瀬戸の島から

カテゴリ:四国遍路の寺 > 阿波の霊場

近在の町誌などには江戸時代の四国遍路の往来手形がよく載せられています。それを見ると、村の庄屋か寺院が発給したもので、その内容は、巡礼者氏名、目的、所属宗旨(禁教対応のため)、非常時の事、発行者、宛先が順番に記され定型化したものになっています。これに見慣れていたために、四国遍路の往来手形は当初から地元の庄屋や寺院が発行してきたものと思っていましたが、どうもそうではないようです。今回は、往来手形の変遷を追いかけてみようとおもいます。
テキストは 「武田和昭  明暦四年の四国辺路廻り手形 四国辺路の形成過程」です
 私が最初に四国遍路の往来手形の発行について、疑問に思ったのは、澄禅『四国辺路日記』にでてくる徳島城下の持明院の次の記述です。
持明院 願成寺トテ真言ノ本寺也。予ハ高野山宝亀院ノ状ヲ持テ持明院二着ク、依是持明院ヨリ四国辺路ノ廻リ手形ヲ請取テ、廿五日ニ発足ス。
意訳変換しておくと
持明院は願成寺も云い真言宗の大寺である。私は事前に高野山の宝亀院に行って紹介状をもらって、それをもって持明院に行った。持明院で四国辺路の廻手形を受け取って、7月25日に出発した。

ここからは澄禅が四国辺路のために、まず高野山に行き、宝亀院の許可書もらって、それを持明院に提出して廻り手形をもらていることが分かります。ここで疑問に思ったのが、四国遍路のためには、持明院の発行手形(往来手形)が必要なのかということです。そんな疑問は、ほったらかしにしてていたのですが、持明院の発行した「廻り手形」(往来手形)の実物がでてきたようです。この手形には、明暦四年(1658)と記され「大滝山持明院」という寺名も書かれています。現在のところ、四国辺路の往来手形として最古のもののようです。大きさは縦17㎝×横35、5㎝)だといいます。
    1 持明院 四国遍路往来手形
明暦4年の四国辺路往来手形 徳島持明院発行

坊主壱人俗二人已上合三人
四国辺路二罷越し関々御番所
無相連御通し可被成候一宿猶以
可被加御慈悲候乃為後日如件
阿州大滝山持明院
明暦四成年二月十七日  快義(花押)
四国中関々御番所
御本行中
意訳しておくと
坊主一人と俗二人、合計三人
四国辺路に巡礼したいので関所・番所を通していただくこと、これまで通りの一宿の便宜と慈悲をいただけるようお願いしたします。
阿州大滝山持明院
明暦四成年二月十七日  快義(花押)
この書状が澄神『四国辺路日記』に出てくる「四国辺路の廻り手形」のようです。当時は「往来手形」ではなく「廻り手形」と呼ばれたようです。一番最初の行には、次のように記されています。
坊主一人と俗人二の合計三人が四国辺路するので関所・呑所を問題なく通し、また宿も慈悲をもってお願いしたい」

坊主とは、おそらく先達的役割の僧、2人はそれに従う俗人でしょう。かつての熊野詣の参拝と同じように先達に連れられての四国遍路のようです。宛所は「四国中関々御番所」とあるのが四国各藩の関所・番所です。これに著名しているのが阿波の大滝山持明院の快義になります。
 この書状の筆跡を詳しく検証した研究者は、中央下部のAゾーンのみ別筆だと指摘します。Bゾーンは、それぞれの国の代表寺に署名だけをすればいいように、前もって寺院名と法印が書かれていたようです。ここからは澄禅『四国辺路日記』に記されたとおり、持明院で廻り手形が発行されていたことが確認できます。
 そして、他の3国の発行寺院は次の通りです。
土佐の五台山竹林寺
伊予の石手寺
讃岐の綾松山(坂出)白峯寺
この3寺が代表して、保証していたようです。
 江戸時代初期の四国遍路廻りの手形発行は、地元の庄屋やお寺では発行できず、各国の代表寺院が発行していたようです。手形の発行・運営システムの謎がひとつ解けたようです。
 ここで私が疑問に思うのはには、土佐の竹林寺や伊予の石手寺は、それぞれの国を代表するような霊場寺院ですが、讃岐がどうして白峰寺なのでしょうか。普通に考えると、讃岐の場合は善通寺になるとおもうのですが白峰寺が選ばれています。同時の社格なのでしょうか、それとも善通寺が当時はまだ戦乱の荒廃状態から立ち直っていなかったからでしょうか。当時の善通寺のお膝もとでは「空海=多度津白方生誕説」が流布されていましたが、これに反撃もしていません。善通寺の寺勢が弱まっていたのかもしれません。
 もうひとつの疑問は、廻り手形の発行が持明院という札所寺院ではないことです。どうして霊山寺のような札所寺院が選ばれなかったのでしょうか。さらに、どうして阿波の寺院が四国の総代表寺院になるのでしょうか? これらの疑問を抱えながら先に進んで行くことにします。
この書状を作成した持明院について『阿波名所図会』で見てみましょう。
1 持明院 阿波名所図会
持明院
 持明院は徳島城下の眉山山麓の寺町にあった真言宗の大寺だったようです。大滝山建治寺と号し、創建は不詳、三好氏城下勝瑞に建立され、蜂須賀氏入部に伴い、眉山中腹に移転されます。江戸期にはおおむね100石の寺領を有しています。阿波名所図會では山腹には滝、観音堂、祇園社、行者堂、三十三所観音堂、八祖堂、坊舎、十宜亭、大塔などがあり、山下には仁王門、本堂(本尊薬師如来)、方丈、庫裏、天神社、絵馬堂、八幡宮などがあったようです。徳島の寺町を代表する大寺であったことがうかがえます。
阿波大滝山三重塔・阿波持明院三重塔
持明寺
次いで『阿波誌』をみてみましょう。
持明院 亦寺街隷山城大覚寺、旧在勝瑞村、釈宥秀置、三好氏捨十八貫文地七段、管寺十五、蔵金錫及馨、天正中命移薬師像二、一自勝瑞移安方丈、 一自名西郡建治寺彩作堂安之、山名大滝(中略)封禄百石又賜四石五斗、慶長三年命改造以宿行人、十三年膀禁楽採樵及取土石、至今用旧瓦故瓦頭有建治三字。

  意訳変換しておくと
持明院は隷山城大覚寺ともいい、旧在勝瑞村にあった。かつては、三好氏が捨十八貫と土地七段を寄進し、十五の末寺を持ち栄えた。天正年間に勝瑞にあった持明院と、名西郡の建治寺を現在地に移して新たな堂舎を建立し、山名を大滝山持明院建治寺とした。(中略)
封禄は百石と四石五斗を賜った。慶長三年に藩の命によって寺の改造が行われ行人宿となった。慶長十三年には周辺の神域や山林から木を切ることや土石を採取することが禁止された。今でも旧瓦には瓦頭に有建治の三字が使われている
ここからは、天正年間に勝瑞にあった持明院と名西郡の建治寺を現在地に移して、大滝山持明院建治寺としたこと。慶長三年(1598)には、命によって寺の改造が行われ、行人の宿にしたことなどが分かります。この中で、慶長三年に寺を改造して行人の宿としたことは、重要だと研究者は指摘します。ここに出てくる「行人」とは、四国辺路に関わる行人と研究者は考えているようです。
 これに関連して阿波藩の蜂須賀家政は、同じ年の6月12日に駅路寺の制を、次のように定めています。
 当寺之儀、往還旅人為一宿、令建立候之条、専慈悲可為肝要、或辺路之輩、或不寄出家侍百姓、行暮一宿於相望者、可有似相之馳走事(以下略)
  意訳変換しておくと
駅路寺については、往還の旅行者が一宿できるように建立したものなので慈悲の心で運用することが肝要である。辺路、僧侶、侍、百姓などが行き暮れて、一宿を望む者がいれば慈悲をもって一宿の世話をすること

 こうして阿波藩内に長谷寺・長楽寺、瑞連寺・安楽寺など八ケ寺を駅路寺として定めています。そして持明院が、その管理センターに指定されたようです。つまり、持明院は徳島城下町にやって来る県外からの旅行者の相談窓口であり、臨時宿泊所であり、四国遍路のパスポート発行所にも指定されたようです。同時に、こんな措置が藩によってとられるということは徳島城下にも、数多くの辺路がやってきて宿泊所などの問題が起きていたことがうかがえます。
徳島の歴史スポット大滝山

ついでに持明院のその後も見ておきましょう。
 江戸期には藩の保護を受け、寺領もあり、寺院経営は安定していたようです。この寺の三重塔は城下のシンボルタワーとしても親しまれていました。しかし、幕末には寺院の世俗化とともに多くの伽藍を維持する経費が膨れ、困窮するようになります。それにとどめを刺したのが、明治の神仏分離です。藩主の蜂須賀家が公式祭祀を神式に改め、藩の保護がなくなります。さらには寺領も廃止され、明治4年には廃寺となります。藩主の菩提樹だったので檀家を持ちませんでした。そのため、藩主がいなくなると経営破綻するのは当然の成り行きでした。ただ神仏分離で祇園社は、八坂神社と改称され現在に残ったようです。
阿波大滝山三重塔・阿波持明院三重塔
残された三重塔は空襲で焼け落ちるまでシンボルタワーだった

次に徳島県の第5番地蔵寺の往来手形(写し)を見てみましょう
一、此辺路生国薩摩鹿児島之住居にて、佐竹源左衛門上下之五人之内壱人ハ山伏、真言宗四国中海陸道筋御番所宿等無疑通為被申、各御判形破遊可被ド候、以上
延宝四年(1676)辰ノ卯十七日
与州石手寺(印影)   雲龍(花押影)
讃州善通寺 宥謙(花押影)
讃州白峯寺 圭典(花押影)
阿州地蔵寺
同州太龍寺
土州東寺(最御崎寺)
同州五台山
同州足摺山
意訳変換しておくと
この辺路(遍路)は薩摩鹿児島の住人で、佐竹源左衛門以下五名で、その内の一人は山伏(先達)である。真言宗の四国中海陸道筋(四国遍路)の番所や宿でお疑いのないように申し上げる。
以上

研究者によると、この書状は石手寺が発行したものの写しのようです。延宝四年(1676)に鹿児島から来た佐竹源左衛門ら五人(内一人の山伏が先達?)は「四国中海陸道筋御番所宿等」を許可した通行書を持っています。詳しく見ると四国の内、つぎの八ヶ寺の名前が記されています。
讃岐は普通寺と白峯寺
阿波は地蔵寺と太龍寺
土佐は東寺(最御崎寺)・五台山一竹林寺)・足摺山(金剛福寺)
これが通行と宿の安全を保証するものなのでしょう。
ここからは推理ですが、薩摩からやってきた五人は、山伏姿の先達に誘引されて舟で九州から伊予に上陸したのでしょう。それが宇和島あたりなのか松山あたりなのかは分かりません。そして、まずは松山の石手寺で、この書状(パスポート)を受けて讃岐へ入り、善通寺と白峰寺で花押をもらいます。その後、大窪寺を経て阿波に入り地蔵寺で花押をもらったのでしょう。その際に、地蔵寺の担当僧侶が写しとったものが残ったと考えられます。それから彼らは土佐廻り、土佐の三ケ寺でも署判を請けたのでしょう。
 ここで疑問なのは、さきほどの明暦四年(1658)から18年しか経っていないのですが、持明院がパスポート発行業務から姿を消しています。どうしてなのでしょうか。
 この間に、札所寺院に含まれない持明院が除外されるようになったようです。また、讃岐では新たに善通寺が登場しています。讃岐に最初に上陸して、四国遍路を始める場合に、最初に廻り手形を発給するのはどこなのかなど、新たな疑問もわいてきます。これらの疑問が解かれるためには、江戸時代初期の往来手形が新たに発見される必要がありそうです。

往来手形の定型化が、どのようにすすんだのかを見ておきましょう。
元禄7年(1694)の讃岐一国詣りの往来手形です
上嶋山越智心三郎、讃岐辺路仕申候、宗旨之代者代々真言宗二而、王至森寺旦那紛無御座候、留り宿所々御番処、無相違御通被成可被下候、為其一札如件
元禄七年 与州新居郡上嶋山村庄ヤ
                 戌正月24日 彦太郎
所々御番所
村々御庄岸中
意訳変換しておくと
上嶋山の越智心三郎が讃岐辺路(讃岐一国のみの巡礼)を行います。この者の宗旨代々真言宗で、王至森寺の旦那(檀家)であることに間違いはありません。つきましては、宿所使用や番所通過について、これまでのように配慮いただけるようお願い申し上げます
元禄七年 与州(伊予)新居郡上嶋山村庄屋
これは、新居郡上嶋山村の庄屋発行の往来手形で、「讃岐辺路仕申中候」とありますので讃岐一国のみの遍路です。「遍路」ではなく「辺路」という言葉が使われています。この時代まで「辺路」という言葉は生きていたようです。新居郡上嶋山村は、小藩小松藩の4つの村のうちのひとつです。

その約20年後の正徳2(1712)年の往来千形です
往来手形之事
一、予州松山領野間郡波止町、治有衛門喜兵衛九郎右衛門と申者以上三人、今度四国辺路二罷出候、宗旨之儀三人共二代々禅宗、寺者同町瑞光寺檀那紛無御座候、所々御番所無相違通可被下候、尤行暮中候節者宿之儀被仰付可被下候、若同行之内病死仕候ハゝ、早速御取置被仰付可下候、為其往来証文如件
正徳二年辰年六月十七日 予州野間郡波止浜
古川七二郎 同村庄屋 長野半蔵
御国々御番所
意訳変換しておくと
伊予松山領野間郡波止町の治有衛門・喜兵衛・九郎右衛門の三人が、今度四国辺路に出ることになりました。宗旨は三人共に代々禅宗で、同町の瑞光寺の檀家であることに間違いありません。各御番所で無事に通過許可していただけるよう、また、行き暮れた際には宿についても便宜を図ってくださるようお願い致します。もし同行者の中から病死する者が出た場合には、往来証文にあるようにお取り扱い下さい。

これも村の庄屋が発給したものですが、はじめて「往来手形」という言葉が登場します。そして当事者、目的、宗旨の事、発行者、非常時の事、発行者、宛先が順番に明示されるようになります。これで定型化のバージョンの完成手前ということでしょうか。
さらに40年後の宝暦二年(1753)年のものをみてみましょう
往来切手寺請之事
男弐人      善兵衛
女弐人      和内
右之者儀、代々真言宗二而当院旦那紛無之候、此度四国辺路二罷出申候間、所御番所船川渡無相違御通シ可被下候、行暮候節、一宿等被仰附可被下、若シ此者共儀何方二而病死等致候共、其所ニテ任御国法、御慈悲之に、御収置被卜候国元へ御附届二不及申候、乃而往来寺請一札如件
讃州香川郡西原村
       真光寺 印
宝暦ニ申正月十五日
国々御番所中様
所々御庄屋中様
右之通相違無御座候二付奥書如件
同国同所庄屋    松田慶右衛門 印
正月十五日
意訳変換しておくと
往来切手(往来手形)の寺発行証明書について
男弐人      善兵衛
女弐人      和内
これらの者は、代々真言宗で、当院の檀家であることを証明します。この度、四国辺路に出ることになりましたので、各所の番所や船川渡などの通過を許可していただけるようお願い致します。また行き暮れた際には、一宿の配慮をいただければと思います。もしこの者たちの中から病死者などが出た場合には、その地の御国法で御慈悲にもとづいて処置して下さい。国元へ届ける必要はございません。往来寺請一札(往来手形)についてはかくの如し
讃州香川郡西原村   真光寺 印
40年前のバージョンに比べると 病死などの時には「其所の国法」によって任され、国許には届ける必要は無いとのことが加わりました。以後の往来手形は、これで定型化します。ここからは、発給する側の庄屋の書面箱なかに、四国遍路の往来手形が定形様式として保存されていたことがうかがえます。当時の庄屋たちの対応力や書類管理能力の高さを感じる一コマです。
以上から往来手形発行の変遷をみると、次のようになるようです。
①初めは徳島城下の持明院が発給していた
②やがて八十八ケ所の特定の8寺院となり
③元禄ころからは庄屋や檀那寺がとなる
内容的にも最初は関所・番所の無事通過と宿の便宜でした。それが宗旨や檀那寺の明示、病死した際の処置などが加わり、17世紀半ばには定型化したことが分かります。
 江戸時代は、各国ごとに定法があり、人々の移動はなかなかに難しかったとされます。しかし伊勢参りや金昆羅参りなどを口実にすると案外簡単に許可が下りたようです。四国辺路も「信仰上の理由」で申請すると、往来手形があれば四国を巡ることが許されたようです。元禄時代頃から檀那寺や庄屋が往来手形の発給を行うようになります。それは、檀家制度の充実が背景にあるのでしょう。そのような中で、徳島の持明寺の四国遍路の廻り手形発給の役割は、無用になっていったとしておきましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   「武田和昭  明暦四年の四国辺路廻り手形 四国辺路の形成過程」

勧善寺 遠景
勧善寺(神山町)
 
徳島県神山町に、勧善寺という寺院があります。
ここには、南北朝時代末期に書写された大般若経が伝えられていて、今でも転読儀礼に用いられているようです。
「大般若経」の画像検索結果
大般若経が保管されている箱(勧善寺のものではありません)

大般若経は全部揃うと600巻にもなる大巻のお経です。
これが疫病封じなどにも効き目があるとされ、これを読経することで様々な禍を封じ込めることができるとされました。そこで、地方の社寺でもこれを備えるようとする所が出てきます。その際の方法としてとられたのが、多くの僧侶が参加する勧進書写方式です。元締めとなる僧侶が、周辺地域の寺院に協力を求めます。さらに各国修験の折りに、各地の修行場知り合った僧侶にも協力依頼を行います。こうして、何十人という僧侶の参加協力を得て、大般若経は完成していったようです。
「大般若経 転読」の画像検索結果

 600巻を全部読経すると大変なので「転読」というスタイルがとられます。お経を上から下に扇子のように開いて、閉じることを繰り返し、読経したことにします。この時に、お経から起きる風が「般若の風」と云われて霊験あらたかなものとされたようです。こうして、般若心経を揃えて「般若の風」を地域に吹かせることが、その寺社のステイタスシンボルになりますし、書経に参加したり、主催することで僧侶の名声にもつながります。この時代に讃岐で活躍した善通寺復興の祖宥範や、東讃の増吽も勧進僧であり、書写ネットワークの中心にいた人物でもあったようです。
勧善寺 地図

  神山町の「勧善寺大般若経」の成立背景を見ておきましょう。
この経典はもともとは、柚宮八幡宮(現在の二之宮八幡神社)に奉納されたものです。写経所は大粟山を中心としたいくつかの寺社で、写経期間は至徳四(1387~89)の足かけ三年でおこなわれたようです。上の地図が写経に参加した周辺寺社を示したもので、「大栗山」(神山町)の外にも吉野川下流や鮎喰川下流の寺社も参加していつのが分かります。さらには讃岐やその他の地域にも広がっています。書写ネットワークの中心にいた人物の人徳でしょうか。
 大粟山の鎮守とされる上一宮と神宮寺のような地域の有力な寺社もありますが、「坊」と記された小規模寺院(村堂?)も含まれています。ここからはいろいろな寺社等が、写経事業と通じて結びつけられていたことが分かります。また具体的な個人名としては宴隆のように、全国の行場を修行して四国辺路修行を行ったような修験者(山伏)も参加しています。そして、これらの地域をを結びつけ「地域間交流の接着剤」の役割を果たしていたのが辺路修行者や山伏であったようです。このお寺もかつては、そんな拠点のひとつとして機能していたのでしょう

勧善寺大般若経」208巻
勧善寺大般若経 巻208の奥書

その中で注目されるのが巻208の奥書で、次のようなに記されています
(尾題前)
宴氏房宴隆(書写名)
(尾題後)
嘉慶二年初月十六日般若並十六善神
末流、瀧山千日、大峰・葛木両峯斗藪、観音三十三所、海岸大辺路、所々巡礼水木石、天壇伝法、長日供養法、護摩八千枚修行者、為法界四恩令加善云々、
後日将続之人々(梵字ア)(梵字ビ)(梵字ラ)(梵字ウン)(梵字ケン)」金剛資某云々、熊野山長床末衆

これは嘉慶二年(1388)の年紀がある奥書で、筆者は宴氏房宴隆と記されます。彼は「三宝院末流」の「熊野山長床末衆」(山伏)で、今までの自分の修行遍歴を、次のように記しています。
①瀧山千日
②大峯(大峰山)・葛木(葛城山)両峯斗藪
③西国観音三十三所
④海岸大辺路(四国大辺路?)
⑤所々巡礼水木石(?)
 宴隆は以上のような修行遍歴を積んだ上で、この地にやって来て大般若経の書写に参加したと云うのです。この中で注目しておきたいのは④「海岸大辺路」です。これは「海岸=四国」で、後の四国遍路の原型となる「四国大辺路」を指しているようです。熊野行者の修行場リストには、「両山・四国辺路十斗藪」「滝山千日籠」や「両山斗藪、瀧山千日、笙巌屈冬籠、四国辺路、三十三ケ所諸国巡礼」と記されることが多いようです。大峰・葛城山系での山林修行と「四国辺路」はセットとなっていたこと、さらに、「観音三十三ケ所諸国巡礼」も、彼らの必須修行ノルマであったことが、ここからはうかがえます。
勧善寺 巻210
        勧善寺大般若経 巻210の奥書

 同じ大般若経の巻201に「宴氏房宴隆金剛資」とあり、巻206・210にも「金剛資宴氏房」とあります。末尾部分にある「金剛資某」は、宴氏房宴隆のことで同一人物のようです。
 彼の所属寺院として「三宝院末流」の「熊野山長床衆」と表記されています。三宝院とは醍醐寺三宝院のことで近世には、修験道当山派の拠点となる寺院です。熊野山長床衆の「長床」とは、護摩壇の別称で、いつしか山伏達の拠点とする堂舎を指すようになります。ここからは宴隆が醍醐寺三宝院の末寺である熊野山長床衆の一員であると名乗ってことになります。彼は熊野行者で、醍醐寺の僧侶でもあったことが分かります。
宴隆がかかわった巻について見ていきましょう。
宴隆の名前が記されているのは巻201~206、208、210の8巻のようです。その中で巻201・204の2巻は、経文と奥書が同筆なので、宴隆自身が写経したようです。しかし他の6巻は、経文と奥書の筆跡が異なるようです。そこで研究者が注目するのが、巻202・210の奥書です。そこには次のように記されています。
(巻202)
宴氏房宴降
宇嘉慶元年霜月一日  後見仁(人)光明真言 澄弘三十八
(巻210)
金剛資宴氏房
於阿州板西郡吉祥寺書写畢 右筆侍従房禅齊
ここでは前者には「後見仁(人)」として澄弘が、後者には「右筆」として侍従房禅斉がそれぞれ名を連ねています。ここからは宴降の呼びかけ(勧進)に澄弘や禅斉が賛同(結縁)し、経巻を書写・本納したことがうかがえます。しかも、巻210は「板西郡吉祥寺(現在の板野町西部」で、大粟山(神山町)の外で書写されています。ここからは宴隆が大栗山に留まっているのでなく、阿波国内を移動して活動していたことが分かります。巻208以外にも、経文と宴隆による奥書の筆跡が違う巻があります。これらは二巻と同じような写経形態がとられたようです。
 以上からは、宴隆は自分で写経を行うとともに、書写勧進も行うなど、大般若経書写事業に深くかかわっていたことがうかがえます。
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焼山寺

  大粟山と焼山寺
 宴隆が大栗山(神山町)の住人だったかどうかは分かりません。しかし、熊野長床衆であることから、熊野行者として熊野と阿波の間を往来していたことは確かです。先達活動を行っていたかも知れません。そのため彼の活動範囲は広く、地域間を結ぶ「接着剤」としての役割を呆たしていたと研究者は考えているようです。
  
 もうひとつの謎は宴隆の出自です。
彼はこの地出身ではなく、外から入り込んだ可能性があるようです。そうだとすると、どうして大栗山にやってきたのでしょうかそこで周辺を見回すと、四国霊場十二番札所の焼山寺があります。この寺は大栗山の山ひとつ東にあります。
 「阿波国大龍寺縁起」(13世紀後半以降の成立)には、「悉地成就之霊所」を求めた空海が、「遂阿波国到焼山麓」で修行を行ったとされる聖地で、そのため弘法大師伝説の聖地として、修験者には憧れの地になっていたようです。
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焼山寺の大師像

 また、『義経記」(14世紀成立)の「弁慶山門(を)出る事」に、弁慶が阿波の「焼山、つるが峰」を拝んだとあります。ここからもこの山が阿波国でも有数の霊山としても知られていたことがうかがえます。
焼山寺の性格を考える上で参考になるのが、同寺所蔵「某袖判下文」正中二年(1325)です。
(袖判)
下 焼山寺免事
 合 田式段内 一段 一段 権現新免 虚空蔵免
 蔵王権現上山内寄来山畠内古房□東、任先例、
蔵王権現為敷地指堺打渡之畢、但於四至堺者使者等先度補任状有之、右、令停止万雑公事、可致御祈蒔之忠勤之状如件、
正中二年二月 日                                     宗秀
ここには焼山寺に対し、田一反に賦課される万雑公事の免除と祈祷の命令が行われています。田の内訳は「権現新免」「虚空蔵新免」の各一反です。この文書に蔵王権現堂のことが記されていることから、新たに免田が設定された「権現」は蔵王権現だと分かります。このように14世紀の焼山寺では、 信仰の核は蔵王権現と虚空蔵菩薩であったことがうかがえます。現在もこの寺の本尊は虚空蔵菩薩で、焼山寺山にある奥の院に祀られているのは蔵王権現です。
「焼山寺奥の院」の画像検索結果
焼山寺奥の院 蔵王権現を祀る
 蔵王権現が、役小角とセットで修験者の信仰を集めるようになるのは、古代のことではなく中世になってからのことです。それは役行者が中世以降に修験道の開祖に仮託された後のことです。同時に蔵王権現の信仰は、山岳修行僧と深くかかわっています。
2焼山寺 本尊虚空蔵菩薩
         焼山寺の本尊 虚空蔵菩薩

 また、虚空蔵菩薩については、空海がその著『三教指帰』において、若い頃に虚空蔵求聞持法を修したと記しています。そこから焼山寺の信仰対象として定着してきたのでしょう。真言宗では弘法大師にならって虚空蔵求聞持法を行う山岳修行者が多かったようです。こうして虚空蔵菩薩信仰と修験道の関係も深くなっていったようです。

以上から鎌倉時代後期頃の焼山寺には
「弘法大師 + 蔵上権現 + 虚空蔵菩薩」

といった信仰対象が並立する霊山としても有名であったようです。このような聖地は醍醐寺三宝院流の山伏である宴隆を惹きつける聖地であったのかもしれません。

勧善寺 と焼山寺地図
  さらに、ここには熊野信仰の痕跡も残ります
焼山寺には鎌倉末期から室町時代にかけての熊野系懸仏が伝来します。ここからは熊野行者の活動がうかがえます。また近世初頭の澄禅の「四国辺路日記」には、焼山寺は「鎮守は熊野権現」と記されます。
 以上のような、焼山寺に残る熊野信仰の痕跡は、宴隆のような熊野行者の活動の反映かも知れません。そうだとすれば巻208奥書は、熊野行者の活動の一例と云えます。
宴隆がたどった道、すなわち大栗山と熊野を結ぶルートはどのようなものであったのでしょうか。
 中世阿波の熊野信仰のは、吉野川水運と深く関係していると研究者は指摘します。大栗山は、吉野川の支流である鮎喰川の上流域になります。この川が大栗山と外部の世界をつなぐ道であったようです。勧善寺所蔵大般若経の巻321奥吉には「倉本下市」とありますが、これは鮎喰川下流、現在の徳島市蔵本町周辺に立地した市と研究者は考えているようです。国産・大陸産の陶磁器をはじめ、豊富な出土遺物により、鎌倉時代後期から南北朝時代における阿波の流通の様相が知られる中島田遺跡は、この市と関連する集落のようです。こうしたことから、鮎喰川は人や物資の往来の道としても機能していたと考えられます。

 大般若経の成立時期から約半世紀を経た天文21年(1552)の「阿波国念行者修験道法度」を見てみましょう
この史料は、阿波国北部の一九か寺(坊)に所属した「念行者」といわれる有力山伏の結合組織があったことを示すものです。これらの山伏は熊野先達でもあり、それぞれの所属する寺院(坊)は熊野信仰にかかわったものが少なくないとされます。従来は、寺院(坊)の分布が古野川下流域を中心にあることが強調されてきました。

勧善寺 地図
 しかし、視点を変えて大栗山との関連という視点でみていくと、鮎喰川流域の密度が高いことに気付きます。下流から挙げると、田宮妙福寺、蔵本川谷寺、矢野千秋房、 一之宮岡之房、大栗阿弥陀寺の五か寺(坊)があります。これは、鮎喰川やその沿岸が熊野信仰の道でもあったことを反映しているようです。当然、そこは熊野系山伏らの活動でもあったのでしょう。
以上からも、大栗山への熊野信仰の浸透に、鮎喰川の果たした役割は大きいといえます。そして、
大栗山―鮎喰川―吉野川―紀伊水道―紀伊半島

というコースが、宴隆のたどった道であったことになります。

神山町に残る勧善寺所蔵大般若経巻208奥書は、当時の熊野行者の活動と熊野信仰の浸透、それが四国霊場焼山寺に与えた影響を考える上での根本資料であることが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 長谷川賢二 熊野信仰における三宝院流熊野長床衆の痕跡とその意義
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高越寺絵図1
高越寺絵図
高越(こうつ)寺については、阿波忌部の開拓神話の上に、弘法大師信仰や修験道などが「接ぎ木」されてきたことを以前にお話ししました。高越山は「忌部修験」と呼ばれる山伏集団の拠点とされてきました。しかし、この説については、次のような批判も出ています。
「超歴史的であり、史料的な裏づけからも疑問視される」

 さらに加えて近年、九山幸彦は阿波忌部に関する伝承は近世の創作であることを明らかにしています。高越山について、新たな視角が求めれているようです。そのような中で、四国辺路研究とのにもつながりから高越山の歴史を見直そうとする動きがあるようです。今回は「長谷川賢二 山岳霊場阿波国高越寺の展開 修験道組織の形成と地域社会所収」をテキストに、高越山の歴史を見ていくことにします。
高越山 弘法大師
高越山山頂に建つ弘法大師像
 
高越山には、12世紀初頭の早い時期から弘法大師伝承が伝わっています。

古い弘法大師伝説があるのに、四国88か所の霊場(札所)にはならなかった寺です。どうしてなのでしょうか。大師信仰とは別の条件で「霊場の取捨選択」があったと研究者は考えているようです。その条件とは何なのでしょうか?
高越寺が霊場として最初に文献史料に登場するのは、弘法大師信仰とのかかわりについてのようです。
真言密教小野流の一派・金剛王院流の祖・聖賢の『高野大師御広伝』(元永元年〔1118)に次のよう登場します。
〔史料1〕
阿波国高越山寺、又大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々。澄崇暁望四遠、伊讃土三州、如在足下。奉造卒塔婆、十今相全、不朽壊。経行之跡、沙草無生。又有御千逃之額、千今相存。
意訳変換しておきます
阿波国の高越寺は、弘法大師が建立した寺である。ここで大師は法華経を書写し、この峯に埋納した。この地は空気は澄み渡り伊予・土佐・讃岐の三州も足下に望むことができる。大師が造った卒塔婆は、今も朽ちることなくそのままの姿で建っている。経典を埋めた跡は、草が生えない。「御千逃」の額は、いまも懸かっている

ここには大師がこの地にやって来て「高越山寺」を建立し、さらに法幸経を書写し、埋納したことが記されます。
  弘法大師が亡くなって200年ほど経った11紀になると、「弘法大師伝説」が地方にも拡がり、四国と東国は修行地として強調されるようになります。こうした中で高越山でも弘法大師との関わりが語られるようになったようです。数多くの大師伝が残されていますが、高越寺が登場するのはこれだけのようです。
高越寺の霊場化がうかがえる次のような史料があります。
一つは、大般若経一保安三年〔1122)~大治2年〔1127)です。そこには比叡山の僧とみられる円範、天台僧と称する寛祐の名が見られます。天台系の教線が高越山におよんでいたようです。
二つ目は、経塚が発見されており、12世紀のものとされる常滑焼の龜、鋼板製経筒(蓋裏に「秦氏女」との線刻銘がある)、白紙経巻八巻などの埋納遺物が出てきています。
 これは先ほど見た大師信仰の浸透と並行関係で進んでいたようです。以上から13世紀に高越寺は顕密仏教の山岳霊場となっていたと研究者は考えているようです。
 近世の縁起『摩尼珠山高越寺私記』(以下私記』)にも弘法大師の高越山来訪が記されます。
『私記』は寛文五年(1665)、当時の住職宥尊が記したもので、高越寺の縁起としては最古のものになるようです。『私記」の内容は、大まかに分けると次の4つになるようです。
  ①役行者(役小角)に関する伝承
「天智人皇御字、役行者開基、山能住霊神、大和国与吉野蔵王権現一体分身、本地別体千手千眼大悲観世音苦薩」
「役行者(中略)感権現奇瑞、攀上此峯」
などと、役行者による開基や蔵王権現の感得が記されています。そして蔵王権現(本地仏 千手観音)の山であり、役行者が六十六か所定めた「一国一峯」の1つに配されたなどとされています。
  ②弘法大師に関する伝承
弘仁天皇御宇、密祖弘法大師、有秘法修行願望、参請此山
権現有感応、紡弗而現」
などと記され、大師が権現の示現を得て、虚空蔵求聞持法等の行や木造一体の彫刻をしたとされます。
  ③聖宝に関する伝承
「醍醐天皇御宇、聖宝僧正有意願登此山」

