瀬戸の島から

カテゴリ:まんのう町誌を歩く > 増田穣三評伝

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      塩入駅前
 塩入駅にやってきました。
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増田穣三像

ここには駅前広場に忘れ去られたかのように、銅像がポツンと建っています。
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これは戦前に衆議議員を務めた増田穣三の銅像です。
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増田穣三像台座碑文左側
 台座には3面にわたってびっしりと碑文が刻まれています。碑文を、最初に見ておきましょう。
  春日 増田伝二郎の長男。秋峰と号す。翁姓は増田 安政5年8月15日を持って讃の琴平の東南七箇村に生る。伝次郎長広の長男にして母は近石氏なり 初め喜代太郎と称し後穣三と改む。秋峰洗耳は其に其号なり 幼にして頴悟俊敏 日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め 又如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり 
明治23年 村会議員と為り 31年 名誉村長に推され又琴平榎井神野七箇一町三村道路改修組合長と為り日夜力を郷土の開発に尽くす 33年 香川県会議員に挙げられ爾後当選三回に及ぶ 此の間参事会員副議長議長等に進展して能く其職務を全うす 35年 郷村小学校敷地を買収して校舎を築き以て児童教育の根源を定め又同村基本財産たる山村三百余町歩を購入して禁養の端を開き以て副産物の増殖を図れり 45年 衆議院議員に挙げられ 大正4年再び選ばれて倍々国事に盡痙する所あり 其年十一月大礼参列の光栄を荷ふ 是より先四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走効績最も大なりと為す。翁の事に当るや熱実周到其の企画する所一一肯?に中る故に衆望常に翁に帰す。
今年八十にして康健壮者の如く猶花道を嗜みて日々風雅を提唱す郷党の有志百謀って翁の寿像を造り以て不朽の功労に酬いんとす 。 翁と姻戚の間に在り遂に不文を顧み字其行状を綴ると云爾
昭和十二年五月
                東京 梅園良正 撰書
  現代語訳すると
安政元(1854)年8月15日生 昭和14(1939)年2月22日)没
①七箇村春日の生まれで、増田伝次郎の長男。秋峰と号す。
②安政5年8月15日に讃岐琴平の東南に位置する七箇村に生まれた。母は、近石氏。穣三は、若い頃は喜代太郎と称していたが30歳を過ぎて穣三と改名した。秋峰は譲三の号である。幼い時から理解が早く賢く、才知がすぐれていて判断や行動もすばやかった。日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾などに就いて和漢の学を修め、③また如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の奥義を究めた。そして「如松斉流(未生流)」の華道家元を継承し、多くの門下生を育てた。④明治23年に、開設された七箇村の村会議員となり、明治31年には2代村長に推され就任し、琴平・榎井・神野・七箇の一町三村道路改修組合長として、道路建設等の郷土の開発に力を尽くした。⑤明治33年には、香川県会議員に挙げられ当選三回に及んだ。その間に県参事会員や副議長・議長等の要職に就き、その職務を全うした。
 明治35年には、郷村小学校敷地を買収して校舎を築き、さらに児童教育の根源を定めるとともに、同村基本財産となる山村三百余町歩を購入して、山林活用と副産物の生産を図った。⑥明治45年には、衆議院議員に初当選し、大正4年には再選し、国事に尽くした。大正11年1月には大礼参列の光栄を賜った。これより先には四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走し、土讃線のルート決定に大きな功績を残した。譲三氏は、用意周到で考え抜かれた計画案を持って事に当たるので、企画した物事が円滑に進むことが多く、多くの人々の衆望を集めていた。 
 ⑦増田穣三氏は今年80歳にもかかわらず壮健で、花道を愛し日々風雅を求めている。ここに郷党の有志を募って穣三翁の寿像を造り、不朽の功労に酬いたいと思う。⑧私は翁と姻戚の間にあるので、この碑文選書を書くことになった。
昭和十二年五月 
      東京 梅園良正(註・宮内庁書記官) 撰書
この碑文からは、次のようなことが分かります。
①安政元(1854)年8月15日生で、明治維新を13歳で迎えた。大久保諶之丞より10歳下
②父は七箇村春日の増田伝次郎の長男で、母は近石氏出身
③宮田の法然堂住職の丹波法橋から華道を学び、「如松斉流」の家元を継承
④村議会開設時からのメンバーで、2代目七箇村村長に就任し、県道4号東山線開通に尽力
⑤村長を兼務しながら県会議員を5期務め、議長も経験
⑥衆議員議員を2期務め、土讃線のルート決定に大きな役割を果たした
⑦この像は1937(昭和12)年、生前の80歳の時に建立された。
⑧揮毫は松園良正(宮内庁書記官)で、明治の著名人の碑文を数多く残している著名な書道家

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増田穣三像台座プレート 「銅像再建 昭和38年3月」

増田穣三の銅像について
1937(昭和12)年5月 等身大像を七箇村役場(現協栄農協七箇支所)に生前に建立。
1939(昭和14)年2月 高松で歿、七箇村村葬(村長・増田一良)で手厚く葬られた。
1943(昭和18)年5月 戦時中の金属供出のため銅像撤去。
1963(昭和38)年3月 塩入駅前に再建。顕彰碑文は、昭和12年のものを再用。
前回見た山下谷次像と建立された時期を比較すると、競い合うように2つの像は建立されたことが分かります。その経緯を整理すると次のようになります。1936年に山下谷次が亡くなり、十郷村で銅像建立事業が始まる。これに対して七箇村村長の増田一良は、増田穣三像の「生前建立計画」を進めて、一年早く建立。しかし、それも5年後に戦時中の「金属供出」により奪われる。谷次の銅像は教え子達によって昭和27年の17回忌に元の位置に再建された。増田穣三の再建は十年遅れになる。それはもとあった役場前ではなく塩入駅前であった。その際に、台座は以前のものを使って再建された。

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増田穣三(県議時代)

増田穣三の風貌については、当時の新聞記者は次のように記します。
「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いてその地位を表彰す」
 
体格は小さいけれどもハンサムで威厳ある風格を示すという所でしょうか。ところがこの銅像はなで肩の和服姿に、左手に扇子を持ち駅の方を向いています。
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扇子をもつ増田穣三像
私の第1印象は、「威張っていない。威厳を感じさせない。政治家らしくない像」で「田舎の品のあるおじいちゃん」の風情。政治家としてよりも、華道の師匠さんとしての姿を表しているように感じます。彼は若い頃は、呉服屋の若旦那でもあったようで着物姿が似合っています。
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左は戦後の再建像(原鋳造にて:三豊市山本町辻) 右は代議士時代

この像は穣三の生前80歳の時に作られたもの。代議士時代の姿を選ばなかったのは、どうしてだろうか。
増田穣三の業績等については、評伝にしるしましたので今回は省略します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 コロナで開かれなかった文化財保護協会の総会が3年ぶりに開催されることになりました。その研修行事として、旧仲南町にある3つの銅像を「巡礼」し、郷土の偉人達のことを知るとともに、顕彰しようということになりました。以前に「増田穣三伝」を書いたことがあるので、案内人に指名されました。そこで、レジメ兼資料的なモノを、アップして事前に見てもらおうと思います。見てまわる銅像は、次の順番で3つです。
山下谷次 
戦前の衆議院議員 実業教育の魁として多くの学校設立。 仲南小学校正門前
増田穣三 
戦前の衆議員議員 県道三好丸亀線整備に尽力・華道家元 塩入駅前
③ 二宮忠八 
模型飛行機の飛行実験・飛行神社の建立 樅木峠道の駅    
山下谷次銅像
山下谷次(仲南小学校正門前)
①の 山下谷次の銅像は、仲南小学校体育館前に、登校する生徒達を見守るように立っています。台座には次のように刻まれています。
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山下谷次銅像の碑文(昭和13年9月時)
昭和11年6月先生逝去ノ後 知友相議リ其偉績ヲ後世二伝へ 英姿ヲ聯仰セントシ追善會経費ノ一部ヲ以テ遺像ヲ鋳造シ寄贈ヲ受ケタリ 依テ村会ノ議決ヲ経テ之レヲ校庭二建設ス
昭和十三年九月  十郷村
意訳変換しておくと
  ①昭和11年6月に山下谷次先生が亡くなり葬儀を終えると、友人や教え子たちが相談して、先生のお姿を後世に伝えようということになった。②そこで集まった資金で遺像を鋳造し十郷村に寄贈した。これを受けて、村会は大口の小学校の校庭に建立することを議決した。
昭和13年9月  十郷村
 裏側面には、1952(昭和27)年に追加された次のような銅板プレートが埋め込まれています。

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正五位勲四等山下谷次先生ハ我郷ノ人傑ナリ資性温粁謙和事ヲ篤スニ堅忍撓マス常二数歩ヲ時流二先ンス十八才笈ヲ洛ニ負ヒ大久保在我堂先生二師事シテ刻苦年アリ最モ算数二長ス平生幣衣短袴湾輩ノ毀誉ヲ顧ミス学成リテ京華郁文等ノ私学ヲ興シ傍ラ著述二従フ明治三十六年東京商工学校ヲ創メ大イニカヲ実業教育ノ振興二致シ措据経営三十余年早生ノ心血フ澱ク教フ受クル者萬フ超工皆悉ク国家有用ノ材タリ大正十三年以降選ハレテ衆議院議員タルコト五期文政ノ府二参典トシテ献替頗ル多ク昭和三年功ヲ以テ帝綬褒草フ賜フ
昭和十一年六月五日先生逝去ノ後知友及卒業生相諮り其偉業ヲ後世二博へ英姿フ謄仰セントシ昭和十三年九月村会ノ議決ヲ経テ此ノ地二遺像ノ建設ヲナシタリ然ルニ大戦ノ篤政府二収納セラレ遺憾二堪ヘザリシガ今日十七回忌二際シ再知友及卒業生ノ醸金フ得テ錢二英像フ建設ス
昭和二十七年六月五日   十郷村
建設委員長  五所野尾基彦
松園清太郎 門脇正助 真鍋清三郎  有志
香川県三豊郡辻村 原鋳造所謹製
原型師  織田朱越
鋳物司  原磯吉正知
「巡礼」を行う6月25日は、銅像の前で、この顕彰文を読み上げて敬意を表そうと思います。意訳変換しておくと
1952(昭和27)年に追加された碑文(現代訳)
正五位勲四等を受けた③山下谷次先生は、十郷村の出身で、性格は温和で、何かを行うときには辛抱強く諦めずに取組み、常に時代の数歩先を考えていた。④十八才で京都の大久保彦三郎(諶之丞の弟)の設立した尽誠舎で苦学し、特に算数に長じた能力を発揮した。いつもは幣衣短袴姿で、服装には無頓着であった。尽誠舎を卒業した後に、再度上京して京華郁文学校などの創建にかかわった。一方では数学関係の教科書の著述も行った。⑤明治36年には東京商工学校を設立し、実業教育の振興や経営に30校以上かかわった。谷次先生の教えを受けた生徒は、ほとんどが国家有用の人材となった。
 大正13年以降は、⑥衆議院議員を五期務め、実業教育振興のための献策を数多く出した。そのため昭和3年に、その功績を認められて、帝綬褒賞を受けている。
 昭和11年6月5日に先生が亡くなって後に、友人や卒業生が協議して、その業績を後世に伝え、英姿を残そうということになり、昭和13年に銅像を十郷村に寄進した。寄進を受けた十郷村は、昭和13年9月に村会の議決を経て、銅像を建立した。⑦ところが先の大戦に際に、政府に収納されてしまった。銅像がなくなったことを、非常に残念に思っていた教え子達は、17回忌に際して知友や卒業生から資金を募り、銅像を再建することになった。
⑧昭和27年6月5日   十郷村
建設委員長  五所野尾基彦
松園清太郎 門脇正助 真鍋清三郎  有志
⑨香川県三豊郡辻村 原鋳造所謹製
原型師  織田朱越
鋳物司  原磯吉正知
このふたつの碑文からは、次のようなことが分かります。
①1936(昭和11)年6月8日 山下谷次が東京で亡くなった後に、銅像建立計画が具体化
②1938(昭和13)年9月 寄進された銅像を十郷村が村会決議を経て旧大口小学校に建立
③山下谷次は明治5年(1872)2月22日に、十郷村帆山で誕生
④18才で大久保彦三郎(諶之丞の弟)が京都に設立した尽誠舎に入学、その後教員へ
⑤上京し、東京商工学校(現埼玉工業大学)設立など、30以上の実業学校の設立・経営に関与
⑥増田穣三引退後の地盤から衆議院に出馬し、5期務め実業教育関係の法整備などに尽力
⑦1943(昭和18)年5月29日 戦時中の金属供出のため銅像撤去。
⑧1952(昭和27)年6月5日  山下谷次像が、17回忌に旧大口小学校に再建 
⑨銅像製作所は、三豊市山本町辻の原鋳造所。増田穣三像も同じ。
  戦前に建立された銅像は、戦中の金属供出で国に持って行かれたこと、現在の銅像は17回忌に、教え子達が再建したもののようです。

台座の礎石には、下のようなプレートが埋め込まれています。

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山下谷次銅像移築記念
ここからは、1983(昭和58)年度の仲南中学校の卒業記念事業として、旧大口小学校からここへ移されたことが分かります。今年が移築40周年になるようです。

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山下谷次銅像台座の石工名

竹林正輝と読めます。地元の追上の石工によって台座は作られています。

山下谷次伝―わが国実業教育の魁 (樹林舎叢書) | 福崎 信行 |本 | 通販 | Amazon

山下谷次については、山脇出身のライターである福崎信行氏が「山下谷次伝 わが国実業教育のさきがけ」を出版していて、まんのう町の図書館にもおさめられています。詳しくは、そちらを御覧下さい。ここでは少年期のことを簡単に記しておきます。

山下谷次の少年時代   「成功は (清香)貧しきにあり 梅の花」
 谷次の立身出世の道を開いた3人の人物に焦点を絞りながら少年時代を見ていくことにします。谷次は帆山の山下重五郎の4男で、6歳の時父を失います。そのため生活に追われ、兄たちは高等小学校にも進めていません。そのような中で、谷次は母の理解で高等小学校に行き、そしてさらに上級学校への進学の道が開けます。
当時、仏教の金毘羅大権現から神道へと様変わりを果たした金毘羅宮は、神道の指導者養成のために明道学校を設立します。旧制中学校に代わるもので、全国から優秀な教師を招いて、鳴り物入りで開学でした。しかも授業料は無料。母が兄たちを説得して、谷次はここに通うことが出来るようになります。もし、この母がいなければ谷次の勉学の道はふさがれ、その後の道は開かれなかったはずです。
 入学することを許された谷次は、帆山から琴平まで毎日歩いて通学します。しかし、設立当初は授業料無料であった授業料が有料化されると、退学を余儀なくされます。そのような中で、明治21年8月に十郷大口の宮西簡易小学校で代用教員として、月給2円で務めることになります。帆山から大口までの通勤の道すがらも本を読み、休日は田んぼの中の藁小屋に入って終日不飲不食で勉強を続けたと自伝には書かれています。しかし、沸き上がる向学心を抑えきれずに蓄えた5ヶ月分の給料10円を懐に入れて、その年の12月31日の朝、家を脱け出します。そして東京で学ぼうと多度津港から神戸を経て上京。しかし、あても伝手もなく支援者もなく、資金はまたたくまに底を突きます。しかし、郷里にも帰れない。神戸まで帰ってきて丁稚として働くことになります。

1大久保諶之丞
大久保彦三郎(左)と大久保諶之丞(右)の兄弟

 行き詰り状態の中にあった谷次を救うのが、財田出身の大久保彦三郎(諶之丞の弟)でした。
彦三郎は京都に尽誠舎を開いたばかりで、それを聞いた谷次が、その門を叩きます。彦三郎は、谷次の能力を見抜いて、生徒として編入させ1年で卒業させます。そして、翌年には教員として迎えます。こうして、学校経営のノウハウを彦三郎から学んで再度上京。私立学校の教員として東京で働くようになります。そのような中で恩師の大久保彦二郎危篤の電報を受けると、職を辞して京都に帰り尽誠舎の幹事兼教師として尽力。彦三郎の讃岐に帰って静養するために尽誠舎が閉じられると、三度目の上京度目の上京を果たします。大久保彦三郎との出会いがなければ、谷次は神戸で丁稚奉公を続け、商売人になっていたかもしれません。そこから脱出の手を差し伸べたのが大久保彦三郎ということになります。
 教員として実力も経歴もつけた谷次は、郁文館中学校の数学担任教師兼庶務係として採用されます。それでも向学心は止まず、夜は東京理科大夜間部に通って勉学につとめ、実力をつけます。そして明治31年には江東学院を創設。以後、30校を越える学校の設立や運営に関与するようになるのです。
学園創立110周年の歩み | 学校法人 智香寺学園 | 埼玉工業大学
山下谷次の設立した東京商工学校(現埼玉工業大学)
  実業教育に関わる内に、国家の手による法整備などの必要性を痛感した谷次は、妻の実家のある千葉県から衆議員に出馬しますが落選。その後、郷里香川県から再出馬し、当選します。その際には、衆議院議員を引いた増田穣三や、その従兄弟で増田本家の総領で県会議員でもあった増田一良の支援があったようです。地元では当選の経緯から「増田穣三の後継者」と目されていたようです。

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増田一良
 増田一良は、大久保彦三郎に師事し、その崇拝者で京都に尽誠舎を設立した際には、それに付いていって京都で学んでいます。その時に、山下谷次が編入してきて、翌年には教員として教えを受けたようです。つまり、山下谷次と増田一良は、先輩後輩の関係でもあり、師弟の関係でもあったことになります。それが増田一良をして、山下谷次の支援をさせることにつながります。もし、増田一良がいなければ、郷里讃岐からの出馬という機会はなかったかもしれません。

山下谷次
山下谷次
それでは山下谷次Q&A
①豊かでない山下家の4男谷次が、どうして上級の学校に進めたのか?(兄三人は尋常小学校卒) 母の理解と金毘羅宮が設立した明倫学校が授業料無料だったこと。
②勉学のために上京した谷次を支えた郷土の先輩とは?
 大久保彦三郎(諶之丞の弟)が京都に設立した尽誠舎が、谷次を迎え入れた。
③妻方の地盤から出馬し落選した衆議院議員。それを支援した郷土の後輩とは?
 京都の尽誠舎のときの後輩にあたる増田一良(いちろ:増田穣三の従兄弟)が選挙地盤を斡旋。

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山下谷次銅像

これで、仲南小学校にある山下谷次像の「巡礼」は終了。次は、彼の生家を見に行きます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

琴平以南に電灯がついたのは百年前、誰が電気を供給したのか?

今から百年ほど前、第1次世界大戦は日本社会に「戦争景気」をもたらしました。工場ではモーターが動力として導入され、工場電化率は急速に高まります。そして家庭の電灯使用率も好景気を追風に伸びます。この追風を受けて、電力会社は電源の開発と送電網の拡大を積極的に進めます。その結果、電気事業はますます膨大な資本を必要とするようになります。第一次大戦前の大正6年頃までは産業投資額は、鉄道業・銀行業・電気事業の順でしたが,大戦後の大正14年には銀行業を追い抜いてトップに躍り出て、花形産業へ成長していきます。

 増田穣三に代わって景山甚右衛門が率いる四国水力電気は、

積極的な電源開発を進めます。吉野川沿いに水力発電所を建設しするだけでなく、徳島の他社の発電所を吸収合併し、高圧鉄塔網を建設し讃岐へと引いてくることに成功します。その結果、供給に必要な電力量を越える発電能力を持つようになります。余剰電力を背景に高松市などでは、料金値引合戦を展開して競合する高松電灯と激しく市場争いを演じるます。

しかし、目を農村部に向けると様相は変わっていました。

 四水は琴平より南への電柱の架設工事は行わなかったのです。
なぜでしょうか?
それは、設立時に認められていた営業エリアの関係です。
四水の前身である讃岐電灯が認可された営業エリアは、鉄道の沿線沿いで、東は高松、南は琴平まででした。そのため四水は、琴平より南での営業は行えなかったのです。そこで、四水から余剰電力を買い入れ、四水の営業認可外のエリアで電力事業を行おうとする人たちが郡部に現れます。四水も「余剰電力の活用」に困っていましたので、新設される郡部の電力会社に電力を売電供給する道を選びました。こうして、県下には中小の電気事業者が数多く生まれます。この時期に設立された電力会社を営業開始順に表にしてみると、次のようになります。
高松電気軌道 明治45年4月  高松市の一部、三木町の一部
東讃電気軌道 大正 元年9月 
大川電灯   大正 5年3月  大川郡の大内町・津田町・志度町・大川町
岡田電灯   大正 9年    飯山町・琴南町・綾上町
西讃電気   大正11年    多度津町と善通寺市の一部
飯野電灯   大正11年    丸亀市の南部
讃岐電気   大正12年    塩江町
塩入水力電気 大正12年4月  仲南町・財田町の一部
 この内、西讃電気、東讃電気軌道、高松電気軌道は自社の火力発電所をもっていましたがその他の電気事業者は発電所を持たない四国水力電気からの「買電」による営業でした。

 このような動きを当時県会議員を務めていた増田一良は、当然知っていたはずです。電灯の灯っていない琴平以南の十郷・七箇村と財田村に、電気を引くという彼の事業熱が沸いてきたはずです。相談するのは、従兄弟の増田穣三。穣三は当時は代議士を引退し、高松で生活しながらも、春日の家に時折は帰り「華道家元」として門下生達の指導を行っていたはずです。そんな穣三を兄のように慕う一良は、隣の分家に穣三の姿を見つけるとよく訪問しました。ふたりで浄瑠璃や尺八などを楽しむ一方、一良は穣三にいろいろなことを相談した。
 その中に、電気会社創業の話もでてきたはずです。穣三は、かつて四水の前身である讃岐電灯の社長も務め、景山甚右衛門とも旧知の関係でした。話は、とんとん拍子に進んだのではないでしょうか。

  仲南町誌には、この当たりの事情を次のように紹介しています。
大正10年 増田穣三、増田一良たち26名が発起人となり、大阪の電気工業社長藤川清三の協力を得て、塩入水力電気株式会社を設立。当初釜ケ渕に水力発電所を設設する予定で測量にかかった。しかし資金面効率面で難点が多く、やむなく四国水力電気株式会社から受電して、それを配電する方策に転換した。買田に事務所兼受電所を設置。七箇村、十郷村、財田村、河内村を配電区域として工事を進めた。
「資金面効率面で難点が多く、やむなく四国水力電気株式会社から受電して、それを配電する方策に転換」と書かれていますが、すでに四水からの「受電」方式を採用した電気会社がいくつか先行して営業を行っていました。「自前での水力発電所の建設を検討した」というのは、どうも疑問が残ります。
 また、「水力発電所」建設にかかる巨額費用を穣三は、「前讃岐電灯社長」としての経験から熟知していたはずです。当初から「受電」方式でいく事になっていたのではないでしょうか。にもかかわらず社名をあえて、「塩入水力電気株式会社」と名付けているところが「穣三・一良」のコンビらしいところです。

 1923(大正12)4月 七箇・十郷村にはじめて電燈が灯ります。

 設立された塩入水力電気株式会社は、資本金10万円で多度津に本店を置き、四国水力電気より電気を買い入れ、買田に配電所を設けて供給しました。家庭用の夜間電灯用として営業は夜だけです。営業エリアは、当初は七箇・十郷・財田・河内の4ケ村で、総電灯数は約1000燈(大正12年4月24日 香川新報)でした。
 旧仲南町の買田、宮田、追上、大口、後山、帆山、福良見、小池、春日の街道沿いに建てられた幹線電柱沿いの家庭のみへ通電でした。そして財田方面へ電線が架設され、四国新道沿いに財田を経て旧山本町河内まで、伸びていきます。供給ラインを示すと
 買田配電所 → 樅の木峠 → 黒川 → 戸川(ここまでは五㎜銅線)→ 雄子尾 → 久保ノ下 → 宮坂 → 本篠口 → 長野口 → 泉平 → 入樋 → 裏谷 → 河内(六㎜鉄線)へと本線が延びていました。 
これ以外の区域や幹線からの引き込み線が必要な家庭は、第2次追加工事で通電が開始されました。
そして、同年10月には1500灯に増加し、翌年(大正13年)3月末には、約2000燈とその契約数を順調に伸ばしていきます。
  春日の穣三の家は、里道改修で車馬が通行可能になった塩入街道沿いにあり、日本酒「春日正宗」醸造元でもありました。この店舗にも電線が引き込まれ、通電の夜には灯りが点ったことでしょう。電気会社の筆頭株主は増田一良であり、社長も務めました。穣三は点灯式を、どこで迎えたのでしょうか。華やかな通電式典に「前代議士」として出席していたのか、それとも春日の自宅で、電灯が点るのを待ったのでしょうか。
 かつて、助役時代に中讃地区へ電灯を点らせるために電力会社を設立し、有力者に株式購入を求めたこと、社長として営業開始に持ち込んだが利益が上がらず無配当状態が続いたこと、その会社が今では優良企業に成長していること等、穣三の胸にはいろいろな思いが浮かんできたことでしょう。
 あのときの苦労は無駄ではなかった、形はかわれどもこのような形で故郷に電気を灯すことになったと思ったかもしれません 

家庭に灯った電灯は、どんなものだったのでしょうか?

