瀬戸の島から

カテゴリ: まんのう町誌を歩く



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オリンピック青少年センター
明治神宮に隣接するオリンピックセンターからバスで移動してきたのは
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日本青年館
全国民俗芸能大会にお呼ばれしてやってきました。この大会には、第40回大会にも参加しています。今回が第70回と云うことなので、約30年ぶりの参加になります。前回には、小学生の小踊りで参加していた子ども達が、いまは保存会の中心として担っていく存在になっています。

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午前中の10:30からリハーサルなので、9時に楽屋入りして着付けや化粧を開始します。

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日本青年館の楽屋での着付け
今年は4回目のお呼ばれ公演なので、着付けなどの準備もなれてきて、スムーズに進みます。


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後部客席からの入場
今回も入庭(いりは:入場)は、客席側からです。リハーサルなのでお客さんは入っていません。
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露払いを先頭に、ステージを一周して後方に一列に並びます。全国民俗芸能大会1
佐文綾子踊由来口上(保存会長)
この大会では、公演だけでなく「記録に残す」ということも目的のひとつになっているようです。そのため保存会長の口上などもリハーサルでは省略なしで、全部読み上げられました。できるだけ本番に近い形で、記録にのこしておきたいそうです。

綾子踊り由来昭和14年版
       雨乞踊由来(尾﨑清甫書:昭和14年版)
これを全部読み上げると、6分少々かかるので、短縮バージョンで対応することになりました。次は、棒と薙刀が踊る場所を演舞で確保します。そして、問答がはじまります。これも修験者たちの流儀を受け継いでいることは以前にお話ししました。民俗芸能を媒介した修験者や聖の存在が垣間見えます。

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棒と薙刀の問答
棒薙刀問答 尾﨑清甫まとめ版
棒薙刀問答(尾﨑清甫筆:昭和14年)
 いよいよ踊りのはじまりです。

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芸司(げいじ)の次の口上とともに踊りが始まります。
薙刀問答4 芸司口上1
芸司口上(尾﨑清甫筆:昭和14年)

普段は小踊りの子ども達は6人なのですが、直前にインフルエンザ感染などで、3人で踊ることになりました。

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「善女龍王」などの幟も2本、総勢34名でいつもの半分程度の編成になっています。
民俗芸能大会2
芸司の周囲に左から太鼓・鉦(僧服)・拍子(大団扇)・一番右が姫姿の大踊りが配されます。

民俗芸能大会4
芸司の左側

民俗芸能大会5
下手で待機する薙刀・露払い・幟持ち・法螺貝吹


民俗芸能大会6

本番の時間は50分です。最後に本番に向けての入場・立ち位置の確認が行われました。

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花笠を脱いで、最後の踊りの確認

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地唄の音量調整も行われます。
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余裕の笑顔です。準備完了

控室に帰って弁当を食べていると、記録のための係員がやってきて、用具や楽器を見せて下さいとのこと。廊下の床に団扇などを並べて寸法をはかり、イラストに書き上げていきます。

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団扇の寸法をはかり、イラストを仕上げていく記録員
研究者に聞くと、写真よりもイラストの方が特徴がよく掴めるそうで、図版に残しておくのも大切な作業のようです。

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質問を受ける太鼓
一方で、太鼓や笛・地唄などは、いろいろな質問を受けていました。
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質問を受ける笛
昼食後13:00開演。そのトップが佐文綾子踊りでした。残念ながら本番の写真は撮れていません。50分の公演後に、別室で文化庁や青年館などから表彰を受けました。

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いただいたペナントや感謝状
ペナントには第70回とあります。

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帰ってきて前回の平成2年にいただいたものを見てみると「第40回」とあります。佐文綾子踊りが、踊り継がれていることを実感できる記念品でもあります。30年間の間に、継承関わった人たちに感謝しながら青年館を後にしました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  まんのう町の教育委員会を通じて、町内の小学校から綾子踊りのことについて話して欲しいという依頼を受けました。綾子踊保存会の事務局的な役割を担当しているので、私の所に話が回ってきたようです。4年生の社会科の地域学習の単元で、綾子踊りを取り上げているようです。「分かりやすく、楽しく、ためになるように、どんな話をしたらいいのかなあ」と考えていると、送られてきたのが次の授業案です。

綾子踊り指導案

これを見ると6回の授業で、讃岐の伝統行事を調べています。
その中から佐文綾子踊を取り上げ、どのように伝えられてきたのか、どう継承していこうとしているのかまでを追う内容になっています。授業方法は子ども達自身が調べ、考えるという「探求」型学習で貫かれています。私の役割も「講演(一方的な話)」が求められているのではないようです。授業テーマと、その展開部を見ると次のように書かれています    
綾子踊りが、どうして変わらずに残ったのか考えよう。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
→ 何かで途絶えるかもしれないとおもったからじゃないかな
→ 忘れないようにしたかったから 口だけだと忘れてしまいそうだから
→ でも、どうしてここまでして残そうとしたんだろうか
→ それを保存会の方に聞いてみよう!
この後で、私の登場となるようです。さて、私は何を話したらいいのでしょうか?
尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊りの文書

ここで私が思い出したのは、1934(昭和9)年に、尾﨑清甫が書残している「綾子踊団扇指図書起」の次の冒頭部です。

綾子踊団扇指図書起
綾子踊団扇指図書起
 綾子踊団扇指図書起
 さて当年は旱魃、甚だしく村内として一勺の替水なく農民之者は大いに困難せる。昔し弘法大師の教授されし雨乞い踊りあり。往昔旱魃の際はこの踊りを執行するを例として今日まで伝え来たり。しかしながら我思に今より五十年ないし百年余りも月日去ると如何なる成行に相成るかも計りがたく、また世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。
 また人間は老少を定めぬ身なれば団扇の使う役人、もしや如何なる都合にて踊ることでき難く相成るかもしれず。察する内にその時日に旱魃の折に差し当たり往昔より伝来する雨乞踊りを為そうと欲したれども団扇の扱い方不明では如何に顔(眼)前で地唄を歌うとも団扇の使い方を知らざれば惜しいかな古昔よりの伝わりし雨乞踊りは宝ありながら空しく消滅するよりほかなし。
 よりてこの度団扇のあつかい方を指図書を制作し、千代万々歳まで伝え置く。この指図書に依って末世まで踊りたまえ。又善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
                                    昭和9(1934)年10月12日
 綾子踊団扇指図書起 最尾部分 1934年
   綾子踊団扇指図書起の最後の署名(1934(昭和9年)

右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也

小学4年生に伝わるように、超意訳してみます。
 今年は雨がなく、ひでりが続いて、佐文の人たちは大変苦しみました。佐文には、弘法大師が伝えた雨乞い踊(おど)りがあります。昔からひでりの時には、この踊りを踊ってきました。しかし、世の中の進歩や変化につれて、人の心も変わっています。そんな踊りで雨が降るものか、そんなのは科学的でない、と反対する人達もでてきて、佐文の人たちの心もまとまりにくくなっています。そして、ひでりの時にも、雨乞踊りがおどられなくなります。そのまま何十年も月日が過ぎます。そんなときに、ひどい日照りがやってきて、ふたたび雨乞踊りを踊ろうとします。しかし、うちわの振(ふ)り方や踊り方が分からないことには、唄が歌われても踊ることはできません。こうして、惜(お)しいことに昔から佐文に伝えられてきた雨乞踊りという宝が、消えていくのです。
 そんなことが起きないように、私は団扇のあつかい方の指導書を書き残しておきます。これを、行く末(すえ)まで伝え、この書によって末世まで踊り伝えてください。善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
ここには、「団扇指南書」を書き残しておく理由と、その願いが次のように書かれています。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
   尾﨑清甫「綾子踊り団扇指南書」の伝える願い
  綾子踊りの継承という点で、尾﨑清甫の果たした役割は非常に大きいものと云えます。彼が書写したと伝えられる綾子踊関係文書のなかで最も古いものは「大正3年 綾子踊之由来記」 です。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊り由来記
ここからは、大正時代から綾子踊りの記録を写す作業を始めていたことが分かります。
次に書かれた文書が「団扇指南書」で、1934(昭和9)年10月に書かれています。ちょうど90年前のことになります。この時点で、綾子踊りの伝承について尾﨑清甫は「危機感・使命感・決意・願い」を抱いていたことが分かります。彼がこのような思いを抱くようになった背景を見ておきましょう。
1939年に、旱魃が讃岐を襲います。この時のことを、尾﨑清甫は次のように記しています。

1934年)大干魃に付之を写す
   紀元2594年(昭和9:1934年)大干魃に付之を写す             尾﨑清甫写之
  字佐文戸数百戸余りなる故に、綾子踊について協議して実施することが困難になってきた。ついては「北山講中」として村雨乞いの行列で願立て1週間で御利生を願った。(しかし、雨が降らなかったので)、再願掛けをして旧盆の7月16日に踊ったが、利生は少なかった。そこで旧暦7月29日に大いなる利生があった。そこで、俄な申し立てで旧暦8月1日に雨乞成就のお礼踊りを執行した。

  ここからは次のようなことが分かります。
①大干魃になっても、佐文がひとつになって雨乞い踊りを踊ることが困難になっていること。
②そこで「北山講中(国道377号の北側の小集落)」だけで綾子踊りを編成して踊ったこと
③2回目の躍りで、雨が降ったこと
④そのため8月1日に雨乞成就のお礼踊りを奉納したこと

先ほど見た「団扇指南書起」には、次のようにありました。
「世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。」

 ここからは、この時点で雨乞い踊りをおどることについて、佐文でも意見と行動が分かれていたことがことが見て取れます。そのような中で、尾﨑清甫は「団扇指南書」を書残す必要性を実感し、実行に移したのでしょう。
尾﨑清甫
尾﨑清甫
5年後の1939(昭和14)年に、近代になって最大規模の旱魃が讃岐を襲います。
その渦中に尾﨑清甫はいままでに書いてきた「由来記」や「団扇指南書」にプラスして、踊りの形態図や花笠寸法帳などをひとつの冊子にまとめるのです。この文書が、戦後の綾子踊り復活や、国の無形文化財指定の大きな力になっていきます。

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尾﨑清甫の綾子踊文書を入れた箱の裏書き
最後に、小学校4年生の教室で求められているお題を振り返っておきます。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
これについての「回答」は、次のようになります。
①近代になって科学的・合理的な考え方からすると「雨乞踊り」は「迷信」とされるようになった。
②そのためいろいろな地域に伝えられていた雨乞い踊りは、踊られなくなった。
③佐文でも全体がまとまっておどることができなくなり、一部の人達だけで踊るようになった。
④それに危機感を抱いた尾﨑清甫は、伝えられていた記録を書写し残そうとした。
尾﨑清甫は、佐文の綾子踊りに誇りを持っており、それが消え去っていくことへ強い危機感を持った。そこで記録としてまとめて残そうとした。
讃岐には、各村々にさまざまな風流踊りが伝わっていました。それが近代になって消えていきます。踊られなくなっていくのです。その際に、記録があればかすかな記憶を頼りに復活させることもできます。しかし、多くの風流踊りは「手移し、口伝え」や口伝で伝えられたものでした。伝承者がいなくなると消えていってしまいます。そんな中で、失われていく昭和の初めに記録を残した尾﨑清甫の果たした役割は大きいと思います。

綾子踊り 国踊り配置図
綾子踊り隊形図(国踊図)
これを小学4年生に、どんな表現で伝えるかが次の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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佐文賀茂神社での練習風景

綾子踊りの概要は次のような流れです。

 薙刀持と棒持が中央に進み出て、口上を述べて薙刀と棒を使い、次いで地唄が座につき、芸司が口上の後歌い出し、踊りが始まります。

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賀茂神社への奉納

芸司は先頭で「日月」を書いた大団扇をひらかして踊り子踊、大踊、側踊の踊り子が並んで踊ります。踊り場の周囲を棒で垣を作り、四方には佐文村雨乞踊と、昇龍と降龍の幟の旗をおし立てた中で、「水の踊り」 「四国船」 「綾子踊」「小津々み」「花寵」 「鳥寵」「たま坂」「六調子」「京絹」「塩飽船」「忍びの踊」「かえり踊り」の十二段の地唄が歌われます。

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佐文綾子踊 芸司と太鼓

囃子は、太鼓、笛、鉦、鼓、法螺貝であって、シンプルで単調な踊りが続きます。ただ眺めていると変化もなく単調で眠くなってきそうです。

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佐文綾子踊(賀茂神社にて)

しかし、伝わる歴史を紐解くと節ぶしに、村人の雨乞いの悲願がこもり、天地の神がみにひと露の雨を降らせ給えと祈る心がにじみ出てくるようにも思えます。終わりに近づくにつれて、テンポが少しは焼くなり踊りは早くなります。

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佐文綾子踊の芸司と小踊り(佐文賀茂神社にて)
  
 尾﨑清甫の残した「綾子踊由来記」には、その由来について次のように書かれています 。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊之由来記(尾﨑清甫文書 昭和14年版) 
夫れ佐文雨乞踊と称えるは 古昔より伝来した雨乞踊あり 今其の由来を顧るに 往昔佐文村が七家七名則四十九名の事 其頃干ばつ甚だ敷 田畑は勿論山野の草木に到る迄 大方枯死せんと万民非常に困難せし事ありき 
当時当村に綾と云う人あり 
或日一人の①聖僧あり 吾れ衆生済度の為め 四国山間辺土を遍歴する者なるが何分炎熱甚だ敷く 焼くが如くに身に覚ゆ 暫時憩はせ給えとて彼の家に入り来る 綾は快く之を迎え 涼しき所へ案内して

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綾子踊之由来記(尾﨑清甫文書 昭和14年版)
茶などを進めたるが僧は歓びて之を喫み給いつつ 四方山の噺の内彼の僧は、此旱魃甚だ敷く各地とも困難の折柄当家の水利は如何がと尋ねられし故綾は自分の家には勿論困難なるが 当村としても最早一杓の水さえ無く空しく作物を見殺しにするより外に詮術なし 誠に難儀至極に達し居る旨を答たるに僧は更に今雨が降らば作物は宜布乎(宜しいか)と問わるる故綾は今幸い雨降りたらば作物は申すに及ばず、万民の為喜は何と喩え難き旨を答えたるに 僧は我れ今雨を乞わんと曰ければ 綾は之を怪み 如何程大徳の僧と雖も此の炎天に雨を降らす事は六ヶ敷(むずかし)く想と申しければ 僧の申さるるには如何に炎天なりと雖も 今我言う如く為せば 雨降る事疑いなしとの言なれば綾が貴僧の言は如何なる事なるか 出来得ずんば 何なりとも貴命に従う可しと②僧の曰く龍王に雨乞いの願をかけ踊をすれば雨降る事疑いなし。而して其の踊りをするには多くの人を要する故 村内にて雇い来たれとの言に
綾は命の通り人を雇わんと 所々を尋ね廻りしも干ばつの折とて何れも力の及ぶ限り田畑

綾子踊由来記 夫レ版3

作物の枯死を防ぐに忙しく 各家とも不在なれば帰りて其の由を報じつれば僧は更に 然らば此の家には小児幾人なりしやと問わるる故 綾は六人ありと答えければ 然らば其の児六人と汝等夫婦と我れと九人踊るべし 只此の外に親族の者を雇い来たれとの事に 綾は一束奔に兄弟姉妹合わせて四五人呼びたれば、僧は吾先ず立ちて踊る故に 汝等ともに踊るべしとて踊り始め愈々二夜三日の結願の日となりたるとき 僧の言わるるには蓑笠を着て団扇を携えて踊るべしとの言なる故 綾はあやしみ此の炎天に今直に雨降る事など有間敷く 蓑笠とは何の為ぞと中しつれば 僧の言わるるには否決して疑うべからず先ず踊れ而して踊り最中にして雨降り来りとて決して止めるべからず 若し踊りを中止するときは雨人いに少なし故に蓑笠を着して踊り 雨降り来りと雖も踊り終るまで止めることなく大いに踊れとの言いに 綾は仮令如何程の大雨降り来ればとて決して中止申さずと答えければ 先ず小児六人を僧の列におき ③僧自ら芸司となりて左右には綾夫婦を置き 親類の者に
綾子踊由来記 夫レ版4

太鼓鉦を持たせ其の後に置き 地歌を歌つて大いに踊りたるが 不思議なる哉 踊り央(なかば)にして一天俄に掻き曇り 雨しきりに降り来れば一同は歓喜の声諸共に踊りに踊りたり 雨亦次第に降りしきり篠突く如く大雨の音や、鉦の響きと相和して滝なす如く 勇ましさいわん方なく遂には山谷も流れん計りなりき 茲に踊りも堪え難くなりぬれば太鼓の音は次第に乱れ 終りの一踊りは唯急ぎ急ぎにて前後を忘れ 早め早めの掛声にて人いに踊りに踊りたり 此の雨ありたれば四方の人々馳せ来り 
 我も踊り彼も踊れと四方に立囲い踊りたり 此の因縁に依りて昔も今も側踊りの人数に制限なし 誠に善女龍王の御利生は何に喩えんものもなし
 唯勿体なし恐れ多き事となり 而して綾親子の者は踊り踊りて後に人聖僧に向い 歌または踊りの意味等を詳しく教え給えと乞いつれば 僧は乃詳しく教授し終えて将に立ち帰らんとせられ 綾及び小児等の名残りを惜しむ事尚乳児の慈母に離るるが如しければ 僧いとも哀に思われ 吾れ去りたるとても決して悔ゆる
綾子踊由来記 夫レ版5

事勿れ若し末世に到り如何なる干ばつあるとも 一心に誠を籠めて此の踊りをなせば必ず雨降るべし 然れば末世までも露疑わず 干ばつの時には一心に立願し此の雨乞いを為すべし 此の趣き末代まで伝えよと言い給いて立ち去り 
 後を見送り姿は霞の如く見えけん 因りて彼の聖僧こそは弘法人師なりと言い伝え深く尊び崇めけり 佐文綾子の踊りと言うは此の時より始まりたることにて世人の能く識る所なるが 干ばつの時には必ず此の踊りを行うを例とせり 而して綾子の踊りと称える名も此の因縁によりて名付けられしものなりと云う。
十郷村人字佐文
  尾崎 清甫    写之 印

意訳変換しておくと
佐文村に佐文七名という七軒の蒙族、四十九名がいた。昔、千ばつがひどく、田畑はもちろん山野の草や木に至るまで枯死寸前の状況で、皆がても苦しんでいたこその頃、村には綾という女性がいた。ある日、仏道によって、生きとし生けるものすべてを迷いの中から救済し、悟りを得させようと、四国を遍歴する僧がやって来た。僧は、暑いので少し休ませてもらいたいと、綾の家に入った。綾は快く僧を迎え、涼しい所へ案内をしてお茶などをすすめた。僧は喜んで喫み、色々と話をした。その中で、一千ばつがひどく、各地で苦しんでいる状況だが、綾の家の水利はどううかと尋ねられたので、綾は、「自分の家ももちろん、村としても一杓のよも無いひどい状況で、作物を見殺しにするしかない。本当に苦しい」と答えた。
すると僧は、「今雨が降ったら、作物は大丈夫になるか」と尋ねたので、「今雨が降ったら、作物はもちろん人々は喜ぶでしょう」と綾はと答えた。その答えに僧が「私が今、雨を乞いましょう」と言うので、綾は怪しみ、「いくら大きな徳がある僧でも、この炎天下に雨を降らせるのは無理と思います」と答えた。すると僧は、「今、私の言うようにすれほ、雨がが降ること間違いなしです」と言うので、綾は「できる限りやってみます」と答えた。僧は「龍王に雨乞いの願をかけ、踊りをすれば、間違いない。この踊りをするには多くの人が必要なので、村中の人たちを集めなさい」という。
 そこで綾はあちこちと田津根香寺歩いたものの旱魃から作物を守ろうとするのに忙しく、だれも家にはいない、帰ってきた綾が、誰もいないことを倍に話すと、「では、この家には何人子どもがいるか」と尋ねた。「六人」と答えると、「ではその子六人と綾夫婦と私の九人で踊りましょう。その他親族を集めなさい」と言う。綾は、走って兄弟姉妹合わせて四・五人呼ぶと、僧が「まず私が踊るので、皆も一緒に踊りなさい」と踊り始めた。二夜三日踊って、結願の日となっても雨は降りません。なのに僧侶は「今度は蓑笠を着て、団扇を携えて踊りなさい」と言う。綾は「この炎天下に雨が降るわけでもないのに、蓑笠は何のためですか」と怪しんで訊ねます。
「疑わず、まず踊りなさい。そして踊っている最中に雨が降っても、踊りを止めないこと。踊りをやめると、雨は少なくなるので、蓑笠を着て踊り、雨が降っても踊りが終わるまで止めずに、大いに踊りなさい」と僧は云います。綾は「例えどんな大雨が降っても、決してやめません」と答えた。まず子ども六人を僧の列に並べ、僧自らが芸司となって左右に綾夫婦を配置しました。親類の者には大鼓、鉦を持たせてその後ろに配し、地唄を歌つて大いに踊った。すると、不思議なことに、踊りの半ばには一天にわかに掻き曇り、雨が降り出したのす。 みんなは歓喜の声を上げながら踊りに踊った。雨は次第に激しくなり、雨音が鉦の響きと調和して、滝のように響きます。ついには山谷も流れるのではないかと思う程の土砂降りとなり、踊るのも大変で、太鼓の音も次第に乱れていきました。終わりの一踊りは、急いでしまい前後を忘れ、早め早めの掛け声の中で大いに踊った。・降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯があり、昔も今も側踊りの人数に制限はない。
善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。

踊りが終わってから、歌や踊りの意味などを詳しく教えてもらいたいと僧に乞うと、詳しく教えてくれ、帰ろうとした。綾や子どもたちが、赤ん坊が母親から離れがたいように名残を惜しむようすを見て、僧は心動かされ、「今後どのような千ばつがあっても、 一心に誠を込めてこの踊りを行えば、必ず雨は降る。末世まで疑うことなく、千ばつの時には一心に願いを込め、この雨乞いをしなさい。末代まで伝えなさい」と言って、立ち去った。
 見送っていると、まるで霞のような姿だったので、この僧は、弘法大師だと言い伝えられるようになり、深く尊び崇まれるようになった。佐文の綾子踊りと言うのは、この時から始まり、皆の知るところとなった。千ばつの時には必ずこの踊りを行うこととなり、綾子踊りと言うのも、ここから名付けられた。
  この由来書は、華道師範であった尾崎清甫氏によって戦前に書き写されたものです。

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尾崎清甫の残した文書
また、綾子踊りの地唄や踊り編成などの史料は、すべて彼が書き写したり、記録したもので尾崎家に現在でも保存されています。ちなみに「綾子踊り」は三豊の大水上神社周辺の各地域でも「エシマ踊り」として踊られていた形跡はあるのですが、記録として残っているのは佐文地区だけになっていました。それが国の無形文化財指定の決め手になりました。そういう意味でも尾崎氏の功績は大きいと言えます。

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尾﨑清甫の文書箱の裏書き

この口上書を読んで気になる点を挙げておきます。

①「聖僧あり 吾れ衆生済度の為め 四国山間辺土を遍歴する者遍歴の僧侶」とあります。綾子踊りを伝えたのは遍歴の僧侶(聖・修験者)とされます。
②「僧の曰く龍王に雨乞いの願をかけ踊をすれば雨降る事疑いなし」からは、空海の善女龍王信仰に基づく雨乞い踊りであることが分かります。
③「僧自ら芸司となりて左右には綾夫婦を置き」とあります。ここからは廻国修験者(聖)が、このおどりを綾子夫婦と六人の子ども達に伝授したことが記されています。つまり廻国聖が「芸能伝播者」であったことになります。
「因りて彼の聖僧こそは弘法人師なり」と、弘法大師で伝説に附会されていきます。

百石踊り 駒宇佐八幡神社(ふるさと三田 第16集)( 三田市教育委員会 編) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋

風流踊りの芸司について、兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊を見ておきましょう。

ここでは芸司は「新発意(新人僧侶)」と呼ばれています。その衣装は、白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧姿です。右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都の姿を表したものであると伝えられます。遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などの祭礼や芸能に関わっていたことは以前にお話ししました。百石踊りや綾子踊りの成立過程に、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。
新発意役(芸司)の持ち物を見てみましょう。
百石踊り - marble Roadster2
百石踊の新発意役(芸司)
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。民俗芸能にみられる「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。新発意役は僧形をし、聖の系統を表す大きな団扇や瓢箪・七夕竹などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べたりします。これは綾子踊りの芸司と同じです。
 しかし、時代の推移とともに新発意役の衣装も風流化し、派手になっていきます。僧形のいでたちで踊る芸能は少なくなり、麻の裃から、今では滝宮念仏踊のように金色の裃へと変わっていきました。これも「風流化」のひとつの道です。しかし、被り物・採り物だけは今でも、遊行聖の痕跡を伝えています。それは綾子踊りの芸司も同じです。
以上から綾子踊りの成立については、次のような要素が盛り込まれていることがうかがえます。
①芸能伝播者としての廻国僧(修験者や聖)
②歌われる歌詞の内容は中世の閑吟集にまで遡る
③雨乞い信仰としての善女龍王
④弘法大師伝説
私は最初は、①②から綾子踊りの成立は風流踊りに起源を持つもので、中世にまで遡れるものと考えていました。しかし、③は近世後半、④の弘法大師が伝えたというのも、歌詞内容が閑吟集などに出てくるので、中世の流行(はやり)歌で、弘法大師が教えたものではありません。同時に、弘法大師伝説が讃岐の民衆に拡がるのは案外遅くて、江戸中期以後になるようです。そうすると、この由来が書かれた時期は、案外新しいのではないかと思うようになりました。

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佐文綾子踊(まんのう町佐文 賀茂神社)
もうひとつ疑問なのは、この踊りを伝えられたのは綾子だったはずです。綾子が芸司を務めるの相応しいと私は感じます。ところが綾子は登場しません。どうしてなのでしょうか?
一つの説は、江戸幕府の芸能政策の「女人禁止令」です。中世の風流踊りには女性が登場していました。出雲の阿国の歌舞伎も女性が中心でした。しかし、江戸幕府は風紀上の問題から女性が舞台に上がることを禁止します。神に奉納される踊りなどからも女性が除かれていきます。こうして、綾子も踊りの場から遠ざけられたということは考えられます。

P1250667小踊り
佐文綾子踊の構成人数(尾﨑清甫写)小踊六人とある

もうひとつ私が気になるのが次の記述です。
先ず
小児六人を僧の列におき、僧自ら芸司となりて
左右には綾夫婦を置き
 
親類の者に太鼓鉦を持たせ其の後に置き」
①小児六人とは、小踊り
②は、芸司のあとに中団扇をもって控える拍子2人
③は親類のものが鉦太鼓
 ここからは、綾子踊りの中心部は、綾子の一族によって占有されていたことになります。つまり、この踊りがもともとは村の人々の合意の上に、始まったものでないことがうかがえます。綾子の家族と、親類の者達で踊られ初め、最初は参加していなかった人々は、雨が降りそうになってから参加したというのです。これは村の風流踊りとして根付いたものではなかった、突然に一部の一族によって踊られ始めたことを伝えている気配があることを押さえておきます。また。小踊六人がなぜ女装するかについては何も触れません。

P1250641
綾子踊りの写文書を残した尾﨑清甫
  この由来書をはじめ、綾子踊りの史料は戦前に尾崎清甫によって書き写されたものです。
P1250689奉納年月日
綾子踊り控記録」
その中に「綾子踊り控記録」として、過去に踊られた年月日と記録が次のように記されています。
① 文化十一(1814)年六月十八日踊
② 弘化三(1846)年 午 七月吉日
③ 文久元(1861)年 子 七月二十八日 延期と相成り 八月一日踊る成り。
④ 明治八年 七月六日より大願をかけ、十三日踊願い戻し。又、十五日、十六日、十七日、踊り、二度の願立てをなし、二十二日目の二十七日、又、添願として神官の者より、自願かけ身願後八月三日に踊り、十一分の雨があり御利生あり
⑥ 大正元年 旱魃。それより三ヶ年の旱魃につき、大正三年七月末日に踊り、御利生あり
ここからは次のようなことが分かります。
A 一番古い記録は19世紀初頭であること。
B 江戸時代の記録は日付だけで内容がないこと。
C 明治8年に雨乞いのために、何度も願掛けをして踊られたこと
D 旱魃の度に雨乞い踊りとして踊られた回数は、少ないこと

昭和9年由来書写後記

昭和9年7月16日の実施記録には次のような興味深いことが書かれています。

⑦ 昭和九年七月十六日 旱魅につき加茂神社にて踊る。大字佐文戸数百戸以上なるにつき、踊りの談示和合、難致に依り、北山講中として村雨乞踊りの行列にて、一週間の願を掛け祈念をなし、一週間にて御利生の雨少なし、再願を掛けた後、盆十六日に踊りまた御利生の雨少なし。それより旧七月二十九日大なる雨降り来り、それより俄に諸氏申し立てにより、旧八月朔日にお礼の踊りを執行せり。
仙峰斎  尾崎 清甫 之写置也。
意訳変換しておくと
 昭和9(1934)年7月16日 旱魅になり、加茂神社で踊った。大字佐文は、①戸数百軒以上になって、踊り実施に向けた合意が困難になってきた。②そこで、(佐文全体ではなく)北山講中(組)として村雨乞踊りの行列を一週間行って、願を掛け祈願した。しかし、一週間では御利生の雨は少なかった。そこで、再願を掛け、盆の8月16日に踊ったが、御利生の雨は少なかった。しかし、旧7月29日に恵みの大雨となった。そこで、お礼踊りを奉納しようということになり、旧八月朔日に雨乞い成就のお礼の踊りを(佐文全体で)行った。
  尾崎清甫がこれを書き写し置いた。
この記録は、どこかで聞いた話です。最初に紹介した綾子踊りの「由来口上書」と話の要旨がよく似ています。それは、次のような点です。
綾子踊りの最初は村人は畑仕事に忙しくて踊りには見向きもしなかったこと。そのため、綾子一族のみで踊ったこと。それが大雨を降らしたので、周りの人々もその輪の中に飛び込んで、ひとつになって踊ったこと。

P1250640
文書は最後に「仙峰斎 尾崎清甫 之写置也」とあります。
尾崎清甫氏が原本を書き写したことを示します。しかし、その原本は存在しません。原本がいつ頃書かれたものなか、またどこに保存されたいたのかも分かりません。そうなると、この文書類の中には尾崎清甫氏による「創作」もあったのではないかとも思えてきます。
以上 「綾子踊
由来口上書」を読みながら私が考えたことでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊の里 佐文誌

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 西讃府誌と尾﨑清甫
佐文綾子踊の書かれた史料
綾子踊についての史料は、次の2つしかありません
①幕末の西讃府志の那珂郡佐文村の項目にかかれたもの
②佐文の尾﨑清甫の残した書類(尾﨑清甫文書)
前回は、この内の②尾﨑清甫が大正3年から書き付けられ始めて、昭和14年に集大成されたことを見てきました。この過程で、表現の変化や書き足しが行われ、分量も増加しています。ここからうかがえることは、尾﨑清甫文書が従来伝えられてきたように「書写」されたものではなく、時間をかけながら推敲されたものであるということでした。西讃府誌の記述を核に、整えられて行ったことが考えられます。今回は、西讃府誌と尾﨑清甫文書を比較しながら、どの部分が書き足されたものなのかを見ていくことにします。

西讃府志 綾子踊り
        西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊

まず、西讃府誌に綾子踊りについて何が書かれているのかを見ておきましょう。(意訳)
佐文村に旱魃の時に踊れば、必験ありとして、龍王社と氏社の加茂神社で踊られる踊りがある。これにも滝宮念仏踊りと同様に下知(芸司)が一人いて、裃を着て、花笠を被り、大きな団扇を持つ。踊子(小躍)6人は、10歳ほどの童子を、女子の姿に女装し、白い麻衣を着せて、赤い帯を結んで、花笠を被り、扇を持つ。叉踊の歌を歌う者四人(地唄)は、菅笠を被り裃を着る。菅笠の縁には青い紙を垂らす。又、袴を着て、木綿(ユフ)付けた榊持が二人、又花笠キテ鼓笛鉦などを鳴らす者各一人。踊り始める前には、薙刀と棒が次のような問答を行う。

以前に紹介したので以下は省略します。
西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①佐文村では旱魃の時に、龍王社と加茂神社で綾子踊りが雨乞いのために踊られている
②その構成は形態は、下知(芸司)・女装した踊子(小踊)6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各一人などである。
③踊り前に、薙刀と棒の問答・演舞がある
④演舞の後、下知(芸司)の口上で踊りが開始される
⑤地唄が声を揃えて詠い、下知が団扇を振りながら踊り、小躍り、扇を振って踊る。
⑥鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。
⑦調子や節は、今の田歌に似ている。
⑧以下踊られる12曲の歌詞が掲載されている。

以上から西讃府誌には、次の3つの史料が掲載されていることを押さえておきます。
A 棒薙刀問答 B 芸司の口上 C 地唄12曲

残されている史料から引き算すると、これ以外のものは尾﨑清甫の残した文書の中に書かれていることになります。縁起や由来、各役割と衣装・持ち物などが書き足されたことになります。

尾﨑清甫史料
綾子踊に関する尾﨑清甫の残した文書

 前回に見た尾﨑清甫が残した史料は、そのような空白を埋めるものだったと私は考えています。しかし、大正3年から書き始められ、昭和14年にまとめられたものとでは、相違点があることを前回に指摘しました。それは由来書についても、推敲が重ねられ少しずつ文章が変化しています。それを次に見ておきましょう。

綾子踊り由来大正3年
綾子踊
由来 大正3年版
迎々 佐文雨乞踊と称えるは 古昔より伝来した雨乞踊あり 今其の由来を顧るに 往昔佐文村が七家七名の頃 其頃干ばつ甚だ敷 田畑は勿論山野の草木に到る迄 大方枯死せんと万民非常に困難せし事ありき 当時当村に綾と云う人あり 
或日一人の①聖僧あり 吾れ凡愚済度の為め 四国の山間辺土を遍歴する者なるが何分炎熱甚だ敷く 焼くが如くに身に覚ゆ 暫時憩はせ給えとて彼の家に入り来る 綾は快く之を迎え 涼しき所へ案内して茶などを進めたるが僧は歓びて之を喫み給いつつ 四方山(以下略)
綾子踊り由来昭和9年版
綾子踊由来 昭和9年版

 大正3年と昭和9年の由来に関する部分の異同は、
②「七家七名の頃」→「七家七名之頃 即ち七×七=四十九名」
の1点だけです。
綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊由来 昭和14年版
それが昭和14年版になると①と③が推敲されます。③は、それまでは「聖僧」がへりくだって「凡愚済度」のためと称していたのを、「衆愚済度」に改めています。これも弘法大師信仰を考えてのことかもしれません。小さな所ですが、ここでも推敲が繰り返し行われています。
この他、西讃府誌と「雨乞踊悉皆写」の相違点で気づいた点を挙げておきます。

西讃府誌と尾﨑清甫の相違点

以上をまとめたおきます。
①綾子踊りには、西讃府誌と尾﨑清甫の残した文書しかない。
②西讃府誌以外の記載は、尾﨑清甫が大正3年から書残したものである。
③それを昭和14年に、すべてまとめて「雨乞踊悉皆写」として記録に残している。
④その経過を見ると、加筆・訂正・推敲・図版追加などが行われている。
⑤以上から
「雨乞踊悉皆写」は書写したものではなく、尾﨑清甫が当時踊られていた綾子踊りを後世に残すために新たに「創作」されたものである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊りの里 佐文誌 176P

  県ミュージアムの学芸員の方をお誘いして、綾子踊史料の残されている尾﨑家を訪問しました。

P1250693
尾﨑清甫(傳次)の残した文書類
尾﨑家には尾﨑清甫(傳次)の残した文書が2つの箱に入れて保管されています。この内の「挿花伝書箱」については、華道家としての書類が残されていることは以前に紹介しました。今回は、右側の「雨乞踊諸書類」の方を見せてもらい、写真に収めさせていただきました。その報告になります。
 以前にもお話ししたように、丹波からやって来た廻国の僧侶が宮田の法然堂に住み着き、未生流という華道を教えるようになります。そこに通った高弟が、後に村長や県会議員を経て衆議院議員となる増田穣三です。彼は、これを如松流と称し、一派を興し家元となります。その後継者となったのが尾﨑清甫でした。

尾﨑清甫
尾﨑清甫(傳次)と妻
清甫の入門免許状には「秋峰」つまり増田穣三の名と印が押されていて、 明治24年12月、21歳での入門だったことが分かります。師匠の信頼を得て、清甫は精進を続け次のように成長して行きます。
大正9(19200)華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任
大正15年3月 師範免許(59歳)
昭和 6年7月 准目代(64歳)
昭和12年6月 会頭指南役免状を「家元如松斉秋峰」(穣三)から授与。(3代目就任?)
昭和14年 佐文大干魃 綾子踊文書のまとめ
昭和18年8月9日 没(73歳)
P1250691

  箱から書類を出します。毛筆で手書きされた文書が何冊か入っています。
P1250692

  書類を出して、箱をひっくり返して裏側を見ると、上のように書かれていました。
  尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊関係の史料

  何冊かの綴りがあります。これらの末尾に記された年紀から次のようなことが分かります。
A ⑩の白表紙がもっとも古くて、大正3年のものであること
B その後、①「棒・薙刀問答」・⑤綾子踊由来記・⑥第一図如位置心得・⑧・雨乞地唄・⑨雨乞踊地唄が書き足されていること
C 最終的に昭和14年に、それまでに書かれたものが③「雨乞踊悉皆写」としてまとめられていること
D 同時に⑪「花笠寸法和」⑫「花笠寸法」が書き足されたこと
  今回は⑩の白表紙で、大正3年8月の一番古い年紀のある文書を見ていくことにします。
T3年文書の年紀
        綾子踊り文書(大正3年8月版)
最初に出てくるのは「 村雨乞位置ノ心得」です。

T3 村雨乞い
 「村雨乞位置ノ心得」(大正3年8月版)
一、龍王宮を祭り、其の左右露払い、杖突き居て守護の任務なり。
二、棒、薙刀は龍王の正面の両側に置き、龍王宮並びに地歌の守護が任務なり。

T3
    「村雨乞位置ノ心得」(大正3年8月版)
三、地歌の位置、厳重に置く。
四、小踊六人、縦向かい合わせに置く。
五、芸司、その次に置く。
六、太鼓二人、芸司の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
七、鉦二人、太鼓の後に置き、その両側に笛二人を置く。
八、鼓二人、鉦の後に置く。
九、大踊六人、鼓の後に置く。
十、外(側)踊五十人、大踊の後に置く。

 この「村雨乞位置ノ心得」で、現在と大きく異なるのは「十、外(側)踊五十人、大踊の後に置く。」の記述です。  五人の誤りかと思いましたが、何度見ても五十人と記されています。また、現在の表記は「側踊(がわおどり)」ですが「外踊」とあります。これについては、雨乞成就の後に、自由に飛び込み参加できたためとされています。
「村雨乞位置ノ心得」に続いて「御郡雨乞位置ノ心得」と「御国雨乞位置ノ心得」が続きます。ここでは「御国雨乞位置ノ心得」だけを紹介しておきます。

T3 国雨乞い

T3 国雨乞2
御国雨乞位置ノ心得(大正3年版)
一 龍王宮を祀り、その両側で、露払い、杖突きは守護が任務。
二 棒、薙刀が、その正面に置いてある龍王宮、地歌の守護が任務。
三 地歌は、棒、薙刀の前に横一列に置く。
四、小踊三十六人は、縦四列、向かい合わせ  干鳥に置く。(村踊りは6人)
五、芸司は、その次に置く。
六、太鼓二人は芸司の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
七、鉦二人は太鼓の後におき、その両側に笛二人を置く。
八、太鼓二人は、鉦の後に置く。
九、太鼓二人は鼓の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
十、鉦二人は大鼓の後に置き、その両側に笛二人を置く。
十一、鼓二人は、鉦の後に置く。
十二、太鼓二人は鼓の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
十三、鉦は太鼓の後に置き、その両側に笛二人を置き、その両側に大踊二人を置く。
十四、鼓二人は鉦の後に置き、その両側に大踊四人を置く。
十五、大踊三十六人は、鼓の後に置く。
十六、側踊は、大踊の後に置く。

同じ事が書かれていると思っていると、「四 小踊三十六人」とでてきます。その他の構成員も大幅に増やされています。これは「村 → 郡 → 国」に準じて、隊編成を大きくなっていたことを示そうとしているようです。これを図示したものが、昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」には添えられています。それを見ておきましょう。

綾子踊り 国踊り配置図
    昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」の御国雨乞位置
これをすべて合わせると二百人を越える大部隊となります。これは、佐文だけで編成できるものではなく「非現実的」で「夢物語的」な記述です。また、綾子踊りが佐文以外で踊られたことも、「郡・国」の編成で踊られたことも記録にもありません。どうして、こんな記述を入れたのでしょうか。これは綾子踊りが踊られるようになる以前に、佐文が参加していた「滝宮念仏踊 那珂郡南(七箇村)組」の隊編成をそのまま借用したために、こんな記述が書かれたと私は考えています。
綾子踊り 国踊り配置図下部
昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」の御国雨乞位置

同時に尾﨑清甫は、「滝宮念仏踊 那珂郡南(七箇村)組」の編成などについて、正確な史料や情報はなく、伝聞だけしか持っていなかったことがうかがえます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3
佐文誌(昭和54年)の御国雨乞位置
「一 龍王宮を祭り・・」とありますが、この踊りが行われた場所は、現在の賀茂神社ではなかったようです。
大正3年版にはなかった踊隊形図が、昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」には、添えられています。この絵図からは、綾子踊が「ゴリョウさん」で踊られていたことが分かります。「ゴリョウさん」は、かつての「三所神社」(現上の宮)のことで、御盥池から山道を小一時間登った尾根の窪みに祭られていて、山伏たちが拠点とした所です。そこに綾子踊りは奉納されていたとします。
 「三所神社」は、明治末の神社統合で山を下り、賀茂神社境内に移され、今は「上の宮」と呼ばれています。その際に、本殿・拝殿なども移築されたと伝えられます。とすると当時は、祠的なものではなくある程度の規模を持った建物があったことになります。しかし、この絵図には、建物らしきものは何も描かれていません。絵図には、「蛇松」という枝振りの変わった松だけが描かれいます。その下で、綾子踊りが奉納されています。

綾子踊り 国踊り配置図上部

 また注意しておきたいのは、「位置心得」の記述順が、次のように変化しています。
A 大正3年の「位置心得」では「村 → 郡 → 国」
B 昭和14年の「位置心得」では「国 → 郡 → 村」
先に見たとおり、大正3年頃から書き付けられた地唄・由来・口上・立ち位置などの部品が、昭和14年に③「雨乞踊悉皆写」としてまとめられています。注意したいのは、その経過の中で、推敲の形跡が見られ、表現や記述順などに異同が各所にあることです。また、新たに付け加えられた絵図などもあります。
 綾子踊の文書については、もともと「原本」があって、それを尾﨑清甫が書写したもの、その後に原本は焼失したとされています。しかし、残された文書の時代的変遷を見ると、表現が変化し、付け足される形で分量が増えていきます。つまり、原本を書き写したものではないことがうかがえます。幕末の「西讃府誌」に書かれていた綾子踊の記事を核にして、尾﨑清甫によって「創作」された部分が数多くあることがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊りの里 佐文誌 176P