などと記され、聖宝が登山し、一字一石経塚の造営、不動窟の整備などを行ったとされます。
  ④山内の宗教施設
山上の宗教施設が記されます。「山上伽藍」については、
「権現宮一宇、並拝殿是本社也」
「本堂一宇、本尊千手観音」
「弘法大師御影堂」
などがあったほか、若一王子宮、伊勢太神宮、愛宕権現宮などとの本社があったようです。さらに
山上から7町下には不動明王を本尊とする石堂
山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)があり、地蔵権現宮があったことが分かります。また「殺生禁断並下馬所」と記されるので、ここが聖俗の結界となっていたようです。
山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現宮があります。その他には、鳥居があったことが記されます。
以上の記述からは、大師が高越山に現れたとこと、実際に大師堂があったようで、17世紀になっても高越寺は、引き続いて大師信仰の霊場であったことが分かります。

高越山 役行者
高越寺の役行者

しかし、研究者は次のように指摘します。
最重視されていたのは、大師ではないことに注意が必要である。役行者(役小角)の開基とされ、蔵王権現が「本社」に祀られ、その本地仏である千手観音が本尊として本堂にあるというように、役行者にこそウェイトがあることは明らかであろう。したがって、 17世紀の高越寺は、存立の基礎という意味では大師信仰が後退し、修験道色の濃い霊場となっていたといえる。


高越山 奥の院蔵王権現
高越山奥の院の蔵王権現

高越山の修験道の霊場としての起点は、いつから始まるのか

ここで研究者が取り上げるのが役行者と蔵王権現です。
役行者は修験道の開祖と信じられており、修験道とは切っても切れない関係というイメージがあります。しかし、歴史的に見ると、これは古代にまで遡るものではないようです。『私衆百因縁集」(正嘉九年〔1257)に
「山臥行道尋源、皆役行者始振舞シヨリ起レリ」

という記載が現れるのは13世紀以後のことのようです。
 また、役行者と蔵王権現のコンビ成立も12世紀頃で、このコンビのデビューは『今昔物語集』が最初になるようです。
一方、13~14世紀は、「修験」は山伏の行と認識されるようになる時代でもあります
「顕・密・修験三道」(近江国国城寺)や部 「顕・密・修験之三事」(若狭円明通寺)などというような表現が各地の寺院関係史料にみられるようになります。四国でも、土佐国足摺岬の金剛福寺の史料に「顕・蜜兼両宗、長修験之道」とあります。こうした状況から「修験道」が顕教・密教と並ぶ仏教の一部門として、認知されるようになってきたことが分かります。
 こうしたことを背景にして役行者は、山伏に崇拝されるようになります。こんな動きが高越寺に及んできたのでしょう。
高越山 権現
奥の院背後の蔵王権現鳥居
奥の院は、中央が「高越大権現」、向かって右が「空海」、向かって左)が「役小角」を祀っている

高越寺には南北朝~室町時代のものとされる立派な聖宝像があります。
これは、中世後期にこの山で聖宝信仰があったことを物語ります。聖宝には、以前にもお話ししましたのでここでは省略しますが、醍醐寺の開祖で、真言密教小野流の祖です。聖宝は若い時代には山林修行を行った修験者でもあったようで、蔵王権現とも関係が深く、『醍醐根本僧正略伝』(承平七年〔937)には、吉野・金峯山に堂を建立したとされます。そのため12世紀後半以降には、「本願聖宝僧正専十数之根本也」と醍醐寺における山伏の祖とされるようになります。
「聖宝像」の画像検索結果
左から観賢僧正、聖宝(理源大師) 神変大菩薩像(役行者) 
上醍醐

 さらには天台寺門系の史料『山伏帳』にも「聖宝醍醐仲正」と記されているので、天台宗からも崇拝されるようになっていたことがうかがえます。弘法大師伝説に続いて、聖宝が信仰対象となるのは13~14世紀のことです。これも、先ほど見たように「修験道の地位向上」と同時進行ですすんでいました。この二つの流れの上に、高越山の聖宝像があるのでしょう。それは高越寺が修験道霊場化していく過程をあらわしたものだと研究者は考えているようです。
醍醐寺の寺宝、選りすぐりの100件【京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
聖宝

 聖宝像=醍醐寺=当山派というつながりから、高越寺と当山派を結びつけて考えたくなります。これに対して研究者は次のように、ブレーキをかけます。
①三宝院が修験道組織を管掌するのは江戸時代になってからのこと
②中世に醍醐寺三宝院が山伏と結びついていたと、当山派に直結させることはできないこと
③中世の聖宝信仰は真言宗だけではなく天台寺門派に連なった山伏がいたこと
したがつて、聖宝信仰と修験道の関連は深いとしても、修験道=当山派というとらえ方は取りません。
中世に霊場化していた可能性のある「中江」(中の郷)を見てみましょう。
「中江」(中の郷)は、高越寺表参道の登山口と山上のほぼ中間地点にあたります。近世以降には、中善寺があったようです。ここには、貞治二年(1364)、応永六年(1399)、永享3年(1431)の板碑が残るので、中世にはすでに聖域化していたと研究者は考えているようです。
 また、ここは「聖俗の結界」であったようです。中世の山岳霊場では「中宮」といわれる場にあたります。そうだとすれば、中の郷の結界性も高越山が霊場化していたことを示すものかもしれません。14~15世紀には、山麓と山が結ばれ、高越山内は霊場としての体裁が整いつつあったとしておきましょう。

時代をさらに下って15~16世紀の高越山の様子を史料から見てみましょう
中世後期になると、和泉国上守護細川氏との関係から高越寺のことが分かるようになるようです。

高越山

⑤の細川常有が菩提寺として応仁二年(1468)に建立した瑞高寺に
高越寺井上社之事一円」(文明九年〔1477〕)、

上守護家菩提寺の永源庵に
高越別当職井参銭等」が(明応四年〔1495〕

と、上守護家からそれぞれの寄進が記されています。高越寺が上守護家の所領支配に組み込まれていたことが分かります。

高越山1

上守護家の細川元常が大檀那となり高越寺の造営にかかわった棟札があるようです。
永正11年(1514)の「蔵王権現再興棟札」上守護家の細川元常が大檀那となり、
「御庄代官常直」
「当住持人法師清誉」
「大願主勧進沙問慶善」
らが名を連なります。
「上棟本再興蔵王権現御社一字」
「右意趣者奉為 金輪型阜、天長地久、御願円満、国家安穏 庄園泰平、殊者御檀越等一家繁、子孫連続故造立之趣、如件」
裏面には次のような銘があります
「刑部太輔源朝臣元常」と「丹治朝臣常直」の著判、
「檜皮大工久千田宥円」の名
「御社造立悉皆五百六十二人供也」
この棟札には「蔵王権現御社」としるされます。これが高越山の霊場化が確実視できる初めての史料のようです。「再興」とあるので、これ以前から蔵王権現が高越山に祀られていたようです。銘には「荘園泰平」とあります。ここからは、再興には高越山麓の上守護家領である河輪田庄・高越寺庄の安穏を祈願する願いがあったようです。つまり、蔵王権現社が高越寺の中核的な施設として機能していたことがうかがえます。
高越山 奥の院扁額
高越山奥の院の蔵王権現の扁額

また、「勧進沙門慶善」の名からは、この再興事業には勧進僧が参加し、勧進活動も行われていたことが分かります。棟札の裏面に「御社造立悉皆五百六十二人供也」とあるのが勧進に応じた人数ではないのでしょうか。
 これら事業関係者は「庄園泰平」の祈りに束ねられ、組織統合のシンボルにもなっていきます。こうして高越山は、河輪田庄・高越山庄の鎮守としての性質を帯びて、地域の霊場としての機能していた可能性があります。ただし、これらは高越山の社領ではありません。上守護家の所領支配に組み込まれている荘園なのです。それは上守護家という支えがあって成り立つもので、「御檀越等一家繁昌、子孫連続」とされるべきものなのでしょう。
 裏面には「檎皮大工久千田宥門」という大工の名があります。「久千田」が地名に由来するとすれば、吉野川北岸にあった朽田庄(久千田庄とも。阿波市阿波町久千田)に居住する職人かもしれません。高越寺は山麓一帯だけでなく、古野川の南北にまたがる地域との関係を持っていた気配もします。
高越山 権現2
高越山の蔵王権現
細川常有の「若王子再興棟札」(寛正三年〔1462〕の写し(寛政二年(一七九〇〕)もあるようです。
ここからは熊野十一所権現の一つである若王子が祀られていたことが分かります。つまり、熊野行者などによる熊野信仰も同時に信仰されていたことになります。先ほど見た『私記』には、高越寺には「蔵王権現を中核として、若一王子(若王子)、伊勢、熊野」が境内末社として勧請・配置されていたと記されていました。この棟札からは、15~16世紀には、すでにそのような宗教施設が姿を見せていたようです。
16世紀の「下の房」の空間構成は、どうなっていたのでしょうか。
下之坊のある「河田」は、高越山麓の河輪田庄(河田庄)域と研究者は考えているようです。天明八年(1788)の地誌『川田邑名跡志』(以下「名跡志』)には次のように記されています。
「下之坊、地名也、嘉暦・永和ノ頃、大和国大峯中絶シ 近国ノ修験者当嶺(高越山)二登り修行ス。此時下ノ坊ヲ以テ先達トス。修験者ノ住所也 天文年中ノ書ニモ修験下ノ坊卜記ス書アリ」
意訳変換しておくと
「下之坊の地名である。嘉暦・永和ノ頃に大和(奈良)大峯への峰入りができなくなったために、、近国修験者が当嶺(高越山)に、やってきて修行するようになった。この時に下ノ坊が先達となった。つまり下の房とは修験者の住所である。天文年中の記録にも「修験下ノ坊」と記す記録がある」

ここからは次のようなことが分かります。
①大峰への登拝ができなくなった修験者たちが高越山で修行をおこなうようになったこと
②その際に、下之坊が高越山で先達を務めたこと
また同書の「良蔵院」の項には、下之坊は天正年間、土佐の長宗我部氏の侵攻の前に退去した後、近世に良蔵院として再興された記されます。さらに『名跡志』には、良蔵院以外にも「往古ヨリ当村居住」の「上之坊ノ子係ナルヘシ」という山伏寺の勝明院など、山麓の山伏寺が七か寺あったと伝えます。「下之坊」の名称からすれば、セットとして「上之坊」も中世からあり、また高越山を修行場としたと推測できますが、史料はありません。
 和泉国に残された和泉国上守護細川氏の一次史料からは、高越山の麓は以上のようなことが分かります。これは、従来言われていた「阿波忌部氏の拠点」で「忌部修験の拠点」という説を大きく揺り動かせるものです。「高越山=阿波忌部修験の拠点」説は、阿波側の後世の近世史料によって主張されてきたものなのです。

 高越寺は、山伏をどのように組織していたのでしょうか
高越山に残された大般若経巻の修理銘明徳三年〔1292)には、「高越之別当坊」「高越寺別当坊」という別当が見えます。また上守護家による永源庵への明応四年〔1495)の寄進にも「高越別当職並参銭等」とあり、別当が置かれていたことが分かりますが、詳しいことは分かりません。
 時代を下った『西川田村棟付帳』寛文13年(1671)には、弟子、山伏、下人などが登場します。ここからは次のような高越山の身分階層がうかがえます。
①住学を修める正規の僧職と弟子=寺僧
②山伏=行を専らにする者
③寺に奉仕する下人(俗人)
基本的には寺僧と山伏だったようで、中世寺院の「学と行」の編成だったことが推察できます。しかし、15世紀末には別当職は、山内の実務的統括から切り離されていたようです。大まかには寺僧が寺務や法会を管掌し、そのもとで山伏が大峰修行や山内の行場の維持管理などを行ったとしておきましょう。しかし、地方の山岳寺院でなので、寺僧と山伏に大きな違いはなかったかもしれません。
 確認しておきたいのは『名跡志』では、山麓の山伏は高越寺には属していません。下之坊の伝承にあるように、高越山を修行の場としていたとみられ、山内と山麓をつなぐ役割をもっていたと研究者は考えているようです。


以上をまとめてると次のようになります。
①高越寺が史料に登場するのは13世紀で、弘法大師大師にかかわるものである
②15世紀には、役行者や蔵王権現信仰を中心に修験道の霊場となっていく。
③山内や下の房には、修験者(山伏)の拠点でもあった。
④この時期の高越寺は和泉国上守護細川氏の所領支配に組み込まれた
⑤高越寺は、近世初頭には阿波の有力霊山として広く知られていた

「高越山=忌部修験の拠点」説を、以前に次のように紹介しました
⑥高越山周辺地域を、中世に支配したのは、忌部氏を名乗る豪族達
⑦忌部一族を名乗る20程の小集団は、忌部神社を中心に同族的結合をつよめた
⑧中世の忌部氏は、忌部神社で定期会合を開いて、「忌部の契約」を結んでいた。
⑨忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。
⑩忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達だった。

しかし、今見てきた高越寺の歴史からは⑥⑦は見えてきません。中世の高越山周辺は④で、高越寺は細川氏の庇護下にあったのです。忌部氏の気配はありません。⑧⑨についても、同時代史料からはこのような事実は見られないようです。⑩に関しては、これでいいでしょうが「忌部修験」とすることはできないことは、史料が示すとおりです。
以上から、「高越山=忌部修験の拠点」説には、冒頭で述べたような次のような批判が出されているようです。
①「超歴史的であり、史料的な裏づけからも疑問視」される
②九山幸彦氏は阿波忌部に関する伝承は、近世の創作であることを明らかにした。

最後に、研究者は高越寺が四国辺路の札所に選ばれなかった背景を次のように推測しています
近世初頭に阿波の霊山として認知されていた寺院として、高越寺以外に大龍寺・雲辺寺・焼山寺・鶴林寺を上げます。これらは高越寺以外は、全て四国遍路の札所になっています。しかし、古くからの弘法大師信仰霊場でもあった高越寺が札所に選ばれませんでした。その背景は、高越山が大師信仰の霊場というよりも修験道霊場としての側面が強かったことにあるとします。そして、「開かれた霊場・巡礼地」としての基準に合わなかったというのです。
 別の研究者は、もとは高越寺も四国辺路の「大辺路」の札所であったものが、巡礼経路の変更で外れてしまったという説もあるようです。今は四国遍路道は10番切幡寺で吉野川を遡るのをやめますが、かつては高越寺へも四国辺路の行者達は巡礼していたのかも知れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 山岳霊場阿波国高越寺の展開 修験道組織の形成と地域社会所収」
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  前回は鶴林寺から太龍寺の中世の遍路道が、紀伊熊野の海賊衆の支援を受けて作られたことをお話ししました。ここに残された四国で一番古い丁石からは、中世の「古四国霊場」の姿が垣間見ることができました。さて、今回は鶴林寺と道隆寺の発掘調査から分かってきたことを見ていきたいと思います。
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 鶴林寺は、標高505mの鶴林寺山の山頂部にあります。
今は樹木が茂り、視界は眺望が余り効きませんが、南北方向に開け、北は勝浦川、南は那賀川を流れる二つの川を見下ろすことができたはずです。つまり、里からはよく見え山で、古代から霊山として崇められていたことがうかがえます。

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 境内は、南西方向から北東方向へ延びる尾根線上に位置し、東西約200m、尾根頂部を平らに造成して、境内を作りだしています。詳細測量で、寺院建物群が建つ平坦面の他に、本堂から南東側斜面には階段状に数段の平坦面があったことが分かりました。今は、この平坦面に建物はありませんが、もともとはお堂などが建っていたようです。
元禄2年(1689)の僧寂本の『四国徊礼霊場記』の挿絵を見てみましょう。
ここには、北室院(現、忠霊殿)を含め六力寺の子院が描かれています(図3)。
四国徊礼霊場記 鶴林寺
右側から仁王門をくぐって参道が延びてきて突き当たりを上がると本堂があります。本堂に延びる道の反対側に下って行くと上から、北室院・不動院・愛染院・宝積院・東蔵院、そして谷を隔てて「水神」を祀る石室院が見えます。どの塔頭も修験者の院主の存在を暗示します。ここからこの鶴林寺がもともとは、真言密教系の修験者の山岳寺院であったことがうかがえます。発掘調査からは、次のような事が明らかになりました。
①北側(参道右側)の子院跡は後世の開墾等で攪乱され礎石等の遺構は見つからなかった。
②「宝積院跡」では、斜面下段側に盛土造成した下から、焼土を多量に含む土坑、柱穴二ヵ 所が見つかった
③遺構からは14世紀頃の土師器坏片・小皿片が出土した。
③東蔵院からは、南北方向の石垣状の石積が出てきた。
「石室院跡」では、東西に細長い建物礎石(11m×7m)と床石が出てきた(図4)。それは『四国徊礼霊場記』の挿絵の建物によく似ている。
⑤各トレンチ内からは、古代の須恵器壹片・中世陶器(備前甕・揺り鉢)・青磁碗片等、明の青花磁器と思われる小片も出土した。
鶴林寺石室院

以上から、鶴林寺の前身の古代山岳寺院にあたると研究者は考えているようです。山岳寺院の果たした役割については、以前お話ししましたので省略します。
鶴林寺3

 太龍寺も、標高約500mの東西方向に延びる尾根線上に伽藍があります。
参道は北側からは谷筋を利用した遍路道が、東側からは尾根線を利用した旧遍路道「かも道」が太龍寺に延びていました。また、太龍寺からは「南の舎心(捨身)」の岩場を通り、次の22番札所平等寺への遍路道「いわや道」「平等寺道」が東に続きます。

IMG_0913

 精密測量の結果、仁王門から境内西端の子院跡までの約500mの東西に長い境内で、九段の平坦面があり、そこに多くの建物群があったことが明らかとなっています。
 寂本『四国偏礼霊場記』の挿絵(図5)と現在の建物配置を比べてみましょう。
太龍寺伽藍

この寺は、空海は「大瀧(おおたき)」獄と書いていますが、現在の寺名は「太龍(たいりゅう)」寺となっています。14世紀後半の太龍寺縁起には
「鎌倉末期ごろには太龍寺にはがあった」
「水はインド雪山の無魏池の水が流れて来た」
  と密教系縁起らしく大法螺を吹いていますが、瀧があったことは事実のようです。
 さらに、寺から辰巳(東南)に三重の霊窟があると記します。これが今は、なくなってしまった滝近くの「龍の窟」で、この窟が「太龍寺」と呼ばれるようになった所以のようです。
 絵図右下隅の北舎心岩の上のお堂は、お寺では大黒天堂らしいと伝えます。ここは岸壁で空中に橋が架けられています。また絵図左上には「南舎心」が描かれ。ここも空中を橋が結んでいます。本堂を挟んで「南の舎心」と「北の舎心」という二つの舎心岩(捨身岩)があったことが分かります。今は「舎心」と表記されていますが、もともとは「捨身」です。ここは捨身行が行われた行道行場だったようです。修験者たちは、南舎心岩と北舎心岩の二つの岩の行場を周りながら行道をおこなったと研究者は考えているようです。その中に空海の姿があったのかもしれません。
中央下には「瀧」が描かれています。
これがもともとの「大瀧寺」の由来になったと研究者は指摘します。『阿波国太龍寺縁起』には
「南の舎心」+「北の舎心」+「大瀧の岩屋」を併せて「三重之霊窟」

と記しています。
太龍寺 大瀧跡

 さて元に戻って、現在の伽藍配置と『四国偏礼霊場記』の挿絵を比べると変化点は、次の2点だけのようです。
①七子院が明治に全て山下に移転した
②貞享元年(1684)建立の三重塔が、昭和34年に愛媛県四国中央市の興願寺に移築
太龍寺は『歴代録』にあるように焼失と、再建を繰り返してきましたが、建物配置の上では17世紀のものが今も同じ位置にあることが分かります。つまり、この挿絵に描かれている景観が現在まで保たれているのです。
 中世のプロの修験者たちの修行の拠点であった霊場が、近世には素人の巡礼の札所に変身していきます。そのため伽藍配置や位置までもが変化していることが分かってきました。そういう中で中世からの伽藍配置がそのまま残されているという意味では、非常に貴重な場所と云えそうです。
 太龍寺では、建造物群に使用されている石材についても調査が行われています。
 このお寺の礎石や石段など石造物には、石灰岩(大理石)が多く使われています。太龍寺山には東西方向にいくつかの石灰岩の岩脈が走り、南北に延びる遍路道がその岩脈を数カ所で横切っているようです。そのため大正時代から昭和の初めにかけて「阿波の大理石」として採掘され、国会議事堂の建設にも使われました。そのため絵図に描かれた「大瀧」周辺は、セメント採石場に売却され瀧や岩屋は消えてしまいました。残っていれば空海修行の「大瀧」として、観光資源にもなったかもしれません。残念です。
 この寺での大理石の使用例を見ると、明治10(1877)年建造の大師堂や御影堂(御廟)の基壇や礎石に使われているほか、多宝塔の基礎や礎石、相輪楳の基壇にも使われています。多宝塔の建築年代は文久元年(1861)、相輪楳が文化十三年(1816)建立なので、大理石を建築資材として用いるようになったのは、江戸時代後期まで遡ることになります。
 この石材の採掘場は、太龍寺境内から約2㎞南東方向に延びる遍路道「いわや道」沿いにあったことが発掘調査から明らかとなっています。石材の採掘・切出しの手法などから、江戸時代の作業場とされ、丁場には削り取られた大量の石灰岩の屑のほか、一辺90㎝角の未製品石材が残っていました。この丁場に残された石材は、境内建造物に使用されている石材と一致するようです。
 遍路との関係では、文献・伝承で太龍寺山裾の水井村で良質の石灰岩の岩脈を発見したのは、寛政年間(1789~1802)に遍路として、当地を訪れた彦根藩の竹内勘兵衛という人物とされているようです。そうだとすれば、石灰製造技術や大理石の切出し技術も遍路が四国に伝えた文化・技術一つと云えそうです。

1四国遍路日記
 
 17世紀半ばに澄禅が残した『四国辺路日記』は、四国遍路の最古の資料です。
この中には、阿波の霊場が戦乱の傷跡から立ち直れずに、伽藍が焼け落ち残った本堂もぼろぼろで、仏像も壊れたままうち捨てられている姿が何ケ寺も出てくることを以前にお話ししました。
 そのような中で、鶴林寺と太龍寺は別格で、大寺院の風格を失っていないようです。17世紀半ばの二つのお寺の様子を見てみましょう。
    鶴林寺
山号霊鷲山本堂南向 本尊ハ大師一刀三礼ノ御作ノ地蔵ノ像也。高サ壱尺八九寸後光御板失タリ、像ノム子ニ疵在リ。堂ノ東ノ方ニ 御影堂在リ、鎮守ノ社在、鐘楼モ在、寺ハ靏林寺ト云。寺主ハ上人也。寺領百石、寺家六万在リ。
 
本堂も本尊も立派で、緒堂が立ち並んでいて、住職は「上人」です。他の寺院のように無住であったり、山伏や禅僧が住み着いた住職とは格が違うという雰囲気が伝わってきます。
そして「寺領百石、寺家六万」と記します。檀家が6万というのはオーバーにしても、他の札所が困窮しているなかで大寺らしい伽藍を維持できてていた数少ない寺院だったようです。
それでは大龍寺は、どうだったのでしょうか? 
山号捨身山本堂南向 本尊虚空蔵菩薩、宝塔・御影堂・求聞持堂・鐘楼 鎮守ノ社大伽藍所也。古木回巌寺楼ノ景天下無双ノ霊地也。寺領百石 六坊在リ。寺主上人礼儀丁寧也。
 
  ここからは大龍寺も鶴林寺と共に山上に大きな伽藍を持ち、兵火にも会わなかったようです。そしてここも百石という寺領を与えられています。
同じ山岳寺院であった焼山寺と比べててみましょう
      12番 焼山寺
本堂五間四面東向 本尊虚空蔵菩薩也。イカニモ昔シ立也。古ハ瓦ニテフキケルカ縁ノ下ニ古キ瓦在、棟札文字消テ何代ニ修造シタリトモ不知、堂ノ右ノ傍ニ御影堂在、鎮守ハ熊野権現也。鐘モ鐘楼モ退転シタリシヲ 先師法印慶安三年ニ再興セラレタル由、鐘ノ銘ニ見ヘタリ、當院主ハ廿二三成僧ナリ。

意訳すると
 本堂五間四面で東面し、本尊は虚空蔵菩薩である。いかにも古風な造りである。昔は瓦葺き屋根であったらしく、縁の下には古い瓦が置いてある。棟札は文字が消えて、いつ修理したのかも分からない。お堂の右に御影堂があり、熊野権現が祀られている。鐘も鐘楼もなくなっていたのを、先代が慶安3年に再興したことが鐘の銘から分かる。今の院主は若い僧である。

 ここからは本堂と御影堂、そして復興された鐘楼の3つの建造物があったことが分かります。本堂は、かつては瓦葺だったようですが、この時は萱葺きになっていたようです。かつての栄華はみえません。

なぜ那賀川の北と南にある鶴林寺と太龍寺は、戦国時代を生き抜き、近世に寺勢をつないでいけたのでしょうか。同じ山岳寺院でありながら衰退した焼山寺との「格差」は、どこにあったのでしょうか。これが澄禅の『四国辺路日記』を読みながら涌いてきた疑問のひとつです。考えられるのは戦国時代の混乱の中でも、ふたつの寺には大きな伽藍を維持できる自前の経済基盤があったということでしょう。次に、その基盤とは何かということになります。
私は、それは森林資源ではなかったのかと今は考えています。シナリオは次の通りです。
①古代の山岳寺院が国府によって建立された理由の一つに周囲の森林資源の管理があった
②山岳寺院は広大なエリアの森林資源を自己の支配下に置くようになる。
③中世に那賀川流域にやってきた熊野海賊(海の武士団)は、海上交易活動も行った。
④その最大の地場商品が木材であった。
⑤そのため熊野武士たちは、森林資源エリアをもつ山岳寺院と関係を深める
⑥有力者の保護を受け、木材販売で利益を上げた山岳寺院は山上に広大な伽藍を建立する
⑦室町時代には三好氏などと良好な関係を維持し、木材を堺港市場に提供し戦乱の中でも経済的な打撃を受けなかった。
⑧地元の武士団からも攻撃を受けることは無かった。
以上のような想像はできます。しかし、焼山寺ととの「格差」の理由は説明できません。
どちらにしても、鶴林寺と太龍寺は中世から近世にかけて、寺勢を維持し伽藍を保持し続けたようです。つまり、中性的な景観を良く残している寺であることになります。それは「古四国巡礼」の原型とも云えるようです。
参考文献
早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場  
                                                      四国霊場と山岳信仰 岩田書院

                                                    
「四国遍路形成史 山岳信仰の後に、弘法大師伝説はやってきた」の中で、四国霊場の成立を、次のような2段階説で説明するのが現在の定説になっていると紹介しました。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする
それでは、四国霊場の成立を考古学者たちは、どのように考えているのでしょう。
今回のテキストは、「早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場」四国霊場と山岳信仰 岩田書院です。
 阿波徳島藩により描かれた「阿波国大絵図」寛永十八年(1641)を見てみましょう

太龍寺 阿波国絵図
東側から俯瞰した構図で、中央を左奥から手前中央に流れるのが那賀川になるようです。その那賀川の両側の山の上には伽藍が見えます。
右(北側)が、20番札所の鶴林寺で、
左(南側)の二層の建物が描かれているのが太龍寺
です。そして、各村々の名前が記され、それをつなぐ道も赤く描かれています。ふたつの寺院をつなぐ道も見えます。これは札所寺院と札所寺院をつなぐ道(遍路道)を描いたものしては、最古のもののようです。山岳寺院を結ぶネットワークが早くからあったことがうかがえます。
 地図上に見える「かも道」は賀茂村(現、加戊町)から太龍寺の参詣道です。現在の遍路道以前の「古遍路道」で、中世にまでさかのぼることが分かってきました。
太龍寺 かも道

勝浦川から鶴林寺への参拝道である「鶴林寺道」には、南北朝期の町石(明徳二年(1391)が11基が残されています。つまり、南北朝時代には、鶴林寺への参拝道が整備されていたことを示します。
誰によって整備されたかは後ほど見ることにして、もう少しこの丁石を見ていきます。この丁石は「無傷」ではありません。近世になって「遍路」のための丁石として再利用され、全ての町石に新しい丁数が刻まれたのです。
   例えば明徳二年造立銘の「十二町」の丁石は、他の面に「五丁」と刻まれています。(写真1)
太龍寺 鶴林寺丁石

南北朝期の丁石が、いつ遍路道の丁石に転用され、新たな丁数が彫られたのかは分かりません。一つの手がかりとして、鶴林寺に参詣する別ルート(勝浦町棚野集落からの参詣道)には、地元の福良与兵衛により道の整備とともに建てられた享保3年(1718)銘の丁石が立ち並びます。この道の整備と併せて、周辺部の遍路道も整備されたようです。その際に南北朝期の町石にも、新しい丁数が彫られて転用されたと研究者は考えているようです。

 南北朝期の町石は、四国では鶴林寺と太龍寺への参詣道(遍路道)の二ヵ所でしか見つかっていません。

太龍寺 鶴林寺道2

このことは、中世から山岳寺院であったと云われる鶴林寺や太龍寺のルーツを考える上では重要な材料になるようです。
 例えば、この丁石がどこで作られたかを探ると、地元で作られたものではないことが分かってきました。丁石は、兵庫県の六甲山系花岡岩「御影石」が使われていたのです。わざわざ船に乗せて、大阪湾から紀伊水道・四国東海岸をめぐる物資の流通ルートに乗って運ばれてきたようです。この背後からは、当時の人とモノの流れがうかがえます。
 鶴林寺の遍路道の八丁石の背面には、願主の名前が刻まれています
  「七町 貞治五年 六月廿四日 真道願主 清原氏賓

願主の清原氏実とは何者でしょうか
この人物が、鶴林寺への参拝道の整備を行った信者の一人のようです。彼は、観応二年(1351)に那賀川下流南岸の阿南市宝田町から長生町にかけての竹原荘の地頭職に赴任していた周参見(清原姓)氏とされます。紀伊側の資料から、紀州牟婁郡で熊野水軍を率いた海の武士団(熊野海賊衆)の棟梁だったことが分かります。清原氏実の名は「泉福寺文書」に、文和三年(1354)竹原荘への土地の寄進に関わる文書にも出てくるようです。
   つまり、この八丁石は紀伊熊野からやって来て、竹原荘地頭職になった清原氏実によって寄進されたものということになります。さらに、阿南市那賀川町の三昧庵にある町石にも「十二町」「清原氏賓」の銘が刻まれています〔勝浦郡志〕。
 中世の那賀川河口には熊野からやってきた武士団(海賊)が拠点を構え、精力を上流に伸ばしていたことがうかがえます。

太龍寺 鶴林寺道

 少し想像力を飛躍させ、筆を走らせてみます。
海賊衆は、古代の「海の民」が分業した軍事勢力で、平時は船団をもち交易活動も行います。那賀川流域は木材の産地で、古代から奈良や京都の運ばれ、寺院建築などに用いられていました。阿波を拠点に畿内に勢力を伸ばす三好氏の経済基盤は、堺港における木材販売でした。阿波における木材販売の占める位置は、大きかったのです。紀伊熊野も木材の産地です。そこからやってきた清原氏実は、那賀川流域の森林価値を充分に分かっていたはずです。
 それを己の手中に収めるための方策を考えたはずです。
古代に森林管理センターとして機能するようになったのは、国府の建てた山岳寺院です。山岳寺院の経済的な役割については、以前に「仲寺廃寺」でお話しましたので省略します。
 勢力のある山岳寺院はいくつもの坊を列ね、大学として、医療センターなど様々は機能を持っていました。紀伊からやってきた外来勢力の清原氏実も、地元に根付いていくためには鶴林寺や太龍寺のもつ力を利用することを考えたはずです。
 もしかしたら、これらの寺院の僧侶の中には熊野修験者として阿波に定着した一族出身の僧侶もいたかもしれません。どちらにしても残された丁石からは、熊野海賊衆と那賀川流域の山岳寺院との関係が見えてきます。
太龍寺 地図

