瀬戸の島から

カテゴリ: 讃岐近代史

暗夜行路

第一世界大戦の前年の1913(大正2)年2月、志賀直哉は尾道から船で、多度津港へ上陸し、琴平・高松・屋島を旅行しています。

そのころの直哉は、父親との不仲から尾道で一人住しをしていました。30歳だった彼は、次のように記します。

『二月、長篇の草稿二百枚に達す。気分転換のため琴平、高松、屋島を旅行』

この旅行を基に書かれたのが「暗夜行路」前編の第2の4です。この中で、主人公(時任謙作)は、尾道から船で多度津にやってきます。「暗夜行路」は私小説ではありませんが、小説の主人公の讃岐路は、ほぼ事実に近いと研究者は考えています。今回は、暗夜航路に描かれた多度津を当時の写真や資料で再現してみたいと思います。
瀬戸内商船航路案内.2JPG

まず、暗夜行路に描かれている多度津の部分を見ておきましょう。
「①多度津の波止場には波が打ちつけていた。②波止場のなかには達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。
 謙作は誰よりも先に桟橋へ下りた。横から烈しく吹きつける風の中を彼は急ぎ足に歩いて行った。③丁度汐が引いていて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になっていた。それを登って行くと、上から、その船に乗る団体の婆さん達が日和下駄を手に下げ、裸足で下りて来た。謙作より三四間後を先刻の商人風の男が、これも他の客から一人離れて謙作を追って急いで来た。謙作は露骨に追いつかれないようにぐんぐん歩いた。何処が停車場か分らなかったが、訊いていると其男に追いつかれそうなので、③彼はいい加減に賑やかな町の方へ急いだ。
もう其男もついて来なかった。④郵便局の前を通る時、局員の一人が暇そうな顔をして窓から首を出していた。それに訊いて、⑤直ぐ近い停車場へ行った。
 ⑥停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えていた。其処に二十分程待つと、⑦普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。」
多度津について触れているのは、これだけです。この記述に基づいて桟橋から駅までの当時の光景(文中番号①~⑦)を、見ていくことにします。
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多度津港出帆案内(1955年) 鞆・尾道への定期便もある

①多度津の波止場には波が打ちつけていた。
前回に見たように、明治の多度津は大阪商船の定期船がいくつも寄港していました。多度津は高松をしのぐ「四国の玄関」的な港でした。多度津港にいけば「船はどこにもでている」とまで云われたようです。中世塩飽の廻船の伝統を受け継ぐ港とも云えるかも知れません。
 
 瀬戸内海航路図2
瀬戸内商船の航路図(予讃線・山陽線開通後)
多度津港は尾道や福山・鞆など備後や安芸の港とも、定期船で結ばれていました。当時、尾道で生活していた志賀直哉は、精神的にも落ち込むことが多かったようで、気分転換に多度津行きの定期船に飛び乗ったとしておきましょう。

尾道港
尾道港(昭和初期)
 尾道からの定期船は、どんな船だったのでしょうか?

1920年 多度津桟橋の尾道航路船
 1920(大正8)年に多度津駅内の売店で売られていた絵はがきです。多度津桟橋に停泊する二艘の客船が写されています。前側の船をよく見ると「をのみち丸」と船名が見えます。こんな船で、志賀直哉は多度津にやってきたようです。

 多度津の波止場は、日露戦争後に改修されたばかりでした。
天保時代に作られた多度津湛甫の外側に外港を造って、そこに桟橋を延ばして、大型船も横付けできるようになっていました。平面図と写真で、当時の多度津港を見ておきましょう。
1911年多度津港
明治末に改修された多度津 旧湛甫の外側に外港を設け桟橋設置

暗夜行路には「②波止場のなかには達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。」と記します。

1911年多度津港 新港工事
外港の工事中写真 旧湛甫には和船が数多く停泊している

 旅客船が汽船化するのは明治初期ですが、瀬戸内海では小型貨物船は大正になっても和船が根強く活躍していたことは以前にお話ししました。第一次大戦前年になっても、多度津港には和船が数多く停泊していたことが裏付けられます。

1920年 多度津港
多度津港(1920年頃 東浜の埋立地に家が建っている)
 1920(大正8)年に多度津駅内の売店で売られていた絵はがきです。
暗夜行路③「丁度汐が引いていて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になっていた。」

多度津外港の桟橋2
多度津外港の浮き桟橋 引き潮時には、堤防には急な坂となる
浮き桟橋から一文字堤防への坂を登って、東突堤の付け根から東浜の桜川沿いの道を急ぎ足であるいて、郵便局までやってきます。

多度津港 グーグル
現在の旧桟橋と旧多度津駅周辺

郵便局は商工会議所の隣に、現在地もあります。このあたりは、ずらりと旅館が軒を並べて客を引いていたようです。
多度津在郷風土記
「在郷風土記 鎌田茂市著」には、次のように記します。
 大玄関には、何々講中御指定宿などと書いた大きい金看板が何枚も吊してあり、入口には長さ2m・胴回り3mにも及ぶ大提灯がつるされ、それに、筆太く、「阿ハ亀」「なさひや」など宿屋名が書かれてあった。
 団体客などの時は莚をしいて道の方まで下駄や、ぞうりを並べてあるのを見たことがある。夕やみのせまって来る頃になると、大阪商船の赤帽が、哀調を帯びた声で「大阪・神戸、行きますエー」と言い乍ら、町筋を歩いたものである。
 また、こんな話を古老から聞いたことがある。多度津の旅館全部ではないだろうが、泊り客に、この出帆案内のふれ込みが来てから、急いで熱々の料理を出す。客は心せくのと、何しろ熱々の料理で手がつけられないので、食べずに出てしまう。後は丸もうけとなる仕組みだとか。ウソかほんとかは知らない。
 主人公は、並ぶ旅館街で郵便局の窓から顔を出していた閑そうな局員に道を尋ねています。どんな道順を教えたのかが私には気になる所です。郵便局から少し北に進むと、高松信用金庫の支店が建っています。ここには、多度津で最も名の知れた料亭旅館「花菱(びし)がありました。

花びし2
多度津駅前の「旅館回送業花菱(はなびし)

多度津に船でやって来た上客は、この旅館を利用したようです。花菱の向こうに見える2階建ての洋館が初代の多度津駅です。花菱と多度津駅の間は、どうなっていたのでしょうか?

花びし 桜川側裏口
多度津の旅館・花菱の裏側 桜川に渡船が係留されている
多度津駅側から見た花菱です。宿の前には立派な木造船(渡船)が舫われています。駅前の一等地に建つ旅館だったことがうかがえます。

多度津駅 渡船
初代多度津駅前の桜川と日露戦争出征兵士を載せた渡船(明治37年 

渡船には、兵士達がびっしりと座って乗船しています。外港ができる以前は、大型船は着岸できなかったので、多度津駅についた11師団の兵士達は、ここで渡船に乗り換えて、沖に停泊する輸送船に乗り移ったようです。「一太郎やーい」に登場する兵士達も、こんな渡船に乗って、戦場に向かったのかも知れません。

明治の多度津地図
1889年 開業当時の多度津駅周辺地図(外港はない)

 志賀直哉は、花菱の前を通って、金毘羅橋(こんぴらばし)を渡って多度津駅にやってきたようです。当時の多度津駅を見ておきましょう。
DSC00296多度津駅
初代多度津駅
初代の多度津駅は、1889年5月に琴平ー丸亀路線の開業時に建てられた洋風2階建ての建物でした。
初代多度津駅平面図
初代多度津駅平面図(右1階・左2階)
1階が駅、2階は讃岐鉄道の本社として利用されます。

P1240958初代多度津駅

P1240953 初代多度津駅
初代多度津駅復元模型(多度津町立資料館)
ここから丸亀・琴平に向けて列車が出発していきました。そして、ある意味では終着駅でもありました。
多度津駅 明治の
明治22年地図 多度津が終着駅 予讃線はまだない

P1240910 初代多度津駅

DSC00303多度津駅構内 明治30年
初代多度津駅のホーム
 志賀直哉が多度津にやって来たのは、大正2年(1913)2月でした。
この年の12月には、初代多度津駅は観音寺までの開通に伴い現在地に移転します。したがって、志賀直哉が見た当時の多度津駅は、移転直前の旧多度津駅だということになります。初代度津駅は浜多度津駅と改称され、その後に敷地は国鉄四国病院用地となり、さらに現在の町民会館(サクラート)となっています。

暗夜行路の多度津駅の部分を、もう一度見ておきましょう。
⑥停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えていた。其処に二十分程待つと、⑦普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。」

⑥からは1Fの待合室には、ストーブが盛んに燃やされていたことが分かります。「⑦普通より少し小さい汽車」というのは、讃岐鉄道の客車は「マッチ箱」と呼ばれたように、小さかったこと、機関車も、ドイツでは構内作業用に使われていた小形車が輸入されたことは以前にお話ししました。それが、国有化後も使用されていたようです。

讃岐鉄道の貴賓車
        讃岐鉄道の貴賓車
暗夜行路に登場する多度津は、尾道から金毘羅に参詣にするための乗り換え港と駅しか出てきません。しかし、そこに登場する施設は、日本が明治維新後の近代化の中で到達したひとつの位置を示しているようにも思えました。

JR多度津工場
初代多度津跡のJR多度津工場

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
ちらし寿司さんHP
https://www5b.biglobe.ne.jp/~t-kamada/
https://tkamada.web.fc2.com/
大変参考になりました。
関連記事

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約70年前(1955年)の多度津港の「出帆御案内」の時刻表です。
ここには、関西汽船と尼崎汽船の行先と出帆時刻・船名が次のように掲げられています。
①志々島・粟島  つばめ丸
②六島(備後)  光栄丸
③笠岡          三洋丸
④福山 大徳丸
⑤鞆・尾道 大長丸
⑦大阪・神戸   明石丸
⑧神戸・大阪   あかね丸
尼崎汽船は3便で
⑨笠岡      きよしま丸
⑩福山 はつしま丸
⑪瀬戸田 やまと丸(随時運航)

1955年の多度津港は、東は神戸・大阪、西は福山・鞆・尾道・瀬戸田まで航路が延びて、定期船が通っていたことが分かります。現在の三原港(広島県)や今治港(愛媛)のように、いくつも航路で瀬戸の港と結ばれていた時代があったようです。そんな時代の多度津港を今回は見ていくことにします。テキストは「多度津町誌629P  明治から大正の海運」です。
 まず幕末から明治にかけての瀬戸内海海運の動きを見ていくことにします。
 徳川幕府は、寛永12年(1625)以来、海外渡航用の大型船の建造を禁止していました。しかし幕末の相次ぐ外国船の来航に刺激されて、嘉永6年(1853)9月、大船建造の禁令を解きます。そして、各藩に対して大型船建造を奨励するとともに、外国より汽船を購入することを奨励するようになります。毛利藩が若い高杉晋作に上海へ艦船購入に行かせるのも、坂本竜馬が汽船を手に入れて、「海援隊」を組織するのも、こんな時代の背景があるようです。
 その結果、明治元年(1868)には、洋式船舶の保有数は次のようになっていました。
幕府44艘、各藩94艘、合計138艘、 1万7000トン余り

 明治維新政府にとっても商船隊の整備充実は重要政策でした。そこで、次のような措置をとります。
明治2年(1869)10月、太政官布告で個人の西洋型船舶の製造・所有を許可
明治3年(1870)1月 商船規則を公布して西洋型船舶所有者に対して特別保護を付与
1870年 築地波止場前を行く汽船
        築地波止場前を行く汽船(1870年)

このような汽船促進策の結果、明治4年3月までには、大阪だけで外国人から購入した船舶は16隻に達します。買入主は、徳島藩、広島藩、熊本藩、高知藩などの7藩、民間では大阪商人や阿波商人、土佐佐藩士岩崎弥太郎の九十九商会など数名です。これらの船は、各藩と大阪の間を往復して米穀その他の国産物を運ぶようになります。

瀬戸内海航路の汽船 1871年
瀬戸内海航路の汽船(1871年) 
こうして、大阪を起点として、各藩主導で次のような定期航路が開かれます。
大阪~徳島間
大阪~和歌山間
大阪~岡山間
大阪~多度津間
大阪~長崎間
旧高松藩主松平家も、讃岐~大阪間に金比羅丸を就航させています。
金刀比羅丸は、慶応4年ごろに高松藩が大阪藩邸の田中庄八郎に命じて神戸港で建造し、玉吉丸と命名した貨客船です。暗車(スクリュー)推進の蒸気船で、2本マストのスクーナー型で帆装し、40馬力でした。それが明治4年の廃藩置県で、香川県に引き継がれ、旧藩主の松平頼聡他2名に払い下げられます。それを金刀比羅丸と改称し、取り扱い方を田中庄八に委嘱し、大阪~神戸~高松~多度津間の航海を始めたようです。

品川沖の東京丸(三菱商船)1874年
1874年 品川沖の東京丸(三菱商会)

 この頃に、多度津では宮崎平治郎が汽船取り扱い業を開業します。そして凌波丸(木製、81屯)を購入して、大阪から岡山・高松を経て多度津に寄港し、更に鞆・尾道にまで航路を延ばしていました。その2、3年後には、大阪の川口屋清右衛門、神戸の安藤嘉左衛門と田中庄八の3人は共同して三港社を創立し、大阪の宗像市郎所有の太陽丸(木製、67トン)と飛燕丸で阪神・多度津間を定期航海を行うようになります。
 ここでは、明治初期には旧藩の所有船が民間に払い下げられて、大坂航路に投入され、瀬戸内海の各港と畿内を結ぶ航路が開けたことを押さえておきます。

横浜発の汽船 三菱商会
1875年 横浜発の汽船(三菱商会)
瀬戸内海を行き交う蒸気汽船が急増したのは、明治10年(1877)の西南の役前後からでした。
この内乱は、兵員や他の物資の輸送で海運業界に異常な好景気をもたらします。そして、次のような船会社が設立されます。
岡山の偕行会社
広島の広凌会社
丸亀の玉藻会社
淡路の淡路汽船
和歌山の明光会社、共立会社
徳島の太陽会社
この時期に新たに就航した汽船は110余隻、船主も70余名に達します。この機運の中で多度津港にも、寄港する汽船の数が急増します。明治14年ごろの大阪港からの定期船の出船状況を、まとめたものが多度津町史632Pに載せられています。

1881年 大阪発出船の寄港地一覧1
1981年 大阪出港の汽船の寄港地一覧表
ここからは次のようなことが分かります。
①大坂航路に就航していた汽船のほとんどが、多度津に寄港後に西に向かっている。
②岡山・高松よりもはるかに多度津に寄港する船の方が多かった。
③多度津には、毎日3便程度の瀬戸内海航路の汽船が寄港している
   山陽鉄道が広島まで伸びるのは、日清戦争の直前でした。
明治10年代には、瀬戸内海沿岸は鉄道で結ばれていなかったので汽船が主役でした。その中で多度津は「四国の玄関」として多くの汽船が寄港していたこと押さえておきます。
明治十年代の多度津港について『明治前期産業発達史資料』第3集 開拓使篇西南諸港報告書(明治14年)は、次のように記します。
多度津港
愛媛県下讃岐国多度郡多度津港ハ海底粘上ニシテ船舶外而水入ノ垢フ焚除スルニ使ニシテ毎年春2月ヨリ8月ニ至ルマデノ間タデ船ノ停泊スルモノ最多ク謂ハユル日本船ノドツクトモ称スベキ港ナリ又小汽船は毎月2百餘隻ノ出入アリ又冬節西風烈シキ時ハ小船ハ甚困難ノ処アリ港中深浅等ハ別紙略図ニ詳ナリ
戸数本年1月1日ノ調査千2百3拾戸 人口4千4百4拾1人 内男2千2百2拾5人 女2千2百拾6人 北海道ヨリハ鯡〆粕昆布数ノ子ノ類フ輸入シ昆布数ノ子ハ本国丸亀多度津琴平等2転売ス鯡〆粕ハ本国那珂多度三野豊田部等へ転売ス。
 物産問屋3拾9軒 問屋ハ輸入ノ物品フ預り仲買ヲシテ売捌カシムルノ習慣ナリ。 定繋出入ノ船舶3百石以下5拾5艘アリ 北海道渡航3百石以上2艘アリ(中略)
地方著名産物1ケ年輸出ノ概略ハ砂糖凡8万4千5百斤 代価凡5万7千7百5拾式円5拾銭。綿凡式万目 代価凡1万円ニシテ砂糖ハ北海道又ハ大阪へ売捌 綿ハ北海道又西海道へ輸出ス
近傍農家肥料ハ近来鯡〆粕ノ類多ク地味2適セシヤ之フ用フレバ土質追々膏艘(こうゆ)ニ変シ作物生立宜ク随テ収獲多シ

  意訳変換しておくと
多度津港
愛媛県(当時は香川県はなかった)多度郡の多度津港は、海底が粘土で船に入った垢を焚除するために、毎年春2月から8月まで、「タデ船」のために停泊する船が数多い。そのため「日本船のドック」とも呼ばれる港である。小汽船の入港数は、毎月200隻前後である。ただ、冬の北西季節風が強い時には、小船の停泊は厳しい。港の深度などは別紙略図の通りである。
 多度津の本年1月1日調査によると、戸数千2百3拾戸 人口4千4百4拾1人 内男2千2百2拾5人 女2千2百拾6人
 北海道からは、鯡・〆粕・昆布・数ノ子などが運び込まれ、この内の昆布・数ノ子は、丸亀・多度津・琴平などに転売し、鯡〆粕は、那珂多度郡や三野豊田郡など周辺の農村に転売する。物産問屋は39軒 問屋は、搬入された物品を預り、仲買をして売捌くことが生業となっている。
  出入する船舶で、3百石以上の船が55艘、北海道に渡航する300以上が2艘ある(中略)
特産品としては、砂糖が約84500斤 代価凡57752円、綿約2万目 代価凡1万円。砂糖は北海道か大阪へ、綿は北海道や西海道へ販売する。近来、周辺の農家は、肥料として鯡・〆粕を多く使用するようになったので、地味は肥えて作物の生育に適した土壌となっている。
ここからは次のようなことが分かります。
①船のタデや垢抜きのために、多度津港に寄港する船が多く、「和船のドック」とも呼ばれている。以前に金毘羅参詣名所図会の多度津港の絵図には、船タデの絵が載せられていることを紹介しました。明治になっても、多度津港は「和船のドック」機能を継続して維持していたことが分かります。
②北海道からの数の子や昆布、鯡〆粕が北前船で依然として運び込まれていること
③それを後背地の農村や、都市部の金毘羅・丸亀などに転売する問屋業が盛んであること
④特産品として、砂糖や綿が積み出されていること

西南戦争を契機に、旅客船の数が急速に増えたことを先ほど見ました。
1993年 三菱と共同運輸の競争
1883年 三菱と共同運輸の競争を描いた風刺画
 汽船や航路の急速な増加は、運賃値下げ競争や無理なスピード競争での客の奪い合いを引き起こします。そのため海運業界には不当競争や紛争が絶えず、各船主の経営難は次第に深刻化していきます。
この打開策として打ちだされたのが「企業合同による汽船会社統合案」です。
 明治17年5月1日、住友家の総代理人広瀬宰平を社長として、50名の船主から提供された92隻の汽船を所有する大阪商船会社が設立されます。この日、伊万里行き「豊浦丸」、細島行き「佐伯丸」、広島行き「太勢丸」、尾道行き「盛行丸」、坂越行き「兵庫丸」の木造汽船5隻が大阪を出港します。
大阪商船
         大阪商船会社のトレードマーク
その船の煙突には、大阪商船会社のトレードマークとなる「大」の白字のマークが書き込まれていました。
 大阪商船の開業当時の航路は、大阪から瀬戸内海沿岸を経て山陽・四国・九州や和歌山への18航路でした。

大阪商船-瀬戸内海附近-航路図
大阪商船の航路
このうち香川県の寄港地は小豆島・高松・丸亀・多度津の4港です。その中でも多度津港は9本線と1支線の船が寄港しています。高松・丸亀・小豆島が2本線の船だけの寄港だったのに比べると、多度津港の重要性が分かります。この時期まで、多度津は幕末以来の「四国の玄関港」の地位を保ち続けています。

希少 美品 大正9年頃(1920年) 今無き海運会社 大阪商船株式会社監修 世界の公園『瀬戸内海地図』和楽路屋発行 16折り航路図  横120cm|PayPayフリマ
大阪商船航路図(大正8年)讃岐の寄港
 旅客輸送の船は、明治20年前後からはほとんどが汽船時代に入ります。
しかし、貨物輸送では、明治後期まで帆船が数多く活躍していたことは、以前にお話ししました。明治になっても、江戸時代から続く北前船(帆船)が日本海沿岸や北海道との交易に従事し、多度津港にも出入りしていたのです。
 たとえば北陸出身の大阪の回船問屋西村忠兵衛の船は、明治5年2月25日、大阪から北海道へ北前交易に出港します。出港時の積荷は、以下の通りです
酒4斗入り160挺。2斗入り55挺
木綿6箱
他に予約の注文品瀬戸物16箱・杉箸2箱
2月28日兵庫津(神戸)着 3月1日出帆
3月3日 多度津着 
多度津で積荷の酒4斗入りを102挺売り、塩4斗8升入り1800俵と白砂糖15挺を買って積み入れ、8日出帆
ところが3月21日長州福浦を出港後間もなく悪天候のため座礁、遭難。(西村通男著「海商3代」)
ここからは、明治に半ばになっても和船での北前交易は行われており、多度津に立ち寄って、塩や砂糖を手に入れていることが分かります。ところが、日本海に出る前に座礁しています。伝統的な大和型帆船は、西洋型船のような水密甲板がなく、海難に対して弱かったようです。そのため政府は、西洋型船の採用を奨励します。その結果、明治十年代には西洋型帆船が導入されるようになりますが、大和型帆船は、伝統的な航海技術と建造コストが安かったので、しぶとく生き残っていきます。そこで政府は、明治18年からの大和型500石以上の船の製造禁止を通達します。禁止前年の明治17年には、肋骨構造などで西洋型の長所を採用しながら外見は大和型のような「合の子船」とよばれる帆船が数多く造られたようです。大正初めまで、和船は貨物輸送のために活躍し、多度津港にも入港していたことを押さえておきます。ここでは明治になってすぐに帆船が姿を消したわけではないこと、
  明治20(1887)年ごろより資本主義的飛躍が始まると、海運業も大いに活気を呈するようになります。
京極藩士冨井泰蔵の日記「富井泰蔵覚帳」には、次のように記されています。
「今暁、船笛(フルイト)高く狼吠の如き、筑後川、木曽川、錦川丸の出港なり。本日三度振りなり。近村の者皆驚く」

 ここに出てくる筑後川丸(鋼製、694屯)、木曽川丸(鋼製、685屯)、錦川丸(木製、310トン)は、大阪商船の定期船です。そのトン数を見ると、700屯クラスの定期船で、明治初めから比べると、4倍に大型化し、木製から鋼製に変わっています。
 明治27年の大阪商船航路乗客運賃表によると、大阪ー多度津間の運賃は、次の通りです。
下等が95銭
中等が1円
上等は1円5銭
別室上等は2円
明治30年10月発行の「大日本繁昌記懐中便覧」には、当時の多度津の様子を次のように記されています。

多度津ハ(中略)、港内深ク,テ汽船停泊ノ順ル要津ナレバ水陸運輸ノ使ナルコー県下第1トナス。亦夕金刀比羅官ニ詣ズル旅客輩ニ上陸スベキ至艇ノ地ナレバ汽船′出入頻はなシテ常ニ煤煙空ヲ蔽ヒ汽笛埠頭ニ響キ実ニ繁栄の一要港卜云フベラ」

意訳変換しておくと
多度津は、港内の水深が深く、汽船の停泊に適した拠点港なので、水陸運輸の使用者は県下第1の港である。また金刀比羅宮へ参拝する旅客にとっては、上陸に適した港なので汽船出入は多く、常に汽船のあげる煤煙が空をおおい、汽笛が埠頭に響く。これも繁栄の証というべきである。

この他にも、香川県下の汽船問屋・和船問屋の数は、高松に8軒、坂出に1軒、小豆島に11軒、丸亀4軒で、多度津は25軒だったことも記されています。

山陽鉄道全線開通
山陽鉄道全線海開通
明治24年に山陽鉄道の姫路・岡山間が開通し、更に同34年には下関まで延長開通します。 
 それまで西日本の乗客輸送の主役だった旅客船は、これを契機に次第に鉄道にとって代わられていきます。それを年表化してみると
1895(明治28)年  山陽鉄道と讃岐鉄道の接続のために、大阪商船は玉島・多度津間に定期航路開設
1896(明治29)年 善通寺に第11師団が設置。2月に丸亀~高松間が延長開通。
1902年 大阪商船が岡山・高松間にも航路開設
1903年 岡山・高松航路を山陽汽船会社が引き継ぎ、玉藻丸を就航。同時に尾道・多度津間にも連絡船児島丸を就航。
1906年 鉄道国有化で航路も国鉄へ移管。
      尾道・多度津鉄道連絡船は東豫汽船が運航。
1910年 宇野線開通によって宇野・高松間に宇高鉄道連絡航路が開設

ここからは大阪商船が鉄道網整備にそなえて、鉄道連絡船を各航路に就航させ、それが最終的には国鉄に移管されていったことが分かります。
高松港築港(明治36年)
高松築港旅客待合所(明治36年頃)
このような動きを、事前に捕らえて着々と未來への投資を行っていたのが高松市です。
高松は、日露戦争前後から、大正時代にかけて数次にわたり港の改修、整備に努めます。その結果、出入港船が増加し、宇高鉄道連絡船による岡山経由の旅宮も呼び込むことに成功します。こうして金毘羅参拝客も、岡山から宇野線と宇高連絡船を利用して高松に入ってくるようになります。
高松港 宇高連絡船 初入港(明治43年)
明治43年 宇高航路の初航海で入港する玉藻丸

高松・多度津港の入港船舶数の推移からは、次のようなことが分かります。
多度津・高松港 入港船舶数推移

①高松港入港の船舶数は、大正時代になって約7倍に急増している
②それに対して、多度津港の入港船舶数は、減少傾向にある。
③乗船人数は明治14年には、高松と多度津はほぼ同じであったのが、大正14年には、高松は6倍に増加している。
④貨物取扱量も、大正14には高松は多度津の約8倍になっている。

四国でも鉄道網は、着々と伸びていきます。
昭和 2年に、予讃線が松山まで開通
昭和10年までには高徳線は徳島まで、予讃線は伊予大洲まで、土讃線は高知須崎まで開通.
宇高連絡航路には貨車航送船が就航。
こうして整備された鉄道は、旅客船から常客を奪って行きます。これに対して、大阪商船は瀬戸内海から遠洋航路に経営の重点を移していき、内海航路の譲渡や整理を行います。しかし、そんな中でも有望な航路には新設や、新造船投入を行っています。
昭和3年12月新設された瀬戸内海航路のひとつが、大阪・多度津線です。
大信丸 (1309トン)と大智丸(1280トン)の大型姉妹船が投入されます。この両船は昭和14年に、日中戦争の激化で中国方面に転用されるまで多度津港と大阪を結んでいました。
 昭和10年ごろの多度津港への寄港状況は、次のように記されています。
大阪商船                                          
①大阪・多度津線
(大阪・神戸・高松・坂出・多度津)に、大信丸と大智丸の2隻で毎日1航海。
②大阪・山陽線
 大阪・神戸・坂手・高松・多度津・柄・尾道・糸崎。忠海・竹原・広・音戸・呉。広島・岩国。柳井・室津・三田尻・宇部・関門に、早輌丸・音戸丸・三原丸のディーゼル客船の第1便と、尼崎汽船の協定船による第2便があり、それぞれ毎月十数回航海。
③大阪と大分線
大阪・神戸・高松・多度津・今治・三津浜・長浜・佐賀関・別府が毎日1便寄港.

瀬戸内海航路図2
瀬戸内商の船航路図

この他に、瀬戸内商船が多度津・尾道鉄道連絡船を毎日4便運航していました。 しかし、花形航路である別府航路の豪華客船は高松に寄港しましたが、多度津港には寄港しません。また、昭和初期から整備に努めてきた丸亀・坂出の両港が、物流拠点として産業港に発展していきます。その結果、多度津港の相対的な地盤沈下は続きます。
 最初に見た多度津港の「出帆御案内」の航路も、戦前のこの時期の
航路を引き継いだもののようです。

DSC03831

 日中戦争が長期化し、戦時体制が強化されるにつれて船舶・燃料不足から各定期航路も減便されます。
その一方で、旅客、貨物量は減少せず、食糧や軍需物資の荷動きは、むしろ増加します。特に、大平洋戦争開戦前の昭和15年度は、港湾の利用度が飛躍的に増加し、乗降客が56万を突破し、入港船舶は2万5000余隻と戦前の最高を記録しています。これは善通寺師団の外港としての多度津港が、出征将兵や軍需物資の輸送に最大限に利用されたためと研究者は指摘します。

瀬戸内商船航路案内.2JPG

 戦時下の昭和17年2月になると、燃料油不足と効率的な物資輸送確保のために、海運界は国家管下に置かれるようになります。内海航路でも「国策」として、船会社や航路の統合整理が強力に進められます。その結果、大阪商船を主体に摂陽商船・阿波国共同汽船・宇和島運輸・土佐商船・尼崎汽船・住友鉱業の7社の共同出資により関西汽船株式会社が設立されます。

Kansailine


こうして尾道・多度津鉄道連絡航路を運行してきた瀬戸内商船も、関西汽船に委託されます。そして、昭和20年6月に多度津―笠岡以西の瀬戸内海西部を運航する旅客船業者7社が統合されて「瀬戸内海汽船株式会社」が設立されます。尾道、多度津鉄道連絡船は、この会社によって運航されるようになります。

 戦争末期になると瀬戸内海に多数投下された機雷のため、定期航路は休航同然の状態となります。
その上、土佐沖の米軍空母から飛び立ったグラマンが襲来し、航行する船や漁船にまで機銃掃射を加えてきます。こうして関西汽船の大阪~多度津航路も昭和20年6月5日以降は運航休止となります。多度津港を出入りするのは、高見~佐柳~栗島などの周辺の島々をつなぐ船だけで、それも機雷と空襲の危険をおかして運航です。ちなみに、この年には乗降客は7万9000余名、入港船舶は5000余隻に激減しています。しかもこの入港船舶のほとんどは軍用船や空襲避難のために入港した船で、定期船はわずか524隻です。それも周辺の島通いの小型船だけでした。関西汽船などの大型定期船はすべて休航し、港はさびれたままで8月15日の敗戦を迎えたようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌629P  明治から大正の海運」

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二宮公園と飛行神社(まんのう町樅木峠道の駅)
二宮忠八は伊予八幡浜の生まれで「郷土の偉人」という訳ではないのですが、樅の木峠の道の駅に併設された二宮公園に銅像が建っています。
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二宮忠八と飛行神社
銅像は昭和61(1986)年に建てられたものです。

二宮忠八碑文除幕式
二宮忠八の石碑除幕式(大正15年3月7日)本人は右から3番目
それに先だって、大正時代に石碑が建てられています。上部に「魁天下(天下にさきがける)」と大きくきざまれています。そして、建立経過が次のように記されています。
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二宮忠八の石碑

二宮忠八碑文
魁天下 
従二位勲一等子爵・石黒忠恵による題額
 二宮忠八君は伊豫八幡の出身で、陸軍看護兵として、明治22(1889)年11月に演習からの帰路この地で昼食をとった。その際に、烏の群れが羽ばたきもせずに滑空して弁当柄に集まるのを見て、軍用飛行機の着想を得た。明治二十七年に空中滑走器を自作し、その飛行実験に成功した。これはライト兄弟が飛行機を完成させる数年前のことである。まことに我同胞の名誉である。よって石碑を建て長く後世に伝えるものとする。
   大正十四年九月十七日
香川縣仲多度郡十郷村長王尾金照
香川縣三豊郡財川付長
建設委員 従六位勲五等澤原貞吉
ここからは、讃岐山脈で行われた演習からの帰りに、ここで「軍用飛行機の着想」を得たのを記念して石碑が建てられたことが分かります。
二宮忠八写真
二宮忠八夫婦
二宮忠八の年譜を見ておきましょう。
1866(慶応二)年6月29日 愛媛県八幡浜市矢野町八幡神社下に生まる。
1878(明治11)年(13歳) 親の事業失敗で、家産が傾き古着屋に丁稚奉公。
14歳で活版屋の小僧。15歳で薬屋奉公。16歳で物理、化学の研究をして、凧を制作して書籍代をかせぐなど、いろいろな丁稚奉公などを行いながら向学心を失わず。
1887(22歳) 丸亀連隊に入隊し、陸軍看護兵に
1889(24歳) 演習帰路に樅木峠でカラスの滑空するのを見て飛行原理を着想。
1891(26歳) 丸亀練兵場でゴム動力のカラス型模型機飛行実験に成功(飛行距離30m)
1893(28歳) 虫型棋型機を作成。
1896(31歳) 軍上層部に軍用飛行機試作を再度上申するも却下。
1904(38歳) ライト兄弟が飛行に成功。忠八は制作中の飛行器の枠組みをハンマーで破壊。以後は、製薬の仕事に没頭し、大阪製薬株式会社を設立し局方塩の製造開始
1906(40歳)大日本製薬本社支配人に就任
1914(大正3)年 (49歳) 第一次世界大戦において飛行機がはじめて実戦参加。
1919(54歳) 白川義則大将に発明の功が認められ、後に通信大臣から表彰。
  1926(大正15)年(61歳) 記念碑完成除幕式。自宅に飛行神社を祀り、宮司となって奉仕。
1936(昭和11)年4月9日 71歳で京都府八幡市で死去。
1937   飛行機発明の元祖として国定教科書に収載
1966(昭和41)年1月 国道32号線改修の際に、追上地区住民により現在地に移転整備。
1986(昭和61)年 銅像建立
ここからは、20歳台に丸亀で行った飛行実験などは、世間に知られることがなかったことが分かります。その風向きが変わるのは、第一次世界大戦で飛行機の有効性が軍部に認識されるようになって以後です。「日本における飛行機開発の魁け」として、軍部が取り上げ、いくつもの表彰を得て認知度が高まっていきます。そして、大正15年に樅の木峠に記念碑が建立されることになったようです。銅像が建てられたのは、約60年後の昭和61年になるようです。
  こうしてみると大戦前には二宮忠八は「大日本帝国の発明家」として教科書にとりあげれた有名人でした。それが戦後は「国威発揚」を担った人物として、あまり取り上げられなくなったようです。

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二宮飛行神社の鳥居
ウキでは、二宮忠八の現在の評価を次のように記します。

  実際にはゴム動力の模型飛行機はフランスで1871年にすでに製作され飛行しているにもかかわらず「飛行機の真の発明者」「世界で最初に模型飛行機を製作」と報じる等、忠八の研究活動や航空史の流れを全く理解していない例も散見されたり、情報や認識が錯綜している。また忠八の作った航空機は人力航空機で、動力航空機とはかけ離れており過大評価されているとの意見もある。その活動について、安定した評価は形成されていない。

「初期の飛行機事故で亡くなった人を祀る航空神社を京都府綴喜郡八幡町に建立した飛行機の好きな薬業関係の経済人。」
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二宮忠八とカラス型飛行機

石碑建立時に、二宮忠八は金500円を奨学資金として、十郷小学校に寄贈しています。
これは現在の金額にすると約400万円に相当します。これを受けて、十郷小学校(後の仲南北小学校)では次のような活動を行ってきました。
①利息金で毎年度末優良児童に「二宮賞」を授与。
②仲南北小学校の子供会は「魁(さきがけ)子供会」→「天下に魁ける」
③模型飛行機作成が夏休みの宿題。2学期の始業式の後で、飛行時間測定会。
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二宮忠八顕彰碑の地元子供会による清掃活動

私も仲南小学校に1960年代に通っていました。その時に結成された仲南北子供会の名称は「魁け子供会」でした。夏休み中に作成した模型飛行機を2学期の始業式の後に、校庭で飛ばして飛行時間を競い合いました。NHKが取材に来たときには、樅の木峠まで全校生が歩いて行き、峠の岡の上から模型飛行機を飛ばした時もありました。私の中では「二宮忠八=模型飛行機=飛行機の魁」として深くインプットされました。
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二宮公園整備記念碑(昭和41(1966年)

  最後に今回巡礼した3人の銅像の現在を振り返って起きます
①山下谷次銅像が1938年に大口小学校に建立され、1984年に仲南中学(現小学校)に移築
②増田穣三銅像が1937年に七箇村役場に建立され、1963年に塩入駅前に移築
③二宮忠八石碑が1926年に樅木峠に建立。銅像建立は、1986(昭和61)年。

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成績優秀者に授与された二宮賞
  3つの銅像を巡礼して思うのは、二宮忠八の石碑や銅像の周辺整備のよさです。これを二人の政治家の銅像周辺と比べると一目瞭然です。この差は何からきているのでしょうか。考えられる事は、二宮忠八については、先ほど見たように地元小学校への奨学金補助や、追上地区へ謝礼金など、石碑建立時から地元の子供や住民の協力関係を築き続けてきました。ただ石碑を建てただけでなく、後のフォローがなされてきたことです。

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二宮忠八銅像建立の記
例えば、銅像建立の呼びかけ人は「二宮忠八顕彰会・二宮忠八賞受賞者の会」となっています。つまり、長年の中で支援者達を地域に育んできたのです。それが、銅像建立の際に、資金集めに大きな力となっていることがうかがえます。

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飛行公園移転・整備記念碑(平成23年)

銅像を建てることも大変だけれども、それを維持していくのもなかなか大変なことだと思うようになりました。以上で、仲南の三人の銅像巡礼報告を終わります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  今から99年前の1923(大正12)年5月21日に、琴平-財田間の鉄道が開通しました。
琴平駅2
財田への延長と供に姿を現した金刀比羅停留所(現琴平駅)
開通を祝する当時の新聞を見ておきましょう。(現代語意訳)
徳島へ・高知へ 一歩を進めた四国縦断鉄道 
琴平・讃岐財田間8里は今日開通 総工費130万円
香川・徳島の握手は大正16年頃の予定。 (以下本文)
 土讃線琴平財田間8里は21日開通となったがこの工事は大正9年3月に起工し、第一工区琴平塩入間四里と大麻の分岐点から琴平新駅まで一哩は京都市西松組が土工橋梁等を25万余円で請負い10年6月に竣工。また第ニ工区塩入・財田間三里九分も同組が43万円で請負、10年2月起工し11年8月に竣工した。それから土砂撒布と橋梁の架設軌道敷設琴平塩入財田の三駅舎の新築などその他の設備の総工費130万円を要した。工事監督は岡山建設事務所の大原技師にして直接監督は同琴平詰所の最初の主任三原技手後の主任は佐藤技手であった。
 工事の内の橋梁は第一金倉川60尺2連、第二金倉川60尺1連・照井川40尺2連・財田川65尺5連・多治川50尺1連などが大きい方である。切り通しの最高は十郷大口の55尺、山脇の165間などで8ケ所あった。盛土の最高は財田川付近にある。
ここからは、総工費が130万円で3年間の工期の末に、琴平ー財田間が完成したこと、その区間の橋梁や切通部分などが分かります。

 財田に向かう乗客は①新琴平駅で列車を乗り換える。琴平旭町の道を横切り神野村五条に入り、再び金倉川の鉄橋を過ぎ、岸の上を経て真野に抜けて行く。この間は、少し登りで、田園の中を南に進む。左手に満濃池を眺めつつ七箇村照井に入り、福良見を過ぎ十郷村字帆山にある②塩入駅に着く。塩入駅は、西に行けば大口を経て国道に達する大口道、東に行けば琴平・塩入を結ぶ塩入道につながる交通要衝の地に作られている。この駅から満濃池へは東へ約1,7㎞、七箇村の福良見・照井・春日・本目へはわずかである。この附近の産物は木炭薪米穀類である。
 塩入駅からさらに西に向かい十郷村を横断し、後山・大口を経て大口川を越える。それから南に転じて新目に至る。列車は徐々に上り、③17mの高い切通し④高い築堤の上を走りつつ、⑤橋上から眺めも良い財田川を渡り、約300mの長い切取しを過ぎて山脇に入る。帰来川を渡ると間もなく財田村字荒戸にある⑥讃岐財田駅に着く…(以下略)
 番号をつけた部分を補足しておきます。

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1923年完成の金刀比羅停車場(琴平駅)
①の新琴平駅が現在の琴平駅です。それまでは、現在の琴参閣の所にあったものが琴平市街を抜けるために、現在地に移動してきました。
この駅の建築費は13万円で、総工費の1/10は、この駅舎の建築費にあたります。西日本では有数の立派な駅だったようです。
塩入駅

②の塩入駅周辺では、東山峠を越えて阿波昼間との里道が開通したばかりでした。そのため阿波との関係の深い宿場街的な塩入の名前がつけられます。阿波を後背地として、阿波の人達の利用も考えていたようです。
③の切通しは、山内うどんの西側の追上と黒川駅までの区間です。ここから出た土砂がトロッコで塩入駅方面に運ばれ線路が敷かれていきます。
琴平駅~黒川駅周辺> JR四国 鉄道のある風景
黒川駅(黒川築堤の上に戦後できた駅)
④の高い築堤には、現在は黒川駅があります。ちなみに黒川駅が、ここに姿を現すのは戦後のことです。

土讃線財田川鉄橋
黒川鉄橋
⑤は、黒川鉄橋で当時としては最新技術の賜で巨費が投じられました。同じ時期に作られた琴電琴平線の土器川橋梁や香東川橋梁は、旧来の石積スタイルの橋脚がもちいられていますが、ここではコンクリート橋脚がすでに使われています。それが現役で今も使われています。

土讃線・讃岐財田駅-さいきの駅舎訪問
讃岐財田駅
⑥の財田(さいだ)駅が終着駅でした。郵便や鉄道荷物も扱うので、職員の数は45人もいたようです。池田方面へ向かう人々は財田駅で降りて、四国新道を歩いて猪ノ鼻峠を越えるようになります。その宿場として財田の戸川は、発展していきます。同じように、塩入街道を通じて阿波を後背地に持つ塩入も、この時期に発展します。阿波の人とモノが塩入駅を利用するようになったからです。
 開通当時の時刻表を見てみましょう。
琴平発の始発が5時47分、その列車が財田駅に到着するのが6時10分。折り返し始発便として6時25分に出発します。一日6便の折り返し運転で、琴平と讃岐財田が30分程度で結ばれました。
 これによって、樅の木峠を越えていた馬車は廃業になります。追上や黒川の茶屋も店終いです。交通システムの大変革が起きたのです。
  1923年に財田まで鉄道が延び、現在の琴平・塩入・財田の3つの駅が開業しました。来年は、その百周年になります。20世紀の鉄道の時代から自動車の時代への転換を、これらの駅は見守り続けて来たのかもしれません。
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  「郡庁」というのは、今の私たちにとっては馴染みのない言葉です。今の郡は、単なる地理的な区割りとしてしか機能していません。しかし、明治の郡には、郡長がいて郡庁もありました。例えば仲多度郡にも郡庁があり、それは善通寺に置かれていたというのですが、それがどこにあったのかについては、私はよく分かっていませんでした。善通寺市史第三巻を見ていると、仲多度郡郡庁の変遷や当時の写真なども掲載されています。そこで今回は、仲多度郡の郡庁を追いかけてみようと思います。テキストは、「近現代における行政と産業 仲多度郡役所 善通寺市史第三巻58P」です。

 香川県は、愛媛県から独立し「全国で最後に生まれた県」です。その香川県に、現在の郡が登場してくるのは、1899(明治32)年4月1日の次の法律によってです。
 朕帝國議會ノ協賛ヲ経タル香川縣ド郡廃置法律ヲ裁可し茲二之ヲ公布セシム
御名御璽
明治三十二年三月七日
内閣総理大臣侯爵山縣有朋
内務 大臣 侯爵 西郷従道
法律第四―一琥(官報三月八日)
香川縣讃岐國大内郡及寒川郡ヲ廃シ其ノに域ヲ以テ人川郡ヲ置ク
香川縣讃岐國大内郡及山田郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ木田郡ヲ置ク
香川縣讃岐國阿野郡及鵜足郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ綾歌郡ヲ置ク
香川縣讃岐國那珂郡及多度郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ仲多度郡フ置ク
香川縣讃岐國三野郡及豊田郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ三豊郡ヲ置ク
附 則
此ノ法律ハ明治三十二年四月一日ヨリ施行ス 
 これに小豆郡と香川郡の二つの郡と、高松市と丸亀市を加えて、香川県は二市七郡で構成されることになります。こうして現在の私たちに馴染みのある郡名が出そろうことになりました。そして丸亀平野では、那珂・多度郡の統廃合と同時にその一部を割いて丸亀市が置かれることになります。
それでは、仲多度郡の郡庁は、どこに置かれたのでしょうか?
それまでは、那珂郡・多度郡の2郡にひとつの「那珂多度郡役所」は、城下町のあった丸亀に置かれていました。従来の政治機能が丸亀に集中していたので、その方が色々な面でやりやすかったのでしょう。
 この法律によって生まれた仲多度郡役所は、善通寺村に置かれると決まっていました。しかし、当時の善通寺は十一師団設置にともなう建設ラッシュ中で、地価急騰と建設費も急上昇中でした。郡庁舎を建設する財源もなかったようです。そこで、城下町だった丸亀市に今まで通り「仮住まい」ということになります。
 郡庁舎は、いつから善通寺に置かれたのでしょうか?
『仲多度郡史』には、1903(明治36)年2月6日の記録に、次のように記されています。

「大字上吉田(停車場の西方)の民家を借用して其の事務を執れり」

「停留場」というのは、善通寺駅のことです。ここからは日露戦争が始まる前年には、善通寺駅の西方の民家に郡庁舎が丸亀から移ってきていたことが分かります。

11師団 航空写真 偕行社~騎兵隊
        駅前通り南側の航空写真(1920年代)
そして、日露戦争後の1906(明治39)年12月28日には、次のように記されています。
本郡役所を、善通寺町大字生野(輜重隊兵営の南側)に移す。前に丸亀より移転し約五筒年間仮舎に在りしも、執務の不便言ふへからさるものありしか爰に梢々官署的借家成るに及び此の日を以て移転せり」
 
  意訳変換しておくと
本郡役所を、善通寺町大字生野(輜重隊兵営の南側)に移す。以前に丸亀より移転し約5年間仮舎住まいであったが、執務上の不便さも増してきたので、今回「官署的借家」に、移転することになった。

ここから次のようなことが分かります。
①「丸亀より移転し約五筒年間仮舎に在り」とあるので、丸亀からの移転が1901年であったこと
②善通寺駅西側から輜重隊の南側に、「官署的借家」を確保して移転してきたこと

「輜重隊」は、現在の「郵便局+自衛隊の自動車教習所+あけぼの団地」のエリアになります。その南側となりますから現在の東中学校あたりになります。
さらに1908年1月の香川新報は、郡役所庁舎の落成を次のように報じています。
「同郡役所は既記の通リ善通寺町の字條字治郎氏が同町輔重兵南側に建築中の処落成、旧所移転せしか、昨四日移転式と新年祝賀会を行ふ、出席者は土屋師団長、小野田知事以下百餘名なりし

意訳変換しておくと
「仲多度郡役所は既報の通り、善通寺町の字條字治郎氏が輔重隊南側に建築中の建物が落成したので、旧所から移転した。昨日四日に移転式と新年祝賀会を行われた。出席者は土屋師団長、小野田知事始め、百名あまりであった。

 十一師団長の方が、知事よりも前に来ています。当時は師団長の方が格上であったようです。
十一師団配置図3
十一師団配置図(1922年)
「1912(明治45)年7月2日の『香川新報』には、「善通寺町の火事」の見出しで次のような記事があります。

「普通寺町生野糧秣吉本商會事吉本乙吉の倉庫より三〇日午后六時四〇分頃発火せしが秣(まぐさ)は乾燥し居れば見る見る大火となり其ノ前は道路を隔てて輜重隊あり而も手近く火薬庫あるより……又仲多度郡役所は直の隣なるを以て類焼ありてはと御真影を始め諸書類器具を出す事に大に雑踏せしが……」

意訳変換しておくと
「普通寺町生野糧秣(りょうまつ)吉本商會の吉本乙吉氏の倉庫より30日午後6時40分頃に出荷。馬用の秣(まぐさ)は、乾燥していて見る見るうちに大火となった。倉庫の前は道路を隔てて輜重隊で、近くには火薬庫ある。(中略) また仲多度郡役所は、すぐ隣ななので類焼の恐れがあるために御真影を始めとする諸書類や器具を運びだしたりして、周辺は火事場の騒ぎとなった。」

 とあり続いて、鎮火は八時半、損害倉庫3棟全焼一棟半焼、株2万6000貫で被害額は5000円、火災の原因は不明と結んでいます。仲多度郡役所への類焼は免れたようです。
広島の建築 arch-hiroshima|広島市郷土資料館/旧陸軍糧秣支廠缶詰工場
陸軍の糧秣缶詰工場(広島郷土資料館)
 糧秣とは、兵員用の食料(糧)及び軍馬用のまぐさ(秣)を指す軍事用語のようです。輜重隊は師団に必要な食料から一切のものを調達するのが任務でした。そのため缶詰や乾パンなどの食糧も民間から購入していました。出火した「糧秣吉本商會事」も、輜重隊に「糧秣」を納めていた会社だったのでしょう。そのため輜重隊南側(現在の東中学校)に、全部で4棟の倉庫を持っていたことが分かります。輜重隊の周辺には、師団御用達の酒屋や八百屋、衣料品店などが軒を並べるようになったことは以前にお話ししました。吉本商會も糧秣を納める会社であったようです。
偕行社航空写真1922年
輜重隊周辺(南側が現東中学)

この記事から次の2点に注目して郡庁舎の位置を類推してみます。
①道を隔て、軸重隊があり、近くに火薬庫がある
②吉本商會の倉庫に隣接して仲多度郡庁舎がある
①の火薬庫跡は、現在のシルバー人材センターになるようです。以上から、仲多度郡郡庁や吉本商会は、現在の東中学校附近にあったことが分かります。
1916(大正5)年4月1日 郡役所は、生野から上吉田の皇子の森に新築移転します。『仲多度郡史』は、その経緯を次のように記します。
「1915(大正4)11月7日、本郡庁舎及議事堂建築工事に着手す。郡庁舎の建築は多年の.懸案なりしも其ノ機容易に熱せさりしか、昨年通常縣會に於て之か議決を見るに至り、漸く宿望を遂くるの機運に到達するや本郡に於ても、今上陛下御大礼の記念事業として議事堂新築の議を可決し爾来位置の選定土地の買収設計の作製、工事請負人札等に数月を費し、此に交通最も便利なる面かも老松森々として高燥なる皇子の森の地を得て、此の同地鎮祭を挙げ以て其の工事を起すに至れり」。

意訳変換しておくと
「1915(大正4)11月7日、本郡庁舎と議事堂の建築工事に着手した。郡庁舎の建築は多年の懸案であったが、その機はなかなか熟さなかった。そのような中で昨年、通常県会で建設に向けての議決が行われた。これを受けて、今上陛下御大礼の記念事業として議事堂新築議案を郡会議でも可決し、位置の選定・土地の買収・設計の作製、工事請負人札等などに数ヶ月を費してきた。善通寺駅に近く、交通も便利で、老松森々生い茂る皇子の森の地を得て、ここに地鎮祭を挙げ起工式に至ることができた。

 新たに郡庁と議事堂が建設されることになった「皇子の森」とは、どこにあるのでしょうか?

