瀬戸の島から

カテゴリ:四国遍路の寺 > 土佐の霊場

   前回お話ししたように行場は孤立したものではなく、一定の行が終わると次の行場へと移っていくものでした。修行地から次の修行地へのルートが辺路と呼ばれ、四国辺路へとつながっていくと研究者は考えているようです。今回は古代・中世の四国辺路とはどんなものであったのかを史料で見ていくことにします。テキストは、「武田和昭  四国の辺地修行  四国へんろの歴史10P」です。

12世紀前半に作られた『今昔物語集』には仏教説話がたくさん収録されています。その中には四国での辺路修行を伝える物もあります。『今昔物語集』31の14、「通四国辺地僧行不知所被打」は、次のように始まります。

今昔、仏の道を行ける僧、三人伴なひて、四国の辺地と云は、伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻也、其の僧共、其(そこ)を廻けるに、思ひ懸けず山に踏入にけり。深き山に迷ひにければ、海辺に出む事を願ひけり。

意訳変換しておくと
 今は昔、仏道の修行をする僧が三人、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っていた。この僧たちがある日道に迷い、思いがけず深い山の中に入り込んでしまい、浜辺に出られなくなってしまった。

 ここには「仏道の修行をする僧」が、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っている姿が記されています。

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後白河法皇撰『梁塵秘抄』巻2の300には、次のように記されています。  
 われらが修行せしやうは、忍辱袈裟をば肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ、常に踏む

板笈(いたおい)とは? 意味や使い方 - コトバンク
笈(おい)と修行者
ここからは、笈を背負つた修行者がその衣を潮水に濡らしながら、四国の海辺の道を巡り、次の修行地をめざしている姿が記されています。確かに阿波日和佐の薬王寺を打ち終えて、室戸へ向かう海岸沿いの道は、海浜の砂浜を歩いていたようです。太平洋から荒波が打ち寄せる海岸を、波に打たれながら、砂に足を取られながらの難行の旅を続ける姿が見えてきます。
『梁塵秘抄』巻2の298には、次のようにも記します
聖の住所はどこどこぞ
大峯  葛城  石の槌(石鎚)
箕面よ 勝尾よ 播磨の書写の山
南は熊野の那知  新官
ここには、畿内の有名な山岳修行地とともに石の鎚(石鎚山)があげられています。石鎚山も古くから修験者の行場であったことが分かります。ちなみに石鎚山と並ぶ阿波剣山の開山は近世後期で、それまでは修験者たちの信仰対象でなかったことは、以前にお話ししました。
続いて『梁塵秘抄』巻2の310には、次のように記します。
四方の霊験所は
伊豆の走湯  信濃の戸隠  駿河の富士の山
伯者の大山  丹後の成相とか
土佐の室戸  讃岐の志度の道場とこそ聞け
ここには、四国の霊山はでてきません。出てくるのは、土佐の室戸と讃岐の志度の海の道場(行場)です。修験者の「人気行場リスト」には、霊山とともに海の行場があったことが分かります。
それでは「海の行場」では、どんな修行が行われていたのでしょうか
 海の行場を見る場合に「補陀落信仰」との関係が重要になってくるようです。「補陀落信仰」の行場痕跡が残る札所として、室戸岬の24番最御崎寺、足摺岬の38番金剛福寺、そして補陀落山の山号を持つ86番志度寺を見ていくことにします。
 補陀落信仰とは『華厳経』などに説かれる観音信仰のひとつです。善財童子が補陀落山で観音菩薩に出会ったとされます。ここから補陀落山が観音菩薩の住む浄土で、それは南の海の彼方にあるとされました。玄奘の西域の中には、補陀落山という観音浄土は、南インドの海上にあるとされています。それが、中国に伝わってくると、普(補)陀落は中国浙江省舟山群島の島々だとされ、観音信仰のメッカとなります。これが日本では、熊野とされるようになります。
 『梁塵秘抄』巻第2の37に、次のように記されています。

「観音大悲は船筏、補陀落海にぞ うかべたる、善根求める人し有らば、来せて渡さむ極楽へ」

ここからは観音浄土の補堕落へ船筏で渡海するための聖地が、各地に現れていたことが分かります。その初めは、熊野三山の那智山でした。平安時代後期になると阿弥陀の極楽浄土や弥勒の都率浄土などへの往生信仰が盛んになります。それにつれて観音浄土への信仰も高まりをみせ、那智山が「補陀落山の東の門」の入口とされます。そのため、多くの行者が熊野那智浦から船筏に乗って補陀落渡海します。これが四国にも伝わります。
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観音浄土めざしての補陀落渡海
補堕落渡海の場所として選ばれたのは、大海に突きだした岬でした。
その点では、四国の室戸と足摺は、補堕落渡海のイメージにぴったりとする場所だったのでしょう。34番札所の最御崎寺が所在する室戸崎に御厨洞と呼ばれる大きな洞窟があります。ここは空海修行地として伝えられ、当時から有名だったようです。『梁塵秘抄』巻2の348には「‥・御厨の最御崎、金剛浄土の連余波」とあるので、平安時代後期には、霊場として名が知られていたことが分かります。
 『南路志』には、次のように記されています。

「補陀落山に通じて、常に彼の山に渡ることを得ん、窟内にまた本尊あり、西域光明国如意輪馬璃聖像なり」

ここからは室戸の洞窟が、補陀落山への人口と考えられていたことが分かります。ここにはかつて石造如意輪観音が安置されていました。

室戸 石造如意輪観音
如意輪観音半跏像(国重要文化財 最御崎寺)

この観音さまを「平安時代後期の優美な像で、異国の補陀落を想起させるには、まことにふさわしい像」と研究者は評します。この如意輪観音像は澄禅『四国辺路日記』には、御厨洞に安置されていたことが記されていて、補陀落信仰に関わるものと研究者は考えています。
 室戸は、以前にお話ししたように空海修行地として有名で、修験者には人気の行場だったようです。そこで行われたのは「行道」でした。行道とは、どんなことをしたのでしょうか?
① 神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回るのも行道。(小行道)
② 円空は伊吹山の「平等(行道)岩」で、百日の「行道」を行っている。
③ 「窟籠もり、木食、断食」が、行道と併行して行われる場合もある。
④ 断食をしてそのまま死んでいく。これが「入定」。
⑤ 辺路修行終了後に、観音菩薩浄土の補陀落に向かって船に乗って海に乗り出すのが補陀落渡海
  一つのお堂をめぐったり、岩をめぐるのが「小行道」です。
小さな山があると、山をめぐって行道の修行をします。室戸岬の東寺と西寺の行道岩とは約12㎞あります。この間をめぐって歩くような行道を「中行道」と名づけています。四国をめぐるような場合は「大行道」です。こうして、行道を重ねて行くと、大行道から四国遍路に発展していくと研究者は考えているようです。

 室戸岬で行われていた「行道」について、五来重は次のように記します。
室戸の東寺・西寺
① 室戸には、室戸岬に東寺(最御崎寺)、行当岬に西寺(金剛福寺)があった。
② 西寺の行当(道)岬は、今は不動岩と呼ばれている所で、そこで「小行道」が行われていた。
③ 西寺と東寺を往復する行道を「中行道」、不動岩(行当(道)岬)の行道が「小行道」。
④ 行道の東と西と考えて東寺・西寺と呼ばれ、平安時代は東西のお寺を合わせ金剛定寺と呼んでいた。
 密教では金胎両部一体だと言葉では言われます。それを辺路修行では、言葉や頭でなく躰で実践します。それは実際に両方を命がけで歩いて行道するのが修行です。こうして、西寺を拠点に行道岬に行って、金剛界とされる不動岩の周りを何百回も真言を唱えながら周り、さらには、不動明王の見守る中で海に向かって瞑想する。これを何日も繰り返す。これが「小行道」だったと研究者は考えています。さらに「中行道」は、東寺(最御崎寺)との間を何回も往復「行道」することになります。
   東寺では窟を修行の場所にして、洞窟をめぐったと考えられます。洞穴を胎蔵界、突き出たような岩とか岬とか山のようなところを金剛界とします。男と女というように分けて、両方をめぐることによって、金剛界・胎蔵界が一つになるのが金胎両部の修行です。
    
 弘法大師行状絵詞に描かれた空海の修行姿を見ておきましょう。

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金剛定(頂)寺に現れた魔物たちと瞑想中の空海
詞書には次のように記します。
  室戸岬の30町(3,3㎞)ほど西に、景色の良い勝地があった。大師は行道巡りのために室戸岬とここを往復し、庵を建てて住止していたが、宿願を果たすために、一つの伽藍を建立し、額を金剛定寺と名けた。ところがここにも魔物が立ち現れて、いろいろと悪さをするようになった。そこで大師は、結界を張って次のように言い放った。
「我、ここにいる間は、汝らは、ここに近づくな」
 そして、庭に下りると大きな楠木の洞に御形代(かたしろ=祈祷のための人形)を掘り込んだ。そうすると魔類は現れなくなった。この楠木は、今も枝繁く繁茂しているという。その悪魔は、土佐の足摺岬に追い籠めらたと伝へられる。大師は、土佐の悪魔を退散させ自分の姿を樹下に残して、勝利の証とした。仏陀の奇特を疑う者はいない。祖師の霊徳を尊びたい。
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楠に仏を彫り込む空海

ここには、室戸での修行のために金剛定寺を建立したとあります。ここからは行場が室戸岬で、寺と行場は遠く離れたところにあったことが分かります。金剛定寺と室戸岬を行道し、岩籠もりを行っていたことがうかがえます。
  辺路修行では、修行の折り目折り目には、神に捧げるために不滅の聖なる火を焚きました。五来重の説を要約すると次のようになります。
① 阿波の焼山寺では、山が焼けているかとおもうくらい火を焚いた。だから焼山寺と呼ばれるようになった。焼山寺が辺路修行の聖地であったことをしめす事例である。
②  室戸岬でも辺路修行者によって不滅の火が燃やされた。そこに、後に建立されたのが東寺。
③ 聖火は、海のかなだの常世の祖霊あるいは龍神に捧げたもの。後には観音信仰や補陀落伝説と結びついた。
④ これが後の山伏たちの柴灯護摩の起源になる。
⑤ 山の上や岬で焚かれた火は、海民たちの目印となり、燈台の役割も果たし信仰対象にもなる。
⑥  辺路の寺に残る龍燈伝説は、辺路修行者が燃やした火
⑦ 柳田国男は「龍燈松伝説」で、山のお寺や海岸のお寺で、お盆の高灯龍を上げるのが龍燈伝説のもとだとしているが、これは誤り。
こうした行を重ねた後に、観音菩薩の浄土とされる南方海上に船出していったのです。
根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー) | ひとでなしの猫

 足摺岬の38番金剛福寺にも補陀落信仰の痕跡が残ります。
この寺には嵯峨天皇の勅額とされる「補陀落東門(補阿洛東門ふだらくとうもん)」が残されています。

金剛福寺 補陀落門
勅額とされる補陀落東門
これは、弘仁13年(822)に、空海が金剛福寺を開創した当時に嵯峨天皇より賜ったものと伝えられます。
また『土佐国雌陀山縁起』(享禄五年:1532)の金剛福寺の縁起は、次のように記します。

平安時代中期の長保年間(999~04)頃に賀東上人が補陀落渡海のために難行、苦行の末に徳を積んで、その時をまっていた。ところが弟子の日円坊が奇瑞によって、先に渡海してしまった。上人は五体投地し涙を流したと

 ここからも足摺岬が補陀落渡海のための「辺路修行地」であったことが分かります。
 鎌倉時代の『とわずがたり』の乾元元年(1302)は次のように記します。
かの岬には堂一つあり。本尊は観音におはします。隔てもなく坊主もなし、ただ修行者、行かきかかる人のみ集まりて、上もなく下もなし。
ここからは、この頃の足招岬(金剛福寺)が観音菩薩が安置される本堂があるだけで、それを管理する住職も不在で、修行者や廻国者が修行を行う行場だったことが分かります。
その後、南北朝時代の暦応五年(1342)に現本尊が造立されます。

木造千手観音立像及び両脇侍立像(県⑨) - 土佐清水市

千手観音立像(秘仏)
檜材による寄木造りで、平成の修理の際に像内から発見された墨書銘から暦応5年(1342)の作と断定。
この本尊は熊野の補陀落山寺と同じ三面千手観音です。

補陀洛山寺(ふだらくせんじ) 和歌山県東牟婁(むろ)郡那智勝浦町 | 静地巡礼
補陀落山寺の三面千手観音
ここからは、熊野行者によって補陀落信仰が持ち込まれたことがうかがえます。こうして、足摺岬には補陀落渡海を目指す行者が集まる修行地になっていきます。このため中世には足摺岬周辺には、修験者たちが色濃く分布し、独自の宗教圏を形作って行くようになります。その中から現れるのが南光院です。南光院は、戦国時代に長宗我部元親のブレーンとなって、讃岐の松尾寺金光院(金毘羅大権現)の管理運営を任されます。
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志度寺の扁額「補陀落山」
86番札所の志度寺は、山号を「補陀落山」と称しています。
しかし、この寺が補堕落渡海の修行地であったことを示す直接的な史料はないようです。
『志度道場縁起文」7巻の内の『御衣本縁起』の冒頭部分を見ておきましょう。
近江の国にあった霊木が琵色湖から淀川を下り、瀬戸内を流れ、志度浦に漂着し、推古天皇33年の時に、凡菌子尼法名智法が草庵に引き入れ安置した。その後、24・5歳の仏師が現れ、霊木から一日の内に十一面観音像を彫りあげた。その時、虚空から「補陀落観音やまします」という大きな声が2度すると、その仏師は忽然と消えた。この仏像を補陀落観音として本尊とし、一間四面の精合を建立したのが志度寺の始まりである。この仏師は土師黒王丸で、閻魔大王の化身でぁり、薗子尼は文殊書薩の化身であった。

P1120221志度寺 十一面観音
志度寺の本尊十一面観音
ここからは、志度寺本尊の十一面観音が補陀落信仰と深く結びついていいることが分かります。しかし、この志度浦から補陀落渡海を行った記録は見つかっていないようです。
P1120223
          志度寺の本尊十一面観音
  以上、補陀落渡海の痕跡を残す四国の行場と四国霊場の関係を見てきました。これ以外にも、讃岐には海上に筏を浮かべて瞑想修行を行っていた修行者がいたことを伝える記録が、いくつかの霊場札所に残っています。例えば、空海誕生地説の異説を持つ海岸寺(多度津町白方)や、宇多津の郷照寺などです。これらと補陀落渡海とを直接に結びつけることは出来ないかも知れませんが、海での修行の一つの形態として、突き出た半島の岩壁の上なども、行場の最適地とされていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭  四国の辺地修行  四国へんろの歴史10P」
関連記事

1澄禅 種子集
             澄禅の種子字

澄禅は、サンスクリット語の研究で知られた学僧で、僧侶としても高い地位にあった人物です。今で云うと大学の副学長か学部長クラスの人物であったと私は考えています。そのため彼の残した四国辺路日記には、要点がピシリと短い言葉で記されていて小気味いいほどです。彼は、訪れた各札所で本堂や諸堂の位置や様式、本尊のことや、対応した住持のことまで記しています。今回は各社寺の景観に焦点を絞って見ていくことにします。
   テキストは「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。以前に阿波の札所については、見ましたので今回は土佐から始めます


東寺(最御崎寺)
 本堂ハ九間四面二南向也。本尊虚空蔵菩薩、左右二二点ノ像在。
 堂ノ左二宝搭有。何モ近年太守ノ修造セラレテ美麗ヲ尽セリ、
津寺  本堂西向、本尊地蔵杵薩。是モ太守ヨリ再興ニテ結構ナリ。
西寺 (金剛頂寺)堂塔伽藍・寺領以下東寺二同ジ。
神峰寺 本堂三間四面、本尊十一面観音也
大日寺 本堂南向、本尊金剛界大日如来。是モ太守ヨリ近キ比修造
国分寺 寺領三百石、寺家六坊有り 近年堂塔破損シタルヲ太守ヨ
リ修理
シ給フ。
一宮
  宮殿・楼門・鳥居マデ高大広博ナル入社也。前太守長曽我部殿修
造セラレ
シタル儘也。当守護侍従殿時々修理ヲ加ラルルト云。
五台山 
本堂ハ太守ヨリ修造セラレテ美麗ヲ尽セリ 塔ハ当主宥厳上
人ノ造立ナリ。鐘楼・御影堂・仁王堂・山王権現ノ社、何モ太
守ノ願ナリ。
禅師峰寺 本堂南向、本尊十 面観音。二王門在り。
高福寺 玄関・方丈ノカカリ禅宗ノ寺立テ也
種間寺  本堂東向、本尊葉師。是も再興在テ新キ堂也
清滝寺  是再興有テ結構也。寺は真言宗。寺中六坊在
青龍寺
頂上二不動堂在リシガ先年野火ノ余焔二焼失シタリ。然ヲ本堂
再興ノ時、大守ヨリ小倉庄助方二被仰付新Hノ五社 南向横二双
ビテ四社サエフ 一社ハ少高キ所二山ノ上二立、何モ去年太守ヨ
リ造営
セラレテ結構也。