丁石以外にも紀伊の海賊(海の武士団)棟梁と目される「願主清原氏実」が残した痕跡としては、次のようなものがあるようです
①観応2年(1351)に竹原荘の地頭職を得た安宅氏が文和3年(1354)に再興したと伝えられる泉八幡宮、
②泉八幡宮周辺の本庄城跡
③泰地氏の城館跡と考えられている中郷城跡(泰地城)
 紀伊の小山家文書や安宅家文書など中には、小松島市・阿南市周辺の所領地名も記されています。
ここからは次のような事が分かります。
①那賀川流域では、熊野海賊衆と呼ばれた紀南武士が河口を中心に活動していた。
②彼らは、荘園支配以外にも海上交易を活発に行っていた。
③彼は鶴林寺や太龍寺などの山岳寺院を保護・信仰していた
④山岳寺院は熊野行者の活動拠点でもあった。
四国霊場成立前の那賀川流域には、政治・軍事組織として熊野海賊の姿と、宗教的な存在としての熊野修験者の姿が重なって見えてきます。
 太龍寺への古遍路道を見てみましょう 
太龍寺 かも道

太龍寺への現在の遍路道は、阿南市大井町から那賀川を渡り、水井から若杉集落を通過し太龍寺に至るルート②です。
しかし、中世の道は、阿南市加茂町から参拝する道「かも道」でした。貞享四年(1687)に真念が著した『四国辺路道指南』には、次のように紹介されています。
「これより太龍寺まで一里半、道は近道なり。師御行脚のすじは、加茂村、其のほど二里、旧跡も有り」
この中の「旧跡」とあるのが、南北朝期に建てられた町石と研究者は考えているようです。この「かも道」に建つ[太龍寺の丁石]は、鶴林寺の町石と同形式のものが19基残っています。その内の41丁石には[貞治六年 願主 道円]と刻まれています。そして、この願主の道円も紀州の人と言われます。
  「かも道」からは、発掘調査で経塚と考えられる列石を伴うマウンドが出土し、
①経筒の外容器に使った12世紀頃の東播磨系須恵器甕片
②室町時代の「阿波型板碑≒正面に阿弥陀如来を線刻」
が38丁石のすぐそばの斜面から出土しています
東播磨の須恵器甕も丁石と一緒に船で運ばれてきたのでしょう。
太龍寺 遍路道発掘

 同じように播磨産の石造物を、この周辺で探すと
①海陽町の木内家墓所の、正面に半浮き彫りの地蔵菩薩を配し、石柱上部に二線をめぐらした石造物
②由岐町の「九州型板碑」と呼ばれる形式の板碑も、六甲山系の花崗岩使用
③徳島県東海岸沿の六甲山系の花岡岩を石材とする五輪塔をはじめ多くの石造物
があるようです。
  ここから
「鶴林寺や太龍寺の参詣道に播磨から持ち込まれた町石は、紀伊水道の海上交通路を抑えた熊野水軍との関わりの中でもたらされたもの」
と研究者は考えているようです。

太龍寺 遍路道
最初に紹介した「四国霊場2段階成立説」を、最後に再度確認しましょう。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする
  つまり、ここに示されているのは①の段階です。そして、鶴林寺や太龍寺の南北朝の丁石や「かも道」は、中世の辺路巡礼の遺物と研究者は考えているようです。
 那賀川流域に熊野海賊の支配エリアがあり、その保護を山岳寺院が受けていたこと、そして山岳寺院は熊野行者たち山岳修験者の宗教的な拠点として機能していたことを示しているようです。
参考文献
「早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場」
                四国霊場と山岳信仰 岩田書院

 江戸時代には「移動の自由」はありませんでしたから、自由に旅することは出来ませんでした。移動は制限されていたのです。しかし、伊勢参りや金比羅参りなど、社寺参詣については「聖なる行為」として寛容だったようです。人々は、参詣にかこつけてぞくぞく国を出るようになります。それが江戸末期の「ええじゃないか」につながっていきます。金比羅詣でが大賑わいになる18世紀後半には、四国遍路にも農民・町人等などの庶民が数多くやってくるようになります。
それでも、社寺参詣への旅立ちには数々の「障害」がありました。
例えば農閑期以外の旅立ちは許されませんし、貢納未納者、負債者等には認められません。日数制限・人数数制限などの「規制」が多くの藩で採られていたようです。特に江戸後半になると各藩の財政は「火の車」状態で、四国遍路への旅立ち制限も強化され、ついには全面禁止に踏み切る藩も出てきます。しかし、抜け道はいろいろあったようです。
 受けいれ側の四国各藩の「遍路対応策」を見ていくことにします。それでは最初は、阿波藩からスタートです
 遍路に寛大な阿波藩
 次の史料は阿波藩が出した、貞享4年(1687)7月28日付けの書付の一節です。
一 他国右参辺路人同行之内相煩候欺(中略)
辺路(遍路)人之儀 寺請状井四国之内於何国同行之内病死仕候共為同行取置 其所之奉行不及申庄屋五人与村人へも六ヶ敷事懸間敷候(中略)
寺持之出家外ハ俗人男女又者道心法主或ハ百人之内九拾人も貧賤之町人土民 殊更其内奥州九州辺からも罷越候 路銀丈夫二不持鉢二相見辺路之内於所々乞食仕四国廻り候様二相見へ候へは待合候得とも路銀丈夫二不持候ヘバ至其時難儀可仕候(中略)
此度之趣急度改候而自古之辺路修行之障二成候ハバ環而如何に候(後略) (「阿淡御条目 百」 貞享四年)
 これは、徳島藩が病気遍路などについての取り扱いを示したもので、病人の村方滞在や病死遍路の取り扱いについて、地方に迷惑が及ばない程度の処置を示しています。現実には病死した遍路を夜間ひそかに隣村内に遺棄したことが多かったようです。
 また、遍路の9割は「貧窮の町人や土民であり、路銀の持参も僅かだから、そのうちには乞食となって四国廻りをするものも少なくない」と藩が見ていたことが分かります。        
 大坂から渡海してくる遍路については、藩から業務委託されている絨屋弥三右衛門と阿波屋勘左衛門が遍路手形を発行することになっていたようですが、中には「不法入国者」もあったようです。 正規の関所を通らずに入国してくる遍路は、「棄民」的な故郷から疎外された遍路たちでした。諸藩からすれば最も入国させたくない存在であったはずです。しかし、同時にこの種の遍路を冷遇しすぎると、藩内の良からぬ情報を他藩に広められたり、場合によっては悪評が公儀に知れわたることも怖れなければなりません。そのためには、江戸時代の前半には、ある程度の遍路に対する優遇策を採った藩もあります。
御国中へ他所右罷越候辺路病気にて郷中滞留仕罷有節向後日数十日過候者応日数壱人に壱人扶持宛可被下置候条被得其意此段兼而可被申付候(後略)
 (「阿淡御条目 百」元禄三年)
ここには、他国からやってきた遍路が阿波藩領で病気になったら、郷中に10日以上滞留した場合は、看病人に対し日数に応じて1人に壱人扶持を与えると記されています。そして本文では、事実海部郡奥浦での病死遍路の看病に対する扶持を与えるよう命じているようです。藩による「遍路救済事業」が行われています。
 
しかし、他国遍路に対して寛大な措置を指示する藩に対して、遍路に対応する現場の町役人からは困惑の様子がうかがえる史料があります。下の史料は、宝永5年(1708)6月の藩通達です。十七番井戸寺と十八番恩山寺の間で、徳島城下を通過する遍路の処置について、二軒屋の町役人が行った問い合わせに対する藩側の回答です。
諸国右参候 四国修行(遍路)人宿借り申度旨願候へとも借シ不申候ヘバ 往還之道二笈等指置何ケと横領申候 右様之義如何仕哉と弐軒屋年寄五人与笹部忠介方へ申出候 故杉浦吉右衛門粟田仁右ヱ門申談廻国之修行宿借シ不申様有之候而は修行之道断絶仕義二候 右修行人本之庄屋又ハ大坂之宿主等往来手形所持仕者之義ハ一宿之宿ヲハかし 右様之手形ヲも不持者ハ宿借シ不申様二可有御座哉と宝永五子ノ六月廿三日山田織部殿へ相伺候

この史料の舞台は、徳島城下の南端にあたる二軒屋で、南の郷村部から城下町への出入口になります。戦前までは木賃宿などが数多くあった所です。古くから遍路たちもこの付近に宿泊することが多かったようです。ここで「四国修行人(遍路)宿借り申度旨」の願いというのは、遍路宿への宿泊のことではなく、民家への「善根宿」の提供を遍路が願い出ていることを述べているようです。町民が善根宿を拒否すれば、民家の軒先などで仮宿をしたり、物品の横領など悪業を働く遍路もあって、その取締りに困っているので、処置を藩に問合せたようです。現場の町役人が期待したのは、「厳しく取り締まり立ち退きさせよ」という内容を期待したはずです。
 ところが、藩の回答は意に反したものでした。
「宿借シ不申様有之候而は修行之道断絶仕義二候」として、往来手形を所持してる遍路には「一宿之宿ヲハかし」と、善根宿を提供せよとの内容です。そして、手形のない遍路には宿を貸さないようにと答えるのみです。これでは、町役人は困ったはずです。無手形の遍路に対する取締まり強化を求めたのに「無手形遍路に宿を貸してはならない」というだけでは、何の解決策にもならないからです。これでは、現場の責任者に悪質な遍路の取り締まりや排除はできません。
 なぜ徳島藩は、遍路に対して強力な取締り策をとらなかったのでしょうか? となりの土佐藩は抑制策や厳しい取り締まりを行っています。阿波藩と土佐藩の遍路対策は対照的です。

   阿波番所の遍路チェックは?
天保年間になると金毘羅詣客が激増します。大坂から金比羅船でやってくる参拝客は、丸亀に上陸して、金毘羅街道を歩き始めます。その中に、天保7年(1836)3月7日に、丸亀に上陸して金比羅には向かわずに遍路路を歩きはじめた男がいました。武蔵国旗羅郡中奈良村の野中彦兵衛です。彼は丸亀から東に向かって遍路を始めます。その動きを追ってみましょう。
 彼は讃岐の大窪寺に参拝すると、讃岐坂本を越えて、大坂口の阿波番所で入国審査を受けます。その際のことを次のように記しています。
「阿州境 大坂、右大坂二おいて松平阿波守様御役所有之、国往来・丸亀上り切手、御引合せ御吟味之上」
と諸切手改めの上で、
「如此二御添書被下通る、阿州出ル時差上可申御事」
と出身国・氏名・日時・番所名の記された簡単な添え書きをもらったと記しています。
 御印 覚
 武州旗羅郡中奈良村
 男弐人    重蔵
        彦兵衛
 申三月九日改メ
       大坂口 御番所(御印)
そして、3月14日に宍喰で阿波から出国する際に
「阿州御番所大坂口から頂戴仕ル御切手、申ノ三月十四日志々具ゑ(宍喰)の御関所へ上ケテ通ル」
と記し、大坂番所で渡された切手(添え書き)を、宍喰番所に提出して通過しています。今の出入国申請書にあたる書類なのかもしれません。宍喰にある土佐と阿波の境目の番所は「古目御番所」
と呼ばれていました。
大坂口の番所に関しては、江戸後期のものと思われる次のような興味深い文書があります
 高松藩と境を接する大坂(口)番所を控えた板野郡吹圧呵の組頭庄屋吉田次郎兵衛は、郡代奉行に宛てた遍路取り締まり強化策を、次のように願い出ています。
近年四国辺路体之者御国へ入込、専徘徊仕、随而土州表之義は路銀無之辺路は御境目紘之上、直に追返候趣に候、右に付御国へ立帰り前段之懸りに候得は、辺路体之内には盗賊も紛込候義も可有之候、依之所々御境目等におゐて路銀無之乞食之辺路、老若男女不限直に追返し候様、於然は盗賊究りにも罷成、自然と減じ可申候条、究り方之義存寄可申上旨被仰付奉畏乍恐左に奉申上候
          (年不詳)
  意訳すると
近ごろ四国遍路の入国が激増しているが、土佐藩では国境の番所で路銀を持たない遍路を追い返し入国させないため、阿波国に滞留する始末である。その中には盗賊が紛れ込んだりしている状況も生まれている。土佐が行っているように、境目番所でも路銀を持たない乞食遍路についてはどうか。そうすれば盗賊も自然に減少するであろう。と土佐と同じような厳しい対応を求めています。具体的には以下の3点です。
一 御境目往来筋住居仕居申百姓共へ 逸々被仰渡乞食辺路体之者見及候節直に 追返候様兼而被仰付置度御事
一、山手村々五人組共へ被仰忖、月々相廻り制道仕候様被仰忖度御事
一、村々番乞食共往来筋並抜道等相考、乞食体之者又は胡乱成体之者行逢候節、御境目迄追戻し候様被仰忖度御事、大坂口御番所讃州より四国辺路通り筋に而御座候へは、四国辺路に相紛、乞食体之者入込申様に相聞へ申候、右御番所におゐて念を入相改候様被仰忖度御事
右之通究り方山手村々へ被仰忖候はゝ自然と薄さ可申と奉存候に忖右之段奉申上候(後略)
                   (年不詳)
要点は
①境目や往来筋の百姓たちに、乞食で遍路の体裁をした者を追い返すよう前もって命じておくこと、
②山手の村々の五人百姓へは月々見回りを強化して、道筋をよく抑えさせること、
③村々の番には乞食の体裁をした者や胡乱(うろん)者に行き会ったら境目まで追い戻すように命じ、大坂口番所にても念を入れて遍路改めをおこなうこと
 ここからは当時の阿波では悪質なニセ遍路も横行していたようで、藩境に設置されていた番所では、村役人たちもその処置に対して「もう少し強硬な対応を」という意見を持っていたことが分かります。
   このように幕末が近づくにつれて遍路の数も多くなり、さまざまな人たちが遍路として流入してくるようになったことが分かります。これに対して、阿波藩は土佐藩のようになかなか強硬策打ち出さなかったようです。そのため現場の役人からは「もっと強い措置を!」を求める声が上がっていたようです。

次回は、阿波とは対照的に対遍路強硬策をとった土佐藩を見ていくことにします。
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
       平成12年度遍路文化の学術整理報告書


         
1四国遍路日記

17世紀半ばに澄禅が残した『四国辺路日記』は、四国遍路の最古の資料のようです。
  まずは澄禅という人物について、見ていきましょう。
 澄禅(1613-1680)は、江戸時代の初期に生まれて元禄を前に68歳で亡くなっています。その期間は大坂夏の陣の辺りから、天下泰平の元禄の手前の当たります。彼は肥後国球磨郡の人で、20歳頃に京都智積院の学寮に入り仏道修行を積みます。一時、肥後に里に帰り地蔵院を継ぎますが、太守の接待や檀家とのやりとりなどにストレスを感じ「煩わし」として、ひそかに郷里を逃れます。そして学業に精進する道を選びます。ここからは、世事に疎く名利を厭う、彼の生き方がうかがえます。
1澄禅 種子集

 澄禅の種子字
 再び上洛したて澄禅は、梵語学の研究に打ち込みます。
そして、刷毛書梵字の祖といわれるまでになり、『悉曇愚紗』2巻をはじめ多くの著作を残しています。また、僧侶階層でも門下数千と伝えられる運敞能化の高弟、智積院第一座もつとめていたようです。ここからは、彼が中央でも名が知れた学僧であったことが分かります。
そのような中、澄禅は智積院第一座(学頭)の地位にありながら四国巡礼に旅立って行きます。
41歳のことでした。そして、1653年7月18日から10月28日までの100日間にわたる詳細な遍路紀行を残します。
 この日記は、宮城県の塩竃神社の文庫の中から写本が発見されました。その巻末に、徳田氏が正徳4年(1714)に写して「右八洛東智積院ノ中雪ノ寮、知等庵主悔焉房澄禅大徳ノ日記也」と書き加えられています。ここからこの日記が、澄禅のこした「四国巡礼日記」であることがわかります。またこの日記の写本奉納記朱印等から、もともとは江戸期の古書収集家村井古巌の収書中にあったものが、実弟の忠著によって、天明6年(1786)冬に塩竃神社に奉納されたことがわかります。
 この日記は、澄禅という当時としては最高レベルの学識豊かな真言僧によって書かれています。そして伝来も確認できる一級史料のようです。そのため研究者は
「内容もまた豊富で、四国遍路記の白眉とも言うべく、江戸時代前期の四国遍路に実態を最もよく伝えるのみならず、関連部門の史料としても価値のあるもの」
と評価しています。
  この日記を読んでいるといろいろな気になる事が出てきます。
17世紀半ばの霊場の姿が、どんなものだったのかに焦点をあてて見ていきます。
 高野山を7月18日に出発して、和歌山から淡路島を平癒して、24日に徳島の持明院(現廃寺、跡に常慶院滝薬師)に到着しています。そこで、四国遍路の廻り手形を受け取ると共に、霊山寺(一番)から回るより井土(戸)寺(十七番)からスタートした方が良いとのアドヴァイスをもらっています。
 澄禅は、真言宗の高僧でしたから各地の真言寺院からの特別な「保護や支援」を受けていることが分かります。当時の一般の一般遍路衆と比べると、比較にならい好条件だったようです。城下町の持明院に泊り四国遍路の手形を受け、いろいろな情報を受けています。宿泊だけでなく、大師御影像の開帳や、霊宝類の拝観といった面にも、特別の配慮に預かったことが分かります。
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 それでは巡礼第1日目に訪れた霊場の姿を見てみましょう。
 澄禅の遍路は徳島市から始まっていますが、先ほど見たように回る順番は持明院のアドバイスを聞いて、一番霊山寺からでなく、井土寺(十七番井戸寺)から打ち始めています。井戸寺までは、伊予街道(国道192号とほぼ並行)を行ったようです。
   17番 井土寺
堂舎悉(コトゴト)ク退転シテ昔ノ(礎)ノミ残リ、二間四面ノ草堂在、是本堂也。本尊薬師如来也。寺ハクズ家浅マシキ躰也。住持ノ僧ノ無礼野鄙ナル様難述言語。
堂舎悉(コトゴト)ク退転とあります。【退転】を広辞苑で調べてみます。
〔仏〕修行して得た境地を失って、低い境地に転落すること。
澄禅は「退転」を、この意味で使っているようです。
 昔の礎石だけが残り、小さな草葺きのお堂が本堂であり、そこに薬師如来が安置されている。寺は荒れ果て、住職は「無礼野卑で言語に尽くしがたし」と記します。真言宗のエリート学僧である澄禅の怒りをかうような事件が起きたのかも知れません。この記録には住職に関する記述も記されていますので注意しながら見ていくことにします。
 最初に訪れた霊場がこの様でした。彼にとってはショックだったかも知れません。
昔の礎石があるので、それなりに歴史のあったお寺だったようです。しかし、
寺ハクズ(屑家 浅マシキ躰(体)」だったのです。
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続いては16番観音寺です。
本尊千手観音 是モ悉ク退転ス。少(ママ)キ 草堂ノ軒端 朽落テ棟柱傾タル在、是其形斗也。昔ノ寺ノ旧跡ト見ヘテ 畠ノ中ニ大ナル石共ナラ(並)へテ在、所ノ者ニ問エハ イツ比より様ニ成シヤラン、シカト不存、堂ハ百性(姓)共談合シテ 時々修理ヲ仕ヨシ。
ここもことごとく「退転」状態です。小さな草葺堂の軒は朽ち落ちて柱も傾いています。昔の寺の跡らしき礎石が畑の中に並んでいます。近くにいた人に聞いても「いつ頃からこんな状態になったのか分からない、お堂は百姓たちと相談して、時々修理している」とのこと。そして、住職については何も記しません。記されていないのは、基本的に無住で住職がいないということのようです。 巡礼を初めて2つの霊場を訪れた結果がこれです。
15番 国分寺に向かいます
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本尊薬師、少キ草堂是モ梁棟朽落テ 仏像モ尊躰不具也。昔ノ堂ノ跡ト見ヘテ六七間四面三尺余ノ石トモナラヘテ在、哀ナル躰也。
かつての国分寺も、小さなお堂の梁や軒が朽ち果てています。仏像も壊れ、手足がありません。昔の堂跡を見ると、大きな礎石が並んでいるのが哀れになってくると記します。
14番 常楽寺、
本尊弥勒菩薩 是モ少(小)キ草堂也。
ここまで来ると口数も少なくなるように記述も少なくなってきます。ここも小さなお堂に弥勒菩薩が座っています。無住で住職はおらず、荒れ寺であったようです。35年後の『四国偏礼霊場記』にも
「其他坊舎の跡皆あり、今茅堂の傍、一庵あり。人ある事をしらず
と書かれているので、その後も住職がいなかったようです。

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13番一ノ宮(大日寺)
松竹ノ茂タル中ニ東向ニ立玉(給)ヘリ、前ニ五間斗(ばかり)ノソリ橋在リ、拝殿ハ左右三間宛也。殿閣結講也。本地十一面観音也。
 一ノ宮とありますが、阿波一宮は大麻山にありますので、村の一宮です。その一宮の別当寺が大日寺だったようです。ここではじめて「殿閣結構」と、まともな伽藍が出てきます。
 澄禅から30年後の寂本『四国徧禮霊場記』(1689年)でも、
常楽寺は「茅堂の傍一菴」
国分寺は「小堂一宇」
観音寺は「堂舎廃毀」などと
荒れた様子が記されています。
現在の国分寺のように、古い礎石が本堂の周囲に並ぶ風景が、どの寺にも見えたのです。傾き架けた本堂と呼ぶにはあまりに小さな草庵に本尊だけが安置され、住職もいない姿だったようです。
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 なぜ、この寺だけが伽藍が整っていたのでしょうか?
それは一宮神社の別当寺であったことが考えられます。檀家を持たず寺領も失った霊場が荒れたままで放置された状態にあったのに対して、神仏習合下では神社の別当寺にたいしては村人達は信仰を捧げ、伽藍を維持したのではないかと私は考えています。
初日に廻った5ケ寺の内、四ヶ寺までが「退転」状態でした。一日が終わって、宿に入ったときに、澄禅はどんな思いでいたのでしょうか。ある意味、呆然としたのではないでしょうか?。
 翌日7月26日 遍路2日目の澄禅を追いかけます。

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11番 藤井寺
本堂東向本尊薬師如来 地景尤殊勝也。二王門朽ウセテ礎ノミ残リ、寺楼ノ跡、本堂ノ礎モ残テ所々ニ見タリ。今ノ堂ハ三間四面ノ草堂也。二天二菩薩十二神二王ナトノ像、朽ル堂ノ隅ニ山ノ如クニ積置タリ。庭ノ傍ニ容膝斗ノ小庵在、其内より法師形ノ者一人出テ 仏像修理ノ勧進ヲ云、各奉加ス。
本堂は東向きで本尊は薬師如来、ロケーションは素晴らしい。仁王門は朽ちて礎石だけが残る。鐘楼や本堂の礎石も所々に残っている。残った本堂の隅に二天・菩薩・十二神将・仁王などの仏像の破片が山のように積んである。朽ちるままに放置してきたので、廃屋がつぶれるように、このお寺もつぶれてしまった。庭の隅に小さな庵があり、そこから一人の禅僧あるいは山伏がやってきて、この仏像だけでも復興したいという。訪れた人たちが勧進していた。
 泰平の時代になって半世紀が経っていますが、藤井寺に復興の兆しはささやかなものでした。法師が一人のみで小庵に住んで、この寺を守っていたようです。
 それから35年後に書かれた『四国偏礼霊場記』では、禅僧がいて堂も禅宗風に造られていると記しています。この間に復興が進んだようです。禅僧による復興ということは、雲水修行の間に無住の堂に留守居に入って、信者を獲得して復興したのかもしれません。そうすると、その寺は禅宗になります。
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藤井寺から遍路転がしと言われる急坂を登って山上の焼山寺へ向かいます。
    12番 焼山寺
本堂五間四面東向本尊虚空蔵菩薩也。イカニモ昔シ立也。古ハ瓦ニテフキケルカ縁ノ下ニ古キ瓦在、棟札文字消テ何代ニ修造シタリトモ不知、堂ノ右ノ傍ニ御影堂在、鎮守ハ熊野権現也。鐘モ鐘楼モ退転シタリシヲ 先師法印慶安三年ニ再興セラレタル由、鐘ノ銘ニ見ヘタリ、當院主ハ廿二三成僧ナリ。
 本堂五間四面で、本尊は虚空蔵菩薩である。いかにも古風な造りである。昔はかわらぶきの屋根であったらしく、縁の下には古い瓦が置いてある。棟札は文字が消えて、いつ修理したのかも分からない。お堂の右に御影堂があり、守護神は熊野権現だ。鐘も鐘楼もなくなっていたのを、先代法師が再興したことが鐘の銘から分かる。今の院主は若い僧である。
ここからは本堂と御影堂、そして復興された鐘楼の3つの建造物があったことが分かります。本堂は、かつては瓦葺だったようですが、この時は萱葺きになっていたようです。

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恩山寺
 大道より右ノ谷エ入事五町斗ニシテ 二王門在リ、夫より二町斗リ行テ寺在、
寺より右坂ヲ一町斗上テ本堂ニ至ル。本堂南向本尊薬師如来、右ノ方ニ御影堂在、其傍五輪ノ石塔ノコケムシタル在、此ハ大師ノ御母儀ノ御石塔也。地景殊勝ナル霊地也。寺ハ真言宗也。坊主ハ留主也。
この寺は仁王門があり、本堂・御影堂などがそろっており、住職もいたようです。山上の寺院は兵火を避けられたようです。

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  立江寺
本堂東向本尊地蔵菩薩、寺ハ西向、坊主ハ出世無学ノ僧ナレトモ 世間利発ニシテ冨貴第一也。堂モ寺モ破損シタルヲ此僧再興セラレシト也。堂寺ノ躰誠ニ無能サウ也。
住職は無学だが「世間利発で富貴第一」と記します。真言宗のエリート僧侶である澄禅から見ればそう見えたのでしょう。しかし、壊れていた堂や寺を再興させた手腕はなかなかだと、その経営手腕を認めているように思えます。故郷のお寺の経営に嫌気がさして飛び出した彼には、できない芸当だったかもしれません。どちらにしても、独力で復興の道をたどっていたのがこの寺のようです。
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  鶴林寺
山号霊鷲山本堂南向 本尊ハ大師一刀三礼ノ御作ノ地蔵ノ像也。高サ壱尺八九寸後光御板失タリ、像ノム子ニ疵在リ。堂ノ東ノ方ニ 御影堂在リ、鎮守ノ社在、鐘楼モ在、寺ハ靏林寺ト云。寺主ハ上人也。寺領百石、寺家六万在リ
 寺領百石の大寺らしい伽藍だったようです。本尊も立派ですし、本堂・御影堂・鎮守社・鐘楼も備わっていたようです。
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大龍寺 
山号捨身山本堂南向 本尊虚空蔵菩薩、宝塔・御影堂・求聞持堂・鐘楼 鎮守ノ社大伽藍所也。古木回巌寺楼ノ景天下無双ノ霊地也。寺領百石六坊在リ。寺主上人礼儀丁寧也。
  大龍寺も鶴林寺と共に山上に大きな伽藍を持ち、兵火にも会わなかったようです。そしてここも百石という寺領を与えられています。焼山寺との格差が、どうしてつけられたのか気になるところです。

平等寺
本堂南向二間四面本尊薬師如来、寺ハ在家様也 坊主□□ 。 

平等寺は「在家のよう」と記され、お堂やその他については何も記されていません。
薬王寺

本尊薬師本堂南向。先年焔上ノ後再興スル 人無フシテ今ニコヤ(小屋)カケ也。
二王門焼テ 二(仁)王ハ 本堂ノコヤノ内ニ在、寺モ南向 是ハ再興在テ結構成。

この寺は火災にあったばかりで、再興途上にあったようです。仁王門は焼けて仁王像は、本堂の中の仮小屋に保存してある。庫裡は再興が終わっていたようです。
 
一方、恩山寺、鶴林寺、太龍寺は寺観が整っているような様子が伝わって来ます。薬王寺は火災で仮設の本堂であることが記されていますが、庫裏は再興されていたようです。

薬王寺からは長い海岸線を歩いて、土佐の室戸岬を目指します。
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讃岐の大窪寺から再び阿波に帰ってきた澄禅の姿を、10番切幡寺から霊山寺まで追って見ます。
  10番 切幡寺
本堂南向本尊三如来、二王門鐘樓在、寺ハ妻帯ノ山伏住持セリ。
切幡寺は、本堂・仁王門と鐘楼は残っていたようです。そして、住職は妻帯の山伏だったと記します。修験者が誰もいなくなった霊場に留まり、住職化していく姿はこの時代の自国霊場にはよくあったようです。ここでも山伏と遍路の関係が垣間見れるようです。 

9番 法輪寺
本尊三如来、堂舎寺院悉退転シテ小キ草堂ノミ在リ。
    三如来とは「釈迦・弥陀・薬師」の3つの如来のことのようです。ここも「小キ草堂」で住職はいません。
  8番 熊谷寺
 普明山本堂南向本尊千手観音、春日大明神ノ御作ト云。像形四十二臂ノ上ニ又千手有リ、普通ノ像ニ相違セリ。昔ハ當寺繁昌ノ時ハ佛前ニテ法花(法華)ノ千部ヲ読誦シテ 其上ニテ開帳シケルト也。近年ハ衰微シテ毎年開帳スル也 ト住持ノ僧開帳セラル拝之。内陣ニ大師御筆草字ノ額在リ、熊谷寺ト在リ、誠ニ裏ハ朽タリ。二王門在リ、二王ハ是モ大師御作ナリ。
 このお寺では、法華千部読誦による開帳が行われていたようです。これを何年かに一度やっていたけれども、毎年やらないと、とても寺が維持できないというので毎年開帳していた記されます。
 法華経を読誦する行者は、あえて山林に入って苦行しました。鎮守は熊野社と八幡社なので修験によって維持された霊場であることがうかがえます。ここにも熊野修験者の影が見えます。

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  7番 十楽寺
是モ悉ク退転ス。堂モ形斗、本尊阿弥陁如来 御首シ斗在リ。(7)
「堂モ形斗」とあるので、形ばかりのお堂のようです。本尊の阿弥陀如来は「御首斗在リ」とありますので、首のところしかなかったようです。現在の十楽寺には立派な本尊さんがありますから、よそから古いものをいただいてきたということになるようです。ここからは、仏像もあっちこっちに移動していることが分かります。
 ちなみに、三十五年ほど後の『四国偏礼雲場記』には、このお寺はかなり復興して立派だと記されています。澄禅の時代は戦乱が収まっても、まだ遍路をするような十分な余裕がなかったようです。それが元禄年間が近づいてくると、遍路も多くなり、復興も軌道に乗り始めてきたことが分かります。
  6番 安楽寺、
駅路山浄土院本尊薬師如来、寺主有リ
  5番 地蔵寺
無尽山荘厳院、本堂南向本尊地蔵菩薩、寺ハ二町斗東ニ有リ。當寺ハ阿州半国ノ法燈ナリ。昔ハ門中ニ三千坊在リ、今モ七十余ケ寺在ル也。本堂護摩堂各殿 庭前ノ掛リ高大廣博ナル様也。當住持慈悲深重ニテ善根興隆ノ志尤モ深シ。寺領ハ少分ナレトモ天性ノ福力ニテ自由ノ躰也。(5)
  4番 黒谷寺、
本尊大日如来、堂舎悉零落シタルヲ當所ニ大冨貴ノ俗有リ 杢兵衛ト云、此仁ハ無二ノ信心者ニテ近年再興シテ堂ヲ結構ニシタルト也。
  3番 金泉寺、
本堂南向本尊寺三如来ト云トモ 釈迦ノ像斗在リ、寺ハ住持在リ。(3)
 
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2番 極楽寺
本堂東向本尊阿弥陁、寺ハ退転シテ小庵ニ 堂守ノ禅門在リ。(2)
  ここも退転して小庵に堂守の禅宗僧侶が住み着いていたようです。阿弥陀さまと禅僧の取り合わせを研究者は次のように考えているようです。
「禅門というと禅僧のように聞こえますが、実は雲水系の放浪者です。中世には雲水のかたちをした放浪者がたいへん多くて、たとえば放下という者が念仏踊をして歩きました。本来は「ホウゲ」ですが、遊行者としては放下あるいは放下僧と呼んでいます。こういう僧が放浪しながら回っていって、住みよいところがあるとそこに定住したのです。
  (中略))
  『四国偏礼霊場記』によると、「いつの比よりか、禅門の人住せり」とあるので、本来は阿弥陀堂であったところに禅門が住んでいたようです。ここはそういう小さなお堂が霊場となった例で、その都度、希望者が堂守りとして住み込んでいます。このように雲水が、本堂と庫裡を建てて住職をすれば禅宗寺院になったはずです。ところが、札所は大師信仰ですから、現在は高野山言言宗に属する言言宗の寺院となっています。
  1番  霊山寺、
本堂南向本尊釈迦如来、寺ニハ僧在。

