません。もうひとつは、檀家の数を減らさないという檀那寺の方針もあったようです。こうして「正月と盆に帰ってこなければならぬ」というきまりを、守るように厳命されていました。
 しかし、出ていた漁民からすれば、二窓に「帰省」しても家があるわけではありません。本村を出て世代交代している漁民もいます。人別帳作成のためだけには、帰りたくないというのがホンネでしょう。
 このような家船漁民の声を代弁するように直島の庄屋三宅氏は、次のような返事を二窓に送っています。
①『数代当地にて御公儀江御運上差し上げ、御鑑札頂戴之者共に有り之』
②『御公儀半御支配之者共』
③『(二窓漁民たちは)年々御用煎海鼠請負方申し付有之者共』
④『只今罷り下し候而、御用方差し支えに 相成る』
①には「能地からの出稼ぎ者は、長年にわたり直島で長崎俵物を幕府へ納めている者たちであり、鑑札も頂いている。幕府、代官には彼らを支配する道理があり、直島には彼らを差配する道理がある」
②③には、「二窓出身の漁民達は、幕府御用の煎海鼠(イリコ)生産を請け負うものたちで、公儀のために働く者達である。」
④には、2月から7月までは海鼠猟の繁忙期であり、この期間中に人別改のために帰郷せよというのは、当方の御用業務に支障が出る。

以上のような理由を挙げて、人別帳作成のための生地への「帰国」を断っています。直島にとっては、二窓漁民の存在は『御用煎海鼠請負方』のためになくてはならない存在となっていたことが分かります。
 二窓からやってきている漁民にすれば、真面目に海鼠を捕っていれば収入もあり、直島の庄屋にすれば、幕府から「ノルマ達成」のためには出稼ぎ漁民の力が必要なのです。両者の利害はかみ合いました。そして家船漁民は生国の元村二窓には、帰えらなくなります。同時に、海鼠猟とその加工が家船漁民集団によって担われていたことがうかがえます。
おおみやけ(大三宅)庭園 ― 国登録有形文化財…香川県直島町の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】
三宅家(直島庄屋)

直島庄屋は次のような内容を、二窓浦役所に通告しています。
①今後は寄留漁民に直島の往来手形を発行する
②直島の寺院の檀家になることを許す
これは直島庄屋の寄留漁民を『帰らせない、定着させる』 という意志表示です。家船漁民は、次のような利点がありました。
①年貢を二重に納めなくても済むこと。それまでは、漁場を利用する場合には、運上を納めた上に、本籍地の二窓にも年貢を納めていました。
②入漁地の住人として認められる事になれば、二窓とは何の関係も持つ必要がなくなります。
結局直島260人の他、小豆島、塩飽、備前、田井内の寄留漁民が二窓浦役所に納税しなくなり、人別帳からも外れていきます。
以上をまとめておくと
①戦国時代の忠海周辺は、小早川配下の水軍大将であった浦氏の拠点であった。
②「小早川ー浦氏ー忠海周辺の水夫」は、宗教的には臨済宗・善行寺の門徒であった
③関ヶ原の戦い敗北後に、毛利方についた浦氏水軍も離散し、多くが海に生きる家船漁民となった。
④家船漁民は優れた技術を活かして、新たな漁場を求めて瀬戸内海各地に出漁し新浦を形成するようになった。
⑤長崎俵物の加工技術を持っていた家船漁船は、その技術を見込まれて集団でリクルートされるようになった。
⑥彼らは生国の善行寺の管理から離れ、移住地に根ざす方向を目指すようになった。
⑦その契機になったのが幕府の俵物生産増産政策であった。
このような流れを背景に、二窓の漁民の移住・出漁(寄留)地の讃岐分一覧表を見ておきましょう。

海の民―漁村の歴史と民俗 (平凡社選書) | 河岡 武春 |本 | 通販 | Amazon
河岡武春著『海の民』平凡社より
二窓漁民の移住・出漁(寄留)地
 国 郡 地名    移住年 (寄留数)初出年代 筆数  
讃岐国小豆郡小豆島 安政6(1859)  3 享保18(1733)  32
  〃   小部            天保2(1831)  
  〃  小入部?           天保元(1830)  
  〃   大部            嘉永5(1852)  
  〃   北浦  安政3(1856)  6 文政2(1819)  
  〃   新開  嘉永4(1851)  5 天保12(1841)  
  〃   見目            天保6(1835)  
  〃   滝宮            文政5(1822)  
  〃   伊喜末 嘉永2(1849)  1 天保7(1836)  
  〃   大谷  文政2(1819)  7 延享2(1745)  15
  〃   入部  天保13(1842)  7 文政11(1828)  31
  〃   蒲生  安政6(1859)  2 安政5(1858)  
  〃   内海            文政9(1826)  

家船漁民定住地

讃岐国香川郡直島  弘化3(1846)  3 延享2(1745)  25
讃岐国綾歌郡御供所 嘉永3(1850)  6 天保4(1833)  11
  〃   江 尻 安政5(1858)  1 文久2(1862)  
  〃   宇多津           文化3(1806) 
讃岐国仲多度郡塩飽           文久2(1862)   55
     塩飽広島 嘉永4(1851)  2 天保6(1835)  
     塩飽手島 嘉永2(1849)  3 享保18(1833)  34
  塩飽手島カロト           文政11(1828)  
  塩飽手島江ノ浦           天保5(1834)  
      鮹 崎           文政6(1823)  11
      後々セ           文政6(1823)  
      讃 岐 嘉永4(1851)  3 享保6(1721)  34
 讃岐国 合 計    13例  49  25例  236

これを見て分かることは
①初出年代は、1745年の直島と小豆島大谷で、多くは19世紀以後であること
②地域的には天領の直島(25)・小豆島(32)と人名支配の塩飽(55)の島嶼部が多い。
③島嶼部以外では坂出・宇多津地域のみで、その他には史料的には見られない。
④高松・丸亀・多度津藩については、家船漁民を移住させての海鼠加工政策は採らなかった。
以上からは、家島漁民集団の讃岐への定住が本格化したのは19世紀になってからで、そのエリアは天領の小豆島・直島や人名支配の塩飽が中心であったといえるようです。そこには長崎貿易の俵物生産の割当量を確保しようとする倉敷代官所の意向を受けた現地の浦々の有力者の積極的な活動が垣間見えてきます。そのために家船漁民の移住政策が取られるようになり、19世紀後半には多くの新浦が開かれたことが考えられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 「日本山海名産図会 第四巻 生海鼠」には、次のように記されています。
○生海鼡(なまこ) 𤎅海鼡(いりこ) 海鼡膓(このわた)
是れ、珍賞すべき物なり。江東にては、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤。西海にては、讃刕小豆島、最も多く、尚、北國の所々にも採れり。
 中華は、甚だ稀なるをもつて、驢馬(そば)の皮、又、陰莖を以つて作り、贋物とするが故に、彼の國の聘使、商客の、此に求め歸ること、夥し。是れは、小児の症に人參として用ゆる故に、時珍、「食物本草」には『海參』と号く。又、奧刕金花山に採る物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「金海鼡(きんこ)」と云ふ。
        意訳変換しておくと
 海鼠は珍賞すべき品で、東国では、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤に多く、西海では讃岐小豆島が最も多い。また、北國でも獲れる。中国では海鼠を、非常に貴重な物として、驢馬(そば)の陰莖で贋物が出回るほどである。そのため中国からやってきた使節団や商客は海鼠を買って歸ること夥い。これは子供の虚弱症の薬として用いるためで、李時珍の「本草草木(食物本草)」には『海參』として紹介されている。また東北の金華山沖で獲れる物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含  むので「海鼡(きんこ)」と呼ばれている。

  ここからは次のようなことが分かります。
①中国では海鼠が本草草木で『海參』とされ、小児病の妙薬で朝鮮人参に匹敵するほど貴重なものであった。
②そこで長崎にやって来る中国使節団や商人たちは、海鼠を争って買って帰った。
③西日本最大の海鼠供給地が小豆島であった。
 
金華山の海鼠
                金華山沖の海鼠「海鼡(きんこ)」(栗氏千虫譜第8冊)
  海鼠はどんな風にして捕っていたのでしょうか?
 日本山海名産図会には、「讃州海鼠捕」と題された絵図も載せられています。
小豆島沖の海鼠取り
小豆島沖の海鼠取り
  海岸近くの岩礁の沖で船から玉網ですくっているようです。気になるのは右手の船の船主の漁民が筒にいれたものを海に流し込んでいる姿です。何を流しているのでしょうか? 

海鼠猟
  小豆島沖の海鼠取り(拡大図 筒から何かを海に流している)

註には次のように記されています。
○漁捕(ぎよほ)は、沖に取るには、䋄を舩の舳(とも)に附けて走れば、おのづから、入(い)るなり。又、海底の石に着きたるを取るには、即ち、「𤎅海鼡(いりこ)」の汁、又は、鯨の油を以、水面に㸃滴(てんてき)すれば、塵埃(ちり)を開きて、水中、透き明(とほ)り、底を見る事、鏡に向かふがごとし。然して、攩䋄(たまあみ)を以つて、是れを、すくふ。浅い海底の石に着いたなまこを捕るには、鯨の油を水面に落す。そうすると水中が透明となり、底が鏡のように見えるので、投網ですくう、
 
  意訳変換しておくと
○海鼠漁は、沖での漁法は、網を船の舳(とも)に附けて走れば、自然に入ってくる。また、海岸近くの岩に着いている海鼠を獲るときには、「海鼡(いりこ)」の汁か、鯨の油をを水面に㸃滴(てんてき)すると、海面の塵埃が開いて、水中が透き通って、海底が鏡のように見えるようになる。そこを玉網ですくふ。

ここからは海鼠漁には、引き網漁と玉網ですくう二つの漁法があったことが分かります。鯨油を垂らすと、海面が鏡のように開くというのは始めて知りました。引き網猟も見ておきましょう。
海鼠引き網
沖でなまこを獲るには、網を船につけて引く、これはすくい網の方法であるが、なまこを取るには他に重い石をつけて海底を引くこぎ網の方法もあった。 
海鼠引き網2
海鼠引き網

どんな海鼠を、獲っていたのでしょうか? 「和名抄」には、次のように記されています。

『老海鼡(ほや)』と云ふ物は、海参 則ち、「海鼡(いりこ)」に制する物、是れなりといへり。又、「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云ひて、斑紋(まだらのふ)あるものにて、是れ又、別種の物もありといへり。「東雅」に云、『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、「沙噀(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』云々。いずれ、是(ぜ)なることを知らず。されど、「海男子」は「五雜俎」に見へて、男根に似たるをもつて号(なづ)けたり。

意訳変換しておくと
○『老海鼡(ほや)』は、「海鼡(いりこ)」のことである。また「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云って、斑紋様のあるもので、別種のものとも云える。「東雅」には次のように記す。『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』云々。どれが正しいかよく分からない。しかし、「海男子」は「五雜俎」に載せられていて、男根に似ているのでそう呼ばれるようになったようだ。

海鼠2
「栗氏千虫譜第8冊」「黒ナマコ」又は「クロコ」

当時の海鼠は、どのようにして食されていたのでしょうか?
今の私たちは海鼠と云えば、そのまま切って生身で酒の肴にして食べます。しかし、生鮮魚介類の冷凍などが出来なかった時代には、海鼠はまったく別の方法で食べられていたようです。その加工方法を見ていくことにします。
『日本山海名産図会』は、なまこの加工については次のように記します。
煎海鼠(いりこ)に加工するには、 𤎅(い)り乾(ほ)すの法は、腹中(ふくちう)、三條の膓(わた)を去り、數百(すひやく)を空鍋(からなべ)に入れて、活(つよ)き火をもつて、煮ること、一日、則ち、鹹汁(しほしる)、自(おのづ)から出(い)で、焦黑(くろくこげ)、燥(かは)きて硬く、形、微少(ちいさ)くなるを、又、煮ること、一夜(や)にして、再び、稍(やゝ)大きくなるを、取り出だし、冷(さ)むるを候(うがゝ)ひ、糸につなぎて、乾し、或ひは、竹にさして、乾(かわか)したるを、「串海鼡(くしこ)」と云ふ。また、大(おほ)いなる物は藤蔓(ふじつる)に繋ぎ、懸ける。是れ、江東及び越後の產、かくのごとし。小豆島の產は、大(おほい)にして、味、よし。薩摩・筑刕・豊前・豊後より出づるものは、極めて小なり。

意訳変換しておくと
  海鼠を乾す手順は、①腹の中の三條の腹膓(はらわた)を取って、②數百を空鍋に入れて、強火で煮ること一日。すると鹹汁(しほしる)が出て、黒く焦げ、乾いて硬くなり、縮んで小さくなる。それをまた煮ること一夜、今度は少し大きくなったものを取り出だし、③冷えてから糸につないだり、竹にさして乾かす。これを「串海鼡(くしこ)」と云う。
 また、大きいもの藤蔓(ふじつでつないで懸ける。これは東国や越後でも同じ手法である。小豆島のものは大型で、味がいい。薩摩・筑紫・豊前・豊後産のものはこれに比べるとはるかに小さい。
ここには小豆島近海の海鼠は大型で、味もいいと評価されています。小豆島産海鼠は、品質がよかったようです。
  ここには煎海鼠(いりこ)加工の手順が次のように記されています。

海鼠加工


海鼠加工1
①腹の中の三條の腹膓(はらわた)を取って、

海鼠加工2
②空鍋に入れて、強火で煮ること一時間。
鹹汁が出て、縮んで小さくなったものをまた煮ること一夜、
海鼠加工3

海鼠加工4

④冷えてから糸につないだり、竹にさして乾かす。これを「串海鼡(くしこ)」と云う。
⑤小豆島のものは他国のものと比べると大型で、味がいい。
つまり小豆島の海鼠加工品は、評判がよく競争力があって市場では高く売買されたようです。
海鼠の加工品である煎海鼠(いりこ)は、どのように流通したのでしょうか?
 実は、これらが国内で流通することはなかったのです。
俵物
俵物
高校日本史では、俵物として長崎貿易での重要品として煎海鼠(いりこ)・干鮑・鱶鰭の三品を挙げます。1697(元禄10)年から金銀銅の決済に代えて、清国向けの重要輸出品になります。そのために俵物は幕府の統制品となり、抜げ売りや食用までも禁じられました。中国への輸出用のために生産されたのです。その集荷には長崎の俵物元役所があたりました。そして全国の各浦に生産量が割り当てられ、公定価格で取引されます。しかも割当量も過大であり、漁師のいない村や原料の海鼠を産しない村まで割り当てられました。他領から購入したり、家島漁師を雇って製造しても目標は達成できません。例えば松山藩の割当ては約5000斤でした。しかし、天保~弘化期10年間の出荷率は、幕府割当量の約6割に留まっています。
第40回日本史講座のまとめ② (田沼意次の政治) : 山武の世界史
 
長崎俵物方では督促と密売防止のため全国に役人を派遣して、各浦の調査・督促を行っています。そして各藩の集荷責任者の煎海鼠買集人や庄屋が集められ、割当量の調整等が行われています。まさに「外貨」を稼ぐために特化した海鼠の加工だったことが分かります。こうして、各浦の責任者にとっては、割当てられた海鼠イリコの生産確保が大きな負担となってきます。これに小豆島の庄屋たちは、どのように対応したのでしょうか? それはまた次回に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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前回は、西大寺律宗が奈良の般若寺を末寺化するプロセスを次のようにまとめました
①西大寺律宗中興の祖・叡尊にとって、十三重石塔は信仰の中心的な存在で、伽藍造営の際には本堂や本尊よりも先に造立された。
②そのため新たに末寺として中興された寺院には、大きな十三重石塔や多重石塔などの石造物がまず姿を見せた。
③これらの石造物は、南宋から東大寺再建時に南宋からやってきた伊派石工集団の手による「新製品」であった。
④西大寺律宗の全国展開に、伊派石工集団が深く関わっている。
今回は尾道の浄土寺を西大寺が、どのように末寺化したかを見ていくことにします。テキストは、辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」です。

1400年の歴史を後世に。浄土寺完全修復に向けて<第1弾>(小林暢善(国宝浄土寺住職) 2019/10/21 公開) - クラウドファンディング  READYFOR
尾道の浄土寺
浄土寺は、国宝の本堂など見所の多い寺で、尾道観光には欠かせない観光スポットになっています。この寺の創建は13世紀中頃とされ、尾道の「光阿弥陀仏」によって、弥陀三尊像を本尊とする浄土堂・五重塔・多宝塔・地蔵堂・鐘楼が建立され、真言宗高野山派寺院として創建されます。その伽藍については「當浦邑老光阿彌陀佛或興立本堂、加古佛之修餝或始建堂塔、造立數躰尊像」と記しています。しかし、13世紀末には退転していたようです。
 叡尊の弟子定證は、1298(永仁六)年に浄土寺にやってきて曼荼羅堂に居住するようになります。
『定證起請文』には、当時の浄土寺の住持もなく、荒れ果てた姿を次のように記します。
當寺内本自有堂閣有鐘楼有東西之塔婆、無僭坊無依怙無興隆之住侶、唯爲爲青苔明月之閑地、空聞晨鐘夕梵之音聲、此地爲躰也」
 
定證は西大寺の指示を受けて尾道にやってきたのでしょう。翌年には、すぐに浄土寺の再興にとりかかります。
定證の再興は「定證勸進、十方檀那造營之。」
壇那衆は「晋雖勸十方法界、多是當、浦檀那之力也。」
とあるので、尾道浦の壇那衆をその中心として、金堂・食堂・僧坊・厨舎などを勧進・造営していったことが分かります。金堂にはその本尊として、大和長谷寺の観音菩薩像を模した金色観音菩薩像を安置します。その足下には『書記知識奉加之目録』が納められ、さらに、「各牽寸鐡尺木之結縁、爲預千幅輪文之引導也」とあるので、結縁者が観音により極楽へ引導されることを説いたようです。
 1306(嘉元四)年9月上旬に、浄土寺金堂は完成します。
9月29日に、定證の招きで西大寺第二世長老以下60余人の僧侶が尾道に到着しています。さらに、山陽、山陰より律僧60余人も集まってきます。そして、10月1日から13日間に渡って、金堂上梁・曼荼羅供養が行われたことが「日々講法時々説戒無有間断」と記されています。そして、近隣地より幾千万の道俗結縁者が供養会に参集したともされています。そして、十月になると定證に、太田庄預所和泉法眼淵信より別当職が譲与されます。こうして浄土寺は、西大寺末寺となります。これは前回に見た奈良の般若寺の末寺化プロセスを踏襲するものです。
 ちなみに中興直後の1325(正中2)年に、浄土寺は焼失してしまいます。そのため西大寺律宗時代の遺物は、石造物としてしか残っていないようです。現存の国宝の本堂・多宝塔、重要文化財の阿弥陀堂は、有徳人道蓮・道性夫妻によってその後に復興されたものになります。西大寺の瀬戸内海沿岸での活動は、目に見えた形では残っていません。石造物が「痕跡」として残るのみです。
浄土寺境内に残された石造物を見ておきましょう。

 
  浄土寺納経塔(重文) 弘安元年(1278)花崗岩製高:2.8m)
銘文:(塔身)
「弘安元年戊寅十月十四日孝子吉近敬白 大工形部安光」 

定証の浄土寺中興以前に伽藍の修繕に尽力した光阿弥陀仏の子・光阿吉近が父の供養塔として建立したものです。1964年に移動させた時に、塔内から法華経・香の包・石塔の由来を墨書した木札が、金銀箔を押した竹筒に納められて出てきています。塔身・露盤・請花の形態は古調で、全体的に重厚豪快な鎌倉時代の逸品とされます。
浄土寺(じょうどじ)宝篋印塔(越智式)
  浄土寺宝篋印塔(越智式:重文)貞和4年(1348)総高:2.92m)
逆修と光考らの冥福を祈り、功徳を積むのために建立されたものです。塔身と基礎の間にある請花・反華の二重蓮華座の基台は備後南部・伊予地域の宝篋印塔に見られる特徴のようです。

「基壇・基礎には多めの段数が、また基礎上部の曲線の集合・椀のような輪郭をもつ格狭間が装飾性を豊かにしている。南北朝期を代表する塔。」

と研究者は評します。
 光明坊(こうみょうぼう)十三重石塔
  瀬戸田町光明坊十三重塔 永仁二年(1294)、総高:8.14m)
銘文:(基礎背面)「釈迦如来遺法 二千二百二二(四)十参年奉造立之 永仁二年甲午七月日」 
基壇に「石工心阿」
中世の瀬戸田は中国や朝鮮などとの交易を行っていて、芸予諸島の中心的交易港として栄えていました。戦国大名に成長する小早川氏は、この地を制して後に急速に成長して行きます。その瀬戸田にも西大寺の末寺があったことが、この十三重石塔からも分かります。研究者は次のように評します。
笠石は肉質が厚く力強い反りを示すが、上にいくほど厚みは減少している。遠近法を取り入れてより高く、重厚さを感じさせる緻密な計算がなされている。

光明坊十三重塔を作成した「石工心阿」は、次のような寺の石造物にも名前を残しています。
①三原市の宗光寺七重塔
②兵庫県朝来郡の鷲原寺不動尊
③神奈川県箱根山中の宝篋印塔
④神奈川県鎌倉市の安養院宝篋印塔
鎌倉のイエズス会、西大寺教団 - 紀行歴史遊学
三原市の宗光寺七重塔
「心阿」という人物については、よく分かりません。しかし、作品が全国に散らばっているところをみると、各地で活動を行っていたことが分かります。
 一方寺伝では、光明坊十三重石塔は奈良西大寺の僧叡尊の弟子忍性が勧進したと伝えられます。
そして、心阿作の石造物が残る④安養院・③鷲原寺や瀬戸田の光明坊には、忍性の布教活動の跡がたどれるという共通点があります。ここからは忍性と心阿がセットで、布教活動を行っていたことが推測できます。叡尊の教えを拡めるべく各地に赴いた弟子たちには、こうした石工集団が随行していたと研究者は考えています。
 光明坊十三重塔の「石工心阿」という銘文から、高い技術を備えた伊派石工が尾道周辺に先進技術をもたらし、後にこの地に定着していったことが推測できます。浄土寺を再興した定証にも、彼に従う伊派石工がいたはずです。彼らが尾道に定着し、求めに応じて石造物制作を行うようになった。それが近世の尾道を石造物の一大生産地へと導いていったとしておきます。
国分寺 讃岐国名勝図会
讃岐国分寺(讃岐国名勝図会)
  西大寺の勧進活動と讃岐国分寺の関係について触れておきます。
13世紀末から14世紀初頭は、元寇の元軍撃退祈祷への「成功報酬」として幕府が、寺社建立を支援保護した時期であることは以前にお話ししました。そのため各地で寺社建立が進められます。
 このような中で叡尊の後継者となった信空・忍性は朝廷の信任が厚く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられます。こうして西大寺は、各地の国分寺再興に乗り出していきます。そして、奈良の般若寺や尾道を末寺化した手法で、国分寺を末寺として教派の拡大に努めます。
 江戸時代中期萩藩への書状である『院長寺社出来』長府国分寺の項には、「亀山院(鎌倉時代末期)が諸国国分寺19力寺を以って西大寺に寄付」と記しています。別本の末寺帳には、1391(明徳2)年までに讃岐、長門はじめ8カ国の国分寺は、西大寺の末寺であったとされます。
 1702(元禄15)年完成の『本朝高僧伝』第正十九「信空伝」には、鎌倉最末期に後宇多院は、西大寺第二代長老信空からの受戒を謝して、十余州国分寺を西大寺子院としたと記されています。この記事は、日本全国の国分寺が西大寺の管掌下におかれたことを意味しており、ホンマかいなとすぐには信じられません。しかし、鎌倉時代終末には、讃岐国分寺など19カ寺が実質的に西大寺の末寺であったことは間違いないと研究者は考えているようです。
 どちらにしてもここで確認しておきたいのは、元寇後の14世紀初頭前後に行われる讃岐国分寺再興は西大寺の勧進で行われたことです。そして、その際には優れた技術を持った石工が西大寺僧侶とともにやってきて石造物を造立したことが考えられます。こういう視点で白峰寺の十三重石塔(東塔)や高瀬の「石の塔」を見る必要があるようです。ちなみに、白峯寺は国分寺の奥の院とされていました。その関係で、西大寺による国分寺再興の動きの中で、白峰寺の別院に造立されたとも考えられます。

最後に叡尊と十三重石塔との関係をまとめておきます
①西大寺中興の叡尊は、信仰の中心として多重石塔を勧進した。
②そして、百人を超える律僧を参集しうる勧進集団を形成した。
④西大寺には叡尊を頂点とする勧進集団が構成され、各地の国分寺再建を行い、末寺化するなどして急速に教勢を拡大した。
⑤そのため西大寺末寺には、十三重石塔などの当時最先端技術で作られた石造物が造立された。
⑥この石造物を作ったのは西大寺僧に同行した伊派石工たちである。
⑦尾道の浄土寺や瀬戸田の光明院の石造物も西大寺僧侶に従った伊派石工の手によるものであった。
⑧彼らの中には石材が豊富な尾道に定住し、花崗岩製の優れた石造物を作り続ける者も現れた。
④それが近世の尾道を石造物の一大生産地へと導いていった。

それでは西大寺の末寺が14世紀後半以後は増えず、西大寺の教勢時代が下火になっていくのは、どうしてでしょうか。
この背景には、西大寺が大荘園経営を行なわず、光明真言・勧進活動による寺院経営を行なっていたことがあるようです。大きく強力な荘園を持たなかった西大寺では、高野山のように荘園内で僧侶の再生産は困難で、勧進聖集団が継続して育ったなかったからと研究者は考えているようです。詳しくは、また別の機会に。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」

 
DSC00702
昭和の嫁入り風景
讃岐では、昔の婚礼は嫁ぎ先の家で、親類や近所を招いた宴会が夕方から夜明けまで続きました。婿の母親が花嫁を仏壇に招いておがませ、納戸で夫婦盃をとりかわします。その後、納戸から座敷に移動すると押しぬきずしなどがでて、宴会のトリにメンカケ(鯛めん)がでました。
鯛そうめん 愛媛県 | うちの郷土料理:農林水産省
鯛めん(鯛+そうめん)
鯛めんのタイは、その家の家格をしめすともされて、大きいほどよろこばれました。鯛めんは鉄鍋に調味料をいれ、ハランを敷いて、タイをのせて20~30分煮ます。大皿にゆでたそうめんを盛り、煮たタイをのせます。しっぼく台に鯛めんをのせて伊勢音頭を歌いながら座敷の中央に運びました。そこで船歌をうたい、そうめんとタイをほぐしてもりあわせ参列者に配りました。
めでたい時こそ豪快に!うどんの上に鯛を乗せた『鯛麺』がウマい理由とは。(オリーブオイルをひとまわしニュース)
讃岐の鯛めん(鯛 + うどん)

 瀬戸内海の沿岸部や島嶼でも鯛めんは、婚礼にかかせないものだったようです。鯛めんには、「タイの大きさが家格をしす」ともされ、家の体面がかかっていたようです。鯛めんは婚礼のほかにも、祭りや新築祝など慶びの会食には欠かせないものでした。鯛が人々に食べられ、それが祝魚となったのは、いつ頃からなのでしょうか。今回は、讃岐と鯛の関係を追ってみたいと思います。テキストは「印南敏秀    祝事と鯛文化  瀬戸内全誌のための素描212P 瀬戸内海全誌準備委員会」です

2 日本列島では、いつ頃からタイを食べてきたのでしょうか。
青森市の三内丸山遺跡からは約50種の魚介類の骨が見つかっています。その中にはタイの骨もあります。ここからは漁具も出てきていて、タイを網漁、釣漁、モリ漁などでいろいろな方法で獲っていたことが分かります。縄文時代からタイは、食べられていたようです。

 弥生時代になると稲作中心になったためでしょうか魚食は、減少するようですが、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『古今集』、『延喜式』などには、タイがよく登場するので、タイは食べ続けられていたようです。例えば『延喜式』には、朝廷に11か国からタイが貢納されるとして、三河、伊勢、志摩の伊勢湾、和泉、紀伊、讃岐の瀬戸内海、若狭、丹後の若狭湾、筑前、筑後、肥後の九州西北部が挙げられています。ここで押さえておきたいのは、和泉だけが鮮魚で、他は都から遠いため加工品で、瀬戸内の紀伊と讃岐は背開きの塩干しが貢納されていることです。
天然真鯛の手作り干物 レシピ・作り方 by ゴイ51 【クックパッド】 簡単おいしいみんなのレシピが378万品
鯛の背開き
 讃岐の貢納品である「背開きの塩干し」は、だれがどこで作ったのでしょうか?
農民には魚は獲れませんし、加工もできません。塩を作り、船を操船し、魚を獲って加工するといのは「海民」たちに相応しい仕事です。備讃瀬戸の塩飽などの島々には、古代から住み着いた海民たちが塩を作りながら、それを各地に運び、交換する交易活動を行っていたことがうかがえます。貢納した以外の加工品は、交易品として流通したかも知れません。
仁尾の蔦島
仁尾沖の蔦島 手前が父母が浜
   仁尾沖に浮かぶ大蔦島・小蔦島は、11世紀末に 白河上皇が京都賀茂社へ御厨として寄進しました。
そして、海民たちが京都賀茂神社の神事に必要なお供え物を貢納するために神人(じにん)として奉仕するようになります。その中に、燧灘で獲れた魚介類があり、タイもふくまれていたはずです。仁尾の神人たちは、次第に賀茂神社の持つ権威や「特権」を背景に、瀬戸内海の交易や通商、航海等に活躍することになります。そして、仁尾浦は海上交易の活動の拠点であるだけでなく、讃岐・伊予・備中を結ぶ軍事上の要衝地・港町として発展していくことになります。仁尾は、賀茂神社に奉仕する人々を中核として浦が形成されていきました。
 つまり、魚介類の貢納が彼らの発展のスタートだったのです。そして、仁尾や塩飽などは海民(あま)の拠点であったこと、それが交易拠点に成長して行くことを押さえておきます。

  仏教思想を受けいれるようになった貴族達は肉食を避けて、儀礼食として魚介類を好むようになります。
はじめは中国の影響をうけてコイなどの淡水魚の利用が多かったようですが、それがしだいに海水魚に代わります。 
  『万葉集』には、柿本人麻呂が明石の漁の様子を次のように詠んでいます。
 あらたへの 藤江の浦に 鱸(すずき)釣る 
 白水郎(あま)とか見らむ 旅行く吾を     
              (『万葉集』巻三 252)

藤江の浦で鱸(すずき)を釣る土地の漁師と人は見るであろうか。官命によって船旅をしているこの私であるのに。〕

726(神亀3)10月10日、聖武天皇の印南野行幸に従ってきた山部赤人は次のように詠みます。
 印南野の 邑美(おうみ)の原の 荒栲(あらたえ)の 
藤井の浦に 鮪(しび)釣ると 海人船騒き  
塩焼くと 人ぞ多(さは)にある (『万葉集』巻六 938部分)

 印南野の邑美の原の藤井(藤江)の浦に鮪(=まぐろ)を釣ろうとして海人の船が入り乱れ、塩を焼こうとして人がいっぱい浜に集まっている。

ここからは、明石の藤江の沖では、すずきやまぐを釣る漁師の船が数多く出漁していたことがうかがえます。同時に、塩が焼かれているので製塩も行われていたことがうかがえます。明石も海民(あま)の拠点だったようです。
   以後の明石を呼んだ歌も見ておきましょう。鎌倉時代には、
 しまかけて おきのつり舟 かすむなり あかしのうらの 春のあけぼの 慈円 『捨玉集』882
 
夕なぎの ふぢ江の浦の 入海に すゞきつるてふ 
あまのをとめ子 衣笠内大臣(藤原家良) 『夫木和歌抄』巻27
 
あかしがた うらぢはれ行く あさなぎに 霧に漕ぎいる あまのつり舟 後鳥羽院 建保2年(1214) 『玉葉和歌集』739
 
 あかしがた 波ぢはるかに なるまゝに 人こそ見えね 
 あまのつり舟 順徳院 建保4年(1216)『玉葉和歌集』2088

 ここからは古代から中世にかけての明石では、「海人(あま)の釣舟」(海民たちの漁船)が出て、魚を捕り続けていた事が分かります。これは、瀬戸内海の島々や沿岸部にいた海民に共通する姿だったのでしょう。

これらの魚介類の中で、人々が別格とランク付けする魚が出てきます。
それがタイでした。タイは、日本周辺に13種類がいて、クロダイなどの黒いタイとマダイなどの赤いタイにわかれます。祝魚として喜ばれたのが、肌の赤色くて、形も美しいマダイです。
真鯛分布図

マダイは暖かい海を好み、北海道南部から本州、四国、九州にまで広く生息しています。マダイは味が淡自で癖がなく、生・焼く・煮るなどのいろいろな調理にもあいました。また身が筋肉質で腐りにくく、変質しにくく、ひと塩すると保存性も増します。こうして、マダイは祝魚の王様として、日本人に最も愛される海水魚になっていきます。
真鯛の産卵場所
マダイの産卵場所
マダイは春に水温があがると、水深100~200mの越冬場から産卵のために浅場へと回遊してきます。
瀬戸内海には、東の紀伊水道と西の豊後水道から産卵のためにやってきます。産卵が活発に行われるのは、水温が15~17°前後のときで、これは瀬戸内海では5月初めの八十八夜頃にあたるようです。産卵期を迎えたマダイは、産卵にそなえて脂がのり、味もよく、赤味もまして色鮮やかになります。桜の開花期にあたるので「桜鯛」、産卵のために群れて島のように見えたので「魚島鯛」とも呼ばれました。

 桜鯛
桜鯛

福山市の瀬戸内海に注ぐ芦田川河口の中洲に、中世の港町・草戸千軒町遺跡が埋まっていました。
中洲のごみ溜からはタイ、カサゴ、ウマヅラハキなどの大量の魚の骨が見つかっています。その中で一番多く出てくるのがタイの頭部のようです。大きなタイは体長1mをこえています。中世の港町の人達が、魚を大量に消費していたことが分かります。これらの鯛も、鞆の沖でとれたものが運ばれてきていたのでしょう。庶民が大量に消費すると同時に、武家社会でもタイは儀礼用として重視されるようになります。
真鯛 - マダイ - | Fのかがやき

 古代は貴族社会では、鯉が最上級の魚だったことは先ほど述べました。しかし。江戸時代になるとその評価は逆転して「鯛は大位、鯉は小位」と云われるようになります。

鯛百珍料理秘密箱
鯛百珍料理秘密箱
 『鯛百珍料理秘密箱』のように鯛専門の料理書まで刊行されています。江戸幕府がひらかれると魚の需要が高まり、江戸の魚を確保するため関東全域から運ばれるようになります。魚が痛みににくい冬は、駿河湾や富山湾らも運ばれました。
                                 イケフネ(活魚運搬船)
江戸時代のイケブネ(活魚運搬船)
江戸初期には瀬戸内海で獲れたタイも、イケフネ(活魚運搬船)で活きたまま江戸に運ばれたこともあったようです。幕府は大坂に10人の担当者をおいて、塩飽諸島の与島に生貴場をつくっています。しかし、イケフネで運ぶ途中で死ぬタイが多く、江戸まで十分な量のタイは送れませんでした。
 また海難事故も頻発に起きます。岡山県笠岡市の真鍋島は3~5月にかけてタイ網魚が盛んでした。延宝年間(1673~81年)に真鍋島のイケフネが、漁の最初と最後に江戸までタイ運んで高収入をえました。ところが1681(延宝9)年にイケフネが熊野灘で遭難して、5艘が行方不明、4艘が破損してしまいます。そのため江戸送りは取りやめになったようです。

イケフネ(活魚運搬船)2
イケブネ(活魚運搬船)
 江戸は無理でも、大坂までは充分に運べるようになります。
イケブネと呼ばれる生き魚専用の運搬船が開発されていたようです。船底に穴を開けて、海上ではそこに海水を環流させながら魚を運んできます。淀川に近づくと栓をして川水の進入を防ぎます。そうして船の上で一匹ずつ絞めて、血抜きをしながら雑喉場(魚市場)に入っていったようです。このイケブネがいたために、家船漁師達は、何日も海の上で操業できるようになります。家船漁師が一本釣りで釣った鯛を、船上で仕入れて大坂に運ぶ業者も現れます。網で獲るよりも、一本釣りで釣った魚の方が商品価値は高かったようです。


 昭和初期のタイの料理法を見ておきましょう。
『日本の食生活全集』(農山漁村文化協会)は、大正末から昭和初期ごろの各県ごとの食事を以下のように聞き取りしてまとめています。
鯛料理別県数
タイの調理と食事の記録は西日本に多く、他の魚と比べて大きな違いは大半が祝事などの儀礼行事に出された点です。日本の三大鯛の兵庫県明石・徳島県鳴門・和歌山県大地で、鯛料理が少ないのは、大坂・京都などの都市部に売られたからでしょう。漁民達にとって鯛は、食べるものではなく売る魚だったようです。
 タイの調理法は焼魚が一番多く、すし、刺身、煮付け、汁物、鯛めんと続いています。
鯛めんはそうめん業が盛んな瀬戸内地方の調理法で、婚礼の席になくてはならないものだったことは、最初に見たとおりです。「めで(タイ)」と、夫婦が仲むつまじく「細く長く(そうめん)」人生がおくれる願いをこめています。
鯛の浜焼」 | 有限会社山家鮮魚

タイの調理法の中に、塩田と結びついた浜焼きがあります。
三豊市の詫間塩田では、塩田経営者が浜子に命じて贈答用に浜焼きをつくらせていたそうです。浜子は昔の浜焼きを次のように述べています。
①鉄の平釜で海水を煮ると約110°Cで結晶はじる。
②結晶しはじめた塩を板囲いの中にいれて、内臓をとったタイをコモで包んで置く。
③その上から塩をのせて1時間おくと浜焼きができる
浜焼きのタイは、ほのかに甘みがあり、締まった身は淡白だと云います。塩味はほとんど感じず、ワサビ醤油や酢の物につけるとおいしいそうです。鯛の獲れる「魚島」の時期でも、浜焼きは浜子の日給以上したようです。そのため浜子が浜焼きのタイを食べることはなかったと述懐しています。
瀬戸内の伝統「鯛の濱焼き」を未来へ繋ぐ「おさかな工房まるせん」@志度: さぬき市再発見ラジオ あそびの達人
浜焼き鯛
  近世から祝い事になくてはならなくなったマダイは高級魚としての地位を確立します。明治になると農民達も、鯛を縁起物として珍重したために魚価は高値安定で高級魚の代表とされてきたようです。そのために、いろいろな料理法も生まれています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

いただき屋さん
いただきやさんの海鮮食堂(高松市)
高松には「いただきやさん」という海鮮食堂があります。取れたての活きのいい魚を、安価に食べさせてくれる食堂です。この「いただきやさん」のネーミングを、私は「いただきます・ごちそうさまでした」からとったものと思っていました。しばらくして気づいたのは「いただく」とは「頭の上に掲げる=頭上運搬」だということです。
瀬戸内地方では、頭上運搬を「カベル」「イタダク」「ササグ」という動詞であらわします。それが転じて「販女(ひさぎめ)」をさすようになったようです。その分布は次のようになります
カベリ  能地・竹原市忠海・二窓、尾道市内や生口島、今治市大島
カネリ  島根県・山口県の西沿岸
ササグ  徳島県三野町阿部、運ぶ籠がイタダキ寵
イタダク 高松市瀬戸内町西浜は、販女をイタダキさん、
     魚を入れた籠がサカナハンボウ
イタダキさんについては、こんな話が伝わっています。

イタダキさんの先祖は糸より姫といい、後醍醐天皇の皇女で南北朝の戦乱をさけて西浜に落ちのび、糸を紡いでくらしていた。やがて漁師と結婚して行商をはじめたとき、えらい役人が使う言葉で「魚御用、魚御用」といったため、人々は恐れて家の戸を閉ざしてしまった。そこで、糸より姫が言葉や服装などを庶民に合わせると、魚が売れるようになった

   こうして高松周辺では頭上に物を載せて運搬することを"いただき"と言い、その人を"いただきさん"と呼んでいたというのです。今では、その姿も次第に消え自転車などで鮮魚を行商する人を、糸より姫の伝説にちなんで"いただきさん" と呼んでいます。
 いただきさんの先祖 イトヨリ姫
いただきやさんの先祖 糸より姫
伝説の"糸より姫"は1970年に、西浜漁港に銅像として建立されています。今では働き者の良妻賢母の範として親しまれているようです。その流れを汲む海鮮食堂なので「いただきやさん」の食堂と名付けられたのです。

高松の頭上運搬については、 以前に高松城下図屏風で紹介しました。そこには48名の「頭上運搬」の女性が描かれていました。
高松の頭上運搬
高松城下図屏風に描かれた頭上運搬の女達
この部分は現在の三越辺りにあった大きな屋敷の前を三人の女が頭に荷物を載せて北に向かって歩いて行く様子が描かれています。しかし、これはどうも魚ではないようです。彼女らが頭に載せているのは「水桶」だそうです。井戸で汲んだ水を桶に入れて、こぼさないようにそろりそろりとお得意さんの家まで運んでいるのです。城下町の井戸は南にありました。そのため彼女らの移動方向は南から、海に近い侍町や町屋へと北に動いているようです。男が担ぎ棒で背負っているのも水のようです。ここでは、以下のことを押さえておきます。
①木管による水道が整備される前の高松では、水が桶で武家屋敷などに運ばれていたこと、
②水運搬は、女は「頭上運搬」、男は担ぎ棒という違いがあったこと。
③頭上販売が魚行商の「専売特許」ではなかったこと

瀬戸内海沿岸で魚を販売していた販女を見ておきましょう。
『金毘羅山名所図絵』には、塩飽の家船漁民のことが次のように記されています。  
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとりをし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる 

意訳すると
塩飽の漁師は、丸亀沖で船を住み家として、夫は魚を捕り、妻は魚を入れた籠を頭にいただき、丸亀城下町で行商を行う。その売り上げで、米酒薪から絹布に至るまで市で買い求めて船に帰る

 塩飽は人名の島で漁業権はありますが、近世最初頃には漁民はいませんでした。ここで「塩飽の漁師」と呼んでいるのは、実は塩飽諸島の漁師でなく、能地(三原市幸崎町)を親村とする家船の人びとのことです。彼らは「船をすみかとし」て塩飽沖で漁を行い、獲れた魚を「妻は魚を入れた籠を頭にいただき」とあるので、頭上運搬で丸亀城下で行商をしていたことが分かります。
『金毘羅参詣名所図会』には海の向こうの下津井(現倉敷市)の頭上運搬者の行商を次の挿絵入りでオタタと紹介しています。

