瀬戸の島から

カテゴリ: 讃岐古代史

法勲寺跡 讃岐国名勝図会
飯野山と讃留霊王神社・法勲寺跡(讃岐国名勝図会) 
神櫛王(讃留霊王)伝説の中には、讃岐の古代綾氏の大束川流域への勢力拡大の痕跡が隠されているのではないかという視点で何度か取り上げてきました。その文脈の中で、飯山町の法勲寺は「綾氏の氏寺」としてきました。果たして、そう言えるのかどうか、法勲寺について見ておくことにします。なお法勲寺の発掘調査は行われていません。今のところ「法勲寺村史(昭和31年)」よりも詳しい資料はないようです。テキストは「飯山町史 155P」です。

飯山町誌 (香川県)(飯山町誌編さん委員会編 ) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

ここには、法勲寺周辺の条里制について次のように記されています。
① 寺跡の規模は一町四方が想定するも、未発掘のため根拠は不明
② 寺域の主軸線は真北方向、その根拠は寺域内や周辺の田畑の方角が真北を向くものが多いため
③ 寺域東側には真北から西に30度振れた条里地割りがあるので、寺院建立後に、条里制が施行された
法勲寺条里制
法勲寺(丸亀市飯山町)周辺の条里制復元
②③については、30度傾いた条里制遺構の中に法勲寺跡周辺は、入っていないことが分かります。これは、7世紀末の丸亀平野の条里制開始よりも早い時期に、法勲寺建立が始まっていたとも考えられます。しかし、次のような異論もあります。

「西の讃留霊王神社が鎮座する低丘陵は真北方向に延びていて、条里制施行期には農地にはならなかった。そのため条里地割区に入らず、その後の後世に開墾された。そのため自然地形そのままの真北方向の地割りができた。

近年になって丸亀平野の条里制は、古代に一気に進められたものではなく、中世までの長い時間をかけて整備されていったものであると研究者は考えています。どちらにしても、城山の古代山城・南海道・条里制施行・郡衙・法勲寺は7世紀末の同時期に出現した物といえるようです。

法勲寺の伽藍配置は、どうなっていたのでしょうか? 

法勲寺跡の復元想像図(昭和32年発行「法勲寺村史」)
最初に押さえておきたいのは、これは「想像図」であることです。
法勲寺は発掘調査が行われていないので、詳しいことは分からないというのが研究者の立場です。
法勲寺の伽藍推定図を見ておきましょう。
法勲寺跡
古代法勲寺跡 伽藍推定図(飯山町史754P)
まず五重塔跡について見ていくことにします。
 寛政の順道帳に「塔本」と記されている所が明治20年(1887)に開墾されました。その時に、雑草に覆われた土の下に炭に埋もれて、礎石が方四間(一辺約750㎝)の正方形に築かれていたのが出てきました。この時に、礎石は割られて、多くは原川常楽寺西の川岸の築造に石材として使われたと伝えられます。また、この時に中心部から一坪(約3,3㎡)の桃を逆さにした巨大な石がでてきました。これが、五重塔の「心礎」とされています。
DSC00396法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎(復元)
上部中央には、直径三尺二寸(約96㎝)、深さ三寸(約9㎝)の皿形が掘られています。この「心礎」も、石材として使うために割られたようです。その四分の一の一部が法勲寺の庭に保存されていました。それを復元したのがこの「心礎」になるようです。
 金堂の跡
 五重塔跡の真東に、経堂・鐘堂とかの跡と呼ばれる2つの塚が大正十年(1921)ごろまではあったようです。これが金堂の跡とされています。しかし、ここには礎石は残っていません。しかし、この東側の逆川に大きな礎石が川床や岸から発見されています。どうやら近世に、逆川の護岸や修理に使われたようです。
講堂跡は、現在の法勲寺薬師堂がある所とされます。
薬師堂周辺には礎石がごろごろとしています。特に薬師堂裏には大きな楠が映えています。この木は、瓦などをうず高くつまれた中から生え出たものですが、その根に囲まれた礎石が一つあります。これは、「創建当時の位置に残された唯一の礎石」と飯山町史は記します。

現存する礎石について、飯山町史は次のように整理しています。
現法勲寺境内に保存されているもの
DSC00406法勲寺礎石
①・薬師堂裏の楠木の根に包まれた礎石1個

DSC00407法勲寺
②・法勲寺薬師堂の礎石4個 + 石之塔碑の台石 +
   ・供養塔の台石
DSC00408法勲寺礎石
③現法勲寺本堂南の沓脱石
  
④前庭 二個
⑤手水鉢に活用
⑥南庭 一個
⑦裏庭 一個
他に移動し活用されているもの
飯山南小学校「ふるさとの庭」 二個
讃留霊王神社 御旅所
讃留霊王神社 地神社の台石・前石
原川十王堂 手水鉢
原川墓地の輿置場
名地神社 手水鉢の台
DSC00397法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎と礎石群(讃留霊王神社 御旅所)
五重塔心礎の背後には、川から出てきた礎石が並べられています。
グーグル地図には、ここが「古代法勲寺跡」とされていますが、誤りです。ここにあるものは、運ばれてここに並べられているものです。
 
法勲寺瓦一覧
              
 飯山町史は、法勲寺の古瓦を次のように紹介しています。
①瓦は白鳳時代から室町時代のものまで各種ある。
②軒丸瓦は八種類、軒平瓦は五種類、珍しい棟端瓦もある。
③最古のものは、素縁八葉素弁蓮華文軒丸瓦と鋸歯文縁六葉単弁蓮華文軒丸瓦で、白鳳時代のもので、県下では法勲寺以外からは出てこない特有のもの。
④ 白鳳期の瓦が出ているので、法勲寺の創建期は白鳳期
⑤特異な瓦としては、平安時代の素縁唐草文帯八葉複弁蓮華文軒丸瓦。この棟端瓦は、格子の各方形の中に圈円を配し、その中央に細い隆線で車軸風に八葉蓮華文を描いた珍しいもの。


①からは、室町時代まで瓦改修がおこなわれていたことが分かります。室町時代までは、法勲寺は保護者の支援を受けて存続していたようです。その保護者が綾氏の後継「讃岐藤原氏」であったとしておきます。 
 法勲寺蓮花文棟端飾瓦
法勲寺 蓮花文棟端飾瓦

私が古代法勲寺の瓦の中で気になるのは、「蓮花文棟端飾瓦」です。この現存部は縦8㎝、横15㎝の小さな破片でしかありません。しかし、これについて研究者は次のように指摘します。
その平坦な表面には、 一辺6㎝の正方形が設けられ、中に径五㎝の円を描き、細く先の尖った、 一見車軸のような八葉蓮花文が飾られている。もとはこのような均一文様が全体に表されていたもので全国的に珍しいものである。厚さは3㎝、右下方に丸瓦を填め込むための浅い割り込みが見える。胎土は細かく、一異面には、小さな砂粒がところどころに認められる。焼成は、やや軟質のようで、中心部に芯が残り、均質には焼けていない。色調は灰白色である.

この瓦について井上潔は、次のように紹介しています。
朝鮮の複数蓮華紋棟端飾瓦の諸例で気づくことだが統一新羅の盛期から末期へと時代が下がるにつれて、紋様面の蓮華紋は漸次小形化して簡略化される傾向をとっている。わが国の複数蓮華紋棟端瓦のうちでも香川県綾歌部、法勲寺出土例は正にこのような退化傾向を示す特殊なものである。
‥…このような特殊な棟端飾瓦が存した背景に、当地方における新羅系渡来者や、その後裔の活躍によってもたらされた統一新羅文化の彩響が考えられるのである。この小さな破片から復元をこころみたのが上の図である。総高25㎝、横幅32㎝を測り、八葉細弁蓮花文を17個配列し、上辺はゆるいカープを描いた横長形の棟端飾瓦になる。
古代法勲寺の瓦には、統一新羅の文化の影響が見られると研究者は指摘します。新羅系の瓦技術者たちがやってきていたことを押さえておきます。法勲寺建立については、古代文献に何も書かれていないんで、これ以上のことは分からないようです。
 
讃留霊王(神櫛王)の悪魚伝説の中には、退治後に悪魚の怨念がしきりに里人を苦しめたので、天平年間に行基が福江に魚の御堂を建て、後に法勲寺としたとあります。

悪魚退治伝説 坂出
坂出福江の魚の御堂(現坂出高校校内)
 その後、延暦13年(793)に、坂出の福江から空海が讃留霊王の墓地のある現在地に移し、法勲寺の再興に力を尽くしたとされます。ここには古代法勲寺のはじまりは、坂出福江に建立された魚の御堂が、空海によって現在地に移されたと伝えられています。しかし、先ほど見たように法勲寺跡からは白鳳時代(645頃~710頃)の古瓦が出てきています。ここからは法勲寺建立は、行基や空海よりも古く、白鳳時代には姿を見せていたことになります。また讃留霊王の悪魚退治伝説は、日本書紀などの古代書物には登場しません。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)
 讃留霊王伝説が登場するのは、中世の綾氏系図の巻頭に書かれた「綾氏顕彰」のための物語であることは以前にお話ししました。
悪魚退治伝説背景

つまり、綾氏が中世武士団の統領として一族の誇りと団結心を高まるために書かれたのが讃留霊王伝説だと研究者は考えています。そして、それを書いたのが法勲寺を継承する島田寺の僧侶なのです。南北朝時代の「綾氏系図」には法勲寺の名が見えることから、綾氏の氏寺と研究者は考えています。
 しかし、古代に鵜足郡に綾氏が居住した史料はありません。また綾氏系図も中世になって書かれたものなので、法勲寺が綾氏が建立したとは言い切れないようです。そんな中で、綾川流域の阿野郡を基盤とする綾氏が、坂出福江を拠点に大束川流域に勢力を伸ばしてきたという仮説を、研究者の中には考えている人達がいます。それらの仮説は以前にも紹介した通りです。

最後に白鳳時代の法勲寺周辺を見ておきましょう。
  飯山高校の西側のバイパス工事の際に発掘された丸亀市飯山町「岸の上遺跡」からは、次のようなものが出てきました。
①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。
②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。鵜足郡郡衙跡と考えられる。

 8世紀初頭の法勲寺周辺(復元想像図)
つまり、南海道に隣接して柵のあるエリアに、倉庫が並んでいたのです。「正倉が並んでいたら郡衙と思え」というのが研究者の合い言葉のようです。鵜足郡の郡衙の可能性が高まります。

白鳳時代の法勲寺周辺を描いた想像復元図を見ておきましょう。
岸の上遺跡 イラスト

①額坂から伸びてきた南海道が飯野山の南から、那珂郡の郡家を経て、多度郡善通寺に向けて一直線に引かれている
②南海道を基準線にして条里制が整備
③南海道周辺に地元郡司(綾氏?)は、郡衙と居宅設営
④郡司(綾氏)は、氏寺である古代寺院である法勲寺建立
⑤当時の土器川は、現在の本流以外に大束川方面に流れ込む支流もあり、河川流域の条里制整備は中世まで持ち越される。
岸の上遺跡 四国学院遺跡と南海道2
南海道と多度郡郡衙・善通寺の位置関係
以上からは、8世紀初頭の丸亀平野には東西に一直線に南海道が整備され、鵜足・那珂・多度の各郡司が郡衙や居宅・氏寺を整備していたと研究者は考えています。このような光景は、律令制の整備とともに出現したものです。しかし、律令制は百年もしないうちに行き詰まってしまいます。郡司の役割は機能低下して、地方豪族にとって実入の少ない、魅力のないポストになります。郡司達は、多度郡の佐伯氏のように郡司の地位を捨て、改姓して平安京に出て行き中央貴族となる道を選ぶ一族も出てきます。そのため郡衙は衰退していきます。郡衙が活発に地方政治の拠点として機能していたのは、百年余りであったことは以前にお話ししました。

 一方、在庁官人として勢力を高め、それを背景に武士団に成長して行く一族も現れます。それが綾氏から中世武士団へ成長・脱皮していく讃岐藤原氏です。讃岐藤原氏の初期の統領は、大束川から綾川を遡った羽床を勢力とした羽床氏で、初期には大束川流域に一族が拡がっていました。その中世の讃岐藤原氏の一族の氏寺が古代法勲寺から成長した島田寺のようです。

讃岐藤原氏分布図

 こうして讃岐藤原氏の氏寺である島田寺は、讃留霊王(神櫛王)伝説の流布拠点となっていきます。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献       飯山町史 155P





    買田岡下遺跡と弘安寺
買田岡下遺跡(R32号満濃バイパスとR377号の交叉点東側)
国道32号のバイパス工事の際に、買田の西村ジョイの南側から古代から近世まで続く村落遺跡が出てきています。これが買田岡下遺跡です。今回は、この遺跡を見ていくことにします。
テキストは「買田岡下遺跡調査報告書 2004年」です。

買田岡下遺跡 写真
買田岡下遺跡
 まず、その位置を確認しておきます。国道32号線と国道377号線の交差する買田交叉点の東側、西村ジョイの南側のバイパス下なります。現場に立って見ると、南側の恵光寺のある尾根から緩斜面が拡がります。北側は、金倉川が蛇行しながら東西に流れ、金毘羅山の丘陵(石淵)にあたって、北側に流れを変えます。

買田岡下遺跡の周辺遺跡について、調査報告書は次のように記します。
「背後の丘陵上には古墳時代中・後期の小古墳群の存在が知られるがその実態は詳らかではない。また白鳳期創建の弘安寺(廃寺)は 金倉川を挟んで約1,3km北方に位置する。律令制下、那珂郡真野郷は金倉川湾曲部以南の南岸部分一帯に比定され、買田地区はその西部に位置する。以東の地区とは標高120m前後の買田峠の丘陵によって隔てられており、鎌倉期には園城寺領買田庄が成立する。」

まんのう町条里制と遺跡

買田岡下遺跡周辺遺跡(赤は条里制跡)
以上を要約整理すると
①東の買田峠にはかつては、数多くの群集墳があり、岸の上の椿谷には中型の横穴石室を持つ古墳
②南の永生病院の西側には中世山城の丸山城跡
③北側や東側の平野部に白鳳期創建の弘安寺(廃寺)
④丸亀平野の条里区画の南端部の外側に位置する、
以上からは、買田岡下遺跡の周辺には
古墳時代の群集墳
→ 古墳後期の中型横穴式石室 
→ 白鳳期創建の弘安寺 
→ 那珂郡条里制の最南端
などが継続して、作られてきたことが分かります。ここからは、丸亀平野の南端エリアの開発を進めた古代有力者の存在が垣間見えると私は考えてきました。弘安寺の白鳳時代の瓦は、善通寺の影響を受けながら作られ、その同笵鏡が讃岐山脈を越えた阿波郡里(美馬市)の古代寺院から見つかっていることは以前にお話ししました。ここからは、古代から塩などの交易を通じて古代から阿波三好地域との活発な交流が行われていたことがうかがえます。そのような拠点集落が買田岡下遺跡であったのではないかという期待が私にはありました。

さて、発掘の結果何が出てきたのでしょうか。
買田岡下遺跡からは、古代・中世・近世の3つの時代の柱穴がたくさん出てきました。掘立柱建物跡は、下図のよう3つのエリアで見つかっていますが、それぞれ建てられた時代が次のように異なります。

買田岡下遺跡 区域

Ⅰ区中央は中世
Ⅱ区西南は古代
Ⅵ区は近世
 ここからは古代以来、集落が形成され続けてきたことが分かります。そして、古代と中世では、その存立基盤が次のように異なるとします。
古代 金倉川沿いのエリアを生産基盤として、阿波との交易拠点。
中世 恵光寺方面の南に延びる谷を開発し、谷田開発進めた勢力の拠点


買田岡下遺跡の注目点は、古代の大型の掘立柱建物の柱穴が大量に出てきたことです。
買田岡下遺跡 SB20 庇付
Ⅱ区南の大型の掘立柱建物 SB20とSB21

真っ直ぐに並ぶ柱穴を見たときには、「倉庫群」と思いました。「古代倉庫群=郡衙跡」とされています。そうだとすると、ここに那珂郡南部の郡衙跡的な施設があったことになります。さてどうなのでしょうか。

買田岡下遺跡SB20
Ⅱ区南のSB20を見ていくことにします。

買田岡下遺跡 SB20
SB20の平面図(南から)
この平面図からは次のようなことが分かります。
①梁間2間 (6.4m)× 桁行 5間(8,4m)
②柱穴平面は、径約0,4~0,7mの 円形か隅丸方形
③下側3列目の小さな柱穴は庇用。
④建物内部から須恵器杯蓋のつまみ、 土師質土鍋口縁部片(7世紀中頃~9世紀中頃)が出土
研究者は床面積が40㎡以上の古代の建物を「大型建築物」と呼んで「特殊用途」的建物と考えています。その基準からすれば床面積が約54㎡あるので、特殊用途の建築物です。しかし、よく見ると、3列の柱穴は小さいことです。これが庇用の柱穴だったようです。南側に庇があったことになります。倉庫ではなく有力者の居館だったと研究者は考えています。Ⅱ区を拡大して見ます。

買田岡下遺跡 古代部分拡大図
買田岡下遺跡Ⅱ区南 (左から SB20・SB21・SB25)
 3つの大型建物が並列して並んでいます。この中で廂や床束があるのが一番左のSB20で、これが主屋のようです。これを中心に2棟の副屋が配置されます。つまり、買田岡下遺跡には、9世紀半ばに廂付大型建物が3棟並んで建っていて、これは有力者の居館であったと研究者は判断します。

買田岡下遺跡 大型建物が並列する遺跡の類例
前田東・汲仏遺跡との比較
これと同じように、廂付の大型建物が「L」字に配置されているのが前田東・汲仏遺跡で、時代的には10世紀中頃のものとされます。これらは、丘陵の裾部にあったので地形的な制約があって真っ直ぐには配置されなかったためL字上になっているようです。
 研究者が注目するのは、建物の間に広場的空間があるかどうかです
中国の古代王朝の王宮などには、宮殿に南面して広場があり、ここが儀式やイヴェントの会場となる政治的空間でした。これが日本の藤原京や平城京にも取り入れられ、それが讃岐の国府にも見られます。そして、善通寺の稻木北遺跡には広場的空間を持つので、多度郡の郡衙候補を研究者は考えているようです。つまり、政治的空間である郡衛などには、南面して広場があるのです。
稻木北遺跡(8世紀前葉)

 買田岡下遺跡には、それがありません。あるのは居住に適した庇付大型建物です。そのため古代の郡衛などの政庁的建物ではなかったと研究者は判断します。私の期待は、見事に外れました。しかし、SB20からは、土師質土鍋口縁部片(7世紀中頃~9世紀中頃)がで出土しています。ここからは、空海が満濃池再築に帰省したときには、ここには集落拠点が姿を現していたことが考えられます。
広場を持たず、大型建物が並列する遺跡の類例を見ておきましょう。
買田岡下遺跡 古代大型建物配置

前田東・中村遺跡と汲仏遺跡(10世紀前葉)
③真っ直ぐではなく方位がやや振れた廂付大型建物が3棟並ぶのが買田岡下遺跡(9 世紀中葉~9世紀後葉)
④廂付を含む大型建物が「L」字にレイアウトされているのが前田東・中村遺跡・汲仏遺跡になる。
そして③④の発展系になるのが、


⑤東山田遺跡(10c 中葉~ 11 世紀前葉)
⑥下川津遺跡(11 世紀前葉)
⑦西村遺跡10c末葉~11c)
この段階になると、主屋と副屋の関係がはっきり見えてくるようです。

 このタイプが発展して、中世方形館へ成長して行くと研究者は考えています。
古代城郭教室(Ⅴ) 中世城館はどのように誕生したのか?] - 城びと
中世方形舘

このタイプの特徴は、「主屋と幅屋の明確化」でした。讃岐の中世前半期の方形館の特徴は、溝により囲まれた空間の中央の主屋、その周囲に複数の副屋が配置されることです。ここからは、両者の間に系統性が見られます。
改めて、買田岡下遺跡の発展系を整理して起きます。
①買田岡下遺跡の建物配置は、廂付き・床束を備えた1棟の大型建物(SB20)に並んで、副屋と見られる小型建物(SB21・SB25)がある。
②その発展系の西村遺跡などは、大型建物の近くに1棟の副屋がある。買田岡下遺跡との共通性は、廂付きの大型建物に床束をもつこと、大型建物が集落経営者の居住であること。
③西村遺跡(11 世紀末~ 12 世紀前半)は、溝で囲まれた空間の中に主屋と複数の副屋が配置されている
④空港跡地遺跡1は、溝区画内部に中央の主屋を中心に副屋が整然と配置されている。
以上からは、11 世紀中頃から集落断絶期を経て、③の西村遺跡には2棟あったの大型建物が 1棟のみに絞りこまれ、溝の内側に数棟の小型建物が集約されるようになったことが分かります。このような流れの中で、中世前半期に方形館が姿を見せると研究者は考えています。そこでは、買田岡下遺跡のSB20のような床束をもつ大型建物が中世方形館の主屋に多く採用されることになります。ここでは、買田岡下遺跡の10世紀の建物群は、古代後半に出現し、中世前半の方形館(武士の舘)に繋がるタイプであることを押さえておきます。

中世初期の武士の館~文献史料・絵巻物から読み解く~ | 武将の道

つまり、買田岡下遺跡については、
①7世紀の白鳳時代からこの地を拠点にしていた古代の有力者の系譜につながる勢力
②あらたに買田の地域開発を進め中世の開発型名主につながるような新勢力の拠点の両面をもっていて①から②へ脱皮していった勢力であったことが推測できます。また、この遺跡のすぐ上には、江戸時代に庄屋を務めた永原家があります。永原家は、中世には買田丸山城の城主で、近世に帰農したと伝えられます。そうだとすれば、古代から中世、そして近世の永原家につながる系譜とも云えます。
 もっと大きな目で見れば、最初に見たように「古墳時代の群集墳 → 古墳後期の中型横穴式石室 → 白鳳期創建の弘安寺 → 那珂郡条里制の最南端」に追加して「買田地区の中世開発者(永原家の祖先)」という系譜が描けるのかも知れません。しかし、これはあくまで「想像」の世界です。どちらにしても、買田岡下遺跡は、古代の郡衛的施設ではないが、中世につながる有力者の拠点集落であったとは云えるようです。
 私がもうひとつ気になるのは、この遺跡が真野郷西部にあって、条里区画外であることです。
条里制 丸亀平野南部

上の条里制遺構図をみても赤い条里制跡は、買田岡下遺跡には及んでいません。これはここが古代の郷の中心部ではないことを示します。そういう目で、真野・吉野方面を見ると、四条方面から岸の上方面へと条里制は伸びています。丸亀平野の条里制のスタートは、7世紀末頃にスタートしたことが発掘調査から分かっています。そして、それを担ったのが国造クラスの豪族達で、彼らがその論功行賞で郡司へと成長して行くと研究者は考えています。そうだとすれば、このエリアにも条里制工事を進めた豪族がいたはずです。それが古墳時代に、買田峠に群集墳を造り、岸の上の椿谷に横穴式古墳を造営し、白鳳期になると四条地区に氏寺として弘安寺を建立したと私は考えています。しかし、その氏族の拠点としては、買田岡下遺跡は相応しくないように思えます。
以上、買田岡下遺跡について、まとめておきます。
①この遺跡は、古代には真野郷西部の条里区画外にあること。郷の中心部ではない。
②真野・吉野郷の中心は、弘安寺のあった四条地区にあったと考えられる。
③にもかかわらず買田岡下遺跡からは、帯金具や緑釉や、瓦片が多数出土しているので、この遺跡は特別な役割を持った拠点だった。
④その性格として、香川~阿波~高知のルート上にあるという立地を最大限に評価すべきと研究者は考えていること。
⑤建物配置から、郡衛の様な政治拠点ではなく、古代有力者の屋敷群であったと研究者は考えている。
⑥古代の屋敷群を継承するような形で、中世・近世の建物群が続いてあった。
⑦この遺跡のすぐ南には、丸山城城主が帰農した永原氏の家が現存すること。
⑤古代と中世では、この集落は全く別の意図で成立したことが集落であったこと。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
買田岡下遺跡調査報告書 2004年
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  前回は文献的問題から研究者が「空海が満濃池を築造した」と断定しないことをお話ししました。今回は、考古学的な立場から当時の治水・灌漑技術が丸亀平野全域に用水を送ることが出来る状態ではなかったことを見ていくことにします。                           

古代に空海が満濃池を築造したとすれば、越えなければならない土木工学上の問題が次の3つです。
①築堤技術
②治水技術
③灌漑用水網の整備
①については、大林組が近世に西嶋八兵衛が満濃池を再築した規模での試算がネット上に公表されています。これについては技術的には可能とプロジェクトチームは考えているようです。

満濃池 古代築造想定復元図2

②の治水工事のことを考える前に、その前提として当時の丸亀平野の復元地形を見ておきましょう。20世紀末の丸亀平野では、国道11号バイパス工事や、高速道路建設によって、「線」状に発掘調査が進み、弥生時代から古代の遺跡が数多く発掘されました。その結果、丸亀平野の形成史が明らかになり、その復元図が示されるようになります。例えば、善通寺王国の拠点とされる旧練兵場跡(農事試験場 + おとなと子供の病院)周辺の河川図を見てみましょう。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺旧練兵隊遺跡周辺の河川
 これを見ると次のようなことが分かります。
①善通寺市内には、東から金倉川・中谷川・弘田川の支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れていた。
②その微高地に、集落は形成されていた。
③台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを振って、まさに「暴れ龍」のような存在であった。
このような状況が変化するのは中世になってからのことで、堤防を作って治水工事が行われるようになるのは近世になってからです。放置された川は、龍のように丸亀平野を暴れ回っていたのです。  これが古代から中世にかけての丸亀平野の姿だったことは以前にお話ししました。

飯山町 秋常遺跡 土地利用図
 土器川の大束川への流れ込みがうかがえる(飯野山南部の丸亀市飯山町の土地利用図)

古代から中世にかけての丸亀平野では、いくつもの川筋が網の目のようにのたうち回りながら流れ下っていたこと、それに対して堤防を築いて、流れをコントロールするなどの積極的な対応は、余り見られなかったようです。そうだとすれば、このような丸亀平野の上に満濃池からの大規模灌漑用水路を通すことは困難です。近世には、満濃池再築と同時に、金倉川を放水路として、四条川(真野川)の流れをコントロールした上で、そのうえに灌漑用水路が通されたことは以前にお話ししました。古代では、そのような対応がとれる段階ではなかったようです。
 丸亀平野の条里制については、次のような事が分かっています
①7世紀末の条里地割は条里ラインが引かれただけで、それがすぐに工事につながったわけではない。
②丸亀平野の中世の水田化率は30~40%である。
丸亀平野の条里制.2
 かつては「古代の条里制工事が一斉にスタートし、耕地が急速に増えた」とされていました。しかし、今ではゆっくりと条里制整備はおこなわれ、極端な例だと中世になってから条里制に沿う形で開発が行われた所もあることが発掘調査からは分かっています。つまり場所によって時間差があるのです。ここでは、条里制施工が行われた7世紀末から8世紀に、急激な耕地面積の拡大や人口増加が起きたとは考えられないことを押さえておきます。
 現在私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになった光景です。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。そのエリアは「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。

弥生時代 川津遺跡灌漑用水路
川津遺跡の灌漑水路網
最後に灌漑技術について、丸亀平野の古代遺跡から出てくる溝(灌漑水路)を見ておきましょう。
どの遺跡でも、7世紀末の条里制施行期に灌漑技術が飛躍的に発展し、大型の用水路が現れたという事例は見つかっていません。潅漑施設は、小さな川や出水などの小規模水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものです。この時期に灌漑技術が飛躍的に向上したということはないようです。
 大規模な溝(用水路)が出てくるのは、平安末頃以降です。
丸亀平野の川西地区、郡家地区、龍川地区では地割に沿って、大きな溝(用水路)が出てきました。大規模な溝が掘られるようになったことからは、灌漑技術の革新がうかがえます。しかし、この規模の用水路では、近世の満濃池規模の水量を流すにはとても耐えれるものではありません。丸亀平野からは、満濃池規模の大規模ため池の水を流す古代の用水路跡は出てきていません。
ちなみに、この時期の水路は条里制の坪界に位置しないものも多くあります。この理由を研究者は次のように考えています。
 小河川の付替工事の場合を考えると、より広い潅漑エリアに配水するためには、それまでは、小規模な溝を小刻みに繋いでいく方法が取られていました。それが大規模用水路を作る場合には、横方向の微妙な位置調整が必要となります。田地割がすでに完成している地域では、それまでの地割との大きなずれは避け、地割に沿って横方向に導水する水路が必要が出てきます。これが平安期以後に横軸の溝が多く作られるようになった理由と研究者は考えています。
ここでは次の点を押さえておきます。

「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」

 以上から以下のように云えます。
①古代は暴れ川をコントロールする治水能力がなかったこと
②大規模な灌漑用水整備は古代末以後のこと
つまり8世紀の空海の時代には、満濃池本体は作ることができるとしても、それを流すための治水・灌漑能力がなかったということになります。大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力がないと、水はやってきません。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」というのは「古代の溝」を見る限りは、現実とかけ離れた話になるようです。

満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
近世の満濃池の灌漑用水網

 しかし、今昔物語などには満濃池は大きな池として紹介されています。実在しなければ、説話化されることはないので、今昔物語成立期には満濃池もあったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか。もし、満濃池が存在したとしても、それは私たちが考える規模よりも遙かに小さかったのかもしれません。満濃池については、私は分からないことだらけです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

前回は、文献の上で「牟礼の青墓」が「神櫛王墓」になっていく過程を見てきました。それを「復習」しておくと次の通りです。

神櫛王墓の変遷
牟礼の青墓が神櫛王墓に変身していく過程

①17世紀は、神櫛王は阿野郡に在住したという古代伝承が一般的でした。そして、王墓については何も触れていませんでした
②ところが18世紀初めにの南海通記で「神櫛王が山田郡を治めた」「その子孫が神内・三谷・十河の三家」と書かれました。これが次第にいろいろな本に取り上げられ世間に広がって行きます。しかし、この時点では、墳墓については何も書かれていませんでした。後に神櫛王墓となる丘陵は、青墓と呼ばれて共同墓地として利用されていました。
③3期18世紀末には『三代物語」が、「青墓が王墓で、牟礼にある」とします。その後はこれが一般化されます。
④19世紀になると、青墓の上に建つ大きな二つの立石が、その墓石であるとされます。こうして、時代が下るにつれて、神櫛王=牟礼在住説は強化されていきます。以上、神櫛王の王墓が書物で牟礼にあったとされるまでの過程を見てきました。
 それでは、共同墓地だった青墓が現在の姿になったのはいつなのでしょうか。またそれはなんのために、だれが行ったのでしょうか。
神櫛王墓看板
神櫛王墓の説明版(牟礼町)

神櫛王墓の説明版には、墓所は「草に埋もれていたのを新政府の許可を得て、高松藩主だった知事が明治2年に再営」したと書かれています。
神櫛王墓整備後
神櫛王墓の古図(牟礼町史より)

これは牟礼町史に載せられている「再営」後の王墓を描いた絵図です。王墓山と書かれていています。2つの立石以外の石造物は撤去されています。絵図の下の注記には、次のように記されています。

明治2年、御国主より沙汰ありて、牟礼村の松井谷と申す所に墓地を移した。

P1240500
          松井谷墓地の青墓地蔵尊
現在の松井谷墓地には、青墓から明治初年に移されたという青墓地蔵があることは前回に紹介した通りです。その背面には、次のように記されています。
P1240498
青墓の地蔵さま

どうして、明治になってそれまであった共同墓地が移されたのでしょうか?王墓として「再営」されたのは、どうしてなのでしょうか。
それは、幕末に畿内の天皇陵とされる陵墓が、幕府の手によって修復整備されたことと関わってくるようです。その背景を見ておきましょう。
文久山陵図 / 外池昇 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア

 文久年間に(1861年)描かれた文久山陵図です。この中には当時の天皇陵とされた陵墓修復の「ビフォアー&アフター」が描かれています。一例に崇神天皇陵をみてみます。
文久陵墓 
左:修復前 右:修復後
二つの絵図の変化点を見ると、どのような修復が行われたのかがうかがえます。よく見ると①周濠の拡張②土堤の嵩上げ、③拝所の整備 ④高木の伐採整理が行われています。この修復に幕府が垂仁天皇陵に投じた金額は749両2分。この時に、神武陵も増築されていますがそれは1万両を越える工事費がかけられいます。この時には120の伝天皇陵の修復が行われています。ここから分かることは、現在私たちが見慣れている天皇陵は、幕末の大修復(大改造・拡張工事?)を経た姿であるということです。現在の姿は幕末に調えられたモノなのです。それではどうして幕末に幕府の手で、整備が行われたのでしょうか?
天皇陵改修のねらい

 幕末に朝廷への恭順をしめすために、天領陵とされる陵墓が幕府の手によって行われたことを押さえておきます。実は同じような情勢が明治維新に高松藩を襲います。

高松藩の神櫛王墓整備目的

①それは鳥羽伏見の戦いに高松藩は幕府方として出兵し敗れます。
②薩長土肥は、江戸遠征のためにも西国の徳川幕府の親族の各松平藩の勢力を削いでおく必要がありました。そこで高松藩や松山藩など西国の五つの松平藩を朝敵とします。こうして高松藩や松山藩には朝廷から官軍に任じられた土佐藩が錦の御旗を掲げてやってきます。これに対して高松城は、鳥羽伏見の指揮官を切腹させ、恭順の意を示し降伏します。こうして高松城は土佐藩に占領下の置かれます。高松藩は、新政府に8万両の献金をするとともに、朝敵の汚名をそそぐために涙ぐましい努力を重ねています。そのような一環として行われたのが神櫛王墓修復だったようです。

神櫛王墓の宮内庁管理

①高松藩は、維新の翌年明治2年には、神櫛王墓の修復伺いを出しています。
②明治3年には、それまで青墓とよばれていた共同墓地から墓石や地蔵などの石造物が撤去され、王墓として整備が完了します。
③明治4年になって、皇子陵墓の全国調査が行われますが、その時には神櫛王墓に終了していたことになります。
こうして見ると皇子の墓としては最も早い時期に整備が行われた王墓とも云えそうです。この早さは、異様に見えます。この背景には、高松藩の政府への恭順の姿勢を示すというねらいがあったと研究者は考えています。
 先ほど見たように幕末には、天皇陵とされた陵墓の修復(改造)が幕府の手によって行われていたのは先ほど見たとおりです。それを明治維新で、高松藩は各藩に先駆けて行ったのです。これには姻戚関係にあった京都真宗興正寺派の院主のアドバイスもあったようです。

神櫛王墓のその後
その後の神櫛王墓の果たした役割は

①こうして戦前は、神櫛王は讃岐の国造りの創始者として、郷土の歴史のスタートにはかならず取り上げられる人物となります。神櫛王を知らない香川県民はいなかったはずです。そして、その王墓も牟礼にあると教えられました。②そのため戦前には戦勝祈願の場所として、信仰対象にもなっていたようです。③それが敗戦によって、皇国史観が廃止されると神櫛王が教科書に登場することはなくなり、教室で教えられることはなくなりました。こうして神櫛王と王墓は、讃岐の歴史教育から静かに退場したのです。
 一方、牟礼の王墓が神櫛王の陵墓とされることによって、阿野郡や鵜足郡の陵墓とされていた所はどうなったのでしょうか。
そのひとつである飯山町法勲寺の陵墓跡を最後に見ておきましょう。

神櫛王 法勲寺1
綾氏の氏寺とされる法勲寺跡 後方は讃岐富士
     丸亀市飯山町の讃留霊王神社から眺める讃岐富士と古代法勲寺跡です。この左手の岡の上に鎮座するのが・・
神櫛王 法勲寺の讃留霊王神社

神櫛王墓とその神社です。しかし、神櫛神社とは書かれていないことに注意して下さい。神櫛王の諡とされる讃留霊王神社とされています。どうしてでしょうか。これは明治になって、神櫛王の陵墓は庵治にあると国家が認定したためです。神櫛王のお墓がいくつもあっては困るのです。そのため他の王墓とされてきた所は、神櫛王の名を名のることが出来なくなります。そこで別名で祭られることになります。そのひとつが讃留霊王の墓です。
讃留霊王神社説明版

神社の説明版です。祭神は神櫛王でなく、弟の建貝児王(たけかいこう)になっています。そして父はヤマトタケルになっています。しかし、神櫛王とは名のっていません。
最後に、牟礼の神櫛王伝説の経緯をまとめておきます
神櫛王牟礼

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号

  P1240478
                牟礼町の神櫛王墓
前回に続いて牟礼町文化財協会総会で、お話ししたことをアップします。牟礼の神櫛王墓です。私は宮内庁管理の王墓が、白峰寺の崇徳上皇陵以外にあるのを、10年前までは知りませんでした。どうして、牟礼に神櫛王の王墓があるのかが気になって調べてみると出会ったのが「大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号」です。今からお話しすることは、この論文を参考にしています。
讃岐府史の神櫛王記述
17世紀後半の讃岐府史 神櫛王についての記述は赤色のみ
江戸時代の初め頃、元禄年間に神櫛王については、どんなことが書かれていたのか見ておきます。讃岐府史は17世紀後半、初代の高松藩主松平頼重の時代に刊行された所で、讃岐の人物や陵墓などが記されています。神櫛王については「讃岐国造の祖、景行天皇の孫」だけです。押さえおきたいのは、この時点では、古代の紀記の内容と変化はないことです。陵墓についても何も書かれていません。それでは神櫛王が、東讃に定住したと最初に書いたのは誰なのでしょうか?

1櫛梨神社3233
神櫛王伝説は綾氏系図から分かれて、15世紀初頭に成立した宥範縁起に取り込まれていることが近年に分かってきました。宥範は琴平の櫛梨出身で、高松の無量寿院で学び、全国各地で修行を重ね、中世善通寺中興の祖とされる高僧です。そこに神櫛王伝説がとりこまれていきます。そこでは、上表のように凱旋地などが坂出福江から高松の無量寿院周辺に書き換えられていきます。つまり、神櫛王が高松周辺に定住したという物語になります。これを受けて「神櫛王=高松周辺定住説」が拡がるようになります。

南海治乱記と南海通記

この普及に大きな役割を果たしたのが香西成資(しげすけ)です。
彼は滅亡した一族の香西氏の顕彰のために南海治乱記を記します。その増補版が南海通記になります。彼は後に軍学者として黒田藩に招かれ大きな邸宅を与えられます。この2冊が発刊され人々の目に留まるようになるのは18世紀になってからです。『南海治乱記』は、神櫛王ついて何も触れられていません。神櫛王は、南海治乱記の増補版である南海通記に次のように登場します。

 南海通記の神櫛王記述
 南海通記の神櫛王記述

何があたらしく加えのか押さえておきます。
南海通記の神櫛王記述追加分

ここには①神櫛王が屋島浦で政務を執った ②神内・三谷・十河の三家は神櫛王の子孫であることがあらたに加えられています。南海通記は、軍記ものとしても面白く、読み継がれていきます。そして讃岐の戦国時代を語る際の定番となります。戦後に作られた市町村史も中世戦国時代については、この南海通記に基づいてかかれているものが多いようです。南海通記に記されることで、神櫛王=東讃定住説の知名度はぐーんと上がります。この時点では、神櫛王=鵜足郡定住説と屋島説の2つの説が競合するようになります。しかし、その墓については何も触れていません。

それでは神櫛王が屋島に定住したという根拠はなんなのでしょうか。
南海通記の神櫛王東讃定住根拠

①最初に見たように、日本書紀に神櫛王が讃岐に定住し、最初の国造となったこと
②続日本記に讃岐氏が国造であったと主張していること、そうならば讃岐の国造の始祖は神櫛王であるので、讃岐公は神櫛王の子孫であること
③その子孫が武士団化しのが神内・三谷・十河の三氏であること。神櫛王は東讃に定住し、その子孫を拡げ、その子孫が実際にいるという運びです。
これは筋書きとしては、無理があるようです。しかし、考証学や史料検討方法が確立するまでは、それが事実かどうかチェックのしようがありませんでした。イッタモン・書いた者の勝ちというのが実態でした。南海通記でプラスされた2つの内容が事実として後世に伝えられることになります。南海通記はベストセラーだけに後世への影響力が大きかったのです。

そして18世紀後半になると神櫛王の王墓が牟礼にあるする本が現れます。
三代物語の神櫛王
三代物語の神櫛王記述
①この本は増田休竟によって、南海通記公刊から約半世紀後に書かれた地誌です。②内容は郡ごとに神社・名所等についてその歴史・由来などが書かれています。③彼の家は祖母・祖父・自分・兄と三代が、見聞してきた記録を残していました。そのうち重要なものを数百件集めて三巻となしたと巻頭に書かれています。ただこの本は、それまでの書物に書かれていなかったことが既成事実のように突然に紛れ込んできます。例えば、「実は崇徳上皇は暗殺された」という崇徳上皇暗殺説」などが始めて登場するのもこの本です。そのため取扱に注意が必要な資料と研究者は考えています。その中で神櫛王墓に関する記載を見ておきましょう。三木郡の所で次のように記されています。

三代物語の神櫛墓記述

①王墓牟礼にあり 
②神櫛王が山田郡高松郷(古高松)に住んだ
③そこで亡くなったので王墓に葬ったので王墓がある
と記されています。そして小さな文字で注記があります。拡大して見ると「青墓・大墓」とも呼ばれるが、もともとは王墓で、それが青墓に転じたとわざわざ説明しています。つまり、牟礼の共同墓地である青墓が、王墓であるというのです。視点を変えて逆読みすると、当時は青墓と呼ばれていたことが分かります。神櫛王が山田郡に居住したということが記されたのは『南海通記』に初めてでした。さらに追加して、この書では青墓が神櫛王の王墓とします。
 王墓が青墓だったことは、現在は松井谷墓地に移されたお地蔵さんからも裏付けられます。
 このお地蔵さんに会いに行ってきました。
P1240496
牟礼町松井谷墓地の六地蔵
石匠の里公園の近くにある松井谷墓地の上側の駐車場の手間に六地蔵が並んでいます。その奥に佇んでいるのが青墓(現神櫛王墓)にあった地蔵さまのようです。近づいてみます。P1240501
神櫛王墓にあった青墓地蔵
背面を見てみます。
P1240498
青墓地蔵背面
願主同村最勝寺堅周」は読み取れますが、後はよく分かりません。史料によると次のように刻まれているようです。
青墓の地蔵さま
青墓地蔵背面の文章
宝永2年とありますので今から約320年あまり前に、牟礼村の人々が「青墓地蔵尊」を奉納した。願主は最勝寺堅周だったと記されています。ここからは現在の王墓が、300年ほど前は村民の墓地だったことが裏付けられます。この青墓地蔵さん以外にも元禄十六年(1703)の年号が刻まれた花崗岩製の野机も地蔵さんの手前にあります。以上から神櫛王王墓は、江戸時代には共同墓地で、青墓と呼ばれていたことを押さえておきます。

さらに60年ほど時代が進んだ19世紀始めに書かれた全讃史を見ておきましょう。
全讃史の神櫛王


①仲山城山(じょうざん)が書いた全讃史です。15冊にもなる大冊です②この中には神櫛王について、屋島に舘を構えた、これが牟礼だとします。③陵墓については牟礼の王墓とします。ここまでは出版された書物に学び、そこに書かれていることを継承しています。そして、さらに新しい説を加えていきます。彼が注目したのは青墓に並ぶ石造物の中の二つの立石でした。それを見てみましょう。

三代物語の神櫛王墓2
仲山城山の神櫛王墓の立石図

このころになると個人の墓石が死後に立てられるようになります。青墓にも19世紀になると立石の墓石が立てられるようになったようです。その中でも大きくて目立つ立石が2つありました。それに中山城山は注目します。そして二つの立石の図を載せています。よく見るとこの立石には星座が刻み込まれています。修験者の愛宕大明神信仰によくみられるものです。牟礼は五剣山のお膝元です。五剣山は修験者や山伏にとって聖地で、全国から多くの修験者たちがやっきて修行し、中には定住するものも出てきます。その中には、ここにとどまり八栗寺の子院を形成し、周辺の村々への布教活動を行うものもいたはずです。それは、志度寺や白峰寺、三豊の八栗寺と同じです。この立石も修験者の活動の痕跡と研究者は考えています。
 さて図を見ると「王墓 牟礼村にあり」とあります。そして①大王墓 高さ五尺7寸 北面 神櫛王墓」、②北極星が描かれた小さい方が「小王墓、その孫(すめほれのみこと)の墓」と記します。
全讃史の神櫛王記述を整理して起きます。
三代物語の神櫛王墓認識


最後に江戸時代における神櫛王墓記述の到達点を見ておきましょう。幕末になると絵図が入った「名勝図会」というのが、全国各地で作られるようになります。讃岐では嘉永六年(1853)に全一五巻の讃岐国名勝図会が出されます。巻三に三木郡牟礼村の項があります。絵図では五剣山と八栗寺がセットで描かれています。
讃岐国名勝図会の牟礼
五剣山と八栗寺(讃岐国名勝図会)
その中に神櫛王の王墓について次のように記されます。
讃岐国名勝図会の神櫛王墓

讃岐国名勝図会の記述内容は、今までに見てきた神櫛王の記述の総決算・完成形のような内容になっています。①前半部分は『三代物語」を下敷きに、山田郡に大墓があるとされます。②そして後半部は、神櫛王が景行天皇の皇子で、母はいかわひめで、讃岐国造と記されます。これは日本書紀の記述に立ち戻っています。そして、ふたつある墓うちのひとつは、武鼓王(たけかいこう)としている点がこの書の独自性のようです。讃岐国名勝図会の作者が、先行する地誌や歴史書を参考にしながらこれを書いたことがうかがえます。こうして、幕末には「神櫛王墓=牟礼説」が定着し、王墓は牟礼にあるというのが、世間では一般的になっていきます。そして、神櫛王墓=坂出説を凌駕するようになっていたことを押さえておきます。
 それでは、共同墓地だった青墓は、いつどのようにして陵墓へと改修整理されたのでしょうか。それは、明治維新を迎える中で起こった高松藩の危機が背景にあったようです。それはまた次回に・・

神櫛王墓整備後
青墓改修後の神櫛王墓の絵図(牟礼町史より)

 参考文献
  「大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号

          P1240478
牟礼の神櫛王墓            
牟礼には宮内庁が管理する神櫛王陵墓があります。その牟礼町の文化財協会の総会で、王墓がどうして牟礼にあるのかをお話しする機会を頂きました。その時の要旨をアップしておきます。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治

この絵は、神櫛王の悪魚退治伝説の場面です。この人が神櫛王で瀬戸内海に現れた悪魚を退治しています。巨大な魚に飲み込まれて、そのなから胃袋を切り裂いて出てきた瞬間です。悪魚が海の飛び出してうめいています。
④それでは神櫛王とは何者なのでしょうか?。ちなみにここには日本武尊(ヤマトタケル)と書かれています。どうなっているのでしょうか。それもおいおい考えていくことにします。まず神櫛王ついて、古代の根本史料となる日本書紀や古事記には、どのように記されているのでしょうか見ておきましょう。

神櫛王の紀記記述
紀記に記された神櫛王記述
①まず日本書紀です。母は五十河媛(いかわひめ)で、神櫛王は讃岐国造の始祖とあります。
②次に古事記です。母は吉備の吉備津彦の娘とあります。
③の先代旧事本気には讃岐国造に始祖は、神櫛王の三世孫の(すめほれのみこと)とあります。以上が古代の根本史料に神櫛王について書かれている記述の総てです。
①書紀と古事記では母親が異なります。
②書紀と旧時本記では、初代の讃岐国造が異なります。
③紀記は、神櫛王を景行天皇の息子とします。
④神櫛王がどこに葬られたかについては古代資料には何も書かれていません。
つまり、悪魚退治伝説や陵墓などは、後世に付け加えられたものと研究者は考えています。それを補足するために神櫛王の活躍したとされる時代を見ておきましょう。

神櫛王系図
神櫛王は景行天皇の子で、ヤマトタケルと異母兄弟

 古代の天皇系図化を見ておきましょう。 
神櫛王の兄が倭建命(ヤマトタケル)で、戦前はが英雄物語の主人公としてよく登場していました。その父は景行天皇です。その2代前の十代が崇神天皇で、初めて国を治めた天皇としてされます。4代後の十六代が「倭の五王」の「讃」とされる仁徳天皇です。仁徳は5世紀の人物とされます。ここから景行は四世紀中頃の人物ということになります。これは邪馬台国卑弥呼の約百年後になります。ちなみに、倭の五王以前の大王は実在が疑問視されています。ヤマトタケルやその弟の神櫛王が実在したと考える研究者は少数派です。しかし、ヤマトタケルにいろいろな伝説が付け加えられていくように、神櫛王にも尾ひれがつけられていくようになります。神櫛王は「讃岐国造の始祖」としか書かれていませんでした。それを、自分たちの先祖だとする豪族が讃岐に登場します。それが綾氏です。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)

これが綾氏系図です。しかし、本物ではなく明治に作られた模造品です。自分が綾氏の一員であるという名望家は多く、江戸時代末から明治にかけてこのような系図の需要があって商売にもなっていたようです。この系図は、Yahoo!オークションで4万円弱で競り落とされていました。最初を見ると讃岐国野原(高松)のこととして、景行23年の事件が記されています。その系図の巻頭に記されるのが神櫛王の悪魚退治伝説です。ここを見てください。「西海土佐国海中に大魚あり。その姿鮫に似て・・・・最後は これが天皇が讃岐に国造を置いた初めである」となっています。その後に景行天皇につながる綾氏の系図が書かれています。この系図巻頭に書かれているのが神櫛王の悪魚退治伝説なのです。簡単に見ておきます。

200017999_00178悪魚退治

土佐に現れた悪魚(海賊)が暴れ回り、都への輸送船などを襲います。そこで①景行天皇は、皇子の神櫛王にその退治を命じます。讃岐の沖に現れた大魚を退治する場面です。部下達は悪魚に飲み込まれて、お腹の中です。神櫛王がお腹の中から腹をかき破って出てきた場面です。
悪魚退治伝説 八十場
神櫛王に、八十場の霊水を捧げる横波明神

①退治された悪魚が坂出の福江に漂着して、お腹の中に閉じ込められた部下たちがすくだされます。しかし、息も絶え絶えです。
②そこへ童子に権化した横波明神が現れ、八十場の霊水を神櫛王に献上します。一口飲むとしゃっきと生き返ります。
③中央が神櫛王 
③霊水を注いでいる童子が横波明神(日光菩薩の権化)です。この伝説から八十場は近世から明治にかけては蘇りの霊水として有名になります。いまは、ところてんが名物になっています。流れ着いた福江を見ておきましょう。

悪魚退治伝説 坂出
坂出の魚の御堂と飯野山
19世紀半ばの「讃岐国名勝図会」に書かれた坂出です。
①「飯野山積雪」とあるので、冬に山頂付近が雪で白く輝く飯野山の姿です。手前の松林の中にあるお堂が魚の御堂(現在の坂出高校校内) 
②往来は、高松丸亀街道 坂出の川口にある船着場。
③注記「魚の御堂(うおのみどう)には、次のように記されています。
 薬師如来を祀るお堂。伝え聞くところに由ると、讃留霊王(神櫛王)が退治した悪魚の祟りを畏れて、行基がともらいのために、悪魚の骨から創った薬師如来をまつるという。

これが綾氏の氏寺・法勲寺への起源だとします。注目したいのは、神櫛王という表現がないことです。すべて讃留霊王と表記されています。幕末には、中讃では讃留霊王、高松では神櫛王と表記されることが多くなります。これについては、後に述べます。悪魚退治伝説の粗筋を見ておきましょう。

悪魚退治伝説の粗筋
神櫛王の悪魚退治伝説の粗筋

この物語は、神櫛王を祀る神社などでは祭りの夜に社僧達が語り継いだようです。人々は、自分たちの先祖の活躍に胸躍らせて聞いたのでしょう。聞いていて面白いのは②です。英雄物語としてワクワクしながら聞けます。分量が多いのもここです。この話を作ったのは、飯山町の法勲寺の僧侶とされています。法勲寺は綾氏の菩提寺として建立されたとされます。
 しかし、悪魚退治伝説を書いた人たちが一番伝えたかったのは、この中のどれでしょうか? それは、⑤と⑥でしょう。自分たちの祖先が景行天皇の御子神櫛王で「讃岐国造の始祖」で、綾氏と称したという所です。祖先を「顕彰」するのに、これほどいい素材はありません。うまい展開です。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話だったのです。昔話の中には、神櫛王の舘は城山で、古代山城の城壁はその舘を守るためのものとする話もあります。また、深読みするとこの物語の中には、古代綾氏の鵜足郡進出がうかがえると考える研究者もいます。この物語に出てくる地名を見ておきましょう。
悪魚退治伝説移動図
悪魚退治伝説に出てくる場面地図
 この地図は、中世の海岸線復元図です。坂出福江まで海が入り込んでいます。
①悪魚の登場場所は? 槌の門、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡です。円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。ここは古代や中世には「異界への門」とされていた特別な場所だったようです。東の門が住吉神社から望む瀬戸内海、西が関門海峡 そしてもうひとつが槌の門で異界への入口とされていたようです。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。ちなみに長崎の鼻は、行者達の修行ポイントで、根来寺や白峰寺の修験者の行道する小辺路ルートだったようです。

神櫛王悪魚退治関連地図

②退治された悪魚が流れ着く場所は福江です。

「悪魚の最期の地は福江」ということになります。坂出市福江町周辺で、現在の坂出高校の南側です。古代はここまで海が入り込んでいたことが発掘調査から分かっています。古代鵜足郡の港があったとされます。
③童子の姿をした横潮明神は福江の浜に登場します。
④その童子が持ってくる蘇生の水が八十場の霊水です。
⑤そして神櫛王が讃岐国造として定住したのが福江の背後の鵜足郡ということになります。城山や飯野山の麓に舘を構えたとする昔話もあります。福江から大足川を遡り、讃岐富士の南側の飯山方面に進出し、ここに氏寺の法勲寺を建立します。現在の飯山高校の南西1㎞あたりのところです。  つまり悪魚退治伝説に登場する地名は、鵜足・阿野郡に集中していることがわかります。

悪魚退治伝説背景
綾氏の一族意識高揚のための方策は?