讃岐の大窪寺から讃岐山脈を越えて、切幡寺に入り霊山寺でゴールになったようです。
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澄禅の日記から各霊場の建物を見てみて分かることは、阿波の札所は「退転」=荒れ果てている寺が多かったということです。
阿波の二十三の霊場中の十二か寺が「退転」状態で、無住の寺もあります。
なぜこんなに荒れていたのでしょうか?
その理由として考えられるのが戦国時代の被災でしょう。土佐の長宗我部元親による天正(1573~92)の兵火で焼失したことが考えられます。寺伝等によると、霊山寺、極楽寺、地蔵寺、安楽寺、十楽寺、法輪寺、藤井寺、大日寺(一ノ宮)、常楽寺、国分寺、観音寺、井戸寺、恩山寺、立江寺、太龍寺、平等寺の十六か寺が被災しています 。吉野川下流域は長宗我部侵入時と、秀吉軍の侵入期の2度に渡って戦場となりました。特に、澄禅が最初に回った井戸寺から一ノ宮にかけては、四国征圧の命を受けて、侵入してきた羽柴秀長との一宮城の攻防(1585)で主戦場になったあたりになります。この地域にあった寺の被害は甚大だったことが想像できます。
 江戸時代なって戦乱が収まって、半世紀たっていますがほとんどの寺が放置されたままで復興がすすんでいない状態です。また、寺により復興がすすんでいる立江寺や黒谷寺は「民間資本の導入」という形で進められていたようで、この辺りがお隣の讃岐とは違うところです。
 讃岐は、戦国末に秀吉から支配を任された生駒氏が保護政策を行い、格式を持つと考えられた寺社に寺領を寄進し、復興を援助していきます。その保護政策を、後からやって来る領主達も踏襲した結果、戦乱からの復興が早かったようです。阿波は、蜂須賀家の「復援助計画」がなく、この時点では「放置」されたようです。
 さて、土佐の状態はどうだったのでしょうか。それはまた次回にするとして・・・
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もう一つは、寺のあり方です。
 古代に国家によって作られた国分寺は、中世にはほとんどが荒廃します。
国家が面倒をみなくなると維持できないのです。例えば、奈良の元興寺は南都七大寺随一といわれたお寺ですが、国家が面倒をみなくなって、室町時代に一揆によって本堂が焼かれてしまうともう復興できません。江戸時代まで残った塔も雷火で焼けてしまいました。同じように、権力者なり町豪なりが一人で建てたお寺も、大檀那が死んだり、その家が没落したりすると、どうなるか。それは廃藩置県後の各藩の菩提寺の姿を見れば分かります。
 つまり、檀家が組織されず、地域の人々の支援も受けられな寺は、復興の道が開けなかったのでしょう。その点、近世に「道場」を中心に寺が組織された浄土真宗の信徒には、「我々のお寺」という意識が信徒に強く、焼け落ちたまま放置される寺はなかったようです。これが近世はじめの四国霊場の姿のようです。
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もうひとつ私が感じることは、中世の辺路修行の拠点としての機能が霊場からなくなっていることです。
澄禅は真言高僧ですが密教系の修験者ではありません。そのために行場を廻って行道をした気配はありません。行場である奧の院を訪れた様子も見られません。ある意味、現在の霊場巡りと一緒で、お寺を廻っているのです。ここからはプロの修験者が修行のために行場をめぐるという中世的な雰囲気はなくなっています。澄禅の後からは、四国巡礼を行う高野山の僧侶が何人も現れ案内書が出され、道しるべも整備されていきます。そして、それに導かれて素人の遍路達が四国巡礼を歩むようになるのが元禄年間のです。その機運にのって、霊場は復興していくようです

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4大龍寺11

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 当時の行者にとって、まず行うべき修行はなんだったのでしょう?
 それは、「窟龍り」、つまり洞窟に龍ることです。
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4 阿州太龍寺岩谷図(龍の岩屋)

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仏教以前の人たちは、洞窟をどのように見ていたのでしょうか?
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4大龍寺15

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4大龍寺14
そこへ行者達は入っていって、じっと座って禅譲しているのです。
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 しかし、原始修験道の孤独な修行者の窟龍りは、その信者たちによって寺院が建立されると忘れられ、ただ毒龍を封じ込めたという伝承だけが残ります。そして、それが無名の修行者であれば、「それは弘法大師であった」という縁起になっていったようです。
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太龍寺は、青年時代の空海が求聞持法修行をした山と研究者も考えているようです。
ただ空海は「大瀧(おおたき)」獄と書いていますが、現在の寺名は「太龍(たいりゅう)」寺で、山も太龍寺山(602メートル)になっています。いつ山名は変わったのでしょうか? それは後で考えるとして・・

4太龍寺縁起表紙
太龍寺縁起は東寺の賢宝の著した『弘法大師行状要集』応安七年(1374)に引用されているので、これ以前の作であることは確かなようです。
 この中には
「鎌倉末期ごろには太龍寺には滝があった」
と記されています。瀧を落ちる「水はインド雪山の無魏池の水が流れて来た」と密教的縁起らしく大法螺を吹いていますが・・
 さらに、寺から辰巳(東南)に三重の霊窟があると記します。これが今は、なくなってしまった滝近くの「龍の窟」で、この窟が「太龍寺」と呼ばれるようになった所以のようです。
4大龍寺13

 その理由は先述したように
「龍を封じ込めたという窟は、山麓や海辺の人々からおそれられた洞窟に修行者が寵って、龍を恩寵神にした」

という言い伝えがあったからでしょう。
しかし、それが忘れられて「龍の窟」の名だけがのこったようです。この寺はこの「龍の窟」によって寺名をつけていますから「弘法大師窟龍り」の伝承は、かなり後まであったようです。 
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   現在のこのお寺の山号は「舎心」山で、舎心というのは心を緩めるという意味です。
 しかし、鎌倉時代にの『阿波国太龍寺縁起』には「捨身」山と記されています。もともとは、身を捨てるほうの捨身だということがわかります。前回の我拝師山でも述べましたが、捨身の行われた岩を捨身岩といいます。行場にはどうしても跳ばなければ渡れない大き石があります。その間を跳ばなければなりません。飛び損ねると落ちて死にます。これが「捨身」行です。こういうところの行は一回では済みません。何回でもぐるぐる回るわけです。
 空海が、この山でも捨身をしたことは『阿波国太龍寺縁起』にも出てきます。
観ずるに夫れ当山の為体、嶺銀漢を挿しばさみ、天仙遊化し、薙嘱金輪を廻て、龍神棲息の谿。(中略)速やかに一生の身命を捨てて、三世の仏力を加うるにしかず。
即ち居を石室に遁れ、忽ち身を巌洞に擲つ。時に護法これを受け足を摂る。諸仏これを助けて以て頂を摩す。是れ即ち命を捨てて諸天の加護に預かり、身を投じて悉地の果生を得たり。(中略)是れ偏に法を重んじて、命を軽んじ身を捨てて道に帰す。雪童昔半偶港洙めて身を羅刹に与うるや。

「一生の身命を捨てて」というのは、捨身をすることです。自分の命を仏に捧げることによって水遠に生きることができるのです。石室は龍の窟です。そして、石室とか巌洞とか三重霊剛が出てきます。戦前の地図には「龍の窟」が出ていましたが、今はありません。セメント会社に売ってしまって、窟はつぶされてしまったようです。

4大龍寺2

 つまり、捨身山(身を捨てる山・捨身の行をする山)が、いつの間にか舎心山(心を休める山)となってしまったようです。この山で虚空蔵求聞持法を修したことは、空海自筆の「三教指帰』にも記されています。現在、太龍寺には本堂の南に立派な求聞持堂があります。

4大龍寺3
 行場をもう少し絞り込んでみましょう。
それは、「南の舎心」「北の舎心」という二つの舎心岩(捨身岩)と研究者は考えているようです。今は「舎心」と表記されていますが、もともとは「捨身」です。ここは捨身行が行われた行道行場だったようです。
太龍寺伽藍

 絵図右下隅の北舎心岩の上のお堂は、お寺では大黒天堂らしいと伝えます。これは焼山寺三面大黒天の岩からしても、考えられる事のようです。ここは岸壁で空中に橋が架けられています。
 また絵図左上には「南捨身」が描かれ。ここも空中を橋が結んでいます。ここから空海は、南舎心岩と北舎心岩の二つの岩の行場を周りながら行道をおこなったと研究者は考えているようです。
また、中央下には「大瀧」が描かれています。
『阿波国太龍寺縁起』には「三重之霊窟」と書かれています。
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研究者は、今はなくなってしまった洞窟と、そこで行われた「行道」についてを次のように推論しています。
「龍の窟」は、上下に三段に三窟があったものとおもわれ、それは石灰岩質の崖にはよくできる窟である。おそらくその傍か内部を大滝が落ちていたので、「大瀧嶽」の名があったものとおもわれる。しかしカルスト地帯の常として水脈が変化すると滝は涸れ、龍の窟だけのこったために、大瀧嶽は太龍寺となったろうというのが、私の結論である。

4大龍寺8

 研究者は「瀧」にこだわっているようですが、古代の行場は水が流れてなくても断崖絶壁を「瀧」と呼んで地中の異界へ通じる関門=行場と考えていました。だから水が流れる流れないにこだわる必用はないように私は思っています。
さらに、この寺の奧の院と大龍寺山について次のように述べます。
この寺の奥之院は補陀落山といって、太龍寺山の最高峰である。この補陀落山からは太平洋が足下に一望できる。これが辺路修行の寺の重要な条件であり、この山の中腹に南舎心岩も龍の窟もある。南舎心岩の上からは東方に紀伊水道が望まれ、橘港の島々が見える。
 したがってこの岩の上で求聞持法を修すれば、東方の空に虚空蔵菩薩のシンボルである、明星(明星天子)を拝することができよう。このように海を拝み、明星を拝むことのできる山は、辺路信仰と山岳信仰の結合をしめすものとかんがえられる。太龍寺の奥之院が補陀落山であることは、その痕跡の一つとみとめることができる。
 おそらくここで修せられた昔の求聞持法は、龍の窟を出て、南舎心岩に登って、虚空蔵菩薩の真言を一万遍唱えて、夜明けには明星を拝して、その後に舎心岩の南の大巌塊の崖の上から海を拝し、次いで補陀落山に登って南方補陀落浄土を拝んでから、龍の窟に帰ったであろう。
 南舎心岩の南の大巌塊は、南側が直立の崖で、覗きの行ができそうな所であるから、『阿波国太龍寺縁起』にある空海の捨身行は、ここからかもしれないという気がする。この崖の上から大きな島が見えるが、これは牟岐港の沖の大島とおもわれる。この島は天禄三年(九七二)の『空也誄』に、出てくる湯島(紀伊水道の伊島説があるが、これは土佐から遠い)にあたる。
 まさに太龍寺の補陀落山から拝む補陀落観音浄土であったろう。
 このように「窟龍り」の洞窟である「龍の窟」と、求聞持法の禅定地である大滝寺山山頂をめぐる行道ルートが示されます。同時に山頂が補陀落山であり、海の彼方に補陀落観音浄土の島もみえるようです。
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    求聞持法に欠かせないもうひとつが聖火です。
 求聞持法は「行道」修行と「火を焚く」修行がセットになっていたことは、前々回の焼山寺山の所でお話ししました。古代の行者達は、不滅の聖なる火を「海の神」に捧げるために焚きました。
 その痕跡が、この山にも龍燈伝説として残っています
柳田国男の『神樹篇』に「龍燈松伝説」には、この山について次のような一節があります。
 阿波那賀郡見能林村の津峰権現と、同郡加茂谷村舎身山大龍寺との両所は、何れも除夜の晩に山の頂上へ龍燈が上った(阿州奇事雑話) 大龍寺にはおかかと云ふ山中第一の名木があったのを、大仏殿建立の為に豊太閤の時に伐ったと言へば、今では其龍燈も昔話であろう。
 太龍寺に大杉に龍燈が上るという話は、昔は有名だったようです。この杉は弘法大師の杖が成長したという杖立伝説もあったようです。ここには空海の辺路修行と龍燈の関係がうかがえます。
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 もともとは、辺路修行者が海の彼方の常世に向かって聖火を献じました。
ところが、時代が下って「常世」を龍神(海神)の都、龍宮とするようになって、この聖火は龍神に献ずる燈となっていきます。
 空海修行のころには、常世は法華経信仰や密教信仰の影響で龍神になっていたようです。この火は求聞持法修行が行われている霊山では、百日間は消すことはなかったとされます。毎日、霊山に燃やされる聖火を、麓の人々はどんな気持ちで仰ぎ見たでしょうか。
 沖の漁夫や航海者は、夜はこの火を望むことができました。そのような山の峰や巨木は昼には、航海や漁の目印になります。漁夫や航海者は、この火によって修行者の存在を知って参詣し、加護を願うとともに、危難にはこの聖火を念じるようになったというSTORYを考える事が出来ます。実際に、嵐に遭って助かった船は、土佐の青龍寺奥之院のある岬の不動尊に碇を献上しています。
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 原始の海洋宗教では、修行者が海の彼方の龍神のために燈を献ずることでした。それは海辺の洞窟や岬の上で柴を焚くことから、燈龍と呼ばれ、後の常夜燈やお燈明に「変身」していきます。そのような火が焚かれなくなると、危難のときの幻の火に変化し、また龍神の献ずる火があったという話に転換したようです。
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空海という名前についての違和感
 かつて空海という名前を、西安に再建されたばかりの青竜寺で現地の管理人に紙に書いて示したときに、驚いたような顔で「人の名前か?」と問い直されたことを思い出します。当時の中国の人たちにとって「空海」という沙弥名は、掟破りの変な沙弥名に思えたようです。確かに、空海という名前は僧侶の名前としては異質です。
 空海も最初からこの沙弥名を名乗っていたようではないようです。古い大師伝である「金剛峯寺建立修行縁起』に、空海がはじめ無空と称し、次いで教海と名乗り、また如空といったのちに、最後に空海と改めたとあります。その背景には、この大龍寺山や室戸岬で空と海を対象としての四国辺路修行の果てで、空海が選んだ沙弥名と考えれば、彼にふさわしいとも思えてきます。

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以上 今回の要点をまとめておきます
1 辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 行道=「窟龍り」の禅定 + 神木・神岩の廻り
3 虚空蔵求聞持法= 行道 + 聖火(→龍燈伝説へ)
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参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族

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2焼山寺1
    焼山寺の御詠歌は
後の世をおもへば苦行しやう山寺 死出や三途のなんじよありとも
 
です。苦行をしようとおもうということと焼山寺をかけて、ちょっと駄洒落のようになっています。「なんじよ」というのは、どういうふうにあろうとも、どんな具合であろうともという意味を俗語で表したものです。死出の山や三途の川はもっと苦しいんだろうけれども、後の世をおもえばこの山で苦行するのが焼山寺だといっています。

2焼山寺2

 ここには「遍路転がし」の辛さを「死出や三途のなんじよ(難所)=「苦行」と捉えているようです。この詠歌を思い出しながら、昔の遍路も「遍路転がし」を登ったのでしょう。
   しかし今は「四国の道」として整備され、たいへん歩きやすい自然遊歩道です。山歩きに慣れた人なら「遍路転がし」というのは、大げさな表現に聞こえるかも知れません。

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まずは、この寺の縁起を見てみましょう

 弘仁五年(814)に空海がこの山に登ろうとしたとき、毒龍が住んで火を吐き、全山火の海のようであったので焼山と呼んだという。空海が虚空蔵求聞持法を修すると、この火は消えて霊地となった。
 そこでこの山を摩盧山(まろさん)と名づけ、寺を焼山寺といった。摩盧とは梵語水輪の義、すなわち火伏の意味であるという。この毒龍を空海が封じた岩窟があり、その岩頭に空海は三面大黒天を彫刻して祀った、
とあります。

91横倉山
縁起の中にある「全山火の海」を、どう考えればいいのでしょうか。
奥之院の山頂からは、紀淡海峡の海が真東に見えます。この山頂で火を燃やせば海峡航行の船からも見えることになります。燈寵杉も龍燈杉、龍燈松も、現実には山頂の石上や岩窟の中で聖火を焚いたものと研究者は考えています。
 これが辺路信仰では、海中の龍神が山上の霊仏に燈明を献ずるという伝承に変化します。実際には修行者は、この聖火を常世の海神「根の国の祖霊」に献じていたのです。
 このような聖火は『三教指帰』(序)に、

望ム 飛炎ヲ於鑚燧  (燧を鑽る=すいをきる)火打道具を打ち合わせて火を発する。

とあるように、鑚燧で火をきり出し、大きな炎を上げたのです。そのためには、キャンプファイヤーのようにかなりの柴や丸太を積んだことでしょう。柴燈(さいとう)護摩というのは、この聖火を焚く方式が、修験道儀礼の中にのこったものと考えられます。ここから龍神の清浄な聖火なので斎燈(さいとう)と呼ばれ、薪に則して柴燈(さいとう)と書かれるよになったと研究者は言います。

2焼山寺4 奥の院へ

焼山寺の縁起は、
毒龍として表現していますが、これはインドの降魔の説話や絵によったものです。
これは、一面では煩悩雑念の克服、解脱をあらわしたものでしょう。
「毒龍が住んで火を吐き、全山火の海のようであったので焼山」
というのは、行者達の聖火のことと研究者は考えているようです。
さらに「毒龍」を岩窟に封じ込めたというのは、もともと山人(先行宗教者?=地主神)が住んでいた岩窟を空海に譲り、他の窟に移らせたという事実が背景にあるのではないかも指摘します。
 つまり、山人=毒舵の長の龍王が龍王窟に住んでいたのを、これを空海に譲って他に移った。その移ったところが奥之院にちかい不動窟で、今は崩落して浅くなった岩棚窟と、毒龍を封じたという岩の裂け目のような狭い窟がある。そこに三面大黒天が祀られているというのです。つまり、これが先住者であり、地主神であるということになるようです。
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  権現を山頂に祀った行者達は、そこで山が焼けてるようにみえるくらい火を焚いたようです。
  なんのために山頂で火を燃やしたのでしょうか?
 当時の修行は、火を焚くことが1つの条件だったようです。例えば、求聞持法の修行を行うためには節目では、火を焚くことが求められました。だから火を焚かなければ修行になりません。つまり、求聞持法と火を焚くということは一体化していたわけです。
 もともと火を焚くのは、海の神に捧げるためでした。
そのために海の向こうの神仏に届かなければなりません。大きな火を焚けば焚くほど、遠いところからみえて、海の神が喜ばれると思っていたようです。また、火を焚く場所は、よく目立つ岬の突端や岬の洞窟、霊山の頂上などが選ばれました。
 しかし、いつでもどこでも焚くのではなく、重大な修行や祭にだけ焚いたようです。そして、次第にその意味も、煩悩を焼尽するとか、自身火葬をするとか、災厄を焼きはらうというように変化していきます。しかし、柴を積みあげて焚き、遠くからも見える方式は変わりません。これを遠くから見たとき、山が焼けているように見えたから、この山は焼山の名がついたと研究者は解釈しているようです。
 焼山寺山の山頂には、いまは祠もあり、樹木が繁っています。しかし、聖火を焚いた時代は、まわりの樹を伐って山頂を裸にして、四方から見通せるようにして炊きあげたのではないでしょうか。時代を経て、聖火を焚かなくなると、山中の高い木に燈龍をあげたり、石燈龍の常夜燈に形が変わって行ったようです。
 このような柴燈による海の聖火は、平安時代まではさかんであったようです。空海も室戸崎、大瀧嶽やこの焼山寺山でも、節目節目には山頂で火を焚いたのです。それが変質して、今の焼山寺の「縁起」に伝わっているのかも知れません。
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 行者たちの聖火は海の神達に捧げられたものでした。
が、沖行く船からもよく見えました。それはまさに山が燃えているように思えたかも知れません。夜間に紀淡海峡から西を見ると焼山寺の火が見え、東を見ると紀伊の犬嗚山七宝滝寺の上にある燈明の火が見えるので、これを目印に舟は航海するようになります。もう一つ、北のほうの淡路の光山千火寺の常夜灯も航海の目印になったようです。
 しかし、最初は航海者のために火を焚いたわけではなかったようです。海の神に棒げるために焚いた火が、たまたま航海者の目印になって航海を安全にしたのです。のちにはそれが目的になって、やがて常夜灯が現れ、灯台になっていくようです。 金毘羅信仰の「海の神様」も象頭山の奥社の灯りを目印とした船乗り達の信仰が支えとなったのかも知れません。
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 以上を整理すると、
①辺路修行者が求聞持法修行をすることと、「飛炎ヲ於鑚燧ニ望み」聖火を焚くこととは同じ修行プロセスだった。
②そのため焼山寺山の山頂に求聞持法本尊の虚空蔵菩薩を祀つり、山頂で聖火をを焚いた。そのため焼山と呼ばれるようになった
③時代を経るにつれて求聞持法(経典)だけを重んじ、聖火(火を焚くこと=実践)を軽んずるようになった。
 そして聖火信仰は柴燈護摩として修験道儀礼にのみ残った
④「焼山」は、船乗り達の航海の目印となり信仰を集めるお寺も現れた
 

2焼山寺龍王窟

それでは、焼山寺山の行場を、一巡してみることにしましょう。
 焼山寺山の洞窟は龍王窟といい、かなり大きな窟があります。          
大瀧寺の「龍の窟」とおなじように、焼山寺とは谷をへだてた向山の中腹にある北向きの窟です。正面の幅は12メートルで、高さ2,5メートル、奥行は4メートルで、中央に禅定石とおもわれる長方形の台石が据えられています。その上に、いまは小祠が祀られています。 
2焼山寺龍王窟 
 かつては、行場の近くの洞窟が行者達の居住地域でした。現在のような本堂や諸堂、庫裡などはありません。山と洞窟と巌石、巌壁だけがあり、その中で修行者は行を重ねたのです。
 そうすると、この龍王窟は高さ30メートルほどの大きな岩壁の下に開口していて、その上から尾根道を山頂の奥之院に通ずる道と、谷道をいまの焼山寺まで出て、そこから急坂を奥之院に登る道とがあることがわかります。
 しかし寺のなかった時代には、この尾根道と谷道をつないで、龍王窟と奥之院を周回する行道路があったこと見えてきます。この道を周回しながら辺路修行をおこなっていたようです。
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さらにこの辺路は、閉じられたものではありませんでした。
 以前に、阿波の忌部修験のメッカである高越山を紹介しました。その高越山の中世文書『阿波国摩尼珠山高越寺私記』によれば、この寺は役行者の開山で、弘法大師求聞持法修行の山であるとして、次のように続けます。
 密祖弘法大師 有秘法修働願望 参拝此山 (中略)
故ニ虚空蔵求聞持法一百万遍呪、日夜精進誦得大悉地 
刻彫尊木像 是行者ノ形像ト大師ノ御影也 其像巍トシテ 而安座セリ也
 とあって、空海伝説を語ると共に、その後も求聞持法の霊場であったことを記します。つまり、焼山寺と高越山、そして讃岐の第八十八番大窪寺や阿波の大瀧寺をつなぐ求聞持法修行の道があったことが見えてきます。これらの山は、空海が求聞持法を修行し、火も焚いた霊山だった可能性があると研究者は考えているようです。それが、四国遍路への道へと繋がって行くのかも知れません。

2焼山寺 本尊虚空蔵菩薩
焼山寺の本尊 虚空蔵菩薩
  約三百年前の江戸時代初めの「四国霊場記」には焼山寺は、次のように書かれています。
 奥院へは寺より凡十町余あり。六町ほど上りて祇園祠(八坂)あり、後のわきに地窟あり。右に大師御作の三面大黒堂あり。是より上りて護摩堂あり。是より十町許さりて聞持窟、是よりあがりて本社弥山権現といふ。是は蔵王権現とぞきこゆ。下に杖立といふは大師御杖を立玉ふ所となん。地池と云あり。二十間に三十間もありとかや。
 祇園祠は、現在は不動尊を祀っています。奥の院までは、十町(1㎞)では行けません。もっと長いでしょう。不動尊をまつる祇園祠、地窟、三面大黒堂、護摩堂など、道具だてはみなそろっています。弥山といっているのは頂上のことです。

2焼山寺5
 弥山が頂上で蔵王権現が祀られているといいます。しかし、お寺では、もとは虚空蔵菩薩を祀ったといっています。そして、今の本堂の本尊は虚空蔵菩薩です。虚空蔵菩薩が本尊のお寺では、虚空蔵求文法の行が行われたと研究者は考えているようです。
また寺に所蔵される正中二年(1325)の文書には、次のように記されています。
  焼山寺免事
   合 田弐反内 壱反権現新免   在 鍋
          壱反虚空蔵新免  坪 石
 蔵王権現上山内寄来山畠内 古房野東任先例 
 蔵王権現為敷地 指堺打渡之畢但於四至堺者使者等先度補任状有之
 右令停止万雑公事可致御 祈勝之忠勤之状如件
    正中二年二月 日
  宗秀奉
 ここからは当時、寺には修験の守護神・蔵王権現も祀られていたことが分かります。現在の奥社に祀られているのは蔵王権現です。蔵王権現を祀るのは、吉野金峯山の真言系の修験者達と言われます。天台系の熊野修験者が多かった阿波では、この寺は少数派だったのかも知れません。

2焼山寺3

 しかし、「十二所さん」と呼ばれる小堂にある十数面の懸仏は、専門家によると
「熊野曼荼羅式のもので、南北朝・室町時代を降らない」
とします。熊野や吉野の修験者が共に、修行に励んでいたのかも知れません。どちらにしても、鎌倉時代には焼山寺にすでに修験道が浸透していて、南北朝・室町時代にも修験者達が活発に活動していたことがうかがえます。以上をまとめておきます。
①この山は霊山として地元の人々の信仰を集める山であった
②そこに空海伝説が付け加えられ、獄像菩薩・蔵王権現が祀られて修験者の山となった
③中世を通じて修験者の修行の山として機能した。
2焼山寺5 奥の院へ
江戸時代になると阿波蜂須賀家からの寄進を受けて、伽藍は整備されていったようです。
そして、霊山として周辺の里人の信仰をあつめて、季節の節目の祭礼には麓からの参拝者も集めていたようです。
 江戸時代後半に、この寺は大きな変動の時を迎えます
 近世後半に龍光寺が忌部十六坊から自立して剣山修験を「開発」します。すると、その剣講の有力寺院として、焼山寺や柳の水庵の修験関係者が協力するようになります。それは、この地方に剣山先達や剣山関係世話人などが他地方に比べると、圧倒的に多かったことからも分かります。
文化九年(1812)元木蘆洲によって書かれた「燈下録」には、剣山について次の様な記事があります。
 剣山は木屋平山龍光寺の奥山なり・・・(中略)
樹木なき所より臨み見れば、東は高越山、奥野明神の峯見ゆる二峯の間より逼に焼山寺山の弥山さし出たところ・・・ 

剣山の頂上はかつて「小篠」と呼ばれていたようで、この小篠に対して焼山寺山は弥山という立場であったようです。焼山寺と同じく神山町にあり、焼山寺の下寺的存在であった柳の水庵には剣山登山第一の鳥居がありました。これには、この地が剣参拝へのスタート地点であるという意味合いがあったようです。
 こうして、焼山寺周辺の修験者たちは周辺の村々を周り、剣講を作り、多くの信者を伴って剣登山参拝の先達を務めたのです。彼らの存在なくしては、剣山に多くの信者達が参拝する事はなかったでしょう。
2焼山寺12番 焼山寺 奥の院 弥山権現
 しかし、奇妙な現象が起きます。剣山登山が盛大になればなるほど、焼山寺山に登る人は少なくなったようです。つまり、焼山寺山の霊山としての価値は下落したということになるのでしょうか。新たに霊山化した剣に吸い上げられていくストロー化現象が起きたとも言えます。
 こうして、焼き山寺は藤井寺から登ってくる遍路以外は、参拝者がいない霊山になっていったようです。地元の修験者達は剣講の先達として、信者達を剣山に送り込み続けたのでした。この寺の周辺に、近代に至るまで多くの修験者(剣先達)がいたのは、そんな背景があるようです。
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参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族所収 131P
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近世後期の剣山修験道については

虚空蔵菩薩についてはこちらを

 

      
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平家の馬場(剣山山頂) 
 いまは剣山の表玄関は見ノ越です。ここまで車でいきリフトにのればで1700メートルまで挙げてくれますので、頂上が一番近い「百名山」のひとつになっています。
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剣山リフトで1750mまで上げてくれる
西島のリフトから続く何本かの遊歩道のどれを選んでも1時間足らずで頂上に立つ事ができます。
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リフト終点から頂上へのルートは3本
このエリアを歩く限りは、この山が修験者たちの行場であったことをうかがわせるものに出会うことはありません。しかし、頂上から北側の穴吹川の源流地帯に下りて行くと、石灰岩の断崖と洞窟が続く行場が展開します。そして、いまでもこの行場は使われています。
 この行場はいつ、どんな人たちによって開かれたのかを見ていく事にします。
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剣山北面は修験者の行場
まず、剣山という山名についてです。頂上にやってきた人たちがよく言うのが「剣のように険しく切り立った山かと思っていたら・・・・四国笹の続く雲上の草原みたい」という感想です。

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剣山山頂の四国笹の草原

 この山が剣山と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからのようです。
『祖谷紀行』によれば、旧名を「立石山」としています。
明治十二年六月龍光寺住職・明皆成が作った「剱和讃」の中は
「帰命頂礼剱山、其濫触を尋ぬれば……一万石立の山なるぞ」
とあって、「石立山」と呼ばれていたことが分かります。「立石山」と「石立山」は二字が逆になっていますが、同じ意味で、両方の名前で呼ばれていたようです。「石立・立石」という呼称は、頂上の宝蔵石からきたものとしておきます。
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剣山頂上の宝蔵石(山小屋に隣接)

江戸時代に藩主の祖谷山巡見の際に、お付きの絵師が書いたとされる祖谷山絵巻の剣山山頂です。
剣山頂上 祖谷山絵巻
祖谷山絵巻の剣山山頂
ここの描かれているのは、現在の登山者たちが目指す三角点のある頂上ではありません。宝蔵石と今は呼ばれている「立石」が、当時の頂上で、シンボルでもあり、信仰の対象になっていたことがうかがえます。
 また別の記録によると、この山はかつて「小篠(こざさ)」とも呼ばれたと伝えます。
『異本阿波志』の「剣山……。此山に剣の権現御鎮座あり、又、小篠の権現とも申す」「剣山小篠権現、六月十八日祭か……」

ここでは「小篠」が「剣山」の別名として使用されています。権現という用語から、修験的要素がすでに入り込んでいることがうかがえます。
 この山は、南に続く美しい稜線で結ばれる次郎笈があります。
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次郎笈(ぎゅう)
地元では、剣はかつては太郎ギュウと呼ばれ次郎ギュウと兄弟山で、それを伝える民話も残っているようです。研究者は次のように考えているようです。
「ギュウは笈で山伏の着用するオイズルのことであって、その山容が笈に似ている」

ここにも、修験者の影が見え隠れします。  つまり、剣山の名で記されている史料が現れるのは、近世以降なのです。それ以前には、この山は別の名で呼ばれていたようです。

昇尾頭山からの剣山眺望
剣山と次郎笈(祖谷山絵巻)
それでは、江戸時代になって剣山と呼ばれるようになったのはなぜなのでしょうか

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剣山直下の大剣岩
第一は、大剣神社の存在です。
この神社の御神体の大剣石が大地に突き刺さったような姿はインパクトがあります。ここには、剣神社(大剣神社、神仏分離以前は大剣権現)が祀られています。ここから剣山の名が生まれたとするものです。
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剣山直下の大剣岩
  たとえば、『阿波志』の「剣祠」(剣神社)の項には、次のように記されています。
 剣祠 祖山菅生名剣山の上に在り、名を去る二里余、頂に岩あり、屹立す、高さ三丈、土人以て神と為す、三月、雪消え人方に登謁す、其形の似たるを以て、名づけて剣と日ふ、祠中剣あり、元文中(一七三六~四一)人あり、之を盗む、既に得て、之を小剣岩窟中の人跡至らざる所に納む、後終に失ふ

意訳変換しておくと
剣祠(大剣社)は、祖山菅生(すげおい)の剣山の上にある。菅生名から二里余、頂に岩が高さ三丈の岩が屹立する。地元の人達は、これを神と崇める。三月になって、雪が消えると人々は参拝に訪れる。この岩はその姿から「剣」と呼ばれている。祠の中には剣がある。元文年間(1736~41)に、盗人に盗まれたものを取り返し、小剣の岩窟中の人跡至らざる所に納めたが、後に行方が分からなくなった。

 「形の似たるを以て、名づけて剣と云う」とあり、岩の形から剣山の名が与えられ、後に剣を奉納したようです。だんだん「剣」が定着していく過程が見えて来ます。

大剣石 祖谷山絵図
大剣岩(神石)と大剣社(祖谷山絵巻)

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大剣神社

  また、宝暦七年(1757)、宇野真重著の『異本阿波志』には次のように記されています。
 剣山 祖谷山東の端也、此山上に剣の権現御鎮座あり、又、小篠(剣山)の権現とも申、谷より高さ三十間斗四方なる柱のことき巌、立たり、風雨是をおかせども錆ず、誠に神宝の霊剣なり、
六月七日諸人参詣多し、菅生名より五里此間に大家なし、夜に出て夜に帰ると云ふ、其余木屋平村より参詣の道あり、諸人多くは是より登る
 意訳変換しておくと
 剣山は祖谷山の東の端にあたる。この山上に剣の権現が鎮座していて、小篠(剣山)の権現とも呼ぶ。谷から高さ三十間ばかりの四方柱のような巌石が起立する。風雨にも錆ず、誠に神宝の霊剣である。六月七日には、数多くの人達が参詣登山する。菅生名から五里の間に集落はない。夜に出て夜に帰ると云う。この他には木屋平村からの参詣道あり、諸人多くは是より登る
ここにも 神石が「神宝の霊剣」として信仰の対象になって、菅生や木屋平からの参拝者がいたことが分かります。
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大剣岩と大剣神社の赤い屋根