IMG_0001

地元で超少人数の「学習会」を開いています。今回は白川琢磨氏のお話が聞けることになりました。私たちだけで聞くにはもったいない機会なので、みなさまにもお誘いします。
 最近の金毘羅神研究者達は、この神様が近世に現れた流行神だと考えているようです。そして金毘羅神を象頭山に根付かせた宗教勢力は、修験者たちだったとします。こんぴら町誌もこの立場です。そのあたりのところを、宗教民俗学の立場からお話ししていただけるようです。私も白川先生の書いたものから、いろいろなことを学ばせていただいています。興味関心のある方は、是非おいでください。歓迎いたします。
 会場は満濃中学・図書館に併設されているスポーツセンターまんのうの会議室です。会費は資料・会場代200円。

白川先生の金毘羅大権現成立過程を紹介したもの。

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「風流踊のつどい In 郡上」
やってきたのは岐阜県の郡上市。郡上市では「郡上踊り」と「寒水の掛踊り」のふたつの風流踊りがユネスコ認証となりました。それを記念して開かれた「風流踊のつどい In 郡上」に、綾子踊りもお呼ばれして参加しました。
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       郡上城よりの郡上市役所と市民ホール
2台のバスで総勢43名がまんのう町から約8時間掛けて移動しました。
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          郡上市役所と市民ホール
やって来たのは、市役所の下にある市民文化ホール。前日に、会場下見とリハーサルを行い、入庭(いりは)の順番や舞台での立ち位置、音量あわせなどを行いました。長旅の疲れを郡上温泉ホテルで流し、「郡上踊り」や「寒水の掛踊り」の役員さん達の親睦会で、いろいろな苦労話を聞いたり、情報交換も行えました。

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綾子踊の花笠(菖蒲の花がさされます)

8日(日)13:00からの開会式後のアトラクションで舞台に立ちます。小踊りの着付けには、1時間近くの時間がかかります。

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着付けが終わった大踊りの高校生と小踊り

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僧侶姿の鉦打ち姿の保存会長
今回は会場からの入庭(入場)でした。
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佐文綾子踊(郡上市)
残念ながら踊っている姿を、私は撮影できませんでした。動画はこちらのYouTubeで御覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=-_tNK3DKbqU

前日のリハーサルでは、問題点が山積み状態だったのですが、本番では嘘のようにスムーズに進みました。わずか20分の舞台は、あっというまでした。着替えの後で、郡上市長さんからお礼の言葉をいただき、記念写真を撮りました。
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佐文綾子踊保存会(郡上市文化ホール)
 「風流踊り In 郡上」に招待していただいたことに感謝しながら
帰路に就きました。

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  佐文集落と 象頭山(左手中央の鎮守の森が賀茂神社)
「こんぴらふねふね」で有名な四国金毘羅さんが鎮座するのが象頭山。その象頭山の南側に、私たちのふるさと佐文はあります。佐文は小さな盆地で、水利の便が悪く水不足に悩まされててきました。その歴史は、日照りとの闘いの歴史でもありました。その地で踊り継がれてきたのが綾子踊りです。
綾子踊り 善女龍王
佐文綾子踊の善女龍王の幟
その謂われが次のように伝えられています。
 むかし、佐文七名といって七軒の豪族があったところ、綾という女がいた。ある旱魃の年に、草木も枯死寸前となり、村人は非常に苦しんでいた。ある日、諸国遍歴の僧に綾が住民の苦しみを話したところ、僧は住民をあわれみ、龍王に願いをこめて雨乞踊りをすれば降雨疑いなしと教えた。そこで村人を集め旅僧自ら芸司となり、綾夫婦の鉦、太鼓にあわせて踊ったところ、俄に一天かき曇り、滝の如く雨が降った。それより干天の年には、この踊りを行うことを例としてきた。以来、この踊りを踊ると、恵みの雨があったので、だれ言うことなく綾子の踊りとして現在に伝わっている。
 十二段の踊りを、笛・鉦・太鼓・鼓・法螺貝などに合わせて踊る節々に、先祖から受け継がれてきた雨乞いへの願いを感じます。綾子踊りを踊ることは、佐文地区に住む私たちにとっては、故郷に生きる証のようなものです。この踊りを途絶えることなく次世代へ伝承していきたいと思っています。

綾子踊り11
佐文賀茂神社への入庭(入場)
地元での2年に1度の公開公演では、隊列を組んで氏神さまの鎮守の森を目指して歩いて行きます。入場順は次の通りです。
露払 榊の枝をもって、道中を浄めながら会場に先導します。
幟  一文字笠に羽織姿で「佐文村」の幟に行列が続きます。
警固  五尺二寸棒を持って、踊り場の場所確保と警備を行います。

綾子踊り 山伏
手前が上り龍、青いのが台笠
幟(雲竜上り)  雨を呼ぶ龍善女龍王の昇り龍の姿です。
 (雲竜下り)  大雨を止ませる下り龍が続きます。

綾子踊り 棒と薙刀
薙刀と棒振りの清めの演舞・後に青い台笠
 棒振りと薙刀は、演舞と問答で踊る場を確保するとともにで会場を浄めます。
台傘  烏帽子をかぶり、ちはえを着た神職姿で、台笠を持ちます。

綾子踊り入庭 法螺・小踊り
法螺貝吹き
頭巾に袈裟の山伏姿です。踊りへの山伏たちの関わりが感じられます。
綾子踊り 役名入り
踊り位置(一番前が小踊り)
 中央に芸司、その両脇に拍子、その前が小踊り、手前が地唄
芸司全体の指揮者です。もともとは踊りを伝えた諸国遍歴の僧です。大きな団扇には日と月が書かれています。

P1250070
芸司と拍子(日と月の団扇を持つ)
拍子は、 中団扇と榊をもって踊ります。榊は龍王宮への御供えです。
太鼓 は、袴姿に白たすき掛けで黒足袋です。太鼓を肩からつるします。
P1250071
鉦(僧侶姿)
鉦は、僧侶姿で、白衣、茶の麻衣、黒足袋で、袈裟を架けて鉦を持ちます。一遍時衆の風流念仏踊りの影響がうかがえます。
鼓は、裃、袴姿で白足袋に、小脇差しを指します。
笛は、黒紋付きの羽織袴で、黒足袋に諸草草履を履きます。

綾子踊り入庭 小踊り
小踊り
小踊   花笠に小姫女仕立てで、小学生が踊ります。

綾子踊り 隊列 側踊・大踊り
綾子踊りの入庭
地唄 麻の上下に小脇差姿で、一文字笠をかぶって、青竹の杖を持ちます。         

綾子踊り 大踊り
大踊り
 大踊りは、大姫仕立てで帯は女物のはせ帯です。団扇には、面に雨乞い、裏に水と書かれています。今は中学生が演じています。

   綾子踊り 側踊り
            
側踊
 側踊は浴衣姿で紙つきの竹皮の笠を被ります。側踊は人数にきまりがありませんでした。雨乞い成就の時には、多くの人が参加して面白おかしく踊ったようです。

最後に全体の配置を見ておきます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3

綾子踊り「御国雨乞踊りの位置」佐文史誌177P
この絵図は、戦前に尾崎清甫氏が写したとされものです。「御雨乞踊り」とあり、郡・村で踊られる時と場所で、編成規模が違うことを伝えています。しかし、この規模については、疑義が残ります。それについては別の機会にお話しします。

綾子踊り 隊列表
現在の綾子踊りの役割位置
綾子踊り 全体後方から
綾子踊り 全体配置

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

綾子踊り碑文


参考文献
佐文誌167P
雨を乞う人々の歴史 綾子踊

 昨年11月30日付で、佐文綾子踊がユネスコ無形文化遺産リストに登録されました。その認証状が東京に届き、白川正樹会長が授与式に参加していだいてきました。そこ書かれていることを、翻訳アプリに読ませると次のように表示しました。

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風流踊り ユネスコ無形文化財認証状 
ユネスコ無形文化財リストへの登録は、無形文化遺産の認知度の向上とその重要性の認識を確保し、文化的多様性を尊重する対話の促進に貢献します。「風流踊り」 人々の願いや祈りが込められた神事の踊り。日本の提案により「風流踊り」の登録を認証します。
UNE事務局長 刻印日2022年11月30日
登録名は「Furyu-odori」です。どこにも佐文綾子踊の名称はありません。
この認証状に「添付」されたような形で頂いてきたのが、文化庁の認可状です。
P1250236

ここには「重要無形民俗文化財 綾子踊」と「保護団体 佐文綾子踊保存会」と明記されています。そして「ユネスコ無形文化財の一覧表に登録された「風流踊」を構成することを証す」とあります。
  全国の風流踊りを一括して、ユネスコ登録を実現させるというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てこないので、別途証明するために文化庁が発行した証書ということになるようです。
佐文綾子踊年表 重要無形民俗文化財指定に伴う後継者育成事業が今の綾子踊を支えている : 瀬戸の島から
 忘れられていた綾子踊りを「再発見」して、世に出してくれたのは中央の民俗芸能の研究者です。
幕末に編纂された西讃府誌に載せられていた綾子踊歌詞が、中世に成立していた閑吟集の中にあることを見つけます。そして、中世の風流踊りの流れを汲む踊りとして評価します。それを受けて、国や県が動き出すことになります。その中で大きな意味を持ったのが「国の重要無形民俗文化財指定(1976年)」だと私は考えています。これはただ指定して、認定書を渡すだけでなく、次のような具体的な補助事業が付帯していました。
①国の補助金で伝承者養成事業を行うこと
②その成果として、隔年毎の公開公演を佐文加茂神社で行うこと
③全国からの公演依頼への補助金支出
④公開記録作成と「佐文誌」の出版
 こうして隔年毎に公開公演を行うこと、そのために、事前にメンバー編成を行い、踊りの練習を行うことが慣例化します。これが回を重ねていくごとに芸司や地唄やホラ貝吹きなど、蓄積した技量が求められる役目は固定化し、後継者が育っていきました。

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綾子踊り(財田香川用水記念館にて)
 また、小踊りには小学生6人が、大踊りは中学生4人がその都度選ばれ、練習を積んで、大勢が見守る中で踊るという経験が蓄積されました。かつて小踊りを踊った子ども達が、今は綾子踊の重要な役目を演じるようになっています。彼らは「継承・保存」に向けても意識が高く、今後の運営の中心を担っていくことが期待できます。現代につながる綾子踊の基礎は、この時期に固められたと私は考えています。

 今年は、10月に郡上八幡、11月には東京の第70回全国民俗芸能大会(日本青年会館)の公演が予定されています。
33年前の第40回大会に出演し、この場で小踊を踊った小学生が、今は綾子踊の重要な役割を演じるポジションにいます。小・中学生達に大きな舞台に立つ経験を積むことも、綾子踊を未來につないでいく大切な手段のひとつだと思っています。綾子踊へのさまざまな人達からの支援に感謝します。
 

    買田岡下遺跡と弘安寺
買田岡下遺跡(R32号満濃バイパスとR377号の交叉点東側)
国道32号のバイパス工事の際に、買田の西村ジョイの南側から古代から近世まで続く村落遺跡が出てきています。これが買田岡下遺跡です。今回は、この遺跡を見ていくことにします。
テキストは「買田岡下遺跡調査報告書 2004年」です。

買田岡下遺跡 写真
買田岡下遺跡
 まず、その位置を確認しておきます。国道32号線と国道377号線の交差する買田交叉点の東側、西村ジョイの南側のバイパス下なります。現場に立って見ると、南側の恵光寺のある尾根から緩斜面が拡がります。北側は、金倉川が蛇行しながら東西に流れ、金毘羅山の丘陵(石淵)にあたって、北側に流れを変えます。

買田岡下遺跡の周辺遺跡について、調査報告書は次のように記します。
「背後の丘陵上には古墳時代中・後期の小古墳群の存在が知られるがその実態は詳らかではない。また白鳳期創建の弘安寺(廃寺)は 金倉川を挟んで約1,3km北方に位置する。律令制下、那珂郡真野郷は金倉川湾曲部以南の南岸部分一帯に比定され、買田地区はその西部に位置する。以東の地区とは標高120m前後の買田峠の丘陵によって隔てられており、鎌倉期には園城寺領買田庄が成立する。」

まんのう町条里制と遺跡

買田岡下遺跡周辺遺跡(赤は条里制跡)
以上を要約整理すると
①東の買田峠にはかつては、数多くの群集墳があり、岸の上の椿谷には中型の横穴石室を持つ古墳
②南の永生病院の西側には中世山城の丸山城跡
③北側や東側の平野部に白鳳期創建の弘安寺(廃寺)
④丸亀平野の条里区画の南端部の外側に位置する、
以上からは、買田岡下遺跡の周辺には
古墳時代の群集墳
→ 古墳後期の中型横穴式石室 
→ 白鳳期創建の弘安寺 
→ 那珂郡条里制の最南端
などが継続して、作られてきたことが分かります。ここからは、丸亀平野の南端エリアの開発を進めた古代有力者の存在が垣間見えると私は考えてきました。弘安寺の白鳳時代の瓦は、善通寺の影響を受けながら作られ、その同笵鏡が讃岐山脈を越えた阿波郡里(美馬市)の古代寺院から見つかっていることは以前にお話ししました。ここからは、古代から塩などの交易を通じて古代から阿波三好地域との活発な交流が行われていたことがうかがえます。そのような拠点集落が買田岡下遺跡であったのではないかという期待が私にはありました。

さて、発掘の結果何が出てきたのでしょうか。
買田岡下遺跡からは、古代・中世・近世の3つの時代の柱穴がたくさん出てきました。掘立柱建物跡は、下図のよう3つのエリアで見つかっていますが、それぞれ建てられた時代が次のように異なります。

買田岡下遺跡 区域

Ⅰ区中央は中世
Ⅱ区西南は古代
Ⅵ区は近世
 ここからは古代以来、集落が形成され続けてきたことが分かります。そして、古代と中世では、その存立基盤が次のように異なるとします。
古代 金倉川沿いのエリアを生産基盤として、阿波との交易拠点。
中世 恵光寺方面の南に延びる谷を開発し、谷田開発進めた勢力の拠点


買田岡下遺跡の注目点は、古代の大型の掘立柱建物の柱穴が大量に出てきたことです。
買田岡下遺跡 SB20 庇付
Ⅱ区南の大型の掘立柱建物 SB20とSB21

真っ直ぐに並ぶ柱穴を見たときには、「倉庫群」と思いました。「古代倉庫群=郡衙跡」とされています。そうだとすると、ここに那珂郡南部の郡衙跡的な施設があったことになります。さてどうなのでしょうか。

買田岡下遺跡SB20
Ⅱ区南のSB20を見ていくことにします。

買田岡下遺跡 SB20
SB20の平面図(南から)
この平面図からは次のようなことが分かります。
①梁間2間 (6.4m)× 桁行 5間(8,4m)
②柱穴平面は、径約0,4~0,7mの 円形か隅丸方形
③下側3列目の小さな柱穴は庇用。
④建物内部から須恵器杯蓋のつまみ、 土師質土鍋口縁部片(7世紀中頃~9世紀中頃)が出土
研究者は床面積が40㎡以上の古代の建物を「大型建築物」と呼んで「特殊用途」的建物と考えています。その基準からすれば床面積が約54㎡あるので、特殊用途の建築物です。しかし、よく見ると、3列の柱穴は小さいことです。これが庇用の柱穴だったようです。南側に庇があったことになります。倉庫ではなく有力者の居館だったと研究者は考えています。Ⅱ区を拡大して見ます。

買田岡下遺跡 古代部分拡大図
買田岡下遺跡Ⅱ区南 (左から SB20・SB21・SB25)
 3つの大型建物が並列して並んでいます。この中で廂や床束があるのが一番左のSB20で、これが主屋のようです。これを中心に2棟の副屋が配置されます。つまり、買田岡下遺跡には、9世紀半ばに廂付大型建物が3棟並んで建っていて、これは有力者の居館であったと研究者は判断します。

買田岡下遺跡 大型建物が並列する遺跡の類例
前田東・汲仏遺跡との比較
これと同じように、廂付の大型建物が「L」字に配置されているのが前田東・汲仏遺跡で、時代的には10世紀中頃のものとされます。これらは、丘陵の裾部にあったので地形的な制約があって真っ直ぐには配置されなかったためL字上になっているようです。
 研究者が注目するのは、建物の間に広場的空間があるかどうかです
中国の古代王朝の王宮などには、宮殿に南面して広場があり、ここが儀式やイヴェントの会場となる政治的空間でした。これが日本の藤原京や平城京にも取り入れられ、それが讃岐の国府にも見られます。そして、善通寺の稻木北遺跡には広場的空間を持つので、多度郡の郡衙候補を研究者は考えているようです。つまり、政治的空間である郡衛などには、南面して広場があるのです。
稻木北遺跡(8世紀前葉)

 買田岡下遺跡には、それがありません。あるのは居住に適した庇付大型建物です。そのため古代の郡衛などの政庁的建物ではなかったと研究者は判断します。私の期待は、見事に外れました。しかし、SB20からは、土師質土鍋口縁部片(7世紀中頃~9世紀中頃)がで出土しています。ここからは、空海が満濃池再築に帰省したときには、ここには集落拠点が姿を現していたことが考えられます。
広場を持たず、大型建物が並列する遺跡の類例を見ておきましょう。
買田岡下遺跡 古代大型建物配置

前田東・中村遺跡と汲仏遺跡(10世紀前葉)
③真っ直ぐではなく方位がやや振れた廂付大型建物が3棟並ぶのが買田岡下遺跡(9 世紀中葉~9世紀後葉)
④廂付を含む大型建物が「L」字にレイアウトされているのが前田東・中村遺跡・汲仏遺跡になる。
そして③④の発展系になるのが、


⑤東山田遺跡(10c 中葉~ 11 世紀前葉)
⑥下川津遺跡(11 世紀前葉)
⑦西村遺跡10c末葉~11c)
この段階になると、主屋と副屋の関係がはっきり見えてくるようです。

 このタイプが発展して、中世方形館へ成長して行くと研究者は考えています。
古代城郭教室(Ⅴ) 中世城館はどのように誕生したのか?] - 城びと
中世方形舘

このタイプの特徴は、「主屋と幅屋の明確化」でした。讃岐の中世前半期の方形館の特徴は、溝により囲まれた空間の中央の主屋、その周囲に複数の副屋が配置されることです。ここからは、両者の間に系統性が見られます。
改めて、買田岡下遺跡の発展系を整理して起きます。
①買田岡下遺跡の建物配置は、廂付き・床束を備えた1棟の大型建物(SB20)に並んで、副屋と見られる小型建物(SB21・SB25)がある。
②その発展系の西村遺跡などは、大型建物の近くに1棟の副屋がある。買田岡下遺跡との共通性は、廂付きの大型建物に床束をもつこと、大型建物が集落経営者の居住であること。
③西村遺跡(11 世紀末~ 12 世紀前半)は、溝で囲まれた空間の中に主屋と複数の副屋が配置されている
④空港跡地遺跡1は、溝区画内部に中央の主屋を中心に副屋が整然と配置されている。
以上からは、11 世紀中頃から集落断絶期を経て、③の西村遺跡には2棟あったの大型建物が 1棟のみに絞りこまれ、溝の内側に数棟の小型建物が集約されるようになったことが分かります。このような流れの中で、中世前半期に方形館が姿を見せると研究者は考えています。そこでは、買田岡下遺跡のSB20のような床束をもつ大型建物が中世方形館の主屋に多く採用されることになります。ここでは、買田岡下遺跡の10世紀の建物群は、古代後半に出現し、中世前半の方形館(武士の舘)に繋がるタイプであることを押さえておきます。

中世初期の武士の館~文献史料・絵巻物から読み解く~ | 武将の道

つまり、買田岡下遺跡については、
①7世紀の白鳳時代からこの地を拠点にしていた古代の有力者の系譜につながる勢力
②あらたに買田の地域開発を進め中世の開発型名主につながるような新勢力の拠点の両面をもっていて①から②へ脱皮していった勢力であったことが推測できます。また、この遺跡のすぐ上には、江戸時代に庄屋を務めた永原家があります。永原家は、中世には買田丸山城の城主で、近世に帰農したと伝えられます。そうだとすれば、古代から中世、そして近世の永原家につながる系譜とも云えます。
 もっと大きな目で見れば、最初に見たように「古墳時代の群集墳 → 古墳後期の中型横穴式石室 → 白鳳期創建の弘安寺 → 那珂郡条里制の最南端」に追加して「買田地区の中世開発者(永原家の祖先)」という系譜が描けるのかも知れません。しかし、これはあくまで「想像」の世界です。どちらにしても、買田岡下遺跡は、古代の郡衛的施設ではないが、中世につながる有力者の拠点集落であったとは云えるようです。
 私がもうひとつ気になるのは、この遺跡が真野郷西部にあって、条里区画外であることです。
条里制 丸亀平野南部

上の条里制遺構図をみても赤い条里制跡は、買田岡下遺跡には及んでいません。これはここが古代の郷の中心部ではないことを示します。そういう目で、真野・吉野方面を見ると、四条方面から岸の上方面へと条里制は伸びています。丸亀平野の条里制のスタートは、7世紀末頃にスタートしたことが発掘調査から分かっています。そして、それを担ったのが国造クラスの豪族達で、彼らがその論功行賞で郡司へと成長して行くと研究者は考えています。そうだとすれば、このエリアにも条里制工事を進めた豪族がいたはずです。それが古墳時代に、買田峠に群集墳を造り、岸の上の椿谷に横穴式古墳を造営し、白鳳期になると四条地区に氏寺として弘安寺を建立したと私は考えています。しかし、その氏族の拠点としては、買田岡下遺跡は相応しくないように思えます。
以上、買田岡下遺跡について、まとめておきます。
①この遺跡は、古代には真野郷西部の条里区画外にあること。郷の中心部ではない。
②真野・吉野郷の中心は、弘安寺のあった四条地区にあったと考えられる。
③にもかかわらず買田岡下遺跡からは、帯金具や緑釉や、瓦片が多数出土しているので、この遺跡は特別な役割を持った拠点だった。
④その性格として、香川~阿波~高知のルート上にあるという立地を最大限に評価すべきと研究者は考えていること。
⑤建物配置から、郡衛の様な政治拠点ではなく、古代有力者の屋敷群であったと研究者は考えている。
⑥古代の屋敷群を継承するような形で、中世・近世の建物群が続いてあった。
⑦この遺跡のすぐ南には、丸山城城主が帰農した永原氏の家が現存すること。
⑤古代と中世では、この集落は全く別の意図で成立したことが集落であったこと。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
買田岡下遺跡調査報告書 2004年
関連記事

滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 陶の親戚に盆礼参りに行くことを伝えると、「ちょうど滝宮念仏踊りのある日じゃわ。一緒に見に行かんな」と誘われました。実は、私は今まで一度も見たことがないので、いい機会だと思って「連れて行ってください。お願いします」と頼みました。
 今年になって佐文綾子踊りの事務的な御世話をすることになって、いろいろなことを考えるようになりました。この際、滝宮念仏踊りを見ながら、佐文念仏踊りについて考えて見たいと思ったのです。
 昼食を済ませて少し早めに会場に向かいます。

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てっきり、滝宮神社で踊られるものと思っていたら、昼の会場は滝宮天満宮でした。滝宮神社では、朝の8;30から奉納が行われていたようです。炎天下に朝昼のダブルヘッター公演です。演じる方は大変だと思います。
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滝宮天満宮に奉納された御神酒
  拝殿にお参りに行くと各踊組からの御神酒が奉納されてありました。一升瓶は12本あり、1本1本に奉納組の名前が書かれています。12組の踊組が出演することがわかります。例年は、3組ずつの公演なのですが、今回はコロナ開けの特別公演で、惣踊りになるようです。下側に張られたグループ分けの紙を見ると、3組ずつがグループとなって、4公演となるようです。

滝宮念仏踊り 御神酒
滝宮天満宮に奉納された12本の御神酒(西分奴組を含む)
第1組 北村 千疋  萱原
第2組 東分 山田上 山田下
第3組 西村 石川  羽床上
第4組 北村 小野  羽床下
これが江戸時代の「南条組」だったようです。南條組が、今は旧綾南・綾上町の11組に分けて、その中から毎年3組ずつが1グループとして奉納します。そして5年に一度、11組全部で踊る総踊りが行われているようです。滝宮天満宮に奉納されていた12本の御神酒は、「西分組 + 11組の踊組」からのもののようです。
 4年で一巡して、5年目が惣踊りということになります。
 ここでは、「旧南條組=現滝宮念仏踊り」で、それが11組に分かれていること。11組で4グループを作って、そのグループごとで毎年奉納していることを押さえておきます。この11組の念仏踊り組の総称が、現在は「滝宮念仏踊り」と呼ばれているようです。
 別視点から見ると、この11組は中世には滝宮神社(滝宮牛頭天皇社)の信仰圏下にあったエリアで、踊り念仏が時宗の念仏聖によって伝えられた地域だと私は考えています。
幕末の西讃府誌には、滝宮念仏踊りのことが次のように記されています。(意訳)。
大日記には次のように記されている。延喜三年二月廿五日、菅原道真五十七歳の時、①雨乞成就に感謝して、毎年7月25日に瀧宮で舞曲祭を行う。俗にいう瀧宮の踊りとは、②七ケ村(まんのう町)南條・北條・坂本などの4ヶ所から年毎、異なる組の者が踊り込みを行う。但し、北條組については、踊り込み年が定まっていない。7月16日から25日までは、③各地域の神社に踊りが奉納される。しかし、瀧宮に奉納するのが主とされるので、④瀧宮踊と呼ばれている。

  整理・要約すると次の通りです。
①雨乞い踊りのために踊るとは書いていない。雨乞成就に感謝してとされていること。
②踊りを奉納するのは、七ケ村(那珂郡:まんのう町)・南條・北條・坂本(鵜足郡・丸亀市)の4ヶ所だったこと
③滝宮への奉納以前に、地元の各村神社に奉納されて、最後の奉納が滝宮牛頭天皇社であったこと。
④「滝宮念仏踊り」とは書かれていない。「瀧宮の踊り」「滝宮踊」であること

③には、17世紀には踊組は、七ケ村(那珂郡:まんのう町)・南條・北條・坂本(鵜足郡・丸亀市)がローテンションで務めていたとあります。七ケ村(那珂郡:まんのう町)と、北條組は今は奉納されていません。
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滝宮天満宮への滝宮念仏踊りの入庭(いりは)

西讃府誌を続いて見ていきます。
 この踊りは、普通の盆踊とは大きな違いがある。⑤下知(芸司)と呼ばれる頭目が、花笠を被って袴を着て、大きな団扇を打ち振って、「なつぱいぎうや(南無阿弥陀仏)」と云いながら曲節に併せて踊る。
小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、袴をつけ、襷(たすき)をかけて、下知の団扇にあわせて踊る。又鼓・笛・鉦を鳴らすものもいる。彼らはそれぞれ花笠・襷で、踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっている。しかし、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。こうして踊りが終ると、下知が「願成就なりや」と高かに云う。これが一場(ヒトニワ)で、一成(ヒトキリ)で、これを「なつばいどう」と呼ぶ者もある。
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 滝宮念仏踊り 滝宮天満宮への入庭(いりは=入場)
⑤の「下知(芸司)の由来について、見ておきましょう。
 以前にお話した兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊の「頭目」は「新発意(しんほつい)」と呼ばれます。

百石踊り - marble Roadster2
      百石踊の「新発意(しんほつい)」は僧服

新発意(下司)役は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装をし、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧の姿を表したものとされます。遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」だと研究者は考えています。
 百石踊は僧侶の扮装をした新発意役(新参僧侶)が主導するので、「新発意型」の民俗芸能のグループに分類されるようです。滝宮念仏踊りや綾子踊りも「頭目=下知(芸司)」が指導するので、このグループの風流踊りに分類されます。ちなみに綾子踊りも言い伝えでは、空海が踊りを綾子一族に教えたとされます。空海が「頭目」として踊りを指導したことになります。つまり、このタイプの「頭目=下知(芸司)」とは、もともとは踊りを伝えた「芸能媒介者」は修験者や聖達だったと研究者は考えています。

それは、下司の着ている服装の変化からも裏付けられます。
①古いタイプの百石踊の「下司」は「新発意(しんほつい)=僧侶」で、法衣のうえから白欅をした僧衣
②それが綾子踊りの芸司は「裃」で庄屋の格式衣装
③滝宮念仏踊りの下司(芸司)は、現在は陣羽織
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滝宮念仏踊りの入庭 陣羽織姿の下司たち
つまり、中世は僧衣であったものが、江戸時代に「裃」になり、現代は金ぴかの陣羽織に変化してきたことがうかがえます。

隣にやって来た地元の研究者が、次のように教えてくれました。

「戦前までは、各組の下司は、麻の裃を着て踊っていた。ところが麻やかすりの裃は、もうない。特注扱いで高価で手がでん。そこで、ある組の下知が派手な陣羽織にしたら、全部右へなれいになりました。」

 これを以前の私ならば「昔のままの衣装を引き継ぐのが大原則とちがうんかいなあ」と批判的に見たかもしれません。しかし、いまでは共感的に見ることができます。それは、ユネスコ登録が大きな影響を与えてくれたように思います。
風流踊り ユネスコ登録の考え方
ユネスコ文化遺産と無形文化遺産の違い

ユネスコ無形文化遺産の精神は、
「フリーズドライして、姿を色・形を変えることなく保存に努めよ」ではないようです。
ユネスコ

「無形文化財の変遷過程自体に意味がある。どのように変化しながら受け継がれてきたのかに目を向けるべき」といいます。
ユネスコ無形文化財の理念3

つまり、継承のために変化することに何ら問題はないという立場です。これには私は勇気づけられました。かすりや麻の裃にこだわる必要はないのです。金ぴかの陣羽織の方が「風流」精神にマッチしているのかもしれません。変化を受入れて、継続させていくという方に重心を置いた「保存」を考えていけばいいと思うようになりました。その対応ぶりが綾子踊りの歴史になっていくという考えです。

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「南無阿弥陀仏」幟(滝宮念仏踊り)

法螺貝が吹かれ、太鼓と鉦が鳴らされ、踊りが始まります。
3人の各組の下司が並んでおどりはじめます。西讃府誌には「なつぱいぎうや」と云いながら曲節に併せて踊る。」と記されていますが私には「なもあ~みどうや(南無阿弥陀仏)と聞こえてきます。これは念仏七遍返しといって、次のような文句を七回で繰り返すようです。
お―な―むあ―みどおお―え
お―な―むあ―みどお…え
お―な―むあ―あみどんどんど
は―なむあ―みどお―え
お―なつぼみど―え
は―な―んまいど―え
な―むで ノヽ /ヽ
単調なリズムの中で、下司が大団扇を振り、廻しながら飛び跳ねます。三味線のない単調さが中世的なリズムだと私は感じています。この踊りの原型が一遍や空也の踊り念仏で、それが風流化するなかで念仏踊りに変化していったと研究者は考えているようです。これも風流踊りの変遷のひとつのパターンです。

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下司達の惣踊り(滝宮念仏踊り)

もうひとつ気になるのは、江戸時代に那珂郡七箇村踊りが奉納していた踊りが念仏踊りだったのかという疑問です。
いまは「滝宮念仏踊り」と言われますが、西讃府誌には「瀧宮の踊り」「滝宮踊」とあります。江戸時代前半の史料にも、「滝宮念仏踊り」と表記されているものの方が少ないような気がします。そこで思うのが、ひょっとして、念仏踊りではなく、中には小歌系風流踊りを奉納していた組もあるのではないかという疑問です。特に七箇村の踊りが気になります。
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        滝宮念仏踊りのきらびかな花笠


以前にお話ししたように、国の無形文化財の佐文綾子踊りと七箇村の踊りは、ともに佐文がメンバーとして関わっていて、踊り手の構成が非常に近い関係にあります。七箇村の踊りは、佐文綾子踊りのように小歌系の風流おどりであった可能性があるのではと、私は考えています。つまり、奉納されていた踊りが、すべて念仏踊りではなかったという説です。これは今後の課題となります。
以上、滝宮念仏踊りを見ながら考えたことの一部でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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記念にいただいた滝宮念仏踊りの団扇です。

参考文献   綾川町役場経済課 ◎滝宮の念仏踊りの由来

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   佐文綾子踊り
「綾子踊り」の里の住人として、次のような疑問を持っています。
①雨乞い踊りとされているのに、詠われる歌は恋歌ばかりで雨に関する内容が少ないのはどうしてか。
②綾子踊りが風流踊りに分類されるのはどうしてか。
③滝宮神社に奉納されていた那珂郡南の七箇村念仏踊りの構成員だった佐文が、どうして綾子踊りを踊り始めたのか。
④七箇村念仏踊りと綾子踊りは、衣装などはよく似ているがどんな関係にあるのか。
⑤綾子踊りと、高瀬二宮神社のエシマ踊りとは、どんな関係にあるのか
⑥佐文で綾子踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになったのはいつからなのか。

 いまは各地で雨乞い踊りとされる風流踊りは、もともとは雨乞成就のお礼として奉納された風流踊りでした。
滝宮念仏踊りも坂本組の由緒には「菅原道真の雨乞い成就のお礼として踊った」と書かれています。近世後半になるまでは、雨乞いが行えるのは修行を経た験の高い僧侶や山伏にかぎるとされ、百姓が雨乞いをしても効き目があるとは思われていませんでした。そのため各藩は、白峰寺や善通寺に雨乞いを公的に命じています。村々の庄屋は、山伏たちに雨乞いを依頼しています。村人自身が雨乞い踊りを踊ることは中世や近世前半にははかったようです。
 そんな中で、綾子踊りの縁起は、雨乞い手法を空海から伝えられたとして、雨乞いのために踊ることを口上で明確に述べます。これをどう考えればいいのかが、私の悩みのひとつです。
 もうひとつは、綾子踊りの歌詞や踊り、鳴り物、衣装、幟などが、どのようにして佐文に伝えられたのか、別の言い方をすると、誰がこれを伝えたのかという問題です。風流踊りの研究者達は、諸国廻遊の山伏(勧進聖・高野聖)たちが介在したとします。それが具体的に見えてくる例を、今回は追って見ようと思います。テキストは「大森恵子 風流太鼓踊りのなかの勧進聖 踊り念仏の風流化と勧進聖153P」です。
百石踊り 駒宇佐八幡神社(ふるさと三田 第16集)( 三田市教育委員会 編) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋

研究者が取り上げるのは、兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊です。
駒宇佐八幡神社では、毎年11月23日の新穀感謝祭の日に、上谷と下谷の氏子が一年交代で百石踊りを奉納します。これはもともとは雨乞祈願の願成就のお礼踊りで、「願解き踊り」とも呼ばれていました。それが時代が下るにつれて、雨乞祈願の踊りとされます。

駒宇佐八幡神社|兵庫県神社庁 神社検索
百石踊り
百石踊りの踊り役構成は、次の通りです
①新発意役二名
②太鼓踊り子役一三~二〇名
③幡踊り子約二〇名
④鉄砲方二名、
⑤青鬼役一名
⑥赤鬼役一名
⑦山伏役二名
⑧笠幕持ち一名
⑨幟持ち役一名
駒宇佐八幡神社 百石踊り : ゲ ジ デ ジ 通 信

①の新発意(しんほつい)というのは「新たに仏門に入った者」のこことで、場所によっては「いつか寺を継いでいくこども」を「新発意」(しんぽち)ともよぶそうです。

研究者が注目するのは、この新発意役です。
その衣裳は僧形で、白衣のうえに墨染めの法衣を着て、裾をたくって腰でからげます。法衣のうえから白欅をして、背中で蝶結びにします。笠の縁を赤いシデで飾り、月と日(太陽)形の切り紙を貼った編笠を被り、右手に軍配団扇、左手に七夕竹を持つ。踊りが始まる直前に新発意役は口上を述べ、踊りの開始とともに太鼓役を先導して踊ります。
百石踊り(駒宇佐八幡神社) | ドライブコンサルタント
僧姿の新発意役

この役は口上を述べ、諸々の踊り役を先導します。このように百石踊りでは、僧侶の扮装をした新発意役が踊りの口上を述べたり踊りを先導したりするので、「新発意型」の民俗芸能のグループにも入れることができます。
 百石踊りは、さまざまな衣装の踊り役や、あるいはきらびやかに飾った「幡」や「笠幕」を所持する役などで構成されているので、「風流踊り」の一種とされます。特に笠幕持ち役は、下谷・上谷とも駒宇佐八幡神社境内にある岩倉(巨石)の前で、「笠幕」と呼ぶ神の依り代を踊りの間ずっと捧げ持ちます。笠幕とは、釣鐘状の造り物の上に金襴の打ち掛けを重ねて、きらびやかに飾った形です。側踊りの締太鼓を手に持つ「太鼓踊り子役」が、新発意役を取り囲むようにして踊るスタイルなので、百石踊りは「太鼓踊り」にも分類できます。
 戦前までは家格によって踊り役が決まっていて、新発意役を演じることができれば、たいへん名誉なこととされたようです。以上から百石踊りは、古態を伝える典型的な新発意踊りで「新発意型風流太鼓踊り」の特徴を伝える民俗芸能と研究者は考えています。

百石踊り - marble Roadster2
百石踊りの新発意役

百石踊りの新発意役をもう少し詳しく見ていくことにします。
新発意役は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装をし、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都の姿を表したものであると伝えられます。元信という天台宗の遊行僧が文亀年間に生存し、雨乞祈席を修したかどうかは分かりません。ただ、遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などに関与したこと以前にお話ししました。百石踊り成立過程において、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。
研究者は注目するのは、次の新発意役の持ち物です。
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。本願の象徴として、
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
を好んで使用したとされます。彼らは大念仏を催して人々から頼まれたいろいろな祈願を行う際に、自分たちの属する教団の示す象徴が必要でした。そのシンボルが、瓢箪と七夕竹だったようです。空也系聖と禅宗系聖の両方を混合したのが高野聖になります。ここからは、採り物についても百石踊りの成立過程には、下級宗教者(高野聖など)の関わりがうかがえます。
民俗芸能にみられる「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。
 新発意役は僧形をし、聖の系統を表す瓢箪や七夕竹・団扇などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べることを押さえておきます。しかし、時代の推移とともに新発意役の衣装も風流化し、僧形のいでたちで踊る芸能は少なくなったようです。今では被り物・採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっています。その中で、僧姿で踊る百国踊りは、勧進僧の風流踊りへの関与を考える際に、貴重な資料となります。

百石踊りは「百穀踊り」とも記されています。
それは、大掛かりな踊りのため一回の踊りを奉納すると、百石の米が必要っだことに由来するようです。百石踊りの発生由来は「神社調書」のなかに、次のように記されています。
後柏原天皇文亀三年 天台僧元信国中遍歴の途、当社社坊天台宗弥上山常楽寺へ立寄り滞在せしところ、其夏大いに旱し民百姓雨を神仏に祈りて験なし時に、元信僧都之を慨き沐浴斎戒して八幡宮の森に忌籠り断食して祈る事、七日七夜に及ぶ。 二日目の子の刻頃元信眠を催し、士の刻頃其場に倒れたり、其時夢現の問多くの小男小女元信の周囲を取巻き、小男は手に鼓を打鳴し、小女は之に合わせて五色の幣を附けたる長き杖を突き、片手に日の丸の扇子を携え歌を奏しつゝ雨を乞ひしに、八幡大神は社殿の扉を開き出御の上、此有様を見そなはせしに、東南の風吹き起こて黒雲を生じ、中より大幣小幣列をなして下り来たると、夢みて醒むれば夜将に明けんとし、其身辺に大小の蛇葡萄せり、而も其蛇は大中小と順を正し、傍の老杉の本に登ると見るや、微雨点々顔面に懸るを覚へたり。(中略)
 巳の刻より降雨益々多く未申の刻より暴雨盆を覆すが如きこと三ヶ日に及び、諸民蘇生の思を起し喜び一方ならず、村民元信を徳とし、八幡宮へ願解祭を奉仕するに当り、 元信夢むところの小男小女の踊を仕組み、元信を頭として老若男女打ち揃い七日七夜境内に踊りて、雨喜の報塞祭を奉仕せり、之より年旱して祈雨の験有れば此踊を奉仕し、其種類も次の通なり。
  意訳変換しておくと
後柏原天皇文亀三(1503)年に、天台僧元信は諸国遍歴の際に、当社社坊(別当寺)天台宗弥上山常楽寺へ立寄り滞在していた。その夏は、大変な旱魃で、民百姓は雨を神仏に祈願したが効果はなかった。そこで、元信僧都は、これを憐れんで沐浴斎戒して八幡宮の森に忌籠り断食して、七日七夜祈った。 二日目の子の刻頃、元信は睡魔に襲われ、その場に倒れ眠り込んでしまった。その時に夢の中に、多くの小男小女が元信の周囲を取巻き、小男は手に鼓を打鳴し、小女はこれ合わせて五色の幣をつけた長い杖を突いて、片手に日の丸の扇子を携えて、歌を詠いつつ、雨乞い踊りを踊った。 この時に八幡大神は、社殿の扉を開きこのようすを見守った。すると、東南の風が吹き起こて黒雲が現れ、その中から大幣小幣が列をなして降ってきた。夢から覚めると、まさに夜が明けようとしている。その身辺に大小の蛇が多数現れ、大中小と順番に並んで、傍の老杉の木に登っていく。すると雨点が顔面に点々と降ってきた。(中略)
 巳の刻からは、雨は益々多くなり、未申の刻からは暴雨で盆を覆す雨が三ヶ日間降り続いた。これを見て諸民の喜びは一方ならず、元信の雨乞い成就を感謝して、八幡宮へ願解祭を奉仕するようになった。その際に、元信の夢中に表れた小男小女の踊を仕組み、元信を頭として老若男女打ち揃って七日七夜境内に踊りて、雨乞い成就の感謝と喜びを報塞祭として奉仕した。こうして旱魃の際には、雨乞成就の験があればこの踊りを奉仕するようになった。その種類は次の通りである。