下津井の販女
下津井の販女(金毘羅参詣名所図会)
夫婦一緒に漁にでて、魚はオタタが籠にいれて頭の上にのせて売りました。挿絵には、一人が蓋をあけて豊かそうな町人客に魚をみせ、もう一人は子供を背負って、頭上には竹網の盥をのせているオタタの姿が描かれています。
  以上からは高松・丸亀・岡山の城下町には、頭上運搬で魚を行商する販女がいたことを押さえておきます。

家船の本村である能地(広島県三原市幸崎町)も販女がいました。
男たちが手繰網でとった海産物を、妻が朝から農家をまわって穀物類と物々交換しました。ただし、テリトリーやお得意さんの農家は決まっていたので、得意先をあらそうことはなかったようです。販女が担ったカエコトによる交換も、後には現金販売へと変わります。販路も遠隔までひろがり、商うものも主人がとった海産物から仕入れた海産物へと「成長」していきます。さらには海産物以外の小間物や薬なども扱うようになり、さらなる販路拡大へと向かう場合もあったようです。
松山市の道後平野の東部には、三津浜や松前から海産物の行商がきました。
普段はオタタが「魚おいりんか」といって得意先をまわり、支払いはカケで盆や節季にまとめて米や麦と交換します。ただし、法事や結婚式などの慶事のときは種類と量が揃う三津浜から直接買い入れたと云います。高松の西浜の販女が町場で売るときは、家ごとに事情にあわせて魚の種類と量を選んでいたと云います。このように瀬戸内沿岸部の村では、日常の海産物は販女によって供給されていたようです。

太閤検地 タイムスリップ
検地や刀狩りの進む中で、姿を現す近世の城下町

江戸時代になると瀬戸内沿岸にはお城が築かれ、城下町が発達します。
それが日本海の海路と結ばれ廻船による海運が盛んとなると港町も発達します。こうして城下町や港町などの町場では、正月や盆、祭りの年中行事、人生儀礼はもちろん、もてなし料理など多くの機会に生魚を食べるようになります。生魚などの海産物の需要が高まると、町場近くに漁村ができ市場を中心に流通するようになります。これが海産物の表(おもて)の流通市場です。
 一方、漁村はもうひとつ販売ルートを持っていました。
それは後背地の農村部です。そこでは百姓の穀物類と漁民の海産物をカエコト(物々交換)する中世以来の交換経済が続いていました。現在、日本の三大朝市で知られている佐賀県唐津市の「呼子朝市」なども、起源は漁民と農民の物々交換にあると言われます。
 農民に比べて漁民のほうが物々交換に切実でした。漁民は生活を維持するためには、どうしても穀物が必要だったからです。そのため夫が獲った魚を女(販女:ひさぎめ)が農村に出向いて物々交換したのです。西浜の販女は行商相手によって、次のように売る魚を替えていたと云われます。
農村には、小網漁でとった雑魚やエビを農家と交換
城下町の家々には、一本釣りでとった魚を販売
これも城下町と周辺農村では、求められる海産物に違いがあり、それをいただき屋さんはよく知っていたというこでしょう。同時に海産物の流通ルートには、いろいろな種類があったことがうかがえます。

販女については、民俗学者たちがはやくから注目してきました。
理由のひとつが、「頭上運搬」です。このルーツが海洋民族に関わるものと考えられたからです。

頭上運搬の輪 男1人を楽々乗せて: 日本経済新聞

販女は海産物を入れた浅い丸盤や籠を、頭上にのせて、安定するように頭と盥の間に輪を置いていました。この運搬方法は、女性特有の古い運搬法といわれ、次のような史料に登場します。
①絵画では選択場面が描かれた平安時代の『扇面古写経』
②文学では『源氏物語』に京で頭上運搬しながら商いをする販女
①の絵図を見てみましょう。
扇面古写経」に描かれた洗濯場面
平安時代の扇面古写経
この絵は当時の洗濯風景を描いたものですが、器物や衣裳、習俗などに関する情報がぎっしり詰まっていて研究者にとっては「宝の山」のようです。幼児や成人女性の髪型スタイル、洗濯の仕方など、ながめているだけでも興味が尽きません。⑱に描かれているのが頭上運搬の桶(籠?)のようです。これに洗濯物を入れて運んでいたのでしょうか? それとも高松と同じように、水を運んでいたのでしょうか?   
 これと同じようなものが一遍上人絵図にも出てきます。
一遍上人絵図 頭上運搬
一遍上人絵図
  何を運んでいるのかまでは分かりません。しかし、中世の絵巻物に描かれた女性の運搬方法は、みな頭上運搬だという研究報告もあります。どうやらこの国では近世までは、女性は頭上運搬が当たり前だったようです。特別な運搬法ではなかったのです。

伊勢物語 奈良絵本の頭上運搬
        伊勢物語に登場する頭上運搬者

1960年代前半に、文化庁が全国約1500か所で緊急民俗資料調査をおこなっています。それを交易・運搬の項目について、図と表で再整理されたものが次の地図です。

販女が行商する物品

 女性が行商していた品からは次のようなことが分かります。
①全国的に沿岸では海産物(魚・海藻)を行商していること
②山の産物(薪・炭)とその他(小間物・薬.・花)は全国的にみてもわずかであること
 瀬戸内海では、ほとんどが海産物であったことが分かります。薪や炭・花などの山の産物については、京都周辺の大原女の行商がよく知られていますが、全体から見ると少数派になるようです。1960年代には、海辺の女達による周辺農村への海産物の行商が、その中心だったことを押さえておきます。

大原女の頭上運搬
大原女(観光写真)
それでは、彼女たちはどんな方法で行商する品を運んでいたのでしょうか。
販女の運搬方法

上の表からは次のようなことが分かります。
①背負運搬と肩担運搬は東日本に多い
②頭上運搬は西日本に多く、瀬戸内海・琵琶湖などの沿岸地帯に集中する傾向が強い
③日常生活でも頭上運搬を行うエリアは、沿岸地帯に集中する。

調査が行われたのは1960年代前半は、高度経済成長の入口で自動車が普及していく時代です。輸送手段が自動車にかわり、販売の担い手が女性から男性へと変化していきます。そうしたなかで女性の行商が続いて行われているのは、市場からはみ出た品で、流通機構のからこばれた不便なわずかな場所に限られていたことが推測できます。

式根島の頭上運搬
式根島の頭上運搬
近世になって、女性の頭上運搬が姿を消して行くようになるのはどうしてでしょうか?
ある民俗学者は次のように考えています。
頭上運搬がおこなわれたのは、産物を神祭りに捧げいただく敬虔な心意を表わした運搬法だったからだ。そこには宗教的な理由があった。それが信仰心がうすれて、より有効な運搬法が一般に普及してくると、頭上運搬は一部の地域だけに遺風をとどめながら衰退していった。それは、実際に、頭上運搬から肩おい運搬、背おい運搬に変化していく地域が多いことからも推測できる。

 確かに、販女が神祭りのときに特別な存在であったという伝承は各地に残っています。
愛媛県伊予郡松前町の販女、オタタさんは、松山地方の農村が早害になると、みな潔斎して海水を汲んで頭上にいただき、川上の雨滝に参って海水を注ぎいれて、雨を祈念したといいます。しかし、これでは「合点だ!」とは私は云えません。よく分からないとしておきます。

DSC02389カベル 高見島除虫菊
除虫菊を「カベル」 高見島 1960年代

以上をまとめておくと
①日本列島には近世までは、女性がものを運ぶ場合には「頭上運搬」が行われていた。
②それが近世になると瀬戸内海沿岸部や島嶼部だけに見られる遺風となっていった。
③瀬戸内海では漁村の女性達が行商の際に、「頭上運搬」を続けたので目立つ存在となった。
④それに注目した民俗学者が「頭上運搬のルーツ=海洋民族説」と結びつけたこともあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

瀬戸内海

参考文献
印南敏秀    海産物の流通と行商の  瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会
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中世の瀬戸内海の海運活動では、為替決済が行われていたことは以前にお話ししました。
古代には、地方の人々は指定された特産物を中央の支配者に直納していました。しかし、中世になるとモノではなく銅銭(カネ)で納入するようになります。地方の人々が産物を販売して得た銅銭を支配者に送付し、支配者の方は入手した銅銭で必要な物を中央で購入するようになったのです。これは、社会的分業と交換が進展していたことを意味します。
 それなら「銅銭建て納入」ということで、瀬戸内海を大量の現金を積んだ船が行き交ったのかというとそうではないようです。これは輸送リスクが大きすぎます。そこで登場するのが「為替」です。商人が地方で銅銭と交換するかたちで放出した為替文書を荘園が購入し、それを領主に送付し、領主が中央で換金するという仕組みが生まれます。それが実際にどのように運用されていたかを今回は見ていくことにします。
『厳島神社蔵反古裏経紙背文書』は、本山寺の本堂が建立された1300年頃の文書で、京都方面と歌島(今の尾道市向島)との間でやりとりされた手紙が中心です。

反古裏文書(紙の裏に書かれた書面)
紙は貴重品だったので、片方だけ使って捨てたりせずに、先に書いた文書を反故(ほご。ひっくり返して無効化)として、裏面に新たな文書を書いて利用していました。反故にされるような内容なればこそ、日常的な生活のリアルな情報が記録されているともいえます。宮島の反故文書には、多くの為替記事があるようです。それを見ておきましょう。中世の為替は、次の2種類に分けられます。

①「原初的替銭のしくみ」
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)
替米

為替取引とは、遠隔地間の貸し借りを決済するのに、現金の輸送ではなく、手形や小切手によって決済する方法のことです。日本で最初の為替取引は、「替米(かえまい)」と言われています。「替米」は、遠隔地に米を送るのに、現物の代わりに送る手形のことです。中世になると為替取引が発展し、鎌倉時代には将軍に仕えた御家人が鎌倉や京都で米や銭を受け取る仕組みとして為替取引が行なわれるようになります。
為替

 この場合、為替をやりとりする者同士には信頼関係があることが前提になります。この信頼関係をもとに、文書が次の人へと手渡されていき、その上で最終的な払出人と文書の持参人の間にも信頼関係がある場合に、払い出しが行われます。しかし、このシステムでは、払出人が為替を持ってきた人を知らない場合には、支払いは行われません。
そこで②「割符」というシステムが登場します。
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)

このしくみでは、最終的な払出場面のおいて信頼関係がない(払出人が持参者と面識がない場合)でも払い出しができます。なぜならば、振出人が割符を振り出す際に、「もう1つの紙切れ」との間で割印を施しておき、その「もう1つの紙切れ」の方を振出人自身(あるいはその関係者)が直接払出人に持ち込めば、払出人は割符と片方文書との割印が合致すものを見て、面識のない持参人が持参した割符が本物であることを確信できるからです。この「もう1つの紙切れ」のことを、片方(カタカタ)と呼んだようです。

SWIFT動向(ISO20022)について | 2021/10/27 | MKI (三井情報株式会社)
割符屋の役割と割符発行

この2つの為替システムの併用版が、「明仏かゑせ(為替)に状」(『鎌倉遺文』24368号文書)に次のように登場しています。

ひこ(備後)の国いつミ(泉)の庄よりぬい殿かミとのヽ御うちへまいる御か□せ(為替)にの事
合拾貫文者吐参貫文上、(花押)
右、件御かゑせ(為替)に、このさいふ(割符)ふミたうらい三ヶ日のうち、この御つかいに京とのにし□こうちまちのやと(宿)にて、さた(沙汰)しわたしまいらせられ候へく候、
さいふ(割符)のなかにも、せに(銭)のかす(数)を□(か)きつけて候、御うた(疑)いう候ましく□、例かゑ(為)状如レ件、
応長元年七月十二1日         明□(仏))
よと(淀)のうをの市次郎兵衛尉殿

意訳変換しておくと
備後国泉の庄のぬい殿からヽ御うちへまいる御か□せにの事
拾貫文者吐参貫文上、(花押)
右、件御かゑせ(為替)に、このさいふ(割符)ふミたうらい三ヶ日のうち、この御つかいに京とのにし□こうちまちのやと(宿)にて、さた(沙汰)しわたしまいらせられ候へく候、さいふ(割符)のなかにも、せに(銭)のかす(数)を□(か)きつけて候、御うた(疑)いう候ましく□、例かゑ(為)状如レ件、
応長元年七月十二1日         明□(仏))
よと(淀)のうをの市次郎兵衛尉殿

 ここからは現在の広島県庄原市にあった備後泉庄から京都の領主に送金するために、為替つまり替銭が利用されたことが分かります。最後に登場する「明仏」は、備後国の金融業者で京都の荘園領主とは面識はなかったかもしれません。あるいは、面識があったので、荘園領主から現地での年貞の取立をまかされていたのかもしれません。それについては、これだけでは分かりません。
 この文書の背景には、次のようなやりとりがされています。
①荘園の使者(oR領主)は、備後国で明仏に10貫文(銅銭1万枚)を支払う。
②これに対して明仏は、京都綾小路の宿での払い出しを、淀の魚市次郎兵衛尉に委託する文書である「替状」を使者に渡す。
③その後、使者は淀まで行って魚市次郎を訪ね、京都の錦小路での払い出しを受ける。
④そこで使者は、備後での人金分10貫文を京都で入手する。
ちなみに、当時の米1石の値段が大体1貫文だったようです。10貫文は、米10石に相当します。当時の米10石は、平安時代末期の基準で考えれば、今の米6石(米900 kg)で、現在の米価格を10 kg=4000円で計算すると、10貫文は現在の36万円相当になるようです。
お寿司の一貫は? Part.4(最終回) | 雑学のソムリエ

   ただし、今は米の価値が昔に比べて下がってしまいました。当時の米10石は、もう少し当時は値打ちがあったと研究者は考えています。
 もう一度史料を見てみましょう。この時に3貫文分の割符が同時に送られています。これはどうして分けて発行しているのでしょうか。その3貫文分は魚市次郎が割符屋に持ち込んで、片方文書との間で施された割印が、割符の割印と合致すれば、換金が可能です。割符の方はそれでいいのでしょうが、問題は残り10貫文の方です。これは知らない人間には払い出せないというしくみのはずです。魚市次郎は安心して払い出すことができるのでしょうか。それとも、明仏の書いた文書(替状)を持参してきた使者と面識があったのでしょうか。

この問題について、研究者は次のように考えていきます。
①もし面識があるならば、使者の実名が記されていれば十分で、文書の中に備後国云々まで書く必要はない。
②「御うたかい候ましく」とあるのは、逆に疑わしかった証拠。使者が本当に荘園の使者なのかどうか分からなかった。
つまり、魚市次郎と使者には面識がないことになります。にもかかわらず、明仏が払出の依頼をできたのはなぜでしょうか。

この謎を解く手がかりは、替状と割符とが一緒に送られている事実にあると研究者は指摘します。
つまりこの替状は、単独で持ち込まれたのでは本物かどうか分かりません。しかし、魚市次郎のところに同時に持ち込まれた割符が割符屋で木物と判断されて払い出されれば、魚市次郎は割符屋を通じて、割符主が明仏と取り引きをしたかどうかが確認可能になります。たとえその確認ができなくても、魚市次郎は、筆跡からみても自分の知り合いの明仏のものと思えるその文書は、やはり本物だろうという判断がしやすくなります。
 このように明仏は、魚市次郎に見知らぬ使者に対する払い出しを依頼する際に、額面10貫文の割符を調達できない場合でも、当面入手可能な3貫文の割符を入手して替状に添えて送れば、魚市次郎は払い出してくれるはずだと考えたのです。ようするに、この割符は、持参人と払出人との間の信頼関係がないばあいには機能しない「原初的替銭」に対して、その「弱点」を補完するために利用されているということになります。

こうしてみると、1300年代初めには、為替はさらに進化していたことが分かります。
瀬戸内の物流を担う商人たちが活動するなかで、それを支える金融業者が各港に現れ、円滑な資金移動を支える金融ネットワークが形成されていたことになります。為替が瀬戸内海を結ぶ遠隔地交易の発展を促していたとも云えます。
 為替文書が、交易商人によって生み出されます。最初は「疑わしい紙切れ」だったかもしれません。それを瀬戸内の物流活動が「有価文書」に成長させ、さらには紙幣へと発展せしめることになると研究者は考えています。
 1500年以降に割符はいったん消滅するようです。為替の発展と紙幣の登場は直線的ではないようです。しかし、中世の為替システムは、大きな視点で見ると日本金融のスタートとも云えるようです。

DSC07725
大野祇園神社(三豊市山本町)

最後に讃岐三豊市山本町にあった大野荘で使われていた為替システムを見ておきましょう。

大野庄は、京都祇園宮の社領でした。そのため京都祇園宮の牛頭天王(須佐之男命)が産土神と勧進され、毎年本宮の京都祇園宮へ燈料として胡麻三石を供進していたようです。『八坂神社記録』(増補続史料大成)(応安五年(1372)十月廿九日条)には、次のように記します。
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。

意訳変換しておくと
讃岐の西大野から伊予房が上洛してきた。今年の年貢は二十貫だという。この内の一貫は讃岐での必要経費、又一貫は上洛にかかる経費で差し引くという。伊予房とともに近藤氏の代官が同道して、割符は運んできた。しかし、今日は近藤氏の役人は所用で来れないので、明日諸事務を行うつもりだと伊予房から報告を受けた。

 八坂神社は、京都の祇園神社のことです。一行目に「西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々」とあります。ここからは祇園神社に納められる年貢は二十貫で銭で納めていたことが分かります。
  伊予房という人物が出てきます。この人は八坂神社の社僧で、西大野まで年貢を集めに来て、京都に帰ってきたようです。年貢がスムーズに納められれば取り立てにくることはないのですが、大野荘の現地管理者がなかなか年貢を持ってこないので、京都から取りに来たようです。その場合にかかる旅費などの経費は、年貢から差し引かれるようです。
DSC07715
大野祇園神社(須賀神社と八幡神社の2つの社殿が並んでいる)

「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」とある近藤という人物が西大野荘の代官です。

近藤氏は、麻城主(高瀬町)城主で、麻を拠点に大野方面にも勢力を伸ばしていた地元の武士です。大野荘の代官である近藤氏が「際符(割符:さいふ)」で年貢を持参して一緒に、上洛してきたようです。
ここまでを整理すると、
①荘園領主の八坂神社の 伊予房が、年貢を取り立てに大野荘にやってきた。
②そこで代官近藤氏が「際符(割符)」で、京都に持参した。
  ここからは、麻の近藤氏が「割符」で八坂神社に年貢を納めていたことが分かります。この割符は、観音寺などの問屋が発行しことが考えられます。その「割符」を、近藤氏の家臣が伊予房と同道して京都までやったようです。祇園社は、六条坊内町の替屋でそれを現金に換えています。
「際符(割符)」には、次のようなことが書かれていたと研究者は考えています。
①金額 銭20貫文
②持参人払い 近藤氏
③支払場所 京都の何町の何とか屋さんにこれを持って行け
④振り出し人の名前
 ちなみに大野荘の代官を務めた近藤氏は、その後押領を繰り返すようになり、荘園領主の八坂神社との関係は途切れていったようです。

参考文献 井上正夫 中世の瀬戸内の為替と物流の発展 瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会)
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   瀬戸内海の港について、これまでに何度もお話ししてきました。しかし、大きな流れの中で捉えることは出来ていませんでした。そんな中で瀬戸内海の港町の歴史をコンパクトにまとめている文章に出会いましたので、「読書ノート」としてアップしておきます。テキストは「市村高男 港町の誕生と展開 「間」から見る瀬戸内海」です.

瀬戸内海

 
港と言われると、船が入港して停泊する場のことを思い浮かべます。しかし、古代には港という言葉は使われず、「水門・津・泊・船瀬」などの語が使用されていたようです。それぞれを見ておきましょう。
  水門は「水戸や江戸」と同じで河口にできた船着き場のことです。
その「みなと」が漢字で表記されて「湊」になったと研究者は指摘します。紀の川の河口に立地する和歌山市の一角に「湊村」があります。これは城下町になる前の和歌山が、港・湊を基礎に発展してきた例のひとつです。

津は川や海に面した湾・入江に成立した渡し場、船着き場を指す言葉でした。

宇多津地形復元図
中世宇多津復元図(聖通寺山との間に大きな入江があった)

宇多津は、大束川の河口とそれを包み込む湾にありましたので、宇多津と呼ばれたようです。袋状の湾からなる兵庫県の室津や広島県福山市の鞆の浦は津の代表です。

泊も湊・津と同じく船の着岸する場を意味します.
しかし、重点は停泊地という側面にあるようです。
福原京と大輪田泊(おおわだのとまり) | 自然に生きる
大輪田の泊と福原京
泊は、平清盛が整備した大輪田の泊(神戸市)がその代表になります。清盛が整備した港に、音戸の瀬戸(広島県音戸町)がありますが、ここは倉橋島との間の水道があります。尾道や瀬戸田も水道に成立していて、瀬戸内海の港湾のひとつの特徴のよううです。
 10世紀に編纂された『延喜式』には、主として川湊を指す言葉として船瀬が見えます。しかし、時代が下ると次第に、湊・津・泊の違いはなくなっていきます。中世後半には、どれも区別なく港湾を指す言葉として使われ、江戸期以降には港の表記が一般化します。

以上を整理しておきます。
①古代には「港」は使われずに、「水門・津・泊・船瀬」が使用されていた
②中世後半なると、その区別がなくなった
③江戸期には「港」が一般化する。
 港が登場したのは、いつなのでしょうか?
人々が生活のために川を渡り、海に漕ぎ出すことが多くなれば、船の発着する場が必要になります。縄文時代には丸木舟・刳り舟が登場するので、自然地形を利用した原初的な港があったはずです。
弥生時代の船-大航海時代のさきがけ- : 御領の古代ロマンを蘇らせる会
弥生・古墳時代の船
 弥生時代になると、刳り船の他に準構造船も現れます。倉敷市の上東遺跡では、船着き場らしい遺構も出てきていますが、その数が多くないので分からない事の方が多いようです。
古墳時代になると、讃岐から播磨や摂津に古墳の石棺などが運ばれています。ここからは物資輸送のために、大きな準構造船が瀬戸内海を往来していたことが考えられます。また、漁携や小規模な物資などを運ぶ小さな船も瀬戸内海を行き来していたのでしょう。当然、そこには船が寄港する港が各地にあったはずです。それは、大きな古墳に葬られる首長が管理る港から、民衆が日常的に使う地域の港まで階層性を持って、海岸線にあったと思います。この時代の船着き場や遺構は、残っていまでんが、河口や入江などに造られていたと研究者は考えています。

律令制の時代になると、瀬戸内海では海運・水運がかなり発展していたようです。
律令国家は最初は、陸運を重視する政策をとって、平城京や平安京を中心に7つの幹線道路が整備されます。そのうち瀬戸内地方では、
①中国地域南岸を東西に走る山陽道
②淡路島から阿波・讃岐・伊予を通って土佐国府に通じる南海道
南海道はのちに四国山地を横断するルートが開かれますが、これらの幹線は、畿内と各国の国府を結び、街道沿いにはは駅が置かれ、馬やその飼育に当たる人、宿泊・休憩施設などが設けられました。国司や朝廷の使者の移動、調庸をはじめとする貢納物輸送などに使用されていました。

5中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。(
鎌倉時代の船

律令制が崩れる10世紀以降になると、地域の実情に応じて柔致な交通路の選択が許されるようになります。

そうすると、瀬戸内海沿岸では便利で安価に物資や人を大量輸送できる海運・水運が改めて評価されるようになります。こうして、ほとんどの京都への貢納品は船で運ばれることになります。
どんな港が瀬戸内海沿岸には、現われたのでしょうか?
第一は、国府津・国津などと呼ばれる国衙管理下の公的な港です。
これらの港は、留守所と呼ばれるようになった国衛保護のもとに、山陽道・南海道の最大の港になっていきます。そこには石積で築かれた船着場や、船の発着を管理する人や施設、物資を保管する倉庫なども姿を見せるようになります。後には、隣接して市が建てられるようになります。
6松山津
讃岐国府津の林田・松山
讃岐の国府津のついては、綾川河口の林田や松山などに、機能を分散させながらあったと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
第二は、郡単位に置かれた郡衛の付属港です。
律令制が崩れると郡衙も変質し、国司の子孫や武士化した郡司の子孫らが管理・運営するようになります。彼らは国府津に準じて沿岸部や河川の郡の港を整備し、船着き場や管理施設を持つ港も現れます。この例としては、多度郡の弘田川河口の白方湊や、三野郡三野湾の三野津が考えられます。
宗吉瓦窯 想像イラスト
三野津(宗吉瓦窯から藤原京への積みだし)
第三は、荘園の港です。これは11世紀以後のことになります
11世紀の院政期になると、院・天皇家や有力公家・寺社に荘園が寄進され、各地に荘園が増えます。荘園の年貢を京都の領主に輸送するためは、その積出港が必要になります。例えば、当時の国際港湾都市であった博多の西にある今津は、博多に対す新しい港であることを意味する名称です。、ここは12世紀に仁和寺領恰土(いと)荘(福岡市)の港として設置されたものです。

 尾道は、12世紀に後白河院を本家とする備後国大田荘(広島県世羅町)の倉敷(倉庫の敷地)に指定されたのが、港に発展する出発点です。こうして、そこに本家の氏神が勧進され、保護を受けた寺院が姿を現します。そして本家からの保護を受けた寺社は、港の交易センターの機能を果たすようになります。僧侶は、港や交易ネットワークの管理者でもあったようです。対外貿易にもつながるこのネットワークは、莫大な富をもたらすようになります。各宗派は瀬戸内海沿いに布教ラインを伸ばし、重要な港に拠点寺院を構えていくようになります。
第四は地域の必要から成立した港です。
大きな川の河口に、港が出来て大都市に成長するのは世界中で見られることです。大河川は河川輸送の最大の集積地の役割を果たすからです。人とモノとカネが集まってきます。これは瀬戸内海に流れ出す川の河口でも見られます。また、山地と海をつなぐ道路の海側の起点にも、港が現れます。こうして瀬戸内海沿岸地域には、大小さまざまな港が姿を見せるようになります。さらに、船の運航上、潮待ち・風待ちのためのための港も必要になります。現在では「離島」と呼ばれる島々にも港ができ、瀬戸内海航路や廻船のネットワークの中に組み込まれていきます。

 中世の航海法は、安全重視です。船から陸地が見えるところを目指し、隣り合った港に立ち寄りながら目的地に向かいます。沿岸部に並び立ち、島々にも散在する港は航海の安全を保障するためには必要な設備だったのです。目的地に一番最短距離で、一番早くというのは、動力船が登場する近代以後の論理です。

瀬戸内海の港町が発展するのは14世紀以後のことでした。
博多や兵庫(大輪田)など、比較的早く港町に発展したところもあります。しかし、瀬戸内沿岸の港が港町に発展するのは、案外新しく14世紀以降の経済発展によるもと研究者は考えています。
兵庫湊が港町に発展するのは、京都の発展に伴うもので13世紀にさかのばります。14世紀後半以降の物流の増大は、瀬戸内沿岸に新たな港を生み出すことになります。新しく登場する港を挙げておきましょう。
備前の牛窓・下津丼、
備後の尾道・輌
安芸の十日市
周防の三田尻・上関
讃岐の野原(現在の高松)・宇多津
野原復元図
野原(高松)港復元図

これらの港町の立地条件としては、中国山地から南下する河川や道路、讃岐山脈から流れ下る香東川などの河川や道路の結び目にあります。内陸から運ばれた物資が川船や馬借たちによって集められ、そこで海船に積み替えて各地に運ばれていきます。港は最大の物資集積地になります。港町は物資の集散地として、内陸から来たものは海へ、海から来たものは内陸へ運んでいく拠点となっていたことを押さえておきます。
DSC03842兵庫入船の港
野原(現高松港)の動き

 中世港町の構造の特色はなにか?
中世港町の尾道は、備後国太田荘の倉敷から発展した尾道は、次のような複数の集落から発展します。
①浄上寺とその麓の堂崎
②西国寺とその麓の上堂
③その西側に成立した御所崎
備前の牛窓も関・綾・紺など複数の集落からなっていました。讃岐の宇多津や綾川河口の林田湊なども同じことが云えるのは、以前にお話ししました。中世の主要な港町は、ほとんどがこうした複数集落の寄り集まりでできています。そして、それぞれの集落に船着き場、船主や船頭・水主らの住居、物資を保管する倉庫業者、港の住人の生活物資や集まった物資の売買に当たる商人など、さまざまな住民が住んでいたことが分かってきました。地域的な日常的生活での繋がりをベースにして、船に乗りこんでいたのです。つまり、船の運航は陸上での生活集団によって担われていたということです。船乗りを他所から自由に雇い入れたりするようなことは、できなかったようです。

法然上人行状絵図34貫 淀川を下る船
法然上人絵図の室津 塩飽に向かう法然が乗った船
 
もうひとつ押さえておきたいことは、港町は地域の権力から自立していたことです。
堺が自治都市であったことは有名ですが、瀬戸内海の港町にも、その中や周辺に武士団の館跡は見当たりません。尾道・牛窓・下津井などが、領主権力により直接支配されたことはなかったと研究者は考えています。確かに16世紀上を過ぎると、牛窓や下津井にも地域権力の城が造られます。これは権力が富の集まる港町に寄生するようになったことを示します。しかし、これで「支配下に置いた」とは云えないようです。
中世の和船2
中世の船
 江戸時代になると、幕府や藩の直轄港に指定される港も出てきます。それでも、港町の自治が全面的に否定されたことはありませんでした。それは、宇多津などにも云えることです。
 しかし、城下町最優先政策の結果、それまで重要な港湾機能を持っていた港町から、その一部が取り上げられ、城下町に持って行かれたり、主要住民が強制移住させられたりはします。それは藩主による城下町重視の「地域経済圏の再編」策のひとつであったようです。宇多津や多度津の機能も近世始めに大きく変化したようです。

 北前船の運航によって日本海沿岸と瀬戸内海の港町が大いに発展し、港町が日本の都市の代表となります。しかし、これが明治半ば以後に鉄道が姿を現すようになると大きく変化することになります。その中で、博多・下関・兵庫など主要な港町は、新たな役割を担って発展します。しかし、次のような状況が海運業界を襲います
①廻船輸送から鉄道輸送に主役が代わること
②船の動力化と大型で、目的地に直行
こうして主要道路や鉄道からから外れた港町は、瀬戸内海の多くの港町は衰退に向かうことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 市村高男 港町の誕生と展開 「間」から見る瀬戸内海
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女木島遠景
髙松沖に浮かぶ女木島
女木島は高松港の赤燈台のすぐ向こうに見える島です。
映画「釣り場バカ日記」の初回では、ハマちゃんはここに新築の家を持ち、早朝の釣りを終えてフェリーで髙松支店に通勤していました。  高松港から一番近い島です。今は「瀬戸芸」の島として名前が知られるようになりました。
女木島丸山古墳2
女木島の丸山古墳
この島の見晴らしのいい尾根筋に丸山古墳があります。

女木島丸山古墳1
女木島丸山古墳3
説明版には、次のような事が記されています。
①5世紀後半の円墳で、直系約15m
②埋葬施設は箱式石棺で、岩盤を浅く掘り込んで石棺を設置し、その後に墳丘を盛土し、墳丘表面を葺石で覆っている。
③副葬品としては曲刃鎌、大刀と垂飾付耳飾が被葬者に着装された状態で出土している。
女木島丸山古墳5

研究者が注目するのは、被葬者が身につけていた耳飾りです。
この垂飾付耳飾は「主環+遊環+金製玉の中間飾+小型の宝珠形垂下飾」という構成です。この耳飾りの特徴として、研究者は次の二点を指摘します。
①一番下の垂下飾の先端が細長く強調されていること
②中間飾が中空の空玉ではなく、中実の金製玉であること
この黄金のイヤリングは、どこで造られたものなのでしょうか?
 
 高田貫太氏(国立歴史民俗博物館)は、次のように述べています。

「ハート形垂飾付き金製耳飾りは日本では50例ほどが確認されているが、本墳の出土品は5世紀前中葉に百済で作られたもので、日本ではほかに1例しか確認されていない。被葬者は渡来人か、百済と密接な関係を持った海民であろう」

   5世紀半ばに、百済の工房で作られたもののようです。それを身につけていた被葬者は、百済系の渡来人か、百済との関係を持っていた「海民」と研究者は考えているようです。それは、どんな人物だったのでしょうか。
今回は、丸山古墳の被葬者が見た朝鮮半島の5世紀の様子を見ていくことにします。テキストは「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」です。

女木島

 丸山古墳からは髙松平野だけでなく、吉備地域の沿岸部がよく見えます。
女木島は高松港の入口にあり、備讃瀬戸航路がすぐ北を通過して行きます。この周辺は、塩飽諸島から小豆島にかけての多島海で、狭い海峽が連続しています。一方、女木島は平地も少なく、大きな政治勢力を養える場所ではありません。この地の財産と云えば「備讃瀬戸の航路」ということになるのでしょうか。それを握っていた人物が、自分の財産「備讃瀬戸航路」を見回せる女木島に古墳を造営したと研究者は考えているようです。
そしてその人物は「海民」で、次の2つが考えられると指摘しています。
①在地集団の首長
②朝鮮半島百済系の渡来人
 ①②のどちらにしても彼らが朝鮮半島南部に直接出かけて、百済と直接に交流・交易を行っていたということです。
倭人については、次のような見方もあります。
季刊「古代史ネット」第3号|奴国の時代 ② 朝鮮半島南部の倭人の痕跡
対馬海峡の両側を拠点に活動していた海民=倭人
古代国家成立以前には、「国境」という概念もありません。船で自由に海峡を行き来していた勢力がいたこと。その一部が瀬戸内海にも入り込み定着します。これを①の在地の海民集団とすると、②は朝鮮半島に留まった海民集団になります。どちらにしてもルーツは倭人(海民)ということになります。
 従来の学説では、ヤマト政権下に編成され、管理下に置かれた海民達が朝鮮半島との交易を担当していたことに重点が置かれてきました。しかし、女木島の丸山古墳に眠る被葬者は、海民(海の民)の首長として、ヤマト政権には関係なく直接に百済と関係を持っていたと云うのです。朝鮮半島との交渉に、倭の島嶼部や海岸部の地域集団が関わっていたことを示す事例が増えています。女木島の丸山古墳に眠る百済産の耳飾りをつけた人物もそのひとりということになります。
 瀬戸内沿岸の諸地域は5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を採用しています。
今は陸続きとなった沙弥島の千人塚も、その系譜上で捉えられます。沙弥島千人塚
沙弥島千人塚(方墳)
瀬戸内海には女木島や沙弥島などの海民の拠点間で、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていたと研究者は想定します。それは別の視点で云うと、朝鮮半島からの渡来集団の受入拠点でもありました。女木島の場合は、その背後に岩清尾山の古墳群を築いた勢力がいたとも考えられます。あるいは吉備勢力とも、関係をもっていたかもしれません。どちらにしても、丸山古墳の被葬者は朝鮮半島と直接的な関係を持っていたことを押さえておきます。
女木島丸山古墳4

朝鮮半島の西・南海岸地域からは「倭系古墳」と呼ばれる古墳が出てきています。
倭系古墳1
南西海岸の倭系古墳
倭系古墳の特徴は、海に臨んで立地し、北部九州地域の中小古墳の墓制を採用していことです。その例として「野幕古墳とベノルリ3号墳」の埋葬施設を見てみましょう。
倭系古墳 竪穴石室

何も知らずにこの写真を見せられれば、日本の竪穴式石室や組石型石室と思ってしまいます。ベノルリ3 号墳の竪穴式石室は両短壁に板石を立てている点、平面形が 2m × 0.45m と細長方形で直葬の可能性が高い点などが、北部九州地域の石棺系竪穴式石室のものとほぼおなじです。
 次に副葬品を見てみましょう。 
韓半島出土の倭系甲冑
 朝鮮半島出土の倭系甲冑
野幕古墳(三角板革綴短甲、三角板革綴衝角付冑)、
雁洞古墳(長方板革綴短甲、小札鋲留眉庇付冑 2点)
外島1号墳(三角板革綴短甲)
ベノルリ3 号墳(三角板革綴短甲、三角板鋲留衝角付冑)
いずれの古墳からも倭系の帯金式甲冑が出てきます。
野幕古墳やベノルリ3号墳の2古墳から出土した主要な武器・武具類については、一括で倭から移入された可能性が高いと研究者は考えています。このように、野幕、雁洞、外島 1・2 号、ベノルリ3 号の諸古墳は、外表施設、埋葬施設、副葬品など倭系の要素が強く、倭の墓制を取り入れたものです。そして築造時期は、5世紀前半頃です。つまり、これは先ほど見た女木島丸山古墳の被葬者が活躍した年代か、その父親世代の年代になります。
このような「倭系古墳」の存在は、かつては日本の任那(伽耶)支配や高句麗南下にからめて説明されてきました。
しかし、 西・南海岸地域には朝鮮在地系の古墳も併存しています。これはこの地域では「倭系古墳」の渡来系倭人と朝鮮在地系の海民首長が「共存」関係にあったことを示すものと研究者は考えています。
「倭系古墳」の性格は、どのようなものでしょうか。
これを明らかにするために「倭系古墳」の立地条件と経済的基盤を研究者は見ていき、次のように指摘しています。
①「倭系古墳」は西・南海岸地域の沿岸航路の要衝地に立地する。
② この地域はリアス式の海岸線が複雑に入り組んでおり、潮汐の干満差が非常に大きく、それによって発生する潮流は航海の上で障害となる。
③ 特に麗水半島から新安郡に至る地域は多島海地域であり、狭い海峽が連続し、非常に強い潮流が発生する。そのために、現在においても航海が難しい地域である。
 ここからは西・南海岸地域の沿岸航路を航海するためには、瀬戸内海と同じように、複雑な海上地理や潮流を正確に把握する必要がありました。それを熟知していたのは在地の「海民」集団であったはずです。 
 高興半島基部の墓制を整理した李暎澈は、M1、M 2 号墳を造営した集団について、次のように記します。
  埋葬施設がいずれも木槨構造であり、副葬品に加耶系のものが主流を占めている点から、その造営集団は「高興半島一帯においては多少なじみの薄い埋葬風習を有していた集団」であり、「小加耶や金官加耶をはじめとする加耶地域と活発な交流関係を展開していた集団」

この集団が西・南海岸沿いの沿岸航路や内陸部への陸路を活用した「交易」活動を生業としていた「海民」のようです。このような海上交通を基盤としていた海民集団が西・南海岸地域には点在していたことを押さえておきます。
彼らは、次のようなルートで倭と百済を行き来していました。
①漢城百済圏-西・南海岸地域の島嶼部-広義の対馬(大韓・朝鮮)海峡-倭
②栄山江流域-栄山江-南海岸の島嶼部-海峡-倭
 倭からやってきた海民たちも、このルートで百済や栄山江流域などの目的地を目指したのでしょう。朝鮮半島からの渡来人たちが単独で瀬戸内海を航海したことが考えにくいように、西・南海岸地域を倭系渡来人集団だけで航行することは難しかったはずです。円滑な航行には複雑な海上地理と潮流を熟知する現地の水先案内人が必要です。そこで倭系渡来人集団は、西・南海岸地域に形成されていたネットワークへの参画を計ったことでしょう。そのためには、在地の諸集団との交流を重ね、航路沿いの港口を「寄港地」として活用することや航行の案内を依頼していたことが推測できます。倭の対百済、栄山江流域の交渉は、西・南海岸の諸地域との関わりと支援があって初めて円滑に行えたことになります。
 その場合、倭系海民たちは航行上の要衝地に一定期間滞在し、朝鮮系海民と「雑居」することになります。そのような中で「倭系古墳」が築かるようになったと研究者は考えています。逆に、朝鮮半島の海民たちも倭人海民の手引きで、瀬戸内海に入るようになり、女木島や佐柳島などの陸上勢力の手の届かない島に拠点を構えるようになります。それが丸山古墳の黄金イヤリングの首長という話になるようです。
 朝鮮半島系資料の分布状況を讃岐坂出周辺で見てみると、沙弥島に千人塚が現れます。そして、綾川河口の雌山雄山に讃岐で最初の横穴式石室を持った朝鮮式色彩の強い古墳が現れます。このように朝鮮半島系の古墳などは、河川の下流域や河口、入り江沿い、そして島嶼部などに分布しています。これは当時の海上往来が、陸岸の目標物を頼りに沿岸を航行する「地乗り方式」の航法であったことからきているのでしょう。このような状況証拠を積み重ねると、百済から倭への使節や、日本列島への定着を考えた渡来人集団も、瀬戸内の地域集団との交流を重ね、地域ネットワークに参加し、時には女木島や沙弥島を「寄港地」として利用しながら既得権を確保していったと、想定することはできそうです。古代の交渉は「双方向的」であったようです。

倭と百済の両国をめぐる5世紀前半頃の政治的状況は次の通りです。
①百済は高句麗の南征対応策として倭との提携模索
②倭の側には、鉄と朝鮮半島系文化の受容
このような互いの交渉意図が絡み合った倭と百済の交渉が、瀬戸内海や朝鮮半島西南部の経路沿いの要衝地を拠点とする海民集団によって積み重ねられていたと研究者は考えています。古代の海民たちにとって海に国境はなく、対馬海峡を自由に行き来していた姿が浮かび上がってきます。「ヤマト政権の朝鮮戦略」以外に、女木島の百済製のイヤリングをつけた海民リーダーの海を越えた交易・外交活動という外交チャンネルも古代の日朝関係には存在したようです。

以上をまとめておきます
①高松港沖の女木島には、百済製の黄金のネックレスを身につけて葬られた丸山古墳がある。
②この被葬者は、瀬戸内海航路を押さえた海民の首長であった。
③当時の瀬戸内海の海民たちは、5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を一斉に採用していることから、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていた。
④その拠点のひとつが女木島の丸山古墳、沙弥島の千人塚である
⑤彼らは鉄や進んだ半島系文化を手に入れるために、独自に百済との通商ルートを開いた。
⑥そのため朝鮮半島西南部海域の海民との提携関係を結び、瀬戸内海との相互乗り入れを実現させた。
⑦その交易の成果が丸山古墳の被葬者のイヤリングとして残った。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」
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 周防大島沖家室地下