その二は、剣神社に祀る神宝が剣であることに由来するとする説です。
この説を裏付ける江戸期の文献はありませんが、明治45年の田山花袋著『新撰名勝地誌』には、次のように記されています。

「剣山は四国第一の高山にして……(中略)……山頂に一小祠あり、剣の社と称す。安徳天皇の剣を祀れるより其名を得たりといふ……(後略)」

ここには、平家と共に落ち延びてきた安徳帝の神宝の剣を、ここの神社に祀った。だから剣神社と呼ばれるようになった。「安徳天皇の剣=剣神社=剣山」ということになるようです。

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剣山頂の法蔵岩
 その三は、安徳天皇の剣を埋めたことによるとする説です。
 祖谷地方の伝承に屋島合戦に敗れた平氏一族が、密かに安徳帝を奉じて祖谷に入ってきたとする「平家落人説」があります。江戸末期の寛政五年(1792)、讃岐の文人・菊地武矩が当地を訪れた際の旅行記『祖谷紀行』には、次のように記されています。

「山上より遥に剣の峰みゆ、其山、昔は立石山といひしが安徳天皇の御つるぎを納め給ひしより、剣の峯といふとなん」

 3つの説に共通するのは、頂上直下の剱祠(大剣神社・大剣権現)が、人々の強い信仰を集めていたらしいことと、この山の修験的性格です。
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剣を埋めたと伝えられる剣山頂の法蔵岩

ここまでで、私が感じた事は、剣山の開山が石鎚に比べると新しい事です。
この山は室町時代以前には、一般の人が登る山ではなかったようです。例えば、天文二十一年(一五五二)に阿波の修験者達が「天文約書」と呼ばれる約定書を結びますが、その一項に次のように記されています。
「一、御代参之事、大峰、伊勢、熊野、愛宕、高越、何之御代参成共念行者指置不可参之事」

この中に挙げられる霊山のうち、高越山が当時は阿波の修験道の霊山で代参対象の山であったことが分かります。ところが、ここに剣山はありません。山伏達が檀那の依頼で、登る山ではなかったのです。

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一の森への縦走路

 「剣山開発」は、江戸時代になって始まったようです。
伊予の石鎚山の隆盛、四国霊場の誕生、数多くいた阿波の真言山伏の存在、そうした要素が阿波第一の高山である剣山を信仰と娯楽の面から世に出そうとする動きを後押しします。
 剣山を修験者や信者が登る山に「開発」するために、動き出したのが美馬郡木屋平村谷口にある龍光寺(元は長福寺)と三好郡東祖谷山村菅生にある円福寺のふたつの山伏寺でした。

山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
木屋平の龍光寺
まず、木屋平の龍光寺の剣山開発プロジェクトを見てみましょう。
 龍光寺は、剣山の山頂近くにある剣神社の管理権を持っていました。当時の霊山登山参拝は、立山・白山・石鎚で行われていたように、先達が一般信者を連れてくるスタイルでした。先達が各地域の人々を勧誘組織化し信者として修行・参拝するのです。中世の熊野詣での先達と檀那の関係を受け継いでします。
 つまり先ず必用なのは修験道山伏たちです。彼が各地域で布教活動を進め、勧誘しない限り参拝客は集まりません。龍光寺は、阿波の修験山伏達との間に、相互協力の関係を作り上げて行く事に成功します。
 龍光寺大御堂には、寛元年間に造られたと思われる阿弥陀如来坐像など六体の像があります。そのうちの不動明王立像光背の裏面に、次のように記されています。
「元禄十丁丑年 銀子拾弐分たいこ 教学院口口口並口口口寄進 十二月十四日」

ここからは修験者、教学院が龍光寺と協力関係にあったことが分かります。龍光寺が江戸初期の頃に「剣山開発」に進出したこともうかがえます。
  龍光寺の剣山開発プロジェクトの次の手は、受けいれ施設の整備です。
木屋平 富士の池両剣神社
剣修行のベースキャンプとなった富士池

  剣の穴吹登山口の八合目の藤の池に「藤の池本坊」を作ります。
登山客が頂上の剱祠を目指すためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を造営し、寺が別当となります。この藤(富士)の池は、いわば「頂上へのベースーキャンプ」であり、頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。

木屋平 富士の池道標

こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、多くの参拝客を集めることになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
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 一の森の権現さん
 実は、龍光寺は享保二年(1717)に長福寺から寺名へ改称しています。この背後には何があったのでしょうか?
 もともと、長福寺は中世に結成されたとされる忌部十八坊の一つでした。古代忌部氏の流れをくむ一族は、忌部神社を中心とする疑似血縁的な結束を持っていました。忌部十八坊というのは、忌部神社の別当であった高越寺の指導の下で寺名に福という字をもつ寺院の連帯組織で、忌部修験と呼ばれる数多くの山伏達を傘下に置いていました。江戸時代に入ると、こうした中世的組織は弱体化します。しかし、修験に関する限り、高越山、高越寺の名門としての地位は存続していたようです。

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剣と一の森を結ぶ縦走路

 そのような情勢の中で長福寺(龍光寺)は、木屋平に別派の剣山修験を立てようとしたのです。
これは、本山の高越寺の反発をうけたはずです。しかし、「剣山開発」プロジェクトを進めるためには避けては通れない道だったのです。そこで、高越寺の影響下から抜け出し、独自路線を歩むために、福の宇をもつ長福寺という寺名から龍光寺へと改名したと研究者は考えています。
 修験者山伏達の好む「龍」の字を用いる「龍光寺」への寺名変更は、関係者には好意的に迎えられ、忌部十八坊からの独立宣言となったのかもしれません。

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剣山北面の行場への道
 龍光寺の寺名の改変と、剣山の名称改変はリンクするようです。
 修験の霊山として出発した剣山は、霊山なる故に神秘性のベールが求められます。それまでの「石立山」や「立石山」は、単に自然の地理から出たもので、どこにでもある名前です。それに比べて「剣」というのは、きらりと光ります。きらきらネームでイメージアップのネーミング戦略です。
 この地方には「平家落人」と安徳天皇の御剣を頂上に埋めたという伝説があります。これと夕イアップし、しかも修験の山伏達から好まれる嶮しい山というイメージを表現する「剣山」はもってこいです。新しい「剣山」は、龍光寺によって産み出されたものなのかもしれません。こうして、美馬郡木屋平村の龍光寺の「剣山開発」は年々隆盛になります。

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穴吹川源流に近い行場
これは、剣山の反対斜面の三好郡東祖谷山村にも、刺戟になったようです。
何故なら、剣山の半分は東祖谷山村のもので、剣山頂は同村に属しています。見ノ越の円福寺は剣山に社領として広大な山地も持っていました。龍光寺の繁栄ぶりを黙って見過ごすわけにはいきません。
 円福寺は江戸時代末に、見の越に剣山円福寺を建立し、同寺が別当となる剣神社を創建します。こうして木屋平と祖谷山からのふたつのルートが開かれ、剣山への登山は発展を加えることになります。

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このように
剣山登山の歴史が、修験組織による剣神社(大剣権現)への参詣の歩みでした。
それは剣山周辺の地がさまざまの修験道と関係する地名・行場名を持つことでもうかがえます。今に遺る地名を挙げると、藤の池・弥山・小篠、大篠・柳の水 垢離取川・不動坂・御濯川・行者堂・禅定場などがあります。このうち、藤の池・弥山・小篠・大篠・柳の水などは、大和の修験道の根本道場である大峰の行場、菊が丘池・弥山・小篠(の宿)・柳の宿など似ています。ここからは剣山の修験化が大峰をモデルにプラン化されたことをうかがわせます。

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 さらに研究者は踏み込んで、次のような点を指摘します
①命名者が龍光寺を中心とする山伏修験者達であり、
②この命名が近世初頭を遡るものでないこと
③小篠などの命名から、この山伏達が当山派の醍醐寺に属したこと
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 明治初年、神仏分離令によって、修験の急速な衰退が始まります。
ところが、ここ剣山では衰退でなく発展が見られるのです。修験者の中心センターであった龍光寺及び円福寺が、中央の混乱を契機として自立し、自寺を長とする修験道組織の再編に乗り出すのです。龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。そして、信者の歓心を買い、新客の獲得につなげたのです。

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穴吹川源流

 龍光寺の住職・明皆が明治十二年六月に信者に配布した「剱和讃」の全文があります。ここからは当時の模様を知ることができます。
          剱  和  讃
   帰命頂礼 剱山      其濫筋を尋ぬれば
   南海道の阿波の国     無二の霊山霊峰ハ
   元石立の山なるぞ     昔時行者の御開山
   秋は弘仁六年の      六月中の七日なる
   空海大師此峯に      登りて秘法を修し玉ふ
   眼を閉て祈りなん     神と仏と御出現
   殊に倶利伽羅大聖    大篠剱の御本地と
   愛染王は古剱乃      御本地仏と仰ぐなり
   されバ秘密の其中に    剱すなわち大聖尊
   此時空海石立の      山を剱と呼ひたまふ
   一字一石法花経の     塚(大師の古跡なり
   山上山下の障難を     除きたまへる事ぞかし
   古剱谷の諸行場は     役の行者の跡そかし
   中にも苔の巌窟には    龍光寺 大山大聖不動尊
   本地倶利伽羅大聖は    無二同鉢の尊ときく
   衆生の願ひある時は    童子の姿に身をやつし
   又は異形にあらわれて   生々世々の御ちかひ
   あら尊しや御剱の     神や仏を仰ぎなば
   五日も七日も精進し    垢離掻川に身漱して
   運ぶ案内富士の池     三匝行道する行者
   合掌懺悔礼拝し      御山に登る先達
   新客行者を誘ひてや    八十五町を歩きつつ
   右と左に絵符珠数     唱る真言経陀羅尼
   此の御剱の山なる     大聖尊の三昧池ぞ
   踏しおさゆる爛漫の    梵字即ち大聖尊
   壱度拝山拝堂を      いたす行者の身影の
   形いつも離るらん    悪事災難病難を
   祓ひおさむる御宝剱    六根六色備るを
   唯真心のひとつなり    深く仰て信ずべし
      龍光寺住職    明皆成誌
    明治十二年六月   当山教会者へ授共す
 
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 今では、見の越が剣山参詣の玄関口スタートになりました。
「裏参道」が「表参道」にとって変わったと言えるのかも知れません。見ノ越の円福寺の信者は、徳島県西部の三好郡・香川県・愛媛県・岡山県などの人々が多いようです。高い山岳を県内にもたない香川県人が、祖谷谷経由で参拝を行っていた名残なのでしょうか。円福寺建設には香川県人が深く関与したようです。
 一方、藤の池派には本県東部の人々が多く、かつては先達に名西郡神山町出身者の多かったと云われます。神山町は、剣山への玄関だっただけに修験活動も活溌だったようです。

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参考文献 田中善隆 剣山信仰の成立と展開  大山・石鎚と西国修験道所収

 

幕末期における仏教への不満や批判が高まった背景は?
 明治維新に「神仏分離」が廃仏毀釈運動へと過激化した背景には、寺院僧侶への反発・批判があったようです。それがどうして生まれてきたのかを徳島藩と高知藩の史料に探って見ましょう。
鐘楼

 江戸時代の寺院の財政的基盤を見ると、
檀家制度、寺請制度によって、お寺は地域住民と深く結びつくようになります。人びとはお寺に宗門帳に登録してもらう引き替えに、法要などで多額の布施や寄進をしました。また寺院の修復などには、賦役や寄進が求められたようです。寺のなかにはこうして得た金を高利で人に貸すなどの副業をするものも出てきます。記録には、借金が返せなくなった農民の土地や屋敷をうばったり、妻子を奴婢として使うなどの例も見られるようになります。
 藩主の菩提寺ともなれば、寺院は禄を与えられ、藩主の家族に準じる扱いをうけました。多くの藩では菩提寺は一つではなく、いくつかの宗派にまたがって数か寺ありました。これは藩主が他家から養子をむかえたり、身分の高いところから奥方を迎えたりして、実家の宗派に気を使う必要があったためです。また、家臣の菩提寺にもその身分に応じて格式がありました。
一方、村々にある寺院も、その多くがかなりの寺領をもつ地主的性格の側面があり、さらに檀家からの勧化銀や葬祭時の臨時収入もありました。そのため寺院経営は安定していたようで、一般の農民よりも遙かに裕福だったようです。イメージとしては、庄屋の家に並ぶ豊かさという感じがします。
 次に寺院の社会的な地位を見ると、
宗門改や戸籍編製など任務を与えられることによって、寺院は宗教的な教化活動よりもむしろ村支配のため末端行政機関としての機能を果たしていました。徳川の泰平が続くにつれて、かつて一向一揆の先頭に立ちむしろ旗を振った一向宗のお寺の住職の末裔達も、官僚的な性格を強め、安定した生活に安座するような風潮が強まってきたようです。そして、村の住職さんは庄屋などの村役人たちと同じく、地域における社会的な地位も高かったようです。
img_0_m安楽寺
馬町の安楽寺山門

 例えば徳島藩の美馬町に安楽寺があります。
この寺は、西本願寺興正寺派に属し、戦国時代から近世にかけて讃岐山脈を越えて土器川・綾川沿いに布教団を送り込み「讃岐への浄土真宗布教センター」の役割を果たした寺院です。そのため、数多くの末寺を中讃地方に持っていました。
そこに次のような文書があります。
 一札之事     加判相頼、一札指上申所如件
                                                         
私儀先達而より御寺勧化銀等 毎々差出し不申罷有候二付、
万一不宗門二而無之哉 之御疑有之御札し被仰付、御趣意夫々奉恐入、御尤至極二奉存候、然上者以後心底相改め、御寺且又御口?口等之節者外御門徒講中同様、相当之割銀等無違背御請可仕候、尚此上御寺法通り堅く相守可申心底二付、嘉次郎殿一席承知之      
  文化十三子十二月十一日                   悦五郎 印
                                                      孫之丞 印                                      嘉次郎 印
安楽寺様
 この史料は、檀家(信徒)である3人の百姓が檀家料としての勧化銀が納められていないことを認め、「以後心底相改」て、今後は寺の定めを堅く守る所存であることを仲立人を立てて誓って押印しています。
その際に、寺の切り札になっているのは「不宗門」処分です
つまり、寺籍から除籍されることは戸籍がなくなることで、日常生活に差し支えが出るばかりかキリシタンとして取り調べられる可能性も出てきます。それは命も危うくなるということです。宗門改業務などを背景に、お寺が檀家に対して、どれだけ強い立場にあったかをよく示している史料です。
宗門人別帳1
 寺院の信徒への「動員権」は、慶長一八年(1613)の「宗門御制法」に由来します。
「(前略)旦那役を以て、夫々寺の仏用、修理、建立を勤めさすべし
(中略)僧の勧を不用輩は、能く可遂吟味事(下略)」
とされ、お寺の建立や修理などは旦那(信徒)たちの義務としています。そして、僧侶の指示に従わない者は、処罰の対象とすることが明記されています。ここからは、江戸時代のお寺は、お寺の用事のためには信徒達を法的に動員できるようになります。当時の寺の建立や修繕は、募金やボランテイアではなく義務だったようです。

檀家制度

 幕府の「宗門御制法」を受けて、徳島藩では「御代官之被仰出覚」が享保七年(1722)に出されています。
「郷中寺社之儀、寺領、社領有之賦又は旦那或氏子等多寺社修理掃除等二至迄相応二可相調(下略)」
と郡奉行に触書が出されます。これは、村のお寺や神社の修理・掃除などに檀家や氏子の動員を強制できることを認めるものです。中にはこれを拡大解釈して、寺の田畑の管理・運営を檀家に任せるお寺も現れます。これは専門用語では「賦役の強制」で「労働地代」にあたるもので、「農民からの中間搾取を寺院に認める」ことだと研究者は云います。

江戸時代のお葬式

 僧侶の世俗化に拍車をかけることになった要因の一つに、貧しい庶民が、その子弟を出家させようとする風潮があったようです。
t_tikurinji44土佐竹林寺

例えば、高知藩の五台山竹林寺の脇坊である南坊の僧純信と、長江の鋳掛屋新平の娘お馬とのロマンスです。
これはペリーが浦賀にやって来た翌年の安政二年(1855)のことで、「よさこい節」に
「おかしなことよな はりま屋橋で、坊さんかんざし買うを見た」
として歌われ有名になりました。これも「寺院や僧侶の世俗化の氷山の一角が露見」したと言えるのかも知れません。
 これに対して高知藩では、藩内寺院へ次のような警告を出しています。
「出家の儀は別して行状相慎しむべき筈の処、惣じて風儀よろしからず
 暮方惰弱にて専ら社務宗学怠り、その甚だしきは破戒に至り候族も少なからず、不埓の至に候、向後猶又きっと穿盤を遂げ、行状善悪の品により不時の移転、進退、曲事仰付けられ候事」
 このような状況は、徳島藩においてもあったようで、天保十年(1839)に「諸寺院僧侶風儀取究申達書」に次のようにあります
(前略)近年風儀不宜 御制禁等相犯候僧も有之 自然且家者不帰依に相成候 
 得共自分之不徳を不顧 施物相貪 法用勤方差略仕候 趣且諸宗之内郷分は真言多有之所 近頃弟子法緑等申立 若僧へ住職附属仕候様相聞
 (中略)嗣法付属之儀は器量を相撰み 兼而御法度之通金銭を以後住之契約仕間敷事(後略)」
意訳すると「ここには近頃は風儀が良くない僧侶が増え、禁制を犯す者までいる。その者達は自分の不徳を顧みず施しを相貪り、法要は簡略化する始末である。阿波では真言宗寺院が多いが、近頃では弟子登録の際に、若僧(経験や知識の十分でない僧侶)を申請する者がいる聞く。(中略)
後継者指名の際には、器量を優先し、禁止されている賄賂などを受け取ることがないように改めて通達する。」
 真言宗は妻帯を認めていないので、住職に子どもはいません。そのため住職は世襲制ではなく、後継者を選ぶ必用がありました。それが金銭によって決定されていると指摘し、そんなことのないようにという通達が出されているのです。住職の地位がお金のやりとりで決められているという風潮が、人々の噂となり、批判・不満の対象となるのは当然かもしれません。幕末のお寺さんや、お坊さんには、きびしい世間の目が向けられていたようです。
 
c高知 明年間刊「都名所圖會」巻1の伽藍図
 これに拍車をかけたのが、当時の社会・経済状況です。
高知藩にその例を見てみましょう。
馬詰彦右衛門という下級藩士が「游民論」を天保一四年(1843)に書いています。そのなかに「出家並びに寺社の事」という一文があります。
游民のもっとも甚しきは 出家にて御座候。其身大厦巨屋の内に安座住り候て、耕織の勤労なく、上にして御蔵の米を麿爛し、下にして衆庶の助力によりて飽食暖衣仕り候上、ややらすれば愚民を欺惑仕り候ては 己が貪欲をばしいままに仕り候。却て国を害し、政を乱し、化を乱し候事また甚しき者に御座候・・(中略)…誠に游民の甚しき者と存じ奉り候……
 まず行状を乱り法戒を破る者等を一々還俗させ候て、各々その本貫に返し、郷民に仰付けらるべく候」
坊主の妖怪
と厳しく僧侶を弾劾する意見書を、藩に提出しています。
この主張は、僧侶たちの世俗化を批判し、破戒僧の処分を要求するものです。この時点では、まだ「廃仏思想」には至っていませんが、「法戒を破る僧侶の還俗」を主張しています
これは後の、神仏分離令につながるものを感じます。
馬詰彦右衛門のような意見を持つ者が潜在的に数多くいたことが明治の「御一新」の際に、「神仏分離令」を発火点にして「廃仏毀釈」へとつながっていくのかもしれません。
妖怪 大坊主

当時の経済状況を、藩の財政危機と寺院政策という視点から見ておきましょう。
 最初に見てきたように、信徒達は旦那としてお寺に奉仕する義務を課せられていました。それは「農民からの中間搾取」とも言えるもので、百姓達にとって次第に、その負担を重く感じるようになっていました。そのような中で幕末期における天明・天保の大ききんをはじめ、たびたびの大凶作のために百姓一揆が各地に頻発します。江戸初期の「寺院修覆などは檀家の負担において行わせる」という寺院政策自体に無理が来ていたようです。今であれば国会で「農民救済」のため改革案が審議され、二百年以上守られてきた祖法が修正される道もあります。しかし、当時の幕府や各藩にはそのような柔軟性はありませんでした。各藩が行ったのは、農民からの貢租増収を図るために、寺院の風紀是正指導と圧迫強化策だったようです。
安政の大地震の被害

 ペリー来航後の動乱期の日本は安政の大地震とよばれる地震が各地で連発します。
高知藩も甚大な被害を受けたようで、安政2年に藩内の寺院に対して対応策として次のような通達を出しています。
「寺柄により、自坊をはじめ境内の堂宅に至るまでそれぞれ御作事仰付けられ、広大結構の御仕備え御手に行届きがたく、殊に去冬以来別して右の費莫大の事に候、只今の御時節それぞれ御再建御修理相調ひがたく候に付、寺院は当時留致し置き 追々手狭に取縮め候儀もこれあるべく仏体等は相成るだけ本堂へ移し、堂宇等は当時取毀ち、時節を以て再建の儀も仰付けらるべく、
かつ只今熟田の場所等に建て置く寺々も、追々近在中然るべき場所へ御詮議の上移住仰付けられる儀もこれあるべき事」
2絵金筆 安政大地震絵本大変記
ここには、地震被害が甚大で、各寺院において境内や堂宇の復旧のために、農民達に多くの「作事(賦役)」が課せられていること、しかし、被害の規模が大きく今だ十分でなく、費用もかさんでおり、今の時点での再建復旧は無理であること、そのため寺院は現状保存として、将来的には縮小することも考えなければならない。また、各堂の仏像は本堂へ移し、壊れた堂宇は取り除き、時期を見て再建することを考えるべきである。また、水田にできる場所に建っている寺院については、近くの適当な場所に移ることを申しつける場合もある。」
安政の大地震の被害にあった寺院の復旧対策に、農民達が動員され過重な負担となっていることに対して、農民保護や藩財政建て直し上からもブレーキをかける内容です。
images安政の大地震の

 以上のように、明治維新後の神仏分離令が政府の思惑越えて廃仏棄釈運動にまで、拡大してい背景には、幕末期の寺院をめぐる人々の不満があったことがひとつの要因であったようです。
三好昭一郎 四国諸藩における廃仏毀釈の展開 幕末の多度津藩所収

庚申待とその建塔の目的は? 

「庚申塔」の画像検索結果

本来の庚申待ちには、祖霊供養または先祖祭の目的とおなじで、先祖の加護によって厄難をのがれ、豊作を願うのが目的がありました。これが仏教化すると「七難即滅、七福即生」というようになり、七色菓子が必須の供物となります。また六道の苦をのがれるという信仰も生まれてきたことが『庚申尊縁起』には見えます。
 山伏達の指導で、仏教唱導に利用されたことがうかがえます
この縁起には庚申の十徳が次のように挙げられています
一に諸病悉除、
二に女子悪子を生まず、
三に寿命長遠、
四に諸人愛敬、
五に福徳円満、
六に三毒消滅、
七に火難水難を除き、
八に盗人悉除、
九に怨敵退散、
十に臨終正念
このように莫大な庚申の利益をうけるためには、精進潔斎をしなければならないと説かれます。
扨テ庚申祭ノ前夜ヨリ肉食五辛ヲ断チ、
精進潔白ニシ重不浄ノ行ヲナサズ、
とあり、とくに「不浄ノ行」という男女同会を禁ずるタブーがきびしかったようです。近世の『女庭訓大倭嚢』には、 
庚申の日 射緋いいの日 男女さいあいを致し候へば二天ながら大毒にて、年をよらせ命短くなし。病者になり候。
若し其夜子種定り候へば、その子一生巾開病者に候か、盗人か大悪人かに候。
むかしより例ちがひ申さぬ禍にて候まま、能そ御つつしみあるべく候。
とあり、庚申の夜のタブーは有名です。しかしこのタブーは興味本位にかたられるだけです。なぜタブーなのかという考察がなされていません。
別の視点から見ていくことにしましょう。
先祖祭の代表的な祭として新嘗祭があります。
祭りの前一ヵ月間の致斎(ちさい)は厳重でした。この新嘗の先祖祭は、民間では仏教化して「大師講」とよばれ、その夜は祖霊の来訪を待って徹夜し、大師風呂という風呂を立てて潔斎しました。
また、新嘗の夜には男女が別々の家に寝たことをしめす『万葉集』(巻十四)の歌があります。  
 誰そ 此の屋の戸押そぶる 擁獣に
         我が背を遣りて 斎ふこの戸を
という歌は、新嘗の祖霊祭には夫を他所へやって、妻一人が忌み箭って祖霊をまつったことを示しています。しかし、奈良時代にはこのタブーを無視して、女一人の家に入ろうとする不埒な輩がいたことを、この歌は伝えています。
「庚申は日木固有の祖霊祭(先祖供養)の一つの形態」
とという視点からすれば、庚申の夜のタブーは、この祖先祭の名残りと考えられます。

   「庚申塔」の画像検索結果  

庶民の庚申真言の唱え方について

 この唱え言は、山伏の方で
オンーコウシンーコウシンメイーマイタリーマイタリヤーソワカ

いう真言に変えます。これは「マイタリヤ」すなわち弥勒菩薩(マイタレーヤ)と庚申を同一視する信仰をあらわします。これに添えて、諸行無常の四句偶を唱えたのです。
だから、庚申信仰を通して諸行無常の仏教の根本教理を自覚させ、合わせて先祖祖雲の供養をしたことがわかります。ここにも庶民教化に山伏が影響力を持っていたことが分かります。 
三猿の起源は?
 それでは貴族たちの庚申の礼拝対象は何だったのでしょうか。
貴族達はこれは三尺虫を礼拝するのでなくて、これを追い出そうとする祭でした。
「三尸虫(彭侯子、彭常子、命児子)よ、真暗なところへ向かって、我が身を離れ去れ」

というのですから、守庚申とは眠らずに夜明しをして、三尸虫が身を抜け出さないようにするという教説ともちがうようです。
 ここでも別の視点から見てみましょう。
「三尸虫を離れ去らしむ」という志向が庚申塔の三猿になっていると考えられないでしょうか。猿は庚申の申(さる)とも関係があるけれども、これを三匹とするのは三尸虫を「去る」ことを寓したものではないでしょうか。だから三猿は、すべて否定的にできており、災禍を見ず、災禍を言わず、災禍を聞かずという意味なのだと推察しています。

庚申の鶏は?

 庚申塔の鶏は夜を徹しての行事であるので、夜明けを告げる鶏をあらわします。、同時に鶏の鳴声ですべての禍が去ることもあらわしています。よく昔話にあるように、鬼は鶏が鴉けば夜が明けないうちに立ち去るというのも、この意味です。この鬼は常世、または幽冥界(黄泉)へ去るので鶏は「常世(常夜)の長鳴鳥」といわれます。「庚申塔」の画像検索結果

庚申の本尊は?

 庶民の側の庚申には礼拝対象があります。
庚申講には庚申の本尊というものがあって、神式ならば「庚申」または「猿田彦大神」という文字の掛軸です、仏教式ならば「青面金剛」という仏像の掛軸です
いずれにせよ庶民の庚申講には、神なり仏なりが存在して、これをまつり、供養することによって禍を去り豊作を得ようとしたことが、貴族の守庚申とまったくちがう点です。 
庚申の神を「猿田彦大神」とするのは、申と猿の相通からきた
ことはもちろんのことです。が、そればかりではなく天孫降臨のとき、その道の露払いをしたとあるように、禍をはらう力がこの神にあるとされたからでしょう。したがって、この神は「道の神」として道祖神ともなります。
 しかしそれよりも重要なのは、猿田彦神は「大田神」ともよばれて、「田の神」すなわち豊作の神とされることです。庶民のあいだの庚申講は、後世になるほど豊作祈願が強くなります。そのために「田の神」と同格の猿田彦神を、庚申講の本尊として拝んだのです。貴族の信じた三尸虫説とはまったく異質的な庚申信仰でした。
 そこにいるのは決して外来の神ではなくて、農耕を生活の手段とする日本固有の神でした。

 日本人の固有信仰では「田の神」は山から降りてくるものであって、田圃の耕作が済めば山へ帰る神と信じられていました。だから冬は「山の神」となり、春から秋にかけては「田の神」として耕作を護るとされます。これが「山の神・田の神交代説」という考え方です。
 猿は「山の神」の化身として山王ともよばれるので、猿田彦という神名は「山の神」と「田の神」の二面性をあらわし、豊作祈願の庚申講の神たるにふさわしいとかんがえられたのでしょう。

 庚申信仰の仏教化も猿田彦神の神道化も職業的僧侶や神官のかんがえたことです。
どちらの
場合でも民衆は、庚申は豊作の神と信じていました。その豊作も庚申講で供養する先祖のおかげと信じていました。そのため庚申講には念仏がつきものでした。だから庚申塔には「申待供養」とか「庚申供養」という供養の文字を入れることが多いのでしょう。祭の本尊は猿田彦でも青面金剛でも、これを通して先祖をまつり、そのおかげて 豊作を得ようという信仰構造が、庶民信仰というものです。

庚申信仰の拡大の上で山伏の果たした役割は?