要約すると次のようになります。
①元信と名乗った天台系の遊行聖が駒宇佐八幡宮の社坊(神宮寺・別当寺)に立ち寄り滞在中に、雨乞祈祷を行ったこと
②その踊り構成は、男女の子供たちが元信を取り巻き、男子は鼓を持って打ち鳴らし、女子は五色の御幣が付いた長い杖を突き、片手に日の丸の扇を持って歌を歌いながら踊るというものだったこと
③おびただしい蛇が現れ、列を成して老杉に登って行ったこと。
④蛇が老杉の先端に到着すると微雨が降り始め、そのうち豪雨になったこと。「蛇=善女龍王伝」説を汲んでいること
⑤氏子は、元信の夢告を信じ、夢のなかの雨乞踊りを再現し願解き(雨乞成就感謝)踊りとして踊った。
 以上のように、この踊りは雨乞祈願成就の感謝として踊られてきました。それがいつの頃からか、駒宇佐八幡神社の祭礼にも踊られるようになります。百石踊りは雨乞呪術のおどりであったことをここでは押さえておきます。百石踊りが雨乞祈願の目的で踊られるようになるのは、宝永七年(1710)のことで、以後旱魃の時に15回ほど踊られたことが宇佐八幡神社の記録に残されています。
ここからは駒宇佐八幡神社は、雨乞に霊験あらたかな神社として、地域の信仰を集めてきたことが分かります。そして18世紀前期からは、頻繁に雨乞代参をうけたり、雨乞祈祷を行っています。それを裏付けるのが次のような資料です。
①天和2年(1682)の「駒宇佐八幡宮縁起」の奥書に「「一時早魃之年勅祈雨千当宮須雙甘雨済泣於天下」とあること
②「駒宇佐八幡神社調書」にも城主九鬼氏による雨乞祈願が享保九年、明和二年、明和七年、明和八年などに、頻繁に行われたこと
雨乞いの百石踊り/三田市ホームページ
百石踊り
それでは、雨乞祈祷を行っていたのは誰なのでしょうか?
「駒宇佐八幡神社調書」には、雨乞祈祷は、駒宇佐八幡神社の別当寺であった常楽寺の社僧が行ったことが記されています。ここでは、駒宇佐八幡神社は江戸時代中期ころには、雨乞祈願に霊験あらたかな八幡神=「水神八幡」として地域の信仰を集めていたことを押さえておきます。
 百石踊りの芸態を伝えたのは誰なのでしょうか?
由来伝承には、「元信と名乗る天台系の遊行聖」と記されていました。ここからは、諸国を廻り勧進をした遊行聖の教化活動があったことがうかがえます。その姿が百石踊りの新発意役の僧姿として残存し、現在に至っているのでしょう。これを逆に見ると別当寺の常楽寺は、近世中期以降において遊行聖たちの播磨地方の拠点となり、雨乞や武運長久・豊穣祈願などを修する寺として、近畿地方一円に名を馳せていたことがうかがえます。このような理由で駒宇佐八幡神社のほかにも古来、武運長久の神とされ武士に信仰された八幡神が、雨乞に霊験ある神とも信じられるようになり、その結果、八幡神社に雨乞踊りが奉納されるようになったと研究者は考えています。
  以上播州の駒八幡神社と別当寺の関係、それをとりまく勧進僧(修験者・山伏)の動きを見てきました。
これを讃岐の滝宮念仏踊りに当てはめて、私は次のように考えています。
①滝宮念仏踊りが奉納されていたのは、牛頭大権現(現滝宮神社)であった。
②その別当寺は、龍燈寺で播磨の書写山などとのつながりが深い山伏寺であった。
③龍燈寺の勧進聖達は、牛頭大権現のお札を周辺の村々に配布して牛頭信仰を広めるとともに、同時に一遍時衆の踊り念仏を伝えた。
④こうして、周辺の村々から牛頭大権現(現滝宮神社)への踊り込みが行われるようになった。
⑤戦国時代から近世初頭には、牛頭大権現や別当寺(龍燈寺)も一時的に衰退し、踊り念仏も取りやめになっていた。
⑥それを「雨乞いのため」という大義名分をつけて復興したのが、高松藩藩祖の松平頼重である。
⑦こうして、もともとの龍燈寺の勧進僧(山伏)がテリトリーとしていた村々からの念仏踊りが復活した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  大森恵子 風流太鼓踊りのなかの勧進聖 踊り念仏の風流化と勧進聖153P」
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西讃府志に滝宮念仏踊と佐文綾子踊がどのように載せられているのかを、今回は見ておきたいと思います。

西讃府志 表紙
西讃府志
最初に滝宮念仏踊りを見ていくことにします。西讃府史には「滝宮踏舞」と題されています。
大日記曰く、延喜三年二月廿五日、菅氏(菅原道真)五十七歳、云々讃岐国民、至今毎歳七月二十五日、於瀧宮為舞曲祭之、俗謂瀧宮躍夫コノ踊ハ、七ケ村・南條・北條・坂本等ノ四処ヨリ年替ソニ是ヲ務ム、但シ北條ハイツノ年卜云定リナシ、七月十六日比ヨリ二十五日ノ比マデ、其アタリアタリノ氏社ニテ踊ル也、サレド瀧宮ヲ主トスンバ瀧宮踊卜云ナリ、
コハ盆踊ナドトハ其状大ニカハレリ、下知トテ頭タルモノ一人アリ、花笠フカブキ袴フ着テ、大キナル団扇ヲヒラメカシ、なつぱいぎうやヽ 卜云吉ヲ曲節トシテズヲドル、サテ小踊トテ十三二歳歳バカリノ童子花笠フカツキ袴フツケ、襷(たすき)ヲカケ彼下知ガ団扇ノマヽ二踊ル、又鼓笛鉦ナト鳴ス者アリ、イツレモ花笠襷ナドツケタリ、踊子鉦ウチ鼓ウチナドノ数モ定リアレド、各庭ニヨリ多少アリ、カクテ踏舞終リヌル時、彼下知ナル者、願成就なりや卜高フカニイフ、是ヲ一場(ヒトニワ)卜テ,一成(ヒトキリ)ナリ、又なつばいどう卜云者アリ、菅笠ノ縁二赤青ノ紙ヲ切リ垂レ、日月フ書ケル団扇ヲモチ、黒キ麻羽織キタルアリ、又なもでトテ、サルサマシテ、鉦モチタルアリ、此等幾十人卜云数ヲシラス、叉螺ナド吹モノモアリ、皆各其業アリト云、叉大浜浦ニモ瀧宮踊卜云ヲスル也、コハ名ノ同シキノミニテ、踊ハ尚常ニスル盆踊二異ナラズ、
  意訳変換しておくと
大日記には次のように記されている。延喜三年二月廿五日、菅原道真五十七歳、讃岐国は毎歳七月二十五日に瀧宮で舞曲祭を行う。俗にいう瀧宮の踊りとは、七ケ村(まんのう町)南條・北條・坂本などの4ヶ所から年毎に異なる組の者が踊り込みを行う。但し、北條組については、踊り込み年が定まっていない。7月16日から25五日までは、各地域の神社に踊りが奉納される。しかし、瀧宮に奉納するのが主とされるので、瀧宮踊と呼ばれている。

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滝宮念仏踊り(午前は 滝宮神社 午後は滝宮天満宮) 

 この踊りは、盆踊とは大きな相違点がある。下知(芸司)と呼ばれる頭目が一人いて、花笠を被って袴を着て、大きな団扇を打ち振って、「なつぱいぎうや」と云いながら曲節に併せて踊る。

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滝宮念仏踊の幟「南無阿弥陀仏」 
小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、袴をつけ、襷(たすき)をかけて、下知の団扇にあわせて踊る。又鼓・笛・鉦を鳴らすものもいる。彼らはそれぞれ花笠・襷で、踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっている。しかし、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

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滝宮念仏踊り 入庭

 こうして踊りが終ると、下知が「願成就なりや」と高かに云う。これが一場(ヒトニワ)で、一成(ヒトキリ)で、これを「なつばいどう」と呼ぶ者もある。

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滝宮念仏踊の花笠
菅笠の縁に赤・青の紙を垂らし、日月と書いた団扇を持って、黒い麻羽織を着る。又なもでトテ、サルサマシテ(?)、鉦を持つ者もいる。これらを併せると総勢は数十人を超える。叉法螺貝などを吹くものもいる。それぞれ各役目がある。叉大浜浦にも、瀧宮踊が伝わっている。名前は同じだが、こちらは普通の盆踊と同じである。


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滝宮念仏踊 惣踊り(滝宮天満宮)
西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①菅原道真の雨乞成就に感謝して捧げられたとは記されていない。「讃岐国は毎年7月25五日に瀧宮で舞曲祭を行う。」とだけ記す。また「滝宮念仏踊り」という表現は、どこにもない。
②瀧宮の踊込みに参加していたのは、七ケ村(まんのう町)・南條・北條・坂本などの4組であった
③4組が毎年順番で担当していたが、北條組については、踊り込み年が定まっていなかった。
④滝宮への踊り込みの前の7月16日から25日までは、各地域の神社に踊りが奉納されていた。
⑤この踊りは盆踊とちがって下知(芸司)が指揮した
⑥小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、下知の団扇にあわせて踊る。
⑦踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっていが、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

綾子踊り 全景
綾子踊り(佐文加茂神社)
次に西讃府志の「綾子踏舞」を見ておきましょう。

西讃府志 綾子踊り
西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊

佐文村二旱ノ時此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏社トニテスルナリ、是レニモ下知一人アリ。上下ヲ着、花笠カヅキ、大キナル団扇もテリ、踊子六人、十歳アマリノ量子ヲ、女千ノ姿二作リ、白キ麻衣ヲキセ赤キ帯ヲ結ビタレ、花笠ヲカヅキ、扇ヲモチタリ、叉踊ノ歌ウタフ者四人、菅笠ヲキテ上下ツケタリ、叉菅笠ノ縁二亦青ノ紙ヲ切テ付タルヲカヅキ、袴フツケ、木綿(ユフ)付タル榊持夕ル二人、又花笠キテ鼓笛鉦ナドナラス者各一人、
サテ踊始ントスル時 ヲカヅキ襷ヲ掛、袴フ高クカカゲ、長刀持夕ルガ一人、シカシテ棒持タルガ一人、其場二進ミ出、互ニイヒケラク、

意訳変換しておくと
佐文村に旱魃の時に踊れば、必験ありとして、龍王社と氏社の加茂神社で踊られる。これも下知(芸司)が一人いて、裃を着て、花笠を被り、大きな団扇を持つ。踊子(小躍)6人は、10歳ほどの童子を、女子の姿に女装し、白い麻衣を着せて、赤い帯を結んで、花笠か被り、扇を持つ。叉踊の歌を歌う者四人(地唄)は、菅笠を被り裃を着る。菅笠の縁には青い紙を垂らす。又、袴を着て、木綿(ユフ)付けた榊持が二人、又花笠キテ鼓笛鉦などを鳴らす者各一人。
 踊り始める前には、襷掛けし、袴着た、薙刀と棒持ちが、その場に進み出て、次のような問答を行う。

西讃府志 綾子踊り2
        西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2

踊り前の薙刀と棒振りとの問答
しはらく′ヽ、先以当年の雨乞所願成就、氏子繁昌耕作一粒萬倍と振出す棒は、東に向てごうざんやしゃ、某が振長刀は南に向てぐんだりやしゃ、今打す棒は西に向て大いとくやしゃ、又某か振長刀は北に向かいてこんごうやしゃ、中央大日、大小不動明王と打はらひ、二十五の作物、根は深く葉は廣く、穂ふれ、虫かれ、日損水損風損なきよう、善女龍王の御前にて、悪魔降伏切はらふ長刀は、柄は八尺、身は三尺、神の前にて振出は礼拝、叉佛の前はをがみ切、主の前は立ひざ切、木の葉の下はうずめ切、茶臼の上はまはし切、小づ主収手はちがへ切、磯うつ波はまくり切、向献はから竹割、逃る敵は腰のつがひを車切、打破うかけ廻り、西から東、北南くもでかくなは、十文字ししふつしん、こらん入(にゅう)、飛鳥の手をくだき、打はらひ、天の八重雲、いづのちわき、利鎌を以て切はらひ、今紳国の政、東西南北と振棒は、陰陽の二柱五尺二十ゑいやつと振出す、某つかふにあらねども、戸田は三、打しげんはしんのき、どうぐん古流、五方の大事、表は十二理に取ても十二本、しばはらひ、腰車、みけん割、つく杖、打杖上段中段下段のかゝうは、鶴の一足、鯉の水ばなれ、夢の浮橋、三之口伝、四之大手、悪魔降伏しづめんが為、大切之一踊、はや延引候へば、いざ長刀ぎの参うやつど」
 
綾子踊り 薙刀
綾子踊 薙刀問答

薙刀と棒振りの問答の後、いよいよ踊奉納が次のように始まります。

西讃府志 綾子踊り3
       西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2
カクテ暫ク打合サマンテ退ク、歌謡ノ者各其座ニツクナリ、サテ下知ノイヘルハ、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 サテ歌ウタフ者、歌書タル本を開き、馨ヲソロヘテウタフ、例ノ下知進ミ出、団扇ヲヒラメンテ踊ル、踊子三人ヅツ二行二並ピ、下知ガ団扇ノマヽ二扇ヲ打フリテ踊ル、鼓笛鉦ナド持タル、其カタヘ並立テ曲節ヲナス、其後二榊持タル人立テ共節毎ニヒイヨウナドト声ヲ発して、節ヲナスウタフ節ハ今ノ田歌ニイト似タリ、其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ
  意訳変換しておくと
  しばらく棒振りと薙刀による演舞が行われた後に退く。その後に、歌謡の者がそれぞれの定位置に着く。そこで下知(芸司)が次のように云う。、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 地唄は、歌書を開いて、声を揃えて詠う。下知が進み出て、団扇を振りながら踊る。小躍りは三人ずつ二行に並んで、下知の団扇に合わせて、扇を振って踊る。鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。調子や節は、今の田歌に似ている。最初に詠うのが水踊で、以下、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ。その歌詞は次の通りである。

西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①佐文村では旱魃の時に、龍王社と加茂神社で綾子踊りが雨乞いのために踊られている
②その形態は。下知(芸司)・女装した踊子(小躍)6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各一人などである。
③踊り前に、薙刀と棒持の問答・演舞がある(全文掲載)
④演舞の後、下知(芸司)の口上で踊りが開始される
⑤地唄が声を揃えて詠い、下知が団扇を振りながら踊り、小躍り、扇を振って踊る。
⑥鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。
⑦調子や節は、今の田歌に似ている。
⑧以下踊られる12曲の歌詞が掲載されている

西讃府志 郡名
西讃府志 那賀郡・多度郡・三野郡・苅田郡の郷名
   丸亀藩が領内全域の本格的地誌である西讃府志を完成させたのは、安政の大獄の嵐が吹き始める安政五(1858)年の秋でした。
これは資料集めが開始されてから18年目の事になります。西讃府志は、最初は地誌を目指していたようで、そのために各村にデーターを提出することを求めます。それが天保11(1840)年のことでした。丸亀藩から各地区の大庄屋あてに、6月14日に出された通知は次のようなものでした。(意訳変換)

加藤俊治 岩村半右衛門から提出されていた西讃・播磨網干・近江の京極藩領分の地誌編集について許可が下りた。そこで古代からの名前、古跡、神社鎮座、寺院興立の由来、領内の事跡などについても委細まで調べて書き写し、その村方周辺の識者や古老などの申し伝えや記録なども、その組の大庄屋、町方にあっては大年寄まで指し出し、整理して10月中までに藩に提出すること。

ここからは次のようなことが分かります。
①「旧一族の名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来」を4ヶ月後の10月上旬までに提出することを大庄屋に命じていること。
②家老・佐脇藤八郎からの指示であり、藩として取り組む重要な事柄として考えられていたこと
藩の事業として地誌編纂事業が開始されたようです。しかし、通達を受けた庄屋たちには、この「課題レポート」にすぐに答えるだけの史料や能力がなくて、何年たっても提出されない有様だったことは以前にお話ししました。各村々の庄屋からの原稿がなかなか提出されず、そのために発行までに18年もの歳月がかかっています。
 私が気になるのは、佐文綾子踊の記述の多さです。
滝宮念仏踊りに比べても分量が遙かに多く、詠われていた地唄の12曲総ての歌詞が載せられています。どうして綾子踊りが、これほど「特別扱い」されているのでしょうか? 滝宮念仏踊りや佐文の綾子踊りが西讃府志に載せられていると云うことは、地元の庄屋が藩への「課題レポート」に買き込んで提出したということでしょう。それをまとめて丸亀藩の学者たちは西讃府志を完成させました。逆に言うと、佐文村の庄屋が綾子踊りについて、詳細に報告したとことが考えられます。それが西讃府志に綾子踊りの歌詞が全曲載せられていることになったとしておきましょう。そして、その歌詞内容が中世に成立していた閑吟集の中にある歌にルーツがあることを中央の学者が気づきます。これが綾子踊りの重要文化財師指定の大きな推進力となったことは以前にお話ししました。
 同時に、幕末には綾子踊りが佐文で踊られていたことの裏付けにもなります。綾子踊りの史料については、地元では昭和になって書かれた史料しか残っていないのです。また、実際に踊らたという記録も明治になってからのものです。近世末に、綾子踊りが踊られていたという西讃府志の記録は、ありがたいものです。

綾子踊り4
佐文綾子踊 芸司と小踊(佐文加茂神社)

 もうひとつ気になるのが佐文は「まんのう町(真野・吉野・七箇村)+琴平町」で構成される七箇村滝宮踊りの中心的な構成員でもあったことです。それが、いろいろな問題から中心的な役割から外されていきます。それが佐文村をして、独自の綾子踊りの立ち上げへと向かわせたのではないかと私は考えています。七箇村の滝宮踊りと、綾子踊りの形態は非常に似ていることは以前にお話ししました。

Amazon.co.jp: 綾子踊 : 綾子踊誌編集委員会: Japanese Books
      祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史(まんのう町)

綾子踊のユネスコ登録を前に、まんのう町は「祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史」という報告書を出しています。これはPDFでネットからダウンロードする事も出来るので簡単に手にすることができます。これが綾子踊に関する今の私のテキストになっています。この報告書末に、綾子踊の年表が掲載されています。今回は、これを見ながら綾子踊がどのようにして、再発見され継承されてきたかを見ていくことにします。

中世の雨乞い踊りについては、以前に次のようにまとめました。
①中世の雨乞祈祷は、修験者など呪力ある者のおこなうものであった。
②村人達は、雨乞成就の時に感謝の踊りを、郷社などの捧げた。
これは、滝宮神社に奉納されている坂本念仏踊りの由来にも「菅原道真の雨乞祈願成就への感謝のために踊った」とかかれていることからも裏付けられます。また高松藩は白峰寺に、丸亀藩は善通寺に、多度津藩は弥谷寺に雨乞祈祷を命じていたのです。これらの真言修験者系の寺院は、空海以来の善女龍王神への雨乞いを公的に行ってきました。ここには庶民の出番はありません。中世や近世までは、神に雨乞ができるのは呪力のある修験者などに限られていて、何の力もない庶民が雨乞いを念じても効き目はないというのが一般的な考えだったことを押さえておきます。村人が雨乞祈祷を行ったのではなく、その成就感謝のために踊ていたのが、いつもまにか雨乞い踊りと伝えられるようになっていることが多いようです。
綾子踊年表1
綾子踊年表
  前置きが長くなりましたが、綾子踊年表を見ていくことにします
年表の最初に来るのは、1875年(明治8年)7月6日の次のような記事です。
七月六日より大順をかけ、十三日踊願い戻し 又十五日、十七日より、夫より二度の願立てをなし、二十三日めなり。それより二十七日めなり。又、添願として神官の者より、自願かけ自願後八月三日に踊り、十一分の雨があり御利生あり

意訳変換しておくと
7月6日に大願を掛けて、13日まで綾子踊を踊った。(それでも雨は降らないので)15日、17日に改めて二度の願立てをし直した。それでも雨は降らない。そこでさらに23日、27日に、添願として神官が自願した。自願後の8月3日に綾子踊を踊った所、十分の雨があった。これも踊りのご利益である

ここには次のようなことが記されています
①雨乞成就のために村人自らが綾子踊りを踊っていること
②7月6日に踊りを始めて、1週間連続で踊り続けたこと
③それでも降らないので願をかけ直し、さらに神官(山伏?)も雨乞祈祷した。
④その結果、雨乞い開始から約1ヶ月後に十分な雨が降ったこと
  最後は「踊りのご利益」としています。ここからは村人達が自分たちの力で雨を降らせたという意識をもっていたことがうかがえます。明治初年には、中世や近世の雨乞祈願とは異なる意識変化があったようです。自分たちで綾子踊を踊り、雨を降らせるというのは「近代的発想」とも云えます。しかし、頻繁にやってくる旱魃の度に、綾子踊りは踊られていたことを史料から確認することはできません。
 また、ここで注意しておきたいのは一番古い記録が明治初期のもので、それ以前のもにについては何もないことです。ここから綾子踊が実際に踊られるようになったのは、近世後半になってからだということがうかがえます。。
綾子踊り 善女龍王
善女龍王の幟(綾子踊・佐文賀茂神社)
 次に記録が残っているのは1934(昭和9)年のことです。
1934(昭和9)年7月16日 かんばつにつき加茂神社にて踊る
1939(昭和14)年かんばつにつき8月9日よりけい古
8月17日 加茂神社・龍王祠前で踊る
8月22日 自雨あり
9月 1日 雨あり
9月11日 お礼踊り

ここには、旱魃のために綾子踊りを踊るための次のような手順が記録されています。
 踊り実施決定 → 稽古 → 実施 → 降雨 → お礼踊り

しかし、本当に明治以後から戦前にかけて頻繁に綾子踊が踊られていたかどうかは、史料からは確認できないようです。
綾子踊りが世間から注目されるようになるのは、戦後のことです。それは、地元から動きではなく、外からの視線でした。丸亀藩が幕末に、各村々の庄屋に命じて提出させたレポートについては以前にお話ししました。そのレポートに基づいて、丸亀藩が編纂したのが西讃府志です。
幕末の讃岐 西讃府志のデーターは、庄屋たちが集め報告書として藩に提出したものが使われている : 瀬戸の島から

この時に、佐文村の庄屋は、綾子踊について報告しています。その中に、踊られる歌詞も記されていました。
西讃府志 綾子踊り
西讃府志の佐文綾子踊についての記述
この歌詞に注目したのが、中央の研究者たちです。ここに収められている歌詞は、中世に成立した閑吟集に起源を持つものがあります。こうして綾子踊りは、中世に起源を持つ風流歌の系譜の上にあるとされるようになります。それを受けて地元でも、記録・復興に向けた動きが出てきます。そして、各地に招かれての次のような公演活動も始まります。

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綾子踊の芸司と子踊り

戦後の復活
1953年12月12日 十郷村文化祭出演(十郷小学校)
     12月13日 香川県公会堂出演(高松市)
1954年8月21日 香川県文化財に指定 綾子踊公開(加茂神社)
1955年3月9日 琴電会社映画撮影 綾子踊公開(加茂神社)
1955年4月2日香川県無形文化財に指定
9月5日  香川県農業祭出演
1960年1月28日 中四国民俗芸能大会出演(岡山市天満屋)
1962年10月30日 仲南村文化祭出演(仲南東小学校)
1966年     4月10日 宮田輝司会 NHKふるさとの歌まつり出演
1968年9月10日 佐文核子踊保存会会則制定
1970年1月21日 第12回香川県芸術祭出演(高松市民会館)
1971年4月11日 国の重要無形民俗文化財として文化庁認定
     8月16日 文化庁選択芸能公開 於加茂神社
1972年8月18日 NHK金曜広場出演(NHK松山放送局)
  8月27日 綾子踊公開(加茂神社)
 11月19日 第15国香川県芸術祭出演(普通寺西中学校)
公開活動を通じて認知度を高め、「1955年 県無形文化財」に指定されます。しかし、これだけでは佐文住民とっては、あまり「意識変化」はなかったようです。大きなインパクトになったのは、1966年に宮田輝司会の「NHKふるさとの歌まつり」への出演です。NHKの人気番組に出演し、全国放送されたことは佐文住民にとっては、「自慢の種」となりました。認知度もぐーんと高まり、「佐文の誇り:綾子踊り」という意識が芽生え始めたのはこの当たりからです。
そして、71年には、国の重要無形文化財」に指定されます。注目度は高まり、NHKなどが頻繁に取り上げてくれるようになります。

綾子踊年表2
綾子踊年表2
1973年12月1日 仲南町文化祭出演(仲南中学校)
1975年8月24日 綾子踊公開(加茂神社)
1976年5月4日 文化庁が重要無形民俗文化財第一回を指定する
        同日 佐文綾子踊が国の重要無形民俗文化財に指定
     6月19日 文化庁より重要無形民俗文化財指定証書交付
     9月 5日 重要無形民俗文化財指定記念事業により綾子踊公開(加茂神社)
76年から三年間、国の補助金を受け、伝承者養成現地公開記録作成事業推進.)
1977年8月14日 重要無形民俗文化財指定の記念碑除幕式と綾子踊公開(加茂神社)
 8月26日 伝承者養成と綾子踊公開(加茂神社)
1978年9月3日 伝水者養成と綾子踊公開(加茂神社)
1979年6月10日 香川用水落成記念式典出演(香川町大野小学校)
7月15日 綾子踊を含む佐文誌編集企画
1980年10月25日 中四国民俗芸能大会出演(高知市RKCホール)
1982年9月 5日 綾子踊公開(加茂神社)
1984年9月 2日 綾子踊公開(加茂神社)
1986年8月24日 綾子踊公開(加茂神社)
1988年7月21日 瀬戸大橋架橋博覧会出演(同博覧会場)
1990年9月 2日 綾子踊公開(加茂神社)
    11月24日 第40回全国民俗芸能大会出演(東京 日本青年館)

綾子踊の継承にとって大きな意味をもつのが「1976年の国の重要無形民俗文化財指定」です。これはただ指定して、認定書を渡すだけでなく、次のような具体的な補助事業が付帯していました。
①三年間、国の補助金を受け伝承者養成事業を行い、隔年毎の公開公演を佐文賀茂神社で行うこと
②公開記録作成を行うと共に、「佐文誌」編集出版
③全国からの公演依頼に応じて行う公演活動に対する補助金支出
こうして隔年毎に公開公演を行う。そのために事前にメンバーを組織して、踊りの練習を公開1週間前から行うことがルーテイン化します。。回を重ねていくごとに芸司や地唄やホラ貝吹きなど、蓄積した技量が求められる役目は固定化し、後継者が育っていきました。また、子踊りには小学生高学年6人が、お踊りは中学生4人がその都度選ばれ、練習を積んで、大勢が見守る中で踊るという形が定着します。かつて、子踊りを踊った子ども達が、今は綾子踊の重要な役目を演じるようになっています。彼らは「継承・保存」に向けても意識が高く、今後の運営の中心を担っていくことが期待できます。現代につながる綾子踊の基礎は、この時期に固められたと私は考えています。

綾子踊り11
賀茂神社に向かう綾子踊の隊列(まんのう町佐文)

1990年代を見ておきましょう。

1992年8月21日 綾子踊公開(加茂神社)
11月 1日 日韓中3ヶ国合同公演出演(県民ホール)
1994年8月21日 綾子踊公開(加茂神社)
1995年2月16日 NHKイブニング香川出演(佐文集荷場)
5月27日 第3回地域伝統芸能全国フェスティバル出演(サンメッセ香川)
1996年8月25日 綾子踊公開(加茂神社)
11月 3日 ブレ国民文化祭総合フェスティバル出演(県民ホール)
1997年5月24日 第5回地域伝続芸能全国フェステンバル島根出演(出雲大社)
 8月31日 NHKふるさと伝承録画 賀茂神社
   10月25日 ブレ国民文化祭オーフニングフェスティバル出演(県民ホール)
1998年4月19日 国営讃岐まんのう公演フェスタ出演
 9月20日 仲南町民運動会40回大会出演(仲南中学校)
1999年10月30日 郷上民俗芸能祭出演(三木町文化交流ブラザ)
2000年8月27日 綾子踊公開(加茂神社)
国指定25周年記念として新潟県柏崎市の綾子舞を招待し、競演
        ※以降、隔年で加茂神社にて公開

この時期は、重要無形文化財指定後に固定化した隔年毎の一般公開が継承されています。同時に、対外的な出演依頼に応えて、各地で公演活動を行っています。

2000年代を見ておきましょう。
2004年10月14日 中四国芸能大会(琴平町金丸座)
2017年11月12日 柏崎古典フェスティバル2017にて綾子舞と共演
2022年11月30日 ユネスコ無形文化遺産に登録
2023年10月 8日 郡上八幡 出演(郡上市総合文化センター)
               11月25日  第70回全国民俗芸能大会(日本青年会館)に出演

これを見ると、対外公演が激減していることが分かります。この背景には何があるのでしょうか?
考えられる事を挙げてみると
呼ぶ側の財政問題 佐文綾子踊は役目が多く、50人近い大所帯での公演になります。これを1泊2日で呼ぶと、交通費や宿泊費だけで100万円をこえる予算が必要になります。民俗芸能よりも経費がかからずに、人が呼べるイヴェント編成を考えるのは担当者としては当然のなりゆきです。

そんな中で、今年になって佐文綾子踊に公演依頼が次のように入っています。その背景としては、次のようなことが考えられます
①コロナ中に大型イヴェントが実施できずに、財源が蓄積されていること
②風流踊りがユネスコ登録されて、注目度が集まっていること。

佐文綾子踊保存会も公開年ではないのですが、10月には郡上八幡、11月には東京の日本青年ホールでの公開に招かれています。
①佐文賀茂鴨神社での隔年毎の公開公演
②対外的なイヴェントへの出演
これは綾子踊の後継者養成にとっては重要な柱なのです。 第40回全国民俗芸能大会出演(東京 日本青年館:1990年11月24日)に出演し、青年会館ホールで踊った子踊りのメンバーが、今は綾子踊の重要な役割を演じるポジションにいます。それから33年ぶりに日本青年会館で踊ることになりました。彼らが今後の綾子踊りの継承・保存の中核メンバーとなっていくはずです。そのためにも、小・中学生達に大きな舞台に立って踊る経験を積ませたいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史(まんのう町)
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昨年の2022年 11月30日付けで 佐文綾子踊がユネスコ無形文化遺産リストに登録されました。その認証状が東京に届き、会長が授与式に参加していただいてきたのがこれです。

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ユネスコ世界無形文化資産 「風流踊」登録書

さび付いた私の頭は、英単語が消え去って判読不明。そこでスマホで写して、アプリに翻訳させると次のように出てきました。
                         
  ユネスコ無形文化遺産
このリストへの登録は、無形文化遺産の認知度の向上とその重要性の認識を確保し、文化的多様性を尊重する対話の促進に貢献します。
風流踊り」 人々の願いや祈りが込められた神事の踊り。
日本の提案により「風流踊り」のリストへの登録を認証します。私たちは、文化的多様性の重要性の認識を高め、尊重する対話の促進に貢献します。
UNE事務局長    刻印日:2022年11月30日 

冒頭の「convention」には、「①慣習、しきたり②会議、集会③大会参加者、出席者」という3つの意味があります。よく使われるのは②の意味ですが、ここでは③の参加者・構成員の意味のようです。 「heritage」は、継承物や遺産、伝統を意味する名詞で、後世に伝えるべき自然環境や、遺跡跡など、文化的、歴史的に受け継がれるものを指しています。例えば、「intangibie cultural heritage」で無形文化遺産という意味になるようです。
     
  そして登録名は「Furyu-odori」です。
その形容詞が「人々の願いや祈りが込められた神事の踊り」となっています。ここで気になるのは、ユネスコの認証状の中には「風流踊」とあるだけで、佐文綾子踊はどこにもありません。

もうひとつは、そのリストが日本政府によって提出された。それを、ユネスコが認めリストに登録したという形式がとられていることです。あくまで承認権者はユネスコなのです。ユネスコ世界遺産事業以後、ユネスコは権威を高めたように思います。遺産の保護活動以外に承認権者の地位を手にしたことが、その背景にはあるのではないかと私は勝手に考えています。
 この認証状に「添付」されたような形で頂いてきたのが、次の文化庁の書類です。
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綾子踊 文化庁の認証状
  内容的には、ユネスコ認証状の日本語訳版のようなものです。ただ、ここには「重要無形民俗文化財 綾子踊」と「保護団体 佐文綾子踊保存会」が明記されています。そして「ユネスコ無形文化財の一覧表に登録された「風流踊」を構成することを証す」とあります。
文化庁のユネスコへの「風流踊」提案書には次のように記されていました。
内 容 華やかな、人目を惹く、という「風流」の精神を体現し、衣裳や持ちものに趣向をこ らして、歌や笛、太鼓、鉦(かね)などに合わせて踊る民俗芸能。除災や死者供養、豊作祈願、雨乞いなど、安寧な暮らしを願う人々の祈りが込められている。祭礼や年中行事などの機会に地域の人々が世代を超えて参加する。それぞれの地域の歴史と風土を反映し、多彩な姿で今日まで続く風流踊は、地域の活力の源として大きな役割を果たして いる。

  いくつかの風流踊りを一括して、「風流踊」として登録するというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てきません。そこで、別途文化庁がそれを証明するために発行したのがこの証書ということになるようです。

どちらにしても、保存会会長からの指示は、これらに相応しい額を購入して、佐文公民館に掲げよというものです。早速、額選びにとりかかっています。この2つの証書を預かって、最初にしたのは、仏壇に供えることです。

そして、ユネスコ認証状がとどいたことを父に報告しました。父もかつては保存会会長を務めていたことがあります。2年に一度の地元の神社での一般公開や、東京や長岡での公演活動の準備に、尽力していた姿を思い出します。この知らせを歓んでいるはずです。
 今年は講演依頼がいつになく多い年になっています。その背景としては、次のようなことが考えられます
①コロナ開けで、伝統芸能公演ラッシュとなっていること
②風流踊りがユネスコ登録されて、注目度が高いこと。

佐文綾子踊保存会も公開年ではないのですが、10月には郡上八幡、11月には東京の日本青年ホールでの公開に招かれています。そのため公演メンバーが決められ、いろいろな下準備が進められています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    P1250163
      塩入駅前
 塩入駅にやってきました。
P1250175
増田穣三像

ここには駅前広場に忘れ去られたかのように、銅像がポツンと建っています。
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これは戦前に衆議議員を務めた増田穣三の銅像です。
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増田穣三像台座碑文左側
 台座には3面にわたってびっしりと碑文が刻まれています。碑文を、最初に見ておきましょう。
  春日 増田伝二郎の長男。秋峰と号す。翁姓は増田 安政5年8月15日を持って讃の琴平の東南七箇村に生る。伝次郎長広の長男にして母は近石氏なり 初め喜代太郎と称し後穣三と改む。秋峰洗耳は其に其号なり 幼にして頴悟俊敏 日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め 又如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり 
明治23年 村会議員と為り 31年 名誉村長に推され又琴平榎井神野七箇一町三村道路改修組合長と為り日夜力を郷土の開発に尽くす 33年 香川県会議員に挙げられ爾後当選三回に及ぶ 此の間参事会員副議長議長等に進展して能く其職務を全うす 35年 郷村小学校敷地を買収して校舎を築き以て児童教育の根源を定め又同村基本財産たる山村三百余町歩を購入して禁養の端を開き以て副産物の増殖を図れり 45年 衆議院議員に挙げられ 大正4年再び選ばれて倍々国事に盡痙する所あり 其年十一月大礼参列の光栄を荷ふ 是より先四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走効績最も大なりと為す。翁の事に当るや熱実周到其の企画する所一一肯?に中る故に衆望常に翁に帰す。
今年八十にして康健壮者の如く猶花道を嗜みて日々風雅を提唱す郷党の有志百謀って翁の寿像を造り以て不朽の功労に酬いんとす 。 翁と姻戚の間に在り遂に不文を顧み字其行状を綴ると云爾
昭和十二年五月
                東京 梅園良正 撰書
  現代語訳すると
安政元(1854)年8月15日生 昭和14(1939)年2月22日)没
①七箇村春日の生まれで、増田伝次郎の長男。秋峰と号す。
②安政5年8月15日に讃岐琴平の東南に位置する七箇村に生まれた。母は、近石氏。穣三は、若い頃は喜代太郎と称していたが30歳を過ぎて穣三と改名した。秋峰は譲三の号である。幼い時から理解が早く賢く、才知がすぐれていて判断や行動もすばやかった。日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾などに就いて和漢の学を修め、③また如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の奥義を究めた。そして「如松斉流(未生流)」の華道家元を継承し、多くの門下生を育てた。④明治23年に、開設された七箇村の村会議員となり、明治31年には2代村長に推され就任し、琴平・榎井・神野・七箇の一町三村道路改修組合長として、道路建設等の郷土の開発に力を尽くした。⑤明治33年には、香川県会議員に挙げられ当選三回に及んだ。その間に県参事会員や副議長・議長等の要職に就き、その職務を全うした。
 明治35年には、郷村小学校敷地を買収して校舎を築き、さらに児童教育の根源を定めるとともに、同村基本財産となる山村三百余町歩を購入して、山林活用と副産物の生産を図った。⑥明治45年には、衆議院議員に初当選し、大正4年には再選し、国事に尽くした。大正11年1月には大礼参列の光栄を賜った。これより先には四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走し、土讃線のルート決定に大きな功績を残した。譲三氏は、用意周到で考え抜かれた計画案を持って事に当たるので、企画した物事が円滑に進むことが多く、多くの人々の衆望を集めていた。 
 ⑦増田穣三氏は今年80歳にもかかわらず壮健で、花道を愛し日々風雅を求めている。ここに郷党の有志を募って穣三翁の寿像を造り、不朽の功労に酬いたいと思う。⑧私は翁と姻戚の間にあるので、この碑文選書を書くことになった。
昭和十二年五月 
      東京 梅園良正(註・宮内庁書記官) 撰書
この碑文からは、次のようなことが分かります。
①安政元(1854)年8月15日生で、明治維新を13歳で迎えた。大久保諶之丞より10歳下
②父は七箇村春日の増田伝次郎の長男で、母は近石氏出身
③宮田の法然堂住職の丹波法橋から華道を学び、「如松斉流」の家元を継承
④村議会開設時からのメンバーで、2代目七箇村村長に就任し、県道4号東山線開通に尽力
⑤村長を兼務しながら県会議員を5期務め、議長も経験
⑥衆議員議員を2期務め、土讃線のルート決定に大きな役割を果たした
⑦この像は1937(昭和12)年、生前の80歳の時に建立された。
⑧揮毫は松園良正(宮内庁書記官)で、明治の著名人の碑文を数多く残している著名な書道家

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増田穣三像台座プレート 「銅像再建 昭和38年3月」

増田穣三の銅像について
1937(昭和12)年5月 等身大像を七箇村役場(現協栄農協七箇支所)に生前に建立。
1939(昭和14)年2月 高松で歿、七箇村村葬(村長・増田一良)で手厚く葬られた。
1943(昭和18)年5月 戦時中の金属供出のため銅像撤去。
1963(昭和38)年3月 塩入駅前に再建。顕彰碑文は、昭和12年のものを再用。
前回見た山下谷次像と建立された時期を比較すると、競い合うように2つの像は建立されたことが分かります。その経緯を整理すると次のようになります。1936年に山下谷次が亡くなり、十郷村で銅像建立事業が始まる。これに対して七箇村村長の増田一良は、増田穣三像の「生前建立計画」を進めて、一年早く建立。しかし、それも5年後に戦時中の「金属供出」により奪われる。谷次の銅像は教え子達によって昭和27年の17回忌に元の位置に再建された。増田穣三の再建は十年遅れになる。それはもとあった役場前ではなく塩入駅前であった。その際に、台座は以前のものを使って再建された。

イメージ 4
増田穣三(県議時代)

増田穣三の風貌については、当時の新聞記者は次のように記します。
「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いてその地位を表彰す」
 
体格は小さいけれどもハンサムで威厳ある風格を示すという所でしょうか。ところがこの銅像はなで肩の和服姿に、左手に扇子を持ち駅の方を向いています。
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扇子をもつ増田穣三像
私の第1印象は、「威張っていない。威厳を感じさせない。政治家らしくない像」で「田舎の品のあるおじいちゃん」の風情。政治家としてよりも、華道の師匠さんとしての姿を表しているように感じます。彼は若い頃は、呉服屋の若旦那でもあったようで着物姿が似合っています。
増田穣三4
左は戦後の再建像(原鋳造にて:三豊市山本町辻) 右は代議士時代

この像は穣三の生前80歳の時に作られたもの。代議士時代の姿を選ばなかったのは、どうしてだろうか。
増田穣三の業績等については、評伝にしるしましたので今回は省略します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 コロナで開かれなかった文化財保護協会の総会が3年ぶりに開催されることになりました。その研修行事として、旧仲南町にある3つの銅像を「巡礼」し、郷土の偉人達のことを知るとともに、顕彰しようということになりました。以前に「増田穣三伝」を書いたことがあるので、案内人に指名されました。そこで、レジメ兼資料的なモノを、アップして事前に見てもらおうと思います。見てまわる銅像は、次の順番で3つです。
山下谷次 
戦前の衆議院議員 実業教育の魁として多くの学校設立。 仲南小学校正門前
増田穣三 
戦前の衆議員議員 県道三好丸亀線整備に尽力・華道家元 塩入駅前
③ 二宮忠八 
模型飛行機の飛行実験・飛行神社の建立 樅木峠道の駅    
山下谷次銅像
山下谷次(仲南小学校正門前)
①の 山下谷次の銅像は、仲南小学校体育館前に、登校する生徒達を見守るように立っています。台座には次のように刻まれています。
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山下谷次銅像の碑文(昭和13年9月時)
昭和11年6月先生逝去ノ後 知友相議リ其偉績ヲ後世二伝へ 英姿ヲ聯仰セントシ追善會経費ノ一部ヲ以テ遺像ヲ鋳造シ寄贈ヲ受ケタリ 依テ村会ノ議決ヲ経テ之レヲ校庭二建設ス
昭和十三年九月  十郷村
意訳変換しておくと
  ①昭和11年6月に山下谷次先生が亡くなり葬儀を終えると、友人や教え子たちが相談して、先生のお姿を後世に伝えようということになった。②そこで集まった資金で遺像を鋳造し十郷村に寄贈した。これを受けて、村会は大口の小学校の校庭に建立することを議決した。
昭和13年9月  十郷村
 裏側面には、1952(昭和27)年に追加された次のような銅板プレートが埋め込まれています。