周防大島の姿は、頭を西にして、尾っぽを東に振る金魚に例えられるようです。二つに分かれる下側のちぎれた尾っぽの先にくっついているのが沖家室島です。この島は、九州諸大名の参勤交代のときの寄港地で、海の荒れたときには御座船がここに船を着け、泊清寺を宿所にしたといいます。泊清寺は、海の本陣だったことになります。そして、幕末の頃には、千軒近い民家のある賑やかな浦だったようです。今回は、「宮本常一 私の日本地図 周防大島」に導かれて、沖家室を訪ねて見た報告です。
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沖家室大橋
島の南側の車道を走ってくると、島にかかる橋が見えてきました。
橋を渡った橋桁の下に、ドッグ跡のようなようなものがありました。
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説明版には次のように書かれています。
P1200879
御船倉跡
これを要約しておくと
①沖家室島は阿波からの一本釣り漁法をはやくから取り入れ、浦(漁港)として発展してきたこと。
②さらに九州の諸大名の参勤交替の御座船の寄港地ともなり、津(交易港)としても成長したこと
③そのために毛利藩は、沖家室島に船番所を設置して、公用船を常備させ行き交う船の管理監督を行ったこと
④18世紀のサツマイモの普及によって、幕末には人口が十倍に増え3000人近くになったこと
⑤そのため集落背後には、山の上までサツマイモ畑が開墾され「耕して天に至る」光景が見えたこと
こうして沖家室は、瀬戸内海屈指の漁村で、家室(かむろ)千軒といわれるようになります。
P1200881
沖家室の早舟
ここには早舟が常備され、火急の時には対岸の地家室や、本土の大畠まで海上を漕いで知らせたと書かれています。この港が毛利藩の重要拠点であったことが分かります。

それでは、中世の沖家室はどうだったのでしょうか?
戦国時代後半の16世紀終り頃には、ここは無人島でした。それが伊予河野氏の滅亡によって、その家臣(海賊衆)たちがこの島に「亡命」して来て住むようになります。本浦の泊清寺(はくせいじ)は、寛文三(1664)年頃の創建ですが、よく整理せられた過去帳がのこっていて、家々の系譜を正しくたどることができます。それは年代別だけでなく、家別のものも作られているからです。伊予からこの島に渡って来た古い家には、石崎・友沢・柳原などがあります。

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沖家室の本浦と洲崎 黄緑は段々畑の分布

地図を見ると島には、本浦と洲崎の二つの集落(地下)があります。文字の通り、本浦の方が早く開けます。上の地図を見ると、本浦の山裾がほぼ等間隔に海岸から山に向つて分けられ、段々畑が重っています。いまは、自然に帰って畠は見えませんが林の中には、段々畑の跡が残っています。近世初期には、この縦割の数と同じだけの人家があった、つまり、初期には移住者に均等に土地が配分されたと研究者は考えています。これは、以前にもお話ししましたが瀬戸の島々の初期開墾時には良くみられる光景です。その区画を数えると40少々なので、はじめは40戸足らずの人家によって開墾がはじまったと研究者は推測します。
沖家室本浦

それでは近世初期以前には、この島には人はいなかったのでしょうか?
伝承では、昔は海賊がいたと伝えられます。実際に、古い墓が本浦の家の上の畑の隅にあるようで、研究者は五輪搭のかけらをいくつも採集しています。この中には「国東塔の変形」のようなものもあると研究者は指摘します。さらに石質は凝灰岩で国東半島から来たもので、年代的に見れば江戸時代より古いものだと考えています。そうだとすれば、沖家室島は、中世には国東塔を残すほどの勢力を持った者がいたこと、そして国東半島と深い関係をもっていたことが推測できます。それがいつの頃かに、無人島になったようです。浮島とおなじように、厳島合戦のとき陶氏に属し、敗れて毛利氏によって島を追われたという説を研究者は考えています。そうだとすれば、それから50年ほど経って、江戸時代になって平和な時代になってから伊予からの河野氏や村上氏の海賊衆の末裔が住み着くようになったのかもしれません。
 無人島となっていたこの島に、まず畑作農業のために人々が住み着き本浦を開きます。その後、島の中で阿波の堂浦へいって、一本釣の漁法を習って来て一本釣をはじめる者が現れます。沖家室の南は千貝瀬・小水無瀬島・大水無瀬島などのよい漁場にめぐまれていて、漁浦として発展します。こうして、本浦の西に洲崎という漁民の浦が現れます。
 元禄11(1698)年になると、この島には鼠が異常発生して畑作物を食いあらし、島民が飢餓に襲われます。そこで庄屋の石崎勘左衛門は、紀州(和歌山県)からイワシ綱を招いてイワシをひいて飢をしのぐ方策を実行します。この計画はうまくあたります。こうしてこの島は「農業+漁業」のミックスした島として成長していくことになります。これに拍車をかけたのが、この島が九州諸大名の参勤交代のときの寄港地になったことです。海の荒れるときなど大名は、ここに船を着け、泊清寺を宿所にします。泊清寺は、「海の本陣」の役割を果たすようになります。

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沖家室島の案内図
本浦の泊清寺に行って見ることにします。
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泊清寺
港からの坂道を登るとすぐに見えて来ました。


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泊清寺の井戸
大きな石垣の上に境内はあります。その下にはしっかりとした井戸が見えます。瀬戸の港にとって、井戸は最重要なものでした。これを制する者が地域の有力者です。寄港する船もきれいな水を求めます。それを提供できる勢力が船乗りにとっては、第1の交渉相手となることは古代以来の定めです。この井戸を見るだけで、この寺の果たした役割がある程度はうかがえます。
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泊清寺山門
山門は竜宮城をイメージするような形で「海の寺」であることを主張しているように思えます。P1200920
泊清寺本堂
今の視点からすると周防大島の中でも辺境の地にあるお寺にしては立派と思ってしまいます。しかし、瀬戸内海が海のハイウエーであった時代は、人とモノの流通路にこの港はあり、多くの富も出入りしたようです。
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泊清寺
本堂横には「参勤交替本陣跡」の石柱が建てられていました。「海の本陣」としての格式を備えた寺院だったようです。この港が大名の御座船の潮待ちの際の寄港地だったことを裏付ける史料を見ておきます。
肥後熊本藩は「海の参勤交替」を行っていたことは以前にお話ししました。阿蘇を越えて大分から船で瀬戸内海を渡っていました。藩中老職の米田松洞が安永元(1772)年に、36日間かけての江戸へ出向いた旅日記を以前に見ました。彼の乗る船は、桜満開の旧暦3月8日(新暦4月上旬)に大分を出港して、そのまま北流する潮の流れに乗って、周防上関に入ります。そして、満潮で東流する潮に乗って、周防大島周辺を以下のように航海していきます
晴天九日暁 
前出帆和風静濤松平大膳大夫様(毛利氏)御領大津浦二着船暫ク掛ル 則浦へ上り遊覧ス。無程出帆加室ノ湊二着船潮合阿しく相成候よし二て暫ク滞船 此地も花盛面白し 夜二入亦出帆 暁頃ぬわへ着船
意訳変換しておくと
晴天九日暁 
出帆すると和風静濤の中を松平大膳大夫様(毛利家)の御領大津浦に着船して、しばらく停泊する。そこで浦へ上って辺りを遊覧した。しばらくして、出帆し潮待ちのために加室(沖家室)の湊に入る。潮が適うまで滞船したが、この地も花盛で美しい。夜になって出帆し、夜明けに頃にぬわ(怒和島)へ着船
瀬戸内海航路と伊予の島々

 上関を出航後、周防大島の南側コースをたどって、潮待ちのための寄港を繰り返しながら、伊予の忽那諸島の怒和島を経て御手洗に着きます。寄港地をたどると次のような航路になります。

上関 → 大津浦 → 加室(沖家室) → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗

この時は沖家室には、潮待ちのために入港し滞船しただけで、
上潮を待って夜中に出港しています。しかし、非常時には上陸し、その際には泊清寺が本陣として使用されたようです

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泊清寺のフカ地蔵堂
この本堂の隣に建っているのがフカ地蔵堂です。この地蔵さまは、いろいろの伝説があります。その一つを紹介すると

昔、下関に山形屋庄右衛門という商人いた。その娘と船で上方から戻って来る途中、沖家室の沖で船がとまって動かなくなった。よく見ると大きなフカが船底についている。これは船に乗っている者をほしがっているのではないかと人々はささやきあった。そこで誰をほしがっているのかそれぞれ手拭を海にうかベてみた。すると山形屋の娘の手拭が沈んでしまった。親子は大変おどろき、かなしんだ。船に乗っている人の一人が、「沖家室にはフカ地蔵といって霊験あらたかな地蔵様がある。その地蔵様に祈ってみてはどうか」と言った。そこで親子の者は 心になって祈り、「命を助けて下さるなら、孫子の代まで代々地蔵様を造って寄進します」といった。するとフカが船からはなれ、船は動き出した。そこで親子は、泊清寺のフカ地蔵にお礼参りして、下関へ帰ってからから石地蔵を送り届けた。そして代の変るごとに地蔵の寄進が続いたので、、いまは五体ならんでいる。最も新しいものは昭和14年5月とある。地蔵様は、真中のものが一番大きい。だんだん小さくなっているのは信仰心のうすれてきたのかもしれない。と島の人達は噂しているといいます。

ここからは庶民たちの信仰心を捉える流行神を作り出す「経営努力」を、この寺が続けていたことや、瀬戸内海の交易ルートの要衝にあって、広域的に多くの信者を抱えていたことがうかがえます。

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沖家室の漁師は、一本釣りでタイとハマチを釣るのが上手でした。
タイは沖家室の沖にもいましたが、漁期をすぎると、 隧灘の魚島へ釣りに出かけます。そこに鯛が集まり出すからです。中には讃岐の与島まで釣りにいく者もいました。塩飽では6月頃まで釣れるからです。それから宇和島沖へも行きます。戻って来ると盆です。盆から秋祭りまでの一月は島の付近で釣り、祭がすむと北九州へ下っていきます。
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本浦港
 博多組、唐津組、伊万里組などという組がありました。明治になると壱岐や対馬へも進出するようになります。さらに台湾組というのもできて、台湾の南端ガランピにまで進出し、分村を作っています。明治10年頃からはハワイにも渡って、ホノルルを中心にした漁場は沖家室人が開いたともいわれます。
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本浦港
 漁師たちは一人前の漁師になるために親方につきます。親方が、こ一人前と見れば漁船を造ってやって独り立ちさせます。とは云っても船代は親方からの借金です。米や薪も親方に借ります。そのため釣って来た魚は、全て親方に渡します。親方は盆と暮れに勘定して釣りあげた魚の価格から貸した金や米塩代を差引いたものを漁師に渡すという流儀です。これにはいかがわしい勘定もあったようで、「搾収」もあったようです。しかし、借金することのできることを誇りに思っていたくらいの風土ですから、漁民たちはあまり苦にせず、問題にもならなかったようです。

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沖家室島の本浦港へ帰ってくる漁船

旅することを苦にしない人たちなので、ハワイがよいとなると皆押しかけていきます。そしてホノルルで漁業に従った者もいましたが、甘藷畑で働き、そのままハワイにとどまった人達も多かったようです。それでもふるさととの心の縁はきれないで、ふるさとの寺や神社の修復工事の時には、ハワイヘ寄付を依頼すると、多額の金が送られて来たといいます。
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蛭子神社
今度は、港を見下ろす所に鎮座する蛭子神社に行ってみましょう。
この島も氏神様のすぐ近くに小学校が作られていたようです。子ども達は神社の境内も含めて遊び場にしていたことでしょう。

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本殿にお参りして、港を眺めます。ここから瀬戸内海はいうに及ばず、東シナ海や台湾方面にまで船乗りは出かけ、そこに定住したものも多かったようです。
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狛犬が本殿の柱にロープでつながれています。

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その礎石には、「高雄沖家室同郷会」と刻まれています。高雄とは、台湾の台北の外港です。戦前には、沖家室の同郷会があり、故郷の鎮守に立派な狛犬を寄進する力があったことが分かります。
   神社の玉垣にも海外在住者の名前が多いのに驚かされます。敗戦後の物不足の時も、ハワイからいろいろの物を送ってくるので物資には困らず、あり余ったほどだったという話が伝わっています。

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沖家室本浦の高札場

沖家室は、お寺や神社をめぐっていても、いろいろな発見がある所でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

私の日本地図 9 瀬戸内海 Ⅲ周防大島 宮本常一著作集別集(宮本常一 香月洋一郎 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本 の古本屋

参考文献「宮本常一 私の日本地図 周防大島」
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村上武吉の墓
前回は讃岐から松山まで原付ツーリングで行って、三津浜港から周防フェリーで伊保田港に渡り、村上武吉とその次男の墓参りをお伝えしました。その中で、武吉の晩年は失意に満ちたものであったことをお話ししました。
 関ヶ原の戦い後に、毛利氏は大幅減封されて存続することになります。毛利氏に仕えていた村上武吉も、それまでの石高から比べると1/20に大幅に減らされ、与えられて領地が周防大島東部の和田や伊保田でした。ここに、武吉に従って竹原からやってきた家臣団は、35家でした。このほかに屋代に11人いたので合計46人になります。石高千石に、家臣46家は多すぎます。このような中で武吉は家臣等に対して、次のような触書が出しています。

「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」

 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。こうして、長男以外の多くの若者たちが仕官先等を求めて、周防大島を去って行きます。
 その中に武吉の手足として働いた家老職的な島吉利( よしとし)の長男や次男たちもいました。
島吉利の経歴については、以前にお話しした通りです。吉利は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)7月8日に森村で亡くなっています。彼の顕彰碑が、伊保田港を見下ろす墓地にあると聞いていました。伊保田港附近で「島吉利の顕彰碑は、どこですか」と聞いても分かりませんでした。そこで「まるこの墓」は、どこですかと訪ねると、「郵便局の近くにある集団墓地」と教えてもらえました。それを手がかりにして探します。
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伊保田の油田郵便局周辺
こんな時に原付バイクは小回りが効くので便利です。行き過ぎれば、すぐにUターンできますし、停車もできます。老人のフィルドワークには最適です。
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まるこの墓(伊保田)
墓地が見えて来たので近づくと説明版がありました。
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一通り読んで登っていきます。
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墓域の中の最上級のエリアの中に、海を向いて立っていました。

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島吉利顕彰碑(正面)
正面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。これが島吉利の顕彰碑のようです。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱で、あまり大きいものではありません。P1200650
島吉利顕彰碑(右面)
造立年は、文化4(1804)年とあります。死後すぐに立てられたものではないようです。建立者は「周防 島信弘 豊後 島永胤」の名前があります。この石造物は墓として建てられたのではなく、死後約200年後に子孫の豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、文化4年に造立したものになるようです。顕彰碑の文章を採録し、意訳しておきます。
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  島吉利顕彰碑(左側)

君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍

意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。
村上島氏系図1
 村上島氏系図(碑文の人名番号は、系図番号に符合)
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           島吉利顕彰碑(裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈

意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
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 右側
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤
  意訳変換しておくと
偉大である。いわんや殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために島永胤が婦兄に諮り、一族の家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。

  200年間音信不通になっていた島家の子孫が再会した結果、この顕彰碑が建てられたということになります。

大島を出た島吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟の行方については、以前に述べました。それを簡略にまとめておきます。
①村上氏の同族である久留島(来島)康親(長親)が治める豊後森藩に180石で仕官。
②豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、藩の普請奉行として大坂で活動。
③島原の乱が起きると兵を率いて出陣し、その功で家老に任ぜられ400石を支給
④しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」、その後追放。
⑤時の当主は、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住み、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め
⑥それが認められ杵築松平氏から速見郡八坂手永の大庄屋役に任命
こうして、杵築藩の八坂本庄村に居宅を構えることになります。八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯です。勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。周防大島を出た島吉利の子ども達の子孫は、森藩仕官を経て、杵築藩の大庄屋となったことになります。
 大庄屋となった勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
勝任は、享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
 顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖の吉利顕彰のために建碑を思い立ちます。
 その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、慰霊碑建立に備えています。そうした上で文化三年に、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたようです。
   
この顕彰碑を建てた豊後の島永胤の墓にも、お参りに行こうと思います。
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徳山港に入港する周防フェリー
今度は、周防大島から徳山港までいって、竹田津行きの周防灘フェリーに乗ります。
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徳山湾を出て真っ直ぐ南に進むと、姫島と海に突き出た国東半島の山々が見えて来ました。

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2時間ほどの船旅でした。周防灘の広がりと姫島の航路上における重要性が印象にのこりました。

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六郷満山の山脈を越えて、杵築までの原付ツーリングです。
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やってきたのは大分県杵築市です。杵築城の直ぐ下を流れる八坂川を遡っていくと、干拓で開かれた穀倉地帯が広がります。
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千光寺
この穀倉地帯の治水灌漑整備に、島氏は大庄屋として尽くしたようです。稲刈りの進む水田の向こうに見えてくるのが千光寺です。

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千光寺山門
 八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっているようです。
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これだけの情報で、山門をくぐります。
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禅宗の寺院らしい趣のある庭が広がります。本堂にお参りして、背後の竹藪の中の墓域に入っていきます。

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墓石が建ち並ぶという感じではなく、各家毎に墓域が固まって散財しているという感じの配置です。そして、奥くまで続いています。これは見つけられるかなと不安になります。しかし、大庄屋であったなら最もいい位置にあるはずという予測で、本堂の真裏の墓を当たっていきます。
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すると出会えたのがこの墓です。
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           「嶋勝任妻」の墓
勝任は島家に養子に迎られ、娘伝と結婚しています。すると、これが伝の墓になります。
勝任は享保元年(1716)に、父の継いで大庄屋となって以後は、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。

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島氏の墓
「島」という名前が見えます。右面を見てみます。
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島永胤の墓
年号が「文政十(1827)年三月」とあります。周防大島に顕彰碑を建立したのが文化四(1804)年のことでした。それから約20年後に亡くなった島家の当主の墓です。これが島永胤の眠る墓のようです。 襲ってくるヤブ蚊と戦いながら周防大島の顕彰碑にお参りしてきたことを墓前で報告をしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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  村上武吉2
「村上武吉公永眠の地」碑
阿波と伊予のソラの集落を原付ツーリングしているうちに、自信をつけたおじさんは四国の外を、原付で徘徊することにしました。行き先は周防大島です。ここには、海賊大将の村上武吉が眠っています。また、その子孫の墓域もあるようです。さらに、武吉に仕えた有力家臣の島氏の墓もあります。この墓参りに行こうと思い立ちました。その記録を残しておきます。

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松山の三津浜港からの出港
  讃岐から周防大島に原付で行くために、松山の三津浜を目指します。ここから山口県の柳井に向けてフェリーが出ています。その中の何便かが周防大島東端の伊保田港に寄港します。事前に讃岐から原付で、あっちこっちを寄り道しながら7時間かけて、松山のホテルに入ります。
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忽那諸島を行く周防フェリー
 翌朝に三津浜9:40発の伊保田港寄港のフェリー「しらきさん」に乗船します。船は三津浜港を出ると忽那諸島(くつなしょとう)の南側の航路を西に進んでいきます。  70分の公開で伊保田港に到着です。
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上陸して見つけた「周防大島村上水軍史跡」と書かれた説明版を見ると、次のことが分かります。
①の元正寺に村上武吉の墓
②の岩正寺に村上一族の墓
③の伊保田に村上武吉の家老職だった島吉利の顕彰碑
武吉に敬意を示して、この順番で訪ねることにします。まず、めざすは内入にある①元正寺です。
村上武吉公永眠の地へ | 日々の出来事

内入の旧道を走っていると「村上武吉公記念碑」という看板を見つけました。これに導かれて入っていきます。
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        元正寺(周防大島の内入)
内入の海と集落を見下ろす岡の上に元正寺はありました。ここに導いて下さったことに感謝して参拝。
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村上武吉の墓
本堂のすぐ横に、白壁に囲まれた墓があります。お参りを済ませて、説明版をのぞき込みます。
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ここからは次のようなことが分かります。
①塔身156㎝の安山岩製の宝篋印塔であること
②銘文が正面の左右輪郭にあり、慶長9(1604)年の年号が彫られていること
③武吉の墓石の後(塀の外側)に「室(三番目の妻)」の墓があること
④室の墓も、塔身113㎝の安山岩製の宝篋印塔であること
⑤ふたつの宝篋印塔は、年号が記されたものでは大島ではもっとも古い墓であること
墓参りしながら思ったのは、墓が五輪塔ではなく宝篋印塔であること、凝灰岩製でなく安山岩製であることです。
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慶長九年の年号が読み取れる(左側銘文)
以前にお話しした同時代に造られた弥谷寺の生駒家や山崎家の墓石は、凝灰岩製(天霧石)の五輪塔でした。宝篋印塔は多くの如来が集まっているという考えなどから、お墓として先祖供養を行うだけでなく、子孫を災害から守り、繁栄へと導くという考え方もあるようです。そんな願いが込められたのかもしれません。

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村上武吉の宝篋印塔(安山岩)
 以前に見た写真には、お墓の周りの土壁がむき出しになっていました。それが白壁になっています。近年修復されたようです。
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白壁には、こんなプレートが埋め込まれていました。大島に村上氏の子孫の方がいらっしゃるようです。
村上武吉石像・村上水軍博物館|村上武吉 写真画像ライブラリー
村上武吉像(村上水軍博物館)

晩年の村上武吉の置かれた状況を見ておきましょう。
村上武吉は芸予諸島の能島を本城とした能島村上氏の当主で、海賊大将として有名でした。しかし、天下人となった秀吉に睨まれ、海賊禁止令以後は不遇の時を過ごします。小早川隆景の家臣となって筑前に移って、秀吉没後は竹原にもどってきます。隆景没後は毛利家臣となり、関ヶ原合戦のときには嫡男元吉が伊予へ攻め入ったが討死。こうして村上家は、元吉の子元武が継ぎ、武吉が後見を務めます。
 関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島東部の1500石への大幅減となります。しかもこの内の500石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際には千石以下に減らされてしまいます。
 村上氏の領地となったのが周防大島東部の和田村や伊保田村です。そこへ武吉は、残った家臣団を引き連れてやってきます。地元の人達は「海賊がやってくる」と怖れたと云います。その後、村上氏の求める負担の大きさに耐えきれなくなった住民等は次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったとも云います。 
 村上武吉と子の景親らが大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で武吉は家臣等に対して、次のような触書を出しています。
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」

  兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。こうして、多くの者が武吉のもとを去って行きます。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。
 こうした中で武吉は、和田に最後の住み家を構えます。
そして関ヶ原の戦いの4年後の1604年8月、海が見える館で永眠します。彼が故郷能島に帰ることはありませんでした。武吉の墓は、次男景親が建立しています。

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武吉の妻の墓

武吉の墓の後には、妻の墓があります。これは武吉にとっては三人目の妻になります。 武吉の最初の妻は、村上一族・来島通康(来島右衛門大夫通康)の娘・ムメで、早くに亡くなったようで、能島・高龍寺に墓があります。後妻は、同じ来島通康の次女・ハナとされ、長男・村上元吉と、次男・村上景親の母のようです。3番目の妻が、武吉を看取って、その2年後に亡くなったことになります。彼女については、朝鮮攻めの武功で与えられた朝鮮の娘という説もあります。しかし、これは次男の朝鮮の両班出身の側室と混同しているように思えます。ここでは周防大島の女としておきます。

村上景親
 関ヶ原の戦い後に、減封された毛利藩が武吉に与えた領地は、周防大島東部の和田や油宇・伊保田でした。
ここに、竹原から武吉の家臣団がやってきました。領地があたえられた陪臣の数は35人でした。このほかに屋代に11人いたので合計46人になります。その陪臣を見ると、苗字のない者を除いては伊予越智郡からの家臣が多いようです。岩本・石崎・小日・島・浅海・俊成・小島などの姓を持つ者です。新たな支配者が伊予からやって来たこと、地理的にも中国地より四国に近いこと、などもあって、出稼ぎ・通婚・通学・通商なども伊予松山とのかかわりあいの方が強かったようです。近代になっても伊予絣などを、和田や伊保田の農家ではたくさん織っていて、それが松山に送られて伊予絣の商標で売り出されていたと云います。
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村上武吉の墓から見える内入集落と海

武吉の墓の前に広がる海を見ながらボケーと考えます。どうして武吉は、家臣団から離れてここに居を構えたのだろうか? 一族の墓がここにないのは、どうしてなのだろうか? どちらにしても晩年の不遇さが感じられる所です。勝者と敗者のコントラストも浮かび上がります。
村上景親石像・村上水軍博物館|村上武吉 写真画像ライブラリー
 村上景親(武吉の次男)

      次に目指すのが 武吉の次男の村上景親一族の墓域です。
景親については「小説村上海賊の娘」のお兄ちゃんと云った方が今では通りがよくなったようです。その墓があるのが和田集落です。
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和田の正岩寺

和田の正岩寺にやってきました。この寺も集落背後の岡の上にありました。本堂にお参りします。しかし、村上家の墓所は、この境内にはありません。
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村上景親の墓域入口
境内の南に池に沿って南へ続く道路を進み、丘の反対側へ回り込もうとするところにお地蔵様がいらっしゃいます。ここから階段を上ると墓所がありました。

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村上景親一族の墓所
 まず、戸惑ったのがいくつもの墓が散在していることです。どれが村上景親のものか最初は分かりませんでした。

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一番新しいのは、1979年に造立されたこの墓です。その後に、一番大きい宝篋印塔が2つ並びます。
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これを見ると「法経塔」とあるので、墓ではないようです。このような場合は、一番奥に初代の墓があることが多いようです。そのセオリーに基づいて、一番上の墓を見てみます。

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この真ん中が村上景親の墓のようです。
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村上景親の墓
父の武吉の墓も宝篋印塔でしたが、それよりも少し小さい感じがします。その後の墓は五輪塔になっています。ここで、私が見ておきたいと思っていたのがもうひとつの墓が、景親の朝鮮出身の妻の墓です。
村上景親は文禄の役に兄・元吉と共に吉川広家に従って朝鮮に渡っています。
そして、茂渓の戦いで、景親は攻め寄せる孫仁甲の軍を負傷しながらも撃退し、数百人を討ち取り、勇名を馳せます。景親の活躍を知った細川忠興や池田輝政は、家臣に誘いますが、景親は元就以来の毛利氏の忠誠を理由に辞退しています。

村上景親の妻の墓
景親の朝鮮出身の妻の墓
  景親は文禄・慶長の役で捕虜にした朝鮮貴族(両班)の娘を側室とします。それがこの墓とされるようです。確かに、くるりと巻いた髪のような頭部が載っていて、余り見かけない墓です。捕虜として異国の地で果てた女性に合掌。

 ここにお参りして分かったのは、ここは村上景親を祖とする分家一族の墓域であることです。武吉の本家の家筋は、他にありました。その墓域も他にあるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 前回は延岡藩の大名夫人である充真院の金毘羅参拝を見ました。その中で、多度津港に入港後にどうして港の宿に入らないのか、また、どうして日帰りで金比羅詣でを行うのか、金毘羅門前町の宿を利用しないのかなどの疑問が湧いてきました。そこで、90年ほど前の熊本藩の家老級の人物の金比羅詣でと比較して、見ておこうと思います。
テキストは「柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』です。
 肥後藩中老職の米田松洞が安永元(1772)年に、36日間かけての江戸へ出向いた旅日記を残しています。
この旅行の目的は、松洞が江戸詰(家老代)に任命されての上京でした。まず米田松洞について、事前学習しておきます。

□肥後物語 - 津々堂のたわごと日録
肥後物語

米田松洞は、享保五年(1720)11月12日生で、「肥後物語」には次のように記します。
「少きより学問して、服部南郭を師とし、詩を学べり、器量も勝れたる人(中略)当時は参政として堀平太の政事の相談の相手なり」

また『銀台遺事』には
「芸能多識の物也、弓馬軍術皆奥儀を極、殊に幼より学問を好て、詩の道をも南郭に学び得て、其名高し」

彼は家老脇勤方見習・家老脇など諸役を歴任し、寛政9年(1797)4月14日78歳で死去しています。金比羅詣では52歳のことのようです。
それでは『松洞様御道中記』を見ていくことにします。   
晴天2月25日 朝五時分熊本発行新堀発
晴天  26日 五半比 大津発行 所々桃花咲出桜ハ半開 葛折谷辺春色浅し 
晴天  27日 朝六時分 内牧発行 春寒甚し霜如雪上木戸ヲ出し 九重山雪見ル多春山ヲ詠メ霊法院嘉納文次兄弟事ヲ度々噂ス野花咲乱レ見事也
晴天  28日 朝五時分 久住発行 途中処々花盛春色面白し 

旧暦2月末ですから現在の3月末あたりで、桜が五分咲き熊本を出立します。
肥後・豊後街道
熊本から大分鶴崎までの肥後街道
そして、阿蘇から九重を突き抜け、豊後野津原今市を経て、大分の鶴崎町に至っています。この間が4日間です。

今市石畳
野津原今市

熊本藩は「海の参勤交代」を、行っていた藩の一つです。
『熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図』には、江戸から帰国した熊本藩主の船が豊後国鶴崎(大分市)の港に入港する様子が描かれています。
熊本藩の海の参勤交替
熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図
 ひときわ絢爛豪華な船が、藩主が乗った波奈之丸(なみなしまる)で、細川氏の家紋「細川九曜」が見えます。こうした大型の船は、船体に屋形を乗せたことから御座船(ござぶね )と呼ばれていました。熊本藩の船団は最大で67艘、水夫だけで千人にのぼったとい説もあります。いざという時には、瀬戸内海の大きな水軍力として機能する対応がとられていたようです。出港・入港の時は鉦(かね)や太鼓に合せて舟歌を歌ったと云いますから賑やかだったことでしょう。
 一説によると、加藤清正は、熊本に来る前からどこを領地にもらおうか、目安をつけていたと云います。「秀吉さまの大阪城へ出向くときに、便利なように」という理由で、天草とひきかえに、久住・野津原・鶴崎を手に入れたと云います。その後一国一城令で鶴崎城は廃城とされて、跡には熊本藩の鶴崎御茶屋が置かれ、豊後国内の熊本藩所領の統治にあたります。宝永年間(1704〜)には細川氏の藩船が置かれ、京都や大阪との交易地としても繁栄するようになります。

大分市東鶴崎の劔八幡宮(おおいた百景)
鶴崎の剣神社

 鶴崎には、細川氏建立の剣神社があり、先ほど見た「細川船団」の絵馬「波奈之丸入港図」や絵巻物がまつられています。"波奈之丸"とはいかなる大波にもびくともしない、という意味で航海の無事を祈願してつけられたようです。 ここでは、熊本藩が大分鶴崎に、瀬戸内海への拠点港を持っていたことを押さえておきます。ここをめざして、米田松洞は阿蘇を超えてきたのです。

晴天  29日 朝六時分 野津原発行 今日益暖気 鶴崎町 今度乗船二乗組之御船頭等出迎。直二寛兵衛宅へ休夕飯等馳走 寛兵衛父子も久々二て対面 旧来之事共暫ク咄スル

 鶴崎に着いた日は晴天で、温かい日だったようです。野津原から到着した一行を、船頭などの船のスタッフが迎えます。その後、馴染みの家で夕食を世話になっていると、江戸参府を聞きつけた知人たちが「差し入れ」をもって挨拶にやってきます。それを一人ひとり書き留めています。宿泊は船だったようです。

夕飯 右少雨六ツ比二乗船 御船千秋丸十三反帆五十丁立
右御船ハ元来丸亀二て京極様御船ナリ 故アリテ昔年肥後へ被進候 金具二者今以京極様御紋四目結アリ 甚念入タル仕立 之御船也 暫クして鏡寛治被参候 重田治兵衛も被参候 緩物語二て候熊本へも書状仕出ズ今夜ハ是二旅泊

意訳変換しておくと
今回乗船するのは千秋丸で十三反帆五十丁の規模の船である。この船は、もともとは丸亀の京極様の船である。故あって、肥後が貰い受けたものなので、金具には今も京極様の御紋四目結が残っている。念入に仕立てられた船である。しばらくして鏡寛治と重田治兵衛がやってきて歓談する。その後、熊本へも鶴崎到着等の書状を書いた。今夜は、この船に旅泊する。

千秋丸は、以前には丸亀京極藩で使われていた船のようです。
 それがどんな経緯かは分かりません肥後藩の船団に加えられていたようです。十三反帆とあるので、関船規模の船だったのでしょう。
薩摩島津家の御召小早 出水丸
薩摩島津家の御召小早 出水丸(八反帆)

上図の島津家の小早船)は、帆に8筋の布が見えるので、8反帆ということになります。千秋丸は十三反帆ですので、これより一回大きい関船規模になるようです。

十二反帆の関船
12反帆規模の関銭

 鶴崎に到着したときに出迎えた千代丸の船頭以下の乗船スタッフは次の通りです。
  御船頭   小笹惣右工門       
  御梶取   忠右工門
  御梶替   尉右工門
  御横目   十次郎
  小早御船頭 恩田恕平
  同御船附  茂太夫
  彼らは船の運航スタッフで、この下に水夫達がいたことになります。また、この時には、関船と小早の2隻編成だったようです。
ところが出港準備は整いましたが、風波が強く船が出せない日が続きます。
一度吹き始めた春の嵐は、止む気配がありません。それではと小早舟を出して、満開の桜見物に出かけ、水夫とともに海鼠をとって持ち帰り、船で料理して、酒の肴にして楽しんでいます。その間も、船で寝起きしています。これは、航海中も同じで、この船旅に関しては上陸して宿に泊まると云うことはなかったようです。
 六日目にようやく「風起ル御船頭喜ブ此跡順風卜見へ候」とあり、出港のめどがたちます。このように海路を使用した場合は、天候の影響を受けやかったようです。そのため所用日数が定まらず、予定が立ちません。これでは江戸への遅参も招きかねません。そのため江戸後期になると海の参勤交代は次第に姿を消していくようです。

ようやく晴天になって出港したのは3月8日(新暦4月初旬)のことでした。
晴天 八日
暁前出帆 和風温濤也 朝ニナリ見候ヘハ海面池水ノ如シ 終日帆棚二登り延眺ス。御加子供卜咄ス種 海上之事共聞候 夕方上ノ関二着 船此間奇石怪松甚見事也 已今殊ノ外喜二て候花も種々咲交り面白し 
意訳変換しておくと
晴天八日
夜明け前に出帆 和風温濤で朝に見た海面は、おだやかで湖面のようであった。終日、船の帆棚に登って海を眺望する。水夫達といろいろと話をして、海の上での事などを聞く。夕方に周防上関に着く。その間に見えた奇石や怪松は見事であった。また、桜以外にも、種々の花が咲いていて目を楽しませてくれた。
旧暦3月8日に大分を出港して、そのまま北上して周防の上関を目指しています。ここからは18世紀後半には、上関に寄港する「地乗り」コースですが、19世紀になると一気に御手洗を目指す「沖乗り」コースが利用されるようになるようです。

5
江戸時代の瀬戸内海航路
晴天九日暁 
前出帆和風静濤松平大膳大夫様(毛利氏)御領大津浦二着船暫ク掛ル 則浦へ上り遊覧ス。無程出帆加室ノ湊二着船潮合阿しく相成候よし二て暫ク滞船 此地も花盛面白し 夜二入亦出帆 暁頃ぬわへ着船
意訳変換しておくと
晴天九日暁 
出帆すると和風静濤の中を松平大膳大夫様(毛利家)の御領大津浦に着船して、しばらく停泊する。そこで浦へ上って辺りを遊覧した。しばらくして、出帆し潮待ちのために加室の湊に入る。潮が適うまで滞船したが、この地も花盛で美しい。夜になって出帆し、夜明けに頃にぬわ(怒和島)へ着船
瀬戸内海航路 伊予沖

上関を出航後、周防大島の南側コースをたどって、潮待ちのための寄港を繰り返しながら、伊予の忽那諸島の怒和島を経て御手洗に着きます。寄港地をたどると次のような航路になります。
上関 → 大津浦 → 加室 → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗

瀬戸内海航路と伊予の島々

この間、潮待ちのために港へと、出入りを繰り返しますが旅籠に泊まることはなく、潮の流れがよくなると夜中でも出港しています。
万葉集の額田王の歌を思い出します。
「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
現代語訳(口語訳)
熟田津で船に乗ろうと月が出るのを待っていると、潮の流れも(船出の条件と)合致した。さぁ、今こそ漕ぎ出そう。

 潮が適えば、素早く漕ぎ出しています。以前にお話したように、江戸時代の瀬戸内海の寄港地は、すぐに潮の流れに乗れる所に開けている。室津や鞆を見ても分かるように、広い湾は必要なかったのです。それよりも潮流に近い湊の方が利用価値が高く、船頭たちからも好ま
れたようです。

御手洗3
御手洗
そして、芸予諸島では地乗りの拠点港である三の瀬(下蒲刈島)ではなく、18世紀になって新たに拓かれた沖乗り航路の拠点である御手洗(大崎下島)に寄港しています。
晴天十日
今朝 出帆微風ナリ 山々節奏盛ナリ甚見事 夜五ッ比御手洗へ着船 十日温風微瀾暁前出帆 朝飯後華子瀬戸二至ル 奇石怪松甚面白シ 此瀬戸ヲ俗二はなぐり卜云実ハ華子卜云 此地海上之様二無之沼水の趣ナリ 殊二面白シ処 桜花杜鵠花筒躊花其外種々の花咲乱レ見事成事共也 潮合呼しくなり候間暫ク掛ル 其内二洲二阿がり花前二て已 今理兵衛御船頭安平恕平十次郎同伴二て酒ヲ勤メ候 嘉平次も参候そんし懸なき処二て花見ヲ致候 已号殊之外面白がり二て候 上二八幡社アリ是二参詣ス宜キ 宮造ナリ湊も賑ハし昼過比潮宜ク候 由申候二付早速本船へ移り 其まま出帆 暮頃湊二着船
意訳変換しておくと
晴天十日
ぬわ(怒和)を早朝に出帆。山々が新緑で盛り上がるように見える中を船は微風を受けて、ゆっくりと進む。夜五ッ(午後8時)頃に御手洗(呉市大崎下島)へ着船
十一日、温風微瀾の中、夜明け前に出帆し、朝飯後に華子瀬戸を通過。この周辺には奇石や姿のおもしろい松が多く見られて楽ませてくれた。 華子瀬戸は俗には、はなぐり(鼻栗)瀬戸とも呼ばれるが正式には、華子であるという。この辺りは波静かで海の上とは思えず、まるで湖水を行くが如しで、特に印象に残った所である。桜花杜鵠花筒躊花など、さまざまな花咲乱れて見事と云うしかない。潮待ちのためにしばらく停船するという。船頭の安平恕平十次郎が酒を勧め、船上からの花見を楽しんだ。この上に八幡社があるというので参詣したが、宮造りや湊も賑わっていた。昼過頃には潮もよくなってきたので、早速に本船へもどり、そのまま出帆し暮れ頃、に着船。
はなぐり瀬戸

来島海峡は、当時の船は魔の海域として避けていたようです。そのため現在では大三島と伯方島を結ぶ大三島大橋が架かるはなぐり(鼻栗)瀬戸を、潮待ちして通過していたようです。この瀬戸の南側にあるのが能島村上水軍の拠点である能島になります。

風景 - 今治市、鼻栗瀬戸展望台の写真 - トリップアドバイザー


 難所のはなぐり瀬戸で潮待ちして、それを抜けると一気に鞆まで進んで夕方には着いています。鞆は、朝鮮通信使の立ち寄る港としても名高い所で、文人たちの憧れでもあったようですが、何も触れることはありません。
江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と

 さて、前回に幕末に延岡藩の大名夫人が藩の御用船(関舟)で、大坂から日向に帰国する際に金毘羅詣でをしていることを見ました。
そこで疑問に思ったことは、次のような点でした。
①御用船の運行スタッフやスタイルは、どうなっているのか。
②どうして入港しても港の宿舎を利用しないのか? 
③金比羅詣でに出かける場合も、金毘羅の本陣をどうして利用しないのか?
以上について、この旅行記を読むとある程度は解けてきます。
まず①については、熊本藩には参勤交替用の「肥後船団」が何十隻もあり、それぞれに運行スタッフや水夫が配置されていたこと。それが家老や家中などが上方や江戸に行く時には運行されたこと。つまりは、江戸出張の際には、民間客船の借り上げではなく藩の専用船が運航したこと。
②については、潮流や風任せの運行であったために、潮待ち・風待ちのために頻繁に近くの港に入ったこと。そして、「船乗りせむと・・・ 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」で、潮流が利用できる時間がくれば、即座に出港すことが求められたこと。時には、「夜間航海」もすることがあったために、宿舎を利用すると云うことは、機動性の面からも排除されたのかもしれません。
 また、室津などには本陣もありましたが、御手洗や上関などその他の港には東海道の主要街道のような本陣はなかったようです。そのために、港では御座船で宿泊するというのが一般的だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  日本海に浮かぶ佐渡には、畿内や瀬戸内海の港町との交流を考えなければ理解できないような民俗芸能が沢山残っています。そして、古くからの仏教遺物も多いようです。磨崖仏などは、小木町と相川町には、全国的にも優秀で、鎌倉時代と年代的にも比較的はやいころの遺品が見られます。これらの遺物は、古くから中央文化と結ばれていたということであり、それをうけいれる素地が中世から佐渡にはあったことになります。ある意味、佐渡は海によってはやくから先進文化をうけいれた、文化レベルの高い土地だったといえるようです。
 そこへ近世になって、相川の金山が幕府の手によってひらかれます。それは大坂と直接結ばれる西廻り航路の開拓によって、さらに加速されます。そこに、金毘羅信仰ももたらされ現在は遺物として残っているようです。今回は佐渡に残る金毘羅信仰を見ていくことにします。テキストは「印南敏秀 佐渡の金毘羅信仰  ことひら」です。
  
佐渡 小木港

佐渡の小木港

小木港は佐渡の西南端にあり、本土にもっとも近い港です。
小木港は、城山を挟んで西側の「内ノ澗」と東側の「外ノ澗」に隔てられた深い入江をもち、風を防ぐことのできる天然の良港です。しかし、港の歴史はそれほど古くはないようです。近世に入って、小木は金の積み出し港として、また、佐渡代官所の米を積み出す港として、次第に発達してきます。寛文年間(1661~70)に西廻航路が開かれ、能登と酒田を結ぶ大型船の寄港地として指定されたのが発展の契機になります。こうして、小木港には多くの廻船がおとずれるようになり、船乗りたちを相手にした、船問屋や船宿が建ち並ぶようになります。そして、これといった産業もなく、耕地にも恵まれない小木の人々は他国からおとずれる廻船に刺激され、船乗や船持ちとして海上運送に進出し、廻船業の拠点ともなります。

小木漁港(第2種 新潟県管理) - 新潟県ホームページ
小木港漁港

  小木の西端の町はずれに、琴平神社がまつられています。
もとは背後の高台に建っていたが道路拡張工事で、今の位置におろさたようです。それ以前のことを『南佐渡の漁村と漁業』(南佐渡漁榜習俗調査団・昭和五十年刊)には、次のように記します。