 この庶民の信仰をよく理解して、これに沿うように庚申信仰をひろめ、民間の庚申講を結成させていったのが修験道の山伏です。かれらは神仏も区別せずに礼拝したので、両部神道に近付きやすかったようです。ことに真言密教系の山伏は伊勢系の両部神道を根底とした習合思想をもっていたために、伊勢神道の豊受大神即金剛神の理論に『陀羅尼集経』の「大青面金剛呪法」をとりいれて、日本独自の庚申本尊六腎青面金剛神像をつくりあげていったのではないでしょうか。



薬王寺-金剛界を表す喩祗塔

イメージ 1

 二十三番の薬王寺は厄落としの寺で今は有名です。
境内には喩祇塔がすっくと建ち、この寺の景観が整いました。
喩祇塔は三五メートルというたいへん高い塔なので、ここではいちばん目立ちます。
イメージ 2

 高野山に行きますと、根本大塔というのがあります。
根本大塔というのは曼荼羅の中心にあって、大日如来の心臓部です。そこに大日如来がいるということになっています。喩祇塔も同じことです。高野山の根本大塔は胎蔵界を表し、喩祇塔は金剛界を表します。高野山には皆さんの目につかないところに喩祇塔示あります。
中院御坊が龍光院というお寺になっていて、喩祗塔はその裏山にあります。これを小
塔といっています。大塔・小塔を両方合わせて胎蔵界・金剛界になるわけです。

玉厨子山-薬王寺の奥の院は行場

 玉厨子山は二十三番の薬王寺の奥の院で、五四三メートルの秀麗な山です。
日和佐の港からも見えるので、日和佐港に入港する船の目当てとなっています。
 ここは薬王寺から五キロもありますが、薬王寺が火災のときに本尊がここに飛んだといっています。しかしそうではなくて、ここから本尊が薬王寺へ来たわけです。
再建される本堂の後堂に後ろ向きで帰ってきたそうで「後向薬師」として後から拝むようにできています。頂上から少し下った所に、上人入定塚があるので、漁民の安全を願って入定した上人があったのでしょう。
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遍路道が尾根筋だったときは、その尾根筋に旧道が付いていました。
玉厨子山と薬王寺と日和佐沖の立島は一直線上にあるので、立島を王子として、薬王寺と玉厨子山がまつられたのだとおもいます。海のかなだの常世の神を信仰していたときは、まず上陸した島を王子の島と呼んでいたことがだんだん分かってきました。

その道筋は、次のような経路をたどることが多いようです
① 王子の島から霊場に上がる。
② 一足飛びに海の神が山の神になる。
③ 途中に静かな山があると、その山に止まってそれから上に行く、
④ 寺ができると下りてくる
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 『阿波名所図会』には「霊山にして大道心の法師にあらざれば住しがたし」とあります。頂上から少し下がって日和佐の見えるところに上人入定塚があるので、漁民の安全を祈って入定した上人があったのだろうとおもいます。
 旧国道はその麓を通り、西河内から登ることができます。
しかし、遍路道が尾根道だった山の神が寺に戻ってくるという構造が縁起の中に出てきます。こういうところが奥の院になると、修行の場所になりました。ここもかなり険しい岩山ですから、命がけで修行する者が行道修行などをして、ついにそこで入定していますが、いまでは入定者の名前もはっきりわからなくなりました。
 

太龍寺-有名な求聞持堂は本堂の横にある

 
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この寺について『四国偏礼霊場記』にも、おそらく室町時代の初めのころにできたとおもわれる『阿波国太龍寺縁起』にも、太龍寺の舎心山という山号の本当の意味を書いています。舎心というのは心を緩めるという意味です。

 しかし、『阿波国太龍寺縁起』を見ますと、本当は身を捨てるほうの捨身だということがわかります。捨身の行われた岩を捨身岩といいます。行場にはどうしても跳ばなければ渡れない大き石があります。その間を跳ばなければなりません。飛び損ねると落ちて死にます。こういうところの行は一回では済みません。何回でもぐるぐる回るわけです。今は、南側に本が生えているので気がつきませんが、木の間を出ると断崖絶壁になっていて、行くだけでも危ないところです。ここは海からよく見えますから、火を焚けば太平洋を通る船から見えるでしょう。
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弘法大師の辺路修行ではかならず行道と捨身をしています。

弘法大師が生まれた善通寺の西に我拝師山という山があって、ここも捨身ケ岳があります。ここは落ちたら死ぬところです。空海が捨身をしたことは『阿波国太龍寺縁起』にも出ています。  
観ずるに夫れ当山の為体。嶺銀漢を挿しばさみ、天仙遊化し、薙嘱金輪を廻て、龍神棲息の谿。(中略)速やかに一生の身命を捨てて、三世の仏力を加うるにしかず。即ち居を石室に遁れ、忽ち身を巌洞に擲つ。時に護法これを受け足を摂る。諸仏これを助けて以て頂を摩す。是れ即ち命を捨てて諸天の加護に預かり、身を投じて悉地の果生を得たり。(中略)是れ偏に法を重んじて、命を軽んじ身を捨てて道に帰す。雪童昔半偶港洙めて身を羅刹に与うるや。
 ここに弘法大師の捨身のことが書かれています。
「一生の身命を捨てて」というのは、捨身をすることです。自分の命を仏に捧げることによって水遠に生きることができるのです。石室は龍の窟です。こういうように書いてあるので、捨身の行をしたことがわかります。そして、石室とか巌洞とか三重霊剛が出てきます。戦前の地図には龍の窟が出ていましたが、戦後の地図には出ていません。縁起に出ております弘法大師が行をしたところを、セメント会社に売ってしまって、窟はつぶされてしまいました。
 つまり、捨身山(身を捨てる山・捨身の行をする山)が舎心山(心を休める山)となってしまいました。
   
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嶽は別なところだという説も出ていますが、ここであることは間違いありません。
弘法大師は、大滝嶽で求聞持法をしたと書いています。
太龍寺も虚空蔵菩薩が本尊です。虚空蔵菩薩を本尊とする寺かあるところは、求聞持法をしたところです。虚空蔵菩薩は虚空のすべての力を蔵するので、虚空蔵菩薩に願えばなんでもかなえられる、求聞持法という法を修すればすべての記憶がよくなるといわれてします。
『三教指帰』には「即ち一切の教法の文義諧記することを得」と書いてあります。
 これは記憶力が良くなるということです。お経も注釈も全部暗記することができます。弘法大師はこのころ十八歳ですから、記憶力のよくなる法と聞いて、若さにまかせておもい込んでしまって、大学を捨てて修行に入ってしまうわけです。
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 太龍寺の堂舎はなかなかよく整っています。

さすがに山中の大霊場は伽藍も大きく、仁王門、六角経蔵、護摩堂、本坊、本堂があり、池の中には弁天をまつっています。立派な多宝塔がいちだんと高いところにあり、その後ろに中興堂、大帥堂があります。本堂の横の求聞持堂は、日本でいちばん有名な求聞持堂です。ということは、いちばん修法者が多いということです。求聞持堂があるので有名なのは厳島の弥山、それから高野山真別所の求聞持堂です。
 南舎心岩には不動堂が載っています。また天照大御神をまつる神明頁があります。北舎心岩には大黒堂がまつられています。これも行道にかならずあるものです。
北舎心岩の大黒堂の周りに行道の跡があります。求聞持法をやるところには行道の跡がありますが、そうおもって見ないとなかなか気がつきません。
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参考文献 五来重:四国遍路の寺

 

鶴林寺の寺名の由来は、

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弘法大師がこの山で修行中に二羽の鶴が仏像を木の上で守っているのを見つけた。
その仏像をおろすと黄金の地蔵菩薩像であった。大師はそれを胎内仏にして地蔵菩薩を作って、それを本尊とする寺を建てたということになっています。
じつは、鶴林というのは、お釈迦さんが亡くなった場所です。
したがって、お釈迦さんが亡くなった場所を寺号とし、説法した場所霊鷲山を山号にしておりますから、あきらかに釈迦信仰の寺だと考えられます。かつてこの寺が地蔵菩薩の前にお釈迦さんを本尊とする寺だったということがわかります。
 お釈迦様が亡くなられたのは践提河という川のほとりです。
お釈迦様はその川を渡るときに水を飲もうとされました。水を飲めば治ったらしいのですが、そのとき川上を牛の大群が横切っために、川の水が濁ってしまって飲めなかった、そのまま向こう岸に上がって草の上に横たわり一昼夜を過ごされて2月15日の明け方に娑羅双樹の林の中で亡くなったくなったと涅槃経には書いてあります。
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 現在、これが娑羅だという木かありますが、たんなる夏椿で娑羅双樹とは違います。仏教経典では娑羅樹の間に寝て、涅槃と同時に娑羅双樹が鶴のように真っ白になったと書かれているので、釈迦の涅槃を鶴林というのです。
 つまり鶴林寺の鶴林というのも釈迦ですし、霊鷲山は釈迦のいちばん大事な最後の説法をした場所です。そういうことで、現在本尊は地蔵菩薩ですけれども、もとは釈迦を本尊とする寺だったと推定できます。
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「しげりつる鶴の林をしるべにて 大師ぞいます地蔵帝釈」という御詠歌は、
鶴の林をしるべにお大師さんが、ここにいたという意味だとおもいます。
 地蔵というのは地獄の救済の仏です。
また帝釈天は閻魔さんの代わりの仏で、天といいますからインドの神様ですが地獄の裁判官ということになっていて、だいたい閻魔さんと同じです。そういうことで、地蔵と帝釈天というから、地獄谷の信仰があったのかもしれません。しかし、これは現在は失われてしまっているので、御詠歌も意味がとれなくなっています。
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順路をたどっていきますと四国霊場をめぐる遍路の謎が解けてきます。
 焼山寺山は西北西、太龍寺山は南東南、鶴林寺山は正東です。空海の青年時代の修行路はこの二つの山を経て、二十三番の日和佐の薬王寺で海岸に出て、それから海岸をずっと室戸岬まで出ていったものと推定できます。
 こういう順序で弘法大師が歩いたとすると、恩山寺のようなお寺は、その他の理由で札所になったと思います。空海の時代は、立江寺まで海岸だったと推定できますが、恩山寺の麓までまで水がきています。そして、恩山寺から真東に見える金磯という磯が本尊が上がった奥の院ということになります。
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「四国偏礼霊場記」は、縁起として、

弘法大師がこの山で修行中に、本尊降臨杉で二羽の白い鶴が翼で何かを覆い護るのを見た、登ってみると黄金の地蔵菩薩像があった、大師はこの小像を胎内仏として長三尺余の地蔵菩薩像を彫刻して、これを本尊とする一宇の寺を建てたと伝えています。本堂の裏にある本尊降臨杉という杉の巨木は本当に見事です。太龍寺、焼山寺とともにまことに立派な杉があるお寺です。鶴が本尊を護っていたということから鶴林寺と命名したといわれています。
 その後、真然僧正が七堂伽藍を完成したという話は、おそらく弘法大師の高野山の話をもってきたのだとおもいます。弘法大師が開いた高野山の七堂伽藍が完成するのは、弘法大師の甥御さんの真然僧正のときです。各宗の祖師は、自分の身内に俗別当と称する寺の財産の計算係をさせたりしています。東寺の俗別当は弘法大師の母方の甥に当たる一族で、今でも続いています。
 それと同じように、真然を高野山の跡継ぎにします。最初はもう一人の甥(知泉)を跡継ぎにしたのですが、この人は37歳で亡くなってしまいます。高野山の歴史を見てとってきたといえます。
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 もともとの釈迦信仰は源頼朝・義経の信仰あたりから地蔵信仰に変わります。

阿波の領主三好長治、蜂須賀家政の保護を受けますが、本尊が「矢負地蔵」と呼ばれているのは、地蔵が戦争のときに義経の身代わりになって矢を受けてくれたというので、身代わり地蔵の信仰があるからです。
 さらに、伊勢の神主が暴風で小松島まで流されたときに、船を守ってくれたのが鶴林寺の地蔵だということから、「波切地蔵」という名前ができました。
 このように、地蔵そのものも霊験が多いというので信仰されました。ところが、釈迦のほうは、仏法を説いたという以外はあまり奇瑞のない仏さんです。奇跡、奇瑞、霊験がないと、信仰が生じがたいのです。
 
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地蔵菩薩以前に鶴林寺に釈迦如来がまつられていたと仮定すると、
 法華経と涅槃経を信仰する修行者の開いた山だということができます。
そういう古代寺院があったところに地蔵信仰が入ってきたものとおもわれます。
 もうひとつは、山岳信仰です。山の中に地獄谷があるので亡くなった人の霊魂が地獄で   受げる苦しみを代わってくれるという信仰があったのかもしれません。
この山の狩人が猪を射たとおもって一つの堂に入ると、地蔵菩薩の像に矢が当たって血を流していたという話は、山の神、あるいは地蔵の代受苫信仰です。その狩人が発心入道するということは、すなわち狩人の地蔵信仰が釈迦信仰にとって代おったと考えてよいのです。
 また、これが山人、修験の信仰であったことは頼朝寄進の錫杖があったことに表れています。頼朝のころにこの地蔵を守っていたのは、山岳宗教か修験山伏であったということも推定できます。
 また、伊勢の神官の福井氏の船が、暴風にあって難破しそうになったとき、この地蔵菩薩が出現して小松島に導いてくれたというのも、鶴林寺の火が見えたということをいっているのだとかもいます。そうすると、これは海洋宗教に関係があります。
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縁起では伊勢の紀伊の神主福井氏は、毎年灯明料を寄進したということになっています。この山の常灯明が海から見えて、それに導かれて助かった、それで伊勢の神官が以後毎年、灯明料を寄進したということになれば話はつながります。 

堂舎でいちばん古いのは本堂です。

慶長五年(一六〇〇)にできた建物が現在残っています。札所の建物はたいてい古いものは残っていませんが、このお寺はよく残っています。
 鎮守は熊野神社で、古い熊野信仰は海の信仰と考えてよいのですが、文政十年(1828))に再建されたものですから、あまり古くありません。本堂をもう一つ上がりますと聖天堂がありまして、ここは山神をまつったと考えられる場所です。
庫裡の半分は坊さんの住まいになり、半分は持仏堂を兼ねた大師堂です。庫裡の玄関の横に納経所があります。大師堂の右に続いて護摩堂があります。
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 いちばん古い遺物は圭頭型の高さ1メートルの町石です。
お寺の説明でぱ南北朝時代のものだといっています。高野山の町石は鎌倉時代ですが、南北朝時代の町石というのはわりあい多いものです。
 

母養山恩山寺宝樹院

 
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ここの特色は、非常にクラシックだということです。
 辺路という海岸をめぐる信仰としては、最も典型的な奥の院が海辺にあります。
恩山寺の本尊は薬師如来です。海岸の奥の院のほうも薬師如来だったとおもいますが、現在では弁天さんになっています。
 もとは女人禁制で、いまも十九番の立江寺への花折坂は女人禁制です。
この寺が衰えたときに大師が再興して母公の終老の地としました。
お母さんが善通寺から出てきて、ここに来た、母の没後、その御遺骨をこの山中に埋め、石塔を立てたといわれています。大師堂の横に弘法大師御母公の供養塔示あります。
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『四国偏礼霊場記』には、
「当寺は聖武天皇の勅に因て行基が造立し、大日山福生院密巌寺と名け、七堂甕を並べ雲に連る」とありますが、山の上ですから、それほどの名跡ではありません。
 霊場の中には学問寺といって学者・勉強する人が集まるお寺がありますが、ここはその学問寺だったようです。
いくばくならざるに時と移り、衰耗に及ぶ。時我大師登臨して再興しとし、御母終老の地とし、遂に御母の骸骨を山中に埋み、御墓を築き、石碑を立玉へり。
母養恩山の名是よりときこゆ
『四岡偏礼霊場記」には
「立江寺の道の方をつるまき坂といふ。几下にくろ藪といふあり。大師御誕生の時のむっきを几藪におさむといひ伝となり」とあります。
「くろ藪」は女人結界で、ここで花折または柴立の供養をしたと考えられます。
これ以上登れないから、そこで供養したので、花折といいました。
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 お寺からの説明をうけないとなかなか気がつきませんが、現在は本堂は頂上にあって、ここから小松島港が見下ろせ、奥の院と称する金磯の弁大森も見えます。
宝樹院のあった位置には十王堂があります。金磯がこのお寺の奥の院の場所ですから、ここに行ってみる必要があります。

行ってみると、現在は地続きになっていますが、金磯はもとは島であっただろうと考えられるところです。恩山寺のある山のすぐ下に源訟紆丿叫鎖としう仏かヤハッしる尚づこの山の朧まで水が来ていて、いま全部平野になっているところは海だったと考えて差しつかえありません。
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 弁天森の海中には、伊勢の二見浦の夫婦岩のような大きな岩があります。
伊勢の神宮も東に当たるところに大きい岩があって、そこに洞窟があります。
この場所は修行者の朧る洞窟と行道岩があるので、海洋宗教の霊場の条件を満たしています。行道というのは、これをぐるぐると回る行です。この寺の奥の院は、東のほうの海岸にある金磯の弁天森ですから、海岸に奥の院をもつ霊場として、屋島寺、八栗寺、伊予宇和島の龍光院などとともに注目に値するところです。

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立江寺-子安地蔵で有名  イメージ 1

ご詠歌は「いつかはわが住まいに弘誓の舟に乗ってお参りにくるであろう」
という意味ですが、いつかではなくて、この御詠歌をとなえている人は、いまそこに来ているわけです。弘誓の舟というのは、わが寺に御参りする人は、願いをかなえてやろうという誓いを立てたというのが弘誓で、これを舟にたとえたわけです。

 山号が橋池山ですから、大きな江、つまり海の湾を渡ってお参りするところだったかとおもいます。しかし、現在は橋池山とはいうものの池もなければ橋もありません。寺の説明では、恩山寺から立江寺までの道が二十町ぐらいあるから、橋が九つあったとのことですが、ちょっと無理があるとおもいます。あるいは寺地が移ったのかもしれません。
 縁起では、聖武天皇勅願で建てられたが、本尊地蔵菩薩は天皇の皇子の御平産の御願のためとされています。これは縁起に入れるにはたいへん都合がいいんです。聖武天皇はお子さんがたぐさん生まれましたが、お育ちになりませんでした。いちばん最後に基皇子という方が五歳くらいで亡くなります。そこで、阿部内親王という方を女帝にしたのが称徳天皇です。
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このような事情から子安地蔵ということになりました。

子安地蔵は立江寺と伊予の六十一番の香園寺に作られています。
戦前まではお産は危険をともなうものでした。
ですから、子安観音の信仰は強く、全国的な信者がいました。
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最初の本尊さんは、小さい閻浮檀金(えんぶだんごん)という像でした。

それを弘法大師が六尺の像に作ってまつります。最初の寺は、現在地から四〇〇メートルほど西の奥谷というところにありました。これが山の中のお寺で、もとの寺を奥の院としています。いま古い宝塔があります。ここを立江寺の奥の院としていますが、山の上に登れば海が見えます。現在地は村の人家の真ん中のたいへん狭いところにあります。この地に寺を建立したのは江戸時代で、藩主蛙須賀家正の建立です。
現在の本堂は万治二年(1659)の建物です。

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 恩山寺から立江寺まで九つの橋があるとのことですが、境内には橋池山の山号に当たる橋はありません。門前町に面した仁王門を入ると、正面に本堂があります。それに対して大師堂と多宝塔があります。本堂の横に観音堂と護摩堂、庫裡、客殿があります。
四国偏礼霊場記』によると、昔は八町四方の寺だったけれども、同書が書かれたころは1町半四方といいますから、いまよりも広かったようです。この本の著者も自信がなかったとみえて「此寺は聖武天皇の御建立との縁起あるよし」断定を避けています。
「境内かかしは八町四方となん。今は壱町半四方ほどあり。
本尊地蔵菩薩、是は聖武天皇御子達平産侭御願にて作らせたまふ尊像なり。
故に子安の尊像と号す。此類諸州におはぎ事なり。」
 これを見ると、あまり信用してなかったようです。
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井戸寺-三つの信仰対象 

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お薬師さんを7体も揃えた寺

十七番の井戸寺とは俗称で、正式には明照寺といって、本坊のあるところを真福院と呼んでいます。『四国偏礼霊場記』では、すでに瑠璃山明照寺真福院となっています。
 たいへん珍しいことに、このお寺は七仏薬師を本尊にしています。
ここの七仏薬師は元禄年間ごろの仏像です。まん中に一体、その両脇に三体ずつ、全部で七体の薬師さんを本尊にしているのは非常に珍しく、近畿地方でもほとんどありません。「七仏薬師法」というのがありますが、その場合は画像を掛けますから、木像をそろえるということはありません。

薬師さんを七体もそろえたお寺がどういう成立の寺かというこかとを考えてみたいとおもいます。このお寺には、七仏薬師堂のほかに六角堂に十一面観音像があるのが一つの問題です。それから、井戸寺と呼ばれるお大師さんをまつったお堂があって、「水大師」とも「目限大師」ともいわれます。それから、このお寺の右手のほうに八幡さんがあります。
「四国飼礼貳場記」では、八幡さんもこの境内の中に入っています。
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1つの境内の中に三つの信仰太守対象があるわけです。
 阿波の藩主の御殿の門といわれる門から入ると、本堂、庫裡、水大師、六角堂があります。昔は大きな伽藍入口に馬場があって、そこに松並木がありました。もちろんいまはありませんで、みな人家になっています。
 
元禄ごろにできた御詠歌は、
「影をうつして以れば井戸の水 むすべばむねのあかやおちなむ」となっています。
結ぶというのは飲むことです。井戸寺の井戸に自分の面影を映してみると罪が滅びる、その水を飲むと自分の胸の中の煩悩の垢も落ちてしまうという歌です。いまでもお遍路さんは、映れば健康になるといって、ここにお参りするときに、みんなこの井戸に自分の影を映しています。
 この井戸と同じお堂の中に石像の弘法大師像(水大師)がまつられています。それを歌っているので、御詠歌からいうと井戸寺です。
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しかし、本尊さんはどうも明照寺の本尊さんのようです。

 縁起は、聖徳太子の開創とも、弘法大師の開創ともいっています。
のちになって弘法大師信仰が八十八か所の信仰を一貫したころから、弘法大師開創ということができて、どこでも弘法大師開創もしくは弘法大師再興となっています。
 また、たいへん多い聖徳太子開創という縁起は、すなわち飛鳥・白鳳の発祥であるということを示しています。聖徳太子開創といわれますので、たぶん飛鳥・白鳳の池なり塔なりをもった寺城があったと考えてよいでしょう。
 一町(約一〇九タートル)四方と書いていますが、一町四方ぐらいに収まることは収まりますから、そういうお寺だったわけです。縁起では三町四方、あるいはおそらく大きなことをいって、八町四方などというのが出てきます。しかし、多くは一町四方で、ここもおそらく一町四方ぐらいになるとおもいます。実測で二町四方あっただろうと考えられる善通寺は弘法大師誕生のお寺ですから、特別大きいわけです。

 弘仁六年(八一五)に弘法大師が開創したというのは、弘仁六年は弘法大師がよく旅に出たと考えていい年なので、具合よく六年と定めたのでしょう。本堂横の六角堂に安置されているのが弘法大師植から彫られて一木造りの異形な相貌をした十一面
観音だといわれています。これも本尊だというのですから、この寺は二つの寺が合併したものであることは容易に想像できます。
十一面観音を本尊とするお寺はおそらく八幡さんの別当寺ではないかとおもいます。つまり、十一面観音を本尊とするお寺と、七仏薬師を本尊とれるお寺の二つの寺が一緒になったのです。 

弘法大師がこのとき錫杖で掘ったのが「面影の井戸」で、

同時に自らの姿をこの井戸水に映して石に彫ったのが「日限大師」あるいは「水大師」と呼ばわる石像大師像だとされています。
 その後、南北朝の初めの14世紀後半のの細川頼之の兵乱で寺は焼失します。
天正十一年(1583)には、戦国時代には阿波三好氏と長宗我部の戦いで焼失します。
江戸時代に入ると徳島藩の蜂須賀光隆により復興されたといっています。
中世のことがほとんどわからなくて、近世になってからまたわかるということは、中世には古代寺院が滅びてのちに小さいお寺ができた、と考えてよろしいとおもいます。

こういうところからこのお寺の歴史を分析していきますと、

この寺の正式な寺号は明照寺、俗称は井戸寺となっていますが明照寺と井戸寺は別寺であったともいえます。井戸寺という名前が大師伝説の弘法井戸からきていることはいうまでもありません。これこそ庶民信仰のお寺なのです。
それ以前の七仏薬師のお寺のほうは、組織的に発掘が行われていないので、飛鳥・白鳳のどちらともいいかねます。瓦が出てくるとお寺の年代がわかりますが、出ないうちは何ともいえません。だいたい飛鳥・白鳳に建てられたお寺は、どこでも寺号も創始者もわかりません。ただ、諸般の事情から考えてみますと、渡来人の建てたお寺が多い。奈良時代以前には、大きな富を蓄えるには開墾や灌漑の技術を持っている渡来系の人たちが大きな土地を所有する、いわば財閥でした。文化意識も高かったので大陸にあるような伽藍を自分の財力で建てたというのが一般的です。
 井戸寺にあります石像の大師像は、なかなか珍しいものでして、
これを「水大師」とか「日限大師」というのは、まったくの庶民信仰です。いちばん古いのは水大師の信仰です。水が信仰対象になるのがいちばん古くて、泉があるところを聖地として寺ができました。
ヨーロッパでも有名な伽藍(カテドラル)はかならず泉をもっておりまして、泉の神様としてマリアがあります。日本の場合は、泉の仏様として弘法大師がまつられています。みな一つの法則のようなものがあって、それで割りつけていくとよくわかります。このような庶民信仰の井戸が、札所としてお堂をもつに至ったものであろうとおもわれます。
 これは中世に荒廃したというよりも、大師堂と井戸だけだった霊場が、近世になってから明照寺と合併して寺院のかたちを整えたということでしょう。
「面影の井戸」は、水神が井戸にいるという信仰から、井戸そのものが神として信仰対象になり、それが大師伝説に移行したわけです。
「面影の井戸」は、日限を限って祈願すれば霊験あらたかであるとされています。
たとえば、一週間という日にちを限って断食をするなり断ちものをするという日限信仰が信じられていたわけです。
 明照寺の方は、七仏薬師を本尊とする寺と十一面観音を本尊とする寺の合併と推定されます。その場合、井戸寺の右隣に八幡社があることは無視できません。明照寺の本坊が真福院に違いないのですが、明照寺または真福院がおそらく八幡社の別当だった時代があったはずです。飛鳥・白凰の寺のときには明照寺はありません。中世以降、別当寺が合併して明照寺になりました。
 この小さな寺に七仏薬師が本尊となっている謎も、古代には薬師を本尊とする巨大な白鳳寺院があったことを想定すれば容易に解釈がっきます。
 神通力があって、光を放っているその仏を信仰すれば吉祥が多い、憂いもなくなるというような功徳を七体の薬師に分けて、別々の信仰対象にしたわけです。全部合わせて完全になります。仏さんはすべて光明を放ちます。薬師さんの場合は、光を放つということを「瑠璃光」といっています。
 これを総称して、「七仏薬師法」という密教修法の本尊としています。天台密教のほうではとくに盛んにやりましたが、真言のほうではほとんどやりません。四箇秘法の一つの七壇の御修法は、壇を七つにして、修法者が七人そろって行いますから、よほど大きなお寺でないとできません。 
七仏薬師法は、息災と増益の秘法として『平家物語』にも出てきます。
『太平記』でも、安産を祈るときに修されています。本来は薬師信仰だけでしたが、密教が入ってから、ここに七仏薬師を造立するぐらいの一族がまだ健在だったとみえて、一体の薬師をこの時代に修築していたことがわかります。
 本尊は平安時代に七仏薬師に変わりました。そのほかに、火災で焼けるまでは七仏阿脈陀があったそうです。九体阿弥陀または七仏阿弥陀がまつられたとすると、たいへん大きなお寺ですから、相当な大寺院であったことが想像されます。 
このほかに十一面観音を本尊とする寺が併祀されています。
これが八幡さんの別当寺だろうとおもいます。いずれも大寺院が護持の豪族の没落後に、弘法井戸の庶民信仰に支えられて存続したものです。伽藍は壊れてしまったけれども、弘法さんの井戸があると言うことで御参りが続き、札場霊場として残ったわけです。井戸寺は古代から続いた霊場だと考えても良いと思います。

観音寺-もとは小さなお宮の別当寺

十六番の観音寺は、もともとは小さな村の中のお寺でした。その辺にあるお寺となんら変わりはありません。そばにある大御和神社という国府に所属していたらしい大きなお宮の陰に隠れて、なおさら小さく見えます。
その土地の村の鎮守さんの別当寺が八十八か所をそろえるときに割り込んできた
と言われます。この前にお話した十三番の大日寺も村の鎮守さんの別当寺でしたが、観音寺はそれよりももっと小さなお宮の別当寺です。

 観音寺の本尊は千手観音です。
「忘れずも導き給へ観世音 西方世界弥陀の浄土へ」という御詠歌は、
観音は阿弥陀から導かれる、観音を介して阿弥陀に頼んだという意味です。
縁起は、聖武天皇勅願によって開創されたと伝えています。
弘仁七年に弘法大師が彫刻したといわれる千手千眼観世音と、脇侍に不動明王と毘沙門天をまつっていますが、不動明王と毘沙門天を観音さんの脇侍にするのは非常に古い組み合わせです。
 中世に荒廃して、江戸時代に藩主蜂須賀光隆によって再興されました。このときの住職は宥雄という人物です。
観音寺には霊験談として、大正二年(1922)に盲目の遍路が開眼した、あるいは明治二十七年(一八九四)に邪険な女性の遍路が大火傷をしたという話が伝えられています。
歴史としては、元禄元年の『四国偏礼霊場記』には次のように記されています。
寺大師ひらき給ふ名藍なり。朱堂華間軒をかさね、棟を比ぶ。本尊御長六尺に作り、本堂に安置。脇士不動毘沙門なり。
然といへども日月の物を磨す。堂舎廃毀し、一宇なを全からず。
蔀宕夜月すさまじく、人まれにして満鰯苔花あざやかなり。
州の太守光隆公信義ありて、双方腫を企てり。
故に住持宥雄此廃替を太守に説、太守早く肯ひ万治年中修復せられしとなり。
今の堂の南の方半町ほどさりて、むかしの大門の跡あり。
東西には坊舎のありし跡おほく見ゆ。

 同書より三十五年ほど前に書かれた『四国辺路日記』によると、三町四方ぐらいのお寺だったようです。現在はびっしりと家が立ち並んでいます。
また、観音寺は中世は衰退していたことがわかります。
現在の境内は村の人家の間にわずかな空間を保持しています。
道路に面して山門があり、寺その正面に本堂、その右に大師堂、左に庫裡、納経受付所、右の隅のほうに八幡宮があります。八幡宮は寺の管理でなく、村人のまつる社です。別に世話人もあるというので、この寺の前身は八幡宮の別当であったろうとおもいます。
 讃岐の一宮寺のように、明らかに大社の神宮寺であったところありますし、村の社の別当寺で札所になる寺もあります。十三番の大日寺は、かつての阿波一の宮神社の別当寺であったといいますが、阿波一の宮神社は大麻比古神社ですから、ここを一の宮というのはおかしいわけです。実際は村社の別当です。
 このように、四国霊場寺院は神仏分離以前の神仏混淆の信仰のもとに維持されてきましたが、人為的、政治的に神仏が分けられ、同一境内が分割管理されている霊場がたくさんあります。それは十二番の焼山寺に行くとすぐわかります。焼山寺境内の十二社神社もその例に湘れず、神社はけっこう壊れています。

 おそらく伊予の四十一番の龍光寺がもとだったとおもいますが、ところが、龍光寺といってもちっとも地元の人にはわかりません。お稲荷さんが本尊ですから、稲荷寺と呼んでいるのです。これは次の十七番の井戸寺と明照寺のような俗称と正式の名前の関係です。
 稲荷寺に入ってみますと、正面にあるのは稲荷神社です。神仏分離のときに、神社に本堂を取られてしまいました。石段の右のほうにある大師堂だけが残って、それを本堂にしています。ところが、稲荷神社は類廃そのもので、旧本堂はひどく壊れてしまいました。
ここなどは神仏分離でお寺が得をして、神社が損をしたひとつの例です。
 四十三番の明石寺も境内が二つになりました。右のほうが熊野十二社権現、左のほうが明石寺で、熊野権現の信仰が中世まで行われていたので、邨の大木があります。お寺のほうは繁昌しています。明石寺の境内を二分して、一方には熊野十二社権現の社殿が並んでいますが、大きな熊野権現は遍路も参らないのでさびれたままになっています。
 こういうお寺は、幸いなことに八十八の集印をする人があって、計画的に参らないといつまでたっても抜けたままだというので参ることになる。それによって、生き長らえているという感じです。これが巡礼というものの姿です。

国分寺-本尊は薬師如来

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 多くの国分寺は釈迦如来を本尊にしていますが、ここ十五番国分寺の本尊は薬師如来です。 
 「うすく濃くわけく色を染めぬれば 流転生死の秋の紅葉ば」
という御詠歌の意味もよく分かりません薄く染めたり、濃く染めたり、いろいろに分けて染めたから、秋の紅葉は薄い紅葉も濃い紅葉もあるんだろうと、生死流転の秋に一生を表したものです。秋は冬に向かっていきます。その秋の紅葉には薄いものもあれば濃いものもある、安楽な死もあれば、安楽でない死もあるという意味をこめたのかもしれませんが、よくもからない御詠歌です。
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 ここは天平九年(七三七)国分寺造立の詔によって、諸国に建立された国分寺の一つですが、その後衰退してしまいます。『四国偏礼霊場記』は次のように記しています。
いはんや千年に及ぶの今の世、小堂一宇、薬師の像を安じ、一嗚呼。
睨僣ざんか冷霞寸る叩八べたり。今此曲T’たわずらのろしに   の客僧ヽ示智の月を友とし、竹窓の風にひとり臥、
 元禄元年(一六八八)に『四国偏礼霊場記』が書かれたころは、小堂一宇しかなかったようです。その後、現在の国分寺のかたちになって復興しました。
 浪というのは食べるという意味です。霞を食べるのは山伏ですから、かつてはここも山伏の寺でした。一人の山伏が留守居をしていて、苔むした道を照らすところの月を友とし、竹で作られた窓を通って入ってくる風を受けながら一人臥すと書いているので、この人もなんとも衰えたものだとおもったのでしょう。
 
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『四国偏礼霊場記』の挿図も弥勒堂一宇に草堂があるだけで、十二個の礎石を記し、塔跡の基壇を描いています。いま礎石は一個だけ残っています。

 寛保元年(一七四一)の十月に蜂須賀藩の郡奉行の速水角五郎という人が、小松島本川にある丈六寺というこのあたりきっての曹洞宗の名刹にいた吼山養師和尚に命じて、堂宇を再建させて曹洞宗寺院としました。
したがって、現在は曹洞宗です。そののち、19世紀初頭に増築されたのが現在の伽藍です。
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   山門の正面に二層楼の本堂があります。
国分寺は二層だったろうといわれているので、そういう形にしたようです。天平時代(七二九-四九)には裳階が出ていました。法隆寺の金堂も裳階を出しているので二川に見えるのと同じです。ここは二階づくりです。
 本堂の左手に、鈍楼と国分寺の礎石一個と四国ニト四回巡礼供養塔があります。
この礎石は塔の心礎でしょう。本堂の右于に改築前の小さな堂が残っていて、鳥居沙摩明王堂となっています。これが寛保元年以前のお堂です。
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鳥居沙摩明王は殲れを祓う仏様だといわれているので、禅宗ではよく便所にまつります。大日経という密教のお経に出てくる鳥居沙摩明王は、汚いものをすべて食べてしまう、糞尿も食べてしまう仏様だということで便所にまつります。どういうわけか、札所霊場に鳥認沙摩明王堂ができています。
 その堂と本堂の間に不動明王と毘沙門天、恵比須神、耳大師の小像がまつられ、明王堂の隣に十王堂と鎮守堂があります。その南に大師堂があって札所となっています。鎮守には歓喜天(聖天)と白山大権現と秋葉大権現と喩伽大権現がまつられています。喩伽大権現をまつっているのは非常に珍しいことです。関東地方では天狗さんを喩伽大明神といっています。岡山県児島半島にも埃伽山という山があって、その近くに山伏の本拠の熊野神社があるので、そういう関係から古い天狗信仰があったのではないかとおもいます。
          
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常楽寺―奥の院の十一面観音と立木地蔵 

十四番の常楽寺の御詠歌は
「常楽の岸にはいつかいたらまし 弘誓の船に乗りおくれずば」です。
常楽寺の名前を取って常楽と詠んでいます。
常楽我浄といって、永遠に変わらない楽じみです。
永遠の仏である弥勒菩薩に救われれば常楽の岸に着くことができる。
しかし、それも弘誓の船に乗り遅れたらダメだ、乗り遅れなかったら行けるといっていますが、弘誓の船というのはどういう船かわかりません。
おそらく信仰すれば、それが船なのでしょう。

