瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近世史 > 近世の村

教科書では、秀吉の検地と刀狩りによって兵農分離が進み、村にいた武士たちは城下町に住むようになったと書かれています。そのため近世の村には武士は、いなくなったと思っていました。しかし、現実はそう簡単ではないようです。

香川叢書
香川叢書
  師匠からいただいた香川叢書第二(名著出版1972年)を見ていると、「高松領郷中帯刀人別」という史料が目にとまりました。
これは、宝暦年間の高松藩内の郷士・牢人などの帯刀人を一覧化したもので、その帯刀を許された由来が記されています。ここには「郷中住居之御家来(村に住んでいる家臣)」とあって、次の12名の名前が挙げられています。

高松藩 郷中住居の御家来
        高松領郷中帯刀人別(香川叢書第2 273P)

郷居武士は、藩に仕える身ですが訳あって村に居住する武士です。
近世初頭の兵農分離で、武士は城下町に住むのが普通です。分布的には、中讃や高松地区に多くて、大内郡などの東讃にはいないようです。彼らは、村に住んでいますが身分的には、れっきとした武士です。そのため村内での立場や位置は、明確に区別されていたようです。 藩士は高松城下町に居住するのが原則でしたが、村に住む武士もいたようです。
どうして、武士が村に住んでいたのでしょうか。
高松藩では、松平家の一族(連枝)や家老などを務める「大身家臣」には、専属の村を割り当てて、その村から騎馬役や郷徒士・郷小姓を出す仕組みになっていたと研究者は推測します。
 高松藩の郷居武士12名について、一覧表化したものが「坂出市史近世編上 81P」にありました。
高松藩の郷居武士1

この一覧表からは、次のようなことが分かります。
①宝暦期と万延元(1860)を比べると、3家(*印)は幕末まで存続しているが、他は入れ替わっている
②宝暦期の郷居武士では、50石を与えられた者がいて、他も知行取である
③これに対して万延元年では、知行取でも最高が50石で、扶持米取の者も含まれている
④ここからは全体として郷居武士全体の下層化がみられる
⑤宝暦期では「御蔵前」(蔵米知行)で禄が支給される者と、本地が与えられている者、新開地から土地が与えられている者のに3分類される
⑥宝暦期は、家老の組織下にある大番組に属する者が多いが、万延元年には留守居寄合に属する者が多くなつている
以上から郷居武士の性格は時代と共に変遷が見られることを研究者は指摘します。
高松藩の郷居武士分布図
郷居武士の分布(1751年) 
郷居武士の分布は高松以西の藩領の西側に偏っています。これはどうしてなのでしょうか?     
特に阿野郡・那珂郡に集中しています。これは、仮想敵国を外様丸亀京極藩に置いていたかも知れません。次のページを見てみましょう。

高松藩帯刀人 他所牢人。郷騎馬
高松領郷中帯刀人別 郷騎馬・他所牢人代々帯刀

次に出てくるのが郷騎馬です。これは武士ではなく帯刀人になります。その注記を意訳しておくと、
(藩主の)年頭の御礼・御前立の間に並ぶことができる。扇子五本入りの箱がその前に置かれ、お目見えが許される。代官を召し連れる。
一 総領の子は親が仕えていれば、引き続いて帯刀を許す。
一 役職を離れた場合は、帯刀はできず百姓に戻る。
郷騎馬は、連枝や家老格に従う騎乗武士で、馬の飼育や訓練に適した村から選ばれたようです。役職を離れた場合には百姓に戻るとあえいます。郷騎馬として出陣するためには、若党や草履取などの従者と、具足や馬具・鈴等の武装も調えなければなりません。相当な財力がないと務まらない役目です。それを務めているのが6名で。その内の2名が、那珂郡与北村にいたことを押さえておきます。

続いて「他所牢人代々帯刀」が出てきます。

高松藩帯刀人 他所牢人
高松領郷中帯刀人別・他所牢人代々帯刀
牢人は、次の3種類に分かれていました。
①高松藩に仕えていた「御家中牢人」
②他藩に仕えていたが高松藩に居住する「他所牢人」
③生駒家に仕えていた「生駒壱岐守家中牢人」
②の他所牢人の注記例を、上の表の後から2番目の鵜足郡岡田西村の安田伊助で見ておきましょう。
祖父庄三郎が丸亀藩京極家山崎家に知行高150石で仕えていた。役職は中小姓で、牢人後はここに引越てきて住んでいる。

このように、まず先祖のかつての仕官先と知行高・役職名などが記されています。彼らは基本的には武士身分で、帯刀が認められていました。仕官はしていませんが、武士とみなされ、合戦における兵力となることが義務づけられていたようです。
 丸亀藩が長州戦争の際に、警備のために要所に関所を設けたときにも、動員要因となっていたことを以前にお話ししました。藩境の警備や番所での取り締まりを課せられるとともに、軍役として兵力を備え、合戦に出陣する用意も求められていたようです。いわゆる「予備兵的な存在」と捉えられていたことがうかがえます。

牢人たちの経済状況は、どうだったのでしょうか。
坂出市史近世編(上)78Pには、 天保十四年「御用日記」に、牢人の「武役」を果たす経済的能力についての調査結果が一覧表で示されています。
高松藩帯刀人 他所牢人の経済力

これによると、牢人に求められたのは「壱騎役」と「壱領壱本」です。「壱騎役」は騎乗武士で、「壱領壱本」は、歩行武士で、具足一領・槍が必要になります。従者も引き連れたい所です。そうすると多額の経費が必要となります。阿野北郡に住む牢人に「丈夫に相勤め」られるかと問うた返答です。
①「丈夫に相務められる(軍務負担可能)」と答えたのは3名、
②「なるべくに相勤めるべきか」(なんとか勤められるか)」と保留したのが5名
③「覚束無し」としたのが1名
という結果です。ここからは、軍務に実際に参加できるほどの経済力をもつた牢人は多くはなかったことがうかがえます。