①一族のつながり意識を高めるために、綾氏系図が作られます。
②作られた系図の始祖とされるのが神櫛王、その活躍ぶりを物語るのが悪魚退治伝説 
③一族の結集のための法要 綾氏の氏寺としての法勲寺(後の島田寺)の建立。一族で法要・祭礼を営み、会食し、悪魚退治伝説を聞いてお開き。自分たちの拠点にも神櫛神社の建立 猿王神社は、讃留霊王からきている。中讃各地に、建立。

ここまでのところを確認しておきます。
悪魚退治伝説背景2

①神櫛王の悪魚退治伝説は、中世に成って綾氏顕彰のため作られたこと。古代ではないこと
②その聖地は、綾氏の氏寺とされる法勲寺(現島田寺)
③拡げたのは讃岐藤原氏であった(棟梁羽床氏)
つまり神櫛王伝説は、鵜足郡を中心とする綾氏の祖先顕彰のためのローカルストーリーであったことになります。東讃で、悪魚退治伝説が余り語られないのはここにあるようです。

讃岐藤原氏分布図
讃岐藤原氏の分布図(阿野郡を中心に分布)

 ところが江戸時代になると、新説や異説が現れるようになります。神櫛王の定住地や墓地は東讃の牟礼にあるという説です。神櫛王墓=牟礼説がどのように現れてきたのかは、次回に見ていくことにします。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表)
参考文献
 乗松真也 「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ


旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
旧練兵場遺跡とその周辺

弥生時代にの平形銅剣文化圏の中心地のひとつが「善通寺王国」です。その拠点が現在のおとなとこどもの医療センター(善通寺病院)と農事試験場を併せた「旧練兵場遺跡」になります。
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏2
瀬戸内海にあった平形銅剣文化圏
今回は、ここに成立した大集落がその後にどのようになっていったのか、その推移を追いかけてみようと思います。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図
1 弥生時代中期から古墳時代初期までです。
①弥生時代後期前半期から竪穴式住居が現れ、その後は集落が継続的に存続していたこと
②掘立柱建物跡は、その柱穴跡直径が大きいことから、倉庫か、望楼のような高床か高層式建物。「善通寺王国」の形成
③古墳時代になると、住居跡の棟数が減少するので、集落の規模縮小傾向が見られること。


旧練兵場遺跡地図 
弥生末期の旧練兵場遺跡 中心地は病院地区

2 古墳時代中期から古墳時代終末期まで
  古墳時代になると、住居跡や建物跡は姿を消し、前代とは様子が一変します。そのためこの時期は、「活発な活動痕跡は判断できなかった」と報告書は記します。その背景については、分からないようです。この時期は、集落がなくなり微髙地の周辺低地は湿地として堆積が進んだようです。一時的に、廃棄されたようです。それに代わって、農事試験場の東部周辺で多くの住居跡が見つかっています。拠点移動があったようです。

十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺

3 奈良時代から平安時代前半期まで
 この時期に病院地区周辺を取り巻くように流れていた河川が完全に埋まったようです。報告書は、次のように記されています。

「これらの跡地は、地表面の標高が微高地と同じ高さまでには至らず、依然として凹地形を示していたために、前代からの埋積作用が継続した結果、上位が厚い土砂によって被覆され、当該時期までにほぼ平坦地化したことが判明した。」

 川の流れが消え、全体が平坦になったとします。逆に考えると、埋積作用が進んでいた6~7世紀は、水田としての利用が困難な低地として放棄されていたことが推察できます。それが8世紀になり平坦地になったことで、農耕地としての再利用が始まります。農耕地の痕跡と考えられる一定の法則性がある溝状遺構群が出てくることが、それを裏付けると研究者は考えています。
 この結果、肥沃な土砂が堆積作用によってもたらされ、土地も平均化します。これを耕作地として利用しない手はありません。佐伯直氏は律令国家の手を借りながら、ここに条里制に基づく規則的な土地開発を行っていきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡と南海道・善通寺の関係
 新しい善通寺市役所と四国学院の図書館を結ぶラインは、南海道が走っていたことが発掘調査からは分かってきました。南海道は、多度郡の条里遺構では7里と6里の境界でもありました。南海道を基準にして、丸亀平野の条里制は整えられて行くことになります。そして、南海道に沿うように善通寺も創建されます。善通寺市街地一帯のレイアウトも出来上がっていくことになります。

稲木北遺跡 多度郡条里制
 この時期に掘られた大規模な溝が、善通寺病院の発掘調査でも出てきました。
この溝は、善通寺エリアの条里制地割のスタートになった土木工事だと研究者は考えているようです。善通寺の条里型地割は、善通寺を中軸に設定されたという説があります。そうだとすれば、この溝は善通寺周辺の関連施設設置のための基軸線として掘られた可能性があります。
  また、古墳時代には病院地区には、住居がなくなっていました。それが奈良時代になると、再び多くの柱穴跡が出てきます。これは奈良時代になると、病院地区に集落が再生されたことを示します。

 次に中世の「善通寺一円保差図」には、このエリアはどのように描かれているのかを見ておきましょう。一円保絵図は、15世紀初頭に書かれたものです。
一円保絵図の旧練兵場遺跡
一円保絵図(柿色部分が善通寺病院敷地)
   中央上の黒く塗りつぶされたのが、この時期に築造されたばかりの有岡大池です。そこから弘田川が波状に東に流れ出し、その後は条里制に沿って真北に流れ、善通寺西院の西側を一直線に流れています。それが旧練兵場遺跡(病院地区)の所から甲山寺あたりにかけては、コントロールできずに蛇行を始めているのが見えます。弘田川は現在は小さな川ですが、発掘調査で誕生院の裏側エリアから舟の櫂なども出土しているので、古代は川船がここまで上がってきていたことがうかがえます。河口の海岸寺付近とは、弘田川で結ばれていたことになります。また、地図上の茶色エリアが発掘された善通寺病院になります。旧練兵場遺跡も弘田川に隣接しており、ここには簡単な「川港」があったのかもしれません。
金倉川 10壱岐湧水
一円保絵図(善通寺病院周辺拡大図)

一円保絵図に描かれた建築物は、善通寺や誕生院に見られるように、壁の表現がある寺院関係のものと、壁の表現のない屋根だけの民家があるようです。描かれた民家を全部数えると122棟になります。それをまとまりのよって研究者は次のような7グループに分けています
第1グルーフ 善通寺伽藍を中心としたまとまり 71棟
第2グルーフ 左下隅(北東)のまとまり  5棟
第3グルーフ 善通寺伽藍の真下(北)で弘田川東岸まとまり11棟
第4グルーフ 大きい山塊の右側のまとまり  15棟
第5グルーフ 第4グループの右側のまとまり 17棟
第6グルーブ 第5グルーブと山塊を挟んだ右側のまとまり 6棟
第7グループ 右下隅(北西)のまとまり   7棟

第1グループは、現在の善通寺の市街地にあたる所です。創建当時から家屋数が多かった所にお寺が造られたのか、善通寺の門前町として家屋が増えたのがは分かりません。
今回注目したいのは第3グループです。
このグループが、現在の善通寺病院の敷地に当たるエリアです。その中でも右半分の5棟については、病院の敷地内にあった可能性が高いようです。この地区が「郊外としては家屋が多く、人口密度が高い地域」であったことがうかがえます。
一円保絵図 東側

善通寺病院の敷地内に書かれている文字を挙げて見ると「末弘」「利友」「重次四反」「寺家作」の4つです。
この中の「末弘」「利友」「重次」は、人名のようです。古地図上に人名が描かれるのは、土地所有者か土地耕作者の場合が多いので、善通寺病院の遺跡周辺には、農業に携わる者が多く居住していたことになります。
 また「四反」は土地の広さ、「寺家作」は善通寺の所有地であることを表すことから、ここが農耕地であったことが分かります。以上から、この絵が描かれた時期に「病院地区」は、農耕地として開発されていたと研究者は考えているようです。
以上からは、古代から中世には旧練兵場遺跡では、次のような変化があったことが分かります。
①弥生時代には、網の目状に南北にいく筋もに分かれ流れる支流と、その間に形成された微高地ごとに集落が分散していた。
②13世紀初頭の一円保絵図が書かれた頃には、広い範囲にわたって、耕地整理された農耕地が出現し、集落は多くの家屋を含み規模が大型化している。

 室町時代から江戸時代後半期まで
ところが室町時代になると、旧練兵場遺跡からは住宅跡や遺物が、出てこなくなります。集落が姿を消したようなのです。どうしてなのでしょうか? 研究者は次のように説明します。
①旧練兵場遺跡は、条里型地割の中心部にあるために、農業地として「土地区画によって管理」が続けられるようになった。
②そのため「非住居地」とされて、集落はなくなった。
③条里型地割の中で水路網がはりめぐされ、農耕地として利用され続けた
そして「一円保差図」に書かれた集落は、室町時代には姿を消します。それがどんな理由のためかを示す史料はなく、今のところは何も分かならいようです。
 最後に明治中頃に書かれた「善通寺村略図」で、旧練兵場遺跡を見ておきましょう。

善通寺村略図2 明治
拡大して見てみます
善通寺村略図拡大
善通寺村略図 旧練兵場遺跡周辺の拡大図
旧練兵場遺跡(仙遊町)は、この絵図では金毘羅街道と弘田川に挟まれたエリアになります。仙遊寺の西側が現在の病院エリアです。仙遊寺の東側(下)に4つ並ぶのは、現在も残る出水であることは、前回お話ししました。そうして見ると、ここには建造物は仙遊寺以外には何もなかったことがうかがえます。そこに十一師団設置に伴い30㌶にもおよぶ田んぼが買い上げられ、練兵場に地ならしされていくことになります。そして、今は病院と農事試験場になっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   旧練兵場遺跡調査報告書 平成21年度分

旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
旧練兵場遺跡と吉野ヶ里遺跡の面積比較 ほぼ同じ
旧練兵場遺跡は、吉野ヶ里遺跡とほぼ同じ50㌶の大きさがあります。町名で云うと善通寺市仙遊町で、明治に11師団の練兵場として買収されたエリアです。そこに戦後は、善通寺国立病院(旧陸軍病院)と農事試験場が陣取りました。国立病院が伏見病院と一体化して「おとなとこどもの医療センター」として生まれ変わるために建物がリニューアルされることになり、敷地では何年もの間、大規模な発掘調査が続けられてきました。その結果、このエリアには、弥生時代から古墳時代までの約500 年間に、住居や倉庫が同じ場所に何度も建て替えられて存続してきたこと、青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではなかなか出土しない貴重品が、次々と出てくること、たとえば青銅製の鏃(やじり)は、県内出土品の 9割以上に当たる約50本がこの遺跡からの出土ことなどが分かってきました。

十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺(善通寺市史NO3)

 つまり、旧練兵場遺跡は「大集落跡が継続して営まれることと、貴重品が多数出土すること」など特別な遺跡であるようです。今回は、発掘したものから研究者たちが旧練兵場遺跡群をどのようにとらえ、推察しているのかを見ていくことにします。
旧練兵場遺跡の周りの環境を下の地図で押さえておきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡周辺図

  遺跡は、善通寺の霊山とされる五岳の一番東の香色山の北側に位置します。五岳は現在でも余り変わりませんが、川は大きく変化しました。古代の丸亀平野の川は、扇状地の上を流れているので網の目のように何本にも分かれて流れていました。それが発掘調査や地質調査から分かるようになりました。

扇状地と網状河川
古代の土器川や金倉川などは、網目のような流れだった
 旧練兵場遺跡には、東から金倉川・中谷川・弘田川の3本の川の幾筋もの支流が流れ込んでいたようです。その流れが洪水後に作り出した微高地などに、弥生人達は住居を構え周辺の低地を水田化していきます。そして、微高地ごとにグループを形成します。それを現在の地名で東から順番に呼ぶと次のようになります。
①試験場地区
②仙遊地区
③善通寺病院地区
④彼ノ宗地区
⑤弘田川西岸地区
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
旧練兵場遺跡周辺遺跡分布図
 上図で鏡の出土した所をよく見ると、集落内の3つのエリアから出土しています。特に、③病院地区から出てきた数が多いようです。そして、仙遊・農事試験場地区からは出てきません。ここからは、旧練兵場遺跡では複数の有力者が併存して、集団指導体制で集落が運営されていたことがうかがえます。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図
旧練兵場遺跡群 拡大図

その中心が病院地区だったことが裏付けられます。これが古墳時代の首長に成長して行くのかもしれません。このように研究者は、青銅器を通して旧練兵場遺跡の弥生時代の社会変化を捉えようとしています。

旧練兵場遺跡の福岡産の弥生土器
 旧練兵場遺跡出土 福岡から運ばれてきたと思われる弥生土器
最初に前方後円墳が登場する箸塚の近くの纏向遺跡からは、吉備や讃岐などの遠方勢力からもたらされた土器などが出てきます。同じように、旧練兵場遺跡からも、他の地域から持ち込まれた土器が数多くみつかっています。そのタイプは次の2つです。
①形も、使われた粘土も讃岐産とは異なるもの
⑥形は他国タイプだが粘土は讃岐の粘土で作ったもの
これらの土器は、九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られるもので、作られた時期は、弥生時代後期前半(2世紀頃)頃のものです。
旧練兵場遺跡 搬入土器・朱出土地
搬入土器や朱容器の出土地点
土器が歩いてやって来ることはありませんので、土器の中に何かを入れて、運ばれてきたことが考えられます。「移住」「交易」などで滞在が長期に渡ったために、その後に善通寺の土を使って、故郷の土器の形を再現したものと研究者は考えているようです。どちらにしても、人の動きによって旧練兵場遺跡にもたらされたのです。ここからも、当時の人々が瀬戸内海という広いエリアの中で活発に交流していたことがうかがえます。

1善通寺王国 持ち込まれた土器
他地域から善通寺の旧練兵場遺跡に持ち込まれた土器
 このような動きは、同時代の讃岐の遺跡全てに云えることではないようです。旧練兵場遺跡が特別な存在なのです。つまりこの遺跡は、「讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった特別な集落」と研究者は考えています。
旧練兵場遺跡 鍛冶炉

旧練兵場遺跡では、鍛冶炉(かじろ)が見つかっています。
そこで生産された鏃(やじり)・斧・万能ナイフである刀子(とうす)が多量に出土しています。
旧練兵場遺跡 銅鏃

鉄器生産には、鍛冶炉での1000℃を超える温度管理などの専門的な技術と、朝鮮半島からの鉄素材の入手ルートを確保することが求められました。そのため鉄器生産は「遠距離交易・交流が可能な拠点的な集落」だけが手にすることがができた最先端製品でした。鉄生産を行っていた旧練兵場遺跡は、「拠点的な集落」だったことになります。旧練兵場遺跡の有力者は、併せて次のようなものを手に入れることができました。
①鉄に関係した交易・交流
②鏡などの権威を示す器物
③最先端の渡来技術や思想
 これらを独占的に手にすることで、さらに政治権力を高めていったと研究者は考えています。以上のように鏡や玉などの貴重品や交易品、住居跡からは、人口・物資・情報が集中し、長期にわたる集落の営みが続く「王国」的な集落の姿が浮かび上がってきます。
 BC1世紀に中国で書かれた漢書地理志には、倭人たちが百余りの王国を作っていたと書かれています。この中に、旧練兵場遺跡は当然含まれたと私は考えています。ここには「善通寺王国」とよべるクニがあったことを押さえておきます。

旧練兵場遺跡 朱のついた片口皿
旧練兵場遺跡の弥生終末期(3世紀)の土器には、赤い顔料が付いたものが出てきます。

「赤」は太陽や炎などを連想させ、強い生命力を象徴する色、あるいは特別なパワーが宿る色と信じられ魔除けとしても使われました。そのため弥生時代の甕棺や古墳時代の木簡や石棺などからも大量の朱が出てくることがあります。
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旧練兵場遺跡から出てきた朱には、次の2種類があるようです。
水銀朱(朱砂)とベンガラ

①ベンガラ(酸化鉄が主原料)
②朱(硫化水銀が主原料)
 ①は吉備地方から持ち込まれた高杯などに装飾として塗られています。今でも、岡山のベンガラは有名です。②は把手付広片口皿の内面に付いた状態を確認しているようです。把手付広片口皿とは、石杵や石臼ですりつぶして辰砂を液状に溶いたものを受ける器です。この皿が出てくると言うことは、旧練兵場遺跡で朱が加工されていたことを裏付けます。
旧練兵場遺跡 阿波の辰砂(若杉山遺跡)
阿波の若杉山遺跡(徳島県阿南市)の辰砂
 辰砂の産地は阿讃山脈を越えた若杉山遺跡(徳島県阿南市)が一大採掘地として知られるようになりました。
瀬戸内海から阿波西部には、古くから「塩の道」が通じていたことは、以前にお話ししました。その見返り品の一つとして朱が吉野川上流の「美馬王国」から入ってきていたことがうかがえます。

弘安寺同笵瓦関係図

 郡里廃寺(美馬市)から善通寺の同笵瓦が出土することなども、美馬王国と善通寺王国も「塩と朱」を通じて活発な交流があったことを裏付けます。このような流れの中で、阿波忌部氏の讃岐移住(進出)なども考えて見る必要がありそうです。そう考えると朱を通じて 阿波―讃岐ー吉備という瀬戸内海の南北ラインのつながりが見えて来ます。
このように善通寺王国は、次のようなモノを提供できる「市場」があったことになります。
①鍛冶炉で生産された銅・鉄製品などの貴重品
②阿波から手に入れた朱
それらを求めて周辺のムラやクニから人々が集まってきたようです。

以上、善通寺王国(旧練兵場遺跡)の特徴をまとめておくと次のようになります。
① 東西1km、南北約0.5kmの約50万㎡の大きな面積を持つ遺跡。 
② 弥生時代から鎌倉時代に至る長期間継続した集落遺跡。弥生時代には500棟を超える住居跡がある。
③ 銅鐸・銅鏃などの青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではめったに出土しない貴重品が出土する。 青銅製の鏃は、県内出土の9割以上に当たる約50本が出土。
④ 弥生時代後期の鍛冶炉で、生産された鏃・斧・刀子が多量に出土。
⑤朝鮮半島から鉄素材の入手のための遠距離交易・交流を善通寺王国は行い、そこで作られた鉄器を周辺に配布・流通。
⑥九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸エリアで見られるスタイル土器が出てくることから善通寺王国が備讃瀬戸エリアの物・人の広域な交流の拠点であったこと。
⑦辰砂を石杵や石臼で摺りつぶして液状に溶いたものを受ける把手付広片口皿から朱が検出された。これは、善通寺王国で朱が加工・流通していたことを裏付ける。 
⑧朱の原料入手先としては、阿波の若杉山遺跡(阿南市)で産出されたものが善通寺王国に運び込まれ、それが吉備王国の楯築(たてつき)遺跡(倉敷市)などへの埋葬にも用いられたと推測できる。ここからは、徳島―香川―岡山という「朱」でつながるルートがあったことが浮かび上がって来る。 
⑨ 硬玉、碧玉、水晶、ガラス製などの勾玉、管玉、小玉などの玉類が多量に出土する。これらは讃岐にはない材料で、製作道具も出てこないので、外から持ち込まれた可能性が高い。これも、他地域との交流を裏付けるものだ。
⑩旧練兵場遺跡は約500年の間継続するが、その間も竪穴住居跡の数は増加し、人口が増えていたことが分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  香川県埋蔵文化財センター 香川の弥生時代研究最前線  旧練兵場遺跡の調査から 
 関連記事
 

 

   


 善通寺村略図2 明治
名東県時代の善通寺村略図
善通寺市史NO2を眺めていて、巻頭の上の絵図に目が留まりました。この絵図は、十一師団設置前の善通寺村の様子を伝えるものとして貴重な絵図です。この絵図からは次のような事が読み取れます
①五岳を霊山として、その東に善通寺と誕生院(西院)が一直線にあること
②善通寺の赤門(東門)から一直線に伸びが参道が赤門筋で、金毘羅街道と交差すること
③その門前には、門前町といえるものはなかったこと
以上から、十一師団がやって来る前の善通寺村は「片田舎」であったことを、以前にお話ししました。今回は、この絵図で始めて気づいたことをお話しします。
それは、絵図の右下部分に描かれた「4つの柄杓」のようなものです。
善通寺村略図拡大

善通寺村略図の拡大:右下に並ぶ「4つの柄杓?」
これは一体何なのでしょうか?
位置的には、善通寺東院の真北になります。近くの建造物を拡大鏡で見ると「仙遊寺」とよめそうです。そうだとすれば「4つの柄杓」は、仙遊寺の東側に並んで位置していることになります。ということは、西日本農業研究センター 四国研究拠点仙遊地区(旧農事試験場)の中にあったことになります。
旧練兵場遺跡 仙遊町
     旧練兵場=おとなとこどもの病院 + 農事試験場

そこで、グーグルでこのあたりを見てみました。赤枠で囲まれたエリアが現在の仙遊町で、これだけの田んぼが11師団の練兵場として買収されました。そして、周辺の多くの村々から人夫を動員して地ならししたことが当時の史料からは分かります。さらに拡大して見ます。

旧練兵場遺跡 出水群
農事試験場の周りを迂回する中谷川
青いラインが中谷川の流れです。赤が旧練兵場の敷地境界線(現在の仙遊町)になります。これを見ると四国学院西側を条里制に沿って真っ直ぐに北に流れてきた中谷川は、農事試験場の北側で、直角に流れを変えて西に向かっていることが分かります。
最大限に拡大して見ます。
旧練兵場遺跡 出水1
善通寺農事試験場内の出水

 農事試験場の畑の中に「前方後円墳」のようなものが見えます。現地へ行ってみます。宮川うどんの北側の橋のたもとから農事試験場の北側沿いに流れる中谷川沿いの小道に入っていきます。すると、農事試験場から流れ出してくる流路があります。ここには柵はないのでコンクリートで固められた流路縁を歩いて行くと、そこには出水がありました。「後円部」に見えたのは「出水1」だったのです。出水からは、今も水が湧き出して、用水路を通じて中谷川に流れ込んでいます。善通寺村略図を、もう一度見てみます。「4つの柄杓」に見えたのは、農事試験場に残る出水だったのです。
旧練兵場遺跡 出水3
善通寺農事試験場内の3つの出水
グーグルマップからは3つの出水が並んであるのが見えます。

それでは、この出水はいつ頃からあるのでしょうか?
旧練兵場遺跡の最新の報告書(第26次調査:2022年)の中には、周辺の微地形図が載せられています。カラー版になっていて、旧練兵場遺跡の4つの地区がよく分かります。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡微地形図(黄色が集落・黒が河川跡)
この地図で、先ほどの出水群を探してみると、仙遊地区と試験場地区の間には、かつては中谷川の支流が流れていたことが分かります。その支流の上に出水はあります。つまり、その後の条里制に伴う工事で、旧中谷川は条里にそって真っ直ぐに北に流れる現在の姿に流路変更された。しかし、伏流水は今も昔のままの流れであり、それが出水として残っている、ということでしょうか。

宮川製麺所 香川県善通寺市 : ツイてる♪ツイてる♪ありがとう♪
豊富な地下水を持つ宮川製麺

 そういえば、この近くには私がいつも御世話になっている「宮川うどん」があります。ここの大将は、次のように云います。

「うちは讃岐が日照りになっても、水には不自由せん。なんぼでも湧いてくる井戸がある。」

 また、この出水の北側の田んぼの中には、中谷川沿いにいくつも農業用井戸があります。農作業をしていた伯父さんに聞くと

「うちの田んぼの水が掛かりは、この井戸や。かつては手で組み上げて田んぼに入れよった。今は共同でポンプを設置しとるが、枯れたことはない」

と話してくれました。旧流路には、いまでも豊富な伏流水がながれているようです。川の流れは変わったが、伏流水は出水として湧き出してくるので、その下流の田んぼの水源となった。そのため練兵場整備の時にも埋め立てられることはなかったと推測できます。そうだとすれば、この出水は弥生時代以来、田んぼの水源として使われて続けてきた可能性があります。「農事試験場に残る弥生の米作りの痕跡」といえるかもしれません。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図 真ん中が旧中谷川
最後に地図を見ながら、以前にお話ししたことを再確認しておきます。
①旧練兵場遺跡には、弘田川・中谷川・旧金倉川の支流が網の目状にながれていた。
②その支流の間の微高地に、弥生時代になると集落が建ち並び「善通寺王国」が形成された。
③古墳時代にも集落は継続し、首長たちは野田院古墳以後の首長墓を継続して造営する
④7世紀末には、試験場南に佐伯直氏の最初の氏寺・仲村廃寺が建立される。
⑤続いて条里制に沿って、その4倍の広さの善通寺が建立される。
⑥善通寺の建立と、南海道・多度津郡衙の建設は、佐伯直氏が同時代に併行して行った。

ここでは①の3つの河川の流れについて、見ていくことにします。古代の川の流れは、現在のように一本の筋ではなかったようです。
旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡の流路(黒が現在の流れ、薄黒が流路跡)
古代の丸亀平野を流れる土器川や金倉川などは、網目状に分かれて、ながれていたようです。それが弥生時代になって、稲作のために井堰や用水路が作られ水田への導水が行われるようになります。これが「流れの固定化=治水・灌漑」の始まりです。その結果、扇状地の堆積作用で微高地が生まれ、居住域として利用できるようになります。 例えば、旧練兵場遺跡の彼ノ宗地区と病院地区の間を蛇行して流れる旧弘田川は、次のように変遷します。
①南側の上流域で、治水が行われ水流が閉ざされたこと
②その結果として微高地が高燥環境に移行し、流路埋没が始まる
つまり、上流側での治水・灌漑が微高地の乾燥化を促進させ、現在の病院周辺を、生活に適した住宅地環境にしたと研究者は指摘します。
 流路の南側(上流側)では、北側(下流域)に先行して埋没が進みます。そのためそれまでの流路も埋め立てられ、建物が建てられるようになります。しかし、完全には埋め立てません。逆に人工的に掘削して、排水や土器などの廃棄場として「低地帯の活用」を行っています。これは古代の「都市開発」事業かも知れません。

以上をまとめておくと
①明治前期の善通寺村略図には、善通寺村と仲村の境(現農事試験場北側)に4つの柄杓のようなものが書き込まれている。
②これは、現在も農事試験場内に残る出水を描いたものと考えられる。
③この出水は旧練兵場遺跡では、旧中谷川の流路跡に位置するもので、かつては水が地表を流れていた。
④それが古代の治水灌漑事業で上流で流れが変更されることで乾燥化が進んだ。しかし、伏流水はそのままだったので、ここに出水として残った。
⑤そして、下流部の水源として使用されてきた。
⑥そのため明治になって練兵場が建設されることになっても水源である出水は埋め立てられることなく、そのままの姿で残った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 旧練兵場遺跡調査報告書(第26次調査 2022年発行)

女木島遠景
髙松沖に浮かぶ女木島
女木島は高松港の赤燈台のすぐ向こうに見える島です。
映画「釣り場バカ日記」の初回では、ハマちゃんはここに新築の家を持ち、早朝の釣りを終えてフェリーで髙松支店に通勤していました。  高松港から一番近い島です。今は「瀬戸芸」の島として名前が知られるようになりました。
女木島丸山古墳2
女木島の丸山古墳
この島の見晴らしのいい尾根筋に丸山古墳があります。

女木島丸山古墳1
女木島丸山古墳3
説明版には、次のような事が記されています。
①5世紀後半の円墳で、直系約15m
②埋葬施設は箱式石棺で、岩盤を浅く掘り込んで石棺を設置し、その後に墳丘を盛土し、墳丘表面を葺石で覆っている。
③副葬品としては曲刃鎌、大刀と垂飾付耳飾が被葬者に着装された状態で出土している。
女木島丸山古墳5

研究者が注目するのは、被葬者が身につけていた耳飾りです。
この垂飾付耳飾は「主環+遊環+金製玉の中間飾+小型の宝珠形垂下飾」という構成です。この耳飾りの特徴として、研究者は次の二点を指摘します。
①一番下の垂下飾の先端が細長く強調されていること
②中間飾が中空の空玉ではなく、中実の金製玉であること
この黄金のイヤリングは、どこで造られたものなのでしょうか?
 
 高田貫太氏(国立歴史民俗博物館)は、次のように述べています。

「ハート形垂飾付き金製耳飾りは日本では50例ほどが確認されているが、本墳の出土品は5世紀前中葉に百済で作られたもので、日本ではほかに1例しか確認されていない。被葬者は渡来人か、百済と密接な関係を持った海民であろう」

   5世紀半ばに、百済の工房で作られたもののようです。それを身につけていた被葬者は、百済系の渡来人か、百済との関係を持っていた「海民」と研究者は考えているようです。それは、どんな人物だったのでしょうか。
今回は、丸山古墳の被葬者が見た朝鮮半島の5世紀の様子を見ていくことにします。テキストは「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」です。

女木島

 丸山古墳からは髙松平野だけでなく、吉備地域の沿岸部がよく見えます。
女木島は高松港の入口にあり、備讃瀬戸航路がすぐ北を通過して行きます。この周辺は、塩飽諸島から小豆島にかけての多島海で、狭い海峽が連続しています。一方、女木島は平地も少なく、大きな政治勢力を養える場所ではありません。この地の財産と云えば「備讃瀬戸の航路」ということになるのでしょうか。それを握っていた人物が、自分の財産「備讃瀬戸航路」を見回せる女木島に古墳を造営したと研究者は考えているようです。
そしてその人物は「海民」で、次の2つが考えられると指摘しています。
①在地集団の首長
②朝鮮半島百済系の渡来人
 ①②のどちらにしても彼らが朝鮮半島南部に直接出かけて、百済と直接に交流・交易を行っていたということです。
倭人については、次のような見方もあります。
季刊「古代史ネット」第3号|奴国の時代 ② 朝鮮半島南部の倭人の痕跡
対馬海峡の両側を拠点に活動していた海民=倭人
古代国家成立以前には、「国境」という概念もありません。船で自由に海峡を行き来していた勢力がいたこと。その一部が瀬戸内海にも入り込み定着します。これを①の在地の海民集団とすると、②は朝鮮半島に留まった海民集団になります。どちらにしてもルーツは倭人(海民)ということになります。
 従来の学説では、ヤマト政権下に編成され、管理下に置かれた海民達が朝鮮半島との交易を担当していたことに重点が置かれてきました。しかし、女木島の丸山古墳に眠る被葬者は、海民(海の民)の首長として、ヤマト政権には関係なく直接に百済と関係を持っていたと云うのです。朝鮮半島との交渉に、倭の島嶼部や海岸部の地域集団が関わっていたことを示す事例が増えています。女木島の丸山古墳に眠る百済産の耳飾りをつけた人物もそのひとりということになります。
 瀬戸内沿岸の諸地域は5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を採用しています。
今は陸続きとなった沙弥島の千人塚も、その系譜上で捉えられます。沙弥島千人塚
沙弥島千人塚(方墳)
瀬戸内海には女木島や沙弥島などの海民の拠点間で、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていたと研究者は想定します。それは別の視点で云うと、朝鮮半島からの渡来集団の受入拠点でもありました。女木島の場合は、その背後に岩清尾山の古墳群を築いた勢力がいたとも考えられます。あるいは吉備勢力とも、関係をもっていたかもしれません。どちらにしても、丸山古墳の被葬者は朝鮮半島と直接的な関係を持っていたことを押さえておきます。
女木島丸山古墳4

朝鮮半島の西・南海岸地域からは「倭系古墳」と呼ばれる古墳が出てきています。
倭系古墳1
南西海岸の倭系古墳
倭系古墳の特徴は、海に臨んで立地し、北部九州地域の中小古墳の墓制を採用していことです。その例として「野幕古墳とベノルリ3号墳」の埋葬施設を見てみましょう。
倭系古墳 竪穴石室

何も知らずにこの写真を見せられれば、日本の竪穴式石室や組石型石室と思ってしまいます。ベノルリ3 号墳の竪穴式石室は両短壁に板石を立てている点、平面形が 2m × 0.45m と細長方形で直葬の可能性が高い点などが、北部九州地域の石棺系竪穴式石室のものとほぼおなじです。
 次に副葬品を見てみましょう。 
韓半島出土の倭系甲冑
 朝鮮半島出土の倭系甲冑
野幕古墳(三角板革綴短甲、三角板革綴衝角付冑)、
雁洞古墳(長方板革綴短甲、小札鋲留眉庇付冑 2点)
外島1号墳(三角板革綴短甲)
ベノルリ3 号墳(三角板革綴短甲、三角板鋲留衝角付冑)
いずれの古墳からも倭系の帯金式甲冑が出てきます。
野幕古墳やベノルリ3号墳の2古墳から出土した主要な武器・武具類については、一括で倭から移入された可能性が高いと研究者は考えています。このように、野幕、雁洞、外島 1・2 号、ベノルリ3 号の諸古墳は、外表施設、埋葬施設、副葬品など倭系の要素が強く、倭の墓制を取り入れたものです。そして築造時期は、5世紀前半頃です。つまり、これは先ほど見た女木島丸山古墳の被葬者が活躍した年代か、その父親世代の年代になります。
このような「倭系古墳」の存在は、かつては日本の任那(伽耶)支配や高句麗南下にからめて説明されてきました。
しかし、 西・南海岸地域には朝鮮在地系の古墳も併存しています。これはこの地域では「倭系古墳」の渡来系倭人と朝鮮在地系の海民首長が「共存」関係にあったことを示すものと研究者は考えています。
「倭系古墳」の性格は、どのようなものでしょうか。
これを明らかにするために「倭系古墳」の立地条件と経済的基盤を研究者は見ていき、次のように指摘しています。
①「倭系古墳」は西・南海岸地域の沿岸航路の要衝地に立地する。
② この地域はリアス式の海岸線が複雑に入り組んでおり、潮汐の干満差が非常に大きく、それによって発生する潮流は航海の上で障害となる。
③ 特に麗水半島から新安郡に至る地域は多島海地域であり、狭い海峽が連続し、非常に強い潮流が発生する。そのために、現在においても航海が難しい地域である。
 ここからは西・南海岸地域の沿岸航路を航海するためには、瀬戸内海と同じように、複雑な海上地理や潮流を正確に把握する必要がありました。それを熟知していたのは在地の「海民」集団であったはずです。 
 高興半島基部の墓制を整理した李暎澈は、M1、M 2 号墳を造営した集団について、次のように記します。
  埋葬施設がいずれも木槨構造であり、副葬品に加耶系のものが主流を占めている点から、その造営集団は「高興半島一帯においては多少なじみの薄い埋葬風習を有していた集団」であり、「小加耶や金官加耶をはじめとする加耶地域と活発な交流関係を展開していた集団」

この集団が西・南海岸沿いの沿岸航路や内陸部への陸路を活用した「交易」活動を生業としていた「海民」のようです。このような海上交通を基盤としていた海民集団が西・南海岸地域には点在していたことを押さえておきます。
彼らは、次のようなルートで倭と百済を行き来していました。
①漢城百済圏-西・南海岸地域の島嶼部-広義の対馬(大韓・朝鮮)海峡-倭
②栄山江流域-栄山江-南海岸の島嶼部-海峡-倭
 倭からやってきた海民たちも、このルートで百済や栄山江流域などの目的地を目指したのでしょう。朝鮮半島からの渡来人たちが単独で瀬戸内海を航海したことが考えにくいように、西・南海岸地域を倭系渡来人集団だけで航行することは難しかったはずです。円滑な航行には複雑な海上地理と潮流を熟知する現地の水先案内人が必要です。そこで倭系渡来人集団は、西・南海岸地域に形成されていたネットワークへの参画を計ったことでしょう。そのためには、在地の諸集団との交流を重ね、航路沿いの港口を「寄港地」として活用することや航行の案内を依頼していたことが推測できます。倭の対百済、栄山江流域の交渉は、西・南海岸の諸地域との関わりと支援があって初めて円滑に行えたことになります。
 その場合、倭系海民たちは航行上の要衝地に一定期間滞在し、朝鮮系海民と「雑居」することになります。そのような中で「倭系古墳」が築かるようになったと研究者は考えています。逆に、朝鮮半島の海民たちも倭人海民の手引きで、瀬戸内海に入るようになり、女木島や佐柳島などの陸上勢力の手の届かない島に拠点を構えるようになります。それが丸山古墳の黄金イヤリングの首長という話になるようです。
 朝鮮半島系資料の分布状況を讃岐坂出周辺で見てみると、沙弥島に千人塚が現れます。そして、綾川河口の雌山雄山に讃岐で最初の横穴式石室を持った朝鮮式色彩の強い古墳が現れます。このように朝鮮半島系の古墳などは、河川の下流域や河口、入り江沿い、そして島嶼部などに分布しています。これは当時の海上往来が、陸岸の目標物を頼りに沿岸を航行する「地乗り方式」の航法であったことからきているのでしょう。このような状況証拠を積み重ねると、百済から倭への使節や、日本列島への定着を考えた渡来人集団も、瀬戸内の地域集団との交流を重ね、地域ネットワークに参加し、時には女木島や沙弥島を「寄港地」として利用しながら既得権を確保していったと、想定することはできそうです。古代の交渉は「双方向的」であったようです。

倭と百済の両国をめぐる5世紀前半頃の政治的状況は次の通りです。
①百済は高句麗の南征対応策として倭との提携模索
②倭の側には、鉄と朝鮮半島系文化の受容
このような互いの交渉意図が絡み合った倭と百済の交渉が、瀬戸内海や朝鮮半島西南部の経路沿いの要衝地を拠点とする海民集団によって積み重ねられていたと研究者は考えています。古代の海民たちにとって海に国境はなく、対馬海峡を自由に行き来していた姿が浮かび上がってきます。「ヤマト政権の朝鮮戦略」以外に、女木島の百済製のイヤリングをつけた海民リーダーの海を越えた交易・外交活動という外交チャンネルも古代の日朝関係には存在したようです。

以上をまとめておきます
①高松港沖の女木島には、百済製の黄金のネックレスを身につけて葬られた丸山古墳がある。
②この被葬者は、瀬戸内海航路を押さえた海民の首長であった。
③当時の瀬戸内海の海民たちは、5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を一斉に採用していることから、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていた。
④その拠点のひとつが女木島の丸山古墳、沙弥島の千人塚である
⑤彼らは鉄や進んだ半島系文化を手に入れるために、独自に百済との通商ルートを開いた。
⑥そのため朝鮮半島西南部海域の海民との提携関係を結び、瀬戸内海との相互乗り入れを実現させた。
⑦その交易の成果が丸山古墳の被葬者のイヤリングとして残った。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」
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徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ
郡里廃寺(こおざとはいじ)復元図
郡里廃寺跡は,もともとは立光寺跡と呼ばれていたようです。
「立光寺」というのは、七堂伽藍を備えた大寺院が存在していたという地元の伝承(『郡里町史』1957)により名付けられたものです。何度かの発掘調査で全体像が明らかになってきて、今は国の史跡指定も受けています。
郡里廃寺跡 徳島県美馬市美馬町 | みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行"

郡里廃寺跡が所在する美馬市美馬町周辺は,古墳時代後期~律令期にかけての遺跡が数多く分布しています。その遺跡の内容は,阿波国府周辺を凌ぐほどです。そのため『郡里町史』(1957)は、阿波国には,元々文献から確認できる粟国と長国のほかに,記録にはないが美馬国とでもいうべき国が存在していたという阿波三国説を提唱しています。
段の塚穴
段の塚穴
 阿波三国説の根拠となった遺跡を、見ておきましょう。
まず古墳時代について郡里廃寺跡の周辺には,横穴式石室の玄室の天井を斜めに持ち送ってドーム状にする特徴的な「段の塚穴型石室」をもつ古墳が数多くみられます。この古墳は石室構造が特徴的なだけでなく,分布状態にも特徴があります。

郡里廃寺 段の塚穴
段の塚穴型古墳の分布図
この石室を持つ古墳は,旧美馬郡の吉野川流域に限られて分布することが分かります。古墳時代後期(6世紀後半)には、この分布地域に一定のまとまりが形成されていたことをしめします。そして、この分布範囲は後の美馬郡の範囲と重なります。ここからは、古墳時代後期に形成された地域的まとまりが、美馬郡となっていったことが推測できます。そして、古墳末期になって作られるのが、石室全長約13mの県内最大の横穴式石室を持つ太鼓塚古墳です。ここに葬られた国造一族の子孫たちが、程なくして造営したのが郡里廃寺だと研究者は考えています。
 
1善通寺有岡古墳群地図
佐伯氏の先祖が葬られたと考えられる前方後円墳群
 比較のために讃岐山脈を越えた讃岐の多度郡の佐伯氏と古墳・氏寺の関係を見ておきましょう。
①古墳時代後期の野田院古墳から末期の王墓山古墳まで、首長墓である前方後円墳を築き続けた。
②7世紀後半には、国造から多度郡の郡司となり、条里制や南海道・城山城造営を果たした。
③四国学院内を通過する南海道の南側(旧善通寺西高校グランド)内の善通寺南遺跡が、多度郡の郡衙跡と推定される
④そのような功績の上で、佐伯氏は氏寺として仲村廃寺や善通寺を建立した。

郡里廃寺周辺の地割りや地名などから当時の状況を推測できる手がかりを集めてみましょう。
郡里廃寺2
郡里廃寺周辺の遺跡
①郡里廃寺跡付近では,撫養街道が逆L字の階段状に折れ曲がる。これは条里地割りの影響によるものと思われる。
②郡里廃寺跡の名称の由来ともなっている「郡里」の地名は,郡の役所である郡衙が置かれた土地にちなむ地名であり,周辺に郡衙の存在が想定される
③「駅」「馬次」の地名も郡里廃寺跡の周辺には残っていて、古代の駅家の存在が推定できる
 このように郡里廃寺跡周辺にも,条里地割り,郡衙,駅家など古代の郡の中心地の要素が残っています。ここから郡里が古代美馬郡の中心地であった可能性が高いと研究者は考えています。そして,郡衙の近くに郡里廃寺跡があるということは、佐伯氏と善通寺のように、郡里廃寺が郡を治めた氏族の氏寺として建立されたことになります。

それは、郡里を拠点として美馬王国を治めていたのは、どんな勢力だったのでしょうか?
 
郡里が阿波忌部氏の拠点であったという研究者もいます。
 郡里廃寺からは、まんのう町弘安寺廃寺から出てきた白鳳期の軒丸瓦と同じ木型(同笵)からつくられたもの見つかっていることは以前にお話ししました。
弘安寺軒丸瓦の同氾
       4つの同笵瓦(阿波立光寺は郡里廃寺のこと)

弘安寺(まんのう町)出土の白鳳瓦(KA102)は、表面採取されたもので、その特長は、立体感と端々の鋭角的な作りが際立っていて、木型の特徴をよく引き出していることと、胎土が細かく、青灰色によく焼き締められていることだと研究者は指摘します。

③ 郡里廃寺(立光寺)出土の同版瓦について、研究者は次のように述べています。
「細部の加工が行き届いており、木型の持つ立体感をよく引き出している、丁寧な造りである。胎土は細かく、焼きは良質な還元焼成、色調は灰白色であった。」

弘安寺同笵瓦 郡里廃寺
      郡里廃寺の瓦 上側中央が弘安寺と同笵

  まんのう町の弘安寺廃寺で使われた瓦の木型が、どうして讃岐山脈を越えて美馬町の郡里廃寺ににもたらされたのでしょうか。そこには、両者に何らかのつながりがあったはずです。どんな関係で結ばれていたのでしょうか。
郡里廃寺の造営一族については、次の2つの説があるようです。
①播磨氏との関連で、播磨国の針間(播磨)別佐伯直氏が移住してきたとする説
②讃岐多度郡の佐伯氏が移住したとする説
  播磨からきたのか、讃岐からきたのは別にしても佐伯氏の氏寺だと云うのです。ある研究者は、古墳時代前期以来の阿讃両国の文化の交流についても触れ、次のような仮説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

 これは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。
『播磨国風土記』によれば播磨国と讃岐国との海を越えての交流は、古くから盛んであったことが記されています。出身が讃岐であるにしろ、播磨であるにしろ、3国の間に交流があり、讃岐の佐伯氏が讃岐山脈を越えて移住し、この地に落ちついたという説です。
 これにはびっくりしました。今までは、阿波の忌部氏が讃岐に進出し、観音寺の粟井神社周辺や、善通寺の大麻神社周辺を開発したというのが定説のように語られていました。阿波勢力の讃岐進出という視点で見ていたのが、讃岐勢力の阿波進出という方向性もあったのかと、私は少し戸惑っています。
 まんのう町の弘安寺廃寺が丸亀平野南部の水源管理と辺境開発センターとして佐伯氏によって建立されたという説を以前にお話ししました。その仮説が正しいとすれば、弘安寺と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 郡里廃寺は、段の塚穴型古墳文化圏を継続して建立された寺院です。
美馬郡の一族がなんらかの関係で讃岐の佐伯氏と、関係を持ち人とモノと技術の交流を行っていたことは考えられます。そうだとすれば、それは讃岐山脈の峠道を越えてのことになります。例えば「美馬王国」では、弥生時代から讃岐からの塩が運び込まれていたのかもしれません。そのために、美馬王国は、善通寺王国に「出張所」を構え、讃岐から塩や鉄類などを調達していたことが考えられます。その代価として善通寺王国にもたらされたのは「朱丹生(水銀)」だったというのが、今の私の仮説です。さらに推測が許されるのであれば、美馬王国は、阿波忌部一族の王国だったのかもしれません。
 以上をまとめておくと
①美馬郡郡里には、独特の様式を持つ古墳群などがあり、「美馬王国」とも云える独自の文化圏を形成していた
②この勢力は讃岐山脈を越えた善通寺王国とのつながりを弥生時代から持っていた。
③「美馬王国」の国造は、律令国家体制の中では郡司となり、郡衛・街道・条里制整備を進めた。
④その功績を認められ他の阿波の郡司に先駆けて、古代寺院の建立を認められた。
⑤寺院建立は、友好関係(疑似血縁関係)にあった多度郡の佐伯氏の協力を得ながら進められた。それは、同笵瓦の出土が両者の緊密な関係を示している。

 善通寺の大麻山周辺に残されている大麻神社や忌部神社は、阿波忌部氏の「讃岐進出の痕跡」と云われてきました。しかし、視点を変えると、佐伯氏と美馬王国の主との連携を示す痕跡と見ることも出来そうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木本 誠二   郡里廃寺跡の調査成果と史跡保存の経緯
*                                     阿波学会紀要 第55号 2009年
郡里町(1957):『郡里町史』.

