瀬戸の島から

カテゴリ:瀬戸の島と船 > 塩飽の島々

女木島遠景
髙松沖に浮かぶ女木島
女木島は高松港の赤燈台のすぐ向こうに見える島です。
映画「釣り場バカ日記」の初回では、ハマちゃんはここに新築の家を持ち、早朝の釣りを終えてフェリーで髙松支店に通勤していました。  高松港から一番近い島です。今は「瀬戸芸」の島として名前が知られるようになりました。
女木島丸山古墳2
女木島の丸山古墳
この島の見晴らしのいい尾根筋に丸山古墳があります。

女木島丸山古墳1
女木島丸山古墳3
説明版には、次のような事が記されています。
①5世紀後半の円墳で、直系約15m
②埋葬施設は箱式石棺で、岩盤を浅く掘り込んで石棺を設置し、その後に墳丘を盛土し、墳丘表面を葺石で覆っている。
③副葬品としては曲刃鎌、大刀と垂飾付耳飾が被葬者に着装された状態で出土している。
女木島丸山古墳5

研究者が注目するのは、被葬者が身につけていた耳飾りです。
この垂飾付耳飾は「主環+遊環+金製玉の中間飾+小型の宝珠形垂下飾」という構成です。この耳飾りの特徴として、研究者は次の二点を指摘します。
①一番下の垂下飾の先端が細長く強調されていること
②中間飾が中空の空玉ではなく、中実の金製玉であること
この黄金のイヤリングは、どこで造られたものなのでしょうか?
 
 高田貫太氏(国立歴史民俗博物館)は、次のように述べています。

「ハート形垂飾付き金製耳飾りは日本では50例ほどが確認されているが、本墳の出土品は5世紀前中葉に百済で作られたもので、日本ではほかに1例しか確認されていない。被葬者は渡来人か、百済と密接な関係を持った海民であろう」

   5世紀半ばに、百済の工房で作られたもののようです。それを身につけていた被葬者は、百済系の渡来人か、百済との関係を持っていた「海民」と研究者は考えているようです。それは、どんな人物だったのでしょうか。
今回は、丸山古墳の被葬者が見た朝鮮半島の5世紀の様子を見ていくことにします。テキストは「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」です。

女木島

 丸山古墳からは髙松平野だけでなく、吉備地域の沿岸部がよく見えます。
女木島は高松港の入口にあり、備讃瀬戸航路がすぐ北を通過して行きます。この周辺は、塩飽諸島から小豆島にかけての多島海で、狭い海峽が連続しています。一方、女木島は平地も少なく、大きな政治勢力を養える場所ではありません。この地の財産と云えば「備讃瀬戸の航路」ということになるのでしょうか。それを握っていた人物が、自分の財産「備讃瀬戸航路」を見回せる女木島に古墳を造営したと研究者は考えているようです。
そしてその人物は「海民」で、次の2つが考えられると指摘しています。
①在地集団の首長
②朝鮮半島百済系の渡来人
 ①②のどちらにしても彼らが朝鮮半島南部に直接出かけて、百済と直接に交流・交易を行っていたということです。
倭人については、次のような見方もあります。
季刊「古代史ネット」第3号|奴国の時代 ② 朝鮮半島南部の倭人の痕跡
対馬海峡の両側を拠点に活動していた海民=倭人
古代国家成立以前には、「国境」という概念もありません。船で自由に海峡を行き来していた勢力がいたこと。その一部が瀬戸内海にも入り込み定着します。これを①の在地の海民集団とすると、②は朝鮮半島に留まった海民集団になります。どちらにしてもルーツは倭人(海民)ということになります。
 従来の学説では、ヤマト政権下に編成され、管理下に置かれた海民達が朝鮮半島との交易を担当していたことに重点が置かれてきました。しかし、女木島の丸山古墳に眠る被葬者は、海民(海の民)の首長として、ヤマト政権には関係なく直接に百済と関係を持っていたと云うのです。朝鮮半島との交渉に、倭の島嶼部や海岸部の地域集団が関わっていたことを示す事例が増えています。女木島の丸山古墳に眠る百済産の耳飾りをつけた人物もそのひとりということになります。
 瀬戸内沿岸の諸地域は5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を採用しています。
今は陸続きとなった沙弥島の千人塚も、その系譜上で捉えられます。沙弥島千人塚
沙弥島千人塚(方墳)
瀬戸内海には女木島や沙弥島などの海民の拠点間で、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていたと研究者は想定します。それは別の視点で云うと、朝鮮半島からの渡来集団の受入拠点でもありました。女木島の場合は、その背後に岩清尾山の古墳群を築いた勢力がいたとも考えられます。あるいは吉備勢力とも、関係をもっていたかもしれません。どちらにしても、丸山古墳の被葬者は朝鮮半島と直接的な関係を持っていたことを押さえておきます。
女木島丸山古墳4

朝鮮半島の西・南海岸地域からは「倭系古墳」と呼ばれる古墳が出てきています。
倭系古墳1
南西海岸の倭系古墳
倭系古墳の特徴は、海に臨んで立地し、北部九州地域の中小古墳の墓制を採用していことです。その例として「野幕古墳とベノルリ3号墳」の埋葬施設を見てみましょう。
倭系古墳 竪穴石室

何も知らずにこの写真を見せられれば、日本の竪穴式石室や組石型石室と思ってしまいます。ベノルリ3 号墳の竪穴式石室は両短壁に板石を立てている点、平面形が 2m × 0.45m と細長方形で直葬の可能性が高い点などが、北部九州地域の石棺系竪穴式石室のものとほぼおなじです。
 次に副葬品を見てみましょう。 
韓半島出土の倭系甲冑
 朝鮮半島出土の倭系甲冑
野幕古墳(三角板革綴短甲、三角板革綴衝角付冑)、
雁洞古墳(長方板革綴短甲、小札鋲留眉庇付冑 2点)
外島1号墳(三角板革綴短甲)
ベノルリ3 号墳(三角板革綴短甲、三角板鋲留衝角付冑)
いずれの古墳からも倭系の帯金式甲冑が出てきます。
野幕古墳やベノルリ3号墳の2古墳から出土した主要な武器・武具類については、一括で倭から移入された可能性が高いと研究者は考えています。このように、野幕、雁洞、外島 1・2 号、ベノルリ3 号の諸古墳は、外表施設、埋葬施設、副葬品など倭系の要素が強く、倭の墓制を取り入れたものです。そして築造時期は、5世紀前半頃です。つまり、これは先ほど見た女木島丸山古墳の被葬者が活躍した年代か、その父親世代の年代になります。
このような「倭系古墳」の存在は、かつては日本の任那(伽耶)支配や高句麗南下にからめて説明されてきました。
しかし、 西・南海岸地域には朝鮮在地系の古墳も併存しています。これはこの地域では「倭系古墳」の渡来系倭人と朝鮮在地系の海民首長が「共存」関係にあったことを示すものと研究者は考えています。
「倭系古墳」の性格は、どのようなものでしょうか。
これを明らかにするために「倭系古墳」の立地条件と経済的基盤を研究者は見ていき、次のように指摘しています。
①「倭系古墳」は西・南海岸地域の沿岸航路の要衝地に立地する。
② この地域はリアス式の海岸線が複雑に入り組んでおり、潮汐の干満差が非常に大きく、それによって発生する潮流は航海の上で障害となる。
③ 特に麗水半島から新安郡に至る地域は多島海地域であり、狭い海峽が連続し、非常に強い潮流が発生する。そのために、現在においても航海が難しい地域である。
 ここからは西・南海岸地域の沿岸航路を航海するためには、瀬戸内海と同じように、複雑な海上地理や潮流を正確に把握する必要がありました。それを熟知していたのは在地の「海民」集団であったはずです。 
 高興半島基部の墓制を整理した李暎澈は、M1、M 2 号墳を造営した集団について、次のように記します。
  埋葬施設がいずれも木槨構造であり、副葬品に加耶系のものが主流を占めている点から、その造営集団は「高興半島一帯においては多少なじみの薄い埋葬風習を有していた集団」であり、「小加耶や金官加耶をはじめとする加耶地域と活発な交流関係を展開していた集団」

この集団が西・南海岸沿いの沿岸航路や内陸部への陸路を活用した「交易」活動を生業としていた「海民」のようです。このような海上交通を基盤としていた海民集団が西・南海岸地域には点在していたことを押さえておきます。
彼らは、次のようなルートで倭と百済を行き来していました。
①漢城百済圏-西・南海岸地域の島嶼部-広義の対馬(大韓・朝鮮)海峡-倭
②栄山江流域-栄山江-南海岸の島嶼部-海峡-倭
 倭からやってきた海民たちも、このルートで百済や栄山江流域などの目的地を目指したのでしょう。朝鮮半島からの渡来人たちが単独で瀬戸内海を航海したことが考えにくいように、西・南海岸地域を倭系渡来人集団だけで航行することは難しかったはずです。円滑な航行には複雑な海上地理と潮流を熟知する現地の水先案内人が必要です。そこで倭系渡来人集団は、西・南海岸地域に形成されていたネットワークへの参画を計ったことでしょう。そのためには、在地の諸集団との交流を重ね、航路沿いの港口を「寄港地」として活用することや航行の案内を依頼していたことが推測できます。倭の対百済、栄山江流域の交渉は、西・南海岸の諸地域との関わりと支援があって初めて円滑に行えたことになります。
 その場合、倭系海民たちは航行上の要衝地に一定期間滞在し、朝鮮系海民と「雑居」することになります。そのような中で「倭系古墳」が築かるようになったと研究者は考えています。逆に、朝鮮半島の海民たちも倭人海民の手引きで、瀬戸内海に入るようになり、女木島や佐柳島などの陸上勢力の手の届かない島に拠点を構えるようになります。それが丸山古墳の黄金イヤリングの首長という話になるようです。
 朝鮮半島系資料の分布状況を讃岐坂出周辺で見てみると、沙弥島に千人塚が現れます。そして、綾川河口の雌山雄山に讃岐で最初の横穴式石室を持った朝鮮式色彩の強い古墳が現れます。このように朝鮮半島系の古墳などは、河川の下流域や河口、入り江沿い、そして島嶼部などに分布しています。これは当時の海上往来が、陸岸の目標物を頼りに沿岸を航行する「地乗り方式」の航法であったことからきているのでしょう。このような状況証拠を積み重ねると、百済から倭への使節や、日本列島への定着を考えた渡来人集団も、瀬戸内の地域集団との交流を重ね、地域ネットワークに参加し、時には女木島や沙弥島を「寄港地」として利用しながら既得権を確保していったと、想定することはできそうです。古代の交渉は「双方向的」であったようです。

倭と百済の両国をめぐる5世紀前半頃の政治的状況は次の通りです。
①百済は高句麗の南征対応策として倭との提携模索
②倭の側には、鉄と朝鮮半島系文化の受容
このような互いの交渉意図が絡み合った倭と百済の交渉が、瀬戸内海や朝鮮半島西南部の経路沿いの要衝地を拠点とする海民集団によって積み重ねられていたと研究者は考えています。古代の海民たちにとって海に国境はなく、対馬海峡を自由に行き来していた姿が浮かび上がってきます。「ヤマト政権の朝鮮戦略」以外に、女木島の百済製のイヤリングをつけた海民リーダーの海を越えた交易・外交活動という外交チャンネルも古代の日朝関係には存在したようです。

以上をまとめておきます
①高松港沖の女木島には、百済製の黄金のネックレスを身につけて葬られた丸山古墳がある。
②この被葬者は、瀬戸内海航路を押さえた海民の首長であった。
③当時の瀬戸内海の海民たちは、5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を一斉に採用していることから、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていた。
④その拠点のひとつが女木島の丸山古墳、沙弥島の千人塚である
⑤彼らは鉄や進んだ半島系文化を手に入れるために、独自に百済との通商ルートを開いた。
⑥そのため朝鮮半島西南部海域の海民との提携関係を結び、瀬戸内海との相互乗り入れを実現させた。
⑦その交易の成果が丸山古墳の被葬者のイヤリングとして残った。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」
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  高見島 新なぎさ2
高見島に入港する新なぎさ2    