次に、一代帯刀者を見ていくことにします。

高松藩帯刀人 一代 浦政所
        高松領郷中帯刀人別 一代帯刀

一代帯刀は、一代限りで帯刀が認められていることです。その中で最初に登場するのが円座師です。その注記を意訳変換しておくと
円座師
年頭の御礼に参列できる。その席順は御縁側道北から7畳目。円座一枚を前に藩主とお目見え。なお、お目見席の子細については、享保18年の帳面に記されている。
鵜足郡上法勲寺 葛井 三平 
7人扶持。延享5年4月22日に、親の三平の跡目を仰せつかる。
ここからは円座の製作技法を持った上法勲寺の円座職人の統領が一代
帯刀の権利をえていたことが分かります。彼は、年頭お礼に藩主にお目通りができた役職でもあったようです。
その後には「浦政所」12名が続きます。
浦政所とは、港の管理者で、船子たちの組織者でもありました。船手に関する知識・技術を持っていたので、藩の船手方から一代帯刀が認められています。一代帯刀なので、代替わりのたびに改めて認可手続きを受けています。
例えば、津田町の長町家では、安永年間(1777~85)中は養子で迎えられた当主が幼年だったので一代帯刀を認められていない時期がありました。改めて一代帯刀を認めてもらうよう願い出た際に「親々共之通、万一之節弐百石格式二而軍役相勤度」と述べています。ここからは、船手の勤めを「軍役」として認識していたことがうかがえます。これらの例からは、特殊な技術や知識をもって藩に寄与する者に対して認められていたことが分かります。

一代帯刀として認められている項目に「芸術」欄があります。

高松藩帯刀人芸術 
      高松領郷中帯刀人別 一代帯刀 芸術
どんな職種が「芸術」なのかを、上表で見ておきましょう。
①香川郡西川部村の国方五郎八は、「河辺鷹方の御用を勤めた者」
②那珂郡金倉寺村の八栗山谷之介や寒川郡神前村の相引く浦之介は、「相撲取」として
③那珂郡四条村の岩井八三郎は、「金毘羅大権現の石垣修理
④山田群三谷村の岡内文蔵は、「騎射とその指導者」

阿野郡北鴨村の庄屋七郎は、天保14(1843)年に「砂糖方の御用精勤」で、御用中の帯刀が認められています。この他にも、新開地の作付を成功させた者などの名前も挙がっています。以上からは、藩の褒賞として帯刀許可が用いられていたことが分かります。
 ここまでを見てきて私が不審に思うのは、経済力を持った商人たちの帯刀者がいないことです。「帯刀権」は、金銭で買える的な見方をしていたのがですが、そうではないようです。

  帯刀人や郷居武士などは、高松藩にどのくらいいたのでしょうか? 
 郷居武士1 宝暦年間
          宝暦(1751年)ころの郡別帯刀人数(坂出市史81P)
ここからは次のような事が読み取れます
①高松藩全体で、169人の帯刀人や郷中家来がいたこと。
②その中の郷中家来は、12人しかすぎないこと。
③帯刀人の中で最も多いのは、102人の「牢人株」であったこと。
④その分布は高松城下の香川郡東が最も多く、次いで寒川郡、阿野郡南と続く
⑤郷中家来や代々帯刀権を持つ当人は、鵜足郡や那珂郡に多い。

郷騎馬や郷侍は、幕末期になると牢人や代々刀指とともに、要所警護や番所での締まり方を勤めることを命じられています。在村の兵力としての位置付けられていたようです。また、領地を巡回して庄屋や組頭から報告を受ける役割を果たすこともあったようです。
帯刀人の身分は、同列ではありませんでした。彼らには次のような序列がありました。
①牢人者
②代々刀指
③郷騎馬
④郷侍
⑤御連枝大老年寄騎馬役 
⑥其身一代帯刀之者
⑦役中帯刀之者 
⑧御連枝大老年寄郷中小姓・郷徒士 
⑨年寄中出来家来 
①~④は藩に対して直接の軍務を担う役目です。そのため武士に準じる者として高い序列が与えられていたようです。
⑤も仕えている大身家臣から軍役が課せられたようです。
⑤⑧⑨は大身家臣の軍役や勤めを補助するために、村から供給される人材です。
弘化2(1845)年に、以後は牢人者を「郷士」、それ以下は「帯刀人」と呼ぶ、という通達が出されています。この通達からも①②と、それ以外の身分には大きな差があったことが分かります。
以上、高松藩の村に住んでいた武士たちと、村で刀をさせる帯刀人についてのお話しでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
坂出市史」通史 について - 坂出市ホームページ
坂出市史

参考文献
「坂出市史近世編上 81P 帯刀する村人 村に住む武士」
関連記事

            
「祖谷紀行」を読んでいると「祖谷八家」という用語が良く出てきます。「祖谷八家」の中には、平家の落人伝説の子孫で、平家屋敷と呼ばれる家もあります。中世の「山岳武士」の流れを汲む名主という意味で、誇りを持って使われていたようです。今回は「祖谷八家」が、中世から近世への時代の転換点の中で、どのようにして生き残ったのか。その戦略や処世術を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」です。

