瀬戸の島から

カテゴリ: 讃岐中世史

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

 前回は 「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」の「念仏踊り」について見ました。今回は「風流小歌踊系」を見ていくことにします。風流小歌踊系の雨乞い踊りは、初期の歌舞伎踊歌を思わせるような小歌が組歌として歌われ、その歌にあわせて踊ります。讃岐に残るものをリストアップすると次のようになります。
綾子踊  まんのう町佐文
弥与苗踊・八千歳踊        財田町入樋   
佐以佐以(さいさい)踊り     財田町石野   
和田雨乞い踊(雨花踊り)     豊浜町和田 
姫浜雨乞い踊 (屋形踊り)    豊浜町姫浜 
田野々雨乞い踊            大野原町田野々
豊後小原木踊              山本町大野 
讃岐雨乞い踊り分布図
讃岐の雨乞い踊り分布図
今でも踊られているのは綾子踊、弥与苗踊、さいさい踊、和田雨乞踊、田野々雨乞踊で、その他は踊られなくなっているようです。また小歌踊の分布は、東讃にはほとんどなく讃岐の西部に偏っています。念仏踊が滝宮を中心とする讃岐中央部に集中するのに対して、風流小歌踊は、さらに西の仲多度・三豊地区にかけて分布数が多いことを押さえておきます。この原因として考えられるのは、宗教圏のちがいです。東讃については、与田寺=水主神社の強い信仰圏が中世にはあったことを以前にお話ししました。この影響圏下にあった東讃には、「雨乞い踊り文化」は伝わらなかったのではないかと私は考えていま す。それでは、雨乞い風流踊りを見ていくことにします。綾子踊については、何度も触れていますので省略します。
佐以佐以(さいさい)踊は、財田町石野に伝承する雨乞踊で、次のように伝えられます。
昔、大早魃の折に一人の山伏がやって来で龍王に奉納すれば降雨疑いなしと言って教えられたのがこの踊りだと伝わる。その通り踊ったところ降雨があった。その山伏は仁保(仁尾町)の人だと言ったので跡を尋ねたが仁尾にはそんな山伏はいなかった。さてはあの山伏は竜王の化身にに違いないと、その後早魃にはその踊りを竜王に奉納していた。

さいさい踊の起りについてはもう一つの伝説があります。

昔、この村の龍光寺に龍王さんを祀っていた。ところが龍光寺は財田川の川下であった。ある日のこと、一人の塩売りがやって来て竜王さんをもっと奥の方へ祀れと言う。そして、そこには紫竹と芭蕉の葉が茂っているのだという。村の人はその場所を探し求めると上流の谷道に紫竹と芭蕉の葉が茂っていた。そこで竜光寺の龍王を、そのところへ移して渓道(谷道)の龍王と呼んだ。それからこの龍王で雨乞踊を奉納することになったと云う。この塩売りは三豊郡の詑間から来て猪鼻峠を越えて阿波へ行ったか、この塩売りはやはり龍王さまご自身だろうと言うことになった。

この伝説からは次のようなことがうかがえます。
①財田下に龍光寺という寺があり、龍王を祀っていたこと
②それが川上の戸川の鮎返しの滝付近に移され渓道(谷道)の龍王
と呼ばれるようになったこと
③三豊の詫間から塩商人が入ってきて、猪ノ鼻峠を越えて阿波に塩を運んでいたこと

また、さいさい踊りの歌詞の中には、第六番目に次のような谷道川水踊りというのが出てきます。
谷道の水もひんや 雨降ればにごるひんや 
うき世にすまさに ぬれござさま ござさま
(以下くつべ谷の水もひんや……とつづく)
また、さいさい踊りという歌もあって、次のように歌われます。

あのさいさいは淀川よ よどの水が出て来て 名を流す 水が出て来て名を流す……

雨乞踊の時に簑笠をかぶって踊れと云われていますが、雨を待ちわびて、雨がいつ降っても身も心も準備は出来ていますよと竜神さまに告げているのかも知れません。さいさい踊りが奉納されたのは、渓道(たにみち)神社で、戸川ダムのすぐ上流で、近くには鮎返りの滝があります。
渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王
渓道(たにみち)神社
また、佐文や麻は渓道(たにみち)神社の龍王神を勧進して、龍王祠を祀っていたことは以前にお話ししました。佐文の綾子踊りには、さいさい踊りと同じ歌もあるので、両者のつながりが見えて来ます。

財田町にはさいさい踊りの他に、弥与苗(やおなや)踊があります。
弥与苗踊は八千歳踊と共に入樋部落に伝承されています。この縁起には俵藤太秀郷の伝説がついていて、次のように語られています。

昔、俵藤太秀郷は竜神の申しつけで近江の国の比良山にすむ百足を退治しょうとした。その時に秀郷は竜神にむかってわが故郷の讃岐の国の財田は雨が少なくて百姓は早魃に苦しんでいます。もし私がこの百足を退治することが出来たならばどうぞ千魃からわが村を救い給えと祈ってから百足を退治した。竜神はそれ以後、財田には千害が無いようにしてくれた。秀郷は財田の谷道城に長らく居住したが、他村が旱魃続きでも財田だけは降雨に恵まれ、これを財田の私雨(わたくしあめ)とよんでいた。

このような縁起に加えて、今も財田の道の駅がある戸川には俵藤太の墓と伝えるものや、ある家には俵藤太が百足退治に使ったという弓が残っていると云います。弥与苗踊はもともとは、盆踊りとしても踊られていたようです。真中に太鼓をすえて、その周囲で踊る輪おどりなので、盆踊りが雨乞成就お礼踊りに転用されていったことがうかがえます。ここで押さえておきますが、雨乞い踊りが先にあったのではなくて、盆踊りとして踊られていたものが「雨乞成就」のお礼踊りに転用されたと研究者は考えています。

豊浜和田雨乞い踊り
和田の雨乞い踊り(観音寺市豊浜町)
豊浜の和田雨乞踊と姫浜雨乞踊を見ておきましょう。
和田と姫浜とは、ともに豊浜町に属していて、田野々は大野原町五郷の山の中にあります。これらの雨乞踊は伝承系統が同じと武田明氏は考えます。和田の雨乞踊の歌詞は、慶長年間に薩摩法師が和田に来てその歌詞を教えたとされます。それを裏付けるように、歌詞は和田も田野々も、「四季、屋形、雨花、薩摩、目出度さ」は共通で、その踊り方も昔はよく似ていたと伝えられます。和田から田野々へ伝わったようです。
和田の道溝集落の壬生が岡の墓地には、薩摩法師の墓があります。
雨乞い踊りを伝えた薩摩法師の墓
薩摩法師の墓(豊浜町道溝)
その墓の建立世話人には和田浜、姫浜、和田、田野々の人々の名前が連なっています。法師の信者達だった人達が、供養のために建てたものでしょう。この墓の存在も、雨乞踊の歌が薩摩法師という廻国聖によってもたらされたものであることを裏付けます。しかし、「薩摩法師の伝来説」には、武田明氏は疑問を持っているようです。 
さつま(薩摩)小めろと一夜抱かれて、朝寝して、
おきていのやれ、ぼしゃぼしゃと  
さつま(薩摩)のおどりをひとおどり……
この歌詞には「さつま(薩摩)」が確かに出てきます。これを早合点して、遍歴して来た琵琶法師を、四国では薩摩琵琶の方が有名なので、薩摩法師が琵琶を弾きながら語り伝えたように誤解して伝わった可能性があるというのです。琵琶法師は、語りの他にも今様も歌って遍歴したとされます。和田、田野々などの歌は、琵琶法師によってもたらされたものとします。芸能運搬者としての琵琶法師ということになります。琵琶法師も広く捉えると遍歴の聖(修験者)になります。
 和田も田野々も、踊るときにはその前の夜が来ると笠揃えをして用意をととのえます。田野々では夜半すぎから部落の中央にそびえる高鈴木の竜王祠まで登ります。夜明けになると踊り始めて、何ケ所かで踊った後に法泉寺で踊り、最後は鎌倉神社で踊ることになっていたようです。

風流小唄系の踊りに詠われている歌詞の内容については、綾子踊りについて詳しく見ました。その中で、次のようにまとめておきました。
①塩飽舟、たまさか、花かご、くずの葉などのように、三豊の小唄系踊りと共通したものがあること
②歌詞は、雨を待ち望むような内容のものはほとんどないこと。
③多いのは恋の歌で、そこに港や船が登場し、まるで瀬戸内海をめぐる「港町ブルース」的な内容であること。
どうして雨乞い踊りの歌なのに、「港町ブルース」的なのでしょうか? それに武田明は次のように答えています。
もともとは雨乞のための歌ではなかったのである。
それが雨乞踊の歌となったのに過ぎないのであった。
私なりに意訳すると「雨乞い風流踊りと分類されてはいるが、もともとは庶民は祖先供養の盆踊唄として歌ってきた。それが雨乞成就のお礼踊りに転用された」ということになります。

最初に見たように雨乞風流小歌踊は、三豊以外にはないようです。
佐文の綾子踊だけが仲多度郡になりますが、佐文は三豊郡との郡境です。これをどう考えればいいのでしょうか。武田明氏は次のように答えます。

このような小歌を伝承し伝播していた者が三豊にいて、それが広く行なわれているうちに雨乞踊として転用されていったのではないかと想像される。そして前述の薩摩法師と伝えているものもそうした伝播者の一人でなかったかと思われる。

  芸能伝達者の琵琶法師によって伝えられた歌と踊りが、先祖供養の盆踊り歌として三豊一円に広がり。それが雨乞踊りに転用されたというのです。卓見だとおもいます。

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滝宮念仏踊りの各組の芸司たち
念仏踊りや綾子踊りでは芸司(ゲイジ・ゲンジ)・下司(ゲジ)が大きな役割を担います。
これについて武田明氏は次のように記します。

芸司は踊りの中でもっとも主役で、滝宮念仏踊では梅鉢の定紋入りの陣羽織を着て錦の袴を穿いた盛装で出て来る。芸司にはその踊り組の中でも最も練達した壮年の男子が務める。芸司は日月を画いた大団扇をひらめかしてゆう躍して、踊り場の中を踊る。それは如何にもわれ一人で踊っているかの様子である。他の踊り手が動きが少ないのに反してこれは異彩を放っている。土地によっては芸司は全体の踊りを指導するというが指導というが、自からが主演者であることを示しているようにも思える。或いは芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えているのではないかとも思われる。

 ここで私が注目するのは「芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えている」という部分です。各念仏踊りの由来は、菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られるようになったと伝えます。しかし、年表を見ればすぐ分かるように、念仏踊りが踊られるようになるのは中世になってからです。菅原道真の時代には念仏踊りはありません。菅原道真伝説は、後世に接ぎ木されたものです。また念仏踊りの起源を法然としますが、これも伝説だと研究者は考えています。45年前に「芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えている」と指摘できる眼力の確かさを感じます。

以前に兵庫県三田市の駒宇佐八幡神社の百石踊の芸司(新発意役)について以前に、次のようにまとめておきました。
百石踊り(駒宇佐八幡神社) | ドライブコンサルタント
百石踊の芸司 服装は黒染めの僧衣
①衣裳は僧形で、白衣のうえに墨染めの法衣を着て、裾をたくって腰までからげ上げる。
②月と日(太陽)形の切り紙を貼った編笠を被り、右手に軍配団扇、左手に七夕竹を持つ。
③踊りが始まる直前に口上を述べ、踊りの開始とともに太鼓役を先導して踊る。
百石踊りの新発意役(芸司)は、実在する人物がいたとされます。それは文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都です。元信という天台宗の遊行僧が文亀年間に生存し、雨乞祈席を修したかどうかは分かりません。ただ、遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などに関与したことは以前にお話ししました。百石踊り成立過程において、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。研究者は注目するのは、次の芸司の持ち物です。
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。本願の象徴として、以下のものを好んで使用したとされます。
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
彼らは人々から頼まれたいろいろな祈願を行う際に、自分たちの属する教団の示す象徴が必要でした。そのシンボルが、瓢箪と七夕竹だったようです。空也系聖と禅宗系聖の両方を混合したのが高野聖になります。ここからは、採り物についても百石踊りの成立過程には、下級宗教者(高野聖など)の関わりがうかがえます。民俗芸能にみられる芸司は、本願となって祈祷を行った修験者や聖の姿と研究者は考えています。
 しかし、時代の推移とともに芸司の衣装も風流化し、僧形のいでたちで踊る所は少なくなったようです。芸司の服装についても変化しているようです。滝宮念仏踊りで出会った地元の研究者が、次のように教えてくれました。

「戦前までは、各組の下司は、麻の裃を着て踊っていた。ところが麻やかすりの裃は、もうない。特注扱いで高価で手がでん。そこで、ある組の下知が派手な陣羽織にしたら、全部右へなれいになりました。」

以上からは芸司の服装には次のような変化があったことがうかがえます。
①古いタイプの百石踊の「芸司」は「新発意(しんほつい)=僧侶」で、法衣のうえから白欅をした僧衣
②それが綾子踊りの芸司は「裃」で、庄屋の格式衣装
③現在の滝宮念仏踊りの芸司は、陣羽織
つまり、中世は僧衣であったものが、江戸時代に「裃」になり、今は金ぴかの陣羽織に変化してきています。今では被り物・採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっているようです。

P1250412
滝宮念仏踊りの芸司の陣羽織姿
滝宮念仏踊の中で子供が参加するのを子踊りとよんでいます。
いつ踊りだすのかとみていると、最後まで踊ることなく腰掛けています。どうして踊らないのでしょうか? 武田明氏は次のように記します。
子踊りは菩薩を象徴すると言って、入庭(いりは)の際には芸司の後に立つ。すなわち社前の正面で芸司についで重要な位置である。しかし、いよいよ踊りが始まると、社殿に向って右側の床几に腰を下して踊りのすむまでは動かない。その子供達は紋付き袴の盛装でまだ幼児であるために近親のものがつきそっている。子踊りの名称はありながら踊らない。その上、滝宮念仏踊では子踊りの子供は大人によって肩車をされて入庭するのが古くからの慣習であった。これはおそらくはその子供を神聖なものとして考えて踊りの庭に入るまでは土を踏ませないことにしていたのである。古い信仰の残片がここに伝承されていることを私達は知ることが出来る。滝宮を中心とする地方で肩車のことを方言でナッパイドウと言うが、この行事が早くからこの地方にはあったことを示している。

ただ南鴨念仏踊だけで子踊りが芸司の指図に従って踊っていて、それが特色であるように言われているが、私はかって南鴨念仏踊の保持者であり復興者であった故山地国道氏に聞いたことがある。どうして南鴨だけが子踊りが踊るのですかと言うと、山地氏はいやあれは人数が少ないとさびしいので、ああ言う風にしましたと私に語るのであった。その言葉を信じるとどうも復興した折に、ああ言う風に構成したように思われる。
 善通寺市の吉原念仏踊というのは南鴨の念仏踊の復活以前の型をそのまま移したというが、ここの子踊りは子供は踊らず、ただ団扇で足元だけをナムアミドウの掛声に合せて軽く打つ程度の所作しかしなかった。すなわち踊ることなどはしないという。それを以て見ても南鴨念仏踊の子踊りの所作が古型そのままであると考えることは出来ないのである。

子踊りに所作がなく、踊りの庭に滝宮の例のように肩車をして入って来る。また滝宮ではこれを菩薩の化身と見るということは子踊りの子供自体を考える上において極めて貴重な資料である。おそらく子踊りは神霊の依座と考えていたのである。すなわち子踊りの子供に踊りの最中に神霊の依るのを見て、雨があるかどうかを見ていたのである。子踊りは念仏踊りにおいて古くはそのように重要な意味を持つていたのである。

武田明氏は民俗学者らしく小踊りが踊らない理由を「神霊の依座」として神聖視されていたからとします。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
しかし、七箇村念仏踊りを描いた諏訪大明神念仏踊図(まんのう町諏訪神社)を見ると8人の子踊りは、芸司と共に踊っているように見えます。また、七箇念仏踊りを継承したと思われる佐文の綾子踊りでは、主役は子踊りです。武田氏の説には検討の余地がありそうです。

綾子踊り4
佐文綾子踊りの子踊り

坂出の北条念仏踊には大打物と称する抜刀隊がいます。
その人数は当初は24人で、後には40人に増やされたといいます。どうしてこんな大人数が必要だったのでしょうか。
これについては武田明氏は、次のような「伝説」を紹介しています。

正保年間の念仏踊りの折に七箇村念仏踊は滝官へ奉納のために出掛けて行った。ところが洪水のために滝宮川を渡ることが出来ないでいた。昼時分までも水が引かないので待っていたが、 一方北条念仏踊はその年は七箇組の次番であったのだが待ち切れずに北条組はさきに入庭しようとした。すると、これを見た七箇組の朝倉権之守は急いで河を渡り北条組のさきに入場しようとした事を抗議して子踊り二人を斬るという事件が起った。それから後、警固のために抜刀隊が生れた。

 この話をそのまま信じることはできませんが、武田明氏が注目するのは抜刀隊(大打ち物)の服装と踊りです。頭をしゃぐまにして鉢巻をしめ袴を着て、白足袋で草鞋を履いています。右手には団扇を持ち、左手には太刀を持ちます。そして踊り方は、派手で目立ちます。ここからは抜刀隊(大打ち物)は事件後に新たに警固のために生まれたものではなく、何か「別の芸能」が付加されたものか、もとは滝宮念仏踊とは異なる踊りがあったと武田明は指摘します。
 北条念仏踊には他の念仏踊に見ないもう一つの異なる踊りがあるようです。
それはあとおどり(屁かざみ)と言って、芸司のあとにつづいてゆく者が、おどけた所作をして踊るものです。こうして見ると北条念仏踊は、滝宮念仏踊の一つですが、多少系統を異にすると武田明は指摘します。
 綾子踊り入庭 法螺・小踊り
佐文綾子踊り 山伏姿の法螺貝吹き
法螺貝吹きについては、武田明は次のように記します。
入庭の時には先頭に立って法螺貝を吹きながら行くのである。また、念仏踊りによっては踊りはじめの時に吹くところもある。鉦、筒、鼓ち太鼓などと違って少し場違いな感じがしするものである。法螺貝吹きは念仏踊が修験の影響をうけていることを音持しているのかも知れない。(中略)
 また、念仏踊りでも悪魔降伏のために薙刀を使ってから踊りはじめるのだが、綾子踊では薙刀使いが棒使いが踊りの庭の中央て問答を言い交わす。これはやはり山伏修験がこの踊りに参加していたことを物語るものであろうか。
綾子踊り 棒と薙刀
    薙刀と棒振りの問答と演舞(綾子踊り)
このように滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りと山伏修験との関わりについて、45年前に暗示しています。
これについては、宇和島藩の旧一本松村増田集落の「はなとり踊」が参考になります。
はなとりおどり・正木の花とり踊り
            はなとり踊り
「はなとり踊り」にも、山伏問答の部分「さやはらい」があります。「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、踊りの最初に修験者がやっていました。
 はなとり踊りの休憩中には希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打って、さいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。ここからは、はなとり踊が修験者による宗教行事であることが分かります。行事全体を眺めると、この踊りをプロデュースしたのは修験者たちだったことが分かります。里人の不安や願いに応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは修験者たちだったのです。それを民俗学者たちは「芸能伝播者」と呼んでいるようです。

滝宮念仏踊には願成就(ガンジョナリ)という役柄があります。
南鴨念仏踊などでは、この役柄の人が「ガンジョナリヤ」と大声で呼ばわってから踊りが始まります。「雨乞い祈願で、雨が振ってきた。諸願成就したぞ」と大声で叫んでいるようです。そうだとすれば、念仏踊りは雨が降ったための御礼の踊りであったことを示していることになります。
「私雨(わたくしあめ)」ということばが、財田の谷道神社や佐文の綾子踊りの由来には出てきます。 
どんな意味合いで使われているのでしょうか。武田明氏は次のように記します。
旱魃の時に雨が降らなければ村の田畑は枯死する。そこで雨乞い祈願には、その村落共同体のすべての者が力を結集してあたった。雨が降ればその村のみに降ったものとして財田や佐文では「私雨(わたくしあめ)」と呼んだ。この言葉の中には、自分の村だけに降ったという誇りがかくされている。夏の夕立は局地的なもので、これも「私雨(わたくしあめ)」とも呼んでいた。

雨乞い踊りの組織と規模について武田明は、次のように記します。

村に人口がふえてくるにつれて起りはささやかな雨乞踊だったものが次第に大きい規模になっていったことも容易に想像出来る。大きくなっても重要な役割の者はふやすことは難しい。それは芸司(げんじ)のように世襲になっているものもあるし、法螺貝吹きなどのように山伏などの手によらねばならぬものもあった。しかし、外まわりに円陣を作って鉦を鳴らすとか、警固の役の人数はそれ相当に増やすことは出来た。そうすると、分家によって家が増えたり、新しく村入りして来た者があったとしても誰もが参加することが出来た。こうして、もとは少人数であったものが次第に大がかりなものになって来たことが想像される。

 雨乞念仏踊は共同祈願であったためにその村落の結束は非常に強固であった。殊に滝宮へ出向いてゆく踊り組は他の村の踊り組に対して古くは非常な関心を持っていた。そこで争わないように踊りの順番までがはっきりと定められていた。それを破ったというので七箇村組が北条組との間に争いを起したのであった。しかしこのような事件はこれほど大きい事件にならなくても、これに類似した事件は再三起っていたことが記録の上では明らかである。これはどういう事であろうか。やはり踊り組の結束というか、要するに村落共同体の一つの重要な仕事であるだけに他村に対して排他的とは言わないまでも異常な関心を持っていたからであろう。

滝宮への踊り込みを行っていた念仏踊りの各組については、その後の研究で次のようなことが分かっています。
①念仏踊りは、中世に遡るものでもともとは各郷の惣村神社の夏祭りに奉納された先祖供養の盆踊りであった。
②その構成メンバーは宮座制で、惣村を構成する各村毎に役割と人数が配分されていた。
③滝宮への踊り込みの前には、各村々の村社を約1ヶ月かけて巡回して、最後に惣社に奉納された後に滝宮へ踊り込んだ。
④各組は郷を代表するものとしてプライドが高く、争いがつきもので、その度に新たなルールが作られた。
⑤「惣村制+宮座制」で、これをおどることが各村々での存在意味を高まることにつながった。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」

    宥範は南北朝時代に荒廃した善通寺の伽藍を再建した高僧で「善通寺中興の祖」といわれることは以前にお話ししました。「宥範縁起」は、弟子として宥範に仕えた宥源が、宥範から聞いた話を書き纏めたものです。応安四年(1371)3月15日に宥源の奏上によって、宥範に僧正の位が贈られています。
宥範縁起からは、次のようなことが分かります。
①宥範の生まれた櫛梨の如意山の麓に新善光寺という善光寺聖がいて浄土宗信仰の拠点となっていたこと
②宥範は善光寺聖に学んだ後に香河郡坂田郷(高松市)無量寿院で密教を学んだ。
③その後、信濃の善光寺で浄土教を学び、高野山が荒廃していたので東国で大日経を学んだ
④その後は善通寺を拠点にしながら各地を遊学し、大日経の解説書を完成させた
⑤大麻山の称名寺に隠居したが、善通寺復興の責任者に善通寺復興のために担ぎ出された
⑥善通寺勧進役として、荒廃していた善通寺の伽藍を復興し名声を得たこと。

しかし、⑤⑥についてどうして南北朝の動乱期に、善通寺復興を実現することができたかについては、私にはよく分かりませんでした。ただ、宥範が建武三年(1336)に善通寺の誕生院へ入るのにのに合わせて「櫛無社地頭職」を相続しています。これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」の地位です。ここからは櫛梨にあったとされる宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であり、それを相続する立場にあったことが分かります。そこから「宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、岩野氏という実家の経済的保護が背後にあったことも要因のひとつ」としておきました。しかし、これでは弱いような気がしていました。もう少し説得力のある「宥範の善通寺伽藍復興の原動力」説に出会いましたので、それを今回は紹介したいと思います。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。

善通寺 足利尊氏利生塔
足利尊氏利生塔(善通寺東院)

宥範による利生塔供養の背景
足利尊氏による全国66ヶ国への利生塔設置は、戦没者の遺霊を弔い、民心を慰撫掌握するとされていますが、それだけが目的ではありません。地方が室町政権のコントロール下にあることを示すとともに、南朝残存勢力などの反幕府勢力を監視抑制するための軍事的要衝設置の目的もあったと研究者は指摘します。つまり、利生塔が建てられた寺院は、室町幕府の直轄的な警察的機能を担うことにもなったのです。そういう意味では、利生塔を伽藍内に設置すると云うことは、室町幕府の警察機能を担う寺院という目に見える政治的モニュメントを設置したことになります。それを承知で、宥範は利生塔設置に動いたはずです。
 細川氏は初期の守護所を阿波切幡寺のある秋月荘に置いていました。そこに阿波安国寺の補陀寺も建立しています。そのような中で、宥範は、暦応5(1342) 年に阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤めています。これについて『贈僧正宥範発心求法縁起』は、次のように記します。
 阿州切幡寺塔婆供養事。
此塔持明院御代、錦小路三条殿従四位上行左兵衛督兼相模守源朝臣直義御願 、胤六十六ヶ國。六十六基随最初造興ノ塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。日本第二番供養也 。其御導師勤仕之時、被任大僧都爰以彼供養願文云。貢秘密供養之道儀、屈權大僧都法眼和尚位。爲大阿闍梨耶耳 。
  意訳変換しておくと
 阿州切幡寺塔婆供養について。
この塔は持明院時代に、足利尊氏と直義によって、六十六ヶ國に設置されたもので、最初に造営供養が行われたのは暦応5年3月26日のことである。そして日本第二番の落慶供養が行われたのが阿波切幡寺の利生塔で、その導師を務めたのが宥範である。この時に大僧都として供養願文を供したという。後に大僧都法眼になり、大阿闍梨耶となった。

この引用は、善通寺利生塔の記事の直前に記されています。
「六十六基随一最初造興塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。」とあるので、切幡寺利生塔の落慶供養に関する記事だと研究者は判断します。
 ここで研究者が注目するのは、切幡寺が「日本第二番・供養也」、善通寺が「日本第三番目之御供養也」とされていることです。しかし、切幡寺供養の暦応5年3月26日以前に、山城法観寺・薩摩泰平寺・和泉久米田寺・日向宝満寺・能登永光寺・備後浄土寺・筑後浄土寺・下総大慈恩寺の各寺に、仏舎利が奉納されていること分かっています。これらの寺をさしおいて切幡寺や善通寺が2番目、3番目の供養になると記していることになります。弟子が書いた師匠の評伝記事ですから、少しの「誇大表現」があるのはよくあることです。それでも、切幡寺や善通寺の落慶法要の月日は、全国的に見ても早い時期であったことを押さえておきます。
当時の讃岐と阿波は、共に細川家の勢力下にありました。
細川頼春は、足利尊氏の進める利生塔建立を推進する立場にあります。守護たちも菩提寺などに利生塔を設置するなど、利生塔と守護は強くつながっていました。そのことを示すのが前回にも見た「細川頼春寄進状(善通寺文書)」です。もう一度見ておきます。
讃州①善通寺塔婆 ②一基御願内候間  
一 名田畠爲彼料所可有御知行候 、先年當國凶徒退治之時、彼職雖爲闕所、行漏之地其子細令注 進候了、適依爲當國管領 御免時分 、闕所如此令申候 、爲天下泰平四海安全御祈祷 、急速可被 申御寄進状候、恐々謹言 、
二月廿七日          頼春 (花押)
③善通寺 僧都御房(宥範)

②の「一基御願内」は、足利尊氏が各国に建立を命じた六十六基の塔のうちの一基の利生塔という意味のようです。そうだとすればその前の①「善通寺塔婆」は、利生塔のことになります。つまり、この文書は、善通寺利生塔の料所を善通寺に寄進する文書ということになります。この文書には、年号がありませんが、時期的には康永3年12月10日の利生塔供養以前のもので、細川頼春から善通寺に寄進されたものです。末尾宛先の③「善通寺僧都」とは、阿波切幡寺の利生塔供養をおこなった功績として、大僧都に昇任した宥範のことでしょう。つまり、管領細川頼春が善通寺の宥範に、善通寺塔婆(利生塔)のために田畑を寄進しているのです。

細川頼春の墓
細川頼春(1299~1352)の墓の説明版には、次のように記します。

南北朝時代の武将で、足利尊氏の命により、延元元年(1336)兄の細川和氏とともに阿波に入国。阿波秋月城(板野郡土成町秋月)の城で、のちに兄の和氏に代わって阿波の守護に就任。正平7年(1352)京都で楠木正儀と戦い、四条大宮で戦死、頼春の息子頼之が遺骸を阿波に持ち帰り葬った。


 
このころの頼春は、阿波・備後、そして四国方面の大将として華々しい活躍をみせていた時期です。しかし、説明板にもあるように、正平7年(1352)に、京都に侵入してきた南朝方軍の楠木正儀と戦いって討死します。同年、従兄・顕氏も急逝し、細川氏一族の命運はつきたかのように思えます。
 しかし、頼春の子・頼之が現れ、細川氏を再興させ、足利義満の養育期ごろまでは、事実上将軍の代行として政界に君臨することになります。この時期に、善通寺は宥範による「利生塔」建設の「恩賞」を守護細川氏から受けるようになります。

宥範と利生塔の関係を示す年表を見ておきます。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352(正平7)年 細川頼春が京都で楠木正儀と戦い戦死
 同年 宥範が半年で五重塔再建
1362年 細川頼之が讃岐守護となる
1367年 細川頼之が管領(執事)として義満の補佐となる
1371(応安4)年2月の「誕生院宥源申状案」に宥範の利生塔供養のことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧山攻防戦で焼失(近年は1563年説が有力)

 年表で見ると宥範は善通寺利生塔供養後の1346年に、前任者の道仁が 改易された後を継いで、大勧進職に就任しています。ここからも細川氏の信任を得た宥範が、善通寺において政治的地位を急速に向上させ、寺内での地位を固めていく姿が見えてきます。そして、1352年に半年で五重塔の再建を行い、伽藍整備を終わらせます。
 最初に述べたように、幕府の進める利生塔の供養導師を勤めるということは、室町幕府を担ぐ立場を明確に示したことになります。ある意味では宥範の政治的立場表明です。宥範は阿波切幡寺の利生塔供養を行った功績によって、大僧都の僧官を獲得しています。その後は、善通寺の利生塔の供養を行った功績で、法印僧位を得ています。これは別の言い方をすると、利生塔供養という幕府の宗教政策の一端を担うことで、細川頼春に接近し、その功で出世を遂げたことを意味します。
 もともと宥範は、元徳3(1331)年に善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘されました。
それが大勧進職に就くまでに約15年かかったことになります。どうして、15年もの歳月が必要だったのでしょうか? その理由は「大勧進職」という立場が伽藍整備にとどまるものでなく、寺領の処分を含めた寺院運営全体を取り仕切る立場だったので、簡単に余所者に任せるわけにいかないという空気が善通寺僧侶集団にあったからだと研究者は推測します。宥範の権力掌握のターニングポイントは、利生塔供養を通じて細川氏を後ろ楯にすることに成功したことにあると研究者は考えています。大勧進職という地位を得て、ようやく本格的に伽藍修造に着手できる権限を手にしたというのです。そうだとすれば、この時の伽藍整備は「幕府=細川氏」の強力な経済的援助を受けながら行われたと研究者は考えています。だからこそ木造五重塔を半年という短期間で完成できかのかも知れません。
 以上から阿波・讃岐両国の利生塔の供養は 、宥範にとっては善通寺の伽藍復興に向けて細川氏 という後盾を得るための機会となったと云えそうです。同時に、善通寺は細川氏を支える寺院であり、讃岐の警察機構の一部として機能していくことにもなります。こうして、善通寺は細川氏の保護を受けながら伽藍整備を行っていくことになります。それは、細川氏にとっては丸亀平野の統治モニュメントの役割も果たすことになります。
 細川頼春は戦死し、細川氏一族は瓦解したかのように見えました。

細川頼之(ほそかわよりゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク
           細川頼春の子・頼之
しかし、10年後には頼春の息子・細川頼之によって再建されます。その頼之が讃岐守護・そして管領として幕府の中枢に座ることになります。これは、善通寺にとっては非常にありがたい情勢だったはずです。善通寺は、細川氏の丸亀平野の拠点寺院として存在感を高めます。また細川氏の威光で、善通寺は周辺の「悪党」からの侵犯を最小限に抑えることができたはずです。それが細川氏の威光が衰える16世紀初頭になると、西讃守護代の香川氏が戦国大名への道を歩み始めます。香川氏は、善通寺の寺領への「押領」を強めていったことは以前にお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
          山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年
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善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
                            善通寺東院の「足利尊氏利生塔」
前回は善通寺東院の「足利尊氏利生塔」について、次のように押さえました。
① 14世紀前半に、足利尊氏・直義によって全国に利生塔建立が命じられたこと
②讃岐の利生塔は、善通寺中興の祖・宥範(ゆうばん)が建立した木造五重塔とされてきたこと
③その五重塔が16世紀に焼失した後に、現在の石塔が形見として跡地に建てられたこと
④しかし、現在の石塔が鎌倉時代のものと考えられていて、時代的な齟齬があること。
つまり、この定説にはいろいろな疑問が出されているようです。今回は、その疑問をさらに深める史料を見ていくことにします。

調査研究報告 第2号|香川県

善通寺文書について 調査研究報告2号(2006年3月川県歴史博物館)

善通寺文書の年末詳二月二十七日付の「細川頼春寄進状」に、善通寺塔婆(とば)領公文職のことが次のように記されています。
細川頼春寄進状                                                       192P
讃州善通寺塔婆(??意味不明??)一基御願内候間(??意味不明??)
名田畠為彼料所可有御知行候、先年当国凶徒退治之時、彼職雖為閥所、行漏之地其子細令注進候了、適依為当国管領御免時分閥所、如此令申候、為天下泰平四海安全御祈南、急速可被申御寄進状候、恐々謹言、
二月十七日    頼春(花押)
善通寺僧都御房
  意訳変換しておくと
讃州善通寺に塔婆(??意味不明??)一基(足利尊氏利生塔)がある。(??意味不明??)
 この料所として、名田畠を(善通寺)知行させる。(場所は)先年、讃岐国で賊軍を退治した時に、没収した土地である。行漏の土地で、たまたま国管領の御免時に持ち主不明の欠所となっていた土地で飛地になっている。利生塔に天下泰平四海安全を祈祷し、早々に寄進のことを伝えるがよろしい。恐々謹言、
二月十七日               頼春(花押)
善通寺僧都御房(宥範)
時期的には、細川頼春が四国大将として讃岐で南朝方と戦っていた頃です。
内容的には敵方の北朝方武士から没収した飯山町法勲寺の土地を、善通寺塔婆領として寄進するということが記されています。
まず年号ですが、2月17日という日付だけで、年号がありません。
 細川頼春が讃岐守護であった時期が分からないので、頼春からは年代を絞ることができません。ただ「贈僧正宥範発心求法縁起」(善通寺文書)に、次のように記されています。

康永三年(1344)12月10日、(善通寺で)日本で三番めに宥範を導師として日本で三番めに利生塔建立供養がなされた」

利生塔建立に合わせて寄進文書も発給されたはずなので、土地支給も康永三年ごろのことと推測できます。法勲寺新土居の土地は、1344年ごろ、善通寺利生塔の料所「善通寺塔婆領公文職」となったとしておきます。

讃岐の郷名
讃岐の郡・郷名(延喜式)
南北朝時代の法勲寺周辺の地域領主は、誰だったのでしょうか。
「細川頼春寄進状」の文言の中に「先年当国の凶徒退治の時、彼の職、閥所たるといえども・・・」とあります。ここからは井上郷公文職である新土居の名田畠を所有していた武士が南朝方に味方したので、細川氏によって「凶徒退治」され没収されたことが分かります。 つまり、南朝方に味方した武士が法勲寺地区にいたのです。この時に法勲寺周辺では、領主勢力が入れ替わったことがうかがえます。南北朝動乱期は、細川氏が讃岐守護となり、領国化していく時代です。

讃岐丸亀平野の郷名の
鵜足郡井上郷
 この寄進状」から約30年後に、関連文書が出されています。(飯山町史191P)。『善通寺文書』(永和4年(1378) 「預所左衛門尉某安堵状」には次のように記します。 
  善通寺領井上郷新土居 ①預所左衛門尉某安堵状
②善通寺塔婆領宇(鵜足郡)井上郷公文職新土居事
在坪富熊三段
一セマチ田壱段
           カチサコ三段
フルタウノ前壱反小
シヤウハウ二反
コウノ池ノ内二反
同下坪壱反小内半
合壱町弐段三百歩者
右、於壱町弐段三百歩者、如元止領家綺、永代不可相違之状如件、
永和四年九月二日
預所左衛門尉(花押) (善通寺文書)
永和四年(1378)9月、預所左衛門尉から善通寺塔婆領宇井上郷公文職新土居事について出された安堵状です。内容は、合計で「一町二段三百歩」土地を、領家の干渉を停止して安堵するものでです。背景ろして考えられるのは、周辺勢力からの「押領」に対して、善通寺側が、その停止を「預所」に訴え出たことに対する安堵状のようです。

①の「預所の左衛門尉」については、よく分かりません。以前見たように法勲寺の悪党として登場した井上氏や法勲寺地頭であった壱岐氏も「左衛門尉」を通称としていました。ひょとしたら彼らのことかも知れませんが、それを裏付ける史料はありません。「預所」という身分でありながら領家を差しおいて、直接の権原者としての安堵状を出しています。在地領主化した存在だったことがうかがえます。
②の「善通寺塔婆領宇(鵜足郡)井上郷公文職新土居事」は、先ほどの文書で見たように。善通寺の塔婆維持のために充てられた所領のことです。
それでは「新土居一町 二反三百歩」の所領は、どこにあったのでしょうか。飯山町史は、さきほどの文書に出てくる古地名を次のように推察します。
富熊三段
一セマチ田壱段
              ②カチサコ三段
フルタウノ前壱反小
シヤウハウ二反
③コウノ池ノ内二反
④同下坪壱反小内半
0綾歌町岡田東に飯山町と接して「下土居」
①富熊に近い長閑に寺田
②南西にかけさこ(カチサコ)、
③その西にある「切池」に池の内(コウノ池ノ内)
④池の下(同下坪)

法勲寺周辺条里制と古名

飯山町法勲寺周辺の条里制と古名(飯山町史)
③④はかつてのため池跡のようです。それが「切池」という地名に残っています。こうしてみると鵜足郡井上郷の善通寺塔婆領は、上法勲寺の東南部にあったことが分かります。しかし、1ヶ所にまとまったものではなく、小さな田畑が散らばった総称だったようです。善通寺寺塔婆領は、1~3反規模の田畠をかき集めた所領だったのです。合計一町二反三〇〇歩の広さですが、内訳は、「富熊三反、カチサコ三反」が一番大きく、せいぜい田一枚か二枚ずつだったことが分かります。ここでは、この時代の「領地」は、散在しているのが一般的で、まとまったものではなかったことを押さえておきます。

 分散する小さな田畑を、管理するのは大変です。そのため善通寺の支配が十分には行き届かなかったことが推察できます。また利生塔が宥範の建てた木造五重塔であったとすれば「一町二反三〇〇歩」の領地で管理運営できたとは思えません。
比較のために、諸国の安国寺や利生塔に寄進された料所を見ておきましょう。
①筑前景福寺に300貫相当として田畑合計55町寄進
②豊前天目寺も300貫相当として田畑合計26町寄進
平均200貫~300貫規模で、田畑は30町を越えることが多いようです。法勲寺以外にも所領があった可能性もありますが、善通寺が「一町二段三百歩」の土地を得るのにこれだけ苦労 しているのを見ると、全体として数十町規模の所領があったとは思えません。
 また仮にこの他に塔婆料所があったとしても、これと同様の飛び地で寄せ集めの状況だったことが予想されます。寺領としての経営は、不安定でやりにくいものだったでしょう。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代 石塔(後の利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
 年表を見ると分かるとおり善通寺の利生塔は、他国に先駆けて早々に造営を終えています。この事実から善通寺利生塔造営は、倒壊していた鎌倉時代の石塔の整備程度のもので、経済的負担の軽いものだったことを裏付けていると研究者は考えています。

以上を整理して、「宥範が再建 した木造五重塔は足利尊氏利生塔ではなかった」説をまとめておきます
①『贈僧正宥範発心求法縁起』 には、伽藍造営工事は観応3(1352)年に行われたと記されている
②しかし、利生塔の落慶供養はそれに先立つ8年前の康永3年(1344)にすでに終わっている。
③善通寺中興の祖とされる宥範は、細川氏支配下の阿波・讃岐両国の利生塔供養を通じて幕府 (細川氏)を後ろ盾にすることに成功した。
④その「出世」で善通寺大勧進職を得て、伽藍復興に本格的に看手し、五重塔を建立した。
⑤そうだとすれば、利生塔供養の段階で木造五重塔はまだ姿を見せていなかった。
⑥康永3年(1344)の利生塔落慶供養は、鎌倉時代の石塔整備という小規模なものであった。
⑦それは飯山町法勲寺の善通寺寺塔婆領が1~3反規模の田畠をかき集めた「1町2反」規模の所領であったことからも裏付けられる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」