皇子の森2
  仲多度郡庁が新設された皇子の森
今は児童公園になっていますが、どうしてここにこれだけの広さの土地が公園として確保されているの以前から疑問に思っていたところです。旧郡庁跡だったと言われると納得です。
 1916(大正5)年3月には、郡役所庁舎の落成と庁舎の規模等について次のように記します。  
「三月三十一日新築郡聴舎落成に至りたれは、本部役所を皇子の森に移転し、四月一日より新庁舎に於て事務を執れり。四月二六日御大礼記念事業として新築したる、本郡議事堂既に竣工し、郡役所も亦新廃合に執務する等総て完成を告けしかは、此の日議事堂に於て、其ノ落成式を行ひたり。来賓として若林知事、蠣崎師団長を始め、各郡市長縣郡会議員町村長及び地方各種団体名望家等三百余名の参列ありて、壮大なる式を挙げ、記念絵はがき郡案内記を配布し盛宴を開きたるに、各自歓を盤して本郡の発展を祝せり。

仲多度郡議事堂
仲多度郡議事堂
今建物の概要を挙くれは、議事堂は其の敷地二百六十五坪、本館木造平家建てにて、建坪百八坪、附属渡廊下一棟、厠一棟、正門及び周囲の石垣、土畳等、総工費6978円を要せり
仲多度郡役所
仲多度郡庁舎
 郡庁舎は其ノ敷地六百六十七、本館木造平屋建にして百二十七坪、附属小使室、物置二棟、渡り廊下、厠各二棟。倉庫一棟、掲示場一。門一。土畳及盛土等総て費金一万一千二百十四円餘を要せり。
(郡庁舎敷地は、元官有地なりしを善通寺町に払受けて寄附したるものなり)而して建物の地形は土を以て築き、屋上には塔及窓を設けて室内の換気を能くし蟻害豫防の為め背面の床下を開放し、避雷針を設くる等、構造堅牢にして、採光通風共に十分なり。敢て輸奥の美なしと雖も結構全く備はれり。又多数庭樹の寄贈ありて、春光秋色執務の疲労を資くるに足るへく実に縣内有数のものと云ふへし」。
こうして完成した仲多度郡の庁舎と議事堂ですが、その役割は短いものでした。郡制が廃止され、郡長や郡役所が不用になってしますのです。香川県に郡制の施行されたのは1899(明治32)年7月1日のことでした。以来、郡は地方自治団体として郡会を開いてきましたが、徴税権がありませんでした。そのため町村が郡費を分担して負担してきました。
 一方で、町村側から見れば郡はほとんど仕事らしい仕事をしておらず「無用の長物」と見えました。そのため廃止すべきという意見が年々高まります。香川県市町村長会でも1920(大正19)年11月、衆議院・貴族院両院議長、内閣総理大臣、内務大臣に宛てて「郡制廃廃止二関スル請願」を行っています。これを受けて1921(大正10)年に、郡制廃止法案が衆議院で可決されます。その提案理由は、次の通りです。
①郡制施行以来、郡自治にはみるべきものがない。
②模範にしたプロイセンとは異なり、我が国では住民の自治意識が弱く、必要性が少ない。
③各郡事業を府県や町村に移せば、事務を簡略化できる
④郡費負担金がなくなり、町村財政にプラスになる。
「郡制廃止二関スル法律」が公布されたのち、その施行期日は1921年4月1日と定められます。しばらく郡長や郡役所は存続しますがが、1926年7月には、それも廃止されて、郡は単に地理的名称となります。つまり、仲多度郡庁の建物は作られて実質5年で、その存在意味を無くしたことになります。
しかし、新築の建物にその後の使用用途はありました。
1928年6月1日からは、庁舎は善通寺警察署として使用
1932年9月1日からは、議事堂は香川県善通寺土木出張所が1960年まで使用。

最後に郡庁舎の移動変遷をまとめておくと
①仲多度郡成立後も、しばらくの間は丸亀に置かれていた
②1901年に丸亀から移動し、善通寺駅の西方の民家を5年間庁舎としていた
③1906年に輜重隊の南(現在の東中あたり)の貸屋に移った
④1916年に庁舎と議事堂が完成。場所は皇子の森
⑤1926年7月に郡制が廃止され閉庁
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「近現代における行政と産業 仲多度郡役所 善通寺市史第三巻58P」


   ある町の文化財保護協会を案内して、善通寺の遺跡や建物を巡ることになりました。そのために今までの史料や写真を再構成して説明パンフレットらしきものを作っておくことにします。それを資料としてアップしておきます。事前に読んでおいてもらえれば、当日の説明がよりスムーズになるという思惑もあるのですが・・・。それは参加者に重荷にならない程度にと思っています。
 さて今回は、十一師団が善通寺に設置されるまでの経緯と、今に残る師団関係の建築物についてです。
 日清戦争後に、次の日露戦争に備えて軍備増強が求められます。その一環として四国にも師団が設置されることになります。それまでの師団は、広島や姫路、熊本など大きな城跡が選ばれています。ところが讃岐では、丸亀城も高松城も飽和状態で大規模な師団設置はできませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが善通寺です。当時の善通寺は小さな門前町で、市街地もなかったことが次の地図からはうかがえます。
善通寺村略図2 明治
十一師団設置前の善通寺村略図
なぜ善通寺に師団が置かれることになったのでしょうか。
 担当者の頭の中にあったことを想像すると次のようになります。
①次の戦争は大陸でおきる。迅速な軍隊の移動のために、近代的な港と鉄道が整備されていることが必須条件だ。香川県NO1の港湾施設は多度津港だ。多度津港と鉄道で結ばれているのは善通寺だ 
②善通寺には多くの出水があり、豊富で清潔な飲料水が確保できる
③周囲には演習地として利用できる五岳・大麻山が隣接してある
これは善通寺市かない。
というところでしょうか。
 ちなみに師団建設に使われた煉瓦は、観音寺の財田川河口に新設された工場で焼かれ、船で多度津へ輸送され、そこから列車で善通寺に運ばれています。当時の輸送が、海運と鉄道に依存していたことがよく分かります。

善通寺11師団 地図明治39年説明
1907年の善通寺
1896(明治29)年、第11師団の司令部設置が善通寺村に決定します。
担当者がまず行ったのは、用地買収です。第1次計画として善通寺駅前から善通寺南門までまっすぐに線を引いて、この線から南の幅約200mのゾーンを買収していきます。今回見学する偕行社から四国学院、そして乃木神社・護国神社のゾーンです。この結果、地元で起こったのは地価の高騰でした。香川新報(四国新聞の前身)には、次のように報じています。(現代文意訳)

1次買収の総買収面積は「百八町八反五畝二十五歩」(一町=約0.991㌶)である。(中略)もともと田地は一反70円の相場があったが、(師団設置が決まると)300円まで上がり、最近では700円という有様である

 地主によって売り惜しみが横行し、地価が10倍近くまで高騰したようです。さらに2次計画が進んだ1898(明治31)年には、1800円までにうなぎ登りに上がっていきます。いつの時代もそうですが土地買収で大金を手にした地主達が大勢現れました。彼らの中には、駅前通の北側に店を出して新たな商売をはじめ者が出てきます。また、あらたな「市場」に、琴平などから移ってきたり、支店を構える者も現れます。特に駅前通には、ずらりと旅館がならんだようです。
 各連隊の工事が一斉に始まると、3000人近くの工事関係者が全国からやってきました。師団が出来ると四国中から新兵が入隊してきます。それを見送るための家族や妻も善通寺にやってきて宿泊します。旅館はいくらあっても足りません。

善通寺駅前の旅館

         駅前通りの北側にあった旅館

わたや・広島屋・山下屋・朝日屋・吉野屋・万才屋・高知屋・塩田旅館・大見屋などの第十一師団指定の旅館が並び、各地から面会に来る大勢の家族が利用しました。また召集のかかった時などは、旅館だけでは間に合わず近くの間数の多い家に割当られました。
善通寺駅前通りの店
駅前通りの店
 さらに11師団の兵士総勢は1万人とされました。彼らの食べる食材などを準備する店も必要です。こうして、それまで田んぼが広がっていた駅前通の南側には11師団の軍事施設が並び、その反対側の北側には、師団へのサービスを提供する様々な店が並び、たちまちの内に市街地が形成されていったのです。それまで3000人少々の門前町が、軍人と住民を併せると2万人を越える「大都会」に成長するのは、あっという間でした。善通寺は師団設置の大建築ラッシュで、短期間で大変貌したことを押さえておきます。
こうして1897(明治30)年には、第一期工事として、次の各営舎が完成します。これらの配置関係を地図で確認しておきましょう。

11師団配置図
①偕行社(1903年)     北側は出水で水源 
②輜重兵第十一大隊(1898年)  現郵便局・免許コース
③騎兵第十一連隊(1897年)   四国学院・裁判所
④歩兵第四十三連隊(1897年)  護国・乃木神社・中央小
⑤兵器敞                               現自衛隊
⑥山砲兵・歩兵第二十二旅団司令部  現自衛隊
⑦工兵第十一大隊(1898年)    アパート
⑧第十一師団司令部(1898年)一部警察学校
⑨伏見病院
⑩練兵場           農事試験場+善通寺病院
十一師団建築物供用年一覧
 これらの建物の完成を待って、十一師団は開庁されます。多度郡善通寺村に送られた通牒には、次のように記されています。

11師団司令部開庁通知

乃木第十一師団長本月二十八日早朝     
着任来ル十二月一日師団司令部開庁
相成候此段及御通牒候也
    明治三十 年十一月一十五日
①初代師団長は乃木希典で、28日早朝に着任すること
②明治31年(1898)12月1日師団司令部が開庁すること
そして12月8日に、丸亀の東練兵場で閲兵分列式が行われたようです。
そして、1920年代になると各隊の配置は、つぎのようになります。
HPTIMAGE
1921年最新善通寺市街図(善通寺市史NO3)

善通寺十一師団の現在に残っている建築物を巡っていきます。
旧善通寺偕行社|スポット・体験|香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット

まず訪ねるのが①の偕行社です。
偕行社とは、陸軍の将校の親睦共済団体です。「偕行」とは「一緒に進む」という意味で「詩経」に出てくる言葉のようです。将校の社交場として建てた建物も偕行社と呼ばれました。師団の置かれたところには、どこにもあったのですが、残っているのは現在では6ヶ所だけです。朝ドラのカムカムエブリボデイの中で、岡山の偕行社が出てきて、話題になっていました。岡山の偕行社は、十七師団の偕行社として1910年に建てられたものです。善通寺の方が7年早いことになります。改修されて重文に指定されていますが、その方向は「地域の社交場」として活用しながら残していこうというコンセプトのようです。ここでも喫茶レストランが新たに増築されています。また、会合などにも貸し出されています。今回は、ここで昼食です。

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偕行社正面 ルネッサンス様式のポーチ
 19世紀のヨーロッパはナポレオン3世に代表されるように、ルネサンス様式が大流行した時代です。それが明治期のこの国にも、このような形でもたらされます。正面中央に車寄せのポーチがあります。これがこの時期の西洋建築物のお約束です。見て欲しいのは、このポーチの柱です。当時、コンクリートはまだなかったので、石柱です。ドーリア(ドリス)式角柱で三角ペディメントを受けています。古代ローマは、ギリシア建築をコピーして、ペディメントのある建築を作りましたが、それが19世紀のルネッサンス様式に当然のように取り入れられます。現在のアメリカのホワイトハウスも、この様式です。しかし、西洋風はこの部分だけ、窓などは洋風ですが、屋根には瓦が載っています。これを「和洋折衷」と云うとしておきましょう。

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偕行社裏側(南側)
南側に廻ってみると、印象は大きく変わります。屋根が日本的な印象を与えてくれます。そしてホールから芝生広場にはテラスを通じて、そのまま下りていけます。運用面でも工夫が見られます。

偕行社平面図
偕行社平面図(建設当初)

    中に入ってみると、明治時代にタイムスリップしたような気分になれます。廊下や窓、照明など、随所に明治時代の趣ある装飾がみられます。最大の見どころは大広間。高い天井に大窓が並ぶ開放的な空間で、舞踏会や社交クラブなどかつてここで開かれたという説明に納得します。
偕行社と市役所
新善通寺市役所と偕行社

善通寺市は、新しい市役所を偕行社の西側に建設しました。
偕行社を目玉にして、善通寺をアピールしていこうとするねらいがあるようにも思えます。新市役所の2Fは図書館で、広いテラスがありくつろぎスペースにもなっています。外部の人も自由に利用できます。
偕行社2
市役所2Fの図書館テラスからの偕行社
ここに置かれた椅子に座って、偕行社の建物を上から眺めて楽しむことも出来るようになりました。
図書館より輜重
善通寺図書館西側の窓際からの眺め
 図書館西側は「五岳の見える窓際」です。ここからは11師団の輜重隊や騎兵隊・歩兵隊跡を眺めることができます。私は郷土史コーナーの「持出禁」の本や史料を、ここで読んだりしています。いろいろなイメージが広がって、私にとっては楽しいお勧めの空間です。

善通寺航空写真(戦後)
戦後直後の善通寺航空写真

     次に訪ねるのが四国学院大学のキャンパスです。
 それを戦後直後の航空写真で見ておきましょう。
善通寺の背後にあるのが霊山の五岳で、その盟主が我拝師山です。その霊山に東面して建てられているのが善通寺であることがよく分かります。この位置は、古代以来変わっていません。善通寺の南門の南側から真っ直ぐに東に伸びているのが駅前通です。この南側に十一師団の各連隊が設置されていたことがよく分かります。今から目指すのは四国学院です。ここには騎兵11連隊が置かれていて、軍馬がたくさん飼われ訓練されていた所です。この写真の護国神社の東側が騎兵連隊です。拡大して見ましょう。
善通寺騎兵隊 拡大
騎兵隊周辺(現 四国学院)
  現在は駐車場となっている東側に馬舎が4棟、その南側と西側に乗馬場が広がっています。護国神社側に西門が見えます。騎兵隊本部は、このあたりにあったようです。そして、さきほど見た2号館も見えます。2棟あって、そのうちの東側の1号館は、後に取り壊されたようです。もう少し後の別の角度からの写真も見ておきましょう。
騎兵連隊跡 四国学院

この写真を見ると、四国学院の東隣にあった輜重隊には自動車学校のコースが作られています。そして4棟あった馬舎は姿を消して陸上コースになっています。
それでは2号棟を見に行きましょう。
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2号館の正面です。
私は、学校の木造校舎に正面ポーチがつけられたというイメージがします。先ほど見た偕行社の入口の顔と比べてみてください。長い2F建ての木造に瓦の屋根が載ります。
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「4本のドーリア(ドリス)式石柱が支える三角ペディメント」というルネッサンス様式は、お約束のようにここでも見られます。

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偕行社は三角柱でしたが、ここでは立派な円柱の石柱です。これは塩飽の広島産と聞いていますが確かな史料は私は知りません。「この柱一本で、普通の家が一個建つ」とも云われたようです。公的な建物としての威風を生み出しているのかもしれません。

DSC05078

 香川県で84番目の登録文化財になっています。

DSC05073

正面の入口ポーチを取り去ってしまえば、どこか戦前の木造校舎にも見えて来ます。このような公的な大型建物がモデルとなって、後に中学校や小学校の木造校舎に「転用」されていくのかもしれません。

もうひとつここには、騎兵連隊本部として使われていた建物があります。
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                         騎兵連隊本部だったホワイトハウス
我拝師山をバックに背負って、白く輝いています。今はホワイトハウスと呼ばれています。小さくても「三角ペディメントと車寄席」という様式は踏襲されています。
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2F建てで、少し華奢な感じもします。ここは本部でも事務方の建物だったようです。

ホワイトハウス
旧騎兵連隊本部と図書館の間の道付近が旧南海道(推定)
ちなみに隣にならぶのが図書館です。この間を抜ける道附近に、古代南海道跡が通っていたことが発掘から分かっています。讃岐富士の南側、現在の飯山高校北側から真っ直ぐに我拝師山にむけて伸びているようです。この南海道が最初に測量・建設され、それを基軸に丸亀平野の条里制は整備されていきます。空海(真魚)も、きっとこの道を歩いたはずです。
善通寺条里制四国学院 
多度郡条里制と四国学院の中を通る南海道
 多度郡の条里遺構の中に善通寺と四国学院を置いてみると上図のようになります。四国学院は三条七里にあり、南海道は七里と六里の境界であったと研究者は考えているようです。

四国学院側 条里6条と7条ライン
四国学院を通る南海道と多度郡衙跡(推定)の関係
 四国学院の南の旧善通寺西高校グランドからは、多度郡の郡衙跡と推定される遺跡が見つかっています。さらに、この北西には善通寺が7世紀末には姿を見せます。この辺りが、佐伯氏の拠点で古代多度郡の中心であったことが推測できます。

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讃岐護国神社
四国学院の西門の向こう側には、今は護国神社と乃木神社が並んで鎮座しています。深い神域の中にあるので、古いようにも思えます。ところがここは、もともとは歩兵第四十三連隊(1897年)があったところです。それがなくなったのは、1920年代の協調外交による軍縮でした。ひとつの連隊が軍縮で姿を消したのです。その後に、地元の誘致で護国神社と乃木神社が建立され、現在に至っています。この間の道を琴参の路面電車は走っていました。この停留所の名前は、護国神社前で、ここを電車が通過するときには、常客は帽子を取り最敬礼をしなければならなかったと、私は聞いています。
DSC03916善通寺師団 配置図
十一師団配置図
十一師団の建築物めぐり、今回はここまでです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史 558P 第十一師団の創設
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新猪ノ鼻トンネル 阿波側出口の池田町西山込野

 国道32号の新しい猪ノ鼻トンネルが開通して、阿波方面へのルートが大幅に短縮されました。このトンネルを使うと、今までヘアピンカーブの連続だった峠道を通ることなく、一直線のトンネルを10分足らずで一気に通り抜けることができます。夏はトンネル内は涼しくて、フルスロットルで走っていると肌寒くなるほどです。いつものように阿波と讃岐を結ぶ峠道の散策のために、トンネルを込野で下り旧32号を箸蔵寺方面に原付を走らせます。

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旧R32号に立つ坪尻駅への看板
ここには、坪尻駅への看板が立っています。この入口から急な坂道を下っていくと、土讃線の坪尻駅です。

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JR坪尻駅入口のバス停
土讃線が開通した昭和の初めには、この周辺の集落の人たちもこの道を使って坪尻駅へ向かっていたのでしょう。ここを通り過ぎて、箸蔵寺への道に入ったところに展望台があります。P1160169
秘境駅坪尻駅が見える展望台
「撮鉄」ファンのために地元の人たちが、設置したのでしょうか。
かつて、写真撮影に夢中になった「撮鉄」ファンが滑落死したことがあるようです。そのために地元の人たちによって設置された展望台のようです。
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こんな看板もあります。そうです。命が一番大切です。写真を撮るのに命懸けになって、命を失ってはいけません。その通りと相づちを打ち、地元の人に感謝しながら展望台に上がります。

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坪尻駅
いい景色です。込野集落のソラの家との高低差がよく分かります。周辺人たちは、この高低差を上り下りして、列車を利用していました。

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坪尻駅
ズームアップすると駅舎と線路がよく見えます。向こう側が猪ノ鼻トンネルの出口で讃岐側です。ここから眺めているといってみたくなりました。予定を変更して、坪尻駅に向かいます。この変わり身の早さというか、いい加減さというか、我ながら尻軽と思います。

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込野からの坪尻駅への入口 看板には1㎞と表示あり
今回は傾斜の緩やかな込野からアプローチします。入口から1㎞15分ほどの下りです。
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込野から坪尻駅への道
道は整備されていて、ゆるやかな下り道です。込野の人たちが列車利用のために使った道のようです。しっかりとしています。

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坪尻駅
鮎苦谷川(あゆくるしたに)の沢音が聞こえ、沢に向かってどんどん下りていきます。そして平地になると、森の中から突然のように坪尻駅が姿を見せました。駅の周りは線路があるだけで、他には何もありません。ここにはもともとは、駅はなかたようです。駅の登場は、戦後になってからのことで、それは猪ノ鼻トンネルと大きな関わりがあります。
 1923(大正12)年5月21日に、土讃線は、琴平から讃岐財田駅までが開通します。
 猪ノ鼻トンネル(延長3,845m)は1922年10月に着工します。この工事は、7年後の1929(昭和4)年4月に開通しています。開通当時は中央本線の笹子トンネル(明治36年開通、=4656m)に次いで全国第2位の長さを誇る長大トンネルで、郷土の誇りでもあったようです。工事中に死者10人、負傷者2000人の犠牲者を出す「土讃線最大の難工事」でもありました。

猪ノ鼻隧道琴平方坑口附近(国道23号線と猪ノ鼻トンネル)
 猪ノ鼻トンネル琴平方坑口附近(国道32号線と猪ノ鼻トンネル)

  当時の香川新報は、開通の喜びを次のように伝えてきます。
見出し (現代表記に改めた)
『岩切通し、猪の鼻の巌を貫き、歳月を閲する7年、海抜2千尺の高峯をぬきて阿讃の連絡完成す』
『明治、大正、昭和と元号三転の間に、何と日本の交通機関は急テンポで目まぐるしく回転したことであろうか。わずか60年の音、倶利加羅紋々の雲助共によってエイホーの掛声勇ましく東海道五十三次を早きも十余日、増水の御難に逢へば二十数日を要した。それがわずかに十時間のうたた寝の夢一つ終らぬ間にもう着こうという変り方である。全くスピードの時代と言はなければならない。しかるに我が四国は山多くして、鉄道に恵まれず、四国循環線、縦貫線共にその一部の開通を見たのみである。予讃の両地はかろうじて鉄道連絡が可能であるが、阿土、予上の間は重畳たる四国アルプスの連山に遮られて、今日文字通り岩切り通し山を抜き、断崖をめぐりて延長9哩1分、距離遠からずと雖も、瞼峻猪の鼻峠を貫きて、完全なる阿讃の連絡が完成したのである。まさに四国交通の幹線の一部をなすのであるとともに、中国、山陰、阪神方面二の連絡に力強き一歩を進めたものと言える。空にプロペラのうなりをきく自然征服の時を迎へても、羊腸の如き峻坂を攀づるにあらざれば越すに越されぬ猪の鼻の瞼を、一瞬にして乗り切る事が可能となったのである。特に香川、徳島両県人にとっても感慨深くも万限りなき歓びであると言はなければならない。
興奮気味に、土讃線の阿波池田までの開通を報じています。財田駅から池田までは、約20㎞には6年と6ヶ月の年月を要したことになります。
 讃岐財田駅から佃駅間の建設概要を見ておきましょう。
土讃線 財田・佃駅建設概要

線路ノ状勢
本区間線路ハ香川県三豊郡財田村地内既設讃岐財田停車場ノ南端多度津起点弐拾四粁百九拾七米八二二起り 南進シ右折左転シテ起伏セル数多ノ山脚ヲ開撃三戸川隧道(延長二百弐拾七米九〇)ヲ貫キ土佐街道(国道)卜併進シ登尾ニ至り鋼飯桁径間七米六弐フ架シテ土佐街道(国道)ヲ越へ谷道川二鋼飯桁径間九米壱四フ架設シ進デ阿讃ノ国境猪之鼻ノ崚険二(延長参粁八百四拾五米〇九)四国第一ノ大隧道ヲ穿ッテ徳島県三好郡箸蔵村地内二入り州津川二鋼飯桁径間拾八米三フ架シ左折漸ドシテ坪尻隧道(延長武百九拾五米七弐)フ穿チ右折左転シテ 坪尻二出デ茲に坪尻信号場(多度津起点参拾壱粁八百九拾米)ヲ設置シ疏水隧道フ設ケテ州津川ヲ付換へ左転シテ馬ノ背隧道(延長弐百参拾七
米参八)及落隧道(延長弐百六拾八米五六)フ貫キ右折シテ落橋梁鋼飯桁径間九米壱四、式連フ架シ箸蔵隧道(延長百弐拾四米七弐)ヲ穿チ猶漸下シテ箸蔵橋梁鋼鋲桁径間九米壱四、壱連、六米壱、壱連フ架シ左転シ太円隧道(延長参百拾八米八五)及井関隧道(延長参百拾参米八弐)ヲ貫キ蔵谷二至り疏水隧道フ設ケ蔵谷隧道(延長百四拾弐米八参)フ穿チ左折シテ国道卜並進シ字東州津ノ部落ヲ過ギ土佐街道(国道)二跨線橋フ設ケ三好郡箸蔵村字州津地内ニ至り箸蔵停車場(多度津起点参拾五粁百参拾米)ヲ設置シ山麓二沿ヒテ東進右転シテ昼間町地内二入り尚山麓二沿ヒ汐入川フ渡ルニ鋼鋲桁径間拾八米参、四連、拾式米弐、壱連フ架設シ一大環状ヲ画キテ右転シ昼間町ヲ横断スル処撫養街道二跨線橋ヲ設ケ南道シテ吉野川沿岸ノ平圃二出テ吉野川ニハ鋼飯桁径間拾八米、参拾六連構鋼桁(スルー型)径間六拾壱米、四連(延長五百七拾壱米弐)ノ一大橋梁フ架シ辻町二入り右転シテ徳島街道フ横断シ此処二佃信号場(多度津起点参拾八粁五百参拾八米九八)フ設置シテ徳島線二連絡ス
此間線路延長 八哩七拾弐鎖八拾九節四分(拾四粁参百四拾壱米壱五)
最急勾配   四拾分ノ壱(千分ノ弐拾五)
曲線最小半径 拾五鎖(参百米突)
工事竣功   昭和四年四月
線路実延長  拾四粁参百四拾壱米
最小半径   参百米
猪ノ鼻トンネルと坪尻信号所のところだけを、意訳変換しておくと

阿讃の国境である猪之鼻峠には四国最大のトンネルを通し、三好郡箸蔵村に抜ける。そして、州津川に架橋し、左折して坪尻隧道(延長武195m)を通して、右折左転して、坪尻にでる。ここに坪尻信号場(多度津起点31、890㎞)を設置して、疏水隧道を設けて、州津川(鮎苦谷川)を付け替えて左転して・・

ここからは次のようなことが分かります。
①坪尻駅は猪ノ鼻トンネルの次のトンネルである坪尻隧道の出口にあること
②ここは、もともとは鮎苦谷の川底で、そこにトンネル掘削で出た残土処理場として、埋め立てられ更地となった。
③開通時には停車場(駅)はなく、信号所(通過待合所)が作られた

P1160378
JR土讃線 坪尻トンネル出口方面
トンネル工事中は、飯場などの施設がここには建ち並んでいたようです。工事が終わると、それらも撤去されます。そして、ここは「信号所」として、列車の待合所となります。しかし、駅ではないので常客の乗り降りは出来ません。地元住民にとっては、線路は通って、列車は見えるのにそれを利用できない状態が戦後まで続きます。それが地元の要請で、駅が設置されたのが1950年になります。ここでは、坪尻駅が戦後に新設された新駅であることを押さえておきます。

P1160380
左が本線、右が駅への導入線

 この駅はスイッチバックの駅として有名です

その理由として、急勾配克服のために導入されたと書かれた本もあります。しかし、それは誤りのようです。スイッチバック採用の原因は
次の通りです
①もともとここが川を埋め立てる難工事の末に確保された場所であったこと
②トンネルの出口にあったこと
以上の理由から2本の線路が併行して確保できる広さに限界があった
ためのようです。つまりスイッチバックは、行き違いの待避線路用で
急勾配対策ではなかったことになります。
P1160366
坪尻駅通過列車の時刻表 「停車」ではありません。
今、この駅のホームに入り込んでくるのは、一日に数本だけの普通列車と、四国真ん中千年物語の観光列車だけです。多くの特急列車は谷底の坪尻駅の本線を走り抜けていきます。それは信号所だったころの坪尻駅に先祖返りしているようにも思えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献



P1160383
木屋床への山道
坪尻駅には
 
P1160367
木屋床方面の入口に残された家屋
P1160368


観音寺茂木町 地図
観音寺市茂木町
財田川河口から少し遡った 観音寺市の茂木町には、かつては何軒もの鍛冶屋が並んでいたようです。鍛冶屋の親方が、近郷の村々の馴染みの農民たちが使う農具や刃物を提供したり、修理を行っていました。茂木町は鍛冶屋町でもあったようです。
観音寺茂木町 鍛冶屋 長浜市
鍛冶屋の風景(滋賀県長浜市)
親方たちは、農具を預かって修理を行うと同時に、農家の二男三男等を弟子として預かり、一人前に育てたようです。鍛冶屋の技術は江戸時代頃から親方のもとで技術を磨く徒弟制度の中ではぐくまれました。義務教育を終えて徒弟に入り、フイゴの火起こしの雑用から始めて、次第に難しい技術を身につけ、それを磨いてきます。技術習得には四、五年の年期がかかったようです。一人前になると、礼奉公の意味で半年か一年居候し、親方からの「年祝ひ」の手製の鍛冶道具をもらって、それぞれの地へ巣立っていったようです。
観音寺茂木町 鍛冶屋 長浜市の鍛冶

 農具は鍛冶屋に注文し、鍛冶屋で何度も修理して長く使うというのが当たり前でした。モノによっては「一生モノ」もあったようです。農具は、使い捨てではなかったのです。

観音寺茂木町 鍛冶屋 (滋賀県)

戦前の茂木町の鍛冶屋の親方たちは、近郷の農家を年に何回か「出張営業」したようです。
 「日役」で「サイに寸をする」などの注文をその場で行います。これが「居職かじ」です。これを農民たちは「鍛冶屋を使う」と言いました。大百姓は単独で、小百姓は何軒か組んで鍛冶屋を雇ってくることもあったようです。
鍛冶屋
村の鍛冶屋 

「出張営業」の依頼を受けた親方は、小道具をフゴに入れて弟子に天秤捧をかつがせ農家を巡回します。一日の手間賃は、米五升ぐらいが通り相場だったようです。親方のもとで技術を磨いた近郷の二男三男達は、それぞれの自分の出身地に帰り、鍛冶屋を開きます。そのため親方への「出張営業」は減ってきます。そのため、製品を作り商いにその活路を見出すことを求められるようになります。
10月8日・9日は関市刃物まつりへ! | 関市役所ブログ - 楽天ブログ
岐阜関市の刃物市

 当時は神社仏閣の催しごとがイベントの中心で、人が集まりました。そこには昔から市が立ち、住民のいろいろな生活用品が売られてきました。農機具や刃物も、祭りの市で売られるようになります。茂木町の鍛冶屋が荷車を引いて「出店」した市は、次のようなものです。
本山寺
大野原の八幡宮
仁尾の覚域院
金刀比羅宮
これ以外にも、年に数回は寺社のお祭りで商いをしたようです。

鍛冶屋には「フイゴ祀り」という独自の祭りがありました。

箱フイゴ
箱フイゴ
フイゴは、鉄を加工するために欠かせない道具の一つでした。農具などの鉄製品を造るためには、まずは材料の鉄を加工しやすいように溶かさなければなりません。そのためには強い火力が必要であり、その火力を強める風を炉に送る道具がフイゴです。
 鍛冶屋でのフイゴ祭りのことが次のように記されています。

観音寺茂木町 フイゴ祀り
フイゴ祭り

  フイゴ(鞴)を使う鍛冶屋では、鍛冶屋の神様として守護神金山彦命(かなやまひこのみこと)と迦具土神(かぐつちのかみ)を御祭りしました。大正10年(1921年)頃の記録では、毎年11月8日には仕事を休みんで、フイゴ鞴場の清掃をして注連縄を張り餅等を供え、夕食時にはお祭りの料理を整えて、出入りの職人たちをを招き、家付きの徒弟等も交えて酒宴を催し、近所の子供達にも蜜柑を配ったりしたのでした。(中略)
観音寺茂木町 フイゴ3
黄色マーカーで囲んだのが箱フイゴ

 また近郷村への「日役」の際に、鍛冶屋が使った火口は牛小屋に吊すと、牛が病気をしない魔除けとして信じられていて珍重されたようです。
 三豊の農家の人たちを支えた鍛冶の活動は戦争によって、引き裂かれます。
総動員体制の「全てのモノを戦場へ」のかけ声の下に、鉄は国家統制の対象となり、鍛冶屋の親方や徒弟は軍事工場に徴用されます。鍬や鎌作りから武器作りへと国家によって「配置転換」されます。
 鍛冶屋が一番盛況を極めたのは、戦後復興の時期だと云います。
食糧生産のために開墾・開田が行われ、山の中まで満州帰りの開拓者たちが入った時です。彼らのとって、農具は生きるための生活必需品でした。鍛冶屋の鉄を打つ音が財田川沿いの鍛冶屋に響いたそうです。しかし、それもつかの間です。耕耘機が登場し、農機具が機械化されるようになると、鍬やとんがは脇に置かれ、出番は少なくなります。同時に鍛冶屋の仕事も減っていきます。幹線道路が広くなり、生まれ変わった茂木町の街並みの中に鍛冶屋の痕跡はなにもありません。しかし、ここでは、鉄を打つ音が高く響いていた時があるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

(瀬戸内海歴史民族資料館年報「西讃の鍛冶職人」(丸野昭善)参照)   観音寺市史874P


 幕末の開国は、文明開化をもたらしますが、一方でさまざまな感染症も入ってきます。その中でコレラ(虎列拉)はもっとも厄介なものでした。コレラは激しい下痢と嘔吐を引き起こし、脱水症状と高熱で意識不明なって、3日ほどで死にいたる病気で「三日コロリ」とと呼ばれて恐れらました。県下のコレラ患者の発生・死者数が香川県史には下表のようにまとめられています。

明治の感染症1コレラ
明治香川県のコレラ患者数推移

この表らは次のようなことが分かります。
①1890(明治23)年と1895(明治28)年の2度にわたってコレラが大流行した
②その死亡率は6割を超えている
 2度目のピークは、1898年(明治28)です。この年は、日清戦争が勝利に終わり、大陸から多くの兵士達が帰還してきます。それに伴って、患者が増えたようです。この年の香川県の患者総数は約2300人で、その内の約1500人が亡くなっています。コレラの罹ると三人に二人は亡くなっていたことになります。当時の人々が、 コレラを「コロリ」と呼んで、何よりも恐れた理由が分かるような気がします。
 細菌学者コッホがコレラ菌を発見したのは1883(明治十六)年のことですから、当時は「予防治療」に打つ手がなかったようです。
どんな対応がとられたのかを見てみましょう。
 患者が発生すると、後追い的「消毒」と、避(隔離)病院への「隔離」策をとるぐらいでした。1879年の流行では、知事も感染し、3月1日から始まっていた琴平山博覧会は6月末までの予定でしたが、コレラのため、6月15日に繰り上げて閉会しています。

帝国生命保険株式会社) 虎列刺病予防法 明治28年7月13日印行 / 伊東古本店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋


 1887(明治20)年には、県は「伝染病予防規約方法書」を定め次のような指示を出しています。
①飲料水は必ず濾過器を通し、また暴飲暴食をせず、飲食物に気を付けること、
②患者発生の場合は、家族はもちろん、五人組親も直ちに組長へ、組長は戸長役場へ届け出ること、
③伝染病の懸念あるときは、届出の処置と同時に、その家の「交通遮断」(隔離)を行うこと。
 ここからは「水や生ものなどの衛生に気をつけて、早期発見と隔離に努める」というのが方針だったことがうかがえます。日本人の衛生概念の高まりはコレラ対策の中から生まれてきたとも云えそうです。
コレラ病アリ」強権的な衛生行政がもたらした監視社会 専門家「歴史繰り返すな」 | 毎日新聞
  隔離先は「避病院」と呼ばれました。
これはいつもは開院しているわけではなく、感染患者が出ると「隔離」収容するための市町村立の病舎でした。そのため施設も貧弱で、医療施設とは呼べないものもあったようです。
感染病に罹災した上に、家族全員が隔離され、周囲から差別を受けるという二次被害もあったことが当時の新聞からは分かります。
  「ハフキン式予防液」の接種が始まるのは、明治も後半になってからです。1902年(明治35)年には、香川県下では約20万人が予防接種を受けています。それでも患者数は県下で2745人、うち死亡者1784人(死亡率65%)の猛威ぶりです。期待された予防接種もあまり効果はなかったようです。
 戦後になると医療の発達や公共衛生の向上を背景に、感染病を国内から駆逐しいくことに成功します。感染病の面でも「安心安全な国」を築き上げたと思っていました。しかし今、目の前に展開されている光景をみると、それはある意味「幻想」であったようです。わたし達は、新たなウイルスと今後も向き合わなければならないことを教えてくれます。しかし、それは百年前とは同じ条件や環境ではありません。より高い医療・衛生環境を背景に立ち向かって行けます。
 わたしにできることは、対処法をよく知ること、頭を冷やすこと、フェイクニュースを流さないこと、おびえないこと、不安がらないことくらいかなと思っています。
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   高瀬町史の年表篇を眺めていると幕末の慶長2年のところに、次のような記事がありました
1866(慶応2)年
1月 坂本龍馬の斡旋で薩長連合成立
6月20日  丸亀藩 幕府の長州討伐に対しての警備強化通達に応えて、領内8ケ所に「固場」を置き郷中帯刀人に「固出張」と命じる(長谷川家文書
12月 多度津藩、横浜でミニュエール銃を百丁買い入れる
この年、多度津藩は50人編成の農民隊「赤報隊」を組織する

 第二次長州戦争が勃発する中で、濁流のように歴史が明治維新に向けて流れ出す局面です。多度津藩は、その流れの中で長州の奇兵隊を真似て、赤報隊を組織しています。一方、丸亀藩はと見ると「固場」を設置しています。これは何なのでしょうか。「固場」に光を当てながら、丸亀藩の幕末の動きを見ていきたいと思います。テキストは 小山康弘  讃岐諸藩の農兵取立 香川県立文書館紀要   香川県立文書館紀要NO4 2000年 

丸亀藩では慶応元(1865)年に第二次長州征伐に備えて、軍用人足の徴用が行われています。
ところが徴用に応じたのは20人に過ぎなかったと長谷川家文書には記されています。困った村々の庄屋たちは相談の上で、次のような口上書を藩に提出しています。

夫役人足之義は高割にて組分取計、村分ケ之所も右に順シ高割にて引分ヶ、村方においては鵬立之者相選、家別に割付人数国取にて繰出候事」
意訳変換しておくと
夫役人足の不足分については村高に応じて人数を割り当て、強健な者を選び、家ごとに割り当てる。以下、寺社井びに庄屋、組頭、五人頭、肝煎、使番の医師などは除き、十五歳より六十歳の者から差出す。

 つまり、村役人や医師は除いて、農家の家毎に強制的に割り当てるという案です。そして賃銀は一日拾匁位で、半分を藩より、半分は村方より出す。留守中の家族は宿扶持を支給し、農地は親類や村方で面倒を見る。出勤日数は適当に交替する。出夫の者が病死し、残された者が難渋する場合は御上より御救遣わす等が列記されています。
 藩にとっても、軍用人足の徴用は簡単にはいかなかったことがうかがえます。
幕末のすべて
第二次長州戦争

  第二次長州戦争が本格化すると、瀬戸内海沿岸の丸亀藩も領内監視体制を強化することを幕府から求められます。
その一貫として、翌年の慶応2(1866)年6月11日に設けられたのが「御固場」です。
「当今不容易形勢に付、郷中帯刀之者野兵と相唱、要路之場所え固めとして出張申付候」

意訳変換しておくと
昨今の不穏な情勢に対応するために、郷中の帯刀者を野兵として、街道の重要地点において、その場所の監視や固めのために出張(駐屯)を申しつける。

御固場の設置は、次の8ヶ所です。
左(佐)文村牛屋口、      (まんのう町佐文 伊予土佐街道)
大麻村にて往還南手処、   (善通寺大麻村 多度津往還)
井関村御番所、                 (観音寺市大野原町)
箕之浦上州様御小休場所 (豊浜町 伊予・土佐街道)
和田浜にて往還姫浜近分南手処、 (豊浜町)
観音寺御番所
仁尾村御番所
庄内須田御番所                 (詫間町須田)
そして取締り責任者に、次の者達が任ぜられます。
佐文村 宮武住左衛門、 寛助左衛門
大麻村 真鍋古左衛門、 福田又助
庄内 斉田依左衛門、 早水伊左衛門
仁尾村 松原得兵衛、 真鍋清左衛門
観音寺 勝村与兵衛、 須藤弥一右衛門
井関村 古田笑治、 西岡理兵衛
和田浜 藤寛左衛門、 渡辺半八
箕浦 大田小左衛門 早水茂七郎
この取り締まりを命じられた人たちは、どんな立場の人たちなのでしょうか
彼らは「野兵」と呼ばれた人たちで、大庄屋、庄屋を除く帯刀人だったようです。大麻村では、人数不足のために7月には、神原幸ら十人が新たに「出張」が命じられています。その働きに対して「御間欠これ無き様厳重相勤候様」と「礼状」が出されています。野兵は9月には58人に増員されます。

6月19日には、丸亀の商家大坂屋に数人の浪人が押し入り、番頭二人を殺害し、放火するという事件が起きます。残された書状には、「天下精義浮浪中」と名乗り、砂糖入札などを通じ、藩の要人と結託した奸商を成敗するとありました。巷では尊攘志士のしわざとの噂もあり、小穏な情勢が生まれていきます。このような状態を受けて、6月27日に、丸亀藩の京極佐渡守家来宛に幕府より次のような通達がきます。
「此度防長御討伐相成候二付、国内動揺脱た等も之れ有り、自然四国え相渡り粗暴之所行致すべくも計り難く候間、ゝ路之場所え番兵差出置、怪敷者見受候はゞ用捨無く討取候様致すべく根、其地近領え乱妨に及び候義も之れ有り候はゞ相互に応接速に鎮定候致すべく候」。
意訳変換しておくと
「この度の防長討伐については、国内の動揺もあり、その影響で四国へ渡り粗暴を働く者がでてくることも予想でる。ついては要路に番兵を置き、怪しい者を見受た時には、容赦なく討取ること。また、近隣で乱暴を働くような者が現れたりした時には、相互に協力し、迅速に鎮圧すること。」

御固場設置は、長州討伐にともなう不穏な情勢を、事前に絶つための治安維持のために設けられたようです。
御固場が、どう運営されたかを見ておきましょう。
 御固場に出仕する「野兵」への手当はなく、ボランテア的存在でしたが食事は出たようです。その経費について「御固メ所御役方様御賄積り書」には、次のように記されています。
「御役方様御賄之義は先づ村方より焚出候様、尤一菜切に仕り候ゝ仰付られ候、然に御手軽之御賄方には御座候へ共、当時諸色高直に御候間、余程之入箇に相見申候」
「一ヶ所一日之入筒高凡百五拾目、八ヶ所一日分〆高を貫弐百目に相成、一ヶ月二拾六貫日、当月より当暮まで六ヶ月分弐百冷六貫日、此金三千両に相成候様相見申候」
  意訳変換しておくと
「御固場に出仕する野兵の食事については、先づ村方で準備するように。内容は一菜だけでいいとの仰付けであった。確かに高価な賄いではないが、この節は物価も上がっているので、大きな経費になりそうだと話し合っている

「一ヶ所の御固場の一日当たりの経費として凡150目、八ヶ所では一日分合計1貫200目になる。これは一ヶ月で26貫芽、当月から今年の暮までの6ヶ月分では2弐百十六貫日、併せて三千両の見積もりとなる」

と、当初から多大な経費がかかることが危惧されていたようです。
周辺の住民は、御固場近隣の見回りに駆り出されています。

「敷地之者軒別順番にて三・四人づヽ見廻り仕らせ候ヶ処も御座候、(中略)如何様当今米麦高直故、家別廻り番当たり候ては迷惑之者御座候故に相聞申候
意訳変換しておくと
「地域内の者を家軒別に順番で、三・四人づつで見廻させている所もありますが・・(中略) 
当今は米麦の値段も上がり、家別の廻り当番が頻繁に当たっては(麦稈などの夜なべ仕事もできず)迷惑至極であるとの声も聞こえてきます。
御固場は、近隣の村々には迷惑だったようです

これに対して、9月2日には御用番岡筑後より指示があり、次の条目が御固場に張り出されます
一、御固所出張之者共心得筋之義は、取締役も仰付られ、一通規定も相立候由には候得共、猶又不作法之義これ無様厳重二番致すべき事
一、出番之義昼夜八人相詰、四人づゝ面番これ有、通行之者鳥乱ヶ間敷儀これ有候はゞ精々押糾申すべき事
一、組合々々之中、筆上直支配之者申合、油断これ無き様気配り令むべき事
一、面番之者仮令休足中たりとも、外方え出歩行候儀停止たるべき事
一、若病気にて出張相調い難き者これ有候節は、其持場出張之者共え申出候はヾ 与得見届け、弥相違これ無候得ば連名之書付を以て申出るべき事
一、非常之節、固場所にて早拍子木太鼓打候はゞ、其最寄り々々にて請継ぎ、銘々持場え駆付け相図中すべき事
一、非常之節、銘々持場を捨置、家宅を見廻り候義は無用之事
但、近火之節、代り番申遣置、引取候て不苦、盗難同断之事
一、出番中酒肴取扱い之義堅無用之事
右之条々堅相守申すべきもの也
意訳変換しておくと
一、御固所への出張勤務している者の心得については、取締役からの仰付であり、規定も出しているので、不作法がないように厳重に勤めること
一、勤務については昼夜8人体制で、4人づつが交替で監視に当たること。通行者による騒動が起きないようにし、もし発生すれば速やかに取り締まること
一、組内のメンバー同士は、意思疎通をはかり、上に立つ者の指示に基づいて、油断のないように  気配りすること。
一、当番のメンバーは休息中といえどもも御固所を離れて、外へ出歩くことのないように
一、もし病気で出張(勤務)ができない場合は、組のメンバーに申し出、メンバーが確認し、間違いないことを見届けた上で連名で書付(欠勤届)を提出すること
一、非常時には固場所で早拍子や太鼓を打ち鳴らし、最寄りの村々に知らせること、その際には早  急に持場へ駆付け対応すること
一、非常の際には、持場を捨てて、自分の家を見廻るようなことはしないこと
  ただし、火事の時には、番を交替し、引取ることを認める。盗難についても同じである
一、出番(勤務)中の酒肴は、堅く禁止する
  以上について、堅く守ること

長州征伐は幕府の苦戦が続き、8月11日になると将軍家茂死去を理由に征長停止の沙汰書が出されます。そして10月には、四国勢も引き揚げを開始します。これにともなって御固所も役目を終えたようです。6月に設置されてから約4ヶ月の設置だったことになります。
御固所が解散された後の治安維持は、村々に任されます。つまりは、村役人に丸投げされたことになります。以後の対応も問題ですが、それ以上の問題は、今までの御固所の運営経費の精算も済んでいなかったことです。この方が庄屋たち村役人にとっては心配だったようです。
 そんな中、11月21日になって、次のような通達が藩から廻ってきます。
一、太鼓鐘拍子木等鳴候はゞ、聞付け次第村方庄屋役人は得物持参、百姓は竹槍持参駆付け、妨方心配致すべき事。 
一、村庄屋役人罷出候節、村高張、昼は職持たせ、役人は銘々提灯持参致すべき事
一、村々において廿人歎廿五人歎壼組として其頭に心附候者二人位相立、万一之節は其頭之者方へ相揃付添組頭所え罷出、案内致し、指図を請罷出申候事」
意訳変換しておくと
一、太鼓・鐘・拍子木などが鳴るのを聞いたら直ちに、村方庄屋役人は武具を付けて、百姓は竹槍持参で駆付けるなど、騒動の早期鎮圧に心がけること
一、村庄屋役人が出動するときには、村高張、昼は職持たせ、役人はめいめいに提灯を持たせること
一、村々において20~25人を1組として、そのリーダーにしっかりとした者2人を立て、万一の時には、そのリーダーの者へ集合し、組頭の所へ出向き、指図を受けること
伝達された内容は、御固場条目を踏襲しているようです。
ここから分かるように、丸亀藩の御固場は、長州征討に伴う不穏な事態に対処するために設けられた軍用人足だったことです。それも長州征討が行われた慶応2年6月から10月にかけての、わずか4月間の設置だったようです。
   これは、隣の多度津とは大違いです。多度津藩の軍備近代化についての意義や評価をもう一度見ておきましょう。
白方村史は次のように評価します。
赤報隊は、地主や富農の子弟からえらばれ、集団行動を中心とする西洋式戦術によって訓練され、戦闘力も大きく、海岸防備や一揆の鎮圧、さらに維新期の朝廷軍に協力してあなどり難いものがあった」

三好昭一郎の「幕末の多度藩」には、次のように記されています。
「兵制改革展開の上で最大の壁は、何といっても家臣団の絶対数不足という現実であったし、藩財政の窮乏に伴って地方に対する極端な負担増を背景として発生することが予想される農民闘争に対して、十分な対応策を早急に講じなくてはならないという、二つの課題の同時的解法の方策が求められていた」

「沿海漁業権や藩制に対する丸亀藩のきびしい干渉や制約のもとで、宗藩からの自立をめざすための宮国強兵策として推進されるとともに、何よりも外圧を利用することによって、慢性的藩財政の窮乏を克服するための財源を得、さらに藩の支配力低下と農村荒廃による石高・身分制原理の引締めをめざそうとする意図をもって、藩論を統一し兵制改革に突破口を見出だそうとしたことも明らかな史実であった」

以上から多度津藩の軍備の近代化の意図と意義を次のようにまとめておきます。
①幕末の多度津藩は近代的な小銃隊を編成することを最重要課題とした。
②そのためには、武士層が嫌がるであろう銃砲隊を新たな農兵隊によって組織することで兵制改革を実現しようとした
③その軍事力を背景に、藩内の諸問題の打開を図るとともに、幕末情勢に対応する藩体制の強化をねらった。
このような多度津藩の取組に比べると、丸亀藩の対応の遅れが対照的に見えてきます。
丸亀藩では、多度津藩に比べると新たな兵制改革に取り組む意欲には欠けていたようです。丸亀藩でも、洋式銃隊は上級藩士の子弟で集義隊が編成されます。ところがペリー来航の翌年の元治元年(1854)6月、集義隊員の6人が脱藩事件を起こします。彼らが提出した建言書には次のように記されています。
「御向国御固め武備御操練等も御座遊ばさるべき御儀と存じ奉り候処、今以て何の御沙汰もこれ無く、右様御因循に御過し成され候ては、第一朝廷を御欺き幕府を御蔑成され候御義に相当り、実に以て国家の御大事恐燿憂慮の至りに存じ奉り候。依て熟慮仕り候処、御家老方には御重職の儀御奮発御配慮御座候有るべくは勿論の御儀には候へ共、全く以て姦人等両三輩要路に罷り在り、一己の利欲に相迷い、武辺の儀ハ甚だ以て疎漏」(村松家文書)

意訳変換しておくと
「国を守るための武備や操練などが行われるものと思っていましたが、今以て何の御沙汰もありません。このようなことを見逃しているのは、朝廷を欺き幕府を侮ることになります。実に以て国家の大事で憂慮に絶えません。なにとぞ熟慮の上に、家老方には重職に付いての件は、奮発・配慮の結果とは思いますが、この3人は全く以て姦人で、要路に居ること自体が問題で、一己の利欲に相迷い、武辺の儀ハ甚だ以て疎漏な輩です」(村松家文書)

 これだけでは訓練の中で何が起こっていたのかは分かりません。しかし、管理運営をめぐって反発する若者が脱藩したことは分かります。彼らはまもなく帰還しています。これに対する処罰も与えられた形跡はありません。所属隊から脱走しても責任が問われない軍隊だったことになります。

当時の丸亀藩では、原田丹下らの洋式訓練と佐々九郎兵衛らの和式訓練との対立が激しかったようです。藩主自らが「西洋銃砲でいく!」と決めて、突き進んだ多度津藩とは出発点からしてちがうようです。そして、その対立は明治元年の高松征討の際にまで続いていたようで、高松に向けてどちらが先に立って出発するかろめぐって和式と洋式が争ったという話が伝わっています。ここからは丸亀藩では、藩を挙げての兵制改革はほど遠い状態であったことがうかがえます。

以上をまとめておきます。
①多度津藩は、小藩故の身軽さから藩主が先頭に立って、軍制の西洋化(近代化)を推進し、農民兵による赤報隊を組織することに成功した。
②赤報隊を組織化を通じて藩内世論の統一にも成功し、挙国一致体制を取り得た。
③その成功を背景に、幕末においては土佐藩と組むことで四国における特異性を発揮しようとした。④一方、丸亀藩はペリー来航後も藩内世論の統合ができず、幕末の動乱期においても、その混乱を主体的に乗り切って行こうとする動きは見られなかった。
④それは長州戦争時に設置された御固場に象徴的に現れっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 小山康弘  讃岐諸藩の農兵取立 香川県立文書館紀要   香川県立文書館紀要NO4 2000年 

  讃州竹槍騒動 明治六年血税一揆(佐々栄三郎) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

本棚の整理をしていると佐々栄三郎の「讃州竹槍騒動 明治6年血税一揆」が目に入ってきました。ぱらぱらと巡っていると私の書き込みなどもあって、面白くてついつい眺めてしましました。約40年前に買った本ですが、今読んでも参考になる問題意識があります。というわけで、今回はこの本をテキストに、「血税一揆」がどんな風にして起こったのかを見ていくことにします。

明治六年(1873)6月26日 三野郡下高野村で子ぅ取り婆さんの騒動が起こります。
この騒動について、森菊次郎は手記「西讃騒動記」を残しています。
この人は三豊郡詫間町箱の人で、戦前、箱浦漁業会長などもした人で、昭和28年に86歳で亡くなっていますから、この一揆のときは六、七歳の子どもです。そのため自分の体験と云うよりも聞書になります。そのために事実と違うことも多く、全面的に信用できる史料ではありません。しかし、一揆に関する記録のほとんどが官庁記録なので、こうした民間人の記録は貴重です。

血税一揆 地図
子ぅ取り婆事件の起きた下髙野

子ぅ取り婆事件について、この手記は次のように記しています。
『子ぅ取り婆が子供をとっているとの流言飛語が一層人心を攪乱した。しかも実際にその子ぅ取り婆を認めたものはなかった。その子ぅ取り婆というのは、坂出町の精神病者でこれが、ちょうど騒動の起こりだった。

この子ぅ取り婆が明治六年六月二十六日、坂出町から三野郡に入り込み、同日昼ごろ、比地中村の春日神社に来たり、拝殿でしきりに太鼓を打ち鳴らし、騒がしいので神職及び二、三の人々は懇諭、慰安を与えなどして行き先を問うたら、観音寺へ行くというので、早く行かぬと日が暮れると言い聞かせ、門前を連れ出し、観音寺へ行く道を教えて出立せしめたが、 最早、下高野の不焼堂(如来寺)へ行くまでに日没となってしまった。
夕涼みの多くの人々は、子ぅ取り婆が来たと大騒ぎし、婆が行く前後には多くの子供がつきまとった。その子供らの中の一人を老婆が抱きあげると、多勢の人々はこれを追っかけ、取り返した。しかし実際は取ったのではなく、その子供が大勢の人々に押し倒され転んで井戸の中へ落ちんとしたのを救いあげ、抱いたまま走って行ったのでした。 一犬吠ゆれば万犬吠ゆで、これが竹槍騒動の動機となった』
以上が「西讃騒動記」の発端の部分です。ここからは次のようなことが分かります。
①子ぅ取り婆というのは、坂出町の精神病者で
②明治6年6月26日、坂出町から三野郡に入り込み、昼ごろに比地中村春日神社にやってきた。
③日没時に下高野の不焼堂(如来寺)にやってきて騒ぎとなった
この他に、一揆のまとまった記録としては、次の2つがあるようです。
①一揆後の近い時期に官庁報告をまとめた「名東県歴史
②邏卒報告書などから材料を得た昭和9年発行の「旧版・香川県警察史
この内で②の「警察史」は、その発端をを次のように記します。
 『明治六年六月二十六日正午頃、第七十六区の内、下高野村へ散髪の一婦人現われ、附近に遊べる小児(当時の副戸長秋田磯太の報告によれば小児の父兄、姓名、自宅不明とあり)を抱き、逃げ去らんとしたり。これを眺めたる村民は、当時、児取りとて小児を拉し去り、その肝を奪ぅもの徘徊するとの風聞ありたる折柄とて、忽ち附近の農民寄り集まり、有無を言わせず、打殺さんとしたるを、村役人田辺安吉これを制し、故を訊さんため、先ずその婦人を自宅に連れ帰りたるに、村民増集、喧騒するを以て、日辺は比地大なる同区事務所(役場)へ報告、指揮を抑ぎたり。
 このとき事務所には戸長不在にて副戸長秋田磯太あり、兎に角その婦人を事務所まで同行すべく命じたり。然るに田辺宅附近に集まりし村民は日々に不同意を唱ぇ、田辺をして同行せしめず、田辺は止むなく再び事情を報告したりしに、秋田副戸長は田辺宅に出張し来り、門柱に縛しあるを一見するに頭髪の散乱せる様といいヽ眼使いといい、全く狂人としか思われず、何事を問ぬるも答うるところなく、住所、氏名さえ明らかならぎるをもって、徐々に取調べんと思いたるも、何分多人数集合せるを以て無用の者は退去すべく再三論したるも聴きいれず、彼是、押問答の内、戸長名東県歴史又駈けつけたり。
群集を説諭しヽ婦人は兎に角事務所へ連れ帰ることとなり、先ず戒めを解き門前に引出し、群集に示し、その何人なりやを訊したるも誰一人として知れるものなく、全く他村の者と定まりしがヽ狂婦は機をみて逃げ出さんとしたるを秋田副戸長はすかさずヽその襟筋をとらえて引戻したり。

然るに、このときまで怒気をおさえて見物せる群集は最早たまりかね、三つ股、手鍬をもって打掛かりしを以て戸長らはかろうじてこれを支え、狂婦をまた田辺宅に引き入れ警戒中、急報により観音寺邏卒(巡査)出張所より伍長吉良義斉は二等選率石川光輝、同横井誠作の二名を率い、急遠田辺宅に駈けつけたり。このときは既に無知の土民数百名、竹槍又は真槍を携え、田辺宅を取り囲み、吉良の来るをみるや、口を極めて罵詈し、騒然として形勢不隠なり。吉良は漸く田辺方に入り、ここにまたもや狂婦の尋間を開始したるも依然得るところなく、僅かに国分村の者なるを知り得たるのみ―』
 この経緯をまとめておくと、次のようになります。
①子ぅ取り婆が子どもを抱いて連れ去ろうとした
②それを村民たちが捉えて、なぶり殺しにしようとしたので村役人の田辺安吉が自分の家に連れて帰った
③戸長も駆けつけ、戸長役場に連行しようとしたが、取り囲んだ人々はそれを認めず騒ぎは大きくなった
④急報によって駆けつけた邏卒の姿を見ると群衆は、怒り騒然とした雰囲気に包まれた。