祖谷山は中世に、以下のように東西三十六名の名主(土豪)達によって支配されていました。
祖谷山三十六名

東祖谷山分として、菅生名・久保名・西山名・落合名・奥井名・栗枝渡名・下瀬名・大枝名・阿佐名・釣井名。今井名・小祖谷名
以上の十二名。
西祖谷分として、閑定名・重末名・名地名・有瀬名・峯名・鍛冶屋名・西名・中屋名・平名・榎名・徳善名・西岡名・後山名・.尾井内名・戸谷名・一宇名・田野内名・田窪名・大窪名・地平名・片山名・久及名・中尾名・友行名・
以上の二十四名、東西合わせて三十六名になります。
 この時代は「兵農未分離」で、武力を持つ者が支配者になっていきます。各名主は、力を背景にエリア内では経済的に抜きん出た地位にありました。
曽我総雄氏は、慶長17年の「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」を分析して、次の表を作成しています。(『西祖谷山村史』(大正11年版)
「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」
三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳の土地所有関係
この表からは次のような事が分かります。
①50反(五町)以上の土地所有者が名主。
②吾橋西の名内全耕地面積は77、8反
③名主の所有は反数54反
④名全体のの耕地面積の約7割を、名主が所有
⑤全戸数12戸の内で8戸は、3反以下の貧農
ここからは、名主が名(みょう)内の経済を牛耳っていたことが分かります。貧農達は独立しては生活できません。何らかの形で名主に頼らざる得ません。これを隷属農民と研究者は呼びます。ここからは、中世から近世にかけての祖谷山の支配構造は、つぎの両極に分かれていたことが分かります。
①各名主階層に隷属する農民
②農民の夫役労働力に依存して農地経営をおこなう名主
ここでは名主は、各名単位に経済単位を形成し、名内に君臨していたことを押さえておきます。
蜂須賀家政(徳島県・戦国武将像まとめ) | 武将銅像天国
             蜂須賀家政
 阿波一国の主人としてやってきた蜂須賀家政は、近世大名として「領内一円知行」を進めます。
領内一円知行とは、領主が自分の権力で、領内を自己一人のものとして領有し経営することです。これは中世以来の阿波の土豪衆の存在を否定することから始まります。このために細川・三好・長宗我部の三代に渡って容認されていた土豪からの領地没収が当面の課題となります。
 まず蜂須賀家政は、検地に着手します。これによって①耕地面積の確認と②耕作者としての農民の確保、の実現を目指します。そのために「土地巡見使」を派遣します。この役割は、検地施行を前提とする土地の所有状況と実態掌握を行うものでした。これ対して、平野部での検地作業は順調にすすみますが、山間部の土豪達は、抵抗の狼煙をあげます。天正13年(1885)6月から8月にかけて、仁宇山・大粟山・祖谷山などの土豪たちが立ち上がります。これらは内部分裂もあって、短期間で軍事力によって押さえつけられます。
 仁宇谷・大粟山の抵抗を一か月余で鎮圧した蜂須賀家政は、祖谷山にその矛先を向けます。
 この当時の様子を伝えるものとして「祖谷山旧記」は、次のように記します。
蓬庵様(蜂須賀家政)御入国遊ばせられ候硼、数度御召遊ばせらるといえども、御国命に応じ奉らす、御追罫の御人数を御指向け遊ばせられ候ところ、悪党難所に方便を構え、追て御人数多く落命仕り候。此時に至り、私先祖北六郎二郎、同安左衛門、美馬郡一宇山に罷り在り、兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、降参人の者召し連れ罷出、名職を申し与え、相違なく下し置させられ候。相一坦わざる族は、或は斬拾、或は溺め捕え、罷り出候、

  意訳変換しておくと
蜂須賀小六が阿波に入国して、(祖谷の土豪達に)何度か徳島城に挨拶に来るように命じたが、その命に応じない。そこで、追討の兵を差し向けると、悪党(土豪)たちは難所に砦を構え抵抗し、追手側に多くの死者が出た。そのため私の先祖である北六郎二郎、安左衛門が、美馬郡一宇山にやってきて、祖谷の悪徒誅討を願い出た。方便(調略)で、土豪衆の半分を降参させ、その者達を召し連れて、名職を与え、蜂須賀家の下に置いた。ただ従わない一族は、斬首や溺め捕えた。その次第は以下の通りである

 蜂須賀家政は、祖谷の名主たちの抵抗に対して、武力鎮圧を避けようとします。そして、祖谷の名主のことをよく知っている人物に処理を任せます。それが北(喜田)氏でした。
北氏の出自については、よく分かりません。
 ただ、天正十年に長宗我部氏と争って敗れ、本貫地だった阿波郡朽田城から一宇山に退却していたようです。北氏と祖谷山勢とは、もともとは対抗関係にありました。北氏としては、この際に新勢力の蜂須賀氏につくことで、失地回復を計ろうとする目論見があったようです。そのため蜂須賀氏にいち早く帰順したのでしょう。そして、美馬郡岩倉山・曽江山勢の武力反抗の鎮圧に参加しています。その功としてし天正14年には、一宇山で知行高百石余を得ています。これはかつての朽田城城主の地位には及ばないにしても、経済的には祖谷山の名主に優るものでした。
こうして、蜂須賀藩から祖谷山勢の鎮圧を任されます。このあたりのことが次の表現なのでしょう。
兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、

ここからは、北氏は武力一辺倒でなく、北氏の才覚で「名職の安堵」を条件に、祖谷土豪達の懐柔分断策を展開したことが分かります。「名職の安堵」とは、中世以来の名主の地位の容認です。
 ちなみに『祖谷山旧記』は、北(喜多)家の軍功と由緒を記録した「自家褒賞」的なもので、史料としては問題があります。しかし、当時の様子を記したものが他にないので、取扱に注意しながら手がかりとする以外に方法がないと研究者は考えています。

『祖谷山旧記』に書かれた喜田(北)氏の「調略」方法をもう一度見ておきます。
いち早く降服した者は、
菅生名、名主・榊原 織部介
久保名、名主・阿佐 兵庫
西山名、名主・橘主 殿之助
阿佐名、名主・阿佐 紀伊守
徳善名、名主・国藤 兵部
有瀬名、名主・橘  右京進
大窪名、名主・青山 右京
小祖谷 名主・石川 備後
ついで降服した者は、
後山名、名主・国藤左兵衛
片山名、名主・片山 与市
地平名、名主・今井 藤太
閑定名、名主・阿佐 六郎
戸の谷名、名主・川村 源五
名地名、名主・青山 新平
西岡名、名主・堀川 内記
西  名、名主・播摩平太兵衛
中屋名、名主・下川与惣治
友行名、名主・佐伯 彦七
以上18名の名主は、北(喜田)氏の調略を受入て、「御目見仰せ付けさせられ、持ち懸りの名職、下し置させられ(藩主へのお目見えを許された名職」を与えられ、蜂須賀家政に下った者達です。

一方斬首された者は、
下瀬名、名主・大江 出雲
久及名、名主・香川 権大
釣井名、名主・播摩 左近
今窪名、名主・中山藤左衛門
榎  名、名主・三木 兵衛
一宇名、名主・田宮 新平
平  名、名主・八木 河内
この七名は、北六郎二郎・同安左衛門父子の手によって斬首されました。その理由は、「重々御国命に相背き、相随わず、あまつさえ土州方と取持、狼藉」を働いたとされます。また、次の十一名の名主は、前記七名の名主が斬首されたのと前後して、讃州の鵜足に逃げますが、北六郎二郎、同安右衛父子の手によって補えられます。
落合名、名主・橘  大膳
大枝名、名主・武集 平馬
尾井内名、名主・大野 王膳
今井名  名主・黒田 監物
田野窪名、名主・横田 内膳
田野内名、名主・坂井 大学
鍛冶屋名、名主・轟  与惣
峯  名、 名主・影山 将監
奥野井名、名主・松下 平太
栗伎渡名、名主・松家 隼人
重末名、 名主・本多 修理
これを一覧表にしたものが東祖谷山村誌223Pに、以下のように載せられています。
近世祖谷山三十六名の措置一覧
近世祖谷山三十六名の処置一覧表
この中で北氏が斬殺処分にした七名については、次のように記します。
「重々国命に叛いた上に、右七人の者共と徒党を組んで、土州と連絡しながら敵対を重ねた。そこで徒党のメンバー七人の首謀者六郎二郎・安左衛門を斬り亡ぼした。また逃亡した六郎二郎・安左衛門父子を追補し、讃州の鵜足郡にて11人を捕らえた。安左衛門については、ここからすぐに渭津へ囚人として引連れて、早速に成敗が仰せ付けられた。六郎二郎については、上記18人の親族のどのような企みをしていたのかが分からないので、捕縛地の鵜足から祖谷山へ連れて帰り、十八人の一族を総て召し捕えて渭津へ連行し、取り調べを行った上で、罪刑の軽重によって、重い者は成敗が仰せ付けられ、軽い者には、以後は国命に随うとの起請文を書かせて放免とした。