足摺山 内陣二横額二当寺諸伽帝ハ従四位上行徒従来上佐守源朝臣忠
義為武連長久祈願成就弁再興也卜五筆横二書タリ
寺 山  二王門・鏡楼・御影堂・鎮守ノ社、何モ此大守ヨリ再興在テ
 結構ナリ
観自在寺  本堂南向、本尊薬師如来。寺号はハ相違セリ。
稲荷ノ社  田中二在り小キ社ナリ。
仏木寺   本堂東向。本尊金剛界大H如来座像五尺斗
明石寺
本堂朽傾テ本尊ハ小キ薬師堂二移テ在り。源光山延寿院卜云。
寺主ハ無ク上ノ坊卜云山伏住セリ
菅生山
本堂間四面、二王門・鐘楼・経蔵・御形堂・護摩堂・鎖守ノ社
双、堅同広博ナル大伽藍也
岩屋寺 本堂三間四面、本尊不動明王
浄瑠璃寺 昔ハ大伽藍ナレドモ今ハ衰微シテ小キ寺一軒在り。
八坂寺 昔ハ三山権現立ナラビ玉フ故二十五間ノ長床ニテ在ケルト
  也。是モ今ハ小社也。
西林寺 本堂三間四面、本尊十一面観音、
浄土寺 此本堂零落シタリシヲ、(中略)十方旦那を勧テ再興シタル也。
繁多寺 本堂・二王門モ雨タマラズ、塔ハ朽落テ心柱九輪傾テ哀至極
ノ躰ナリ。
石手寺
本社ハ熊野二所権現、十余間ノ長床在り。ツヅイテ本堂在
り。本尊文殊菩薩。三重塔・御影堂・二王門、与州無双ノ
大伽藍
也。
大山寺  本堂九間四面、本尊十一面観音也。少下テ五仏堂在り悉朽
  傾テ在。
円明寺 本堂南向、本尊阿弥陀。
延命寺 本尊不動明王、堂ハ小キ草堂、寺モ小庵也。
三島ノ宮 本地大日卜在ドモ大通智勝仏ナリ
泰山寺 寺ハ南向、寺主ハ無シ、番衆二俗人モ居ル也。
人幡宮 本地弥陀。
佐礼山 本堂東向、本尊千手観音也。
国分寺 本堂南向、本尊薬師。寺楼、庭上前栽誠ニ国分寺卜可云様
ナリ。
一ノ宮 本地十一面観音也。
香園寺 本堂南向。本尊金界大日如来。寺ハ在ドモ住持無シ。
横峰寺 本堂南向、本尊大国如来。又権現ノ社在り。
古祥寺 本尊毘沙門天。寺は退転シタリ
前神寺 是は石槌山ノ坊也
三角寺 本堂東向、本尊十一面観青。前庭ノ紅葉無類ノ名木也。
雲辺寺 本堂ヲ近年阿波守殿ヨリ再興在テ結構ナリ。
小松尾寺 本堂東向、本尊薬師、寺ハ小庵也。
観音寺 本堂南向、本尊正観音。
琴弾八幡宮 南向、本地阿弥陀如来。
持宝院 本堂南向七間四面、本尊馬頭観音、二王門・鐘楼在り。
弥谷寺 寺ハ南向、持仏堂ハ、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サ
三間半奥ヘハ九尺。
曼荼羅寺 本堂南向、本尊金剛界大日如来。
出釈迦山 是昔ノ堂ノ跡ナリ。
甲山寺 本堂東向、本尊薬師如来。
善通寺 本堂ハ御影堂、又五間四面ノ護摩堂在り。昔繁昌ノ時分ハ
之二続タルト成。
金蔵寺 本堂南向、本尊薬師、(中略)古ハ七堂伽藍ノ所也、四方築
地ノ跡今二有。
道降寺 本堂南向、本尊薬師、(中略)昔ハ七堂伽藍ノ所ナリ。(中略)本
堂・護摩堂由々敷様也。
道場寺 本尊阿弥陀、寺ハ時宗也。
崇徳天皇 今寺ハ退転シテ俗家ノ屋敷卜成り。
国分寺 白牛山千手院、本堂九間四面、本尊千手観音也、丈六ノ像
也。傍二薬師在り、鐘楼在。寺領百石ニテ美々舗躰也。
白峯寺    当山ハ智証・弘法大師ノ開基、五岳山中随一也             
根来寺    青峰、本尊千手観音、五舟ノ一ツナリ。                      
一ノ宮    社壇モ鳥居モ南向.                                        
屋島寺    千手観青ヲ造本堂一安置シ給う                           
八栗寺    本堂ハ南向、本尊千手観音                               
志度寺    本尊十一面観音、本堂南向                                
長尾寺    本堂南向、本尊正観音也`                                  
大窪寺 本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二塔在、半ハ破損シタリ。
是モ昔ハ七堂伽藍ニテ十二 坊在シガ、今ハ午縁所ニテ
本坊斗在

以上を国別に整理すると、次のようになります。
澄禅による四国88所の近世寺院状況

国別に見ると次のような事が云えます。
①阿波と伊予の札所寺院の荒廃が著しいこと
 阿波については以前にもお話ししたように23ケ寺の内の12ケ寺、伊予では26ケ寺中9ケ寺が、退転もしくは小庵の如き有様でした。特に阿波の十楽寺か井戸寺までの周辺の寺院が厳しい状況にあったようです。荒廃した寺院は、無住であったり、山伏などが仮住まいをしている状況だったようです。

②土佐と讃岐の寺院については「結構也」と表現しています。
つまり本堂・護摩堂などの諸堂字が整備されていたようです。澄禅から見ても真言寺院としての機能が果たされていると思えたのでしょう。特に土佐の場合、「太守ヨリ再興ニテ結構ナリ」という表現がいくつも見られます。戦国時代には長宗我部の領地として、他国からの侵入を受けなかったこともあります。また、江戸時代に入って山内一豊が高知城を築いて初代の土佐藩主となり、続く忠義の時代には、元和の改革など藩政の引き締めを行うとともに、野中兼山を起用して新川開発や土木事業・殖産興業の推進しました。その中で他国に先駆けて社寺の修築・造営を積極的に推進したことが、澄禅の記録にも反映しているようです。土佐の札所にとって、山内忠義の存在は大きいようです。
又太守ハ無二無三ノ信心者ニテ、殊二真言家ヲ帰依シ玉フト云。

ここからは、忠義がとりわけ真言宗を信仰していたことが分かります。

讃岐の場合は、なぜか各寺院の景観についてはあまり詳しく記していません。
そのため寺社についてよく分かりませんが、次のような評価が見えます。
サスガ大師以下名匠降誕在シ国ナル故二密徒ノ形儀厳重也。(中略)
其外所々寺院何モ堂塔伽藍結構ニテ、例時勤行丁重ナリ。
真言宗寺院としての構えと寺の勤めも申し分ない、結構な寺院であるとしています。ここからはその他の寺院の多くも伽藍が整備されていたと研究者は考えているようです。
『讃岐国名勝図会』などには、讃岐の有力寺院は生駒侯の再興を伝えるものが数多く見られます。
例えば金毘羅宮・善通寺・国分寺・屋鳥寺・長尾寺などに対して、
生駒氏は生駒記には、次のように記されています。
「殊に神を尊び仏を敬い、古伝の寺社領を補い、新地をも寄付し、長宗我部焼失の場を造営して、いよいよ太平の基願う」

民心の心を落ち着けるためにも、生駒氏は地域の有名寺院の保護・復興に取り組んだとされます。
さらに生駒騒動後にやってきた高松藩初代藩主松平頼重について、
寛文九年の『御領分中宮出来同寺々出来』は、次のような宗教政策を記しています。
金蔵寺
然るに右同年、御影堂・本堂・山王之社並寺院、松平讃岐守頼重再興、加之寺領高式拾石被付与事。
国分寺
慶長年中、生駒讃岐守一正被再興伽監棟数合十六宇、只今在之事。
白峯寺
寺領高百拾斗、内六拾石は天正年中生駒雅楽頭近規寄進。至干今寺納仕候折紙有之。内拾石ハ万治年中松平讃岐守頼重寄進折紙有之。内四拾石は寛文年中同源頼重寄付折紙有之事。
やってきた藩主の宗教政策によって、領内の四国辺路の札所も戦乱からの復興にスピードの差が出たようです。

最後に研究者は、御影堂(大師堂)に焦点を当てます。
御影堂が記されているのは焼山寺・恩山寺・鶴林寺・太龍寺・五台寺山・菅生山・石手寺・善通寺の九ケ所のみです。札所以外では三角寺奥院・海岸寺・仏母院・金毘羅金光院の四ヶ所だけです。これをどう考えればいいのでしょうか。弘法大師信仰と弘法大師像を祀る御影堂
(大師堂)はリンクしていると考えられます。弘法大師信仰があるから大師王は建立されます。この時代に大師堂が普及していなかった葉池を考えると
①弘法大師信仰がまだ、四国霊場には波及していなかった
②弘法大師信仰は広がっていたが、御影堂という形では表現されていなかった
③御影堂がなくても弘法大師像が本堂に安置され、大師信仰が行われていた
これは、各札所の弘法大師像の造立年代が、重要な決め手になってくるのでしょう。どちらにしても「大師信仰」は、熊野信仰や阿弥陀信仰、念仏信仰に比べると、後からやってきて接ぎ木されたような印象を持たされる札所が多いように私は考えています。

以上をまとめると、次のことが言えよう。
①四国のうち、阿波と伊予国は「堂舎悉退転シテ草堂ノミ」とか「寺ハ退転シテ小庵」のように、寺が荒廃している様子が数多く記されている。そこに念仏聖や山伏などが住み着いて、辺路に応対していた。 
②一方、土佐は藩主山内氏、讃岐は藩主生駒氏、藩主松平氏などが積極的に復興に尽力したため、「結構」な寺として密教の行儀がなされている。
③弘法大師を安置する御影堂は、わずか九ケ寺しかみられない。その後、真念『四国辺路道指南』では飛躍的に増加している。この間に弘法大師に対する信仰がより一層盛んになったことがうかがえます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


参考文献
     「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」


前回は、大学中退後の空海が正式に得度し、修行生活に入ったと絵巻物には書かれていることを見ました。平城京の大学をドロップアウトして、沙門として山林修行に入った空海のその後は、絵巻ではどのように描かれているのでしょうか。今回は空海の山林修業時代のことを見ていきます。舞台は、四国の阿波の太龍寺と土佐の室戸岬です。
まず、山林修行のことが次のように記されます

〔第二段〕空海の山林修行について
大師、弱冠のその上、章塵(ごうじん)を厭ひて饒(=飾)りを落とし、経林に交はりて色を壊せしよりこの方、常しなへに人事を擲って世の煩ひを忘れ、常に幽閑を栖(すまい)として寂黙を心とし給ふ。
山より山に入り、峰より峰に移りて、練行年を送り、薫修日を重ぬ。暁、苔巌の険しきを過ぐれば、雲、経行の跡を埋み、夜、羅洞の幽(かす)かなるに眠れば、風、坐禅の窓を訪ふ。煙霞を舐めて飢ゑを忘れ、鳥獣に馴れて友とす。
意訳変換しておくと
大師は若い頃に、世の中の厭い避けて、出家して山林修行の僧侶の仲間に入って行動した。人との交わりを絶って世間の憂いを忘れ、常に奥深い山々の窟や庵を住まいとして、行道と座禅を行った。
山より山に入り、峰より峰に移り、行く年もの年月の修行を積んだ。
 夜明けに苔むす巌の険しい行道を過ぎ、雲が歩んできた道跡を埋める。夜、窟洞に眠れば、風が坐禅の窓を訪ねてくる。煙霞を舐めて餓を忘れ、鳥獣は馴れてやがて友とする。
  ここからは、空海が山林修行の一団の中に身を投じて、各地で修行を行ったことが記されています。

   当時の行者にとって、まず行うべき修行はなんだったのでしょう?
 それは、まずは「窟龍り」、つまり洞窟に龍ることです。
そこで静に禅定(瞑想)することです。行場で修行するという事は、そこで暮らすということです。当時はお寺はありません。生活していくためには居住空間と水と食糧を確保する必用があります。行場と共に居住空間の役割を果たしたのが洞窟でした。阿波の四国霊場で、かつては難路とされた二十一番の太龍寺や十二番の焼山寺には龍の住み家とされる岩屋があります。ここで生活しながら「行道」を行ったようです。そのためには、生活を支えてくれる支援者(下僕)を連れていなければなりません。室戸岬の御蔵洞は、そのような支援者が暮らしたベースキャンプだったと研究者は考えているようです。ここからすでに、私がイメージしていた釈迦やイエスの苦行とは違っているようです。

 行道の「静」が禅定なら、「動」は「廻行」です。
神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回ります。修行者の徳本上人は、周囲500メートルぐらいの山を三十日回ったという記録があります。歩きながら食べたかもしれません。というのは休んではいけないからです。
 円空は伊吹山の平等岩で行道したということを書いています。
「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになっています。江戸時代には、ここで百日と「行道」することが正式の行とされていたようです。空海も阿波の大瀧山で、虚空蔵求聞持法の修行のための「行道」を行い、室戸岬で会得したのです。

それを絵詞は次のように記します。
或は、阿波の大滝の岳に登り、虚空蔵の法を修行し給ひしに、宝創(=剣)、壇上に飛び来りて、菩薩の霊応を顕はし,件の例〈=剣〉、彼の山の不動の霊窟に留まれり)、

意訳変換しておくと
あるときには、阿波の大瀧山に登り、虚空蔵の法を修行していると、宝創(=剣)が壇上に飛んできた。これは菩薩の霊感の顕れで、この時の剣は、いまも大瀧山の不動の霊窟にあるという。
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大瀧山の不動霊窟で虚空蔵法を念ずる空海と 飛来する宝剣

空海の前の黒い机には、真ん中に金銅の香炉、左右に六器が置かれています。百万回の真言を唱えれば、一切のお経の文句を暗記できるという行法です。合掌し瞑想しながら一心に真言を唱える空海の姿が描かれます。
  雲海が切れて天空が明るなります。すると雲に乗った宝剣が飛んできて空海の前机に飛来しました。空海の唱えた真言が霊験を現したことが描かれます。雲海の向こう(左)は、室戸に続きます。
室戸での修行
或は、土佐(=高知県)の室戸の崎に留まりて、求聞持の法を観念せしに、明星、口の中に散じ入りて、仏力の奇異を現ぜり。則ち、かの明星を海に向かひて吐き出し給ひしに、その光、水に沈みて、今に至る迄、闇夜に臨むに、余輝猶簗然たり。大凡、厳冬深雪の寒き夜は、藤の衣を着て精進の道を顕はし、盛夏苦熱の暑き日は、穀漿を絶ちて懺悔の法を凝らしまします事、朝暮に怠らず、歳月稍(ややも)積もれり。
意訳変換しておくと
 土佐(高知県)の室戸岬に留まり、求聞持の法を観念していた。その時に明星が、口の中に飛んで入り、仏力の奇異を体で感じた。しばらくして、明星を海に向かひて吐き出すと、波間に光が漂いながら沈んでいった。しかし、燦然と輝く光はいつまでも輝きを失わない。闇夜に、今も輝き続けている。厳冬の深雪の寒い夜でも、藤の衣を着て精進の道を励み、盛夏苦熱の暑き日は、穀類を絶って木食を行って、懺悔法を行うことを、朝夕に怠らず、修練を積んだ。

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 画面は右の太龍寺の霧の海からは、左の土佐室戸へとつながっています。 大海原は太平洋。逆巻く波濤を前に望む岬の絶壁を背にして瞑想するのが空海です。拡大して見ましょう。
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幾月もの行道と瞑想の後、明星が降り注いだと思うと、その中の星屑の一つが空海の口の中にも飛び込んで来ました。空海の口に向かって、赤い流星の航跡が描かれています。このような奇蹟を身を以て体感し悟りに近づいていきます。ここまではよく聞く話ですが、次の話は始めて知りました。
〔第三段〕  空海 室戸の悪龍を退散させる 
室戸の崎は、南海前に見え渡りて、高巌傍らに峙(そばだ)てり。遠く補陀落を望み、遥かに鐵(=鉄)囲山を限りとせり。松を払う峯(=峰)の嵐は旅人の夢を破り、苔を伝ふ谷の水は隠士の耳を洗ふ。村煙渺々(びょうびょう)として、水煙茫々たり。呉楚東南に折(↓琢)く、乾坤日夜に浮かぶ」など言ふ句も、斯かる佳境にてやと思ひ出でられ侍り。大師、この湖を歴覧し給ひしに、修練相応の地形なりと思し召し、やがて、この所に留まりて草奄(庵)など結びて行なひ給ひしに、折に触れて物殊に哀れなりければ、我が国の風とて三十一字を斯く続け給ひけるとかや。
法性の室戸と聞けど我が住めば
 有為の波風寄せぬ日ぞなき
又、夜陰に臨むごとに、海中より毒竜出現し、異類の形現はれ来りて、行法を妨げむとす。大師、彼等を退けむが為に、密かに呪語を唱へ、唾を吐き出し給ふに、四方に輝き散じて、衆星の光を射るが如くなりしかば、毒竜・異類、悉くに退散せり。その唾の触るヽ所、永く海浜の沙石に留まりて、夜光の珠の如くして、昏(くら)き道を照らすとなむ。
意訳変換しておきます。
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海の中から現れた毒龍 
室戸岬の先端は太平洋を目の前にして、後に絶壁がひかえる。遠くに観音菩薩の住む補陀落を望み、その遥かに鉄囲山に至る。松を払うように吹く峰の嵐は、旅人の夢を破り、苔をつたう谷の水は行者の耳を洗ふ。村の煙が渺々(びょうびょう)とあがり、水煙は茫々と巻き上がる。
 思わず「呉楚東南に折(↓琢)く、乾坤日夜に浮かぶ」などという句も浮かんでくる。
 空海は室戸周辺を見てまわり、修行最適の地として、しばらくここに留まり修行をおこなうことにした。この周辺は、何を見ても心に触れるものが多く、三十一字の句も浮かんでくる。
   法性の室戸と聞けど我が住めば
         有為の波風寄せぬ日ぞなき
 浜辺の松が、強い海風にあおられて枝が折れんばかりにたわむ。海は逆巻く怒濤となって押し寄せる。そして夜がくるごとに、海中より毒竜がいろいろな異類の姿で現はれて、大師の行法を妨げようとする。そこで大師は、密かに呪語を唱へて、唾を吐き出した。すると四方に輝き散じて、あまたの星の光をのように飛び散り、毒竜・異類は退散した。その唾が触れた所は、海浜の沙石に付着して、夜光の珠のように、暗い道を道を照らしていたという。
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現れた毒龍や眷属に向かって、空海は一心不乱に呪文を唱え、目を見開き海に向かって唾を吐き出します。唾は星の光のように、辺りに四散します。すると波もやみ静かになります。見ると毒龍や異類も退散していました。
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毒龍に向かって唾を吐き出す空海