 この社は、維新まで世尊院境内の観音堂にまつられており、今でも、琴平神社のことを「広橋の観音さん」と年寄りは呼んでいる。


佐渡には金毘羅さんが数多く祭られていて、今でもグーグル地図で検索すると出てきます。そして、金比羅(金刀比羅)社は、真言系の修験と深く関わりをもつところが多いと研究者は指摘します。ここからは、醍醐寺の当山系の真言系修験者(金比羅行者)の活動がうかがえます。       
 讃岐の金刀比羅宮も、明治以前は神仏混淆であり、本堂の横には観音堂(現在の三穂津姫社)が建っていました。そして、観音さまが金毘羅さんの本地仏だとされてきました。観音は、現世利益の仏として様々な信仰をうけますが、熊野信仰の中では海上安全の仏とされてひろく信仰された仏です。小木の金毘羅さんが観音と関わりがあるのも、頷けることかもしれません。世尊院・観音堂に、いつごろから金毘羅さんがまつられたのかは、よく分からないようです。
現在の社殿前に建つ一対の石燈寵の竿には、次のような銘が彫られています。
  「文政元年」(1818年)
  「金毘羅大権現」
  「七月吉日建之」
  「塚原□□」
ここからは19世紀はじめころには、世尊院観音堂には金毘羅神が祀られていたことが分かります。
昭和初期の「遊里小木」には、和船時代の船乗りたちの小木への上陸の様子を次のように記します。
 船が小木へ着くまでに船方は幾日かの海上の荒んだ生活を続けるので、まげもくずれひげも伸びている.碇を下ろすとまず船頭は船員に髪を結ってもらい頬にかみそりをあてさせる.船上の神棚と仏壇に灯明を供え礼拝をすませると、一同そろって伝馬船に乗る.船頭は着衣のまま櫨に立つが、船員はどんなに寒くとも禅一本の真っ裸になって擢を漕ぐ.船が波止場に着くと一同着物を着る.
 船頭はまず問屋へ寄って商売の事務をすませて小宿へ行く.船員は各々権を一挺ずつ持って小宿又は付け舟宿へ行き、それを家の前に立てかけて置き、金毘羅神社、木崎神社、正覚寺に参詣をした。
ここに出てくる小宿は船頭が遊ぶ宿で、船乗りたちの遊ぶ宿が付け宿です。船乗りは、荒海を命がけで航海し、一刻も早く女を呼んで緊張した体と心を解きほぐしたいと躰と心は勇みます。しかし、それを無秩序にほとばしらせるのではなく、定めに従った作法と衣装があり、航海の無事を感謝するために神仏に祈ったことが分かります。

佐渡 木崎神社
木崎神社(小木町)
木崎神社は小木町の鎮守です。船乗りたちは港々の氏神に、参拝していたようです。小木には、問屋や船宿が建ち並んで繁栄していました。しかし、地元の船持は、宿根木、深浦にいたようです。特に、宿根木(しゅくねぎ)は佐渡全体でも一番船持ちの多いところだったようです。 
宿根木(観光スポット・イベント情報):JR東日本
 宿根木
宿根木も、北前船の寄港地として発展した港町です。
この街並みは、船大工によって作られた当時の面影を色濃し、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。この港は、宝暦年間に佐渡産品の島外移出が解禁になると、地元宿根木の廻船の拠点として繁栄するようになります。
  家屋の外見は質素ですが、北前船で財を成した船主たちが贅を尽くして豪華な内装仕上げになっています。当地の大工たちの作った船箪笥は、小判等の貴重品を隠すために使われた「からくり構造」の箪笥としても有名です。

とんちゃん日記

 さて宿根木の金毘羅さんです。
ここでももともとは、称光寺境内に熊野権現、住吉明神などとともに金毘羅社も祭られていました。それが神仏分離のときに、称光寺の鎮守である熊野をのこして、金毘羅社は氏神の白山神社に移され合祀されたようです。
佐渡市宿根木の白山神社(にいがた百景2)
白山神社
そのため現在は、金毘羅の社はなくなっています。ただ『南佐渡の漁村と漁業』には次のように記します。

十月十日に金毘羅さんのお祭りが行われており、近世末のある日記には金毘羅講が民家で行われ、金毘羅社へ参寵することがあった。

 宿根木の金毘羅信仰がさかんであったことは、記録や数多くの遺品によっても分かります。
例えば、讃岐の金刀比羅宮に佐渡から奉納された石燈寵は六基あります。その中の五基は小木町からの寄進で、このうち三基は宿根木、1基が深浦からのものです。この内で年代的が分かるのは明治5年、佐藤権兵衛が奉納したものだけです。形式などから、他のものも同時期のものと研究者は考えています。佐渡における金毘羅信仰が19世紀以後に盛んになることを押さえておきます。
 宿根木の船主たちは、自分の船に乗って讃岐金毘羅さんに参拝したり、船頭に参拝を命じていたようです。それは船主の家には、金毘羅の大木札が七十数枚も祀られていたことからも分かります。
初めての佐渡② たらい舟の小木、歴史的な街並みの宿根木 「バス旅」』佐渡島(新潟県)の旅行記・ブログ by あおしさん【フォートラベル】
小木歴史民俗資料館
それらは、宿根木の小木歴史民俗資料館で見ることができます。
宿根木の船主である佐藤家に保存されていた大木礼と大木札を納める箱もあります。大木札は、金毘羅さんから信者に授けた、高さ1mほどの木札です。形態は二種あり、先端が山形になったものと、平坦のものがあります。これは、金毘羅大権現のものと、神仏分離後の金刀比羅宮になってからのものです。木札の年号は、文政四(1828年)のものが一番古く、明治40(1907)年のものが最後になります。ここからも19世紀前半から20世紀までが、宿根木での金毘羅信仰の高揚期だったことと、宿根木廻船の活動期だったことがうかがえます。
 これは最初に見た小木の琴平神社の石燈寵と同じ時期になります。
 大木札には祈願願望が記されています。45枚に記された字句を分類してみると次の通りです。
家内安全  28枚
海上安全・船中安全7枚
講中安全   6枚
諸願成就   2枚
病気平癒   1枚
「金毘羅さん=海の神様」という先入観からすると家内安全が断然トップに来るのは不思議に思われます。ここからも、金毘羅信仰にとって、近世の「海上安全・船中安全」というのは二次的なモノで、近代になって海軍などの信仰を得ることから本格化したのかもしれません。

金刀比羅宮木札
金刀比羅宮の大木札

また最初の木札が登場してから短期間で、その枚数が急激に増えるようです。ここからは、宿根木における金毘羅信仰の広がりが「流行神」的に急激なものであったと研究者は推測します。

金毘羅大権現 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現
宿根木資料館には、箸蔵寺の大木札も3枚あります。
 箸蔵寺は金比羅から讃岐山脈を越えた三好郡池田町にあります。ここは修験者たちが近世後半になって開山した新たな山伏寺でした。その経営戦略は、「金毘羅さんの奥の院」と称しとして、金毘羅さんと箸蔵寺さんの両方に参拝しなければ片参りとなって御利益を得ることができないと先達の山伏たちは説きました。そして、幕末にかけて爆発的に参拝者を増やします。その勢いを背景に伽藍を整備していきます。この時に整備された本殿や護摩堂などの建物は、現在では全て国の重文に指定されています。当時の経営基盤を感じさせてくれます。
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箸蔵寺の金毘羅大権現本殿
 小木の船乗りのなかには、讃岐の本社より奥の院箸蔵寺のほうが御利益があるといって、金毘羅参拝のときにはかならず箸蔵寺にも参詣しなければならないといわれていたといいます。そのお札が残されていることになります。

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箸蔵寺本殿には山伏寺らしく天狗面が掲げられている
さて、現在の小木町で金毘羅信仰はどうなっているのでしょうか。
個人的にはお祀りしている家もありますし、金毘羅講も残っているようですが、実態としては活動停止状態になっているようです。この背景には、金毘羅信仰が西廻航路の船乗りや船主を中心とした人々によって支えられてきたことがあるようです。20世紀になって、北前船が姿を消すとそれに伴って、金比羅信仰を支えていた人達も衰退していきます。そして、社や祠は管理者を失い放置されていくことになります。
曹洞宗 龍澤山 善寳寺(山形県)の情報|ウォーカープラス
善宝寺

 現在佐渡で、海の神さんとして信仰を集めているのは、山形県西郷村の曹洞宗竜沢山善宝寺のようです。
善宝寺は竜神信仰の寺で、航海や漁業に霊験があるとされ、海に関係する人々から信仰を集めています。氏神である木崎神社にも、社殿の下に真新しい善宝寺さんのお札がたくさん置かれています。新しいお札を受けてきたので、古くなったお札をおたきあげしてもらうために神社にもち込んだのでしょう。
 佐渡は竜神信仰のさかんなところで、善宝寺信仰が秋田・山形の廻船によってもち込まれさかんになるまでは、宮島(広島県)に参拝していたともいいます。もっとも、善宝寺信仰が盛んになるのはは幕末以後のことです。その当時は、小木町でも金毘羅信仰がさかんで、善宝寺信仰は入り込めなかったのかもしれません。金毘羅さんの木札がなくなる明治末になると、衰退していく金毘羅信仰に換わって善宝寺信仰が入り込んでくると研究者は考えています。
 明治になって天領米の輸送もなく、相川の金は減少して久しくなります。
明治中頃もすぎると、鉄道線路が全国展開するにつれて、陸上輸送が中心となり、それに対応して、船は大形・機械化します。そうなると風待ち・潮待ちのためにわざわざ佐渡の小木港に寄港する必要がなくなります。それまでは廻船で、大坂まで年に数度おとずれていた船主や船頭たちにとって、讃岐金毘羅はその途中の「寄り道」で身近な存在でした。そして名の知れた遊郭などがある男の遊び場でもあったのです。その機会がうしなわれます。こうして讃岐の金毘羅さんは佐渡からは遠い存在になっていきます。
 廻船に乗っていた船乗り、廻船を相手にしていた商人たちも大きな打撃をうけます。
「港町小木の盛衰」(「佐渡丿島社会の形成と文化」地方史研究協議会編・雄山閣)には、次のように記されています。
 明治も中期を過ぎる頃には、港町小木の繁栄をささえていたすべての要素を失ってしまった。その頃のものと思われる記録に、「小木町の戸数六百戸、うち失業戸二百戸、その内訳は廻船問屋、貸座敷、仲買商その他」とある。かつて小木町の繁栄にもっとも力を貸した業者など三分の一世帯が失業してしまった。

瀬戸の港町と同じような道を歩んでいくことになるようです。
最後に押さえておきたいのは、金毘羅信仰が佐渡にもたらされたのは近世も終わりになってからの19世紀ことで、特に幕末にかけてその信仰熱が高揚したこと、を押さえておきます。ここでも北前船の登場と共に、近世前半に金毘羅信仰が北陸や東北の港町に広がったということではないようです、
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金毘羅神 箸蔵寺
金毘羅大権現(箸蔵寺)
                               
 現在の金刀比羅宮は、祭神を大物主、崇徳帝としていますが、これは明治の神仏分離以後のことです。それ以前は、金毘羅大権現の祭神は金毘羅神でした。金毘羅神は近世始めに、修験者たちがあらたに作り出した流行神です。それは初代金光院宥盛を神格化したもので、それを弟子たちたちは金毘羅大権現として+崇拝するようになります。そういう意味では、彼らは天狗信者でした。しかし、これでは幕府や髙松藩に説明できないので、公的には次のような公式見解を用意します。
 金毘羅は仏神でインド渡来の鰐魚。蛇形で尾に宝玉を蔵する。薬師十二神将では、宮毘羅大将とも金毘羅童子とも云う。

 こうして天狗の集う象頭山は、金毘羅信仰の霊山として、世間に知られるようになります。これを全国に広げたのは修験者(金比羅行者=子天狗)だったようです。

天狗面を背負う行者
金毘羅行者

 「町誌ことひら」も、基本的にはこの説を採っています。これを裏付けるような調査結果が近年全国から報告されるようになりました。今回は広島県からの報告を見ていきたいと思います。テキストは、 「印南敏秀  広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」です。

広島県の金毘羅神の社や祠の分布を集計したのが次の表です。
広島県の金毘羅神社分布表
この表から分かることとに、補足を加えると次のようになります。
①山県郡や高田郡・比婆・庄原・沼隈などの県東部の県北農山村に多く、瀬戸内海沿岸や島嶼部にはあまり分布していない。
②県北では東城川流域や江川流域の川舟の船頭組に信仰者が多く、鎮座場所は河に突き出た尾根の上や船宿周辺に祀られることが多かった。
③各祠堂とも部落神以上の規模のものはなく、小規模なものが多く、信者の数は余り多くはなく、そのためか伝承記録もほとんど伝わっていない
④世羅郡世羅町の寺田には、津姫、湯津彦を同殿に祀って金比羅社と呼んでいる。
⑤宮島厳島には二つあり、一つは弥山にあって讃岐金比羅の遙拝所になっている。
⑥因島では社としては厳島神社関係が多く、海に沿うた灯寵などには、金刀比羅関係が多い。
⑤金比羅詣りは、沿岸の船乗りや漁師達は江戸時代にはあまり行わなかった。維新以後の汽船時代に入って、九州・大阪通いの石炭船の船乗さんが金比羅参りを始めに連れられるように始まった。

 以上からは安芸の沿岸島嶼部では、厳島信仰や石鎚信仰が先行して広がっていて、金毘羅信仰は布教に苦戦したことがうかがえます。金毘羅信仰が沿岸部に広がるようになるのは、近世後期で遅いところでは近代なってからのことのようです。

 廿日市の金刀比羅神社
広島県廿日市市の金刀比羅神社

因島三庄町 金刀比羅宮分祠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠 右が金毘羅灯籠

例えば因島の海運業者には、根深い金刀比羅信仰があったとされます。
年に一回は、金刀比羅宮に参拝して、航海安全の祈祷札を受けていたようです。そして地元では金刀比羅講を組織して、港近くには灯籠を祀っています。
因島三庄町 金刀比羅宮分祠灯籠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠の金毘羅灯籠


それでは、金毘羅さんにも灯籠などの石造物などを数多く寄進しているのかというと、そうでもないようです。讃岐金比羅本社の参道両側の灯寵に因島の名があるものは、「金毘羅信仰資料集成」を見る限りは見当たりません。広島県全体でも、寄進物は次の通りです。
芸州宮島花木屋千代松其他(寛永元年八月)。
芸州広島津国屋作右衛門(寛保二年壬戌三月)。
芸州広島井上常吉。
広島備後村上司馬。広島福山城主藤原主倫。 
 宮島や石鎚信仰に比べると、「海の神様」としての金毘羅さんの比重は決して高くないようです。これは讃岐の塩飽本島でも同じです。塩飽廻船の船乗りが金毘羅山を信仰していたために、北前船と共に金毘羅信仰は、日本海沿いの港港に拡大したと云われてきました。しかし、これを史料から裏付けることは難しいようです。北陸の山形や新潟などでも、金毘羅信仰は広島県と同じく、内陸部で始まり、それが海岸部に広がるという展開を見せます。塩飽北前船の廻航と関連づけは「俗説」と研究者は考えているようです。
 近世初頭の塩飽の廻船船主が、灯籠などの金毘羅への寄進物の数は限られています。それに比べて、難波住吉神社の境内には、塩飽船主からの灯籠が並んでいます。
産業の盛衰ともす636基 住吉大社の石灯籠(もっと関西): 日本経済新聞
難波の住吉神社の並び灯籠 塩飽船主の寄進も多い

ここからは塩飽の船乗りが信仰していたのは古代以来馴染みの深い難波の住吉神社で、近世になって現れた金毘羅神には、当初はあまり関心を示していなかったことがうかがえます。これは、芸予諸島の漁民たちには、石鎚信仰が強く、排他的であったことともつながります。これらの信仰の後には、修験者の勢力争いも絡んできます。
 因島における金刀比羅講社の拡大も近代になってからのようです。重井村の峰松五兵衛氏の家にも明治十一年のもの「崇敬構社授与」の証があります。また、因島の大浜村村上林之助氏が崇敬構社の世話掛りを命ぜられたものですが、これも明治になってからのものです。

  崇敬講社世話人依頼書
金刀比羅本宮からの崇敬講社世話人の依頼状
 以上から、次のような仮説が考えられます。
①近世初頭には船頭や船主は、塩飽は住吉神社、安芸では宮島厳島神社、芸予諸島の漁師達は石鎚への信仰が厚かった。
②そのため新参者の金毘羅神が海上関係者に信者を増やすことは困難であり、近世全藩まで金毘羅神は瀬戸内海での信仰圏拡大に苦戦した
③金毘羅信仰の拡大は、海ではなく、修験者によって開かれた山間部や河川航路であった。
④当初から金毘羅が「海の神様」とされたわけではなく、19世紀になってその徴候が現れる。
⑤流し樽の風習も近世末期になってからのもので、海軍などの公的艦船が始めた風習である。
⑥その背景には、近代になって金刀比羅宮が設立した海難救助活動と関連がある。
三次市の金刀比羅宮
三次市の金刀比神社

最後に広島県の安芸高田市向原町の金毘羅社が、どのように勧進されたのかを見ておきましょう。広島県安芸高田市

安芸高田市の向原町は広島県のほぼ中央部、高田郡の東南端にあたります。向原町は太田川の源流でその支流の三条川が南に流れ、江の川水系の二戸島川が北に向かって流れ山陰・山陽の分水界に当たります。
ヤフオク! -「高田郡」の落札相場・落札価格
高田郡史・資料編・昭和56年9月10日発行

そこに高田郡史には向原の金毘羅社の縁起について、次のように記されています。
(意訳)
当社金毘羅社の由来について
当社神職の元祖青山大和守から二十八代目の青山多太夫は、男子がなかった。青山氏の血脈が絶えることを歎いた多太夫は、寛文元朧月に夫婦諸共に氏神に籠もって七日七夜祈願し、次のように願った。日本国中の諸神祇当鎮守に祈願してきましたが、男の子が生まれません。当職青山家には二十八代に渡って血脈が相続いてきましたが、私の代になって男子がなく、血脈が絶えようとしています。まことに不肖で至らないことです。不孝なること、これ以上のことはありません。つきましては、神妙の威徳で私に男子を授けられるように夫婦諸共に祈願致します。
 するとその夜に衣冠正敷で尊い姿の老翁が忽然と夢に現れ、次のように告げました。我は金毘羅神である。汝等が丹誠に願望し祈願するの男子を授ける。この十月十日申ノ刻に誕生するであろう。その子が成長し、六才になったら讃岐国金毘羅へ毎年社参させよ。信仰に答えて奇瑞の加護を与えるであろう。
 この御告を聞いて、夢から覚めた。夫婦は歓喜した。それから程なくして妻は懐妊の身となり、神告通り翌年の十月十日申ノ刻に男子を出産した。幼名を宮出来とつけた。成人後は青山和泉守・口重と改名した。
 初月十日の夜夢に以前のように金毘羅神がれて次のように告げた
汝の寿命はすでに尽きて三月二十一日の卯月七日申ノ刻に絶命する。しかし、汝は長年にわたって篤信に務めてきたので特別の奇瑞を与える。死骸を他に移す事のないようにと家族に伝えておくこと。こうして夢から覚めた。不思議な夢だと思いながらも、夢の中で聞いた通りのことを家族に告げておいた。予言通りに卯月七日の申の刻終に突然亡くなった。しかし、遺体を動かすなと家族は聞いていたので、埋葬せずに家中において、家内で祈念を続けるた。すると神のお告げ通りの時刻の戌ノ刻に蘇生した。そして、尊神が次のように云ったという。
 この村の理右衛門という者と、因果の重なりから汝と交換する。そうすれば、長命となろう。そして、讃岐へ参詣すれば、その時に汝に授る物があろう。これを得て益々信心を厚くして、帰国後には汝の家の守神となり、世人の結縁に務めるべしという声を聞くと、夢から覚めたように生き返ったと感涙して物語った。不思議なことに、理右衛門は同日同刻に亡くなっていた。吉重はそれからは、肉食を断ち同年十月十日に讃岐国金毘羅へ参拝し、熱心に拝んで御札守を頂戴した。帰国時には、不思議なことに異なる五色の節がある小石が荷物の上ににあった。これこそが御告の霊験であると、神慮を仰ぎて奉幣祈念して21日に帰郷した。そして、その日の酉の刻に祇園の宮に移奉した。
 この地に米丸教善と云う83歳の老人に、比和という孫娘がいた。3年前から眼病に犯され治療に手を尽していたが効果がなかった。すると「今ここで多くの信者を守護すれば、汝が孫の眼病も速に快癒する。それが積年望んでいた験である」という声が祇園の宮から聞こえてきて、夢から覚めた。教善は歓喜して、翌22日の早朝に祇園の宮に参拝し、和泉守にあって夢の次第を語った。
 そこで吉重も自分が昨夕に讃岐から帰宅し、その際に手に入れた其石御神鉢を祇園の宮へ仮に安置したことを告げた。これを聞いて、教善は信心を肝に銘じて、吉重と語り合い、神前に誓願したところ神托通りに両眼は快明した。この件は、たちまち近郷に知れ渡り、遠里にも伝わり、参詣者が引も切らない状態となった。
 こうして新たに金毘羅の社殿を建立することになった。どこに建立するかを評議していると、夜風もない静まりかえる本社右手の山の中腹に神木が十二本引き抜け宮居の地形が現れた。これこそ神徳の奇瑞なるべしとして、ここの永代長久繁昌の宝殿を建立することになった。倒れた神木で仮殿を造営し、元禄十三年十一月十日未ノ刻遷宮した。その際に、空中から鳶が数百羽舞下り御殿の上に飛来し、儀式がが全て終わると、空中に飛去って行った。
 元禄十三年庚辰年仲冬  敬白

ここには元禄時代に向原町に金毘羅社が勧進されるまでの経緯が述べられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①金比羅信仰が「海上安全」ではなく「男子出生」や「病気平癒」の対象として語られている。
②讃岐国金比羅への参拝が強く求められている
このようなストーリーを考え由緒として残したのは、どんな人物なのでしょうか。
天狗面を背負う行者 正面
金比羅行者
それが金比羅行者と呼ばれる修験者だったと研究者は考えています。彼らは、象頭山で修行を積んで全国に金毘羅信仰(天狗信仰)を広げる役割を担っていました。広島では、児島五流や石鎚信仰の修験者とテリトリーが競合するのを避けて、備後方面の河川交通や山間部の交通拠点地への布教を初期には行ったようです。それが、最初に見た金毘羅社の分布表に現れていると研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①近世当初に登場した金毘羅神は、象頭山に集う多くの修験者(金比羅行者)たちによって、全国各地に信仰圏を拡大していき流行神となった。
②、瀬戸内海にいては金毘羅信仰に先行するものとして、塩飽衆では難波の住吉神社、芸予諸島では石鎚信仰・大三島神社、安芸の宮島厳島神社などの信仰圏がすでに形成されていた。
③そのため金毘羅神は、近世前半においては瀬戸内海沿岸で信仰圏を確保することが難しかった。
④修験者(金比羅行者)たちは、備後から県北・庄原・三好への内陸地方への布教をすすめた。
⑤そのさいに川船輸送者たちの信仰を得て、河川交通路沿いに小さな分社が分布することからうかがえる。しかし、それは祠や小社にとどまるものであった。
⑥金毘羅信仰が沿岸部で勢力を伸ばすようになるのは、東国からの参拝者が急激に増える時期と重なり、19世紀前半遺構のことである。
⑦流し樽の風習も近世においてはなかったもので、近代の呉の海軍関係者によって一般化したものである。
 今まで語られていた金毘羅信仰は、古代・中世から金毘羅神が崇拝され、中世や近世はじめから塩飽や瀬戸内海の海運業者は、その信者であった。そして、流し樽のような風習も江戸時代から続いてきたとされてきました。しかし、金毘羅神を近世初頭に現れた流行神とすると、その発展過程をとして金毘羅信仰を捕らえる必要が出てきます。そこには従来の説との間に、様々な矛盾点や疑問点が出てきます。
 それが全国での金毘羅社の分布拡大過程を見ていくことで、少しずつ明らかにされてきたようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」
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前回に15世紀末の小豆島では、塩浜での製塩が活発に行われていたことを見ました。小豆島で生産された塩が、畿内に向かって大量に輸送されていたことが兵庫北関入船納帳(1445年)からは分かります。しかし、生産されていた塩の量と、運び出されていた塩の量に大きな差があるようです。今回は、その点を見ていきたいと思います。テキストは、 「橋詰茂  瀬戸内水軍と内海産業  瀬戸内海地域社会と織田権力」

製塩 小豆島1内海湾拡大
中世の内海湾の塩浜

前回に見た旧草壁村の塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産量は次の通りでした。
利貞名(大新開) 浜数六十五  生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、  生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
3つの塩浜の合計生産高は94石7斗2升です。15世紀末の草壁エリアの塩の生産高は年間百石足らずだったことを最初に押さえておきます。
それから約半世紀後には、どれだけの塩が小豆島から運び出されていたのでしょうか?
兵庫北関入船納帳 塩の通関表
兵庫北関入船納帳に「塩」と記されてた船荷の通関量を示したものが表7になります。ここからは、塩飽・嶋(小豆島)・引田・平山・方本・手嶋船籍の船が塩輸送をおこなっていたことが分かります。嶋が小豆島のことで、1年間の入管回数は25回、通関量は5367石です。これが嶋(小豆島)船籍の船が1445年に、小豆島産の塩5357石を積んで兵庫北関を通過したことが分かります。小豆島は、塩飽と並ぶ塩の大生産地だったようです。しかし、小豆島で生産されていた塩はこれだけではないのです。

兵庫北関入船納帳 地名指示商品と輸送船
上表に「積荷欄記載地名」とあります。兵庫北関入船納帳には、船の積荷に「嶋330石」などと出てきます。これが「嶋産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。産地によって塩の価格が違うので、掛けられる関税も違っていました。そのためこのような表記になったようです。つまり「嶋○○石」と表記されていれば、小豆島産の塩を他の港の船が運んでいたことになります。
上表8からは、嶋(小豆島)塩について、次のようなことが分かります。
①「嶋(塩)」を積んだ他国船が54回入港したこと
②その合計積載量は7980石になること
③嶋(塩)を、積みに来島したのは牛窓39、連島12、地下1、尼崎1、那波1であること
ここからは、小豆島船で運ばれた量よりも、さらに多くの塩が牛窓船などで運び出されていたことが分かります。


兵庫北関入船納帳 船籍地毎の塩通関
上表9からは次のようなことが分かります。
④小豆島船以外の牛窓船が嶋(小豆島)塩の5910石を運んでいること
⑤牛窓船の塩の全輸送件数は43件の内の39件が嶋(小豆島)塩を運んでいいること。
⑥牛窓船の嶋(小豆島)塩占有率9割を越えて、牛窓船は「嶋塩専用船」ともいえること
小豆島船は、小豆島で生産された塩を運んでいるけれども、それだけで輸送できなくて対岸の備前牛島の船が小豆島に塩輸送のためにやって来ていたようです。以上から小豆島から運び出されていた塩の総量は次のようになります。

牛窓船他での塩輸送・7980石 + 小豆島船での塩輸送・5367石=13347石

ここからは約1、3トンの塩が小豆島から運び出されていたことになります。
本当に一万石以上の塩が、小豆島で生産されていたのでしょうか?
15世紀末の明応年間の地検帳から「大新聞・方城・午き(馬木)」で、生産されていたのは塩は年間約95石しかありませんでした。内海湾以外の池田・土庄地区でも生産されていたとしても、当時の小豆島での生産量を千石程度と研究者は推測します。50年後の兵庫北関入船納帳が書かれた時代には、それが1,3万石に増えていたことになります。
  慶長12(1607)の草壁部村宛人野治長大坂城人塩請取状には、草壁村全体で910石の塩の生産があったことが記されています。草壁一村で千石足らずなので、小豆島全体では1万石近い数値になるかもしれません。しかし、それは150年後のことです。明応年間から50年足らずで100石が900石に、生産量が拡大できたのでしょうか。
 これに対して研究者は、次のように考えているようです。
①明応年間の塩の生産高は地「大新聞・方城・午き(馬木)」など内海湾の一部のエリアの集計にしか過ぎない。
②内海湾周辺意外にも土庄・池田や北岸地域でも生産されていたことが考えられる
③小豆島では近世に入って多くの塩田が開かれており、中世にもある程度の塩田が各地区に存在した。
④江戸時代最盛期の小豆島の塩生産高は4万石近くあったので、中世の生産高も1万石を越えることもあったと推定できる。
小豆島 周辺地図 牛窓
牛窓と小豆島の関係
そして、島の北部海岸でも製塩が行われていたのではないかという仮設を出します。
それをうかがわせるのは、牛窓船の存在です。内海湾や池田・土庄などの南部の海岸には、嶋(小豆島)船籍の船が担当し、屋形崎や小江や福田集落など北部から西部の塩輸送には牛窓船や連島船が担当したというのです。確かに地図を見れば分かるように、小豆島北部は牛窓とは海を通じてつながっていました。牛窓船が伊喜末や小梅・福田などの港を、自己の活動エリアにしていたというのは説得力はあります。あとはこれらのエリアで中世に製塩が活発に展開されていたことをしめす証拠です。残念ながら、それはないようです。

小豆島 地図

 内海や池田など小豆島の南側の港が、髙松や志度・引田とつながっていたことは、小豆島巡礼の札所にもでてきます。小豆島の南側にある札所には、東讃の人たちからの寄進物が数多く残されています。また嶋の寺社の年中行事にも東讃の人々が自分たちの船に大勢乗り合わせてやって来ていたようです。ここからは、小豆島の南側は海に面して、東讃と一体化した経済圏を形成し、北側は備前との経済圏を形成していたことがうかがえます。
 中世も嶋(小豆島)塩の輸送には、次のようなテリトリーがあったことはうかがえます。
①北部海岸で作られる塩は牛窓の船
②南部海岸で作られる塩は、小豆島の地元船
小豆島の南と北では、別の経済圏に属していたということになります。そして、中世から製塩が北部や西部の集落でも行われ、そこに牛窓や連島の船がやって来て活発な交易活動が行われていたという話になります。

南北朝時代に書かれた『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』(応安三年(1370)2月に、讃岐で初めて獅子が登場します。
「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」
というあまり目出度くない記事ですが、これが讃岐では獅子の登場としては一番が古いようです。
この縁起の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面を塗り直した」と記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。行道(ぎょうどう)とは、大きな寺社の法会等で行われる行列を組んで進むパレードのようなものです。獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は、人と物が流れる「瀬戸内海のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内から小豆島にやってきたようです。その財力の背景に、島一帯に広がっていた製塩があり、廻船業があったとしておきます。製塩は嶋の一部だけでなく、全域に拡がり1万石を越える塩を生産していたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献

小豆島での製塩は、平城宮木簡に「調三斗」の記事があるので、早い時期から塩を上納していたことが分かります。鎌倉時代に入ると「宮寺縁事抄」神事用途雑例の中に「御白塩肥土」と記されています。
舞台】山と田に囲まれた神社 - 小豆島、肥土山離宮八幡神社の写真 - トリップアドバイザー
小豆島肥土荘 肥土八幡神社と歌舞伎小屋
肥土とは、石清水八幡宮の荘園であった肥土荘のことです。
この「御白塩」は肥土荘で、塩が作られ、畿内に送られていたことを教えてくれます。肥土八幡官は、京都石清水八幡宮の別宮で平安末期に肥土荘が置かれた時に、勧請されています。肥土八幡宮の縁起によれば「依以肥上庄可為八幡宮御白地之由」とあり、「白塩地」として位置づけらています。石清水八幡宮の神事用のために「御白塩」の貢納が義務づけられています。石清水八幡宮に必要な塩が、肥土で作られていたことが分かります。
肥土荘の荘域は、土庄町の伝法川に沿ったエリアで、 一部に小豆島町西部が含まれます。この海岸部では、製塩土器が発見されているので、古くから製塩が行われていたことがうかがえます。以後の製塩を裏付ける史料はありませんが、江戸時代にいち早く土庄・淵崎付近で塩田が開かれたことから考えても、中世以来の製塩が行われていたことが推測できます。

製塩 小豆島1内海湾
中世塩浜があった地区
室町期になると内海湾の安田周辺で製塩が行われていたことが史料から分かるようになりました。今回は、16世紀初頭の明応年間の三点の文書を見ていくことにします。テキストは「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」です。 

川野正勝氏が小豆島町安田の旧家赤松家文書から発見したのが次の3つの文書です。
Ⅰ 明応六年(1497)正月日    利貞名等年貢公事算用日記
Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記
Ⅲ 年末詳(Ⅱと同時期)     利貞名等田畠塩浜日記(冊子)
史料Ⅰは、前半が荘園内の諸行事に関する各名の負担を示したものです。後半は各名の荘園領主に対する負担分を記した算用の性格を持ちます。
史料Ⅱは利貞名をはじめとする六名の公田・田畑・塩浜・山の所在地・作人名を記したものです。利貞名は岩吉名を売買によって自分のものとするだけでなく、他名に大きな権益を持っていました。各名でも自分の権益について明確にする必要があり、その実体把握のために作られた文書のようです。
史料ⅢはⅠ・Ⅱと同じ内容のものを何年かにわたって覚書的に綴ったもので、文書中に種々の書き込みがあります。
小豆島 製塩 塩浜史料

Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

ここには塩浜として「大新開、方城、午き」の地名が出てきます。現在の何処にあたるのでしょうか
①大新開は、早新開
②方城は片城
③「午き」は早馬木
で、現在の小豆島町の草壁や安田で、近世にも塩田があった場所になるようです。

製塩 小豆島1内海湾拡大
史料Ⅱに出てくる①早新開②片城③早馬木

①の大新開は、その地名からして明応以前に開発された塩浜のようです。新開という地名から類推すると②方城、③午き(馬木)などの塩浜は、大新開以前からあったと推察できます。小豆島の塩浜の起原は、15世紀以前に遡れるようです。
製塩 小豆島 塩浜の地積表
        利貞名外五名田の地積表 塩浜があるのは3つ

塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産額を集計します。
利貞名(大新開) 浜数六十五、生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
久未分浜数十七、 十四石四升
   合計  浜数一一六
   生産高  九十四石七斗二升
六名のうち利貞・岩古・久末三名が塩浜を所有しています。.利貞名六五・岩吉名一六・久末名三五 計116の塩浜と3の荒浜があります。また「国友の屋くろ」「末次と久末との屋とこ」と記されています。ここには塩水を煮詰める「釜屋」があったことがうかがえ、塩浜であったことが裏付けられます。

製塩 小豆島 塩浜の地積表2
   明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

久末名畠坪在所之事の中に、次の記事があります。
①「午き(馬木) 十代 国友ノかまやくろニ在 久末下人太夫二郎作」、
②「午き(馬木) 末次ノかまやくろニ久末ノかまやとこかたとこ在、つほニ在、此つほ一 末次百姓三郎五郎あつかり」

これも塩浜が午き(馬木)付近にあったことを裏付けます。
さらに①の太夫二郎は、久末名塩浜作人にもその名が出てきます。釜屋と製塩の結びつきを示すものです。また、「つほ二在」は製塩用の壺のこと、利貞名出坪在所之事の中に「釜屋敷 十代 入新開在 但下人共作」とあつのは、釜屋敷の名から見て大新開にも塩釜があったことが裏付けられます。

製塩 自然浜
中世の塩浜

「大新開、方城、午き」の塩生産額を集計すると
九十四石七斗二升
になります。これは旧草壁村エリアの利貞名主の勢力範囲だけでの生産高です。これに池田、淵崎、土庄などの塩浜を併せると約700石程度の塩生産が行われていたと研究者は推測します。

15世紀末の明応期の塩浜生産方式については、次のようなことが分かります。
①矢張利貞、岩吉、久未などの有力名主の所有する下地を、下作人として後山の八郎次郎、かわやの衛門太郎などが小作していたこと
②有力名主は「三方の公方」に、生産高の1/3を年貢として収めている
③「三方の公方」は領家である三分二殿、三分一殿、田所殿の三者のことだが、これが誰なのかは分からないこと
④ここからは塩浜の地下中分されていたことが分かる
⑤名主の小作に対する年貢率は、まちまちで名主の勢力関係に依る
⑥68%の年貢を収めさせている岩吉名の利貞名主の圧力が強かったことがうかがえる。

網野善彦氏は、塩の生産者を次の3つに類型化します
①平民百姓による製塩
②職人による製塩
③下人・所従による製塩
この類型を小豆島の場合に適応するとどうなるのでしょうか。
 塩浜作人で田畠を持っているのはわずか4人です。利貞名では兵衛二郎、岩古名では四郎衛門、久末名では助太郎・大夫二郎です。そのうち利貞名に見られる大西兵衛二郎は、大西垣内として屋敷を所有する上層農民です。兵衛二郎以外は少数の田畑を所有するにすぎません。つまり名主が塩浜の権益を有し、作人の多くは名主の支配のもとで、請負による製塩を行っていたと研究者は考えています。小豆島の場合は、3類型の全てが混在した形態だったようですが、おおくは小作であったようです

 塩浜作人は塩山を所有していました。
弓削島荘では、塩浜が御交易島とともに均等に住民に分割保有されるようになります。その時に塩山も分割されました。この結果、塩山・塩浜・塩釜・畠がセット結合した製塩地独特のレイアウトが出来上がり、独自の名主経営が成立します。
 それを見てみると、各名には屋敷の垣内の周辺には畠、前面の海岸地帯に塩浜、後背地には塩山というレイアウトが姿を現すようになります。これは小豆島も同じようです。
 例えば、岩吉名には山が四か所あります。そのうちの一つである西山について「ま尾をさかいにて南ハ武古山也」と記されています。明応七年の岩吉名浜作人に「西山武吉百姓四郎衛門」とあり、西山に四郎衛門所有の塩山があったことが分かります。同じ様に、利貞名山のうちで、
天王山に成末
かいの山に米重・武古
岩古名山竹生に重松と
浜作人として成末百姓大夫郎・武古百姓新衛円・重松八郎二郎
利貞名に、米重百姓孫衛門・助太郎が久末名にあります。
これらは塩山として浜作人が所有していたと研究者は指摘します。
 山のすべてが塩山ではなかったかもしれませんが、製塩に使う燃料として使う木材がここから切り出されていたことは間違いありません。讃岐でも早くから塩山があたことが知られています。小豆島の史料に見られる山も塩山だったと研究者は考えています。
利貞名においても、屋敷の周辺に余田があり、屋敷地とされる場所の前に塩浜が広がります。その後背地に塩山という配置です。これは、弓削島荘と同じです。
研究者が注目するのは史料の中に何度も出てくる「一斗七升ニ延而」という数字です。
「延而」は平均してで、「定」はきめて(規定)の意味です。では「 十七升」とは何なのでしょうか。「一斗七升」は「年貢一反きた中」とあるので、一反当たりの年貢基準を示す数値と研究者は考えます。これは弓削島荘の御交易畠における塩の麦代納と、おなじ性格で、本来畠にかかる年貢を塩で代納していたことが分かります。弓削島荘では、畠一反当たり麦斗代は一斗~一斗五升でした。小豆島では麦斗代が弓削島よりも少し高い一斗七升だったようです。

またⅡの史料には「三方ノ公方」とあります。
名主が「三方ノ公方」へ年貢を上納しています。「三方ノ公方」とは、三分二殿・三分一殿・田所殿の三名です。建治九年(1275)以前に、領家方(東方)と地頭方(西方)とに下地中分されて、領家方は三分二方、三分一方に分かれ、田所も自立した状況であったようです。この三者を「三方ノ公方」と称していと研究者は指摘します。

中世の瀬戸内海の島々では、田畠・塩浜・山が百姓名に編成され、百姓たちにより年貢塩の貢納が請負われるようになります。
東寺領である弓削島荘の場合は、百姓が田畠・塩浜を配分された名を請負って製塩を行い、生産された塩を東寺へと送っています。小豆島では明応九年(1500)の「利貞名外五名円畠塩浜等日記」に、六つの名の円畠・塩浜・山の所在地・作人名が記されていました。塩浜は測量されずに、浜数を単位としています。また作人は百姓・下人・かわやといったいろいろな階層が見られます。これは弓削島も岩城島・生名島、備後国因烏、備後国歌島も同じです。塩を年貢として収めてる場合は、これらの島々と同じようなスタイルがとられていたのです。ここから塩飽も同じ様に百姓による塩浜の経営で、田畠・塩浜・山を百姓が共同で持ち、製塩を行っていたと研究者は推測します。

以上のように15世紀末の小豆島では塩浜での製塩が活発に行われていたことを押さえておきます。
こうして生産された塩が船で大量に畿内に運び込まれていたのです。それが兵庫北関入船納帳(1445年)に登場する小豆島(嶋)船籍の船だったのでしょう。こうして、小豆島には「海の民」から成長した製塩名主と塩廻船の船主や問丸が登場してきます。彼らの中には前回お話ししたように「関立(海賊衆=水軍)」に成長するものも現れていたのでしょう。

瀬戸内海の海浜集落に中世の揚浜塩田があったことを推測できる次のような4条件があることは、以前にお話ししました。
①集落の背後に均等分割された畑地がある
④屋敷地の面積が均等に分割され、人々が集住している
③密集した屋敷地エリアに井戸がない
④○○浜の地名が残る
 最後に瀬戸内海の中世揚浜塩田の動きについて、もう一度確認しておきます。
①瀬戸の島々の揚浜製塩の発達は、海民(人)の定住と製塩開始に始まる。それが商品として貨幣化できるようになり生活も次第に安定してくる
②薪をとるために山地が割り当てられ、そこの木を切っていくうちに木の育成しにくい状態になると、そこを畑にひらいて食料の自給をはかるようになる。
③そういう村は、支配者である庄屋を除いては財産もほとんど平均し、家の大きさも一定して、分家による財産の分割の行なわれない限りは、ほぼ同じような生活をしてきたところが多い。
④小さい島や狭い浦で発達した塩浜の場合は、大きな経営に発展していくことは姫島や小豆島などの少数の例を除いてはあまりなく、揚浜塩田は揚浜で終わっている。
⑤製塩が衰退した後は、畑作農業に転じていったものが多い。
⑥畑作農家への転進を助けたのは近世中期以後の甘藷の流入である。食料確保ができるようになると、段畑をひらいて人口が増加する。
⑦そして、時間の経過と共に海から離れて「岡上がり」していく。
⑧以上から農地や屋敷の地割の見られる所は、海人の陸上がりのあったところの可能性が高い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」
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讃岐の守護代は、讃岐東方守護代が安富氏で、西方守護代が香川氏で二人の守護代が置かれていました。前回は、西方守護代の香川氏とともに守護細川氏に仕えていた西方関立(海賊衆=水軍)の山地(路)氏についてお話ししました。
「関立」については、山内譲氏が『海賊と海城』(平凡社選書1997)の「海賊と関所」で、次のように説明しています。
①中世は「関」「関方」「関立」は海賊の同義語
②海賊は「関」「関方」「関立」と呼ばれ遣明船の警護や荘園の年貢請負などを行っていた。
③彼らは関所で、通行料「切手・免符」や警護料に当たる「上乗り」を徴収していた。
つまり「関立」は海に設けられた「関」で、通行料を徴収することから関立という名前で呼ばれたようです。「関立」とは海賊のことのようです。西方関立(海賊衆=水軍)があったのなら、東方関立があっても不思議ではありません。
さて讃岐に東方関立はいたのでしょうか?
 史料には、東方関立と記載されたものはないようです。しかし、小豆島にはそれらしき存在がいたようです。東方関立かも知れません。今回は小豆島の海賊衆を見ていきます。テキストは、「橋詰茂  海賊衆の存在と転換  瀬戸内海地域社会と織豊権力」です。