以上を整理して起きます
①蜂須賀家政は、北六郎二郎、安左衛門に、祖谷の土豪抵抗勢力の鎮圧をを命じた。
②北六郎二郎、安左衛門は、方便(調略)で土豪衆を分断懐柔し、半分を降参させた。
③早期に抵抗を止めて従った者達は、名主(後の庄屋・政所)として取り立てた。
④一方、最後まで抵抗を続けた土豪たち18名は厳罰に処した。
⑤こうして中世には36名いた名主は、18名に半減した。
⑥18名の名主の統括者として、喜田(北)氏が祖谷に住むことになった。

祖谷山の名主たちの武力抗争が鎮圧されたのが天正18年(1590)でした。それから20年近く経た元和3年(1617)に、刀狩りが祖谷山でも行われることになります。
祖谷山日記には、刀狩りについて次のように記されています。

「元和三年、蓬庵様の御意として、祖谷中の名主持伝えの刀脇指詮議を遂げ指上げ中すべき旨、仰せ付けられ、東西名々それぞれ詮議仕り、取り揃え指上げ申し候。」

意訳変換しておくと
「元和3年に、藩主の蜂須賀家政様の名で命で、刀狩りを行うことを、祖谷中の名主に伝え、刀脇などを差し出すように申しつけた。東西祖谷山村の名主達は、命に従い刀を取り揃えて提出した。

祖谷山に派遣された刀狩代官は、渋谷安太夫で、政所は喜田安右衛門でした。この二人によって徴発された刀剣は27本と記録されています。その際に、徴発した刀類については、代物、代銀が支払われることになっていたようです。ところ3年経った元和6年(1620)になっても、その約束が守られません。
これに対して、祖谷の名主が不満を表明したのが、刀狩りと強訴一件です。
この事情について「祖谷山旧記」は、次のように記します。
「代銀元和六年迄に御否、御座無く候に付、指上人の内、名主拾八人発頭仕り、百姓六百七拾人召し連れ、安太夫に訴状指上げ、蓬庵様御仏詣の節、途中において、御直訴仕り候」

意訳変換しておくと
「元和6年になっても刀剣の代金が支払われていないことに対して、名主18人が発議し、百姓670人余りを引き連れて、安太夫に訴状を指し上げ、藩主のお寺参りの途中で直訴した

この強訴に対しての、蜂須賀蓬庵(家政)の処置を一覧化したものが下の表です。
祖谷山刀狩りと強訴参加一覧

この表からは次のような事が読み取れます
①天正の一揆では、早期帰順者18名は処分されなかった(○△)
②残りの18名の名主は処分を受けたが、罪が軽いとされた名主は家の存続を許されていた。
③その中で18名の名主が刀狩り強訴に加わり、その中の多くの者がが「成敗・磔罪」に処せられた。
④一揆での早期帰順者は、刀狩りの際に刀剣を供出しているが、強訴には参加していない。
結局、「一揆・早期帰順者と強訴不参加者グループ」が阿波藩からの粛正を免れたことになります。そして彼らが「祖谷八家」のメンバーになっていくようです。

結果的には、この強訴事件を逆手にとって、蜂須賀藩は祖谷への支配強化を図ります。それはある意味では藩にとっては「織り込み済みのこと」だったのかもしれません。これについて東祖谷山村誌は、次のように記します。
藩権力としては、どうしても祖谷山名主層の武力解体は、藩経営のうえからいって、さけることのできないことであった。(中略)
このことは、藩権力のまさに、藩制確立のために、天正の武力抗争への持久力を秘めた処置の姿であり、名主層にしてみれば権力失墜への最後の抵抗も、力の優位の前に敗北という結果となっている。元和四年という年は、阿波藩にとっては重大な時期であり、祖谷山の強訴の落着によっていよいよ藩制の確立が目に見えて強まるのである。
 
  どちらにしても、阿波藩に抵抗せずに温和しくしたがった名主達が生きながらえて、「祖谷八家」と称するようになることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」


   寛政5年(1793)の春、讃岐の香川郡由佐村の菊地武矩が4人で、阿波の祖谷を旅行した紀行文が「祖谷紀行」です。この中で雨のために東祖谷の久保家に何泊かして、当主から聞いた平家落人伝説などのいろいろな話が載せられています。その翌日に平家の赤旗がある阿佐家を訪ねています。今回は、幕末に起きた久保家と阿佐家をめぐる事件を見ていくことにします。テキストは、 「阿佐家の古文書 阿波学会紀要 第53号(pp.155―162)2007.7」です。

     阿佐家住宅パンフ
阿佐家パンフレット

阿佐家には「平家の赤旗」2流があり、祖谷平家落人伝説の中心であり、屋敷も「平家屋敷」として名高い旧家です。
平家の赤旗 4
阿佐家の平家の赤旗

平家の赤旗2

阿佐家の平家の赤旗(大旗と小旗)