佐文と満濃池跡
讃岐国絵図 佐文周辺

まんのう町佐文は、金刀比羅宮の西側の入口にあたる牛屋口があった村です。角川の地名辞典には、次のように記されています。
古くは相見・左文とも書いた。地名の由来は麻績(あさぶみ)が転訛して「さぶみ」となったもので、古代に忌部氏によって開拓された土地であるという(西讃府志)
 金刀比羅官が鎮座する山として有名な象頭山の西側に位置し、古来から水利の便が悪く、千害に苦しんだ土地で、竜王信仰に発した雨乞念仏綾子踊りの里として知られている。金刀比羅宮の西の玄関口に当たり、牛屋口付近には鳥居や石灯籠が多く残っている。阿波国の箸蔵街道が合流して地内に入るので、牛屋口(御使者口)には旅館や飲食店が立ち並んで繁盛を続けた。「西讃府志」によると、村の広さは東西15町。南北25町、丸亀から3里15町、隣村は東に官田、南東に追上、南に上之、西に上麻・神田、北に松尾、耕地(反別)は37町余(うち畑4町余。屋敷1町余)、貢租は米159石余。大麦3石余。小麦1石余。大豆2石余、戸数100。人口350(男184・女166)、牛45。馬17、
伊予土佐街道が村内を通過し、それに箸蔵街道も竹の尾越を超えて佐文で合流しました。そのため牛屋口周辺には、小さな町場もあり、荷駄や人を運ぶ馬も17頭いたことを、幕末の西讃府志は記します。

佐文は、1640年の入会林の設定の際に有利な条件で、郡境を越えた麻山(大麻山の西側)の入会権を認められていることを以前にお話ししました。この背景を今回は見ていくことにします。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺
讃岐那珂郡 赤い短冊が3つあるのが金比羅 その南が佐文 
 1640(寛永十七)年に、お家騒動で生駒家が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。
この時に幕府から派遣された伊丹播磨守と青山大蔵は、讃岐全域を「東2:西1」の割合で分割して、高松藩と丸亀藩の領分とせよという指示を受けていました。その際に両藩の境界となる那珂郡と多度郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争が後に起ることを避けるために、寛永十八(1641)年十月に、関係村々の庄屋たちの意見書の提出を求めています。これに応じて各村の庄屋代表が確認事項を書き出し提出したものが、その年の10月8日に提出された「仲之郡より柴草刈り申す山の事」です。 
入会林の覚え書き 1641年

意訳変換しておくと
仲之郡の柴木を苅る山についての従来の慣例は次の通り
松尾山   苗田村 木徳村
西山 櫛無村 原田村
大麻山 与北村 郡家村 西高篠村
一、七ヶ村西東の山の柴草は、仲郡中の村々が刈ることができる
一、三野郡の麻山の柴草は、鑑札札で子松庄が刈ることを認められている
一、仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている
一、羽左馬(羽間)山の柴草は、垂水村・高篠村が刈ることができる
寛永拾八年巳ノ十月八日

ここには、芝草刈りのための従来の入会林が報告されています。注意しておきたいのは、新たに設定されたのでなく、いままであった入会林の権利の再確認であることです。ここからは中世末には、すでに大麻山や麻山(大麻山の西側)には入会林の既得権利が認められていたことがうかがえます。

DSC03786讃岐国絵図 中讃
讃岐国絵図(丸亀市立資料館) 
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山とされています。
また、三野郡「麻山」(大麻山の西側)は、仲郡の子松庄(現在の琴平町周辺)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証で、札一枚には何匁かの支払い義務を果たした上で、琴平の農民たちの刈敷山となっていたことが分かります。
  大麻山は、仲郡、多度郡と三野郡との間の入会地だったようです。
ちなみに象頭山という山は出てきません。象頭山は近世になって登場する金毘羅大権現(クンピーラ)が住む山として名付けられたものです。この時代には、まだ定着していませんでした。
ここで押さえておきたいのは、4条目の「同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」です。
仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人は、札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。麻山と佐文とは隣接した地域ですが郡境を越えての入山になります。佐文には特別の既得権があったようです。佐文が麻山を鑑札なしの刈敷山としていたことを押さえておきます。
 庄屋たちからの従来の慣例などを聞いた上で、伊丹播磨守と青山大蔵少は、新たに丸亀藩主としてやってきた山崎甲斐守に、引継ぎに際して、次のようなの申し送り事項を残しています。
入会林の覚え書き2 1641年

意訳変換しておくと
一、那珂郡と鵜足郡の米は、前々から丸亀湊へ運んでいたが、百姓たちが要望するように従前通りにすること。
一、丸亀藩領内の宇足郡の内、三浦と船入(土器川河口の港)については、前々より(移住前の宇多津の平山・御供所の浦)へ出作しているが、今後は三浦の宇多津への出作を認めないこと。
一、仲郡の大麻山での草柴苅については、従前通りとする。ただ、(三野郡との)山境を築き境界をつくるなどの措置を行うこと。
一、仲郡と多度郡の大麻山での草柴苅払に入る者と、東西七ヶ村山へ入り、草柴苅りをおこなうことについて双方ともに手形(鑑札札)を義務づけることは、前々通りに行うこと
一、満濃池の林野入会について、仲郡と多度郡が前々から入山していたので認めること。また満濃池水たゝきゆり はちのこ採集に入ること、竹木人足については、三郡の百姓の姿が識別できるようにして、満濃池守に措置を任せること。これも従前通りである。
一、多度郡大麻村と仲郡与北・櫛無の水替(配分)について、従来通りの仕来りで行うこと。右如書付相定者也

紛争が起らないように、配慮するポイントを的確に丸亀藩藩主に伝えていることが分かります。入会林に関係のあるのは、3・4番目の項目です。3番目の項目については、那珂郡では大麻山、三野郡では麻山と呼ばれる山は、大麻山の西側のになるので、今後の混乱・騒動を避けるためには、境界ラインを明確にするなどの処置を求めています。
4番目は、大麻山の入会権については多度郡・那珂郡・三野郡の三郡のものが入り込むようになるので、混乱を避けるために鑑札を配布した方がいいというアドバイスです。
 こうして大麻山と麻山に金毘羅領や四条・五条村・買田村・七箇村などの子松庄およびその周辺の村々が芝木刈りのために出入りすることが今までの慣例通りに認められます。子松庄の村々では麻山へ入るには入山札が必要になります。札は「壱枚二付銀何匁」という額の銀が徴収されていたと研究者は考えています。
 「佐股組明細帳」(高瀬町史史料編)に佐股村(三豊市高瀬町)の入会林について、次のように記されています。
「先規より 財田山札三枚但し壱枚二付き三匁ツヽ 代銀九匁」

これは、入会地である財田山への入山利用料で、3枚配布されているので、一年間で三回の利用ができたことになります。鑑札1枚について銀3匁、3枚配布なので 3匁×3枚=銀9匁となります。
 麻村では8枚の山札使用、下勝間村では4枚の使用となっています。財田山は、固有名詞ではなく財田村の山といった広い意味で、佐俣や麻村・下勝間村は、財田の阿讃山脈の麓に柴草を取りに入るために利用料を払っていたということになります。同じ三野郡内でも佐股、上・下麻、下勝間村は、財田の刈敷山に入るには「札」が必要だったことを押さえておきます。
 各村への発行枚数が異なるのは、どうしてでしょうか?
 各村々と入会林との距離の遠近と牛馬の数だと研究者は考えています。麻村の場合は、秋に上納する山役米について、次のように記されています。
「麻村より山札出し、代米二て払い入れ申す村、金毘羅領、池領、多度郡内の内大麻・生野・善通寺・吉田両村・中村・弘田・三井、三野郡の内上高瀬・下高瀬」

山役を納めなければならない村として、金毘羅領、池領の村々と多度郡・三野郡の各村が挙がっています。これらは先ほど見た「山入会に付き覚書」の中に出ている地域です。ここからは、1640年以後、大麻山・麻山への入山料がずっと続いていたことが分かります。

他の村の刈敷山に入るときには有料の鑑札を購入する必要があったようです。
そのような中で「佐文の者は、先年から鑑札札なしで(三野郡の麻山の柴木を)苅る権利を認められている」という既得権は、特異な条件です。どのようにして形成されたのでしょうか。その理由を考えてみます。

佐文1
西讃府志 佐文の地誌部分

西讃府志には、佐文について次のように記します。
「旧説には佐文は麻積で、麻を紡ぐことを生業とするものが多いので、そうよばれていた」

麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となったと伝えます。ここからは、西隣の麻から派生した集団によって最初の集落が形成されたと伝えられていたようです。確かに佐文は地理的に見ても三方を山に囲まれ、西方に開かれた印象を受けます。古代においては、丸亀平野よりも高瀬川源流の麻盆地との関係の方が強かったのかもしれません。
佐文5
佐文と麻の関係

麻盆地を開いた古代のパイオニアは忌部氏とされ、彼らが麻に建立したのが麻部神社になります。これが大麻山の西側で、その東側の善通寺市大麻町には、大麻神社が鎮座します。
DSC09453
大麻神社
 大麻神社の由来には、次のように記されています。
 阿波忌部氏が吉野川沿いに勢力を伸ばし、阿讃山脈を越えて、谷筋に定着しながら粟井神社の周辺に本拠を置いた。そして、粟井を拠点に、その一派が笠田、麻に広がり、麻峠を越えて善通寺側に進出し大麻神社の周辺にも進出した。それを裏付けるように、粟井神社が名神大社なのに、大麻神社は小社という格差のある社格になっている。

ここには阿波忌部氏が讃岐に進出し、三豊の粟井を拠点としたこと、そこから笠田・麻を経て大麻神社周辺へ「移住・進出」したと伝えます。
大麻神社随身門 古作両神之像img000024
大麻神社の古代神像 

「大麻神社」の社伝には、次のような記述もあります。
「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」
「大麻山(阿波)山麓部から平手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」
ここには阿波と讃岐の忌部氏の協力関係と「麻」栽培がでてきます。また讃岐忌部氏が毎年800本の矛竿を中央へ献上していたことが記されています。讃岐は、気候が温暖で、樫などの照葉樹林の成育に適した土地ですから、矛竿の貢上がされるようになったのでしょう。弥生時代の唐古遺跡から出土した農耕具の大部分は樫でつくられているといいます。材質の堅い樫は、農具として、最適だったようですし、武器にも転用できます。 善通寺の古代豪族である佐伯直氏は、軍事集団出身とも云われます。ひょっとしたら忌部氏が作った武器は、佐伯氏に提供されていたのかもしれません。
 讃岐忌部氏は、矛竿の材料である樫や竹を求めて、讃岐の地に入り、原料供給地のとなる大麻山周辺の山野を支配下に置いていったのでしょう。 讃岐忌部は、中央への貢納品として樫木の生産にあたる一方で、周辺農民の需要に応じるための、農具の生産も行なっていたと考えられます。讃岐忌部の居住地として考えられるのが、次の神社や地名周辺です。
①粟井神社 (観音寺市大野原町粟井)
②大麻神社 (善通寺市大麻町)
③麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
④忌部神社   (三豊市豊中町)
⑤高瀬町麻 (あさ)
⑥高瀬町佐股(麻またの意味)
⑦まんのう町佐文(さぶみ、麻分(あさぶんの意味)
 佐文と大麻山
大麻山を囲むようにある忌部氏関係の神社と地名

佐文を含む大麻山周辺は、忌部氏の勢力範囲にあったことがうかがえます。
大麻山をとりまくエリアに移住してきた忌部氏は、背後の大麻山を甘南備山としてあがめるとともに、この山の樫などを原料にして木材加工を行ったのでしょう。近世に金毘羅大権現が台頭してくるまでは、大麻山は忌部氏の支配下にあって、樫など木材や、麻栽培などが行われていたとしておきましょう。そのような大麻山をとりまくエリアのひとつが佐文であったことになります。当然、古代の佐文は、その背後の「麻山」での木材伐採権などを持っていたのでしょう。それは律令時代に郡が置かれる以前からの権利で、三野郡と那珂郡に分離されても「麻山」の権利は持ち続けたます。それが中世になると小松郷佐文でありながら、三野郡の麻山の入会林(刈敷山)として認められ続けたのでしょう。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺2
讃岐国図(生駒藩時代)
生駒藩の下で作られた讃岐国絵図としては、もっとも古い内容が描かれているとされる絵図で佐文周辺を見てみましょう。
  多宝塔などが朱色で描かれているのが、生駒藩の保護を受けて伽藍整備の進む金毘羅大権現です。その西側にあるのが大麻山です。山の頂上をまっすぐに太い黒線が引かれています。これが三野郡と那珂郡の郡境になります。赤い線が街道で、金毘羅から牛屋口を抜けると「七ケ村 相見」とあります。これが佐文のようです。注目して欲しいのは、郡境を越えた三野郡側にも「麻 相見」があることです。
 ここからは、次のようなことが分かります。
①佐文が「相見」と表記されたこと
②「相見」は、かつては郡を跨いで存在したこと
西讃府志には「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となった」と記されていました。これは、西讃府志の記述を裏付ける史料になります。

麻部神社
麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
以上をまとめておくと
①大麻山周辺は、木工加工技術を持った讃岐忌部氏が定着し、大麻神社や麻部神社を建立した。
②大麻山は、忌部氏にとって霊山であると同時に、木工原料材の供給や麻栽培地として拓かれた。
③大麻山の西側の拠点となった麻は、高瀬川沿いに佐文方面に勢力エリアを伸ばした。
④そのため佐文は「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)」とも呼ばれた。
⑤麻の分村的な存在であった佐文は、麻山にも大きな権益を持っていた。
⑥律令時代になって、大麻山に郡境が引かれ佐文と麻は行政的には分離されるが文化的には、佐文は三野郡との関係が強かった
⑦中世になると佐文は、次第に小松(郷)荘と一体化していくが、麻山への権益は保持し、入会権を認められていた。
⑧そのため生駒騒動後の刈敷山(入会林)の再確認の際にも、「仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている」と既得権を前提にした有利な入会権を得ることができた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  

DSC08058
土器川から仰ぐ飯野山
前々回は、丸亀平野の高速道路工事前の発掘調査で出てきた条里制地割に関係した「溝」を見てみました。そこからは「溝」が7世紀末に掘られたものであり、そこから丸亀平野の条里制地割施行を7世紀末とすることが定説となっていることを押さえました。
前回は、弥生時代の溝(灌漑用水路)を見ることで、弥生時代後期には灌漑用の基幹的用水路が登場し、それが条里制施行期まで継続して使用されていたことを押さえました。そこには、灌漑用水路に関しては、大きな技術的な革新がなかったことが分かりました。そういう意味では、丸亀平野の条里制跡では、すべてのエリアに用水を供給するような灌漑能力はなく、従って放置されたままの広大な未開発エリアが残っていたことがうかがえます。大規模な灌漑用水路が開かれて、丸亀平野全体に条里制施行が拡大していくのは、平安末期になってからのようです。
飯山町 秋常遺跡航空写真
秋常遺跡周辺の航空写真(1961年)


 さて、今回も「溝」を追いかけます。今回は大束川沿いに掘られていた大溝(基幹的用水路)が、飯山町の東坂元秋常遺跡で見つかっています。この大溝がいつ掘られたのか、その果たした役割が何だったのかを見ていくことにします。テキストは「 国道438号改築事業発掘調査報告書 東坂元秋常遺跡Ⅰ 2008年」です。
飯山 秋常遺跡地質概念図
大束川流域の地形分類略図

東坂元秋常遺跡は、飯野山南東の裾部に位置します。大束川河口より5㎞程遡った左岸(西側)にあたります。遺跡の北西は飯野山で、東側を大束川が蛇行しながら川津方面に流れ下って行きます。この川は綾川に河川争奪される前までは、羽床から上部を上流部としていた時代があったようです。また、土器川からの流入を受けていた時もあったようで、その時代には流量も多かったはずです。また、大束川は流路方向が周辺の条里型地割に合致しているので、人工的に流路が固定された可能性があると研究者は指摘します。
このエリアの遺跡として、まず挙げられるのは、白鳳期の法勲寺跡で、この遺跡の南約2㎞にあります。

法勲寺跡
法勲寺跡

大束川中・上流域を統括した豪族の氏寺と考えられています。この寺院の瓦を焼いた窯が、東坂元瓦山で見つかっいますが、詳細は不明です。また平地部には、西に30度振れた方位をとる条里型地割りが残ります。法勲寺は、主軸線が真北方向なので、7世紀末に施行された周囲の条里型地割りとは斜交します。ここからは、条里型地割り施行よりも早く、法勲寺は建立されていたと研究者は考えています。

飯野山の南側エリアは、国道バイパスの建設が南へと伸びるに従って、発掘調査地点も増えました。
  飯山高校の西側の岸の上遺跡からは、倉庫群(正倉?)を伴う建物群が出てきていることは、以前にお話ししました。
「倉庫群が出てきたら郡衙と思え」と云われるので、鵜足郡の郡衙の可能性があります。同時に岸の上遺跡からは、南海道に附属すると考えられる溝跡もでてきました。こうなるとこの地域には、「鵜足郡郡衙 + 南海道 + 古代寺院の法勲寺」がセットであったことになります。これは、多度郡の佐伯氏本拠地であるの善通寺周辺と同じ様相です。この地域が、鵜足郡の政治的な中心地であった可能性が高くなりました。

岸の上遺跡 イラスト
古代法勲寺周辺の想像図 

さて、前置きが長くなりましたが秋常遺跡から出てきた「大溝SD01」を見てみましょう。
飯山 秋常遺跡概念図
東坂本秋常遺跡は、旧国道とバイパスの分岐点近くにあった遺跡です。東を流れる大束川の段丘崖の上にあったことが分かります。

飯山町 秋常遺跡 大溝用水路
大溝(SD01)は、古代の基幹的用水路
SD01は、延長約90mでA地区尾根端部の南縁辺を回り込むように開削されています。A2区屈曲部付近でSD02が、B-1区南端部でSD03がそれぞれ合流して、ゆるやかに北に流れていきます。
飯山町 秋常遺跡変遷図1
大溝(SD01)の変遷図

 流路SD01は、頻繁に改修された痕跡があり、長期にわたって利用された幹線水路のようです。8世紀後葉までには開削されたようで、完新世段丘が形成される11世紀代になると廃棄されています。SD01の脇には、現在は上井用水が通水しています。SD01廃絶後は、土井用水に付け替えられた可能性を研究者は指摘します。

大束川流域の古代の幹線水路は、以前に紹介した下川津遺跡や川津中塚遺跡があります。
弥生時代 川津遺跡灌漑用水路


その中で大束川流域の水路の中では、最も大型の水路になるようです。このエリアの開発を考える上で、重要な資料となります。
同じような幹線水路は、川津川西遺跡や東坂元三ノ池遺跡にもあります。
川津川西遺跡は、飯野山北東麓の集落遺跡で、調査区中央部で南北方向に流れる幹線水路SD135が出てきました。SD135は、N60°W前後の流路主軸で、直線状な水路です。調査区内で延長約38mが確認され、幅3,5~4,3m、深さ1.3~1.4m、断面形は逆台形状で、東坂元秋常遺跡SD01とよく似た規模です。底面の標高は9m前後で、標高差から北に流下していたようです。
 報告書では、出土遺物から8世紀後半~9世紀前半代の開削、13世紀代の埋没が示されていますが、開削時期はより遡る可能性があるようです。
東坂元三の池遺跡は、飯野山東麓の裾部の緩斜面地上に広がります。
飯山町 東坂元三 ノ池遺跡
東坂元三の池遺跡
この南部段丘Ⅰ面からは等高線に平行して掘られた幹線水路SD30が出ています。流路方向N43°Eの流路主軸で、ほぼ直線状に掘られた幹線水路です。調査区内で延長約13mが確認され、面幅2.4m、深0,9m、断面形は逆台形状です。埋土からは数度の改修痕跡が確認できます。溝の規模や性格から古代以降の開削のものと研究者は考えているようです。
飯山町 東坂元三 ノ池遺跡2
         東坂元三の池遺跡の古代水路

 周辺の各水路は8世紀後半には埋没が進行し、灌漑水路としての機能が低下しつつあったようです。開削時期については、8世紀中葉以前に遡り、廃絶時期は11世紀前後で、時期も共通します。
東坂元秋常遺跡から出てきたSD01と、今見てきた水路の位置関係を表示したのが第70図です。
飯山町 秋常遺跡 大溝用水路1

この図からは、各水路は飯野山東麓の段丘縁辺をめぐるように開削され、つながっていた可能性が出てきます。そして規模や埋土の堆積状況などもよく似ています。また使用されていた期間も共通します。これらの事実から、3つの遺跡は、3~5 km離れていますが、もともとは一本の水路で結ばれていた研究者は推測します。
 そして東坂元秋常遺跡SD01と東坂元三ノ池遺跡SD30に沿うように、現在は上井用水が流下しています。これを古代水路の機能が、今は上井用水に引き継がれている証拠と研究者は推察します。以上の上に、川津川西遺跡SD135を含めた3遺跡の幹線水路を「古上井用水」と一括して呼びます。

一本の灌漑水路であったとすると、その用水の供給先はどこだったのでしょうか?
飯野山東麓は、耕地となる平地が狭くて、大規模水路を建設しても、それに見合うだけの収量が期待できるエリアではありません。大規模な用水路を掘って、水田開発を行うとすれば、それは大束川下流西岸の川津地区だと研究者は考えます。
大束川下流エリアを見ておきましょう。
この地区は、バイパス+高速道路+インターチェンジ+ジャンクションなどの建設工事のために、大規模な発掘調査が行われています。そして、津東山田遺跡I区SD01、川津中塚遺跡SD Ⅱ 38、川津元結木遺跡SD10などで大型水路が確認されています。そして、それぞれに改修痕跡が見つかっていて、長期に渡って継続使用されたことが分かります。これらの水路も幹線水路として機能していたのでしょう。水路の開削時期は、9世紀頃までには開削され、11世紀頃には水路としての機能が衰退していたと研究者は考えています。こうした調査例より灌漑水路網が、遅くとも9世紀までには川津地区に整備されていたことがうかがえます。旧上井用水も、「古代川津地区総合開発計画」の一環として開かれたとしておきましょう。
飯山町 秋常遺跡灌漑用水1

現状水路との関係
①東坂元秋常遺跡SD01と東坂元三ノ池遺跡SD30に隣接して上井用水
②川津川西遺跡SD135に近接して西又用水
が、現在は灌漑用水として機能しています

文献史料で、現行水路との関係について見ておきましょう。
上井用水は、大窪池を取水源としています。大窪池がいつ築造されたかについては、根本史料はないようです。ただ、堤防にある記念碑には、高松藩士矢延平六が正保年間(1644~1648)が増築したことが記されているので、17世紀前葉以前に築池されていたと考えられます。
 また宝暦5年(1755)に高松藩が水利施設の調査を行った際に、鵜足郡内の結果をまとめた「鵜足郡村々池帳」には、大窪池の水掛り高は3,011石で、上法軍寺村以下、東坂元秋常遺跡周辺の東坂本村などへ通水されていたことが記されています。(飯山町編1988)、このなかに上井用水の通水域は、含まれていたのでしょう。上井用水は現在は、元秋常遺跡南部で用水の大部分を大束川へ落とし、一部が東坂元秋常遺跡東辺を北流して、東坂三の池遺跡東部で西又用水へ流入しています。
西又用水は、大束川本流より直接取水しています。
用水路で、西又横井より取水し、川津地区の灌漑に利用されています。西又横井の構築時期もよく分かりません。比較のために大束川に設置された他の横井について、その構築時期を見てみると、天保7年(1836 )に、通賢が築造した坂本横井が、もっとも古い例になるようです(飯山町1988)。横井築造の技術的な問題からの築造時期は、江戸中期以降と研究者は考えています。こうすると西又用水は、江戸前半期までに上井用水の延長部として整備されていたが、西又横井の構築により再整備されたものと考えられまする。
 上井用水の開削時期は17世紀前葉以前に遡り、飯野山南部の大束川西岸平地部を主要な灌漑域とする用水路であり、その一部は川津地区へ給水されていたとします。
 このように、大窪池築造という広域的な灌漑用水路網の整備が、17世紀前葉以前に遡る可能性を研究者は指摘します。そして、下流で行われた沼池増築や横井構築といった近世の開発は、新たな土木技術の導入や労働編成による、その量的拡大であったとします。
 そして、古代の古上井用水は、11世紀段階の埋没・機能停止を契機として、中世段階に上井用水へと切り替えられ継続された結果と考えているようです。
では、古上井用水の取水源は、どこなのでしょうか?

飯山町 秋常遺跡 大溝用水路3
この点で注目されるのが法勲寺です。法熟寺は、大窪池がある開析谷の開田部付近の微高地上に位置します。この寺は鵜足郡内唯一の白鳳期寺院で、郡領氏族であるとされる綾氏の氏寺として創建されたとされます。また大窪池から取水する現在の用水路は、法勲寺の西を北流して上井用水へとつながります。さらに大窪池の北西部の台地上にある東原遺跡は、7世紀中葉~奈良時代の大形掘立柱建物群が出てきていて、有力集団の居宅とされます。さらに谷部東方の台地上にある遠田遺跡からも、奈良時代の大形掘立柱建物が出てきています。
ここからは法勲寺を中心としたエリアが、古代において計画的・広域的に開発されたことが推測されます。
つまり、白村江から藤原京時代にかけての7世紀中葉から8世紀代にかけて、大窪池周辺では郡司層(綾氏?)による大規模開発が行われたと研究者は指摘します。
飯山町 秋常遺跡 土地利用図
法勲寺周辺の旧河川跡 土器川からの流路が見られる

 その一環として大窪池築池と灌漑用水路網の整備がなされたと云うのです。藤原京時代の郡家の成立とともに手工業生産や農業経営など、律令国家の政策のもと郡司層を核とした多様な開発が進んだことが明らかにされつつあります。
例えば讃岐の場合は、次のような動きが見えます。
①三野郡丸部氏による国営工場的な宗吉瓦窯群の創業開始と藤原京への宮殿瓦供給
②阿野郡綾氏による十瓶山(陶)窯群の設置
大束川流域の基幹的な用水路の設置は、同時期の上のような郡司層の動向とも重なり合うものです。それを補強するかのように、飯山高校の西側の岸の上遺跡からは、倉庫群(正倉?)を伴う建物群が出てきたことは、以前にお話ししました。こうなるとこの地域には、「郡衙 + 南海道 + 法勲寺」がセットであったことになります。これは、多度郡の佐伯氏本拠地であるの善通寺周辺と同じ様相です。この地域が、鵜足郡の政治的な中心地であった可能性が高くなりました。
 それを進めた政治勢力としては、坂出の福江を拠点に大束川沿いに勢力を伸ばした綾氏の一族が考えられます。
かれらが弥生時代から古墳時代に掛けて開発されていた河津地区を支配下に置き、さらにその耕地拡大のための灌漑用水確保のために、飯野山南部の丘陵部の谷間の湧水からの導水を行ったという話になるようです。そういう意味では、法勲寺は湧水の中心地に作られた古代寺院で、仏教以前の稲作農耕期には水がわき出る聖地として崇められていたことも考えられます。

以上をまとめておくと
①東坂元秋常遺跡は、飯野山と城山からのびる尾根が最接近する狭い平野部で、その東を大束川が流れる
②この遺跡からは、大束川の上面に掘られた藤原京時代の「大溝=基幹的用水路(SD01)」が出てきた。
③飯野山北麓の遺跡から出てきた基幹的用水路と、SD01は、もともとはつながっていた。
この最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   国道438号改築事業発掘調査報告書 東坂元秋常遺跡Ⅰ 2008年
関連記事

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


   
丸亀平野や髙松平野の高速道路やバイパスの事前発掘調査では、「溝」が数多く出ていることを前回は見ました。「溝」からは、条里制が7世紀末~8世紀初頭に施行されたものであることが分かってきました。今回は、条里制に先立つ弥生時代の「大溝」を見てみることにします。テキストは、「信里 芳紀 大溝の検討 ―弥生時代の灌漑水路の位置付け―埋蔵文化財調査センターⅣ 2008年」です。

弥生時代 林・坊遺跡 灌漑水路
弥生時代前期初頭の灌漑水路網   高松市の林・坊城遺跡の場合

高松市の林・坊城遺跡では、弥生時代前期初頭(板付Ⅰ式併行期)の灌漑水路網が発掘されています。
南西部を流れる幹線的水路の10・11号溝に堰が作られ、小規模な分水路の25号溝が北西の水田エリアに伸びていきます。10・11号溝は、幅約1,5m前後、深さ約0,3~0,5mで、分水点には自然礫を積んで簡易な堰が作られています。取水源は、遺跡南方の旧河道と見られますがよく分かりません。これが、この遺跡でもっとも古い灌漑水路網になるようです。10・11号溝は、水田稲作の開始期のもので、小規模で改修痕跡もなく、短期間で破棄されています。土地地条件の変化などで、耕地が放棄され別の地点に移動しようです。初期の稲作は水田も不安定で、移動を繰り返していたことがうかがえます。
弥生時代 多肥遺跡 灌漑水路
弥生時代中期の灌漑水路網(図2)   高松市の多肥遺跡群

多肥遺跡群(高松市)では、弥生時代中期中葉までに掘られた基幹的な灌漑用水路が出てきています。
そのひとつが日暮松林遺跡(済世会地区)SDl等です。用水路は幅約4,2m・深さ約1mで、上流側の多肥宮尻遺跡SR02では、埋没旧河道の凹地に開削されています。微高地に導水され、日暮松林遺跡では微高地上面を通過して行く大掛かりなものです。その途中に、支線と見られる複数の小溝が分岐しています。加えて、南西方向から延びる別の灌漑水路(日暮松林フィットネスクラブ建設地区SD01ほか)と合流し、広範囲な灌漑水路網を形成します。
 また、開かれた後も浚渫などの維持管理による改修痕跡が確認できるようです。時期的には、弥生時代中期中葉までに開削された後、古墳時代後期まで機能していたと研究者は考えています。
 水田があった所は、溝の流下方向から見て微髙地上面だったと推測できます。調査で確認された総延長は約500mですが、取水源は更にその南側にあり、実際の灌漑水路の延長距離は約2kmはあったと研究者は考えています。
 以上から次のようなことが分かります。
①2㎞上流から灌漑用水による導水で微髙地も水田化が行われていたこと、
②定期的な管理が行われ長期間によって使用されていること
③この時代には稲作農耕が安定化したこと
これは弥生時代早期の用水路が短期間で廃棄されていたのとは対照的です。
弥生時代 川津遺跡灌漑用水路
川津遺跡群の灌漑水路網(弥生時代後期)


弥生時代後期の灌漑水路網(図3) としては、坂出市の川津遺跡が挙げられます
 川津二代取遺跡、川津下樋遺跡からは復数の水路網が見つかっています。SD001は①旧河道(SR 101)が取水地で、微髙地にある川津中塚遺跡や下川津遺跡の中を貫通していきます。その間に、SR 1 03、SD57、SD30などの溝と合流し、複数の小溝で分水しながら下川津遺跡の第4微高地西側へ導水されています。最終的には。第3低地帯と呼ばれる凹地上にあった水田へつながっていたようで、総延長は約500mになります。
 途中に支線的な水路と見られる小溝が分岐しているので、下川津遺跡の第3低地帯の水田だけに用水を供給していたのではなく、微高地上面やその縁辺部にあった水田にも灌漑していたようです。遺物の出上状況からは、この用水路が弥生時代後期後半から古墳時代後期に埋没するまでの長期間に渡って機能していたことが分かります。
以上から次のようなことが分かります。
①取水口から2㎞近く離れた水田まで、微髙地を越えて導水されていたこと、
②その間にも小溝を分岐して、用水沿いの水田に供給したこと
③弥生時代中期には、灌漑用水網が丸亀・髙松平野には姿を見せていたこと。
③前回見たように、このような灌漑用水網の技術は技術革新がないまま条里制施行(7世紀末)まで使用されていること
⑤さらに大きな溝(用水路)が掘られる技術革新が行われたのは平安末期であること

ここで問題になるのが取水源です。
多肥遺跡群や川津遺跡群は、灌漑水路は沖積低地上を流れる旧河道を取水源としていたようです。取水限となる旧河道は、そこに作られる井堰の構造等などから川幅数mから20m、深さ1~2m程度の中規模の川が、弥生時代の一般的な取水源とされてきました。しかし、近年の発掘調査からは、より規模の大きい河川からの取水が行われていた可能性がでてきたようです。それを見ておきましょう。
弥生時代 末則遺跡
末則遺跡(綾川町)
末則遺跡は、農業試験場の移転工事にともない発掘調査が行われました。鞍掛山から伸びて来た尾根の上には、末則古墳群が並んでいます。この付近には、快天塚古墳のある羽床から綾川上流部に沿って、丘陵部には特色のある古墳群がいくつか点在しています。この丘にある末則古墳の被葬主も、この下に広がる低地の開発主であったのだろうと私は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図
現在の末則の用水路網
 末則古墳群の丘は「神水鼻」と呼ばれる丘陵が北から南へ張り出しています。
そのため南にある丘陵との間が狭くなっていて、古代から綾川の流路変動が少ない「不動点」だったようです。これは河川の水を下流に取り入れる堰や出水を築くには絶好の位置になります。綾川の「神水」地区の対岸(綾川町羽床上字田中浦)に「羽床上大井手」(大井手)と呼ばれる堰があります。これが下流の羽床上、羽床下、小野の3地区の水源となっています。宝永年間(1704~1710年)に土器川の水を引くようになるまで、東大束川流域は、渡池(享保5(1720)年廃池、干拓)を水源としていました。大井手は、綾川から取水するための施設です。
その支流である岩端川(旧綾川)にも出水が2つあります。
その1つが「水神さん」と呼ばれている水神と刻まれた石碑が立つ羽床下出水です。
この出水は、直線に掘削した出水で、未則用水の取水点になります。末則用水は、岩端川から直接段丘面上の条里型地割へ導水していることから条里成立期の開発だと研究者は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図

上図は、弥生時代の溝SD04と現在の末則用水や北村用水との関係を示したものです。
流路の方向や位置関係から溝SD04は、現在の末則用水の前身に当たる用水路と研究者は考えています。つまり、段丘Ⅰ面の最も標高の高い丘陵裾部に沿って溝を掘って、西側へ潅水する基幹的潅概用水路だったというのです。そうするとSD04は、綾川からの取水用水であったことになり、弥生時代後期の段階で、河川潅概が行われていたことになります。そこで問題になるのが取水源です。
   現在の取水源となっている羽床下出水は、近世に人為的に掘られたものです。考えられるのは綾川からの取水になります。しかし、深さ1mを越えるような河川からの取水は中世になってからというのが一般的な見解です。弥生時代にまで遡る時期とは考えにくいようです。
これに対して、発掘担当者は次のような説を出しています
弥生時代 綾川の簡易堰
写真10は現在、綾川に設けられている井堰です。
これを見ると、河原にころがる礫を50cmほど積み上げて、礫間に野草を詰めた簡単な構造です。大雨が降って大水が流れると、ひとたまりもなく流されるでしょう。しかし、修復は簡単にできます。弥生時代後期の堰も、毎年春の潅漑期なると写真のような簡単な構造の堰を造っていたのではないか、大雨で流されれば積み直していたのではないかと研究者は推測します。
 こうした簡単な堰で中流河川からの導水が弥生時代後半にはおこなわれていたこと、それが古墳時代や律令時代にも引き継がれていたと研究者は考えています。この丘に眠る古墳の被葬者も、堰を積み直し、用水を維持管理していたリーダーだったのかもしれません。

中規模河川からの取水に加えて、補助的な水源を活用する事例も見られます。

弥生時代 空港跡地1
空港跡地遺跡群の灌漑用水網 その1

扇状地に立地する空港跡地遺跡群では、弥生時代中期から灌漑水路網が現れます。その中で基幹的灌漑水路と見られるのは、次のふたつです。
①基幹的灌漑水路A 上林遺跡から空港跡地遺跡I地区へ流れ下すSRi01・SRi02
②基幹的灌漑水路B 空港跡地遺跡D地区からE地区へ流下するSDd00・SDe115、SDe138。
微高地にある住居群が散在するH地区からG地区、A地区からG地区へ抜けるSDh016、SDg86、SDg42、SDg17などは、基幹的滞漑水路Aから分岐する支線的な灌漑水路群と考えられます。更に支線的な灌漑水路のSDh016、SDg03には、井戸状に掘開された大型土坑に、通水のための小溝を付設した「出水」と呼ばれる補助的な灌漑施設が複数設けられています。 SDh016、SDg03が流下する地点は微高地上で、水が流れにくい所なので、灌漑水路に補助的な水源を複数組み合わせていると研究者は考えています。

  ここから研究者の見解が私にとっては興味深いものでした。
 これまで灌漑システムの発展については、遺跡立地の変化や遺跡数の増加を材料として、農業生産の拡大や人口増加が起こるという説明がされてきました。これが「治水灌漑を制するものが、天下を制する」説になっていきます。
弥生時代 遺跡数

例えば上のグラフからは、弥生時代後期V頃に遺跡総数が激増していることが見えます。従来は、灌漑整備による生産力増大が社会的発展をもたらし、次の古墳の出現を生み出す原動力となるという説明がされていました。社会経済史を基礎に、社会発展を説く説明です。
 しかし、実線で示された住居数は見ると、あまり増えていません。つまり人口は、それほどの増加はなかったことになります。ここから遺跡総数の増加は、人口の増加をもたらしたものではなく、当時の灌漑水路網の再整備や拡充を反映しているだけであると研究者は捉えます。国家形成の「原材料」は「治水灌漑」だけでは捉えられないというのです。
東洋的専制主義 全体主義権力の比較研究(ウィットフォーゲル) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
灌漑農業と国家権力の発生について、最近の研究史を見ておきましょう。
 ヴィットフォーグルは、灌漑作業の協業化によって、「労働力の組織化」を行うリーダが現れ、社会の階層化が起こり、これが国家形成要因のひとつとなるとしました。ここからは灌漑農業の発展は、統一的な政治権力の形成など社会の階層化につながるとされ、古代の国家形成を捉えるひとつの視点を示しました。分かりやすい説明で取っつきやすいのですが「単線的なモデル」で、融通性がなく地域差の多い日本の古代を説明するには無理があるとされ、現在では否定的な意見が多いようです。
 これに対して近藤義郎氏は、灌漑農業の発展に伴う余剰生産物の発生を通じて、単位集団と生産集団との階級間の衝突が調停者としての首長の出現を求めます。そこから社会の階層化を説明します。
 都出比呂志氏は、耕地開発や水利灌漑に伴う協業の基礎的単位である世帯共同体と、水系単位でそれが結合した農業共同体を想定します。その領域と前期古墳首長墓の分布が重複することから、首長権力の発生の基盤を農業共同体に求めました。
 広瀬和雄氏は、耕地開発や水利権の調整などを素材として、灌漑水田そのものが首長を生み出す構造を持っていたとします。そして、水田稲作を開始した弥生時代の初期の段階から社会の階層化が始まったと考えます。また、首長の統率する領域を、都出氏の農業共同体よりも小規模エリアとします。こうした首長は、自給できない貴重物資の入手や耕地開発を通じて、他の首長とネットワークを形成していくとします。この首長間のネットワークは、弥生後期から古墳前期により「高度化」していきますが、その関係は近畿を中心にして最初から階層的であったことと指摘します。
 大久保徹也氏は、灌漑水路と微地形との関係から、灌漑による協業によって結ばれる共同体のエリアを広瀬と同じく小規模なものとします。そして弥生時代に見られる様々な物資流通に注目し、共同体間の結び付きについて灌漑作業以外に必需物資の生産と流通を重視します。
 押さえておきたいのは、現在の研究者たちは「治水灌漑=国家権力発生」と単純に考えていないことです。国家権力の形成には、それ以外にも、「首長間のネットワーク + 必需物資の流通確保 + α」などの要素も加味する必要がある考えていることです。それでは、弥生時代の灌漑水路網にもう一度帰って、その整備の意味を研究者はどう考えているのかを見ておきましょう。

本当に灌漑水路網は、弥生時代後期になって急激に整備されたのでしょうか。
 弥生時代後期には、基幹的灌漑水路を中心に多くの灌漑水路が開削されたことが発掘調査からは分かっています。しかし、弥生時代後期の基幹的灌漑水路の多くは、新たな地点に開削されるのでなく、埋没などの老朽化が進んだ灌漑水路に近接して見られることが多いようです。つまり、灌漑網の基本的なプランは、弥生時代前期に完成され、弥生時代後期になって基幹的灌漑水路を再整備することや、支線となる小規模な水路が多く作ることで、灌漑域の拡大が行われたと研究者は考えています。
.基幹的灌漑水路と他の生産部門との関係

弥生時代 灌漑用水網と流通関係図

基礎的灌漑水路の多くは、初期遠賀川式上器出現後の弥生時代前期後半期から開削され始めます。
Koji on Twitter:  "石斧をつくる。凝灰岩製一部磨製石斧、伐木用(上)。凝灰岩製打製石斧、戦闘用(中)。黒曜石製一部磨製石斧、試験用(下)。  https://t.co/PdYzYxlitE https://t.co/xVjwgjVA3B https://t.co/3B821Pff5I" /  Twitter

この時期は、鋤・鍬などの木製農具が増加するとともに、片岩製の両刃石斧・片刃石斧・石庖、サヌカイト製打製石包丁の流通が始まります。木製農具は、灌漑水路の開削や水田稲作に不可欠な道具で、両刃石斧・片刃石斧は、木製農具の加工に使用されたようです。また、伐採用の両刃石斧は、水田を開くための伐採など耕地開発にはなくてはなりません。
石斧プロジェクト:沖縄生物俱楽部/旧棟

 多肥松林遺跡群を初めとして基幹的灌漑水路が開削される弥生時代中期中葉には、丘陵やそれに隣接する遺跡群から磨製石斧を多く保有する集落が出てきます。このような集落では、弥生時代前期後半期の環濠集落を中心に、立地を活かして木製品生産に傾斜した生業が行われたと研究者は考えています。
 弥生時代後期は、基幹的濯漑水路や支線的な灌漑水路が多く掘られて、灌漑水路網の再整備と灌漑エリアの拡大が行われた時期です。
この時期は、土器・鉄器・製塩などの物資流通に変化があったと研究者は考えています。
 例えば土器生産では、灌漑水路網で結ばれる2~3㎞程度のエリアで流通する香東川下流域産と呼ばれる特徴的な土器器群が現れます。この香東川下流域産土器は、高松平野の北東部の集落で専門的に生産されたものです。一方、近接する空港跡地遺跡群では、「白色系土器群」と呼ばれる土器群が周辺の集落で流通しています。ここからは、それぞれの土器を生産する拠点を中心に、生産・流通活動が活発化していることうかがえます。
川津遺跡群(坂出市)などの特定の遺跡群で、鍛冶遺構が出てきます。これは川津遺跡群を中心とした大束川流域単位での鉄の生産・流通が開始されたことを示します。製塩では、高松平野の東部丘陵の遺跡群を中心に、生産体制が整備されます。
 一方で木器生産では、後期初頭を境にして木製品が急激に減少します。これは、鉄に取って代わられたのではなく、周辺の丘陵や山間部で集中的な生産が行われ、地域分業が始まったことを示すと研究者は考えています。
 このように弥生時代後期になると、複数の生産部門で特定の集落群を中心に分掌関係が成立したことがうかがえます。それに歩調を合わせる形で、灌漑水路網の整備・拡張が行われています。両者は、無関係ではないようです。灌漑水路網の整備・拡充を契機として、農業生産を支える必需物資の拡大再生産が行われていることを研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①弥生時代後期の分掌化した必需物資の生産と流通は、古墳時代前期前半期まで、基幹的灌漑水路と呼ぶ大溝を中心にした灌漑システムは、古墳時代後期まで維持される。
②その間に古墳築造が開始される。
③これはそれは単に灌漑システムの発展だけでなく、それを契機とした様々な必需物資の生産と流通を巡る分掌化が行われた上での古墳の出現だった

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「信里 芳紀 大溝の検討 ―弥生時代の灌漑水路の位置付け―埋蔵文化財調査センターⅣ 2008年」
 「西末則遺跡  農業試験場移転に伴う埋蔵文化財調査報告 2002年」


丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割
丸亀平野は古代の鵜足郡、那珂郡、多度郡にあたり、整然とした一辺約110mの方格地割がみられます。しかし、よく見ると土器川や金倉川沿いなどには乱れがあります。それでも、全体としてみると統一性のある方格地割になっているようです。この地割は、古代の条里制との関わりで説明されています。律令体制の「班田収受制」を行うための整備という位置づけです。しかし、条里制の格地割形成については、次のような説や見解が出されています。
①班田制と方形地割形成を別個に考えて、両者が備わった段階を「条里プランの成立」とする金田章裕氏の説
②発掘調査からみて灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできないという説
③当初の方格地割と現在の地割にはずれがあり、段階的に成立したとする説

丸亀平野の広がる「条里型地割」の施工がどこまで遡り、 またどのような変遷をたどるのかを考古学的に見ておきましょう。テキストは「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」です。
丸亀平野 旧練兵場遺跡
       善通寺王国の旧練兵場遺跡の復元図

丸亀平野では、1983(昭和58)から高速道路の発掘調査が大規模に行われました。広範囲な発掘調査が行われたことで、土地条件・地質環境に情報も格段に増え次のような事が分かってきました。
①丸亀平野の形成時期は、3万年以前の更新世に遡ること
②完新世以後は高燥化が進んで、河川岸に段丘崖を形成し、平野面は剥削環境にあったこと
③そのため旧河道などの低地帯を除くと、用水路以外の地割痕跡は考古学上の遺構としては把握することはできない
これは、地割を考古学的に追究する上でのデメリットですが、あえて発掘調査で出てきた「溝」に研究者はこだわります。土器川西岸に接する川西北鍛冶屋遺跡を一番東側として、西は旧多度郡の乾遺跡まで、高速道路建設での発掘調査の行われたで延長約6kmの東西に長い15遺跡のデータを並べたのが第2表です。
丸亀平野の条里制3
高速道路建設ルート上の丸亀平野の各遺跡

すべての遺跡の調査範囲の中には合計57箇所の坪界線が机上では想定されます。それが、発掘では溝として、どのように出現しているのかを見ていきます。
第2図からは、Ⅰ期(7世紀以前)にかなり広範囲に溝の分布があったことが分かります。各遺跡毎に見ると、次のようになります。
①Ⅰ期の溝が少ないのが、川西地区、龍川地区、永井・中村地区
②Ⅰ期の溝が多いのが、郡家地区、金蔵寺地区、稲木地区
ここからは、①が条里制施行が遅れたエリア、②が先行したエリアであったことがうかがえます。②は郡衙や準郡衙的な遺構があった所で、前時代からの首長の拠点と目されるエリアです。条里制地割溝には、早く施工された地域と遅れて施工された地域に偏りがあるようです。押さえておきたいことは、丸亀平野全体が一斉に、条里制工事が行われたわけではないことです。中世になって開かれた所もありますし、土器川や金倉川に至っては近代になって開墾された所もあるの以前にお話ししました。それでは、地図の東側から順番に各エリアを見ていくことにします。各遺跡図はクリックで拡大します。

丸亀 川西遺跡
a.川西北鍛冶屋遺跡(13).川西北七条Ⅱ遺跡(14)(第3図)

土器川西岸にある上図2つの遺跡群では、はっきりとした地割が見えます。弥生時代前期以降の小規模な南北方向の溝が多くあり、6世紀後半から7世紀末まで使用された出水状遺構(SX-01)があります。出水状遺構は、伏流水を灌漑用に利用するために微高地上に掘られた土坑(井戸?)で、いくつもの用水路で水田に導かれています、
 調査区内には5本の縦方向坪界と、1本の横方向坪界が見えます。
縦方向は東SR01・SD11・ SD13と2町間隔で、比較的大型の灌漑水路が想定坪界線に沿って見えます。これらは10~11世紀頃に掘られたものです。その前段階の8~9世紀と考えられる溝が、SD-12やSD-10などの斜め方向に伸びる溝です。そして、各所で南北に派生する溝が付属しています。
 これらの溝は条里型地割の方向性に一致していて、田地区画は地割に沿った方向であったことがうかがえます。したがって、平安期に坪界溝が掘削される以前にすでに、出水状遺構(SX01)を水源とする地割施工があったと研究者は考えています。
出水状遺構(SX-01)から伸びる各溝が、あるときに南北方向から地割にそった方向へ変化していることに研究者は注目します。
 出水状遺構(SX-01)が埋没するのは7世紀末~8世紀初頭頃です。ちょうど南海道が伸びてきて、丸亀平野に条里制が施行される時期になります。SD70が現状地割を基準として、半町の位置にある点、また斜めに走行するSD40・41が南北半町の位置で坪界線に合致する点からみて条里型地割のようです。ここからは、7世紀末~8世紀初頭までには地割が行われた後も、引き続き出水状遺構(SX01)を水源とする灌漑水路を維持されたことがうかがえます。それが平安期になって、大型の灌漑水路が坪界に整備されることで、その使命を終えて埋められたと研究者は考えています。

b.郡家原遺跡(19)(第4図)

丸亀平野 宝幢寺池水系
郡家周辺の旧河川跡(清水川)

郡家原遺跡は、大規模な旧河道域(清水川)の周辺に広がる遺跡です。
旧河道を遡ると宮池・大池を経て旧河道を利用して築堤された宝幢寺池があります。この池の中には白鳳期の宝瞳寺跡があることは、以前にお話ししました。南海道も、この池のすぐ南を通過しているので、郡家という地名から、この旧河川の岸のどこかに、那珂郡の郡衙があったと研究者は考えています。
丸亀 郡家原遺跡
郡家原遺跡

 郡家原遺跡は、5坪分(A~E坪)にまたがって調査区が設定されています。弥生時代後期後半に集落が営まれ、地形に従って溝が緩やかにカーブしながら伸び、古墳時代の溝も微髙地を反映した方向をもっていたようです。
坪界にあたる溝は、縦軸がSD-140・148、SD-191・189で、横軸がSD-231になります。
溝出土の遺物は7世紀末~8世紀初頭以降のもので、これが掘削時期を示しています。このうちSD-140・148は、中世以後も使用された堆積状況を示します。その他の溝は10世紀前半頃までに一旦は埋没し、その後13世紀頃に再掘削されたり、隣接地へ水路変更されています。中世になって、新たな用水路が整備されたようです。
 8世紀の奈良時代の集落がA・C・D坪にあります。
 同じ規模の建物・倉庫など等質的な3グループだったようです。出水状遺構はA坪とC坪にあります。出水状遺構が集落にあるので、井戸として使われていた可能性がありますが、この場合は坪界の水路より出水状遺構の溝の方が深く掘られているので、坪界にある基幹的水路をリレー的に結ぶ灌漑用の水源として使われていたと研究者は考えているようです。
 研究者が注目するのは、出水状遺構から伸びる用水路です。
一坪を縦に5分割した場合の東から2本目のラインと一致します。特にSD77は、南北半町の位置まで斜めに走行し、そこから屈曲してラインに合わせています。C坪では出水状遺構は見られませんが、SD175がSD77と同じ位置で北流しています。このようにみてくると、各グループの建物の配置も、東西3区画と南北半町の範囲に限定されて計画的な村落景観が地割整備と共に現れたことが分かります。