 縁起は、弘法大師が弥勒像を作り、真然僧正という弘法大師の甥に当たる人が金堂を建てたと書いています。真然僧正は高野山の伽藍を完成した人です。
講堂、三重塔、仁王門を建てたという祈親法師は、高野山が焼けたときに伽藍全体を再建した人ですから、高野山の伝記をこちらへもってきたのでしょう。この講堂、三重塔、仁王門を建てたといういささか大げさな縁起は、高野山の縁起を真似た疑いが濃いとおもいます。

『四国偏礼霊場記』も『四国辺路日記』も縁起を記さず、草堂一宇としているので、近世初期は荒れ寺であったことがわかります。
 歴史としては、『四国偏礼霊場記』に「此寺本尊弥勒菩薩、大師の御作也、むかしの本堂七間四方と見たり。いまに石ずへ存せり」とあります。この礎石は、いまは見えません。
「其他坊舎の跡皆あり、今茅堂の傍、一庵あり。人ある事をしらず」と書いているので、住職もいなかったようです。
 さらに、「古句を思ひ出、愧帳八興亡無二問処へ黄昏啼殺。樹頭。鴉」と書いています。惘帳は、たいへん嘆かわしいという意味です。啼殺は鳴き殺すということですが、やかましく鳴いているということだとおもいます。この寺が興ったり亡びたりしたのはその歴史をたずねるところもない、夕方、木に止まった烏が鳴いているだけで入っ子一人いなかったとあるので、いかに荒れていたかということがわかるとおもいます。
 現在は入口の石段を登っ正面奥に本堂があります。これも明治初年期頃のものと思われます。右手に愛染堂、大師堂、地蔵堂、庫裡が並んでいます。
 大師堂の前に一位の大木があります。一位の木をアララギともいいますが、これに向かって祈れば眼の病が治るというので、「アララギ大師」といっています。一位は神主さんの笏を作る木です。ここでは一位の木を箸にして分けてくれます。
 

ここには奥の院があります。

奥の院の成立にはいろいろなものがあるということを考えなければいけません。
隠居寺が奥の院と称している場合もあって、八十七番の長尾寺などは隠居寺を奥の院といっています。大日寺の奥の院のように、もとそこに寺があったという旧寺地を奥の院とすることもあります。
 ここの場合は、よくわかりません。札所を二か所もっているとお賓銭も二倍になりますから、番外札所のようにして、奥の院をまつっていたのではないかと私はみています。ここの奥の院をおすすめするひとつの理由は、十一面観音が非常に古い、たぶん平安時代だと考えられるからです。それから地蔵堂の地蔵さんが、立木の中に彫り込んでありまして、そのからくりを知りたいものとおもっております。 
立木に仏を彫るのは遊行者に非常に多い一つの伝統です。
円空も大木を彫って、仁王さんにしています。
飛騨高山の千光寺というところの山門は、立木に仁王を彫っています。木瞼行雄という人も各地で立木を彫りました。
山梨県下にもたくさん立木を彫っているところがありますが、みんな枯れてしまっています。その人たちは枯れるとおもわないで、仏が生きているということを示そうとおもったのでしょう。生きた木に彫った仏ならば、仏さんが生きているだろうという遊行者の伝統があったのではないかとおもいますが、よくわかりません。

大日寺-本尊は大日如来ではなく十一面観音

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 この寺は大日寺といいながら、本尊は十一面観音です。
もともとここは、一宮寺という別当寺で大日如来をまつっていました。
いまはその山を奥の院と称しています。
後に、一宮神社の横にこの寺を持ってきて十一面観音を本尊としました。
大日寺という名前を変えたらまぎらわしくなかったでしょうに、寺名はそのままで観音をまつっています。
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大日寺は鮎喰川の川岸の、本当に狭いところにある札所です。
 「四国偏礼霊場記」は、大栗山華厳院大日寺としながら、「一之宮にある故、一ノ宮寺と云」と書いています。元禄元年(一六八八)の段階では大日寺とも一宮寺ともいっていたようです。ところが『四国辺路日記』は「一ノ宮」として大日寺を扱っておりません。
 『四国辺路日記』が書かれたのは承応二年で、『四国偏社霊場記』は元禄元年に書かれています。この35年ほどの間に大日寺が別当となり札所となったことを推定することができます。『四国辺路日記』では、神社のほうに札を納め念誦読経しています。
 『四国辺路日記』には次のように記されています。
「一宮、松竹ノ茂タル中二、東向二立玉ヘリ。前二五間斗ノッリ橋在リ。
拝殿左右三間宛也。殿閣結講也。本地十一面観音也。札ヲ納メ、念誦看経シテ、 扨本来ル道工阪テ、件ノ川ヲ渡テ野坂ヲ上ル事廿余町、峠二至テ見「阿波一  国ヲー目二見ル所也」
「五間斗ノソリ橋」も神社の境内です。これを見ると、童学寺越を越えて藤井寺に出ていったことがわかります。このように、近世初期まで諸国一宮は霊場でした。
 旧寺地が奥の院となっており、鮎喰川の対岸に海見という集落にありますが行場はないようです。
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 堂舎は、鮎喰川沿いに焼山寺に入る県道の南に神社、北に大日寺と二分されています。本堂は東向きで大師堂は南向きにあり、その隣が納経所です。非常に狭い寺地に多くの石造物があります。
 なお阿波の一の宮は、大麻比古神社(別当は一番の霊山寺)ですが、『四国偏礼霊場記』は、ここを一の宮という理由は不明だと書いています。

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 讃岐の一宮寺のように、明らかに大社の神宮寺であったところあります。
しかし、この寺はかつての阿波一の宮神社の別当寺であったといいますが、阿波一の宮神社は大麻比古神社ですから、ここを一の宮というのはおかしいわけです。
実際は村社の別当です。
 このように、四国霊場寺院は神仏分離以前の神仏混淆の信仰のもとに維持されてきましたが、人為的、政治的に神仏が分けられ、同一境内が分割管理されている霊場がたくさんあります。それは十二番の焼山寺に行くとすぐわかります。
焼山寺境内の十二社神社もその例にもれず、今は神社はけっこう壊れています。

焼山寺

御詠歌は「後の世をおもへば苦行しやう山寺 死出や三途のなんじよありとも」です。
 苦行をしようとおもうということと焼山寺をかけて、ちょっと駄洒落のようになっています。「なんじよ」というのは、どういうふうにあろうとも、どんな具合であろうともという意味を俗語で表したものです。死出の山や三途の川はもっと苦しいんだろうけれども、後の世をおもえばこの山で苦行するのが焼山寺だといっています。ここには非常に厳しい行場がありますが、現在は自然遊歩道になってたいへん歩きやすくなりました。

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 焼山寺と太龍寺と鶴林寺は深山に孤立した霊場なので、四国遍路の難所に数えられています。横峰寺、讃岐の雲辺寺の三か寺は「遍路ころがし」といわれる危険な山でした。遍路が転落して死んだことから、「遍路ころがし」という名前が付いたとおもわれます。
 しかしこのような山こそ、登ってみれば霊場の感を深くします。われわれはその山気に打たれ、罪や心な浄化されたと感じます。これが霊場というものです。いまは、だいたい寺まで車が登ります。難所こそ、来てよかったと特別の感慨にひたれるところです。
 いいところだけを選んで霊場を回られるようおすすめします。本当の霊場といえるとろは二十か所ぐらいでしょうか。そういうところをお回りになると、遍略のありがたさ、あるいは弘法大師の偉大さを感じます。もっとも、そういうところほど難所になっているわけです。

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 空海自身は善通寺から阿讃国境の山脈を越えて一路南下し、吉野川を渡り、藤井寺からこの山道に入ったと推定するのが自然です。藤井寺自体が独立の行場であったというよりも、焼山寺の入口とすることで意味があります。藤井寺に八畳岩という行場があります。しかも、行場の奥の院の本尊が虚空蔵ですから、焼山寺の虚空蔵さんをここで人々が拝んでいたわけです。したがって、ここから入っていくということに意味がありました。


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 現在では焼山寺が伝えた公的な縁起はなくなっています。

焼山寺という名前は、山に住む毒龍が火を吐いて、全山を火の海にしたので焼山というのだとなっています。しかし、そういうことはありえません。もちろん龍などは実在しませんから、毒龍が火を吐いて、全山を火の海にしたという縁起の奥に何か歴史的事実がかくされていると考えるべきなのです。
 縁起というのはいつもそうです。何もないところに話はできません。
歴史がまずあって、神話・伝説、寺社縁起を子どもたちにもわかりやすいようにお話にしたのが昔話です。最初の起こりはちいさな事実ですから、その事実を掘り起こしていくのが昔話の研究であり、伝説の研究であり、神話の研究であり、同時に寺社縁起の研究です。焼山の場合もあとで述べるような事実がありました。

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 山に入ろうとすれば垢離を取らないといけないというのは、山の神秘を守っている人たちがいたからに違いありません。その人たちが、「おいおい、そんな機れたからだでこの山に登ったら、かならず山神が怒るぞ」といったのです。
 山に登るためには、山の神聖を守っている山人に対して、自分はこれだけの精進潔斎、これだけ仏教の修行、密教の修行をして山に登るんだ、あんた方よりも自分のほうがはるかに行ができているんだ、それでは鉄鉢を飛ばしてみせようか、というどとで鉄鉢を飛ばすような一つのマジカルな密教の奇瑞を見せて、相手を説得するという手続きが必要でした。生半可な腕前では山人に追い払われますから、相手を説得するだけの行と力が要ります。また、昔はそういう力を付けるために修行をしたわけです。それは切羽詰まった修行です。

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いちばんの条件は、垢離を取って穢れを祓うということです。

精進がじゅうぶんでないと山の神が怒るというので、かならず垢離を取りました。
いまも毒龍の窟が残っていますが、頂上に近い毒龍の窟から毒龍が飛び出して大師に襲いかかった。大師が仏を念ずると虚空蔵菩薩が出現したというのは、弘法大師が虚空蔵の求聞持法を修めたことを示しています。虚空蔵菩薩が毒龍を岩屋に封じ込めて、その害を絶ったので、この山に登ることができた。大師が虚空蔵菩薩を本尊とする寺を建立したのが焼山寺であると伝えています。 
摩盧山という山号は、音を写したものであることは明らかです。
 縁起は、摩澄山という山号は火を消すための水輪を意味する摩戚から出たものだといっていますが、われわれのサンスクリットの知識からしますと。これを翻訳すると「凶心なるもの・凶暴なるもの・人を殺すもの」という意味です。∃Q2ならば「不毛の地・水のないところ」といり意味ですから、凶饗なものがいる山という意味で摩戚山といったのだろうとおもいます。
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この山は縁起の解釈によって弘法大師の登山修行を論証できます。
 それはこの山には行場が存在し、頂上の奥の院に虚空蔵をまつることによって、ここで求聞持法が行われたことを証明することができるからです。焼山寺の頂上に登りますと、もと虚空蔵菩薩をまつっていたという場所があって、現在は蔵王権現をまつっています。ここまで登るのはIキロ半ぐらいですから、ゆっくり登れば登れます。山全体が自然遊歩道になっていますが、山を全部回るのはなかなか困難かもしれません。
 さて、頂上から少し下がったところに、もとの護摩堂があります。頂上で火を焚いて求聞持法を修行したわけです。求聞持法は虚空蔵菩薩を本尊とします。百日の間に虚空蔵菩薩の喜言を百万遍唱えると、虚空蔵菩薩の力が自分に加わって、すべてのものを暗記することができるといわれました。 
本来の地蔵はけっして死んだ人の地蔵ではなくて、宝の仏様です。
土地の中にある鉱物資源でもなんでももっているわけです。それと同じように、虚空蔵は上のほうのすべての功徳をもっています。空にはあまり宝はないかもしれませんが、虚空はすべてのものを生かします。したがって、虚空がすべてのものを蔵するごとく、頼んだことはなんでもかなえてくれる仏様が虚空蔵菩薩です。
虚空はアーカソダあるいは貯蔵するといいます。
W Akagagarbhaが虚空蔵菩薩の梵語の名前です。
阿弥陀仏の名前を南無阿弥陀仏と唱えるように、それを真言にしますと、功徳をいただきたいというのを、「オン・バサラーアラタソノウーソワカ」といいます。
 たいへん唱えにくい真言ですが、それを一日一万遍唱えると、百日目にかならず虚空から星が天降るけれども、その行が生半可であれば、天降ってこないといわれます。
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縁起のもう一つの解釈は、

 この山の山人が修行者の入山を拒否したことが、龍によって入山を妨げられたという話になったという解釈です。山人に対して密教修行者が行力を示すことによって服属させ、従者として食物を運ばせて、食物を補給する力を三面黒天としています。
 三面大黒天はインド以来、厨の神様です。
いまでも比叡山の厨房(台所)には三面大黒天がまつってあるように、食物を補給するのが三而大黒天です。焼山寺にも毒龍の窟前に大黒天堂の跡があります。大黒天堂は寺のほうに移り、本堂の左にあった大師堂を右に移して、大師堂の奥に大黒天堂を建てていました。大黒天の信者が非常に強いので、そういうことにしたといっています。
 山人が入ってきた行者なり高僧なりに服属しますと、その人の行をサポートして、食物を運んだり、水をくんだりしてくれます。それが「採菜・拾薪・汲水・設食」です。食べ物を採ってくれたり、柴灯護摩のために薪を集めてくれたり、水をくんだり、食物を設けるのが山人の仕事です。高野山に弘法大師が入ってくると、山人がそういう仕事をして弘法大師の行を助けた、その山人の後裔が高野山を支えたということも最近わかってきました。

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 真正の霊場には必ず行場があります。

行場のない霊場はいささかあやしい霊場です。
現在は町の中にあるけれども、山の上に奥の院がある、そこに行けば行場があるというところもあります。本当の遍路をなさる方は、奥の院を聞いて、奥の院を回らないといけません。私がそのことの大事さをいうものですから、だんだんと八十八か所でも行場を掘り起こすようになりました。
八四国霊場記に次のように書かれています。
奥院へは寺より凡十町余あり。六町ほど上りて祇園祠(八坂)あり、後のわきに地窟あり。右に大師御作の三面大黒堂あり。是より上りて護摩堂あり。是よりI町許さりて聞持窟、是よりあがりて本社弥山権現といふ。是は蔵王権現とぞきこゆ。下に杖立といふは大師御杖を立玉ふ所となん。地池と云あり。二十間に三十間もありとかや。
 祇園祠は現在は不動尊をまつっています。奥の院までは、十町では足りません。
もっと長いです。不動尊をまつる祇園祠、地窟、三面大黒堂、護摩堂など、道具だてはみなそろっています。弥山といっているのは頂上のことです。弥山という字を書くので須弥山のことだとお寺で書いたりするようになりますが、弥山と書いて「ミセソ」と読みました。安芸の宮島の山上を弥山と呼ぶのは頂上という意味です。伯者大山で弥山といっているのも頂上ということです。
 弥山が頂上で蔵王権現だといっていますが、お寺でもはっきりと、もとは虚空蔵菩薩をまつりたといっています。「下に杖立といふは大師御杖を立玉ふ所となん」というのは見つけることができませんでした。岫池という二十問に三十問のずいぶん大きな池があったたようですが涸れたとみえて、今はありません。
 これよりも35年ほど前に書かれた「四国辺路日記」には、次のようにあります。
扨当山二囃ノ院禅定トテ、山卜二秘所在リ、同行数卜人ノ中占、引導ノ僧二白銀二銭口遊シ、作ノ三面彼憎ご呻/呻ソ先達トシテ山ドツ巡礼ス。右山八町、先、ヤソクニ大師御ノ大黒ノ像在リ。毒岫フ封シ廓玉フ岩屋舟。求聞持ソ御修行ナサレタル所モ在。前二赤井(関伽井)トテ清水在リ。山頭二(蔵王権現立玉ヘリ。護岸ヲ修玉ヒシ檀場在リ。
 ここに出てくる先達を山先達といいます。
いちばん大きな龍王窟は、おそらく山人の住んでいた窟であろうとおもいます。
山人はそういうところに住んでいて山の神聖山人は、ときどき村に下って家々を祓い清めたり、祝福の言葉を述べたりしました。いま山からもって下りて家々に配っているものとして、近江地方では椋の枝があります。立山あたりでは、もとは椋とか榊をもってきたのでしょうが、のちになると立山の山伏が薬草を札に付けて配るということに変化してきます。これも、もともとは人の家づとで、それで十分生活ができたわけです。山人が山づとあるいは家づとをもって定期的に立山の信仰圈を回ったのが、いまの配置売薬の元だといわれています。いまは売薬業者が自動車で薬をもってきて配付して行きますが、もともとは山伏の山づとです。その前は杖をもっていったりしています。
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本堂に向かって右に大師堂、左に三面大黒天堂があり、その左に庫裡があります。
右に少し離れて社神社があります。これは神仏分離後、村の竹林に移りました。
寺が刈らなくなったので荒廃しています。八十八か所の霊場の鎮守は、みなこのように荒れていますが、無理な神仏分離の結果といえましょう。
 大師堂の前には鐘楼と石造宝塔や板碑等の石造物があります。 
衛門三郎の遺跡として、杖杉庵が登山路のなかほどにあります。
 衛門三郎の杖立杉かおりまして、ここに終焉を遂げた衛門三郎の杖を墓標にしたら根づいたとしています。これは、空海の修行に従者があったことを想像させるものです。百日間の求聞持法をする場合、自分で木の実を集めたり、山の芋を掘ったり、野草を集めたりして食事を作るわげにはいきませんので、そういうものを運んでくれる従者が必要でした。山人がそれをしたとすれば、それを大黒天としてまつるということがあったとかもいます。
 衛門三郎が国司の子どもに生まれたいといったので、死ぬときに石を握らせてやった、間もなく伊予の国司に子どもが生まれた。なかなか手を開かないので、無理やり開いてみたら、石を握っていた。すなわちこれが五十一番の石手寺の開創であるという話になってくるわけです。衛門三郎の伝承は、従者の存在を考えるうえで非常に大事なものです。

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五来重:四国遍路の寺より

藤井寺 本尊の薬師如来は四国最古

 
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 弘法大師は太龍寺や室戸で修行を行ったと自ら書いています。その際のルートとして考えられるのは、故郷の善通寺から大窪寺に出て、そこから切幡寺に下がってきて、吉野川を渡り、この藤井寺をから焼山寺に登って行くルートです。それは現在の歩き遍路のルートと重なってきます。

 焼山寺は一つ飛び離れた山の中ですから、どっちからどう行っても、かなり戻ります。そういう場所ですから、巡礼は焼山寺に行って、それから十三番の大日寺に戻ってきて、徳烏の郊外をぐるっと回つて、小松鳥に出ていくということになります。 
  
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藤井寺は禅憎がいたところです。

本尊は薬師如来で、臨済宗妙心寺派です。
御詠歌は[色も香も無比中道の藤井寺 眞如の波の立たぬ日もなし」です。
無比は実際には無非と書かないといけません。
「色も香も無比中道」というのは、華厳経の中にある文句で、中道を説いた部分に「一色一香無非中道」という文句が出てきます。
 中道というのは、実践することによって、いいとか悪いとか、あるとかないとかという対立概念をすべて超えてしまうということです。中道という覚りを覚りきらないときは、それぞれ区別があって、これは好きだとか嫌いだとか、いいの悪いのという差別をもってしまうけれども、中道という覚りを覚ってしまうと、すべてが平等になり、差別を超えてしまうというのです。
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 「二色一香」は、色と香だげをいっているのではありません。
色・声・香・味・触という人間の五感が、それぞれ中道になるという意味です。
われわれが見たり聞いたり触れたりするものが、すべて覚りになるわけです。
 仏教という宗教が言葉をもてあそぶといわれる所以は、言葉がきれいすぎて上滑りするのではないかとおもいます。お説教でも学問のある和尚さんの話よりも、木訥な人の話のほうがよく身にこたえます。
それはさておき中道とは覚りの一つの別名だとおもいます。それがこの歌の意味です。
 藤井寺では何かあっても水が流れても、すべて中道だといっています。
この寺のご詠歌は「一色一香無非中道」という華厳経の言葉を入れた、なかなか難しいものですが、何かあってもすべて中道だという意味です。
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 縁起では弘法大師修行のところだといっています。

その遺跡が寺の後ろの八畳岩というところに残っていて、立派な杉の本があります。そこから焼山寺に行く道があるので、若き日の弘法大師が善通寺から焼山寺を経て室戸岬への辺路修行をした可能性があります。その場合はかならず通過しなければならない道です。
 
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  平安時代にはよほど栄えたらしく、本尊の薬師如来像はたいへん立派です。
久安四年(1148)という平安末期の年号が入っていて、もちろん重要文化財です。しかし、それ以外のことは不明で、天正年間の兵火ののちは復興も遅かったようです。
 『四国辺路日記しには
「地景尤殊勝也、二千門モ朽ウセテ礪ノ残リ、寺楼ノ跡、本堂ノ礪モ残テ所々二見タリ、今ノヅ(二問四面ノ草堂山、・……庭ノ傍二容膝斗ノ小庵在、其内方法師形ノ省一人出テ、仏像修川ノ勧進ツ云、各奉加ス」
とあるので、たいへんながめがいいところだったようです。
しかし、お寺も礎だけ、本堂も礎だけです。お寺というのは最初は庫裡です。
たいへん小さな庵があって、その後ろに仏像の破片が山のように積んであると書いているので、朽ちるままに放置しているというか、復興しなかった。廃屋がっぶれるようにこのお寺もつぶれてしまいます。
そこ一人の禅僧あるいは山伏がやってきて、この仏像だけでも復興したいというので遍路の者にお金を勧進したりして、みんなが勧進したわけです。
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 それに対して後の『四国偏礼霊場記』のほうは、禅僧がいて堂も禅宗風に造られていると記しています。『四国辺路日記』が書かれて『四国偏礼霊場記』が書かれるまでの35年余りの間に復興が進んだようです。
 その後、天保二年(1831)に焼失しますが、間もなく再建されたのが現本堂です。禅僧による復興ということは、雲水修行の間に無住の堂に留守居に入って、信者を獲得して復興すれば、その寺は禅宗になるので、修験山伏が寺をもっことは近世は少なくなります。
そのかわり修験山伏は神主になります。つまり、神社の別当寺に入って坊さんと神主とを兼ねる者が現れたわけです。

   切幡寺 流水濯頂会で有名
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 御詠歌は「欲心をたゞ一筋に切幡寺 のちの匪障りとぞなる」です。

 これは欲心を切り捨て、もし切り捨てなければのちの世まで障りになりますよという歌です。
 切幡寺の縁起については、一人の機織り女が機を織っていると、弘法大師が着物の綻びをつくろう布を所望したので、女は惜しげもなく機にかかっている布を切って差し上げた。その女が「千手観音で皆を救ってあげたい」というので、大師がすぐに像を刻むと千手観音になったというものです。
 しかし、実際には機の布を切るということは、幡をあげることだったとおもいます。
『四国偏礼霊場記』は、その縁起を
「此所は伝て云、大師初てこゝにいたり給ふ時、天より五色の幡一流降り、山の牛朧にして皿幡ふ右しらず、下は此山に落ちけり。怪異の事なれば、是を伝んとて、大師寺を立、切幡け玉ふとなん」と書いて、さらに「是より海を望む、頗る絶景なり」と記しています。
 
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  霊場寺院は、前がどうであったかということを考えないといけません。
ここには水神の信仰がありました。山の信仰には、山の神の信仰と水の神の信仰の両方があります。ここにはまず水神信仰があって、水神に御幣をあげました。幣といわれるものは、本来は麻です。麻の幣を立てて神様にあげていたのが、のちになると麻の布にたり、さらに木綿の布になったわけです。
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そういう古い礼拝のしかたをするのはお稲荷さんです。

お稲荷さんを拝むのに、山の奥に入っていって幣を立てた、布を立てて拝んだということが『今昔物語集』に出ています。いまは赤い幡のところもあるし、白い幡のところもありますが、お稲荷さんには幡をあげます。幡をあげるというのは、もともと幣をあげることです。それが切幡寺の幡です。ですから布を織る機ではなくて幡だとおもいます。
 一般には機を織っていた女が大師のために機の布を切って差しあげたので、この寺名があるといっています。しかし、布は幣の古態で、水神のに献ずるものであったといわれます。稲荷に幡をあげるのもこれですから、仏教以前の信仰が生きていたわけです。 
  所には仏教以前の信仰も残っています。死者供養をするような札所の信仰も、仏教以前の信仰が残っているものと考えて差しつかえありません。
  
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 切幡寺には流水濯頂会があります。

龍王信仰のある加持水の湧く経木場で、経木をあげて亡くなった人の供養をするわけです。流れ潅頂は四国をめぐっているとそこかしこで見られます。切幡寺の流れ灌頂は、もともとはお産で亡くなった人の菩提のためだといわれています。
 できれば亡くなった人が身に着けていた布を一尺四方ぐらいに切って、4本の足を付けて加持水に浸し、かたわらに杓を置いて、通る人ごとに水をかげてもらいます。

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 切幡寺の場合はすべての死者の供養のための流水面頂となっているようです。
流水腹頂には別の行事もあります。たとえば水で亡くなった人のための供養も流水濯頂です。ですから漁村などで亡くなる人があると、流水面頂をします。流水濯頂は中国では水陸会といわれました。京都の黄葉山ではお盆のときに宇治川に船を浮かべて塔婆を流します。いろいろなかたちがあって、布を垂らす流水濯頂もあれば、塔婆をあげるものもあります。

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 これは精神的に清めるのですが、精神的に清めましたというだけではいけません。それをなんらかのかたちに表すところに庶民信仰があるのです。インテリは「水をかけなくても清めてやろうとおもっただけで清まるではないか」といったりしますが、やはりかたちに表すと言うことに意味があります。切幡寺の流水濯頂はこのあたりでは非常に大きな行事になっています。
 『四国辺路日記』には「本堂南向、本尊三如来、二王門、鐘楼在、寺「妻帯ノ山伏住持セリ」とあるので、山伏がここにいたことがわかります。山伏はだいたい妻帯しています。

 法輪寺-釈迦の開いた転法輪から

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正覚山法輪寺は、転法輪から寺の名前が付いたとおもわれます。

仏教では説法をすることを法輪を転ずるといいます。
つまり、仏法を広めることを輪を転がすことにたとえて、転ずるといいますから、転法輪となるのです。
 転法輪を最初に問いた人は釈迦如来です。
釈迦は小さな王国の太子でしたが、山の中に入ってしまいます。
そして、尼連作河というところで五人の同志とともに修行をしていました。
しかし、どうしても覚ることができないので、釈迦はひとりで陸に上がって、菩提樹の下に座って瞑想いたします。そこでようやく覚ることができたのです。その覚りを自分で味わっておりますと、神様が大勢現れて、お前の覚りはひとりのものではない、広めなくてはならないといわれました。しかし法輪を転ずる相手がいないものですから、水の中に入って苦行中の五人を呼んで、自分の覚りの内容を話しました。
 苦行が辛くて逃げだしたとおもっていたお釈迦さんが、非常に立派な仏教の覚りを語って聞かせましたので、五人はそろって、お弟子になりました。六人の中で釈迦だけが覚れて、あとは弟子になったのです。
 
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それが仏教教団のはじまりとしてのサソガです。

 サソガを音訳して漢字にすると僧伽となります。
サソは同じという意味ですから、サソガは心を同じくする者という意味で、坊さんという意味ではありません。僧という字はサンと読みます。僧という字がニソペソですから、坊さんだと勘違いしますが、そうではありません。音を借りただけです。
 転法輪の説明をしましたが、転法輪で覚りを開いたということで正覚山という山号になります。正覚山は転法輪から出たもので、もとは白地山といったと書かれています。
 
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 御詠歌は、「大乗のひばうもとかも翻へし 転法輪の縁とこそきけ」

 小乗の教えを撤去することが転法輪です。
ありがたいお釈迦さんは立派な覚りを開いたといっているけれども、あとの連中は小乗だということです。
「大乗のひばうもとかも翻へし」というのは、大乗のほうから見た小乗に対する誹諧を翻し、転法輪の縁であるというふうに理解すべきだというのが「転法輪の縁とこそきけ」という意味です。
 なかなか仏教の知識に明るい、よい御詠歌です。

 念仏講などでは御詠歌を何の気なしに唱えていますが、御詠歌を通して仏教の理解なり信仰の理解なりができるとおもいます。御詠歌を年寄りの趣味と軽んずる人がいますが、やはり法を説くための因縁です。ですから坊さんが御詠歌を理解する力をもっていれば、正しく仏教の縁になります。
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   お釈迦様の転法輪は小乗だということを、ここでは大乗といったのです。
自分が覚ることによってはじめて他を覚らせることができるのです。
いっぽう、自分たちが覚ることはあとまわしにして、まず一般民衆を覚らせてやるというのが大衆部の主張です。じつは覚れるのだけれども、覚る一歩手前の人間に留まっていて救おうというの菩薩です。
 仏であるけれども、人間であるというのが菩薩という言葉の意味です。
ボーディは覚り、サットヴアふ生き物あるいは存在するものという意味です。
サットヴアをよく有情と訳しまして、菩薩を翻訳すると覚有情です。
菩薩という字そのものに意味はありません。

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法輪寺は縁起不明です。

本尊の釈迦如来は珍しい寝釈迦という涅槃像です。
涅槃像を拝む場合を考えますと、ひとつの流れがあります。
弾僣という人の系統はみな涅槃像を拝みます。
ただ、ここがそうであるかどうかはわかりません。

 四国霊場の中でも、七十二番の曼荼羅寺と七十三番の出釈迦寺は、どちらも山号が我拝師山で、我拝師山が礼拝の対象になっています。我拝師山というのは、弘法大師がお釈迦さんに会いたいといって崖から飛び下りて、天人が足を受けたので助かったという物語があるところです。ですから、釈迦崇拝です。

 それと同じような流れの中で、法輪寺も釈迦崇拝です。
釈迦崇拝は、涅槃像と出山の釈迦を拝みます。痩せおとろえて山から出てきた釈迦が、出山の釈迦です。その流れがこの中に入っているのではないかとおもいます。
 縁起は不明ですが、本尊も御詠歌も釈迦崇拝を表しているので、熊谷寺と同じく法華持経者の寺であったとおもわれます。とくに釈迦を拝むのは法華経です。

法華経というのは近世に入りますと、弾誓流の専修念仏者は釈迦の檀特山の久郷を苦行をに真似るようになり、出山の釈迦と寝釈迦を礼拝しました。近世の仏足石もこの和の釈迦崇拝片行者によって造立されたものと考えられます。
 仏教は苦行を否定すると一般にいわれますが、日本では法華経を読誦する行者は、あえて山林に入って苦行しました。その苦行から出てはじめて転法輪があるので、転法輪を略して法輪寺としたわけです。
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 歴史はよくわからないので、これも『四国偏礼霊場記』によるほかはありません。
『四国偏礼霊場記』は、本尊は「大師の御作、釈迦如来壱尺五寸の像ましませり」と書いていて、お寺の環境を
「深巷人なくして幽思きはまらず。樹木こゝろあるがごとく、うき世の塵もわするばかり也。今を見てむかしをおもふ。世のうつりかはるならひかくのごとし」
と描写して、たいへん寂しいお寺だ、人けがないところだ、昔は栄えたのだろうけれども、いまはすっかり衰微してしまっていると書いています。
 

   

熊谷寺-御詠歌からわかる千部法華会

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八番の熊谷寺は海洋宗教の辺路のお寺らしく海が見え幽逡で、しかも僧坊のあるお寺です。 本尊は千手観音です。千手観音は海や湖に関係があるところにたくさん見られます。千手観音の立像が帆掛け舟のように見える、手がいっぱい付いているのが扇形の帆を掛けたように見えるところから、海辺の千手観音には海の信仰、あるいは船の信仰が係わっているのかなと想像したりします。
 
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熊谷寺には千手観音と同時に補陀落信仰があります.

