瀬戸の島から

カテゴリ: 讃岐近世史

前回は、生駒藩重臣の尾池玄蕃が大川権現(大川神社)に、雨乞い踊り用の鉦を寄進していることを見ました。おん鉦には、次のように記されています。
鐘の縁に
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、 為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」
裏側に
「国奉行 疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛  願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年
国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 
願主 尾池玄蕃
ここに願主として登場する尾池玄蕃とは何者なのでしょうか。今回は彼が残した文書をみながら、尾池玄蕃の業績を探って行きたいと思います。
尾池玄蕃について「ウキ」には、次のように記します。
 尾池 義辰(おいけ よしたつ)通称は玄蕃。高松藩主生駒氏の下にあったが、細川藤孝(幽斎)の孫にあたる熊本藩主細川忠利に招かれ、百人人扶持を給されて大坂屋敷に居住する。その子の伝右衛門と藤左衛門は生駒騒動や島原の乱が起こった寛永14年(1637年)に熊本藩に下り、それぞれ千石拝領される。
「系図纂要」では登場しない。「姓氏家系大辞典」では、『全讃史』の説を採って室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児とする。永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
出生については、天文20年(1551年)に足利義輝が近江国朽木谷に逃れたときにできた子ともいうあるいは「三百藩家臣人名事典 第七巻」では、義輝・義昭より下の弟としている。
 足利将軍の落とし胤として、貴種伝説をもつ人物のようです。
  尾池氏は建武年間に細川定禅に従って信濃から讃岐に来住したといい、香川郡内の横井・吉光・池内を領して、横井に横井城を築いたとされます。そんな中で、畿内で松永久通が13代将軍足利義輝を襲撃・暗殺します。その際に、側室の烏丸氏女は義輝の子を身籠もっていましたが、落ちのびて讃岐の横井城城主の尾池玄蕃光永を頼ります。そこで生まれたのが義辰(玄蕃)だというのです。その後、成長して義辰は尾池光永の養子となり、尾池玄蕃と改名し、尾池家を継ぎいだとされます。以上は後世に附会された貴種伝承で、真偽は不明です。しかし、尾池氏が香川郡にいた一族であったことは確かなようです。戦国末期の土佐の長宗我部元親の進入や、その直後の秀吉による四国平定などの荒波を越えて生き残り、生駒氏に仕えるようになったようです。
鉦が寄進された寛永五(1628)年の前後の状況を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 旱魃が続き,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手 
     尾池玄蕃が大川権現(神社)に鉦を寄進
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.

ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、満濃池築造にも取りかかった。
④同年に尾池玄蕃は大川権現に、雨乞い用の鉦を寄進している。
3人の国奉行の配下で活躍する尾池玄蕃が見えて来ます。

尾池玄蕃の活動拠点は、どこにあったのでしょうか?
尾池玄蕃の青野山城跡
三宝大荒神にある青野山城跡の説明版

丸亀市土器町三丁目の三宝大荒神のコンクリート制の社殿の壁には、次のような説明版が吊されています。そこには次のように記されています。
①ここが尾池玄蕃の青野山城跡で、西北部に堀跡が残っていること
②尾池一族の墓は、宇多津の郷照寺にあること
③尾池玄蕃の末子義長が土器を賜って、青野山城を築いた。
この説明内容では、尾池玄蕃の末っ子が城を築いたと記します。それでは「一国一城令」はどうなるの?と、突っ込みを入れたくなります。「昭和31年6月1日 文化指定」という年紀に驚きます。どちらにしても尾池玄蕃の子孫は、肥後藩や高松藩・丸亀藩にもリクルートしますので、それぞれの子孫がそれぞれの物語を附会していきます。あったとすれば、尾池玄蕃の代官所だったのではないでしょうか? 
旧 「坂出市史」には次のような「尾池玄蕃文書」 (生駒家宝簡集)が載せられています。
預ケ置代官所之事
一 千七百九拾壱石七斗  香西郡笠居郷
一 弐百八石壱斗     乃生村
一 七拾石        中 間
一 弐百八拾九石五斗   南条郡府中
一 弐千八百三十三石壱斗 同 明所
一 三千三百石八斗    香西郡明所
一 七百四拾四石六斗   □ □
  高合  九千弐百三拾七石八斗
  慶長拾七(1615)年 正月日                   
           (生駒)正俊(印)
  尾池玄蕃とのへ
この文書は、一国一城令が出されて丸亀城が廃城になった翌年に、生駒家藩主の正俊から尾池玄蕃に下された文書です。「預ケ置代官所之事」とあるので、列記された場所が尾池玄蕃の管理下に置かれていたことが分かります。香西郡や阿野南条郡に多いようです。
 生駒家では、検地後も武士の俸給制が進まず、領地制を継続していました。そのため高松城内に住む家臣団は少なく、支給された領地に舘を建てて住む家臣が多かったことは以前にお話ししました。さらに新規開拓地については、その所有を認める政策が採られたために、周辺から多くの人達が入植し、開拓が急速に進みます。丸亀平野の土器川氾濫原が開発されていくのも、この時期です。これが生駒騒動の引き金になっていくことも以前にお話ししました。
 ここで押さえておきたいのは、尾池玄蕃が代官として活躍していた時代は生駒藩による大開発運動のまっただ中であったことです。開発用地をめぐる治水・灌漑問題などが、彼の元には数多く持ち込まれてきたはずです。それらの解決のために日々奮戦する日々が続いたのではないかと思います。そんな中で1620年代後半に襲いかかってくるのが「大旱魃→飢饉→逃散→生駒藩の存続の危機」ということになります。それに対して、生駒藩の後ろ盾だった藤堂高虎は、「西嶋八兵衛にやらせろ」と命じるのです。こうして「讃岐灌漑改造プロジェクト」が行われることになります。それ担ったのが最初に見た「国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛」の3人です。そして、尾池玄蕃も丸亀平野方面でその動きを支えていくことになります。満濃池築堤や、その前提となる土器川・金倉川の治水工事、満濃池の用水工事などにも、尾池玄蕃は西嶋八兵衛の配下で関わっていたのではないかと私は考えています。
多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ

以前に紹介したように「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊文書)」に、尾池玄蕃が登場します
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言
七月朔日(1日)       (尾池)玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮(牛頭天王社)神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

以後の尾池玄蕃の文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日) 尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認
  滝宮神社への踊り込み(奉納)が7月25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を細かく与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。
 ここからは尾池玄蕃が滝宮牛頭天皇社(神社)への各組の踊り込みについて、細心の注意を払っていたことと、地域の実情に非常に明るかったことが分かります。どうして、そこまで玄蕃は滝宮念仏踊りにこだわったのでしょうか。それは当時の讃岐の大旱魃対策にあったようです。当時は旱魃が続き農民が逃散し、生駒藩は危機的な状況にありました。そんな中で藩政を担当することになった西嶋八兵衛は、各地のため池築堤を進めます。満濃池が姿を見せるのもこの時です。このような中で行われる滝宮牛頭天皇社に各地から奉納される念仏踊りは、是非とも成功に導きたかったのでないか。 どちらにしても、次のようなことは一連の動きとして起こっていたことを押さえておきます。
①西嶋八兵衛による満濃池や用水工事
②滝宮牛頭天王社への念仏踊り各組の踊り込み
③尾池玄蕃による大川権現(神社)への雨乞用の鉦の寄進
そして、これらの動きに尾池玄蕃は当事者として関わっていたのです。
真福寺3
松平頼重が再建した真福寺

 尾池玄蕃が残した痕跡が真福寺(まんのう町)の再建です。
 真福寺というのは、讃岐流刑になった法然が小松荘で拠点とした寺院のひとつです。その後に退転しますが、荒れ果てた寺跡を見て再建に動き出すのが尾池玄蕃です。彼は、岸上・真野・七箇などの九か村(まんのう町)に勧進して堂宇再興を発願します。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったようです。ここからは、尾池玄蕃が寺院勧進を行えるほど影響力が強かったことがうかがえます。
 しかし、尾池玄蕃は生駒騒動の前には讃岐を離れ、肥後藩にリクルートします。檀家となった生駒家家臣団が生駒騒動でいなくなると、真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重です。その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。それが現在地(まんのう町岸の上)に建立された真福寺になります。
  以上をまとめておきます。
①尾池玄蕃は、戦国末期の動乱期を生き抜き、生駒藩の代官として重臣の地位を得た
②彼の活動エリアとしては、阿野郡から丸亀平野にかけて活躍したことが残された文書からは分かる。
③1620年代後半の大旱魃による危機に際しては、西嶋八兵衛のもとで満濃池築堤や土器川・金倉川の治水工事にあったことがうかがえる。
④大川権現(神社)に、念仏踊の雨乞用の鉦を寄進するなどの保護を与えた
⑤法然の活動拠点のひとつであった真福寺も周辺住民に呼びかけ勧進活動を行い復興させた。
⑥滝宮牛頭天王社(神社)の念仏踊りについても、いろいろな助言や便宜を行い保護している。
以上からも西嶋八兵衛時代に行われ「讃岐開発プロジェクト」を担った能吏であったと云えそうです。
 尾池玄蕃は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
玄蕃の子孫の中には、高松藩士・丸亀藩士になったものもいて、丸亀藩士の尾池氏は儒家・医家として有名でした。土佐藩士の尾池氏も一族と思われます。
    
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
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 前回は戦後の満濃池土地改良区が財政危機から抜け出して行く筋道を押さえました。今回は土器川右岸(綾歌側)の土地改良区がどのように、用水確保を図ったのかを見ていくことにします。テキストは「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」です。

土器川と象頭山1916年香川県写真師組合
土器川と象頭山(1916年 まんのう町長尾)

土器川は流路延長42㎞で、香川県唯一の一級河川ですが、河川勾配が急なため降雨は洪水となって瞬時に海に流れ出てしまいます。そして扇状地地形で水はけもいいので、まんのう町の祓川橋よりも下流では、まるで枯川のようです。
飯野山と土器川
土器川と飯野山(大正時代)
しかし、これはその上流の「札ノ辻井堰(まんのう町長尾)」から丸亀市岡田の打越池に、大量の用水を取水しているためでもあります。近世になって開かれた綾歌郡の岡田地域は、まんのう町炭所の山の中に亀越池を築造し、その水を土器川に落とし、札ノ辻井堰から岡田に導水するという「離れ業的土木工事」を成功させます。これは土器川の水利権を右岸側(綾歌側)が持っていたからこそできたことです。左岸の満濃池側は、土器川には水利権を持っていなかったことは以前にお話ししたとおりです。

土器川右岸の水利計画2
「亀越池→土器川→札の辻井堰→打ち越池」 
土器川は綾歌の用水路の一部だった 
 第3次嵩上げ事業の際に満濃池側は、貯水量確保のために綾歌側に土器川からの導水を認めさせる必要に迫られます。そのための代替え条件として綾川側に提示されたの、戦前の長炭の土器川ダム(塩野貯水池)の築造でした。それが戦後は水没農家の立ち退き問題で頓挫すると、備中地池と仁池の2つの新しい池の築造などの代替え案を提示します。こうして綾歌側は、土器川の天川からの満濃池への導水に合意するのです。今での事業案を土器川左右両岸に分離し、次の2つの事業として実施されることになります。
左岸の満濃池側の事業を「県営満濃池用水改良事業」
右岸の綾歌側の事業を「県営土器川綾歌用水改良事業」
こうして右岸(綾歌側)のために策定されたのが「香川県営土器川右岸用水改良事業計画書」 (1953年)です。この計画によると

満濃池右岸水系
①「札ノ辻井堰」を廃止してそのすぐ上流に「大川頭首工」を新築
②あわせて旧札ノ辻井堰から打越池や小津森池、仁池につながっている幹線水路を整備
③さらには飯野地区までの灌漑のために飯野幹線水路を整備
 しかし、大川頭首工の新設と幹線水路の改修だけでは綾歌地区2200㌶の灌漑は、賄いきれません。必要な用水量確保のために、考えられたのが次の二つです
④亀越池のかさ上げ
⑤備中地池と仁池の2つの新しい池の築造
備中地池竣工記念碑
備中地池竣工記念碑 1962(昭和37)年

この右岸地区の用水計画を行うために作られたのが、「亀越池土地改良区 + 飯野土地改良区 + 羽間土地改良区」など8つの土地改良区の連合体で構成された香川県右岸土地改良区連合(以下連合)のようです。
 土器川右岸用水改良事業は、次のように順調に進んでいきます。
1954(昭和29)年度 打越池幹線水路改修、
1956(昭和31)年度 仁池幹線水路改修
1957(昭和32)年度 小津森池幹線水路改修
1959(昭和34)年度 大川頭首工建設
1962(昭和37)年度 備中地池新設
1963(昭和38年)度 飯野幹線水路改修
一方、亀越池の嵩上げ工事は、用地買収が難航して着工できない状況が続きます。そんな中で昭和38年度末に連合の事業は全面ストップしていまいます。
亀越池
亀越池
  順調に進んでいた工事がどうしてストップしたのでしょうか?
土器川右岸用水改良事業の資金は、国・県が75%、地元25%の負担率でした。地元負担金は各土地改良区から徴収する賦課金でまかなわれることになります。定款によれば、賦課金のうち備中地池や大川頭首工など水源地事業は、全事業費を各土地改良区の受益面積で按分し、水路事業は事業費20%を全土地改良区で負担、残りの80%は関係土地改良区が負担するというルールになっています。そのため幹線水路の改修工事の場合、当幹線水路の土地改良区が賦課金を負担できないと、工事は進められなくなります。
 そうした中で、1955(昭和30)年に飯野村が丸亀市に合併されると、飯野土地改良区からの賦課金の徴収が滞るようになります。さらに1960(昭和35)年には羽間土地改良区が連合を脱退することを決め、以降賦課金を納入しなくなります。こうして連合全体の財政が悪化し、ついに事業そのものを続けることが出来なくなります。
 そうした中で農林漁業金融公庫に対する償還金が支払えずに未払い分がふくれ上がっていきます。
対応策として連合は1965(昭和40)年12月、降賦課金を納入しない飯野、羽間の両土地改良区連合と丸亀市に対し訴訟を起こします。これに対して、高松地方裁判所は裁判による決着をさけ、県当局に調整を依頼します。たしかに飯野土地改良区の賦課金滞納、羽間土地改良区の賦課金未納は法律違反です。しかし、羽間土地改良区側には次のような言い分もありました。
①大川頭首工が建設されたために羽間地区の水源である「大出水」が枯渇したこと
②羽間池導水路工事に対する連合の助成が不履行であること
 また、丸亀市も次のように主張します。

「これまで飯野村が助成してきた飯野土地改良区の賦課金は、合併以降は丸亀市が代わって助成する約束になっていると、飯野村はいうけれど、市当局の認識はそのような合意は明文上成立していない。それに事業受益地の末端にある飯野地区では、亀越池のかさ上げが実現していない現状では、幹線水路を改修しても、事業の用水増強効果はほとんど期待できない。」

さまざまな事情を考慮した結果、裁判所は和解による解決の途を奨めます。
和解は1973(昭和48)年8月になってようやく成立します。この間、連合は両土地改良区の受益地に対して用水供給のための措置を講じる一方で、1966(昭和41)年3月には、総会において事業の打切りを決定します。そして亀越池かさ上げに代わる水源に、香川用水を宛てることにします。土地買収が必要な亀越池かさ上げでは1立方メートル当たりの水価 220円に対し香川用水では60円ですむ計算が出されています。香川用水の方が1/3以下も安いのです。こうして香川用水に頼って、自前による用水確保(亀越池嵩上げ)を放棄することになります。これは賢明な決定だったようです。この年には、香川用水建設規成会が設立されます。翌年に早明浦ダムの本体工事に着手して香川用水の実現も間近という背景がありました。
   前回もお話ししたように土地改良区の財政悪化問題は、綾歌や満濃池土地改良区にかぎったことではありませんでした。ある意味では全国的現象でした。その背景には高度経済成長期以降における農民層の階層分化という歴史的変化があったと研究者は指摘します。高度経済成長下の農村からは大量の人口流出が進みます。その反面で、兼農家が増え続けたことはよく知られています。生産意欲が高く土地改良などに積極的な専業農家層に対し、兼業農家は「土地持ち労働者」と呼ばれました。つまり農地に対する資産保有的意識が強いけれども、土地改良投資などには出し惜しみをする農家層だとされます。嵩上げ事業や用水路整備などの土地改良事業は、兼農家層には大きな負担や重圧になります。土地改良区の財政的弱体化の根底には、このような 兼業農家の激増という日本農業の構造的変動があったと研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
①戦前に策定された満濃池第3次嵩上げ事業は、戦時下の食糧生産増強という国策を受けて、土器川両岸の改良計画であった。
②しかし、戦後の計画では目玉となる「土器川ダム」が頓挫し、土器川から満濃池への導水については、右岸(綾歌)側の強い反発を受けるようになった。
③そこで県は新たな貯水量確保手段として「備中地池・仁池の新築 + 亀越池嵩上げ」を提案し、綾歌側の合意を取り付けた。
④こうして土器川右岸(綾歌側)は、独自の計画案で整備計画が進められるようになった。
⑤しかし、一部の土地改良区からの賦課金未納入や脱退が起こり、整備計画は途中中止に追い込まれた。
⑥この背景には、計画中の香川用水を利用する方が経済的に有利だという計算もあった。
⑦こうして綾歌地区は亀越池の嵩上げ工事に着手することなく、香川用水の切り替えを行った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」


かつて「弥生期=ため池出現説」が出されたことがありました。讃岐において、これを積極的に展開したのが香川清美氏の「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)でした。香川氏は弥生式遺跡とため池の立地、さらに降雨時の洪水路線がどのように結びついているかの調査から、丸亀平野における初期稲作農耕がため池水利へと発展した過程を仮説として次のように提唱しました。まず第一段階として、昭和27年7月の3回の洪水を調査し、丸亀平野の洪水路線を明らかにします。この洪水路線と弥生式遺跡の立地、ため池の配置を示します。

丸亀平野の水系

 ここから次のようなことを指摘します
①弥生遺跡は、洪水路線に隣接する微高地に立地
②ため池も洪水路線に沿って連なっている
③ため池は「うら成りひょうたん」のように鈴成りになっており、洪水の氾濫が収束されて最後に残る水溜りの位置にある。
④これらのため池は、築造技術からみると最も原始的な型のもので、稲作農耕初期に取水のための「しがらみ堰」として構築されたもので、それが堤防へと成長し、ため池になったものと推測できる。
⑤水みちにあたる土地の窪みを巧みに利用した、初期ため池が弥生時代末期には現れていた。
この上で次のように述べます。
 日本での池溝かんがい農業の発生が、いつどのような形で存在したかは、まだ充分な研究がなされておらず不明の点が多い.いまここで断定的な表現をすることは危険であろうが、稲作がほぼ全域に伝播した①弥生の末期には、さきに述べたような初期池溝かんがい農業が存在し、その生産力を基盤にして古墳時代を迎え、その後の②条里制開拓による急激な耕地の拡張に対応して、③本格的な池溝かんがいの時代に入ったと考えられる.このことは、④中期古墳の築造技術とため池堤防の築造技術の類似性からも推察されることである。あの壮大な古墳築造に要した労働力の集中や、石室に施された精巧な治水技術からみて、中期古墳時代以降では、かなりの規模のため池が築造されていたと考えられる。

要点しておくと
①弥生末期には初期灌漑農業が存在したこと
②条里制開拓期に急激な耕地面積の拡大があったこと
③律令時代の耕地面積の拡大に対応するために本格的な灌漑の時代に入ったこと
④中期古墳の築造技術はため池堤防に転用できることから、古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。
讃岐のため池(四国新聞社編集局 等著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

以上を受けて『讃岐のため池』第一編は、丸亀平野の山麓ため池と古代遺跡の関係を次のように記します。

  丸亀平野の西端に連なる磨臼山・大麻山・我拝師山・天霧山の山麓丘陵地帯は、平形鋼剣・銅鐸の出土をはじめ、多くの弥生遺跡が確認されている。その分布と密度からこの一帯は、讃岐でも有数の弥生文化の隆盛地と考えられる。(中略)同時に磨臼山の遠藤塚を中心に、讃岐でも有数の古墳の集積地である。この一帯の山麓台地で耕地開発とため池水利の発生があった

 1970年代に『讃岐のため池』で説かれた「弥生期=ため池出現説」は、現在の考古学からは否定されているようです。
どんな材料をもとに、どんな立論で否定するのでしょうか。今回はそれを見ていくことにします。
 最初に丸亀平野の稲作は、どのような地形で、どのような方法ではじまったかを見ておきましょう。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割 四角部分が対象エリア

 丸亀平野でも高速道路やバイパスなどの遺跡発掘が大規模に進む中で、いろいろなことが分かってくるようになりました。例えば初期稲作は、平地で自然の水がえやすいところではじめられています。それは土器川や金倉川・大束川・弘田川など作りだした扇状地地形の末端部です。そこには地下水が必ずといっていいほど湧き出す出水があります。この出水は、稲作には便利だったようで、初期の弥生集落が出現するのは、このような出水の近くです。灌漑用水は見当たりません。
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺旧練兵場遺跡

 また、善通寺の旧練兵場遺跡などは、微高地と微高地の上に集落が建ち並び、その背後の後背湿地が水田とされています。後背湿地は、人の力で水を引き込まなくても、水田化することができます。静岡の登呂遺跡も、このような後背湿地の水に恵まれたところに作られた水田跡だったようです。そのため田下駄などがないと底なし沼のように、泥の中に飲み込まれてしまいそうになったのでしょう。
登呂遺跡は当初は灌漑施設があったとされていましたが、それが今では見直されているようです。
登呂遺跡の場合、水田のまわりに木製の矢板がうちこまれ、水田と水田とのあいだは、あたかも水路のように見えます。そのため発掘当初は、人工的に水をひき、灌漑したものとされました。しかし、この矢板は、湿地帯につくられた水田に泥を帯りあげ、そのくずれるのを防ぐためのものだったというのが今では一般的です。矢板と水路状の遺物は、人工的な瀧漑が行なわれていたことを立証できるものではないというのです。そうすると、弥生期の稲作は、灌漑をともなわない湿地での水稲栽培という性格にとどまることになります。

『讃岐のため池』の次の主張を、現在の考古学者たちがどう考えているかを簡単に押さえておきます。
①弥生末期には初期灌漑農業が存在したこと
②条里制開拓期に急激な耕地面積の拡大があったこと
③律令時代の耕地面積の拡大に対応するために本格的な灌漑の時代に入ったこと
④中期古墳の築造技術はため池堤防に転用できることから、古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。

②については、かつては条里制は短期間に一気に工事が推し進められたと考えられていました。
そのために、急激な耕地面積の拡大や用水路の整備が行われたとされました。しかし、発掘調査から分かったことは、丸亀平野全体で一斉に条里制工事が行われたわけではないことです。丸亀平野の古代条里制の進捗率は40%程度で、土器川や金倉川の氾濫原に至っては近代になって開墾された所もあることは以前にお話ししました。つまり「条里制工事による急速な耕地面積の拡大」は、発掘調査から裏付けられません。 
 ③の「灌漑水路の整備・発展」についても見ておきましょう。
丸亀平野の高速・バイパス上のどの遺跡でも、条里制施行期に灌漑技術が飛躍的に発展したことを示すものはありません。小川や出水などの小さな水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものばかりです。「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」という説を改めて確認するものです。 「大規模な溝(用水路)」が丸亀平野に登場するのは平安末期なのです。
   ここからは古代の満濃池についても、もう一度見直す必要がありそうです。
大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力は古代にはなかったことを考古学的資料は突き付けています。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」とされますが「大きな溝」が出現しない限りは、満濃池の水を下流に送ることはできなかったはずです。存在したとしても古代の満濃池は近世のものと比べると遙かに小形で、現在の高速道路付近までは水を供給することはできなかったということになります。
   
④中期古墳の築造技術は、ため池堤防に転用できることから古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。
 これについてもあくまで推測で、古代に遡るため池は丸亀平野では発見されていません。また丸亀平野の皿池や谷頭池などもほどんどが近世になって築造されたものであることが分かっています。「古墳時代後期にかなり規模のため池が築造」というのは、非現実的なようです。
高速道路・バイパス上の遺跡からは、江戸時代になって新たに掘られて水路はほとんど見つかっていません。
その理由は条里制施工時に作られた灌漑用水路が、姿を変えながら現在の幹線水路となり維持管理されているからと研究者は考えています。近世になって造られた満濃池を頂点とする丸亀平野の灌漑網も基本的には、それまでの地割を引き継ぐ水路設定がされています。そのため古代以来未開発であった条里制の空白地帯や地割の乱れも、従来の条里制の方向性に従った地割になっています。つまり従来の地割に、付け加えられるような形で整備されたことになります。これが現在も条里制遺構がよく残る丸亀平野の秘密のようです。しかし、繰り返しますが、この景観は長い時間を経てつくられたもので、7世紀末の条里制施工時に全てが出来上がったものではないのです。
丸亀平野の灌漑・ため逝け

 以上をまとめておきます。
①丸亀平野の初期稲作集落は、扇状地上の出水周辺に成立しており、潅漑施設は見られない。
②善通寺王国の首都とされる旧練兵場遺跡には、上流の2つの出水からの水路跡が見られ、灌漑施設が見られる。しかし、ため池や大規模な用水路は見られない。
③古墳時代も用水路は弥生時代に引き続いて貧弱なもので、大量の用水を流せるものではなく、上流の出水からの用水程度のものである。
④律令国家の条里制も一度に行われたものではなく「飛躍的な耕地面積の拡大」は見られない。
⑤用水路も弥生時代と比べて、大規模化したした兆候は見えない。用水路の飛躍的な発展は平安末期になってからである。
⑤ため池からの導水が新たに行われたことをしめす溝跡は見当たらない。
⑥新たに大規模な用水路が現れるのは近世以後で、満濃池などのため池群の整備との関連が考えられる。
⑦この際に新たに掘られた用水路も、既にある用水路の大型化で対応し、条里制遺構を大きく変えるものではなかった。
以上からは「弥生期=ため池出現説」は、考古学的には考えられない仮説である。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    香川清美「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)。
  『讃岐のため池』
  「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」

                                
前回は今から90年前に香川県を襲った大干魃の様子を見ました。今回は、これをローカル紙であった香川新報がどのように報道しているかを見ていくことにします。テキストは、「辻 唯之  讃岐の池と村 香川大学経済論叢第68巻 第 4号 1996年 3月」です。 

1934年の旱魃 香川県
1934(昭和9)年の降水量(多度津測候所)

1934年の降水量比較 香川県
1934年の降水量比較
まず復習として1934年の降水量を見ておきましょう。上表からは次のような事が分かります。
①冬場に雨が少なかったため、春先になっても、各ため池は満水状態ではなかったこと
②4月には例年並の降水量があったが、満濃池などを満水にすることはできなかったこと
③6月20日の県の調査によると2割以上のため池が、貯水量が半分にも達しなかったこと。
④5月6月の空梅雨と水不足のため、田植えができないところがでてきたこと
⑤7月末から約1ヶ月、雨が降らず猛暑が続いたこと。

讃岐の大干魃新聞記事 昭和9年
干ばつを報じる香川新報(1934年)

1934(昭和9)年7月1日の香川新報は次のように記します。
「もう梅雨は明けてしまった」
香川県では十二日の入梅以来、潤雨のあったのは十六日と十九日午後から二十日迄と二十四日午後一寸降ったくらいだった。例年のような雨が一切なく梅雨明けという半夏生も後三日で如何様にも雨が少ないので田植えのまだ出来て居らぬ田地も多く。…」
水不足で田植えができない水田が多いと伝えています。このころから香川新報の紙面には、次のような旱魃の記事が目立ちはじめます。
 7月 6日
 県の農務課の調査によれば、田植えの終わった水田は県全体の水田のほぼ半分で、大川郡の相生村など17の町村では水源が枯渇し植え付け不能。
 7月 7日 
県当局は緊急干害対策協議会を開催、満田県農事試験場長は農会の技術指導員などに対し、仮植えでもいいからとりあえず苗代の苗を本田に移しかえるよう督励した。しかし、本田自体が水がなく乾いているから、仮植えをしてもその干害対策が大変である。同じく県農事試験場長から四五寸に切断せる藁稗其他之に類するものを株下一面に散布し、日光の遮断をし、地面の乾燥を防ぐこと、稲田の乾燥甚だしくて枯死に瀕せむとする場合には、井水其の他を利用し土瓶又は杓を以て少量宛にでも根元に濯水すること」などの注意事項が披露された。
 7月9日 
満濃池の水位が55尺から30尺に減じた。あと10日雨がなければ「証文ユル」の実施も止むなしという。もし実施されれば、大正2年以来のことになる。
 7月 10日
 栗林公園の池の水を譲り受けて灌漑されている高松市宮脇町の水田は、池水の減少とともに旱魃がいちじるしく、農民たちは県の公園課に一層の池水の流用を陳情、高松市農会長も木下知事に窮状を訴えた。
 7月 13日 
仏生山署は香南14ヵ町村の田植えの進行状況について、一宮、多肥、大野の3ヵ村では田植えがまだ半分も終わっておらず、一宮村では314町歩の水田のうち田植えの終わった水田はわずか100町歩しかないと報告した。

このような中で、7月13日夜半から14日早朝に「恵みの雨」が降ります。
雷鳴をともなったはげしい雨で、乾き切っていた水田は息を吹き返します。遅ればせながら田植えも、数日でほぼ完了の見とおしが出てきます。7月14日の香川新報は、田植えのはじまった田園の光景を入れて、大見出しで次のように報じます。
降った降った黄金の雨、もう農村は大丈夫」

 しかし、雨はこれっきりでした。その後は雨ふらないまま7月が終わります。8月に入っても晴天が続き、雨は一向に降りません。こうして盆前には、7月段階よりさらに深刻な水不足に襲われます。
8月18日の香川新報の見出しは、
「農村の惨状 目も当てられず旱魃非常時 学童から老人まで総動員で濯水作業に汗みどろ」
「天はまだ疲弊の農村に恵みを投げず、雨を見ざることここ1ヶ月余りに亘り、ジリジリと油照りの炎天つづきで、農村には恐る可き大早魁が予想され、農民は唯だ雲の動きを望んで青息吐息に萎れている。いづれを見ても田園には砲列のように濯水車がならんで涸れなん水に空車がきしる。殊に水不足の香川郡多肥、太田、一の宮方面では小学児童から爺さん婆さんまで総出動の活動で、眼前に楽しい孟蘭盆を控えて今はみぐるみ団子になりそうである。村の青年少女等がこの分では憧れの盆踊りも物にはならずとはいへ、皆々一言の不平も云わずに一心不乱で稲の看護、汗みづくとなりコトコトと濯水車を踏んでいる。」
と、盂蘭盆を前にしてもその準備もできず、濯水車を踏む人々の姿が報じられています。
足踏み揚水機
足踏揚水機(灌漑水車)

以後、旱魃記事が連日、次のように続きます。
8月21日
旱魃の被害田、三豊郡内耕地七千六百町中、亀裂枯死四百町歩、水不足で白田一千町歩、惨状目も当てられずか(白田は、涸れて稲が白くなること)
8月 22日
旱魃依然ノ農村の危機、県下の被害回一万町歩、ここ一週間で稲の運命の黒白を決す 木下知事、東に西に干害実況を視察。
8月24日
牢晴恨し、渇水地獄編、西讃七千の溜池全部サッパリと底を払ふ 東讃一万三千の池、一合平均に貯水、満濃池も足が立つ惨状。
8月26日
挺子でも動かぬ炎帝、雨に耳をかさぬ 無水地獄に農民なく 県下の被害回二万町歩、枯死一千町歩に上がる 今後七日間雨なき場合の枯死、三千町歩、けふ県の正式発表。
8月28日
大満濃池も気息奄々  砂漠のような姿で近く大戸の閘も抜、もはや、この8月末の時点における旱魃の稲作への影響は決定的というべく、県当局が8月29日現在の被害状況について発表したところによると、稲の枯死した水田は 23日時点の1000町歩からその5倍の5000町歩へと一挙に広がった。このまま事態が推移すれば、水田の半分近くがダメになると予想される。
                       (下図)


1934年の旱魃 香川県被害状況

そんな中で8月31日の夜半から9月1日の早朝にかけて、雨が降ります。
「潤雨、万霊を潤す 生気萌立つ県下農村」

と9月2日の香川新報は報じます。この雨で一部の水田では立ち枯れ状態だった稲が立ち直りますが、最終的には表 4にみるとおり、香川の稲作は惨たんたる状況でした。
1934年の旱魃 香川県被害状況2
1934年の香川県の稲作の干ばつ被害状況
この年の収穫高 76万石は前年の 107万石に対して約 30%減
となっています。
被害を大きくした要因の一つに研究者が挙げているのが、ため池の貯水機能の低下です。
当時は大正の小作争議で、地主たちの農業ばなれの傾向が強まっていました。つまり、地主達の農地に対する管理意欲が低下して、地主が今まで行ってきたため池の維持管理がなおざりがちになっていたと云うのです。
 この点について前年の県会で県当局に対して、ため池の施設改善を求めた議員の発言が残っています。

「県内耕地五万町歩に対する使命を持っている溜池が一万七千有余もあるようでありまするが、この溜池が一割及至二割位は土砂の堆積で水量を減退して居るものが殆どと言うても宣かろうと思ひます。多きは三割及至四割位減水をして居る所も往々あるのであります」

ここには、浚渫(泥さらえ)が長く行われずに放置されていて、貯水量が低下しているため池が多数あることが指摘されています。ため池の浚渫を長く怠ってきたことも、水不足に拍車をかけたようです。

文庫 百姓たちの水資源戦争 江戸時代の水争いを追う | 渡辺 尚志 | 絵本ナビ:レビュー・通販

干ばつになると、水争い(水論)が各所で激化するのが讃岐の常です

枯れていく稲を、眼前した村人たちは、雨乞いをします。その一方、我が村、我が部落に少しでも多くの水を確保するために「我田引水」の水争いを行うようになります。それが香川新報の紙面に登場するのは、7月のはじめのころからです。前回紹介できなかった記事を、時系列に並べて見ておきましょう。

昭和9年香川県水論一覧表1
1934(昭和9)年の香川県の水争い一覧(7月・8月前半)

7月 3日
(三豊の)大谷池は 6月 21日にユルを抜き、池掛かりは全区域とも水田の6分を見当にして、第 1回の田植えを開始した。ところが上流の萩原村は、上流という地勢上の優位を利用して次々に田植えをすすめ、さらに水路を堰止めてしまった。そこで、下流の中姫村とはげしい水論となった。
7月 7日
香川郡多肥村の田井部落の出水は、木田郡の林村にも水掛かりがある。田井部落の農民たちは旱魃にそなえて、出水の周辺に数個の堀割りを新設した。そのため日ごとに細まりつつあった出水の水はさらに細まって、ついに林村に水が来なくなった。新設の堀割りを埋めるよう田井部落に掛け合ったが入れられそうになく、林村は県に陳情するつもりであるという。

 7月8日
小田池の末流に位置する円座村は上流の川岡村と交渉の結果、7月 4日から 3日間、田植え水の配水をうけることとなった。が、乾き切った水田は水を吸うばかりで田植えはいっこうにすすまず、そこで円座村は配水期間の延長をもとめて再度の交渉をもった。しかし、交渉が難行し要求が入れられないとみるや、円座村の農民たちは大挙してトラックで交渉の現場に急行、あわや大乱闘という寸前に仏生山署の警察官が駆けつけ、ひとまずその場はおさまったという。

 7月 10日
7月8日の夜中、実光寺池の水を発動機で引き揚げようとしていたひとりの男を、実光寺池掛かりの農民たちが大勢で袋叩きにしているところを、瀧宮署の署員が発見。この男を連行して取り調べたところ、この男は篠池掛りの農民で、枯死しつつある自分の回の稲を見るに忍びず、つい盗水におよんだとのことでした。。

 7月14日に慈雨が降ったことは、先ほど見たとおりです。この雨で、水争いのことはぴたりと紙面から見えなくなります。それが8月になっても雨が降らないと、再び水争いの記事が紙面に溢れるようにでてきます。それは前回に紹介しましたので、ここでは省略します。

昭和9年香川県水論一覧表2
1934(昭和9)年の香川県の水争い一覧(8月後半)

 1934年の香川県を襲った旱魃については、以上に見てきた通りです。ところが5年後の1939年に、これを上回る「想定外の大旱魃」を経験することになります。
1939(昭和14)年の降水量676ミリは平年の半分です。そして米の収穫高も、前年の半分まで落ち込みます。そして深刻な影響を、香川の農村にあたえたのです。旱魃対策に無為無策では、社会不安をもたらし、県の指導者に対する批判にもつながります。こうして県は、干ばつ対策の目玉政策として、満濃池の第3次嵩上げ工事に取り組むことになります。そういう意味では、1934年と39年の大干魃が、満濃池の第3次嵩上げ工事を後押ししたといえるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
辻 唯之  讃岐の池と村 香川大学経済論叢第68巻 第 4号 1996年 3月

満濃池堰堤の石碑
満濃池の3つの石碑
満濃池堰堤の東側に建っている石碑巡りを行っています。
 ① 長谷川翁功徳之碑(明治29年以降)
 ② 真野池記    (明治 8年)
 ③ 松崎渋右衛門辞世の歌碑碑文
前回は①について、長谷川佐太郎が満濃池再築の功績により、朝廷から藍綬褒章を賜ったのを機に建立されたものであることを見ました。忘れ去られようとしていた長谷川佐太郎は、この石碑によって再評価されるようになったともいえる記念碑的なものでした。
今回は、②の「真野池記」です。この石碑は、神野神社に登っていく階段の側に建っています。昨日見た①の長谷川翁功徳之碑が大きくて、いかにも近代の石碑という印象なのに対して、自然石をそのままつかった石材に、近世的な感じがします。しかし、当時の人達には「大きいなあ」という印象を与えたはずです。
   この石碑は明治3年の満濃池再築を記念して建立されたものです。
 幕末に決壊した満濃池は、14年後の明治3年に、長谷川佐太郎の尽力で再築されます。これを記念して建立された石碑になるようです。そういう経緯からして、この石碑も長谷川佐太郎顕彰碑的なものと、私は思っていました。実際に見ていくことにします。

P1260747

弘仁八年旱自四月抵八月郡懸奏之僧空海暮蹟也平時京寓十二丑三月命於是乃甘臨民乙己成霊汪元暦元五月朔洪淵涌天破堤而謂池内村寛永三夏九十五日不雨生駒高俊臣西嶋之尤廓度之五歳創貴鋪八辛未果編戸歓賞文化十季丈為猪辰豹変水啼之嫌囃恟後指役先寇攘丁械摸五表拾克騏羅霧集上下交征利讃法庫有信直者厭夥粍訴請冑以庵治石畳方欲傅無疆嘉永二秋経始明春半済同五継築頻崩潰至七寅春梢畢菊以石泰之不能釘用嘗庸水候雷流井読潜瓜洞出而樋外漫滑布護豊囲同白七月五日格九日肆陳渫漑ド大残害黎首琥泣荒時信直幄轄反側将再封因九合三藩丸亀多度津失三為垂戻故木移浹辰為赤地笙涌気浚井設梓夙夜橘挽妻夫汲々老稚配分炎熱如燃汗如沸希水臍疲渇望洽祈雨燎矩奉百神偶甘雷堪憐田如鰐口剖然則何益矣慶唐二八月七日蕩々森漫懐山資丘琴平屋橋落雨町暴浦老弱男女暁眺泣血漣如溺回計家財大木乏々詠連典北邨旋陀羅鳩漂流越市郷為空動浩魅浅襲穀深為諸坪允巨妃莫比農商歎憚不逞書契焉明々陣頼總朝臣在屯之初九陽徳兼玄黄元々如父母思服如衆星共之三田深田木崎障溜三新池.欲使萬湖穿岩壁先寒川郡使兼勒沼試可最元吉松崎祐敏慨然以一手欲経営之遭戎東愈労働十七暦明治二九月谷本信誼督発旱工既成者翌稔也壬申大膜源泉混々拝穂之瑞敞閉復蘇踊躍不焉余環匝徴徹塞尾張有人鹿池沈波及八万石云雖然械浸吐繕同州甲費也如十市者天下一懸高五万石育磐石防聊数十間双沃欧昔昔空海不究勲天乎命平君地平悠遠省國等賞鴻恩均乾坤公俊徳尖被六合嗚呼可謂累緒不朽神功者也矣
千秋来暦萬濃池為野為原嘉永時百姓傷心将廿載天成磐賓不窮乖鳳鳥翻東海雛離万里嗚仁人民父母親去子何行真野乃池者池之大王動無石械示早流水能白憧
 明治八年歳次乙亥秋九月 矢原正敬撰兼題額男正照書并建
意訳変換しておくと 
①弘仁八年(817)旱魃は4月から8月まで続いたので、国司は朝廷に大池を築くことを奏上した。よって、池を築いたのは僧空海の業績である。この時に、彼は都に住んでいたが3月に、朝廷からの命を受け讃岐に帰り、人民たちに接した。人々は子が親を慕うように働くこと七か月、弘仁十二年(822)に立派な池が完成した。

②元暦元年(1184)5月1日に大洪水があって天まで水が届き、堤は破壊された。(その後、池跡は開墾され村が出来たので)、この地を池の内と言う。

③寛永三年(1626)夏、95日間に渡って雨が降らない。丸亀城主生駒高俊は、家来の西嶋之尤に、満濃池再築を命じ、五年にして完成させた。りっぱな鍬を創作し、辛未には新しく戸籍を作る。民はその治世を賞賛した。

④文化十年(1813)は旱魅と洪水とがともに襲ってくる恐ろしい災難の年であった。もっこで土を運ぶか運ばない内に、雨で土が削り取られて流されてしまう。池の配水口の所に五基の功績を表わした碑を誇らしげに建てた。しかし、修復に集まった人々は上下こもごも自分たちの利益に目先を奪われ、修復が遅々として進まない。このため改修を官に請願し、庵治石を畳のように敷き詰める工法を採用した。

⑤嘉永二年(1849)、農閑期の秋から工事を始めて来春になると休む。これを繰り返して嘉永五年(1852)まで工事を続けたが、七度崩壊した。そのため、遂に底樋を石で造ることにした。(底樋石造化工法の採用)。ところが石なので釘を用いることができず、配水口に敷き瓦を並べたりすることで石同士を接合し、樋の外側が滑らないように布で護ったりした。しかし、7月5日から9日に、この装置が水で洗われ、ぶっつかり合って堰堤は崩壊した。そのため池の水が大流出し、下流に人きな被害をもたらした。大民たちは泣き叫び、田畑は荒れ、転々と寝返りをうって転げ回り、安んじて生活ができない。

 ⑥(満濃池が再建されず放置されたままなので)、高松・丸亀・多度津など三藩は、旱魃と水害によってしいたげられた。満濃池の水が来ないので、樋を造り、井戸をさらえて朝早くから夜遅くまで夫や妻は、つるべで水を汲む。老人や子供は暑い中で汗を流し、また雨が降るように神々に明々と燈明をあげ雨乞いをしている。神を憐んで大雨が降った。しかし益はなかった。
 慶応二年(1866)8月7日、大雨で濁流となった水は山を包み丘に登り、琴平の鞘橋を越て、各町に流れ込んだ。老若男女は泣き叫び、血を流し溺れる人の数を知らない。また大木も浮かび連なって流れて行く。洪水は村々に拡がって穀物を襲い土橋を越えて流れて行く。
 ⑦この時の高松藩主の源頼総朝臣(高松藩主松平頼総)は、人の行うべき九つの徳を構え、民衆から子の父を慕うように心服されていた。彼は三田と深田と木崎の三箇所に取水堰を新に造った。また池の配水口のため岩盤に穴を開ける案を計画し、寒川郡の弥勒池で試させた。
松崎祐敏は、ひとりで満濃池再築の難事業に挑んだ。苦労は17年間続き、明治2年9月谷本信誼の監督のもとに完成した。混々と流れ出る水は、稲田を蘇生させた。
 ⑧私が池の周囲を見回ってみると水面に高々と水門(ゆる)の装置が見える。尾張の国に入鹿池という八万石を潤す池があるというけれども、この十千池(とおちのいけ)とも呼ばれる万農池は池懸り五万石で配水口は岩盤を穿ち、石が堤防数十間に敷き詰められ肥沃な土地を造る日本一の池である。
 空海が功績を独占せずに天が君の徳に応じて与えたものである。悠然として国の土木工作に従事したことは天地の深い恵みと貴公の高い徳によるものであって、全世界に神の功績として不朽である。千年来の万濃池を野のため原のために、また清き水思う百姓の心になりて二十年の長き間、打盤
を穿ち続けたことよ。おおとりのひなを離れて万里の空を天翔る如く人民の父母と慕いし徳高きあなたは今何処に行かれる。真野池は池の大王なり、岩盤に流れ走る水は白き大のぼりなり。
碑文の内容を整理しておきます。
①前文で、空海の満濃池再築の業績を語り。
②それが平安末期に決壊した後は修復されず、池跡は開墾され「池之内村」ができていたこと
③江戸時代初期に生駒藩主高俊が西嶋八兵衛に命じて満濃池を再築させたこと。
④文化十年(1813)の災難の年に「庵治石敷詰め工法」を行ったこと
⑤嘉永二年(1849)の底樋石造化工法の採用経過と、地震による決壊
⑥満濃池決壊後の旱魃と大水の被害
⑦高松藩主松平頼総の立案と命を受けて、執政松崎渋右衛門祐敏が弥勒池で岩盤に底樋を通したこと
⑧十市池(真野池)への賛美

この内容には、いろいろな誤謬や問題があるように私には思えます。それを挙げておきます。
①②③は、満濃池の由来を記す史料がどれも触れるもので、特に問題はないようです。
④の「庵治石敷詰め工法」については、「満濃池史」などにも何も触れていません。これに触れた史料が見当たらないのです。また、香川県史年表などを見ても、この年が旱魃・大水の「災難の年」とはされていません。2月27日に金毘羅代権現金堂起工式行われたことが「金刀比羅宮史料」に記されているのが、私の目にはとまる程度です。この記事自体が、疑わしいことになります。
⑤の嘉永二年(1849)の底樋の石造化工法の採用経過については、それまでの木造底樋がうまくいかないので、途中から工法を替えて石造化にしたとあります。これも事実認識に誤りがあります。この時の工事責任者である長谷川喜平次は、当初から石造化で工事をすすめていたことは以前にお話ししました。
⑥の満濃池決壊後の状況については、治水的機能を果たしていた満濃池が姿を消すことで、洪水が多発したことは事実のようです。
⑦については、当時の高松藩主の善政を賞賛し、底樋石穴計画も藩主の立案と命であったとします。そして池の復旧に奔走したのは、執政松崎渋右衛門で「ひとりで満濃池再築の難事業に挑んだ」と記します。これは誤謬と云うよりも、長谷川喜平次の業績をかすめ取る悪意ある「偽造」の部類に入ります。
⑧ そして最後は、激情的な「十市池(真野池)賛美」で終わります。
満濃池 長谷川佐太郎
長谷川佐太郎
これを読んで最初に気づくのは、長谷川佐太郎の名前がどこにも出てこないことです。
この時の満濃池再築の立役者は、長谷川佐太郎です。彼が立案・陳情し、私財を投じて進めたことが残された史料からも分かります。ところがこの碑文では、長谷川佐太郎を登場させないのです。この石碑を長谷川佐太郎顕彰碑と思っていた私の予想は、見事に外れです。意図的に無視しているようです。心血を注いで満濃池を再築した後に建立されたこの碑文を見て、長谷川佐太郎はどう思ったでしょうか? 立ち尽くし、肩を落として、唖然としたのではないでしょうか。そして、深い失意に落ち込んだでしょう。
 前回に満濃池再築後の長谷川佐太郎は「忘れ去られた存在だった」と評しました。別の視点から見ると、長谷川佐太郎を過去の人として葬り去ろうとする人達がいたのかもしれません。そのような思惑を持つ人達によって、この「真野池記」の碑文は建立されたことが考えられます。この碑文が満濃池再築の最大功労者の長谷川佐太郎を顕彰していない記念碑であることを押さえておきます。
それでは、これを書いたのはだれなのでしょうか?
石碑の最後には、次のようにあります。
明治八年歳次乙亥秋九月 矢原正敬撰兼題額男正照書并建

ここからは失原正敬の撰文、題額は正敬の染筆、碑文の染筆と碑の建立は、正敬の子息正照と記されています。失原正敬と、その息子正照とは、何者なのでしょうか?
矢原正敬(まさよし 1831~1920)のことが満濃町誌1069Pに、次のように記されています。
矢原家はその家記によると、讃岐の国造神櫛王を祖とし、その35代益甲黒麿が孝謙天皇に芳洒を献じて酒部の姓を賜り、797(延暦十六)年から那珂郡神野郷に住み、神野山にその祖神櫛王を奉斎したと伝えている。
その子正久は矢原姓を称し、808(大同三)年に神野社及び加茂社を再建した。また、弘仁年間に空海が満濃池築池別当としてその修築に当たった際、この地方の豪族としてこれに協力した。
52代正信は、1371(応安四)年に向井丹後守・山川市正と共に神野神社を建て、1393(明徳4)年に神野寺を再建した。
その後裔、矢原又右衛門正直・正勝らを経て、69代正敬となった。正敬は、初めは赤木松之助と称したが、のち矢原家に入籍して矢原理右衛門正敬と改め、西湖又は雲窓と号した。正敬は資性鋭敏で文学を好み、漢学に通じ、詩歌・華道をたしなみ、土佐派の絵を能くするなど多趣多芸の文人であった。
 1902(明治35)年から明治41年まで神野村村会議員を勤め、また仲多度郡郡会議員も勤めた。大正九年八月十七日、八十九歳で没した。
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
満濃池の下の矢原邸(讃岐国名勝図会)
  ここに書かれているように矢原家は、古い家系を誇る家柄のようです。
満濃町誌や満濃池史などには、矢原家のことが次のようなことが記されています。
①神櫛王の子孫であること
②古代の満濃池築造の際に、空海は矢原家に逗留したこと
③中世には、満濃池跡地にできた池之内村の支配者で、神野神社や神野寺を建立したこと
④近世には、生駒家の西嶋八兵衛による満濃池再築に協力し、その功績として池守に就任したこと
⑤しかし、天領池御料設置で代官職が置かれると、その下に置かれ、17世紀末には池守職を離れたこと。
①の神櫛王伝説自体が中世に造られた物語であることは、以前にお話ししました。つまり、神櫛王の子孫と称する人達は、中世以後の出自の家系になります。矢原家を古代にまで遡らせる史料は何もありません。よって②については、そのままを信じることは出来ません。
 矢原家が史料によって確認できるのは近世になってからです。そこで矢原家は満濃池の密接な関係を主張し、池守であったことを誇りにしていました。その当主が、長谷川佐太郎の業績を全く無視するような内容の碑文を刻んだ理由は、今の私には分かりません。
 ただ以前にお話ししたように、底樋の石造化を進めた長谷川喜平次の評価が分かれていたように、長谷川佐太郎についても、工事終了時点では評価が定まっていなかったことは考えられます。そのような中で、矢原家の当主は長谷川佐太郎の業績を記さず、記録から抹殺しようとしたことは考えられます。しかし、その後朝廷からの叙勲を長谷川佐太郎が得ます。
「勲章を貰った人を、地元では粗末に扱っていると云われていいのか」
「真野池記」には、長谷川佐太郎のことは何も書かれていないぞ、あれでいいのか」
「満濃池再築に、尽力した長谷川佐太郎を顕彰する石碑を建てよう」
という流れが生まれたのではないかと私は考えています。
そういう意味では「① 長谷川翁功徳之碑」は、「② 真野池記」を否定し、書き換える目的のために建立されたものと云えるのかも知れません。