仲南町誌は次のように伝えます。 
ほとんどの家が電球1個(1ヵ月料金80銭)の契約だった。2燈以上の電燈を契約していたのは、学校、役場、駅などの公共建物や大きい商店、工場と、ごく一部の大邸宅だけであった。
 また、点燈時間は日没時から日の出までの夜間のみであった。一個の電燈で照明の需要をみたすために、コードを長くしてあちらこちらへ電球を引張り廻ったものである。婚礼や法事などで特に必要なとぎには、電気会社へ要請して、臨時燈をつけてもらった。二股ソケットで電灯を余分につけたり、10燭光契約で大きい電球をつけるなどの盗電をする者もたまにあったようで、盗電摘発のために年に何回か、不定期に不意うちの盗電検査が夜間突如として襲いきたものであった。
「盗電検査」があったというのがおもしろいです。

 ちなみに1925(大正14)年10月ごろに塩入電気が、四水から受電していた電力は60㌗アワーでした。最初は、電気は単に照明用として夜間だけ利用されていましたが、終戦後に使用の簡便なモーターが普及するようになります。財田缶詰会社などの要請で電気が昼夜とも配電されるようになったのは、戦後の1946(昭和21)年5月でした。この時同時に、塩入地区へも電気が導入されたようです。

 
縁あって郷土から出た戦前の衆議院議員との出会いがあった。
何の知識もない中で、銅像や碑文を訪ね、町誌を読み、関係者から話を聞く機会を頂いた。
その中から、おぼろげながらも次第に増田穣三の姿が見えてくるようになった。
法然堂の未生流師匠碑文の裏面のトップに増田穣三の名前を見つけた時は驚いた。
農村歌舞伎の太夫として浄瑠璃を詠い、玄人はだしでであった
塩入線誘致を行い「土讃線のルート決定」に大きな影響を与えたという従来の評価については調べれば調べるほど疑念がわいてきた。今までの増田穣三への評価を貶めることになるのではないか。これでいいのかという迷い。
いいのだ、まんのう町の讃岐山脈のふもとで幕末に生まれた男が、明治・大正と云う時代を郷里の課題に向き合いながらどう生きたのか、それをあるがままに記録することがまんのう町の未来への遺産となるのだと、そんな風に思い直し、行きつ戻りつしながら調べたものを書き並べた。
その「成果」がここにあげたものです。
この「出会い」をいただいたことに感謝

明治23年 七箇村議会開設と増田穣三

 増田穣三に関しての資料は少ない。日記や手紙・私信等は戦争末期の高松大空襲の際に居住していた家屋が焼け、ほとんど残っていない。写真類も少ない。いわゆる「根本資料」がない。そのため周辺部から埋めていき人物を浮かび上がらせるという手法をとらざるえない。そんな中で
「まんのう町役場仲南支所に古い議会録が残っており、その中に明治期の七箇村のものがある」
と教えられた。閲覧を申し出ると、閲覧以外に写真撮影の許可もいただくことができた。この「七箇村村会議事録」を資料として、村会設立当時のまんのう町の情勢や行政課題、それに当時の指導者がどう向き合ったのかを見ていきたい。資料は明治23年から明治34年まで、穣三が村長を務めたいた時期も含めての議事録が(1部欠けている年度もあるが)5冊にわたって綴じ込まれている。

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 議事録は明治23年4月7日に始まる。
この年は前年に大日本帝国憲法が施行され,地方行政においても町村制が実施され、各村々に村議会が開設されることになった年でもある。
 ちなみにこの年は、譲三の華道師匠園田如松斉の七回忌でもあり、その顕彰碑が建てられた年であることは述べた。村会議員に選ばれ、同時に未生流の師範の地位を固めた年でもあった。穣三33歳の時である。まんのう町の議会政治の幕開けと、その「議事事始め風景」を見てみよう。
明治23年4月7日 七箇村村会義のメンバー11人は?
  最初に11人の議員の番号と名前が議長により確認される。
議員番号1番の増田傳吾は、増田本家の当主で穣三の叔父に当たる人物で、村長決定までの仮の議長を務めている。8番の増田喜与三郎と記されているのが穣三である。彼は、30代半ばまではこの名前を使っており、後に穣三と改名する。7番の田岡泰は、増田穣三と同年生まれの幼なじみで、未生流華道の園田如松斉の下に共に通った仲でもある。ちなみに、この中には春日の増田一門につながる議員が3名含まれている。
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  最初に「村会運営細則」が議長の進行で1条ずつ審議され、挙手や起立や拍手による賛意表明ではなくひとりひとりを議長が指名し、賛否表明を求め賛成多数を確認後に決して行くという形で進められる。ちなみに成立した「運営細則」は次のような物であった。
第1条 会議の時間は午前10時に始まり、午後4時に終わる。ただし議長意見を以て伸縮することあるべし。
第2条 議員の席順はあらかじめ抽選にてこれを決めておく。
第3条 議場においては議員の姓名を呼ばず、その議員番号をもちうること。
第4条 議案は議員召集の際にあらかじめ伝えること。ただし場合により本条が適応できないこともある
第5条 議長は書記に提出議案等を朗読させる。
    (途中破損)     
第9条 議論饒舌になり無用の説と認められるときには、議長がこれを制すことが出来る。
第11条会議中は議員相互の私語することは禁止。                                                      (以下破損により読み取り不能)
第13条 議員病気又は事故で欠席する場合は、書面を提出すること。ただ、本条の届書は保証人として最寄りの議員の連名が必要である。
第14条 この細則に違反し、正当な理由なくして欠席又は遅刻する者は議論の上2円以下の過怠金を課することができる。
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村長と助役選挙の結果が知事に次のように報告されている。  

七箇村村長及び助役選挙のため4月7日、七箇村大字七箇において村会議を開き、議長に増田伝蔵、立会人に近石植次郎を選任し、村長選挙を実施した。
投票総数は12票
11点 田岡泰
1点  増田穣三
続いて助役投票を行った。開封の結果は次の通り
8点  矢野熊五郎
4点  増田穣三
以上の投票数の多数を比較し田岡泰を村長当選者、矢野龜五郎を助役当選者と決定した。投票終了後に再度投票用紙等を確認し、選挙事務を終了し閉会とした。選挙の結果を記録し議員の面前でこれを朗読後に、2名の議員によって確認しながら清書をした。
以上 署名押印 議長 増田伝吾 近石桂次郎
  増田穣三(当時は喜与三郎)が次点に挙げられている。

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しかし、村長に当選したのは幼なじみの田岡泰であった。

増田穣三の幼なじみの田岡泰について 知事への選挙結果報告書には、田岡泰の自筆履歴書が添えられている。これを見ながらその人となりを見ていこう。
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田岡 泰 七箇村初代村長                                            
安政5年(1858) 9月8日 ~ 大正15年(1926)10月10日  (64歳)
春日、田岡照治郎の長男。梅里と号し、明治元年から明治4年まで三野郡上麻村の森啓吾に従って漢学を学び、
明治5年から明治7年まで高松の黒木茂矩に皇漢学を学んだ。
明治8年から1 年間県立成章学校(後の香川師範学校)に入学して普通学を修め、
明治10年から1年間大阪の藤沢南岳に師事して儒学を修めて帰郷した。(20歳?)
明治12年七箇村黄葉学校の教員兼併区監視
明治13年高篠学校の教員を勤め、
明治18年~明治21年まで那珂、多度併合会議員に選ばれた。
明治22年3月には榎井村養蚕伝習所に入所して養蚕伝習受講。
 明治19年1月居村窮民為救助白米を施与したことにつき賞せられる。賞状は別途の通り
 罰 刑罰なし 以上の通り相違なし。
 香川県那珂郡七箇村大字七箇村 平民 田岡泰
この履歴書に加えて、仲南町誌には以下の内容が加えられている
明治23年4月1 日から明治31年まで七箇村の初代村長に選ばれた。
明治31年4月25日から明治32年3月7日まで県会議員、
明治32年9月30日から明治36年9月29日まで郡会議員を勤めた。この間、七箇村外三カ村連合村会議員にも選ばれた。
明治33年10月には、営業前の西讃電灯の臨時株主総会において、監査役に就任。村長在任中は地方行政に数多くの功績を残されたが、なかでも塩入新道の開通には特に力を入れて現在の県道丸亀三好線(県道4号線)の基をつくった。
後年、広島村長、吉原村長にも選ばれ、これらの功績により勲七等瑞宝章を賜り、晩年は丸亀で余生を楽しまれた。

春日のお寺の墓地で、田岡泰の墓を見つけた。

この墓に漢文で刻まれた碑文も村長就任時の履歴書がベースになっているようだ。この履歴書からは、興味深いことがいくつか分かる。
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まず生まれが安政5年9月であり、増田穣三より1ヶ月遅生まれの幼なじみになる。
同じ春日に、生まれた二人の生き方は、この後、互いに交わりながら人生の糸を紡いでいく。 
田岡泰の墓碑には、穣三の碑文にはなかった次のような教育歴が載せられている。
上麻村(高瀬町)の森啓吾(漢学) → 高松の黒木茂矩(皇漢学) → 香川師範学校(普通学) → 大阪の藤沢南岳(儒学)20歳で帰郷
  彼も幼年期には、馬背峠を越え佐文を抜けて上麻までの道のりを勉学のために通っていたことになる。続いて高松在住でまんのう町出身の黒木茂矩について皇漢学を学び、その上で師範教育を受けている。さらに、当時、数千人の門人を擁した大坂の泊園書院への遊学経験もある。20歳で帰郷後は、七箇村の教員を務め、さらに榎井村私立養蚕伝習所に入り、養蚕技術の指導をめざすなど、隣村財田村の大久保諶之丞を見習ったような経歴もある。
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田岡泰の墓碑

 地域にとっては、近代教育を受けた頼りになる若きリーダーとして地歩を固めていった。明治初年は高等教育が整備されておらず、農村の富裕層の師弟は、いち早く整備された師範学校に進んだ者が多い。卒業後、教員として地域に馴染み、その後に村の指導者に成長・転身していくというパターンである。田岡泰も、その典型と言えよう。
 明治23年大日本帝国憲法施行 → 国会開設 → 県・市町村地方議会の開設  という政治的な流れの中で、初めての村会議員選出が行われる。選出された議員の中に33歳の田岡泰と増田穣三がいる。そして、議員互選により初代七箇村長に選出されたのは、田岡泰であった。
なぜ初代村長は増田穣三でなく田岡泰だったのか。
 当時の増田穣三は「お花の先生」「浄瑠璃の太夫」「書道家」というに風流人としての「粋さ」を身につけた「増田家分家の若旦那」という印象を周囲からもたれていたのではないかと書いた。対して田岡泰は「師範学校出身の先生」「養蚕技術の導入者」として頼りになる村のリーダーというイメージがあったのではないか。行き過ぎた推論かもしれないが、こんな人物評が田岡泰を初代村長に推した背景ではないだろうか。 

 助役に就任するのが矢野龜五郎

 亀五郎は、増田穣三よりも20歳年上で、明治維新後の七箇・塩入村戸長となり、その後22年間村政の舵取り役を務めている。そして、次世代の若きリーダーとして田岡泰・増田穣三を育成し、明治23年に新役場が開かれると、田岡泰を村長に据えて自分は助役に就任。さらに4年後には、助役も退き増田穣三にバトンタッチ。次世代への引継ぎを円滑に行って勇退している。彼も春日出身である。春日の七箇村での優位性指導性と共に人脈の豊富さを感じさせる。春日の若きリーダーによって「村の明治維新」は、姿を整えられていく。
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   なお、亀五郎の養子である晃は、戦後に多度津国民学校校長依願退職後に、増田一良の後を受けて第10代七箇村村長に就いている。

参考文献 仲南町史
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浄瑠璃の義太夫としての増田穣三

 私が穣三が浄瑠璃が玄人はだしの腕前であることを知ったのは、明治37年に出版された「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という書物からである。この本は、当時の香川県の政治経済面で活躍中の50人あまりの人物を風刺を効かしながら紹介している。その中に穣三も取り上げられ
得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの」
と記されている。
 最初は、金比羅山の門前町として明治になって一層の賑わいを見せる琴平で、師匠について身につけた芸かと思ったがどうも違うようだ。
人形浄瑠璃という形で、阿波から伝わった新しい「文化伝播」を吸収した成果なのだ。どんな風にして若き日の譲三が浄瑠璃大夫の名手に成長していったのかを、人形浄瑠璃を通じての阿波とまんのう町の明治期の文化交流の中から見ていきたい。
 
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 明治期における阿波人形浄瑠璃のまんのう町での流行

  明治期になると文物の経済統制がなくなり、人と物が自由に動き出す。その恩恵を受け経済成長を遂げたもののひとつに阿波の藍産業がある。藍生産者や藍商人は資本を蓄積し、豪壮な館が林立する屋敷を建てるようになる。さらに、その経済力を背景に、数々の文化活動の支援者ともなる。藍の旦那衆が保護し、夢中になったのが人形浄瑠璃である。

 その一座が讃岐山脈を越えて、まんのう町で「公演活動」を行っていた記述が仲南町誌に残されている。「塩入の山戸神社大祭には、三好郡昼間の「上村芳太夫座」や「本家阿波源之蒸座」がやって来て、「鎌倉三代記」とか、「義経千本桜」などを上演した。」とある。
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人形一座は、三好郡昼間からやってきた。

昼間は、現在の東みよし町に属し、箸蔵寺の東側にあたり県道4号線(丸亀ー三好線)の徳島側の起点でもある。後に穣三は、七箇村長として、男山を経て東山峠を切り通して塩入までの車馬道を開通させることになる。それ以前は、この地区の人々の往来は徳島県側の各集落から樫の休場(二本杉越)を経て、塩入集落に到る峠越が阿讃往来の主要ルートであった。人形師の一座も人形や衣装などの道具類を荷物箱に入れ前後に振り分けて担いで塩入に入って来た。
 ひとつの人形の扱いには3人の人形遣いが必要となる。3体が同時に舞台に立つ演目だと、それだけで9人、さらに太夫や三味線が何人か加わると総勢は30人前後にもなったという。
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 塩入はその名の通り、阿波への塩の集積地であると同時に、

徳島からの借子牛の市が立つようになるなど明治になると急速に発展し、宿場町的な機能や形態をを持つようになった。
 明治期の国土地理院の地形図などを見ると宿場町化している様子が読み取れる。隣村の財田の戸川や琴南の美合なども明治期に宿場町化した地域である。阿波からの人と物が行き交い経済的なつながりや婚姻関係なども幾重にも結ばれ、阿波との関係が明治期に強くなった地域であった。これを背景に秋の大祭には、明治のいつの頃から昼間からの人形一座が招かれるようになるなど、峠を越えての阿讃の文化交流が深まっていった。
 三味線の響きと浄瑠璃の語りにあわせて人形が演じる劇を初めて見たときの塩入・七箇村の人々の驚きと喜びは、いかばかりであったろう。幼い増田穣三や一良も、人形浄瑠璃がやって来るのを楽しみにしていただろう。祭りの後は、誰彼となく太夫の浄瑠璃を口ずさむようになる。そして、塩入や春日を中心に浄瑠璃が流行し、自分たちで芝居をやりたいという気運にまで高まる。しかし、人形浄瑠璃をやるには人形頭も衣装も人形遣いの技量もない。そこで、人間が演じる「農村歌舞伎・寄芝居」という形で上演するようになっていく。
 素人が集まって農閑期に稽古をして、衣裳などは借りてきて、祭の晩や秋の取入れの終わった頃に上演する。そして見物人からの「花」(祝儀)をもらって費用にあてる。
  
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塩入の山戸神社拝殿 人形浄瑠璃の舞台として使用

明治中期 七箇村で広がる農村歌舞伎

 仲南町誌には、農村歌舞伎について次のような記述が載せられている。 
明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
 明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一 ・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目の近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。 (仲南町誌617P)

 この資料からは明治中頃以後、春日を中心に農村歌舞伎の練習が農閑期に行われ、各地で上演され好評であったことが紹介されている。この中に「ひとわたり習熟した後は、増田穣三・たちの浄瑠璃に合わせて」という部分から穣三が太夫を演じていたことが分かる。
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  増田本家のふすまに張られた一良使用の浄瑠璃床本

人形浄瑠璃の太夫とは、どんな役割なのだろうか。

   徳島の阿波人形浄瑠璃十郎兵衛屋敷を訪ねて、学芸員の方にたずねた。それによると、太夫は義太夫節で物語を語り、登場人物の言葉、動作、心情などを表現する。見台(けんだい)に乗せた床本(ゆかほん)という台本を読んでいく。ただ読むのではなく、人形の所作に合わせて太夫自身が声や顔の表情、身振り手振りまで交えて、全身で人形に魂を吹き込んでいく。声の高さや調子を変えて、男役、女役も演じ分ける。太夫の語りは、芝居全体の雰囲気を演出する重要な役目を担うことになる。以前は、太夫が一座の責任者を務めていたという。役者は人形で、人形遣いは表には出ないので、太夫は一座のスターでもあり、キーパーソンでもあったようだ。
さらに、こんなことも教えてくれた。
「浄瑠璃を詠っている藍屋敷の旦那は、祭りの時には人形一座を呼んで、村の神社の境内に小屋掛けさせ上演させることが多かったようです。その時に「太夫は俺にやらせろ」と、一番おいしい所を自分が語ることもあったようです。つまり、お金を払ってでも太夫をやりたいと思う人は多く、まさにみんなの憧れでもあったようです。」
さらに三味線弾きとの関係については、次のように教えてくれた。
「三味線弾きの方が師匠で、師匠が弾きながら弟子が語るという練習が一般的です。いまでも浄瑠璃の発表会では、師匠の三味線弾きの方が何人もの弟子さんの伴奏を行う姿が見られます。また、三味線弾きは遠くからプロの方を呼んで上演することもあったようです。」
 
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穣三も太夫を演じるためは稽古をつけてもらいに、師匠の下に通ったと思われるがそれがどこかは分からない。しかし、人や物の流れから推察すれば、それは峠を越えた向こう側の阿波のどこかではなかったのか。
 峠越えを当時の人たちは苦にしていない。東山峠の向こう側の男山の人たちは、琴平程度なら日帰りで帰っていたと云うし、後に増田一良も土讃線誘致運動の一環として、春日から東山峠を抜けて池田まで行き財田経由で琴平まで1日で帰っている。穣三も未生流の師匠として徳島側に出向き、その折りに浄瑠璃を教わっていたということも考えられる。心理的にも峠の向こうの阿波側は、今よりも遙かに近い存在であった。
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  こうして20代後半の穣三は、「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造」するハンサムな風貌の上に、「未生流師範」「浄瑠璃太夫」「呉服商」「酒造業」「増田家分家の若旦那」という地位や素養に風流人としての「粋さ」も身につけ、周囲からも1 目置かれる存在に成長していった。

やってきたのは塩入駅  立っているのが増田穣三像

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いまは無人駅となり乗降客もめっきり少なくなった塩入駅。
その駅前の広場の東の隅の方にぽっつりと立っている銅像。
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近づいてよく眺めてみる。
なで肩の和服姿に、左手に扇子を持ち駅の方を向いている。
 私の第1印象は、「威張っていない。威厳を感じさせない。
政治家らしくない像」で「田舎の品のあるおじいちゃん」の風情。
政治家としてよりも、華道の師匠さんとしての姿を表しているように感じる。彼は若い頃は呉服屋の若旦那ででもあったようで着物姿が似合っている。ちなみにこの像は穣三の生前80歳の時に作られたもの。増田穣三の意図を感じる。
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 増田穣三に関する資料や写真は、あまり残っていない。
 県議時代から春日の本宅を留守にして、高松で暮らすことが多かったようだ。穣三の死後は、増田家は高松に移っていたが高松空襲で消失し家財一切を失ったという。
下は県会議録等の数少ない「政治家としての増田穣三」の写真である。 
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「香川新報」は、県会議長を務めていた彼の風貌を次のように紹介している。 

「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いてその地位を表彰す」
躰は小さいが、躰の釣り合いバランスはよく、ハンサムで動きはメリハリがあり、優雅な印象を与える。鼻の下の髭と、薄い髪がそれを補う。
  写真からもその雰囲気が伝わっている。
なぜ、政治家としての壮年期の姿を銅像にしなかったのか。
代議士引退後の姿を銅像としたのは、どうしてだろうか。
この銅像を見ながら疑問が膨らんできた。

台座碑文は、次のような文で閉じられている
翁今年80にして康健壮者の如く 猶花道を嗜みて日々風雅を提唱す。郷党の有志百謀って 翁の寿像を造り 以て不朽の功労に酬いんとす。余翁と姻戚の間に在り遂に不文を顧み字其行状を綴ると云爾 
     昭和12年5月  東京 梅園良正 撰書
ここから分かることは生前80歳の時に建立計画が建てられたこと。それを進めたのは、当時の七箇村長でもあり県会議員でもあった増田一良で、増田本家の当主であり、穣三の従兄弟にもあたる人物である。
 揮毫したのは宮内庁の書記官で、書道関係の出版物も多く、明治の著名人の碑文を数多く残している当時著名な書道家であった松園良正である。「余翁と姻戚の間に在る関係」から増田一良から揮毫を依頼されたようだ。
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 戦後に再建された像(原鋳造にて:三豊市山本町辻)