塩飽諸島の中で、多度津から猫フェリーで行けるのが高見島と佐柳島です。高見島は古くから人が住んでいたという塩飽七島の一つです。その向こうの佐柳島は高見島からの入植者によって江戸時代になって開かれたとされます。高見島の「餅つき唄」の中にも、次のようなフレーズがあります。
高見・佐柳は 仲のよい島だよ― ソレ
あいの小島(尾島)は子じゃ孫じゃよ
ソレハ ヨイヨイヨイ
  「あいの小島(尾島)は子じゃ孫じゃよ」と高見島と佐柳島は、親子・兄弟島と謡われています。今回はこの内の高見島に伝わる民俗について、見ていくことにします。  テキストは「西山市朗   高見島・佐柳島の民俗十話」です。 
高見島の島名は、 どこからきているのでしょうか?
ひとつは、高見三郎宗治の名からきているという説があるようです。
浜部落の三谷家(屋号カミジョ)の土地からでた五輪の供養塔は、鎌倉~室町時代のもので、児島高徳の墓だと地元では伝えています。この墓には、浜の人々が夏祭りにおまいりしていたと云います。
また別の説では建久年間(12世紀末)に、備前国児島から移住してきた人たちが開いたのが始まりだという伝承もあるようです。
最後の説は、周辺の島の中で一番高く、周りが見渡せる島だから、高見島と呼ぶようになったのだとされています。これが一般的なようです。
 寿永四年(1185)屋島の源平合戦に破れた平家船団が西方に落ち延びていくときに、高見・佐柳島にも立ち寄って水・飲料、燃料のマキを積み込んだという伝承もあるようです。高見島の浜の庄屋・宮崎家は、平家方の宮崎将監の後裔だと自称していたようです。この島が海の民の拠点として、機能していたことはうかがえますが、それ以上は分かりません。
高見島(たかみじま)

 高見島は浦と浜の二つの港があります。
一般的には「○○浦・○○浜」というのが一般的です。ところが高見島の場合は、なぜか単に浦・浜という集落名です。字名では「大久保通・大谷通・古宮通・六社通・田ノ上通・浅谷通・下道通・高須通」というように、○○通に分けられています。
北側の浦集落は、江戸時代前期に大火にあい、現在のところに集落を移したようです。
それ以前は古宮、ナコチ・ハナタ・フロ・キトチ一帯に集落があったようです。大聖寺ももともとはハナタにあり、そこには腰を掛けたりすると腹が痛むという腹くわり石や五輪の塔が残っていたと云います。フロには、古い泉もあって、ここがかつての島の水源で、ここを中心に人々が集まり住み集落が海辺に出来たことがうかがえます。泉の先には「三郎ヨウジ」という地名も残っているようです。
高見島 浦集落3
高見島 浦集落
  瀬戸の島を歩くと、古い集落には共同井戸があります。
雨の少ない瀬戸内海の島々にとっては、井戸は生命の水の提供場所として神聖な場でもあったようです。水は天からのもらいもので「天水」です。後に弘法大師伝説が伝わってくると、泉・井戸も弘法大師に「接ぎ木」されていきます。そして、満濃池とつながっている井戸(宮の井戸)として雨乞いの話になったりしています。高見島の井戸伝説としては、次のような話が伝えられます。
①若水迎えにつかっていたミキャド(御神井戸)の湧き水の杓井戸
②死が近付くとほしがっていたという冷たくて美味しい水の話。
③むかしの浦の里にあったフロの泉
どちらにしても、古代から瀬戸内海を行き来する交易船は、風待ち・潮待ちのための寄航港が必要でした。そこには、美味しい水を提供してくれる井戸があることが必須条件だったようです。立ち寄った船に、これらの井戸も美味しい水を提供していたのでしょう。

高見島 浦集落4
高見島 浦集落
石垣の上に立ち並ぶ浦の家並は、江戸時代前期の風景(たたずまい)を今も残しています。

高見島 浦集落男はつらいよ
男はつらいよのロケ地となった高見島

 男はつらいよなどのロケ地として使われたわけが分かります。今は、空き家になった家が淋しそうに立ち並んでいます。

高見島 浦集落2
高見島 浦集落

制立場があり、北戸小路。南戸小路・下戸小路があり、集落の中央上に大聖寺がドンと構えています。ここから見える瀬戸内海は最高です。
高見島 大聖寺2
高見島の大聖寺
沖を行く備讃瀬戸行路の大型船、その向こうには丸亀平野の甘南備山である飯野山が望めます。
高見島 大聖寺からの瀬戸内海
大聖寺から望む備讃瀬戸と丸亀平野
高見島と佐柳島の戸数変化を見てみましょう。
江戸時代の塩飽人名衆650名のうち、高見島には77名の人名がいました。ここからも高見島は歴史が古く、廻船の拠点としても機能していたことがうかがえます。高見島の人たちが無住だった佐柳島に入植し、本浦を開いたと云います。さらに佐柳島の北側には福山・真鍋島から渡ってきた人たちが住みつき、また安芸の家船漁師も早くからやってきて、この島を根拠に漁業を続けていました。それが現在の佐柳島の長崎集落です。こうして、佐柳島は漁業の島として成長して行きます。それに対して高見島はどうなのでしょうか?

高見島 戸数・人口


正徳三年(1713)の記録には、高見島の戸数249戸(1449人)、佐柳島144戸とあります。しかし、この時期に塩飽の北前行路の独占体制が崩れて、塩飽廻船業は大きな打撃を受けます。その後は、船大工や宮大工として島外に活躍するする者が増えて、島を去る者が増えた、島の戸数や人口は減少傾向に転じたことは以前にお話ししました。
 高見島も明治には、249戸から195戸へ減少しています。そして、戸数の半数が大工だったことが分かります。漁師は1/6しかいません。瀬戸の島と聞くと、すぐに漁師港を思い浮かべますが、そのイメージでは高見島は捉えきれない島なのです。浦の集落の住人も漁業を生業としていた人たちではないようです。

高見島 ネズミ瓦
高見島の浦集落の漆喰壁の飾り瓦
 男はつらいよのロケ地「琴島」として、高見島と志々島は使われました。外国航路の船長だった父の家に、病気療養で帰ってきてる娘を松坂慶子が演じていました。その家は坂の上にある立派な家でした。この家は漁師達の家ではないのです。漁師の家は海沿いです。ここには、大工や農家などの家が坂沿いにあったようです。

高見島 うさぎ瓦
飾り瓦のうさぎ
 佐柳島と比較すると、高見島はその後は戸数・人口ともに減少していきます。それとは逆に、佐柳島は近世末から漁師の島として、戸数と人口が増えていきます。いったんは人口が急激に増えた佐柳島も高度経済成長がの中で、過疎化の波に飲み込まれていきます。

茶粥(チャガイ)を食べる島
高見島には水田がないので、米が作れませんでした。そんな島の人々が食べていたのが茶粥です。茶粥を作るときには、網目の布袋(茶袋)に茶を入れて炊き、そこへ麦・米や、薩摩芋・ササギ・炒った蚕豆・ユリネ・ハゼ(あられ)・団子等を入れていたそうです。熱いのをフウフウと吹きながら食べるのが、香ばしくあっさりしていて、美味しかったと云います。茶粥について、研究者は次のように記します。
朝飯は、暗がりで炊き、昼飯は11時頃、夕飯は、暗くなる前に食べていた。朝夕、茶粥のときもあったし、オチャヅケと言って間食を食べることもあった。畑仕事には、ヤマイキベントウと言って、麦飯の弁当を持って行ったりしていた。船での昼飯は白米のご飯だった。(御用船方の伝統か)
メシ(昼飯)、午後六時バンメシ(晩飯)・ョイメシという習慣だった。
茶粥を食べる風習は、瀬戸内にみられ、広島県から和歌山・奈良県へとつながっている。
畑作に頼っていた島の人々にとって、乏しい穀物等を入れて、出来る限り味よく、満腹感を味わおうとした、貧しいながら一つの生活の知恵であった。

 この茶粥に使われたのが以前にお話した「仁尾茶」です。
飲んでも食べてもおいしい。茶粥のために作られた土佐の「碁石茶」【四国に伝わる伝統、後発酵茶をめぐる旅 VOL.03】 - haccola  発酵ライフを楽しむ「ハッコラ」

土佐の碁石茶

仁尾茶は伊予新宮や四国山脈を越えた土佐の山間部で作られた碁石茶でした。仁尾商人が土佐で買い付けた碁石茶は、瀬戸内海の島々を商圏にしていたようです。
高見島や佐柳島では、畑仕事はすべて婦人の仕事で、肥料、収穫物を頭の上に乗せて山の上の畑まで運び上げていました。
「ソラのヤマ(はたけ)」は、ヒコシロ、マツネなどにありました。そこへ荷物を頭に載せて行き帰りしていたのです。頭上運搬のことを地元では「カベル」と云います。「ワ」を頭にすけたり、ワテヌグイをしてカベッテいました。これは女性だけの運搬方法です。男の場合は肩に担ぐか、「カルイ」で背負ったり、水の運搬はニナイ(担桶)を「オッコ」(天秤棒)で担いで運んでいました。
 女性の頭上運搬は、瀬戸内海の島々や沿岸部では近世まで見られた風俗でした。高松城下図屏風の中にも、頭に水甕を「カベッテ」って、お得意さんまで運ぶ姿が描かれていたのを思い出します。
高松城下図屏風 いただきさん
水桶を頭に乗せて運ぶ女達 高松城下図屏風

両墓制について
両墓制 
佐柳島の長崎集落の両墓制
佐柳島の北側の長崎集落では、かつては海沿いに死体を埋め、黒い小石を敷き詰め、その上に「桐の地蔵さん」という人形を立てました。それが「埋め墓」です。月日をおいて、骨を取り出し、家毎の石塔を立てた「拝み墓」に埋葬します。「埋め墓」と「拝み墓」を併せて、両墓制と呼びます。
1両墓制
佐柳島の長崎集落の埋め墓

 長崎集落の埋め墓の特徴は、広い墓地一面に海石が敷きつめられていていることです。この石は、全部海の中から人が運び上げた石だそうです。かつての埋葬にはほとんど穴を掘らず、棺を地上に置いてそのまわりに石で積んだようです。その石は親戚が海へ入って拾い上げて積みます。
 このような積石は、もともとは風葬死者の荒魂を封鎖するものでした。それが時代が下がり荒魂への恐怖感がうすれるとともに、死者を悪霊に取られないようにするという解釈に変わったと研究者は考えているようです。肉親のために石を積む気持が、死者を悼み、死後の成仏を祈る心となって、供養の積石(作善行為)に変わっていきます。
佐柳島の埋め墓で、海の石を拾ってきて積むというのも供養の一つの形なのでしょう。
 ここには寺はありません。古い地蔵石仏(室町時代?)を祭った小庵があるだけです。同じ佐柳島の本浦集落の両墓制は、海ぎわに埋め墓があり、その上の小高い岡の乗蓮寺周辺に拝み墓があります。
佐柳島への入植者を送り出した高見島の浦と浜の両集落にも、両墓制の墓地があります。

高見島 浦集落の両墓1
高見島・浦集落の両墓制

高見島にはそれぞれの墓地に大聖寺と善福寺がありました。拝み墓が成長して、近世に寺になったようです。島にやってきて最初に住持となったのは、どんな僧侶なのでしょうか?  
  この時期に、塩飽から庄内半島のエリアを教線エリアにしていたのが多度津の道隆寺明王院であったことはお話ししました。道隆寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

イメージ 2

 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると庄内半島方面までの海浜部、さらに塩飽の島嶼部へと広域に活動を展開していたことが分かります。たとえば
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明14四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
享禄3年(1530) 高見島善福寺の堂供養導師
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。その中には粟島や高見島も含まれていたようです。『多度津公御領分寺社縁起』には、道隆寺明王院について次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院(道隆寺)より執行仕来候」

 中世以来の本末関係が近世になっても続き、堂供養や神社遷宮が道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。
 供養導師として道隆寺僧を招いた寺社は、道隆寺の法会にも参加しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

 ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
また、影響下に置いた塩飽諸島は古代以来、人と物が移動する海のハイウエー備讃瀬戸地域におけるサービスエリア的な存在でした。そこに幾つもの末寺を持つと言うことは、アンテナショップをサービスエリアの中にいくつも持っていたとも言えます。情報収集や僧侶の移動・交流にとっては非常に有利なロケーションであったのです。こうして、この寺は広域な信仰圈に支えられて、中讃地区における当地域の有力寺院へと成長していきます。その道隆寺ネットワークの中に、高見島や粟島の寺社も含まれていたことになります。
高見島 大聖寺山門
大聖寺(高見島浦集落)
 高見島では埋め墓のことをハカといい、参り墓のことをセキトウバと呼んでいます。
埋葬するとその上にむしろをおき、土をかぶせ、ハカジルシの石と六角塔婆をたて、花を供えます。四十九日の忌日には「四十九院」という1m角ほどの屋根つきの塔婆の家を埋め墓の上に建てます。四十九枚の板には経文が書かれています。
一般庶民が石碑・石塔を建てるようになったのは、江戸時代後期以後だといわれます。それまでは埋葬したところに、簡単に土を盛り、盛り石をして墓標を建てる程度だったようです。

高見島 石仏
高見島の石仏

高見島の浦のロクシには、棄老伝説が残っており、その近くには赤子薮もあったと伝えられます。古くは、死ぬと海へかえすという風習もあったようです。新仏(アラリョウ)ができると、灯ろう船(西方丸・極楽丸)に乗せて灯ろうを流す風習も残っています。

高見島には、浦に大聖寺、浜に善福寺(廃寺)がありました。
高見島 大聖寺3
大聖寺
大聖寺は、弘法大師開基の寺として伝えられています。島には次のような弘法大師伝説が伝わっています。
「片葉の葦」
「西浦のお大師さん」
「ガンの浦の弘法大師の泉」
「浜・板持の大師の井戸」
「釜お大師さん」
これを伝えた高野聖の存在がうかがえます。
  瀬戸内海の港にも、お墓のお堂や社に住み着き、南無阿弥陀仏をとなえ死者供養を行ったのは、諸国を廻る聖達だったことは以前にお話ししました。死者供養は聖を、庶民が受けいれていく糸口にもなります。そのような聖たちが拠点としたのが道隆寺や弥谷寺や宇多津の郷照寺でした。それらの寺院を拠点とする高野聖たちが、周辺の両墓制に建てられた庵やお堂に住み着き供養を行うようになります。高野の聖は「念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰 + 廻国 + 修験者」的な性格を併せ持つ存在でした。彼らが住み着いた庵の一つが、多度津の桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の周辺です。それが現在の摩尼院や多門院に発展していくと多度津町史は記します。(多度津町史912P)。同じように周辺の島の港にも聖たちがやってきて、定着して念仏信仰を広げていったようです。そして近世後半になって最後に弘法大師伝説がもたらされます。

高見島 燈台2
高見島 北端の燈台 向こうが佐柳島
 高野聖たちによってもたらされた念仏阿弥陀信仰の上に、後に弘法大師信仰がもたらされて、島四国八十八ヵ所巡りが近世後半には姿を見せるようになります。瀬戸の島には、今でも島遍路廻りが春に行われている島があります。私も伊吹や粟島・本島などの島遍路廻にお参りしたことがあります。高見島にも島一周の島遍路コースがあり、石仏が祀られています。
高見島 西海岸の石仏

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献    「西山市朗   高見島・佐柳島の民俗十話」

        佐柳島(猫島)への行き方(香川県多度津町) | 旅女 Tabijo 〜義眼のバックパッカー〜            
佐柳島

佐柳島は、今は猫の島として有名になりました。
この島は、塩飽七島には数えられていません。佐柳島に人びとが住みはじめたのは江戸時代になってからのようです。高見島から七つの株をもった人名が移住して開拓をすすめ、その後に他の島からも漁民が移り住み、しだいに集落が形づくられていったようです。このため佐柳島には人名株が7つありますが、塩飽全体の650株からするとわずかな数です。そのため人名制が島の歴史に及ぼした影響は、他の島にくらべると大きなものではなかったと研究者は考えています。

 真鍋島 八幡神社3
佐柳島の八幡神社 
明治初期の統計によると、戸数275のうち、農業3、漁業267、大工3、船乗渡世2となっています。大工や船乗りになって稼ぐ人がほとんどいなかった点に、塩飽七島との違いが見れます。佐柳島は、専ら漁で暮らしをたてる島として、「渡世」してきた島のようです。
 

高見島・佐柳島(17.06.14)
佐柳島
佐柳島本浦の北はずれに八幡宮があります。
本殿は昭和28年の改修、拝殿は昭和48年の新築で、銅板葺の緑の屋根が島の緑と調和しています。住む人が少なくなった集落の中を歩いてきた私には、こんなに立派な拝殿が建っていることを不思議に思えました。

真鍋島 八幡神社4
佐柳島の八幡神社

 拝殿には新築を記念して船を操縦する舵取機が奉納されていました。漁船のものとは思われない立派なモノです。よく見ると「神戸市在住佐柳島有志」と奉納者の名があります。その上の鴨居には、本殿改修寄附者の名を連ねた額が掲げられている。地元の人に混じり、次のように神戸や大阪からの寄附者の名が多くあります。
①神戸市在住 89名
②大阪市在住 35名
③神戸市給水所 40名
④住友神戸支店 16名
⑤神戸市大正運輸 14名
⑥神戸市日本組  9名
⑦大阪市住友 43名
役所や企業ごとに人びとの名前が記されています。神戸・大阪と佐柳島が、どのように結びつくのか私には分からず「疑問のおみやげ」として持ち帰りそのままになっていました。最近、それに応えてくれる書物に出会いました。今回は、佐柳島と神戸の関係を、読書メモ代わりに記しておきます。
真鍋島 八幡神社6
八幡神社(佐柳島)の鳥居と瀬戸内海
拝殿新築したときの世話人が、次のように話されています。
新田清市氏(明治35年生)は、神戸市給水所に定年まで務め、退職後に真鍋島にもどってきた方です。本殿改修寄附者の名を連ねた③神戸市給水所40名の一人になります。
わしらの入った大正のじぶんは、船舶給水所というて、神戸港にやってくる船に給水するのが仕事です。神戸が港町として開かれたのは、 一つには水が良かったためで、神戸の水は赤道を越えてもくさることがない、といわれました。
 神戸港へ入港した船への給水には、突堤に設けられた給水孔をつかっての自家給水と、沖に碇泊したまま水船をたのんで給水するものの二とおりがありました。神戸の良い水を水船でとどけるのが私たちの仕事でした。務めていたのは、ほとんどが佐柳島の人でした。
 船が港に入り繋留すると、何番ブイの船、何トン給水をたのむ、と船舶会社から給水所に連絡がはいります。すると、水船が本船に出むきます。私が入った当時は、木造の水船を曳船がひいて本船に近づき、蒸気でポンプを動かす「ドンキ船」が付き添って給水していました。
水船の大きさは30、50、100トンの三段階で、慣れた者が大きな船に、初心者は小さな船に乗るといった具合でした。乗組員はいずれも一人で、真中に大きな水槽を備え、前後にオモテとトモの二つの部屋がつくられていました。
「給水所に勤めるといっても、戦後しばらくまでは私たちは船住いでした。水船には女をのせてはいけないというきまりがありましたから、女房や子どもたちは島において働いていました。船の中で男手で煮炊きをするという不自由な生活でした」
曳舟には船長・機関長・機関部員・甲板員二名のあわせて五名が乗り組んでいました。みんな給水所につとめる人で、船長と機関長が吏員の職に就き、機関部員と甲板員はやとわれでした。島を出て給水所につとめるときは、だれもが傭人として入りました。水船に乗りたいという人がいると、島出身の先輩が所長にたのみこむという形がほとんどでした。
 傭人として二年つとめると試験をうけて雇員にすすみ、さらに二年後の試験で正式な吏員になる道がひらかれていました。吏員になるとそれまでの日給が月給にかわり、盆・暮れの帰省も心おきなくできて、暮らしむきも安定します。

 八幡宮の拝殿を建替時に、新田さんは島に帰って年金暮らしを送っていたようです。そして、発起人として寄附の呼びかけをすると、神戸や大阪で活躍する多くの佐柳島出身者から巨額の金が集まったようです。水船で働く仲間のなかには、吏員にすすめぬまま年老いてしまった人もいました。彼らからも同じように島へ志が寄せられてきたといいます。ここからは、神戸港の水船は佐柳島出身者によって運営されていたことが分かります。

真鍋島 八幡神社5
八幡神社(佐柳島)の鳥居
佐柳島出身者には、ハシケ(艀)にのって暮らしをたてる人びとも多くいようです。
八幡宮の本殿改修寄附者の額には、住友神戸支店、神戸市大正運輸、神戸市田本組、そして大阪住友と阪神の企業の人びとの名が記されていました。彼らは輸送会社や倉庫会社で働き、ハシケのりとして港湾労働で汗を流した人だちだったようです。ハシケは水船とちがつて、ふつう夫婦でのりこみ、子どもも船の中で育てたようです。また、見習いとしてやとわれた「若い衆」も同乗していました。
 住友運輸のハシケに夫と一緒にのっていたという岩本クニさん(明治42年生)のインタビュー記事には、次のように記されています。
 いまは楽させてもろうてますが、憶えてこのかた働きずめでした。小学校から帰ると、母親が百姓しよる畑のわきで乳飲み児の子守です。母は乳がでなかったので、背中に負うた児がよく泣きよりました。ハラすかしてな。マメをペチャペチャかみくだいては、口元にもっていったものです。日暮れちかくになると母より一足先に家に帰り、ご飯をたいてその児と二人で畑の母を待つ毎日でした。学校をおえると、こんどは岡山の紡績工場づとめです。主人といっしょになったのは20歳のときです。主人は14歳で神戸に出て、ハシケにのっていましたので、私もいっしょに船の中で暮らすようになったのです」

 こわかったのは、何といっても台風のときです。下の娘が三つくらいやったろうか、三十数年前に大嵐にあいました。避難の途中で、曳船のロープがプツンと切れてね。いあわせた船にやっとの思いで肪わせてもろうたが、今度は、その船ともども流されたんよ。二隻とも嵐にやられてしまうと思って、泣き泣きロープをほどいたのですが、 一時はもうダメかと思いました。せめて子どもの命だけはと思うて、トモに寝ていた娘をおこしてだきかかえました。海の中へとびこんだらだれかが助けてくれるのではないかと思うてね。そうこうしよるうちに救助船が近づき、命からがらのりうつったんです。

海が平穏であっても、海上での暮らしはちょっとの油断でたいへんなめにあいます。とくに幼児のいる母親は、たいへんだったようです。
ある夏の晩、ハシケの上で家族そろって夕涼をしていました。スイカを切ろうと下の娘に包丁を取りに行かせたんですが、なかなかもどってこない。上の娘に見に行かすと、あわてて帰ってきよるん。どうしたと聞くと「妹が海に浮いとるん、といいよるの」
 大いそぎで引上げたところ、息があった。水もさほど飲んでいないようで、ほっと胸をなでおろした。
「子どもはえろう元気なもんです。ケロッとした顔しておきあがって「おかあちゃんスイカ」といいよるんです。海の水をのんでまだスイカをほしがるんよ」
戦後間もない頃、配給米をもらいに出かけた夫が夜になってももどってこない。どうもヤミ米を買いに行ったと間違えられて、警察の留置所に拘束されているらしいとのこと。夜中の12時には、荷役の仕事がはいっているので、船を出さないわけにはいけん。曳胎の船長さんに、やんわり曳いてや、いうて私がハシケの船頭になって舵をとりました。上の娘が五つか六つくらいのときやったろうか。眠い目をこすりながらロープの上げ下げを手伝うてくれてね……」
ハシケでは、あるときは女が男の代役をつとめ、子どもまでその仕事を手伝ったようです。
 しかし、働きさえすれば白い米を思うそんぶん口にできることは幸せでした。ハシケを所有する会社からは、男・女・子どもを問わず一日一人五合の白米の配給がありました。それがハシケのりの大きな魅力です。
「年に何度か島に帰ると、少しずつ残しておいた米でおむすびを山のようにこしらえて、隣近所に配ったものでした。ええ土産物だと喜ばれました。ハシケの人はええなあ、と島の人にうらやましがられたものです」
と、戦後間もないころの物質が不足していた時代を岩本さんは回想しています。