以上をまとめておきます。
①明治3年に、長谷川佐太郎の尽力で満濃池は再築された。
②しかし、直後に建立され「② 真野池記」には、長谷川佐太郎の名前は出てこない。
③意図的に長谷川佐太郎の業績を無視するような内容である。
④この碑文を起草者は、かつての満濃池の池守の子孫である矢原正敬とその子・正照である。
⑤明治29年に長谷川佐太郎は朝廷から叙勲を受けるが、これを契機に彼に対する評価が変わる。
⑥そのような機運の中で満濃池再築の最大の功労者である長谷川佐太郎を正当に評価するために、新たな石碑が建てられることになった。
⑦それが「① 長谷川翁功徳之碑」である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / りんてん舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
参考文献
満濃池史398P 真野池記 
満濃池名勝調査報告書73P 資料近代


満濃池 現状図
 
昨年の12月に、2つの団体を案内して「ミニ満濃池フィルドワーク」を行いました。その時に、たずねられたのが堰堤の石碑に何が書いてあるかです。石碑の内容を一言で、説明するのはなかなか大変です。そこでここでは、敢えてその全文と意訳文を載せておくことにします。
満濃池の堰堤の東の突き当たり附近には、3つの碑文があります。

満濃池堰堤の石碑

右から順番に記すと次の通りです。
 ① 松坡(しょうは)長谷川翁功徳之碑(明治29年以降)
 ② 真野池記(明治3(1870)年以降)
 ③ 松崎渋右衛門辞世の歌碑碑文
まず①の石碑から見ていきます。
この碑は明治29(1896)年11月に長谷川佐太郎の功績を讃え、朝廷より藍綬褒章及び金五十円を賜ります。これを機に、長谷川佐太郎への再評価の機運が高まります。その機運の中で建立されたと碑文の最後尾に記されています。明治の元勲・山縣有朋が題字、子爵品川彌二郎の撰文、衣笠豪谷の書になります。それでは全文を見ておきます。
P1160061
            長谷川翁功徳之碑
  長谷川翁功徳之碑 
          従一位勲一等候爵山鯨有朋篆額

壽珊道禰於徳依於仁遊於蔡蓋長谷川翁之謂也翁名信之字忠卿琥松披称佐太郎讃岐那珂郡榎井村豪皇考練・和似姚為光氏翁為大温良有義気好救人急 夙憂王室式微輿日柳燕石美馬君田等協力廣交天下郎藤本津之助久阪義助等先後来議事文久三年有大和之挙翁奥燕石整軍資将赴援聞事敗奉阜仲小に郎来多度津翁延之姻家密議徹夜高杉晋作転注来投翁血燕石君田等庇護具至既而事覚逮櫨菖急使者作揮去燕石君田下獄翁幸得免替窺扶助両家族 及王政中興翁至京都知友多列顕職勧翁仕會翁固辞面婦素志専在修満濃池池為國中第一巨浸自古施木閉毎年歳改造為例嘉永中変例畳雑石作囃隋漏生蜜水勢蕩蕩決裂堤防漂没直舎人畜亘数十村田時率付荒蕪爾来十四年旱潜瑛萬民不聊生翁恨肺計奎修治屡上書切請明治三年正月得免起工高松藩松崎佐敏倉敷懸大参事島田泰夫等克輔翁志朧閲川告竣単工十四萬四千九百九十六人荒蕪忽化良田黎民励農五稼均登藩侯賞 翁功許称姓帯刀且購米若芭翁撰為区長後為満濃池神野神社神官廿七年叙正七位翁多年去庫國事頗傾儲蓄且修満濃醜蕩粛家産遂為無一物亦隅踊焉洋洋焉縦心所之楽書書好徘句不敗以得襄介意尚聞義則趨聞仁則起可謂偉矣廿八年満濃池水利組合贈有功記念章於翁且為翁開賀宴會者三百五十鈴大寄詩歌連徘頌翁嫡片亦無笑廿九年十一月朝廷賞翁功賜藍綬褒章及金五拾圓云郷大感懐仁慕義青謀建碑請文予乃序繁以斟
 明治廿九年 従二位勲二等子爵品川輛二郎撰 衣笠豪谷書
 P1260752
長谷川翁功徳之碑

意訳変換しておくと
人の志は道により、徳は仁において、遊は芸による。長谷川翁の名は信之、字は忠卿、号は松披佐太郎と称す。讃岐那珂郡榎井村の豪農である。いみ名は和信、母は為光氏。翁の人となりは、温良義気で、よく人の危急を救った。
特に幕末の王室の衰微を憂い、日柳燕石・美馬君田等と協力して広く天下の士と親交を結んだ。松本謙三郎・藤木津之助・久坂義助らが前後して琴平にやって来て、密議をこらした。文久三年の大和の天誅組の義挙に際しては、燕石と共に軍資を整えて、大和に行こうとしたが、時既に遅く果たすことができなかった。桂小五郎が多度津にやって来た際には、親戚の家に迎えて、夜を徹して話し合った。後に、高杉晋作が亡命してくると、燕石や君田らと共に疵護した。これが発覚し、晋作は逃亡させたが、燕石・君田は捕えられ高松で投獄された。翁は幸に逮捕をまぬかたので、ひそかに両家族を扶助した。
 明治維新になると、京都に上って顕職を求める知友もいて、翁に仕官を勧める者もいた。しかし、翁は固辞して故郷に帰った。その志は、満濃池の修築にあった。池は讃岐第一の大池であったが、木製の底樋のために三十年に一回は改修工事が必要であった。さらに嘉永中(1854)底樋の石材化工事が行われた際に、工法未熟で漏水を生じた上に、宝永の大地震のために堤防が決裂した。そのため民家人畜の漂没するものが数十村に及び田畑は荒れるに任かせた状態になっていた。以来14年旱魃になっても水はなく、作物はできず人々は苦労していた。翁は慨然として、再築計画を何度も倉敷代官所に上書請願した。明治3年正月になってようやく政府の免許が下り、起工した。高松藩の松崎佐敏・倉敷懸大参事島田泰夫などが、翁の志を支援して五か月竣工人夫十四万四千九百九十六人荒地は良田と化し、零細農民に至るまで五穀等しく稔った。藩は翁の功績を賞し、姓を与え帯刀を許し、且つ賜米若干包を下賜した。
こうして、翁は撰ばれて区長となり、後には満濃池神野神社の神官となった。そして明治27年に正七位に叙せられた。翁は多年に渡って国事に尽力し、自分の財力を傾けて満濃池を修築し、家産をなくし無一物となるとも一人静に心に従って俳句を好むなど、貧乏を意に介さなかった。また義におもむき仁に立つなど偉大というべき人物である。
 明治28年、満濃池水利組合は有功記念賞を贈り、翁のため祝賀会を開いた所、参加者は350人を越えた。翁の徳を讃えた29年11月、朝廷は翁の功を賞して藍綬褒章(金五十円)を賜う。これを知った地元の人達は、翁の義を慕い石碑建立を相謀り、私に請文を依頼した。
本文の内容を整理しておきます
①段目は、長谷川佐太郎の出自と人なりです
②段目は、勤王の志士としての活動で、特に日柳燕石とともに高杉晋作の支援活動
③段目は、満濃池再築に向けての活動
④段目は、再築後の隠居生活

現在の視点からすれば②段目は不要に思えるかもしれませんが、戦前では「勤王の志士」というのは、非常に価値のある言葉でした。戦前の皇国史観中心の歴史教育の中で、華々しく取り上げられたのは「皇室に忠義を尽くした人々」です。その中で、南北朝の南朝の楠木正成や、幕末の薩摩の西郷隆盛や長州の高杉晋作は、功労者として教科書に取り上げられます。これに倣って、各県の郷土史教育でも「忠信愛国」の郷土の歴史人物が選定されていきます。その中で香川で取り上げられるのが琴平の日柳燕石です。「高杉晋作を救って、そのために下獄していた」というのが評価対象になったようです。また、戊辰戦争中に戦死しているのも好都合でした。その人間が生きている内は、なかなかカリスマ化できません。こうして日柳燕石についての書物は、伝記から詩文にいたるまで数多く戦前には出版されています。彼の裏の顔である「博徒の親分」というのは、無視されます。その燕石と活動をともにし、獄中の燕石を支援したというのは、書かずにはおれない内容だったのでしょう。
③段目の満濃池再築については、記述に誤りはありません。
④段目には「満濃池を修築し、家産をなくし無一物となるとも一人静に心に従って俳句を好むなど、貧乏を意に介さなかった。」とあります。区長とありますが戸長です。しかし、長谷川佐太郎はこれを、すぐに辞退しています。そして、「家産をなくし無一物となるとも、一人静に心に従って俳句を好む」生活を送っていたのです。長谷川佐太郎は忘れ去られていたのです。それが明治27年に正七位に叙せられ、その2年後には藍綬褒章を受賞します。これを契機に周囲からの再評価が始まるのです。その出発点として、姿を見せたのがこの碑文だと私は思っていました。ところが裏側に刻まれた建立年月をみて驚きました。

P1260755
松坡長谷川翁功徳之碑の裏面
   【碑文 裏】
 昭和六年十月吉祥日建之
    滿濃池普通水利組合管理者
     地方事務官齋藤助昇
       建設委員 田中 正義
        仝   谷 政太郎
        仝   塚田 忠光
        仝   三木清一郎
        仝   三原  純
  香川県木田郡牟礼村久通
  和泉喜代次刻

   碑文表の最後には「翁の徳を讃えて明治29年11月、朝廷は翁の功を賞して藍綬褒章(金五十円)を賜う。これを知った地元の人達は、翁の義を慕い石碑建立を相謀り、私に請文を依頼した。」とあります。碑文は、その前後に建立されたはずなのですが、現在の石碑の裏側には、「昭和六年十月吉祥日建之」とあります。そうすると、この碑文は2代目のもので再建されたものなのでしょうか。この辺りのことが今の私には、よく分かりません。ご存じの方がいれば、教えて下さい。
P1260752

最後の詩文の部分です。
 入賓始築萬農池 弘仁奉勅空海治 寛永補修雖梢整
 嘉永畳石累卵危 安政蟻穴千丈破 慶唐旱僚萬家飢
 松波老叟振挟起 壹為國土借家貨 章懐底績農抹野
 承前善後策無遺 曽悼亡友管祠宇 趨義拒肯畏嫌疑
 人富居貧率天性 蓋忠報國心所期 不侯櫨傅遭顕達
 山来天爵大宗師
意訳変換しておくと
 大賞年間に始めて満濃池を築き、
弘仁年間に時の天皇の勅を承って空海が手を入れ直し、
寛永年間に補修を加えて漸く整備されたけれども、
嘉永年間に石を畳んだものの崩れやすく、極めて危険な状態であり、
安政年間には堅固な堤防も蟻のあけた小さな穴がもととなり崩れてしまい、
慶応年間の日照りと長雨による洪水によって多数の人々は食物を得られずひもじくなった。
松披老翁が袂を振るって一大決心をして満濃池の修治に起ち上がったのは、
偏(ひとえ)に国のためであり、どうして家の資産を使用することを惜しむことがあろうか。
深く懐の底に思いをいたして事にあたったので農民達は野で手を叩いて喜び、
前を引き継いで善後策にも遺す所がなく、
かつて亡友を悼んで神社を営み、
義に趣いてそのためには嫌疑を畏れることはなかった。
富を去って貧に居るという天性に従い、
国のために忠義を尽すことは心に期す所であり、
世間の評判や立身出世を待たなかったことは、                   
生まれつきの徳に由来する大宗師といえよう。

長谷川佐太郎顕彰碑
        満濃池と松坡長谷川翁功徳之碑
碑文前の台石には、現代文で次のように記します。

  P1160062
        【台石】 松坡長谷川翁功徳之碑
 長谷川佐太郎は松坡と号し幕末から明治にかけて満濃池の再築に家財を傾けて尽力した人である。榎井村の豪農の家に生まれ勤王の志士日柳燕石と交流し幕吏に追われた高杉晋作を自宅にかくまうなど幕末には勤王運動にも挺身している
 一方、安政元年に決壊した満濃池は、その水掛かりが高松・丸亀・多度津の三藩にまたがり一部に天領も含まれていた。このため復旧には各藩の合意を必要としたが意見の一致を見ないまま十六年のあいだ放置されていた。この間長谷川佐太郎は満濃池の復旧を訴えて、倉敷代官所や各藩の間を奔走するが目的を果たせないままやがて幕府は崩壊する。
 彼は好機到来とばかり勤王の同志を頼って上京し維新政府に百姓たちの苦難を切々と訴え早期復旧の嘆願書を提出した。この陳情が功を奏し、高松藩の執政松崎澁右衛門の強力な支援のもとに明治二年着工にこぎつけ同三年に竣工した。この間彼は一万二千両にも及ぶ私財を投入し晩年には家屋敷も失い清貧に甘んじている。この碑は彼の功績を称え 明治の元勲山形有朋が題字を、品川弥次郎が撰文したものである。扇山
3つの碑文の内の最初に長谷川佐太郎のものを紹介しました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
讃岐人物風景 8 百花繚乱の西讃 四国新聞社 大和学芸図書 昭和57年

後日の補足
後日に、讃岐人物風景8の「長谷川佐太郎」には、次のように記されているのを見つけました。

このように私財をすべて投入し満濃池修築に献身するとともに動皇家としても立派に活動した。二面の顔を持つ佐太郎は、明治五年(1872年)香川県第五十八区戸長に任ぜられた。数カ月後に辞し、同年八月には松崎渋右衛門の祠を建て松崎神社とした。その後、神野神社の神官に任ぜられ、明治二十七年(一八九四年)には正七位が贈られた。
 明治二十八年(1895年)には満濃池水利組合の推薦で有功記念章が贈られて、三百五十人の参加で慰労の宴が催された。毎年五十円ずつを佐太郎に贈りその労をねぎらうことになった。翌二十九年(一八九六年)七十歳のとき、藍綬褒章が授与されたのである。
 大正四年(一九一五年)人々は佐太郎の功績をたたえ松崎神社に合祀し、昭和六年十二月六日佐太郎頌徳碑を池畔に建立し永遠にその徳をたたえている。
 国と郷土に私財をなげうって奔走した佐太郎も晩年は不運のうちに生涯を閉じた。しかしその心意気は末永く人々の心に残り生き続けている。
 子孫と称する人が大阪、奈良、東家から丸尾家を訪れたのも数年前のことであり、佐太郎の妹が多度津へ嫁いだ先は薬局を営んでいたともいわれる。
 佐太郎は、明治三十一年(一八九八年)一月七日、七十二歳で象頭山下のふるさとで没し、いまもこの地で眠り続けている。 
これらを年表化すると次のようになります。
①1894(明治27)年 正七位が贈呈。
②1895(明治28)年 満濃池水利組合の推薦で有功記念章が贈呈
③1895(明治28)年 第1次嵩上げ工事実施
④1896(明治29)年 70歳のとき、藍綬褒章が授与
⑤1898(明治31)年 1月7日、70歳で没。
⑥1915(大正 4)年 佐太郎の功績をたたえ松崎神社に合祀
⑦1930(昭和 5)年 第2次嵩上げ工事
⑧1931(昭和 6)年 12月6日 佐太郎頌徳碑を池畔に建立
⑨1941(昭和16)年 第3次嵩上げ工事
 ここからは次のようなことが分かります。
A ③の第1次工事の直前に、水利組合が褒賞していること。しかし、石碑は建立されていないこと。
B ⑦の第2次工事直後に、石碑は建立されたこと。
ここからは、嵩上げ工事が行われる度に、長谷川佐太郎の業績が再評価されていったことがうかがえます。それが1931年の石碑建立につながったとしておきます。長谷川佐太郎に藍綬褒章が授与されて、すぐに建立されたのではないことを押さえておきます。別の見方をすれば長谷川佐太郎の業績褒賞を、嵩上げ工事推進の機運盛り上げに利用しようとする水利組合の思惑も見え隠れします。
参考文献 
満濃池史391P 松坡長谷川翁功徳之碑 
満濃池名勝調査報告書73P 資料近代

教科書では、秀吉の検地と刀狩りによって兵農分離が進み、村にいた武士たちは城下町に住むようになったと書かれています。そのため近世の村には武士は、いなくなったと思っていました。しかし、現実はそう簡単ではないようです。

香川叢書
香川叢書
  師匠からいただいた香川叢書第二(名著出版1972年)を見ていると、「高松領郷中帯刀人別」という史料が目にとまりました。
これは、宝暦年間の高松藩内の郷士・牢人などの帯刀人を一覧化したもので、その帯刀を許された由来が記されています。ここには「郷中住居之御家来(村に住んでいる家臣)」とあって、次の12名の名前が挙げられています。

高松藩 郷中住居の御家来
        高松領郷中帯刀人別(香川叢書第2 273P)

郷居武士は、藩に仕える身ですが訳あって村に居住する武士です。
近世初頭の兵農分離で、武士は城下町に住むのが普通です。分布的には、中讃や高松地区に多くて、大内郡などの東讃にはいないようです。彼らは、村に住んでいますが身分的には、れっきとした武士です。そのため村内での立場や位置は、明確に区別されていたようです。 藩士は高松城下町に居住するのが原則でしたが、村に住む武士もいたようです。
どうして、武士が村に住んでいたのでしょうか。
高松藩では、松平家の一族(連枝)や家老などを務める「大身家臣」には、専属の村を割り当てて、その村から騎馬役や郷徒士・郷小姓を出す仕組みになっていたと研究者は推測します。
 高松藩の郷居武士12名について、一覧表化したものが「坂出市史近世編上 81P」にありました。
高松藩の郷居武士1

この一覧表からは、次のようなことが分かります。
①宝暦期と万延元(1860)を比べると、3家(*印)は幕末まで存続しているが、他は入れ替わっている
②宝暦期の郷居武士では、50石を与えられた者がいて、他も知行取である
③これに対して万延元年では、知行取でも最高が50石で、扶持米取の者も含まれている
④ここからは全体として郷居武士全体の下層化がみられる
⑤宝暦期では「御蔵前」(蔵米知行)で禄が支給される者と、本地が与えられている者、新開地から土地が与えられている者のに3分類される
⑥宝暦期は、家老の組織下にある大番組に属する者が多いが、万延元年には留守居寄合に属する者が多くなつている
以上から郷居武士の性格は時代と共に変遷が見られることを研究者は指摘します。
高松藩の郷居武士分布図
郷居武士の分布(1751年) 
郷居武士の分布は高松以西の藩領の西側に偏っています。これはどうしてなのでしょうか?     
特に阿野郡・那珂郡に集中しています。これは、仮想敵国を外様丸亀京極藩に置いていたかも知れません。次のページを見てみましょう。

高松藩帯刀人 他所牢人。郷騎馬
高松領郷中帯刀人別 郷騎馬・他所牢人代々帯刀

次に出てくるのが郷騎馬です。これは武士ではなく帯刀人になります。その注記を意訳しておくと、
(藩主の)年頭の御礼・御前立の間に並ぶことができる。扇子五本入りの箱がその前に置かれ、お目見えが許される。代官を召し連れる。
一 総領の子は親が仕えていれば、引き続いて帯刀を許す。
一 役職を離れた場合は、帯刀はできず百姓に戻る。
郷騎馬は、連枝や家老格に従う騎乗武士で、馬の飼育や訓練に適した村から選ばれたようです。役職を離れた場合には百姓に戻るとあえいます。郷騎馬として出陣するためには、若党や草履取などの従者と、具足や馬具・鈴等の武装も調えなければなりません。相当な財力がないと務まらない役目です。それを務めているのが6名で。その内の2名が、那珂郡与北村にいたことを押さえておきます。

続いて「他所牢人代々帯刀」が出てきます。

高松藩帯刀人 他所牢人
高松領郷中帯刀人別・他所牢人代々帯刀
牢人は、次の3種類に分かれていました。
①高松藩に仕えていた「御家中牢人」
②他藩に仕えていたが高松藩に居住する「他所牢人」
③生駒家に仕えていた「生駒壱岐守家中牢人」
②の他所牢人の注記例を、上の表の後から2番目の鵜足郡岡田西村の安田伊助で見ておきましょう。
祖父庄三郎が丸亀藩京極家山崎家に知行高150石で仕えていた。役職は中小姓で、牢人後はここに引越てきて住んでいる。

このように、まず先祖のかつての仕官先と知行高・役職名などが記されています。彼らは基本的には武士身分で、帯刀が認められていました。仕官はしていませんが、武士とみなされ、合戦における兵力となることが義務づけられていたようです。
 丸亀藩が長州戦争の際に、警備のために要所に関所を設けたときにも、動員要因となっていたことを以前にお話ししました。藩境の警備や番所での取り締まりを課せられるとともに、軍役として兵力を備え、合戦に出陣する用意も求められていたようです。いわゆる「予備兵的な存在」と捉えられていたことがうかがえます。

牢人たちの経済状況は、どうだったのでしょうか。
坂出市史近世編(上)78Pには、 天保十四年「御用日記」に、牢人の「武役」を果たす経済的能力についての調査結果が一覧表で示されています。
高松藩帯刀人 他所牢人の経済力

これによると、牢人に求められたのは「壱騎役」と「壱領壱本」です。「壱騎役」は騎乗武士で、「壱領壱本」は、歩行武士で、具足一領・槍が必要になります。従者も引き連れたい所です。そうすると多額の経費が必要となります。阿野北郡に住む牢人に「丈夫に相勤め」られるかと問うた返答です。
①「丈夫に相務められる(軍務負担可能)」と答えたのは3名、
②「なるべくに相勤めるべきか」(なんとか勤められるか)」と保留したのが5名
③「覚束無し」としたのが1名
という結果です。ここからは、軍務に実際に参加できるほどの経済力をもつた牢人は多くはなかったことがうかがえます。

次に、一代帯刀者を見ていくことにします。

高松藩帯刀人 一代 浦政所
        高松領郷中帯刀人別 一代帯刀

一代帯刀は、一代限りで帯刀が認められていることです。その中で最初に登場するのが円座師です。その注記を意訳変換しておくと
円座師
年頭の御礼に参列できる。その席順は御縁側道北から7畳目。円座一枚を前に藩主とお目見え。なお、お目見席の子細については、享保18年の帳面に記されている。
鵜足郡上法勲寺 葛井 三平 
7人扶持。延享5年4月22日に、親の三平の跡目を仰せつかる。
ここからは円座の製作技法を持った上法勲寺の円座職人の統領が一代
帯刀の権利をえていたことが分かります。彼は、年頭お礼に藩主にお目通りができた役職でもあったようです。
その後には「浦政所」12名が続きます。
浦政所とは、港の管理者で、船子たちの組織者でもありました。船手に関する知識・技術を持っていたので、藩の船手方から一代帯刀が認められています。一代帯刀なので、代替わりのたびに改めて認可手続きを受けています。
例えば、津田町の長町家では、安永年間(1777~85)中は養子で迎えられた当主が幼年だったので一代帯刀を認められていない時期がありました。改めて一代帯刀を認めてもらうよう願い出た際に「親々共之通、万一之節弐百石格式二而軍役相勤度」と述べています。ここからは、船手の勤めを「軍役」として認識していたことがうかがえます。これらの例からは、特殊な技術や知識をもって藩に寄与する者に対して認められていたことが分かります。

一代帯刀として認められている項目に「芸術」欄があります。

高松藩帯刀人芸術 
      高松領郷中帯刀人別 一代帯刀 芸術
どんな職種が「芸術」なのかを、上表で見ておきましょう。
①香川郡西川部村の国方五郎八は、「河辺鷹方の御用を勤めた者」
②那珂郡金倉寺村の八栗山谷之介や寒川郡神前村の相引く浦之介は、「相撲取」として
③那珂郡四条村の岩井八三郎は、「金毘羅大権現の石垣修理
④山田群三谷村の岡内文蔵は、「騎射とその指導者」

阿野郡北鴨村の庄屋七郎は、天保14(1843)年に「砂糖方の御用精勤」で、御用中の帯刀が認められています。この他にも、新開地の作付を成功させた者などの名前も挙がっています。以上からは、藩の褒賞として帯刀許可が用いられていたことが分かります。
 ここまでを見てきて私が不審に思うのは、経済力を持った商人たちの帯刀者がいないことです。「帯刀権」は、金銭で買える的な見方をしていたのがですが、そうではないようです。

  帯刀人や郷居武士などは、高松藩にどのくらいいたのでしょうか? 
 郷居武士1 宝暦年間
          宝暦(1751年)ころの郡別帯刀人数(坂出市史81P)
ここからは次のような事が読み取れます
①高松藩全体で、169人の帯刀人や郷中家来がいたこと。
②その中の郷中家来は、12人しかすぎないこと。
③帯刀人の中で最も多いのは、102人の「牢人株」であったこと。
④その分布は高松城下の香川郡東が最も多く、次いで寒川郡、阿野郡南と続く
⑤郷中家来や代々帯刀権を持つ当人は、鵜足郡や那珂郡に多い。

郷騎馬や郷侍は、幕末期になると牢人や代々刀指とともに、要所警護や番所での締まり方を勤めることを命じられています。在村の兵力としての位置付けられていたようです。また、領地を巡回して庄屋や組頭から報告を受ける役割を果たすこともあったようです。
帯刀人の身分は、同列ではありませんでした。彼らには次のような序列がありました。
①牢人者
②代々刀指
③郷騎馬
④郷侍
⑤御連枝大老年寄騎馬役 
⑥其身一代帯刀之者
⑦役中帯刀之者 
⑧御連枝大老年寄郷中小姓・郷徒士 
⑨年寄中出来家来 
①~④は藩に対して直接の軍務を担う役目です。そのため武士に準じる者として高い序列が与えられていたようです。
⑤も仕えている大身家臣から軍役が課せられたようです。
⑤⑧⑨は大身家臣の軍役や勤めを補助するために、村から供給される人材です。
弘化2(1845)年に、以後は牢人者を「郷士」、それ以下は「帯刀人」と呼ぶ、という通達が出されています。この通達からも①②と、それ以外の身分には大きな差があったことが分かります。
以上、高松藩の村に住んでいた武士たちと、村で刀をさせる帯刀人についてのお話しでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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坂出市史

参考文献
「坂出市史近世編上 81P 帯刀する村人 村に住む武士」
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 以前に幕末の満濃池決壊のことについてお話ししました。

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満濃池の石造底樋(まんのう町かりん会館前)

 木造底樋から石造物に、転換された工事が行われたのは、嘉永五(1852)年のことでした。しかし、石材を組み立てた樋管の継ぎ手に問題があったこと、2年後の嘉永七年に大地震があったことなどから、樋管の継ぎ手から水が漏れはじめて、満濃池は決壊します。高松藩の事件などを記した『増補高松藩記』には、「安政元年六月十四日地震。七月九日満濃池堤決壊。田畝を多く損なう」と、簡潔な記述があるだけです。
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 そんななかで私が以前から気になっていた記録があります。
決壊から約60年後の大正4(1915)年に書かれた『満濃池由来記』(大正四年・省山狂夫著)です。
ここには、決壊への対応が次のように記されています。
七月五日
午後二時ごろ、樋外の石垣から濁水が出ているのを池守が発見。榎井、真野、吉野村の庄屋たちが現地で対策を協議。漏水が次第に増加したため、各村の庄屋に緊急連絡。
七月六日
三間丸太で筏を組み、古蚊帳に小石を包み、水中に入れて漏水口を探る。
一番ユルと二番ユルの間に漏水穴を発見。午後二時ごろ、フトンに石を包み穴に入れ、土俵六十袋を投入するも漏水止まらず。
七月七日 
夜明けを待って丸亀港で漁船二隻を購入。船頭十人、人夫二百人をやとい、満濃池へ運ぶ。終日作業を続けるも漏水止まらず。
七月八日
夜十時ごろ堤防裏から水が吹き上げ、直径三メートルほど陥没。阿波国から海士二人を雇い入れたが、勢い強く近付けず。陥没が増大。
七月九日 
高松、丸亀両藩から人夫四百人を集め、土俵を作らせる。午後二時ごろ筏に青松をくくり付け、畳を重ねて沈める。二隻の船で土俵三百袋を投入。水勢やや衰えたとき、大音響とともに堤がニメートルほど陥没。全員待避し、下流の村々へ危険を知らせ、緊急避難させる。このとき神野神社の神官。朝倉信濃はただ一人避難せず、ユル上で熱心に祈とう。足元のゆらぎに驚き、地上へ飛び下りると同時に、ユルが横転水没。午後十時ごろ決壊。
この時の破堤の模様について、「堤塘全く破壊して洪水氾濫、耕田に魚鼈(魚やスッポン)住み茂林に艇舟漂ふ。人畜の死傷挙げて云ふべからず。之を安政寅の洪水と云ふ」

  この記述を見ると気がつくのは、対応の記述内容が非常にリアルなことです。
   「土俵六十袋・直径三メートルほど陥没・二隻の船で土俵三百袋を投入」などの具体的な数字が並びます。時代がたつにつれて、記憶は薄れて曖昧な物になっていきます。それなのに、昨日に見てきたような情景が、後世の記録に叙述されるのは「要注意」と師匠からは教えられました。「偽書」と疑えというのです。比較のために、同時代の決壊報告記録を見ておきましょう。
 
【史料1】
 六月十四日夜、地震十五日暁二至小地震数度、十五日より十二日二至、京畿内近江伊勢伊賀等地大二震せしと云
   ( 中  略 )
九日満濃池陽長四十間余決潰、那珂郡大水二て田畑人家損傷多し、木陽六十間余之所、両方二て七八間計ツヽ残り中四十間余切れ申候、金毘羅大水二て さや橋より上回一尺計も水のり橋大二損し、町々人家へ水押入難義致候、
尤四五日前より追々陽損し、水漏候間、郡奉行代官出張指揮致、水下之人家用心致候故、人馬怪我無之、折節池水三合計二て有之候二付、水勢先穏なる方二有之候由
  意訳変換しておくと
 6月14日夜に大地震、15日暁には小地震が数度、京畿や近江・伊勢・伊賀などで大地震が起きたという。
   ( 中略 )
7月9日に、満濃池堰堤が長さ四十間余りに渡って決潰、そのため下流の那珂郡は大水で田畑や人家に大きな被害が出ている。堤は六十間余の所が、両方から七八間だけが残って、真ん中の四十間余りが切れている。金毘羅は大水害で、鞘橋の上に一尺ほども水が流れ、橋は大きな損傷を受けている。町々の人家へも水は流れ込み、被害が出ている。もっとも水漏れ発見後に、郡奉行代官が出張指揮して、下流の人々へ注意を呼びかけていたので、人や馬などに怪我などはない。また、貯水量が満水でなく無之、4割程度であったので水の勢いも小さく被害は少なく終えた。
ここには決壊への対応については、何も出てきません。
決壊中の満濃池
決壊した満濃池跡を流れる金倉川
  【史料2 意訳のみ】
一 四日頃より穴が開いて、だんだんと大穴になって、堰堤は切れた。堰堤で残ったのは四五拾間ほどで、池尻の御領池守の居宅は流された。死人もいるようだ
一 金毘羅の榎井附近の町屋は、腰まで水に浸かった。金毘羅の阿波町も同じである
一 鞘橋はあやうく流されそうになったが、なんとか別条なく留まった。
一 家宅は、被害が多く出ている
一 田んぼなどには被害はないようだが、川沿いの水田の中には地砂が入ったところもある。
一 晴天が続いていた上に、田植え後のことで池の貯水量が4割程度であったことが被害を少なくした。
ここでも記されるのは、危害状況だけで堤防の決壊を防ぐために何らかの手当が行われたことは、何も記されていません。

ほぼ同時代に書かれた讃岐国名勝図会は、決壊経過やその対応について次のように記します。
満濃池 底樋石造化と決壊
讃岐国名勝図会 満濃池決壊部分
7月4日に、樋のそばから水洩が始まった。次第に水漏れの量は次第に増えて、流れ出し始めた。池掛りの者はもちろん、農民たちも力を尽して対応に当たった。池の貯水量は、満水時の四割程度であったが、水勢は次第に強くなり、為す術ない。決壊が避けられないとみて、堤が切れた時には、そばの山の上で火を焚き太鼓を打って、下手の村々に合図をすることにした。見守るしか出来ないでいるうちに、水勢はますます強くなる。多くの人々は池辺の山に登って、堰堤を息をこらして見つめていた。
 九日の夜半になって、貯水量が半分ほどになった水面から白雲が空に立のぼると同時に、白波が立ち起こった。こうして二年の工事によって設置された石の樋は、一瞬にして破壊され、堰堤は足元から崩れ去った。その水は川下の田畑一面に流れ出て、一里(4㎞)ほど下流の金比羅の阿波町・金山寺町などの家屋の床の上まで浸水させた、さらに五条村・榎井村の往来の道にあふれだし、家を丸亀町口(丸亀市中府町)まで流し去ったものもあったという。
 あふれ出た水勢の激しかったことは、底樋として埋めた石がながされて、行方不明となってしまったことからもうかがえる。ここからも満濃池の廣大さと貯水量の多さが知れる。
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満濃池決壊で流出した底樋の石材
 ここでも決壊後の具体的な対応については、何も触れられていません。ただ「見守るしか出来ないでいるうちに・・」とあります。当時の人達は、為す術なく見守るしかなかったと考える方が自然なようです。
仲多度郡史 - 歴史、日本史、郷土史、民族・民俗学、和本の専門古書店|慶文堂書店

1918年(大正7)年1月に、仲多度郡が編集した『仲多度郡史』(なかたどぐんし)には、満濃池の崩壊が次のように記されています。
満濃池は寛永年間、西島之尤、之を再築して、往古の形状に復し、郡民共の恵沢に浴せりと雖も、竪樋、底樋等は累々腐朽し、爾後十五回の修営ありしか、嘉永二年に至り、又もや樋管の改造を要せり。此の時榎井村の庄屋、長谷川嘉平次は、郡民と議り、官に請ふて樋替を為すに当り、石材を用ひて埋樋の腐朽を除き、将来の労費を省かむとし、漸くにして共の工事を起し、数年を費して、安政元年四月竣工を告けたり。然るに同年六月地震あり。是より樋管の側壁に滲潤の兆ありしか、間もなく池水噴出するに至り、百方防禦に尽し、未た修理終らさるに、大雨あり。漏水増大して遂に防く能はす、七月九日の夜堤防決潰し、池水底を抑ふて那珂、多度両郡に法り、数村の緑田忽ち河原と変し、家屋人畜の損害亦彩しく、 一夜にして長暦の昔の如き惨状を現はし、巨額の資金と数年間の労苦は、悉く水泡に帰したり。是歳、十一月四日大地震あり。
家屋頻に傾倒するを以て、人皆屋外に避難せり。翌五日綸ヽ震動を減したるも、尚ほ車舎を造りて寝食すること十数日に渉れり。而して此の地震は、翠年の夏に命るまて、時々之を続けたり。当時民屋の破壊せしもの数千月にして、実に讃地に於ける未曾有の震災と云ふべし。
意訳変換しておくと
満濃池は寛永年間に、西嶋八兵衛之尤が再築して往古の姿にもどし、郡民に大きな恵沢をもたらすようになった。しかし、竪樋、底樋等は木造なので年とともに腐朽するので、交換が必要であった。そのため十五回の修営工事が行われてきた。嘉永二年になって、樋管の交換が行われることになった。この時に榎井村の庄屋、長谷川嘉平次は、郡民と協議して、幕府の代官所に底樋に石材を用いて、以後の交換工事をしなくて済むように申し出て許可を得た。こうして工事に取りかかり、数年の工事期間を経て、安政元年四月に竣工にこぎ着けた。ところが同年六月に大地震があり、樋管の側壁に隙間ができたようで、間もなく池水が噴出するようになった。百方防禦に手を尽したが、修理が終らないうちに大雨があり、漏水は増大して止めようがなくなった。ついに7月9日の夜に堤防は決潰し、池水は那珂、多度両郡に流れ込み、数村の水田をあっという間に河原とした。家屋や人畜の損害も著しく、一夜にして惨状を招いた。こうして巨額の資金と数年間の労苦は、水泡に帰した。(後略)
 
水漏れ後の対策については「百方防禦に手を尽したが、修理が終らないうちに大雨があり、漏水は増大して止めようがなくなった。ついに7月9日の夜に堤防は決潰し・・・」とあるだけです。ここにも具体的な対応は何も記されていません。「漏水は増大して止めようがなくなった」のです。ただ「百方防禦に手を尽した」とあるのが気になる所です。これを読むと、何らかの対応があったかのように思えてきます。そうあって欲しいという思いを持つ人間は、これを拡大解釈していろいろな事例を追加していきます。ありもしないことを「希望的観測」で、追加していくのも「歴史的な偽造」で偽書と云えます。

そういう視点からすると『満濃池由来記』の次のような記述は、余りに非現実的です。
「土俵六十袋を投入・
「夜明けを待って丸亀港で漁船二隻を購入。船頭十人、人夫二百人をやとい、満濃池へ運ぶ。」
「阿波国から海士二人を雇い入れたが、勢い強く近付けず。」
「高松、丸亀両藩から人夫四百人を集め、土俵を作らせる。午後二時ごろ筏に青松をくくり付け、畳を重ねて沈める。」
「二隻の船で土俵三百袋を投入。」
同時代史料には、何も書かれていない決壊時のいくつもの対応記事が、非常に具体的にかかれているのです。また『満濃池由来記』と、ほぼ同時代に書かれた仲多度郡史にも、「決壊対策」は何も書かれていません。
以上をまとめると
①満濃池の漏水が始まった後に、決壊対応措置をとったことを記した同時代史料はない
②公的歴史を叙述した大正時代の仲多度郡史にも、何も書かれていない。
③大正時代に書かれた『満濃池由来記』だけが、具体的な対応策を書いている。
④作者もペンネームで、誰が書いたのか分からない。
以上から、私は『満濃池由来記』の記述は「何らかの作為に基づく偽証記事」と考えるようになりました。所謂、後世の「フェイクニュース」という疑いです。
それならば作者は、何のためにこのような記事を書いたのでしょうか?
  そこには、幕末の満濃池決壊の評価をめぐっての「意見対立」があったようです。この決壊に対して、地元の農民達は、工事直前から「欠陥工事」であることを指摘して、倉敷代官所へ訴え出ていたことを以前にお話ししました。そのため決壊後も工事責任者である長谷川喜平次に対する厳しい批判を続けたようです。つまり、水利責任を担う有力者と農民たちが長谷川喜平次の評価を巡って、次のような論争が展開されます。
①評価する側 
農民達のことを慮って、木造底樋から石造化への転換を進めたパイオニア
②評価しない側 
底樋石造化という未熟な技術を採用し、満濃池決壊を招いた愚かな指導者
①の立場の代表的なものが、前回見た讃岐国名勝図会の満濃池の記事の最終部分です。そこには次のように記されていました。(意訳変換済み)
  もともと、満濃池の底樋は木造だったために、31年毎に底樋とユルの付替工事が必要であった。そのために讃岐国中から幾萬の人足を出し、民の辛苦となっていた。それを或人が、嘉永年中に木造から石造へ転換させ、萬代不朽のものとして人々の苦労を減らそうとした。それは、一時的には堤防決壊を招いたが、その厚志の切なる願いを天道はきちんと見ていた。それが今の姿となっている。長谷川喜平次が忘眠・丹誠をもって行った辛労を、天はは御覧であった。彼が計画した石造化案が、今の岩盤に開けた隧道の魁となっている

②の農民の立場からすると、彼らは倉敷代官所に次のような申し入れをしていました
長谷川喜平次は池に「万代不易」の銘文が入った石碑を建立しようとしているが、既に折れ損じが生じ、材木を差し加えている状態であるのに、なにが「万代不易」であるか、建立を中止してほしい。

 それに応ぜずに工事を継続した長谷川喜平次の責任は重い。にも関わらず責任を取って、止めようともしない。話にならない庄屋という評価です。こうした分裂した評価が明治になっても、引き継がれていきます。そして、満濃池の水利組合の指導部と、一般農民の中の対立の因子の一つになっていったようです。それが農民運動が激化する大正時代になると、いろいろな面に及ぶようになったことが考えられます。
  作者の「省山狂夫」が、どんな人物なのかは分かりません。
名前からして本名ではないようです。本名を隠して書いているようです。分かることは、彼が庄屋たち管理側が決壊に際して、できる限りの対応を行ったことを主張したかったことです。それが、このような記事を彼に書かせた背景なのだと私は考えています。
 長谷川喜平次をめぐる評価は、その後の周辺町史類にも微妙な影響を与えています。ちなみに満濃池土地改良区の「満濃池史」や満濃町史は、もちろん①の立場です。それに対して「町史ことひら」は、②の立場のような感じがします。

江戸時代後期になって西讃府史などの地誌や歴史書が公刊されようになると、この編纂の資料集めをおこなった庄屋たちの間には、郷土史や自分の家のルーツ捜し、家系図作りなどの歴史ブームが起きたようです。そんな中で、自分の家の出自や村の鎮守のランクをより良く見せたりするために、偽物の系図屋や古文書屋が活動するようになります。その時に作られた偽文書が現代に多く残されて、私たちを惑わしてくれます。


 以前にもお話ししたように、江戸時代の椿井政隆という人物は、近畿地方全域を営業圏として、古代・中世の偽の家系図や名簿を売り歩いた、偽文書のプロでした。彼の存在が広く知られるようになる前までは、ひとりの手で数多くの偽文書が作られたことすら知られておらず、多くが本物と信じられてきました。
  椿井政隆は、地主でお金には困っていなかったようですが、大量の偽文書を作っています。その手口を見てみると、まずは地元の名士、といっても武士ではない家に頻繁に通い、顔なじみになって滞在し、そこで必要とされているもの、例えば土地争いの証拠資料、家系図などを知ります。滞在中に需要を確認するわけです。それで、数ヶ月後にまたやってきて、こんなものがありますよと示します。注文はされていなくて、この家はこんなもの欲しがっているなと確認したら、一回帰って、作って、数ヶ月後に持っていきます。買うほうもある程度、嘘だと分かっていますが、持っていることによって、何か得しそうだなと思ったら地主層は買ったようです。
 滋賀県の庄屋は、椿井が来て捏造した文書を買ったことを日記に書いています。自分のところの神社をよくするものについては何も文句を言わずに入手しているのです。実際にその神社は、今では椿井文書通りの式内社に位置づけされているようです。こうして、地域の鎮守社を式内社に格上げしていく試みが始まります。このような動きはの中で、満濃池の池の宮の「神野神社」への変身と、式内社化への動きもでてくるようです。歴史叙述には、自らの目的で、追加・書き換えられるものでもあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「満濃池史」110p 幕末の満濃池決壊











満濃池 讃岐国名勝図会
      満濃池と池の宮(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
 讃岐国名勝図会の満濃池に関する記述と、その意訳変換を資料としてアップしておきます。

真野郷
此地初神野郷と書来りしか、嵯峨天皇御譚神野と申奉りしかハ、字音の同しきか故に、真野郷と改めしならん。其事諸記なしと雖も日本紀略大同四年九月二日乙巳、改伊橡国神野郡、為新居郡。以触上譚也と見えたり。其後弘仁十二年、富国より奏請して、弘法大師に萬濃池を築しめたまふ時の上書にも、神野郷と記さん事を憚て、真野と改めし物ならんか。後人の考を待。
意訳変換しておくと
真野郷
この地はもともとは、神野郷とされていたが、嵯峨天皇御譚神野と、字音が同じなのでお恐れ多いとして、真野郷と改められたのであろう。その記録はないが、「日本紀略」の大同四年九月二日乙巳に「改伊橡国神野郡、為新居郡。以触上譚也」とある。
 その後、弘仁十二年に弘法大師に萬濃池を修築させた時の上書にも、神野郷と記すことを憚って、真野と改めたものではないか。後人の考を待。
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
    矢原邸と諏訪神社(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

ここでは、真野郷はもともとは神野郷であったという説が出されています。その理由が「嵯峨天皇御譚神野忌避説」です。しかし、これについては史料的な裏付けがありません。その他の古代・中世の史書に
は、「神野」という地名は出てきません。出てくるのは「真野郷」です。また、神野神社も近世前半までは、「池の宮」と記されています。敢えて「神野神社」と記すのは、一部の文書だけです。
 ここには、真野郷を神野と呼ばせたい意図があったことが見え隠れします。それは、神野神社を式内神社の論社とすることだったと、私は考えています。式内社の神野神社は、郡家の神野神社があります。これに対して、池の宮を神野神社として、論社化しようとする動きが近世後半から出てきます。それが満濃池築造と併せて語られ、「池の宮=神野神社」とされて行きます。
  
  讃岐国名勝図会 満濃池1
     矢原邸と諏訪明神(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
続いて満濃池本文を見ていきます。  
萬濃池 
同所にあり。十市池とも云。池の周廻八千五百間、水たまり二て二里三丁、池の長さ南北九百間、東西四百五十間、富国第一の池なるに依て、萬濃太郎と云。中比廃して山田と成、堤長四拾五間、土廣さ六間、高サ拾弐間半、堤根六拾五間、三面八山也。漑田三万五千八百十石斗。貧呆長十八間、廣さ四尺弐寸、高さ弐尺八寸、穴壱尺六寸、櫓五ケ所二て、賓水穴十ケ所なり。営時水たまり深さ十一間。
意訳変換しておくと
萬濃池 
満濃池は真野郷ににあって、十市池とも呼ばれる。池の周囲は八千五百間、水が溜まると二里三丁(約9㎞)、池の長さ南北九百間、東西四百五十間、讃岐国第一の池なので、満濃太郎とも呼ばれる。中世には、堤が崩壊してその姿を消して、池の中は山田となっていた。
 堰堤の四拾五間、堰堤幅六間、高さ拾弐間半、堤の根元幅六拾五間、三面は山に囲まれている。灌漑面積は三万五千八百十石斗。底樋長さは十八間、廣さは四尺弐寸、高さは弐尺八寸、穴は壱尺六寸、櫓(ゆる)は五つあり、満水時の水深は十一間。

讃岐国名勝図会 満濃池1
      満濃池 その2(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

ここから空海による満濃池築造が次のように記されます
 弘仁十年四月より七月迪、諸国雨ふらさりしかハ、公より諸国に令して池を掘らしむ。富国も溝渠をさらへ、池を築きける。同十一年より此池を築初しかと、目に除る大池なれハ、十二年にいたれともならす。諸人大に倦労れぬ。何ともすへからす。爰に人あり。沙門空海今都にあり、世人ミな其徳を慕ふ事、枯草の雨を待か如し。若爰二来ら八不日にならん、是に於て時の刺史其言を朝廷に奏す。同六月空海詔を奉して爰に至る。民大に歓ひ、堤にもまた日ならすしてなれり。同十三年勅して空海に新銭弐万を給ふ事日本紀略にみえた。

 寛仁四年時の国司碑銘を建さし給ふ。
其文次二出せり。治安年中、堤塘を更改す。爰に雖眼竜あり。此池に住む。傅云、寒川郡志度村の宿願と云者化する所也とそ。後此地を去て海に移る。其時堤防大に壊ると志度寺の縁起にみえたり(注1)。
 又元暦元辰年、大洪水二て 堤基破壊して跡方なくなりて、其後五百石斗の山田となり。人家なとも往々基置して、池の内村といふ。(弘仁十二丑年(む)、開発なして三百六十四年、池中満水なせし也、)
 爾後数多の星霜を経て、寛永三寅年閏四月七日大風雨二て、其後七月に至る法七十五日雨なく、大旱して、秋穀旱罹。一諸民餓死に及ひける。京都も井水涸て、草葉萎て糸になれるか如くなりける。
此年先封生駒の老臣西嶋八兵衛尤之といへる人、此池を再ひ築きにける。 普請奉行八福家七郎右衛門・下津平左衛門也。 今永世の助益となりて、下民其恩沢に 浴せり。生駒家国除の後、同十八年(ゆる)木朽腐しかと、国の大守なきによりて富郡木徳村の農民里正四郎大夫と云者をして、重修の事を幕府へ訴へ出ける。台命によりて富郡五条・榎井・苗田三村を池修補料と定給ふ。
意訳変換しておくと
弘仁十(819)年4月から7月にかけて、諸国では雨が降らず旱魃になったので、朝廷は諸国に命じて池を掘らした。讃岐でも溝渠をさらへ、池を築造した。翌年には、満濃池の築造に取りかかったが、それまでにない大きな池なので、12年になっても完成はしなかった。讃岐の人々は、すっかり疲れ果ててしまったが、どうしようもない。
 ここに人あり。沙門空海が今、都にいる。世人の空海の徳を慕ふことは、枯草が雨を待つかのようである。もし、空海が讃岐に帰国してくれたら・・・。これを讃岐の役人は朝廷に願いでた。こうして821年6月、空海は詔を奉じて讃岐に帰国することになった。民は大に歓び、堰堤は、あっという間に出来上がった。翌年13(822)年には、空海に新銭弐万貫が与えられたと、日本紀略には記されている。

満濃池 古代築造想定復元図2

   寛仁四(993)年 讃岐の国司が碑銘を建立した。
そこには次のように記されていた。治安年中に堰堤を修築したところ、独眼の竜が住んでいた。その竜は、寒川郡志度村の勧進者が龍となったものだと云う。その後、この池を出て海に去った。この時に、堰堤が大破したと志度寺縁起には記されている。
元暦元(1184)年、大洪水で堰堤が破壊して跡方なくなった。池跡は開墾されて、その後五百石ほどの山田となり、人家なども姿を見せて、池の内村と呼ばれるようになった。弘仁十二年に築造されて、364年の間、満濃池は存在していた。
 その後、長い年月を経て、寛永三(1626)年4月7日に大雨があった後、7月まで75日間も雨がなく、大旱魃となった。穀物は育たず、収穫がなく餓死者も出た。京都も井戸が涸れて、草葉は萎えて糸のようになってしまった。