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正五位勲四等山下谷次先生ハ我郷ノ人傑ナリ資性温粁謙和事ヲ篤スニ堅忍撓マス常二数歩ヲ時流二先ンス十八才笈ヲ洛ニ負ヒ大久保在我堂先生二師事シテ刻苦年アリ最モ算数二長ス平生幣衣短袴湾輩ノ毀誉ヲ顧ミス学成リテ京華郁文等ノ私学ヲ興シ傍ラ著述二従フ明治三十六年東京商工学校ヲ創メ大イニカヲ実業教育ノ振興二致シ措据経営三十余年早生ノ心血フ澱ク教フ受クル者萬フ超工皆悉ク国家有用ノ材タリ大正十三年以降選ハレテ衆議院議員タルコト五期文政ノ府二参典トシテ献替頗ル多ク昭和三年功ヲ以テ帝綬褒草フ賜フ
昭和十一年六月五日先生逝去ノ後知友及卒業生相諮り其偉業ヲ後世二博へ英姿フ謄仰セントシ昭和十三年九月村会ノ議決ヲ経テ此ノ地二遺像ノ建設ヲナシタリ然ルニ大戦ノ篤政府二収納セラレ遺憾二堪ヘザリシガ今日十七回忌二際シ再知友及卒業生ノ醸金フ得テ錢二英像フ建設ス
昭和二十七年六月五日   十郷村
建設委員長  五所野尾基彦
松園清太郎 門脇正助 真鍋清三郎  有志
香川県三豊郡辻村 原鋳造所謹製
原型師  織田朱越
鋳物司  原磯吉正知
「巡礼」を行う6月25日は、銅像の前で、この顕彰文を読み上げて敬意を表そうと思います。意訳変換しておくと
1952(昭和27)年に追加された碑文(現代訳)
正五位勲四等を受けた③山下谷次先生は、十郷村の出身で、性格は温和で、何かを行うときには辛抱強く諦めずに取組み、常に時代の数歩先を考えていた。④十八才で京都の大久保彦三郎(諶之丞の弟)の設立した尽誠舎で苦学し、特に算数に長じた能力を発揮した。いつもは幣衣短袴姿で、服装には無頓着であった。尽誠舎を卒業した後に、再度上京して京華郁文学校などの創建にかかわった。一方では数学関係の教科書の著述も行った。⑤明治36年には東京商工学校を設立し、実業教育の振興や経営に30校以上かかわった。谷次先生の教えを受けた生徒は、ほとんどが国家有用の人材となった。
 大正13年以降は、⑥衆議院議員を五期務め、実業教育振興のための献策を数多く出した。そのため昭和3年に、その功績を認められて、帝綬褒賞を受けている。
 昭和11年6月5日に先生が亡くなって後に、友人や卒業生が協議して、その業績を後世に伝え、英姿を残そうということになり、昭和13年に銅像を十郷村に寄進した。寄進を受けた十郷村は、昭和13年9月に村会の議決を経て、銅像を建立した。⑦ところが先の大戦に際に、政府に収納されてしまった。銅像がなくなったことを、非常に残念に思っていた教え子達は、17回忌に際して知友や卒業生から資金を募り、銅像を再建することになった。
⑧昭和27年6月5日   十郷村
建設委員長  五所野尾基彦
松園清太郎 門脇正助 真鍋清三郎  有志
⑨香川県三豊郡辻村 原鋳造所謹製
原型師  織田朱越
鋳物司  原磯吉正知
このふたつの碑文からは、次のようなことが分かります。
①1936(昭和11)年6月8日 山下谷次が東京で亡くなった後に、銅像建立計画が具体化
②1938(昭和13)年9月 寄進された銅像を十郷村が村会決議を経て旧大口小学校に建立
③山下谷次は明治5年(1872)2月22日に、十郷村帆山で誕生
④18才で大久保彦三郎(諶之丞の弟)が京都に設立した尽誠舎に入学、その後教員へ
⑤上京し、東京商工学校(現埼玉工業大学)設立など、30以上の実業学校の設立・経営に関与
⑥増田穣三引退後の地盤から衆議院に出馬し、5期務め実業教育関係の法整備などに尽力
⑦1943(昭和18)年5月29日 戦時中の金属供出のため銅像撤去。
⑧1952(昭和27)年6月5日  山下谷次像が、17回忌に旧大口小学校に再建 
⑨銅像製作所は、三豊市山本町辻の原鋳造所。増田穣三像も同じ。
  戦前に建立された銅像は、戦中の金属供出で国に持って行かれたこと、現在の銅像は17回忌に、教え子達が再建したもののようです。

台座の礎石には、下のようなプレートが埋め込まれています。

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山下谷次銅像移築記念
ここからは、1983(昭和58)年度の仲南中学校の卒業記念事業として、旧大口小学校からここへ移されたことが分かります。今年が移築40周年になるようです。

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山下谷次銅像台座の石工名

竹林正輝と読めます。地元の追上の石工によって台座は作られています。

山下谷次伝―わが国実業教育の魁 (樹林舎叢書) | 福崎 信行 |本 | 通販 | Amazon

山下谷次については、山脇出身のライターである福崎信行氏が「山下谷次伝 わが国実業教育のさきがけ」を出版していて、まんのう町の図書館にもおさめられています。詳しくは、そちらを御覧下さい。ここでは少年期のことを簡単に記しておきます。

山下谷次の少年時代   「成功は (清香)貧しきにあり 梅の花」
 谷次の立身出世の道を開いた3人の人物に焦点を絞りながら少年時代を見ていくことにします。谷次は帆山の山下重五郎の4男で、6歳の時父を失います。そのため生活に追われ、兄たちは高等小学校にも進めていません。そのような中で、谷次は母の理解で高等小学校に行き、そしてさらに上級学校への進学の道が開けます。
当時、仏教の金毘羅大権現から神道へと様変わりを果たした金毘羅宮は、神道の指導者養成のために明道学校を設立します。旧制中学校に代わるもので、全国から優秀な教師を招いて、鳴り物入りで開学でした。しかも授業料は無料。母が兄たちを説得して、谷次はここに通うことが出来るようになります。もし、この母がいなければ谷次の勉学の道はふさがれ、その後の道は開かれなかったはずです。
 入学することを許された谷次は、帆山から琴平まで毎日歩いて通学します。しかし、設立当初は授業料無料であった授業料が有料化されると、退学を余儀なくされます。そのような中で、明治21年8月に十郷大口の宮西簡易小学校で代用教員として、月給2円で務めることになります。帆山から大口までの通勤の道すがらも本を読み、休日は田んぼの中の藁小屋に入って終日不飲不食で勉強を続けたと自伝には書かれています。しかし、沸き上がる向学心を抑えきれずに蓄えた5ヶ月分の給料10円を懐に入れて、その年の12月31日の朝、家を脱け出します。そして東京で学ぼうと多度津港から神戸を経て上京。しかし、あても伝手もなく支援者もなく、資金はまたたくまに底を突きます。しかし、郷里にも帰れない。神戸まで帰ってきて丁稚として働くことになります。

1大久保諶之丞
大久保彦三郎(左)と大久保諶之丞(右)の兄弟

 行き詰り状態の中にあった谷次を救うのが、財田出身の大久保彦三郎(諶之丞の弟)でした。
彦三郎は京都に尽誠舎を開いたばかりで、それを聞いた谷次が、その門を叩きます。彦三郎は、谷次の能力を見抜いて、生徒として編入させ1年で卒業させます。そして、翌年には教員として迎えます。こうして、学校経営のノウハウを彦三郎から学んで再度上京。私立学校の教員として東京で働くようになります。そのような中で恩師の大久保彦二郎危篤の電報を受けると、職を辞して京都に帰り尽誠舎の幹事兼教師として尽力。彦三郎の讃岐に帰って静養するために尽誠舎が閉じられると、三度目の上京度目の上京を果たします。大久保彦三郎との出会いがなければ、谷次は神戸で丁稚奉公を続け、商売人になっていたかもしれません。そこから脱出の手を差し伸べたのが大久保彦三郎ということになります。
 教員として実力も経歴もつけた谷次は、郁文館中学校の数学担任教師兼庶務係として採用されます。それでも向学心は止まず、夜は東京理科大夜間部に通って勉学につとめ、実力をつけます。そして明治31年には江東学院を創設。以後、30校を越える学校の設立や運営に関与するようになるのです。
学園創立110周年の歩み | 学校法人 智香寺学園 | 埼玉工業大学
山下谷次の設立した東京商工学校(現埼玉工業大学)
  実業教育に関わる内に、国家の手による法整備などの必要性を痛感した谷次は、妻の実家のある千葉県から衆議員に出馬しますが落選。その後、郷里香川県から再出馬し、当選します。その際には、衆議院議員を引いた増田穣三や、その従兄弟で増田本家の総領で県会議員でもあった増田一良の支援があったようです。地元では当選の経緯から「増田穣三の後継者」と目されていたようです。

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増田一良
 増田一良は、大久保彦三郎に師事し、その崇拝者で京都に尽誠舎を設立した際には、それに付いていって京都で学んでいます。その時に、山下谷次が編入してきて、翌年には教員として教えを受けたようです。つまり、山下谷次と増田一良は、先輩後輩の関係でもあり、師弟の関係でもあったことになります。それが増田一良をして、山下谷次の支援をさせることにつながります。もし、増田一良がいなければ、郷里讃岐からの出馬という機会はなかったかもしれません。

山下谷次
山下谷次
それでは山下谷次Q&A
①豊かでない山下家の4男谷次が、どうして上級の学校に進めたのか?(兄三人は尋常小学校卒) 母の理解と金毘羅宮が設立した明倫学校が授業料無料だったこと。
②勉学のために上京した谷次を支えた郷土の先輩とは?
 大久保彦三郎(諶之丞の弟)が京都に設立した尽誠舎が、谷次を迎え入れた。
③妻方の地盤から出馬し落選した衆議院議員。それを支援した郷土の後輩とは?
 京都の尽誠舎のときの後輩にあたる増田一良(いちろ:増田穣三の従兄弟)が選挙地盤を斡旋。

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山下谷次銅像

これで、仲南小学校にある山下谷次像の「巡礼」は終了。次は、彼の生家を見に行きます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
上の滝宮の念仏踊りに参加していたまんのう町の風流踊組の主演者一覧表を見ると、真野・小松・吉野の郷の村々からの出演者によって分担されていたことが分かります。その総数は二百人を越える大部隊でした。今回は、出演者達がどんな人達だったのかを見ていくことにします。
 表で岸上村の分担人数を見ると「笛吹1・地踊5・鉦打7・棒突2・鑓5・旗2 計22名」となっています。
幕末の岸上村の庄屋・奈良亮助が残した文書には、この時の担当氏名が次のように記されています。

一、笛吹 朝倉石見(久保の宮神職)

一番最初に登場するのは笛吹で、久保の宮宮司が務めています。そして地踊については、次のように記されています。
①一、地踊          彦三郎
②一、同  古来仁左衛門株  助左衛門
③一、同  宇兵衛株同人譲渡 熊蔵出ル
②については本来は、仁左衛門が持っていた株だが、その権利で今回は助左衛門が出演するということのようです。③は宇兵衛が譲渡した株を熊蔵が手に入れ出演するということでしょう。この史料からは、誰でも出演できたわけではなく、それぞれの家の権利(株)として伝えられてきたことが分かります。つまり、世襲制で代々、決められた役を演じてきたようです。
 一方で、旗・鑓・棒突については、次のように記されています。
一、旗   二本 社面と白籐
一、長柄鑓 五本
一、棒突  三本 
ここには、出演予定者の名前がありません。旗・鑓・棒突については、「人夫」に任せていたので出演予定者名がないようです。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪大明神(三島神社)に奉納された念仏踊

 七箇村念仏踊は、夏祭りに踊られる風流踊りで祭礼・娯楽でした。それが各村々の神社をめぐって奉納されたのです。芸司や子踊り・時踊り・笛吹きは、それを演じる村の有力者が、その地位を誇示するという中世以来の宮座に通じる意味合いももっていました。奉納される神社の境内は、村の身分秩序の確認の場であったことになります。
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境内での風流念仏踊りを見物する人々。立ち見席の後ろには、見物桟敷が建てれている。これも宮座の有力者の所有物で、売買の対象にもなった。ここで風流踊りを見物できることがステイタスシンボルでもあった。

 なぜ七箇村念仏踊りは、踊られなくなったのでしょうか?
 それは有力者達だけで踊られる風流踊りが、時代に合わなくなってきたからでしょう。幕末になって発言権を高めた農民達は、自分たちも祭りに参加することを求めます。そして、誰もが平等に参加できる獅子舞や太鼓台(ちょうさ)を秋祭りに登場させるようになります。その結果、有力者達だけで演じられてきた風流踊は奉納されなくなります。そんな中で、近代になって七箇村風流踊を綾子踊りとしてリメイクしたのが佐文なのではないかと私は考えています。そうだとすれば、綾子踊りは七箇村風流踊を継承したものだということになります。
  参考文献  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年
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地元の小さな会で、「尊光寺史を読む」と題してお話しさせていただく機会がありました。尊光寺のご住職もお見えになっていて、「尊光寺史」が発刊になるまでの経緯や、伽藍整備など興味あるお話も聞けました。そこで私がお話ししたことを載せておきます。

尊光寺 タイトル
 尊光寺(まんのう町炭所東の種子(たね)のバス停から望む)

前回の設定テーマは「讃岐に真宗興正派が多いのどうしてか?」というものでした。その理由として考えられるのが三木の常光寺と、阿波美馬の安楽寺の活発な布教活動でした。

常光寺末寺 円徳寺
常光寺の末寺
東から丸亀平野に教線ラインを伸ばしてくるのが常光寺です。丸亀平野南部のまんのう町にあって、常光寺末寺として布教活動の拠点となったのが照井の円徳寺でした。円徳寺は佐文の法照寺など周辺に末寺を開いていきます。これが真宗興正派の教線ルートの東西方向の流れです。

尊光寺 安楽寺末寺

安楽寺の讃岐布教の拠点となった末寺

もうひとつの流れは、阿讃山脈を越えて教線ラインを伸ばしたきた阿波美馬の安楽寺でした。安楽寺は髙松平野の山里に安養寺。三豊平野の奥の財田に寶光寺、丸亀平野の土器川上流に長善寺や尊光寺を開き、布教拠点とし、山から里へと末寺を増やして行きます。 それでは、この常光寺と安楽寺の教線拡大は、いつごろに行われたものなのでしょうか。

真宗興正派の教線伸張
真宗興正派の教線伸張時期


讃岐への真宗興正派の教線拡大の動きは、3回みられます。

第1派は蓮如の登場と、興正寺の再興です。四国への教宣活動が具体化するのは、堺を舞台に興正寺と阿波三好氏が手を組むようになってから以後のことです。三好氏の手引きを受けて、興正派の四国布教は始まったようです。その拠点となったのが安楽寺や常光寺ということになります。これが文書的に確認できるのが1520年に、三好長慶が讃岐の財田に亡命中の安楽寺に対して出した証文です。その中には「特権と布教の自由と安全を保証するから阿波に帰って来い」という内容でした。ここには、三好氏が安楽寺を保護するようになったことが記されています。以後、安楽寺の讃岐布教が本格化します。こうして阿波軍団の讃岐進出に合わせるかのように、安楽寺の布教ラインは讃岐山脈を越えてのびてきます。三好氏の讃岐進出と安楽寺の教線拡大はセットになっていたことを押さえておきます。

第2派は、本願寺と信長の石山合戦の時です。この時に本願寺は、合戦が長引くようになると全国の門徒の組織化と支援体制整備を行います。讃岐にも本願寺から僧侶が派遣され、道場の立ち上げや連携・組織化が進められます。宇多津の西光寺が本願寺に食料や戦略物資を船で運び込むのもこの時です。これを三好氏は支援します。讃岐を支配下に置いていた三好氏の支援・保護を受けて、安楽寺や常光寺は道場を各地に作っていったことが考えられます。山里の村々に生まれた念仏道場が、いくつか集まって惣道場が姿を見せるのがこの頃です。つまり1570年頃のことです。

第3派は、幕府の進める檀家制度整備です。その受け皿として、初代髙松藩主の松平頼重が支援したのが真宗興正派でした。頼重は、高松城下町の寺町に高松御坊を整備し、藩内の触頭寺として機能させていきます。。 このようにして、16世紀には三好氏の保護。江戸時代になってからは高松藩の保護を受けて真宗興正派は讃岐で教線を伸ばし、根を下ろしていきます。

 今回は、安楽寺の教線がまんのう町にどのように根付いていったのかを見ていくことにします。具体的にとりあげるのが炭所種の尊光寺です。尊光寺の位置を地図で押さえます。

尊光寺地図2
まんのう町炭所東の種子にある尊光寺

尊光寺の位置を地図で確認します。土器川がこれ。長炭小学校の前の県道190号を、真っ直ぐ東に3㎞ほど登っていくと、県道185号とぶつかる三叉路に出ます。ここを左折すると羽床の山越えうどんの前にでます。右に行くと造田方面です。つまりここは、三方への分岐点にあたる交通の起点になるところです。

この当たりが炭所東になります。炭所という地名は、江戸時代には良質の木炭を産出したことから来ているようです。東側の谷には中世寺院の金剛院があって、全国から廻国行者達がやってきて書経をしては、経塚として奉納していたところです。ここが大川山中腹の中寺廃寺や尾野瀬寺院などと中世の廻国行者達のネットワークでつながっていたようです。このあたりももともとは、真言系の修験者たちの地盤だったことがうかがえます。尊光寺は、炭所東の種子のバス停の上にあります。現在の尊光寺の姿を写真で紹介しておきます。

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種子バス停から見上げた尊光寺

石垣の上の白壁。まるで山城のような偉容です。周囲を睥睨する雰囲気。「この付近を支配した武士団の居館跡が寺院になっています。」いわれれば、すぐに納得しそうなロケーションです。この寺は西長尾城主の一族が、この寺に入って中興したという寺伝を持ちます。

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尊光寺山門
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山門からの遠景
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眼下に広がる炭所東の棚田 そのむこうに連なる讃岐山脈
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山門と本堂

山を切り開いた広い境内は緑が一杯で、普段見る讃岐のお寺とは雰囲気がちがいます。現在の住職さんの手で、こんな姿に「改修」されてきたようです

尊光寺史あとがき
尊光寺史と、そのあとがき

この寺は立派な寺史を出しています。出版に至る経緯を、尊光寺の住職は次のように語ってくれました。旧書庫の屋根に穴が空いて、雨漏りがひどくなったので撤去することになった。その作業中に、箱に入ったまとまった文書がでてきた。それを檀家でもある大林英雄先生に知らせたら、寺にやって来て縁台に座り込んで、日が暮れるまで読んでいた。そして、「これは本にして残す価値のあるものや」と言われた。そこで住職は門徒総会に諮り、同意をとりつけたようです。大林先生は、この時、74歳。出版までには10年の年月が必要でした。大林先生は、史料を丁寧に読み込んで、史料をしてして語らししめるという堅実な手法で満濃町史や琴南町誌なども書かれています。私にとっての最後のお勤めが自分の檀那寺の本を出すことになりましたと、おっしゃっていたそうです。尊光寺史の最後に載せられている大林先生の写真は闘病中の病院のベッドの上で、上だけをパジャマから背広に着替えて写したもので、下はパジャマ姿のままだったといいます。この本を出されて、すぐに亡くなられたそうです。まさに遺作です。私が興正派の教線拡大に興味を持ちだしたのは、この本との出会いがありました。話がそれてしまいました。この本に載せられた尊光寺文書を見ていくことにします。

尊光寺記録(安政3年)


尊光寺文書の最初に綴じられている文書です。幕末ペリーがやってきた安政三年(1856)に、尊光寺から高松藩に提出した『尊光寺記録』の控えのようです。最初に伽藍の建物群が記されています。

①一 境内 東西30間 南北18間 

②一 表門(但し袖門付)  東西二間 南北1間 瓦葺き

③一(南向き)長屋門 東西5間 南北2間 

④一(東向き)本堂  東西5間  南北5間

①境内は「山開」とあります。山を切り崩して整備造成したということでしょうか?
③長屋門は(南向き)と小さく補筆してあります。篠葺きの長屋門が幕末にはあったことが分かります。

④本堂は今は南向きですが、当時は東向きだったようです。


以下は次のように記します。

⑤本尊 阿弥陀仏 木像御立像 春日策  長さ一尺4寸(42㎝?) 本山免許

⑥祖師 親鸞聖人 画御坐像 同(本山免許)一幅 

⑦七高僧          同(本山免許)一幅
⑧聖徳太子         同(本山免許)一幅

⑤の本尊は後で見ることにして、⑥⑦⑧を見ておきましょう。

尊光寺親鸞図
⑥の祖師 親鸞聖人 画御坐像(尊光寺)

尊光寺七高僧図
⑦七高僧図と⑧聖徳太子図

「本山免許一幅」とあります。これらの絵図は、すべて本山の西本願寺の工房で作られた物で、中本山の安楽寺を通じて下付されたもののようです。京都土産に買ってきた物ではないようです。

伽藍・本尊などの後に来るのが住職一覧です。

尊光寺開基少将
尊光寺開基 少将について

最初に「一向宗京都興正寺派末寺 長寿山円智院 尊光寺」とあります。そして「開基 少将」とあります。少将とは何者なのでしょうか? 
ここに書かれていることを確認しておきます。

尊光寺開基2
尊光寺の開基少将について

①開基者は少将 一向一揆の指導者などに良く登場する人物名 架空人物 

②開基年代は、明応年間(1492年から1501年)蓮如が亡くなっているのが(1499年5月14日)85歳です。

③創建場所は 最初は炭所種の久保です。久保は「窪み」の意味で、種子神社の近くで、その神宮寺的な寺院があったところで、そこが念仏道場として最初は使われていたのかもしれません。


④それが享保年間(1716年から1736年)に現在地の雀屋敷に移転します。檀家も増加して、新しく寺地を設けて伽藍を建立することになり、現在地に山を開いて新しい伽藍を作ったようです。8代住職亮賢のときのことになりますが、記録は一切残っていません。少将のあとの住職について、尊光寺文書はにはどのようにかかれているのか見ておきましょう。


尊光寺少将以後
開基・少将以後の住職について


少将以後百年間は、住職不明と記します。藩への報告には、住職の就任・隠居の年月日を記入する項目があったようです。それは「相い知れ申さず」と記します。そして百年後の16世紀末に登場するのが中興開祖の玄正(げんしょう)です。この人物について、尊光寺記録は次のように記します。

尊光寺中興開基玄正


内容を整理すると次のようになります。

尊光寺中興開基玄正2

①長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。そのためか讃岐の大名としてやってきた生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、息子孫七郎も尊光寺に入ったようです。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだようです。長尾城周辺の寺院である長炭の善性寺 長尾の慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。

②しかし、玄正については、名前だけで在任期間や業績などについては、何も触れていません。実態がないところが気になるところです。

③推察するなら、玄正は長炭周辺のいくつかの道場をまとめて総道場を建設して、尊光寺の創建に一歩近付けた人物のようです。そうだとすれば実質的に尊光寺を開いたのは、この人物になります。そして秀吉の時代には、長炭の各地域に点在する各道場をまとめる惣道場的な役割を尊光寺が果たすようになっていたことがうかがえます。尊光寺史は、以後の住職を次のように記します。


尊光寺歴代住職
尊光寺歴代住職名(3代以後)

三代 明玄実子 理浄 右は住職井びに隠居申しつけられる候年号月日は相知れずもうされず候。元和5(1619)年3月病死仕り候 
四代 理浄実子「法名相知れもうされず。 


ここに記されているのは「住職任期は分からない」で、業績などは何も書かれていません。以後の歴代住職についても同じ内容です。歴代住職の在任時期や業績をまとめたものは、幕末の尊光寺には伝わっていなかったようです。
以上、尊光寺史に書かれた創建に関する史料を中心に、今回は見ました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大林英雄 尊光寺史
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今年度から綾子踊りのスタッフに入ることになりました。その最初の活動が、財田の香川用水の水口祭への参加となりました。その様子をお伝えして、記録として残しておこうと思います。

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水口祭次第(6月11日 日曜)
阿波池田ダムで取水された香川用水が讃岐山脈をトンネルで抜けて、姿を見せるのが財田です。ここには香川用水公園が整備され、水口祭が毎年行われているようです。そこに綾子踊りも参加することになりました。
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佐文公民館 8:40出発
総勢36名がまんのう町の2台マイクロバスで出発です。
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やってきたのは財田町の香川用水公園。トンネルから姿を現した用水が、ここを起点に讃岐中に分配されていきます。会場は、紅白の幕が張ってある場所。まさに香川用水の真上です。その向こうには讃岐山脈が連なります。雨乞い踊りを踊るのは最適の場所かも知れません。
雨もあがったようです。天が与えてくれたこんな場所で、綾子踊りを奉納できることに感謝。

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控え室に入って、衣装合わせです。
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お母さん方の手を借りて、小踊りの小学生達の衣装が調えられていきます。
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こちらせは花笠のチェック。
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着付けが終わると、出演前に記録写真。
そして、会場に向かいます。
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踊りに参加する人以外に、それを支えるスタッフも10名余り参加しています。この日は総勢36名の構成でした。フル編成だと百人近くになります。

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小踊りのメンバーと最後の打合せです。
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いよいよ入場です
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かねや太鼓の素樸な音色が響きます。単調ですが、これが中世の音色だと私は思っています。
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踊りが始まります。芸司の団扇に合わせて、素樸な踊りが繰り返されます。しかし、踊りの主役は、小踊りの女装した男の子達です。中世の神に捧げる芸能では、小踊りは「神の使者」とされていました。小踊り以外は、私には「小踊りに声援をおくる応援団」にも思えます。
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新緑の中に、小踊りの衣装が赤く映えます。

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今回の公演は15分で、演目は3つ。あっという間の時間でした。
公演後に着替えて、うちたてのうどんをいただきました。

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 知事さんもうどんを食べていました。お願いすると気軽に写真に入ってくれました。参加者には、いい記念になりました。感謝

12:20 記念館を出発
12:40 佐文公民館帰着
13:00 弁当配布後に解散
以上、香川用水記念館の水口祭りへの参加報告でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 香川(かがわ)県 ため池の父・西嶋八兵衛(にしじまはちべえ) | NHK for School
西嶋八兵衛
1631年に満濃池が西嶋八兵衛によって完成したときには、讃岐は生駒氏の単独統治体制でした。
ところが生駒騒動で生駒藩が改易された後は、高松藩と丸亀藩に2:1の石高比率で東西に分割されることになります。そうすると両藩の境界線が丸亀平野の真ん中に引かれることになります。これは満濃池の水掛かりが、ふたつの藩に引き裂かれることです。水利権の問題は複雑です。後世に問題を残さないように処理することが担当者には求められることになります。讃岐に派遣された幕府要人は、この課題処理のために白羽の矢を立てたのが、生駒藩奉行として満濃池築造するだけでなく、多くの民政に関わった西嶋八兵衛でした。今回は、讃岐東西分割に対して、西嶋八兵衛がどんな役割を果たしたのかを見ていくことにします。テキストは、「廃池450余年と西嶋八兵衛の再興 満濃池史76P 満濃池土地改良区50周年記念誌」です。

藤堂高虎の騎馬像(津城跡お城公園内) - No: 4719087|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
藤堂高虎

 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、西嶋八兵衛もそのなかの一人だったようです。藤堂高虎の側近で『民政臣僚』のひとりだった彼が、讃岐生駒家にレンタルされることになった背景については、以前に次のようにお話ししました。
①生駒家三代目正俊が36歳で亡くなり、その子小法師(高俊)が11歳で藩主についた。
②高俊の母は藤堂高虎の養女で、祖父が高虎にり、生駒家と藤堂家は深く結ばれていた
③幼年藩主の登場で、幕府から不利益な措置がとられないように、家康の信頼が厚かった藤堂高虎が後見人となり生駒藩を保護しようとした。
④こうして藤堂高虎は若き『民政臣僚』の西嶋八兵衛を讃岐に「客臣」として送り込んだ。
 西嶋八兵衛は、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間に、讃岐に4回派遣され、19年間を過ごしたようです。その期間は次の通りです。
①1回目(1621年)生駒正俊から高俊への領主交替という事務引継ぎの実務担当者(25歳)
②2回目(1625年)目付役として来讃し、生駒藩奉行に就任。
③3回目(1630年)藤堂高虎没で一時帰国するも、再度派遣。
 3回目の時には、高虎の死を契機に、八兵衛は帰りたがっていたようですが、後を継いだ高次は「生駒家の様子を見ると、当分は西島が目を光らせていたほうがよさそうである」と考えたようです。高次は八兵衛に対して、改めて「讃岐生駒藩の用向き」を申しつけて、生駒藩に帰します。これが西嶋八兵衛の3度目に来讃となります。その際に、生駒藩は五百石を加増し、併せて千石待遇としています。これは、生駒藩の重臣のベスト5に入る高給取りで、家老待遇でした。実際、この時期は生駒藩で中心的な役割を果たしていたことは以前にお話ししました。

高松城西嶋八兵衛
生駒藩高松城下での西嶋八兵衛邸の位置と広さ(家老級待遇)
 西嶋八兵衛については、讃岐では満濃池築造面ばかりが伝えられていますが、満濃池を造るために讃岐にやって来たのではありません。生駒藩四代の幼君高俊の政務を補佐するため、伊勢藩の藤堂高虎が親戚の生駒藩に送り込んだ客臣です。今で言えば本省から派遣された総務部長兼、農林部長兼、土木部長の要職で、最終的には千石を支給された家老級人物です。彼は自然災害で危機的な状況にあった生駒藩を、藤堂高虎の指示を受けて立て直します。そのひとつが決壊したまま放置され、忘れ去られていた満濃池の再築でした。

西嶋八兵衛による満濃池築造に関する年表を見ておきましょう。
1626 矢原正直が、旧満濃池内に所持の田地を差し出す。(満濃池営築図)
1628 藩主生駒高俊の命により、西嶋人兵衛が満濃池再築に着手。(満濃池営築図)
1631 (寛永8年) 満濃池築造完成(那珂郡満濃池諸色御普請覚帳)
1633 「讃岐国絵図」が作成される。
1635 矢原家、生駒家より50石を与えられ満濃池の池守となる。(矢原家文書)
1640 東西分治に際し那珂郡池御料は幕府の直轄地となる。
1641 分割の執政官として、老中・青山大蔵、勘定奉行・伊丹播磨など来讃、西嶋八兵衛は「案内人」に指名
1641 満濃池配水に関する特別慣行を幕府の執政官に提出、証文揺。幕府が池御料を吟味して水掛石高を定める。
 丸亀藩藩主に肥後天草から山崎氏が決定。
1642 池御料の代官所を苗田村に置き、守屋与三兵衛が初代代官となる。
          高松藩藩主に松平頼重が決定

 寛永十七年(1640) 生駒高俊は、お家騒動を理由に讃岐を追われ、堪忍料一万石で出羽国由利郡矢島に左遷されます。
幕府はそのあとに、讃岐を高松藩と丸亀藩に二分割して統治することにします。翌年に、分割の執政官として讃岐に派遣されたのが、老中・青山大蔵幸成(尼崎藩主)、勘定奉行・伊丹播磨でした。土地にはそれぞれ漁業権や山林の入会権、水利権などが複雑にからんいます。石高だけのソロバン勘定だけで処理すると、あとあと厄介な問題が起きかねず、責任問題にもなりかねません。そのために老中の青山大蔵は、讃岐の事情に詳しい西嶋八兵衛を、伊勢国から高松城に召し出して、「案内役」として事務処理をやらせることになります。これが西嶋八兵衛の4度目の来讃となります。
 西嶋八兵衛が丸亀平野でとりくんだ課題は、次のようなものでした。
①丸亀平野南部の村々の里山の入会権
②満濃池水掛について、
①については、以前にお話したので省略します。②の満濃池の水利慣行については、この時に作成されたA「満濃池水懸申候村高之覚」とB「先規」が以後の管理基準となり運用されます。この記録は寛永18年(1641)10月8日の日付で、満濃池関係の記録としては一番古いものになるようです。Aの「覚」は水掛かりの村々の石高を次のように記します。
満濃池水懸中候村高之覚
仲郡高合 一万九千八百六十九石余         二十一か村   
多度郡高合 一万三千七百八十五石二斗余   十七か村     
鵜足郡高合 三千百六十石                         八か村       
総高   三万五千八百十四石二斗余       四十六か村        一万四千三百六十五石二斗余
右は分木西股へ懸り申候分 一万五千五百十九石余
右は分木東股へ懸り申候分 五千九百三十石余
右は分木より上分、此分は水干にて御座候故、割符の外地水遣され候定に御座候
以上
水利や池の補修については、それまでの慣行を「先規」として次のように記します。
  一、多度郡大麻村と仲郡櫛梨村の両村と毎年替し水の事
大麻村へ懸り申候満濃池の番水を与北櫛梨村へ遣し、与北櫛梨の出水、苗田三田の井の水を池水程分木を据て大麻村へ取替し申候。満濃池水溜まり候へば、苗田三田の井を開き、与北櫛梨へ取り、大麻村へは水遣し申さず候事
  意訳変換しておくと
大麻村に広がっている番水(順番に使用する灌漑用水)を与北・櫛梨村へ送り、与北・櫛梨の出水や苗田・三田の井の水を、池の水程度の分木を据て大麻村へ取り替えること。満濃池の水が止まった際には、苗田・三田の井の分を開いて、与北・櫛梨へ取り送り、大麻村へは水を送らないこと。

一、仲郡上分は水千にて御座候に付、苗代水詰り申候節御断申上候へば先年より苗代水被遣候、仲郡下分は出水三つにて御座候に付、外の郡よりは例年先に水遣わされ候、満濃池二番一番の矢倉は仲郡上之郷に留め申し候事
  意訳変換しておくと
仲郡の上分は水が少ない状況に付き、苗代の水が詰まった際には、断りを言った上で先年以来苗代の水を送っていた。仲郡の下分は出水が三つなので、外の郡よりは例年先に水を送っている。満濃池二番一番の矢倉は、仲郡上之郷に留め置くこと」。

一、満濃池浪たたき損候へば、五毛・春日両村の藪にて篠を切り、浪たたき仕置申候。同立木ねた木切り申す山は七箇村西分東分の両山にて切来りいずれも人足は水掛かリヘ仰付けられ候事
意訳変換しておくと
満濃池の浪たたきが損傷した際には、五毛・春日両村の藪竹を切り取って、浪たたきを作ること。同じく立ち木・ねた本を切り取る山は七箇村の西分・東分の一つの山から切って持って来るが、いずれも人足は水掛かりに申し付けること。

一、右の池矢倉はちのこ損候えば、鵜足郡長尾村にて伐木仰せ付けられ候、先代より仕置来申候、人足の義は右同断に御座候
意訳変換しておくと
右の池矢倉のはちのこが損傷した際には、鵜足郡長尾村に伐木を中し付けることは、先代からの仕来りであり、人側については右と同様である。

一、右の池より西の方の村、先代より浪差切に御座候、上は岡と申す山の尾切に御座候、池より東方の村は嶺の道切、上は五毛の川切に仰付けられ候事

意訳変換しておくと
右の池よりも西方の村は、先代から浪差切であり、上は岡という山の尾切である。池よりも東方の村は嶺の道切で、上は五毛の川切に仰せ付けられる。

  右の通少しも相違御座なく候、若し以来此内より新規成義申出候者これあるに於ては、金昆羅の神前にて火罪を取り誤り候へば急度曲事可被仰付候、其時少しも申分御座有る間敷候、井びに堤修復樋揺木損候はば、御知行所御地頭様より、高積りを以て入用被仰付可被下候、後日の為此書上申候 如件
意訳変換しておくと
右の通り少しも相違はありません。もしこの後この内から新たに申し出る者がある場合には、金昆羅様の神前において火罪をとり(烈火の中に手を入れさせて正邪を裁く神明裁判を行い)、誤りがあれば急度曲事(速やかなる処罰)を申し付けるが、その際には少しも申し分(言い分)はあってはならない。井びに堤の修復の樋の本が損傷した際には、知行所の地頭から、石高の状況を計って必要経費を仰せ付けること。後日のために、右に記した通りである。

寛永十八年巳十月八日
      仲郡原田村         大庄屋  又作 印
同郡苗田村         大庄屋  与三兵衛 印
多度郡弘田村       大庄屋  与惣右衛門 印
同郡山階村         大庄屋  善左衛門 印
字多郡岡田村       大庄屋  久次郎 印
同郡小川村         大庄屋  加兵衛 印
御奉行様
以上の「先規」を受けて、幕府執政官は次のように記します。(意訳)
 右の通り村々の灌漑用水の配分については、新たな状況にを穿愁(ほじくり返す)すことが終わり、各村々の同意文書へ印鑑を押したものを満濃池の池守に預けておく。もしも用水配分などで新たな申分(言い分)が出てきた場合には、大庄屋に預けてある書付(証拠書類)の内容に従い、ひいきすることなく判断すること。もし双方で争うようなときには、地頭に検使を申し出て、書付にあるように火罪(烈火の中に手を入れさせて正邪を裁く神明裁判)に処すこと。
 以前からの掟によって池守に支給した給ってきた石高は二十五石であるが、これをそのまま出し与える。しかし、(池の管理について油断や落ち度があれば曲事(処罰)を与えることとする。
  寛永十八年巳十月九日 
     能勢四郎右衛門
                伊 丹 播 磨
                青 山 大 蔵
  右の一札を池守に渡しておく             (「満濃池水懸申候村高之覚」「先規」鎌田共済会郷土博物館所蔵)
満濃池築造やその用水路建設、水掛かりなどを通じて、西嶋八兵衛と丸亀平野の庄屋たちは旧知の間柄で、互いに信頼感もあったのでしょう。「(東西分割という)新たな状況(への対応のため)に(先例慣例)を穿愁(ほじくり返す)」したことが記されています。これは満濃池や灌漑用水路を整備した西嶋八兵衛ならこそスムーズにできたことです。彼は満濃池の水掛かりである鵜足、那珂、多度の三郡四十六か村(35804石)の大庄屋たちに命じて、満濃池掛かりの郡村別石高を記入した「満濃池水懸申候村高之覚」を提出させます。
 そして分割したあと丸亀藩と高松藩との水利紛争を避けるため、末尾に満濃池の用水配分の慣行や、池修繕のときの木材や竹を切り出す山林まで細かく明記します。上申書の末尾には老中青山ほか二名の幕府執政官が署名捺印し、「右の一札を池守に渡しておく」とあるので、一部が満濃池守に預け置かれたことが分かります。対応ぶりに卒がありません。老中青山は、西嶋八兵衛の仕事ぶりを見て、褒賞として太刀一振を与えています。ここで押さえておきたいのは、池守が矢原氏だったとはここでも記されていないことです。

こうして1641年秋、山崎氏が丸亀藩(5,3万石)、翌年松平氏が高松藩(十二万石)に封ぜられます。満濃池の維持管理や配水運営については、両藩の境に残された天領を管轄する倉敷代官所が主導権を握り、水利の一体性がうまく保持されることになります。これらの案を作ったのは、西嶋八兵衛だと私は考えています。
西嶋八兵衛は1631年に、満濃池を完成させるのと同時に、丸亀平野の治水工事を行い、灌漑用水路の整備を行いました。これによって丸亀平野一円への灌漑用水の供給が可能となったのです。それを運用したのは、満濃池掛かりの各村々の庄屋たちです。
 それが大きく変化するのが生駒騒動でした。これによって「讃岐=生駒一国体制」から「讃岐=東西分治」となり、丸亀平野に高松藩と丸亀編の境界線が引かれることになります。これは満濃池の水掛かりをも分断することになります。この課題解決のために、再登場したのが満濃池の産みの親である西嶋八兵衛でした。これが八兵衛の4度目の来讃でした。こうして見てくると、現在の満濃池や用水路の原型は西嶋八兵衛が作り出した物であることがよく分かります。空海の満濃池築造がおぼろげで、よく分からないことが多く、現在の満濃池に直接は関係しないことが多いのとは対照的です。「空海が築いたと言われる満濃池」とぼかされるのに対して、「西嶋八兵衛が築いた満濃池」は確かです。満濃池の湖畔の神野寺には、弘法大師1150周年を記念して大きな弘法大師像が建てられています。しかし、西嶋八兵衛の像はありません。西嶋八兵衛によって築造されてから400年後の2032年に、西嶋八兵衛の像が建立されるという話は聞いたことがありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「廃池450余年と西嶋八兵衛の再興 満濃池史76P 満濃池土地改良区50周年記念誌」
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  前回は文献的問題から研究者が「空海が満濃池を築造した」と断定しないことをお話ししました。今回は、考古学的な立場から当時の治水・灌漑技術が丸亀平野全域に用水を送ることが出来る状態ではなかったことを見ていくことにします。                           

古代に空海が満濃池を築造したとすれば、越えなければならない土木工学上の問題が次の3つです。
①築堤技術
②治水技術
③灌漑用水網の整備
①については、大林組が近世に西嶋八兵衛が満濃池を再築した規模での試算がネット上に公表されています。これについては技術的には可能とプロジェクトチームは考えているようです。

満濃池 古代築造想定復元図2

②の治水工事のことを考える前に、その前提として当時の丸亀平野の復元地形を見ておきましょう。20世紀末の丸亀平野では、国道11号バイパス工事や、高速道路建設によって、「線」状に発掘調査が進み、弥生時代から古代の遺跡が数多く発掘されました。その結果、丸亀平野の形成史が明らかになり、その復元図が示されるようになります。例えば、善通寺王国の拠点とされる旧練兵場跡(農事試験場 + おとなと子供の病院)周辺の河川図を見てみましょう。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺旧練兵隊遺跡周辺の河川
 これを見ると次のようなことが分かります。
①善通寺市内には、東から金倉川・中谷川・弘田川の支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れていた。
②その微高地に、集落は形成されていた。
③台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを振って、まさに「暴れ龍」のような存在であった。
このような状況が変化するのは中世になってからのことで、堤防を作って治水工事が行われるようになるのは近世になってからです。放置された川は、龍のように丸亀平野を暴れ回っていたのです。  これが古代から中世にかけての丸亀平野の姿だったことは以前にお話ししました。

飯山町 秋常遺跡 土地利用図
 土器川の大束川への流れ込みがうかがえる(飯野山南部の丸亀市飯山町の土地利用図)

古代から中世にかけての丸亀平野では、いくつもの川筋が網の目のようにのたうち回りながら流れ下っていたこと、それに対して堤防を築いて、流れをコントロールするなどの積極的な対応は、余り見られなかったようです。そうだとすれば、このような丸亀平野の上に満濃池からの大規模灌漑用水路を通すことは困難です。近世には、満濃池再築と同時に、金倉川を放水路として、四条川(真野川)の流れをコントロールした上で、そのうえに灌漑用水路が通されたことは以前にお話ししました。古代では、そのような対応がとれる段階ではなかったようです。
 丸亀平野の条里制については、次のような事が分かっています
①7世紀末の条里地割は条里ラインが引かれただけで、それがすぐに工事につながったわけではない。
②丸亀平野の中世の水田化率は30~40%である。
丸亀平野の条里制.2
 かつては「古代の条里制工事が一斉にスタートし、耕地が急速に増えた」とされていました。しかし、今ではゆっくりと条里制整備はおこなわれ、極端な例だと中世になってから条里制に沿う形で開発が行われた所もあることが発掘調査からは分かっています。つまり場所によって時間差があるのです。ここでは、条里制施工が行われた7世紀末から8世紀に、急激な耕地面積の拡大や人口増加が起きたとは考えられないことを押さえておきます。
 現在私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになった光景です。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。そのエリアは「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。

弥生時代 川津遺跡灌漑用水路
川津遺跡の灌漑水路網
最後に灌漑技術について、丸亀平野の古代遺跡から出てくる溝(灌漑水路)を見ておきましょう。
どの遺跡でも、7世紀末の条里制施行期に灌漑技術が飛躍的に発展し、大型の用水路が現れたという事例は見つかっていません。潅漑施設は、小さな川や出水などの小規模水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものです。この時期に灌漑技術が飛躍的に向上したということはないようです。
 大規模な溝(用水路)が出てくるのは、平安末頃以降です。
丸亀平野の川西地区、郡家地区、龍川地区では地割に沿って、大きな溝(用水路)が出てきました。大規模な溝が掘られるようになったことからは、灌漑技術の革新がうかがえます。しかし、この規模の用水路では、近世の満濃池規模の水量を流すにはとても耐えれるものではありません。丸亀平野からは、満濃池規模の大規模ため池の水を流す古代の用水路跡は出てきていません。
ちなみに、この時期の水路は条里制の坪界に位置しないものも多くあります。この理由を研究者は次のように考えています。
 小河川の付替工事の場合を考えると、より広い潅漑エリアに配水するためには、それまでは、小規模な溝を小刻みに繋いでいく方法が取られていました。それが大規模用水路を作る場合には、横方向の微妙な位置調整が必要となります。田地割がすでに完成している地域では、それまでの地割との大きなずれは避け、地割に沿って横方向に導水する水路が必要が出てきます。これが平安期以後に横軸の溝が多く作られるようになった理由と研究者は考えています。
ここでは次の点を押さえておきます。

「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」

 以上から以下のように云えます。
①古代は暴れ川をコントロールする治水能力がなかったこと
②大規模な灌漑用水整備は古代末以後のこと
つまり8世紀の空海の時代には、満濃池本体は作ることができるとしても、それを流すための治水・灌漑能力がなかったということになります。大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力がないと、水はやってきません。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」というのは「古代の溝」を見る限りは、現実とかけ離れた話になるようです。

満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
近世の満濃池の灌漑用水網

 しかし、今昔物語などには満濃池は大きな池として紹介されています。実在しなければ、説話化されることはないので、今昔物語成立期には満濃池もあったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか。もし、満濃池が存在したとしても、それは私たちが考える規模よりも遙かに小さかったのかもしれません。満濃池については、私は分からないことだらけです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 琴平町に三水会という昔から活発な活動を続ける郷土史探究会があります。そこで満濃池についてお話しする機会がありました。しかし、資料も準備できず、ご迷惑をおかけしたと反省しています。そこで伝えきれなかったことの補足説明も込めて、文章にしておきます。

  満濃池の築造については、一般的に次のように記されるのが普通です。
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」

そして地元では「空海が造った満濃池」と断定的に語られることが多いようです。
 しかし、研究者たちは「空海が造ったと言われる満濃池」とぼかして、「空海が造った」と断定的には言わない人が多いようです。どうして「空海が造った満濃池」と云ってくれないのか。まんのう町の住民としては、気になるところです。知り合いの研究者に、聞いてみると次のような話が聞けましたので、紹介しておきます。
 空海=満濃池築造説は、どんな史料に基づいているのでしょうか?

