瀬戸の島から

カテゴリ:瀬戸の島と船 > 備讃瀬戸航路の船たち

 前回は延岡藩の大名夫人である充真院の金毘羅参拝を見ました。その中で、多度津港に入港後にどうして港の宿に入らないのか、また、どうして日帰りで金比羅詣でを行うのか、金毘羅門前町の宿を利用しないのかなどの疑問が湧いてきました。そこで、90年ほど前の熊本藩の家老級の人物の金比羅詣でと比較して、見ておこうと思います。
テキストは「柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』です。
 肥後藩中老職の米田松洞が安永元(1772)年に、36日間かけての江戸へ出向いた旅日記を残しています。
この旅行の目的は、松洞が江戸詰(家老代)に任命されての上京でした。まず米田松洞について、事前学習しておきます。

□肥後物語 - 津々堂のたわごと日録
肥後物語

米田松洞は、享保五年(1720)11月12日生で、「肥後物語」には次のように記します。
「少きより学問して、服部南郭を師とし、詩を学べり、器量も勝れたる人(中略)当時は参政として堀平太の政事の相談の相手なり」

また『銀台遺事』には
「芸能多識の物也、弓馬軍術皆奥儀を極、殊に幼より学問を好て、詩の道をも南郭に学び得て、其名高し」

彼は家老脇勤方見習・家老脇など諸役を歴任し、寛政9年(1797)4月14日78歳で死去しています。金比羅詣では52歳のことのようです。
それでは『松洞様御道中記』を見ていくことにします。   
晴天2月25日 朝五時分熊本発行新堀発
晴天  26日 五半比 大津発行 所々桃花咲出桜ハ半開 葛折谷辺春色浅し 
晴天  27日 朝六時分 内牧発行 春寒甚し霜如雪上木戸ヲ出し 九重山雪見ル多春山ヲ詠メ霊法院嘉納文次兄弟事ヲ度々噂ス野花咲乱レ見事也
晴天  28日 朝五時分 久住発行 途中処々花盛春色面白し 

旧暦2月末ですから現在の3月末あたりで、桜が五分咲き熊本を出立します。
肥後・豊後街道
熊本から大分鶴崎までの肥後街道
そして、阿蘇から九重を突き抜け、豊後野津原今市を経て、大分の鶴崎町に至っています。この間が4日間です。

今市石畳
野津原今市

熊本藩は「海の参勤交代」を、行っていた藩の一つです。
『熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図』には、江戸から帰国した熊本藩主の船が豊後国鶴崎(大分市)の港に入港する様子が描かれています。
熊本藩の海の参勤交替
熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図
 ひときわ絢爛豪華な船が、藩主が乗った波奈之丸(なみなしまる)で、細川氏の家紋「細川九曜」が見えます。こうした大型の船は、船体に屋形を乗せたことから御座船(ござぶね )と呼ばれていました。熊本藩の船団は最大で67艘、水夫だけで千人にのぼったとい説もあります。いざという時には、瀬戸内海の大きな水軍力として機能する対応がとられていたようです。出港・入港の時は鉦(かね)や太鼓に合せて舟歌を歌ったと云いますから賑やかだったことでしょう。
 一説によると、加藤清正は、熊本に来る前からどこを領地にもらおうか、目安をつけていたと云います。「秀吉さまの大阪城へ出向くときに、便利なように」という理由で、天草とひきかえに、久住・野津原・鶴崎を手に入れたと云います。その後一国一城令で鶴崎城は廃城とされて、跡には熊本藩の鶴崎御茶屋が置かれ、豊後国内の熊本藩所領の統治にあたります。宝永年間(1704〜)には細川氏の藩船が置かれ、京都や大阪との交易地としても繁栄するようになります。

大分市東鶴崎の劔八幡宮(おおいた百景)
鶴崎の剣神社

 鶴崎には、細川氏建立の剣神社があり、先ほど見た「細川船団」の絵馬「波奈之丸入港図」や絵巻物がまつられています。"波奈之丸"とはいかなる大波にもびくともしない、という意味で航海の無事を祈願してつけられたようです。 ここでは、熊本藩が大分鶴崎に、瀬戸内海への拠点港を持っていたことを押さえておきます。ここをめざして、米田松洞は阿蘇を超えてきたのです。

晴天  29日 朝六時分 野津原発行 今日益暖気 鶴崎町 今度乗船二乗組之御船頭等出迎。直二寛兵衛宅へ休夕飯等馳走 寛兵衛父子も久々二て対面 旧来之事共暫ク咄スル

 鶴崎に着いた日は晴天で、温かい日だったようです。野津原から到着した一行を、船頭などの船のスタッフが迎えます。その後、馴染みの家で夕食を世話になっていると、江戸参府を聞きつけた知人たちが「差し入れ」をもって挨拶にやってきます。それを一人ひとり書き留めています。宿泊は船だったようです。

夕飯 右少雨六ツ比二乗船 御船千秋丸十三反帆五十丁立
右御船ハ元来丸亀二て京極様御船ナリ 故アリテ昔年肥後へ被進候 金具二者今以京極様御紋四目結アリ 甚念入タル仕立 之御船也 暫クして鏡寛治被参候 重田治兵衛も被参候 緩物語二て候熊本へも書状仕出ズ今夜ハ是二旅泊