西嶋八兵衛

 このような状況の中で、生駒藩の家臣西嶋八兵衛と云う人が満濃池を再築することになった。
普請奉行は、福家七郎右衛門・下津平左衛門であった。こうして完成した満濃池は、永世の助益となって、下々の者までその恩沢を与えている。  
 お家騒動で生駒家が転封に騒動後も、寛永十八(1640)年に、池のユルの木材が腐っていまった。そこで、藩主不在の折に、那珂郡木徳村の農民・里正四郎大夫が、ユル替え工事を幕府へ訴へ出た。これを受けて幕府は那珂郡の五条・榎井・苗田の三村を池修補料と定めた。そのためこの三村を池御料と呼ぶようになった。

決壊中の満濃池
池御料の榎井・四条・苗田(白い部分:草色が高松藩)

讃岐国名勝図会 満濃池2
満濃池 その3(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
上のページを意訳変換しておくと
満濃池の底樋とユルの付け替え工事
 その後、高松藩祖松平頼重の時に、池御料所の代官である岡田豊前守殿・執政稲葉美濃侯に、満濃池修理費用は、高松藩と京極藩で負担することを申し出た。しかし、池修補料は巨額ではないが、三村はそのために、幕命によって設置された天領である、それに背くことは本位ではないという意向が伝えられ、沙汰止みとなった。その後、いくたびもの改修普請工事があったが、先例通りに、底樋やユルの材木費などは、池御料三村の租税で賄われてきた。
  
     ところがどういうことか宝永三(1706)年の改修工事の際に、代官遠藤新兵衛殿より、「以後は(幕府は)関与しない」と通達があり、現在のように高松・京極藩で取り扱うことになった。
 寛永8年の再興以来183年の星霜を経た文化十(1813)年に、苗田村の里正・守屋吉左衛門を中心に、池の底の土砂ざらえを行った。その際に、土砂を堤に土を置いて、六尺高くした。そのことを刻んだ碑銘を不動堂に建てた。
P1240778
満濃池の底樋とユル 底樋は四角い箱形
底樋の木造から石造への転換

 柚水木(ゆるき)は嘉永年中(1848)年ころまでは、周囲が3mあまりの巨木に穴を開けて、土中に埋めて、三十三年毎に交換を行う普請を行っていた。この時には、讃岐中の村々より人足数万人出て堤を切開き、土砂を荷ひ、底樋を掘出し、新木を埋めた。工期は、前年の8月より始めて、翌年春までには終えた。その費用は、多額に及び、筆紙に尽し難きい一大工事で、大イベントでもあった。

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満濃池堰堤の土固め

そこで村吏数人と協議して、巨木に換えて石材を使えば萬世不朽になり、費用削減につながり国益になると、衆議一決して、代官所に願い出た。それが許可されると嘉永五(1852)年4月より石材化の工事は始まり、巨木を除いて、石を使用した。
 満濃池樋模式図

底樋について「周囲が3mあまりの巨木に穴を開け・・」とありますが、これは事実誤認です
畿内の宮大工が見積書として一緒に提出した底樋の設計図が何種類も残っています。それは選ばれた最高の松材を使って、最先端技術で造られたものだったことが分かります。決して丸太を掘り抜いたものではありません。明治維新前後に、この辺りの記述は書かれたようですが、30年もすると過去のことが伝わって居ないことがうかがえます。

満濃池 底樋石造化と決壊
    満濃池 その4(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

底樋の石造化失敗と満濃池決壊
工事行程では、底樋の土と石がうまく接合せず、所々から水もれが起きた。それに対して、色々と工夫改良をこらして対処して、(1856)年夏には、堤塘はもとのように落成した。この成功で、代官所より関係者に、お褒めの言葉やその功に報いて格式が上げられる者も出た。また、着物や白銀を賜わる者もあり、諸民は安堵の思いをして歓んだ。

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1854年の満濃池の石造樋管(底樋)

 ところが、同年7月4日より樋のそばから水洩が始まった。
次第に水漏れの量は次第に増えて、流れ出し始めた。池掛りの者はもちろん、農民たちも力を尽して対応に当たった。池の貯水量は、満水時の四割程度であったが、水勢は次第に強くなり、為す術ない。決壊が避けられないとみて、堤が切れた時には、そばの山の上で火を焚き太鼓を打って、下手の村々に合図をすることにした。見守るしか出来ないでいるうちに、水勢はますます強くなる。多くの人々は池辺の山に登って、堰堤を息をこらして見つめていた。
 九日の夜半になって、貯水量が半分ほどになった水面から白雲が空に立のぼると同時に、白波が立ち起こった。こうして二年の工事によって設置された石の樋は、一瞬にして破壊され、堰堤は足元から崩れ去った。その水は川下の田畑一面に流れ出て、一里(4㎞)ほど下流の金比羅の阿波町・金山寺町などの家屋の床の上まで浸水させた、さらに五条村・榎井村の往来の道にあふれだし、家を丸亀町口(丸亀市中府町)まで流し去ったものもあったという。
 あふれ出た水勢の激しかったことは、底樋として埋めた石がながされて、行方不明となってしまったことからもうかがえる。ここからも満濃池の廣大さと貯水量の多さが知れる。
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金倉川改修工事で出てきた底樋石材


讃岐国名勝図会 満濃池5

 堤防決壊の被害と教訓
 貯水量が満水でなく、4割程度だったことは不幸中の幸いであった。天は、萬民を加護し、救ったとも云える。流れ出た水が金毘羅の鞘橋を越えて流れたことを考れば、もし満水の時に堰堤が切れていたならば、阿波町屋・金山寺町のあたりまで壱丈六尺高の水が流れ込んできたかも知れないと住民達は噂している。
 川下の村々も同じである。満濃池よりも四里(16㎞)下流の丸亀城下にまで流れ込んで海に落ちることもあると。これを教訓にして、川下の村々の人達も、油断することなく心の備えをすべきである。恐ろしいのは水の勢いである。正直第一にして信心して、仏神の擁護を願ふことである。あなかしこ。是を忘れ給ふな。
 
石造化計画の責任者を責めることなかれ
  底樋を木造から石造に転換したことが、堰堤決壊の原因で、責任はその計画者にあると非難する人もいる。そうではない。この計画は国益を慮り、多くの人々の労苦を思いやり、行った善事である。悪意で行ったものではないので、その人を罪してはならない。
 今昔物語に出てくるる魚が欲しくて満濃池の堤を壊した国司とは、雲泥の相違なのだ。天は、その善心を見て判断を下される。昔の如く堰堤が再び姿を見せる日も近いことだろう。

満濃池決壊拡大図
堰堤の切れた満濃池跡を流れる金倉川
讃岐国名勝図会の前編は安政4(1857)年に公刊されましたが、後編は公刊されることなく草稿本として明治まで保管されていました。その間にも、草稿を受け継いだ長男の手でいろいろな書き込み追加が行われていきます。以下の文章は、明治になってからの追加分になるようです。 

明治維新の長谷川佐太郎による満濃池再築
明治元辰年二至りて、王政復古旧政を御一新あり。
幕府権政を返上なせしかハ、天下一統旧政を改革なし、府藩懸の御政務決りしかハ香川料より主として今の池宮拝殿下二巨萬の大盤石のありしを、同二已年九月八日より、竪四尺除、横三尺五寸除、長弐拾八間除の水道を穿堀て、屈強成天然自然の賓水穴を開口始、同三年五月二至り穿拵て水道成就し、堤根八旧の如く六十間診堤を築重、桜・楓・桐嶋・さつき等を植置て池もとの如く造営成就なせし八、萬代不朽、天萬民を救助なし給ふ。時節到来のなせるなるべし。
 始め木を以て賓水道を通し、弐百年除、三十一年毎賓水木更とて、国中より幾萬の人足を出し、造替なせる民の辛苦をいとび、或人、嘉永年中其木を除きて石となしなバ、萬代不朽の栄なりとて人力を費せらしと。其後一とせも持たす流失なせしかハ斯なし。厚志の切なるを天道照給ひて今の如くなし候共、長谷川喜平次が忘眠丹誠成て数十年の辛労を天照覧なし、死後二至て則なれるも石の水道を思ひ付し八、今の如く自然の水道なれる魁なるべし。爰二於て遠近の諸人、池遊覧せんとて、日毎二弁当・割寵を携へ、爰二至る者の絶間
無りしかバ、堤の上二桟敷・机木を設て遊客を憩しめ、酒肴菓を商ふ者もあり。四時村民の潤となせる八、是も萬民を救ひ給ふ一助なるべし。)
意訳変換しておくと
明治元年になって、王政復古が行われ旧政御一新となった。
幕府が政権を返上したので、天下一統し旧政の改革が行われた。府藩懸の政務が固まると、今の池の宮拝殿の下に巨大な大盤石があることを見つた。そこで、同二年九月八日から、竪四尺除、横三尺五寸、長さ弐拾八間足らずの水道を穿堀することになった。こうして天然自然の底樋水穴の開口工事が始まった。同三年五月二に、隧道は開通した。また60間の堰堤も復活した。
 そこに、桜・楓・桐嶋・さつき等を植えて造営は完成した。こうして萬代不朽、天萬民を救助する満濃池が復活した。時節到来のなせるなるべし。

満濃池底樋石穴図(想像)
明治の底樋隧道化計画

③ もともとは木造底樋で水を通していたために、200年あまりに渡って、31年毎に底樋とユルの付替工事が必要であった。そのために讃岐国中から幾萬の人足を出し、民の辛苦となっていた。
④ それを或人が、嘉永年中に木造から石造へ転換させ、萬代不朽のものとして人々の苦労を減らそうとした。それは、一時的には堤防決壊を招いたが、その厚志の切なる願いを天道はきちんと見ていた。それが今の姿となっている。
⑤ 長谷川喜平次が忘眠・丹誠をもって行った辛労を、天は御覧であった。彼が計画した石造化案が、今の岩盤に開けた隧道の魁となっている。
⑥ こうして多くの人々が、弁当・割寵を携えて満濃池遊覧にやって来る。堤の上に桟敷・机木を設置して遊客に休憩所を提供し、酒肴菓を商う者もある。村民の潤の場として、萬民を救う一助ともなっている。
明治になって加筆された部分を要約しておきます。
①明治になって地下岩盤を開削し、底樋を通すことが計画された
②堰堤も再築され、そこに花木類が植えられた。
③底樋が木造の時代には、その改修のために多くの農民が動員され苦労した。
④それを長谷川喜平次は底樋を石造化することで解消しようとした。
⑤それは失敗したが、その上に現在の底樋隧道化の魁(さきが)けになった。
⑥完成した満濃池堰堤は、人々の遊覧の場となっている。
以上です。
ここで気がつくことは④⑤で、長谷川喜平次の底樋石造化を高く評価していることです。
これについては、長谷川喜平次については、当時の地元では評価が割れていたこと、特に農民層からは彼に対してや石造化計画を進めた庄屋たちに強い批判が挙がっていたことを以前にお話ししました。その中で、讃岐国名勝図会の作者は、長谷川喜平次を強く擁護していることを押さえておきます。
 長谷川喜平次とともに、底樋石造化を進めたのが三原谷蔵でした。
三原家は、真野村で代々政所を勤める家でした。満濃町誌には次のように記します。

三原谷蔵は、榎井村庄屋の長谷川喜平次と共に、満濃池の樋門を永世不朽のものとするため底樋の石造改修する等、水利開発や農民の救済に尽力した。嘉永元年より真野村庄屋を勤め、その間、安政年中には那珂郡大庄屋に登用され、慶応二年まで一九年の長期にわたって地方自治に貢献した。

つまり、長谷川喜平次を批判することは、大庄屋の三原谷蔵を批判することにつながったのです。そのために周りのとりまきの人たちは、類を及ばさないように長谷川喜平次を擁護したことが考えられます。
長谷川佐太郎

もうひとつ気になるのは長谷川佐太郎の名前が、どこにも出てこないことです。
この時の満濃池再築の立役者は、長谷川佐太郎です。彼が立案・陳情し、私財を投じて進めたことがいまでは定説となっています。ところが、讃岐国名勝図会の明治後に加筆された部分には、長谷川佐太郎を登場させないのです。この時点で長谷川佐太郎の評価はいまと違っていたのでしょうか。あるいは意図的に無視しているのでしょうか。今の私には分かりません。

満濃池 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会の満濃池 鶴が舞う姿が描かれてる
最後の「⑥完成した満濃池堰堤は、人々の遊覧の場となっている。」という記述です
ここからは、満濃池が人々の行楽地となっていたことが分かります。堰堤からの四季折々のながめを眺望を、用意された休息所に座って愛でる文化が根付いていたようです。『金毘羅山名勝図会』には、人々が「朱の箭を敷」き「池見」を行ったと記します。

満濃池 象頭山八景鶴舞図(1845)
金毘羅参詣名所図会の元絵とされる「象頭山八景 満濃池遊鶴」

以上、讃岐国名勝図会に記された満濃池をみてきまた。私は、以前には、ここには絵図しかないものと思っていました。しかし、実際に全文を見てみると非常に充実した内容です。これ以外にも省略しましたが、今昔物語の記事もあります。昔の人が満濃池の歴史を知ろうとすれば、まず、この図会を見たはずだと思いました。それだけ後の時代に影響を与えた図会であると改め思いました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
歴史資料から見る満濃池の景観変化 満濃池名勝調査報告書111P まんのう町教育委員会 2019年
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 生駒騒動によって、生駒藩が転封になったあとは、讃岐は次の東西2つの藩に分割されます
①寛永18年(1641)9月 山崎家治が西讃5万石余を与えられて丸亀藩主へ
② 翌19年(1642)2月、松平頼重が東讃12万石を与えられて高松藩主へ
そして、満濃池の管理のために天領・池御領が置かれることになります。池御領は、二つの藩の境目と金毘羅神領に接した那珂郡の五條・榎井・苗田の三村領(天領)と、満濃池周囲の幕府領七ケ村領を含みます。
池御両郷帳(榎井・五条・苗田)図
満濃池水掛村々之図(明治)
上図では、以下のように色分けされています
黄色 天領池御領(五条・榎井・苗田の三村)
赤  金毘羅大権現 金光院領
桃色 高松藩領
草色 丸亀藩領
白色 多度津藩領
この絵図からは次のような事が読み取れます
①土器川を越えて、高松藩領が丸亀平野に伸びていること
②高松藩と丸亀藩の藩境は、金倉川であったこと
③丸亀城の南側は高松藩領で、満濃池の最大の受益者は高松藩であったこと
④天領3村が、金毘羅寺領に接する形で配置されていること
⑤同時に、天領3村が高松藩と丸亀藩に挟まれる形になっていること

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天領池御領(黄色)と金毘羅寺領(赤)

どうして、この3つの村が池御料に指定されたのでしょうか。

それには、次の2つの説があるようです。
一つ目は「東西領検地等の打ち余り(余り領地)によって設けられた」という説です。しかし、これは俗説です。
以前にお話したように、幕府は讃岐を東西に分割する際に、現地に派遣した担当老中に「東西=2:1」で分割せよという指示を出しています。そして、指示を受けた老中は、生駒騒動の前に本国・伊賀の藤堂藩に帰国していた西嶋八兵衛を讃岐に呼び出して、旧知の庄屋たちと綿密な打合せさせた上で「線引き」をしたことは以前にお話ししました。  
「高松藩政要録」には、天領設置について次のように記します。

右池(満濃池)成就の後、歳も経るまま費木も朽懐て、同(寛永)十八年修造を加へんとせしかど、生駒家国除の後なれば、木徳村の里正四郎大夫といえるもの、幕府へ訴え出でけるに台命ありて、五条・榎井・苗田を池修補の料に当てられける故に、今、此の村を池御料といいしなり
  意訳変換しておくと
満濃池が完成してから、年月が経過して底樋やゆる木も痛み、生駒家の転封直後の(寛永)18年(1641)に修築願いを、木徳村の里正四郎大夫という者が幕府へ訴え出た。そこで幕府は、五条・榎井・苗田を池修理基金にあてるようにした。これを今では池御料と呼んでいる。

ここには「五条・榎井・苗田を池の修理基金」とするために天領にしたと記されています。それでは、なぜこの三村が選ばれたのでしょうか。江戸幕府は、大名の改易や領地替えで藩の境界を改める時には、藩境に楔を打ち込む形で、藩境の重要地帯を天領とするのが常套手段でした。満濃池は「戦略的な要地」で、この池からの水で丸亀平野では米作りが行われています。その運用権を幕府が握っている限り、丸亀藩や高松藩は幕府には逆らえません。天領・池御領は、丸亀藩と高松藩の間に打ち込まれた「楔」であり、満濃池管理という戦略的意味も持っていたと、研究者は考えています。

決壊中の満濃池
   讃岐国那珂郡満濃池近郷御領私領図(香川県立ミュージアム)
     (緑が高松藩・黄土色が丸亀藩・白が池御領)
高松藩と丸亀藩との藩境の決定には、細かい政策的配慮が払われていことは以前にお話ししました。
  例えば、丸亀平野の南部(まんのう町旧仲南地区)では、次のように細かい分割が行われています。
①七ケ東分の久保・春日・小池・照井・本目と福良見の東部を高松藩領七ケ村(上図緑色)
②七ケ西分の新目・山脇・追上・大口・後山・生間・宮田・買田を、丸亀藩領七ヶ村
③七ケ東分の帆山と福良見の西部を加えて丸亀藩領七ケ村として、七ケ東分を二分
④さらに福良見村を三分している
福良見と帆山
福良見と帆山(まんのう町)

この線引きを行ったのが、藤堂藩から呼び返されていた西嶋八兵衛であることは、以下でお話ししました。


彼は、満濃池築造と同時に用水路を建設して、その水配分にまで関わっていました。その際に旧知となった庄屋たちから意見を聞いて、今後に問題を残さないように、野山(刈敷)の入山権利に至るまで一札をとっています。このような綿密に計算されて上で藩境は決定されているのです。池の領が「東西領検地等の打ち余りによって設けられた」というは、それらの「遠望思慮」が見えない人達の風評と研究者は評します。

満濃池から塩入2
満濃池西部の高松藩と丸亀藩の藩境・七箇村周辺絵図

 池御料の設置は、灌漑上の重要ポイントある満濃池と、その水掛かりの重点である三村を天領として抑えて置く、という幕府の常套的政策であったことを押さえておきます。

新たに設置された天領・池御領を管理したのは、だれなのでしょうか?
寛永19年(1642)に池御料が置かれてから、元禄三年(1690)まで49年間、守屋家が代官として池御領を支配することになります。
  幕府は、この時期になると新しく天領にした所では、現地のやり方や支配関係を継承して、急速に改めることを避けるようになります。「継続・安定」を重視して、在地の土豪を代官に任命するやり方をとりました。池御領の代官についても、まずは地元の最大の有力者である金光院主に代官就任を請います。しかし、金光院主の答えは「大恩ある生駒家の不幸を考えると受諾することができない」というものでした。そこで那珂郡の大庄屋で、金毘羅大権現の庄官でもあった与三兵衛を代官に任命します。
 与三兵衛は、守屋与三兵衛と名を改め、苗田村に政所を置いて、幕臣として満濃池の管理と池御料の統治に当たることになります。

守屋家代官所跡


代官となった与三兵衛に課せられた職務は、次の通りです
①満濃池の維持管理と配水
②池御料三か村の治安の維持と勧農
③豊凶を確かめて年貢高を決定し、徴収した年貢を勘定奉行に納める
こうして幕臣となった守屋与三兵衛は、従来よりも遙かに多くの責務を担い込むことになります。このため周囲の金光院や他の庄屋たちからは、「代官になってから高慢な態度をとるようになった」と非難を受けるようになります。また、金毘羅大権現の金光院からも氏子としての勤めを十分に果たさないと批判されるようになります。

 正保2年(1645)9月に、高松藩江戸家老彦坂織部から、金光院宥睨(ゆうげん)に宛てた手紙には、次のように記されています。

会式(えしき)の時分、随分よき様に成さるべく候、江戸元へ池守子五右衛門参り候間、御手前へ少しも如在申さず会式の時分も様子もよく親子共に申し付くべき由、急度申し付け候間、其の御心得有るべく候、四条の政所も如在致さず候様にと申し遣わし候、御手前よりも五右衛門万事能く申し付けくれ候様にと仰せらるべく候、拙者方よりも御手前へ申越候と仰せらるべく候、池領弥無(いよいよ)左法仕り候はば、おや子共流罪に申し付くべき由重ねて申し渡し候間、様子もよく候はんと存じ候 
            琴陸家文書「御朱印之記」
 
意訳変換しておくと
(金毘羅大権現の)会式(えしき:法会の儀式の略称で10月12・13日)の頃で、盛大な儀式が行われたことであろう。江戸の私の所へ「池守子」の守屋五右衛門がやってきたので、御手前(金光院)のことについては、何も触れずに、会式についての協力・参加するなど金毘羅大権現の庄官としての勤めを果たすよう要望した。四条の政所についても、金光院に対して従順でない態度を改め指すように申し伝えた。御手前から五右衛門のことについて、「注意指導」を行って欲しいとのことであったので、以上のように申し伝えたことを、知らせておく。
 また池領のことについては、代官としての権威を振り回して、庄官としての勤めを果たさなければ、親子共流罪を申しつけるまで云ってある。   琴陸家文書「御朱印之記」

ここからは、次のようなことがうかがえます。
①金毘羅大権現の荘官としての勤めを果たない池御料代官の守屋与三兵衛に対して、金光院主は日頃から不満を持っていたこと。
②その不満を高松藩江戸家老に、常々伝えて「指導改善」を求めていたこと。
③その意を受けて江戸家老は、訪ねてきた守屋与三兵衛に対して、「代官としての権威を振り回して、庄官としての勤めを果たさなければ、親子共流罪を申しつける」とまで、云ったこと
④江戸家老は「池守子」五右衛門と蔑称した表現を手紙の中で用いていること。
⑤金光院主と江戸家老が懇ろな関係にあり、両者の守屋与三兵衛に対する評価が低いこと
このような「指導」をうけたためでしょうか。

正式な起請文の例
正式な牛王起請文
守屋与三兵衛は、正保4年11月10日に、次の記請文を金毘羅大権現に奉納しています。
敬白起請文の事
一  満濃池修覆料として高二一二九石四斗九升弐合の所、外に酉(とり)の年より百姓共改め出しの高四四石五斗五升、共に私支配仰せ付けられ候条、万事油断なく精出し申すべく候
一 満濃池用水掛りの郡村中、先規の如く分散仕り、贔員偏頗(ひいきへんば)無く通し申すべき事
一  池御料御勘定の儀は、高松御役所、山崎甲斐守殿御奉行御両所へ御手短を以て、五味備前守殿へ毎年入用の勘定仕るべく候
一 右違背せしむるに於ては、梵天帝釈四天を始め奉り、惣じて日本六十余州大小神祗、殊には伊豆箱根両大権現三嶋大明神 天満大神、別しては氏神金毘羅大権現御部類春属の神罰を罷り蒙る可き者也
仍て記請文件の如し(以下牛王誓紙)
正保四年霜月十日 守屋五右衛門書判・印判、血判、
  意訳変換しておくと
一  満濃池修繕費として、天領年貢収納石高2129石ばかりの収入がある外に、酉(とり)年よりの百姓共改出約44石を、私は万事油断なく精出していく立場にある。
一 満濃池の用水掛りの郡村は、ひろく分散しているが、贔員偏頗(ひいきへんば)なく、用水を分水する。
一  池御料の収支決算については、高松藩や山崎(丸亀)にも説明協議を行いながら、五味備前守(幕府の奉行職?)殿へ収支決算を行う。
一 これに違背した場合には、梵天帝釈四天を始め、日本六十余州大小神祗、加えて伊豆箱根両大権現三嶋大明神 天満大神、さらには氏神金毘羅大権現御部類春属の神罰を罷り蒙る可き者也
仍て記請文件の如し(以下牛王誓紙)
正保四年(1647)霜月十日 守屋五右衛門書判・印判、血判、
 この起請文は、日付と署名の箇所は牛王誓紙で、書判・印判血判が据えられています。
牛王法印
牛王法印
先ほど見た江戸家老の彦坂織部の書簡と、この起請文とは互に関連しているようです。つまり、幕府の代官となった守屋与三兵衛の態度が不遜になって来たので、高松藩と金毘羅当局で、それを抑える考えから、起請文を納めさせたようです。この起請文からは、代官守屋家は、金光院院主と高松藩から睨まれていて、基盤も脆弱であったことがうかがえます。
琴平町苗田天領代官所跡
天領代官所跡(守屋家 琴平町苗田)
苗田村の守屋家は、古くから金毘羅祭に奉仕する世話役である庄官の家筋でした。
守屋家一門の与三兵衛も、代官就任前の寛永八(1631)年や同十五年には子供の卯太郎・安太郎を頭人に立てるなど勤めを果しています。しかし池御料代官になってからは頭屋勤めから離れるようになったようです。そのため寛文八(1668)年十月には、榎井・五条・四条・苗田の各村の庄屋仲間から、来年は是非勤めをするようにとすすめられ、翌九年には子どもの権三郎を頭人に立てています。
 しかし、代官守屋家は結局は、次のように「失脚」してしまいます。
寛文11年(1661)与三兵衛義和が二代目を継職
貞享2年(1685)  助之進義紀が三代目を継職
元禄3年(1690)  助之進義紀が代官職を罷免
この「失脚」は、将軍綱吉の「代官に対する綱紀粛正政策」によるもののようです。代官は年貢の決定権を握っており、年貢米の一部を売却して幕府の勘定奉行に納める義務があります。その際に、百姓の年貢の未進分は代官の責任とされていたので、不正が多かったようです。綱吉は、この時に全国の代官の半数に近い三十数人の土豪的代官を罷免して、幕臣を新しい代官に任命しています。
  以後の池御領は、短期間の内に、京都町奉行所・松平讃岐守(高松藩)・大坂町奉行所・倉敷代官所などの「預り所」として移り替わっていきます。これについては、また別の機会に見ていくことにします。
私が気になるのは、生駒藩の下で満濃池池守となっていた矢原家がどうなったのです?
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
      讃岐国名勝図会に描かれた矢原邸(満濃池の下手)

 寛永八年(1631)に生駒藩時代に再築された満濃池の池守には、西島八兵衛に協力した豪族矢原又右衛門が任命されました。 生駒家の下では、矢原家は満濃池管理の実質的な最高責任者でした。ところが天領が設置され、守屋与三兵衛が代官(幕臣)として、就任することになったのです。守屋家と矢原家の関係は、生駒藩の下では、次のような関係でした。
矢原家 満濃池池守 扶持(50石)
守屋家 造田村庄屋
つまり、矢原家の方が上にあったはずです。
それが、天領・池御領設置で、どう変化したのでしょうか?
その関係が垣間見える史料があります。延宝六年(1678)の春から夏にかけて、満濃池用水の管理について、池御料代官守屋与三兵衛が池守の矢原利右衛門に宛てた、指図書の写しです。
その中の六通には、次のように記されています。(満濃池旧記)
① 四条村の内ふけ・らく原水これ無く、苗代痛み申し候間、うてへの水少しはけ候て遣さる可く候、念を入れらる可く候
以上
四月廿六日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
意訳変換しておくと
① 四条村の内ふけ(福家)・らく原には、水が不足し、苗代の苗が痛んでいるとという申し入れがあった。うめて(余水吐け)への水を少し落として、水を送るように、念を入れること
以上
四月廿六日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
② 手紙にて申し入れ候、昨日揺落し候様に申し遣わし候、又々抜き申す様に申し入れ候、下郡より右の通りにわけ三度申し入れ候、今朝下郡より最早水いらぎる由申し来り候間早々揺差し留め下さる可く候、少しも油断なされ間敷そのためかくの如く候以上
五月廿五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
意訳変換しておくと
② 昨日、手紙にて、ユルを落とし、水を止めるように指示したが、又々、ユルを抜くように申し入れる。今朝になって、下流域の郡から水を送るように三度申し入れがあった。いずれ、下郡よりまた水は不用との連絡が来るであろうが、その時には、早々にユルを落として水を止めて欲しい。少しの油断もできない状態にある。
五月廿五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
③ 手紙にて申し入れ候、然れば上の郷(かみのごう)水これ無く、植田痛み申し候由、断りこれ有り候間ゆる四合斗り抜き落し下さる可く候、念を入れらる可く候以上
六月廿日           守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
④ 吉野桶樋(おけどい)掛りの田、大貝・黒見水これ無く候由、断りこれ有り候間、其の元見合に遣わさる可く候、念を入れらる可く候以上
六月廿一日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
⑤ 上の郷、水これ無く田痛み申す由、断りこれ有り候間、ゆる見合にぬき落し下さる可く候、委細はこの者口上にて申し上ぐ可く候以上
七月十五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
⑥ 公文高篠より水上り参り候間、早々ゆるさし留め下さる可く申し入れ候、そのためかくの如くに候以上
八月八日           守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
ここからは、満濃池の管理については、苗田の守屋家の代官が指示を出して、それに従って池守・矢原家が、ユルの扱いを行っていることが分かります。つまり、守屋家が上、矢原家はその下、という上下関係になります。天領設置で、両者の関係が逆転したのです。

  矢原又右衛門の子利右衛門が貞享三寅年(1686)12月に病死して後、矢原家は池守職を離れます。
こうして、矢原家は満濃池との関係を失って行くことになります。代官・守屋家の失脚は、この4年後になります。それまでの代官と池守が去ったあと、満濃池と池御領は、どうなっていくのでしょうか。それはまたの機会に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら(近世編)20P  池御料の成立と統治    












            
「祖谷紀行」を読んでいると「祖谷八家」という用語が良く出てきます。「祖谷八家」の中には、平家の落人伝説の子孫で、平家屋敷と呼ばれる家もあります。中世の「山岳武士」の流れを汲む名主という意味で、誇りを持って使われていたようです。今回は「祖谷八家」が、中世から近世への時代の転換点の中で、どのようにして生き残ったのか。その戦略や処世術を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」です。

祖谷山は中世に、以下のように東西三十六名の名主(土豪)達によって支配されていました。
祖谷山三十六名

東祖谷山分として、菅生名・久保名・西山名・落合名・奥井名・栗枝渡名・下瀬名・大枝名・阿佐名・釣井名。今井名・小祖谷名
以上の十二名。
西祖谷分として、閑定名・重末名・名地名・有瀬名・峯名・鍛冶屋名・西名・中屋名・平名・榎名・徳善名・西岡名・後山名・.尾井内名・戸谷名・一宇名・田野内名・田窪名・大窪名・地平名・片山名・久及名・中尾名・友行名・
以上の二十四名、東西合わせて三十六名になります。
 この時代は「兵農未分離」で、武力を持つ者が支配者になっていきます。各名主は、力を背景にエリア内では経済的に抜きん出た地位にありました。
曽我総雄氏は、慶長17年の「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」を分析して、次の表を作成しています。(『西祖谷山村史』(大正11年版)
「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」
三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳の土地所有関係
この表からは次のような事が分かります。
①50反(五町)以上の土地所有者が名主。
②吾橋西の名内全耕地面積は77、8反
③名主の所有は反数54反
④名全体のの耕地面積の約7割を、名主が所有
⑤全戸数12戸の内で8戸は、3反以下の貧農
ここからは、名主が名(みょう)内の経済を牛耳っていたことが分かります。貧農達は独立しては生活できません。何らかの形で名主に頼らざる得ません。これを隷属農民と研究者は呼びます。ここからは、中世から近世にかけての祖谷山の支配構造は、つぎの両極に分かれていたことが分かります。
①各名主階層に隷属する農民
②農民の夫役労働力に依存して農地経営をおこなう名主
ここでは名主は、各名単位に経済単位を形成し、名内に君臨していたことを押さえておきます。
蜂須賀家政(徳島県・戦国武将像まとめ) | 武将銅像天国
             蜂須賀家政
 阿波一国の主人としてやってきた蜂須賀家政は、近世大名として「領内一円知行」を進めます。
領内一円知行とは、領主が自分の権力で、領内を自己一人のものとして領有し経営することです。これは中世以来の阿波の土豪衆の存在を否定することから始まります。このために細川・三好・長宗我部の三代に渡って容認されていた土豪からの領地没収が当面の課題となります。
 まず蜂須賀家政は、検地に着手します。これによって①耕地面積の確認と②耕作者としての農民の確保、の実現を目指します。そのために「土地巡見使」を派遣します。この役割は、検地施行を前提とする土地の所有状況と実態掌握を行うものでした。これ対して、平野部での検地作業は順調にすすみますが、山間部の土豪達は、抵抗の狼煙をあげます。天正13年(1885)6月から8月にかけて、仁宇山・大粟山・祖谷山などの土豪たちが立ち上がります。これらは内部分裂もあって、短期間で軍事力によって押さえつけられます。
 仁宇谷・大粟山の抵抗を一か月余で鎮圧した蜂須賀家政は、祖谷山にその矛先を向けます。
 この当時の様子を伝えるものとして「祖谷山旧記」は、次のように記します。
蓬庵様(蜂須賀家政)御入国遊ばせられ候硼、数度御召遊ばせらるといえども、御国命に応じ奉らす、御追罫の御人数を御指向け遊ばせられ候ところ、悪党難所に方便を構え、追て御人数多く落命仕り候。此時に至り、私先祖北六郎二郎、同安左衛門、美馬郡一宇山に罷り在り、兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、降参人の者召し連れ罷出、名職を申し与え、相違なく下し置させられ候。相一坦わざる族は、或は斬拾、或は溺め捕え、罷り出候、

  意訳変換しておくと
蜂須賀小六が阿波に入国して、(祖谷の土豪達に)何度か徳島城に挨拶に来るように命じたが、その命に応じない。そこで、追討の兵を差し向けると、悪党(土豪)たちは難所に砦を構え抵抗し、追手側に多くの死者が出た。そのため私の先祖である北六郎二郎、安左衛門が、美馬郡一宇山にやってきて、祖谷の悪徒誅討を願い出た。方便(調略)で、土豪衆の半分を降参させ、その者達を召し連れて、名職を与え、蜂須賀家の下に置いた。ただ従わない一族は、斬首や溺め捕えた。その次第は以下の通りである

 蜂須賀家政は、祖谷の名主たちの抵抗に対して、武力鎮圧を避けようとします。そして、祖谷の名主のことをよく知っている人物に処理を任せます。それが北(喜田)氏でした。
北氏の出自については、よく分かりません。
 ただ、天正十年に長宗我部氏と争って敗れ、本貫地だった阿波郡朽田城から一宇山に退却していたようです。北氏と祖谷山勢とは、もともとは対抗関係にありました。北氏としては、この際に新勢力の蜂須賀氏につくことで、失地回復を計ろうとする目論見があったようです。そのため蜂須賀氏にいち早く帰順したのでしょう。そして、美馬郡岩倉山・曽江山勢の武力反抗の鎮圧に参加しています。その功としてし天正14年には、一宇山で知行高百石余を得ています。これはかつての朽田城城主の地位には及ばないにしても、経済的には祖谷山の名主に優るものでした。
こうして、蜂須賀藩から祖谷山勢の鎮圧を任されます。このあたりのことが次の表現なのでしょう。
兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、

ここからは、北氏は武力一辺倒でなく、北氏の才覚で「名職の安堵」を条件に、祖谷土豪達の懐柔分断策を展開したことが分かります。「名職の安堵」とは、中世以来の名主の地位の容認です。
 ちなみに『祖谷山旧記』は、北(喜多)家の軍功と由緒を記録した「自家褒賞」的なもので、史料としては問題があります。しかし、当時の様子を記したものが他にないので、取扱に注意しながら手がかりとする以外に方法がないと研究者は考えています。

『祖谷山旧記』に書かれた喜田(北)氏の「調略」方法をもう一度見ておきます。
いち早く降服した者は、
菅生名、名主・榊原 織部介
久保名、名主・阿佐 兵庫
西山名、名主・橘主 殿之助
阿佐名、名主・阿佐 紀伊守
徳善名、名主・国藤 兵部
有瀬名、名主・橘  右京進
大窪名、名主・青山 右京
小祖谷 名主・石川 備後
ついで降服した者は、
後山名、名主・国藤左兵衛
片山名、名主・片山 与市
地平名、名主・今井 藤太
閑定名、名主・阿佐 六郎
戸の谷名、名主・川村 源五
名地名、名主・青山 新平
西岡名、名主・堀川 内記
西  名、名主・播摩平太兵衛
中屋名、名主・下川与惣治
友行名、名主・佐伯 彦七
以上18名の名主は、北(喜田)氏の調略を受入て、「御目見仰せ付けさせられ、持ち懸りの名職、下し置させられ(藩主へのお目見えを許された名職」を与えられ、蜂須賀家政に下った者達です。

一方斬首された者は、
下瀬名、名主・大江 出雲
久及名、名主・香川 権大
釣井名、名主・播摩 左近
今窪名、名主・中山藤左衛門
榎  名、名主・三木 兵衛
一宇名、名主・田宮 新平
平  名、名主・八木 河内
この七名は、北六郎二郎・同安左衛門父子の手によって斬首されました。その理由は、「重々御国命に相背き、相随わず、あまつさえ土州方と取持、狼藉」を働いたとされます。また、次の十一名の名主は、前記七名の名主が斬首されたのと前後して、讃州の鵜足に逃げますが、北六郎二郎、同安右衛父子の手によって補えられます。
落合名、名主・橘  大膳
大枝名、名主・武集 平馬
尾井内名、名主・大野 王膳
今井名  名主・黒田 監物
田野窪名、名主・横田 内膳
田野内名、名主・坂井 大学
鍛冶屋名、名主・轟  与惣
峯  名、 名主・影山 将監
奥野井名、名主・松下 平太
栗伎渡名、名主・松家 隼人
重末名、 名主・本多 修理
これを一覧表にしたものが東祖谷山村誌223Pに、以下のように載せられています。
近世祖谷山三十六名の措置一覧
近世祖谷山三十六名の処置一覧表
この中で北氏が斬殺処分にした七名については、次のように記します。
「重々国命に叛いた上に、右七人の者共と徒党を組んで、土州と連絡しながら敵対を重ねた。そこで徒党のメンバー七人の首謀者六郎二郎・安左衛門を斬り亡ぼした。また逃亡した六郎二郎・安左衛門父子を追補し、讃州の鵜足郡にて11人を捕らえた。安左衛門については、ここからすぐに渭津へ囚人として引連れて、早速に成敗が仰せ付けられた。六郎二郎については、上記18人の親族のどのような企みをしていたのかが分からないので、捕縛地の鵜足から祖谷山へ連れて帰り、十八人の一族を総て召し捕えて渭津へ連行し、取り調べを行った上で、罪刑の軽重によって、重い者は成敗が仰せ付けられ、軽い者には、以後は国命に随うとの起請文を書かせて放免とした。

以上を整理して起きます
①蜂須賀家政は、北六郎二郎、安左衛門に、祖谷の土豪抵抗勢力の鎮圧をを命じた。
②北六郎二郎、安左衛門は、方便(調略)で土豪衆を分断懐柔し、半分を降参させた。
③早期に抵抗を止めて従った者達は、名主(後の庄屋・政所)として取り立てた。
④一方、最後まで抵抗を続けた土豪たち18名は厳罰に処した。
⑤こうして中世には36名いた名主は、18名に半減した。
⑥18名の名主の統括者として、喜田(北)氏が祖谷に住むことになった。

祖谷山の名主たちの武力抗争が鎮圧されたのが天正18年(1590)でした。それから20年近く経た元和3年(1617)に、刀狩りが祖谷山でも行われることになります。
祖谷山日記には、刀狩りについて次のように記されています。

「元和三年、蓬庵様の御意として、祖谷中の名主持伝えの刀脇指詮議を遂げ指上げ中すべき旨、仰せ付けられ、東西名々それぞれ詮議仕り、取り揃え指上げ申し候。」

意訳変換しておくと
「元和3年に、藩主の蜂須賀家政様の名で命で、刀狩りを行うことを、祖谷中の名主に伝え、刀脇などを差し出すように申しつけた。東西祖谷山村の名主達は、命に従い刀を取り揃えて提出した。

祖谷山に派遣された刀狩代官は、渋谷安太夫で、政所は喜田安右衛門でした。この二人によって徴発された刀剣は27本と記録されています。その際に、徴発した刀類については、代物、代銀が支払われることになっていたようです。ところ3年経った元和6年(1620)になっても、その約束が守られません。
これに対して、祖谷の名主が不満を表明したのが、刀狩りと強訴一件です。
この事情について「祖谷山旧記」は、次のように記します。
「代銀元和六年迄に御否、御座無く候に付、指上人の内、名主拾八人発頭仕り、百姓六百七拾人召し連れ、安太夫に訴状指上げ、蓬庵様御仏詣の節、途中において、御直訴仕り候」

意訳変換しておくと
「元和6年になっても刀剣の代金が支払われていないことに対して、名主18人が発議し、百姓670人余りを引き連れて、安太夫に訴状を指し上げ、藩主のお寺参りの途中で直訴した

この強訴に対しての、蜂須賀蓬庵(家政)の処置を一覧化したものが下の表です。
祖谷山刀狩りと強訴参加一覧

この表からは次のような事が読み取れます
①天正の一揆では、早期帰順者18名は処分されなかった(○△)
②残りの18名の名主は処分を受けたが、罪が軽いとされた名主は家の存続を許されていた。
③その中で18名の名主が刀狩り強訴に加わり、その中の多くの者がが「成敗・磔罪」に処せられた。
④一揆での早期帰順者は、刀狩りの際に刀剣を供出しているが、強訴には参加していない。
結局、「一揆・早期帰順者と強訴不参加者グループ」が阿波藩からの粛正を免れたことになります。そして彼らが「祖谷八家」のメンバーになっていくようです。

結果的には、この強訴事件を逆手にとって、蜂須賀藩は祖谷への支配強化を図ります。それはある意味では藩にとっては「織り込み済みのこと」だったのかもしれません。これについて東祖谷山村誌は、次のように記します。
藩権力としては、どうしても祖谷山名主層の武力解体は、藩経営のうえからいって、さけることのできないことであった。(中略)
このことは、藩権力のまさに、藩制確立のために、天正の武力抗争への持久力を秘めた処置の姿であり、名主層にしてみれば権力失墜への最後の抵抗も、力の優位の前に敗北という結果となっている。元和四年という年は、阿波藩にとっては重大な時期であり、祖谷山の強訴の落着によっていよいよ藩制の確立が目に見えて強まるのである。
 
  どちらにしても、阿波藩に抵抗せずに温和しくしたがった名主達が生きながらえて、「祖谷八家」と称するようになることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」


   寛政5年(1793)の春、讃岐の香川郡由佐村の菊地武矩が4人で、阿波の祖谷を旅行した紀行文が「祖谷紀行」です。この中で雨のために東祖谷の久保家に何泊かして、当主から聞いた平家落人伝説などのいろいろな話が載せられています。その翌日に平家の赤旗がある阿佐家を訪ねています。今回は、幕末に起きた久保家と阿佐家をめぐる事件を見ていくことにします。テキストは、 「阿佐家の古文書 阿波学会紀要 第53号(pp.155―162)2007.7」です。

     阿佐家住宅パンフ
阿佐家パンフレット

阿佐家には「平家の赤旗」2流があり、祖谷平家落人伝説の中心であり、屋敷も「平家屋敷」として名高い旧家です。
平家の赤旗 4
阿佐家の平家の赤旗

平家の赤旗2

阿佐家の平家の赤旗(大旗と小旗)

阿佐家には28通の文書が残されています。それを研究者が内容別に分類したのが次の表です。 
阿佐文書 郷士身振の件名目録1
阿佐家文書 2

A.阿佐家の当主左馬之助の惣領で,17才となった為三郎の藩主への年頭御目見得関係文書(No.1~7)。
B.阿佐為三郎の政所助役就任関係文書(No.9~11)。
C.阿佐為三郎の御隠居様(蜂須賀斉昌)への御目見得関係文書(No.12~14)。
D.久保名名主代理関係文書。(No.15~26)。
E.外出時における供揃や藩士に出会ったときの挨拶の仕方など,郷士としての格式を記した「郷士身振」
F その他(No.8・27・28)
 ほとんどの文書は幕末の嘉永・安政期が中心です。中世や近世初頭に遡るものはありません。内容は阿佐為三郎に関係するものがほとんどです。この文書群の中で、多くの紙幅が費やされているのがDの文書です。
阿佐家住宅パンフ裏
阿佐家パンフレット(裏)
 安政2年(1855)5月に起きた久保名の名主久保大五郎の出奔事件への対応です。
久保家は阿佐家と同じく郷高取・郷士格となった「祖谷八士」の一人で、阿佐家の分家筋にあたるようです。名主であった久保大五郎が、どうして出奔したのかはよく分かりませんが、久保名の管理・運営に関してトラブルがあったようです。名主がいなくなった久保名を、どうするかについてについて対応が協議されます。まず考えられたのが先例に従って,次の名主が決定するまで喜多源内が管理する案です。しかし,喜多家は重末名(旧西祖谷山村)にあって、久保名とは6里も離れています。日常的な業務に差し障りありとして見送られます。
祖谷山の民家分布

 次に考えられたのが、政所喜多源内・政所助役南乕次郎・同菅生源市郎・政所助役見習喜多達太郎・同阿佐為三郎の5人による共同管理案です。この案が美馬三好郡代から藩に上申されます。この年7月、池田の郡代役所に呼び出された喜多源内ら5人に対して、郡代の上申に沿った措置が当職家老の命令として伝えられます。ここで阿佐名では無役であった阿佐為三郎が、久保名管理の中心となることが想定されていたようです。しかし、共同管理体制というのは、責任の所在が不明瞭で混乱が起きることが多々あります。この場合もそうで、早々に行き詰まります。
そこで、最後の手段として考えられたのが阿佐為三郎が久保名の久保大五郎の屋敷に移住し、政所助役見習と久保名主代理を当分の間兼帯する、そのかわりに四人扶持の扶持米(一人扶持に付き1日に玄米5合が支給)を支給するという案です。これを喜多源内は美馬三好郡代に提出します。ところが、これを徳島藩上層部は却下します。理由は「郷士格に扶持米支給の先例無し」でした。「郷士格に扶持米の支給をしたことはない、先例に無いことは困る」という所でしょう。

阿佐家上段の間
阿佐家 ジョウダンノマ
 久保名を治めるためには、阿佐為三郎の久保名移住・名主代理就任以外に方法はありません。
しかし、四人扶持支給がなければ為三郎の久保名常駐はできません。安政3年12月に、その旨の上申書が美馬三好郡代から城代家老に出されます。この中で三好郡代は、久保名の混乱が祖谷山全体に波及するおそれを強調します。それを防ぐためにも、久保名の早期の安定が必要であることを訴えます。こうして、出奔事件から2年目の安政4年4月になって、阿佐為三郎の久保名主代理就任と久保大五郎屋敷の拝借が藩によって認められます。懸案だった扶持支給については「申出之通承届(許可)」と書かれています。祖谷山の安定を優先させた妥協策が採られたようです。こうして、三好郡代や徳島の城代家老までも巻き込んだ久保名主代理一件は収束していきます。

阿佐家玄関
阿佐家玄関
 ここで研究者が注目するのは,「郷士身振」文書の中に何度も出てくる「(祖谷は)不人気之名柄」という言葉です。
祖谷が「不人気之銘柄」というのは、どういうことなのでしょうか。
 約十年前の天保13年(1842)に、東祖谷の名子が土佐への逃散事件を起こしています。近世後期の祖谷山では、名主の支配に対する名子の不満が蓄積していたようです。そのため名手と名子の関係はギクシャクしていました。それが郡代や政所・名主から見ると「不人気」という表現になると研究者は推測します。久保大五郎出奔の背景に、このような名子との対立があったようです。また「郷士格に扶持米支給の前例無し」という藩側の原則論を崩したのも、「不人気な祖谷山」に対する危機感があったと研究者は推測します。

栗枝渡火葬場

 平家落人伝説が書物に書かれ、それに従って関係する神社や名所が祖谷に姿を現すのは、近世後半になってからのことです。
そして、当時の「祖谷八家」と呼ばれる名主たちは、自らが平家の落人の子孫であると声高に語るようになります。これは自分たちの「支配の正当性」を主張するものとも聞こえます。つまり「(祖谷)不人気之名柄」=「名主の支配に対する名子の不満の蓄積」=「名主と名子のギクシャク関係」に対する名主側からの「世論工作」の面もあったのではないか、「祖谷八家=平家落人の子孫=支配者としての正当性」を流布することで、名子の不満を抑え込もうとしたとも考えられます。このことについては、またの機会にしたいと思います。
研究者は、徳島県立文書館寄託「蜂須賀家文書」の中の次の文書を紹介します。
蜂須賀家政の祖谷久保家への安堵状

①年号は慶長17年(1612)7月8日
②発行主は、阿波藩主蜂須賀家政
③宛先は、 祖谷久保名の久保源次郎
  藩主蜂須賀家政が久保源次郎に出した知行安堵書です。内容は、それまで持っていた名職と久保名内で30石の知行を安堵するものです。研究者は、これは写しでなく原本だと考えています。久保名の名主であり、郷高取・郷士格となった久保家にとって、藩主のお墨付きでもあるこの安堵書は、最も大切な文書であったはずです。
それがどうして藩主の蜂須賀家の手の元にあるのでしょうか
 研究者が注目するのが、この宛行状(判物)の包紙の差出者が阿佐左馬之助と西山内蔵之進(西山氏は西山名の名主で「祖谷八士」の一人)であることです。ここからは久保家の不始末を、わびるために久保家に残されていた宛行状を藩に「お返し」したのではないかと研究者は推測します。なお、この宛行状については宝暦9年(1759)に書かれた『祖谷山旧記』に全文が紹介されています。
以上をまとめておきます。
①「平家の赤旗」が残る阿佐家には、近世後半の多くの文書が残されている。
②その中に安政2年(1855)5月の久保名の名主久保大五郎の出奔事件への対応文書がある。
③それは出奔不在となった久保名の名主を、本家筋の阿佐家の一族が継承就任するまでのやりとり文書である。
④また藩主蜂須賀家政が久保源次郎に出した知行安堵書が、蜂須賀文書に収められていることは、久保家の不始末を詫びるために安堵状が藩主に変換されたことがうかがえる。
⑤当時の祖谷は名主と名子の関係が悪化しており、「不人気之名柄」と認識されていた。
⑥このようなことが久保大五郎の出奔事件の背景にある。