新訂増補 国史大系10・11 日本紀略 前編/日本紀略 後編・百錬抄(黒板勝美編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それは日本紀略(にほんきりゃく)です。「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に、次のように記されています。
 讃岐国言、始自去年、提万農池、工大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之 (以下略)
意訳変換しておくと        
 讃岐国司から次のような申請書が届いた。去年より万農池を堤防工事を開始したが、長さは広大であるが、動員できる民は少なく、成功は覚束ない。空海は、讃岐の土人であり、山中に坐禅せば、獣が馴れ、鳥が集まってくる。唐に留学し、多くのものを持ち替えた。空海は、讃岐で徳の高い僧として名高く、帰郷を待ち望んでいる。もし、空海が帰って満濃池工事に関わるならば、民衆はその姿を見るために雲が湧くように多数が満濃池の工事現場にあつまるだろう。空海は今は讃岐を離れ、京師に住むという。百姓は父母のように恋慕している。もし空海がやってくるなら、必ず人々は喜び迎え、工事にも望んで参加するであろう。願わくば、このような事情を考え見て、空海の讃岐帰郷が実現するように計らって欲しいと。この讃岐からの申請書に、許可を与えた。

ここに書かれていることを、そのまま信じると「空海=満濃池築造説」は揺るぎないように思えます。しかし、日本紀略の「素性」に研究者は疑問を持っているようです。この書は、正史のような文体で書かれていますが、そうではないようです。平安時代に編纂された私撰歴史書で、成立時期は11世紀後半から12世紀頃とされますが、その変遷目的や過程が分かりません。また編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないのです。つまり、同時代史料でもない2百年以後に編纂されたもので、編者も分からない文書ということになります。
 お宝探偵団では、「壺や茶碗は由緒が書かれた箱に入っていてこそ価値がある」ということがよく言われますが、文書も一緒です。それを書いた人や由来があってこそ信頼できるかどうかが判断できます。そういう意味からすると研究者にとっては「日本紀略」は同時代史料でもなければ、正史でもない取扱に注意しなけらばならない文書と捉えられているようです。「信頼性の高い歴史書」とは、研究者達はみなしていないようです。

弘法大師行化記
藤原敦光の「弘法大師行化記」
 研究者がなにかを断定するときには、それを裏付ける史料を用意します。
日本紀略と同時代の11世紀に書かれた弘法大師の説話伝承としては次のようなものがあります。
①藤原敦光の「弘法大師行化記」
②「金剛峯寺建立修行縁起」
③経範の「弘法大師行状集記」(1089)
④大江匡房の「本朝神仙伝」
この中で、空海の満濃池築造については触れているのは、①の「弘法大師行化記」だけです。他の書には、満濃池は出てきません。また満濃池に触れている分量は、日本紀略よりも「弘法大師行化記」の方がはるかに多いのです。その内容も、日本紀略に書かれたことをベースにして、いろいろなことを付け加えた内容です。限りなく「弘法大師伝説」に近いもので「日本紀略」を裏付ける文書とは云えないと研究者は考えているようです。つまり「裏がとれない」のです。

これに対して「空海=満濃池非関与」をうかがわせる史料があります。
萬農池後碑文

それが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)で、名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されていて、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されてるので、日本紀略と同時代の史料になります。碑文の内容は、次の通りです。
① 満濃池の築造の歴史
② 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(851~854)に行った築造工事の概要
③ その際に僧真勝が行った修法について
内容的には弘宗王の満濃池修復の顕彰碑文であることが分かります。
内容については以前にお話したので、詳しくはこちらを御覧下さい。


この碑文には、弘仁年間の改修に空海のことは一言も出てきません。讃岐国守弘宗王が築造工事をおこなった事のみが記されています。
つまり同時代史料は、空海の「空海=満濃池築造説」を疑わせる内容です。
以上を整理しておくと
①「空海=満濃池築造説」を記す日本紀略は、正史でも同時代史料でもない。
②日本紀略の内容を裏付ける史料がない
③それに対して同時代の「讃岐国萬濃池後碑文」は、「空海=満濃池築造説」を否定する内容である。
これでは、研究者としては「空海が築造した満濃池」とは云えないというのです。次回は考古学検地から見ていきたいと思います。
  満濃池年表 満濃池名勝調査報告書178Pより
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
818(弘仁9)万農池が決壊、官使を派遣し、修築させる。(高濃池後碑文)
820 讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池復旧を伺い、築池使路真人浜継が派遣され復旧に着手。
821 5月27日、万農池復旧工事が難航していることから、築池使路真人浜継らの申請により、 改めて築池別当として空海派遣を要請。ついで、7月22日、費用銭2万を与える。(弘法大師行化記。日本紀略)その後、7月からわずか2か月余りで再築されたと伝わる。
851 秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊する。(高濃池後碑文)
852 讃岐国守弘宗王が8月より万農池の復旧を開始。翌年3月竣工。人夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚を使用(高濃池後碑文)
881 万農池神に従五位を授けられる。(三代実録)
927  神野神社が式内社となる。
947 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、万濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
平安時代成立の「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される。
1020 萬濃池後碑が建立。
1021「三代物語」「讃岐国大日記」に「讃岐那珂郡真野池始めて之を築く」とある。これ以前に廃池となり、この時に、復旧を始めたと推測される。
1022 再築(三代物語。讃岐国大日記)
 平安時代後期成立の「今昔物語集」に満濃池が登場
1184 5月1日、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1201 「高濃池後碑文」成立。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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前回には那珂郡七箇村組念仏踊りについて、次のように整理しました。
①この踊りは、中世に小松・真野・吉野の各郷で風流踊りが郷社に奉納されていたものであること。
②それは地域の村々を越えた有力者によって組織された宮座によって総勢が200人を越える大スタッフで運営されていたこと。
③生駒藩取りつぶしの後、讃岐が東西二藩に分割されると、次のように踊組は分割されることになったこと。
A 高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
B 丸亀藩 西七ヶ村(買田・宮田・生間・追上・帆山・新目・山脇)と佐文村 
C 池御領(天領)  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
④天領・親藩・外様という「帰属意識」から対立が絶えず、いろいろな事件や騒動を引き起こしたこと
⑤しかし、19世紀になると運営は軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになったこと。
 実際の運営は、1組編成になっても次の東西2つの組に分けて行われていたようです。
東組(Aの高松藩の村々) 
西組(B・Cの天領と丸亀藩の村々)
1826(文政9)年の連絡指示系統は、以下の通りです。

那珂郡大庄屋・吉野上村の庄屋岩崎平蔵 → 総触頭・真野村庄屋三原専助 → 各庄屋

この年は、踊組内部の対立が顕在化します。
その発端は、阿野郡北條組の分裂でした。内部分裂した一つが七箇村組の後庭で踊らせてもらいたいと、阿野郡北の大庄屋を通じて、那珂郡の大庄屋岩崎平蔵(吉野上村)に申し入れます。これに対して岩崎平蔵は、踊組の意見を聞かずに「正保の刃傷事件から180年も経っているので、もう大丈夫だろう」と考えて、高松藩側の意志を確認しただけで、これを認めます。しかし、意見を求められなかった七箇村組の内には根強い反対意見もありました。岩崎平蔵の強引なやり方に反発する勢力の中心が「C 天領の小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)」の庄屋たちでした。天領の庄屋たちは、Aの高松藩の真野・吉野を中心とする運営について揺さぶりをかけてきます。
 それが、各村々の神社への踊り奉納の時に村役人が着る礼服についてです。
その年の最初の寄合の時に、池御領側から次のように申し出がありました。岸の上村の庄屋奈良亮助は、その申出を次のように記録しています。
 右寄合之節 苗田村年寄十右衛門右申出候ハ、先年ハ廿三日買田金毘羅二而上下着用致、
岸上村久保宮二而袴羽織二相成候所、中頃金毘羅二而上下着用致候二付、直二上下二而入庭(いりは)仕来り候得共、是ハ先年之通り袴羽織二而久保宮ヘハ入庭致候ベシと申出候二付、
真野村庄屋三原専助殿被申候ハ、先年ハ如何二御座候哉、拙者共役申併先政所伊左衛門始?、久保宮へ茂上下二而入庭仕来り被成レ居申候由返答有之候所、小松庄四ケ村之内五条・榎井・苗田三ケ村方申出候ハ、何連念仏一定之旧記等御取調之上、先年右古振之通被い成候而可然旨申出候。依之追而旧記取調十六日ニ池之宮而否返答可致旨専助殿申出候而、寄合相済申候段、
 当村組頭庄屋亮介へ申出候。依之亮助右十日夕方内々二而真野村庄屋専助殿へ掛合仕候所、委細専助殿承知有之、何連十六日二池宮二而、買田村庄屋貞彦方へ掛合返答致候条卜返答有之候。
尚又十五日、当村神職朝倉石見右茂、専助殿へ内々掛合仕候。然ル所旧記等根二入取調仕候所、格別委細之義も無之候得ハ、廿三日?礼服等相改候と有之儀ハ無二御座候。右之趣、明十六日池之宮二而買田村へ返答致候卜、専助殿方申出候由、石見方村方庄屋亮助へ串出候義二御座候。
意訳変換しておくと
 真野不動堂で会合の際に、苗田村年寄の十右衛門右が次のような申出を行った。
 もともと23日の買田・金毘羅(池御料を含む)への奉納の時には上下着用で、岸上村の久保宮の奉納の時には、袴羽織着用であった。ところが近年は金毘羅での奉納が上下着用のために、久保宮でも同じように上下着用となってしまった。ついては、久保の宮には先例通りに袴羽織で入庭するようにして欲しいと申出があった。
 これについて真野村庄屋三原専助殿が応えて云うには、先年とはいつのことなのか? 私が大庄屋を務めるようになってからは、久保の宮へは上下で入庭してきたと答えた。これに対して、小松庄四ケ村の五条・榎井・苗田三ケ村方は、旧記の記述を調べた上で、先例古式通りの作法・やり方を行って欲しいとの要望があった。このため旧記を調べて16日に満濃池池之宮での奉納の際に結果を伝えることにして、会合はお開きとなった。

 当村(岸上村)の組頭・藤堂から村方庄屋の奈良亮介へ申出があった。そこで庄屋亮助が10日夕方、内々に真野村庄屋専助殿へ掛合って、専助殿はこれを承知した、買田村庄屋貞彦方と相談した上で、16日の満濃池池宮での奉納の祭に、返答することになった。
 その前日の15日、岸の上村久保宮の神職朝倉石見右茂も、専助殿と内々に協議を行った。それによると旧記等などを調べてみたが、格別に問題点も見つからなかったということで、「23日に礼服に相改候」とは書かれていないとのこと。これを明日、池之宮と買田村庄屋へ返答する、専助殿へ伝えたとのこと。村方庄屋の亮助へも連絡済みである。
歴史編6 男物の羽織 | 着物あきない
羽織袴(平服)と裃(正装)

 池御領天領(五条・榎井・苗田)の庄屋たちは何が不満なのかを整理しておくと
①羽織袴と裃(上下)では、裃の方が「格上」の礼服であったこと。
②「池御料天領・五条村の大井宮」が格上で、「岸上村の久保宮」は格下と、自分たちの神社が格上だ天領の庄屋たちは考えて見下していたこと。
③とろが近年は、久保宮でも上下着用となってしまったことに不満を持つようになった。ついては、「古式通りに」岸上村の久保宮では袴羽織で参加するようにして欲しい
④しかし、記録にはそのようなことは何もかかれていない。
  要は、天領の大井神社と、岸上の久保の宮の上下関係がはっきりと分かる服装にせよと要求したようです。天領池御料民としての自尊心の現れかもしれません。
 封建制とは身分制で、それが目に見える形で確かめられるような「装置・服装」がともないます。儀式の際の服装などは、身分や役割で事細かく決められていました。祭りの境内での席次なども事細かく決められています。そこに参列する村役人の服装も暗黙の決まりがあったのです。
 大庄屋の岩崎平蔵は、この問題の解決を次の踊りが行われる年まで先送りすることとして、1826(文政九)年の踊り奉納は終了します。しかし、天領の庄屋たちはこれで済ませたわけではありませんでした。3年後の1829(文政12)年の念仏踊に向けて手ぐすね引いて待っていたのです
1829年の総触頭を務めることになったのは、岸上村庄屋の奈良亮助でした。
奈良亮助は、和漢の学も修めていた教養人でもあったことは前回お話しました。彼は立派な花押を使用していますし、文章などからも几帳面で、慎重な人柄がうかがえます。後年には満濃池の普請についての実績を残しています。
 当時は、真野村の庄屋は大庄屋の岩崎平蔵が兼帯していました。
そこで奈良亮助は、念仏踊に関してのみの権限で真野村庄屋役を勤め、念仏踊の総触頭となったようです。師匠の岩崎平蔵の下での、その見習いというところでしょうか。
 奈良亮助は、文化5(1808)年の時に総触頭安藤伊左衛門が書き残した「滝宮念仏踊行事取遣留」によって仕事を進めていきます。そのスタートは、7日1日に先例通りの案内状を、買田村庄屋で西領と小松庄の触頭である永原貞彦に送ることから始めています。同時に回状(回覧板)を、高松藩東組の庄屋たちに送って、7月7日に真野不動堂に集まるように通知します。回覧状は次の庄屋たちを起点に、周辺庄屋に回覧されていきます。
吉野上村庄屋岩崎平蔵
四条村庄屋岩井勝蔵
吉野下村庄屋久保東左衛門
七箇村庄屋金堂東左衛門
塩入庄屋小亀弥五郞
 こうして、最初の会合が7月7日に真野不動堂で開かれます。
 この時は丸亀領が藩全体の忌中のため、領民は他領へ出ることを許されていませんでした。そのため丸亀藩の村々(旧仲南町)が滝宮へ踊りに出向くことは許されません。そこで踊りの期日を忌中開けにすることにします。この結果、例年より約半月遅らせて、各村々の神社での踊興行を行うことが決まります。亮助は、その次第と日程を、翌々日の7月9日付で高松の郷会所の村尾浅五郎と安倍久一郎の両元締に報告しています。
そんな中で7月13日、西組の触頭を務める買田村庄屋の永原貞彦が岸上村の奈良亮助を訪ねてきてきます。
 買田村と岸の上村は、丸亀藩と高松藩にそれぞれ属していて、このふたつの村の間に当時は「国境」がありました。国境の買田峠を越えてゆけば、永原宅から奈良亮助の家までは、30分ほどで着く距離です。丸亀藩が忌中で「藩外出入り禁止」中でも、このくらいの行き来は、大目に見られていたようです。永原家はかつては丸山城の城主であったのが帰農して、買田村の庄屋となったと伝えられます。永原貞彦の居宅は、現在の恵光寺の下辺りにありました。西村ジョイの南側のR32号バイパス工事の際には、買田岡下遺跡が出てきています。ここからは、古代郡衙に準ずるような建物群も出てきていて、このあたりが那珂郡南部の開発拠点で、中心地だったことがうかがえます。
永原貞彦がやってきて奈良亮助に、伝えたのは次のような内容です。
 昨日五条村年寄喜三郎 私宅へ参り、前念仏寄合之節(文政九年7月7日不動堂)苗田村重左衛門右、兼而申出候村役人礼服之儀、村寄合談合候処、岸上久保宮二而、古来之通り袴羽織二而入哉、又ハ五条村大井宮二而一統上下用致候哉、両様御掛合之上相究不申、満濃池宮へ笠揃ニモ得罷出不申、尚踊子用意も不仕、其上入用銀等心得二指出・不申由申参候、依い之貞彦喜三郎へ掛合候、久保宮二而袴羽豚二而入候義(何之何年二而御座候哉、佃者共一向覚無い之、勿論念仏一条真野例先二而惣触頭、西(当村、東(岸上、東西社面元、依之古来占廿三日二当村、金毘羅山、岸上真野之所、出帳之村役人上下着用二而仕来リニ御座候由申答候。然ル所喜三郎心再ビ申候義、我等迪も上下着用之義と奉い存居申候処、苗田村重左衛門、弥左衛門共心申候、往古袴羽織二而御座候処、金毘羅山占帰り掛之義故、岸上村役人占挨拶有い之候二付、上下二而入候杯と申義二御座候由、喜三郎占申出候二付、拙者共岸上村役人占挨拶有い之候杯と申義何覚無い之候由申答候。
右様次第二付如何可い仕候哉。今日御内々御相談二罷越候。何連五条村大井宮へ上下二而入候得バ指支無い之哉卜奉い存候間、篤と岩崎氏へも御挨拶之上御返答承知仕度奉い存候。
  意訳変換しておくと
 昨日7月12日、五条村の年寄喜三郎が買田の私の家(永原貞彦)にやってきて、次のような申し出をして帰った。その内容は次の通り。
 前回3年前の文政9年7月7日に、真野不動堂での念仏寄合の際に苗田村の重左衛門から出された村役人の礼服の件についてである。先日の五条村寄合で話し合った結果、岸上村の久保宮への念仏踊り奉納の際には、村役人の礼服は古来の通り袴羽織で行いたい。また五条村の大井神社では上下着用に統一すること、このふたつのが認められないのであれば、満濃池の池の宮での笠揃に参加しない。また踊子も用意しない。その上に、入用銀なども納めないとの申し出であった。
 この申し出を受けて貞彦喜三郎と相談したところ、久保宮での奉納に村役人が袴羽織を着用したことについては、記録のどこにも書かれていないこと、記憶にもないとの返答であった。喜三郎が云うには、我等も久保の宮へ上下着用で参列するという案はどうでしょうかとの提案があった。そこで、苗田村の重左衛門、弥左衛門に、これを伝えて、昔は袴羽織での参列であったが、金毘羅山からの帰り道になるので、岸上村役人から挨拶があり、上下着用となったようだと伝えた。喜三郎からの申出を、岸上村役人から挨拶があったということは、記憶にないと伝えた。
 このような次第なので、どう取り扱っていいのか迷う所である。今日は内々に相談しにやってきたとのこと。五条村大井神社へ上下で参列が認められないのであれば、五条村は念仏踊りに参加しないとのことである。岩崎氏へも相談し、対応を協議したい。
 3年前に棚上げした礼服問題を、天領五条村の庄屋たちは蒸し返してきたのです。 
「岸上村の久保宮への念仏踊り奉納の際には、村役人の礼服は古来の通り袴羽織で行いたい。また五条村の大井神社では上下着用に統一すること」は、先ほど見たように「大井神社を格上として、久保の宮を格下」とするものです。これは池御料を代表しての五条村からの申し出です。ある意味池御料の面目がかかっているようです。
 「参加拒否、脱会もありうる」という強固な申し入れの背後には、池御料の支配役所である倉敷代官所の同意もとりつけていた気配もします。満濃池池御領の3つの村は、満濃池普請のために設けられた天領です。そのために普請行事は、この天領の大庄屋の指揮の下に行われてきました。周辺の庄屋たちの上に立つ存在でした。明治維新に満濃池を再興した長谷川佐太郎も、天領榎井村の大庄屋でした。それだけに自負心が強く、悪く云うと周囲の村々見下し、強引に押し通そうとする風があったようです。
総触頭の奈良亮助は、西組のまとめ役の買田村庄屋・永原彦助に次のように答えています。

 念仏一条ハ拙者引請、殊二当村久保宮へ古来上下二而入来候義ヲ、当年袴羽織二仕坏卜申義、其意難得奉存候。弥(いよいよ)往古袴羽織二而踊来候得ハ、譬(たとえ)如何様村役人?挨拶有之候共、右様相成候義ハ在之間敷、殊二御料所ハ念仏一条二而小松庄貴様触下之義、触頭之貴様二当村組頭共右挨挨有い之候杯と申義御存無い之、古来占仕来り之義、触下右彼是申出候義全ク目論見候義卜相見へ申候。併右様村役人共着用物之義二付、念仏ヲ差支させ御上様御苦労奉い掛候義 甚夕奉二恐入候。左候得共五条村大井宮計上下二仕候義も難二出来へ指合の上一統上下二而出張致候様仕候而如何二御座候哉。左候得バ論も無い之候間、先唐岩崎氏二内談之上、念仏組合之村々と談合可い致候。

意訳変換しておくと
 この度の念仏踊りについては、私が総責任者を引き受けています。岸の上の久保神社への奉納の際には、村役人は古来より上下着用であったのを、当年からは袴羽織に変更せよという申し入れに対して、同意できかねます。もともと昔は袴羽織であったという証拠資料は、どこの村役人がお持ちなのでしょうか? このような文書は見たことがありません。
 満濃池御料所は念仏踊りについては、小松庄の触下、触頭の立場に在り当村組頭共右挨挨有い之候杯と申義御存無い之、古来占仕来り之義、触下右彼是申出候義全ク目論見候義卜相見へ申候。
併せて村役人着用の服装については、念仏踊りに差し障りが出て、御上にお手数をおかけすることになれば、はなはだ恐入いることになります。
 この解決策として、五条村大井神社で上下で参列するように、他の寺社でも総て統一して裃(上下)で参加するようにしたいと考えています。このことについては、岩崎氏に相談した上、念仏組合の村々とも協議したします。

こうして亮介の奔走によって7月16日に、真野村の岩崎平蔵方で高松藩領側の村々の会合が開かれます。
高松領の六ケ村の庄屋が集まって、岩崎平蔵の意見に従って念仏踊興行を行うすべての宮々で、村役人は上下を着用することになります。奈良亮助は早速に、組頭の乙平を買田村の永原貞彦に遣わして、このことを伝えて、西領側と池御料側の同意を求めます。西領側というのが丸亀藩(旧仲南町の七か村と佐文)になります。
 この会合に集まった庄屋たちは、この後に新築された郷会所の落成祝の御歓びを申し上げるために髙松に連れ立って出発しています。翌日17日から大暴風雨となり、五人の庄屋は髙松の郡宿に逼留して天候の回復を待ちます、19日から高松の関係役人宅を回って、郷会所元〆で当用方の中西次兵衛に、今回の念仏踊りの礼服変更について天領からの異議申出があったことを報告して指示を仰いでいます。藩への「報告・連絡・相談」は、庄屋たちにとっては欠かすことの出来ない最重要業務だったことがうかがえます。

7月22日には、買田村庄屋永原貞彦が再び奈良亮助を尋ねて、次のように申入れます。
 念仏一件頃日御掛合被・下候処、早々御返答可い仕筈之処、大風雨二付延引仕候。昨日御料三ヶ村寄合相談仕候処、至極相談相詰り不い申、当年(金毘羅、滝宮計二而相済セ候義、尚亦池之宮二而笠揃之義も無用二仕、八月七日二榎井村興泉寺へ相揃、金毘羅山済せ、直二滝宮へ入込候様仕度段掛合被い下候様、喜三郎右申出候間、大風雨二付所々破損仕居申候二付、何卒御相談被・成可い被い下候。

意訳変換しておくと
 念仏踊りのことについて、いろいろと協議し、早々に御返答を頂いたところですが、今回の大風雨で延期することになりました。昨日、御料三ヶ村(五条・榎井・苗田)の寄合で相談したところ、いろいろな意見が出ましたが、今回については金毘羅と滝宮だけで済ませて、池之宮の笠揃も中止することにしました。8月7日に、榎井村の興泉寺に集合し、金毘羅山へ奉納し、その後すぐに滝宮へ奉納するという段取りです。喜三郎が云うには、大風雨でいろいろなところに被害が出て非常の際なので、今回は以上のように執り行うので了承頂きたいとのことである。

 これを受けて奈良亮助は、組頭滝蔵を岩崎平蔵方に遣わして、貞彦の申し出の内容を伝えます。
その際に、池の宮の笠揃踊だけは実施すべきであるという自分の意見も伝えます。これに対して岩崎平蔵は、池御料の申出通りに村々と相談してまとめるように指示しています。

 奈良亮介には、池御領の次のような「戦略」が分かっていたのでしょう。
①大暴風雨のための臨時対応を口実として、「興泉寺集合→金毘羅奉納→滝宮牛頭社踊り込み」の先例を作ること
②そして「池の宮の笠揃踊 → 各村々の村社を巡っての奉納 → 真野諏訪大明神 →  滝宮牛頭社踊り込み」という従来の手順を破ること。
③榎井村の興泉寺での笠揃踊が先例として、金毘羅奉納を中心とする念仏踊運営にしていくこと
④同時に運営主体を高松藩の真野・吉野郷から、池御領に切り替えていくこと
⑤これは、七箇村念仏踊りの分裂へとつながること

 このような危惧を持っていた奈良亮助は、次のような書状を書いています。
一筆啓上仕候。秋暑強御座候処、弥御安泰可い被い成二御勤・珍重不い斜奉い賀候。
 誠二頃日罷出緩々預二御馳走不い過い之奉い存候。然其節御噺申上候念仏踊一件、再買田村へ滝蔵ヲ以掛合候得共、何分御料所右申出之儀二付、来月7日興泉寺へ相揃候様、当領之処相談致呉候様申越候。右二付私篤と考合仕候処、満濃池之宮二相揃不申候得、当領之分金毘羅児島屋へ相揃候様仕候得如何二御座候哉。若又当年興泉寺へ相揃、後年池之宮へ笠揃無い之候時、榎井村興泉寺へ笠揃仕、夫右金毘羅相踊候杯と申義、例二相成候而不相済・義二奉い存候。夫右金毘羅町内二而相揃候得指支無之哉と奉い存候。如何二御座候哉。乍い憚御賢慮之上御指図可い被い下候。尚又御役所申出如何二御座候哉。是又別紙御一覧之上御加筆可い被。
 下候様奉二願上候。右之段御相談旁以二愚札一得こ御意一度如い斯二御座候以上。
  7月廿日       奈良亮助
   岩崎平蔵様
  意訳変換しておくと

一筆啓上仕候。残暑強く暑い日が続きますが、ご健勝のことと思います。ご無沙汰しておりますことをお許しください。この度の念仏踊の一件について、買田村へ滝蔵を遣わして掛合いました。しかし、池御領かっら申出のあった来月7日に榎井村興泉寺で笠揃をおこなうことについては、私たち高松藩の村々にとっては「寝耳に水」です。
 これについて私の対応策を述べさせてもらいます。
満濃池の池之宮に揃うのではなく、私たちも高松藩の村々も金毘羅の児島屋で相揃うのはいかがでしょうか。今回のように、興泉寺で笠揃いを行うことが通例となり、池之宮での笠揃がなくなくなった場合に、金毘羅相踊とは云えなくなります。金毘羅町内に集合して指図を仰ぐという案はいかがでしょうか。忌憚なき御指図を頂きたいと思います。また御役所への申出・報告は如何いたしましょうか。案文を作成しましたので、御一覧いただき加筆をお願いします。。
 下候様奉二願上候。右之段御相談旁以二愚札一得こ御意一度如い斯二御座候以上。
  7月廿日       奈良亮助
   岩崎平蔵様

 亮助の手紙も、大庄屋岩崎平蔵の意見を変更することはできなかったようです。
亮助は、岩崎平蔵の加筆・指示を得た次の書状を、高松の郷会所元締に提出しています。

 一筆啓上仕候、然念仏踊来ル廿九日満濃池之宮笠揃仕、夫右一日更り二村々宮々相踊候様相究候段、先日御申出仕候所、御料所占村役人共礼服着用方之義二付彼是申出差支二相成候段、丸亀御領買田村庄屋永原貞彦右掛合御座候得共、前々之仕振二致相違一候義二付而一統難い致二承知、色々取扱候得共相片付不申、然ル処此度之洪水二付、其郡々川長用水方等切損、依い之稲棉両作共砂入水押二相成、百姓共一同致二難儀候義二付、旁三ケ領相談之上、村々宮踊之分致二無田ヅ、来月7日前々之通榎井村興泉寺二相揃、夫占金毘羅相踊、直二滝宮へ入込候様仕度段相究メ申候間、左様御承知可被い下候。右為二御申出‘如い斯二御座候以上。
  7月28日 岸上村庄屋 奈良亮助
   野嶋平蔵様
   中西次兵衛様
  意訳変換しておくと
 一筆啓上仕候、念仏踊の7月29日満濃池之宮での笠揃仕について、7月1日から、各村々の神社での奉納が予定されている。先日、申出のあった池御料所の村役人の礼服着用の件について、丸亀領買田村庄屋の永原貞彦から協議申し出があり、従来の服装にもどそうとしたがまとめきれず、いろいろと取扱に苦慮している。
 そのような折に、洪水被害を受けて、郡内の川や用水も被害を受けて、稲棉などの耕地にも土砂や水が入ってしまった。そのため百姓たちは、その対応に追われている。そこで三ケ領で協議した結果、村々の神社への奉納は、今回は中止し、来月7日に、榎井村興泉寺二に合して、金毘羅山に奉納後に、直ちに滝宮へ踊り込む段取りとなった。そのように御承知いただきたい。右為二御申出如い斯二御座候以上。
  7月28日 岸上村庄屋 奈良亮助
   野嶋平蔵様
   中西次兵衛様
 

奈良亮助は、高松の郷会所へ書状を差し出した日に、高松藩領の塩入・七箇・吉野上下・四条の各村に回状を出して、8月7日に五条村の興泉寺へ参集するよう案内します。結果的には、池御料の村々の申し入れが、「暴風雨被害への非常措置」を理由にして、全面的に受け入れられたことになります。
 以上の動きを見ると、この決定至るキーパーソンは那珂郡の大庄屋と、高松藩の郷普請方小頭役を兼務する岩崎平蔵であったことがうかがえます。彼の意向が、この決定に大きく作用していたと研究者は指摘します。岩崎平蔵は、念仏踊の伝統を守ることよりも、倉敷代官所の意向や高松藩の立場を優越させてて動く「現実派」だったと云えそうです。
 1829(文政12)の念仏踊は、8月8日に滝宮への御神事奉納の踊りで終了します。しかし、村役人の礼服のことは未解決のままで、次の開催年に持ち越されることになりました。
 奈良亮助は、八月八日付で念仏踊が無事終了したことを郷会所に報告して、波瀾の多かったこの年の念仏踊の総触頭としての任務を締め括っています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」
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 まんのう町岸の上 寺山
岸上村(まんのう町 金倉川流域)
19世紀中頃の江戸時代後半に那珂郡岸上村(まんのう町)の庄屋だった奈良亮助は、几帳面な性格でいくつもの文書を残しています。 奈良亮助は、伯父の奈良松荘のもとで和漢の学を学んでします。伯父奈良松荘(1786ー1862)は、国学者で詩文を備後の菅茶山に学び、頼山陽と並び称せられと云います。郷里に帰り、金刀比羅の日柳燕石や三井雪航などに感化を与え、晩年は岸上村の奈良家に寄寓していました。その時に、奈良亮助はその教えを受けたようです。残された文書の中に「滝宮念仏踊行事取遺留」と題されたものがあります。
一番上には、「念仏踊の事」という記録が綴り込まれていて、次のような内容が記されています。
①滝宮念仏踊が法然上人によって、念仏布教の方法として採り上げられて発達したこと
②享保年中の滝宮での御神酒樽受取の前後争いに端を発して、念仏踊が中止になったこと
③元文四年六月晦日に雹が降って農作物が大被害を受けたこと
④この被害は滝宮への念仏踊りを行っていないことへの天罰との噂が拡がったこと
⑤そこで、寛保二壬戌年から七か村念仏踊が復活したこと
以上が、簡潔な筆致で記されています。
 この記録に続いて、文政九(1826)年から安政6(1859)年までの約30年間に、13回実施された七箇村組念仏踊のことが岸上村の庄屋記録に綴りこまれています。今回は、奈良亮助の残した文書を見ていくことにします。テキストは「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」です。
 
龍燈院・滝宮神社
滝宮牛頭権現(滝宮神社)と別当寺の龍燈院

前回にお話ししたように、初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、参加したのは4郡の4つの踊組でした。踊組の間には異常なほどの対抗心があって、いろいろな事件や騒動を起こしています。
 例えば、正保二(1645)年の時には、演じる場所・順番をめぐって、七箇村組の岸上村の久保の宮・神職が長刀で、北条組の小踊二人を切り殺すという事件があったことは前回お話ししました。このため北条組は、その後は48人の抜刀隊を編成して警固するようにしたとも伝えられます。また、七箇村組とは踊る年を変えて鉢合わせしないようにもしています。踊りはこのようなぴりぴりとした緊張感の中で奉納されていたようです。
滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り
 念仏踊りが復活した当初は、七箇村組は二組編成だったようです
1790年(寛政二)年の編成表を見ると、
①主役を勤める下知 真野村と佐文村からそれぞれ各一人、
②6人1組で子供が踊役を勤める小踊 西七箇村から一人、吉野上下村から三人、小松庄四ヶ村から二人の計六人、それと、佐文村単独で六人
③笛吹が岸上村と佐文村から一人宛、
④太鼓打が西七箇村と佐文村から一人宛、
⑤鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人宛、
⑥長刀振が真野村と佐文村から一人宛、
⑦棒振も吉野上下村と佐文村から一人宛、
⑧棒突は西七箇村四人、岸上村三人、小松庄四ヶ村三人の計10人に対して、佐文村は単独で10人
ここからは次のようなことが分かります。
A七箇村組には、次の東組と西組の二組があったこと。
東組 真野・吉野郷(高松藩領) 郷社 真野の諏訪大明神(諏訪神社)
西組 小松郷と西七箇村(池御領と丸亀藩)    郷社 五条村 大井八幡社
B 東組は高松藩の村々、西組は池御領(天領)と丸亀藩の村々から編成され、藩を超えた編成になっていたこと
C その中で、西組は佐文中心に編成されていたこと。ちなみに佐文は、ユネスコ登録になった綾子踊りの里でもあります。
七箇村組の編成からは、もともとはこの踊りが中世の郷社に奉納されていた風流踊りだったことがうかがえます。

まんのう町の郷
滝宮念仏踊り 那珂郡七箇村組(真野・吉野・小松郷)
那珂郡七箇村組をめぐる事件や問題を年表化しておきます。
享保年間(1716~36)龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番をめぐって、東西費が領組が騒動
1736(元文元)年 念仏踊は中止され、七箇村組は解体状態へ。
1739(元文四)年 6月の雹(ひょう)という異常気象で農作物被害甚大。念仏踊り中止のせいだとの声が拡がる
1742(寛保二)年 龍灯院の住職快巌の斡旋で、滝宮念仏踊への参加復活
1790(寛政二)年 東西二組の編成で、奉納が続く。
1808(文化五)年 「下知一人」となり東西2組編成から一組編成へ縮小
次に年表内容を、詳しく見ていくことにします。
享保年間(1716~36)の争いの原因は、滝宮牛頭天皇社(現滝宮神社)への踊奉納の時に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番です。踊りが終わった後に、どちらが先に御神酒樽を受け取るかをめぐる争いです。当時は樽はひとつしか準備されていなかったようです。おやつをもらう順番をめぐる子供の喧嘩のようにも思えます。しかし、背後には、高松藩・丸亀藩・池御料(天領)の三者の対立感情があります。天領の踊り手や役員達はプライドが高く、何かと周辺の住人達を見下すことがあったようです。東組には、高松藩(親藩)の住人ということで、外様の丸亀藩の西組の踊り手たちを見下します。こういう意識構造が、このようなハレの舞台で吹き出します。この結果、元文元年(1736)年以後は、七箇村組の踊りは中止に追い込まれてしまいます。
 3年後の1739(元文四)年の6月晦日に、季節外れの雹(ひょう)が降って東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を蒙ります。
「これは滝宮念仏踊を中止したための神罰である」という声が起こって念仏踊復活の気運が高まります。そして、滝宮牛頭権現(滝宮神社)の別当寺龍灯院の住職快巌の斡旋で、1742(寛保二)年から滝宮念仏踊への参加が復活します。龍灯院は対応策として、踊奉納を終えた七箇村東西組に対して、御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていています。事件事故に学んで、新たな対応策が出されています。しかし、二組の編成は対立感情による紛争の起こる危険を常に含んでいました。復活後は、東西二組編成で1790(寛政二)年まで続いたことが史料から確認できます。

まんのう・琴平町エリア 讃岐国絵図
念仏踊七箇村組の村々

 ところが1808(文化五)年には、1組で出演していることが史資料から分かります。この年の7月24日書かれた真野村・庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」滝宮大明神(神社)の別当寺龍燈院宛の報告には、この年の七箇村組の行列は、次のように記されています。
「下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人」

「下知一人、笛吹一人」ということは、一編成になったことを示すものです。「取遣留」の1808年7月25日の記事にも、龍灯院からの御神酒樽については、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」、口上を述べ終わると、御神酒樽は踊り場である神社から龍灯院が預かって直ちに持ち帰っています。そして、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を龍燈院の書院に招待して御神酒を振る舞っています。ここでも酒樽は1つしか準備されていません。1808年の時点で、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっています。
   ここからは1790(寛政二)年から1808(文化五)年までの間に、七箇村組のなかで大きな問題が起こったことがうかがえます。また、一番踊り手構成メンバーが削減されているのが佐文村です。佐文は西組の中心だったことは、先ほど見たとおりです。それが棒付10名に減らされているのです。七箇村組が二編成から一編成に縮小された背景には、佐文をめぐる問題があったことがうかがえます。19世紀初頭には、それまで東西2組で運営されていた七箇村組は一組となってしまったようです。
以上を整理しておきます。
①中世に小松・真野・吉野郷では、風流踊りが郷社に奉納されていた
②それは地域の村々の有力者による宮座で組織されていたが、戦国時代に中断していた
③それを初代高松藩主松平頼重が地域興しイヴェントとして復活した
④その時に参加したのは、4つの郡の郷社に奉納されいた風流踊りであった
⑤4つの踊組は対抗心が強く、いろいろな事件や騒動を引き起こした
⑥那珂郡七箇村組も、当初は東西2組編成であったが、18世紀初頭には、1組に「縮小」している。これも内部での騒動か事件があったことが考えられる。
こうして、19世紀になると軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年」
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 ユネスコ無形文化遺産に香川県から滝宮念仏踊りと、綾子踊りが登録されました。滝宮念仏踊には、かつてはまんのう町からも踊組が参加していたようです。今回は、滝宮に風流踊りを奉納していた「那珂郡七箇村踊組」についてみていきます。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
まんのう町七箇村念仏(風流)踊り村別役割分担表

この表は文政12(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が踊組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。ここには各村の役割と人数が指定されています。この役割は「世襲」で、村の有力者だけが踊りのメンバーになれたようです。この表からは、次のような事が見えてきます。
①まず総勢が2百人を越える大スタッフで構成されたいたことが分かります。
スタッフを出す村々を藩別に示すと、次の通りです。
A 高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
B 丸亀藩 西七ヶ村(買田・宮田・生間・追上・帆山・新目・山脇)佐文村 
C天領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
まんのう町エリア 讃岐国絵図2
まんのう町周辺の近村々村々
まんのう町の村々(正保国絵図 17世紀前半で満濃池が池内村)

どうして、藩を超えた編成ができたのでしょうか。
それは丸亀藩と高松藩に分けられる以前から、この踊りが那珂郡南部の「真野・吉野・小松」の3つの郷で踊られていたからでしょう。七箇村踊組は、中世から踊り継がれてきた風流踊りだったようです。

那珂郡郷名
那珂郡南部の子松・真野・吉野の郷で、踊られていた
②滝宮に踊り込む前には、各村の神社に踊りが奉納されています。
7月17日の満濃池の池の宮から始まって
  18日七箇春日宮・新目村之宮
  21日五条大井宮・古野上村宮
  22日が最終日で岸上村の久保宮と、真野村の諏訪神社に奉納
  27日に滝宮牛頭大明神(滝宮神社)への躍り込みとなっています。
「諏訪大明神念仏踊図(真野諏訪神社)」に描かれた踊りが綾子踊りにそっくりであることを以前に紹介しました。
諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪大明神念仏踊図(真野諏訪神社)

そして役割構成も似ています。ここからは佐文の綾子踊りの原型は、「七箇村踊組」の風流踊りにあることがうかがえます。
③実は七箇村踊組は、もともとは東西2組ありました。
その内の西組は佐文を中心に編成されていたのです。ところが18世紀末に滝宮への奉納を廻って、なんらかのトラブルがあったようで、西組は廃止され1組だけになりました。その際に佐文村は下司など中心的な役割を失い、「棒付10人」だけに大幅に縮小されます。ここからは佐文が不祥事の責任をとらされたことがうかがえます。
 今まで踊りの中心を担っていた佐文にとって、これはある意味で屈辱的なことでした。それに対して、佐文がとった対応が新たな踊りを単独で出発させるということではなかったのではないでしょうか。こうして雨乞い踊りとして、登場してくるが綾子踊りだと推測できます。そうだとすれば、綾子踊りは那珂郡南部の三郷で踊られていた風流踊りを受け継いだものといえそうです。
綾子踊り67
佐文 綾子踊り
  参考文献  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年

法然
法然 
浄土教の盛んだった京都黒谷別所の叡空の下で修学した源空(法然房)は、やがて、源信の『往生要集』に導かれて専修念仏にたどりつき、安元元年(1175)ごろまでに浄土宗を開立したと言われます。念仏以外のあらゆる行業・修法を切り捨て次のように宗旨を宣言しています。

「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申せば、うたがいなく往生するぞ、と思いとりて申外には別の子細候はず。」(一枚起請文)

 こうして浄土教は、一部の知恵者や遁世者、上層階級の者の宗教から解き放たれ、開かれた宗教としての道を歩み始めることになります。しかし、それは苦難の道でした。とくに、南都北嶺の旧仏教勢力からの弾圧を受け続けます。やがて、元久元年(1204)になると、延暦寺衆徒や興福寺などからの専従念仏禁止の運動が活発化するようになります。
 それを庇護したのが法然の下で出家した前摂政の九条兼実の力でした。そのバランスが崩れるのが建永元年(1206)3月のことで、事態は急変します。法然房は、土佐国配流と決まります。土佐国は、九条家が知行国主であったので縁故の土地でもありました。3月16日(旧暦)、京都を立ち、鳥羽から淀川を下り、摂津国の経ヶ島(兵庫)から「都鄙上下の貢船」と呼ばれた海船に乗り換えて、播磨国の高砂そして室津を経て讃岐国塩飽島に到着します。前回までにここまでを「法然上人絵伝」でたどってきました。
今回は、讃岐子松庄の生福寺での様子を見ていくことにします。