意訳変換しておくと
今回乗船するのは千秋丸で十三反帆五十丁の規模の船である。この船は、もともとは丸亀の京極様の船である。故あって、肥後が貰い受けたものなので、金具には今も京極様の御紋四目結が残っている。念入に仕立てられた船である。しばらくして鏡寛治と重田治兵衛がやってきて歓談する。その後、熊本へも鶴崎到着等の書状を書いた。今夜は、この船に旅泊する。

千秋丸は、以前には丸亀京極藩で使われていた船のようです。
 それがどんな経緯かは分かりません肥後藩の船団に加えられていたようです。十三反帆とあるので、関船規模の船だったのでしょう。
薩摩島津家の御召小早 出水丸
薩摩島津家の御召小早 出水丸(八反帆)

上図の島津家の小早船)は、帆に8筋の布が見えるので、8反帆ということになります。千秋丸は十三反帆ですので、これより一回大きい関船規模になるようです。

十二反帆の関船
12反帆規模の関銭

 鶴崎に到着したときに出迎えた千代丸の船頭以下の乗船スタッフは次の通りです。
  御船頭   小笹惣右工門       
  御梶取   忠右工門
  御梶替   尉右工門
  御横目   十次郎
  小早御船頭 恩田恕平
  同御船附  茂太夫
  彼らは船の運航スタッフで、この下に水夫達がいたことになります。また、この時には、関船と小早の2隻編成だったようです。
ところが出港準備は整いましたが、風波が強く船が出せない日が続きます。
一度吹き始めた春の嵐は、止む気配がありません。それではと小早舟を出して、満開の桜見物に出かけ、水夫とともに海鼠をとって持ち帰り、船で料理して、酒の肴にして楽しんでいます。その間も、船で寝起きしています。これは、航海中も同じで、この船旅に関しては上陸して宿に泊まると云うことはなかったようです。
 六日目にようやく「風起ル御船頭喜ブ此跡順風卜見へ候」とあり、出港のめどがたちます。このように海路を使用した場合は、天候の影響を受けやかったようです。そのため所用日数が定まらず、予定が立ちません。これでは江戸への遅参も招きかねません。そのため江戸後期になると海の参勤交代は次第に姿を消していくようです。

ようやく晴天になって出港したのは3月8日(新暦4月初旬)のことでした。
晴天 八日
暁前出帆 和風温濤也 朝ニナリ見候ヘハ海面池水ノ如シ 終日帆棚二登り延眺ス。御加子供卜咄ス種 海上之事共聞候 夕方上ノ関二着 船此間奇石怪松甚見事也 已今殊ノ外喜二て候花も種々咲交り面白し 
意訳変換しておくと
晴天八日
夜明け前に出帆 和風温濤で朝に見た海面は、おだやかで湖面のようであった。終日、船の帆棚に登って海を眺望する。水夫達といろいろと話をして、海の上での事などを聞く。夕方に周防上関に着く。その間に見えた奇石や怪松は見事であった。また、桜以外にも、種々の花が咲いていて目を楽しませてくれた。
旧暦3月8日に大分を出港して、そのまま北上して周防の上関を目指しています。ここからは18世紀後半には、上関に寄港する「地乗り」コースですが、19世紀になると一気に御手洗を目指す「沖乗り」コースが利用されるようになるようです。

5
江戸時代の瀬戸内海航路
晴天九日暁 
前出帆和風静濤松平大膳大夫様(毛利氏)御領大津浦二着船暫ク掛ル 則浦へ上り遊覧ス。無程出帆加室ノ湊二着船潮合阿しく相成候よし二て暫ク滞船 此地も花盛面白し 夜二入亦出帆 暁頃ぬわへ着船
意訳変換しておくと
晴天九日暁 
出帆すると和風静濤の中を松平大膳大夫様(毛利家)の御領大津浦に着船して、しばらく停泊する。そこで浦へ上って辺りを遊覧した。しばらくして、出帆し潮待ちのために加室の湊に入る。潮が適うまで滞船したが、この地も花盛で美しい。夜になって出帆し、夜明けに頃にぬわ(怒和島)へ着船
瀬戸内海航路 伊予沖

上関を出航後、周防大島の南側コースをたどって、潮待ちのための寄港を繰り返しながら、伊予の忽那諸島の怒和島を経て御手洗に着きます。寄港地をたどると次のような航路になります。
上関 → 大津浦 → 加室 → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗

瀬戸内海航路と伊予の島々

この間、潮待ちのために港へと、出入りを繰り返しますが旅籠に泊まることはなく、潮の流れがよくなると夜中でも出港しています。
万葉集の額田王の歌を思い出します。
「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
現代語訳(口語訳)
熟田津で船に乗ろうと月が出るのを待っていると、潮の流れも(船出の条件と)合致した。さぁ、今こそ漕ぎ出そう。

 潮が適えば、素早く漕ぎ出しています。以前にお話したように、江戸時代の瀬戸内海の寄港地は、すぐに潮の流れに乗れる所に開けている。室津や鞆を見ても分かるように、広い湾は必要なかったのです。それよりも潮流に近い湊の方が利用価値が高く、船頭たちからも好ま
れたようです。