18世紀席末に、「祖谷紀行」を書いた菊地武矩が御世話になった久保家は、その後の約半世紀後に主人が出奔し断絶したようです。そして、入ってきたのが本家筋の阿佐家になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  阿佐家の古文書 阿波学会紀要 第53号(pp.155―162)2007.7
『東祖谷山村誌』(1978年 東祖谷山村)
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 寛政5年(1793)の春、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が、阿波の祖谷を旅行した時の紀行文を現代語に意訳して読んでいます。高松の由佐発しての前回までのコースは以下の通りでした。
4月25日
由佐 → 鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠 → 貞光
4月26日
貞光 → 端山 → 猿飼 → 鳴滝 → 一宇 西福寺
4月27日
一宇の西福寺  → 小島峠 → 菅生 → 虹の滝 → 久保
4月28日
大雨で久保家逗留し、平家伝説などを聞く
今回は5日目です。阿佐家に伝わる平家の赤旗が見たいというのが、旅の当初からの目的でした。そのため雨の中を押して、久保から阿佐家を尋ねていきます。その様子を現代語にして見ていくことにします。
祖谷山の民家分布

祖谷紀行 葛橋1
祖谷紀行 4月29日 蔓橋の場面
29日 夜が明けて空を見ると、曇りがちではあるが、かねてからの願いなので、平家の旗を見に行くことにする 。 
久保の前川という谷川を渡る。ここには蔓橋が架かっている。

祖谷の葛橋 阿波名所図会.2jpg
阿波の葛橋 阿波名所図会(久保の蔓橋ではありません)
長几十二三丈、幅四尺計、こちら岸からあちら岸に、几十餘のかつらを引渡して、両岸の大木に結びつけ、そこに長四尺ばかりの丸木や薪を割ったものを、竹ひごように編んで並べてある。左右には欄干をつけて、ひっくり返えっても落ちない備えがされている。
祖谷紀行 葛橋2
祖谷紀行 久保の蔓橋の場面
また蔓を両岸の大木の枝上に蜘手のようにいくつも架け、欄千に結付けている。両岸の大木は、川にせり出していて、その枝々は、川の上で行合うほどになっている。橋を維持し、落ちないような工夫が至るところに見える。その大きさは、高松の常磐橋を少し狭くして、もう少し長くしたようなものである。谷が深く、普通の橋柱(橋脚)が建たないので、上からかつらを結付けて橋としている。これを里人は手荷を担いで渡る。私たちも慣れないことではあるが、左右の手に欄千を握って用心しながら足をゆっくりと置きながら進んだ。半ば当たりの所で、伏せて下を見ると、渓流がさか巻いて、巖にぶつかり、雷のような音が聞こえてくる。蔓橋の間は几そ十四五丈ほどであろうか。目がくらむような気がして、長くはおれずに逃げ出すように渡った。渡り終えて、後の人を見ると雲中を歩む仙人のようだ。

祖谷紀行 葛橋3

 里人が云うには、祖谷には十三の蔓橋がある。
その内で、第1は善徳のもので、第二が久保の西六里にある長二十五六間のものと評す。人に聞いた所によると、どこかで鬘橋を渡らないと祖谷には入れない云う。しかし、これは妄説であることを知った。峠を越えれば蔓橋を渡らなくとも祖谷には入れる。
 また、かずら橋を渡る際には、梶のない船が大海原に漂うように、大揺れするとも聞いた。しかし、まったく揺れないというわけではないが、揺れ幅は一、二寸のものである。これも虚説であった。
 また蔓橋は、そこに生えている鬘を使うと聞いていたが、これも誤りであった。使われている蔓は、すべて他所から切り出され運ばれてきたものであった。そのため毎年掛け替えることはせずに、3年に一度くらいの掛け替えを行っている。こうして見ると、讃岐と2,30里しか離れていない阿波の祖谷のことでも「浮説(フェイク=ニュース)」が多いことに気づかされる。世の中とは、こうしたものであろうか。嘆かわしく感じる。
葛橋は当時から興味を惹く題材で「名勝」であったようです。そのため名所図会などにも取り上げられています。作者のその取り上げ方は、見たことをありのままに伝えようとする姿勢で貫かれています。彼がある意味で、合理的精神の持ち主だったことがうかがえます。また、鬘橋を実際に見てから学んだことで、それまでの自分の旧知の知識を疑い是正しようとしています。これも「近代的精神の萌芽」とも云えそうです。
祖谷山 亀尻峠
久保→ 亀尻峠 → 阿佐 
久保前川の蔓橋を渡って、亀尻峠越えで阿佐家を目指します。

 雨が止まないので、別業(本宅以外の屋敷・別荘?)の西山平助の家に雨宿りさせてもらう。しかし、雨はやまず、ますます強くなる。そこで別業を管理する者は、私たち一人ひとりに笠を借してくれた上に、案内の童を呼んでくれた。厚情に感謝する。傘をさして、谷を下り、岡を昇り、亀尻山(峠)に至る。
祖谷紀行 阿佐家1
祖谷紀行 29日 亀尻峠から阿佐家へ
 まさに久保家の主人が云ったように、道は険しく、汗が流れて衣服の間をつたい落ちる。ようやく鑽までやってきたが、雨はますます本降りになり、休む場もない。雨霧が立ち覆って、先もよく見えない。ただ声がする方向に、坂を下ると棘があり、欝林には、ぶす(ぶと?)という虫が多く、それが手足を噛んで、痛くて堪らない。

亀尻峠から阿佐家への雨の中の下り坂で、棘やぶとに悩まされています。なんとか阿佐家にたどり着きます。
祖谷山阿佐家
阿佐家

こうして坂を下り、谷を巡ってなんとか阿佐家に着いた。案内を請うて、久保家の主人が書いてくれた紹介状を出すと、袴に脇指しの家長と思える人物が現れて、座敷に通された。当主が錦の袋に入った平家の赤旗を軸にしたものを二つ床に架けた。

その赤旗が次のように「祖谷紀行」の中には描かれています。

阿佐家の平家の赤旗1
平家の赤旗 大旗(祖谷紀行)
大旗
総長 鯨尺六尺八寸三分、曲尺 八尺五寸一分五厘、幅二尺七寸
小旗
此幡上下損セリ、幡ノ上二八ノ字アルヘシ、切テ見エス、左ノ大明神ノ上二嶋ノ字チラチラミユル是巖島大明神ナルヘシ、右ハ一向二見エス、楷書古雅唐以上ノ趣アリ、双蝶ノ画工密ニシテ雅ナリ、地ハ明画ノ絹二似夕り、尤旗ニツギテナク、 一幅ノ絹ナリ、阿州蓬奄君見給ヒ、表具シテ錦ノ袋二入テ返シタマフトナリ
意訳変換しておくと
大旗は 総長 鯨尺で六尺八寸三分、曲尺で八尺五寸一分五厘、幅二尺七寸
小旗は、上下に損傷がある。「幡」の字の上には「八」の字があったはずだ。切れて見えない。また左側の大明神の上いは嶋の字がチラチラと見えるので、これは巖島大明神と書かれているのだろう。それに対して、右側は何も見えない。楷書古雅で唐風の趣がある字体である。双蝶の絵は、緻密で優雅である。生地は明画の絹に似ている。なお、旗には継ぎ目がない。一枚の絹である。阿州蓬奄が表具して、錦の袋に入れて阿佐家に返したという。

平家の赤旗 小旗
平家の赤旗 小旗(祖谷紀行)
平家の赤旗2

平家の赤旗3
阿佐家の平家の赤旗(右が大旗・左が小旗)
阿佐家の大小二流の平家の赤旗とよばれるものです。
大旗は、たて、303㎝,よこ111㎝の大きさで、赤、紫二色で交互に染られていましたが、今は変色して色は殆んど残っていません。上辺中央に、八幡大菩薩の墨書が見えます。
 小旗は、たて199㎝、よこ53㎝でやや中央に「むかい蝶」の絞章が墨で画かれ、上辺に、八幡大菩薩の文字を見えます。しかし、いまは、称の両脇の「大明神」も、かつて見えたという「厳島」も見えません。小旗も、赤く染められていたはずですが、今は色を失なって白く見えます。大・小ともに絹製ですが、いたみが激しくて18世紀末に菊地武矩が訪ねた時には、表装仕立てになっていたことが分かります。大旗が本陣用、小旗が戦陣用と伝えられています。

作者は、平家の赤旗だけを見に来たかのようで、当主とのやりとりや家のことには何も触れていません。「御旗を見終わると、謝意を述べて立ち帰った。」と記すだけです。
ここでは阿佐家のことを、もう少し詳しく見ておきましょう。
近世の祖谷地方は、天正13年 (1585)の祖谷山一揆鎮圧に功績のあった喜多家が政所(庄屋)に就きます。その下で中世以来の系譜を引く名主がそれぞれの名(東祖谷山12名,西祖谷な ご山24名)の農民を名子として支配する独特の方式が続きます。阿佐名の名主・阿佐家は、比較的早い時期に蜂須賀家に服属した家で、そのため郷高取(ごうたかとり)とも呼ばれる武士に準ずる待遇の身居(身分)を与えられます。いわゆる「祖谷八士」の一人で、文政10年(1827)郷士格となっています。

阿佐利昭家住宅(
       阿佐家平面図(東祖谷山村誌674P)
 その屋敷は山地の中としては、広い平担地を敷地としていて、前方が広く開けています。
屋敷の建築年代は文久二年であることが棟札から分かります。徳善家と同じよな玄関・書院風造りの続き座敷がありますが、間取りはかなり違っているようです。この家の特徴を、東祖谷山村誌は次のように記します。
①中廊下があること。家の下手に四室、その中央棟通りに廊下があって、前後二室ずつに分割している。
②上手の奥に隠居がある。上手のジョウダンノマとインキョは、今はどちらも八畳である。しかし、もともとの間仕切は、半間奥にあって、ジョウダンノマは十畳、インキョは六畳であった。インキョには炉が切られ、天丼を張っていない。ここからこの部屋は未完成という感じも受ける。
阿佐家上段の間からインキョ
阿佐家 ジョウダンノマ
平家の赤旗を拝見した一行は、降り続く雨の中を傘をさし、来た道を亀山峠に向けて引き返します。
ここで亀越峠のことを少しお話しします。
祖谷山 亀尻峠3
亀越峠(「阿波の峠歩きより」)
亀越峠は、旧祖谷街道上に位置します。
 阿佐と麦生土と西山や久保を十文字に結ぶ交通の要所でもあります。そのためかつては通夜堂が建っていて、祭りには踊りや相撲大会も奉納されていたようです。この峠には二体の弘法大師像も祀られています。その台座には阿佐、西山、九鬼、麦生土、京上、小川の各名の十数名の名が彫り込まれています。ここからは、この峠にいろいろな集落から人々が集まり、交流や信仰の場となっていたことがうかがえます。
 阿波藩士・大田信上の『祖谷山日記』には、亀尻峠からの展望の良さが記されています。地元の栃之瀬中学校(昭和48年束祖谷中学校に統合)では、遠足に峠まで登っていたようです。今は、植林された樹木が茂って展望は遮られてしまいました。
亀越峠のあごなし地蔵は、歯痛どめの流行神だった。
亀尻峠のあごなし地蔵
ここには「あごなし地蔵」も祀られています。江戸時代後期になると、いろいろな流行神が登場するようになって、「分業」して痛みに対応してくれるようになります。こうして「歯痛専門」の流行神も登場します。そんな仏様が「あごなし地蔵」です。
 亀尻峠のあごなし地蔵の台座には「おきノくに あごなし地蔵」と刻まれています。「おきノくに」とは隠岐のことで、「あごなし地蔵」発祥の地です。あごがなければ歯もないし、歯痛にもなりません。この地蔵尊は、青石で作られていますが、阿波のものではないようです。総高28㎝と小柄なので、隠岐で作られ、背負って運ばれてきて、この峠に勧請されたものと研究者は考えています。歯痛からの解放を願って、この峠に勧進された地蔵尊のようです。それを行ったのは。廻国の修験者たちだったはずです。祖谷には、修験者の活動が色濃く残っているように私は思っています。
亀尻峠から久保までの下り道を見ておきましょう。
亀尻山までやってきた。南北に坂がある。南が来たときの道なので、今度は北への坂道をたどる。少し行くと道のそばに、藁屋の猪小屋があった。猪が山田を荒らさないように監視する小屋らしい。雨が止まないので、ここで休息することにした。休んでいると西湖が、次のような事を話し出した。祖谷では疱瘡を忌み嫌う。そのためか疱瘡患者が少ない。たまたま疱瘡になった者は、こんな猪小屋のようなものを建てて、そこに患者を隔離して、家から食事などを運んで看病する。そのため疱瘡患者は、風雪や療痛の気に犯されて、十に八九は亡くなってしまう。この地の風俗が淳厚だとおもっていたので、これを聞いて心が少し暗くなった。そうする内に、雨もやんだので、猪小屋を出て坂を下った。麓について、もと来た道に出会い、例の鬘橋を渡って、黄昏には久保に帰り着いた。

祖谷の葛橋 阿波名所図会
祖谷の橋(阿波名所図会18)

4月30日、夜明があけても、雨は猶やまない。谷川からは雷のような濁流に石が打ち付けられる音が聞こえてくる。久保家の主人は心配して、もう一泊することを勧めてくれた。その言葉に甘えて、かたじけないと謝しながら泊まらせてもらうことになった。
  こうして降り続く雨に閉じ込められて、翌日も久保家に逗留することになります。その間。主人から聞いたのが祖谷に伝わる怪奇伝説ですが、これは省略して、今回はここまでとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

祖谷紀行 表紙
菊地武矩の「阿波紀行」
 寛政5年(1793)の夏、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が、阿波の祖谷を旅行した時の紀行文が残されています。
今回は、今後の史料として「祖谷紀行」を現代文意訳で、アップしておこうと思います。なお「祖谷紀行」は、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧可能です。
 18世紀後半と云えば、金比羅船が就航して、その参拝客が急増していく時期です。この時期に、十返舎一九は、東海道膝栗毛を出しています。さらに紀行文ブームの風を受けて、弥次・喜多コンビに金毘羅詣でをさせています。これは「祖谷紀行」が書かれた約10年後のことになります。ここからは18世紀末から19世紀初めは、伊勢参りが大人気となり、その余波が金毘羅参りや、宮島参りとなって「大旅行ブーム」が巻起きる時期にあたるようです。文人で、歌好きの菊地武矩も、祖谷を「阿波の桃源郷」と見た立てて旅立っていきます。

 阿波紀行 1P
        菊地武矩の「祖谷紀行」の書き出し
左ページが祖谷地方について書かれた冒頭部です。これを書起こすと以下のようになります。

祖谷紀行 讃州浪士 菊地武矩
祖谷は阿波の西南の辺にあり、美馬郡に属す。
久保二十郎云、むかしハ三好部なり、蜂須賀蓬寺君の阿州に封せられ給ひしより、美馬郡につくとなり、美馬郡は昔名馬を出せし故に呼しと、
○祖谷を美馬となせしハ、寛文中、光隆君の時なりともいふ。南北遠き所ハ六里、近きハ三里余、東西遠きハ十五、六里、近き所ハ一二、三里、其地いと幽途にして一区中の如く、ほとんどは桃源の趣あり、むかし安徳天皇雲隠れまし、所にて、其御陵又平家の赤旗なんとありときこえけれハ、床しく覚えて行遊の志あり、ここに西湖といふものあり、

意訳変換しておくと
 祖谷は阿波の西南にあたり、美馬郡に属す。久保三十郎が云うには、昔は三好郡であったが、蜂須賀小六が阿波藩主に封じられた時に、美馬郡に属するようになった、美馬郡は、かつては名馬を産したので「美馬」と呼ばれたと。
○祖谷を美馬郡に編入したのは、寛文年間の時とも伝えられる。祖谷は、南北六里、東西は十五里で、幽玄で、桃源境の趣がする。かつて、安徳天皇が落ちのびた所で、その御陵には平家の赤旗もあると聞く。そんなことを聞いていると旅心が湧いてきた。友人に西湖といふ者がいる。
祖谷紀行2P
祖谷紀行2P目

意訳変換しておくと
もとは吉備の中津国の人で、祖谷の地理についてよく知っている。そこで彼が近村にやって来たときに、佛生山の田村惟顕(名敬、称内記)と、出作村の中膊士穀(名秀実、称六郎衛門)と、申し合せて、祖谷への先達を頼んだ。
こうして寛政五年(1792)卯月25日の早朝に、私たち4名は香川郡由佐を出立した。
香川(香東川)に沿って、南に半里ばかり歩いた。(文中の一里は五十丁、一町は五十歩、一歩は六尺) ここには讃岐の名勝として名高い「童洞の渕(井原下村)」がある。断岸の間にあって、青山が左右に起立して、明るい昼間でも仄かにくらく、その水は南から流れ来て、滝として落ちる。それは渦巻く波車のように見える。その中に穴がある。廣さは一丈ばかりで、深さはどれだけあるのか分からない。その中に龍の神が、潜んでいると云われる。旱魃の年には、雨乞い祈願のために、祀られる。
ここまでの要点をまとめておきます
1792年旧暦4月25日に、4人連れ添って祖谷への旅に出た。②香川(=香東川)の「童洞の渕(現在の鮎滝周辺)」は、讃岐の名勝で、龍神の住処で雨乞いの祈願が行われる場所でもあった。
童洞淵での雨乞いは、どんなことが行われていたのでしょうか?
別所家文書の中に「童洞淵雨乞祈祷牒」というものがあり、そこに雨を降らせる方法が書かれています。その方法とは川岸に建っている小祠に、汚物をかけたり、塗ったりすることで雨を降らせるというものです。童洞淵は現在の鮎滝で高松空港の東側です。

相栗峠
鮎滝から相栗峠まで
鮎滝からは奥塩江を経て、相栗峠までを見ておきましょう。
 この渕からより東南へ一里ばかり行くと、関、中徳、椿泊、五名中村を経て、岩部(塩江美術館付近)に至る。また、中徳から右に進むと、西南半里余で、奥野に至る。その間には斧か渕、正兵瀧、虹か瀧などもあり、名勝となっている。これについては、私は別の紀行文で書いたので省略する。その道のりの間には、怪しい山が多くあることで有名で、翡翠も多い。
4344098-34香東川屈曲 岩部八幡
香東川曲水と岩部八幡(讃岐国名勝図会)
 さて岩部には、石壁がある。 高さ二丈余りで、長さ数百歩、好風が吹き抜けていく。その下を香川(香東川)が清くさやけく流れていく。巌の上の跡を見ながら、持参した酒をかたむける。この景色を眺めながら大和歌を詠い、吉歌を詠む。
 すでに時刻は午後2時に近く、西南に100歩も行くと、香川(香東川)に別れを告げ、(美馬・塩江線沿いに)いよいよ国境を目指す。ここからは不動の瀧、塩の井(塩江)鎧岩、簑の瀧などがある。これも別記した通りである。ますます幽玄になり、時折、鶯の声も聞こえる。

4344098-31
塩江の滝(讃岐国名勝図会)
 土穀詩の「深山別有春余興・故使鶯声樹外残・其起承」を思い出す。焼土(やけど)という所を過ると、高い山の上に、趣のある庵が見えて来た。白雲が立つあたりに、どんな人が浮世を厭い離れて暮らしているのだろうか。むかし人の詠んだ「我さへもすたしと思ふ柴の庵に、なかはさしこむ峯の白雲となん」という歌を思い出し、その通りだと納得する。

4344098-33塩江霊泉
塩江霊泉(讃岐国名勝図会)

 内場(内場ダム周辺)という所を過ぎると、山人の炭焼窯があちこちに見えてくる。山はますます深くなり、渓水はその間を流れ、香川(香東川)に合流する。その渓流の響きは、八紘の琴のようにも聞こえる。石壁にうけ桶が架けられた所、巖の列立て、笙の竹が植えられた所など、この間の風景は殊にいい。そうするうちに合栗(相栗峠)に着いた。
相栗峠(あいぐりとうげ)

ここまでのルートを振り返ると、次のようになります。

① 由佐 →鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠

現在の奥塩江経由になります。相栗峠は、龍王山と大瀧山の鞍部にある峠で、美馬と髙松平野を結ぶ重要交通路でした。中世から近世には、美馬安楽寺の浄土真宗興正寺派の髙松平野への教線伸張ルートであったことは以前にお話ししました。
 話の中に詩文の引用が登場してきます。筆者にとっての紀行文は芭蕉の「奥の細道」が模範です。紀行文は、歌を登場させるための「前振り」的な意味もあります。詩文の比重が高かったことを押さえておきます。
相栗峠の由来について、作者は次のように記します。
ここは讃岐と阿波の境になる。この峠には、次のような話が伝わっている。昔、ここに栗の樹があって、阿讃の人達が栗を拾ったので、その名前がついた。そこに大田の與一という人物が四十年前に移ってきた。なお大田村の松本二郎は、その一族と云う。彼が私に語った所によると、安原は山村なので、南北五、六里の鮎瀧・関・中徳・五名・中村・椿泊・岩部・燒土・内場・細井などは、その小地名で、合栗も細井の小字名であろう。細井は、山の麓にあって、大干魃の際にも水が涸れず、大雨にも増水することがない。常に細々と水が流れるので「細井」という地名がついている。
 また細井には鷹匠が鷹を獲る山があり、綱を木の上に架け置いて、その下に伏せて待っていて、鷹がかかれば起出て捕える。しかし、鷹は蹴破って逃げることもある。
 朝に郷里の由佐をでて、阿讃国境の相栗峠まで四里、はるかまでやってきた。
由佐よりトウト渕まて半里、トウト渕から岩部まて一里半、岩部より合栗(相栗)まで二里半になる。はじめて讃岐を出て他国に入る。振り返れば、八重に山々が隔たり、雲霧もわき出ている。故郷の由佐を隔てる山々は、巨竜の背のように、その間に横たわる。
相栗峠について、私が疑問に思うのは関所らしきものが何も書かれていないことです。阿波藩と高松藩の間には、国境に関しての協定があって、重要な峠には関所が置かれ、通過する人とモノを監視していたとされますが、この紀行文にはそのような記録はでてきません。峠は、自由往来できていた気配がします。
相栗峠から貞光までの行程を見ておきましょう。
 相栗峠から東南へ、林を分け谷を周りこんでいくと谷川がある。これが「せえた川(野村川谷?)」で、その川中を辿って一里ほど下りていく。左右は高い山で、右を郡里山といひ、左りを岩角山と云う。草樹が茂る中を、川を歩き、坂を下り、平地を壱里ほど歩くと、芳(吉)野川に出る。この川の源流は土佐國で、そこから阿波国を抜けて海に出る。流域は六、七十里の、南海四州の大河である。大雨が降ると、水かさを増して暴れ川となる。私は、「其はしめ花の雫やよしの川と」という歌のフレーズを思い出したが。それは大和の吉野川のことであったと、気づいて大笑いした。
 船に悼さして吉野川を南に渡ると、人家の多い都会に行き着いた。これを貞光という。養蚕が盛んで、桑をとる姿がそこかしこに見える。その夜は、この里に宿を取った。
①相栗峠からは、「川中を辿り」「川を歩き」とありますので、沢歩
きのように渓流沿いを歩く道だったことがうかがえます。
②平地に出て一里歩いているので郡里まで西行したことが考えられます。
③そして郡里から「船に悼さして吉野川を南に渡」って、貞光に至ったとしておきます。
④貞光周辺は「養蚕が盛んで、桑をとる姿」が見えたことを押さえておきます。

旧暦4月26日の貞光から一宇までのコースを、見ていくことにします。
翌朝26日に、貞光を出発して西南方面の高い山に向かう。その山は岩稜がむき出しで、牙のような岩が足をかむことが何度もあった。汗を押しぬぐって、ようやく峠に出ると、方五間ほどの辻堂があった。里人に聞くと、①新年には周辺の里人達が、酒の肴を持ち寄って、このお堂に集まり、日一日、夜通し、舞歌うという。万葉集にある筑波山の会にも似ている。深山なればこそ、古風の習俗が残っているのかもしれない。その辻堂で、しばし休息した後に、さらに高い山に登っていくと、石仏が迎えてくれた。これが貞光よりの一里塚の石仏だという。
 古老が云うには、日本國には、神代の習俗として、猿田彦の神を巷の神として祭り、その像を刻印した。仏教伝来以後は、それを地蔵に作り替えたが、僻地の國では今も神代ままに、残っている所があると云う。辻堂の宴会が万葉の宴に似ているのを考え合わせると、この石佛も、むかしの猿田彦の神なのかもしれない。
 ここから仰ぎ見ると、高き山が雲や千尋の谷を従えているように見える。さらに、この道を登っていくと、壱里足らずで猿飼という所に至る。山水唐山に似て、その奇態は筆舌に尽くしがたい。

鳴滝 阿波名所図会
鳴滝(阿波名所図会)
 耳を澄ますと、水のとどろく音が聞こえてくる。何かと怪しみながら近づいていくと、大きな瀧が見えて来た。これが鳴瀧である。瀧は六段に分かれ、第一段は雲間より落てその源さえ見えない。第二段は岩稜に従い落ちて、第三段は岩を放れて飛び、四段五段は、巌にぶつかりながら落ちていく、第六段は谷に落ち込んで、その末は見えない。全長は上下約二百四五十尺にも及ぶ。適仙が見たという中国の濾山の瀑布水も、こんなものであったのかと思いやる。雲間から落てくる瀧の白波は、天の川の水がそそぎ落ちるのかとさえ思う。
 天辺の雲が裂けて龍の全貌が見えると、あたりに奇石多く、硯にできるとような石壁が数丈ある。形の変わった奇樹もあり、枝幹も皆よこしまに出たりして、面白い姿をしたものが多い。
貞光 → 端山 → 猿飼 → 鳴滝 → 一宇

①貞光の端山周辺には、各集落毎にお堂があること。
②お堂に集落の人たちが集まり、酒食持参で祖霊の前で祈り・詠い・踊ること。
③祖霊と交歓する場としてのお堂の古姿が見えてくること。
④「ソラの集落」として、有名になっている猿飼を通過している
④鳴滝の瀑布を賞賛していること、しかし土釜は登場しない。

眺めを楽しみながら、山の半腹をつたい、谷を廻っていくと一宇という所に着いた。
一宇の人家は五、六軒。その中に南八蔵という郷士の家がある。この家は、祖谷八士と同格で、所領も相当あるという。その家の長さは九間だが、門も納屋もない。讃岐の中農程度の家である。山深い幽谷であるからであろうか。しばらく進むとふちま山がある。山の上に山が重なり。人が冠せたように見えるのが面白い。
さらに進んで松の林で休息をとる。そこで貧ならない山人に出会ったので、どこの人か聞くと、「竹の瀬」の者だと答えた。竹の瀬は、一宇の山里のようである。彼の名を問うと辺路と答えた。それは、世にいふ「辺路(遍路)」なのかと問うと、そうだという。聞くと、彼の父が四國辺路に出て、家を留守している間に生れたので、辺路とい名前がつけられたようだ。辺路とは、阿讃豫土の四国霊場をめぐり、冥福をいのることを云う。
 他にもそんな例はあるのかと問うと、伊勢参宮の留守に生れた男は、参之助・女は「おさん」と名付けられている。また、生れた時に胞衣を担いで、袈裟のやうにして生れた男の子は、袈裟之助、女の子は「おけさ」と名付けられている。また末の子を「残り」、その他に右衛門左衛門判官虎菊丸鳥とい名前もあり、源義明・源義経・浮田中納言秀家・法然上人という名前を持つものものいるという。ここで初めて、私は「辺路」や「遠島」という名前もあるのだと知った。ここで出会った「辺路」を雇って案内者とすることにした。
①当時の一宇には、五・六軒の人家しかなかったこと。近代に川沿いに道が伸びてくるまでは、多くの家はソラの上にあった。
南八蔵の家は、この地方では最有力な郷士であったが、門も納屋もなかった。
③「辺路」と名付けられた男に、案内人を頼んだ。
  ここに出てくる南八蔵の家は、一宇山の庄屋で今はないようです。南家については、弘化四年「南九十九拝領高并居宅相改帳」に、ここに「居宅四間 梁桁行拾五間  萱葺」と記載されています。この建物は明治30年に焼夫したようです。

しばらく行くと、「猿もどり」という巖が出てきた。
「猫もどり」、「大もどり」とも呼ばれるという。「ヲササヘ」(?)とい地名の所である。幅二三尺長七八丈、高三四丈で、藤羅がまとわりついて千尋の谷に落ちている。さらに数百歩で大きな巖の洞がある。その祠の中には二十人ほどは入れる。伝説によると、その祠の中に、大蛇が住んでいて、往来の人や禽獣を飲み込んでいたという。
 さらに進むと雌雄という所に着いた。
「こめう」は、民家十四、五軒で、山の山腹にある。ここまで来て、日は西に傾き、みんなは空腹のため動けなくなった。
一宇 西福寺2
最(西)福寺

ここにある最福寺の住職と西湖は知人であった。そこで、寺を訪ねて一宿を請うた。しかし、住職が言うには、ここには地米がなく、栗やひえだけの暮らしで、賓客をもてなすことができないので、受けいれられないと断られた。西湖が再度、懇願し許諾を得た。私たちが堂に上ると、住職や先僧などがもてなしてくれた。その先僧は西讃の人で、故郷の人に逢ふような心地がすると云って、時が経つのも忘れて談話をした。住僧は、人を遠くまで遣って米を求め、碗豆を塩煮し出してくれた。私たちは大に悦び、争うように食べた。その美味しさは八珍にも劣らない。先ほどまでの空腹を思えば、はじめやって来たときに、梵鐘が遠くに聞こえるように思い、次の詩を思い出した。
日暮行々虎深上、逢看蘭若椅高岡、応是遠公留錫杖、仙詔偏入紫雲長、諸子各詩ありこと長けれ
  貞光より雌雄までは、凡そ五里と云うが、道は山谷瞼岨で、平地の十余里に当たるだろう。    

一宇 西福寺
一宇から西光寺、そして小島峠へ

一宇から明谷の最(西)福寺寺までの行程は次の通りです。
一宇 → ふちま山 → 猿もどり → 雌雄 → 最(西)福寺

しかし、今の私には出てくる地名が現在のどこを指すのか分かりません。ご存じの方がいれば教えて下さい。どちらにしても、最福寺までやってきて、なんとか宿とすることができたようです。この寺の先僧が西讃出身と名告ったというのも気になる所です。四国霊場の本山寺は、その信仰圏に伊予や土佐・阿波のソラの集落を入れていたことは以前にお話ししました。本山寺と関係する馬頭観音の真言修験的な僧侶でなかったのかと私には思えてくるのです。
今回は「祖谷紀行」で、讃岐由佐から一宇まで、2日間の行程を追ってみました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
菊地武矩 祖谷紀行 国立公文書館のデジタルアーカイブ
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幕末・明治の農民(横浜で売られていた外国人向け絵はがき)
江戸時代の讃岐の農民が、どんなものを着ていたのかを描いた絵図や文書は、あまり見たことがありません。
祭りや葬式など冠婚葬祭の時の服装は、記録として残されたりしていますが、日常に着ていたものは記録には残りにくいようです。そんな中で、大庄屋十河家文書の中には、農民が持っていた衣類が分かる記述があります。それは農民から出された「盗品被害一覧」です。ここには農民が盗まれたものが書き出されています。それを見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。(意訳)
一筆啓上仕り候
鵜足郡西坂元村 百姓嘉左衛門
先日十八日の朝、起きてみると居宅の裏口戸が壱尺(30㎝)四方焼け抜けていました。不審に思って、家の内を調べて見ると、次のものがなくなっていました。
一、脇指      壱腰 但し軸朱塗り、格など相覚え申さず候
一、木綿女袷(あわせ) 壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞、裏浅黄
一、男単物 (ひとえ) 壱ツ 但し紺と紅色との竪縞
一、女単物    壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞
一、男単物    壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞
一、女帯      壱筋 但し黒と白との昼夜(黒と白が裏表になった丸帯の半分の幅の帯)
一、小倉男帯  壱筋 但し黒
一、縞木綿    弐端 但し浅黄と白との碁盤縞
一、木綿      壱端 但し浅黄と白との障子越
一、切木綿    八尺ばかり 但し右同断
一、木綿四布風呂敷 但し地紺、粂の紋付
合計十一品
以上の物品は、盗み取られたと思われますが、いろいろと調べても、何の手掛りもありません。つきましては、嘉左衛門から申し出がありましたので、この件について御注進(ご報告)する次第です。以上。
弘化四年(1847) 4月23日           
           西坂元村(庄屋) 真鍋喜三太
西坂本村の百姓嘉左衛門の盗難届けを受けて、同村庄屋の真鍋喜三太がしたためた文書です。盗難に遭う家ですから「盗まれるものがある中農以上の家」と推測できます。最初の盗品名が「脇指」とあるが、それを裏付けます。ただ盗難品を見ると、脇差以外は、衣類ばかりです。そして、ほとんどが木綿で、絹製品はありません。また「単衣」とは、胴裏(どううら)や八掛(はっかけ)といった裏地が付かない着物のことで、質素なものです。また、「切木綿」のように端材もあります。自分たちで、着物を仕立てていたようです。

幕末の農民
幕末の農民
 こうして見ると、素材は木綿ばかりで絹などの高価な着物はありません。このあたりに、農民の慎ましい生活がうかがえます。しかし、盗品のお上への届けですから、その中に農民が着てはならないとされていた絹が入っていたら、「お叱り」を受けることになります。あっても、ここには書かなかったということも考えられます。それほど幕末の讃岐の百姓達の経済力は高まっていたようです。

幕末の農民5
幕末・明治の農民

 江戸時代には新品の着物を「既製服」として売っているところはありませんでした。
「呉服屋」や木綿・麻の織物を扱う「太物(ふともの)屋」で新品の反物を買って、仕立屋で仕立てるということになります。着物は高価な物で、武士でも新しく仕立卸の着物を着ることは、生涯の中でも何度もなかったようです。つまり、新品の着物は庶民が買えるものではなかったのです。
江戸時代の古着屋
古着屋
 町屋の裕福な人達が飽きた着物を古着屋に売ります。
その古着を「古着屋」や「古着行商」から庶民は買っていたのです。ましてや、農民達は、新しい着物を買うことなど出来るはずがありません。古着しか手が出なかったのです。そのため江戸時代には古着の大きなマーケットが形成されていました。例えば、北前船の主な積荷の一つが「古着」でした。古着は大坂で積み込まれ、日本海の各地に大量に運ばれていました。

江戸時代の古着屋2
幕末の古着屋

江戸や大坂には「古着屋・仲買・古着仕立て屋」など2000軒を越える古着屋があったようで、古着屋の中でも、クラスがいくつにもわかれていました。だから盗品の古着にも流通ルートがあり、「商品」として流通できるので着物泥棒が現れるのです。

古着屋2
古着屋 
古着は何十年にもわたって、いろいろな用途に使い廻されます。
  古着を買ったら、大事に大事に使います。何度も洗い張りして、仕立て直し。さらには子ども用の着物にリメイクして、ボロボロになっても捨てずに、赤ちゃんのおしめにします。その後は、雑巾や下駄の鼻緒にして、「布」を最後まで使い切りました。農村では貧しさのために古着も手に入らない家がありました。農作業の合間に自分で麻や木綿の着物を仕立てたり、着れる者を集めて古いものを仕立て直したりしたようです。

細川家住宅
  『細川家住宅』(さぬき市多和)18世紀中頃の富農の主屋

農民の家については、建て替えの時に申請が必要だったので、記録が残っています。
願い上げ奉る口上
一、家壱軒   石据え 但し弐間梁に桁行四間半、藁葺き
右は私ども先祖より持ち来たりおり申し候所、柱など朽ち損じ、取り繕いでき難く候間、有り来たりの通り建てかえ申したく存じ奉り候。もっとも御時節柄にていささかも華美なる普請仕らず候間、何卒願いの通り相済み候様によろしく仰せ上られくださるべく候。この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四来年二月         鵜足郡西川津村百姓   長   吉
庄屋高木伴助殿
  意訳変換しておくと
一、家壱軒   石据え(礎石) 2間梁に桁行4間半、藁葺き
この家は、私どもの先祖より受け継いできたものですが、柱などが朽ち果てて、修繕ができなくなりました。そこで「有り来たり(従来通の寸法・工法)」で建て替えを申請します。もっとも倹約奨励の時節柄ですので、華美な普請は行いません。何卒、願い出の通り承認いただける取り計らっていただけるよう、この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四来年二月        鵜足郡西川津村百姓   長吉
庄屋 高木伴助殿

西川津町の百姓長吉が庄屋へ提出した家の改築願いです。
「有り来たり(従来通の寸法・工法)」とあるので、建て替えの際には、従前と同じ大きさ・方法で建てなければならなかったことが分かります。柱は、掘っ立て柱でなく、石の上に据えるやり方ですが、家の大きさは2間×4間半=9坪の小さなものです。その内の半分は土間で、農作業に使われたと研究者は指摘します。現在の丸亀平野の農家の「田型」の家とは違っていたことが分かります。 「田型」の農家の主屋が現れるのは、明治以後になってからです。藩の規制がなくなって、自由に好きなように家が建てられるようになると、富農たちは争って地主の家を真似た屋敷造りを行うようになります。その第一歩が「田型」の主屋で、その次が、それに並ぶ納屋だったようです。

幕末になると裕福な農家は、主屋以外に納屋を建て始めます。 
弘化4(1847)年2月に 栗熊東村庄屋の清左衛門から納屋の改築願いが次のように出されています。
願い上げ奉る口上
一、納屋壱軒   石据え 但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き
右は近年作方相増し候所、手狭にて物置きさしつかえ迷惑仕り候間、居宅囲いの内へ右の通り取り建て申したく存じ奉り候。(中略)この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡西川津村百姓 弁蔵
庄屋高木伴助殿
  意訳変換しておくと
願い上げ奉る口上
一、納屋壱軒   石据え 構造は弐間梁 × 桁行三間で瓦葺き
近年に作物生産が増えて、手狭になって物置きなどに差し障りが出てくるようになりました。つきましては、居宅敷地内に、上記のような納屋を新たに建てることを申請します。(中略) この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡西川津村百姓 弁蔵
庄屋
「近年作方相増し」た西川津村の弁蔵が、庄屋の高木伴助に納屋新築を申請したものです。弁蔵は、砂糖黍や綿花などの商品作物の栽培を手がけ成功したのかも知れません。そして、商品作物栽培の進む中で没落し、土地を手放すようになった農民の土地を集積したとしておきましょう。その経済力を背景に、納屋建設を願いでたのでしょう。それを見ると、庄屋級の納屋で二間×五間の大きさです。一般農民の中にも次第に耕作規模を拡大し、新たに納屋を建てる「成り上がり」ものが出てきていることを押さえておきます。逆に言うと、それまでの農家は9坪ほどの小さな主屋だけで、納屋もなかったということになります。
 今では、讃岐の農家は主屋の周りに、納屋や離れなどのいくつもの棟が集まっています。しかし、江戸時代の農家は、主屋だけだったようです。納屋が姿を見せるようになるのは幕末になってからで、しかも新築には申請・許可が必要だったこと押さえておきます。
最後に、当時の富農の家を見ておきましょう。

細川家住宅32
重要文化財『細川家住宅』(さぬき市多和)
18世紀中頃(江戸時代)の農家の主屋です。屋根は茅葺で、下までふきおろしたツクダレ形式。 母屋、納屋、便所などが並んでいます。
母屋は梁行3間半(6,1m)×桁行6間(12,8m)の大きな主屋です。先ほど見た「鵜足郡西川津村百姓 長吉の家が「2間梁×桁行4間半、藁葺き」でしたから1.5倍程度の大きさになります。

細川家4
細川家内部
周囲の壁は柱を塗りこんだ大壁造りで、戸は片壁引戸、内部の柱はすべて栗の曲材を巧みに使ったチョウナ仕上げです。間取りは横三間取りで土間(ニワ)土座、座敷。ニワはタタキニワでカマド、大釜、カラウス等が置かれています。土座は中央にいろりがあり、座敷は竹座で北中央に仏壇があります。四国では最古の民家のひとつになるようです。

DSC00179まんのう町生間の藁葺き
戦後の藁葺き屋根の葺替え(まんのう町生間) 

 江戸時代の庄屋の家などは、いくつか残っていますが普通の農家の家が残っているのは、非常に珍しいことです。この家のもう少し小形モデルが、江戸時代の讃岐の農民の家で、納屋などもなかったことを押さえておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    近世の村支配 庄屋
 
近世の藩と村の支配ヒエラルヒーは、高松藩では次のようになります。
 大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓
 
讃岐では、名主が「庄屋や政所」と呼ばれました。また、各郡の庄屋を束ねるが大庄屋(大政所)とされました。
ここで、注意しておきたいのは、兵農分離の進んだ近世の村には、原則的には代官以下の武士達は村にいなかったことです。そのため村の支配は、庄屋を中心とする村役人で行われました。そのため村で起こったことは、大庄屋に報告し、代官の指示を仰ぐ必要がありました。これらの連絡・指示・報告等は、すべて文書で行われています。今回は、どの程度のことまでを庄屋は、報告していたのか、その具体的な事例を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。

御用日記 渡辺家文書
        大庄屋渡辺家(坂出市)の御用日記

農業は藩の基本でしたから、村の農作業に関する規制や届け出は、細かいことまで報告しています。

田植え図 綾川町畑田八幡の農耕絵図
綾川町畑田八幡神社の農耕絵馬

例えば、田値えが終了したら庄屋は次のように大庄屋に報告しています。
一筆啓上仕り候。当村田代昨十九日までに無事植え済みに相なり申し候間、左様御聞き置きくださるべく候。以上。
(弘化四年)五月二十日        西二村 香川与右衛門
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。当村西二村(現丸亀市西二村)は、昨日5月19日までに、田植えが無事終了しました。このことについて、報告します。以上。
弘化四(1847)年五月十日        西二村 香川与右衛門
川津・二村郷地図
二村郷
西二村は、飯野山南麓の土器川の西側にあった村です。現在は川西町の春日神社を中心とするあたりになります。西二村のこの年の田植終了日時は、旧暦5月20日だったようです。現在の新暦では、約1ヶ月遅れになるので6月20日前後のことでしょうか。西二村の庄屋香川与右衛門が法勲寺の大庄屋に、田植え完了を報告しています。大庄屋は、鵜足郡南部の各村々からの報告をまとめて、藩の役所へ報告する仕組みだったようです。

葛飾北斎る「冨嶽三十六景」「駿州大野新田」現在の静岡県富士市。、

柴を背負って家路を急ぐ牛たち(葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田(静岡県富士市)」
牛の盗難事件についての報告を見ておきましょう。

一、女牛壱疋
但し歳弐才、角向い高いくらい、勢三尺ばかり
右の牛阿野郡南新居村百姓加平治所持の牛にて、牛屋につなぎこれ有り候所、去月二十五日の夜盗まれ候につき、方々相尋ね候えども今に手掛りの筋これ無く候間、その郡々村々これを伝え、念を入れられ、詮儀を遂げ、見及び聞き及び候儀は勿論、手掛りの筋もこれ有り候や。右の者来たる十日までにそれぞれ役所へ申し出ずべきものなり。
(安永二年)巳七月             御 代 官
右大政所中
  意訳変換しておくと
一、雌牛一頭
 牛の歳は2才で、角は向いあって、高いくらい、勢(せい:身長)90㎝ばかり
この牛は阿野郡南新居村の百姓加平治の牛で、牛小屋につないであった所、先月25日の夜に盗まれた。方々を尋ね探したが、手掛がないので、近隣の郡々村々に聞き合わせを行うものである。ついては、見聞したことや、手掛になることがあれば、10日までに役所へ申し出ること。
安永二(1773)年巳七月             御代官
右大政所中
阿野郡南新居村で雌牛が盗まれたようです。そのことについて郡を越えて代官所から大庄屋(十河家)への情報提供依頼が廻ってきています。書状を受けた十河家の主人は、写しを何通かしたため、それと大庄屋の指示書を添えて、鵜足郡の拠点庄屋に向けて使者を遣わします。受け取った庄屋は、リレー方式で通達書を回覧していきます。その際に、庄屋たちは回覧文書を書写したり、自分の意見などをしたためて対応を協議していくことになります。当時の庄屋たちは文書を通じて頻繁にやりとりしています。ここでは百姓が飼っていた牛が盗まれても、代官に報告が上がり、情報的提供指示が出ていることを押さえておきます。
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田」の牛の拡大図
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の柴を背負う牛の拡大図
今度は、土器川に現れた二頭の離れ牛についてです。
一筆啓上仕り候
一、女牛 壱疋
但し毛黒、勢三尺九寸、角ぜんまい、歳八才
一、男牛 壱疋
但し毛黒、勢三尺六寸、角横平、歳八才
右は去る二十四日朝当村高津免川堤に追い払い御座候て、村内百姓喜之助・平七両人見付け、私方へ申し出候間、村内近村ども吟味仕り候えども、牛主方相知れ申さず。もっとも老牛にて用立ち申さず、追い払い候義と相見え申しり候間、何卒御回文をもって御吟味仰せ付けられくださるべく候。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。
 (弘化四(1847)年 二月二十八日          
土器村庄屋            近藤喜兵衛
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候
一、雌牛一頭 毛黒、身長三尺九寸、角はぜんまい、歳は八才
一、雄牛一頭 毛黒、身長三尺六寸、角は横平、歳は八才
この二頭の牛が2月24日の朝、土器村の高津免川堤にいるのを、村内の百姓・喜之助・平七の両人が見付けて、届け出た。村内や近隣の村々に問い合わせしたが、牛の飼主は現れない。もっとも二頭共に老牛で使い物にはならないので、「追い払」ったも思える。とりあえず、御回文を送付しますので、吟味いただいて指示をいただきたい。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。
 (弘化四年(1847)年  .二月二十八日          
土器村庄屋            近藤喜兵衛

土器川の河原に牛が二頭、放れているとの土器村庄屋からの報告です。村人達は異常があればなんでも庄屋に報告せよといわれていたのでしょう。「放れ牛の発見 → 村民の報告 → 庄屋の近隣村への問い合わせ → 大庄屋 」という「報告ルート」が機能しています。

DSC01302
牛耕による田起こし(戦後・詫間)
このことについて大庄屋の十河家当主は、約2ケ月後の「御用留(日記)」に、次のように記します。
御領分中村々右牛主これ無きやと回文をもって吟味致し候えども、牛主これ無き段申し出に相なり候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。  
    (弘化四年)四月二十三日          こなた両人
意訳変換しておくと
高松藩の御領分中の村々に、牛の飼い主について問い合わせを回文(文書)で行った。が、牛の飼主であるとの申出はなかった。このことについて、知り置くように。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。  
    (弘化四年)四月二十三日          こなた両人
 年老いた牛が、土器川に放たれていたことについて、大庄屋は回文(文書)を出して、飼い主の「探索」を行っています。牛は農家の宝であり、年老いた牛については殺さずに河原へ追い放したこともあったようです。
最後に、年中行事の中から農民生活に関係の深いものを見ておきましょう。
立春後の第五の戊(つちのえ)の日を春の社日といい、この日には地神祭が行われていました。
徳島県(「阿波藩」)の「地神さん」の祭礼を見ておきましょう。
地神祭 - 日日是好日
徳島の地神祭(日々是好日 地神祭HP)よりの引用
徳島県内のどの神社(村)に行っても、頂上の石が五角形の「地神さん」が見られる。神社の境内に祀られている事が多い。
寛政2年 藩主:蜂須賀治昭は、神職早雲伯耆の建白を受け、県下全域に「地神さん」を設置させた。「地神塔」を建てると共に、社日には祭礼を行わせた。社日は、春・秋の彼岸に一番近い「戌」の日。その日は、農耕を休み「地神さん」の周りで祭礼を行う。その日に農作業をすると地神さんの頭に鍬を打ち込むことになるといわれ、忙しい時期ではあるが、総ての農家が農作業を休んだ。
「地神さん」の周りには注連縄を張り、沢山の供物が供えられた。時間が来ると、その供え物は子供達に分け与えられる。その日、子供は「地神さん」の周りに集まりお下がりを頂くのが楽しみであった。子供達はこの日のことを「おじじんさん」と呼び、楽しい年中行事の一つとしていた。
日々是好日 地神祭 よりの引用
https://blog.goo.ne.jp/ktyh_taichan/e/3b464e70359f789bb712c67319bd894b
まんのう町新目神社の地神塔
地神塔(まんのう町新目神社)
讃岐鵜足郡の神社で行われた地神祭を見ておきましょう。
口 上
来たる八日社日に相当り候につき、例歳の通り御村内惣鎮守五穀成就地神奈義ならびに悪病除け御祈祷二夜三日修行仕り候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。なおなお村々へも御沙汰よろしく,願い上げ奉り候。以上。
(弘化四年)二月              土屋日向輔
  意訳変換しておくと
来たる2月日は社日に当たるので、例年通りに村内惣鎮守で五穀成就の地神奈義と悪病除の祈祷を二夜三日に渡って(山伏たちが)おこなうことについて、聞き置きくださるようお願いします。なお村々へも沙汰(連絡)よろしく願い上げ奉り候。以上。
弘化四(1847年2月              土屋日向輔

2月の地神祭りに2夜3日に渡って、村内の鎮守で山伏による祈祷祈願が行われたようです。それには神職ではなく、山伏たちが深く関わっていたことが分かります。当時の戸籍などには、村々に山伏の名前が記されています。また、神事をめぐって、社僧や神職・山伏などの間で、いろいろないざこざが起きていたことは以前にお話ししました。ここでは村の神事は、神仏分離以前は山伏たちによって行われていたことを押さえておきます。