再建されていた2つの銅像

 この銅像の台座碑文を調べていて、山下谷次の銅像と共通点があることに気づいた。年表を見ていただきたい。
1934 昭和9年9月 増田一良 第6代七箇村長就任(~昭和13年7月まで)
1936  昭和11年6月8日 山下谷次死亡
1937 昭和12年増田穣三の銅像建立(七箇村役場前)→ S18年銅像供出 
1938 昭和13年9月山下谷次の銅像建立(村会の決議で)→S18年銅像供出
1939 昭和14年2月22日 増田穣三 高松で死去(82歳)七箇村村葬により葬られた。
1952 昭和27年6月5日  山下谷次像が17回忌に旧大口小学校に再建 
1963 昭和38年3月 増田穣三像が場所を変えて塩入駅前に再建
         ?          山下谷次像が旧仲南中学校正門上に移築

 昭和9年 増田一良が七箇村長になると銅像の「生前建立計画」が進められ、それに刺激されるかのように隣村の旧十郷村でも山下谷次像の建立が行われている。しかし、それも5年後に戦時中の「金属供出」により二つ共に姿を消すことになる。
 谷次の銅像は戦後の昭和27年、17回忌に元の位置に再建された。それから十年近く遅れて、増田穣三像も再建されたが建てられたのは塩入駅前に移された。その際に、台座は以前のものを使って再建されている。
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S38年に三豊市山本町辻の原鋳造所で再建された増田穣三像。
その前に立つ穣三の長男増田収平氏の写真が残っている。

 一方、山下谷次像は仲南中学の新設後に現在地に移築された。
両銅像ともに、戦中を挟んで一度は姿を消した過去があるようだ。

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増田穣三像の台座碑文に刻まれた略歴は?(仲南町誌1319P掲載分より) 

 塩入駅前の増田穣三像の台座碑文は、三面にわたりびっしりと刻まれている。しかし、建立から80年経ち摩耗部分もあり読み取りにくい。苦労していると「仲南町史に全文が載っとるで」と教えてくれる先達がいた。仲南町史を開いてみると確かにあった。
長くなるが全文を紹介したい。(現代文に意訳)
安政元年(1858 8月15日)生 昭和14年(1939年2月22日)没
七箇村春日の生まれで、増田伝二郎の長男。秋峰と号す。
安政5年8月15日に讃岐琴平の東南に位置する七箇村に生れた。伝次郎長広の長男で母は、近石氏。初め喜代太郎と称していたが30歳を過ぎて穣三と改名した。秋峰洗耳は譲三の号である。
幼い時から理解が早く賢く、才知がすぐれていて判断や行動もすばやかった。日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に就いて和漢の学を修め、また如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の奥義を究め遂にその流派「如松斉流」の家元を継承し多くの門下生を育てた。明治23年に、開設された村会議員となり、明治31年には2代村長に推され、琴平・榎井・神野・七箇の一町三村道路改修組合長として、道路建設等の郷土の開発に力を尽くした。明治33年には、香川県会議員に挙げられ以後、当選三回に及んだ。その間に県参事会員や副議長・議長等の要職に就き、その職務を全うした。
明治35年には、郷村小学校敷地を買収して校舎を築き、さらに児童教育の根源を定めるとともに、同村基本財産となる山村三百余町歩を購入して、山林活用と副産物の生産を図った。明治45年には、衆議院議員に初当選し、大正4年には再選し、国事に尽くした。大正11年1月には大礼参列の光栄を賜った。これより先には四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走し、土讃線のルート決定に大きな功績を残した。譲三氏は、用意周到で考え抜かれた計画案を持って事に当たるので、企画した物事が円滑に進むことが多く、多くの人々の衆望を集めていた。 

碑文から分かる経歴のポイントを押さえておこう。

 安政元年(1858 8月15日)生ということは、明治維新を10歳前後で迎えた世代ということになる。昭和14年(1939年)82歳で没ということは、太平洋戦争開戦前には亡くなっている。生まれはまんのう町(旧七箇村)春日。
明治23年 村会議員と為り(33歳)
  31年 村長に推され又(41歳)
  33年 香川県会議員に挙げられ(43歳)
    参事会員 副議長 議長等に進展して能く其職務を全うす 
  45年 衆議院議員に挙げられ(55歳)
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政治家としては30歳代で村会 






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浄瑠璃の義太夫としての増田穣三

 私が穣三が浄瑠璃が玄人はだしの腕前であることを知ったのは、明治37年に出版された「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という書物からである。この本は、当時の香川県の政治経済面で活躍中の50人あまりの人物を風刺を効かしながら紹介している。その中に穣三も取り上げられ「得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの」と記されている。
 最初は、金比羅山の門前町として明治になって一層の賑わいを見せる琴平で、師匠について身につけた芸かと思ったがどうも違うようだ。次第に、阿波からの影響ではないかと考えるようになった。それは人形浄瑠璃という形で、阿波からの新しい「文化伝播」を吸収した成果なのではないかと思うようになったからだ。どんな風にして若き日の譲三が浄瑠璃大夫の名手に成長していったのかを、人形浄瑠璃を通じての阿波とまんのう町の明治期の文化交流の中に見ていきたい。
  

明治期における阿波人形浄瑠璃のまんのう町での流行

 明治期になると文物の経済統制がなくなり、人と物が自由に動き出す。その恩恵を受け経済成長を遂げたもののひとつに阿波の藍産業がある。藍生産者や藍商人は資本を蓄積し、豪壮な館が林立する屋敷を建てるようになる。さらに、その経済力を背景に、数々の文化活動の支援者ともなる。藍の旦那衆が保護し、夢中になったのが人形浄瑠璃である。



 その一座が讃岐山脈を越えて、まんのう町で「公演活動」を行っていた記述が仲南町誌に残されている。「塩入の山戸神社大祭には、三好郡昼間の「上村芳太夫座」や「本家阿波源之蒸座」がやって来て、「鎌倉三代記」とか、「義経千本桜」などを上演した。」とある。
 人形一座は、三好郡昼間からやってきた。昼間は、現在の東みよし町に属し、箸蔵寺の東側にあたり県道4号線(丸亀ー三好線)の徳島側の起点でもある。後に穣三は、七箇村長として、男山を経て東山峠を切り通して塩入までの車馬道を開通させることになる。それ以前は、この地区の人々の往来は徳島県側の各集落から樫の休場(二本杉越)を経て、塩入集落に到る峠越が阿讃往来の主要ルートであった。人形師の一座も人形や衣装などの道具類を荷物箱に入れ前後に振り分けて担いで塩入に入って来た。
 ひとつの人形の扱いには3人の人形遣いが必要となる。3体が同時に舞台に立つ演目だと、それだけで9人、さらに太夫や三味線が何人か加わると総勢は30人前後にもなったという。
 塩入はその名の通り、阿波への塩の集積地であると同時に、徳島からの借子牛の市が立つようになるなど明治になると急速に発展し、宿場町的な機能や形態をを持つようになった。
 明治期の国土地理院の地形図などを見ると宿場町化している様子が読み取れる。隣村の財田の戸川や琴南の美合なども明治期に宿場町化した地域である。阿波からの人と物が行き交い経済的なつながりや婚姻関係なども幾重にも結ばれ、阿波との関係が明治期に強くなった地域であった。
 秋の大祭には、明治のいつの頃から昼間からの人形一座が招かれるようになるなど、峠を越えての阿讃の文化交流が深まっていった。三味線の響きと浄瑠璃の語りにあわせて人形が演じる劇を初めて見たときの塩入・七箇村の人々の驚きと喜びは、いかばかりであったろう。それまでは天領「金比羅さん」の金丸座で演じられる歌舞伎は遙か遠くのものであった。それが自分の村の神社の境内で見ることが出る。この驚きと喜びは、いかばかりであったろう。幼い増田穣三や一良も、人形浄瑠璃がやって来るのを楽しみにしただろう。祭りの終わった後は、誰彼となく太夫の浄瑠璃を口ずさむようになる。塩入や春日を中心に浄瑠璃が流行し、自分たちで芝居をやりたいという気運にまで高まっていく。しかし、人形浄瑠璃をやるにも人形頭も衣装も人形遣いの技量もない。そこで、人形でなく人間が演じる「農村歌舞伎・寄芝居」という形で上演するようになっていく。
 素人が集まって農閑期に稽古をして、台詞はしゃべらずに浄瑠璃の大夫に併せて演じる。衣裳などは借りてきて、祭の晩や秋の取入れの終わった頃に上演する。そして見物人からの「花」(祝儀)をもらって費用にあてる。
  明治中期 阿讃の麓に広がる農村歌舞伎
 仲南町誌には、農村歌舞伎について次のような記述が載せられている。
 明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間に増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
 明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一 ・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目の近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。 (仲南町誌617P)
 
 この資料からは明治中頃以後、春日を中心に農村歌舞伎の練習が農閑期に行われ、各地で上演され好評であったことが紹介されている。この中に「ひとわたり習熟した後は、増田穣三・たちの浄瑠璃に合わせて」という部分から穣三が太夫を演じていたことが分かる。
  人形浄瑠璃の太夫とは、どんな役割なのだろうか。
   徳島の阿波人形浄瑠璃十郎兵衛屋敷を訪ねて、学芸員の方にたずねた。それによると、太夫は義太夫節で物語を語り、登場人物の言葉、動作、心情などを表現する。見台(けんだい)に乗せた床本(ゆかほん)という台本を読んでいく。ただ読むのではなく、人形の所作に合わせて太夫自身が声や顔の表情、身振り手振りまで交えて、全身で人形に魂を吹き込んでいく。声の高さや調子を変えて、男役、女役も演じ分ける。太夫の語りは、芝居全体の雰囲気を演出する重要な役目を担うことになる。以前は、太夫が一座の責任者を務めていたという。役者は人形で、人形遣いは表には出ないので、太夫は一座のスターでもあり、キーパーソンでもあったようだ。さらに、こんなことも教えてくれた。
「浄瑠璃を詠っている藍屋敷の旦那は、祭りの時には人形一座を呼んで、村の神社の境内に小屋掛けさせ上演させることが多かったようです。その時に「太夫は俺にやらせろ」と、一番おいしい所を自分が語ることもあったようです。つまり、お金を払ってでも太夫をやりたいと思う人は多く、まさにみんなの憧れでもあったようです。」
  さらに三味線弾きとの関係については、次のように教えてくれた。
「三味線弾きの方が師匠で、師匠が弾きながら弟子が語るという練習が一般的です。いまでも浄瑠璃の発表会では、師匠の三味線弾きの方が何人もの弟子さんの伴奏を行う姿が見られます。また、三味線弾きは遠くからプロの方を呼んで上演することもあったようです。」

 穣三も太夫を演じるためは稽古をつけてもらいに、師匠の下に通ったと思われるがそれがどこかは分からない。しかし、人や物の流れから推察すれば、それは峠を越えた向こう側の阿波のどこかではなかったのか。峠越えを当時の人たちは苦にしていない。東山峠の向こう側の男山の人たちは、琴平程度なら日帰りで帰っていたと云うし、後に増田一良も土讃線誘致運動の一環として、春日から東山峠を抜けて池田まで行き財田経由で琴平まで1日で帰っている。穣三も未生流の師匠として徳島側に出向き、その折りに浄瑠璃を教わっていたということも考えられる。心理的にも峠の向こうの阿波側は、今よりも遙かに近い存在であった。 

  こうして20代後半の穣三は、「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造」するハンサムな風貌の上に、「未生流師範」「浄瑠璃太夫」「呉服商」「酒造業」「増田家分家の若旦那」という地位や素養に風流人としての「粋さ」も身につけ、周囲からも一目置かれる存在に成長していった。

まんのう町出身のもうひとりの国会議員 山下谷次
まんのう町からは戦前に、二人の国会議員が出ている。そして、それぞれの銅像が残されている。最初にやってきたのは仲南小学校。体育館から登校する生徒達を見守るように正門付近に立っている。

これが、山下谷次像

彼は、まんのう町帆山出身で「実業教育の魁け」として、東京で実業学校の開設に幾つも関わり、代議士となってからは実業学校の法整備等に貢献した人物だ。 若き日の谷次は勉学を志すが経済的に恵まれず、同郷出身者を訪ね、勉学の熱意を訴え支援を仰ぐがかなわず、貧困の中にあった。
これを援助したのが財田出身の大久保彦三郎である。
 彦三郎は当時、京都に尽誠舎を創設したばかりであったが、そこへの入学を認めると共に、舎内への寄宿を許した。そして、谷次に学力が充分備わっているのを確かめると、半年で卒業させ、さらに大抜擢し学舎の幹事兼講師として採用している。ちなみに彦三郎は「四国新道」を開いた大久保諶之丞の実弟になる。
彦三郎の支援を受けて京都で実力を蓄えた後、上京し苦労しながら栄達への道を歩み始めていく。
そして、妻の実家のある千葉県から衆議員に出馬するが落選。
その後、増田穣三引退後の郷里香川県から再出馬し当選する。
その際には、衆議院議員を引いた増田穣三や、その従兄弟で増田本家の総領で県会議員でもあった増田一良の支援があったのではないかと思われる。地元では当選の経緯から「増田穣三の後継者」と目されていたようである。

山下谷次の像は、登下校の児童を見守るおじいさんのような風情で絵になっている。
  

  参考資料 福崎信行「わが国実業教育の魁 山下谷次伝」

まんのう町佐文に伝わる如松流華道
 増田穣三が宮田の西光寺(法然堂)の住職園田氏実(法号波法橋、流号如松斉)から華道を学び、若くしてその継承者になったことは前述した。代議士を引退した後の穣三は「家元」として「活花指導に専念した」と伝えられている。どんな活動が行われていたのだろうか、そしてその後の流派は、どうなっているのだろうか。今も譲三が家元であった「如松流」を掲げる華道の流れが佐文にあると聞いて訪ねてみた。
琴平方面から観音寺方面に国道377号を2㎞ほど行くと国重要民俗文化財「綾子踊りの里」として知られる佐文盆地が広がる。
 旧土佐伊予街道が金比羅さんに向けて、その中央を通っている。その旧街道沿いにある尾﨑家の玄関には、3代にわたる華道師範の「看板」が掲げられている。これを見て、最初に私が気づいたのは「未生流」ではなく嵯峨流とともに「如松流」という流派を名乗っていることだ。如松とはもちろん法然堂の住職であった如松斉のことである。つまり、未生流から独立し新たに如松斉がおこした「新流派」を継承しているのだ。
一番左が尾﨑傳次(号清甫)のものである。
彼は明治3年3月29日生まれで、増田穣三よりも13歳年下になる。傳次が生まれた翌年明治4年に如松斉は法然堂を出て、生間の庵に隠居して華道に専念する。その庵に多くの者が通い如松斉から未生流の流れをくむ華道を学んだ。
 幕藩体制の身分制度社会の下では、いろいろな事が禁令として定められていた。例えば丸亀藩では、百姓が家に花や木を植え育てることも
「百姓が米作りに専念することに差し障りがある」
と禁止していた。明治を迎え、花を育てることも活花を楽しむこともできる世の中がやってきた。時代の新しい流れ「新流行」が、ここでは活花であったのかもしれない。
如松斉から手ほどきを受けた高弟の中に、佐文の法照寺5代住職三好霊順がいる。
如松斉の顕彰碑裏面の発起人一覧の中に増田穣三、田岡泰に続いて3番目に彼の名前は刻まれている。霊順は、如松斉から学んだ立華を、自分の寺のある佐文の地で住民達に広げていった。 
 その際に今の私たちの感覚と違うのは、華道を学びに来たのが男達であったことだ。農作業等が終えた男達が寺に集まり、自分たちが集めてきた花や木を花材に花を生けた。「華道」のために男達が集まり、そこから新たな文化が芽生えていく様子が垣間見える。丹波からやって来た如松斉の華道は、こうしてこの地の人たちに受けいれられていった。
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 尾﨑傳治も若いときから法照寺に通い霊順から手ほどきを受けた。
そして、入門免許を明治24年12月に21歳で得ている。その際の入門免許状には「秋峰」つまり増田穣三の名と印が押されている。
 この前年には、如松斉の七回忌に宮田の法然堂境内に慰霊碑が建てられている。この免状からは、穣三が未生流から独立し「如松流」の第2代家元として活動していたことが分かる。

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尾﨑傳次は、その後も熱心に如松流の華道の習得に努めた。

そして、増田穣三が代議士を引退後には直接に様々な教えを学んだ。
 尾﨑家には、傳次が残した手書きの「立華覚書き」が残されている。その中には、師である増田穣三の活けた作品を写生したものも含まれているかもしれない。
 孫に当たる尾﨑クミさんの話によると、祖父傳次が座敷に閉じこもり半紙を広げ何枚も立華の写生を行っていた姿が記憶にあるという。
 また、如松流の創始者である如松斉が住職を務めた「法然堂の市」の際には、門下生がその成果を発表する華道展が毎年開かれていた。そこには増田穣三の門下生達の作品が多く展示された。
 その準備等を取り仕切ったのが尾﨑傳次ではなかったのか。そして次第に、譲三の信頼を得て門下生の中でも「高弟」に当たる地位と役割を果たしていくようになる。
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尾﨑傳次(清甫)
 傳次はその後も精進を続け、大正九(1920)年には、華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任する。
一方、大正15年3月に師範免許(59歳)を、続いて昭和6年7月に准目代(64歳)、最後に昭和12年6月には会頭指南役の免状を、「家元如松斉秋峰」(穣三)から授かっている。
昭和12年というと増田穣三の最晩年にあたり、翌年には銅像が建立される時期である。
「如松斉流」の第3代家元を、譲三は誰に譲ろうとしていたのかも気に掛かるところである。
 傳次は戦中の昭和18年8月9日に73歳で亡くなる。
その前年2月に、長男である沢太(号湖山)に未生流師範を授けられている。沢太は小さい頃から父傳次より如松流の手ほどきを受けていたというから、代替わりという意味合いもあったのかもしれない。
 その後、沢太は戦後の昭和24年9月には荘厳華教匠、昭和25年10月には嵯峨流師範と未生流以外の免状を得て、昭和27年には香川司所評議員、33年には地方幹事に就任し、未生流のみならず香川の華道界のために尽力した。
 戦後、農村では食糧増産のために熱気ある時代が訪れ、青年団や婦人会活動などの「新農村文化活動」が芽生えてくる。そんな中で、再び男達が花を活けることを楽しみ出す。自分の花器をしつらえ山から切り出してきた木や庭から摘んできた花を活ける。その輪の中の中心で指導を行ったのが尾﨑沢太であった。沢太は青年団に招かれ若い青年達に活花の手ほどきを行ったという。

 考えてみれば、幕末に丹波からやって来た法然堂の住職がもたらした未生流華道の流れが、増田穣三を経て、尾﨑家に伝わり、佐文の地に広がり、今も受け継がれている。「如松流」の看板が掲げられていると言うことは、様々な意味があることに改めて考えさせれた。

        

県会議員時代の 増田穣三について

 明治37年に「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という本が出版されている。
当時の香川県の政治経済面で活躍中の人物を1人2Pで風刺を効かして紹介したものである。その中に増田穣三も次の肩書きで紹介されている。これを見ながら、増田穣三の県会時代を垣間見てみよう。

讃岐電気会社社長 県参事会員 増田穣三先生 イメージ 1

躰幹短小なるも能く四肢5体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いて讃岐電気会社社長たる地位を表彰す、増田穣三先生も亦好適の職に任じられたるもの哉。
 村長としての先生は夙に象麓の柳桜を折り、得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの、出でて県会議員となり参事会員の要地を占めるや、固より以て玉三の金藤治の如く、堀川の弁慶の如き硬直侃鍔の理屈を吐かざるも、萬事万端圭角を去て圓満を尊び、能く周旋調定の労を執りて敢て厭う所なきは八百屋の献立の太郎兵衛に肖、また7段目の平右衛門に類するなきが、而かも先生義気の横溢する、
 知友堀家虎造先生の参謀長を以て自ら任じ、当に作戦計画の上に於いて能く推握の効を収むるのみならず、時に或は兵器弾薬の鋳造運搬をさへ司るに到る、事茲に及びて侠名豈獨り幡随院長兵衛の占有物ならんや。義気将に畠山庄司重忠の手に奪ふを得べし。
 入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや必
 先生の議場にあるや寡黙にして多く語らず、而して隠然西讃の旗頭を以て居る、何処かに良いところ無くては叶わず、先生夫れ不言実行の人か、伝説す頃者玉藻城下に於いて頻りに其美音を発揚するの機会を得と、真ならんか羨望に堪えざる也。妄言多謝

 まずは増田穣三の風貌が「躰幹短小」「秀麗の面貌」「鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪」と簡略にが描写されており興味深い。
 「得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの」は、若い頃に徳島からやってくる人形浄瑠璃に魅せられて興味を持ち、玄人はだしの腕前であったと伝えられる。また、華道(未生流)も若くして免許皆伝の腕前であった。風流人としての「粋さ」が伝わってくる。

  県会議員としては「萬事万端圭角を去て圓満を尊び、能く周旋調定の労を執りて敢て厭う所なし」というのが増田穣三の流儀のようである。
 しかし、議会内の活動状態については「先生の議場にあるや寡黙にして多く語らず、而して隠然西讃の旗頭を以て居る、何処かに良いところ無くては叶わず、先生夫れ不言実行の人か」と紹介している。また、「香川新報」も「県会議員評判録」で「議場外では如才ない人で多芸多能。だが、議場では、沈黙しがちな議員のなかでも1、2を争っている」と、議場における寡黙さを強調する言動が記されている。
 県会での政治的立場としては「知友堀家虎造先生の参謀長を以て自ら任じ、作戦計画の上に於いて能く推握の効を収むるのみならず、時に或は兵器弾薬の鋳造運搬をさへ司るに到る」と裏工作には積極的に動いたようだ。同期初当選である丸亀出身の白川友一議員とともに堀家虎造代議士の下で、様々な議会工作に関わったことがうかがえる。
 例えば、明治36年11月に政友会香川支部から多くの議員達が脱会し、香川倶楽部を結成に動いた「政変」の際にも、堀家虎造代議士の指導下に実働部隊として動いたのは増田穣三や白川友一 ではなかったのか。この「論功行賞」として、翌年の県会議長や堀家虎造引退後の衆議院議員ポストが射程範囲に入ってくるではないか。
この本が出版された翌年M38年11月 穣三は県会議長に選任された。 
穣三が議長に選出された11月1日の第7回通常県会の模様を香川県会史は、次のように記している。
 山田利平太(綾歌郡)は議長に増田穣三(仲多度)を指名し、全員が異議なく了承。議長に推薦された増田穣三が「諸君のご推薦にあずかり議長の職を汚します。補佐あらんことを希望します」とあいさつをした。その後、副議長選出については議会の承認のもと、増田穣三議長が佐野新平(大川)を指名。また、名誉職参事会員も同様に6名を指名       香川県会史(990P)

 そして次のような議題が新議長の下で審議された。
1 小野田元煕知事の議案説明
2 粟島海員学校・丸亀女学校・高松商業等4校の県立移管問題 財政上延期かどうか
3 女学校の寄宿舎建設延期
4 職員の給与増額
5 韓国への漁業者移住促進