ハシケの暮らしは、電気・水道・ガスがありません。そのため石油ランプを灯して明かりとし、煮炊きには、流木をひろったり、造船所で木の切れ端をもらつてきて燃料としました。野菜や日用品は、港に碇泊する船をめあてに巡回してくる「ウロウ船」から買います。ときには船からあがって、ハシケの女たちが連れだって市場に買出しに出かけることもありました。それは、息抜きのひとときで、ささやかな楽しみでした。

 洗濯と給水は、神戸港の突堤で行なっていました。
「水はほんとうは買わにゃいけんけど、私ら佐柳島のもんは、おおかたタダで使わせてもろうていました。 給水所の人が佐柳島の出の人でしたから、給水所のお役人がいくら厳格いうても、そのあたりはおおめにみてもろうていました」
 ある日、突堤で洗濯をしていたら、いつもとちがう人がみまわりにやってきました。そして、なにしよんぞととがめられました。よくみると、里の隣の家の息子です。実家の井戸によくもらい水にきていた家の子なので、子どものころからよく知っていました。そこで、すかさずこう云いました。。
「何いうとるん、あんた、うちの井戸でうぶ湯をつかったやないの」
その人は驚き、私の顔をまじまじと見て、なつかしさのあまり声をあげた。
「クニさんかいなあ。ほうかいなあ。なんぼでもとれや、かまわん、かまわん」

ハシケの船住いも昭和30年代半ばで終わりをつげたようです。
 岩本さんが神戸のまちへ陸上りすると、ハシケにのっていた佐柳島の仲間たちもしだいにそれにならい、近所に寄り添うように住みはじめます。そして、陸の家から弁当をもってハシケに通う暮らしに変わっていきます。
 そのころから神戸港の浚渫がすすみ、本船が埠頭に横づけされるようになり、コンテナ船なども登場し、荷役作業のあり方が変わっていきます。そして、ハシケや水船は姿を消して行きます。

真鍋島1
八幡神社の前の浜
 佐柳島の二人の話からは、神戸の水船やハシケなどの港湾運営に佐柳島の人々が縁の下の力持ちとして活躍していたことが分かります。
 佐柳島は近世になって入植された島なので、塩飽の島々のように船乗りや大工などの職人として、島外に出る伝統がありませんでした。しかし、神戸が近代的な港町として発展していく中で、ハシケヤ水船に関わり、その発展に寄与していたようです。
佐柳島歩きについては、こちらにアップしました。
ttps://4travel.jp/travelogue/11285847

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 宮本常一と歩いた昭和の日本 第五巻
中国・四国2 宮本常一とあるいた昭和の日本5』田村善次郎監修他 - 田舎の本屋さん

多度津港 船タデ場拡大図
       多度津港の船タデ場(金毘羅参詣名所図会4巻1846年)

 以前に「塩飽水軍は存在しなかった、存在したのは塩飽廻船だった」と記しました。そして、塩飽の強みのひとつに、造船と船舶維持管理能力の高さを挙げました。具体的な船舶メンテナンス力のひとつとして紹介したのが船タデ場の存在でした。しかし、具体的な史料がないために、発掘調査が行われている福山市の鞆の浦の船タデ場の紹介で済ませ、塩飽のタデ場は紹介することが出来ませんでした。昨年末に出された「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島   22P」を読んでいると与島にあった船タデ場が史料を用いて詳しく紹介されていました。今回は、これをテキストに与島の港と船タデ場を見ていきたいと思います。

どんな舟が与島に立ち寄ったのでしょうか?
与島港寄港船一覧

坂出市史は、上のような廻船の与島寄港表を載せています。
右側の表は、寄港した58艘を船籍の多い順に並べたものです。
上位を見ると阿波13艘、日向7艘、尾張7艘などと続き、東は越後・丹後の日本海側、伊豆・駿河・遠江の太平洋側、西は筑前、薩摩まで全国の舟が立ち寄っていることが分かります。全国廻船ネットワークのひとつの拠点港だったことがうかがえます。 
 左の表は与島に寄港した船が、次に目指す行き先を示します。
142と圧倒的に多いのが丸亀です。次に、喩伽山参りで栄えた備前田ノロ湊が25件です。ここからは与島港が西廻り海運、備讃の南北交流などの拠点港としての機能を果たしていたことがうかがえます。しかし、周辺には塩飽本島があります。本島が海の備讃瀬戸ハイウエーのSAの役割を果たしていたはずです。どうして、その隣の与島に、廻船が寄港したのでしょうか。

その答えは、与島に「タデ場」があったからだと坂出市史は指摘します。
 船たで場については、以前にお話ししたので、簡単に記します。
廻船は、杉(弁甲材)・松・欅・樫・楠などで造られていたので、早ければ3ヶ月もすると、船喰虫によって穴をあけられることが多かったようです。これは世界共通で、どの地域でもフナクイムシ対策が取られてきました。船喰虫、海藻、貝殻など除去する方法は、船を浜・陸にあげて、船底を茅や柴など(「たで草」という)で燻蒸することでした。これを「たでる」といい、その場所を「たで場」「船たで場」と呼んだようです。

 与島のたで場を見ておきましょう。 
与島タデ場跡 造船所前 

与島の「たで場」は与島のバス停「造船所跡」、辻岡造船所の付近の地名で「たてば」といわれている場所にあったようです。
坂出市史は、次のような外部史料でタデ場の存在を確認していきます。
1番目は、「摂州神戸浦孫一郎船 浦証文」(文化二年11月3日付)には次のように記します。
「今般九州肥前大村上総之介様大坂御米積方被仰付、(中略)
去月十二日大坂出帆仕、同十五日讃州四(与)嶋二罷ドリ、元船タデ、同十六日彼地出帆云々」(金指正三前掲章日)
意訳変換しておくと
この度、九州肥前大村藩の大坂御米の輸送を仰せつかり、(中略) 去月十二日大坂へ向けて出帆し、同十五日讃州与島に寄港し、船タデを行った後に、同十六日に与島を出帆云々」

ここには、肥前の大村藩の米を積み込んで、大阪に向けて就航した後で、「船タデ」のために「四(よ)嶋」に立ち寄ったことが記されています。

タデ場 鞆の浦2
鞆のタデ場跡遺跡(福山市)

2番目は、備後福山鞆の浦の史料「乍恐本願上国上之覚」です。
この史料は、文政六(1823)年から始まった鞆の港湾整備の一環として、千石積以上の大船も利用できるような焚(タデ)場の修復を、鞆の浦の居問屋仲間が願いでたものです。
然ル処近年は追々廻船も殊之外大キニ相成り、はん木入レ気遣なく、居場所は三、四艘計ニ□□、元来御当所之評判は大船十艘宛は□□焚船致し申事ハ、旅人も先年より之評判無□承知致し、大船多入津致申時は居問屋共一統甚込申候、古来は塩飽・与島無御座候処、中古より居場所気付段々普請致し繁昌仕候へとも、塩飽・与島其外備前内焚場より汐頭・汐尻共ニ□□惟二さし引格別之違御座候故…」

意訳変換しておくと
近年になって廻船が大型化し、船タデ場に入れる船は三、四艘ほどになっています。もともとは鞆の浦の船タデ場は、大船十艘は船タデが行える能力があると云われていました。大船が数多く入港した時には、船タデを依頼されても引き受けることが出来ずに、対応に苦慮しています。
 古来は塩飽・与島に船タデ場はありませんでした。そのため鞆の船タデ場が独占的立場で繁盛していました。ところが中古よりタデ場が、塩飽与島やその他の備前の港にもできています。そのため鞆の浦もその地位を揺るがされています。
 ここからは、古来は塩飽与島に船タデ場はなく、鞆の浦が繁昌していたこと、それが与島や備前に新興の焚場が作られ、鞆の浦の脅威となっていることが分かります。与島の船タデ場は、鞆の浦からも脅威と見られるほどの能力や技術・サービス力を持っていたとしておきましょう。
3番目が、小豆島苗生の三社丸の史料(寛政十年「三社丸宝帳」本下家文書)です。
ここにも塩飽・与島が出てきます。三社丸は、小豆島の特産品(素麺・塩)を積んで瀬戸内海から九州各地の各湊で売り、その地の特産品を購入して別の湊で売って、その差額が船主の収益となる買積船でした。小豆島の廻船の得意とする運行パターンです。その中に与島との関係を示す次のような領収書が残っています。
塩飽与嶋
六月二十四日
一 銀二匁六分   輪木  
一 同四匁                茅代
一 同四匁      はません(浜占)
                          宿料
〆拾匁六分
    壱百弐文替
又 六分六厘   めせん
〆 壱拾壱匁弐分六厘
船タデ入用
一 百六十文                しぶ弐升   
一 百もん                  酒代       
一 三分六厘                笠直シ
一 百もん                  なすひ代   
一 五十五もん              御神酒代   
〆九六
四匁六分八厘 ○
合十五匁九分四厘
七月弐拾日
内銭弐拾匁支出
残四匁壱分六厘
取スミ、
八月十二日
この史料からは、船タデ経費として次のような項目が請求されていることが分かります。
①船を浜に揚げて輪木をかませ固定する費用
②船タデ用に燃やすの茅の費用
③浜の占拠料である浜銭
④与島での宿代
⑤この時は防腐・防水剤としての渋の費用

4番目は、引田廻船の史料(年末詳「覚」人本家文書)です。
一 三匁九分  輪木
一 六拾五匁 
一 四匁       宿代
〆 七十二匁弐朱九分
差引       内金 壱匁弐朱   
右の通り請取申候、以上、
よしま 久太夫(塩飽与嶋浦中タデ場)(印)
六月十六日
三宝丸 御船頭様
この史料からは、大内郡馬宿浦の三宝丸は、輪木・茅・宿代の合計72匁9分を与島の年寄の久太夫に払っています。同時に、与島の久太夫が船タデ場を「塩飽与嶋浦中タデ場」を管理していたことが分かります。この人物がタデ場の所有者で経営者と、思えますがそうではないようです。それは後に、見ていくことにして・・・
今度は、本島の塩飽勤番所に残された史料を見ていきます。
文政二(1819)年の「たで場諸払本帳」は、与島のタデ場を1年間に利用した594艘の廻船の記録です。
与島船タデ場 利用船一覧

タデ場の記録としては、全国的にも珍しく貴重な史料のようです。坂出市史は、その重要性を次のように指摘します。
第一に、与島のたで場に寄った廻船の船籍が分かること。
廻船船籍一覧表 24は、船籍地が分かる廻船318艘の一覧表です。これを見ると、日向41、阿波31、比井27、日高17、神戸14などが上位グループになりますが、その範囲は日本全国に及ぶことが分かります。
第二は、船タデの作業工程と、費用が分かります。
与島タデ場 輪木・茅代一覧
上表からは、船タデ作業の各項目や材料費が分かります。
①船タデ作業の時に船を固定する「輪木」代
②船底部を燻蒸する材料の茅代
③船を浜揚げして輪木なしでたでる平生の場合の費用
この表をみると、一番多かったのは輪木代が三匁四分~三匁九分で486件です。茅代は輪木代つまり廻船の大きさによって最大80匁です。輪木を使わない平生(ひらすえ)は、49件で茅代のみとなっています。この史料の最後には次のように記されています。
「惣合 二〇貫三九七匁一分五一厘 内十三貫二五四匁一分
茅買入高引 残七貫一四匁五厘
卯十二月二十一日浦勘定二入済 船数大小五九二艘」