血税一揆 事件発生
下髙野

事件の起こった場所については、どの記録も下高野と記します。
地元では下高野の南池のほとりと伝えられているようです。南池は不焼堂(如来寺)から街道を百メートルあまり南へ行った付近にあります。不焼堂あたりから子供たちが、子ぅ取り婆さんにぞろぞろとつきまといはじめ、南池のほとりでこの事件が起こったものとしておきましょう。子ぅ取り婆さんに抱きかかえられた子供と、この子供の守をしていた人の家、及び村吏の田辺安吉の家もこの南池の近くにあります。
 豊中町本山のKさんの祖母は田辺安吉家から出た人ですが、この人は生前に、子ぅ取り婆さんは田辺家の門の柱に縛りつけられ、散々痛めつけられて見るも哀れな姿であったと語っていたという。子ぅ取り婆さんは、その愛児が池で蒻死したため発狂したとされます。つきまとう子をかかえて走ったのは、その子がわが子とみえたのかもしれません。
子ぅ取り婆さんについては、名前は塩津ノブ。 年齢は30代後半と(旧「観音寺市史」は記します。出身地については、
「西讃騒動記」は坂出町
「警察史」は志度町とも国分村とも書いています。
「豊中町誌」は『寒川郡志度の者』
「名東県歴史」は 『女は阿野郡国分村農、与之助の孫女』
信頼度の高い「名東県歴史」に従って国分村の者と研究者は推測します。
子ぅ取り婆さんに抱きかかえられた小児については
①「名東県歴史」は、「比地大村の農民某の妻二児を携え路傍に逍逢す」
②「警察史」は『小児の父兄、姓名、自宅不明』、『矢野文次の娘』
③地元の伝承では、「下高野村の南池近くの家の子で、後に成人して比地大村へ嫁した」

②の「警察史」は『矢野文次の娘』とあるのは、一揆の首謀者が矢野文次であったからのこじつけと研究者は指摘します。
①は、子ぅ取り婆さんが抱きかかえられた子を「二児」と記しますが、これは他の史料には見当たりません。抱きかかえたのは一人のようです。
「警察史」は続けて次のように記しています。
 一方、土民は、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるの諺の如く、何ら事実を知らざるものまで出で加わり、はては鐘、太鼓を打ち鳴らし、西に東に駈け回ることとて、さなきだに維新早々の新官憲の施政には万事猜疑の眼をもって迎えいたりし頑迷無知の徒、次第にその数を加え、殺気みなぎる』

村吏の田辺安吉の家を取り囲んだ群衆は、邏卒の姿を見て興奮したようです。その背景は、「維新早々の新官憲の施政には万事猜疑の眼をもって迎えいたりし頑迷無知の徒」から読み取れそうです。日頃から戸長や邏卒に「万事猜疑の眼」を向けていたようです。「警察が来たぞ!」という声に、テンションが上がったようです。

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早鐘が鳴らされた延寿寺
そして早鐘が打ち鳴らされます。早鐘は、今で云う非常招集サイレンで、火事や非常時の際にならされました。この早鐘は七宝山の麓の丘にある延寿寺のものでした。鐘を鳴らした矢野多造は、事件後の裁判で「杖罪」に処せられ、背中が青ぶくれにはれあがるほどたたかれたと生前に語っていたようです。

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              延寿寺本堂
 鐘が鳴りはじめると間もなく手に手に竹槍を持った農民が、比地大村や、竹田村方面から国木八幡前を、道一杯に長蛇をなして下高野へ押し寄せて来ます。こうして、竹槍農民の数はますます増えて来ました。

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国木八幡神社

観音寺邏卒出張所の吉良伍長の報告を見てみましょう

 『百方説諭すといえども集合の徒一切聞き入れず、四方よりますます奸民群集し、既に私共へ竹槍をもって突っかけ、切迫の勢いに相成り、手段これ無く―』

吉津邏卒出張所、北村伍長選卒報告。
『共に説諭を加え候へども何分頑愚にしてその意を弁ぜず、漸く右を平治すれば左沸騰し、間も無く人民数百人群集、暴言申しかけ、竹槍にて突っかからんとする勢い、とても防ぐべき策無きにつき―』

村吏の田辺安吉宅を取り囲んでいた群集は、やがて移動を開始します。国木八幡宮前をまっしぐらに比地大村友信の豊田戸長宅へ向かったのです。そして、戸長宅に火が付けられます。一揆の焼打ち第一号は豊田戸長宅になります。
 そのころ傷を負った豊田戸長は、身の危険を感じて七宝山麓の知人の家に逃れ潜んでいました。彼は知人から野良着を借り、野良帰りの農夫をよそおって帰途にしようとして、わが家の焼けるのを見たようです。地元の下高野村では、これ以外には高札場が毀されただけでした。
この騒ぎの中、子ぅ取り婆さんは姿を消しています。彼女のその後の消息については記録、伝承ともにありません。
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         延寿寺山門からの下髙野    
子ぅ取り婆は、子供の血をとる。という風評は以前からありました。
  明治5年の戸籍法(壬申戸籍)で役場が家族名、性別を各戸について調査したとき、血をとって外国人に売るためだという流言が流れたと云います。同じく明治五年、外国人指導の富岡製糸場の女工募集も「女工になって行けば外国人に血をとられる」との噂があったようです。
それでは、人々はこの流言を本当に信じていたのでしょうか。
農民が子ぅ取り婆だけを問題にしていたのであれば、子ぅ取り婆が狂人と分り、どこかへ消えていった段階でこの騒ぎはおさまったはずです。ところが、群衆はこの後、戸長、吏員宅、区事務所、小学校、邏卒出張所などを次々と襲っていきます。襲撃対象を見ると、明治維新の新政後に登場した村の「近代施設」ばかりです。江戸時代の襲撃対象となった庄屋や大商人の邸宅が対象となっていません。これをどう考えればいいのでしょうか。
 血税一揆を語る場合に、民衆が血を採られると勘違いしたのが契機となったと「民衆=無知」説で片づけられることが多かったようです。しかし、研究者はこれに対して異議を唱えます。「百姓を馬鹿にするなよ。それを知った上での新政府への新政反対一揆であった」というのです。
徴兵令とは】わかりやすく解説!!目的や内容(条件&免除規定)・影響など | 日本史事典.com

一揆の背景となった徴兵制を見ておきましょう
明治5年1月発布の徴兵令に関する太政官告諭に、次のような文句があります。
『凡そ天地の間に一事一物として税あらざるものなく、以て国用に充つ。然らば即ち人たるものは、もとより心力を尽し、国に報ぜざるべからず。世人これを称して血税という。その生血を以て国に報ずるの謂なり』

徴兵=「生血を以て国に報ずる」=血税という説明になっています。
血税は英語の「ブラッド タックス」で兵役を意味します。これを担当官は「徴兵=血税」と訳しました。この訳が一揆の原因となったというのです。それはこんな風に語られました。
血税の二字から、村々は次のような流言でもちきりになった。
「血税というのは若者を逆さづりにしてその血を異人に飲ませるのだそうだ」
「横浜の異人が飲んでいるぶどう酒というのがそれだ。赤い毛布や、赤い軍帽は若者の血で染めているのだ」
「徴兵検査は怖ろしものよ。若い子をとる、生血とる」
という噂が流言となって広がったようです。
「西讃騒動記」には、次のような一節があります。

血税の誤解から当時の三野郡、豊田郡の人心動揺をはじめ、遂に竹槍、薦旗の焼き打ち騒動を惹き起こし、各町村の小学校、役人の邸宅に放火し、暴状を極めた。徴兵告論を読んだ人が、我国には昔から武士が戦いのことには専ら関係しているため、我らは百姓を大切に農業に従事し、つつがなく租税を納めておればよい。しかるに、西洋にならって徴兵して、生血を取る御布令には少しも従うことは出来ぬと反対し、その声喧章、だんだん広がって騒がしくなって来たので、 県では容易ならぬこととして比地大村の豊田徳平、竹田村の関恒三郎、 本大村の大西量平の三戸長をして人民の誤解を解かせょうとしたので、三戸長はその命を受け、熱心に血税云々につき各村々を巡廻講話を行ったのであるが、人民は頑として聞き入れず……」

 ここからは、血税という流言だけでなく徴兵制そのものへの反対が民衆の間には根強くあったことが分かります。その中で地元戸長たちが徴兵制推進のために「県の命を受けて熱心に血税云々につき各村々を巡廻講話」を重ねますが「人民は頑として聞き入れ」なかったようです。徴兵制反対の人々にとって、推進の先頭に立つ戸長たちに敵意が向けられるようになったことがうかがえます。

実は、讃岐の一揆の一週間前に、鳥取県でも同じような一揆が起きています。これを政府に伝えた県庁報告書には、次のように記されています。(意訳)
『明治六年六月十九日に伯者国会見郡で農民が蜂起した。この一揆の背景には人民哀訴や歎願があったのではない。また巨魁、奸漢などの黒幕が企てたものでもない。ただ徴兵公布令を農民輩たちが、徴兵令の中の「血税」等の文字を誤解し、事実無根の流言を唱え、兵役は生血を搾り取られる、兵事とはただ名のみで、その実態は血を取るためであるという流言が広まったためである。
 これに加えて、鉱山での御雇外国人が、鉱山検査のため、山陰、山陽を巡回し、本管内を巡回する際にも、生血を搾られるという流言が流された。そのため民衆の中には、一層の恐怖感を抱き、、家族の数を知られないように表札を隠したりする者も現れる始末であった。
 これを見て戸長たちは驚き困惑し、懇々と説諭したが民衆は聞く耳を持たない。そして、ついに北条県下の人民が蜂起し、それが本県にも波及した。頑民(戸長の云うことを聞かない人々)は、徴兵募集の役人が来たときには、相共に竹槍や使い慣れた器杖で追い返すべしと相談した。
  六月十九日、会見郡古市村の農民勝蔵の妻いせが、山畑で耕作していると異状の者(邏卒)の姿を見て、絞血(採血)の者と勘違いして、家族を守るために、近隣の儀三郎の家に走り込んで次のように告げた
「異状の者がやってきました、気をつけて下さい」
儀三郎の家には、二十歳の男子があり日頃から搾血の説を聞いて、心痛めていた。そのためこれを聞いて狼狽して、走り廻って
「搾血の者来れり」と叫んで告げた
村の人々はこれを聞いて隣村にも伝えた。また、寺鐘を早打ちして緊急集合をかけた。これを以て各村は、一斉に蜂起すすることになった』
(上屋喬雄、小野道雄編「明治初年農民騒擾録」所収)

ここには当時の鳥取県の担当者が「無知蒙昧な民衆が血税の流言に惑わされて、一揆を起こした」と中央政府に報告していることが分かります。「血税一揆=流言説」です。 「西讃騒動記」「名東県歴史」「警察史」なども大体同じ論法です。しかし、これに対しては反対論もあったようです。

新聞(明治5年)▷「東京日日新聞」(創刊号、現・毎日新聞) | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives

明治七年二月七日の東京日々新聞に発表された「血税暴動は県側の詭弁」は、次のように反論します。
 血取りの説は「血税」以前から流布していたのであって徴兵令からはじまったものではない。従って徴兵反対一揆は血税の二字に原因するものではなく、それは県吏の民意を愚民観ですり代え、一揆の真因をぼかそうとする地方政治担当者の政治的作為によるものである。

一揆発生の明治六年に出版されたの横河秋濤著「開化の入口」という本には、次のように記されています。
『比の頃、徴兵とやら、血税とやらいって、大切な人の子を折角両親が辛苦歎難を尽し、屎尿の世話から手習い、算盤そこそこに稽古させ、これから少し家業の役にもたつようになったものを十七歳、或いは、二十歳より引上げて、ギャッと生れてから夢にも知らぬ戦いの稽古させ、体が達者でそろそろ役にもたつものは直ぐさま朝鮮征伐にやり――』

そして、大分県の徴兵反対一揆に立ち上った農民の一人は、次のように嘆いています。
「徴兵で鎮台に遣わされ、六、七年も帰して貰えないのでは全く困ったことになってしまう」

この頃、俗謡にあわせて、「徴兵、懲役一字の違い、腰にサーベル、鉄鎖り」という俗謡が流行になったともいいます。
ここからは農民は血取りを恐れていたのではなく、徴兵そのものに反対していたことがうかがえます。
警察の誕生と歴史
裸を取り締まる明治の邏卒(警察官)

血税一揆の際に、邏卒が上司へ提出した報告書を見てみましょう。
第四十九区(一揆波及地―阿野郡北村、羽床上、同下、山田上、同下の各村)
第五十五区(一揆波及地―同郡岡田上、同下、同東、同西、栗態東、同西の各村)
は、以前徴兵検査の節、所々山林へ集合し、度々説諭にまかり越し候区内なれば、農民共、此の虚(一揆蜂起)に乗じ発起すべきもはかり難きに付、情、知察のため午後二時頃より巡遣し、四時頃帰宅』
意訳変換しておくと
二つの区は、以前に徴兵検査について、山林へ集まって反対集会を開いていたところなので、度々説得に出かけた区内である。農民共が、この旅の一揆蜂起に参加するかどうか分からない情勢なので、偵察に午後二時頃より巡回し、四時頃に帰宅した』

滝宮邏卒出張所詰、平瀬英策報告。
『(鵜足郡)林田村の頑民、 既に説諭によって服従、 一時検査を受くるといえども余儘なお残炎、時あらば後燃せんとする気、もとよりその場動するものありて然り』
意訳変換しておくと
『(鵜足郡)林田村(坂出市林田町)の頑民(新政府反対派)たちは、 すでに我々の説諭によって服従し、徴兵検査を受けた者もいるが、心の中には今も残炎が残り、機会を見ては再び燃え上がろうとする雰囲気がある。もとよりその場動するものありて然り』

ここからは讃岐でも徴兵検査に反対する集会があちらこちらで開かれ、その度に邏卒や戸長が出向いて説諭を繰り返していたことが分かります。それが「血税」の流言だけのための反対運動ではないことは明らかです。「血税一揆」を流言によるものとするのは、民衆無知蒙昧説の上に胡座をかいた説と研究者は指摘します。
邏卒
              5代目菊五郎が演じた邏卒

上の史料からは一揆の頃には、すでに徴兵検査も行われ、徴兵検査で血が採集されないことは分かっていたはずです。ここからは人々が「血取り」反対したのではないと云えます。それでは何に反対したのでしょうか?
鳥取県一揆について農民の側から出した願書があります。それは次のように記されています。(「明治初年農民騒擾録」)
鳥取県一揆願書
一、米穀値段下げ仰せつけられ候こと。
二、外国人管轄通行禁止。
三、徴兵御繰出し御廃止仰せつけられ候こと。
四、今般騒動致し候条、発頭人御座無く候こと。
五、貢米、京枡四斗切り、端米御廃止仰せつけられ候こと。
六、地券合筆取調諸入費、官より御弁じ仰せつけられ候こと。
七、小学校御廃止、人別私塾勝手仰せつけられ候こと。
八、御布告板冊、代価御廃止。
九、太陽暦御廃止、従前の大陰暦御改め仰せつけられ候こと。
十、従前の通り半髪(丁髭)勝手仰せつけられ候こと。

ここには、徴兵反対の他にも、地券、小学校、太陽暦、斬髪令などの、この時期の新政府の出した政策に対する反対や、米価引き下げ、端米廃止などの生活に直結した要求が列挙されています。
先ほど見た政策担当者の県庁報告は、これらの事実を無視し、他に「哀訴歎願の根底あるに非ず」として、すべてを血税の誤解一色で塗りつぶそうとしていると研究者は指摘します。ある意味、一揆の原因を、愚民観ですりかえよう意図が見えてきます。

鳥取県一揆の願書でも分るように、徴兵だけが問題だったのではない。そのことは讃岐のこの一揆の経緯にも現われています。というのは、豊田戸長が真っ先に焼き打ちをかけられたのには理由があったからです。
「大見村史」に次のように記されています。
維新のはじめ、当郡比地大村、岡本村を管轄する戸長に豊田徳平なるものあり、此の者と同地人民との間に三升米とて公費の徴収に関し葛藤を生じ、故障申し立ての結果、終に人民の失敗に帰し、体刑に処せられたれば之を遺恨に思い、豊田戸長に報いんとする折柄、徴兵令の非議を豊田戸長に提起したるに戸長曰く、徴兵は風説の如く疑うべきに非ず、又、血税は決して血を採る意義に非ず、若し万一そのことありたる暁は予が首を渡すことを誓う、と。 一同はそのことを聞き、 一段落を告げたり。
 又、明治五年、県令を以て庶民の剃頭束髪(丁髭)を廃止され、其の実行を否む者に対しては吏員をして断髪の強制執行をなしたり。事態かくの如くなるを以て頑民は彼を思い、これを顧りみ不満に耐えず、疑惑、誤解交々起これり。時に明治六年六月二十六日、当郡岡本村に於て児取り婆の所為発生したり』(傍点、引用者)
ここからは、血税一揆が起こる前に、この地域では「三升米事件」や徴兵制検査・断髪強制など新政府の進める政策をめぐって、戸長と村民との間に対立が起こっていたことが分かります。
 
  子ぅ取り婆さんの騒動が、これらの積もり積もった戸長や邏卒への不満や反発に火をつけて暴発させたようです。そこには、人々の新政府への不満があったのです。
DSC07031
大見村遠景
  以上をまとめておくと
①明治5年になると新政府への期待は失望から反発へと転換していった。
②明治政府の徴兵制や義務教育制の強制は、人々にとっては新たな負担の増加で反対運動の対象となった
③民衆の反対運動への説得や圧迫のために、戸長や邏卒が活発に活動した。
④そのため戸長や邏卒は明治政府の手先として、反感・反発対象となった。
⑤そのため一揆が起こると戸長宅や邏卒事務所(駐在所)は攻撃対象となった。
⑥政策責任者や警察では、この一揆の原因を「無知蒙昧な民衆の血税への誤解」としたために、一揆の本質が伝わらないままになっている。
一揆の本質は、期待外れの明治新政府への不満と反発が背景にあった。それは香川県だけでなく、周辺の県でも同じような運動がおこっていることからいえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      と佐々栄三郎の「讃州竹槍騒動 明治6年血税一揆」
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明治17年11月の大久保諶之丞の動きを見てみましょう
10月末の高知県からの視察団が川之江ルートと猪ノ鼻ルートの両方を視察して、後者の優位性を大久保諶之丞に伝えたことが史料からはうかがえます。それを聞いて、諶之丞は新たな動きを開始します。
大久保諶之丞 動静表明治17年11月

上図は諶之丞の明治17年11月の動向を研究者が表にしたものです。
11月2日~15日を動きを見てみましょう。連日のように、西讃各地を廻り有志を訪問していることが、諶之丞の金銭出納を記した手控帳からは分かります。訪問先を見ると
長谷川佐太郎(琴平町榎井の大庄屋で満濃池再築指導者)
大久保正史(多度津町大庄屋)
景山甚右衛門(多度津の有力者で後の讃岐鉄道創立者。
鎌田勝太郎(坂出の鎌田醤油)
など地域の名望家の名前が見えます。地域有力者を戸別訪問し、事前の根回しと「有志会」への参加と支援依頼を行っていたことが分かります。不思議に思うのは、金刀比羅宮が出てこないことです。しかし、考えて見れば金毘羅山は、三豊郡長の豊田元良が太いパイプを持っていました。そのため豊田元良の方で話が進められていたと私は考えています。
 そして11月15日には、道路有志集会への案内葉書を発送しています。
「南海道路開鑿雑誌」に、「17年11月15日はかきヲ以通知之人名(同志者名簿)」と書かれ、46人の名前が記載されています。その通知の文面も収録されています。通知の日付は11月14日です。その案内状の文面は、次の通りです
拝啓、予而大久保諶之丞 御噺申上候高知新道開鑿之義二付、御協議申度候条、本月十八日午前十時揃、琴平内町桜屋源兵衛方迄、乍御苦労、御出浮被下度、就而者、御地方御有志之諸彦御誘引相成度、同時迄二必御御苦労被降度候、頓首
十七年十一月十四日
長谷川佐太郎
大久保正史
景山甚右衛門
大久保諶之丞
意訳変換しておくと
拝啓、私、大久保諶之丞が高知新道開鑿の件について、協議いたしたいことがありますので、、本月十八日午前十時、琴平内町桜屋源兵衛方まで、ご足労いただきたくご案内申し上げます。各地域の有志の方々にもお声かけいただき、揃って参加いただければ幸いです。頓首
十七年十一月十四日 
 長谷川佐太郎・大久保正史・景山甚右衛門と連名で大久保諶之丞の名前が最後にあります。彼らの協力を取り付けたことが分かります。 
 案内はがきが発送され集会準備が整った11月16日には、郡長の豊田元良を観音寺に訪ね、その夜は豊田邸に泊まっています。有志集会に向けた状況報告と今後の対応が二人で協議されたのでしょう。有志会」開催に向けた動きも、豊田元良との協議にもとづいて行われていたことがうかがえます。その後も、第2回有志会に向けても豊田元良と同一行動を取ることが多くなっているのが史料から分かります。

11月18日には、琴平のさくらやで第一回目の道路有志集会が開催されています。
出席者二十名、欠席の通知があったもの12名。雨天
琴平内町さくらや源兵衛方 則チ合田伝造方ノ会場    裏三階
出席有志
鵜足郡宇多津村 原友三君
那珂郡上金倉村 直井敏行君
同郡苗田郁 西山荒治郎君
岩井茂三郎君
同 榎井村 七条元次君
岡部百治君
同 琴平村 荒川節治君
都村藤吉君
安達善平君
井上廉平君
秋山虎造君
箸方卯平君
合田伝造君
多度郡多度津村 丸尾熊造君
大久保正史
景山甚右衛門
三野郡財田上ノ村
菅原廣治君
横山万次郎君
中村節路君
大久保諶之丞
以上弐十人
事故不参ノ書面ヲ送附セラル有志
阿野鵜足郡役処 兵頭定敏君
那珂郡今津村 横井朋太郎君
同 榎井村 長谷川佐太郎君
同 五条村
香川郡高松 直沢元久君
阿野郡坂出村 鎌田節三郎君
三野郡財田上ノ村 伊藤一郎君
宇野喜三郎君
       与一君
篠崎嘉太治君
大久保菊治君
同  彦三郎君
以上拾弐人

参加した人たちの顔ぶれを見て気づくことを挙げておきます。
①ルート沿線沿いの財田上ノ村と琴平・多度津の名望家が多く、善通寺・丸亀地区のものはほとんどいない。
②郡長や区長・戸長など行政首長の肩書きを持つ者がいない。
③大久保諶之丞の地元である財田上ノ村の人間が多い
この会への参加案内状を配布した人物リストは郡長の豊田元良と協議したことが考えられます。そして、そのメンバーを見ると行政の首長たちには、この時点では声はかけない。つまり地域の名望者の声として行政に届くような請願運動とするという方針があったように思えます。その方針に従って、郡長の豊田元良も四国新道推進活動の全面に出ることを避けていたのではないかと私は考えています。
 しかし、大久保諶之丞の後に豊田元良がいることは案内状をもらった人は誰もが分かっていたのではないでしょうか。10月前半の2週間を掛けて、大久保諶之丞はこれらの人々を戸別訪問していました。その際には、豊田元良の方から「大久保諶之丞を訪問させるので、話を聞いてやって欲しい」くらいの連絡があったかもしれません。それが日本の政治家たちの流儀です。
 この集会の趣意も大久保諶之丞が記したようです。そこには
「土佐ノ高知ヨリ阿波ノ三好郡ヲ経テ、我多度津・丸亀二達スル一大線路ヲ開鑿シ」

と、新道路線が猪ノ鼻ルートであることがはっきりと記されています。この時の議事録は、次のように記します。
「県庁へ請願書進達二至ラシムル事」
「線路実践ノタメ、巡視委員井二請願委員ヲ撰定スル事」
「第二次会定日ノ事」
の三つの議題について協議しています。その結果、次のような事が決定事項として記されています。
①請願書は多度津・丸亀。琴平・財田上ノ村の四ヶ所で起草し、第二次会に持参し互いに取捨選択して確定し、有志連署の上で速やかに県庁に提出、
②巡視委員三名、請願委員五名(鵜足郡一人、那珂郡二人、多度郡一人、三野郡一人)を第二次会において選定、
③第二次会は11月27日、琴平で開催すること
ここに集まった20人を核にして、2週間後に賛同者への署名活動を行い、県に提出するとこが決まったようです。
第一回集会後に、諶之丞は関係者に手紙を送り、図面の調製に着手しています。
11月21日には、愛媛県地理課長津田顕孝に呼び出され琴平に出向いています。
24日には、豊田元良・七条元次と琴平から樅木峠へ同行。財田上ノ村戸長篠崎嘉太治を加え、諶之丞宅に宿泊。25日には、四人で箸蔵寺まで行き宿泊、徳島県三好郡長武田覚三ほか書記官・有志と宴会
26日に、猪ノ鼻を視察。これは、請願書提出前の関係者による最後の下見でしょう。

そして翌日11月27日の第二回の有志集会に臨んでいます。
出席者23名、欠席の連絡者2名。協議事項は次の4点です。
①請願委員の選定
②請願書を郡役所・戸長役場で控えるのとは別に活版印刷し有志連署者へ送付すること
③連署押印の手続き方
④巡視委員の選定
協議の結果、五名の請願委員が選定され、請願書は活版印刷することとなり、押印連署は財田上ノ村において取りまとめることとなります。また予定ルートの巡視委員には、大久保正史・七条元次。大久保諶之丞が選ばれます。
大久保諶之丞 新道着工までの動き明治17年12月g
大久保諶之丞 明治17年12・1月動静表
この集会後の12月4日に、予定ルートの巡視委員として、大久保諶之丞は高知に向けて出発します
高知県巡視の概略として、次のような報告書を大久保諶之丞は記します。
大久保諶之丞
病気二付差支 大久保正史
公用二付指支 七条元次
代理、原藻司郎出立
右、大久保諶之丞、原藻司郎、徳島県三好郡ヲ経、高知県長岡郡豊永郷二出、十日高知二達シ、同県有志数名同道、高知県庁二出頭、県令田辺良顕閣下二面謁シ、道路開鑿ノ趣旨ヲ上伸、及新線沿道ノ景況等上伸、且ツ県令公ヨリ其利害得失ヲ万諭セラレ、十二日帰途二登り、川ノ江通、十五日帰郷ス
巡視委員に選ばれた大久保正史は病気のため、七条元次は公用のため差し支え、行くことができず、実際には諶之丞と七条代理の原藻司郎の二人が高知に向けて出発しています。二人は徳島県三好郡、高知県長岡郡を経て十日に高知に到着、同地の有志と共に高知県庁に出向いて、県令田辺良顕に面会し、道路開鑿の趣旨・新路沿線の景況等を上申しています。県令からは利害得失を諭され、12日に帰途につき、15日に帰宅しています。大久保諶之丞が高知の県令と会ったのはこの時が初めてです。帰路は、笹ヶ峰経由で川之江に出ています。川之江ルートの視察の意味もあったのでしょう。
 この巡視を終えて、「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ本県多度津丸亀両港二達スル道路開鑿二付願」(以下、請願書と表記する)が作成されます。
「南海道路開鑿雑誌」に、その写しが収められていて、152人の連署があります。この請願書には次のように記されています。
 高知県ヨリ徳島県ヲ経テ本県多度津丸亀両港二達スル道路開撃二付願    
世ノ文明ヲ来シ、福利ヲ進ムルノ道一二シテ足ラスト雖トモ、職トシテ彼我交通ノ利二由ラサルハ莫シ、然ルニ封建割拠ノ余風今尚存シ、道路梗塞、彼我交通疎濶ニシテ、物産ノ運動ヲ栓格シ、相互一方二索居シ、宝ヲ懐ヒテ貧シキヲ訴へ、世運卜共二幸福ノ門径二進ム可能ハサルノ憾アリ、吾
ガ四州ノ如キ道路ノ険悪ナル、他二稀ナル所ニシテ、彼ノ高知県ノ如キハ最モ甚シキモノトス、東南大洋二面シ、舟構二便ナラス、西北峻嶺重畳シテ綾ニ羊腸タル雲径ヲ通スルノミ、徳島県ノ如キモ、亦其北部二至ツテハ高山屹立シテ、運輸ノ便ヲ遮り、殊二阿讃人民生活上頗ル親密ノ関係ヲ有スト雖トモ、 一帯ノ山脈連続シテ、亦夕隔靴掻痒ノ憾ナキ能ハス、是レニ因テ此般

土阿讃三州ノ人民相計議シ、別紙図面ノ如ク道路拓開ノ見ヲ起シ、各自其管轄庁二請願センコトヲ協定セリ、然ルニ、聞ク所二由レハ、将二宇摩郡川ノ江ヨリ笹ヶ嶺ノ険ヲ穿チ、高知二通セントスルノ挙アリ、何ソ此難キヲ取ンヨリ、寧ロ多度津・丸亀両港ヨリ琴平及ビ戸川ヲ経テ、徳島県三好郡池田二出テ、直チニ吉野川ノ上流二沿ヒ、高知県長岡郡ヲ過キ、以テ高知二達スルノ緩、且易ニシテ其利益ノ大ナルニ如カサルナリ、
風カニ聞ク、道路開築ノ費額ハ其六分ハ官府二於テ、其三分ハ関係地方人民ノ義金二依ルト、此説果シテ信ナルカ、人民官府ノ盛意ヲ奉シ、勇躍シテ其義二応スルヤ、猶ホ江河ヲ決スルカ如ク、活々乎トシテ止ムヘカラサルヤ、更二疑ヲ容レサルナリ、不肖等、各己応分ノ義金ヲ呈シ、官府ノ命令ヲ服鷹シ、其額二充ンコト誓テ其責二当テントス、抑モ此般請願スル所ノ道路拓開ノ如キハ、三州人民力殖産興業ノ利源ヲ開キ、幸福ヲ享有セシムル而己ナラス、其利施テ全国二及シ、邦国ノ神益、蓋シ鮮少ナラサルヲ信ス、尚且ツ特り経済ノ運用二止マラス、官府施政上二於テ陸軍・郵便・電信等的然其効利ヲ得ルヤ必セリ、不肖等徳島県下人民卜相謀り、不日高知県二到り、起功線路ヲ実践シ、各地人民生活ノ形情、並二物産ノ品類ヲ審査シ、更二上申スル所アラント欲ス、伏テ真ク願わくば、別紙図面ノ通り、道路ヲ拓開シ、一ハ以テ彼我ノ交通ヲ親密ニシ、一ハ以テ物産ノ運輸ヲ便ニシ、一般人民ヲシテ其恵沢二霧被セシメンコトヲ 謹テ奉請願候也、
   愛媛県三野郡財田上ノ村
 明治十七年十二月   大久保誰之丞
                 以下152名の連名署名

  意訳変換しておくと
前略
「猪ノ鼻ルートは、土佐・阿波・讃岐の3国の人民が協議して、別紙図面のような道路ルートを作成し、それぞれの管轄庁に請願することを協定したものである。ところが聞くところによると、すでに、県には旧土佐街道沿いに川ノ江から笹ヶ嶺の険しい峰々を穿って新道を開こうとする計画があるという。そのような難工事を行うよりも、多度津・丸亀両港から琴平・戸川を経由して、猪ノ鼻を越えて、徳島県三好郡池田に出て、そこから吉野川上流に沿って、高知県長岡郡を過ぎて高知に至るルートの方が勾配も緩やかで、工事もやりやすく、工事費も少なく利益が大きい。
(中略)
 私は他日に実際にこのルートを高知まで踏査し、現地視察を行った。各地の人民の生活状況や、物産品の種類などを見た上での上申である。伏して願わくば、別紙図面の通り、(猪ノ鼻ルート)で道路を開鑿し、交通の利便性を高め、物産運輸を円滑化し、一般人民の利益になることを 謹しんで奉請願するものである。
   愛媛県三野郡財田上ノ村
明治十七年十二月   大久保誰之丞  以下152名の署名
大久保諶之丞 新道ルート図
 
ここには、川之江ルートよりも、四国の中心金毘羅を経由して多度津・丸亀両港をゴールとする「猪ノ鼻 + 吉野川沿いルート」の方が、容易で経済的にも有利であることが力説されています。
 文中に「別紙図面」とありますが「南海道路開鑿雑誌」には、この図面はありません。しかし、大久保家資料中には、この「別紙図面」にあたる下図があるようです。
大久保諶之丞 高知県ヨり徳島県を経て本県多度津丸亀に達する道路願

「国道開鑿雑書」所収の「山中化育宛の諶之丞書状下書ス」の書簡では、この請願書のことを「改線願書」と記しています。ここからは、高知・川ノ江ルートの国道開鑿計画の路線変更として、猪ノ鼻ルートを四国新道として実現させようとしたものであったことが改めて裏付けられます。

この請願書には、日付が「明治17年12月」とあり、明治18年1月15日付けで、次の郡司たちが署名したことが分かります。
三野豊田郡長 豊田元良
那珂多度郡長 関忠邦
阿野鵜足郡長 奥村巽
豊田元良と大久保諶之丞のシナリオ通りに請願運動は進められ、請願書が作られたようです。諶之丞の日記には、明治18年1月22日に、自ら松山の愛媛県庁に赴き、請願書を提出したことが記されています。

請願書を受け取った後の三県の動きを愛媛県史は、次のように記します。
大久保諶之丞ら「四国新道期成同盟会」の提出した「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ愛媛県多度津丸亀(現香川県)両港ニ達スル道路開発ニ付テノ願」を愛媛県では検討した。その結果、当初の「予土横断道路」開鑿計画(高知・川之江ルート)を拡大(変更)して多度津・丸亀路線(猪ノ鼻ルート)として、徳島県令酒井明にも働きかけて「四国新道」の実現を図ることにした。
 徳島県では、新道が阿波国西端の三好郡を通過するだけだから他の郡村には十分な便宜を与えないし、近年の不況と暴風雨による被害のため危機にひんした藍産業の救済に苦しんでいる状態なので、新道開さく費用の負担はできないとして、この計画参加を渋ったが、愛媛・高知両県令の勧誘によってようやく承諾した。
 明治18年2月13日、高知県一等属日比重明・愛媛県二等属津田顕孝・徳島県一等属岩本晴之が一堂に会して実務者協議会を開いた。
この会では、工事分担範囲・道幅・橋梁幅・道路勾配などを協議して、道幅三間以上並木敷両側一間宛、橋梁は内法幅二間以上などと基準を決め、「目論見予算図面等ハ総テ本年十月迄ニ県会ノ決議ヲ経テ其主務省ヘ進達ニ至ラシムル事」と申し合わせた。(中略)
 上申書は、新道開さくの理由として、「運輸ノ道ヲ開キ、殖産通商ノ利便ヲ図ルハ目下地方ノ一大急務タル」ことを強調し、管内の人民は直接間接にこの事業に賛成しているので、県会でたとえ多少の非論者がいてもあるいはこれを否決しても、本省の指揮を得て断然これを決行する精神であると不退転の決意を示していた。工事概算は87万4143円94銭8厘で、そのうち国庫補助を愛媛・高知両県負担分の三分の一、徳島県負担分の三分の二、合わせて35万4500余円を要求した。
大久保諶之丞 四国新道
少し先に進みすぎたようです。2月13日に返ります。
愛媛・高知・徳島の三県で、新道の道幅や工事の分担などに関する申合書が決定されたのが2月13日のことでした。その三日後の2月16日夜、諶之丞は箸蔵寺で徳島県御用係笠井、三好郡長武田覚三、愛媛県地理課長津田顕孝等と会って、道路開鑿の決定を聞いたようです。ここに大久保諶之丞と豊田元良等が描いた通り、徳島を経て高知に達する四国新道路線のルートが確定したことになります。この後、
五月には三県令が琴平に会し、新道路線を巡視
七月には三県令により「四国新道開鑿補助費之儀二付稟申」を内務省に提出し、九月認可。明けて明治19年4月7日に琴平において起工式という手順で進みます。
以上を振り返って起きます
明治17年10月末に、四国新道計画路線を川之江ルートから、猪ノ鼻ルートに変更させることに大久保諶之丞と豊田元良は成功します。それを受けて、今度は愛媛県(当時は香川県を合併中)にも、ルート変更を訴える必要性が出てきます。そこで取られた先述が在野の名望家に働きかけて、下から請願運動を起こし、それを郡長にあげて県に請願書を送るというものでした。今から見ると、当然すぎる手法なのですが当時は「新手法」だったようです。そのため三豊郡長であった豊田元良は前面に出ずに、黒子に徹します。舞台に出て大活躍するのは、豊田元良の意を受けた大久保諶之丞でした。それが11月から2月にかけての県への請願書の提出過程にもうかがえます。
 従来は大久保諶之丞をスーパーマン視しすぎて、四国新道構想における彼の役割を過大視しすぎていたところがあるように思えます。根本史料に限って、諶之丞の果たした役割を見ていくと、郡長の豊田元良と連携しながら、財田上ノ村の同士たちをチームを作って対応していた様子が浮かび上がってきます。大久保諶之丞の一人の「孤軍奮闘」で、路線決定が行われたのではないことが見えてきたように思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献    松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月

 前々回に、大久保諶之丞の四国新道構想へ向けての活動が史料から確認できるのは、明治17年になってからであること、そして、四国新道構想を最初に提唱したのは、三野豊田郡長の豊田元良であったことという説を見てきました。今回は、明治17年の諶之丞の動向をたどりながら、四国新道構想が具体化していく過程を見ていくことにします。その際に、従来はあまり注目されてこなかった豊田元良が、どんな役割を果たしていたのかに注目しながら見ていきたいと思います。
 テキストは 「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。

四国新道構想が動き出すのは明治17年のことですが、この年については諶之丞の日記には、新道についてはほとんど何も記されていません。その代わり、諶之丞が金銭の出入りを細かく記した手控帳が残っています。これで諶之丞の動きを、推測する以外にないようです。もうひとつの参考史料は、諶之丞が四国新道開整に関する書類をまとめた「南海道路開鑿雑誌」「国道開鑿雑書」です。どちらも四国新道工事が開始される以前の新道関係の書類を綴じ合わせたものです。

大久保諶之丞 国道開鑿雑書細目
国道開鑿雑書
国道開鑿雑書」には、次のようなものが綴じ込まれています。
①猪ノ鼻の道路開築の願書・見積書、
②明治17年10月、高知県官員の新道路線巡視に関する通達の写し、
③明治17年11月、琴平で開催された道路開撃の有志集会の議事録、
④その他誰之丞の書簡
これらは、どれも明治17年中のものです。

大久保諶之丞 南海道路開撃雑誌
南海道路開撃雑誌
「南海道路開撃雑誌」も、四国新道に関する書類の綴じ込みです。
こちらには明治17年11月から明治18年12月の史料の綴じ込みで、主なものは次の通りです。
⑤明治17年11月の道路有志集会の議事録や有志者名簿、巡視委員による高知県巡視や徳島県令による猪ノ鼻巡視の概略、
⑥明治17年12月の「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ本県多度津丸亀両港二達スル道路開撃二付願」、
⑦明治18年2月13日の三県申合書、高知県における道路開撃願書などの写し、
⑧箸蔵道を経由する讃岐・阿波。土佐間の貨物数量調べ、「猪ノ鼻越道路景況調」など
ここからは四国新道構想に向けて具体的な活動が始まったのは明治17年から明治18年にかけてであったことが分かります。そして、その時期の主な資料がここにはまとめられていて、四国新道に関する基本的資料と研究者は考えています。特に⑧は、箸蔵道を経由する讃岐・阿波・土佐間の貨物数量調査で、当時どのような産物が流通していたかを具体的に知ることができます。四国新道の建設に向けて、このような資料も求められていたことがうかがえます。

「国道開鑿雑書」にある「阿讃国境猪の鼻越新道開鑿見積書」(明治17年6月)から見ていきましょう。この見積書の前には、猪ノ鼻開鑿の「道路開築御願」が綴じられ、次のように記されています。
本県三野郡財田上ノ村ヨリ阿州三好郡池田村ニ通スル字猪ノ鼻ノ嶺タルヤ、阿讃両国ノ物産ヲ相輸シ、加之ナラス上ノ高知ヨリ讃ノ多度津二通シ、即チ布多那ヲ横貫スル便道ニシテ、一日モ不可欠ノ要路ナリ、然り而メ我村二隷スル猪鼻嶺壱里余丁ハ岸崎巌窟梗険除窄、為二往復ノ人民困苦ヲ極ム、牛馬モ亦通スル能ハスト雖、此沿道二関係アル土阿ノ諸郡、皆讃卜物産ヲ異ニスルヲ以、互二交換運輸セザルヲ得ス、然ルニ、土ハ海路ノ便悪敷、阿ハ運河アリト雖、海岸二遠隔スルヲ以、其便ヲ得サルヨリ、不得止土着ノ者掌二唾シ脊二汗シテ負担シ得ルモ、運価高貴ナリ、運価高貴ナルノミナラズ、冬季二至テハ寒雪ノタメ、往々凍死スル者アルヲ免ヌヵレズ、実に其惨、且ツ不便筆紙二形シ難シ、今マ果断以テ此嶺ヲ開築セハ、直接二阿讃ノ便益ヲ得ル而已ナラス、閑接二其益ノ波及スルヤ小少二非ル也、不肖等此二意アル数年、然トモ奈セン、資金無ヲ以因、乃遂ニ今日二流ル、遺憾二耐ヘザル処然リト雖トモ、聖世今日ノ運搬旺盛ノ際二当テ、何ゾ傍観坐視、此便道路ヲ度外二置クニ忍ンヤ、故二今般本村々
会二附、毎戸人夫ヲ義出シ、早晩開築ノ功ヲ奏セント可決相成候条、今ヨリ阻勉、右開築ニ着手致度候間、伏シテ真クハ、人民便否ノ如何ヲ御洞察御允許相成度、別紙図面目論見書相添、此段奉願上候、以上
 愛媛県下三野郡財田上ノ村  大久保諶之丞
  意訳変換しておくと
三野郡財田上ノ村から阿波三好郡池田村に通じる猪ノ鼻嶺は、阿讃両国の物産が行き交う峠で、これに加えて高知から讃岐・多度津に通じる要衝で、一日たりとも欠くことが出来ない要路である。 しかし、上ノ村に属する猪鼻嶺までの1里余の道のりは急傾斜が続き、往来する人々を苦しめ、牛馬の通行もできない。この沿道に関係のある土佐や阿波の諸郡は、讃岐の特産品を手に入れるために、互いに交換運輸をせざるえない。また土佐は海路の便が悪く、阿波は運河が発達しているが、海岸から遠いので、その利益を得るのは一部地域に限られる。そのため人々は掌に唾して背に汗して、物品の輸送を行うがそのコストは高く付いている。輸送コストだけでなく、冬には寒く雪も積もり、輸送中に凍死する者も現れる。実に悲惨で、筆舌に尽くしがたい。今こそ果敢に猪ノ鼻嶺を開鑿し、阿讃の交通の便を開けば、その波及効果は少ないものではない。不肖、私はこの数年、この道の建設に私財を投じて当たってきたが、資金不足のために今になっても完成させることができないでいるのが残念である。
 明治の世の中となり、運輸面においてもいろいろな発展が見られるようになってきた。ただ傍観坐視するのではなく、この機会に道路開通を果たしたいと願う。そのために、村会で、各家毎に人夫を出し、早期着工に向けての請願を可決した。以上の通り交易面で利便性の向上のために、工事着手に向けてご決断いただけるように、別紙図面目論見書を添えて奉願いたします。以上
       愛媛県下三野郡財田上ノ村 大久保諶之丞

 これを読むと題名は「阿讃国境猪の鼻越新道開鑿見積書」ですが、猪ノ鼻だけの部分的な開鑿願書ではないことが分かります。この中には四国新道につながる内容が含まれています。前にも見たように、諶之丞は以前から猪ノ鼻開鑿に取り組んでいました。

大久保諶之丞の開通させた道路
大久保諶之丞の取り組んでいた開鑿・改修工事

明治17年に入ってからもその工事は続いていたことが諶之丞の手控帳からは分かります。例えば4月21日には、諶之丞が猪ノ鼻へ道路検査に出向いていますが、この時には郡長の豊田元良も同行しています。ここからも、以前から細々と続けていた猪ノ鼻開鑿を、四国新道(国道)として、国に請願していこうとする目論見が見えてきます。そこには、郡長の同意と承認を受けて、このころに本格化したことがうかがえます。そのような動きが開始された契機は、高知県の新道計画でした。

大久保誰之丞 箸蔵さんけい山越新開道路略図
大久保諶之丞が開鑿した箸蔵道のトラバースルート

同じ頃、愛媛県と高知県の間でも国道開鑿の計画が浮上してきたのです。
この年6月28日に、高知・愛媛両県令から国に「国道開鑿之義二付上申」が提出されています。これは、次のようなルート案でした。

「土佐伊予ノ両国二跨り東西二大路線即チ川ノ江ヨリ瓜生野高知伊野・須崎等ヲ経テ、吾川高岡両郡間二流ルヽ仁淀川二沿ヒ別枝二至リ久万町ヲ経テ松山ニ達スルノ国道を開修」

ルートとしては、土佐藩が参勤交替に使っていた土佐街道(現在の高速道)と国道33号を併せた「四国Vコース」になります。結果として、この上申は7月12日、工事計画書を精査するようにと指示され不認可になっています。

大久保諶之丞 新道着工までの動き1
大久保諶之丞 明治17年の動向

 諶之丞が、この計画をどの段階で知ったのかは分かりません。しかし、上表の明治17年2月の欄を見れば分かるように、諶之丞が農談会に出席するため陸路で松山に赴いていますが、この時の道中を記した「旅行記」の表紙に次のように記します。
「此旅行二付道路之事ニハ一層ノ感ヲ憤起シタル事アリ」

ここからは、彼がこの時点では愛媛・高知間の国道計画の情報を知っていたことがうかがえます。「これはまずいことになった」というのが本音でしょうか。高知と川之江に国道が作られたのでは、猪ノ鼻峠越に今作っている道が国道に昇格することはなくなります。川之江ルート案に対して早急に巻き返し活動が求められるようになったのです。これが四国新道の猪ノ鼻への誘致活動の開始となったと研究者は考えています。
大久保諶之丞と豊田元良2
吉野川疎水案や瀬戸大橋案も豊田元良の発案であるとする史料

 豊田元良の「四国新道開鑿起因」には、四国新道構想は自分が最初に唱えて、大久保諶之丞にそのことを伝えたのが始まりだと回顧していることは以前にお話ししました。その視点からすると、これらの情報も、豊田から伝えられた可能性があります。豊田は郡長として、それらの情報を入手しうるポストにいました。また、「四国新道開鑿起因」にも、「高知県高知卜本県川ノ江間ノ道路開築」に関する記述があります。そして高知・川ノ江間の道路開築に対する金刀比羅宮からの工費二万円の寄付を、豊田が撤回するよう画策したことなどが記されています。本当だとすれば、露骨な川之江ルートつぶしです。
 豊田元良は、大久保諶之丞を呼んで情報を伝えるととともに、今後の対応策を協議したのではないでしょうか。ここからが猪ノ鼻ルートへの広報と支援を求めての活動開始となります。 
諶之丞の動き追ってみると、明治17年5月、6月には道路建設に関して、徳島県の洲津や池田に出向いているのが分かります。
徳島側の地方要人を味方につけて巻き返しを図ろうとしたのでしょう。これも豊田元良との協議の結果でしょう。郡長の後盾や紹介状があってこそ、これらの工作はスムーズにいったはずです。
 6月に猪ノ鼻開鑿の見積書を作成したのも、高知・川ノ江間の道路開鑿の動きを意識してのことだったと研究者は考えています。猪ノ鼻開鑿の願書・見積書が「国道開鑿雑書」に綴じられていることも、そのことを裏付けます。
その後の大久保諶之丞の動きを、残された金銭手控帳から見ておきましよう
8月19日 播州から測量技師を招いて猪ノ鼻・谷(渓)道の測量開始
9月 8日 道路の件で郡長(豊田)から召喚されて観音寺へ出向く
10月4日 道路の件で池田に出張。
このような動きからは、この時期に愛媛・高知間の国道開鑿の動きを受けて、諶之丞が讃岐・阿波を経て高知に至る四国新道路線の実現に向けて活動をしていたことが見えてきます。これは、郡長・豊田の承認と指示があって可能なことです。諶之丞は豊田元良に対して、頻繁に連絡を取り報告しています。大事なことについては、実際に郡庁を訪ねて報告しています。例えば9月8日は、「道路の件で郡長(豊田)から召喚されて観音寺へ出向く」というメモが残っています。ここからは、これらの誘致活動が豊田元良の指示下で行われていたことをうかがえます。郡長の紹介状があるから村の役人に、県知事(県令)や各地の郡長が会ってくれたとも云えます。そういう意味では、大久保諶之丞は豊田の「全権委任特使」の任を果たしていたとも考えられます。
 明治17年10月下旬から11月の初めにかけて、高知県の官員が新道開鑿路線巡視を実施しています。
諶之丞や豊田の運動の結果、実現したのでしょう。しかし、高知県側へ具体的にどのような働きかけを行っていたかは資料からは分かりません。
 俗説では、大久保諶之丞が高知県の田辺県令を訪ね猪ノ鼻ルートの利便性や経済性を説いたと伝えられています。例えば「双陽の道」には、その時の模様が次のように描かれています。
  諶之丞の熱意に共鳴し理解した田辺県令(知事)は、すでに高知・松山間の国道計画は走り出しており、諶之丞の構想では、それに徳島県を巻き込むことになることから、地元阿波池田三好郡の武田党三郡長の賛同を得て、下から徳島県令酒井明を動かすことが肝要であることを説いた。武田部長は物事の呑み込みが早く行動力もある名郡長であったからである。田辺県令は、県下の熱心な道路推進者を動かして武田郡長のところへやるからそれに合わせて諶之丞も行くように、あとは諶之丞の説得と武田郡長の考え次第だと諶之丞に下駄を預けた。諶之丞が三好郡役所で武田郡長に会う日程に合わせて県下の有力人物を武田郡長のもとに派遣する約束。先ず諶之丞が武田郡長に会って自分の道路構想を説き同調してもらうこと、そして折りよく田辺県令の内意を受けた高知県下の二人が訪れる段取りとなった。
 しかし、これは史料的に裏付けのあるものではありません。諶之丞の日記は、この年の四国新道については、何も書かれていないことは先に述べたとおりです。これは、物語として後世の人々が脚色し、語り継がれるようになったストーリーで事実として裏付けるものはないようです。
大久保諶之丞の金銭出納帳
諶之丞が金銭の出入りを細かく記した手控帳(明治17年分)

根本史料となる「国道開鑿雑書」に、もう一度返りましょう。
ここには、その巡視日程・宿泊予定地の通知の写しが綴じられています。それによると、高知県一等属日比重明と御用係の千種基、竹村五郎が視察にやってきています。巡視行程からすると、愛媛県・高知県が6月に国に提出した高知・川之江ルートと、猪ノ鼻ルートの両方を巡視したようです。

大久保諶之丞 新道ルート図

 10月29日から諶之丞もこれに同行しています。10月31日、同行中の諶之丞が、財田上ノ村の戸長篠崎嘉太治に宛てて箸蔵山から発した手紙が「国道開鑿雑書」に綴じ込まれています。
そこに諶之丞は、次のように記します。
尚此度者、殊の外意外ニ幸福ヲ得タル義二て、四方山の御咄アリ、帰村次第万語
此頃者、道路開撃事業二付、軟掌御中へ彼是御手数相供、厚ク御配慮二預り、万々実二好都合二御座候、予而御噂申上候官員御中ハ日割ヨリ一日速着相成、琴平二於而少シク残念之廉もアリタレトモ、昨夜箸山ニテ御泊、充分下拙の考慮ヲ開伸、且ツ昨日者琴平ヨリ箸蔵迄同行、実地充分二吐露、
大二見込モ被相立候趣二候、さて今般見積り之開菫事業者、真二未曽有ノ大工事ニシテ、今此時憤発従事、身命ヲ抱ツトモ、是非此功ヲ奏セスンハアルヘカラズ、而メ過日来御高配被降候猪ノ鼻開鑿願、大至急差出サステハ其都合ノあしき事アリ、依テ願書今二通並ニ目論見書三通、至急御認置可被降、図面者明日帰村次第、御衛へ参上、御相談可申上候、次ニ目論見書へ小字記入不被成方、却而よろしく、番号ノミ御記入可被下候
明治17年十月三十一日朝 箸山二て   誰之丞
篠崎嘉太治殿
  意訳変換しておくと
 この度の視察のことについては、期待した以上の成果が挙げられそうである。積もる話もあるが帰り次第に伝えたい。道路開撃事業について、数々のお手数と配慮をいただいていることが、好結果につながっている。感謝したい。
 高知からの視察団は予定よりも一日早く到着した。琴平では少残念なこともあったが、宿舎では、私の計画案を充分にお聞きいただいた。また昨日は、琴平から箸蔵寺まで同行し、測量結果などのデーターを示しながら現地説明を行った。大いに見込ありとの意を得た。さて今回の見積開鑿事業者について、未曽有の大工事になるので、憤発して従事し、身命をかけて取り組む決意の者でなければならない。
 先日にお見せした猪ノ鼻開鑿願について、至急に提出するのは不都合なことが出てきました。そのため願書と目論見書三通を、至急作成していただきたい。図面については、明日に私が帰村次第、持参し相談するつもりです。なお計画案への小字の記入は必要ありません。番号だけ書き入れて下さい。

  四国新道構想実現の手応えを感じた諶之丞の興奮・気負いが伝わってくるとともに、猪ノ鼻開鑿願書について次のようなことが分かります。
①猪ノ鼻開鑿願書は、この時点では提出されていなかったため、至急提出しようとしていること
②村戸長篠崎嘉太治と頻繁に情報を交換や協議を行いながら、対応をすすめていること。つまり、大久保諶之丞のスタンドプレーではなくチームプレーとして進められていること。
③猪ノ鼻開鑿願書を提出することで、猪ノ鼻ルートを有利にしようと考えていたこと
大久保諶之丞 高知県ヨり徳島県を経て本県多度津丸亀に達する道路願
道路開削願いに添付された別紙図面

ここからは、高知県への働きかけの結果、高知から調査団が調査団が派遣され、二つのルートを視察・比較して、猪ノ鼻ルートの方が有利であるとの「内諾」を得たことがうかがえます。ルート決定について、直接に高知県令に直接談判に赴いたというのは、あまりに荒っぽい話で現実的でないことが、これまでの諶之丞の動きから分かります。ひとつ一つを積み上げていく着実な対応ぶりです。




ここまでを研究者は、つぎのようにまとめています。
①阿讃国境に位置する財田上ノ村に生まれ育った誰之丞は四国新道に取り組む以前から、財田上ノ村において、阿讃間の道路の開鑿・改修に取り組んでいた。
②そのような中、三野豊田郡長として赴任してきた豊田元良と出会ったことにより、琴平・猪ノ鼻峠を通る四国新道が構想された。
③誰之丞が、阿讃国境の猪ノ鼻の開整に着手しつつあった明治17年、高知・川ノ江間の国道開撃計画が浮上した。
④この動きを受けて、誰之丞と豊田元良は、讃岐を通る猪ノ鼻ルートへの改線に向けて活動を開始した。
⑤活動内容の詳細は不明であるが、高知や徳島の有志と連絡をとりつつ改線の機運を高めていった。
⑥その結果、明治17年10下旬には高知県視察団が猪ノ鼻ルートを巡視し、誰之丞等が提唱する路線実現の可能性が高まった。

また、愛媛県史は新道建設について、次のように記します。
大久保ら「四国新道期成同盟会」の提出した「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ愛媛県多度津丸亀(現香川県)両港ニ達スル道路開発ニ付テノ願」を検討した。その結果、当初の「予土横断道路」開鑿計画(高知・川之江ルート)を拡大して多度津・丸亀路線を入れ、徳島県令酒井明にも働きかけて「四国新道」の実現を図ることにした。徳島県では、新道が阿波国西端の三好郡を通過するだけだから他の郡村には十分な便宜を与えないし、近年の不況と暴風雨による被害のため危機にひんした藍産業の救済に苦しんでいる状態なので、新道開さく費用の負担はできないとしてこの計画参加を渋ったが、愛媛・高知両県令の勧誘によってようやく承諾した。
こうして見てくるとひとつの疑問がわいてきます。
それは、「大久保諶之丞=最初の四国新道構想提唱者」についてです。大久保諶之丞や豊田元良が動き出す前に、高知県令は他県の道路建設の先進例を学び高知から川之江・松山を結ぶ「四国新道Vルート」案を国に提出しています。これが最初の四国新道構想と云えるのではないでしょうか。
この高知県の考えていた川之江・高知ルートを、猪ノ鼻ルートに変更することを働きか掛けて成就させたのが大久保諶之丞・豊田元良のコンビと云うことになるのではとも思えてきます。
ています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月