議員としては「口数が最も少ない議員 議場外での裏工作が得意」と表された穣三であるが、議長としての議会運営ぶりはどうだったのだろうか。次のような資料が残っている。
 中学校寄宿舎の建築問題をめぐって、建設積極派と建設消極派が協議を重ねた。

この時、膠着した事態を打開するために、増田穣三議長自らあっせんに乗り出して、異なる二つの意見の調整に努めた。その結果、建設を進める方向で話かまとまり、長年、結論が出なかったこの問題は、一気に議決へと向かった。実直かつ寡黙な議長であり、議員から「1つ1つの審議に時間がかかりすぎる。もう少し手際よく進めてほしい」との要望が出るほど、丁寧な議事進行を心がけた。 
 丁寧な議会運営に心がけ、対立点を見極めた上で妥協案を示すソフトな対応ぶりがここからはうかがえる。

 順風満帆な議員生活とは半面、「電気痛の痛苦」が穣三に襲いかかってくる。
当時、彼が関わっていた当時の新産業「電灯会社」誕生までの苦難と、彼の経営者ぶりを見ていくことにしよう。

  増田穣三の同期代議士 三土忠造と白川友一について

 日露戦争後の1907年(M40)は、増田穣三にとって大きな岐路に立たされた年であった。まず、前年1月に5年間務めた讃岐電気株式会社(旧西讃電灯株式会社)の社長職を辞している。(実質的には更迭?)
 続いて、3月には七箇村村長を退任。そして、翌年9月の第3回県会議員選挙に、現職議長でありながら出馬せず8年間にわたる県会議員時代にピリオドを打つ。村長・県会議員・社長という公職を全て辞してどこへ向かおうとするのか。譲三49歳である。

 その後、5年後の1912年(明治45・大正1年)5月)に行われた第11回衆議院議員選挙出馬までの足取りをたどる資料が見つからない。何をしていたのか分からないのだ。ミッシングリングである。今後の課題としたい。

 電力会社経営の失敗を背負って「傷心の日々」だったのか?
 いや、未生流華道の家元として中讃から、阿讃の山を越えて三好方面へ出稽古に出向き、浄瑠璃をうなる日々を送っていたのかもしれない。これで、政治家生命も絶たれて「引退」と思いきや、もう一度出番が訪れる。
1912年 三土忠造・白川友一と共に衆議院議員に初当選。
   当時の香川の選挙区は、高松・丸亀の両市を除く郡部は、大選挙区制であった。この時、政友会から初当選したのが三土忠造・白川友一・増田穣三の3人であった。
この内、三土忠造は、伊藤博文の眼鏡にかなって、
併合前の韓国政府の学政参与官となり、教科書の編纂、学校制度の制定等に手腕を発揮していた。その能力を買われて伊藤の勧めで総選挙出馬のために職を辞し帰国し政友会の候補として、郷里香川県から打って出た。
 三土を支援したのが多度津の景山甚右衛門である。景山は、これを機に衆議院議員を「卒業」し、地盤を三土に譲って全面的支援を行った。三土は「洋行帰りのニューフェイス」であり、「伊藤公の目にとまって朝鮮で働いてきたサラブレッド」というので評判が良く二位で当選している。この後、三土は当選を重ね政友会の重鎮に成長、重要な大臣ポストを歴任していくことになる。
 ちなみに、三位当選したのが増田穣三。丸亀市区から当選したのが白川友一であった。
まんのう町造田出身の衆議院議員 白川友一について
白川友一

 白川友一は1873年(M6)6月11日、まんのう町(旧琴南町)造田出身で父安達小平太、母カノの四男として生まれた。譲三よりも15再年下になる。友一が生まれたときに父小平太は讃岐における明治期最大の民衆蜂起である「西讃血税一揆」の指導者の嫌疑をかけられ入獄中で家計困難な状態にあった。そのため友一は「進学」を条件に養子に出て白川姓を名乗ることになる。立身出世のための勉学への道を諦めずに歩み通し、朝鮮での投資活動に成功し銀行家として地盤を固めていた。
 譲三と共に県会議員に初当選したのが明治32年(1899年)
二人は「同期生」として政友会に属し、堀家虎造代議士を支えていく。そして12年後の明治45年には、そろって衆議院議員に初当選する。譲三の「政治パートナー」して、歩むことになる白川友一について年表で見ておこう。
873年(M6)6月11日、(旧琴南町)造田で生まれる。
1885年12歳で小学校修了。
     成績優秀のため卒業後同校で1年間教鞭をとる。
1886年13歳の時、富豪で質屋を営む横山初太郎の養子となる。
     しかし、京都遊学の願いがかなえられず離縁。
1888年15歳で陸軍の予備校だった成城学校幼年科に入る。
     幼年科・青年科を修了。何回も士官学校の入学試験を
受けたが、身体検査で不合格となる。
1892年父母に連れ戻され、仲多度郡南村(丸亀市杵原町)の白川家の養 子となり、雪泳と結婚。
21歳で南村の収入役、
24歳で七九銀行の支店長となり、次いで高松讃岐銀行専務取締役となる。
1899年26歳で県会議員に選出され8年間活動する。
 日清戦争後の朝鮮半島を県会議員として視察し「有望な市場」であることを認識。朝鮮における運輸、土木、建設の設請負業などさまざまな事業経営に乗りだし、日露戦争後には、中国東北部(満州)にも拡大し、土木建設会社を経営し成功を得る。
丸亀ー下津井間の「金比羅参拝ルート」の賑わい保持を目的に下津井鉄道会社設立時に筆頭株主(500株)として、初代社長に就任
その後も、丸亀市、下津井港との連絡船設備の整備充実などを進めた。
1911年(M45)5月の第11回選挙で衆議院議員に、増田穣三とともに初当選
 当選の年に「軽便鉄道助成法助成法」が成立するが、この成立の中心的な役割を果たしたのが、「衆議院一年生」の白川友一である。「下電社長」という立場から全国の中小の鉄道会社の要求をまとめたもので、この法案成立の結果、全国に続々と生まれつつあった軽便鉄道に政府助成が下りるようになった。この他「軽便鉄道」のみならず運輸・交通を中心に彼が「業界団体の利益代表」として行った衆議院での質疑・要求内容が資料として国会図書館に残っており、政治家として数々の業績を見ることが出来る。
白川友一
下電下津井駅(跡)の白川友一像
  これに対して譲三の国会での痕跡は、ほとんど残っていない。
彼の国会での質問等について国会図書館に資料検索してもらったが出てこない。国会においても県会と同じくで「寡黙な議員」であったようだ。

大浦事件と白川友一

 しかし、ここから白川友一や増田穣三にとって、舞台が暗転する。
それは、第一次世界大戦が始まる1914年に起こる。昭和の「ロッキード事件」と同じように、独での収賄事件調査が飛び火して、シーメンス社による日本の政府高官への収賄事件が明るみになる。この収賄事件を背景に、野党政友会による内閣への攻勢が勢いづく。これに対して大浦兼武内務大臣は、衆議院選挙において大規模な選挙干渉で応じる。丸亀市の選挙区では、内閣に協力的であった白川友一の依頼を受けて、対立候補である加治寿衛吉候補に対し、圧力をかけ立候補を断念させる工作を行う。これが、選挙後に国会に告発される。
 さらに、前年の「2ケ師団増設」問題でも、大浦内相から当時は野党政友会に属していた白川友一や増田穣三を通じて、政友会内の議員に対して与党案に賛成するように工作。つまり、野党政友会の分断工作のために、内務大臣より買収資金が流れたことが判明する。その政友会の切り崩し舞台の中心となったのが白川友一であり、盟友の増田穣三も深く関わる。
 関係議員が逮捕拘束され、白川友一は翌年には議員を失職し、政治声明は断たれた。
明治37年香川新報発行
「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」の中の白川友一の紹介
「年壮にして気鋭覇気」で「技量、其の精神力は旺盛で、その根気強さは讃岐人においては稀に見る人物」と持ち上げ「営利と名声」の「二兎を追う」ゆえに心を悩まされるのではないか。あなたは「花より団子」で名誉は捨てて、営利追求に絞っては、いかがと揶揄されている。
 大浦事件を契機に政界から「追放」された彼は、この「助言」通り「一兎」を追う者へ姿を変えていく。

大浦事件後の白川友一 「一兎を追う」ものへ転身
 この後、彼は3度全国版の一面に登場する。
1921(大正10).3.20 東京日日新聞には
「セ軍の五百万円は日本金貨となる。朝鮮銀行が買い取って造幣局で鋳造」
という大見出しで、ロシア革命の際に反革命側のセミヨノフ将軍が持ち出した金塊横取事件に関わる黒幕として登場。
また1922.10.7(大正11)  大阪朝日新聞では
「武器問題 知らぬ存ぜぬ一点張 問題の白川友一氏語る」
「ゆゆしき失態を演じた武器売渡事件」

の見出しで、日本軍の保管武器が軍閥張作霖軍に売り払われた事件の黒幕として追求を受けている。
さらに、1930.12.1(昭和5)  大阪時事新報では、
「阪神地方を中心に未曾有の薬品大密輸」
「飛行便を利用して疾風迅雷の大活動
首魁乾某風を喰って高飛び 事件伏木にも波及」
との見出しで、大連市内を拠点に国禁ベンモル(モルヒネ)の密輸事件で、
「本事件の一方の旗頭と目されるのは、往年大浦事件に絡って議員買収の張本人となった香川県選出元代議士某氏(特に名を秘す)で峻烈なる検挙の手が延びたのを知ると同時に、到底逃れ能わざるを覚悟して、罪の裁きをうくべく已に自首して出た」と、
その経過が大きく紙面を割いて紹介されている。この記事の中の「香川県選出元代議士某氏(特に名を秘す)」は、白川友一である。
後の裁判では懲役1年6月が求刑されている。
  以上 3記事共に「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫より」

 大浦事件後に白川友一が「大陸浪人」として「雄飛・暗躍」していた姿が紙面から垣間見える。まさに「名声」を追うことを求めず、「花より団子」「営利一番」に切り替わった姿をみる思いがする。
 ただ、彼は1926年(大正15年)に、坂出と琴平を結ぶ「琴平急行電鉄」申請が出されると会社設立のための支援を積極的に行い、資金提供等の協力を惜しまなかったという。郷土香川の鉄道発展への志は、持ち続けていた。
さて、大浦事件の後の増田穣三は、どうしていたのであろうか。

参考資料
 青木栄一 「下津井鉄道の成立とその性格」
  「讃岐人物風景17」 四国新聞 昭和62年刊行
下津井電鉄「下電50年の歩み」 
      所収 「白川友一自叙伝記」「白川友一事業概略」
     「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」 明治37年
       「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫」

   土讃線開通と増田穣三
「土讃線ルート」の決定には、増田穣三が大きな政治力を発揮したとされている。
その一例として次の新聞記事を見てみよう  
 「四国の群像69 増田穣三 土讃線ルートに政治的手腕」
              (朝日新聞1981年7月19日)
ドドーン、ドン」空に花火がこだまし、芸者の手踊りや花相撲が繰り広げられ、夜のちょうちん行列に琴平の町は三日間にわたる祝賀行事でにぎわった。香川県内の土讃線琴平-讃岐町田間の起工式があった大正9(1920)年4月1日のことだ。当時土讃線のルート決定に際し、以下の3案を巡り激しい陳情合戦が展開された。
1 高松から清水越えで徳島県脇町ー池田に至るルート。
2 西讃の観音寺ー池田間。
3 中間の琴平ー池田の現路線
それぞれの関係町村は地元選出国会議員を先頭に徳島県側の町村と連携し、鉄道院・国会へあの手この手の猛運動を続けた。それが現在の路線に決まった裏に。仲南町出身の増田穣三の政治的手腕が大きく影響した。
 中略  
増田穣三は、香川県議になって住居を高松市に移し、第十三代県議会議長を務める。次いで衆院議員へと、舞台が大きくなるにつれ、策士ぶりを発揮した。土讃線のルート決定に先立つ明治32,3年ごろ、徳島ー池田間の軽便鉄道敷設権を、徳島県出身の内務大臣らが取得した。これが実現すれぱ、香川県からの土讃線ルートも大きな影響を受けた。そこで、善通寺にあった旧陸軍十一師団の乃木希典師団長に「徳島ー池田軽便鉄道敷設に異議を唱えて欲しい」と申し入れた。
 土讃線が琴平ー池田ルートに決まった理由の一つに善通寺第十一師団と金刀比羅の存在が挙げられる。それだけに、軍部の意向をくんだ増田穣三の政治判断がルート決定に大きな影響を与えた。
 と、当時の路線決定の経緯を紹介した上で「現路線に決まった裏に、増田穣三の政治的手腕が大きく影響」と評価している。

 この記事の下敷きになっているのが従兄弟の増田一良(いちろ)によって語られた回顧談である。

 増田一良は、譲三の15歳年下の従兄弟になる。
二人は旧仲南町春日出身で、一良が増田家本家、穣三はその分家の跡継ぎの関係だ。一良は譲三の後ろ姿を追いかけるように、七箇村村会議員を経て村長・県会議員へと進み、地域の発展に貢献した。さらに譲三が師範であった未生流の活花や浄瑠璃の弟子でもあり、ふたりのつながりは、地縁・血縁的なもの以上に深いものがあった。
 その増田一良が、晩年に増田穣三について語った回顧談が仲南町史に収められている。土讃線誘致に関する部分を見てみよう。  

「塩入駅名の弁」(仲南町史1008P)で、増田一良は次のように述べている

土讃鉄道の建設については激烈なる競争運動あり。当時の記憶をたどり述べんと思う。
此の鉄道には3線の候補ありて、東讃方面は高松から清水峠を経て徳島県脇町に出て西、池田に至る線、仲讃としては多度津琴平間既成鉄道あるを以て琴平町を起点とて塩入越を経て池田町に至る線、又、西讃に於ては観音寺町より曼陀越を経て池田町に至る線にして、何れも帝国議会及鉄道院に請願陳情、国会議員間も亦、百方手を尽したるものにして東讃は高松選出田中定吉代議士を基とし、東讃選出代議士外有志、中讃にありては仲多度郡選出増田穣三代議士を首とし綾歌郡選出大林森次郎代議士及丸亀市選出加治寿衛吉代議士外有志、西讃に於ては三豊郡選出松田三徳代議士を首として、元代議士高橋松斉氏、観吉寺町長西山影氏外有志等、特に松田氏の如き所属政党を脱し鉄道院総裁後勝新平伯の傘下に走るなど、激烈な誘致合戦の末に、現路線に決定した。
 この回顧談にはいくつかの疑問点が出てくる。それを洗い出してみよう。

 第一に「土讃線」誘致合戦が行われた時期はいつなのか

1889 明治22年5月 讃岐鉄道琴平~多度津開通 
1890 高松・阿波脇町間の鉄道建設計画で実地調査の結果、
   脇町線建設は困難との調査報告が柴原知事より提出(讃岐日報) 
1893 鉄道院が線路調査に際して、高松-箸蔵間は猪鼻線として計上
1912 第11回衆議院議員選挙執行.増田穣三初当選 
1914 徳島線が延長し池田まで開通し、阿波池田駅設置。
12月二個師団増設案成立のために大浦内相が政友会議員に買収工作実施
1915 3月 第12回衆議院議員総選挙で大浦内相による選挙干渉激化
    白川友一・増田穣三共に当選後に大浦事件に関わり逮捕・拘束
    9月 第9回県会議員選挙実施 増田一良 次点で落選   
1916 1月 白川友一衆議院議員の当選無効確定し補充選挙実施
1917 12月 塩入線鉄道期成同盟会をつくり貴衆両院へ請願書提出
 塩入線の速成を貴衆両院へ請願書提出することとなり塩入線鉄道期成同盟会をつくり会長に堀家嘉道副会長に沢原頁岩を選定した。(町史)
1919 3月 琴平-土佐山田間が鉄道敷設法第一期線に編入=路線決定
   9月 県会議員選挙で増田一良初当選
1920 1月 実測開始、豊永を境とし、土讃北線は多度津建設事務所担当
  4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)

この年表からは
1917年に塩入線鉄道期成同盟会設立、
1919年には路線決定、
1920年工事開始という動きが分かる。すると誘致合戦が行われたのは1917年前後から本格的に動き始めたようだ。  

 まず路線決定を行う鉄道省の思惑を見ていきたい。

 鉄道省は琴平起点の土讃線ルート(財田猪ノ鼻線)を早い時期から本命と考えていた。その背景には、
第1に、1889年に鉄道が琴平まで延びていること。
第2に、第11師団が善通寺に置かれていること。
第3に、池田ー財田間がもっとも山間部が短く、かつトンネルの長さも短くてすむこと
第4に、四国新道沿いであり工事にも利便性が高いこと
など、外のルートにくらべて優位性が高く早い段階からこのルートを「既定路線」として考えていたようだ。それを裏付ける記述がまんのう町周辺の町誌にいくつか見いだせる。
例えば財田町誌には、琴平まで鉄道が開通した段階で「四国新道」沿いに池田に通じる「猪ノ鼻ルート」建設が当然とされており、そのための誘致運動を行った記録はない。増田穣三や一良が行ったという塩入ルートに関しては「そのような誘致運動があったことは、仲南町誌を見て知った」と記されている。
 また三好町誌や池田町誌にも1914年に開通した徳島線が、池田で土讃線と結ばれることは当然と考えられていたことが記されている。三好側が七箇村塩入と箸蔵を結ぶ塩入ルート建設運動を働きかけた見当たらない。

 仲多度に設立されたという「塩入線鉄道期成同盟会」も、

「塩入線」と名付けた運動団体の存在を示す当時の新聞記事や資料などから私は見つけ出すことが出来ない。その名前があるのは仲南町誌のみである。鉄道促進運動を担った仲多度地区の議員達は「猪ノ鼻ルート」を念頭に置いて運動を行っていたように見える。誘致運動で「塩入ルート」を考えていたのはごく一部だったのではないか。 

最後に、誘致運動が佳境であった1917年前後の増田穣三の置かれていた政治的な状況を見ておこう。

譲三は、前々年に衆議院議員総選挙後の大浦事件に関わり白川友一等と共に逮捕・拘束されている。白川友一は議員を失職。その後、穣三は不起訴には終わったが同僚の政友会の議員を政府資金を用いて買収を行ったという事実は残った。政友会の同僚議員の目は冷たかった。このような中で表立った政治活動を行うことは難しく「政治的謹慎状態」が続いていた。そして、次期総選挙には出馬せずに政界からの引退という道を選ぶことになる。このような中で「塩入線誘致運動」の先頭に立って旗振りを行う状況にはなかったと思われる。
 つまり「塩入線誘致合戦」に増田穣三が積極的に動ける状態ではなかった。一良も1915年の県議会初挑戦では落選しており、誘致運動が展開された時期には県議会議員ではない。
 以上のような背景を考慮に入れると「塩入線鉄道期成同盟会」→ 増田一良 → 増田穣三 を通じて誘致運動が増田穣三を中心に推し進められたという状況は考えにくい。  

増田穣三が乃木希典に土讃線建設について要望陳情を行ったという話について

  乃木希典は1889年(明治32)年に善通寺第11師団長に就任。一方、増田穣三は3月に県会議員に初当選し、4月に七箇村長にも就任している。穣三は七箇村村長として、設置が決まったばかりの善通寺第十一師団の練兵場建設に「援助隊」募り派遣した。その助力に対して師団より村長宛の感謝状をもらっている。各施設の建設が進む中で、師団長として陸軍中将乃木希典が任地に善通寺に赴任する。この時期、穣三は県議会の副議長や参事議員を務めており、公的な行事で乃木師団長と出会うこともあり顔見知りとなっていたことは考えられる。
 土讃線に関する陳情が行われたとすればこの時期であるが、前述したようにこれは土讃線誘致運動の時期よりも十数年早い段階のことである。土讃線誘致にからんで乃木希典に陳情を行ったということないようである。しかも、陳情を行ったのは土讃線のことではなく、徳島線に関することである。   
増田一良が回顧している徳島ー池田軽便鉄道敷設権について見ておきたい。
此時最も難問題として起たのは徳島県出身の元内務大臣、芳川顕正伯の主唱によって徳島、池田間に軽便鉄道敷設権が認可されたことだ。これ実現すれば香川県よりの三線ともその影が薄くなり大いなる影響を及ぼすことが考えられる。そのためこれを打破する事が最も重要となった。しかし貴衆両院通過成立したものを取消す事は勅命によるか参謀本部の異議による外道なく窮余の考として堀家、三谷、松浦、増田等共に第十一師団を訪つれ参謀長に面談協力を求めた。しかし、乃木閣下は軍人が政治に容喙するは良くないとの信念を待ち、「吾々は何共申上兼ぬるか資格を離れ個人としては高知との短距離の結び付は固より望む所である」との事にて期待した回答を得ることは出来なかった。また、これも増田代議士へ報告せり。
 其後伝聞する所によれば乃木中将上京となり参謀本部の抗議によりたる者か徳島池田間軽便鉄道は実現を見す沙汰止となれり。
  一良の回顧談の「此時最も難問題として起た・・・」の部分は「塩入線誘致運動」に続けて載せられている。最後の部分が「また、これも増田代議士へ報告せり。」で終わっているために塩入線誘致の際のことと誤解されやすいが、これは乃木師団長在任中のことであり、誘致運動佳境の十数年前のエピソードである。
 しかも、内容は徳島線の軽便鉄道敷設権認可に関わることである。その後、徳島線は1914年に池田まで開通しており、土讃線の路線決定に影響を及ぼす要因とはなっていない。あるとすれば池田で土讃線と結ばれるというのが鉄道院の既定路線であったということである。
 長々と述べてきたが以上から推察すると、「増田穣三が土讃線のルート決定に大きな政治力を発揮した」「塩入線誘致運動を進めた」ということを裏付ける史料は、穣三の従兄弟の増田一良が「仲南町誌」作成の際に語ったことに基づくものに限られるようだ。「塩入ルート」が、路線検討の対象となったかどうかは、今後の検討課題としたい。  

  一良は自分の回顧を次のように閉めている

欺の如くして獲得したるものにして塩入と云う名の広く知れ渡りたる関係上、福良見、小池、春日の三部落を隔たて一里以上離れたる十郷村帆山に設置されたる駅の名を塩入と名づけたるは増田穣三の銅像を駅構内に設置と共に意義を得たるものにして適当なる所置と信す。
 尚ほ塩入線の決定に附ては第十一師団の軍事上の観点と金毘羅宮の所在地琴平町を起点とする所に潜在の大なる力のありたる事を認むべきと思ふ茲に其経過関係の概要を述べて参考に資す。                     増田一良回顧談 昭和四十年六月