善通寺 足利尊氏利生塔
足利尊氏利生塔(善通寺東院の東南隅)
 善通寺東伽藍の東南のすみに「足利尊氏利生塔」と名付けられた石塔があります。善通寺市のHPには、次のように紹介されています。

   五重塔の南東、東院の境内隅にある石塔が「足利尊氏の利生塔」です。暦応元年(1338年)、足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで、南北朝の戦乱による犠牲者の霊を弔い国家安泰を祈るため、日本60余州の国ごとに一寺一塔の建立を命じました。寺は安国寺、塔は利生塔と呼ばれ、讃岐では安国寺を宇多津の長興寺、利生塔は善通寺の五重塔があてられました。利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)の石塔が形見として建てられています。

要点を挙げておきます
① 石塔が「足利尊氏の利生塔」であること。
②善通寺中興の祖・宥範によって、五重塔として建立されたこと
③その五重塔が焼失(1558年)後に、この石塔が形見として建てられたこと
  善通寺のHPには、利生塔の説明が次のようにされています。

 足利尊氏・直義が、暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念し、国ごとに一寺・一塔の建立を命じたことに由来する多層塔。製作は鎌倉時代前期~中期ごろとされる。

ここには、次のようなことが記されています。
①こには、善通寺の利生塔が足利尊氏・直義によって建立を命じられた多層塔であること
②その多層塔の製作年代は鎌倉時代であること
これを読んで、私は「???」状態になりました。室町時代に建立されたと云われる多層塔の制作年代は、鎌倉時代だと云うのです。これは、どういうことなのでしょうか。今回は、善通寺の利生塔について見ていくことにします。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。


善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
足利尊氏利生塔(善通寺東院)
利生塔とされる善通寺石塔の形式や様式上の年代を押さえておきます。
①総高約2,8m、角礫凝灰岩制で、笠石上部に上層の軸部が造り出されている。
②初層軸石には、梵字で種子が刻まれているが、読み取れない。
③今は四重塔だが、三重の笠石から造り出された四重の軸部上端はかなり破損。
④その上の四重に置かれているのは、軒反りのない方形の石。
⑤その上に不釣り合いに大きな宝珠が乗っている。
⑥以上③④⑤の外見からは、四重の屋根から上は破損し、後世に便宜的に修復したと想定できる。
⑦二重と三重の軸部が高い所にあるので、もともとの層数は五重か七重であった
石造の軒反り
讃岐の石造物の笠の軒反り変化
次に、石塔の創建年代です。石塔の製作年代の指標は、笠の軒反りであることは以前にお話ししました。
初重・二重・三重ともに、軒口の上下端がゆるやかな真反りをしています。和様木造建築の軒反りについては、次のように定説化されています。
①平安後期までは反り高さが大きく、逆に撓みは小さい
②12世紀中頃からは、反り高さが小さく、反り元ではほとんど水平で、反り先端で急激に反り上がる
これは石造層塔にも当てはまるようです。石造の場合も 鎌倉中期ごろまでは軒反りがゆるく、屋根勾配も穏やかであること、それに対して鎌倉中期以後のものは、隅軒の反りが強くなるることを押さえておきます。そういう目で善通寺利生塔を見ると、前者にあてはまるようです。
また、善通寺利生塔の初重軸石は、幅約47cm、高さ約62,5cmで、その比は1,33です。これも鎌倉前期以前のものとできそうな数値です。
 善通寺利生塔を、同時代の讃岐の層塔と研究者は比較します。
この利生塔と似ているのは、旧持宝院十一重塔です。時宝院(染谷寺)は、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。

櫛梨
櫛梨城の下にあった時宝院は、島津氏建立と伝えられる

もともとは、この寺は島津氏が地頭職を持つ櫛無保の中にあったようです。それが文明年中(1469~86)に、奈良備前守元吉が如意山に櫛梨城を築く時に現在地に寺地を移したと伝えられます。そして、この寺を兼務するのが善通寺伽藍の再建に取り組んでいた宥範なのです。
 ここにあった層塔が今は、京都の銀閣寺のすぐ手前にある白沙村荘に移されています。白沙村荘は、日本画家橋本関雪がアトリエとして造営したもので、総面積3400坪の庭園・建造物・画伯の作品・コレクションが一般公開され、平成15年に国の名勝に指定されています。パンフレットには「一木一石は私の唯一の伴侶・庭を造ることも、画を描くことも一如不二のものであった。」とあります。

時宝院石塔
   時宝院から移された十一重塔
旧讃岐持宝院にあったものです。風雨にさらされゆがんだのでしょうか。そのゆがみ具合まで風格があります。凝灰岩で出来ており、立札には次のように記されています。

「下笠二尺七寸、高さ十三尺、城市郎兵衛氏の所持せるを譲りうけたり」

この時宝院の塔と善通寺の「足利氏利生塔」を比較して、研究者は次のように指摘します。
①軒囗は上下端とも、ゆるやかな真反りをなす。
②初重軸石の(高 さ/ 幅 ) の 比 は1,35、善通寺石塔は、1,33
③両者ともに角礫凝灰岩製。
④軒口下端中央部は、一般の石塔では下の軸石の上端と揃うが 、両者はもっと高い位置にある(図 2 参照 )。

善通寺利生塔初重立面図
善通寺の「利生塔」(左)と、白峰寺十三重塔(東塔)
⑤基礎石と初重軸石の接合部は 、一般の石塔では、ただ上にのせるだけだが 、持宝院十一重塔は 、基礎石が初重軸石の面積に合わせて3,5cmほど掘り込まれていて、そこに初重軸石が差し込ま れる構造になっている。これは善通寺石塔と共通する独特の構法である。
以上から両者は、「讃岐の層塔では、他に例がない特殊例」で、「共に鎌倉前期以前の古い手法で、「同一工匠集団によって作成された可能性」があると指摘します。
 そうだとすれば両者の制作地候補として第一候補に上がるのは、弥谷寺の石工集団ではないでしょうか。
石工集団と修験
中世の石工集団は修験仲間?
時宝院石塔初層軸部
旧時宝院石塔 初層軸部
 善通寺市HPの次の部分を、もう一度見ておきます。
   利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩の石塔が形見として建てられています。
 
ここには、焼け落ちたあとに石塔が形見として造られたありますが、現在の「利生塔」とされている石塔は鎌倉時代のものです。この説明は「矛盾」で、成立しませんが。今枝説は、次のように述べます。

『続左丞抄』によれば、康永年中に一国一基の利生塔の随一として同寺の塔婆供養が行なわれて いることがしられる。『全讃史』四 に 「旧有五重塔 、戦国焼亡矣」 とあるのがそれであろうか。なお、善通寺には 「利生塔」とよばれている五重の石塔があるが、これは前記の五重塔の焼跡に建てられたものであろう。

この説は戦国時代に焼失した木造五重塔を利生塔と考え、善通寺石塔についてはその後建てられたと推測しています。本当に「讃岐国(善通寺)利生塔は、宥範によって建立された木造五重塔だったのでしょうか?
ここで戦国時代に焼け落ちたとされる善通寺の五重塔について押さえておきます。
利生塔とされているのは、善通寺中興の祖・宥範が1352年に再建した木造五重塔のことです。それまでの善通寺五重塔は、延久2年(1070)の大風で倒壊していました。以後、南北朝まで再建できませんでした。それを再建したのが宥範です。その五重塔が天霧攻防戦(永禄元年 (1558)の時に、焼失します。

『贈僧正宥範発心求法縁起』には、宥範による伽藍復興について、次のように記されています。 
自暦應年中、善通寺五重.塔婆并諸堂四面大門四方垣地以下悉被造功遂畢。

また奥書直前の宥範の事績を箇条書きしたところには 、
自觀應三年正月十一日造營被始 、六月廿一日 造功畢 。
 
意訳変換しておくと
①宥範が暦応年中 (1338~42)から善通寺五重塔や緒堂整備のために資金調達等の準備を始めたこと
②実際の工事は観応3(1352)年正月に始まり、6月21日に終わった
気になるのは、②の造営期間が正月11日に始まり、6月21日に終わっていることです。わずか半年で完成しています。以前見たように近代の五重塔建設は、明治を挟んで60年の歳月がかかっています。これからすると短すぎます。「ほんまかいなー」と疑いたくなります。
一方 、『続左丞抄』に収録された応安4(1371)年 2月の 「誕生院宥源申状案」には 、宥範亡き後の記録として次のように記されています。
彼宥範法印、(中略)讃州善通寺利生塔婆、同爲六十六基之内康永年 中被供養之時、

ここには善通寺僧であった宥範が利生塔の供養を行ったことが記されています。同じような記録 は 『贈僧正宥範発心求法縁起』にも、次のように記されています。
一 善通寺利生塔同キ御願之塔婆也。康永三年十二月十日也 。日本第三番目之御供養也。御導師之 時被任法印彼願文云賁秘密之道儀ヲ、艮法印大和尚位権大僧都爲大阿闍梨耶云云 。

これは「誕生院宥源申状案」よりも記述内容が少し詳しいようです。しかし、両者ともに「善通寺利生塔(婆)」とあるだけで、それ以外の説明は何もないので木造か石造かなどは分かりません。ただ、この時期に利生塔供養として塔婆供養が行なわれていたことは分かります。

中世善通寺伽藍図
中世善通寺の東院伽藍図
以上を年表にしておきます。。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代に石塔(利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
この年表を見て気になる点を挙げておきます。
①鎌倉時代の石塔が、16世紀に木造五重塔が焼失した後に形見として作られたことになっている。
②宥範の利生塔再建よりも8年前に、利生塔供養が行われたことになる。
これでは整合性がなく矛盾だらけですが、先に進みます。
15世紀以降の善通寺の伽藍を伝える史料は、ほとんどありません。そのため伽藍配置等についてはよく分かりません。利生塔について触れた史料もありません。18世紀になると善通寺僧によって書かれた『讃岐国多度郡屏風浦善通寺之記』(『善通寺之記』)のなかに、次のように利生塔のことが記されています。

持明院御宇、尊氏将軍、直義に命して、六十六ヶ國に石の利生塔を建給ふ 。當國にては、當寺伽藍の辰巳の隅にある大石之塔是なり。

意訳変換しておくと
持明院時代に、足利尊氏将軍と、その弟直義に命じて、六十六ヶ國に石の利生塔を建立した。讃岐では、善通寺伽藍の辰巳(東南)の隅にある大石の塔がそれである。

利生塔が各国すべて石塔であったという誤りがありますが、善通寺の石の利生塔を木造再建ではなく、もともとのオリジナルの利生塔としています。また、東院伽藍の「辰巳の隅」という位置も、現在地と一致します。「大石之塔」が善通寺利生塔と認識していたことが分かります。ここでは、18世紀には、善通寺石塔がもともとの利生塔とされていたことを押さえておきます。

 以上をまとめておきます。
①善通寺東院伽藍の東南隅に「足利尊氏利生塔」とされる層塔が建っている。
②これは木造五重塔が16世紀に焼失した後に「形見」として石造で建てられたとされている。
③しかし、この層塔の製作年代は鎌倉時代のものであり、年代的な矛盾が生じている。
④18世紀の記録には、この石塔がもともとの「足利尊氏利生塔」と認識していたことが分かる。
⑤以上から、18世紀以降になって「足利尊氏利生塔=木造五重塔」+ 石塔=「形見」再建説がでてきて定説化されたことが考えられる。
どちらにしても宥範が善通寺中興の祖として評価が高まるにつれて、彼が建てた五重塔の顕彰化が、このような「伝説」として語られるようになったのかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  まんのう町の教育委員会を通じて、町内の小学校から綾子踊りのことについて話して欲しいという依頼を受けました。綾子踊保存会の事務局的な役割を担当しているので、私の所に話が回ってきたようです。4年生の社会科の地域学習の単元で、綾子踊りを取り上げているようです。「分かりやすく、楽しく、ためになるように、どんな話をしたらいいのかなあ」と考えていると、送られてきたのが次の授業案です。

綾子踊り指導案

これを見ると6回の授業で、讃岐の伝統行事を調べています。
その中から佐文綾子踊を取り上げ、どのように伝えられてきたのか、どう継承していこうとしているのかまでを追う内容になっています。授業方法は子ども達自身が調べ、考えるという「探求」型学習で貫かれています。私の役割も「講演(一方的な話)」が求められているのではないようです。授業テーマと、その展開部を見ると次のように書かれています    
綾子踊りが、どうして変わらずに残ったのか考えよう。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
→ 何かで途絶えるかもしれないとおもったからじゃないかな
→ 忘れないようにしたかったから 口だけだと忘れてしまいそうだから
→ でも、どうしてここまでして残そうとしたんだろうか
→ それを保存会の方に聞いてみよう!
この後で、私の登場となるようです。さて、私は何を話したらいいのでしょうか?
尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊りの文書

ここで私が思い出したのは、1934(昭和9)年に、尾﨑清甫が書残している「綾子踊団扇指図書起」の次の冒頭部です。

綾子踊団扇指図書起
綾子踊団扇指図書起
 綾子踊団扇指図書起
 さて当年は旱魃、甚だしく村内として一勺の替水なく農民之者は大いに困難せる。昔し弘法大師の教授されし雨乞い踊りあり。往昔旱魃の際はこの踊りを執行するを例として今日まで伝え来たり。しかしながら我思に今より五十年ないし百年余りも月日去ると如何なる成行に相成るかも計りがたく、また世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。
 また人間は老少を定めぬ身なれば団扇の使う役人、もしや如何なる都合にて踊ることでき難く相成るかもしれず。察する内にその時日に旱魃の折に差し当たり往昔より伝来する雨乞踊りを為そうと欲したれども団扇の扱い方不明では如何に顔(眼)前で地唄を歌うとも団扇の使い方を知らざれば惜しいかな古昔よりの伝わりし雨乞踊りは宝ありながら空しく消滅するよりほかなし。
 よりてこの度団扇のあつかい方を指図書を制作し、千代万々歳まで伝え置く。この指図書に依って末世まで踊りたまえ。又善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
                                    昭和9(1934)年10月12日
 綾子踊団扇指図書起 最尾部分 1934年
   綾子踊団扇指図書起の最後の署名(1934(昭和9年)

右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也

小学4年生に伝わるように、超意訳してみます。
 今年は雨がなく、ひでりが続いて、佐文の人たちは大変苦しみました。佐文には、弘法大師が伝えた雨乞い踊(おど)りがあります。昔からひでりの時には、この踊りを踊ってきました。しかし、世の中の進歩や変化につれて、人の心も変わっています。そんな踊りで雨が降るものか、そんなのは科学的でない、と反対する人達もでてきて、佐文の人たちの心もまとまりにくくなっています。そして、ひでりの時にも、雨乞踊りがおどられなくなります。そのまま何十年も月日が過ぎます。そんなときに、ひどい日照りがやってきて、ふたたび雨乞踊りを踊ろうとします。しかし、うちわの振(ふ)り方や踊り方が分からないことには、唄が歌われても踊ることはできません。こうして、惜(お)しいことに昔から佐文に伝えられてきた雨乞踊りという宝が、消えていくのです。
 そんなことが起きないように、私は団扇のあつかい方の指導書を書き残しておきます。これを、行く末(すえ)まで伝え、この書によって末世まで踊り伝えてください。善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
ここには、「団扇指南書」を書き残しておく理由と、その願いが次のように書かれています。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
   尾﨑清甫「綾子踊り団扇指南書」の伝える願い
  綾子踊りの継承という点で、尾﨑清甫の果たした役割は非常に大きいものと云えます。彼が書写したと伝えられる綾子踊関係文書のなかで最も古いものは「大正3年 綾子踊之由来記」 です。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊り由来記
ここからは、大正時代から綾子踊りの記録を写す作業を始めていたことが分かります。
次に書かれた文書が「団扇指南書」で、1934(昭和9)年10月に書かれています。ちょうど90年前のことになります。この時点で、綾子踊りの伝承について尾﨑清甫は「危機感・使命感・決意・願い」を抱いていたことが分かります。彼がこのような思いを抱くようになった背景を見ておきましょう。
1939年に、旱魃が讃岐を襲います。この時のことを、尾﨑清甫は次のように記しています。

1934年)大干魃に付之を写す
   紀元2594年(昭和9:1934年)大干魃に付之を写す             尾﨑清甫写之
  字佐文戸数百戸余りなる故に、綾子踊について協議して実施することが困難になってきた。ついては「北山講中」として村雨乞いの行列で願立て1週間で御利生を願った。(しかし、雨が降らなかったので)、再願掛けをして旧盆の7月16日に踊ったが、利生は少なかった。そこで旧暦7月29日に大いなる利生があった。そこで、俄な申し立てで旧暦8月1日に雨乞成就のお礼踊りを執行した。

  ここからは次のようなことが分かります。
①大干魃になっても、佐文がひとつになって雨乞い踊りを踊ることが困難になっていること。
②そこで「北山講中(国道377号の北側の小集落)」だけで綾子踊りを編成して踊ったこと
③2回目の躍りで、雨が降ったこと
④そのため8月1日に雨乞成就のお礼踊りを奉納したこと

先ほど見た「団扇指南書起」には、次のようにありました。
「世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。」

 ここからは、この時点で雨乞い踊りをおどることについて、佐文でも意見と行動が分かれていたことがことが見て取れます。そのような中で、尾﨑清甫は「団扇指南書」を書残す必要性を実感し、実行に移したのでしょう。
尾﨑清甫
尾﨑清甫
5年後の1939(昭和14)年に、近代になって最大規模の旱魃が讃岐を襲います。
その渦中に尾﨑清甫はいままでに書いてきた「由来記」や「団扇指南書」にプラスして、踊りの形態図や花笠寸法帳などをひとつの冊子にまとめるのです。この文書が、戦後の綾子踊り復活や、国の無形文化財指定の大きな力になっていきます。

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尾﨑清甫の綾子踊文書を入れた箱の裏書き
最後に、小学校4年生の教室で求められているお題を振り返っておきます。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
これについての「回答」は、次のようになります。
①近代になって科学的・合理的な考え方からすると「雨乞踊り」は「迷信」とされるようになった。
②そのためいろいろな地域に伝えられていた雨乞い踊りは、踊られなくなった。
③佐文でも全体がまとまっておどることができなくなり、一部の人達だけで踊るようになった。
④それに危機感を抱いた尾﨑清甫は、伝えられていた記録を書写し残そうとした。
尾﨑清甫は、佐文の綾子踊りに誇りを持っており、それが消え去っていくことへ強い危機感を持った。そこで記録としてまとめて残そうとした。
讃岐には、各村々にさまざまな風流踊りが伝わっていました。それが近代になって消えていきます。踊られなくなっていくのです。その際に、記録があればかすかな記憶を頼りに復活させることもできます。しかし、多くの風流踊りは「手移し、口伝え」や口伝で伝えられたものでした。伝承者がいなくなると消えていってしまいます。そんな中で、失われていく昭和の初めに記録を残した尾﨑清甫の果たした役割は大きいと思います。

綾子踊り 国踊り配置図
綾子踊り隊形図(国踊図)
これを小学4年生に、どんな表現で伝えるかが次の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 西讃府誌と尾﨑清甫
佐文綾子踊の書かれた史料
綾子踊についての史料は、次の2つしかありません
①幕末の西讃府志の那珂郡佐文村の項目にかかれたもの
②佐文の尾﨑清甫の残した書類(尾﨑清甫文書)
前回は、この内の②尾﨑清甫が大正3年から書き付けられ始めて、昭和14年に集大成されたことを見てきました。この過程で、表現の変化や書き足しが行われ、分量も増加しています。ここからうかがえることは、尾﨑清甫文書が従来伝えられてきたように「書写」されたものではなく、時間をかけながら推敲されたものであるということでした。西讃府誌の記述を核に、整えられて行ったことが考えられます。今回は、西讃府誌と尾﨑清甫文書を比較しながら、どの部分が書き足されたものなのかを見ていくことにします。

西讃府志 綾子踊り
        西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊

まず、西讃府誌に綾子踊りについて何が書かれているのかを見ておきましょう。(意訳)
佐文村に旱魃の時に踊れば、必験ありとして、龍王社と氏社の加茂神社で踊られる踊りがある。これにも滝宮念仏踊りと同様に下知(芸司)が一人いて、裃を着て、花笠を被り、大きな団扇を持つ。踊子(小躍)6人は、10歳ほどの童子を、女子の姿に女装し、白い麻衣を着せて、赤い帯を結んで、花笠を被り、扇を持つ。叉踊の歌を歌う者四人(地唄)は、菅笠を被り裃を着る。菅笠の縁には青い紙を垂らす。又、袴を着て、木綿(ユフ)付けた榊持が二人、又花笠キテ鼓笛鉦などを鳴らす者各一人。踊り始める前には、薙刀と棒が次のような問答を行う。

以前に紹介したので以下は省略します。
西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①佐文村では旱魃の時に、龍王社と加茂神社で綾子踊りが雨乞いのために踊られている
②その構成は形態は、下知(芸司)・女装した踊子(小踊)6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各一人などである。
③踊り前に、薙刀と棒の問答・演舞がある
④演舞の後、下知(芸司)の口上で踊りが開始される
⑤地唄が声を揃えて詠い、下知が団扇を振りながら踊り、小躍り、扇を振って踊る。
⑥鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。
⑦調子や節は、今の田歌に似ている。
⑧以下踊られる12曲の歌詞が掲載されている。

以上から西讃府誌には、次の3つの史料が掲載されていることを押さえておきます。
A 棒薙刀問答 B 芸司の口上 C 地唄12曲

残されている史料から引き算すると、これ以外のものは尾﨑清甫の残した文書の中に書かれていることになります。縁起や由来、各役割と衣装・持ち物などが書き足されたことになります。

尾﨑清甫史料
綾子踊に関する尾﨑清甫の残した文書

 前回に見た尾﨑清甫が残した史料は、そのような空白を埋めるものだったと私は考えています。しかし、大正3年から書き始められ、昭和14年にまとめられたものとでは、相違点があることを前回に指摘しました。それは由来書についても、推敲が重ねられ少しずつ文章が変化しています。それを次に見ておきましょう。

綾子踊り由来大正3年
綾子踊
由来 大正3年版
迎々 佐文雨乞踊と称えるは 古昔より伝来した雨乞踊あり 今其の由来を顧るに 往昔佐文村が七家七名の頃 其頃干ばつ甚だ敷 田畑は勿論山野の草木に到る迄 大方枯死せんと万民非常に困難せし事ありき 当時当村に綾と云う人あり 
或日一人の①聖僧あり 吾れ凡愚済度の為め 四国の山間辺土を遍歴する者なるが何分炎熱甚だ敷く 焼くが如くに身に覚ゆ 暫時憩はせ給えとて彼の家に入り来る 綾は快く之を迎え 涼しき所へ案内して茶などを進めたるが僧は歓びて之を喫み給いつつ 四方山(以下略)
綾子踊り由来昭和9年版
綾子踊由来 昭和9年版

 大正3年と昭和9年の由来に関する部分の異同は、
②「七家七名の頃」→「七家七名之頃 即ち七×七=四十九名」
の1点だけです。
綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊由来 昭和14年版
それが昭和14年版になると①と③が推敲されます。③は、それまでは「聖僧」がへりくだって「凡愚済度」のためと称していたのを、「衆愚済度」に改めています。これも弘法大師信仰を考えてのことかもしれません。小さな所ですが、ここでも推敲が繰り返し行われています。
この他、西讃府誌と「雨乞踊悉皆写」の相違点で気づいた点を挙げておきます。

西讃府誌と尾﨑清甫の相違点

以上をまとめたおきます。
①綾子踊りには、西讃府誌と尾﨑清甫の残した文書しかない。
②西讃府誌以外の記載は、尾﨑清甫が大正3年から書残したものである。
③それを昭和14年に、すべてまとめて「雨乞踊悉皆写」として記録に残している。
④その経過を見ると、加筆・訂正・推敲・図版追加などが行われている。
⑤以上から
「雨乞踊悉皆写」は書写したものではなく、尾﨑清甫が当時踊られていた綾子踊りを後世に残すために新たに「創作」されたものである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊りの里 佐文誌 176P

  県ミュージアムの学芸員の方をお誘いして、綾子踊史料の残されている尾﨑家を訪問しました。

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尾﨑清甫(傳次)の残した文書類
尾﨑家には尾﨑清甫(傳次)の残した文書が2つの箱に入れて保管されています。この内の「挿花伝書箱」については、華道家としての書類が残されていることは以前に紹介しました。今回は、右側の「雨乞踊諸書類」の方を見せてもらい、写真に収めさせていただきました。その報告になります。
 以前にもお話ししたように、丹波からやって来た廻国の僧侶が宮田の法然堂に住み着き、未生流という華道を教えるようになります。そこに通った高弟が、後に村長や県会議員を経て衆議院議員となる増田穣三です。彼は、これを如松流と称し、一派を興し家元となります。その後継者となったのが尾﨑清甫でした。

尾﨑清甫
尾﨑清甫(傳次)と妻
清甫の入門免許状には「秋峰」つまり増田穣三の名と印が押されていて、 明治24年12月、21歳での入門だったことが分かります。師匠の信頼を得て、清甫は精進を続け次のように成長して行きます。
大正9(19200)華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任
大正15年3月 師範免許(59歳)
昭和 6年7月 准目代(64歳)
昭和12年6月 会頭指南役免状を「家元如松斉秋峰」(穣三)から授与。(3代目就任?)
昭和14年 佐文大干魃 綾子踊文書のまとめ
昭和18年8月9日 没(73歳)
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  箱から書類を出します。毛筆で手書きされた文書が何冊か入っています。
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  書類を出して、箱をひっくり返して裏側を見ると、上のように書かれていました。
  尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊関係の史料

  何冊かの綴りがあります。これらの末尾に記された年紀から次のようなことが分かります。
A ⑩の白表紙がもっとも古くて、大正3年のものであること
B その後、①「棒・薙刀問答」・⑤綾子踊由来記・⑥第一図如位置心得・⑧・雨乞地唄・⑨雨乞踊地唄が書き足されていること
C 最終的に昭和14年に、それまでに書かれたものが③「雨乞踊悉皆写」としてまとめられていること
D 同時に⑪「花笠寸法和」⑫「花笠寸法」が書き足されたこと
  今回は⑩の白表紙で、大正3年8月の一番古い年紀のある文書を見ていくことにします。
T3年文書の年紀
        綾子踊り文書(大正3年8月版)
最初に出てくるのは「 村雨乞位置ノ心得」です。

T3 村雨乞い
 「村雨乞位置ノ心得」(大正3年8月版)
一、龍王宮を祭り、其の左右露払い、杖突き居て守護の任務なり。
二、棒、薙刀は龍王の正面の両側に置き、龍王宮並びに地歌の守護が任務なり。

T3
    「村雨乞位置ノ心得」(大正3年8月版)
三、地歌の位置、厳重に置く。
四、小踊六人、縦向かい合わせに置く。
五、芸司、その次に置く。
六、太鼓二人、芸司の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
七、鉦二人、太鼓の後に置き、その両側に笛二人を置く。
八、鼓二人、鉦の後に置く。
九、大踊六人、鼓の後に置く。
十、外(側)踊五十人、大踊の後に置く。

 この「村雨乞位置ノ心得」で、現在と大きく異なるのは「十、外(側)踊五十人、大踊の後に置く。」の記述です。  五人の誤りかと思いましたが、何度見ても五十人と記されています。また、現在の表記は「側踊(がわおどり)」ですが「外踊」とあります。これについては、雨乞成就の後に、自由に飛び込み参加できたためとされています。
「村雨乞位置ノ心得」に続いて「御郡雨乞位置ノ心得」と「御国雨乞位置ノ心得」が続きます。ここでは「御国雨乞位置ノ心得」だけを紹介しておきます。

T3 国雨乞い

T3 国雨乞2
御国雨乞位置ノ心得(大正3年版)
一 龍王宮を祀り、その両側で、露払い、杖突きは守護が任務。
二 棒、薙刀が、その正面に置いてある龍王宮、地歌の守護が任務。
三 地歌は、棒、薙刀の前に横一列に置く。
四、小踊三十六人は、縦四列、向かい合わせ  干鳥に置く。(村踊りは6人)
五、芸司は、その次に置く。
六、太鼓二人は芸司の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
七、鉦二人は太鼓の後におき、その両側に笛二人を置く。
八、太鼓二人は、鉦の後に置く。
九、太鼓二人は鼓の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
十、鉦二人は大鼓の後に置き、その両側に笛二人を置く。
十一、鼓二人は、鉦の後に置く。
十二、太鼓二人は鼓の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
十三、鉦は太鼓の後に置き、その両側に笛二人を置き、その両側に大踊二人を置く。
十四、鼓二人は鉦の後に置き、その両側に大踊四人を置く。
十五、大踊三十六人は、鼓の後に置く。
十六、側踊は、大踊の後に置く。

同じ事が書かれていると思っていると、「四 小踊三十六人」とでてきます。その他の構成員も大幅に増やされています。これは「村 → 郡 → 国」に準じて、隊編成を大きくなっていたことを示そうとしているようです。これを図示したものが、昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」には添えられています。それを見ておきましょう。

綾子踊り 国踊り配置図
    昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」の御国雨乞位置
これをすべて合わせると二百人を越える大部隊となります。これは、佐文だけで編成できるものではなく「非現実的」で「夢物語的」な記述です。また、綾子踊りが佐文以外で踊られたことも、「郡・国」の編成で踊られたことも記録にもありません。どうして、こんな記述を入れたのでしょうか。これは綾子踊りが踊られるようになる以前に、佐文が参加していた「滝宮念仏踊 那珂郡南(七箇村)組」の隊編成をそのまま借用したために、こんな記述が書かれたと私は考えています。
綾子踊り 国踊り配置図下部
昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」の御国雨乞位置

同時に尾﨑清甫は、「滝宮念仏踊 那珂郡南(七箇村)組」の編成などについて、正確な史料や情報はなく、伝聞だけしか持っていなかったことがうかがえます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3
佐文誌(昭和54年)の御国雨乞位置
「一 龍王宮を祭り・・」とありますが、この踊りが行われた場所は、現在の賀茂神社ではなかったようです。
大正3年版にはなかった踊隊形図が、昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」には、添えられています。この絵図からは、綾子踊が「ゴリョウさん」で踊られていたことが分かります。「ゴリョウさん」は、かつての「三所神社」(現上の宮)のことで、御盥池から山道を小一時間登った尾根の窪みに祭られていて、山伏たちが拠点とした所です。そこに綾子踊りは奉納されていたとします。
 「三所神社」は、明治末の神社統合で山を下り、賀茂神社境内に移され、今は「上の宮」と呼ばれています。その際に、本殿・拝殿なども移築されたと伝えられます。とすると当時は、祠的なものではなくある程度の規模を持った建物があったことになります。しかし、この絵図には、建物らしきものは何も描かれていません。絵図には、「蛇松」という枝振りの変わった松だけが描かれいます。その下で、綾子踊りが奉納されています。

綾子踊り 国踊り配置図上部

 また注意しておきたいのは、「位置心得」の記述順が、次のように変化しています。
A 大正3年の「位置心得」では「村 → 郡 → 国」
B 昭和14年の「位置心得」では「国 → 郡 → 村」
先に見たとおり、大正3年頃から書き付けられた地唄・由来・口上・立ち位置などの部品が、昭和14年に③「雨乞踊悉皆写」としてまとめられています。注意したいのは、その経過の中で、推敲の形跡が見られ、表現や記述順などに異同が各所にあることです。また、新たに付け加えられた絵図などもあります。
 綾子踊の文書については、もともと「原本」があって、それを尾﨑清甫が書写したもの、その後に原本は焼失したとされています。しかし、残された文書の時代的変遷を見ると、表現が変化し、付け足される形で分量が増えていきます。つまり、原本を書き写したものではないことがうかがえます。幕末の「西讃府誌」に書かれていた綾子踊の記事を核にして、尾﨑清甫によって「創作」された部分が数多くあることがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊りの里 佐文誌 176P

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「風流踊のつどい In 郡上」
やってきたのは岐阜県の郡上市。郡上市では「郡上踊り」と「寒水の掛踊り」のふたつの風流踊りがユネスコ認証となりました。それを記念して開かれた「風流踊のつどい In 郡上」に、綾子踊りもお呼ばれして参加しました。
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       郡上城よりの郡上市役所と市民ホール
2台のバスで総勢43名がまんのう町から約8時間掛けて移動しました。
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          郡上市役所と市民ホール
やって来たのは、市役所の下にある市民文化ホール。前日に、会場下見とリハーサルを行い、入庭(いりは)の順番や舞台での立ち位置、音量あわせなどを行いました。長旅の疲れを郡上温泉ホテルで流し、「郡上踊り」や「寒水の掛踊り」の役員さん達の親睦会で、いろいろな苦労話を聞いたり、情報交換も行えました。

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綾子踊の花笠(菖蒲の花がさされます)

8日(日)13:00からの開会式後のアトラクションで舞台に立ちます。小踊りの着付けには、1時間近くの時間がかかります。

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着付けが終わった大踊りの高校生と小踊り

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僧侶姿の鉦打ち姿の保存会長
今回は会場からの入庭(入場)でした。
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佐文綾子踊(郡上市)
残念ながら踊っている姿を、私は撮影できませんでした。動画はこちらのYouTubeで御覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=-_tNK3DKbqU

前日のリハーサルでは、問題点が山積み状態だったのですが、本番では嘘のようにスムーズに進みました。わずか20分の舞台は、あっというまでした。着替えの後で、郡上市長さんからお礼の言葉をいただき、記念写真を撮りました。
IMG_E5987
佐文綾子踊保存会(郡上市文化ホール)
 「風流踊り In 郡上」に招待していただいたことに感謝しながら
帰路に就きました。

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佐文綾子踊りについて、いろいろな資料を集めています。分からないことは数多くあるのですが、佐文綾子に先行する那珂郡七箇念仏踊りが、どうして滝宮への踊り込みをしなくなったのかについてを、明らかにしてくれる資料が私の手元にはありません。資料がないままに以前には、次のように推察しました。
①七箇念仏踊りは、高松藩・丸亀藩・満濃池領(天領)の村々の構成体で、運営をめぐる意見対立が深刻化していた。
②天領の村々の庄屋たちは、運営を巡って脱退や会費支払い拒否も見せていた。
③そのような中で、明治維新の神仏分離で滝宮念仏踊りの運営主体である龍燈院(滝宮神社の別当寺)の院主が還俗した。
④そのため龍燈寺は廃寺となり、滝宮念仏踊りの運営主体がなくなり、自然消滅してしまった。
⑤その結果、滝宮念仏踊りは開催されなくなった。

阿野郡の郷
阿野郡の郷
それではその後の滝宮念仏踊りの復興は、どのように進んだのでしょうか。
今回は、明治になって踊られなくなっていた坂本念仏踊りがどのように復活していくのかを見ていくことにします。テキストは 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774Pです。

坂本村史(坂本村村史編纂委員会 編集・発行) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

明治初期の坂本念仏踊の復興について、『坂本村史』は次のように記します。(要約)
 明治2年(1869)2月、念仏踊復興のために、滝宮神宮社務・綾川巌の名で香川県参政へ願い出たが、何の連絡もなかった。明治11年(1878)七月になって、阿野郡人民総代泉川広次郎・川田猪一郎、県社天満神社祠掌田岡種重の二人が連署して、愛媛県令岩村高俊あて願書提出したところ、7月29日付で、次のような許可文書がくだされた。
書面頂出ノ趣聞届候条不取締無之様注意可致事 但シ最寄警察分署へ届出ズベシ
愛暖県高松支守
  意訳変換しておくと
提出された復興願いの書面について、聞届けるので、取締対象にならぬように注意して実施すること。但し、最寄警察分署へ実施届出を提出すること
愛媛県高松支守
当時は、香川県はなくなっていたので高松支所からの許可願となっています。
滝宮念仏踊り3 坂本組
坂本念仏踊り

これを受けて、次のような正式の許可願が提出されます。
滝宮県社天満神社及同所滝宮神社神事踏歌ノ儀、該社並組合村中、流例ノ神社之依テ執行御願滝宮踏歌神事ノ儀ハ予テ先般該社神官並鵜足部阿野部給代連署フ以テ願出御指令相成り則本年ハ右神事鵜足部順年二付任吉例来ル二十三日滝宮両社二於テ執行仕り来り候儀二付本年ハ東坂元村亀山神社真時村下坂神社川原村日吉神社西坂元村坂本神社ノ四社二於テ執行仕度就テハ祭器ノ内刀、護刀両器械フモ神事瀾内二於テ相用度此段奉願候 以上
明治十一年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記願出之儀許可相成度最モ指掛候儀二付至急御指令相成度奥印仕候也
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長 寺 島 文五郎
十小区長 横 田   稔
副小区長 伊 藤 知 機
意訳変換しておくと
滝宮県社天満神社と滝宮神社神事である「踏歌(念仏踊り)」について、該当する神社や組合村々は、神事復活について、各社の神官代表、ならびに鵜足郡・阿野郡の代表者が連署して、許可申請を提出いたしました所、許可をいただきました。つきましては実施に向けた動きを進めていきますが、本年の神事は鵜足郡の担当で、日程は古来通り、23日に滝宮両社で執り行う予定です。その事前奉納を、次の4社で行います。東坂元村の亀山神社、真時村の下坂神社、川原村の日吉神社、西坂元村の坂本神社。なお、その際に祭器の内、刀、護刀についての取扱については、神事のために使用するものであることを申し添えます。 以上
明治11年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記の祭礼復活許可をいただいた件について、至急御指令を下されるようにお願いいたします。
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長     寺 島 文五郎
十小区長     横 田   稔
副小区長     伊 藤 知 機
ここからは次のようなことが分かります。
①滝宮念仏踊りが「踏歌」と表現されていること。このあたりにも廃仏毀釈の影響からか、当局を刺激しないように、仏教的な「念仏踊り」という表現でなく、「踏歌」としたのかもしれません。
②滝宮両社への奉納以前に、事前に地元神社への奉納許可と、その日程を伝えています。
これに対し、次のような回答が下されています。
書面願出之趣祭典ニアラズシテ神社二於テ賑之儀ハ難聞届候事但八幡神社踏歌神事ハ祭典二際シ古例ナルフ以テ差許候儀二有之且自今如此願ハ受持神官連署スベキ儀卜可相心事
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁
意訳変換しておくと
 各神社での事前の踊り奉納について、神社における祭典(レクレーション)であれば、許可しがたいが、八幡神社の踏歌神事で、古例なものであることを以て許可する。これより、この種の許可願は受持神官と連署で提出すること
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁

   神社の祭礼復活についても、いちいちお上(政府)の許可を求めています。許可する新政府の地方役人も尊大な印象を受けますが、これは一昔前の江戸時代の流儀でした。それが抜けきっていないことが伝わってきます。
丸亀市坂本
       現在の丸亀市飯山町西坂本 
東坂本
東坂本
こうして念仏踊復興の動きは、鵜足郡の坂本村を中心に始まり、明治11(1878)年8月23日、亀山神社・下坂神社・日吉神社・坂元神社の四社で維新後最初の念仏踊りが奉納されたことを押さえておきます。

飯山町坂本神社
坂本神社(丸亀市飯山町)