春の市は、今では植木市が中心になっています。しかし、江戸時代は農具市だったようです。観音寺の茂木町の鍛冶屋たちが周辺の寺社に出向いて、農具などを販売していたしていたことは以前にお話ししました。鍛冶市の回覧状を見ておきましょう。(意訳)
一筆申し上げ候。来たる3月18日・19日は、栗熊東村住吉大明神の境内で例年通り農具市が開かれる。ついては、このことについて聞き置き、回覧いただきたい。以上。
  弘化四年三月十六日 くり(栗)熊東村庄屋 清左衛門
 栗熊東村の住吉大明神(神社)で、開催される農具市の案内回状の依頼です。各村々の地神祭や農具市などのイヴェントについては、その村だけでなく周囲の村々にも「庄屋ネットワーク」で情報や案内が流され、村人達に伝えられていたことが分かります。このような情報を得て、周辺の多くの人達が市や祭りに参加していたのでしょう。
田植えが終わると虫がつかないように、虫送りが行われていました。
一筆啓上仕り候。しからば当村立毛(たちげ)虫付きに相なり申し候間、王子権現において御祈祷相頼み、来たる四日虫送り仕りたき段、一統百姓どもより申し出候。もっとも入目(いりめ)の義は持ち寄りに仕り侯段とも申し出候。この段お聞き置きくださるべく候。右申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。
(弘化四年)七月一日           庄屋 弥右衛門
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。しからば当村では稲に害虫がついてしまいました。つきましては、王子権現で(山伏)に祈祷を依頼し、4日に虫送りを実施したいと、百姓どもから申し出がありました。その入目(いりめ:費用)については、各自の持ち寄りとすると申し出ています。この件について、お聞き届けくださるよう申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。
(弘化四年)七月一日           庄屋 弥右衛門
これも十河家に送られてきた虫送り実施の許可願です。どこの村かは書かれていません。当事者同士には、これで分かったのでしょう。こうして見ると、祭りやイヴェントの案内状まで庄屋は作成し、大庄屋に願い出て、地域に回覧していたことが分かります。
  このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
   藩からの通達や指示は、文書によって庄屋に伝達されます。また庄屋は、今見てきたようにさまざまな種類の文書の作成・提出を求められていした。文書が読めない、書けないでは村役人は務まらなかったのです。年貢納税には、高い計算能力が求められます。

地方凡例録
地方凡例録
 地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。
「持高身代も相応にして算筆も相成もの」
石高や資産も相応で、文章や形成能力も高い者)

経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。
辻本雅史氏は、次のように記します。

「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」

そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。
このような「17世紀メデイア革命」を準備したのが、村役人になんでも報告を求めた、藩の「文書主義」だったのかもしれません。これに庄屋や村役人が慣れて適応したときに「メデイア革命」が起きたことを押さえておきます。これは現在進行中のメデイア革命に通じるものがあるのかもしれません。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯山町史330P 農民の生活」
「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」
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高松藩分限帳
髙松藩分限帳
髙松藩分限帳の中には、当時の庄屋や大庄屋の名前が数多く記されています。
法勲寺大庄屋十河家
分限帳に見える上法勲寺村の十河武兵衛(左から4番目)

  その中に鵜足郡南部の大庄屋を務めた法勲寺の十河家の当主の名前が見えます。十河家文書には、いろいろな文書が残されています。その中から農民生活が見えてくる文書を前回に引き続いて見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。
江戸時代の農民は自分の居住する村から移転することは許されていませんでした。
今で云う「移動・職業選択・営業・住居選択」の自由はなかったのです。藩にとっての収入源は、農民の納める年貢がほとんどでした。そのため労働力の移動を禁止して、農民が勝手に村外へ出てしまうことを許しませんでした。中世農奴の「経済外強制」とおなじで、領主の封建支配維持のためには、欠かせないことでした。
 しかし、江戸時代後半になり、貨幣経済が進むと農民層にも両極分解が進み、貧農の中には借金がかさみ、払えきれなくなって夜逃け同然に村を出て行く者が出てきます。江戸時代には、夜逃げは「出奔(しゅっぽん)」といって、それ自体犯罪行為でした。

一筆申し上げ候
鵜足郡上法軍寺村間人(もうと)義兵衛倅(せがれ)次郎蔵
右の者去る二月二十二日夜ふと宿元まかり出で、居り申さず候につき、 一郡共ならびに村方よりも所々相尋ね候えども行方相知れ申さず、もっとも平日内借など負い重なり、右払い方に行き当り、全く出奔仕り候義と存じ奉り候。そのほか村方何の引きもつれも御座無く候。この段御注進申し上げたく、かくの如くに御座候。以上。
           同郡同村庄屋         弥右衛門
弘化四(1847)年三月八日
    意訳変換しておくと
鵜足郡上法軍寺村の間人(もうと)義兵衛の倅(せがれ)次郎蔵について。この者は先月の2月22日夜に、家を出奔にして行方不明となりましたので、村方などが各所を訪ね探しましたが行方が分かりません。日頃から、借金を重ね支払いに追われていましたので、出奔に至った模様です。この者以外には、関係者はいません。この件について、御注進を申し上げます。

間人(もうと)というのは水呑百姓のことで、宿元というのは戸籍地のことです。上法軍寺村の間人義兵衛の子次郎蔵が出奔し、行方不明になったという上法勲寺村の庄屋からの報告です。
  次郎蔵の出奔事件は犯罪ですから、これだけでは終わりになりません。その続きがあります。
願い上げ奉る口上
一、私件次郎蔵義、去る二月出奔仕り候につき、その段お申し出で仕り候。右様不所存者につき以後何国に於て如何様の義しだし候程も計り難く存じ奉り候間、私共連判の一類共一同義絶仕りたく願い奉り候。右願いの通り相済み候様よろしく仰せ上られくだされ候。この段願い上げ奉り候。以上。
    弘化四年未三月
出奔人親 鵜足郡上法軍寺村間人   義兵衛 判
出奔人兄 同郡同村間人     倉 蔵 判
意訳変換しておくと
願い上げ奉る口上
一、私共の倅である次郎蔵について、先月二月に出奔したことについて、申し出いたしました。このことについては、行き先や所在地については、まったく分かりません。つきましては、連判で、次郎蔵との家族関係を義絶したいと願い出ます。このことについて役所へのおとり継ぎいただけるよう願い上げ奉り候。以上。
    弘化四年未三月
出奔人親 鵜足郡上法軍寺村間人   義兵衛 判
出奔人兄 同郡同村間人      倉蔵 判
庄屋      弥右衛門殿
父と兄からの親子兄弟の縁を切ることの願出が庄屋に出されています。それが、大庄屋の十河家に送付されて、それを書き写した後に高松藩の役所に意見書と共に送ったことが考えられます。
出奔した次郎蔵は親から義絶され、戸籍も剥奪されます。宿元が無くなった人間を無宿人と云いました。無宿人となった出奔人は農民としての年貢その他の負担からは逃れられますが、公的存在としては認められないことになります。そのため、どこへ行っても日陰の生き方をしなければならなくなります。
 次郎蔵の出身である間人という身分は、「農」の中の下層身分で、経済的には非常に厳しい状況に置かれた人達です。
中世ヨーロッパの都市は「都市の空気は、農奴を自由にさせる」と云われたように、農奴達は自由を求めて周辺の「自由都市」に流れ込んでいきます。幕末の讃岐では、その一つが金毘羅大権現の寺領や天領でした。天領は幕府や高松藩の目が行き届かず、ある意味では「無法地帯」「自由都市」のような様相を見せるようになります。当時の金毘羅大権現は、3万両をかけた金堂(現旭社)が完成に近づき、周辺の石段や石畳も整備が行われ、リニューアルが進行中でした。そこには、多くの労働力が必要で周辺部農村からの「出奔」者が流れ込んだことが史料からもうかがえます。金毘羅という「都市」の中に入ってしまえば、生活できる仕事はあったようです。こうして出奔者の数は、次第に増えることになります。
      
出奔は非合法でしたが、出稼ぎは合法的なものでした。
しかし、これにも厳しい規制があったようです。
願い奉る口上
一、私儀病身につき作方働き罷りなり申さず候。大坂ざこば材木屋藤兵衛と申し材木の商売仕り候者私従弟にて御座候につき、当巳の年(安永二年)より西(安永六年)暮まで五年の間逗留仕り、相応のかせぎ奉公仕りたく存じ奉り候間、願いの通り相済み候様、よろしく仰せ上られ下さるべく候。願い上げ奉り候。以上。
安永二年巳四月      鵜足郡岡田下村間人   庄 太 郎
政所 専兵衛殿
   意訳変換しておくと
一、私は病身のために農作業が出来なくなりました。大坂ざこば材木屋の藤兵衛で材木商売を営んでいる者が私の従弟にあたります。つきましては、当年(安永二年)より五年間、大坂に逗留し、かせぎ奉公(出稼ぎ)に出たいと思います。願いの通り認めて下さるように、よろしく仰せ上られ下さるべく候。願い上げ奉り候。以上。
安永二(1773)年巳四月     鵜足郡岡田下村間人   庄 太 郎
政所 専兵衛殿

岡田下村の貧農から庄屋への出稼ぎ申請です。病身で農業ができないので、出稼ぎにでたいと申し出ています。健常者には、出稼ぎは許されなかったようです。

江戸時代には「移動の自由」はないので、旅に出るには「大義名分」が必要でした。
「大義名分」のひとつが、「伊勢参り」や「四国巡礼」などの参拝でした。また「湯治」という手もあったようです。それを見ておきましょう。
願い奉る口上
一、私儀近年病身御座候につき、同郡上法軍寺村医者秀伊へ相頼み養生仕り候所、しかと御座無く候。この節有馬入湯しかるべき由に指図仕り候につき、三回りばかり湯治仕りたく存じ奉り候。もっとも留守のうち御用向きの義は蔵組頭与右衛門へ申し付け、間違いなく相勤めさせ申すべく候間、右願いの通り相済み候様よろしく仰せ上られくださるべく候。願い奉り候。以上。
安永二年巳 四月      .鵜足郡東小川村 政所     利八郎
    意訳変換しておくと
近年、私は病身気味で、上法軍寺村の医者秀伊について養生してきましたが、一向に回復しません。そこでこの度、有馬温泉に入湯するようにとの医師の勧めを受けました。つきましては、「三回り(30日)」ほど湯治にまいりたいと思います。留守中の御用向きについては、蔵組頭の与右衛門に申し付けましたので、間違いなく処理するはずです。なにとぞ以上の願出について口添えいただけるようにお願いいたします。以上。
安永二(1773)年巳 4月      .鵜足郡東小川村政所     利八郎

東小川村政所(庄屋)の利八郎が、病気静養の湯治のために有馬温泉へ行くことの承認申請願いです。期間は三回り(30日)となっています。利八郎の願出には、次のような医者の診断書もつけられています。
一札の事
一、鵜足郡東小川村政所利八郎様病身につき、私療治仕り候処、この節有馬入湯相応仕るべき趣指図仕り候。以上。
安永二年巳四月        鵜足郡上法軍寺村医者     秀釧
ここからは、村役人である庄屋は、大政所(大庄屋)の十河家に申請し、高松藩の許可を得る必要があったことが分かります。もちろん、湯治や伊勢詣でにいけるのは、裕福な農民達に限られています。誰でもが行けたわけではなく、当時はみんなの憧れであったようです。それが明治になり「移動や旅行の自由」が認められると、一般の人々にも普及していきます。庄屋さん達がやっていた旅や巡礼を、豊かな農民たちが真似るようになります。
 有馬温泉以外にも、湯治に出かけた温泉としては城崎・道後・熊野など、次のような記録に残っています。(意訳)
  城崎温泉への湯治申請(意訳)
願い上げ奉り口上
一、私の倅(せがれ)の喜三太は近年、癌気(腹痛。腰痛)で苦しんでいます。西分村の医師養玄の下で治療していますが、(中略)この度、但州城崎(城崎温泉)で三回り(30日)ばかり入湯(湯治)させることになりました。……以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡土器村咤景    近藤喜兵衛
    道後温泉への湯治申請

道後温泉からの帰着報告書 十河文書
 川原村組頭の磯八の道後温泉からの湯治帰還報告書(左側)
願い上げ奉る口上
一、私は近年になって病気に苦しんでいます。そこで、三回り(30日)ほど予州道後温泉での入湯(湯治)治療の許可をお願い申し上げました。これについて、二月二十八日に出発し、昨日の(3月)28日に帰国しまた。お聞き置きくだされたことと併せて報告しますので、仰せ上られくださるべく候。……以上。
弘化四未年二月          川原村組頭 磯八      
ここからは川原村の組頭が道後温泉に2月28日~3月28日まで湯治にいった帰国報告であることが分かります。行く前に、許可願を出して、帰国後にも帰着報告書と出しています。上の文書の一番左に日付と「磯八」の署名が見えます。また湯治期間は「三回り(1ヶ月)という基準があったことがうかがえます。

また、大政所の十河家当主は、各庄屋から送られてくる申請書や報告書を、写しとって保管していたことが分かります。庄屋の家に文書が残っているのは、このような「文書写し」が一般化していたことが背景にあるようです。

今度は熊野温泉への湯治申請です。
願い上げ奉る口上    (意訳)
私は近年病身となりましたので、紀州熊野本宮の温泉に三回り(30日)ほど、入湯(湯治)に行きたいと思います。行程については、5月25日に丸亀川口から便船がありますので、それに乗船して出船したいと思います。(後略)……以上。
弘化四(1848)年  五月     鵜足郡炭所東村百姓    助蔵 判
庄屋平田四郎右衛門殿
熊野本宮の温泉へ、丸亀から出船して行くという炭所東村百姓の願いです。乗船湊とされる「丸亀川口」というは、福島湛甫などが出来る以前の土器川河口の湊でした。
丸亀市東河口 元禄版
土器川河口の東河口(元禄10年城下絵図より)

新湛甫が出来るまでは、金毘羅への参拝船も「丸亀川口」に着船していたことは、以前にお話ししました。それが19世紀半ばになっても機能していたことがうかがえます。
 しかし、どうして熊野まで湯治に行くのでしょうか。熊野までは10日以上かかります。敢えて熊野温泉をめざすのは、「鵜足郡炭所東村百姓  助蔵」が熊野信者で、湯治を兼ねて「熊野詣」がしたかったのかもしれません。つまり、熊野詣と湯治を併せた旅行ということになります。
病気治療や湯治以外で、農民に許された旅行としては伊勢参りや四国遍路がありました。
願い上げ奉ろ口上
一、人数四人        鵜足郡炭所東村百姓 与五郎
       専丘衛
       舟丘衛
       安   蔵
右の者ども心願がありますので伊勢参宮に参拝することを願い出ます。行程は3月17日に丸亀川口からの便船で出港し、伊勢を目指し、来月13日頃には帰国予定です。この件についての許可をいただけるよう、よろしく仰せ上られるよう願い上げ奉り候。以上。
弘化四(1847)末年三月    同郡同村庄屋    平田四郎兵衛
炭所東村の百姓4人が伊勢参りをする申請書が庄屋の平田四郎兵衛から大庄屋に出されています。この承認を受けて、彼らも「丸亀川口」からの便船で出発しています。この時期には、福島湛甫や新堀港などの「新港」も姿を見せている時期です。そちらには、大型の金毘羅船が就航していたはずです。どうして新港を使用しないのでしょうか?
考えられるのは、地元の人間は大阪との行き来には、従来通りの「丸亀川口」港を利用していたのかもしれません。「金毘羅参拝客は、新港、地元民は丸亀川口」という棲み分け現象があったという説が考えられます。もう一点、気がつくのは、湯治や伊勢参りなども、旧暦2・3月が多いことです。これは農閑期で、冬の瀬戸内航路が実質的に閉鎖されていたことと関係があるようです。

大庄屋の十河家に残された文書からは、江戸時代末期の農民のさまざまな姿が見えてきます。今回はここまで。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

飯山町誌 (香川県)(飯山町誌編さん委員会編 ) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献 「飯山町史330P 農民の生活」
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  江戸時代後期になると、賢い庄屋たちは記録を残すことの意味や重要性に気づいて、手元に届いた文書を書写して写しを残すようになります。その結果、庄屋だった家には、膨大な文書が近世史料として残ることになります。丸亀市飯山町法勲寺には、江戸時代に大政所(大庄屋)を務めた十河家があります。ここにも「十河家文書」が残され、飯山町史に紹介されています。今回は、その中から江戸時代の農民の生活が実感できる史料を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。

もともとの鵜足郡(うたぐん)は、次のような構成でした。
 ①津野郷 – 宇多津・東分・土器・土居
 ②二村郷 – 東二(ひがしふた)・西二(にしふた)・西分
 ③川津郷 – 川津
④坂本郷 – 東坂元・西坂元・眞時・川原
⑤小川郷 – 東小川・西小川
⑥井上郷 – 上法軍寺・下法軍寺・岡田
⑦栗隈郷 – 栗熊東・栗熊西・富熊
⑧長尾郷 – 長尾・炭所東・炭所西・造田・中通・勝浦

これを見て分かるのは、江戸時代の⑧の長尾郷は鵜足郡に属していたことです。近代になって仲多度郡に属するようになり、現在ではまんのう町に属するようになっています。しかし、江戸時代には鵜足郡に属していました。そのため長尾郷の村々の庄屋は、鵜足郡の大庄屋の管轄下にあったことを押さえていきます。十河家文書の中に、長尾郷の村々が登場するのは、そんな背景があります。

讃岐古代郡郷地図 西讃
西讃の郷名
近世の村を考える場合に、庄屋を今の町村長に当てはめて考えがちです。しかし、庄屋と町長は大分ちがいます。今の町長は、町民のかわりに税金を払ってはくれませんが、江戸時代の庄屋は村民が年貢を納められない時はかわって納める義務がありました。また庄屋は、今の警察署長の役目も負っていました。例えば、村には所蔵(ところぐら:郷蔵)という蔵があったことは以前にお話ししました。
高松藩領では、村々の年貢は村の所蔵に納め、それから宇多津の藩の御蔵へ運ばれました。所蔵には、年貢の保管庫以外にも使用用途がありますた。それは警察署長としての庄屋が犯罪者や問題を起こした人間を入れておく留置場でもあったのです。どんなことをしたら、所蔵
に入れられたのでしょうか。十河文書の一つを見てみましょう。
一筆啓上仕り候。然らば去る十九日夜栗熊東村にて口論掛合いの由にて、当村百姓金蔵・八百蔵両人今朝所蔵へ入れ置き候様御役所より申し越しにつき、早速入れ置き申し候間、番人など付け置き御座候。
弘化四年 二月十二日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
     意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。先日の2月19日夜、栗熊東村で口論の末に喧嘩を起こした当村の百姓・金蔵と八百蔵の両人について、今朝、所蔵(郷倉)へ入れるようにとの指示を役所より受けました。つきましては、指示通りに、両名を早速に収容し、番人を配置しました。
弘化四(1947)年2月22日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
東栗熊村の庄屋からの報告書です。19日夜に百姓が喧嘩騒動を起こしたので、それを法勲寺の大庄屋十河家に報告したのでしょう。その指示が通りに所蔵へ入れたという報告書です。時系列で見ると
①19日夜 喧嘩騒動
②20日、 栗熊村庄屋から法勲寺の大庄屋への報告
③22日朝、大庄屋からの「所蔵へ入れ置き」指示
④22日、 栗熊村庄屋の実施報告
と、短期間に何度もの文書往来を経ながら「入れ置き(入牢)」が行われていることが分かります。村の庄屋は、大庄屋に報告して判断を仰がなければならない存在だったことが分かります。

次は村で起きた「密通・不義」事件への対応です。
 一筆申し上げ候
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
右の者共内縁ひきもつれの義につき、右庄次郎後家より申し出の次第もこれあり、双方共不届きの始末に相聞え候につき、まず所蔵へ禁足申しつけ、番人付け置き御座候。なお委細の義は組頭指し出し申し候間、お聞き取りくださるべく候。右申し上げたくかくの如くに御座候。
(弘化四年)七月三日      栗熊東村庄屋 清左衛門
意訳変換しておくと
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
上記の両者は、「内縁ひきもつ(不義密通)と、庄次郎後家より訴えがあり、調査の結果、不届きな行いがあったことが分かりました。そこで、両者に所蔵禁足に申しつけ、番人を配置しました。なお子細については、組頭に口頭で報告させますので、お聞き取りくだい。以上。
弘化四(1847)年7月3日      栗熊東村庄屋 清左衛門

今度は、栗熊東村からの「不義密通」事件の報告です。事実のようなので、両者を所蔵(郷倉)に入れて禁足状態にしているとあります。大庄屋の措置は分かりません。ここからは、所蔵が村の留置場として使われていたことが分かります。
それでは所蔵は、どんな建物だったのでしょうか?
所蔵の改築願いの記録も、十河家文書の中には次のように残されています。
一 所蔵一軒   石据え
  但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き、前壱間下(げ)付き、
一、算用所壱軒    石据え
  但し壱丈四方、一真葺き
右は近年虫入に相成、朽木取繕い出来難く、もっとも所蔵はこれまで藁葺き。桁行三間半にて御座候ところ、半間取縮め、右の通りに建てかえ申したく存じ奉り候。御時節柄につき随分手軽に普請仕りたく存じ奉り候。別紙積り帳相添え、さし出し申し候間、この段相済み候様仰せ上られくださるべく候。願い上げ奉り候。以上。
弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿
  意訳変換しておくと
所蔵と算用所の建て替えの件について
この建物は近年、白蟻が入って朽木となって修繕ができない状態となっています。所蔵は、これまで藁葺きで、桁行三間半でしたが、半間ほど小さくして、右の規模で建て替え建てを計画しています。倹約の時節柄ですおで、できるだけ費用をかけずに普請したいと考えています。別紙の通り見積もり書を添えて、提出いたしますので、御覧いただき検討をお願いいたします。
   弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿

岡田東村からの所蔵の改築申請書です。ここからは。いままでは藁ぶきの「二間×三間半」だったのが、弘化四(1847)年の建替時に、瓦葺きで二間×三間に減築されたことが分かります。「石据え」というのは、柱が石の上に立てられていたこと、「前壱間下付き」というのは、所蔵の建物の表に、 一間の下(ひさしのように出して柱で受け、時には壁までつけた附属構造)が出ていたことです。この下の一間四方分は「番小屋」については、次のように別記されています。

前壱間下(げ)付きにて、右下の内壱間四方の間番小屋に仕り候積り。

ここからは下(げ)の下は、一間四方の間番小屋として使っていたことが分かります。 

 所蔵(郷倉)は、一村に一か所ずつありました。
所蔵が年貢米の一時収納所でもあり、留置場でもあったことは今見てきたとおりです。そのため地蔵(じくら)とか郷牢(ごうろう)とも呼ばれていたようです。
吉野上村(現まんのう町)の郷倉については、吉野小学校沿革史に次のように記されています。(意訳)
吉野上村郷倉平面図
吉野上村の郷倉
 明治7年(吉野)本村字大坂1278番地の建物は、江戸時代の郷倉である。その敷地は八畝四歩、建物は北から西に規矩の形に並んでいる。西の一軒は東向きで、瓦葺で、桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下(げ)付である。その北に壁を接して瓦葺の一室がある。桁行三間、梁間二間で、東北に縁がついている。その次は雪隠(便所)となっている。
北の一棟は草屋で、市に向って、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付である。西の二棟を修繕し、学校として使い、北の一棟を本村の政務を行う戸長役場としていた。
 世は明治を迎え文明開化の世となり、教育の進歩は早くなり、生徒数は増加するばかりで、従来の校舎では教室が狭くなった。そこで明治八年四月、西棟を三間継ぎ足して一時的な間に合わせの校舎とした。その際に併せて、庭内の東南隅に東向の二階一棟も新築した。これが本村交番所である。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付の建物である。
   明治になって、所蔵(郷倉)の周囲に、学校や交番、そして役場が作られていったことがうかがえます。そういう意味では、江戸時代の所蔵が、明治の行政・文教センターとして引き継がれたとも云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史330P 農民の生活
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神野神社 満濃池堰堤の背後の岡に鎮座
満濃池の堰堤の背後の岡に、神野神社が鎮座します。この神社の古い小さな鳥居からは眼下に広がる満濃池と、その向こうに大川山が仰ぎ見えます。私の大好きな場所のひとつです。

DSC02983
神野神社からの満濃池と大川山
 この神野神社は延喜式の式内神社の論社(候補が複数あり、争論があること)でもあるようです。

満濃池遊鶴(1845年)2
満濃池遊鶴 象頭山八景(1845年)

この神社は、上の絵図のように戦後までは満濃池の堰堤の西側にありました。江戸時代には「池の宮」、明治当初は「満濃池神」と呼ばれてきたことが残された資料からは分かります。神野神社と呼ばれるようになったのは、明治になってからのようです。どうして、神野神社と呼ばれるようになったのでしょうか。そこには、式内社をめぐる争論が関わっていたようです。

P1160049 神野神社と鳥居
神野神社の説明版
 神野神社について満濃町誌964Pには、次のように記されています。
①伊予の御村別の子孫が讃岐に移り、この地方を開拓して地名を伊予の神野郡に因んで神野と呼び、神野神社を創祀したという。②これに対して神櫛王又はその子孫である道麻呂が、天穂日命を祀ったのが神野神社であるともいわれている。二つの説は共にこの神社が、この土地の開拓に関係のある古社であることを物語っている。③更に神野神社は、満濃池地の湧泉である天真名井に祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社であるという説がある。
 ④808(大同三)年に矢原正久が、別雷神を現在地の東の山上に加茂神社として祀ったのは、満濃池地を流れていた金倉川の源流を鎮め治めるためであったと思われる。821(弘仁十二)年に空海によって満濃池の修築が完了したので、嵯峨天皇の恩寵に感謝した村人が、嵯峨天皇を別雷神と共に神野神社の神として祀ったと伝えられる。
 ⑤その後「讃岐国那珂郡小神野神社」として、式内社讃岐国二十四社の一つに数えられるようになった。『三代実録』によると、正六位上の位階を授けられていた萬農池神が、881(元慶五)年に位階を進められて従五位下になっている。満濃池築造後は、祭神はすべて池の神として朝廷の尊信を受けたのである。
⑥1184(元暦元)年に満濃池が決壊して後も、この地の豪族であった矢原氏の歴代の人々が、山川氏の人々と共に神野神社を崇敬して社殿の造営を行ってきた。現在、神野神社の社宝として伝えられている金銅灯寵の笠(第二編扉写真参照・室町時代に作られた)にその期間の歴史が刻み込まれている。
⑦1625(寛永二)年、生駒氏の命によって満濃池の再建工事に着手した西嶋八兵衛は、まず「池の宮」の神野神社を造営し、寛永八年に満濃池の工事が完成して後は、神野神社もまた「池の宮」としての威容を回復したのである。
⑧その後、1659(万治二)年、1754(宝暦四)年、1804(文化元)年、1820(文政三)年と池普請の度毎に社殿の造営が行われ、
⑨1953(昭和28)年の満濃池の大拡張工事で、池の堤に近い山の上の現在地に移転したのである。
⑩その間に、1869(明治二)年からの満濃池再築工事に功績のあった高松藩執政松崎渋右衛門と、榎井村庄屋長谷川佐太郎の二人を祀った松崎神社を、神野神社の境内に建立した。
⑪現在の神野神社は満濃池を見下ろす景勝の地にあって、弘法大師像と相対している。
社前には、1470(文明二)年に奉献された鳥居(扉写真参照)が立っている。
神宝として伝えられている宗近作の短剣は、宝暦十一年の幕府巡見使安藤藤三郎・北留半四郎・服部伝四郎の寄贈した大和錦の鞘袋に納められている。
以上から読み取れることを要約しておくと次の通りです。
神野神社の創建については、次の3説が紹介されています。
①伊予からの移住者が伊予の神野郡にちなんで神野と呼び、神野神社を建立した
②神櫛王の子孫である道麻呂が、天穂日命を祀ったのが神野神社
③満濃池の湧泉である天真名井仁祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社

①の「神野」という地名については、古代の郷名には登場しないこと
②神櫛王伝説は、綾氏顕彰のために中世になって創作されたもので古代にまで遡らないこと。
以上から③の民俗学的な説がもっとも相応しいものように私には思えます。

④空海の満濃池改築以前に、矢原氏が賀茂神社や神野神社を建立していた
⑤「神野神社」が古代の式内社であった
⑥中世の「神野神社」は。矢原氏によって守られてきた。
⑦江戸時代になって生駒藩の西嶋八兵衛による満濃池再築にも矢原氏が協力し、池の宮が再築された。
⑧堰堤改修に合わせて池の宮も改修が行われてきた。
⑨1953年の昭和の大改修で、現在地に移された
⑩明治の再築工事に功績のあった高松藩執政松崎渋右衛門や榎井村庄屋長谷川佐太郎などが合祀された

以上をみると、満濃町史に書かれた神野神社の由来は、別の見方をすれば矢原家の顕彰記でもあることが分かります。
④⑤⑥では、満濃池築造以前から矢原氏がいたこと、古代から矢原氏などの信仰を受けて神野神社が姿を現し、式内社となっていたとされます。
ダムの書誌あれこれ(17)~香川県のダム(満濃池・豊稔池・田万・門入・吉田)~ 2ページ - ダム便覧
満濃池史22Pは、空海と矢原氏の関係を次のように記します。

空海派遣の知らせを受けた矢原氏は空海の下向を待った。『矢原家々記』によると、空海は弘仁十一年四月二十日に矢原邸に到着している。空海到着の知らせを受けた矢原正久が屋敷のはずれまで空海をお迎えに出たところ、空海は早速笠をとり、「お世話になります。池が壊れてはさぞお困りでしょう。工事を早く進めるつもりです。よろしくお願いします」そう丁寧に挨拶をされたという。正門も笠をとってから入られたということで、それ以来、矢原家の間をくぐるときは、どんなに身分の高い方でも笠をとってから入ることになったという話が伝えられている。空海が到着したとき、築池工事は既に最後の段階に近づいており、川を塞き止めて浸食谷の全域を池とする堤防の締切工事だけが残っていたと考えられている.
 
 ここでは後世に書かれた『矢原家々記』の内容を、そのまま事実としています。ここから読み取れることは、矢原家が空海との結びつきを印象付けることで、自分たちの出自を古代にまでたどらせようとしている「作為」です。古代に矢原氏がこの地にいたことを示す根本史料は何もありません。後世の口伝を記した『矢原家々記』を、そのまま事実とするには無理があります。

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
満濃池下の矢原家住宅と諏訪明神(讃岐国名勝図会)
矢原氏は、近世の満濃池池守の地位を追われた立場でもあります。そのため満濃池の管理権を歴代の祖先が握っていたことを正当化しようとする動きがいろいろな所に見え隠れします。そのことについて話していると今日の主題から離れて行きますので、また別の機会にして本題に帰ります。
まんのう町 満濃池営築図jpg
満濃池営築図 寛永年間(1624~45年)
池の宮が最初に登場するのは、上の絵図です。
これは1625年に西嶋八兵衛が満濃池再築の際に、描かれたとされるものです。ここには、堤防がなく、④護摩壇岩と②池の宮の間を①金倉川が急流となって流れています。そして、堰堤の中には「再開発」によって、⑤池之内村が見えます。②の池の宮を拡大して見ます。
池の宮3
            満濃池営築図の池の宮
よく見ると②の所に、入母屋の本殿か拝殿らしき物が描かれています。鳥居は見えません。ここからは由緒には「西嶋八兵衛による満濃池再築にも矢原氏が協力し、池の宮が再築された」とありますが、池の再築以前から池の宮はあったことになります。
 ③には由来の一つに「満濃池の湧泉である天真名井仁祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社」とありました。中世に再開発によって生まれた「池之内村」の村社として、池の宮は「水の神を祀る神社として、中世に登場したのではないかと私は考えています。それが満濃池再築とともに「満濃池神」ともされます。こうして、満濃池の守護神として認知され、満濃池の改修に合わせて、神社の改修も進められるようになります。それを由緒は、「1659(万治二)年、1754(宝暦四)年、1804(文化元)年、1820(文政三)年と池普請の度毎に社殿の造営が行われた。」と記します。しかし、近世前半に満濃池が描かれた絵図は、ほとんどありません。絵図に描かれるようになるのは、19世紀になってからのことです。満濃池が描かれた絵図を「池の宮」に焦点を当てながら見ていくことにします。

金毘羅山名勝図会2[文化年間(1804 - 1818)
満濃池 (金毘羅山名所図会 文化年間1804~19)
この書は、大坂の国文学者石津亮澄、挿絵は琴平苗田に住んでいた奈良出身の画家大原東野によるものです。『日本紀略』や『今昔物語集』を引用し、歴史的由緒付けをした上で広大な水面に映る周囲の木々や山並み、堰堤での春の行楽の様子を「山水勝地風色の名池」と記します。上図はその挿絵です。東の護摩壇岩と西側の池の宮の間に堰堤が築かれ、その真ん中にユルが姿を見せています。その背後には、池面と背後の山容が一体的に描かれます。添えられた藤井高尚の和歌には、次のように詠われています。

 「まのいけ(満濃)池の池とはいはじ うなはらの八十嶋かけてみるこゝちする」
 金毘羅名所図会 池の宮
満濃池池の宮拡大 (金毘羅山名所図会)
池の宮の部分を拡大して見ると、堤防から伸びた階段の沿いに燈籠や鳥居があります。その後に拝殿と本殿が見えます。こうして見ると、
本殿や拝殿の正面は、池ではなく、堰堤に向かって建っていたことが分かります。ここでは、滝宮念仏踊りの七箇村組の踊りも、滝宮に行く前に奉納されていたことは、以前にお話ししました。


満濃池遊鶴(1845年)2
象頭山八景 満濃池遊鶴(1845年)
この時期の金毘羅大権現は、金堂(現旭社)が完成に近づき、周辺の石畳や玉垣などが急速に整備され、面目を一新する時期でした。それにあわせて金光院は、新たな新名所をプロデュースしていきます。この木版画も金堂入仏記念の8セットの1枚として描かれたものです。 これを請け負っているのは、前年に奥書院の襖絵を描いた京都の画家岸岱とその弟子たちです。ここには、堤の右側に池の宮、その右側には余水吐から勢いよく流れ落ちる水流が描かれています。満濃池の周りの山並みを写実的に描く一方、池の対岸もきちんと描き、池の大きさが表現されています。後の満濃池描写のお手本となります。ちなみに、次の弘化4年(1847)年、大坂の暁鐘成の金毘羅参詣名所図会は、挿絵作家を連れてきていますが、挿絵については上の「象頭山八景 満濃池遊鶴」の写しです。本物の出来が良かったことの証明かも知れません。 
img000027満農池 金毘羅参詣名所図会
 金毘羅参詣名所図会 弘化4年(1847)
この絵からは、やはり鳥居や本堂は堰堤に向いているように見えます。そして地元の出版人によって出されるのが「讃岐国名勝図会」嘉永7年(1854)です。

満濃池(讃岐国名勝図会)
満濃池「讃岐国名勝図会」嘉永7年(1854)
梶原藍渠とその子藍水による地誌で、1854年に前編5巻7冊が刊行されますが、後は刊行されることなく草稿本だけが伝わることは以前にお話ししました。俯瞰視点がより高くなり、満濃池の広さが強調された構図となっています。これを書いたのは、若き日の松岡調です。彼は明治には讃岐の神仏分離の中心人物として活躍し、その後は金刀比羅宮の禰宜となる人物です。
 次の絵図は嘉永年間の池普請の様子を描いたものです。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
満濃池普請図(嘉永年間 1848~54)
この時の普請は、底樋を石材化して半永久化しようとするものでした。しかし、工法ミスと地震から翌年に決壊して、以後明治になるまで満濃池は姿を消すことになります。右の池の宮の部分を拡大して見ます。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(池の宮) - コピー
満濃池普請図 池の宮拡大部分 嘉永年間
ここにも燈籠や鳥居、そして拝殿などが見えます。同じ高さに池御領の小屋が建てられています。この後、堤防は決壊しますが
  次に池の宮が絵図に登場するのは、明治の底樋トンネル化計画の図面です。
軒原庄蔵の底樋隧道
満濃池 明治の底樋トンネル化図案
底樋石造化計画が失敗に帰した後を受けて、明治に満濃池再築を試みた長谷川佐太郎が採用したのが「底樋トンネル化案」でした。それまでの余水吐の下が一枚岩の岩盤であることに気づいて、ここにトンネルを掘って底樋とすることにします。その絵に描かれている池の宮です。
長谷川佐太郎 平面図
明治の満濃池 長谷川佐太郎によって底樋が西に移動した
ここでは、それまで堰堤中央にあった底樋やユルが、池の宮の西側に移動してきたことを押さえておきます。
大正時代のユル抜きの際の3枚の写真を見ておきましょう。

ユル抜きと池の宮3 堰堤方面から
大正時代の満濃池ユル抜き
堰堤の西側に拝殿と本殿がつながれた建物があります。あれが池の宮ようです。堰堤には、ユル抜きのために集まった人達がたくさんいて、大賑わいです。

池の宮2
大正時代の満濃池のユル抜き風景
角度を変えて、池の宮の上の岡から移した写真のようです。左側が堰堤で、その右側に池の宮の建物と森が見えるようです。拝殿が堤防に併行方向に建っているように見えます。手前下で見物している人達は笠を指しているので雨が降っているのでしょうか。そのしたに流れがあるようにも見えますが、余水吐は移動して、ここにはないはずなのです。最後の一枚です。

大正時代のユル抜き 池の宮
大正時代の満濃池のユル抜き風景と池の宮
手前の一番ユルに若衆がふんどし姿で上がっています。長い檜の棒で、ユルを開けようとしています。それを白い官兵達が取り囲んで、その周りに多くの人達が見守っています。背後の入母屋の建物が池の宮の拝殿だったようです。明治以後、1914年に赤レンガの取水塔が出来るまでは、こうして池の宮前でユル抜きが行われていたようです。取水塔ができてユルは姿を消しますが、池の宮は堰堤の上にあったのです。それが現在地に移されるのは、戦後のことです。そして、池の宮の後は、削り取られ更地化されて、湖面の下に沈んでいったのです。以上をまとめておきます。
①中世の満濃池は決壊し、池跡には池之内村が現れていた。
②堤防跡に、その水神として祀られていたのが「池の宮」である。
③西嶋八兵衛による再築後は、満濃池の祭神として人々の信仰をあつめた
④池の宮は、堤防改築期に定期的に改修されるようになった。
⑤池の宮では滝宮念仏踊り七箇村組の踊りが、滝宮への踊り込みの前に奉納されていた。
⑥明治になると「神野神社」とされ、式内社の論社となった。
⑦大正時代にレンガ製の取水塔ができるまでは、満濃池のユル抜きは池の宮前の一番ユルで行われていた。
⑧戦後の堤防嵩上げ工事で、池の宮の鎮座していた丘は削り取られ更地化されて湖面に沈んだ。
⑨池の宮は神野神社として現在地に移転し、本殿などが新築された。

今日はこのあたりにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃池名勝調査報告書 2019年3月まんのう町教育委員会
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林求馬 大塩平八郎の書
大塩平八郎の書(林求馬邸)
前回は多度津奥白方の林求馬邸に、大塩平八郎の書が掲げられていることを紹介しました。
  慮わざれば胡ぞ獲ん
為さざれば胡ぞ成らん
(おもわざればなんぞえん、なさざればなんぞならん)
意訳変換しておくと
考えているだけでは何も得るものはない。行動を起こすことで何かを得ることができる

「知行一致」「行動主義」と云われる陽明学の教えが直線的に詠われています。平八郎の世の中を変えなくてはならないという強い思いが伝わってきます。これが書かれたのは、大塩平八郎が大坂で蜂起する数カ月前で、多度津町にやって来たときのものとされます。どうして、大塩平八郎が多度津に来ていたのでしょうか?
今回は、平八郎と多度津をつないだ人物を見ていくことにします。テキストは「林良斎 多度津町誌808P」です。

大塩平八郎の乱(日本)>1

多度津で湛浦の築造工事が行われている頃の天保6年(1835)、大塩平八郎が多度津にやってきています。
平八郎は貧民救済をかかげ、幕府に反乱を起こした大坂町奉行の元与力です。多度津にやってきたのは金毘羅参りだけでなく、ある人物に会いにやって来たようです。それが林良斎(りょうさい:直記)です。林良斎は、多度津の陣屋建設に尽力した多度津藩家老になります。彼が林求馬邸を建てた養父になります。

林良斎

林 良斎については、多度津町史808Pに次のように記されています。
文化5年(1808)6月、多度津藩家老林求馬時重の子として生まれる。 通称は初め牛松、のち直記と言い、名は時荘、後に久中、隠居して良斎と改めた。字は子虚、自明軒と号した。父時重は厳卿と号し、文化4年多度津に藩主の館を建て、多度津陣屋建設の基礎をつくった。母は丸亀藩番頭佐脇直馬秀弥の娘で、学問を好み教養高い婦人であった。父求馬時重は、伊能忠敬の測量に来た文化5年9月良斎の生後わずか3か月で死去し、兄勝五郎が家督を継いだ。文化14年(1817)勝五郎は病と称して致仕したので、10歳にして家督を継ぎ、藩主高賢の知遇を得て、文政9年家老となり、多度津陣屋の建設の総責任者として、文政11年(1828)これを完成した。ときに林直記は弱冠21歳であった。多度津藩は初代高通より代々丸亀の藩邸に在って、政を執っていたのであるが、文政12年6月、第四代高賢はじめて多度津藩邸に入部した。多度津が城下町として発展するのはこの時からである。

林良斎全集(吉田公平監修 多度津文化財保存会編) / 松野書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

ここからは次のようなことが分かります。
①父時重は良斎の生後3か月の時に、陣屋建設途上で亡くなったこと
②兄に代わって10歳で家老職を継ぎ、陣屋建設の総責任者となり、21歳で完成させたこと。

そして天保4年(1833)、26歳のとき、甥の三左衛門(林求馬)に家督を譲ります。
良斎の若隠居の背景は、よく分かりません。自由の身になった彼は天保6年(1835)、大阪へ出て平八郎の洗心洞の門を叩き、陽明学を学びます。その年の秋、平八郎が良斎を訪ねて多度津に来たというわけです。このときは、まだ湛浦(多度津新港)は完成していないので、平八郎は、桜川河口の古港に上陸したのでしょう。二人の年齢差は、14歳ほど違いますが惹きつけ合う何かがあったことは確かなようです。
林良斎の名言「聖人の学は、無我を以て的となし、慎独を以て功となす」額付き書道色紙/受注後直筆(Y1082) その他インテリア雑貨 名言専門の書道家  通販|Creema(クリーマ)
良斎の言葉
良斎は「中斎(平八郎)に送り奉る大教鐸(きょうたく)の序」に次のように記しています。

 「先生は壯(良斎)をたずねて海を渡って草深い(多度津の)屋敷にまでやって来てくれた。互いに向き合って語ること連日、万物一体の心をもって、万物一体の心の人にあるものを、真心をこめてねんごろにみちびきだしてくれた。私どもの仲間は仁を空しうするばかりで、正しい道を捨てて危い曲りくねった経(みち)に堕ちて解脱(げだつ)することができないでいる。このとき、先生の話をじっと聞いていた者は感動してふるい立ち、はじめて私の言葉を信用して、先生にもっと早くお目にかかったらよかったとたいへん残念がった。」

 翌年の天保7年(1836)にも、良斎は再び大坂に行って洗心洞を訪ね、平八郎に教えを乞いています。
この頃、天保の大飢饉が全国的に進行していました。長雨や冷害による凶作のため農村は荒廃し、米価も高騰して一揆や打ちこわしが全国各地で激発し、さらに疫病の発生も加わって餓死者が20~30万人にも達します。これを見た平八郎は蔵書を処分するなど私財を投げ打って貧民の救済活動を行います。しかし、ここに至っては武装蜂起によって奉行らを討つ以外に解決は望めないと決意します。そして、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、窮民救済を求め、幕政刷新を訴えて、天保8年3月27日(1837年5月1日)、門人、民衆と共に蜂起します。しかし、この乱はわずか半日で鎮圧されてしまいます。平八郎は数ヶ月ほど逃亡生活を送りますが、ついに所在を見つけられ、養子の格之助と共に火薬を用いて自決しました。享年45歳でした。明治維新の約30年前のことです。
この大岡平八郎の最期を、多度津にいた良斎はどのよう感じていたのでしょうか?
 それが分かる史料は今は見つかっていません。ただ、良斎はその後も陽明学の研究を続け、「類聚要語(るいしゅうようご)」や「学微(がくちょう)」など多くの著書を書き上げます。「知行一致」の教えのもとに、直裁的な蜂起を選んだ大岡平八郎の生き方とは、別の生き方を目指します。
弘濱書院(復元)
再建された弘浜書院(林求馬邸)

 39歳の秋には、読書講学の塾を多度津の堀江に建てています。
その塾が弘浜(ひろはま)書院で、そこでまなんだ子弟が幕末から明治になって活躍します。教育者としては、陽明学を身につけ行動主義の下に幕末に活躍する多度津の若者達を育てたという評価になるようです。この弘浜書院は、現在は奥白方の林求馬邸の敷地の中に再建されています。そこには「自明軒」という扁額が掲げられています。これは大塩平八郎から贈られたもので、林良斎が洗心洞塾で学んでいたとき、平八郎が揮号(きごう)したものと伝えられます。良斎の教えを受けた人々の流れが、多度津では今も伝えられていることがうかがえます。思想家としては、良斎は陽明学者としては讃岐最初の人だとされ、幕末陽明学の讃岐四儒と称されるようになります。

良斎の残した漢詩「星谷観梅歌」を見ておきましょう。(読み下し文)
星谷観梅歌     林良斎
明呈夜、天上より来る     
巨石を童突して響くこと宙の如し
朝に巨石を看れば裂けて二つと為る   
須愈にして両間に一梅を生ず      
恙無(つつがな)きまま東風幾百歳
花を著くること燦々、玉を成して堆(うづたか)し
騒人、鐘愛して清友と称ふ 
恨むべし一朝、雪の為に砕かる    
又、他の梅を聘したひて嗣と為す
花王宰相をもて良き媒(なかだち)と定む      
我、来りて愛玩し聊(いささ)か酒を把れは
慇懃に香を放ち羽杯を撲(う)つ        
汝も亦、天神の裔なることを疑はず
風韻咬として、半点の埃(ちり)無し
 高吟して試みに問へども黙して答へず
唯見る、風前の花の嗤ふが如し
良斎は、大潮平八郎が没してから12年後の嘉永2年(1849)5月4日、43歳で没しました。
田町の勝林寺には良斎の墓が門人達の手によって建立されています。
 多度津町家中(かちゅう)の富井家には、大塩平八郎の著書といわれている「洗心洞塾剳記(せんしんどうさつき)」と「奉納書籍聚跋(ほうのうしょせきしゅうばつ)」の2冊が残されているそうです。いずれも「大塩中斎(平八郎)から譲られたものを良斎先生より賜れる」と墨書きされています。ここからは、この書が大塩平八郎が良斎に譲ったもので、その後に富井泰藏(たいぞう)に譲られたことが分かります。
林良斎~シリーズ陽明学27 - 読書のすすめ

 良斎が亡くなると、その門弟の多くは池田草庵について、学んだ者が多いようです。
但馬聖人 池田 草庵 | 但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典 さん
池田草庵は但馬八鹿の陽明学者で、京都で塾を開いていましたが、郷里の人々の懇望で、宿南の地に青然書院を開いて子弟に教えていました。良斎の人柄に感じ、生前には書簡で親睦を深め、自らの甥、池田盛之助を多度津の弘浜書院に行かせて学ばせています。ここからは、弘浜書院と青繁書院とは、人的にも親密に結ばれ活発な交流があったことがうかがえます。
 池田草庵は名声高く、俊才が集まり、弘化4年(1847)から明治11年(1878)までの青鉛社名簿には、多度津から入門者が次のように記されています。
讃岐多度津藩士 林求馬・岡田弥一郎・庭村虎之助・古川甲二郎
白方村高島喜次郎 藩医小川束・林凝・名尾新太郎・服部利三郎・塩津国人郎・野間伝三・大久保忠太郎・河口恵吉・早川真治
以下は明治以後)
菅盛之進・名尾晴次・字野喜三郎・畑篤雄・菅半之祐・神村軍司・大久保穐造・長野勤之助・小野実之助・奥白方村山地喜間人。

   良斎の影響で多度津の向学に燃える青年たちが京都に出て学んでいたことが分かります。

以上をまとめておくと
①林家は多度津藩の家老の家柄で、林求馬の祖父や養父である良斎が多度津陣屋建設に尽力した。
②良斎は、若くして家老として陣屋建設の責任者として対応したが完成後は若隠居した
③良斎は26歳で、大坂の大塩平八郎の門を叩き、陽明学を学び交流を深めた
④そのため良斎の元には、大庄平八郎の書や書物などが残り遺品として、現在は林求馬邸に残っている
⑤良斎は、教育機関として弘浜書院を開設し、行動主義の陽明学を多度津に広めた。
⑥この中から登場する若者達が明治維新の多度津の躍進の原動力になっていった。
⑦良斎の後、林家を継いだ甥の林求馬は、幕末の混乱期に多度津藩の軍事技術の近代化を進めた。
⑧長州遠征後の軍事衝突に備えて、藩主や家老の避難先として奥白方が選ばれ、そこに新邸が建設された。
⑨それは明治維新直前のことで、明治になって林家はここで生活した。
⑩そのため、林家に伝わる古文書や美術品が林求馬邸に、そのまま残ることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 多度津町誌808P

まんのう町文化財協会の仲南支部の秋のフィルドワークが多度津の林求馬邸と合田邸になりました。その「事前研修資料」として、林求馬邸をアップしておきます。
香川県の近代和風建築 : ShopMasterのひとりごと

テキストは「香川県の近代和風建築 香川県近代和風建築総合調査報告書113P 林求馬邸 香川県教育委員会」です。 

 林求馬5
林求馬邸は、幕末の嘉永4年(1851)から慶応4年(1868)の間に、多度津藩家老を務めた林求馬(1825~1893)の屋敷として奥白方に建てられたものです。それを聞いて最初に私が疑問に思ったのは次の二点です。
①どうして、海の見えない奥白方に建てたのか
②どうして明治維新間際の時代に、建てられたのか
①の奥白方に建てられたのは、幕末の軍事情勢の中で、海からの艦砲射撃を受ける可能性が出てきたためです。多度津港のそばにあった陣屋では、それを防ぎきれません。多度津藩は、幕末に軍備の近代化を進める一方、土佐藩に接近し、倒幕の動きを強めていました。そのような中で、丸亀藩や高松藩に比べると、強い軍事的な緊張感を持っていたことは以前にお話ししました。そのような中で、藩主や家老の避難場所として奥白方に白羽の矢が立ったようです。ここは、瀬戸内海の展望を楽しむための別荘や保養施設ではなかったこと、非常時のための待避場所(下屋敷)として急遽建設されたことを押さえておきます。
林求馬広間2
林求馬邸座敷
②の建設時期については、座敷の天丼裏に、嵯峨法泉院の祈祷札があります。
そこには「慶応3(1867)年6月」という年号が記されているので、鳥羽伏見の戦いの始まる直前に、この建物が完成していたことが分かります。まさに江戸幕府が倒れる前年に、新築された建物ということになります。
 廃藩置県後に、家老の林求馬は免官となります。
その後は林求馬は、この建てられたばかりのこの家を自邸として使います。その後も子孫が居住して建物が維持されてきましたが、1960代から無住となりました。その後の活用化を年表化しておきます。
1977年、林家より林求馬邸の土地建物が寄付され、財団法人多度津文化財保存会が設立
1983年、周辺整備を終えて、一般公開開始
1986年 求馬の養父林良斎が開いた私塾弘濱書院が敷地内に新築復元
1995年 南土蔵を改造した資料展示館がオープンし、林家に伝わる書画や古記録類なども公開
弘濱書院(復元)
弘濱書院(復元)
「香川県の近代和風建築」には、この建物について、次のように記します。