御手洗3
御手洗
そして、芸予諸島では地乗りの拠点港である三の瀬(下蒲刈島)ではなく、18世紀になって新たに拓かれた沖乗り航路の拠点である御手洗(大崎下島)に寄港しています。
晴天十日
今朝 出帆微風ナリ 山々節奏盛ナリ甚見事 夜五ッ比御手洗へ着船 十日温風微瀾暁前出帆 朝飯後華子瀬戸二至ル 奇石怪松甚面白シ 此瀬戸ヲ俗二はなぐり卜云実ハ華子卜云 此地海上之様二無之沼水の趣ナリ 殊二面白シ処 桜花杜鵠花筒躊花其外種々の花咲乱レ見事成事共也 潮合呼しくなり候間暫ク掛ル 其内二洲二阿がり花前二て已 今理兵衛御船頭安平恕平十次郎同伴二て酒ヲ勤メ候 嘉平次も参候そんし懸なき処二て花見ヲ致候 已号殊之外面白がり二て候 上二八幡社アリ是二参詣ス宜キ 宮造ナリ湊も賑ハし昼過比潮宜ク候 由申候二付早速本船へ移り 其まま出帆 暮頃湊二着船
意訳変換しておくと
晴天十日
ぬわ(怒和)を早朝に出帆。山々が新緑で盛り上がるように見える中を船は微風を受けて、ゆっくりと進む。夜五ッ(午後8時)頃に御手洗(呉市大崎下島)へ着船
十一日、温風微瀾の中、夜明け前に出帆し、朝飯後に華子瀬戸を通過。この周辺には奇石や姿のおもしろい松が多く見られて楽ませてくれた。 華子瀬戸は俗には、はなぐり(鼻栗)瀬戸とも呼ばれるが正式には、華子であるという。この辺りは波静かで海の上とは思えず、まるで湖水を行くが如しで、特に印象に残った所である。桜花杜鵠花筒躊花など、さまざまな花咲乱れて見事と云うしかない。潮待ちのためにしばらく停船するという。船頭の安平恕平十次郎が酒を勧め、船上からの花見を楽しんだ。この上に八幡社があるというので参詣したが、宮造りや湊も賑わっていた。昼過頃には潮もよくなってきたので、早速に本船へもどり、そのまま出帆し暮れ頃、に着船。
はなぐり瀬戸

来島海峡は、当時の船は魔の海域として避けていたようです。そのため現在では大三島と伯方島を結ぶ大三島大橋が架かるはなぐり(鼻栗)瀬戸を、潮待ちして通過していたようです。この瀬戸の南側にあるのが能島村上水軍の拠点である能島になります。

風景 - 今治市、鼻栗瀬戸展望台の写真 - トリップアドバイザー


 難所のはなぐり瀬戸で潮待ちして、それを抜けると一気に鞆まで進んで夕方には着いています。鞆は、朝鮮通信使の立ち寄る港としても名高い所で、文人たちの憧れでもあったようですが、何も触れることはありません。
江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と

 さて、前回に幕末に延岡藩の大名夫人が藩の御用船(関舟)で、大坂から日向に帰国する際に金毘羅詣でをしていることを見ました。
そこで疑問に思ったことは、次のような点でした。
①御用船の運行スタッフやスタイルは、どうなっているのか。
②どうして入港しても港の宿舎を利用しないのか? 
③金比羅詣でに出かける場合も、金毘羅の本陣をどうして利用しないのか?
以上について、この旅行記を読むとある程度は解けてきます。
まず①については、熊本藩には参勤交替用の「肥後船団」が何十隻もあり、それぞれに運行スタッフや水夫が配置されていたこと。それが家老や家中などが上方や江戸に行く時には運行されたこと。つまりは、江戸出張の際には、民間客船の借り上げではなく藩の専用船が運航したこと。
②については、潮流や風任せの運行であったために、潮待ち・風待ちのために頻繁に近くの港に入ったこと。そして、「船乗りせむと・・・ 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」で、潮流が利用できる時間がくれば、即座に出港すことが求められたこと。時には、「夜間航海」もすることがあったために、宿舎を利用すると云うことは、機動性の面からも排除されたのかもしれません。
 また、室津などには本陣もありましたが、御手洗や上関などその他の港には東海道の主要街道のような本陣はなかったようです。そのために、港では御座船で宿泊するというのが一般的だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

引田 新見1
 新見の荘から倉敷→塩飽→引田→兵庫→淀を経ての帰路

以前に永禄九(1566)年に「備中国新見庄使入足日記」を紹介しました。そこには、新見にあった京都・東寺の荘園の役人が、都へ帰って行くときの旅費計算記録が載せられていました。彼らは新見から高梁川を荘園専用の川船で、河口の玉島湾まで下っていました。
 今回はそれ以後の高梁川の高瀬舟の活動を見ていきたいと思います
高梁川3

高瀬舟といえば、川舟の一種で森鴎外の小説「高瀬舟」に登場してきます。「高瀬」は辞書では、「川の瀬の浅いところ、浅瀬」とあります。高瀬舟の名前の由来も川の浅瀬に対応できるように、舟底が浅く平らであり、いわば浅瀬舟のイメージで「高瀬舟」と呼ばれるようになったという説が一般的です。
 一方、平安時代の百科辞書「和名類聚抄」では、高瀬舟の特徴は「高背たかせ(底が深い)」とあり、川漁などする当時の小舟と比べて、やや大きくて底の深い舟であったとする説もあります。
高瀬舟模型 勝山歴史博物館

 慶長12年(1607)角倉以子(すみのくらりょうい)が、高瀬川・大堰川に、川舟を浮かべたことから、高瀬舟と呼ばれるようになったと云われます。しかし、備中の高梁川や吉井川には、それ以前から川舟が数多く往き来していたことは史料から分かります。
角倉了以は、慶長九年(1604)安南(ベトナム)航海を終えて帰国した際に、高梁川に浮かんでいる川舟を見て、このような形の舟であれば、どんな急流でも就航が可能であることに気付き、備中から舟大工や船頭をつれて京都に帰り、高瀬舟を作り、大堰川を開いて、丹波国から洛西の嵯峨へ物資を運ぶ舟を通わせたとされます。高梁川の川船が高瀬舟のモデルになったようです。
高瀬舟(京都) 船曳
京都の高瀬舟 曳舟
  