郡家原遺跡の出水状遺構は、北方に広がる水田用のものとされます。
土地条件に応じて小規模水源を組み合わせ、微高地の水田に導水していたようです。用水路は遠くまで延ばす際には、深い水路と浅い水路を立体交差させる必要が生じてきます。そのためには、高松市太田下須川遺跡、同市浴・松ノ木遺跡で出土した長さ3mほどの木管が水路を立体交差させる場合に必要となります。 
 条里制施工後の状況については、A坪の出水状遺構は平安期まで続い利用されています。ただしSD77は、9世紀代遺構には埋没して、SD73に付け替えられています。SD77等に見られたきちんとして坪内区画は、9世紀以降には見えなくなります。また、この時期になると建物配置にも、方向性やその内容に規格性がなくなります。それでも、坪界の地割溝は残ります。坪内の区画は乱れても、坪界を中心とする条里型地割には影響を与えていないようです。ここに全体として、丸亀平野の条里制的な景観が残った秘密がありそうです。
丸亀平野遺跡分布図4
丸亀平野遺跡分布図 西部版

金倉寺下所遺跡(第5図) 
金倉川西岸は、条里型地割が広範に乱れた地域になっています。
善通寺 金倉下所
金倉川下所遺跡周辺の旧河道

金蔵寺下所遺跡は、遺跡の西側に蛇行する小さな旧河道と金倉川の間の狭い微高地上に立地します。
西側の旧河道は最大幅6、5mの自然河川です。遺構の北側には、微高地上を穿って流れていて、南側の自然河川から水を引くための用水路であった可能性が高いと研究者は考えています。同じ位置に古墳時代の溝もありますが、弥生時代のものより溝底が高いことから、自然河川の堆積による水位の上昇に対応して掘り直されたようです。小規模河川の蛇行部から取水し、微高地上に用水路を掘開して下流の水田に導水するというやり方です。どちらにしても、この遺跡が弥生から古墳・律令期と長い期間にわたって存続していたことが分かります。
善通寺 金倉下所
           金倉川下所遺跡

 この微髙地には、次の3つの建物群があります。
①7世紀末~8世紀初頭の溝(SD04)を挟んで東西両側に正方位をもつグループ。建物は合計9棟で、その内総柱倉庫が溝の東に2棟ある。
②同時期の遺物が出土する溝(SD-06)の両側に、現状地割と同一の方向性をもつグループ。合計8棟で、総柱倉庫は、やや大きさが小さくなり、溝の東に1棟。
建物方位によって区分できる①②群は、建物の規模や構成点で共通性があり、前後関係は柱穴の切り合いからみて、①から②へ変化したと考えられます。建て直された時期は、7世紀末~8世紀初頭で、従来の建物構成を維持したまま条里型地割の方向性に沿って建て直されたと報告書は記しています。これも、時期的に見て条里制施行に伴う集落の再編成事業の一環のようです。

  SD06の東には、建物を区画するような5~7条の溝が並行して掘削されています。
 ここからは9世紀までの遺物が出土しているので、建物群も9世紀頃までは存続したことが推測できます。建物群の東端には最大幅10mの溝がありますが、ここには鎌倉時代前半期頃までの遺物が包まれています。そのため次の時期の小規模柱穴で作られた建物群と研究者は考えています。これが三つ目の建物群になります。
 
以上から、7世紀末~8世紀初頭の集落の再編成時において、建物や溝は条里制地割の方向性に沿って建て直された。しかし、中世になると、人々の意識の中には、地割の意識はなくなり建物はバラバラの方向に建つようになった。それでも溝は、地割ラインが残ったと云えそうです。


d 稲木遺跡(第6・7図)    
善通寺 稻木遺跡
稲木遺跡
稻木遺跡は、遺跡の中央を斜めに旧河道が横切っていました。
これが6世紀末までに埋没して水田域となります。また東肩部の微髙地では竪穴住居群が廃絶した後に一帯が水田化しています。西岸は比較的高燥な微高地で弥生時代には、方形周溝墓や竪穴住居が営まれています。微髙地の南では、7世紀後半から8世紀前半の掘立柱建物群が出ています。 
善通寺 稻木遺跡3
稲木遺跡(東側)

 この遺跡でも7世紀末頃に、それまでの建物構成を維持ながら村落の再編が行われたようです。これも条里制施行に伴う再編事業の一環のようです。建物の一部には、区画溝があるのも金蔵寺下所遺跡と似ています。また、建物区画溝が坪界に一致しない点も共通します。灌漑水路をみると、周辺縦軸の水路については10m内外の誤差が認められますが、おおむね坪界と一致します。横軸については、溝はないようです。
善通寺 永井遺跡
永井遺跡                   
 永井遺跡は、縄文時代後晩期の自然河川が埋没して作られた微高地上に立地します。
弥生時代以降、遺跡中央の浅い凹地をカーブを描きながら走行する多数の溝があります。凹地にあった水田の導排水のための灌漑水路と考えられます。これらは7世紀前半頃に埋没しています。その後の水路は、遺跡東端の水路に移っていきます。遺跡の東側とされる段丘肩部を等高線に沿って2~3条の溝が走行します。埋土の中には8世紀後半から平安期の遺物が含まれています。この溝は段丘下にあった自然河川から取水し、微高地上に新たに拓かれた水田に導水する用水路と研究者は考えています。先の浅谷部も埋没して平坦化され、遺跡の東側一帯が耕地化したようです。
 ここで研究者は注目するのは、遺跡東端の溝群が坪界の交点で屈曲して、坪界線に沿って北流することです。同じような川西北鍛冶屋遺跡でもありましたが、地形・水利上の制約を受けながらも、可能な所は坪界に合致させています。溝の掘削段階には、すでに地割の企画があって、それに基づいて田地形状や溝の位置が決められたことがうかがえます。
遺跡中央部のSD42は、8世紀中頃以前に掘削された坪界の溝(SD45)が埋没した後に、逆に等高線に沿ってカーブをを描きながら伸びていきます。これは地形・水利上の問題が当初設計よりも深刻であったので、新しく削し直したと研究者は考えています。

遺跡西側には鎌倉~室町時代の区画溝をもつ宅地が広がっています
横軸は坪界線|こ、坪界線と一致する溝が2町以上にわたって続いています。しかし、縦軸は宅地区画溝とは、合致しません。平安期の溝が埋没した後に、周辺の田地形状がどのように編成されたかを示す材料乏しいのですが、縦方向にも多少ずれた地割があった可能性は残ります。

こうして研究者は、現在の条里型地割に一致する溝を拾い出して、宅地や潅漑水路の変遷を見ることによって、現在の地割の位置づけを行いました。その上で、改めて条里型地割の変遷を見ていきます。
 条里制地割が行われ時期が分かるものとして、研究者が挙げるのは次の資料です。
①川西北鍛冶屋遺跡の出水状遺構
②郡家原遺跡の地割に沿った溝と、それに先行する建物
③金蔵寺下所遺跡や稲木遺跡の宅地の再編成時期
  これら遺構は、7世紀末~8世紀初頭に施工された条里制遺構である可能性が最も高いと指摘します。
宅地から見ていきましょう。
 稲木遺跡、金蔵寺下所遺跡では、集落がそれまでと同じ構成・規模のままで、新しい条里制地割にあわせて再編成されています。郡家原遺跡では縦横軸ともきちんと坪界に一致して、3つの坪にきわめて整然とした宅地が配置されていました。坪内も半折型を基調とした区画を示す材料が揃っているので、計画的村落と云えそうです。それまでの建物群が「小規模散在的」なので、集落単位の再編成というよりも、「新計画集落」の建設と捉えた方がよさそうです。7世紀末~8世紀初頭頃に、条里制とともに集落の再編成も併せて行われたようです。この際に、1つの集落単位の再編成にとどまる遺跡は、地割との整合性にやや欠ける部分があります。それに対して、複数の集落を越える規模で再編成されたと考えられる郡家原遺跡には、厳密な計画性と整合性が見られます。

灌漑水路の整合を見ておきましょう。
どの遺跡でも、この時期に灌漑技術が飛躍的に発展したことを示すものはありません。小河川や出水状遺構などの小規模水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものです。「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」という説を改めて確認するものです。ここからは、古代の満濃池について、もう一度見直す必要がありそうです。大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力は古代にはなかったことを考古学的な資料は突き付けています。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」というのは「古代の溝」を見る限りは、現実とかけ離れた話になるようです。

 出水遺構については、川西北鍛冶屋遺跡で1基、郡家原遺跡で2基ありました。
どちらもそこから水路が伸びているので、灌漑に使用されたことは疑いありません。川西では6世紀後半以前に掘削された水路で、弥生期の溝と同一の方向から、8世紀初頭に地割に方向を合わせた水路へと掘り直され、その後は埋没しています。郡家原遺跡では、宅地割りの一角にあり、南北半町の地点まで斜めに導水した後、現在の地割方向に曲げられています。これらは坪界に合致するものではありませんが、すぐ横に坪界に位置するやや浅い水路が伸びています。坪界水路が田地へ用水を供給するポイントでは、再び屈曲させて坪界に一致して走行した可能性が高いと研究者は考えています。

地割の整合について郡家原遺跡と稲木・金蔵寺下所遺跡で違いがありました。
この差がどこから来るのかを研究者は次のように考えます。
郡家地区は、宝帷寺周辺にあったとされる那珂郡衙と同一の小河川(清水川)水系に位置します。善通寺地区においても、仲村廃寺や善通寺跡などの古代寺院が集中するエリアにある生野本町遺跡では、7世紀末~8世紀初頭の条里型地割の中に、規格的な建物群が建っていたことは以前にお話ししました。このように、郡衛周辺エリアでは、規格性の高い地割施行が行われたようです。

条里制地割施行後の変遷には、次の2点がポイントになると指摘します。
①平安末頃に大規模な灌漑水路が掘開される段階
②近世になって「皿池」が出現する段階

まず①について、平安末頃以降になると各所で大規模な溝が掘開されるようになります。
川西地区、郡家地区、龍川地区では地割に沿った位置に、大きな溝が見られます。大規模な溝が掘られるようになった背景には、それまでの小規模水源からの灌漑技術の革新がうかがえます。この時期の水路は坪界に位置しないものも多く、郡家原遺跡など前代の坪界の水路から横方向にずれて設置されたものもあります。この理由を研究者は次のように考えています。
 たとえば小河川の付替工事の場合を考えると、より広い潅漑エリアに配水するためには、それまでは、小規模な溝を小刻みに繋いでいく方法が取られていました。それが大規模用水路を作る場合には、横方向の微妙な位置調整が必要となります。田地割がすでに完成している地域では、それまでの地割との大きなずれは避け、地割に沿って横方向に導水する水路が必要が出てきます。これが平安期以後に横軸の溝が多く作られるようになった理由と研究者は考えています。

 地形的条件だけでなく、地割に関する規制が薄れたことも考えられます。
金倉寺下所、永井の各遺跡では、平安期以降になると宅地配置に地割と整合しないものが出てきます。軸のズレだけでなく、方向の異なる掘立柱建物も各所で現れます。これは、郡家原遺跡の出水を源とする水路が、平安前半段階になると、区画を無視して掘り直しされている時点からすでに現れています。この時点では、律令国家の土地政策の変容が始まっていたことがうかがえます。それが受領国司の登場であり、郡衙廃止という動きであることも以前にお話ししました。
受領国司

江戸時代になって新たに採掘された水路はほとんどありません。
その理由は、条里制施工時に作られた灌漑用水路が、姿を変えながら現在の幹線水路となり維持管理されているからと研究者は考えています。ということは、現在の灌漑用水路網は、条里制施工時にほぼ形成されていたことになります。
 近世になって造られた満濃池を頂点とする丸亀平野の灌漑網も基本的には、それまでの地割を引き継ぐ水路設定がされています。そのため古代以来未開発であった条里制の空白地帯や地割の乱れも、従来の条里制の方向性に従った地割になったようです。つまり従来の地割に付け加えられるような形で整備されたことになります。これが、現在も条里制遺構がよく残る丸亀平野の秘密のようです。しかし、繰り返しますが、この景観は長い時間を経てつくられたもので、7世紀末の条里制施工時に全てが出来上がったものではないのです。

 7世紀末~8世紀初頭段階で横軸の設定が厳密でなかった稻木遺跡や金蔵寺下所遺跡周辺では、今でも地割の乱れが見られます。
これが現在でも「乱れ」として分かるということは、条里制施行当時に統一的な地割規格があったことを示すと同時に、「乱れ」の形成要因が古代の施工時まで遡るものであったことを示すと研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
①丸亀平野の条里制地割の施工開始時期は、7世紀末~8世紀初頭
②この工事は、それまでの潅漑技術を応用する形で地形条件を克服し、宅地地割と水田地割を同時に行うものであった。
③そこには灌漑技術の革新があった痕跡はない。
④そのため施工されなずに放置された「空白地帯」も多くあった。
⑤条里制施行エリアは、現在の条里型地割とほとんど一致する。
⑥郡の範囲を超えて、一元的企画が地割施工開始以前にあった
⑦その意味では、条里制規格プランが7世紀後半まで遡る可能性がある。
⑧地割の基準や工法については、坪界縦軸の整合が高い

②については、一つの集落を単位とした宅地・水田の再編成と、ある一定の地域を広範に、規格化・再編成する2つのねらいがあったようです。この背景には、施行を行った政治勢力の本質的な差が現れていると研究者は指摘します。それは中央政府と首長層から転進した郡長ということになるのでしょうか。地域の「律令化」を考える上で、重要な視点になりそうです。
 ⑧の坪界縦軸について、歴史地理学は南海道のルートが先ず決められ、直線的に額坂と大日越を結び、それに直角に郡境が引かれ、それが縦軸になったとします。これが考古学的に発掘された各遺跡の溝の方向からも実証された結果となります。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 
  「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」
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十瓶山窯跡支群分布図2
十瓶山窯跡群 C地区が西村遺跡

西村遺跡は、国道32号綾南バイパス工事にともなう発掘調査で、古代から中世の須恵器・瓦窯跡と集落が一緒に出てきました。そのエリアは道路面なので、陶ローソン付近から東の長楽寺辺りまでに細長く広がる遺跡になります。
十瓶山  西村遺跡概念図
西村遺跡概念図

西村遺跡が、どんな所に立地するのかを見ておきましょう。
 発掘調査によって遺構が確認された範囲は、東西1.1kmになり、遺構も連続しています。遺跡をふたつに分けるかたちで御寺川が東から西へ流れ、北条池の下で綾川と合流します。この谷の北側が、この地区の甘南備的存在である十瓶山から続く南麓斜面になります。谷の南側は、富川との間に挟まれ上面がほぼ平坦な台地(西村台地)が続きます。また谷の両側には御寺川に連なる小さな谷地形がいくつもあります。
 こうしてみると西村遺跡は、地形的には御寺川で西村北地区と山原・川北地区の2つに分けることができます。さらに小規模な谷筋で西村北(西部・中部・東部)に、後者は2群(山原地区・川北地区)に細区分します。西村遺跡は、これらの複合した遺跡群と捉えることができるようです。
各地区の遺構のあった時期を西から順番に、一覧表にしたものが下の表です。
十瓶山 西村遺跡推移標

 この表を見ると、西村北区中部からは西村1~2号窯跡が出土しています。その時期は、11世紀~13半ばまでで、それ以後に窯跡はありません。その東に当たる東部地区からは、窯跡が姿を消した後に建物群が姿を現しています。これをどう考えればいいのでしょうか?
発掘調査を指揮した廣瀬常雄氏は、西村遺跡について次のようにまとめています。
①西村遺跡の性格をよく表しているのは、掘立柱建物と窯跡(西村1~3号窯跡)であり、住居と生産遺構が時代別にあること
②時期的には、窯跡や粘土採掘坑(土坑群)を含めた生産遺構は5期(12世紀後葉)まで、それ以降に居住遺構が認められる。
③建物や溝の方位を規制する地割の存在と近世以前の耕作土の存在から、建物群の形成期には周辺が耕地化されていた。
 ここからは、もともとは西村遺跡は窯業生産地であったが、6期(12世紀末葉)以降は、須恵器生産を終えて周辺一帯の開墾を行い農村へと変貌していったことになります。つまり、窯業地帯から農村への転進が中世初頭に行われたという結論になります。

これに対して、違和感を持ったのが佐藤竜馬氏です。
今回は、西村遺跡を佐藤氏がどう捉えているのかを見ていきたいと思います。テキストは「佐藤竜馬 西村遺跡の再検討  埋蔵文化センター研究紀要 1996年」です。
先ず佐藤氏は、「生産遺構」についての見直しから始めます。
  上表では12世紀後半に窯跡は消えますが、その後も「土坑群」と「焼土穴」は残っていたことが分かります。土坑穴は、須恵器の原料になる粘土を採集した穴跡で、「焼土穴」も窯の一種と考えられるようになりました。そうすると、西村遺跡では、その後も須恵器生産が続いていたことになります。
 もうひとつは西村遺跡西の特徴的土器とされる「瓦質土器」の存在です。
発掘当時のは穴窯やロストル式平窯しか知られておらず、「瓦質土器」が、どんな窯で焼かれたかは分かりませんでした。1990年代なって各地で、土師質や瓦質焼成の在地土器が「小型窯」で生産されていたことが分かってきました。改めて西村遺跡の遺構をみると、「焼土坑」や「カマド状遺構」とされてきたものが、実は「煙管状窯」であったことが分かってきました。
 西村遺跡からは、中世前期の焼土坑が19基出土しています。その内訳は、西村北地区西部3基、西村北地区山東部6基、山原地区5基、川北地区5基です。これらが煙管状窯だった可能性が高くなります。
「煙管状窯」とは、どんな窯なのでしょうか
十瓶山  西村遺跡出土の円筒状窯
煙管(きせる)状窯
煙管状窯は、円筒形の窯体中位に火格子(ロストル)を設けることで上下に窯室(燃焼部・焼成部)を持つ垂直焔(昇焔)式の窯のようです。須恵器生産地では、燃焼部が窯体手前に袋状に延びたり、焼成部で絞り込まれるものがあります。これは燃焼部内のガス圧を高めて、焔を効率的に焼成部へ吹き上がらせるための工夫と研究者は考えています。

煙管状窯の系譜は、12世紀の東播磨系の窯では穴窯と焼成器種を分担・補完する窯であったことが分かっています。
そこでは須恵器椀・皿、稀に叩き成形の土師質釜が焼かれていて、穴窯と役割分担しながら使われていたようです。この窯で特徴的なのは、窯内の空間が狭いことです。これは窯全体が大型化していく傾向とは逆行します。「大量生産=効率化」と思えるのですが? 

十瓶山 西村 煙管状窯
煙管状窯

ところが、具体的な窯詰め方法を考えると、そうとも云えないようです。煙管状窯では空間利用が非常に効率的に行われていたようです。近・現代の垂直焔構造の窯では焼成部内に隙間なく製品を積み上げて、最上段を壁体よりもさらに上に盛り上げています。木野・伏見・市坂(京都府)、有爾(二重県)、御厩(香川県)などで、 このような窯詰方法が行われているようです。
十瓶山  西村遺跡出土の円筒状窯

田中一廣氏の報告書は、次のように述べています。
「土器を並べて行き5段から6段程積みあげる。各々の土器は窯の中心において底面を合わせる様にして土器をきっちり詰め込む」

土師器皿を7000枚前後詰め込むことができたと報告されています。 研究者は、十瓶山窯の平均的規模の穴窯(焼成部長5.5m、幅1.3m)で試算しています。重ねられた1単位の個体数を平均15個程度ですので、床面に245単位を並べることができたとしても3675個が窯詰めができるだけです。これを焼土坑18の窯詰め量と比較すると、3倍程度にしかなりません。標準的な穴窯の焼成部床面積は7,15㎡です。焼土坑18の床面積はわずかに0,5㎡にしか過ぎません。面積比は14:1になります。しかし、窯詰め比率は3:1なのです。これは煙管状窯が焼成部内の空間をフルに活用できるのに対して、穴窯には「製品を積む高さにも限界が」あり、「窯体容積の割には生産力の低い窯であことに起因する」ことを研究者は指摘します。
 さらに、煙管状窯は容積が小さい上に垂直焔構造のために、害窯よりも燃料効率がよく、温度調節も簡単で、焼成時間も短時間化できたようです。燃料消費量の節約ばかりだけでなく、年間使用回数によっては、穴窯で焼くよりもコストがかからず利便性が高かったことが考えられます。ここからは煙管状窯を「小型」な窯とだけという視点では捉えられないと研究者は指摘します。
 西村遺跡の主生産品である須恵器椀などは低火度還元焔焼成品なので、煙管状窯で焼成する方があらゆる点で効率的だったと考えられます。
 焼土坑は、煙管状窯の基底部との共通点が多いようです。そのため削平された地上(半地上)式の煙管状窯と見倣してよいと研究者は考えます。
これらの焼土坑(煙管状窯)では、何が焼かれていたのでしょうか。
出土遺物で最も多いのは碗のようです。煙管状窯の操業期の12世紀後葉~13世紀後葉には、同じような形態・技法をもつ椀の多くは瓦質焼成です。ここから煙管状窯では、軟質焼成の須恵器椀が生産されていたことがうかがえます。

粘土採掘坑群 
 土坑群は、調査区内で8箇所で見つかっています。その立地は、谷筋に向う傾斜面の縁辺で地山が粘土層の地点です。土坑群が粘土採掘跡であったことの理由について、研究者は次のような点を挙げます。
①地形・地質に左右された立地
②形状・規模に規則性がないこと
③土器が出土した遺構が少なく、出土状況が多様であること
④掘削のために使われた道具が出土した事例があること
⑤窯業生産地に隣接し、操業時期的にも同時代であること
以上の理由から土坑群の多くは、粘上を採掘した跡とします。川北地区の土坑群8からは、多くの遺物が出てきました。これは、隣接する焼土坑18・19から焼土・土器の廃棄が行われたためで、粘土採掘坑が廃棄土坑に転用されたためと研究者は考えているようです。
遺構レイアウトを、山原地区で見ておきましょう。

十瓶山 西村遺跡 山原地区
西村遺跡山原地区の遺構配置

山原地区は、時期幅によって、次の4群に整理されています
①土坑群の掘削された11世紀中葉~13世紀中葉
②西村3号窯跡の操業期である12世紀前葉
③掘立柱建物・溝・墳墓・焼土坑のみられる12世紀末葉~13世紀前葉
④多量の遺物を含んだ廃棄土坑のみられる13世紀中葉
土坑群は継続期間が長く、③の遺構とは同時並行期間があります。出土した遺物は11世紀中葉~12世紀前葉で、建物・溝を破壊した土坑がないようです。ここからは土坑群の大半は③の遺構群の時期よりも前に掘られたもので、③の時期にも掘削が続きますが、次第に低調になったと研究者は考えているようです。以上から12世紀末葉~13世紀前葉の遺構とされています。

建物群は、建物34(J群)、建物35~37(k群)、建物38(i群)、建物39・40(m群)の4グループに分けられます。
建物の主軸は、真北方向を意識しているようで、周囲の地割とほぼ平行になります。建物の規模は15~25㎡前後のものが多く、西村北地区東部の建物群よりも小規模です。ただし建物群の全体が窺えるのは、中央にあるK群(35~37)だけです。K群には廂や床束などの構造的な差異はありませんが床面積45mの建物(建物37)があります。中型建物1棟と20m前後以下の小型建物2棟(35・36)と3つの建物で1セットです。建物の周囲に、雨落ち溝的な小溝が掘られています。建物群には時期差があるようで、K群が13世紀前葉、m群が12世紀末葉~13世紀初とされています。
 一方、研究者が注目するのは墳墓です。
k群に2基、やや離れた所に1基あります。輸入磁器や硯、さらに祭祀に使用されたとみられる小型足釜の出土破片数は、 k群やm群から出土しています。半耐久消費材や祭祀具からみると、m群やk群には高い階層の人々が住んでいたと研究者は考えているようです。
 
 焼土坑は建物40の中から、5基出ています。
焼土坑10はk群に、焼土坑11~14はm群に属しているようです。
このうち焼土坑10・12~14が煙管状窯とされています。焼士坑11は焼土(窯壁)や失敗品の廃棄土坑とされています。削平されていて、遺物はほとんど出土していませんが焼土坑10の周囲の遺構や包含層の遺物は13世紀前葉のものです。また焼土坑11からは12世紀末葉~13世紀初頭の須恵器椀が出土しているので、隣接する焼土坑12~14も同じ13世紀初頭前後を研究者は考えています。
 m群の煙管状窯は、同時期のものとされる建物40溝と13と関連性がうかがえるがある位置関係にあります。建物40と窯が同時にあったとすると、窯の覆い屋的な施設になる可能性があります。
 この他、御寺川の谷斜面に面した土坑5では、13世紀中葉の須恵器椀などが大量に破棄されていました。ここではヘラとみられる竹製工具も出土しています。こうした廃棄土坑があったことは、k群やm群の建物群が廃絶した後にも、付近で土器生産が行われていた可能性があると研究者は考えています。

  以上のように各地区を検討した後に、西村遺跡について研究者は次のようにまとめています。
①西村遺跡では、12世紀中葉~13世紀後葉の間の期間、地上式の煙管状窯b類が各地区に複数あった。ここでは、軟質焼成の須恵器椀・捏鉢、恵器壷や叩き成形の鍋が焼成されていた。
②建物群が初めて姿を見せるのは、川北地区(N群)で11世紀後葉のこと。他地区では12中葉以降に始まり、13世紀後葉になると衰退し、14世紀前葉をもって廃絶する。
③西村北地区東部では建物跡が重っているので、比較的長期間建て替えながら存在した。
④床面積25m以上の大きな建物1棟と、20㎡以下の小型建物1~2棟が同時併存したこと。
「屋敷墓」的な墳墓(土坑)が、それぞれの建物群にあります。ここからは、自立した単位(家族?)の存在が見えてきます。ここから研究者は、家族単位で窯が操業されいたと推測します。

以上から、中世前期の西村遺跡は12世紀中葉以降、急速に遺構群の形成が始まり、13世紀後葉には次第に廃絶に向うことが分かります。その操業単位については、建物群の構成や屋敷墓から見えるようにを自立した家族単位で行われていたと研究者は考えているようです。この時期の遺構は各単位(建物群)が煙管状窯を、いくつか持ち、原料となる粘土採掘場を共有で使うという姿が描けます。西村遺跡では「居住遺構」と「生産遺構」が不可分な関係を持ちながら消長した」と、研究者は記します。以上からは、13世紀中葉~14世紀前葉の西村遺跡は、軟質焼成の須恵器を中心にとした土器生産集団の活動の場であったと結論づけます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「佐藤竜馬 西村遺跡の再検討  埋蔵文化センター研究紀要 1996年」




       十瓶山 綾奧下池南遺跡
   

  前回は十瓶山窯跡の瓦窯跡めぐりに必要な地図と予備知識を見ておきました。今回は、十瓶山窯跡群についての研究史的なものに出会いましたので紹介したいと思います。テキストは 「綾南奧下池南遺跡 発掘調査報告 1996年」です。この報告書には、西村遺跡を中心に十瓶山窯群についての概説や研究史的なものがコンパクトにまとめられて、私にはありがたい資料です。この報告書にもとづいて、十瓶山窯跡群を見ていきたいと思います。
十瓶山窯跡分布図5

 最初に、この窯跡群の呼称についてですが十瓶山(陶)窯跡群の両方が使われています。どちらの呼称を用いても問題ないのでしょうが「陶(スエ)」という地名は、堺市の陶窯跡など各地にあります。そのため、地域名をつけないと混同します。そこで森浩一氏は「その地域の中心的存在で、また窯業を象徴する十瓶山の名を採る」として、「十瓶山窯跡群」と呼んでいます。以後は、これに従いたいと思います。それでは見ていきます。
 1967(昭和42)に、府中湖造成の際に水没窯跡4基と関連窯跡2基の発掘調査が行われます。同じ年に同志社大学が十瓶山北麓窯跡の発掘調査を行っています。

十瓶山 北麓窯
十瓶山窯跡群 北麓遺跡出土の十瓶山式甕
この窯跡の調査理由として森浩一氏は次のように述べています。

「全国的にも特徴がつよくあらわれている平安時代後期と推定される甕形土器を主に生産している窯を発掘することにした」

そして森氏は出土した特徴的な広口長胴平底甕を「十瓶山式甕」と命名して、11~13世紀のものとし、十瓶山窯跡群について、次のような点を指摘します。
①十瓶山窯跡群が綾川の水運によって讃岐国府と結び付けられていたこと、その経営に国府が関与していたこと
②平安時代後期の「十瓶山式甕」が甕専業の窯で大量生産されていること。
③「十瓶山式甕」が徳島県花園窯跡でも生産されていることを紹介し、「十瓶山の工人が、ある期間この地で生産に従事していたのではないかと考えられる」と指摘した。
④瓦窯が須恵器窯とは別個にあることに注目して、讃岐国内の諸寺院からの需要や、平安京内への搬出がこのような生産体制を必要としたことも示唆した。
十瓶山  西村遺跡出土の大型甕
大型の十瓶山式甕

渡部明夫氏も森氏の視点を継承し、次のような点を指摘しました。
「一郡一窯」体制であった讃岐岐国の須恵器生産が、8世紀前半頃に十瓶山窯跡群の独占体制に急激に置き換わっていくことを、国衛権力が十瓶山窯跡群を管轄するようになったことから説明します。そして打越窯跡の開窯には、当初坂出平野の地域権力(綾氏)が介在し、国府が設置されると打越窯が国衛機構に組み込まれたと考えました。
 国衛機構下では、新たに登場した国府や国分寺・国分尼寺などでの大量需要が生まれ「陶窯跡群の国衛に対する依存は強まり、国衙による陶窯跡群の掌握も容易になされるように」なったこと、さらに各地の旧首長の地域権力が微弱になったことで各地の窯が廃絶し、十瓶山窯跡群の製品が讃岐全域 に流通することになったとします。
 また『延喜式』の規定にも触れ、貢納須恵器が十瓶山窯跡群で生産されていた可能性を指摘し、国衙の意志が十瓶山で生産に反映されやすいという状況があったことを指摘します。

十瓶山 すべっと4号窯跡出土2

さらに平安時代の須恵器生産については、「そこには革新的な面よりむしろ、伝統的・停滞的な面が強いように思われる」と判断します。
その理由として次のような点を挙げます。
①製作段階においてロクロ水挽き技法や底部糸切り技法が最後 まで導入されずに「伝統的な技法」による生産が続いたこと
②窯体構造 に大きな改良の痕跡がみられないこと
など「技術革新」が行われていないことを指摘します。そして12世紀になると、生産が急速に衰退するという変遷観が示されます。こうして次のように結論づけます。

「備前焼のように須恵器の中から中世陶器を生み出し、新たな生産を発展させた形跡はみられない」

これに対して、渡部氏は大型品と小型品を焼く窯が分離した平安時代中・後期の様相 を指摘 し、「 そこに分業的な生産の萌芽を認めることができるか もしれない」との+評価もしています。
十瓶山西村遺跡山原地区出土

 1975(昭和50)年頃になると国道32号綾南バイパス建設のための事前調査や周辺の宅地開発などで発掘調査数とエリアが拡大するようになります。

十瓶山  西村遺跡概念図
西村遺跡概念図

国道32号バイパス工事にともない昭和1980年前後に行われた西村遺跡の発掘調査では、中世前期を中心 とした掘立柱建物群や粘土採掘坑、融着品を含む廃棄土坑などが窯跡とともに出てきました。この結果、中世前期の十瓶山窯跡群の土器生産について、新たに多くのことが分かるようになりました。特に西村1号窯跡では、瓦と須恵器が一緒に出てきて、須恵器の実年代をめぐって多くの議論が交わされました。

須恵器 打越窯跡地図
十瓶山窯跡群のスタート地点となる打越窯跡

 その2年後の1982年 に発掘された打越窯跡では、窯自体は発掘されませんでしたが、灰原から7世紀中葉~末葉の須恵器が多量に出土しました。この結果、十瓶山窯跡群における操業開始期がここまで遡ることと、打越窯跡が十瓶山窯跡群のスタートとなることが分かりました。
 さらに1983(昭和58)年 と1994(平成5)年 に行われたすべっと窯跡群の発掘調査では、9世紀後葉~10世紀前葉の須恵器窯が大量に集中して出てきました。そこでは大型品の壷や甕を中心に焼く窯 と、小型の杯・皿を焼成するロストル式窯が並んで造られ、器種に応じて使い分けられていたことが分かってきました。

十瓶山 すべっと4号窯跡出土4
すべっと4号窯跡出土

次に十瓶山窯の須恵器編年が、どのように作られたのかを見ておきましょう。
1965年頃に、四国の古代窯業生産をまとめた六車恵一氏の依拠資料の多くは、断片的な採集品に基づくものでした。そのため須恵器の編年を体系的に示せるものではありませんでした。そんな中で、田辺昭三氏による讃岐の須恵器の編年が開始されます。
 1968(昭和43)年、府中湖造成に伴う窯跡の発掘調査によって、初めて奈良・平安時代の須恵器の変遷について、報告書では次のような「見通し」が出されます。
①庄屋原2号窯跡 と池宮神社南窯跡の資料を比較すると、形態が比較的似ている。
②丸底に近い底部をもつ無高台杯が庄屋原3号窯跡には少ないこと
③庄屋原3号窯跡に比べて池宮神社南窯跡の杯蓋天井部のツマミの方が高く突出し、天井部も段状に屈曲するなど、古式のスタイルを留めること
以上から庄屋原窯跡と、池宮神社南窯跡を比較すると、「スタイルは一致するが、器形の組み合せや細部については必ずしも形式的特徴を同じくするとは云い難い」 として、鉄鉢形の類例から庄屋原3号窯跡を大阪府陶邑窯跡群のMT21型式、岡山のさざらし奥池式に併行する時期に比定します。
 また池宮神社南窯跡や庄屋原3号窯跡の後に続くものとして、「高台が全く退化してしまったか、又は高台が付 けられても形式的になり貧弱なものでしかない」一群を指摘します。これがすべっと1号窯跡・ 田村神社東窯跡・ 明神谷窯跡のもので、直線的に立ち上がる体部・口縁部をもつ椀の存在、杯・蓋の消滅、叩き目を施した平底の瓶が現れることが特徴とします。そして、平安中期の菊花双鳥文鏡を伴出した金剛院経塚(まんのう町)から、体部の直線的な片口鉢が出土していることから、これらの一群を平安時代前期のものとします。そして、岡山の鐘鋳場窯跡と併行する時期とと考えます。
 この編年案については、いろいろな問題がありましたが、岡山や近畿の編年を念頭に置きながら設定された相対的な前後関係については、その後の編年作業の基礎になったと評価されています。

水没窯跡の調査報告書の奈良・平安時代前期の変遷案 と、森氏らによる平安後期~鎌倉時代の変遷案を受けて、新規の窯跡採集資料も交えながら初めて開窯期から終焉 (廃窯)期までの変遷を提示 したのが渡部明夫氏です。

十瓶山窯跡編年表
十瓶山窯跡編年対照表

渡部氏は 1980(昭和55)年に、十瓶山窯跡群の須恵器を9時期 に分けて第10表のように示しました。

器種構成によって大まかな前後関係を決めて、そのうえで奈良・ 平安時代前期のものは杯・皿の形態・技法で、平安時代後期のものは甕の口縁端部形態や椀の形態によって細別するという手法がとられています。
 平安時代後期の須恵器の実年代については、西村1号窯跡で鳥羽南殿のものと同文瓦が須恵器と同時に出てきたした調査例を参考にして、西村1号窯跡を11世紀末前後とします。そしてかめ焼谷3号窯跡のものは、口縁端部にシャープさがなく、より後出的な要素をもつとして、「12世紀でもあまり下らないであろう」 と推定します。こうした一連の作業によって渡部氏は、十瓶窯跡群全体の推移を描くことに成功します。
十瓶山西村遺跡西村北地区 

 同じ頃に西村遺跡の調査を担当した廣瀬常雄氏は、この遺跡から大量に出てくる古代末~中世前期の土器編年を試みます。
これらの土器は、高台の付いた椀を中心としていましたが、同じ形態・技法でありなが ら焼成は不安定で、土師質・瓦質・ 須恵質と多様な様相を見せます。廣瀬氏 はその中でも「良好なカワラ質の土器」を「瓦質土器」と名付けて、土師器・黒色土器 とともに図10表のようなの編年表を示します。

十瓶山窯跡編年表
 廣瀬氏の編年作成の手法を見てみると、次のように遺構を3つに区分します。
土師器・黒色土器が出てくるる遺構 (遺構A)、
土師器・黒色土器・瓦質土器が出てくる遺構 (遺構 B)、
土師器・瓦質土器 を出土する遺構 (遺構 C)
そして椀以外の共伴内容を示 してA~ Cの3時期に大別できることを示します。その上で型式による細別を行っています。このようにして設定された1~9期の編年表で、西村1号窯跡灰原出土の黒色土器椀は3期に相当します。
①ここから3期を11世紀末頃
②4期は西村1号窯跡例よりも新しい須恵器甕があるので、12世紀前半
③6期の資料が出てきた溝から出土した輸入磁器から、6期を12世紀末葉~13世紀初頭。

以上の相対的な型式幅から1期は10世紀には遡らず、9期は14世紀には大きく入り込まないと想定します。この編年表によると、瓦質土器は3期に出現したことになります。このように廣瀬編年は、出土土器の一括性を考慮しながら設定されたものです。また型式的にも径
高指数がほぼスムーズな変化を示すので、ほぼ妥当なものであると評価されるようになります。

 しかし瓦質土器の系譜については、謎のままです。
瓦質土器は須恵器生産との関連があると考えられてきましたが、具体的には「どのような流れの中で生まれてくるものなのかが明確 にできなかった」と述べています。
 それは、西村1号窯跡に続くかめ焼谷 3号窯跡の年代が、「12世紀でもあまり下らない」とされ、瓦質土器生産が盛んになる頃には須恵器生産が衰退していたと理解されていたことと関連があるようです。
こうした実年代観に対して、異論が出されるようになります。
大山真充氏 は昭和60(1985)年に再検討を行い、それまでと異なった年代観を提示します。
大山氏が先ず指摘したのは、平安後期須恵器の実年代の重要な定点であった西村1号窯跡の瓦は、鳥羽南殿出土瓦とは同時代のものではないという点で、次のように述べます。
「1号窯出土瓦は鳥羽南殿出土瓦とは同文とはみなすことはできず、このため、年代推定についてもこれを白紙に戻して考えなければならないだろう」

 代わりに大山氏が示したのが、讃岐国分寺(昭和59年度調査のSDI最下層から西村産とみられる黒色土器椀 (4期)と 和泉型瓦器椀 (尾上編年II-2期 )が同時に出土したことです。そして4期を12世紀中葉と修正します。
 その後、高速道路やバイパスに伴う大規模発掘が進むと、県内各地で中世集落の調査事例が激増します。その結果、西村9期の瓦質椀と十瓶山窯跡で作られた須恵器甕が共伴する報告が増えます。こうして、13世紀代には両者が併存関係にあったことが分かってきます。 
 この上に立って荻野繁春氏は、西村遺跡出土の瓦質捏鉢や壷などを甕同様に中世須恵器系陶器として位置付けて次のような序列を示します。
西村 2号窯跡→西村 1号窯跡→赤瀬山 2号窯跡→かめ焼谷 3号窯跡・西村遺跡山原地区N14-SK03→ 西村遺跡山原地区S5-SK01

 こうなると次には、十瓶山窯跡群の終焉期の実年代 と、「瓦質土器」の関わりを整理し直す必要が生れます。
これに応えたのが片桐氏と佐藤氏で、新たな編年案を提示します。
まず片桐氏は、讃岐の中世土器を概観する中で、西村産の瓦質土器とされてきた椀・杯・小皿を須恵器の範疇で捉え直します。続いて瓦質捏鉢も須恵器とし、形態的な変化から細かく分けます。さらに、平安前期から鎌倉時代の須恵器を消費地の資料も援用しながら13小期 に細分します。
 この際に平安時代前期の標識窯にすべっと2号窯跡やかめ焼谷1号窯跡を、また平安時代後期初頭の西村2号窯跡に先行する標識窯として団子出窯跡を想定して渡部氏の変遷観をより細分します。これらの考察を通じて、甕以外の捏鉢・壺・椀などの器種が12世紀後葉に須恵質から瓦質へ変化することを指摘します。こうして須恵器と西村産瓦質土器との系譜関係に新たな解釈を示しました。

十瓶山須恵器編年
同じ頃に佐藤氏は、十瓶山窯跡群の須恵器編年案を提示します。
編年にあたって佐藤氏は、まず器種構成上の変化から第 I~ Ⅳ期の設定を行います。その上で各時期に特徴的で普遍的な器種によって細分化し、次のように指摘します。
①第Ⅱ期に蓋杯の法量分化がはっきりとあらわれないこと
②第Ⅲ期の器種構成に輸入磁器を模倣しようとする指向が薄いこと
③第Ⅳ期への転換が器種構成の大きな断絶を伴うが、一方で捏鉢・甕に形態的な連続性も認められること
 そして、また片桐氏の指摘と同じようにⅣ段階 (12世紀中葉~後葉)に軟質製品が多くなることを西村産瓦質土器でも明らかにします。
十瓶山  西村1・2号窯跡出土

 一方、羽床正明氏は文献史学的立場から平安時代後期の十瓶山窯跡群の生産体制を考察します。
 羽床氏は平安京の鳥羽南殿から出土した讃岐系瓦が、讃岐国守高階泰仲の成功行為によって生産されたことを認めながらも、実際の瓦生産への関与は伝統的な郡司層で在庁官人でもあった綾氏によって行なわれた点をより重視し、次のように述べています。
「鳥羽南殿の造営に際して、讃岐国遥任国司高階泰仲は京にあって、任国の在庁官人に瓦を焼くよう国司庁宣を下し、その意を受けて在庁官人である綾氏が陶の須恵器 (瓦 )生産者を率いて、瓦生産に当たった」

 また別稿では、鎌倉・室町時代の史料にみえる「陶保」の設定目的を11世紀に燃料供給源である山林の保護するためのものとして、須恵器・瓦生産のために国衛が設定したものとします。
十瓶山 すべっと4号窯跡出土5

渡部氏は、平安時代の須恵器生産に停滞的な面を強調し、中世須恵器生産への転換を否定的に捉えました。それに対して地元の片桐孝浩氏と佐藤氏は、中世生産地への転換を積極的に捉える立場をとります。
片桐氏は、11世紀第2四半期 に大宰府周辺地域との技術的な交流の結果、「底部押し出し技法」による椀が出現すること。同時期に西村遺跡への須恵器・土師器工人が集住することによって生産組織の再編が行なわれたとします。
 佐藤氏は、時期別の窯跡分布状況から十瓶山窯跡群の生産構造について次のよう点を指摘します
①綾川に面した庄屋原窯跡群 (A一 b支群)では、8世紀前葉~10世紀前葉に継続的に窯場が操業していたこと
②十瓶山北東麓のすべっと窯跡群 (C一 e支群)では、9世紀後葉~10世紀前葉に響窯とロストル式窯による器種別の生産が行なわれたこと
③12世紀後半の西村遺跡の本格的な集落 (窯場)形成と、14世紀のかめ焼谷203号窯跡への甕生産の集約化によって、器種別分業を支える固定的な窯場経営が定着したこと
そして、③の動きを中世的な生産への転換と捉えます。

最後に十瓶山窯跡群の窯について、見ておきましょう。
十瓶山 窯跡群の断面図
十瓶山窯跡群の断面図

研究者は次のような特徴を指摘します。
①燃焼部から煙道部に至る窯体基底線が直線的であり、窯体幅に急激な変化が認められない。
②床面平均傾斜が25°前後のものが大部分で、10°前後の緩い床面傾斜いタイプの窯はない。
②規模は全長 7m前後、幅1、5m前後のものが多い。
④半地下式のものが大半であり、地上・半地上式のものはほとんど見つかっていない。
⑤窯は8世紀に採用された構造を改良することなく、終焉期を迎えている

12世紀後半以降の各地の中世須恵器生産地では、穴窯の床面傾斜が次第に緩くなる傾向があるようです。
十瓶山 窯跡群の断面図

 また分焔柱を設けたり(亀山窯)、障焔壁を備えたり(亀山窯・東播系諸窯)するなど、東海地方の姿器系陶器窯との技術交流の成果から窯体構造の改良が見られます。こうした動きと比較すると十瓶山窯の焼成技術の固定・保守的で「技術革新」が見られないようです。新たな改良点を上げるとすれば、「馬の爪」状の焼き台が12世紀に採用されているだけです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献  「綾南奧下池南遺跡 発掘調査報告 1996年」

  ザックを背負って、地図とコンパスを持って山の中を若い頃に歩いていました。そのため地形図を持って、知らない土地を歩くのが今でも好きです。古墳や山城・古代廃寺めぐりは血が騒ぎます。最近、はまってるのが窯跡めぐりです。そのためには、詳細な地図を手に入れる必要があります。しかし。これがなかなか難しいのです。そんな中で見つけたのが陶(十瓶山)瓦窯跡群の詳細地図が入っている文章です。この地図で「フィールドワーク」(ぶらぶら歩き?)をするための自分用の資料を作成しましたのでアップしておきます。テキストは「田村久雄・渡部明夫 陶(十瓶山)窯跡群の瓦生産について 瓦窯跡の分布 埋蔵文化財センター研究紀要  2008年」です。

綾歌郡綾川町陶の十瓶山から府中湖周辺にかけては、陶(十瓶山)窯跡群と呼ばれる須恵器と瓦を生産した窯が集中的に分布します。古代から一大生産地を形成していたことは、『延喜式』主計寮式に、陶器(須恵器)が讃岐の調として記載されていることからも分かります。今回は、瓦窯に絞っての紹介になります。

十瓶山窯跡支群分布図1
陶(十瓶山)瓦窯跡分布図

 陶(十瓶山)窯跡群の範囲は、上図に示したように府中湖南部、北条池、十瓶山周辺になります。ただし、現在の地形は府中湖建設やため池設置、水田の基盤整備によって大きく改変されています。そのため、現地中に埋まってしまったものや湖岸にあるものがほとんどになています。しかし、もともとは、綾川に向かって開く谷状の地形に造られ、まわりには窯を造るのに適当な緩斜面があったようです。水運などの利用なども考えると、このような地形を巧みに利用して瓦窯が造営されたことが推察できます。それでは、確認できる瓦窯跡を地図で見ていくことにします。なお、窯跡名称の番号は、須恵器窯も含めたナンバリングのため、文章中に表記されず欠番のようになっているのは須恵器窯になるようです。

【下野原支群】第1図-1、

十瓶山 下野原支群
下野原支群

下野原支群は、府中湖の高速道の南側の東岸に位置します。
下野原1・2号窯跡(2図の1・2)が、深井池の北側から綾川に向かって開く谷の入口の北側緩斜面に立地します。陶(十瓶山)窯跡群の初期瓦窯とされる一群になるようです。この対岸には、須恵器の初期窯跡である打越窯跡があります。須恵器も瓦も、この辺りが陶窯跡群全体のスタート地点になるようです。
 下野原1・2号窯では窯壁片、須恵器、瓦片がまばらに分布しています。分布状態から焚口を南に向けてた穴窯が東西に並んで操業されていたと研究者は考えているようです。窯の構造は分かりませんが、須恵器や瓦片が5~10m範囲に散布していたようです。2基ともに軒瓦は出土していませんが、打越窯跡のものと考えられる須恵器と格子目の叩きをもつ平瓦が出土しています。
 下野6号窯(2図の4)は、普段は府中湖の中に水没しています。
水が引いた時に、窯の天井部が落ち込んだ状態で出現します。瓦片が採取でき、窯体の破片に混じって丸瓦も採集できたようです。下野原7号窯(2図の3)は府中湖の満水時の水位付近に、窯壁が散乱した状態で確認できるようです。かつては、瓦片も採集できたと云います。
 以上から、この支群は庄屋原支群とともに陶(十瓶山)窯跡群の初期の瓦窯とされています。
十瓶山 地下式穴窯

【内間支群】第1図-2、
府中湖に突き出た半島には、中世の庄屋原城址があります。
府中湖がなかった築城当時は、低地に突き出た丘陵という凄みのある要害の地であったのでしょう。丘陵の付け根を幅10m、深さ3。5mの堀切で遮断し、内部に8つの曲輪があることが報告されています。綾川の河川交易路を見守る要地に位置する中世城郭跡です。ここで古代の地形復元をしておきます。明治の地形図を、いつものように「今昔マップ」で見ておきましょう。
十瓶山 庄屋原1
明治の地形図に旧支流を水色で書き入れた地図
ここからは、庄屋原城址のある半島の東側には、水色で示した一本の支流が流れ込んでいた痕跡が見えてきます。この支流が綾川と合流する地点に、堤防を築いて造られたのが現在のカシヤキ池です。この支流跡沿いに田村うどん方面に、いくつかの瓦窯跡が並んでいます。まずは内間支群です。この支群は、次の2つの群からなります。

十瓶山 内間支群
①府中湖の庄屋原城址がある半島の東側の湖岸に立地する3基(10~12号)(5・6・7)
②カシヤキ池の南西部側の谷の5基(8~12号)。
②については、カシヤキ池の堤防がない時には、十瓶山北西麓から府中湖(旧綾川)に向かって開く深い谷の入口部で、川船が直下まで入ってくることができたようです。
①の群の3基周辺からは灰原が確認でき、北に焚き口を向けた窯が3基並んでいたようです。どの窯のものかは分かりませんが、次のような瓦が確認されています。
A 八葉複弁蓮華文軒丸瓦
B 高松市如意輪寺周辺で出土している八葉単弁蓮幸文軒丸瓦
C 丸山5号窯付近の瓦溜まり(SX01)
D 東かがわ市白鳥廃寺
E 京都市平安京左京二条二坊からも出土している八葉複千蓮華文軒丸瓦
F 外区に唐草文を施す均整唐草文軒平瓦
Fの軒平瓦は丸山5号窯付近の瓦溜り(SX01)、綾川町観音台廃寺・坂出市鴨廃寺などからも出てくる瓦
 ここからは、この瓦群で焼かれた瓦が京都や白鳥、府中周辺に運ばれたことが分かります。

②群のカシヤキ池周辺は、今は耕地整理の造成で谷が埋められ水田となり、当時の地形は分かりません。第3図のようにカシヤキ池に合流する小さな谷があり、その西側斜面に窯が造られたようです。1・8号窯はロストル式平窯であったことを研究者が確認していようです。2・13・9号窯では、焼上が確認されています。瓦の散布が確認されているのは1・9号窯ですが、その他にも8号からは行基式丸瓦、9号窯で均整膚草文軒平瓦が採集されています。

十瓶山 ロストル2

丸山支群(第1図-3・4)
十瓶山 丸山支群西

丸山支群は、カシヤキ池から伸びる綾川旧支流の上流にあたり、位置的には内間瓦窯の東側になります。グーグルマップと図4を重ねると、「ミルコム南 香川中央センター」が立地する場所を支流が流れていて、ここまでは船が入っていたことがうかがえます。その北側の斜面部に、6基(1・13・5~8号:第4図)、さらに県道を越えて田村うどんの前にあるミニストップの裏側の斜面に5基(4・9~12第5図)あり、合計11基になります。これは、陶(十瓶山)窯跡の支群の中で最も多いまとまりになるようです。県道西側の3・5・7・8号窯については、発掘調査が行われていて次のようなことが分かります。