ここでは「陰陽師」と同じように、祈祷師のようなまじないで毒龍や悪魔を退散させます。まさにスーパーヒーローです。
次は場面を移して、金剛頂寺です。
〔第四段〕
室戸の崎の傍らに、丹有余町を去りて勝地あり。大師、雲臥(うんが)の便りにつきて草履の通ひを為し、常にこの制に住み給ひし時、宿願を果たさむが為に、 一つの伽藍を立てられ、額を金剛定寺と名け給へり。此の所に魔縁競ひ発りて、種々に障難を為しけり。大師、則ち、結界し給ひて、悪魔と様々御問答あり。
「我、こヽに在らむ限りは、汝、この砌に臨むべからず」
と仰せられて、大なる楠木の洞に御形代(かたしろ)を作り給ひしかば、其の後永く、魔類競ふ事なかりき。彼の楠木は、猶栄へて、枝繁く葉茂して、末の世迄、伝はりけり。その悪魔は、同国波多の郡足摺崎に追ひ籠めらると申し伝へたり。
 昔、釈尊、月氏の毒龍を降し給ふ真影を窟内に写して、隠山の奇異を示し、今、大師、土州(土佐)の悪魔を退くる影像を樹下に残して、古今の勝利を施し給ふ。何ぞ、唯、仏陀の奇特を怪しまむ。尤も、又、祖師の霊徳を尊むべき物をや。
  意訳変換しておくと

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金剛定(頂)寺に現れた魔物や眷属達
室戸岬の30町(3,3㎞)ほど西に、景色の良い勝地があった。大師は行道巡りのために室戸岬とここを往復し、庵を建てて住止していたが、宿願を果たすために、一つの伽藍を建立し、額を金剛定寺と名けた。ところがここにも魔物が立ち現れて、いろいろと悪さをするようになった。そこで大師は、結界を張って次のように言い放った。
「我、ここにいる間は、汝らは、ここに近づくな」
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 そして、庭に下りると大きな楠木の洞に御形代(かたしろ=祈祷のための人形)を掘り込んだ。そうすると魔類は現れなくなった。この楠木は、今も枝繁く繁茂しているという。
その悪魔は、土佐の足摺岬に追い籠めらたと伝へられる。
 大師は、土佐の悪魔を退散させ自分の姿を樹下に残して、勝利の証とした。仏陀の奇特を疑う者はいない。祖師の霊徳を尊びたい。
ここには、室戸での修行のために 西方20㎞離れた所に金剛定寺を建立したとあります。ここからは行場が室戸岬で、寺はそこから遠く離れたところにあったことが分かります。金剛定寺と室戸岬を行道し、室戸岬で座禅するという修行が行われていたことがうかがえます。
 絵詞に描かれた金剛頂寺は、壁が崩れ、その穴から魔物が空海をのぞき込んでいる姿が描かれています。退廃した本堂に空海は住止し、日夜の修行に励んだと記されます。
五来重氏は、この金剛定(頂)寺が金剛界で、行場である足摺岬が奥の院で胎蔵界であったとします。そして、この両方を毎日、行道することが当時の修行ノルマであったと指摘します。もともとは金剛頂寺一つでしたが、奥の院が独立し最御崎寺となり、それぞれが東寺、西寺と呼ばれるようになったようです。この絵詞で舞台となるのは西の金剛頂寺です。

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 空海の修行するお堂の周りに、有象無象の魔物が眷属を従えてうごめいています。そこで、空海は修行の邪魔をするな、この決壊の中には一歩も入るな」と威圧します。そして、空海がとった次の行動とは?
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 庭先の大きな楠の下にやってきます。この老樹には大きな洞がありました。大師は、ここに人形を彫り込めます。一刻ほどすると、そこには大師を写した人形(真影)が彫り込まれていました。以後、魔物は現れませんでした。という伝説になります。これは、金剛頂寺にとっては、大きなセールスポイントになります。
 これに続けと、他の札所もいろいろな「空海伝説」を創り出し、広めていくことになります。江戸時代になるとそれは、寺にとっては大きな経営戦略になっていきます。

今回紹介した大師の修行時代を描いた部分は、「史実の空白部分」で謎の多い所です。
それをどのように図像化するかという困難な問題に、向き合いながら書かれたのがこれら絵巻になります。見ているといつの間にか、ハラハラどきどきとしてくる自分がいることに気づきます。ある意味、ここでは空海はスーパーマンとして描かれています。毒龍などの悪者を懲らしめる正義の味方っです。勧善懲悪の中のヒーローとも云えます。それが「大師信仰」を育む源になっているような気もしてきました。作者はそれを充分に若手いるようです。他の巻では説話的な内容が多いのですが、この巻では様々な鬼神を登場させることによって、「謎の修業時代」を埋めると共に、「弘法大師伝説」から「弘法大師神話」へのつないで行おうとしていると思えてきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
     小松茂美 弘法大師行状絵詞 中央公論社1990年刊
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 宥雅は、一族の長尾氏の支援を受けながら松尾山(現象頭山)に、松尾寺(金毘羅寺)や金比羅堂を建立します。しかし、それもつかの間、土佐の長宗我部元親の侵入によって宥雅は、新築したばかりの松尾寺を捨てて堺への亡命を余儀なくされます。宥雅が逃げ出し無住となった後の松尾寺は無傷のまま元親の手に入ります。元親は、陣僧として陣中で修験者たちを重用していました。そこで土佐足摺の修験者である南光院に松尾寺を任せます。南光院は宥厳と名を改め、松尾寺の住持となります。その際に、元親から与えられた使命は、松尾寺を讃岐支配のための宗教センターとして機能させるようにすることだったようです。そのために宥厳がどのような手を打ったかについては以前に次のようにお話ししました。
①松尾寺から金比羅堂へシフトして、新たな蕃神である金毘羅神の拠点として売り出す
②修験者の「四国総本山」とし、修験者の拠点として修験者の力を利用した布教方法を用いる
宥厳は、もともとは土佐の修験者でしたから修験化路線へのシフト転換が行われたのでしょう。
今回は、南光坊と呼ばれた宥厳の土佐での存在とは、どんなものであったのかを見ていくことにします。テキストは 高木啓夫 土佐における修験  中四国の修験道所収です。
南光院 南路志

土佐の『南路志』の寺山南光院の条には、  次のように記されています。
「元祖大隅南光院、讃州金児羅(金毘羅?)に罷在候処、元親公の御招に従り、御国へ参り、寺山一宇拝領」
「慶長の頃、其(南光院の祖、明俊)木裔故有って讃岐に退く」
意訳変換しておくと
大隅南光院の祖(宥厳)は、讃州の金毘羅にいたところ、長宗我部元親の命で土佐に帰り、寺山(延光寺)を拝領した」

ここからは次のようなことが分かります。
①慶長年中(1596~)に、南光院は讃岐の金毘羅(松尾寺)にいたこと
②長宗我部元親から延光寺を拝領し、金毘羅から土佐に帰国したこと
南光院 延光寺2
四国霊場 延光寺(寺山) 奥の院が南光院

寺山とは延光寺のことで、現在の四国霊場になるようです。この延光寺のことを見てみましょう。
宿毛市延光寺は、四国三十九番札所ですが、修験道当山派の拠点であったようです。
 四国霊場を考える場合には「奥の院を見なければ分からない」というのが私の師匠の口癖です。そのセオリーに従って、延光寺の背後をまずは見ておくことします。この寺の4㎞ほど東に貝ノ森と呼ばれる標高300mほどの山があります。山頂には置山権現が鎮座し、修験法印金剛院の霊を祀るといわれ、雨乞いの時には、里人が登って祈念していたようです。修験者の修行の山であったことが分かります。
そして、延光寺は行場(奥の院)が里下りして、いつの頃かに麓に下りてきたことがうかがえます。
南光院 延光寺1

この貝の森については、次のような話が伝えられます。
 弘治(1555)の頃、吉野大峰山での修行の際に、予州修験福生院と美濃修験利勝(生)院が口論を起こします。それがきっかけで、宿毛市平田町の貝ケ森で護摩を焚く四国九州の修験者と近江の金剛院の間で大激戦となり、福生院・金剛院ともに死亡します。その争いに巻き込まれた利生院は、この地に蔵王権現を祀るべきことを言い置き亡くなります。こうして貝ケ森に蔵王権現が勧請され、これ以後は「当州当山修験断絶」となった。

 この伝承からは次のようなことが分かります。
①貝ケ森が修験の山で、多くの修験者が集まり護摩も焚かれていたこと
②蔵王権現が勧請される前は中四国の修験霊地として栄えていたこと
③修験者の中には、背後に有力修験者を擁する武士団があり、争乱や武闘もあったこと
 ここでは16世紀半ばに起きた事件を契機に、当山派から本山派へのシフトが行われたとされているとされますが、これは事実とは異なるようです。当山派の延光寺が衰退していくのは、山内藩による本山派優遇策がとられるようになって以後のようです。

周辺の霊山をもう少し見ておきましょう。 佐川山は幡多郡の旧大正町奥地にあります
この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵がいます。
旧三月二十四日大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山したそうです。この見所は喧嘩だったそうです。土佐と伊予の人々が互いに口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作がいいといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てると作がいいされました。
  このような地蔵は西土佐村藤ノ川の堂ヶ森にもあり、幡多郡鎮めの地蔵として東は大正町杓子峠、西は佐川山、南は宿毛市篠山、北は高森山、中央は堂ヶ森という伝承もあります。また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
「高知県五在所の峰」の画像検索結果

窪川町と旧佐賀町の境に五在所の峰があります。
 ここにも修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。この地蔵には矢傷があります。そのため「矢負の地蔵」とも呼ばれていたようです。この山はもともとは不入山でした。小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は、修験者たちの祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
「高知県五在所の峰」の画像検索結果

 別の見方をすると、霊山に地蔵さんを建立するのは、山伏たちにとってはテリトリー争いを未然に防ぐ方策でもあったようです。その背後には、地元の武士団があったことが考えられます。それ以前には、地域間の抗争があったことが「山頂での相撲や喧嘩」などからうかがえます。
 このような修験道が地域の中に根付いた中で、南光坊(宥厳)は修験者としての生活と修行を行ってきた人物であることをまず押さえておきます。

宥厳は、土佐では南光院と呼ばれていました。
 南光院は延光寺の奥の院だったようです。その院主なので南光院と呼ばれていたようで、地元では有力な修験者のリーダーでした。それが長宗我部元親の讃岐侵攻の際に、無住となってた松尾寺に呼ばれて管理を任されることになります。
延享四年(1747)に延光寺は、次のような文書を土佐藩の社寺方に差出しています。
「私先祖より代々先達之家筋二て、昔時ハ四国並淡州共五ケ国袈裟先達職二て御座腕」

 昔時というのは元親時代のことなのでしょう。延光寺の先祖は代々(当山派)先達を勤め、かつては四国と淡路の袈裟先達職(リーダー)であったと云います。更に続いて、次のようにも主張しています。
延光寺が宿坊十二を擁した頃は、元親から田地の寄付もなされた。南尊上人の住職時代ころまでは、南光院知行共地高五百五十石であった。

というのです。550石といえば土佐・山内藩家臣団の中でも上位に匹敵する待遇です。元親が四国を制摺るに及んで、南光院もまた四国の修験道のリーダー的立場にあったようです。
  つまり、当時の延光寺は四国の先達のトップを勤めていたというのです。その寺から長宗我部元親が呼び寄せたのが南光院(宥厳)ということになります。ここからは、長宗我部元親が新たに手に入れた金比羅の松尾寺をどんな寺にしようとしていたかがうかがえます。それは「四国鎮撫の総本山」です。そのために選ばれたのが南光院であったとしておきましょう。
 長宗我部元親は、秀吉に敗れ土佐一国の領主となると金比羅から南光院を呼び戻し、延光寺を与えます。そのまま讃岐には捨て置かなかったようです。元親の南光院に対する信頼度がうかがえます。その後、延光寺は慶安四年(1651)の遷化まで、修験兼帯の真言寺とし運営されます。そして修験名は南光院が使われます。
南光院の当時の威勢ぶりを、後の史料から見てみましょう。
 南光院は大峰山中に「土州寺山南光院宿」という宿坊を持っていたようです。それは大峰山小笹(小篠)28宿のうちの第三宿で、二間×三間半粉葺の規模でした。延享五年(1748)藩社寺方の記録には次のように記されています。
「右宿私先祖より代々所持仕腕私邸支配之 山伏共入峯仕腕節此宿二て国家泰平万民快楽祈念仕候」

とあって、古くから大峰山に宿を持ち、それが大峰の峰入りの際に、配下の修験者に利用されていたと、由緒が主張されています。確かに延光寺は、清和天皇の御代に禁中の左近之 桜右近之橘を蘇生せた伝わるように、修験道の拠点として中世以来の歴史を持つ寺であったようです。
南光院 延光寺縁起1
延光寺縁起

  以上を時間系列で並べて見ます
1579年 長宗我部元親が西長尾城を攻略。長尾氏一族の宥雅は堺に亡命     土佐から南光院が呼ばれ、宥厳と改名し松尾寺(金比羅寺)に入る
1585年 長宗我部元親が秀吉に敗れ、土佐に退く
1591年 幡多郡大方町飯積寺から南尊上人(慶長三(1593)年没)延光寺に入院
1600年 南光院が長宗我部元親から寺山(延光寺)拝領し入院。南光院は、それまで自分が持っていた「南光院」を奥の院として、延光寺を修験兼帯の真言寺とする。
1651年 宗院遷化以後は修験兼帯を解き、延光寺から南光院は独立

江戸幕府が確立されると本山・当山派は、幕府や藩の御朱印を求めて争うようになります
  長宗我部家の滅亡、南光院は次第にその勢力を失っていきます。
それは、山内家の本山派優先という宗教政策があったようです。享保十四年(1729)の「土州高岡郡修験道名寄帳」には、次のように記されています。
「御国守松平土佐守豊敷公、播州伽耶院大僧正家之寄同行二て、他之先達江附属之修験壱人も無御座腕」
意訳変換しておくと
「土佐藩では山内豊敷公が、播州(兵庫県)伽耶院大僧正家に帰依しているので、他派の先達(修験者)はひとりもおりません」

と高岡郡等覚院の返答です。等覚院は郡下の院数四三、住一七人、合計60人の修験を支配していたようですが全員が本山派に属していたことが分かります。
文久四年(1864)の江戸役所への霞書札にも「土佐・伽耶院」あります。土佐修験は山内藩の下では、天台宗聖護院末播州伽耶院の下にありました。土佐修験が伽耶院配下の本山派となったのは元和年間、藩主忠義が伽耶院に帰依して、大峰山で柴燈護摩祈祷を行わせたことによるとされます。こうした中で長宗我部元親の保護を受けていた当山派の南光院は、山内藩になると衰退していったようです。
 南光院が大峰山中に宿を持って祈祷所としていたことは、先ほど見ました。ところがそれも荒廃したまま放置されるようになります。
 京醍醐寺三宝院御門跡役人中より再興仕侯様卜度々被申付候得とも 私儀至テ貧僧之儀自力難相叶 寛保元年奉願候処 右再興料として御金弐拾両拝領被為仰付 同三年二大峯登山仕再興仕候
意訳変換しておくと
 京都の醍醐寺三宝院御門跡役人より大峰山中の宿の再興について、度々申付けられていますが、私どもの貧僧には自力で再建することは適いません。寛保元年から奉願再興料として金20両を拝領できるように仰せつけていただければ、大峯登山の宿を再興致します

ここからは、醍醐寺からの度々の再建催促にも「貧僧」であるが故に応じられないこと。再建のために土佐藩からの援助を願い出るものです。南光院の零落ぶりがはっきりとうかがえます。これが寛保三(1743)年のことになります。

 凋落する当山派南光院に代って勢力を増してきたのが本山派龍光院です。
龍光院は、もと中村の一条公御家門で中納言住職で寺領百石寺地一石の祈願所でした。それが長宗我部氏になって寺領百石を取り上げられます。長宗我部家が滅亡し、山内家になると御仕置方支配となり、幕末の嘉永安政期には宿毛、中村、西土佐村、十和村に及ぶ修験41名を支配するようになります。この時に、南光院は18名です。
  中世末期から修験者は、武士勢力に隷属するようになるようです。
それは土佐でも例外ではなかったことが南光院の栄枯盛衰からうかがえます。土佐では、山内藩の宗教政策によって「当山派の衰微、本山派の隆盛」という逆転現象をうみだすことになります。
 同時にこの時期から大峰登山や土佐各霊山での修行もみられなくなったと研究者は考えているようです。大峰修行を忘れた修験は、在地で祈祷や札配布を行うようになります。しかし、近世末には、これら祈祷は人心を惑わすものとされ、明治元年高知藩は次のような禁止令をだしています。
 無レ筋祈祷・冗等不二相成儀ハ、兼々御触示被二御付置‘候処、近年予州石鉄山信仰ノ者有之、御境目ヲ潜り致一参詣甚シキュ至りテハ、同先達卜唱、異粧ノ姿ヲ以琳一徘徊動モスレハ無レ筋祈祷・兇等致シ、愚昧ノ者共ヲ為‘一相惑候 者有レ之趣相聞、不心得ノ至二俣。右等ノ儀ハ、地下役共精々取締可レ致、向後違背ノ者於い有レ之地下役共二至迄可為二越度事
意訳変換しておくと
祈祷などを行う事を禁止することは、以前から通達しているとおりである。ところが近年、伊予の石鎚山信仰の先達達(山伏)が、国境を越えて土佐に潜りこんでくるようになった。甚だしいのは先達と称して、異粧の姿で近隣を徘徊して祈祷を行い、愚昧者たちを一層惑わしている者がいると聞く。このような事は、地方役人の取り締まり不足でもある。今後、違反するものがあれば取り締まりに当たる役人の責任問題でもなる。
 このように石鎚信仰の修験者(山伏)たちの祈願祈祷を取締るように命じています。修験道は、神仏分離政策と共に「廃仏毀釈」される邪教として排除されていくことになります。南光院(宥厳)が院主として修験道化を進めた金毘羅大権現は、神道の神社として生き延びる道を選ぶことになります。南光院が金毘羅を離れてから約270年の年月が経ていました。

 最後に宥厳(南光院)が金毘羅大権現の正史には、どのように扱われているのかを見ておきましょう
 江戸時代後半になると長宗我部に支配され、土佐出身の修験道者に治められていたことは、金比羅大権現にとっては、公にはしたくないことだったようです。後の記録は、宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585年までとして、以後は隠居としています。しかし、実際は1600年まで在職していたことが史料からは分かります。そして、江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られてしまいます。元親寄進の仁王門も「逆木門」伝承として、元親を貶める話として流布されるようになるのとおなじ扱いかも知れません。宥厳は宥雅と同じように、歴代院主の中には含まれていません。
「宿毛市南光院」の画像検索結果
四国霊場延光寺 奥の院の現在の南光院