 増田穣三の従兄弟・増田一良について  

 増田穣三と深く関わる人物として挙げたい人物がもうひとりいる。増田一良(いちろ)である。
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一良は譲三より14歳年下で、増田家の本家と分家で隣同士という地縁血縁的に非常に近い関係になる。一良は、譲三の後ろ姿を見ながら育ち、成長につれて「兄と弟」のような強い絆で結ばれていく。
 例えば、若き時代の二人が熱中したものに浄瑠璃がある。当時、塩入の山戸神社大祭には阿波から人形浄瑠璃がやって来て、「鎌倉三代記」とか、「義経千本桜」などを上演していた。阿波は人形浄瑠璃が盛んで、塩入には三好郡昼間の「上村芳太夫座」と「本家阿波源之蒸座」がやって来ていた。
 その影響を受けて、春日を中心に浄瑠璃が「寄せ芝居」として流行していく。素人が集まって、農閑期に稽古をして、衣裳などは借りてきて、祭の晩や秋の取入れの終わった頃に上演する。そして見物人からの「花」(祝儀)をもらって費用にあてる。ちなみに大正15年ごろの花代は、50銭程度だったという。この寄せ芝居で若き時代の譲三や一良は、浄瑠璃を詠って好評を博していた。県会議員時代には、この時の「成果」が酒の席などでは披露され「玄人はだし」と評されている。
 仲南町誌には、次のような記述が載せられている。
明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
 明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。
 その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。                                                              (仲南町誌617P)
  若き時代の二人が浄瑠璃を共に詠い、村の人々共に演じ、娯楽を提供していた姿が伝わってくる。これ以外にも、未生流の活花や書道も一良は、譲三を師としている。

 その一良に大きな影響を与えた師が大久保彦三郎である。

 大久保彦三郎は、安政6年(1859年)生で、増田穣三より1歳年下になる。讃岐国三野郡財田上村戸川に富農階層の次男として生まれた。現在の尽誠学園の創設者でもある。兄は「四国新道」を作った大久保諶之丞になる。
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まず大久保彦三郎が歩んだ「学びの道」をたどってみたい。
 明治初年期は、尋常小学校が整備されていない。そのため江戸時代と同じように寺小屋で読み書きを学んだ後、富裕層クラスの師弟は周辺の知識人の塾の門を叩く。この辺りは、増田穣三が琴平の日柳三舟のもとに通ったのと同じだ。
 大久保彦三郎は、十郷村山脇の香川甚平の塾まで歩いて通った。
香川甚平は、藩政改革に大きな実績を上げて著名になっていた備中の儒者山田方谷の徳業を称えていたという。さらに、明治9年(1876)9月からは、高松の黒本茂矩の下で漢学及び国学を学ぶ。黒本茂矩は、古野村(現まんのう町)大宮神社の社家に生れ、明治2年33歳で高松藩校講道館皇学寮教授になり、田村神社の禰宜をしながら高松で私塾を開いていた。 明治初期の讃岐における著名人である。ちなみに増田穣三と幼なじみで初代七箇村長を務めた田岡泰も、ここの門下生であった。田岡泰は、この時期に整備されていく師範学校に進んだが、彦三郎は、儒学・国学・仏教方面をより深く学ぶため京都へ上り、さらに東京で終生の師三島中洲出会い漢学等を修める。しかし、学半ばにして病にかかり保養のため郷里財田村に帰郷する。当時、兄の諶之丞は戸長として、財田村のために尽力していた最中だ。その姿を見ながら彼はかたわら塾を開く。 
 病が一服した明治17(1884)年3月1日には、正式に「忠誠塾」を開設する。
設立目的を述べた「教旨」によると、「国家有用の真士」を作ることであり、そのための手段は主として「儒教・漢学を通じての忠誠心涵養」に求めるとある。対象は小学校を卒業上級志向者で、中学校の代用学校の役割をもったものであったようだ。 
開塾されたばかりの「忠誠舎」の門を、叩いたのが増田一良である。
 彦三郎25歳、一良11歳の師弟の出会いとなる。
忠誠舎は、漢文だけではなく、新聞体、西洋訳書、新著書その他「有益書」を選択して教えたり、体操、詩歌吟舞、学術演説、討論等も教授する新しいタイプの教育機関を目指した。
 明治20年には彦三郎は「忠誠塾」の発展を願い、拠点を京都に移し「尽誠舎」と改名する。忠誠塾の一期生である一良も、これを追いかけて京都に上り、尽誠舎に入学する。師である彦三郎を慕い仰ぐ気持ちが伝わってくる。こうして、一良は忠誠塾の一期生、尽誠舎でも第一期生としての誇りを持つと同時に、大久保彦三郎の薫陶を深く受ける。母校に対する愛情は深く、終生変わらぬものがあったようだ。
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尽誠の同窓会にて 中央に座るのが増田一良 
 一良に遅れて2年後(M22年)に入学してくるのが山下谷次である。
 山下谷次は、まんのう町帆山出身で、後に「実業教育の魁」として衆議院議員に当選し活躍する。この時期、彼は同郷出身者を訪ね、勉学の熱意を訴え支援を仰いだがかなわず、貧困の中にあった。谷次を援助したのが彦三郎である。彦三郎は、尽誠舎への入学を認めると共に、舎内への寄宿を許した。そして、谷次に学力が充分備わっているのを確かめると、半年で卒業させ、さらに大抜擢し学舎の幹事兼講師として採用している。 
この時期は、一良の京都遊学時代と重なるようである。
ふたりは京都尽誠舎で、「師弟の関係」にあった可能性がある。
後に谷次は、香川選挙区から衆議院議員に立候補し当選する。
その原動力の一つに、現職の県会議員増田一良や、元衆議院議員の増田穣三など「増田家」に連なる人々の支援があったのではないだろうか。       参考資料 福崎信行「わが国実業教育の魁 山下谷次伝」
 
 尽誠舎卒業後の一良の足取りは、上京し駒場農林学校に進学するまではたどれるが、そこから先が今のところ分からない。資料がそろっていないのだ。今後の課題としたい。 

一良の政治家としてのスタート

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一良は明治35年に29歳で七筒村会議員に当選する。これが政治家としてのスタートになる。当時、七箇村長は増田穣三である。譲三は県会副議長も兼務しており、明治34年からは多度津に設立されていた「讃岐電気株式会社」の社長も務めていた。そのため多忙で高松に家を借り、春日の本宅を空けることが多くなっていた。そのような中で、譲三が帰宅すると一良は隣の譲三宅を訪ね、いろいろな情報のやりとりを行う一方、二人で浄瑠璃や活花を楽しむ姿がよく見られたという。
 譲三が衆議院議員になり上京することが多くなると、その「国家老」的役割を果たしていたのは一良であったと思われる。例えば、土讃線誘致合戦の一コマについて一良は、次のような回顧を行っている。 
1917(大正6年) 12月に「塩入線鉄道期成同盟会」をつくり貴衆両院へ請願書提出した。仲多度多度郡に於ては郡会議員を実業会員として発足し、徳島県関係方面との連絡を取る必要ありとして会長堀家嘉造、副会長三谷九八、松浦英治、重田熊次郎、増田一良(本人)と出発の際、加治寿衛吉氏加わり一行六名塩入越を為し徳島県昼間村に至り村長に面談。共に足代村長を訪い相携えて箸蔵寺に至る。住職大いに悦び昼食の饗応を受け小憩、此の寺を辞し吉野川を渡り、池田町に至り嶋田町長と会談を為し、徳島県諸氏と別れ猪の鼻峠を越え琴平町に帰着、夕食を共にし別れる。
 此の旨、在京増田代議士に之通告す。
  土讃線の琴平ー池田ルート誘致のために徳島への誘致工作を、郡議会議員が行った際のことである。わずか一日で、塩入から東山峠を越え昼間ー箸蔵寺ー池田と訪問し、夕方には琴平に帰っている。百年前の人たちの健脚ぶりに驚かされる。
 同時に「此の旨、在京、増田(譲三)代議士に之通告する」とし、頻繁な連絡が取られていたことが推察される。
 また情報を分析して有利と思われる新規事業には二人で共に投資を度々行っている。その幾つかをあげてみると
1903(M36)年 八重山銀行設立(黒川橋東詰)社長に一郎就任。
1911年 讃岐電気軌道株式会社のが設立発起人に、増田一良・増田穣三・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前がる。
1921年 七箇・十郷村に初めて電力を供給した塩入水力電気株式会設立社設立も、一良・譲三が中心となって行っている。 
このようにふたりは、政治的にも経済的にも緊密な関係を維持しつつ諸事に対応していたことが窺える。

村議から県会議員、そして村長へ

一良は明治35年(1902)に29歳で七筒村会議員となり、翌年には、仲多度郡会議員も兼務する。しかし、村長職には年上の従兄弟増田正一が就任しており、一良が村長に就くのはずっと後になる。
 そのためか、譲三が衆議院議員に転出した後の県議会への出馬の機会を伺う。最初の挑戦は、大正4年9月であった。この時は、5月の衆議院選挙で増田穣三が再選されるも、その直後に大浦事件が発覚し、譲三が刑事訴追されるという逆境の中での選挙となり、結果は次点であった。
 2回目は、4年後の大正8年(1919)9月である。この時は「譲三の後継者」と、土讃線誘致運動の中心人物としての実績を前面に出し、初当選を果たす。

 一良は、雅号を春峰と称し、琴古流尺八は悟竹と号して、譲三と共に浄瑠璃は玄人の域に達していた。「春と秋」の二人で浄瑠璃を楽しむ姿が、譲三の晩年にもよく見られたという。
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春日の一良の家の客間には「老木の木」と題された文書と写真が掲げられている。

昭和39年一良が91歳の時に書き残したものである。
全文を紹介する。 
 老木の木       昭和39年6月増田一良撰
吾が邸内の北隅に数百年を経たると思われる榎木の老木あり。周囲2丈余。其根東西に張り出すこと四間余。緑濃く繁茂空を掩い樹勢旺盛にして其枝広く四方に延び、特に北方の枝先地に垂れ、吾幼少の頃、枝先より登り遊びたることあり。
 6年前その枝が倒れ折れ垣塀二間を破壊し、裏の畑地に横たわる。その木にて基盤3面を取り、余りは木を挽いて板と為す。其後南方に出たる枝折れ、続いて北の方、東の方の枝も折れ、西向の枝のみ生残り居りしが。昭和38年風も無きに東方の折れ株が朽ち落ちると間もなく生き残りの西方の枝(周囲1丈一寸)の付け根より6丈ほどの處にて西北と西南とに分岐し居りしが大音響と共に付け根の處より裂け折れ、西南の枝は向こうの部屋の屋根の棟木と母屋を折り枝先向庭の地に付き、西方の枝は垣塀の屋根を壊し藪際の畑地にその枝先を付け茲に長く家の目標となりし老木も遂に其終わりとなる。
付記
  往年増田穣三氏若かりし時、呉服商を営み居りしを以てわが妹の婚衣買い求め為、呉服仕込みの京都行に同行。帰途穣三氏が曾て師事したる大阪の日柳三船先生訪問にも同行。三船先生は元那珂郡榎井村の出身にして維新の際勤王家として素名を知られたる日柳燕石先生の男にして大阪府参事官をつとめ大阪に住せり。種々談を重ねるうち先生曾て吾家に来りしことあり。巨木榎に及び其時古翠軒という家の号を書き与えらる。今吾居室に掲げある大きな額が夫れである。
 一良は戦後、村長職を退いた後も春日の地に留まり、晩年は県下最年長者として悠々自適の老後を送り104歳の長寿を全うした。

 
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前川知事が県下最長寿者・増田一良を訪問

 増田一良の年譜

1858 安政5年    増田譲三と田岡泰が七箇村春日に生る。
1873 明治6年  7月22日 増田一良(いちろ)生  
1884 明治17年3月 大久保彦三郎により財田上ノ村に開設されたばかりの忠誠塾入塾。
1887 明治20年大久保彦三郎が京都に開設した尽誠舎入学     
   その後、駒場農林学校に進学。(卒業後の経歴が不明)
1890 明治23年6月 七箇村役場(旧東小学校)開庁
1897 明治30年 春日地区で、増田穣三等の浄瑠璃に合わせて寄せ芝居を上演披露し好評。
1899 明治32年3月 第5回県会議員 増田穣三が初当選(41歳)
        4月 増田穣三第二代七箇村長に就任(41歳)
1902 明治35年3月 増田一良(29歳)が七筒村会議員となる。
           以後20年間村議を務める。
1903 明治36年9月 増田一良、仲多度郡会議員に当選。
           以後大正8年まで連続四期当選
1903 明治36年 黒川橋の東に八重山銀行設立。社長に増田一郎就任。副社長:大西豊照(帆山)ほか七名の重役格と業務執行者森川直太郎によって営業
1906 明治39年3月 増田穣三 七箇村村長退任 
          9月 第3回県会議員選挙に増田穣三出馬せず
1911 明治44年9月 讃岐電気軌道株式会社が設立。
    発起人に、仲多度郡の増田一良・増田穣三・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前あり。
                3月 増田正一が七箇村村議に選出され、助役に就任。
1912 明治45年5月 第11回衆議院議員選挙で増田穣三初当選。
1914 大正3年 7月 七箇村長に増田正一就任(譲三・一良の従兄弟)
1915 大正4年 3月衆議院議員総選挙で白川友一と共に増田穣三再選。
   5月 白川友一代議員と大浦内相が収賄で高松高裁へ告訴され「大浦事件」へ
   9月 第9回県会議員選挙に増田一良初出馬するも428票で次点。1917 大正6年12月 塩入線鉄道速成会総会で土讃線の速成を貴衆両院へ請願書提出。
1919 大正8年 9月 県会議員選挙で増田一良初当選(46歳)
1920 大正9年 4月 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)
1921 大正10年 増田一良 穣三らと共に塩入水力電気株式会社設立。
1923 大正12年5月 土讃線琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1924 大正13年5月 山下谷次 香川選挙区より衆議院議員初当選
1926 大正15年   七箇村会議員選挙実施 増田一良は2位当選
1934 昭和9年 9月 増田一良 第6代七箇村長就任
1935 昭和10年11月 土讃線全面開通(三縄~豊永間が開業)
1937 昭和12年増田一良村長の呼びかけで生前に増田穣三の銅像建立
1938 昭和13年   山下谷次の銅像建立(十郷村会の決議で大口に)
1939 昭和14年2月 増田穣三 高松で死去(82) 七箇村村葬。
1943 昭和18年2月 増田一良が第9代目村長に再度就任。
1963 昭和38年3月 増田穣三の銅像が塩入駅前に再建される。
1977 昭和52年9月12日 増田一良104歳で永眠。


1907年(M40)、増田穣三は大きな岐路に立たされた。
まず、前年1月に讃岐電気株式会社(旧西讃電灯株式会社)の社長職を辞している。(実質的には更迭?)。続いて、3月には七箇村村長を退任。最初私は、「県会議長に、専念できる体制を作るため?」と推測した。しかし、どうもそうではないらしい。
 翌年9月の第3回県会議員選挙に、現職議長でありながら出馬せず。8年間にわたる県議会議員時代にピリオドを打つことになる。村長・県議会議員・社長という職を辞して、どこへ向かおうとしたのか。 譲三49歳である。政界からの引退? 

 その後、5年後に第11回衆議院議員選挙出馬(明治45・大正1年)までの増田穣三の足取りをたどる資料が手元にない。代議士へのステップアップのための準備期間になるのだろうか。
 ミッシングリングである。今後の課題としたい。
三土忠造・白川友一と共に衆議院議員に初当選。
   当時の香川の選挙区は、高松・丸亀の両市を除く郡部は、大選挙区制。この選挙で、三土忠造・白川友一・増田穣三の3人が政友会から出馬する。
 この内、三土忠造は、伊藤博文の眼鏡にかなって、韓国政府の学政参与官となり、教科書の編纂、学校制度の制定等に手腕を発揮していた。が、伊藤の勧めもあって総選挙出馬のために職を辞し帰国。三土氏は政友会の候補として、郷里香川県から打って出た。
三土忠造 - Wikipedia
 三土忠造
三土を支援したのが「多度津の七福神」の統帥景山甚右衛門である。
景山は、地盤を三土に譲って全面的支援を行った。衆議院を「卒業」の意味もあったようである。三土は「洋行帰りのニューフェイス」として、また
「伊藤公の目にとまって朝鮮で働いてきたサラブレッド」
という評判で、二位当選している。この後、三土は当選を重ね、政友会の重鎮に成長、重要な大臣ポストを歴任していく。
高橋是清内閣(たかはしこれきよないかく)とは - コトバンク
 
ちなみに、郡部で三位当選したのが増田穣三。
丸亀市区から当選したのが白川友一であった。

盟友 白川友一について
 振り返ってみると、増田穣三と白川友一が共に県会議員に初当選したのが明治32年(1899年)。二人は「県議同期生」として政友会に属し、堀家虎造代議士を支えていった。そして12年後、そろって衆議院議員に初当選した。 増田譲三の「政治パートナー」して、歩む白川友一について年表で見ておこう。

白川友一 - Wikipedia
白川友一年譜
1873年 琴南町造田で父安達小平太、母カノの四男として生
      友一出生時に父小平太は、西讃血税一揆の嫌疑をかけら
れ入獄中で家計困難
      ちなみに増田穣三よりも15歳年下になる。
1885年 12歳で小学校修了。
成績優秀で卒業後同校で1年間教鞭をとる。
1886年 13歳の時、富豪で質屋を営む横山初太郎の養子へ
      しかし、京都遊学の願いがかなえられず離縁。
1888年 15歳で、陸軍の予備校だった成城学校幼年科入る。
      幼年科・青年科を修了。その間何回も士官学校の入学試
験を受けたが、身体検査で不合格。
1892年 父母に連れ戻され、仲多度郡南村(丸亀市杵原町)の白
川家の養子となり、雪泳と結婚。
       21歳で南村の収入役、
24歳で七九銀行の支店長就任。
次いで高松讃岐銀行専務取締役となる。
この間、両行で地方経済発展のため活躍。
1899年 26歳で県会議員に選出され8年間活動する。
   日清戦争後の朝鮮半島を県会議員として視察し「有望な市場」 であることを認識。朝鮮における運輸、土木、建設の設請負業 などさまざまな事業経営に乗りだし、資産形成。日露戦争後に
は、中国東北部(満州)にも拡大し、土木建設会社を経営し成功
  下津井鉄道会社設立時には、これを支援し筆頭株主(500株)
として、初代社長に就任も経営には関わらず。
  その後も、丸亀市、下津井港との連絡船設備の整備充実などを進
めた
1911年(M45)衆議院議員に、増田穣三とともに初当選
 当選の年に「軽便鉄道助成法」が成立している。
この法案 成立の中心的な役割を果たしたのが、当選したばかりの白川友一である。「下電社長」という立場から全国の業界団体の要求をまとめるなど、その中心的役割を果たした。この結果、軽便鉄道に政府助成が下りるようになった。
下津井電鉄線跡を歩く2013-16-下津井の町を歩く岡山の街角から
 下津井鉄道の下津井駅前の白川友一像

このように代議士として「軽便鉄道」のみならず運輸・交通を中心に「業界団体の利益代表」として行った衆議院での質疑・要求内容が資料として国会図書館に残っている。ここまでが代議士となり国政に参加し活躍する「明」である。

大浦事件と白川友一

しかし、ここから白川友一や増田穣三にとって、舞台が暗転する。
それは、第一次世界大戦が始まる1914年に起こる。
昭和の「ロッキード事件」と同じように、独での収賄事件調査が飛び火して、シーメンス社による日本の政府高官への収賄事件が明るみになる。この収賄事件を背景に、野党政友会による内閣への攻勢が勢いづく。
大浦兼武 - Wikipedia
大浦兼武

 これに対して、大浦兼武
内務大臣は、翌年の衆議院選挙において大規模な選挙干渉で応じる。丸亀市の選挙区では、内閣に協力的であった白川友一の依頼を受けて、対立候補である加治寿衛吉候補に対し、圧力をかけ立候補を断念させる工作を行う。これが、選挙後に国会に告発される。
 さらに、前年の「2ケ師団増設」問題でも、大浦内相から当時は野党政友会に属していた白川友一や増田穣三を通じて、政友会内の議員に対して与党案に賛成するように工作。つまり、野党政友会の分断工作のために、内務大臣より買収資金が流れたことが判明。その受取側の中心が白川友一であった。これに増田穣三も深く関わる。
 関係議員が逮捕拘束されれ、裁判の結果、白川友一は議員を失職する。これにより、白川友一の政治生命は断たれた。
明治37年の香川新報「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」に、白川友一が紹介された次のような文章がある。
  「先生、年壮にして気鋭覇気鬱勃何者にか手繰り附くかんとするものの如し。其自転車を駆りて東西に馳餅するは、即ち財産の彼岸に辿り着く附かんとするもの也。県会の議席、時あって奇警の言論を弄するは、名声の彼岸に辿り着かんと也。恰も其企画経営、着々実効を奏し来り。世人が見て以て泡沫的と為すことも、一度先生の手を経れば遂に変じて軽石と化す。奇ならずとせんや。
 而して其れ実に先生独特の技量、其の精神力の旺なる、その根気の充満なる、讃岐人においては蓋し稀に見る処に属す。先生や到底相容れざる二個の希望の往来するが為に、常に其心を悩まさるるものの如し。
 何ぞや、営利と名声と即ち是也。
然れども営利に赴くも名声を得るは難しく、名声に走るもの利を得ることは固より能はじ。先生たるもの寧ろ一兎を選びて花より団子主義を提唱せざる、英国のロスチャイルド男爵と雖ど而かど西欧の金権を掌握することと知らずや」
「年壮にして気鋭覇気」で「技量、其の精神力は旺盛で、その根気強さは讃岐人においては稀に見る人物」と持ち上げ「営利と名声」の「二兎を追う」ゆえに心を悩まされるのではないか。あなたは「花より団子」で名誉は捨てて、営利追求に絞っては、いかがと揶揄されている。
 大浦事件を契機に政界から「追放」された彼は、この「助言」通り「一兎」を追う者へ姿を変えていく。 
大浦事件後の白川友一 「一兎を追う」ものへ転身
 この後、彼は3度全国版の一面に登場する。 
1921(大正10).3.20 東京日日新聞には「セ軍の五百万円は日本金貨となる。朝鮮銀行が買い取って造幣局で鋳造」という大見出しで、ロシア革命の際に反革命側のセミヨノフ将軍が持ち出した金塊横取事件に関わる黒幕として登場。
 また1922.10.7(大正11)  大阪朝日新聞では「武器問題 知らぬ存ぜぬ一点張 問題の白川友一氏語る」「ゆゆしき失態を演じた武器売渡事件」の見出しで、日本軍の保管武器が軍閥張作霖軍に売り払われた事件の黒幕として追求を受けている。
さらに、1930.12.1(昭和5)  大阪時事新報では、「阪神地方を中心に未曾有の薬品大密輸」「飛行便を利用して疾風迅雷の大活動 首魁乾某風を喰って高飛び 事件伏木にも波及」との見出しで、大連市内を拠点に国禁ベンモル(モルヒネ)の密輸事件で、「本事件の一方の旗頭と目されるのは、往年大浦事件に絡って議員買収の張本人となった香川県選出元代議士某氏(特に名を秘す)で峻烈なる検挙の手が延びたのを知ると同時に、到底逃れ能わざるを覚悟して、罪の裁きをうくべく已に自首して出た」と、その経過が大きく紙面を割いて紹介されている。後の裁判では懲役1年6月が求刑されている。
  以上 「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫より」
 大浦事件後に白川友一が「大陸浪人」として「雄飛・暗躍」していた姿が紙面から垣間見える。まさに「名声」を追うことを求めず、「花より団子」「営利一番」に切り替わった姿をみる思いがする。
 ただ、彼は1926年(大正15年)に、坂出と琴平を結ぶ「琴平急行電鉄」申請が出されると会社設立のための支援を積極的に行い、資金提供等の協力を惜しまなかったという。郷土香川の鉄道発展への志は、持ち続けていた。
さて、大浦事件の後の増田穣三は、どうしていたのであろうか。