 私も何回かカヌーでこの川を下りました。今はダムが上流にあるため水量が少なくなり井倉洞あたりでは水深も浅く、場所によってはカヌーの底をこするような所もありますが、流れはゆるやかで初心者にやさしい川下りゲレンデを提供してくれます。
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高梁川

 高梁市の市街地をゆったりと流れていると、かつての川船の船頭になった気分で鼻歌まで出てきそうな気がします。成羽川と合流すると水量も一気に増えて、大河の片鱗が見えてきます。今でも川船が舫われ、川漁が行われていることがうかがえます。
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川岸に舫われた高梁川の川船

かつての川湊らしき所が見えてきます。この川は室町時代以前からも、新見の荘園の物資や鉄などを積んだ川舟が往き交い、幕末のころには、その数130隻にも及んだといいます。
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  グーグルで見ると、備中を北から南に流れる高梁川は、奥深い中国山地にその源を発し、瀬戸内海の水島湾に注いでいます。逆に見ると、高梁川の河口、倉敷市の水島港から川を登ると総社市、高梁市、新見市とへ中国山地の源流地帯へと続きます。この川筋を辿って新見までやってくれば、山陰地方の人たちも、高梁川を上下する高瀬舟で、倉敷へ舟で下って行くことができたことになります。高梁川は、川筋の平野を潤すとともに、人やモノの移動の動脈だったことが分かります

 「幹流高梁川船路見取図 大正六年八月調査」井上家文書 
 新見市には、高梁川沿いに、かつての船着場が保存されています。
高梁川高瀬舟船着場
新見市の船着場跡

船着場には寺院が有り、川船の管理センターの役割を果たし、荘園管理も行っていたのでしょう。新見荘には、鎌倉時代の文永八年の「検注目録」に、船人等給が出てきます。ここからは新見の荘には、何人かの河川交通の専門家、船人がいたことが分かります。また、新見の「市」のたったところは、中洲という地名です。これは、新見の町が川の中洲にできた町が起源だったことを示していると研究者は指摘します。
高梁川1
高梁の川湊と高梁川
私は新見が川船のゴールだと思っていましたが、さらに奥まで行っていたようです。津山や勝山や広島県の三次からもカヌーで下ったことがありますが、吉井川や高梁川、旭川、江ノ川のように、河口の拠点湊から奥地の内陸部の川湊まで、大小の川を体内の血管のように川が交通路として機能していたことが分かります。
DSC08347
現在の高梁市と高瀬川


高梁川の支流の成羽川の難所を開墾して河川を開いた、律宗の僧侶で実専という人がいます。
彼の記念碑が「笠神文字石」という自然石の石碑として高梁市備中町にはありました。徳治二年(1307)に、成羽善養寺の僧尊海と、西大寺の奉行代実専が中心になって、成羽川の10ヵ所の瀬を笠神船路のため開削したと刻まれています。ここに石切大工として名前が刻まれている伊行経は、鎌倉時代初期に東大寺の再建のため招かれた南宋の石工、伊行末の一族とされます。現在は新成羽川ダムのため水没してしまいました。河川交通整備のための努力が中世から続けられてきたことが分かります。
高梁川高瀬舟 井倉洞
高梁川の井倉洞付近をいく高瀬舟

山本剛氏「高瀬舟と船頭並びに筏渡船」には、高梁川の川船のことが記されています。
その中に川船で瀬戸内海を渡り、金毘羅詣りをした話が載せられています。
高瀬舟といえば底の浅い川舟です。川船で海を越えるというのが驚きです。その話を見ていくことにします。守田寿三郎翁は、次のように語っています。
「明治30年頃、村長であった父瞭平が、川口石蔵さんの新造船で金昆羅詣りに招待された。帰りには、玉島から強い南風を帆いっぱいに受けたので、玉島を朝出て昼頃には水内に着いた」

高瀬舟の進水祝いに金毘羅詣でに出掛けたようです。高梁川の河口から出港し、海を越えているようですがどこの湊に入ったかは分かりません。帰りは玉島港からは、折りから吹き始めた南風を受けて川を上ったことが分かります。

高梁川高瀬舟 金毘羅詣で

 別の船頭は、次のように語っています。
「高瀬舟で四国へ渡るには、潮が引き始めると、潮に乗って玉島を出港した。追手風が吹くときに帆を揚げて、本舵操縦して渡った。途中、本島へ着くと潮待して、潮が満ち始めると、潮に乗せて舟を出し、追手風が調子よく吹くときには潮待しなくても渡れるときもあった。風が調子よく吹いてくれると玉島から坂出まで二時間半くらいで渡ることができた。潮待ちして海を渡るときは、丸亀まで六時間、多度津へは七時間くらいかかった。
 昼間、海を渡っていて、突風にさらされ、もうこれまでと絶望したことが幾度かあった。その時は、 一番近い島影に退避して、風の治まるのを待った。昼間は突風が起きる危険があるので、穏やかな風の吹く夜を選んで渡ることが多かった。風の強く吹く時には「風待ち」といって、港や島影で、二日でも三日でも風の静まるのを待った」