以上をまとめておくと
①長宗我部元親に呼ばれて金比羅の松尾寺住職となったのが土佐出身の南光院であった。
②彼は讃岐にやってくる前は、「四国の総先達」のトップとも云える存在であった。
③南光院は金比羅では宥厳と改名し、松尾寺の修験化と「四国鎮守の寺」化を進めた。
④長宗我部元親は、晩年の宥厳を土佐に呼び戻し、延光寺を与えた。
⑤延光寺は、長宗我部支配下では保護を受けて多くの寺領と配下の修験者を抱える「山伏寺」であった。
⑥しかし、新たに藩主となった山内家は聖護院との関係を重視し、本山派を保護した
⑦その結果、延光寺(南光院)は衰退していくことになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました
高木啓夫 土佐における修験  中四国の修験道所収
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 応仁の乱が始まった翌年の9月に前関白一条教房は、兵火を避けて家領があった土佐国幡多郡の荘園に避難してきます。
そして、中村を拠点に公家大名に変身していきます。その間も、中村と上方の間を堺港を利用して何度も往復しています。そのため堺を支配する細川氏との関わりも深かったようで、『大乗院寺社雑事記』の明応三年(1494)2月25日には、当時の大阪湾周辺の情勢が次のように記されています。

「細川方へ罷上四国船雑物 紀州海賊落取之、畠山下知云々、掲海上不通也」

 一条氏の急速な台頭の背景には、日明貿易に参入し、巨大な利益を上げていたという説があるようです。一条氏の日明貿易の実態について探ってみることにします。

一条氏を祀る一條神社 本社拝殿と天神社(四万十市)

まず一条氏対明貿易参加説です。
この説は戦前の昭和十年(1935)に野村晋域氏が「戦国時代に於ける土佐中村の発達」で、発表されました。この論文では、次の2点が指摘されました。
①土佐一条氏が対明貿易に参加していたこと
②土佐中村の外港下田が遣明船の寄港地であったこと
  その根拠として示されたのが一条氏が巨大な貿易船を作っているということでした。
その貿易船について、少し詳しく見ておきます。
 天文五年(1536)四月に貿易船建造のために一条氏が土佐国幡多郡から木材を切り出している史料が見つかったようです。しかし、一条氏に貿易船建造能力はありません。そのため堺に技術援助を求めています。堺の造船や貿易事務のテクノラーであった板原次郎左衛門は、この依頼を無視します。しかし、一条氏は前関白という人的ネットワークを駆使して、大坂の石山本願寺の鐙如上人の協力を取り付けます。鐙如上人は浄土真宗のトップとして、信徒である板原次郎左衛門に中村行きを命じます。この結果。天文6年(1537)年三月には、堺から板原次郎左衛門が中村にやってきます。板原氏は、貿易船の蟻装や資材調達の調達などの元締で、堺の造船技術者のトップの地位にいた人物でした。彼が土佐にやってこなければ貿易船を作ることはできなかったはずです。そういう意味では、鐙如上人の鶴の一声は大きかったようです。上人側にも、日明貿易への参画という経済的な戦略があったことが見え隠れします。
日明貿易1

中世の交易船

 中村で船の組み立てが終了すると、板原次郎左衛門は艤装のために船を紀州に廻航しています。その際には、紀州のかこ(水夫)二十人を土佐国に派遣するよう依頼してます。ここからは、当時の中村周辺には、大船の操船技術を持った水夫もいなかったし、最終段階の艤装技術も中村にはなかったことがうかがえます。蟻装が終わった貿易船は、天文7年12月堺に回航されます。それを、鐙如上人は堺まで出向き密かに見物しています。この船は上人にとっても意味のある船だったようです。こうして、一条氏は堺の技術力で貿易船を建造しているのです。

日明貿易3

この時期から日明貿易で手に入れたと考えられる品々を毎年朝廷に貢納するようになります。
さらに、一条氏は平均子疋を朝廷に献金し、一万疋を出して官位を得ようともしています。つまり一条氏の経済力の向上が見られるというのです。このような史料や状況証拠をもとに
「貿易船建造の史料での確認 + 経済力の向上」= 一条氏の対明貿易参加説

が出されることになったようです。
 戦後に出された「高知県史 古代中世編』でも
「一条氏は大坂の石山本願寺や堺と緊密な連絡を保ちながら、日明貿易に関与していたのであろう」

と、石山本願寺と堺商人などと共に対明貿易に参加したと推論します。これが定説でした。
09-05-15 土佐一條公家行列「藤祭り」

これに対して一条氏対明貿易不参加説が戦後になって出されます。
小松氏は
「下田港で唐船は造ったらしいが、貿易は中途挫折してゐる」

として、一条氏の対明貿易不参加説を示します。。
 小松氏に続いて下村敷氏も『戦国・織豊期の社会と文化』で
「対明貿易で手に入れたとされる珍しい外国商品は堺の商人によって、土佐国に販売されたものである」

と小松氏の説を補強します。つまり、天文期には、土佐中村はすでに堺の商圏に入っており、外国商品は一条氏が対明貿易で得たものではないという考え方です。
 これに対して『中村市史』は
「土佐一条氏は対明貿易船の実際経営に当る堺商人と関係を結んでいたことを思えば、堺商人を介して対明貿易に関与したことは十分考えられる」

とします。裏付けとして、天文九年正月一条氏から石山本願寺の当主に贈った唐犬や、朝廷への献上品を挙げて参加説を支持しました。
どちらかというと、地元の高知は関与説のようです。
 しかし、下村氏はその後の論文で、堺商人を大内派と細川派に分けて考察し、天文八年四月に渡海した遣明船のうち、1・2号船の二隻は博多商人が担当し、3号船は
「堺衆でも大内氏と結んでいた片山与三衛門・池永宗巴・同新兵衛・盛田新左衛門などが乗船、細川方の堺衆木屋宗観・小西宗左衛門などが計画していた土佐中村建造の渡唐船は、この時ついに渡海しなかった

ことを明らかにします。『中村市史』が裏付けとする天文8年7の朝廷への献上品、さらに天文9年正月、一条氏が鐙如上人に贈ったとされる唐犬などは、天文8年4月に遣明船によってもたらされたものではなかったのです。これで、一条氏が対明貿易に関与したとする論拠が崩れました。
現在では、一条氏対明貿易不参加説をとる研究者の方が多いようです。その根拠を見ておきましょう。
第一に一条氏が堺商人と共に参加していれば、もっと多くの外国商品が中村市場に出廻り、朝廷へも多種類の品物が献納されたはずであると研究者は考えているようです。貿易船を運用していたにしては、もたらされている貿易品が少なすぎるということです。
 勘合による遣明船の輸出入品は、輸出品は刀剣・鎧・硫黄・銅を主とし、扇・蒔絵・屏風・硯・漆器などがあり、輸入品は銅銭を主とし、生糸・高級織物・錦・書籍などでした。これらの流通が中村周辺では見られないようです。

日明貿易2
第二は、貿易船の乗組員です。
天文8年4月に五島奈留浦より渡海した遣明船の乗組員は
①1号船 官員15人・商人112人・水主58人・合計185人
②2号船 官員 5人・商人 95人・水主40人・合計140人
③3号船 官員 6人・商人 90人・水主38人・合計134人
となっています。相当数の商人・水主を確保しなければならないことが分かります。さらに明国への進物の経費・勘合請料の支払もあります。これらの費用の一部は乗船料・荷駄料から支払われるとしても、一隻の請料は巨額の費用が必要でした。そのため貿易船は、多くの商人が資金を出し合って運営されたいました。また帰国後の輸入品販売のための市場確保も課題です。このような山積みされた課題に一条氏が対応できたのでしょうか? 
 先ほど見た貿易船の建造や水夫(かこ)にしても、堺や紀伊に頼らなければなりませんでした。博多や堺に割って入る形で一条氏が参入できたと考える研究者は少ないようです。
一条教房|中村めぐり

 一条氏が貿易に関与していないとすれば、朝廷や貴族たちに進物した外国商品は、どこから得たのでしょうか
この時期になるとは堺の商人が土佐にやって来るようになります。
琉球との交易の際に、立ち寄ることが多くなったようです。つまり、土佐は堺の交易圏だったのです。その際に、対明貿易で仕入れた商品がもたらされたと研究者は考えているようです。
 それ以外にも一条氏と大内氏の姻戚関係が成立し、大内義興の女が一条房冬に嫁いで、大永四年若君を出産しています。後にはその若君が、大内氏に迎えられ義隆の養嗣子となり晴持として元服します。彼は天文12年5月月に20歳で亡くなりますが、大内晴持の実家は一条氏です。大内家と一条家は強い姻戚関係で結ばれていました。そのため大内義興・義隆父子は、博多商人が遣明貿易でもたらした珍しい高価な品物を、一条氏に進呈したことは十分考えられます。
 つまり一条氏が手に入れた中国からの舶来品は、堺商人や大内氏を通じて手に入れたものだとします。

土佐国 大日本輿地便覧 坤 ダウンロード販売 / 地図のご購入は「地図の ...

また一条氏が南蛮物を手に入れる手段としては、琉球船の来港がありました。琉球船は土佐清水に入港し、そこに南蛮の品々を下ろしていたようです。この交易活動の背後にも、大内氏の支援があったようです。
 このように、一条氏が朝廷や三条西実隆・鐙如上人らに進物とした外国商品は、堺の商人によって土佐へもたらされたものや、当時婚姻関係で結ばれていた大内氏から送られた物が多かったのではないかと研究者は考えているようです。
参考文献
朝倉慶景 土佐一条氏と大内氏の関係及び対明貿易に関する一考察  瀬戸内海地域史研究8号 2000年

 土佐は遍路にとっては「厳しい国」だったといわれるようです。
その理由として、挙げられるのが次の3点です。
①札所の数が少ないので道のりが長いこと、
②大河や海岸線が長く難路が多いこと、
③藩の取り締まりが他国・他藩とべて厳しかったこと
土佐藩には早くから厳しい通関規則があって、国境通過の厳しく制限されていました。しかし、四国遍路などの巡礼には特例を設けていたようです。寛文4年(1664)の布告を見ると
「辺路は其身自国の切手見届け、吟味の上にて通し申すべき事(三谷家文書)」
とあって、手続きも寛大にして通行を認めていたようです。
  元禄3年(1690)の道番所定書では、遍路が入出国できる関所を次のように限定するようになります。
 辺路(遍路)は其身之国手形見届札所順路二候条、甲ノ浦口・宿毛口から入可申事。其外之通口方ハ堅可指止。右東西弐ヶ所之番所方添へ手形を出し、出国之節番人受取置通可中事。 右元禄三午三月晦日 (「憲章簿」辺路之部―)
甲浦口から入境して西に向かうのを順行、
その反対に宿毛口から入境して東に向かうのを逆行
と呼び、このふたつの関所以外からは遍路は土佐に入ることは「堅可指止」と禁止とします。しかし、国手形さえ持っていれば入国を認め「添手形」を発行したことは変わりません。国手形というのは、生地の身分証明書のようなもので、これさえ持っていたら甲浦の番所で添手形(通行許可証)を付けてもらって、土佐国内を巡拝して、宿毛口(松尾坂)番所で添手形を返却すればよかったようです。
  寛延2年(1749)5月2日の定書には
「四国辺路日数百日迄之暇聞届申定」
とあり
「右は詮議之上今日相極、向後右日数願書にも相記載候様、先遣役へ申付置候事」
とあります。
ここからは、藩当局が藩内の人々の四国遍路日数の上限を百日以内に制限していたことが分かります。つまり、土佐の人が四国遍路をする場合は百日以内で帰ってくることを義務づけられていたのです。
享保4年(1719)12月、郷浦・町方に対し次のような改め方を指示します。
他国から入来候辺路(遍路)・六拾六部等改様之事
 右は甲浦、松尾坂両於番所往来切手・宗旨于形見届之上、疑敷者二而無之候ハ犬番人共から可申聞趣は、辺路札所国中之順路従是凡七拾八里有之間、今日から日数三拾日限可被通候。尤一宿之村々二而、庄屋・老改之日次を請可通候。素脇道通り候儀は堅法度二候。(中略)
ここからは、他国からの遍路が甲浦・松尾坂番所から入国する際に、番人から申し渡されたことは、
①土佐藩領内の通過日数を入国から30日以内とする
②遍路途上で一宿した村々では所持の切手に、庄屋から日付と著名、判形をもらう、素通り法度(厳禁)
③日数の遅延とか無益の滞留・脇道の通過などは禁止
という3点です。
土佐領内の滞在日数やルートが新たに指定されています。
こうして土佐藩の遍路取り締まりは強化されていきます    
寛文3年(1663)以降、土佐藩では遍路に対する規制として、出入国改め方、通過日数制限や日時改め方の遵守、脇道通行の禁止、無切手者の取り締まりなどを、繰り返し布令がでています。それだけ問題が多発していたことがうかがえます。そして文政年間以降になると、藩から出される通達はますます細かく、厳しい方向に向かうようになります
 文政2年(1819)には、四国遍路や七ヶ所遍路の出立・帰郷の際に趣向を催すことや、遍路に対する堂社・居宅・道筋においての接待なども、禁止されるようになります。
「時節柄を省みず不心得・不埓な行い」
と、云われるようになります。もっとも遍路順路での托鉢に対して、1銭あるいは握り米等を与えることは、昔からの「せったい」なので差し支えないとしています。
遍路の「多様化」 脇街道に出没する「遍路乞食」
 遍路の通る道は、東の甲浦口と西の宿毛口の指定された街道に限られていました。しかし、遍路の中にはこの規則を無視して他の脇道へ潜行する者も出てきます。信仰的な巡礼よりも生きていくための「物乞いや商売」に重きを置く遍路が現れていたのです。そのため土佐藩は脇道の通行を禁止する通達を、たびたび出しています。何度も出されると云うことは、禁令が守られていなかったことを示します。
天保5年(1834)3月の郡奉行布筈には
「潜行する遍路については、隣村の庄屋と詮議のうえ、問題の無い者へは入国禁止を言い含めて近くの国境より追放せよ」
などの対処法が指示されています。
その年の11月には、一般領民に次のような布令が出されています
遍路の風体をした者が各地に姿を見せ奇妙な行動をしている。医師のまねごと、占い師めいた仕業で庶民の悩みに乗じて金銭を詐取する者がある。弘法大師の灸点などと唱えて人心を惑わす者もある。これは風教の上にも甚だ好ましからとであるから、遍路道はいうに及ばず、脇道であっても取り締まりを厳重にするように」
領民に注意を促したものですが、医師・占い師・灸師の真似事を行う遍路がいたことがうかがえます。遍路姿の「多様な職業人」が村々に入り込むようになっていたのです。
天保7年5月には、
遍路を装って潜入し強盗に変じて治安を乱す者がある、疑わしき者は即刻召し捕りを命じるように
との戒告が出されています。
天保9年(1838)4月には、遍路の激しい流入による社会不安や混雑を防ぐために、取り締まりを厳重にし、他国遍路の入国については、その条件を次のように明確にします。
       覚
四国辺路之儀は元来宿願之子細に依而国々霊場令順拝事にて、往古より御作法を以て通入被仰付置候処、近年右唱計にて専ら乞食同様之族余計入込み、動は不法之儀有之不而己、老幼並病体之者共数百人行掛り令病死、実に御厄介不絶事に候間、猶又此度詮議之上別紙之通廉々相改様被仰付候条、聊か他念無之様改方之作配可有候。已上
   他国辺路之事
生国往来手形、並納経、其余四国路外之者御船揚り切手持参之事。
路銭相応持参之事。
六拾六部廻国之儀は東叡山御定目、並三ッ道具所持之者。
右夫々所持不致者は通し人不相成、右之外病症顕然にて歩行確に不相調者、並老極幼年者共壱人立罷越候者勿論通入不相成、 (後略)     (天保九年)
 ここには近年、遍路と称して乞食同様の者が多く入り込み、不法を働く者のほか老人年少者、病気の遍路が立ち寄って数百人の死者が出るなど、在所に迷惑がかかる者が増加した。そこで今後は、次のものを持っていない場合は入国させない。
①生国往来手形と納経、四国外の者については船揚り切手を所持していること、
②相応の路銀を持っていること。
③六十六部廻国者は東叡山御定目、三ッ道具を所持している者
そのほかに、病症があるものや歩行困難な者や老人や極年少者の単独遍路、身分不相応な所持品を持つ者も通さない。
以上のことをが道番所と郷民に通達されています。幕末が近づくにつれて遍路取り締まりはますます厳しくなっていきます。