林求馬平面図
林求馬
邸平面図
林求馬邸の敷地面積は1,646㎡で、敷地南辺に表門を開く。門の北側に、西から主屋(座敷棟)、頼所、管理棟を建て、門の北東に弘濱書院、その南に展示資料館を建てる。
林家には、明治20~30年代初頭の屋敷の様子を描いた銅版画(鳥睡図)が伝わり、ほぼ建築当初の敷地内の様子を知ることができる。また、昭和30年発行の『白方村史』には内部の見取図が記されている。それらの資料と、現状の平面図を比較すると、頼所から西側部分は建築当初に近い状態で現存していると考えられ。東側部分は、家族の居住空間で、生活様式に合わせて改変が加えられたたと思われる。かつて台所や湯段があった場所に、現在は弘濱書院が建設されている。現在資料館となっている南土蔵、管理事務所とつながる東西の土蔵2棟は建設当時から現存するものと考えられ、土蔵をつなぐ部分は昭和になってから増築されたものという。

林求馬正面

 表門は、建設時に、陣屋から移築したものと伝えられ、その両脇に続く土塀は建設当時からあったが、昭和57年の修理時に腰部を海鼠壁とした。敷地南辺以外の土塀は現在失われている。
林求馬玄関

主屋は、入母屋造、妻入で正面に入母屋造の屋根を持つ大玄関が付く。屋根はいずれも本瓦葺、外壁は黒漆喰塗りである。
林求馬大玄関

大玄関の式台の奥に、8畳間があり、その両側に6畳間がある。板敷きの廊下が東西に通り、それをはさんで北側に14畳の広間、その東に6畳の枠の間と8畳の座敷が配置されている。
IMG_0006林求馬

広間は西側に、8畳の座敷は東側にそれぞれ床の間を配置し、北側は背後の山を借景にした庭を望むことができる。大玄関は、藩主のための玄関で、座敷は藩主との対面の場、広間は多くの家臣が集まる場所として作られたものであろう。従者は、大玄関の東側にある小玄関から出人りし、控の間に入る。
林求馬邸 | 香川県の多度津町観光協会
頼所(よりしょ:白壁の建物)

 民衆の用件を聞く場所として使われた頼所は、つし2階建、入母屋造、本瓦葺、妻入で、外壁は白漆喰塗りで、下部は海鼠壁(当初は縦板張り)とする。戸口を入ると土間で、奥に板の間及び廊下が続き現在の事務宇、その奥の土蔵へとつながる。
頼所の出入口の木戸には、内側から相手を確認するための小さなのぞき窓がついており、 2階の窓かららも人の出入りを確認できる。2階は、天丼を張らず、主に収納場所として使われていたと考える。
IMG_0004林求馬
林求馬邸

内部に陳列されている物を簡単に見ておきましょう。

林求馬邸 文化財図録


林求馬 広間
林求馬邸内部
林求馬 ふすま絵図
立屏風
林求馬 備前焼唐獅子
藩主から送られた備前焼の唐獅子
林求馬 龍昇天図
龍昇天図
しかし、林求馬邸のなかで一番大切にされているのは、この書のようです。
大塩平八郎の書 乱の前年
大塩平八郎の書
慮わざれば胡ぞ獲ん
為さざれば胡ぞ成らん
(おもわざればなんぞえん、
なさざればなんぞならん)
意訳変換しておくと
考えているだけでは何も得るものはない
行動を起こすことで何かを得ることができる
「知行一致」「行動主義」と云われる陽明学の教えが直線的に詠われています。平八郎の世の中を変えなくてはならないという強い思いが
伝わってくるような気がします。これが書かれたのは、大塩平八郎が大坂で蜂起する数カ月前で、多度津町にやって来たときのものとされます。どうして、大塩平八郎が多度津に来ていたのでしょうか?
それはまた次回に・・・

林求馬 古文書
林求馬邸に残された古文書
林求馬邸について、まとめておきます。
①この建物は、薩長と幕府の軍事衝突が間近に迫った時期に、藩主や家老の避難先として奥白方に建設された建物である。
②そのため華美な装飾や不用な飾りは見られず、シンプルで機能重視で建てられている。
③しかし、近世の武家屋敷の様式を継承し、大小の玄関や広間・座敷など主要な部分が良好に保存されている。
④東西に一直線に廊下を配置した間取りは改築の痕跡がなく、建築当初からのものと考えれる。
⑤座敷など「表」の部分と、台所など「奥」の部分とを分離し、円滑な行き来を重視した機能的な配置である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  香川県の近代和風建築113P 林求馬邸  
「白方村史」(白方村史編集委員会1955年)
「林家所蔵文化財図録」(多度津文化財保存会2003年)

          
  宝永の大地震については、以前に次のような事をお話ししました。
①牟礼町と庵治町の境にある五剣山の南端の五ノ峰が崩れ落ちて「四剣山」となってしまったこと。
②高松城下町に津波や倒壊家屋など大きな被害が出たこと
③海岸沿いの新田開発地帯で液状化現象が数多く発生したこと
今回は、それから約150年後の安政の大地震を、坂出の史料で見ていくことにします。テキストは「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」です。

安政東海地震・安政南海地震(安政元年11月5日) | 災害カレンダー - Yahoo!天気・災害

安政の大地震とは、次のような一連の地震の総称のようです。
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)- 日米和親条約締結。
1854年7月9日(嘉永7年6月15日)- 伊賀上野地震。
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)- 安政東海地震(巨大地震)。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日)- 安政南海地震(巨大地震)。
1854年12月26日(嘉永7年11月7日)- 豊予海峡地震。
1855年1月15日(安政元年11月27日)- 安政に改元。
1855年2月7日(安政元年12月21日)- 日露和親条約締結。
1854年旧暦の11月4日午前10時頃、駿河湾から熊野灘までの海底を震源域とする巨大地震が発生します。それに続いて30時間後の5日午後4時頃、今度は紀伊水道から四国沖を震源域とする巨大地震が続いて起きます。駿河トラフと南海トラフで連動して起きたブレート境界地震で、いずれもマグニチュード8・4と推定されています。関東から九州までの広い範囲で大津波が押し寄せます。4日の地震では、東海道筋の城下町や宿場町が大きな被害を受けます。5日の地震では、瀬戸内海沿いの町々でも家屋の倒壊や城郭の損壊が相次ぎ、紀伊半島や四国では10mを超える大津波に襲われます。津波は瀬戸内海や豊後水道にも及んだとされます。

東海地震と南海地震の連携
 東海地震と南海地震のダイヤグラム
東海地震と南海地震は、引き続いて起きる傾向があるようです。
この時も、東海地震の翌日に南海地震が起きています。この地震が起きたときは、年号はまだ嘉永7年でした。それが地震直後に、年号が改められて「安政」となります。ペリー来航で世の中が揺れる中での天変地異に民心も揺らいだようです。
3坂出海岸線 1811年
塩田が出来る前の1811年頃の坂出村
江戸時代末に宮崎栄立が著した『民賊物語』には、坂出市域の状況が次のように記されています。

①十一月四日昼四ツ時地震、五日昼七ツ時二大地震イタシ家二居ル者無シ、夫ヨリハ度々ノ地震ユヘ坂出村ノ者ドモ大ヒニ恐怖シテ野宿イタシ、六日ニモ亦々以前ノ如ク西ノ方ヨリドロドロ卜鳴来ツテ、地震止ネバ村中家々二小屋ヲ掛ヶ人々ハ其中二居レリ
 
意訳変換しておくと
11月4日昼四ツ時(10時頃)地震発生、
翌5日昼七ツ時(16時頃)に、今度は大地震が起こり家の中には誰もいない。それから度々の余震が続き、坂出村の人々は恐怖で、家に帰らずに避難し野宿した。六日にも西の方からどろどろと大きな音が続いた。地震が止まないので、村人は小屋掛けして、その中に避難している。

   ここからは東海地震と南海地震が連動して発生したことが分かります。余震におびえる村人達は仮小屋を建てて「野宿」しています。

②  五日ノ大地震二付坂出村ノ破損ハ左ノ如シ 
新浜分ハ、大地裂ケ石垣崩レ、沖ノ金昆羅神ノ拝殿崩レ、橋モ二箇所落テ、塩釜神ノ石ニテ造リタル大鳥居折レタヲレタリ、其外ニ人家破損セサハ更二無シ、塩壺釜屋二損セフハ無ユヘ新地ハ村中ノ大破卜申スベシ、其次ノ破損ハ新開、東洲賀、中洲賀、其次ノ破損ハ西洲賀、内濱也、大破モアレバ小損モ有シガ、是ハ家々ノ幸不幸卜云ベシ、其次二新濱分ハ家二居憎キ程ノ大大地震タレドモ、瓦一枚モ損無ケレバ有難キトテ喜バヌ者ハ喜バヌ者ハ無ク、其内ニ谷本澤次郎居宅ハユガミ出来土塀等モ崩レシカバ先二大破卜中ス也、屋内横洲ノ在所ハ新濱同様ノ由ニテ格別損ジハ非ズシテ喜ビ居ケル也

   意訳変換しておくと
②  五日の大地震の坂出村の被害状況は次の通りである。
 新浜では、大地が裂け石垣が崩れ、沖の金昆羅社の拝殿が壊れた。橋も二箇所で落ち、塩釜神社の石の大鳥居も折れた。その他の人家には被害はない。塩田の塩壺・釜屋の被害もないようだが新地は村中が大破している。その次に被害が大きいのは新開、東洲賀、中洲賀、、次が西洲賀、内濱となる。大破した家もあれば、小破ですんだ家もある。これはその家々の幸不幸と云うべきだろう。新濱分は、大地震だったが瓦一枚の被害も出ていない。これを有難いことと喜ばない者はいない。その内の谷本澤次郎の居宅は、家が歪んで、土塀も崩れたので大破とした。屋内横洲の在所は、新濱と同じように格別の被害はなかったと喜んでいる。
ここでは坂出村の被害状況が述べられています。
地域のモニュメントでもある金毘羅神の拝殿が崩壊し、橋が落ち、塩寵神社の大鳥居が折れています。被害は、エリアで大小があるようです。
坂出村は、近世になって塩田開発が行われ、そこに立地した村です。埋め立て状況によって、地盤の強度に差があったことがうかがえます。これは後述する液状化現象とも関わってきます。

製塩 坂出塩田 久米栄左衛門以前
久米栄左衛門以前の坂出塩田
③ 大坂ハ夏六月十五日大地震ノ時二市中ノ者ドモハ老若男女トモ、船二乗ツテ地震ノ災ヒヲ遁レタレバ、此度モ夏ハ如ク皆々船二乗ツテ居タル所、其員数ハ知レ難ク、死骸ノ川辺ニ累々トシテ山岳ノ如ク、其時二坂出浦ノ船大坂ノ川二在ツテ破船シタルハ左ノ如ク
一 入福丸二百石積 庄五郎船
一 灘古丸二百石    七之助船
一 弁天丸 百石    市蔵船
以上大破之分
右入福丸ノ居船頭ハ横洲ノ駒吉、灘吉丸ノ居船頭ハ新地ノ松三郎、弁天丸ノ居船頭ハ新地ノ和右衛門 其時ノ船頭ハ和右衛門ノ甥佐之吉也、灘吉丸弁天丸ノニ艘ハ大破ニテ作事二掛ラズ、入福丸ハ大坂ニテ作事イタシ国へ帰リタリ、三艘トモ木津川二居レリト云
一 長水丸 百石    和吉船
一 末吉丸六十石   宮次郎船
一 宝水丸 百石    利吉船
一 長久丸六十石   元助船
以上小破之分
右ハ少々ノ損シユヘ作事シテ国へ帰ル、此四艘ハ安治川二居レル由坂出船都合七艘也、大小ノ破損二逢ヘドモ船頭ヲ始メ水主及ヒ梶取二至るマデ死亡ノ者一人モ無ク皆々帰リテ申しケルハ、本津川ニハ死人多ク安治川ハ少シ、大坂帳面着ノ死人凡四千六百余人、其外帳二着ケザ几者数へ難之
   意訳変換しておくと
③ 大坂では夏六月に発生した伊賀上野地震の時に、老若男女が船に避難して難を逃れた。そこで今回も前回の時のように、多くの人々が船に避難した。そこへ津波が襲いかかり、多くの死者を出した。その数は数え切れないほどで、死骸が川辺に累々として打ち寄せられ山の如く積み上がった。
この時に、坂出浦の船で大坂に入港していて、大破した船は次の通りである。
一 入福丸二百石積 庄五郎船
一 灘古丸二百石    七之助船
一 弁天丸 百石    市蔵船
この内、船頭は、入福丸は横洲の駒吉、灘吉は新地の松三郎、弁天丸は新地の和右衛であった。
灘吉丸と弁天丸の2艘は大破でも修理せず、入福丸は大坂で修理して坂出に帰ってきた、三艘ともに木津川に停泊中だったと云う。
以下の4艘は小破であった。
一 長水丸 百石    和吉船
一 末吉丸六十石   宮次郎船
一 宝水丸 百石    利吉船
一 長久丸六十石   元助船
この4艘は、損傷が小さかったので修理して、坂出に帰ってきた。この四艘は安治川にいたという。以上、坂出船は合計で七艘、震災時に大坂にいたことになる、それぞれ大小の破損を受けたが船頭を始め、水夫や梶取に死者はおらず、みな無事に帰ってきた。彼らが伝えるには、本津川の方に死者が多く、安治川は少ないとのこと。大坂からの帳面には、死人凡四千六百余人、其外帳二着ケザ几者数へ難之
大坂の木津川と安治川

④ここからは、大坂での大地震の時に、坂出村の廻船7艘が大坂の安治川と木津川に寄港中であったことが分かります。
坂出村からは「塩の専用船」が大坂と間を行き来していたようです。旧暦6月は真夏に当たるので、塩の生産量が増える時期だったのでしょう。それにしても、この日、坂出村の船だけで七艘が入港していたのは私にとっては驚きです。中世には、塩飽などの塩船団は、何隻かで同一行動を取っていたことは以前にお話ししました。ここでも二つのグループが船団を組んで、木津川と安治川に入港中だったとしておきます。
 また、6月の地震の時に船に逃げて難を避けた経験が、今回は大津波でアダとなったことが記されています。

坂出 阿野郡北絵図
阿野郡北絵図 ③が坂出村
④ 庄屋・阿河加藤次ヨリ来ル御触ノ写シ左之如ク
一筆申進候、然者此度地震ヨリ高波マイリ候様イ日イ日雑説申シ触候様者有之愚味ノ者ヲ惑ハシ候事二可有之候哉、イヨイヨ右様ノ次第二候ハバ御上ニモ御手充遊バシ一同江モ屹度御触レ在之候事二可有之候間、左様風説構ハズ銘々ノ仕業ヲ専二相働キ盗人ヤ火事ノ手当無油断心掛ケ、此節ハ幸卜人々ノ迷惑を不構諸色直段上ケ致候者ハ迫々御札シ御咎モ可相成候間、随分下直二商ヒ大工左官日雇賃モ御定ノ通リ可致、併シ此節すみかノ事二付働キ振二寄り少々之義ハ格別ノ事二候、夫々心得違ヒ無之様早々村々江御申渡可被成候、此段申進候 以上、
森田健助
鎌田多兵衛
本条和太右衛門サマ
渡辺五百之助サマ
右之通り御触在之候段、大庄屋中ヨリ申来候間、其組下ヘ早々御申渡シ可破成候、以上、
阿河加藤次
十一月十五日
内濱  新濱
屋内  洲賀
新地
       意訳変換しておくと
藩の手代 → 阿野郡大庄屋渡邊家 → 坂出村庄屋阿河加藤次のルートで廻されてきた触書きの写しを挙げておく。
 一筆申進候、今度の地震で高波(津波)が押し寄せるという雑説(流言)があるが、これは愚味者を惑わすフェイクニュースである。これについてはお上でも対応を考えて手当して、一堂へも通知済みである。よって、怪しい情報に迷わされずに各々の仕業に専念し、盗人や火事に対して油断なく心がけること。このような非常時には、これ幸と人々の迷惑を顧みずに、法令を犯す者も出てくる。それには追って高札で注意する。商いについても大工・左官・日雇の賃金も規定通り従来の価格を維持すること、ただし、住居については火急のことなので、その働きぶりで少々のことは大目にみる。以上、心得違いのないように、早々に村々に通知回覧すること。

④ ここからは坂出でも、多くの流言飛語がとびかっていたことがうかがえます。
これに対する高松藩の対応が、藩の手代→大庄屋→坂出村庄屋・阿河加藤次からの触れというルートで流されています。その中には、物価高騰への対策や大工・左官・日雇などの賃金の高騰防止策も含まれています。

讃岐阿野北郡郡図2 坂出
阿野北郡郡図

⑤先日ノ大地震二坂出村ニハ怪我人マタハ死人など一人モ無キ事ハ、是ヒトヘニ氏神八幡ノ守護二依テヤ、掛ル衆代未曾有ノ大地震二不思議卜村中ノ者ドモ危難ヲ遁レタル御祀卜申シテ、近村ノ神職ヲ頼ミ、十一月十五日ノ夜八幡神前二在テ薪火ヲ焼テ神へ御神楽ヲ奏シ承リタリ
一 同月十六日村中ノ者、小屋ヲ大半過モ取除申セシ所二、晩方二地震イタシ、夜二入ツテ大風吹出シ次第卜募り、雪交ヘ降り地震モ度々也、其夜之風ハ近年二覚ヘザル大風ナリ
一 村方庄屋ヨリ申越タル書付ノ写、左ノ如シ
一筆申し進候、然者今度地震二付御家中屋敷屋敷大小破損ノ義在之候哉、兼テ暑寒等モ勤相ハ無之筈二候エドモ、中ニハ近規格段懇意ノ向等ヘハ相互ヒ見舞ヒ等二罷り越シ候面々モ有之候エバ近親タリトモ一切見舞ヒニ不罷越様、右ノ趣キ御心得早々村々へ御申シ通可被成候、以上、
十一月十六日出
( 中略 )
  意訳変換しておくと
⑤先日の大地震で坂出村では怪我人や死人が一人も出なかった。これはひとえに氏神の八幡神の守護のおかげである。未曾有の大地震にも関わらず村中の人々が危難から救われたお礼にをせねばならぬとして、近村の神職に頼んで、10日後の15日の夜に八幡神前で松明を燃やして、神楽を奉納することになった。

一 その翌日16日になって、村中の者が、避難小屋の大半を取除いた所、晩方に再び地震があった。さらに、夜になって大風が吹出し、次第に強くなり、雪交ヘ降りとなった。その上、余震が何度もあった。この夜の風は、近年で最も強いものであった。
一 村方の庄屋の回覧状写には、次のようにしるされていた。
一筆申し進候、今回の地震について、家中屋敷でも大小の破損があった。中には格段に懇意にしている家に見舞いに行きたいと考える人達もいたが、近親といえども今回は見舞いを控えている。このような心得を早々に村々に伝えるように、以上、
十一月十六日出( 中略 )

ここからは次のようなことが分かります。
A 今回の大地震で坂出村では死人が一人も出なかったこと。
B それを神の御加護として、御礼のために八幡神社で神楽奉納が行われたこと。
C 家中屋敷も被害が出ているが、見舞いは控えるようにとの通達が出されていること
  雨乞いのお礼のために踊られたのが、滝宮(牛頭天王)社に奉納された念仏踊りでした。同じように、神の加護お礼に、神楽が奉納されています。天変地異と神の関係が近かったことがうかがえます。

坂出風景1
坂出
墾田図
⑥十一月二十二日地震ヲ鎮ンガ為ノ祈祷トテ坂出八幡宮ニテ村中ニテ村中安全五穀豊饒ノ大般若経フ転読ス
評曰く、当国高松大荒レ死人多ク有ル由、土佐大荒レ、阿波大波打死人多ク出火焼亡所モ有、伊豫大荒レ、紀伊モ大荒レ、播磨大荒レ、明石最モ大荒レ、家々皆潰レ人麿ノ社ノミ残ル、備前備中モ大荒レ、其中塩飽七島ハ地震少々ニテ島人ハ憂ヒ申サス、中国西国九州二島ノ地震ヲ云者アラ子バ其沙汰ヲ聞カズ、
     意訳変換しておくと
⑥11月22日、地震を鎮めるための祈祷として、坂出八幡宮で安全五穀豊饒のために大般若経の転読を行った。
評曰く、讃岐高松は地震で大きな被害を受けて死人も出ている。土佐大荒、阿波では大波(津波)で多くの死者が出た上に、出火で焼けた処もおおい。伊豫大荒れ、紀伊モ大荒れ、播磨大荒れ、明石は最も大荒レ、家々が皆潰れて人麿社だけが残った。備前・備中も大荒レ、塩飽七島は地震の被害が少なく、島人も困っていない。中国・四国・九州の島の地震については、情報が入ってこないので分からない。
  大般若経の転読は、大般若経六百巻を供えた寺社で行われていた悪霊や病気払いの祈祷です。
讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から
大般若経転読
別当寺の社僧達が経典を、開いて閉じで「転読」します。この時に起こる風が「般若の風」と云われて、効能があるものとされてきました。坂出八幡宮にも大般若経六百巻があったことが分かります。
一 江戸目黒御屋敷二居ケル近藤姓ノ書状左ノ如ク
筆啓上…(中略)…去ル四日ヨリ五日エ古今稀成ル大地震ニテ高松城内フ始メ御家中町内郷中二至ルマデ潰レ家転ビ家怪我人又ハ死人其数知レズ、誠二御国中ノ義ハ何トモ筆紙二難書候由、宿元ヨリ委ク申参シテ夥シキ御事二奉存候、此元ニテモ去四日ヨリ五日ヘハ大地震ニテ大混雑イタシタル義高松ノ宿元ヘ委ク申し遣ハシ置候間、御城下へ御出掛被成候エバ御間可被成候、御伯父サマノ居宅ハ地震ノ破損如何二御座候哉、格別成ル御イタミ所ハ無之義候力、且ハ御家内サマ方ニテ御怪我ハ無之力、年蔭大心配申し上候、誠二近年ハ色々ノ凶事バカリ蜂ノ如ク起こり候エバ、何トモ恐日敷事ニ奉候先ハ蒸気卜地曇トノ見舞ヒ芳申し上度如此御座候、尚則重徳ノ時候、恐惇謹言、
近藤本之進
十一月念三日
坂出村
宮崎善次郎サマ
人々御中
      意訳変換しておくと
江戸目黒屋敷の近藤姓からの書状には、次のように記されていた。
筆啓上…(中略)…去る4日から5日にかけて今までにない規模の大地震で、高松城内を始め家中や町内郷中に至るまでに、家屋が倒壊したり、負傷者や死者が数え切れないほど出ている。国元の惨状は筆舌に現しがたいことなどが書状で伝えられています。こちらも四日から五日には、大地震で大混雑になったことについては高松の宿元へ書状で書き送った。さて、高松城下へ御出かけの際には、伯父さまの居宅の地震被害の様子がどんな風なのかお聞きおきいただきたい。格別な被害がないかどうか、或いは家内の方々に御怪我はなかったのか、など大変心配しております。誠に近年は色々と凶事ばかり続き、何とも恐ろしい気がします。まずは蒸気(ペリー来航)と大地震の見舞い申し上げます。尚則重徳ノ時候、恐惇謹言、
遠く離れた江戸との連絡は、飛脚便で取れていること。しかし、情報が少なく親族の安否や被害状況の確認がなかなか取れずに、心配していることがうかがえます。
⑦ 同月二十五日昼四ツ時分ヨリ地鳴ヤラ海鳴ヤラ山鳴ヤラ何トモ知レ難ク坂出ノ人々大ヒニ心配セル所二昼九ツ時二雷一声鳴ツテ大風大雨地震セシカバ新地ノ者ドモ大ヒニ畏恐レテ背々岡へ逃上タル、是ハ大坂ノ如キ津波ヲ恐レテ船二乗シ者一人モ無シ
一 十二月朔日、新濱中トシテ村中祈祷ノ為二翁ガ住ケル門前二金毘羅神ノ常夜燈ノ有ツル所ニテ地震ヲ鎮メン連、岩戸ノ御神楽ヲ神へ奉ツル員時ノ祈人ハ川津村大宮ノ神職福家津嘉福、春日ノ神職福家斎、御神楽阻話人ノ名前ハ左ノ如ク 
藤七藤吉 孫七郎 貞七 忠兵衛 好兵衛 典平太 権平 勘兵衛 虎占 佐太郎 澤蔵
以上、
評曰く、象頭山金毘羅人権現ノ御鎮座ノ社地ハ申スニ及ハズ、室橋ノ内ハ柳モ地震ノ損ジ無キハ御神徳二依ルユヘトゾ云、尊卜候ベシ候ベシ、四条村榎井村ハ大荒レノ由ヲ聞ク、
  意訳変換しておくと
⑦ 11月25日昼四ツ時分から地鳴やら海鳴・山鳴などの何ともしれない音がして、坂出の人々を不安にさせた。昼九ツ時になって、雷鳴とともに、大風大雨に加えて地震も起きた。新地の人達は、これに畏れて岡へ逃げた。しかし、大坂のように津波を恐れて船に乗る者は一人もいなかった。
一 12月1日、新濱では祈祷のために翁が住んでいる門前に金毘羅神の常夜燈が建っている所で、地震退散のために、岩戸神楽を神へ奉納することになった。祈人は川津村大宮の神職福家津嘉福、春日の神職福家斎、神楽世話人の名前は次の通り。藤七藤吉 孫七郎 貞七 忠兵衛 好兵衛 典平太 権平勘兵衛 虎占 佐太郎 澤蔵
以上、
評曰く、象頭山金毘羅大権現の鎮座する社地を始め、その寺領には地震の被害がなかったのは、御神徳によるものだと皆が噂する。金毘羅さんの威徳は尊ぶべし。ところが寺領と隣接する四条村や榎井村は大きな被害が出ていると聞く。
地震から20日近くたっても余震が収まらないので、人々は不安な毎日を送っているのが伝わってきます。
そんな時に人々が頼るのは神仏しかありません。無事祝いと称して、八幡さんに神楽を奉納し、地震退散のために、「般若の風」を吹かせるために大般若経の転読を行います。そして、今度は金比羅常夜燈の前で、地震を鎮めるために岩戸神楽の奉納が行われています。
それでも余震は続きます。しかし、人々も経験に学んでいます。大坂のように、地震があっても船に逃げる人はいないようです。岡に逃げています。坂出村なので、聖通寺山に避難していたのでしょうか。
⑧ 十二月三日夜四ツ時、地震ヤル
一 同月七日ノ夜、村中横洲祗園宮へ横洲ノ者祈祷トシテ御神楽ヲ奉マツル
一 同十四日ノ境二、地震マタ、其夜ノ八ツ時二人ヒニ地震雨是ハ、先月五日以来ノ大地震卜沙汰スル也、
評曰く、十一月五日ノ大地震二先君源想様ノ御実母 善心様御義早速二御林ノ御別館へ御立除ノ由也、然ル所二、同月二十五日マタマタ高松大ヒニ地鳴セル、晩方二成ルト雖トモ止ス、請人恐レケル時二誰申ストモ寄り浪ノ此地へ打来ラントテ主膳様ヲ始メトシテ御中屋敷大膳様 御大老飛騨様等御方々サヘ津波ヲ恐レテ疾ニモ御屋敷ヲ御立給ヒテ南方フ指テ御出テ有リツルハ定メテ御林ノ御別館へ御入り有リテ 善心様卜御一行二成ラセラレタラン、弥、津波来ラバ内町ノ者ハ危シト俄カニ騒キ立テ、先ハ老人或ハ小供又ハ病者婦人杯ノ足弱キ者トモフバ所々縁ヲ求メ、外町へ出シ、男子ハ居宅ヲ守り、夜ヲ明シタル、
評曰く、先日大地震ノ時、当浦ニモ津波気色少シハ有シヤ、汐引マジキ時二引キヌ、満マジキ時二大ヒニ満レハ、矢張り津波ノ気色ヤラント新地ノ者ノ沙汰ナリ、
又評曰く、三木牟祀村ノ五剣山昔ノ地震二一剣ノ峯ノ崩レタリ、又当年ノ大地震ニモ峯ノ崩レタルト也、何レノ峯ヤラ知ラズ、( 後略 )

  意訳変換しておくと
⑧ 12月3日夜四ツ時、地震発生
一 同月7日ノ夜、横洲の祗園宮へ横洲人々は祈祷として神楽を奉納した
一 同14日ノ夜、8ツ時に地震が起きた。これは先月5日以来の大地震であった。
評曰、11月5日の大地震に高松藩先君の実母・善心様は早速に栗林の別館へ避難されたようだ。
25日に高松では地鳴がして、晩方になっても止まない。この時に、誰ともなく津波が高松にも押し寄せるのではないかという噂が拡がった。そのため主膳様を始めとして中屋敷の大膳様や大老飛騨様なども、津波を恐れて屋敷を立ち退き、かねてより指定されていた栗林の別館へ避難した。そして善心様と合流した。
 これを聞いて津波が襲来すれば内町の者危ないと、人々も騒ぎたて、まずは老人や小供、病者・婦人などの足の悪い者は縁者を頼って、外町へ出し、男子は居宅を守って、夜を明した。
評曰く、先日11月の大地震の時には、坂出浦にも津波の気配が少しはあったが、引き潮時分であったので被害はなかった。もし満潮時であれば、矢張り津波の被害もあったかもしれないと新地の者たちは沙汰している。
評曰く、三木と牟祀村の五剣山は、昔の地震の時に、一剣の峯が崩れた。今回の大地震でも峯が崩れたと云う。それがどの峰なのかは分からない。
   地震から1ヶ月近くたっても余震はおさまりません。余震におびえる人々の心は、フェイクニュースを受入やすくなります。山鳴り・海鳴りが止まず夜を迎えると、津波がやって来るという噂が高松城下町で拡がったようです。そのため城主達一族が栗林の別邸に避難します。それを見て、人々も不安に駆られて避難を始めたようです。
安政の大地震は、11月中旬になってもおさまる気配はなかったようです。
地震の被害状況を調べた「綾野義賢大検見日誌」(『香川県史』10)には、次のように記されています。
二十三日晴、暁のほと地小しく震ふことふたゝひ、卯の下下りにまた御米蔵に至て貢納を見、巳のはしめにうた津を出、坂出村に至れハ本条郡正か子出迎たり、この頃の大震に坂出・林田なと瀬海の所、地大にさけ人家やふれくつれしもの少からすと聞へしかは、それらを見んと、本条から案内にて坂出・江尻・林田・高屋・青海なと南海の地をめくり見る、坂出・林田地さけ堤水門なとくつれ橋落、またハ土地落入りし処もあり、地さけて初のほとハ水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まヽなるもの多し、これらのさまハ高松ヨり甚し、されと人家少けれハ家くつれしものは最少し、江尻・高屋・青海なとハ、坂出・林田にくらふれハやゝゆるやかなり、申之刻はかり青海村渡辺郡正
か家に入てやとる、戊の刻はかりに地また震ふ、家外にかけ出んと戸障子ひきあけしほとなり、夜半の頃、また少しふるふ、
十四日、晴、巳の下りに青海村を出、国分に昼食し、黄昏家に帰入る、夜半小震、
  意訳変換しておくと
23日晴、早朝暁にも小しく地面が揺れる。卯の刻に宇多津の米蔵に着いて納められた米俵などの貢納を検見する。巳の始めに宇多津を出発して、坂出村に着いた。本条郡正が出迎え、今回の大震で坂出・林田などの海際の村では、地面が裂け、人家が倒壊したものが少なからず出たことを聞く。その被害状況を見ようと、本条の案内で坂出・江尻・林田・高屋・青海なの地を巡る。坂出・林田の地割れ、堤水門などの決壊、橋の陥落、または土地が陥没した所がある。地が裂けた所は、水が吹出したのか、白砂を吹出したかのように見える所がおおい。これらの様子は、高松よりも多い。しかし、人家が少ないので倒壊家屋の数は高松よりも少ない。江尻・高屋・青海などは、坂出・林田に比べると、被害は少ない。申刻頃に、青海村の渡辺郡正の家に宿をとる。戊の刻頃に、また震れる。家外に駆け出ようと戸障子を引き開けようとしたほどだった。夜半の頃、また少し揺れる。
24日晴、巳の下りに青海村を出て、国分で昼食し、黄昏に家に帰入る、夜半小震、
この史料は、阿野郡北の代官綾野義賢が郡奉行として、大検見を実施したときのものです。
安政元年(1864)年11月23~24日の坂出市域の被害状況と余震の内容が詳細に記録されています。ここから分かることを整理しておくと
①宇多津の米蔵に被害はなく、年貢の米は従来通り収納されていること
②坂出周辺の地震の被害状況を、自分の目で確認していること
③それを「地大いにさけ、人家やぶれ・くづれしもの少からず」「地さけ、堤水門などくづれ、橋落、またハ土地落入りし処もあり」と記録していること
④「地さけて初のほどハ水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まゝなるもの多し、これらのさまハ高松ヨり甚し」と、地面が裂けて水が噴き出したり、白砂が吹き出す液状化現象をきちんと捉えていること
⑤余震におびえながらの生活が続いていること
以上の一つの史料で読み取れる内容から指摘できることをまとめると次の二点です。
以上の記録からは次のような事が見えて来ます
①藩当局の周知・連絡が「藩 → 大庄屋 → 各村の庄屋 → 民衆」というルートで伝えられていること。藩の触書などは書写して残している人もいたこと。
②大地震からの不安からのがれるように、仏や神頼みが地元から起こっていること
③大坂で船に避難したひとが大きな被害となったことは、すぐに坂出に伝わっていること。地震の教訓を坂出の人々が活かしていることが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

坂出市史1
坂出市史
参考文献
「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」
関連記事

坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
大庄屋 渡辺家
阿野郡の大庄屋を務めた渡辺家には、代々の当主が書き残した「御用日記」が残されています。
渡邊家は初代嘉兵衛が1659(万治2)年に青梅村に移住してきて、その子善次郎義祐が宝永年間(1704−1711年)に青梅村の政所(庄屋)になります。その後、1788(天明8)年に阿野北郡大政所(大庄屋)になり、1829(文政12)年には藩士の列に取り立てられています。渡部家には、1817(文化15)年から1864(文久4)年にかけて四代にわたる「大庄屋御用日記」43冊が残されています。ここには、大庄屋の職務内容が詳しく記されています。

御用日記 渡辺家文書
御用日記(渡辺家文書)
 この中に「庄屋の心構え」(1825(文政8年)があります。

「大小庄屋勤め向き心得方の義面々書き出し出し候様御代官より御申し聞かせ候二付き」

とあるので、高松藩の代官が庄屋に説いたもののを書写したもののようです。今回は高松藩が、庄屋たちにどのようなことを求めていたのか、庄屋たちの直面する「日常業務」とは、どんなものだったのかを見ていくことにします。テキストは「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」です
 高松藩の代官は、庄屋にその心構を次のように説いたようです。
・(乃生村)庄屋は、年貢収納はもちろん、その他の収納物についても日限を遵守し納付すること
・村方百姓による道路工事などについては、きちんと仕上げて、後々に指導を受けたりせぬように
・村方百姓の中で、行いや考えに問題がある者へは指導し、風儀を乱さないように心得よ
・御用向きや御触れ事などは、早速に村内端々まで申し触れること。
・利益になることは、独り占めするのではなく、村中の百姓全体が利益になるように取り計うこと。
・衣類や家普請などは、華美・贅沢にならないように心がけること
・用水管理については、村々全体で取り決めて行うこと
・普請工事については優先順位をつけて行うこと
ここからは法令遵守、灌漑用水管理、藩への迅速な報告、賞罰の大庄屋との相談、普請工事の誠実な遂行、藩からの通達などの早急な伝達・周知、などの心得が挙げられています。
これに他の庄屋に伝えられていた項目を追加しておきます。
⑩何事についても百姓たちが徒党を組んで集会寄合をすることがないようにする。(集会・結社の取り締まり)
⑪道や橋の普請などに、気を配り
⑫村入目(村の運営費)などは、できるだけ緊縮し
⑬小間者に至るまで、村の百姓達の戸数が減らないように精々気を付け
⑭村の風儀の害となる者や、無宿帳外の者については厳重に取りしまること
ここからは、年貢を納めることが第一ですが、それ以外にも村方のことはなんでも庄屋が処理することがもとめられていたことが分かります。
それでは、庄屋の年間取扱業務とはどんなものだったのでしょうか?
文政元(1818)の「御用日記」に出てくる「年間処理事項」を挙げて見ると次のようになります。
正月
  古船購入願いを処理、
  氏部村の百姓の不届きの処理、
  用水浚いの願いの処理
  白峯寺寺中の青海村真蔵院の再建処理
2月 郡々村々用水浚いの当番年の業務処理
  青海村の上代池浚い対応処理
3月 二歩米額の村々への通知、
  江戸上屋敷の焼失への籾の各村割当処理、
  林田村の百姓が養子をもらいたいとの願いの処理
  吹き銀、潰れ銀売買について公儀書付の周知と違反者への処理
  村人間の暴行事件の対応・処理
  政所(庄屋)役の退役処理
  捨て牛の処理
4月
藩の大検見役人の巡検への対応
他所米の入津許可の処理
新しい池の築造手配
5月
他所米入津の隣領への抜売禁上の通達処理
郷中での出火
神事、祭礼などでの三つ拍子の禁止申し渡し
村人のみだりに虚無僧になることの禁上の通達
普請人夫の賃金待遇処理
6月
高松松平家中の嫡子が農村へ引っ越すことについての対応、
出水浚・川中掘渫などの検分と修復のための予算処置
五人組合の者共の心得の再確認と不心得者の取締り
昨年冬の高松藩江戸屋敷焼失についての大庄屋の献金額の調整
7月
御口事方が林田裏で行う大砲稽古への手配
盆前の取り越し納入の手配
遍路坊主の白峰境内での自殺事件の処理
正麦納の銀納許可について対応
村人の金銭貸借への対処
殺人犯の人相書きの手配
三ヶ庄念仏踊りの当番年について、氏部など各村への連絡
照り続きにつき雨乞修法の依頼
北條池の用水不足対応
香川郡東東谷村の村人の失踪届対応
商売開業願への対応
盗殺生改人の支度料処理
8月 他所米の入津対応や御用銀の上納対応
9月 大検見の役人への村別対応手配
10月 高松と東西の蔵所へ11月収めの年貢米(人歩米)納入について藩からの指示の伝達
11月 年貢米未進者の所蔵入れの報告
   阿野郡北の牢人者の書き上げ報告
12月 村人の酒造株取得と古船の売買
以上を見ると、自殺・喧嘩・殺人から養子縁組の世話、池や用水管理・雨乞いに至るまで、庄屋は大忙しです。以前にお話したように、庄屋は「税務署 + 公安警察 + 簡易裁判所 + 土木出張所 + 社会福祉事務所」などを兼ねていて、村で起こることはなんでも抱え込んでいたのです。だから村方役人と呼ばれました。村に武士達は、普段はやって来ることはなかったのです。ただ、戸籍書類だけは、お寺が担当していたとも云えます。
讃岐国阿野郡北青海村渡邊家文書目録 <収蔵資料目録>(瀬戸内海歴史民俗資料館 編) / はなひ堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋
瀬戸内海歴史民俗資料館編
『讃岐国阿野郡北青海村渡邊家文書目録』1976年)。

  このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
  江戸時代は、藩などの政策や法令は、文書によって庄屋に伝達されます。また、先ほど見たように庄屋は村支配のために、さまざまな種類の文書を作成し、提出を求められます。村支配のためや、訴訟・指示などの意思表明のためにも、文書作成は必要不可欠な能力となります。文書が読めない、書けないでは村役人は務まりません。年貢納税にも高い計算能力が求められます。
 地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。
「持高身代も相応にして算筆も相成もの」

経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。例えば、村の事案処理には、先例に照らして物事を判断することが求められます。円滑な村の運営のために、記録を作成し、保存管理することが有効なことに庄屋たちは気づきます。その結果、意欲・能力のある庄屋は、日常記録を日記として残すようになります。そこには、次のような記録が記されます。
村検地帳などの土地に関するもの
年貢など負担に関するもの
宗門改など戸口に関するもの
村の概況を示した村明細帳や村絵図など
境界や入会地をめぐる争論の裁許状や内済書、裁許絵図
これらは記録として残され、庄屋の家に相伝されます。こうして庄屋だけでなく種々の記録が作成・保存される「記録の時代」がやってきます。
辻本雅史氏は、次のように記します。

「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」

そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。

村では、藩の支配を受けながら村役人たちが、年貢の納入を第一に百姓たちを指導しながら村政に取り組みます。百姓たちも村の寄合で評議を行いながら村を動かしていきます。

  大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓

 というのが高松藩の農村支配構造です。
大庄屋の渡辺家の「御用日記」(1818)年の表紙裏には、次のように記されています。
御年寄 谷左馬之助殿(他二名の連名)
御奉行 鈴木善兵衛殿 
    小倉義兵衛殿中條伝人 入谷市郎兵衛殿
郡奉行 野原二兵衛 藤本佐十郎 
代官  三井恒一郎(他六名連名) 
当郡役所元〆 上野藤太夫 野嶋平蔵
当時の主人が、高松藩との組織連携のために書き留めたのでしょう。この表記は、各年の御用日記に記されているようです。このような組織の中で、庄屋たちは横の連携をとりながら、村々の運営を行っていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」

 
「金毘羅名勝図会」(1819)に描かれた多度津港を紹介しました。すると、その後に出された「金毘羅参詣名所図会」で、多度津の名勝が紹介されている部分を見たいというリクエストがありましたので、資料としてアップしておきます。なお、金毘羅参詣名所図会の閲覧方法については、以下の方法があります。
① 香川県立図書館デジタルライブラリーで「金毘羅参詣名所図会」と検索すれば、すべてを閲覧できます。
②書物としては、歴史図書社 昭和55年発行  (古本屋価格5000円~)
多度津で金毘羅参詣名所図会に挿絵が載せられているのは、以下の4枚です。
①海岸寺本坊
②白方屏風ヶ浦と海岸寺奥の院
③多度津湊
④道隆寺
それでは、①の海岸寺から、絵図と意訳変換文のみを紹介していきます。 
多度津 海岸寺
海岸寺(金毘羅参詣名所図会)

海岸寺2 金毘羅参詣名所図会
海岸寺本坊
本  坊 奥ノ院の境内とは離れて別に伽藍がある
方丈客殿 庫一長・大師堂などがある。
   海岸寺奥の院 金毘羅参詣名所図会
海岸寺奥の院
海岸寺奥の院
奥 院 弘法大師の幼児尊像で、長二尺あまりの大師誕生の尊像で、大師35歳の時の自作という。
脇 壇 左右に大師の父母の木像が安置されている。
大師堂 本堂のそばにあって、正面が弘法大師の像、左右に薬師・観音を安置。これは天霧城主であった香川山城守の念持仏と云う。
浴巾掛松 大師堂の前にある松で、大師が幼稚の時に浴巾を掛けたまう松と云う。今は枯れて、雨覆いを作りって若木を植えてある。

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雨乞寺蔵 早魃の時に雨乞いを祈念する。霊験あらたなりと云う。
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産湯水(海岸寺奥の院)
産湯水  大師誕生の時に産湯として使った清水。眼病者が、この清水で洗えばすぐに治癒するという。
子育観音 産水の傍にある。
産盥 大師が誕生の時につかった盥だと云う。近頃、ここに納めて参観が禁止されている。五岳山善通寺は誕生院と号し、大師誕生の旧地だと云う。ところが海岸寺も誕生の古跡と主張する。どちらが本当なのか分からない。一説には大師の御父、佐伯善通は多度郡の郡司を領し、今の善通寺で生活していたが、郡港の白方にも別宅を持っていて、弘法大師はそこで生まれたという説もある。
海岸寺や仏母寺は、近世初頭から「弘法大師生誕の地・屏風ヶ浦」
を名のっていました。そらが幕末に善通寺から訴えられて、「弘法大師生誕の地」を名のることが禁止されたことは以前にお話ししました。海岸寺には、備前や安芸・石見からの修験者の先達に伴われた信者達が集団で参詣にきていたことは以前にお話ししました。どちらにしても、このふたつの寺は、もともとは修験者の寺だったようです。

DSC03862
熊手八幡宮
屏風が浦の多度津街道沿いにある。多度津から十丁程で、乾方になる。
本社  祭神応神天皇
末社  本社の傍らに数多列す。
神興合・鐘楼・随身門  額に弘法大師産の神社とある。
熊手八幡の別当寺が仏母寺でした。

多度津湛甫 33
多度津湊 
   多度津港は、丸亀に続ぐ繁昌の地である。この港は波浪への備えがきちんとしており、潮待ち湊としても便利がよいので、湊に入港する船が多い。そのため浜辺には、船宿、 旅籠屋建が建ち並び、岸には上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の屋台、甘酒、餅菓子などを商ふ者の往来が絶えない。その他にも商人や、船大工らもいて町は賑わっている。さらに、九州ばどの西国筋の諸船が金毘羅参詣する時には、この港に着船して善通寺に参拝してから、象頭山・金毘羅大権現に登ることが恒例になっている。そのために、都合のいいこの港に、船を待たせて参詣する者が多い。
道隆寺 金毘羅参詣名所図会
       桑田(そうでん)山明王院道降寺                      

(本堂裏の道隆塚)前の標石には「道隆親王の塚」とあるが、道隆は親王ではない。道隆寺は四十三代元明天皇の時代に、和気の道隆という人物が創建したと伝えられる。

道隆寺 道隆廟
開祖道隆公(道隆寺)
道隆は景行天皇十二世の末裔で、父は那珂郡木徳の戸主和気淳茂の次男である。かつて道隆の所有する北加茂の土地に、千株の桑を植えた。これが「讃岐国の桑園」と呼ばれるものである。この桑園の中に一丈五尺の大木あった。種々な怪奇現象が起こるので、この木を伐って薬師如来を彫刻させて、小堂を作りて安置した。道隆は、日夜これを拝んだ。そして、神護二丙午年秋七月十五日午之刻、年齢99歳で亡くなった。
 その孫の朝祐が、延暦十二癸来年なって、霊魂のお告げを聞いて、弘法大師に会った際に先祖のことをかたり、例の桑の大木から作った仏を見せて、小像なので、もっと大きな仏像を造って欲しいと大師に請うた。大師は、その先祖供養の篤信に感じ入り、長二尺五寸の薬師如来を造り、今までの桑仏をその仏の胎中に納れ、永世不失の秘仏とした。
 こうして朝祐は深く仏教に帰依し、髪を剃って戒をうけ出家した。そして、家財・財宝を捨てて、住居をお堂として大師が造った木尊を安置して、大師を供養した。そして、境内四町四方を伽藍として堂塔を建立した。先祖道隆の名前を寺号とし道隆寺とした。弘仁末年朝祐人道、大師を請じて結縁灌頂が執行された。遠近の数多くの僧侶や民衆が道隆寺に集まり、市を為すほどであった。この時に寺を十余宇作って、群参した人々を入れた。

道隆寺薬師堂
道隆寺薬師堂(戦前の絵はがき)
 その後、道隆寺は学問寺として仏法繁興の区となり、弘法大師の弟である真雅僧正や、後には聖宝尊師もこの寺の住職を務めた。ところが兵火に罹り、殿堂は悉く焼失し、現在では、昔の繁栄ぶりを想像することもできない。しかし、往古の繁栄ぶりと伝える遺具や什宝は、数多く残されている。それはあまりに多いので、ここでは省略する。

DSC05233多度津賀茂神社
多度津の賀茂神社


祭神  鴨大明神を祭る。
道隆寺寺記には次のように記されている。村上天皇天暦元丁未年春二月、那珂郡真野の池(満濃池)の堤が崩壊することが数度に及んだ。そこで、興憲に詔して、地鎮と鎮守明神の遷宮を執り行わさせた。これが道降寺第七世と云われる。
義経寄附状  義経が屋島島合戦の際に、当社で祈願を受けた。翌年、戦勝祝いとして神納した寄附状である。
大般若経  武蔵坊弁慶が寄進した伝わる。右当社の什宝とし、虫千の砌拝見せしむ。
道隆寺伽藍の図の末尾に)
備中の国より此の寺に来りて、大師の忌に四国遍路の旅人に、飯菜をととのえて施しける供養にあひてはるばると吉備の中山なかなかに 高きめぐみと仰ぐもろ人            未曽志留坊
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 今回は湛甫完成後の多度津の繁栄ぶりを見ていくことにします。テキストは、「多度津町誌267P 北前船の出入りで賑わう港」です。
 北前船航路図

①北前船は春2月ごろ、大坂で諸雑貨・砂糖・清酒などを買い積み出港
②瀬戸内海の港々を巡りながら、塩荷などを買い込みながら下関に集結。
③冬の最後の季節風を利用して、日本海沿岸の諸港に寄港し、荷の積み下ろし(売買)をしながら北海道へ向かう。
④北海道で海産物を買積み、8月上旬ごろに北海道を出発して夏の南東風の季節風をはらんで一気に下関まで帆走
⑤手に入れた商品を、どの港で売るかを状況判断をしながら、荷を神戸・大坂方面へ持ち帰る。
このように北前船は、荷の輸送とともに商いをも兼ねた船でした。

鰊漁粕焚き
鯡(にしん)粕焚き

北前船で特に利益があったのは、北海道の鯡〆粕・昆布でした。
北前船の活躍が活発化したのを受けて、丸亀藩や多度津藩は新しい湛甫築造をおこなったことになります。多度津湛甫の完成は、天保9年(1838)年のことです
19世紀半ばになると、 讃岐三白といわれた砂糖・綿・塩なども北前船の取扱商品になっていきます。
讃岐三白を求めて多度津の港に寄港する舟も増えます。丸亀や多度津の湛甫構築も、金毘羅参拝客の誘致以外に、商品経済の受入口として港湾整備するというねらいが廻船問屋たちにはあったことを押さえておきます。
  多度津の回船問屋かつまや(森家)に残る史料を見ておきましょう。
「清鳳扇」と題する海路図は、まず見開きに「針筋早見略」があって津軽半島から北海道の松前半島への次のような針路が説明されています。
本州北端の津軽半島、小泊港より鯵ケ沢、男鹿半島、飛島、栗島、佐渡沢崎、能登塩津、平(舶)倉島、七ツ島、福浦、隠岐、三保ケ関、 笠浦、 宇竜三崎、 湯津、 浜田、津島