十瓶山 丸山支群と高揚院同笵
      丸山窯跡の瓦と高陽院出土瓦は同笵関係

  丸山窯跡から出土した均整唐草文軒平瓦(TMY-203b 型式)は、高陽院出土瓦と比較すると同じ位置に大きな笵傷(はんきず・上写真の右の赤い矢印部分)があることがわかります。これによって、丸山瓦窯支群で作られた瓦が京都に運ばれていたことが証明できます。写真左の唐草文八葉複弁蓮華文軒丸瓦(TMY-102 型式)も同笵の可能性が高く、両者がセットで京都に運ばれたことが分かります。
 さらに、11世紀中葉に造られ高陽院と左京五条三坊十五町の貴族邸宅で使われた瓦も、丸山窯跡と西の浦窯跡で生産されたものです。平安京への提供が終わった後は、このタイプの瓦は白鳥廃寺・下司(げし)廃寺に供給されています。これは国衙工人の出張生産によるものと研究者は考えています。
十瓶山 丸山支群東

 一方、東側のミニストップ裏の丸山支群(2)については、発掘調査が行われていないのでよく分かりませんが、1998年頃の擁壁工事の際に、焼土が出てきて、窯の存在が確認されています。そのうち4号窯からは巴文軒平九が出土しているようです。

十瓶山 丸山・ますえ
丸山支群とますえ畑支群の位置関係

【ますえ畑支群】第1図-5、
十瓶山 ますえ畑支群

 ますえ畑支群は北条池から伸びて来た支流沿いに位置します。
支流跡沿いには、渇池や東谷池などいくつものため池が密集します。その中の今はなくなった濁池というため池の南側の堤防の下に立地する窯跡群で、7基(1~7号窯)が確認されています。

鳩山窯跡群
半地下式有状式窯
このうち1号窯は県指定史跡となって、次のような事が分かっています。
①半地下式有状式窯で、燃焼室、焼成室、分焔孔、隔壁などが残っていること
②焼成室は2条の状があり、長大
③床面は傾斜した構造で、登窯のような形態
④出土瓦は六葉重弁蓮華文軒丸瓦、宝相幸唐草文軒平瓦が出土し、後者は六波羅蜜寺からも出ている。
1号窯の構造について「須恵器生産技術との融合によってはじめて実現されたもの」で「大量生産」を可能にした窯と研究者は考えています。
十瓶山 ロストル3
 瓦専専用のロストル式平窯 

1号窯以外の窯跡については、次のように述べています。
①3・4号窯については、水路崖面を調査した際に焼土が確認されている
②5号窯については、1970年代前半に焼土や瓦が出土している
③7号窯については、1970年頃の農地の造成時に窯の存在が確認されている。
④3・4号窯からは丸山支群で出土している均整唐草文平瓦が出土している。
【庄屋原支群】第1図-6、
十瓶山 庄屋原2
庄屋原支群分布図

もう一度、府中湖畔に還ります。庄屋原城址のある半島から南に東岸斜面を進むと庄屋原窯跡群があります。南から4基(1~4号窯)の窯跡が並び、北側のやや離れたところに1基(5号)の窯跡が位置します。このうちの2・4号窯)が瓦窯でになり、湖岸崩壊防止工事に伴う試掘調査が行われていて、次のような事が分かっています。

①2号窯は燃焼部とみられる窯体が見つかり、4号窯は燃焼部、焼成部、煙道部などが確認された。
②4号窯の窯体は2回以上の補修を受けていて、第1次窯は全長5m、幅約1,44mで、第2次窯では全長約7m、幅約1.3mに増設されていること
③この支群からは須恵器片と凸面に格子目叩きがある瓦片がでてきていて、下野原支群のものとよく似ているので、下野原支群に続く時期の瓦窯の可能性が高い
④須恵器から操業時期は2号窯が8世紀前半、4号窯が9世紀前半以降
以上の点から、この支群は、この遺跡の半島を越えた下野原支群とともに陶(十瓶山)窯跡群の最初期の瓦窯支群と研究者は考えています。

【小坂池支群】第1図一ア、
十瓶山 小坂池支群
小坂池支群 分布図

小坂池支群は、池の底にある窯跡群です。小坂池は、北条池に向かって伸びる谷に位置し、その北側斜面に窯が開かれていました。池の改修工事に伴う事前の試掘工事が2007年に行われ、3基の窯跡が確認され、次のような事が分かっています。
①焼成室のみの確認で、構造は平窯(ロストル)であること。
② 20cm前後の状が1号は2条、2・3号はは3条ある形態
③窯の配置は1・2号が対になり、空間地をはさんで3号窯があるという配置スタイル
 11世紀前葉に小坂池支群で焼かれた瓦は、平安京の宮中内裏・豊楽(ぶらく)院・朝堂院と東寺・仁和寺などの中央政府に関わる施設から出土します。仁和寺の治安二(1022)年に竣工した観音堂に使われたようです。宮中の瓦は長元7(1034)年の暴風雨被害の修理の時に使用されたものと研究者は考えています。焼成瓦を笵に転用した陰面瓦が出てきているので、京への提供後には地元寺院へ転用供給された可能性があるようです。東寺に提供された瓦は、三野郡の妙音寺・道音寺にも供給されています。国衙工人が出向いての出張生産が行われたと研究者は考えています。
【北条池支群】第1図-8、

十瓶山 西浦支群
北条池支群

北条池支群は北条池の堰堤の内側に並んで位置します。
台地南端部の斜面を利用した窯跡群です。北条池は、綾川に流れ込む支流をせき止めて造られたため池です。その支流の右岸(南側)に、全部で7基(1~7号窯)がありますが、調査が行われていないので詳しいことは分かりません。そのうち1号窯については、半地下式有平窯(ロストル)であることが分かっています。窯壁片や焼成が見つかっているので、1号窯と同じような構造の瓦窯だと研究者は考えているようです。2号窯の下からは、西村支群からも見つかっている八葉複弁蓮華文軒丸瓦が採集されています。

【西ノ浦支群】第1図-10、
十瓶山 西浦支群南
西ノ浦支群

西ノ浦支群は、北条池支群の対岸にあり、台地北端部を利用した窯跡群で、次のような事が分かっています。
①4基の窯跡が確認され、そのうちの2号窯は平窯(ロストル)であること
②1号窯は焼土、4号窯は焼上や灰原が確認されている
③4号窯以外では、瓦の散布がある。
④1号窯からは四葉素弁軒丸瓦が出土していた、同一文様のものが高松市屋島寺からも出ている
⑤瓦については、 八葉複弁蓮華文軒丸瓦が出ていて、同じものが内間支群や綾歌郡綾川町龍燈院で、坂出市鴨廃寺、丸亀市法勲寺、平安京左京五条三坊十五五町などで出土している。

【西村支群】第1図-12
十瓶山 西村支群

西村支群は、国道32号線綾南バイハス工事の際に、西村遺跡の発掘調査時に発見された窯跡群です。1・2号窯は御寺川へと向かって北に開く谷の東側斜面に、3号窯は御寺川によって形成された谷の北東側の斜面に立地していて、両者はかなり離れています。
ローソンそばの1・2号窯ついては、次のような事が分かっています。
①1号窯からは八葉複弁蓮華文軒丸瓦、均整唐草文軒平瓦が出ている。
②前者は、讃岐国内では、北条池2号窯ド、坂出市開法寺跡、高松市如意輪寺周辺からも出土しているほか、平安京の鳥羽南殿にも供給されている。
③後者は陶窯跡群の内間支群、善通寺市曼茶羅寺、丸亀市本島八幡神社、高松市如意輪寺周辺からも出土している。その他にも、平安京では鳥羽南殿、平安宮真言院、平安宮朝堂院に供給されている。
④2号窯では平瓦が出土している。
⑤灰原と一緒に出てきた須恵器から1号窯が11世紀末、2号窯が11世紀中頃と考えられる。
⑥1・2号窯周辺からは、窯の生産活動によって埋没した溝から巴文軒平瓦が出土している。
⑦ますえ畑と同文の宝相幸唐草文軒平瓦も出土している。
これに対して長楽寺北の3号窯は、焼成室、燃焼室が残っています。
燃焼室は3条のロストルをもつタイプで、多くの平瓦が出土しています。近接する廃棄上坑からは巴文軒平瓦が出土しています。

以上をまとめておきます
①陶(十瓶山)瓦窯跡群は、いくつかの支群に分かれています。その立地は旧綾川か、その支流の河岸斜面にあり、河川運送が行われていたことがうかがえる。
②陶窯跡群の瓦生産については、
前期として、府中湖南東部周辺に位置する下野原支群、庄屋原支群
後期として、府中湖の旧支流沿いに立地する支群に分けられる
③前期支群は、穴窯で、後期支群は新しいタイプの平窯(ロストル)という区分ができる。
④操業時期は、前期が白鳳~奈良良時代、後期が平安後期以降と設定されている。
⑤後期の瓦窯群で造られた瓦は、平安京の宮殿や寺院にも提供されている。

たとえば12世紀前半頃に、建設された鳥羽離宮には、陶(十瓶山)瓦窯群の瓦が使われていることが分かってきました。
鳥羽離宮は白河上皇の院殿です。南殿は讃岐国守高階泰仲が「成功」という位階買収の制度を使って応徳三(1086)年に造営した最初の寝殿です。発掘調査では多数の讃岐系瓦が出土しました。生産地は丸山窯跡・内間(うちま)窯跡・北条池窯跡といった瓦専用窯だけでなく工人集団の工房兼居宅と考えられる西村遺跡でも出土します。周辺の開法寺跡・鴨廃寺・綾川寺・曼荼羅寺にも瓦を供給しています。讃岐国分寺の塔頭とされる如意輪寺に附属する窯跡では、工人の出張生産が行われたと研究者は考えています。
12世紀になると、院殿附属の御願寺鳥羽離宮金剛心院・平安宮南面大垣・宇治平等院・法住寺殿蓮華王院・六波羅蜜寺などの建物にも、陶(十瓶山)瓦窯群の瓦が使われています。この需要に応えるために、内間窯・丸山窯・ますえ畑窯では多数の窯が同時にフル操業するようになります。この時期が、陶(十瓶山)瓦窯群の最盛期のようです。
   このように奈良時代以後、陶(十瓶山)窯群地帯は、綾氏の保護を受け、準国営工場的な性格を持ち瓦と須恵器生産の中心地に成長して行くことになります。その工人たちの生活拠点が西村遺跡だと研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは「田村久雄・渡部明夫 陶(十瓶山)窯跡群の瓦生産について 瓦窯跡の分布 埋蔵文化財センター研究紀要  2008年」
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須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg
 7世紀後半は、三野・高瀬窯で生産された須恵器が讃岐全体の遺跡から出てくる時期であることは、前回に見たとおりです。「一郡一窯」的な窯跡分布状況の上に、その不足分を三豊のふたつの窯(辻・三野)が補完していた時期でもありました。7世紀後半の讃岐における須恵器の流れは、西から東へという流れだったのです。
 ところが、奈良時代になると三野・高瀬窯群の優位は崩れ、綾川町の十瓶山(陶)窯群が讃岐全土に須恵器を供給するようになります。十瓶山窯独占体制が成立するのです。これは劇的な変化でした。今回は、それがどのように進んだのかを見ていきたいと思います。  テキストは  「渡部明夫・森格也・古野徳久 打越窯跡出土須恵器について 埋蔵物文化センター紀要Ⅳ 1996年」です。 

 7世紀前半は讃岐の須恵器窯跡群と大型横穴式石室墳の分布は、郡域単位でセットになっていること、ここからは古墳の築造者である首長層が、須恵器の生産・流通面で関与していたと研究者は考えていることを、前回にお話ししました。その例を十瓶山窯群と神懸神社古墳との関係で見ておきましょう。
須恵器 打越窯跡地図

神懸神社古墳は、坂出平野南方の綾川沿いの山間部にある古墳です。古墳の周辺は急斜面の丘陵が迫っていて、平地部は蛇行して北流する綾川が形成した狭い氾濫原(現府中湖)だけです。このような耕地に乏しい地域に、弥生時代の集落の痕跡はありませんし、この古墳以外に遺跡はありません。四国横断道建設の予備調査(府中地区)でも、遺構・遺物があまりない地域であることが分かっています。
神懸神社(坂出市)

 ということは神懸神社古墳は、耕地開発が困難な小地域に、突如として現れた古墳と云えるようです。しかも、出土した須恵器や石室構造(無袖式)からは、新規古墳の造営が激減する7世紀中葉(T K 217型式相当)になって造られたことが分かります。つまり終末期の古墳です。7世紀中葉というのは、白村江敗北の危機意識の中で、城山や屋島に朝鮮式山城が造営されている時期です。そして、大量の亡命渡来人が讃岐にもやってきた頃になります。神懸神社古墳の背景には、特異な事情があると研究者は推測します。
研究者が注目するのが、同時期に開窯する打越窯跡です。
打越窯跡は、この古墳の南西1㎞の西岸にあった須恵器生産窯です。この窯跡を発見したのは、綾川町陶在住の日詰寅市氏で、窯跡周辺の丘陵がミカン畑に開墾された1968(昭和43)年頃のことでした。分布調査で、平安時代の須恵器窯跡を確認し、十瓶山窯跡群が綾川沿いに坂出市まで広がっていたことを明らかにしました。採集された資料を、十瓶山窯跡群の踏査・研究を続けられてきた田村久雄氏が見て、十瓶山窯跡群における最古の須恵器窯跡であることが明らかにされます。
 その後、研究者が杯・無蓋高杯・甕・壺脚部の実測図を検討して、7世紀前半~中頃のものと位置づけます。つまり、打越遺跡は、十瓶山を中心に分布する十瓶山窯須恵器窯の中でもっとも古い窯跡であるとされたのです。こうして、陶窯跡群の成立過程を考えるうえで重要な位置を占める遺跡という認識が研究者のあいだにはあったようです。しかし、打越窯跡自体は開墾のため消滅したと考えられていました。
 そのような中で1981(昭和56)年になって、打越窯跡のある谷部が埋め立てて造成されることになり緊急調査が行われました。発掘調査の第5トレンチの斜面上部には、灰と黒色土を含む暗赤褐色の焼土が約10㎝の厚さに堆積していました。また、良好な灰原が残っていて、大量の須恵器が出てきたのです。出土した遺物は、コンテナ約220箱にのぼりますが、すべてが須恵器のようです。報告書は、遺物を上層ごとに分けることが困難なために、時代区分を行わずに器種で分け、次に形態によって分けて掲載されています。

須恵器 打越窯跡出土須恵器2
打越窯跡出土の須恵器分類図
 打越窯跡から出てきた須恵器はTK48型式相当期のもので、先ほど見た神懸神社古墳の副葬品として埋葬されていたことが分かってきました。神懸神社古墳には初葬から追葬時期まで、打越窯跡からの須恵器が使われています。見逃せないのは室内から窯壁片が出ていることです。両遺跡の距離からみて、偶然混入する可能性は低いでしょう。何かの意図(遺品?)をもって石室内に運び込まれたと研究者は考えています。
須恵器 打越窯跡出土須恵器
          打越窯跡出土の須恵器
 打越窯跡で焼かれた須恵器(7世紀)をみると、器壁の薄さや自然釉の厚さなどから、整形、焼成技術面で高い技術がうかがえるようです。讃岐では最も優れたに工人集団が、ここにいたと研究者は考えています。どのようにして先進技術をもった工人たちが、ここにやってくることになったのでしょうか。それは、後で考えることにして先に進みます。
 以上から、この古墳に眠る人たちは打越窯跡の操業に関わった人たちであった可能性が高いと研究者は考えます。
彼らは窯を所有し、原料(粘土・薪)を調達し、工房を含めた窯場を維持・管理する「窯元」的立場の階層です。想像を膨らませるなら、彼らは時期的に見て白村江敗戦後にやってきた亡命技術者集団であったかもしれません。ヤマト政権が彼らを受けいれ、阿野北平野の大型石室墳の築造主体(在地首長層=綾氏?)に「下賜」したというストーリーが描けそうです。それを小説風に、描いてみましょう。
 綾氏は、最先端の須恵器生産技術をもった技術者集団を手に入れ、その窯を開く場所を探させます。立地条件として、挙げられのは次のような点です。
①綾川沿いの川船での輸送ができるエリアで
②須恵器生産に適した粘土層を捜し
③周辺が未開発で照葉樹林の原野が広がり、燃料(薪)を大量を入手できる所
④綾氏の支配エリアである阿野郡の郡内
その結果、白羽の矢が立てられたの打越窯跡ということになります。
 こうして、7世紀後半に打越窯で須恵器生産は開始されます。ここで作られた須恵器は、綾川水運を通じて、綾氏の拠点である阿野北平野や福江・川津などに提供されるようになります。しかし、当時の讃岐の須恵器市場をリードしていたのは三豊の辻窯群と三野・高瀬窯群であったことは、前回見たとおりです。この時点では、打越窯では他郡への移出が行えるほどの生産規模ではなかったようです。

須恵器 府中湖
府中ダムを見晴らす位置にある神懸神社
 窯を開設したリーダーが亡くなると、下流の見晴らしのいい場所に造営されたのが神懸神社古墳です。
その副葬品は、打越窯で焼かれた須恵器が使われます。また、遺品として打越窯の壁の一部が埋葬されます。それは、打越窯を開いたリーダーへのリスペクトと感謝の気持ちを表したものだったのでしょう。打越窯での生産は、その後も継続して行われます。そして、一族が亡くなる度に追葬が行われ、その時代の須恵器が埋葬されました。
  そうするうちに、打越窯跡周辺の原野を切り尽くし、燃料(薪)入手が困難になってきます。窯の移動の時期がやってきます。周辺を探す中で、見つけたのが十瓶山周辺の良質で豊富な粘土層でした。彼らは打越窯から十瓶周辺へ生産拠点を移します。こうして十瓶山窯群の本格的な操業が開始されていきます。
須恵器 讃岐7世紀の窯分布図
讃岐の須恵器生産窯(7世紀)

 7世紀後半には、讃岐では大規模な須恵器生産窯の開設が進みます。那珂郡の奧部の満濃池東岸窯跡や香南の大坪窯跡群のように、原料不足のためか平野部の奧の丘陵地帯に開かれる窯が多くなるのが特徴です。こうして発展の一途をたどるかにみえた讃岐の須恵器窯群です。
 ところが、8世紀になると一転してほとんどの窯が一斉に操業停止状態になります。そんな中で、陶窯跡群だけが生産活動を続け、讃岐の市場を独占していきます。各窯群を見ておく、庄岸原窯跡・池宮神社南窯跡・北条池1号窯跡などをはじめとして、北条池周辺に8世紀代の窯跡が集中し、盛んな窯業活動を展開します。
 須恵器生産窯の多くが奈良時代になると閉じられるのは、どうしてでしょうか?
その原因のひとつは、7世紀中頃に群集墳築造が終わり、副葬品としての須恵器需要がなくなったことが考えられます。もうひとつは、この現象の背景には、もっと大きな変化があったと研究者は考えています。それは、律令支配の完成です。各地で須恵器生産を管理していた地域首長たちは、律令体制下では各郡の郡司となっていきます。郡司はあくまで国衙に直属する地方官にすぎません。古墳時代の地域支配者(首長)としての権力は制限されます。また、律令時代にすべての土地公有化され、燃料となる樹木の伐採を配下にいる須恵器工人に独占させ続けることができない場合もでてきたかもしれません。原料である粘土と、燃料である薪の入手が困難になり、生産活動に大きな支障が出てきたことが考えられます。
 これに対して陶窯跡群は、讃岐で最も有力な氏族である綾氏によって開かれた窯跡群でした。
 陶窯跡群の周辺には広い洪積台地が発達しています。これは須恵器窯を築造するためには恰好の地形です。しかも洪積台地は、水利が不使なためにこの時代には開発が進んでいなかったようです。そのため周辺の丘陵と共に照葉樹林帯に覆わた原野で、豊富な燃料供給地でもあったことが推測できます。さらに、現在でも北条池周辺では水田の下から瓦用の粘土が採集されているように、豊富で品質のよい粘土層がありました。原料と燃料がそろって、水運で国衙と結ばれた未開発地帯が陶周辺だったことになります。

 加えて、綾川河口の府中に讃岐国府が設置され、かつての地域首長が国庁官人として活躍すると、陶窯跡群は国街の管理・保護を受け、新たな社会投資や、新技術の導入など有利な条件を獲得したのではないかと研究者は考えています。つまり、陶窯跡群が官営工房的な特権を手に入れたのではないかというのです。しかも、陶窯跡群は須恵器の大消費地である讃岐国衙とは綾川で直結し、さらに瀬戸内海を通じて畿内への輸送にも便利です。
 律令体制の下では、讃岐全域が国衙権力で一元的に支配されるようになりました。これは当然、讃岐を単位とする流通圏の成立を促したでしょう。それが陶窯跡群で生産された須恵器が讃岐全域に流通するようになったことにつながります。陶窯跡群が奈良時代になって讃岐の須恵器生産を独占するようになった背景には、このように綾氏の管理下にある陶窯群に有利に働く政治力学があったようです。

 先ほど見たように陶窯跡群の中で最も古い窯跡は、打越窯でした。当時は、この窯で作られた須恵器が、器壁の薄さや自然釉の厚さ、整形、焼成技術などの面から見て技術的に最も高かい製品でした。それを作り出せる工人集団が存在したことになります。そして、そういう工人集団を「誘致」できたのが綾氏だったことになります。それは三野郡の丸部氏が藤原京の宮殿瓦を焼くための最新鋭瓦工場である宗吉窯群を誘致できた政治力と似通ったものだったと私は考えています。
 讃岐では最も優れたに工人集団がここにいたという事実からは、「綾氏 → 国衙 → 中央政府」という政治的なつながりが見えてきます。つまり奈良時代になると、最新技術やノウハウが国家を通じて陶窯群に独占的に注ぎ込まれたとしておきましょう。こうして陶窯跡群は、讃岐一国の需要を独占する大窯業地帯へと成長して行きます。

10世紀前半の『延喜式』には、讃岐国は備前国・美濃国など八国と共に、調として須恵器を貢納すべき事が記されています。
10世紀には、讃岐国で須恵器生産を行っていたのは陶窯跡群しかないのは、先に見てきたとおりです。陶で生産された須恵器が綾川を川船で下って、河口の林田港で海船に積み替えられて畿内に運ばれていたことになります。それは、7世紀末の藤原京の宮殿造営のための瓦が三野郡の宗吉産から海上輸送されたいことを考えれば、何も不思議なことではありません。陶窯跡群の須恵器が中央に貢納されるようになった時期や経緯は分かりません。その背景には、讃岐の須恵器生産を独占していた陶窯跡群の存在があったと研究者は考えています。官営的なとして陶窯跡群の窯業活動が国衛によって管理・掌握されていたことが、国衙にとっては都合が良かったのでしょう。
 讃岐国が貢納した須恵器は、18種類3151個になります。これだけの多種類のものを造り分ける技術を持った職人がいたことになります。7世紀後半に讃岐全体に須恵器を提供していた三野・高瀬窯群に、陶窯群が取って代わってしまったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
参考文献
 「渡部明夫・森格也・古野徳久 打越窯跡出土須恵器について 埋蔵物文化センター紀要Ⅳ 1996年」 
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前回は、讃岐における須恵器生産の始まりと、拡大過程を見てきました。そして、7世紀初頭には各有力首長が支配エリアに須恵器窯を開いて、讃岐全体に生産地は広がっていたことを押さえました。これが後の「一郡一窯」と呼ばれる状況につながって行くようです。今回は、その中で特別な動きを見せる三野郡の須恵器窯群を見ていくことにします。テキストは「佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論 埋蔵物文化センター紀要」です。
 須恵器 三野・高瀬窯群分布図
           三野郡の須恵器窯跡分布地図       
 上の窯跡分布地図を見ると次のようなことが分かります。
①高瀬川流域の丘陵部に7群の須恵器窯が展開し、これらが相互に関連する
②中央に窯がない平野部のまわりの東西8km、南北4kmの丘陵部エリアに展開する。
③これらの窯跡群を一つの生産地と捉えることができる。
以上のような視点から『高瀬町史』は、7群の窯跡群をひとまとめにして「三野・高瀬窯跡群」と名付け、7群を支群(瓦谷・道免・野田池・青井谷・高瀬末・五歩Ⅲ・上麻の各支群)として捉えています。
まず、7支群がどのように形成されてきたのかを見ておきましょう。
第1段階(6世紀末葉~7世紀初頭)
爺神山麓の瓦谷支群(1)で生産開始。
第2段階(7世紀前葉)
瓦谷支群(2)で生産継続、(この段階で生産終了) 
代わって野田池支群(2)での生産開始。
第3段階(7世紀中葉)
野田池支群での生産拡大
道免・高瀬末の2支群の生産開始 (高瀬末支群は終了)
瓦谷支群北側直近の宗吉瓦窯で須恵器生産の可能性あり。
第4段階(7世紀後葉~8世紀初頭)。
道免・野田池の2支群での生産継続。
宗吉瓦窯での須恵器生産継続。(この段階で終了)。
第5段階(8世紀前葉~中葉)
道免・野田池の2支群での生産継続
青井谷支群での生産開始(平見第4地点)。
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
青井谷支群での生産拡大(平見第8地点・青井谷第3地点)
五歩田支群での生産開始(五歩田第1地点)
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
青井谷支群での生産継続(平見第1地点)
上麻支群での生産開始(上麻第4地点)。
この段階で三野・高瀬窯群の操業終了。
窯跡の変遷移動からは、以下のようなことが分かります。
①窯場が瓦谷支群(1)や野田池支群(2)などの三野津湾に面した場所からスタートして、次第に山間部の東方向へと移動していく
②その移動変遷は瓦谷(1)→野田池(2)→道免(3)・高瀬末(5)→宗吉→ 青井谷(4)→五歩田(6)→上麻(7)と奥地に移動していったこと
③窯場の移動は、製品搬出に必要な河川ないし谷道を確保する形で行われいる。
④7世紀中葉~8世紀初頭には野田池・道免支群が、8世紀後葉~10世紀前葉には青井谷支群が中核的な位置にある。
⑤大きく見れば宗吉瓦窯も三野・高瀬窯跡群を構成する窯場(「宗吉支群」)として捉えられること。
⑥燃料(薪)確保のためか窯場を、高瀬郷内で設定するような傾向が見受けられること。

他の讃岐の窯場との比較をしておきましょう。
 隣接する苅田郡の三豊平野南縁には、辻窯群(三豊市山本町)が先行して操業していて競合関係にありました。辻窯群には、紀伊氏の墓域とされる母神山の群集墳や忌部氏の粟井神社があり、讃岐では他地域に先んじて、須恵器生産を始めていました。それが7世紀中葉になると三野・高瀬窯群の操業規模が辻窯跡群を、圧倒していくようになります。
 一方、讃岐最大の須恵器生産地に成長する十瓶山窯跡群(綾歌郡綾川町陶)と比較すると、8世紀初頭までは圧倒的に三野・高瀬窯の方が操業規模が大きいようです。それが逆転して十瓶山窯が優位になるのは、8世紀前葉以降のことです。10世紀前葉になると、十瓶山窯との格差がさらに大きくなり、次第に十瓶山窯が讃岐全体を独占的な市場にしていきます。そのような中で10世紀中葉以後は三野・ 高瀬窯は廃絶し、十瓶山窯も生産規模を著しく縮小させます。

旧三野湾をめぐる窯場が移動を繰り返すのは、どうしてなのでしょうか?
 須恵器窯は、大量の燃料(薪)を必用とします。その燃料は、周辺の照葉樹林帯の木材でした。山林を伐り倒してしまうと、他所へ移動して新たな窯場を設けるというのが通常パターンだったようです。香川県内の須恵器窯の分布と変遷状況を検討した研究者は、窯相互の間隔から半径500mを指標としています。これを物差しにして、窯周辺の伐採範囲を考えて三野・高瀬窯の分布を見ると、野田池・道免・青井谷の3群は8世紀中葉から10世紀前葉にかけて、窯の操業によって森林がほぼ伐採し尽くされたことが推測されます。
 更に加えて、7世紀末には藤原京造営の宮殿用瓦製造のために宗吉瓦窯が操業を開始します。これは、それまでの須恵器窯とは比較にならないほどの大量の薪を消費したはずです。加えて、製塩用の薪確保のための「汐木山」も伐採され続けます。こうして8世紀には、旧三野湾をめぐる里山は切り尽くされ裸山にされていたと研究者は考えているようです。古代窯業は、周辺の山林を裸山にしてしまう環境破壊の側面を持っていたようです。
  周辺の山林を切り尽くした後は、どうしたのでしょうか?
第6・7段階の動きを見ると、その対応方法が見えてきます。
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
青井谷支群での生産拡大→五歩田支群での生産開始
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
  青井谷支群での生産継続→上麻支群での生産開始
第6段階では、野田池支群から五歩田支群に移動し、第7段階になるとさらに五歩田支群から上麻支群に移っています。上麻は、大麻山の南斜面に広がる盆地で水田耕作などには適さないような所です。しかし、須恵器生産に必用なのは以下の4つです。
・良質の粘土
・大量の燃料(薪)
・技術者集団
・搬出用の交通網
これが満たされる条件が、内陸部の盆地である上麻にはあったのでしょう。同じように、丸亀平野の奧部の満濃池周辺にも須恵器窯は、後半期には造られています。これも、上麻支群と同じような要因と私は考えています。
 こ三野・高瀬窯群を設置・運営した経営主体は、丸部氏だったと研究者は考えています。
⑤で先述したように「燃料(薪)確保のために窯場を、高瀬郷内で設定するような傾向が見受けられること」が指摘されています。高瀬郷内での燃料確保ができて、後には郷域を超えて勝間郷(五歩田・上麻の2支群が該当)にも窯場と薪山を設定しています。それができる氏族は、三野郡では丸部氏かいないようです。 
 「続日本紀」の771年(宝亀2)には、丸部臣豊抹が私物をもって窮民20人以上を養い、爵位を与えられたとの記事があります。ここからは、丸部氏が私富を蓄積し、窮民を自らの経営に抱え込むことのできる存在であったことがうかがえます。丸部氏は、7世紀以降に政治的な空白地であった三野平野に進出して、須恵器生産体制を形作ります。さらに壬申の乱以後には、国家的な規模の瓦生産工場である宗岡瓦窯を設置・操業させます。同時に、讃岐で最初の古代寺院である妙音寺を建立し、その瓦を宗岡瓦窯で焼く一方、多度郡の佐伯氏の氏寺である仲村廃寺や善通寺にも提供しています。以上のような「状況証拠」から丸部氏こそ、三野郡における須恵器生産を主導した勢力だと研究者は考えます。
 「三野・高瀬窯跡群」の須恵器は、どのように流通していたのでしょうか。
須恵器 蓋杯Aの生産地別スタイル

須恵器・蓋杯Aには、上のような生産地の窯ごとに特徴があって、区分ができます。これを手がかりに消費遺跡での出土状況を整理し一覧表にしたのが次の表になります。
須恵器 蓋杯Aの出土分布一覧表

例えば1の大門遺跡(三豊市高瀬町)は、高速道路建設の際に発掘調査された遺跡です。そこからは56ヶの蓋杯Aが出土していて、その生産地の内訳は「辻窯跡」のものが15、三野窯跡のものが41となります。大門遺跡は、三野・高瀬窯跡のお膝元ですから、その占有率が高いのは当然です。ただ、山本町の辻窯跡からの流入量が意外に多いことが分かります。当然のように、三豊以外からの流入はないようです。ここにも、三豊の讃岐における独自性が出ているようです。
6の下川津遺跡を見てみましょう。
ここでは、三野窯と十瓶窯が拮抗しています。他の遺跡に比べて、十瓶窯産の須恵器の利用比率が高いようです。十瓶窯は、綾氏が経営主体と考えられています。そのため綾氏の拠点とされる綾北平野や大束川河口の川津などは、十瓶窯産の須恵器が流通していたとしておきます。
この表で注目したいのは、三野・高瀬窯の須恵器が丸亀平野にとどまらずに、讃岐全体に供給されていることです。
このことについて、研究者は次のように指摘します。
①三野・高瀬窯の須恵器の分布は、ほぼ讃岐国一円に及ぶこと。
②讃岐全体への供給されるようになるのは、第3・4段階(7世紀中葉~8世紀初頭)のこと
この時代の讃岐における須恵器生産窯の「市場占有形態」を研究者が分布図にした下図になります。なお、上図の番号と下地図の番号は対応します。
須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg

ここからは「一郡一窯」的な窯跡分布状況の上に、その不足分を三豊のふたつの窯(辻・三野)が補完していたことがうかがえます。さらに、辻窯は丸亀平野までが市場エリアで会ったのに対して、三野窯はさぬき全域をカバーしていたことが分かります。辻と三野を比較すると三野が辻を凌駕していたようです。
 この時期は、7世紀後半の壬申の乱以後のことで、国営工場的な宗岡瓦窯が誘致され、20基を越える窯が並んで藤原京の宮殿瓦を焼くためにフル操業していた時期と重なり合います。その国家的な建設事業に参加していたのが丸部氏だったことになります。そういう見方をすると丸部氏は、須恵器生産という面では、三豊南部で母神山古墳群から大野原古墳郡を築き続けた勢力(紀伊?)の管理下にあった辻窯を凌駕し、操業を始めたばかりの綾氏の十瓶窯を圧倒していたことになります。このような経済力や政治力を背景に、讃岐で最初の古代寺院妙音寺に着手したのです。ともかく7世紀後半の讃岐における須恵器の流れは、西から東へ、三豊から讃岐全体へだったことを押さえておきます。
その後の須恵器供給をめぐる動きを見ておきましょう。
③第5段階(8世紀前葉~中葉)になると、急速に十瓶山窯製品に市場を奪われていくこと。
④買田・岡下遺跡(まんのう町)では、第6段階末期の特徴的な杯B蓋(青井谷支群青井谷第3地点で生産)がまとまって出土しているので、この時期になっても三野・多度・那珂3郡には三野窯は一定の市場をもっていたこと
⑤第5~7段階の中心的な窯場である青井谷支群は、大日峠で丸亀平野につながり
第6段階の野田池支群から転移した五歩田支群や第7段階に五歩田支群から移動した上麻支群は麻峠や伊予見峠で、それぞれ丸亀平野側とつながっており、内陸交通網に依拠した交易が想定できる。
大胆に推理するなら①②段階の讃岐全体への供給が行われた時期には、海上水運での東讃への輸送もあったのではないでしょうか。藤原京への宗吉瓦の搬出も舟でした。宗吉で焼かれて瓦が、仲村廃寺や善通寺に供給されたいますが、これも「三野湾 → 弘田川河口の白方湊 → 弘田川 → 善通寺」という海上ルートが想定されます。引田や志度湊に舟で三野の須恵器が運ばれたとしても不思議はないように思えます。③④⑤になり、十瓶山窯群に東讃の市場を奪われ、丸亀平野エリアへの供給になると大日峠や麻峠が使われるようになり、その峠の近くに窯が移動してきたとも考えられます。

以上をまとめておきます
①讃岐の須恵器生産が始まるのは5世紀前半で、渡来人によって古式タイプの須恵器が生産された。
②しかし、窯は単独で継続性もなく不安定な生産体制であった。
③須恵器窯が大規模化・複数化し、讃岐全体に分布するようになるのは、6世紀末からである。
④須恵器窯が地域首長の墓とされる巨石横穴式石室と、セットで分布していることから、窯設置には、地域首長が関わっている
⑤「一郡一窯」が実現する中で、三豊の辻窯と三野窯は郡境を越えて製品を提供した。
⑥その中でも丸部氏が経営する三野窯は、7世紀後半には讃岐全体に須恵器を供給するようになる。
⑦7世紀の須恵器生産の中心は、三豊にあったという状況が現れる。
⑧その間にも三野窯群は、燃料を求めて定期的に東へと移動を繰り返している
⑨その背後には、「三野須恵器窯+宗吉瓦窯+三野湾製塩」のための大量燃料使用による森林資源の枯渇があった。
⑩奈良時代に入ると三野窯の市場占有率は急速に低下し、十瓶山窯群に取って代わられる。
次回は、十瓶山窯群の台頭の背景を見ていくことにします。

参考文献
佐藤竜馬   讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論
高瀬町史
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 須恵器 編年写真
須恵器編年
 讃岐で最初に須恵器生産が行われたのは、どこなのか?  須恵器窯が、どのようにして讃岐全体に広がっていったのか。また、須恵器生産のシステムは、どんなものであったのかなどを今回は見ていくことにします。テキストは「佐藤竜馬 7世紀讃岐における須恵器生産の展開    埋文センター研究紀要1997年」と「古代の讃岐 第6章 産業の発展 窯業 美巧社1988年」です。

須恵器 土師器

  五世紀前半頃に朝鮮半島南部から伝えられた須恵器生産は、それまで弥生土器や土師器とは全く系譜を異にする土器です。土師器が赤褐色、軟質であるのに対し、須恵器は青灰色・硬質です。これは土師器が野焼きによって酸化炎焼成されるのに対して、須恵器は穴窯と呼ばれる長大な構築窯で高温に還元炎焼成されるためです。この窯は、それまではわが国にはなかったもので、須恵器生産のために初めて構築窯が使われるようになります。
陶邑窯跡群 堺市
陶邑古窯址群(堺市)
この窯を使って大規模な須恵器生産工業地帯が作られるのが大阪南部に広がる陶邑古窯址群です。
ここは堺市の泉北ニュータウンの造成の際に発見された遺跡で、泉北丘陵一帯で焼かれた須恵器が各地に運び出されていたようです。朝鮮半島からの渡来人を、この地に定住させ官営窯工場地帯として整備します。平安時代までの約500年間で1000基近く者数の窯が次々とと築かれていき、日本最大の須恵器生産地に成長して行きます。これらの窯跡群は、『日本書紀』に「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」にあたるとされ、陶邑窯跡群と名付けられています。地方では、初期の須恵器窯跡が発見されることが少なかったために、陶邑古窯址群が独占的に須恵器を全国に供給したと考えられていたときもありました。しかし、福岡県や宮城県からも五世紀の須恵器窯跡が発見されるようになり、大坂の陶邑古窯址群とは系譜を異にする須恵器もあることが分かってきました。

須恵器 編年表3
須恵器編年図
香川県での初期の須恵器窯跡の発見
 そんな中で香川県でも、1975年に香川医科大学の建設に伴い権八原(ごんぱちばら)古墳群が調査され、大量の古式須恵器が出てきました。また1981年には、豊中比地大の宮山の果樹園工事で古式須恵器や窯壁が出土し、はじめて5世紀の窯跡が確認されました。
さらに、1983には高松の三谷三郎池西岸窯跡が発掘調査され、次のようなことが分かりました。
①焼成面は長さ5m 幅2,15m    幅広で傾斜の緩やかな床面
②床面の中央には二個の柱穴が縦に並んでおり、これは窯体の大井を築く時の支え柱の柱穴
③窯体の下方には灰原も検出されたが、薄くて須恵器片を少量しか出上しなかったことから、窯の操業は短期間であった
④甕・壷・高杯・器台や杯などの小破片が出土
須恵器 宮山1号窯跡2
三豊市豊中町の宮山一号窯跡

一方、豊中町の宮山一号窯跡には、以上の器種のほか、蓋または鉢や紡錘車なども含まれています。両窯跡の出土品とも、甕の内面の叩き痕を消したり、杯の立上りが高いことなどから古式須恵器とされます。さらに出土品の中には、定型化以前の須恵器を含むことから、両窯跡ともわが国で須恵器生産を開始して間もない頃に操業が始まった窯と研究者は考えています。つまり、渡来系の工人たちによって窯が開かれ、生産が行われていたようです。
須恵器 編年式
須恵器編年表
   須恵器の製作においては窯を造るほかにも、高温に耐える淡水性粘土の使用や、 ロクロによる造形など、それまでの土師器生産に比べるとはるかに高度な窯業技術と専門技術者やスタッフが必要でした。製鉄技術と同じように、技術者スタッフを集団で誘致し、定着させないと須恵器生産はできなかたのです。そこで各地の首長は、ヤマト政権の大王から、ある者は、朝鮮半島と直接関係を持つ九州の豪族たちの連携で、工人集団を招き入れたようです。

讃岐の初期の須恵器窯を順番に並べると、次のようになります。
①もっとも古い初期須恵器であるT G 232段階を生産した髙松の三谷三郎池西岸窯跡(4世紀末)
②T K 206~208式を焼いた豊中町の宮山1号窯跡(5世紀半ば)
③T K10型式相当期の多度津・黒藤窯跡(5世紀前半)
 ①②の窯跡の生産をめぐる経緯や工人の問題などは分かりません。あえて推測するなら①は秦氏、②は三野郡の丸部氏の基盤になります。②は、その後に展開する三野窯跡や三豊南部の辻窯跡群につながって行く先駆的なものとも考えられます。いずれにせよ、①②の両窯跡で讃岐の須恵器生産が開始されます。それが5世紀半以前であったことを押さえておきます。
須恵器 TK10
須恵器TK10~TK43が出土した窯跡分布
豊中の宮山1号窯跡や高松の三谷三郎池西岸窯跡から讃岐の須恵器生産は、5世紀前半には始まっています。これは全国的にも早い方になります。しかし、両者とも単独の窯で大きな窯跡群ではありません。しかも三谷三郎池西岸窯跡では、床面に残った灰原は薄く、数回しか焼成が行われなかったことからみると、この時期の須恵器生産はきわめて小規模で、不安定な操業体制だったことがうかがえます。6世紀前半から中頃の須恵器窯跡は、現在のところ多度津の黒藤窯跡しかありません。つまり、先行的な3つの窯跡以外で、後に続く窯はすぐには現れなかったようです。
須恵器 TK217
須恵器TK217が出土した窯跡分布

讃岐の須恵器生産の規模が拡大するのは、6世紀末から7世紀前半頃にかけてです。
この時期に操業を開始した窯跡を西からみておきましょう。
①山本の辻窯跡群
②高瀬の瓦谷窯跡・末窯跡群
③三野の三野窯跡群
④丸亀の青野山窯跡群
⑤綾南の陶窯跡群
⑥高松の公渕窯跡群
⑦三木の小谷窯跡
⑧志度の末窯跡群
ここからは窯跡が、ほぼ讃岐全域に拡大していることが分かります。
このような拡大の背景には、6世紀末から7世紀前半に急激な須恵器需要の拡大があったことが考えられます。その背景を坂出下川津遺跡や高漱の大門遺跡から見ておきましょう。
これらの遺跡発掘からは、作りつけのカマドを持つ竪穴住居が急速に普及したことが分かります。
竪穴(たてあな)住居にカマドや貯蔵穴が登場(古墳時代)|三島市
かまどを持つ縦穴式住居
このような住居は、この時期に台頭した新しい農民層の住居とされます。彼らのなかの有力者は、横穴式石室を持つ群集墳を築造し、死後そこに葬られるようになります。つまり6世紀末頃という時代は、新しく台頭してきた農民層が日用土器として須恵器を使うようになり、一方では爆発的に増えた横穴式石室への副葬土器とも須恵器が使われた時代であったようです。これが須恵器生産の拡大をもたらしたと研究者は考えています。

古代讃岐の郡域2
讃岐の各郡分布

 しかし、この時期の須恵器生産や流通は、工人たちが管理していたのではないようです。それは、地域首長の墓とされる巨石横穴式石室と窯跡群が、セットで分布していることからうかがえます。西からそのセットを押さえておきます。
①辻窯跡群と観音寺の鑵子塚古墳(苅田郡)
②青野山窯跡群と青野山7号墳(鵜足郡)
③陶窯跡郡と坂出新宮古墳・綾織塚古墳・酬酬古墳群(阿野郡)
④公淵窯跡群と高松の山下古墳・久本古墳・小山古墳(山田郡)
⑤末窯跡群と寒川の中尾古墳(寒川郡)
 ここからは須恵器生産地の成立には、地域首長が関わっていると研究者は考えています。
須恵器 青野山

例えば②青ノ山エリアを見てみましょう。ここには6世紀後半から7世紀初頭の古墳群があります。1979年に、巨石墳の青ノ山7号墳(消失)を緊急調査した際に、近くの青ノ山南麓の墓地公園入り口付近の事現場で窯跡が発見されました。焼成室が残っている貴重な須恵器窯と分かり、保存整備されました。全長9~10mの無段地下式登り窯(窖窯)で、7世紀以降の窯跡でした。この窯跡は、青ノ山7号墳の被葬者との関連が指摘されています。が、この窯跡で生産された須恵器が、7号墳から出土していないので、この他にも周辺に窯跡があった可能性があります。青野山周辺は「土器」という地名が残るので、土器作りが盛んな地域だったことが推測できます。

須恵器 青野山3
青野山1号窯跡

 ここでひとつの物語を考えて見ます。青野山から宇多津の角山にかけての入江周辺に拠点とした首長は、青野山周辺に良質の粘土が出てくることを知ります。そして粘土採掘地を確保した上で技術者集団を「誘致」して窯を開いたという話になります。これは、後の氏寺建立の際の瓦窯開設の際にも見られるやり方です。どちらにしても、渡来技術者集団が自由に、原料産出地を探して窯を開き、自由に商品を流通させたとは研究者は考えていないようです。窯開設から、生産・製品流通まで、地域首長の支配下にあったとします。
須恵器 窯

 当時は貨幣経済社会ではありませんでした。そのため須恵器を商品として生産し販売して生計をたてることは出来なかったようです。そのため須恵器生産工人たちは、自給自足で農業を営みながら、支配者に隷属してその保護のもとに須恵器生産を行ない、大部分の製品を貢納していたのではないかと研究者は考えています。
寒川の中尾古墳からは、異常に大きな高杯が出てきました。これは地域首長の死に際して、工人たちに特別に作らせたものでしょう。ここに地域首長と須恵器工人の関係が象徴的に現れていると研究者は指摘します。
 こうした状況が変化するのは、T K43型式~T K 209型式が姿を見せ始める6世紀後半頃になります。この時期になると、次のようないくつかの生産地が並立するようになります。

須恵器 讃岐7世紀の窯分布図
7世紀の讃岐の窯跡分布図
④丸亀平野北東部の青ノ山1・2号窯跡
⑤丸亀平野北西部の黒藤窯跡
⑥三豊平野北部の瓦谷遺跡
⑦三豊平野南部の奥蓮花1・2号窯跡、高額窯跡、小松尾寺2号窯跡
⑦の三豊平野南部の辻窯跡群の急速な増加傾向が目につきます。
以上をまとめた起きます。
①朝鮮半島から渡来集団によってもたらされた須恵器生産は、いち早く讃岐にももたらされた。
②それは、三豊豊中と、山田郡三郎池周辺であった。そこには、技術者集団をいち早く受けいれることの出来た有職者がいたことがうかがえる。
③豊中は丸部氏、山田郡は秦氏が考えられる。
④その後、しばらくは新たに窯が開かれることはなかったが、6世紀末に窯は讃岐全体に拡大分布するようになり、窯の数も増える。
⑤その背景には、有力農民層の台頭があり、彼らが須恵器を日用品として使用し始めたことや、群集墳の副葬品として大量消費したことが考えられる。
⑥こうして、巨大横穴式石室があるエリアには、須恵器窯がセットで存在するという景色が見えるようになる。
⑦これは律令時代になると「一郡一窯」と云われる状況を作り出す。
⑧その中でも、三豊の2つの生産活動は、他のエリアを凌駕するものがあった。
次回は、7世紀初頭段階において、三豊の窯後群がどうして他地域を圧倒していたのかを、見ていきたいと思います。
参考文献
「佐藤竜馬 7世紀讃岐における須恵器生産の展開    埋文センター研究紀要1997年」
「古代の讃岐 第6章 産業の発展 窯業 美巧社1988年」


前回までは円珍(智証大師)を生んだ那珂郡の因支首氏の改姓申請の動きを見てきました。実は、同じ時期に空海の実家である佐伯直氏も改姓申請を行っていました。円珍の母は空海の父田公の妹ともされていて、両家は非常に近い関係にあったようです。今回は因支首氏に先行して行われていた佐伯直氏の改姓運動を見ていこうと思います。テキストは武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」です。
空海の家系や兄弟などを知るうえでの根本史料とされるのが『三代実録』巻五、貞観三年(861)11月11日辛巳条です。
ここには、空海の父・田公につながる佐伯直鈴伎麻呂ら十一名が宿爾の姓を賜わり、本貫を讃岐国多度郡から平安京の左京職に移すことを許されたときの記録が記されています。公的文書なので、もっとも信頼性のある史料とされています。空海の甥たちは、どのようなことを根拠に佐伯直から佐伯宿禰への改姓を政府に申請したのでしょうか。
「貞観三年記録」の全文を十の段落に分けて、見ていきましょう。

①讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿爾の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき.