四国遍路では、城下町は遍路は通過禁止でした。
例えば真念の「道指南』でも、
「かうち(高知)城下町入口に橋あり。山田橋といふ。次番所有、往来手形改。もし城下にとどまる時は、番所より庄屋へさしづにて、やどをかる。」
とあって、宿を借りる場合には、庄屋の許可がいることが記されています。一般的には、札所は城下周辺にあるので、城下そのものは迂回して通過していたようです。これは、松山以外のその他の城下町も同様です。
城下町の中にあるお寺は、札所にはなっていません。遍路道は城下町を通らないで迂回します。ここからは、城下町が成立した後に遍路ルートは整備されたことがうかがえます。
高知城下が遍路往来禁止になっていた史料です。
「御家中並に町方四箇村において、夜分辺路(遍路)体の者見逢候はば生国の往来切手、並に日次等相改め、疑敷箇条於有之は勿論、疑敷個条無之とも夜分往来又は町端等にて臥り居り候者共は、手寄りの町郷庄屋へ預置き其旨相達し申尽事。但し本文の者夜分五ッ時(午後八時)より内に見逢はぱ日次等相改め、御作法の日数も過ぎ申さず、図らず道に踏迷ひ候て夜に入り申す様の儀、疑敷事跡相見えず候はば、街道の方へ追払ひ申すべく候事」。
  ここには城下において夜に遍路を見た場合には、小国往来手形や日次(宿泊履歴帳)をチェックし、疑いの有無にかかわらず最寄りの町役人宅に連行せよとあります。夜間の高知城下町への遍路の侵入は厳しくチェックされていたようです。
土佐国境の番所手続きを遍路道中記で見てみましょう。
天保7年(1836)遍路の武蔵国中奈良村の野中彦兵衛は、土佐に入り「土佐之国御関所甲ノ浦東股御番所右三月十四日頂戴仕候」
と甲浦の番所で切手と日付帳面を貰い受け、土佐国を遍路します。
その土佐通過の切手及び日付帳面には次のように記録されています。
     切手(印)
 武州旗羅郡中奈良村
一、遍路弐人       彦兵衛
             重蔵
 但し、三月十四日甲ノ浦東股於御番所二相改今日右日数三十日限り松尾坂江参着之筈
右之通委細中含メ候条、尤村々二猶又念入相改メ可申候、尤札所順路之義者御法度之旨申聞候也
 申ノ三月十四日
        和田惣右衛門 印
  甲浦右松尾坂通迄
    順路道筋庄屋衆中(印) 
  覚
 右弐人 三月十四日
  伏越御番所口入也
        北川逸平 印
     入切手弐数也
 右弐人 三月十五日
        出申候 佐貴演
  佐貴ノ演村 同所庄屋寺田房五郎
   (以下略)
 末尾の(以下略)のあとには、前の部分と同様に「右弐人」に「出足の日付」、「庄屋姓名の自署」が順番に、土佐を出る4月22日まで並んでいます。以前見たように土佐藩領内を通過する遍路は、当日宿泊地の村役人(庄屋)の承認印をもらわなければならないという通達が守られていたことが分かります。
そして「右御日附帳面を申四月廿二日ハッ時、松尾坂御番所へ上ル」とあって、彦兵衛は切手と帳面を宿毛国境にある松尾坂番所に差し出して、土佐国を通過し、伊予国に入っていったことが分かります。
 もう一つの例を見ておきましょう。
文化元年(1804)の伊予久谷村円福寺の僧英仙による紀行記録『海南四州紀行』です
これには英仙と弟子の胎仙は土佐甲浦の番所で、役人から右の照暗状(手形・切手・証明書)というものを渡されます。後は自分で小紙6枚を、日限書に綴じ添えます。それを毎日、道筋にあたるそれぞれの村の庄屋へ行って、日付を書き込んでもらいながら遍路を続けています。
右二人出足 五月廿四日 白浜
右二人出足 同廿五日 椎名村
右二人出足 同廿六日 羽根村
(中略)
右二人出足 六月八日 姫ノ井
右二人出足 同九日  宿毛浦
といった記録が並びます。5月23日に甲浦番所から土佐に入国し、6月9日に宿毛の番所に着き、添え手形を返して出国しています。土佐通過に要した日数は17日です。土佐藩の「通過制限日数」の上限は30日でしたから、天候等にも恵まれれば20日以内では通過できたようです。日数制限は、必要日数の倍くらいに定められていたようです。
 ペリーがやって来た翌年、嘉永7年(1854)11月4日、西日本に大地震が発生し、高知には大きな被害をもたらします。
幕末の南海大地震です。このため土佐藩では、四国遍路をはじめ他国人の入国を禁じる措置をとります。その年の11月14日付けの藩通達には
此度之大変(大地震)のために往還の道路が大破し、遍路などが通行しがたいので遍路の入った所の村役人は覚書を添えて、各村々順送りで最寄りの国境から遍路を送り出すように
と命じています。
 こうした措置はしばらく続いたようです。
「藤井此蔵一生記」の文久2年(1862)の条に、藤井此蔵の娘しほが、この年3月10日に6人連れで四国遍路をして、4月9日に30日振二帰村した記事には、
「去る嘉永七寅歳十一月大地震より、土州へは辺路(遍路)一圓入れ不申、只今にては三国漫路に相成候て。歎ヶ敷事也。」
と記し、地震から8年経っても土佐への入国禁止措置がまだ続いていたことが分かります。この期間は土佐を除く「三国漫路」だったようです。

  四国遍路の対応に苦慮し「遍路排斥策」を採っていた土佐藩にとっては、大地震は「遍路入国の全面禁止」策を打ち出す契機になったのかもしれません。土佐藩は地震被害を理由に、その後もなかなか遍路の入国再開を許さないのです。このような動きは明治維新後も続きます。土佐藩内部にあった四国遍路遍路排斥論は、明治になっても役人に引き継がれていったようです。
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
       平成12年度遍路文化の学術整理報告書

              
1横倉山
仁淀川からのぞむ橫倉山
 土佐の霊峰といわれる横倉山(774㍍)は高知市の西にあり、安徳天皇御陵参考地とされます。以前に安徳天皇伝説が
物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町(横倉山)
へと土佐の霊山をつなぐように伝えられている事。このルートを使って宗教活動を行っていたのが、物部いざなぎの修験者達ではなかったのかという仮説をお話ししました。
今回は、その伝説の終着地点(?)の横倉山を見ていきたいと思います。
 阿波祖谷より国境尾根を越えて、土佐の物部に入り、物部川と仁淀川沿いに歩くと横倉山にやってきます。安徳帝は、横倉山で正治二年九月八日 二十三で崩御したと伝えられます。
1 横倉山R2ss
橫倉山
この山の祭祀遺跡は、安徳帝行在所説に付会されること多く、山号ミタケ山も御嶽と表記されています。まず、安徳帝以前の山の様子を見ておきましょう。
 安徳帝以前から修験の山であったとするのが「八幡荘伝承記」で、次のように記します。
土佐国司惟宗朝臣永厚の子康弘の次男経基は、この一帯で別府の氏姓を称して勢力を拡大していた。経基は大昆羅祖蔵権現を尊び山伏修行をしていた。天暦八年六月別府荘奥山谷深く登りつつ本尊を鎮座すべく決心した。そして家人為右衛門及び喜全坊を、大和へ上らせ、自らも大昆羅坊・山律坊と称した。そして山頂で天神の詔を聞いたのである。
天神は「みだりにこの山には人誰も入るものでなく、吾ただいま降りて天地の礼法を伝ふ」として祭地と祭神を告げる。
 そこで、次のように神仏を祀った 
①桜に柏の木の森があって、日向の滝と称する東の嶽には、大日大乗不動明王・紀国日前大明神を
②檜の森があって日室の滝と称する中央(南)には、紀国日像神とて天照大神の荒御魂の分霊・本尊大日如来を
③水無滝のある西嶽には阿波の人津御魂神・大田氏神・薬師如来をこれら三滝大権現、三滝三聖大権現を祀ったのは天徳元年十二月であった。
  ここには、ミタキ山は三嶽山と表記し、横倉山祭祀の始まりと伝えます。11世紀半ばに修験道関係の仏が祀られ、修行の場となったと言うのです。今は、本宮西方の住吉社のある嶽を黒嶽とよんでいます。しかし「御嶽神社記」には
「黒嶽に安徳帝の念持仏の不動像と鏡を納めた」
と黒嶽の名が出てきます。どちらにしても、これが「三嶽勧請伝承」です。ここからは安徳天皇が葬られたとする時代よりも2世紀ほど早い時点で、この山は修験者達によって開かれていたことになります。

 横倉山のことを金峯山とも呼びます。
 吉野の金峯山は空海が修行した霊山です。また、醍醐寺を開いた聖宝も金峰山で修行しました。吉野は弥勒にはじまる法相宗の道場でしたから末法思想が盛んになると、その奥の金峰山は弥勒下生の地とされるようになります。そして藤原道長など貴族の間で御岳詣が盛んに行われます。道長は、修験で知られた観修に祈祷をさせてもいます。

1横倉山蔵王権現立像 2
 
 金峰山には、金剛蔵王権現がまつられました。
 これが平安末になると、金剛蔵王権現を役小角が金峰山上の岩から導き出したと神格とする信仰を生み出します。こうして、金峰山には山上・安禅・山下の蔵王堂、石蔵寺・一乗寺などの寺院が建立され、白河上皇・堀河上皇・鳥羽上皇らが御幸するようになります。
 後には、この山で修行した修験者達が各地に散らばり、霊山を開き蔵王権現を祀るようになります。横倉山も、吉野金剛山で修行を積んだ修験者が、大きな影響力を持った時代があったようです。そのために、この山も金峰山と呼ばれるようになったのでしょう。それを資料的に見ておきましょう。「土陽淵岳誌」延享三年(一七四六)に

 里人曰く権現尤霊験アリテ 怒ヲ発スレハ山必鳴ルト云 曰自古伝ヘテ 此山二金石ヲ伏ス  金気抑彭シテ外へ発セサレハ 則震動雷ノ如シト云ヘリ

と「金石ヲ伏ス  金気抑彭」と金峯山についての伝承があります。
文政八年(1825)「横倉山考証記」には、金峯山御岩屋御宝殿と記した各棟札が以下のように伝えられています。
文明十六年(一四八四)横倉蔵王権現宮
天正十一年(一五八三)ざわうごんげん(=蔵王権現)
元禄十七年(一七〇四)社家改記録に「蔵王権現神体大小五但シ唐金」「唐金ノ如ク 鏡ナル像ヲ鋳タル」
と蔵王権現像が作られた事が記されています。

橫倉宮3
橫倉宮の鳥居
「八幡荘伝承記」による金峯山勧請由来は、次のように記します。

「文明十四年(1482)別府十二社権現宮 三嶽山総山焼はげとなりたる時焼失し 新宮建立、同十六年大和国金峯山権現勧請

ここからは、横倉山に金峯山蔵王権現がやって来たのは天明16年(1484)で、そのきっかけは、2年前の「焼はげ=大火」の原因を占った結果「金峯山を勧請すべき」と出たからのようです。
 ちなみに横倉権現は現在は、横倉宮となっていて、現地の説明版には次のようにあります。

橫倉宮4
祭神は安徳天皇、本殿は春日造り、拝殿は流れ造りです。由緒は正治二年(1200)八月八日、安徳天皇は二十三歳で山の上の行宮で亡くなられ、鞠ヶ奈路に葬られた。同年九月八日、平知盛が玉室大神宮とあがめて横倉山頂に神殿を建てて祭る。
 歴代領主が崇拝し、しばしば社殿の修改築をした。現在の建物は明治30年(1897)頃の改築で、以前は横倉権現と言ったが、明治4年に御嶽神社と改め、昭和24年(1949)12月二十三日天皇崩御七百五十年祭の時に横倉宮と改められた。
  ここには安徳天皇以前のことには、触れられていません。そして、安徳帝を祀る神社が安置された事からスタートします。ちなみに安徳天皇を12世紀の時点で祀った事は、残された根本文書には何も記されていないことになります。そして最後に、明治の神仏分離に触れています。ここからは蔵王権現は、明治の神仏分離によって安徳天皇を祀る神社に「変身=リニューアル」されたことが分かります。もともとは、橫倉宮には蔵王権現が祀られていたのです。
 「歴史の重層性」を、改めて思い知らされます。そして、明治以後の神道界では金峯山という名前も、避けられるようになり横倉山が「正式名称」となったようです。

1横倉zinnzya 下社山4
             横倉神社(下宮)

 麓にある横倉神社(下宮)を見てみましょう。

下宮は南北社二つあり、北社を金峯神社と称していました。明治の神仏分離後に、横倉神社と改称し、明治14年に南社の横倉大権現を合祀して現在に至っています。文禄四年の「金峯山御岩屋御宝殿」棟札は、頂上本宮にあったものですが、この棟札からは、この頃までは横倉山を金峯山と呼んでいたことが分かります。
横倉権現の痕跡をもう少し探してみましょう
1横倉山蔵王権現立像 吉野金峰山寺
吉野金剛山寺の蔵王権現
 山上の本宮が鎮座する崖下の岩屋からは、古銭や興矢根などが多く発見されています。ここからは、金峯山信仰と密接な関係があったことがうかがえます。
さらに、ここには檜材一木造の「木造蔵王権現立像」(高さ55㎝)が今に伝えられています。蔵王像は全国的にも珍しいもので、県下では唯一のものです。研究者は次のように評します。

「その表情も力強い忿怒の表現を見せ、古拙ではあるが形制よりして藤原時代に遡るもので、平安末修験道造像の古例として注目されている」

(高知県文化財調査報告書11集・文化庁文部技官倉田文作氏)と評する逸品です。この蔵王像は、横倉山の金峯山信仰が古くからあったことを示します。
1横倉山 杉原神社 熊野
橫倉宮
残されたその他の修験関係の遺品としては、次のようなものがあります。
①蔵王権現の本地仏である釈迦如来を表現した銅板線刻如来鏡像(平安後期作)
②蔵王権現立像と一連の天部形立像・男神倚座像・騎馬神像
③線刻地蔵菩薩鏡像(大平神社蔵)
④懸仏9面(鎌倉時代~南北朝時代)
⑤修験の行場に置かれた鉄剣(鎌倉時代)
⑥中国宋の湖州鏡(大平神社蔵)
⑦経塚関係の遺物として経筒(平安後期~鎌倉時代)
⑧経筒の外容器の陶器、副納品の土器
これらを見ても、安徳天皇伝説につらなるものはないようです。

1横倉神社

 蔵王権現に遅れて勧進されたのが熊野権現です。「八幡荘伝承記」には、次のように記します。

別府氏十代高盛は延暦寺に詣で仏事を修し、嘉承二年(1107)帰国、坊名を然天坊崇真と号す。永久二年(1114)二月紀州熊野宮に参詣し権現尊勧請、四月末帰国し仮の宮を造り納め、保延三年(1137七)吾川山荘高峰別院(現黒森山という)に安置した。

「高吾北文化史」には治承三年(1179)蓮池家綱が建立した別府十二社権現と、熊野権現とが文安元年(1444)に合祭されて横倉山大権現宮と改称したと記します。

81横倉山

以上から横倉山には、三嶽大権現、熊野権現、金峯山蔵王権現が順番に勧進され安置されていたことが分かります。
年代記銘がある最古のものは保安三年(1122)の経筒です。これを、基準に前後の事項を、資料から拾い年代順にまとめてみます。
天暦九年(955)経基家人為右衛門・喜全坊を大和へ
天徳元年(959)東西中の三嶽に神仏勧請、三嶽大権現と称す
永久二年(1114)高盛が熊野に詣り、熊野権現勧請仮宮に奉置
保安三年(1122)本宮に経筒を奉ず
保延三年(1217)熊野権現吾川山荘高峰別院に納む(黒森山)
治承三年(1179)蓮池家 綱別府十二社権現を三嶽山に建立
文治元年(1185)安徳帝横倉山へ
正治二年(1200)安徳帝崩御
文安元年(1444)別府十二社権現、高峰別院熊野権現とを合祭
文明十四年(1482)三嶽山焼け別府十二社権現焼失
文明十六年(1484)大和金峯山権現勧請
天正三年(1575) 別府山延命院横倉寺建立
 この年表からは安徳帝以前から横倉山は、信仰の山で修験者の活動拠点であったことが改めて分かります。そこへ吉野の金峰山の蔵王権現、ついて熊野権現が勧請されたのです。

1横倉山s
橫倉山の平家穴

しかし、いつのころからかこの山から修験者の姿は消え、安徳天皇伝説が急速に広がり始めます。
それでは横倉山で修験者が活動したのは、いつ頃までだったのでしょうか?
 源平の争い、南北朝時代など中世は戦乱が相続き、人々が不安におののいた時代でした。そんな時に、験力を看板にした修験者は宗教界のみでなく、政界にも大きな影響を与えます。さらに修験者は山中の地理にくわしく、敏捷だったこともあって武力集団としても重視されます。源義経が熊野水軍を、南朝が吉野の修験を、戦国武将が間諜として修験者を用いたのは、こうした彼らの力に頼ろうとしたからなのでしょう。土佐も同様で、修験者の活躍できる機会がいろいろな方面に広がっていました。長宗我部元親も修験者達を側近に用いて、情報収集や外交、教育などのブレーンとして活用していた事が知られています。
1横倉山.3jpg
かむと獄石鎚神社

江戸時代に入ると、幕府は修験道法度を定め、修験者を次のどちらかに所属登録させます。
①聖護院の統轄する本山派(熊野)
②醍醐の三宝院が統轄する当山派(吉野)
そして、両者を競合させる政策をとります。この結果、諸藩でこの両派の勢力争いが起きるようになります。土佐では山内藩の保護を受けたのは本山派でした。そして、保護を失った当山派は幕末には土佐から姿を消す事になります。
 また幕府は、修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとしました。こうして修験者達は全国の行場を渡り歩く事が出来なくなります。各派の寺院に所属登録され、村や街に根付いた修験者は、それぞれの地域の人々によって崇拝されている山岳で修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになるのです。そして、村々の加持祈祷や符呪など、いろいろな呪術宗教的な活動を行うようになります。
1横倉山 安徳天皇伝説4
橫倉宮
以下は私の仮説です。
 このような中で大きな打撃を受けたのが物部いざなぎ流の修験者たちではなかったでしょうか。
安徳天皇伝説が伝わる
「  阿波祖谷の剣山 →  物部の高板山 → 土佐横倉山  」
は、いざなぎ流修験道の活動ルートであり、
物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町のルート
はいざなぎ流の太夫たちの活動領域ではないのかという仮説を最初にお話ししました。
 この仮説の上に立つと江戸幕府の修験道法度は、修験者の各地遊行を禁止するものでした。この結果、物部修験者の活動は大きな制約を受けたはずです。それまで、頻繁に行き来していた物部と横倉の修験道ルートが閉鎖されたとすれば、横倉山の修験道の衰退は理解できます。
91横倉山
橫倉山からの展望 左が仁淀川
この山は、江戸時代には、山内家・家老深尾家の祈願所として、その命脈は保ちます。がこの山が修験の山であったことは忘れられていきます。
 明治の神仏分離で、このお山は大きく姿を変えたのはお話ししました。
明治五年、政府は権現信仰を中心とし淫祠をあずかるとして修験道を廃止します。そして修験者を聖護院や三宝院の両本山に所属したままで天台・真言の僧侶としました。その際に還俗したり、神官になった修験者も少なくなかったようです。全国各地の修験者が依拠した諸山の社寺でも、神社に主導権をにぎられていきます。こうして教団としての修験道は姿を消します。

1横倉山4

 国家神道のもとでこの山は、安徳天皇伝説で染め上げられていく事になります。

 