ここからは次のようなことが分かります。
①引潮にのって玉島を出て本島で潮待ちして、満ち潮になると丸亀をめざした
②追風だと潮待ちなしで坂出まで2時間半
③潮待ちして本島経由だと丸亀へ6時間、多度津へ7時間
④昼間の突風を避けるために、穏やかな風の吹く夜が選ばれた。
⑤強風の時には「風待ち」のために、何日でも待った

潮待ちに本島(塩飽)に立ち寄っています。
そういえば「備中国新見庄使入足日記」の東寺の僧たちも、本島で長逗留していたことを次のように記していました。
廿八日 百五十文 倉敷より塩鮑(塩飽)迄
九月晦日より十月十一日迄、旅篭銭 四百八十文 十文つゝの二人分
十二日 十二文 米一升、舟上にて
  高山を朝に出て高梁川を下り、その日のうちに倉敷から塩飽へ出港しています。倉敷より塩鮑(塩飽)迄の百五十文と初めて船賃が記されます。そして、塩飽(本島)の湊で10月11日まで長逗留しています。これは、上方への便船を待っていたようです。本島が潮待ちの湊として機能していたことがうかがえます。
ここで疑問なのは、「風が調子よく吹いてくれると玉島から坂出まで二時間半」とあり、坂出も寄港対象となっている点です。多度津・坂出は金毘羅船の帰港地として栄えていましたが、坂出がでてくるのがどうしてなのか私には分かりません。
備中松山城 城と町家と武家屋敷
高梁川の高瀬舟(高梁市)
高梁川で使っていた舟の大きさは、全長五十尺(約15m)、幅七尺(約2m)で舟底は浅いものでした。
いくら穏やかな瀬戸内海とは云え、風が吹けば波が立ちます。特に突風に会うと転覆する危険がありました。平底の川舟で波や風のある海を渡るのは、細心の注意が必要だったようです。高瀬舟の船頭たちは、遥か海上から金毘羅さんに向かって手を合わせ、航行中の安全を祈願してから船を出したと云います。そこまでして自分の船で、海を渡り金毘羅さんへの参拝することを願っていたのでしょう。金毘羅信仰の強さを感じます。
まにわブックス
旭川の高瀬舟
 高梁川は備中松山城の城下町である高梁から上流は川幅も狭くなり、落ち込みの急流もあって、危険箇所がいくつもあったようです。それが慶安三年(1650)藩主水谷勝隆が新見まで舟路を整備し安全性が増します。そのため輸送量が増えるとともに、山陰地方の人々が、新見まで出てきて、高瀬舟で瀬戸内海に出るというコースも取られるようになります。金昆羅詣りに使われた記録も残っています。
高梁川 -- 高瀬舟

 上流には難所と云われる船頭泣かせの急流もありました。そのため舟の安全航行を願って、金毘羅信仰を持つ船頭が多く、お詣りも欠かさなかったようです。彼等の間では、高梁川の支流・成羽川の流れに、薪を削って「金毘羅大権現」と墨書して投げ入れ、これを拾った者が、金毘羅さんに奉納するという風習があったようです。それでも、長い歴史の内には、高瀬舟の転覆事故が発生しています。
高梁川の上流に一基の慰霊碑が残っています。
寛政七年(1795)6月8日、新見から高梁川を下った舟が、阿哲峡の広石で転覆し、金毘羅詣りの乗客15人が溺死しています。碑には、遭難した人の出身地と名が刻まれているが、その中には、地元の人以外に、雲州(島根県)の人が6人含まれています。これらの人々は山道を歩いて、新見にやってきて、ここの舟宿の高瀬舟に乗り込んだのでしょう。定員30名の客船だったようですが、阿哲峡の難所を乗り切れなかったようです。
 高梁川の中流、総社市原には、昭和20年ごろまで、高瀬舟の造船所が残っていたようです。市原には、船大工、船元、船頭、船子たちが集落をなして住居していて、殆んどの者が室町時代からの世襲であったといいます。毎日、30隻近くの高瀬舟が荷物や船客を乗せて上り下りしていました。昭和3年10月25日に国鉄伯備線が全面開通します。高梁川沿いを走る伯備線の登場は、それまでの運輸体系を一変させます。昭和15年には高瀬舟は、その姿を消してしまいます。
高梁川高瀬舟と伯備線
伯備線の開通と高瀬舟
   
高梁川を行き交う川船の船頭達の間には、いつしか金毘羅信仰がひろがりました。そして、金毘羅参りに自分の川船を操って海を渡っていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 妹尾勝美 高瀬舟で金毘羅参り ことひら52 H9年
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明石海峡冬景色 フェリー甲板より
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近畿に雪が積もった9日(土)フェリーから見上げる明石大橋。

橋脚の上部が雪雲で隠れています。

海峡にも牡丹雪が降っていました。

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その二日後は快晴。

神戸発高松行きのフェリーは明石海峡にさしかかります。

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真っ青な冬の空をバックに橋が輝いて見えました

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橋の下をゆっくりと通過。

思わず口ずさんでいたのはS&Gの「明日に架ける橋」。

ちなみに2日前の雪空の時は「津軽海峡冬景色」(^_^;)

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橋を越えると面舵、明石の街が遠ざかっていきます。(^_^)/~

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立春を過ぎた太陽が西の海に傾きます。

あの方向が私の住む島・小豆島です。(^_^)v

こちらはおまけの動画です。
http://videocast.yahoo.co.jp/player/blog.swf?vid=288230376152031503
神戸発高松行きフェリー甲板より 明石大橋