意訳変換しておくと
①多度郡の佐伯直田公の息子や甥など佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂・魚主、彼らの男の貞持・貞継・葛野、豊雄、豊守、栗氏ら十一名に宿爾の姓が授けられ、本貫が左京職に移されたこと。

ここに登場する空海の弟や甥たちを系図化したものが下図です。
1佐伯家家系
佐伯宿禰の姓を賜わった九名の名があげられています。このなかで他の史料でその実在が裏付けられるのは、空海の弟の鈴伎麻呂と甥の書博士・豊雄のふたりだけのようです。
鈴伎麻呂に付いては、『類飛国史』巻九十九、天長四年(827)正月甲申二十二日)条に、 次のように記されています。
詔(みことの)りして曰(のたま)はく、天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと勅(おほみこと)大命(おほみこと)を衆(もろもろ)聞きたまへと宣(の)る.巡察使の検(けむ)して奏し賜へる国々の郡司等の中に、其の仕へ奉(まつ)れる状(さま)の随(したがう)に勤み誉しみなも、冠位上(あげ)賜ひ治め賜はくと。勅(おほみこと〉天皇(むめら)が大命(おほみこと)を衆(もろちろ)間き食(たま)へと宣(の)る。正六位上高向史公守、美努宿輌清貞、外正六位上久米舎人虎取、賀祐巨真柴、佐伯直鈴伎麿、久米直雄口麿に外従五位下を授く。

この史料は、天長二年(835)8月丁卯(27日)に任命され、同年十二月丁巳(十九日)各国に派遣された巡察使の報告にもとづき、諸国の郡司の中から褒賞すべき者ものに外従五位下を授けたときの記録です。このとき、外正六位上から外従五位下に叙せられた一人に佐伯直鈴伎麿がいます。
   松原弘宣氏は、これについて次のように記します。
この佐伯直鈴伎麻呂は、同姓同名・時期・位階などよりして、多度部の田公の子供である佐伯直鈴伎麻呂とみてあやまりはない。そして、かかる叙位は、少領・主政・主帳が大領を越えてなされたとは考えられないことより、佐伯直鈴伎麻呂が多度部の大領となっていたといえる。

 ここからは、この記録に出てくる佐伯直鈴伎麿は空海の弟と同一人物とし、多度郡の郡司(大領)を務めていたとします。

ここからは、空海に兄弟がいたことが分かります。
一番下の弟・真雅は、当時は天皇の護持僧侶を務めていました。真雅と空海の間には親子ほどの年の開きがあります。そのため異母兄弟だったことが考えられます。
 段落②です
②是より先、正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿爾善男、奏して言さく。

意訳変換しておくと

②この改姓・改居は、空海の甥に当たる書博士・豊雄の申し出をうけた大伴氏本家の当主であった伴宿而善男が、豊雄らにかわって上奏した。

 伴(大伴)善男は、貞観三年(861)8月19日に、左京の人で散位外従五位下伴大田宿爾常雄が伴宿爾の姓を賜わったときにも、上奏の労をとっています。その時も、家記と照合して偽りなきことを証明し、勅許を得ています。その時の記録に記された善男の官位「正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫」は、この当時のものに間違いないようです。ここからは、善男が、伴(大伴)氏の当主として、各方面からの申請に便宜をはかっていたことが裏付けられます。この記述には問題がなく信頼性があるようです。
3段目です
③『書博士正六位下佐伯直豊雄の款に云はく。「先祖大伴健日連公、景行天皇の御世に、倭武命に随いて東国を平定す。功勲世を蓋い、讃岐国を賜わりて以て私宅と為す。

意訳変換しておくと

③書博士の佐伯直豊雄は申請書に次のように記している。先祖の大伴健日連は、景行天皇のときに倭武命にしたがって東国を平定し、その功勲によって讃岐国を賜わり私宅としたこと。

前半の「大伴健日連が日本武尊にしたがって東国を平定したこと」については、『日本書紀』景行天皇四〇年七月戊成(十六日)条に、次のように記されています。
天皇、則ち吉備武彦と大伴武日連とに命(みことおほ)せたまひて、日本武尊に従はじむ。そして同年の条に甲斐の国の酒折宮(さかわれのみや)において、報部(ゆけひのとものを)を以て大伴連の遠祖武日に賜う。

 ここからは、大伴武日連は日本武尊の東国平定に従軍し、甲斐の国で兵士を賜わったと伝えられています。しかし、これを讃岐の佐伯直豊雄が「先祖の大伴健日連」とするのは「問題あり!」です。これは大伴氏の先祖の武勇伝であって、佐伯直の物語ではありません。この辺りに佐伯直の系譜を、大伴氏の系譜に「接ぎ木」しようとする意図が見えてきます。


4段目です
④健日連公の子、健持大連公の子、室屋大連公の第一男、御物宿爾の胤、倭胡連公は允恭天皇の御世に、始めて讃岐国造に任ぜらる。

意訳変換しておくと
④その家系は、健日連から健持大連、室屋大連、その長男の御物宿爾、その末子倭胡連へとつながり、この倭胡連が允恭天皇のとき讃岐国造に任ぜられた。
1佐伯氏
『伴氏系図』
「平彦連」と「伊能直」とのあいだで接がれている
道長の父が田公になっている

佐伯家の家系を具体的に記したところです。健日連から倭胡連にいたる系譜の「健日連― 健持大連 ― 室屋大連 ― 御物宿爾」
の四代は、古代の系譜に関してはある程度信頼できるとみなされている『伴氏系図』『古屋家家譜』とも符合します。健日から御物にいたる四代は、ほぼ信じてよいと研究者は考えています。
5段目です
⑤倭胡連公は、是れ豊男等の別祖なり。孝徳天皇の御世に、国造の号は永く停止に従う。

意訳変換しておくと
倭胡連は豊男らの別祖であること、また孝徳天皇のときに国造の号は停止されたこと。

  前半の倭胡連は豊雄らの別祖であるというのは、きわめてミステリックな記述と研究者は指摘します。なぜなら、みずからの直接の先祖名を記さないで、わざわざ「別祖」と記しているからです。逆に、ここに「貞観三年記録」のからくりを解く鍵がかくされていると研究者は考えているようです。これついては、また別の機会にします。
  後半の孝徳天皇のときに国造の号が停止されたことは、史実とみなしてよいとします。
『日本書紀』巻二十五、大化二年(六四六)正月甲子(一日)条から、国造の号は大化の改新に際して廃止され、新たにおかれた郡司に優先的に任命された、と考えられているからです。それまでは、国造を務めていた名家であるという主張です。

6段目です

⑥同族の玄蕃頭従五位下佐伯宿而真持、正六位上佐伯宿輛正雄等は、既に京兆に貫き、姓に宿爾を賜う。而るに田公の門は、猶未だ預かることを得ず。謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。

意訳変換しておくと

豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっている。これは実恵・道雄の両大師の功績による。しかし、空海の一族であるわれわれ田公一門は、まだ改居・改姓を賜っていない。

第六段の前半は、豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっていることです。
真持の正史に残る記述を並べると次のようになります。
承和四年(837)十月癸丑(23日)左京の人従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持ら姓佐伯宿繭を賜う。
同十三年(846)正月己西(7日)正六位上佐伯宿爾真持に従五位下を授く。
同年(846)七月己西(十日)従五位下佐伯宿爾真持を遠江の介とす。
仁寿三年(853)正月丁未(十六日)従五位下佐伯宿爾真持を山城の介とす。
貞観二年(860)二月十四日乙未 防葛野河使・散位従五位下佐伯宿而真持を玄蕃頭とす
同五年(863)二月十日癸卯 従五位下守玄蕃頭佐伯宿爾真持を大和の介とす。

ここからは確かに、真持は承和四年(837)に長人らと佐伯宿禰の姓を賜わっていることが分かります。また「左京の人」とあるので、これ以前に左京に移貫していたことも分かります。同時に改姓認可されている長人の経歴をみると、前年の承和三年(836)十月己酉(十二日)条に、次のように記されています。

讃岐国の人散位佐伯直真継、同姓長人ら二姻、本居をあらためて左京六条二坊に貫附す。

真持もこのときに長人と一緒に左京に本貫が移されたようです。ちなみに、生活はすでに京で送っていた可能性が高いようです。
  正雄の経歴も正史に出てくるものを見ておきましょう。
嘉祥三年(850)七月乙酉(十日)讃岐国の人大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿爾を賜い、左京職に隷く
貞観八年(866)正月七日甲申 外従五位下大膳大進佐伯宿而正雄に従五位下を授く。
ここからは、正雄は真持よりも13年遅れて宿爾の姓を賜い、左京に移貫していることが分かります。以上から申請書の通り、本家筋の真持・正雄らが田公一門より早く改姓・改居していたことは間違いないようです。
  
第6段の後半は、真持・正雄らの改姓・改居は、実恵・道雄の功績によるとする点です。
実恵の経歴については、この時代の信頼できる史料はないようです。道雄には、『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月己西(八日)条に、次のような卒伝があります。
権少僧都伝燈大法師位道雄卒す。道雄、俗姓は佐伯氏、少して敏悟、智慮人に過ぎたり。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳及び因明を学ぶ。また閣梨空海に従って真言教を受く。(以下略)

道雄の誕生地は記されていませんが、佐伯氏の出身であったこと、空海の下で真言宗を学んだことが分かります。実恵、道雄については、古来より讃岐の佐伯氏出身とされていて、信頼性はあるようです。

 実恵は承和十四年(847)十一月十三日に亡くなっていますので、嘉祥三年(850)の正雄の改姓・改居をサポートすることはできません。これに対して道雄は、仁寿元年(851)六月八日に亡くなっています。正雄の改姓については、支援サポートすることはできる立場にあったようです。
 とすると、真持の改姓・改居は承和三・四年(826・837)のことなので、こちらには東寺長者であった実恵の尽力があったと考えられます。ここからは研究者は次のように考えているようです。
A 実恵は真持一門に近い出自
B 道雄は正雄一門に近い出身
どちらにしても、佐伯道長を戸長とする佐伯一族には、いくつかの家族がいて、本家筋はすでに改姓や本貫地の移動に成功していたことが分かります。この項目は信頼できるようです。

7段目です
⑦是の両法師等は、贈僧正空海大法師の成長する所なり。而して田公は是れ「大」僧正の父なり。

意訳変換しておくと
⑦実恵・道雄の二人は、空海の弟子であり、田公は大僧正空海の父である。

前半の実恵・道雄が空海の弟子であったことは、間違いないので省略します。後半の「田公は空海の父」とするのは、この「貞観三年記録」だけです。

8段目です
⑧今、大僧都伝燈大法師位真雅、幸いに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師に比するに、忽ちに高下を知る。

意訳変換しておくと

⑧空海の弟の大僧都真雅は、東寺長者となっているが、本家筋の実恵・道雄一門に比べると、我々田公一門への扱いは低い。

 真雅が田公一門の出身であることは、彼の卒伝からも明らかです。『三代実録』巻二十五、元慶三年(879)正月二日癸巳の条に、

僧正法印大和尚位真雅卒す。真雅は、俗姓は佐伯宿爾、右京の人なり。贈大僧正空海の弟なり。本姓は佐伯直、讃岐国多度郡の人なり。後に姓宿爾を賜い、改めて京職に貫す。真雅、年甫めて九歳にして、郷を辞して京に入り、兄空海に承事して真言法を受学す。(以下略)

とあって、次のことが分かります。
①もとは佐伯直で讃岐国多度郡に住んでいたこと、
②のちに京職に移貫し佐伯宿爾となったこと、
③空海の実弟であったこと
また、真雅は貞観二年(860)、真済のあとをうけて東寺長者となったばかりでした。この時を待っていたかのように、改姓申請はその翌年に行われています。
 後半の「実恵・道雄一門に比べるとその高下は明らかである」というのは、実恵・道雄一門の佐伯氏の人たちが、すでに佐伯宿爾への改姓と京職への移貫をなしとげていることを指しているようです。この段落も疑わしい点はないようです。

9段目です
⑨豊雄、又彫轟の小芸を以って、学館の末員を恭うす。往時を顧望するに、悲歎すること良に多し。正雄等の例に准いて、特に改姓、改居を蒙らんことを」と。

意訳変換しておくと

③空海の甥・豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、往時をかえみて悲歎することが少なくない。なにとぞ本家の正雄等の例にならって、田公一門にも宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。

書博士・豊雄については、この「貞観三年記録」にしか出てきません。書は、佐伯一門の家の学、または家の技芸として、大切に守り伝えられていたとしておきましょう。
「往時をかえりみるに悲歎することが少なくない」というのは、空海の活躍に想いを馳せてのことなのでしょうか。この言葉には、当時の田公一門の人たちの想いが込められていると研究者は考えているようです。
最後の10段目です
⑩善男等、謹んで家記を検ずるに、事、憑虚にあらずと。之を従す。

意訳変換しておくと
以上の款状の内容について、伴善男らが大伴氏の「家記」と照合した結果、系譜上に偽はなかった。よってこの申請を許可する。

  この記録は、大きく分けると次のように二段落に分けることができるようです。
A 前半の①と②は、佐伯宿禰の姓を賜わった鈴伎麻呂ら十一名の名前とその続柄と、この申請について伴宿爾善男(大伴氏)が関わったこと
B 後半の③から⑩には、書博士豊雄が作成した款状、 つまり官位などを望むときに提出した願書と善男がその内容を大伴氏の「家記」と照合したこと
 「貞観三年記録」の記事の信憑性について、段落ごとに研究者は検討しています。一つ一つの記事は、大伴氏が伝えてきた伝承などにもとづくものがあったとはいえ、ほぼ信頼していいようです。

しかし、研究者にとって疑問残ることもあるようです。
第一は、佐伯連の始祖と考えられる倭胡連から空海の父・田公までのあいだが、すっぽり欠落していることです。
1佐伯氏
大伴氏系図

第二は、大伴氏の系図には、空海の父・田公が「少領」と尻付きに記されていることです。ところが「貞観三年記録」の田公には、官位は記されていません。「選叙令」の郡司条には、次のような郡司の任用規定があります。
凡そ郡司には、性識清廉(しょうしきせいれん)にして、時の務(つとめ)に堪えたらむ者(ひと)を取りて、大領(だいりょう)、少領と為よ。強(こわ)く幹(つよ)く聡敏にして、書計に工(たくみ)ならむ者(ひと)を、主政(しゅしょう)、主帳(しゅちょう)と為よ。其れ大領には外従八位上、少領には外従八位下に叙せよ。〈其れ大領、少領、才用(ざいよう)同じくは、先ず国造(こくぞう)を取れ。)

ここに、少領は郡司の一人であり、その長官である大領につぐ地位であって、位階は外従八位下と規定されています。田公が、もし少領(郡司)であったとすれば、必ず位階を持っていたはずです。しかし、「貞観三年記録」の田公には、位階が記されていません。史料の信憑性からは、「貞観三年記録」が根本史料です。そのため「貞観三年記録」にしたがって、空海の父・田公は無位無官であった、と研究者はみなします。
以上をまとめておくと、次のようになります。
①田公一門の直接の先祖をあげないで、「別祖である」とわざわざ断ってまで中央の名門であった佐伯連(宿禰)に接ぐこと、
②佐伯連の初祖と考えられる倭胡連から田公までの間が、すっぽり欠落していること、
③「貞観三年記録」の倭胡連公までと田公の世代とは、直接繋がらないこと
④倭胡連公のところで系譜が接がれていること
これらの背景について、研究者は次のように考えています。
この改姓申請書は、空海の弟真雅が東寺長者に補任されたのを契機として、佐伯直氏が空海一門であることを背景に、中央への進出を企て申請されたものであること。 つまり「佐伯直氏の改姓・本貫移動 申請計画」なのです。それを有利に進めるために、武門の名家として著名で、かつ佐伯宿爾と同じ先祖をもつ伴宿爾の当主・善男に「家記」との照合と上奏の労を依頼します。さらに、みずからの家系を権威づけるために、大伴連(宿爾)氏の系譜を借用します。それに田公以下の世代を「接ぎ木」したのが「貞観三年記録」の佐伯系譜だったようです。
 そのために大伴氏の系図にみられるように、讃岐国の佐伯直氏ではなく、中央で重要な地位を占めていた佐伯連(宿爾)の祖・倭胡連公をわざわざ「別祖」と断ってまで記し、そこに「接ぎ木」しています。
 讃岐国・佐伯直氏のひと続きの家系のように記されていた系譜は、じつは倭胡連公のあとで、中央の名門・佐伯宿禰氏の系譜に空海の父・田公一門の系譜を繋ぎあわせたものだったと研究者は指摘します。
「是れ豊雄らの別祖なり」以下の歯切れの悪い文章が、この辺の事情を雄弁に物語っているようです。それでは、別の視点から「貞観三年記録」を空海の家系図としてみた場合、信頼できる部分はどこなのでしょうか。
 それは、田公以下の十一名の世代だけは、空海の近親者として信じてよい、と研究者は考えているようです。空海には、郡司として活躍する弟がいたり、中央の書博士になっている甥もいたのです。
 また、『御広伝』『大伴系図』などにみられた伊能から男足にいたる四代の人たち、「伊能直――大人直―根波都―男足―田公」の系譜も、ある程度信頼できるようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」
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円珍系図
『円珍系図』は、次の三つを「接ぎ木」して、つなぎ合わせたものと研究者は考えています。
Aは天皇家の系譜に関する部分、つまり天皇家との関係です。
Bは伊予の和気氏に関する部分、つまり伊予別公系図です。
Cは讃岐の因岐首氏に関する部分
前回はAについて、見てみました。今回はBからCへが、どのように繋がれているのか、そこから何が見えてくるのかを追って行きたいと思います。
   テキストは「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」です。最初に円珍系図(和気系図)の全てを載せておきます。
円珍系図冒頭部
円珍系図冒頭部2
円珍系図5
円珍系図6 忍尾
円珍系図 7 忍尾と身の間
円珍系図8 身
円珍系図9 身のあと
円珍系図3

  円珍系図は、始祖を景行天皇の皇子である武国凝別皇子に求めてたことを前回は見ました。
それでは、Cの讃岐・因支首氏の始祖は誰になるのでしょうか。
貞観九年二月十六日付「讃岐国司解」には、「忍尾 五世孫少初位上身之苗裔」と出てきますので、忍尾を始祖としていたようです。

円珍系図6 忍尾

忍尾という人物は、円珍系図にも出てきます。その注記には、次のように記されています。
「此人従伊予国到来此土 娶因支首長女生」

 この人がはじめて讃岐にやって来て、因支首氏の女性と結婚したというのです。忍尾の子である□思波と次子の与呂豆の人名の左に、「此二人随母負因支首姓」と記されています。忍尾と因支首氏の女性の間に生まれた二人の子供は、母の氏姓である因支首を名乗ったということのようです。
 当時は「通い婚」でしたから母親の実家で育った子どもは、母親の姓を名乗ることはよくあったようです。讃岐や伊予の古代豪族の中にも母の氏姓を称したという例は多く出てきます。これは、系図を「接ぎ木」する場合にもよく用いられる手法です。
讃岐の因支首氏と伊予の和気公は、忍尾で接がれていると研究者は指摘します。
試しに、忍尾以前の人々を辿って行くと、その系図はあいまいなものとなります。それ以前の人々の名前は、二行にわたって記されており、どうも別の所伝によって系図を作った疑いがあると指摘します。
 和迩乃別命を「一」と注記し、以下、左側の行の人名に「二」、「三」、右側の行の人名に「四」、「五」、「六」と円珍自身が番号をつけています。円珍系図が作られた頃には、その順はあいまいになっていたようです。というのは、世代順を示す番号の打ち方に不自然さがあるからです。この部分の系図自体が、はっきりとした世代関係の体裁を示していません。  大倉粂馬氏は、「何の順位を意味するのか判明せぬ」と指摘します。この背景として考えられる事は、前回お話しした「系図作成マニュアルのその2」のノウハウです。つまり、自分の祖先を記録や記憶で辿れるところまでたどったら、あとは別の有力な系図に「接ぎ木」という手法です。
それが今は伝わっていない『伊予別(和気)公系図』かもしれません。接ぎ木された系図には、重要な情報が隠されていると研究者は指摘します。
円珍系図 伊予和気氏の系図整理板
円珍系図の伊予和気氏の部分統合版

忍尾以前の系図には、武国凝別皇子の子・水別命から始まって、神子別命、その弟の黒彦別命の代までは「別命」となっています。ところが、倭子乃別君やその弟の加祢古乃別君の兄弟以下の人名は、すべて「別君」を称しています。ここからは「別」から「君」への推移のあったことが系図に見ることができます。地方豪族が「別」から「君」や「臣」「直」へと称号を変えたことは、稲荷山古墳出土の鉄剣銘文に、次のようにあることによって証明されたようです。

「其児名二己加利獲居。其児名多加披次獲居。其児名多沙鬼獲居。其児名半二比。其児名加差披余。其児名乎獲居臣(直)

「別」から「君」への称号変化が、いつごろ行われたのでしょうか。
「別」が付いている大王を系図で見ておきましょう。
円珍系図 大王系図の別(ワケ)


「別」という称号は、上の系図のように応神から顕宗までの大王につけられています。応神の時代は、4世紀の後半で、顕宗は、5世紀の終わりごろです。そうすると、大王や皇族が「別」(和気)を称していたのはその頃だったことになります。
 熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳から出土した大刀には、次の銘文があります。
「□因下獲囲□図歯大王世」
 
この「図歯大王」は雄略天皇であるとされます。ここからは雄略天皇の時代のころから、ヤマトの王は「別」を捨てて、「大王」と称しはじめたことが分かります。
 「大王」は、「君」のうえに位置する超越的な権力をあらわしている称号です。つまり、この時期にヤマト政権が強大化して、それまでの吉備等との連合政権から突出して強大な権力を手中におさめつつあった時期だとされます。
①ヤマトの王は、「別」から「大王」へと、その称号を変えていった
②地方の豪族が、「別」から「君」へと称号を変えていった
これは、ほぼ同時進行ですすんだようです。つまり、この系図上で別を名前に付けている人物は 4世紀の後半で、顕宗は、5世紀の終わりごろに活躍したと推測できます。
 ところが「別」には隠された意味があります。
「別」は「ワケ」で「和気」なのです。
「別」から「君」へと称号改姓が進む中で、伊予国の別(和気)氏や、備前国の別氏のように、古い称号の「別」を氏の名「和気」としてのこした氏族もあったようです。Bの和気公氏系図に出てくる「別命」から「別君」へと変化する呼称のうち、後者の「別君」の「別」は、氏の名として定着する以前の過渡的な段階の呼称と研究者は考えています。
 ここでは、忍尾以前の伊予の和気公系図に登場する人物は、応神天皇以後の4世紀後半から5世紀末の人たちであることを押さえておきます。
それでは、Cの讃岐の因支首氏の系図は、いつ頃からの人物が記されているのでしょうか。
円珍系図 7 忍尾と身の間

  系図の「評造小山上宮手古別君」の「小山上」が、手がかりとなるようです。「小山上」というのは、大化五年(649)に制定され、天武天皇十四年(685)に廃止されるまであった位階だと研究者は指摘します。評造と「小山上」という位階を持っているので、大化の改新から壬申の乱ころまでに活動した人物と考えることができます。その父である倭子乃別君は、推古朝前後(六世紀末、七世紀初頭)ごろの人であったと推定できます。倭子乃別君の父が、年開古口□かどうか、系図ではわかりません。もしも迩開古口□を、倭子乃別君の父とすれば、だいたいその世代から「別命」の称号が、変ってきていると推し測ることができます。その時代を、六世紀半以前と研究者は考えています。 同じく大化五年(649)に制定され、天武天皇十四年(685)まで存続した位階が「小乙上」です。

円珍系図8 身
円珍系図 「身」の世代の因支首氏系図

「小乙上」の位を持つのが「身」です。その下に「難破長柄朝逹任主帳」とあります。ここからは身という人物が、7世紀後半の白村江から壬申の乱の古代の混乱期の人物であると研究者は指摘します。

因支首氏の系図のポイントになる忍尾別君と「身」について整理しておきましょう。
 このあたりが伊予の和気氏系図と自己の系図(因岐首系図)をつなぐために創作した部分と研究者は考えているようです。ここで両者をつなぐものとして、登場させたのが忍尾別君です。この忍尾別君は「讃岐国司解」の中で、「忍尾五世孫、少初位上身苗裔」とあるように、因支首氏が直接の祖先とした人物でした。つまり、伊予の和気氏と自己(因岐首)をつなぐために、忍尾は伊予の国から讃岐にやってきて、因岐首の女をめとり、その子が母の姓に従って因岐の姓を名乗ったという、「創作・伝承」がつくられたと研究者は考えています。忍尾別君は「別君」とあるので5世紀後半から6世紀の人物と考えられます。
 一方の「身」については、 「小乙上身」とあり、その下に「難破長柄朝逹任主帳」とあります。
「身」は「小乙上」という位階から7世紀後半の人物であることは先ほど見たとおりです。彼は白村江以後の激動期に、難波長柄朝廷に出仕し、主帳に任じられたと系図には記されています。
因支首氏の一族の中では最も活躍した人物のようです。
①  忍尾別君は5世紀末から6世紀の人物で、伊予からやってきた和気氏
② 身は7世紀後半の人物で、天智朝で活躍した人物
そして忍尾から身までは三世代で結ばれています。
  実際はこのような所伝は、因岐首から和気公へ改姓のためのこじつけだったのかもしれないと研究者は考えているようです。
 伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことです。それ以前ではありません。円珍系図がつくられた承和年間(834~48)から見ると約2百年前のことになります。大化以後の両氏の婚姻関係をもとにして、因支首氏は伊予の和気氏との同族化を主張するようになったと研究者は考えているようです。
  系図Cの因支首氏系図については、讃岐因支氏に関した部分で、信用がおけると研究者は考えています。

 活動年代が分かる人物をもう一度『円珍系図』で比較してみましょう。
伊予の和気公の系図部分で「評造小山上宮手古別君」や「伊古乃別君」は、評造や小山上の称号を持つので大化の改新後の人物であることは、先ほど見たとおりです。同時に「身」も孝徳朝(645年- 654年)の人物とされるので、両者は同時代の人物です。
ところが、「評造小山上宮手古別君」や「伊古乃別君」は、はるか前の世代の人物として系図に登場します。これをどう考えればいいのでしょうか?
 このような矛盾は、『和気系図』の作製者が、伊予の和気氏系図と、自己の因岐首系図をつなぐ上で、年代操作の失敗したため研究者は考えています。
両系図をつなぐ上で、この部分を省略して、因支首氏の身以前の世代の人々も省略して、和気氏系図の評造の称号をもつ宮手古別君や意伊古乃別君と、Cの部分で孝徳朝の人物とされる身を同世代の人とすればよかったのかもしれません。しかし。身以前の世代の人々は、因岐首氏の遠祖とされていた人々だったのでしょう。円珍系図』の作製者は、これらの人々を省略することに、ためらいがあったようです。そして、そのまま記したのでしょう。
  以上から円珍系図は、伊予の和気氏系図と讃岐の因支首氏系図を「接ぎ木」した際に、世代にずれができてしまいました。しかし、これを別々のものとして考えれば、Bは伊予別公系図として、Cは讃岐因岐首系図として、それぞれ正当な伝えをもつ立派な系図ともいえると研究者は考えているようです。

以上をまとめておくと
①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成されたものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そこでポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。

佐伯有清氏は、Bの伊予別公系図(和気氏)について次のように結論づけます。
  和気公氏たちが、いずれも景行天皇を始祖とするのは、もちろん歴史的事実であったとは考えられない。和気公氏の祖先は、古くから伊予地域において「別」を称号として勢力をふるっていた地方豪族であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」


           
江戸時代後期になって西讃府史などが編集されるようになると、このデーター集めや村の歴史調査のために庄屋層が動員されたことは以前にお話ししました。そのため丸亀藩では「歴史ブーム」が起きて、寺社仏閣についての歴史や、自分の家についての由緒や歴史を探ろうとする動きが高まります。その中で、数多く作られたのが由緒書きであり系図です。こうして出来上がった寺院の由緒には、次のようなパターンが多いようです。
①行基・空海・法然などによって開祖され一時衰退していたのを
②中世に○○が復興した。故に○○が当寺の中興の祖である
③ところが土佐の長宗我部元親の侵攻で、寺の由緒を伝える寺宝や由来も焼失した。
④江戸時代になって○○によって復興され、いまに至る

全国廻国の高野聖や連歌師の中には、寺の由緒書きを書くのを副職にしていたような人物もいたようで、頼まれればいくつも書いたようです。そのためよく似たパターンになったのかもしれません。
 この由緒作成マニュアルで、依頼した寺院が揃えるのは④以後の資料だけです。これは寺の過去帳を見れば分かります。②は他のお寺の系図や由緒をコピーして挿入することも行われます。そして、①の権威のある高僧に結びつけていきます。つまり、いくつかの歴史の「接ぎ木」が行われているのです。これが、寺院の由来作成方法のひとつのパターンのようです。
 この方法が円珍系図にも見られると研究者は考えているようです。今回は、円珍系図が誰を始祖にしているのか、どのように接がれているのかを見てみることにします。テキストは「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」です。

日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
                     円珍系図(和気家系図)

『円珍系図』は、次の三つの部分から出来ていると研究者は考えています。
Aは天皇家の系譜に関する部分、つまり天皇家との関係です。
Bは伊予の和気氏に関する部分、つまり讃岐にやってくる前の系図 
Cは讃岐の因岐首氏に関する部分
まず、冒頭に出てくるのはCの讃岐因支首氏の系図です。
円珍系図冒頭部
円珍系図の最初の部分です。

階段状に組まれて上から「一」~「五」までの番号が打たれています。これが各世代を表します。一番下が最も若い世代になります、左側下に「広雄」と見えます。これが円珍の俗名です。ここからは円珍には「福雄」という弟がいたことが分かります。父が「四」の「宅成」で、妻は空海の伯母であったとされます。宅成は空海の父である田公と同時代の人物であったことになります。宅成は田公の義理の弟ということになるようです。宅成の弟が宅丸(宅麻呂)で、円珍を比叡山に導いた僧侶仁徳であったことは前回にお話しした通りです。
「三」の道万(道麻呂)が円珍の祖父になります。

  一方「身」から右側に伸びた系譜は何を表すのでしょうか?
  これも貞観九年(867)の「讃岐国司解」の改姓該当者一覧を基にして作られた因支首氏系図と比較してみましょう。

円珍系図2

多度郡の因支首氏一族

ここからは「三」の「国益」は、多度郡の因支首氏だったことが分かります。「円珍系図」には、那珂郡の道万(道麻呂)と同じく国益一人しか名前が挙げられていませんが、「讃岐国司解」を見ると、改姓認可された人たちは、それ以外にも「男綱」「臣足」などの一族がいたことが分かります。
 多度郡や那珂郡の因支首一族は、「身」を自分たちの直接の先祖だと認識していたようです。これが讃岐の多度・那珂郡にいた因支首氏系図の原型で、「身」に伊予の和気氏系図に「接ぎ木」することが系図作成のひとつのポイントになります。

次にでてくるのがAの天皇家の系譜に関する部分、つまり天皇家と因支首氏の関係です。

円珍系図冒頭部2
円珍系図 天皇系図部分

和気公氏の系図には、円珍の自筆書き入れがあります。 上の横書きされた「裏書」の部分です。円珍が何を書いているのか見ておきましょう。これを見ると因支首氏が大王系譜で始祖としたのは、景行天皇の子ども達の世代であったことが分かります。景行天皇には男17の皇子達がいます。その中から誰を選んだのでしょうか。それが分かるのが次の部分です。

円珍系図5
円珍系図  景行天皇の皇子の部分

ここには景行天皇の17人の皇子の名前が並びます。
大碓皇子の名前の上に、「一」と番号をふり、以下「二」、「三」、「四」と「十七」まで、それぞれの皇子の名前の上に番号がつけられています。讃岐に馴染みの深い神櫛皇子が「十」番目、武国凝別皇子が「十二」番目の皇子であることを示しています。これは、円珍が書き入れたようです。
  この中から因支首氏の先祖とされたのは武国凝別皇子でした。
どうして、神櫛王ではないのでしょうか。それは、因支首氏が伊予の和気公の子孫であることを証明するための系図作成だからです。そのためには讃岐と関係の深い神櫛王ではなく、伊予に関係の深い武国凝別皇子である必要があります。別の視点から見ると、伊予の和気公の系図が武国凝別皇子を始祖としていたのでしょう。
 申請に当たって円珍は、武国凝別皇子が景行天皇の何番目の皇子であるかについて、資料を収集し、研究していた痕跡が裏書きからはわかるようです。それを見るためにもう一度、先ほどの円珍系図の景行天皇の部分の「裏書」の部分に返ります。
円珍系図冒頭部2
円珍は右側の裏書に次のように記します。
伊予別公系図。武国王子為第七 以神櫛王子為第十一 
天皇系図 以二神櫛為第九 以武国凝別為第十一
日本紀 以神櫛為第十 武国凝王子為第十二
意訳変換しておくと
①『伊予別公系図』によると武国王子は7番目 神櫛王子は11番目
②『天皇系図』によると、神櫛王は9番目、 武国凝別は11番目
③『日本書紀』によると、神櫛王は第10番目、武国凝王子は第12番目

ここには円珍が『伊予別公系図』、『天皇系図』、「日本紀』などを調べて、神櫛王と武国凝王子が何番目の皇子として記されているかが列記されています。つまり、円珍はこれらの資料を収集し、比較研究していたことが分かります。景行天皇の皇子と皇女の名前を、『古事記』以下の史書と和気公氏(円珍系図)と比較させてみると、次のようになるようです。
円珍系図4

  この表からは、円珍が最終的に依拠したのは『日本書紀』景行天皇条の系譜記事であることが分かります。つまり、この系図の天皇系譜に関する部分は、独自なものがない、日本書紀のコピーであると研究者は考えているようです。この系図の価値は、この部分以外のところにあるようです。

 円珍はそれ以外にも、讃岐の豪族たちの改姓申請に関する資料も手に入れていたようです。
和気公氏の系図の「皇子合廿四柱。男十七女七」という記載の左横に、横書きで「神櫛皇子為第十郎 与讃朝臣解文合也」と円珍が書き込みを入れています。これは
「神櫛王は10番目の皇子だと、讃岐朝臣の解文には書かれている」

ということでしょう。

「讃岐朝臣」とは、いったい何者なのでしょうか?
貞観六年(864)8月に、讃岐寒川郡から京に本貫を移していた讃岐朝臣高作らが和気朝臣の氏姓を賜わりたいと申請した際の解文です。因支首氏の申請の2年前になります。讃岐朝臣氏は、その20年ほど前の承和三年(836)2月に、朝臣の姓をすでに賜わっています。その時の記事が「続日本後期」承和3年3月条に次のように記されています。
外従五位下大判事明法博士讃岐公永直。右少史兼明法博士同姓永成等合廿八因。改公賜朝臣 永直是識岐国寒川郡人。今与山田郡人外従七位上同姓全雄等二姻 改二本居貫二附右京三条二坊 永直等遠祖。景行天皇第十皇子神櫛命也。

  意訳変換しておくと
外従五位下の大判事明法博士である讃岐公永直。その他、少史兼明法博士で同姓の永成等合計廿八名に朝臣と改姓することを認める。永直は讃岐国寒川郡の人で、山田郡人外の従七位上同姓の全雄等などの縁者に、本貫を右京三条二坊に改めることを認める。永直等の先祖は、景行天皇第皇子神櫛命である。

 ここには、はっきりと「永直等遠祖。景行天皇第皇子神櫛命也」とあり神櫛王が10番目の皇子であることが記されています。讃岐公が讃岐朝臣となり、さらに讃岐朝臣氏が和気朝臣の氏姓を申請した際の「讃岐朝臣解文」にも、遠祖は景行天皇の第十皇子の神櫛命であると述べられていたことになります。これを円珍は、見ていたことになります。
智証大師像 圓城寺
 円珍坐像
では、他の一族である「讃岐朝臣解文」を、円珍はどのようにして見ることができたのでしょうか
 それは、太政官の左大史・刑部造真鯨(刑大史)を通じて、写しを手に入れたと研究者は推測します。刑部造真鯨は、円珍も多度郡の因支首氏の姻戚でした。円珍が唐から帰国し、入京する直前に洛北の上出雲寺で円珍を出迎えたり、円珍の公験を表装したりするなど、円珍とは、きわめて親近な間柄にあったようです。真鯨は民部省をも管轄する左弁官局の左大史という職掌柄から、保管されていた文書を写せる立場にあったと研究者は推測します。 円珍自筆の「裏書」を見ると、円珍はこの他にも『伊予別公系図』、『天皇系図』、「日本書紀』などを参照していたことは先に触れた通りです。

ここからは円珍が貞観八年(866)の因支首氏の改姓申請に、強い関心を持ち、系図の最終確認に関わっていたことが分かります。

最後に、伊予の和気公が始祖としていた武国凝別皇子を見ておきましょう。
 武国凝別命は景行天皇の皇子ではなく、豊前の宇佐国造の一族の先祖で応神天皇や息長君の先祖にあたる人物と研究者は考えているようです。子孫には豊前・豊後から伊予に渡って伊余国造・伊予別公(和気)・御村別君や讃岐の讃岐国造・綾県主(綾公)や和気公(別)がいます。そして、鳥トーテムや巨石信仰をもち、鉄関係の鍛冶技術にすぐれていたことから、この神を始祖とする氏族は、渡来系新羅人の流れをひくと指摘する研究者もいます。
 ちなみに、武国凝命の名に見える「凝」(こり)の意味は鉄塊であり、この文字は阿蘇神主家の祖・武凝人命の名にも使われています。 これら氏族は、のちに記紀や『新撰姓氏録』などで古代氏族の系譜が編纂される過程で、本来の系譜が改変され、異なる形で皇室系譜に接合されたようです。  
   
    以上をまとめておくと
①因支首氏は、改姓申請の証拠書類として自らが伊予の和気公につながる系譜を作成した。
②その際に、始祖としたのは伊予始祖の武国凝命皇子であった。
③その際に問題になったのは、武国凝命皇子が景行天皇の何番目の皇子になるかであった。
④この解決のために、円珍は親戚の懇意な官僚に依頼して政府の書類の写しを手に入れていた。
⑤そして、最終的には日本書紀に基づいて12番目の皇子と書き入れて提出した。

円珍自身も一族の改姓申請に関心を持ち、深く関わっていたことがうかがえます。同時に、当時の改姓申請には、ここまでの緻密さが求められるようになっていたことも分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。最後まで
参考文献
    佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」
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 八~九世紀になると讃岐の有力豪族たちは、それまでの姓を捨て自らの新しいアイデンティティーを求め、改姓申請や本貫地の変更申請をおこなうようになります。前回は、その中に、空海の佐伯直氏や円珍の因支首氏もいたことを見たうえで、関係文書から佐伯直氏と因支首氏の比較を行いました。今回は「円珍系図」が、誰によって作成されたのかを見ていこうと思います。 
日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
円珍系図(和気家系図)

 滋賀県の圓城寺には、「円珍系図(和気家系図)」が残っています。承和年間(834~848)のもので29.4×323.3cmの景行天皇から十数代後の円珍までの系図です。全文一筆でかかれていますが、円珍自筆ではないようで、別人に書写させたことが円珍の自筆で注記されています。その上に、円珍自筆の加筆があり、自分の出身氏族について注意を払っていたこと分かります。
 これは竪系図としては、わが国最古のもので、平安時代の系図のスタイルを示す貴重な史料として国宝に指定されています。

最初に因支首氏の改姓申請と円珍の動きを年表で見ておきましょう。
799年 氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出を命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
800年 那珂郡の因支首道麻呂・多度郡人同姓国益らが、前年の本系帳作成の命に従い,伊予和気公と同祖であること明記した系図を作成・提出。しかし、この時には改姓許可されず。
814年 円珍(広雄)讃岐那珂郡金倉郷に誕生。
828年 円珍が叔父の仁徳にともなわれて、最澄の直弟子である義真に入門
834年頃「円珍系図」の原型が作成される?
853年 新羅商人の船で入唐、
859年 円珍が園城寺長吏(別当)に補任され、同寺を伝法灌頂の道場とした。
860年 空海の弟真雅が東寺一長者となる(清和天皇の誕生以来の護持僧)
861年 多度郡の空海の一族佐伯直氏11人が佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡の因支首秋主や多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる
868年 円珍が延暦寺第5代座主となる。
891年 円珍が入寂、享年78歳。
  年表を見れば分かるように、この時期は、佐伯直氏出身の空海と弟の真雅が朝廷からの信頼を得て、大きな影響力を得ていた時代です。そこに、少し遅れて因支首氏出身の円珍が延暦寺座主となって、影響力を持ち始めます。地元では、それにあやかって再度、改姓申請を行おうという機運が高まります。佐伯直氏が佐伯宿禰への改姓に成功すると、それに習って、親族関係にあった因支首氏も佐伯氏の助言などを受けながら、2年後に改姓申請を行ったようです。
 改姓申請で和気氏が主張したのは、七世紀に伊予国から讃岐国に来た忍尾別君(おしおわけのきみ)氏が、讃岐国の因支首氏の女と婚姻して因支首氏となったということです。つまり、因支首氏は、もともとは伊予国の和気氏と同族であり、今まで名乗っていた因支首氏から和気氏への改姓を認めて欲しいというものです。伊予国の和気氏は、七世紀後半に評督などを務めた郡司クラスの有力豪族です。改姓によって和気氏の系譜関係を公認してもらい、自らも和気氏に連なろうと因支首氏は試みます。この系図は讃岐国の因支首氏が伊予国の和気氏と同族である証拠書類として作成・提出されたものの控えになるようです。ところが800年の申請の折には、改姓許可は下りませんでした。
寒川郡の讃岐国造であった讃岐公氏が讃岐朝臣氏に改姓が認められ、円珍の叔父に当たる空海の佐伯直氏が佐伯宿祢氏に改姓されていくのを見ながら、因支首氏(いなぎのおびと)の一族は次の申請機会を待ちます。そして、2世代後の866年に、円珍の「立身出世」を背景にようやく改姓が認められ、晴れて和気公氏を名乗ることができたのです。 改姓に至るまで半世紀かかったことになります。

まず円珍系図の「下」から見ていきましょう。
円珍系図3


系図の下というのは、一番新しい世代になります。
一番下の右に記される「子得度也僧円珍」とあります。これが円珍です。この系図からは「祖父道万(麻)呂 ー 父宅成 ー 円珍(広雄)」という直系関係が分かります。
天長十年(833)3月25日付の「円珍度牒」(園城寺文書)にも、次のように記されています。
沙弥円珍年十九 讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成戸口同姓広雄
  ここからは、次のようなことが分かります。
①円珍の本貫が 那珂郡金倉郷であったこと
②戸籍筆頭者が宅成であったこと
③俗名が広雄であったこと
これは、円珍系図とも整合します。ここからは円珍の本貫が、那珂郡金倉郷(香川県善通寺市金蔵寺町一帯)にあったことが分かります。現在の金倉寺は因支首氏(和気公)の居館跡に立てられたという伝承を裏付け、信憑性を持たせる史料です。

さて今日の本題に入って行きましょう。系図の制作者についてです。
円珍系図冒頭部

系図冒頭には、次のような円珍自筆の書き込みが本体の冒頭にあります。上図の一番下の横になっている一文です。実はこれをどう読むかが、制作者決定のポイントになります。

  □系図〔抹消〕天長乗承和初従  家□□於円珍所。

戦前に大倉粂馬氏は、「家」の次の不明の文字を、「丸」と判読し、この部分を人名の「家丸」とみなしました。そして、家丸は、円珍の叔父にあたる宅丸(宅麻呂、法名仁徳)のことします。宅丸(仁徳)が承和の初めに円珍を訪ねて、記憶をたどってこの系図を書き足したものであると推察しました。つまり、大倉氏は、この系図は承和年間に円珍が叔父の宅丸(宅麻呂)とともに編述したものと考えたのです。

「家」の下の不明の字を「丸」と判読し、欠損している部分を以上のように解釈することの判断は留保するにしても、この系図が、円珍の世代で終っていること、その次の世代がないことから、この系図は、承和の初め(834年ごろ)に書かれたものと研究者は考えています。

戦後になって研究者があらためて、系図の「得度僧仁徳」「得度也僧円珍」のところを、調べて次のように報告しています。
①「得度」の二字の下に薄く「宅麻呂」と書かれているように見える
②「得度也僧円珍」のところの「得度」の二字の下にも、薄く字がみえ、「広雄」と読める
   「仁徳=宅麻呂」で、仁徳は円珍の叔父に当たります。そして「円珍=広雄」です。
 以上から大倉粂馬氏は、この系図の筆者は仁徳(宅麻呂)だったと推測します。その理由は、自分が系図の作者なので「得度僧仁徳」と記して、本名を省略したのではないかというのです。そして、これが通説となっていたようです。

しかし、これには疑問が残ります。「得度僧仁徳」の下に、もと宅麻呂(宅丸)の名前が書いてあったことが分かってきたからです。それなら地元の那珂郡で作成された系図が、宅麻呂や円珍の手元に届いた時に、仁徳が俗名を消して、得度名を書き入れたと考える方が合理的です。

もう一度「円珍系図」の冒頭文「……承和初従  家□□於円珍所」にもどります。
佐伯有清氏は、「家」の字の上に「開字」があることに注意して読みます。この「家」の箇所は、円珍が敬意を表するために一字分あけたのであると推測します。そうだとすると「家」の字から判断すると、「家君」、あるいは「家公」など、それに類する文字が書かれてあった可能性が強いことになります。そうすると、この意味は次のようにとれます。
「この系図は、承和の初めに家君(父)より、円珍の所に送ってきたものである」

  つまり、円珍系図は、地元の那珂郡で作られたものを円珍の父宅成が送ってきたことになります。これは仁徳(宅麻呂)や円珍は、この系図の作成には、関与していないという説になります。

そういう視点で見ると、改姓を認められた者は、那珂郡と多度郡の因支首氏のうちの45名に及びますが、円珍系図には那珂郡の一族しか記されていません。多度郡の因支首氏については、一人も記されていません。これをどう考えればいいのでしょうか。
円珍系図2
多度郡の改姓者は、円珍系図にはひとりも書かれていない

 ここからは、この系図を書いた人にとって、多度郡の因支首一族は縁遠くなって、一族意識がもてなくなっていたことがうかがえます。同時に、円珍系図を書いた人は那珂郡の因支首氏であった可能性が強まります。

それでは那珂郡の因支首一族で、改名申請に最も熱心に取り組んでいたのは誰なのでしょうか。
円珍系図 那珂郡

それが因支首秋主になるようです。
 貞観9(879)年2月16日付の「讃岐国司解」の申請者筆頭に名前があることからもうかがえます。那珂郡の秋主からすれば、多度郡の国益や男綱(男縄)、そして臣足らは、血縁的にかなり掛け離れた人物になります。その子孫とも疎遠になっていたのかもしれません。そのために多度郡の一族については、系図に入れなかったと研究者は推測します。そういう目で多度郡と那珂郡の系図を比べて見ると、名前の書き落としがあったり、間柄がちがっている点が多いのは多度郡方だと研究者は指摘します。現在では、この円珍系図は地元の那珂郡の因支首一族のもとで作られたと考える研究者が多いようです。

  以上をまとめておくと
①因支首氏の改姓申請の際の証拠資料として、因支首氏は伊予の和気公と同族であることを証明する系図が制作された。
②この系図は申請時に政府に提出されたが、写しが因支首氏一族の円珍の手元に届き、圓城寺に残った。
③この系図の制作者としては、円珍の叔父で得度していた仁徳とされてきた。
④しかし、地元の那珂郡の因支首氏によって制作されたものが、円珍の父から送られてきたという説が出されている。
⑤どちらにしても、空海の佐伯直氏と、円珍の因支首氏が同じ時期に改姓申請を行っていた。
⑥古代豪族にとって改姓は重要な意味があり、自分の先祖をどの英雄や守護神に結びつけるかという考証的な作業をも伴うものであった。
⑦その作業を経て作られた因支首氏の系図の写しは、圓城寺で国宝として保管されている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」
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智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍(智証大師) 金倉寺蔵  

円珍(智証大師)は讃岐国の那珂郡と多度郡に分布していた因支首(いなぎのおびと)氏の出身です。因支首氏は改姓を許され後には、和気公を名乗るようになります。その系図が、『円珍系図(和気公系図)』と呼ばれている和気公氏の系図になります。この系図は、円珍の手もとにあったもので、それには円珍の書き入れもされて圓城寺に残りました。そのため『円珍俗姓系図』とも『大師御系図』とも呼ばれます。家系図ではもっとも古いものの一つで、国宝に指定されています。
日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
円珍系図
 この系図には讃岐古代史を考える上では多くの情報が含まれています。この円珍系図について詳しく述べているのが佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」です。この本も私の師匠から「これくらいは読んどかんといかんわな」と云われて、いただいたままで「積読(つんどく)」状態になっていたものです。これを引っ張り出して見ていくことにします。 今回は、改姓申請に関わって発行された文書を中心に、因支首氏(後の和気公)のことを見ていきます。

 菅原道真が讃岐守としてやってくる20年前の貞観八年(866)10月27日のことです。
那珂郡の人である因支首秋主・道麻呂・宅主らと、多度郡の因支首純雄・国益・臣足・男綱・文武・陶道ら九人は、和気公の氏姓を賜わります。この記事が載っている『三代実録』には、賜姓された人名につづけて、「其先 武国凝別皇子之苗裔也」とだけしか記されていません。ここからは秋主らが、どんな理由で氏姓を改めることを申請したのかは分かりません。ところが、因支首氏の改姓関わる文書が、もうひとつ伝えられています。
それが貞観九年(867)二月十六日付に、 当時の讃岐国司であった藤原有年が 「讃岐国戸籍帳」1巻の見返し(表紙裏)に記したものです。
讃岐国司解
有年申文
有年申文」です。国司の介(次官)である藤原有年が草仮名で事情を説明した申文です。
讃岐国司解3


この申文は「讃岐国司解」という解文の前に添えられています。
内容的には次のような意味になるようです。

「因支首氏の改姓人名禄の提出について、これはどのようにしたらよいか、官に申しあげよう。ご覧になられる程度と思う。そもそも刑大史の言葉によって下付することにしたので、出し賜うことにする。問題はないであろう」

「讃岐国司解」には「讃岐国印」が押されていて、まぎれもなく正式の文書です。因支首氏のうち和気公氏へと改姓した人物の名前を報告する文書であるこの「讃岐国司解」は、讃岐守の進言にしたがって太政官に提出されなかったようです。

讃岐国司解2
讃岐国司解

讃岐国司解には、賜姓請願のいきさつだけでなく、因支首から和気公に改氏姓したのは、上記の九名の者にとどまらず、那珂郡の因支首道麻呂・宅主・金布の三姻と、多度郡の因支首国益・男綱・臣足の三姻のあわせて六親族であったことも記されています。この讃岐国司解に記されている人名と続柄とによって、研究者が作成した系図を見てみましょう。
  円珍系図 那珂郡
那珂郡の因支首氏
円珍系図2
 多度郡の因支首氏

この系図の中にみえる人名で、傍線を引いた7名は  『三代実録』貞観八年十月二十七日戊成条の賜姓記事に記されている人々です。確認しておくと
(一)の那珂郡の親族には、道麻呂・宅主・秋主
(二)の多度郡の親族では国益・男綱・臣足・純男
しかし国司が中央に送った「讃岐国司解」には、那珂郡では
道麻呂の親族8名、
道麻呂の弟である宅主の親族6名、
それに子がいないという金布の親族1名、
多度郡では
国益の親族17名、
国益の弟である男綱の親族5名
国益の従父弟である臣足の親族6名、
あわせて43名に賜姓がおよんでいます。
 ここからは、一族意識を持った因首氏が那珂郡に3軒、多度郡に3軒いたことが分かります。因支首氏は、金蔵寺を創建した氏族とされ、現在の金蔵寺付近に拠点があったとされます。この周辺からは稲城北遺跡のように正倉を伴う郡衙に準ずる遺跡も出てきています。金蔵寺周辺から永井・稲城北にかけての那珂郡や多度郡北部に勢力を持つ有力者であったとされています。
 また、円珍家系図の中に記された父宅成は、善通寺を拠点とする佐伯氏から妻を娶っていたとも云われます。因首氏と佐伯氏は姻戚関係にあったようです。そのため因首氏は、郡司としての佐伯氏を助けながら勢力の拡大を図ったと各町誌などには書かれています。その因首氏の実態がうかがい知れる根本史料になります。