ところが復活から約20年後の明治32年(1899)の念仏踊が踊られる年に台風のため中止となり、その後しばらく中断されます。
この背景については、飯山町誌は何も記しません。
大正2年(1913)に大干魃に見舞われ、中の宮で雨乞念仏踊奉納
これを機に、再び復興機運が盛り上がったようで、以後は、大正3、6、9、12年と3年毎に行われています。ところが、その後は小作争議のため中断します。それが復活するのは、昭和天皇御即位の大典記念事業の時です。そして昭和4年(雨乞いのため)、7年、10年に奉納されています。以後の動きを年表化します。
昭和13(1938)年、日中戦争のため中止
昭和14(1938)年、大早魅のため雨乞念仏踊
昭和16(1941)年、紀元2600百年記念として滝宮両神社で実施し、以後戦中は中断、
昭和27(1952)年 組合立中学校落成記念として実施
戦後は昭和28、31、34年と3年毎に奉納されてきましたが、以後は中止となりました。背景には、町村合併、経費問題、大所帯をとりまとめていくことの難しさ、宮座制の運営をめぐる問題などがあり、昭和34(1959)年の奉納を最後に途絶えます。
 復活の機運が高まってきたのは、1970年代の滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りの国無形文化財指定に向けた動きです。
昭和48(1973)年秋、四国新聞社による「讃岐の秋まつり」に坂本念仏踊が有志で略式参加
昭和49(1974)年 飯山中学校落成記念行事に出演。
昭和55(1980)年 飯山町文化祭に特別出場
このような中で、坂本念仏踊りへの誇りと関心が高まり、後世に伝えてゆく必要があるという声が生まれてきます。こうした動きを受けて、昭和56(1981)夏に、保存会設置が決まります。
 坂本念仏踊保存会規約を挙げておきます。
第一条 木会は坂木念仏踊保存会と称し、事務所を飯山町教育委員会内に置く。
第二条 本会はこの地方に往古より伝わる郷土芸能坂本念仏踊を民俗無形文化財として後世に残し伝えてゆくことを目的とし、 一般町民により組織する。
第二条 本会に下記役員を置き任期は三年とする。
会 長 一名  副会長 二名
会計一名 監事二名
世話人 若千名
第四条 本会に顧問若千名を置く。
第五条 本会は毎年役員会を開き、下記要項により協議の上実施する。
一 日 時  八月下旬の日曜1日間
一 町内各神社に奉納
第1年目 亀山神社、下坂神社、東小川八幡神社
第2年目 三谷神社、坂元神社、八坂神社
第3年目 滝宮神社、滝宮天満宮、日吉神社
ここからは、保存会規約によって次の神社に奉納することになっていることが分かります。
東坂元 亀山神社  三谷神社
川  原 日吉神社
西坂元 坂元神社  王子神社
真  時 下坂神社
東小川 八幡神社
下法軍寺 八坂神社
滝  宮     滝宮神社  天満神社
亀山神社の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|15万件以上の神社仏閣情報掲載
亀山神社(丸亀市飯山町)から仰ぐ飯野山
しかし、実際に3年間やってみて、経費や負担面を考慮して、1984年からは、次のように改められたと飯山町誌には記されています。
①滝宮両神社には、寅、巳、申、亥の年に3年毎に奉納
②滝宮から帰って、町内の二神社を年回りに奉納する
こうして見ると坂本念仏踊りには、次の4度の中断期があったことが分かります。
①幕末~明治11(1878)年まで
②明治32年(1899)~大正2年(1913)まで
③昭和16(1941)年~昭和27(1952)年まで
④昭和34(1959)年~昭和56(1981)年
その都度乗り越えてきていますが、その原動力となったのは、次のふたつが考えられます。
A 雨乞い祈願のため
B 天皇即位・起源2600祭・中学校新築などのイヴェント参加
Aについては、高松藩へ提出した坂本念仏踊りの起源については「菅原道真の雨乞成就への感謝のために踊る」と記されていて、この踊りがもとともは、自らの力で雨を降らせる雨乞祈願の踊りではなかったことは以前にお話ししました。それが近代になると、「雨乞祈願」のための踊りと強く認識されるようになったことがうかがえます。度々、襲ってくる旱魃に対して、近代の人達は雨乞い踊りをおどるようになったのです。

4344102-55郷照寺
宇多津の郷照寺 唯一の時宗札所(讃岐国名勝図会)

最後に念仏踊りの起源について、私が考えていることを記しておきます
 坂本念仏踊りは、中世の郷社に奉納されていた風流踊りです。それが、江戸時代の「村切り」で、近世の村々が作られ、村社が姿を現すと、夏祭りの祭礼に盆踊りや風流踊りとして奉納されるようになります。現在の滝宮念仏踊りの由緒の中には、法然の念仏踊りに起源を説くものがありますが、これは後世の附会です。法然と踊り念仏は、関係がありません。
①踊り念仏は、空也によって開始されたこと
②踊り念仏は、その後一遍の時衆教団によって爆発的な広がりをみせたこと
③そのため高野山を拠点にする聖たちが、ほぼ時宗化(念仏聖化)した時期があること
④その時期に、全国展開する高野聖たちが阿弥陀浄土信仰(念仏信仰)や踊り念仏を拡げたこと
⑤讃岐でその拠点となったのが、白峰寺や弥谷寺などの修験者や聖達の別院や子院であったこと
⑥中世においてもっとも栄えていた宇多津にも、いろいろな修験者や聖達が集まってきた。
⑥彼らを受けいれ、踊り念仏聖の拠点となったのが郷照寺。この寺は今も四国霊場唯一の時宗寺院
⑧この寺が、中讃地区で踊り念仏を拡げた拠点
⑨坂本郷は飯野山の南側で、大束川流域の宇多津のヒンターランドになり、郷照寺の時宗たちの活動エリアでもあった
⑩彼らの中には、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の別当寺・龍燈院に仕える修験者や聖達もいた。
⑪彼らは3つのお札(蘇民将来・苗代・田んぼの水口)の配布のために、村々に入り込み、有力者と親密になる。
⑫そんな中で、郷社の夏祭りのプロデュースを依頼され、そこに当時、瀬戸内海の港町で踊られていた風流踊りを盆踊りとして導入する。
⑬中世の聖や山伏たちは、村祭りのプロデューサーでもあり、「民俗芸能伝播者」でもあった。

高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者 の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。
(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。
聖たちは、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったと研究者は考えています。

P1240664
一遍時宗の踊り念仏(淡路の踊屋:一遍上人絵伝)

 どちらにしても、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の社僧達が村々に伝えたのは、時宗系の踊り念仏でした。それが、各郷社で祖先慰霊の盆踊りとして、夏祭りに踊られ、7月25日には滝宮に踊り込まれていたようです。
龍燈院・滝宮神社
滝宮神社(牛頭天皇)の別当寺龍燈院

 戦国時代に中断していた滝宮への踊り込みを復活させたのは、高松藩初代藩主の松平頼重です。その際に、松平頼重は幕府への配慮として、遊戯的な盆踊りや、レクレーション化した風流踊りに、「雨乞い踊り」という名目をつけて、再開を認めました。そのため公的には、「雨乞い踊り」とされますが、踊っている当事者たちに「雨乞い」の認識がなかったことは、以前にお話ししました。雨乞いのために踊るという認識がでてくるのは、幕末から近代になってからのことです。
      最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

参考文献 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774P
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四国霊場には、次のようないくつもの信仰が積み重なって、現在があると研究者は考えているようです。
①仏教以前の地主神信仰
②熊野行者がもたらした熊野信仰 + 天台系修験信仰
③六十六部がもたらした法華信仰
④廻国の高野聖がもたらした阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰
 例えば、②と④の熊野信仰と弘法大師信仰を併せ持っていたのが讃岐の与田寺の増吽でした。彼は、熊野行者として熊野詣を何回も行う熊野信仰の持ち主であると同時に、真言僧侶として弘法大師信仰を広めたことは以前にお話ししました。そして、彼らが歩いた「熊野参詣道」に、六十六部や高野聖などは入ってきて、四国辺路道へとつながっていくと研究者は考えているようです。
瀬戸の島から - 2022年06月
讃岐国分寺前を行く六十六部(十返舎一九「金草」の挿絵)
前回は、四国霊場札所に残された落書きから高野聖が、先達として四国辺路を行っていたことを見ました。その中には、讃岐の良識のように、若いときには四国辺路者として、老いては六十六部として白峰寺に経筒を奉納する高野聖(行人)もいました。今回は、六十六部の奉納した経筒銘文を見ていくことにします。  テキストは    「武田和昭  中世の六十六部と四国辺路   四国へんろの歴史62P」です。
まず、永徳四年(1384)相模鶴岡八幡宮金銅納札で、銘文の見方を「学習」しましょう。

相模鶴岡八幡宮金銅納札
 相模鶴岡八幡宮金銅納札

  ①の中央行を主文として、各項目が左右行に振り分けられています。
真ん中の①「奉納妙典一国六十六部」は奉納内容で、「妙典妙法蓮華経を一国六十六部」奉納すること
②右の「十羅刹女」③左「三十番神」は、法華経の守護神名
④「永徳牢」「卯月日」は奉納年月。
⑤ の「相州鎌倉聖源坊」は左右の「驫丘」「八幡宮」ともに、奉納者の名で「鶴岡八幡宮」は「聖源坊」の所属組織
⑥の「檀那」「守正」は経典奉納の檀那となった人物名
以上をまとめると、永徳4(1384)年4月、守正が檀那として、鎌倉鶴岡八幡宮の聖源坊が「相国六十六部」として、法華経巻を奉納したことをしめす「納経札」のようです。どこに奉納したのかは記されていません。
 研究者が注目するのは①の「奉納妙典一国六十六部」です。「廻国六十六部」でないのです。これは「略式化」されたもので、写経巻六十六部を、「全国廻国」ではなく、一国内の六十六ヶ所の霊場に奉納したと研究者は考えているようです。
 法華経を書写・荘厳して定められた寺社に納めることは、平安時代から始まっています。それが六十六部の法華経巻を書写し、全国を巡歴して奉納する納経スタイルへと発展していきます。そのような流れから考えると、「一国六十六部」は、全国廻国奉納を行うようになる前段階のことかも知れません。
研究者が注目するのは、奉納者の鶴岡八幡宮所属とされる「聖源坊」です。六十六部として、全国を廻国した人物は「…坊」「…房」という名乗りが多いのですが、これは、山伏や修験を示すものです。ここからは、中世の六十六部聖は、その前身を古代の山岳修験者、特に法華経を信仰する聖だったことがうかがえます。
以上のことを次のようにまとめておきます。
この六十六部奉納札は、鶴岡八幡宮に帰属する法華信仰を持つ山岳修行者「聖源坊」によって、檀那「守正」を後援者として行われた、巡礼納経の遺品である。
讃岐の白峰寺(西院)の高野聖・良識が納めた経筒を見ておきましょう。
 白峰寺経筒2
白峰寺(西院)の経筒
先ほどの応用編になります
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」
③が「十羅刹女 」
④が三十番神
⑤が四国讃岐住侶良識」
⑥が「檀那下野国 道清」
⑦「享禄五季」、
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
内容については、以前にお話したので省略します。⑤の良識については、讃岐国分寺に残した落書きから次のようなことが分かっています。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、高野山金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
この2つの例で、経筒の表記方法について「実習」したので、各地の経筒を実際に見ていきましょう。

島根県大田市南八幡宮の鉄塔
大田市南八幡宮の鉄塔
島根県大田市南八幡宮の鉄塔からは、数多くの経筒が発見されています。
ここからは経筒が168、銅板に奉納事由を記した納札が7枚、45個一括の経石、伴出遺物として懸仏、飾金具、鉄製品、泥塔、土器、銭貨が鉄塔に納められていました。大半は経筒で、六十六部関係遺品です。

永正十三天(1516)の経筒Aを見ておきましょう。
野州田野住僧本願天快坊小聖
十羅利女        寿叶円
奉納大乗妙典六十六部之内一部所
三十番神 檀那   秀叶敬白
永正十三天(1516)三月古日 

「奉納大乗妙典六十六部之内一部所」とあります。ここからは大乗妙典(法華経)を経筒に納入して埋納したことが分かります。『法華経』の別名称である経王、一乗妙典などと刻されたものもありますが、奉納経名は、ほとんどが「法華経」です。しかし、『法華経』以外の経典が納められていることがあります。
弘法大師信仰に関わるものとして経筒Bには、次のように記されています。
四所明神 土州之住侶
(パク)奉納理趣経六十六部本願圓意
辺照大師
天文二年(1533)今月日
ここからは次のようなことが分かります。
①奉納されているのは「法華経」ではなく、「理趣経」で真言宗で重要視される経典。
②「辺照大師」は、遍照金剛(南無大師遍照金剛)のことで、弘法大師
③四所明神とは高野四所明神のことで、高野・丹生・厳島・気比の四神で、高野山の鎮守のこと
以上から、「本願園意」は、高野山の大師信仰を持った真言系の六十六部で、土佐の僧侶であったことが分かります。
もうひとつ真言系の経筒Cには、次のように記されています。
□□□□□①幸禅定尼逆修為
十羅刹女 ②高野山住弘賢
奉納大乗一国④六十六部
三十番神 天文十五年(1546)正月吉日

①からは「□幸禅定尼」が願主で、彼女が生前に功を積むための逆修として奉納が行われたこと。
②は実際に、諸国66ケ国を廻行し、法華経を納めた六十六部(奉納者)の名前です。ここには「高野山住弘賢」とあるので、弘賢が高野山に属し人物であったことは間違いありません。願主の依頼を受けて全国を六十六部として「代参」していたことが分かります。
宮城県牡鹿町長渡浜出土の経筒には、次のように記されています。
十羅刹女 ①紀州高野山谷上  敬
(バク)奉納一乗妙典六十六部 沙門②良源行人
三十番神 ③大永八年(1528)八月吉日 白
    ④施主藤原氏貞義
           大野宮房
ここからは④「施主藤原氏貞義・大野宮房」の代参者六十六部として、①「紀州高野山谷上の②良源行人」が全国に法華経を納めていたことが分かります。研究者が注目するのは、「沙門良源行人」の所属の①「紀州高野山谷上」であることです。
新庄村の六十六部廻国碑

前回見た伊予の49番浄土寺の本堂内の本尊厨子の落書きには、次のように記されていました。
金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国

四国辺路者である善空も、所属は「(紀州高野山)谷上」となっています。高野山の「谷上」には、行人方の寺院がいくつかあったエリアで、ここに四国辺路や六十六部を行う行人(聖・廻国修行者)がいたことは以前にお話ししました。それは「良源行人」という文言からも裏付けられます。
 つまり、高野の聖達の中には、全国から施主の依頼を請ければ、六十六部となって、六十六ケ国に経典を奉納していたことになります。それが終れば、また元の行人に還ったのでしょう。行人は、見た目には修験(山伏)と変わりません。ここでは、高野聖が四国辺路以前から六十六部として、廻国奉納していたことを押さえておきます。

島根県大田市大田出土の経筒Dを見ておきましょう。
一切諸仏 越前国在家入道
(キリーク)奉納浄上三部経六十六部
子□
祈諸会維 天文十八年(1549)今月吉
ここでは越前の在家入道は、浄土三部経(『無量寿経』、『観無景寿経』、『阿弥陀経』)を奉納しています。ここからは、彼が阿弥陀信仰の持ち主であったことがうかがえます。法華経と同じように、浄土三部経を奉納する在家入道もいたようです。

栃木県都賀郡岩船町小野寺出土の経筒には、次のように記されています。
開      合
奉書写阿弥陀経 六巻四十八願文 十二光仏仏発願文 宝号百遍 為善光寺四十八度 参詣供養大乗妙典 百部奉読誦酬此等 功徳合力助成口那 等頓證仏呆無凝者也 本願道祐敬白 
天文五丙(1536)閏十月十五日
意訳変換しておくと
阿弥陀経六巻四十八を写経し、願文十二光仏仏を発願し 宝号百遍を唱えて善光寺に48回参拝した。供養のために大乗妙典百部を奉読誦酬した。功徳を合力し助成したまえ。頓證仏呆無凝者也 本願道祐 敬白 
天文五丙(1536)閏十月十五日
ここからは本願の道祐も、強い阿弥陀信仰の持ち主だったことが分かります。
島根県大田市大田出土の経筒Eには、次のように記されています
十羅刹女  四国土州番之住本願
十穀
(バク)奉納大来妙典六十六部内
三十番神  宣阿弥陀
     光一禅尼
享禄四年(1531)今月吉日

ここからは、宣阿弥陀仏と名前からして浄土系の人物です。また「十穀」とあるので「木食」であったようです。そうだとすれば、木食が六十六部になって奉納していたことになります
以上のように六十六部の中には、高野聖や木食もいたし、真言系や浄土系の人物もいたことを押さえておきます。六十六部は、各国の霊場に奉納する経筒(経典)を通ぶ行者(代参者)という性格をを持っていたようです。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
六十六部
 六十六部が四国辺路の成立・展開に何らかの関わりがあったとする説が出されています。
岡本桂典氏は「奉納経筒よりみた四国人十八ケ所の成立」(1984)の中で次のように記します。
①全国的に知られる室町時代の六十六部の奉納経筒は168点で、その中で四国に関わるものは12点。
②この中には『法華経』ではなく、真言宗が重視する『理趣経』が奉納され、弘法大師に関係する四所明神(高野山守護神)、辺(遍)照金剛などの言葉が記されている。これらは、四国辺路に関係する六十六部が奉納したものである。
②「本川村越裏門の文明三年(1471)銘の鰐口の「村所八十八カ所」と記されているので、四国八十八ケ所成立は室町時代中期頃まで遡れる。
③49番浄土寺や80番国分寺には「南無大師遍照金剛」という辺路落書がある。これは六十六部の奉納経筒に形式が似ている。
④以上より、四国八十八ケ所の成立には、真言系の廻国聖が関与した。その結果、六十六部の霊場が四国八十八ケ所に転化した。
 この岡本氏の説は、発表以後ほとんど取り上げられることはなかったようです。しかし、六十六部の研究が進むにつれて、再評価する研究者が増えているようです。ただ、問題点は、六十六部というのは、六十六ケ国の各国一ケ所に奉納することが原則です。それでは四国には、霊場が四ケ所しか成立しません。このままでは、四国八十八ケ所という霊場が、どのようにして形成されたかのプロセスは説明できません。そこで研究者が注目するのが、最初に見た永徳四年(1384相模鶴岡八幡宮金銅納札の「奉納妙典一国六十六部相州鎌倉聖源坊」です。ここには「一国六十六部」とあります。
千葉県成田市八代出土の経筒には、次のように記します。
十羅利女 紀州之住快賢上人
(釈迦坐像)奉納経王一国十二部
三十番神 当年今月吉日
ここでは「一国十二部」とあり、さらにこの他にも「一国三部」、「一国六部」などが、数多くあることが分かってきました。

「一国六十六部」は、写経巻六十六部を一国内に縮小して奉納するもので、全国廻国ではなく、一国内の六十六ヶ所の霊場に奉納したと解釈できます。この説に従えば「一国十二部」というのは、国内十二ケ所の霊場(札所)に奉納したということになります。こうした一国六十六部聖などによって、 一国内の霊場が複数化・多数化が進んだ、その結果、四国の霊場(札所)の多数化が形成されていったことが考えられます。しかし、仮説であってそれを裏付ける史料は、まだないようです。
 ただ『字和旧記』の「白花山中山寺」の項には、次のように記します。
「‥・六十六部廻国の時、発起の由、棟札あり、・・・・。右意趣者、奉納壱國六十六部、御経供養者也。・。」

明暦三年(1657)の「蕨国家文書」には、次のように記します。

諸国より四国辺路仕者、弘法大師之掟を以、阿波之国鶴林寺より日記を受け、本堂横堂一国切に札を納申也

同文書の万治2(1659)年には

担又四国辺路と申四国を廻り候節、弘法大師之掟にて、 一国切に札を納申候、土佐之国を仕舞、伊予へ人り、壱番に御庄観自在寺にて札初・・・

  意訳変換しておくと
諸国からの四国辺路者は、弘法大師の定めた掟として、阿波国鶴林寺より日記(納経札?)を受け、本堂や横堂(大師堂?)に一国の札所が終わる旅に札を納める。

四国辺路が四国を巡礼廻国する時には、弘法大師の定めた掟として、 一国が終わる度に、札を納める。土佐国が終わり、伊予へ入ると、(伊予の)1番である観自在寺にて札を納める・・・
ここからは、土佐や伊予などで国毎に札納めが行われていたことが分かります。このことは元禄9年(1697)の寂本『四国遍礼手鑑』に、国毎に札所番号が1番から記されている名残とも見えます。真念が『四国辺路道指南』で、札所番号が付ける以前は、国毎に始めと終わりがあったことがうかがえます。これは、六十六部が一国毎に霊場の多数化を図ったとする説とも矛盾しません。

1 札所の六十六供養塔
讃岐の霊場に残された六十六部の廻国供養塔の一覧表

 これを補強するのが最初に見た白峯寺の六十六部の奉納経筒です。
これは白峰寺という四国八十八ケ所霊場から初めて出てきた経筒で、讃岐出身の高野聖(行人)の良識が六十六部として奉納したものでした。彼は若いときには「四国中辺路」として、讃岐国分寺に落書きを残していたことは前回に見た通りです。これは「高野山の行人が六十六部として、四国の霊場化を推進した」という説を保証するものと研究者は考えているようです。
038-1観音寺市古川町・古川東墓地DSC08843
六十六部慰霊墓地(観音寺市古川町・古川東墓地)

  以上をまとめておくと
①14世紀から六十六部によって、霊場に法華経を奉納することが行われた。
②発願者がパトロンなり、法華経を写経させ、全国66ヶ国の霊場に納める信仰スタイルであった。
③これを代参者としておこなったのが六十六部といわれる廻国行者であった。
④六十六部を務めた廻国行者には、高野聖もいた。
⑤六十六部には、全国廻国ばかりでなく、一国の霊場六十六ヶ所に奉納するスタイルもあった。
⑥その結果、一国六十六部聖などによって、一国内の霊場が複数化・多数化が進んだ
⑦それが四国辺路にもちこまれると、四国の霊場(札所)の多数化が進み、四国辺路のネットワークが形成されていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田和昭  中世の六十六部と四国辺路   四国へんろの歴史62P
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滝宮神社・龍燈院
滝宮神社と龍燈院と滝宮天満宮(讃岐国名勝図会)

幕末の讃岐国名勝図会に描かれた滝宮神社と天満宮です。右上の表題には「滝宮 八坂神社(天皇社) 菅神社(天満宮) 龍燈院」とあります。絵図からは次のようなことが読み取れます。
①綾川沿に、天皇社があり、これが滝宮牛頭天皇(ごずてんのう)社(権現)であったこと。
②天皇社の前には、牛頭天皇の本地仏である薬師如来を安置する薬師堂や観音堂があったこと。
③隣接して別当寺の龍燈院があり、もっとも大きい建物であること。
④その向こうに滝宮天満宮がある。
⑤社人宅もあるが小規模である。
龍燈院・滝宮神社
龍燈院拡大図
以上から、滝宮神社は神仏分離以前には、天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれ、天満宮と供に別当の龍燈院の管理下に置かれていたこと、この3つはひとつの宗教施設として運営されていたことが分かります。しかし、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消しました。

滝宮龍燈院跡
龍燈跡跡
その跡地は、現在は分譲されて住宅地となって、ポツンと記念碑が立っているだけです。龍燈院の繁栄を伝える物は、観音堂に安置されていた十一面観音立像だけです。

滝宮龍燈院の十一面観音
龍燈院観音堂の十一面観音立像(像高180㎝)
この優美で美しい観音さまは、綾川町の管理下に移され生涯学習センター(図書館)で参観することができます。部屋の中央に、ガラスケースに安置されているので、どの方向からも観察できます。天衣、裳、 条帛 や天衣の折り返しなどをじっくりみることができます。専門家の評を見ておくことにします。
一木造で内ぐりはなく、垂下する右手は手首まで、前に差し出して花瓶を持つ左手はひじまでを共木で彫り出す大変古様な像である。条帛や下肢には渦巻きの文が見られる。
しかし顔つきは優しく、またことさらに量感を強調したりしていないことから、平安時代も中期になっての像と思われる。
ほぼ直立し、顔は小さめ。手は長くあらわす。
目はあまり切れ長とせず、若干つり目がちとする。口も小さめ。顎はしっかりとつくる。
胸のラインやへそは陰刻で強調、また下肢の左右の衣のつれも強調するが、全体的には誇張を避け、上品で落ち着いた姿となっている。

以上を次のように整理しておきます。

①滝宮神社は神仏分離以前は、滝宮牛頭天王(権現)とよばれ、牛頭天王信仰の宗教施設であった。
②別当寺は龍燈寺で、その名の通り熊野信仰に由来をもつ寺院で、中世は修験者や聖達のあつまるお寺であった。
ここで疑問になるのが、龍燈院が、これだけの宗教施設が維持できたのはどうしてなのということです。その経済基盤は、どこにあったのでしょうか? それを伝えてくれる史料はありません。
そこで同じ牛頭天王を祀る播磨広峯(ひろみね)神社の経済基盤を、今回は見ていくことにします。
姫路日和 その1 | オマコレ OmaColle | 素晴らしき御守りの世界

 広峯神社は、姫路市の広峰山山頂にある神社です。今は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)を主祭神としますが、明治の神仏分離以前には素戔嗚尊と同体とされる牛頭天王を祀って、広峯牛頭天王と呼ばれていました。
 京都の祇園社(現在の八坂神社)との関係も深く、鎌倉時代には広峯社を祇園社の本社とする説も流布したことがあるようです。南北朝期には祇園社が広峯社の領家となったため、両社の間で確執が生じますが、朝廷・幕府の働きかけにより室町期以降は祇園社の支配下に置かれていきます。
Amazon.co.jp: 増補新版 牛頭天王と蘇民将来伝説: 消された異神たち : 川村湊: Japanese Books
 
 神仏分離以前の本殿内には、牛頭天王の本地仏をされる薬師如来が祀られていたようです。その管理運営を行っていたのは、別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)です。この山の宗教施設は別当寺の社僧の管理下に置かれていました。ちなみに、この寺は、江戸時代は徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の末寺として、大きな権勢を持っていたようです。
  社家(御師=修験者)の社務は、播磨、但馬、淡路、摂津、丹波、丹後、若狭、備前、備中、備後、美作、因幡 、伯耆)などにある村単位の信徒(檀那)へのお札配りでした。

祇園信仰 - Wikiwand
牛頭天皇=スサノウ

御師は自分の檀那村をまわって次の三種類の神札を配布しす。
居宅内の神棚に祀るもの
苗代に立てるもの
田の水口に立てるもの
その対価として御初穂料を得て収入としていました。

蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民将来のお札(牛頭天王=素戔嗚尊)
サイケなど農耕儀礼(県内各地)-21世紀へ残したい香川 | 四国新聞社
苗代に立てるお札
亀山市史民俗 民間信仰
水口に立てるお札
江戸時代には、社領はわずか72石でだった広峯神社が繁栄できたのは、お札を配布できる信徒集団を抱えていたからです。
    「御師」というのは寺社に属して、参詣者をその社寺に誘導し、祈祷・宿泊などの世話をする者のことです。
伊勢御師1
    檀那宅をお札や土産を持って訪れる伊勢御師(江戸時代)

御師がいた神社としては、熊野社、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂社、日吉社が知られています。御師は各地の信者を「檀那(だんな)」として組織し、お札を配布したり社参を代行(代参)を行うほかに、檀那が参詣にやってきた時には、宿坊を提供したりしました。ひとりで各地の檀那を廻ることはできないので、伊勢御師と同じように廻国性のある修験者を手代として「雇用」していたようです。こうして広峯牛頭天王社の周りには、数多くの修験者や聖が集まってくるようになります。
広峯牛頭天王社の御師を見ておきましょう。
 鎌倉~南北朝期の広峯社には、広峯氏を筆頭に肥塚(こいづか)・林・芝・粟野など約30家の社家(御師)がいました。彼らは各地を回り、信者を集めて檀那を組織していきます。広峯社の檀那は、播磨・但馬・丹後・備前・備中・備後・美作・因幡・摂津・丹波といった中国地方東部から近畿地方にかけてが広峯社の信仰圏であったことを押さえておきます。
 広峯御師の1つである肥塚家には、因幡の檀那所在地についての史料が数点残されています。
廣峰神社の檀那の
廣峰社の因幡の檀那所在地
 この表は「肥塚文書」の檀那所在地を一覧表にしたものです。これをみると、肥塚家の場合は高草・邑美・八上・八東・智頭の各郡内に檀那がいたことが分かります。ひとりの御師の活動が広いエリアに及んでいたことがわかります。

広峯御師の檀那地図
        廣峰社の檀那所在地分布図
檀那所在地を地図に落としたものが上図です。ここからは次の所に檀那が多く一円化していたことが分かります。
①播磨と因幡中心部を結ぶルート上に位置する若桜
②美作との国境付近に位置する智頭
③高草郡の有富(ありどめ)川流域(鳥取市)
この表に出てくる「わかさいちは(=若狭の市場)」で、若狭には市場があったことがうかがえます。御師と地域経済と関わりが垣間見えます。
研究者が注目するのは鳥取市の有富川流域についてです。このエリアには特定の檀那名ではなく、多くが「一円」と記されています。このエリアでは村単位で多数の信者を集めていたことがうかがえます。
 これと同じように、滝宮牛頭天皇社の御師達も中讃の各郷に檀那を持ち、一円化したのではないかと私は考えています。

 ちなみに江戸時代中期編纂の『因幡志』には、有富川流域の神社の多くが牛頭天王を祀っていることが分かるようです。ここからは中世以来の広峯信仰が続いていたことが裏付けられます。
 広峯から御師がやってくると、檀那の村では宿泊施設や伝馬を提供しています。
では、どのような人々が御師に宿を提供していたのでしょうか。「肥塚文書」によれば、宿の提供者として「河田殿」「八郎衛門殿」「中助左衛門殿」「岡村殿」「岡殿」など「殿」のつく人たちが多くみられます。『智頭町史』は、彼らについて「地侍クラスの人物」と述べています。また、若桜については、次のように記されています。
「おふね(小船)村なぬしやと」
「おちおり(落折)村一ゑん やとはなぬし十郎ゑもん」
ここからは「なぬし(名主)」が宿を提供していたことがわかります。名主は、祭礼の際の宮座の構成メンバーです。彼らの相談を受けながら、村の祭礼に御師が関わり、風流踊りや念仏踊りを伝えたことも考えられます。
 ここでは、御師の宿はその地域のいわば指導者クラスの人たちが提供し、彼らと御師は親密な関係を維持していたとしておきます。

 御師の肥塚氏は、それらの国々の檀那村付帳を残しています。
そこには各荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといった情報まで記されています。
 例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見ると、現在の小字集落に当たる村が丹念に調べられて記録に残されています。ここからは広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んで記録していたことが分かります。広峯社の御師たちは各地に檀那を組織し、広範に活動を展開していたようです。
 御師たちは村々を回り布教活動に努めました。彼らは神札や文物とともに瀬戸内や畿内方面のさまざまな情報を各地にもたらしたものと思われます。地方の人々にとっては貴重な情報源であったに違いありません。これが、村々の寺社を結びつけて行くエネルギーになっていくと研究者は考えています。
 以上を要約しておきます。
①中世の広峯神社は、牛頭天王とその本地仏薬師如来が祀られる神仏混淆下の宗教施設であった。
②牛頭天王社の社殿を管理する別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)で、その社僧の管理下に置かれていた。
③社僧達は御師として、自分の檀那村をまわって神札を配布し、御初穂料を得て収入としていた。
④村の檀那は、宿泊施設や伝馬を提供し、お札と供に地域の情報を手に入れた
⑤村々を歩く御師は、情報伝達者として村々を結び、宗教的なネットワークや交流を作りだしていった。
⑥その中には風流踊り等の芸能なども、伝えたことが考えられる。
東京・埼玉へ: Neko_Jarashiのブログ
少々乱暴ですが、これを、讃岐の滝宮牛頭天皇と龍燈院に落とし込んでみます。
①龍燈寺傘下の修験者や聖も手代として、中讃の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集めた。
②同時に彼らは、いろいろな情報や芸能を各村々に伝える媒介者となった。
③各村々に風流踊りや念仏踊りを伝えたのも修験者や聖である。
④この踊りが各村々では、盆踊りとして踊られるようになった
⑤それが滝宮牛頭天皇の夏祭りに奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、かつての滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだと私は考えています。
牛頭天王座像
牛頭天王坐像
別当寺龍燈院の住職が代々書き記した念仏踊りの記録『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。

「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」

意訳変換しておくと
中世(先代)には、踊りは讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた。しかし、今は4郡だけになっている

ここからは、松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて「中断」していた念仏踊りを慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたことが分かります。高松藩領西部の阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡の4郡ということになります。それが具体的には、次の4組です。
①阿野郡北條
②阿野郡南条
③鵜足郡の坂本組(坂本郷周辺:丸亀市)
④那珂郡の七箇組(真野郷・吉野郷・小松郷:まんのう町+琴平町)
  この4つの踊組エリアが、滝宮牛頭権現の信仰圏だと私は考えています。
ちなみに、松平頼重は踊りの復興の際に、幕府の監視を考慮して「雨乞い祈願のための踊り」と正当化するフレーズを付け加えます。こうして、もともとは盆踊りで踊られる風流踊りが、雨乞いに結びつけられ、「菅原道真の雨乞い成就に感謝」する踊りと称されプロデュースされるようになります。注意しておきたいのは、ここでも、まだこの踊りが雨乞い踊りのために踊られるおどりではなかったことです。
この時点では、「雨乞い成就感謝のため」でした。中世には「雨乞いは空海など修行で験を超人のみがおこなえることで、普通の人が行っても神はお聞きにはならない」というのが庶民の考えでした。それが変化するようになるのは、近世後半になってからのことです。

 「讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた」ということについて考えて見ます。
 大きな勢力を寺社が競合するとこでは、神札の配布はできません。そればかりでなく周辺の寺社は取り込まれ、つぶされていくこともあります。讃岐において中世に強勢を誇った修験者を数多く擁した山伏寺を思いつくままに挙げて見ると次の通りです。
①東讃の水主神社・与田寺
②志度の志度寺
③五色台の白峰寺
④多度郡の善通寺
⑤三野郡の弥谷寺
⑥三野郡の本山寺(牛頭権現信仰の宗教施設)
 これらの寺社が競合するエリアで、滝宮牛頭権現社がお札を配り、新たに信者を獲得するのは至難の業であったはずです。このため滝宮牛頭権現が讃岐全体に信仰エリアを拡げていたとは、私には思えません。その信仰圏は、先ほど見た踊り奉納されていた周辺の郷に限られていたと私は考えています。

阿野郡の郷
坂本念仏踊りの檀那分布想定エリア

 ここでは、滝宮牛頭権現社は高松から西の4郡の一部の郷に信者を確保し、そこから踊りが奉納されていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献     因幡における広峯御師の活動 鳥取県史たより 第56回
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港湾施設が港に現れる時期を、研究者は次のように考えています。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
このように「石積護岸 + 川港」が現れるのは、中世後半になってからとされてきました。
川西遺跡 船着き場
徳島市川西遺跡
前回に見た徳島市川西遺跡は、日本最古の「石積護岸と川港」で、鎌倉時代に石積護岸が現れ、川港施設は室町時代に整備されています。このようにして、中世から戦国時代に川港の施設が各地で整備されていきます。その集大成となるのが、秀吉が伏見城築城とセットで行っわれた宇治川太閤堤の石積護岸と川港でした。これは天下普請だったので、いろいろな大名達が参加し、各地域の治水護岸技術の集大成の場となり、技術交流の機会となります。そこで学んだ技術を各大名達は国元へ持ち帰り、築城や土木・治水工事に活かすというストーリーを研究者は考えているようです。確かに讃岐でも、生駒氏の高松城築城には天下普請で養われた技術や工法が活かされています。また、藤堂高虎の下で天下普請に関わった西嶋八兵衛も、讃岐で治水工事やため池築造を行いますが、これもその流れの中で捕らえることができます。今回は、宇治川太閤堤の影響を受けた「石積護岸 + 川港」の例を高知県の仁淀川河口の遺跡で見ていくことにします。  テキストは「平成 21年度 波介川河口導流事業埋蔵文化財発掘調査 現地説明会資料」です。

上の村遺跡 地図
仁淀川河口の上の村(かみのむら)遺跡
位置は仁淀川河口から2㎞ほど遡った上の村遺跡です。
ここは仁淀川と波介川の合流点でもあり、弥生時代から水運の拠点として繁栄してきたことが発掘調査から明らかにされています。

上の村遺跡 地図2
上の村遺跡の周辺遺跡
上の村遺跡 中世
中世の上の村遺跡復元図
復元イメージを見ると分かるように、新居城の麓には、倉庫的な建物が並んでいたようで、仁淀川と波介川流域の物資の集積センターとしての役割を果たしていたことがうかがえます。ここからは、川港も近くにあると考えられていました。それが平成21年度の発掘調査で出てきました。

上の村遺跡 調査エリア
 
石積護岸が出てきたのは上の村遺跡から南(河口側)で、かつての仁淀川跡(波介川)が流れていたようです。ここには使われなくなった古い堤防があり、地元で「中堤防(1次堤防)」と呼ばれていました。それを、内部調査のため断ち割ると中から石積みの堤防(2次堤防)が出土しました。「ハツリ」加工した石を積み上げ、内部には拳よりやや大きめの川原石を選んで詰めています。上部は断面ドーム状に仕上げられており、このような造りと形のものは全国的にもめずらしいようです。石の積み方等から大正〜昭和期のものと研究者は判断します。今のところ記録等が発見されておらず、工事の経緯は分かりません。
上の村遺跡 護岸比較表
 石積み護岸遺構」と「近代石積み堤防遺構(2次堤防)」の比較表

この堤防遺構の下部を調査していると、地中からさらに石積みが出土しました。担当者はこれを「石積み護岸遺構」と呼んで、堤防遺構は「近代石積み堤防遺構(2次堤防)」と区別しています。石積み護岸遺構は地中から出土していること、近代石積み堤防遺構と上下で交差している部分もあることから、石積み護岸遺構の方が古く、江戸時代初期のものとされます。
 石積み護岸の特徴として、自然石をそのまま積み上げた「野面積み」であることを研究者は指摘します。
近代代石積み堤防のつくり方とは大きな違いがあり、江戸時代初期頃の特徴を示しています。その他、石積みの傾斜や、築石の大きさ(表参照)、内側に礫をほとんど詰めていないことも近代石積み堤防と異なる点です。
上の村遺跡 護岸突堤.2JPG

 石積み護岸遺構のもうひとつの特徴は、平場や突出部分などの付属施設があることです。

仁淀川護岸施設
仁井淀川石積護岸と船着場
平場は護岸遺構の中ほどに造られていて、幅は約7,6 m、長さ44m、その端からのびる突堤状遺構は長さ40mほどで、さらに下流側には「捨石」部分があります。これは、私にはどう見ても川港にしか見えません。

上の村遺跡 仁淀川1
船着き場部分と石積護岸

川港説を裏付けるのは、以下の点です
①長宗我部地検帳で川津(川の湊)関連の地名がみえること
②近年まで「渡し」があったことから、舟着きに関わる機能があったこと
③石造りの台状遺構や、「石出し」と呼ばれる突出部などの付属施設が各所にあること。
宇治川太閤堤築堤 石出し

石積みの堤防が始まる上流端部分は、凹地に堤体内部と同じ川原石を厚く敷き詰めた基礎を造り、その上に堤防本体を築いていまる。基礎構造には「木枠」で堅牢にしている。
⑤2次石堤の外側にも、土を盛り付けて堤防を維持・拡大した様子が断面調査で観察でき、洪水とのたゆまぬ戦いが繰り広げられていたことがうかがえます。
上の村遺跡 護岸突堤

仁淀川河口の集積センターに出現した石積護岸を持つ川港の復元イメージを見ておきましょう。
上の村遺跡 石積護岸

白く輝く石積みは、古墳時代の古墳の積石を思い出させます。どちらにしても、山内藩による統治モニュメントの一種と捉えることもできます。今までにないモニュメントを、宇治川太閤堤の天下普請で学んだ技法で作り上げたことがうかがえます。

護岸遺構で、確実に江戸時代以前といえる石積み護岸は、全国でもごく限られています。
それが前回に見てきた徳島市の川西遺跡や京都宇治川の太閤堤です。宇治の太閤堤には、「石出し」と呼ばれる突出部が使われていました。仁淀川河口のこの石積み護岸遺構の延長は250mにも及び、さらに工区外へ延びています。このように大きな石材を使用する工事は、大工事で大きな労働力と高い技術が必要です。しかし、この遺構について記した文献や、土佐藩の開発事業を指揮した野中兼山との関係を示す史料も見つかっていません。
 しかし、高知県下には当時築かれたとみられる石積み遺構が各所に残っています。また、石積み技術の集大成といえる城郭の石垣をみれば、高知城には野面積みも多くみられます。城郭と治水用の護岸工事の石積みは工法的には類似しており、近接した形で同時進行で行われていた例もあることは以前にお話ししました。どちらにしても、「石出し」などは宇治川太閤堤とよく似ています。天下普請として行われた「太閤堤」などの技術が、このような形で地方に移転拡大していったと研究者は考えています。
 この川港と新居城の勢力との関係を見ておきましょう。
この川港から見える小さな山が、中世の山城である新居城跡です
この山城の裾からは縄文時代から江戸時代の遺構・遺物が連続して出土しています。それを発掘順に上から見ていくことにします。
①江戸時代では井戸跡等が出土。井筒は桶の側部分を重ねたもの
②室町時代の遺構では、箱形の堀形を持った大きな溝跡を確認。新居城の山下部分をコの字状に区画していた可能性があり。集落の中心は川寄り・川下方向にあった?
③平安〜鎌倉時代では、断面 V 字状の溝跡2条や多数の柱穴等を検出。遺物出土量はこの時代が最も多く、集落が一定のピークを迎えていた。遺物は、近畿産の「瓦器」や中国産青磁・白磁が多数出土していて、活発な交易活動を展開。
④奈良〜平安時代では、方形堀形の柱穴や完全な形の土器(杯)3個と赤漆皿、銅銭などが入っていた土坑・掘立柱建物跡4棟。掘立柱建物跡の柱穴は一辺1mほどの方形で、丈夫な建物で倉庫群と想定。遺物は多量の素焼き食器や煮炊き用の土器の他、京都近郊でつくられた「緑釉陶器」も出土。河川に近接した立地や大型の柱穴、出土遺物からみて水運に関連する役所的な施設の一部である可能性あり。
⑤古墳時代は、一辺約4mの溝に囲まれた1間×1間の掘立柱建物跡を確認。通常の方形竪穴住居跡と異なり、周りを溝で囲まれることや炉跡を確認できないことから特殊な性格を持つ建物跡。琴や衣笠などの出土例から祭祀関連の遺構の能性も考えられます。
⑥弥生時代では、溝状土坑を伴う掘立柱建物跡1棟、住居跡1棟と溝状土坑などを確認。瀬戸内地域の影響を強く受けた「凹線文」で装飾された弥生時代中期末の土器も出土。特に注目されるのは、多数の鉄製品がこの時期の諸遺構から出土。
 
 以上からは、上ノ村地区には川津の性格を持った集落が早くからあったことが分かります。またこの遺跡を考える際には、河口に近く、仁淀川、波介川の合流地点である立地から水運に関わる重要な拠点という視点が大切なようです。弥生時代以後、県外産の遺物が多く出土しているので一貫して外部からのモノと人の受入拠点であり、物資の集積センターとして機能してきたことがうかがえます。
最後に、この石積護岸の石材はどこから運ばれてきたのでしょうか?
私は、河口に転がる川原石を使ったと単純に考えていました。しかし、仁淀川河口に行けばすぐに分かりますが、河口には大きな石はありません。流れ下ってくる間に、小石になっています。中世の河川工事では、石材は近くにあれば使うけれども、近くになければ使わないというのが自然だったようです。そのため、石材を用いない治水施設の方が多かったことが予想できます。そんな中で、天下普請の宇治川太閤堤では、現場上流の天ヶ瀬付近の粘板岩が用いられています。前回見た徳島市の阿波の園瀬川護岸施設では、鎌倉時代から室町時代にかけて増築が繰り返されていました。その際には、周辺から結晶片岩は運び込まれています。そしてそれは、時代とともに大型化します。この仁淀川護岸施設の石材も川原石ではなく、周辺から運搬されたもののようです。ここからは、中世から近世にかけては、護岸工事に適した石材を多少離れた地点から運び込むことが行われていたことがたことが分かります。
小さな川原石はいっぱいあるのに、わざわざ石材を遠くから運んだ理由は何なのでしょうか。
この石積護岸に用いられた石材は角張ったものや、ある程度大きく偏平な割石などが数多く使われています。このような形や大きさが河川工事に適していると、当時の技術者は考えていたことがうかがえます。例えば、紀ノ川護岸施設では、運び込まれた片岩は法面に、川原石は裏込めにという使い分けがされています。使用用途によって、使う材料(石)を使い分けていたようです。これも土佐の技術者が天下普請から学んだことかもしれません。同時に、先ほども触れたように、これは山内藩という新勢力出現を庶民に知らしめる政治モニュメントの役割を持たせようとする意図があったと私は考えています。そのためには川原石ではなく、白く輝く葺石が求められたと思うのです。
 以上を研究者は次のようにまとめ、課題を挙げています。
①江戸時代以前に遡る河川護岸遺構は、全国でも非常に僅少。
②「平場」や突堤状(石出し)の部分は、同時期の他例がない。
③水制機能(護岸本体を水流から守る)だけでなく、舟運との関係を考えることが必要。
④構築の目的、「何を護ったか」が課題。
④石積護岸の埋没・廃絶時期は江戸時代中期(18世紀)頃。
⑤廃絶要因は、野中兼山による吾南平野の開発後、仁淀川水系から高知城下町方面への舟運が、土佐市対岸の新ルートに変わったこと?