 
虚空蔵山7

虚空蔵山(こくぞうさん) 675mは土佐市、須崎市、佐川町の境にまたがり、どこからみても形のよく、眺望も素晴らしい山です。こんな山は古代から甘南備(カンナビ)山として崇拝されてきました。
霊山は、死後は死霊として山岳に帰り、清められて祖霊からさらに川神になって帰ってくる山でした。
年間の行事をとって見てると、
正月の初山入り、
山の残雪の形での豊凶うらない、
春さきの田の神迎え、
旱魅の際山上で火を焚いたり、
山上の池から水をもらって帰る雨乞、
盆の時の山登りや山からの祖霊迎え、
秋の田の神送りなど、
主要な年中行事はほとんど甘南備山と関係しています。山やそこにいるとされた神霊は、里人の一生にまた農耕生活に大きな影響を与えてきました。

虚空蔵山9
 山は、里人に稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されました。
山から流れる水は飲み水としても、用水としても里人にとって命の源でした。こうしたことから山にいる神を水を授けてくれる水分神として崇める信仰が生まれます。水分神の信仰は、竜神とされることも多く、蛇や竜がその使いとして崇められることもあります。
漁民たちも山の神を航海の安全を守ってくれるものとして信仰しました。
これは山が航海の目標になったからです。中国や琉球への航路の港としてさかえた薩摩の坊津近くの開聞岳は、航海の目標として崇められた山として有名です。この虚空蔵山は「土佐の開聞岳」として、東シナ海を越えた交易ネットワークのひとつの拠点「燈台」の役割を果たしていたのではないかと私は考えています。
虚空像山1
 この山には次のような「徐福伝説」が伝わります。
 その昔、不老長寿の妙薬を求めて、秦の始王帝が日本の国の仙人が住んでいるという、不老長寿の地にある霊山に部下を遣した。暴風雨に遭い土佐の宇佐に漂着した彼らは、この虚空蔵山に登って祈願したが仙人には会えず、携えていた宝を埋めて紀州へ向けて去って行った。その宝は「朝日さす夕日輝く椿のもとにある」と伝えられる

遠い昔の蓬莱山の伝説が「埋められたお宝」と共に今に伝わります。
仏教が伝わる以前は、この山は何と呼ばれていたのか、今になっては知りようもありません。
虚空像山2
古代から霊山として信仰されてきた山に、仏がやって来るとどうなるのか?
この山の三角点のすぐそばに虚空蔵菩薩が祀つられています。虚空蔵山という名前は、弘法大師がこの山に虚空蔵菩薩を祀ったという由来から来ているようです。
それでは虚空像菩薩とは、どんな仏さんだったのでしょうか?
虚空像菩薩は地蔵菩薩とペアでした。大地を表す「地」と「蔵」、これが地蔵菩薩です。
これに対して、虚空蔵とは宇宙のような無限の知恵と慈悲が収まっている蔵(貯蔵庫)のことです。虚空蔵菩薩は、人々の願いを叶えるために、それらを蔵から取り出して与えてくれる、とっても優しい菩薩さまです。今風に言うと「まるでドラもん!」ということで、仏教界のネコ型ロボットかもしれません。奈良時代から人気があったようで、空海によって中国から密教がもたらされる前から、無限の記憶力を得て、仏の知恵を体得できるという「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」の本尊でした。

虚空蔵菩薩2
神護寺の虚空蔵菩薩
 空海は若い頃に、室戸岬の御厨人窟(みくろど)と呼ばれる洞窟で虚空蔵求聞持法の修行をやりました。するとある日、突然口の中に光りが飛び込み、その瞬間に「空」と「海」が輝いて見え、求聞持法を会得して無限の智恵を手に入れたと言われます。空海の名もそこに由来すると言われます。空海が密教を開眼するようになるきっかけは、虚空蔵菩薩との出会いがあったからです。そのような「空海伝説」の上に、この山に虚空蔵菩薩はもたらされたのでしょう。
 もともと虚空蔵菩薩は、吉野山で真言系の山岳修行者が守護仏としてきた仏です。
 先ほども述べたとおり、空海をはじめ山岳修行者が山中で虚空蔵求聞持法を修行することも多かったようです。こうしたこともあって、伊勢の朝熊山をはじめ当山派の修験者の霊山では本尊を虚空蔵菩薩としている所が多いようです。前回は土佐の霊山は、熊野系の本山派の修験者達によって開かれたところが多いことをお話ししましたが、この山は虚空像菩薩をお祭りするので真言系当山派の拠点であったことがうかがえます。

虚空蔵菩薩

霊山は時代と共にリニューアルされて姿を変えていきます。
 この山の山上一帯には、石鎚神社への鉄鎖、石室の通夜堂、御手洗池、弘法大師の岩屋などがあります。その他、精進ヶ岩、クロウ嶽、神武天皇のいたオオネギ(王が畝に来たの意)、附心の滝など、神と仏のワンダーワールドなお山です。
 山の形は双耳峰なので鉾ヶ峰とも呼ばれ、西峰に石鎚神社、東峰に虚空蔵菩薩が鎮座します。虚空蔵堂は、頂上近い崖下にあって、広い境内には通夜堂、変事があれば必ず揺るぐという大きな揺るぎ石もあります。戸波村史によると本尊は一尺五寸の木立像。文政七年(1824)の棟札あり、伊勢朝熊山より勧請されたといいます。ここにも、当山派の修験者(山伏)達の姿が垣間見れます。
虚空蔵山10
西方峯には石鎚神社が勧進されています。
これは石鎚信仰が盛んになる近世以後に安置されたようです。土佐の石鎚参拝は、仁淀町の安居渓谷を経て手箱山・丸滝山を経てのルートが一般的でした。このルートを経て、近世末期から近代には、先達に導かれて多くの信者達が、お山開きには参拝に訪れました。そして、信者達は自分たちの地域で石鎚山がよく見える山の山頂に遙拝所を開き、石鎚権現(蔵王権現)を勧進するようになります。この山にもある石鎚神社も、そのような経緯を経ているようです。
虚空像山の石鎚権現2
 虚空蔵山の八合目あたりの平坦地をシオリガ峠と呼びます。
海辺から担ってきた塩を求めて、塩市がここで開かれていたからだとも、戦国時代は草刈場で、その争奪戦のあったところだともいわれています。
 しかし、名前の由来は、このシオリガ峠が土佐市から佐川方面への主要往還であったことから、道祖神として柴折峠が本来の語意だと研究者は考えているようです。
 縁日は春秋の彼岸中日で春を大祭とし、かつては近郊はもちろん、窪川町・葉山村・室戸方面からの参詣者もあったそうです。麓下の家々は縁者知人を招いての酒宴で賑わったといいます。
虚空像山4
 虚空蔵堂では「大世の引き分け」と称する作占いが行われていました。
 紙片に早稲、中稲、晩稲などと記して祈祷・数珠三昧をして、数珠に付着した品種を植付作柄としました。いただいた護符を田畑に立て、また堂床の土を持ち帰り田畑に入れます。こんな慣習からか、お参りした人たちの世間話から稲作が話題となるのは自然で、知り合いになった参拝者の家を、後日訪ねて行き種籾を交換したそうです。このような中から生まれた高知生まれの品種が「虚空蔵」・「福七」だそうです。
 またこの山は、雨乞祈念の場ともされています。里人が「虚空蔵は百姓神、作神、作仏」だというように作神的な性格がうかがえます。これは山上の地蔵信仰と共通するようです。

虚空像山の石鎚権現
 虚空蔵山の第二の性格は祖霊信仰です
 麓下の集落では旧七月十六日を虚空蔵の夏祭りが行われていました。夕方になると老若男女が山を登り、山頂に立っつと眼下四方に盆のホーカイ火(送り火)が数限りなく揺れてみえたそうです。その揺れる灯り見ながら霊を送ったといいます。
 中腹にある静神部落の明治28年生れのお爺さんは
「小さい頃、盆の十三、十四、十五日の夕方には仏さんを迎えに行くと言って、松明をもやし山に登った。十六日は仏を見送るのだといって、松明を持たずに登った」
と、話していたそうです。十六日登山は仏送であったようです。
この山には、いろいろな風習が他にも伝わっていたようです。
 秋彼岸には彼岸講といい、永野地区では十軒前後で講を作り、その宿元が代参する習慣がありました。その夜は山頂のシキビを手折り持ち帰り、トーヤの床にさし、燈明を燈じ、講組の者が集まって小酒宴を開いたそうです。
 卯月八日にも、頂上で茶をいたくために山に登りました。節分には年替りの日として、一年間の加護の礼と翌年の庇護を願うて登ります。信者であれば一度は命拾いできるといい、彼岸前日から当日にはかつては青年団が登山、キャンプをしていたそうです。これもかつて村人が通夜堂で寵った風習の延長だったのかもしれません。
 ここには仏教以前の霊山への祭礼の形が、見え隠れしているようです。里人が霊山と崇めていた所へ、聖や修験者たちが仏を勧進し、宗教的な重層性を重ねていったことがうかがえます。
 なお、本堂の虚空蔵仏は丑寅(鬼門)の方に向いて立っているそうです。
虚空蔵山8

参考文献 大山・石鎚と西国修験道所収  高木啓夫     土佐の山岳信仰
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高峰神社
 かつては、山それ自体に神霊が坐し、その聖なる地を不入(いらず)といい、鬱蒼とした茂みが村々のあちこちにありました。明治元年の神仏分離令の際に、村々の神社を「取調報告」するようにとの通達が全国に出されます。しかし、神社と言っても山そのものを信仰していた村では、本殿も拝殿も御神体もありません。これに対して土佐藩は
神体無キ神社等ハ、向後鏡・幣ノ内ヲ以神体卜致シ可レ奉祭候事
鏡・幣を今後は身体とせよ通達しています。同時に、小さな祠や神社は集めて合祀するように指示しています。
例えば旧幡多郡敷地村五社神社は、
「五社大明神 無宮 右勧請年歴不相知 山を祭り来」
と神社明細帳にあります。また旧土佐郡土佐山村菖蒲の山祗神社は近辺の山神八社を合祀したもので、いずれも「古来以 神林祭之」のように山を神として祀っていたのです。
 このように、特定の神体も安置せず山そのものを拝んできた姿をみることができます。それは山に対する最も素朴な信仰の形でした。
黒尊渓谷6

山の神霊はいろいろな姿となって現れます。
旧幡多郡西土佐村黒尊山では、次のような「桃源郷」が物語られていました。
黒尊山の神は大蛇で霊験ありよく願を叶えていた。
元禄の頃という。農夫、一羽の山鳥を追って宮林に入り、なおも追いゆくと一つの楼門に至り、宮殿は金銀の壁、琥珀の欄干、陣口の簾、五色の玉の庭のいさごを敷きつめていた。
 黒尊神は農夫の常々黒尊山を崇拝するを労い饗応の善美を尽し、巻物一巻を授け、決して他言せざる由を告げる。里に帰ってその巻物の事を問われて、すべてを口外してしまう。とたちまち農夫乱心し躍り上りて
「我こそ黒尊の神なり、おのれ人に洩すな堅く申含めしを早くも人に語りしか」と大いに怒り掻き消すごとく行方知れずになったという。
黒尊渓谷2
白髪の老翁も山神の化身としてよく語られます。土佐郡本山町白髪山の神は
背長七尺有余 御眼ハ日月ノ如ク輝キ 御鼻ハ殆高ク 御顔色赤面ニテ 左ノ御手二鉾ヲ持 右ノ御手二三ツ。亦逆木ノ杖ヲ突キ 巌上孤立チ給フ 御容鉢実恐シキ尊像
であり、猟神的性格をみせます。
3黒尊渓谷
工石山は雨乞信仰の霊山のようです。
各地に工石山という名前が付いた山があります。例えば旧土佐郡土佐山村高川前工石山、同村中切中工石山、旧長岡郡本山町奥工石山ですが、これらの山には雨乞伝承があります。例えば前工石山では
「妙タイト申大岩有 之右岩ノ内二三尺四方斗雨露之不掛所有之、其所ヲ左ノ通相唱候由、妙タイヒジリ権現無宮神体無之」
と伝えられます。奥工石山も
雨乞霊験あり 汚すことあれば神怒にあう」と言います。
5黒尊渓谷
 土佐は「海の国」ですから、高山の巨岩が光り輝いて舟を導いた因縁を語る話が多く伝わります。また、神聖な山(カンナビ山)を拝んでいた遥拝所が祭地となった所も多くあります。先ほど述べた前工石山や中工石山も、もともとは奥工石山の遥拝所であったようです。土佐町の三宝山も本川村稲叢山の遙拝所だったと言います。しかし、時の流れとともにいつの間にか、本山の方の祭祀伝承は忘れられ、遥拝所があたかも昔からの祭地であったごとく思われるようになります。
 石鎚神社勧請地も土佐の各地にありますが、その多くはかつてあった高峰から麓へと下ろされています。鉄鎖だけが山頂で錆びたままになっているという姿が各地で見られます。
  それは近世になって山岳修行を忘れて、里に留まり加持祈祷に専念した修験者の姿にダブって見えてきます。

幡多郡100景1
 次に県西部に多い「地蔵を祀る霊山」を見てみましょう
  旧幡多郡十和村高森山にも地蔵が祀られていました。旧三月、七月二十四日を縁日として、大人相撲がありました。シメアゲと称して、土俵の注連縄を取り除く時に三人組合せの相撲が取られたようです。三人相撲は、起源は神相撲で、神に捧げられたものあったのでしょう。また神社からいただいた幣を田畑の地神に立てます。これを「鎮めの地蔵」とよんでいたようです。
幡多郡100景3
  佐川山は幡多郡大正町奥地にあり、この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵があります。
旧三月二十四日大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山したそうです。この見所は喧嘩だったそうです。土佐と伊予の人々が互いに口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作がいいといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てると作がいいされました。
  このような地蔵は西土佐村藤ノ川の堂ヶ森にもあり、幡多郡鎮めの地蔵として東は大正町杓子峠、西は佐川山、南は宿毛市篠山、北は高森山、中央は堂ヶ森という伝承もあります。また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
 これらの山々のさらに奥地の高岡郡祷原町雨包山、星ケ森にはエビス像があり、やはり作神信仰がみられます。祷原地方は、社家掛橋家を中心に橘家神道の盛んな地方ですので、地蔵信仰の作神的要素がエビス神と結合していたものと、研究者は考えているようです。
黒尊渓谷4
 地蔵由来はさらに発展・変化を見せるようになります。
佐川山ではいつの頃からか、山が荒れに荒れ、死者など不吉なことの続くと、毎月二十四日をモソビ・或いはタテビ(休日)と呼んで、山仕事一切を休みとするようになります。もしこの禁を犯せば、山の怪に遭うといわれ、この日は地蔵さんが獣を自由に遊ばす日だとされるようになります。毎月二十日の山ノ神祭りよりも地蔵の崇りを畏れ、この日は炭竃の火を見る時は、事業所(営林署)に勧請している地蔵に線香をあげ許しを乞うてからでないと竃に近寄らなかったと伝えられています。

五在所の峯
 旧高岡郡窪川町と幡多郡佐賀町の境に五在所の峰があります。
ここには修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。矢のあとがあることから「矢負の地蔵」とも呼ばれていました。この山はもともとは不入山で、小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は修験や両部の祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。
 昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
高峰神社2
 土佐にも豊作祈願の対象となる穀霊信仰の山々が多いようです
穂掛けの風習と稲作を司る神の伝承が豊富に伝わるのは旧土佐町芥川の三宝山高峰神社です。三宝山と名がつけば稲作信仰があると見てまず間違いないと研究者はいいます。
稲が稔ると祈願成就の供物として、引き抜いたままの稲穂を社殿に吊り掛ける「掛穂」の風習がこの神社には残っています。今では高知は、ビニールハウス全盛ですのでハウスの床土を持ってきて拝殿下に撒く人もいます。掛穂については次のような伝承が伝えられています。
 いつの頃か芥川主水なる者、猪猿多くて作を損なうので作小屋を山中に造り、夜夜に猪猿を追い払っていた。ある深更に小屋の棟から大きな足が下ってきた。主水これを弓矢で射んとしたところ、我は三宝山に仕える者であるが、この山の大神は作物豊熟守護し給う神であるから、もうここに来る必要はないと告げ、鐘、太鼓を響かせて山上に去って行った。
 主水は伏拝して直に帰宅し再び作小屋に来ることもなかった。さて秋の穫り入れ頃に来てみると猪猿の害少しもなく豊作であったので、その初穂を山頂の大檜に掛け献じた。これより年々大歳の夜に掛穂をする風が生じた。
高峰神社3
こうして
「御社ハ無之シテ大三輪神社ノ如ク 只御山一体ヲ社トシテ 各遥拝ヲシタリ 又大檜ヲ神体卜祭リタリトソ」
といわれ豊受神を祀りはじめたと記されます。
 この高峰神社は、旧本川村稲叢山を本宮としています。
 稲叢山については次のような話が伝えられます
夏は雨と霧に隠れて樹木茂りて闇く、冬は雪降りて常に白く、村人これを不入山とも呼ぶ。もし入る者あれば七日の精進が必要であった。当時、高峰神社は、稲叢山の遥拝所であったが、養老年間のことという二百歳まで生きた十郎、九郎、粟丸の三兄弟が稲叢山の神々を勧請したという。
 またある年大いに不作で三宝山に参り立願したところ、老人どこからともなく現れ、「粟一升を汲み切りにして蒔けよ、すれば秋には三石三斗三升穫れよう。その返礼には粟の神楽を致すべし、其の神楽の法は、清浄な所に竃を築き三升炊ぎの羽釜に三升三合三勺の粟をコシキに入れ 十二返洗って蒸し、湯のわき上る時に神々を招けば神等勇み給う」と告げて姿を消したという。
 ここから三升三合三勺を穫った時は、必ず粟神楽を奉納したと伝えます。この竃を築いた所が芥川の竃森といいます。 稲叢山の名称は稲に似た草の自生するためとされ、これが稲叢山の神々や山人の食料でした。
高峰神社4
さらに次のように続けます
 ある年に栗ノ木部落の住人太郎平なる者、これを刈取らんと鎌かけるや、たちまちに山は鳴動して暗闇となり、大いなる翁が現れて鎌を奪ったという。それより鎌取り山神と申して祀り栞ノ木に小社を建立したという。
 安芸郡下の藤右衛門なる者、ある年に半分ほど稲刈りをしたが平年の半分ほどしかない。加治子米の減量を願い出たが許されず稲穂と鎌を持って三宝山に詣でたところ、老翁現われその鎌を片手に叢中に消えて行った。家に帰ると刈り残した稲は重く垂れて満作になっていたという。それ故か、毎月三日の日の出時に鎌の手を休めば朝日のごとく栄え、三宝山に詣る者一生食物に不自由せずという。
 以上の伝承で注意したいのは、鎌が物語られていることです。これは恐らく鍋釜の釜からの付会伝承で、湯の沸いた時に神を招くのは、湯立の信仰に基づくものと研究者は考えているようです。
鉢が森2
旧香北町鉢ケ森は安徳帝伝説の地ですが、帝の兜の鉢を埋めた話が伝わります。
 山の主とよぶ妖怪変化を鎮めるために「兜の鉢」を埋め山祇命草野姫命を奉祀したというのです。ここには「兜の鉢」が祭祀具として語られています。
また安徳帝御陵参考地の横倉山に接する高岡郡仁淀村都にも帝の奉持されたという釜跡があります。これら釜や鉢は、湯立祈祷用の祭具であったと研究者は考えているようです。