大久保諶之丞 大久保家年表1

大久保諶之丞の年譜を見ていると、1873年や77年に戸長辞任を願いでています。これを私は「三顧の礼」のような「謙譲の美徳」と思っていたのですが、どうもそうではないようです。なぜ、戸長を辞めさせてくれと大久保諶之丞が言っていたのか、当時の情勢や背景を見ておきたいと思います。
テキストは「馬見州一 双陽の道 大久保諶之丞と大久保彦三郎 言視社2013年」です
大久保諶之丞の家族 明治10年
大久保家の家族写真明治10年 
後列左から諶之丞・父森冶・母リセ
前列左から妻タメ・娘キクエ・サダ(妹)

大久保諶之丞の祖父と父の話から始めます。
 大久保諶之丞の祖父與三治は、讃岐三白といわれた砂糖の原料となる甘庶の栽培をすすんで取り入れて小作農家を育成したり、山道改修をおこなっています。跡継ぎは男子がなかったので、隣村十郷村(旧仲南町)田中源左衛門の長男森治(文政八年。1825生)を、その利発さを見込んで頼み込んで養子に迎えます。これが諶之丞の父になります。森治は、與三郎が見込んで養子に迎えた人物で、文武に秀でているばかりでなく、人柄は温厚篤実で近隣の住民からも親しく信頼されていました。
 父森治は、與三郎を尊敬し、その意志を継いで池を作り新田開発をしたり、同村戸川(御用地)で藩御用の菜種油製造をして、藩から二人扶持を与えられています。父祖は、実業に熱心だったことがうかがえます。                        
 森治は、大久保家の養子になる前は、十郷村田中家の長男として、若いころの香川甚平の塾に出入りしていました。甚平の語る陽明学とは、次のようなものです。

「知行合一」で「心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判別でき、事業においては成果を生み出す。しかし、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多い。よって先人達の教訓や古典から真摯に学び、努力することが求められる。」

陽明学は行動主義で、本の中に閉じこもる学問ではありません。幕末の志士たちのイデオロギーともなった思想です。 後には、諶之丞や弟の彦三郎も香川甚平の塾で学び、陽明学を身につけていきます。
 大久保家では曽祖父権左衛門から「直」の字を字に取り入れています。人が生きるのに最も大切なものであるのは「直」であるという考えが家の中に一本通っていたと云えるかも知れません。
  「直」には、ただしい心、ただしい行の意味があるようです。
 森冶は、自らを「直次」と称し、長男菊治は「直道」、三男諶之丞は「直男」、五男彦三郎は「直之」と称させています。そして折に触れて「直」のもつ意味と、生きる方向を伝えたのでしょう。
 後に尽誠学園を開く彦三郎は、父森治61歳の還暦祝のときに、「家厳行述」と題して父の伝える家訓「直」を讃える漢詩を作っています。
大久保諶之丞3

18歳で結婚し、諶之丞は、明治5(1872)年24歳の時に、財田上の村役場吏員となります。その間には、長谷川佐太郎が指揮して、約20年前に崩壊していた満濃池再築工事(1870年)に参加して土木技術と「済世利民」の理念を身をもって学んでいます。ここには父や祖父の意思を継いで、地域に貢献しようとする意思が見えます。

讃州竹槍騒動 明治六年血税一揆(佐々栄三郎) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

このような中で明治6(1873)年6月西讃竹槍(農民)騒動(血税一揆)が起きます。
 明治維新の「文明開化」の名の下に、徴兵制や学制などの近代化政策が推し進められます。地元の女達からすれば徴兵制は、兵士として夫や子どもを国に取られることです。義務教育制は、学校建設や授業料負担を地元に強制するモノです。新たな義務負担と見えます。それを通達する地元の役人たちも、江戸時代の村役人のように村の常会で協議での上で決定というそれまでの流儀を無視するものでした。しかも、それを行う村の役人は庄屋に代わって、あらたにそのポストに成り上がって、威張ったものもいました。全国の農村で、現場無視の近代化政策への不満と、現場役人たちへの不満が高まっていたようです。
明治時代(1)⑤ ちょっと怖い「徴兵令」… : ボケプリ 涙と笑いの日本の歴史
発端は、三野郡下高野村で起きた娘の誘拐事件で、次のように伝えられます。
下高野村の夕方のこと。ひとり蓬髪の女が女の子を抱え、連れ去ります。「子ぅ取り婆あ」に娘がさらわれたという騒ぎに、住民が手に手に竹槍をもって集まり、さらった女を取り押さえなぶり殺しにしようとします。それを阻止しようとした村役人や戸長に対して、日頃の不満が爆発し暴動に発展します。これがあっという間に、周辺に広がります。26日豊田郡萩原村(現観音寺市大野原町萩原)へ向かって進んだ後、翌27日には、群集の蜂起は2万人にも膨れあがり、三野、豊田、多度郡全域に広がり、さらに丸亀へと進んで行きます。
 その背景には、「徴兵検査は恐ろしものよ。若い児をとる、生血とる」という「徴兵=血税=血が採られる」いうフェイク情報がありました。また、一揆の掲げたスローガンを見ると「徴兵令反対、学制反対、牛肉食による牛価騰貴、貧民困却」などが挙げられています。ここからは、徴兵制や学制など明治政府の進める政策への民衆の不満に自然発火的に火が付いたことがうかがえます。暴動の襲撃目標は、近代化の象徴である小学校、戸長事務所、戸長宅、邏卒出張所などに向けられます。約600の家屋が焼打ちにされたと報告書は記します。この内の48が小学校とありますので、義務教育の強制に対しても住民は不満を持っていたことが分かります。その背景には学校経費として丸亀・多度津では一年につき最下層でも25銭の負担が住民に課せられるようになったことがあるようです。

西讃竹槍騒動 進行図
西讃竹槍騒動の一揆軍と鎮圧部隊の進行図
財田上の村では、戸長、副戸長宅、品福寺、宝光寺など家屋十軒が火災被害にあっています。
森治が村の副戸長、諶之丞が村吏をしていたために大久保家も焼打ちにあいます。ちなみに後に出された大久保家の被災届には、次のように記されています
「居宅、座敷、竃場、湯殿、作男部屋、雪隠、釣屋、懇屋、牛屋、薪屋、油絞屋、勝手門、土蔵三棟など三百坪に及ぶ屋敷」

森治の屋敷は、長屋門を構え300坪のる大きなものであったことが分かります。
このあとすぐに、父森治は副戸長を、諶之丞は役場吏員を辞しています。翌年の明治七(1874)年には、大久保家は財田上の村戸川に自宅を再築します。村の政治から手を引いた大久保家ですが、村民の大久保森治家、とくに諶之丞に対する信望は厚かったようです。固持しても、とうとう担ぎ出されて諶之丞は、明治八(1875)年に、副戸長(副村長)となり、4カ月後には27歳の若さで戸長(村長)になっています。兄菊治は村の小区会議員に担がれています。
  諶之丞は一揆のことを、教訓として次のように日記に書き残しています。
「どのような事業であれ、民衆を十分に納得させて、その合意を得なければ、あらゆる目論見は成り難い。」

 「合意と実行」が政策を進める上での教訓となったようです。
この事件は、大久保家にとっては大きなトラウマとして残ります。。
 諶之丞が戸長になることについて、父森治は別として義母リセ、妻タメをはじめとする家族の心配や小言が絶えなかったことが諶之丞の日記からはうかがえます。この時期は、明治9年熊本神風連の変、前原一誠萩の乱、明治10年の西南の役と続いた世情不安定な時代です。戸川に再建した自宅も、あの西讃竹槍騒動のときのように再び焼打ちに遭うのではないか、諶之丞の身に危険が及ぶのではないかという心配が家族にはあったのです。諶之丞が戸長を辞めたいと再三のように嘆願しているのは、家族の声を聞いてのことのようです。しかし、それもかなわないまま明治12年まで戸長を続けます。
財田上の村荒戸組三十二名連判の明治十年六月「村民条約書」が残っています。意訳すると次のようになります。
戸長の大久保甚之丞殿より何度も辞職願が提出されているが、村民一同より辞めないで続けてくれるように、何度もお願してきた。同氏は資性才敏にして、村内の利益を第一に考え、村民を保護安堵させてくれていりので、我々一同お蔭で助かっています。元来同氏は、役員(人)となることは不本意で好まないところですが、村内が選ぶので命用されます。そのたびに上司に辞任届を出しますが承諾されず、村民もひたすらこれを推戴して、ついに今日に至った次第です。
 先年農民の暴動(讃岐血税一揆)は、役員(人)と見れば問答無用で居宅を放火し、その人物の如何を論じない。同氏もその災害に罹った。一揆が突然だったために、焼き討ちを止めるいとまがなく遺憾極まりない。
 大久保家の家族は、先年の暴動に懲りて吏職を嫌うようになりました。奉職している諶之丞氏は、不本意だが村民の情実を汲みとつて勉励してくれています。村民において、同氏に報いる義務なくしては、実に相済まない。そのため以下の条件を約し連判するものである。万一、条約に背いた者は、村内一同より罰責する。
第一条
村民大久保氏を推戴して戸長となつている以上はその指揮に間違いなく従います。いやしくも意見があれば直ちに忠告をし、親睦補佐して、利害を共にし憂楽を同じくすること。
第二条
    万一、先年のごとき奸民暴挙、官吏を傷害することがあって、大久保氏をも禍いしようとすれば、村民一同相率いて居宅家族を囲統守護して、乱暴の者は即刻排除すること。
第三条
万一、乱民暴動を防ぎ切れず居宅が毀わされ焼かれたときには、村民一同その居宅の新築費用を助成すること。
右三条硬く守り決して違背しません。
「荒戸組」というのは、藩政時代の行政組織として財田上の村にあった集落のことです。東から山分組、荒戸組、石野組、朝早田組、さらに財田川北川の北地組と五つの組がありました。大久保家が属していた石野組とは別の隣り組です。荒戸組だけでなく、五つの組すべての村民が、組それぞれにこのような連判状を作って諶之丞に差し出したことがうかがえます。それほど村民の信望は厚かったようです。

戸長については、明治四(1871)年四月に戸籍法が定められ、戸籍吏として戸長・副戸長が置かれます。
戸長は、この戸籍吏に土地人民一般の事務を取扱わせたものです。大区には区長、小区には戸長が置かれました。この時の戸長は、民選したものを郡長が指名しまします。戸長の職務は、県・郡からの通達徹底、戸籍整備、租税徴収、小学校設置、徴兵調査などで、政府の中央集権政策の末端遂行機関でした。ここには、衛生福祉などサービス的な要素は一切ありません。小さな政府の小さな役所で、戸長の家が役所として使われていた所も多かったのです。そのために、農民騒擾が起ると、その攻撃対象に戸長宅がなることが多かったようです。
 また江戸時代の村役人とは異なり、権威主義的な統治手段がとれません。村民と権力側の板挟みになる立場のために旧庄屋層は戸長就任を嫌うことも多かったようです。例えば、明治になって満濃池再築を行う榎井村の大庄屋の長谷川佐太郎も戸長に選ばれますが、すぐに辞退しています。

   諶之丞が、財田上の村戸長をしていたときのことです。
財田上の村では、品福寺内に学校を置いていましたが、一揆以後に新たに小学校を建てることになります。当時の義務教育は、全額が地方負担です。国は何の補助も出さずに、地方に義務教育の普及を命じます。村の予算の1/3が学校建築や教員給与となっていた時代です。受益者負担で、そのため村民は授業料も負担しなければなりませんでした。この義務教育の強制は徴兵制施行とともに、村人の怨嗟の的になります。「讃州血税一揆」の原因となったは先ほど触れた通りです。
 このような中で、戸長を勤めていた大久保諶之丞がどのようにして学校建設を行ったのかを見てみましょう。
 彼は、少しでも村の財政負担を少なくするために近隣の山林を多く所有する神社寺院や村民などから木材を寄進してもらおうと、村内を駆け回つています。校舎建築のための材木確保のためです。
  その頃の村のわらべ歌に次のようにうたわれていたと云います。
大久保諶之丞は  大久保諶之丞は
日暮のカラス
森をめがけて飛んで行く
公務を終えて夕方になると小学校建築のため奔走していた当時の諶之丞の姿が、村民の親から子に言いはやされていたようです。その姿が目に浮かぶようです。

明治9年12月、財田上の村は、「学校新築を勧むる諭言」を出しています。
学問の必要性と学校新築の重要性を論じ、金のある者は多額の寄金を、そうでない者は竹木縄薪夫力を提供することを求めたものです。おそらく当時の戸長であった諶之丞が起案した文書でしょう。明治8年4月に戸長になった諶之丞は、すぐに校舎新築のために動き出したようですが、資金力に乏しい村では完成までの資金が不足します。校合完成のために村民全体の世論を高め協力を求めた書面のようです。建築資金の支払は、明治12年までかかっていますが、校合はそれ以前には出来上がっていたようです。財田上の村の春魁小学校、雉峡小学校の校舎は、このようにして建築された。ここには、血税一揆から学んだ次の教訓が活かされています。
「どのような事業であれ、民衆を十分に納得させて、その合意を得なければ、あらゆる目論見は成り難い。」 

 学校建設においても、強制的に資金を割り当てて徴収するのではなく、その必要性を手間暇掛けて村民に膝つき合わせて説いて、財力に相応した資金提供を求めています。それが新たに出来だ学校を「自分たちが創った学校」と村民に意識づけることになったようです。この手法が、大久保諶之丞への信頼につながり、彼のファンを増やしたのかもしれません。これは新道造りにも反映されていきます
以上をまとめておくと
①大久保諶之丞の父森冶は、陽明学を学び、それを経営の柱に位置づけようとした。
②そのためため池や道路工事などに積極的に関わり、信望の厚い人物で、それが諶之丞にも受け継がれていくことになる
③明治維新後、父は森治副戸長、諶之丞は役場吏員を務めていたが、西讃血税一揆の際に家が焼き討ち対象とされた。
④このため大久保家では諶之丞が戸長などの公的なポストに就くことに反対する雰囲気が強くなった
⑤その意を受けて、諶之丞は何度も戸長辞任願いを提出しているが、受けいれられることはなかった
⑥このような大久保家の心配を受けて、財田上ノ村の5つの地区は、それぞれが留任嘆願書を出している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「馬見州一 双陽の道 大久保諶之丞と大久保彦三郎 言視社2013年」
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大久保諶之丞の開通させた道路
  大久保諶之丞が四国新道以前に取り組んでいた新道一覧

 大久保諶之丞が20代~30代にかけて財田上ノ村周辺の廃道の開鑿や整備に取り組んでいたことを前回は見てきました。今回は、彼が四国新道構想を抱くようになった時期と契機を見ていきます。テキストは、 「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。
大久保諶之丞の四国新道構想に大きく関わっていたのが豊田元良(もとよし)のようです。
 彼は1850年(嘉永3年) 生まれで明治維新を28歳で迎えたことになるので、大久保諶之丞よりも10歳年上になります。讃岐・丸亀藩の高畑家に生まれ、後に琴平の豊田家の養子となります。彼の官暦を見ておきましょう。
明治14年9月、三豊郡長
明治16年11月~17年3月まで、仲多度郡長を兼務、後任の福家清太郎が
明治18年3月 ~23年11月まで再び仲多度郡長
明治23年11~  再度三豊郡長に転出、
明治32年~37年 市政を施いた丸亀市の初代市長就任、
仲多度郡と三豊郡の郡長を20年近く務めた後に、初代の丸亀市長を務めて引退している人物です。この期間に、多くの人間ネットワークを築いて大きな政治力を発揮した人物でもあるようです。この時代の郡長というのは、各村が小さく戸長の実権が小さいのに比べると、実権も強く大きな力を持つ存在でした。
 三豊郡長に豊田元良が赴任したのは明治14年9月、36歳の時になります。これが大久保諶之丞との出会いになるようです。この前年に、大久保諶之丞は学務委員として、上ノ村に勤務しています。

大久保諶之丞 大久保家年表2
大久保諶之丞年譜 調査報告書より

  豊田と大久保諶之丞の最初の出会いは、どんなものであったのでしょうか。
豊田元良が四国新道開鑿当時を回顧した「四国新道開鑿起因(四国新道主唱ノ起因)」には、四国新道開鑿の発端について、次のように記されています。(意訳変換)
私(豊田元良)は明治九年ころから四国の道路が狭く曲折しており、金刀比羅宮への参拝者に不便であるため、四国を貫通する道路開通の必要性を認識し、金刀比羅宮司深見速雄や禰宜琴陵宥常にその計画を語った。その手順は、まず多度津・琴平間の道路を開通させてモデルを示し、次第に四国に広げていくというものであった。測量調査も始めていたが、明治10年の西南の役で、中断やむなきにいたった。
   明治14年に私が三野豊田郡長になり、その年の11月に郡内巡回で財田村を訪れた時に、初めて大久保諶之丞と会った。その時に四国新道の計画を述べると、諶之丞は手を打って賛同し、握手してその成功を誓い合い、さらに猪ノ鼻峠をともに視察した。
 そこで、私は金刀比羅宮司から新道工費二万円の寄付の約束を取り付けるとともに、愛媛県知事関新平へ願書を提出する準備を進めた。一方、諶之丞には徳島県三好郡長武田覚三、高知県知事田辺良顕と面会し、賛同を求めるよう指示し、四国新道開整に向けて行動を開始した。
 実際の文章には克明な描写もあり、興味深いものですが、新道が完成してから後年に記されたものなので、年月日の誤りなど不正確な部分もあり、とりあつかいには「慎重な検討が必要」と研究者は考えているようです。
 ここで、研究者が注目するのは、豊田元良が明治9年という早い段階で四国新道開整を計画していたということです。その計画をまとめておくと次のようになります。
①金比羅への参拝者の便をはかるために、琴平を中心とする四国縦貫道路開通を目的としたこと。
②その第一段階として、多度津・琴平間から着手する計画だったこと。
③その財政的支援を金刀比羅宮の宮司や禰宜から取り付けていたこと
④多度津・琴平間以外の路線については、どこまで具体的な考えがあったかは不明

1大久保諶之丞
大久保諶之丞と弟の彦三郎(尽誠学園創立者)

次に、明治14年11月に豊田と諶之丞が初めて対面したことについて見ておきましよう。
 裏付けとなる諶之丞の日記が、この時期の部分が欠けているようです。そのため正確なことは分かりません。しかし、明治14年のことと推測される12月20日付の諶之丞から弟彦三郎に宛てた手紙に、次のように記されています。

郡長巡回、学事道徳ヲ述ノ件ヲ懇話シ、且勧業二注ロスル体ナリ

ここからは、諶之丞と豊田が面会したことが裏付けられます。しかし、「学事と勧業」のことは触れられていますが、肝心の四国新道については何も記されていません。先ほど見たように豊田元良の「四国新道開鑿起因」には、出会ってすぐに意気投合して具体的に四国新道の計画を語り合い、すぐさま二人がその実現に向けて動き出したように記されていました。しかし、諶之丞の手紙からは、そこまで読み取れないようです。勧業のなかに四国新道構想の話題も出たのかも知れませんが、この段階では、まだ具体的な行動に着手するまでには至っていなかったと研究者は考えているようです。そして、諶之丞明治15年9月5日付けで、学務委員から勧業世話係(地域振興係)に移動しています。道路建設などにあたる係を担当することになったようです。
 別の史料としては、「大久保諶之丞君志(土木之部)」の中には、次のように記されています。
明治十四年ノ頃、豊田元良氏ノ三野豊田郡長二任セラルヽヤ、夙ニ親交ヲ呈シ施政ノ方針ヲ翼賛シ、勧業・教育ノ事柄ニツキ、渾テ援助ヲ呈セザルナク、豊田氏モ亦深ク氏ガ身心ヲ公益二注クノ人タルヲ重ンジタリ、故二氏ノ意見トシテハ呈出セルモノハ大二注意ヲ払ヒテ荀モスルコトナカリキ、故二今氏ノ手記ニツイテ見ルモ、親交イト厚ク、来往モ亦頻繁ナリ、而メ一トシテ世益二関セサルハナカリキ、
 星移り歳替り明治十六年ノ春二至り四国新道開鑿ノ件ヲ談議ス、豊田氏案ヲ叩イテ大二賛助ノ意ヲ表シ、直接卜間接トヲ問ハズ助カスベキコトヲ折言ヒタリ、爰二於テ氏力意志確固不抜ノ決意ヲ為セリ、爾後時ノ愛媛県令関新平氏二賛助ヲ求メ、一方徳島県三好郡長武田覚三氏ニモ賛助ノ誠ヲ折言ハレ、大二氏ガ意志ヲ安ンセシムルニ至レリ、

  意訳変換しておくと
明治14年頃に、豊田元良氏が三野豊田郡長に任じられると、二人の親交は急速に深まった。大久保諶之丞は、豊田郡長の施政方針を理解し、勧業・教育の政策実現に能力を発揮した。豊田氏は、公益のために活動する人物を重んじたので、諶之丞が提出する意見書などには、大いに注意をはらい、見過ごすことがなかった。今になって大久保諶之丞の手記を見てみると、二人の親交が厚く、頻繁に会っていたことが分かる。
 こうして、明治16年の春になり、四国新道開鑿のことが話題に上ると、大久保諶之丞は豊田氏案を聞いて、大いに賛助の意を示し、直接・間接を問わず助力することを申し出た。ここに諶之丞爰の四国新道にかける意志は確固たるものになった。こうして、愛媛県令関新平氏に賛助をもとめ、一方徳島県三好郡長武田覚三氏にも賛助を求め、この二人の賛意をえることができた。

ここからは、次のようなことが分かります。
①明治14年に、豊田元良氏が三野豊田郡長に赴任後に、大久保諶之丞との親交が始まった。
②豊田郡長は地域振興に意欲的な活動をしていた大久保諶之丞に目をかけた
③明治16年に四国新道開鑿が議題にあがり、豊田案による実現に向けての具体的な活動が始まった。
  ここでは二人が四国新道建設を談議したのは、明治16年の春としています。
豊田元良の「四国新道開鑿起因」には、豊田元良が諶之丞に、高知県令田辺良顕を訪ねて賛同を求めるよう勧めたことが記されていました。田辺県令が高知に赴任するのは、明治16年3月です。ここからも明治16年の春に、四国新道建設向けての陳情活動は始まったと研究者は考えています。

大久保諶之丞 四国新道
 ふたりの立場を再確認しておくと豊田元良は三野豊田郡長で、大久保諶之丞は村役場の職員です。
今で云うと県知事と、町の職員という関係でしょうか。決してパートナーと呼べる関係ではありません。年齢的にも10歳の違いがあります。誤解を怖れずに云うならば「師匠と弟子」のような関係だったと私は考えています。
それでは四国新道構想を最初に打ち出したのは、どちらなのでしようか?
史料では「四国新道開鑿起因」「大久保諶之丞君志(土木之部)」のどちらもが、豊田元良から諶之丞へ四国新道構想を提示したと記します。特に「四国新道開鑿起因」では、豊田は明治九年という早い段階に、四国新道の必要を認識し、行動を開始していた自分で述べています。それを史料的に確認することはできません。
「追想録」には、豊田元良のことを次のように記します。
「殖産興業に関する様々な事業を構想し、あるものは実行に移し、またあるものは実現ぜず、中途で終わったものも多くあった」

この中には吉野川疎水計画など規模が壮大で夢のような計画も多くあったようです。大言壮語と評される豊田が、四国新道の構想を抱いていたことは大いに考えられます。また、諶之丞も満濃池再築に若い頃に参加して以来、建設・土木技術を身につけ、上ノ村周辺の道路整備を行ってきたことは前回に見たとおりです。豊田元良の夢のような構想に、大久保諶之丞がすぐに惹きつけられたことは考えられます。すでに諶之丞は、財田上ノ村と関わりの深い阿波・讃岐間の道路修開築等に取り組んきていました。
 そんな中で豊田元良と出会い「四国新道構想」を聞かされたのではないでしょうか。それは、いままで、自分がやって来た新道建設のゴールが多度津にあること、さらに猪ノ鼻を経て阿波・土佐へ伸びていく四国新道構想へとつながっていくことが見えてきたことを意味します。それは、財田上ノ村を中心とした地域に限られていた諶之丞の視野と活動を四国全体へと広げるものとなったのかもしれません。大久保諶之丞は、自分が開いてきた道の意味と、これから自分が為すべきことをあらためて知ります。それは「啓示」であったかもしれません。豊田元良との出会いが諶之丞に与えた影響は大きかったと私は考えています。
 諶之丞は、この構想をさらに多度津から瀬戸内海に橋を架けて、四国と岡山を結ぶという「夢の大橋」構想へと育てていくことになります。

最後に、豊田元良の人物像についてもう少し見ておくことにします。
  明治末に香川で出帆された「浅岡留吉『現代讃岐人物評論 一名・讃岐紳士の半面』宮脇開益堂、1904年。」には、次のように評されています。
大久保諶之丞と豊田元良

意訳変換しておくと

     前丸亀市長 豊田元良
世間は豊田元良を評して「大言壮語の御問屋」と云う。
突拍子もない空想家という言葉も当たらぬことはない。
確かに元良先生は、細心綿密という人物ではない。しかし、その言葉は20年後を予測したものであり、その行動は4半世紀後のことを考えた上でのことに過ぎない。我はむしろ豊田先生の大言壮語に驚く讃岐人の器量の小ささを感じる。(中略)

大久保諶之丞と豊田元良2

前略
豊田元良先生の説かれた吉野川疎水事業や、瀬戸内海架橋のような構想も、西洋人に言わせれば規模の小さいものである。豊田元良先生にはもっとスケールの大きな世間があっと驚くような大々事業を提唱して欲しい。今や日本はアジアの絶海の孤島ではないのだ。ユーラシア大陸がわが日本の領土に入るようなときには、黒竜江に水力発電所を建設し、中国・朝鮮の工業発展の振興に尽くす。これこそが豊田先生にふさわしい大事業である。余生を大陸経営に尽くして欲しい。
これが書かれたのは日露戦争が勃発する1904年のことです。この年に豊田元良は丸亀市長を退いています。ある意味、全ての官暦を終えた時点での地元ジャーナリストによる人物評価になります。
最初に、世間の人たちは豊田のことを「大言壮語の卸問屋」、「絶大突飛の空想家」と否定的にみていたことが分かります。確かに細心綿密の人ではなかったようです。しかし、親分肌で、長い郡長時代に信頼できる「子分」を、数多くかかえた政治的な実力者であったことは確かなようです。
 彼は四国新道以外にも、「吉野川疎水事業や、瀬戸内海架橋説」のような構想も持っていて、常々周囲に語っていたことが分かります。この筆者は、これらの構想を豊田元良の着想だとしています。
豊田元良と親密で、行動を共にすることの多かった大久保諶之丞も、常々にこのような大言壮語を聞かされていたのでしょう。吉野川疎水事業や瀬戸内海架橋構想説も、後に大久保諶之丞の口から形を変えて語られるようになるのかもしれません。
以上をまとめておくと
①大久保諶之丞は、財田上ノ村周辺の新たな道路建設や整備を継続的に行っていた
②明治14年に三豊郡長に赴任してきた豊田元良は、大久保諶之丞の仕事ぶりや活動に注目し目をかけるようになった。
③明治16年に四国新道構想が豊田元良から語られると、大久保諶之丞はそれを「啓示」と受け止め実現のために一心に活動を開始した。その背後には郡長豊田元良の支援があった。
④大久保諶之丞の情熱と能力・行動力を認めた豊田元良は、戸長や県会議員へと抜擢していく。

大久保諶之丞の四国新道建設計画の根回しや交渉については、ひとりの村の役人や指導者の能力を超えるものがあると常々感じていました。それを従来の伝記は「諶之丞=スーパーマン」として描くことでカリスマ性を持たせてきたように思えます。しかし、郡長の豊田元良の構想・指示のもとに大久保諶之丞が「特任大使」として動いたとすれば話は納得しやすくなります。後に郡長の紹介状があるので、県令や地域の要人も会ってくれるし、交渉ができるのです。個人の交渉だけで県の要人が動けるモノではありません。
 この報告書は新たな視点を提供してくれました。感謝


大久保諶之丞3

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」
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  大久保諶之丞が22歳(明治三年)の時に、幕末に決壊してそのまま放置されていた満濃池が約20年ぶりに再築されます。この大工事に大久保諶之丞は参加しています。そこで見たものは、長谷川佐太郎指揮下に行われる大土木工事であり、最新の土木技術でした。若き日の大久保諶之丞にとって、この時に見聞きしたことは強く印象に残ったようです。

 諶之丞が生まれた財田上ノ村戸川は、三豊市財田町の道の駅周辺になります。現在は、ここを国道32号線と土讃線が並んで通過し、戸川の南で讃岐山脈をトンネルで抜けています。これだけ見ると、戸川は「阿波街道の要衝」だったする文献がありますが、史料を確認するとそうとも云えないようです。
4 阿波国絵図3     5
阿波国絵図
例えば、1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図を見てみると、箸蔵街道も阿波街道も描かれていません。描かれているのは次の2ルートです。
⑥阿波昼間から尾野瀬山を経てのまんのう町春日への差土山ルート
⑦昼間から石仏越のまんのう町山脇への石仏越ルート
阿讃国境地形図 1700 昼間拠点

近世初頭の阿波側の拠点は昼間で、そこから讃岐側に伸びているのは春日と山脇です。
阿讃国境 山脇と戸川 天保国絵図
天保国絵図 石仏越のルートが財田上ノ村とつながっている

これが変化するのは、箸蔵寺が勃興して後のことです。箸蔵寺は修験者たちの活動で「金毘羅山の奥の院」と称して、近世後半以後に急速に教勢を伸ばしていきます。そして、先達たちが讃岐でも活発な活動を行い、箸蔵への誘引のために丁石や道しるべを建立すると同時に、参拝道の整備を行います。同時に街道を旅する人たちに無償の宿の提供なども行うなどのサービス提供を行います。この結果、参拝客の増大とともに参拝道の整備が進み、差土山ルートや石仏越ルートを凌駕するようになっていきます。そして箸蔵街道はそれまでの石仏越ルートに取って代わって、西讃地域における交通量NO1の街道に成長して行くようになります。
 もともとの箸蔵街道はまんのう町山脇から荒戸へ出て、太鼓木から石仏山に登り、二軒茶屋から箸蔵寺へ通じる道です。財田上ノ村は、石仏山への支線ルートを開き戸川をもうひとつの讃岐側の入口とします。こうして戸川は、それまでの水車の村から物流の人馬や、箸蔵寺への参詣者が往来し、阿波との交流が盛んな土地へと成長して行きます。
 それに拍車を掛けたのが明治維新です。江戸時代の阿波は原則は鎖国政策をとり、公的には讃岐との自由な商業活動は認めてはいませんでした。しかし、番所もなかったので往来は自由だったようです。明治維新になって、自由な往来が認められるようになると、阿讃山脈を越えての人とモノの移動が急速に増えます。大久保家資料の中にも、財田上ノ村と阿州間での綿代金支払いを巡る係争に関する文書や、明治三年の阿波から讃岐への煙草運送に係る運上金免除を求める嘆願書などが残されています。ここからは、明治になって急速に戸川が成長して行く様子が見えてきます。同時にその成長が、阿波との関係の深まりの中で遂げらたこともうかがえます。大久保諶之丞が19歳で明治維新を向かえた頃の上ノ村の様子とは、こんなものだったと私は考えています。若い彼にとって、地域発展(勧業)の鍵は、阿波との関係強化にある、そのためには近代的な道路整備が必要であるという認識が早くからあったとしておきましょう。
 諶之丞は、財田上ノ村周辺で、多数の道路修繕や新たな道路開設工事を、自力で行うようになります。つまり、四国新道建設以前に、彼の道路建設は始まっていたのです。諶之丞が明治18年に提出した「財田上ノ村道路開築井二修繕」には、彼が手掛けた7件の道路工事を次のように挙げています。
大久保諶之丞の開通させた道路

   「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」から

その経緯について「大久保諶之丞君(土木之部)」(24)には、次のように記されています。
明治八、九年ノ頃、高田倉松ナル人(仲多度郡四ヶ村)ノ人卜親交アリ、時々去来ノ際、同村ノ隣地仲多度郡十郷村字山脇ヨリ本郡財田上ノ村太古木嶺ヲ経テ徳島県三好郡箸蔵寺二至ル賽道ヲ開修スルノ計二及ヒ、遂二同氏及高田氏卜率先シテ主唱者トナリ、費用ノ大半ハ氏ガ私財ヲ以テ之レニ投ジ、余ハ賽者及有志者ノ義捐二訴へ、明治十四年ノ頃二成功ヲ看ルニ至リシナリ、然レドモコノ道路タルヤ、名ハ箸蔵寺参拝者ノ便二供セシニ過キスト雖、更二支道ヲ本村二開キ、従来ノ胞庖力式ノ難路ヲ削平、勾配ヲ附シ、稽人馬交通ノ用二資セシナリ、故二阿讃両国商買ノ歓喜ヤ知ルベキナリ、之レ氏ガ道路開鑿二於ケル趣味卜効見卜併セテ感受セシモノナラン、故ニ後年氏ガ四国新道ノ企ヲ為ス、 一二爰に胚胎セルモノナルヲ見ルニ足ラン乎、

意訳変換しておくと
明治八、九年頃、大久保諶之丞は高田倉松(仲多度郡四ヶ村)と親交ができて、行き来する間柄となった。二人は協議して、仲多度郡十郷村字山脇から財田上ノ村太古木嶺を経て、徳島県三好郡箸蔵寺に至る山道を開修することになった。大久保諶之丞と高田氏は、率先して主唱者となり、費用の大半は大久保諶之氏が私財をなげうってまかない、足らずは寄進や有志者の寄付を充てた。こうして、明治14年頃に、完成にこぎ着けた。これまでの箸蔵街道は箸蔵寺参拝者の参拝道に過ぎなかったが、支道を本村に開き、従来の難路削平し、勾配を緩やかにして、人馬が通れる街道とした。これによって阿讃両国の交流は円滑になり、商人の悦びは大きかった。このことからは、大久保諶之丞氏の「趣味」が道路開鑿であったことが知れる。ここに後年の四国新道に向かう胚胎が見える。

  ここに述べられているのは、諶之丞と高田倉松が協力して開いた箸蔵参詣道のことのようです。
大久保家資料には、この新開道を描いたと思われる「箸蔵さんけい山越新開道路略図」という木版刷の絵図が残されています。
大久保誰之丞 箸蔵さんけい山越新開道路略図
「箸蔵さんけい山越新開道路略図」

旧箸蔵街道が尾根沿いに曲がりくねって描かれているのに対して、新たに開かれた新開道が太く直線的に描かれています。尾根上ではなく山腹を直線的に水平に開いたことがうかがえます。

 高田倉松について詳しいことは分かりませんが、大久保家資料には高田倉松の書状が残されており、諶之丞の日記にも度々登場してきます。また、明治13年の「讃岐国三野豊田両郡地誌略全」の財田上ノ村の項にも、次のような記述があります。
財田上ノ村 郡中の東南隅にして海岸を隔つる三里余、東北西ノ三面は山岳囲続し特に南方は高山断続して阿波国三好郡東山西山ノ両村に交り四境皆山にして地勢平坦ならず。阿波山(阿波讃岐国境にあり、俗に称して阿波山と云う)北麓に南谷。猪ノ鼻両地あり、往事は山なりしが明治三年旧多度津藩知事京極高典始て開墾し、爾来日に盛なり、其麓に渓道と呼て一線の通路あり、険際にして僅に樵猟の往来するのみ、明治十年村人大久保諶之丞の労にヨり方今は馬車を通し商旅の便をなすに至る(26)

意訳変換しておくと
財田上ノ村は三野郡中の東南隅にあり、海岸線からは三里(12㎞)あまり隔たっている。東北西の三面は山に囲まれ、特に南方は讃岐山脈を隔てて阿波国三好郡東山西山ノ両村と村境を接する。四境すべて山で、平坦な土地はない。阿波讃岐国境の阿波山北麓に南谷・猪ノ鼻がある。かつては山中であったが明治三年旧多度津藩知事京極高典の時に開墾して、その麓に渓道と呼ぶ一線の踏み跡小道があるが、険しくて樵や猟師が往来に使うだけだった。それが明治十年に大久保諶之丞の労で、道が整備され、今は馬車が通るようになり、商旅の便に役立っている。

  ここには、諶之丞によって渓道の交通の便が改善されたことが特筆されています。
さらに「財田上ノ村道路開築井二修繕」には、「猪ノ鼻にも明治十六年ヨり道路を開築中」と記されています。
諶之丞の日記には、明治十四年十月三日「猪の鼻道荒見分」テ)、同十五年五月十八日「猪の鼻道路見分」(器)などの記述が見ます。ここからは、この頃には猪ノ鼻開鑿に着手しつつあったことうかがえます。後に、この猪ノ鼻を四国新道が通ることになります。逆の言い方をすると、以前から工事を進めていた猪ノ鼻ルートを、大久保諶之丞が四国新道計画に取り込んだとも云えます。
 以上のように、箸蔵道や渓道など、阿波への交通路を重視して、諶之丞が道路の修開築を行っていたことが確認できます。ここには「新道路開設が趣味」と書かれていますが、それだけで片付けることはできません。確かに讃岐山脈越えの峠道の整備は、大久保諶之丞の先見の明をしめすものといえそうです。それでは、これに類するような活動は他になかったのでしょうか。
 以前に土器川源流近くの阿讃峠・三頭越の金毘羅街道整備をを行った「道造り坊主=智典」を紹介しました。
 彼は生涯を金毘羅街道の整備に捧げていますが、見方を変えると「街道整備請負人のボス」という性格も見えてきました。例えば彼は明治三年段階で、「阿波の打越峠 + 多度津街道 + 三頭越」の3ケ所の大規模な工事現場を持っていました。彼は土木工事の棟梁でもあったのです。
  「勧進」を経済的視点から見ると次のように意訳できるようです。
勧進は教化と作善に名をかりた事業資金と教団の生活資金の獲得

 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。ここでは勧進聖人は、土木建築請負業の側面を持つことになります。
 勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業にも威力を発揮しました。それが、道昭や行基、万福法師と花影禅師(後述)、あるいは空海・空也などの社会事業の内実です。智典の金毘羅街道の整備にも、そのような気配が漂います。

  金毘羅街道整備の意義は?
金毘羅神は、文化文政期(1804~)の全国的な経済発展に支えられて、流行神的な金毘羅神へと成長していきます。全国各地からの参詣客が金毘羅に集り、豪華な献納物が境内に溢れ、長い参道の要所を飾るようになります。金山寺町の紅燈のゆらめき、金丸座の芝居興行と、繁栄を極めた金毘羅にも課題はありました。街道の未整備と荒廃という問題です。
嘉永6年(1853)の春、吉田松陰が金毘羅大権現にやって来ます。彼は多度津に上陸して金毘羅大権現に参拝し、その日のうちに多度津から船で帰っています。その日記帳の一節に次のように書き残しています。
「菜の花が咲きはこっていても往来の道は狭く、人々は一つ車(猫卓)を用いて荷物を運ばなければならなかった。」
 
幕末から明治にかけて、金刀比羅宮の課題は街道整備にあったようです。それをいち早く認識した山間部の地域リーダーたちは、阿波と道路整備を「地域起こしの起爆剤」と捉えたようです。財田上ノ村の大久保諶之丞の戦略も、これらの先進地の動きに学んだものであった云えそうです。
 もうひとつ気になるのは箸蔵寺の思惑と動きです。
箸蔵寺は「金毘羅山の奥の院」と称して、多くの山伏たちを擁し、讃岐にも先達として送り込んでいました。彼らは讃岐側に多くの山伏たちが定着し、布教活動とともに箸蔵寺への参拝道整備にも日常的に関わります。三豊の伊予街道を歩いていると、金毘羅標識と並んで箸蔵寺への標識となる燈籠や丁石が今でも数多く残っています。このように箸蔵街道は、信仰の道でもありました。諶之丞と協力して新たに箸蔵参詣道(水平道)を開いた高田倉松という人物も、箸蔵寺の山伏関係の有力者ではなかったのかと、私は想像しています。それを裏付ける史料はありません。
 以上をまとめておくと
①幕末から明治にかけて、阿讃山脈越の峠道の新たな整備が各地で行われるようになった。
②それは増える人とモノへの対応や、金毘羅参拝者の誘致など、地域振興策の一部として行われた。
③財田上ノ村若き指導者・大久保諶之丞も、そうした時代の動きに対応するように周辺街道の整備を行っていた。
④それが四国新道構想へとつながっていく。
四国新道構想は、何もないところから生まれたのではなく、それまでの地道な取組の上に提唱されたものあったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」
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大久保諶之丞4
大久保諶之丞 瀬戸大橋公園
大久保諶之丞の関係資料が香川県立ミュージアムに寄託されたようです。木箱何箱にもなる膨大なものです。この中には、四国新道建設に尽力し、瀬戸大橋構想を唱えた先駆者としても知られる大久保諶之丞に関する資料が多く残されています。諶之丞のことを知る根本史料になります。この資料に関わった研究者の調査報告書を見て行きたいと思います。テキストは「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。
大久保諶之丞 財田上ノ村
財田上ノ村
大久保諶之丞以前の大久保家について
大久保家は、三野郡財田①上ノ村(現三豊市財田町)の豪農だったと伝えられます。生家は、財田町の道の駅をさらに国道32号沿い登っていった左側にありました。今は、小さな公園となっていて碑文が立っています。
大久保諶之丞生家記念碑
大久保諶之丞生家に立つ記念碑

大久保家の系譜としては、墓碑や位牌から寛政五年(1793)没の権左衛門、甚平、与三治、森治、諶之丞と継承されていった所までは辿れるようです。これに対して、大久保家資料で年号が分かるものを古い順に並べると、次のようになります。
①享保2年(1717)の「永代売渡シ申田地書物之事」で、宛名は市右衛門
②享保14年(1729)の「覚」で、宛名は権助
③延享四年(1747)の「永代売渡シ申田地書物之事」で、宛名は「大久保 権左衛門殿」
③の権左衛門が寛政五(1793)年の墓石に名前のある権左衛門と同一人物のようです。そして、①②の市右衛門や権助は権左衛門の先代に当るようです。彼らが大久保諶之丞の祖先ということになるとしておきましょう。
 以後の大久保家資料には、田畑の売買証文などが多く残っています。ここからは、江戸時代中期以降に大久保家が、土地集積を進めていった様子がうかがえます。

大久保諶之丞の墓
大久保諶之丞の墓 

大久保家が江戸時代に村役人を務めていたかどうかは分かりません。
しかし、明治初年には大久保森治が「調子役」を務めているので、それ以前から村内の有力者の一人であったことはうかがえます。また大久保家は、安政6年(1859)に多度津藩から財田上ノ村にあった御用水車請負を命じられています。明治になってからも、諶之丞の兄の菊治が分家として水車を利用して油店を経営し、御用地と呼ばれています。
  以上から私の気になる点を見ておきます。
①上ノ村が多度津藩に所属していたこと。
以前にお話したように、幕末の多度津藩は小藩ながら四国では珍しく藩を挙げての「富国強兵」策に取り組んだ藩です。「陣屋建設 + 多度津湛甫(港)」=軍事力近代化へと、藩内の富裕層を巻き込んだ体制改革が行われ、新規事業なども起こされていきます。そんな中で、新たな産業として注目されたのが水車です。財田川から水を引き入れた水車が有力者によって作られ、投資先となっていたようです。その権利を大久保家は入手していたことが分かります。
 大久保家を庄屋としている文献もありますが、私はそうは思いません。江戸後期になって水車請負などの新規事業に参入することにして、台頭してきた家ではないかと考えています。父の森冶が「調子役」を務めていたので「庄屋」出身とする本もあります。しかし、明治初頭の村の役人には、なり手がいなかったともいわれます。江戸時代の村役人のように、権威で村衆を押さえ込むことができなくなった地域では、村役人は新政府と村人の板挟みになり、苦労したようです。そのため旧庄屋層は役人になるのを避けるようになります。例えば、榎井村の庄屋であった長谷川佐太郎も戸長に任命されていますが、これをすぐに辞退しています。
 庄屋層にかわって村の指導者となったのが、その次の有力者層でした。大久保森治もこのような新興勢力の有力者で面倒見のいい人物だったことが想像できます。村のために活動する父を太助ながら諶之丞は、若き日をおくったのではないでしょうか。

 江戸時代の大久保家で研究者が注目するのは、諶之丞の曾祖父・大久保長松(直信)と祖父大久保与三治です。
ふたりはともに、二十四輩巡拝の旅をしています。二十四輩巡拝とは、浄土真宗の開祖親鸞の高弟二十四人の旧跡を巡拝することです。大久保長松の巡拝について、明治22年(1889)12月、東京滞在中の大久保諶之丞へ宛てて兄菊治が送った手紙の別紙に、次のように記します。
「文化十三子年六月十八日卒
帰真釈西流信士霊 此人仏法深重思、高祖聖人二十四輩巡拝出立メ、哀哉何国ノ土ヤ我ヲ待ラン、奥州先台田尻村ニテ死去ス、俗名大久保長松 直信コト明治廿二年迄七拾四年ニナル」
意訳変換しておくと
「文化十三(1816)子年六月十八日死亡
帰真釈西流信士霊 この人は仏法に深く帰依し、高祖聖人二十四輩の巡拝の旅に出立したが、哀しきかな奥州の仙台田尻村で亡くなった。俗名大久保長松(直信) 明治廿二年の74年前のことである。 

ここからは大久保長松が文化13年(1816)に、二十四輩巡拝の旅の途中、奥州仙台田尻村で死亡したことが分かります。その4年後の文政三年(1820)に、与三治が二十四輩巡拝を行っていることが残された寺院の宝印や縁起の摺物などを綴った冊子から分かります。与三治は、この時に仙台田尻村も訪れているので、長松を弔う旅であったのでしょう。
 ここからは大久保家には、親鸞を祖とする浄土真宗に対する厚い信仰心が根付いていたことがうかがえます。尽誠学園創業者である諶之丞の弟の彦三郎が、若い頃に浄土真宗の信心を持ち教宣活動を行うのも、この辺りに源がありそうです。この旅からもうひとつうかがえるとすれば、大久保家が19世紀初頭には長期旅行を行えるだけの経済力のある家であったことです。
大久保諶之丞 3
琴平公園の大久保諶之丞

大久保護之丞の経歴 について、見ておきましょう。
大久保諶之丞 大久保家年表1
大久保諶之丞 大久保家年表2

大久保諶之丞は嘉永二年(1849)、大久保森治とソノの三男として生まれています。明治維新を19歳で迎えたことになります。彼は、山脇の塾に通い陽明学を学び「学問・思想と行動の結合」という行動主義を身につけたようです。
 明治5年(1872)に父親が里長を退いた後に、村吏を拝命していますが、それ以前の諶之丞については、詳しいことは分かりません。資料からは、父・森治の下で、使いや名代として仕事を手伝っていたらしいことうかがえます。
明治三年には、長谷川佐太郎の満濃池再築に参加し、最新の土木建築技術に接したようです。この時に、身近に長谷川佐太郎が姿をみて、土木工事の差配ぶりや、その姿に影響を受けたと私は考えています。

 その後、明治5年5月に、香川県第七十区(財田上ノ村。財田中ノ村。神田村)の村役人に任命されます。明治6年の職務分課では「学校・土木・費用」を担当していたことが分かります。新政府のもとで、文明開化のために働いていると思っていた矢先に、民衆が彼の家を焼き討ちする事件が起きます。この年、新政府の方針に不満を抱く民衆たちが学校や役場・指導者の家などを打ち壊した讃州竹槍騒動です。村役人を務めていた諶之丞宅も焼き討ちに遭い、焼失しています。焼かれた家跡を見て諶之丞は、何を考えたのでしょうか。彼は八月ごろに辞職を願い出て、受理されています。民衆の怒りが新政府や自分に向けられた経験を、彼はこの時にしたのです。
その後の役職を一覧にしておきましよう。
明治8年4月、名東県第二十三大区六図  小区二等副戸長
同年 11月 香川県第十一大区六小区戸長を拝命
明治10年五月戸長解職を願い出てるが、村民から慰留され、翌年の11月まで戸長留任
明治12年7月学区世話掛
   同年8月三野豊田郡勧業掛
明治13年6月学務委員
明治15年9月勧業世話係
明治17年  愛媛県農談会員に選出。四国新道構想実現へ向けて活動開始
明治19年 四国新道起工 12月には、財田上ノ村外一ヶ村戸長を
命ぜられ、辞退したものの、結局戸長を引き受ける
明治20年3月 三橋政之率いる移民団が北海道へ向けて出発。以後、北海道移住奨励に取り組む
     6月 讃岐鉄道会社にヨる鉄道建設着工のために東京へ請願上京
明治20年8月、四国新道讃岐分の工事悉皆請負を知事より命じられ、同時に戸長を辞職
以後、諶之丞は私財をなげうち、借財までして四国新道開通に尽力。
明治21年3月 愛媛県会議員に当選
明治22年1月 分県を果たした香川県会議員に選ばれ、
明治24四年12月に高松の議場で死去

諶之丞の家族についても、報告書は触れています。
大久保諶之丞の家族 明治10年
大久保家の家族写真明治10年 
後列左から諶之丞・父森冶・母リセ
前列左から妻タメ・娘キクエ・サダ(妹)

諶之丞の兄弟には、長男菊治、次男実之助、長女コトミ、四男与三七、二女キヌ、三女サダ、五男彦三郎がいます。母ソノは五男彦三郎出生の翌年に亡くなって、森治は後妻リセを迎えています。
諶之丞の兄弟たちを簡単に見ておきましょう。
①長男菊治は分家して財田上ノ村戸川に油店を営み、明治15年には戸川郵便局も開設します。
②次男実之助は元治元年(1864)に20歳で死去。
③四男与三七は、仁尾の吉田家へ養子となっています。
④五男彦三郎は、東京の三島中洲の二松学舎に学び、明治20年京都で尽誠舎を開塾します。
後に彦三郎は病気ために京都から引き上げ、讃岐で尽誠学園を開きます。大久保家の兄弟たちは筆まめで、互いに音信のやりとりを頻繁に行っています。特に末の弟彦三郎と諶之丞は、離れた生活を送っていたこともあってか音信のやりとりが多く、そこには兄弟愛が感じられます。
 諶之丞は慶応二(1866)年に17歳で、大久保利吉の娘タメと結婚し、同年に長女キクヱが生まれています。
その後の明治16年には、同村の伊藤家から柚太郎(後に柚太郎、衡平と改名)を婿養子に迎え、キクヱと結婚させ、翌年には孫の豪が生まれます。大久保家資料には、孫の豪の代までの資料が含まれているようです。
大久保諶之丞 彦三郎
真ん中が諶之丞 右が弟彦三郎 左が養子柚太郎

諶之丞の名前の表記については、明治12年以前の資料には、自筆も含めて、いずれも「甚之丞(丈)」と記されています。明治13年4月頃から、「諶之丞」の表記が使われ始めます。この頃に「甚」の字を「諶」に改めたヨうです。また諶之丞は「直男」という別称も使っています。「直」は大久保家の通字で、父森治は「直次」、兄菊治は「直道」、弟彦三郎は「直之」を称していました。
大久保諶之丞2
北海道洞爺湖町の大久保諶之丞像
諶之丞没後の大久保家について
 大久保諶之丞は明治24年(1891)県庁議会場で討議中、倒れ込み高松病院へ運び込まれ、2月14日に尿毒症を併発し死亡します。それを追うかのように、2年後には養子の衡平も亡くなります。兄菊治の援助を受けながら、キクヱが大久保家を切り盛りしてしたようです。大久保家には、諶之丞の多額の負債が残されていました。大久保家の資産高を記した資料を見ると、明治25年4月には15町9畝2歩あった小作地が、明治26年には、6町1反4畝19歩の半分以下に激減しています。ここからは、土地を売って借金の返済に充てたことがうかがえます。また、借金返済のために頼母子講も実施していたと伝えられます。
また、大久保菊治の経営する油店も多額の負債をかかえていました。
そのため明治32年には親族会議を開き、負債の返済計画を立てるとともに、親族の共同経営とすることにします。最終的には油店の経営を大久保本家が引き取っています。そのため、大久保菊治や油店、戸川郵便局に関する資料も一部、大久保家資料に含まれているようです。
大久保諶之丞の金銭出納帳
大久保諶之丞の残した金銭出納帳

このほか、諶之丞亡き後の妻キクヱは、財田村処女会長などを務め、日露戦争時には、救性のための募金活動を行うなど、社会事業に取り組んでいます。また、孫の大久保豪は、財田村会議員を務め、大久保彦三郎が創設した尽誠舎の経営にも携わました。そのため尽誠舎の経営に関する書簡類も残されています。
大久保諶之丞への書簡
大久保諶之丞に宛てられた書簡
大久保家に残された資料は、点数934件、 13190点で、県立ミュージアムに寄託された時には14の木箱に分けて収められていたようです。この中には、大久保諶之丞が取り組んだ四国新道関係の資料がまとまっているほか、諶之丞宛の書簡類も残されています。特に明治19年以降、数が多くなっているようです。この背景には四国新道事業に取り組む中で人間関係が広がり、手紙のやりとりが多くなったことが考えられます。手紙の中には、三野豊田郡長豊田元良や多度津戸長大久保正史、多度津の豪商であった景山甚右衛門からの手紙も多く残されていて、諶之丞と親しく交際し、協力し合っていた様子がうかがえます。
 また香川県土木課の監督官や諶之丞のもとで工事を担当していた人物、愛媛・高知・徳島の新道工事関係者などからの手紙も多く含まれており、四国新道工事の具体的な状況がうかがえます。また、以前にお話しした北海道移民関係の資料なども数多く含まれています。
  次回は、この史料を見ながら大久保諶之丞が四国新道の建設に向けて動き出す様子を見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
  テキストは「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。
関連記事

明治時代の小学校の修学旅行とは、どんなものであったのでしょうか
それを教えてくれる文章を見つけましたので紹介します。テキストは「和田仁   象郷尋常小学校の修学旅行と運動会  ことひら53 H10年」です。まず、小学校の修学旅行はいつごろから始まったのでしょうか。
高松高等小学校の初期の修学旅行について見てみましょう。
修学旅行 高松高等小学校

高松の高等小学校は五番丁にありました。現在に中央公園にあたり、石碑が建てられています。
修学旅行 高松高等小学校2

荒井とみ三『高松今昔記』(第二巻)に、「三泊四日の修学旅行」の題で、次のような徳田弘氏の思い出話しが載せられていますので要約して紹介します。
 高等小学校の二年(12、3歳)の年、明治32年1月の真冬に高松から琴平を経て、観音寺・詫間・多度津・丸亀を回って帰校する三泊四日の修学旅行に出かけています。全員が男子です。今のように乗物を利用するスケジユ―ルとは違って、
「足並演習の規模をひろげたような汽車旅行と徒歩をおりまぜた、キツイ修学旅行」