小豆島航路
小豆島は瀬戸内海南航路の中継基地として機能
 紀伊から紀伊水道を渡り、讃岐・伊予の沿岸沿いを経て瀬戸内海を西に抜けて行く航路は、古代紀伊氏によって開かれた海のルートです。中世になると、そこに熊野水軍の船が乗り入れてきます。その船には、熊野行者たちが乗り込み、熊野信仰の布教活動や熊野詣・高野山詣のルートとして使用されるようになります。
熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に形成された修験集団が児島五流です。
 この集団は13世紀になると活発な活動を展開するようになります。彼らは「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであるという「幻想」を共有するようになります。

五流 尊瀧院
五流修験道 尊瀧院
五流を拠点に熊野の交易船や熊野行者たちは、次のような所に新たな拠点を開いたことは以前にお話ししました。
①塩飽・本島 
②多度津・堀江  道隆寺
③引田      与田寺
④芸予諸島大三島 大山祇神社
⑤伊予石鎚山   伊予、太龍寺 三角寺
 五流修験道は、熊野信仰の瀬戸内海ネットワークを形成していきます。
五流 備讃瀬戸
五流修験道のネットワーク拠点 
これらの港を熊野海賊衆(水軍)の船が頻繁に出入りするようになります。こうして、児島湾周辺は、熊野信仰が根強い地帯になっていきます。そんな中で南北朝抗争期には、熊野勢力は南朝方を担ぎます。熊野行者たちも、南朝方の支援活動を展開するようになります。

小豆島 佐々木信胤2
佐々本信胤の廟(小豆島町)

そんな中で五流修験の影響を受けた備前国児島郡の佐々本信胤は、小豆島の海賊衆を支配下におき、小豆島を南朝勢力の拠点として活動するようになります。信胤は、五流修験者を通じて、紀伊国熊野海賊衆と連携を持ち、東瀬戸内海制海権を掌握しようとしたようです。戦前の皇国史観では、忠君愛国がヒーローとしてもてはやされたので、讃岐では信胤も楠正成とならぶ郷土の英雄として扱われたようです。しかし、佐々本信胤に従ったとされる小豆島の海賊衆が記された史料はありません。

小豆島 佐々木信胤
佐々木信胤廟の説明版

その後の室町時代になると小豆島は、細川氏の支配下に置かれ、守護代の安富氏が管轄するようになります。『小豆島御用加子旧記』には、小豆島の海賊衆は細川氏の下で加子役を担っていたと記されていますが、詳しいことは分かりません。
 塩飽では、細川氏の下で安富氏が代官「安富左衛門尉」が派遣し管理していてことは前回見ました。その管理形態は緩やかで、塩飽衆を管理しきれず野放し状態になっていました。同じようなことが小豆島
でも云えるようです。
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍一覧表

兵庫北関入船納帳(1445年)の中に出てくる通行税を納めるために兵庫北関に入港した讃岐船を一覧表にしたものです。
ここで「島」として登場するのが小豆島だとされています。讃岐ベスト3の入港数を小豆島船籍の船は数えます。畿内との活発な交易活動を行っていたことが分かります。その積荷を見ておきましょう。
3 兵庫 
兵庫北関入船納帳 讃岐船の積荷一覧
   讃岐船の積荷で一番多いのは塩で、全体の輸送量の8割は塩です。塩の下に(塩)の欄があります。例えば「小島(児島)百石」と地名が記載されていますが、児島産の塩という表記です。「地名指示商品」という言い方をしますが、これが塩のことです。塩が作られた地名を記載しています。讃岐は塩の産地として有名でした。讃岐で生産した塩をいろんな港の船で運んでいます。片本(潟元)・庵治・野原(高松)の船は主として塩を運んでいます。これを見ると讃岐船は「塩輸送船団」のようです。塩を運ぶ舟は、大型で花形だったようです。塩を運ぶために、讃岐の海運業は発展したとも言えそうです。小豆島船も塩を大量に運んでいます。
小豆島では、中世に塩は作られていたことが史料から分かります。
明応九(1500)年丁己正月日の赤松家の祖・利貞名家吉によって書かれた地検帳の中に内海の3つの塩浜が記されています。
その浜数と塩生産額は次の通りです。
 利貞名(大新開)浜数65、生産高53石5斗1升
 岩吉名(方城) 浜数16、生産高13石6升
 久未名(午き) 浜数利貞分18、生産高14石1斗1升
    合計  浜数116 生産高94石7斗2升 
「大新開は早新開」「方城は字片城」「午きは早馬木」になるようです。ここに記された塩浜のあった場所は、内海湾に面するエリアで、利貞名家吉の勢力下の塩浜だけに限られています。内海より西の池田、淵崎、土庄地区の塩浜についての記述がないのは、利貞名主家吉が内海湾に面する安田在住の土豪であったからでしょう。彼の力の及ぶ範囲は内海地方に限られていたとしておきましょう。
小豆島 地図
小豆島
そう考えると、小豆島南側の内海湾から土庄にかけては15世紀には塩田がならび、それを畿内に運ぶ塩船団がいたことが分かります。これらを運営していたのは「海の民」たちの子孫でしょう。彼らは、塩生産やその海上運輸・商業活動などに関わるようになり、船主や問丸などに成長して行きます。その富が港には蓄積して、寺社の建立が行われることになります。
本蓮寺 | たびおか-旅岡山・吉備の国-
牛窓の本蓮寺

小豆島の対岸の備中
牛窓の本蓮寺の建立について見ておきましょう。
本蓮寺建立については、石原氏の貢献が大きかったようです。牛窓の石原遷幸は土豪型船持層で、もともとは
荘園の年貢輸送にかかわるた「梶取(かじとり)」だったようです。彼らは自前の船を持たない雇われ船長で、荘園領主に「従属」していました。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、畿内の問丸の手が必要となるのです。
 荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などです。ところが、問丸も従属していた荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていったのです。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたす一方で、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。
 このような問丸が兵庫港や尼ヶ崎にも現れていたのです。地方の梶取りや船持ちなどは、この問丸の発注を受けて荷物を運ぶ者も現れます。また兵庫や尼崎の問丸の中には、日蓮宗の日隆の信徒が多くいたようです。そして、「尼崎・兵庫の問丸ネットワーク + 法華信仰」で結ばれた信者たちが牛窓や宇多津で海上交易に活躍します。彼らは、そこに「信仰+情報交換+交易」などの拠点として寺院を建立するようになります。日隆の法華経は、このようにして瀬戸内海に広がって行ったのは以前にお話ししました。宗派は異なりますが小豆島の池田でも同じような関係が摂津との間で行われていたと私は考えています。
 交易がもたらすものは、商売だけにとどまらないのです。服装や宗教などの「文化情報」も含まれています。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、宗教や祭礼などの文化が瀬戸内海に広がって行ったとしておきましょう。

小豆島 明王寺釈迦堂4
小豆島霊場 明王寺
   小豆島島遍路の札所に明王寺があります。
この境内に釈迦堂が建っています。もともとは、この建物は高宝寺の釈迦堂だったようです。高宝寺は明王寺以下、池田庄内11カ寺の諸法事勤仕の会座堂でしたが、江戸時代初め無住となります。そのため釈迦堂は、明王寺が管理するようになり、現在に至っているようです。
小豆島 明王寺釈迦堂
       明王寺の釈迦堂(重文指定 室町時代)

この釈迦堂は室町末期の建築で、戦前は国宝でしたが、今は文字瓦と棟札・厨子とともに重要文化財に指定されています。
 釈迦堂に保管されている文字瓦は、現在23枚あります。
小豆島 明王寺瓦文字3
明王寺釈迦堂の文字瓦
その1枚に「為後生菩提百枚之内」と記されているので、もともとは平・丸・鬼瓦合わせ百枚あったと研究者は考えているようです。瓦の大きさは、
丸瓦が長さ約26cm、径約22,7cm。
平瓦は縦 約29cm、横約23cm、厚さ約20cm
刻印された文字瓦には、年月日・瓦大工名・寄進者・願主と簡単な言葉が箆書きされています。その中で文字の多い瓦を見ておきましょう。
小豆島 明王寺瓦文字2
大永八年と 大工四天王寺藤原朝臣新三郎の名前が見える

「千時大永二年壬子歳此堂立畢 同大永八年二月廿三日より瓦思立候也願主権律師宥善 大工四天王寺藤原朝臣新三郎」

意訳変換しておくと
釈迦堂は大永2(1522)年に着工。大永8(1528)年2月23日から瓦葺開始。願主権律師宥善 大工四天王寺藤原朝臣新三郎

ここからは、建立年代や願主、瓦大工が分かります。注目しておきたいのは、摂津四天王寺から瓦大工の藤原朝臣新一郎がやってきて瓦を葺いていることです。文字瓦の中には「四月廿七日 天王子寺主人永八天」と記されたものもあるので、天王寺主も関係があったようです。どちらにしても、小豆島海賊衆と四天王寺や天王寺などの有力者との日常的な交易関係がうかがえます。
 残された文字瓦の字体は、共通点が多く寄進者がそれぞれ書いたのではないようです。寄進者の思いを受け止めて、本願の池田庄円識坊や権律師宥善らが書いたものと研究者は考えています。こうしてみると、この文字瓦は釈迦堂建立の浄財を集めるための手段でもあったようです。それに応じている人たちは、信仰心とともに小豆島の海賊衆(水軍)とも何らかの関係を持っていたことがうかがえます。
 釈迦堂が大永2年(1522)年に地頭・須佐美氏の子孫である源元安入道盛椿(せいちん)によって着工され、11年かかって完成したことを押さえておきます。

小豆島 明王寺釈迦堂 厨子
釈迦堂内の厨子
最も長い文章が書かれている瓦を見てみましょう
  大永八年戊子卯月二思立候節、細川殿様御家大永六年より合戦始テ戊子四月二十三日まて不調候、島中関立翌中堺に在津候て御留守之事にて無人夫、本願も瓦大工諸人気遣事身無是非候、阿弥陀も哀と思食、後生善所に堪忍仕、こくそつのくおのかれ候ハん事、うたかひあるましく、若いかやうのつミとか仕候共、かやうに具弥陀仏に申上うゑハ相違あるましく実正也、如此各之儀迄申者ハ池田庄向地之住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年二十七同申剋二かきおくも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ、

意訳変換しておくと
  大永8(1528)年戊子卯月に寄進を思立った。その間、細川晴元殿様が大永六(1526)年から合戦を初めたために戊子4月23日まで、島中(小豆島)の関立(海賊)は動員され、堺にとどまった。そのため島は留守状態となり、人夫も集まらず、本願も瓦大工などへの気遣もできず、工事は思うようにすすめることができていない。阿弥陀も哀れと思し召し、後生の善所と堪忍してただきたい。
このように申し上げるのは池田庄向地の住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年27 このように書き置くも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ、

ここからは次のようなことが分かります。
①大永7年(1527)に細川晴元が四国の軍勢を率いて堺へ渡り、細川高国と戦ったこと。
②その際に晴元は、小豆島の関立(海賊衆)に兵船動員を命じていること
③小豆島海賊衆は晴元に従い、1年余り堺に在陣して小豆島を留守にしていたこと
④そのため建設中の釈迦堂の工事が停滞していることを河本三郎太郎吉国が瓦に書き残したものです。小豆島の海賊衆が管領細川晴元の支配下におかれていたこと
以上から、讃岐の東方と西方に関立(海賊衆)がいて、下のような関係にあったと云えそうです。
讃岐東方守護代 安富氏 ー 東方関立 ー 小豆島(島田氏)
讃岐西方守護代 香川氏 ー 西方関立 ー 白方 (山路氏)
釈迦堂が建設されていた頃の畿内の情勢を見ておきましょう。
文中の細川殿様とは細川晴元のことです。

細川晴元

大永6(1526)年頃、晴元は四国勢力を背景に、京の細川高国と争っていました。大永7(1527)年に四国の兵を率いて堺へ渡り、和泉を制圧して高国に対抗します。翌年の大永8(1528)年に、和議が成立しています。Bの史料には、「島中関立(海賊)翌中堺に在津」のため「島の兵船も晴元に従い堺に出陣」し「御留守之事にて無人夫」とあります。こうした状況から、釈迦堂は大永2年に棟上したが、細川氏の同族の内紛が続き、瓦の製作など思いもよらない状態になったこと、大永8年になってやっと瓦製作を思い立ち、棟札に「奉新建立上棟高宝寺一宇天文第二癸巳十月十八日」とあるように、天文二(1533)年にやっと完成したことが分かります。。
 この瓦の寄進者は、「池田荘向地住人 河本三郎太郎吉国・吉時と記されています。
池田荘の住人であることが分かります。その文中には「阿弥陀も哀と思食、後生善所に堪忍仕」とあります。瓦大工や本願が寄進した瓦にも「為後生善所……」「諸人泰平 庄内安穏……」「南無阿弥陀仏……」など彼等自身や池田庄内の無事泰平を祈願しています。同時に「極楽ハはるけきほとゝききしかと つとめていたる所なりけり」や「心たに誠の道に叶なは、いのらずとても神やまもらん」など記され、彼らが阿弥陀・浄土信仰の持ち主であったことがうかがえます。ここには池田荘に阿弥陀・浄土信仰が高野聖たちによっても田あされていたことが見えてきます。彼らを通じて、摂津の四天王寺や天王寺・堺と池田はつながっていたのかもしれません。そして秀吉の時代になると、東瀬戸内海の海軍司令長官として小豆島を領有するようになるのが、堺出身の小西行長です。行長は小豆島を神の国にするべく宣教師を呼び寄せています。池田や内海でも布教活動が行われます。そして、秀吉の宣教師追放令以後には行長は高山右近をここに匿うことになることは以前にお話ししました。
小豆島 明王寺釈迦堂3

以上をまとめておきます
①中世の小豆島は備中児島の五流修験(新熊野修験)の修行場として、数多くの行場やお堂が開かれた。
②南北朝抗争期には、備前国児島郡の佐々本信胤は、小豆島の海賊衆を支配下におき、小豆島を南朝勢力の拠点として活動した。
③信胤は、五流修験者を通じて、紀伊国熊野海賊衆と連携し、東瀬戸内海の制海権を支配しようとした。
④小豆島は、引田や志度などの東讃の港の中継港の性格も帯びてくる
⑤15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、小豆島の船が大量に塩を畿内に運んでいたこと。塩が生産されていたことが分かる。
⑥こうして港の経済活動によって池田や内海は、海賊衆(水軍)の拠点として発展していく。
⑦彼らは守護細川氏に従うことを条件に、交易活動の特権を得ていく。
⑧16世紀には、細川晴元の畿内遠征に輸送船を提供している。それだけの船と水夫達がいたことうかがえる。
⑨この畿内遠征と同時進行で建立されていたのが池田荘の明王寺釈迦堂である。
⑩この建立は、池田の海賊衆リーダーによって行われたものであるが、瓦大工は摂津四天王寺からやってきていて、畿内との密接なつながりがうかがえる。
⑪文字瓦には「阿弥陀・浄土信仰」がみられ、高野聖などの活動がうかがえる。この時期に、熊野行者から高野聖へのシフトが考えられる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「橋詰茂  海賊衆の存在と転換  瀬戸内海地域社会と織豊権力」
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  高見島 新なぎさ2
高見島に入港する新なぎさ2    

塩飽諸島の中で、多度津から猫フェリーで行けるのが高見島と佐柳島です。高見島は古くから人が住んでいたという塩飽七島の一つです。その向こうの佐柳島は高見島からの入植者によって江戸時代になって開かれたとされます。高見島の「餅つき唄」の中にも、次のようなフレーズがあります。
高見・佐柳は 仲のよい島だよ― ソレ
あいの小島(尾島)は子じゃ孫じゃよ
ソレハ ヨイヨイヨイ
  「あいの小島(尾島)は子じゃ孫じゃよ」と高見島と佐柳島は、親子・兄弟島と謡われています。今回はこの内の高見島に伝わる民俗について、見ていくことにします。  テキストは「西山市朗   高見島・佐柳島の民俗十話」です。 
高見島の島名は、 どこからきているのでしょうか?
ひとつは、高見三郎宗治の名からきているという説があるようです。
浜部落の三谷家(屋号カミジョ)の土地からでた五輪の供養塔は、鎌倉~室町時代のもので、児島高徳の墓だと地元では伝えています。この墓には、浜の人々が夏祭りにおまいりしていたと云います。
また別の説では建久年間(12世紀末)に、備前国児島から移住してきた人たちが開いたのが始まりだという伝承もあるようです。
最後の説は、周辺の島の中で一番高く、周りが見渡せる島だから、高見島と呼ぶようになったのだとされています。これが一般的なようです。
 寿永四年(1185)屋島の源平合戦に破れた平家船団が西方に落ち延びていくときに、高見・佐柳島にも立ち寄って水・飲料、燃料のマキを積み込んだという伝承もあるようです。高見島の浜の庄屋・宮崎家は、平家方の宮崎将監の後裔だと自称していたようです。この島が海の民の拠点として、機能していたことはうかがえますが、それ以上は分かりません。
高見島(たかみじま)

 高見島は浦と浜の二つの港があります。
一般的には「○○浦・○○浜」というのが一般的です。ところが高見島の場合は、なぜか単に浦・浜という集落名です。字名では「大久保通・大谷通・古宮通・六社通・田ノ上通・浅谷通・下道通・高須通」というように、○○通に分けられています。
北側の浦集落は、江戸時代前期に大火にあい、現在のところに集落を移したようです。
それ以前は古宮、ナコチ・ハナタ・フロ・キトチ一帯に集落があったようです。大聖寺ももともとはハナタにあり、そこには腰を掛けたりすると腹が痛むという腹くわり石や五輪の塔が残っていたと云います。フロには、古い泉もあって、ここがかつての島の水源で、ここを中心に人々が集まり住み集落が海辺に出来たことがうかがえます。泉の先には「三郎ヨウジ」という地名も残っているようです。
高見島 浦集落3
高見島 浦集落
  瀬戸の島を歩くと、古い集落には共同井戸があります。
雨の少ない瀬戸内海の島々にとっては、井戸は生命の水の提供場所として神聖な場でもあったようです。水は天からのもらいもので「天水」です。後に弘法大師伝説が伝わってくると、泉・井戸も弘法大師に「接ぎ木」されていきます。そして、満濃池とつながっている井戸(宮の井戸)として雨乞いの話になったりしています。高見島の井戸伝説としては、次のような話が伝えられます。
①若水迎えにつかっていたミキャド(御神井戸)の湧き水の杓井戸
②死が近付くとほしがっていたという冷たくて美味しい水の話。
③むかしの浦の里にあったフロの泉
どちらにしても、古代から瀬戸内海を行き来する交易船は、風待ち・潮待ちのための寄航港が必要でした。そこには、美味しい水を提供してくれる井戸があることが必須条件だったようです。立ち寄った船に、これらの井戸も美味しい水を提供していたのでしょう。

高見島 浦集落4
高見島 浦集落
石垣の上に立ち並ぶ浦の家並は、江戸時代前期の風景(たたずまい)を今も残しています。

高見島 浦集落男はつらいよ
男はつらいよのロケ地となった高見島

 男はつらいよなどのロケ地として使われたわけが分かります。今は、空き家になった家が淋しそうに立ち並んでいます。

高見島 浦集落2
高見島 浦集落

制立場があり、北戸小路。南戸小路・下戸小路があり、集落の中央上に大聖寺がドンと構えています。ここから見える瀬戸内海は最高です。
高見島 大聖寺2
高見島の大聖寺
沖を行く備讃瀬戸行路の大型船、その向こうには丸亀平野の甘南備山である飯野山が望めます。
高見島 大聖寺からの瀬戸内海
大聖寺から望む備讃瀬戸と丸亀平野
高見島と佐柳島の戸数変化を見てみましょう。
江戸時代の塩飽人名衆650名のうち、高見島には77名の人名がいました。ここからも高見島は歴史が古く、廻船の拠点としても機能していたことがうかがえます。高見島の人たちが無住だった佐柳島に入植し、本浦を開いたと云います。さらに佐柳島の北側には福山・真鍋島から渡ってきた人たちが住みつき、また安芸の家船漁師も早くからやってきて、この島を根拠に漁業を続けていました。それが現在の佐柳島の長崎集落です。こうして、佐柳島は漁業の島として成長して行きます。それに対して高見島はどうなのでしょうか?

高見島 戸数・人口


正徳三年(1713)の記録には、高見島の戸数249戸(1449人)、佐柳島144戸とあります。しかし、この時期に塩飽の北前行路の独占体制が崩れて、塩飽廻船業は大きな打撃を受けます。その後は、船大工や宮大工として島外に活躍するする者が増えて、島を去る者が増えた、島の戸数や人口は減少傾向に転じたことは以前にお話ししました。
 高見島も明治には、249戸から195戸へ減少しています。そして、戸数の半数が大工だったことが分かります。漁師は1/6しかいません。瀬戸の島と聞くと、すぐに漁師港を思い浮かべますが、そのイメージでは高見島は捉えきれない島なのです。浦の集落の住人も漁業を生業としていた人たちではないようです。

高見島 ネズミ瓦
高見島の浦集落の漆喰壁の飾り瓦
 男はつらいよのロケ地「琴島」として、高見島と志々島は使われました。外国航路の船長だった父の家に、病気療養で帰ってきてる娘を松坂慶子が演じていました。その家は坂の上にある立派な家でした。この家は漁師達の家ではないのです。漁師の家は海沿いです。ここには、大工や農家などの家が坂沿いにあったようです。

高見島 うさぎ瓦
飾り瓦のうさぎ
 佐柳島と比較すると、高見島はその後は戸数・人口ともに減少していきます。それとは逆に、佐柳島は近世末から漁師の島として、戸数と人口が増えていきます。いったんは人口が急激に増えた佐柳島も高度経済成長がの中で、過疎化の波に飲み込まれていきます。

茶粥(チャガイ)を食べる島
高見島には水田がないので、米が作れませんでした。そんな島の人々が食べていたのが茶粥です。茶粥を作るときには、網目の布袋(茶袋)に茶を入れて炊き、そこへ麦・米や、薩摩芋・ササギ・炒った蚕豆・ユリネ・ハゼ(あられ)・団子等を入れていたそうです。熱いのをフウフウと吹きながら食べるのが、香ばしくあっさりしていて、美味しかったと云います。茶粥について、研究者は次のように記します。
朝飯は、暗がりで炊き、昼飯は11時頃、夕飯は、暗くなる前に食べていた。朝夕、茶粥のときもあったし、オチャヅケと言って間食を食べることもあった。畑仕事には、ヤマイキベントウと言って、麦飯の弁当を持って行ったりしていた。船での昼飯は白米のご飯だった。(御用船方の伝統か)
メシ(昼飯)、午後六時バンメシ(晩飯)・ョイメシという習慣だった。
茶粥を食べる風習は、瀬戸内にみられ、広島県から和歌山・奈良県へとつながっている。
畑作に頼っていた島の人々にとって、乏しい穀物等を入れて、出来る限り味よく、満腹感を味わおうとした、貧しいながら一つの生活の知恵であった。

 この茶粥に使われたのが以前にお話した「仁尾茶」です。
飲んでも食べてもおいしい。茶粥のために作られた土佐の「碁石茶」【四国に伝わる伝統、後発酵茶をめぐる旅 VOL.03】 - haccola  発酵ライフを楽しむ「ハッコラ」

土佐の碁石茶

仁尾茶は伊予新宮や四国山脈を越えた土佐の山間部で作られた碁石茶でした。仁尾商人が土佐で買い付けた碁石茶は、瀬戸内海の島々を商圏にしていたようです。
高見島や佐柳島では、畑仕事はすべて婦人の仕事で、肥料、収穫物を頭の上に乗せて山の上の畑まで運び上げていました。
「ソラのヤマ(はたけ)」は、ヒコシロ、マツネなどにありました。そこへ荷物を頭に載せて行き帰りしていたのです。頭上運搬のことを地元では「カベル」と云います。「ワ」を頭にすけたり、ワテヌグイをしてカベッテいました。これは女性だけの運搬方法です。男の場合は肩に担ぐか、「カルイ」で背負ったり、水の運搬はニナイ(担桶)を「オッコ」(天秤棒)で担いで運んでいました。
 女性の頭上運搬は、瀬戸内海の島々や沿岸部では近世まで見られた風俗でした。高松城下図屏風の中にも、頭に水甕を「カベッテ」って、お得意さんまで運ぶ姿が描かれていたのを思い出します。
高松城下図屏風 いただきさん
水桶を頭に乗せて運ぶ女達 高松城下図屏風

両墓制について
両墓制 
佐柳島の長崎集落の両墓制
佐柳島の北側の長崎集落では、かつては海沿いに死体を埋め、黒い小石を敷き詰め、その上に「桐の地蔵さん」という人形を立てました。それが「埋め墓」です。月日をおいて、骨を取り出し、家毎の石塔を立てた「拝み墓」に埋葬します。「埋め墓」と「拝み墓」を併せて、両墓制と呼びます。
1両墓制
佐柳島の長崎集落の埋め墓

 長崎集落の埋め墓の特徴は、広い墓地一面に海石が敷きつめられていていることです。この石は、全部海の中から人が運び上げた石だそうです。かつての埋葬にはほとんど穴を掘らず、棺を地上に置いてそのまわりに石で積んだようです。その石は親戚が海へ入って拾い上げて積みます。
 このような積石は、もともとは風葬死者の荒魂を封鎖するものでした。それが時代が下がり荒魂への恐怖感がうすれるとともに、死者を悪霊に取られないようにするという解釈に変わったと研究者は考えているようです。肉親のために石を積む気持が、死者を悼み、死後の成仏を祈る心となって、供養の積石(作善行為)に変わっていきます。
佐柳島の埋め墓で、海の石を拾ってきて積むというのも供養の一つの形なのでしょう。
 ここには寺はありません。古い地蔵石仏(室町時代?)を祭った小庵があるだけです。同じ佐柳島の本浦集落の両墓制は、海ぎわに埋め墓があり、その上の小高い岡の乗蓮寺周辺に拝み墓があります。
佐柳島への入植者を送り出した高見島の浦と浜の両集落にも、両墓制の墓地があります。

高見島 浦集落の両墓1
高見島・浦集落の両墓制

高見島にはそれぞれの墓地に大聖寺と善福寺がありました。拝み墓が成長して、近世に寺になったようです。島にやってきて最初に住持となったのは、どんな僧侶なのでしょうか?  
  この時期に、塩飽から庄内半島のエリアを教線エリアにしていたのが多度津の道隆寺明王院であったことはお話ししました。道隆寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

イメージ 2

 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると庄内半島方面までの海浜部、さらに塩飽の島嶼部へと広域に活動を展開していたことが分かります。たとえば
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明14四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
享禄3年(1530) 高見島善福寺の堂供養導師
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。その中には粟島や高見島も含まれていたようです。『多度津公御領分寺社縁起』には、道隆寺明王院について次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院(道隆寺)より執行仕来候」

 中世以来の本末関係が近世になっても続き、堂供養や神社遷宮が道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。
 供養導師として道隆寺僧を招いた寺社は、道隆寺の法会にも参加しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

 ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
また、影響下に置いた塩飽諸島は古代以来、人と物が移動する海のハイウエー備讃瀬戸地域におけるサービスエリア的な存在でした。そこに幾つもの末寺を持つと言うことは、アンテナショップをサービスエリアの中にいくつも持っていたとも言えます。情報収集や僧侶の移動・交流にとっては非常に有利なロケーションであったのです。こうして、この寺は広域な信仰圈に支えられて、中讃地区における当地域の有力寺院へと成長していきます。その道隆寺ネットワークの中に、高見島や粟島の寺社も含まれていたことになります。
高見島 大聖寺山門
大聖寺(高見島浦集落)
 高見島では埋め墓のことをハカといい、参り墓のことをセキトウバと呼んでいます。
埋葬するとその上にむしろをおき、土をかぶせ、ハカジルシの石と六角塔婆をたて、花を供えます。四十九日の忌日には「四十九院」という1m角ほどの屋根つきの塔婆の家を埋め墓の上に建てます。四十九枚の板には経文が書かれています。
一般庶民が石碑・石塔を建てるようになったのは、江戸時代後期以後だといわれます。それまでは埋葬したところに、簡単に土を盛り、盛り石をして墓標を建てる程度だったようです。

高見島 石仏
高見島の石仏

高見島の浦のロクシには、棄老伝説が残っており、その近くには赤子薮もあったと伝えられます。古くは、死ぬと海へかえすという風習もあったようです。新仏(アラリョウ)ができると、灯ろう船(西方丸・極楽丸)に乗せて灯ろうを流す風習も残っています。

高見島には、浦に大聖寺、浜に善福寺(廃寺)がありました。
高見島 大聖寺3
大聖寺
大聖寺は、弘法大師開基の寺として伝えられています。島には次のような弘法大師伝説が伝わっています。
「片葉の葦」
「西浦のお大師さん」
「ガンの浦の弘法大師の泉」
「浜・板持の大師の井戸」
「釜お大師さん」
これを伝えた高野聖の存在がうかがえます。
  瀬戸内海の港にも、お墓のお堂や社に住み着き、南無阿弥陀仏をとなえ死者供養を行ったのは、諸国を廻る聖達だったことは以前にお話ししました。死者供養は聖を、庶民が受けいれていく糸口にもなります。そのような聖たちが拠点としたのが道隆寺や弥谷寺や宇多津の郷照寺でした。それらの寺院を拠点とする高野聖たちが、周辺の両墓制に建てられた庵やお堂に住み着き供養を行うようになります。高野の聖は「念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰 + 廻国 + 修験者」的な性格を併せ持つ存在でした。彼らが住み着いた庵の一つが、多度津の桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の周辺です。それが現在の摩尼院や多門院に発展していくと多度津町史は記します。(多度津町史912P)。同じように周辺の島の港にも聖たちがやってきて、定着して念仏信仰を広げていったようです。そして近世後半になって最後に弘法大師伝説がもたらされます。

高見島 燈台2
高見島 北端の燈台 向こうが佐柳島
 高野聖たちによってもたらされた念仏阿弥陀信仰の上に、後に弘法大師信仰がもたらされて、島四国八十八ヵ所巡りが近世後半には姿を見せるようになります。瀬戸の島には、今でも島遍路廻りが春に行われている島があります。私も伊吹や粟島・本島などの島遍路廻にお参りしたことがあります。高見島にも島一周の島遍路コースがあり、石仏が祀られています。
高見島 西海岸の石仏

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献    「西山市朗   高見島・佐柳島の民俗十話」

        佐柳島(猫島)への行き方(香川県多度津町) | 旅女 Tabijo 〜義眼のバックパッカー〜            
佐柳島

佐柳島は、今は猫の島として有名になりました。
この島は、塩飽七島には数えられていません。佐柳島に人びとが住みはじめたのは江戸時代になってからのようです。高見島から七つの株をもった人名が移住して開拓をすすめ、その後に他の島からも漁民が移り住み、しだいに集落が形づくられていったようです。このため佐柳島には人名株が7つありますが、塩飽全体の650株からするとわずかな数です。そのため人名制が島の歴史に及ぼした影響は、他の島にくらべると大きなものではなかったと研究者は考えています。

 真鍋島 八幡神社3
佐柳島の八幡神社 
明治初期の統計によると、戸数275のうち、農業3、漁業267、大工3、船乗渡世2となっています。大工や船乗りになって稼ぐ人がほとんどいなかった点に、塩飽七島との違いが見れます。佐柳島は、専ら漁で暮らしをたてる島として、「渡世」してきた島のようです。
 

高見島・佐柳島(17.06.14)
佐柳島
佐柳島本浦の北はずれに八幡宮があります。
本殿は昭和28年の改修、拝殿は昭和48年の新築で、銅板葺の緑の屋根が島の緑と調和しています。住む人が少なくなった集落の中を歩いてきた私には、こんなに立派な拝殿が建っていることを不思議に思えました。

真鍋島 八幡神社4
佐柳島の八幡神社

 拝殿には新築を記念して船を操縦する舵取機が奉納されていました。漁船のものとは思われない立派なモノです。よく見ると「神戸市在住佐柳島有志」と奉納者の名があります。その上の鴨居には、本殿改修寄附者の名を連ねた額が掲げられている。地元の人に混じり、次のように神戸や大阪からの寄附者の名が多くあります。
①神戸市在住 89名
②大阪市在住 35名
③神戸市給水所 40名
④住友神戸支店 16名
⑤神戸市大正運輸 14名
⑥神戸市日本組  9名
⑦大阪市住友 43名
役所や企業ごとに人びとの名前が記されています。神戸・大阪と佐柳島が、どのように結びつくのか私には分からず「疑問のおみやげ」として持ち帰りそのままになっていました。最近、それに応えてくれる書物に出会いました。今回は、佐柳島と神戸の関係を、読書メモ代わりに記しておきます。
真鍋島 八幡神社6
八幡神社(佐柳島)の鳥居と瀬戸内海
拝殿新築したときの世話人が、次のように話されています。
新田清市氏(明治35年生)は、神戸市給水所に定年まで務め、退職後に真鍋島にもどってきた方です。本殿改修寄附者の名を連ねた③神戸市給水所40名の一人になります。
わしらの入った大正のじぶんは、船舶給水所というて、神戸港にやってくる船に給水するのが仕事です。神戸が港町として開かれたのは、 一つには水が良かったためで、神戸の水は赤道を越えてもくさることがない、といわれました。
 神戸港へ入港した船への給水には、突堤に設けられた給水孔をつかっての自家給水と、沖に碇泊したまま水船をたのんで給水するものの二とおりがありました。神戸の良い水を水船でとどけるのが私たちの仕事でした。務めていたのは、ほとんどが佐柳島の人でした。
 船が港に入り繋留すると、何番ブイの船、何トン給水をたのむ、と船舶会社から給水所に連絡がはいります。すると、水船が本船に出むきます。私が入った当時は、木造の水船を曳船がひいて本船に近づき、蒸気でポンプを動かす「ドンキ船」が付き添って給水していました。
水船の大きさは30、50、100トンの三段階で、慣れた者が大きな船に、初心者は小さな船に乗るといった具合でした。乗組員はいずれも一人で、真中に大きな水槽を備え、前後にオモテとトモの二つの部屋がつくられていました。
「給水所に勤めるといっても、戦後しばらくまでは私たちは船住いでした。水船には女をのせてはいけないというきまりがありましたから、女房や子どもたちは島において働いていました。船の中で男手で煮炊きをするという不自由な生活でした」
曳舟には船長・機関長・機関部員・甲板員二名のあわせて五名が乗り組んでいました。みんな給水所につとめる人で、船長と機関長が吏員の職に就き、機関部員と甲板員はやとわれでした。島を出て給水所につとめるときは、だれもが傭人として入りました。水船に乗りたいという人がいると、島出身の先輩が所長にたのみこむという形がほとんどでした。
 傭人として二年つとめると試験をうけて雇員にすすみ、さらに二年後の試験で正式な吏員になる道がひらかれていました。吏員になるとそれまでの日給が月給にかわり、盆・暮れの帰省も心おきなくできて、暮らしむきも安定します。

 八幡宮の拝殿を建替時に、新田さんは島に帰って年金暮らしを送っていたようです。そして、発起人として寄附の呼びかけをすると、神戸や大阪で活躍する多くの佐柳島出身者から巨額の金が集まったようです。水船で働く仲間のなかには、吏員にすすめぬまま年老いてしまった人もいました。彼らからも同じように島へ志が寄せられてきたといいます。ここからは、神戸港の水船は佐柳島出身者によって運営されていたことが分かります。

真鍋島 八幡神社5
八幡神社(佐柳島)の鳥居
佐柳島出身者には、ハシケ(艀)にのって暮らしをたてる人びとも多くいようです。
八幡宮の本殿改修寄附者の額には、住友神戸支店、神戸市大正運輸、神戸市田本組、そして大阪住友と阪神の企業の人びとの名が記されていました。彼らは輸送会社や倉庫会社で働き、ハシケのりとして港湾労働で汗を流した人だちだったようです。ハシケは水船とちがつて、ふつう夫婦でのりこみ、子どもも船の中で育てたようです。また、見習いとしてやとわれた「若い衆」も同乗していました。
 住友運輸のハシケに夫と一緒にのっていたという岩本クニさん(明治42年生)のインタビュー記事には、次のように記されています。
 いまは楽させてもろうてますが、憶えてこのかた働きずめでした。小学校から帰ると、母親が百姓しよる畑のわきで乳飲み児の子守です。母は乳がでなかったので、背中に負うた児がよく泣きよりました。ハラすかしてな。マメをペチャペチャかみくだいては、口元にもっていったものです。日暮れちかくになると母より一足先に家に帰り、ご飯をたいてその児と二人で畑の母を待つ毎日でした。学校をおえると、こんどは岡山の紡績工場づとめです。主人といっしょになったのは20歳のときです。主人は14歳で神戸に出て、ハシケにのっていましたので、私もいっしょに船の中で暮らすようになったのです」

 こわかったのは、何といっても台風のときです。下の娘が三つくらいやったろうか、三十数年前に大嵐にあいました。避難の途中で、曳船のロープがプツンと切れてね。いあわせた船にやっとの思いで肪わせてもろうたが、今度は、その船ともども流されたんよ。二隻とも嵐にやられてしまうと思って、泣き泣きロープをほどいたのですが、 一時はもうダメかと思いました。せめて子どもの命だけはと思うて、トモに寝ていた娘をおこしてだきかかえました。海の中へとびこんだらだれかが助けてくれるのではないかと思うてね。そうこうしよるうちに救助船が近づき、命からがらのりうつったんです。

海が平穏であっても、海上での暮らしはちょっとの油断でたいへんなめにあいます。とくに幼児のいる母親は、たいへんだったようです。
ある夏の晩、ハシケの上で家族そろって夕涼をしていました。スイカを切ろうと下の娘に包丁を取りに行かせたんですが、なかなかもどってこない。上の娘に見に行かすと、あわてて帰ってきよるん。どうしたと聞くと「妹が海に浮いとるん、といいよるの」
 大いそぎで引上げたところ、息があった。水もさほど飲んでいないようで、ほっと胸をなでおろした。
「子どもはえろう元気なもんです。ケロッとした顔しておきあがって「おかあちゃんスイカ」といいよるんです。海の水をのんでまだスイカをほしがるんよ」
戦後間もない頃、配給米をもらいに出かけた夫が夜になってももどってこない。どうもヤミ米を買いに行ったと間違えられて、警察の留置所に拘束されているらしいとのこと。夜中の12時には、荷役の仕事がはいっているので、船を出さないわけにはいけん。曳胎の船長さんに、やんわり曳いてや、いうて私がハシケの船頭になって舵をとりました。上の娘が五つか六つくらいのときやったろうか。眠い目をこすりながらロープの上げ下げを手伝うてくれてね……」
ハシケでは、あるときは女が男の代役をつとめ、子どもまでその仕事を手伝ったようです。
 しかし、働きさえすれば白い米を思うそんぶん口にできることは幸せでした。ハシケを所有する会社からは、男・女・子どもを問わず一日一人五合の白米の配給がありました。それがハシケのりの大きな魅力です。
「年に何度か島に帰ると、少しずつ残しておいた米でおむすびを山のようにこしらえて、隣近所に配ったものでした。ええ土産物だと喜ばれました。ハシケの人はええなあ、と島の人にうらやましがられたものです」
と、戦後間もないころの物質が不足していた時代を岩本さんは回想しています。

ハシケの暮らしは、電気・水道・ガスがありません。そのため石油ランプを灯して明かりとし、煮炊きには、流木をひろったり、造船所で木の切れ端をもらつてきて燃料としました。野菜や日用品は、港に碇泊する船をめあてに巡回してくる「ウロウ船」から買います。ときには船からあがって、ハシケの女たちが連れだって市場に買出しに出かけることもありました。それは、息抜きのひとときで、ささやかな楽しみでした。

 洗濯と給水は、神戸港の突堤で行なっていました。
「水はほんとうは買わにゃいけんけど、私ら佐柳島のもんは、おおかたタダで使わせてもろうていました。 給水所の人が佐柳島の出の人でしたから、給水所のお役人がいくら厳格いうても、そのあたりはおおめにみてもろうていました」
 ある日、突堤で洗濯をしていたら、いつもとちがう人がみまわりにやってきました。そして、なにしよんぞととがめられました。よくみると、里の隣の家の息子です。実家の井戸によくもらい水にきていた家の子なので、子どものころからよく知っていました。そこで、すかさずこう云いました。。
「何いうとるん、あんた、うちの井戸でうぶ湯をつかったやないの」
その人は驚き、私の顔をまじまじと見て、なつかしさのあまり声をあげた。
「クニさんかいなあ。ほうかいなあ。なんぼでもとれや、かまわん、かまわん」

ハシケの船住いも昭和30年代半ばで終わりをつげたようです。
 岩本さんが神戸のまちへ陸上りすると、ハシケにのっていた佐柳島の仲間たちもしだいにそれにならい、近所に寄り添うように住みはじめます。そして、陸の家から弁当をもってハシケに通う暮らしに変わっていきます。
 そのころから神戸港の浚渫がすすみ、本船が埠頭に横づけされるようになり、コンテナ船なども登場し、荷役作業のあり方が変わっていきます。そして、ハシケや水船は姿を消して行きます。

真鍋島1
八幡神社の前の浜
 佐柳島の二人の話からは、神戸の水船やハシケなどの港湾運営に佐柳島の人々が縁の下の力持ちとして活躍していたことが分かります。
 佐柳島は近世になって入植された島なので、塩飽の島々のように船乗りや大工などの職人として、島外に出る伝統がありませんでした。しかし、神戸が近代的な港町として発展していく中で、ハシケヤ水船に関わり、その発展に寄与していたようです。
佐柳島歩きについては、こちらにアップしました。
ttps://4travel.jp/travelogue/11285847

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 宮本常一と歩いた昭和の日本 第五巻
中国・四国2 宮本常一とあるいた昭和の日本5』田村善次郎監修他 - 田舎の本屋さん

  丸亀平野は浄土真宗王国とも云われ、多くの人たちが真宗信者です。持ち回りで開かれる隣組の「寄り合い(月の常会)」でも、最近まで会の最後には正信偈があげられて、お開きとなっていました。親戚の葬儀や法要も真宗僧侶によって進められていきます。そんな地域に住んでいるので、四国全体も浄土真宗が支配的なエリアと思っていました。でも、そうではないようです。浄土真宗の信者が圧倒的に多いのは、讃岐だけのようです。どうして、讃岐に浄土真宗のお寺が多いのでしょうか。下表は、現在の四国の宗派別の寺院数を示したものです。
四国真宗伝播 四国の宗派別寺院数
四国の宗派別寺院数一覧