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上の村遺跡 調査報告書

「平成 21年度 波介川河口導流事業埋蔵文化財発掘調査 現地説明会資料」

 川西遺跡3

 川西遺跡から河川の石積み護岸としては、国内最古のものが出土しています。川西遺跡は、国道192号を徳島市内西部の循環道として整備するための事前調査で見つかったようです。

川西遺跡4
              徳島市川西遺跡
位置は徳島市の眉山の南を流れる園瀬川が、その流れを北から東に変える川西地区です。現在の園瀬川は遺跡よりも南側を流れていますが、近世までもう少し北まで入り込んで流れていたようです。

上八万盆地の園瀬川の古流路
旧園瀬川の流路(青色) 川西で大きく東へ蛇行している
川西でU字に流れを変えるので、岸の浸食をおさえるために次のような護岸工事が鎌倉時代以後に行われてきたようです。

川西遺跡 護岸工事変遷


①第1段階 鎌倉時代から室町時代にかけて川岸斜面を東西45m、南北10mにわたり、重さ2kg程度の結結晶片岩(青石)で石積みして護岸。
②第2段階 13世紀に重さ15kg前後の青石をその上に積んで、補強。
③第3段階 13世紀後半に石敷き護岸上に直線状の築地状の石積護岸施行
④第4段階 14世紀中葉から砂礫が堆積した中洲に向けて、東西幅5m、南北の長さ15の突堤を設置し、川港化
⑤第5段階 14世紀後半に、築地状の石積護岸と、突堤の西側接合部分を水流から保護するために、縦杭・添え木・横木を組み合わせた複数の柵設置。
⑥その後も補強・増築が行われて、石積みに加え盛土をしたり、捨石と石留め杭で堅固化
ここで私が注目するのは、④の中洲に向けて作られた石積みの上に盛土で覆った突堤です。河川立地の遺跡で、このような突堤構造を採用する遺構は、中世以前には類例がなく、初めての出土になるようです。
 港湾施設が港に現れる時期を、再度押さえておきます。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
確かに「石積護岸 + 川港」としては、全国で最も古いものになるようです。
川西遺跡 船着き場

川西遺跡 船着き場2

ポイントをまとめると、
①河川の石積み護岸としては、国内最古の鎌倉時代の護岸施設。
②そこに室町時代に川湊が設置されたこと。
鎌倉時代から室町時代前半の約250年間にわたり、この地区を大規模な洪水から守ってきたことになり、現代の河川護岸の原型とも云えます。また、突堤状の遺構は、船着き場である川湊(=川津)であったと研究者は考えています。
 どうして、ここに整備された川湊が開かれていたのでしょうか
川西遺跡の石積み護岸施設の前の川跡からは、大量の木製製品が出土しています。
川西遺跡 木製品

 斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具、将棋の駒、カタカナ文字が書かれた木簡、仏具「独鈷杵(どっこしょ)」の鋳型祈祷などです。その他にも漆器椀、折敷(トレーのようなもの)など食膳にかかわるものや、櫛、下駄、扇など装いにかかわるものもあります。呪術や祭礼に使われた土器は穢れを嫌い、そのまま川へと捨てたようです。そのため無傷なままの土器が大量に出土しています。木製品の中には製作途中のものや木屑もあります。ここからはこの遺跡周辺で、漆器椀などの木製品の生産工房や建築木材の加工場があったことが推測できます。
 木製品が大量に出土する場所は、鎌倉時代の西日本にあっては、寺院であることが多いようです。 それを裏付ける物として、寺院建築の存在をうかがわせる平安末期の軒平瓦や軒丸瓦も出てきています。

川西遺跡 瓦
12世紀末~13世紀前半の瓦 左流水巴文(?)

つまり、川西遺跡周辺に木工工房を持つような有力な寺院があったことがうかがえます。木製品の生産工房や建築木材の加工場を管理統括する寺院が、製品の出荷や原材料などの物資を集積するために、この川湊を築造したと研究者は考えています。以前に、讃岐大内郡の与田寺には増吽によって組織された工房があって、仏像や神像・版木を制作する一方、大般若経書写センターなども兼ねていたことをお話ししました。その工房とイメージがダブってきます。
    那賀川などのように、園瀬川流域でも木材が切り出され、河口に運ばれていたこと、その管理機能を持つ寺院が周辺にあったとしておきましょう。
川西遺跡 西光寺

その寺院とは、どんな寺院だったのでしょうか? 地元の村史には次のように記します。
①川西地区は「道成寺」や「大徳寺」という時期不明の寺があったと、
②近くに「西光寺」の地名が残り、バス停にもなっている。
③約2km東には、2002年に約3700枚の埋納銭(注1)が出土した寺山遺跡(徳島市八万町)がある。
④その近くには、平安末期創建の「金剛光寺」(注2)という大きな寺があったとされる。
④の「金剛光寺」について「八万村史」(1935年)は、次のように記します。
八万村史(徳島県名東郡)昭和10年刊復刻(八万村青年団編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
「境内の広きこと、上八万村の北方より下八万の西方にまたがり、園瀬川屈曲して境内を流れ……」
「七堂伽藍建ちてその宏壮(こうそう)美麗は丈六寺に拮抗せり」
寺山の西隣の小山には、平安時代に建立された金剛光寺があった。寺が栄えた鎌倉時代には境内に閼伽池(あかいけ)と称する庭池があった。この池が昔の園瀬川の流路の一部であったと云うのです。それが天正年間(1573~92)に侵攻した長曽我部元親に焼き払われたとされます。
 寺山遺跡と川西遺跡には、土器の出土状況などに共通点もあるようなので、金剛光寺の工房が川西にあった可能性もあります。

川西遺跡 石積み護岸2
川西遺跡 石積護岸
以上から、次のような仮説を出しておきます。
①鎌倉時代から250年間にわたって木材供給などで大きな利権を持っていた寺院があった。
②その寺院は川西に木工工房を持ち、そこで仏像や版木などが制作されていた。
③同時に、園瀬川の浸食を防ぐために石積護岸が作られ、背後にあった木工工房を護った
④室町時代になると、中堤防が作られ川港が姿を現す。
⑤これは、このエリアが河口と上流を結ぶ河川交通の中継地として重要な役割を果たしていたことを物語る。

以上からは阿波の川港には、室町時代には川西遺跡と同じような護岸と川港を持った施設が各地に姿を見せていた可能性があります。そして、その川港も瀬戸の港のように、寺院の管理下にあったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P
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吉野川市バンブーパーク
 竹は根は浅いけれども、広く密に生えるので、洪水対策として土留め効果があるとされて、水害防備林として川筋に育てられてきました。阿波の吉野川の川筋には長く続く竹林が今でも数多く残ります。そのため河と竹林は古くから見られた光景のように私は思っていました。
 一方、竹材はその柔軟性を活かし、編みあげることが可能で、いろいろな工芸品として活用されてきました。そして、各種水防施設にも用いられてきたようです。今回は、水害対策に竹材がどのように利用されてきたのか、洪水対策として竹林がいつ頃から姿を見せるようになってきたのかを見ておきましょう。

治水技術の歴史 : 中世と近世の遺跡と文書(畑大介著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

テキストは、「畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」です。

蛇籠1
蛇籠の制作
 竹材を編んで細長く筒状にし、その中に川原石を入れた蛇籠が使われてきました。
このルーツは中国にあり、世界遺産に登録されている都江堰(四川省)紀元前3世紀)が築造された時に、はじめて用いられたとされています。
四川省の旅2004/都江堰編
都江堰(四川省)の蛇籠

蛇籠が我国に伝来したのは、いつ頃なのでしょうか? 
 古事記に蛇籠に相当する「荒籠」がみえるので、早くから伝わっていたとされてきました。しかし、古代の遺跡から蛇籠が発見された例はないようです。ここからは、古墳時代頃に伝来して、古代には日本国内で広く用いられるようになったとは云えないと研究者は考えています。
蛇籠3

それでは、蛇籠が確認できる史料はなんなのでしょうか?

富士川 船橋
富士川の舟橋(一遍上人絵伝)
『一遍上人絵伝』の富士川に渡された船橋の綱の右方は、蛇籠に固定されているように見えます。しかし、中世でも発掘調査で蛇籠が確認された事例はないようです。蛇籠が確認されるのは、戦国時代になってからです。永禄5年(1562)の穴山信君判物写に「籠」とあるので、戦国時代に甲斐国では蛇籠が使用されていたことは確かです。近世になると農書、地方書、定法書、川除普請仕様帳などから蛇籠は、広く普及していたことが分かります。蛇籠は寛永4年(1627)の吉田光由『塵劫記』に登場します。ここからは、江戸時代の早い段階ですでに知られていたことが分かります。

蛇籠 霞堤
かすみ堤に使用されていた蛇籠
「かすみ堤」などの山梨県内の堤防発掘調査では、江戸時代の蛇籠が確認されています。以上から蛇籠の一般的な使用は戦国時代になってからであり、中世後半までは一般的ではなかったと研究者は考えています。
蛇籠2
堤に用いられた蛇籠

次に治水対策として竹林が育てられていた事例を見ておきましょう。
長者舘門前 粉河寺縁起
板壁の内側に竹が植えられている(粉河寺縁起 長者屋敷)

  粉河寺縁起の長者(武士統領)の舘の周りには、竹が植えられているのが見えます。堀に面した塀沿いに、敷地を護るためと、弓矢の矢の作成材料として、武士の舘に植えられていたことが、絵巻物は描かれています。
 竹材が実際に護岸施設に用いられていた事例としては、次のような所があります。
①奈良県大和郡山市の本庄・杉町遺跡の河川護岸(図10)
②東京の汐留遺跡の大名屋敷の土留め竹柵
杉町遺跡の河川護岸

しかし、これらの事例は近世になってからです。中世に、河川沿いに竹が植えられた事例はないようです。それは、竹の全国普及への時期と関連します。
沖浦和光氏は、竹の普及について次のように記します。
①古代から中世初頭にかけては、温暖な南九州を除いて竹林は全国的には広がっていなかった
②竹林の造成技術が各地に伝わり、竹がいろいろな分野で用いられるようになったのは南北朝時代以後
③室町時代後半になって、治水灌漑のための竹林の造成が盛んに行われるようになった
つまり竹林の全国的普及は、南北朝以後ということにまるようです。竹は、古代からどこにでもあった身近な植物ではないようです。いまは里山では、竹藪が放置され、周りの山々を浸食して大きな問題となっています。私の家の竹藪も、すべて切り払って櫻を植えて、竹藪から山桜の山へと転換中です。このような讃岐の竹藪も、近世からあったわけではなく、明治以後に作られた景観のようです。我が里の「佐文誌」を読むと、大正時代に他所から持込、移植した竹が竹藪として拡がったことが分かります。現在の竹藪に囲まれた景観も百年前にスタートして、高度経済成長の時代にタケノコ景気の時代に急速に面積を拡げていったようです。竹と讃岐の里が結びついたのは近代になってからでした。それ以前は、以前にお話したように里山は「刈敷山」として、肥料のための草木刈りのための重要資源供給地でした。そのためタケノコなどは植えられなかったようです。竹藪が讃岐の里山に広がり始めたのは百年前からだったことを押さえておきます。
じゃかご・ふとんかご・特殊ふとんかご|金網の株式会社伊勢安金網製作所
現在の蛇籠
以上、竹材活用の歴史をまとめておくと
①古代では『竹取物語』の竹取翁に象徴されるように個人の手工的生産が中心
②鎌倉時代になると生活に身近な井戸の材料として使用されるようになり
③戦国時代頃になると治水工事で蛇籠が用いられ
④近世になると多量の竹材が護岸施設にも使用されるようになる。
蛇籠の普及も、この流れに沿うもので、伝来と普及は時期を分けて考える必要があると研究者は考えています。竹は古代から身近にあったものではないこと、竹は外来植物で九州から次第に生育エリアを拡大したことを押さえておきます。

防災と環境を両立する「蛇籠技術」の普及に向けた機関横断型の取り組み | SCENARIO 社会課題の解決を目指して
蛇籠
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P

富士川の船橋2
富士川の船橋(一遍上人絵伝)
前回は富士川の船橋と渡船を見ました。それを次のように、まとめました
①東海道は鎌倉幕府の管理下で、川を渡るための設備が整えられていたこと
②川はこの世とあの世の境に横たわる境界(マージナル)とも意識されていたこと。
DSC03302三島社神池と朱橋
     三島神社前の神池にかかる朱橋(一遍上人絵伝)
②については、当時の寺社の伽藍配置を見ると、本堂や拝殿の前に神池を配して、それを橋で渡るという趣向がとられていたところがあったことが分かります。それでは、中世の橋とは、どんなものだったのでしょうか。今回は、それを一遍上人絵伝で見ていくことにします。テキストは 藤原良章 絵巻の中の橋 帝京大学山梨文化財研究所研究報告第8集(1997年)です。

犀川渡河風景
 信濃・犀川の渡河風景
ここには、信濃・善光寺参りの際の犀川の川越え場面が描かれています。
荷駄を担いで岸沿いにやって来た男が渡岸場所をもとめて立ち迷っているようです。その前には、乱杭が何本も打たれて、氾濫に備えているようです。こちら側に洪水から護るべき土地があるようです。手前側では、米俵を馬の背ではこぶ男がいます。迷った末に、ここから川の中に馬を飛び込ませています。米俵は濡れても大丈夫なのでしょうか?
 この絵からは、川には橋もないところがあったことが分かります。ある意味では、渡河は命懸けの行為だったともいえます。里人にとっては、このような危険を冒してまでして犀川を渡ることは少なかったはずです。命懸けで、渡河しなければならなかったのは旅人・商人・廻国修験者たちだったが多かったようです。しかし、一遍上人絵伝には、ほとんどの河には橋が描かれています。

  奥州の祖父墓参からの帰路に渡った常陸国の橋です。
DSC03286
常陸の橋
 雪景色が一遍の前途に拡がります。うねりながら流れる川の手前に、雪化粧された橋が架かっています。  この橋について『絵巻物による日本常民生活絵事』は、次のように記します。
 この絵図に見るような田舎道にもりっぱな欄干のついた橋が架かっているのは、街道筋のためであろうか。この橋は常陸(茨城県)にあった。(中略)
京都付近の橋のように堂々とした欄干も橋脚も持っていない。しかし、一応欄干はついており、橋板もしかれている。橋はわずかだが上部に反っている。これは他の大きな木橋にも共通している。橋そのものは、擬宝珠ももっておらず、また橋脚なども細く小さく街道沿いの橋としては貧弱といえるが、絵巻の中に出てくる地方の橋の中では、技術的に高いものといえる。
   ここでは京都付近の橋と比較して「街道沿いの橋としては貧弱」とします。それでは、京都付近の橋を見ておきましょう。一遍上人絵伝には、賀茂川にかかる四条大橋が描かれています。それを比較のために見ておきましょう。
 
四条大橋
四条大橋(一遍上人絵伝)
 橋の下には賀茂川が勢いよく流れています。橋の上は、霧が深く立ちこめ牛車を隠すほどです。車輪のとどろかせる音だけが聞こえてくるようです。その背後には、板屋や菜田が見えます。このあたりが上賀茂になるのでしょうか。
 橋の左(西)側に目を移すと霧が晴れて、京の街並みが見えています。見えて来たのが四条大通で、朱塗りの鳥居が祇園社の西大門になるようです。橋の下では、服を脱いで馬を洗っている男達がいます。賀茂川は、馬を洗うところでもあったようです。このような立派な橋は、京都にしかなかったようです。
 橋の構造を見ると確かに「堂々とした欄干と橋脚」「擬宝珠」を持ち「技術的に高く」、しかも美しい橋です。それでは、京都の橋のすべてが四条大橋のように立派だったのでしょうか。

堀川に架かっていた七条橋を見てみましょう。
P1250357
 京の堀川と橋
京の市屋道場(踊屋)の賑やかな踊り念仏の次に描かれるシーンです。 踊屋の周囲の賑わいの離れた所には、ここでも乞食達の小屋が建ち並んでいます。その向こうに流れるのが堀川です。上流から流されてきた木材筏が木場に着けられようとしています。

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 堀川に架かる七条橋
 ここで研究者が注目するのが堀川に架かる木橋です。この橋が七条橋になるようです。先ほど見た賀茂川の四条大橋に比べるとはるかに粗末です。京の橋すべてが四条大橋のようにきらびやかなものではなかったことを、ここでは押さえておきます。  
 同時に「粗末な橋」と低評価することも出来ないのではないかと研究者は、次のような点を指摘します。それは、大きな筏がこの下を通過していることです。そうすると、この筏が通過できる規模と大きさと橋脚の高さを持っていたことになります。ここには絵巻のマイナス・デフォルメがあると研究者は考えているようです。実際には堀川の川幅はもう少し広いので、橋も長かったはずだと言うのです。つまり、この橋は実際には、もう少し長く高い橋であったが絵図上では、短く低く書かれているということになります。一遍上人絵伝の橋を、そのままの姿として信じることはできないようです。書かれているよりも大型で長かった可能性があることを押さえておきます。
  四条大橋や宇治橋や瀬戸橋は、今で言えば瀬戸大橋やレインボーブリッジのようなものです。政治的な建築モニュメントの役割も果たしていました。これらの橋と常陸の橋を、同列に並べて比べるのは、視点が間違っていると研究者は指摘します。比較すべきは、当時の地方の主要街道や一般街道に、どんな橋が架かっていたかだとします。
  それでは、地方にかけられていた橋を見ていくことにします。
一遍が石清水八幡参拝後に逗留した淀の上野の里です。

P1240609上野の踊屋と卒塔婆238P
上野の街道と踊屋(一遍上人絵伝)

上野の里をうねうねと通る街道が描かれています。街道沿いの大きな柳の木の下に茶屋があり、その傍らには何本もの祖先供養のための高卒塔婆が立てられています。その向こうでは、踊屋が建てられ、時衆によって念仏踊りが踊られています。それを多くの人々が見守っています。上野の里での踊りも、祖先供養の一環として、里人に依頼されて踊られたという説は以前にお話ししました。
手前の街道を見ると、道行く人も多く、茶店や井戸などの施設も見えます。ここが主要な街道のであることがうかがえます。
 左手中央に、小さな川が流れています。そこに設けられているのが木橋です。
上野の板橋
上野の板橋
縦3枚×横2枚の板橋が、2つの橋脚の上に渡された「粗末」な橋に見えます。しかし、これを先ほど見た堀川の七条橋と比べて見るとどうでしょうか。構造的には同じです。そして、一遍上人絵伝の橋の絵には「マイナス・デフォルメ」がある、という指摘を加味してみると、この上野の橋は案外大きかったのではないかとも思えてきます。橋の上を、赤子を背負った菅笠の女房が橋を渡っています。人や馬は通過できたでしょうが、荷馬車は無理です。ここからは、地方の街道には、「投下資本」が少なくてすむので、こんな板橋が一般的だったことが推測できます。今度は奥州の主要道に架かる橋を見ていくことにします。
 
弘安3(1280)年、 一遍の祖父・河野通信(奥州江刺)の墓参りのシーンです。  
DSC03277江刺郡の祖父道信の墓参

墳墓の手前に白川関からの道が続いています。商人の往来が描かれ、詞書には次のように記されています。

魚人商客の路をともなふ、知音にあらざれども かたらひをまじえ・・」

ここからは、人々が数多く行き交う街道であったことがうかがえます。この街道は「奥大道」かその「脇往還」のようです。この街道の先に架かっている橋がこれです。

奥州江刺墓参の橋
奥州江刺の街道に架かる橋(一遍上人絵伝)
 これだけ見ると、寒村の小道の板橋のようにしか見えません。しかし、これが主要街道に架かる橋だったのです。市女笠の女が胸に赤ん坊抱いて渡ろうとしています。前を行く従者が檜唐櫃(ひかんびつ)を前後に振り分けて担いでいます。そして稲穂が見える田んぼの中に小川が流れ、そこに板橋が架かっています。ここでも川には何本もの杭が打ち込まれています。

「一遍上人絵伝』の中で有名な場面といえば、備前国福岡の市です。教科書の挿絵にも登場する場面です。最初にストーリーを確認しておきます。

備前国藤井の政所で、吉備津宮神主の子息の妻が一遍に帰依して出家します。それを知った子息は怒りに震えながら一遍を追いかけ、福岡の市で遭遇します。そして斬りかかろうとしますが、一遍の気迫に押され、彼自身も帰依して剃髪した

福岡の市の場面に出てくる橋を見ておきましょう。
福岡1
①騎馬で追いかけてくるのが吉備津宮神主の子息で、従者が歩行で従います。この道が山陽道。
②市の手前に一筋の川が流れています。これが吉井川で、木橋が架かっています。
ここからは福岡の市が東西に走る山陽道と、南北に流れる吉井川交わる地点に設けられた交通の要衝に立地していたことが分かります。絵には、吉井川に係留された2艘の川船が見えます。水上交通と市が深くつながっていたことを示す貴重な史料ともなっています。それでは山陽道にかけられた橋を改めて見ておきましょう。

P1250364

丸木の上に板橋が乗せられた構造で、橋脚もありません。山陽道の最重要商業拠点に架けられた橋にしてこれなのです。京都の四条大橋には比べようもありません。 こうしてみると、中世の地方の街道には「粗末」な橋しか架かっていなかったことが見えてきます。

P1250355
書写山(姫路)の参拝道の橋

その「粗末」な板橋こそが各地を結ぶ重要な役割を果たしていたことになります。
中世の人達にとって、四条大橋や瀬田橋は瀬戸大橋かベイブリッジのようなもので、滅多に見ることのない橋のモニュメントであり「観光名所」だったのかもしれません。そして、普通に橋と言えば板橋で、それが各地の主要街道に架かっていたことがうかがえます。そういう意味では、最初に見た常陸の橋は、地方では、堂々とした橋で特別な橋であったことになります。この事実を受け止めた上で、認識を次のように改める必要があるようです。
①絵巻の中の街道には、「粗末」で大した技術もなく、見栄えのしない橋しか出てこない。
②しかし、ほとんどの街道の川には橋が架けられていて、川をジャブジャブと渡る姿は少ない。
③技術や見栄え以上に、必要な所には粗末ながらも橋が架けられていたという事実に注目すべきである。
④「粗末な橋」が、一遍一行を始め人々の旅を支える重要な役割を果たしていた。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  藤原良章 絵巻の中の橋 帝京大学山梨文化財研究所研究報告第8集(1997年)
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全国の民俗芸能には、鳴り物に太鼓や鉦が使われます。
例えば「一遍上人絵詞伝」には、「ひさげ」を叩きながら、踊り念仏を行ったことが次のように記されています。

すずろに心すみて念仏の信心もおこり、踊躍歓喜の涙いともろおちければ、同行共に声をととのへて念仏し、ひさげをたたきてをどりたまひけるを、(略)

  意訳変換しておくと
次第に心も澄んで念仏への信心も高まり、踊躍歓喜して踊っていると涙がつたい落ちて、同行する者たちは声を調えて念仏して、ひさげを叩いて踊った、(略)

  ここには「ひさげを叩いて踊った」とあります。

提・提子(ひさげ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
ひさげ
ひさげとは、鉉(つる) と注ぎ口のある小鍋形の銚子 です。湯や酒を入れて、持ち歩いたり温めたりする銅や真鍮製の容器でした。最初は、太鼓や鉦でなく「ひさげ」が打ち鳴らされていたようです。


信濃小田切 踊り念仏 
信濃小田切の踊り念仏
踊り念仏が踊られたころの絵図を見てみましょう。一遍が打ち鳴らしているのは、大きな鉢のように見えます。踊りの輪の中にいる時衆たちが持っているのも鉦ではありません。「ひさげ」を叩いていたことを押さえておきます。また、雰囲気も厳かな宗教的踊りとという感じはしません。踊り念仏が庶民の娯楽性を帯びたものだったことがうかがえます。

『一遍聖絵』には、次のように記します。
聖の体みむとて参たりけるが、おどりて念仏申さるゝ事けしからずと申ければ聖はねばはねよをどらばをどれはるこまののりのみちをばしる人ぞしる

  意訳変換しておくと
聖(一遍)がやってきたことを聞いて、多くの人々がやってきた。その中に踊りながら念仏を唱えることを、けしからないと非難する人もいた。それに対して聖は、跳ねれば跳ねよ 踊ればおどれと、駒の道理を知る人は知る

「跳ねれば跳ねよ 踊ればおどれ」とあるので、飛び跳ねる馬のように軽快に乱舞していたことが分かります。この時に、「ひさげ」は叩いて音を出す楽器として使われたようです。同時に、「ひさげ」は、壷のように霊魂の容器であるホトキ(缶)としても用いられています。つまり、宗教的な器具であり、楽器でもあったようです。
「ひさげ」のように空也手段が叩いていたのが瓢箪(ひょうたん)のようです。
『融通念仏縁起絵巻』の清涼寺融通大念仏の項には、瓢箪を叩きながら念仏を唱えて踊る姿が描かれています。ここからは、瓢箪も「宗教的意味合いをもつ楽器」と考えられていたことがうかがえます。
空也堂踊り念仏

京都の空也堂で11月に行われる歓喜躍踊念は、「鉢叩き念仏」とも呼ばれます。ここでは空也僧たちが導師の回りを太鼓と鉦鼓に合わせて、瓢箪を叩きながら歓喜躍踊念仏を踊ります。鉦鼓や焼香太鼓・金瓢などを叩いて、これに合わせて「ナームーアーミーダーブーツ(南無阿弥陀仏)」と念仏を詠唱しながら、前後後退を繰り返しながら左回りに行道します。次第に鉦や太鼓のリズムが激しくなり、空也僧も速いテンポの念仏に合わせながら体を大きく左右上下に振ります。この体形は、天明七年(1787)成立の『拾遺都名所図会』に描かれた挿絵とほぼ同じです。この絵には、
①空也堂の内陣須弥壇前方部で鉦を打ちながら読経を続ける一人の僧侶
②僧衣を着けた半僧半俗の九名の空也僧たち
が描かれ、僧侶を中心に取り巻くようにU字型の体形をなし、手に狐と撞本を持って、詠唱念仏に合わせて瓢箪を打ちつつ行道している様子が描かれています。

空也堂系の六斎念仏請中では、金狐銀釧を採物とするものが多く、瓢箪を叩くものは少数のようです。
採物(とりもの)とは、神事や神楽で巫女や神楽などが手に持つ道具で、「榊・葛・弓・杓(ひさご)・幣(みてぐら)・杖・弓・剣・鉾」の計9種類とされています。折口信夫は手に持って振り回すことで神を鎮める「鎮魂」の意味があったという説を出しています。
 例えば以前に見た播磨の百国踊りの新発意役の採物(とりもの)は
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。
七夕|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典|ジャパナレッジ
ひょうたんが吊された七夕竹
ちなみに、踊り念仏の本願の象徴として、
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。新発意役は僧形をし、聖の系統を表す瓢箪や七夕竹・団扇などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べます。しかし、その後の流れの中で新発意役の衣装も、派手な色合いに風流化し、僧形の姿で踊る所はあまりないようです。そういう意味では、被り物や採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えていると云えそうです。

2月14日|でれろん暮らし|その89「比左を打つとは?」 by 奥田亮 | 花形文化通信
 「七十一番職人歌合」の鉢叩の項には、次のように記します。
「むじょう声 人にきけとて瓢箪のしばしばめぐる 月の夜ねぶつ」
「うらめしや誰が鹿角杖ぞ昨日まで こうやこうや といひてとはぬは(略)はちたたきの祖師は空也といへり」

以上をまとめておくと
①踊り念仏では、手に持って振り回すことで神を鎮める「鎮魂」の道具として採物(とりもの)が用いられた。
②空也系の流れを汲む時衆の踊り念仏で、用いられた採物が「瓢箪」であった。
③瓢箪は、「鉢叩き」として楽器であると同時に、霊魂の容器として宗教的な意味合いを持っていた。
④禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇を採物とした。
⑤踊り念仏から風流踊りへと変化する中で、鳴り物より採物の方が重視されるようになった。
⑦採物は風流化の中で、大型化したり、華やかになったりして独特の「進化」をとげた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」

 DSC03394
                         
時宗の開祖・一遍は民衆の間に念仏を勧めて、北は東北地方から南は九州南部まで遊行の旅を続けました。そのため「遊行上人」とも呼ばれます。しかし、あるときまでは一遍は自分の行動に確信が持てなかったようです。それが大きく変化するのが熊野本宮で、熊野権現から夢告をうけたことでした。

DSC03181
熊野川を下る一遍

一遍死後、約50年後の正安元年(1299)に、弟子の聖戒が作成したと伝えられる「一遍聖絵」巻二には、次のように記されています。

DSC03190熊野本宮
熊野本宮(一遍上人絵伝)
  文永十一年のなつ、高野山過て熊野へ参詣し給ふ。(略)
本宮證誠殿の御前にして願意を祈請し目をとぢていまだまどろまざるに、御殿の御所をおしひらきて、白髪なる山臥の長頭巾かけて出給ふ。長床には山臥三百人ばかり首を地につけて礼敬したてまつる。この時権現にておはしましけるよと思給て、信仰しいりておはしけるに、かの山臥聖のまへにあゆみより給ての給はく、融通念仏すゝめらるゝぞ、御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず、阿弥陀仏と心定するところ也。(略)大権(現)の神託をさづかりし後、いょ/ヽ他力本願の深意を領解せりとかたり給き。
  意訳変換しておくと
文永11年(1174)の夏、高野山から熊野へと参詣した。(略)
熊野本宮證誠殿の御前で、願意を祈願した後、目を閉じて眠ろうとした。すると御殿の御所を押し開いて、長頭巾かけた白髪の山伏(熊野権現の権化)が現れた。長床には、山伏が三百人ばかり首を地につけて礼敬している。これが権現だと気づいて、お参りしていると、その山伏が一遍の雨に歩み寄ってきて、次のように云った。「融通念仏を勧めることに、なんの迷いがあろうか。すべての衆生の往生は、阿弥陀仏のみを信じることにある。信じる信じない、穢れている清いに関わらずお札を配るべし。(略)目を開いた一遍の周りには、百人をこえる子ども達が、その念仏を受けたい、札をいただきたいと口々に云いながら集まってきた。一遍が名号を唱えながら札を渡すと子ども達は消えていった。(中略)熊野大権現の神託を授かった後、いよいろ他力本願の深意を理解したと一遍はおっしゃった。

  ここからは 一遍は文永11年(1174)に高野山と熊野に参詣したこと、熊野では熊野権現の夢告を受け、立教開宗をしたことが分かります。
熊野本宮 熊野権現との出会い

 證誠殿の前に白装束の山伏(熊野権現)の姿が現れています。その前にひざまずくのが一遍です。その右手には、熊野権現の教えに従って、子ども達にお札を配る一遍の姿が描かれています。左から右への時間経過があります。巻物には、時間経過が無視して一場面に描かれています。今の漫画の既成概念を外して見ていく必要があります。

高野山も熊野も、この時代には山岳霊場のメッカでした。
当時の本宮には「長床」という25間もの拝殿があり、そこに集まる「長床衆」と呼ばれる熊野行者たちによって管理運営されていたことは以前にお話ししました。
また、熊野三山の本地仏は次の通りでした。

−第41回−文化財 仏像のよこがお「藤白神社の熊野三所権現本地仏坐像 」 - LIVING和歌山
熊野三所権現本地仏坐像 藤白神社(海南市)権現堂
阿弥陀如来坐像(本宮・中央)・薬師如来坐像(那智・右)・千手観音坐像(新宮・左)
熊野本宮の本地仏は阿弥陀如来とされていました。熊野は山中他界と海上他界の二つの信仰が融合した霊地です。そのため死者の霊魂の行く国(場所)、「死者の国・熊野」とされてきました。そして、熊野本宮の本地仏は、阿弥陀如来とされます。 一遍が熊野に詣でたのは、宇佐八幡宮や石清水八幡宮の八幡神の夢告という神秘説もあります。しかし、熊野に群集する道者に賦算する目的、高野聖を媒介とする法灯国師覚心の引導があったことが要因と研究者は推測します。

DSC03194熊野本社 音無川合流地点
本宮の音無川合流点から新宮へ下る川船

そして翌年には、信濃の小田切で一遍が踊り念仏を始めて踊ったことが、次のように記されています。

DSC03257信濃小田切での踊り念仏
信濃小田切で、はじめての踊り念仏
其年信濃国佐久郡伴野の市庭の在家にして歳末の別時のとき、紫雲はじめてたち侍りけり。仰をどり念仏は空也上人或は市屋或は四条の辻にて始行し給けり。(略)
同国小田切の里或は武士の屋形にて聖をどりはじめ給けるに、道俗おほくあつまりて結縁あまたかりければ、次第に相続して一期の行儀と成れり。
  意訳変換しておくと
その年に、信濃国佐久郡伴野の市庭の在家で、歳末の別時のときに、紫雲が立ち上った。踊り念仏は空也上人が市屋や京の四条の辻で始めた。(略)
信濃国小田切の武士の屋形で、一遍が踊り始めると、道俗が数多くが集まってきて結縁が結ばれたので、以後は恒例の行事となった。
ここからは、小田切の武士の舘で別れの際に庭先で踊った所、人々の信心を集めるにの有効だとされるようになったこと、以後は、踊り念仏を民衆教化の手段として、機会あるごとに各地で踊るようになったことが記されています。
 五来重氏は、踊り念仏からいろいろな民俗去能が発生した過程を、詳しく述べています。
Amazon.co.jp: OD>念仏芸能と御霊信仰 : 大森恵子: 本
大森恵子氏も『念仏芸能と御霊信仰』で、御霊を鎮魂する目的で踊られた民俗芸能の原形は、空也に始まり、一遍に受け継がれた踊り念仏にあると指摘します。空也は「阿弥陀聖」とも呼ばれ、念仏を唱えながら三昧で死者供養を行ったと伝えられます。空也聖たちも、死者供養のために踊り念仏を行い、一遍も空也と同じように念仏(融運念仏)を詠唱し、踊り念仏を踊ったのです。そのことで崇りやすい御霊を供養し、災害や戦いの恐怖から民衆を救おうとします。当時の御霊は、あらゆる災いを引き起こして、その崇りを引き起こすとされていたのです。その「悪霊退散」「御霊供養」のために踊り念仏は踊れられた研究者は考えています。

当時の最大の社会的事件は元寇でした。
これにどう向き合うのかと云うことが、宗教者にも求められたはずです。多数の戦死者を出し、元軍の襲来に人々が恐怖を感じた年に、一遍は熊野で神託を受けて悟りを開いています。それは、熊野権現の本地仏である阿弥陀如来を信じて、「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽往生ができるという教えです。その先に国家安康もあるとします。阿弥陀信仰は、仏や菩薩を信じれば死後(来世)に仏たちのいる浄土に生まれ代わることができると信じるものです。これは死者供養と、深く結びついています。
 熊野本宮の本地仏と同じように、八幡神の本地仏も阿弥陀如来でした。そのためか一遍は、頻繁に地方の有力八幡宮を訪れています。
弘安元年(1278) 大隅正八幡宮へ
弘安9年(1286) 山城国の石清水八幡宮
弘安10年(1287) 播磨国の松原八幡宮
DSC03222大隅八幡
大隅正八幡宮に参拝する一遍
  大隅八幡宮(現鹿児島神宮)で受けた神の啓示による歌とされるのが次の歌で、のちの宗門で尊ばれるようになります。

「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶにむまれこそすれ」(聖絵)


DSC03463
『一遍聖絵』巻九
『一遍聖絵』巻九には、弘安9(1286)年に、一遍は石清水八幡宮に参詣して、八幡神の託宣を受けたこと次のように記します。
弘安九年冬の頃、八幡宮に参じ給う。大菩薩御託宣文に曰く「往昔出家して法蔵と名づく。名を報身に得て浄土に往す。今娑婆世界中に来たり、則ち念仏の人を護念するを為す」文。同御詠に云く、
極楽に参らむと思う心にて、南無阿弥陀仏といふぞ身心
因位の悲願、果後の方便、 悉く念仏の衆生の為ならずといふ事なし。然あれば、金方刹の月を仰がむ人は、頭を南山の廟に傾け、石清水の流れを汲まむ類は、心を西上の教(へ)に懸けざらむや。

意訳変換しておくと
弘安九年(1286)冬の頃、山城の石清水八幡宮に参拝した。その時の大菩薩御託宣文には、次のように記されていた。「往昔に出家して法蔵と名なのる。報身を得て浄土に往していた。それが今、娑婆世界にやってきて、念仏を唱える人々を護念する」文。そこで一遍は、次のような歌を詠んだ。
極楽に行こうとする心で、南無阿弥陀仏を唱える
因位の悲願や果後の方便は、すべて念仏衆生のためである。金方刹の月を仰がむ人は、頭を南山の廟に傾け、石清水の流れに身を任せる人は、心を浄土・阿弥陀如来の教へに傾けるであろう。
ここからは、一遍が阿弥陀如来を本地仏とする八幡神に対して、「一体感」とも云うべき心情をもっていたことが分かります。
DSC03464山城の石清水八幡
石清水八幡宮(一遍上人絵伝)
この後、一遍は播磨の松原八幡宮(姫路市白浜町)に詣でています。そこで「別願和讃」を作って、時宗の衆徒にあたえます。このことについて「一遍聖絵」には、次のように記されています。
播磨松原での和讃
一遍の和讃