神戸発のフェリー甲板より 
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変な形でいつも気になっていた船。

神戸と高松を結ぶ「ジャンボフェリー」です。

この船に神戸港から乗ってみました。

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この日は連休最終日ですが上段の車両甲板はご覧のとおり。

テニスでもサッカーでもできそう(*^_^*)。

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煙突も個性的です。

遊覧船のお見送りを受けました。

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いよいよ出港。

神戸の街が白い軌跡の向こうに遠ざかります。

イメージ 5

横切る漁船が残した軌跡が「いとおかし」(*^_^*)。

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甲板からは神戸に続く街並みが続きます。

寒さを忘れて、甲板に経ち明石海峡通過を待ちました。(^_^)/~

イメージ 1

土庄港行きの船の甲板からです。

「完全防備」でいつものように甲板でウオッチング。

男木島灯台から頭を覗かせた謎の巨大船(^^;)


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豊島(てしま)札田岬まで進んできました。

巡視艇とスーパーマリンが「突撃」(?)して行きます(@_@)


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私たちの船の前をゆっくりと東へ進んでいきます。

「k」のマークです。川崎汽船の船のようです。


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積み荷を降ろして、身軽になっています。

船名は「Cape Daisy」と見えます。「ひなげし」という意味です。

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調べてみると

全長(m) 299.95 型幅(m) 50.00 型深(m) 24.10 総トン数(G.T) 101,911

のバラ積み船です。

オーストラリアから鉄鉱石や石炭を日本に運んできているようです。


イメージ 6

水島か福山の製鉄所に荷を下ろし、再び夏の豪州へ向かいます。

今度、積み荷を満載して帰って、来るときには年があらたまっているでしょう。

私たちの生活は、こんな船に支えられています。

巨大船も行き交う備讃瀬戸東航路からでした(^_^)/~


グリコのおまけの動画です(*^_^*)


イメージ 1

草壁港に向かう船上から、梅雨の中休みの空を眺めています。

内海湾からタッグボートが出て行きます。

こんなところで、何のお仕事?(?_?)


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別の機会に、こんな光景を見ました。

内海湾から出てきたタッグボートが備讃瀬戸西行航路をを東に逆進。

何をしているのかと思ったら・・

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遙か向こうから巨大船がやってきます。

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一㎞近くまで近づいてくると、反転して巨大船の「案内」を始めました。

2隻並んで、横綱を先導する「露払い」のように見えました(*^_^*)

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先日紹介した地蔵崎灯台から備讃瀬戸東航路が始まります。

灯台前をゆっくりと西に向かいます。

「AZUI VICTORIA」 パナマ船籍のバラ積み船のようです。

私の乗っている船が後ろを横切りましたら、左右が逆になりました_(._.)_。

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パイロット役のボートに水先案内されて、男木島灯台方面へ西進していきます。

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内海湾の入り口には、次の巨大船を出迎えるために待機している船がいました。

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小豆島の三都半島を原付バイクでドライブ中

前方にタンカー発見!

先回りして地蔵崎灯台で、待ち伏せします。ワクワク(*^_^*)


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燧灘方面からゆっくりと現れました。

島の最南端・地蔵崎灯台をゆっくりと西に向かっています。

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積み木を積んだようなコンテナ船とすれ違います。

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コンテナ船も大きいのですが、タンカーに比べると小さく見えます。

10万トンを越えるタンカーのようです。

訂正させてください(^_^;) バラ積み船だそうです。
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川の流れのように見える備讃瀬戸東航路。

パイロット船に導かれて、ゆっくりゆっくりと西へ移動していきました。

向こうに見えるのは、映画「セカチュウ」の舞台となった庵治方面です。


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そのあと、私のプライベート=デッキでランチです。

いつ行っても私一人なので、勝手にそう思っています。

ここで行き交う船を見ていると、気持ちがゆったりしてきます。

煮詰まって、ストレスが貯まった人には、特効薬になります

一度、島を訪れて効き目をお試しください。 (^_-)

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高松港へフェリーに乗りにいくと日本丸が出港準備中です。

離岸のために「さぬき丸」がやってきています。

「さぬきが日本を押す」シーンが見られるとワクワク!(^^)!

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さぬき丸の前には白い「エプロン」がかけられています。

日本丸の白い船体を汚さないためでしょうか?

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9:55分のフェリーに乗船して甲板から見ています。

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ひっぱったり押したりの作業を繰り返します。

私の乗った船も出港しました。

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フェリーと違って自力で接岸出来ない船は、大変です。

その点、瀬戸のフェリーは小回りがきくなあと、改めて思いました。

それと昨年春に寄港した海王丸と救命艇の色の違いくらいしか分からなかった私です。(?_?)