であった。足並演習というのは、兵隊の行軍に似てるところから名付けられた用語で、遠くまで自分の足で歩くことをモットーにした「遠足」のことである。
「キツイ足並演習」の実態は?
DSC01272
明治20年代の讃岐鉄道の多度津駅
讃岐の鉄道は、讃岐鉄道会社が明治22年、琴平・多度津・丸亀間で開業したのが始まりです。その8年後の明治30年に丸亀から高松にまで延長されます。この修学旅行が行われたのは高松延長後、まだ二年と経っていなかった時期です。鉄道延長が修学旅行実施計画の契機になっていたようです。以後も、新しく鉄道が開通すると、その方面へ行先が代わっていくことから推測できます。

徳田少年一行の修学旅行コースを辿ってみます。
西浜の高松駅から汽車に乗って琴平へ向かった。生徒の大部分は、はじめての汽車旅行であった。琴平に到着すると、こんぴらさんに参詣して「芳橘」(内町の敷島旅館?)という宿屋に泊まった。夜になって降り出した雨が翌朝もあがらなかったので、宿屋の番頭が子どもたちに退屈しのぎの落語を語って聞かせてくれた。そのうち氷雨もあがったので、少し予定には遅れたが、琴平を出発し、観音寺の町まで足並演習をした。乗り物を利用しようにも、この二つの町の間には電車もバスも通っていなかった」

高松駅 西浜
西浜の初代高松駅(明治末の地図)
ここからは西浜にあった初代に高松駅(現盲学校周辺)から汽車に乗ったことが分かります。西浜は江戸時代は岩清尾八幡の社領でしたから明治になっても田んぼが広がっていました。そこに西から線路が伸びてきて田んぼの真ん中に新しい駅ができたようです。それを描いているのが下の絵です。
高松の宮脇駅
高松市西浜の初代高松駅

ここから汽車に乗って終点の琴平まで汽車で行っています。琴平・多度津・観音寺間に鉄道が開通するのは、第一次大戦の始まる大正三(1914年)12月のことです。琴平から観音寺は歩くしかなかったのです。

「竹の皮でつくった、いわゆる″皮ぞうり″をはいてドンドン歩いた。和服だから靴なぞははいていない。金持ちの息子は麻裏ぞうりだったが、そのうち、みんな足のウラが痛くなってきた。それでも歩いた。大変な修学旅行である」。

季節は1月で真冬です。一団は琴平から善通寺を経て、大日峠を越えるコースを選んでいます。三豊と丸亀平野を結ぶ大日峠・鳥坂峠・伊予見峠は、冬は西風が強く今でも雪が積もって大渋滞が発生することがあります。この時も峠手前から「猛吹雪」となります。
 そのころの旅行者のいでたちは
「みんな日清戦争の出征兵士が、外とうを、タテに長く丸太ん棒のようにまるめて両端をヒモでしばって肩にかけていたように、赤ゲット筒を肩から背中へ斜めにくくりつけていた。私たちもそのとき筒状にまるめた赤ゲットを肩にかけ、 一方の肩には弁当を包んだ白いふろしきをタスキがけにしていたが、吹きつける雪にさからいながら、その赤ゲットをひろげて頭から、すっぽりかぶり、目玉だけ出して、ベソをかきながら、吹雪の行進をつづけ」、観音寺の町に着いたときは、「もうとっぶりと暮れ果てて」いた
と記します。
 高瀬から豊中を経て観音寺まで「雪中行軍」となったようです。

翌日も強い西風が吹き荒れていたので、観音寺から海岸線づたいに歩いて仁尾に出て名所の平石を見物する予定であったのをやめて、詫間へ抜けて多度津へ直行し、3泊目の宿を取っています。
多度津駅 明治の
明治末の国土地理院地図 多度津以西に線路は伸びていないのと、多度津駅が港に接してあることに注目

 3日目は桃陵公園で遊び、多度津から乗車するのかと思えば、さらに丸亀まで歩き、市内を見物して、.丸亀から汽車に乗って高松へ帰り着いています。

学校としては、これが初めての修学旅行だようです。
が、「キツイ足並演習」+「雪中行軍」+「経験不足」で難行軍となったようです。修学旅行は、「キツイ足並演習」であり「自分の足で遠くまで歩く遠足」からスタートしていることを押さえておきます。

 象郷尋常小学校(琴平)の修学旅行を見てみましょう。
象郷(ぞうご)村は1890年に苗田村(のうだむら)と上櫛梨村(かみくしなしむら)、下櫛梨村(しもくしなしむら)が合併してできた村です。「象郷尋常高等小学校沿革史」には、修学旅行のことも書かれています。象郷小学校で修学旅行が始まったのは、明治33年からです。先ほど見た高松高等小学校の実施の翌年になります。この時期に、県下の小学校では修学旅行が始まったのがうかがえます。
 象郷小学校にはこの時は高等科がなく、尋常小学校就業年数は4年でしたから卒業旅行のような形で実施されたようです。卒業生28人は、明治32(1899)年2月21日、高松市への一日修学旅行を行います。
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       明治40年のスタンプの入った琴平駅
当時の琴平駅は終点で、現在のロイヤルホテル琴参閣一帯にありました。ここから汽車に乗り、高松に着くと、栗林公園や公園内の県立博物館(32年2月開館・現在の商工奨励館)、師範学校(高松市天神前)、高松電灯会社(内町、28年設立)などを見物しています。参加者のほとんどは初めての高松旅行であったようで、目を丸くして見物していたことが想像できます。

 「沿革史」を編纂した校長三井興三郎は次のように記しています。
「此時初メテ修学旅行ヲナセシ由、本校児童ノ幸福実二従来ノ児童二倍スルヲ知ルニ足ル」

翌年も卒業生30人が同じコースで実施されます。その後二年間はなぜか実施されていません。再開されるのは日露戦争が始まった37年6月です。行先は多度津・詫間です。
多度津 明治24年桜川埋め立て概況
明治24年 多度津駅の裏側が港であった

どうして多度津や詫間なの?と疑問に思えます。
旅行目的には次のように記されています。
目的トスル所ハ、日露戦役ニツキ第十一師団出征ノ歓送(見送リ)

当時、善通寺第十一師団や丸亀歩兵第十二聯隊の兵士は、多度津港か詫間港から船出していました。国定教科書に取り上げられた「一太郎ヤあーい」の母の見送りもこの年の8月27日の多度津港でのことを教材化したものであることは以前にお話ししました。
一太郎やーい : 広浅雑学独言
出征する息子を見送る母
善通寺の兵士が詫間へ出るには鳥坂峠を越えて、大見村(現三野町)経由の道を行軍しています。出征兵士の見送りとリンクされることで、中止されていた修学旅行が復活したのかも知れません。学校行事が国家意識の涵養と結びつけられていく過程が見えてきます。

多度津港7
多度津港

 修学旅行の一行は多度津へ出ていますが、汽車に乗ったという説明はありませんから「足並演習」で、多度津街道の「魚道」を利用したのでしょう。観音寺に向けての予讃線は、まだありません。そこで「汽船ノ力ヲかリ(借り)テ」詫間に向かっています。
多度津近代集遊図

当時の多度津港は、大型船が入港できる讃岐の拠点港で丸亀港や高松港を凌駕していました。蒸気船となった金毘羅船や各地から神戸・大阪に向かう客船も寄港し、尾道や鞆との間にも旅客船が就航していました。まさに四国の玄関口として機能していた黄金期に当たります。

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多度津港の出港時刻表 神戸・大阪・鞆・尾道へと航路が開かれていた
 ここから小型の蒸気船をチャーターして詫間を目指したようです。ところが慣れない児童たちは「悉ク」船酔いしてしまったようです。
「翌日、元気旧二復セシヲ以テ、粟島航海学校(明治十年設立)ヲ参観」

粟島は目と鼻の先ですが「然ルニ児童悉ク酔ヒ、遂二帰校ノ予定ヲ変更」し、もう一泊することになっってしまいます。こうして出征兵士を「翌日又歓送(見送り)シテ帰」路につきます。詫間から鳥坂峠越えならば象郷小学校まで約20㎞になります。こうして2泊3日の「本校創立以来ノ大旅行」は、多くのハプニングを乗り越えて修了します。
讃岐鉄道多度津駅2
初代多度津駅 西はすぐに多度津港

復活したその後の修学旅行を見ておきましょう。
明治39(1906)年正月、高等科と尋常科4年の78人が校長と4人の職員に引率されて、高松・八栗・屋島への修学旅行を行っています。この時の費用は25銭、ほかに「米五合」持参の旅です。最初に紹介した高松高等小学校の場合が一円でした。
讃岐鉄道 開業時時刻表(明治22年
明治22年開通当時の讃岐鉄道時刻表 終点は丸亀駅

 当時鉄道運賃は、並車両利用で1マイル1銭5厘です。琴平・高松間は27マイルなので「27マイル×1,5銭=片道約40銭」という計算になります。割引運賃だったとしても、ほかに宿泊料なども必要です。全額で25銭というのは、割安感があります。
翌年の明治40(1907)年2月は、高等科卒業生は観音寺へ1泊2日の修学旅行を実施しています。この時も予讃線未開通なので汽車利用なしの「足並演習」です。

年度が改まった四月には、高等科三・四年の男子が箸蔵・池田方面に2泊3日の修学旅行を実施しています。琴平ー池田間の土讃線が開通するのは昭和になってからなので、この時も大久保諶之丞が開いた四国新道を徒歩で越えての「キツイ修学旅行」だったはずです。
高等科二年男子は1泊2日で、琴南町の大川山登山。高等科1年と高等科女子と尋常科三・四年は滝宮地方に1泊2日の旅行。残り尋常科1・2年は大麻山に日帰りの遠足が行われています。全て徒歩です。

明治40(1907)年は4月に、尋常科三・四年と高等科女子が汽車で中津公園に日帰りの旅行。5月には高等科2年以上の男子が詫間・仁尾・観音寺へ2泊3日の「足並演習」です。

四国連絡時刻表(明治36年7月朝日新聞付録より抜粋)
明治36年の時刻表 左が尾道=多度津航路利用

明治43(1910)年4月には、初めて海を越えて3泊4日で岡山方面に出掛けています。
この時にどのようにして瀬戸内海を越えたのでしょうか。
宇高連絡船の開通はこの年6月12日のことで、4月にはまだ就航していません。多度津からのチャーター船を利用したのでしょうか。どちらにしても宇高連絡船就航前の岡山行きです。時代のひとつ先を修学旅行も目指していたようです。

高松港 宇高連絡船 初入港(明治43年)

以後は、尋常科の修学旅行は1泊2日で高松・屋島へ、高等科は3泊4日で岡山地方へ行くのが、定例コースとなっていきます。
例外として大正5(1916)年4月に、日帰りで川之江の奥ノ院へ、翌々年の五月には2泊3日で別子銅山への修学旅行を行っています。これも鉄道年表を見ると、大正5年に予讃線が川之江まで延長したことによるものだと推測できます。
多度津駅 2代目
予讃線が延長され、多度津駅も移動

こうしてみると、宇高連絡船就航や予讃線の延長などによって、鉄道や船を利用して遠距離への旅行が可能になったことと修学旅行の行き先も関係していることがうかがえます。それでも修学旅行には歩くことがつきものでした。荒井とみ三さんは次のように指摘します。
「歩け歩けの旅行」を、学校側は修学旅行と呼び、家庭では遠足といい、新聞記事では兵隊の行軍あつかいに、「足並演習」の字を使っていた

修学旅行の教育目的が、単に社会見学というだけでなく、身体の鍛練や忍耐力の養成と、さらには国家意識の涵養におかれていたことを押さえておきます。それが高度経済成長期になってバスによる観光旅行に重点を移しすぎたときに「原点復帰」をめざし「遠くまで歩く遠足」復活が叫ばれることにもなったようです
大正・昭和になると、伊勢神宮の参拝を兼ねた「参宮旅行」が主流になります。
その先駆けとなる「天皇陵巡拝旅行」が明治44(1911)年8月に行われています。これは、学校単位の実施ではなく、香川県教育会が主催して県下一般から参加者を募ったもので、総勢76人が大阪・奈良県内の御陵を巡拝しています。指導的な教員のモニター旅行のようなものです。
さらに昭和3(1928)年に御大礼の後、京都御所の拝観が許されるようになります。これ以後は、伊勢、奈良に加えて京阪神も含め、5泊か6泊の修学旅行が多くなります。その背景には「整備された鉄道網 + 旅行費負担ができる保護者の経済力向上 + 皇国史観と天皇制高揚」などがあったようです。これも戦時体制下体制が強まる昭和15(1940)年には「修学旅行制限」の通達が出され、全国的に中止されるようになります。
讃岐鉄道多度津駅M22年
初代多度津駅
以上をまとめておきます
①明治期の遠足や修学旅行は「キツイ足並演習」で、一部に開通した汽車が利用された
②日露戦争時には戦意高揚のために多度津や詫間に行き、出征兵士を見送る修学旅行も行われた。
③修学旅行の行き先は、宇高連絡船や予讃線の延長などの交通網の整備が敏感に反映され変化している。
④昭和になると整備された鉄道・客船網を使って、畿内への5、6泊の修学旅行が始まる
⑤ここには「伊勢神宮 + 天皇陵巡り + 京都御所拝観」などの天皇制を体感させ国民意識の高揚をはかるという当時の国民教育の目標が、それを下支えしていた

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「和田仁   象郷尋常小学校の修学旅行と運動会  ことひら53 H10年」

 満願寺全景
                                                          
愛媛県朝倉村の「金毘羅山 満願寺」は、不思議なお寺です。
いまでも境内に金毘羅さんの神殿や本殿があります。ここには神仏分離がなかったかのような伽藍配置を今でも見ることが出来ます。
満願寺狛犬

 川の手前には、お寺なのに狛犬が向かえてくれます。 
満願寺鳥居

    その向こうには鳥居が見えてきます。
満願寺本堂

 境内には薬師堂や不動明王を祀るお堂があり、熊野信仰以来の修験の寺であることがうかがえます。
満願寺階段

  さらに上に登っていくと・・・
満願寺金毘羅

  現れるのは金比羅堂です。
満願寺本殿

   裏側に回って本殿を見ると、造りは神社です。お寺の敷地の中に金比羅神社があります。このお寺に神仏分離はなかったのでしょうか。別の見方で云うと、神仏分離をこの寺はどうくぐり抜けたのでしょうか。それを語る物語に出会いましたので紹介します。

テキストは神仏分離こんぴらの一夜彫り石 (愛媛県越智郡朝倉村) 成重芙美子 ことひら52 H9年です。

明治になったとたん、新政府がおかしなお触れをだした。
「何、今からは、仏さんより神さんの方が位が上になる?」
「それに、神仏を別々に祭れじゃと?仲よう、いっしょにござるものを、なぜ別にせんならん?」
なんぼ、頭をひねって考えても、だあれも訳が分からんかった。そのうち、
「日本は大昔から神の国じゃけれ、寺はいらん、仏もいらん。神さんだけにしろ…ということじや」
誰が言い出したんやら、これが、たちまち全国にひろまって、蜂の巣をつついたような騒ぎになってしもた。
「ちがう、ちがう。神社と寺院を別の場所に、分けて祭れば良いのじゃ」
政府はあわてて説明のお触れをだしたが、もう手遅れよ。
気の早い地方では、ひとつ残らず寺をこわし、仏壇やいはいを大川に投げすてた。仏像も仏具も焼き払い、おじぞうさんも、土手の下積み石にしてしもた。
となりの高知県でも、ようけの家が、葬式や法事の仏式をやめて神式に改めた。
  さあ‥‥朝倉のこんぴらさんのことじゃ。
同じ境内に、満願寺ちゅうお寺もあるので、檀徒衆は気が気でない。よそのうわさを聞くたびに集まった。
「お上のお触れにさかろうちゃいかん。早うこんぴらと寺を分けろ」
「おう、神さんが上になったんじゃけれ、寺をこわせ」
「いや、こんぴらを退けろ」
しろんごろん言い合うのを、時の住職、恭恵さんはまあまあと押しとどめ、
「仏教が伝来してこの方、寺をこわせ、神仏いっしょはいかんじゃの、国が命令したことは一ぺんもありません。これは何かの間違いです。考えても見なされ。今まで、病気や災難からお守り下された神社や寺を、わがらの勝手でよそへ移せると思いなさるか。罰があたりますぞ。それに」
と、そばの寺社総代に目を向けられた。
「寺とこんぴらを分けたら、第一、経営が成り立ちますま い?
 それは、あなたが一番ようご存じのはず」
総代はうなずいた。
「はい、分かっとります。ほじゃけんど、おとがめがあったら、どないにされますぞ?わしらは、それが、いっち、おとろしい」
「その時の責めはわたしが負います。皆の衆は心配せんでよろしい。とにかく、神仏はどちらも大切。上も下もありません。両方存続さすことを考えてくだされ」
恭恵さんは、きっぱりと言われた。
それからというもの、何ぞええ思案はないものかと、寝ても覚めても思うておられた。あちこち人をやって調べもされた。すると、もともと政府の趣旨をはき違えて起きたことじゃ。地方、地方の役人により、だいぶん方針や程度に差があった。伊予はかなりゆるやかなようじやつた。
恭恵さんは望みをすてず、あせる壇徒衆に、
「もうちっと、がまんがまん」
ほしたら、明治二年になって具体的な通知があった。
やっぱり、寺と神社を分けろという。それも直ちにせいちゅうのよ。いよいよ正念場じゃ。
恭恵さんはうす暗い本堂にすわり、ご本尊の薬師如来に一心に祈られた。
「なむ、神仏ともにお祭りできる良い知恵をお授け下され」
後ろでは寺社総代はじめ、主だった壇徒らが、神妙にねんぶつを唱える。その中に石工の弥平次もおった。
「‥・・!?」
恭恵さんに、パッとひらめきがあった。
すっくと立ち上がり、ご本尊を背にして言われた。
「み仏の教えに、方便、という言葉があります。そこで、こんぴら宮には、しばらくお隠れ願うて、満願寺に前へ出てもらいましょう。丁石の(金毘羅本殿へ00丁)を(不動殿大門へ00丁)と彫りなおすのです。さあ、せわしゅうなりましたぞ。みなさん、手をかしてくだされ」
なんと― 恭恵さんは、大日如来の化身である。(不動明王)を奉じて、理不尽な国の政策に立ち向かわれた。
この方は、宇宙でいちばん偉いお方で、
「仏教に敵対するものは許さんぞっ」
と言うて、あのように恐い形相をしてござるのよ。

石工の弥平次は…。
寺から帰るなり、何事か弟子に指図した。弟子たちは、あわただしく、あちこちに分かれて走った。
やがて、おおぜいの石工仲間が、それぞれ弟子を引き連れかけつけた。
「ほいさ、ほいさ」
村の若い衆らが、道々から丁石を集め、荷車に積みやってきた。

弥平次は、ふかぶかと頭を下げて言うた。
「この五基の丁石(金毘羅へ00丁)を消して、(不動殿へ00丁)と彫りなおしたい。こんぴらの一大事じゃ。ぜひ力をかしてくれや」
仲間が言うた。
「親方のため、こんぴらさんのためなら、何でもやらしてもらいます。そいで、いつまでに、また彫り方は?」
「期日は明朝、彫り方はすずり彫りじゃ。
「ええっ、明朝? しかもすずり彫りー そりゃあ、むりぞのもし。
 なんぼ親方の頼みでも、でけん相談じゃ。時間が足らん」
弥平次は首をふった。
「いいや、わしの言うとおりにしたら必ずできる。まず、石面を削りつぶして、もとの字を消せ。その時まわりの縁を残すんじゃ。すずり彫りになろが? それから字を彫れ。しんどなったら交替せい。とにかく一本の石にいつも二人はかかっとれ」
「なあるほど…それならできるかも知れんのう」
「よっしゃ、やろうじゃないか。これで、こんぴらさんがお救いできるなら、石工みょうりにつきるぞ」
「おう、やろやろ」
そうと決まったら、ちょいとの間も惜しい。いそいで丁石を、仕事場に一基、残りの三基は前の道にならべた。
「ほんなら、わしが一番乗り!」
元気なものらが石にとびついた。

そのころ、こんぴら本殿でも大さわぎじゃった。
こんぴら権現の像を脇へ移し、わきの不動明王を正面に…
つまり場所の入れ替えをしよったんよ。
なにしろ、大切なお像じゃ。いためたら取り返しがつかん。
大工のとうりょうも、手伝う若い衆も一生懸命じゃった。
足場をかため、力じまんがお像を抱きかかえた。
「なうまく、さんまんだ、ばさらだん、さんだ…」
恭恵さんは、じゅずを押しもんで念じた。
ようよう、無事、不動明王が正面に祭られた。
ローソクに灯をともして見上げると、右目をカッと見開き、くちびるをグッとかみしめた。
おとろしいお顔が、皆にはこの上なく頼もしゅう拝めた。

門前では相変わらず、カッツンカッツン、ノミ音が勇ましかった。
炊きだしの握り飯も交替でほうばった。
たくさんの提灯に灯がともされる頃、ようよう、もとの字が消せた。これから本番。弥平次が気合いを入れた。
「ええか?急ぐいうても、ええ加減な仕事はするな。末代まで残るものぞ」
ひとりは上から、ひとりは横から、カッツンカッツン。
- ノミがちびたら、かじ屋に走って焼きを入れ直した。
なんぼ交替でも人数に限りがある。夜の更けるとともに皆だんだん疲れがでてきた。
(朝までにできろか?)
その不安を打ち消すように、誰かが般若心経を唱えだした。
すると、手待ちのものらの大唱和となった。
「かんじぃざい、ぼうさつ、ぎょうじん、はんにゃ…」
それに力を得て、ノミ音が勢いを取りもどした。
「できたっ」
五基の丁石が彫り上がったとき、朝日が山の端を離れた。
みなの顔がぱっとかがやいた。
さわやかな、こんぴらの里の夜明けじゃ。
丁石を積んだ荷車が走り去る。境内が掃き清められる。
恭恵さんは、静かにみなの衆と役人を待った‥‥。

現在、あのときの一基(不動殿大門へ三十丁)が、 一夜彫り石として、仁王門のそばに大事に据えられとる。じゃが、これらを語る人はもう誰もおらん。身の丈七尺五寸の仁王さんだけが知ってござるのよ、のう……。 おしまい

物語はおしまいなのですが、境内の建築物は「おしまい」ではありません。金比羅堂の上には、まだ堂宇があるのです。
満願寺大師堂への参道

  金毘羅神社から、さらに参道をのぼっていくと

満願寺大師堂

  現れたのは大師堂です

  全景図を見ると、この寺は、今は満願寺という寺院ですが金毘羅の神殿や本殿が境内の中にあります。神仏分離以前の神仏混淆の姿を維持した宗教施設ともいえます。
その成り立ちを考えると
「熊野信仰 + 修験道(不動明王) + 弘法大師信仰 + 金毘羅信仰」と時代とともにその時代の流行の信仰を受入て混淆してきたことがうかがえます。 


  近世のはじめに金比羅大権現を厄除け守護神として勧請し、神仏混交の寺として修験山伏のてによって創建されたのでしょう。明治期の廃仏稀釈で一時期廃寺になったようですが、再建されたときには神仏分離以前の形を維持したようです。そこには信徒の根強い信仰が支えになったのでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
成重芙美子 こんぴらの一夜彫り石 (愛媛県越智郡朝倉村)  ことひら52 H9年

坂本龍馬 まとめ - 速魚の船中発策ブログ まとめ
龍馬亡き後に、海援隊を再組織する長岡謙吉(左端)
 前回までに鳥羽伏見の戦い後に、再結成された海援隊の動きを見てきました。それは、海援隊が塩飽と小豆島の天領を自己の占領下に置くという戦略でもありました。隊長の長岡謙吉の思惑は成功し、小豆島では、岡山藩の介入を排除しながら、塩飽では小坂騒動を平定しながらこれらの島々を占領下に置くことに成功します。こうして、次のような組織系統が形成されていきます。
①塩飽に八木(宮地)彦三郎
②小豆島に岡崎山三郎(波多彦太郎)
この二人を統治責任者として配置し、丸亀(海援隊本部)から長岡謙吉が管轄するという体制です。更にその上に、土佐藩の川之江陣屋が予讃の「土佐藩預り地」を統括するという指揮系統になります。
長岡謙吉 - Wikipedia
長岡謙吉
海援隊隊長の長岡謙吉は、丸亀で何をしていたのでしょうか?
彼が郷里の者に宛てた私信(2月13日付け:近江屋新助宛)には次のように記されています。
私は、高松征伐の先発として、高松城占領に向かったために小豆島や塩飽諸島のことには関わらなかった。讃岐の島嶼部を3分割して、小豆島は波多彦太郎、塩飽は八木彦三郎にまかせ、私は丸亀の福島にいて全体を統括した。公務の合間には、私塾を開いて京極候の幼君を初め、同地の子弟に和漢洋の学問を授けた。時折管内の本島、草加部(小豆島)を巡視したようで、その際には塩飽の土民が上下座して敬ひ拝する

ここには長岡は、「丸亀の福島にいて全体を統括」と記されています。彼が拠点の宿としたのは、太助灯籠などの灯籠が立ち並ぶ丸亀港の東側にあった旅宿「中村楼」(平山町郵便局向かい)であったようです。ここは、金毘羅船頻繁に出入りする港に面した所で、多くの旅籠や店が軒を並べた繁華街でした。人とモノが集まり、情報と人の集積地でもあったところです。拠点とするのには適していたかも知れません。高松討伐の際に、土佐軍幹部が使った宿でもあるようで、何らかの協力関係があったのかも知れません。
丸亀新堀1
金毘羅船の出入りでにぎわう丸亀湊
また長岡は、次のように記しえいます。
 「私塾を開いて丸亀藩主の京極候の幼君を初め、同地の子弟に和漢洋の学問を授け」

最初にこれを読んだときには、「また大法螺を吹いているな、藩主の息子を教えるなどと・・」と思いました。ところが、これはどうやら事実のようです。
遍照寺 (香川県丸亀市新浜町 仏教寺院 / 神社・寺) - グルコミ
白蓮社があった遍照寺(丸亀市新浜町)
  海援隊本部は「白蓮社」に置かれとされてきました。
「白蓮社」は、現在の福島町隣りの新浜町にある遍照寺にあった御堂であることが、最近の丸亀市立資料館の調査で分かってきたようです。
丸亀新堀湛甫3

長岡の別の私信には1月27日、丸亀藩の要請により、「白蓮社」に私塾開塾し、長岡が「文事」を教え、「岡崎」が「武事」担当したとあります。門人約20人で、その運営には、丸亀藩の土肥大作や、金毘羅の日柳燕石、高松藩の藤川三渓が協力したようです。土肥や草薙燕石は、土佐軍の進駐によって、丸亀藩や高松藩の獄中にあったのを解き放たれた「元政治犯」でした。
  土肥大作は丸亀藩の勤王家で慶應2年以来幽閉されていたのを、1月18日に長岡謙吉が丸亀藩への使者として訪れた際に赦免されます。そして、陸路高松に進軍した丸亀藩兵(長岡謙吉も合流)を参謀として率いた人物で。御一新後の丸亀藩政改革の中で、重要な役割を担う立場にありました。土肥と長岡は、親密な関係にあったことがうかがえます。
DSC06658


長岡は、この時期に金毘羅さんから軍資金の提供を引き出しています。彼の1月下旬頃の書簡に、
「(1月)廿一日隊士二人と象頭山ニ至り金千両ヲ隊中軍用ノ為メニ借ル」

とあります。また、琴陵光重『金刀比羅宮』193 頁には、長岡謙吉の千両の借用証書が紹介されています。この返礼に、長岡は1月24日には、金毘羅大権現別当の松尾寺金光院の重役・山下市右衛門に「懐中銃」を進物として送り、親交を求める書状を送っています。これには千両に対するお礼の意味があったと研究者は考えているようです。
  また軍資金千両の使い道は、以下のように記されています。
「蒸気船壱艘 小銃五百挺 書物三十箱戦砲五挺」

 塩飽で組織した志願兵部隊の梅花隊の装備や海援隊の艦船購入に宛てられたようです。ちなみに鳥羽伏見の戦い以後に、再結成された海援隊のメンバーは操船も出来ませんでしたし、持ち舟もなかったことは以前にお話した通りです。
 なお、金光院は3月には神仏分離令により廃寺となり、金刀比羅宮は海援隊の統治下に置かれることになります。『町史ことひら 3 近世 近代・現代 通史編』400 頁には、明治3年(1870)9 月、長岡謙吉は融通された千両について個人による年賦返済を申し入れています。これにたいして金刀比羅宮は、借用証書を川之江の役所に返上し棄捐した記されています。

ここで海援隊の動きを年表を見てみましょう。(香川県史より抜粋)
1・20 塩飽諸島が土佐藩預り地となり,高松藩征討総督が八木彦三郎に事務を命じる
1・21 長岡謙吉が「隊士二人と象頭山ニ至り金千両ヲ隊中軍用ノ為メニ借ル」
1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
1・27 金光院寺領(金毘羅大権現)が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
1・27 丸亀藩の要請により、長岡謙吉が丸亀「白蓮社」に私塾開塾
1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる
2・ 9 朝廷から土佐藩へ、讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書が出される
2・-  塩飽諸島で土佐藩が1小隊を編成し、梅花隊と名づける.
2・20 長岡謙吉が上京(長岡私信)
3・-  小豆島東部3か村(草加部・大部・福田)土佐藩預り地となる
4・12 海援隊が土佐藩から小豆島・塩飽鎮撫を正式に認められた
4・15 海援隊が占領管内に布令を出す(?)
4・29 土佐藩による海援隊の解散命令
5・17 小豆島や琴平は新設された倉敷県に編入
5・23 八木彦三郎が塩飽等を倉敷県参事島田泰夫に事務を引き継ぎ
・ 1 直島・女木島・男木島3島から土佐藩兵の撤退。 

ここからは1月末から2月中旬にかけて、土佐軍と海援隊の占領地の組織が形作られていったことが分かります。こうして、海援隊は海軍に必要な操船技術(塩飽水主)、兵力(梅花隊)、石炭の確保に成功したこと、さらに。金刀比羅宮から軍資金も調達していたのです。当初の狙い通りの成果を挙げたといえるでしょう。
長岡謙吉(海援隊第二代目隊長)の写真 | 幕末ガイド
長岡謙吉
長岡の私信には、切迫した情勢や戦闘的な描写は見られません。
四国にやって来て彼らは、一戦もしていません。長岡は、戊辰戦争のさなかも、丸亀に落ち着いて塾を開き、大漁を祈る塩飽島の臨時大祭の手配に腐心したり、小豆島の神懸山(寒霞渓)に登って景勝を楽しみ詩吟したりしています。また、土佐の近江屋新助には次のような私信も送っています
「どうぞどうそ御家内一同島めぐりニ御出可被下候、芝居入二御覧一度候一笑一笑」
「こんぴらさまへ御参りニ家内不残御出...」
「何も不自由ハナケレドモ女の字ニハ困り入申事ニテ 隊中の壮士時時勃起シテ京京ト申ニ困り入申候」
と、金毘羅大芝居見物に金毘羅参拝を誘ったり、と呑気な様子を書き送っています(慶應4(1868)年2 月13 日付け)。ここからは、長岡謙吉の立位置がうかがえます。
  
 また年月は分かりませんが、この頃に長岡謙吉が美馬君田(阿波出身で琴平で活動していた勤王家)に宛てた書簡(草薙金四郎「長岡謙吉と美馬君田」71 頁)には、次のように記されています。「當地」(丸亀?)で「書肆文具一切」を扱う店を開店したので、「鐵砲其他西洋もの一切」も販売するために「長崎之隊士へ申通し、上海より直買に為仕含に御座候」と、その営業計画が述べられています。
鉄砲を始め、西洋のあらゆるものを取り扱う貿易会社を開店した。長崎の旧海援隊に依頼して、上海から直接仕入れる予定である。

ここからは次のようなことがうかがえます。
①長岡謙吉は、塾以外に貿易会社を丸亀に開店していたこと。
②海援隊の長崎グループからの仕入れを考えており、彼らとの関係は持続していたこと
このような動きからは長岡謙吉の目指したのは、天領の無血開城であり、その後の平和的な戦後統治であったと研究者は考えているようです。
2丸亀地形図
当時の丸亀
私が分からなかったのは、2月20日に長岡が上京することです。
この辺りのことを、長岡は土佐の親友に次のように私信で伝えています。
2月20日に火急な御用があり、上京した。以後、京都に留ることになった。用件は正月以来、占領している塩飽・小豆島についてのことだった。この両島については、朝廷からの内命で占領・統治を行っていたが、各方面から異議が出るようになった。そこで、正式な任命状をいただけるように運動した結果、4月12日に土佐藩の京都屋敷御目附小南殿より別紙の通りの「讃州島御用四月十二日付辞令書」をいただけることになった。御覧いただくと共に、伯父や親類の人へも安心するように伝えていただきたい。以下略     四月十三日認             弟 殉 
廣陵老契侍史 
   
ここには次のようなことが書かれています。
①塩飽・小豆島の占領支配については、朝廷からの内命が海援隊に下りていた
②両島の占領について各方面から異議が出るようになったために2月20日、上京したこと
③その結果、4月12日に海援隊が小豆島・塩飽の占領軍として土佐藩から正式に認められたこと

しかし、以前にも指摘したとおり、2月9日には朝廷から土佐藩へ、讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書が出されて、岡山藩も撤退しています。天領をめぐる対立は解消済みと私は考えていました。どうして、上京し、朝廷に対して工作を行う必要があったのか、私には分かりませんでした。別の言い方をするのなら、2月20日から4月12日までは、京都にいて何をしていたのかという疑問です。まず、それをさぐるためにこの時に朝廷に提出した2つの建白書を見てみましょう。
  【建白A】石田英吉、長岡謙吉、勝間桂三郎、島田源八郎、佐々木多門の海援隊士 5 名の連名の建白書。
「元来貧地ニテ生活之為ニ而己終身日夜困苦罷在候上徳川之暴政苛酷ニ苦シミ難渋仕候儀見聞仕実ニ嘆敷奉ㇾ存候既ニ先達テ四国近海塩飽七島之居民私怨ニ依テ紛擾争闘及民家ヲ放火シ即死怪我人夥敷有ㇾ之打捨置候ハハ如何成行候モ難ㇾ計早速同所ヘ罷越悪徒ヲ捕窮民ヲ救人心鎮定致候段於二播州一四條殿下(遠矢注:中国四国追討総督・四条隆謌)ヘ御達申上候通ニ御座候塩飽スラ如ㇾ此ニ御座候得ハ況テ佐渡ヶ島新島三宅島八丈島ハ流人モ多ク罷在兼テ人気モ不穏此節柄別テ貧窮ニ迫リ擾亂仕候儀眼前ニ御座候間」、
  意訳変換しておくと
天領の島々はもともと貧困で、生活のために日夜困苦しています。その上、徳川の暴政苛酷に苦しみ難渋してきました。私たちが見聞したことも実に嘆かわしきありさまです。先達っては、四国塩飽七島の島民が私怨のために紛争を起こし、民家に放火し、使者や怪我人が数多く出ました。(小坂騒動のこと)。これを打捨てて置くことはできませんので、早速出向いて、悪徒を捕らえ窮民を救い、人心を鎮めたところです。このことについて播州一四條殿下(中国四国追討総督・四条隆謌)へ報告した通りです。塩飽でさえもこのような有様です。佐渡ヶ島・新島・三宅島・八丈島ハ流人も多く、不穏な時節柄なので貧窮も加わり騒乱が起きることが予想されます。
 そこで、御仁政の趣旨を布告すれば彼らは感涙することでしょう。私どもは先年、彼地に行って民俗や民情を調査いたしました。(真偽不明)。そこで、私たちはそれら島々へ渡り「布告」し「民心ヲ鎮定」を行いたいと考えます。島々には徳川の命を受け航海術を修練した者もいます。(長崎海軍伝習所における塩飽水夫などのこと?) さらに屈強な者を選抜し航海技術を伝授し、将来的には海軍ヘと発展させるように、仰せ付けいただければ兵備も充実することでしょう。

【建白B】長岡謙吉と石田英吉の 2 名連名の建白書
「先般、塩飽七島の島民の紛争について、私どもが鎮撫したことについて、播州で四條殿下ヘ報告いたしました。この島民達を朝廷の海軍ヘ採用するように献策いたします。讃岐の小豆島も塩飽と同じように、鎮撫中ですので、この両島ともに鎮撫命令を下し置きいただけるようにお願いいたします。以上」

 この2つの建白書(A・B)は2月中(日付不明)に、土佐藩ではなく新政府に対して出されています。ここがまずポイントです。交渉相手を土佐藩ではなく、直接に新政府を相手としていることを押さえておきます。
建白書Aでは、塩飽での騒動鎮圧と平定の実績を報告をした上で、その支配権の追認を求めています。つまり、新政府による海援隊の塩飽占領支配の保証です。いままでは、土佐藩から委託・下請けされた権限だったのを、新政府から直接認められることで、より強固なものにしようする思惑があったことがうかがえます。つまり、これは岡山藩などに対する対外的な意味合いよりも、土佐藩内部の海援隊による塩飽・小豆島東部占領支配に対する異論封じ込めを狙ったものだったとも思えてきます。
 そして、塩飽の水夫たちを、新政府の海軍に重用することを求めています。さらに、天領であった佐渡島や八丈島・三宅島を、海援隊が占領支配することも新たに求めています。
全体的に見ると、建白の意図は、島々の水夫の「海軍」への徴用とそれを理由とした海援隊による塩飽・小豆島鎮撫の正当化にあると研究者は考えているようです。
 平尾道雄氏は、「坂本龍馬 海援隊始末記』253 頁)で次のように指摘しています。
「諸島鎮撫の目的は、ただ「王化を布く」というだけではなく、すすんで土地の壮丁たちを訓練して、新政府のために海軍の素地をなさんとしたところに終局の目的があったようである」

建白書のAとBを比較してみると、Aは小豆島について何も触れていません。それに対して、Bは小豆島鎮撫の実績を取り急いで長岡と石田だけで、追加報告したものと研究者は考えているようです。そうすれば、A→Bの順に得移出されたことになります。
龍馬と安田の海援隊士 高松太郎・石田英吉展 | 高知県の観光情報ガイド「よさこいネット」

 また、一番最初に名前が出てくる石田英吉は、鳥羽伏見の戦い後に長岡や八木彦三郎らが丸亀に渡った時に乗船した土佐船「横笛」の船将です。ここからは、以後はそのまま備讃瀬戸グループに合流したことがうかがえます。しかし、この建白直後に、備讃瀬戸グループから離脱し長崎グループに鞍替えしています。意見が合わなかったようです。そして、戊辰戦争へと石田は参戦していきます。
 この建白書を出した後の4月12日、長岡謙吉に次のような正式な任命書が渡されます。渡された場所は、土佐藩の京都藩邸で、土佐藩大監察小南五郎衛門から渡されます
      長 岡 謙 吉
爾来之海援隊其儘を以て讃州島に御用取抜勤隊長被仰付之
辰四月十二日
八木彦三郎
波多彦太郎
勝間圭三郎
岡崎恭介
桂井隼太
橋詰啓太郎
島橋謙吾
武田保輔
得能猪熊
島田源八朗
島村 要
堀 兼司
長岡謙次郎
右面々讃州島に御用被仰付長岡謙吉に附属被仰付之
この文書からは、次のようなことが分かります。
①長岡謙吉の配下いた海援隊12名が「讃州島ニ御用被仰付 長岡謙吉ニ附屬被仰付候事」となったこと
②長岡謙吉が正式に海援隊隊長となり、讃州島(塩飽・小豆島)の占領統治者に任命されたこと
「海援隊其儘ヲ以テ」とあるので、「新海援隊」ではなく、旧来からの海援隊を引き継ぐのは長岡であることも認められたことになります。「讃州島」とありますが、実態は「塩飽」に限定されず備讃瀬戸全体にまたがるエリアであったことを研究者は指摘します。
 ここからは、2月20日に上京して以来、新政府に働きかけていた「塩飽・小豆島鎮撫」が、ある意味成就したことを意味します。しかし、長岡が望んだように新政府からの任命状ではなく、土佐藩からの任命状であったことは押さえておきます。

次なる疑問は、次の通りです
①なぜ海援隊本流の長崎グループ(古参メンバー)ではなく備讃瀬戸グループが、この時期にわざわざ「爾来之海援隊其儘」の海援隊であると、土佐藩は認定したのか?
②長岡の海援隊の動きを土佐藩は、どのように見ていたのか?

それを解く鍵は、海援隊に対して土佐藩から出された通告文にあるようです。
①占領地に於ける租税については、申告された人口、戸数等に基づき検討中であるから決定次第連絡する予定であること、
②宗門改(キリシタン摘発を目的とする住民調査)を「川の江出張所」(川之江陣屋のこと)に提出すること
③海援隊士の経費は島々の租税により支給する予定だが、指示があるまで待つこと、
④「土兵」(梅花隊)の経緯や経費についても③に同じこと、
⑤学校の経費について③に同じこと、
⑥⑦商船・船舶については「従前のままになしおくこと」(詳細不明)
⑧船の旗号は「紅白紅旗」(土佐藩の旗)を使用すること
⑨諸事につき「川の江出張所」に伺いをたてること。

①③④⑤については、現地徴収して占領経費に使用してよいかという問い合わせへの回答のようです。土佐藩の回答は「まだ、現地徴収してはならない」という答になります。⑧の船の旗については、土佐藩のものを使用せよと云うことです。専門家は、「紅白紅旗(にびき)は土佐藩の船印であり、海援隊のオリジナルシンボルマークなどではない」(『空蝉のことなど』148 頁)と指摘します。あくまで、海援隊は土佐藩の配下であり、下請的な存在なのです。
アート短歌・気まぐれ文学館 海援隊旗

⑨は海援隊が独自に判断し、勝手な施策を行うなということでしょう。ここでも、土佐藩の配下であることをわきまえよとも読み取れます。
①③④⑤の現地徴収と経済的なことについては、塩飽諸島・小豆島等統治の占領費に土佐藩の財政が耐えられなくなったことが背景にあるようです。4月9日に小崎左司馬、毛利恭助(土佐藩京都留守居役)が連名で新政府の弁事役所に、占領地からの租税を運営費に充てたいと伺い出ています。このことと①③④⑤は関連するようです。たしかに、小坂騒動後の復興資金は、土佐藩から出されていました。
 『山内家史料 幕末維新 第九編』110~111頁には、占領経費が膨らんだ要因を小坂騒動により「人家漁船等夥敷焼失致シ 出兵救民之入費」で、復興支援費がかさんだことを挙げています。
 またその後5月9日に、土佐藩から再度伺いを出した文面には、次のように記されています。
「去四月民政御役所ヘ申出候處 右地租税之員數届出候様御沙汰有之則牒面寫ヲ差出申候」
「島島取締之儀兎角於弊藩難二取續候間御免之上可然御評議被仰付度奉存候」
意訳変換しておくと
4月に新政府の民政御役所ヘ申出たように、塩飽・小豆島の地租税の員數調査については写しを提出済です。」
「塩飽諸島や小豆島の占領管理については、財政的にもとにかく困難な状態で藩は苦慮しております。できれば本藩による管理停止を仰せ付けいただけるようにお願いいたします。
土佐藩は塩飽・小豆島の統治任務から撤退したいと新政府に云っているのです。ちなみに新政府は、これを却下しています。
20111118_172040437下津井ノ浦ノ後山 扇峠より南海眺望之図

当時の占領実態をうかがえるものとして『小豆郡誌』143 頁には、占領経費600円を受け取るため年寄・長西英三郎らが京都まで行ったものの、70日滞在しても受領できず空しく帰島したというエピソードが紹介されています。
 また、宮地美彦「維新史に於ける長岡謙吉の活動(補遺)」10 頁には、塩飽本島から小豆島へ梅花隊が派遣された際、十数人の旅費として「一分銀百円」が支給されます。本島で現地採用された隊士らは「わずかにこれだけの人數が、本島から小豆島に行くのに、これほどの大金をくれるのは、土佐は富んでいるわ、と非常に驚いた」というエピソードがあります。こうした放漫な支出も政費を圧迫したのかもしれません。
5 小西行長 小豆島1

 土佐藩の台所を預かる財務担当者にしてみれば、駐留経費も出ず、現地徴収も許されずに、藩の持ち出しばかりがかさむ「塩飽・小豆島鎮撫」からは、早く手を引かせたいというのが本音だったようです。私は「現地徴収」によって占領にかかる経費は充分賄われ、そこからあがる経費が土佐藩の財政を潤していたのではないかという先入観をもっていましたが、そうではなかったようです。土佐軍の「討伐・占領」は経済的には見合うものではなかったのです。
3 塩飽 泊地区の来迎寺からの風景tizu

 土佐藩は、藩主山内容堂の意向を受けて「高松・松山でも長期駐屯による民心離反防止、民心獲得のために次のような処置を行っています。
①松山城下で商家を脅した兵士の斬罪処分
②川之江で土佐藩兵により火災となった石炭小屋への金三十両の補償など
海援隊による小坂騒動鎮定なども、その延長上にあると研究者は考えているようです。
その背後には次のような思惑が土佐藩にはあったと研究者は指摘します。
「元々中央政府の土佐藩に対する高松・松山征討命令は土佐藩からの内願により実現したもので、土佐藩による高松、松山両藩の接収は「占領」と言うより「保護・救済」を意図したものである。その背景には、この時期すでに中央における薩長勢力の拡大に対抗するという底意がある。」

 つまり、土佐藩には領土的な野心や経済的な思惑はなく、高松・丸亀藩への討伐遠征は、薩長勢力に対抗するための四国勢力の団結を図るためのものであったというのです。それが、四国会議の開催につながっていきます。四国における指導権を土佐藩が握ること、そのためにも親藩である高松・松山を押さえ込むこと、そして土佐寄りの立場に立たせるようにすること。そのためには、征服者としての横暴な統治政策は慎まなければなりません。反薩長の立場に四国をまとめ、土佐が盟主とた四国十三藩の統一体をどう作り上げていくかという課題を、土佐藩の政策担当者は共有していたことになります。
  そうだとすれば、高松・松山藩の謹慎処分が解ければ、土佐占領軍が撤退することになんら異議は、ないでしょう。同時に、塩飽・小豆島から撤退することが次の課題になることは、当然のことでしょう。
1 塩飽本島
塩飽本島(南が上)
このような土佐藩の対応ぶりと、海援隊を率いる長岡謙吉の思惑は大きく食い違っていきます。
先ほどから見たように、備讃瀬戸の要衝の島々を占領管理下に置くことで、海援隊の存在意義は高まるし、新政府の水夫供給地とすることで海援隊の未來も開けてくると長岡達は考えていたはずです。塩飽からの早期撤退という土佐藩の意向に従うことはできません。そうなれば、土佐藩から離れ、自立・独立路線を模索する以外にありません。それが2月20日以後の長岡の上京と、新政府に対する塩飽・小豆島の占領統治の承認を得るという献策活動ではなかったのでしょうか。

4月12日に土佐藩から正式の任命書をもらうと、4月15日付で海援隊は占領管内へ次のような布令を出します。
布  令
御一新の御時節につき、御上に対して何事によらす捨て置かずに、連絡や報告を行うこと
一、昨年までの年具未納分について、いちいち詮議はしないので、各村で調査し、明白に分かる分については申し出ること
一、このような時節なので、当地で小銃隊を組織することになった。ついては、年齢17歳から30歳までで志願する者は兵籍に編入することにする。期日までに生年名前記入し、申し出ること。
 これについては、道具給料など迷惑をかけぬように準備すること
一、小豆島三ケ村御林については、期日を決めて入札を行う
一、直島御林、閏月5日に入札を行う
  それぞれの民兵の備えのための施策を仰せつける。入札を希望する者は予定額を記入し、申し出ること
以上、各村役人へもらさず伝達すること。この触書は、最後には下村出張所へ返却すること。以上。
四月十五日
長岡謙吉
波多彦太郎
八木彦三郎
草加部村
大部村
福田村
男木島
女木島
塩飽島
村々役人中

ここからは、次のようなことが分かります。
①これらの島々からの徴税減額を行おうとしていたこと
②現地志願兵の編成を計画していたこと
③そのためにかかる経費を、御林(幕府御用林)の入札で賄おうとしていたこと。
つまり、海援隊の活動に関わる資金も人員も「現地調達」しようとしていたことが分かります。さらに、この時点では「半永続的な占領」政策を考えていたこともうかがえます。これは、土佐藩の意向を無視したものです。

②については、すでに本島で現地の人名師弟たちを採用した「梅花隊」を組織していました。それを、占領地の全エリアで行おうとするものです。「土民を募集して兵卒を訓練し、共才能ある者は抜燿して士格にも採用」するという「人材の現地登用」策です。

4月18日に、長岡謙吉は8 ヶ条の海軍創設の建白書を新政府に提出しています。
①総督一名 :「宮公卿任之」
②副総督三名:「公卿諸侯任之」
③参謀十名・副参謀二十名:「草莽間ヨリ特抜ス」
④海軍局:「瀬海ノ地ニ於テ 巨厦ヲ造築ス兵庫蓋其地ナリ」
⑤局 費:「徳川氏封地中ニ就テ八分ノ三ヲ採リ局中ノ緒費ニ抵」「或ハ暫ク關西諸國ニ散在セル徳(川)領及ヒ旗本領ヲ収用スルモ亦可ナリ」、
⑥船艦:「徳川氏ノ戦艦ヲ収用シ諸費局中ヨリ出ツ」
⑦局中規律:「洋人數十名ヲ招請シ天文地理測量器械運用等一切ノ諸課ヲ教導セシメ或ハ一艦毎ニ教導師一二名ヲ乗ラシム而シテ學則軍律悉ク洋式ニ従フ」、
⑧生徒:「海内ノ列藩ニ課シ有才ノ子弟ヲ貢セシム」
 さきほど見た2月の建白書A・Bを土台にして、海援隊長としての所見を明確にしたものと研究者は考えているようです。天領占領を前提に、水夫徴用、費用の割当、幕府海軍の接収を行い、その土台の上に外国人教員と各藩子弟を瀬戸内海(神戸)に集め施設を作るという構想のようです。建白は短文で、具体性と情報量に乏しいものです。内容的には「近代海軍の創設」というより、海援隊の理念(「海島ヲ拓キ」)を拡張した「水軍」に近いものをイメージしているようです。⑧の生徒を「列藩」の「有才ノ子弟」から集めるのに対して、⑨の幹部である参謀・副参謀をわざわざ「草莽間ヨリ」選ぶとしています。これは、海援隊の幹部就任を想定しているようにも読めます。この建白が採用されることはありませんでした。

木戸孝允日記の慶應4年(1868)4月29日の条に長岡謙吉が木戸を訪れたことが記載されています。ここからは、4月末になっても長岡はまだ京都にいたことがうかがえます。2月20日に上京して以後、2ヶ月以上にわたって長岡は、丸亀を留守にしていたのです。

土佐藩のコントロールから離れ自立性を強める海援隊に対して、4月29日土佐藩は次のような解散通告を出します
「昨年深き思召有之、海陸援隊御組立相成候より、各粉骨を盡し、出精有之候處、爾後時勢變革、今日に至り候ては、王政復古、更始御一新の御趣意に奉随、一先御解放之思召有之候間、各其心得、隊中不漏様可被申聞候」。

 この解散命令は、長崎で、土佐家老深尾鼎・参政真辺栄三郎が、長崎グループ宛(大山壮太郎・渡辺剛八)に出しています。なぜ、長岡謙吉の備讃瀬戸グループ宛てではなかったのでしょうか。どちらにしても、長岡謙吉の海援隊長任命からわずか一ヶ月での解散になります。その背景には何があったか、研究者は次のように考えているようです。
ひとつの仮説として、長岡謙吉の土佐藩によるコントロール不能化の進行。
①土佐藩の方針を無視した年貢半減令
②現地徴用による独立軍隊化(梅花隊)
③長岡が丸亀藩の政治顧問に就任するなど、丸亀藩との密接化
以上からは草莽集団化していく海援隊を、土佐藩要人からは危険視するようになっていたと研究者は考えているようです。また、土佐藩には財政負担から塩飽・小豆島から撤退の意向があったことは、前述した通りです。
長岡謙吉書簡には、次のような記述が見えます
慶應4年(1868)1月
「此挙(塩飽・小豆島鎮撫)ハ暗ニ 朝意ヲ請ヒシ事ナルカ故ニ本藩ノ指示ニヨルニアラス」
慶應4年(1868)4 月 13 日付
「両島(塩飽・小豆島)之變は勿論公然たる総督並に朝命を奉じて取締候へ共俗吏之論も有之様に相覚え申候間猶又分明之上命を拝せん」
と書くなど、塩飽・小豆島占領管理を土佐軍の指示によるものではなく、朝意(朝廷の意向)に基づくものだと記しています。これは、土佐藩からの自立性を主張することにつながります。そういう目で見ると、4月12日付けの土佐藩による長岡の海援隊長任命は、海援隊が藩の統制下にあることを、再確認させ認識させるための「儀式」であったのかもしれないと研究者は指摘します。それを、長岡は無視した行動を続けたことになります。それを受けての解散命令だったようです。
  塩飽・小豆島の占領統治にあたっていた海援隊員や土佐人はどうなったのか?
 その後、海援隊メンバーは倉敷県等へ任官します。5月16日に、倉敷代官所は「倉敷県」に生まれ変わります。そして、塩飽諸島は6月14日に倉敷県の管轄となり、7月には八木彦三郎から倉敷県大参事島田泰雄に事務引継ぎが行われています。小豆島、直島、女木島、男木島も 7月に八木彦三郎から倉敷県へ事務引継ぎが行われています。つまり、海援隊の支配はわずか4か月間で終わります。
倉敷陣屋・代官所
倉敷代官所は現在のアイビースクウェアにあった

 倉敷代官所の旧支配地であった塩飽諸島、小豆島・直島・女木島・男木島は、土佐藩預り地でした。そこで鎮撫していた海援隊士たちは、そのまま倉敷県に任官することになります。つまり、海援隊員から県職員にリクルート(or配置転換)されたことになります。倉敷県の職員を見ると知県事:小原與一、以下、権知事(No.2):波多彦太郎、会計局:島田源八郎、刑法局:岡崎恭助、軍務局:島本虎豹など、計35名中32名が土佐藩出身で占められています。
 塩飽の責任者であった八木彦三郎も倉敷県設置と同時に、同県大属(NO5)となり、すぐに「金毘羅出張所御預り所長」(軍務、庶務、刑法、会計を兼務)に任命され、琴平に転出します。
天領倉敷代官所跡 - 本町7-2

長岡謙吉は、どうなったのでしょうか?
海援隊長ですから倉敷県の知事に就任したのかと思っていると、どうもそうではないようです。6月9日に新たに設置された三河県の知県事(No.1)に任命されます。その判県事(No.2)は、なんと土肥大作が指名されました。『愛知県史 資料編 23 近世 9 維新』124~125 頁には、次のように記されています。
「慶應四年六月 三河県赴任に伴う事務執行方法につき知事長岡謙吉より伺書写」(6月14日)には、「私儀兼テ敞藩ヨリ小豆諸島引渡方被申付有之候間、不日ニ相仕舞次第彼地ヱ罷越申候、此条前以奉申上置候」