「讃岐国司解」には改姓者の人数が、43名も記されているのに、どうして『三代実録』には9名しかいないのでしょうか。
大倉粂馬氏は、「讃岐国解文の研究」と題する論文で、この疑問について次のような解釈を示しています。
「貞観八年十月発表せられたる賜姓の人名と翌九年二月の国解人名録とが合致せざるは何故なりや」

そして、次のような答えを出しています。

太政官では、遠くさかのぼって大同二年(807)の改姓請願書を採用し、これに現在戸主である秋主、および純雄の両名を加えて賜姓を行なったものであろう。また賜姓者九名のうちの文武・陶道の両名は、貞観年間に、おそらく死亡絶家となっていたものであろう。大同年間、国益・道麻呂の時に申告したものであったので、そのまま賜姓にあずかったものと認めてよいであろう

 ここでは二つの史料の間に時間的格差ができて、その間に「死亡絶家」になった家や、新たに生まれた人物が出てきたので食い違いが生じたとします。納得の出来る説明です。
それでは、正史に記載されている賜姓記事の人数と、実際の賜姓者の数が大きく増えていることをどう考えればいいのでしょうか?
改氏姓を認可する「太政官符」には、戸主だけの人名だけした記されていなかったようです。
賜姓にあずかるすべての人々、すなわちその戸の家族全員の人名は列記されていなかったことが他の史料から分かってきました。
改姓申請の手続きは次のように行われたと研究者は考えているようです。
①多度郡の秋生がとりまとめて、一族の戸主の連名で、郡司・国司に申請した。
②申請が受理されると中央政府からの「太政官符」をうけた「民部省符」が、国府に届く
③国司は、改氏姓の認可が下ったことを、多度・那珂郡の郡司を通して、各因支首氏の戸主たちに伝達する。
④同時に、郡司は改氏姓に該当する戸口全員の人名を府中の国府に報告する。
⑤それににもとづいて国府は記録し、太政官に申告する
こう考えると『三代実録』の賜姓記事にみえる人名と、「讃岐国司解」の改姓者歴名に記載されている人名との食い違いについての疑問は解けます。
 『三代実録』の賜姓記事にあげられている那珂郡の秋主・道麿(道麻呂)・宅主の三名と、多度郡の純雄・国益・臣足・男縄・文武・陶道の六名は、それぞれの因支首一族の戸主だったのです。
「讃岐国司解」の改姓者歴名の記載にもとづいて研究者が作成した系図をもう一度見てみましょう。
円珍系図2

道麻呂(道麿)・宅主・国益・男綱(男縄)・臣足は、それぞれの親族の筆頭にあげられています。
円珍系図 那珂郡

那珂郡の秋主は、円珍の祖父道麻呂と親属関係にあり、また多度郡の純雄(純男)は、国益の孫になります。秋主や純雄(純男)が、因支首から和気公への改氏姓を請願した人物だと研究者は考えているようです。また、申請時の貞観当時の戸主であったので『三代実録』の賜姓記事には、それぞれの郡の筆頭にあげられているようです。

「讃岐国司解」は、四十三名の改氏姓者の人名を掲げたうえで、次のようなことを書き加えています。
右被民部省去貞観八年十一月四日符称。太政官去十月廿七日符称。得彼国解称。管那珂多度郡司解状称。秋主等解状称。謹案太政官去大同二年二月廿三日符称。右大臣宣。奉勅。諸氏雑姓概多錯謬。或宗異姓同。本源難弁。或嫌賤仮貴。枝派無別。此雨不正。豊称実録撰定之後何更刊改。宜下検故記。請改姓輩。限今年内任令中申畢上者。諸国承知。依宣行之者。国依符旨下知諸郡愛祖父国益。道麻呂等。検拠実録進下本系帳。丼請改姓状蜘復案旧跡。
 依太政官延暦十八年十二月十九日符旨。共伊予別公等。具注下為同宗之由抑即十九年七月十日進上之実。而報符未下。祖耶己没。秋主等幸荷継絶之恩勅。久悲素情之未允。加以因支両字。義理無憑。別公本姓亦渉忌諄当今聖明照臨。昆虫需恩。望請。幸被言上忍尾五世孫少初位上身之苗裔在此部者。皆拠元祖所封郡名。賜和気公姓。将始栄千後代者。郡司引検旧記所申有道。働請国裁者。国司覆審。所陳不虚。謹請官裁者。右大臣宣。奉勅。依請者。省宜承知。依宣行者。国宜承知。依件行之者。具録下千預二改姓・之人等爽名い言上如件。謹解。
意訳変換しておくと
右の通り民部省が貞観八年十一月四日に発行した符。太政官が十月廿七日の符。讃岐国府発行の解。管轄する那珂多度郡司の状。秋主等なの解状について。太政官大同二年二月廿三日符には、右大臣が奉勅し次のように記されている。
 さまざまな諸氏の雑姓が多く錯謬し。異姓も多く本源を判断するのは困難である。或いは、賤を嫌い貴を尊び、系譜の枝派は分別なく、不正も行われるようになった。実録撰定後に、何度も改訂を行ったが、改姓を申請する者が絶えない。そこで今回に限り、今年内に申請を行った者については受け付けることを諸国に通知した。その通知を受けて諸郡に通達したところ、祖父国益・道麻呂等が実録の本系帳に基づいて、改姓申請書を提出してきた。
 太政官延暦十八年十二月十九日符の趣旨に従って、伊予別公などと因支首氏は同宗であると、同十九年七月十日に申請してきた。しかし、これは認められなかった。
 申請した祖父が亡くなり、孫の秋主の世代になっても改姓が認められなかったことは、未だに悲しみに絶えられない。別公(和気公)の本姓を名乗ることを切に願う。「昆虫」すら天皇の「霧恩」を願っている。忍尾の五世孫の子孫たちで、この土地に居住する者は、みな始祖が封じられた郡名、すなわち伊予国の和気郡の地名によって和気公の氏姓を賜わるように請願する。
 このように申請された書状は、郡司が引検し、国司が審査し、推敲訂正し、謹んで中央に送られ、右大臣が奉勅した。ここにおいて申請書は認可され、改姓が成就することなった。
 引用された「太政官符」によると、改姓を希望する者は、大同二年内に申請するように命じられていたことが分かります。この命令が出されたのは、延暦18年(799)12月29日です。そこで本系帳を提出させることを命じてから『新撰姓氏録』として京畿内の諸氏族だけの本系帳が集成されるまでの過程で、改氏姓のために生じる混乱や、煩雑さをさけるためにとられた措置であったと研究者は考えています。
 因支首氏は、「讃岐国司解」に記されているように、延暦18年12月29日の本系帳提出の命令にしたがって、翌年の延暦19年8月10日に、本系帳を提出します。さらに大同2年2月23日の改姓に関する太政官の命令にもとづいて、秋主の祖父宅主の兄である道麻呂、および純雄(純男)の祖父である国益らが、本系帳とともに改姓申請を行います。ところが、この時の道麻呂らの改姓申請に対する認可は下りなかったようです。
そこで60年後に孫の世代になる秋主らが再度申請します。
「久悲二素情之未フ允」しみ、「昆虫」すら天皇の「霧恩」っていることを、切々と訴えます。そして「忍尾五世孫少初位上身之苗裔」で、この土地に居住する者は、みな始祖が封じられた郡名、すなわち伊予国の和気郡の地名によって和気公の氏姓を賜わるように請願したのです。
 秋主らが改氏姓の申請をしたのは、貞観七年(865)頃ころだったようです。こうして貞観八年(866)10月27日に、秋主らへの改氏姓認可が下ります。祖父世代の道麻呂らが改氏姓の申請をしてから数えると60年近い歳月が経っていたことになります。

実はこれに先駆ける4年前に、空海の一族である佐伯直氏も改姓と本貫移動をを申請しています
 その時の記録が『日本三代実録』貞観三年(861)11月11日辛巳条で、「貞観三年記録」と呼ばれている史料です。ここからは、佐伯直氏の成功を参考に、助言などを得ながら改姓申請が行われたことが考えれます。

以前にもお話ししたように、この時期は讃岐でもかつての国造の流れを汲む郡司達の改姓・本貫変更が目白押しでした。その背景としては、当時の地方貴族を取り巻く状況悪化が指摘できます。律令体制の行き詰まりが進み、郡司などの地方貴族の中間搾取マージンが先細りしていきます。代わって、あらたに新興有力層が台頭し、郡司などの徴税業務は困難になるばかりです。そういう中で、将来に不安を感じた地方貴族の中には、改姓や本貫移動によって、京に出て中央貴族に成ろうとする者が増えます。そのために経済力を高め。売官などで官位を高めるための努力を重ねています。佐伯家も、空海やその弟真雅が中央で活躍したのを梃子にして、甥の佐伯直鈴伎麻呂ら11名が佐伯宿禰の姓をたまわり、本籍地を讃岐国から都に移すことを許されます。その時の申請記録が「貞観三年記録」です。ここにはどんなことが書かれているのか見ておきましょう。
 「貞観三年記録」の前半には、本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを許された空海の身内十一人の名前とその続き柄が、次のように記されています。
 讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位上佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿禰の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき。

ここに名前のみられる人物を系譜化したものが下の系図です。
1空海系図2
空海系図

 これを因支首氏と比較してすぐ気がつくのは、佐伯氏の場合には空海の世代からは、位階をみんな持っていることです。しかも地方の有力者としては、異例の五位や六位が目白押しです。加えて、空海の身内は、佐伯直氏の本家ではなく傍系です。
 一方、因支首氏には官位が記されていません。政府の正式文書に官位が記されていないと云うことは官位を記することが出来なかった、すなわち「無冠」であったことになります。無冠では、官職を得ることは出来ません。因支首氏は、郡司をだせる家柄ではなかったようです。
また、佐伯直氏の場合は、改姓と共に平安京に本貫を移すことが許されています。
つまり、晴れて中央貴族の仲間入りを果たしたことになります。それ以前から佐伯直氏一族の中には、中央官僚として活躍していたものもいたようです。この背景には「売官制度」もあったのでしょうが、それだけの経済力を佐伯直氏は併せて持っていたことがうかがえます。 
 一方、それに比べて、因支首氏の場合は和気氏への改姓許可のみで京への本貫移動については何も触れられていません。本貫が移されることはなかったようです。
 佐伯直氏と因支首氏(和気)の氏寺の比較を行っておきましょう。
  佐伯氏は白鳳時代に、南海道が伸びてくる前に仲村廃寺建立しています。そして、南海道とともに条里制が施行されると、新たな氏寺を条里制に沿った形で建立します。その大きさは条里制の四坊を合わせた境内の広さです。この規模の古代寺院は讃岐では、国分寺以外にはありません。突出した経済力を佐伯直氏が持っていたことを示します。

IMG_3923
金倉寺

  一方因支首氏の氏寺とされるのが金倉寺です。
  この寺は、円珍の祖父である和気通善が、宝亀五年(774)に、自分の居宅に開いたので通善寺と呼んだという伝承があります。これは善通寺が善通寺と呼ばれたのと同じパターンです。これは近世になってからの所説です。先ほど系図で見たように、円珍の祖父は道麻呂です。また、この寺からは古代瓦などは、見つかっていないようです。
因支首氏から和気公へ改姓申請が受理された当時の因支首一族の状況をまとめておくと
①全員が位階を持っていない。因支首氏は郡司を出していた家柄ではない。
②改姓のみで本貫は移されていない
③因支首氏は古代寺院を建立した形跡がない。
  ここからは、因支首氏が古代寺院を自力で建立できるまでの一族ではなかったこと、旧国造や郡司の家柄でもなかったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」
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生野本町遺跡           
生野本町遺跡(善通寺氏生野町 旧善通寺西高校グランド)

 多度郡の郡衙跡の有力候補が生野本町遺跡です。この遺跡は善通寺西高校グランド整備のための発掘調査されました。調査報告書をまとめると次のようになります。
①一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。
②遺跡の存続期間は7世紀後葉~9世紀前葉
③中心域の西辺に南北棟が2棟、北辺に東西棟が3棟の大型掘立柱建物跡
④中心の微髙地の一番高いところに郡庁設置?
ここからは条里制に沿って大型建物が計画性を持って配置されていることや、正倉と思われる倉が出てきています。「倉が出てきたら郡衛と思え!」がセオリーのようなので、ここが多度郡の郡衛跡と研究者は考えています。また、条里制に沿って建物群が配置されているので、南海道や条里制とほぼ同じ時期に作られたようです。

稲木北遺跡 条里制
下側の太線が南海道 多度郡衙はそれに面した位置にある

この郡衛の建設者として考えられるのは、空海を生んだ佐伯直氏です。

佐伯直氏は、城山城の築城や南海道・条里制施行工事に関わりながら国造から郡司へとスムーズにスライドして勢力を伸ばしてきたようです。そして、白鳳時代の早い時期に氏寺を建立します。それが仲村廃寺で、条里制施工前のことです。しかし、南海道が伸びて条里制が施行されると、この方向性に合う形でさらに大きな境内を持った善通寺を建立します。つまり、二つの氏寺を連続して建てています。

四国学院側 条里6条と7条ライン

四国学院内を通過する南海道跡(推定)の南側

 同時に、多度郡司の政治的な拠点として、新たな郡衛の建設に着手します。それが生野本町遺跡になるようです。そういう意味では、佐伯直氏にとって、この郡衛は支配拠点として、善通寺は宗教的モニュメントして郡司に相応しいシンボル的建築物であったと考えられます。
 今回は、この郡衙て展開された律令時代の地方政治の動きを、中央政府との関係で見ていこうと思います。テキストは「 坂上康俊   律令国家の転換と日本  講談社」です。

 地方における郡司の立場を見ておきましょう。
   律令国家は、かつての国造を郡司に置き換えます。そして、国造の朝廷への服属儀礼の大部分を郡司に引き継がせることで、スムーズに律令体制へと移行させました。律令下では、佐伯直氏のような郡司クラスの地域の有力者は、これまでのように勝手に人々を自らの支配下に置いたり、勢力を拡大したりすることはできなくなります。
 その一方で、多度郡司というポストを手に入れます。郡司からすれば国司の言うことさえきいておけば、後は中間で利益を挙げることができました。地方有力者にとって郡司は、「おいしいポスト」であったようです。郡司にとっての律令体制とは、「公地公民」の原則の下に自分の権益が失われたと嘆くばかりのものではなかったことを押さえておきます。 

考古学の成果からは、9世紀から10世紀にかけては、古代の集落史において、かな劇的な変化があった時代であったことが明らかにされています。
古代集落変遷1
信濃の古代集落存続期間
上の信濃の古代集落の存続期間を見ると、次のようなことが分かります。
①古墳時代から継続している村落。
②7世紀に新たに出現した集落
③集落の多くが9世紀末に一時的に廃絶したこと。
 ①の集落も8世紀末には一旦は廃絶した所が多いようです。近畿の集落存続表からも同じような傾向が見られるようです。ここからは6世紀末から7世紀初頭にかけてが集落の再編期で、古墳時代からの集落もこのころにいったん途切れることがうかがえます。これをどう考えればいいのでしょうか。
いろいろな理由があるでしょうが、一つの要因として考えられるのは条里制です。条里制が新たに行われることによって、新しい集落が計画的に作られたと研究者は考えているようです。

それでは、9世紀から10世紀にかけて、それまでの集落の大半が消滅してしまうのはどうしてなのでしょうか。これは、逆に言えば、中世に続くような集落の多くは、若干の空白期間をおいて平安時代後期(11世紀)になって、新しく作られ始めたことになります。この時期は、ちょうど荘園公領制という新しい制度が形成される時期にあたります。このことと集落の再興・新展開とは表裏の関係にあると研究者は考えています。
 つまり、条里制という人為的土地制度が7世紀に古代集落を作り出し、律令制の解体と共に、古代の集落も姿を消したという話です。また上の表から分かるように、古墳時代から続いてきた集落も、十世紀にはいったん途絶えるとようです。ここから西日本では、平安時代のごく初期に、集落の景観が一変したことがうかがえます。

稲木北遺跡 三次郡衙2

それでは各地の郡衙が存続した期間を見ておきましょう。
郡衙というのは、郡司が政務を執ったり儀式を行うところである郡庁と、それに付属する館・厨家・正倉・工房などからなる郡行政の中心的な施設です。
郡衙遺跡変遷表1

上表からは次のようなことが分かります。
①7世紀初頭前後に、各地の郡衙は姿を現す
②早い所では、8世紀前半には郡衙は姿を消す。
③残った郡衙も10世紀代になるとほとんどの郡衛遺跡で遺構の存続が確認できない。
ここからは、郡衙は律令制が始まって百年後には、衰退・消滅が始まり、2百年後には姿を消していたことが分かります。9世紀後半から10世紀にかけて、それまで律令国家の地方支配の拠点であった郡衛が機能しなくなっていたようです。こうして、郡司制度に大きな改変が加えられます。その結果が、郡衛(郡家)の衰退・消滅のようです。
ちなみに、多度郡衙候補の生野本町遺跡の存続期間も7世紀後葉~9世紀前葉でした。空海の晩年には、多度郡衙は機能停止状況に追い込まれ、姿を消していたようです。
稲木北遺跡 三次郡衙
 三次郡衙(広島県三次市) 正倉が整然と並んでいる

郡衙の衰退で、まずみられるのが正倉が消えていくことです。
  さきほど「倉が並んで出てくれば郡衛跡」と云いましたが、その理由から見ておきましょう。律令体制当初は、中央に収める調以外に、農民が納入した租や使う当てのない公出挙(くすいこ)の利稲(りとう)は、保存に適するように穀(稲穂)からはずされた籾殻つきの稲粒にされて、郡衙の倉に入れられました。多度郡全域から運ばれてきた籾で満杯になった正倉には鍵をかけられます。この鍵は中央政府に召し上げられ、天皇の管理下に置かれてしまい、国司でさえも不動穀を使用するには、いちいち天皇の許可が必要でした。そのため倉は不動倉、中の稲穀は不動穀と呼ばれることになります。こうして郡衙には、何棟もの正倉が立ち並ぶことになります。
 不動倉(正倉)を設ける名目は、いざという時のためです。そもそも神に捧げた初穂である租を大量にふくんでいますのですから、おいそれと使ってはならないというのが、最初のタテマエだったようです。ところが、その不動穀が流用され、中央政府に吸い上げられるようになります。不動穀流用の早い例としては、東国の穀を蝦夷征討の軍糧に流用したものがあります。それが恒常化していくのです。
 現実はともかく郡衙には正倉と呼ばれる倉があって
「あそこに貯えられていますお米は、おじいさん、おばあさん、そのまた先の御先祖様達が、少しずつ神様にお供えしてきたもので、私たちが飢饉にあったら、天子様が鍵を開けてみんなに分けて下さるのですよ」

というのが理念だったようです。
 ある意味では、立ち並ぶ正倉は律令支配を正当化するシンボル的な建築物であったのかもしれません。生野本町遺跡だけでなく多度郡には稲木北遺跡からも複数の倉跡が出てきています。また、飯野山の南側を走る南海道に隣接する岸の上遺跡からも倉跡が出てきました。これらも郡衙か準郡衙的な施設と研究者は考えているようです。

 研究者が注目するのは、この正倉の消滅です。
本稲を貯めておく所が正倉でした。しかし、8世紀後半になると設置目的が忘れられ、徴税されたものは、さっさと中央に吸い取られてしまうと倉庫群は必要なくなります。そればかりではありません。郡庁は、郡司が政務を執り、新任国司や定期的に巡行してくる国司を迎えるなど、儀式の場としても機能していた建物でした。これが消えます。この背景には、郡司の権威の哀退があったようです。
 8世紀に設置された時の郡司には、かつての国造の後裔が任じられて、権威のある場所であり建物でした。それがこの間に郡司のポストの持つ重要性は、大きく低下したことを示しています。古代集落と郡衙の消滅という現象も、律令体制の解体と関わりがあったと研究者は考えています。

受領国司

その変化を生み出したのが受領国司の登場のようです。
菅原道真が讃岐から帰った後の10世紀になると、政府は税制の大転換に踏み切ります。 従来の人頭税(じんとうぜい)をやめて、官物・臨時雑役(ぞうやく)という土地税を徴収することにします。そして、この徴収は、これまでの郡司にかわって、国司が請け負うことになります。その見返りとして、政府は国司に任国の統治を一任することにします。「税を徴収して、ちゃんと政府に納めてくれるなら、あとは好きにしてよろしい!ということです。その結果、受領国司は実入りのいいオイシイ職業となり、成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)が繰り返されることになります。
 郡司に代わって徴税権を握った国司は、有力農民である田堵を利用します。新しい徴税単位である名(みょう)の耕作を田堵に任せ、税の納入を請け負わせるのです。このように、名の経営を請け負う田堵を、とくに負名(ふみょう)と呼びます。田堵(負名)のなかには、国司と手を結んで大規模な経営をおこなう、大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれる者も現れます。彼らは、やがて開発領主と呼ばれるまでに成長します。
田堵→負名→大名田堵→開発領主

さらに、開発領主の多くは在庁官人となり、国司不在の国衙、いわゆる留守所(るすどころ)の行政を担うようにもなります。

 受領国司は、王臣家の手下たちを採用し、徴税と京への輸送・納入任者である専当郡司に任命もします。これは、いままで富豪浪人として、あれこれと国司・郡司の徴税に反抗してきた者たちを、運送人(綱丁)にしてしまうことで、体制内に取り組むという目論見も見え隠れします。こうして国司から任用された人々は、判官代などといった国衙の下級職員の肩書きをもらいます。
 受領は、負名(ふみょう)や運送人(綱丁)などの地域の諸勢力を支配下に置いて、軒並み動員できる体制を作り上げました。こうなると郡司に頼る必要はありません。受領にとって、旧来の郡司の存在価値は限りなく低下します。同時に、その拠点であった郡衙の意味もなくなります。各地の郡衙が10世紀初頭には姿を消して行くという背景には、このような動きが進行していたようです。  
 このような中で地方の旧国造や郡司をつとめていた勢力も、中央貴族化することを望んで改名や、本貫地の京への移動を願いでるようになります。空海の佐伯家や、円珍(智証大師)の稻首氏もこのような流れに乗って、都へと上京していくのです。

  多度郡衙と空海と菅原道真との関係で見ておきましょう
空海が善通寺で誕生していたとすれば、その時に多度郡衙は生野本町に姿を見せていたはずです。その時の多度郡司は、空海(真魚)の父田公ではありません。
1 空海系図52jpg
空海の系図 父田公は位階がない。戸籍筆頭者は道長

田公は位階がないので、郡長にはなれません。当時の郡長候補は、空海の戸籍の筆頭者である道長が最有力だと私は考えています。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符1
  延暦24年9月11日付 太政官符 
ここには「佐伯直道長戸口 同姓真魚(空海幼名)」とあります


道長の血筋が佐伯直氏の本流(本家)で、いち早く佐伯氏から佐伯直氏への改名に成功し、本籍を平城京に移しています。それが空海の高弟の実恵や道雄の家系になると研究者は考えているようです。空海の父田公は、佐伯直氏の傍流(分家)で改名も、本籍地移動も遅れています。

 空海の生まれたときに、善通寺と多度郡衙は姿を見せていたでしょう。
岸の上遺跡 イラスト
飯野山の南を東西に一直線に伸びる南海道

後世の弘法大師伝説には、幼い時代の空海は、善通寺から一直線に東に伸びる南海道を馬で府中にある国学に通学したと語ります。国学に通ったかどうかは、以前にお話しように疑問が残ります。
 それから約百年後の9世紀末に、国司としてやって来ていた菅原道真の時代には、国府から額坂を越えて馬を飛ばして、多度郡の視察にやって来た道真の前に、善通寺の伽藍の姿はあったかもしれません。しかし、多度郡衙はすでになかった可能性があります。この間に、多度郡衙には大きな変化があったことになります。

10世紀になると郡衛が衰退・消滅したように、国衛も変貌していきます。
国衙遺跡存続表1

8世紀の半ばに姿を見せるようになった各国の国衙は、中央政府の朝堂配置をコピーした国庁が造営され、それが9世紀代を通じて維持されます。しかし、10世紀になるとその基本構造が変化したり、移転する例が多く見られるようになることが上図からも分かります。これも郡衙の場合と同じように、律令体制の解体・変質をが背景にあると研究者は考えています。
 それまでの儀礼に重点をおいた画一的な平面プランには姿を消します。そして、肥前国国衙のように、10世紀に入ると極端に政庁が小さくなり、姿を消していく所が多いようです。しかし、筑後や、出羽・因幡・周防などの国府のように、小さくなりながらも10世紀を越えて生き延びていく例がいくつもあります。讃岐国府跡も、このグループに入るようです。やがて文献には、国庁ではなく国司の居館(館)を中心にして、受領やその郎党たちによる支配が展開していったようすが描かれるようになります。
受領国司

  以上をまとめておきます
①旧練兵場遺跡は、漢書地理志に「倭国、分かれて百余国をなす」のひとつで、善通寺王国跡と考えられる。
②この勢力は古墳時代には、野田院古墳から王墓山古墳まで連綿と首長墓である前方後円墳を築き続ける
③この勢力は、ヤマト政権と結びながら国造から郡長へと成長し、城山城や南海道建設を進める。
④郡司としての支配モニュメントが、生野本町遺跡の郡衙と氏寺の善通寺である。
⑤空海のが生まれた時代は、郡衙は多度郡の支配センターとして機能し、戸籍などもここで作られた。
⑥しかし、8世紀後半から律令体制は行き詰まり、郡衙も次第に縮小化するようになる。
⑦菅原道真の頃に成立した国司受領制の成立によって、郡司や郡衙の役割は低下し、多度郡衙も姿を消す。
③以後は受領による『荘園・公領制』へと移行していく

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「 坂上康俊   律令国家の転換と日本  講談社」
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          Amazon.com: 菅家文草 [1] (国立図書館コレクション) (Japanese Edition) eBook : 菅原道真: Kindle  Store

 前回は、『菅家文草』に収められた作品から讃岐時代の菅原道真のことを見てみました。今回は他人が書いた讃岐時代の菅原道真を見ていこうと思います。テキストは「竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」です。

『菅家文草』は、道真自身の作品ですから信頼性もあります。しかし、後世になって書かれた史料は成立時期も降り、怨霊・天満天神としての道真のことにポイントが置かれ、史料的価値は低いようです。
 まず取り上げる史料が『菅家伝』です。
『菅家伝』は、正式には『北野天神御伝』という題名で、10世紀前半頃に、道真の孫である在射によって著されたとされる史料です。道真の伝記としては、最も早い成立になり、後世の天神信仰の影響を受ける前に書かれている点が貴重とされるようです。
この『菅家伝』には、次のような記事が見えます。

「仁和二年出為讃岐守、在任有述、吏人愛之。三年進正五位下。寛平二年罷秩帰洛。」

讃岐赴任について書かれている分量は、ほんのわずかですが「吏人愛之」とあり、「良吏」としての評価がなされています。
次に、『北野天神縁起絵巻』をはじめとする各種天神縁起について見ておきましょう。
忘れへんうちに Avant d'oublier: 北野天満宮展 北野天神縁起絵巻の雷は截金

これらの原本の成立は平安時代後期とされます。この時期になると天神信仰の強い影響が見られ、史実と虚構の境が分からなくなります。共通するのは、讃岐守時代についての菅原道真は何も書かれていないことです。完全に無視省略しています。その一方で、道真の太宰府左遷を讃岐守赴任の際と比較する叙述がみられます。それを天神縁起のなかで根本縁起とされる「承久本」巻四第一段には、次のように記します。

仁和の頃をひ、讃州の任に趣きじ折には、甘寧の錦の績を解きてぞ、南海の浪の上に遊びしに、此の度の迎えには、十百重も化ぶれたる海人の釣舟出で来たり。

意訳変換しておくと
仁和の時に、讃州守として任地に趣いた際には、甘寧の錦の績を解いて、南海の浪の迎えの船が並んだ。それに対して、この度の太宰府の迎えには、海人の釣舟が出迎えただけであった。

「甘寧錦績」とは豪奢の例えですから、讃岐への赴任が厚遇であったことを記します。少なくとも天神縁起絵巻では、讃岐守赴任は立派な出迎えで、太宰府左遷とは違っていたと語られています。

 文人国司の登場と道真の立場の独自性について
九世紀において「文人」とは「貴族社会内部では比較的問地の低い人で、学問や能力のわりにめぐまれない地位に甘んじなければならなかった人々」とされます。「文人」が地方官に赴任することは、珍しいことではなかったようです。のちには、文章生から諸国橡に任じられる昇進コースが通例化するのは、こうした傾向の延長線上にあったとも考えられます。道真自身が「天下詩人少在京」(263)と詠んでいるのも、以上のような状況をふまえてのことのようです。

 九世紀前半に「文章経国」思想が広がると、紀伝道を修得した者=文人が、現実への対応能力のある「良吏」として期待されるようになります。実際に効果が上がったかどうかを別にして、能力のある者によって体制を立て直すという合理性を持っていたのかもしれません。 もっとも現実は、全国各地に「良吏」が赴任していたわけではありません。一人の意欲的な「良吏」のみで律令制の原則的な秩序を回復するのは不可能でした。それに道真も気づいていたはずです。
 このような情勢の中で、文人派=菅原氏も決して例外ではありませんでした。
 例えば道真の祖父清公も、美濃少嫁(『公卿補任』承和六年条)や尾張介(『続日本後紀』承和九年十月丁丑条)に赴任しています。したがって、道真が讃岐へ赴任命令を、次のように読むのは無理があると研究者は指摘します。

「倩憶分憂非祖業   倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非ず」 (つらつら考えると、わが菅家の家業は地方官ではない。)

祖父清公は地方官として赴任しているのですから・・。地方に赴任しなかった父是善のみを念頭に置いた表現なのかもしれません。
菅原道真
 讃岐国司として赴任してきた菅原道真(滝宮天満宮の絵馬)

文人国司=讃岐守菅原道真を、どう評価すべきなのでしょうか。
 道真の讃岐での政治的評価を判断する時に挙げられるのが次の二点です。
①道真在任中の仁和三年六月に、貢絹の生産について朝廷から譴責を受けた19か国に讃岐が入っていること(『三代実録』同年六月二日甲申条)
②『菅家文草』の中で自らを卑下している詩的表現が多いこと
これらを背景に、道真は京に未練があり、「詩人」に徹しようとしたために、あまり有能・熱心な国司=「良吏」ではなく、そのため業績も上がらなかったとする見解が多いようです。

菅家文草 菅家後集 日本古典文学大系72(川口久雄 校註) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 しかし、前回に触れたように『菅家文草』の中には、注意して読めば国司としての自らに対して否定的な自己評価だけではなく、肯定的な表現もあります。さらに『菅家後集』においては、「叙意一百韻」(484)の中で、自らの人生を振り返る部分がありますが、そこで自らの讃岐守時代を評して「州功吏部鐙」と記します。つまり、業績を上げたと自己評価しているのです。
 また、「路遇二白頭翁」(四)の詩の中で、「良吏」として名高い安倍興行や藤原保則と比較して自らを卑下しながらも、「就中何事難併旧、明月春風不遇時」「自余政理難無変」などと記します。ここからは、国司として一定の責任感・自負も持ち合わせていたことが分かります。
 道真は「国司」という官職につくことを嫌悪していたわけでもないようです。
このことを直接的に示すのが、『菅家文草』巻第二の「喜被三遥兼賀員外刺史」(‐00)です。これは元慶七年(883)正月11日の除目で、道真が加賀権守を兼ねることになったときの詩です。これは題名の通り、この任命を喜ぶものです。その内容は、次のようなものです。

「家門・家学である紀伝文章の道は、経済的には恵まれることはないが、父・是善も任ぜられた加賀権守の月俸によって、北陸の残雪をおかして赴任する苦労もなく、ただ秋の豊作を期待するだけである」

 地方に赴任することのない遙任であれば、このように心からの喜びが表現されています。
以上の点をふまえて、道真が讃岐守に任命された仁和二年正月の補任記事について見ておきましょう。
「讃岐左遷説」の状況証拠とされてきたのは、この時の人事が「門地の低い実力者=文人派」が締め出される学閥間の争いの中で行われたとされるからのようです。そのため敗れた道真閥側が地方に「左遷」されたというのです。さらに、この学閥間の争いとは、貴族上層部から支持を受けた「詩人無用論」を唱える実務家的儒者派と、文学創作を第一義とする道真らの詩人派との対立であったという見方もあります。確かに9世紀後半には、次のような政治の流れがあったようです。
①大学制度の衰退とそれに伴う家学の発展が、学閥の抗争の中で「文章経国」の思想を後退させた
②そのため「文人派」の政治的局面からの後退が見られた
これを事実として受け止めても、菅家廊下門人三千人の主催者である道真が、4年後に再び京に復帰している点をどう理解すればいいのでしょうか。
 以前は、道真が中央政府に復帰し異例の昇進を遂げたのは、障害となっていた藤原基経や橘広相の死があったためとされました。しかし、これらは道真の讃岐帰京より後のことです、寛平3年2月29日の蔵人頭補任以後の昇進の理由にはなりますが、讃岐から帰京したことの直接的な原因とすることはできないようです。また、阿衡問題解決の功績についても、基経への著名な書状「奉昭宣公書」は時期を逸し、実質的に有効ではなかったという見解もあって、これも決定的な理由にはならないようです。交替の手続きを待たずに行なわれた道真の帰京は、宇多天皇による優遇に関係するようです。
 以上から、仁和二年の道真の讃岐守赴任は、文人派(詩人派)の決定的な敗北を示すものではなかった。帰京後の異例の昇進を念頭に置くならば、「左遷」と映るかも知れないが、単なる「転勤」とも考えられるようです。
 道真は他の文人国司や詩人派とは大きくちがった面を持っていたいた人物と考えられると研究者は指摘します。讃岐守赴任を左遷と見なされることへのおそれ(‐87)、何度も繰り返される「客意」表現、外官赴任拒否の意志表示(324)など、極端に地方への赴任を嫌悪しているのは異常です。
 文人の地方官赴任は、漢王朝の宣帝の「典我共此者、其唯良二千石乎」(『漢書』循吏伝序)にも見られるよう伝統的な地方官重視の帝国統治理念を実践できる絶好の機会とされてきました。また、白居易と同じように諷喩詩をもって諫言するという、「詩臣」の立場をとることもできました。さらに、地方官を歴任したことは、地方官在任中のみならず、中央政府に復帰した際に発言の重みとして作用します。例えば、道真の「請令二議者反覆検税使可否状」(602)は、自分の国司赴任の経験に立って、各国に検税使を派遣することなく、国司の統治に任せることを述べたものです。また三善清行の「意見十二箇条」も国司経験者としての提言で、いずれも自らの政治的立場を有利にするには有効であったことがうかがえます。
 しかし、讃岐赴任前の道長は都の廷臣であることを強く意識しています。
そして、積極的に廷臣・儒者として、直接諫言することで政治参加したいという願望を持っていたようです。道真にとって、都から離れ讃岐に出向かねばならないことは「左遷」以外には、受け止められなかったのかもしれません。確かに都人の地方官赴任は、本当に左遷の場合もありました。白居易のように唐王朝では、その傾向が強かったことを、道真は知っていたはずです。このあたりが一般の文人とは違った認識と感性を持っていたと云えるのかも知れません。このような強い「思い込み」は、敵対する勢力からは、「政治的野心」としてみなされる危険性があったでしょう。道真に対する三善清行の警告「奉菅右相府書」は、反道真派の論客として提出されたものですが、道真の本質的な問題点を衝いていたものだったと研究者は考えているようです。
 藤原氏の世代交代の空白期に、菅原道真は偶然にも宇多天皇の優遇を得ます。その反動として昌泰四年(901)1月の太宰府への左遷という結果につながります。そして、道真が危惧した「詩人」と「儒者」の分裂は、この時点で決定的になったといえそうです。

以上をまとめておくと
①『菅家文草』には、菅原道真の複雑な心情が含まれているが、「文学作品」であり。詩的表現を額面通りに読み取ることはできない。
②「文人相軽」の時代風潮の中での讃岐守赴任を、道真が当初は「左遷」と思い込んでいたフシはある。
③あるいは尊敬する白居易へ左遷と自分の地方転出を同一視したような所も見られる。
④道真の讃岐での作品全体を見ると、政治の現実に押しつぶされそうになりながらも前向きに対処していこうとする作品の方がはるかに多い

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」

      菅原道真

菅原道真(845~903年)は、仁和三(886)年から寛平二(890)年にかけての四年間、讃岐守として讃岐にやってきます。これに対しては、かつては左遷説が強かったようです。確かに、以前見たように赴任当初に書かれた作品には、左遷を憂うようなものがいくつも見られます。これに対して、左遷ではなかったと考える研究者が近年には増えているようです。何を根拠に、左遷説を否定するのでしょうか。今回は、その辺りを見ていきたいと思います。テキストは「竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」です。

菅家文草とは - コトバンク
菅家文草

『菅家文草』十二巻は、昌泰三年(900)に、道真が醍醐天皇に奏進した『菅家三代集』二十八巻の一部です。その中の巻第三と巻第四は讃岐守時代の詩を集めたもので、もとは「讃州客中詩」二巻と呼ばれ、醍醐天皇が皇太子であった時に、求めに応じて献上した詩集です。その内の巻第三には仁和二年(886)正月16日に讃岐守に任じられてから、仁和三年の年末に一時帰京し、翌四年正月の初めまでに詠まれた詩が収められています。このうち、讃岐着任の直前の作が五首、二月の赴任の途次の作が三首あります。着任直後の詩は非常に少ないようです。年の後半の秋の訪れとともに作品の数は増加します。
 道真が讃岐で作った詩作は、旅愁・悲嘆が詠まれているものに目がいきがちです。
北堂餞宴
我将南海飽風煙      我将に南海の風煙に飽かむ
更妬他人道左遷       更に妬む 他人の左遷と道ふを    
倩憶分憂非祖業       倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非ず 
徘徊孔聖廟門前       徘徊す 孔聖廟の門前                
意訳変換しておくと
私はこれから南海(四国讃岐)の風煙(景色や風物)を嫌というほど味わうことになるだろう。
加えて忌々しいのは、他人がこれを左遷と呼ぶことだ。
じっくり考えると、わが菅家の家業は地方官ではない
孔子廟の門の前をぶらぶら歩きながら、そう思うのだ。
「国司として赴任するのは家業ではない」「他人の左遷なりといはむ」とあります。ここからは、文章博士の解任と讃岐赴任に、道真がひどく傷ついている様子が伝わってきます。

しかし、一方で国司の職務に伴う印象や国情に対する感想が詠まれた詩もあります。例えば、
①輸租のやり方を論じたり
②訴訟の判決を書いたりすることを詩の中に詠み込んだり「重陽日府衛小飲」、
③国内巡行によって把握したと思われる貧しい庶民の実情を題材にした「寒早十首」(200)
これらは任期後半になって、新しい職務・環境に慣れて、詩作されるようになるのは以前に紹介したとおりです。ここからは、都から離れたことに悲観するだけではなく、国司としての職務にかなり意欲を持っていたことがうかがえます。
「従初到任心情冷 被勧春風適破顔」の句のように(「春日尋山」)、赴任の動揺からようやく落ち着いたことを告白した詩もでてきます。
 また、過去に讃岐に赴任した「良吏」である安倍興行や藤原保則と比較して、自らの国司としての非力を卑下する(「路遇二白頭翁」)一方で、「外聞幸免喚・蒼鷹(酷吏という噂はない)」・「到州半秋清兼慎」(赴任後、清廉と謹慎をもって務めた)という表現で自己評価もするようになります。(「行春詞」)。
 また、年末に一時帰京する際には、再び讃岐へ帰ってこないのではないかと州民が案じたというような詩も書くようになります。
巻第三は、京の自邸で越年し、翌仁和四年(888)の初めに讃岐に帰任する直前までの詩が収めれています。この中の京で詠んだ詩には、早く讃岐に帰任したいという意向までうかがわれます。(「残菊下自詠」(238)「三年歳暮、欲二更帰州、柳述所懐、寄二尚書平右丞こ(240))。
 ここからは、左遷に対して「失意・挫折感」の視点のみで、道真の心の動きをみることはできないようです。
巻第四は、仁和四年(888)春、再び讃岐に帰任する途中の作品から始まります。
この年の前半には、讃岐守として特徴的な作品はありません。ところが四月以降、早魃に見舞われたため、降雨を城山の神に祈願(「祭城山神文」)したことが記されています。この災害への対処に疲労したためか、国司として自信を喪失したような詩も出てきます。この秋には阿衡問題に関わって一時帰京し、「奉二昭宣公書」(『政事要略』巻丹、阿衡事)を奏上しています。
 翌年の仁和五年(889)になると、交替・帰京を意識した作品が目立つようになります。
例えば夏には、「官満未成功」(「納涼小宴」)などと、謙遜しながら四年間を決算するような表現が出てきます。その一方で、自分の功績に対する評価への不安も隠すことなく表しています。帰京途中の際には作品はなく、巻末の一三首は帰京後の詩になります。以上、菅原道真が讃岐で詠んだ詩のテーマ・題材を、研究者は次の4つに分類します。
①讃岐守・外官として赴任したことに対する悲嘆
②国司の職務・治政に対する自己評価。讃岐国の社会情勢の観察。
③国司としての処遇・国府の環境や前任国司について。
④讃岐国内外での遊興・門人や詩友との交流。

 これらの作品を見る場合に、巻第三・巻第四は、東宮敦仁親王(のちの醍醐天皇)の求めに応じて献上された詩集であることを忘れてはならないと研究者は指摘します。帰京後の「二月二日、侍二於雅院。賜侍臣曲水之飲、応製」(324)の詩には、「長断詩臣作外臣」とあります。ここからは、2度と「外官赴任」が行なわれないことを願うことが詩集成立の主たる目的であったことが分かると研究者は指摘します。そのためにも、赴任初期には、讃岐守赴任によって、どれほど難渋したかということが強調するテーマ①に関する作品が並べられていると研究者は考えます。
 テーマ③④については、道真の孤絶性を特に強調するのは偏った見方だと研究者は指摘します。道真は属僚と遊興を楽しむだけではなく、「菅家廊下」の門人の訪間を受けたり、詩友との詩を介した交際も楽しんでもいます。「左遷による失意と望郷」の面からだけで捉えるのは、一面的な見方だと云うのです。
白氏文集とは - コトバンク
白氏文集

『菅家文草』は『白氏文集』の強い影響を受けていることを、研究者は指摘します。
『白氏文集』は、唐代の詩人白居易(772~846)の詩集で、完結したのは、会昌五年(845)のことです。日本には、その直後の承和14(847)に、入唐僧恵薯によってもたらされたようです。その前後から、自居易の詩は急速に日本の詩人に広まります。
 菅原道真も、『自氏文集』の影響を強く受けていることが、次のように指摘されます。
①詩の中に割注を設けている点
②詩の題材として諷喩詩・詠竹詩が見られる点
③仏教的な内容を持つ点
④叙意一百韻という長大な形式
 道真は讃岐の居館にも白居易の詩文を持ってきていて、これらを手許に置いて参考にしながら、詩を作った可能性があるようです。 
 さらに注目すべき点として、白居易と菅原道真の官歴が似ていることを研究者は指摘します。
 白居易は、学越権行為をとがめられ左遷されて江州司馬に赴任し、続けて忠州刺史を任じられます。その後も、中央の党争に巻き込まれることを避けて、希望して杭州刺史になっています。このような白居易の左遷体験から作られた作品と、自分との境遇をダブらせ共感していた。それを自分の作品作りの材料にしていた、という仮説も文学者からは出されています。

道真が赴任当初は、悲観的な心持ちを持っていた讃岐国とはどんな国だったのでしょうか?
当時の讃岐国の位置付けを見ておきましょう。
「延喜民部上式」によると、讃岐国は上国で、大内・寒川・三木・山田・香川・阿野・鵜足・那珂・多度・三野・刈田の11郡からなり、国司の定員は、職員令上国条によれば、守・介・嫁・目各一人と史生二人です。「延喜式部上式」諸国史生条には、史生の定員については上国四人のところ美濃・讃岐のみ大国並みに五人と規定されています。ちなみに、「延喜民部上式」戸損条によれば、下野と讃岐のみ大国に準じて四九戸を例損とすることが規定されています。このように、九世紀後半における讃岐国は、上国ですが大国並みに扱われていたことがうかがえます。
讃岐守一覧表(9世紀)
九世紀代に讃岐守に任命された国司一覧表を見ておきましょう。
彼らの官位欄を見ると、赴任寺には四位の者が多いことが分かります。讃岐守は上国守なので官位令従五位条の規定では従五位下の位階が相当になります。とくに九世紀半ばころから讃岐守は、参議・京官と兼官している場合が多かったようです。そのため、讃岐守は遥任が多かったことがうかがえます。
 讃岐赴任経験者の、その後の昇進具合はどうでしょうか。一番右の欄の最高到達ポストを見てみると、讃岐守を歴任した者は、最終的に二位・三位まで昇進している者が多いようです。ここからは次のようなことがうかがえます。
①九世紀の讃岐守は、給付目的のための官職の性格が強く、国衛では守不在でも統治ができた。
②讃岐は安定した統治しやすい所とされていた
道真は従五位上行式部少輔兼文章博士加賀権守から讃岐守に転じます。そして、前任官と相当官位で任じられています。先ほど見たように従五位上は、官位令では大国守の官位です。讃岐が大国に準じた扱いをされていることを、裏付けます。同時に、位階的には左遷とは云えないようです。
道真が守であった時期に、同僚であった国司官人を見ておきましょう。

讃岐守菅原道真の同僚一覧表(9世紀)

 下級国司については分かりませんが、上級官については京官と兼官しているものが多いようです。『菅家文草』の作品の中にも、次のような同僚が登場します。
①「倉主簿」(227・23Y
②「藤(十六)司馬」(277・28・30・31)
③ 書生「宇尚貞」(219)
④「物章医師」(3o6)です。
彼らは、姓名は分かりませんが、それぞれ目・嫁・書生・国医師です。特に①②は道真と同じく中央派遣官で、詩簡をやりとりするなど友誼を通じていたようです。ちなみに①「倉主簿」は仁和三年末に交替し(234)、②「藤司馬」は道真の交替後も、讃岐に在任していたようです。
しかし、「苦日長」(292)の詩の中で、京の菅家廊下にいた多くの門弟に比べると「衝掩吏無集」と官人の少なさを嘆いています。ここからは、気心の知れた同僚は皆無ではなかったものの、少なかったことは確かなようです。『菅家文草』に表現される孤独感の一端は、遥任国司が多く、京から実際に赴任している官人の少なさにもあったのかもしれません。
 最後に、九世紀後半の讃岐国の実情を同時代の史料から見ておきましょう。『菅家文草』の詩文の中には、讃岐の国情を詠み込んだものがあります。例えば
「八九郷晶。十一郡四万戸・人口二八万人(279)」

 讃岐には「89の郷があり、11郡で4万戸、人口は28万人」というような数字は、現場にいる国司でなければすぐには出てきません。菅原道真が、これらを頭に入れた上で、執務していたことがうかがえます。延喜式の28社なども頭に入っていたかもしれません。
この他にも
①国司が多くの訴訟に対処しなければならなかったこと(97)、
②「青々汚染蝿」、すなわち様々な不正を行なう者がいたこと(219)
③社会の底辺を主題にした「寒早十首」(200~209)
などからは、ある程度当時の讃岐の国情を推察するための材料になりそうです。


  以上をまとめておくと
①菅原道真の讃岐国守任命は、自らの作品の中にも「左遷」と書かれているために、それが定説とされてきた。
②しかし、道真の作品を見る限り、「左遷悲嘆」的なものは初期のものだけに限られる。
③多くの作品は、現実の政治に押しつぶされそうになりながらも、国司として前向きに取り組む姿勢が見られるものの方が多い。
③当時の讃岐の国のランクも準「大国」であり、位階的には左遷とは云えない。
④菅原道真のその後の「出世」ぶりからも、左遷であったとは云えない
以上から、菅原道真の讃岐守への任官は、決して異常なものではなく、通例の「転勤」であった、道真は「左遷され降された」のではなく、「転じて」讃岐守になったと研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」

          DSC05362
春日神社(琴平町)の本殿横の湧水 
 丸亀平野の扇状地上にある古い神社を訪れると、境内に湧水が湧き出しているところがいくつもあります。古代人にとって、大地からこんこんと湧き出し、耕地に注ぐ湧水は土地のエネルギーそのもので、信仰対象でもあったのでしょう。その湧水や人工的に作られた導水路に対して豊穣を祈願することは、ある意味では首長の権利であり役割であって、これをきちんと行うことが、地域支配の根拠(正当性)でもあったと研究者は考えています。
 これは古くから中国で「黄河を制する者が天下を制する」とされ、治水灌漑事業を行う者が、天下の覇者となることを正当化することと通じるものがあります。治水灌漑の土木事業の進展と共に、水に関する祭礼儀式が生み出されたとしておきましょう。湧水点は、聖地だったのです。
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            春日神社の湧水

 湧水地(水神)になんらかの宗教施設が加えられ、後に神社になっていったという仮説が湧いてきます。

琴平大井・春日神社

 例えば琴平周辺では、旧金倉川跡に南北に並んで鎮座する大井八幡・春日神社・石井八幡は、それぞれ境内に湧水地があります。そこから導水路が下流へと流れ出し、今でも水田の灌漑に使われています。この原初の姿を想像すると、弥生時代に稲作農耕が始まった時に、この湧水は下流の農耕集団の水源とされ、同時に信仰対象となったのではないかという気がしてきます。そして、時代が下ると宗教施設が設けられ、神社が姿を現すようになったというのが私の仮説です。今回は、湧水から神社はどのように生まれたを知るための読んだ文章の読書メモになります。テキストは「北条勝貴 古代日本の神仏信仰    国立歴史民俗博物館研究報告 第148集 2008年12月」です。
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大井八幡神社境内の湧水
古代の神社に祀られるようになった「神」は、古墳時代に生まれていると研究者は考えているようです。
前方後円墳での儀式は、喪葬と首長霊継承の関連で語られていました。しかし、墳墓の造出し部分の発掘成果によって、それだけではなく古墳は、首長が行ういろいろな宗教行為のパフォーマンスの場が古墳であったとされるようになってきました。古墳では、中央や地域の王権を支えるさまざまな祭祀が行われていたこと、それが、次第に古墳から離れて豪族居館や、神霊スポットへと移り、独自の祭祀空間を獲得していくようになります。その時期が5世紀後半~6世紀前半で、この時期が「神の成立」期だと研究者は考えているようです。  
 その原型は古墳時代には、登場していたと云うことです。