子(小)松庄に落ち着き給ひにけり
   35巻第2段 讚岐国子松庄に落ち着き給ひにけり。
当庄(子松庄)の内、生福寺といふ寺に住して、無常の理を説き、念仏の行を勧め給ひければ、当国・近国の男女貴賤、化導(けどう)に従ふ者、市の如し。或は邪見放逸の事業を改め、或は自力難行の執情を捨てゝ、念仏に帰し往生を遂ぐる者多かりけり。辺上の利益を思へば、朝恩なりと喜び給ひけるも、真に理にぞ覚え侍る。
 彼の寺の本尊、元は阿弥陀の一尊にておはしましけるを、在国の間、脇士を造り加へられける内、勢至(菩薩)をば上人自ら造り給ひて、「法然の本地身は大勢至菩薩なり。衆生を度せんが為の故に、此の道場に顕はし置く。我毎日影向し、帰依の衆を擁護して、必ず極楽に引導せん。若し我、此の願念をして成就せしめずんば、永く正覚を取らじ」
とぞ書き置かれける。勢至の化身として、自らその躰を顕はし名乗り申されける、真にいみじく貴き事にてぞ侍りける。

意訳変換しておくと
子松庄の生福寺といふ寺に住居を定めて日夜、無常の理を説き、念仏行を勧めた。すると讃岐の男女貴賤、化導(けどう)に従う者が、数多く現れた。こうして、邪見放逸の行いを改め、自力難行の執着を捨てて、唯一念仏に帰して、往生を遂げる者が増えた。辺境の地である讃岐のことを考えると、まさに法然の流刑は、「朝廷からの朝恩」と歓ぶ者もいたと云うが、まさに理に適った指摘である。
 生福寺の本尊は、もともとは阿弥陀一尊であった。法然上人は讃岐在国の間に、脇士を造ることを思い立ち、自ら勢至(菩薩)を彫った。そして次のような銘文を胎内に書き付けた。「法然の本地身は大勢至菩薩である。衆生を極楽往生に導くために、この道場に作り置く。我は毎日影向して、帰依した者を擁護して、必ず極楽に引導するであろう。もし、この願念を成就しなければ、正覚をとることはしない」
と書き置いた。こうして法然上人は、生福寺に勢至の化身として、自らその躰を現し名乗っている。真にいみじく貴い事である。

小松郷生福寺入口
35巻第2段 子松庄の生福寺の山門に押しかける人々
  生福寺に法然がやって来ると、多くの人が集まってくるようになります。それは日を追う毎に増えていきます。寺の門前は、市が立っているようなありさまです。

生福寺山門拡大
①馬を駆って武士と出家姿の老僧がやってきて賑やかになっています。
②白衣の老婆を背にして門をくぐる若者
③市女笠の赤い服の女房の手をひく男
④大きな黒い傘をもつ旅芸人風の男
門からは多くの人達が、雪崩打つように入ってきます。

小松郷生福寺2
生福寺本堂(法然上人絵伝)
  生福寺の本堂は人で溢れんばかりです。
①本堂の畳の上に経机置かれ、経典が積まれています。その前に法然が座っています
②向かって右側には武士の一団
③左側が僧侶の一団のようで、④尼や女性もいます。僧侶の中には縁台に座れずに立ったままの姿が何人もいます。
⑤の男は顔が青くて、気分が悪いのでしょうか、刀を枕に寝転んでいます。二日酔いかな?
⑥幕の内側からは若い僧侶が、和尚さんをこっちこっちと手招いています。
⑦では、どこかからの布施物者が運び込まれています。
人々は、法然が口を開くのを今か今かと待っています。

小松郷生福寺3
        生福寺本堂後側(法然上人絵伝)

その後からは法然に付き従った弟子たちが、見守ります。
法然の落ち着き先について『法然上人絵伝』は、次のように記します。
①「讃岐国子(小)松庄におちつき給にけり、当庄の内生福寺といふ寺に住」

『黒谷土人伝』には、次のように記されています。
②「同(建永二年)三月十六日二、法性寺ヲ立テ配所二趣玉フ、配所「讃岐国子松ノ庄ナリ」

どちらも配所は「讃岐国子松庄」です。
まんのう町の郷
法然が落ち着いた子(小)松庄(現在の琴平周辺)

法然が落ち着いた子松庄というのは、どこにあったのでしょうか?
 角川書店の日本地名辞典には、次のように記されています。
琴平町金倉川の流域、琴平山(象頭山)の山麓一帯をいう。古代 子松郷 平安期に見える郷名。那珂郡十一郷の1つ。「全讃史によれば、上櫛梨・下櫛梨を除く琴平町全域が子松郷の郷域とされており、金刀比羅官(金毘羅大権現)とその周辺地域が子松と通称されていたという。
中世の子松荘 鎌倉期~戦国期に見える荘園名 
元久元年4月23日の九条兼実置文に、千実が娘の宜秋門院任子(後鳥羽上皇中官)に譲渡した所領35荘の1つとして「讃岐国子松庄」と見える。
 子松郷は現在の琴平周辺で、郷全体が立荘され、九条兼実の荘園となっていたようです。ここからは法然の庇護者である九条兼実が、自分の荘園のある子松郷に法然を匿ったという説が出されることになります。しかし、注意しておきたいのは子松荘のエリアです。小松庄は、現在の琴平町から櫛梨をのぞく領域であったことを押さえておきます。
   次に、拠点としたという生福寺について見ておきましょう。
法然上人絵伝には「当庄の内 生福寺」と、具体的な寺名まで記されています。しかし、生福寺については、どこにあったのかなどよく分かりません。後の九条家の資料の中にも出てこない寺です。
 九条家の資料に出てくる小松荘の寺院は、松尾寺だけです。子松荘には松尾寺があり、鐘楼維持のための免田が寄進されています。この免田は、荘園領主(九条家)に対する租税免除の田地で、この田地の年貢は松尾寺のものとなります。ちなみに、松尾寺の守護神として生み出されるのが「金毘羅神」で、その神を祀るようになるのが後の金毘羅大権現です。
 どちらにしても生福寺という寺は、法然の讃岐での拠点寺院とされるのですが、その後は忘れ去られて、どこにあったのかも分からなくなります。

  それを探し当てるのが初代高松藩主松平頼重です。
その経緯を「仏生山法然寺条目」の中で、知恩院宮尊光法親王筆は次のように述べています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳変換しておくと
①浄土宗の開祖法然上人が建永元年(1207)に讃岐に左遷され、しばらく生福寺に滞在した。
②その際に(生福寺)は念仏三昧の道場なり栄えた。
④しかし、その後の乱世で衰退し、わずかに草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影ばかりが残っていた。
⑤それを寛永年中に高松藩主として入国した松平頼重は、法然上人の旧跡を復興して仏生山へ移し、法然寺を創建し田地を寺領にして寄進した。
⑥生福寺の移転跡には、新しく西念寺が建立された。
ここには、17世紀後半には生福寺は退転し草庵だけになっていたこと、本尊や法然真影だけが残っていたと記されています。注意したいのは、退転し草庵だけになっていた生福寺の場所については何も触れていないことです。「法然上人絵伝」には「当庄(子松庄)の内、生福寺といふ寺に住して、無常の理を説き、」とありました。生福寺は小松荘にあったはずです。旧正福寺跡とされる西念寺は、まんのう町狹間)なのです。ここからは「西念寺=旧正福寺跡」説を、そのままに受け止めることは、私にはできません。
 松平頼重が仏生山法然寺を創建するための宗教的な意図については、以前にお話ししましたので、要約して確認しておきます。
①藩主の菩提寺として恥じない伽藍を作りあげること。
②それを高松藩における寺院階層のトップに置くこと、つまりそれまでの寺院ランクの書き換えを行うこと。
③徳川宗家の菩提寺が増上寺なので、同じ宗派の浄土宗にすること
そこで考えられたのが法然上人絵図の「法然讃岐左遷」に出てくる生福寺なのでしょう。そして、草庵に退転してた寺を「再発見」したことにして、仏生山に移し、その名もズバリと法然寺に改称します。こうして法然寺は藩主があらたに創建した菩提寺という意味だけでなく、法然上人の讃岐流刑の受難聖地を引き継ぐ寺として、「聖地」になっていきます。江戸時代には法然信者達が数多くお参りする寺となります。このあたりにも、松平頼重の巧みな宗教政策が見えて来ます。

法然が讃岐小松庄に留まったのは、わずか10ケ月足らずです。
しかし、後の念仏聖たちが「法然伝説」を語ったことで、たくさんの伝承や旧蹟が産まれてきます。例えば讃岐の雨乞い踊りの多くは、法然が演出し、振り付けたとされています。
 これについて『新編香川叢書 民俗鎬』は、次のように記します。

  「承元元年(1207)二月、法然上人が那珂郡子松庄生福寺で、これを念仏踊として振り付けられたものという。しかし今の踊りは、むしろ一遍上人の踊躍念仏の面影を留めているのではないかと思われる」

ここからは研究者達は「法然=念仏踊り」ではなく、もともとは「一遍=踊り念仏」が実態であったものが後世の「法然伝説」によって「株取り」されていると考えていることが分かります。一遍の業績が、法然の業績となって語られているということでしょう。そして、讃岐での一遍の痕跡は、次第にみえなくなり、法然にまつわる旧蹟が時代を経るにつれて増えていきます。これは弘法大師伝説と同じ流れです。
 中世には高野聖たちのほとんどが念仏聖化します。
弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺へ念仏阿弥陀信仰を拡げていたことは以前にお話ししました。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いつしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。

最後に、法然上人絵伝の讃岐への流刑を見てきて疑問に思うことを挙げておきます。
①流刑地は土佐であったはず。どうして土佐に行かず讃岐に留まったのか。
これについては、庇護者の九条兼実が手を回して、自らの荘園がある子松荘に留め置いたとされます。そうならば当時の讃岐国府の在地官僚達は、それを知っていたのか、また知っていたとすればどのような態度で見守ったのか?
②法然死後、約百年後に作られた「法然上人絵伝」の制作意図は「法然顕彰」です。そのため讃岐流配についても流刑地での布教活動に重点が置かれています。それは立ち寄った湊で描かれているのが、どれも説法シーンであることからもうかがえます。「近国遠郡の上下、傍荘隣郷の男女群集して、世尊のごとくに帰敬したてまつりける」から、讃岐にとっては「法然流刑」は、願ってもない往生念仏の布教の機会となって有難いことだったという結論に導いていきます。そのため、後世の所の中には、これが流刑であることを忘れ「布教活動」に讃岐にやって来たかのような視線で物語る書も現れます。それは、信仰という点からすれば当然の事かもしれません。しかし、歴史学という視点から見るとあまりに史料からかけ離れたことが、史実のように語られていることに戸惑いを思えることがあります。空海が四国88ヶ所を総て開いたというのが「弘法大師伝説」であるように、法然に関わる旧蹟や物語も「法然伝説」から産まれ出されたものと割り切る必要があるようです。
以上をまとめておくと、
①土佐への流刑となっていた法然一行は、塩飽から子松庄の生福寺に入った。
②子松荘は現在の琴平周辺で、九条兼実の荘園があっので、そこに法然を保護したとされる。
③生福寺には、数多くの人々が往生念仏の道を求めてやってきて結縁したと伝えられる。
④しかし、子松庄にあった生福寺については、よくわからない。
⑤生福寺が再び登場するのは、高松藩主松平頼重が仏生山に菩提寺を建立する際に「再発見」される。
⑥松平頼重は、法然の聖地として退転して草庵になっていた生福寺を仏生山に移し、法然寺と名付けた。
⑦これは高松藩の寺院ヒエラルヒーの頂点に法然寺を置くための「演出」でもあった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

幕府巡見使を髙松藩の村々の庄屋たちがどのように準備して迎え入れたのかを、以前に見ました。今回は宇多津を中心とする鵜足郡の庄屋たちの受入準備を、まんのう町(旧琴南町)に残された庄屋文書(西村文書)から見ていくことにします。テキストは「大林英雄 巡見使の来讃 琴南町誌225P」です。

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琴南町誌
最後の巡見使となった1838(天保九)年の巡見使の行程を見ておきましょう。
4月5日に大坂を出帆
4月19日に豊前に着き、豊前と豊後を巡見、
閏4月12日に伊予へ入り、土佐・阿波を巡見
6月上旬に讃岐に入り、讃岐を巡見して大坂に帰る
7月に江戸に帰り帰着報告 その後下旬に報告書提出
全行程86日間の長旅でした。
巡見使3名一行の内訳は、次の通りです。
知行1500石の平岩七之助が、用人黒岩源之八・高橋東五郎以下30人、
知行千石の片桐靭負が、用人土尾幸次郎。橋部司以下30人、
知行500石の三枝平左衛門が、用人猪部荘助。小松原尉之助以下27人
巡見使構成表天保
天保の巡見使構成表

以上の三班で、総員90人になります。この他に平岩七之助の組に5人、片桐靭負の組に4人、三枝平左衛門の組に5人、計一四人の者が同行して、宿舎を共にしていますが、この者がどういう立場の者であったかは分かりません。
巡見使来讃を藩から告げられた鵜足郡の大庄屋は、次の2名を責任者として指名しています。
会計担当 西川津村の庄屋高木左右衛門
引纏役  造田村の庄屋西村市大夫
二人は、大庄屋の十河亀五郎の指示で、前回の寛政年間の御巡見来讃の時に引纏役を勤めた東分村の庄右衛門を尋ねて、その記憶と残されていた記録をもとにして、準備に取り掛かっています。
引纏役の仕事は、次の通りです。
①巡見使の通路を中心にして、道路の整備計画作成
②巡見使の通る岡田西・小川・西坂元・東二・東分・宇足津の六村を中心に、鵜足郡の状況を調査し、通路から見える山や名所、神社仏閣について説明書作成
③藩の政治や民情について、予想される巡見使からの質問に対する想定問答集を大庄屋や藩と協議して作成
④御案内、宿舎係、警備係などの村役人の任務分担表の作成
⑤先行する伊予と阿波で、巡見使の動静調査
①道路整備表 + ②鵜足郡現況説明書 + ③想定問答書 + 村役人任務分担表 + 巡見使の動静調査」と微に入り細にいった仕事内容があったことが分かります。会計については、巡見使がやって来る約2ヶ月前の4月20日に開かれた聖通寺での郡寄合で、村々の分担額が決められています。最終的に造田村の分担は、次のとおりでした。
普請用明俵 679俵(郡全体で6200俵)。
人足 205人
御借上品
布団 32枚(四布(よぬ)20枚、三布12枚)。
蚊帳 5張 水風呂 3本 菓子盆 2
燭台 4台 硯箱 4。浴衣 3枚。
御買上品
木枕 40 炭 40俵
薪 244束。
679俵の空俵は、土を入れて土嚢を作って、岡田西の大川へ板橋を架けることと、宇足津までの街道修理、宇足津の港の一部修理が計画されています。

各村の庄屋と組頭に、巡見使案内の諸役を分担します。
これと同じような分担表を、那珂郡の岸上村(まんのう町)の庄屋奈良亮助も書き残していたことは以前に紹介しました。

巡見使役割分担表1
       那珂郡の諸役分担表の一部(奈良家文書)

 庄屋たちの説明がまちまちになるのを防ぐために、備忘録や想定問答集が作られて庄屋たちには渡されていました。
しかし、実際には夜間の案内であったり、案内の距離が短かったために、巡見使から案文を示され、文書で答えを求められることが多かったことが報告されています。巡見使にしてみれば、江戸に帰ってからの報告書作成のことを考えると文書で預かった方が便利でもあったのでしょう。
作成された鵜足郡の想定問答集は、35項目が挙げています。その内の七か条を見ておきましょう。(御巡見御案内書抜帳「西村文書)

一 畑方、秋夏両度麦納申候。尤銀納勝手次第、其年相庭にて銀納仕候事。但し、田方に作候麦は、百姓作徳に相成候事。

  畑作については、盆前納と十月納で夏成を2度に分けて麦で納めています。納税方法は銀納も可です。但し、水田裏作の麦栽培については、百姓作徳で年貢はかかりません。

一 塩浜近年相増候ケ所も有レ之候。尚又堤切損じ、 築立諸入目等は、塩口銀にて仕候事。塩国銀というは、塩壱俵に付銀三分ずつ納申候。壱俵の升目四斗八升入申候。毎年出来塩多少により、国銀規定無二御座候。
  
 塩田が近頃は増えていますが、堤が切れて修繕が必要な場合に備えて、塩口銀を納めています。塩口銀というのは、塩壱俵について銀三分を納めることです。壱俵の升目は四斗八升入です。毎年の塩生産量により決まるので、口銀額は定まっていません。

一 田地売買作徳米の歩を以て、売買致候。

 田地売買については作徳米の多い少ないによって田地の価格を決め、売買を認めています。
一 検地竿は、六尺三寸のもの用い候。

 高松藩では、寛文検地以後も、六尺三寸の検地竿で実施しています。
一 御家中御成物、先年は三つ四つ御渡し候由、当時は一つ七歩位と承居中候事。

    家中成物(家臣の俸禄米を一定額徴収)については、以前は知行百石について30~40石を渡していましたが。今は一七石程度になっています。
一 御用銀の儀、御勝手向御指支、其上御上京等芳以御入用多候につき、身上相応少々宛御用銀被  二仰付一候。尤無高の者ぇは被仰付無之候事。

  御用銀については、藩の財政支援のために殿様が将軍名代として京都の朝廷に参内するときなどの費用負担として、相応額を納めています。しかし、無高の貧しい者には免除するなど配慮しています。

一 甘藷作の義、当国は用水不自由にて、日畑共少々植付候得共、近頃員数減等被二仰付「全作付柳の義、尚又売捌は多分大坂表え積登候事。

 砂糖生産に必要なさとうきび栽培については、讃岐は水不足が深刻なために、田畑にさとうきびを少々植付けています。しかし、近頃は幕府の削減令もあり、植え付け面積を削減しています。また販売先はほとんどが大坂に積み出しています。

   事前調査で今回の天保の巡見使の巡見テーマが「各藩の特産品とその専売制の調査」と予想していたようです。そのため髙松藩の特産品である塩田と砂糖についての答え方には、特別に苦心を払っていたことがうかがえます。

巡見使の事前動静調査のために、土器村の庄屋代理林利左衛門が、4月末から5月にかけて、伊予の西条方面に出かけて調査しています。その報告書には、伊予各藩のもてなしについて次のように記されています。
①各藩が巡見使のお供の者に金子を贈っていることと、その具体的な額
②巡見使の行列の模様
③三枝様の一行はあの品(金?)を御好みの由
④片桐様御一向は御六ケ敷由
⑤平岩様は温厚にて、御家来向も慎深き由
引纏役の西村市太夫は、旧知の阿波脇町の庄屋平尾平兵衛から書状で阿波の準備状況などを教えてもらっています。
その上で巡見使が脇町に入った6月14日から16日まで三日間は、猪の尻の淡路稲田家の家臣森兵衛方に自ら出向いて「情報収集」を行っています。その方法は、当地の村役人に28か条の質問要項を示すもので、細かい点についてまで回答を得ています。この行動力と入念さには、頭が下がります。庄屋たちのやる事には、綿密で抜かりがありません。
報告書の中の中には、巡見使の従者がひき起こした問題についても、報告されています。
〇阿州南方にて、まんじゅう屋へはいり、段々喰荒し候につき、御郡代には内分にて、村方より十両程、相い手伝遣候由、全体踏荒候哉と被存候。

 意訳変換しておくと
〇阿波の南方では、まんじゅう屋へはいりこみ、無銭で喰荒した事件が起きた。これについては、郡代には内密にして、村方より十両程を、相手方に支払ったという。全体に粗暴である。


○寛政の度、脇町にて御家来より、「当町に磨屋(とぎや)は無之哉」と御尋に付、有之趣返答仕候所、手引致様に申すに付、遊女屋の心得無之、真の磨屋へ手引致候所、「ケ様の所へ連れ越候段不届、手打に致す」と苦り入、漸々、断り致し、銀談にて相済候段、此節の噺に御座侯。

意訳変換しておくと

○前回の寛政年間の折には、脇町で巡見使の家来から「当町に磨屋(遊郭)はないのか」と尋ねられたのに対して、「あります」と答えたところ、「連れて行け」と云われたので、遊女屋については知らないので、本当の磨屋へ連れて行ったところ「こんなところへ連れてきて不届である、手打に致す」ともめて、散々断りしたあげく、銀談(お金)で済ませたとのこと。

江戸では、無頼漢扱いを受けていた渡り仲間が、人足不足のために急に召し出されてお供に加えられた者もいたようです。彼らの行動は横暴・横柄だったようで、巡見一行に対する領民の目は、冷たく、厳しかったことがうかがえます。市大夫も土佐の例をひいて、お供の者が宿舎で酒の振る舞いを受け、婦女子に絡んだことのあったこと、そのため各地で、巡見使の滞在中は婦女子の外出を自粛させている藩があることを述べて、高松藩でも同様の措置をとるように求めています。
 料理については、一汁三菜のほか、うどんやそばを加え、所望があれば酒を供してもよいと述べ、個人的な好みとしては、靭負様が脂濃い物が嫌いで、鮎の筒切の煮付のお平を召し上がらなかったことなども書いています。全く、至れり尽くせりの報告です。武士ではここまでは、気が回らないのではないかとも思います。
 西村市太夫は郷会所元〆に、口頭で次の二点を申し入れています。

土州では、人足が一文字の菅笠、襦祥と下帯を赤色にそろえ、赤手拭で繰り出し、見物人も多く、賑々しく道中したので、巡見使一行に喜ばれたこと。それに対して、阿州では人足の服装もまちまちであって、見物人も制限したので少なく、行列も寂しかった。これについては、巡見使一行が不満であったことを報告して、次のように提案します。「讃岐では、人足の服装を決め、見物人の取締制限を緩めてはいかがか」

もう一つは、大庄屋や庄屋の服装についてです。
髙松藩が大庄屋・庄屋に出した通知書の中に、服装については次のように指示されていました。
一、大庄屋の服装は、羽織袴半股立で草履きとする。(中略) 案内の庄屋の服装は、羽織小脇指に高股立 組頭は羽織だけで無刀で、履き物は草履である。

これに対して西村市太夫は、次のように訴えています
「巡見使の相手をする村役人は、すべて百姓並で、名字も名乗らず、脇指一本で勤めるというのは高松藩だけです。他国では名字帯力を許されているものは、両刀を帯し、名字を名乗って勤めています。巡見使のことは生涯に一度あるかないかの機会であるから、高松藩でも、許されている身分に相当した服装で御相手をすべきではないでしょうか。このことについては、大庄屋などにも相当不満があります」

    巡見使接待については、生涯に一度あるかないかの機会でもあるので、二本差しを認めて欲しいと云うのです。これを見ていると、大庄屋たちは巡見使受入の機会を「ハレの場」と捉え、大名行列に参加する一員になるような気持ちで、晴れがましく思っていたようにも思えてきます。行進やパレードは祭化されていくのが近世のならいです。西村市太夫のめざす方向も、派手目の衣装に人足の衣装も揃えて、見物人を増やして、そこを大名行列のようにパレードする姿を思い描いていたのかもしれません。そこに自分も二本差しで参加できれば本望ということでしょうか。しかし、両方の願いとも髙松藩が取り上げることはなかったようです。そして、幕府の巡見使派遣は、天保のものが最後となりました。
巡見使 讃岐那珂郡ルート
幕府巡見使 那珂郡から鵜足郡へ
6月18日に、巡見使一行は丸亀領に入ります。
その日のうちに苗田村からの飛脚使は、20日に予定されている岡田西での引継ぎは、夜になると思われるから、提灯の準備をするようにという連絡が大庄屋に届けられています。市太夫は人足に指示して、明松約600を用意し、岡田西村、小川村、西坂元村、東二村、東分村、宇足津村の六か村から、人足約300人を招集して、弓張提灯百張と三十目掛の蝋燭も準備しています。

巡視使讃岐視察ルート
巡見使の讃岐での巡見スケジュールと宿泊所

 前日の6月19日の夕方に村役人と人足は、岡田西村に集まり、四、五軒の民家を借りて分宿しています。
そして翌日、土器川の川原に集まって最後の打合せしてから、それぞれの持場で待機します。巡見使一行が、那珂郡の村役人と人足に案内されて、垂水から川原に着いたのは、予想通り暗くなってからでした。引継ぎは、等火と明松の明かりの中で行わます。大庄屋の十河亀太郎と、引纏役の西村市大夫と高木庄右衛門が出迎え、挨拶します。村役人が、駕籠や馬や徒歩の侍衆に付き添って御案内に立ちつのを、人足が明松で遠くから道を照らします。村役人は提灯で足元を確かめながら、行列は次々に宇足津へ向かって出発します。具足櫃と行李に茶弁当、両掛や合羽籠などの荷物は、仲間や小者などの厳しい注文を受けながら、人足が一歩一歩と、暗やみの中を宇足津まで運びます。

宇多津街道5
垂水からの宇多津街道
 村役人と人足が加わった、400人に近い一行は、三隊に分かれて、法式どおりの行列を組んで、2里20町余りの宇多津街道を進んで行きます。途中、西坂本村で休憩、湯茶と餅のもてなしを受けています。この日に備えて、領内の鉄砲はすべて庄屋宅に集められ、沿線一帯は、厳しく警戒されていました。

宇多津街道4
宇多津街道

 宇足津には、出迎える側の高松藩の御奉行・郡奉行・代官・船手奉行・作事奉行が宿泊しており、丸亀藩と塩飽の役人も宿泊していました。そのため宿も、数多い寺も、商人の家も、みな宿舎に充てられていす。不寝番が立ち、万一の火事に備えて百人の火消し人足が待機していました。この火消し人足の指揮をとったのは、造田村の組頭丹平と沢蔵でした。

宇多津 讃岐国名勝図会3
宇多津

 翌日21日は、塩飽に向かう日です。
巡見使の宿から船場までの「御往来共揚下見計人」(交通整理役?)は、造田村の庄屋代理太郎左衛門が務めています。その夜を塩飽で送った巡見使一行は、高松藩の船手に守られて塩飽諸島を巡見し、22日夕方には、再び宇足津に帰着して一泊します。
23日朝、宇足津を出発して阿野郡北に向かう巡見使一行を、郡境の田尾坂まで見送り、四日間にわたった、鵜足郡の巡見使への奉仕は終わりました。
巡見使受入にかかった費用は、藩から出されるのかと思っていましたが、そうではないようです。全額を各村が分割して負担しています。
造田村の巡見使受入負担金


造田村の負担銀は、総額5貫181匁8分5厘(イ・ロ・ハ・ニ)になります。これを決算すると、十石高につき8匁8分8厘の負担になります。高一石を一反歩あたりにすると約3000円になるようです。金一両(75000円)=銀六〇匁のレートで計算すると、銀一匁は約1250円になります。一反歩について、3000円強の負担となります。これらの計算が簡単にできないと、当時の庄屋は勤まりません。大棚の商家には、駄目な若旦那が出てきますが、庄屋には出てこないのはこういう役目がこなせる人間を育成したからでしょう。当時の算額など学んでいたのも、多くは庄屋層の若者だったことは以前にお話ししました。

 すべての業務を整理し終わってから西村市太夫と高木庄右衛門は、大庄屋両人に対して、次回に向けた改善点を次のように報告しています。(御巡見御案内総人数引纏取扱の様子理現記一西村文書)
御取扱の場所等動方心得の事(要約)
①遠見(斥候)を、苗田・金毘羅・榎井・四条と、二人ずつ四組出しておくこと。
②郡境案内の庄屋を三人ほど増員すること。
③予備の人足を50人、川原へ待機させておくこと。
④明松の数を、今回の600挺から200挺ほど増すこと。
⑤大蝋燭、中蝋燭200挺位用意すること。
⑥縢火・松小割を30束増すこと。
⑦質問されたことについては、想定問答集に基づいて答えたが、今後は、案内人の器量次第で答えることが多くなると思われること。
⑦夜番に立った百姓や村役人は、翌日の勤務を免じること。疲労のため失敗すると、大変である。
高松藩でも、巡見使がどのようなことを尋ねたか、それに対して村役人がどう答えたかは、大きな関心があることでした。案内の村役人全員から報告を求めたようです。市太夫の代役を務めた西村安太郎が、8月8日付で、大庄屋に報告した報告書の控えが残っています(西村文書)
口上
一私儀、六月十日御巡見の砌、岡田西村郡境より、三枝平左衛門様御案内仕、宇足津村御宿広助方迄罷越候所、御道筋岡田西村にて、是より御茶場迄道筋何程有之哉と御尋に付、 是より壱里計御座候と申上候。尚又御茶場より宇足津村迄何程有之哉と御尋に付、壱里廿丁計御座候と申上候。
一 二十一日御宿より塩飽島へ御渡海の節、御船場迄、御案内仕候。
一 二十二日塩飽島より御帰りの節、御船場より御宿広助方迄、御案内仕候。
一 二十三日阿野郡北郡境迄、御案内仕申候。
右の通御案内仕中候。外に何の御尋も無御座候。右の段申止度如斯に御座候以上。
八月五日                     西村安太郎
官井清七様
十河武兵衛様

意訳変換しておくと
6月20日の巡見の際には、岡田西村郡境から、三枝平左衛門様を案内そて、宇足津村の宿である広助方まで参りましたが、その道筋の岡田西村で「ここから茶場までの距離はどのくらいか」と尋ねられました。これに対して「ここからは一里ほどです」とお答えしました。また茶場より宇足津村までは、どのくらいかと尋ねられましたので、「一里二十丁ばかりですとお答えしました。
21日は、宿から塩飽島へ渡海の時に、船場まで案内しました。
22日は、塩飽からの帰りの時に、船場より宿の広助方まで案内しました。
23日は、阿野北郡の境まで、案内しました。
これらの案内中には、何のお尋ねもありませんでした。以上を報告します。
8月5日                     西村安太郎
官井清七様
十河武兵衛様

大庄屋は、案内係を務めた全員の質問・応答内容を提出させてチェックしていたことがうかがえます。
高松藩の江戸屋敷でも、次後の政治的工作を怠らなかったようです。琴南町の長善寺の襖の裏張の中からは、約20枚の高松藩江戸屋敷日記が発見されています。その中には次のように記されています。
七月二十九日
一 御講釈御定日の事
一 平岩七之助様 片桐靭負様 三枝平左衛門様の御方御巡見御帰府に付、為御歓御使者御中小姓分                              堀 葉輔
右相勤候。
ここからは、髙松藩江戸屋敷から帰着した巡見使3名に慰労のための使者を遣わしていることが分かります。化政時代の後を受けて、「世は金なり」と賄賂が横行していた天保年間の御時勢です。財政窮迫の高松藩でも、この御使者は「手土産」持参だったことが推測できます。巡見使の将軍に対する報告書の提出締切日は、8月21日でした。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    
最初に前回にお話しした幕府の巡見使について、簡単に「復習」しておきます。
江戸幕府は将軍の代替わりごとに巡見使を派遣して民情の監察を行いました。各藩の寺社数、町数、切支丹の改め、飢人の手当、孝行人、荒地、番所、船数、名産、鉱物、古城址、酒造人数、牢屋敷等々を聴取して領主の施政を把握し、帰還後は幕政に反映するべく将軍に報告しています。
 監察は全国を8つの地域に分け、それぞれ3人1組で一斉に行われました。巡見使は千石から数千石取りの幕臣が任命さるのが通常で、1名につき数名の直属の部下と十数名の近習者、および十名を越える足軽や供回りが随行したので、30名ほどの人数になりました。それが、3名の巡見使では百人ほどの一団となり、迎える側の準備も大変でした。

 受け入れ側は事前の情報収集に努め、傷んだ道路や橋梁を修築し、必要な人足と馬匹、水夫と船舶などを揃えました。巡見使の昼休憩と宿泊には、城下や藩の施設(藩主のための御茶屋)が利用されましたが、農山の村々をまわるときは座敷のある上層の農民や商人の家か、寺院があてられました。休泊所となった民家には、藩の費用で門や湯殿、雪隠が増設され、道路の清掃やさまざまな物資の手配などに追われたようです。その中心となって対応したのは、各郡の大庄屋たちだったようです。今回は、大庄屋の対応ぶりを残された史料から見ていくことにします。
テキストは、  「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」です。

1789(寛政元)年5月には、巡見使池田政次郎・諏訪七左衛門・細井隼人がやってきます。
この巡見使の受入準備のために髙松藩は、事前に「国上書」を各巡見使用人宛に提出して「内々のお尋ね」をしています。その「御尋口上書」は50ケ条にもなります。どんな質問が行われていたのか、その一部を見ておきましょう。
一、讃成へはいつ頃御廻可被遊候哉
一、政次郎様御夜具御浴夜等用意仕候に及申間敷候哉御問合仕候
一、御供に御越被咸候御用人方御姓名承知仕度候事
一、御朱印人足の外何沿人程用意可申付候哉
一、御伝馬の外に何疋程用意可申付侯哉
一、御長持何棹程御座候哉
一、御三方様御休泊之内為伺御機嫌夜者等差出候儀是迄通可仕候哉本伺候
一、御三方様御名札是迄は御宿前に御名札長竹二鋏芝切建来り候家格も御座候余り仰山にも可営侯に付此度は御名札御休泊御宿門へ召置候様可仕侯哉御問合仕候
一、御二方御料理え義一汁一末に限り可申旨先達而被仰渡
本長候乍只一茉と申候而は奈り御不自由にも可被咸御座
侯に付′―、重箱何そ瑕集類え口"指上可然ヒロ在所役人共より私共存寄斗にて申童候も力何に村御内々御問合仕侯
一、 一茉に限り候へば平日不被召上候御品には御内々無御腹蔵御言付可被下候本頼候
意訳変換しておくと
一、讃岐へは、いつ頃巡回予定なのか
一、池田政次郎様の夜具や御浴夜などの用意のために、注意事項をうかがいたい
一、お供の御用人方の姓名が分かれば教えて欲しい
一、御朱印人足の他に、それくらいの人足を用意すればいいのか
一、御伝馬の他に、何頭ほどに馬を用意すればいいのか
一、長持は何棹程でやってくるのか御座候哉
一、御三方の休泊で夜伽などは差出した方がいいのか
一、御三方の名札は御宿前に名札を長竹に挟んで立てかけるが、家格のこともあって、この度は名札を休泊宿門へ置くようにしたいが如何か
一、御三方の料理について、一汁一菜に限るとされているが、これではあまりに質素すぎると思われるので、重箱などを加えてもよろしいか
一、 一菜に限るというなら内々にお出しするのはかまわないか

これに対し、巡見使の各御用人より一項一項に付いてこまごまと回答が寄せられています。事前の打ち合わせが髙松藩と、巡検使の用人の間で事前に行われていた事を押さえておきます。

江戸の巡見使用人からの情報を得て、高松藩では次のような指示を大庄屋を通じて、各村々の庄屋に回覧しています。
御巡見御越に付 大小庄屋別段心得
一、御宿近辺にて大破に及ぶ家々は自分より軽く取繕ひ申すべく候
一、御道筋の大制札矢来など破損の分は造作仰付られ候
尤も小破の方は郡方より取計仕L小制札場の分は村方より取繕致し申すべく候
一、御通行筋茶場水呑場郡々にて数か所相建候間見積をもって其の処へ取建仰付られ追て代銀可被ド候
一、御道筋の仮橋土橋掛渡の義幅壱間半に造立て右入用の材木等は最寄の御林にて御伐渡持運人足は七里持積り又は湯所見合積りを以て人足立遣し追て扶持被下候
一、御巡見御衆中御領分御滞留の内別けて火の元入念にいたすべく 御道筋家々戸障子常体に仕置御通の筋は土間にて下座仕るべく候 物蔭よりのぞき申す義仕る間敷惣て無礼無之様仕るべく併て無用の者外より御道筋に馳集候義堅く無用に候
一、御巡見御用に罷出候下々に至るまで惣て相慎み喧嘩口論仕候はゞ理非を構はず双方とも詑度曲事中付くべく候
勘忍成り難き趣意これあり候はゞ其段村役人共へ届置追而裁判致し遣はすべく候
一、御巡見御衆中当御領御逗留中猪鹿成鉄砲打ち申す間敷相渡し申すべく候
一、雨天にて御旅宿の前通行の節下駄足駄履き申す間敷候
一、御案内の村役人共御案内先に代り合いの節御性格等申遣りよく呑込み置きて代り合い申すべく候
一、御巡見御用に罷出候人足馬士等生れつき不具なるもの道心坊主惣髪者子供並に病後にて月代のびたる者指出す間敷候
一、相応の単物にても着用し御仕差出申すべく襦袢又は細帯等にて差出申間敷候 笠は平笠かぶらせ申すべく編笠並手拭にてほうかむりなど致候義相成中さず候
一、寛政の度政所と唱うるところ近年庄屋の名目に相改り居り申すに付自然相尋られ候へば文政六来年より庄屋と唱う様相成居候へども如何なる訳合にや存じ奉らず候段相答へ申すべく候
有の通り村々洩れぎる様中渡さるべく候

意訳変換しておくと

一、御宿附近で大破して見苦しい家々は、自分で軽く修繕しておくこと
一、道筋の制札や矢来などで破損しているものは修繕する事。小破の場合は、郡方より修理し、小制札場については村方で修繕する事
一、通行筋の茶場や水呑場については、郡々で数か所設置する事。後日、見積りに基づいて、代銀を藩が支払う。
一、道筋の仮橋や土橋などについては壱間半の幅を確保する事。これに必要な材木等は最寄の御林で伐採し、運人足は七里持積りか場所見合積りで人足費用を計算しすること。追って支払う。
一、巡見衆の領分滞在中については、火の元に注意し、道筋の家々の戸障子で破れたものは張り直すこと。通の筋の家では、土間に下座して見送る事。物蔭からのぞき見るような無礼な事はしてはならない。併て無用の者が御道筋で集まることは禁止する。
一、巡見御用衆が郡外に出るまでは、互いに相慎んで喧嘩口論などは起こさないように申しつける。
  勘忍できないことがあれば、その都度村役人へ届け出て判断を仰ぐ事。
一、巡見衆中が滞在中は、猪鹿などを鉄砲で打ことを禁止する。
一、雨天に御旅宿の前を通行する際の、下駄足駄履は禁止する。
一、案内の村役人は交代時には、巡見使の性格などを申し送り、よく呑込んで交代する事。
一、巡見御用の人足や馬は、生れつき不具なるものや、道心坊主惣髪者子供や病後にて月代のびた者などは選ばない事
一、衣類については、相応しい単物を着用すること。襦袢や細帯の着用は禁止。笠は平笠を被ること。編笠や手拭ほうかむりなどはしないこと
一、寛政年間までは「政所」と呼んでいたのを、近年に「庄屋」と名称変更したことについて、どうしてかと尋ねられたときには、「文政六年より庄屋と呼ぶようになりましたが、その理由は存じません」と答える事。
以上を村々に洩れなく伝える事。

  「髙松藩 → 大庄屋 → 庄屋 → 村民」という伝達ルートを通じて、下々までこららのことが伝えられていたことが分かります。巡検を受ける藩にとっては、一大事だったことがあります。
 満濃池で植樹祭があった時に、時の天皇を迎える時の通達を思い出します。そこにも、「2階から見てはいけない、服装は適切な服装で、沿道の家は植木などの刈り込みも行うこと」など、細かい指導・指示が行政から自治会を通じて下りてきました。ある意味では、江戸時代の巡見使を迎える準備対応ぶりの昭和版の焼き直しかもしれません。この通達がルーツにあるのかも知れないと思えたりもします。

今度は大庄屋や庄屋に出された「御巡見御越に付大小庄屋別段心得」(満濃町誌253P)を見ておく事にします。
一、惣て御案内の仕方は郡境より同境までと相心得申すべく候 郡境へ罷出相待候節諸掛場所家居これなき処は相応の小屋掛にても致し出張村役人の散らぎる様相集め置き申すべく候
一、大庄屋は羽織袴半股立に草履を履き、草履取桃灯持召連れ郡境にて御待請御先御用人ら参候まで草履取桃灯持ども召連居申し右御用人間近に相成候はゞ右家来を先に遣置き尤も俄雨又は夜に入る節は夫々用向等辯じられる様申付置は勿論の事に候
御案内の庄屋は羽織小脇指に高股立 組頭は羽織ばかり無刀にて罷出候義と相心得いづれも草履にて候
尚右大庄屋中より先方駕籠脇へ挨拶済の上夫々役割御案内に相掛り申すべく候 尤も前々は却て御案内駕籠先へ立候義もこれあり候 既に寛政の度は御駕籠脇へ引添御案内致候指図これあり候義もこれあり是等の義は臨機応変の事に候
一、御先御用人御出の節太庄屋中出迎御駕籠脇にて
〈私儀何郡大庄屋何某と申す者にて御座候御三方様御案内の庄屋与頭共引纏め罷出候御用御座候へば仰付下さるべく候〉と申述べ御用人中より指図通り御案内仕るべき事
一、御朱印箱の義は甚だ御大切の御品にて御案内の者は勿論持人までも別けて気を付け有御箱取扱の節上問等へ指置候義は素より御旅宿にても上げ下げ等の節油断なく取扱申すべき事
一、御道中夜に人る節は御印付高張六張並八歩高付御桃灯三拾張差越候義と相心得申すべき事
一、御通筋家続のところは表軒下へ掛行燈にて燈さすべき事
一、御道筋廉末これ無き様手前に洒掃致し置候上は御通りの節俄に帯目入る義は却てごみ立ちよからず候間願くは水を打ち置く様致度き事
一、御道中夜に入る節庄屋与頭等御案内の者自分自分の定紋付桃灯燈し申すべき事
一、御案内合羽の義大小庄屋は青いろ与頭は赤合羽着用の事
一、大小庄屋組頭郡境にて他郡へ相渡候節先に相立居申す御案内の者少し先へ踏込み御巡見御衆中並用人迄も御通行順御性格等を他郡御案内の者へ申伝ふ事
六月十七日
意訳変換しておくと
一、案内の仕方は、郡境より郡境までと心得よ。郡境で出向いて待つ時に、近くに家などがない場合は仮小屋を建てて、出張村役人らがバラバラにならないように一箇所に集まるようにしておくこと。
一、大庄屋の服装は、羽織袴半股立で草履きとする。郡境で待請・先御用人などがやってくるまで草履取桃灯持を同伴して待機する事。御用人が間近に近づいてきたらその家来を先に立てて、その後に従う事。もっとも雨や夜になって暗い場合は、それぞれの対応を講じる事。案内の庄屋の服装は、羽織小脇指に高股立 組頭は羽織だけで無刀で、履き物は草履である。
 なお大庄屋は巡見使の乗る駕籠の脇で挨拶を済ませた上でそれぞれの役割案内に掛ること。以前には 案内駕籠先へ立って先導したこともあったようだが、寛政の巡検以後は駕籠脇へ従い案内するようにとの指示があったのでこれに従う。場所・時間によっては先導する必要もあるので臨機応変に対応する事
一、先達御用人が引継ぎ場所にやってきた時の大庄屋の駕籠脇での出迎え挨拶については次の通り
「私儀何郡大庄屋何某と申す者にて御座候。御三方様御案内の庄屋与頭共引纏め罷出候御用御座候へば仰付下さるべく候」と申し述べてから、用人の指図を受けて案内すること。
一、朱印箱については大切な品なので、案内の者はもちろんのこと、持人も特別な注意を払う事。朱印箱の取扱については、取り運びや旅宿での上げ下げについても油断なく行う事
一、道中で夜になった場合には、印付高張六張と八歩高付御桃灯三拾の提灯を捧げかける事
一、通筋の家には、表軒下へ掛行燈を燈させる事
一、道筋については、清潔さを保つために事前に清掃し、通過直前には帯目を入れ、水を打っておく事
一、道中で夜になった場合は、庄屋や与頭などの案内人は自分自分の定紋付桃灯を燈す事
一、案内合羽については、大小庄屋は青いろ、与頭は赤合羽を着用する事
一、大小庄屋組頭は郡境で他郡へ引き継ぐ時に、次の案内の者に巡見衆や用人などの性格などを次の案内者へ申し送る事
六月十七日
  この史料を読んでいて気づくのは、ここには受入側の髙松藩の武士達は一人も登場しないという事です。
私は、髙松藩の藩士達が全面に出て案内から接待まで仕切ったのかと思っていました。しかし、主役は、郡毎の大庄屋や庄屋などの村役人組織であったことが分かります。藩役人は、服装や対応の方法を書面で指示しますが、それを実際に行うのは、大庄屋や庄屋たちだったのです。これだけのことをやってのける行動力が大庄屋の下には組織されていたことに驚かされます。
 指示内容の中には、お下げ銀を出して見苦しい民家の修繕をしたり、道路に砂利を敷いたり、沿道に茶店を設けるなどして、藩の民政が行き届いて、百姓たちの生活が豊かであるように装ったことがうかがえます。
 出迎えに当たっての服装なども細かく指示されています。大庄屋は羽織袴を着用し、村方三役も規定の正装で郡境まで出迎え、宿泊には宿詰をつけて万事遺漏のないように配慮されています。