ここからは、一年間の利用船が592艘で、その売上高が約20貫で、支出が茅代約13貫、差し引き7貫あまりが収益となっていたことが分かります。坂出市史は、次のように指摘します。
「収益は多くはないように見えるがより重要なことは、その収支が浦社会で完結されていたことである」

 全ての収益が地元に落とされるしくみで、地域経済に貢献する施設だったのです。

 船タデで使われる茅(草)は、どのように手に入れていたのでしょうか
私は周辺の潟湖などの湿地に生える茅などを使っていたのかと思っていましたが、そうではないようです。幕末期には尾州廻船が茅を摘んで入港していることが史料から分かるようです。また、慶応2(1866)年10月、坂出浦の川口屋松兵衛は「金壱両三歩」で大量のたで草を荷受けしています。このたで草が与島に供給された可能性があります。どちらにしても船タデ用の茅は、島外から買い入れていたようです。その費用が年間銀13貫になったということなのでしょう。
与島船タデ場 茅購入先一覧

表26は、与島でのたで草の人手先リストです           
買入先が分かる所を見てみると、「タルミ=亀水」「小予シ満= 小与島」「小豆し満= 小豆島」など周辺の島々や港の名前が並びます。買入量が多いのは、圧倒的に小豆島です。小豆島の船の中には、島で刈られた茅を大量に積んで与島に運んでいたものがいたようです。中世には、讃岐の船は塩を運んでいたと云われます。確かに塩が主な輸送品なのですが、東讃からは薪なども畿内に相当な量が運ばれていたことを以前にみました。また。江戸時代には、製塩用の塩木や石炭を専門に運ぶ船を活動していました。船タデ場で使う茅なども船で運ぶ方が流通コストが安かったのでしょう。まさに「ドアtoドア」ならぬ「港から港へ」という感覚かも知れません。
 どのくらいの量の茅が買い入れられていたのでしょうか?
表からは163958把が買い入れられ、その費用が14貫746匁5厘だったことが分かります。史料冊子裏面に「岡崎氏」とあります。ここからは与島のたで場経営が与島庄屋の岡崎氏の判断で行われ、塩飽勤番所に報告されたようです。

与島のたで場は、どのように管理・運営されていたのでしょうか。
私は、経営者と職人たちの専門業者が船タデ作業を行っていたのかと思っていました。ところがそうではないようです。与島のたで場については、浦社会全体がその運営に関わり、地域に収益をもたらしていたようです。
そのため船タデ場の管理・運営をめぐって浦役人と浦方衆との間で利害対立が生まれ、「差縫(さしもつ)れ」となり、控訴事件に発展したことがあるようです。坂出市史は文政四(1831)年に起こった「たで場差縫れ一件」を紹介しています。この一件について「御用留」は、与島年寄りの善兵衛からの書状を次のように記します。
一 文政四巳たで場差配の儀、争論に及び、私差配仕り来たり候場所、三月浦方の者横領二引き取り指配仕り候に付き、御奉行所へ御訴訟申し上げ、追々御札しの上、御理解おおせられ」

意訳変換しておくと
一 文政四巳(1831年)のたで場差配について、争論(訴訟事件)となりました。これについては、私(善兵衛)が差配してきた場所を、三月に浦方衆が力尽くで差し押さえた経緯がありますので、御奉行所へ訴訟いたしました。よろしくお取りはからいをお願いします

 この裁断のための取り調べは、管轄官庁のある大坂で行われたようです。そこで支配管轄の大坂奉行所役人から下された内容を岡崎氏は次のように記します。。

安藤御氏様・寺内様・田中様御立合にて丸尾氏並拙者御呼出し上被仰候は、たで場諸費用之儀対談相済候迄、論中の儀ハ前々の通り算用可致旨被仰候
たで場差配として浦方談之上、善兵衛指出有之処、善兵衛引負銀有之候共、其方へ拘り候儀ハ無之、浦方の者引受差配可致旨被仰候、
浦役人罷上り候諸入用の儀、其方申分尤二て候得共、浦役人之儀ハ浦方惣代之事二候間、浦方談之通り割人半方ハ指出可申旨被仰候、
右の通り被仰、且又御利解等も有之候二付、難有承知仕、引取申候、
意訳変換しておくと
安藤様・寺内様・田中様の立合のもとに、丸尾氏と拙者(岡崎氏)が呼び出され以下のように伝えられた。
第1に、たで場諸経費については、これまで通りの運用方法で行うこと
第2に、たで場差配(管理運営)は浦方衆と相談の上で行うこと、確かに、タデ場には善兵衛の私有物や資金が入っているが、タデ場は浦役人の善兵衛の私有物ではない。「浦方之者」全体で管理・運営すること。
第3は、浦役人の大坂へ上る諸経費について、その費用の半分は、たで場の収支に含まれる
以上の申し渡しをありがたく受け止め、引き取った。

ここからは、タデ場が浦役人の個人私有ではなく、浦全体のものであり、その管理運営にあたっては合議制を原則とすることを、幕府役人は求めています。たで場の差配は、浦役人(年寄)をリーダーとして、浦方全体の者が引き請けて運営されていたことが分かります。浦社会にとっては、地域所有の「修繕ドック」を、共同経営しているようなものです。そして、これが浦社会を潤したのです。

与島の「たで場」の共同管理を示す史料(「御用留」岡崎家文書)を見ておきましょう。
一 同三日、たで場居船弐艘浮不申二付、汐引之節浮支度として浦方居合不残罷出候、‥(後略)…

意訳変換しておくと
 同三日、たで場に引き上げられている2艘の船について、汐が引いた干潮に浮支度をするので、浦方に居合わせた者は残らず参加すること、‥(後略)…

ここからは次のようなことが分かります。
①与島の「たで場」は、2艘以上の廻船が収容できる施設であったこと
②島民全員が、タデ場作業に参加していたこと

もうひとつ幕末の摂州神戸の網屋吉兵衛が役所に、提出したタデ場設置願書には、次のように記されています。
「播州の海岸には船たで場がなく、諸廻船がたでる場合は讃州多度津か備後辺り(鞆?)まで行かねばなりません。そのため利便性向上のために当港へのタデ場設置を願いでます。これは、村内の小船持、浜稼のもの、また百姓はたで柴・茅等で収入が得られ、村方としても利益になります。建設が決まれば冥加銀を上納します」

 ここからは次のようなことが分かります。
①播州周辺には、適当な船タデ場がなく、播州船が多度津や備後の港にあるタデ場を利用していたこと
②タデ場が浦の住人だけでなく、周辺の農民にも利益をもたらす施設であったこと
ここでは②のタデ場が「浦」社会全体の運営によって成立していたことと、それが地域に利益をもたらしていたことを押さえておきます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島   22P」
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Fotos en 天領倉敷代官所跡 - 本町7-2
天領倉敷代官所跡(倉敷アイビースクエア内)

讃岐の天領没収を行ったのは?
 
「是迄徳川支配いたし候地所を天領と称し居り候は言語道断の儀に候、此度往古の如く総て天朝の御料に復し、真の天領に相成り候間、右様相心得べく候」
意訳変換しておくと
「これまで徳川幕府が天領と称して広大な領地を支配してきたことは言語道断のことである。よって、この度、総て朝廷の御料にもどし、真の天領にすることにした。以上のこと、心得るように」

朝廷は1868(慶応四)年1月10日、鳥羽伏見の戦いの勝利を受けて、徳川慶喜の処分と幕府直轄の土地(天領)の没収を布告しす。これで讃岐にあった天領も没収されることになります。今まで倉敷代官所が管理していた讃岐に天領は以下の通りでした。
①池御領(那珂郡五條村(669石)。榎井村(726石)・苗田村(844石)
②小豆島の東部三か村(草加部村・福田村・大部村)
③直島・男木島・女木島 
④大坂町本行支配の塩飽諸島(高1250石)
⑤高松藩領にある四か所の朱印地(金毘羅大権現寺領等)
以上が没収対象となり、土佐藩の「預り地」となりました。これは土佐藩が朝廷から、朝敵となった高松・松山両藩の征討とその地の天領没収を命じられていたからです。土佐藩兵は高松城に向かう進軍の途中、1月19日には、丸亀に駐屯します。
この時に、丸亀沖の塩飽本島では大騒動が起きていたようです。
これを小坂騒動と呼びます。情勢を聴いて高松藩征討深尾総督は、海援隊の八木(本名宮地)彦二郎を本島に派遣して騒動を鎮圧させます。そして、塩飽勤番所に土佐藩塩飽鎮撫所を設置して塩飽諸島を管轄することになります。
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 土佐藩塩飽鎮撫所が置かれた塩飽勤番所

ここで当時の海援隊のことについて見ておきましょう。
坂本龍馬が亡くなって以後は、
①九州長崎表の方は菅野覺兵衛が
②上方々面は、長岡譲吉が
指揮するという体勢になって分裂していたようです。
 1868(慶応4=明治元年)正月に、鳥羽伏見の戦で幕府軍がやぶれ四国の高松、松山藩は朝敵とされます。これに対して朝廷は、土佐藩に対してこの2藩の追討命令を出し、錦旗を下賜します。
 長岡謙吉・八木彦二郎の思惑と行動を推測するのなら、土佐藩と行動を共にして、瀬戸内海での活動場所を得ようということではないでしょうか。大坂にいた尊皇派の藤沢南岳を訪ねて、高松藩の帰順工作を進めたのもその一環です。その後、二人は伊予の川之江に向かいます。そして土佐から川之江に到着したばかりの土佐藩の討伐軍に、次のような情勢報告を行います
①鳥羽伏見の戦況と、その後の上国の情勢
②高松・.松山藩追討の詔が下ったこと
③京都の土佐責任者・本山只一郎が錦旗を奉じてやってきていること。それが、まもなく川之江に到着すること
 この情報を得た土佐軍は、軍議を開いて次のような行動を決定します。これについては、以前にお話ししましたので要約します。
①松山藩御預地の幕領川の江を占領すること
②丸亀藩を加えて高松藩を討伐、占領すること
③その後に、松山征伐を行う事。
この決定に大きな影響をあたえたのが若き日の板垣退助だったようです。
こうして、長岡と八木は、土佐軍に従い、行動を共にすることになります。
土佐軍が朝廷から求められていた「討伐・占領」は、高松藩だけではありませんでした。エリア内の幕府の天領も含まれていました。これも没収しなければなりません。今まで倉敷代官所が讃岐で管理していた天領は先ほど見たとおりです。

高松を無血占領した後、土佐軍は、高松駐屯部隊と上京部隊・松山討伐支援隊の3隊に分かれます。瀬戸内海に浮かぶ島々を占領・管理する能力も員数も土佐軍にはありません。このためこの方面の占領管理のために土佐藩は「新」海援隊を組織します。ある意味、土佐藩の「下請け委託」です。
 長岡や八木の脳裏には、ここまでが事前に織り込み済みであったと私は考えています。つまり、土佐藩の高松討伐を聴いたときに、ふたりは土佐軍に協力し、参軍する。その代償として、海援隊の復活再興と備讃瀬戸の天領をその管理下に置くこと。そして、将来的には瀬戸内海の海上交易の要地である塩飽と小豆島を拠点にして、海援隊の存在価値を高めるという「行動指針」が、すぐさま浮かんだのではないでしょうか。そのために、川之江にむかったのでしょう。川之江の軍議で、高松占領後の方針もきまります。そこには、高松城占領後は備讃瀬戸の島々は「新海援隊」を組織し、彼らが島嶼部の管理を行うと云う密約もあったのかもしれません。ちなみに長岡は、朝廷から「讃岐島討伐の内命」が讃岐に行く前に下されていた、と郷里に送った私信には記しているようです。
 しかし、海援隊による小豆島・塩飽の占領支配はすんなりとは始まりません。
都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】 - 津山瓦版
津山郷土博物館発行「津山藩と小豆島」より小豆島絵図  岡山から見た小豆島らしく南北が逆転している。
  津山藩が作成したものなので東側の天領は何もかかれていない