「この山(書写山)をいでヽなを国中を巡礼し給。松原とて八幡大菩薩の御垂迹の地のありけるにて、念仏の和讃を作て時衆にあたえたまひけり。
身を観ずば水の泡 消えぬる後は人ぞなき
命を思へば月の影 出て入る息にぞ止まらぬ
人天善処の形は 惜しめども皆とどまらず
地獄鬼畜の苦しみは 厭へども又受けやすし
目の辺り言の葉は 聞く声ぞなき
香を嗅ぎ味舐めむる事 ただ暫くの程かし
息のの操り絶えぬれば この身に残る効能なし
過去遠々の昔より 今日今時に至る迄
思(ふ)と思ふ事は皆 叶はねはこそ悲しけれ
聖道・浄上の法門を 悟りと悟る人は皆
生死の妄念尽きずして 輪廻の業とぞ成(り)にける
善悪不二の道理には 叛き果てたる心にて
邪正一如と思ひなす 冥の知見ぞ恥づかしき
煩悩即ち菩提ぞと 言ひて罪をば作れども
生死即ち湿槃とは 聞けども命を惜しむかな
自性清浄法身は 如々常住の仏なり
迷ひて悟りも無き故に 知(る)も知らぬも益ぞなき
万行円備の報身は 理智冥合の仏なり
境智二つもなき故に 心念口称に益そなき
断悪修善の応身は 随縁治病の仏なり
十悪五逆の罪人に 無縁出離の益ぞなき
名号酬因の報身は 凡夫出離の仏なり
十方衆生の願なれば  人も漏るヽ科ぞなき
別願超世の名号は 他力不思議の力にて
口に任せて唱ふれは 声に生死の罪消えぬ
初めの一念より他に 最後の十念なけれども
思(ひ)を重ねて始(め)とし 田賞ひ)の尽くるを終はりとす
思(ひ)尺きなむその後に 始め・終はりはなけれども
仏も衆生も一つにて 南無阿弥陀仏とを申すべき
早く万事を投げ捨てヽ 一心に弥陀を頼みつつ
南無阿弥陀仏と息絶ゆる これぞ思ひの限りなる
此時極楽世界より 弥陀・観音・大勢至
無数恒沙の大聖衆 行者の前に顕現し
一時に御手を授けつヽ 来迎引接垂れ給ふ

(略)仏も衆生もひとつにて、南無阿弥陀仏とぞ申べき、はやく万事をなげすてヽ、一心に弥陀をたのみつヽ、南無阿弥陀仏といきたゆる、これぞ思のかざりなる」

ここからは、 一遍が時宗の教義として念仏を唱え、阿弥陀如来を信仰することを説いていたことが分かります。その和讃を考え出したのも八幡宮だったのです。
⛩松原八幡神社|兵庫県姫路市 - 八百万の神
松原八幡神社(姫路市)
どうして、一遍は八幡神との「混淆」を考えるようになったのでしょうか?
当時の人達の最大の関心事は、元寇でした。元寇が三度あるのではないかという危機感が世の中にはありました。その危機感の中でクローズアップされたのが、八幡信仰です。そのような時代背景の中で、一遍は、八幡信仰も混淆しようとしたと研究者は考えています。
  一遍は元軍襲来の恐怖から逃れる手段として、あるいは元寇で戦死した非業の死者の霊(御霊)を供養する目的から、各地の八幡神に参詣したことが推測できます。その際には一遍や時宗聖たちは、詠唱念仏や踊り念仏を八幡神に対して奉納したはずです。そのため一遍の弟子に当たる一向上人も大隅八幡宮から神託を受けたり、宇佐八幡宮で初めて踊り念仏を催したことが『一向上人絵伝』には記されています。
 八幡宮に奉納されていた民俗芸能を考察するうえで、 一遍と時宗聖がおよぼした影響を無視して論じることはできないと研究者は指摘します。同時にこの時期には、高野聖も本地仏をとおして、熊野信仰と八幡信仰を融合させながら、念仏を勧めていったことを押さえておきます。
   以上をまとめておきます
①神仏混淆下では、熊野本宮や八幡神の本地仏は阿弥陀如来とされた。
②そのため一遍は、熊野本宮で阿弥陀仏から夢告を受け、お札の配布を開始する。
③また、一遍は、各地の八幡神社に参拝している。これも元寇以後の社会不安や戦死者慰霊を本地仏の阿弥陀如来に祈る意味があった。
④一遍にとって、阿弥陀如来を本地仏とする熊野神社や八幡神社に対しては「身内」的な感覚を持っていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  テキストは「大森恵子 風流太鼓踊りのなかの勧進聖 踊り念仏の風流化と勧進聖153P」です。

 P1250078
   佐文綾子踊り
「綾子踊り」の里の住人として、次のような疑問を持っています。
①雨乞い踊りとされているのに、詠われる歌は恋歌ばかりで雨に関する内容が少ないのはどうしてか。
②綾子踊りが風流踊りに分類されるのはどうしてか。
③滝宮神社に奉納されていた那珂郡南の七箇村念仏踊りの構成員だった佐文が、どうして綾子踊りを踊り始めたのか。
④七箇村念仏踊りと綾子踊りは、衣装などはよく似ているがどんな関係にあるのか。
⑤綾子踊りと、高瀬二宮神社のエシマ踊りとは、どんな関係にあるのか
⑥佐文で綾子踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになったのはいつからなのか。

 いまは各地で雨乞い踊りとされる風流踊りは、もともとは雨乞成就のお礼として奉納された風流踊りでした。
滝宮念仏踊りも坂本組の由緒には「菅原道真の雨乞い成就のお礼として踊った」と書かれています。近世後半になるまでは、雨乞いが行えるのは修行を経た験の高い僧侶や山伏にかぎるとされ、百姓が雨乞いをしても効き目があるとは思われていませんでした。そのため各藩は、白峰寺や善通寺に雨乞いを公的に命じています。村々の庄屋は、山伏たちに雨乞いを依頼しています。村人自身が雨乞い踊りを踊ることは中世や近世前半にははかったようです。
 そんな中で、綾子踊りの縁起は、雨乞い手法を空海から伝えられたとして、雨乞いのために踊ることを口上で明確に述べます。これをどう考えればいいのかが、私の悩みのひとつです。
 もうひとつは、綾子踊りの歌詞や踊り、鳴り物、衣装、幟などが、どのようにして佐文に伝えられたのか、別の言い方をすると、誰がこれを伝えたのかという問題です。風流踊りの研究者達は、諸国廻遊の山伏(勧進聖・高野聖)たちが介在したとします。それが具体的に見えてくる例を、今回は追って見ようと思います。テキストは「大森恵子 風流太鼓踊りのなかの勧進聖 踊り念仏の風流化と勧進聖153P」です。
百石踊り 駒宇佐八幡神社(ふるさと三田 第16集)( 三田市教育委員会 編) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋

研究者が取り上げるのは、兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊です。
駒宇佐八幡神社では、毎年11月23日の新穀感謝祭の日に、上谷と下谷の氏子が一年交代で百石踊りを奉納します。これはもともとは雨乞祈願の願成就のお礼踊りで、「願解き踊り」とも呼ばれていました。それが時代が下るにつれて、雨乞祈願の踊りとされます。

駒宇佐八幡神社|兵庫県神社庁 神社検索
百石踊り
百石踊りの踊り役構成は、次の通りです
①新発意役二名
②太鼓踊り子役一三~二〇名
③幡踊り子約二〇名
④鉄砲方二名、
⑤青鬼役一名
⑥赤鬼役一名
⑦山伏役二名
⑧笠幕持ち一名
⑨幟持ち役一名
駒宇佐八幡神社 百石踊り : ゲ ジ デ ジ 通 信

①の新発意(しんほつい)というのは「新たに仏門に入った者」のこことで、場所によっては「いつか寺を継いでいくこども」を「新発意」(しんぽち)ともよぶそうです。

研究者が注目するのは、この新発意役です。
その衣裳は僧形で、白衣のうえに墨染めの法衣を着て、裾をたくって腰でからげます。法衣のうえから白欅をして、背中で蝶結びにします。笠の縁を赤いシデで飾り、月と日(太陽)形の切り紙を貼った編笠を被り、右手に軍配団扇、左手に七夕竹を持つ。踊りが始まる直前に新発意役は口上を述べ、踊りの開始とともに太鼓役を先導して踊ります。
百石踊り(駒宇佐八幡神社) | ドライブコンサルタント
僧姿の新発意役

この役は口上を述べ、諸々の踊り役を先導します。このように百石踊りでは、僧侶の扮装をした新発意役が踊りの口上を述べたり踊りを先導したりするので、「新発意型」の民俗芸能のグループにも入れることができます。
 百石踊りは、さまざまな衣装の踊り役や、あるいはきらびやかに飾った「幡」や「笠幕」を所持する役などで構成されているので、「風流踊り」の一種とされます。特に笠幕持ち役は、下谷・上谷とも駒宇佐八幡神社境内にある岩倉(巨石)の前で、「笠幕」と呼ぶ神の依り代を踊りの間ずっと捧げ持ちます。笠幕とは、釣鐘状の造り物の上に金襴の打ち掛けを重ねて、きらびやかに飾った形です。側踊りの締太鼓を手に持つ「太鼓踊り子役」が、新発意役を取り囲むようにして踊るスタイルなので、百石踊りは「太鼓踊り」にも分類できます。
 戦前までは家格によって踊り役が決まっていて、新発意役を演じることができれば、たいへん名誉なこととされたようです。以上から百石踊りは、古態を伝える典型的な新発意踊りで「新発意型風流太鼓踊り」の特徴を伝える民俗芸能と研究者は考えています。

百石踊り - marble Roadster2
百石踊りの新発意役

百石踊りの新発意役をもう少し詳しく見ていくことにします。
新発意役は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装をし、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都の姿を表したものであると伝えられます。元信という天台宗の遊行僧が文亀年間に生存し、雨乞祈席を修したかどうかは分かりません。ただ、遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などに関与したこと以前にお話ししました。百石踊り成立過程において、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。
研究者は注目するのは、次の新発意役の持ち物です。
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。本願の象徴として、
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
を好んで使用したとされます。彼らは大念仏を催して人々から頼まれたいろいろな祈願を行う際に、自分たちの属する教団の示す象徴が必要でした。そのシンボルが、瓢箪と七夕竹だったようです。空也系聖と禅宗系聖の両方を混合したのが高野聖になります。ここからは、採り物についても百石踊りの成立過程には、下級宗教者(高野聖など)の関わりがうかがえます。
民俗芸能にみられる「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。
 新発意役は僧形をし、聖の系統を表す瓢箪や七夕竹・団扇などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べることを押さえておきます。しかし、時代の推移とともに新発意役の衣装も風流化し、僧形のいでたちで踊る芸能は少なくなったようです。今では被り物・採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっています。その中で、僧姿で踊る百国踊りは、勧進僧の風流踊りへの関与を考える際に、貴重な資料となります。

百石踊りは「百穀踊り」とも記されています。
それは、大掛かりな踊りのため一回の踊りを奉納すると、百石の米が必要っだことに由来するようです。百石踊りの発生由来は「神社調書」のなかに、次のように記されています。
後柏原天皇文亀三年 天台僧元信国中遍歴の途、当社社坊天台宗弥上山常楽寺へ立寄り滞在せしところ、其夏大いに旱し民百姓雨を神仏に祈りて験なし時に、元信僧都之を慨き沐浴斎戒して八幡宮の森に忌籠り断食して祈る事、七日七夜に及ぶ。 二日目の子の刻頃元信眠を催し、士の刻頃其場に倒れたり、其時夢現の問多くの小男小女元信の周囲を取巻き、小男は手に鼓を打鳴し、小女は之に合わせて五色の幣を附けたる長き杖を突き、片手に日の丸の扇子を携え歌を奏しつゝ雨を乞ひしに、八幡大神は社殿の扉を開き出御の上、此有様を見そなはせしに、東南の風吹き起こて黒雲を生じ、中より大幣小幣列をなして下り来たると、夢みて醒むれば夜将に明けんとし、其身辺に大小の蛇葡萄せり、而も其蛇は大中小と順を正し、傍の老杉の本に登ると見るや、微雨点々顔面に懸るを覚へたり。(中略)
 巳の刻より降雨益々多く未申の刻より暴雨盆を覆すが如きこと三ヶ日に及び、諸民蘇生の思を起し喜び一方ならず、村民元信を徳とし、八幡宮へ願解祭を奉仕するに当り、 元信夢むところの小男小女の踊を仕組み、元信を頭として老若男女打ち揃い七日七夜境内に踊りて、雨喜の報塞祭を奉仕せり、之より年旱して祈雨の験有れば此踊を奉仕し、其種類も次の通なり。
  意訳変換しておくと
後柏原天皇文亀三(1503)年に、天台僧元信は諸国遍歴の際に、当社社坊(別当寺)天台宗弥上山常楽寺へ立寄り滞在していた。その夏は、大変な旱魃で、民百姓は雨を神仏に祈願したが効果はなかった。そこで、元信僧都は、これを憐れんで沐浴斎戒して八幡宮の森に忌籠り断食して、七日七夜祈った。 二日目の子の刻頃、元信は睡魔に襲われ、その場に倒れ眠り込んでしまった。その時に夢の中に、多くの小男小女が元信の周囲を取巻き、小男は手に鼓を打鳴し、小女はこれ合わせて五色の幣をつけた長い杖を突いて、片手に日の丸の扇子を携えて、歌を詠いつつ、雨乞い踊りを踊った。 この時に八幡大神は、社殿の扉を開きこのようすを見守った。すると、東南の風が吹き起こて黒雲が現れ、その中から大幣小幣が列をなして降ってきた。夢から覚めると、まさに夜が明けようとしている。その身辺に大小の蛇が多数現れ、大中小と順番に並んで、傍の老杉の木に登っていく。すると雨点が顔面に点々と降ってきた。(中略)
 巳の刻からは、雨は益々多くなり、未申の刻からは暴雨で盆を覆す雨が三ヶ日間降り続いた。これを見て諸民の喜びは一方ならず、元信の雨乞い成就を感謝して、八幡宮へ願解祭を奉仕するようになった。その際に、元信の夢中に表れた小男小女の踊を仕組み、元信を頭として老若男女打ち揃って七日七夜境内に踊りて、雨乞い成就の感謝と喜びを報塞祭として奉仕した。こうして旱魃の際には、雨乞成就の験があればこの踊りを奉仕するようになった。その種類は次の通りである。

要約すると次のようになります。
①元信と名乗った天台系の遊行聖が駒宇佐八幡宮の社坊(神宮寺・別当寺)に立ち寄り滞在中に、雨乞祈祷を行ったこと
②その踊り構成は、男女の子供たちが元信を取り巻き、男子は鼓を持って打ち鳴らし、女子は五色の御幣が付いた長い杖を突き、片手に日の丸の扇を持って歌を歌いながら踊るというものだったこと
③おびただしい蛇が現れ、列を成して老杉に登って行ったこと。
④蛇が老杉の先端に到着すると微雨が降り始め、そのうち豪雨になったこと。「蛇=善女龍王伝」説を汲んでいること
⑤氏子は、元信の夢告を信じ、夢のなかの雨乞踊りを再現し願解き(雨乞成就感謝)踊りとして踊った。
 以上のように、この踊りは雨乞祈願成就の感謝として踊られてきました。それがいつの頃からか、駒宇佐八幡神社の祭礼にも踊られるようになります。百石踊りは雨乞呪術のおどりであったことをここでは押さえておきます。百石踊りが雨乞祈願の目的で踊られるようになるのは、宝永七年(1710)のことで、以後旱魃の時に15回ほど踊られたことが宇佐八幡神社の記録に残されています。
ここからは駒宇佐八幡神社は、雨乞に霊験あらたかな神社として、地域の信仰を集めてきたことが分かります。そして18世紀前期からは、頻繁に雨乞代参をうけたり、雨乞祈祷を行っています。それを裏付けるのが次のような資料です。
①天和2年(1682)の「駒宇佐八幡宮縁起」の奥書に「「一時早魃之年勅祈雨千当宮須雙甘雨済泣於天下」とあること
②「駒宇佐八幡神社調書」にも城主九鬼氏による雨乞祈願が享保九年、明和二年、明和七年、明和八年などに、頻繁に行われたこと
雨乞いの百石踊り/三田市ホームページ
百石踊り
それでは、雨乞祈祷を行っていたのは誰なのでしょうか?
「駒宇佐八幡神社調書」には、雨乞祈祷は、駒宇佐八幡神社の別当寺であった常楽寺の社僧が行ったことが記されています。ここでは、駒宇佐八幡神社は江戸時代中期ころには、雨乞祈願に霊験あらたかな八幡神=「水神八幡」として地域の信仰を集めていたことを押さえておきます。
 百石踊りの芸態を伝えたのは誰なのでしょうか?
由来伝承には、「元信と名乗る天台系の遊行聖」と記されていました。ここからは、諸国を廻り勧進をした遊行聖の教化活動があったことがうかがえます。その姿が百石踊りの新発意役の僧姿として残存し、現在に至っているのでしょう。これを逆に見ると別当寺の常楽寺は、近世中期以降において遊行聖たちの播磨地方の拠点となり、雨乞や武運長久・豊穣祈願などを修する寺として、近畿地方一円に名を馳せていたことがうかがえます。このような理由で駒宇佐八幡神社のほかにも古来、武運長久の神とされ武士に信仰された八幡神が、雨乞に霊験ある神とも信じられるようになり、その結果、八幡神社に雨乞踊りが奉納されるようになったと研究者は考えています。
  以上播州の駒八幡神社と別当寺の関係、それをとりまく勧進僧(修験者・山伏)の動きを見てきました。
これを讃岐の滝宮念仏踊りに当てはめて、私は次のように考えています。
①滝宮念仏踊りが奉納されていたのは、牛頭大権現(現滝宮神社)であった。
②その別当寺は、龍燈寺で播磨の書写山などとのつながりが深い山伏寺であった。
③龍燈寺の勧進聖達は、牛頭大権現のお札を周辺の村々に配布して牛頭信仰を広めるとともに、同時に一遍時衆の踊り念仏を伝えた。
④こうして、周辺の村々から牛頭大権現(現滝宮神社)への踊り込みが行われるようになった。
⑤戦国時代から近世初頭には、牛頭大権現や別当寺(龍燈寺)も一時的に衰退し、踊り念仏も取りやめになっていた。
⑥それを「雨乞いのため」という大義名分をつけて復興したのが、高松藩藩祖の松平頼重である。
⑦こうして、もともとの龍燈寺の勧進僧(山伏)がテリトリーとしていた村々からの念仏踊りが復活した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  大森恵子 風流太鼓踊りのなかの勧進聖 踊り念仏の風流化と勧進聖153P」
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 前回は、次のような事を押さえました。
①飛騨の真宗教団の布教は庄屋や長百姓を中心に行われたこと
②そのため寺院があったわけではなく、惣道場といって有力者の家に、名号を床の間に掲げた部屋に村人たちが集まり、長百姓を導師として正信偈や法話をしたこと
③そして惣村の自治活動と結びつき、信仰的なつながりや拠点として真宗の教えが広まったこと
ところが、江戸時代になると本末制度が調えられ、本山から木仏・寺号が下付され、伝絵や三具足なども整備され寺院化していきます。これらには本山に対して高額の納付金を納める必要があったことは以前にお話ししました。今回は、飛騨高山市の旧清見村の真宗寺院の道場から寺院化への成長を、史料で追いかけてみます。

飛騨清見村の真宗寺院

テキストは、「千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P」です
了因寺のカヤ

最初に見ていくのは飛騨藤瀬の了因寺です。
この寺には蓮如筆の六字名号一幅と、蓮如筆とみられる十字名号一幅、文明18年(1486)蓮如が河上庄福寄の法明に授与した絵像本尊(方便法身尊形)が残されています。親鸞は名号を本尊としていましたが、その後、阿弥陀如来の御絵像が本尊に代わります。方便法身尊形は御絵像のことで「だいほんさま」とよばれます。
蓮如の絵伝
   
方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)
            大谷本願寺釈蓮如(花押)
文明十八年柄二月廿八日
     飛騨国白河善俊門徒
同国大野郡河上庄福
願主釈法明

この寺の寺伝を年表化すると、次のように寺院化が進みます。
文明8年(1476)河内国出口にいた蓮如から六字名号を賜り、
同10(1478)年 福寄に道場を開き
同18(1488)年 山科本願寺において蓮如から絵像と十字名号の授与をうけた。当初は孫兵衛道場と称していた
元和9年(1623) 福寄から藤瀬の助次郎宅に移り
寛永元年(1614) 独立の道場を営んだ
万治2年(1659) 了因寺の寺号免許、翌年蓮如影像、
延宝5年(1677) 木仏と太子・七高祖影像
 同9年(1681)親鸞影像下付
貞享2年(1685) 親鸞絵伝下付
580
 了徳寺
白川街道沿の牧ケ洞に了徳寺の基を開いたのは河上庄牧村の栗原衛門という豪族と伝えられます。
栗原衛門は長滝寺の荘官で牧村栗原神社の社人をつとめていました。文安5年(1448)に照蓮寺明誓のすすめによって本願寺存如に拝謁して、六字名号と了専の法名をもらって帰郷して、栗原道場を創始したと伝えられます。この頃、この地に栗原衛門という人物がいたことは、文安六年の土地売券二通に、その名前が売主として次のように出てきます。
売渡永代之田の事
合弐反者 つほハムカイ垣内
とんしはさと一反
佃をさ一反 是ハならひ也
右件之田地ハ依有要用永代に代陸貫文二うり渡中処実正也。但、 一そくしんるいにても急いらんわつらい申ましく候。
乃為後日状如件
文安六年五月二十五日
うリ(売)主河上荘まきの栗原衛門(略押)
  最後の売主名に「河上荘まきの(牧村の)栗原衛門」とあります。ここからは牧の洞に粟原道場を開いたのが、河上庄牧村の栗原衛門であることが裏付けられます。
さらに、永正11年(1514)12月には本願寺実如から絵像本尊を下付されています。その時の、願主は浄専とありますが当寺の二代目になるようです。
栗原道場から了徳寺への寺院化を年表化すると、次のようになります
天和3年(1682)に木仏・寺号下付
貞享四年(1687)親鸞影像
元禄14年(1701)太子・七高祖影像下付
享保15年(1720) 梵鐘設置を備え、寺院化への道をたどった。

夏厩の蓮徳寺を見ておきましょう。           81P
この寺は、名主次郎兵衛が長享年間に蓮如に帰依して、道場を開いたのが始まりと伝えられます。ここにも長享3年(1489)に蓮如から善性宛に授与された絵像本尊があります。
方便法身尊像
大谷本願寺釈蓮如(花押)
長享三二月十五日
飛騨国白川善俊門徒
同国大野郡徳長夏舞
願主釈善性

また蓮徳寺には15世紀の土地関係文書が数多く残されています。その中一番古い応永22年の土地譲状には、次のように記されています。
(前欠)
合一所者
右件田地ハ、宗性重代処也。子々孫々にいたるまて、たのいろいあるましく候。おい(甥)のさこん(左近)の太郎に永代ゆつり(譲)わたす処実正也。但シいつちよりさまたけを申事候とも、すゑまつ代まても、さまたけあるましく候。
乃為後日状如件。
応永廿二年十月廿二日
おとりの住人夏前名主宗性(略押)
この譲状を書いて最後に署名している「おとりの住人夏前 名主宗性」が、蓮如に帰依した名主次郎兵衛(法名善性)の父か祖父にあたる人と研究者は考えています。道場主次郎兵衛は、代々夏厩の名主としてこの地方の有力者であったこと分かります。
614
上小鳥の弘誓寺にも、蓮如筆の六寺名号と、明応4(1495)年の実如の絵像があります。
もともとは、七郎左衛門道場と呼ばれ、道場坊は上小鳥と夏厩の名主を兼ねていました。そのため道場に関わる事柄には法名を、名主としての署名は俗名を書いて使い分けています。例えば元禄7年(1694)五月に、道場敷地を検地役人に提出した書類には「上小鳥村道場玄西」と記し、同年6月の『検地帳』には「上小鳥村組頭七郎左衛門」と署名しています。
 弘誓寺には江戸時代の医書が多く残っていることに研究者は注目します。その中には牛馬に関するものもあり、人だけでなく獣医の役目も果たしていたことがうかがえます。まさに毛坊主として、門徒をまとめるだけでなく、医師や獣医として地域に関わる存在であったようです。また上小鳥は白川街道ぞいにあり、旅人の往来もあり、そのためこの寺は宿泊所としても機能していたと云います。しかし、それは商業的なものではなく、あくまで寺院としての人助けという意味です。これが、いろいろな情報収集等には役だったことがうかがえます。以上のように、坊主兼名主であり、医者・宿屋としての役割も果たしているが、本業は農業で家計をささえていたようです。


西方寺の五葉マツ
西方寺
白川街道の夏厩から小鳥川にそって北へ分かれると、左岸にあるのが二本木の西方寺です。
この寺にも蓮如筆六字名号と実如授与の絵像本尊があります。絵像の裏書は今では判読できませんが、『飛州志』には、文明18年(1486)正月25日に本願寺実如が善俊門徒の了西に下付したものとされます。そして、開基については次のように記されています。
大野郡小鳥郷二本木村西方寺者、東本願寺之派脈高山照蓮寺末寺、開基者百八拾四年已前文明十八年、元祖者了西与申者二而御座候。当西方寺迄六代、従往古御年貢出不申候。尤、由緒証文者無御座候得共、道場之境内被下置相続仕候様二奉願上候。則境内絵図二仕奉差上候。以上。
元禄七申成年六月八日                       二本木村 西方寺(印)
戸田桑女正様御内  芝田左市兵衛様
小林文左衛門様
  意訳変換しておくと
大野郡小鳥郷二本木村の西方寺は、東本願寺派高山照蓮寺の末寺で、開基は184前の文明18(1486)年になる。元祖は了西と申す者である。西方寺は六代に遡るまで年貢を免除されておいた。もっともその由緒書や証文はない。道場の境内の相続について以下の通り、境内絵図を添えて提出する。以上。
元禄七(1694)申成年六月八日                   
            二本木村 西方寺(印)
戸田桑女正様御内  芝田左市兵衛様
小林文左衛門様
ここからは二本松の道場も、蓮如の時代に開かれたことが分かります。
しかし、名号だけを手がかりに道場の開創期を推測するのは危険だと研究者は指摘します。なぜなら名号は、売買の対象物であったからです。それを示す史料を見ておきましょう。86P
質入仕申証文之事
一金弐両弐分   元金也
右者私儀当年石代金二行当り申候二付、伝来り候蓮如様八百代壱服(幅)、質入二仕り、書面之金子惟二預り申処実正二御座候。万返済之義ハ、来ル辰年限二而、金子壱両二付壱ヶ月二銀壱匁宛加利足、元利共二急度相済可申候。若相滞有之候ハヽ、右之質入貴殿二相渡シ可申候。其時一宮(言)申間鋪候。為後日受入証文、乃而如件。
天明三年八月                金子預主稗田村
清左衛門(印)
弥右衛門(印)
牧村 孫左衛門
森茂村 長助殿
         意訳変換しておくと
質入れについての証文
一 元金 金二両二分   元金
右の金額について私共は当年の年貢石代金の支払いのために、伝来の蓮如様の六字名号一幅を質入し、書面の金子を預りました。返済については、辰年限に金子壱両について、1月に銀壱匁の利足を加えて、元利とともに返済します。もし滞納することがあれば、質入れ物件を貴殿に渡します。これについては、一言も口をはさみません。以上を証文とします。
天明三年八月           
      金子預主稗田村  清左衛門(印)
       弥右衛門(印)
       牧村  孫左衛門
森茂村 長助殿
ここからは稗田村の清左衛門が森茂道場主の長助から金一両三分を借り、その質物に蓮如筆の六寺名号を充てたことが分かります。こういう形で、名号は価値がある物として移動していたことが分かります。絵像の裏書など確かなものによって道場の開創を確認する必要があると研究者は指摘します。
 以上、高山市の旧清見村の真宗寺院の道場成立時期をみてきました
それをまとめておきます。
①飛騨における真宗布教は、蓮如時代に、惣村の指導体制と門徒制とが結合して広がったこと
②山村での布教は庄屋や長百姓を中心に行われ、最初は道場は有力者の家に、名号を床の間に掲げただけのものだったこと
③そこで、長百姓を導師として正信偈や法話をしたこと
④これが惣村の自治活動と結びつき、宗教的な結びつきの拠り所となったこと
⑤ところが、近世になると本末制度が調えられて、木仏や寺号が下付され寺院化する所も現れた。
⑥さらに、本山に奉納金を納めることで伝絵や三具足などを整備する寺院も増えた。
 飛騨の真宗寺院は15世紀後半に蓮如から六字名号をもらって、道場を設立していること江戸時代になって木仏・寺号下付を本山から得ていることが改めわかります。こういう視点で讃岐の真宗寺院の創建年代一覧表を見てみましょう。

讃岐の真宗寺院開基一覧
讃岐の真宗寺院開基時期一覧

これはいろいろな史料に出てくる開基年代を研究者が一覧化したものです。これを飛騨の道場成立期比べて見ると違和感を覚えずにはいられません。寺院化の年代が讃岐は早すぎるのです。飛騨では蓮如の時代に道場が姿を現しますが、讃岐では寺院化がすでに始まっていることになります。その一方で、飛騨にはそれを証明する蓮如の六寺名号を持つ寺が多いのに対して、讃岐は遙かに少ないのです。真宗の教線拡大も飛騨に比べ、四国は遅いとされます。そのような状況証拠から、讃岐に真宗寺院が現れ始めるのは、16世紀後半以後と私は考えています。そして、寺院化は飛騨と同じ、江戸時代になってからのことです。讃岐の真宗拡大の年代については、従来の見方を大きく変更する必要があると研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P

 増吽(与田寺)

戦前に「弘法大師に次ぐ讃岐の高僧」とされた増吽は、戦前には忘れ去れた人物になっていました。それに再び光を当てて再評価のきっかけをつくったのが、「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」です。
増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この本の中では、増吽は次のようないくつかの顔を持っていたことが指摘されています。
①熊野信仰に傾倒する熊野系勧進聖
②弘法大師信仰を持つ真言僧侶
③書経・工芸集団を束ねる先達僧侶
 増吽はその87年の生涯の大半を社寺の復興と熊野参詣に費やしたようです。そのためか思想的・教学的な著作はほとんど残していません。この点が、善通寺中興の宥範と大きく異なる点です。
しかし、増吽はその遺品を水主神社・与田寺など香川県・岡山県の寺院に、何点か残しています。 今回は増吽の残した遺品から研究者がどんなことを、読み取っているのかを見ていくことにします。

  地元の大内郡与田・水主周辺には次のような増吽の遺品が残っています。
①十二天版木(東かがわ市・与田寺蔵)
②大般若経函(東かがわ市・水主神社蔵)
③大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
④水主神社旧本社蟇股(東かがわ市・水主神社蔵)
⑤水主神社扁額(東かがわ市・水主神社蔵)
  この内①②については以前にお話ししましたので今回は触れません。③から見ていきます。
大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
熊野権現を祀る与田神社(中世には若王子、近世には若一王子人権現社)の別当であった若王寺に残された大般若経には、つぎのような話が伝えられています。
元弘の乱に際して護良親王は、赤松則祐などとともに与田の地に逃れ、武運を析願して「大般若経50巻を書写し、若王寺に奉納した。その後、応永6年(1399)のころに、則祐の甥である赤松前出羽守顕則が与田山を訪れ、親王直筆の経巻を播州法華山一乗寺に移し、代りに『大般若経』600巻を奉納した。

これは東かがわ市の若王寺蔵の『若一王子大権現縁起』に記されいることです。しかし、これが史実かどうかはよくわかりません。これに関連して巻449には、次のような書き込みがあります。

願主赤松前出羽守源朝臣顕則 丁時応永八年二月七日末剋斗書写畢 讃州大内部与田山常住御経

また、巻一には、次のように記されています。
丁時応永九年歳二月三十日 敬以上筒日夜功労哉
謹奉外題哉      虚空蔵院住持金資増(吽?) 生年三十七
           并亮勝房増範
           明通房増喩
丁時応永六年己卯正月十一日立筆始
自同二月九日書写也 右筆真海六十九
ここからは次のようなことが分かります。
①この大般若経書写が応水六年(1299)に始まり、応永九年に終わったこと。
②外題を書いたのは増吽と増範と増喩の3人で、増吽はこの時、37歳で虚空蔵院の住持であった
③増吽が史料の中に登場するのはこの応永九年(1402)が初めてであること。
④第一巻は「入野山長福寺住呂真海」がおこなっていること。
 真海は全部で29巻も書写しています。真海が、この写経事業にはたした役割は大きいようです。
この他にも「入野郷下山長福寺住僧詠海」、「長福寺東琳社」などとあり、長福寺の僧侶が何人か出てきます。入野郷の長福寺の役割も見逃せません。しかし、長福寺は神仏分離で明治二年に廃寺となったていて、詳しいことは分からないようです。
 これ以外にも、この大般若経の奥書には、「大水主無動寺本空賢真」「大水主住僧小輔」など大水主神社の社僧が参加しています。大水主社との関係も深いことが分かります。また「播州法華山一乗寺竜泉坊増真二十七才」とあります。親王直筆の50巻は、法華山一乗寺に移されていました。
 また書写に加わった僧侶の名前を見ると、増任、増継、増快、増信、増元、増円、増祐など、「増」に係字を持つ僧侶が数多くいます。これは法脈的に増吽に連なる僧と研究者は考えています。
この他に讃岐以外で書写に参加してた寺院や僧侶を見ておきましょう。
若州遠敷郡霊応山根本神宮上寸 伊勢房 円玄二十七歳
薩摩国伊集院日置惣持院        円海二十三歳
越後州国上寺 大進円海
阿州葛島庄浜法談所 覚舜 十九歳
阿州板東部萱島庄吉令道 勢舜 三十六歳
阿州秋月庄 禅意
阿州名西郡橘島重松 宮内郷 尊恵 生歳三十八歳
阿波国板西下庄村建長寺 天海保行
三河国 星野刑部少輔高範
阿州坂西庄 小野末葉中納吾宥真
摂津国阿南辺北条多田庄清澄寺三宝院末流良祐
ここからは参加者に、阿波の板東郡、秋月庄など阿波北部地域が多いことが分かります。讃岐水主と阿波北部とは阿讃山脈を越えなければなりませんが、距離的に比較的近いので頻繁な交流が展開されていたことがうかがえます。
 この大般若経の制作経緯に、赤松氏との関係があったのかどうかはよく分かりません。しかし、少なくとも増吽や増範が大きな役割を果たしていたこと、また書写活動に阿波北部のなど讃岐以外の広範なネットワークがあったことはうかがえます。この大般若経書写事業に、勧進聖のネツトワークが重要な意味を持っていたことを押さえておきます。
  そして、 増件は書写集団のリーダーであったことがうかがえます。
虚空蔵院(与田寺)や大水主社(水主神社)を拠点として、書経スクールを開き、各地から僧侶を受けいれて、スタッフを充実させます。そして、大内郡だけでなく各地の寺社からの大般若経や一切経などの書写依頼に応える体制を形作って行きます。中四国地方で増件が中興の祖とする寺院が数多くあります。それは、このような写経事業と関係があると研究者は考えているようです。そして、このような動きが「北野社一切経」という大事業につながります。

若王子(現与田神社)には、熊野十二社の本地を表した八面の懸仏が所蔵されています。この神社は、古くからの熊野信仰の重要な神社で、ここに登場する多くの僧侶は熊野信仰で結ばれていたと研究者は考えています。神仏混淆時代の若王子は、与田山の地における熊野信仰の中心的な存在だったのです。

水主神社(讃岐国名勝図会)2
幕末の水主神社(讃岐国名勝図会)

水主神社の宝物庫には、かつて旧社殿に用いられていたという蟇股が数多く収められています。
この中には、次のような墨書が書かれているものがあります。
水主神社蟇股2
水主神社の増吽の名前のある蟇股
此成所作智 明神成事智之表相 五智随一不空成就也
為神徳三十七門満以 表刹塵徳相了 氏子丙午増吽
これは密教の金剛界五仏の北方、不空成就如来のことを指しているようです。そうだとすれば、この蟇股は本殿北側に用いられていたことになります。ここにも増吽の名前が見えます。

水主神社蟇股1
        水主神社の増吽の名前のある蟇股
もうひとつ墨書のある蟇股を見ておきましょう。
  自然造林之時ハ此カヒルマタカエス□ハメヌキ、上貫ノ寸法ヲ相計、カハラス様二可有其沙汰欺`殊含深意、形神徳三十六位、以備内証円明故也,
金宝
法界理性智 自増吽
法 業
金資増吽  生成四十八
垂本地弥陀之誓願故歎 自然之冥合如此
これは私には文意がなかなかとれません。再建するときに、この蟇股をどう利用するかについて書いてあるようです。増吽48歳の時とあるので、応永(1413)頃に書かれたことになります。これらの蟇股は本殿の建物の四方に配置されてたのでしょう。神社本殿に密教の四方四仏を配当してたことになります。水主神社の本殿を密教の仏が守るという神仏混淆の一つの形です。増吽の信仰の形の一端が見えてきます。
 「大水主大明神社旧記」の南宮の棟札には「勧進金資増吽」とあります。南宮建立のために増吽が勧進活動を行っていたことが分かります。本殿についてもこれと同じように、増吽が勧進活動を行っていたことを裏付けるもにになります。増吽によって、水主神社が整備されていったことが分かると同時に、増吽の宗教活動の実態の一端が見えてくる史料です。
水主神社扁額
水主神社楔殿扁額
この扁額は楔殿に掲げられていたものです。正面の字の周囲に、繰形のある縁を斜め外に向けて取りつけ、それに唐草模様を彫った縦型の扁額です。額の正面に「大水主御楔殿」と刻字されています。裏面には「工巧賓光房全秀  願主増吽(花押)七十五歳  画工洛陽檜所蔵人」とあります。ここからは次のようなことが分かります。
①この額は増吽が願主となり、水主神社楔殿のために造られたものであること
②工巧(細工者)は宝光房全秀、画工は洛陽の蔵人であること
③制作年代は増吽が75歳の時なので、永亨12年(1440)の晩年であること
④増吽によって、水主神社の整備が南宮・拝殿・楔殿と着々と進められてきたこと
 これを作った細工人・宝光房全秀は、水主神社所蔵の獅子頭の墨書に、次のようにも登場します。
水主神社獅子頭
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会)
於大水主大明神御宝所
奉安置獅子頭事
文安五(1448)年戊辰十月日
大願主 仲村衛門文堯時貞宮竺大夫
次総色願主
   官内重弘(左?)衛門
   貞時兵衛尉
   細工 三位公全秀
文明二十二年十月日

   讃岐の獅子についての記録は、南北朝時代の『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』の応安三年(1370)2月が初見のようです。「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」とあって、それから5年後の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面」を塗り直したと記されています。ここからは14世紀後半の小豆島では、獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。ここでの獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。注意しておきたいのは、この時期の獅子頭は獅子舞用ではなく、パレード用だったことです。さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。それから約80年後には、大内郡の大水主神社でも「放生会大行道」に獅子頭が登場していたことになります。この獅子頭の細工を行っているのが「三位公全秀」です。
また『讃岐国名勝図会』の水主神社の項目には、次のように記されています。
二重塔 長五尺八尺、 三位公全秀作
右彼塔婆建立意趣者、金剛仏子全秀、依病俄令身心悩乱、則当社大明神此塔婆有造立者、忽病悩可令平癒為夢想告也、然則速病悩令消除、而依面自作之致志、奉納当宮者也
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊
意訳変換しておくと
二重塔 長五尺八尺は、三位公・全秀の手によるものである
この塔婆の建立意趣には、金剛仏子・全秀が病で身心が悩乱した際に、当社の大明神が塔婆を造立すれば病悩はたちまちの内に消え去り平癒するという夢告があった。そこで造立を誓うと、病悩は消え去った。そこで、自からの手で作成し、当宮に奉納したものである
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊

さらに東かがわ市・別宮神社の獅子頭の箱書きには「従三位藤原全秀宝徳元年(1449)・・。」とあります。これも同一人でしょう。藤原全秀は、水主神社周辺で活躍した細工師(木工技能士)で、増吽や水主神社と深いつながりがあったことがうかがえます。以前に、与田寺には書写・仏師・絵師・塗師・木工師などの技能集団を抱えていて、その中心的な位置にいたのが増吽立ったのではないかという「仮説」をお話ししました。それを裏付けるような遺品になります