最後の巡見になる1838(天保9)年の時には、那珂郡の村役人達にどんな役割が割り当てられたのかが分かる史料が残っています。
各行事をきちんと記録していた岸上村庄屋奈良亮助が書き留めたものが満濃町誌に紹介されています。天保九戌午六月御巡見一件役割とあって、那珂郡の村役人の役割分担表であることが分かります。
巡見使役割分担表1

讃岐那珂郡の天保九戌午六月御巡見一件役割 その1

最初に平岩七之助様とあるので、3人の巡見使のうちの主査の担当係とその村名・役職が列挙されています。その役割の内で「案内」「籠付」は各村の村役人。「荷物下才領(人足)」「合印持」は百姓層に割り当てられています。人足も単独の村が出すのではなく、いくつかの村からのメンバーで編成されています。この後に残り2人の巡見使付の役割分担表が続きますが省略します。

巡見使 讃岐那珂郡ルート
讃岐那珂郡の巡見使ルート

那珂郡の巡検ルートは、丸亀を出発して、往路は金毘羅街道を金毘羅まで下って満濃池まで足を伸ばし、復路は宇多津街道を上って宇多津までであったことは前回お話しました。

巡見使役割分担表2
        天保九戌午六月御巡見一件役割 その2
この役割分担表には「公文村茶場・餅屋」とあるので、金毘羅街道沿いの休息所は公文に設けられたことが分かります。その担当者名が記されています。面白いのは、「茶運子供」とあって、給仕をおこなうのが「百姓達の倅」であったことです。
 また、宇多津への復路には「東高篠村水置場」とありますので、高篠にも休息所が設けられたようです。この他、郡家にも水置場が設置され、それぞれ担当者が割り当てられています。

巡見使想定問答書(島根県)

これは鳥取県智頭町の大庄屋が作成していた「想定問答集」です
巡見使から質問があったとき、案内などをした大庄屋、庄屋などの村方の役人が無難な返答をするためにつくられたようです。大庄屋たちがが考えた想定質問「銀札は円滑に流通しているか、勝手向き(財政のやり繰り)はうまく行っているか」などを藩に問い合わせたものに対して、藩が朱書きで模範答案を書いて送り返しています。まさにお役所仕事の入念さが、この時代から見られることにびっくりもしました。今と変わりないなあという風に思えてきます。
 このような準備が入念に行われるようになったため、江戸時代後期になると、幕府巡検は形式的になり儀礼化したともいわれます。しかし、幕府が全国支配の威光を体感せしめるための重要な役割を担っていたことに変わりはありません。このような支配システムを運用する事で、下々の「お上」意識が江戸時代に形成され、それが明治の地方行政にも形を変えながら活かされていくようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」

     江戸時代の寛永年代に始まった巡見使制度のことを研究者は次のように評します。
将軍の全国統治権に基づき、諸大名の行政を査察する権限の行使

初代家康は1615(元和元)年11月、諸国に監使を派遣しています。巡見使としては家光が1632(寛永十)年に五畿七道へ派遣したのが初めのようです。その後、将軍の代替りごとに派遣されるのが例となります。巡見使は3人セットでした。一人では各藩からの贈賄等によって事実を曲げて報告する恐れもあります。そのため幕府上級旗本三人を一組セットとして各地方に派遣しました。

巡見使は主席が2000石、以下1000石位までの上級旗本から任命され、その巡見使には各々家老、取次役、右筆等30名程度の家来(幕府扶持人も加わる)で編成されていました。そのため3人が引き連れてくる一行は百人程度の大人数になります。
 巡見使に任命された旗本や御家人は、時代が下がるのにつれて、定められた家臣や従者を常備している者が少なくなります。そのため命令を受けると、大急ぎで日入稼業者を通じて従者を雇い、十分な訓練もできないままで出発することになります。しかも、巡見使の旅は、数か月に及ぶ長い行程であったので、出来の良くないにわか従者などは旅先でトラブルを起こす事も多かったようです。



古絵図・貴重書ギャラリー
巡視者の質問に対する事前問答集

 巡見使の来訪は受入側の藩にとっては一大事です。何日もかけて藩を隅々まで見られたのでは、藩の内情がすべて明らかになってしまいます。事実を隠蔽していることが分かった場合は、命取りになってしまう場合もあります。従って質問に対する答弁まで考えて、「事前問答集」を作成すなどするとともに、眼に触れて欲しくないところは巡見をさせず、御馳走攻めにしておくことにも心掛けるようになります。
PayPayフリマ|小栗上野介 〈主戦派〉 vs勝海舟 〈恭順派〉 幕府サイドから見た幕末/島添芳実

「諸大名の行政を査察」するためにやてきた幕府の巡見使を、髙松藩はどのようにして迎えていたのでしょうか。
これについては、当事者である村々の庄屋が残した史料が、各所に残っているようです。それらの史料で、巡見使受入マニュアルがどのように整備されていたのかを見ていくことにします。テキストは「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」です。

最初に幕府が巡見使に与えていた心得「巡見使の守るべき条々」を見ておきましょう。
一、今度国廻りの刻 御咸光を以て何事によらず公仕る間敷く候 勿論召連れ候下々まで堅く申付くべき事
一、召連れの下々喧嘩口論仕るにおいては 双方これを誅罰すべし 荷担せしむる者共は本人同前たるべき事
付けたり 所の者の申事仕るにおいては その領主並に代官らに相談の上理非をわかち有様に申付くべき事
一、竹木一切代採べからず
付けたり 押買狼藉すべからざる事
一、駄賃宕賃定めのごとく急度これを相渡すべし 代物これを出さざれば人馬使ふべからぎる事
右この旨を相守るべきもの也
    寛永十年 二月六日
意訳変換しておくと
一、この度の諸国巡検については、何事についても幕府の咸光を後ろ盾に、威張り散らすようなことのないように、召連れていく従者にも言い含めておくこと。
一、従者と現地の人足たちとの喧嘩口論が起きた場合には、喧嘩両成敗で双方を誅罰すること。喧嘩に荷担したものたちも本人同様である。
一 現地の者からの直訴があった時には。領主や代官らに相談した上で理非を極めた上で措置する事。
一、従者達の竹木代採は一切認めない。押買狼藉も許さない。
一、駄賃などの運送費や宿泊費は、決められた額をきちんと支払う事。代金を支払わなければ人馬使ふことは許さない。
右このし口を相キるべきもの也
寛永十(1632)年 二月六日
幕府としては、巡見使の横暴を許さないことを示す文面になっています。しかし、実際に行われているので禁止令が出るのです。「禁止令は、その行為が行われていたと思え」は、歴史学のイロハです。従者と現地の人足などとの喧嘩や、直訴についてのトンチンカンな対応ぶり、竹や木材の勝手な伐採、駄賃や運送費の不払いなどが、初期の時期からあったことがうかがえます。
 しかし、幕府としては巡見使派遣に際しては、将軍の成光をもって横暴に流れたりしないように指導していたことは分かります。例えば将軍吉宗などは巡見使に大きな期待を持っていた節があります。実際、御料(幕府の直轄地)を巡視した報告書をもとに、不正な代官を処分したり、機構の見直しを行ったりもしています。しかし、各藩の情勢を観察する諸国巡見使の報告については、幕政を進める上で参考となる情報が含まれていても、領主権の尊重という建前もあるので、藩政にまで立ち入ることは難しかったようです。
 享保以降も、将軍の代替わりごとに巡見使の派遣は続けられます。
しかし、次第に形式化して単に将軍の威光を知らしめる為だけのものになっていきます。そして、安政の頃になると、巡見使を受け入れる各藩から、出費が多い事を理由に派遣延期の願が出されるようになります。幕府もこれを認めざるを得なくなり、天保の巡見使派遣を最後に、巡見使の派遣は取りやめになります。
 

讃岐にやってきた巡見使のうち、史料によって確かめられるのは次の通りです。

巡視使来讃一覧表
歴代巡視使一覧

2回目の巡見使派遣は1667(寛文七)年でした。この時には、前回に出てきた問題を踏まえて、更に更にこまごまとした条目を定めて巡見使に守らせようとしています。また、受入側の諸大名には、巡見使を迎える際には、質素にするように命じています。そして、調査質問事項として次のような項目が追加されています。
一、公領私領各所の市井村里政蹟の可否をたづね 天主教停禁の事常に起りなくかするや否や並に盗賊捜索の様その土人に尋ね問うべし
一、何事によらず近年抽税を出さしむるにより その地諸物の価時貴し 人々難困するや また公の政法と変りたる事あるや
一、諸物を事処より買置て ひとりその利をむさばる者あるや 金銀米銭の時価を問うべし
一、許状一切受瑕るべからず 高札の写しを立てざる地はこの後これを立てしむべし もし年経て文字見えわかざるは改めてせしむべし
意訳変換しておくと
①、幕府領や大名領各所の町や村の様子を調査し、切支丹禁止以後に適切な措置がとられているかどうか、盗賊捜索状況などについて、現地住民に尋ね問うこと。
②、近年の間接税課税によって、物価急騰で人々が困っているという。幕府の政策と現地の政策で異なるろころがあるのか調査すること
③一、「買い占め・売り惜しみ」などによって利益を上げている者がいないか、現地の金銀米銭の時価を調べること
④、直訴状はなどは一切受取ってならない。 幕府の命令などを掲げる高札がきちんと建てられているかどうか、しかるべき所に高札が建てられてない場合には指導すること。もし年経て文字が見えにくくなっている場合には、新しくさせること。
①の背景には、1661年に幕府は寺請制度によって「宗門人別帳」を作成することを各藩に命じていたことがあるようです。そして1671年には全国で宗門改めが行われるようになります。そのための「地ならし政策」を推し進めている最中だったので、巡見使視察を通じて各藩に整備に向けた圧力かけたようです。
②③については、物価急騰への対応調査のようです。
④については、巡見使に対しての直訴が多かったのでしょう。それを受け取ればいろいろな問題を幕府が抱え込むことになります。それは各藩で対応解決すべきことなので、幕府は以後はこれを押し通すようになるようです。


受入側の地方の代官や領主に対しては、次のように通達しています。
一、このたび諸国式況令ぜらるヽといへども地図城図制することあるべからず
一、人馬戸口査校に及ばず 御朱印券の外に用ふる人馬は定制の直銭をとり 渋滞なく出すべし
一、 いずれの地に至るとも 使介脚力贈童一切上むべし
嚮導者なくてかなはざる地はその事告げやるべし
一、道路清掃すべからず 但し有り来りの道路橋梁往還の便よからぬ所は修むべし
一、投宿の駅舎造営すべからず 新に茶亭を設くることあるべからず
一、巡視のともがら投者の駅々にて 米豆その郷価をもって売るべし その他の諸物もこれに同じかるべし
一、各駅の旅舎筵席を新にすべからず 古きを用ふることも苦しからず 浴室厠かねて設け置かざる所はいかにも軽く造るべし 盤嗽 栗炊の具古くとも苦しからず もし設けざるは軽く特へ置くべし
一、旅宿とすべき家一村に三戸なきは寺院またほ別村にても苦しからず
  意訳変換しておくと
①今回の巡見使受入について、新たに国地図や城図を作成する必要はない。
②人馬の戸口調査を行う必要もない。御朱印券の外に使用する人馬については決められた額を支払うこと。
③巡検視察地がどんな場所であろうとも、巡検者に補助人をつける必要はない。もし嚮導者がなくては行けないところがあれば、その旨を事前に申し出る事。
④道路は清掃する必要はない。但し、橋梁など往還の便がよくないところは修理しておく事
⑤宿泊所や駅舎などを新たに造営する必要はない。 新しく茶亭を設置する事のないように。
⑥巡視従者が米豆を買い求める場合には、現地時価で売ること。その他の諸物も同様である。
⑦各駅の旅舎の新設は認めない。今まで通りの古い施設で充分である。浴室や厠がない場合は、最低限度の施設にすること。
⑧宿泊すべき家が一村に三戸用意できない場合は、別村に分宿も可である。
ここからは、ここに書かれているような事が前回にはあった事がうかがえます。同時に、藩の出費を抑え、沿道の人々に迷惑をかけないよう幕府中枢部の幕臣達が心を用いていることも分かります。

巡見使一行は、どれくらいの人数を引き連れてやってきたのでしょうか?
1838(天保九)年にやってきた巡見使の場合は次の通りです。

巡見使構成表天保

知行1500石の平岩七之助が、用人黒岩源之八・高橋東五郎以下30人、
知行千石の片桐靭負が、用人土尾幸次郎。橋部司以下30人、
知行500石の三枝平左衛門が、用人猪部荘助。小松原尉之助以下27人
以上の三班で、総員90人になります。この他に平岩七之助の組に5人、片桐靭負の組に4人、三枝平左衛門の組に5人、計14人の者が同行して、宿舎を共にしていますが、この者がどういう立場の者であったかは分かりません。召連人数は、髙松藩に連絡しています。

 巡見使は幕府の御朱印や具足一両のように権威を示すものや、実務で必要な多くの荷物を運びながら移動しました。巡察を受ける側でも用意した多数の道具を各村の休泊所へ持ち送りました。そのため御朱印台、塗り三宝、熨斗、硯など、さまざまな道具が人足によって運ばれた事が残された一覧表から分かります。
 そのため各郡の大庄屋に対して、次のような「人足依頼状」が出されています。これが各村の庄屋たちに回覧され、それを書き留めた写したものがまんのう町岸上の奈良家に、次のように残っています。


巡視使要求人足数 平岩
巡見使平岩七之助が必要とした人夫・馬の一覧表
これは平岩七之助の用心から出された必要人足分一覧です。要求された合計数は人足34人 馬13頭です。朱印人足・馬が規定された人数で、賃人足・馬というのは、賃金を支払って雇うものという意味のようです。受入側の大庄屋は、これに基づいて他の二人の巡視役分についても庄屋と協議しながら員数配分を行う事になります。つまり、全部で120人程度の人夫が必要だったことがここからは分かります。
 巡見使は三組に分かれて、一日交代で先導隊を交代し、それぞれ具足櫃(甲冑入)、行李を携行し、槍を立てて進むという作法どおりの行列を組んで行動しています。約百人の一行が、120人の人足に荷物を持たせ、120人の世話役を務める村役人の説明を受けながら、数棟の騎馬役に守護されながら御朱印を奉じて進むという賑々しい行列です。大名行列的なイメージです。しかも、遊行の旅でなく、駕籠の中から周囲の山河を視察し、見物人の状況から民情を判断し、村役人との質疑応答によって資料を集め、江戸に帰ると詳細な報告書を提出しなければならなかったようです。

巡見使は讃岐を、どんなルートで視察したのでしょうか?
 五畿内と四国に派遣された巡見使は、讃岐が最後の巡見先で伊予から西讃に入って、東讃から抜けて行くというルートがとられています。先ほど見た奈良家文書には、1838(天保九)年の讃岐順路と宿泊地が次のように記されています。

巡視使讃岐視察ルート
1838(天保九)年の巡見使の讃岐順路と宿泊地
6月18日  伊予から讃岐に入り、豊田郡を巡見して観音寺村で泊、
  19日  三野郡を巡見して那珂部丸亀城下に泊り
  20日  那珂郡を巡見して宇多津村に泊り、
    21日  塩飽本島泊
    22日  鵜足郡宇多津
以後、阿野郡、香川郡、小豆郡を巡見して6月末日には大川郡に入ります。そして、讃岐巡視が終わると江戸への帰路につきます。江戸帰還後の7月26日に登城拝謁、8月20日に改めて将軍に各藩の情況を報告し、お尋ねに答えるのが常例だったようです。
巡見使 讃岐那珂郡ルート
巡見使の那珂郡巡視ルート
 丸亀平野での視察ルートをもう少し詳しく見ておきましょう。
 那珂郡の巡見について、前日の丸亀に泊まった一行は、往路は金昆羅・丸亀街道を北から南に上がり郡家、与北、公文、高篠、苗田を経て金毘羅に入ります。その里程は3里19丁と記します。そして満濃池まで足を伸ばしています。満濃池のために幕領と池の御領が置かれた意義と、満濃池の活用状況を目にしておく必要があると考えていたのかも知れません。満濃池から宇多津への往路は、金毘羅から高篠を経て、宇多津街道を北に進んでいます。その里程は3里23丁とあります。これは、髙松藩の那珂郡や阿野郡の村々の宇多津にある米蔵への年貢米輸送ルートでもあったことは、前回お話しした通りです。

今回はこの辺りまでにします。以上をまとめておくと
①江戸幕府は将軍代替わり毎に、巡視使団を全国に派遣し、民情視察などを行い報告させた。
②その規模は巡視使1人に従者30程度で、3人の従者合計で約100人規模になった。
③受入側は、各藩の大庄屋や庄屋たちが対応し、求められた人馬の提供・配置を行った。
巡見使と各藩役人との接触は、入国と出国の時の奉行・郡奉行・代官の挨拶だけでした。道筋での説明、宿舎の接待等は、すべて大庄屋を中心とした各郡の村役人に任されていました。藩の役人は、問題の起こった時に備えて、待機するだけだったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P


  近世になって検地が行われ各村々の石高が決まると、その石高に応じて年貢が徴収されるようになります。年貢は米俵で収められました。それでは、各村々からどのようして年貢俵は、藩に納められたのでしょうか。その動きを今回は、高松藩統治下の旧満濃町10ヶ村でみていくことにします。テキストは「髙松藩の米蔵・郷倉 新編満濃町誌241P」です。
髙松藩には次のような5ケ所に米蔵がありました。
髙松藩米蔵一覧
髙松藩の5つの米蔵
その中で高松城内の米蔵に次ぐ規模が宇多津米蔵だったようです。

どれくらいの俵が宇多津には、集まってきたのでしょうか?
1684(貞享元)年の「高松藩郡村高辻帳」には、字多津の米蔵に納まる年貢米のことを次のように記します。
①鵜足・那珂郡など48ケ村の村高合計20335石、
②その石高の免四つ(免一つは石高一石に対し年貢米一斗)を年貢米とすると12134石
③俵数にすると30335俵
ここからは3万を超える俵が、毎年11月末までに後背地の村々から宇多津の米倉に運び込まれていた事になります。鵜足郡と那珂郡に属する旧満濃町の旧十か村の納入先も、宇多津の米蔵でした。十ヶ村のを数字化したのが次の表です。

旧満濃町10ヶ村石高・年貢一覧
十か村の村高・俵数などの内訳を表にすると、上のようになります。
ここからは次のようなことが分かります。
①満濃町旧十か村の総石高は5695石
②四割が年貢とすると2278石
③俵数にすると約5695俵
④石高が一番大きい村は、吉野村 次が長尾村
五十三次大津 牛車
五十三次大津(歌川広重)に描かれた米俵を運ぶ牛車
これらの俵は、どのようにして宇多津まで運ばれたのでしょうか?
私は最初は、各農家の責任でそれぞれに運んだと思っていました。しかし、そうではないようです。一旦、各村に割り当てられた年貢米は、庄屋の庭先や後には、郷倉に運び込まれて、計量し俵詰めされたようです。それから何回かに分けて、庄屋や村役人の付き添いの下で荷車や牛車で宇多津に運び出されたようです。

宇多津までの輸送ルートは、どの道が使われたのでしょうか
蔵米運搬ルート
旧満濃町の村々からの年貢米輸送ルート
基本的には宇多津・金毘羅街道が使われたようです。
宇多津街道5
右が土器川沿いの宇多津街道

吉野村など土器川左岸の村々から宇多津へは、
①東高篠村上田井の三差路に出で、ここから右に土器川沿いの道をたどって北へ進む。
②垂水村荒井の茶堂前前から土器川を渡り、石ころ道を斜めに東に向かい対岸の岡田西村の成願寺堤に上る。
③ここから土器川右岸を北に向かい、川原の一里塚、樋の日の大川社、飯野山の西を通り、連尺高津街道を横切って丸戸に出て宇多津へ入る。

宇多津街道4
宇多津街道
土器川右岸の村々からの年貢を積んだ車は
①片岡から天神、町代、大原を経て打越番所を通過し、
②追分けで道を左にとり打越池沿いの道へ進み栗熊金昆羅街道を横切って岡田上の赤坂に出る、
③赤坂から西山の東側の道を通って平塚を過ぎ川井に出て宇多津街道に合流し、以下は同じです。
髙松藩米蔵碑
宇多津の髙松藩米蔵跡(現町役場北附近)
 宇多津の米蔵は、町役場の北側にありました。

こめっせ宇多津
こめ(米)っせ宇多津
その一部が「こめっせ宇多津」として、残されながら活用されています。
宇多津 讃岐国名勝図会3
宇多津(讃岐国名勝図会)
もともとこの辺りは古絵図を見ると、大束川河口の船場に近く、周りを雑木林に囲まれた広い敷地で、そこに藁葺の蔵が三棟あり、ほかに蔵番屋敷があったことが分かります。拡大して見ましょう。

宇多津米蔵
宇多津の米蔵(御蔵)
蔵番屋敷は、藩役人の部屋・年貢米検査所・蔵番の部屋などに仕切られていました。年貢が運び込まれるときには、藩の蔵役人が出張してきて、村々の庄屋や組頭と一緒にお蔵米の収納を監督したようです。その期間は納入関係者が民家に宿泊したので、周辺は賑わったと云います。
 高松藩の宇多津米蔵は、先ほど見たように東讃の志度・鶴羽・引田・三本松に比べると、他の米蔵を圧倒する量を誇りました。ここでは鵜足郡や那珂郡の年貢米を管理し、集荷地・中継地としての機能します。17世紀にここに米蔵が置かれると、現在の地割が整備され周囲に建物が増えていったようです。
宇多津のお蔵番はいろいろな引き継ぎ事項があったので、多くは世襲だったようです。
  年貢米は、どのようにして検査されたのでしょうか

年貢取り立て図
年貢取立図

村が納入した俵の中から二俵か三俵を選んで、庄屋や組頭の村役が立ちあいの上で桝取が量ります。枡取は、その中から五合また一升を抜いて役得とするのが公認されていたようです。
一斗枡[四角]|交易|解説・民具100選|展示室|関ケ原町歴史民俗学習館
トカキ棒での計測
桝ごとにトカキを使って五粒の米がこぼれれぱOKだったようです。桝取りは、村全体に大きく影響する責任者でしたから、前日には神社にお参りして身を清め、無難を祈りました。

年貢納入図

貢米検査のときにこぼれ落ちた差米は、検査役人の役得となります。また収納の時の落散米は、下代蔵役の役得です。これは「塵も積もれば・・・」方式で、一藩での合計が数千石にも達することもあったようです。結果として大きな額になります。「おいしい役職」なので、蔵役人の交代や人選には譲渡銀がつきものだったようです。百姓達の怨嗟が集まるのもこの時です。
年貢取り立て図2

村の年貢が皆納されると、それまでに数回に分けて納めた仮受領証と引換に美濃巻紙にしたためた一通の「御年貢皆済目録」が交付されました。皆済目録には、その村の村高・本途物成・小物成・口米・御伝馬入用・水車運上・六尺給米・御蔵前入用・夫食拝借返納等の納入高や引高が列記されます。そして最後に次のように記されています。

「右は去辰御年貢米高掛物共他言面の通皆済に付、手形引上一紙目録相渡上は 重て何様の手形差虫候とも可為反き者也

その上に、年号と代官の署名・捺印をして、庄屋・組頭・百姓代あてに下付されました。
大坂蔵屋敷

  納められた年貢米は、大坂の藩の蔵屋敷に船で運び込まれて、大坂商人によって流通ルートに乗せられていく事になります。

   最後に村の米が集められた郷倉について、見ておきましょう。
郷倉は、一村に一か所ずつありました。これは年貢米の一時収納所でもあり、また軽犯罪人の留置場でもありました。そのため地蔵(じくら)とか郷牢(ごうろう)とも呼ばれていたようです。旧満濃町旧十か村の郷倉のうちで、記録や古地名によって、その位置が分かっているのは次の通りです。
吉野上村郷倉 大堀一二七八番地
岸上村郷倉  下西村七九五番地
真野村郷倉    西下所一二七四番地
四條村郷倉    大橋七六0番地の二
公文村郷倉      蔵井一九六番地の二
東高篠村郷倉 仲分下一三二0番地
吉野下村郷倉 吉野下村六0四番地
これらの郷倉の規模や、明治以後の転用先についてはよく分かりません。
ただ吉野上村の郷倉については吉野小学校沿革史に次のように記されています。

  明治七年本村字大坂一二七八番地の建物は旧幕時代の郷倉合にして、その敷地八畝四歩、建家は北より西に由り規矩の形になれり。西の一軒は東に向ひ、瓦葺にして桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下付けり。その北に壁を接して瓦葺の一室あり。・桁行三間、梁間二間にして東北に縁つけり。その次を雪隠とせり。北の一棟は草屋にして市に向ひ、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付けり。西の二棟を修繕しスて校本口にえて、北の一棟を本村政務を取扱う戸長役場とせり。時に世は益々開明し、教育の進歩気理に向ひたるを以て生徒迫々増かし、従来の校舎にては大いに教室狭除を告ぐるに至れり。明治八年四月、西棟の市に於て三間継ぎえを弥縫(一時的な間に合わせ)せり。其の当時、庭内の東南隅に東向の二階一棟新築せり。これは本村交番所なり。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付けり。     (以下略)

吉野上村郷倉平面図
吉野上村郷倉平面図

意訳変換しておくと
 明治7年(吉野)本村字大坂1278番地の建物は、江戸時代の郷倉である。その敷地は八畝四歩、建物は北から西に規矩の形に並んでいる。西の一軒は東向きで、瓦葺で、桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下付である。その北に壁を接して瓦葺の一室がある。桁行三間、梁間二間で、東北に縁がついている。その次は雪隠(便所)となっている。
北の一棟は草屋で、市に向って、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付である。西の二棟を修繕し、学校として使い、北の一棟を本村の政務を行う戸長役場としていた。
時に世は明治を迎え文明開化の世となり、教育の進歩は早くなり、生徒数は増加するばかりで、従来の校舎では教室が狭くなった。そこで明治八年四月、西棟を三間継ぎ足して一時的な間に合わせの校舎とした。その際に併せて、庭内の東南隅に東向の二階一棟も新築した。これが本村交番所である。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付の建物である。
    (以下略)
ここからは次のようなことが分かります。
①現在の長田うどんの南側に吉野の郷倉があった。
②郷倉は明治になって、一部が役場、残りが小学校として使用されるようになった。
③生徒数が増えた明治8年には、校舎を増築して教室を増やした。
④同時に、新たに交番を建設した。
郷倉
山形県の郷倉
幕府は、1788(天明8)年2月に「郷倉設置令」を出して、飢饉に備えて村ごとに非常救米の備蓄を命じています。
高松藩や丸亀藩でも一斉に、郷倉が設置されたはずです。それが、明治になって戸長役場に利用されたり、増設して小学校、あるいは交番になるなど、村の中心機能を果たす建物に転用されていた事がうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   髙松藩の米蔵・郷倉 新編満濃町誌241P
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踏み絵
江戸時代の切支丹弾圧の中でよく語られるものに踏絵があります。踏絵は宗門改めの時などに行われていたようです。それでは、宗門改めはどこで行われていたのでしょうか。村のお寺で行われていたのでしょうか。どうもちがうようです。そのあたりがうやむやだったのですが、新編満濃町誌を眺めていると、具体的な史料で分かりやすく紹介していました。今回は、旧満濃町の村々で行われていた宗門改めについて見ていくことにします。テキストは 切支丹衆徒の取締 満濃町誌260P」です。
宗門改め2

島原の乱後に、幕府は次のようなことを各藩に命じて、切支丹宗徒を取締るようになります。
①「宗門改役」の設置
②寺請制度によって「宗門人別帳」作成
③五人組制度による連帯責任制の実施
④村々に制札を立て、訴人賞金制による潜伏切支丹の検索強化
⑤鎖国断行
このような中で1711(正徳元)年には讃岐にも次のような訴人札が全国に立てられます。
切支丹制札
1711(正徳元)年の立札
きりしたん宗門は 累年の御禁制たり 自然不審なるも
のこれあらば申出づべし 御褒美として
ばてれんの訴人 銀五百枚
立ちかへりものの訴人 同断
いるまんの訴人 銀三百枚
同宿並宗門の訴人 銀百枚
右の通り下さるべし たとひ同宿宗門の内といふとも申
出る品により銀五百枚下さるべし かくしおき他所よりあ
らはるゝにおいては其の所の名主並五人組迄一類共に罪科
行はるべきもの也
正徳元年二月           奉  行

意訳変換しておくと
切支丹は 長年の御禁制である。もし不審なものがいれば申し出る事。御褒美として以下の通り下さる。
切支丹の密告  銀五百枚
切支丹復帰者の密告 銀五百枚
いるまん(宣教師)の密告 銀三百枚
同宿並宗門の密告   銀百枚
たとえ同宿宗門でも申出た時には、銀五百枚が下される。もし隠していて他所より露見した場合には、名主と五人組まで一類共に罪科を加える。
正徳元(1711)年二月           奉  行

高額の報奨金を背景に切支丹密告を高札で強要しています。もし隠していれば、「一類」におよぶとも脅します。

宗門改めの具体的なやり方を見ておきましょう。    
①村ごとに決められた宗判寺か、庄屋宅へすべての戸主を呼び出す
②大庄屋・庄屋・檀那寺住職・藩の宗門改役立会の前で、
③戸主が世帯の全家族の名前・年齢・続柄等を届け出て、人別帳に記載して戸主がその名に捺印
④檀那寺はその門徒であることを証明し、庄屋・組頭はこれに連署
⑤宗門改役と大庄屋の立会い連署を添付して、切支丹奉行に提出
これが「 宗門改帳(あらためちょう)」として、戸籍制度に転用されていきます。
宗門人別改帳は江戸時代の戸籍?どこで閲覧できるのか | 家系図作成の家樹-Kaju-

いつどこで、宗門改めは行われたのでしょうか?
1821~34年までの旧満濃町エリアにあった村々の宗門改めの行われた場所と期日が満濃町誌262Pに次のようにまとめられています。
宗門改め実施一覧表1

宗門改め実施一覧表2

この表からは次のようなことが分かります。
①旧満濃町の鵜足郡南部エリアの村々の宗門改めの場所は、栗熊村の専立寺で、それは毎年3月5日であったこと。
②那珂郡の村々は高篠村円浄寺が宗門改めの寺で、毎年3月15日であったこと。
③髙松藩では実施場所や日時が一定しているが、天領池御領の村々では、毎年変化していたこと
④天保3年になると「判形(はんぎょう)休(宗門改休)」という表現があらわれること

専立寺
栗熊の専立寺
①に関しては、専立寺は金毘羅街道に面した小さな岡の上にあるお寺です。鵜足郡南部の炭所東村、炭所西村、長尾村の3村が専立寺に行くためには、扇山、鷹丸山、城山等の峠を越道を越えて栗熊に出るか、打越峠を経て金毘羅高松街道に出て栗熊へ向かったことでしょう。

円浄寺

②の那珂郡南部の判形所は、東高篠村の円浄寺で、毎年3月15日でした。この寺が宗門改めの寺として指定されていたのは、東七箇村・真野村・岸上村・古野上村・吉野下村・四條村・東高篠村・西高篠村・公文村の9村になります。3月15日は、これらの村々の戸長は円成寺に向って歩いたはずです。
③の幕領の池御料は、毎年二月ないし四月に行っていますが、実施日は一定していませんし、場所も五條・榎井・苗田西・苗田東と持ち回っているようです。
④後で見るように、髙松藩は宗門改めについて1828(文政11)年以後は、4年毎に行う旨の通達を出しています。これに基づいた措置のようです。しかし、倉敷代官所管轄の幕領では従来通り、毎年実施しています。切支丹政策について、中央と地方とで温度差がでていたことがうかがえます。

宗門改めの厳しさは、宗門相互の間にも見られます。
檀寺は人別帳のうち檀那分の名頭(ながしら)に判形をして、「もしこの判形のうちにて切支丹宗徒これ有り候節は如何ように曲事を仰付らるゝとも異存申す間敷く候」と誓っています。このため寺同士もお互いに監視の眼を光らせ、ルール破りに対しては、絶交するという厳しい社会的制裁を加えてた次のような史料が残っています。
取替一札之事
榎井村 浄願院
苗田村 長法寺
右両寺は此度丸亀御領分宗門人別改の儀に付以来檀家の改方行届き申さず迷惑仕り候に付其御領内一統の寺院より先達て御歌出差上候段年々拙寺共に於ても且家人名並年々増減等の儀も相分ち難きを其侭判形仕候儀は御上様に対し御中訳も御座なく恐入候に付御料所寺院其の段丸亀御役場に歌出申候
衆評一統のところ右両寺は別心の趣別けて去年の秋大判形の節宗門手代衆より当領一統の寺院より宗門の儀に付願の趣これ有り候 御他領の寺院方御指支これなきや相尋候節右浄順院の儀別心これなき趣返答に及び置きながら此度の別心其の意を得ず候 尤も宗門御改の儀は毎歳御大切に仰出され候を其侭捨置く心底にて同心仕らず候段は前書に申す如く甚だ恐多き儀にけ候間拙寺ども一統右両寺には内外とも絶交致し候条右の趣丸亀宗門御改役所にも通申置以後此の事談相済候迄は壱か寺にても和順仕り中さぎる旨堅く取替す一札件の如し
文政七年壬八月
                              光賢寺 印
真楽寺 印
玄龍寺 印
興泉寺 印
西福寺殿

意訳変換しておくと

取替一札の件について
榎井村 浄願院
苗田村 長法寺
 上記の両寺は、この度の丸亀領内の宗門人別改の際に、檀家改方に不備があり私たちの寺は迷惑を蒙りました。従来から丸亀藩領内の寺院では、宗門改めの前に必要書類を提出することになっています。それは家人名と年々の家族数の増減を把握しないと、適切な宗門改めが行えないためです。今回も領内寺院に対して、丸亀御役場に必要書類を提出するように衆評一統していました。ところが両寺は、これを守らずに・・・・(中略) 
もっとも宗門御改については、毎年行われる重要な作業ですので放置するということは、恐れ多い事でもともと考えていません。しかし、両寺に対しては絶交することを、丸亀宗門御改役所にも伝えています。今後はこのことを了承済みとして扱っていただくように申し上げます。
文政七年壬八月
                              光賢寺 印
真楽寺 印
玄龍寺 印
興泉寺 印
西福寺殿
宗門改めの事前準備の資料作成をきちんとしていなかったことを挙げてふたつの寺に対して絶縁宣言を行った事を、4つの寺が西福寺に報告しています。
宗門人別帳
宗門人別帳

「宗門改帳」には牢人帳・僧侶神主山伏帳・医者帳・百姓間人(もうと)帳などがありました。特別な職業に従事するものには、別帳を作成して把握していたことが分かります。そういう意味でも「宗門改帳」を見ると、村々の人国の動き・家族の異動・村内における身分関係などが分かります。まさに、現在の戸籍台帳以上に様々な情報が書き込まれています。そのため統治所極めて貴重な史料であったのです。
宗門改帳、与一兵衛の家族の記録
 
これは明治5年の「壬申戸籍」ができるまで村々の戸籍の機能をも果たしました。庄屋が年々の人口を郡会所へ報告した人数合せは、これをもとにしてはじきだしたようです。切支丹宗門改めも先ほど見たように19世紀半ばになると、だんだん省力化されます。それは、髙松藩が出した次の資料にも見られます

郡々大庄屋共
宗門改帳の義去る亥年(文政十一年)より四年目に相改候様仰出され候得ども軒別人数出入等は是迄通り村役人共へ申渡し毎春厳重に相改め例年指出来り候五人組帳に中二か年は旦那寺の印形共其寺共手元にて見届郷会所へ指出可申候
三月
宗門改の義右の通り申来り候間例年の通故円浄寺判形見届可中候  併し当年は無用に相成る可き意味もこれ有り候に付寺院罷出候義如何に候哉
若罷出申さず候へば指支相成候間何様村々門徒より旦寺へ通達致候様御取計これ有る可く候其為飛脚を以て申入候也
三月        那珂郡大庄屋 岩崎 平蔵
同        田中喜兵衛
東高篠村へ中入れ本文の趣円浄寺ヘ
早々通達これ有る可く候
意訳変換しておくと
各郡の大庄屋へ
宗門改帳の件について、文政11年から4年毎に実施することになった。しかし、家毎の軒別人数増減等はこれまで通り村役人へ通達して、毎春毎に改訂したものを作成すること。五人組帳には、中2か年は旦那寺の印形を見届けて郷会所へ提出すること
三月
宗門改の件について上記の通り通達があった。例年の通り円浄寺の判形を確認することが指示されている。ただし、当年は不用になる事もある。寺院に出向くかどうかについては、もし出向く必要がある場合は、村々の門徒から檀那寺に対して、どのような通達・連絡で門徒に知らせるのか飛脚で問い合わせるようにすること。
三月        那珂郡大庄屋 岩崎 平蔵
同        田中喜兵衛
東高篠村へ申入れ本文の趣円浄寺ヘ
早々通達これ有る可く候

ここからは高松藩は文政11年から4年目毎の実施に「簡略化」し、実施しない年は、軒別人数の異動のみを従来通り、軍会所に報告するようになったことが分かります。

上段が藩からの通達分で、下段がそれを受けて大庄屋が各村の庄屋への具体的な指示を書き込んだものです。これを受けた各庄屋は、素早く書写して、本書文を待っている飛脚や、使いに次の庄屋宅まで持たせたようです。これらの写しが大庄屋や庄屋の家には大切に保存されていました。

以上をまとめておくと
①髙松藩では、各郡のエリア毎に宗門改めを行う寺を決めていて、実施日時も毎年同じであった。
②各村々の戸主は、指定された日時に決められた寺に出かけて宗門改めを受けた。
③19世紀になると髙松藩では4年に1回の実施に「省力化」している。
④寺院は戸籍作成の役割も担い、行政機関の末端を支える役割を果たしていた
⑤宗門改めが行われる寺は、多くの人々を迎える寺であり寺格も高かった。

しかし、疑問は残ります。周辺村々から数多くの戸主がやってきて、それをどのような順番で「宗門改め」を行ったのでしょうか。各宗派の寺院から提出された人別帳に基づいておこなったのか、早く到着した順番なのか? 村ごとに、およその受付時間を指定していたのか、具体的な運営方法には、まだまだ謎が残ります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    切支丹衆徒の取締 満濃町誌260P

      弘安寺跡 十三仏笠塔婆3
まんのう町四条の弘安寺跡(立薬師堂)の十三仏笠塔婆
  前回に天霧山の麓の萬福寺の十三仏笠塔婆を見ました。これと同じようなスタイルのものがまんのう町四条の弘安寺跡にあることもお話ししました。
十三仏笠塔婆
         弘安寺跡(立薬師堂)の十三仏笠塔婆(まんのう町HPより)

この笠塔婆の右側面には、胎蔵界大日如来を表す梵字とその下に

「四條一結衆(いっけつしゅう)并」

と彫られています。
「四條」は四条の地名
「一結衆」は、この石塔を建てるために志を同じくする人々
「并」は、菩薩の略字
  以上の銘文から、この笠塔婆が四條(村)の一結衆によって、永正16(1519)年9 月21日の彼岸の日を選んで造立されたことがわかります。私が注目するのは「一結衆」です。今回は、この言葉を追いかけて、見えて来た事の報告です。 テキストは「川勝政太良 講衆に関する研究」です。結衆とは何だったのかを押さえた後に、笠塔婆の造立過程を物語り化する事を今回のミッションとします。まずは結衆についての情報収集です。
「結衆」は「講衆」から生まれてきたようです。
「講衆」を辞書で調べて見ると「講義を聞く大衆、講会に集る人衆」から転じて「無尽講や頼母子講など金銭の融通を目的とする講の人々」と転化していったと記されていました。よく分からないところもありますが、古代から中世から間に「仏教講義から俗社会的なもの」に変化していったようです。その間に石造物造立などの「仏教的作善」を行ったグループのことを含めて結衆と呼ぶようです。
まず、結集の起源である「講」を押さえておきます。
奈良時代に行われていた最勝会・仁王会・法華会は、それぞれ金光明最勝王経・仁王般若経・法華経を読論し、これを講義する国家的な大法会でした。平安時代に盛行した法華八講は法華経八巻を朝と夕と各二巻ずつとして四日間に八巻を講読する法会です。経を読み講じ、供養することが目的です。こうした講会は、東大寺などの国家的寺院など大きい寺で行われました。それを真似た大貴族は、自宅の仏堂などで、私的な講を行うようになります。
 鳥羽上皇の女院高陽院泰子主催の阿弥陀講について、平信範の日記『兵範記』(仁平三年(1153)六月十五日条)には、次のように記されています。 (意訳変換)
高陽院の御所は今の堀川西洞院の間、竹屋町椹木町の間の二町四方にあった。その中の御堂において阿弥陀講が営まれた。この御堂は九体の阿弥陀像をまつる九体堂で、中尊は丈六像だった。中尊の前に仏鉢に白飯を盛って供え、九体の像それぞれに香、花、燈明を供えられていた。はなやかに堂内は荘厳され、六人の僧の座の前の机に法華経一部八巻と開経(般若心経)結経(阿弥陀経)各一巻、合わせて十巻の他、阿弥陀講の式文が置かれていた。
殿上人、上達部が多く参列し、午后二時に権少僧都相源など六人の僧が着座すると、院司の顕親朝臣が挨拶し、ついで阿弥陀講がはじまった。相源を導師として、法華経開結十巻が供養され、阿弥陀講の讃文を書いた式文が説かれ、これで講は終了し、導師は座を下り、ついで僧六人に布施を下された。
 ここからは、講が講義よりも仏や経の供養に重点が移っていることがうかがえます。そして飾り立てられてヴィジュアル化した美しい行事になっていたようです。
寺での講の例としては、『大鏡』の物語の舞台に使われた雲林院の菩提講があります。
雲林院は、今の紫野大徳寺のある辺りにあったお寺で、毎年五月に菩提のために法華経を講説する法会でした。講師は、大衆にもわかるような説教をしたようです。「法華経講説」と云えば難しそうですが、要は極楽浄土信仰です。その他にも、人々を集めて弥陀来迎のようすを見せる法会の迎講もありました。それが阿弥陀信仰の広がりと供に、念仏講などの講や講衆を生みだすようです。