阿佐家には28通の文書が残されています。それを研究者が内容別に分類したのが次の表です。 
阿佐文書 郷士身振の件名目録1
阿佐家文書 2

A.阿佐家の当主左馬之助の惣領で,17才となった為三郎の藩主への年頭御目見得関係文書(No.1~7)。
B.阿佐為三郎の政所助役就任関係文書(No.9~11)。
C.阿佐為三郎の御隠居様(蜂須賀斉昌)への御目見得関係文書(No.12~14)。
D.久保名名主代理関係文書。(No.15~26)。
E.外出時における供揃や藩士に出会ったときの挨拶の仕方など,郷士としての格式を記した「郷士身振」
F その他(No.8・27・28)
 ほとんどの文書は幕末の嘉永・安政期が中心です。中世や近世初頭に遡るものはありません。内容は阿佐為三郎に関係するものがほとんどです。この文書群の中で、多くの紙幅が費やされているのがDの文書です。
阿佐家住宅パンフ裏
阿佐家パンフレット(裏)
 安政2年(1855)5月に起きた久保名の名主久保大五郎の出奔事件への対応です。
久保家は阿佐家と同じく郷高取・郷士格となった「祖谷八士」の一人で、阿佐家の分家筋にあたるようです。名主であった久保大五郎が、どうして出奔したのかはよく分かりませんが、久保名の管理・運営に関してトラブルがあったようです。名主がいなくなった久保名を、どうするかについてについて対応が協議されます。まず考えられたのが先例に従って,次の名主が決定するまで喜多源内が管理する案です。しかし,喜多家は重末名(旧西祖谷山村)にあって、久保名とは6里も離れています。日常的な業務に差し障りありとして見送られます。
祖谷山の民家分布

 次に考えられたのが、政所喜多源内・政所助役南乕次郎・同菅生源市郎・政所助役見習喜多達太郎・同阿佐為三郎の5人による共同管理案です。この案が美馬三好郡代から藩に上申されます。この年7月、池田の郡代役所に呼び出された喜多源内ら5人に対して、郡代の上申に沿った措置が当職家老の命令として伝えられます。ここで阿佐名では無役であった阿佐為三郎が、久保名管理の中心となることが想定されていたようです。しかし、共同管理体制というのは、責任の所在が不明瞭で混乱が起きることが多々あります。この場合もそうで、早々に行き詰まります。
そこで、最後の手段として考えられたのが阿佐為三郎が久保名の久保大五郎の屋敷に移住し、政所助役見習と久保名主代理を当分の間兼帯する、そのかわりに四人扶持の扶持米(一人扶持に付き1日に玄米5合が支給)を支給するという案です。これを喜多源内は美馬三好郡代に提出します。ところが、これを徳島藩上層部は却下します。理由は「郷士格に扶持米支給の先例無し」でした。「郷士格に扶持米の支給をしたことはない、先例に無いことは困る」という所でしょう。

阿佐家上段の間
阿佐家 ジョウダンノマ
 久保名を治めるためには、阿佐為三郎の久保名移住・名主代理就任以外に方法はありません。
しかし、四人扶持支給がなければ為三郎の久保名常駐はできません。安政3年12月に、その旨の上申書が美馬三好郡代から城代家老に出されます。この中で三好郡代は、久保名の混乱が祖谷山全体に波及するおそれを強調します。それを防ぐためにも、久保名の早期の安定が必要であることを訴えます。こうして、出奔事件から2年目の安政4年4月になって、阿佐為三郎の久保名主代理就任と久保大五郎屋敷の拝借が藩によって認められます。懸案だった扶持支給については「申出之通承届(許可)」と書かれています。祖谷山の安定を優先させた妥協策が採られたようです。こうして、三好郡代や徳島の城代家老までも巻き込んだ久保名主代理一件は収束していきます。

阿佐家玄関
阿佐家玄関
 ここで研究者が注目するのは,「郷士身振」文書の中に何度も出てくる「(祖谷は)不人気之名柄」という言葉です。
祖谷が「不人気之銘柄」というのは、どういうことなのでしょうか。
 約十年前の天保13年(1842)に、東祖谷の名子が土佐への逃散事件を起こしています。近世後期の祖谷山では、名主の支配に対する名子の不満が蓄積していたようです。そのため名手と名子の関係はギクシャクしていました。それが郡代や政所・名主から見ると「不人気」という表現になると研究者は推測します。久保大五郎出奔の背景に、このような名子との対立があったようです。また「郷士格に扶持米支給の前例無し」という藩側の原則論を崩したのも、「不人気な祖谷山」に対する危機感があったと研究者は推測します。

栗枝渡火葬場

 平家落人伝説が書物に書かれ、それに従って関係する神社や名所が祖谷に姿を現すのは、近世後半になってからのことです。
そして、当時の「祖谷八家」と呼ばれる名主たちは、自らが平家の落人の子孫であると声高に語るようになります。これは自分たちの「支配の正当性」を主張するものとも聞こえます。つまり「(祖谷)不人気之名柄」=「名主の支配に対する名子の不満の蓄積」=「名主と名子のギクシャク関係」に対する名主側からの「世論工作」の面もあったのではないか、「祖谷八家=平家落人の子孫=支配者としての正当性」を流布することで、名子の不満を抑え込もうとしたとも考えられます。このことについては、またの機会にしたいと思います。
研究者は、徳島県立文書館寄託「蜂須賀家文書」の中の次の文書を紹介します。
蜂須賀家政の祖谷久保家への安堵状

①年号は慶長17年(1612)7月8日
②発行主は、阿波藩主蜂須賀家政
③宛先は、 祖谷久保名の久保源次郎
  藩主蜂須賀家政が久保源次郎に出した知行安堵書です。内容は、それまで持っていた名職と久保名内で30石の知行を安堵するものです。研究者は、これは写しでなく原本だと考えています。久保名の名主であり、郷高取・郷士格となった久保家にとって、藩主のお墨付きでもあるこの安堵書は、最も大切な文書であったはずです。
それがどうして藩主の蜂須賀家の手の元にあるのでしょうか
 研究者が注目するのが、この宛行状(判物)の包紙の差出者が阿佐左馬之助と西山内蔵之進(西山氏は西山名の名主で「祖谷八士」の一人)であることです。ここからは久保家の不始末を、わびるために久保家に残されていた宛行状を藩に「お返し」したのではないかと研究者は推測します。なお、この宛行状については宝暦9年(1759)に書かれた『祖谷山旧記』に全文が紹介されています。
以上をまとめておきます。
①「平家の赤旗」が残る阿佐家には、近世後半の多くの文書が残されている。
②その中に安政2年(1855)5月の久保名の名主久保大五郎の出奔事件への対応文書がある。
③それは出奔不在となった久保名の名主を、本家筋の阿佐家の一族が継承就任するまでのやりとり文書である。
④また藩主蜂須賀家政が久保源次郎に出した知行安堵書が、蜂須賀文書に収められていることは、久保家の不始末を詫びるために安堵状が藩主に変換されたことがうかがえる。
⑤当時の祖谷は名主と名子の関係が悪化しており、「不人気之名柄」と認識されていた。
⑥このようなことが久保大五郎の出奔事件の背景にある。