まず、小豆島の「討伐鎮撫=占領」の経緯を見ておきましょう。

 江戸時代の小豆島は東部3か村が幕領地として倉敷代官所の支配下にありました。それに対して西部六か村(土庄村・淵崎村・小海村・上庄村・肥土山村・池田村)は、天保九年(1838)から津山藩領となっていました。東部3ケ村が没収される際に、西部六か村も影響が及びます。
 高松城が無血占領された直後の1月23日に岡山藩の役人が草加部村に来て、村役人らに維新の趣旨を説明し、朝廷に二心なきの誓紙を差し出させます。同時に西部六か村の大庄屋たちにも、同じ誓紙を出させています。これは、岡山藩の越権行為のように思えますが、当時は津山藩が朝敵の嫌疑をうけて、詰問のため岡山藩から鎮撫役と兵が差し向けられていたという背景があります。そのため津山藩の飛び地領土である小豆島へも岡山藩の藩士が派遣されたようです。
 津山藩は1月21日に開城して恭順の意を示します。そこで25日の至急使で小豆島の村役人に宛て、「国元のところ少しも別条これなく、 決して相変り候わけござなく……」と記した書面を送り届けて、西部六か村は今までどおり、津山藩領として支配することを知らせています。
一方、天領の東部3か村へは2月5日に再び岡山藩の役人がやってきます。
草加部村の清見寺を出張所として、旧幕領地の管理を始めます。さらに盗賊取締りなどを名目に、藩士を派遣して「軍事占領下」に置きます。このような岡山藩の動きに対して、警戒心を抱いた土佐藩は強硬策に出ます。海援隊士の波多彦太郎らと塩飽・直島・男木島・女木島から徴兵した高島磯二郎・田中真一・西尾郁太郎ら数十人を草加部村に上陸させ、下村の揚場柳詰めに次のような立札を立てます。
「此度、朝命を以て予讃天領鎮撫仰付候事」

そして、極楽寺に土佐藩鎮撫所を設けて兵を駐屯させたのです。こうして、草壁村にはふたつの占領軍が駐屯するという事態になります。両藩はお互に「占領権」を主張します。

極楽寺
土佐軍が駐屯した極楽寺

 土佐側は、朝廷からの命を背景に岡山藩の撤退を迫ります。同時に、朝廷に働きかけて土佐藩へ、備前・讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書を出させます。これが2月9日のことでした。この辺りが当時の土佐藩と岡山藩の政治力の差なのかもしれません。これを受けて2月15日に、岡山藩は清見寺に置いていた番所を開じて引揚げていきます。
御朱印】清見寺(小豆島)〜小豆島八十八ヶ所巡り第21番〜|ナオッキィのチャリキャンブログ

こうして、土佐藩は鎮撫所を極楽寺から清見寺に移して、島民に対して次の触書きを出します。
当国諸島土州御領所、御公務・訴訟・諸願等一切向後下村出張所え申出可く候、尤も塩飽島えの儀は当時八木彦二郎出張に付、本島役所へ申可く候、右の趣組々の老若役人共えも洩さぬ様相伝へ触書は回達の終より下村役所え返さる可く候 以上
此度朝命を以て豫讃天領銀撫被仰付候事
戊辰二月            土佐藩
意訳変換しておくと
讃岐諸島の土州預かり所の公務・訴訟・請願などの一切は、今後は下村出張所へ申出ること。もっとも塩飽島については八木彦二郎がいる本島役所(勤番所)に申し出ること。以上のことを、組々の老若役人たちに洩さぬように伝へること。この触書は回覧終了後は下村役所へ返却すること。以上
この度、朝命を以て伊予・讃岐の天領鎮撫を仰せつかったことについて
戊辰二月            上 佐 藩

小豆島は、土佐藩鎮鎮撫下に置かれ、実質の占領支配は海援隊が行う事になったようです。
その後、この事情を岡山藩は、京都の辯事宛に次のように報告しています
  讃岐国塩飽島々の儀は備前守(岡山藩)領分児鳥郡と接近にこれ有り候処、上方変動後、人民動揺の模様に相見え候に付、取り敢ず卿の人数渡海致させ、鎮撫の義取計らい置き申候、同国直島の義は去る子年(元治元年)御警衛仰付られ居り申す場所故、鎮撫方の者差出し収調べ致し申候、同小豆島倉敷支配の分、盗賊徘徊致し候様に付、是れまた人数指出し鎮撫致し置き中候、然る処土州より掛合これ有り、右三島の儀は土佐守(土佐藩)収調所に付、同藩へ受取り申度き由に候間、夫ぞれ引波し仕り候、尤も非常の節は時宜に寄り、右島々へ備前守人数差し出し候儀もこれ有る可き旨申談じ候、此段御届け申上げ候様、国元より申付越候 以上
二月九日    池田備前守家来沢井宇兵衛
意訳変換しておくと
  讃岐の塩飽島々については備前守(岡山藩)領分児鳥郡と接近している。そのため上方変動(鳥羽伏見の戦い)後に、人民動揺の様子が見えたので、とりあえず藩士を派遣し、鎮撫を行ってきた。また直島については、元治元年に警衛を仰付けられた場所なので、鎮撫方の藩士を派遣し占領下に置いた。同じく小豆島東部の倉敷支配(天領)については、盗賊徘徊の気配もあったので、ここにも藩士を派遣し、鎮撫にあたった。しかし、これについては、土佐より次のような申し入れがあった。この三島のについては、朝廷より土佐守(土佐藩)に討伐・占領が命じられているので、同藩へが取り占領するべきものなりと。そのため土佐藩に引渡た。もっとも非常の折りであり、これらの島々へ備前藩主が藩士を派遣し鎮撫したのも、先を案じてのことであると申し入れた。このことについて以上のように報告します。と国元より連絡があった。 以上
二月九日    池田備前守家来沢井宇兵衛

こうして土佐藩は、幕府の天領であった「塩飽ー小豆島ー琴平」を管理下に置いたことになります。

土佐藩の小豆島・塩飽占領について、戦前に書かれた高知の史書は次のように記します。
此等島民は一般に文化の度が極めて低く祀儀風俗等も至つて粗野であったから、最初全島民に対して御維新の御趣意を誘論し、聖旨を奉外して各生業を励み、四民協力し鴻恩に酬い奉るべきことを誓はじめ、勤めて之が感化開発に尽力したと云ふことである。 
 而して豫讃天領鎮撫の内命を受けて出張した海援隊は、当時土佐藩の名において、その重任にあたり、其の海援隊として私に行動することはなかった。

   ここには占領地は、御一新を理解しない「文化の度が極めて低く祀儀風俗等も至つて粗野」な地で、それを「文明開化」する役割を担った土佐人、そしてそれに恭順し、発展する占領地という図式が見られます。これは、当時進められていた「大東亜共栄圏建設」のための日本の役割と、相通じるイデオロギーであるようです。「讃岐征伐」の時に、土佐で記された討伐記のイデオロギーが時間を越えて、戦前の「大東亜共和圏構想」を正当化する論理になっていたことが分かります。
海援隊のリーダー達は、塩飽や小豆島の地の利を活かして、瀬戸内海の海運交易の拠点としようと半永続的な支配を考えていた節があります。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)


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詫間の宮ノ下港から出港
詫間の波打八幡神社の下の宮ノ下港から船に乗り、志々島をめざします。

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船は宮ノ下港を出発して、志々島経由で粟島にいく航路を進みます。
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志々島港
波穏やかな瀬戸内海を15分足らずで志々島の港に入って行きます。
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志々島港から
港からみると家は数多くありますが、ほとんどが無住。住んでいる人がいません。
人口は二桁です。
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しかし、江戸時代から百年ほど前の大正時代にかけては、漁場と廻船業で大いに繁栄していた島でした。
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志々島の集落の路地
『瀬戸内海 志々島の話』には、こう書かれていました。

「この島は明治初年までは広範な漁場を一手にして、鯛シバリ網の本拠地となっていた。近在から多くの出稼ぎ者も集まって「金のなる島」と称された。当時この島だけで7~8統のシバリ網元があり、ひとつ80人程度の人手を要するので、この漁だけで五~六百人の人員を必要とした」
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明治三年の文書には次のように記されています。
「当嶋は漸く高五拾九石九斗六升余之処、家数百五拾軒、人数七百五拾余人相住、迪茂農業一派にては渡世成り難く、旧来漁業専一に相稼ぎ、 上は真島上より下は香田浦和田門磯辺迄の網代にお為て四季共繰網、蝶網、打瀬小職に至る迄何等子細屯御坐無く相稼ぎ、御加子、役の者勿論御菜代米物諸運上向滞り無く上納仕り」
意訳変換しておくと
 志々島は石高59石9斗6升余、家数150、人数750余人が住む、農業だけでは渡世が成りたたず、むかしから漁業をもっぱらにして相稼ぎ生活してきた。その漁場は、上は真島上より下は香田浦和田門磯辺迄の網代で、一年中、繰網、蝶網、打瀬小職になどを操業し、広い漁場に恵まれ稼ぎもあがり、御加子、役の者はもちろん、菜代米物諸運上向の物品も滞りなく上納して参りました」
ここからは、丸亀沖から詫間までの漁業権を持ち、人口は750人を越えていたとされ、大いに栄えていた島の様子がうかがえます。
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志々島の港と集落

小さな志々島が、どうして広い漁業権を持っていたのでしょうか?

 それはについては、江戸時代末期に丸亀藩の財政逼迫に対して、志々島の廻船・網元「いせや」に借り入れの申し込みがあった時のことが次のように記されています。
「藩へお金をお貸しすることはお恐れ多いことです。。御用金として上納させていただきます」

と、多額の金子を献納しました。その報償として、広範囲の漁業権を得たと言われます。
 「東瀬戸内海の漁業の中心」と言われるようになったのは、土器川河口の真島から詫間の香田浦に広範な海面の漁業権を与えられていたことが背景にあります。そして、大蛸・鯛・飯蛸の捕れた魚は、搬送船で対岸の備前や遠く淡路などへも送られました。志々島の漁業は、東瀬戸内海という広い範囲で展開していました。そして、その繁栄に引かれて多くの人たちが海の働き手としてやってきたのです。
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島の網元であり、豪商でもあった伊勢屋(上田家)は大いに繁栄したようです。

伊勢屋は
「志々のいせやか、いせやの志々か」

と唄われたと言われ、伊勢の大夫の定宿となっていたために「伊勢屋」と呼ばれました。伊勢屋は享和期頃から船持、船問屋として活躍するとともに、組頭として志々島の地域運営に関わりました。
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志々島の八幡神社の鳥居
 この島の南に鎮座する八幡神社の拝殿内に貼付されている木札「奉納随神寄付」(文政12年)によると、一九世紀前半に
大坂雑魚場(雑喉場)の天満屋、
尼埼西町の網屋
などからの寄付奉納が、志々島の花屋、新屋などが引請世話人となって行われています。
また「明神丸」「幸丸」など廻船の船持ちの名前や伊勢屋勘蔵の名前、島の若連中の名前も見え、伊勢屋の広範囲での活動がうかがえます。
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「西讃海陸予答」には次のように記されています。
此島漁事を業とし船待を専とす。水有回船掛りよし。爛場所を好み競て寄る。
 ここには志々島の繁栄の要因が挙げられています。
①漁業の他に廻船稼ぎが盛んであること。
②廻船が立ち寄りやすい潮の流れと風と港があること。③廻船の寄港をより一層吸引する「爛場(船たで場)」があったこと。
この島は小さな島ですが、「漁業拠点+廻船拠点+潮待風待ち港+船タデ場」としていくつもの顔を持つ島として、塩飽周辺を行き交う船が寄港していたことが分かります。

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志々島の祠
志々島に到着した廻船は、伊勢屋に「御祝儀」を届けます。