参考資料
 青木栄一 「下津井鉄道の成立とその性格」
     「讃岐人物風景17」 四国新聞 昭和62年刊行
下津井電鉄「下電50年の歩み」所収 「白川友一自叙伝記」「白川友一事業概略」
      「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」 明治37年

         「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫」

 東山峠で結ばれる阿讃 県道4号(丸亀~昼間)線の開通まで

金比羅参拝の道 阿波に塩が入っていく道 阿波から浄土真宗が入ってきた道 借耕牛の通う道

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野口ダムより仰ぎ見る阿讃の山々 この奥に塩入集落がある
東山峠は、阿讃山脈上にある。南の昼間(現三好町)と北の讃岐の七箇村(旧仲南町:現在のまんのう町)をつなぐ。
この峠が出来るまでは、阿波の三加茂・昼間・足代方面から阿讃国境の樫の休場を越えて、塩入集落に至っていた。
そして、福良見から堀切峠を越え岸上村・五条村を通り琴平の阿波町に至る。
金毘羅参りの街道でもあったため三頭越えなどとともに「金毘羅参拝阿波街道」のひとつとされる。
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財田川の源流に沿ってならぶ塩入集落
 
またこの道は讃岐の塩を阿波へ運搬する道でもあった。阿波藩は「鎖国の国」と言われたが生活必需品の塩だけは、この道を通って阿波の奥地にまで入っていった。その拠点となった塩入集落には、うどん屋や旅人宿ができ宿場町を形成していた。
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財田川の源流沿いに東山線は伸びていく。離合可能な走りやすい道である。
 明治時代に入って各藩の「鎖国政策」は取り払われ、「交易自由化」が進められ阿波・讃岐間の交易も活発になる。煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、人と物の交流が増加する。
 さらに財田の大久保諶之丞の四国新道建設に刺激を受けて、阿讃の両側(七箇村と昼間村)から道路改修が行われ、東山峠で結ばれることになる。これが現在の県道4号丸亀三好線のルーツである。

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東山峠で阿讃が結ばれるまでの経過は次の通り

1 1892年(M25年)に、昼間村長は、「香川県に属する分の改修」を七ケ村長に交渉している。ちなみにこの時の七箇村長は田岡泰。県境を挟んだ両村が東山峠までの新道を責任を持って建設し、東山峠でドッキングすることが計画されたようである。
 そして、工事開始。しかし、当時の里道建設は「全額地元負担」で「全線に係る工費は巨額にして村力の及ぶところにあらず」であえなく中断。
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現在の東山峠 峠手前は切通しになっていて徳島県側にでると明るく開ける。
2 6年後に、郡・県から半額補助を受けて、4ヶ年計画で工事を実施。
  M39年に塩入から伸びてきた道と東山峠でドッキングさせた。
3「新道建設」の際に大きな追い風となったのは、四国新道以後に主要里道の建設  改修に対して、県や郡からの補助金が出るようになったことである。
5 村のリーダーとしては、新道建設の重要性を説くと共に、補助金確保のため県  議会への働きかけが大切になる。
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現在の男山集落 丸亀~三好線がつづら折れに集落を貫いている。

6 認可が下りても今度は、地元負担金を準備しなければならない。これをどうす  るのか。「苦心惨憺一方ならざるものあり」と資料は記している。
  道路を発起した村の負担の大きさとそのリーダーたちの心労は大きいものがあ  った。自分の村を通る道は自分で作るのだという自負と決意がなければ、当時の  里道建設はなかった。


 阿讃国境付近の道路改修は、東山越に新しい新道が建設されたことになる。その結果、それまでの主要道であった、樫の休場越がどうなっていったのかは又の機会に。

              増田穣三と西讃電灯株式会社

香川県に電灯を灯したのは高松電灯 社長は家老の家柄
 香川県に、はじめて電灯を灯したのは高松電灯だった。

旧高松藩士 牛窪求馬(うしくぼ もとめ)・松本千太郎

創立者の牛窪求馬は、高松藩の家老職の生まれで、高松で最初に自転車に乗り、靴をはき、洋服を着た人と言われ「ハイカラだんな」と呼ばれた人。この求馬が高松にも電灯会社をつくろうと決心したのは、明治26年、数え年31歳の時だった。幕末生まれで増田穣三とは同じ世代に当たる。発起人となって同志をつのり、旧藩主の松平家から資金援助もあって、資本金5万円の高松電灯が発足したのは、2年後の明治28年4月。その後、配電区域を着実に拡大していく。

旧丸亀藩内でも、電灯会社設立をめざす動きが二つ動き出す。

るいままとしての365日:景山甚右衛門を知っていますか?(多度津町)

一つは、多度津の景山甚右衛門や坂出の鎌田家を中心とするもの、もう一つは中讃の農村部の助役や村会議員の動きである。その中心人物の一人が増田穣三である。設立呼びかけ人には増田穣三の他、当時の七箇村長や春日の名望家の名前も見える。郡部の地主僧を中心に「電灯会社」設立準備へ向けての動きの中心に穣三はいたようだ。
 もうひとうは、坂出の鎌田家と多度津の景山家の連合体だったようだ。そして、認可が下りたのは鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神」として資本力も数段上の多度津坂出連合ではなかった。譲三が集めた「中讃名望家連合」であった。
 しかし、認可権は得たものの高松電灯のように、殿様の支援があった訳でなく資本も技術も経営術もない素人集団。それが外国から発電機を買い入れ発電所を作り、電線を引いて電気を供給するという仕事に取り組んでいくことになる。当然、難問続出で遅々として営業運転までに到らない。この「電力会社誕生物語」の難産の中に、増田穣三が社長として「火中の栗」を拾わざる得なくなっていくのである。
  実業家 増田穣三の姿は?
 若き日の増田穣三は、華道・浄瑠璃・三味線・書道など文化人としての側面を強く見せていた。村会が開かれた明治23年以後は、七箇村村会議員として村長・田岡泰を補佐してきた。さらに明治27年、矢野龜五郎の退任後には、代わって助役に就任し、政治への関わりをより強めていく。

もうひとつの側面である「実業家」しての一面である。

それをうかがわせる資料が四国水力発電株式会社(四水しすい)の30年史である。これにより「実業家増田穣三」の姿を見ていきたい。
 「四水」の前身である「西讃電灯株式会社」の株式募集の発起人12名に、増田穣三の名前がある。さらに、穣三の後に村長となる近石伝四郎との名前もある。電力という新規事業に、農村部の若き資産家や指導者が関わっていく姿が垣間見える。
 電灯会社設立の認可が下りると西讃電灯は金蔵寺の綾西館で創立総会を開き、定款を議定し、創業費の承認を求めた。資本金総額12万円  株金額50円 募集株数2400で、払込期限は、明治31年5月5日とされた。これを受けて明治31年9月に正式に会社が創立される。
 しかし、ここからが大変であった。会社は作ったが、素人集団。経験や技術、そして信用がない。工事は進まず開業の見込みもたたず「開店休業」状態が続く。設立時の社長・副社長は県外人で直接業務に関与せず、責任の取りようもない。このような状況に対して株主の不満は高まり、明治33年10月21日 臨時株主総会において、役員の総入れ替えを行い、同時に社名を「讃岐電気株式会社」と改称した。
   何が営業開始の妨げとなっていたのだろうか。株主宛の報告書を少し長いが見てみよう。

明治34年7月7日、讃岐電気株式の株主への報告書  (四水30年史よりの意訳)

 我々が、前重役諸氏に代わって就任して以後、工事を進捗せしめ、発電機等が到着すれば直ちに据付ができるように準備を進めてきた。しかし、内部の整理に多くの日時費やし、事業の進捗が見られないのが現状である。
電柱が建てられない・・・・
 電柱は、明治32年4月より讃岐鉄道多度津停車場に到着しており、丸亀市や多度津町の市街地において電柱工事に着手し、引続き市外での建設を行い、次に琴平町や善通寺村にも伸張していくつもりである。市外工事は、田野に建設することになるが土地所有者から電柱建設の承諾は得ている。しかし、不動産登記法により地上設定の登記を行わなければならない。これには、該当書類の手続きや押印に時間がかかり大幅な遅れとなり、市外への電柱工事は進んでいない。このため予定通り、市街地内での建設と同時に土地登記を行い、その後に田野に建柱し架線工事を終え、各戸に電燈器具の取附引込を行う手順となる。予定からすれば、今秋には架線工事を完了させるはずだったのに未だ終わっていない。このため工員等を増員しても早期完成を図るべきだと冷評する人もいるが、それは皮相な見方で我社の方針を知らないからである。
また、本社建築についても直ちに着手しないことについて悪評がある。
これもまた我社の方針を知らない者の言である。建築物についてはわずか5,6000円で落成を見ることができる。しかし、機械室に至っては外國より機械据付の設計図及ボートゲージ等が到着しなければ地形杭打煉瓦積工事に着手することができない。従って機械室の建設着手を待たずに、付属建物に着手すれは手直しが必要になる可能性が大である。
発電機械の一部は、請負者が外国に発注しており、遠からず到着の見込みであるが、前重役時代の時のように機械は到着するが株金振込が遅々として進まず、機械の引き取りができない可能性も残る。
 そうなれば、請負者も融通の道がなく手附金の損失となる。機械は、他の会社に廻される不幸の再演を恐れる。そのため全額支払いとせず分割支払いにしていたが、内部整理のために日時は空しく過ぎ、第2回振込期日を3月末と定めたところ第79銀行の破綻となった。我社は別に関係する所ではなかったが経済界不振の状況のため銀行は警戒を強め貸出を躊躇し、第2回株金振込も完結できない状態となり、工期完成を延長せざる得なくなった。
 発電機械の図面がなければ、大きさが分からず家屋をつくれない
その間に、外国より発電機械の図面が到着すれば、直ちに機械室内杭打工事に着手し引き続き煉瓦積を行い、同家屋の起築に着手する。そして、諸機械到着を待って据付工事の準備を行い、一方においては市内の架線工事を行っていきたい。しかし、郊外の田野の架線が出来なければ、雨露に曝して痛みを早めることになりかねない。そのため世評の如何を顧みず架線工事を後にして、来月末日より電燈需要の申込を受付け、各戸の電燈器具取付工事を開始し、秋以後に住宅への架線引込工事に移りたいと考えている。
 以上、述べてきたように工事遅延の理由と、また、今後の運営方針についてご理解頂きたい。
そして、来年4月高松市で開かれる関西府県連合共進会期前には送電を開始したい。そうすれば電燈需要数の増加を見込める。機械発注の請負者に対しても、すでに外国の機械製造所と仮契約をしていることを挙げて、電報で至急調整を促し、来年2月完成、3月中には逓信大臣の免許を受け4月1日より開業を目指したい。
 株主諸君には、これらの事情を充分了解してりて当會社の被るべき風評を退け株金振込についても遅延することなく振り込み願いたい。また振込にあたって遅れる者があれば共済の策をとるなどの方策も採りたい。早く工事を落成させ、萬歳歓呼の間に試運転の好成績を告け、早く幾分の利益配当を得て、本会社の声價を挙くることに勉められんことを
 会社設立後、2年も経っているのに営業運転に入れない理由をまとめると
1  電柱は発注し、多度津駅にあるが電柱施設に関する土地登記手続きが進まない
2 発電機械などを外国への発注したが「株金振込」が進まず、前金支払いが出来ず到着しない。
  これらにより営業開始が延び延びになり、会社に対しての「非常の悪評」「冷評」が噴出している状況がうかがえる。

 この株主総会で明治35年4月1日営業開始の約束も守れず、営業開始への見通しがつかないまま渋谷武雄社長は病気辞職。
明治35年8月のことである。

代わって、取締役から社長に就任することになったのが穣三である。

 彼は、2年前から七箇村長、県会議員(参事)を務めていた。
この局面打開に彼の政治力を期待しての社長就任と言うことではなかったかと推察する。しかし、会社の置かれた状況から見て「据えられた社長」的存在だけに留まることは許されなかった。
 社長就任3年後の明治37年に出版された「明治37年出版 讃岐人物評論   讃岐紳士の半面」には、「讃岐電気社長・県参事会員 」の肩書きで増田穣三が紹介されている。
「入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや必」
と「実業家としてのお手並み拝見」的な内容である。
さてそれでは、増田穣三の実業家としての「手腕ぶり」を見てみよう。

明治35年8月の株主総会への増田穣三社長の報告書 

当会社事業は、株式不況の現状に加えて軽便電燈の出願があり、大きな影響を受け、営業開始が累々延期を重ね今日に至っている。もはやこれ以上の延期ができない所まで来ている。そのための対応として、工事の速成を計るために請負者才賀藤吉氏を通じて、技師工學士梶平治氏を渡米させる交渉に当たらせ本年9月中旬には諸機械の到着する予定となった。そして、10月の琴平大祭までに開業できる目論見である。開業期日が判然としないため電灯申込者が、現在の所は少いようであるが丸亀の兵営郵便局や昼間の電動力を使用する事業所等とは着々と交渉を進めつつある。
 また、一般需要者に対しても大々的に募集計画を周知しており、その結果坂出町などでは電線延長を申請する動きもあり、開業の暁には香川の地方電燈會社の中では、優に覇たるものになるとと信じている。乞ふ株主諸君開業期間の遅延を咎めさらんことを

 社長に就任した穣三は、技術者を渡米させると共に、善通寺師団等の大口需用者の確保を進め、琴平大祭の十月初旬には「開業せん目論見」であった。しかし、「障害百出」と設計変更に伴う認可申請のやり直しで、半年遅れの明治36年3月15日になって、初めて多度津の町に電灯を灯すことが出来た。送電営業開始は、それから4ヶ月後の7月30日であった。計画から8年、会社設立後5年の歳月を経ての難産ぶりであった。開業に向けて足踏み状態にあった電力事業を、営業運転にまで導いたという評価は出来るだろう。
 そして、開業から1年目の株主総会。第1期の営業成績は次の通り
        収入 2452円46銭2厘、
       支出 8148円38銭5厘、
       差引 5695円92銭3厘の欠損であって、
       繰越赤字は9837円02銭。
 収入が支出の三倍を超える大赤字である。
これを受けて、増田穣三社長は次のように報告している。

明治37年7月 株主総会における増田穣三社長の報告

営業開始以来いまだ日が浅く、受電所の設備などが未だ完成に至っていないため、師団聯隊等の多数の需用に応ずることできていない。わずかに丸亀・多度津の区域内において零細の申込を受けながら480餘個の点灯数に達しているにすぎない。そして、今後は加入者が増加することが望めるが、現在の発電能力では、すぐに需要をまかないきれなくなることが予想される。設備の不完全が営業の不況を招いている。
 誠に遺憾であるが資本欠乏の状態でかろうじて開業にたどりついた現状では、漸進企画の途上にあり、やむを得ないと云はざる得ない。来年初夏の頃、工事全部の完成になれば我社の営業は近き将来において、一大盛況を呈すであろう。期して待つ可きなり
  営業開始から1年で、点灯受容者は480ヶ餘に伸び悩み、収入は支出の1/4程度。繰越赤字は8000円を超える状態である。
 しかし、現時点の苦境よりも未来を見つめよとし「当会社の営業は近き将来に於て一大盛況を呈す可きや。期して待つ可きなり」と大幅な欠損にもかかわらず、決して悲観せず大いに望を将来に託すべしという言葉で締めている。
増田穣三の方針は「未来のためへの積極的投資」であった。
 例えば、日露開戦を機に善通寺第11師団兵営の照明電灯化が決定し、灯数約千灯が讃岐電気に発注されることになると、お国のためにと採算度外視で対応し短期間で完成させている。さらに、明治38年には琴平への送電開始され、電力供給不足になると150キロワット発電機を増設し、210キロワット体制に設備投資を積極的に行った。
 しかし、日露戦後の景気悪化のため契約数が伸びず、新設備投資が経営を圧迫するようになると、増田穣三の経営に対する不安と不満が起きてくる。 設立以来の赤字総額は8万円を越えていたようだ。

「投資拡大路線」の継続か、欠損金を精算して新体制でのやり直しかをめぐる経営上の対立が激しくなっていった。

 この時期、政治家としての増田穣三は、明治38年11月の第7回通常県会で第13代県会議長に選任されていた。43歳だった。議長としての職責を全うするためか、この時2つの決断を行っている。
1つは、翌年の明治39年1月に讃岐電気社長を辞任している。
2つ目は、3月には七箇村長を退任している。
こうして、約4年間の増田穣三の「讃岐電気社長」時代は終わる。

増田穣三が去った後の電力会社は?

 会社は明治40年5月、12万円の資本金の内の84000円を「減少」して、いままでの損失を補填。残りの三万六千円を資本金とした。この結果、損害を受けた大口株主として、
「安藤氏に於て8萬六千圓餘、長谷川氏に於て二萬二千円餘、増田穣三氏に於て千圓餘の損失となるも本社の革新を図る主旨により茲に至りたるものなれば、会社か前者に對する功労の偉大なるを認む」
と、新社長景山甚右衛門は株主総会で謝罪している。
 電灯会社設立に向けて、中讃の資産家に投資を呼びかけるなど当初から中心メンバーとして関わってきた穣三が失ったものは投資額の1000円という金額を遙かに超えて大きかった。戦前の地方の名望家達は、ネットワークを形成しており色々な情報・話題が飛び交う。「資本減少」という荒治療は、この電力会社の設立を当初より進めてきた増田穣三への信用を大きく傷つける結果となった。穣三自身も責任を痛感していた。それが、村長や県会議員からも身を退くという形になったのではないか。

多度津の景山甚右衛門を社長に迎えて会社は「資本減少」という「荒治療」と同時に、役員の更迭を行なって、景山甚右衛門を社長に、武田熊造を副社長に迎え、地元多度津の有力者による重役陣体制を作った。その上で、この年の8月の臨時総会で、114000円(2280株)の増資を行った。この増資の引受人は「前項新株式は全部景山甚右衛門、武田熊造、武田定次郎、合田房太郎、磯田岩5郎の5氏に於て引受くるものとす」とされた。結果から見れば後に「四国有数の優良企業」に成長するこの電力会社は、出資者も経営者も多度津関係者で固められることになる。

 この後の技術革新で水力発電で電気を生み出し、高圧送電技術の進歩を受けて遠距離送電が可能になる。新社長の景山甚右衛門は、いち早くこの技術を取り入れ社名も「四国水力電気株式会社」(四水)と改名し、後の四国電力に発展していく。増田穣三が、社長を務めたのはその前史にあたる。

  少年期に「和漢の学」を学び、華道や書道に楽しんだ少年が明治を迎えて、村の指導者として成長して村長職に就く。そこから県会議員や議長にまで成長していく。そして、道路や電気などの当時の最需要インフラ整備に関わっていくことになる。明治という時代は、若き人材を走らせながら育てていく時代なのだと改めて思う。
 さて、譲三は村長と県会議員から身を引き、電力事業からも遠ざかる。45歳である。
どこへ向かおうとするのか。
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県議会議員時代の増田穣三 

1899(明治32)年3月7日に行われた第5回県会議員半数改選に増田穣三は初当選し、翌月には、二代七箇村長に就任している。穣三41歳のことである。
その5年後に、「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という本が出版されている。
当時の香川県の政治経済面で活躍中の人物を風刺を効かしながら紹介している。その中に増田穣三もいる。これを見ながら、増田穣三の県議会時代を垣間見てみよう。
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讃岐電気会社社長 県参事会員 増田穣三先生

躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いて讃岐電気会社社長たる地位を表彰す、増田穣三先生も亦好適の職に任じられたるもの哉。
 村長としての先生は夙に象麓の柳桜を折り、得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの、出でて県会議員となり参事会員の要地を占めるや、固より以て玉三の金藤治の如く、堀川の弁慶の如き硬直侃鍔の理屈を吐かざるも、萬事万端圭角を去て圓満を尊び、能く周旋調定の労を執りて敢て厭う所なきは八百屋の献立の太郎兵衛に肖、また7段目の平右衛門に類するなきが、而かも先生義気の横溢する、
 知友堀家虎造先生の参謀長を以て自ら任じ、当に作戦計画の上に於いて能く推握の効を収むるのみならず、時に或は兵器弾薬の鋳造運搬をさへ司るに到る、事茲に及びて侠名豈獨り幡随院長兵衛の占有物ならんや。義気将に畠山庄司重忠の手に奪ふを得べし。
 入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや必
 先生の議場にあるや寡黙にして多く語らず、而して隠然西讃の旗頭を以て居る、何処かに良いところ無くては叶わず、先生夫れ不言実行の人か、伝説す頃者玉藻城下に於いて頻りに其美音を発揚するの機会を得と、真ならんか羨望に堪えざる也。妄言多謝

 県会議員としては「寡黙」で「裏業師」?

 まずは増田穣三の風貌が「躰幹短小」「秀麗の面貌」「鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪」と簡略にが描写されており興味深い。
 「得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの」は、若い頃に人形浄瑠璃に魅せられて興味を持ち、玄人はだしの腕前であったことに言及し、風流人としての「粋さ」を伝えている。。
 「出でて県会議員となり参事会員の要地を占めるや、固より以て玉三の金藤治の如く、堀川の弁慶の如き硬直侃鍔の理屈を吐かざる」とある。

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「参事会員」とは何だろうか?