それと日本海を南下する針路が示されています。この海路図は、安政五年(1858)のもので、かつまやの盛徳丸が使っていたものです。また、次のような21反帆の千石船仁政丸の往来手形もあります。
 反帆船仁政丸、沖船頭森徳三郎、水夫十人、右は私方持船で乗組一統は宗旨万端改め済みで相違ありません。津々の関所はつつがなくお通しドさい。
元治元年六月 大阪 綿屋平兵衛
これらの北前船は、松前島(北海道)の海産物を多度津に運び、その見返り品として洒、衣料、雑貨の輸送にあたっていたことが分かります。森家には「松前落御家中家名並列席の記」や「箱館港出船許可書」などが保存されています。ここからは、廻船問屋森家の船が北前船として、幕末に蝦夷との交易を行っていたことが分かります。

多度津廻船船の積み荷と水揚げ場
船の積み荷と水揚げ場、積み入れ場などを記載した資料

石州浜田港(島根県浜田市)回船問屋但馬屋の「諸国御客船帳」には、次のように記されています。
幕末から明治に初期にかけて、記載されている讃岐廻船は307艘。その内、多度津の船は8艘。東讃では三本松や津田浦の船が多く、西讃では栗島や浜村浦の船が多く寄港。浜田での讃岐船の売買積荷商品は、
①揚げ荷(売却商品)は 讃岐特産物の「大白・大蜜・焚込」の砂糖と塩、それに繰綿が若千
②積荷商品(買上商品)は、塩鯖・鯖・平子干鰯・扱芋・鉄・半紙などの石見の特産物


多度津 廻船問屋塩田屋土蔵
「塩田家(煙草屋)」の土蔵
北前船で財を成した廻船問屋としては、多度津七福神のひとつである「塩田家(煙草屋)」が有名です。塩田家には北前船の積み荷を集積するために使用した土蔵が今でも残されています。

魚肥料

江戸末期になると、綿花などの栽培に、農家は大量の魚肥(金肥)を使うようになります。
最初は、瀬戸内海の千鰯が中心でしたが、北前船の出入りで、羽鰊・鯡〆粕などが手に入るようになると、魚肥の需要はさらに高まります。多度津には干鰯問屋が軒を並べ、倉庫が甍を競うようになり、丸亀港をしのぐようになります。こうして多度津の問屋はヒンターランドの多度郡や那珂郡の庄屋や富農と取引を活発に行い繁盛します。

江戸時代後期の多度津の様子について、柚木学「讃岐の廻船と船持ちたち」(多度津文化財16号 1973年)は、次のように記します。
「廻船問屋には、かつまやを始め米尾七右衛門・蛭子辱伊兵衛・竹景平兵衛などがあり、またよろず問屋・千鰯問屋中には、油屋佐右衛門・松尾屋清蔵・島屋係兵衛・煙草屋仙治・柳屋次郎七・茶屋儀兵衛・浜蔵屋四郎兵衛・尾道屋豊蔵・伏見屋一場太郎・同山屋武兵衛・松島躍惣兵衛・大黒膵調兵衛など七十余軒」

 また多度津町誌270Pには、角屋町(今の本通一丁目)、南町、中ノ町筋にあった多度津問屋中のメンバーを、次のように挙げています。
油屋佐右衛門・中屋佐七・松嶋屋惣兵衛・煙草屋仙治・戎屋祖右衛門・嶋屋徳次郎・尾道屋豊蔵・湊屋義之助・木屋槌蔵・舛屋仙古・柴屋文右衛門・神原治郎七(柳屋)・金屋源蔵・工屋榮五郎・阿波屋甚七・海老屋与助・油屋平蔵・松尾屋久兵衛・竹屋清兵衛・北屋辰適蔵・伊予屋五右衛門・古手屋佐平・柳屋常次郎・入江屋喜平・茶屋儀兵衛・伊予屋伴蔵・尾道屋彦太郎・茶屋七右衛門・三井屋弁次郎・中屋民蔵。備前屋伝五郎・菊屋治郎兵衛・嶋屋治助・工屋伝右衛門・伏見有屋吉蔵・松尾屋清蔵・輌屋半蔵・麦屋芳蔵。大津屋善治郎・松崎屋排治・唐津屋長兵衛・井筒屋和平・舛屋久右衛門・木屋万蔵・播磨屋和古。塩飽屋弥平・岡山屋武兵衛・出雲屋長兵衛・伏見屋嘉太郎・播磨屋岩右衛門・中村屋紋蔵。塩飽屋岩吉・松島屋新七・竹嶋屋槌蔵

多度津 本町
多度津の町割り

角屋町(今の本通一丁目)、南町、中ノ町筋に70軒余りの問屋が立ち並ぶようになります。こうして多度津の街並みは、金毘羅街道沿いに南へと伸びていきます。

多度津の街並み
多度津本通りの街並み

これらの多度津の問屋中(仲間)の名前は、当時造られたのモニュメントにも残されています。
 弘化二(1845)年に落成した金刀比羅宮の旭社(当時金堂)の建立寄進帳に、多度津魚方中(926匁)と並んで「金二十一両寄進多度津問屋中」と名を連ねています。慶応二年(1866)藩主主京極高琢寄進の石灯籠一対の裏手石垣を奉納しています。

04多度津七福神


北前船の活躍した時代は、江戸時代後半から明治中期まででした。
明治に入ると西洋型帆船、明治中期以後になると汽船が参入するようになります。しかし、北前船を駆逐したのは鉄道でした。鉄道の全国整備が進むにつれて、北前船は姿を消して行きます。しかし、海運で蓄積した富を、鉄道や水力・銀行設立などの近代化に投資していくことによって、多度津は近代化の先頭に立つのです。
今回は、ここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌267P 北前船の出入りで賑わう港」
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金毘羅参詣名所図会
暁鐘成(あかつきかねなる)の「金毘羅参詣名所図会」弘化4(1847)

以前に幕末の「讃岐国名勝図会」(嘉永7年(1854))の出版までの経緯をみました。今回は、それよりも少し早く刊行された「金毘羅参詣名所図会」を見ていくことにします。  テキストは「谷崎友紀  近世讃岐の名所と金毘羅参詣に関する基礎的な研究 ~『金毘羅参詣名所図会』を題材に~ せとうち観光専門職短期大学紀要」です。

 『金毘羅参詣名所図会』の出版は、弘化4(1847)年です。
作者の暁鐘成は、幕末の大坂の出版界では最も人気のある戯作者で、浮世絵絵師でもあったようです。その出版分野は、啓蒙書、名所図会、洒落本、読本、有職故実、随筆、狂歌など広範囲で、博覧強記ぶりが知られます。彼が40歳という脂ののりきった時に、取り組んだのが「金毘羅参詣名所図会」ということになります。これは、今では香川県立図書館のデジタルライブラリーで見ることが出来ます。その序文には、次のように記します。

今年後の皐月のはじめなりけん、たまもよし狭貫なる象頭山にまうで、みな月の末までかの国わたりにあそび、名くはしき海山けしきあるところどころ、あるは神廟・仏室のたぐひ、あるは宮闕のあと、古戦場など、人のまうでとはんかぎり、玉鉾の道をつくし、夏草のつゆもらさず、その真景を画にうつさせ、かつ古歌・旧記および土人の口碑も正しきは摘みとり、すべてことのさまつばらにかきのせ六巻となし、金毘羅参詣名所図会と号く。(中略)
弘化三とせの長月 植松修理権太夫源雅恭朝臣 雅恭しるす 
  意訳変換しておくと
今年の5月始めに、讃岐の象頭山金毘羅山に詣で、6月末まで讃岐国中を巡った。名所と云われる海山や神廟・仏室の類い、あるいは古戦場などまで、人の行きそうな所のかぎりまで、夏草の梅雨まで、その景色を絵に写させた。また、古歌・旧記や現地の碑文なども正しく読取り、すべてのことを子細に載せて六巻にまとめ、金毘羅参詣名所図会と名付けた。(中略)
弘化三年長月 植松修理権太夫源雅恭朝臣 雅恭しるす 
ここからは、次のようなことが分かります。
①暁鐘成は弘化3(1846)年の閏5 月から6 月末までの2ヶ月間、画家の浦川公佐を連れて讃岐国を訪れて現地調査をおこなったこと。
②名のある海や山などの景勝地、神社仏閣、宮城跡、古戦場を名所として取材した。
③古歌や古典籍類の記述や、土地の人の話・伝承なども正しいものは記載した
 現地調査を行った旧暦6月は、現在の7月にあたり、猛暑に苦しめながらの取材旅行だったようです。現地踏査と絵師の絵をまとめて、出版に漕ぎつけたのが翌年の春になります。その第一巻冒頭に、次のように記します。
①「円亀の津に渡るハ多くハ詣人浪華より船にて下向なすにより先船中より眺望の名所を粗出せり」
②「摂播の海辺ハ先板に詳なれバ、是を省き備前の海浜より著すなり」
意訳変換しておくと
①「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」
②「摂津・播磨の海辺については既に出版されたものに詳しく記されているので、この図会では備前の海辺から著すこととした」
金毘羅参詣名所図会 「浪華川口出帆之図」
「浪華川口出帆之図」(金毘羅参詣名所図会)
こうして、1巻冒頭には「浪華川口出帆之図」、つまり大坂の河口を発した船出図からスタートします。そして、その次は備前国の歌枕である「虫明の迫門」に一気に飛びます。それを目次で見ておきましょう。

金毘羅参詣名所図会 第1巻目次
金毘羅参詣名所図会第1巻目次

目次の「各名勝」を、谷崎友紀氏が地図上に落とした分布地図です。
金毘羅参詣名所図会 第1巻分布地図
赤点が1巻に出てくる名所分布位置です。大坂にひとつぽつんと離れてあるのが先ほど見た「浪華川口出帆之図」になります。そして、次が「虫明の瀬戸」です。そのほとんどが備前沿岸部か島々になります。そして、船からみた湊や島の様子が描かれていて、船上からの移り替わるシークエンスを追体験できるように構成されています。これまでにない試みです。

虫開の瀬戸 金毘羅参詣名所図会第1巻
虫明の瀬戸 金毘羅参詣名所図会
2巻以後の巻ごとの名所色分けは、次の通りです。
金毘羅参詣名所図会 名勝分布地図
2巻 橙色 丸亀 → 金毘羅 → 善通寺
3巻 黄色 善通寺→ 弥谷寺 → 観音寺
4巻 黄緑 仁尾 → 多度津 → 丸亀 → 宇多津
5巻 緑  坂出 → 白峰  → 高松
6巻 青  屋島

2巻の名所は橙色で、丸亀湊から金毘羅大権現を経て善通寺までです。
丸亀港 金毘羅参詣名所図会
丸亀港(金毘羅参詣名所図会)
冒頭は、丸亀湊への着船から始まります。備讃瀬戸上空から俯瞰した構図で、金毘羅船が丸亀港に入港する様子や、その奥にある町と城の様子が描かれています。そのあとは、上陸した参拝客がたどる金毘羅街道沿いの名所が取り上げられています。そして、目的地となる金毘羅大権現と境内の建物が取り上げられます。ここからは以前にお話ししましたので省略します。 
3巻は、分布地図では黄色で、善通寺近くの西行庵から始まります。それから西に向かい弥谷寺、三豊の琴弾八幡宮や観音寺のほかに、伊吹島、大島といった讃岐国西部の島々が取り上げらます。
4巻は黄緑で、讃岐の三豊の仁尾の浦(三豊市)から始まります。

仁尾の港 20111114_170152328
仁尾の浦(金毘羅参詣名所図会)
ここでは、島々のほかに海中にみえる特徴的な奇巌なども取り上げられています。それから海岸沿いに東へ向い、海岸寺、多度津、宇多津などが紹介されます。さらに、飯野山を経て、崇徳天皇の過ごした雲井御所の旧跡(坂出市)までが記載されています。
 5巻が緑で冒頭が、綾川です。
白峯寺や崇徳天皇陵の記載がみられる。さらに東へ向かい、札所である国分寺・根来寺などを経て、鷲田の古城(高松市東ハゼ町)までが取り上げられています。
 最終6巻は青で、石清尾八幡宮から始まり、高松城、屋島が取り上げられます。
岩瀬尾八幡 讃岐国名勝図会
石清尾八幡宮(金毘羅参詣名所図会第6巻)
屋島では、源平合戦にまつわる旧跡が紙面の多くを占めています。この巻は、平家一門が逗留したとされる六萬寺(高松市牟礼町)で終わっています。

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屋島山南麓(金毘羅参詣名所図会)

『金毘羅参詣名所図会』に取り上げられた名所の地理的範囲を、整理しておきます。
①「金毘羅参詣名所図会」という書名ではあるが、金毘羅大権現以外の名所も取り上げている
②瀬戸内海沿岸の名所を中心に記載している
③金毘羅・善通寺以外では、内陸部の名所は取り上げていない
④屋島から東部は取り上げられていない
⑤四国霊場札所がよく取り上げられている
①については、丸亀に上陸した金毘羅参詣客は、金毘羅山だけでなく善通寺・弥谷寺・海岸寺・道隆寺という「七ケ寺参り」を行っていたことを以前にお話ししました。十返舎一九の弥次さん・喜多さんもそうでした。ついでに何でも見てやろうという精神が強かったようです。そのため観音寺や仁尾などの海沿いの名勝地も含めたのかもしれません。
④については、『名所図会』の作成段階では、続編を作るつもりだったようです。冒頭に次のように記しています。

「其境地を妄失して朧気なるハ、図を出さず。且炎暑の苦熱に労れて碑文など写し得ざるあり。則ち雲井の御所の碑、太夫黒の碑、花立碑、宝蔵一覧の記、霊験石の類ひなり。是等ハ再回彼土に渡海し、委く写して拾遺の編に詳かにすべし」

意訳変換しておくと
「各名所を訪ねたが記憶が曖昧なところ、炎暑のために碑文などが写せなかった所がある。それは、雲井の御所の碑、太夫黒の碑、花立碑、宝蔵一覧の記、霊験石などである。これらについては、再度訪問し、写して拾遺編(続編)で詳細にするつもりである」

 しかし、続編が出版されることはありませんでした。
 各名所には、どこが選ばれているのでしょうか、また。その「選考基準」は何なのでしょうか? 谷崎友紀氏は、次のような表を作成しています。
金毘羅参詣名所図会 名所属性
金毘羅参詣名所図会の名所属性別分類表
A 最も多いのは③「堂塔伽藍 196ヶ所」、その次が②「神社仏閣 90ヶ所」で、寺社関係の名所が多い
B その次に多い④「旧跡 90ヶ所」には、源平合戦の古戦場などが含まれる。
 上位3つは③②④が圧倒的に多いことをここでは押さえておきます。『金毘羅参詣名所図会』に取り上げられた名所は、寺社と旧跡が中心だと研究者は判断します。
 
下表は研究者が、構図を近景から超遠景の4 つに分類したうえで、名所の属性別に集計をしたものです。
金毘羅参詣名所図会 名所構図

ここからは次のようなことが分かります。
①伝承と寺社が突出して多いこと
②3番目に多いのが和歌関係、4番目が旧跡
③構図をみてみると、最も図絵の多い伝承は近景・中景の構図で描かれている
④寺社は、すべて遠景で描かれている。
④の寺社を遠景で描くのは、『都名所図会』で秋里籬島が最初に用いた手法と研究者は指摘します。鳥瞰図のように俯瞰的な視点で描くことで、堂塔塔頭を含む寺社を1枚の絵におさめることができるようになりました。
伝承は、旧跡にまつわる過去の様子を想像で描いたものです。
例えば、丸亀の光明庵で法然が井戸を掘ったという伝承や、屋島合戦で那須与一が扇を射る様子がこれに当たります。鐘成自身が取材に訪れて目にした名所の様子ではなく、伝承上の場面を近い視点から描いています。
『金毘羅参詣名所図会』を見ると、海辺の風景が多いのに気づきます。
海上からの風景は1巻、陸上からの風景は 3・4 巻に多く載せられています。大坂から丸亀へ向かう1巻では、実際に船上からみた風景が描かれています。
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下津井 金毘羅参詣名所図会第1巻

また西讃(現在の観音寺市・三豊市)の名所を取り上げた3・4巻では、海岸からみた風景が描かれています。
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鯛網(金毘羅参詣名所図会)
とくに海上からの風景には、海や山といった自然景のほかに、湊の様子、家々が建ち並ぶさま、停泊・航行している船、塩浜で塩をつくっている人々の生活といった人文景・生活景が描かれています。

このような図絵の上部には和歌が添えられています。

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善通寺五岳 筆の山(金毘羅参詣名所図会)

名所として描かれた風景に和歌を付けるのは、『都名所図会』からの伝統のようです。しかし、金毘羅参詣名所図会の風景は、自然景と人文景・生活景が入り混じった風景で、少し色合いが異なるようです。
以上見てきたように描かれた対象は,伝承と寺社が多く,信仰的な要素が強いようです。しかし、「新しい風景の見方の萌芽」が見られると研究者は指摘します。歌枕と旧跡をもとめて旅をしていた旅人たちは,伝統的な風景観から脱却し,自然の景観を美しい風景としてもとめるようになります。
 その萌芽が「下津井ノ浦ノ後山扇峠より南海眺望之図」だと谷崎友紀氏は指摘します。

金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022
「下津井ノ浦ノ後山扇峠より南海眺望之図」(金毘羅参詣名所図会)

 鷲羽山の扇の峠からみたもので、「近代的な風景観の萌芽」とも云えます。ほかにも,海上から湊を望む図絵には,停泊する船や建ち並ぶ家々といった人文景と,塩浜の製塩業や漁業の様子といった生活
景が描かれており,ここでも和歌に表象された風景ではなく,実際の風景が名所として描かれていた。

以上を整理しておくと
①「金毘羅参詣名所図会」は、弘化4(1847)年に、大坂の暁鐘成によって出版された
②彼は、出版のために絵師を伴い約2ヶ月間、讃岐を現地調査した。
③備前からはじまり 丸亀 → 琴平 善通寺 → 観音寺 → 庄内半島 → 多度津 → 丸亀 → 坂出 → 高松 → 屋島の順に、讃岐の名所をセレクトして6巻の絵図とした
④しかし、屋島以東や内陸部は取材対象とはならず、名勝も描かれいない
⑤名勝に選ばれたのは、「神社仏閣・堂塔伽藍・旧跡」が多い。
⑥しかし、美しい自然の景観や、シークエンスを描くなど、伝統的な名所旧跡紹介から抜け出そうとするものもある。

この「金毘羅参詣名所図会」の公刊の数年後に出版されるのが「讃岐国名勝図会」になります。

讃岐国名勝図会表紙

讃岐国名勝図会は、金毘羅参詣名所図会が取り上げられなかった屋島以東の名勝からスタートします。そして、西讃の名所については出版されることはありませんでした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「谷崎友紀  近世讃岐の名所と金毘羅参詣に関する基礎的な研究 ~『金毘羅参詣名所図会』を題材に~ せとうち観光専門職短期大学紀要
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多度津藩の湛甫築港と、その後の経済的な効果については以前にお話ししました。しかし、それ以前の多度津の港については、私にはよく分かっていませんでした。多度津町史を見ていると巻頭絵図に、文政元年(1818)石津亮澄「金毘羅山名勝図会」の多度津港の様子が載せられていました。今回は、この絵図で湛甫築港以前の多度津港を見ていくことにします。テキストは「多度津町史510P  桜川の港510P」です。多度津港については、江戸前・中期に関する史料がほとんどなくてよく分からないようです。
確かな史料は、「金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)に描かれた多度津港です。この絵から読み取れることを挙げておきます。
金毘羅名勝図会
金毘羅名勝図会 多度津町史口絵より

此津も又諸国よりの参詣の舟入津して、丸亀におなしく大都会の地にて、舟よりあかる人昼夜のわかちなし。湊は大権現祭場の旧地にして、磯ちかき所に影向の霊石あり。九月八日の潮川の神蔓、いにしへは此津にて務めしか、後神慮によつて、今の石淵にうつれり。されとも例によつて、此地より汐・藻葉を今もかしこにおくれり。又祭礼頭屋の物類いにしへの風を残して、此津よりつくり出す。其家を工やといふ。

  意訳変換しておくと
 多度津も諸国からの金毘羅舟が出入りして、丸亀と同じように、舟から揚がる人が昼夜を分かたず多く、繁盛している。湊は金毘羅大権現の祭場の旧地にあたり、磯に近い所に影向の霊石がある。九月八日の潮川神事は、古にはこの津で行われていたという。それが現在では金毘羅石淵に移された。しかし、今でもここで採った藻葉を金毘羅に送っている。又、祭礼頭屋で使う物類も古の風を残して、多度津で作られた物が使われている。その家を「工や」と呼ぶ。

①「多度津の港参拝舟入津」として、港の賑わいぶりと紹介する絵図であること
②手前には大型船の帆だけが描かれているが、港には着岸できず沖合停泊であること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)
       多度津港 金毘羅名勝図会の右側拡大部分

③桜川河口西側の堤防が沖に向かって伸ばされ、北西風を遮断する機能を果たしていること
④河口西側堤防の先端附近に高灯籠と港の管理センター的な役所が描かれていること
⑤河口から極楽橋までの桜川西側に小舟が停泊し、雁木(荷揚用階段)がいくつも整備されていること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」(1818)
      多度津港 金毘羅名勝図会の左側拡大部分
⑥桜川東側には接岸・上陸機能はないこと
⑦桜川河口西側の岩壁に沿って、金毘羅街道が南に伸びていること、その街道の背後に町屋が形成
⑧桜川河口東側の突端附近に金毘羅社が鎮座し、その前に白い燈籠が2つ建っている
⑨桜川河口東側は砂州上で、そこに陣屋が造営され、周辺に家臣住居が集まっていること
⑩金毘羅に続く街道の先にポツンと見える鳥居が鶴橋の鳥居?

この絵図からは1818年の多度津港は、桜川河口の金昆羅社から極楽橋にかけての西河岸に雁木が整備され小舟が接岸できる港湾施設であったことが分かります。これは多度津湛甫(新港)以前の絵図ですが、この時点で、すでに金毘羅参詣船や廻船などがかなり寄港していたことがうかがえます。
 私が分からないのは、陣屋ができるのは文政十年(1827)11月のことですが、それ以前に書かれたとするこの絵図に陣屋が書き込まれていることです。今の私には分かりません。
もうひとつ不思議なことは、多度津の街並みと背後の山々が整合しないことです。
例えば、多度津港背後の多度津山(元台)がきちんと描かれていません。そして、金毘羅街道が向かう金毘羅象頭山がどの山か分かりません。鶴橋鳥居のはるか向こうの山とすると、左側の山々が説明できません。多度津から南を望めば、大麻山(象頭山)と五岳が甘南備山として続きます。これがきちんと描かれていなということは、絵師は現地を訪れずことなく他人の描いた下絵に基づいて書いたことが考えられます。地元絵師の下絵に基づいて、有名絵師が「名勝図会」などを出版していたことは以前にお話ししました。

次に工屋長治によって描かれた「多度津湊の図」(天保2年(1831)を見ておきましょう。

「多度津湊の図」(天保2年(1831)
   天保2年工屋長治の多度津絵図

 1818年の金毘羅名勝図会と比較すると、つぎのような変化が見られます。

多度津絵図 桜川河口港
       天保2年 工屋長治の多度津絵図(拡大図)

①桜川河口東側が浚渫され広くなっている
②桜川河口東側の金毘羅社の先に着岸施設が新たに作られ、舟が停泊している。
③極楽橋周辺には、大型船も着岸しているように見える
④桜川河口西側の湾には、一文字堤防など港湾施設はないが、多くの舟が接岸せず停泊している
ここからは、①②のように桜川河口の東側にも接岸施設が新たに設けられ、③極楽橋まで中型船が入港できるように改修工事が行われたことがうかがえます。しかし、④にみられるように、河口外の西側湾内には入港待ちの舟が停泊しています。つまり、オーバーユース状態となって、入港する舟を捌ききれなくなっていたことがうかがえます。
 街並みも桜川河口を中心として、金毘羅街道沿いに北へと延びている様子が描かれています。

丸亀湊 金刀比参拝名所図会
丸亀藩の福島湛甫と新堀湛甫(讃岐国名勝図会)
多度津藩の本家である丸亀藩は、文化3年(1806)に福島湛甫を築き、入港船の増加に対応しました。
しかし、金毘羅舟の大型化が急速に進み、この湛甫では底が浅く、大船の出入りは潮に左右され不便でした。そこで天保3年(1832)に、第3セクター方式で新堀湛甫を開きます。これが金昆羅参詣客の定期月参船のゴールに指定され、参拝客が急増します。多度津藩も、金比羅参拝客の急増を黙って見ているわけにはいきません。そこで動き出したのが多度津の民間業者たちです。

 「藩士宮川道祐(太右衛門)覚書」には、多度津湛甫の着工までの経緯が次のように記されています。
そもそも、多度津の湛甫築造の発端は、天保五年(1834)
に浜問家総代の高見屋平治郎・福山屋平右衛円右の両人から申請された。それを家老河口久右衛門殿が取り次いで、藩主の許可を受けて、幕府のお留守居平井氏より公辺(幕府)御用番中へ願い出たところ、ほどよく許可が下りた。建設許可の御奉書は江戸表より急ぎ飛脚で届いた。ところがそれからが大変だった。このことを御本家様(丸亀藩)へ知らせたところ、大変機嫌がよろしくない。あれこれと難癖を言い立てられて容易には認めてはくれない。 
 家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。

この工事については以前にお話したので、建設過程や工事費捻出については触れませんが小藩にしては不相応の大工事で、本家様(丸亀藩)は、事前相談がなかったと終始、非協力的だったようです。
 
 暁鐘成編(弘化四年刊)「金毘羅参詣名所図会」には、次のように記します。
多度津湛甫 33
多度津湛甫 (金毘羅参詣名所図会)
   此の津は、円亀に続きての繁昌の地なり。原来波塘の構へよく、人船の便利よきが故に湊に泊る船著しく、浜辺には船宿、 旅籠屋建てつづき、或は岸に上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の担売、甘酒、餅菓子など商ふ者往来たゆることなく、其のほか商人、船大工等ありて、平生に賑はし。且つ亦、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。其の都合よきを以て此に船を待たせ参詣する者多し。

  意訳変換しておくと

   多度津港は、丸亀に続ぐ繁昌の地である。この港は波浪への備えがきちんとしており、潮待ち湊としても便利がよいので、湊に入港する船が多い。そのため浜辺には、船宿、 旅籠屋建が建ち並び、岸には上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の屋台、甘酒、餅菓子などを商ふ者の往来が絶えない。その他にも商人や、船大工らもいて町は賑わっている。さらに、九州ばどの西国筋の諸船が金毘羅参詣する時には、この港に着船して善通寺に参拝してから、象頭山・金毘羅大権現に登ることが恒例になっている。そのために、都合のいいこの港に、船を待たせて参詣する者が多い。

ここからは九州などの西国からの金比羅詣での上陸港が多度津であったことが分かります。
それを裏付けるのが安政6年(1859)9月、越後長岡の家老河井継之助の旅日記「塵壷」です。
塵壺

ここには金毘羅参詣で立ち寄った多度津のことが次のように記されています。
多度津は城下にて、且つ船附故、賑やかなり、昼時分故、船宿にて飯を食ひ、指図にて直ちに船に入りし処、夜になりて船を出す、それ迄は諸方の乗合、しきりにば久(博打)をなし、うるさき事なり、さきに云ひし如く、玉島、丸亀、多度津、何れも船附の杵へ様、奇麗なり。

意訳変換しておくと

多度津は城下町であると同時に、船附(港町)であるので賑やかである。昼頃に、船宿で飯を食べて、指図に従って船に入りって休息し、潮待ちする。夜になって、船を出す。それまでの間、乗船客が博打をして、うるさくて眠れない。先述したように。玉島、丸亀、多度津の港は、奇麗に整備されている。

慶応元年(1865)の秋から冬にかけ、京都の蘭医小石中蔵が京都~平戸間を往復しています。その帰途、多度津港に上陸、金毘羅参詣をしたときのことを旅日記「東帰日記」に、次のように記します。

多度津は、京極淡路様御城下なり、御城は平城にて海に臨む、松樹深くして見え難し、御城の東(西の間違いか)に湊あり、波戸にて引廻し、入口三か処あり、わたり二丁廻りあるべし、みな石垣切石にて、誠に見事也、数十の船此内に泊す、凡大坂西国の便船、四国路にかゝる、此湊に入る也、其船客、金毘羅参詣の者、みな此処にかゝる、此舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するよし、外舟にも此例多し。

   意訳変換しておくと
多度津は、京極淡路様の御城下である。お城は平城で、海に面している。松が深く茂り、その内は見えないが、城の東(西の間違い?)に湊はある。防波堤を周りに巡らして、入口が三つある。全町は、2丁(220m)はあろうか。堤防はすべて石垣切石にて、誠に見事である。数十の船がこの港内に停泊している。大坂から西国への便船で、四国路(備讃瀬戸南)を航行するほとんどの舟が多度津港に入港する。その内のほとんどの船客が、金毘羅参詣者である。この舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するという。外舟にもこの例多し。

これらの記録は、19世紀にあって多度津港が多くの船や金昆羅参詣船の寄港地としての繁盛しているようすを伝えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

IMG_0027
天保2年 工屋長治の多度津絵図(多度津町誌表紙裏)

参考文献      
「多度津町史510P  桜川の港510P」

 私の関心のある人物の一人が、満濃池を再築した西嶋八兵衛です。彼は、若くして藤堂藩から生駒藩に家老待遇でレンタル派遣された人物で、讃岐の大恩人ともいえます。しかし、彼の銅像や記念碑は讃岐にはありません。讃岐は西嶋八兵衛の業績を正当に評価しているとは私には思えません。もし、彼が讃岐生まれの人物だったらもう少し、別の評価がされているのではないかと思ったりします。
 最初から話がそれてしまいましたが、西嶋八兵衛を考える際に、彼がどのようにして築城・治水・土木技術を身につけたのかという視点が必要だと思っています。そのために戦国時代から近世への治水技術の変遷を追いかけています。ある意味、「周辺学習」で周りから埋めて本丸に迫ろうとしているのですが、なかなか堀は埋まりません。今回は、戦国大名が治水・築造事業に、どのように関わっていたのかを見ていくことにします。 テキストは畑大介 『家忠日記』にみる戦国期の水害と治水   治水技術の歴史 235p」です。
 まず松平家忠について押さえておきます。

松平家忠とその時代 『家忠日記』と本光寺 - 古書くろわぞね 美術書、図録、写真集、画集の買取販売

松平家忠は深溝松平家の当主で、弘治元年(1555)に西三河の深溝(愛知県幸田町)に生まれています。父伊忠は天正3年(1575)5月の長篠の戦いで、武田方の鳶巣山を攻撃した際に戦死し、その後家忠が20歳で家督を継ぎます。家忠はしばらく深溝に居を構えていましたが、天正18年(1590)8月に家康の関東国替に伴い忍(埼玉県行田市)に移封されます。その後は次の野通りです。
天正20年(1592)上代(千葉県旭市)に移封
文禄3年(1594) 小見川(香取市)に移封
慶長5年(1600) 関ヶ原合戦の前哨戦で伏見城を守り、石田勢の攻撃を受けて戦死
企画展「戦国武将の日記を読む~「松平家忠日記」に見る信長・秀吉・家康~」(2009.11.01~12.18) | 禅文化歴史博物館 | 駒澤大学
家忠日記
日記は家忠個人の私的なもので、自らが行ったことや接したことなどが淡々と書き連ねられています。読んでいて面白いものではありませんが、同時代史料として、信長・秀吉・家康の動向を知る史料として研究者は必携の史料のようです。それを盛本昌広氏は、「家忠の日常生活」という視点で、日記全体を詳細に読み解き『松平家忠日記』を出版しました。
松平家忠日記(森本昌広) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この結果、いろいろなことがこの日記からは、見えてくるようになったようです。研究者は、日記に出てくる出水・破堤・築堤等の記述を一覧表化しています。その表を見ながら松平家忠の治水への取組を見てみましょう。
家忠日記1

日記が書かれ始めるのは家督を継いで2年目の天正5年(1577)10月からです。天正6年2・3月は、家康の命で新城普請や牧野原普請にかり出されています。表は5月から始まります。5月(新暦では6月中旬の梅雨期)に入って雨が続き、その後10日晩より本格的に降り始めます。大雨による被害を避けるために11日は、「祈祷候 南城坊」とあるので、深溝の近くの大草(愛知県幸田町)にある南城坊の修験者に祈祷を依頼しています。南城坊は信頼する修験者だったようです。しかし、13日に「夜も大雨が降り、なから(永良)堤七八間切候」とあるので、祈祷の祈りは届かず、雨は止まず、永良の堤防が7間ほど決壊します。

深溝城~五代続いた深溝松平氏家の城でしたが、江戸時代初期に廃城になり現在は工場用地となっています。 | 歴史探索
松平家忠の深溝陣屋

 研究者が指摘するのは、14日に「ふかうす(深溝)越候」と記されていることです。ここからは、決壊現場を見守り続け、14日に本拠地の深溝にもどっています。この時の家忠は23歳、治水に正面から向き合う覚悟が感じられます。

15日以降も断続的に雨が降きますが、この時期は決壊現場の永良には足を運んでいません。この時期、家忠は家康から、岡崎に出仕を命ぜられていたようです。

 6月に入っても、雨は降り続きます。1日の夜から4日まで雨です。9日に「永良へ築つかせに候」とあるので、永良の堤工事のために出向き、11日まで現場にとどまっています。そして12日には「中嶋堤つかせ候」とあるので、中嶋へ移動して堤防修復を15日まで行って、16日に岡崎に帰っています。ここからは、永良・中嶋の築堤の際には、家忠は現地にとどまって、工事を監督していたことが分かります。
 日記には、被害地域として出てくるのは永良と中嶋です。

松平家忠 領地図
西三河の永良と中嶋 家忠の居城は深溝 菩提寺が本光寺

永良(西尾市)と中嶋(岡崎市)は矢作川とその支流の広田川に囲まれた隣接地で、家忠の領内では有数の穀倉地域だったようです。そこが洪水常襲地域でもあったのです。出水・破堤等の水害の記述は、天正6年から15年にかけて毎年見られます。
 7月になると横須賀砦普請に従事し、それを15日に完成させて、18日に岡崎に帰っています。その後、21日から断続的に雨が降り続き、8月に入っても雨は続きます。8月2日には牧野番のために岡崎から深溝にもどっていましたが、4日に大雨が降り、所々の川から出水したという情報を得ていますが、自ら現地に赴いてはいません。その日は、深溝松平家菩提寺の本光寺を訪れています。翌5日は浜松城に出仕し、6日には掛川の天龍寺まで進み、7日に牧野城番の交代です。7月27日から8月2日にかけて雨が降り続き、2日に永良で再び破堤します。3日に家康は岡崎を訪れ、翌4日に家康は長男信康を大浜(愛知県碧南市)に退去させています。5日に家忠は家康からの命令で弓・鉄砲衆をつれて大浜に近い西尾(愛知県西尾市)に向かい、7日まで北端城番を務めています。この一件は9月15日の信康切腹事件と発展していきます。これは徳川家にとっての一大事で、家忠にとっても永良の破堤に気を配る余裕はなかったはずです。
 9月になると徳川・北条同盟に基づく武田氏との戦闘が開始されます。この時に家忠は牧野番を務めています。

家忠日記2

天正8年(1580)3月16日(新暦5月8日)からの雨が降り続き、20日に「大出水」とあります。その場所については、どことは記されていません。ただ17日に永良で、18日には中嶋の際福寺で、振舞(接待)を受けているので、その周辺だったことはうかがえます。この時には22日に「ふかうす(深溝)かへり候」とあるので、決壊現場にとどまることはなかったようです。

6月27日には「雨こい(雨乞)連歌之一順候」とあるので、雨乞い祈願の連歌が詠まれています。
ここからは、この年は夏には旱魃になっていたことが分かります。雨乞の連歌は翌28日にも詠まれています。その効果があったのか、未刻から雨が降り始めるのですが、大雨となってで、29日には中嶋で再び破堤とあります。家忠は9日後の7月8日に「中嶋に堤つかせに候」とあります。ここからは自ら中嶋に赴き、10日まで築堤作業をして深溝に帰ったことが分かります。
この年は10月後半から、武田方の高天神城を包囲するための作戦が開始されています。家忠は堀普請に従事しています。この工事は年を越して続けられ、天正9年3月22日に籠城していた武田軍が城から斬って出て高天神城は落城します。家忠が深溝に帰ってきたのは3月25日です。その後、領内で日々を過ごし、6月9日に牧野原番に出かけて晦日に番を終えると、そのまま7月1日に相良に向かい、砦の普請に従事して13日に深溝に帰っています。

天正10年は、家忠は次のように1年のうちの8ケ月は深溝を離れて出陣し、遠征に明け暮れています。
①2月17日から4月14日までは、武田氏追討のための甲州への出陣
②6月26日から12月16日までは信長死後の甲斐国領有をめぐる対北条戦のための遠征
この年は、治水工事に出向くゆとりがないほど戦陣に駆り出されています。そのためか深溝近辺に滞在した期間でも、日記には出水・破堤・築堤等の記事はありません。

この時期の家忠を見ると、築堤期間中は現地に出向いて「現場監督」を行うことを原則としています。
①天正7年7月、永良での築堤作業中に岡崎城に出仕して、用務終了後に永良にたちもどっている
②天正9年8月末からの工事でも、一度深清に帰って用務終了後に再度やて来ている
ここからは若い頃の家忠が「川を治める治水(築堤)」に使命感を持って取り組んでいた姿が見えてきます。
天正11年は、正月10日に「中嶋へ越候」とあります。

家忠日記3

翌日11日には
「つつミ(堤)つかせ候。孫左衛門ふる(振)舞候、大つかより永良池にてあミ(網)引候、取候」

ここからは築堤工事中に、中嶋・永良等に滞在して、永良池で網で魚を獲ったり、岡田孫左衛門尉(中嶋)や、大原一平(永良)から振舞(接待)を受けたことが分かります。前年に被害を受けた箇所を、冬の間に修復しているようです。17日に深溝に帰るまで約1週間の「現場監督」を務めています。
ちなみに、この天正11年は5月(新暦6月)から梅雨末の雨が降り続き、大水が出て田が流されています。
そのため6月26日に中嶋に赴き、27・28日と築堤し、30日に帰還しています。治水対策に追われる中で、家康から次のような指示も受けます。
①7月11日に、8月6日に信州川中島へ出陣に従軍すること
②7月20日に、家康の娘が北条氏直に嫁ぐので、19日に浜松に来ること。

19日の日記には「浜松江日かけニ越候、城へ出仕候、御祝言進上物、いた物二たん」とあるので家忠は指示通りに浜松城に出仕し、婚礼祝として板物二反を進上したことが分かります。ところが翌20日は「五〇年巳来大水ニ候」という大雨洪水で、「御祝言も延候」になってしまいます。気になるのは、領地の状態です。さっそく22日に、深溝に帰って被害状況を確認すると、次のような報告が入ります。
「中嶋・永良堤入之口、皆々切候、三川中堤所々きれ候」
「田地一円不残そん(損)し候、家ひしげ(破損)候」
 28日には「中嶋に水見ニ候、のはより船にて越候」とあるので、家忠は野場(のば)から船で中嶋一帯の被害状況を視察しています。実際に自分で被害状況を確認した上で、翌日29日に「浜松浄清被越候、浜松へ水入候御訴訟ニ人を越候」とあるので、使者を立てて水害の被害状況を浜松の家康に訴えて賦役免除をもとめています。その使者が8月3日に戻ってきて、家康から普請役免除が伝えられます。収穫を間近にして、水田が水に浸かったことで、この年の収穫に大打撃があったことがうかがえます。
 天正11年は大きな災害が繰り返された年でした。5月の大出水にはその日の内に、7月の大出水に対しても、浜松の家康のもとに被害状況を知らせて、普請免除を願いでています。これに対して家康は、これを認めています。通常の出水や破堤では、使者を出していないので、この時の被害が大きかったことがうかがえます。


天正12年2月15日の記述を見ると、この季節に中嶋で護岸工事が始まったことが記されています。
家忠日記5

 近世の満濃池の底樋替えも農民達が農閑期の冬に行われるのが通例でした。家忠も前年被害のあった堤防の復旧工事は、春先に行っています。天正12年2月15日に「浜松より知行之内人足すミ(済)て中嶋へ堤つかせ越候」とあります。これについては、次の3つの解釈を研究者は示します。
①先ほど見た「家康から普請役免除」の成果で、賦役免除となった人夫を堤防工事に投入した
②浜松に派遣していた人足を工期終了後に、築堤のために中嶋に投入した
③守護は家忠で、浜松での作業が終わったので家忠が中嶋に赴いた
どちらにしても4日間の工事で作業を終了しています。その翌日の19日に、家忠は永良・中嶋で振舞を受け、20日に深溝に帰ります。
 この年は小牧・長久手の戦いがあった年になります。そのため家忠は、3月8日から11月17日まで出陣しています。冬には治水工事、春からは戦場へというのが、家忠の年間行事サイクルになっていたことがうかがえます。
天正13年の治水工事一覧です
家忠日記6

 この年も永良や中嶋(崇福寺)の築堤工事を、田植え前の春に行っています。中世において春は「勧農」の季節で、新たな農業生産のための灌漑施設等の整備が行われる時期でした。この流れに家忠も合わせて、堤防修復を行うようになったのでしょう。
 また、天正11~13年の春に、家忠が永良や中嶋へ築堤工事に出向くと、必ずと地元の家臣や寺院から振舞(接待)を受けています。振舞は築堤工事に対する返礼の意味合いもあったようです。それに対して、水害直後の緊急対策的な築堤の場合は、振舞を受ける機会は少なかったようです。緊急対策か予防かは、その後の振舞の有無で判断できるようです。
  
また、天正12~15年になると、出水・破堤と築堤が連動しなくなるケースが増えます。
  これは水害直後の緊急対策的な築堤に、家忠自身がほとんどかかわらなくなったことを示すと研究者は考えています。つまり家忠が現地に行かなくても対処できる体制ができあがったようです。それは、家忠が家康の命で長期出張や遠征を繰り返すようになったこと。それに供えて、技術者の人材育成が進んだことが考えられます
これを裏付けるのが、7月5日の「永良に堤つかせ二候」です。
ここには「越」がありません。家忠は現場監督に行っていないようです。この時期から現場監督を任せられる技術者が育ち、自らが現場に出向く必要が減じた時期だととしておきましょう。

天正17年は、1月28日から4月13日までは、駿府普請に出かけています。
家忠日記7

それが終わって帰ってからは雨乞の記述が見られます。6月10・11日に雨乞の連歌を詠み、その効能があったのか、11日の夜は雷とともに大雨が降っています。それから雨は断続的に降ったために、今度は洪水が気になります。家忠は14日には中嶋に出向いて築堤修復を行っています。それ以前に出水や破堤等の記述がないので、予防的なものだったようです。翌15日は永良・中嶋に滞在し、その日のうちに深溝に帰ります。そして、この年の7月17日から11月10日までは、秀吉の京都・方広寺大仏殿建設への木材供出のために、富士山での木材運搬作業のため出張しています。

天正16・17年になると築堤記述はありますが、出水・破堤はみられなくなります。
所領替えで忍に移る前の天正18年中は、築堤・出水・破堤については何も書かれていません。この時期になると家忠は、深溝を離れることが多くなります。そのため領内では水害はおきていたのかもしれませんが、その対策は家臣や地元の人々が中心となって行われていたと研究者は考えています。
天正13年以降は、家忠が現地に出向いても、滞在は1日だけになっています。実際にはその前後で築堤工事が行われたいたはずです。家忠自身が全工事期間中を、現地に張り付く必要がなくなっていたのでしょう。1日であっても現地に出向いて「現場監督」を果たす。それが河川管理が領主の責務と考えていたのかも知れません。同時に、この時期になると予防的築堤工事が多く、緊急性が低くなっていたこともあるのかもしれません。どちらにしても、現場に出向いて現場監督の任を果たし、地元の接待を受ける。これを長年繰り返すことは、地元との信頼関係を深めることにつながります。支配ー被支配関係を円滑にするには有効な方法だったはずです。
天正18年は、秀吉の小田原攻があった年です。
これに家忠も2月2日から8月5日まで従軍しています。この後に、家康は関東への領地替えを命じられます。家忠も7月20日に国替を申し付けられ、8月29日に忍に到着しています。
以上、天正5年から18年までの松平家忠が三河の領地で、どのように治水に向き合っていたかを彼の日記から見てみました。振り返って気づいた点を補足しておきます。

 築堤工事に従事した人夫達は、どこから動員されたのでしょうか。
このことについては日記には、なにも触れていません。おそらく被害にあった流域の農民達が動員されたのでしょう。また工事の経費負担についても、何も書かれていません。さらに出水・破堤によって耕地や用水路も大きな被害を受けていたはずですが、 日記にはそれらの復旧に関係する記述もありません。ここからは領主の任務は「川を治める治水」で、それ以外の復旧は領主の関与しないことであったと研究者は考えています。逆云えば、それぞれの地元で進められる体制が整っていたとも云えます。

以上の家忠の治水に関わる状況変遷をまとめておきます。
①天正6~9年は、出水・破堤すると家忠自身が現地に赴き、原則全工程期間を立ち会っていた。
②この時期は、梅雨や台風の大雨被害に対する緊急対策的な築堤工事が主流であった。
③それが天正11~16年になると、春に予防的築堤工事が行われるようになった。
④そして、家忠が工事に立ち会うのも全工程ではなく、1日だけとなっていった。
こうして見ると天正10・11年頃が、治水体制の転換点であったことになります。スローガン的に云うと「緊急対策的から予防対策への転換」というところでしょうか。これを別の視点で見ると、家忠自身が現場に出向いて陣頭指揮をしなくても、工事は進むようになったことを物語っています。
 若き領主自らが現場に出て、監督するといのは部下たちにとっては励みになります。主君の願いに応えて、治水技術や土木技術を学ぼうとする技術者が家忠の側近の中から育って行ったことが考えられます。それは、満濃池再築を果たした西嶋八兵衛の姿と重なります。彼は若くして、築城・土木技術の天才と言われた藤堂高虎の側近として仕えます。そこで、高虎が天下普請として関わった二条城や大阪城の築城に参加して、知見を広めて云ったことは以前にお話ししました。
 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事が、どの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。西三河の松平家忠の下で行われていた治水工事でも、『民政臣僚』が現れてきたことが考えられます。

天正18年に移った忍領も1万石ですが、出水・破堤のことは、まったく出てきません。

家忠日記8

築堤について、天正19年3月6日条に熊谷筋堤を50間築いたことが添え書きされているだけです。この工事に家忠が出向いた形跡もありません。ここからは、家忠がいなくても治水工事が可能な体制が整っていたことが改めて分かります。
1年半後の天正20年2月に、家忠は上代へと再移封されます。そして、江戸城普請が命じられます。これが一段落すると、文禄3年2月には、京の伏見普請を命じられます。この間も、出水・破堤・築堤等の記述はありません。京の伏見普請が進む中で、家忠は、淀堤・霞原堤・員木嶋堤の普請を命じられています。これは西三河で培っていた治水工事や護岸工事技術を、秀吉の天下普請で披露する機会になったかもしれません。その技術や工法が、各大名によって持ち帰られ各地に拡がった。そのひとつの例が高知県仁淀川河口の上の村遺跡の石積護岸であり、川港であるという仮説は前回にお話ししました。天下普請は、各地で培われた土木技術や工法の「見本市」の役割を果たしていたことを押さえておきます。

家忠は8月8日には淀堤完成後は、員木嶋堤の築堤を命じられたようで、人夫の移動記録が残っています。その後も、霞原堤普請が割り当てられるなど、周辺の護岸工事をたらい回しにされて、辟易した様子が日記からもうかがえます。
宇治川の天下普請では、深溝時代のどんな経験が生かされたのでしょうか。
8月26日条には、員木嶋堤普請では「川せき道具」が用いたことが記されています。これは川の流れをせき止める資材で、これを使って流路変更が行ったことが推測できます。家忠が、さまざまな治水のための道具や知識を持っていたことがうかがえます。
家忠が取り組んだ治水工事を見てきましたが、実は彼の土木工事の中心は城普請でした。
牧野原城・駿府城・江戸城・伏見城などが代表作で、出陣や城番を務めた間も、築城工事を行っていることが多かったようです。どのような工事に携わったかは分かるものだけを挙げてみると
①天正6年8月の牧野原城では堀普請
②天正8年10月の武田方の高天神城攻略の際は堀普請や塀普請
③天正15年の駿府城では、二の曲輪や本城の堀普請や石積工事
ここからは、家忠は合戦で武勇をふるうタイプではなく、城普請等の土木工事に長け、その点を家康から評価されていたことがうかがえます。
 秀吉の小田原城攻めの準備として、天正18年2月17日から21日は富士川に舟橋を架け、忍期の天正19年4月22日にも橋普請をしています。橋の架橋工事もできたのです。
若い頃に取り組んだ深溝での築堤については、どのような工事が行われたかはよく分かりません。用意された道具や資材についても、何も記されていません。

百姓伝記(全2冊)(古島敏雄 校注) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

岩波文庫に『百姓伝記』という記録が収録されていますあります。
これは西三河の矢作川流域の武士か、前代まで武士的生活をした上層農民によって天和年間(1684)に書かれたものとされます。そこには家忠から約百年後の、西三河の治水工法が記されています。その「防水集」には、堤防の細かな仕様のほか、付設された蛇籠や牛枠類など各種の構造物についても記されていいます。その一部を紹介します。
羽村堰 写真集
牛枠(聖牛)
  堤防で水が当たる所には牛(枠)を設置し、まず水の勢いを弱め、堤防満水になり堤防を越水する際には急いで土俵を並べ、芝を積み、手に手にむしろ・こも・切流しの竹木を持ちここを先途と防ぐこと。昔から大洪水と言えど雨が一日降り続くということはないものだ。10m先が見えないくらいの大雨が六時間降り続けば山と海が一つになると言うが、そのような雨が降り続くことは百歳になる故老も知らぬという。であるから、三日から五日間降り続く雨であっても、大洪水と言うほどの雨の発生確率は小さいのである。ただ6時間ほどの洪水を防げば、危機は逃れられるものである。
  水防で家を壊し、屋敷林を切って堤防の危ないところに資材として積み重ね使っても、堤防を守りその年の作物が救えるなら、飢えに苦しむものは出ない。大河川の流域にすむ人々は、常々の心がけが大事である。綱や縄を分相応なくらいに準備しておき、持っておくことが重要である。堤防近くの林や藪は切らずに残しておき、万一の洪水時に土砂を貯める。さもなくば先祖から受け継いだ田畑や屋敷に土砂が押しかかり放棄することになる。働きが悪ければ妻子ともども命を失う。常の準備が悪ければ堤防を守ることができない。水防活動では、食事のしたくをする時間はないから、米でも麦でも、あるいはアワ、ヒエやキビを行動食として持っていくのが常識である。