ここから分かることを挙げておきます
①弘法大師信仰の強い四国では、真言宗寺院が全体の約1/3を占めていること。
②真言宗は四国四県でまんべんなく寺院数が多く、讃岐以外の三県ではトップを占めること
③特に阿波では、真言寺院の比率は、70%近くに達する「真言王国」であること
④真言宗に次いで多いのは真宗で、讃岐の真宗率は50%に近い。
⑤伊予で臨済・曹洞宗などの禅宗が約4割に達する。これは河野氏などのの保護があったため
⑥土佐の寺院数が少ないのは、明治維新の廃仏毀釈影響によるもの

④で指摘したとおり、讃岐の浄土宗率は46,6%にもなります。どうして讃岐だけ真宗の比率が高いのでしょうか。逆の見方をすると③の阿波や⑤の伊予では、先行する禅宗や真言勢力が強かったために、後からやって来た真宗は入り込めなかったことが予測できます。果たしてどうなのでしょうか。讃岐への真宗布教が成功した背景と、阿波や伊予で真宗が拡大できなかった理由に視点を置いて、真宗の四国への教線拡大が、どのように行われたのかを見ていくことにします。テキストは「橋詰 茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。
まずは、伊予の真宗寺院について見ていくことにします。
伊予には真宗伝播に関する史料がほとんどないようです。その中でも
古い創建由来を持つ真宗寺院は、芸予諸島に多いようです。四国真宗伝播 川尻の光明寺
光明寺(呉市川尻) もともとは伊予の中島にあった禅寺

安芸国川尻の光明寺は明応五年(1496)に禅宗から真宗に転宗した寺です。その前身は伊予国中島にあった西光寺と伝えられます。芸予諸島の島々を転々とし、天正元年(1573)年に安芸川尻に移ってきます。伊予中島で禅宗から真宗に転じた際に、檀家も真宗に改宗したと云います。中島では光明寺(西光寺)が移転したあとは、お寺がなくなりますが、信徒たちは教団を組織して信仰を守ったようです。
 この時期の安芸国では、仏護寺を中心として教線を拡大していきます。仏護寺が天台宗から真宗へ改宗した時期は、光明寺の改宗した時期とほぼ同じ頃になります。ここから15世紀末頃が、真宗が瀬戸内海を通じて芸予諸島一帯へと、その教線を伸ばしてきた時期だと研究者は考えています。
安芸竹原の長善寺について

四国真宗伝播 安芸長善寺と
竹原の長善寺と大三島

 芸予諸島で一番大きな大三島は、安芸から真宗が伝わってきたようです。「藤原氏旧記」によると、祖先の忠左衛門は竹原の長善寺の門徒でした。それが大永7(1527)年に大三島へ移住し、島に真宗を広めたと伝えられます。
四国真宗伝播 長善寺進者往生極楽 退者尤問地獄
長善寺の黄旗組
長善寺には石山戦争の時に、使用されたと言われる「進者往生極楽 退者尤問地獄」と記された黄旗組の旗が残されています。忠左衛門は同志を募り、兵糧を大坂へ運び込んでいます。彼は、石山にとどまって戦いますが、同志18名とともに戦死します。長善寺に、その戦死者の法名軸か残されています。その中に「三島五郎太夫、三島左近」といった名前があります。彼の「三島」という名から大三島出身者と考えられます。他の者も大三島かその周辺の出身者だったのでしょう。ここからは、石山戦争時代には、竹原の長善寺の末寺や坊が芸予諸島にいくつできて、そこから動員された真宗門徒がいたことが分かります。しかし、村上海賊衆に真宗は門徒を広げては行けなかったようです。村上武吉も、周防大島の真言宗の寺院に葬られています。
大三島の真宗寺院で、寺号を下付されたのが古いのは次のふたつです。
①宮浦の教善寺 寛文11(1673)年
②井口の真行寺  延宝6(1678)年
 寺院としての創建は、江戸時代前半まで下るようですが、それまでに道場として存在していたようです。道場などの整備や組織化が行われたのは、石山戦争が契機となったと研究者は考えています。石山戦争を戦う中で、本願寺からのオルグ団がやってきて、芸予諸島での門徒の組織化が行われ、道場や庵が集落に設けられたと云うのです。大三島の各地に、現在も道場・寺中・説教所の痕跡が見られることは、このことを裏づけます。伊予では安芸から芸予諸島の島々を伝って、真宗伝播の第一波が波が、15世紀末にやってきます。そして、16世紀後半の石山戦争中に、第2派が押し寄せてきたようです。

次に伊予本土の方を見ていくことにします。
伊予本土で創建が古いとされる真宗寺院は、次の通りです。
①東予市の長敬寺 弘安6(1283)年創建、再興後三世西念の代に本願寺覚如から寺号を賜ってて真宗に転宗。
②明勝寺は 天文15(1546)年に、真言宗でから転宗し、円龍寺と改称
③新居浜の明教寺は元亀年間に、佐々木光清によって開創
④松山の浄蓮寺は、享禄4年(1531)河野通直が道後に創建
⑤定秀寺 永禄元(1558)に、風早郡中西村に鹿島城主河野通定が開き、開山はその子通秀。
⑤の定秀寺については、通定は蓮如に帰衣し直筆名号を賜わり、子通秀は石山戦争に参加して籠城し、その功績により顕如から父子の名を一字ずつとり定秀寺という名を賜ったと伝えられます。しかし、鹿島城主河野通定なる人物は存在しない人物で、寺伝は信憑性にやや欠けるようです。
①は別にして、その他は16世紀半ばの創建を伝える寺院が多いようです。しかし、浄土真宗の場合は、道場として創建された時と、それが本願寺から正式に認められた時期には、時間的なズレがあるのが普通です。正式に寺として認められるには本願寺からの「木仏下付」を受ける必要がありました。
 慶長年間に入ると、道後の浄蓮寺・長福寺、越智郡今治の常高寺、松山の正明寺に木仏下付されています。これらの寺も、早い時期に下付になるので、それまでに道場として門徒を抱え、活動していたことが推測できます。しかし、それ以後の真宗の教線拡大は見られません。
伊予では瀬戸内海交易を通じて、禅宗が早い時期に伝わり、禅宗寺院が次のように交易港を中心に展開していたことは以前にお話ししました。
①臨済宗 東伊予から中伊予地区にかけては越智・河野氏の保護
②曹洞宗 中・南伊予地区には魚成氏の保護
東伊予と海上交易活動においては一体化していた讃岐の観音寺港でも、禅宗のお寺が町衆によっていくつも建立されていたことは以前にお話ししました。禅宗勢力の強い伊予では、新興の真宗のすき入る余地はなかったようです。

瀬戸内海を越えて第一波の真宗伝播を芸予諸島や安芸にもたらしたのは、どんな勢力だったのでしょうか
 中世の瀬戸内海をめぐる熊野海賊衆(水軍)と、熊野行者の活動について、以前に次のようにお話ししました。
①紀伊熊野海賊(水軍)が瀬戸内海に進出し、海上交易活動を展開していていたこと
②その交易活動と一体化して「備中児島の五流修験=新熊野」の布教活動があったこと
③熊野行者の芸予諸島での拠点が大三島神社で、別当職を熊野系の修験僧侶が握っていたこと。
④大三島と堺や紀伊との間には、熊野海賊衆や村上海賊衆による「定期船」が就航し、活発な人とモノのやりとりが行われていたこと。
以上からは中世以来、芸予諸島と堺や紀伊は、熊野水軍によって深く結びつけられていたことがうかがえます。その交易相手の堺や紀伊に、真宗勢力が広まり、貿易相手として真宗門徒が登場してくるようになります。こうして、瀬戸内海に真宗寺院の僧侶たちが進出し、て布教活動を行うようになります。芸予の海上運輸従事者を中心に真宗門徒は広がって行きます。それを、史料的に研究者は追いかけていきます。
瀬戸内海への真宗布教のひとつの拠点を、阿波東部の港町に求めます。
四国真宗伝播 阿波信行寺

 阿波那賀郡の信行寺は、那賀川河口の北側に位置し、紀伊水道を挟んで紀伊の有田や御坊と向き合います。この海を越えて、中世には紀伊との交流が活発に行われ、紀伊武将が阿波にやってきて、定住し竹林寺などに寄進物を納めています。

四国真宗伝播 阿波信行寺2
阿波国那賀郡今津浦信行寺 

 信行寺の寺伝には、開基は浅野蔵人信時で、寛成年間に京都で蓮如に帰衣して西願と称し、文明13(1481)年に那賀郡今津浦に一字を創建、北の坊と称したと伝えられます。永正年間に二代目の西善が実如より寺号を賜り、慈船寺と改めたとします。また亨禄年間には、今津浦には、もうひとつ照円寺も建立されてます。この寺は信行寺が北の坊と呼ばれたのに対して、南の坊と呼ばれるようになります。こうして、今津浦には、北の坊と南の坊の二つの寺院が現れます。これは、本願寺の教線が紀伊に伸びて、さらに紀伊水道を渡って阿波の那賀川河口付近に伸びてきたことを示します。「紀伊→阿波ルート」としておきます。

四国真宗伝播 阿波信行寺3

この両寺院が建立された今津浦は、那賀川の河口に位置し、中世には平島と呼ばれた阿波の代表的な港の一つでした。

阿波の木材などの積み出し港として重要な地位を占めていました。熊野行者たちや修験者たちのネットワークが張り巡らされて、真言宗の強いエリアでした。そこに、本願寺によって真宗布教センターのくさびが打ち込まれたことになります。
 北の坊と南の坊の二つの寺院の門徒は、今津浦の特性から考えても海上輸送に関わる人々が多かったことが考えられます。彼らは「渡り」と呼ばれました。「渡り」によって、阿波東部から鳴門海峡を経て瀬戸内海沿岸地域へと本願寺の教線は拡大したと研究者は考えています。これらの紀伊や阿波の「渡り」の中に、真宗門徒が拡がり、讃岐の宇多津や伊予の芸予諸島にやってきて、それを追いかけるように布教のための僧侶も派遣されます。おなじように堺に本願寺の末寺が建立されることで、堺の海上ネットワークを通じた布教活動も行われるようになります。それが15世紀末頃ということになるようです。

 興味深いのは、東瀬戸内海エリアの小豆島や塩飽諸島には、浄土真宗のお寺はほとんどありません。
私の知る限り、近世になって赤穂から小豆島にやってきた製塩集団が呼び寄せた真宗寺院がひとつあるだけです。本願寺は、このエリアには拠点寺院を設けることができなかったようです。この背景には、旧勢力である真言寺院(山伏寺)の活発な活動があったためだと私は考えています。具体的には、児島五流修験者に連なる勢力だと推測しています。
真宗門徒が確保できた拠点港は、讃岐では宇多津でした。
ここに西光寺を創建します。この寺のことは以前にお話ししましたので省略します。西光寺を経て芸予諸島や安芸方面に布教先を伸ばしていきます。そして、その結果は先ほど見たとおりでした。芸予諸島や伊予本土の港町周辺には勢力拠点を開くことが出来ましたが、それは、あくまで点の存在です。点から面への拡大には至りませんでした。その背景を考えておきます。
①芸予諸島や今治周辺では、大三島神社の別当職をにぎる真言宗勢力が強かったこと
②松山周辺では、河野氏など領主僧が禅宗を信仰しており、真宗を保護することはなかったこと
③南予は、旧来から土佐と一体化した修験道集団が根強く、真宗進出の余地はなかったこと
こうしてみると、真宗の伊予布教活動は進出が「遅かった」と云えそうです。旧来の修験道と結びついた真言勢力の根強さと、先行する禅宗の板挟みにあって、芸予諸島やその周辺部の海岸線沿いにしか信者を獲得することができなかったようです。

以上をまとめておくと
①浄土真宗が堺や紀伊にまで広がって行くと、海上交易ルート沿いに真宗信者が増えていった。
②そのひとつの拠点が阿波今津港で、真宗門徒化した「渡り(海上交易従事者)」が瀬戸内海や土佐方面の交易活動に従事するようになる。
③「渡り」の交易相手の中にも、布教活動を受けて真宗門徒化するものが出てくる。
④讃岐で本願寺の拠点となったのが宇多津の西光寺である。
⑤15世紀末には、安芸や芸予諸島にも真宗門徒によって、各港に道場が開設される。
⑥16世紀後半の石山戦争では、石山本願寺防衛のために各道場の強化・組織化が図られた。
⑦それが石山戦争での安芸門徒の支援・活躍につながっていく。
⑧しかし、伊予での真宗勢力の拡大は、地域に根付いた修験道系真言寺院や、領主たちの保護した禅宗の壁を越えることができなかった。
  それが最初の表で見たように、伊予の真宗寺院の比率9,2%に現れているようです

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

「橋詰 茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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    5 瀬戸内海
   
前回は室津・小豆島・引田を結ぶ海上ルートの掌握が、織豊政権の讃岐侵攻に大きな意味を持っていたこと、信長・秀吉軍の讃岐侵攻の際に後方支援の戦略基地として小豆島が重要な意味を持っていたことを見てきました。さらに織田軍が、このルートを越えて西進していくと重要になるのが、備前の下津井と備讃瀬戸の塩飽と宇多津を結ぶルートです。このルートの中核は塩飽です。その背後には村上水軍がいます。今回は、織豊政権が村上水軍にどのようように対応し、瀬戸内海西部の制海権を掌握していったのかを見ていくことにします。

織田政権は、石山戦争を契機として新たな水軍編成を進めていきます。
その担当を信長から任されるのが秀吉です。秀吉は「中国攻め」を担当していました。それは毛利氏との対決だけでなく、四国平定など瀬戸内海制海権の掌握とも関係します。そのため瀬戸内海の水軍編成と表裏一体の関係にありました。その手順を見ておきましょう。
 まず、大坂湾は木津川海戦以後は九鬼水軍が制海権を握っています。そこで秀吉は、瀬戸内海東部の警固衆を集めて織田水軍を編成します。それが以下のようなメンバーです。
播磨明石の石井与次兵衛、
高砂の梶原弥介
堺の小西行長
彼らが初期の織田水軍の中核となります。しかし、こうして編成された織田(秀吉)水軍は、村上水軍のような海軍力もつ強力な水軍ではありません。警固衆(海軍力)よりも、むしろ水運業(海運)に長けた集団であったことを押さえておきます。

信長政権において、瀬戸内海方面の攻略を担当したのは秀吉でした。
これは、よく「中国攻め」と呼ばれます。しかし、秀吉に課せられた任務は、中国地方だけでなく「四国平定」も、その中に含まれていました。秀吉は、一方では毛利氏と中国筋と戦いながら四国の長宗我部元親と戦いを同時並行で行って行くことが求められるようになります。その両面作戦実施のためには、後方支援や兵站面からも瀬戸内海の制海権は必要不可欠な条件となってきます。そのために大阪湾 → 明石海峡 → 播磨灘と、支配エリアを西へと拡大していきます。備讃瀬戸ラインから海上勢力を西へと伸ばしていくためには、塩飽は是非とも掌中に収めなければならない島となります。
 6塩飽地図

塩飽に関して、再度簡単に振り返って起きます。
 もともと塩飽は、東讃守護代の安富氏の支配下にあったようです。永正年間以前に塩飽は守護の料所で、安富氏が代官として支配していました。しかし、やがて支配権が安富氏から大内氏へ移っていきます。その後、永正5年(1508)頃、細川高国から村上宮内大夫宛(能島村村上氏)に対して讃岐国料所塩飽代官職が与えらています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に置かれていたことは以前にお話ししました。天文20年(1551)大内氏が家臣の陶晴賢に減ぼされると、塩飽は完全に村上氏の支配下に入れられ、村上氏の塩飽支配はより一層強化されます。つまり、小田勢力が塩飽方面に及んできたときに、塩飽は能島の村上武吉の支配下にあったようです。

1 塩飽本島
塩飽島(本島)周辺 上が南

 石山戦争が激化すると、信長は塩飽を配下に置くために天正5年に塩飽に朱印状を発給し、塩飽船の従来の権限を認めています。
特権を保障された塩飽は、信長方についたとされます。しかし、その後の動きを見ると、必ずしも信長方とは言いきれない面があると研究者は指摘します。どうも、能島村上氏の影響力が、その後も塩飽に及んでいたようです。淡路・小豆島を支配下においた信長にとって、塩飽の支配は毛利氏に打撃を与えるためにも重要な戦略課題になってきます。そのためには塩飽の背後にいる能島村上・来島村上・因島村上の三島村上氏への対応が求められるようになります。

3塩飽 朱印状3人分

天正九年(1581)4月、ルイスフロイスのイエズス会への報告書には、次のように記されています。
「(塩飽には)能島殿代官毛利の警固吏がいて、我等の荷物を悉く陸に揚げ、綱を解きこれを開かんとして騒いだ」

ここからは、塩飽には能島殿の代官と毛利の警吏がいたことが分かります。そうだとすると、塩飽はこの時点では、能島村上氏の支配下にあったことになります。これを打開するために信長は、秀吉に村上氏の懐柔政策を進めさせます。
1581年11月26日、能島の村上武吉は信長に鷹を献上したことが文書に残っています。
時期を考えると、石山戦争終結後に東進する信長勢力と、毛利氏との瀬戸内海をめぐる制海権抗争が激化している頃にあたります。村上武吉からすると、それまでの制海権を信長によって徐々に狭められていきます。対信長戦略として、硬軟両策が考えられたと研究者は考えています。その一つの手立てが自己保身を図るために信長方にすり寄る姿勢を見せたのが「鷹のプレゼント」ではないかと云うのです。信長方にしても、瀬戸内海西域の制海権を握らなければ、毛利氏に対して有利に立つことはできません。そのためには、武吉の懐柔・取り込みを計ろうとするのは、秀吉の考えそうな策です。両者の考えが一致したから「鷹の信長への献上」という形になったと研究者は推測します。
 秀吉は三島村上氏の切り崩しを図るとともに、蜂須賀正勝と黒田孝高に命じて乃美氏を味方にするための働きかけも行っています。しかし、この交渉は不成立に終わったようです。ここからは秀吉は、毛利氏の水軍の切り崩しのための懐柔工作が、いろいろなチャンネルを通じて行われていたことがうかがえます。

 3村上水軍
 秀吉の切り崩し工作は、10年4月に来島村上氏が毛利方を離れて秀吉方に味方するという成果として現れます。
さらに、来島村上氏を通じて、村上武吉にも秀吉から働きかけがあり、能島村上氏は秀吉方に傾き掛けます。この時に、小早川隆景は能島・来島村上氏が毛利から離反していることを因島村上氏に次のように知らせています。
就其表之儀、御使者被差越候、以条数被仰越候、惟承知候、両嶋相違之段無申事候、於此上茂以御才覚被相調候事簡要候、於趣者至乃兵所申遣候条、可得御意候、就夫至御家中従彼方、切々可有御同意之曲中置候上、不及是非候、雖然吉充亮康御党悟無二之儀条、於輝元吾等向後忘却有間敷候間、御家中衆へも能々被仰聞無異儀段肝要候、於御愁訴者随分可相調候、委細御使者へ中入候、恐々謹言、
卯月七日                          左衛門佐(小早川)隆景(花押)
意訳変換しておくと
最近の情勢について使者を派遣して知らせておく。両嶋(来島・能島)の離反については、無事に対応を終えて収集がついたので簡単に知らせておく。離反の動きを見せた来島・能島に対しては、小早川隆景と乃美宗勝が引き留め工作を行い、秀吉方につくことの非を訴えて、輝元公への御儀を忘れずに、使えることが大切である旨を家中衆へも伝えた。委細は御使者へ伝えてある。恐々謹言、

村上海賊ミュージアム | 施設について | 今治市 文化振興課
村上武吉
小早川隆景と乃美宗勝の引き留め工作で、村上武吉は毛利方になんとかとどまります。

武吉の動向にあわてた毛利氏は、村上源八郎に検地約定の書状を出しています。しかし、秀吉も村上通昌との私怨を捨てて信長方に味方するよう次のような説得工作をしています。
今度其島之儀申談候所、両島内々御意候哉、相違之段不及是非候、然者私之被申分者不入儀候間、貴所御分別を以、此節御忠儀肝要候、於様体者国分寺へ申渡候、恐々謹言、
卯月十九日                          羽筑秀吉(花押)
村上大和守殿
御宿

能島・来島村上氏への対応の状況は、村上系図証文に詳しく記されています。この中には来島村上氏は、秀吉に人質を出し味方につくことを承諾しています。また秀吉は武吉に、寝返り条件として次のような領地を示しています
「四国は勿論、伊予十四郡を宛行い、さらに塩飽七島の印を授け、上国警国の権益を与える」

 これらは秀吉お得意の「情報戦」の中で出されたものなので、信憑性には問題が残ります。「村上武吉が寝返った」という偽情報(偽文書)を流すことで、敵方の動揺を作り出そうとするのは情報戦ではよく行われることです。しかし、史料的には能島・村上武吉が秀吉に味方する旨が詳細に記されています。どうも一時的にせよ、村上武吉が秀吉と結ぼうとしたのは事実のようです。
 秀吉が村上武吉に味方するよう説得してからわずか5日後の4月24日の秀吉から備前上原氏に宛てた書状には次のように記されています。
「海上事塩飽・能島・来島人質を出し、城を相渡令一篇候」

また次の5月19日の近江溝江氏宛の書状にも同様の内容が記されています。                                            
一、海上之儀能島来島塩飽迄一篇二申付、何も嶋之城を請取人数入置候、然者此方警固船之儀、関戸迄も掛太目恣二相動候、何之道二も両国之儀、急度可任取分候条、於時宣者可御心易候、猶追々可中参候、恐々謹言、
天正十年五月十九日 秀吉(朱印)
溝江大炊亮殿
御返報
塩飽・能島・来島が秀吉の支配下に収まり、城が秀吉によって接収されたことが書かれています。ところが5月19日の段階では、能島村上氏は再び毛利氏に服属しています。この二通の書状は秀吉の巧妙な偽報告のようです。能島村上氏の去就は、周辺の海賊衆にとっては注目の的であったはずです。この書状をあえて公表することで、秀吉の支配が芸予諸島まで及んだことをひろげる意図も見えます。警固船が「関戸迄も掛太目恣二相動候」とあるように、安芸と周防の国境の関戸まで範囲を示していてしています。秀吉は、情報戦を最大限に利用しようとしたことがうかがえます。
 毛利から来島村上氏が離反して秀吉方についたという情報の上に、能島の村上武吉も寝返ったという偽情報は毛利方に大きな動揺を与えたはずです。どちらにしても、このような情勢下では、能島村上氏による塩飽支配も大きな動揺をもたらすことになります。こんな情勢下では、能島村上氏の塩飽への影響力は低下せざる得ません。
 このよう情報戦と同時並行で行われていたのが、二月以来の秀吉の備中攻めです。
3月24日に小早川隆景は、村上武吉に対して次のように塩飽を味方にするように切り崩し工作を指示しています。  
態御飛脚畏人候、如仰今度御乗船、以御馳走海陸働申付太慶候、従是茂以使者申入候喜、乃上警固之儀、一昨晩以来比々下津井相働候、雖然船数等不甲斐/\候之条、不可有珍儀候欺、塩飽島之趣等、従馬場方可被得御意候、陸地羽柴打下之由風聞候条、諸勢相揃可張合覚悟候、於手前者可御心安候、委曲有右二中含候之間、弥被遂御分別、御入魂可為本望候、猶期来音候、恐々謹言、
天正十年三月廿四日      左衛門佐(小早川)隆景(花押)
(村上)武吉
御返報
意訳変換しておくと
飛脚での連絡であるが、今度の出陣について、海陸における成果について多大な成果を挙げたことを喜んでいる。警固の件について、一昨晩から比々(日比)と下津井は相い働いているが、船数が不足し充分な成果を出せていない。ついては塩飽島について、馬場方に従い羽柴秀吉に下ったという風聞が流れている。諸勢の戦意高揚のためにも、塩飽に分別を説いて参陣を促して欲しい。

この後の4月4日には、毛利輝元から伊賀家久に対して同じような指示が出されています。秀吉の備中攻めに塩飽を味方に組み込むことの重要性を充分に認識していたことを示すものです。逆に見ると、この時点では、塩飽が毛利方に着いていなかったこと、秀吉方に付いていたことが分かります。
 武吉が毛利方で戦いに参陣したにもかかわらす、塩飽衆は村上武吉の命に背いて行動を共にしていません。
それを見て小早川隆景は、村上武吉に「塩飽に云うことを聞かせろ」と命じたのでしょう。逆の視点で見ると、この時には塩飽は武吉の支配下から離脱していたことがうかがえます。これ以後の塩飽と能島村上氏の関わりが分かるのは、天正12年(1584)12月10日付の武吉宛の隆景書状です。そこには「塩飽伝可被及聞召候条、不能申候」とあります。ここからは、塩飽が村上武吉の支配下から完全に離脱していることが分かります。
驚天動地 高松城水攻め - おかやま観光コンベンション協会

 こうした中で6月に、信長が本能寺で明智光秀に討たれます。

秀吉は急遽、毛利氏との間に和議を結び、中国方面から兵を引きます。秀吉が姿を消した後の備讃瀬戸では、能島村上氏と来島村上氏と戦いが繰り広げられ、年末になりやっと終止符が打たれます。伊予方面での来島村上氏との抗争が激化する中で、能島の村上武吉には塩飽に関わっている余裕はなくなります。こうした村上氏の分裂抗争を横目で見ながら秀吉は海上勢力を西へ西へと伸ばしていきます。そして、能島村上氏の影響力の消えた塩飽を自己の支配下に置きます。来島村上氏の懐柔策がの成果が、村上水軍を分裂に追い込み、相互抗争を引き起こし、結果として村上水軍の塩飽介入の機会を奪ったのです。秀吉は、やはりしたたかです。
5 小西行長1
小西行長

そして、瀬戸内海東部エリアの「若き提督」として登場するのが小西行長です。
行長登場までの動きを振り返って起きます。秀吉が瀬戸内海東部の進出過程を再度押さえておきます。
①明石・岩屋・淡路・鳴門エリアは、石井与兵次衛と梶原弥介に
②播磨室津・小豆島・讃岐引田エリアは小西行長
③下津丼・塩飽・宇多津エリアは、小西行長が塩飽衆を用いて支配
①②③の総括を担当したのが仙石秀久でした。この中で、最終的には小西行長が抜け出して瀬戸内海東部全体の制海権を秀吉から任されるようになります。
どうして二十代の若い行長に、秀吉は任せたのでしょうか?
 それは小西行長がキリシタンだったからではないかと研究者は考えています。彼は堺の有力者を父に持ち、幼くしてキリスト教に入信しています。秀吉は、行長を播磨灘エリアの海の司令官、行長の父を堺の代官に任命しています。前線司令官の子を、堺から父が後方支援するという形になります。秀吉の期待に応え行長は、小豆島と塩飽を領地として持ちます。彼は高山右近を尊敬し、小豆島に「地上の王国」建設を進めます。この結果、行長はイエズス会宣教師から「海の青年提督」と称され、宣教師と深い移パイプを持つようになります。瀬戸内海を行き来した宣教師は、たびたび塩飽と小豆島に立ち寄っています。行長が、宣教師との交友が深かったことは以前にお話ししました。

5 高山右近
小豆島の高山右近
 ここには宣教師の布教活動ともうひとつの裏の活動があったと私は考えています。
それは南蛮商人からの火薬の原料の入手です。宣教師の口利きで、行長は火薬原料を手に入れていたのではないでしょうか。そのため、秀吉は行長を重要視していたという推測です。小豆島の内海湾には火薬の原料を積んだ船が入港し、その加工も小豆島で行い、出来上がった火薬が小豆島周辺に配備された諸軍に提供されていたという仮説を出しておきましょう。

室津・小豆島・引田・塩飽のエリアの制海権を秀吉から付与されたのは、小西行長でした。
天正13年頃に塩飽を訪れたフランシスコ・パショは、塩飽が行長の支配下にあったことを記しています。小豆島と塩飽は一体として行長に領有させ、四国平定の後方基地としての役割を果たします。秀吉のもとで、東瀬戸内海は行長に管理権が委ねられ、宣教師の報告書に行長が「海の司令官」と記されていることは、この時期のことになります。
これに対して、塩飽には海軍力(水軍)としての活発な活動は見られません。
塩飽は室町期以来、東瀬戸内海流通路を確保した輸送船団として活発な商船活動をしていました。塩飽の経済基盤は商船活動にあったと研究者は考えています。その点が芸予諸島の村上氏とは、大きく異っているところです。能島村上氏が塩飽を支配した目的は次の二点と研究者は考えています。
①塩飽衆の操船・航行技術の必要性
②水夫・兵船の徴発
備讃瀬戸から播磨灘にかけての流通路を持つ塩飽衆を支配下におくことは、村上氏の制海権エリアの拡大を意味します。村上氏は、海上警固料の徴収が経済基盤でした。しかし、この時期が来ると、それだけでは活動ができないようになっています。その解決のための塩飽支配だったと研究者は考えています。
 信長が早い段階で塩飽船の活動に対して朱印状を発給したのは、信長の瀬戸内海経済活動圏の掌握を図ったとされます。秀吉によって、後に塩飽が御用船方として支配下に組み込まれていくのも、水軍力よりも、海上輸送力に着目してのことと研究者は考えています。
 秀吉の瀬戸内海における制海権を手中に収めていく過程を見ると、信長亡き後もスムーズに進めています。
これは、秀吉が信長生前から瀬戸内海に関する権限を握っていたからでしょう。今まで見てきたように、東から明石・小豆島・塩飽・芸予諸島の地元勢力との関係を結んできたのは、すべて秀吉でした。そういう目で見れば、石井与次丘衛・梶原弥介・小西行長は、織円政権下の水軍であるというよりも、豊臣政権下初期の水軍ともいえます。彼らが後に秀吉水軍の中核をなし、村上氏を含む巨大水軍に成長していきます。その基盤となったのが大阪湾や明石の海賊衆だったといえるのかもしれません。
    以上をまとめておきます
①石山戦争の一環として、瀬戸内海の制海権を握る必要を痛感した信長は、その任務を秀吉に命じる
②秀吉は、中国攻めと淡路・四国平定を同時進行で進め、その兵員輸送や後方支援のために、瀬戸内海東部に制海権を掌握していく。
③その際に明石海峡や室津・小豆島・塩飽などの地元の海賊衆を傘下にいれ、水軍編成を行う。
④芸予諸島の村上水軍に対しては、懐柔策を用いて来島村上氏を離反させ、内部抗争を引き起こさせた。
⑤その間に、秀吉は備中へ侵入し、塩飽も傘下に置いた。
⑥本能寺の変後、信長亡き後も秀吉はそれまで進めてきた瀬戸内海制圧を進め、小西行長を「海の提督」として重用し、四国・九州平定の海上からの後方支援を行わさせる。
⑦これは、秀吉の構想の中では、朝鮮出兵へ向けての「事前演習」でもあった。
⑧同時に四国に配備された各大名達は、このような秀吉の構想を実現するための「駒」の役割を求められた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。なるものであった。
参考文献

    
前回は幕末の宇和島藩には880人の修験者たちがいて、それぞれが地域に根付いた宗教活動を行い、定着していたことを見ました。これは別の言葉で表現すると「修験者の世俗化」ということになるようです。地域社会に修験者が,どのように根付いていくのか、修験者が地域に定着していくためにとった戦略は、どんなものであったのかを明らかにするのは、ひとつの研究テーマでもあるようです。
 修験者が自分の持つ権成や能力を武器に、里人の生活に寄与することで、社会的・経済的地位を獲得していくプロセスの解明と云うことかもしれません。その戦略は、置かれた時代・地域・生活形態に応じて変化します。前回はその戦略の一端を宇和地方に見たということになります。今回は、国東の田染庄への修験者たちの地元への定住戦略を見ていくことにします。

やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。<br />ここから見上げれば無明橋も見えている。

国東の修験者の修行の道を歩いて見たくなり、天念寺耶馬の無明橋を目指したことがあります。やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。

駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。
  
目をこらすと無明橋も見えているような気もします。
ところがあいにくの雨。雨具を付けて出発しようとすると鬼会の里のスタッフから「雨天時の登攀は、危険で事故も多発していますので、ご遠慮いただいております」との言葉。

天念寺の看板に誘われ参拝する。
長岩屋天念寺
行く場をなくして、雨の中の彷徨を始まります。まず、訪れたのが駐車場の横にある長岩屋天念寺です。お寺には見えない民家のような小さな本堂です。
この寺もかつては講堂を持つ大きな寺院で、いくつもの坊を構えていたという。<br />しかし、明治以後は大洪水の被害もあり再建のために本尊を売却する窮地も迎えたという。今の寺の規模は最盛時の何十分の1になっている。<br /> 売却されていた本尊は、地元の悲願で買い戻され、隣接する歴史資料館で今は公開されているという。<br /><br />

この寺もかつては講堂を持つ大きな寺院で、いくつもの坊を構えていたようです。しかし、明治の神仏分離で神社から切り離されて、ここに移動。その上に大洪水の被害もあり再建のために本尊を売却する窮地も迎えたといいます。今の寺の規模は、最盛時の何十分の1になっているようです。売却されていた本尊は、地元の悲願で買い戻され、隣接する歴史資料館で公開されていました。

天念寺への参拝終了とおもいきや、<br />このお寺の本領発揮というかすごさは、ここからにあった。<br />川下に歩いて行くと・・・
身禊神社

天念寺への参拝終了とおもいきや、このお寺の本領発揮というかすごさは、ここからでした。川下に歩いて行くと・・・
萱葺きの神社が現れました。

そして、神仏分離によって寺と寺院は隔てられた。<br /><br />しかし、ここで行われる祭礼は、今でも寺院の手で行われているようだ。<br />その意味では、他所に比べて「神仏分離」が緩やかな印象を受ける。<br /><br />
身禊(みそぎ)神社と講堂
背後は切り立つ断崖。
天念寺から無明橋にかけての岩峰は、六郷満山などの修験者たちの「行の場」のひとつでした。神仏混淆で神も仏も一体化し、天念寺がこの神社の別当だったようです。

背後は切り立つ断崖。<br />天念寺から無明橋にかけての岩峰は、六郷満山などの僧侶たちの「行の場」のひとつでもあった。<br /><br />そして神仏混淆で神も仏も一体化していた。<br />天念寺がこの神社も管理していたのだろう。<br />
身禊神社 鳥居と本殿
鳥居の奧が本殿?
それでは、左の萱葺き屋根の建物が拝殿?
中に入って参拝させていただきます。
拝殿で「ここに導き頂いたことに感謝」と礼拝。

拝殿で「ここに導き頂いたことに感謝」と礼拝。
そして、隣接する謎の建物の礼拝所へ<br /><br />広いのです。<br /><br />神社の拝殿の規模を遙かに超えています。

そして、隣接する謎の茅葺き建物へ
広いのです。神社の拝殿の規模を遙かに超えています。
無造作にいろいろなものが置かれています。
ここが何に使われる空間か、私にはこの時には分かりませんでした。

中世の村を歩く - 新書マップ

後に「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」を読むと、次のようにありました。
昭和4年にこの地をは、種田山頭火もこの地を訪れ、萩原井泉水に宛てて出した書翰には「小耶馬渓とでもいひたい山間」と記し、しぐれる耶馬を越えた行程に思いを馳せて、「いたゞきのしぐれにたゝずむ」などの俳句を詠んでいます。
      身禊神社の前の川中不動
昼の勤行が終わると、ホラ貝と鐘を合図に勤行の僧と祭りに奉仕するムラ人のテイレシ(松明入れ衆)たちは、川中不動の前の淵に集まる。
テイレシたちは水中に入って身を清めるコーリトリ(垢離取り)の式を行う。真冬二月の夕方の薄暗がりの中に、白い裸身が浮かび、見るだけでもいかにも寒そうだが、そこが信仰の力なのであろう。

そして川中不動に会いに行きます。
コーリトリ(垢離取り)が行われる川中不動

やがてまたホラ貝と早鐘を合図に、寺の前や橋の上など三か所に立てられた三本の大松明がテイレシたちによって次々に点火されると、暗くなった谷の中はパッと明かるくなる。夜の勤行の始まりである。

天念寺鬼会2

岩壁に直接建て掛けられた講堂の中は、すでにムラの人たちや参詣者たちでいっぱいである。勤行の前半は読経を中心に、さまざまの祈祷が行われ、比較的単調な時が流れる。
天念寺鬼会1 

後半は一転して芸能的色彩が濃くなり、人々を飽きさせない。まず「香水棒」と呼ばれる、小正月の削掛に似た棒を持った二人の僧が登場、足拍子と下駄の音高く、互いに棒を打ち合わせ、堂を踏み鎮める。「マンボ」のリズムにも似た調子で、いかにも快い。やがて長老の僧二人が「鈴鬼」の夫婦として現れ、おだやかに舞い納めて、「災払鬼」「荒鬼」を招き入れる。いよいよ「鬼走り」といわれるクライマックスだ。
修正鬼会とは - コトバンク
              「災払鬼」
「災払鬼」は赤鬼の面に赤の着衣で、右手に斧、左手に小松明を持つ。 一方、「荒鬼」は黒鬼の面に黒(今は茶)の着衣、右手に太刀、左手に松明を持つ。ともに体力のある若い僧侶の役で、順に登場、法会を主催する僧に聖なる水を吹きかけられると、とたんに武者震いをし、活動を始める。
 カイシャク(介錯)役の数人の村人とともに点火した松明を打ち振り打ち振り、堂の廊下を「ホーレンショーヨ、ソリャオンニワヘ」と大声で連呼しつつ、乱舞し、飛び回る。満員の堂内はどよめき、人の粉の飛び散るなかを逃げまどう人々も多い。騒然たるなかで、「鬼の目」と呼ばれる餅が撒かれる。この餅は無病息災の御利益があるとして、人々は争ってこれを拾おうとする。また堂内に座っている人々の背中を鬼が次々と松明で叩き、加持を加える。鬼会もここでようやく最後となり、天念寺の僧による「鬼鎮め」を受けた鬼は静かに講堂から退場する。
天念寺鬼会3

 藁葺きの講堂は真冬に行われる「鬼会」の舞台だったようです。
そのための空間なので、ただ広く殺風景なのです。しかも、ここは身禊神社に隣接していますが、所属は天念寺の講堂になるようです。神仏分離への苦肉の対応ぶりがうかがえます。

それでは鬼会の鬼とは、何なのでしょうか?
「鬼会」に登場する鬼たちは、どうも節分の豆撒きで払われるような単純な鬼ではないようです。
「ホーレンショーヨ、ソリャオンニワヘ」という鬼の掛け声は、宇佐八幡宮の創始者の法蓮を誉め称える、との意味で、鬼はまさに法蓮の化身、あるいは不動明王の化身

とパンフレットには説明されていました。
 一方では、「災払鬼」「荒鬼」の着衣は、十二か所(閏年は十三か所)も麻縄(昔はカズラ)でくびられています。これはいかにも一年のはじめに来訪する神を暗示します。

天念寺鬼会 鈴鬼
天念寺鬼会 鈴鬼
また白塗りでおだやかな夫婦の「鈴鬼」は、老人の姿をとって現れる先祖の神のようにも思えます。「鈴鬼」が手に持った団扇には米粒が入っていて、これをガラガラと打鳴らしながら舞をします。米粒に象徴される農耕神の再生を暗示ともとれると研究者は考えているようです。
そこからさらに一歩進めて、修正鬼会の鬼は、実は仏であり、また神でもあるのだという説もあるようです。この講堂は、鬼が仏や神に変わっていく舞台でもあるようです。
 確かに、国東の神社には仁王の像が立ち、寺と社がほとんど一体化した神仏分離以前の姿が残っています。鬼にも仏と神が一体化した姿が宿っているのかも知れません。

修正鬼会へ行ってきました! | アナバナ九州のワクワクを掘りおこす活動型ウェブマガジン | [九州の情報ポータルサイト]

鬼会の主催者は?
私は神社で行われているので、身禊(みそぎ)神社の主催かと思っていました。そうではないようです。鬼会は、長岩屋の地区の主催する行事なのです。テイレシ(松明入れ衆)やカイシャク(介錯)の役をはじめ、笛・太鼓・鉦などのお囃子方も、また運営の役員も、松明や香水棒を作ることも、すべてはムラの人々によって行われているようです。それは、中世にここにあった都甲荘内のムラからの伝統を受け継いでいるのです。
天念寺修正鬼会 - 写真共有サイト「フォト蔵」

鬼会の大松明は、明治までは十二本供えられたようです。
長岩屋の谷の各所にあった天念寺の十二の坊が、それぞれ一本ずつ大松明を作っていました。またテイレシの人々も十二の坊から出されていました。
 中世荘園では、名が年貢や公事(雑税)を出す単位でした。一年十二ケ月ごとに雑税を分けて負担するので、名の数は十二とされることが多かったようです。鬼会の負担が天念寺の十二坊に割り当てられているのも、中世荘園の痕跡だと研究者は指摘します。

行者による谷の開発
この谷は今も長岩屋という地区名で呼ばれています。それは、この谷の領域の全体がそのまま長岩屋(天念寺)という寺院の境内地だったからのようです。谷の開発過程を見ておきましょう。
①急峻な岩壁を持つこの谷に修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②長岩屋と呼ばれる施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③いくつかの坊が作られ、その周囲は開拓されて田畠ができ、あるいは焼畑がつくられてゆく。
④坊を中心に宗教的色彩におおわれた、ひとつの村が姿を見せるようになる。
⑤それが長岩屋と呼ばれるようになる

都甲からは北方の夷も、「夷耶馬」と称される景勝の地です。
ここにも六郷満山の一つの岩屋である夷岩屋がありますた。古文書によれば、平安後期の長承四年(1125)、僧行源はすでに長い年月、岩屋に接した森林を切り払って田畠を開発し、「修正」のつとめを果たすとともに、自らの生命を養ってきたので、この権利を認めてほしいと請願します。これを六郷満山の本山はもとより、この長岩屋の住僧三人以下、付近の岩屋の住僧たちが承認します。この長岩屋においても、夷岩屋と同じような開発が進行していたことが推測できます。

長岩屋を中心とした中世のムラの姿の変遷を見ておきましょう。
近年の調査で、この谷に住む長岩屋の住僧の屋敷62ケ所を書き上げた古文書(六郷山長岩屋住僧置文案:室町時代の応永25年(1418)が発見されています。
天念寺長岩屋地区
中世長岩屋の修験者屋敷分布
そのうち62の屋敷の中の20余りについては、小地名などから現在地が分かります。長さ4㎞あまりの谷筋のどこに屋敷があったのかが分かります。この古文書には、この谷に生活できるのは住僧(修験者)と、天念寺の門徒だけで、それ以外の住民は谷から追放すると定められています。長岩屋は、宗教特区だったことになります。特別なエリアという印象も持ちますが、国東の谷々で開発された中世のムラは、このようにして成立した所が珍しくないようです。つまり、修験者たちによって谷は開かれたことになります。これが一般的な国東のムラの形成史のようです。