  参事会とは県会に設けられた機関で、県知事・高等官二人と府県会互選の県会議員四人で構成された委員会で、県会の議事立案、執行など執行機関としての性格を持っていた。このため県政に深く関わることが多く、他の議員には知り得ない情報も入ってくるし、予算案等に意見を述べることも出来た。つまり、新人議員ながら県政の中心に飛び込んだというこになる。県の財政や政務の運営を眼のあたりに見ることができるポストに就いたのだ。これは、穣三にとっては大きな経験と財産になっただろう。
  
 県会議員としては
「萬事万端圭角を去て圓満を尊び、能く周旋調定の労を執りて敢て厭う所なし」
というのが増田穣三の流儀のようである。
 しかし、議会内の活動状態については「先生の議場にあるや寡黙にして多く語らず、而して隠然西讃の旗頭を以て居る、何処かに良いところ無くては叶わず、先生夫れ不言実行の人か」と紹介している。
 また、「香川新報」も「県会議員評判録」で「議場外では如才ない人で多芸多能。だが、議場では、沈黙しがちな議員のなかでも1、2を争っている」と、議場における寡黙さを強調する言動が記されている。
 県会での政治的立場としては
「知友堀家虎造先生の参謀長を以て自ら任じ、作戦計画の上に於いて能く推握の効を収むるのみならず、時に或は兵器弾薬の鋳造運搬をさへ司るに到る」
裏工作には積極的に動いたようだ
同期初当選である丸亀出身の白川友一議員とともに堀家虎造代議士の下で、様々な議会工作に関わったことがうかがえる。

 例えば、明治36年11月に政友会香川支部から多くの議員達が脱会し、香川倶楽部を結成に動いた「政変」の際にも、堀家虎造代議士の指導下に実働部隊として動いたのは増田穣三や白川友一 ではなかったのか。この「論功行賞」として、翌年の県会議長や堀家虎造引退後の衆議院議員ポストが射程範囲に入ってくるではないか。
この本が出版された翌年M38年11月 穣三は県会議長に選任された。議長としての穣三はどうであったのだろうか?
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  第7回通常県会の模様を、香川県会史は次のように記している
 山田利平太(綾歌郡)は議長に増田穣三(仲多度)を指名し、全員が異議なく了承。議長に推薦された増田穣三が
「諸君のご推薦にあずかり議長の職を汚します。補佐あらんことを希望します」
とあいさつをした。その後、副議長選出については議会の承認のもと、増田穣三議長が佐野新平(大川)を指名。また、名誉職参事会員も同様に6名を指名       香川県会史(990P)
 そして次のような議題が新議長の下で審議された。
1 小野田元煕知事の議案説明
2 粟島海員学校・丸亀女学校・高松商業等4校の県立移管問題
  財政上延期かどうか
3 女学校の寄宿舎建設延期
4 職員の給与増額
5 韓国への漁業者移住促進


 議員としては「口数が最も少ない議員 議場外での裏工作が得意」と表された穣三であるが、議長としての議会運営ぶりはどうだったのだろうか。次のような資料が残っている。
 中学校寄宿舎の建築問題をめぐって、建設積極派と建設消極派が協議を重ねた。この時、膠着した事態を打開するために、増田穣三議長自らあっせんに乗り出して、異なる二つの意見の調整に努めた。その結果、建設を進める方向で話かまとまり、長年、結論が出なかったこの問題は、一気に議決へと向かった。実直かつ寡黙な議長であり、議員から
「1つ1つの審議に時間がかかりすぎる。もう少し手際よく進めてほしい」
との要望が出るほど、丁寧な議事進行を心がけた。 
 丁寧な議会運営に心がけ、対立点を見極めた上で妥協案を示すソフトな対応ぶりがここからはうかがえる。
 順風満帆な議員生活とは半面、「電気痛の痛苦」が穣三に襲いかかってくる。当時、彼が関わっていた当時の新産業「電灯会社」誕生までの苦難と、彼の経営者ぶりを見ていくことにしよう。

 塩入街道 東山越開通まで七箇村(現まんのう町)を中心に

 前回は丸亀三好線(現県道4号)の建設過程を、徳島の昼間村を中心に見てきました。今回は、香川側の動きを見ていきます。
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 丸亀三好線の建設について、仲南町誌で確認してみます 
この道は七箇村経由金毘羅参詣阿波街道とも呼ばれている。阿波の三加茂・昼間・足代方面から阿讃国境の樫の休場越又は東山越をして塩入村で合流し、一本松を経て七箇村に入り堀切峠を越え岸上村・五条村を通り琴平村の阿波町に至る金毘羅参りの街道であった。
 藩政時代阿波藩は鎖国の国といわれたが生活必需品の塩だけは、この道を通って阿波に入っていた。明治時代に入って、交易の自由化にともないたばこなどの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また仮耕牛の行き来も盛んになった。そのため明治28年(1895)ごろから漸次道路改修が行われ、現在の県道丸亀三好線の基をなした。
 阿讃国境附近の道路改修は当時としては東山越の方が便利と考えてか、この道を県道として改良したので、樫の休場越はしだいに寂れてしまった。また、堀切峠は明治三三年(一九〇〇)に改修されるまでは現在の県道より五~六mも高い所を通っていた。  (以上 仲南町誌942P)

 丸亀三好線(香川県では塩入街道)の開通までを年表にしてみた。

1890(M23)年 猪ノ鼻越の四国新道の部分開通
         初代七箇村村長に田岡泰(33歳)就任。
9・25 香川県が里道改修補助費取扱規定を定め工費の三分の一を補助決定。町村道改修に県の公費補助が認められ、里道改修促進され、工事申請が増加。
1892 昼間村長田村熊蔵が香川県分の新道改修を七ケ村長田岡泰に依頼。両県から工事を進め東山峠で結びつけることに合意。
1894 四国新道開通式挙行 四県知事が出席して琴平町で行う。
1895 七箇村 東山越里道改修始まる(四国新道への対抗策?)
1899 4月26日 田岡泰が七箇村長退任、
    増田穣三が第二代村長に就任(41歳)増田穣三が「琴平・榎井・神野・七箇一町三村道路改修組合長と為る」
1900 堀切峠の改修終わる
1901 塩入越及び真野里道改修落成式を大井神社境内で挙行
1902 徳島県が4ヶ年継続事業として男山から東山峠への新道     建設への補助金交付決定
1906 東山峠で結合。(後の県道丸亀~三好線)開通
   香川県七箇村と徳島県昼間町を車馬による交通が可能に
   増田穣三 七箇村長退任 第3代 近石伝四郎村長就任

1890年に猪ノ鼻越の「四国新道」が部分開通しています

これが、財田村にもたらした経済効果は大きかったようです。
七箇村の初代村長に就任した田岡泰は、これをどう見たののでしょうか。新道を作り、人とモノが動くようになれば、その沿線にお金が落ちるようになり、経済的な発展をもたらす。ということを目にしたことでしょう。これを見て七箇村も「塩入街道」の新道化(=グレードアップ化)に取り組むことの必要性を痛感したのではないでしょうかか。
新道建設に向けて、2つの追風が吹きます。
①里道改修に県からの補助が受けれるようになったこと。
②徳島県の昼間村長から「新道建設」に向けて「共同戦線」を結ぶことの提案があったこと。
これを受けて田岡泰は1895年に、まずは塩入・琴平間の改修に取りかかります。しかし、予算確保が進まず工事着手に至りません。

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1899年、田岡泰が村長退任し、替わって助役の増田穣三が第2代村長に就任します。

新道建設は、幼なじみの増田穣三にバトンタッチされることになります。穣三は、七箇村だけでは荷が重すぎるのをで、沿線沿いの琴平・榎井・神野七箇の一町三村と道路改修組合を結成します。そして、その組合長に就任し、予算確保に奔走します。
ちなみに、当時は村長は村会議員の互選、そして県会議員も兼務可という「複選制」でした。もし、増田穣三が名刺を持っていたらそこには、香川県議会議員 七箇村長 七箇村議の3つの肩書きが並んでいたはずです。村長がその地域の利益代表として、県会議員として県議会等で道路建設等の補助金確保に奔走する姿が見られるようにななったのがこの時期からのことのようです。
 資金のめどがつき、堀切峠の切通工事が竣工するのが1901年秋のことでした。これを、当時の新聞は次のように伝えています。


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堀切峠から南方の阿讃の山脈を見上げる 
里道塩入線開通までわずか
  明治33年(1900)11月17日『香川新報』
 仲多度郡琴平、榎井両地を起点とし神野七箇両村を経て徳島県三好郡昼間村に至り撫養街道に接続の入里道延長約八里の改修は去る29年2月を以て起工せし。右延長里程中本県に属する里程は四里十六丁にして此の中山間工事と称すへき里程 約二里あり。加ふるに国境に於て四十尺余の切下けあり 神野七箇の村界にても数十尺の開繋ケ所ありて総工費は六万余円の予算にて着手せしものなるか。爾来工事継続し山間部の残工事は来る26日頃を以て終了すへく 又神野村五条より琴平阿波町と東の方榎井村宇旗岡に至り県道に接続すへき間の工事は、目下専ら施工中にて来月中旬頃迄には竣了の予定なり。右両所竣功せは開通に至る事なるか此の里道改修に當りては専ら盡力させしは増田、田岡の諸氏にて沿道村民の寄附又少からさりしなり。
総工費は香川側が6万円余り、徳島側22334円 合計で約8万円。大久保諶之丞発案の四国新道全体の額からすれば1/7程度です。しかし、工事区間から考えれば、決して見劣りがするものではありません。最後に「開通に至る事なるか此の里道改修に當りては専ら盡力させしは増田、田岡の諸氏」と田岡泰前村長と増田穣三町長に賛辞の声を送っています。
 さらに「沿道村民の寄附又少からさりしなり」と結んでいる。
「寄付」という形で地元負担金を負担したのは、どんな人たちだったのでしょうか。『香川新報』に、「木杯と賞状」と見出しのついた次のような記事があります。
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 塩入越里道改修費への寄付一覧 明治33年11月10日
仲多度郡塩入越里道改修費中へ左記名下の金額寄付せし兼により今回木杯1個又は賞状を下付さる。
仲多度郡七箇村 馬場和次郎(75円) 
十郷村 大西貞次郎(40円) 
七箇村 石川広次(40円) 
葛原宇三郎(30円) 
山本喜之次(30円) 
葛原倉蔵(25円)
増田伝次(25円) 
山崎岩次(21円50銭) 
大西三蔵(20円) 
近石歌次(12円) 
山内万藏(12円) 
東淵才次(11円10銭) 
近石藤太(11円)、川原岩次(同) 
近石米次(10円80銭)
増田慶次(12円40銭) 
以下10円 
近石直七 久保弥平、森藤和多次、原田時次、大東又八 横田綾次、垂水村浄楽寺(各10円)其他同郡榎井村 中条亀三(9円)、外69名へは賞状。
 こうして1901年(明治34年)6月9日に 「七箇村塩入越及び真野里道」(丸亀三好線)の落成式が神野村の大井神社境内で行われます。
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 この席に「道路改修組合長」を勤めていた増田穣三は、どんな思いで出席していたのだろうか。11年前に田岡泰村長が昼間村長が約束した「新道を東山峠で結合しよう」という約束を果たしたことになります。
 この香川県側の動きを受けて、徳島県も動き出します。
補助金交付を決定し、1902年から男山~東山峠への区間が「四カ年継続事業」として認定されます。そして4年後の1906年に昼間と東山峠区間が完成します。こうして車馬が通行できる新道が七箇村と昼間村を結ぶことになります。猪ノ鼻峠を越える四国新道の開通から16年後のことでした。沿線の人たちは、新たな時代の始まりと思ったのではないでしょうか。
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四国新道完成後の財田の様子については、次のような記述があります。

四国縦貫の幹線道である四国新道にはしだいに人馬の通行が多くなり、ことに明治29年(1896)善通寺師団が設置されてからは日を追って交通量が増加してきた。土佐・阿波から入隊の兵士やその家族や金毘羅参りの人々は、明治38年に戸川まで乗合馬車が開通してからは馬車を利用するものが多かった。定員わずか8名の馬車でも当時は大量輸送機関であり、利用者も多く繁昌して個人営業者がつぎつぎと現われてきた。そして大正3年(1914)には5つの乗合馬車が営業していた。    (仲南町誌)
  この資料から開通後の四国新道沿線沿いの十郷・財田村の活況さがうかがえる。財田町誌にも

「特に、財田の戸川集落には旅籠や乗合バス亭・水車による脱穀業などが新しく並び立ち、新たな賑わいを見せるようになった。(財田町誌682P)」

と四国新道完成後の沿線の「経済効果」を紹介しています。
 視点を変えると「新道」は、現在の「バイパスあるいは高速道路」です。新道が出来たために物と人の流れが変わり、周辺には寂れていく街道や宿場も出てきます。四国新道の完成は七箇村を通る「塩入街道」にも影響を及ぼしました。
「春日を通過する塩入街道が寂れていく」という危機感をバネに「わが村にも第2の四国新道建設を!」

という思いを持つ指導者が徳島の昼間村に現れます。

 讃岐山脈を越えた徳島県昼間村(現みよし町)の村長田村熊蔵は、樫の休場経由の塩入道を、車馬の通行可能な新しい道路にグレードアップする道を探っていました。その際にルートを、東山峠越で塩入に至るルートに付け替えようと考えます。
徳島県三好側からの東山峠までの「新道」開通に向けた動きを見てみましょう。
香川県仲多度郡七ケ村につながる道は険悪であった。そこで人馬の通行が円滑になるようにと、昼間村長田村熊蔵、有志三原彦三郎等が香川県に属する分の改修を七ケ村長(田岡泰)に交渉した。明治25年(1892)昼間・撫養街道分岐点より延長三百余間の改修を行った。しかし、全線に係る工費は巨額で村力の及ぶところではなかった。その後も、郡費補助をたびたび要求した。
 その結果、明治30年度に金792円74銭の補助が受けられることになり、時の村長丸岡決裁はこれと同額の金額を有志の義捐に求め前の改修に接続して、延長千七百間の改修を行った。が、東山字内野まで伸張し、一時工事中止となった。
 明治32年5月に内野から県境までは測量は終了したが、郡財政上着工にまでは至らなかった。その後明治35年度において再び郡費補助を得たが、今度は村の自己負担分の工費が工面できず県費補助を要求した。
 その結果、明治36年度より39年度に至る四か年の継続事業として郡県の補助を得ることが出来るようになった。それを生かし道路用地は各持主の寄付によることを協定し、更に県の実測を経て里道改修工事を竣工させた。総工費22334円にて、内5262円53銭9厘の県費補助、6729円43銭3厘は郡費補助を受け、残額10142円49銭6厘は村の負担として、有志の義金又は賦役寄付に求めた。(以上 三好町誌)
 明治39年になって三好町昼間から男山を経て東山峠までの新道が完成します。いままでの獣道ではなく車馬交通の便を開けたのです。

 そこに至る経過を整理しておきましょう

1892年(明治25)昼間村長は田岡泰七ケ村長と話し合い「自分の村の改修は自ら行う」ことを確認します。県境を挟んだ両村が東山峠までの新道を互いに責任を持って建設し、東山峠でドッキングする約束をしたのです。そして、工事開始。しかし、当時の里道建設は「全額地元負担」でした。そのため
「全線に係る工費は巨額にして村力の及ぶところにあらず」

であえなく中断。以後は、小刻みに伸ばしていく戦略に切り替えます。
5年後、郡からの半額補助を受けて内野まで延長。さらに6年後に、郡・県から半額補助を受けて、4ヶ年計画で東山峠まで伸張し、1906年(明治39年)に香川県側の七箇村塩入から伸びてきた道とドッキングさせてています。香川側の完成から16年後のことになります。

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  東山峠

 この際に大きな追い風となったのは、主要里道の建設改修に対して、県や郡からの補助金が出るようになったことです。村の村長としては、新道建設の重要性を説くと共に、補助金確保のため県会への働きかけが大切な仕事になります。補助金が付き、認可が下りても今度は、地元負担金を準備しなければならない。これをどうするのか。
 「苦心惨憺一方ならざるものあり」と資料は記します。
当時は、建設費の半分は地元負担が原則です。自分の村を通る道は自分で作るのだという自負と決意がなければ、当時の里道建設はなかったようです。
  七箇村の田岡泰や増田穣三達、若きリーダーも、徳島側と連携をとりながらこの「自負と決意」を固め、実行に移していったのでしょう。それでは、香川県まんのう町側の「塩入街道改修」はどのように進められたのか、またを負担金はどのように集めたのかを次回は見ていくことにします。

財田上ノ村戸長 大久保諶之丞に学ぶ村の経営学

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明治23年4月 七箇村で23歳の田岡泰が戸長、増田穣三が村会議員としてスタートした頃、時代がこの地域の指導者に求めていたものは、何だったのだろう。前例のない時代を地図もコンパスも持たずに村の指導者として歩み出す幼なじみのふたり。
この時代、隣村の財田には新しいタイプの指導者が登場し、その言動が注目を引くようになっていた。大久保諶之丞である。明治初年の村のリーダーが直面した課題や障害、それにどう取り組んだのか、諶之丞を参考に考えてみよう。そして、春日の田岡泰や増田穣三にとって、10歳年上にあたる諶之丞の言動はどのように見えていたのだろう探ってみよう。
  まずは、大久保諶之丞の年譜確認から
嘉永2年(1849) 財田村奥屋谷の素封家に生まれる
           幼年より陽明学を学ぶ。弟はは尽誠学舎創設者の彦三郎。
慶應2年(1866) 父森冶の後妻の娘タメと結婚。(17歳) 
明治3年(1870) 満濃池の改修工事に参加し土木技術習得
 明治5年(1872)    財田村役場に勤務(村長代行的役割)(23歳)
 
村内の子弟を山梨県に派遣し、養蚕業の技術を地元に根付かる。
明治6年(1873) 「西讃竹槍騒動」で自分の家を襲われ焼失
           同年戸長(村長)に任命される
 明治11年(1878)猪ノ鼻峠から阿波に続く「新がけ」道を完成、
    すべて地元負担で建設。これが「四国新道」構想の端緒。
明治12年(1879)三野豊田郡役所の勧業係となり、谷道開発・修繕に従事。コレラの全国的な流行に対し、医師の養成計画「育医講」を作り、奨学金給付。育英資金は村民120名の講から拠出。
明治17年(1884) 四国新道期成同盟を結成。
明治18年(1885) 吉野川からの導水を提唱、請願書提出
明治19年(1886) 金刀比羅宮神事場にて四国新道開削起工式。
明治20年(1887) 讃岐鉄道の請願委員の一人として書名。
明治21年(1888) 愛媛県会議員就任(40歳)
明治22年(1889) 讃岐鉄道開通式で、「瀬戸大橋」構想発表。
明治23年(1890) 讃岐阿波新道完成。
明治24年(1891) 県庁議会場で討議中、倒れ込み高松病院へ。
            2月14日尿毒症を併発し死亡。
 政治家としての活動期間は僅か3年です。。

大久保諶之丞4

 晩年、四国新道建設のための工事費工面のために注ぎ込んだ私財は、当時の金額で6500円。そのため父祖よりの蓄えと、田畑、山林のほとんどが人手に渡っていたと云います。残された家族は三度の食事にも窮したとも伝えらます。
年譜から見えてくること
1 大久保諶之丞は、田岡泰や増田穣三よりも一回り年長。明治維新を19歳で迎えている。
2 幕末の志士と同じく陽明学を学び「学問・思想と行動の結合」という行動主義を身につけている。
3 23歳の時に「西讃竹槍一揆」の一揆集団に、地主層と見なされ自分の家を焼き討ちされている。この事件の彼に与えた影響は大きかったのではないか。
4 その影響からか村経営の指導的な立場に立つと、農民の生活を豊かにするためにの改善策を、真剣に考える。そして養蚕業の移植・北海道移民・講組織による医師養成等、いろいろなアイデアを実行して行く行動力と使命感がうかがえる。
5 その際に、四国新道起工式でプロモートした「鍬踊り」のようにユーモアや面白さも持ち合わせており、使命感が強いだけの堅いイメージではない。それが人々を結びつけていく武器となったようだ。
6 また四国新道建設推進のために、高知まで出向き、初見の高知知事の協力をとりつけるなど要人の懐に飛び込んで、味方につけていく「人たらし」の力も持っていた。
7 しかし、県会議員、在職年数わずか3年。議会での質問中の殉死である。
 諶之丞が議場で壮絶な死を遂げたのが明治24年(1891)。地元の財田に遺骸が帰ってくるのを、村民達は完成したばかりの四国新道沿いに出て、涙を流しながら出迎えたと伝えられる。これを、村会議員2年目の増田穣三は、どのような思いを抱きながら見守ったのであろうか。
大久保諶之丞2

 どちらにしても、田岡泰や増田穣三は大久保諶之丞の影響を少なからず受けている。また受けざる得なかった。二人の碑文の業績には「東山道改修に尽力」という言葉が刻まれている。大久保諶之丞が四国新道と「殉死」したように、道路改修は以後の指導者の大きな課題であり「夢」となっていく。

田岡泰について

春日出身の国会議員 増田穣三をめぐって「町誌の森」歩きが続く。
その森の中で田岡泰という人物に出会った。仲南町誌(1320P)に増田穣三に続いて、次のように紹介されている。
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田岡 泰の墓(春光寺 まんのう町春日)
田岡 泰 七箇村初代村長
安政五年(一八五八)九月八日
大正一五年(一九二六)一〇月一〇日  (64歳)
春日、田岡照治郎の長男。梅里と号し、   
明治元年から明治四年まで三野郡上麻村の森啓吾に漢学を学び、
明治五年から明治七年まで高松の黒木茂矩に皇漢学を学んだ。
明治八年 県立成章学校(後の香川師範学校)に入学
明治10年から一年間大阪の藤沢南岳に師事して帰郷。(20歳?)
明治一二年七箇村黄葉学校の教員兼併区監視、
明治一三年高篠学校の教員を勤め、
明治一八年から明治21年まで那珂、多度、併合会議員に選ばれた。
明治二二年三月には榎井村私立養蚕伝習所に入所して養蚕伝習受講
明治二三年四月一日から明治三一年まで七箇村の初代村長に選出。
明治三一年四月二五目から明治三二年三月七日まで県会議員、
明治三二年九月三〇日から明治三六年九月二九日まで郡会議員。
この間七箇村外三カ村連合村会議員にも選ばれた。
明治三十三年十月二十一日 西讃電灯の臨時株主総会において、監査役に就任。
村長在任中は地方行政に数多くの功績を残されたが、なかでも塩入新道の開通には特に力を入れて現在の県道丸亀三好線(一〇九号線)の基をつくった。後年、広島村長、吉原村長にも選ばれ、これらの功績により勲七等瑞宝章を賜り、晩年は丸亀で余生を楽しまれた。
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                  田岡泰の墓標
 春日のお寺の墓地で田岡泰の墓を偶然に見つけた。この墓に漢文で刻まれた碑文を意訳したのが上記記述になるようだ。
ここからは、興味深いことがいくつか分かる
 まず生まれが安政5年9月であり、増田穣三より1ヶ月遅く生まれた幼なじみであるという点である。同じ春日に、同じ富農の家に生まれた二人の生き方は、互いに交わり七箇村で糸を紡いでいくように進んでいく。この墓碑には、穣三の碑文にはなかった教育歴が載せられている。
①上麻村(高瀬町)の森啓吾(漢学) 
②高松の黒木茂矩(皇漢学)
③香川師範学校(普通学)
④大阪の藤沢南岳(儒学)20歳で帰郷
  和漢の学をベースに師範教育も受けている。さらに、当時、数千人の門人を擁した大坂の泊園書院への遊学経験もある。20歳で帰郷後は、七箇村の教員を務め、さらに榎井村私立養蚕伝習所に入り、養蚕技術の指導をめざすなど、地域にとっては近代教育を受けた若きリーダーとして地歩を固めていったようである。
 明治初年は高等教育が整備されておらず、農村の富裕層の師弟は、いち早く整備された師範学校に進んだ者が多い。卒業後、教員として地域に馴染み、その後に村の指導者に成長・転身していくというパターンである。田岡泰も、その典型と言えよう。

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                  田岡泰の墓標
 明治23年大日本帝国憲法施行 → 国会開設 → 県・市町村地方議会の開設  という政治的な流れの中で,初めての村会議員選出が行われると田岡泰も増田穣三も選出されている。そして議員の互選により初代七箇村長に選出されたのは、田岡泰であった。
   増田穣三ともに32歳のことである。若きリーダーの登場である。彼らによって「村にやってきた明治維新」は、姿を整えられていくことになる。