とあり、突然に、知らない土地へ転出させられとまどっていることがうかがえます。
 「土肥大作と勤皇の志士展」パンフレット(丸亀市立資料館)には、土肥大作が三河県の判県事に任命されたのは、6月15日で、23日に赴任していることが記されています。
先ほど見たように、長岡と土井は高松城占領以後は非常に親密な関係にありました。ある意味、「丸亀の長岡謙吉私塾」の塾長と副塾長が三河県の知事と副知事に任命されたようなものです。二人揃って大栄転のように思えます。ところが長岡は、なぜかその月の28 日に免官されています。
倉敷代官所井戸 クチコミ・アクセス・営業時間|倉敷【フォートラベル】
倉敷代官所の井戸
倉敷県には、その後のどんでん返しが用意されていました。
翌年の明治2年8月に、土佐藩士は、倉敷県のポストから一掃されることになります。その経過は次のように記されています。
「如此人員ハ多キモ土州人ナレハ、原、慷慨ヨリ出デ、或ハ脱走シテ未帰籍不ㇾ成者有、都テ疎暴、政事上甚激烈ニ渉リ、人民大ニ苦シム 于ㇾ時七月初旬自二東京一被ㇾ召、小原、(略)上京、於二彼地一免職、餘ハ御用状態、八月十三日不ㇾ残免職被二仰渡一、即十五、十六之此より、逐々
出立、九月初悉皆引取ニ相成タリ」
意訳変換しておくと
このように免職されたのは土佐人ばかりであった。中には慷慨して脱走し、帰庁しなかった者もいる。まさに粗暴な政治的仕打ちであり、人々は大いに苦しめられた。
 ある職員は七月初旬に東京へ出張ででかけ、(略)上京中に免職される始末。8月13日から免職が言い渡され、十五、十六人が首を切られ、九月初めには、ほとんどの土佐人職員が職を失った。

『倉敷市史(第十一冊)』25 頁には
「土州藩不残御引払之御沙汰有之、知事様東京へ御出張被遊、其儘本国エ御引取」

とあります。琴平で在職中の八木以外の全員の土佐出身の職員に免職を言い渡し、知事は東京に引き上げ、そのまま本国に引き取った、というのです。
 また、福島成行「新政府の廓清に犠牲となりたる郷土の先輩」『土佐史談』第 32 号(1930 年)には、倉敷県庁勤めの岡崎恭介が、東京出張中に「職務被免」とされ、京坂を彷徨っているうちに路銀を使い果たし宿泊にも困るようになり、各地の不平士族と親密に結びついていく過程が克明に語られています。
 ここからは、配置転換されて1年後には、土佐人はほとんど全員が解雇になったことが分かります。この思惑はなんなのでしょうか。
①長岡を除く主だったメンバーは倉敷県へいったん配置転換し
②長岡はメンバーから引き離され一人だけ三河県知事に任命され、直後に免官となり
③その後、時を置いて倉敷県に再雇用した全員を解雇する
という新政府の筋書きが見えてきます。
このような措置に対する怒りが、先ほど見たように土佐人を自由民権運動に駆り立てる一つのエネルギーになっていくようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    テキストは遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)


 
6塩飽地図


 前回は海援隊による小豆島東部の占領について、お話ししました。今回は、塩飽の占領支配について見ていこうと思います。その際に避けては通れないのが「小坂騒動」です。これは土佐軍が、高松城占領している間に、塩飽本島で起きていた騒乱です。この事件に対して、海援隊が、どんな事後処理をして塩飽を占領下に置いていくのかを今回は見ていくことにします。
テキストは遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)です。
本島集落

まず塩飽本島の小坂集落と人名との関係を見ておきましょう
 小坂集落は、安芸からやって来た能地(のうじ)系の家船(えぶね)の漁民達が陸上がりして作った「出村」と研究者は考えているようです。江戸初期に安芸の能地(現三原市)からやってきて、小坂浦に居着いたのが始まりのようです。家船の漁業風俗も残っていました。人名達は、もともとは「幕府のお抱え船団」として、変なプライドをもっていましたからもともとは漁業はしませんでした。しかし、周囲の海には広大な漁業権を持っていますから、それを貸し出すことで、多くの収入も得ていました。そこへ、家船漁民がやってきて「出村」と形成したのが小坂集落です。ですから日頃から差別を受けていたのです。
3 家船3

 一方、人名株を持っている上層階級は、土地からの上がりだけではなく、海からの運上金や漁業権も持っていました。だから株を持たぬ民衆は事あるごとにお金を払わなくては何もできません。「人名による自治」と云われますが、それは人名による人名のための統治であったとも云えます。
3塩飽 ieyasu 印状
 
 幕府からすれば、塩飽に650人分の水夫と船をいつでも提供することを義務づけていたことになります。それは、平和時には朝鮮通信使やオランダ総督の航海への水夫動員や、アメリカに赴く咸臨丸への水夫提供などがありました。ところが幕末の動乱期になると、長州遠征のような実戦への輸送部隊としての動員が命じられるようになります。
 これに対して、幕府も不安定で長州へ従軍することの危険もあるので、人名達はみな嫌がって尻込みします。それで、小坂の漁民に頼んで長州に派遣します。つまり、人名は自らが出向くのではなく、支配下にある漁民達に水夫として従軍させたわけです。アテネの古代民主制は、従軍すれば参政権が得られるシステムでした。小坂の漁民達も従軍を根拠に、人名枠の配布をもとめます。それも、たった2名分です。これに対して人名側は、これも認めようとしません。そういう中で、鳥羽伏見の幕府軍の敗北と「御一新」のニュースが伝わります。それを聞いて、日頃の憤懣が爆発した小坂漁民は、塩飽勤番所を襲撃します。その仕返しにその翌日、人名勢が小坂浦を焼き討ちします。これが小坂騒動です。
 この事件では18人の小坂浦の漁民が殺され、人名の人たちによって全村が焼き払われました。小坂浦の墓には、この時の犠牲者となった18人の名前が彫られた碑が残っています。その碑も人名の供養塔と比べると格段の差があります。本当に小さな碑です。ここにも、人名と小坂浦の漁民の関係がよく表われているのかもしれません。
本島 小坂騒動記念碑
小坂騒動の犠牲者一八人を弔う墓(本島 小坂)

研究者は、小坂騒動の経緯を、次の一次資料から時系列に並べます
①人名側の文書「塩飽勤番所仮日記」塩飽人名所有。現在閲覧不可)
②小坂側の文書「八島神社誌」(小坂所蔵)

「慶應4年1月17日」
:鳥羽伏見の戦況(徳川軍敗走)を知った小坂浦漁民が、身分制打破(差別撤廃要求)の好機到来と考えて、泊浦の人名有力者7家に代表を派遣して、人名株2人分の譲渡を要求。これを人名側は拒否。
「1月18日」
人名代表が小坂浦にて妥協案(「代り人名」の譲渡)を提示。これを小坂側は拒否。小坂浦漁民が徒党(約300人)を組み、泊浦の年寄等の邸宅に乱入・打壊を働き、勤番所へ強訴。年寄の依頼で、2人の住職(正覚院観音寺、宝性寺)が仲裁、解決を約束。これで、小坂浦漁民は撤収。
「1月19日」
人名側の拠点である塩飽勤番所は、臨戦体制を整える。一方、小坂浦漁民は勤番所の朱印状を奪うことを計画して、武装蜂起。この時に海岸線を通らず裏をかいて泊山を越えて奥所地区を襲撃し、背後から勤番所に迫るルートで進軍。これに対して、惣年寄・高島惣兵衛が招集した笠島浦若衆が勤番所の備付の火縄銃20挺で、八幡神社で迎撃し戦闘状態へ。人名側(大倉忠助)と小坂側(与之助)の双方に死者がでますが、銃のない小坂勢は、総崩れとなり退却。人名側の高島惣兵衛は、小坂勢の再度の襲来に備えて塩飽11島に召集命令(まわしぶみ)発令。それに応えて、夜までには各島々から人名衆が集まってきます。この時に動員された島人は千人程度だった。木烏神社に本営設置して、小坂集落襲撃を決定。
「1月19日夜~20日未明」
:人名勢が小坂浦を襲撃、浜辺の船200余りを奪い逃亡を阻止し、全集落を焼払う。小坂側犠牲者18名。生存者約480人全員が勤番所の牢・物置等に収用。
「1月21日」
2日にわたって小坂集落を燃やし尽くした火の手は、21日になってようやく鎮火。23日頃になって人名衆は来迎寺に集まり、今後の対応を協議中。
来迎寺 (香川県丸亀市本島町 仏教寺院 / 神社・寺) - グルコミ


 この模様を対岸の丸亀から眺めていたのが、高松城占領のために丸亀に集結した土佐軍でした。
丸亀からは牛島があるので、直接は小坂集落は見えません。しかし、燃え上がる炎は夜空を焦がし、異変は丸亀にも伝わったようです。小坂集落が襲撃された1月19日は、高松城占領のために土佐軍が丸亀に集結していた日にもなります。軍の参謀を務めていたのが後の板垣退助です。
 塩飽・小豆島東部は天領あつかいとされ、朝廷による没収地の対象となっていました。そのため高松城占領後に、土佐軍は海援隊のメンバーを小坂集落に派遣します。その時の責任者だったのが八木彦三郎になります。彼は、塩飽後には鎮撫として金毘羅に乗りこんでくることになります。私が、注目する人物です。彼について、詳しく見ておくことにします。
24 宮地彦三郎
海援隊隊員 八木彦三郎について 

坂本龍馬が中岡慎太郎と京都の近江屋の二階で襲われたのは、1867(慶応三)年11月15日5ツ半(午後9時)過ぎだったとされます。その日の昼頃に、龍馬や慎太郎に近江屋の前で会った一人の海援隊士がいました。それが八木彦二郎です。八木は11月11日頃、長岡謙吉と共に土佐藩主山内容堂の命を受けて、英国の公使に信書とみやげを贈るために大坂に下っていました。その使命を終えての帰途、近江屋にいた隊長の坂本に報告に来たようです。その時、坂本は無用心にも、近江屋の二階から顔を出していたと云われます。映画などで演じられるシーンを再現すると
  「おお、八木かっ無事帰ったか。ご苦労じゃった。まあ、上がれ。お前にも話したいことかある』龍馬は2階から八木の顔を見てそう言った。脇から中岡も顔を出し『上がれ、上がれ」と声をかけた。八木は『いや、まだ旅装のままですから、 ひとまず、帰宿して、そのうちうかがいます」と答えて、その場は別れた。帰宿して、しばらくして「今、近江屋に刺客が入り、坂本、中岡の両隊長がやられた」との報を受けて、あわてて馳せ参したが、坂本は一言二言ばかり話して問もなく忠が絶えた。

当時、八木は大橋慎二(橋本鉄猪)という土佐の佐川出身の同志と某ソバ屋に下宿していたようです。短銃を懐にして同志と共に、京都霊山に龍馬と慎太郎の葬儀を行ないます。その後、下手人と信じた紀州の三浦休太郎を、油小路花屋町天満屋に襲っています。八木彦二郎は龍馬の元気な姿を、最後に見知っていた海援隊士ということになります。
八木彦三郎の生い立ちから見てみましょう
八木の本姓は宮地です。諱は真雄、幼名は亀吉又は源占、のち庫吉と称し、後年梅庭、梅郎、如水などと号したようです。1839(天保十)年10月15日、高知城下の新町、団渕に生れます。田渕は、武市瑞山が道場を開いたところで、堀割に近い商業ゾーンの一角に当たります。父は宮地六崚真景という藩士で、兄常雄、妹きわの3人兄弟です。彼は、近くの徳永千規に国学を学び、また田内菜国にも国学、漢学の手ほどきを受けます。
 さらに佐藤一斎門の陽明学者南部静斎や、洋学者として名をなした細川潤次郎にも和漢の学を学んだと伝えられます。加えて砲術は、海部流の能見久米次、藩の砲術師範・田所左右次に人間してその技を学び、剣は当時本町「乗り出し」に道場をかまえる麻田勘七に師事します。その中でも砲術に熱心だったようです。病身の母を助け、学問にも精進したので、藩から褒詞や褒賞をもらったこともあるようです。これだけ見ると優秀な模範少年だったことがうかがえます。
   十五、六歳の頃、御普請方一雇、川普請、港普請に従事します。
この土木工事の経験が、後年の琴平での架橋工事や堤防工事に活かされるようになるのかも知れません。その後は、上方修行を経て、1861(文久元)年 新規御召出しにより、下横目(警察官兼裁判官)となって上京します。この京都勤務中に出会ったのが坂本龍馬です。龍馬は、勝海舟の口ききで山内容堂から脱藩の罪を許され、形式ばかりの七日間謹慎を命ぜられます。その時の警護役が、彦二郎だったようです。彦次郎は龍馬を大阪から京都へと護送しますが、その間、退屈であった龍馬は、当時の世情について八木と話し合う機会があったのかもしれません。 
 龍馬との出会いは、彼を脱藩へと駆り立てます。帰京した八木は、京の藩邸を脱走します。
彼は名を変え、五条坂の陶器商吉兵衛方へ通勤し、絵付けの仕事などをしながら、夜はひそかに土佐の北添倍摩などと連絡をとりながら、志士活動に挺身したようです。しかし、そのうち大病にかかり佐々木定七の養子となり、佐々木三樹進と名のったり、梅国家の用人となり神田淳次郎と名を変えて、辛酸の日々をおくることになります。
1867(慶応三)年6月、坂本龍馬と後藤象二郎は、長崎を立って上京中でした。
八木は、後藤を旅宿に訪ねて、その心中を述べ、海援隊に入ることを願い出ます。龍馬にもその願いは通し、許可されたようです。長岡謙吉は、八木の境遇を気の毒に思ったようで、支度料十両と絹の袴一着、オランダ製の時計を贈ったといわれます。以後、彼は長岡と行を共にする海援隊員として八木彦二郎を名のるようになります。
Fichier:Kaientai.jpg — Wikipédia
海援隊集合写真 一番左が長岡謙吉 真ん中が坂本竜馬

龍馬暗殺後の海援隊は、メンバーが分裂して消滅状態になっていたようです。
このような中で、鳥羽伏見の戦いの後に、長岡謙吉と八木彦三郎はチャンス到来と、土佐出身の志士たちに呼びかけて海援隊を再結成します。そして、高松討伐を命じられた土佐軍を助けながら勢力を拡充するという戦略を立て、四国川之江にやってきます。そして、土佐軍の偵察・斥候活動などをおこなっていたようです。高松城占領の際にも、事前に高松周辺の上陸地点の下見などを行っています。
 その活動のリーダーが八木彦三郎でした。彼に率いられた海援隊が、偵察のために鎮火したばかりの小坂に上陸したのは1月22日のことだったようです。ちなみに、私の最初のイメージとしては海援隊ですから自分たちの軍艦(輸送船)を持ち、それを自由に操船して備讃瀬戸を動き回っていたと勝手に思っていたのですが、どうもそうではないようです。まず、この時期の海援隊には持舟はありません。四国にやってきたのも土佐船に便乗してのようです。そして、彼は船も操船出来なかったようです。龍馬の下にいた海援隊のメンバーとは違うのです。海援隊の再結成の知らせを聞いて、新しく入隊してきた者がほとんどです。出来ないのが当たり前です。
 009-1.gif
現在の小坂集落
それでは、本島の小坂浦に上陸した八木彦三郎は、どんな対応を取ったのでしょうか?
  多くの文献は、八木彦三郎の率いる海援隊が来島第一陣としています。しかし、「新編丸亀市史 2 近世編」は、1月23日に中村官兵衛・嶋田源八郎ほか7~8人がまずやってきて、翌日24日に八木彦三郎が来島したと記します。これは長岡謙吉書簡(慶應 4 年 1 月下旬頃か、林英夫(編)『土佐藩戊辰戦争資料集成』470 頁)に
「廿二日塩飽七島・小豆島民居争闘死人怪我人アリ人家ヲ放火シ騒擾甚シト聞ク、石田・中村等数輩渡海…」

の内容と一致します。

 やって来た海援隊に対して、人名衆の惣年寄・高島惣兵衛等はどんな反応を見せたのでしょうか?
「小坂ノ援軍ニアラズヤト疑ヒ騒グコト甚し」とあります。海援隊のメンバーを「小坂の援軍」と疑ったようです。ここからは、突然に現れた海援隊が何者か理解できなかったことが分かります。そこで
「島内の者に疑義挟む者の有るを以て、間民の鎮撫は引續き之を致すべきにつき、一應丸亀金輪御本陣の方へ使者を出すことを差し許されたし」

と、丸亀に使者を出して確認しています。この時に使者となったのが龍串節斎という医師です。彼は後に、琴平鎮撫の八木のスタッフとして参加する人物です。
 「節斎は(丸亀)御本陣で島民等の不心得を懇諭せられ、早々歸島して鎮撫使の命に従ふべき旨申聞かされ、恐惶して歸島復命した」( 宮地美彦「贈正五位長岡謙吉(下)」9 頁)

事実だったので、恐れながら島に帰り報告したとあります。
  こうして鎮撫使と認められた海援隊は、塩飽勤番所に本陣を移し、ここを土佐藩塩飽鎮撫所とします。
「玄關ニ三葉柏ノ幔幕ヲ張リ、仝ジ紋所ノ高張提灯ヲ吊シ、門前ニ土州支配所ノ高札ヲ建テ」とあるので、人名の勤番所を、海援隊が乗っ取った形になったようです。
本島 土佐藩紋所
土佐藩の紋所三葉柏


八木彦三郎の取った措置を見ていきましょう
①幽閉状態にあっ小坂浦住民全員を牢から解放します。
②加害者である人名指導者の惣年寄等に対しては、どんな措置が執られたのでしょうか
「治メ方ヨロシカラザルヲ以テ(略)厳科ニ處スベキ所、(略)特別ノ御仁政ニヨリ一週間ノ閉門謹慎

 他の史料も「一週間の謹慎」が多く、「十日間の譴責禁慎」「年寄に手鎖三〇日の刑」と記すものものもありますが、「徒党を組んでの殺人・放火」に対しての処罰としては、非常に軽微な内容のように思えます。
 さらに「其後ハ一切御構ヒナク、従前通リノ勤メ方仰付ケラレシ」と「形式的な処罰」にとどめたことが分かります。ここからは人名組織の統治機能をそのまま利用する形で、塩飽占領を行おうとする思惑があったことがうかがえます。この時点で、海援隊のメンバーは総勢13名で、塩飽にやって来ているのは、その内の数名なのです。「直接占領」などは望むべくもありません。既存の人名組織の協力・利用なしでは、占領政策は行えません。そうだとすれば騒動の張本人であろうとも、人名指導者達を厳罰に処することはできません。
「一週間後に高島は再び禮服着用で出頭し、前日の罪を許し以後は別儀なく、前役其の儘を以て忠勤を勵む様にとの申渡をうけて罷り退つた」( 福崎孫三郎「八島神社誌」59 頁)

という措置も納得がいきます。
 また、福崎孫三郎「八島神社誌」には、年寄(人名)が役人として引き続き鎮撫所(旧塩飽勤番所)で海援隊を補佐していたこと。また、小坂復興事業で人名が資材調達などで海援隊から多額の支払いを受けていたことが、角田直一『十八人の墓』236~237 頁には指摘されています。

 一方、家を焼かれた小坂浦漁民のために「土佐ゴヤ」(藁葺き大長屋の仮説住宅)を小坂浦の3か所に建築します。また『新編丸亀市史 2 近世編』807頁には、救恤米(助成米)が2月9日、金2百両の助成金が3月7日に配給されたと記されています。これは、土佐藩から出された「救援金」だったようです。
 季節は真冬のことですからこれによって救われた人たちも多かったようです。しかし、小坂に留まらずに「家船(えふね)」仲間の港に「亡命」した漁民達も数多くいたことを下津井川の史料は伝えます。

八木は、塩飽本島で新たな「組織」を作り出します。
先ほども見てきたとおり海援隊のメンバーでだけでは、塩飽と小豆島の占領政策は行えません。治安維持部隊も必要です。そこで八木は、・塩飽諸島の17~30歳の男子の志願者を集めて「梅花隊」(1個小隊)を創設します。応募してきた者達から人名衆の子弟を選び、隊の幹部に登用します。その顔ぶれを見ると、高島覺平(惣年寄・高島惣兵衛の子)・森嘉名壽・高島省三[高島惣兵衛の養子]、田中眞一、高倉善次郎、西尾侑太郎、横井松太郎などです。小坂からも松江甚太郎、山田丈吉、長本平四郎、溪口四郎造が梅花隊に入隊しているようです。
 「梅花隊」は小銃500挺を装備し、軍事訓練を始めます。これは、金毘羅大権現から借り入れた資金が使われました。梅花隊の訓練の様子が
「字七番新田ニ約五反歩ノ調練場ヲ構ヘ、毎日勇壮ナル調練ヲ行ヒシ」として、総勢「三十人ノ将卒」

と福崎孫三郎「八島神社誌」60頁には記されています。梅花隊は、明治3年7月に金毘羅で解隊されるまで、存続します。この隊に参加した人たちの中から次の本島や広島を担う戸長や村長達が現れるようです。
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 海援隊は、小坂浦漁民を救ったのか?と研究者は問い直します。
 海援隊を「島民之緒民ハ活キ佛さまトテ拝ミ申候」と記す土佐側の史書があります。例えば八木の業績について、宮地美彦「維新当時の土佐藩と予讃両国との関係79 頁)は次のように記します
塩飽に入って描虜を放ち張本人や、島役人等の罪を糾し、寛典を以て乱ル鎮め、人心を安堵し、救済を以て乱後の窮民を助け生業に励げました。是に於て島民は敵、身方の隔てなくその政治に悦服して八木の外出する時は、生佛様だ生佛様だと云つて土民は土下座して拝したと云うことである。 
 又八木が勤番所に居た頃、顔面に睡物が出て発熱甚だしく医師が大患である一命にかかわる様な事があるかも知れぬ」と診断した。その時本島の若者は毎日丸亀の福島で潮垢離して松尾村の金毘羅宮(金毘羅宮)参詣して治癒を祈願したと云ふ話も残つて居る。
   八木や海援隊のメンバーを神と讃え神聖視しているというのです。

小坂浦での八木の「神化」プロセスを見ておきましょう
明治3年(1870)、海援隊士を祭神とする「土州様」を大山神社に合祀88。
大正7年(1918)、海援隊13名の名前が分かり「十三とさ神社(重三神社)」に改称
大正8年(1919)、小坂山の山上にあった大山神社を現所在地に移転(地図・写真参照)。
昭和9年(1934)、実際に塩飽を担当したのが13人のうちの数名であることを知り、八木彦三郎・島村要の頭文字から「八島神社」と改称。
24 宮地彦三郎
重三神社の御神体には、長岡謙吉や八木彦三郎など十三名の氏名が記されています。

小坂騒動を後世の人たちは、どう位置づけ評価しているのでしょうか?
①福崎孫三郎『塩飽小坂小誌』
騒動を鎮撫した海援隊を「小坂ノ更生再建ニ援助を與ヘラレン為政者」と称賛し、隊士には「八木彦三郎殿」、「長岡謙吉様」と敬称をつけています。
②吉田幸男『塩飽史―江戸時代の公儀船方』
小坂騒動は海援隊(土佐藩)の扇動に小坂漁民が踊らされたもので「土佐の陰謀」と主張し、海援隊の行動を「悪行」とします。

③角田直一『十八人の墓―備讃瀬戸漁民史』には、「土佐をたって高松藩鎮撫にむかいつつあった六百名の土佐の武士たち」と海援隊が、「自由民権」と「平等」の思想から小坂の解放を行ったと「土佐軍・海援隊=解放軍」説を主張します。

書き手の立ち位置によって、小坂騒動の性格や評価が大きくことなることが分かります。

海援隊は、小坂の解放者だったという説には、次のような点から私には納得は出来ません。
①小坂浦漁民蜂起の最大の目的である人名株譲渡を実現させていない。
②島の統治実務は従来の政治機構(人名制)のままで、変革・改革もなし
③梅花隊にも人名衆を登用。
ここからは、小坂漁民の生命は救ったが「自由と平等」をもたらす解放者ではなかったことが分かります。

どうして海援隊は塩飽や小豆島などの備讃の島々を占領下に置こうとしたのでしょうか。
研究者は、次のような要因を挙げます。
①地政学:「長州征伐」の際の石炭貯蓄地=瀬戸内海上交通の要所であること
②海軍に必要な「塩飽水夫」の供給地であること、咸臨丸の水夫の多くが塩飽出身者
③いろは丸事件で長岡謙吉は海援隊文司として海難事故に対応し、備讃瀬戸を熟知
④海援隊規約「海島ヲ拓キ五州ノ与情ヲ察スル等ノ事ヲ為ス」の実践。⇒塩飽島・小豆島の鎮撫、及び佐渡島・伊豆七島の鎮撫構想(建白)へ

以上から長岡や八木のプランは次のようなものであったことが推察できます
①鳥羽伏見の戦い後、解体消滅していた海援隊を復活させ、「土佐軍の高松藩討伐」に参加する。
②その際に、備讃瀬戸の天領を占領し、統治することによって海援隊の組織を培養し強化していく。
その場所として、塩飽や小豆島はもってこいの島だと考えたのではないでしょうか。こうして、土佐藩が高松・松山藩の無血占領を行っている間に、土佐藩からの「下請け事業」的に塩飽と小豆島を占領し、支配下に置くことに成功します。

  以上をまとめておきます
①鳥羽伏見の戦い後、御一新のかけ声と共に塩飽本島では小坂騒動が起きた
②これは、人名側によって小坂漁民は制圧され、拘留された。
③そこにやってきたのが土佐軍のもとで偵察活動を行っていた海援隊である
④海援隊の八木彦三郎は、漁民を解放し救済した
⑤一方、人名側には厳罰を課せず従来通りの統治を許した
⑥さらに、人名の師弟を登用し梅花組を組織して、新たな軍事組織の形成を目指した。
⑦ここからは、海援隊は小坂の解放者とは云えず、従来の組織を温存しながら支配する占領者の性格が強い。
⑧海援隊は、丸亀の本部(長岡謙吉)・塩飽(八木彦三郎)・小豆島の草壁と備讃瀬戸に「海援隊」トライアングル」地帯を支配下に置いて、ここを拠点にして新たな海軍力の形成を新政府に献策していくことになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)
  谷 是「土佐海援隊士八木彦二郎と琴平」 ことひら45号
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Fotos en 天領倉敷代官所跡 - 本町7-2
天領倉敷代官所跡(倉敷アイビースクエア内)

讃岐の天領没収を行ったのは?
 
「是迄徳川支配いたし候地所を天領と称し居り候は言語道断の儀に候、此度往古の如く総て天朝の御料に復し、真の天領に相成り候間、右様相心得べく候」
意訳変換しておくと
「これまで徳川幕府が天領と称して広大な領地を支配してきたことは言語道断のことである。よって、この度、総て朝廷の御料にもどし、真の天領にすることにした。以上のこと、心得るように」

朝廷は1868(慶応四)年1月10日、鳥羽伏見の戦いの勝利を受けて、徳川慶喜の処分と幕府直轄の土地(天領)の没収を布告しす。これで讃岐にあった天領も没収されることになります。今まで倉敷代官所が管理していた讃岐に天領は以下の通りでした。
①池御領(那珂郡五條村(669石)。榎井村(726石)・苗田村(844石)
②小豆島の東部三か村(草加部村・福田村・大部村)
③直島・男木島・女木島 
④大坂町本行支配の塩飽諸島(高1250石)
⑤高松藩領にある四か所の朱印地(金毘羅大権現寺領等)
以上が没収対象となり、土佐藩の「預り地」となりました。これは土佐藩が朝廷から、朝敵となった高松・松山両藩の征討とその地の天領没収を命じられていたからです。土佐藩兵は高松城に向かう進軍の途中、1月19日には、丸亀に駐屯します。
この時に、丸亀沖の塩飽本島では大騒動が起きていたようです。
これを小坂騒動と呼びます。情勢を聴いて高松藩征討深尾総督は、海援隊の八木(本名宮地)彦二郎を本島に派遣して騒動を鎮圧させます。そして、塩飽勤番所に土佐藩塩飽鎮撫所を設置して塩飽諸島を管轄することになります。
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 土佐藩塩飽鎮撫所が置かれた塩飽勤番所

ここで当時の海援隊のことについて見ておきましょう。
坂本龍馬が亡くなって以後は、
①九州長崎表の方は菅野覺兵衛が
②上方々面は、長岡譲吉が
指揮するという体勢になって分裂していたようです。
 1868(慶応4=明治元年)正月に、鳥羽伏見の戦で幕府軍がやぶれ四国の高松、松山藩は朝敵とされます。これに対して朝廷は、土佐藩に対してこの2藩の追討命令を出し、錦旗を下賜します。
 長岡謙吉・八木彦二郎の思惑と行動を推測するのなら、土佐藩と行動を共にして、瀬戸内海での活動場所を得ようということではないでしょうか。大坂にいた尊皇派の藤沢南岳を訪ねて、高松藩の帰順工作を進めたのもその一環です。その後、二人は伊予の川之江に向かいます。そして土佐から川之江に到着したばかりの土佐藩の討伐軍に、次のような情勢報告を行います
①鳥羽伏見の戦況と、その後の上国の情勢
②高松・.松山藩追討の詔が下ったこと
③京都の土佐責任者・本山只一郎が錦旗を奉じてやってきていること。それが、まもなく川之江に到着すること
 この情報を得た土佐軍は、軍議を開いて次のような行動を決定します。これについては、以前にお話ししましたので要約します。
①松山藩御預地の幕領川の江を占領すること
②丸亀藩を加えて高松藩を討伐、占領すること
③その後に、松山征伐を行う事。
この決定に大きな影響をあたえたのが若き日の板垣退助だったようです。
こうして、長岡と八木は、土佐軍に従い、行動を共にすることになります。
土佐軍が朝廷から求められていた「討伐・占領」は、高松藩だけではありませんでした。エリア内の幕府の天領も含まれていました。これも没収しなければなりません。今まで倉敷代官所が讃岐で管理していた天領は先ほど見たとおりです。

高松を無血占領した後、土佐軍は、高松駐屯部隊と上京部隊・松山討伐支援隊の3隊に分かれます。瀬戸内海に浮かぶ島々を占領・管理する能力も員数も土佐軍にはありません。このためこの方面の占領管理のために土佐藩は「新」海援隊を組織します。ある意味、土佐藩の「下請け委託」です。
 長岡や八木の脳裏には、ここまでが事前に織り込み済みであったと私は考えています。つまり、土佐藩の高松討伐を聴いたときに、ふたりは土佐軍に協力し、参軍する。その代償として、海援隊の復活再興と備讃瀬戸の天領をその管理下に置くこと。そして、将来的には瀬戸内海の海上交易の要地である塩飽と小豆島を拠点にして、海援隊の存在価値を高めるという「行動指針」が、すぐさま浮かんだのではないでしょうか。そのために、川之江にむかったのでしょう。川之江の軍議で、高松占領後の方針もきまります。そこには、高松城占領後は備讃瀬戸の島々は「新海援隊」を組織し、彼らが島嶼部の管理を行うと云う密約もあったのかもしれません。ちなみに長岡は、朝廷から「讃岐島討伐の内命」が讃岐に行く前に下されていた、と郷里に送った私信には記しているようです。
 しかし、海援隊による小豆島・塩飽の占領支配はすんなりとは始まりません。
都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】 - 津山瓦版
津山郷土博物館発行「津山藩と小豆島」より小豆島絵図  岡山から見た小豆島らしく南北が逆転している。
  津山藩が作成したものなので東側の天領は何もかかれていない

まず、小豆島の「討伐鎮撫=占領」の経緯を見ておきましょう。

 江戸時代の小豆島は東部3か村が幕領地として倉敷代官所の支配下にありました。それに対して西部六か村(土庄村・淵崎村・小海村・上庄村・肥土山村・池田村)は、天保九年(1838)から津山藩領となっていました。東部3ケ村が没収される際に、西部六か村も影響が及びます。
 高松城が無血占領された直後の1月23日に岡山藩の役人が草加部村に来て、村役人らに維新の趣旨を説明し、朝廷に二心なきの誓紙を差し出させます。同時に西部六か村の大庄屋たちにも、同じ誓紙を出させています。これは、岡山藩の越権行為のように思えますが、当時は津山藩が朝敵の嫌疑をうけて、詰問のため岡山藩から鎮撫役と兵が差し向けられていたという背景があります。そのため津山藩の飛び地領土である小豆島へも岡山藩の藩士が派遣されたようです。
 津山藩は1月21日に開城して恭順の意を示します。そこで25日の至急使で小豆島の村役人に宛て、「国元のところ少しも別条これなく、 決して相変り候わけござなく……」と記した書面を送り届けて、西部六か村は今までどおり、津山藩領として支配することを知らせています。
一方、天領の東部3か村へは2月5日に再び岡山藩の役人がやってきます。
草加部村の清見寺を出張所として、旧幕領地の管理を始めます。さらに盗賊取締りなどを名目に、藩士を派遣して「軍事占領下」に置きます。このような岡山藩の動きに対して、警戒心を抱いた土佐藩は強硬策に出ます。海援隊士の波多彦太郎らと塩飽・直島・男木島・女木島から徴兵した高島磯二郎・田中真一・西尾郁太郎ら数十人を草加部村に上陸させ、下村の揚場柳詰めに次のような立札を立てます。
「此度、朝命を以て予讃天領鎮撫仰付候事」

そして、極楽寺に土佐藩鎮撫所を設けて兵を駐屯させたのです。こうして、草壁村にはふたつの占領軍が駐屯するという事態になります。両藩はお互に「占領権」を主張します。

極楽寺
土佐軍が駐屯した極楽寺

 土佐側は、朝廷からの命を背景に岡山藩の撤退を迫ります。同時に、朝廷に働きかけて土佐藩へ、備前・讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書を出させます。これが2月9日のことでした。この辺りが当時の土佐藩と岡山藩の政治力の差なのかもしれません。これを受けて2月15日に、岡山藩は清見寺に置いていた番所を開じて引揚げていきます。
御朱印】清見寺(小豆島)〜小豆島八十八ヶ所巡り第21番〜|ナオッキィのチャリキャンブログ

こうして、土佐藩は鎮撫所を極楽寺から清見寺に移して、島民に対して次の触書きを出します。
当国諸島土州御領所、御公務・訴訟・諸願等一切向後下村出張所え申出可く候、尤も塩飽島えの儀は当時八木彦二郎出張に付、本島役所へ申可く候、右の趣組々の老若役人共えも洩さぬ様相伝へ触書は回達の終より下村役所え返さる可く候 以上
此度朝命を以て豫讃天領銀撫被仰付候事
戊辰二月            土佐藩
意訳変換しておくと
讃岐諸島の土州預かり所の公務・訴訟・請願などの一切は、今後は下村出張所へ申出ること。もっとも塩飽島については八木彦二郎がいる本島役所(勤番所)に申し出ること。以上のことを、組々の老若役人たちに洩さぬように伝へること。この触書は回覧終了後は下村役所へ返却すること。以上
この度、朝命を以て伊予・讃岐の天領鎮撫を仰せつかったことについて
戊辰二月            上 佐 藩

小豆島は、土佐藩鎮鎮撫下に置かれ、実質の占領支配は海援隊が行う事になったようです。
その後、この事情を岡山藩は、京都の辯事宛に次のように報告しています
  讃岐国塩飽島々の儀は備前守(岡山藩)領分児鳥郡と接近にこれ有り候処、上方変動後、人民動揺の模様に相見え候に付、取り敢ず卿の人数渡海致させ、鎮撫の義取計らい置き申候、同国直島の義は去る子年(元治元年)御警衛仰付られ居り申す場所故、鎮撫方の者差出し収調べ致し申候、同小豆島倉敷支配の分、盗賊徘徊致し候様に付、是れまた人数指出し鎮撫致し置き中候、然る処土州より掛合これ有り、右三島の儀は土佐守(土佐藩)収調所に付、同藩へ受取り申度き由に候間、夫ぞれ引波し仕り候、尤も非常の節は時宜に寄り、右島々へ備前守人数差し出し候儀もこれ有る可き旨申談じ候、此段御届け申上げ候様、国元より申付越候 以上
二月九日    池田備前守家来沢井宇兵衛
意訳変換しておくと
  讃岐の塩飽島々については備前守(岡山藩)領分児鳥郡と接近している。そのため上方変動(鳥羽伏見の戦い)後に、人民動揺の様子が見えたので、とりあえず藩士を派遣し、鎮撫を行ってきた。また直島については、元治元年に警衛を仰付けられた場所なので、鎮撫方の藩士を派遣し占領下に置いた。同じく小豆島東部の倉敷支配(天領)については、盗賊徘徊の気配もあったので、ここにも藩士を派遣し、鎮撫にあたった。しかし、これについては、土佐より次のような申し入れがあった。この三島のについては、朝廷より土佐守(土佐藩)に討伐・占領が命じられているので、同藩へが取り占領するべきものなりと。そのため土佐藩に引渡た。もっとも非常の折りであり、これらの島々へ備前藩主が藩士を派遣し鎮撫したのも、先を案じてのことであると申し入れた。このことについて以上のように報告します。と国元より連絡があった。 以上
二月九日    池田備前守家来沢井宇兵衛

こうして土佐藩は、幕府の天領であった「塩飽ー小豆島ー琴平」を管理下に置いたことになります。

土佐藩の小豆島・塩飽占領について、戦前に書かれた高知の史書は次のように記します。
此等島民は一般に文化の度が極めて低く祀儀風俗等も至つて粗野であったから、最初全島民に対して御維新の御趣意を誘論し、聖旨を奉外して各生業を励み、四民協力し鴻恩に酬い奉るべきことを誓はじめ、勤めて之が感化開発に尽力したと云ふことである。 
 而して豫讃天領鎮撫の内命を受けて出張した海援隊は、当時土佐藩の名において、その重任にあたり、其の海援隊として私に行動することはなかった。

   ここには占領地は、御一新を理解しない「文化の度が極めて低く祀儀風俗等も至つて粗野」な地で、それを「文明開化」する役割を担った土佐人、そしてそれに恭順し、発展する占領地という図式が見られます。これは、当時進められていた「大東亜共栄圏建設」のための日本の役割と、相通じるイデオロギーであるようです。「讃岐征伐」の時に、土佐で記された討伐記のイデオロギーが時間を越えて、戦前の「大東亜共和圏構想」を正当化する論理になっていたことが分かります。
海援隊のリーダー達は、塩飽や小豆島の地の利を活かして、瀬戸内海の海運交易の拠点としようと半永続的な支配を考えていた節があります。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)


トピックス)「高松、松山を征伐すべし」 明治天皇、土佐藩に命令 御沙汰書見つかる: 歴史~とはずがたり~
土佐少将(土佐藩主)に下された松山・高松討伐命令

 幕末の鳥羽伏見の戦に、讃岐の高松藩と松山藩は徳川幕府に与して参戦し、その結果「朝敵」の烙印を押されます。朝廷は土佐藩に、高松藩と松山藩の「討伐」命令を下します。これを受けて土佐藩は、遠征隊を讃岐に送り込み、丸亀・多度津藩を先陣にして、高松城を無血開城し占領下に置いたことを前回はみてきました。
朝敵 | 広辞典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス
 
今回は、土佐藩の松山城占領の動きを見てみます。
テキストは前回に続いて、宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)です。この論文は、土佐の史料にもとづいて、戦前に土佐の研究者が書いたものです。それだけに土佐軍による「討伐」という色合いが強く出ていて、私にとっては興味深いものです。その辺りを強調しながら見ていきたいと思います。
松平定昭
松山藩主松平定昭 1ヶ月で老中を退任
 鳥羽伏見の戦いの時に、幕府の命で松山藩は摂津国梅田村近辺の警衛に当たっていました
しかし、会津・桑名両藩は松山藩主定昭の唐突な老中辞任を不快として、松山藩を快く思っていなかったようです。そのため松山藩と会津・桑名の間にはすきま風が吹いていました。そして、松山藩は鳥羽・伏見の戦い参加していません。会・桑両藩の敗北したのを聞き、定昭は慶喜のあとを追って堺に撤退します。しかし、慶喜は周囲に相談することなく、海路によって江戸に脱出してしまいます。そのため松山藩士の間では、その後の対応をめぐって藩論が2分してしまいます。
1 江戸に赴き徳川氏と運命を共にしようと主張するもの
2 帰国して対策を審議しようとするもの
そのなかで定昭は、帰国を決意し、堺を出発して1月10日には伊予の高浜に帰着します。
これは鳥羽・伏見の戦いから、わずかに一週間後のことです。これよりさき朝廷は、慶喜と随従した諸藩に対し「朝敵」のレッテルを貼り追討令をだしています。そのなかに高松藩も松山藩もあったことは今までに述べた通りです。
 これに対して前藩主勝成や定昭父子は、嘆願書を朝廷に提出して、鳥羽・伏見の戦いののち帰国した事情を陳述し、全く異心のないことを誓っています。しかし、藩士の間では、今後の対応について、意見が分かれました。
①恭順論者は、鳥羽・伏見の戦いにおける家老の措置が悪かったことを非難し、責任者を処分して朝廷に謝罪すべきであると主張します。
②主戦論者は松山藩が徳川氏の姻戚になる関係からも、慶喜を不利に陥れようとする薩・長二藩に徹底的に抵抗すべきであると主張します。
前者のなかには門閥家が多く、勝成を奉じようとし、後者には、定昭をいただいて事をあげようとするものが多かったようです。藩の主導権争いも絡んできます。
山内容堂 - Wikipedia
土佐藩主山内容堂(豊重)

  一方の土佐藩の動きを見ておきましょう。
土佐藩は、薩・長両藩のような過激な討幕論を唱えていませんでした。それは、山内容堂(豊信)が慶喜に大政奉還をすすめ、また慶喜を新政に参加させる構想を抱いたことからもうかがえます。土佐藩は、どちらかというと松山藩にも好意的であったようです。
 容堂は、高松城の無血開城が決まった後に、家臣の金子平十郎・小笠原唯八らを問罪使として松山に派遣し、勅旨を伝えて恭順の誠意を示すように次のように諭しています(池内家記)。
奉 勅命兵卒差向け候 此上伏罪被致候哉或は不及異議候哉速かに御答可仕候 此段使者を以申す達候
辰正月
意訳変換しておくと
 勅命を受けて、兵卒を(松山)に差向けた。この上は伏罪(切腹)なさるか異議及ばずとするか、派遣した使者にお答え願いたい。

そして「無血入城」勧告と同時に、松山遠征隊の軍編成も次のように進めます
①先手総督 佐川国家老である深尾鼎の嫡子深尾刑部(重愛)
②後陣総督 家老深尾左馬之助(成名)
これが先に高松に送った迅速隊に次ぐ第二部隊になります
容堂は司令官総督深尾刑部に、次のような下知書と軍令を下しています。
この度、松山討伐隊を申しつけ敵地へ乗りこんでいくことになるので、「殺生の権」を委任する。
万一、配下の者で拳動に不心得な者が出れば、宜しく専決鎮撫することが肝要である。このことを申し聞かせておくように。
正月     土佐守
       深尾刑部殿
軍 令
一、第一作法を守上下之稽分を慎就中頭役之下知相守何時急変有之共不覺を不取様相心掛 且隊伍相立候節猥に他隊に相交俵堅禁之
一 備押之節部隊前後の次第混乱致問敷事。
一、猥に人家に立入事停止之、若不得止儀有之節は頭役へ相
達受指同事。
一、吉詳怪異之沙汰流言等致間敷事。
一、軍中敵軍の強弱を私同志事宜を評論致間敷事。
一、雨入して敵一人を討取候類有之時争功致間敷藩争奪者有
之候は具に頭役へ訴出づ可き事。
一、進み口に於て頭役戦傷或は戦歿致候時は共家来此を保護
し力士と共に取退くべし、平十の戦傷は力士の取扱たる
べし縦令父子間たり共決而顧望致す間敷候尤も退口には

右之條に於違背は軍法可虎考也
辰正月    土佐守輿,範
深 尾 刑 部殿
意訳変換しておくと
一、第一に作法を守り、上下の秩序に従い、上司の下知を守ること。何時に急変あろうとも不覺をとることのないように心掛けること。かつ隊列が並び立つようなときには、他の隊と入り乱れることのないように。相交俵堅禁之
一 備押((びおう:軍事的に備え取り締まること)の時には、部隊の前後は混乱せぬようにすること
一、猥に人家に立入ことは禁止する。もし、やもおえない時は上司に相談・報告し、指示をうけること。
一、吉詳怪異之沙汰など流言は、行ってはならない。
一、軍中で敵軍の強弱を、仲間内でひょうしたりすることのないように
一、二人で敵一人を討取たときによくあることだが、功を争うことのないように、もし争奪する者がいたばあいには上司に訴え出ること
一、進撃の時に頭役が戦傷したり、戦歿したときには、その家来が保護し、力士と共に撤退すること。兵士の戦傷は力士が取扱うべきものである。例え父子の間で有ろうとも決して、間違ってはならない。もっとも退却の際には、互いに助け合うことが必要である。
以上のことについて、背く者は軍法によって処罰する。
辰正月    土佐守輿範
深 尾 刑 部殿
こうして正月23日に深尾刑部は、高知城下からやってきた大軍監兼太隊司令高屋左兵衛の兵と合流し、総勢約480名を率いて佐川を出発します。次で第二陣の深尾左馬之助も藩兵を率いて松山にむけ出発します。そして、第一陣は4日後の27日に松山城下に到着します。 
 松山追討の勅命が土佐藩へ下ったことが伝わると、松山藩では高松藩と同じようにように藩論がぶつかりあいます
①土佐兵を迎撃して潔く雌雄を決せん主張する者
②順逆の大義を説いて、恭順すべしと主張する勢力
すでに高松藩の無血開城と恭順の対応ぶりを聴いた家臣の大勢は後者に傾きます。そこで、家老奥李弾正は恭順を藩主松千定昭に提言します。定昭は、すでに恭順降伏を決意していて、25日に、土佐からの使者に次のような返書を持たせています。
今般御使者を以被聞候 趣本承候私儀如何体被仰付候とも朝廷に違背之王師に敵封仕候 心庭無之臣下に至迄毛頭異論無御座候此段御含被下 朝廷向宜敷御執成被下度伏而奉懇願候。 以上。
松干定昭
意訳変換しておくと
今回の「朝敵」になったことについて、土佐の使者から、その趣旨をお聞きしましたました。私どもは、どのようなことがあっても朝廷に叛き、王師に敵対するというつもりは毛頭ないことを、朝廷に対して、取り持って伝えていただけるように懇願いたします。 以上。

 定昭や勝成(前藩主)は、土佐藩の使節に対して、朝命に違反し王命に敵対する心底のない旨を伝えます。そして城を出て、郊外の常信寺に入って謹慎します。これも高松藩と同じ対処法です。さらに定昭は政庁を藩校の明教館に移し、家臣に対し恭順の態度を失わないように訓示します。
4/1 常信寺の桜いろいろ | 愛媛のいいところ探し
常信寺(松山市) 松平氏の菩提寺

こうした中で1月28日に高松から錦旗を奉じてやってきた本山只一郎が到着します。それを待っていたかのように、土佐軍は錦旗を先頭に押立て雨の中を松山城に入城していきます。この時、土佐藩士は立花橋と城の東門付近で一斉射撃を行います。城下の人たちにとっては、これは土佐藩の威圧と感じたようです。その後、城門外に「土州預り地」の立札を建て、土佐軍の軍事占領がはじまります。
四国各藩の戊辰戦争事情 | 南海トラフ地震・津波よ、来るな!

 土佐藩占領下の松山城へ、征討大総督四條隆識卿が姫路城での監督を終えて海路で、やってきます。これを護衛して来たのは、京都の土佐藩邸詰大軍監・今日光四郎の率いる土佐軍180名でした。そこへ、征討軍の第二陣深尾左馬之助の一隊も到着します。こうして松山城に集結した土佐藩の幹部は、次のようになります。
総督 深尾両雨
御仕置役    金子 平十郎
大目附役    本山只一郎
同      小笠原 唯八
土佐藩の松山遠征メンバー

  高松城占領の際にいた板垣退助の名前は、ここにはありません。

この時に、長州藩の奇兵隊も三津浜に上陸していました。
長州軍は三津浜に「長州領分」という立札を立てて、松山城への進軍の機会をうかがっていたと土佐側の資料は伝えます。その背景には、長州征討の際に松山藩が長州の大島郡へ攻め寄せて民家への略奪行為を働いたことがあるようです。それに恨みに持つ長州兵が、松山藩が朝敵となったこの機会を捉えて、松山城下へ乱入し復讐の機会をうかがっていたと云うのです。
 これに対して、土佐藩・大軍監小笠原唯八は奇兵隊の長杉孫七郎に書面を送って、勝手に軍を進め長州領分の制札を建てた不法を詰問しています。これに対して、長州軍は制札を除き兵を引揚げて長州に去ったと土佐の史料は記します。
 もし、土佐軍のやってくるのが遅れていたら長州軍の松山城下への侵入ということもあったかもしれません。ある意味、素早い土佐藩主の判断に松山藩は救われたと云えるのかも知れません。
 4月17日には、土佐から家老山内下総の部隊が交代部隊としてやってきます。
それを受けて、19日には第一陣は高知城下へ「凱旋」していきます。5月15日には、朝廷より松山藩主・久松勝成に再び松山藩が下賜されます。こうして、土佐軍は、久松勝成に御預り中の諸務を引き継いで高知に引揚げていきました。土佐軍の軍事占領は、4ヶ月近くに及んだことになります。高松藩が1ヶ月あまりで、終わったことに比べると長かったことになります。そこには、朝廷工作や薩長の憎悪の強弱も働いたようです。それは、前回にお話しした通りです。
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 土佐藩による高松・松山城の軍事占領についてみていきましたが私が印象に残るのは、土佐藩の迅速さと手際よさです。
土佐から高松城へやってきた土佐軍の動きを見ても、それはうかがえます。停滞と云うことがありません。常に移動し、移動しながら考えているといった感がします。高松城を占領した後も、祝杯を挙げるわけでもなく次の任務地に向かって、移動していきます。用意周到な計画性は感じられませんが、動きながら考える、その中で最善手を選ぶという土佐人のいいところが出ているようにおもえてきます。
 そして、土佐にとって松山や高松を占領したというのは、大きな誇りになったのではないでしょうか。それが、次の四国のリーダーとして四国会議を主催し「もし事あれば四国をまとめて、薩長に対して起つ」という気概を生み出していったようにおもえてきます。
 同時に土佐に残された史料は、これを基にして数々の「英雄奇談?」が作り出され、語り継がれていったようです。長宗我部元親の四国統一と「明治維新の高松・松山占領」は、土佐人の郷土愛を育む題材となったようです。

さて最後に、幕末の松山藩と土佐藩と長州藩の三角関係を見ておきたいと思います。
①長州征伐の時に、松山藩は先頭に立って長州を責めます。しかし、これは長州の奇兵隊にこてんぱんにやらます。松山藩はどちらかというと「保守・守旧」で、近代的軍備には鈍感でした。これに対して、長州の奇兵隊は、最新の銃を持ち、最新の洋式訓練を受けていました。負けて当然です。そして、戊辰戦争でも松山藩は幕府側について負け「朝敵」とされたことは、見てきた通りです。ここまでは、松山と長州は互いに恨み合っていました。

松山・長州・土佐の三角関係

②土佐藩による松山占領
朝敵とされた松山藩を「討伐」土佐藩でした。藩主は蟄居を命じられ、おまけに15万両の罰金を払えと命令されます。松山藩は、これに恭順を示し、何とか工面して支払います。しかし、その財政的疲弊は厳しいものがありました。このように、土佐と長州からの屈辱に対して、松山は恨みがあったはずです。

①長州に対する土佐の反発
明治になると、政府の主要ポストは薩摩と長州が独占し、土佐には廻ってきません。そのため土佐は、薩長に対する反発の先頭に立ち、自由民権運動の騎手となります。土佐藩は、新政府軍として戦ったはずなのに、薩長から取り残されてしまったようです。土佐の板垣退助らの自由民権運動も、もともとは新政府内の派閥抗争による薩長への恨みという側面もあるようです。土佐は、薩長とならぶ三大雄藩と、呼べる存在ではなかったのです。
②長州に対する松山の恭順
これに対して松山は、新政府軍に対して恭順を示し、長州に逆らう態度を見せません。幕府の味方というカラーを、消していくことに力を傾けたように見えます。朝臣として在京・勤番や天皇即位について献物・献金なども、朝廷に尽くすという姿勢をとります。こうして松山藩は、しだいに「新政府の藩屏」となっていきます。うまく立ち回ったと云えます。
このあたりが高松藩とは、対照的なところです。
高松藩は、鳥羽伏見の後の朝敵事件には、多方面からの朝廷工作を行い最も短期間で、高松城占領を終わらせています。しかし、その後は新政府との間に何かと問題を起こしてトラブルメーカーの烙印を押されたようです。それが、香川県の愛媛県への合併という事態を生むことになります。象徴的なのは、四国に最初に高等学校が作られたのは、高松や高知ではなくて、松山だったことです。松山は、懲役事件の屈辱から多くのことを学んだようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献    宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)

 讃岐史談(讃岐史談会編) / 光国家書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 「師匠からまだまだ勉強が足らんな、読んどかないかん本がよーけあるで。終活のために本も整理ししよるけんに、これだけ持って帰って」といただいた本の中にあったのが「讃岐史談」です。そのまま何年間も「つん(積)読」状態にあったのですが、最近手に取ってみると、私にも興味が持てそうな論文がいくつか見えてきました。これも成長かもしれません。
 今回はその中から、明治維新時の土佐軍の讃岐占領について記した文章を見ていくことにします。この論文は戦争始まる前に、琴平の草薙金四郎氏を中心に創設された「讃岐史談会」の機関誌に載せられたものです。これが1977年に復刻版として出されています。
ヤフオク! -讃岐(本、雑誌)の中古品・新品・古本一覧

その中に収められている「宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)」が今回のテキストです。
 この論文の面白い所は、戦前の土佐の研究者によって書かれているところです。そのため「郷土愛」が強く出ていて、香川県人の私が読むと「占領軍の目から見た讃岐」という姿が見えてきます。香川県人には書けない表現も随所にでてきます。
 私の問題関心としては、
①明治維新直後の土佐軍の金毘羅占領
②金毘羅大権現の神仏分離の際の金光院院主宥常の動き
この両者が同時代的に不透明で、よく見えてこないのです。このテキストを通じて、土佐占領下にあった金毘羅の情勢が見えてくればと思います。そのためには、少々遠回りですが、鳥羽伏見の戦い前後の高松藩と土佐藩の動きから初めて行きたいと思います。
1 鳥羽伏見の戦い

1868(慶応四・(明治元年)正月2日の鳥羽・伏見の戦い後、情勢は激しく動くようになります。
1月10日には、将軍・徳川慶喜と以下の藩主たちの官位が削られ、次のような措置が出されます。鳥羽伏見の戦いに参戦した高松藩も朝敵のメンバーの中に含まれています。
徳川慶喜・奥州合図藩主、勢州桑名藩主、讃州高松藩主、豫州松山藩主、備中松山藩主、上総太川喜藩主
右者此度慶喜奉欺 天朝反状明白既兵端を開候に付追討被仰出候 依之右之輩随賊反逆頴然候間被止官候事
意訳変換しておくと
「右者はこの度の慶喜の天朝に叛き兵端を開いたことにより、追討をもうしつける。以上の輩は反逆者である間は官位を停止する。」

鳥羽伏見の戦い後、新政府は徳川慶喜追討令を発します。同時に、後攻の憂いをなくすため、西日本の徳川家一門・譜代大名を押さえる任務を土佐・備前・長州などに命じます。なかでも、新政府が畏れたのが、高松・松山・大垣・姫路・備中松山の5藩です。高松藩は、徳川将軍家の一門であるとともに、鳥羽伏見の戦いに、旧幕府軍として参戦したことが、朝敵とされ征討の対象となりました。