 水主神社には、重要文化財指定の「牛負の大般若経」または「内陣の大般若経」とよばれる大般若経があります。
一番古い巻は、保延元年(1135)の書写で、応永・嘉吉・文安など室町時代に補写された合せて600巻の大般若経となっています。10巻毎に入れた経函が60函あります。その中に至徳3年(1386)、文安2年(1445)、元禄14年(1701 )の銘があります。この内の一つ、文安二年の巻に次のように記されています。
奉加
与円僧衆分
増吽法印
百文 満蔵坊  百文 賓住坊
十文 松林坊  十文 多門坊
十文 増勢
(以下、略)
これをどういう風に解釈すればいいのでしょうか。増吽の名前が最初に出てきます。与田僧衆の一人として増吽が絹を奉納したとしておきます。しかし、その代表であったことは間違いないようです。
  至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①この経函を制作するにあたって、その檜原材が阿波・古井(那賀郡(阿南市古井)から持ち寄られたこと
②それを運んできたのは、北内越中公・原上総公であること。
桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事する馬借的な人物と研究者は考えています。
③堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
④水主神社(与田寺?)には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。 
⑤実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。増吽を通じて、水主神社と阿波那賀川流域の僧侶との間に、信仰的なネットワークが形成されていたことがうかがえます。
以上から推察できることをまとめておきます。
①増吽は熱心な熊野行者であり、指導的な先達でもあった。
②そのため各地の熊野行者のリーダとして、各地で勧進活動を進めた。
③与田寺僧侶として、熊野信仰の核となる水主神社の整備を別当として進めた。
④増吽のすすめる水主神社整備に、増吽の率いる勧進集団は積極的に支援した。
⑤その一環が水主神社に奉納された大般若経書写や経函寄進である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」
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一遍の踊り念仏が民衆に受け入れられた理由のひとつに「祖霊供養のために踊られる念仏踊り」という側面があったからだと研究者は考えているようです。
Amazon.co.jp: 踊り念仏の風流化と勧進聖 : 大森 惠子: 本

それを今回は、一遍上人絵伝に出てくる近江の関寺で見ていくことにします。
テキストは、「大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」です。

大津関寺1
琵琶湖から大津の浜へ(一遍上人絵伝)

DSC03339琵琶湖大津の浜

①最初に出てくるのが①琵琶湖で、小舟が大津の浜に着岸しようとしています。船には市女笠の二人連れに女が乗ってきました。

DSC03341

②その手前には、長い嘴の鵜が描かれているので②鵜飼船のようです。
③その横には製材された材木が積んであります。これも船で運ばれてきて、京都に送られていくのかも知れません。

DSC03340大津

浜から関寺の間の両側の家並みが大津の街並みになるようです。ほとんどが板葺き屋根です。その中でとりつきの家は入母屋で、周りに生け垣がめぐらしてあり、有力者の家のようです。大津が琵琶湖の物産集積港として繁栄して様子が見えてきます。その港の管理センターの役割を果たしていたのが関寺のようです。

DSC03345琵琶湖大津 関寺門前179P

④関寺の築地塀沿いには、乞食達が描かれています。前身に白い包帯を巻いたハンセン病患者もいます。大きな寺院は、喰いあぶれた弱者の最後の避難場所でもあったようです。その前を俵を積んだ荷車が牛や馬に引かれて行き交っています。
大津関寺の卒塔婆
関寺の卒塔婆
門の向こう側にあるのが番小屋です。番小屋の中には白幕が張られて、中には二人の僧がいます。ここで研究者が注目するのが、裸足の男が差し出している白いもの(米?)です。参拝客からの喜捨でしょうか。境内ではなく、、門外で収めています。そして、この小屋の手前の壁に、▲頭の4本の棒が立て掛けられています。

DSC03352関寺の卒塔婆
大津の関寺番小屋に立て掛けられた卒塔婆(一遍上人絵伝)
よく見ると大小の卒塔婆のようです。研究者はこれを「木製柱頭五輪(高卒都婆)」と判断します。そうだとすると、この関寺では先祖供養のために「塔婆供養」が行われていたことになります。その供養のための喜捨受付が、この小屋だったようです。ここでは、卒塔婆の存在を押さえておきます。
 多くの参拝社たちが境内に入っていきます。中では何が行われているのでしょうか。巻物を開いていくと見えてくるのは・・・
大津関寺の踊り屋
関寺境内の池の中島建てられた踊り屋(一遍上人絵伝)

門を入ると、四角い池(神池)があります。その真ん中に中島が設けられて、踊り屋が作られています。ここで一遍たちが踊り念仏を踊っています。それを周囲の岸から多くの人々が見ています。大津関寺の踊り屋2
関寺の踊り屋

    池の正面は本堂です。そこには圓城寺からやってきた白い僧服の衆徒達が肩をいからせて見守ります。その中に、稚児らしき姿もあります。寺の山法師立ちが見守っています。奇妙なのは本堂の建物です。よく見ると床板もないし、壁もありません。仮屋根はありますが柱組だけなのです。どうやら関寺は造作中だったようです。そのため勧進が行われていたようです。それが、先ほど見た門前の受付小屋だったのかもしれません。

大津関寺の踊り屋3
大津の関寺全景

詞書は、次のように記します。
圓城寺の衆徒の許可が下りて、関寺での踊り念仏が許可された。最初は7日間の行法予定だったのに、(踊り念仏目当ての)多くの人々の参拝があり、27日間に延長されて「興行」された。

つまり、関寺改修の勧進興行として、踊り念仏が27日間にわたって興行されたのです。それを、民衆や圓城寺の衆徒も見物しているようです。ここからは、
①関寺では本堂改築資金集めのために勧進が行われていたこと
②踊り念仏は「勧進興行」として資金集めのために長期間踊られたこと
そうだとすると時衆僧は、勧進僧としての性格も持っていたことになります。以上を整理すると
①山門を入る右側に卒塔婆が四本立てられていたこと。
②縁側で二人の僧が俗人から骨壷を入れた灯籠型の飾り箱を受けとっていること。
③死者供養が行われる伽藍中央に仮屋が建てられ、念仏踊りが踊られていること。
この3点を結びつけると、納骨を受け付けた後で、供養塔婆を立てられ、念仏踊りが、死者供養のために踊られていたと研究者は判断します。
大坂上野の踊り屋
淀・上野の踊り屋

今度は石清水八幡詣の際に、淀の上野で踊り念仏をしている場面を見ておきましょう。
DSC03479
上野の踊り屋(一遍上人絵伝)
   踊屋の構造は切妻板屋の簡単な作りです。高床を張った舞台では、 一遍をはじめ、時衆僧たちが鉦を打ちながら、無我の踊りに興しています。そのまわりには、念仏踊りを見るために多くの人々がさまざまないでたちで集まっています。踊り屋の周辺には、例によって乞食小屋が、いくつもかけられています。

淀・上野の卒塔婆
上野の卒塔婆(一遍上人絵伝)
右下から田園の中をくねりながら続く街道には、いろいろな人達が行き交っています。柳の老樹の下には茶店もあります。小板敷きの上には、椀や皿が並べられています。研究者が注目するのは、この茶屋から街道沿いに並んでいる何本かの棒です。これは先ほど大津の関寺で見た高卒塔婆(木製柱頭五輪塔婆)のようです。数えると9本あります。 一遍は、ここでも人々から死者供養の申し出を受け付け、死霊鎮塊のための踊り念仏を催したと研究者は考えています。
これを裏付けるのが『一遍上人絵伝』の第十二の次の記述です。

廿一日の日中のゝちの庭のをどり念仏の時、弥阿弥陀仏聖戒参りたれば、時衆皆垢離掻きて、浴衣着てくるべき由申せば、「さらばよくをどらせよ」と仰らる。念仏果てて皆参りて後、結縁。」

ここで一遍は自分の臨終に際して、時衆聖たちに、庭で踊り念仏を行うことを許可しています。踊り念仏は、死者を極楽浄上に導く呪法とも信じられたことがうかがえます。一遍の時衆の中で姿を見せた死者供養のための踊り念仏は、その後にどのように受け継がれ、姿をどう変えていくのでしょうか?

戦国時代になると人々は、来世の往生菩提を願って生存中に供養塔を立てたり、石灯籠や石鳥居を寄進するようになります。
また六斎念仏の講員となって念仏を唱えることもしています。それは生前に「逆修」の功徳を得ようとしたからです。奈良県や大阪府では、戦国時代・安土桃山時代・江戸時代初頭の年号をもつ石造物は、「逆修」供養の目的で建てられたものが多いことからもこのことは裏付けられます。
善通寺市デジタルミュージアム 善通寺伽藍 法然上人逆修塔 - 善通寺市ホームページ
法然上人逆修塔(善通寺東院)
 千利休が天正十七年(1589)に記した寄進状にも、「(略)一、利休宗易 逆修 一、宗恩 逆修(略)利休宗恩右灯籠二、シュ名在之」とあります。ここからも16世紀後期には、逆修信仰が盛んであったことがうかがえます。
 ちなみに、六斎念仏にも歌う念仏と踊る念仏があります。
逆修供養の石造物の碑文に見える「居念仏」が歌う念仏で、「立念仏」が踊る念仏です。居念仏と立念仏が出現した時期は、ちょうど逆修供養が流行した時期と重なります。そして、次のような「分業」が行われていたと研究者は推測します。
①居念仏は老人や長老が当たり、座ったままで念仏を詠唱し
②立念仏衆は若者が担当分業
その後、立念仏の方で風流・芸能化が進みます。その方向性は、
①念仏に合わせて素朴に踊る大念仏から
②種々の被り物や負い物、採り物を身に付けて踊る風流念仏・風流大念仏へと「発展」していったと研究者は考えています。
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「歌う念仏」から「踊る念仏」への変遷には、どんな背景があったのでしょうか。
①戦死者の霊を供養したり自分の死後を弔うために、死霊を鎮める呪術である六斎念仏が好んで修され、
②それが次第に集団の乱舞に変わっていった
逆修供養の目的で踊られる六斎念仏は、自らの死後の供養を目的として自らが念仏を唱えながら踊るものです。『一遍聖絵』に描写された踊り念仏の踊り手自身は、自己陶酔して、反開を踏みながら旋回しています。一方で時には、念仏を唱えるだけで踊らず、他者に自分の死後の供養のためになんらかの代償を渡して、踊り念仏を修してもらうこともあったかもしれません。そうだとすれば、踊り念仏は「生まれ清まり」「擬死再生儀礼」のひとつの形だったともいえます。
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  以上をまとめておくと
①一遍によって布教手段として踊られたのが踊り念仏
②それが時衆聖たちが逆修・死者供養の両面から民衆を教化するようになる。
③その結果、元寇という対外危機の恐怖や不安から人々を救う手段として、聖たちは踊り念仏は頻繁に開催するようになった。
④それを見物した人々の間に踊り念仏が流行するようになり、芸能化・風流化した踊り念仏が全国で踊られるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」

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  戦国時代において真宗興正派が讃岐で急速に教線を拡大したことを見てきました。その背景として、阿波三好氏の保護・支援を安楽寺(美馬市郡里)や常光寺(三木町)が受けたからだということを仮説として述べてきました。今回は、室町・戦国期の禅宗寺院が地方展開の際に、どのような教宣活動を行っていたのかを見ていくことにします。テキストは  「 戦国期の日本仏教 躍動する中世仏教310P」です。
戦国期の仏教について、戦後の研究で定説化されているのは次の三点です。
①法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、 一遍などを開祖とする「鎌倉新仏教」の教団は戦国期に全国的な展開を遂げ、「鎌倉新仏教」の「旧仏教」に対する優位が築かれたこと。
②戦国大名の登場により寺院・僧侶らの行動が大きな統制と組織的支配をうけるようになったこと
③「鎌倉新仏教」の中には、宗教王国の樹立を指向する一向一揆、法華一揆などが現れたが、織田信長・豊臣秀吉の統一政権樹立により圧伏されたこと
②については、近世仏教が内面の信仰よりも外面を重視するものへと「形式化」したという指摘もあります。これが近世仏教「堕落」論へとつながります。この立場は、一向一揆や日蓮宗が織田信長に屈したということを受けて、仏教界が統一政権へ全面的に従属するに至ったという通説の裏付けともなってきました。江戸時代の檀家制度がキリンタン信仰の取り締りという面から始まり、幕府の信仰統制策へ寺院・僧侶が荷担していくという、近世仏教「堕落」論に有力な根拠を与えています。ここでは、現在の通説が「戦国仏教の終局は、統一政権への従属・形骸化」だったとされていることを押さえておきます。

それでは禅宗は、全国展開をどのように進めたのでしょうか?               その際に最初に押さえておきたいのは、鎌倉新仏教が全国展開を行うのは、鎌倉時代ではなく室町時代中葉から近世初期にかけてのことだという点です。鎌倉時代は、新仏教は生まれたばかりの「異端」で、局地的に信徒をもつだけの存在に過ぎません。全国的な広がりを見せるようになるのは、室町時代になってからです。浄土真宗の場合は、16世紀の戦国時代になってからだと云うことを最初に押さえておきます。
南北朝以後に発展した禅宗としては、次の2つが有名です。
①栄西(1141~1215)がもたらした臨済宗
②道元(1200~1253)がもたらした曹洞宗
臨済宗は鎌倉や京都で幕府と結びついて五山・十刹(じゅせつ)制度のもとに発展します。曹洞宗は道元の開いた永平寺を基点とし、榮山紹瑾(1268~1325)やその弟子たちの手で北陸、関東、東海をはじめ、全国に展開します。しかし、臨済宗や曹洞宗は、一局集中型でなく多元的で、臨済宗にも早くから地方に展開していった流派もありました。曹洞宗にも宏智派のように五山の一翼となる流派もありました。むしろ五山・十刹の制度によって展開する「叢林」と、地方展開を遂げる「林下」との2つのベクトルがあったと研究者は考えています。
室町期以降の禅宗の地方展開を、要約すると次のようになります。
①戦国大名や国人領主らも武士階層による帰依・保護が大きな力となっていること
②地域に根ざした神祗信仰、密教的要素の色濃い信仰や、現世利益希求を包み込んで受容されたこと、
③授戒会・血脈の授与などを通じて師檀関係や、葬祭へ積極的な地方の禅寺形成の核になっていること
これらの三要素が地方に禅寺が建立される際のエネルギーになったと研究者は考えています。それでは、この3つの要因を具体的に見ていくことにします。

 大名や国人らが禅僧に帰依した事例は数多くあります。
禅僧自身が武士層出身者であり、大名や国人の家中のブレーンとして活動していた例もあります。ここからは、大名や国人らが帰依して、その家族・家中の武士やその家族、次に領内の住民たちが帰依するという連鎖反応があったことがうかがえます。

第1515回 長年寺(ちょうねんじ)曹洞宗/ 群馬県高崎市下室田町 | お宮、お寺を散歩しよう
上野国室田長年寺(群馬県高崎市)
上野国室田長年寺(群馬県高崎市)の場合を見ておきましょう。
ここでは領主長野業尚(のりひさ)が曇英慧応(えおう:1424~1504)に帰依し、禅宗寺院の長年寺を建立します。文亀元(1501)年の長年寺開堂の仏事の際に、曇英慧応の記した香語「春日山林泉開山曇英禅師語録」が残されています。そこには、長野業尚を筆頭に、嫡子憲業(のりなり)や庶子の金刺明尚、母松畝止貞、家臣下田家吉とその一門や親族、さらには隣人たちの名前が記されています。長年寺の建立に一族が尽力していたことが分かります。

また、禅僧たちは、檀越・保護者となった武士層と日常的な交流をもっていました。
 遠江国佐野郡(静岡県掛川市)で活動した禅僧・松堂高盛(こうせい:1431~1505)を見ておきましょう。彼は、原田荘寺田郷の「藤原氏」の出身と自ら記しています。掛川市寺島に円通院(廃寺)を開いて、この地方への曹洞禅の教線拡大を計ります。
 松堂高盛は、飯田荘戸和田郷の藤原通信(みちのぶ)・通種(みちたね)兄弟の母の十三回忌法要を依頼されています。また通種とは、和歌を通じての交流もあったようです。同じ「藤原氏」という同族関係(擬制的同族関係?)が、松堂の禅僧としての活動を支えていたことがうかがえます。
 拠点とする円通院が兵火に焼失し際には、浜名郡可美村増楽(ぞうら)の増楽寺住持が、松堂を見舞っています。松堂は縁をもとめて河勾荘の東漸寺(当市成子町)に避難しています。翌年の正月に円通院に帰山する際には、七言、五十句の長詩をつくり、諸檀那へ感謝しています。松堂は宿泊した性禅寺をはじめ聖寿寺・増楽寺・大洞院に謝意を表しています。(『円通松堂禅師語録』三)

  また禅僧は地域のいろいろな宗教活動にも関わっています。
松堂高盛は、遠江国山名郡油山(ゆさん)寺(静岡県袋井市)の薬師如来に祈って、自分の病の治癒を祈願しています。そのために法華経一千券の読誦を誓った「性音」という僧侶が行った法会に参加し、「看読法華経一千部窯都婆」を建立しています。ここからは、彼が約信仰や法華信仰の持ち主であったことがうかがえます。

一族や家臣らの帰依は、大名や国人領主家中の結束を強める効果をもたらします。
例えば下総国結城氏の制定した『結城氏法度:九四条』は、結城政朝(まさとも)の忌日に家中で寄合や宴会を行うことを禁止した条項です。この条項では、家中による忌日の精進が、政朝の堕地獄や成仏に関わるから禁止するのではなく、結城家中が亡き主君の忌日にも無関心なほど不統一だと思われてはならからだ、これを定めた理由が説明されています。先祖供養よりも、家臣や領内民心の統一のために先代結城政朝の忌日を設けているのです。
  ここで思い出すのが以前にお話した日蓮宗本門寺(三豊市三野町)に残る秋山氏の置文です。そこには次のような指示がありました。
①子孫代々、本門寺への信仰心を失わないこと。別流派の寺院建立は厳禁
②一族同士の恨み言や対立があっても、10月13日には恩讐を越えて寄り合い供養せよ
③13日の祭事には、白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招き、役割を決めて懇ろにもてなせ。
④一族間に不和・不信感があっても、祭事中はそれを表に出すことなく一心に働け。
 10月13日は日蓮上人の命日法要です。②では、この日には何があっても一族挙げて祭事に取り組めと命じています。この行事を通じて秋山一族と領民の団結を図ろうとしていたことがうかがえます。③では地方を巡回している白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招いて、いろいろな演芸イヴェントを催せと指示しています。祭事における芸能の必要性や重要性を認識していたことが分かります。

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16世紀に日本で宣教活動を行っていたイエズス会宣教師の一人フランシスコ・カブラルは、ローマ教国宛ての報告書翰で次のように述べています。(
1571年9月5日付書簡)

「今ある最良の布教者は領主や『殿』たちである。……彼らがある教えを奉じるよう彼ら(領民)にいえば、それに簡単に従い、それまで信奉していた教えを、通常は捨ててしまう。一方彼らが他の教えに帰依するための許可を与えないときには、彼ら(領民)は如何に望んでいてもそれに帰依することはしない」

ここからは領主の信仰自体が、戦国期には家中や領民に大きな影響力をもっていたことが分かります。このような認識があったからこそイエズス会は、トップダウン方式の「上から(支配者へ)の布教活動」を最優先させ、高山右近や小西行長などの大名改宗にとりくんだのでしょう。
新仏教の側も大名や国人領主などに完全に従属し、領主支配に協力するだけの存在ではなかったようです。

先ほど見た上野国室田長年寺は、パトロンの長野憲業から、たとえ重罪の者であろうと門中に入った者には成敗を加えないという不入の制札(境内の安全を保障する掟)を得ています。こうした、アジール(駆け込み寺)としての治外法権を保障された制札は、禅宗寺院には珍しくないようです。
 また多賀谷氏が開基した常陸国下妻(茨城県下妻市)多宝院住持の独峰存雄(どくほうそんゆう)については、次のような史料が残されています。
パトロンの多賀谷重経(しげつね)が斬刑にしようとした罪人の助命を請願して許されなかったた。そのため独峰存雄は、この罪人を得度させて共に出奔した。これに対して重経は、再三の帰還要請を行っていますが、なかなか応じなかった。

こうした僧侶の領主に対する抵抗は、他にも事例があります。中世寺院の「駆け込み寺(アジール)」としての側面で、住持は世俗の権力者に対してある程度の自立性を持っていたと研究者は考えています。
 
禅僧たちの伝道・教化が、どのようにして行われていたのかを見ていくことにします。
禅僧立ちも、神仏習合を説き、土着の信仰を受けいれつつ教線を拡大していたようです。臨済宗でも、曹洞宗宗でも祈祷・回向(えこう)の際には、天部をはじめとして日本国内の各地で信仰される神祗が勧請されています。これは神仏習合の思潮に合わせた動きです。

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榮山和尚清規

 鎌倉末期に作成された「榮山和尚清規」巻之下、「年中行事第三」には、次のような神々が招聘・登場しています。
①正月元日の法事は、梵天・帝釈・四大天王はじめ「日本国中大小神祗」や土地神など
②起請文(神仏への誓約書)を記す際に誓約の対象とされていた神々
③天照大神
④「七曜九曜二十八宿」など陰陽道の神格
⑤「王城鎮守諸大明神」
⑥白山権現
これらの神への祈りが、禅宗寺院でも行われていたのです。神仏習合や、密教的観念が禅宗の中でも取り入れられていたことが分かります。地方への展開の際には、霊山信仰や、現地の有力神祗信仰を取り込んでいたことを押さえておきます。
 こうした禅僧の活動は、榮山紹瑾下の蛾山詔碩の弟子たち、五哲ないし二十五哲と呼ばれる僧侶たちにみられるようです。

示現寺(喜多方市)
示現寺
その中の源翁心昭(げんのうしんしょう:1329~1400)の示現寺の開山活動を見ておきましょう。

白衣の老翁の夢告により霊山に登ったところ、山の神と名乗る夢中で見た白衣の老翁に会い、麓の空海開創と称する「古寺」に人院した。

これを整理要約すると
①夢のお告げに従って霊山に登った → 源翁心昭が山林修行者で廻国修験者あったこと
②「山の神=地主神」から霊山管理権を譲り受け
③空海開創の「古寺」に入った → 弘法大師信仰の持主であったこと
 この陸奥国示現寺(じげんじ:福島県喜多方市)開創の伝承は、地域の信仰との関わりをよく伝えています。源翁の関わった寺院は、例外なく霊山信仰が伝わっています。昔から修験者たちの拠点としての歴史のある寺院です。例えば、
鳥取県の退休寺は伯者大山の大川信仰との
福島県慶徳寺や示現寺は飯豊山信仰との
山形県鶴岡正法寺は羽黒修験との
 こうした地域の霊山信仰に参画できたのは、初期の禅僧たちが厳しい入峰修行などを経て身につけ、修験能力があったからです。ここからは中世末から近世にかけて隆盛を迎える修験と、禅宗との密接な関わりがうかがえます。
越前龍澤寺
如仲天
東海地方の曹洞宗教線拡大に大きな役割を果たした如仲天(じょうちゅうてんぎん:1365~1437)です。
 彼は、信濃国(長野県)上田の海野氏の出身です。9歳で仏門に入り、越前龍澤寺の梅山聞本の許で修行後に、遠江国で、崇信寺、大洞院、可睡斎、近江に洞寿院などを開創します。数多くの弟子を輩出し、騒動宗教線拡大に多くの業績を残しています
 彼も隠棲の場所を探して山野を放浪する廻国修験者でもあったようです。不思議な老人の導きと夢告とにより至った場所に大洞院(静岡県周智郡)を開いたという逸話があります。また大洞院にいた時代、夜更けに「神人」の姿でやってきた竜が受戒を受け、解脱の叶った礼に「峨泉」を施したため、皆が用いる塩水の温泉が湧き出したも伝えられます。ここにも霊山信仰や井戸伝説が語られています。これらの伝承は、禅僧たちが地域の庶民信仰や霊山信仰と関わりながら廻国修験者として教線を拡大していったことを伝えています。
先ほど触れた松堂高盛の場合にも、遠江国原田荘本郷の長福寺(静岡県掛川市)は、パトロンである原頼景らの尽力により再興されました。大日如来の開眼法要に「長福寺大目安座点眼」と題する法語が残っています。そこには「日本大小神祗」、八幡大菩薩、白山権現、遠江国一官の祭神や土地の神などが登場してきます。ここにも、禅僧の色濃い神仏習合や山林修験者の信仰がうかがえます。
 禅宗の神仏習合の思潮は、禅僧たちが残した切紙からも分かるようです。
切紙とは、教義の伝授などで用いられるもので、師匠から弟子に秘密異に伝授するために一枚の小紙片に、伝授する旨を記し、弟子に与えるものです。石川県永光寺(ようこうじ)所蔵の「罰書亀鑑(ばっしょきかん)」には仏教の戒律の一つ、「妄語」戒を守る際の誓約の対象に、仏祖とともに「日本国大小神祗」や白山権現などの諸神祗があげられています。他にも「住吉五箇条切紙」「白山妙理切紙」などがあります。
葬儀・葬式シリーズ 【5】 授戒会 - 新米和尚の仏教とお寺紹介

 禅宗の教線拡大の力となったものの一つに、葬祭活動や、信徒とのの結縁を行う授戒会(じゅかいえ)があります。

最初に見た松堂高盛は、信徒の葬儀法要に際して下矩法語を作成しています。その中にはパトロンである国人領主原氏に対するものがあります。それだけでなく農民層に対するものも含まれています。例えば「道円禅門」のように「農夫」としての56年の生涯が記されているものや、「祐慶禅尼」のように村人としての52年間の人生が記されていて、「農務」に従事していた人達が登場します。
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乾坤院
 愛知県乾坤院(けんこんいん)の「血詠衆」と題する帳簿や「小師帳」は、15世紀後期の授戒会の実情が記されています。その中の受戒者は水野氏のような武士層の一族からその従者、農民、酒屋・紺屋・大工などの商人、職人や女性など階層・身分の人々が登場します。
 また近江の大名浅井氏の菩提寺徳昌寺(滋賀県長浜市)には、16世紀中頃の授戒会のありさまを伝える「当時前住教代戒帳」が伝わります。そこには浅井氏当主の内室をはじめとする一族、井関、北村、今井、岩手、河毛、速水などの家臣、在地武士層の一族、女性たちが参加していたことが分かります。これらの「授戒会帳」は近世以降一般的となる過去帳の原型と研究者は考えています。こうした葬祭・授戒活動を禅僧は、主催していたのです。
埼玉県東松山市正法寺に伝わる元亀四(1573)年7月1日付の「引道(導)相承之大事」が残っています。これは密教で行う口訣(くけつ)とよく似た印信(秘法伝授を証明する文書)です。葬礼の際の祭式である引導の伝授が行われていたことが分かります。禅僧にとって葬祭は、大事な活動となっていたことが分かります。

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戦国時代には、僧侶による葬礼・法要が重要な習俗として浸透していたようです。
 イエズス会宣教師ジョアン・フェルナンデスはキリシタンたちの行った豪華な葬式が「異教徒」にも大きな衝撃を与えたことを、次のように報告しています。
「彼らは死者のために祈り、祭式を行うことに非常に熱心であり、その資力のない者達は、僧侶を呼び盛大な消費を行うために借金をするほどです。それは魂の不滅を確信しているからそうするわけではなくて、古くからの習慣であるためであり、世俗的な評判のためである」
、1561年10月8日書翰、
ルイス・フロイスは1565年1月20日の書翰で、次のように報告しています
「日本人は、大部分が死後には何も残らないと確信しており、子孫による名声において自分が永続することを望んでいるので、何をおいても尊重し、彼らの幸福の大きな部分としているものの一つは、死んだ時に行われる葬儀の壮麗と華美とにある」

ここからは次のようなことが記されています。
①当時の日本人が葬儀の壮麗さと華美を求めてること。
②そのためには金に糸目をつけないこと
③その理由は「子孫が名声を得ることで、自分が永続することを望んでいる」で「世俗的な評判」第1に求めていたこと
僧侶らが取り仕切る葬礼は一般人に至るまで広く習慣として行き渡っていたことがうかがえます。前回に、律宗西大寺教団が中世に死者を供来うようになったことを見ました。それが戦国期には、新仏教の禅宗や浄土真宗などにも拡がっていたことを押さえておきます。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
            「 戦国期の日本仏教 躍動する中世仏教310P」

      法然上人絵伝表紙
 
 以前に法然上人絵伝で、讃岐への流刑について見ました。今回は、法然がどうして流刑になったのかを、当時の専修念仏教団をとりまく世の中の動きと絡めながら見ていくことにします。テキストは、「新仏教の形成   躍動する中世仏教66P」です。
その前に「鎌倉新仏教」は鎌倉時代においては仏教界の主流ではなく、勢力も微弱であったことを押さえておきます。
新仏教が大教団へと成長するのは、室町時代後半から戦国時代にかけてです。その際には、祖師たちの思想がそのまま受け継がれたわけではなく、かなりの変容を伴っているようです。そのため、実態としては、「室町仏教」「戦国仏教」と呼んだ方が実態に相応しいと考える研究もいます。とりあえず鎌倉新仏教を「鎌倉期に祖師により創唱され、室町時代に勢力を確立した仏教教団」としておきます。そのトップバッターが法然ということになります。

鎌倉新仏教の中で最も「新仏教」らしい「新仏教」は、法然から始まる専修念仏運動だと研究者は指摘します。
「新仏教」の特徴とされる「易行性」「専修性」「異端性」が、専修念仏には最もよくあてはまります。専修念仏とは、念仏のみを修行することです。法然によれば「阿弥陀仏が本願において選択した口称念仏(南無阿弥陀仏)のみを行ずること」ということになります。口称念仏は誰にでもできる「易行」です。修験者たちの行う「苦行」とは、対照的な位置にあります。しかし、これを実践に移せば非常にラジカルな主張となり、結果的には口称念仏以外の実践や信仰を排除するものになります。そのため旧仏教からは「異端」として批判・弾圧されることになります。当時の世の中では、専修念仏だけを唱え、他の神仏・行業を排除することは、神仏の威を借りて民衆支配を行う権門に対する民衆側の反抗を後押しする役割を担うことでした。つまり、民衆の自立・解放のためのイデオロギーとして機能したとも云えます。 戦後の研究者の中には、この側面を強調する人達が多かった時期があります。この立場からすると、その後の浄土宗の展開は妥協・堕落の歴史だったということになります。しかし、現実の浄土宗の役割は「極端な排他的態度を抑制し、既成仏教との共存の論理を形成」することにあったと考える研究者が今は増えています。そして、法然の死後は、その論理を構築した鎮西義が主流となり大教団へと成長して行きます。
思想史的には、浄土宗には時代の子としての側面があるようです。
戦後の新仏教中心史観が描き出したのは、古代的な国家仏教を、新興階級の新仏教が打ち倒すという図式であり、その背景にはマルクス主義に代表される進歩的な歴史観がありました。一方、顕密体制論において新仏教は、体制に反抗し挫折し屈折していく異端として描かれてきました。これが当時の新左翼運動を始めとする時代潮流に受け入れられていきます。しかし、このような「秩序違乱者」として宗教を評価する視点は、一連のオウム真理教事件やアメリカ同時多発テロ事件の後では、影が薄くなっていきます。
専修念仏の歴史的意義を社会思想的なものに還元しないなら、どのような見方ができるのでしょうか。 
一つの視点として、法然から浄土宗各派への展開を、祖師からの逸脱・堕落としてみなすのではなく、むしろ純化過程としてみる見方を研究者は模索します。さまざまな批判や弾圧にもかかわらず専修念仏を選びとった人びとが、一見妥協ともみえる姿勢の中で、なおかつ守ろうとしたものは何だったのだろうかという視点です。
 そこに一貫して見て取れるのは、自らの機根が劣っているという自覚です。機根(きこん)についてウキは、次のように記します。
①仏の教えを聞いて修行しえる能力のこと。
②仏の教えを理解する度量・器のこと
③衆生の各人の性格。
④根性は、この機根に由来する言葉
  ④の根性の根とは能力、あるいはそれを生み出す力・能生(のうしょう)のことで、性とは、その人の生まれついた性質のことです。
「自分は愚かなので、聖道門の修行はできない。称名念仏でしか助からない」

というのが、専修念仏者の基本的な姿勢でした。これは一種の居直りとも思えます。しかし、ここにはふてぶてしい自己肯定があります。「自分のやうなものでも、どうかして生きたい」
島崎藤村『春』)の私小説的な自己意識につながる内面性とつながるものです。このような内面性を生み出したところに、専修念仏の一つの思想史的意義があると研究者は考えています。

次に 法然の略伝を見ておきましょう。  
法然房源空(1133~1212)は、美作国(岡山県)で生まれ、比叡山で受戒。その後、善導の著書に出会ったことを契機に、専修念仏を唱導し、多くの信者を集めるようになります。法然は円頓戒の血脈を受けていて、授戒を通じて多くの貴顕の尊崇を集めていました。専修念仏が拡がるにつれて比叡山・南都など旧仏教からの攻撃を受け、「建永の法難」を契機に土佐国(実際には讃岐)に流罪され、その後、赦免。京都で生涯を終えます。

選択本願念仏集 / 小林書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
         選択本願念仏集
法然の主著は『選択本願念仏集』です
まとまった著書としては、これ以外の著作はありません。法然の本領は、体系的に自説を展開することよりも、直接相手に働きかける人格的な魅力にあったと研究者は評します。それがさまざまな個性を持った多くの帰依者を引きつけるとともに、死後、多くの分派を生み出す一因にもなります。
『選択集』は独立した宗派としての「浄土宗」を確立することを意図しています。その中心になるのが、題名にある「選択本願念仏」の思想です。
①「選択本願念仏」とは、本願において選択された称名念仏のこと。
②本願とは、阿弥陀仏が、仏になる前、法蔵菩薩と称されていた時代に立てた誓願のこと
③『無量寿経』では四十八願を挙げているが、この中で法然が重視するのは第十八願。
そこには次のように説かれています。
「もし仮に私(法蔵菩薩)が悟りを得る時、十方にいる生けるものどもが、心から願い求め(至心信楽)、私の国に生まれようとして、十回以上念じても(乃至十念)、生まれないというなら、悟りを得ることはない」

法然は、ここで「念」という言葉を使っていますが、これは「声」と同義で、「十念」も十回の意ではなく、生涯にわたる修行から、たった一回までのすべてを包括していると考えていたようです。つまり、たった一回でも「南無阿弥陀仏」と声に出して唱えれば、阿弥陀仏の国(極楽世界)に往生できることを保証する。それ以外の行業は無用である、というのが法然の主張です。
聖典セミナー 選択本願念仏集|本願寺出版社

『選択集』末尾には、この立場が次のように要約されています。

それ速やかに生死を離れむと欲せば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らむと欲せば、正雑二行の中、しばらく諸の雑行を地ちて、選んで応に正行に帰すべし。正行を修せむと欲せば、正助二業の中、猶は助業を傍らにし、選んで応に正定を専らにすべし。正定の業とは、即ち是れ仏の名を称す。名を称せば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり。

     意訳変換しておくと

速やかに生死の苦から離れようと思うのならば、2つの道の内の、聖道門を開いて浄土門に入れ。浄土門に入ろうと願うのならば、正雑二行の中の、雑行をなげうって、正行をおこなうべし。正行を修しようとするなら、正助二業の中の、猶は助業は傍らに置いて、正定を選んで専ら務めることである。正定の業とは、仏の名を称すことである。仏名を唱えれば、必ず生死の苦から逃れ、生ずる道を歩むことができる。それが仏の本願であるから。

ここには、生死(輪廻)の苦から離れるためには、本願の行である称名を行ずるべきで、それ以外の教えや実践をすべて捨てよ、と説かれています。これが専修念仏と呼ばれるものです。
ここで研究者が注目するのは、法然が二度「しばらく」と書いていることです。
これが意味深長だといいます。『選択集』の論理構成では、称名念仏は最易・最勝だから選択されるのであって、他の諸行は難であり劣ではあるけれども往生・成仏の行として許容される余地を残しているとします。
 法然は浄上門に帰した行者は、聖道門(浄土門以外の諸宗)の行者に惑わされてはいけないと述べます。同時に、浄土門の行者が聖道門の行者と言い争ったり批判したりしてはいけないとも誠めています。ここで重要になるのが、本人の機根の自覚であり、それを示すのが「三心」です。
「三心」とは、『観無量寿経』に説かれる至誠心・深心・廻向発願心のことです。法然は『選択集』の中で、この三心に対する善導『観経疏』(『観無量寿経疏』)の注釈を長々と引用し、三心を行者の「至要」としています。三心の中核は、深心です。善導によれば、深心とは「深信」であり、自らが罪悪深重の凡人であると深く信じるとともに、その几夫を救済する阿弥陀仏本願の正行である称名念仏を深く信じることです。つまりは、「自分のような愚悪の者は、称名念仏以外には救われることはない」と信ずることです。こうした善導流の念仏観を具体的なイメージで説明したものが、有名な二河白道(にがびょくどう)です。法然は、これも全文を引用しています。
二河白道(にがびゃくどう)の図
二河白道図

『選択集』の中では、三心の教説は、付け足しのようなものにみえます。しかし、法然没後に分派する門下たちが共通して重視しているのが、この三心の教説です。ここからは、三心を起こして口称念仏を行ずることが、法然門下の基本的実践だったことが分かります。
 口称念仏の先駆けとされる | thisismedia
それまでは口称念仏は、「劣機のための低劣な行」とみなされてきました。
それを阿弥陀仏が本願として選択したベストな行として位置づけた点に、法然の教説の意義があるとされてきました。しかし、これは「後付けの理屈」に過ぎないと研究者は評します。それだけで専修念仏の爆発的な拡大があったことの説明にはならないとします。それでは、その要因は何なのでしょうか?
法然上人と増上寺|由来・歴史|大本山 増上寺
新しい宗教が広まるには、主唱者の人格的な魅力が欠かせません。
法然の場合は、並はずれた包容力にその中心があったと研究者は考えています。「南無阿弥陀仏とさえ唱えるなら、あとは何をしてもよい」というのが法然の基本姿勢です。これを支えるのは、単に阿弥陀仏の本願への確信というだけではなく、「自分には他には何もできない」という深い自覚です。称名のみにただひとつの救済の道として見出したとも云えます。三心を「行者の至要」と言う法然の本意は、経や疏にそう書かれているからということではなく、自らの自覚の表現として解するべきだと研究者は評します。
 法然は具体的な行法として、長時修(じょうじしゅう)を重視します。
長時修は、四修(ししゅう)のうちの一つで、残りの三修は慇重(おんじゅう)修・無間(むけん)修・無余(むよ)修です。この三修は、称名の際の内面的なあり方を問題にしています。それに対して、長時修は臨終にいたるまで称名をやめるなというだけです。この長時修重視の姿勢は、法然の教説の中では、評判の悪いとされているようです。近代人のものの見方からすれば、当然かも知れません。例えば、ルター流の信仰義認説の立場に立つなら、機械的に称名を続けるなどというのは、はなはだ非宗教的なことで、内面的な信仰こそが重視されるべきだということになります。近代の法然解釈の多くは、こういう立場を暗黙の前提にします。
 「何でもいいから称名を続ける」ということは、自分が劣っていると深く自覚したものが、阿弥陀仏の本願のみを頼んで、ひたすら称名し続けるということです。これが法然の基本姿勢で、逆にいえば、これ以外はどうでもよいということになります。そう考えると法然が戒律をたもったことや、授戒を行ったことを、専修念仏に反する矛盾・妥協と非難する必要もなくなります。
 称名を行うことが第一義で、戒律の持破もどちらが本人に合っているかということに過ぎないのです。
持戒でなくても往生はできるが、わざわざ破戒する必要はない。持戒の方が称名しやすければ、持戒するのが良いということになります。授戒などの行業についても同じです。法然が貴族らに行った授戒は、病気平癒のためのようですが、これも称名による往生を目指すことと矛盾するものではありません。『徒然草』(第二百二十二段)には、専修念仏者でありながら光明真言や宝筐印陀羅尼による亡者追善を薦めた宗源(乗願房)のことが記されています。これは既成仏教と妥協したというのではなく、法然自身がこのような姿勢を持っていたからとも考えられます。
 専修念仏というと、他宗や他の行法を否定した面だけが強調されます。しかし、それは一部の弟子たちの行動で、法然とは異なると研究者は考えています。
七箇条起請文』
七箇条制誡

法然教団への弾圧
法然は『七箇条制誡(ひちかじょうせいかい)』(1204)の末尾で、「三十年間、平穏に暮らしてきたが、十年前から、無智不善の輩が時々出るようになった」と述べています。ここで三十年前というのは、法然が専修念仏に回心した時点を指しています。法然の言葉を信じる限り、彼の思想が問題視されるようになったのは、むしろ弟子たちの言動によってだと考えていたことが分かります。法然没後、活発な活動を展開する弟子たちの多くは、ここでいう「十年」の間の人間者です。
☆彡「法然上人 芳躅集 全」浄土宗 知恩院 大原問答の顛末 | imviyumbo.gov.co
大原談義
法然の教説をめぐって諸宗の碩学を交えての討論会(大原談義)が行われたとされます。
しかし、それ以外に法然の教説が問題視された形跡はないようです。法然の教団への批判が明確な形で現れるのは、元久元(1204)年になってからです。この年、延暦寺は奏状を提出して、専修念仏の停止を訴えます。これに対して、法然が門下の行動を制止するために制定したのが『七箇条制誠』です。これには当時、京にいた法然門下の遁世僧190名が署名して遵守を誓っています。ただ官僧であった隆寛や聖覚は署名していないようです。制誠の内容を要約しておきます。
①専修念仏以外の行業や教学を非難してはいけない(第1~第3条)
②破戒を勧めてはいけない(第4条)
③自分勝手な邪義をとなえてはならない(第5~第7条)
これに対して、弟子たちの中には「法然の言葉には表裏がある」などと称し、制誠に従わない者もいたようです。そのため事態は鎮静化しません。翌元久二年には、貞慶が執筆した『興福寺奏状』が提出され、興福寺が専修念仏停止を訴えます。本状では、専修念仏者の悪行として次のような九項目を挙げています。