春日の西方を流れ下る財田川。

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春光寺より南を望む  はるかに阿讃の山脈が連なる

香川県内の河川は北流するのがほとんどなのに、財田川は観音寺に向けて西流する。源流の東山峠から春日までは北流している。しかし、春日にさしかかると大きく屈曲し、流れを西に変える。
この屈曲は「河川争奪」によるものだと地質学者は言う。
耳慣れない言葉だ。
仲南町誌(43P)にはこのように書かれている。 
財田川上流部は、以前は福良見の谷を通って丸亀平野の方向へ流れていた(金倉川上流)ものを洪積世末期(約2~3万年前)財田川下流部の河谷を流れていた川が頭部侵食で上流側へ掘り進み河道を争奪して現在の河系を形成したところである。争奪以前の河川堆積物がこの付近の財田川河谷の谷壁に付着して残存している。特に久保付近の河谷の南岸には比高三31mの段丘崖の好露出があり、この河崖は河川堆積物の成層状態を明瞭に示し、地形発達史研究上貴重なもので県内ではほかに例を見ない。
つまり3万年前は、春日より上流の部分は金倉川の上流部であった。それを「河川争奪」で財田川が奪ったというのだ。河の世界にも「争奪戦」があるようだ。
 地表面の水は奪われても、地下水脈は今まで通り北流する。
そのため春日地区は伏流水が豊富だ。これは初期稲作農耕には適した条件である。その適性を活かして、この地は山間部の中では早くから「開発」が始まった。そして、この春日の地を中心に周辺集落が開かれていったようである。

 それをうかがい知ることが出来るのが春日神社である。

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 平安期に藤原氏の荘園となった小松庄(櫛梨を除く琴平町全域)は、藤原氏の氏神である春日神社を勧進し、それ中心に発展していく。この地は小松庄の出作地(荘園の近くの開墾地)として経営され、その後、藤原氏の荘園になったのではないか。ここにも春日神社が勧進される。
していつ頃からか、この地は、春日と呼ばれるようになる。
ことひら町誌や満濃町誌は、以上のように推論している。 
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「朝倉家神社御改牒控」(明治10年)によると、春日神社は数多くの境外末社を持っていた。

その中には、雨乞いの神様として信仰を集めていた尾瀬神社や隣接する福良見集落の白鳥神社、久保集落の久保神社が含まれている。
 このことからも周辺集落に対して、春日が伝統的に優位的立場にあったことがうかがい知れる。
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 ちなみに増田穣三は、県会議員時代に春日神社の郷社格上げ運動を行った。しかし、社殿が嘉永元年(1848年7月)火災にあっており、資料を失っていたため実現に至らなかったようである。
 増田穣三の名のある灯籠や玉垣を探したが、見つけることはできなかった。この鎮守の森は、遊び場であり、学び場として幼いときからの穣三を育んだ場所であったのかもしれない。

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春日の信号のある交差点からさらに塩入温泉方面に向かって南下する

と、二軒の旧家が耕地整理の済んだ田園の中に並んでいる。
これが増田家の本家と分家である。
 この左側の本家が村長や県会議員を努めた増田一良宅、
右側が衆議院議員の増田穣三の旧宅である。
増田家は「阿讃の峰を越えてやってきた阿波出身」と言い伝えられている。
増田家が財田にある阿波との関係が深い浄土真宗興正寺派の有力寺院の門徒であることも、「徳島
「阿波出身」を裏付ける材料の1 つかもしれない。
 
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 増田家を系図で見てみよう

祖父 伝蔵には4人の子どもがいた。
①長男 伝四郎(子どもなく死亡、弟伝吾を養子)

②次男 伝次郎長広(分家) →   譲三(第2代村長)

③三男 蔦次郎(下増田家分家)→正一 (第4・8代村長)

④四男 伝吾(兄の養子となり本家相続) 一良(第6・9代村長)
 増田家は江戸時代からの庄屋ではない。しかし、江戸時代後半より財力を蓄えてきたようで、世代毎に分家を増やしている。幕末期の譲三の祖父・伝蔵の時代にも2つの分家を分け、伝蔵の3人の息子達がそれぞれの家を継いでいた。(系図参照))

 まず、長男の伝四郎が本家を継いだが子どもがなく、伝蔵の4男伝吾を養子として迎える。伝四郎からすれば末の弟を養子としたわけである。

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 伝蔵は2つの分家を作った。
次男伝四郎には、本家の西側に分家を建てた。この伝次郎の長男が穣三である。後に、譲三は本家と同じ規模で、本家の隣に家屋を建設する。これが上の写真の家である。街道沿いに建つもうひとつの屋敷では、穣三が若い時には呉服商も営んでいたし、酒造業も営み「春日正宗」という日本酒を販売もしていたという。 三男蔦次郎の分家は「下増田」と呼ばれ、本家とは離れたている。

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ちなみに伝蔵の孫世代にあたる増田一良・穣三・正一は従兄弟同士である。

と同時に、村会議員として活躍し、40歳を越えると七箇村長に就任していく。戦前の七箇村長は、第2代村長が譲三、第4・8代が正一 、第6・9代が一良と「春日の増田家3人の従兄弟たち」が、長きにわたってその座を占めている。
 
 また、明治22年に村会議が開設されたとき11名の村会議員の内、3名が増田家から出ている。その中で議員番号1の1級議員として選出され、村長決定までの議長を努めたのは増田本家の傳吾であり、穣三の叔父に当たる。増田家の七箇村での「重さ」が伝わってくる。  

  仲多度郡史に見る増田家の資産(496P)

   大正5年に編纂された仲多度郡史には、「大地主」の一覧が載せられている。項目には田畑・宅地・山林の地目に別れて所有面積や地価総額や一家の来歴も載せられている。ちなみに地価総額に地租税を掛けたものが地租支払額となる。
 地価総額の上位6名までが多度津在住であり、幕末以来の多度津の経済力の高さを示す数字となっている。まんのう町に関係のある家を列挙してみると次のようになる。
順位  氏名         住所    価総額      田   畑   来歴
1  塩田角治  多度津  103204円156町11町    商家 
9 景山甚右衛門 多度津  22239円 29町 1   前衆議院議員 
10 琴陵光煕    琴平      22176円 38町 0,4      金毘羅宮宮司
12 新名功   吉野村   20802円 39町 0,8     元庄屋
18 三原一彦  真野村   17573円 39町  山林23町   代々の農家
32 赤松秀太郎 東高篠村  9411円  15町 山林7町 元庄屋 村会員
34 安達熊三郎 吉野村9002円 17町 山林24町 造田より転居 村長
36 大西豊輝   十郷村 8627円 20町 山林42町  代々農家 村会議員
38 増田一良    七箇村8393円 15町 山林114町  代々農家  郡会議員
40 谷口輿市 東高篠村 6522円 10町                  農家  郡会議員
41 竹林幾子  西高篠村 2607円 11町       元大庄屋  
43 石井虎治郎 神野村6600円11町 山林3町 琴平銀行重役 郡会議員
45 大西 貞次郎  十郷村 4946円 12町  山林5町   代々の農家 村長
47 斉藤 英一  吉野村  4883円 14町 山林12        元商家
48 増田米三郎 七箇村 4205円 10町 山林11町   七箇村助役

 郡会議員は「大地主クラブ」と呼ばれたというが、確かに地主が郡会議員に推されていたことがこの表からも分かる。彼らは政府の進める富国強兵には総論賛成だが、軍備増強ための増税=地租引き上げ等には頑強に抵抗した。その一つの拠点が郡議会であった。

七箇村の最大の土地所有者は増田一良で増田本家

50町を越える「大地主」と呼べるほどの田畑を所有していたわけではない。それでも山林所有面積は100町を超えており、仲多度郡最大の山林主である。
 この中に増田穣三の名前は見当たらない。増田家は江戸時代以来の庄屋を務める家柄ではなかったことは前述した。譲三の家は、呉服商や酒造業を営んでいたとしても後に、県会議員や国会議員として活躍するための経済的な基盤がどこにあったのか現時点では分からない。

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群議会議員時代の若き増田一良(増田本家の総領で、穣三の従兄弟に当たる)
 「仲多度郡史」の編纂に携わった増田正三は、当時の七箇村町増田正一(下増田家)の長男に当たる。この郡史完成の時には、叔父・譲三が国会議員で、本家の叔父・一良が県会議員、父・正三が村長の職を勤めたいたようだ。勤めていたようだ。

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 村議会開設の際に、分家の増田穣三の家からは、父伝次郎も生存していたが出馬せず33歳の穣三が選出されている。「新しい時代を担うのは若い世代で」という新時代を迎えた明治の風潮なのかもしれない。
 譲三は、「名望家」としての増田家を背負う形で、村議→助役→村長→県会議員→衆議院議員へと成長していく。そして本家を継いだ一良も譲三の後を追いかけることになる。


増田穣三がどんな教育を受けたのかを見てみましょう。

 穣三の生まれは安政元年(1855年)。
安政の大獄間際で幕末に向けて時代が激流化していく時期だ。金比羅山のお膝元である天領榎井では、日柳燕石が博徒の親分としてブイブイ言わせ、後には高杉晋作などの尊皇の志士たちが琴平の地を活発に行き交う時期に当たる。

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三舟の父 日柳燕石

 こんな時に幼年期を過ごした穣三が師事した人物については「日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め」と3名挙げられている。
まず師事したのは、琴平の日柳三舟 (くさなぎ さんしゅう)
 三舟は天領榎井(現琴平町)の日柳燕石の長男で、穣三より19歳年上にあたる。幕末、父燕石は、倉敷代官所の追手から高杉晋作を逃がした罪で4年間の獄中生活を高松で送っていた。明治維新になると新政府により出獄を許され、官軍の書記官的な役割で従軍し、鳥羽伏見の戦いに参加し、その後越後の柏崎で病死する。その期間、三舟は父を投獄者に持つ身として、医院を閉めて榎井で塾を開いたようだ。そこへ幼い日の穣三が通っていたことになる。

 父燕石の死後、三舟は伝手を頼って大阪に出て行く。その後、栄達の道を歩み大阪府学務課長を務め、大阪師範学校長に就任。さらに盲唖学校愛育社を創設し、国定教科書の原型を作るなど教育面で活躍する。

 三舟については、増田本家の総領で穣三の従兄弟に当たる増田一良が次のような回顧文を残している。 

従兄弟の増田穣三氏が若い頃に、呉服商を営んでおり、わが妹の婚衣の呉服仕込みのために京都に同行したことがある。その際の帰路、穣三氏が幼年期に師事した大阪の日柳三船先生を訪問するのに同行した。三船先生は那珂郡榎井村の出身で維新の勤王家として知られた日柳燕石先生の長男である。当時は、大阪府参事官を勤め大阪に在住であった。
 いろいろな話をしている内に、先生がかつて吾家に立ち寄ったことがあることが分かった。吾屋敷にそびえる巨木の榎に話が及び、記念に「古翠軒」という家の号を書き下された。今、わが家の居室に掲げられている大きな額がそれである。
 この回顧資料からは増田家本家には榎木の巨木が邸内にそびえ立ち、周辺からの目印になっていたこと。それが戦後の昭和38年に、風もないのに倒れたことが記されている。続いて、妹の婚礼衣装の買付の京都からの帰路に、大阪参事官を務めていた日柳三舟に会いに行き歓待を受け、自宅の榎の巨木にちなんで「古翠軒」という家の号を揮毫してもらったことが回顧されている。
 この回顧分から増田穣三が日柳三舟に師事していたことが裏付けられる。
穣三は幼い足で、春日から堀切峠を抜けて神野村を通って榎井にある三舟の下へ8キロの道のりを通っていたのだ。この道は10年後には、山下谷次が琴平神宮の明道黌で学ぶために通った道でもある。そして、この「通学路」は、後に穣三が村長として「里道改修」に取組み、現在の県道「丸亀ー三好線」に格上げされ、東山峠から阿波へとつながる県道に「昇格」していく。それは、まだまだ先のことである。

次に師事したのが丸亀の中村三蕉である 

 1817年(文化14年)生まれで明治維新を50歳前後で迎えた丸亀藩士である。上京し昌平校で学び、藩主の侍講、藩校正明館教授を勤めるなど丸亀藩で学問上の指導的な位置にあった人物である。維新後は小・中学校でも教壇に立ち、明治27年8月27日に78歳で死去している。増田穣三は、琴平の日柳三舟に学んだ後に丸亀まで通い、中村三蕉の下でさらに漢学・儒学・漢詩創作などの素養を深めたのだろう。

三人目が高松の黒木啓吾である。

  この人物については、現在のところ資料が見当たらない。推察としては、まんのう町吉野の大宮神社の社家である黒木家につながる人物ではないかと思う。黒木家は江戸時代から続く漢学者の家系で、幕末期の日柳燕石らに学んだ黒木茂矩が高松藩藩校・講道館学寮教授、教部省の神道教導職、金刀比羅宮の禰宜(ねぎ)を務めるなど、この時期の讃岐の国学神学をリードした人物である。明治初期の廃物運動の中讃地区での中心人物でもある。増田穣三の幼なじみで初代の七箇村村長となる田岡泰や財田の大久保諶之丞の弟彦三郎も高松在住の黒本茂矩のもとで学んだとある。しかし、黒木啓吾について不明で今後の課題である。

増田穣三が学んだ「学問」とは、どんなものだったのか?

 明治維新の前と後を考える場合、政治的には「維新」と言う不連続面に光を当てて語られることが多い。しかし、農村部では生活・文化様式や価値観においては、江戸時代とあまり変化はない。「明治維新」が目に見える形で地方にまでやってくるのは、鉄道が敷かれ蒸気機関車が琴平まで通い出したり、旧丸亀中学本館のような西洋風の公共建築物が姿を見せるもっと後のことだ。農村部では、着ているものも、食べるものも、家も変わりなく江戸と明治初期は続いており、連続面の方が多い。
 例えば、増田一良の母親の出里である羽床の宮武家は、反骨のジャーナリスト宮武外骨を世に送り出している。その外骨が明治初期に東京遊学の際に、大地主である父親が求めたのは「将来の地主層としてのつきあいに必要な漢詩・儒学・華道・茶道を身につけて帰ってくること」であったという。英語を学び洋学を身につけよという発想は、いまだない。また、この時代はには学制も整備されておらず、帝国大学もなく教育による「立身出世」という社会システムも未整備だった。田舎においては江戸時代の価値観からまだ大きく変化はしていない。
 そのため地主達の師弟教育は、従来通りの「和漢の学」が中心だった。穣三も漢学・儒学に加えて漢詩、書道、華道という農村部の名望家にとって必須教養とされるものを学んだのは自然なことだった。

 若き日の増田穣三が最も惹かれたのは何だったのか。

 穣三の顕彰碑には、次のような部分がある。
「如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め、終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり」という部分だ。
  華道に打ち込み、家元を継承し多くの門下生を持ったという。つまり、若き日の彼は、政治家としてよりも華道の師匠として、人生を出発させたようだ。その経緯を見ていきたい。  

未生流華道の師 園田如松斉について 

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まんのう町宮田の西光寺(法然堂)の園田如松斉の石碑
 増田穣三の華道の師匠に当たる園田如松斉の碑文が宮田の西光寺(法然堂)に残っていると聞いて行ってみた。琴平から国道32号を南に2㎞程南下すると樅ノ木峠への傾斜がきつくなる。その国道から200㍍ほど西側に西光寺はある。法然が流刑となった際に、この地までやって来たとされ地元では法然堂と呼ばれている。

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園田如松斉の顕彰碑(まんのう町宮田 法然堂)
 その境内の本堂の前に園田如松斉の顕彰碑は建てられていた。碑文内容は仲南町誌に掲載されている。意訳すると次のようになる。 
如松斉は丹波の国、園田市左衛門の二男である。
悟譽蓬山和尚と称し、浄土宗西山派の僧侶で文久2年宮田の西光寺の第17世住職となり堂塔の修繕などを行いその功績著しかった。
 明治4年2月10日、生間の豊島家の持庵に移住して本尊薬師如来の奉祭にあたった。生花を好み未生流の師範として遠近から集り来る者が多く、自庵で教授するばかりか各地方に招かれて出張指導した。その結果、広く那珂郡南部一帯に普及発展して門弟は六百余名に達した。
明治16年2月17日死去、享年76歳。
春日の増田秋峰(穣三)は、その高弟で皆伝を許された。
明治23年4月増田穣三らによって、西光寺境内にこの碑が建てられた。
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 碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいるが、その先頭にあるのは増田秋峰(穣三)である。その次には、穣三の幼なじみの田岡泰の名がある。3番目は佐文の法照寺5代住職三好霊順である。
  この碑文が建てられたのは明治22年、如松斉没後7回忌の年に当たる。この年、初めて七箇村会が開かれ、増田穣三も田岡泰も議員に共に33歳で選出される。そして、議員互選で村長に選ばれたのは田岡泰であった。 

この碑文の発起人の筆頭に増田穣三の名前があると言うことは、どういうことを意味するのか。

それは、年若い穣三が如松斉亡き後の門下を束ね指導し、その実績を背景に名実共に後継者となっていたことが推察される。

未生流(みしょう)華道とは、どんな流派だったのか。

  未生流は、文化文政時代に未生齋一甫(通称:山村山碩(さんせき)によって創流され、大坂を中心に幕末から明治にかけて広がった華道の新しい流だという。
 その目指すものは、陰陽五行説・老荘思想・仏教の宗教的観念を根本的思想おき、挿花を通じ自己の悟りを開くという精神的に極めて高い境地を目指した。また、直角二等辺三角形に役枝を配する明快な花形に込められた理論と哲学は、新しく「華道」と呼ぶにふさわしい道を開こうとするもので、明治という新しい時代にマッチした教えだと受けいれられた。

未生流を、中讃地域に最初に持ち込んだのが如松斉だった。

そういう意味では如松斉は、西讃地域の華道の新潮流の先頭にいた人物と言えよう。その流れの中に若き増田穣三は飛び込んでいき、若き後継者に成長していく。幼年期に身につけた儒学・漢学・漢詩の素養を花を活けるという手段で一つの世界を表現し、作り上げていくという作為がピッタリと来たのかもしれない。

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未生流(みしょう)華道の作品

なぜ園田如松斉の後を、若い穣三が継ぐことになったのか?

仲南町誌(584P)には、晩年の如松斉が穣三に対して、強い思い入れを持っていたことを伝える次のような記述がある。
「園田如松斉は病伏中も若き高弟増田穣三に対して、腹の上に花台を置いて指導し皆伝を許可。」とあり、
 死を目前にその腹の上に花台を置いて、臨終の際まで指導を行い経験の少ない穣三に皆伝を許可したと伝えられる。
 穣三顕彰碑文には「(園田如松斉の)家元を継承し、夥多の門下生を出すに至れり」と刻まれている。後継者候補として、彼よりも年上で経験豊富な人物は何人もいたと思われるが穣三が選ばれたのはどうしてか? それは、若き穣三の中に、多くの門下生をまとめ上げ、指導していく寛容力や人間的な魅力があると如松斉は見抜いたのではないか。
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秋峰とは増田穣三の号 佐文の尾﨑伝次に出された免状 

 いずれにせよ27歳で後継者となった穣三は一門を束ね、指導していく責務を果たしていく。それが新たな人間関係を結んだり接待術・交流・交渉力などを養うことにつながり、後の政治家としての素養ともなる。
  この時期の周囲の穣三に対してのイメージは、「増田家分家の若旦那」「未生流華道の先生」「歌舞伎芝居の浄瑠璃太夫」という所ではなかったか。
 

田穣三銅像の台座碑文には何が書かれているの?

仲南町史を調べてみると増田穣三についての記述は何カ所かありました。銅像が建つくらいだから町誌に載るのも当たりまえかもしれません。以下町誌に載せられている台座の文章を紹介します。
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増田穣三の銅像碑文(仲南町誌1319P掲載分より) 
安政元年(1858 8月15日)生 昭和14年(1939年2月22日)没
春日 増田伝二郎の長男。秋峰と号す。翁姓は増田 安政5年8月15日を持って讃の琴平の東南七箇村に生る。伝次郎長広の長男にして母は近石氏なり 初め喜代太郎と称し後穣三と改む。秋峰洗耳は其に其号なり 幼にして頴悟俊敏 日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め 又如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり 
明治23年 村会議員と為り 
31年 名誉村長に推され又琴平榎井神野七箇一町三村道路改修組合長と為り日夜力を郷土の開発に尽くす 
33年 香川県会議員に挙げられ爾後当選三回に及ぶ 
    此の間参事会員副議長議長等に進展して能く其職務を全うす 
35年 郷村小学校敷地を買収して校舎を築き以て児童教育の根源を定め又同村基本財産たる山村三百余町歩を購入して禁養の端を開き以て副産物の増殖を図れり 
45年 衆議院議員に挙げられ
大正4年再び選ばれて倍々国事に盡痙する所あり 
    其年十一月大礼参列の光栄を荷ふ 
    是より先四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走効績最も大なりと為す。翁の事に当るや熱実周到其の企画する所一一肯?に中る故に衆望常に翁に帰す。
今年八十にして康健壮者の如く猶花道を嗜みて目々風雅を提唱す郷党の有志百謀って翁の寿像を造り以て不朽の功労に酬いんとす 。 翁と姻戚の間に在り遂に不文を顧み字其行状を綴ると云爾
昭和十二年五月
       東京 梅園良正 撰書
 
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 碑文の中にもあるように増田穣三が生前80歳の時に建てられたよ

うです。年表で示すと
1934 昭和9年9月 増田一良 第6代七箇村長就任
1937 昭和12年  増田穣三の銅像建立(七箇村役場前)
         → S18年銅像供出 
1938 昭和13年  山下谷次の銅像建立(村会の決議で)
         → S18年銅像供出
1939 昭和14年  2・22 増田穣三 高松で死去(82)
       七箇村村葬により手厚く葬られた。
1963 昭和38年3月 増田穣三の銅像が塩入駅前に再建 
          その際に顕彰碑は以前の物を使用。
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 建立を進めたのは当時の町長増田一良で、増田穣三とは従兄弟にあっるようです。最初、七箇村役場前(現在の協栄農協七箇支所)に等身大のものが建てられました。しかし、戦時中の金属供出のため撤去。そして、戦後になって、場所を変えて塩入駅前に再建。
ということでしょうか。 
増田穣三について分かったことは?
第2代の七箇村長と県会議員を兼務しながら、大正時代の初めに衆議

院議員として国政にも参加した人物のようです。なかなか面白くなっ

てきました。この顕彰碑文と町誌を参考にもう少し調べてみます。
 

 土讃線塩入駅を見守るように立つ銅像は?

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まんのう町塩入駅
土讃線塩入駅を見守るように立つ銅像。
かつてから気になっていた。
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増田譲三像
改めて眺めて見る。
着物姿で少し前屈みの姿勢、身長も大きくはない
威風堂々という印象はない。
台座には「増田穣三」とある。

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そして台座には3面にわたって業績が刻まれている。
しかし、摩耗していて読み取るには難しい。

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       増田譲三像「昭和38年3月銅像再建」のプレートが埋め込んである。
再建と言うことは、一度は姿を消したということ?

与えられた情報はこれだけ。
これだけの情報をベースにこの人物について調べて行きたい。
「増田穣三」って、どんな人? のスタートです。



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