このような治水心得や工法は、百年前の家忠の時代から引き継がれてきたのかもしれません。『伝記』の技術・心得は『家忠日記』に記された戦国期の治水の取り組みを継承・発展させたものとしておきましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 畑大介 『家忠日記』にみる戦国期の水害と治水   治水技術の歴史 235p


港湾施設が港に現れる時期を、研究者は次のように考えています。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
このように「石積護岸 + 川港」が現れるのは、中世後半になってからとされてきました。
川西遺跡 船着き場
徳島市川西遺跡
前回に見た徳島市川西遺跡は、日本最古の「石積護岸と川港」で、鎌倉時代に石積護岸が現れ、川港施設は室町時代に整備されています。このようにして、中世から戦国時代に川港の施設が各地で整備されていきます。その集大成となるのが、秀吉が伏見城築城とセットで行っわれた宇治川太閤堤の石積護岸と川港でした。これは天下普請だったので、いろいろな大名達が参加し、各地域の治水護岸技術の集大成の場となり、技術交流の機会となります。そこで学んだ技術を各大名達は国元へ持ち帰り、築城や土木・治水工事に活かすというストーリーを研究者は考えているようです。確かに讃岐でも、生駒氏の高松城築城には天下普請で養われた技術や工法が活かされています。また、藤堂高虎の下で天下普請に関わった西嶋八兵衛も、讃岐で治水工事やため池築造を行いますが、これもその流れの中で捕らえることができます。今回は、宇治川太閤堤の影響を受けた「石積護岸 + 川港」の例を高知県の仁淀川河口の遺跡で見ていくことにします。  テキストは「平成 21年度 波介川河口導流事業埋蔵文化財発掘調査 現地説明会資料」です。

上の村遺跡 地図
仁淀川河口の上の村(かみのむら)遺跡
位置は仁淀川河口から2㎞ほど遡った上の村遺跡です。
ここは仁淀川と波介川の合流点でもあり、弥生時代から水運の拠点として繁栄してきたことが発掘調査から明らかにされています。

上の村遺跡 地図2
上の村遺跡の周辺遺跡
上の村遺跡 中世
中世の上の村遺跡復元図
復元イメージを見ると分かるように、新居城の麓には、倉庫的な建物が並んでいたようで、仁淀川と波介川流域の物資の集積センターとしての役割を果たしていたことがうかがえます。ここからは、川港も近くにあると考えられていました。それが平成21年度の発掘調査で出てきました。

上の村遺跡 調査エリア
 
石積護岸が出てきたのは上の村遺跡から南(河口側)で、かつての仁淀川跡(波介川)が流れていたようです。ここには使われなくなった古い堤防があり、地元で「中堤防(1次堤防)」と呼ばれていました。それを、内部調査のため断ち割ると中から石積みの堤防(2次堤防)が出土しました。「ハツリ」加工した石を積み上げ、内部には拳よりやや大きめの川原石を選んで詰めています。上部は断面ドーム状に仕上げられており、このような造りと形のものは全国的にもめずらしいようです。石の積み方等から大正〜昭和期のものと研究者は判断します。今のところ記録等が発見されておらず、工事の経緯は分かりません。
上の村遺跡 護岸比較表
 石積み護岸遺構」と「近代石積み堤防遺構(2次堤防)」の比較表

この堤防遺構の下部を調査していると、地中からさらに石積みが出土しました。担当者はこれを「石積み護岸遺構」と呼んで、堤防遺構は「近代石積み堤防遺構(2次堤防)」と区別しています。石積み護岸遺構は地中から出土していること、近代石積み堤防遺構と上下で交差している部分もあることから、石積み護岸遺構の方が古く、江戸時代初期のものとされます。
 石積み護岸の特徴として、自然石をそのまま積み上げた「野面積み」であることを研究者は指摘します。
近代代石積み堤防のつくり方とは大きな違いがあり、江戸時代初期頃の特徴を示しています。その他、石積みの傾斜や、築石の大きさ(表参照)、内側に礫をほとんど詰めていないことも近代石積み堤防と異なる点です。
上の村遺跡 護岸突堤.2JPG

 石積み護岸遺構のもうひとつの特徴は、平場や突出部分などの付属施設があることです。

仁淀川護岸施設
仁井淀川石積護岸と船着場
平場は護岸遺構の中ほどに造られていて、幅は約7,6 m、長さ44m、その端からのびる突堤状遺構は長さ40mほどで、さらに下流側には「捨石」部分があります。これは、私にはどう見ても川港にしか見えません。

上の村遺跡 仁淀川1
船着き場部分と石積護岸

川港説を裏付けるのは、以下の点です
①長宗我部地検帳で川津(川の湊)関連の地名がみえること
②近年まで「渡し」があったことから、舟着きに関わる機能があったこと
③石造りの台状遺構や、「石出し」と呼ばれる突出部などの付属施設が各所にあること。
宇治川太閤堤築堤 石出し

石積みの堤防が始まる上流端部分は、凹地に堤体内部と同じ川原石を厚く敷き詰めた基礎を造り、その上に堤防本体を築いていまる。基礎構造には「木枠」で堅牢にしている。
⑤2次石堤の外側にも、土を盛り付けて堤防を維持・拡大した様子が断面調査で観察でき、洪水とのたゆまぬ戦いが繰り広げられていたことがうかがえます。
上の村遺跡 護岸突堤

仁淀川河口の集積センターに出現した石積護岸を持つ川港の復元イメージを見ておきましょう。
上の村遺跡 石積護岸

白く輝く石積みは、古墳時代の古墳の積石を思い出させます。どちらにしても、山内藩による統治モニュメントの一種と捉えることもできます。今までにないモニュメントを、宇治川太閤堤の天下普請で学んだ技法で作り上げたことがうかがえます。

護岸遺構で、確実に江戸時代以前といえる石積み護岸は、全国でもごく限られています。
それが前回に見てきた徳島市の川西遺跡や京都宇治川の太閤堤です。宇治の太閤堤には、「石出し」と呼ばれる突出部が使われていました。仁淀川河口のこの石積み護岸遺構の延長は250mにも及び、さらに工区外へ延びています。このように大きな石材を使用する工事は、大工事で大きな労働力と高い技術が必要です。しかし、この遺構について記した文献や、土佐藩の開発事業を指揮した野中兼山との関係を示す史料も見つかっていません。
 しかし、高知県下には当時築かれたとみられる石積み遺構が各所に残っています。また、石積み技術の集大成といえる城郭の石垣をみれば、高知城には野面積みも多くみられます。城郭と治水用の護岸工事の石積みは工法的には類似しており、近接した形で同時進行で行われていた例もあることは以前にお話ししました。どちらにしても、「石出し」などは宇治川太閤堤とよく似ています。天下普請として行われた「太閤堤」などの技術が、このような形で地方に移転拡大していったと研究者は考えています。
 この川港と新居城の勢力との関係を見ておきましょう。
この川港から見える小さな山が、中世の山城である新居城跡です
この山城の裾からは縄文時代から江戸時代の遺構・遺物が連続して出土しています。それを発掘順に上から見ていくことにします。
①江戸時代では井戸跡等が出土。井筒は桶の側部分を重ねたもの
②室町時代の遺構では、箱形の堀形を持った大きな溝跡を確認。新居城の山下部分をコの字状に区画していた可能性があり。集落の中心は川寄り・川下方向にあった?
③平安〜鎌倉時代では、断面 V 字状の溝跡2条や多数の柱穴等を検出。遺物出土量はこの時代が最も多く、集落が一定のピークを迎えていた。遺物は、近畿産の「瓦器」や中国産青磁・白磁が多数出土していて、活発な交易活動を展開。
④奈良〜平安時代では、方形堀形の柱穴や完全な形の土器(杯)3個と赤漆皿、銅銭などが入っていた土坑・掘立柱建物跡4棟。掘立柱建物跡の柱穴は一辺1mほどの方形で、丈夫な建物で倉庫群と想定。遺物は多量の素焼き食器や煮炊き用の土器の他、京都近郊でつくられた「緑釉陶器」も出土。河川に近接した立地や大型の柱穴、出土遺物からみて水運に関連する役所的な施設の一部である可能性あり。
⑤古墳時代は、一辺約4mの溝に囲まれた1間×1間の掘立柱建物跡を確認。通常の方形竪穴住居跡と異なり、周りを溝で囲まれることや炉跡を確認できないことから特殊な性格を持つ建物跡。琴や衣笠などの出土例から祭祀関連の遺構の能性も考えられます。
⑥弥生時代では、溝状土坑を伴う掘立柱建物跡1棟、住居跡1棟と溝状土坑などを確認。瀬戸内地域の影響を強く受けた「凹線文」で装飾された弥生時代中期末の土器も出土。特に注目されるのは、多数の鉄製品がこの時期の諸遺構から出土。
 
 以上からは、上ノ村地区には川津の性格を持った集落が早くからあったことが分かります。またこの遺跡を考える際には、河口に近く、仁淀川、波介川の合流地点である立地から水運に関わる重要な拠点という視点が大切なようです。弥生時代以後、県外産の遺物が多く出土しているので一貫して外部からのモノと人の受入拠点であり、物資の集積センターとして機能してきたことがうかがえます。
最後に、この石積護岸の石材はどこから運ばれてきたのでしょうか?
私は、河口に転がる川原石を使ったと単純に考えていました。しかし、仁淀川河口に行けばすぐに分かりますが、河口には大きな石はありません。流れ下ってくる間に、小石になっています。中世の河川工事では、石材は近くにあれば使うけれども、近くになければ使わないというのが自然だったようです。そのため、石材を用いない治水施設の方が多かったことが予想できます。そんな中で、天下普請の宇治川太閤堤では、現場上流の天ヶ瀬付近の粘板岩が用いられています。前回見た徳島市の阿波の園瀬川護岸施設では、鎌倉時代から室町時代にかけて増築が繰り返されていました。その際には、周辺から結晶片岩は運び込まれています。そしてそれは、時代とともに大型化します。この仁淀川護岸施設の石材も川原石ではなく、周辺から運搬されたもののようです。ここからは、中世から近世にかけては、護岸工事に適した石材を多少離れた地点から運び込むことが行われていたことがたことが分かります。
小さな川原石はいっぱいあるのに、わざわざ石材を遠くから運んだ理由は何なのでしょうか。
この石積護岸に用いられた石材は角張ったものや、ある程度大きく偏平な割石などが数多く使われています。このような形や大きさが河川工事に適していると、当時の技術者は考えていたことがうかがえます。例えば、紀ノ川護岸施設では、運び込まれた片岩は法面に、川原石は裏込めにという使い分けがされています。使用用途によって、使う材料(石)を使い分けていたようです。これも土佐の技術者が天下普請から学んだことかもしれません。同時に、先ほども触れたように、これは山内藩という新勢力出現を庶民に知らしめる政治モニュメントの役割を持たせようとする意図があったと私は考えています。そのためには川原石ではなく、白く輝く葺石が求められたと思うのです。
 以上を研究者は次のようにまとめ、課題を挙げています。
①江戸時代以前に遡る河川護岸遺構は、全国でも非常に僅少。
②「平場」や突堤状(石出し)の部分は、同時期の他例がない。
③水制機能(護岸本体を水流から守る)だけでなく、舟運との関係を考えることが必要。
④構築の目的、「何を護ったか」が課題。
④石積護岸の埋没・廃絶時期は江戸時代中期(18世紀)頃。
⑤廃絶要因は、野中兼山による吾南平野の開発後、仁淀川水系から高知城下町方面への舟運が、土佐市対岸の新ルートに変わったこと?

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上の村遺跡 調査報告書

「平成 21年度 波介川河口導流事業埋蔵文化財発掘調査 現地説明会資料」

 中世の絵巻に出てくる港を見ていると、護岸などの「港湾施設」が何も描かれておらず、砂地の浜に船を乗り上げていた様子がうかがえます。しかし、発掘調査からは石積護岸工事を行った上で、接岸施設を設けた川港も出てきているようです。今回は、宇治川太閤堤を見ていくことにします。テキストは「畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」
 その前に法然上人絵図に描かれた湊を見ておきましょう。
鳥羽の川港.離岸JPG
                  鳥羽の川湊(法然上人絵伝 巻34第2段)
長竿を船頭が着くと、船は岸を離れ流れに乗って遠ざかっていきます。市女笠の女が別れの手を振ります。私が気になるのが、①の凹型です。人の手で堀り込まれたように見えます。この部分に、川船の後尾が接岸されていて、ここから出港していたように思えます。そうだとすれば、これは「中世の港湾施設」ということになります。しかし、石垣などの構造物は何もありません。この絵伝が描かれたのは、法然が亡くなった後、約百年後の14世紀初頭のことです。当時の絵師の鳥羽の川湊とは、こんなイメージであったことがうかがえます。
次は兵庫浦(神戸)のお堂の前の湊です。

高砂
   
海に面したお堂で法然で経机を前に、往生への道を説いています。法然が説法を行うお堂の前は、すぐに浜です。その浜に⑤⑥の漁船が乗り上げていますが、ここにも港湾施設は見当たりません。

兵庫湊
法然上人絵伝 巻34〔第3段」  経の島
 
馬を走らせてやってきた武士が、お堂に駆け込んで行きます。家並みの屋根の向こう側にも、多くの人がお堂を目指している姿が見えます。ここにも何隻かの船が舫われていますが、港湾施設らしきものはありません。砂浜だけです。
兵庫湊2

つぎに続く上の場面を見ると、砂浜が続き、微高地の向こうに船の上部だけが見えます。手前側も同じような光景です。ここからはこの絵に描かれた兵庫湊にも、港湾施設はなく、砂州の微高地を利用して船を係留していたことがうかがえます。手前には檜皮葺きの赤い屋根の堂宇が見えますが、風で屋根の一部が吹き飛ばされています。この堂宇も海の安全を守る海民たちの社なのでしょう。後には、これらの社の別当寺として、寺院が湊近くに姿を見せ社僧達によって湊を管理するようになります。そこから得る利益は莫大なものになっていきます。
私が気になるのが浜辺と船の関係です。ここにも港湾施設的なものは見当たりません。
砂浜の浅瀬に船が乗り上げて停船しているように見えます。拡大して見ると、手前の船には縄や網・重石などが見えるので、海民たちの漁船のようです。右手に見えるのは輸送船のようにも見えます。また、現在の感覚からすると、船着き場周辺には倉庫などの建物が建ち並んでいたのではないかと思うのですが、ここにもそのような施設もなかったようです。
  当時日本で最も栄えていた港の一つ博多港を見てみましょう。
博多湊も砂堆背後の潟湖跡から荷揚場が出てきました。それを研究者は次のように報告しています。

「志賀島や能古島に大船を留め、小舟もしくは中型船で博多津の港と自船とを行き来したものと推測できる。入港する船舶は、御笠川と那珂川が合流して博多湾にそそぐ河道を遡上して入海に入り、砂浜に直接乗り上げて着岸したものであろう。港湾関係の施設は全く検出されておらず、荷揚げの足場としての桟橋を臨時に設ける程度で事足りたのではなかろうか」

ここからは博多港ですら砂堆の背後の潟湖の静かな浜が荷揚場として使われていたようです。そして「砂浜に直接乗り上げて着岸」し、「港湾施設は何もなく、荷揚げ足場として桟橋を臨時に設けるだけ」だというのです。日本一の港の港湾施設がこのレベルだったようです。12世紀の港と港町(集落)とは一体化していなかったことを押さえておきます。河口にぽつんと船着き場があり、そこには住宅や倉庫はないとかんがえているようです。ある歴史家は「中世の港はすこぶる索漠としたものだった」と云っています。ここでは港湾施設が港に現れる時期を、押さえておきます。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
ここからが今日の本題です。発掘調査から出てきている①②の遺構を見ていくことにします。
宇治川太閤堤築堤
宇治川太閤堤
 秀吉によって作られた宇治川太閤堤です。
 文禄元年(1592)に、豊臣秀吉は伏見城の築城に着手します。この城は、当初は隠居所と考えられていたので大規模なものではなかったようです。それが文禄3年(1594)に、淀城を廃して、一部の建物を伏見に移築して本格的城郭として体裁を整えていきます。城下には宇治川の水を引き入れた船入も造成され、城下町が整備されています。そして8月には伏見城は完成し、秀吉は伏見に移っています。築堤工事は伏見築城と並行して行われていて、10月には前田利家が宇治川の付け替え工事を命じられているほか、織田秀信は伏見・小倉間の新堤を築堤し、宇治橋を破却しています。

宇治川太閤堤築堤2
宇治川太閤堤の石積護岸

 宇治川太閤堤築堤の目的は、次の2点です
①宇治川の治水ではなく、伏見港の機能を高めるためで、朝鮮半島への派兵を行うための水運の拠点を築くこと
②大和街道を伏見城下に移し、大坂と伏見を結ぶ京街道が整備し、伏見を水陸交通の要衝として機能させること
発掘調査地点は、宇治橋下流側の宇治川右岸300mにわたって続いています。
宇治川堤防1
宇治川太閤堤
護岸遺構からは川側に向けて「石出し」が4ケ所、「杭出し」が2ケ所突き出ています。
宇治川太閤堤築堤4
宇治川太閤堤築堤 石積み護岸
石積み護岸は、馬踏(天端)幅2m、敷(護岸底辺)幅が約5m、高さは2、2m。石積み護岸は上半の石張りと下半の石積みの2段構造です。簡単な整地後、板状の割石を直接張り付けただけです。

宇治川太閤堤築堤3

杭止め護岸は、杭などの木材を用いて垂直に岸を造る工法です。
杭止め護岸は上図3-2のとおり、かせ木・横木(頭押え)支え柱で構成され、裏側に拳から頭くらいの石が詰め込まれています。

 宇治川太閤堤築堤5
宇治川太閤堤は、石出で水流を弱めて護岸の侵食を防ぐ目的がありました。その下流の杭出しは、杭が何本も建ち並び、船着き場として使われていたようです。つまり、この工事は護岸工事であると同時に、船着き場設置工事でもあったようです。

宇治川太閤堤築堤 杭だし(船着場)
杭出し(船着場)復元
  中世から近世にかけての石材を用いた河川護岸施設の多くは、船着き場や物資の集積流通拠点だったと研究者は考えています。そのために巨額の資金と労働力が投下されたようです。
  宇治川太閤堤築堤 石出し

 また宇治川太閤堤の石出しの石垣には、城郭の石垣技術が援用されていることを研究者は指摘します。
城郭と治水・利水施設は目的は違いますが、技術は相互に援用されたようです。例えば、徳川家康の家臣で深溝(愛知県幸田町)を本拠とした松平家忠は、数多くの城普請を手掛けたことが『家忠日記』から分かります。その技術は、領地である永良や中島での築堤工事によって培われたようです。
 満濃池再築を果たした西嶋八兵衛が、若い頃は藩主藤堂高虎の下で二条城や大阪城の天下普請で土木工事技術を身につけていたのも、このような文脈の中で理解すべきようです。それが讃岐での治水工事やため池築造に活かされます。ここからは、築城と築堤が密に関係していたことを押さえておきます。

 宇治川太閤堤跡は、秀吉の伏見築城の付帯工事として着工された河川改修工事です。
そのため秀吉の命により配下の大名達が分担する「天下普請」でした。この工事の重要性は
①文禄3年という時期が分かること
②大名クラスの治水についての思想や技術が込められていること
つまり、時期と築造階層が特定できる点で、非常に重要な遺跡だと研究者は考えています。例えば、甲斐の信玄堤や、加藤清正による肥後での河川工事などの実態についてはよく分かっていません。具体的にどのような工事が行われたのかは、はっきりせず「俗説」が一人歩きしている状態だと研究者は指摘します。そのなかでこの宇治川太閤堤は、用いられた資材や施行内容までもが具体的に分かります。そういう意味でも、中世以来の治水技術の到達点であると同時に、近世の治水技術の出発点の指標となる遺跡です。同時に、川湊という視点からは、石積護岸化と川湊の関係が見えてくる遺跡とも云えます。
 次回は、宇治川太閤堤に作られた川湊の原点とも云える徳島市の川西遺跡の石積護岸を見ていくことにします。
川西遺跡3

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」
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前回までに飛騨では毛坊主によって道場が開基され、それが江戸時代に寺院化していくプロセスを見てきました。今回は、道場で毛坊主が行っていた教化法を見ていくことにします。テキストは、「千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P」

 毎月の定例には、親鸞(28日)と本願寺前門主の命日に、村民はみな道場に集まって法会を行います。これが「お講」といわれ、十時ごろ道場に集まり、仏前で「正信偈(しょうしんげ)」「御文章」・説教の後、昼食の「お斎」を食べます。御飯は各自の持参ですが、お汁は「お講元」と呼ばれる当番(二名)が道場でつくります。

15.お正信偈を読む(2):拝読の方法(1) | 壽福寺だより
正信偈
正月元旦には、朝8時に村民全員が道場に集まり「おとそ」を飲みます。2月と9月の春秋の彼岸・お盆・11月の報恩講は、それぞれお勤めがあります。飛騨独特の行事としては夏期8月の別院回檀があります。
嘉念坊善俊 | がんでんの館
嘉念坊善俊
 飛騨の真宗は嘉念坊善俊によって開かれたとされます。
そのため道場80か寺は高山別院(照蓮寺)から輪番が供を連れ、毎年夏に嘉念坊の絵像を持つて、 一晩泊りで廻るしきたりとなっていたようです。
真宗大谷派高山別院照蓮寺(ひだご坊) - 高山市/岐阜県 | Omairi(おまいり)
高山別院(照蓮寺)

清見村の道場へは、8月の中旬から下旬にかけて、廻ってきます。お勤めは前夜と初夜の2回あって、嘉念坊の縁起を読んでいたようです。のちには教如・宣如等の本願寺門主の影像を開帳し、その消息を読むようになります。回檀には、村民が全員参加し、「御回檀餅」を供え、法会のあとには回檀踊りを踊ったと言います。この回檀の時に、本山や別院の経常費を村民から集めていました。
このような回檀は、中国地方の明光を開祖とする寺院でも行われているようです。
中国地方の備後・安芸・出雲・石見等には、相模国野比最宝寺の明光を開教の祖と仰ぐ寺が多く、これらの寺々へは明光の影像を持ち、回檀が行われていました。このように江戸時代には、本寺あるいは中本寺が配下の末寺を廻る、いわゆる回檀が各地で行われていたようです。しかし、近代になると、おこなわれなくなり、飛騨・美濃・越前・越中に残るだけになっています。
 毛坊主が行う宗教行事は、まず説教があります。
この説教のテキスト類が現在も各寺には残されています。これは浄上真宗の教義の解説が基本で、聞いていて面白いものではありません。こればかりだと、門徒は退屈し眠気を催すので、笑いをさそうような話を織りまぜながら仏法を説いたようです。長くなりますが、面白いのでその一例を見ておきましょう。
両度貴札辱拝見畢ル前文ハ皆略ス
当年ハ世界中飢饉ニテ、酒高直、肴高直。米・稗・豆。蕎麦・麦・塩・茶茂高直シ。其外蚕飼万作テ蛹高直、女沢山テ尻高直シ。万之物哉皆高直シ。下直イ物ハ一ツモ無シ。此節世上一同二、下直物者卜評判スルハ、鷹疾トヤラ云フ物チヤゲナ。
貴寺茂悴ヒ坊参故、其下直疾病於求メテ喜フ様二相聞へ申候。夏ノ瘡蓋ハ下直卜云フテモ甚タテケナイ物チヤゲナニ、早ヤイナシテ御仕マイナサレマセフ。
先ツ第一癌卜云フ物ニハ、甚毒立ノ有ル物チヤト云フ事チヤホトニ、早速二西芳佐トヤラ云フ医者ヲ頼テ来テ見テ貰フガヨロシウゴザロフ。西芳サンハ毒立ノ訳ケヲヨク知テゴザルホトニ、右西芳サン常ノ御咄二、癌ノ毒立テニハ、先ツ第一嫁二掛ル事ハ百ニナラヌ、其外ニハ酒ドク肴ドク念仏ドク寺参ドク餅ドク饂飩ドク后家ドク靭ドク、薬ナ物ハ一向スクナイトァル。其内貴寺ノ病ヒニヨイモノハ、人ノ嫁ヲ盗ム事、若ヒ娘ノ尻ヲツムコトガ第一ノ妙薬チヤト、日外御咄ヲ聞タコトカアル。貴寺モ大儀モ夜風ヲヒカヌャゥニ綿入ヲキテ夜釘テモナサレマセフoサウサイスルナレハ外ノ三角モ五卜鰻頭ノャゥニ成夕処モミナ/ヽナヲルナリ。
一 ニシンヲ送レト申サレ候二付、調ヘテイコシマスヶレトモ、ニシント申ス肴ハ、癌ニハ甚ダ毒クチャト云フ事ナレトモ、男根二大妙薬チヤト云コトュヘニ、少シイコシマス、此ニシンフ土鍋ニテョク煮、洒人毒ナレトモ、人ノ見ヌ処ニテヒャ酒テ二三盃呑テ臥テ、嫁二男根ノァタリフモマセルト、何ヤラ味ナ心地ガスルゲナト、昔シ咄シニアルコトチャホトニ、ヨクノ、御勘考ノ上、色々二味ヲツヶテ御療治ナサルベク候。
一 ヲレモ見マイニ来タケレト、嫁ノソバガハナレラレヌ故、先ユルンテ下ダサレ坊サマ。昼寝ノタワムレ御免/ヽ/ヽ/ヽ。貴寺寿命ノ妙薬チヤホトニ、御堂ノ脇へ持テ行キ御開クタサレカシク。
                                                                            前根物姪謹選
天保二年六月状
癌疾坊授与
  意訳変換しておくと
両度貴札辱拝見畢ル前文ハ皆略ス
今年は世界中が飢饉で、酒は高値、肴も高値。米・稗・豆・蕎麦・麦・塩・茶など、なにもかも高値。蚕飼も豊作で蛹が高値、女が沢山いて尻も高値。万物みな高値。値段が下がったものは一つもない。高値一辺倒の世情で、下値なのは、癌疾とやら云う物だけだ。
貴寺も坊参なので、その下値の疾病の流行を歓んでいるように聞いていますぞ。夏の癌は下値といっても、厄介なものなので早く治療されてしまいなされ。まず第一に癌と云うものには、毒が出るといわれますので、早速に西芳佐という医者を頼って、見てもらうのがよかろう。西芳さんは毒立(治療)をよくしっている。西芳さんがいつもしている話には、癌の毒立の第一は嫁に掛ル事は百日しない。その他に、酒ドク肴ドク念仏ドク寺参ドク餅ドク饂飩ドク后家ドク靭ドク、とあり薬になるものは少ないとある。そのうちでこの寺の病ひに効くのは、人の嫁を盗む事、若い娘の尻をつかむが第一の妙薬という、話を聞いたことがある。この寺の大儀も夜風をひかぬように綿入を着て夜釘でもなされませ。そうすれば外の三角も五卜鰻頭のようになったところも、たちどころに治癒します。
一 ニシンを送れというので、準備して贈りますが、ニシンという肴は、癌にははなはだ毒です。
男根に大妙薬というので、少し贈ります。このニシンを土鍋でよく煮て、洒大毒にして、人の見えないところで酒の二三盃も呑んで臥せ、嫁に男根のあたりを揉ませると、何やら味な心地がしてきます。昔の咄に出てくるように、よく考えた上で、色々に味をつけて療治したらよかろう。
一 私も見舞いにいきたいけれども、嫁の傍が離れられないので、許してくだされ坊さま。昼寝の御免 ごめん。この寺の寿命の妙薬なので、御堂の脇へ持ていってご開帳くだされ。
                                                                            前根物姪謹選
天保二年六月状
癌疾坊授与
なんとも下世話で猥雑な話ですが、毛坊主はこのような話を説教の合間にはさみながら、教化につとめたようです。教化の重点は、もちろん説教ですが、常に門徒の中にあって、共に耕し、供に楽しむという、生活を共にしながら仏法に生かそうとする毛坊主の姿が見えて来ます。門徒は、そのような毛坊主に共感を覚えて心のよりどころとしたのかもしれません。

しかし、村民が浄土真宗の教えをそのままにうけいれることは、なかなかできなかったようです。  
例えば浄土真宗では親鸞以来、呪術を強く否定してきました。これに対して、民衆の中には呪力への断ち難い思いがありました。それは、たえず生活にしのびより頭をもたげてきます。とくに天災地変や悪疫に打ちひしがれた弱々しい人心のすき間から、頭をもたげてきます。そのような村民の心情と、毛坊主の対応を史料で見ておきましょう。
差上申血誓之事
一 私共村方困窮打続、其上近年病身者数多出来、難渋仕候処、当夏山伏参申聞候ハ、当村二稲荷之社を建立して年々祭礼致シ皆々信仰仕候得者、病身者茂無病二相成、自然与村方富貴繁栄二相成可申与相勧メ候ニ付、不図相迷ひ候而、御手次様江茂相密シ、勿論本村方江茂深相包、稲荷のほこら新規二建立を相企、屋鋪ひき迄仕候処、被為及御間被仰聞候者、新地之寺社建立之義堅停止たるへし、惣而ほこら・念仏題目之石塔。供養塚。庚中塚・石地蔵之類、田畑・野林・道路之端二新規二一切取建間敷候。仏事・神事・祭礼等、軽執行之、新規之祭礼不可取立事。
右者公儀御法度之趣、前々より被仰渡候。東照神君様御取立之御厚恩不浅義二御座候得者、別而公儀御条目・御支配所御政法呼ク相守、禁奢家業を大切二相勤、微財之門徒迄御年貢所当不相怠様二心掛、現世之成行ハ前生の業因二一任して、後生之一大事者阿弥陀如来之本願、念仏之一行を正信して浄土往生を願ひ候外、別二諸仏・菩薩二追従不申、神明・仏陀江現世之寿福を不祈、依之札守等迄一切不致安置宗門故、万一心得違ひ候而神社等を軽蔑致シ候輩茂可有之哉と被為思召、 一切之諸神・諸仏を軽蔑不致、諸宗諸法を仮初二茂不可誹謗、第一王法を本与し、公儀之御掟を守、仁義五常を先与し、世間通途之義二随ひ、其外万御支配所江柳疎略之義無之様、常々教諭二およひ候様、兼而御本山る被仰渡候義二而、月毎之小寄会合二、右等之趣教誡致シ、御国政等堅相守、仏法・世法共無難二領受致シ、現当二世之要義心得違不申様、纏々致教諭候。其甲斐もなくと御利害被仰聞、 一言之申訳無御座奉恐人候。己後者小寄会合無憮怠相勤、御教誠被成下候通、急度心底相改可申候。万一心得違仕違犯之儀御座候ハヽ、仏祖之蒙冥罰未来者可堕獄者也。働而血誓之一札如件。
享和三癸亥年          楢谷村之内
七月十六日       麦島
四郎三郎(血判並二印)
久助(血判並二印)
権四郎(血判並二印)
長四郎(血判並二印)
忠助(血判並二印)
源四郎(血判並二印)
古十郎(血判並二印)

右之通心得違之意趣、今般御教誠之旨御請奉畏血誓仕処少茂違変無御座候。依之村役人奥印仕差上申候。以上。

楢谷村五人組 惣四郎(印)
孫重郎(印)
次郎兵衛(印)
四郎兵衛(印)
彦惣(印)

御手次
檜谷寺様
     意訳変換しておくと
一 私共の村は困窮が打ち続き、その上近年は病身者が数多く出て、難渋していました。そんな所へ、今年の夏に山伏が参りました。山伏は次のように勧めました。稲荷之社を建立して、年々祭礼を行えば、病身者はいなくなり、自然と村も富貴繁栄すると・・。その言葉に迷わされて、御手次様や本村にも相談せず、稲荷のほこらを新規に建立することにしました。祠が出来上がる段になって、毛坊主と名主から新地の寺社建立は禁止されていること、ほこら・念仏題目之石塔・供養塚・庚中塚・石地蔵之類などを、田畑・野林・道路の端に新規に建立することはできないこと。仏事・神事・祭礼などについても、新規の祭礼を執り行うこともできないことを伝えられました。
 これらは公儀の御法度で、以前から聞いていました。東照神君様の御取立の御厚恩は深いものがあり、公儀御条目・御支配所御政法を遵守するのは当然のことです。家業を大切に相勤め、微財の門徒に至るまで年貢担当を怠らず、現世の成行は前生の業因だとして、後生のことは阿弥陀如来の本願にまかせ、念仏一行を正信して浄土往生を願う。それ以外には、その他の諸仏・菩薩には目もくれずに、神明・仏陀へ現世寿福を祈らずに、宗門以外の札守なども一切安置しないこと。心得違から神社等を軽蔑する輩もいますが、一切の諸神・諸仏を軽蔑せず、諸宗諸法をかりそめにも誹謗せず、第一王法を遵守し、公儀の御掟を守、仁義五常を先与し、世間一般の義に従い、その他の支配所へ疎略のないように、常々教諭されてきました。御本山の「お講」である月毎の寄会では、以上の趣旨を承り、国政を堅く守り、仏法・世法ともに領受し、心得違のないようにと教諭を受けてきました。その甲斐もなくとこのようなことをしでかし、一言の申訳もございません。以後は、小寄や会合を、きちんと勤め、心底より改めます。万一心得違を犯すような場合には、仏祖の冥罰が末代まで及び堕獄者となることも覚悟します。働而血誓之一札如件。
以下略

この享和3年(1903)の証文からは、次のようなことが分かります。
①楢谷村檎谷地方では悪病が流行した時に、山伏がやって来て悪霊退散のために稲荷社建立を勧めたこと
②それを受けて真宗門徒達が麦島集落にひそかに稲荷社建立に動き始めたこと
③これを坊主と名主がききつけ、法令の上からも新規の寺社の建立は禁止されていることを申し聞かせたこと
④浄上真宗の教義からして祈蒔に類する行為は許されないこと
⑤この警告を受けて、血誓証文が作成されたこと。
  ここからは、19世紀になっても廻国の山伏の活動が行われていたことが分かります。門徒達にしてみれば、疫病が発生して多くの人が亡くなっているのに、真宗寺院は何もしてくれないという気持ちがあったのでしょう。だから、稲荷神社を建立して無病息災を祈ろうとしたのでしょう。これは、当時の都市部で展開されていた「流行神」信仰とおなじです。それぞれの神や仏は部門別に「分業体制」になっているので、専門の神仏を拝まないと効力はないと考えらるようになっていました。まさに「多神教」で、なんでも信仰の対象になっていたことは以前にお話ししました。
 しかし、別の視点から見ると村々での山伏の活動は、真宗寺院によって見張られていたことが分かります。村には稲荷神社を建立することはできなかったのです。確かに讃岐の農村部でも稲荷神社などが建立されている例は余り見ません。あるとすれば町屋の神社の中に摂社として建立されています。江戸時代には、新たな寺社の建立は農村部では厳しく規制されていたことを押さえておきます。
 これを讃岐の場合で見てみると、旱魃の際に真言宗は空海依頼の善女龍王への祈祷で雨乞いを行っています。
藩から雨乞いを公式に命じられていたのは、高松藩が白峯寺、丸亀藩が善通寺、多度津藩が弥谷寺だったことは以前にお話ししました。そんな中で、讃岐の真宗興正派の寺院が雨乞いに関わったという気配がありません。真宗寺院は「呪術」を否定していますから、雨乞い祈祷はできません。そこで、村人達が頼ったのが山伏ということになります。庄屋たちが村で雨乞い祈祷を行う際のリーダーは山伏が務めていることは以前にお話ししました。ちなみに、雨乞い踊りとされている「滝宮念仏踊り」は、「雨乞い成就のお礼踊り」であって、雨乞い踊りではないことは以前にお話ししました。佐文の綾子踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになるのは、近代になってからのことです。
  どちらにしても讃岐では、真宗寺院と山伏の間では「棲み分け」ができていたことをここでは押さえておきます。

江戸時代になり寺請制度が制度化されると、飛騨の毛坊道場も寺院化し、毛坊主が職業僧化していきます。
そうすると毛坊主の持っていた利点が、マイナスに働く場合も出てきたようです。そんな状況を伝える文書を見ておきましょう。
乍恐書付を以奉願上候
一私共組合之義者、古来より百姓株所持仕候二付、私共五ケ寺ハ村方頭役勤末候儀二御座候。然ル処右頭役相勤候得者、村内二故障有之候節、右役前二而利害中間事済仕候後、同行与不和二相成、難渋之筋も出来仕候而、甚以迷惑仕候間、御慈悲之上、向後村頭役相除候様被仰付被下候様、乍恐連印を以奉願上候。以上。

文化三寅年正月
小島郷
夏厩村 蓮徳寺
二本木村 西方寺
池本村  西正寺(印)
大谷村  西光寺(印)
高山御坊 御輪番所
意訳変換しておくと
私どもは、古来より百姓株を持っています。そのため村方頭役を勤めてまいりました。とろが頭役を勤める者は、村内で争論があった場合に、その役割として利害関係を明らかにして裁きを下さなければならない立場になります。その結果、不利な裁きを受けたと思われ、同行として不和になり、その後の運営に難渋し、迷惑を受けることが多くなりました。つきましたは御慈悲でもって、今後は村頭役を免除して頂けるように仰せつけ下さい。乍恐連印を以奉願上候。以上。

この文書は、小鳥郷の蓮徳・弘誓・西方・西正・西光の五か寺が連名で高山御坊に宛てた願書です。これら五か寺は古来から農業を営んでいたので百姓株を持ち、しかも名主など村の頭役を勤めていました。頭役を勤めていると自然と村民の紛争などの調停や裁断をしなければならない立場です。裁断者は、勝ち負けを決することになります。そうすると、敗れた村民は、裁定した毛坊主に反感をいだくようになります。これでは村民=門徒の教化がやりにくくなります。
 蓮如が村の長百姓をまず第一に門徒に引きいれようとしことは以前にお話ししました。
この時点では、農民が荘園領主の支配から脱れて地縁的自治体制(惣村)を築き上げようと、地域全住民が一丸となって、とりくんでいた時期でした。そのような社会運動の中で、村の長百姓は全住民の願いを束ね、彼等を代表する立場にありました。ところが近世封建制が確立すると、長百姓は村役人として権力支配の末端に位置づけられます。つまり、毛坊主が「権力の手先」という眼で見られるようになります。以前のように、「同志」や「先達」として見るよりも「手先」「管理者」としてみる住民を増えたようです。村の指導者と僧侶を兼ねる毛坊主は、微妙な立場に置かれることになっていたことが分かります。真宗寺院の性格が蓮如の時代からは、変化しています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P」
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 前回は、次のような事を押さえました。
①飛騨の真宗教団の布教は庄屋や長百姓を中心に行われたこと
②そのため寺院があったわけではなく、惣道場といって有力者の家に、名号を床の間に掲げた部屋に村人たちが集まり、長百姓を導師として正信偈や法話をしたこと
③そして惣村の自治活動と結びつき、信仰的なつながりや拠点として真宗の教えが広まったこと
ところが、江戸時代になると本末制度が調えられ、本山から木仏・寺号が下付され、伝絵や三具足なども整備され寺院化していきます。これらには本山に対して高額の納付金を納める必要があったことは以前にお話ししました。今回は、飛騨高山市の旧清見村の真宗寺院の道場から寺院化への成長を、史料で追いかけてみます。

飛騨清見村の真宗寺院

テキストは、「千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P」です
了因寺のカヤ

最初に見ていくのは飛騨藤瀬の了因寺です。
この寺には蓮如筆の六字名号一幅と、蓮如筆とみられる十字名号一幅、文明18年(1486)蓮如が河上庄福寄の法明に授与した絵像本尊(方便法身尊形)が残されています。親鸞は名号を本尊としていましたが、その後、阿弥陀如来の御絵像が本尊に代わります。方便法身尊形は御絵像のことで「だいほんさま」とよばれます。
蓮如の絵伝
   
方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)
            大谷本願寺釈蓮如(花押)
文明十八年柄二月廿八日
     飛騨国白河善俊門徒
同国大野郡河上庄福
願主釈法明

この寺の寺伝を年表化すると、次のように寺院化が進みます。
文明8年(1476)河内国出口にいた蓮如から六字名号を賜り、
同10(1478)年 福寄に道場を開き
同18(1488)年 山科本願寺において蓮如から絵像と十字名号の授与をうけた。当初は孫兵衛道場と称していた
元和9年(1623) 福寄から藤瀬の助次郎宅に移り
寛永元年(1614) 独立の道場を営んだ
万治2年(1659) 了因寺の寺号免許、翌年蓮如影像、
延宝5年(1677) 木仏と太子・七高祖影像
 同9年(1681)親鸞影像下付
貞享2年(1685) 親鸞絵伝下付
580
 了徳寺
白川街道沿の牧ケ洞に了徳寺の基を開いたのは河上庄牧村の栗原衛門という豪族と伝えられます。
栗原衛門は長滝寺の荘官で牧村栗原神社の社人をつとめていました。文安5年(1448)に照蓮寺明誓のすすめによって本願寺存如に拝謁して、六字名号と了専の法名をもらって帰郷して、栗原道場を創始したと伝えられます。この頃、この地に栗原衛門という人物がいたことは、文安六年の土地売券二通に、その名前が売主として次のように出てきます。
売渡永代之田の事
合弐反者 つほハムカイ垣内
とんしはさと一反
佃をさ一反 是ハならひ也
右件之田地ハ依有要用永代に代陸貫文二うり渡中処実正也。但、 一そくしんるいにても急いらんわつらい申ましく候。
乃為後日状如件
文安六年五月二十五日
うリ(売)主河上荘まきの栗原衛門(略押)
  最後の売主名に「河上荘まきの(牧村の)栗原衛門」とあります。ここからは牧の洞に粟原道場を開いたのが、河上庄牧村の栗原衛門であることが裏付けられます。
さらに、永正11年(1514)12月には本願寺実如から絵像本尊を下付されています。その時の、願主は浄専とありますが当寺の二代目になるようです。
栗原道場から了徳寺への寺院化を年表化すると、次のようになります
天和3年(1682)に木仏・寺号下付
貞享四年(1687)親鸞影像
元禄14年(1701)太子・七高祖影像下付
享保15年(1720) 梵鐘設置を備え、寺院化への道をたどった。

夏厩の蓮徳寺を見ておきましょう。           81P
この寺は、名主次郎兵衛が長享年間に蓮如に帰依して、道場を開いたのが始まりと伝えられます。ここにも長享3年(1489)に蓮如から善性宛に授与された絵像本尊があります。
方便法身尊像
大谷本願寺釈蓮如(花押)
長享三二月十五日
飛騨国白川善俊門徒
同国大野郡徳長夏舞
願主釈善性

また蓮徳寺には15世紀の土地関係文書が数多く残されています。その中一番古い応永22年の土地譲状には、次のように記されています。
(前欠)
合一所者
右件田地ハ、宗性重代処也。子々孫々にいたるまて、たのいろいあるましく候。おい(甥)のさこん(左近)の太郎に永代ゆつり(譲)わたす処実正也。但シいつちよりさまたけを申事候とも、すゑまつ代まても、さまたけあるましく候。
乃為後日状如件。
応永廿二年十月廿二日
おとりの住人夏前名主宗性(略押)
この譲状を書いて最後に署名している「おとりの住人夏前 名主宗性」が、蓮如に帰依した名主次郎兵衛(法名善性)の父か祖父にあたる人と研究者は考えています。道場主次郎兵衛は、代々夏厩の名主としてこの地方の有力者であったこと分かります。
614
上小鳥の弘誓寺にも、蓮如筆の六寺名号と、明応4(1495)年の実如の絵像があります。
もともとは、七郎左衛門道場と呼ばれ、道場坊は上小鳥と夏厩の名主を兼ねていました。そのため道場に関わる事柄には法名を、名主としての署名は俗名を書いて使い分けています。例えば元禄7年(1694)五月に、道場敷地を検地役人に提出した書類には「上小鳥村道場玄西」と記し、同年6月の『検地帳』には「上小鳥村組頭七郎左衛門」と署名しています。
 弘誓寺には江戸時代の医書が多く残っていることに研究者は注目します。その中には牛馬に関するものもあり、人だけでなく獣医の役目も果たしていたことがうかがえます。まさに毛坊主として、門徒をまとめるだけでなく、医師や獣医として地域に関わる存在であったようです。また上小鳥は白川街道ぞいにあり、旅人の往来もあり、そのためこの寺は宿泊所としても機能していたと云います。しかし、それは商業的なものではなく、あくまで寺院としての人助けという意味です。これが、いろいろな情報収集等には役だったことがうかがえます。以上のように、坊主兼名主であり、医者・宿屋としての役割も果たしているが、本業は農業で家計をささえていたようです。


西方寺の五葉マツ
西方寺
白川街道の夏厩から小鳥川にそって北へ分かれると、左岸にあるのが二本木の西方寺です。
この寺にも蓮如筆六字名号と実如授与の絵像本尊があります。絵像の裏書は今では判読できませんが、『飛州志』には、文明18年(1486)正月25日に本願寺実如が善俊門徒の了西に下付したものとされます。そして、開基については次のように記されています。
大野郡小鳥郷二本木村西方寺者、東本願寺之派脈高山照蓮寺末寺、開基者百八拾四年已前文明十八年、元祖者了西与申者二而御座候。当西方寺迄六代、従往古御年貢出不申候。尤、由緒証文者無御座候得共、道場之境内被下置相続仕候様二奉願上候。則境内絵図二仕奉差上候。以上。
元禄七申成年六月八日                       二本木村 西方寺(印)
戸田桑女正様御内  芝田左市兵衛様
小林文左衛門様
  意訳変換しておくと
大野郡小鳥郷二本木村の西方寺は、東本願寺派高山照蓮寺の末寺で、開基は184前の文明18(1486)年になる。元祖は了西と申す者である。西方寺は六代に遡るまで年貢を免除されておいた。もっともその由緒書や証文はない。道場の境内の相続について以下の通り、境内絵図を添えて提出する。以上。
元禄七(1694)申成年六月八日                   
            二本木村 西方寺(印)
戸田桑女正様御内  芝田左市兵衛様
小林文左衛門様
ここからは二本松の道場も、蓮如の時代に開かれたことが分かります。
しかし、名号だけを手がかりに道場の開創期を推測するのは危険だと研究者は指摘します。なぜなら名号は、売買の対象物であったからです。それを示す史料を見ておきましょう。86P
質入仕申証文之事
一金弐両弐分   元金也
右者私儀当年石代金二行当り申候二付、伝来り候蓮如様八百代壱服(幅)、質入二仕り、書面之金子惟二預り申処実正二御座候。万返済之義ハ、来ル辰年限二而、金子壱両二付壱ヶ月二銀壱匁宛加利足、元利共二急度相済可申候。若相滞有之候ハヽ、右之質入貴殿二相渡シ可申候。其時一宮(言)申間鋪候。為後日受入証文、乃而如件。
天明三年八月                金子預主稗田村
清左衛門(印)
弥右衛門(印)
牧村 孫左衛門
森茂村 長助殿
         意訳変換しておくと
質入れについての証文
一 元金 金二両二分   元金
右の金額について私共は当年の年貢石代金の支払いのために、伝来の蓮如様の六字名号一幅を質入し、書面の金子を預りました。返済については、辰年限に金子壱両について、1月に銀壱匁の利足を加えて、元利とともに返済します。もし滞納することがあれば、質入れ物件を貴殿に渡します。これについては、一言も口をはさみません。以上を証文とします。
天明三年八月           
      金子預主稗田村  清左衛門(印)
       弥右衛門(印)
       牧村  孫左衛門
森茂村 長助殿
ここからは稗田村の清左衛門が森茂道場主の長助から金一両三分を借り、その質物に蓮如筆の六寺名号を充てたことが分かります。こういう形で、名号は価値がある物として移動していたことが分かります。絵像の裏書など確かなものによって道場の開創を確認する必要があると研究者は指摘します。
 以上、高山市の旧清見村の真宗寺院の道場成立時期をみてきました
それをまとめておきます。
①飛騨における真宗布教は、蓮如時代に、惣村の指導体制と門徒制とが結合して広がったこと
②山村での布教は庄屋や長百姓を中心に行われ、最初は道場は有力者の家に、名号を床の間に掲げただけのものだったこと
③そこで、長百姓を導師として正信偈や法話をしたこと
④これが惣村の自治活動と結びつき、宗教的な結びつきの拠り所となったこと
⑤ところが、近世になると本末制度が調えられて、木仏や寺号が下付され寺院化する所も現れた。
⑥さらに、本山に奉納金を納めることで伝絵や三具足などを整備する寺院も増えた。
 飛騨の真宗寺院は15世紀後半に蓮如から六字名号をもらって、道場を設立していること江戸時代になって木仏・寺号下付を本山から得ていることが改めわかります。こういう視点で讃岐の真宗寺院の創建年代一覧表を見てみましょう。

讃岐の真宗寺院開基一覧
讃岐の真宗寺院開基時期一覧

これはいろいろな史料に出てくる開基年代を研究者が一覧化したものです。これを飛騨の道場成立期比べて見ると違和感を覚えずにはいられません。寺院化の年代が讃岐は早すぎるのです。飛騨では蓮如の時代に道場が姿を現しますが、讃岐では寺院化がすでに始まっていることになります。その一方で、飛騨にはそれを証明する蓮如の六寺名号を持つ寺が多いのに対して、讃岐は遙かに少ないのです。真宗の教線拡大も飛騨に比べ、四国は遅いとされます。そのような状況証拠から、讃岐に真宗寺院が現れ始めるのは、16世紀後半以後と私は考えています。そして、寺院化は飛騨と同じ、江戸時代になってからのことです。讃岐の真宗拡大の年代については、従来の見方を大きく変更する必要があると研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P

讃岐への真宗興正派の伝播を追いかけているのですが、その際の布教方法が今ひとつ私には見えて来ません。そんな中で出会ったのが   千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66Pです。

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飛騨の山村に、真宗教線が伸びていくときに重要な役割を果たしたのが「毛坊主」のようです。今回は、毛坊主と道場、その寺院