天念寺境内絵図
神仏分離の前の天念寺境内絵図

 長岩屋エリアに住むことを許された62の修験者のほとんどは、「黒法師屋敷」のように「屋敷」を称しています。

他は「○○薗」「○○畠」「○○坊」、そして単なる地名のみの呼称となっています。その中で「一ノ払」「徳乗払」と、「払」のつく例が二つあります。「払」とは、香々地の夷岩屋の古文書にあるように、樹林を「切り払い」、田畠を開拓したところからの名称のようです。山中の開拓の姿が浮かんでくる呼称です。「払」の付い屋敷は、長岩屋の谷の最も源流に近い場所に位置します。
 「徳乗払」は、徳乗という僧によって切り拓かれたのでしょう。詳しく見てみると、北向きの小さなサコ(谷)に今も三戸の家があります。サコの入口、東側の尾根先には、南北朝後半頃の国東塔一基と五輪塔五基ほどが立っていて、このサコの開拓の古いことがうかがえます。 これはまんのう町金剛院の修験の里を考える場合のヒントになります。金剛院にも、屋号に「○○坊」と名乗る家が残ります。彼らが廻国行者などとして全国をめぐり、金剛院周辺に定着し、周辺地を開発していったということが考えられます。

天念寺境内実測図
現在の天念寺境内実測図
最初に見た「修験者の世俗化」テーマをもう一度考えてみます。
地域社会に修験者が、どのように根付いていくのか、修験者が地域に定着していくためにとった戦略は、どんなものであったのかという問いに対しては、ある研究者は次のように応えています。

「(修験者が)自分の持つ呪術力や能力を武器に、里人の生活に寄与することで、社会的・経済的地位を獲得していく戦略」

その戦略は、時代や場所などに応じて変化させなけらばならなかったはずです。その柔軟性こそが、修験者が里修験化できるかどうかの分かれ目となったとも云えます。そんな視点から「修験者の世俗化」を見ると、修験者たちは、農耕や狩猟、漁業、鉱業、交通・医療などに、積極的に関わりをもち、参入していったことが見えてきます。
富山県西部の砺波平野の例を見ておきましょう。
砺波平野の定着修験(里修験)は、次の三つに分類できるようです
①高野聖、廻国聖などの遊芸聖系
②山伏系、
③貧民・落人・漂泊民系
この3タイプは、①の遊芸聖系が中世全般、②の山伏系が中世末から近世初期、③の貧民・落人・漂泊民系が近世前期に定着していきます。定着修験たちは、自分たちの生活のためにも地域の仏事法要や仏事講に携わっていきます。同時に、多数の氏子を獲得できる堂社祠にも奉仕するようになります。例えば具体的に、初夏には「虫除ケ祈疇」という虫送りの民俗と融合した儀礼を執り行うようになります。また「雨乞祈疇護摩札」なども、配布したりするようになります。そして、「農村的歳事年中行事との結びつきにより、山伏は役割的にも村落社会に確実に定着していた」と研究者は指摘します。
 修験者は、農民たちの農耕儀礼に関わることによつて、農村社会での存在価値が高めらいきます。それは、同時に彼らの定着化の大きな原動力になります。定着後は、儀礼執行者として指導性を発揮すよようになります。
 また農民として農耕を行う修験者も出てきます。
新潟県岩船郡山北町搭ノ下の修験であるホウインは、寛文年間(17世紀中葉)にすでに約2反の水田を持ち、後にはそれをい1町歩にまで増やしています。宗教的教導者としての性格よりも、次第に農民化しているようにも見えます。
天念寺周辺行場
天念寺周辺の行場
国東のムラで起こっていたことも、地域へ定着という方向は同じです。
 しかし、地域への定着後のあり方が大きく異なってきます。それは、行場の周辺を開発し定着したことです。さらに、住人の選別を行ったことです。そのため他の地域では、行場から乖離し、里下りした修験者が多くなりますが、国東では行場と一体化した宗教活動が続けられたことです。修験者は、土地持ちの農民としての生活を確保すると同時に、活発な宗教活動を展開する修験者でもあったようでっす。経済的に見ると、生活が保障された修験者、裕福な修験者の層が、国東には厚かったことになります。これが独自の仏教的な環境を作り出してきたひとつの背景になるのではないでしょうか。
 どちらにしても長岩屋には、数多くの修験者たちが土地を開き、農民としての姿を持ちながら安定した生活を送るようになります。
別の視点で見ると大量の修験者供給地が形成されたことになります。あらたに生まれた修験者は、生活の糧をどこに求めたのでしょうか。例えばタレント溢れるブラジルのサッカー選手が世界中で活躍するように、新たな活動先を探して「出稼ぎ」「移住」を行ったという想像が私には湧いてきます。四国の大洲藩や宇和島藩には、その痕跡があるようなきがするのですが、史料的に裏付けるものはありません。  
 
天念寺(てんねんじ) | 観光スポット&お店情報 | 昭和の町・豊後高田市公式観光サイト
天念寺無明橋

以上をまとめておくと
①国東の霊山にやってきた修験者たちは行道を行い各地に行場を開いていった
②急峻な岩壁を持つ天念寺耶馬の谷にも修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②その中の大きな岩屋である「長岩屋」周辺に施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③修験者たちは坊を開き、その周囲は開拓されて田畠ができ、あるいは焼畑がつくられてゆく。
④屋敷は12坊に編成され、その宗教センターとして神仏混淆の天念寺が建立される。
⑤ここでは「鬼会」を初めとするさまざまな年中行事が、修験者たちによって営まれていくことに⑥修験者たちは、この地に定住した後も峰入りなどを継続して行い、行場から分離されることがなかった。
⑦また明治の神仏分離も柔軟に受け止め神仏混淆スタイルとできるだけ維持しようとした。
⑥そのため独自の国東色を残す宗教的なカラーが受け継がれてきた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」
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多度津港 船タデ場拡大図
       多度津港の船タデ場(金毘羅参詣名所図会4巻1846年)

 以前に「塩飽水軍は存在しなかった、存在したのは塩飽廻船だった」と記しました。そして、塩飽の強みのひとつに、造船と船舶維持管理能力の高さを挙げました。具体的な船舶メンテナンス力のひとつとして紹介したのが船タデ場の存在でした。しかし、具体的な史料がないために、発掘調査が行われている福山市の鞆の浦の船タデ場の紹介で済ませ、塩飽のタデ場は紹介することが出来ませんでした。昨年末に出された「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島   22P」を読んでいると与島にあった船タデ場が史料を用いて詳しく紹介されていました。今回は、これをテキストに与島の港と船タデ場を見ていきたいと思います。

どんな舟が与島に立ち寄ったのでしょうか?
与島港寄港船一覧

坂出市史は、上のような廻船の与島寄港表を載せています。
右側の表は、寄港した58艘を船籍の多い順に並べたものです。
上位を見ると阿波13艘、日向7艘、尾張7艘などと続き、東は越後・丹後の日本海側、伊豆・駿河・遠江の太平洋側、西は筑前、薩摩まで全国の舟が立ち寄っていることが分かります。全国廻船ネットワークのひとつの拠点港だったことがうかがえます。 
 左の表は与島に寄港した船が、次に目指す行き先を示します。
142と圧倒的に多いのが丸亀です。次に、喩伽山参りで栄えた備前田ノロ湊が25件です。ここからは与島港が西廻り海運、備讃の南北交流などの拠点港としての機能を果たしていたことがうかがえます。しかし、周辺には塩飽本島があります。本島が海の備讃瀬戸ハイウエーのSAの役割を果たしていたはずです。どうして、その隣の与島に、廻船が寄港したのでしょうか。

その答えは、与島に「タデ場」があったからだと坂出市史は指摘します。
 船たで場については、以前にお話ししたので、簡単に記します。
廻船は、杉(弁甲材)・松・欅・樫・楠などで造られていたので、早ければ3ヶ月もすると、船喰虫によって穴をあけられることが多かったようです。これは世界共通で、どの地域でもフナクイムシ対策が取られてきました。船喰虫、海藻、貝殻など除去する方法は、船を浜・陸にあげて、船底を茅や柴など(「たで草」という)で燻蒸することでした。これを「たでる」といい、その場所を「たで場」「船たで場」と呼んだようです。

 与島のたで場を見ておきましょう。 
与島タデ場跡 造船所前 

与島の「たで場」は与島のバス停「造船所跡」、辻岡造船所の付近の地名で「たてば」といわれている場所にあったようです。
坂出市史は、次のような外部史料でタデ場の存在を確認していきます。
1番目は、「摂州神戸浦孫一郎船 浦証文」(文化二年11月3日付)には次のように記します。
「今般九州肥前大村上総之介様大坂御米積方被仰付、(中略)
去月十二日大坂出帆仕、同十五日讃州四(与)嶋二罷ドリ、元船タデ、同十六日彼地出帆云々」(金指正三前掲章日)
意訳変換しておくと
この度、九州肥前大村藩の大坂御米の輸送を仰せつかり、(中略) 去月十二日大坂へ向けて出帆し、同十五日讃州与島に寄港し、船タデを行った後に、同十六日に与島を出帆云々」

ここには、肥前の大村藩の米を積み込んで、大阪に向けて就航した後で、「船タデ」のために「四(よ)嶋」に立ち寄ったことが記されています。

タデ場 鞆の浦2
鞆のタデ場跡遺跡(福山市)

2番目は、備後福山鞆の浦の史料「乍恐本願上国上之覚」です。
この史料は、文政六(1823)年から始まった鞆の港湾整備の一環として、千石積以上の大船も利用できるような焚(タデ)場の修復を、鞆の浦の居問屋仲間が願いでたものです。
然ル処近年は追々廻船も殊之外大キニ相成り、はん木入レ気遣なく、居場所は三、四艘計ニ□□、元来御当所之評判は大船十艘宛は□□焚船致し申事ハ、旅人も先年より之評判無□承知致し、大船多入津致申時は居問屋共一統甚込申候、古来は塩飽・与島無御座候処、中古より居場所気付段々普請致し繁昌仕候へとも、塩飽・与島其外備前内焚場より汐頭・汐尻共ニ□□惟二さし引格別之違御座候故…」

意訳変換しておくと
近年になって廻船が大型化し、船タデ場に入れる船は三、四艘ほどになっています。もともとは鞆の浦の船タデ場は、大船十艘は船タデが行える能力があると云われていました。大船が数多く入港した時には、船タデを依頼されても引き受けることが出来ずに、対応に苦慮しています。
 古来は塩飽・与島に船タデ場はありませんでした。そのため鞆の船タデ場が独占的立場で繁盛していました。ところが中古よりタデ場が、塩飽与島やその他の備前の港にもできています。そのため鞆の浦もその地位を揺るがされています。
 ここからは、古来は塩飽与島に船タデ場はなく、鞆の浦が繁昌していたこと、それが与島や備前に新興の焚場が作られ、鞆の浦の脅威となっていることが分かります。与島の船タデ場は、鞆の浦からも脅威と見られるほどの能力や技術・サービス力を持っていたとしておきましょう。
3番目が、小豆島苗生の三社丸の史料(寛政十年「三社丸宝帳」本下家文書)です。
ここにも塩飽・与島が出てきます。三社丸は、小豆島の特産品(素麺・塩)を積んで瀬戸内海から九州各地の各湊で売り、その地の特産品を購入して別の湊で売って、その差額が船主の収益となる買積船でした。小豆島の廻船の得意とする運行パターンです。その中に与島との関係を示す次のような領収書が残っています。
塩飽与嶋
六月二十四日
一 銀二匁六分   輪木  
一 同四匁                茅代
一 同四匁      はません(浜占)
                          宿料
〆拾匁六分
    壱百弐文替
又 六分六厘   めせん
〆 壱拾壱匁弐分六厘
船タデ入用
一 百六十文                しぶ弐升   
一 百もん                  酒代       
一 三分六厘                笠直シ
一 百もん                  なすひ代   
一 五十五もん              御神酒代   
〆九六
四匁六分八厘 ○
合十五匁九分四厘
七月弐拾日
内銭弐拾匁支出
残四匁壱分六厘
取スミ、
八月十二日
この史料からは、船タデ経費として次のような項目が請求されていることが分かります。
①船を浜に揚げて輪木をかませ固定する費用
②船タデ用に燃やすの茅の費用
③浜の占拠料である浜銭
④与島での宿代
⑤この時は防腐・防水剤としての渋の費用

4番目は、引田廻船の史料(年末詳「覚」人本家文書)です。
一 三匁九分  輪木
一 六拾五匁 
一 四匁       宿代
〆 七十二匁弐朱九分
差引       内金 壱匁弐朱   
右の通り請取申候、以上、
よしま 久太夫(塩飽与嶋浦中タデ場)(印)
六月十六日
三宝丸 御船頭様
この史料からは、大内郡馬宿浦の三宝丸は、輪木・茅・宿代の合計72匁9分を与島の年寄の久太夫に払っています。同時に、与島の久太夫が船タデ場を「塩飽与嶋浦中タデ場」を管理していたことが分かります。この人物がタデ場の所有者で経営者と、思えますがそうではないようです。それは後に、見ていくことにして・・・
今度は、本島の塩飽勤番所に残された史料を見ていきます。
文政二(1819)年の「たで場諸払本帳」は、与島のタデ場を1年間に利用した594艘の廻船の記録です。
与島船タデ場 利用船一覧

タデ場の記録としては、全国的にも珍しく貴重な史料のようです。坂出市史は、その重要性を次のように指摘します。
第一に、与島のたで場に寄った廻船の船籍が分かること。
廻船船籍一覧表 24は、船籍地が分かる廻船318艘の一覧表です。これを見ると、日向41、阿波31、比井27、日高17、神戸14などが上位グループになりますが、その範囲は日本全国に及ぶことが分かります。
第二は、船タデの作業工程と、費用が分かります。
与島タデ場 輪木・茅代一覧
上表からは、船タデ作業の各項目や材料費が分かります。
①船タデ作業の時に船を固定する「輪木」代
②船底部を燻蒸する材料の茅代
③船を浜揚げして輪木なしでたでる平生の場合の費用
この表をみると、一番多かったのは輪木代が三匁四分~三匁九分で486件です。茅代は輪木代つまり廻船の大きさによって最大80匁です。輪木を使わない平生(ひらすえ)は、49件で茅代のみとなっています。この史料の最後には次のように記されています。
「惣合 二〇貫三九七匁一分五一厘 内十三貫二五四匁一分
茅買入高引 残七貫一四匁五厘
卯十二月二十一日浦勘定二入済 船数大小五九二艘」

ここからは、一年間の利用船が592艘で、その売上高が約20貫で、支出が茅代約13貫、差し引き7貫あまりが収益となっていたことが分かります。坂出市史は、次のように指摘します。
「収益は多くはないように見えるがより重要なことは、その収支が浦社会で完結されていたことである」

 全ての収益が地元に落とされるしくみで、地域経済に貢献する施設だったのです。

 船タデで使われる茅(草)は、どのように手に入れていたのでしょうか
私は周辺の潟湖などの湿地に生える茅などを使っていたのかと思っていましたが、そうではないようです。幕末期には尾州廻船が茅を摘んで入港していることが史料から分かるようです。また、慶応2(1866)年10月、坂出浦の川口屋松兵衛は「金壱両三歩」で大量のたで草を荷受けしています。このたで草が与島に供給された可能性があります。どちらにしても船タデ用の茅は、島外から買い入れていたようです。その費用が年間銀13貫になったということなのでしょう。
与島船タデ場 茅購入先一覧

表26は、与島でのたで草の人手先リストです           
買入先が分かる所を見てみると、「タルミ=亀水」「小予シ満= 小与島」「小豆し満= 小豆島」など周辺の島々や港の名前が並びます。買入量が多いのは、圧倒的に小豆島です。小豆島の船の中には、島で刈られた茅を大量に積んで与島に運んでいたものがいたようです。中世には、讃岐の船は塩を運んでいたと云われます。確かに塩が主な輸送品なのですが、東讃からは薪なども畿内に相当な量が運ばれていたことを以前にみました。また。江戸時代には、製塩用の塩木や石炭を専門に運ぶ船を活動していました。船タデ場で使う茅なども船で運ぶ方が流通コストが安かったのでしょう。まさに「ドアtoドア」ならぬ「港から港へ」という感覚かも知れません。
 どのくらいの量の茅が買い入れられていたのでしょうか?
表からは163958把が買い入れられ、その費用が14貫746匁5厘だったことが分かります。史料冊子裏面に「岡崎氏」とあります。ここからは与島のたで場経営が与島庄屋の岡崎氏の判断で行われ、塩飽勤番所に報告されたようです。

与島のたで場は、どのように管理・運営されていたのでしょうか。
私は、経営者と職人たちの専門業者が船タデ作業を行っていたのかと思っていました。ところがそうではないようです。与島のたで場については、浦社会全体がその運営に関わり、地域に収益をもたらしていたようです。
そのため船タデ場の管理・運営をめぐって浦役人と浦方衆との間で利害対立が生まれ、「差縫(さしもつ)れ」となり、控訴事件に発展したことがあるようです。坂出市史は文政四(1831)年に起こった「たで場差縫れ一件」を紹介しています。この一件について「御用留」は、与島年寄りの善兵衛からの書状を次のように記します。
一 文政四巳たで場差配の儀、争論に及び、私差配仕り来たり候場所、三月浦方の者横領二引き取り指配仕り候に付き、御奉行所へ御訴訟申し上げ、追々御札しの上、御理解おおせられ」

意訳変換しておくと
一 文政四巳(1831年)のたで場差配について、争論(訴訟事件)となりました。これについては、私(善兵衛)が差配してきた場所を、三月に浦方衆が力尽くで差し押さえた経緯がありますので、御奉行所へ訴訟いたしました。よろしくお取りはからいをお願いします

 この裁断のための取り調べは、管轄官庁のある大坂で行われたようです。そこで支配管轄の大坂奉行所役人から下された内容を岡崎氏は次のように記します。。

安藤御氏様・寺内様・田中様御立合にて丸尾氏並拙者御呼出し上被仰候は、たで場諸費用之儀対談相済候迄、論中の儀ハ前々の通り算用可致旨被仰候
たで場差配として浦方談之上、善兵衛指出有之処、善兵衛引負銀有之候共、其方へ拘り候儀ハ無之、浦方の者引受差配可致旨被仰候、
浦役人罷上り候諸入用の儀、其方申分尤二て候得共、浦役人之儀ハ浦方惣代之事二候間、浦方談之通り割人半方ハ指出可申旨被仰候、
右の通り被仰、且又御利解等も有之候二付、難有承知仕、引取申候、
意訳変換しておくと
安藤様・寺内様・田中様の立合のもとに、丸尾氏と拙者(岡崎氏)が呼び出され以下のように伝えられた。
第1に、たで場諸経費については、これまで通りの運用方法で行うこと
第2に、たで場差配(管理運営)は浦方衆と相談の上で行うこと、確かに、タデ場には善兵衛の私有物や資金が入っているが、タデ場は浦役人の善兵衛の私有物ではない。「浦方之者」全体で管理・運営すること。
第3は、浦役人の大坂へ上る諸経費について、その費用の半分は、たで場の収支に含まれる
以上の申し渡しをありがたく受け止め、引き取った。

ここからは、タデ場が浦役人の個人私有ではなく、浦全体のものであり、その管理運営にあたっては合議制を原則とすることを、幕府役人は求めています。たで場の差配は、浦役人(年寄)をリーダーとして、浦方全体の者が引き請けて運営されていたことが分かります。浦社会にとっては、地域所有の「修繕ドック」を、共同経営しているようなものです。そして、これが浦社会を潤したのです。

与島の「たで場」の共同管理を示す史料(「御用留」岡崎家文書)を見ておきましょう。
一 同三日、たで場居船弐艘浮不申二付、汐引之節浮支度として浦方居合不残罷出候、‥(後略)…

意訳変換しておくと
 同三日、たで場に引き上げられている2艘の船について、汐が引いた干潮に浮支度をするので、浦方に居合わせた者は残らず参加すること、‥(後略)…

ここからは次のようなことが分かります。
①与島の「たで場」は、2艘以上の廻船が収容できる施設であったこと
②島民全員が、タデ場作業に参加していたこと

もうひとつ幕末の摂州神戸の網屋吉兵衛が役所に、提出したタデ場設置願書には、次のように記されています。
「播州の海岸には船たで場がなく、諸廻船がたでる場合は讃州多度津か備後辺り(鞆?)まで行かねばなりません。そのため利便性向上のために当港へのタデ場設置を願いでます。これは、村内の小船持、浜稼のもの、また百姓はたで柴・茅等で収入が得られ、村方としても利益になります。建設が決まれば冥加銀を上納します」

 ここからは次のようなことが分かります。
①播州周辺には、適当な船タデ場がなく、播州船が多度津や備後の港にあるタデ場を利用していたこと
②タデ場が浦の住人だけでなく、周辺の農民にも利益をもたらす施設であったこと
ここでは②のタデ場が「浦」社会全体の運営によって成立していたことと、それが地域に利益をもたらしていたことを押さえておきます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島   22P」
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瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

16世紀半ばに京都の東福寺の寺領得地保の年貢確保のために周防に派遣された禅僧守龍の記録から瀬戸内海の港や海賊の様子を前回は見ました。守龍は周防では、陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来して寺領の安堵を図っています。大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。北西風が強く吹く冬は、中世の舟は「休業」していたようです。春になって瀬戸内海航路の舟が動き出すのを待っていたのかも知れません。今回は守龍の帰路を見ていくことにします。テキストは 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」です
守龍が宮島からの帰路に利用した船の船頭は「室ノ五郎大夫」です。
瀬戸の港 室津

 室は現在の兵庫県の室津で、この湊も古代以来の重要な停泊地でした。1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことがうかがえます。
1室津 俯瞰図
室津

また「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。

1室津 絵図
室津
室津にも多くの船頭がいたことが史料からも分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。室の五郎大夫は、こんな船頭の一人だったのでしょう。
 守龍は周防からの帰路に五郎大夫の船を利用します。
宮島から堺までの船賃として支払ったのは、自分300文、従者分200文です。当時の瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことが分かります。同時に宮島が塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったことがうかがえます。
 宮島を出た舟は順風を得ることができずに、一旦立ち戻ったりもしています。その後は順調に船旅を続け、
平清盛の開削伝承のある音戸瀬戸
宋希環が海賊と交流した蒲刈島
などをへて、三月晦日には安芸の「田河原」(竹原)に着きます。
瀬戸の港 竹原
竹原 賀茂川河口が竹原湊
ここは賀茂御祖社(下鴨社)領都宇竹原荘のあるところで、荘内を流れる賀茂川の川口に港が開かれていました。竹原の港で一夜を明かした翌日の4月1日、守龍の乗った船は竹原沖で海賊と遭遇します。
守龍の記録には次のように記されています。
未の刻午後2時関の大将ウカ島賊船十五艘あり、互いに端舟を以て問答すること昏鵜(こんあ)に及ぶ、夜雨に逢いて蓬窓に臥す、暁天に及び過分の礼銭を出して無事

意訳変換しておくと
未の刻(午後2時頃) 海賊大将のウカ島賊船十五艘が現れた、互いに端舟下ろして交渉を始めた。それは暗くなって続き、夜雨の中でも行われた。明け方になって過分の礼銭を出すことでやっと交渉が成立し、無事通過できた。

 海賊遭遇から得た情報を研究者は、次のように解析します。
「関の大将」とは、なんなのでしょうか。文字通り関所(通行税徴収)の大将がやってきたと思うのですが別の解釈もあるようです。薩摩の武将島津家久の旅日記『中書家久公御上京日記』にも
「ひゝのとて来たり」「のう島(能島)とて来たり」

などと、「関」がやってきたと記しています。この「関」は関所を意味する言葉ではないようで、ここでは「関」を海賊そのものとして使っているようです。海賊が関所を設けて金銭を徴収することは、小説「海賊の娘」でよく知られるようになりました。当時は、関所と海賊が一体のものとして認識されていて、「関」という言葉が海賊そのものを意味するようになったようです。

7 御手洗 航路ti北

 明代の中国人の日本研究書である『日本風土記』には「海寇」のことを「せき(設机)」と記します。ポルトガル語の辞書『日葡辞書』には、「セキ(関)」の項に「道路を占拠したり遮断したりすること」「通行税(関銭)などを収りたてて自由に通行させない関所、また通行税を取る人々」という語義の他に「海賊」意味があると記されています。関とは、海賊が一般社会に向けていた表向きの顔と研究者は考えているようです。
竹原近海で守龍たちの舟に接近してきた「関の大将」は、海賊でした。
海賊の大将「ウカ島」とは、尾道水道にある宇賀島(現在は岡島、JR尾道駅の対岸)を本拠とする海賊衆です。
瀬戸の港 尾道対岸の岡島
尾道水道の向こう側にある岡島(旧宇賀島)小さな子山
彼らは宇賀島を中心に周辺海域で航行船舶から礼銭、関料を徴収していたようです。応永27年(1420)7月、朝鮮の日本回礼使・宋希璟は尾道で海賊船十八隻の待ち伏せを受けて食料を求められたと記します。 宇賀島衆は向島の領主的地位も持っていたようです。しかし、このあとすぐの天文23年(1554)ごろに、因島村上氏と小早川氏によって滅ぼされています。
ここから分かることは、因島村上氏は16世紀半ばまでは尾道水道周辺を自分のナワバリに出来ていなかったということです。つまり、村上水軍は芸予諸島の一円的な制海権を、この時点では握っていなかったことになります。村上水軍の制海権は小早川隆景と結ぶことによって、急速に形成されたことがうかがえます。

 向島とつながる前の岡島(小歌島)
「ウカ島」の海賊大将は、15艘もの船を率いて、船頭五郎大夫の舟を取り囲む有力海賊だったようです。
船頭五郎大夫は、さっそく通行料について「問答」(交渉)を始めます。両者は互いに端舟を出して交渉します。往路の日比では交渉が決裂し、交戦に至りましたが、今度は15艘の艦隊で取り囲まれています。逃げ出すわけにもいきません。船頭の五郎大夫はねばりにねばります。
 未の刻(午後二時)に始まった交渉は、「昏鵜」(日ぐれ)になってもまとまりません。さらに夜を徹して続けられ、翌日の「暁天」になってやっと交渉はまとまります。それは、船頭側が「過分の礼銭」を出すことに応じたからでした。
船頭が海賊に支払った銭貨がなぜ「礼銭」と呼ばれるのでしょうか?
 海賊に対して航行する船の側が「礼」をしていることになります。これは通行の自由が認められている私たちからすれば、分かりにくいことです。ある意味、中世人独特の世界観が表わされているのかもしれません。
 「礼銭」という言葉の背後にあるのは、守龍らの船が本来航行してはいけない領域、なんらかのあいさつ抜きでは航行できない領域を航行したという意識だと研究者は考えているようです。それでは、公の海をなぜ勝手に航行してはいけないのか。それは、おそらく、そこが海賊と呼ばれるその海域の領主たちの生活の場、いわばナワバリだったからでしょう。海賊のナワバリの中を通過する以上は、通行料を支払うのが当然という意識が当時の人々にはありました。それが、「礼銭」という言葉になっているようです。海賊(海民や水軍)からみれば、ナワバリの中を通過する船から通行料を取るのは当然の権利ということになります。

 目に見えないナワバリを理解することができない通行者には、通行料を求める海賊の行為が次第に不当なものと思われるようになります。守龍の旅の往路でも、塩飽の源三が「鉄胞」で海賊を撃退し、復路において室の五郎大夫が礼銭を出し渋ってねばりにねばったのは、そのことを示しているのかもしれません。
 風雲の革命児信長は、それまでのナワバリを取っ払う「楽市楽座」を経済政策の柱として推し進めます。それを継いだ秀吉は、海の刀狩りとも云うべき「海賊禁止令」をだして、海上交通の自由を保障するのです。それに背いた村上武吉は能島から追放され、城は焼かれることになります。自由な海上交通ができる時代がやってきたのです。それを武器に成長して行くのが塩飽衆だったようです。
 守龍はその後、鞆、塩飽、縄島(直島か)、牛窓、室津、兵庫などと停泊を重ね、17日には堺津に上陸して、翌日18日には東福寺に帰り着いています。

以上をまとめておきます。
①16世紀半ばには、堺港と宮島を200石船が300人の常客を載せて往復していた。
②旅客船の船頭(母港)は、塩飽や室津などの有力港出身者が務めていた。
③旅客船は自由に航海が出来たわけではなく、海賊たちから通行量を要求されることもあった。
④海賊たちのナワバリには大小があった。村上氏や塩飽衆によって制海権が確保させれ安心安全な航海が保証されていたわけではなかった。
⑤は旅客船も有事に備えて、鉄砲などで武装していた。
⑥宮島や塩飽は、瀬戸内海航路のターミナル港の機能を果たしていた。そのため周辺からの小舟が
やってきたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」

厳島合戦その8 | テンカス・気まぐれ1人旅
     厳島合戦
 戦国期は、海賊衆の活動の最もめざましい時代を向かえます。しのぎをけずりあう周辺の戦国領主たちにとって、厳島合戦のように村上氏海賊衆の水軍力が勝敗の決め手になることもありました。その軍事力や制海権、輸送力は垂涎の的になります。多くの戦国領主が、村上水軍を味方につけようと画策するようになります。村上氏関係文書の中に残されている山名・河野・大内・毛利・小早川・大友・織田・羽柴などの各氏の発給文書の存在が、そのことを雄弁に物語ります。そして、村上氏がその期待に応えて、各地の合戦に多くの戦功を挙げます。

村上水軍と海賊

室町時代の海賊衆は警固活動だけでなく、海上輸送業も行っていたようです。
ただ近世になると、軍記物では戦いばかりに目が向けられ、平和時の日常的な輸送活動については描かれることがなかったために、抜け落ちてしまっているようです。
 海賊衆の中で最も多くの文書を残しているのは、村上氏です。村上各家に残されている文書をみてみると、その大部分は戦時における一族の活躍を伝えるもので、それ以外のものあまりありません。これは村上各家の文書の伝来のしかたに、一種の偏りがあるからだと研究者は指摘します。村上各家に保存されてきた文書は、膨大な文書の中から各家にとって、残しておく価値ありと判断されたものが保存されてきました。それは、戦時に各大名から戦功を賞して与えられた感状や安堵状です。輸送業務部門の日常的な記録は、意味のないものだったのかもしれません。今に残る村上氏関係文書は、戦時における一族の軍事行動を知るのには、つごうのいい史料です。しかし、そこから平時の姿を知ろうとすると、何も見えてこないということになります。

牡蠣と室津の遊女 | 魔女の薬草便

法然上人絵図に登場する中世の舟(室津) 


 日常的に営まれていた村上氏の海上輸送活動姿を知ろうとすれば、それ以外の史料を探さなければならないようです。そのような種類の文書として、研究者が目を付けるのが厳島神社や高野山に残る文書です
「高野山上蔵院文書」を見てみましょう。
上蔵院は、高野山上の寺院のひとつで、伊予からの参拝者の宿坊でした。そのため伊予の豪族たちが高野山参詣の際に利用し、その関係文書が数多く残されていています。その数は約130通にのぼり、時代は天文から天正にかけての戦国時代50年間に渡るようです。
 領主達と上蔵院には、次のような関係がありました。
①上蔵院からは高野聖が仏具や日用品を携えて伊予に出向き、領主の間を巡回しお札などを配り、冥加金を集金する
②伊予からは領主たちが彼ら高野聖を先達にして高野山に参詣をとげ、その際には、上蔵院を宿坊して利用する
  中世以来の高野の聖たちによって「高野山=死霊の赴く聖地」「納骨の霊場」信仰が広められてきました。私たちが高野山奥の院に見る戦国大名たちの墓石が林立する光景は、高野聖の布教活動の成果とも云えるようです。
織田信長の墓(高野山奥の院)
高野山奥の院の墓石

 上蔵寺の史料に、領主として名前があるのは、河野氏をはじめとし、周敷郡の黒川氏、桑村郡の櫛部氏・壬生川氏、野間郡の来島村上氏、風早郡の得居氏、和気郡の大内氏、温泉郡の松末氏、久米郡の角田(志津川)氏、伊予郡の垣生氏、浮穴郡の上居・平岡・相原・戒能などです。彼らは、戦国領主の河野氏の家臣団を構成する国人級領主たちです。地域的には河野氏の膝下である中予を中心にして、 一部東予地域までひろがっています。「上蔵院文書」によって、戦国後期に伊予国と高野山との間に、日常的な交流のあったことが分かります。

領主達は高野山参りに、どんなルートを使っていたのでしょうか?
中世の熊野詣には、熊野海賊の船が定期的に大三島の大山祇神社までやって来ていたとされます。伊予から熊野へは舟が用いられていたようです。そうだとすると、高野山詣でにも海上交通が使われていたことが予想できます。
 そのような視点で先ほど紹介した領主たちを見てみると、自前の舟で瀬戸内海を航行していく水運力を持っているのは来島村上氏と、忽那氏くらいです。大部分の豪族たちは、高野山に舟で出かける水運力はないようです。彼らは、どのような舟に乗って高野山を目指したのでしょうか。

DSC03651
一遍上人絵図 (兵庫沖の中世廻船)

その疑問を解く鍵は、来島村上氏にあるようです。

来島氏が戦国期に強力な水軍力を持っていたことはよく知られています。「上蔵院文書」の関連文書の中に、一番登場してくるのも27/130通で来島氏です。上蔵院との交流で中心的役割を果していたのが来島氏だったことがうかがえます。
村上水軍 城郭分布図

内陸の領主たちは、来島村上氏の舟で高野山詣でを行っていことが予想できます。それを裏付けるのが「上蔵院文書」の次の史料です。
尚々彼舟ハさかい(堺)まて直々罷上候間、同道めされ候て可然存候 一筆令申候、乃此時分御帰山候哉、然者(  ?  )船愛元罷下候迄中途より借くれ、御祝言之御座船に被仕立候、彼船弐十日比過候ハヽ可罷上候間、御乗船候て可然之由候、たしかなる舟之事候間、申小輔□被申付上乗にまて堅固候之条、於御上者彼船二御乗候様二内々御支度干要候、某より内茂可申由候間、以書状申候、くハしく御返事二可蒙仰候、恐々謹言
六月十五日                                通康(花押)
高音寺御同宿中
                     来嶋右衛間大夫
高音寺                                       通康
御同宿中                                    
  意訳変換しておくと
この舟は堺に直接向かいますので、乗船をお勧めします。
次のことを連絡いたします。この度の高野山への帰山の船便については、事情によって能島村上氏から借用した船を使用します。御祝言の御座船に仕立てるため20日後には準備が整い出港予定です。身元の確かな舟で、上乗も付いて堅固で安全です。この舟に乗船できるように手配をしますので、準備をしてください。詳しくは御返事をお待ちしています。恐々謹言
文書の背景は次の通りです。
①文書の発給者・来島通康は、来島村上氏の中心人物で河野氏の重臣
②来島通康の死没年は永禄十年(1567)なので、文書発給年は永禄初年頃
③宛先の高音寺は和気郡内の真言宗寺院(現在松山市高木町)。

文書の内容は、伊予国にやって来ていた高野山上蔵院の僧侶に、帰路の便船の案内を伝える私信です。ここには、興味深い点がいくつか含まれています。
和船とは - コトバンク
遣明船に使われた船

第一は、来島村上氏は所有する船を、旅客船として運用していること。
この場合は、たまたま事情によって能島村上氏から借用した船を使用しています。戦時には軍船となる舟が平時には、御座船として使われ、さらにそこに旅客も乗せようとしています。水軍的側面ばかりが強調されていた来島氏の平時の姿を知る上で興味深い史料です。
第二に、その船が泉州堺に「直々罷上」る直行便であったこと
ここからは伊予からの高野山参拝コースは、船で堺に至り、そこから陸路をとったということが分かります。その前提として、来島氏は伊予から堺までの瀬戸内海航路の通行権を確保していたということになります。さらに推測すると、戦国期の伊予近海と畿内との間は海上交通で結ばれていて、海賊衆来島村上氏は、そこに持舟を就航させていたことがうかがえます。以前に、塩飽本島の塩飽海賊が定期的に畿内との旅客船を運用し、周辺から旅客が集まってきていたことを見ましたが、それと同じような動きです。
来島村上氏をはじめとする海賊衆は、どのような目的で伊予・堺航路に舟を就航させていたのでしょうか
高野山へ参詣する武将や、伊予国にやってくる高野聖を運ぶのが目的ではないはずです。高野山参拝は、たまたまつごうのいい便船を利用しているのにすぎません。通康書状の便船は「御祝言之御座船」という文言があるので、河野氏の上京のために用意された船かもしれません。これは特別な舟で、大部分の船にはもっと別の目的があったはずです。研究者はある種の商業活動を海賊衆がおこなっていたと考えているようです。
 しかし、そのことを「上蔵院文書」で証明することはできません。「上蔵院文書」が語っているのは、来島や能島の村上氏をはじめとする海賊衆の船が頻繁に瀬戸内海を航行し、堺と伊予との間を行き来していたという事実です。
村上武吉の花押がある「厳島野坂文書」の文書を見てみましょう。
預御状本望存候、乃去年至御島並廿日市、吾等家頼之者共所用候而罷渡候処二、無意趣二御島之衆被打果候事、無御心元存候、其節以使札申入候之処二、無御分別之通承候、然上者重而不及申達候、彼孫三郎親類共佗言申儀も可有之候、為我等不及下知候、御分別可目出候、猶御使者江申入候条省略候、恐々謹言
十月八日                                  武吉(花押)
棚守左近将監殿参 御返報
意訳変換しておくと
 去年、わが能島村上一族の者が「所用」のため宮島・廿日市に赴いていたところ、島衆によって討ち果たされるよいう事件が起きている。これに対して、使者を派遣して対処を申し入れたが、その後に何の連絡もない。これはあまりにも無分別な対応であるので、重ねて申し入れをおこなう次第である。殺された孫三郎の親類からの抗議もあり、私も捨て置くわけにはいかない。適切な対応をとり、使者に伝えていただきたい。

 能島の村上武吉が厳島神社社家棚守氏に対して、能島の「家頼」と厳島衆のトラブルについての対応を申し入れた書状です。ここで研究者が注目するのは、能島の「家頼」が「所用」があって「御島並廿日市市」に赴いていることです。その「所用」の内容は分かりませんが、「伊予衆」が参詣に名をかりて日常的に厳島へ「着津」し、商業活動を行っていた研究者は推測します。廿日市は厳島近海の地域経済の拠点で、その名の通り定期市が立ち、活発な経済活動が行われていた所です。「所用」とは、何らかの交易に関係するものであったとすると、能島氏は広島湾岸の宮島周辺にも進出して、「商売」を行っていた可能性があります。

村上水軍 テリトリー図3

以上、高野山と宮島厳島神社に残された文書からは、次のようなことが分かります。
第1に、来島村上氏や能島村上氏などの海賊衆も瀬戸内海海運に従事していたこと。
第2に、来島氏の堺―伊予航路の水運も商業活動をともなうものであった可能性が高いこと。
第3に、村上氏の活動エリアは、堺を中心とした畿内経済圏、四国松山の堀江を中心とした伊予エリア、宮島・十日市等を拠点とした安芸エリアなど、瀬戸内海の広い範囲に及んでいたこと

以上からは、海賊衆がただ単に警固活動をだけを生業としていたのではなく、海上交通や交易の担い手として平時には活動していたことが見えてきます。それを最後に振り返っておきます。
 文安二年(1445)の『兵庫北関入船納帳』には、東寺領弓削島荘に籍をおく船舶が、特産物である塩を積荷として活発な水運活動を展開していることが分かります。その担い手は、太郎衛門に代表されるような有力船頭たちです。彼らは、200石積の当時としては大型船で毎月のように畿内との間を往復しています。

そして、15世紀になると能島・来島・因島の各村上氏が史料上に姿を見せるようになります
弓削島荘では、小早川氏の「乱暴狼藉」に対応するために、東寺は海賊衆の村上右衛門尉やその子治部進が請負代官と契約を結んでいます。『入船納帳』に記録された弓削籍船の活発な活動と、これは同時代のことです。つまり、弓削島荘の経営を任され、それを舟で輸送していたのも村上氏ということになります。制海権を握る海賊衆の許可なしには、安全な航海はできなのですから。彼らは、荘園の請負代官として収取した年貢物(塩)を自らの舟で畿内に運びこみ、畿内市場で換貨してその代貨の一部を荘園領主に銭納していたと研究者は考えいます。
  戦国期になると、伊予の戦国領主河野氏配下の領主たちは高野山参詣を活発に行うようになります。
その参拝は、河野氏の重臣となっていた来島村上氏の舟で行われていました。来島氏は伊予から堺までの畿内ルートを確保し、定期的に便船を運航していたことが推測できます。
 能島村上氏も厳島の対岸十日市に、「所用」と称して家臣を遣わし商業活動を行っていました。宮島と堺は、来島村上氏によって舟で結ばれていたことがうかがえます。畿内へ向けての活発な水運活動の背景にも、商業活動があったようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年

特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち       

前回は、鎌倉時代初めに西遷御家人として東国から安芸沼田荘にやってきた小早川氏が、芸予諸島に進出していくプロセスを見ました。小早川氏の海への進出は、14世紀の南北朝の争乱が契機となっていました。そのきっかけは伊予出兵でした。興国3年(1342)10月、北朝方細川氏は伊予南朝方の世田山城(東予市)を攻略します。小早川氏も細川氏の指示で参戦しています。途中、南朝方拠点の生口島を落とし、南隣りの弓削島を占領します。翌年の因島制圧にも加わっています。合戦後の翌年から、小早川氏は弓削島の利権を狙い、居座り・乱入を繰り返すようになります。つまり14世紀半ばに、生口島・因島・弓削島への進出が始まっていたことになります。では、村上氏はどうなのでしょうか。今回は村上氏がいつ史料に登場してくるのかを見ておくことにします。  テキストは「山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年」です。
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 史料に最も早く姿を見せるのは能島村上氏のようです。
貞和五年(1349)、東寺供僧の強い要請をうけて、幕府は、近藤国崇・金子善喜という二名の武士を「公方御使」として尾道経由で弓削島に派遣します。その時の散用状が「東寺百合文書」の中に残されています。
 その中に「野(能)島酒肴料、三貫文」とあります。この費用は、酒肴料とありますが、次のような情勢下で支払われています。

「両使雖打渡両島於両雑掌、敵方猶不退散、而就支申、為用心相語人勢警固

小早川氏が弓削島荘から撤退しない中で能島海賊衆が「警固」のために雇われていることがうかがえます。これは野(能)島氏の警固活動に対する報酬であったと研究者は考えています。ここからは14世紀前半には、芸予諸島で警固活動を行う能島村上氏の姿を見ることが出来ます。周辺の制海権を握っていたこともうかがえます。