トピックス)「高松、松山を征伐すべし」 明治天皇、土佐藩に命令 御沙汰書見つかる: 歴史~とはずがたり~
【御書写 土佐少将宛(高松・松山征討令)

 新政府は11日に、土佐藩主山内豊範(土佐少将)あてに、伊予松山藩と讃岐高松藩と、その領内の幕領地に対する討伐・占領の命を沙汰します。そこには、次のように記されています。
丸亀藩が高松藩を征伐? : 88 Partners Inc.
徳川慶喜反逆妄挙を助候條其罪天地不可容に付讃州高松、豫州松山、同川の江を始是迄幕領総て征伐没収可有之 被仰出宜軍威を厳にし速に可奏追討之功之旨御沙汰候事
正月十一日
但両國中幕領之儀は勿論幕吏卒の領地に至るまで総て取調言上可有之 且人民鎮撫偏に可服王化様可致処置候事
土佐少将へ
征服被 仰付侯御御紋御旗二流下賜候事
正月十一日
意訳変換しておくと
徳川慶喜の反逆妄挙を助けた諸侯の罪を、天下に受けいれられるものではない。よって讃州高松、豫州松山、川之江とその幕領(天領等)を総て征伐没収すること。軍威を厳しくして速やかに追討追討することを土佐藩主に沙汰する
正月十一日
但し両國の幕領地(天領)については、旗本等の領地に至るまで総て取調て、報告すること。その際に、人民鎮撫・王化に注意を払っておこなうこと。
土佐少将へ
征服のための軍事行動については、天皇家の御紋御旗二流を下賜する
正月十一日
錦の御旗|西郷どん(せごどん)おゆうが縫う錦旗(きんき)は鳥羽・伏見の戦いで戦況を一変させた官軍のしるし! | おもしろきこともなき世をおもぶろぐ

12日正午に土佐藩に下賜された錦の御旗は、川原町の土佐藩邸を出発して四国・川之江に向かって進んで行きます。この時のメンバーは大目付本山只一郎と下目付2人、飛脚3人で、行列は足軽4人と郷士2名の後に御旗が続き、その後に徒目付が続くという隊列だったようです。
つまり、讃岐高松藩と伊豫松山藩が朝敵となり、その討伐が土佐に命じられたということになります。そのシンボルがこの旗です。
土佐藩15代藩主 山内容堂(豊信)
山内容堂
これに先立って1月6日に、土佐藩の老公山内容常は京都藩邸から高知藩庁へ、「京都に異変が起ったので朝延守護のために、藩兵を出来るだけ多く派遣するように」という指示を出しています。土佐藩では、この指示を受けて、早速出兵の準備に取りかかかります。しかし、その後の情報はなかなか入ってきません。

そのような中で、13日に遠征隊のメンバーが次のように決定します。
総督  近習家老・深尾成質
御仕置役 小南五郎右衛門、
大目付   森確次
大軍監兼大隊司令 乾退助(板垣退助)
土佐軍の讃岐討伐部隊

彼らが「迅速隊」八小隊の600人を率いることになります。
 その階層構成は以下の通りです
①深尾丹波手勢 40人
②郷侍8人、郷士121人・士48人・小者138人・
③雇兵(年季夫) 692人
④庄屋子弟    34人
⑤医師5人 若党6人
 総勢1085人です。
これを見ると郷士、徒士、地下浪人、庄屋の師弟からで構成される混成部隊で、服装も陣綱織に伊賀袴、代刀に大細筒という代物で、当時としてもなかなか奇抜なものだったようです。
 1月12日に高知城下の致道館に集合した兵は、山内豊信の閲兵をうけて七ツ刻(午後四時)、高知を出発していきました。

一行は陸路で高松に向かいます。ルートは次の通りです
①13日 石渕に泊り
②14日 穴内で昼食、本山で宿泊
③15日未明 本山を出発し吉野川に出て、川口で昼食、立川で宿泊。この夜大雪
④16日御殿集合、七ツ(午前四時)に御殿を出発して笹ケ峰に登る。積雪三尺ばかりですべり倒れる者多く、馬立にて昼食。京都から帰国する使者と出合い様子を聞き、平山越上分で勢揃して川之江に下る。
⑤17日は川之江に滞在。
士氣は盛んでしたが、この時点では、京都に向かうつもりで編成されています。自分たちが高松藩や松山藩の討伐占領軍になるとは思ってもいなかったことは押さえておきたいと思います。つまり、川之江までやってきても、どこに向かうかも、なにをしたらいいのかも分かっていなかったということです。そのため以後の動きがとれません。軍目附の谷守部は、高知藩庁へ引返えして、藩命を再確認する始末です。
  そんな中で18日に伊予・讃岐天領地統治の藩命を受けた海援隊の長岡謙吉、八木彦三郎等が部下を率いて船で川之江に到着します。そして、土佐軍の陣営にやって来て、上方の形勢を伝え、錦の御旗が到着することを告げます。
板垣退助の写真(若い頃) | 幕末ガイド
若い頃の板垣退助
これを聞いて討幕派の先鋒であった板垣退助は次のように鼓舞したと伝えられます。
「事態既に此に至つて尚決せずば社陵を如何せん、他日妄挙の責め或は至らば我二三輩、死あるのみ。死して社稜の為めにするも亦丈夫の一快事ではないか」
意訳変換しておくと
「事態は既にここまで進んでいる。この期に及んで行動を起こさなければ、社陵に顔向けできないことにもありうる。後日になって妄挙の責めを受ければ、我らの内の二三の輩が腹を切ればいいことだ。死して後世に名を残すのも、男丈夫の快事ではないか」

 板垣は自分たちが高松藩討伐軍に「変身」し、高松に向けて「転進」することを主張します。これに指揮官達は同意します。こうして、川之江で高松・松山藩への討伐軍は「誕生」したのです。その手始めに、土佐軍が行ったのは、松山藩管理下にあった川之江支配所役人に対して、立退きを命じることでした。役人たちはこれに従い、退去したようです。こうして討伐軍は、まず川之江を「無血開城」させることに成功します。川之江は土佐軍の占領下に置かれ、次のような高札が建てられます
当分天領土州領地
此度 朝命を以豫讃天領取調被 仰付候に付向後萬事土州代官へ可申出候事、
但貢税方度先旧来之通可相心得事
慶應四年正月
意訳変換しておくと
当分の間、土州領とする
この度 朝命で豫讃天領の管理を土佐が仰せつかった。以後、萬事のことは土州代官へ申し出ること。ただ、貢税や法律については旧来の通と心得るべし
18日に、深尾総督は丸亀藩説得のために差添役の乾三州郎と、海援隊の長岡謙吉を、丸亀に向かわせます。その途上で、島坂峠で錦旗を立てて、京都から行進してきた大監察山本只一郎の一行と劇的な出会いを果たします。こうして土佐軍は、高松征討の錦旗を手中にします。同時に京都の情勢が有利に運んでいることを知ります。
 丸亀落主京極朗徹は、乾、長岡を迎へ入れ恭順の意を表し、土佐藩兵を迎へ入れることに同意します。この背景には、土佐藩の参勤交替ルートが「本山ー新宮ルート」になって、仁尾から丸亀藩の御座船を借用して瀬戸内海を渡るようになっていました。その際の船の借用や水夫手配などで、家臣同士の親密な交流もあったようです。その際の人脈などが活かされて、スムーズなやりとりが行われた伝えられます。
 その後の川之江から丸亀に至る土佐軍の動きを見ておきましょう
⑥18日 京都よりの倫旨と錦御旗一流を受取り、五ツ(午後八時)に川之江を出発、和田浜(現・豊浜町)の荒磯を歩き、姫浜(旧豊浜町)にて休息。食事、本山寺にて休息。食事して夜明け
⑦19日 本山寺出発、鳥坂で昼食、八ツ(午後二時)に丸亀に着き、福島屋などに宿泊
2020年03月 : 瀬戸の島から
高松城と東浜
これに対して高松藩は、どのように対応したのでしょうか。香川県史で高松藩の動きを見てみましょう。

大坂から鳥羽伏見の敗残兵を乗せた船が1月10日に高松に帰ってきます。すでに三宅勘解山らによって伏見の戦況の様子が報告されていましたが、その後は西風が吹き続け、上方からの便船がなく、その後の様子は分からなかったようです。そのため6日以降の大坂方の不利や、朝敵になったことは知りませんでした。そのため高松では、その後の戦況を心配しながらも、まだ人々の間には動揺はなかったようです。そのような中で十日に大坂を出帆した便船が、12日昼、高松に帰ってきます。飛脚や船頭加子・乗合の者から、
①京都より錦御旗を押立て官軍が破竹の勢で大坂に入って来たこと
②大坂方が朝敵となったこと
③大坂城が炎上した
ことなどが知らされます。さらには、今夜中にも官軍が軍艦で、高松城を攻撃するなどのフェイクニュースが流れされ、市中は動揺します。家中の隠居子供までが夕方から夜中にかけて追々登城します。この武士たちの今までにない姿を見た町方の者は、動揺し家財を収片づけ、老幼婦女らが立退きはじめます。そのため市中は大騒ぎとなります。町奉行は目付や押の者を町方に差し向けて、騒ぎの鎮圧につとめます。また代官らも出て騒ぎを鎮めます。そのためか夜半には平静にもどったようです。しかし、この不安と騒ぎは、周辺の村々にも波及します。そのため1月17日には、大政所から各村に次のような通達が出されています。
「此度朝命に依り京大坂にて御屋敷指上げ遊され候義に付き、 此度申渡しの趣諸事相慎み百姓共騒しく仕らず様に申付べき事」

さらに建札にて、家居は表門を開じておくこと、商売は密かにすることなどが通知されています。
 12日夜になると、光宗五郎八らが大坂から帰国します。そして、今度の戦は、「一と通りの謝罪では済されず」と重臣や藩主に報告します。
 14日夜半になって、藤沢恒太郎・山崎周祐(大坂寄留高松浪人)が高松に帰ってきて、次の報告を行います。
「八日に征討将軍仁和寺官が大坂に着き、西本願寺掛所を本陣として、高松・松山・大垣・姫路に対し、征討軍の派遣を命じたこと」
 恒太郎は、高松藩の儒者で藤沢南岳と号していました。
藤沢南岳 - JapaneseClass.jp
藤沢南岳(恒太郎)

父の昌蔵は号をを東眩と称して有名な文人だったようです。その子の恒太郎は、当時は大阪にいました。恒太郎は、尊王攘夷派でしたから高松藩が進路選択を誤ったと激憤していました。そのため長岡や八木の説得工作に賛同して、一命をかけて高松藩の恭順に努めることを誓います。こうして、恒太郎は早舟で高松に帰り、人脈ルートを使って藩内の恭順工作を行います。藤沢恒太郎(南学)は
「今度のことは重役の伏罪(切腹)処置によるほか無し」

と具体的な対応措置を進言します。
 この進言に対して、藩主松平頼聰は直ちに頼該(左近)・頼績の御連枝や大老・年寄の隠居を召出した上で、藩のとるべき道を衆議させます。出てきた意見は、次の2つです。
①責任者を罰して官軍に恭順すべしとする恭順派
②官軍を迎え撃つべしという徹底抗戦派
両者の意見は、譲ることがありません。後世の書には、最終的には藩主が次のように云って決定したと伝える書もあります。
「汝輩は今日に至つても猪ほかつ大義を誤り君國を危うして恥ず、何の面目あって我が祖宗の廟に謁せんとするか、芍も恒太郎の忠言を聴かぎらんとせば先づ我が首を刎ねよ」

しかし、あまりにこれは明治以後の「皇国史観」による作文で、浪花節調です。
興正寺について|本山興正寺
京都興正寺
香川県史を下に、場面を再現すると次のようになるのではないでしょうか。
16日になって、京都西本願寺派の興正寺の摂信上人からの使者・内田外記が到着します。高松藩は、興正寺と姻戚関係を何重にも結び、深いつながりがありました。その親書には、次のように記されていました。
「重職業伏罪(切腹)の実効相立るような急な御処置有るべし」

そして、使者は口頭で次のように述べます。
「鳥羽・伏見の戦いで指揮をとっていた家老を処断して十二万石の城地と領民を差し出せば寛典に処するというのが官中の空気です」

これを聞いた頼聡は
「和平のほかあるまい。あとはよきにはからえ」
といってその場を立ちます。そこにいた松平左近は
「大殿さま、ご決断どおり恭順と決まった。藩士どもは下城せよ。
小夫兵庫、小河又右衛門両名は全責任をとって切腹し十二万石を救え」
といい放ちます。
「両名とも不服はあろう。その胸中は察するが、なにごともお家のためであるぞ」
と、これまで主戦論者だった大久保主計大老は手のひらを返すようにいった。小河又右衛門と小夫兵庫の切腹が決まります。

こうして藩主松平頼聰の名で朝廷へ御赦免の歎願書が上奏されることになります。その窓口として興正寺御門跡へ、御赦免の歎願書を至急其筋へと届けてもらうように依頼します。
17日には、鳥羽伏見の戦で隊長を勤めた三宅勘解由、寛謙介に自宅謹慎を命じ、足軽頭に見守らせます。18日には、家中全ての者に対して討伐軍の到来に備えて次のような通達が出されます。
①万一討手を差し向けられても、武器を所持しないこと
②決して手向かいしないこと
③麻の上下にて登城のこと
④御城外役所へ出向く役人は平服のこと相心得ること
などを申渡します。そうして18日夜に、小夫兵庫・小河又右衛門に切腹を命じます。
①兵庫は檀那寺正覚寺(二番丁)、
②又右衛円は弘憲寺(浜ノ丁)
で、親類同道で、寺の玄関から方丈へ通り、切腹の座につき切腹します。両人とも自宅より寺までは乗輿・侍槍・挟箱・長柄傘の年寄作法通り行われます。両人の首級は検使が持ち帰り、死骸は親類に引渡されます。遺族へは三十人扶持が与えられて当分間は、屋敷に留まることが許されます。夜になって首級は頼聰の書付と共に姫路城に滞在していた将軍官に指出すために、本使芦沢伊織・副使本行彦坂彦四郎・先導藤沢恒太郎(南学)・山崎周祐が飛脚船で出帆していきました。
高松藩の責任者 小夫兵庫・小河又右衛門の首実検(姫路城にて)

こうした処置の上で、19日夜に、頼聰は城を出て浄願寺(五番丁)に入り謹慎します。
寺の山門・勝手間とも閉じ、勝手門くぐり戸より出入りします。諸役所も寺に移し、老中二人ずつ宿番し、御用達・近習ら以下昼夜詰切り、御城には老中・番頭・奉行。御助田守居番頭・徒日付・御徒士などが詰めます。20日には、嗣子らが広日日寺(天神前)に入り、鳥羽伏見の戦いに参加した主だった者12人を町奉行へ預け、朝敵の汚名から遁れる行動を開始します。


丸亀城から高松城に至る土佐軍の移動ルートを見ておきましょう。
土佐軍は20日卯の上刻に、陸路3小隊、海路5小隊、丸亀・多度津勢の三手に分けて、丸亀藩の4小隊を先陣として丸亀を出発していきます。
①そのうち海路ルートをとったのが総督深尾成質は乾(板垣)退助が率いる五小隊です。この部隊は丸亀藩が用意した船数十艘で海路で、高松の西浜に上陸します。これが九ツ(正午ごろ)です。
②陸路を高松に向かった三小隊と先鋒の丸亀藩兵は八ツ(午後2時ごろ)高松に着き、海路部隊と合流し真行寺に入ります。丸亀・多度津藩兵は石清尾八幡宮・五智院に布陣しました。
真行寺(香川県高松市扇町1丁目)- 日本すきま漫遊記
土佐軍が布陣した真行寺
 これに対して高松藩家老、大久保飛弾、白井着見は無刀麻裃着で真行寺にやってきて、次の降伏歎願書を差出したといいます。。
臣頼聰今般朝敵に付御追討被 仰出候段重々奉恐入候 右は慶喜上京に付食料警固被申付従来の形行不得止在坂の人数出張候由之処 去三日於伏見表混乱中官軍共相辯不申誤て発砲仕候趣に付右様被 仰出候儀と奉恐察候全 頼聰所存に毛頭無御座候得共偏に平日家来共教諭不行届故之儀と後悔至極奉恐入候 素より先非開悟仕候間何卒慨往之儀御宥免被成下候は、向後奉封天朝屹度抽忠節奉報御厚恩度方今更始御一新之折柄 頼聰微哀御諒察之下従前之罪過御寛容之程伏而奉敬願候誠恐誠捜    頓首謹言
正  月            頼 聰 花 押
意訳変換しておくと
私、頼聰は朝敵とされ、追討される身となったことについて、恐れ入っております。将軍慶喜上京の際の、食料警固を担当していましたが今までのスタイルでは、役目を果たすことが出来ないので、派遣する人数を増やしていました。そのような中で、去三日に伏見鳥羽で混乱の中で官軍に遭遇し、誤認して発砲することになってしまいました。この事については申し出たとおり、頼聰の所存ではありません。日頃からの家来への指導に、不行届けの所があったと今になって、後悔しております。現在、新政府に対して弁明中なので、猶予をいただきたくお願い申し上げます。今後は天朝に忠節を尽くし、これから始まる御一新に、頼聰は微力ながら協力していく覚悟ですので従前の罪に対して寛容していただけるようお願い致します。
別に口舌に代へて左の上申書を出しています。P
先般出張之人数総督として家老小夫兵庫在京為仕辯維而家老小河叉右衛門在京並に在坂為仕御座候所関東方へ左祖仕終に於伏見表混雑中渦誤とは乍中官軍へ及砲褒私儀不臣之罪に陥候様成行重々奉恐入候私儀素より愚暗に罷在不排名分順逆家来共へ教諭方不行届故之事には御座候得共右両入之者心得不宜奉封
天朝大不敬之罪難逃依之 右両人共誅殺を加首級奉献上候 全私儀向後改心 天朝之御為奉儘忠節候験迄に御座候此上天覆之御仁恩被為垂私儀従前之罪過御赦免被成下度伏而奉懇願候 以上
正  月           頼 聰

これに応接したのは乾三四郎でした。家老が引き上げると、申下刻(午后四時)に総勢は真行寺を出て高松城に向かいます。錦の御旗を先頭に、一番丸亀兵・二番海手兵、二番陸手兵の順で、高松城南大手門に進軍します。総勢は数字的には1500人ほどになっていたようです。

6 高松城 天守閣1
明治の高松城
 大手門までやってくると、城内をめがけて大砲が向けられ空砲が撃たれます。それに続いて、大小の砲銃が空に向けて連発されたと云います。太鼓御門より桜門を通り、三の丸玄関から入ります。城内には、降参の二字を書いた白旗が建ち、家臣たちは高張提灯に火を灯して追手門外に上下座して、これを迎えます。「下に下に」の下座触れの町役人を先頭に大鼓門から玄開にかかり総督、大軍監等は進んでいきます。この日、入城の際は雨が降っていたようで、軍中の誰かがが残したという次のような歌が伝えられています。
「常磐木の操もなくて春雨にぬれてそ落る高松の城」

6 高松城 俯瞰図16

  表書院で総督深尾丹波は、高松藩大老大久保主計・間島沖に対し城地・国内人民を朝廷に返上するようにとの勅命を伝えます。そして、下のような降伏書を受取り、老臣大久保飛弾の案内で本城内を改めて、受取を終わります。

臣頼聰此度 勅命を以追討被仰付萬々奉恐入候 悔悟伏罪罷在候 為其共城地人民等可本差上之此上御寛大之御処置被 仰付候得者国内一統誠に以難有仕合奉存候 何分宜御取成被下候様 伏て奉歎願候。誠恐誠性頓首謹言。
正月     頼聰  在押
 意訳変換しておくと
臣頼聰はこの度 勅命を以って追討される身となりました。 罪を認め、城地や人民を返上いたしますので、この上はなにとぞ寛大なご処置を仰せ付けいただければ、国内の共々有難き仕合にございます。何分よろしくお取成しいただけるように伏て歎願いたします。頓首謹言。

松平頼聰 - Wikiwand
松平頼聰
これより先藩主であった頼聰は引退し、土佐藩に次の伏罪の書を贈ったと、宮地美彦は記します。
此度御追討被 仰蒙候に付御使者を以御口上之趣へ申聴候誠以奉恐入候 素より伏罪仕候に付御手向仕候義は毛頭無御座候 右に付別紙の趣にて京都大坂表へ嘆願中にも御座候間 何卒御討入之儀は御猶予被成下御寛典之御虎置被 仰付候
御執成之程偏に奉懇願候     以上
正月   日      頼聰臣
大久保飛弾
白 井  石 見
意訳変換しておくと
この度、追討の身となり、土佐侯に御使者を通じて口上を伝えることについて、まことに恐れ入ります。もとより、罪に服することを決め、手向かうつもりは毛頭ありませんでした。このことについて、別紙の通り京都大坂表へも敬願中です。なにとぞ、討伐についてはご猶予いただき、寛容な処置をいただけるように仰せ付けいただけるようお願いいたします。

城の受取後に、土佐軍は大鼓御門前・西浜高橋・東新橋の三か所に、川之江と同じように、次の高札を立てます
当分土佐預り地」
此度天命を以朝敵追討之為め当地へ兵隊被差向候 虚悔悟伏罪之上は残忍之御産置不被為在に付人民安堵夫々産業速に可相営事
慶應四辰正月月廿日          土佐大監察
意訳変換しておくと
この度、天命を以って朝敵追討のために当地へ兵隊を差し向けた。罪を認め悔い改める上は、残忍な対応は行わないので、人民は安堵して夫々の産業に営事すること
慶應四辰正月月廿日          土佐大監察

しかし、香川側の史料は高札に書かれたのは「当分土佐預り地」だけだったと記されます。土佐藩が預り地とした高松藩の土地と人口は、次のように記されています。
  讃州高松領地高収調帳
当分山内土佐守預
大内郡 寒川郡 三木郡 山田郡 香川郡 阿野郡 鵜足郡 那珂郡  二百四十六か村
十二万石  拝領高
四万九百七十石二斗  込高
四万七百四十四石七斗八升二合  新田高
合計二十万一千七百十四石九斗八升二合
家数六万七千三百六十三戸
人口二十七万四千百二十九人
納り米九万八千六百六十八石七斗九合

1月21日深尾総督、小南五郎右衛円、森灌次と谷口・平尾の二小隊と丸亀の一小隊及小荷駄方だけが高松に駐屯・残留することになります。乾退助、片岡健吉は六小隊を率いて丸亀に引返し、そこから乗船して京都に向かいます。また、大目附役・本山只一郎も錦旗を押し立てて、高松城を発します。町役人の「下に下に」の下座触れを先頭に、馬上悠々と丸亀に引返します。そこから彼らは、松山城の討伐に向かいます。  先鋒隊の任務を終えた丸亀・多度津藩の赤報隊も、この時に帰路に就きます。こうして高松城接収は、軍事衝突も混乱もなく整然と短期間で行われたようです。

24日は、土佐軍の谷口隊が直島・塩飽七島などの天領地に渡り「土佐預地」の高札を建てています。また高松藩主が謹慎している浄願寺前には、監視のための土佐番所が設置されます。
26日になると、桐間将監が率いる土佐第二軍の総勢928人(手勢52人・郷侍75人・郷士327人・士96人・小者78人。医者2人。若党17人、雇兵380人)が高松に着き、城下町の所々に駐屯します。しかし、3日後の28日には高松を離れていきます。こうして2月2日日には深尾丹波手勢の一部を残こしてすべての土佐兵は、上京していきます。軍事占領と云っても土佐軍の総勢はこの時期には50人足らずで、ほとんどは城内にいました。
6 高松城 4

2月20日午後、土佐軍の総督深尾丹波が浄願寺に謹慎中の松平頼聰をたずね、高松藩からの嘆願が朝廷で聞きとどけられたことを伝えます。土佐軍の手によって、天守閣入口の封印が解かれ、太鼓御門前ら三か所に建てた「土佐預り地」の高札も取り除かれます。こうして四ツ半(午後十時)時頃に藩主らは、33日ぶりに城中に帰えります。
 翌21日には、土佐番所も閉じられ、土佐兵は高松から引きあげていきました。土佐軍の高松城占領は、わずか1ヶ月あまりで幕をとしたことになります。これは、その他の藩に比べると最短です。
その背景を研究者は次のように指摘します。
①鳥羽・伏見の戦いの現場の責任者である小夫兵庫・小河又右衛門の首級、および藩主名の嘆願書を姫路に出張していた山陽道鎮撫総督四条隆謌に素早く提出したこと。
関東征伐の従軍志願、軍資として、兵糧米の献納、および金8万両を献金

③姻戚関係にある興正寺門主摂信が新政府に高松藩宥免を働きかけたこと。

④高松藩主は病気のため在国中で、鳥羽伏見での高松藩兵の行動は藩主の意志ではない。新政府軍に発砲した罪は幾重にもお詫びし、新政府の裁きを待つ旨を述べたこと。

 トラブルが起こった時には、起こったことを素直に謝罪し、その善処を速やかに行うことが重要だといわれます。この時の素早い高松藩の謝罪嘆願運動は、現在のトラブル処理の手本なのかもしれません。


土佐藩が引き上げていった後の2月25日に、頼聰は高松を出船し、29日には京都の興正寺に入り謹慎します。
同時に、世話になった興正寺にお礼も述べ、今後の対策も協議します。そして2月19日、高松藩兵100人の入京が許さます。この間にも高松藩は、朝廷に対し糧米の献納、金8万両の献金をおこない、関東出兵を歎願しています。これも興正寺との協議の中で出てきた対応策かも知れません。
 こうして4月15日に、松平頼聰の謹慎が許され、22日には官位が復されます。しかし、「高松藩朝敵事件」で高松藩は大きなダメージを受けました。高松藩の失ったものは、大きなものがありました。それは金銭的なもの以外に、「朝敵」とされたことでした。これによって四国における親藩としてのリーダシップが失われたのです。それは松山藩も同じです。
 代わって維新後の四国のリーダー藩として登場してくるのが、占領軍となった土佐藩です。土佐藩は、天領があった瀬戸内海の小豆島や直島・塩飽を自己の支配下に置くという野望を見せます。同時に、「四国の道は金毘羅に通じる」と云われた琴平(旧天領 + 金毘羅大権現寺領)を支配下に置いて、ここで四国会議の開催を行うようになります。そのような動きを、松山藩も高松藩も押しとどめたりコントロールする力はすでに「朝敵事件」でなくなっていました。土佐藩を中心に維新の四国の政治と社会は回り始めることになります。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)

1868 (慶応4年・明治1年)〈慶応4年9月8日改元〉
   1・2 高橋源吾らが豊田郡で赤心報国団を結成.翌年,朝命により五稜郭で戦う
   1・3 鳥羽街道で高松藩兵が薩摩藩兵と,4日には長州軍と交戦し退却(戊辰役)
   1・10 朝廷,高松藩主松平頼聰の官位を剥奪.薩摩・安芸・長門・因幡・土佐・津藩に高松・松山・大 垣・姫路藩討伐を命じる(高松県史)
   1・10 朝命により薩摩藩等が高松藩大阪蔵屋敷,京都屋敷没収を通告
   1・11 藤澤恒太郎(南岳),山崎周祐が,薩摩藩士を通じて小松宮征討総督に陳
       謝を嘆願.別に長谷川宗右衛門も嘆願書を提出(高松市史年表)
   1・14 藤澤恒太郎,山崎周祐が高松に帰国,朝敵事件の解決は重役の伏罪に依るほか無しと進言
   1・16 興正寺門跡の直書が高松藩へとどき,松平頼該(左近)の意見もあって,重役伏罪による赦免嘆 願を決める(香川県近代史)
   1・17 多度津藩に御所の車寄せ前御門警備を命じられたとの通知(富井泰蔵覚帳)
   1・17 高知藩使者片岡健吉が丸亀藩に高松征討の勅命を伝達
   1・18 高松藩家老小夫兵庫正容(43)小河又右衛門久成(27)が,朝敵事件の責任を負って切腹
   1・18 高松藩主松平頼聰が朝廷に赦免の嘆願書を提出
   1・19 朝廷が多度津藩に高松征討を仰せ付ける(富井泰蔵覚帳)
   1・19 高松征討の土佐藩兵が丸亀に到着.多度津藩では服部喜之助が足軽30人を率い,夜九ツ半(午 前1時)高松へ向けて出発
   1・19 高松藩主松平頼聰が城を出て浄願寺に入り謹慎する(香川県近代史)
   1・20 丸亀藩兵が土佐藩岡正記の指揮下に入り,土肥大作を参謀として高松へ進軍
   1・20 土佐藩兵が高松に入る.総督深尾丹波から高松藩大老大久保主計に勅命を伝達,
市中3か所に「当分土佐預り地」の高札を立てる(内・香川県史)
   1・20 塩飽諸島が土佐藩預り地となり,高松藩征討総督が八木彦三郎に事務を命じる
   1・21 多度津藩兵帰還のため,高松城下を出発(富井泰蔵覚帳)
   1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
   1・25 朝廷,高松藩の謝罪を聞き届け,後日,関東追討の命には忠勤を励むようにとの達し.翌日,藩 主頼聰は寛大な処置に恩謝状を提出(高松県史)
   1・27 金光院寺領(那珂郡4か村)が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
   2・15 朝廷,松平頼聰に赦免の御沙汰書を伝達するよう土佐藩に示達(高松県史)
   2・15 朝廷,松平頼聰に入京を命じる.家来随従者100人とする
   2・20 征討軍総督深尾丹波が,松平頼聰に赦免の沙汰を伝達.同日,土佐藩預り地の高札を撤去
   2・21 高松の土佐番所を閉じ,土佐藩兵が引き揚げる
   2・25 松平頼聰が午後8時,水手御門から大阪へ出帆。3月1日京都に着き興正寺にて謹慎
   2・- 塩飽諸島で土佐藩が1小隊を編成し海援隊と名づける.のち梅花隊と改称,明治3年7月解隊
   2・- 高松藩が朝廷に対し軍用費8万両(12万両のうち)献金を願い出る.3月10日聞き届けられる
   3・- 小豆島東部3か村(草加部・大部・福田)土佐藩預り地となる
   4・15 松平頼聰の謹慎が解かれる(香川県近代史)

コレラ感染拡大図 1885年
コレラ感染拡大図(明治12年)

今から130年前の明治20年代には、コレラ・赤痢・天然痘・再帰熱・腸チフスなどが香川県でも大流行していたようです。明治20年代前半は、凶作、米価の暴騰が続き、その日の生活に飢える貧窮民が多数生まれました。それに追い打ちを掛けたのが、感染症です。当時の香川県の様子を見ていこうと思います。テキストは香川県史 近代2 明治前期の衛生 427Pです

県下のコレラ患者の発生・死者数が県史には下表のようにまとめられています。
明治の感染症1コレラ
この表からは次のようなことが分かります。
①1890(明治23)年と1895(明治28)年の2度にわたってコレラが大流行した
②その死亡率は6割を超えている
一回目のピークである1890年(明治22)では、約2000人の患者がでて、その内の7割が亡くなっています。この年は、7月中旬から流行の兆しが見え、10月に発生数が最大に達し、12月初旬に終息したようです。2度目のピークは、1898年(明治28)です。この年は、日清戦争が終わり、大陸から多くの兵士達が帰還してきます。それに伴って、患者が増えたようです。この時には香川県の患者総数は約2300人で、その内の約1500人が亡くなっています。
下の表は、1890(明治23年)のコレラ流行の際に高松避病院に入院したコレラ患者の年齢別内訳です。

明治の感染症1コレラ 年齢別

これを見ると、コレラ患者の死亡率は、年齢と共に高まっています。40歳を越えると、 コレラにかかることは死を意味したようです。当時の人々が、 コレラを「コロリ」と呼んで、何よりも恐れた理由が分かるような気がしてきます。この時のコレラは、山田香川郡で多発し、海岸、河川に近い個所から広がっています。

赤痢も大流行したのが、下の表から分かります。
明治の感染症1赤痢

 日清戦争の開戦時の1894(明治27)年には7000人を越える患者が出ています。以後は減少しますが患者発生は続きます。私が驚いたのは赤痢の死亡率の高さです。赤痢は感染しても、死に至ることはないものと思っていました。しかし、それは抗生物質が作り出されて以後の話のようです。それ以前には赤痢も30%を越える死亡率だったことが分かります。
 先ほど見たように、コレラは1895(明治28)年に第2のピークを迎えていました。加えて赤痢の流行です。明治20年代後半の香川県は、疫病に襲われ続けていたことが分かります。次に腸チフスを表27で見てみましょう。
明治の感染症1腸チフスpg

腸チフスのピークは、明治22年、24・25年、28・29年の3回のようです。24年の発生は那珂郡、多度郡に多く見られ、6月には毎日30名から80名の発生が記録されています。日清戦争終了後の明治28年の流行の多発地は、小豆、鵜足、高松、多度などの96か村から出ています。瀬戸内海に面する地域から発生者が出て、周辺に拡大していく様子がうかがえます。このときの死亡率は、約18%程度になります。死亡率は低いようです。
この他にも天然痘があります。
明治30年で総計した数字として患者総数249名、死者61名という記録が残っています。これを見ると、天然痘患者の発病数は他の伝染病に比べると少ないようです。また死亡率は約18%以下で推移しています。これは、天然痘対策が当時としては一番進んでいたことが背景にあるようです。
1891(明治24)年6月月に香川県は、衛生組合規定を定めて、種痘を徹底して行う事を明記しています。そういう中で1893(明治26)年に、大阪と兵庫で天然痘流行の兆しが見えると、いち早く25歳以下の未種痘者約16万人に種痘を行っています。また、天然痘が発生した村には、その村の住民全員への種痘を義務づけています。このような対策が天然痘の拡散を防ぐとこにつながっていきます。そして、その他の感染病も天然痘対策を教訓に整備されていきます。
最後に「再帰熱」を見ておきましょう。これは回帰熱とも呼ばれたようですが耳慣れない病名です。
  ウキを見ると次のようにあります。
回帰熱(かいきねつ、relapsing fever)は、シラミまたはダニによって媒介されるスピロヘータの一種ボレリア Borrelia を病原体とする感染症の一種。発熱期と無熱期を数回繰り返すことからこの名がつけられた。

「発熱期と無熱期を数回繰り返す」ために熱が引くと「治った」と勘違いして、放置して感染が拡大する厄介な病気のようです
回帰熱は、香川県では1896(明治29)年に始めて患者が出ます。
この病気の発生推移を、発生当初から詳しく追った表が県史近代434Pに載せられています。
明治の感染症1回帰熱

ここから見えてくることを挙げておきましょう
①温かくなりシラミやダニが活発に動き出す5月に患者が急速に増え始めます。
②6月末になると急速に患者が増え始め、ピークに達します。
③死亡率も6月になると10%を越えます
④11月初旬までに総数4179人の患者を出し、その内の497人が死亡しています。

 明治23年8月19日付の『香川新報』には、「衛生と実業との関係」と題する社説には、「労働者、無産者の疾病・伝染病などの衛生問題は、工場生産の効率に悪影響を及ぼす」と、生産性の面からの衛生対策の必要性を論じています。こうした時代背景もあって、帝国憲法が発布された1889(明治22)年ごろから、窮民医療を志す民間病院が県下にも創設されはじめます。
1889年1月 真言宗青年伝燈会が慈恵病院
1891年2月 丸亀衛戊病院の軍医と看護人が丸亀博愛病院を設立
この2つは、どちらも窮民施療を設立の主旨としている病院です。
また衛生組合規定が出来てからは、各地で衛生談話会が開かれるようになります。そこでは伝染病予防、伝染病心得、清潔法などの講話や幻灯会が、小学校や神社、寺院、芝居小屋など、庶民に身近な場所で行われるようになります。この談話会の講演者は、警察署長や医師、県の検疫委員が務めています。
帝国生命保険株式会社) 虎列刺病予防法 明治28年7月13日印行 / 伊東古本店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
コレラ病予防法

内務卿・大久保利通が通達した明治10年の「虎列刺病豫防(よぼう)心得書」は、石炭酸(フェノール)による消毒や便所・下水溝の清掃などの予防対策が載せられています。また第13条では、「『虎列刺(コレラ)』病者アル家族」で看護に当たる者以外は、他家に避難させて「妄(みだ)リニ往来」することを許さずとあります。

「伝染病は公衆衛生の母である」といわれます。日本ではコレラ流行によって衛生観念が一気に高まったことがうかがえます。幕末・明治前期の人々は、風聞(フェイクニュース)に惑わされながらも、身辺を清めて換気をし、外出を控えるなどの努力をしています。そして、流行が過ぎ去るまで耐え忍ぶしかなかったのです。

コレラ予防 明治

県や高松市は、明治20代にいろいろな伝達を出しています。
それは、コレラ・腸チフス・天然痘などの予防と、清潔法、消毒に関するものが多いようです。また、コレラの拡大に対しては、交通遮断など、ロックダウン的な措置もとっています。これは、日清戦争の帰還兵がもたらす伝染病の拡大防止という視点以外に、兵士への病気感染を未然に防ぐという思惑も見えます。
先人の感染症との闘い知ろう 福岡市博物館「やまいとくらし」展|【西日本新聞me】

 伝染病の感染者に対して、各市町村に隔離病院が設けられます。
しかし、この時期の隔離病院は名ばかりで、廃屋に等しい個人の家を借り受け、看守人を置いただけで隔離を重点としたものでした。中には、蚕を飼うような家が、隔離所になった例もあるようです。さらに、設置に際しては、近隣から苦情も出ます。県市町村は、隔離所の民家探しや場所の選定に苦慮したようです。そのため設置場所として、山林に近いところやスラム地区が選ばれたことが新聞には報道されています。しかも、医者の十分な回診態勢はありません。
 患者が発生すると、その家族や近隣地域に消毒がが行われた。そこにやって来て、検疫にあたる警察官の態度は、患者をあたかも悪魔でも扱うような有様であった、と記されています。
コレラ病アリ」強権的な衛生行政がもたらした監視社会 専門家「歴史繰り返すな」 | 毎日新聞
 120年前の感染病に襲われた香川県の対応を見ていると、現在のコロナに対する対処法と比較したくなります。同時に、当時は感染病対策が始まったばかりで、その感染恐怖の中でとるべき対策も限られていたようです。行政による組織的で効果的な対応は戦後になって始まったことが分かります。そして、その成果の上に、私たちは「感染病を克服した」と思っていたのです。しかし、コロナの登場は、それが幻想であったことを私たちに突きつけているようにも思えます。これからも新たな感染症は登場し、その克服のための戦いが繰り返される。感染病との戦いに終わりはないと思わなければならないのかもしれません。
コレラ地蔵 丸亀市垂水

  丸亀市亀水町の「コレラ地蔵」
垂水町の土器川生物公園の駐車場横には、小さな墓地があります。その入口に鎮座するのがこのお地蔵さんです。顔立ちが長く、私の第一印象は「ウルトラマンに似とる」でした。ニコニコしながら近づいてみると説明版には次のように書かれていました。

コレラ地蔵 丸亀市垂水3

  開国の産物として、幕末から明治に掛けてから何度もコレラが大流行します。1879(明治12)年には全国で10万人以上の方が亡くなりました。そのコレラの波は20世紀になるまで何度も押し寄せ、多くの人々の命を奪っていったようです。
 亡くなった人々を供養するともに、生き延びたことへの感謝の念もあったのかもしれません。この地蔵様のお顔からは慈悲と悲しみといとおしさが感じられます。合掌
コレラ地蔵 丸亀市垂水2

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 香川県史 近代2 明治前期の衛生 427P

  新しいことは当分の間は書けそうにないので、これまでにまんのう町報のために書いてきた原稿を転載することにします。悪しからず。今回は、100年前の琴平以南の土讃線延長工事についてです。

琴平駅から南の土讃線建設は、どこから始まったか?                
今から130年前の1889(明治22)年5月21日に、丸亀・琴平間で「陸蒸気」が走り始めます。四国で2番目の鉄道開通でした。多度津駅構内での式典に参列した財田の県会議員・大久保諶之丞は祝辞の最後を
「(鉄道)を四州一巡スルニ至ラシメバ、貨多ヲ加へ運送便ヲ得ルヤ必セリ、是ノ時二当テ塩飽諸島ヲ橋台トナシ山陽鉄道二架橋連結セシ」

と未来への大きな「夢と課題」を語りました。しかし、その後の鉄道は琴平から南にはなかなか伸びません。高知への路線が決定して、線路建設が始まるのは第一次世界大戦が終わって2年後の1920(大正12)年4月3日)のことです。琴平までの鉄道開業から30年以上の年月が経っていました。
 開業時の琴平駅は現在の琴参閣ホテルにあり、ここが終点駅でした。土讃線が琴平を通過するには線路を琴平市街の東側に移し、新しい駅舎を作る必要がありました。そこで、ルート変更が行われます。現在の大麻神社前の踏切から左にカーブして金倉川を渡り、直進した所に新駅が建てられることになります。ところが、ここに問題が起きます。当時、認可を受けていた高松ー琴平を結ぶ「コトデン」の線路と交差するのです。そこで、その解決策として土讃線を土盛りして、コトデンの線路の上を高架させる策がとられます。このために、新琴平駅と金倉川までの区間は高く土盛りする必要が出てきました。

コトデン 土讃線交差
コトデンの線路を跨ぐ土讃線高架 後は象頭山

琴平駅と土讃線の土盛り用土砂は、どこから運ばれてきたの?
 当時の新聞「香川新報」には着工後6ケ月たった進捗状況を
「工事にあたっては三坂山より東の神野方面にはトロッコで土砂を運び、西の琴平新駅方面には豆機関車で運搬している。新駅から旧線の分岐点である大麻までの工事は、来月下旬頃に着工予定」

と記されています。また1年経った5月30日の記事には
「鉄路の土盛はほとんど全部終えて、新琴平駅の土盛り作業が小機関車に土運車十数輛をつないで三坂山より運搬して、土盛りし既に大部分埋立てられている」

とあります。  つまり、工事の起点は三坂山であったことが分かります。
まんのう町三坂山切通
まんのう町三坂山切通 ここから盛土はトロッコ列車で琴平駅方面に運ばれた
さて、それでは「三坂山」とはどこにあるのでしょうか?
三坂山は、土讃線と現在の国道32号バイパスが交差する南西側の小さい丘のような山で、すぐ東側を金倉川が流れています。この山の裾の三坂山踏切に立ち琴平方面を眺めてみると、まっすぐに線路が琴平に向かってゆるやかに下って行くのが見えます。ここを切り崩した土砂で整備した上に土讃線のレールは敷かれていったのです。そして、琴平駅もここから「豆機関車」で運ばれた土砂で土盛りされた上に建っているのです。ちょうど百年前の話になります。
 また新聞には
「塩入・財田間の工事も京都の西松組が請負って、本年3月に起工し、目下各方面に土盛をして軽便軌道を敷いて手押土運車で土砂を運んでいる。しかし、これから農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定である」

 確かにかつては「5月麦刈り、6月田植え」で農繁期になり、農家はネコの手も借りたい忙しさでした。線路工事は、農家の男達の冬場の稼ぎ場としては、いい働き口でしたが本業の「田植え」が最優先です。そのため工事は「停滞」するというのです。
まんのう町三坂山踏切
三坂山踏切からの象頭山

工事開始から4年目の春、琴平・財田間の開通日を迎えて次のように報じます。
1919 大正8年9月 実測開始 
1920 4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)
1920 大正 9年4月 3日 土讃線琴平~財田着工。
1923 大正12年5月21日
1923 大正12年5月21日 土讃線琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
 

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(補足)

満濃池の池普請の様子を描いた絵図です。

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護摩壇岩と高松藩と丸亀藩の詰所
①が護摩壇岩と呼ばれ、ここで空海が護摩を焚きながら工事の安全祈行ったとされます。その前には小屋が並んで奥から「丸」と「高」の文字が見えます。高松藩・丸亀藩の小屋で、それぞれの監督官の詰所であったようです。
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②は堰堤上の高台上に鎮座していた神野神社です。その社前には、池御料の小屋が建てられています。ここに工事責任者の榎井村庄屋の長谷川喜平次も毎日、詰めていたのでしょう。
 それぞれの小屋の横には、刻限を知らせるための太鼓が吊されています。例えば、早朝にはこの太鼓が打たれ、周辺の村々の寺院などに寝泊まりする普請百姓が動き出したようです。
③普請現場の堰堤の上には、幕府の倉敷代官所の役人や藩側の代表者、庄屋と思しき人々が立ち並んで、工事の進捗状況を話し合っているようです。堰堤中央が掘り下げられて、底樋が見えています。その向こうには、池の中に一番底の揺(ユル)も見えています。
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④の普請に関わる人足たちの役割は様々で、にぎやかな工事現場の様子が生き生きと伝わってきます。彼らは、讃岐中から無償動員されて、一週間ほど普請に参加することを強制されていました。讃岐中のいろいろな村々からやってきた混成部隊です。

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この中で注目して欲しいのが⑤です。大勢の人がひっぱつっているのは、庵治から運ばれてきた石材です。それまで、底樋には松など木材が使われていました。それが今回から石材化されることになりました。それが現場に届き、設置されていく場面を描いた絵図です。ある意味、これを描かせたかったために作られた絵図なのかも知れません。
満濃池普請は、動員された百姓にとっては「大きな迷惑」で「いこか まんしょか 満濃池普請」と云われたことが以前にお話ししました。しかし、ある意味では讃岐の恒例行事でもあり、風物詩でもあったようです。⑥の川沿いには、家族連れらしい見物人たちの姿が何人もいます。
最後に見ておきたいのが⑦の「うて目」です。
古代の工事の際に、余水吐きとして岩盤を削って作られたといいます。その仕上がり具合が鉋をかけたほどなめらかだったので、この名前で呼ばれるようになったと古文書は記します。現在の余水捌けは東側にありますが、近代までは西側にあったこと。それが現在の神野寺の下辺りに当たることを押さえておきたいと思います。
 こうして修築された満濃池が翌年の大地震を契機に、決壊してしまうことはすでにお話しした通りです。今回は、満濃池の堰堤の変遷に焦点を当てて見ていこうと思います。
その前に木樋から石樋へ転換について、もう一度簡単に説明しておきます 
満濃池 底樋
 満濃池の樋管である揺(ゆる)は、かつては木製で提の底に埋められました。そのため数十年ごとに交換する必要がありました。この普請は大規模なもので、讃岐国全土から人々が駆り出されました。そのために
「行こうか、まんしょうか(どなんしょか)、満濃池普請、百姓泣かせの池普請」

というような里謡が残っています。
 このような樋管替えの負担を減らしたいと考えた榎井村庄屋の長谷川喜平次は、木製樋管から石材を組み合わせ瓦石製の樋管を採用することにしました。工事は嘉永二(1849)年の前半と、嘉永6(1853)年の後半の二期に分けて行われます。この画期的な普請事業の完成に、喜平次は「図面通りに普請は終わりました。丈夫に出来ました」と誇らかに倉敷の代官所に報告しています。
DSC00820

 この絵は、多色刷り木版画です。「文山」の落款と朱印がありますので、琴平に足跡を残した合葉文山によるものであることがわかります。絵図の上の空白部には和歌や漢詩が記されています。奈良松荘の歌に「嘉永六年(1853)といふとしの春」とあり、絵図中央下の底樋が石造となっていることから、底樋を木製から石造に改めた後半の伏替普請の様子が描かれたものと特定できるようです。
  それでは、この当時の満濃池の普段の姿を、どうだったのでしょうか?
 満濃池遊鶴(1845年)
                                       
 象頭山八景 満濃池遊鶴[弘化2年(1845)]    
この絵は「象頭山八景」の中の一つとして弘化2年(1845)3月に描かれたものです。この年は、金毘羅大権現の一大モニュメントとして金光院金堂(現旭社)が姿を現し、入仏が行われた年でした。その記念に8枚1組の絵図として制作された木版画のようです。この前年に奥書院の襖絵を描いた京都の両家岸岱とその弟子岸孔、有芳と大阪の公圭らによって描かれています。

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「満濃池遊鶴」には、満濃池に渡ってきた鶴の群れ描かれています。二百年前の讃岐の空には、鶴が舞っていたことが分かります。
 左右の高台を結ぶように堰堤が築かれています。西側(向かって右側)の高台には、鳥居と社が描かれています。これが先ほど見た神野神社のようです。その右側には余水吐(うて目)から水が勢いよく流れ落ちる様子が描かれています。水をなみなみとたたえた満水の満濃池池の姿です。周囲には松が生え、水際には葦(?)が茂っています。そこに鶴たちが舞い降りて群れとなっています。そうすると東側(左)の高台が護摩壇岩になるようです。
 この絵の中で私が気になるのは遠景です。池の中央に大きな島が描かれているように見えます。
この当時の堰堤の高さだと、池の中にはこんな島がまだ姿を見せていたのでしょうか。もうひとつは、阿讃山脈との関係です。今、堰堤に立ち南を望むと目に飛び込んでくるのは、大川山を盟主とする讃岐山脈です。そこには視線は向けられていないようです。和歌や漢詩を入れるスペースを作り出すために省かれたのでしょうか?
 その他の絵図と比較してみましょう。
DSC00847

 金毘羅参詣名所図会[弘化4年(1847)]です。
この図絵に挿絵として使われているのが上絵です。一番西側(右)に瀧のように流れ落ちる余水吐き(うてめ)があり、その左に鳥居と社があります。これが池の宮(神野神社)なのでしょう。そして東に堰堤がのびています。池の内側を見ると、鶴がいます。どこかで見たなあと思ったはずです。ここで使われている挿絵は、先ほど紹介した「象頭山八景 満濃池遊鶴」を流用したもののようです。コピーなのです。この場合に、使用料は支払われていたのでしょうか。著作権のない時代ですから笑って済ますほかなかったのかもしれません。

この絵図が出された前年の弘化2年(1846)というのは、金毘羅大権現にとっては特別な年でした。それは長年の普請を経て金堂(旭社)の落慶供養が行われた年だったからです。これを記念して、松尾寺金光院は、いろいろなイベントや文化活動を行っています。その中に上方の芸術家を招いて、ふすま絵を描かせたり、新たな名所図会出版の企画なども行っています。
  ビッグイベントの翌年、暁鐘成と絵師・浦川公佐を招きます。
彼らは浪華の湊を出帆してから丸亀の湊に着き、金毘羅山に詣で、2ヶ月ほど逗留して、西は観音寺まで、東は屋島源平古戦場までの名所を綴りました。それが弘化4年(1848)に出される「金毘羅参詣名所図会」です。しかし、これでは比較ができません。もう一枚別の絵図を見てみましょう。
満濃池「讃岐国名勝図会」池の宮
 讃岐国名勝図会 萬濃池池宮 嘉永7年(1854)

手前の「護摩壇岩→堰堤→神野神社→余水吐け(うてめ)は、今まで通りの描き方です。パターン化してきたことがうかがえます。しかし、遠景は今までとは大きく異なります。大川山から山頭山までの讃岐山脈がしっかりと描き込まれています。でも、なにかおかしい・・
実際に見える遠景と比べて見ましょう。
DSC04978

パノラマ写真で見ると池尻にあたる五毛集落の向こうに、大川山は見えます。拡大すると、
DSC04975

低く連なる讃岐山脈の中でピラミダカルな山容が盟主の大川山です。
 大川山が「讃岐国名勝図会 萬濃池池宮」の中に正しい位置に書かれるとすれば折り目あたりになります。堰堤からは三頭山は、見えません。しかし、「讃岐国名勝図会」では正面に一番大きく描かれています。そこには大川山があるべき位置です。

DSC04977
特徴的な笠取山
実際に、大川山の東(左)に見えるのは、笠取山です。しかし、この山はあまり見栄えがしない姿で描かれます。どうも「三頭山」を大きく描きたい動機(下心)があるようです。三頭山には、阿讃越の峠としては最も有名な三頭峠がありました。これを描かない手はありません。営業的な効果も考えながら描かれた気配がしてきます。

 池全体の形も分かります。ここには「鶴舞図」に描かれた池の中の島はありません。この絵の方が「写実的」で事実に近いと私は思っています。この点を押さえて次の絵図を見てみましょう。
  江戸初期に西嶋八兵衛が再築に取りかかる前の満濃池の様子を描いた「満濃池営築図」です。
満濃池 西嶋八兵衛復興前1DSC00813

何が描かれているか分かりますか?
相当にらめっこしましたが私は、何が書いてるか分かりませんでした。そして、降参。次の模写図を見ました。
満濃池 決壊後の満濃池


    源平合戦の最中に決壊して以来、約450年間にわたって放棄された満濃池の姿です。
①左下から中央を通って上に伸びていくのが金倉川です。川の中には、大小の石がゴロゴロと転がっている様子が見えます。鎌倉時代の崩壊時の時に崩れ落ちた石なのでしょうか。
②金倉川を挟んで中央に2つの高台があります。左(東)側が④「護摩壇岩」で、右(西)が②池の宮(神野神社)のようです。
③丘の右側の小川は「うてめ」(余水吐)の跡で、川のように描かれています。ここに描かれているのは、「古代満濃池の堰堤跡」のようです。
⑤旧池内には数軒の民家と道、農地を区切るあぜ道が描かれています。これが、中世以後旧満濃池を開発して成立していた「池内村」の一部のようです。
満濃池堰堤図 

  護摩壇石や神野神社の高台は、今はどうなっているのでしょうか?
古代と近世に再興された満濃池の堰堤は、ほぼ同じ高さ(約22~24m)ったと研究者は考えているようです。大林建設も弘仁12年(821)の満濃池を推定する際には、西嶋八兵衛の築造図を参考にしています。それが下の平面図です。今まで堰堤を見てきたことを確認しておきましょう。
満濃池空海復元図1

この姿が変わるのは、明治になって行われた長谷川佐太郎による復興です。佐太郎は、うてめの岩に穴を開けて底樋とすることを発案し、それを実行しました。それが下の平面図になります。

満濃池 長谷川佐太郎平面図版

そのためそれまでの余水吐きは、東側に移され現在の地点になりました。さらに、戦後の第三次嵩上げ工事で堰堤の位置は大きく変更されます。
満濃池 第3次嵩上げ(1959年)

今までの堰堤は、護摩壇岩と池の宮(神野神社)の高台の前にアーチ状に作られていました。しかし、堰堤を高くするために、背後に築造
満濃池護摩壇岩1
         わずかに頭を見せる護摩壇岩

そして、水没してしまうことになった池の宮は現在の高台に移築されることになります。数m高かった護摩壇岩は水没は避けられましたが、わずかに頭を残すだけになりました。
満濃池 堰堤断面図(大林建設復元プロジェクト)
一番左側が西嶋八兵衛 真ん中が長谷川佐太郎 右が戦後の堰堤の位置と断面図

満濃池 現状図
満濃池現状図
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
 田中健二 歴史資料から見た満濃池の景観変遷
 大林建設復元プロジェクト 空海の満濃池復元
満濃池名勝調査報告 まんのう町教育委員会 2019年3月刊
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  多度津港 天保2年 湛甫以前
天保2年の多度津 湛甫工事前で桜川河口に港がある

多度津湛甫は天保九年(1838)に完成します。
桜川沿いの須賀の金刀比羅神社の鳥居には、次のように刻まれています。
「天保十一年庚子季冬良日  当藩講連中」

築港完成と藩講成就記念として、この鳥居が建てられたことが分かります。湛甫の完成は、次のようなものを多度津にもたらします。
①金毘羅参拝客の中国・九州方面からの受入港としての機能
②北前船につながる瀬戸内海交易の拠点港としての機能
③湛甫(港)工事を通じて形成された官民一体性 
④その中で台頭してきた商業資本の活発な活動 
これらが小藩に人とモノと金があつまるシステムと、商業資本に活動の舞台をもたらします。それが後の「多度津七福人」と呼ばれる商業資本家グループの形成につながるようです。今回は、多度津港のその後を見ていきたいと思います。テキストは 多度津町史「港湾の変遷と土地造成」501P~ です。