法然
興福寺の専修念仏停止状
①新宗を立つる失(勅許によらず浄土宗を立てたこと)
②新像を図する失(専修念仏者以外の不往生を不す摂取不捨曼茶羅を描いたこと)
③釈尊を軽んずる失(阿弥陀仏以外の諸仏を礼しないこと)
④万善を妨ぐる失(称名以外の諸行を否定すること)
⑤霊神を背く失(神明を礼拝しないこと)
⑥浄土に暗き失(諸行往生を認めないこと)
⑦念仏を誤る失(観念よりも口称を重んじること)
⑧釈衆を損ずる失(破戒・無戒を正当化すること)
⑨国上を乱る失(専修念仏によって八宗が衰徴し王法も衰えること)

これを見ると。専修念仏が当時の社会に与えた影響を網羅的に挙げていることが分かります。 親鸞は、『興福寺奏状』が一つの契機となって、法然の流罪を含む専修念仏弾圧が引き起こされたと解釈しています(『教行信証』)。
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しかし、興福寺との折衝にあたった藤原(三条)長兼の日記『三長記』には、朝廷側は法然らの処分に消極的であり、興福寺側の強硬姿勢に苦慮していることが記されています。法然側では、興福寺から処罰要求のあった安楽房遵西・法本房行空・成覚房幸西・住蓮のうち、特に問題の多かった行空を破門します。これに対して朝廷としては、興福寺の意を酌んで、専修念仏による諸宗誹謗を戒める宣旨を下すというあたりで、一応の決着が図られたようです。
しかし、建永2(1207)年10月25日に改元して承元元年になると、法然が流罪に、住蓮・安楽房が死罪に処されるという事態になります。これが「建永または承元の法難」と呼ばれます。
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同時代人である慈円の『愚管抄』によると、住蓮・安楽房の二人は、善導の『六時礼讃』に節を付けた声明を始め、尼たちの人気を集めるようになります。やがて後鳥羽院の小御所の女房(伊賀局)が安楽たちをひそかに呼び寄せ、宿泊させます。こうしたところから生じた風紀の乱れが、直接の引き金となったようです。しかし、これも全くのでっち上げという可能性もあります。特に安楽房遵西は、既に名指しで非難されていたのに、なぜ行動を慎まなかったのか疑問が残ります。
 親鸞はこの事件について、次のように処罰の不当さを訴えています。(『教行信証』)。
「主上臣下、法に背き義に違し、恋を成し怨を結ぶ」
「罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す」
ここからは多分に後鳥羽上皇の感情的な処置だったと親鸞は考えていたことがうかがえます。。
 なお、『歎異抄』の奥書では、安楽・住蓮の他、善綽房西意・性願房が死罪に処され、法然・親鸞以下八名が流罪、そのうち幸西と証空は慈円が身柄を預かり、刑を免れたとしています。しかし、これは他の史料にはみえない記述です。

小松郷生福寺2
流配中の法然(讃岐那珂郡小松郷:まんのう町)

法然は土佐国配流に決定します。

しかし、保護者である九条家の荘園だった讃岐の塩飽本島や、那賀郡小松庄(まんのう町)で逗留している内に、その年の秋には罪を許され、畿内へ戻っています。そして摂津国勝尾寺(大阪府箕面市)に滞在した後、建暦元(1211)年に京に戻り、翌年ここで臨終を迎えます。
   今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「新仏教の形成   躍動する中世仏教66P」
関連記事

    「鎌倉新仏教」の通説がぐらついているようです。
かつては、鎌倉時代は天台・真言系や南都(奈良)の「旧仏教」(顕密仏教)が民衆の支持を失い、法然や親鸞、道元、日蓮らが唱えた「新仏教」が勢力を拡大してきたとされてきました。しかし、以前見たように四国への「新宗教」の伸張と信者の獲得は、思っていたよりもはるか後であったことが次第に分かってきました。浄土真宗の道場が讃岐で姿を現すのは、16世紀になってからです。近年の研究では、鎌倉時代は「旧仏教」が主流で、「新仏教」は少数派の異端に過ぎなかったと研究者は考えるようになっています。

真言律宗総本山 西大寺|JAFナビ|JAF会員優待施設
奈良・西大寺

 その中で南都・西大寺の叡尊は、旧仏教改革派の旗手として戒律復興を掲げ、弟子らの活躍で帰依者を全国に爆発的にひろげることに成功します。晩年には内紛の続いていた四天王寺の別当に就任して鎮静化をはかるなど、叡尊は後年「真言律宗」の祖と呼ばれるようになります。
 以上を整理しておくと、
①鎌倉時代に登場する新仏教は、開祖達が新たな教義を説くが、未だ「異端的存在」であった。
②そのため教団を組織し、全国的な活動を行えるまでには成長し切れていなかった。
③それに対して、鎌倉時代にめざましい発展を遂げるのが律宗西大寺であった。
つまり、鎌倉時代に最も教勢を拡大していたのが西大寺律宗と云うことになります。
ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会
叡尊

律宗西大寺を率いた叡尊とは何者なのでしょうか?
叡尊は建仁元年(1201)5月、現在の大和郡山市白土町で生まれます。父親は興福寺の学侶・慶玄。7歳で母親が亡くなり、醍醐寺の巫女の家の養子となります。4年後に養母も亡くし、11歳で醍醐寺の叡賢に預けられ、17歳で醍醐寺・恵操を師として出家、東大寺戒壇で受戒し、真言宗の官僧(官僚僧)になります。ここまでは順調に官僧(高級国家公務員)への階段を登ってきます。以後は、高野山などで修行を重ね、嘉禎元年(1235)1月に持斎僧(戒律を守る僧)を募集していた西大寺に入ります。

仏教の戒律とは不淫(セックスをしない)、不殺(殺生をしない)、不盗(盗みをしない)、不妄(うそをつかない)など僧侶たちの規範のことです。ところが、当時の僧侶は叡山延暦寺のふもとの坂本や南都の東大寺、興福寺の門前に僧侶が住む家が社宅のように並んでいました。そこには僧侶の妻子がおり、坊さんは妻子に見送られて修行に向か姿が当たり前になっていたのです。不淫の戒など無きに等しいありさまでした。

叡尊は僧たちを魔道から救うには戒律を厳しくする以外にない、と戒律復興運動を決意します。
覚盛(かくじょう)(1194〜1249)らと出会い、同志4人は嘉禎2年(1236)9月、東大寺法華堂で仏・菩薩から直接に受戒して戒律護持を誓う「自誓受戒」を挙行し、官僧を離脱します。これが叡尊のターニングポイントになるようです。官僧であったかどうかは重要でした。というのも、官僧たちには、死穢(しえ)などの穢れを避けることが求められ、活動上の制約があったかことは以前にお話ししました。これに対して官僧から離脱した遁世僧たちは、制約から自由となり、穢れに関わる社会活動に関与でるようになります。これが死者の救済という面では、決定的な一歩を踏み出すことになります。

創建1250年記念「奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝」 | 日本学術研究支援協会

 もともとの西大寺は奈良時代、仏教第一の政治を進めた称徳天皇が建立した寺院です。
しかし、創建当時には百を超えてあった堂宇が平安中期以降は数棟になり荒廃が進んでいました。叡尊が活動理念とした「興法利生」は、釈迦本来の仏教に立ち返り人々を救うことです。叡尊は「妻帯をしない、家族を持たない、財産を求めない」といった戒律を厳格に守ります。その清廉潔白な人柄に弟子が集まり、西大寺の再建が軌道に乗るようになります。
 仁治元年(1240)には忍性(1217〜1303)が弟子に加わってハンセン病患者や身体障害者、生活に困窮した物乞いら「非人」と呼ばれた社会的弱者の救済に乗り出します。
叡尊らは戒律復興運動、弱者救済、さらに庶民の働き口となる勧進事業を精力的に展開します。
そして、陸上や河川、海上の交通路の整備、耕地開発を進めます。一方、鎌倉に下った忍性の社会活動は、鎌倉幕府の要人の注目を集め、帰依者も増えます。こうして、叡尊は幕府から懇請されて鎌倉に出向き、帰依者は支配層から最下層まで貴賤の別なく広がるようになります。また、亀山上皇に授戒するなど朝廷からも信頼を得ます。叡尊は生涯で9万7710人に菩薩戒を授け、西大寺が直接、住持を任命した寺は全国に262寺、末寺総数は1500寺に上ったとされ、亀山上皇から興正菩薩の貴号が贈られます。

中世叡尊教団の全国的展開 | 剛次, 松尾 |本 | 通販 | Amazon

 叡尊教団の社会救済活動の一つに港の管理維持・河海支配がありました。
かつては、遣唐使派遣停止以後の影響を「国風文化」形成の要因になったなどと教科書には書かれていました。しかし、これは海外取引の「過小評価」だったようです。その後の研究で、日宋・日元・日明貿易の果たした役割は、考えられた以上に大きかったことが分かってきました。遣唐使廃止後も、それまで以上に、人・物・情報の国際交流は想像以上に進んでいたのです。
韓国新安沖の海底で発見された沈没船の積荷の中国陶磁器
新安沈没船から引き上げられた中国陶器
 例えば、1976年に韓国新安沖で引き上げられた新安沈没船を見てみると次のようなことが分かります。
①船は、全長28m、幅6,6m、重量約200屯
②元亨3(1323)年に中国(寧波)から日本に向かう途中で、新安沖で沈没
③積荷は、2万点の白磁・青磁、28トン、800万枚もの中国銅銭
④積荷の木札の墨書銘から、京都東福寺がチャーターした貿易船だった
こうした荷物を積んだ貿易船4艘ほどが船団を組んで貿易に従事し、鎌倉の和賀江津、六浦津などに入港していたのです。
 今度は足利尊氏が律宗西大寺の、鎌倉の極楽寺に対して出した文書を見ておきましょう。
飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事、元の如く、御管領あり、嶋築興行といい、殺
生禁断といい、厳密沙汰を致さるべし、殊に禁断事おいては、天下安全、寿算長遠のためなり、忍
性菩薩の例に任せて、其沙汰あるべく候、恐々謹言
ごくらく噸和五年二月十一日        尊氏
極楽寺長老                     
                                     『鎌倉市史 史料編第3』426号
この史料は、足利尊氏が、貞和五(1349)年2月11日付で、鎌倉の極楽寺に対して、「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」に関する支配権を今まで通りに認めたことを示しています。ここからは次のようなことが分かります。
①極楽寺は、飯島(和賀江津)の敷地で、着岸船から関米(一石につき一升、約1%)を取る権利を認められていたこと
②それは「嶋築興行」(飯島の維持・管理の代償)でもあったこと
③同時に、前浜の殺生禁断権が認められていたこと
④「忍性菩薩の例に任せて・・・」とあるので、これらの権利は忍性以来のことだったこと

①の関米(一石につき一升、約1%)については、新安沈没船の積荷は「2万点の白磁・青磁、800万枚の中国銭」でしたから、極楽寺の取り分1%は、200点の白磁・青磁、8万枚の銭ということになります。これが1船分の取り分です。これらが唐物の市で販売され、極楽寺の収益となります。
鎌倉の港
鎌倉の和賀江島
どのようにして、極楽寺は関税徴収権を手に入れたのでしょうか。
和賀江島は飯島ともいい、材木座海岸の、現光明寺の前浜あたりに突き出て造成された人工の岸壁です。岩を埋め立て、江を作ったとされます。今は、千潮時に黒々とした丸石が現れるだけで、これが鎌倉時代の港跡とは思えません。それまでは鎌倉の由比ヶ浜は遠浅ですので、中国船などの大型船は着岸できません。そこで武蔵国の六油津に入港していたようです。ところが、貞永元(1232)年7月12日に、念仏僧の往阿弥陀仏は、「舟船着岸の煩いをなくすために、和賀江島を築きたい」(『吾妻鏡』同日条)と、鎌倉幕府に申請します。時の執権北条泰時は、これを喜んで許可し、支援します。こうして和賀江津の工事は始まります。しかし、土砂の堆積などにより、その維持は難しかったようです。そこで、技術的な指導を含めて関わったのが忍性を中心とした極楽寺、つまり律宗傘下の技術者集団です。この成功報酬が、先ほど見た「着岸船積荷1%の関米(関税)ということになるようです。
 これに対して日蓮は『聖愚間答抄』で、次のように忍性を批判しています。
忍性 -救済に捧げた生涯-』展 レポート【奈良国立博物館 】│寺社参拝 法輪堂 拝観日記
鎌倉を拠点に社会活動を行った忍性

極楽寺良観上人(忍性)は上一人より下万民に至て生身の如来と是を仰ぎ奉る。彼の行儀を見るに実に以て爾也.飯島の津にて六浦の関米を取ては、諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取ては、諸河に橋を渡す。(『昭和定本日蓮聖人遺文』第1巻 353P)
 
意訳変換しておくと
(鎌倉)極楽寺の良観上人(忍性)は、多くの人から生身の如来と尊敬されている。彼のやり方を見ると、まことにおかしい。飯島の津や六浦で関税を取ては、諸国の道を作り、全国七道に関所を構えて、通行税を取り立てる。その銭で、諸河に橋を渡す。
ここからは、次のようなことが分かります。
①飯島津で船から徴収した米は、諸国の道の造成にも使われていたこと。
②作った道に関所を作って、通行税を徴収していたこと
③さらに、それを資金に橋を架けていたこと
 飯島の関米徴収は、現在の光明寺のところにあった末寺万福寺が担当していたようです。また、鎌倉の化粧坂には鎌倉時代には燈炉堂がありました。そこでは夜に火が灯され海上を進む船の目印として灯台的役割を果たすようになります。これに関わって、唐招提寺系の律僧琳海(りんかい)が建治元(1251)年に開いた大覚律寺は、兵庫県尼崎にあった河尻燈炉堂の管理をまかされていました。ここからは次のような事が推察できます。
①鎌倉幕府からも鎌倉の海上交通管理を任されていた忍性が、鎌倉化粧坂の燈炉堂の管理も鎌倉末期には任されていたこと。
②全国の主要港に建立された律宗寺院は、港湾管理センターとしての役割を果たしていたこと。
 先ほど見た足利尊氏の文書には「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」とあって、前浜での殺生禁断権を認められています。これは「前浜での全面漁業禁止」ではありません。浜での一般人の禁漁と、漁民に対しては 一定の金品を寺院に寄附することで、漁を認める権利です。つまり極楽寺は漁民に対しての漁場管理権を握ったことになります。これは以前にお話しした叡尊が弘安9(1286)年に宇治橋を修造した時に、宇治川の殺生禁断権が叡尊に認められた「漁業権」と同じ扱いです。
 現在、千潮時に残る丸石の多くは、相模川・酒匂川および伊豆海岸から筏などにで運ばれてきたものとされています。
研究者は、そうした石を採取した川などの通行管理権を握っていた可能性が高いとします。
 ここでは次の事を押さえておきます。
①鎌倉の内港和賀江津を叡尊教団の関東における拠点寺院・極楽寺が握っていた
②六浦津は、金沢称名寺が管理責任を持っていました。
こうして律宗西大寺教団は、中国との交易利益を求めて、瀬戸内海に進出してきます。その際に尾道や博多などには、港湾管理センターとしての西大寺末寺が建立されます。そして、そこには律宗独自のモニュメントして、十三重石塔や巨大五輪塔などが建立されます。瀬戸内海沿岸に残る巨大石造物は、このような西大寺律宗の教線拡大の動きの中で押さえていく必要があるようです。

今日はこのあたりで、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」

中世叡尊教団の全国的展開 | 剛次, 松尾 |本 | 通販 | Amazon

前回は、次のような事をみてきました。
①古代の官寺の僧侶は高級国家公務員で、死体の埋葬などに関わることはなかった。
②それは死体が汚れたもので、死穢として近づくことが許されなかったためである。
③そのような中で、律宗の遁世僧の中には戒律を守っているので、穢れも病原体も関係ないという考えが出てくる。
④こうして律宗は他宗に魁けて、死者を葬り、冥福をいのるという葬式儀礼を作り出していく。
⑤について、律僧が葬送に従事することで、律僧によって独自の「死の文化」が創られていくようになります。それが五輪塔、宝筐印塔などの石塔(墓塔・供養塔)、骨蔵器の登場です。これは葬送儀礼と呼ばれるもにになります。今回は、律宗によって生み出された「葬送儀礼」を見ていくことにします。 テキストは「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」です。

伊勢の五輪塔、叡尊の弟子の作か/山形大教授が発見 | 全国ニュース | 四国新聞社
弘正寺五輪塔
最初に、伊勢市楠部の弘正寺跡五輪塔を見ておきましょう。
 楠部五輪塔はこれまで15世紀末のものとされ、廃寺となった律宗寺院「弘正寺」にあったため注目されてこなかったようです。それが2008年に、松尾剛次山形大教授(日本宗教史)の調査で次のような事が分かっています。
①楠部五輪塔が、奈良の西大寺を復興した高僧叡尊(1201-1290年)の弟子が造ったこと。
②鎌倉時代の律宗の五輪塔では最大級であること、
 五輪塔は、墓として律宗僧が建立を始めます。その際に葬られる僧侶の地位が上がるほど、その五輪塔も大きいという相関関係があるようです。奈良の西大寺にには叡尊の五輪塔がありますが、これが最大です。そして、楠部五輪塔の高さは約3,4mで、これと同格です。 五輪塔は弘正寺址に建っていること、五輪塔の形、年代、石の削り方などからみて、叡尊上人のお墓ではないかと考えられます。恐らく弟子が叡尊上人のお墓を建て、分骨したのではないかというのです。

律宗五輪塔
弘正寺跡五輪塔(叡尊の五輪塔)

 研究者が注目するのは、五輪塔の「水輪」の球体部分です。加工技術の特徴が、叡尊の弟子が造った極楽寺(神奈川県鎌倉市)の五輪塔などと一致します。そこから制作時期を、鎌倉時代後期から末期の制作と推察します。形から見ると、重厚感のある感じ、全体のバランスからみて鎌倉の忍性五輪塔によく似ています。
律宗五輪塔.2
弘正寺五輪塔
弘正寺五輪塔は、花崗岩製で、高さ3,4mもある巨大五輪塔です。伊勢弘正寺は、現在は廃寺ですが、叡尊が開山し、弘安3(1280)年に律寺として建立(再興?)された寺で、伊勢地方の筆頭寺院でした。この五輪塔は、大きさが、西大寺奥の院の叡尊塔と一致します。

巨大五輪塔!西大寺奥の院に眠る叡尊上人/毎日新聞「やまと百寺参り」第25回 - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

 叡尊教団では、その高さは僧侶の身分に比例するとされていたので、弘正寺五輪塔は叡尊の分骨塔かもしれないと研究者は判断します。五輪塔は、五つの石を積んだ墓塔、あるいは供養塔です。下から方形の地輪・球形の水輪・三角の火輪・半球形の風輪・団形の空輪からなります。平安後期に密教系の塔として現れ、後に宗派を超えて流行するようになります。
 五輪塔は、特に律僧によって数多く制作されました。
 2mを超える巨大五輪塔は、全国で70ほどありますが、ほとんどが叡尊教団の律僧の手によるもので、その寺の開山者の墓所である場合が多いようです。用いられている石材はそれまでは軟らかくて加工しやすい砂岩製が多かったのですが、律僧の五輪塔は硬い花崗岩や安山岩製です。堅い岩石を加工する新技術を持った中国からの石工集団を配下に組織して、般若寺十三重石塔をはじめ新しい石造物を創り出していったことは以前にお話ししました。
般若寺(はんにゃじ)十三重石塔
般若寺十三重石塔

古墳や古代寺院の登場と同じように、新たな宗教的なモニュメントは、新たな宗教ムーブメントの上に姿を現します。当時の人達にとっては、目に見える形で現れた大きな石造物は畏敬の念を抱く対象だったようです。五色台の白峰寺・十三重石塔も、奈良の西大寺律宗の布教活動と深い関係があると研究者は考えていることは以前にお話ししました。
白峰寺 十三重塔 第五巻所収画像000010
白峯寺石造十三重塔

五輪塔が墓所な時には、地輪の下に骨蔵器に入った火葬骨があります。
額安寺五輪塔(鎌倉墓)|金魚とお城のまち やまとこおりやま(一般社団法人 大和郡山市観光協会公式ウェブサイト)
額安寺の忍性五輪塔
額安寺(大和郡山市)の忍性五輪について、見ておきましょう。
忍性(にんしょう)は、建保5年(127)に大和国城下郡屏風里(奈良県磯城郡三宅町)で生まれました。早くに亡くなった母の願いをうけて僧侶となり、西大寺の叡尊(えいそん)を師として、真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済に惜しまぬ努力をしました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通ったという話には、慈悲深く意志の強い人柄がうかがえます。後半生は拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興と社会事業を展開しす。人々の救済に努めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈しています。
額安寺(大和郡山市)の忍性五輪について「ふるさと大和郡山 歴史事典」には、次のように記されています。
   昭和34年3月23日重要文化財(建造物)。
額安寺の北西にある石造五輪塔群で、この辺りは俗に「鎌倉墓」とも言われている。指定な受けた8基の五輪塔は、敷地の西側に東面して5基、北側に南面して3基が鍵の手に並んでいる。東端および南から4番目のものに、永仁5年(1297)の銘があり、他のものも無銘ではあるが、このころ造立されたものと思われる。
昭和57年の解体修理の際行われた地下調査によって、南端の忍性墓のみが建立当初の位置を保っていることが判明している。また、忍性墓の骨蔵器等は、中世の高僧の墓制を知る上で貴重な発見となった。
額安寺(がくあんじ)五輪塔群(1)
忍性塔(額安寺)

 この忍性塔は塔高276㎝ある巨大五輪塔です。忍性は、嘉元元(1303)年に死去し、叡尊教団の鎌倉における拠点・極楽寺で火葬されます。そして、忍性の骨は分骨され、極楽寺(塔高308㎝)と竹林寺(大和郡山市、塔は破壊)にも五輪塔が立てられ金銅製の骨蔵器に入って納骨されています。こうして、骨蔵器という新たな葬儀用具が登場します。これは叡尊教団の「死の文化」創造の遺品と研究者は評します。
忍性骨臓器
額安寺の忍性骨蔵器

水輪に穴を開けて、水輪にも骨蔵器が納入される場合もあります。

西方院(唐招提寺 子院) そして今週のNHK歴史秘話ヒストリア | タクヤNote
唐招提寺西方院の證玄塔

唐招提寺西方院の證玄塔は、塔高が238㎝もある巨大五輪塔です。昭和44(1969)年6月の修理の際に、地輪の下から次のような金銅製の骨蔵器が出てきました。
律宗の骨臓器(証玄塔水輪)
唐招提寺西方院の證玄塔から出てきた骨臓器

図8のように水輪部に穴が開けられ、図9のような追葬された骨蔵器も出ています。ここからは律宗では、高僧の墓所として五輪塔を立て、骨臓器を埋葬していたことが分かります。

研究者が注目するのは、西方院が地域住民の墓所の中核となっていることです。
律僧たちが境内墓地や地域の惣墓を生み出し、その周辺に地域の有力者達が墓石を立て始めるのです。そして墓域を管理するのは律宗僧でした。ここからは、律宗僧侶の五輪塔が核となって、地域の墓所へつながっていく道が見えて来ます。
以上をまとめておきます
①葬送に関わるようになった律宗僧は、五輪塔を葬儀モニュメントとして建てるようになる
②最初は、開祖や高弟のもので大きさと功徳は相関関係にあるとされた。
③分骨された五輪塔が各地に姿を現し、以後門弟達は、その周辺に自分の五輪塔を建てた。
④五輪塔の石材は、それまでは堅くて加工が難しかった安山岩や花崗岩であった。
⑤それを可能にしたのは東大寺再興のために中国から呼ばれた石工集団であった。
⑥彼らは律宗の求めに応じて、石造十三重塔などを各地の末寺に建立した。
⑦それは瀬戸内海に伸びゆく律宗西大寺の教勢拡大のモニュメントでもあった。
⑧その一例が、五色台・白峰寺の十三重塔(東塔)である。
⑨この時期、讃岐国分寺の再興を行ったのも律宗西大寺の僧侶であった。
⑩高瀬の謎の石塔とされる威徳院勝造寺層塔(八百比丘尼塔)も、このような文脈の中で考える必要がある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

今では日本の仏教は「葬式仏教」とまで云われ、僧侶が葬儀に関わるのは当たり前とされています。しかし、古代では僧侶が葬儀に関わることは、タブーだったようです。そういう意味では、中世になって律僧が葬送に従事するというのは、「大革新」だったようです。その転換が、どのようにして進んだのかを、今回は見ていくことにします。
躍動する中世仏教 (新アジア仏教史12日本Ⅱ) | 末木文美士【編集委員】, 松尾剛次 佐藤弘夫 林淳 大久保良峻【編集協力】 |本 | 通販 |  Amazon

テキストは「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」です。

古代・中世の興福寺・東大寺・延暦寺・園城寺などの官僧たちは、「穢れ忌避」が求められていたので、葬儀にはアンタッチャブルでした。穢れには、死穢(しえ)、産穢(さんえ)などがありました。死穢というのは、死体に触れたり、死体と同座したりすることにより起こる穢れです。それに触れる(=触穢)と30日間は、謹慎生活を送る必要がありました。というのも、触穢れは伝染すると考えられていたのです。そのため他人に伝染させないために、穢れが消える期間、謹慎生活を送らねばならなかったようです。

 穢れ忌避については『延喜式』に穢れ規定が神事従事に関わるものとして載せられています。
ここからは本来は、神事従事の規定だったことが分かります。ところが十世紀以後、神仏習合が進むと、寺院にも鎮守の神社が併設されるようになり、官僧たちも神前読経に従事するようになります。その結果、官僧も穢れ忌避が義務化されるになったようです。つまり、僧侶は死体に近づけない、触れないということになります。

今昔物語集 | 書物で見る日本古典文学史 | 国文学研究資料館

『今昔物語集』巻13第20話は、次のように記します。

比叡山東塔の広清という僧が京に下り、 一条の北辺の堂で病死します。その死体は「弟子ありて、近き辺に棄て置かれ」ます。その「墓所」からは毎晩『法華経』を諦す声がした。弟子はこれを聞いて、遺骸を山の中の清いところに移しますが、そこでも声が聞こえた。

この物語からは、比叡山で学んだ僧で、弟子がいる立場の者でも、きちんとした葬送もなされず、死体が「近き辺に棄て置かれ」たというのです。この扱いが特別だったのではないようです。
『今昔物語集』巻28第17話には、次のような話が収められています。
藤原道長の御読経を勤めた奈良興福寺の僧が、毒キノコを食べて死んだ。哀れに思った藤原道長から葬料を賜って、立派な葬式をしてもらった。それを聞いた藤原道長の御読経僧の一人で、東大寺の某は、次のように嘆いた
「恥をみなくてすんだのはうらやましいことだが、自分などが死んだら大路に捨てられてしまうだろう」。
栄華を極めた藤原道長に連なる興福寺や東大寺の僧でも、有力僧でなければ、仲間に葬送をしてもらえず、道に棄てられる恐れは十分あったことがうかがえます。
どうして、お寺のお坊さんが亡くなった師匠や同僚を丁寧に埋葬しないのでしょうか?
その背景にあったのは、葬送費用の問題だけではなく、官僧たちが死穢を避けるために死体に近づけなかったことがあります。死体に近づくというのは死穢で「30日間の謹慎生活」だったことは最初に見ました。悪くすると官僧(高級国家公務員)としての地位を失うことにもなります。供来をしたくてもできない体制下に置かれていたようです。これだけ見ると古代における僧侶というのは、先端の思想・知識・技術者集団であったが、庶民とはほど遠い存在だったことが分かります。彼らは庶民の平安や冥福を祈る存在ではなかったことを押さえておきます。
長明発心集(鴨長明) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それが中世になると、葬送を願う庶民に対して、死穢を憚りつつ、慈悲のために葬送に従事する僧侶の話が出てくるようになります。
鎌倉前期成立の鴨長明『発心集』巻4第10話には、次のような話があります。
ある偉い僧侶が日吉神社に百日参拝の願を掛けたが、80日目の参拝の途中に、亡くなった母親の葬送ができずに泣いている独り身の女性に出会った。あわれに思って葬送をしてやった後で、穢れねをはばかりつつ日吉神社を参拝したところ、日吉神が現れて僧の慈悲をほめて、参拝を認めた。

ここには、葬式を望む人、慈悲のために穢れを憚らず葬式を行う僧侶、さらには慈悲のために穢れ忌避のタブーを犯す僧侶がいたことが分かります。それを日吉神も誉めています。こうして、死者をともらい、冥福を祈る僧侶が現れてきます。
この際に官僧であったかどうかは重要でした。
というのも、官僧たちには、死穢などの穢れを避けることが求められ、活動上の制約があったかことは最初にお話ししました。これに対して官僧から離脱した遁世僧たちは、制約から自由となり、穢れに関わる社会活動に関与でるようになります。これが死者の救済という面では、決定的な違いを生むことになります。

伊勢岩田の円明寺(廃寺、津市岩田)の覚乗の話を見ておきましょう。
覚乗は伊勢弘正寺(伊勢市楠部)で受けた伊勢神官の神のお告げによって円明寺に住むことになります。ある日、彼は、神を尊ぶあまり、御神体を見たくて、円明寺から伊勢神官へ百日間参拝する誓いをたてます。ところが、結願の日になって、斎官の料地を通り過ぎた時に旅人の死者に出会ってしまいます。覚乗は、死者の関係者から引導をたのまれ、葬送の導師をつとめます。その後、宮川の畔に到着したところ、一老翁が出てきて、「あなたは今、葬送を行ったではないですか。死穢に汚染されているのに、神官に参拝しようとするのは、どういうことですか」といった。それに対して、覚乗は次のように答えたという。
「清浄の戒は汚染しないのです。それなのに、末世に相応して、いったん円明寺に帰れというのですか」。
その問答が終らないうちに、白衣の童子が、どこからともなく現れて歌を詠み、「これからは円明寺から来るものは穢れないものとする」と言って影のように消えた
「三宝院旧記14」『大日本史料』6ー24、868P
 先ほども見たとおり官僧は、葬送に関与したものは、神事などに携わるためには三十日間謹慎する必要がありました。ところが律僧の場合は、「清浄の戒は汚染なし」という論理により、死穢を恐れずに、厳しい禁忌を求める伊勢神官にすら参詣したというのです。
 「清浄の戒は汚染なし」、これを言い換えれば、我らは日々厳しく戒律を護持しており、それがバリアーとなってさまざまの穢れから守られているのだ、ということになります。この主張こそが死穢を乗り越える論理になります。この一老翁と覚乗との問答には、厳しい戒律を守り続けていた律僧たちが、葬送従事とのはざまで、戒律を守ることをどのように考えていたかを示しています。彼らは、律僧として厳格な戒律を守った生活を行っていました。戒律を守ることは、社会的な救済活動を阻害するどころか、戒律が穢れから守ってくれているんだと考えていたことが分かります。この史料では、そうした主張を伊勢神官の神も認めたことになっています。

この物語の持つ意味をもう少し別の視点で見ておきましょう。
ここでは神は「円明寺から来るもの=叡尊教団の僧侶集団」を、穢れていないと認めています。別の言葉で言うと叡尊教団の律僧たち全体が、「清浄の戒は汚染なし」とされたのです。これは穢れのタブーから解き放たれたことを意味します。
 説話などに、この話の類型が出てきますが、逆に見ると神仏習合の時代においては、僧侶が葬送に従事しながら、死穢の謹慎期間を守らずに神社に参詣することはタブーだったことを現しています。
「清浄の戒は汚染なし」という論理が、葬送などの穢れに関わる活動を律宗僧が行うことを可能したことを押さえておきます。これは、穢れの恐れがある活動に、律僧たちが教団として従事していく扉を開いたのです。

 叡尊教団の律僧たちは、斎戒衆という組織をつくります。
そして、斎戒衆に葬送、非人救済といった穢れに関わる実務を専門に扱わせるようになります。この斎戒衆というのは、俗人でありながらも、斎戒を護持する人びとであり、俗人と律僧との境界人でした。律僧たちが、関与しにくい活動、例えば戒律で禁止されているお金に関することなどに従事します。こうした組織を作ったことにも、官僧が穢れに触れるとして忌避した葬送活動に、組織として取り組もうとした律僧たちの決意を見ることが出来ます。

以上を整理して起きます
①古代の官寺の僧侶は高級国家公務員で、死体の埋葬などに関わることはなかった。
②それは死体が汚れたもので、死穢として近づくことが許されなかったためである。
③そのような中で、律宗の遁世僧の中には戒律を守っているので、私たちには穢れも病原体も関係ないという流儀が出てくる。
④こうして律宗は他宗に魁けて、死者を葬り、冥福をいのるという葬式儀礼を作り出していく。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  テキストは「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」です。

        
前回は現存する讃岐の熊野系神社が、いつ頃に勧進されたかを追いかけました。確かな史料がないので社伝に頼らざるをえないのですが、社伝で創立年代が古いのは次の3社でした。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~1298年)ころ
②善通寺筆岡の本熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、12世紀末~13世紀に最初の熊野神社が讃岐に勧進されたとしておきました。こうして鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士が、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣が盛んになります。そして彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。
今回は各熊野系神社に残る遺品から、その社の勧進時期を見ていくことにします。テキストは、 「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。

與田神社
東かがわ市の与田神社
①東かがわ市の与田神社に熊野本地を表した懸仏があります。
これが讃岐の熊野信仰遺物としてはもっとも古いとされます。与田神社は、明治の神仏分離以前には「若王子、若一王子大権現社、王子権現社」と呼ばれていました。その社名通り、熊野12社の若王子を祀った神社になります。ここに次のような面径15~25㎝の8面の懸仏が所蔵されています
①千手観音    平安時代末期
②阿弥陀如来 平安時代末期
③十一面観音 鎌倉時代
④四千手観音    鎌倉時代
⑤如意輪観音   室町時代
⑥薬師如来     室町時代
⑦薬師如来     室町時代
⑧阿弥陀如来    室町時代
これらの懸仏は神仏分離までは若王子(若一王子大権現社)に祀られていました、明治元年の御神体改めの時に社殿から取り除かれ、 一時期は隣接する別当寺の若王寺に保管されていたようです。その後、明治15年頃に権現社が建立され、そこに祀られるようになります。それからは忘れられた存在でしたが、1982年の夏に再確認され、世に知られるようになったという経緯があります。

熊野十二社権現御正体|奈良国立博物館
     重要文化財 熊野十二社権現御正体 奈良国立博物館

 ここで熊野十二所および鎮守・摂社などの本地仏を、復習しておきます。
A 本宮(証誠殿)    阿弥陀如来
B 新宮(早玉)      薬師如来
C 那智(結宮)      千手観音
D 若宮          十一面観音
E 禅師宮        地蔵菩薩
F 聖官          龍樹菩薩
G 児宮        如意輪観音
H 子守宮        聖観音
I 二万官        普賢菩薩
J 十万官        文殊菩薩
K 勧進十五所      釈迦如来
L 飛行夜叉        不動明王
M 米持金剛        毘沙門天
これを見ると与田神社の懸仏は、十二所の全てが揃っているわけではないようです。しかし、この神社がかつては若王子(若一王子大権現社)と呼ばれていたことや、千手観音・阿弥陀如来・如意輪観音などは揃っているので、もともとは十二体が揃っていて熊野の本地仏を表したものと研究者は推測します。
次に、研究者はこれらの懸仏の制作年代を次のように3期に分類します。
A もっとも古いのは①千手観音と⑧阿弥陀如来
  この2つ縁のついた円形の鋼板に銅で作られた尊形を貼りつけたもの。その薄い尊像の造形や穏やかな表現などから、平安時代末期から鎌倉時代初期
B ⑤如意輪観音・③十一面観青は木製の円形に二重の圏線を付けた鋼板を張っている。そこに鋳造した尊像を取りつけたもので「技術的退化」が見られるので鎌倉時代後期ころ
C薬師如来・千手観音・阿弥陀如来も木製の円形に鋳造した尊像を取りつけたもの。先の懸仏に比べて、ややその制作技術に稚拙さが感じられ、制作年代は室町時代までくだる。残りの如来形も室町時代と考えて大過ない。
以上を受けて、次のように推察します。
①本宮(阿弥陀如来)・那智(千手観青)・新官(薬師如来)の三所権現がまず平安末期に制作された。
②その中の新宮の薬師如米は、いつの頃にか失われた。
③その後に残りの九所が追造された。
懸仏の場合は多くの例からみて、他所に移動することは少ないと考えられるので、与田神社の懸仏も当初からここに祀られていたと研究者は推測します。
水主神社
与田神社

 この神社の由緒が記された『若王子大権現縁起』のなかに、観応二年(1251)の「寄進与田郷若王子祝師免田等事」などの記事があるので、南北朝時代にはこの神社は存在していたことが裏付けられます。そして、これらの懸仏の製作年代から若王子(若一王子大権現社)の創建は、平安時代末期から鎌倉時代初期のことで、南北朝時代から室町時代には、この地で繁栄期を迎えていたことがうかがえます。
 ちなみに、この地は近世には「弘法大師の再来」と言われた増吽の生誕地のすぐそばです。増吽は、この熊野神社を見ながら育ったことになります。
熊野曼荼羅図
重文 熊野曼荼羅図 根津美術館

つぎに多度津・道隆寺の熊野本地仏曼荼羅図(絹本著色 縦122㎝×横53㎝)が古いようです。
図中央の壇上に十二所の本地仏と神蔵の愛染明王、阿須賀の大威徳、満山護法の弥勒仏を描かれます。本宮・新宮・那智・若宮の四体を最前列とするのは珍しいようです。上下には大峰の諸神と熊野の王子が描かれ、最上部には北十七星が輝いています。制作年代は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての14世紀前半期とされ、香川県下最占の熊野曼茶羅になります。
なお道隆寺の摂社の本地仏は、次の通りです、
礼殿執金剛神    文殊普薩
満山護法神    弥勒普薩
神蔵権現      愛染明王
阿須賀権現    大威徳明王
滝宮飛滝権現    千手観音
道隆寺 中世地形復元図
中世の多度津海岸線復元図 道隆寺の目の前には潟湖が拡がっていた
この寺は、中世の多度津の港町である堀江の内海に位置していた寺で、堀江の港湾センターとしての役割を果たしていたことは以前にお話ししました。さらに教線ラインを瀬戸内海に向けて伸ばし、西は庄内半島の先まで、北は塩飽本島の寺や神社を門末に置いていた寺院です。早くから堺・紀伊などとの交流がありました。それを可能にしたのが備讃瀬戸の北側にある倉敷児島の「」新熊野」と称した五流修験です。五流修験は熊野修験者の瀬戸内海におけるサテライトとしての役割を果たし、熊野水軍のお先棒・情報箱として機能します。そして、その情報をもとに熊野水軍は利益を求めて、瀬戸内海を頻繁に航海したのです。当時の道隆寺 ー 児島五流 ー 熊野は、熊野水軍によって結ばれていたのです。そのため瀬戸内海沿いの諸国からの熊野詣では船便を利用したという報告もでています。

次は高松市六万寺の熊野本地仏曼茶羅です。
この曼荼羅も痛みがひどくて、全体像を窺うのは難しい所もあるようです。画風からみて南北朝時代から室町時代前期と研究者は考えています。その図様があまり例のないもので、図中央に薬師・阿弥陀・千手観音の熊野三所が描かれています。その下に地蔵菩薩・龍樹菩薩・釈迦如来・不動明王・毘沙門天など、十一尊が描かれていて、全部で一四尊になりますです。現存する作例の中には、三所権現(三尊)・五所王子(五尊)・四所明神(五尊)の合計十三尊が普通です。この図は一尊多いことになります。
図の上半分に、山岳中に新宮摂社神蔵の本地愛染明王、阿須賀権現本地の大威徳明王・役の行者・那智の滝が描かれます。下半分には熊野の諸王子が描かれたものです。研究者が注目するのは、図の下部右端に弘法大師が描かれていることです。熊野受茶羅のなかに弘法大師が描き込まれるのは、室町時代制作の愛媛・明石寺本、滋賀・西明寺本などだけです。これは「熊野信仰 + 弘法大師信仰」が次第に生まれつつあったことを示すものです。これが更に展開していったのが四国霊場の姿とも云えます。四国霊場形成史という視点からも注目すべきものと研究者は評します。
水戸の鰐口(2) - ぶらっと 水戸
鰐口