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今週に入って、冬への歩みが足踏み状態の瀬戸内海。
風も弱く晴天の日が続きます。

暖かさに誘われて、フェリーの甲板に揚がってみます。

一枚目 甲板最後尾のベンチが私の指定席。
右手の平べったい山が源平の古戦場「屋島」です。

フェリーが、本線を行く船を避けるため、大きく航路を変えます。

2枚目 右手に出てきた船は「貨物船」としか、私には分かりません。
船籍は日本ではないようです。

その船を見送って、前方を見ると同じ大きさの船が等間隔で
地蔵崎灯台の方に進んでいくのが見えました。

まるで「艦隊行進やな」と、呟いてしまいました。
ただ、それだけのことです・・。

「備讃瀬戸東航路、本日も異常なし」です

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備讃瀬戸を通りゆく船を、
相変わらずフェリーの甲板から眺めています。
わけのわからん船が通って、面白いのです。

一枚目 「動く工場」という感じて重量感があります。
拡大してみると「すぴなー掘〇蓋?‐野田」とあるので、
セメントに関係ありと思うのですが・・
普段見かけるセメント船とは、まったくちがいます。

2枚目 不思議な格好の船です。
やぐらを運んでいるようにも見えるし、
タッグボートに曳航されています。
自走はできないようです。

ちなみに、この付近の海域で28日午後5時頃
貨物船と小型タンカーが衝突。
タンカーから流れ出した重油が周辺の島に流れ着いています。

土庄港も海が黒くなって、異臭が漂ってきます。
周辺は、海苔網が設置されたばかり。
今後、被害拡大が懸念されます。

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小豆島を牛の形のたとえると、
しっぽの付け根にあたる灘山の海岸

ふたつならんだもの なーんだ?
直島のような現代アート作品が小豆島に登場?

残念ですが
こうして使われていました。

働く自動車と採石された石を運ぶ「海のダンプカー」です。

どこへ運ばれていくのかは、私には分かりません。
ご存じの方がいらっしゃたら、教えてください。

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今回は、どんな役割を持っているのか私にも分かる船を紹介します。

まずは「LPG」タンカーです。
プロパンを運ぶので「ぷろぱん丸」
分かりやすいです。船名はこうあって欲しいものです。

次は、コンテナ船です。
こぼれ落ちそうなくらいのコンテナを積み上げて
大阪港を出て行きます。
どこへ行くのでしょう? 私にはわかりません。

最後は神戸沖を行くセメント運搬船です。
船体にそう書いてあるから分かります。
この船のように、自分の役割を船体に書いてくれたいたら
私にも分かるのに・・・。

この程度が、私の船の理解です。
以上、報告終了

なお、説明に間違いがあれば、教えてください。
また、補足説明も歓迎です。
よろしくお願いしま。

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男木島灯台の沖に大きな客船が現れました。
西から東へ進んできます。

豊島の札田岬の電波灯台まできました。
西風が強いので、船の煙は進行方向に流されていました。

後から来た巡視船が追い抜いていきます。

姿が見えなくなるまで、フェリー甲板から眺めていました。
「海の貴婦人」と豪華客船を
呼ぶ意味が分かったような気がしました。

なんという客船かは分かりません。
また、お教え下さい。

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いつものよう小豆島と高松を結ぶ船の甲板から
見かけた私にとっての謎の船です。

一・2枚目は タッグボートに牽かれて、
ゆっくりと西から東へ進んでいました。
扇風機みたいなのは、何に使うのかな?

3枚目は、一瞬、潜水艦に見えました。
変種の艀なのかな?

謎の船に出会うと、心がウキウキして来ます。
好奇心が刺激されるからでしょうか。
適度な「刺激」は、必要ですね。

分かる方、また教えてください。

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BSで映画「喜びも悲しみも幾年月」を見て、
備讃瀬戸の灯台めぐりを始めました。

まずは、与島の鍋島灯台です。
御雇外国人ブラントンの設計で明治5年に完成した、
備讃瀬戸では、一番古い灯台だそうです。

瀬戸大橋の下で、行き交う船を見守っていました。
でも、灯台は残ってますが、
灯台守が暮らした「退息所」はありません。

高松の屋島・四国村に移築されていると聞いたので、追いかけてみました。
行ってみてびっくり。

切り出した石を積み上げた「石の建物」です。
煙突の下には、暖炉があります。
正面にはギリシャ風の円柱までついています。
内部は全て洋室です。

西洋から持ってきたような建物です。

でも乗っているのは瓦屋根。
「和洋折衷」というやつです。

「おもっしゃ!」と呟いてしまいました。
なんか、はまってしまいそうな予感・・・です。

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島を牛の形にたとえると、前足の最先端にある地蔵崎

ここが地蔵崎と呼ばれるようになったいきさつを、
土地の人たちはこう言い伝えている。

昔、この岬を行き交う船が、悪霊によって幾度も沈められた。
そこで、船乗りたちは地蔵様を安置し、悪霊の悪さを封印しようとした。

以後、地蔵様の力で悪霊は現れなくなったので、
いつしか地蔵崎と呼ばれるようになったと・・。

その地蔵堂が岬の海岸に今でも建っていると聞いて、昨日訪ねてみた。
地蔵崎灯台の下の海岸に下りて探す。

それらしきお堂があった。
なかには、穏やかなお顔の地蔵様が海を見つめて
座られていました。

いまは、地蔵さんの化身の灯台が船を守っています。
その沖の備讃瀬戸を、今日も船が行き交います。

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高松と小豆島を結ぶフェリーの甲板から
船を見ています。

備讃瀬戸は一日に2000隻の船が通るそうです。
いろいろな船が行き交います。

その中で、私にはどんな役割を持った船なのか分からない船がたくさんあります。
そんな謎の船を、紹介します。

分かる方がいらっしゃたら教えてください。

1番上は、鉱石運搬船かな。かなり大きい船です。

2番目は、よく見かけます。瀬戸内海を頻繁に行き交ってます。車運搬船かなとも思ったりするのですが・・。

3番目は、備讃瀬戸のど真ん中で、停船していました。双胴船です。何かを調査しているようにも見えました。

4番目は、今にも沈みそうに見えます。海の砂利採取船かな?