 日向・播磨・肥後・伊予など、瀬戸内海を航行する各地の船が、志々島に立ち寄っています。特に「因州御手船」「伯州御手船」も見え、各藩の御用船が立ち寄っていたことも分かります。 「三日、四日逗留」したとか、「死人御座候二付世話料二被下」というように来島の祝儀の中に葬儀料が含まれたりもしています。「たて草代」つまり「船を爛でる経費」や、修理等に使用する「輪木」代金の中から、その祝儀を出している場合もあります。
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志々島の大楠
 このように、船問屋であり組頭でもあった「伊勢屋」を中心に志々島は、漁業以外に廻船業も盛んでした。瀬戸内海に浮かぶ小さな島は、瀬戸内海というハイウエイのサービスエリア的な機能を果たしていたと言えるかもしれません。
近代になり鉄道路線が整備され人の流れは大きく変わります。島に立ち寄る廻船も姿を消していったのです。
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          志々島の大楠


    

浦集落を徘徊し、お寺の境内で備讃瀬戸航路を東に向かう舟をボケーと眺めて時を過ごす。しかし、帰りの舟の時間までは、まだ3時間ある。時間を自分で「活用」しなければならい。

 別の視点からみれば時間に追いかけられることも、あすこにも行きたい、ここへも行きたいとか、ここの見学時間は15分で・・とかという制約はなくなる。そのためか心にゆったりとした時間が流れる。
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高見島 浦の港
ここでボケーとするか、読書の時間にするか・・
島の北端の灯台に行ってみようという考えが浮かんできた。
男木島も本島も粟島も北に隠れたポイントがあった。高見島にも・・と期待して

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高見島 浦集落の路地
そうとなれば行動ありき。さっそく浦集落から海へ下りていく。

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下りたところが浦集落の両墓制の墓域。黙祷し南無阿弥陀仏・・。

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島遍路の石仏に導かれて、燈台に続く舗装路を歩く。

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塩飽諸島の広島
目の前には、塩飽諸島の広島。採石のために削られた山肌が至る所に見える。

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北には手島・小手島も見えてきた。海岸には鵜が羽を広げて羽干しを行っている。
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かつては、もう一つの集落がこのあたりにはあったらしい。
民家の跡は自然に帰り分からないが手入れされた墓石がいくつもならんでいた。神社も改修されている。

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道があったのはここまで。かつての集落があった所まで。ここから道はない。海岸線を歩くしかないようだ。
ここまで40分程度。時間はたっぷりある。
石仏が「きおつけていきなはれ」と声をかけてくれたような・・

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島の南側の様相とは少し変わってきた。
大きな石がゴロンゴロン。

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歩きにくいゴロタ石の海岸の向こうに燈台が見えてきた。
右手の島は佐柳島。
高見島と佐柳島の間を備讃瀬戸航路を西行する舟が抜けていく。

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かつて男木島灯台の袂に野宿したのを思い出し、この燈台が光を放つ姿を見てみたいと思うが・・それもかなうまい。
プレートには板持鼻燈台(昭和42年)と刻まれていた。

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高見島の北燈台
西側から燈台を振り返る。
さて、ここまできたのなら島の西側を歩いて、一周することにしようか・・
時間も2時間近くあるし・・と考えた。そして、西側の海岸へと足を踏み入れた。

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ところが景観が西と東では大きく違っていた。

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高見島 西海岸
崖から崩れ落ちた岩が積み重なる岩場とゴロタ石の続く海岸が交互に現れる。
歩きづらいことこの上ない。時間がかかる。
これは舟に間に合うのかな・・・という不安までわき出していく。
先ほどまでの楽勝気分がしぼんでいく。

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海岸に落ちていたのは・・・
焦り始めるといいことはない。
そんななかで岩の間に寝転がっていたのが・・・

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島遍路の石仏が波の侵食で海岸に・・
この方。ミニ四国の石仏さんがこんなところに寝転がっていました。
「慌てない 急がない。このわたし見なはれ」と・・
波に浸食され、もとあった場所から落ちて荒波にもてあそばれ流され・・
石仏のたどってきた道を思うと・・舟に遅れることなんかたいしたことないように思えてきます。今を楽しみ充実させるために・・のんびりゆこうよと思い直します。
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高見島西海岸
海岸の様相がまた変化します。岩牡蠣のカラをつけてタイルを張ったような岩たちがゴロンゴロンと転がります。

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高見島西海岸
こちらは岩を敷き詰めたロックガーデン。
なにか自然の作り出したアートのようです。

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高見島西海岸
こんなんはいかがでしょうか。
あなたの思いのままに掘ってください。
自然の贈り物ですと・・・。

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高見島西海岸
こちらは釈迦三尊像の制作中。制作者は「波」。完成予定は未定です。

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そんな海との「会話」を楽しみながら西海岸を南下します。
沖には、佐柳島を目指して定期船が進んでいきます。あの舟が引き返してきて高見島港に寄港します。それにできるなら間に合いますように・・

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高見島 西のお堂
いのりが通じたのでしょうか。
西のお堂が見えてきました。
ここまでが120分。後、港までは30分でいけます。
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高見島西のお堂からの佐柳島
歩いてきた北側方面を振り返って見ます。佐柳島と小島が見送ってくれます。
あの島までが香川県。その向こうの真鍋島は岡山県になります。
島が連なると言うことは海の中には山脈が連なっていると言うこと。峠を越える山風がキレットや風折れで強くなるように、島の間の瀬戸は流れがわき上がり海流が複雑になります。そのためこのあたりは「潮が涌く」→「塩飽」の島々と呼ばれてきました。その海を見守ってきたお堂です。

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備讃瀬戸航路
備讃瀬戸航路を東に向かう舟の一番奥に見えるのが象頭山。金毘羅宮が山腹に鎮座する山です。北前船の水夫達は、行き交う舟の上から航海の安全を祈ったと伝えられます。
 西向きのお堂からは瀬戸に沈む夕陽が美しいそうですが、そろそろ湊に向かいます。
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佐柳島港に入港する新なぎさ2
佐柳から引き返してきた「新なぎさ2」が入港してきました。これに乗って多度津に帰ります。
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島一周といういい思い出が作れたことに感謝。



梅雨入りには少し早い6月初旬に、高見島を訪れた。思いつきで目的地をころころと変えながら島を「徘徊」する。そして、たどり着いた一軒の豪邸(?)。その家の「ひろな」をのぞき込むと、こんな光景が広がっていた。

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反対側から見ると

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こんな感じ・・・・????
庭先の白い箱のような中にはいってみると、

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海を前面に全面の鏡張り。こんな光景が目に飛び込んできます。
そして、そこに広がる光景は・・

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西に向けて開け、与島や本島、そして瀬戸大橋が迎えてくれます。

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いったいこの仕掛けは?? 
私の「予備知識」をフル動員して浮かんできたのは「瀬戸芸の作品」=置き土産かなという推察。
それにしても、朽ちていく集落の中を「侘びさび」「滅びの美学」を味わいながら歩いてきて、その雰囲気の中にどっぷりと浸かっていた身にとっては、どんでん返しのオブジェでした。これをアートの力というものかしらと自分を納得させます。
この「テラス」に座って大休止。陽光の中、ウトウトと昼寝までしていました。
太陽光の熱さで目が覚めます。
もう一度、周囲を見回して見つけたのがこれ。
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高見島の民家の飾り瓦 しっぽが禿げた夫婦の鼠?

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こちらは馬?

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こちらはウサギでしょうか?

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広島方面を守るのは普段は仲の悪い犬と猿

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そして正面には吠える虎

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さらに母屋の屋根には、滝を登り龍をめざす鯉がはねています。
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最後は天女に見送られて、この「テラス」を去りました。
いろいろな発見があり、楽しい時を過ごさせていただきました。感謝

さて次は、どこへいこうかしらん。
歩きながら気付いたのは、人の気配がないということ。
浦の集落自体が「ゴーストタウン化」しているうな気配。
歩いても誰にも出会わない。

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高見島の集落跡
更地になった空間が至る所に点在する。

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屋根から下ろされた瓦がオブジェのように積み上げられている光景が到るところで目に付く。 
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 そういえばこの島が「琴島」として登場した「男はつらいよ」で、松坂慶子の父親でかつては外国航路の元船長がダンスを踊った家は、今はどうなっているのか・・・とふと思う。そして、先ほどの家が重なり合う。
1993年の封切りだったからもう四半世紀の時が流れている。

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大聖寺への分岐点までやって来た。

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ここが光男を連れ戻しにきた寅さんが、最初に松坂慶子に出会った場所だ。この階段を登っていくと
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大聖寺の山門
大聖寺の山門が見えてくる。

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ここは期待したとおりの光景を用意して待っていてくれた。
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季節は琵琶の熟する頃
おむすび山の讃岐富士と沖を行くコンテナ船
時間を気にせずボケーと眺めていた。

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大聖寺
お参りを済ませて、さてどうするかを思案する。
帰りの便は15:50。今は12:10分。約3時間半の時間がある。
蝶が花から花へ渡り歩くように、普段は目的地から目的地へ目的地へ渡り歩く習性がある私である。しかし、島ではそれはできない。舟が来るまでは、時間の「有効活用」を図ることを求められる。何事にもゆっくり、ゆっくりなのである。

 いろいろ考えた末に、島の北の端の燈台まで行くことにする。男木島の北端の燈台の雰囲気の良さに味をしめていたのである。
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高見島 浦の港
目標が決まれば行動あるのみ。
長い休息の結果、躰は軽くなった。島の北端の燈台目指して出発!

この時は、それが思った以上の「苦行」になるとは思ってもいなかった。
その様子は、また次回に・・・・・

塩飽諸島 高見島一周ウオーキング

快晴の青い空を見て山陽汽船の新しい舟に乗ることを思い立ち原付バイクを多度津港に走らせる。

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桟橋に入り、最後まで行き先を佐柳島か高見島か迷う。

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そして買ったのは近い方の高見島行きのチケット往復960円。
優柔不断さがますます進む今日この頃・・・自覚症状有り・・

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昨年就航した「なぎさ2」が「いらっしゃ~い」と迎えてくれる。
今治市の大三島の藤原造船で生まれた舟だ。総トン数は88屯。
小豆島や岡山港を結んでいる舟の1/10で小さくてかわいい。

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定刻9:05分出航。久しぶりの「船旅」に心はウキウキ。

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建造中の今治造船の巨大船に見送られながら沖合の高見島を目指す。
途中、備讃瀬戸南航路を横切るために西行する舟の進路妨害をしないように、航路を微妙に調節しながら進む。

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浦集落が見えてきた。小中学校跡やお寺の屋根などが識別できる。

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高見島港での乗客を降ろした後、舟はきびすを返し、
素早く軽やかに岸壁を離れ、
次の寄港地佐柳に向かうために港を出て行った。

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下船した数人の乗客は、私が舟を見送っている間に誰もいなくなった。観光客は私一人。孤独な岸壁と待合室である。
昨年の「瀬戸芸」の賑わいは何処に・・・?