 北前船の出入で賑わう港 天保の港で多度津藩は飛躍 
 多度津湛甫に入港する舟からは帆別銀が徴収されました。
その甫銭(入港料)は次の通りでした。
①一隻につき30文
②波止内入船については、帆一反について18文ずつ
③30石舟で三反、180石積で14反、四・五百石積以上の千石船は21反で計算
21反の帆を持つ千石舟で計算すると
21反×18文=376文 + 入港料一律30文 で、千石舟は400文近くの入港料を納めていたことになります。ちなみに天保十年の正月より六月まで半年間の入船数は1302艘と記されます。
 しかし、入港料よりも多度津に富をもたらしたのは、千石舟がもたらす積荷です。その積荷を扱う問屋は、近隣港や後背地との商売で多額の利益を上げるようになります。こうして、幕末の多度津は新興交易港として急速な発展を見せ、街並みも拡充していったようです。
多度津町教育委員会

江戸末期になると綿などの商品作物栽培のために、農家は千鰯を肥料として多く使用するようになります。北前船の入港によって羽鰊・鱗〆粕など魚肥の需要が増え、これを扱う干鰯問屋が軒を並べて繁盛するのは、瀬戸の港町のどこにも見られる風景になります。
丸亀港をも凌ぐ讃岐一の良港の完成によって、多度津港は中国・九州・上方はもとより、遠く江戸方面からの金毘羅宮・善通寺への参詣船や、あるいは諸国の物産を運ぶ船でにぎわい、瀬戸内海屈指の良港として繁栄していきます。
暁鐘成編(弘化四年刊)「金毘羅参詣名所図会」(写真)には次のように記されています。
金毘羅船々♫

此の津は、円亀に続きての繁昌の地なり。原来波塘の構へよく、入船の便利よきが故に湊に泊る船移しく、浜辺には船宿、 旅籠屋建てつづき、或は岸に上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の担売、甘酒、餅菓子など商ふ者往来たゆる事なく、其のほか商人、船大工等ありて、平生に賑はし。」
亦、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。其の都合よきを以て此に船を待たせ参詣する者多し。
意訳変換しておくと
この港は、丸亀に続いて繁盛している。波留設備が得できていて、入船出船の便利がいいので、数多くの舟が湊に入ってくる。岸には船宿、 旅籠屋が建ち並び、上酒や煮売など出店、饂飩(うどん)や蕎麦の屋台、甘酒・餅菓子などを商う者が行き交う姿が絶えることが内。その他にも商人や船大工等もいて、よく賑わっている。
 また、西国筋の往来船の中で、金毘羅参詣する者はここに着船して善通寺を参拝してから象頭山金毘羅さんに登る。それに都合がいいので、この港に船を待たせ参詣する者が多い。

と、多度津港の繁栄ぶりを記しています。

もう少し幕末の多度津を見ておきましょう。
安政六年(1859)九月、越後長岡の家老河井継之助が、尊敬していた山田方谷を備中国松山にたずねた時の旅日記「塵壺」には、多度津の姿が次のように記されています。

多度津は城下にて、且つ船着故、賑やかなり。昼時分故、船宿にて飯を食い、指図にて直ちに舟に入りし処、夜になりて舟を出す。それまでは諸方の乗合、しきりにば久(博打)をなし、うるさき事なり、さきに云ひし如く、玉島、丸亀、多度津、何れも船着きの備え様、奇麗なり。

意訳変換しておくと
多度津は城下街で、かつ船着港であるため賑やかである。昼時分なので船宿で飯を食べて、指示通りにすぐに舟に入ったが、舟が出たのは夜になってからだった。それまでは、舟の上では乗合客が、博打をうってにぎやかなことこのうえない。先ほども云ったが、玉島、丸亀、多度津は、どこも港町で街も奇麗である。

更に、慶応元年(1865)の秋から冬にかけ、京都の蘭医小石中蔵が京都~平戸間を往復した帰途に、多度津港に上陸して金昆羅参詣をしています。その時の多度津港の様子を、彼は旅日記「東帰日記」には次のように記されています。
多度津は、京極淡路様御城下なり、御城は平城にて海に臨む、松樹深くして兇え難し、御城の東(西の間違いか)に湊あり、波戸にて引廻し、入口三か処あり、わたり二丁廻りあるべし、みな石垣切石にて、誠に見事也、
数十の船此内に泊す、大凡大坂西国の便船、四国路にかゝる、此湊に入る也、其船客、金毘羅参詣の者、みな此処にかゝる、此舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するよし、外舟にも此例多し。
意訳変換しておくと
多度津は、京極淡路守様の御城下である。城は平城にで海を臨み、松が繁り伺いがたい。御城の西に湊があり、歯止めがあり、入口が三か処あり、すべて石垣は切石で、誠に見事な造りである。
数十艘の舟が湾内には停泊しており、大体が大坂西国の便船で四国路に関係する舟はこの湊に入る。金毘羅参詣の者はみなここで下りる。この舟も大坂往来の際には、かならず参詣するという。その他の舟も、このような例が多い。
これらの記録からは、多度津の金毘羅参詣船の寄港地としての繁盛ぶりがうかがえます。                
天保九(1838)年に完成した多度津湛甫は、明治半ばになると、港内に桜川からの堆積物が流れ込み、港内が埋まってきます。一方で
 明治中期になると、瀬戸内海の各港を結ぶ定期航路が整備され、客船が盛んに多度津港へも出入りするようになり、客船の大型化が進みます。従来の和船と違って吃水の深い汽船は、出入りに不便が生じるようになります。
 明治になっても金刀比羅宮や善通寺参詣熱は衰えませんでした。参拝客でにぎわっていた多度津港にとって、新しい蒸気船時代にあった港の整備が課題になってきます。

多度津湛甫の見取り図

明治5年には、当時の多度津戸長(町長)が港ざらえについて、次のような通達を出しています。
湛浦浚方の事
当湛浦は一村の盛衰に係候場所に候所 各々存知の通り、次第に浅く相成り既に干汐の節は入船入り難く、小繁昌の基いに付、此度浚方(さらえ)相企て本願候処御聞済下され、毎年帆別銭悉差し下し相成、其上金百両下賜候右様県庁よりも深く御世話下され候段感激奉り候。
各々家職の義は港の深浅に依り、損益少なからず候事に付一層勉励致し、相磨き力を合わせて前文諸説を合わせて資金として、永世不場の仕方相立て度候条、浚方簡場の見込有之候はば無腹臓中出すべく候
此段相達候也
壬申(明治5年)九月                                    戸 長
この願い出は、明治9年10月にはいったん許可になり、 直ちに工事に着手しました。ところが5年後の明治14年5月になって「ご詮議の次第あり」と港ざらえ中止の通達が下されます。
そうした矢先に、明治17年8月には台風水害のため港は一層浅くなってしまいます。
 そこで、多度津村会は次のような願出を愛媛県知事に提出しています。
「先年許可になった一三か年間の帆別銭の取り立てのうち、明治9年11月から14年2月までの56か月分を除いた8年4か月分の帆別銭を徴収させて欲しい。浚渫した土砂は、桜川一帯を埋め立てて宅地とし、これを売った益金を今後の港改修費用にあてたい」
 


この計画案は、明治21年2月18日付で次のように許可されます。
①桜川埋め立ては本年12月までに竣工すること
②港内浚渫は許可日より50日以内に着手、10か月間に竣工。
③竣工後、8年5か月間、規定の入港銭徴収を認める。しかし軍艦、水上警察署官用船からは徴収できない
④先に引き揚げた遺払残金1320円60銭3厘は郡役所を経て下げ渡す。
これを受けて 
旧藩主京極家より 2000円
郡より    820円
船改所の公売代金 1366円
12人の寄付金   804円
合計4900円で浚渫工事に着工します。
この時に浚渫から出た土砂で、桜川の旧港や左岸一帯は埋め立てられたようです。
こうして桜川沿いの仲ノ町5番10号から東浜4・5番のあたりが造成され、港に通じる道路の両側には、旅館・商店等が軒を連ねる繁華街が生まれます。
P1240931
浚渫の土砂で埋め立てられた上に、建設された鉄道施設
明治22年には、桜川河口右岸にあった旧藩士調練場とその周辺(現市民会館サクラート)は、讃岐鉄道に買収されます。ここを起点として多度津駅並びに器械場(修理工場)が建設されます。こうして旧京極藩陣屋は、鉄道ステーションへと一変することになります。

P1240953 初代多度津駅
初代多度津駅
 そして5月23日には多度津~琴平、多度津~丸亀間に鉄道が開通し、多度津駅がその起点となるのです。この時に、金毘羅橋の北手の讃岐信用金庫多度津支店裏通り付近も埋め立てられました。

多度津駅初代
初代多度津駅
一方、明治19年4月、大久保誰之丞の提唱で四国新道工事も伸びて来ます。
そのため琴平~多度津間の道路も拡張されます。この一環として鍛冶屋町(現仲/町付近)や須賀町(現大通り)の民家が立ち退きになります。須賀町にあった金刀比羅神社も、この道路にかかり、現在地へ移されます。この道路の開通により現在の大通りが形成され、人家は急速に立ち並んで行くことになります。
多度津 明治24年桜川埋め立て概況
明治24年 多度津桜川の埋め立て部分

日清戦争時の多度津港改築の出願 東浜の埋め立て 
 日清戦争後の明治29年(1896)10月、港内の浚渫と、東浜内港の埋め立てが終了します。この埋立地は現在の東浜六にあたり、ここに水上警察署用地・荷揚場・階段(大がんぎ)・道路・宅地合わせて、2906㎡を造り、内港に入れない汽船からの旅客の上陸や、貨物の荷揚げの便をはかられました。この荷揚場は、日露戦争に出航する兵士の乗船場として大いに役立ったと云います。

多度津港地図

西浜海岸の埋め立て
 日露戦争が始まると出征する第十一師団の各部隊は、多度津沖に停泊した大型汽船で大陸に出征していきました。旅順攻撃で戦死・戦傷して帰還するため、多度津港は送迎の官民で溢れるようになります。
 そのモニュメントして桃陵公園に立っているのが「一太郎やーい」の銅像です。戦地に赴く息子を見送る母親像については、以前に紹介しましたが、この時に一太郎が乗った船はハシケでした。ここからは、大型汽船は沖合に停泊して、乗降者はハシケに乗って、港と船を移動しなければならなかったことが分かります。善通寺11師団の多度津港の軍用港としての整備拡充が、政府の「富国強兵」からも求められるようになります。
日露戦争時の多度津港

日露戦争時の多度津港

 このような機運を受けて、多度津町長塩田政之は 明治39年4月、内務大臣原敬に次のような改築工事申請書を提出します。

多度津は四国の各地を始めとし、阪神地方及び西海中国の諸港と交通の衝路に当り船舶輻輳して貨客集散の地たり。殊に金刀比羅宮参詣旅客の、当港より登降するもの夥しく、四時絶ゆることなし。而して当港に接近せる地方の物産、海外に輸出するものを挙ぐれば、麦科真田・竹細・団扇・花筵・紡縞・生糸、食塩・米穀・木綿及び、水産物製造品等にして、其の需要国は支那・朝鮮及び英米なり。

 輸入品は米穀・肥料・砂糖・石油・織物・綿・洋鉄の類にして、明治36年の調査に依れば、其の輸出入品価格は実に130万円に達せり。而して人口一万未満の当町商人の取扱する、当港経由輸出入商品の価格は、明治三十六年に於いて218万余円なり。而して一等測候所あり、一等郵便電信局あり、水難救済所あり、共の他船舶司検所あり、港湾の要具悉く備れり。且つ本港は第十一師団司令部を経る、僅一里十町(約5㎞)に過ぎずして、商業最も繁盛の地なり。讃岐鉄道も本港を起点として高松に達し南琴平に至る。しかのみならず四国新道は既に開通して、高知徳島愛暖に達する便あり、且つ現今に於いて当港と尾道間に於いて、山陽鉄道連絡汽船日々航海をなし、運輸上に革新を来すと雖も、現在の多度津港は未だ交通の開けぎる、天保年間当時の築港なれば、規模甚だ小にして、今日の趨勢に適応すること能はず。共の不便実に鮮少ならぎるなり。而して東方高松に於いては、長きに築港の完成なるあり。故に今之れを改築して、高松と東西相呼応し、以て貨客集故の要地となすは、刻下の急務と存ぜられ候。而して時恰も日露戦後に際し、臨時乙部碇泊司今部の設置等ありしも、軍隊輸送上大いに不便を感ずる所あり。故に今回更に測量の結果、ニケ年の継統工事となし、本港を改築する事を、町会に於いて本議を一決し、永遠の利益を企図し、一面軍事上運輸交通を便にし、殖産興業の発達を謀り、又日露戦役の紀念たらしめんとする。
 然るに其の費額総計19万7917円3銭7厘の巨額を要するを以て、共の内金18万9340円67銭6厘は、之を公債に仰がんとす。共の所以は本町民の負担を見るに、国税割等90銭戸別割は一戸につき8円50銭強の負担にして、何れも重荷なるのみないず、直接国税府県町村税等の負担を合すれば、 一戸につき29円60銭3厘なり。斯の如く各種の負担は、共の極に辻し、重課と云はざるを得ず。故に本事業に対する費額全部を、一時に賦課徴収するは、不可能の事に属するを以て、之れを公債に依らんとするや、実に止むを得ざるなり。
この申請書は認められます。その費用は次の通りでした
総工事費は 385568円
県費補助    25910円
郡費補助     1200円
町税及び公債 221543円
公債は港と桟橋の使用料で支払う計画だったようです。当時の道路や港が町村の「自己負担」なしではできなかったことがここからは分かります。町長は、県の支援額をできるだけ多く得てくることと、地元負担をどのようにして集めるかが大きな手腕とされた時代です。予算オーバーすれば、町長が自腹を切ったという話がいろいろな町に残っています。町長は県議を兼任し、県議会で地元の道路や港などの建設資金の獲得に奔走したのは、以前にお話ししました。
1911年多度津港
明治44(1911)年の多度津港 
この起債申請に対し、明治39年7月に国の許可が下ります。
こうして12月1日に、東突堤中心位置に捨石が投入されて工事が始まります。この拡張工事は、天保9(1837)の湛甫の一文字堤防の北側に外港を造って、その中に桟橋を設けて大型汽船の横付けができるようにするものでした。そのために、次のような工事が同時に進められます。
①西側は、嶽ケ下の北側に長さ510mの西突堤
②東側は、約26000㎡の埋め立ての北に、防浪壁のついた330mの東突堤
③同時に浚渫した土砂で埋め立て地を造成

1911年多度津港 新港工事
多度津港の外港工事

こうして、幕末から明治末に掛けての多度津は、すぐれた港湾設備を持つことによって、高松や丸亀を凌駕するほどの港町となっていたのです。そこに蓄積された資本や人脈が鉄道や電力などの近代工業を、この町に根付かせていくことになったようです。まとまりがなくなりましたが最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 多度津町史「港湾の変遷と土地造成」501P~ 

哲学者の梅原猛は「廃仏毀釈という神殺し」という次のような文章を山陽新聞に寄稿しています。(要旨)
 仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。
 江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。
「神々の殺害」という廃仏毀釈が五流一山に、どのように襲いかかったのかをみてみることにします
熊野神社(倉敷市児島) (10月27日) : 夢民谷住人の日記4
現在の児島 熊野神社

 五流一山は、神道の熊野神社と仏教の五流修験に分割されます。
神社には神職として旧祠官の大守有太と還俗した大願寺の宮本右藤太、下禰宜の高見弥三郎の三名が奉仕することになります。そして五流修験は神社からは追放されます。追放された修験者たちは、旧観音堂を本堂(現本地堂)として、吉祥院、智蓮光院、太法院、尊滝院、伝法院、建徳院、報恩院で一山を再形成します。これが現在の三重の塔のエリアになります。さらに明治6年には神社は、郷内村を氏子圈とする郷社熊野神社と名前を変えます。

五流 明治初頭の新熊野十二所権現
明治初年頃の五流一山

 一方修験者は、明治五年の修験道廃止後は聖護院を本寺として天台宗寺門派に所属することになります。
神仏分離で、五流の5院や公卿12院は壊滅状態になったようです。
田辺進、「親子で読む 続編郷内の歴史散歩」2005には、次のように記されます。
 今熊野十二所権現の鎮座する林村は、幕末の頃、凡そ162軒のなか45軒が山伏であり、修験道廃止によって、失業となる。五流尊瀧院のみ天台宗の寺院となり、後は全て還俗する。
 還俗後、このころ警察官・軍人の職業が生み出されたので、そちらに就業した人も多かったといい、五流伝法院の兄弟は軍人となり高官に出世したと伝える。伝法院も建徳院も大阪のほうに移るともいう。

 「幕末の頃、凡そ162軒のなか45軒が山伏」とあります。中世から比べると規模は縮小していたとはいえ、1/3近くの住民が山伏を生業としていたことがわかります。神仏分離で警察官や軍人に「転業」した人たちが多かったようです。

 修験者(山伏)関係の寺院を地図上で確認しておきましょう。
 五流 山伏寺判明図
  五流;
  建徳院(高槻市内藤家)
  報恩院(林・新見家)
  伝法院(大阪市三宅家)
八院:
  大泉院(林・三宅家)、正寿院(林・内藤家)
  観了院(林・本多家)、宝良院(林、岡田家)
非座衆35ヶ寺
  大願寺(今、宮本家)、西光坊(今、西方寺)串田
  有南院(今、一等寺)曽原、惣持坊(今、宝寿院)福江
  杉本坊(今、慈眼院)尾原、仁平寺(今、真浄院)林
  南之坊(今、大慈院)植松、法華寺(今、蓮華院)浦田
  神宮寺(禰宜屋敷) 是如院(報恩院の上手)
  蜜蔵坊(竹田の田の中)  多宝坊(宝良院の下手)
  宝生坊(木見、惣願寺)  清楽寺(祠官屋敷)
かつての五流長床衆の寺院跡を見ておきましょう。
五流 絵図

十二所権現本社の西側にあったのが大願寺です。今はなにもありませんが「中国名所圖會」巻之2「熊野神社全図」で、その姿を想像することはできます。「本社と別当寺」という関係がうかがえる絵図です。
明治の神仏分離で大願寺は廃寺になり、住職は神職となり、明治10年頃まで仕えたようです。明治7年桜井小学校が旧大願寺に新設され、旧大願寺客殿及や長床は教室として使用されます。そのためここには、旧学校跡の石碑が建っています。
五流 大願寺跡

大願寺の南は行者池で、その中島が桜井塚です。
今は陸続きになっています。この中島が、後鳥羽上皇の皇子桜井宮覚仁法親王の御墓所(「備前紀」)だとされます。石造十三重塔は、供養塔と云われ、初重の軸部(鎌倉中期)だけでしたが、皇国史観が高まる明治末になって、現在のように十三重石塔に再建されたものです。
五流 供養塔拡大部

◆後鳥羽上皇供養宝塔(重文):
 三重塔南にある供養塔です。承久の乱で流刑となっていた桜井宮覚仁親王と冷泉宮頼仁親王が 、父後鳥羽上皇一周忌供養のために仁治元年(1240)に建立したと伝えられます。かつては覆屋(御廟)を建て、一切経を納めた経蔵が付設されていたと云います。
五流 後鳥羽上皇御影塔
 

真浄院:(旧五流報恩院)
明治23年、かつての五流報恩院の土地建物を譲り受けて、移転したようです。報恩院の敷地は広かったようで、真浄院の敷地は、その南側1/3程度になるようです。寺号は「備前記」では「新熊野山仁平寺」、「備陽国誌」では「金光山妙音寺真浄院」とあります。現在、この寺は「金光山妙音寺真浄院」と公称します。「仁平寺」とは、十二所権現非座衆35ヶ寺中に見える寺号でなので、十二所権現の社僧の流れを汲む寺院のようです。
 
◆大仙智明権現:

五流 大仙智明権現

五流太法院跡の南の一画に大仙(大山)智明大権現の堂宇があります。太法院跡の西側には、多くの地蔵石仏が並びます。先述したように近世になると、五流修験の山伏が先達となって信者を伯耆大山に登拝する風習が盛んになります。その際の登拝許可などは五流山伏が握っていました。そのため各地から五流の山伏寺に、登拝許可を受けに来ました。こうした大山と五流山伏との関係から、大山智明権現が五流に勧請されたようです。智明権現の本地は、大山寺本尊地蔵菩薩になるようです。
覚城院も山伏廃止令で廃寺となったようです。
五流 覚城院

しかし、児島四国88ヶ所第53番札所が大願寺から移され、そのため覚城院堂宇は天台宗阿弥陀庵として、現在まで存続しました。本尊は阿弥陀如来坐像で、元の覚城院本尊と伝えられます。覚城院は明治維新まで十二所権現裏(北)にある福岡山に鎮座する福岡明神の別當でもあったようです。
寺院エリアの残る「新熊野十二所権現三重塔」を見ておきましょう。
五流 本山
右が三重の塔 左が長床(焼失)

熊野十二所権現社の長床前広場の東・段上に鐘楼・役行者堂と並んでいます。一辺4.3m、総高21.5m(青銅製相輪6.8m)の三重塔で、応仁の乱で焼失したものを、別当大願寺天誉上人によって、再興されます。しかし、安永から天明年中(1781-89)に倒壊したようです。それを、別当大願寺湛海が願主となり、文政3年(1820)に再興したものです。この時期には、善通寺の五重塔や金毘羅大権現の旭社も建立中であった時期になります。寺社の建築ラッシュの時代です。
  この塔の背後の上段には本地堂があります。
五流 日本第一熊野大権現本堂

かつては、「本堂、権現堂、観音堂」とも呼ばれていたようで、十一面観音立像を安置されています。大願寺廃寺になって、ここに遷されたようです。
五流 熊野十二所神社本社
長床が焼失して、さえぎるものがなくなった本社

神社エリアを見ておきましょう。
十二所権現の社殿です。
向かって左から、第三殿、第一殿、第ニ殿、第四殿、第五殿、第六殿となるようです。
五流 熊野十二所神社本社3

第1殿は春日造で第2殿と同規模、
第3殿は桁行3間梁間2間の入母屋造、
五流 三殿

第4殿及び第5殿は4間社流造、第2殿は明応元年(1492)の再建で重文(正面1間側面2間、春日造、正面1間向拝付設)
五流 第6殿

一番右側の第6殿は、1間社流造で、他の社伝よりも小振りです。
第2殿以外は、池田光政により正保4年(1647)再建とされますが、天保11年(1840)再建との古記録もあり、様式上からは天保11年再建とする方が妥当と研究者は考えているようです。
なお、現在、神社側の説明版には「熊野神社祭神は伊邪那美神、伊邪奈岐神、家都御子神、速玉之男神」とあります。ここには熊野の神達の名前はありません。それ以外にも記紀の神々(アマテラス、ニニギなど)が祭神として祀られているようです。
これだけを見ると、最初に挙げた梅原猛の「廃仏毀釈は、神々の殺害
」であったという言葉に真実みが出てくるように私には思えてきます。
五流 長床

 本殿の前にあった長床。
 長床は修験道場で、享保年中(1716-35)の再建と伝えられていました。瓦には、室町期のものが多く使われていて、室町期の建築を再興したものであろうとされていたようです。明和5年(1768)の再建との記録があるとも云われていたようです。13間×3間の長大な建築で、中央右2間が通路で、拝殿も兼ねます。
長床で、社殿は隠されていましたが焼失後は社殿が剥き出しになっていました。この方が開放的でよいと言う人もいますが、どうでしょうか。 
明治維新の神仏分離で次のような境界線が引かれたようです
①三重塔の建つ5段ほどの石階から上は五流山伏の所有地
②それ以外は熊野神社の所有地
この分割ラインでは、長床は神社の所有地の上に建っています。しかし、その機能上から建物は五流山伏の所有とされてきました。そのため、神社側は長床を拝殿として使用するため、五流側から「借用」という形をとってきたそうです。
 平成19年に再建されますが、以前の姿とは全く違う「近代的スタイル」の建築物になっています。

 参考文献
神 仏 分 離 あるいは 廃 仏 毀 釈備前新熊野十二所権現(五流修備前新熊野十二所権現(五流修験・五流尊瀧院・尊瀧院三重塔)
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_goryu.htm

 金毘羅さんの博覧会は明治12年の方が有名ですが、それより6年前に明治6年(1873)3月1日に金刀比羅宮(当時は「事比羅宮」)社務所書院を会場として、第1回博覧会が開かれています。今回は、この時の博覧会について見ていきたいと思います

 禰宜(ねぎ)職であった松岡調は、「展覧会の引札(広告案内パンフレット)」が刷り上がってきたときことについて、次のように記しています。
  九日 とくより社務所にものせり、
(○中略)過日にゆるされたる展覧会のひき札(広告)を、今日より御守処にて詣つる人々に分布させつ、此彫したは、己かものして彫セたるなり、
 方今宇内ノ各国博覧会卜云ヲ開テ、天産ノ品ニョリテ其国ノ風気ノ善ヲ知リ、人造ノ物ニョリテ其民ノエ芸ノ妙ナルヲ徴シ、就中古器旧物二至リテハ時勢ノ推遷、制度ノ沿革ヲ追観センカ為、互二徴集ヲ鼓舞スル克卜ハ成レリ、サレバ其意二体シ、皇国中二於テモマヽ其設アリ、此ニョリテ今度官許ヲ乞テ、来酉年三月朔ヨリ四月望マテ、金刀比羅宮社務所二於テ展覧会ヲ設テ、神庫ノ諸品ヲ始、其他各地ノ物品、新古廳密二不拘、コトコトク之ヲ群集シテ、互二図ノ栄誉、エノ精妙、古今ノ変遷ヲシラシメント欲ス、故二四方ノ君子、秘蔵ノ奇品、古器等ヲ資シ来テ、此席二加列セン事ヲ翼フニナン、物品差出ノ規、売却交易ノ則等ハ、厳重二定タリ、当町内町虎屋、備前屋、桜屋三軒ノ内ヲ会談所卜設ケ置レハ、物品等持参ノ諸君子、先彼所へ到着有テ、巨細ノ規則ヲ尋問為給ヘカシ、
      明治五年壬申八月十日
                琴平山社務所
          (『年々日記』明治五年 三十五、)
 意訳すると、
先日認可された展覧会のひき札(広告)を、今日から御守販売所での配布を始めた。今回作成したものは、各国博覧会が天産品によってその国の気風を知り、国民が作ったもので、その国のエ芸のすぐれた所を表す、また、古器旧物からは、時勢の推遷、制度の沿革などを知ることができる。それは互の出展品を集め鼓舞ことにもつながる。このような目的のために、皇国の展覧会が各地で開かれるようになった。
 この度、博覧会の開催を、来酉年三月から四月まで、金刀比羅宮社務所で展覧会を開き、神庫の諸品を始め、その他各地元物産、新古廳密関わらず、ことごとくこれを集めて、互いの栄誉、精妙、古今の変遷を世に知らしめたいと思う。そのためにも、全国の人々が秘蔵する奇品、古器等を展覧会に出品することをお願いしたい。物品輸送屋・納入、売却交易などについては規則を定め厳重に取り扱う。内町の虎屋、備前屋、桜屋の3軒を会談所にするので、物品等を持参じた諸君は、ここで詳細の規則を確認していただきたい。
      明治五年壬申八月十日
ここには、開催目的が
①「天産ノ品ニヨリテ其国ノ風気ノ善ヲ知リ、人造ノ物ニヨリテ其民ノエ芸ノ妙ナルヲ徴シ」と、出品された品々を通じて全国各地の風気(風俗)や工芸のすばらしさを知ること
②「就中古器旧物二至りテ時勢ノ推遷、制度ノ沿革ヲ追観セシカ為」と、古器旧物(わが国古来の文化遺産)を見聞することで、時勢の推遷(移り変わり)、制度の沿革(変遷)などを知り
③「互二国ノ栄誉、エノ精妙、古今ノ変遷ヲシラシメント欲ス」と、国家の栄誉、産業の素晴らしさ、古今の変遷などを広く知らしめることを目的に掲げています。そして、当初の開会期間は「酉年三月朔ヨリ四月望マテ」だったようです。 こうして讃岐一円に出品を呼びかけ、展示品の提供を依頼しています。
どんな展示品が集まったのでしょうか。目録が残っているので、その一部を見てみましょう。集まった出品物と( )内が出品者です。
雅楽器類・舞楽装束類・舞楽面類
和琴(社蔵)・大倭舞装束(同)・琵琶(石清尾八幡宮蔵)
納蘇利面(白峯寺蔵)・翁面(社蔵)、蹴鞠装束(琴陵宥常出品)
・鞠(同)などの蹴鞠用具類、
弘法大師作観音木像・二王石像(垂水村大師堂蔵)
法隆寺百万塔(寺井寛吾出品)
長曽我部元親所持数珠(七ヶ村吉田某蔵)
以下仏像仏具類、
数珠百種(当村合葉文岳蔵)
土佐国産貝類(片岡正雄出品)
鯨歯(当村多田嘉平出品)以下鳥獣類
霞砂糖(黒羽村永峯某出品)諸国米穀井菓類以下農海産物、
高松望陀織縞・阿筋藍玉(阿州堀北民次出品)
越後雪踏(寺井寛吾出品)以下衣料その他日用品類など。
後水尾天皇御寄附天正長大判(社蔵)
慶長小判・丁銀・豆板銀・和漢古銭(松岡調出品)
諸国紙幣銭貨類、尾張瀬戸急須・古備前大水瓶(当村山下某出品)・南蛮水指以下茶道具類・青質富士石(琴陵宥常出品)・
水晶玉(片岡正雄出品)・金剛砂(当村菅善次郎出品)・馮瑠石(神恵院出品)以下玉石類など。
崇徳天皇御軍築(西庄村白峯宮蔵)
楠公朝敵御免綸旨(楠正信出品)
柿本人丸像(松岡調出品)
明人書画扇面帖(高松石田廬出品)
擲躊大木(当村守屋某出品)
虎皮・熊皮(鴨部村佐藤某出品)
奥筋金砿(琴陵宥常出品)・石炭油・洋犬・七面鳥

ここから分かることは、骨董的なお宝類が主で「産業革命の申し子」的な蒸気機関や機械類はないようです。どちらかというと、江戸時代の寺院の「開帳」の変化バージョンとも思えます。結果はどうだったのでしょうか?
開会式に供えて琴平警察に対して、場内整理のために「邏卒(巡査)両名其手先3名毎日当社博覧会入口へ出張の事」と、計5名の派遣要請をしています。
 そして幕を開けてみると、拝観者は思ったよりも多かったようです。そのため期間半ばの3月24日には、次のような会期延長を求める文書が名東県知事宛に出されています。
     博覧会日延長願
 当宮博覧会四月中旬迄願済の所、来ル五月三十一日まて日延仕度、此段奉願候也、
酉三月廿四日
           事比羅宮 権禰宜 宮崎冨成
                 同  松崎 保
                禰 宜 松岡 調
                 同  大久保 来
                権宮司 琴陵宥常
 名東県 権 令 林 茂平殿
 名東県 参 事 久保断三殿
 名東県 権参事 西野友保殿
   「第三十九号  右御聞届二相成候事」
         (『町史ことひら』2 現代 史料編)
予定では4月半ばまでの会期であったようですが、それを5月31日までさらに一ヶ月半の会期延長申請が名東県(権令)林茂平宛に出されています。これは、そのまま認められたようです。
  この時の入場者数などを記した記録がないので、どのような収支決算になっていたのかは分かりません。
なぜ、明治5年という段階で金毘羅さんは、こんな大きなイヴェントをやろうとしたのでしょうか。
 前年の明治4年(1871)10月10日から11月11日までの間、京都の西本願寺大書院を開場に「京都博覧会」が開催されています。これが、国内で最初に本格的に「博覧会」と称して開催されたものになるようです。
 この「京都博覧会」は、東京遷都で首都としての地位を失って、京都の商工業界は落ち込んで沈滞気味だったようです。そこで京都を活気付け、景気回復と新生明治の啓蒙を目的として、三井八郎右衛門(越後屋呉服店・三井両替店)・小野善助(井筒屋小野組・本両替商)・熊谷久右衛門(直孝・鳩居堂第七代当主)などの京都市内の有力商人が主催したものでした。
 10月10日に開場し、通り券(入場券)は、一朱・特別展観は二朱で、33日の期間中に1万人以上が観覧します。
本博覧会の広告文中に、
 西洋諸国二博覧会トテ、新発明ノ機械古代ノ器物等ヲ善ク諸人二見セ、知識ヲ開カセ新機器ヲ造リ、専売ノ利ヲ得サシムル良法二倣ヒ、一会ヲ張ランド御庁二願ヒ奉リ、和漢古器ヲ書院二陳列シ、広ク貴覧二供センコトヲ思フ、夫レ宇宙ノ広キ古今ノ遠キ、器械珍品其数幾何ナルヲ知ラズ、幸二諸君一覧アラバ、智識ヲ開キ、必目悦ゲソメ、其益頗ル広大ナリ、故二大人幼童共二幾度モ来観ヲ希フ而己。
 但物品ヲ出サンド望ム人ハ、会場二持来り玉へ、落手券ヲ渡シ謹テ守護シ、会終ラハ速二返却シ、薄謝ヲ呈セントス、但御庁ヨリ警固人数ヲ下シ賜フ故二御懸念シ玉ハス、数品ヲ出シテ此会ヲ助ケ玉へ 
 通り券ハ当地町々ニテ、一枚価金一朱宛二求メ玉へ他所並臨時来客ハ、会場門衛ニテ求玉フベシ
  未十月        博覧会社中 謹白    
                        
当時西欧諸国で開催されていた博覧会を真似たものですが、意義について「新発明の機器類を展示」し「おもしろさとともに智識を広める」ものであることが述べられています。
 この成功をバネに京都では以後、毎年のように博覧会が開かれ、しかも規模を拡大していくのです。この京都の動きに触発されたことが金刀比羅宮の広告などを見ても分かります。でも、京都と金毘羅では都市規模が違います。京都でやっていることを、そのまま四国の地方都市(?)が真似るという大胆さに、私は驚かされます。
 
 明治という新しい時代の扉は開かれましたが、鉄道や蒸気汽船はまだまだ四国には姿を見せません。目に見える形で、四国の村々に明治維新はまだやって来ていない時期です。そんな時期に、讃岐一円だけからでも、これだけの品々を集めて、展示公開するという企画力と実行力には目を見張らされます。これをやり遂げた後の金刀比羅宮の当事者の自信と感慨は、大きかったと思われます。

 明治6年の金刀比羅宮博覧会の意義は?
明治5(1872)年という年は、年表で見れば分かるように、まだ明治維新後の神仏分離の余波覚めやらぬ時期です。そのような中で、四国琴平の地でこのような博覧会が開催されたことは、大きな意味があったと研究者は考えているようです。
 明治維新を経て文明開化へと歩み始めた時代に、全国に先駆けて琴平の地においてこのような「博覧会」を開こうとした人々の先見性と実行力と勇気が当時の金刀比羅宮のスタッフの中にあったということでしょう。
  それでは、この企画の中心にいたのは誰なのでしょうか。
先ほど見た名東県への申請書類の中に出てくるのは  次の5名です。
 権禰宜 宮 崎 冨 成
     松 崎   保
 禰 宜 松 岡   調
 同   大久保   来
 権宮司 琴 陵 宥 常
この中で金刀比羅宮の年表に登場してくる人物を見てみましょう
明治5年 1872 松岡調、事比羅宮禰宜に任ぜられる。
 琴陵宥常、事比羅宮宮司に任ぜられる。
 仏像、雑物什器等売却後に、残った仏像焼却。
明治6年 1873 博覧会開催。
 深見速雄、事比羅宮宮司に補せられる。
明治7年 1874 事比羅宮崇敬講社設立。
明治8年 1875 元観音堂取崩し、本宮再営。
 三穂津姫社創建。
 別当宥盛に厳魂彦命と諡し、威徳殿を厳魂神社と改称。
明治9年 1876 宥常、事比羅宮宮司解任、禰宜となる。
明治10年1877 本宮上棟。
 琴平山大博覧会。コレラ流行で途中で中止。
明治13年1880 第2回琴平山大博覧会。火雷社改築。
明治15年1882 古川躬行着任。
明治16年1883 明道学校開校。
明治19年1886 宮司・深見速雄死亡、代わって宥常が就任

この年表からうかがえるのはM5に禰宜に就任した松岡調の存在の大きさです。
この時期の金刀比羅宮にとって大きな新規事業を並べてみると
①M5年 仏像仏具の売却・償却
②M6年 第1回博覧会の開催
③M7年 金刀比羅宮崇敬講社設立
④M8年 本宮再営・三穂津姫社創建 
⑤13年 第2回琴平山大博覧会。
とイヴェントが目白押しだったことが分かります。③や⑤の準備書面や申請書類はほとんどが松岡調が書いています。また⑤の最高責任者として開催を取り仕切っているのも松岡調です。そして、日清戦争まで、松岡調によって金刀比羅宮は取り仕切られていた気配がします。

 政府は琴綾宥常を社務職に任命し、願出のあった宮司職には最後まで就けませんでした。そして、鹿児島出身の深見速雄を宮司に任命します。彼が金刀比羅宮に着任するのが明治6年(1873)3月20日です。まさに、博覧会の開催中のことになります。
ここで①宮司  深見速雄  ②社務職 琴綾宥常 ③禰宜 松岡調 という体制が出来上がります。
 金刀比羅宮博覧会の成功をステップとして、崇敬講社設立や御本宮社殿の再営工事へと進んでゆきます。
 金刀比羅宮(当時は事比羅宮)では、明治7年(1874)2月21日に教部省宛に宮殿再営の願書を提出しています。それが認められると御本宮社殿の改築諸工事に取りかかり、明治10年(1877)4月15日に上棟祭を行い、翌年の11年(1878)4月15日に新営なった社殿への本殿遷座祭(正遷座祭)が斎行されています。
 このような経緯を見ると明治6年(1873)の「金刀比羅宮博覧会」は、本宮再営正遷座祭のプレイベントの役割を果たしたのではないかとも思えてきます。これらの企画・立案・実行などでも大きな力を発揮したのが松岡調で、彼はビッグイベントを取り仕切ることで、山内における地盤を固めていったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
黎明期の金刀比羅宮と琴陵宥常 | 西牟田 崇生 |本 | 通販 | Amazon

 金刀比羅宮 - Wikiwand
琴陵宥常
神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。
宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

  神仏分離令をぐる金毘羅大権現の金光院別当宥常の動きを最初に年表で見ておきましょう。
明治元年(1868)
2月 新政府の神仏分離令通達
4月 金毘羅大権現の存続請願のために、宥常が都に上り、請願活動を開始
5月 宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名
5月 維新政府は宥常に、御一新基金御用(一万両)の調達命令
7月 金毘羅大権現の観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月 弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。
   徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。
   神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習
    多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受ける
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
明治2(1869)年2月,宥常が古川躬行とともに帰讃。
ここからは、京都に上京した宥常が、監督庁に対して今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々を贈っていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼は、宥常の帰讃に連れ立ってと金比羅にやってきたようです。
  月が改まった3月には,御本宮正面へ
 当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。
  今回は、金毘羅さんの仏閣から神社への「変身」に、古川躬行が果たした役割を見ていきたいと思います。
 別の言い方をすると、神社として生きていくためのノウハウを、古川躬行がどのようにして金刀比羅宮に移植したかということです。仏閣から仏像・仏具が撤去するだけでは神仏分離は終わりません。仏教形式で行われていた祭礼や諸行事を神道化することが求められました。これは、書物だけでは習うことは出来ません。手取、足取り、口移しで習う種類のものです。明治政府が西洋文化・技術の移植のために、高い給領を支払って御雇外国人を招聘したように、金刀比羅宮も「お雇い京都人」を招く必要があったようです。
 そのために、京都滞在中の宥常が白羽の矢を立てたのが白川神祇伯家に仕える故実家の古川躬行でした。
古川躬行について、人物辞典では次のように記されています。
  没年:明治16.5.6(1883) 生年:文化7.5.25(1810.6.26)
幕末明治期の国学者,神官。号は汲古堂。江戸生まれ。黒川春村の『考古画譜』(日本画の遺作中心の総目録)を改訂編纂,『増補考古画譜』として完成したのは黒川真頼と躬行であり,その随所に「躬行曰」と記してその見識を示した。横笛,琵琶にも堪能であったという。明治6(1873)年枚岡神社(東大阪市)大宮司,8年内務省出仕。10年大神神社(桜井市)大宮司を経て,15年琴平神社(香川県)に神官教導のために呼ばれ,同地で没した。<著作>『散記』『喪儀略』『鳴弦原由』(白石良夫)
1古川

 古川躬行は、文化7年(1810)の江戸で生まれですので、明治維新を58歳で迎えていたことになります。別の人物辞典には
「幕末・維新期の国学者・神職で、早くから平田鉄胤に入門して国史・古典を修めるともに古美術(古き絵や古き絵詞)・雅楽にも造詣が深く、琵琶や龍笛も得意としていたようです。旧幕府時代には白川神祇伯家の関東執役を勤めており、通称を素平・将作・美濃守と称し、号を汲古堂と称した」

とあります。

1古川躬行

  彼が琴平にやってきたのは、先ほど見たように明治2年(1869)2月末のことです。
「扱記録門』二月二十八日条に、次のように記されています。

二月二十八日 此度大変革二付、御本社祭神替ヲ始、神式修行都而指図ヲ相請候人、於京師御筋合ヨリ御頼二依テ、白川家古実家古川躬行(みつら)ト申人来

意訳すると
二月二十八日 この度の大変革について、本社の祭神変更を始め、神式修行などの指示を受けるためにに招いた人である。京都の筋合からの話で、白川家古実家の古川躬行(みつら)という人がやってきた。

と記されています。宥常が1年近くの京都滞在から引き上げてくるのと、同行してやってきたようです。
さらに翌日の記録には次のように記されています。
            
2月29日夜、御本社金毘羅大権現、神道二御祭替修行、次諸堂、御守所等不残御改革に相成、御寺中(じちゅう)、法中、御伴僧、小僧辿御寺中へ相下ケ、禅門替りハ不取敢手代ノ者出仕、御守所小僧替りハ小間遣ノ者拍勤候也、当日ヨリ御守札、大小木札等都而御改二相成、以前之守ハ都而御廃止二成ル。
             (『金刀比羅宮史料』第九巻)
意訳しておくと
2月29日夜、本社金毘羅大権現の神道への改革のために、諸堂、守所など残らず改革されることになった。寺中(じちゅう)、法中、社僧や小坊主などは、すべて山下に下ろした。僧侶は使わずに手代が代わって出仕した。守所の小僧に代わって小間使いのものが勤めた。この日から御守札、大小木札等の全ては新しいものに改められて、以前のお守りは廃された。

とあります。着任翌日から改革に着手していることが分かります。社僧達が境内から追放されるという「現物教育」は、おおきなショックを山内の者達に与えたでしょう。
『禁他見』(部外秘)とある「琴陵光煕所蔵文書」の中には次のような記述もあります。
  明治二巳年二月二十九日夜
 御本宮神道二御祭替、魚味(ぎょみ)献シ、御祭典御報行被遊候事、附タリ、二月晦日、西京ヨリ宥常殿御帰社之事、右御祭替へ、古川躬行大人、神崎勝海奉仕ス。
  『金刀比羅宮史料』第八十五巻)
意訳すると
 明治2年2月29日夜  本宮の神道への御祭替に際して、魚味(ぎょみ=鯛? つまり生魚)が献じられ、祭典変革について神殿に報告した。二月晦日、京都より宥常殿がお帰りになり、御祭替については古川躬行と神崎勝海が奉仕することになった
                
 
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 朝祭

社僧を山下に「追放」した後の夜、本殿神前には「魚味」が供えられています。それまでの「精進」をモットーとする仏閣からの転換であり、ある意味では神仏分離を象徴する典型的なアクションだったとも言えるようです。着任と同時に、具体的な改革が断行されたことが分かります。まさに、古川躬行の着任が金刀比羅宮の神式祭礼への改革スタート点だったようです。

 「金刀比羅宮神仏分離調書」にみる祭典の変革    
 明治政府は「神仏分離」に伴なう祭典行事や儀式作法の変革について、その変更点を調書として提出させています。
 金刀比羅宮は、どのような点を変革したと自己申告しているのでしょうか。「金刀比羅宮神仏分離調書」の中に記された変更点を見ていくことにします。
  〔本社〕意訳文
本社関係の祭礼行事については、神仏分離のための変遷は極めて少なかった。祭礼行事は、殆んどそのまま引き継がれた。ただし、これを行う方式や作法については、両部神道式を純然たる神道式に改めた。以前には両部神道式に、祝詞を奏し、和歌を頌し、中臣祓を唱へ、再拝拍手をなすなど神道の形式が多かったが、両部のために仏教形式の混入も少なくなかった。これらの神仏混淆の作法は、分離して純然たる神式に改めた。今金毘羅大権現の重要な祭礼行事に就いて、その変遷の概要を述べたい。
 
  祭礼行事に大きな変化はなかったとします。
しかし、10月10日の大祭神事は別で、大きな改変を伴うものになったようです
 大祭の変更については、倉敷県に出された明治三年十月の報告書には、次のように記されています。
 十月の大祀については、当年より次のように改めることになった。十日夕方に上、下頭人登山し、式後に神輿や頭人行列が、神事場の旅所向けて山を下る。到着後に、神事・倭舞を奉奏する。十日夜は御旅所に一泊、11日夕方上下頭人御旅所に相揃って式を済ませ、神輿が帰座する。御供が夜半のことになるが、御前(琴陵宥常)にも汐川行列の御供にも神輿の御供にもついていただき、11日まで御旅所に逗留し、神事の執行を行う。祝、禰宜、掛り役方などのいずれも10日から11日まで、御旅所へ詰める。
 本宮に待機し、9日夜の神事倭舞の助役舞人に加わり、旅所での十日夜倭舞にも参加する。
神人(五人百姓)の協力を得て、11日に神事が終われば、本宮から神璽を守護して丸亀に罷り越し、12日に帰社する。但し、駕龍、口入、両若党、草履取、提灯持四人、合羽龍壱荷の他に、警護人も連れ従わせる。神璽の先ヱ高張ニツ、町方下役人が下座を触れながら、街道を行く
 当社の十月十日、十一日の大祭について、先般の改革のため当年より金刀比羅宮宮神輿、頭人行列の変更点について、以上のように報告する。
以上、
 八月             金刀比羅宮社務
                琴 綾 宥 常 印
倉敷県御役所

 それまでの大祭行列は、観音堂と本宮の周辺で行われていたようで、境内を出ることはありませんでした。それが明治3年(1870)10月の大祭から神事場(御旅所)まで、パレードするようになります。そのために石淵に新たに神事場(じんじば)が整備されます。
塩入から 満濃池 神野神社 神野寺 久保神社 御神事場 金刀比羅宮へ - 楽しく遍路

神事場へのコースは、石段を下りて、内町から一の橋(鞘橋)を渡って、阿波街道を使っていたようです。後に、鞘橋が現在地に移されてからは通町をゆくようになります。山上の狭い空間で行われていた頭人行列が山下へ下りてきて、街道をパレードするようになった効果は大きかったようです。
金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 例えば内町に軒を並べる老舗の旅館外は、目の前を行列が通過するようになります。これはセールスポイントになります。大祭に合わせて全国から参拝にやってくる金毘羅講の信者には、何よりの楽しみとなります。参拝者を惹きつけるあらたな「観光資源」が生み出されたことになります。
金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 境内の旧仏閣は、どのように「変革」されたのでしょうか
 「金刀比羅宮神仏分離調書」をもう一度見てみましょう。
[境内仏堂]
 仏堂に於ては素より仏式の作法なりしが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃され、其建物は概ね境内神社の社殿に充当せらるヽと共に、仏式作法廃滅せり。
     (『中四国神仏分離史料』第九巻四国・中国編)
意訳すると
 仏堂は、もとから仏式作法であったが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃された。その建物は、境内神社の社殿に充当した。共に、仏式作法は廃滅した。

ここからは、両部神道形式の祭典の改正・変更が行われたこと、境内仏堂の廃止とその跡建物を利用した神社の整備・変更などを行なったことがうかがえます。
  さて政府に出された「金刀比羅宮神仏分離調書」を見てきましたが、これを書いたのは誰でしょうか。候補者は次の3人です。
①琴綾宥常(維新時28歳)
②松岡調  (維新時38歳)
③古川躬行(維新時58歳)
山下家当主であった琴綾宥常の業績を大きく評価する立場からすると、彼が神道への改革を取り仕切ったという説が多いようです。しかし、私にはそうは思えないのです。まず、その年齢と経験です。それまで真言宗の社僧として成長してきた宥常にとって、神道平田派の教理も祭礼なども殆ど知らないことばかりなのです。そんな彼に、仏閣から神道への衣替えをやりきる知識と実行力があったかというと疑問になります。
 何回か神仏分離調書(回答書)を読み直してみて感じることは、自信に満ちた文章で、報告書と云うよりも師匠が弟子に教え諭すような雰囲気がします。これが書けるのは古川躬行だけでしょう。彼は先ほど見たように、何冊かの本も出版している中央でも名の知れた神道の学者でもありました。彼が政府に提出した報告書に、頭からクレームが付けられる神学官僚はいなかったのではないでしょうか。②松岡調は、彼の日記などを見るともう少し実務的な仕事を、この時点では行っていたようです。
 金刀比羅宮の神仏分離の変革の立役者は、古川躬行だったと私は思っています。

古川躬行のプランに基づいて旧仏閣建築群が、どのようになったのかを報告書から見ていくことにします
 神仏分離の結果、金光院時代の諸仏堂を再利用して、明治2年(1869)6月に、次のような末社が創り出されています。
 ①旭社・②石立神社・③津嶋神社・④日子神社・⑤大年神社・⑥常磐神社・⑦天満宮・⑧火産霊社・⑨若比売社
 さらに、従来からの末社を次のように改称ています
旧金剛坊→⑩威徳殿、旧行者堂→⑪大峰社、
大行事堂→⑫大行事社

これだけの改革のための全体プラン作り、実行していったのも古川躬行を中心とするスタッフだったようです。
1金毘羅金堂 旭社

具体的に①の旭社の改変をみてみましょう。
 旭社は、松尾寺の金堂に当たります。「金堂上梁式の誌」には、次のように記されています
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」

文化3年(1806)の発願から40年の歳月をかけて完成したのが金毘羅さんの金堂でした。「西国一の大きな建物」というのが評判になって、金毘羅さんのセールスポイントのひとつにもなっていました。代参に訪れた清水次郎長の子分・森の石松が、本宮と間違えて帰ってしまい、帰路に殺された話の中にも登場する建物です。
 建立当時は中には、本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたようです。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは売却・焼却され今は何もなくがらーんとした空間になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。
かつての金堂 - 金刀比羅宮 旭社の口コミ - トリップアドバイザー

 この旭社(旧金堂)は、神道の「教導説教場」として使用されたことがあります。
神道の「三条の教憲」を教導するための講演場となったのです。その際に、天井や壁などから金箔がそぎ落され、素木となったようです。記録には「明治6年6月19日素木の講檀が竣成」とあります。説教活動が行なわれますが、神主の話は面白くなく、教導効果を上げることが出来なかったようです。そのため明治15年(1882)には説教講演は取りやめられます。その時に講演に使われていた講檀も撤去されたようです。そして、明治29年(1896)1月に、社檀を取り除いて殿内に霊殿を新築し、現在に至っているようです。
金刀比羅宮(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅

さて、神仏分離で仏さんを取り除いたあとの旧金堂(旭社)には、何が祭られているのでしょうか。
 神殿への改装当初の祭神は、
①伊勢大神の意をもって天照大御神
②八幡大神の意をもって誉多和気尊
③春日大神の意をもって武雷尊
の三神を祀っていたようです。それが明治6年(1873)7月に誉多和気尊と武雷尊とを境内末社常磐神社に移し、境内末社の産須毘社(旧大行事堂、後の大行事社)を廃社にして、そこに祀られていた祭神の高皇産霊神を合祀したようです。さらに後には、天御中主神・神皇産霊神・天津神・国津神をも合祀されて今日に至っているようです。しかし、閉ざされた建物の中をのぞき見ても何もない空間のように、私には見えるのです。幕末に金堂として建てられた仏閣を、持てあましているようにも見えます。参拝客も旭社の意味を分からずに、その大きさに圧倒されてお参りはしていきますが、何かしら不審顔のように思えるのです。
 話が逸れてしまったようです。古川躬行にもどりましょう
 古川躬行は、その後も亡くなるまで琴平にいたのかと私は思っていました。ところがそうではないようです。金刀比羅宮での指導後は枚岡(ひらおか)神社大宮司、大神神社大宮司などを歴任します。大神神社は三輪大明神とも呼ばれ大和の一宮です。その大宮司と云えば神職の長で、祭祀および行政事務を総括する役職にまで登り詰めています。彼は忙しい日々の中で、著述活動も続けています。そのような中で、琴平を離れた後も神職教導のために再三の招聘に応じています。
『盛好随筆』第六巻の明治15年8月条に、
 古川躬行先生、去ル十四日札ノ前 登茂屋久右衛門方法着、同十五日御山内壱番屋シキヘ引移り、十八日御本宮参拝、暫ク此方へ御雇入二相成候趣ナリ、(『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
意訳すると
 古川躬行先生が去る14日に札ノ前の登茂屋久右衛門方に宿泊した。翌日15日に山内壱番屋へ移り、18日に本宮を参拝、しばらく金刀比羅宮で、雇入になるとのことである。

  この時の招聘にどんな背景があったのかは分かりません。
最初明治2年にやって来て、行なった神式改正の指導から15年近くが経っています。神式による祭典や摂末社の整備改廃整備も一段落していたので、この時には社務所分課章程・年間恒例祭典の祭式・祝詞・幣帛(神饌)などを一冊に取り纏めた『官私祭記年史祚』を琴平で著しています。そして、翌16年(1883)5月6日に、琴平の地において死没します。享年75歳でした。
 古川躬行の死去に際して、当時金刀比羅宮の運営する明道学校の教長であった水野秋彦は、次のような誄を起草しています。
うつりすまして、年の一年へしやへりやに、春のあらしに吹らる花口かなく過ぬる大人は、もとはむ古事たれこたふとか、過ませるたとらむみやひ誰しるへすとか、過ませる古川の大人や、かくあらむとかねてしりせは、古事のことのことこととひたヽしておかましものを、たヽしおかすてくやしきかも、ことのはのみやひのかきり、きヽしるしておかましもの、しるしおかすてくちをしきかも、しかはあれとも、くひてかひなき今よりは、かの抗訳のふかき契を、松の緑のときはかきはに忘れすしてのこしたまへる飢ともを、千代のかたみとよみて伝へて、もとより高きうまし名を、遠き世まてにかたらひつかせむ、かれこの事を、後安がる事のときこしめせ、石上古川大人、正七位古川大人。
     (『水野秋彦遺稿』〔『金刀比羅宮史料』第五十八巻)

古川躬行墓所については、次のように記されています。
  昨六日四時、古川躬行先生死去、齢七十五歳、
墓処遺言 但願旧主御代々之墓処ノ内 東南ノ処へ葬候事、(下略)、
 (『山下盛好随筆』第六巻 明治十六年五月七日条〔『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
古川躬行の墓所は広谷の金光院歴代別当墓所域内の南東の角に設けられたようです。