18世紀席末に、「祖谷紀行」を書いた菊地武矩が御世話になった久保家は、その後の約半世紀後に主人が出奔し断絶したようです。そして、入ってきたのが本家筋の阿佐家になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  阿佐家の古文書 阿波学会紀要 第53号(pp.155―162)2007.7
『東祖谷山村誌』(1978年 東祖谷山村)
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祖谷紀行 表紙
菊地武矩の「阿波紀行」
 寛政5年(1793)の夏、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が、阿波の祖谷を旅行した時の紀行文が残されています。
今回は、今後の史料として「祖谷紀行」を現代文意訳で、アップしておこうと思います。なお「祖谷紀行」は、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧可能です。
 18世紀後半と云えば、金比羅船が就航して、その参拝客が急増していく時期です。この時期に、十返舎一九は、東海道膝栗毛を出しています。さらに紀行文ブームの風を受けて、弥次・喜多コンビに金毘羅詣でをさせています。これは「祖谷紀行」が書かれた約10年後のことになります。ここからは18世紀末から19世紀初めは、伊勢参りが大人気となり、その余波が金毘羅参りや、宮島参りとなって「大旅行ブーム」が巻起きる時期にあたるようです。文人で、歌好きの菊地武矩も、祖谷を「阿波の桃源郷」と見た立てて旅立っていきます。

 阿波紀行 1P
        菊地武矩の「祖谷紀行」の書き出し
左ページが祖谷地方について書かれた冒頭部です。これを書起こすと以下のようになります。

祖谷紀行 讃州浪士 菊地武矩
祖谷は阿波の西南の辺にあり、美馬郡に属す。
久保二十郎云、むかしハ三好部なり、蜂須賀蓬寺君の阿州に封せられ給ひしより、美馬郡につくとなり、美馬郡は昔名馬を出せし故に呼しと、
○祖谷を美馬となせしハ、寛文中、光隆君の時なりともいふ。南北遠き所ハ六里、近きハ三里余、東西遠きハ十五、六里、近き所ハ一二、三里、其地いと幽途にして一区中の如く、ほとんどは桃源の趣あり、むかし安徳天皇雲隠れまし、所にて、其御陵又平家の赤旗なんとありときこえけれハ、床しく覚えて行遊の志あり、ここに西湖といふものあり、

意訳変換しておくと
 祖谷は阿波の西南にあたり、美馬郡に属す。久保三十郎が云うには、昔は三好郡であったが、蜂須賀小六が阿波藩主に封じられた時に、美馬郡に属するようになった、美馬郡は、かつては名馬を産したので「美馬」と呼ばれたと。
○祖谷を美馬郡に編入したのは、寛文年間の時とも伝えられる。祖谷は、南北六里、東西は十五里で、幽玄で、桃源境の趣がする。かつて、安徳天皇が落ちのびた所で、その御陵には平家の赤旗もあると聞く。そんなことを聞いていると旅心が湧いてきた。友人に西湖といふ者がいる。
祖谷紀行2P
祖谷紀行2P目

意訳変換しておくと
もとは吉備の中津国の人で、祖谷の地理についてよく知っている。そこで彼が近村にやって来たときに、佛生山の田村惟顕(名敬、称内記)と、出作村の中膊士穀(名秀実、称六郎衛門)と、申し合せて、祖谷への先達を頼んだ。
こうして寛政五年(1792)卯月25日の早朝に、私たち4名は香川郡由佐を出立した。
香川(香東川)に沿って、南に半里ばかり歩いた。(文中の一里は五十丁、一町は五十歩、一歩は六尺) ここには讃岐の名勝として名高い「童洞の渕(井原下村)」がある。断岸の間にあって、青山が左右に起立して、明るい昼間でも仄かにくらく、その水は南から流れ来て、滝として落ちる。それは渦巻く波車のように見える。その中に穴がある。廣さは一丈ばかりで、深さはどれだけあるのか分からない。その中に龍の神が、潜んでいると云われる。旱魃の年には、雨乞い祈願のために、祀られる。
ここまでの要点をまとめておきます
1792年旧暦4月25日に、4人連れ添って祖谷への旅に出た。②香川(=香東川)の「童洞の渕(現在の鮎滝周辺)」は、讃岐の名勝で、龍神の住処で雨乞いの祈願が行われる場所でもあった。
童洞淵での雨乞いは、どんなことが行われていたのでしょうか?
別所家文書の中に「童洞淵雨乞祈祷牒」というものがあり、そこに雨を降らせる方法が書かれています。その方法とは川岸に建っている小祠に、汚物をかけたり、塗ったりすることで雨を降らせるというものです。童洞淵は現在の鮎滝で高松空港の東側です。

相栗峠
鮎滝から相栗峠まで
鮎滝からは奥塩江を経て、相栗峠までを見ておきましょう。
 この渕からより東南へ一里ばかり行くと、関、中徳、椿泊、五名中村を経て、岩部(塩江美術館付近)に至る。また、中徳から右に進むと、西南半里余で、奥野に至る。その間には斧か渕、正兵瀧、虹か瀧などもあり、名勝となっている。これについては、私は別の紀行文で書いたので省略する。その道のりの間には、怪しい山が多くあることで有名で、翡翠も多い。
4344098-34香東川屈曲 岩部八幡
香東川曲水と岩部八幡(讃岐国名勝図会)
 さて岩部には、石壁がある。 高さ二丈余りで、長さ数百歩、好風が吹き抜けていく。その下を香川(香東川)が清くさやけく流れていく。巌の上の跡を見ながら、持参した酒をかたむける。この景色を眺めながら大和歌を詠い、吉歌を詠む。
 すでに時刻は午後2時に近く、西南に100歩も行くと、香川(香東川)に別れを告げ、(美馬・塩江線沿いに)いよいよ国境を目指す。ここからは不動の瀧、塩の井(塩江)鎧岩、簑の瀧などがある。これも別記した通りである。ますます幽玄になり、時折、鶯の声も聞こえる。

4344098-31
塩江の滝(讃岐国名勝図会)
 土穀詩の「深山別有春余興・故使鶯声樹外残・其起承」を思い出す。焼土(やけど)という所を過ると、高い山の上に、趣のある庵が見えて来た。白雲が立つあたりに、どんな人が浮世を厭い離れて暮らしているのだろうか。むかし人の詠んだ「我さへもすたしと思ふ柴の庵に、なかはさしこむ峯の白雲となん」という歌を思い出し、その通りだと納得する。

4344098-33塩江霊泉
塩江霊泉(讃岐国名勝図会)