海の上も不思議がいっぱいです。

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地蔵崎灯台方面から現れ、男木島灯台方面へ西航。

自動車運搬船だから、水島の三菱か、
広島か防府のマツダに車を積みに向かっているのかな

名前はANNA
女性の名前がつけられる西洋の船は、優雅に感じる。

日本も紫式部とか、小町丸なんていうのが出てきてもいいではないでしょうか?

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直島南の柏島付近から姿を見せ、男木島灯台沖をゆっくりと東に進んでいきました。

ひさしぶりに間近で見た巨大船でした。

こんな船を昔の塩飽の海賊衆が見つけたらどうしたのかな?

島が動いていると大騒ぎになったかも。

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豊島の札田岬からです。

眼下に備讃瀬戸を行く大型タンカーが見えます。

その向こうの突起したのが五剣山です。

中央の島が大島。

右の平たい山が屋島。

源平の屋島合戦は、この海域で闘われたようです。

敗れた源氏の鎧や兜や扇が流れ着いたので「兜島」「鎧嶋」「男木(おおぎから?島)」という名前で呼ばれるようになったとある本には書いてありました。

今は、そんなことは忘れられたように水島へのタンカーが西へ向かいます。

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穏やかな瀬戸内海も秋から冬には、北西風を受けて白波がたつことがあります。
漁師さんたちは「ウサギ飛ぶ海」と呼んでいます。
宮部みゆきさんの丸亀藩を舞台にした小説の題名もそんな感じのもがあったようにおもうのですが・・

備讃瀬戸東航路中央部より、西をみています。
石造りの男木島灯台が見えます。
その向こうにかすんで瀬戸大橋が見えています。

風は強くても空気は澄んでいます。

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播磨灘を西行してきた船は、
小豆島の最南端三都半島で備讃瀬戸航路に入ります。

この半島の先端には「地蔵崎灯台」があり、
瀬戸を行き交う船の道しるべとなっています。

灯台の前を、一日2000隻前後の船が通り過ぎていきます。
1万トンを越える大型船も20隻前後通過します。

灯台周辺は、最近整備されきれいな便所や芝生公園もできました。
遊歩道で灯台下の広い砂浜にも降りることができます。

夕暮れ時に、行き交う船を見ながらBBQをやるのには最高の場所です。

もちろん、「野宿」にも適しています。
夜も多くの船が、灯台の光に導かれながら航行しています。

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夕暮れの地蔵崎灯台下の航路です。むこうがわが南で四国の志度方面です。

ここが備讃瀬戸航路の入口になります。
西に向けて進む船がこちら側(北側)、大阪方面をめざす船がむこうがわ(南側)を航行します。
航路の幅は、それぞれ700叩計1400辰砲覆蠅泙后
その真ん中には浮標識が置かれています。
海は右側通行のようです。

船の動力音だけが響く岬の先端です。
「辺境」(?)にしかないものが、ここにはあるような気がします。

そこに航路を横切って、高松から草壁へ帰っていくブルーラインが現れました。
潮流に乗って、滑るように内海湾に入っていきました。

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新居浜と大阪・神戸を結ぶオレンジフェリー。
この航路には3隻が就航しています。

オレンジ7のデーター
進水年月日 平成5年12月
総トン数 9,917トン
全  長 156.0m
航海速力 22.5ノット
全  幅 25.60m
最大速力 25.0ノット

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神戸から今治・松山を経由して大分を結ぶダイヤモンドフェリーが、
高松沖を西に向かいます。

小豆島と高松を結ぶ船は
備讃瀬戸航路を、行き交う船の間を縫うように進みます。

そのためおおきく航路を、曲げてる時があります。
そんなときに、すれちがういろいろな船を、近くでみることができます。

この時は、ブルーダイヤモンドを通らせて、その後側に回り込みました。
そのすぐ前をブルーダイヤモンドが通り過ぎていきます。

総トン数  9447トン
旅客    942名
航海速力  23ノット
就航    1990年7月23日

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釜山を16時に出港し、翌朝の10時に大阪南港に入港するために、
屋島沖を航行中のパンフェリーです。

この船に乗ると、かつての海は人をへだてるものではなく、
結びつける役割を担っていたことを実感させられます。

小豆島も、その海上ネットワークの拠点として
重要な役割を果たしていたことも分かります。

朝鮮通信使たちが行き交った航路を、この船は18時間で結びます。
途中、4つの橋をくぐり抜けていくのもおたのしみのひとつかもしれません

船のデータ
建造年度 1997年 
建造場所 三菱重工広島造船所  
国際トン数 21,535トン
速   力 25.16ノット
全   長 160M
幅 25M
乗 船 定 員 552名
乗 組 員 48名
コンテナ積載量 220TEU

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高松から船で40分。
丸瓦をのせた古い家屋が急な坂に並んで続く。

集落を抜け、島の北端トウガ鼻をめざす。
ゆっくり歩いて15分ほどだ。

そこに男木島灯台がある。
庵治から運ばれた石材を積み上げた灯台は、
「強靱な意志」のように、海に向かって立っていた。

ここは備讃瀬戸東航路の西のはし。
西行する船は、この灯台を過ぎると舵を切り、瀬戸大橋をめざす。

灯台に今は人はいない。
周りは、キャンプもできるように整備さている。
だが、訪れる人は少ない。

「野宿」したが誰にも会わなかった。
波と風と船の動力音、そして灯台の灯りに照らされた一夜だった。

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