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まずは地図を見ながら今日の戦略を考える。
どっちの島へ行くかも決めていなかったのだから計画性などは何もない。
私の頭の中にある予備知識を並べてみると
①塩飽人名の島で廻船で財を為した富裕層がたくさんいた島
②咸臨丸に乗り込み勝海舟とサンフランシスコに渡った水夫がいた
③その水夫の中には、幕末に榎本等とオランダに留学し、倒幕後は榎本と行動を共  にした者がいた。
④映画「男はつらいよ 46」の琴島の舞台となり、引退船長の娘役に松坂慶子が出演。この島の石垣と階段の風景が印象的であった。
⑤両墓制が残り、埋め墓と祀り墓が分離している。
⑥独特の食べ物として、伊予新宮など四国の奥地の集落で栽培された茶(発酵茶?) を用いた茶がゆが残っている。
  以上である。
我ながら予備知識はいいかげんにあるなとうぬぼれていると・・・
 「なお、島には売店も自動販売機もありませんので飲み物は各自用意してください」とある。自動販売機くらいはあるだろうと、持てる水量はペットボトル半分のお茶のみ。さてどうなることやら。

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そしてやってきたのは浜集落の両墓制の墓地。
人は自分の予備知識を確認したいものなのだ。
地蔵の背後が埋め墓だろうと推察。ここに埋葬し、白骨化した後に骨挙げして本墓に移す。沖縄にも同じ風習があった。骨揚げの際の「洗骨」をするのは女の役目とか・。火葬しないので薪が必要ない、木を切らなくていい、環境には優しい風俗やわなあ・・・と考えながら、本墓へ向かう。

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ひときわ目立つ墓に出会う。これが咸臨丸の水夫で、蝦夷共和国建国のために戦った男ではないかと思ったが・・・・
右側面にはまったく異なることが刻まれていた。
砲塔らしきものを見て気付くべきであったと反省。
うきうきするような成果は何もなく、島の西方探索を終えて、浦の集落に引き返すことにする。

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浦集落の島で唯一の民宿手前の道を登っていくことにする。
チャレンジ坂、アート・石垣・絶景のビューという言葉が少し軽く響いてくる。

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すぐ上が旧高見小・中学校。今は廃校になっている。

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野外研修センターになっているようで、野外炊飯所やシャワールームなどが整備されている。

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校庭のネットの向こうはすぐに海。
福山辺りの製鉄所に鉄鉱石を下ろしたのか喫水線が大きく海上部に出たバラ済み舟がゆっくりと備讃瀬戸航路を西に向かっている。

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それを眼下に見下ろしながら二宮金次郎は読書にいそしむ。
男子タルモノこうありたいものだと常々思ってはいるのだが・・・

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おむすび山の讃岐富士を後にして進む舟に何かしら惹かれ、長い間見送ってしまう。

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島の最高峰竜王山への分岐点にやって来た。
行くべきか行かざるべきか、悩む。
ペットボトルにはほとんどお茶はない。水分をもたないまま高低差250㍍50分の行動は、今の私にはきつい。
結論はすぐに出せた。「頂上は目指さない」である。
しかし、この石垣の緻密な作りはどうだ。インカ帝国クスコの町の石組みにも似ている。(行ったことはないが・・・)
どんなお宅か拝見させて貰う。

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むむ・・・ いったいこれは・・・何?

以下は次回へ(発行予定未定)

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  一番札所の長徳寺からさらに登ると、右に笠島への分岐が分かれる。左には、新しいお手洗いが完成間近。

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それをさらに登ると遠見山展望台への階段道が分岐する。

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5分ほどで巨石がむき出しになったかつての修行場であり、修験道者が火を燃やし目印や狼煙ともしたのではないかと思える「火打山」が2番札所。

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ここから展望台を経て笠島に下りていく散策路も整備されいるが階段道なので自転車では通行不可。いったん「新築手洗い所」のある笠島分岐まで引き返し、急坂をブレーキを一杯にしめながら下りていく。


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 すると、ブルーシートを張った接待所が見えてきた。ここの接待所でお話を伺うと塩飽大工の仕事ぶりを5年かけて調べ上げ、今春出版したばかりとか。早速、買い求めてお土産とする。善通寺や吉備国分寺の5重塔から金比羅山の朝日社、吉備津彦神社等、塩飽大工の仕事ぶりと痕跡を時間をかけて明らかにした労作だ。

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 笠島の家並みをいったん抜けて集落の西外れに、次の第3番の弥陀堂はあった。
お堂の中では、雨を避けて地元の「女子衆(おなごし)」さんたちが、食事中。
かつては、いろいろな講行事がここで行われたいたのだろう。
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ここの阿弥陀入来座像も市文化財で、こんな機会でないと拝ましていただくことはできない。改めて接待に対して共々感謝。

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笠島の家並みを抜けて専称寺へ向かう。
雨の中、笠をさしたお遍路さんが三々五々連れ立って遍路道を歩いて行く。
こんなにわか「タクシー」に出会った。これだと何人でも乗れるし、雨対策にシートも完備し狭いところにも入り込める。 島にはよく似合う。
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専称寺手前のお堂が4番札所。
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雨の中、次々と参拝者が訪れる。島出身の人たちの再開の挨拶話が弾む。
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第5番札所専称寺は、流刑となった法然が九条家の保護で一時、滞在した所とも伝えられ法然受難の聖地として、法然信仰者から「聖地」ともされているお寺。

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法然関係の書物を集めた一室も設けられていた。

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欄間には西条出身の彫刻師による見事な天女が舞っていた。
ここもかつて何回か訪ねたことはあるが内部に入り参拝させていただいたのは今回が初めて。
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雨宿りもかねて縁で休んでいると、島を一巡してきた人たちがひっきりなしに訪れてくる。西回りで回ると、笠島方面が最後になるようだ。春休みなのでお爺ちゃんやおばあちゃんに連れられたお孫さん達の姿も多い。

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寺の前の道には年寄りを務めた笠島の吉田家の大きな墓が並んでいる。

ここまでで札所めぐりは5つのみ。
しかし、雨は激しくなり、気温も4度まで下がってきた。濡れ鼠になって巡礼を続ける信仰心が残念ながら我々にはない。笠島の街並みをぶらりぶらり歩くことに「転身」することにして、昼食場所をさがすことにした。



  昨年は伊吹と粟島の島巡礼に参加。袋に入りきらぬような接待の品々を持ち帰る人たちを横目に、来年こそはと「リベンジ」に燃える我が配偶者。今年の島巡礼の日程に合わせて仕事のスケジュールも組んである力の入れよう。今年のスケジュールは以下の通り

 3月31日(金) 本島
 4月15日(金)~17日(日) 伊予大島
 4月17日(月) 広島
 4月27日(木) 伊吹島
 4月29日(土) 粟島 
まずは、今年最初の島巡礼となる本島に出向くことになった。
天気予報は9時頃から雨、気温は前日より10度近く下がり、2月下旬の冷え込みになるという。が寒さにめっぽう弱い配偶者が、やめようとは云わない。それならばと準備を整え、はやる気持ちを胸に丸亀港を目指す。港の近くの市営駐車場はガラガラ。スンナリ駐車でき、往復1100円の切符を握りしめて7:40分の本島行フェリーに乗り込む。すでに客室に入れないほどの巡礼者で埋まっていた。

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本島行きフェリー乗場(丸亀港)
おもいおもいのスタイルで本島をめざす。自転車を持ち込む人も
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 春風陽光の中、桜の花を眺めながらのんびりと島時間を体感しながらの島遍路という思惑とはちがってきていることを、甘く見ていた我々であった。


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外の温度は4度、冷たい風を避けながらデッキで30分の船旅を楽しむ?(耐える)

 本島港に着くと、港に案内テントが立ち、地図が配布され、フェリーで到着した人たちは瞬時の内に逃散した。みんな同じ方向に向かうものとおもっていたので少々当惑。何回も巡礼を行っている経験者や、島出身者の方の「故郷帰り」のついでも多いようだ。
 

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本島港
小雨の中、フェリーから急ぎ足で下船していく巡礼者たち

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人影が少なくなったフェリー乗り場に「レンタサイクル」の看板を発見。乗り場には、多くの自転車が残っている。竹富島でレンタサイクルのお世話になった配偶者は、これがええ」と指さす。昨年の粟島と同じ、歩き遍路からサイクル遍路に転身。

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本島で借りた自転車

 
雨がぽつぽつと落ちてくる中、雨具を着てスタート。まずは一番札所を目指す。1番から6番までは島の東北部の街並み保全地区である笠島周辺にあるようだ。地図を見ながら道標と登りを頼りの巡礼オリエンテーションサイクルの開始である。

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 塩飽勤番所の前を通過し
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最初の接待所は山根地区の文化センター(公民館?)の番外お接待所。

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建物入口横に臨時の参拝所が設けられている。昨年の教訓から
「我々はものもらいではない、へんどではない。あくまでも巡礼参拝者である。だから接待所では、せめて賽銭と般若心経を上げよう」

ということで配偶者と意見が一致。まずは、礼拝。
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読響が終わるのを待っていたかのように「お接待どうぞ・・」の声がかかり、テーブルにつく。ここでは手作りの赤飯と「こんこ(沢庵漬」が振る舞われた。「どこからきたんな」という挨拶から始まり、いろいろな話題に話が移る。
本島で感じたのは、地域全体で手作りの接待準備が行われているということ。市販の菓子やジュース等もあったが、手作りの赤飯を頂いた所も多かった。「昼飯前」に赤飯を頂き一番札所を目指す。
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坂の上の長徳寺
 遠見山展望所に続く急登を自転車を押して登る。
配偶者は「これなら電動自転車にしといたら好かった」と呟く。
しかし、それもわずか5,6分で長徳寺は見えてきた。
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長徳寺
下から見ると石垣の上に立つ砦のような印象を受ける境内。

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一番に目につくのはモッコクの巨木。枝を伸びやかに一杯に広げた姿が見ていて気持ちいい。参拝を済ませ、ここでも接待を受けて境内を散策する。

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お堂には藤原期の仏像が開示されている。

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長徳寺本尊
この島は、瀬戸内海交通の要衝として早くから九条家の荘園となり、その縁で土佐流刑に処せられた法然が立ち寄るなど、人と物と富の大動脈として資本蓄積も進んだ島であった。そのため古くからの寺院も多く、文化財に指定されている多くの仏像が残る。しかし、参観できるのは島遍路の行われるこの日だけという寺院も多い。この日に参拝すれば、普段は見ることの出来ない仏達に出会えることも、本島巡礼の楽しみの一つかもしれない。
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 雨が本降りになりだした。しかし、巡礼は始まったばかり。さてどうなることやら。
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岡山県・牛窓と、その南に浮かぶ前島です。

「耕して天に至る」様子が30年前の写真には見えます。

実際、今はどうなんでしょうか。見に行って来ました。

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キャベツ畑が海際から島の頂上まで連なっています。

そのなかに焼杉の黒壁が美しい農家がぽつんとあります。

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収穫の終わったキャベツ畑は、菜の花畑になっていました。

今、この島は「キャベツの島」として元気です。

放置された畑はありません。(*^_^*)

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出荷間際のキャベツにたっぷり水がやられています。

牛窓から海底管で農業用水が通じているようです。

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向こうに見えるのが小豆島。

よく見ると馬越の白い大観音も、うっすらと見えます。

直線で10㎞足らず。

ここと小豆島はかつては密接な関係にありました。


航空写真は下記から転用させていただきました。
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WF_AirTop.cgi?DT=n&IT=p
(国土地理院 空中写真閲覧システム)

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20年ぶりに笠島を訪ねる。
「町並み保存」が、どれだけ進んだのかを見たかった。

水軍が活躍した時代に、山城があった東山から町並みを見下ろす。
かつては、赤や青の「自己主張」した家もあった。
今は瓦の色が統一され、壁も焼き杉の黒でまとまっている。

「マッチョ(まちや)」通りに下りてみる。
石畳と白壁が心地よい。

なにより、他の保存地区に比べると静かだ。
区域内におみやげ店屋さんや飲食店が一件もない。

しかし、静かすぎて心配になってくる。
「商業化」に傾かないのはいいが、
「後継者」が生活していけないのではと・・。

町並み外れ、人の住まなくなった家壁の
ツタが遅い色付きを始めていた。

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日曜日に塩飽諸島の本島にいきました。
船を下りて、レンタサイクルを借りるために
入った待合室に飾ってあった写真です。

昭和30年代には、船が岸壁に着けないので
渡し船が活躍していたようです。
今と比べて、乗っている人の多さに驚かされます。

塩飽勤番所の見学を終えて、東に走っていると
瀬戸大橋が見えてきました。ここで一枚

次は、ある集落の港の祠と鳥居までやって来ました。
人の手を離れ、神様の遊ぶ庭のようにも見えました。

何かを見ようと目的を持って行くと、失望したり裏切られたり。
でも、ただ歩くだけという気持ちで行くと、
いろいろなものに出会える島巡りです。

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日曜日に塩飽諸島の本島に行ってきました。
岡山の児島港から、この新造船に乗って出港!

与島の北で瀬戸大橋をくぐります。
久しぶりに間近で見ました。
「すごいもん作ったな」と思いながら振り返ると・・。

備讃瀬戸航路をオレンジフェリーが西に向かっています。

問題は、その横の船舶信号(?)の文字です。
帰って来て、気がついて拡大してみると
「励」に見えます。
いったいどんな意味なんでしょうか?

「航路右側通行の奨励」ではないでしょうね。
私には分かりません。

また、分かる方がいらっしゃたら教えてください。

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