 内場(内場ダム周辺)という所を過ぎると、山人の炭焼窯があちこちに見えてくる。山はますます深くなり、渓水はその間を流れ、香川(香東川)に合流する。その渓流の響きは、八紘の琴のようにも聞こえる。石壁にうけ桶が架けられた所、巖の列立て、笙の竹が植えられた所など、この間の風景は殊にいい。そうするうちに合栗(相栗峠)に着いた。
相栗峠(あいぐりとうげ)

ここまでのルートを振り返ると、次のようになります。

① 由佐 →鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠

現在の奥塩江経由になります。相栗峠は、龍王山と大瀧山の鞍部にある峠で、美馬と髙松平野を結ぶ重要交通路でした。中世から近世には、美馬安楽寺の浄土真宗興正寺派の髙松平野への教線伸張ルートであったことは以前にお話ししました。
 話の中に詩文の引用が登場してきます。筆者にとっての紀行文は芭蕉の「奥の細道」が模範です。紀行文は、歌を登場させるための「前振り」的な意味もあります。詩文の比重が高かったことを押さえておきます。
相栗峠の由来について、作者は次のように記します。
ここは讃岐と阿波の境になる。この峠には、次のような話が伝わっている。昔、ここに栗の樹があって、阿讃の人達が栗を拾ったので、その名前がついた。そこに大田の與一という人物が四十年前に移ってきた。なお大田村の松本二郎は、その一族と云う。彼が私に語った所によると、安原は山村なので、南北五、六里の鮎瀧・関・中徳・五名・中村・椿泊・岩部・燒土・内場・細井などは、その小地名で、合栗も細井の小字名であろう。細井は、山の麓にあって、大干魃の際にも水が涸れず、大雨にも増水することがない。常に細々と水が流れるので「細井」という地名がついている。
 また細井には鷹匠が鷹を獲る山があり、綱を木の上に架け置いて、その下に伏せて待っていて、鷹がかかれば起出て捕える。しかし、鷹は蹴破って逃げることもある。
 朝に郷里の由佐をでて、阿讃国境の相栗峠まで四里、はるかまでやってきた。
由佐よりトウト渕まて半里、トウト渕から岩部まて一里半、岩部より合栗(相栗)まで二里半になる。はじめて讃岐を出て他国に入る。振り返れば、八重に山々が隔たり、雲霧もわき出ている。故郷の由佐を隔てる山々は、巨竜の背のように、その間に横たわる。
相栗峠について、私が疑問に思うのは関所らしきものが何も書かれていないことです。阿波藩と高松藩の間には、国境に関しての協定があって、重要な峠には関所が置かれ、通過する人とモノを監視していたとされますが、この紀行文にはそのような記録はでてきません。峠は、自由往来できていた気配がします。
相栗峠から貞光までの行程を見ておきましょう。
 相栗峠から東南へ、林を分け谷を周りこんでいくと谷川がある。これが「せえた川(野村川谷?)」で、その川中を辿って一里ほど下りていく。左右は高い山で、右を郡里山といひ、左りを岩角山と云う。草樹が茂る中を、川を歩き、坂を下り、平地を壱里ほど歩くと、芳(吉)野川に出る。この川の源流は土佐國で、そこから阿波国を抜けて海に出る。流域は六、七十里の、南海四州の大河である。大雨が降ると、水かさを増して暴れ川となる。私は、「其はしめ花の雫やよしの川と」という歌のフレーズを思い出したが。それは大和の吉野川のことであったと、気づいて大笑いした。
 船に悼さして吉野川を南に渡ると、人家の多い都会に行き着いた。これを貞光という。養蚕が盛んで、桑をとる姿がそこかしこに見える。その夜は、この里に宿を取った。
①相栗峠からは、「川中を辿り」「川を歩き」とありますので、沢歩
きのように渓流沿いを歩く道だったことがうかがえます。
②平地に出て一里歩いているので郡里まで西行したことが考えられます。
③そして郡里から「船に悼さして吉野川を南に渡」って、貞光に至ったとしておきます。
④貞光周辺は「養蚕が盛んで、桑をとる姿」が見えたことを押さえておきます。

旧暦4月26日の貞光から一宇までのコースを、見ていくことにします。
翌朝26日に、貞光を出発して西南方面の高い山に向かう。その山は岩稜がむき出しで、牙のような岩が足をかむことが何度もあった。汗を押しぬぐって、ようやく峠に出ると、方五間ほどの辻堂があった。里人に聞くと、①新年には周辺の里人達が、酒の肴を持ち寄って、このお堂に集まり、日一日、夜通し、舞歌うという。万葉集にある筑波山の会にも似ている。深山なればこそ、古風の習俗が残っているのかもしれない。その辻堂で、しばし休息した後に、さらに高い山に登っていくと、石仏が迎えてくれた。これが貞光よりの一里塚の石仏だという。
 古老が云うには、日本國には、神代の習俗として、猿田彦の神を巷の神として祭り、その像を刻印した。仏教伝来以後は、それを地蔵に作り替えたが、僻地の國では今も神代ままに、残っている所があると云う。辻堂の宴会が万葉の宴に似ているのを考え合わせると、この石佛も、むかしの猿田彦の神なのかもしれない。
 ここから仰ぎ見ると、高き山が雲や千尋の谷を従えているように見える。さらに、この道を登っていくと、壱里足らずで猿飼という所に至る。山水唐山に似て、その奇態は筆舌に尽くしがたい。

鳴滝 阿波名所図会
鳴滝(阿波名所図会)
 耳を澄ますと、水のとどろく音が聞こえてくる。何かと怪しみながら近づいていくと、大きな瀧が見えて来た。これが鳴瀧である。瀧は六段に分かれ、第一段は雲間より落てその源さえ見えない。第二段は岩稜に従い落ちて、第三段は岩を放れて飛び、四段五段は、巌にぶつかりながら落ちていく、第六段は谷に落ち込んで、その末は見えない。全長は上下約二百四五十尺にも及ぶ。適仙が見たという中国の濾山の瀑布水も、こんなものであったのかと思いやる。雲間から落てくる瀧の白波は、天の川の水がそそぎ落ちるのかとさえ思う。
 天辺の雲が裂けて龍の全貌が見えると、あたりに奇石多く、硯にできるとような石壁が数丈ある。形の変わった奇樹もあり、枝幹も皆よこしまに出たりして、面白い姿をしたものが多い。
貞光 → 端山 → 猿飼 → 鳴滝 → 一宇