村上水軍 能島城2

 小早川氏の悪党ぶりに手を焼いた荘園領主の東寺は「夷を以て、夷を制す」の教えに従い、村上水軍の一族と見られる村上右衛門尉や村上治部進を所務職に任じて年貢請負契約を結んでいます。これが康正三年(1456)のことです。その当時になると弓削島荘は「小早河少(小)泉方、山路方、能島両村、以上四人してもち候」と記します。ここからは、次の4つの勢力が弓削島荘に入り込んでいたことが分かります。
「小早河少泉方=小早川氏の庶家である小泉氏
 山路方   =讃岐白方の海賊山路(地)方、
 能島    =能島村上氏
 両村
そして、寛正三年(1462)には、弓削島押領人として「海賊能島方」が、小泉氏、山路氏とともに指弾されています。弓削島荘をめぐる攻防戦に中に能島の海賊衆がいたことは間違いないようです。

村上水軍 能島城

戦国時代の能島村上氏の居城 能島城

能島氏の活動痕跡は、芸予諸島海域以外のところでも確認できます。
応永十二年(1406)9月21日、伊予守護河野通之の忽那氏にあてた充行状に「久津那島西浦上分地領職 輔徒錫タ事」とあります。これは、防予諸島の忽那島にも能島氏の足跡が及んでいたことを示します。ここからは能島村上氏は、南北朝初期から芸予諸島海域に姿を見せ始め、警固活動によって次第に勢力を伸ばしたこと、そして室町時代になると、防予諸島周辺でも地頭職を得ていることが分かります。
 その一方では、安芸国小泉氏や讃岐国山路氏などとともに弓削島荘を押領する海賊衆としても活動しています。当時の海賊衆の活動エリアの広さがうかがえます。
防予諸島(周防大島)エコツアー - 瀬戸内海エコツーリズム

次に因島村上氏について見ておきましょう。
因島村上氏の初見史料については、2つの説があるようです。
①「因島村上文書」中に見える元弘三年(1333)5月8日の護良親王令旨(感状)の充て先となっている「備後国因島本主治部法橋幸賀」という人物を因島村上氏の祖として初見史料とする説
②応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)を与えられている村上備中守吉資が初見とする説

①には不確かさがあります。②は、その翌年の正長元年(1428)には、備後守護山名時熙から多島(田島)地頭職が認められていること、文安六年(1449)には、 六月に伊予封確・河野教通から越智郡佐礼城における戦功を賞せられ、8月には因島中之庄村金蓮寺薬師堂造立の棟札に名があること、などから裏付けがとれます。ここから因島村上氏は、15世紀の前半から因島中之庄を拠点にして活動を始め、海上機動力を発揮して備後国や伊予国に進出していったとしておきましょう。
村上水軍 因島村上氏の菩提寺 金蓮寺
因島村上氏の菩提寺 金蓮寺

三島村上氏の中で、史料上の初見が最もおそいのは来島村上氏です。
宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に

「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」

とあるのが初見史料になるようです。当時の伊予国では守護家河野氏が3つに分かれて、惣領家の教通と庶家の通春とが争っていました。この書状は、教通が幕府の命によって出陣してきた小早川盛景に対して軍功を謝したものです。つまり、河野教通が越智郡来島城にとどまっていたことを示すものであって、決して来島村上氏の活動を伝えるものではありません。しかし、来島城を拠点にして水軍活動を展開する来島村上氏の存在はうかがえます。
来島城/愛媛県今治市 | なぽのブログ
来島城 
 来島村上氏がはっきりと史料上に姿をみせるのは、大永四年(1524)になります。
この年、来島にほど近い越智郡大浜(今治市大浜)で八幡神社の造営が行われましたが、その時の棟札に願主の一人として「在来島城村上五郎四郎母」の名前があります。
以上を整理すると
①能島村上氏が、貞和五年(1349)「東寺百合文書」の中に「野島酒肴料、三貫文」
②因島村上氏が 応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)の村上備中守吉資
③来島村上氏が宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」
とあるのがそれぞれの初見史料になるようです。

村上水軍 城郭分布図

ここからは、15世紀中頃には、三島村上氏と呼ばれる能島・因島・来島の三氏の活動が始まっていたことが分かります。これは前回見た小早川氏の芸予諸島進出が南北朝の争乱期に始まることと比べると、少し遅れていることを押さえておきます。

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 小早川氏は、鎌倉初期に相模の土肥実平の子・遠平が安芸沼田荘の地頭職を得たことに始まるようです。遠平は平家討伐の恩賞として平家家人沼田氏の旧領であった安芸国沼田荘(ぬたのしょう、現在の広島県三原市本郷町付近)の地頭職を得ます。これを養子・景平(清和源氏流平賀氏の平賀義信の子)に譲ります。安芸国にやてきたのは景平になるようです。

小早川氏系図
建永元年(1206年)、景平は長男の茂平に沼田本荘を与え、次男の季平には沼田新庄を与えます。長男茂平は承久の乱で戦功を挙げ、安芸国の都宇荘(つうのしょう)・竹原荘(たけはらのしょう)の地頭職を得て支配エリアを瀬戸内海沿岸に伸ばします。茂平の三男・雅平が沼田本荘などを与えられ、高山城を本拠としたのが始まりで、これが沼田小早川氏で、本家筋になります。
高山城 沼田小早川氏 350年間の本拠となった中世山城 | 小太郎の野望 ::

高山城 沼田小早川氏の居城 三原市本郷町

 茂平の子・朝平は、元弘の乱で鎌倉方として六波羅探題に味方し付き従ったため、建武政権によって沼田本荘を没収されます。しかし、竹原小早川家の取り成しなどにより、旧領を安堵されています。
その後の「宣平、貞平、春平」の3代の間に芸予諸島に進出し、小早川水軍の基礎を築くことになるようです。
 今回は小早川氏の瀬戸内海への進出過程を見ていくことにします。
テキストは 山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年です。

系図を見ると分かるように沼田小早川氏の宣平の子である「小泉氏平、浦氏実、生口惟平」というふうに兄弟が、海に向かって一斉に進出する態勢をとりはじめます。自分たちの活動の部隊は、海にありと意識したような動きです。
 中国新聞社編著『瀬戸内水軍を旅する』には、次のように記されています。
 南北朝期、小早川氏の主な領域は沼田本荘、沼田新荘、都宇・竹原荘だった。本荘の惣領家は足利氏方、新荘の一部庶家が南朝方として戦い、一時は惣領家の城を占拠し、面目を失わせた。
 だがこの時期、惣領家は本荘沼田川流域の塩入荒野を干拓
造成した新田を庶子に与えた。庶子は新田地を本拠とし地名を姓とした。小泉、小坂、浦、生口、猪熊ら新庶家が生まれ、惣領家を支えた。小泉氏は氏平が始祖。干拓地のうち西部山寄りが領地である。  

杜山悠『歴史の旅 瀬戸内』P222~225P)には、次のように記されています。
惟平が拠った生口島瀬戸田は、航海業者たちの一つの拠点で商船の往来が激しく島内生活もその刺激を受けて活発になり、自由の気風に充ちた明るい世界が開けていた。生口船とか瀬戸田舟とかいわれたこの島の商船は、小早川生口因幡守道貫(惟平)支配のもので、商船とはいいながら、半面には海賊的性格も持っていて、兵庫関など平気で無視して通ったといわれる。また本荘小早川(本家沼田)でも能美島に進出し、大崎上島(近衛家荘園)にも南北朝の動乱期に入り込んでその支配権を持った。
 竹原小早川の海島進出もやはり始まっていて、景宗(二代)のとき安芸の高根島を含めた地頭職として島嶼に一つの足がかりをつかんだ。このようにして小早川一族が所領とした島々はおびただしい数にのぼり、その主なものでも、因島、佐木島、高根島、生口島、越智大島、大崎上島、生野島、大崎下島、豊 島、三角島、波多見島、能美島、向島、江田島、倉橋島、上下蒲刈島などがあげられる。」
   小早川氏の庶家である「小泉氏平、浦氏実、生口惟平」の拠点を押さえておくと、次のようになります。
①沼田荘内小泉に土地を与えられて小泉氏を名乗る氏平
②沼田荘内田野浦に拠って浦氏を名乗る氏実
③沼田荘に近い生口島の地頭職を与えられ、生口氏を名乗る惟平
④茂平の子経平は、これらよりも早く分立して船木氏を名乗る
 南北朝期の弓削島荘で「悪党」として活動するのは、これら小早川庶家衆です。
弓削島荘遺跡」の国史跡指定に係る文化審議会の答申について - 上島町公式ホームページ
手前左が因島 その右が生名島 その向こうが弓削島

彼らにとって、最大のチャンスは南北朝の内乱期であったことです。
これが国境を越えての伊予の島々への進出の機会となります。
  芸予諸島では伊予海賊衆が北上していましたが、小早川氏は三庶家を先頭に伊予衆を押し返す形で南下することになります。きっかけは伊予出兵でした。 興国3年(1342)10月、北朝方細川氏は伊予南朝方の世田山城(東予市)を攻略します。小早川氏も細川氏の指示で参戦しています。途中、南朝方拠点の生口島を落とし、南隣りの弓削島を占領します。翌年の因島制圧にも加わっています。合戦後の翌年から、小早川氏は弓削島の利権を狙い、居座り・乱入を繰り返すようになります。
   こららの動きがあった康永二年(1343)には、庶家衆に関する史料がいくつか東寺に残されています。その四月、東寺雑掌光信の訴えをうけて室町幕府引付頭人奉書が、当時伊予守護であった細川頼春に次のように訴えています。

「小早川備後前司(貞平)、同庶子等当所住人民部房・四郎次以の、なほもって退散せず、いよいよ乱妨狼藉を致」
                (東寺百合文書・六八四)

「国中劇の隙を伺ひ、当島に打入り、百姓住宅を追捕し、乱妨狼藉を致すの条、濫吹の至り、言語道断の次第なり」
「事を世上の動乱によせ、使節遵行の地に立ち還り、若干寺物を押取り、下地を押領せしむるの条、造意の企て、常篇を絶つ」(同・八〇〇)

 ここからは動乱のすきをねらって、乱暴狼藉をはたらく小早川氏の巧妙な荘園進出のやり方がうかがえます。また、東寺側の激しい非難のなかには、小早川勢力の弓削荘侵略に直面した荘園領主の危機感がよくあらわれています。
弓削島荘遺跡」の国史跡指定に係る文化審議会の答申について - 上島町公式ホームページ
伊予国弓削島荘地頭領家相分差図(「東寺百合文書」)

 幕府(北朝)は小早川氏に退去を命じますが、四氏は無視して居座ります。幕府は使者を派遣して強制退去させます。東寺は小早川氏を警戒し、伊予海賊衆(村上氏)雇って警固します。にも関わらず、小早川氏はすぐに乱入。その後、島を占拠しますが、その先頭に立ったのは四氏の庶家小泉氏でした。小泉氏は因島でも居座り、年貢を横取りしていたようです。南北朝の争乱を、自己の権益拡大に最大限利用している姿がうかがえます。
 足利尊氏と弟直義が争う観応の擾乱が始まると、一時期、反尊氏派が島を占拠したので、幕府は小早川惣領家に地頭職を与えて守らせます。だが惣領家家も『乱妨』を働くと領主東寺から訴えられて、地頭職を取り上げられています。しかし、居座りを続け、島を勢力下に取り込んでいきます。領家である東寺にしてみれば手の付けられない「悪党」です。
弓削島荘遺跡ポスター

小泉氏二代の宗平が、応安四年(1371)7月に、伊予国越智郡大島の地頭職に任命されます。
 それまで非法ぶりを非難され続けてきた一族が、今度は全く立場をかえて、東寺から荘園を守り管理する地位に任ぜられたのです。これはアメリカ西部の悪党を保安官にするようなやり方です。当時の弓削島荘の周辺は、西部の無法地帯とよく似ていたようです。なぜなら、南北朝の動乱で海上秩序が失なわれて、無法地帯になっていたのです。東寺にしてみれば、年貢を無事に京都にもたらしてくれる者であれば、誰でもいい、その素性を問うてはいられなかったのでしょう。そのような視点からすれば海上機動力にすぐれ、軍事力も持つ小泉氏は、地頭として候補者にあげられても不思議ではありません。東寺は、かつての非法、悪党ぶりに目をつぶり、年貢請負額京定30貫文という破格の安値で請負契約を泣く泣く結びます。
しかし、東寺の小泉氏への期待と信頼は、みごとに裏切られます。

弓削島遺跡2

小泉宗平は、地頭職についても非法をやめません。

それを東寺雑掌は、次のように記します。
「令同意山地以下悪党、致押妨」(17) (18)

   弓削島押領人事 
公方奉公 小早川小泉方 
海賊 能嶋方 (能島)
海賊  山路方(讃岐)
此三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永尊口説記之 
小泉氏を中心にして、伊予の海賊能島氏、讃岐の海賊山路(地)氏等が弓削島を押領しているというのです。讃岐の山地氏については、以前にお話ししましたので、今は触れません。
  ここからは、年貢の輸送路をはじめとして周辺の海賊を悪党・海賊に固められて、弓削島荘の経営にもはや身動きのとれなくなっている東寺の窮状を知ることができます。まさに弓削島周辺は海賊衆の世界となっていたのです。
弓削神社

弓削神社(ゆげじんじゃ) 「浜途明神」「浜戸宮」の後身


 東寺は、現実をまのあたりに学んだようです。荘からの年貢収取を維持していくためには、今までのように荘官を派遣して荘園の管理をやらせる方法ではダメだということです。そこで、新たな方法として採用したのが「所務請負い方式」です。そして、村上水軍の一族と見られる村上右衛門尉や同治部進と年貢請負の契約を結びます。村上氏も芸予諸島周辺の海賊衆の一人であったこと間違いありません。東寺にしてみれば、海賊衆小泉氏を制するのにに別の海賊衆を以てしたということになります。このような動乱期の中で、伊予海賊村上氏と安芸の小早川氏は芸予諸島をめぐって勢力範囲を拡大していくことになります。
第11番札所・向上寺 緑に映える朱塗りの国宝三重塔
向上寺の三重の(生口島 瀬戸田)

   最後に生口島を拠点とした小早川氏の庶子家生口氏を見ておきましょう。
生口島には国宝の三重塔が海を背景に建っています。これは1432年に、初代生口惟平とその子守平によって建立された向上寺の塔です。小早川氏の庶子である生口氏は、この島が生口島と呼ばれていたことから、その名を名乗ることになったようです。生口島はもともとは皇室領でしたが、源平合戦や承久の乱を通じて、武家方に没収され没官領地となりました。南北朝の騒乱期に、この島を拠点としていた南朝方を落とした功績により、小早川惟平にこの島が与えられ、生口氏が移り住み拠点とします。
向上寺三重塔 - ひろしまたてものがたり

 小早川氏は、安芸国の沼田荘に土着した頃は、内陸部への進出や沼田川河口部の干拓などで勢力を拡張していました。それが、生口氏の生口島獲得によって、小早川氏は陸の武士団という性格から、小早川水軍と称されるような海の武士団へと性格を変えていくことになります。
 小早川氏は、小泉氏が弓削島、生口氏が生口島へと瀬戸内海へ進出することによって、海上輸送に関わるようになります。それは瀬戸内海交易を越えて、朝鮮や明との貿易にも従事していたようです。 そこからあがる利益は莫大なものでした。
小早川氏の本拠沼田の外港として、位置づけられたのが生口氏の瀬戸田港だったようです。
小早川氏が他の安芸の国人領主レベルから一段と上のレベルに位置付けられていたのは、海の武士としての海上交易活動がありました。
 生口船は、兵庫北関に入港する際の免税の特権を持っていました。生口氏の海の経済活動は、目を引くモノがあります。主な輸送品は、弓削島や因島の塩です。「兵庫北関入船納帳」(1445年)によれば1月から2月半ばまでに61艘の入船があり、うち30艘が塩を積んだ船であり、そのうち1/3が小早川氏の支配する地域からの塩です。しかも生口氏配下の船は免税です。
 弓削島を押さえた小泉家の塩を、生口島の免税特権を持った舟が運ぶという「分業」体制があったことになります。そこからあがる莫大な利益を蓄積しながら次第に大名化していくのが小早川家ということになります。毛利元就の三男隆景が継いだ小早川家とは、そういう家系だったのです。
 生口・小泉氏などの庶家を配下に置く小早川家は、海の経済的・人的ネットワークを背景として、強力な軍事力と水軍を持ち、他の安芸国の国人領主を圧倒していきます。因島や能島の村上氏も最終的には、この軍門に降ることになります。
 その生口島の繁栄の象徴が向上寺の三重塔ということになるようです。小早川氏の外港として繁栄する瀬戸田港からの財をバックにして作り上げ塔です。
 向上寺(広島県安芸幸崎駅)の投稿(1回目)。#国宝 #向上寺三重塔 ・生口島へは尾道から…[ホトカミ]
  以上をまとめておきます
①鎌倉時代初期に西遷御家人として沼田庄に小早川氏が入ってきた。
②沼田庄を拠点に、竹原などの沿岸部に勢力を伸ばし、開発を行った。
③南北朝の争乱期に宣平の4人の子ども達は、芸予諸島に進出し、小早川水軍の基礎を築いた。
④「塩の荘園」として東寺の最重要荘園であった弓削荘に対して、小早川氏は侵入し「悪党」ぶりを発揮する。
⑤東寺はこれを幕府に訴えでるが有効なただ手は見つからず、小早川の庶家小泉氏に官吏を任せることもおこなったがうまく行かなかった。弓削荘は次第に小泉氏に侵食されていく。
⑥一方、生口島の瀬戸田港を拠点とした生口氏は、周辺の海民を組織し「海の武士団」へと成長して行く。
⑦生口氏は、明や朝鮮との交易活動などにも参入し、莫大な富を小早川氏にもたらした。
⑧瀬戸田港の山の上に建つ向上寺の国宝・三重塔は、そのシンボルである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献

村上水軍

村上水軍は村上武吉の時に最大勢力を持つようになります。
しかし、秀吉に睨まれ瀬戸内海から追放され、さらに関ヶ原の戦いで毛利方が敗れることで村上水軍の「大離散」が始まります。その後の「海の武士(海賊衆)」のたどった道に興味があります。今回は、武吉の「家老的な存在」として仕えた島氏を追ってみたいと思います 

 能島村上氏の実態を知る一つの道は、家臣団について知ることです。しかし、村上家臣団は近世初頭に事実上解体してしまいました。そのため史料に乏しく家臣団研究は余り進んでこなかったようです。そんな中で、村上島氏は、根本史料『島家遺事』を残しています。これにもとづいて島氏を見ていくことにしましょう。テキストは  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年」です。
村上武吉

関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
村上氏の主家毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島1500石への大幅減となります。しかもこの内5百石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際にはかつての知行の1/20、千石以下に減らされてしまいます。村上氏の領地となった大島の和田村や伊保田村では、負担の大きさに耐えきれなくなった住民等が次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったと云います。経済的に立ち行かなくなった村上氏の親類被官等は、逃亡したり、他家へ仕官するなど殆ど離散してしまったようです。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。 
 村上武吉と子の景親まで大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で村上家からは家臣等に対して、次のような触書が出されています
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」
 
 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。
村上水軍の頭、武吉はどうして村上家のお墓が集まっている屋代に葬られなかったのだろう? | 周防大島での移住生活
周防大島の村上武吉の墓 

村上氏の老臣・島氏も選択が迫られることになります。
島家では一族談合の上で、若い三男助右衛門が村上家を継いで大島に残ることにします。そして、長男又兵衛(吉知)と二男善兵衛(吉氏)が大島を退去することになります。こうして二人は、主君村上武吉に暇乞いもせず、和佐から直接島を立ち去っています。このため父の越前守吉利は非常に立腹し、一生二人を義絶したと伝えられます。

村上水軍 今治水軍博物館2

島氏の全盛時代を創り出したのは越前守
吉利(23)です。
最初に吉利について振り返っておきます。吉利は村上中務少輔吉放(22)と来島氏の一族村上丹後守吉房女との間に生まれます。母方の祖父吉房の室は祖父吉久の妹ですから、父母は従兄弟同士になります。ここでは、島吉利が能島村上氏の一族であることを押さえておきます。はじめ吉利は河野氏の家臣であると同時に、村上武吉にも仕えています。海の上の主従関係は西欧の封建制に似ているようです。朱子学の説く「二君に仕えず」とは、ちがう道のようです。村上武吉に主君を一本化するにあたって、吉利は姓を村上から島に改めたと伝えられます。主君との混同を避けたのでしょう。

村上水軍 今治水軍博物館4

 以後、武吉の重臣として、主な戦いに従軍するようになります。
天文24年(1555年)の厳島の戦いでも軍功があったようです。永禄10年(1567年)には毛利・小早川氏の意を受けて、能島村上氏は阿波国の香西氏の拠点であった備前国・児島本太城を攻めます。この時に、吉利も敵将・香西又五郎を討つなどして、これを攻略し在番として詰めます。ところが翌年に、畿内の三好氏の後援を受けた讃岐・香西氏の軍が海を越えて反撃してくると苦境に立たされます。その打開策として、豊後国の大友氏家臣の田原親賢と懇意であった吉利が大友氏へ和睦仲介要請の使者として出向きます。そして、香西氏との和睦を成立させます。

村上水軍5

 阿波衆の攻撃を撃退した吉利に村上武吉や小早川隆景から感状を与えられています。(島文書五、八号)。そして、2年後の同十三年には、武吉から元太城付近に田一町五反分を支給され、本太城主に任命されます。しかしその後、能島村上氏は大友氏との関係を深め反毛利の姿勢を示すようになり、そのため毛利家臣・小早川隆景によって侵攻を受け本太城は落城します。

村上水軍 テリトリー図
村上武吉時代の瀬戸内海沿岸の情勢
 以上から、吉利が武吉の家老として毛利氏・小早川氏と書簡のやりとりするとともに、豊後大友氏との間も往来して外交活動を行っていたことがうかがえます。(島文書十九・二十号)。海の武士(海賊衆)の広域的な活動と、吉利の外交的な手腕がうかがえます。

大友氏への接近策の背景は?
 元亀・天正中頃になると、大友氏の宿老田原親賢の一字を得て名も一時賢久と変えています。また、天正年間初期には、大友義統に八朔の祝儀を贈っていて、この時期には武吉の意を受けて大伴氏への接近を図っていたようです。
 この時期は村上武吉が永禄十二年の大友内通事件を責められて、小早川隆景や来島通総から包囲攻撃を受けていた頃でした。能島の村上武吉は天正四年(1576)には毛利方に復帰しますが、依然として大友氏との関係を維持します。その仲介を担ったのが島氏です。例えば年未詳十一月、大友義鎮は島中務少輔(吉利)に宛てた書状からは、吉利が武吉の使者として豊後に赴き、長期間在国していたことが分かります。この他にも、また島吉利は大友家臣・田原親賢との間で多くの文書をやりとりを残しています。

村上水軍 島家の小海城
村上島氏の居城とされる大三島の小海城址

 海の武士(海賊大将)として生きていくという武吉の生き様は、海を自由に支配する「村上海洋帝国」の建設を目指したものだと私は考えています。その芸予諸島に進出する勢力を叩くために、自らをニュートラルな立場においておくことが外交戦略であったようです。そのためには、一人の主君に一生忠義を尽くすなどという朱子学的な関係は考えもしなかったでしょう。そのような武吉の立場を理解しながら、彼を使ったのが小早川隆景です。武吉は小早川にあるときには牙をむきながらも、隆景にうまく飼い慣らされていったのかもしれません。

村上水軍 水軍の舟
 小早川方に復帰した村上水軍は、天正四年(1576)の石山本願寺兵糧入れを命じられますが、これにも島吉利は従軍しています。さらには、朝鮮出兵には村上元吉に従って文禄の役に出陣しています。まさに武吉を支えた家老にふさわしい働きぶりです。その後は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)七月八日に森村で亡くなっています。法名天祐院順信尚賢居土(島系図)。
村上水軍島越前守(吉利)の顕彰碑
島吉利の顕彰碑 

島越前守吉利の顕彰碑は、周防大島の伊保田港を見下ろす小さな墓地にあります。
 墓地の中に土地の人々から「まるこの墓」と呼ばれる石碑が遠く伊予を望んで立っています。これが能島村上氏の重臣であった島越前守吉利の顕彰碑です。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱の前面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。残る三面には各面に8行ずつ島氏の由緒と越前守の事績とが466字で刻まれています。これは死後すぐに立てられたものではないようです。
 石碑は豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、幾人かの人々の協力を得て、文化十(1813)年に建立したものです。死後約2百年後のことです。
村上島氏系図1

系図を見ながら島越前守碑銘文の前文を見ておきましょう。
本文中の人名番号は、系図番号に符合します。
(正面) 越前守島君碑

左側
君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍
意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。

   (裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈
意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
  (右側)
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤

  意訳変換しておくと
(右側)
偉大である。況や殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために永胤が婦兄に諮り、誌家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。
内容は後で検討するとして、先にこの越前守吉利の顕彰碑建立の経緯を押さえておきます。

村上水軍 島家
吉利の顕彰碑が建つ周防大島の伊保田

 吉利が亡くなってから約2百年後の文化三年(1806)の春、豊後の島永胤は周防大島の島信弘を訪ねます。そして、越前守吉利が自分たちの共通の先祖であると名乗りをあげ、共に一族の事績を調べ、家譜を確認し、顕彰碑を建てることの同意をとりつけます。その後、豊後に帰国後に義兄脇儀一郎長之(蘭室)に銘文を依頼します。その案文は翌年2月には、永胤の手元に届けられたようです。そこで本文を、豊後杵築藩の三浦主齢黄鶴に依頼して書いてもらいます。正面の題字には大坂の儒者篠崎長兵衛応道の隷字を得ることができました。

村上水軍 早舟

 しかし、豊後と周防との連絡がなかなか進まずに二、三年が過ぎ去ります。永胤が芸讃への船旅のついでに、先の案文と清書助力金とを大島の信弘のもとに届けることができたのは、ようやく文化七年の夏になってのことでした。永胤は、石碑は永く後世に伝えるものなので、大坂でしっかりとした石材を選んで造ることを望みます。
 これに対して信弘は大島白ケ浜に石工いて、どんな細工もできる。また石材も望むものが当地で調達できるというので、全てを任せます。しかし、工事は大巾に遅れ、越前碑が建ったのは文化十(1813)年のことになりました。発起から完成まで7年近くの年月が経っていました。こうして伊予の芸予諸島に向かって建てられたのがこの顕彰碑になるようです。

村上水軍 軍旗

 同時に、豊後の島永胤は一族の家に残された文書を写し取り、文書を保管します。これが森家文書として伝わる島氏の史料になります。同時に、それらの史料にもとづいて「島家遺事」を著します。島永胤は顕彰碑を建てただけではなく、島一族の文書も収拾保管し、報告書も出したことになります。これは能島村上氏の家臣団の史料としては貴重な資料です。

  さきほどの碑文内容を「島家遺事」でフォローしながら見ていきます
島系図は島越前守吉利(23)を、清和源氏の村上義弘(17)の末裔と記します。義弘(17)についてはいろいろな所伝があるようでうが、詳しいことは分からない人物です。しかし、義弘が南北朝動乱期に南朝方にあり、建武期から正平年間にかけて活躍した瀬戸内の海賊大将の一人であったことは認められるようです。特に貞治四年(1365)から応安二年(1369)までの4年間のことについては、義弘の姉婿今岡陽向軒(四郎通任)の手記によってうかがうことができます。

村上水軍の武具

 義弘の死後、その名跡をめぐって今岡通任と村上師清が争います。天授三年(1377)因島の釣島・箱崎浦の戦いで、村上師清が通任を破り、村上水軍の後継者に成ったとします。島系図には、義弘(17)には信清(18)という男子が記されています。しかし、信清は幼かったため、義弘亡き後の混乱を収めることができず、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだと記します。島氏がのち「島」を名字としたのはこのためだともいわれます。師清は信清を猶子として、よく養育します。信清は長じて左近将監と称して河野氏に仕え、水軍の大将となったと云います。
その後、吉信―吉兼―吉久―吉放と続き、吉利に続きます。
信清については、「三島伝記」に名前が出てくる程度で疑問も多く、実在性も疑われると研究者は考えているようです。しかし、吉信については文明二年(1470)9月17日付、村上官熊(吉信)宛河野教通の知行宛行状(島文書一号)に名前が出てくるので、その実在を確かめることができます。
 系図には、信清には東豊後守吉勝という子があり、その子右近太夫吉重の女が吉利の室となったと云いますが、これは時代的にも疑問があると研究者は考えているようです。
 近世初頭成立の「能島家家頼分限帳」には、親類被官の筆頭に東右近助の名が見え、百石を得ています。また「村上天皇井能嶋根元家筋」には、東氏は能島村上氏の一族で、能島東の丸に住んだため東氏と名乗ったとあります。これはおそらく島氏の系譜に、能島村上氏の系譜を「混入」させたものと研究者は考えているようです。どちらにしても、村上家の系図は村上義弘に「接がれて」いるようです。このあたりの系譜は信じることが出来ません。

村上水軍 島越前守系図3

 吉利の4人の子ども達の行く末を見ていくことにします。
それはある意味、村上水軍解体後の大離散の行く末を追うことにつながります。まずは、周防大島の島氏から見ていきます。
先ほど見たように、周防大島の本家を継いだのは吉利の三男の吉方、通称・六三郎です。母は兄達と同じく村上東右近太夫吉重の娘です。のち周防島氏の家督を相続し、村上家から150石を支給され屋代村で老臣役を勤めます。そして、側室に村上氏の老臣大浜内記の女を迎え、嗣子吉賢が生まれます。しかし周防島氏の直系男子は、五代信利の代で絶え、その跡は三代信賢の孫、医師浅井養宅の子信方・正往が継ぎます。
 顕彰碑の周防大島での責任者である信弘は、正往の長男で、安永七年(1778)に、島家の家督を相続し、文化十年(1813)70歳で亡くなります。つまり越前碑の建設計画は、信弘最晩年の事業であったことになります。
村上水軍 今治水軍博物館

大島を出た吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟のその後を見てみましょう。 
二人は、一千石で肥後の加藤清正に招かれ九州肥後に向かった史料には記されています。その途中で同族の久留島康親(長親)が治める豊後玖珠に立ち寄ります。久留島康親(長親)は来島水軍の後裔で、秀吉時代に来島(今治市)に1万4千石の大名になっていましたが、関ヶ原の戦いで西軍に属して戦いますが、長親の妻の伯父にあたる福島正則の取りなしで家名存続の沙汰を得ます。そして、翌年に、豊後森に旧領と同じ石高で森藩を立藩した所でした。

森陣屋 - お城散歩
豊後森藩陣屋
 そこへやってきたのが島兄弟だったのです。康親は人材登用のために二人に玖珠に留まるよう説得します。結局、康親が吉知に俸禄五百石を提示し、兄弟は加藤家仕官を取りやめて久留島家に仕えることになったようです。史料では玖珠郡大浦・柚木・平立・羽田・野平などで180石を支給され、のちの加増を約束されたとします。しかし、加増は康親の死去で空手形となってしまいます。
村上水軍 来島城
来島(久留島)氏のかつての居城 来島城

 久留島家での吉知の事績はよく分かりません。
ただ元和年間の江戸城築城の際、奉行として江戸へ赴いていたことが文書から確認できます。天下普請へ奉行として派遣されているのですから、藩内ではやり手だったのでしょう。元和八年(1622)に隠居して、寛永五年(1628)に亡くなっています。弟善兵衛吉氏も150石を与えられ、別に一家を立てますが、男子に恵まれず、兄の子官兵衛吉智を養子として家を継がせています。
  吉知の子吉任は大坂の役では、豊臣方からの誘いを密かに受けますが断り、久留島家に留まります
当時久留島家では長親(康親)が没し、世嗣通春は8歳の幼年でした。吉任は大坂出陣を願いますが、許されずに通春の守を命じられます。通春は吉任を深く信頼するようになり、「汝を国老とし大禄を与えん」と戯れたと島家の文書には記されています。(島文書二十六号)。 豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、奉行として大坂に赴き働いています。寛永十四年、島原の乱が起きると、兵を率いて出陣し、同16年、家老に任ぜられ400石を支給されます。主君通春は幼年の時の吉任を覚えていたのかも知れません。
 しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」を命じられます。
『島家遺事』は臣下の論ずる所にあらずと、その理由については何も記していません。藩主通春が成長し、親政を始めると伊予以来の譜代の重臣である大林・浅川・二神氏なども次々と職を解かれ、暇をだされているので、その一環だったのかもしれません。
 彼らが再び玖珠に戻り、復権するのは次の通清の時代になってからです。吉任の子吉豊は父とは別途に新しく百石を賜っており、父失脚の歳にも連座せず在勤し、のちには50石の加増を受けています。
その子勝豊は寛文五年(1665)12歳で通清の近習を務め、父知行の内20石を与えられています。
天和二年(1682)久留島靭負(高久)御附となり、さらに靭負が佐伯毛利氏に養子に迎えられると、附侍として二神源人・檜垣文五郎とともに佐伯に赴きます。ところが三人は貞享元年(1684)、突然佐伯から立ち帰り、御暇を願い出ます。どうも靭負や佐伯家中衆との間に、問題を起こして止むなく帰国したようです。三人は直接藩主への弁明を願いますが、藩主の怒りを受けて、召し放ちとなります。

村上水軍 豊後久留島藩 森藩

 勝豊は諸所を流浪の後に、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住みます。
そこで元禄四年(1691)から3年間、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め、それが認められ杵築松平氏から召し出され、速見郡八坂手永の大庄屋役を仰せつかります。こうして藩侯への御目見もすみ、八坂本庄村に居宅を構えます。この措置には、舅片山氏の奔走があったようです。
  八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯でもありました。
勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。
 勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
少年の頃の勝任は、逸遊を好み三味線を弾く遊び人的な所もあったようですが、 その是非を悟って三味線を火中に投じ、その後は日夜学業に励んだとされます。書に長じ、槍を使い、詩文を好む文化人としての面も持っていました。そのため藩侯松平重休も領内巡察の折には、しばしば勝任を招いて、詩文を交わしたと伝えられます。
 享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。
その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖吉利顕彰のために建碑を思い立ったと研究者は考えているようです。その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、建碑に備えたのでしょう。そして、文化三年、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたという物語が描けそうです。
八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっています。
村上水軍 島家菩提寺千光寺
大分県の八坂千光寺 島家の菩提寺
村上武吉の家老的な存在であった島氏の動きを追ってみました。
名家だけに、その知名度を活かして大名の家臣に再就職することができたようですが、武士として生き抜くことはできず、帰農し大庄屋として生きる道を辿っている点には、豊後も周防の島氏も共通点がありました。以前にお話ししました多度津にやって来て、葛原村を開いた木谷家のことを思い出したりもしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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大仏鋳造工程 - 写真共有サイト「フォト蔵」

 東大寺の造営は、聖武天皇が国家プロジェクトとして打ち上げたものですが、それがなかなかプラン通りには進まなかったようです。豪族たちの中には「お手並み拝見」と傍観者的対応をとる人たちも多かったようです。そのような中で秦氏が果たした役割は大きかったようです。今回は大仏造営の銅を秦氏がどのように集めたのかを見てみようと思います。
大仏造営 資材一覧

最初に、大仏造営前後の銅生産がどのように行われていたのかを押さえておきます。
山尾幸久は「古代豪族秦氏の足跡」で、次のように述べています。

「『延喜式』主計式には、国家の銭貨鋳造機関に納付する原料銅は、「備中・長門・豊前』三国の負担と定められている。几慶二(878)年には『豊前日規矩郡の鋼を採る』ことについての指示が出されていて、仁和几(885)年には「豊前国の採銅使」のもとに長門から技術指導者が派遣されている。(『一代実録』)

ここには9世紀の段階では、国家管理下の原料銅は「備中・長門・豊前』の三国の負担で、一括管理されていたことを指摘します。そして、ヤマト政権による銅管理は、和銅三(701)年1月、『太宰府、鋼銭を献る』頃に始まったとします。つまり、銅の「国家的採銅」は「六世紀末より古い」と山尾氏は考えているようです。

加藤謙吉は『秦氏とその民』で、次のように述べています。
  「六・七世紀の時点では自然銅採取にかかわる竪穴掘法や、それにともなう本格的な製錬工程も開発されていたと考えてよい。このようなすすんだ生産形態は、渡来系技術の導入によって初めて実現し得るものであるが、香春岳の採鋼に渡来人の専業者集団の存在が想定できる以上、既にそうした段階に達していたと理解するのが適当とみられる。しかも豊前国においてかかる生産形態に質的・量的に対応できる渡来系集団は秦系をおいて他にない。勝姓者の管轄のもと、六~七世紀に、秦人を中心とする秦系集団が豊前の銅生産に従事したと想定して、まず間違いないと思われる」
  
 長門で採掘された銅が大仏造営に大きな役割を果たしたことは考古学的にも裏付けられます。

大仏造営長登銅山跡

1972年9月美東町の山中にある銅鉱山から数片の古代の須恵器が採集されました。これによって長登銅山跡は、日本最古の銅山であることが明らかになりました。また、1988年には、奈良東大寺大仏殿西隣の発掘調査が実施され、この時出土した青銅塊の化学分析の結果、奈良の大仏創建時の銅は長登銅山産であったことが実証されました。
大仏造営 資材一覧2

 東大寺正倉院に残る古文書には、長門国司から26474斤もの大量の銅が東大寺に送られた記録があります。これが大仏鋳造用で長登銅山産出のものと考えられています。26474斤は今の約18tに相当します。これは1回分の船積みの量であり、長登からは数回送付されたと推察できます。

大仏造営 木簡 長登銅山跡
長登銅山跡出土した木簡
 出土した木簡や墨書土器から、長登銅山跡が国直轄の採鉱・製錬官衙であったことが明らかとなりました。
その木簡のうち船舶の通行証をチェックする豊前門司関(海関)に宛てた銅付礼には、次のように記されています。
宇佐恵勝里万呂 九月功
上束
秦部酒手 三月功
上束
これを研究者は次のように解読します
①木簡の書かれた年代は710年代前半から730年代前半まで
②宇佐恵勝里万呂は『宇佐恵』がウジ、『勝』がカバネ、『里万呂』が名
 長門の長登銅山には、大仏造営という国家的プロジェクトのために、官人を初め多数の雑工・役夫が各地から移住してきたと推定できます。それ以前に豊前と長門の鉱山では技術者交流が行われていたようです。ここに名前が出てくる宇佐恵勝里万呂や秦部酒手もそのような鋳工の一人のようです。『宇佐恵』の氏名は豊前国宇佐郡の郡名と関連する氏名かもしれません。

門司関に宛てた船舶の通行証としての木簡ですから、宇佐恵勝も秦部も九州からやってきた人物なのでしょう。「宇佐」「秦」の氏名は、豊前の「秦王国」の人々で、八幡信仰圏の銅採掘・加工の技術者であったかもしれません。豊前の香春神社の香春山の三の岳の元八幡宮の地は、「製鋼所」という。このような事実や、前述した加藤謙吉の見解からみても、  大仏鋳造に用いた「熟銅 七十三萬九千五百六十斤」の供給には、秦氏・秦の民が関与していたことがうかがえます。
 

 聖武天皇は秦氏の官人を長門守に任命派遣しています。    
それが「大秦公」の姓を授けた嶋麻呂です。嶋麻昌については、天平十七年(745)五月三日条に、次のように記されています。
地震ふる。造官輔従四位下秦公嶋麻呂を遣して恭仁宮を掃除めしむ。

「秦公」は「大秦公」の略ですが、嶋麻呂は造宮録から造宮輔に昇進し、地震後の復旧業務にあたらせています。恭仁官の管理をまかされているので、天皇の信頼が厚かったことがうかがえます。その2年後の天平十九年二月に、彼は長門守に任命されます。この年の九月から大仏の鋳造が初まっています。鋳造には銅が必要なことは、前回お話ししたとおりです。
 長門国美祢郡の長登銅山(山口県美祢市美東町長登)は文武二年(698)から和銅四年(711)に開山されています。この銅山の周辺の秋吉台一帯は、7世紀代の住居跡から銅鉱石・からみ(銅滓)などが検出されています。他にも長門国には銅山がありました。最大の銅産出国である長門に嶋麻呂が長門守として任命されます。長門国や中国の銅山は、秦氏・宇佐八幡宮とかかわりがあります。それを知った上での秦氏の嶋麻呂の長門守任命と研究者は考えているようです。
 このように大仏造立において、泰氏集団(泰の民)の技術力・生産力・財力・団結力は充分に発揮されたようです。

以上から次のようなことが推測できます
①豊前の「秦王国」の秦氏集団が、朝鮮伽耶で行っていた採鉄・採銅の新技術を用いて香春岳などでの鋼・金の採掘・鋳造を盛んに行っていたこと
②そのバックに、中央政権の意向があったこと
③その意向は長門だけでなく備中の採銅にも秦氏を関与させていたこと
④大仏造営のために銅生産の増産が求められると、先端技術を持った秦氏・秦の民が技術者・管理者として送り込まれたこと
  大仏造営のための銅の確保は、豊前で実績を積んでいた秦氏が担当したと研究者は考えているようです。
それを裏付けるように、東大寺の大仏開眼の日の詔には、宇佐八幡神が「銅の湯を水となし」と提供したとあります。宇佐八幡神が水のように銅を供給したというのです。これは宇佐八幡信仰圏の銅を貢納したのでしょう。「東大寺要録」に載る銅銘文にも、「西海の銅」を用いて大仏を鋳造し完成したとあります。この「西海の銅」は、豊前や長門など秦人・秦の民が関与した銅と研究者は考えているようです。

大仏造営年表

  大仏造営を支援した秦氏と宇佐八幡は、聖武天皇の信頼を受けるようになります。
大仏造営に宇佐八幡官が直接関係するのは大平十六年(744)九月十六日に、東大寺建立のために字佐八幡宮が建立費を送ったことから始まるようです。そして、東大寺造営を通じて、朝廷より位階や給田・封戸を何度にも分けて贈与され、伊勢神宮をしのぐまでになります。
上田正昭氏は『大仏開眼』で、次のように述べています。

  「伊勢神宮をしのぐものだった。こうして八幡神は中央第一位の神とあがめるれるにいたった。僧の悔過をうけ、大仏に奉仕するたてまえをとって中央神化した八幡神の上昇は、仏法のための神というコースを端的にたどったものである」

「神仏習合」「仏法のための神」は、仏教が一番早く入った豊前「秦王国」で生まれた新羅系仏教と八幡信仰の習合で、秦王国の信仰でした。それが神仏混淆という形で全国化する先触れでもありました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献