鉢が森大権現1
これら伝承地の峰々へと続く香美郡物部村では、今でも湯立の卜占と清祓が行われているからです。そこには
香美郡物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町
へと四国山地の山々を湯立を伴った宗教者が移動していったことがうかがえます。それは恐らく物部地方のいざなぎ流と密接な関係ある一団だったのではないかと研究者は考えているようです。彼らが、これら山々の村人たちの山への信仰に大きな影響を与えたようです。阿波祖谷から土佐横倉山に至る安徳帝潜幸伝説の残る山々は、特定の宗教者達で結ばれた信仰の道だったのかもしれません。
黒尊渓谷8

参考文献 高木啓夫  土佐の山岳信仰 大山・石鎚と西国修験道所収 

 

                 
                    

新政府によって出された神仏分離令を発火点として、廃仏毀釈へと運動が燃え広がっていく藩には共通する3つの要因が揃っているように思います。
平田神学・水戸学などの同調者が宗教政策決定のポスト近くにいたこと。
廃仏に対する拒否感のない殿様がいたこと。
庶民の寺院・僧侶への反発や批判が強く、寺院擁護運動が起きなかったこと
d0187477_16023307廃仏毀釈の展開
この3つの視点で、高知藩を見ていきましょう。
まず①についてですが、幕末の高知藩には、寺社係であった北川茂長などをはじめ、平田篤胤の門下生や同調者が多かったようです。藩の宗教政策の担当者が平田派同調者であったことは、明治政府の神仏分離令をきっかけにして、政府の意図を越えた過激な廃仏運動を政策化し実行していくことにつながります。
②については、幕末以前に廃仏政策を実行していた藩主達がいます。
 例えば水戸藩では、徳川斉昭と彰考館関係者が次のような廃仏運動を藩内で推進します。常磐山東照宮をはじめ神社は全て唯一神道に改め、一村一社制の採用、宗門改め廃止、氏子帳作成、僧侶・修験の還俗、家臣の仏葬などの廃止、神儒折衷の葬祭式の採用、廃寺、村々の辻堂小祀石仏庚申塚などの廃棄、梵鐘の徴収などが行われ、年中行事の中に東照宮・光圀・楠正成・天智天皇を祀る行事などが組み入れられて行きました。処分寺数は190ケ寺で、寛文年中の1/5程度ですが神仏分離・廃仏を通して神道への統合を試みています。これは明治の廃仏・神道化への先鞭と云える運動でした。この政策は行き過ぎたものとして、幕府による斉昭の処分で 頓挫しますが、水戸学に影響を受けた領主の中は、このような動きに心情的に共感する者もあったようです。
 さて、高知藩の場合はどうだったのでしょうか。
 高知藩でも執政として野中兼山が行った改革の中に、南学の奨励策がありました。その一貫として寺院、僧侶の淘汰をすすめ、寺院の数を減らしています。これは寺院削減、寺領没収など財政政策ともリンクしていたようです。そのような「廃仏経験」を持っていた高知藩では、当時の領主にも抵抗感はなかったようです。
 さらに領主である山内家で、明治3年11月10日に次の文書を、菩提寺に通達します。
「向後御仏祭一切御廃止に相成り候。右に付御祥月御精進日等以後御用捨あらせられ御平日之通り」
 「仏式祭礼は一切廃止とするので、精進日など行事は行わない」と、まさに絶縁宣言です。これで、山内家と菩提寺であった真如寺、要法寺、称名寺との仏縁は絶たれます。そしてこの菩提寺の住職の中からは、直ちに神職に転じて、後の高知県の神道界の指導者に転じていく者も現れます。殿様は明治4年2月には、「葬祭心得書」を示して、領民に仏葬から神葬に改めることも奨励しています。
 ここには殿様が廃仏毀釈の流れに反対し、棹さす動きを見せる事は考えられません。急進的な担当者の廃仏毀釈案がすぐにでも実行されていく体制が高知藩には整っていたようです。
 こうして版籍奉還後の明治3年(1870)4月2日に藩は、次のような布告を出します。
     覚    
一、僧は方外之者、世襲俗人と大に異なり、土地山林を占得するの途あるべからず。今日より更に之を禁ずべし。
一、御改革に付、寺院寄付之土地山林一円被召上之、堂宇寺院之傍少許之土地山林傍示を改、之を寺付として付与すべし。
一 一向宗は僧俗相混、世襲之体を存すると雖も宗俗と同しかるべし。            
一 僧徒還俗を欲する者 好に任すべし。               
一 私領或は私産等を以て相当之寺入を欲する者、願に寄り商議すべし
右之通被仰付候事午四月二十三日         藩 庁
 この史料は、文章上には「廃仏」という言葉は出てきません。しかし「僧は・・・土地山林を占得するの途あるべからず」と僧侶の土地の所有を禁止し、寺地の没収や境内の縮小を宣言します。また、一向宗は妻帯を許しているが、僧侶であるとして例外扱いをしないこと、僧侶の還俗を奨励する内容になっています。
 こうして藩からの保護と、経済的基盤を失った寺院は、住職が未来に希望を持てなくなり次々と還俗して主がいなくなり廃寺となります。その状況を数字で示すと次の表のようになります。

HPTIMAGE
この表の見方は
①一番上が廃物前寺院数で、明治維新時の各宗派の寺院数で、高知藩には合計751の寺院があったことになります。
②一番下の存続寺院実数は、廃物運動後に残った寺院数です。真言宗の「245寺 → 44寺」の激減ぶりが目立ちます
③その後に他県から移転してきた寺院数をプラスすると現在の寺院数になります。
④合計数を見ると751寺あったのが211寺まで激減した事になります。
 当時の僧侶1239人のうちの大半が還俗したとも云われますし、寺院数で幕末期の約三〇%にまで激減したのです。これは高知が四国で一番廃仏毀釈運動が激しかったと云われる所以でしょう。
 高知県の廃仏運動のその後は?
 江戸時代を通じてお寺は「葬式仏教化した」と批判を受けますが、寺院と檀家である庶民は意外に強く結ばれていたことを、知らされることが起きます。旦那寺がないのは、一般庶民にとって葬式や法事に当たって不便なのです。元領主は神道に改修し、神道式の葬儀を行えと云いのこして東京へと去りましたが、庶民にとっては慣れ親しんだ宗派がいいという声は高まります。つまり廃仏毀釈の反動化といいましょうか揺り戻し現象が起きるのです。
 高知県としてもそれを放置でず、寺院再興策を取るようなります。それでもまだ不足で、寺院のない町村があったり、僧侶がいないという現状を打開するために、県外の寺院、僧侶を誘致するより方法が取られます。県外からの寺院の誘致は、明治4年からはじまり、埼玉県北足立郡与野町から高知市一宮に移ってきた真言宗智山派の善楽寺を第一陣として、大正15年に幡多郡白田川村に真言宗智山派の観音寺が転入してきたことで終わっています。これら県外転入寺院のうち、徳島県からの移転が七か寺でもっとも多いようです。
 どんなお寺が徳島からやってきたのでしょうか?
①天満寺は藩政初期に蜂須賀蓬庵(家政の隠居後の法名)によって 創建されたものですが、近世を通じて寺勢はふるわなかったようです。
②法雲庵は、徳島市にあったときは単伝庵と称し、藩の家老稲田九郎兵衛家の建立した氏寺でした。
③室生寺や大善寺も、地蔵寺や鶴林寺の塔頭寺院でした。
このように庵室程度の小寺院で、檀家もほとんどなく、徳島藩の家臣や地下の庄屋などの私寺的な存在であったお寺が多かったようです。
高知県では過激な廃仏毀釈運動で、その後の寺院数の不足状態を招きました。
これに対して、徳島県では廃仏棄釈が発生しなかったので、ほとんどの寺院が存続しました。その結果、檀家の少ないお寺は自然淘汰され、廃寺化かすすんでいったようです。この七か寺は、そのようなかで新天地を高知に求めたチャレンジャーだったようです。高知県におけるお寺不足が、これら寺院にとって唯一の活路であったのかもしれません。そのような見方をすれば、高知県が他県の寺院を受入て救済するということになったといえるのかもしれません。

三好昭一郎 四国各藩における廃仏毀釈の展開 幕末の多度津藩 所収

四国霊場 37番岩本寺の以前の札所は五社神社の別当寺だった

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岩本寺は窪川町の町の中にあるお寺です。しかし、その成り立ちは複雑です。
37番の札所は、近世以前には別の所にありました。窪川の町から2㎞ほどはなれた四万十川の源流を渡ると、東の山の影に五社と呼ばれる社が五つ並んでいます。五つのお宮の一つの中宮の別当・福円満寺が37番の札所でした。今も中宮には福円満寺の寺地が残っています。江戸時代前半に、別当であった福円満寺が衰えた時に、岩本寺に別当権が移ったようです。つまり、五社から窪川の宿坊であった岩本坊に札所の権利が移ったのです。しかし、さらにさかのぼれば山の上にある陵がいちばんの奥の院だったともいえます。札所はそういう発生のしかたをします。神社をもって札所とするところが意外に多くて、土佐一宮の場合も神社そのものが札所でした。四国の四つの一宮はみな札所になっています。 
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五社の真ん中の中宮に「元三十七番福円満寺」という本の札が立っています。
ここに五社の社務所があって、現在は高岡神社と呼んでいます。奥の院は磐座です。
御詠歌は 「六つの塵 五つの社あらはして ふかき仁井田の神のたのしみ」となっています。
なんでもない歌のようですけれども、神社が札所であるということを説明する歌として重要です。
「五つの社」は五社を表し六つの塵というのは煩悩です。六塵煩悩という六種類の煩悩を「五つの社」が現れて和合したというのが和光同塵(どうじん)です。この時の札所が岩本寺でなくて仁井田五社、すなわち仁井田明神であったことはご詠歌からも分かります。
 縁起は、行基が開いた、そして行基菩薩以前から仁井田明神がいたので、ここを札所にしたという決まりきった縁起です。その別当寺はもとは福円満寺でしたが、この寺が退転したのちに岩本寺が別当になったことは前述したとおりです。
 仁井田明神は、伊予の名族越智氏の祖先だという五社を仁井田五人士とも五人衆とも呼ばれる五家がまつってきたものです。それぞれ五軒の持ち役があって、まつってきました。
  仁井田五社の福円満寺の札所権を、窪川の町の中の宿坊であった岩本坊が手に入れたわけです。岩本寺は、窪川の町中にあり、茂串山を背後にしているのでもとはこの山が奥の院としたのでしょう。
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いま岩本寺に行って、正面から拝もうとすると汽車が通ります。茂串山とお寺との間にJRがかかってしまいました。もともとは山の麓にできたお寺でした。この間には複雑か経緯がありました。岩本寺の前身は五徳智院とも五智院ともいう五社から足摺岬までの途中の宿坊でした。中世末期に諸国をめぐって一宿した尊海法親王が、この宿坊に岩本坊の名を与えたのが岩本寺の起源だと『南路志』は説いてします。 

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 山内一豊が土佐藩主になったときに仁和寺の聡獣快長法印が、ここに隠居してから足摺岬金剛福寺から独立します。もとは金剛福寺が住職を任命してわけです。岩本寺が仁井田五社の別当寺となってからは、本尊は五社の本地仏の五鉢をまつるようになります。現在も本尊は不動


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行当(道)岬(室戸市)

室戸の金剛頂寺の下の海岸には、海の行場が残されています。実際に不動岩のある村と港は、行道とはっきりと書いてあったことが資料からも確かめられます。この岩をめぐるのは、非常に危険なことです。こういう岩をぐるぐると何回も、めぐることを行道といいました。
金剛頂寺 行道不動看板
行道不動(室戸市)

 山や岩があれば行道をするというのは、すでに700年ほど前の記録に出てきます。

例えば、歌人で有名な西行は修験者としての修行も行っています。彼の歌に、非常に苦労し善通寺の我拝師山に登って行道したという詞書があります。我拝師山に行ってみると『山家集』の詞書にあるとおりの山であり、行道所があります。それが善通寺五岳の捨身岳です。
金剛頂寺 行道岬
行道岬と行道岩(現 行道不動)

行道には小行道・中行道・大行道があります。

一つのお堂をめぐったり、岩をめぐるのが「小行道」です。小さな山があると、山をめぐって行道の修行をします。室戸岬の東寺と西寺の行道岩とは約12㎞あります。この間をめぐって歩くような行道を「中行道」と名づけています。
 四国をめぐるような場合は「大行道」です。したがって、大行道に当たるものが遍路ということになるわけです。もちろん、小さい場所でも辺路修行ができました。足摺岬の場合も当然そういうことが考えられます。海岸には胎蔵窟があり、山には金剛福寺があるので、金剛界と胎蔵界をめぐるのが中行道です。そして、何年かかるかわかりませんが、八十八か所を回るのは大行道です。
 西国三十三所も同じように大行道です。

金剛頂寺 行道岬2jpg
行道岬の行場
 
 海を神様にする信仰が行われた場所が、このあたりなのです。これが辺路というものです。海と陸との境を修行する辺路修行がのちに遍路になりました。弘法大師より先にすでに海洋宗教がありました。奈良時代には明らかにあったので、弘法大師は青年時代に海洋宗教の辺路修行というものに入っていきました。とくに新しい法として求聞持をしながら辺路修行をしています。弘法大師が来たといわれるところには、行道の跡と聖火の跡があります。適当な場所や岩があると、これをぐるぐると回る修行をしました。歩くということは、結局は何かをめぐっているわけです。
四国という島がありますと、ところどころにめぐる岩なり山があって、これをめぐりながら次のところに行き、またそれをめぐりながらそれを越えていきました。

 行当岬にも、行道岩があります。

『四国偏礼霊場記』には「行道岩」と書かれています。
現在は不動さんをまつっているので不動岩と呼ばれています。これはちゃんと回るところもある小行道です。元禄十何年かの碑が立っているので、元禄年間(1688-1704)のころには、回っていたことは確実です。 行当岬も行道岬です。
空海の見た風景「高知室戸・行当岬」の不動堂の景色がスゴい! | 高知県 | トラベルjp 旅行ガイド
行道窟から見える景色
西寺ではそういう行道が行われました。東寺では窟を修行の場所にして、洞窟をめぐったと考えられます。洞穴を胎蔵界、突き出たような岩とか岬とか山のようなところを金剛界とします。男と女というように分けて、両方をめぐることによって、金剛界・胎蔵界が一つになるのが金胎両部の修行です。
空海の見た風景「高知室戸・行当岬」の不動堂の景色がスゴい! | 高知県 | トラベルjp 旅行ガイド
行道窟(室戸市)

 足摺岬に行くと、もっとはっきりしますが、室戸岬にも金剛界と胎蔵界をめぐる行道があったに違いないとおもいます。東寺と西寺の間は、12㎞ほどありますので、全部で24㎞ぐらい
は毎日歩かなければなりません。それを「中行道」と呼びます。四国全体を回るのが「大行道」です。

東寺と西寺は洞穴と岩になっているので、中行道としてめぐったと推定できます。
真言を唱えるのが三時間ぐらいだとすると、お香を焚いたり、花を供えたりする準備まで入れる5時間ぐらいです。実際にこれをやった人の話では、何もなしに唱えていたら退屈だといっていました。退屈なものですから、現在は求聞持法は50日で完成します。 
聖火を焚くことがないと求聞持法にならない、というのが求聞持法です。お経を唱えるだけをやっていたとしたら、命がけの行だといわれる理由がわかりません。

 行道と聖火があるから命がけになるのです。
空海の見た風景「高知室戸・行当岬」の不動堂の景色がスゴい! | 高知県 | トラベルjp 旅行ガイド

 
ここで弘法大師が行った求聞持法は、ただお堂あるいは洞窟の中に入って、一日に一万遍の真言を唱えてじっとしていたということではありません。真言宗の坊さんたちが求聞持法を完了したというのは修行中の坊さんとしての最高の名誉です。しかし、弘法大師のころはいまやっているような甘いものではありません。室戸岬から行当岬まで一日に一往復ずつしていました。それもなかなかたいへんだったとかもいます。
「五来重 四国遍路の寺」より
 

神峯寺-聖火を焚く神の峯

 
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二十七番の神峯寺は、非常に特色のある札所です。
境内からはビニールハウスで真っ白に見える平野が眼下に広がります。海をながめるにはいいところです。頂上に上がっていきますと、道が二つに分かれます。いっぽうの道を行くと神峯神社に行ってしまいます。
   お寺のほうは本堂と大師堂があって、地蔵があります。
かなり高低差がありますけれども、道をわざわざこしらえたのです。もう一つ渡りますと、庫裡があります。神社の下の社務所がもとのお寺だったといいますので、頂上の寺と神社はもとは一体でした。頂上の神社から階段を下りるとお寺でしたが、いまは大師堂もお寺の本堂も全然わかりません。
 