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大井八幡神社(琴平町)境内の北大井湧水
  井戸や川を祭祀遺跡として見るようになったのは、戦後のことになるようです。
少し、研究史らしきものを記しておきます。
1976年に、奈良盆地の纏向遺跡の報告書「纏向」が出されます。その中の「三輪山麓の祭祀の系譜」で、湧水に達するまで掘られた土墳から 容器・農具・ 機織 具 ・焼米・水鳥形木製品・ 舟形木製品・稲籾などが出土し、その湧水の隣には建物を伴う祭祀が行われていたことが分かってきました。これを「火と水のまつり」として「纏向型祭祀」と記されています。
 また文献史学の立場からも 風土記や日本書紀などに描かれた「 井 」や「井水」の祭儀の重要性が指摘されるようになり、古代日本の水神信仰の例が「延喜式」などからも説かれるようになります。さらに「風土記』に記されてた井泉とかかわる地名起源伝承から、地域首長が井水に対する祭祀を行う風習が各地にあったことも明らかにされます。
  そして「水の祭祀」については、次のように理解されるようになります。
常に湧きあ ふれ出る井泉の水の生命力・ 永遠性は、首長権の象徴にもなり、井水は首長権 の継承儀礼にも欠かせないものであるとともに、 地域首長にとって国の物代ともいえる聖水を大王に体敵する行為は大王への服属の証として 重要な儀礼となっていった

  水辺の祭祀は 、現在では次のふたつに分類されるようです。
①河川等の水の流れる所で行われた「流水祭祀」
②水の湧き出る所で行われたであ ろう「湧水点祭祀」
  その代表的な三重県の城の越遺跡を見ておきましょう。
湧水点祭礼 城の越遺跡1

  城之越遺跡は、新聞報道では「日本最古の庭園」と紹介されています。しかし、これは湧水を祭場に「加工」した湧水点祭祀跡です。それが、「庭(園)」にもなっていきます。この泉水遺構は,人工的に敷き詰められた石積みとともに約30年前に発掘されています。
湧水点施設1

同時に、儀式用の土器(高杯など)や刀剣型の木製品なども多数見つかっっています。これらの出土品から4世紀後半ごろに、ここで水に関する何らかの祭祀が行われていたようです。
湧水点祭礼1

祭祀遺構のすぐそばには、大型建造物の跡も見つかっていています。

湧水点祭礼 城の越遺跡4
城之越遺跡 湧水近くに建てられた建築物

この建物の分析から、次のような点が分かってきました。
①湧水に隣接してあった大型建物は、首長居館・居宅遺構であったこと
②湧水点祭祀の主宰者が地域首長層であったこと
③湧水点祭祀が古墳時代首長の実施する祭祀の中でも最も重要度の高いものであったこと
 さらに、この遺跡だけでなく井泉と大型建物がセットで出土している遺跡は各地にあり、その建物形式も共通していることが指摘されます。この背景には、首長層の間に湧水点祭祀について、なんらかの全国統一マニュアルがあったことが想定できます。

湧水点祭礼 城の越遺跡3
庭園の石組みのようにも見える城の越遺跡の湧水施設

 また、湧水点では、誓約儀礼も行われた可能性があるようです。「記紀神話」のアマテラスとスサノフの誓約とよく似ているとされます。とすると、古墳時代の水に関する儀礼が、記紀神話にも取り込まれていることになります
湧水点祭礼 飛鳥
飛鳥の水の祭礼遺跡

飛鳥の水の祭礼遺跡です。先ほど見た城の越遺跡との間には、約200年の隔たりがあります。しかし、飛鳥の施設が城の越遺跡の発展系であることは想像ができます。湧水の下に導水施設が組まれています。これはより奇麗な水を濾過する装置と研究者は考えています。
湧水点祭礼 飛鳥京跡苑池
飛鳥京跡苑池
  橿考研の岡林孝作調査部長は、次のように云います。
「飛鳥京跡苑池は宮殿の付属施設であり、流水施設も王権に関わる水のまつりの場だったと考えられる」

 飛鳥には、大王に関わる水祀りの施設が、酒船石遺跡などを含めて、いろいろな所に作られ、それは「庭」とも考えられてきたのです。そのため「庭園遺跡」という見出しを付ける記者も出てきます。これは、さきほど見た古墳時代の城之越遺跡の湧水点遺跡と導水遺跡の複合系遺跡と研究者は考えています。
 
以上をまとめておくと
①出水、湧水は弥生維持代から神聖なものとして信仰対象とされ水神が祀られた。
②古墳時代になると豪族によって、湧水周辺の開発と治水灌漑工事は行われ、湧水周辺には附属施設や豪族居館が建設されるようになった。
③さまざな儀礼が湧水周辺では、豪族主催の下に行われるようになり、湧水点遺跡や導水遺跡が整備されるようになる。
④周辺は石畳で聖域化されるなど、整備が更に進む。
⑤このような水の祭礼施設は、大和の大王のもとでも整備され、それが飛鳥の湧水点施設や流水施設である。

とすると、このような施設は讃岐の古墳時代の豪族も作っていたことが考えられます。佐伯氏支配下の善通寺周辺にも、このような水の祭礼に関わる施設があったのかもしれません。しかし、善通寺一円保絵図に描かれた壱岐の湧水や二頭湧水には、神社は描かれていません。ふたつの湧水に今も神社はありません。なぜ、壱岐や二頭湧水に神社が建立されなかったのかが私にとっては疑問なのです。
 それにたいして、最初に紹介した琴平の旧金倉川の伏流水の上に鎮座する大井神社・春日神社・石井神社には、後に神社が姿を見せます。さらに、荘園化されると春日神社のように荘園領主の九条家(藤原氏)の氏神である奈良の春日大社が勧進され、合祀されます。さらに後世には、八幡神までも合祀されていきます。そのもとは湧水に宿る水神信仰が出発点だったのかもしれません。
今日もまとまりのない内容になってしまいました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「北条勝貴 古代日本の神仏信仰    国立歴史民俗博物館研究報告 第148集 2008年12月」
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  図23 讃岐国の封戸・荘園
和名抄には、讃岐の郡は11ありました。ところが平安時代の後半になると13に増えています。分割された郡が出てきたようです。分割された要因は、何なのでしょうか?
 奈良時代は、まだまだ人間の数が少なかったので、「個別人身支配体制」のもとに、人を掴まえておけば税収入が得られるので、人を通じて支配を行います。だんだん人が増えて戸籍で把握するのが難しくなってくると、人の代わりに動かないもの、つまり土地を通じて支配するシステムに支配方式が変わります。誰が土地を私有していても構わない。とにかく土地を耕している人から税を取る。土地は逃げませんので、この方が現実的になったようです。
 奈良時代には、人が集落を作ってあちらこちらに住んでいました。そこで戸毎の戸籍を作って、50戸になると郷を成立させて、郷長に管理させるという地方支配のスタイルでした。これに対して、郡全体の土地ということになると分散して、かなり広い範囲になります。広いエリアを管理監督するのは大変なので、分割します。つまり、行政単位である郡をコンパクトにします。そのために大きな郡を二つに割るということが行われます。
当時は、藤原道長やその子の頼通の頃で、摂関政治とよばれる時代でした
 彼らの政治スタイルは、地方の行政は地方に任せる。中央政府は、地方政府の長(国司)だけを任命する。そして、国司に権限を持たせて、各国の経営にあたらせるるというものでした。そうすると、国司が讃岐国にやってくると、彼らもまた考えます。自分でやることはない、郡には郡司という役人がいるんだから、彼らに任せればいいと。郡司は郡司でまた考えます。その下に郷司というのがいるんだから、彼らに任せればいいと。どんどん、下へ下りていきます。「上がやることを、下が見習う」ということなんでしょう。
 中央がこれから先、手間暇掛けませんよとなると、国元でも自分たちだって手間暇掛けませんよという風潮になっていきます。今までは中央政府が、日本国中の面倒をみてきました。しかし、これから先は中央政府はそういうことはしない。讃岐国のことは国司が責任を持って面倒をみればいい。国司に任せるという具合になったわけです。そこで、国司はそれぞれの徴税官を決めます。その時に、あまり広いエリアを担当させますと大変です。大きな郡については、東と西に分けましょうとか、北と南に分けましょうという具合に、担当区域が分割されることになります。

讃岐国郡名
讃岐の郡名と郷名
讃岐国で大きかった郡は、香川郡と阿野郡です。
どうして香川郡と阿野郡が大きいのか? それは古代からの先進地で人口が多かったからのようです。その理由は、阿野郡に讃岐国の国府が置かれたためです。そのため、いろいろな社会資本がこのエリアに投下され、国府のある周辺に人が集まったと研究者は考えています。それが阿野郡の東西にも波及します。東側が香川郡、西側の鵜足郡でも、人口は増加傾向になったようです。そこで、この両郡を二つにそれぞれ分けます。

讃岐の古代郷名 阿野・香川郡jpg
香川郡と阿野郡の郷名と位置

 香川郡についていは、東と西に分けました。
境界は条里制度の条です。もともと土地に条里制区画の線引きがしてありましたから、香川郡は東半分と西半分というぐあいに条を基準に分ける。阿野郡については、北半分と南半分に分ける。北条と南条に分けました。
平成17年度渇水/「善意の井戸」の提供が終わりました。 | お知らせ | 田村ボーリング株式会社 - TAMURA BORING
香西条と香東条の境となった香東川
それではここでクエスチョン 
香東川は今のように香東川と呼ばれる以前は、なんと呼ばれていたのでしょうか。
  香東、香西というのは、当然ですが香川郡が二つに分かれるまではありませんでした。 それ以前は、香川郡でしたから「香川」と呼ばれていたと研究者は考えます。もともとの川の名前は「香川」、その川の名前が郡の名前になって「香川郡」が生まれます。ところが、香川郡が香東、香西に分かれたので川の名前が香東川と変わった。そして、この川が「香東・香西」の境であった。 香川県という県名の源は、ここを流れる河にあったと研究者は考えているようです。
  
もう一つ分割された郡が阿野(綾)郡です。
綾郡の方は、南北に分けられました。最初は綾郡南条、綾郡北条と呼ばれていたようです。それが近世には阿野南郡と阿野北郡に改称されます。
阿野北郡 近世
阿野北郡の近世地図 現在の坂出市域
綾郡北条が最初に登場する史料を見ておきましょう。
『新修香川県史』所収 惣蔵寺所蔵鰐口銘
 敬白 讃岐国北条郡林田郷内梶取名 惣蔵天王御社 鰐口 
 明徳元(1390)年 庚午十一月
 『新修香川県史』というのは昭和28年に刊行された香川県史です。ここには坂出市の林田町にあった惣蔵寺というお寺が所蔵していた鰐口の銘が載せられています。
鰐口
鰐口
鰐口というのは、神社やお寺の軒下に吊るす、扁平で中が空洞になった円形の法具で、参詣者等がその前に垂らした綱を前後に振って鳴らしたりしているものです。その鰐口の銘で、誰が寄付したことなどが書いてあります。
 年号は明徳元(1390)年で、南北朝時代の終わりになります。林田郷は、当時は綾川の河口で、梶取(かんどり:船頭)たちが住んでいたところで、中世の津として機能していたことは、以前にお話ししました。このあたりには、瀬戸内海を行き来する廻船の拠点であったようです。いつしか「梶取」の「取」の文字が飛んで「東梶(ひがしかん)」や西梶になってしまったようです。この時に作られた鰐口の銘に「北条郡」が記されています。南北時代末期には、北条郡が成立していたと云えます。これが綾北条郡のことになります。
 綾郡北条と呼ばれていたのはいつまででしょうか。
『新編丸亀市史4史料編』に収められた正覚院(丸亀市塩飽本島)の大般若経奥書に、次のように記されています。
『新編丸亀市史4史料編』所収正覚院所蔵大般若経奥書
 時に延文弐(1357)年丁酉十二月十三日讃州綾南条羽床郷(西)迎寺坊中において、日本第一(悪筆脱)たりと雖も仏法結縁のため、形のごとく書写せしめおわんぬ。後代末代転読僧衆御誹膀有るべからざるものなり。
 同郷大野村住 金剛仏子宥伎生年三七歳
意訳変換しておくと
 この般若心経の巻は、延文弐(1357)年12月13日に、讃州綾南条羽床郷の(西)迎寺坊中で、書写したものである。日本第一の悪筆かもしれぬが仏法結縁のために書写したものであるので、後世末代に転読する僧衆が私の悪筆を誹膀することのないように。
 羽床郷大野村の住人 金剛仏子宥伎 生年三七歳
 正覚院(丸亀市塩飽本島)の大般若経の経歴については、道隆寺か金蔵寺を中心にして書写活動が行われ、金倉川河口の神社に納められていたものが、いつの時代かに塩飽本島の正覚寺に渡り伝来されていることを、以前にお話ししました。奥書には「讃州綾南条羽床郷」の迎寺坊中で書写したと記されます。綾川の滝宮上流域の羽床富士のあたりで、中世武士集団の綾氏一族の羽床氏の拠点になります。この史料にからは、南北朝時代までは「綾南条」がまだ残っていて、南条郡にはなっていなかったようです。阿野郡は、香川郡と同じように、南北朝時代から室町時代にかけて綾郡南条、同北条から綾郡がとれて、南条郡とか北条郡とか呼ばれるようになったようです。
 以上のように、讃岐国では郡の分割というのは、香川郡と阿野郡の二つだけです。大きな人口増加や変動が他の地域では起こらなかったことを表していると研究者は考えているようです。
 そして、讃岐では奈良時代・平安時代から比べると、中世に増えた郡は2つだけということになります。
  以上をまとめておくと
①讃岐の古代の郡数は、最初は11郡であった。
②中世になって土地が徴税対象となるにつれて、大きな郡を分割する動きがでてきた。
③その結果、国府があり先進エリアでもあった阿野郡と香川郡は分割されることになった。
④香川郡は、東西に分割され香東郡と香西郡となり、河川名も香川から香東川と呼ばれるようになった
⑤阿野郡は南北に分割され阿野郡条郡と阿野郡何条と呼ばれた
⑥そのため室町時代には讃岐の郡数は13になっていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 参考文献  「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」

宗吉瓦窯 想像イラスト
三野郡の宗吉瓦窯跡 
 三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されているように、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われていたことが分かってきました。前回は、仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏が、丸亀平野の寺院造営技術の提供センターとして機能したという説を紹介しました。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺KA101Aを祖型とする軒丸瓦の系譜
 善通寺周辺の瓦工房では、7世紀末には技術の吸収から製品供給へと、段階が進んでいたと研究者は考えているようです。今回は善通寺から土佐への瓦製造の技術移転を見てみることにします。テキストは、「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です
この時期の讃岐地方の軒丸瓦のデザインの中には、瓦当中央の蓮子を方形に配置するものがあります。扁行唐草文軒平瓦の中には、包み込みによって瓦当面と顎を形成する技法が用いられています。この軒丸瓦の文様と軒平瓦の技法の2つを比較検討するという手法で、但馬地方(兵庫県北部地方)と土佐と讃岐善通寺の瓦工人集団がつながっていたことを研究者は明らかにしています。今回は、そのつながり見ていくことにします。

善通寺白鳳期の瓦
    善通寺他出土 十六弁素弁蓮花文軒丸瓦(ZN101)
この軒丸瓦は善通寺と仲村廃寺の創建の瓦とされてきました。2カ寺に加えて、次の寺院から同笵瓦が出土しています。
①平成11年に丸亀市の田村廃寺跡
②平成12年に高知市の秦泉寺廃寺跡
③平成13年に伊予三島市の表採資料から同笵関係を確認
善通寺同笵瓦 田村廃寺
善通寺(ZN101)と同笵瓦

この丸瓦とセットになる軒平瓦は、善通寺、仲村廃寺では扁行唐草文軒平瓦ZN203とされています。田村廃寺、秦泉寺からも同型式が出土しています。これらの瓦を実際に研究者は手にとって、善通寺のZN101と田村村廃寺、秦泉寺の3カ寺の型木の使用順を明らかにしてきます。
その手がかりとなるのは、型木についた傷の進行状態です。
善通寺同笵瓦 傷の進行

土佐奏泉寺の瓦は、拓本でも木目に沿った3本のすじ傷がはっきりと分かり、一番痛みが激しいようです。次に田村廃寺の丸瓦は、はっきりした右側の1本(a)と、この時点で生じつつあった左側の1本(c)がかすかに確認できます。これに対しZN101に見えるのは、右側の1本(a)だけです。以上から型木は「善通寺ZN101→田村廃寺→秦泉寺」の順番に使用されたと研究者は考えています。

田村廃寺伽藍周辺地名
田村廃寺の伽藍想定エリアの地図

丸亀の田村廃寺を見ておきましょう。
この寺は以前にも紹介しましたが、丸亀市田村町の百十四銀行城西支店の南東部が伽藍エリアと考えられています。地形復元すると古代には、すぐそこまで海岸線が迫っていた所になります。臨海方の古代寺院です。讃岐の古代寺院が、地盤が安定した内陸部の南海道周辺に立地しているのとは対照的な存在になります。

田村廃寺 軒丸瓦3
 TM107 やや粗く1~7mm程度の砂粒を含む。善通寺・仲村廃寺出土のものと同箔品である。白鳳期末から奈良時代初期

拓影の木型傷を比較することで田村神社の軒丸瓦TM107と善通寺ZN101と同笵であることを確認します。セットの扁行唐草文軒平瓦も瓦の右肩の木型傷などからZN203Bと同笵であるあることを確認します。田村廃寺には軒丸瓦と軒平瓦がセットで、善通寺(佐伯氏)から提供されていたことになります。
 善通寺や仲村廃寺建立の際の窯跡で焼かれた瓦が製品として提供されたのか、木型だけが提供されたかは分かりません。私は製品を提供したと推察します。善通寺の瓦工人集団に、引き続いて、田村廃寺の瓦を焼く依頼が造営氏族(因首氏?)からあったという説です。
  ちなみに善通寺(佐伯氏)から提供された同笵瓦は、第Ⅱ期工事に使われたものとされます。金堂は別の瓦が作られ、その後に建築された塔に使用されたと考えられます。
善通寺・弘安寺の同笵関係
善通寺と同笵瓦の関係

善通寺と田村廃寺で使われた木型の痕跡は、四国中央市の一貫田地区にも残されています。
1978年に伊予三島市下柏町一貫田地区の土塁の中から軒丸瓦の小片が発見され、松柏公民館に保管されてきました。それが2001(平成13年)に伊予三島市で採取されていた瓦が同笵関係にあることが確認されました。研究者は実際に手にとって、善通寺瓦と蓮子、間弁の位置関係を比較し、同笵品であると結論づけます。一貫田地区には古代寺院があったとされますが、本来の出土地(遺跡)は分かりません。讃岐の善通寺と田村廃寺で使われた型木が、工人たちとともに移動し、四国中央市での古代寺院建立に使われたとしておきましょう。

秦泉寺廃寺21

次に同笵型木が使用されたのが土佐の秦泉寺(じんぜんじ)廃寺です
秦泉寺は、寺名から秦氏が造営氏族だったことがうかがえます。創建は、出土した軒瓦から飛鳥時代末(白鳳期)の7世紀末葉頃とされ、土佐最古級に位置づけられる古代寺院になります。発掘調査では伽藍遺構は分かっていませんが、創建瓦の一部は、阿波立善寺と同笵なので、阿波の海沿いルート「海の南海道」からの仏教文化の導入がうかがえます。
 寺域の西約4㎞には土佐神社や土佐郡衙推定地があるので、土佐郡の政治拠点と想定されます。
また、寺域周辺では、吉弘古墳をはじめとする秦泉寺古墳群があって、6世紀頃から古代豪族の拠点だったことが分かります。この勢力が寺院建立の造営氏族だったのでしょう。また古代の海岸線を復元すると、寺域南側の約200mの愛宕山付近までは海で、愛宕山西側の入江を港(大津・小津に対して「中津」と称された)として、水運活動も活発に行っていたようです。
秦泉寺廃寺1
浦戸湾の地形復元図 古代の秦泉寺廃寺は海に面していた
 
秦泉寺の造営氏族について、報告書は次のように記します。
当寺院跡の所在する高知市中秦泉寺周辺は、古くから「秦地区」と呼称されている。「秦」は「はだ」と奈良朝の音で訓まれている。土佐と古代氏族秦氏との関連は早くから論議されているため省略するが、秦泉寺廃寺跡の退化形式の軒丸瓦が採集されている春野町大寺廃寺跡は吾川郡に属し、『正倉院南倉大幡残決』のなかに「天平勝宝七歳十月」「郡司擬少領」として「秦勝国方」の名が記され、秦泉寺廃寺跡と大寺廃寺跡は秦氏の建立による寺院跡であることが推定されている。秦泉寺廃寺跡を建立した有力氏族として秦氏を候補に挙げることについては賛同したい。
 なお、秦氏だけが寺院跡建立に関与した有力氏族であったのかは不明で、秦姓の同族や出自を同じくする別姓氏族・同系列氏族の存在を勘案することも必要ではないかと考える。ここでは、秦氏などの在地有力氏族によって秦泉寺廃寺跡・大寺廃寺跡などが建立されたことを考えておきたい。 
  報告書も造営氏族の第1候補は、秦氏を考えています。
比江廃寺跡・秦泉寺跡からは,百済系の素弁蓮華文軒丸瓦や,顎面施文をもつ重弧文軒平瓦など,朝鮮系瓦が数多く出土しています。これも前回見た但馬の三宅廃寺と共通する点です。浦戸湾周辺を拠点とする勢力が朝鮮半島や,日本列島内で朝鮮半島からの影響が強い地域と交流を行っていたことがうかがえます。
岡本健児氏は『ものがたり考古学』の中で、比江廃寺や秦泉寺廃寺の特徴を、次のように述べています。
「藤原宮や平城京式の影響が全くと言ってよいほど認められない」
「土佐国司の初見は『続日本紀』天平十五年(743年)六月三十日の引田朝臣虫麻呂の登場を待たなければならず、8世紀初頭の段階では、土佐はまだ大和朝廷の影響下に浴してはいなかった。
 ここに指摘されているように、秦泉寺廃寺のもうひとつの特徴は、中央からの瓦の伝播があまり見られないようです。地方色が強く、非中央的な性格と云えるようです。ここにも中央に頼らなくても独自の海上交易路で、寺院建立のための人とモノを準備できる秦氏の影が見えてきます。
 秦泉寺廃寺跡からは平安時代前期頃以後には、新たな瓦は見つからないので改修工事が行われなくなり、廃絶したと推定されます。

平成12年度の発掘調査で、善通寺と同笵の16弁細単弁蓮花文軒丸瓦、扁行唐草計平瓦が出土しました。
  もう一度、傷の入った軒丸瓦を見てみましょう。
善通寺同笵瓦 傷の進行

木目に沿うように大きく3本の傷があります。これが善通寺と同笵であることの決め手の傷です。同時に軒平瓦も善通寺と同笵のものがあり、「包み込み技法」という善通寺と独自技法が使われています。そのため型木だけが移動したのではなく、瓦工人集団も善通寺から土佐にやってきたと研究者は考えているようです。
 このように見てくると、善通寺側に主導権があるように思えます。善通寺(佐伯直氏)が、まんのう町の弘安寺や丸亀の田村廃寺へ瓦を提供し、土佐の秦泉寺廃寺には型木や瓦工人を派遣する地方の「技術拠点」という見方です。ところが、秦泉寺廃寺は技術受容だけでなく、送り手でもあったことが分かっています。秦泉寺廃寺と同じ同笵瓦を使用した寺院がいくつかあるようです。
秦泉寺廃寺3


 これをどう考えればいいのでしょうか。
  私は善通寺の造営者である佐伯氏の技術力とネットワークを示すものと考えていました。佐伯氏が善通寺造営の際に編成した工人集団を管理し、友好関係にある周辺有力者の寺院建立を支援していたという見方です。
 しかし、見方を変えると寺院造営集団「秦氏カンパニー」の出張工事とも思えてきました。
①秦氏が寺院建立の工人集団を掌握し、佐伯氏からの求めに応じて、善通寺造営に派遣した。
②仲村廃寺や善通寺の姿を見せると、周辺豪族からも寺院建立依頼が舞い込み、設計施工を行った。
③秦氏の瓦工人は、持参した型木(善通寺で製作?)で仲村廃寺・善通寺・弘安寺・田村廃寺の瓦を焼いた。
④丸亀平野での造営が一段落すると、土佐で最初の寺院造営を一族の秦氏がおこなうことになり、お呼びがかかり、そこに出向くことになった。
⑤その際に、善通寺や田村廃寺の軒丸瓦の型木も持参した。しかし、使い古された型木で作った瓦には何カ所もの傷があり、施主の評価はいまひとつであった。
⑥土佐でも、新たな寺院造営の設計施工を依頼された。その際には、土佐で新たに作った型木を用いた。
このような秦氏に代表されるような渡来系の工人グループの動きの方に主導権があったのではないかと思うようになりました。当時は白村江敗戦で朝鮮半島からの渡来人が大量にやってきた時代です。彼らの中の土木・建築技術者は、城山や屋島などの朝鮮式山城の設計築城にあたりました。南海道や条里制施行の工事を行ったのも彼らの技術なしでは出来ることではありません。同時に、この時期の地方豪族の流行が「氏寺造営」でした。それに技術的に応えたのが秦氏の下で組織されていた寺院造営集団であったという粗筋です。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」
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天日槍(あめのひぼこ)を祭る出石神社の流域を流れるのが円山川です。その支流・穴見川沿いの三宅集落に慈等寺があります。この寺の下の斜面が三宅廃寺跡になります。すぐ近くには、式内社の大壬生部兵主(おおみぶべひょうず)神社や中嶋神社が鎮座しています。渡来系秦氏の痕跡が色濃く残る地域です。
 三宅廃寺は田嶋守の末裔として但馬国造家を名乗る三宅氏によって建立された寺院で、この地域では最も古い白鳳寺院と位置づけられています。発掘調査によって、隣接する西側の山斜面から瓦窯が発見され、他地域の寺院との瓦の比較ができる貴重な資料を提供してくれます。
善通寺との関連 三宅廃止の瓦
但馬国府・国分寺館ニュースより

但馬地方の古代瓦と同笵関係にあるものや、コピーされたと考えられるものがいくつも見つかっています。例えば、海を越えた新羅のデザインがストレートに持ち込まれているものがあります。また前回に見たまんのう町の弘安寺跡から出てきた瓦と、よく似たものが三宅廃寺からも出てきています。
善通寺との関連 三宅廃止の瓦2

但馬の古代寺院は中央や畿内からも影響を受けていますが、新羅や讃岐からの影響も受けているようです。つまり、「中央から地方へ」だけでなく「地方同士の交流」が頻繁に行われていたことがうかがえます。これは中央中心に語られていた古代史に、別の視点を与えてくれます。瓦を通じた交流については、その背後には、秦部氏の存在が見え隠れします。今回は弘安寺の瓦と但馬三宅廃寺の瓦を比較していくことにします。
テキストは   蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。

三宅廃寺の軒丸瓦の中に無文の外区の中に、弁端の丸い9枚の単弁を飾るものがあります。
善通寺との関連 三宅廃寺の瓦3

この瓦は畿内の大寺院の系譜ではなく、地方起源とされてきましたが、その起源がどこかは分かりませんでした。それが讃岐からの影響を受けた瓦であることが分かってきました。
善通寺との関連 三宅廃寺の瓦4
左2つが三宅廃寺、右が徳島県の郡里廃寺(立光寺)のもの
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦

まんのう町弘安寺の瓦で郡里廃寺と同笵瓦
三宅廃寺とまんのう町弘安寺の瓦の比較を行うと、弁の数が違いますので一目見て同笵ではないのは分かります。しかし、両者の間には断面形状や細部に共通点があると研究者は考えます。それを踏まえた上で、三宅廃寺の瓦が讃岐起源であることを指摘したのが上原真人氏です。
上原氏は讃岐極楽寺や弘安寺の細単弁軒丸瓦と三宅廃寺の関係を次のように指摘します。
①蓮子の配列
蓮子は2列もしくは3列に同心円状に配されることが多いが、 2つの型式は、方形あるいは格子状に配されるという特徴を持つ。
②花弁形状
 単弁に分類されるが、弁端の丸い花弁は中心が窪み、そこに端の九い子葉を一本配するもので、この時期に最も一般的な単弁形式である山田寺式とは異なり、弁の形状は川原寺式軒丸瓦の複弁を2つに分割したものに近い。
③間弁の形状
 間弁の両端は互いに連結して弁区を取り巻く形になっており、外側に傾斜して外区を形成する。鋸歯文を巡らせる場合は、この外区に大柄な文様を巡らせる。
④周緑の形状・・・・間弁の外周に低い平縁を巡らす。
⑤氾の立体感。・・・抱全体が凹凸の激しい作りとなっている。
⑥圏線の省略・・・・蓮子周環、中房圏線等の細部の作りを省略している。
以上から三宅廃寺と弘安寺の瓦は、どちらも川原寺式軒瓦の系譜から派生した単弁形式がベースにあると指摘します。さらに次のように述べています。

「祖型以来の花弁の印象をよく残している反面、細部の造りには省略が見られる」

 実際の木型製作過程では、造瓦工人の手間を減らすために省略が行われたというのです。周縁部や蓮子の配列は特徴的で、木型制作者とその工人集団の個性がうかがえるようです。それでは、この「省略」がおこなわれたのは、どこの工房なのでしょうか?

軒丸瓦の系譜関係を整理したのが下の第17図です。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺起源の軒丸瓦の系譜図

横軸X形式の変遷について、次のように研究者は次のように述べています。
①善通寺(KA101A)は川原寺式以降の複弁8弁蓮華文に花弁を分割して単弁16弁としたもので、3重の蓮子配列、三角縁の鋸歯文などは、その名残りである
②Xl(KA101A他)の蓮子を省略してX2(KA101B他)が作られた。
③X2の花弁内の子葉省略してX3(ZN101他)が連続的に作り出された
④X ll(TM105)については、X1~3の変化と比べると、蓮子数の減少、弁数の減少(15弁)など原型式との落差が大きく、田村廃寺の中でX3をもとにして作られた
縦軸Yについては
①Y1(KA102、GK101他)についてはXlの要素を改変して作り出したとする方向
②Y2(GK102他)がまず存在し、Xlの要素を取り入れて作り出した
どちらにしてもYlが作られた後、これを省略してY3(三宅廃寺出土瓦)につながっていくという流れになります。讃岐の軒丸瓦が但馬の三宅廃寺に影響を与えていることになります。

XY両形式ともに、Xl~X3、Y1.Y3には、形式の変化に次のような一定の規則性があります
①氾(木型)が連続的に変化する型式群
②文様の変化が固有の寺院内でのみ起きる形式群
これらの変化には、背後に改作した工人グルーの存在がうかがえます。
①は広い範囲での生産活動を念頭に置いて、組織的かつ継続に仕える木型が作られた
②は、①がもたらされた寺院で、そのコピー版瓦が作られた
次に研究者は、①のベースとなった木型を製作した拠点瓦窯がどこにあったを推測します。
①の工人をかかえる地域(寺院)を、X1とY1の両方の形式を持つまんのう町の弘安寺がまず候補に挙げます。さらに後継の型式を引き継ぎ、周辺寺院や瓦窯に瓦製品供給や、氾の提供を行なったことが確認できる善通寺と仲村廃寺を加えて、この3ヶ寺がグループのが丸亀平野の瓦工房の核であると研究者は指摘します。
善通寺の軒平瓦系譜
善通寺起源の平瓦の系譜
 同じように軒平瓦の展開系譜について見てみても善通寺、仲村廃寺の軒丸瓦だけが、扁行唐草文軒平瓦との共伴します。この2カ寺で、他寺に先がけて扁行唐草文形式が登場しています。ここからは平瓦の製造でも、善通寺を中心とする佐伯氏周辺の工人たちの活動が先行していたことがうかがえます。

善通寺の木型は他の寺院建立に貸し出された
善通寺・仲村廃寺グループが最初に使用した軒平瓦ZN203の木型は、 各地の寺や工房に貸し出されています。この木型は、奈良時代以降のものとされる善通寺出土の瓦と同笵の均正唐草文様平瓦で、土佐山田町の加茂ハイタノクボ遺跡からも出土しているので、その後もかなり長い期間にわたっていろいろな所を移動していることがうかがえます。
さらに、木型だけでなく工人も移動していたと研究者は考えているようです。
善通寺、仲村廃寺での瓦製造が最も早く、善通寺周辺を中心に工人集団の活動は継続します。その一方で、木枠を持って、各地へ出造りに赴いたと研究者は考えています。その裏付けは次回にするとして・・

 このように佐伯氏の元に工人集団が組織され、いくつもの木型が作られ、それがスットクされ、求めに応じて木型だけでなく工人の派遣にまで応じる体制ができていたことが浮かび上がってきます。中央からの技術提供や工人派遣という道だけでなく、当時の地方有力者は一族意識や地縁関係などで遠くの集団とも結びつき、人とモノとのやりとりを行っていたことが分かります。
 そのための交易路や航路を通じて、交易なども活発におこなわれていたことが推測できます。
 佐伯氏は、外港として多度津白方を交易港として瀬戸内海交易を活発に行っていた気配があることは以前にお話ししました。佐伯氏の財力の多くが、その瀬戸内海交易に支えられていたと考える研究者もいます。寺院建立に関する関係技術やノウハウも、佐伯氏の「交易品」の一部であったのかもしれないと私は考えています。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは  蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。
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まんのう町弘安寺廃寺から出てきた白鳳期の軒丸瓦は、同じ木型(同笵)からつくられたものが次の3つの古代寺院から見つかっています。
① 阿波国美馬郡郡里廃寺
②さぬき市極楽寺
③さぬき市上高岡廃寺
弘安寺軒丸瓦の同氾
阿波立光寺が郡里廃寺のこと

上図を見れば分かるとおり、同笵瓦ですから同じデザイン文様で、同じおおきさです。ひとつの木型(同笵)が4つの寺院の間を移動し、使い回されてことになります。研究者が実際に手に取り比べると、傷の有無や摩耗度などから木型が使われた順番まで分かるようです。
 木型の使用順番について、次のように研究者は考えています。
①弘安寺の丸瓦がもっとも立体感があり、ついで郡里廃寺例となり、極楽寺の瓦は平面的になっている。
②彫りの深さを引き出しているのは弘安寺と郡里廃寺である
③さらに、両者を比べると郡里廃寺の瓦の方が蓮子や花弁がやや膨らんでおり、微妙に木型を彫り整えている。
以上から弘安寺 → 郡里廃寺 → 極楽寺の順で木型が使用されたと研究者は推測します。

この木型がどのようにしてまんのう町にもたらされて、どこの瓦窯で焼かれたのかなど興味は尽きませんが、それに応える史料はありません。
まずは各寺の同笵の白鳳瓦を見ていきましょう
弘安寺出土の白鳳瓦(KA102)は、表面採取されたもので、その特長は、立体感と端々の鋭角的な作りが際立っていて、木型の特徴をよく引き出していることと、胎土が細かく、青灰色によく焼き締められていることだと研究者は指摘します。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦

③ 郡里廃寺(立光寺)出土の同版瓦について、研究者は次のように述べています。
「細部の加工が行き届いており、木型の持つ立体感をよく引き出している、丁寧な造りである。胎土は細かく、焼きは良質な還元焼成、色調は灰白色であった。」
弘安寺同笵瓦 郡里廃寺
      阿波美馬の郡里廃寺の瓦 上側中央が同笵

  まんのう町の弘安寺廃寺で使われた瓦の木型が、どうして讃岐山脈を越えて美馬町の郡里廃寺ににもたらされたのでしょうか。そこには、古代寺院建立者同士の何らかのつながりがあったはずです。どんな関係で結ばれていたのでしょうか。
徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ

  郡里廃寺の近くには、終末期の横穴式古墳群があります。
これが郡里廃寺の造営者の系譜につながると考えられてきました。さらに、その古墳が段ノ塚穴型石室と呼ばれ、美馬地域独特のタイプの石室です。墓は集団によって、差異がみられるものです。逆に墓のちがいは、氏族集団のちがいともいえます。つまり、美馬地方には阿波の中で独特の氏族集団がいたことがうかがえます。

段の塚穴

この横穴式石室の違いから阿波三国説が唱えられてきたようです。
律令にみられる粟・長の国以外に美馬郡周辺に一つの国があったのではないかというのです。段ノ塚穴は、王国の首長墓にふさわしい古墳なのです。
 しかし、美馬郡周辺のことは古代の阿波の記録にほとんど登場しません。東に隣接する麻植郡とは大きなちがいです。麻植郡は阿波忌部氏の本拠地として、たびたび登場します。しかし、横穴式石室では,規模,築造数などから美馬郡の方がはるかに凌駕する質と量をもっています。そういう意味では、 段ノ塚穴型石室は大和朝廷とはあまり関係のない一つの氏族集団の墓だったのかもしれません。ところが、その勢力が阿波最古の寺院である郡里廃寺を建立するのです。中央との関係が薄いとされる氏族が、どのようにして建立したのでしょうか。また、造営したのは、どんな氏族なのでしょうか?
この寺の造営氏族については次の2つの説があるようです。
①播磨氏との関連で、播磨国の針間(播磨)別佐伯直氏が移住してきたとする説
②もうひとつは、讃岐多度郡の佐伯氏が移住したとする説
  どちらにしても佐伯氏の氏寺だとされているようです。
ある研究者は、古墳時代前期以来の阿讃両国の文化の交流についても触れ、次のような仮説を出しています。
「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

 美馬の古代文明が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。
『播磨国風土記』によれば播磨国と讃岐国との海を越えての交流は、古くから盛んであったことが記されています。出身が讃岐であるにしろ、播磨であるにしろ、3国の間に交流があり、讃岐の佐伯氏が讃岐山脈を越えて移住し、この地に落ちついたという説です。
 これにはびっくりしました。今までは、阿波の忌部氏が讃岐に進出し、観音寺の粟井神社周辺や、善通寺の大麻神社周辺を開発したというのが定説のように語られていました。阿波勢力の讃岐進出という視点で見ていたのが、讃岐勢力の阿波進出という方向性もあったのかと、私は少し戸惑っています。
 しかし前回、まんのう町の弘安寺廃寺が丸亀平野南部の水源管理と辺境開発センターとして佐伯氏によって建立されたという説をお話ししました。その仮説が正しいとすれば、弘安寺と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 郡里廃寺は、段の塚穴型古墳文化圏に建立された寺院です。
美馬郡の佐伯氏が讃岐の佐伯氏と、同族としての意識された氏族同士であり、古墳時代以降連綿と交流が続けられてきた氏族であるとすれば、阿波で最初の寺院建立に讃岐の佐伯氏が協力したとも考えられます。
 極楽寺は、さぬき市寒川町石田にあって、寒川郡や大内郡の有力な氏族であった讃岐氏の建立した寺院とされています。
讃岐氏は、このお寺以外にも石井廃寺、願興寺、白鳥廃寺などを建立したとされ、一族の活発な活動がうかがえます。発掘調査によって、単弁蓮花文軒丸瓦6型式が出土していますが。その中のGK101はGK102とともに初期のモデルのようです。
研究者は次のように指摘します。
「他寺の同笵瓦と比べると、平板的で粘土の抜きが十分でなく、 しかも間弁の部分では撫でて整えた印象があります。胎土には石英粒が混じっていて、須恵質の堅い焼き」

弘安寺同笵瓦関係図
弘安寺と同笵瓦の関係図

以上からは同笵の木型は、弘安寺で最初に使われ阿波郡里廃寺から
さぬき市の極楽寺へと伝わっていったことになります。それでは、弘安寺で木型が作られたのでしょうか? それだけの先進性を弘安寺は持っていたのでしょうか? 研究者は、そうは考えないようです。
上の図で弘安寺の瓦に先行する善通寺の瓦を見て下さい。同笵ではありませんが、共通点も多いようです。弁の数を減らし省略化し、製造方法を簡略化したモノが弘安寺の瓦だと研究者は考えています。つまり、この木型が作ったのは善通寺造営に関わった集団だったというのです。善通寺の瓦を祖型とする系譜を研究者は次のような図で表しています。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
ここからは善通寺が丸亀平野や東讃の古代寺院建立に、技術提供する立場にあったことが分かります。同時に瓦の木型を提供された側には、善通寺の造営者の佐伯氏との間に、なんらかの「友好関係」や「一族関係」があったことがうかがえます。
それでは、木型を提供した佐伯氏と提供された豪族間の緊密な関係は、どのようにして生まれたのでしょうか?
佐伯氏と因支氏等の場合は、多度郡と那珂郡というお隣関係で、丸亀平野一帯の開発や金倉川の治水・灌漑めぐる日常的な利害の中から生まれてきたものなのでしょう。それが、まんのう町への弘安寺建立になった可能性はあります。
東讃の讃岐氏などの旧国造家とされる有力氏族との関係は、前代以来連綿と続いた様々な交渉事の結果と推測できます。彼らは、白村江の敗北後の危機感の中で、屋島寺や城山の築城や南海道建設など、共通の目標に向けて仕事を進める立場に置かれました。その中で対立から協調・協力関係へと進んだ豪族たちも出てきたのではないでしょうか。
 阿波郡里廃寺の造営主体と見られる佐伯氏については、同族関係に加え、両地域の間で、弥生から古墳時代を通じて文化的交流がさかんであったことが挙げられます。

白鳳から奈良時代前期にかけての時期は、各地で寺院の建立が活発化した時代です。
 高い技術を必要とする造寺造仏のための人材や資材を、地方の造営氏族が自前で準備し、調達できたとは研究者は考えません。確かに飛鳥時代は、蘇我本宗家や上宮王家などに代表される政権中枢の有力氏族の下にだけ技術者集団が独占的に組織され、その支援がなければ寺院の建立はできませんでした。そのためかつては、瓦のデザインだけで有力豪族や有力寺院とのつながりを類推することに終始していた時代がありました。例えば、法隆寺で使われた瓦と同じデザインの瓦が故郷の寺院で用いられていることが、郷土愛を刺激した時代があったのです。
 しかし、7世紀中葉から8世紀初頭のわずか半世紀の間に400カ寺もの白鳳寺院が建立された背景には、 もっと複雑で多元的な動員の形態があったと研究者は考えるようになっています。 
 藤原京に建立された小山廃寺の造営に際しての動員について、近江俊秀氏は次のように指摘します。

瓦工は供給する建物単位で組織され、量の生産とともに解体される。さらに、個々の瓦工は同時期に生産を行なうのではなく、伽藍の造営順に従って、時期を違えて生産を行なうとしている。自前の工人が専従で造営に携わるので.建てものごとの速やかな動員によって建立がなった

これは多くの寺が密集し、幾通りもの工人集団が存在した畿内だからできたことです。地方豪族の佐伯氏が小山廃寺のようなスケールで工人を招集し、造営ができたとは思えません。しかし、善通寺周辺の工人の動向からは、地方にも工人や資材を準備し、供給する機能が整備されてきていたと研究者は考えています。瓦などの木型をはじめ供給する側と、される側の独自の繋がりのなかで地方寺院の建立が行われていたようです。
 もう少し具体的に云うと善通寺を建立した佐伯氏は、その時に蓄積した寺院建立技術を周辺の一族や有力豪族にも提供したということです。その木型が弘安寺 → 阿波の郡里廃寺 → 東讃の極楽寺などに提供され、使い回されたということでしょう。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで一      香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年
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 前回は、文献史料で弘安寺のことを知ることが難しいことを確認しました。弘安寺廃寺に迫るために残されたモノは、礎石と心礎跡と古代瓦の3つです。現在の考古学は、これらを材料にどのように迫っていくのかを追いかけて見たいと思います。テキストは「蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です。

発掘調査報告書で最初に示されるのは、「周辺遺跡」と「復元地形」です。弘安寺周辺の遺跡を見てみましょう。

弘安寺周辺地遺跡図

①土器川を越えた東側に安造田古墳群があります。
この古墳群は後期古墳(6世紀代)に作られたものです。その中で「日本唯一のモザイク玉」が出土した安造田東3号墳は、6世紀末の飛鳥時代にできた短い前方部を持つ帆立貝式古墳です。
安造田三号墳モザイク玉調査報告会(まんのう町) - 善通寺市ホームページ
安造田東3号墳のモザイク玉
 
古代寺院の近くには、終末期の大型横穴式石室を持つ古墳がある場合が多いようです。例えば、善通寺王国では、大墓山古墳や菊塚古墳のように古墳後期の大型石室をもつ古墳を造営していた有力豪族(佐伯直氏)が、7世紀半ば以後に古代寺院を建立し始めます。
安造田東3号墳の調査報告書は、次のように記します。

古代における人々の活躍の場は、古墳や古代寺院の分布が示すように、九亀平野では満濃町北部が最奥とみられる。当地域には大規模な古墳の築造は行われておらず、弘安寺が羽間から長炭周辺に小規模な群集墳を築いた集団によつて建立されたと考えれば、この寺院の成り立ちは、この地の古代史を知る上で非常に興味深い。

  安造田東3号墳を造営した氏族集団が、弘安寺を建立したと考えているようです。しかし、古代寺院を建立するにしては、安造田東3号墳をはじめとする首長墓は小型です。 この財力でほんまに氏寺を建てられるのか?という疑問が私には残ります。
善通寺、仲村廃寺の周辺には、王墓山や菊塚古墳のような横穴式石室を持つ後期の大型首長墓があります。しかし、ここでは 安造田古墳群の延長線上に白鳳寺院の建立や、郡領氏族の形成が行なわれたというエリアではないようです。

 研究者が注目するのが古墳時代後期の集落跡、吉野下秀石遺跡です。
員 嚇 ・0 委 け

この遺跡は、国道32号線の満濃バイパス工事の際に発掘された遺跡で、弘安寺の東500mに位置します。この遺跡からは、出土した14棟の竪穴住居の全てに竃があるという統一性が見られ、時期は「古墳時代後期後半の極めて限られた時期」とされます。つまり、6世紀後半の短期間に立ち並んだ規格性の強い住居群ということです。この時期、地域の開発がにわかに活発化したことがうかがえます。同時に、時期的には安造田東3号墳の造営と重なります。
 吉野下秀石集落遺跡=6世紀後半の土器川氾濫原の開発集団で、彼らのリーダーが日本唯一のモザイク玉」を持って眠っていた安造田東3号墳の首長というストーリーは描けそうです。急速な開発と変革がこの地で起こっていたとしておきましょう。

開発という視点から、 もう少し弘安寺の立地を考えてみよう
考古学的手法では「復元地形」を用います。つまり、当時の地形がどんなものであったのかを地質図などで復元するのです。そのセオリーに従って、地質図を見ると次のようなことが分かります。

弘安寺周辺地質図2
弘安寺廃寺周辺の旧河川跡
①土器川が、木崎を扇頂に扇状地を形成し、吉野には網状河川が幾筋にも流れている。
②吉野は土器川の氾濫原で、洪水時には遊水池で低湿地地帯であった。
③弘安寺は土器川の氾濫原の西側の扇状地上の微髙地に立地している。
土器川が吉野地区に湾入していた痕跡を現場で見てみましょう。
 丸亀市方面からほぼ真っ直ぐに南下してきた県道「善通寺ー満濃線」は、マルナカまんのう店付近で東へ大きく屈曲するようになります。これが旧土器川が西側へ湾入した流路のうちの、最もわかりやすい痕跡だと報告書は指摘します。それを裏付ける地名が「吉野」で「葦の野」 (湿地帯)だとします。また、この屈曲箇所付近に 「川滝」の地名があります。これも河川があったことをうかわせます。さらに、旧吉野小学校南側の県道の道路敷は蛇行しています。これも土器川の流路であったことを示すものだと研究者は考えているようです。
 以上をまとめておくと「吉野」は「葦の野」で、洪水時には土器川の流路のひとつが流れ込み遊水池状態で湿地であったとしておきます。
次に金倉川を見ておきましょう。
 「カレンズ」ベーカリーの南に「水戸」があり、現在はここが満濃池用水の取水口となっています。金倉川の本流は、ここで大きく南西方へ直角に曲げられて象頭山方向に向かいます。一方、満濃池用水(旧支流)は直進して、満濃中学校の西側を通過した後に、祓川橋付近で土器川に近接するか、あるいは満濃中学校の南約250mから西へ湾流する状態を示しています。ここからは、、金倉川も土器川の吉野の湾入地域に流れ込んでいたことがうかがえます。つまり、吉野エリアは土器川と金倉川の二つの川の遊水池のような状態だったことになります。 このように吉野は、ふたつの川の影響を強く受けた地域で「葦の野」であったことがうかがえます。

吉野下秀石遺跡周辺は、条里制にもとずく規格性のある土地区画が試みられた痕跡が見られます。
旧満濃町役場西側の県道満濃善通寺線を基軸として、東方へ約200m間隔で設けられた直線状の土地区画が読み取れます。ただし、南北方向の区画線が不整いです。ここからは、吉野の条里制工事は開始されたが完成に至らなかったと研究者は考えているようです。
吉野下秀石遺跡報告書は次のように記します。
「本遺跡周辺は土地条件に恵まれた地域とは言い難く、むしろ大規模な耕地開発にはより多大な労力を要する地域」そのため
条里地割分布域の縁辺部に位置する」


弘安寺周辺の条里制復元図を見てみましょう。
弘安寺周辺条里制

これを先ほどの地質図と重ね合わせて見てみると次のようなことが分かります。
①土器川の氾濫原・遊水池である吉野エリアは条里制施行は施行されていない。
②ただ吉野地区にも条里制施行の痕跡は認められる。
③条里制が施行されているのは、四条エリアでその周辺縁に弘安寺は立地している。
④弘安寺は、四条や吉野の開発拠点に建立された寺院である。
先ほど見た吉野下秀石遺跡は、6世紀後半に開発が始まっていますが、7世紀末になって行われた条里制施行エリアには入れられていません。土器川の氾濫原の開発は、なかなか難しかったようです。吉野下秀石遺跡の西方約500mある弘安寺も、これとよく似た立地条件が類推ができると研究者は考えています。

弘安寺周辺を現在の丸亀平野の灌漑システムの視点から見てみましょう。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
③が吉野の水戸 満濃池用水の金倉川からの取水口
弘安寺は④の周辺

江戸時代の満濃池用水路を見ると、先ほど見た吉野の水戸が金倉川からの丸亀平野への取水口として重要な役割を果たしていることが分かります。近世の西嶋八兵衛の満濃池再建工事は、「満濃池築造 + 土器川・金倉川の治水工事(ルート変更と固定化) + 用水路網整備」の3つがセットで行われています。古代に満濃池が作られたとしたら同じような課題が、立ちはだかったはずです。満濃池の築造と灌漑網整備はセットなのです。いわば「古代丸亀平野総合開発」なのです。それを古代において後押ししたのは、国の進める条里制施行でしょう。
満濃池 水戸大横井
近世の水戸の取水口 手前が金倉川本流 向こう側が満濃池分水

 古代において、開発が早くから進んだ弘田川、金倉川流域では、しばしば氾濫に見舞われていたことが発掘調査からも分かってきました。これを押さえるためには、金倉川の水量調節が