次は熊野系神社に奉納されていた鰐口です。    
A 林庄若一王子の鰐口には、次のような銘文があります。
「讃州山田郡林庄若一王子鰐口  右施上紀重長 応永元甲戊十一月 敬白」

ここからは次のようなことが分かります。
①山田郡林荘(高松市林町)の若一王子(拝師神社)に奉納された鰐口であること
②時期は応永元年(1394)で、紀重長の制作であること。
また、「讃岐国名勝図会」には拝師神社が「皇子権現」と記され、その創建を永享2(1430)年、造営者を岡因幡守重とします。14世紀末から15世紀初頭の時期に武士層によって建立された熊野系神社のようです。

次に古見野権現の鰐口には、次のように記されています。
「奉施人讃州氷上郷古見野権現御宝前鰐口也 応永二十七庚子十一月吉日 大工友守願主道法敬白」

これは現在の三木町小蓑の熊野神社で、応永27年(1420)の制作です。『香川県神社誌』には、文治年間に阿波国大瀧寺より奉迎されたと記されています。願主の道法とは、世俗武士の入道名のような響きがします。

松縄権現若一王子の鰐口には、次のように記されています。

「讃州香東郡大田郷松直権現若一王子鰐口也 敬白 永享九年十一月十八日大願主宗蓮女」

現在の高松市松縄町の熊野神社で永享九年(1427)に制作されたものです。なお、この鰐口は今は岡山県備前市の妙圏寺の所蔵となっているようです。
以上、讃岐の熊野信仰に関係する遺品を見てきました。そのまとめを記しておきます
①もっとも古い与田神社の懸仏により、讃岐の熊野信仰を平安時代末期から鎌倉時代初期にまで遡らせることができること。
②道隆寺本や六万寺の熊野曼荼羅図がもともとから讃岐にあったとすれば、鎌倉時代末期から室町時代にかけても熊野信仰はますます盛んであったこと
③各地の熊野神社に残る鰐口は、中世の熊野信仰の繁栄ぶりを示す。
の一端を窺うことができるのです。
これは先日見た讃岐関係の檀那売券が盛んに売り買いされていた時期と重なります。以上から、増吽が登場する以前から讃岐には熊野信仰が、いろ濃く浸透していたと研究者は判断します。特に最も古い尉懸仏を所有する与田神社(若一王子権現社)は、与田山にあります。ここは増咋が生まれ育った地域に近い所です。「幼いときから増咋の宗教的原体験のなかに熊野権現の存在があった」と研究者は推測します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版
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  小松郷生福寺2
流刑先の小松庄・生福寺(まんのう町)法然の説法
        
浄土宗が四国に伝わるのは、承元元年(1207)に開祖源空(法然)が流罪先として讃岐に流されたときとされます。この時に、門下の幸西も阿波に流されていますが、彼の動向についてはまったく分からないようです。その後、幸西は嘉禄の法難(1327)によって、再び四国伊予に流されます。法然の讃岐流刑が、さぬきでの浄土宗布教のきっかけとする説もありますが、研究者はこれを「俗説」と一蹴します。例えば法然の「讃岐流刑」の滞在期間は、春にやってきて秋には流罪を許されて、讃岐を去っています。半年にも及ばない滞在期間です。「源空や幸西の流刑による来国は、浄土宗の流布という点では大した期待はもてない。」と研究者は考えているようです。

九品寺流長西教義の研究(石橋誡道 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

法然門下の九品寺流の祖・長西(
元暦元年(1184年) - 文永3年1月6日1266年2月12日は、伊予守藤原国明の子でした。

讃岐国で生まれ9歳のときに上洛し、19歳で出家して法然に師事します。京都九品寺を拠点にしたことから、九品寺流と呼ばれます。その教えは「念仏以外の諸行も阿弥陀仏の本願であり、諸行でも極楽往生は可能」というもので「諸行本願義」とも呼ばれるようです。長西は建長年間(1249~56)に、讃岐に西三谷寺を開いて教化につとめたとされます。しかし、それも短期間のことで、すぐに洛北の九品寺に移っています。その後、四国では浄土宗を伝道する者が現れません。「法然流刑を契機に浄土宗が讃岐に拡がった」という状況を、残された史料からは裏付けることはできないと研究者は指摘します。

4344102-55郷照寺

宇多津の時衆・郷照寺(讃岐国名勝図会)
 浄土宗の流れを汲む一遍の時衆は郷照寺などに、その痕跡を見ることができます。郷照寺は四国霊場では唯一の時宗寺院で、古くは真言宗だったようです。それが一遍上人に来訪などで、時宗に変わったと伝えらます。郷照寺(別名・道場寺)の詠歌は

「おどりは(跳)ね、念仏申、道場寺、ひやうし(拍子)をそろえ、かね(鉦)を打也」

で、一遍の踊り念仏そのものを詠っています。江戸時代初期には、郷照寺が時宗の影響下にあったことを示す史料ともなります。
 滝宮念仏踊りの由来の中にも、「法然が伝えた念仏踊り」と書かれたものもりますが、実際には時衆の念仏踊りの系譜を引くものだと香川叢書は指摘しています。時衆のもたらした影響力は、讃岐の中に色濃く残っているはずなのですが、それを史料で裏付けることは今のところ出来ないようです。しかし、風流踊りの念仏系踊りにおおきな影響を与えているのは、法然ではなくて時衆門徒たちのようです。彼らによって、讃岐でも踊り念仏は拡げられたと研究者は考えています。それが、後世に法然の方に「接ぎ木」され換えたようです。

253 勝瑞城 – KAGAWA GALLERY-歴史館
三好氏の居城 勝瑞

 戦国時代になって細川氏に代わって阿波の主導権を握ったのが三好氏です。三好氏の居城勝瑞でも、時衆が一時流行したことが「昔阿波物語」に次のように記されています。

昔阿波物語 | 日本古典籍データセット
昔阿波物語
勝瑞にちんせい宗と申て、門にかねをたゝき、歌念仏なと申寺を常知寺と申候、京の百万遍の御下り候て、談議を御とき候、その談議の様子ハ、浄土宗ハ南あミた仏ととなへ申候ヘハ、極楽へむかへとられ候か、禅宗真言宗ハなにとヽなへて仏になり候哉と御とき候て、地獄の絵をかけて見せ申候、……又極楽の体ハ、いかにもけつかうなる堂に、うちに仏には金仏にして見事也、念仏中ものハ、此ことくの仏になり、さむき事もあつき事もなく候と御とき候二付、勝瑞之町人ハ、皆浄宗になり申候、此時、禅宗真言宗ハたんなを被取めいわく……

意訳変換しておくと
勝瑞ではちんせい宗と呼ばれる宗派が、門で鉦をたたいて、歌念仏などを唱え、常知寺と称した。そして京の百万遍からやってきた僧侶が、説法を行った。その説法の様子は、浄土宗は南無阿弥陀仏と唱えて、極楽へ向かうが、禅宗真言宗は何を唱えて仏になるというのだろうかと説くことからはじまり、地獄の絵を掛けて見せた……又極楽の様子は、いかにも素晴らしい堂が描かれ、その内側には見事な金仏が描かれている。念仏するものは、このように総てが仏であり、寒さ暑さもない常春の楽園であると説く。これを聞いた勝瑞の町人は、皆浄土宗になったという。この時には、禅宗や真言宗は、大きな被害を受け迷惑な……

ここには、京の百万遍からやって来た僧侶によって、時衆が勝瑞を中心に信徒を増やし、一時は禅宗や真言宗を駆逐するほどの勢いであったことが記されています。ところがやがて「少心有町人不審仕候」とその教義に疑問を持つ町人も出てきて人々の信仰心が揺らぎます。その時に、きちんと説明・指導できる僧がいなかったようで、

「皆前々の如く禅宗真言宗になりかへり候二付、浄地寺と申寺一ヶ寺ハかりにて御座候なり」

時衆信徒の多くは、再び禅宗や真言宗にもどって、時衆のお寺は浄地寺ひとつになってしまったと記します。ここからは浄土宗は、四国において、その伝道布教等に人材を得ず、また領主・武士等の有力なパトロンを獲得することができず、大きな発展が見られなかったと研究者は考えているようです。
1 本門寺 御会式
本門寺 西遷御家人の秋山泰忠が建立
日蓮宗はどうだったのでしょうか。
東国からやって来た西遷御家人の秋山泰忠が、讃岐国三野郡高瀬郷に本門寺を開いたことは以前にお話ししました。泰忠は、讃岐にやって来る以前から日蓮門徒でした。高瀬郷での経営が安定すると、正応2年(1289)日興の弟子日華を招いて、領内郷田村に本門寺を造営します。これが西日本での日蓮宗寺院の初見になるようです。この寺は秋山一族をパトロンに、「皆法華」を目指して周辺に信徒を拡大していきます。今でも三野町は、法華宗信徒の比重が高いうようです。

もうひとつの法華宗の教宣ルートは、瀬戸内航路を利用した北四国各港への布教活動です。
本興寺(兵庫県尼崎市) クチコミ・アクセス・営業時間|尼崎【フォートラベル】
尼崎の本興寺
 尼崎の本興寺を拠点に日隆は、大阪湾や瀬戸内海の港湾都市への伝導を開始します。法華宗は、都市商工業者や武家領主がなどの裕福な信者が強い連帯意識を持った門徒集団を作り上げていました。もともとは関東を中心に布教されていましたが,室町時代には京都へも進出します。
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宇多津の本妙寺に立つ日隆像
日蓮死後、ちょうど百年後に生まれたのが日隆で、日蓮の生まれ変わりとも称されます。彼は法華教の大改革を行い、宗派拡大のエネルギーを生み出し、その布教先を、東瀬戸内海や南海路へと求めます。そして、次のような港湾都市に寺院が建立していきます。大阪湾岸の拠点港としては
材木の集積地であった尼崎
奈良の外港としての堺
勘合貿易の出発地である兵庫津
また讃岐の細川氏守護所のあったる宇多津などにも自ら出向いて布教活動を行っています。その結果、創建されるのが宇多津の本妙寺になります。

宇多津本妙寺
日隆によって開かれた日蓮宗の本妙寺(宇多津)
細川氏・三好氏政権を「環大阪湾政権」と呼ぶ研究者もいます。
その最重要戦略が大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っていて、人とモノとカネが行き来する最重要拠点になります。それを支配下に入れていく際に、三好長慶が結んだ相手が法華宗の日華だったことになります。長慶は、法華信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき、法華宗の寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、堺や兵庫などの港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。
三好長慶】織田信長に先立つ日本最初の天下人 – 日本史あれこれ

天下人・三好長慶の勢力範囲=「環大阪湾政権」

 三好氏が一族の祭祀や宗教的示威行為の場を、本拠地である阿波勝瑞から堺に移したのは、国際港湾都市堺への影響力を強めるためとも考えられます。ただ、それだけではないでしょう。堺は、信長や謙信などの諸大名がやって来る「国際商業都市」で、そこに拠点をおいて自らの宗教的モニュメント寺院を建立することは、三好氏の勢威を広く示すことにもなったと研究者は考えているようです。
こうして「三好一家繁昌ノ折ヲ得テ、彼檀那寺法華宗アマリニ移り」と記すように、三好氏の保護を得て、法華宗は教勢を大いに伸ばします。

天正初年、天文法華の乱によって京都を追われた日蓮宗徒は、三好氏の政治拠点である堺を根拠地として、阿波に進出しはじめます。
番外編04 三好氏家系図 - 戦え!官兵衛くん。
そのころの阿波・讃岐は、三好長治の勢力下にありました。長治(ながはる)は伯父・三好長慶が「天下人」として畿内での支配力を強めなかで、本国阿波を預かる重要な役割を担っていました。しかし幼少のため、重臣の篠原長房が補佐します。また、長治は熱心な日蓮宗信者であり、日蓮宗勢力を積極的に支援します。こうした中で天正3年(1575) 堺の妙国寺等から多数の日蓮宗徒が阿波にやってきて、阿波国内すべてを日蓮宗に改宗させようとする「宗教改革」を開始します。これは当然に真言宗徒と対立を引き起こし、阿波法華騒動をひきおこします。
その経緯を「昔阿波物語」は、次のように記します。
 天正三年に、阿波一国の生少迄壱人も不残日蓮宗に御なし候て、法花経をいたヽかせ候時、上郡の瀧寺と申ハ、三好殿氏寺にて候、真言宗にて候、其坊主にも、法花経いたゝかせて、日蓮宗に御なし候、郡里の願勝寺も真言宗にて候を、日蓮宗になり候へと被仰候を、寺をあけて高野へ上り被申候、是をさりとてハ、出家に似相たる事と申て、諸人ほめ申候、此時堺より妙国寺・経上寺・酒しを寺三ヶ寺くたられ候、同宿余(数)多下り、北方南方手分して、侍衆百姓壱人も不残御経いたゝかせ被成候二付而、阿波禅宗・真言宗、旦那をとられ、迷惑に及ひ候二付而、阿波一国の真言宗山伏二千人、持明院へ集り、御そせう申上候様ハ、仏法の事に付て、国中を日蓮宗に被成候儀二候ハヽ、宗論を被仰付候様にと被申上

意訳変換しておくと
 天正三(1575)年に、阿波一国の老弱男女に至るまで残らず日蓮宗に改宗させ、法華経を頂く信徒に改宗させることになった。この時に上郡の瀧寺は、三好殿の氏寺で真言寺院であったが、その寺の坊主にも、法華経を読経する日蓮宗への改宗を迫った。郡里の願勝寺も真言宗であったが、日蓮宗を強制されて、寺をあげて高野山へ避難した。この行道について、人々は賞賛した。
 日蓮宗改宗のために堺から妙国寺・経上寺・酒しを寺の三ヶ寺の日蓮宗の僧侶達が数多く阿波にやってきて、北方南方に手分して、侍衆や百姓などひとりも残さずに法華経を授け、改宗を迫った。阿波禅宗・真言宗は、旦那をとられたために、阿波一国の真言宗山伏二千人が持明院へ集り示威行動を起こした。その上で「仏法の事について、阿波国中を日蓮宗に改宗させることの是非ついて、宗論を開いて公開議論をおこなうべきた」と御奏上書を提出した。

こうして開かれた宗論の結果、真言宗側の勝利となり、日蓮宗側は堺に引き退いたようです。
  先ほど見たように細川氏や三好氏は「環大阪湾政権」とも呼ばれ、海運のからみから堺の商人と繋がりが深く、町屋の宗派と言われた法華宗を大事にします。当時の法華宗は京で比叡山や一向宗とのトラブルで法難続きでした。そこで「畿内で失った教勢を、阿波で取り返そう」という動きがでてきます。これにたいして、阿波・讃岐の支配者である若い長治は、法華宗へ宗教統一することで、人々の宗教的な情熱をかき立て阿波の一体性を高めようとしたのかもしれません。しかし、これは現実を知らない机上の空論で、「家臣や民衆の心理から外れた蛮行」と後世の書は批判的に記します。
千葉乗隆著作集 全5巻揃(千葉乗隆 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

千葉乗隆氏は「地域社会と真宗406P」で、法華騒動の結果引き起こされた後世への影響を次のように記しています。

「法華騒動による真言宗徒の勢力回復の結果、阿波国内の日蓮教線はまったく壊滅し、真宗教団の展開もブレーキをかけられた。阿波を橋頭堡として展開しつつあった真宗の教線もその方向を讃岐および土佐の両国に転ぜざるを得なかった。そしてまた、すでに展開を終わっていた禅宗教団も転寺・廃寺が続出したことは前述の通りである。

しかし、法華騒動の評価については近年新たな考え方が示されるようになりました。
例えば、 『昔阿波物語』を書いた鬼嶋道智は、十河存保に仕えて、後に蜂須賀氏に登用された人物です。彼は、徳島藩家老からの要請でこの書を書いています。つまり、この書は三好氏一族の十河氏であった家臣が、その後、登用された蜂須賀氏に近い立場で書いた軍記ものということになります。そのため三好氏を否定的に評価することが多いようです。
 例えば三好長治については、その無軌道ぶりや「失政」に重点が置かれます。それが三好氏の滅びる原因となったという論法です。今の支配者(蜂須賀氏)の正統性を印象づけるために、その前の支配者(三好氏)を否定的に描くというスタイルになります。具体的には、長治の失政が三好氏滅亡を招いたという記述です。勝利した側が、敗者を批判・攻撃し、歴史上から葬り去ろうとする際に用いられてきた歴史叙述の手法です。
 そういう点を含んだ上でもう一度、『昔阿波物語』の「法華騒動」を見てみると、
①真言宗山伏3千人が気勢をあげ、争論の場を設けるように主張したことを
②根来寺から円正が招かれて宗論となったこと
③篠原自遁の仲裁で、真言宗の勝ちだが、「日蓮宗をやめると有事なく諸宗皆迷惑に及ひ候」と結果は曖昧なこと。
 ここには、激しい武力抗争があったとは書かれていません。武力衝突なしの争論で、その結果として敗れたとされる日蓮宗も併存することになったと解釈できます。つまり「真言宗側の有利に解決された」とは読めません。以上から「騒動」ほどのものではなかったと考える研究者も出てきています。阿波における禅宗や日蓮宗の衰退を、法華騒動にもとめる説は再考が求められているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
天野忠幸編「阿波三好氏~天正の法華騒動と軍記の視線

 以前に浄土真宗の伊予への布教活動が停滞したのは、禅宗寺院の存在が大きかったという説を紹介しました。それなら禅宗寺院が伊予で勢力を維持できたのはどうしてなのでしょうか。今回は、禅宗のふたつの宗派が伊予にどのようにしてやってきて、どう根付いていったのかを見ていくことにします。テキストは、「千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 (地域社会と真宗 千葉乗隆著作集第2巻2001年)所収」です。
地域社会と真宗 千葉乗隆著作集(千葉乗隆) / 光輪社 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

  近世初期になると、四国各宗派の勢力分布はほぼ固定します。それを各県毎にまとめたのが次の表です。
近世四国の宗派別寺院数

この表からは、次のようなことが分かります。
①讃岐国では真宗・真言の両者が、ほぼ同勢力で二者で全体の9割近くになる。
②阿波国では、旧仏教の真言宗が圧倒的に多い。
③土佐国においては真宗・日蓮宗・真言宗の順序となっている。
④伊予国では、河野氏の保護を受けた禅宗が他の諸宗を圧倒しているが、真言も多い。
⑤四国に共通しているのは、真言宗がどこも大きな勢力を持っていた
⑥四国の新興仏教としては、禅宗・日蓮宗・真宗の3教団である。
新興の浄土・禅・日蓮の各教団は、旧仏教諸宗勢力を攻撃・排除しながら教勢を伸ばしたようです。

四国への新仏教の教線拡大ルートしては、つぎのようなコースを研究者は考えています。
①堺港より紀伊水道を通って、阿波の撫養・徳島へ
②堺から瀬戸内海航路で、讃岐の坂出、伊予の新居浜、高浜へ
③堺から南下して土佐の各港へ
④中国地方の安芸・備後・周防から、讃岐・伊予の各港へ
⑤北九州から伊予の西部の各港へ
この中でも①が近畿から最短のコースになります。古代南海道もこのコースでした。新仏教も①のルートで、四国東部の阿波国へ進出し展開したと研究者は考えているようです。

四国への禅宗教団の進出の始まりは、臨済宗が阿波の守護細川氏一族を保護者として獲得したことに始まるようです。
その流れを年表化してみましょう。
暦応二年(1339) 
阿波の守護細川和氏が、夢窓疎石を招いて居館のある秋月に補陀寺建立。和氏のあとをついだ頼春・頼之も、引き続いて補陀寺の維持経営を援助。
貞治二年(1363) 
細川頼之は前代頼春の菩提供養のために、補陀寺の近くに光勝院建立。
至徳二年(1385) 
細川頼之は美馬郡岩倉に宝冠寺を建立し、絶海中津を招く。補陀寺の疎石のあとをついだ黙翁妙誠は妙幢寺を別立。補陀寺に住んでいた大道一以は、細川氏春の招きで淡路に安国寺建立
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このように阿波守護の細川氏の保護を得た臨済宗教団が、阿波の補陀寺を中心に拠点を形成していきます。
次に臨済宗の伊予への教線拡大の拠点寺を見ておきましょう。
伊予でも阿波と同じころの14世紀に、
①伊予北部に観念寺と善応寺が鉄牛景印・正堂士顕によって開かれ、越智・河野氏の保護獲得。
②伊予南部の宇和島では、常定寺が国塘重淵によって、中部の温泉郡川内村には安国寺が春屋妙砲によって営まれ、ややおくれて南部には、寂本空によって興福寺が大野氏の保護の下に開かれます。
データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム
臨済宗の法系
これらの諸寺を、越智・河野・大野氏などの在地領主層がパトロンとなってささえることで、臨済教団は周辺に教線を拡大していきます。ちなみに、これらの伊予臨済教団の教線ルートは、備後・周防・出雲等の中国地方から伸びてきた禅僧によって開拓されています。臨済宗には、いろいろなネットワークがあったことがうかがえます。その背後には活発な「海民」たちの活動がうかがえます。

古代の瀬戸内海航路
芸予初頭や豊後海道を舞台とした交易活動

つぎに曹洞宗教団の展開について見ておきましょう
阿波では、
①坐山紹理(1268ー1325)が川西村に城満寺開基
②全奄一蘭(1455頃)が那賀郡長生村に佳谷寺開基
③金岡用兼が永世年間に(1504ー21)に細川成行の招請によって桂林寺・慈雲寺建立
④一蘭の弟子雪心真昭は、その南方の土佐に予岳寺を建立
2023年 城満寺 - 行く前に!見どころをチェック - トリップアドバイザー
四国最古の禅寺 城満寺
伊予では
⑤永享年間(1429ー41) 周防・豊後での曹洞宗盛況をうけて、周防龍文寺の仲翁守邦が奈良谷に龍沢寺建立
⑥応仁年間(1467ー70) 備中の車光寺より大功円忠がきて伊予西部に高昌寺建立
⑦文明年間(1469~87) 備中より玄室守腋がきて安楽寺建立
卍禹門山 龍澤寺|愛媛県西予市 - 八百万の神
龍沢寺
こうしてみてみると禅宗の曹洞・臨済の両教団は、阿波・伊予では14世紀頃から他国からの導師を招くことによって拠点寺院が姿を現していきます。
ところが讃岐と土佐では、禅宗寺院が建立されません。これはどうしてなのでしょうか? 
これについては、研究者は次のように推察します。
①阿波・伊予両国においては細川・越智・河野・大野氏などの在地領主を保護者に獲得して、その強力な支援を得たこと。
②讃岐・土佐は、善通寺・観音寺・竹林寺・最御崎寺・金剛頂寺・金剛福寺など、真言宗勢力が巨大で、真言系の修験者や聖達による民間信仰が根付いていたこと。そのため進出の余地が見出せなかったこと
③阿波・伊予は、鎌倉新興仏教の先進地域である近畿や中国西部・九州に地理に近く、活発な交流があったこと
このように阿波・伊予では臨済・曹洞の両禅宗教団が寺院数を増やしていきます。しかし、禅宗の信徒は在地領主層や繁栄する港の商人や海運業者などが中心で、農村の村々まで浸透することはなかったようです。そのため農民の間では、修験者や聖・山伏などによるマジカルな真言宗信仰が根強く行われていました。つまり、港町では禅宗、その背後の農村部では真宗修験者たちの活動という色分けが見られるようになったことになります。
 戦国時代の戦乱による社会混乱の波の中で、パトロンである武士階層が没落すると、禅宗寺院の多くは廃寺か真言宗化か、どちらかの道をたどることになります。例えば、四国の中ではいちはやく禅宗が進出した阿波では、次のような言葉が残されています。

「むかし阿波国より天下を持たるにより、武辺を本意とたなミ申ゆへ、禅宗に御なり候、壱人も余之宗なく候」

天下持ちの阿波守護など上層部の武士団の間に普及していた禅宗が、パトロンである守護細川一族の没落で、その寺が衰退していった様が記されています。
さらに、天正3年(1575)に、三好氏が法華宗を阿波に強制しようとして、反発する諸派が法華騒動を起こします。
これをきっかけに、真言宗勢力が勢いを盛り返します。こうして、それまで阿波最大の禅寺として発展してきた補陀寺は経営困難となって、光勝院と合併します。その他にも、宝冠寺は廃寺、桂林寺は真言宗に転宗するなど、細川氏の衰退と共に阿波禅宗教団は衰退の道を歩むことになります。
 一方、伊予では阿波の法華騒動とか、真言宗の反撃というような危機がありませんでした。
そのため海岸部の武士階層、上層商人層僧からしだいに、港のヒンターランドである農村部の有力者の間に時間を掛けて浸透し、教線を拡大していくことになります。

以上をまとめておくと
①四国で禅宗が伝播・定着したのは阿波と伊予で、讃岐・土佐には布教ラインを伸ばすことが出来なかった。
②阿波では守護細川氏の保護を受けて、禅宗寺院が建立された時期もあったが、細川氏が衰退するとパトロンを失った禅宗寺院も同じ道をたどった。
③伊予では、河野氏などのパトロン保護が長期に渡って続き、その期間に港から背後の農村部への教線拡大に成功し、地域に根付いていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  

今年度から綾子踊りのスタッフに入ることになりました。その最初の活動が、財田の香川用水の水口祭への参加となりました。その様子をお伝えして、記録として残しておこうと思います。

P1250087
水口祭次第(6月11日 日曜)
阿波池田ダムで取水された香川用水が讃岐山脈をトンネルで抜けて、姿を見せるのが財田です。ここには香川用水公園が整備され、水口祭が毎年行われているようです。そこに綾子踊りも参加することになりました。
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佐文公民館 8:40出発
総勢36名がまんのう町の2台マイクロバスで出発です。
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やってきたのは財田町の香川用水公園。トンネルから姿を現した用水が、ここを起点に讃岐中に分配されていきます。会場は、紅白の幕が張ってある場所。まさに香川用水の真上です。その向こうには讃岐山脈が連なります。雨乞い踊りを踊るのは最適の場所かも知れません。
雨もあがったようです。天が与えてくれたこんな場所で、綾子踊りを奉納できることに感謝。

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控え室に入って、衣装合わせです。
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お母さん方の手を借りて、小踊りの小学生達の衣装が調えられていきます。
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こちらせは花笠のチェック。
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着付けが終わると、出演前に記録写真。
そして、会場に向かいます。
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踊りに参加する人以外に、それを支えるスタッフも10名余り参加しています。この日は総勢36名の構成でした。フル編成だと百人近くになります。

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小踊りのメンバーと最後の打合せです。
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いよいよ入場です
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かねや太鼓の素樸な音色が響きます。単調ですが、これが中世の音色だと私は思っています。
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踊りが始まります。芸司の団扇に合わせて、素樸な踊りが繰り返されます。しかし、踊りの主役は、小踊りの女装した男の子達です。中世の神に捧げる芸能では、小踊りは「神の使者」とされていました。小踊り以外は、私には「小踊りに声援をおくる応援団」にも思えます。
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新緑の中に、小踊りの衣装が赤く映えます。

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今回の公演は15分で、演目は3つ。あっという間の時間でした。
公演後に着替えて、うちたてのうどんをいただきました。

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 知事さんもうどんを食べていました。お願いすると気軽に写真に入ってくれました。参加者には、いい記念になりました。感謝

12:20 記念館を出発
12:40 佐文公民館帰着
13:00 弁当配布後に解散
以上、香川用水記念館の水口祭りへの参加報告でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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前回は『一遍聖絵』や『一遍上人絵詞伝』で念仏踊りが踊られている次の8つの場面を紹介しました。
①「信州小田切の武士の舘」
②「鎌倉片瀬の浜の地蔵堂」
③「大津の関寺」
④「京都四条京極釈迦堂」
⑤「二条非田院」
⑥「丹波国久美の道場」
⑦「淀の上野」
⑧「淡路一之宮社頭」

初期は大地の上で踊っていることが多かったのが、次第に「踊り屋(ステージ)」を設置して踊られるようになったことを見ました。この中で⑥「丹後国久美の道場」での踊りは、他の踊りと趣が変わっています。まずは、その全体図から見ていきましょう。

  一遍聖絵の詞書は「丹後の久美浜と但馬の久美にて海中より龍現わる」場面を次のように記します。(意訳)

 弘安八(1285)年の二月中旬のころ、丹後の久美の浜で、  一遍が念仏を唱えていると、はるか海上のほうに、大きな龍が現われた。このとき、一遍のほかには阿弥陀仏と高畠人道という者が、一緒にこれを見た、という。それから他所へ移動するに時に沖のほうをみながら、 いまの龍の供養をしよう。供養には水が入用なのだが。と 一遍がいうと、やがて、雷鳴とともに雨が降り始めて、人々はすぶ濡れになってしまった。


丹波の久美

 注意しておかなければならないのは、ここに記されていることは「丹後の久美」と「丹波の久美」のふたつの場所での、日時が異なるできごとであることです。
それが絵図には、時空を越えて同時に描き込まれています。右が丹後の久美の浜で、最初の龍王の出現場面です。これに対して左場面が、丹波の久美浜で、道場と踊り屋(ステージ)が描かれています。別々の時間に、違う場所で見た龍王が同時に一枚の絵に描き込まれていることになります。 ちなみに左図中の注に「久美浜」と書かれています。これは画面に入れる注記を誤っていると研究者は指摘します。

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丹波の久美浜(一遍聖絵)
 右画面の丹後の久美浜を見ます。2つの洲浜が広がり、その間に入江があります。洲浜の上に、板葺き屋根の建物が描かれます。家の中は板敷きのようです。背を向けた人物に「 一遍」と注記があります。その前に3人の僧が向き合って座しています。詞書に「聖のはかは、時衆嘆阿弥陀仏・結縁衆たかはたの人道といふもの……」とある人達が描かれているようです。

一遍が海を背に、念仏を唱えていると、はるか沖合いの空に、怪しげな雲が現れます。みるみるうちに、海中からにょきにょきと涌き出した雲の中から、一匹の青龍が現われます。「あっ、龍だ、龍だ、上人さま、あれ、あれなる海に青龍が」

久美浜の龍王
                 久美に現れた竜王(神奈川県清浄寺蔵 一遍聖絵)

 今度は 左画面(但馬国の久美)を見ていくことにします。
久美浜の龍王2
  左部分のについて、詞書には次のように記されています。(意訳)

 同じ年に、但馬の久美という所で海から一町ばかり奥まったところに、一遍は道場を建てた。沖のほうで、稲妻が光り、雷鳴がとどろく。一遍は「これぞ、龍王が結縁に来たのだ」と、さっそくながら念仏を始めた。ところが、雷鳴風雨は、ますます激しく、波が荒れ狂い、潮が打ち寄せ、道場の中の僧たちは、たちまちのうちに腰のあたりまで浸かってしまった。人々は、あわてて仏具などを取り片づけようとした。が、一遍は、少しも騒がずに「おのおのがた、お構いなく、お構いなく、行道をお続けなされよ」と制した。行道が終わるやいなや、嘘のように潮は引いた。道場があった所はいままで、潮の寄せたことがないので、人々はこの不思議に首をかしげるばかりであった。

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高潮に襲われた道場(踊り屋)
研究者が注目するのは、この異変への 一遍の対応ぶりです。
雷鳴風雨となり、高潮が押し寄せて膝まで潮に浸かっても「おのおのがた、お構いなく、お構いなく、行道をお続けなされよ」と一遍は命じています。一遍がここで使っている「行道」とは、何なのでしょうか。海の中を歩いたようではないようです。この文と挿絵から推測すると、「行道」とは踊り屋の中を鉦鼓を叩きながら廻ることを繰り返すことなのでしょう。つまり、風雨雷電と高潮をもたらした龍王を鎮める呪法として、一遍は踊り念仏を踊らせたと研究者は判断します。 
ここからは一遍にとって「行道」とは、踊り念仏であったことが分かります。
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 龍神と結縁した一遍の念仏行道会(ぎょうどうえ)を拝む漁民達
 これは海辺で海の彼方の常世からこの世に来訪する祖先を迎えたり、あるいはこの世からあの世に祖霊を鎮送する盆行事、仏迎えや仏送りにつながります。ここからは、踊り念仏は悪霊・御霊・死霊・祖霊などを鎮め祀る呪的乱舞の意味を持っていたと云えそうです。そうだとすると一遍の活動は、熊野行者の宗教活動と重なる部分が数多くあったことになります。
 前回に一遍の宗教活動の目的を次のように紹介しました。
①熊野信仰と阿弥陀信仰を融合させようとした。
②元寇という危機的状況打開のために、阿弥陀如来(本地仏)をとおして八幡信仰と熊野信仰を融合し民衆を教化しようとした。
  丹後と丹波の久美での竜王への「行道(踊り念仏)」からは、悪霊・御霊・死霊・祖霊などを鎮め祀る呪的乱舞あること、そして①の「熊野信仰と阿弥陀信仰を融合」という指向がうかがえます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

Amazon.co.jp: 踊り念仏の風流化と勧進聖 : 大森 惠子: 本

念仏は呪術であり、芸能でもありました。そして念仏には「歌う念仏」と「踊る念仏」がありました。踊る念仏は死者供養で、鎮魂呪術としての機能があったようです。それを一遍の踊り念仏で見ていくことにします。テキストは「大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」です。
『一遍聖絵』は、始めて踊り念仏が踊られたときのことを次のように記します。
(信州)小田切の里或武士の屋形にて聖をどりはじめ給けるに、道俗おほくあつまりて結縁あまねかりければ、次第に相続して一期の行儀と成れり。(略)心工の如来自然に正覚の台に坐し、己身の聖衆踊躍して法界にあそぶ。

ここには弘安二年(1179)に、信州小田切の里で、始めて踊り念仏が踊られたと記されています。そのシーンを見てみましょう。


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信州小田切の武士の舘(始めて踊り念仏が踊られたシーン)

①武士の屋形の縁先で、勧進を受けた一遍が鉢を叩いて囃子をとり、
②庭で法衣を着けた時衆(11人)と武士(2人)が、 真ん中の2人を中心にして輪になって、踊り念仏を行っている
③回りの人達が鉢や鉦を叩いたりして、囃をとる者
④囃子に合わせて手拍子を打つ者が、激しく足踏みをしながら円形に進んでいる。
⑤踊り念仏の輪を囲むように俗人の男女が 一心に手を合わせている
場面に描かれた人々は、みんな目をを大きく開けていて、念仏を詠唱しながら跳躍乱舞しているように見えます。

同じシーンを『一遍上人絵伝』で見ておきましょう。

小田切 一遍上人絵伝

踊りの輪の真ん中で合掌している一遍(顔が赤い)と、その周囲を両手を合わせて激しく跳躍する時衆の徒が対照的に描き分けられています。ここは武士の舘の庭先です。そこには、まだ「踊り屋(ステージ)」は登場していません。
 武士など権力者の家の庭で、時衆聖が勧進を目的として踊ったものは「庭念仏」「庭躍」「入庭」「庭ほめ」などと呼ばれていました。それが時代とともに風流化が進み、風流太鼓踊りの「入庭」とか「入羽」「いりは」、あるいは「出庭」「出羽」「でにわ」などの踊り曲に変化していくようです。確かに、私の里の綾子踊りにも「入廷」という言葉が今でも使われています。

一遍は、阿弥陀仏への信仰を説き、念仏の功徳を強調しました。
彼は念仏を広めるために北は東北地方から南は九州南部まで遊行の旅を続け、別名「遊行上人」とも呼ばれます。一遍の宗教的なねらいを研究者は次のように考えています。
①熊野信仰と阿弥陀信仰の融合
②元寇という危機的状況打開のために阿弥陀如来(本地仏)をとおして八幡信仰と熊野信仰をも融合し、民衆を教化
一遍や時衆聖たちが、各地の八幡社へ参詣し、詠唱念仏を唱えたり踊り念仏を修しているのは、元寇で戦死した非業の死者の霊(御霊)を供養する目的だったというのです。

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「京都四条京極釈迦堂」
『一遍聖絵』や『一遍上人絵詞伝』で念仏踊りが踊られている場面が描かれているのは次の通りです
②「鎌倉片瀬の浜の地蔵堂」
③「大津の関寺」
④「京都四条京極釈迦堂」
⑤「二条非田院」
⑥「丹後国久美の道場」
⑦「淀の上野」
⑧「淡路一之宮社頭」

②の「鎌倉片瀬の浜の地蔵堂」を見ておきましょう。
鎌倉片瀬の浜の地蔵堂

ここでは、土の上ではなく道場に設置された踊り屋(ステージ)のなかで踊られています。胸に鉦鼓を吊して足で強く板を蹴り、左回りに旋回する時衆聖たちの姿が描かれています。

踊り念仏は、何のために踊られたのでしょうか?
①時衆聖たちが修行目的から、 一心不乱に踊り念仏を修している
②他人に頼まれた種々の祈願のために、彼らが踊り念仏を行っている
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二条非田院( 一遍聖絵)

多くの見物人が周りに描かれています。踊り念仏は自身の悟りを得るために跳躍乱舞する宗教的行道から、人に見せるという目的が加わって、宗教的芸能の要素を強くおびていったと研究者は考えています。どちらにしても踊り念仏は、時宗聖の勧進活動の一手段だったことが分かります。時衆が急速に信者を獲得した理由のひとつは「踊る念仏僧」というダンスパフォーマンスにあったようです。

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淡路二宮
  「踊り屋」には宗教的な意味もあった
 最初に見た信州小田切で、踊り念仏が踊られ始めた時には、「踊り屋(ステージ)」は描かれていませんでした。ところが②の鎌倉片瀬の浜では、「踊り屋」が登場するようになります。その理由については『一遍聖絵』は、何も触れません。現在の野外コンサートでも同じですが、大勢の人々を集めて踊り念仏を催す場合は、全ての人の目に踊る姿を見せることが求められます。そこでステージ(踊り屋)を組んで高い位置で踊るようになったと研究者は推測します。
 ただ踊り屋はステージというだけの存在ではなかったようです。屋根と柱で仕切られた空間である踊り屋は、死者供養を行う聖地、あるいは祭場と信じられていた節があるというのです。
信州佐久郡の大井太郎の屋敷
大井太郎の屋敷から引き上げる一遍一向 (一遍聖絵巻5)

この場面を詞書は、次のように記します(意訳)
弘安二年(1278)冬、信濃国佐久部に大井太郎という武士がいた。偶然にも一遍に会って、発心して極楽往生を願っていた。この人の姉は、仏法にまったく関心がなかった。が、ある夜に夢をみた。家のまわりを小仏たちが行通している。中に背の高い僧の姿がある。そこまでで夢から覚めた。さっそく陰陽師を呼んで、吉か凶かと占わせた。むろん、吉と出た。そこで、一遍を招いて、三日三晩の踊り念仏の供養を行なった。集まった人々は五、六百人にも及んだという。
 踊りが終わった後、家の板敷きは抜け落ちてしまった。しかし、主人はこれは 一遍の形見だとして、修理もしないで、そのままにして大切に保存した、という。
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    集団の先頭で頭巾を被り、数珠をまさぐりながら帰って行くのが一遍です。その後には、激しい踊りパフォーマンスの興奮と満足感でで、さめやらない集団が続きます。ある意味では夢遊病者のようで、「新しい学校のリーダー」のコンサート会場から出てくるファンたちと同じかも知れません。

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  踊り念仏が奉納された家では、紺色の狩衣の主人の大井太郎が手をあげて見送っています。縁台を見ると、簀の子板が踏み外されています。それほど激しい踊りが行われたことがうかがえます。これも宗教的な意味があると研究者は次のように指摘します。P1240548
踏み外された簀の子板

床や大地を足で激しく強く踏み鳴らすことを「だだ(反閑)を踏む」というようです。
これによって、崇りをなす悪霊・死霊を鎮め祀り、常世(あの世)へ鎮送することが西大寺の裸祭などの原型だったことは以前にお話ししました。地面を踏むことによって悪魔を祓う。相撲の土俵で四股を踏むのも悪魔祓いです。東大寺のお水取の場合は「ダッタソ」と発音するそうです。このときの掛け声がエイョウで、漢字を当てると「会陽」となります。これが西大寺の裸踊りの起源です。一遍の念仏踊りとつながるところがありそうです。
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⑦「淀の上野」

 板張りの床の上で激しく跳躍すれば「ドンドンドンドン」と大太鼓を乱打するような音がします。この音が悪霊や死霊を鎮める呪力をもつと信じられたようです。

以上をまとめておきます
①踊り念仏が始まった頃は、踊り屋(ステージ)はなく、四股を踏むように大地を激しく踏み込んだ踊りが行われたいた
②それは、崇りをなす悪霊・死霊を鎮め祀り、常世(あの世)へ鎮送するパフォーマンスであった。
③それが屋内の板の間で激しくおどると大きく反響し、新たな陶酔感を与えるものとなった。
④踊り念仏に集まる人達が増えると共に、ステージとして踊り屋が設けられるようになる。
⑤踊りはステージでもあり、音響施設でもあり、宗教的な意味合いももつものでもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」
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