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期待しないで登ったら、修行者が寝泊まりするに格好の窟があって岩屋地蔵ががまつられいます。燈明岩という岩があって世の中に異変があると、大晦日にこの岩が光を放つのだそうです。昔はここに修行者がいて火を焚いていたことを、そういったのだとおもいます。
 大晦日に龍燈があがったというのは、大晦日は大いに焚いたからです。本堂の上には立岩というおおきな岩があります。白い岩ですから月夜にはかなり光って見えたのかもしれません。立っている岩は、そこで火を焚けばなおさら光ります。龍燈のしかけがここに行くとよくわかるのでして、つまり、流燈岩が燈明巌になったわけです。
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 寺の略縁起には、「当山は神功皇后三韓征伐にあたり、勅命で天照大御神その他の諸神をまつりたるのち、行基菩薩自作の十一面観音の尊像を大同四年聖武天皇の勅命により、弘法大師が神仏合祭の上、四国二十七番の札所と定め」と書いてあります。

 『四国偏礼霊場記』の場合も、札所の来歴は記しません。
『四国辺路日記』にも書かれておりません。
『南路志』は「竹林山神峯寺、退転」とあるので、久しく住職がしなかったようで、すでに下に移転していたのです。したがって、この寺の来歴はよくわからないのです。
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本堂四間四面小扮葺、三社権現、荒神、大師堂、岩窟地蔵があると書しています。
現在、四神がまつられている神峯神が三社権現に当たるだろうとかもいます。
地主権現というのもありますが、地主権現というのが一神で、三社権現が三神だとすると、四神に当たるのが、いまの神峯神社です。
 地主権現といっているのは、現在は唐浜の村の中に一つあります。しかし、これは山頂の山の神を下におろしたものです。かつては神峯神社が札所でした。
四国全体を回ると一宮という神社が札所であるのと同じです。神社を札所としてもとは神官が納経に応じました。ところが、のちになりますとどこも別当寺と称するものが出てきます。
たとえば、瀬戸内海の大三島には大山祇神社という札所がありました。しかし、納経に島まで渡るのはたいへんですから、代わって判子を押した南光坊という別当が、現在では大山祗神社とはまったく離れて札所になっています。そういう意味では、神仏分離は神社としては非常に損だったのではないかとかもいます。
 いまは神峯神社にお参りする人はほとんどありません。神社は忘れられております。神仏分離後は、神社は村から離れて安田町唐浜の管理になりました。
 
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『類聚国史』には「貞観八年八月七日己卯土佐国正六位神峯神二従五位下ヲ授ク」とありま。これを唐浜に下ろしたのが「地主権現」です。海岸から五十町で631メートルの神峯に上るのですから、かなり傾斜が激しいとか考えにならないといけません。神峯寺は、札所の中での難所でした。
 山神の大山祗命一柱に天照大御神と天児屋根命、応神天皇を合祀したのが三社権現です。そして、その磐座が燈明巌で、もともとここでまっられていたわけです。しかし、事実はここに聖火を焚く辺路修行者がいて、海上、海辺の民から「神の峯」として仰がれたものだとおもわれます。このような「聖なる山」であったが故に、結界が厳重で、女人禁制でした。

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『四国偏礼雲場記』は

「此山高く峙ちてのぼる事壱里なり。絶頂よりのぞむに、眼界のをよぶ所、諸山みな山下につらなり、子孫のごとし。幽径九折にして、くろき髪も黄になんぬ。魔境なるが故に申の刻(午後四時)より後は人行事を得ず。かかしは堂塔おほくありしときこえたりといへ共、一時火災ありてより、今は本堂大師堂鎮守のみ也。麓に養心庵と云あり。参詣の人は是に息ふ。此あたりに食ず貝といふものあり」と記しています。
登っただけで髪の毛が黄色になってしまうというから、だいぶ険しい山路だったのでしょう。

津照寺 海神が仏教化した梶取地蔵

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 東寺と西寺の間に津照寺(津寺)があります。津照寺は『今昔物語集』に出てくる寺ですからかなり古い寺です。ところが、それを飛び越えて西寺と東寺が結んでいました。もちろん、そのころは二十四番、二十五番、二十六番などという番号はありません。津照寺は古いお寺ですが、二十五番として仲間入りをしてくるのはおそらく室町時代です。これは海上安全ということで、漁民の祈願寺であったに違いありません。 
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津照寺は補陀落渡海について問題があります。

舵取地蔵といっていますが、もともと船に乗ってやってきた地蔵があったのかもしれません。山内忠義公がこの沖で難破しかかったときに、とつぜん、揖取の若い男が現れて無事に船を着けてくれて、そのまま姿を消しにしまった。ところが、津昭寺のお地蔵様がびっしょりと濡れていたので、このお地蔵さへが舵を取ってくれたのだという話に変えられています。もともと揖取は海のかなたかり渡ってきたのだとおもいます。
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津照寺の位置は行ってみたらすぐわかります。室戸の市中、港のすぐ上の小丘上にあります。非常に小さな、いわば行当岬の不動岩のようなところです。海岸にあるこういうものは港にとっては必須です。遠くに出ていて自分の港に帰るときに目印がなければなりません。それから漁をする場合に、漁場を決める目当山が必要です。二つの目当を置いて、両方の交点のところで自分の位置を決定できますが、三つあれば、なおさら確実です。目当の山の中でも、とくに自分の帰るべき港の山は曇っていても見えなければいけませんから、なるべく高いほうがいいのです。そういうところに海の神をまつります。恵比須社や王子社もこういう丘の上にまつられます。梶取地蔵は、そのような海神が仏教化した仏です。

 室津港は17世紀後半に野中兼山によって改修されました。

その築港はたいへんな難工事で、延べ百七十万人を要したといわれています。
「自分が人柱に立つ」といって切腹した責任者が一木神社にまつられています。
ここは両方の入口が並んでいるので用心しないと津昭寺に入らないで一木神社のほうに入るおそれがあります。右の方が揖取地蔵と書いてある津昭寺、左のほうが一木神社です。入口は社とお寺が仲よく並んでいます。

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 丘が非常に狭いので、お堂は本堂一つだけで、あとは何もありません。
本堂まで百八段の石段を登りますから、よほど元気な人でないと登れません。
下の大師堂と納経所で済ませてしまいます。
本堂は新しくなったので、登ってみるほどの価値けないかもしれません。
 
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霊験談として、『今昔物語集』の巻十七の第六話に、室戸津の津寺が火災になったときに、一人の若い男が現れて消して、津寺が火事であるということを告げて回った。地蔵が姿を変えて火を消し、人々に火災を知らせたのだという話が出ていて「地蔵菩薩、毘沙門ニ結縁シ不奉卜云事無シ」と書かれています。

 地蔵の霊験を集めた巻十七の第六話として出ていることから、霊験あらたかだということが、都まで聞こえていたと考えられますから、非常に古い地蔵信仰です。地蔵信仰はむしろ鎌倉時代以後に盛んになります。平安時代に知られた地蔵だというのは、四国としてはよほど有名な地蔵であったろうとおもいます。

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 補陀落渡海のことは『観音利益集』と『地蔵菩薩霊験記』に出ています。両方とも同じ話ですが、『地蔵菩薩霊験記』は室戸岬を「足摺御綺卜は申也」と書いているので、少し問題が残ります。

四国霊場 三十六番青龍寺 海神信仰のお寺

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青龍寺は本当に辺路だという感じのするところです。
青龍寺は龍神を拝むことが寺の名前になりました。奥の院の下には龍の窟があり、海岸が龍の浜であり、宇佐の町から青龍寺のある半島まで渡るところが龍ノ渡です。すべて海神を信仰対象にしたお寺であることがわかります。   三十六番の青龍寺は、如意山という山の上にあります。
かつては摩尼山、独鈷山、如意山という三つの峰に含まれるかたちでこのお寺がありました。如意山中腹の現在の本堂の不動明王は、奥の院の不動明王をまつったものだとおもわれます。その前にあった薬師を本尊とする「道場院光明法寺」を本堂の右横に移して、鎮守の白山権現もその横に移されたものと推定されます。そして、ここを札所とするようになると大師堂がその右にできました。
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  札所は、本来は大師堂を必要としていません。

 遍路をする方は、札所に来てお参りをして納経交付をもらったり、庫裡に泊めてもらったりしていたわけです。ところが、本堂に行くのがたいへんだというので移しますと、そこに大師堂ができます。札所は弘法大師が修行した跡ですから、弘法大師をまつるのではなくて弘法大師自身がそれをまつったものです。ところが大師堂は、あとで弘法大師信仰になってから造られます。不動堂が真ん中に据わったので、もとの薬師堂と白山権現が移されて左隣に大師堂ができました。 こうしていろいろなものを見ていくと、札所の性質としてもとは弘法大師が修行するような行場であったのが、 しだいにお寺を人々がお参りしやすい平地に移していくということが分かります。
 一つは、麓に移す場合があります。あるいは、近くに建物の整ったお寺があると、まるでヤドカリが宿を借りるように本尊さんだけをもってきて、建物をそのまま使って、もとの札所の名前に変えてしまうという場合もあります。 
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 青竜寺の場合は、もとからあった如意山道場院光明法寺と合併して独鈷山青龍寺になりました。そこに坊さんが泊まれる場所として伊舎那院という本坊があったので、独鈷山青竜寺伊舎那院という名前になりました。そうなると、元の修行の行場は奥の院という名前で残ります。ところがだんだん奥の院が忘れられて、さながら昔からあった太子堂に御参りするような形になってしまいます。そういう変化が近世初期には起きたのです。
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 かつて、高知から青竜寺へ参るには龍ノ渡という渡し場がありました。
渡し船の家は八軒あって、弘法大師のお供をしてきた八入の子孫だといわれています。
このことからも、弘法大師の辺路修行にお供がいたことがわかります。修行者には必ずお供が付きまして、それを童子と呼びます。童子といっても若い者ばかりではありません。
童子は召使という意味です。食事のことから身のまわりいっさいのお世話をします。
徳の高い修行者には、山の神が天狗に姿をかえて童子の役目をはたしたことになっています。天狗が鉢を飛ばして食べ物を集めたという奇跡譚が伝えられるのは、修行者を支える人がいたからです。

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ここには西安で、空海に密教を授けた恵果の墓もあります。

長安にいたはずの恵果和尚の墓と聞いて、おどろかれるのも無理はありません、が、長安の青龍寺と同じ名前が付いているからには、青龍寺の恵果和尚と何か関係があるかもしれないと考える人が現れ縁起を証明するようなものをあとから無理やりつくるわけです。 

ここには龍燈信仰もありました。

この辺の漁民は、難破したときにお不動さんを念ずると闇の中に松が浮かんでその松に火がかかる。その時に明るい方向に進んでいくと助かるといい伝えています。ところが、戦時中に松根油を採るために松を伐ってしまいました。残念なことです。横浪三里の入口にある宇佐は鰹漁の本場ですから、いまもこのいい伝えは宇佐の漁民によって信じられています。 青龍寺は、辺路の代表的な霊場の一つです。

行当岬不動岩の辺路修行業場跡を訪ねて

原付バイクで室戸岬を五日かけて廻ってきた。「あてのない旅」が目的みたいなものであるが、行当岬には立ち寄りたいと思っていた。ここが辺路修行者にとって、室戸岬とセットの業場であったと五重来氏が指摘しているからだ。
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五重氏の辺路修行者の修行形態に関する要旨を、確認のために記しておきたい。

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修行の形態は?

1 行道から補陀落渡海まで辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 空海(弘法大師)の四国の辺路修行でもっとも確かなのは室戸岬。
3 そこでどういう修行をしたか。一つは「窟龍り」、つまり洞窟に龍ること。
4 お寺が建つさらに以前のことだから辺路なら海岸に入ると、建物はない
5 弘法大師が修行したと伝わって、その跡を慕って修行者がやってくる。
6 そういう人々のために小屋のようなものが建つ。そして寺ができる。お寺でなくてもお堂ができて、そこに常住の留守居が住むようになる。
7 やがて留守居が住職化することによって現在のお寺になる。
8 鎌倉時代の終わりのころは、留守居もいない、修行に来た者が自由に便う小屋。
9 弘法大師が修行したころは建物などはなかったので、窟に籠もった。
10 最初の修験道の修行は「窟龍り」であった。

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修行の形態のひとつが行道。行道とは何か?

1 神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回る。
2 円空は伊吹山の平等岩で行道したと書いている。「行道岩」がなまって「平等岩」となるので、正式には百日の「行道」を行っている。
3 窟脂り、木食、行道をする坊さんが出てくる。
4 最も厳しい修行者は断食をしてそのまま死んでいく。これを「入定」という。明治十七年(一八八四)に那智の滝から飛び下りた林実利行者もそのひとり。
5 辺路修行では海に入って死んでいく。補陀落渡海は、船に乗って海に乗り出す。熊野の場合も水葬。それまでに、自殺行為にも等しい木食・断食があった。

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  辺路修行では、不滅の聖なる火を焚いた

1 辺路の寺には龍燈伝説がたくさん残っている。柳田国男の「龍燈松伝説」には、山のお寺や海岸のお寺で、お盆の高灯龍を上げるのが龍燈伝説のもとだと結論。
2 阿波札所の焼山寺では、山が焼けているかとおもうくらい火を焚いた。
3 それが柴灯護摩のもと。金刀比羅の常夜灯、淡路の先山千光寺の常夜灯は海の目印、燈台の役割。
4 葛城修験の光明岳でも火を焚く。『泉佐野市史』には紀淡海峡を航海する船が、大阪府泉佐野市の大噴出七宝滝寺の上の燈明岳の火を闇夜に見ると記載。
5 不滅の聖火は、海のかなだの常世の祖霊あるいは龍神に捧げたもの。
6 それが忘れられて、龍神が海に面した雪仏にお灯明を上げるに転意。
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室戸岬と行当岬

1 室戸では室戸岬と行当岬に東寺と西寺があって、10㎞ほど離れている。
2 室戸岬と行当岬を、行道の東と西と考えて東寺・西寺と名付けられた。
3 その中間の室戸の町に、平安時代の『土佐日記』に出てくる津照寺がある。
4 ところが、それは無視している。平安時代は、東西のお寺を合わせ金剛定寺と呼んでいた。
5 火を焚いた場所にあとでつくられたのが最御崎寺(東寺)。
  (注 金剛福寺の方が古いことに留意)
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6 行当岬は、現在は不動岩と呼ばれている。
7 もとは行道という村があり、船が入って西風を防ぐ避難港だった。
8 その後、国道拡張で追われて、いまは行当岬の下のほうの新村に移動。
9 行当岬は「行道」岬。波が寄せているところに二つの洞窟があった。辺路で不動さんをまつって、現在は波切不動に「変身」
10 調査により二つの行道の存在を確認。西寺と東寺を往復する行道を「中行道」、不動岩の行道を「小行道」と呼んでいる。
11 四国全体の海岸を回るのが「大行道」。

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12 二つの洞窟のうちで虚空蔵菩薩を祀った虚空蔵窟は東寺が管理しているので、かつて東寺と西寺がひとつになって祀っていたと推察可能。
13 現在では西寺を金剛頂寺と呼んでいるが、平安時代は西寺と東寺を含めて金剛定寺と呼んでいた。
14 足摺岬の場合は、金剛福寺のある山は金剛界。灯台の下には胎蔵窟と呼ばれる洞窟があり、金剛界・胎蔵界は、必ず行道にされているので、両方を回る。
15 密教では金胎両部一体だとされるが、辺路の場合はそういう観念的なものではない。頭の中で考えて一体になるのではなくて、実際に両方を命がけで回るから一体化する。
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辺路修行者と従者の存在

1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。安宅聞で強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居(「勧進帳」)の場面からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。
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室戸岬にも、弘法大師に食べ物を世話した者がいた。

1 室戸で弘法大師を世話した者が御厨明神(御栗野明神)にまつられる。厨とは台所のこと。御厨明神にまつられた者は、弘法大師が高野山に登るときに高野山に従いていった。
2 御厨明神は弘法大師に差し上げる食べ物を料理する御供所に鎮座。江戸時代は地蔵さんになる。弘法大師に差し上げるものを最初に「嘗試地蔵」に差し上げて、毒味をした。
3 室戸岬には、洞窟が四つ開いている。右から二番目の「みくろ洞」は地図では「御蔵洞」と表記されているが、もとは「みくりや洞」といって、そこに従者がいた。
4 左端の弘法大師が一夜で建立したという洞窟は、昔は虚空蔵菩薩をまつっていた。そのため求問法持を修したのは、この洞穴ではないか。
5 右端の洞窟は神明窓。現在は「みくろ洞」には石の神殿があって、不思議なことに天照大御神を祀っている。その次のところは何もない。
6 お寺や神社の信仰を、ひとつ前の時代へ、さらにもうひとつ前の時代へとたどっていくと、いまとは違った宗教的な実態がわかってきて、なかなか興味深い。

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四国の辺路を始めたのはだれか  

 弘法大師が都での栄達に繋がる道をドロップアウトして、辺路修行者として四国に帰ってきたとされる。その時に、すでに辺路修行という修行形態はあった。その群れの中に身を投じたということだ。したがって、弘法大師が四国の辺路修行を始めたというわけではない。仏教や道教や陰陽道が入る以前から辺路修行者たちが行ってきた宗教的行為がその始まりといえよう。

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 不動岩周辺は、室戸ジオパークの西の入口として遊歩道が整備されている。そして深海で生成された奇岩が隆起して、異形を見せている。

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奇岩大好きの行者達がみれば、喜びそうな光景が続く。
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海に突き出した地の果てで、行場として最適の場所だったのかもしれない。「小行道」として、不動岩の周りを一日に何回も歩いたのだろう。海辺の辺路の「小行場」のイメージを描くのには、私には大変役だった。 そして、ここを拠点に室戸岬の先端までの「中行道」へも歩き、修行を重ねる。

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この行場からは金剛頂寺への遍路道が残っている。

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ここで辺路修行者がどんな行を行っていたのか、そんなことをボケーッと考えていると、「どこから来たんな」と話しかけられた。
金剛頂寺の檀家でボランテイアで、ここのお堂のお世話をしているというおばさんである。彼女が言うには
「弘法大師さんが悟りを開いたのはここで。室戸岬ではないで。お寺やって金剛頂寺が本家、最御崎寺は分家やきに。ここが室戸の修行の本家やったんで。」
さらに
「ジオパークの研究者が言うとったけど、弘法大師さんの時代は室戸岬の御蔵洞は海の下やったんで。海の中で修行は出来んわな。ここの不動岩の洞窟は海の上。ここで弘法大師さんは、悟られたんや。」と。

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なるほどな・・・。その確信の元にこの絵があるんやなと改めて納得。海の辺路信仰の行場のあり方を考えさせてくれた場所でした。

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