これもやはり海の信仰です。したがって、補陀落渡海をする人は、この千手観音の像を船の舶先に付けて、風を待っていました。季節風を待っていたのでしょうが、風が同じ方向に三日も四日も一週間も吹くような気象条件のときに船出したと、平安時代の『台記」に書かれています.
 熊谷寺も海が見えますので、千手観音が海の観音としてまつられていました。
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ご詠歌の「薪とり水 熊谷の寺に来て 難行するも後の世のため」
には少し意味があります。この歌だけでは、どうして熊谷寺で薪をとるのだ、薪をとって売っていたのかということになってしまいます。しかし、このお寺には千部法華会があったという記録があるので、「薪とり」の意味がわかるのです。そういうものを踏まえて御詠歌が作られています。
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薪を取ることがすなわち難行苦行なのです。

 日本人は苦行の宗教として法華経を受け容れました。
日蓮は、法華経を読むということは迫害されることだという意味のことを何回もいっています。迫害を受けること自体が法華経を読むことだ、経文を理解することではないといっているのは、鎌倉時代の思想として非常におもしろいとおもいます。

 奈良時代以前から山岳修行者が法華経を読んでいた形跡があります。
平安時代に入りますと、法華経を実践する法華経の行者が現れます。
平安時代末期の今様の中に「妙法習ふとて、肩に袈裟掛け年経にき、峯にのぼりて木も樵りき、谷の水汲み、沢なる菜も摘みき」とありまして、薪をとったり、菜を摘んだり、水をくんだりして、自分のお師匠さんなり仏さんなりにお仕えして、はじめて法華経が自分の身に付いたという歌があります。
その歌を歌いながら、法華八講という法華経の講説をするのですが、みんなが薪を担いで本尊さんの周りをぐるぐる回るのを「薪の行道」といいます。
 それが御詠歌にある「薪とり」の意味です。
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四国の札所にまで法華経実践の千部法華会の思想が入っていたというのは、たいへんおもしろいことです。薪をとって水をくんだという「みずくむ」を「みずくま」とかけて、「水熊谷の寺に来て」となるわけです。それは同時に難行苦行ですから、「難行するも後の世のため」、難行をするのは現世のためでもあり、後の世のためでもあるという意味になります。
水をくむということから水熊谷の熊谷となったのに、この寺の縁起では、弘法大師が山中の闘伽ヶ谷という泉で熊野権現に会ったという話になっています。

ここは非常に水の豐かなところで、二つの大きな川が左と右のほうに流れています。そしてかなり坂を下りた低いところにお寺があります。その水源の闘伽ヶ谷で熊野権現に出会ったということから、また小さな熊野社もあるので、ここにも熊野の影響が及んでいるといえましょう。妙法は法華経の妙法で、妙法山は那智から海のほうに登る山です。したがって、法華経を実践する人々が熊野を開いたといっていいわけです。
  
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熊野信仰が非常に強いのは東北地方です。

 陸路を歩いていたのでは、あのように広まるわけはありません。仙台の西の名取の熊野神社は大きな神社ですが、そういうところは船で行ったらすぐの近いところです。それから、非常に熊野信仰の強いのは隠岐島です。これも船を考えないといけません。鎌倉時代にはすでに沖縄に熊野神社がありました。那覇でいちばん大きなお宮の波上宮は岬の突端にあります。
 こうしたものを縁起にするときは、弘法大師が熊野権現に出会って、という話になりますが、事実としては熊野からきた山伏たちがこういうところに寺を開いたのでした。
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修験のもつ寺に行きますと、仏像はたいてい小仏像です。

 修験たちは笈の中に小仏像を入れて持ち歩きました
山伏が落ちついて寺を開く場合は、大きな本尊を彫刻したり、あるいは彫刻してもらって、自分が携帯していた仏像を胎内仏として納めてまつりました。

 『四国徊礼霊場記』は、この寺の境内の幽逡をほめて「谷ふかく、水涼し。南海一望に入」と書いています。この場合の南海は紀伊水道です。
 鎮守は熊野社と八幡社で、このことからも修験によって維持された霊場であることがよくわかります。かなり坂を登らなければならないお寺ですが、登ると本堂があって、さらにもう一つ上に大師堂があります。

このお寺の信仰行事に法華千部読誦による開帳がありました。

これを何年かに一度やっていたけれども、『四国偏礼霊場記』を書いたお坊さんが行ったときは、毎年やらないと、とても寺が維持できないというので毎年開帳していたと書いています。
 坂の途中に羅漢堂と多宝塔がありました。ところが、本堂もすべて昭和二年に焼けて、昭和十五年に再建されました。

   

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7番の十楽寺もかつては、村の中のお寺の状態で、ここが札所だろうかとおもうような状態でした。しかし、お遍路さんはかならず十番までは行きますので、参拝者の姿は多いように見えます。
 十楽寺のように阿弥陀如来を本尊とするお寺は、八十八か寺の中で十か寺しかありません。これは四国遍路が、来世よりは現世救済や病苦からの解放をねがうからであろうとおもいます。
 それに対して、現世利益を本命とする薬師如来は二十三か寺あります。二番の極楽寺の本尊が阿弥陀如来で、弘法大師が感得したといっておりますが、同じように十楽寺も弘法大師感得と伝えています。

 昔はどこの村にも阿弥陀堂がありました。村のお堂からその地域の寺へと成長するにつれて、阿弥陀寺とか極楽寺とかに名前が変わっていきます。
 
中世末期ごろに札所が八十八になりました。

 十楽寺の場合は中世末期の天正年間(一五七三-九二)から慶長年間(一五九六五)ごろに札所になったようです。なおかつ住職がいなかった時代が長くて、山伏が留守居をしたり禅僧がいたりしたようです。
 禅僧というのは雲水のことで、雲水が諸国をめぐり歩いているうちに、無住のお寺に住み込んでしまうことは、臨済禅のほうにも曹洞禅のほうにもよくあります。草堂での修行から諸国に遊行に出まして、ゆかりのあるところに落ちついて寺持ちになった、それが禅宗の広まった理由です。

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十楽寺の場合は、阿弥陀堂が札所化して寺になりました。

十楽という名前は極楽の十楽ています。浄土教が入りますと、十の楽しみがあるといわれました。『往生要集」では浄土には十の楽しみがある、としております。

1  まず、「聖衆来迎の楽」があります。
これは仏教を信じている人が臨終を迎えるときはかならず阿弥陀如来と二十五の菩薩が迎えにくるという楽しみです。いずれにしても、『往生要集』の時代の楽しみですから、現在のわれわれの感覚とは少し違います。
2 その次の「蓮華初開の楽」は、亡くなってから受ける楽しみです。「蓮華初開の時、所有の歓楽、前に倍する百千なり」、蓮華が闘いて往生を遂げたときに、現世の楽しみの百倍、千倍の楽しみがあると説いています。
3 「身相神通の楽」は、往生を遂げたときは神通力ができてなんでもかなう、三十二相という仏様のもっている相を具して非常に美しいからだになるという楽しみです。
4 「五妙境界の楽」の五妙は、人間の五つの感覚つまり五感です。「色・声・香・味・触」といって、見る楽しみ、聞く楽しみ、嗅ぐ楽しみ、味わう楽しみ、触れる楽しみという五つの感覚のすべての楽しみを満足することができるのです。
5 次に、現世の楽しみはその楽しみが消えたときは悲哀を味わうけれども、極楽の楽しみは退くということがないというのが「快楽不退の楽」です。
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6 「引接結縁の楽」は、極楽においては神通力ができますから、その人の欲するところにどこへでも行けるという楽しみです。引接というのは仏様に導かれてどこへでも行けるということです。そして、自分が結縁したいとおもうとどなたとでも結縁できます。
7 「聖衆倶会の楽」は、この世の中では嫌な人間とも付き合いをしなければならないけですが、極楽に行けばみな立派な聖衆といわれる方ばかりですから、仏や菩薩とだけお付き介いをして楽しむことができるという楽しみです。
8 「見仏聞法の楽」は、いまの人はなかなか楽しみとしませんが、仏様の美しい姿を見たり仏様の説法を聞くことができる楽しみです。
9 「随心供仏の楽」は、われわれは仏様に供養したいとおもっても、制約があってなかなか供養できない、ところが、極楽にいれば自分が供養したいとおもうときに仏に供養でき、供養したいとかもうものを仏に供養することができるという楽しみです。
10 「増進仏道の楽」は、極楽でお説教を聞いたり、仏を供養したり、仏と交わったりしている間に、しだいに自分の心境が高まってくる、そうしている間に仏道精進をして覚りを開くことができるという楽しみです。
   だいたい往生と覚りと成仏を別々に考えがちですが、往生は成仏の前提条件です。
われわれはこの世の中では人間的な制約あるいは環境的な制約があって、おもうように成仏の修行ができません。ところが、極楽に行ったら、おもうさま修行ができるから非常に成仏しやすいということが『往生要集』に説かれています。
 この10の楽しみから阿弥陀如来を本尊とする寺の名前にしたというのが十楽寺の名前のいわれです。

 ところが、江戸時代の初めの承応二年(一六五三)ごろに、悔焉坊という人が四国をめぐった『四国辺路日記』を見ますと、「十楽寺、是モ悉ク退転ス」とあるので、江戸時代の初めは一番から十番まで非常に衰えていたようです。

 この人が旅行してから三十五年ほどたって、高野山の坊さんが四国の霊場をめぐって『四国偏礼雲場記』という記録を残したころになりますと、わずか三十五、六年の間にお寺はかなり立派になります。『四国辺路日記』よりも国偏礼霊場記』のときに寺が立派になっているのは、江戸時代に入って戦乱が収まっても、まだ日本人には遍路をするような十分な余裕がなかったのが、元禄年間(二(八八-一七〇四)に近づいてまいりますと遍路も多くなり、それだけ霊場の暮らしも良くなるということで、復興してきたのだとおもいます。

 『四国辺路日記』のほうが古いので、「堂モ形斗」とあるように、形ばかりのお堂です。「本尊阿弥陀如来、御首斗在リ」と書いているので、首のところしかなかったようです。現在の十楽寺がなかなか立派な本尊さんをもっているのは、よそから古いものをいただいてきたということになるわけです。
 

安楽寺-駅路寺として治安取締り

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 六番の安楽寺は、蜂須賀藩が駅路寺という一つの使命を負わせたので、駅路山浄土院という名前がありました。駅路寺に指定されたため、お寺が大きくなったといわれています。実際には治安取締りのために造られた、そこへ奉行などが巡回するために造られたようです。そのときは瑞運寺と呼ばれました。ですから、この寺には安楽寺と瑞運寺という二つの名前があります。
 
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  御詠歌は「かりの世に知行争ふ無益なり 安楽国の守護をのぞめよ」

で卑俗な教訓を詠んでいます。江戸時代の話ですから、知行といっているのは大名の知行です。守護は守護・地頭の守護、安楽国は阿弥陀さんの浄土です。たくさん知行のある国の大名になりたいと争うのは益がない、阿弥陀さんの浄土の守護になったら知行を争う必要もない、仮の知行を争ってもまことの知行ではないということを御詠歌で歌っています。
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『四国辺略目記』では「安楽寺、駅路山浄上院」とあります。
が、「四国術礼需場記」では「瑠璃山日光院瑞運寺」と呼んで、もとは安楽寺だといっています。ここで瑞運寺といっているのは、街道筋の現在の安楽寺のあるところです。
 安楽寺があるのは引野という地名のところです。羅漢からずっと左のほうに来ると七條て、鍛冶川原があります。もとは鍛冶屋原まで鉄道があって、鍛冶屋原が終点でした。これはなくなってしまいました。鍛冶屋原の左の引野に安楽寺があります。
 本当に村の中です。そこに瑞兆寺という無料宿泊所の駅略寺があって、山の中の安楽寺が出てきたわけです。それで正式には瑞運寺といったけれども、一般には安楽寺といっていたので、二つの名前があったのです。
 
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  蜂須賀藩がなくなってしまったので、瑞運寺の指定は解除されて安楽寺になりました。もとは安楽寺といったというのは、奥の院が安楽寺であって、藩主より寺領を寄進されて、寺名を改めたのだといっています。一時このように称したのでしょうが、縁起としては弘法大師が薬師如来の尊像を刻んで、お寺を建てて安置したとあるだけです。
 昔、安楽寺が山の中にあった時代は境内に温泉があったので、温泉山の山号があります。その温泉も中古に人や獣の屍によって機れて止まってしまいました。いまは宿坊があって、湯をわかしています。ここの宿坊は八十八か所でいちばん大きいそうです。四百人ぐらい泊まれるといいますから、駅路寺の伝統を守っています。

 駅路寺指定は慶長三年(1598)に行われたようです。そのころの駅路寺の出来事を書いた文書によると阿波藩が5つの街道を整備し、それに沿って駅路寺を指定し、旅人の便をはかった。その代わり寺領10石が寄せられ治安維持にも当たったとされています。それ以前の歴史については明らかではありません。駅路寺以降の歴史がわかるということです。

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 本堂はじつに豪壮な鉄筋コンクリートの本堂です。八十八か所随一といわれる宿坊のほうがむしろ地味な感じです。その他の建物はありません。
   一キロ奥の山中に奥の院があります。安楽寺は、もとはこの奥の院の位置にありました。
それが街道筋の駅路寺である瑞運寺と合併して現在地に堂舎が建てられました。
 このように、札所霊場は山中から街道筋に出たものが多いとおもねれます。前に伊予の吉祥寺(六十三番札所)についていいましたように、現在、山の中にその寺地が残っています。まだ十分な調査ができていませんが、いまは街道筋に出ているお寺のもとの奥の院はかなり山の奥にあったようです。

地蔵寺-五百羅漢は釈迦信仰から

 
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五番の地蔵寺には、あとからつくった奥の院に五百羅漢があります。
五百羅漢のほうが有名になりましたので、地蔵寺は俗称羅漢寺とも呼ばれています。黒谷にある大日寺の南の羅漢寺があるところの地名は羅漢といいます。本堂の裏のかつて寺があったところを、江戸時代の半ばぐらいに地ならしをして五百羅漢を安置して奥の院としました。 

本尊は武装して馬に乗った姿をしている勝軍地蔵です。

勝軍地蔵はお地蔵さんですが慈悲だけではなくて、悪者を退治し、禍を払ってくれるという地蔵です。勝軍地蔵で有名なのは京都の愛宕山です。火伏せの神をまつる愛宕社は現在では神社になっていますが、もとは五つの山にある五つのお寺から成り立っていて、いちばん中心になるところは本地仏として勝軍地蔵をまつっています。
 地蔵寺の地蔵と愛宕が関係があるかどうか、ちょっとわかりません。地方で勝軍地蔵をまつっているところは愛宕神社ともとは一つであったというお寺がわりあい多いのですが、ここには愛宕さんはありません。

  
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 御詠歌は「六道の能化の地蔵大菩薩 導きたまへ此の世後の世」です。

 地蔵菩薩は現当二世の利益があるといわれております。
現は現世つまり現在です。当は当来、まさに来るべき、やがて来る来世という意味です。したがって、現世と来世を祓ってくれ世のどちらをも救済してくださる仏様が地蔵菩薩です。
薬師さんは現世の病気や災難を救ってくれる、阿弥陀さんは来世を救ってくれる、極楽済度をしてくれるというように役割分担になっています。地蔵さんはインドでできた時代から地獄の救済と現世の救済とを兼ねていたので、こういう歌が詠まれたのだとおもいます。
  来世を六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)としますと、
六道を救ってくださるということで、六道能化の地蔵菩薩というのが地蔵菩薩の称号です。それを御詠歌にして「六道の能化の地蔵大菩薩」と詠んでいるわけです。
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熊野系統の山伏が来て勝軍地蔵をまつった?

 地蔵寺の縁起では熊野が重要なものになっておりますが、ここには熊野系統の山伏が来て勝軍地蔵をまつったにちがいないとおもわしめるものがあります。
『四国偏礼霊場記』には「大師此所に遊び玉ふ時」とあります。
遊行すること、旅をすることを「遊び」といい、人々を導くことを遊化といいます。それを「遊び」といっているので、今でいう遊びにきたわけではありません。
 「熊野の神現じて霊木を手して授け給ひ」というのは、手ずから授けた、これで地蔵さんを作りなさいといって霊木をくださったという意味です。その神木で、一尺七寸の地蔵さんを作って、一寸八分の尊像を胎内仏としてまつったというのは、山伏の建てたお寺の縁起の一つの形式です。
 山伏が笈寵りであるところの小さな仏様をもってきて、最初はそれをまつっていだけれども、あとがら大きな仏様を作って、その胎内仏にしたわけです。しかし、胎内仏がなければ大きな仏様は魂がありません。魂が入っている、弘法大師の救済が笈仏を通して及んでいるということで、地蔵菩薩の信仰が盛んになったのです。
 
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  次いで鎌倉時代末の後宇多院のころに、再び地蔵菩薩像を刻んで大師作を胎内に寵めたといっています。後宇多院がどうして出てきたのかちょっとわかりませんが、縁起ですから、都合のよい時代や都合のよい天皇の名が出てきても、まあ不思議ではありません。 

そのときの住持は定宥という坊さんです。

『四国偏礼霊場記』は、定宥という人は霊夢によって一尺七寸の地蔵を作って一寸八分の古像を新像の胸間におさめた、そのほか阿弥陀も薬師も作った、これは熊野三座であると書いています。が、熊野の三尊は阿弥陀・薬師・地蔵ではありません。阿弥陀さんが熊野本宮の本地仏、薬師さんが熊野新宮の本地仏、千手観音が那智の本地仏ですから、正しくは阿弥陀と薬師と千手観音が熊野三山の三座です。
  そこで、「蓋、地蔵、観音、一体にてましませば」といって、観音と地蔵とは一体だ、この地蔵は観音と同じだから三尊だと無理なことをいっています。さらに、「此三尊、熊野三座になぞらヘーるらし。定宥もとより才徳信行の人なり。一夕熊野権現瑞託ありて、霊薬の剤方を示し玉ふ」とあって、このお寺には寺伝の火薬かあるということを詳しく書いて、その霊薬は万病円と称して四百余年伝来したといっています。  
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薬を家伝として作るというのも熊野修験らしいとおもいます

 最近の修験道研究の分野では、修験道と薬という研究の課題を取り上げる人がかなり多くなってきました。漢方というものがありますが、同時に修験伝来の薬がかなりあります。日本の修験道のある山には、たとえば大宰・葛城だったら陀縦尼助というように、それぞれ特色のある伝来の薬剤があります。ここの万病円も、おそらく山岳修行をする者たちが作っていたのだろうとおもいます。
 昔の山伏は地方に御札配りに来るときも、ただ御札だけを配るのではなくて、山で採った薬草を一緒に配りました。また富山の場合は、立山修験たちが薬とともに経帷子を配りました。修験道とお葬式は別のものに考えがちですか、修験道はむしろ山に入った死者の霊をまつります。『今昔物語集』によりますと、立山の地獄谷は日本中の死者の霊が集まるところだといっているので、そこから経帷子を配ると、亡くなった人が帰ってくるわけです。
 はじめは山伏が配っていたのが、だんだんと配置売薬のようなものにまで発展したようで
す。
 
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  地蔵寺の奥の院は羅漢堂です。この寺が一名羅漢寺と呼ばれるのはこの奥の院のためです。
 ただし、『四国偏礼霊場記』にも『四国辺路日記』にも出てきません。
実際には安永・天明(18世紀末)のころに造られたらしくて、実名・実聞という二人の坊さんが諸国を勧進してお金を集めて造ったのだと伝えています。しかし、ぞろぞろとあとから連れてこられたらしく、初めから五百そろっていたのではありません。最近、造立されたものもあるようです。江戸時代の遊行者の間にあった仏教復古主義の釈迦崇拝がこの羅漢信仰にも表れています。

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 大乗仏教という仏教では菩薩を信仰対象にしています。羅漢は小乗仏教の理想の仏です。すべての人が覚りを開けば社会全体が救われることになりますが、世の中の人みんなが、山の中に入って一人で修行したりすることはなかなかできませんから、結局、菩薩による往生という簡単な覚りになってしまいます。
   釈迦の覚りを開くということは、日本ではほとんどありえません。
ただ雲水の場合は僧堂にいて三年なら三年という修行をするので羅漢の覚りを開けます。雲水になると聡下石上といって、石の上に座ってじっと瞑想をして覚りを開きます。それが羅漢というものです。お釈迦様の。五百人のお弟子さんは、お釈迦様から「お前は、覚った」ということで、授記といういわば覚りの許可状のようなものをもらって羅漢になりました。ですから、釈迦崇拝がすなわち五百羅漢の崇拝になるわけです。
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 ところが、一般民衆は五百の菩薩の格好をした顔がおもしろいものですから、亡くなった人の面影を羅漢の中に探すという信仰のほうに変わっていきます。現にここの羅漢さんも亡くなった人の供養に行きます。大分の耶馬渓の羅漢寺の羅漢さんなどもそうです。亡くなった大の面影が五百の羅漢の中にかならずあるという信仰から、仏教の羅漢とは違った信仰ができますが、それを作った動機は仏教復古主義からきています。
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 正面に釈迦如来をまつります。右手にはお大師さんがあって、左手のほうに弥勒さんがまつられています。弥勒さんはお釈迦さんが亡くなって五十六億七千万年たってから出てくる仏様ですから、いまはちょうど中間の時期です。その間は羅漢さんに救ってもらうということがこの意味であったとおもいます。お釈迦さんと弥勒、羅漢さんと一緒にお大師さんをまつっているので大師堂と呼ばれます。この五百羅漢はなかなか壮観です。
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ここに遊行者がいた証拠は、淡島堂があることです。

 八十五番の八栗寺の場合は以空上人が淡島願人として八栗寺に来ました。淡島願人はお大師さんの絵にかいてあるような笈を背負って杖を突いて歩きました。杖の頭のところに淡島様の像と称する小さな仏像が彫ってあります。笈の中には亡くなった子どもの人形を入れて、和歌山市加太の淡嶋神社まで運んで、三月三日に流します。
 それと辺路の信仰を両方合わせた淡島願人が淡嶋から出たといいますが、じつは地方、地方に根をもっていました。地方ごとに淡島堂があって、そこから出入りしていたようです。以空上人が八栗寺をあんな大きなお寺にしたのは淡島願人が弁天さんをまつったからです。
 淡島信仰にはいろいろな民俗信仰が入っています。その中の一つが「へちま加持」です。たいていは夏場ですが、ここに行って見ておりますと、一年中「へちま加持」をしています。

大日寺  万人講こそ共同体の原理

 
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大日寺はかなり山の中に入ります。
その入口に近いところに五番の地蔵寺があります。地蔵寺はこのあたりではいちばん大きなお寺で、その奥に大日寺があるので、大日寺は地蔵寺の奥の院ではなかったかとおもいます。しかし、地蔵寺は現在では五百羅漢をまつるの奥の院をつくって関係がないように言っています。

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   大日寺の 御詠歌は、『眺むれは月白妙夜の夜半なれ たゞ島谷に黒染の袖』
というあまりわからない御詠歌です。月が煌々と照っている夜に墨染の袖の坊さんが歩いているような意味です。「たゞ黒谷に墨染の袖」では解釈のしようもありませんが、白と黒とを対照したのかもしれません。
 縁起としては『四国偏礼霊場記』に弘法大師三礼一刻(三度拝んで一つ刻む)の大日尊、つまり弘法大師が彫刻した大日如来が安置されていると書いてあるだけです。黒谷という地名をとって黒谷寺とも称しているということが同書に出ています。

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大日寺は黒谷の奥深く入った山間にある幽逡なお寺で、山門を入った正面に大日如来を安置しています。山門を入って大師堂に向かって右のほうに庫裡があります。
 『四国辺路日記』には「堂舎零落シタルヲ、当所二大童蒙ノ俗有リ、杢兵衛卜云、此仁無ニノ信心者ニテ、近年、堂ヲ結構シタルト也」とあります。

 しかし『四国偏礼霊場記』によると、安芸杢兵衛なる者が鐘を鋳てそれを鐘楼に懸けた、さらに応永年中(14世紀末)に松法師という者が夢のお告げによってこの寺を修復したということになっていまして、このほうが信用できるだろうとおもいます。

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 それから三百年後、時の住職が万人講を組織して復興します。

 万人講は、大日寺を語るときに、忘れてはならない大きな特色です。
ここでいう宗教的な建造、いわば作善は、たくさんのお金を出す必要はありません。零細な寄付をできるだけ数多くの人から集めることによって、作善の功徳が倍加されるのです。
 一人の人が一つのお寺を建てたとしますと、功徳は一つしかありません。
藤原道長が法成寺という非常に大きなお寺を建てても功徳は一つしかありません。
あるいは聖武天皇が奈良に大仏を建てても、一つしか功徳がありません。
そこで、聖武天皇は、大仏を建てるときに一握りの土でも一本の草でももってくることを許すという大仏造営の詔を出したのでした。作善をする人が一万人なら功徳は一万だというのが万人講の考え方です。

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これは共同体ですべて事を行うという共同体の原理です。

したがってそこにできたものは共同体全体の所有となりますから、功徳も分けあえるし、維持もみんなしてやっていきます。
 かりに権力者なり町豪なりが一人で建てたとしますと、彼が没落したり死んだりした場合、そのお寺がどうなるかは申しあげるまでもありません。同じように国家が建てたお寺の末路も、けっしてよいものではありませんでした。たとえば、奈良の元興寺は南都七大寺随一といわれたお寺ですが、国家が面倒をみなくなって、室町時代に一揆によって本堂が焼かれてしまうともう復興できません。江戸時代まで残った塔も雷火で焼けてしまいました。

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 元興寺にあった四つの僧坊のうち、現在も一つだけが元興寺極楽坊として残っています。三分の二だけ残ったのが元興寺極楽坊の本堂と禅室です。そこには聖だちがいて荼羅を中心にして人々を集めて勧進を行って維持してきました。その勧進のため西行が書いたという事実が残っております。大衆の支持によるものは残っても、国家によって建てられたものは残らないのです。
 薬師寺は写経で復興しようと考えました。それも作善の集積のようなものでして、それが万人講というものです。

 万人講はお寺ばかりではありません。

最近はあまり見かけませんが、山村を歩いていますと、道端に立てられた竹の筒にお金を入れる口が開いていて、「牛馬万人講」と書いてあります。続けて牛や馬を二頭死なせてしまった人が、次に買うときに万人講のお金を混ぜて買うと、牛や馬が成仏するといわれています。
 これは、みんなの支持によって馬が存在する、一人の人間のものではなくて、所有権はみんなのものだという考え方なのです。それぞれの人がごくわずかなお金を入れて、いまのお金で千円か二千円になったとしますと、あとの三十万、五十万というお金は自分が出します。万人のお金を混ぜて使えば、万人の合力だというのが、勧進あるいは万人講の論理です。

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 『四国偏礼霊場記』は、中国の龍興寺の坊さんが華厳経十万部を転読するのに十万人に勧進した、それが万人講の起こりだと書いていますが、本来は日本人のもつ共同体原理から発したものと私は考えております。
 昔は何かしようとするときはみんなで力を出しあいました。田植えひとつをとってみても、結の田植えといって、みんなで助け合います。万人講のことを知識結ともいいますが、知り合い同士が一緒になってものをするのが知識結です。十軒なら十軒がお互いに助け合って何かをするのを結同志といいました。奈良時代のお葬式もそのようであったらしいのです。
  
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漁村にも結の慣行があったことが、山比ヶ浜のような[山比]といり地名からもわかります。
漁村で地引き網を引くときは村の人が全部で地引き網を引くんです。春とか夏の適当な日に、今日は結だというと、屈強な者が網を回します。そして、引き綱を二本引っ張って、向こうとこっちとで引いて陸に網を上げるわけです。
 そのときは、労働力のない者でもそこに出ていれば分け前をもって帰れます。中国の班田収授法は労働力のある者だけですから、子どもや女や年寄りは分け前をもらえません。
しかし日本では、六歳になったら全部もらえました。そこに日本の班田収授と唐の班田収授の違いがあります。
 地引き網の結の場合は、赤ん坊を背負ってくれば二人前もらえます。小さい子どもの手を引いて一人背負って引いたら、それで三人分になるという結の概念が万人講の原理です。ですから、中国の華厳社というものとは違うということを知っておく必要があります。
ちょっと話がそれるようですが、じつはいまの会社経営にも結の概念があって、それが生涯雇用ということになるのではないかと私はおもっております。それは一方では弱みかもしれませんが、一方では日本の企業の団結の強さになるわけです。こういうと、批判的な発言をする文化人類学者がいます。しかし、いいとか悪いとかの問題ではなくて、それが日本人の根本的な生活のしかたなのです。社会の仕組みかそうである以上、ヨーロッは的な社会結合の概念や合理主義だけをもってきても、なかなか日本には定着しないと私はおもっております。

 五来重:四国遍路の寺より

金泉寺-阿波のお坊さんの学問寺

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 金泉寺は寺伝があまりはっきりしていません。
また、縁起もはっきりしません。
本尊は釈迦如来です。江戸時代に入ると、放浪者の釈迦信仰ができました。
これが金泉寺の釈迦信仰の一つの底流であうと思います。
 どうして釈迦信仰ができたかについては仏教の「原始回帰」です。

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お寺は住職ができて、どんどん発展する。
お堂がが大きくなり、坊さんが多くなる。
こうして発展的な過程をたどると形骸化されていざ、本末の仏教の精神や修行の精神を忘れてします。
そうすると行基の流れを汲む行基聖の人たちから釈迦の昔に返ろう、弘法大師の昔に返ろうという動きが発生してきます。江戸時代に入ると特に仏足石がたくさん作られるようになります。
 奈良の薬師寺の仏足石は皆さんもご存じのとおりです。
『万葉集』に仏足石の歌が入っているくらい、奈良時代には仏足石信仰がありました。途中から釈迦信仰が衰えてしまいますが、近世に入るとまた盛んになって、現在、仏足石を調べている人は三百ぐらい記録しています。とくに放浪僧が立ち寄ったようなところに仏星有があるわけです。
 
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放浪の聖たちが中心にしたのが善光寺で、善光寺聖といわれます。

したがって、善光寺にももちろん仏足石があります。それから、善光寺と非常に密接な関係のある新潟県の妙高山にも仏足石があります。いま関山という駅になっているところに、妙高修験の本拠の関山神社があります。妙高山の山頂にあったものを善光寺まで下ろしてきて、神社の境内に妙高院をこしらえていますが、妙高の修験の中に仏足石があるというのが一つです。
 
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もう一つは、寝釈迦〔釈迦涅槃像〕が江戸時代にになってからたくさん作られます。
寝釈迦は放浪者の偶像でしたから、その系統の大たちが住職をしたところにはみな釈迦涅槃像があります。それも原始回帰、すなわち釈迦唾戻ろうとする運動の一つの表れだとおもいます。
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 この寺は中世には学問寺として栄え、経処坊というところで講論が開かれました。
そういうことが釈迦如来を本尊とする金泉寺に起ったわけです。金泉寺には黄金井という泉あります。弘法大師が湧かしたのだから金泉寺となっているので、釈迦信仰と弘法大師信仰の両方をあわせてこの霊場が成立したといえるとかと思います。
御詠歌は、「極楽のたからの池を思へただ 黄金の泉すみたたへたる」となっています。現在、地蔵堂の中に泉があって、これが弘法大師が湧かした黄金井ということです。
 
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縁起は亀山法王が、ここを建てたことになっています。

『四国偏礼言場記』は、弘法大師の開基で、釈迦如来御長三尺、堂は七間四面としてします。この堂の扉の板より東を板東、内會板西として郡を分けていました。
鎮守は春日社と弁財天をまつっていた、牛頭天王社と天神社は廃亡したと同書に書かれています。亀山法皇のことが出たので、それに関連して長慶天皇の詰が出てきてしまって、長慶天皇の茸京あるというお寺の縁起になったのだろうとおもいます。
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 金泉寺は釈迦信仰から仏教の学問をする寺に変わります。

近世になりますと経処坊という名前で学問所として栄えました。
阿波と讃岐との境の讃岐側(現在は徳島県)の九一〇メートルと卜う高いところにある六十六番の雲辺寺が、讃岐のほうの学問所であったのに対して、金泉寺は阿波の坊さんだもの学問所です。そういうことがおこってくるのも、釈迦の古に帰って学問をしなければいけないという思想があったからです。
 
 金泉寺の名前のもとになった井戸は、地蔵堂になっています。ほかに閻魔堂、大師堂、奥の院があります。奥の院は大した奥の院ではありませんので、特別に取り上げるほどのことはありません。

 この寺では太子堂で善の綱が引かれています。

善光寺が開帳の年には開帳の期間だけ善の綱を引きます。
善光寺の場合二か月ぐらいの開帳の間は庭の貞ん中に回向柱という大きな角柱を立てます。本尊はまったく出せませんので扉から白いサラシを何反とつないで紐にして回向柱まで引っ張っています。
 古い伝承を調べてわかったことですが、いちばん元のところは本尊の手ですから、綱につながると本尊とと握手したことになります。したがって、善の綱は縁の綱ともいわれるくらい縁がつながるわけです。  
   しかし、善の綱のほうが正しいとおもいます。善とは作善のことです。
つまり、社会的にも信仰的にも何かいいことをすることです。いちばん簡単なのはお金をあげることですから、もとはお賽銭を紙に包んで水引で縛って善の綱にさげたので、大きな開帳ならびっしりとおひねりがさがったとおもいます。
 そもそもはお賽銭は紙に包んであげるもので、裸のままであげるものではなかったのです。それを忘れてしまって、寮銭箱にザラザラと放り込むようになりました。本尊に裸の銭を放り込かのは、本当は失礼に当たります。善の綱に紙に包んだお餐銭をさげたという伝承をもっているところがあるので、善の綱はそういう意味をもっていたことがわかります。

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 ただ、縁の綱といわれる理由もたしかにあります。お葬式のときに女の人がお棺から縁の綱を引くのは、死者とのつながりを表していて、それはそれでいいのです。また挽歌は縁の綱を引きながら唱えるものだということになってしますが、要するに、縁がつながっているということです。
 もとは本尊の開帳のときに善の綱を引きましたが、ここの場合は大師堂にいつも善の綱を引いているそうです。そういうことで、金泉寺はたいへん珍しいことに、善の綱を引いているお寺です。

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 『四国辺路日記』では本尊は三如来だといっていますが、お釈迦さんのほかは別に挙げておりません。それから、この寺には住持がいると書いています。江戸時代の初期までは住持のいない寺のほうが多かったと考えないといけません。遍路の人をお世話するために、あるいは本尊さんにお花やお水をあげるために、留守居の人がときどきいるとしうのが霊場の現実の姿だったようです。

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