講や講衆はいつ、どのようにして生まれてきたのでしょうか。
  その源を研究者は、奈良の元興寺極楽坊に求めます。

奈良元興寺
元興寺極楽坊
 現在の極楽坊の本堂は、鎌倉時代中期の寛元2年(1244)の再建です。その内部の柱に、田地寄進文が刻まれています。その一は、鎌倉時代はじめの貞応元年(1222)に、百日講の御仏供料として田地を寄進した文です。百日講は、百日にわたって法華経を講じた講で、極楽往生の信仰があったようです。寛元2年(1244)の本堂棟札の中には「往生講衆一百余人」とあります。ここからは極楽浄土に生れたいという講衆が百余人、本堂再建に協力していることが分かります。この寺では、このような百日講、往生講などの信者のメンバー(講衆)が育っていたと研究者は考えています。
 しかし、講衆という文字の用いられる例は、鎌倉時代のはじめには少ないようです。「仏教的作善に、多くの人が参加した」という記し方の多いようです。その後の動きを見ておきましょう。

愛知県蒲郡市勝善寺の鐘は、もともとは三河国薬勝寺の旧鐘でした。
愛知県蒲郡市勝善寺の鐘銘
三河国薬勝寺の旧鐘の銘文
承元二年(1230)に「大衆ならびに結縁衆」によって造立されたと銘文にあります。これは梵鐘造立にあたって、大勢の人々が費用を出すことに協力したもので、「事業」に参加することで縁を結ぶ人たちが多くできたという意味合いです。ここで注意しておきたいのは、最初から信仰組織があったわけではないことです。

これに対して、埼玉県の竜興寺の文永八年(1271)の板碑を見てみましょう。
   龍興寺板碑(青石卒都婆)緑泥片岩、高さ 166Cm 下幅 61Cm)

右志者、毎月廿四日結衆奉造立 青石卒都婆現当二世利益衆生也

この石塔は法界衆生の菩提をとむらうために造立され、造立者は「毎月廿四日を期日とする結衆」と記されます。そして、新平三入道以下十二人ばかりの名が見えます。「藤五郎、藤三、三平太」など、姓がない人が多いので、この土地の中級の百姓たちの結衆で建てられたことがうかがえます。この板碑の上部はなくなっているので、本尊の梵字は分かりません。しかし「毎月二十四日」とあるのは、地蔵菩薩の結縁日なので、この結衆は地蔵信仰で結ばれていたと推測できます。地蔵菩薩は六道に迷う亡者を極楽浄土に導くと説かれましたから、浄土信仰につながるものだったのでしょう。
 「廿四日結衆」の場合は、先に結衆という母胎があって、その結衆の作善として板碑が造立されたことになります。日常的に信仰活動を行うグループが作善行為として、板碑を造立しています。
 
群馬県邑楽郡千代田村赤岩の光恩寺板碑も、文永八(1271)年に造立されています。
光恩寺板碑
光恩寺板碑

板碑上部はなくなっていますが蓮座は残っています。身部に地蔵立像、下方に二十人の交名・紀年銘が次のように刻まれています。
   大檀那、阿闍梨、幸海」
藤原吉宜、紀 真正、弥五郎入道、六郎房、日奉友安、伴 吉定、田中恒吉、藤原光吉、藤原友重、藤原貞盛 藤原兼吉、大春日光行、藤原安重、藤原国元、藤原時守、平 貞吉、藤原貞口、田上則房、藤原助吉
 結集、文永八(1271)辛未、八月時正、仏蓮坊、敬白」

ここからは鎌倉時代中期の文永八年(1271)八月彼岸の中日に、大檀郡阿闇梨幸海をはじめとして、藤原吉宣、藤原兼吉、紀真正など19名が結集し造立したことが分かります。名には姓名があるので、庶民ではなく武士層か名主層の人たちの結衆だったことがうかがえます。しかし、富裕な豪族ではなく、中級階層でだったことを押さえておきます。

結衆は、一結衆とも称するようになります。
 高野山金剛峰寺の鐘は、もともとは弘安三年(1280)造立の河内国高安郡(現在八尾市)教興寺にあったものです。この銘文には「一結講衆同心合力」して奉鋳したとし、施主美乃正吉、僧教善など二十三人の名前があります。大勧進浄縁の名があるので、この勧進僧によって誘われた人々が梵鐘奉鋳のために結衆したことが分かります。一結講衆は一結衆と同じ意味です。この頃から一結衆の文字が見られるようになります。
山形県上山市前丸森板碑は、応長元年(1311)の造立です。
上山市前丸森板碑
前丸森板碑
置賜と村山を結ぶ古くからの旧道のある前丸森山の坊屋敷という所あり、高さ98㎝、最大幅52㎝の砂質の凝灰岩の碑で、次のように刻まれています。
辛四十八日念佛結衆
バン(金剛界大日)應長元年八月二十九日
亥二十人面々各々敬白
大旦那有道坊
 結衆の碑としては山形最古のものになるようです。本尊の梵字は金剛界大日如来の「バン」で、「四十八日念仏結衆等二十人面々各々敬白」とあります。阿弥陀の四十八願にならって四十八日念仏の結衆が二十人の人々で結ばれ、この供養のために板碑が造立されたようです。密教の大日を本尊としているので、密教系の念仏講のようです。中世には高野山も時衆僧侶により念仏化し、高野聖がそれを全国に広めたこと、近世最初の四国霊場では念仏が唱えられていたことは以前にお話ししました。修験者たちの廻国僧侶の活動が背景にうかがえます。

寺と密接な関係を示すのが、滋賀県大津市葛川坊町の明王院の宝簾印塔(正和元(1212)年)です。
明王院の宝簾印塔
           明王院の宝簾印塔

基礎の東側に、次のように刻まれています。
「正和元年(1312)壬子、卯月八日、奉造立之、四村念仏講衆等敬白、常住頼玄」

これは坊村ほか付近の四か村の念仏講衆で、明王院は天台宗延暦寺の別院、頼玄は明王院中興者として有名な僧です。その明王院主が念仏講衆の世話をしたことを語る遺物になります。これは天台系の念仏信仰の講衆です。
一結講衆と刻まれたものが出てくるのは、鎌倉時代末頃になってからのようです。

四条畷町逢坂の延元元年(1338)の五輪塔
    大阪府四条畷町逢坂の五輪塔(延元元年(1338)
  大阪府北河内郡四条畷町逢坂の五輪塔は、「大坂一結衆」の造立です。 地輪正面に「大坂一結衆、延元元年(1336)丙子三月日、造立之」の刻銘があります。大坂は逢坂と同じで、この集落の人たちの結衆で、地名をつけた講衆で、まんのう町四条の笠卒塔婆と同じです。

宝福寺宝塔は、永享十一年(1439)
群馬県高崎市町屋の宝福寺宝塔
この宝塔は、永享11年(1439)の造立で、次のように刻まれています。
一郷五種行結衆、村中、三人、同旦那十二人、敬白
永享十一年二月二十八日

これは、一郷の内で、僧侶が三人、村の富裕層の旦那十二人が結衆して、極楽に往生するための五種行を行った珍しいものです。浄土信仰の結衆であることがうかがえます。
  以上をまとめておくと
  ①仏教的作善の参加者は、古代には上級貴族たちのみであった
  ②鎌倉時代になると、経済的に台頭してきた中流階層にも仏教の浸透が進み、講衆(結衆)として石造物造立塔に参加するようになる。

室町時代前期までの結衆や講衆は、仏教信仰に関するものがほとんどでした。それらがやがて庶民の日常生活と結びつくものに変化していきます。つまり民俗要素が強くなります。それは表向きは、信仰のために集まりますが、念仏をとなえたあとは酒食をたのしむといった風です。それが強くなるのは室町時代中期からです。
まず六斎念仏の講衆があらわれます。
六斎日と称して毎月戒を保つべき特定の日を決めて、身をつつしみます。これと念仏とが結びついたのが六斎日の念仏講です。大阪府岸和田市池尻町の久米田寺五大院の石燈籠竿(文安五年1448年)に「六斎衆等」とあります。これと同じようなものが奈良県・大阪府中心に増えてきます。
この他にも念仏講は、さまざまな形をとるようになります。そのひとつが夜念仏です。

永享八年(1436)夜念仏板碑

 夜念仏(よねんぶつ)板碑(永享八年(1436)東京都
①塔身部表面には、周囲に枠線、上部に天蓋・瓔珞(ようらく)
②その下に阿弥陀三尊を表す梵字3字
 「キリーク〈阿弥陀如来種子〉」
 「サ〈観音菩薩種子〉」
 「サク〈勢至菩薩種子〉」
③下部の中央に
 「永享八年丙辰八月 時正敬白」
 「夜念佛供養一結衆修」
 左右に光明真言が梵字24字で陰刻
ここからは、1436年の秋彼岸に人々が集まり、死後の冥福を祈って光明真言を唱える念仏供養を行ったことを記念し造立したことが分かります。国内に残る夜念仏板碑のなかで最古の紀年銘をもつ板碑になるようです。
私の興味がある庚申板碑が現れるのも室町時代中頃からです。
庚申信仰の歴史は古いのですが、民衆に拡がるのはこの時代からです。東京都練馬区春日町稲荷神社にあった長享二年(1488)の板碑には、「奉申待供養結衆」として十四人の農村の人たちを中心とする名前が刻まれています。
以上をまとめておきます
①古代東大寺などで行われていた法会が、大貴族の舘で講としてきらびやかに行われるようになった
②古代の仏教的作善として寺院建立・仏像造営・石造物造立をおこなったのも、大貴族たちであった。
③中世になると石造物造営などの「仏教的作善」を、中層階層が講、結衆、講衆を組織して行うようになった。
④結集は、仏教信仰からスタートし、室町時代になると娯楽的要素が強くなる。
⑤人々は様々な信仰の下に結衆し、各種の石造物を寺院に寄進するようになる。
以上の情報収集をもとに、弘安寺に十三仏笠塔婆が寄進されるまでの経緯を物語風に描いてみます。
時代背景
応仁の乱が終結してからの16世紀初頭の頃のこと、管領家の棟梁は修験道に凝って、自分は天狗になるんだと女人も寄せ付けず修行三昧の日々。そのため世継ぎもできず、養子を迎える始末。それも事もあろうか3人も。3人の世継ぎ候補が現れれば、世継ぎ争いが起きるのはこの世の習い。この結果、細川家は永正の錯乱と呼ばれる泥沼状態にたたき込まれる。讃岐の有力被官香川・安富・香西などの首領も命を落とし、後継者をめぐって一族の対立が起きて、讃岐では他国に先駆けて戦国時代に突入。天霧城の香川氏も一族内紛で混乱状態へ、そこにつけいるのが丸亀平野南部で勢力を拡大していた長尾氏。長尾氏は、これ幸いにと金倉寺から多度津方面へ勢力拡大を目論む。
 讃岐の戦国時代化が進む中の那珂郡四条
16世紀の弘安寺
 白鳳時代に建立された弘安寺は古代有力者の菩提寺として建立されたが、中世になるとパトロンが力をなくし、お堂だけに小規模化し無住になっていた。そこに定着したのが廻国の高野聖。彼は阿弥陀念仏信仰をもつ修験者でもあり、十三仏信仰の持ち主でもあった。彼の同僚の中には、海運業で賑わう塩飽の海運業者を結衆に組織化し、信者を増やしているものもいた。弥谷寺の石工達に十三仏笠塔婆の制作を依頼し、それを本島や粟島に造立もしていた。さらには、天霧山麓の萬福寺や牛額寺にも寄進しているのを、五岳に修行に行った際に見ていた。それを見ていた弘安寺の聖も、布教活動が軌道に乗ると、有力者達に働きかけて十三仏結衆を組織化した。そして、1519年の秋の彼岸の日に、弥谷寺の石工達によって造られた笠塔婆が馬で四条に運ばれ、弘安寺に寄進された。そのモデルになったのは、天霧山麓の萬福寺に10年前に造立されていた十三仏笠塔婆だった。
(あくまで私のフィクションです。)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
川勝政太良 講衆に関する研究 1973年
満濃町の文化と人物 立薬師の十三仏笠塔婆 満濃町誌1005P
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  前回に蓮如は、礼拝物を統一して次のような形で門末寺や道場へ下付したことを見ました。
①名号や絵像を「本尊」
②開山絵像(親鸞)を「御影」
③蓮如や門主の影像を「真影」
  このような礼拝物の下付を通じて、蓮如は末寺や道場の間に、次のような教えを広げていきます。
①仏前勤行に「正信偈」を読むことで、七高僧の教えを門末に教え
②御文によって親鸞と門末を結び
③礼拝物の規格を統一して作成・下付し、本山との結びつきを強め
④礼拝物の修繕を本山で行うことで、本末関係を永続化させる。
以上の一連の流れで、門末を統制することに成功したと研究者は考えているようです。
 慶長6年(1603)、本願寺の東西分裂を契機に木仏下付が始まります。
東西分裂を契機に、東と西の本願寺は激しい勢力拡張運動を展開して、しのぎを削るようになります。翌年になると西本願寺は、勢力維持のために地方の念仏道場に寺号を与えて寺に昇格させると同時に、木仏の下付を始めます。こうして、慶長7年から寛永19年までの約40年間に、183カ所の道場に木仏が下付されます。ここで注意しておきたいのは、寺号と木仏下付がセットになっていると云うことです。また、下付された木仏が損傷した時や、寺格が昇進した時には、再度下付しています。
それでは尊光寺にはどのようなものが下付されたのでしょうか。今回はそれを見ていくことにします。
尊光寺の安政3年(1856)の書上帳には、本尊阿弥陀仏について次のように記されています。


尊光寺記録(安政3年)
尊光寺の境内・表門・本堂に続いて本尊阿弥陀仏とあり、本山免許と記されている。
本尊阿弥陀仏
木仏御立像 春日作
 長一尺四寸(42、2㎝)
  本山免許
記録によると尊光寺には、本山から2回木仏が下付されています。
興正寺年表には、次の記録があります。

慶長19年(1614)8月17日(興正寺直末)興正寺下鵜足郡尊光寺賢正に木仏を授ける((木仏の留)

 ということは、尊光寺はこの時までは正式の寺号はなかった、認められていなかったということになります。
以前に尊光寺の開基者玄正について、次のようにお話ししました
①尊光寺開基は、実際には中興開基とされている玄正(長尾城主の息子・孫七郎)であること
②それは長尾氏滅亡後の1580年以後のことであること
③玄正が長炭周辺のいくつかの道場をまとめて総道場を建設して、尊光寺の創建に一歩近付けた人物だったこと。
それが1614年に木仏が興正寺より下付され、正式の寺号が認められたことになります。木仏は直接に京都の興正寺から運ばれてきたのではないはずです。興正寺と尊光寺の間には、中本山としての阿波郡里の安楽寺があります。礼拝物の下付は、中本山を経由するのがしきたりでした。当然、尊光寺の木仏も一旦は郡里の安楽寺に運び込まれ、そこから人が担いで阿讃の峠を超えてまんのう町に下りてきたと私は考えています。安楽寺との本末関係とは、そういうもふくまれるのです。
尊光寺への2回目の木仏下付は、宝暦7年(1757)6月15日です。
この時は第九代住職賢随が願い出て「木仏尊像」を下付されています。最初に下付されてから約150年の年月が経って、その間に本尊の痛みがひどくなったので、再下付を願い出たのでしょう。
現在の御本尊は、この二回目に下付されたものです。本山から与えられた御免書はなくなって、今は御免書を入れてあった封書だけが残っているようです。その封筒の表面に次のような文書が書かれています。
釈法如(花押)
賓暦七(1757)丁丑年六月十五日
興正寺門徒安楽寺下
木仏尊像 讃岐国鵜足郡
炭所東村 尊光寺仏
 願主 釈賢随

これは単なる表書でなく、中に入れられていた文書そのもので、掛け軸の御絵像の御裏書にあたるものだと研究者は指摘します。これによって、この本仏尊像が本山から尊光寺へ下付されたものであることを証明できます。本山興正寺は、中堅寺院に成長してきた尊光寺に、免許書を添えて木仏を再下付したと研究者は考えています。
   それでは免許状は、どこにいったのでしょうか?
興正寺の悲願であった西本願寺からの別派独立は、江戸時代には認められることはありませんでした。それは明治9年(1876)9月15日になってからでした。教務省は「教義上明確な差異のない限り独立を認めない」という方針でした。そのため興正寺としては、西本願寺と異なることを示す必要がありました。その一つが、各末寺へ西本願寺から下付されていた御本尊や御絵像を「回収」して、興正寺が新たに下付するという方法です。これは資金難の興正寺の財政救済という目的もあったようです。しかし、これをそのまま行えば、地方の末寺にとっては本尊を本寺興正寺に「回収」され、新しい本尊を迎え入れなければならないことになります。これをすんなりと受けいれることは出来なかったはずです。
 それではどんな手法がとられたのでしょうか。尊光寺の場合を見てみましょう。
①本尊阿弥陀如来立像の本願寺本山からの御免書を「回収(没収)」する。
②しかし尊光寺の財政事情を考慮して、本尊を今まで通り安置することを許可する。
つまり、本願寺から出されていた免許状は没収するが、本尊はそのまま残す。そして御免書の文面を、そのまま御免書の封筒に書き写して残すということです。そのためその封筒が尊光寺に残っていると研究者は推測します。木仏本尊の免許書は全国的にも珍しいもので、もし残っていれば貴重なものなのにと、専門家は残念がります。

尊光寺本尊 本寺からの下付
尊光寺の本尊(18世紀に下付された木仏:阿弥陀仏)
尊光寺の木仏本尊を、研究者は次のように評します。
御本尊は、檜を用いた寄木造りで、像高は42,4㎝。尊光寺の安政三年(1856)の書上帳の記録と一致する。小振りな御尊像は、 一木造りであるかのように頑丈に見受けられる。内陣中央の須弥壇の上の、宮殿の中の蓮の台座の上に安置されているお顔は、瑞々しく張りがある。慈悲の眼差しは、彫眼であるので伏せられているが、美しい目もとは軽く結ばれている。納衣は、両肩を覆う通肩で、その上に袈裟をつけ、上品下生の印を結ばれている。
尊光寺本尊2
尊光寺本尊 阿弥陀如来頭部
 全体に、「安阿弥陀様」と呼ばれる鎌倉時代の仏師快慶作の阿弥陀立像に似せて作られたように考えられる。春日作りとあるのは、鎌倉の仏師集団によって作られた意味であろう。
尊光寺本尊の最も明瞭な特徴は、その頭部の髪型である。
一般に如来の頭髪は、螺髪と呼ばれる小さくカールした巻毛の粒を、別に一個ずつ作って頭に植えつけたり、また頭部の材と共木に刻み出して、頭髪を現わす。尊光寺の御本尊の頭髪は、髪を束ねたものを縄状に巻きつけ、それに刻み目を入れて頭髪を現わしている。
このような頭髪スタイルは、京都の嵯峨の清涼寺の御本尊である釈迦如来像がモデルになっているようです。

釈迦如来立像 ~清凉寺に伝わる生身のお釈迦さま | 京都トリビア × Trivia in Kyoto
清涼寺の釈迦如来像

清涼寺の釈迦如来像を持ち帰ったのは、永観元年(983)に宋に渡った東大寺の僧套然です。彼は五台山で修行し、2年後に帰国するときに、宋の宮中で礼拝したインド伝来の釈迦如来像を模刻して日本へ持ち帰ります。一旦、大宰府の蓮台寺に安置されますが、彼の死後に弟子成算が、京都嵯峨に清涼寺を創建し、ここにまつることを朝廷に願い出て許可され、今に至っているようです。
尊光寺本尊のモデル 清涼寺釈迦如来
清涼寺式釈迦如来(奈良国立博物館 重文)
 清涼寺の釈迦像は、その後盛んにコピーされて、仏像の中で「最も多く模刻された釈迦像」ともいわれるようです。その中には、国の重要文化財に指定されているものもあります。
尊光寺本尊3
尊光寺本尊(阿弥陀如来)
尊光寺の釈迦像もこのような流れの中で、京都で作成された阿弥陀様が尊光寺に下付されたようです。 私が疑問に思うのは、それでは最初に下付された木仏はどこにいったのかということです。尊光寺にはないようです。考えられるのは二回目の下付の時に、入れ替わりに本山に返されたということでしょうか。よく分かりません。

尊光寺本尊4
尊光寺本尊
尊光寺の本尊のやって来た道が、江戸時代の真宗の本寺と末寺をたどることにもなるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大林英雄 尊光寺史

  今から99年前の1923(大正12)年5月21日に、琴平-財田間の鉄道が開通しました。
琴平駅2
財田への延長と供に姿を現した金刀比羅停留所(現琴平駅)
開通を祝する当時の新聞を見ておきましょう。(現代語意訳)
徳島へ・高知へ 一歩を進めた四国縦断鉄道 
琴平・讃岐財田間8里は今日開通 総工費130万円
香川・徳島の握手は大正16年頃の予定。 (以下本文)
 土讃線琴平財田間8里は21日開通となったがこの工事は大正9年3月に起工し、第一工区琴平塩入間四里と大麻の分岐点から琴平新駅まで一哩は京都市西松組が土工橋梁等を25万余円で請負い10年6月に竣工。また第ニ工区塩入・財田間三里九分も同組が43万円で請負、10年2月起工し11年8月に竣工した。それから土砂撒布と橋梁の架設軌道敷設琴平塩入財田の三駅舎の新築などその他の設備の総工費130万円を要した。工事監督は岡山建設事務所の大原技師にして直接監督は同琴平詰所の最初の主任三原技手後の主任は佐藤技手であった。
 工事の内の橋梁は第一金倉川60尺2連、第二金倉川60尺1連・照井川40尺2連・財田川65尺5連・多治川50尺1連などが大きい方である。切り通しの最高は十郷大口の55尺、山脇の165間などで8ケ所あった。盛土の最高は財田川付近にある。
ここからは、総工費が130万円で3年間の工期の末に、琴平ー財田間が完成したこと、その区間の橋梁や切通部分などが分かります。

 財田に向かう乗客は①新琴平駅で列車を乗り換える。琴平旭町の道を横切り神野村五条に入り、再び金倉川の鉄橋を過ぎ、岸の上を経て真野に抜けて行く。この間は、少し登りで、田園の中を南に進む。左手に満濃池を眺めつつ七箇村照井に入り、福良見を過ぎ十郷村字帆山にある②塩入駅に着く。塩入駅は、西に行けば大口を経て国道に達する大口道、東に行けば琴平・塩入を結ぶ塩入道につながる交通要衝の地に作られている。この駅から満濃池へは東へ約1,7㎞、七箇村の福良見・照井・春日・本目へはわずかである。この附近の産物は木炭薪米穀類である。
 塩入駅からさらに西に向かい十郷村を横断し、後山・大口を経て大口川を越える。それから南に転じて新目に至る。列車は徐々に上り、③17mの高い切通し④高い築堤の上を走りつつ、⑤橋上から眺めも良い財田川を渡り、約300mの長い切取しを過ぎて山脇に入る。帰来川を渡ると間もなく財田村字荒戸にある⑥讃岐財田駅に着く…(以下略)
 番号をつけた部分を補足しておきます。

DSC01471
1923年完成の金刀比羅停車場(琴平駅)
①の新琴平駅が現在の琴平駅です。それまでは、現在の琴参閣の所にあったものが琴平市街を抜けるために、現在地に移動してきました。
この駅の建築費は13万円で、総工費の1/10は、この駅舎の建築費にあたります。西日本では有数の立派な駅だったようです。
塩入駅

②の塩入駅周辺では、東山峠を越えて阿波昼間との里道が開通したばかりでした。そのため阿波との関係の深い宿場街的な塩入の名前がつけられます。阿波を後背地として、阿波の人達の利用も考えていたようです。
③の切通しは、山内うどんの西側の追上と黒川駅までの区間です。ここから出た土砂がトロッコで塩入駅方面に運ばれ線路が敷かれていきます。
琴平駅~黒川駅周辺> JR四国 鉄道のある風景
黒川駅(黒川築堤の上に戦後できた駅)
④の高い築堤には、現在は黒川駅があります。ちなみに黒川駅が、ここに姿を現すのは戦後のことです。

土讃線財田川鉄橋
黒川鉄橋
⑤は、黒川鉄橋で当時としては最新技術の賜で巨費が投じられました。同じ時期に作られた琴電琴平線の土器川橋梁や香東川橋梁は、旧来の石積スタイルの橋脚がもちいられていますが、ここではコンクリート橋脚がすでに使われています。それが現役で今も使われています。

土讃線・讃岐財田駅-さいきの駅舎訪問
讃岐財田駅
⑥の財田(さいだ)駅が終着駅でした。郵便や鉄道荷物も扱うので、職員の数は45人もいたようです。池田方面へ向かう人々は財田駅で降りて、四国新道を歩いて猪ノ鼻峠を越えるようになります。その宿場として財田の戸川は、発展していきます。同じように、塩入街道を通じて阿波を後背地に持つ塩入も、この時期に発展します。阿波の人とモノが塩入駅を利用するようになったからです。
 開通当時の時刻表を見てみましょう。
琴平発の始発が5時47分、その列車が財田駅に到着するのが6時10分。折り返し始発便として6時25分に出発します。一日6便の折り返し運転で、琴平と讃岐財田が30分程度で結ばれました。
 これによって、樅の木峠を越えていた馬車は廃業になります。追上や黒川の茶屋も店終いです。交通システムの大変革が起きたのです。
  1923年に財田まで鉄道が延び、現在の琴平・塩入・財田の3つの駅が開業しました。来年は、その百周年になります。20世紀の鉄道の時代から自動車の時代への転換を、これらの駅は見守り続けて来たのかもしれません。
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讃岐には真宗興正寺に属していた末寺が多いこと、その讃岐伝導については、三木の常光寺と阿波郡里の安楽寺が布教センターとして役割を果たしたことを以前にお話ししました。それでは、讃岐に真宗の教線が伸びてくるのはいつ頃のことなのでしょうか。

讃岐の真宗寺院創建年代

 研究者が西讃府志などに記されている真宗各寺の開基時期を区分したものが上図です。これは各寺の由緒書きに基づくもので、開基を裏付ける史料があるわけではないことを最初に押さえておきます。この表を見ると、15世紀に33、16世紀に38の真宗寺院が讃岐にはあったことになります。
 昭和に作られた町村史も各寺の縁起を基にして、讃岐の真宗寺院の開基を早めに設定する傾向がありました。しかし現在では、讃岐の真宗教団が教宣活動を本格化させたのは16世紀後半以後のことで、寺院に格上げされるのは江戸時代になってからというのが定説化しているようです。この変化には、どんな「発見」があったからなのでしょうか。それを、まんのう町の尊光寺を例に見ていきたいと思います。テキストは「大林英雄 尊光寺史 平成15年」です。

    DSC02132     
尊光寺(まんのう町種子)

尊光寺の創建について、1975年版の『満濃町史』1014Pには、次のように記されています。

  尊光寺は、鎌倉時代の中頃、領主大谷氏によって開基され、南北朝時代に中院源少将の崇敬を受けた……。

これを書いた研究者は、創建を鎌倉時代と考えた根拠として、次の4点を挙げます
①まんのう町へは、鎌倉時代の承元元年(1207)に、法然が流罪となり、讃岐国小松庄の生福寺で約9ヵ月間寓居し、その間、各地で専修念仏を広めた。その後、四条の地には、生福、清福、真福の三福寺が栄えていたとあるので、鎌倉時代には真宗が伝わっていたと推察。

②『徳島県史(旧版)』の安楽寺縁起には、鎌倉時代の宝治合戦(1247)に敗れた千葉氏の一族彦太郎が、縁者である阿波国守護の小笠原氏を頼って、北条氏に助命を願い、安楽寺に入って剃髪し、安楽寺は天台宗から浄土真宗に改宗したと書かれている。この記事から、四国へ浄土真宗が伝わったのは鎌倉時代と考えた。

③尊光寺の記録にある開祖少将は、南北朝時代に、西長尾城を拠点にして南朝方の総大将として戦った中院源少将に仮託したものと推察。

④尊光寺の本尊阿弥陀如来の木像は、 一部に古い様式があり鎌倉仏とも考えられること。

以上から尊光寺の開基を鎌倉時代としたようです。ここからは真宗寺院の創建を14世紀に遡って設定するのは、当時は一般的であったことが分かります。
 それが見直されるようになったのはどうしてでしょうか。
⑤中央では真宗史についての研究や、真宗教団の四国への教線拡大過程が明らかになった(『講座蓮如』第五巻)。

⑥『新編香川叢書史料編二』(1979年)が発刊されて、高松藩の最も古い寺院記録である『御領分中寺々由来書』が史料として使用可能となった。

⑦1990年代に『安楽寺文書上下巻』『興正寺年表』など、次々に寺院史の研究書が発刊されたこと。

古本 興正寺年表 '91年刊 蓮教上人 興正寺 京都花園 年表刊行会編 永田文昌堂 蓮教上人 宗祖親鸞聖人 興正寺歴代自署 花押  印章付き(仏教)|売買されたオークション情報、yahooの商品情報をアーカイブ公開 - オークファン(aucfan.com)

最初に、⑤の真宗の讃岐への教線拡大過程の研究成果を見ておきましょう。
讃岐への真宗拡大センターのひとつがの三木の常光寺でした。
その由来書については、何度も取り上げたのでその要点だけを記します。
①足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた
③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依した。

④15世紀後半に、仏国寺の住持が蓮如を慕って蓮教を名のり興正寺を起こしたので、常光寺も興正寺を本寺とするようになった。
ここには、常光寺と安楽寺は四国布教の拠点センターとして建立された「兄弟関係」にある寺院だと主張されています。
興正寺派と本願寺
興正寺・仏光寺と本願寺の関係
まず①②について検討していきます。
①には14世紀後半に仏光寺が門弟2人を教線拡大のために四国に派遣したとあります。しかし、当時の仏光寺にはそのような動きは見られません。合い抗争する状態にあった真宗各派間にあって、そのようなゆとりはなく、乱世に生き延びていくのが精一杯な時期でした。本願寺にも、仏国寺にも、西国布教を14世紀に行う力はありませんでした。

蓮如像 文化遺産オンライン
蓮如
本願寺も15世紀後半に蓮如が現れるまで、けっして真宗をまとめ切れていたわけではありません。真宗の中のひとつ寺院に過ぎず、指導性を充分に発揮できる立場でもありませんでした。それが蓮如の登場で、本願寺は輝きを取り戻し、大きな引力を持つようになります。その引力に多くの門徒や寺院が吸い寄せられていきます。

興正寺派と本願寺
本願寺と興正寺の関係
そのひとつが仏光寺の経蒙が、蓮如に帰参し、蓮教と改め興正寺を起こしたことです。経蒙は文明13年(1481)に、自派の布教に行き詰まりを感じ、多数の末寺や門徒を引き連れて、本願寺の門主蓮如に帰参します。経豪は、寺名をもとの興正寺に復して、蓮如から蓮教の法名を与えられます。
この興正寺が四国へ真宗伝播の拠点になります。それが本格化するのは、蓮秀(れんしゅう)以後です。蓮秀は、蓮如の孫娘に当たる慧光尼を妻に持ち、明応元(1492)年に父連教が没した後、蓮如の手で得度して、興正寺を継ぎます。彼は本願寺においては和平派として、戦国大名との和平調停に尽くす一方、西国布教に尽力し、天文21年(1552年)、72歳でなくなっています。
興正寺蓮秀の西国布教方法は、法華宗や禅宗の寺院がやっていた方法と同じです。
末寺の僧侶が、堺の門徒であった商人や航海業者と結んで商業拠点としての寺院を各港に設置していくという方法です。当然、これには交易活動(商売)が伴います。彼らは、仏光寺の光明本尊や絵讃、蓮如の御文章の抄塚などを領布(売却)して、門徒を獲得することになんら違和感はありませんでした。それは、高野聖や念仏聖たちが中世を通じて行ってきたことで、当たり前のことになっていました。
 ここでは興正寺の四国布教が本格的に進められるのは、16世紀前半の蓮秀の時代になってからであることを押さえておきます。これは最初に見た常光寺縁起の次の項目と矛盾することになります。

「足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた」

桜咲く美馬町寺町の安楽寺 - にし阿波暮らし「四国徳島の西の方」
安楽寺(美馬市郡里)

常光寺から兄弟門弟関係にあると名指しされた阿波の安楽寺(赤門寺)の縁起を見ておきましょう。
安楽寺は、もともとは元々は天台宗寺院としてとして開かれました。宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠が、境内の西北隅に残されていることがそれを裏付けます。真宗に改宗されるのは、東国から落ちのびてきた元武士たちの手によります。その縁起によると、1247年(宝治元年)に上総(千葉県)の守護・千葉常隆の孫彦太郎が、対立していた幕府の執権北条時頼と争い敗れます。彦太郎は討ち手を逃れて、上総の真仏上人(親鸞聖人の高弟)のもとで出家します。そして、阿波守護であった縁族(大おじ広常の女婿)の小笠原長清を頼って阿波にやってきてます。その後、安楽寺を任された際に、真宗寺院に転宗したと記します。そして16世紀になると、蓮如上人の本願寺の傘下に入り、美馬を中心に信徒を拡大し、吉野川の上流へ教線を拡大させていきます。

安楽寺歴史1
安楽寺の創建由来のまとめ

  安楽寺の縁起には仏光寺の弟子が開いたとは、どこにもでてきません。
安楽寺が真宗になったのは、東国からの落武者の真宗門徒である千葉氏によること、そして、その時には本願寺に属していたと記されています。ここでも常光寺縁起の「浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺」を裏付けることはできません。

安楽寺が興正寺派となった時期については、次のふたつの説があるようです。
①興正寺経豪が蓮如に帰参した文明13年(1481)説
②安楽寺の讃岐財田への逃散亡命から郡里に帰還した永正十七年(1520)説
②の安楽寺の危機的状況を仲介調停したのが興正寺の蓮秀で、彼のおかげで三好長慶から諸公事等免除と帰国を勝ち取ることができました。これを契機に安楽寺は興正寺派となったという説です。私にはこれが説得力があるように思えます。

巌嶋山・宝光寺2013秋 : 四国観光スポットblog
安楽寺の讃岐逃散(亡命)寺院跡の寶光寺(三豊市財田)

安楽寺の讃岐への逃散について、ここでは概略だけ見ておきます。
 郡里にあった寺を周辺勢力から焼き討ちされた安楽寺は、信徒と供に讃岐財田に「逃散」します。財田への「亡命」の背景には「調停書」に「諸課役等之事閣被申候、万一無謂子細申方候」とあるので、賦役や課役をめぐる対立があったことがうかがえます。さらに「念仏一向衆」への真言系寺院(山伏寺)からの圧迫があったのかもしれません。
 調停内容は、「事前協議なしの新しい課役などは行わない」ことを約束するので「阿波にもどってこい」と、安楽寺側の言い分が認められたものになっています。この際に、安楽寺のために大きな支援を行ったのが興正寺の蓮秀です。これを契機に、本寺を興正寺に移したという説です。領主との条件闘争を経て既得権を積み重ねた安楽寺は、その後は急速に教線を讃岐に伸ばしていきます。それは、三好氏の讃岐進出とベクトルが重なるようです。三好氏は安楽寺の讃岐への教線拡大に対して「承認・保護」を与えていたような気配がします。
 ちなみに宇多津の西光寺に対しては、三好氏家臣の篠原氏が保護を与えています。
 安楽寺末寺分布図
安楽寺の末寺分布図(寛永3年 讃岐に末寺が多い)
 安楽寺に残されている江戸時代中期の寛永年間の四ケ国末寺帳を見ると、讃岐に50ケ寺、阿波で18ケ寺、土佐で8ケ寺、伊予で2ケ寺です。讃岐が群を抜いて多いことが分かります。これらの末寺の形成は、次のような動きと重なります。
①当時の興正寺の掲げていた「四国への真宗教線拡大戦略」
②安楽寺の「財田逃散亡命」から帰還後の讃岐への教線拡大
③三好氏の讃岐中讃への勢力の拡大

尊光寺記録(安政3年)
尊光寺記録
最後にまんのう町の尊光寺の開基を見ておきましょう。
江戸時代末期の安政三年(1856)に、尊光寺から高松藩に提出したと思われる『尊光寺記録』の控えが、尊光寺文書の最初にとじられています。そこには次のように記されています。
尊光寺開基
尊光寺開基

一向宗京都興正寺末寺
 讃州鵜足郡長炭村 尊光寺
開基 少将
当寺は明応年中、少将と申す僧、炭所東村種子免(たねめん)の内、久保と申す所え開基候。其後享保年中、同種子免の内、雀屋敷之土地更之仕り候と申し伝え候得共、何の記録も御座なく候故、 一向相い知れ申さず候(原漢文)

意訳変換しておくと
尊光寺は明応年間に、少将と申す僧が、炭所東村の種子免(たねめん)の内の久保に開基した。その後、享保年間になって、同じ種子免の内の雀屋敷の現在地に移ってきたと伝えられる。しかし、これについては何の記録もない。詳しくはよく分かりません。

  尊光寺文書には開基の「時代は明応、開基主は少将」と書かれています。この文書に出てくる明応という時代と、開基の少将という人名は、高松藩の『御領分中寺々由来』にも次のように登場します。
阿州安楽寺一向宗宇多郡尊光寺
開基、明応年中、少将と申す僧、諸旦那の助力を以って建立仕り候事、寺の証拠は、本寺の証文所持仕り候(原漢文)。

「少将」という僧名は、各地の一向一揆の戦いに参加した僧名としてよく登場する人物名で、開基者が不明なときに使われる「架空の人名」のようです。寺記の中に出てくる「諸檀那の助力を以って建立仕り候事」も、真宗の寺院縁起の常套語で、由緒書に頻繁に使用されます。つまり、この記述は歴史的な事実を伝えているものではないと私は考えています。
 歴代住持の名前は、その後は「中興開基 玄正」までありません。
「中興開基 玄正」については、次のように記されています。

右は天正年中、女子ばかりにて寺役が相勤め申さざる御、当国西長尾の城主長尾大隅守、土佐長宗我部元親のために落城。息長尾孫七郎と申す者、軍務を逃れ、右尊光寺の女子に要せ、中興仕らせ候申し伝え候得共、住職並びに隠居仰せつけられ候年号月日相知れ申さず候(原漢文)。

  意訳変換しておくと
一 尊光寺の中興開基は、玄正
天正年間に、尊光寺には女子ばかりで跡継ぎがいなかった。西長尾城が土佐長宗我部元親により落城した時に、城主長尾大隅守(高勝)は息子・長尾孫七郎を、尊光寺の女子と婚姻させ、寺の中興を果たしたと伝えられる。住職就任や隠居時の年号月日については分からない(原漢文)。
ここからは次のようなことが分かります。
①中興開基の玄正は、長尾城主の息子・孫七郎であったこと
②長尾氏滅亡の際に、孫次郎が尊光寺を中興したこと。
 尊光寺記録は、これ以外に玄正の業績については、何も触れていません。推察するなら、玄正は長炭周辺のいくつかの道場をまとめて総道場を建設して、尊光寺の創建に一歩近付けた人物のようです。実質的に尊光寺を開いたのは、この人物と私は考えています。
安楽寺末寺
尊光寺の本末関係

 西長尾城落城後から生駒時代の困難な時代に、長尾一族のとった道を考えて見ます。
彼らの多くは、他国に去ることなく地元で帰農したようです。そして、農民達の中で生きるために真宗に転宗します。ここには、一族の有力者が真宗道場の指導者になり、門徒衆を支配しようとする長尾氏の生き残り戦略がうかがえます。
 長尾一族の開基と伝えられるお寺が西長尾城周辺にはいくつかあります。各寺の縁起に書かれた開基年代は、次のように記されています。
1492(明応元年)炭所東に尊光寺
1517(永生14)長尾に超勝寺
1523(大永3年)長尾に慈泉寺
 しかし、ここに書かれた改宗時期については、疑問が残ります。それは、この時期は長尾氏は真言宗を信仰していたからです。それは、つぎのような事実から裏付けられます。

①西長尾城主の弟(甥)とされる宥雅は、善通寺で仏門に入り、真言僧侶として、金毘羅大権現の金光院を開いている。
②長尾氏の菩提寺佐岡寺は真言宗で、長尾氏一族の五輪塔がある。

佐岡寺と長尾大隅守の墓 | kagawa1000seeのブログ
佐岡寺(まんのう町)の長尾氏歴代の墓
以上のような背景から長尾氏の真宗転宗は、西長尾城を失ってから後の16世紀末と私は考えています。

真鈴峠
郡里の安楽寺からの丸亀平野への教線拡大ルート
現在のまんのう町の山間の村々に姿を現していた安楽寺の各道場を、長尾氏は指導力を発揮してまとめて惣道場として、その指導者に収まっていった姿が見えてくるような気がします。それらの道場が江戸時代になって、正式な寺号が付与されていきます。

尊光寺史S__4431880
尊光寺史
以上をまとめておきます
①15世紀後半に現れた蓮如の下で、本願寺は勢力再拡大を果たす。
②その一つの要因が仏光寺が蓮如傘下に加わり、興正寺と改名したことである
③興正寺は蓮秀(16世紀前半)の時に、四国への真宗教線拡大が本格化させる。
④興正寺が阿波安楽寺を末寺に加えることができたのは、16世紀初頭の讃岐への逃散という安楽寺の危機を興正寺が救ったことに起因する。
⑤以後、安楽寺は讃岐山脈を越えて土器川・金倉川・財田川沿いに里に向かって教線を拡大していく。
⑥こうして丸亀平野の山里に安楽寺からの僧侶が入ってきて各村々に道場を開くようになる。
⑦このような真宗浸透を、この時期の西長尾城主の長尾一族は、警戒感と危機感で見守っていた。
⑧それは城主の弟(甥)の宥雅が善通寺で修行後に、金毘羅神という新たな流行神を創出したのもそのような脅威に対抗しようとしたためともとれる。
⑨長宗我部元親の侵攻で在野に下り、その後の生駒氏支配では登用されなかった長尾氏の多くは帰農の道を選ぶ。
⑩その際に、真宗に転宗し、道場の指導者となり、勢力の温存をはかった。
⑪そのため西長尾城周辺には長尾氏開基を伝える系図を持つ真宗寺院がいくつも現れることになった。

尊光寺真宗伝播

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参考文献 大林英雄 尊光寺史 平成15年
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