①貞光の端山周辺には、各集落毎にお堂があること。
②お堂に集落の人たちが集まり、酒食持参で祖霊の前で祈り・詠い・踊ること。
③祖霊と交歓する場としてのお堂の古姿が見えてくること。
④「ソラの集落」として、有名になっている猿飼を通過している
④鳴滝の瀑布を賞賛していること、しかし土釜は登場しない。

眺めを楽しみながら、山の半腹をつたい、谷を廻っていくと一宇という所に着いた。
一宇の人家は五、六軒。その中に南八蔵という郷士の家がある。この家は、祖谷八士と同格で、所領も相当あるという。その家の長さは九間だが、門も納屋もない。讃岐の中農程度の家である。山深い幽谷であるからであろうか。しばらく進むとふちま山がある。山の上に山が重なり。人が冠せたように見えるのが面白い。
さらに進んで松の林で休息をとる。そこで貧ならない山人に出会ったので、どこの人か聞くと、「竹の瀬」の者だと答えた。竹の瀬は、一宇の山里のようである。彼の名を問うと辺路と答えた。それは、世にいふ「辺路(遍路)」なのかと問うと、そうだという。聞くと、彼の父が四國辺路に出て、家を留守している間に生れたので、辺路とい名前がつけられたようだ。辺路とは、阿讃豫土の四国霊場をめぐり、冥福をいのることを云う。
 他にもそんな例はあるのかと問うと、伊勢参宮の留守に生れた男は、参之助・女は「おさん」と名付けられている。また、生れた時に胞衣を担いで、袈裟のやうにして生れた男の子は、袈裟之助、女の子は「おけさ」と名付けられている。また末の子を「残り」、その他に右衛門左衛門判官虎菊丸鳥とい名前もあり、源義明・源義経・浮田中納言秀家・法然上人という名前を持つものものいるという。ここで初めて、私は「辺路」や「遠島」という名前もあるのだと知った。ここで出会った「辺路」を雇って案内者とすることにした。
①当時の一宇には、五・六軒の人家しかなかったこと。近代に川沿いに道が伸びてくるまでは、多くの家はソラの上にあった。
南八蔵の家は、この地方では最有力な郷士であったが、門も納屋もなかった。
③「辺路」と名付けられた男に、案内人を頼んだ。
  ここに出てくる南八蔵の家は、一宇山の庄屋で今はないようです。南家については、弘化四年「南九十九拝領高并居宅相改帳」に、ここに「居宅四間 梁桁行拾五間  萱葺」と記載されています。この建物は明治30年に焼夫したようです。

しばらく行くと、「猿もどり」という巖が出てきた。
「猫もどり」、「大もどり」とも呼ばれるという。「ヲササヘ」(?)とい地名の所である。幅二三尺長七八丈、高三四丈で、藤羅がまとわりついて千尋の谷に落ちている。さらに数百歩で大きな巖の洞がある。その祠の中には二十人ほどは入れる。伝説によると、その祠の中に、大蛇が住んでいて、往来の人や禽獣を飲み込んでいたという。
 さらに進むと雌雄という所に着いた。
「こめう」は、民家十四、五軒で、山の山腹にある。ここまで来て、日は西に傾き、みんなは空腹のため動けなくなった。
一宇 西福寺2
最(西)福寺

ここにある最福寺の住職と西湖は知人であった。そこで、寺を訪ねて一宿を請うた。しかし、住職が言うには、ここには地米がなく、栗やひえだけの暮らしで、賓客をもてなすことができないので、受けいれられないと断られた。西湖が再度、懇願し許諾を得た。私たちが堂に上ると、住職や先僧などがもてなしてくれた。その先僧は西讃の人で、故郷の人に逢ふような心地がすると云って、時が経つのも忘れて談話をした。住僧は、人を遠くまで遣って米を求め、碗豆を塩煮し出してくれた。私たちは大に悦び、争うように食べた。その美味しさは八珍にも劣らない。先ほどまでの空腹を思えば、はじめやって来たときに、梵鐘が遠くに聞こえるように思い、次の詩を思い出した。
日暮行々虎深上、逢看蘭若椅高岡、応是遠公留錫杖、仙詔偏入紫雲長、諸子各詩ありこと長けれ
  貞光より雌雄までは、凡そ五里と云うが、道は山谷瞼岨で、平地の十余里に当たるだろう。    

一宇 西福寺
一宇から西光寺、そして小島峠へ

一宇から明谷の最(西)福寺寺までの行程は次の通りです。
一宇 → ふちま山 → 猿もどり → 雌雄 → 最(西)福寺

しかし、今の私には出てくる地名が現在のどこを指すのか分かりません。ご存じの方がいれば教えて下さい。どちらにしても、最福寺までやってきて、なんとか宿とすることができたようです。この寺の先僧が西讃出身と名告ったというのも気になる所です。四国霊場の本山寺は、その信仰圏に伊予や土佐・阿波のソラの集落を入れていたことは以前にお話ししました。本山寺と関係する馬頭観音の真言修験的な僧侶でなかったのかと私には思えてくるのです。
今回は「祖谷紀行」で、讃岐由佐から一宇まで、2日間の行程を追ってみました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
菊地武矩 祖谷紀行 国立公文書館のデジタルアーカイブ
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       幕末の農民4
幕末・明治の農民(横浜で売られていた外国人向け絵はがき)
江戸時代の讃岐の農民が、どんなものを着ていたのかを描いた絵図や文書は、あまり見たことがありません。
祭りや葬式など冠婚葬祭の時の服装は、記録として残されたりしていますが、日常に着ていたものは記録には残りにくいようです。そんな中で、大庄屋十河家文書の中には、農民が持っていた衣類が分かる記述があります。それは農民から出された「盗品被害一覧」です。ここには農民が盗まれたものが書き出されています。それを見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。(意訳)
一筆啓上仕り候
鵜足郡西坂元村 百姓嘉左衛門
先日十八日の朝、起きてみると居宅の裏口戸が壱尺(30㎝)四方焼け抜けていました。不審に思って、家の内を調べて見ると、次のものがなくなっていました。
一、脇指      壱腰 但し軸朱塗り、格など相覚え申さず候
一、木綿女袷(あわせ) 壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞、裏浅黄
一、男単物 (ひとえ) 壱ツ 但し紺と紅色との竪縞
一、女単物    壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞
一、男単物    壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞
一、女帯      壱筋 但し黒と白との昼夜(黒と白が裏表になった丸帯の半分の幅の帯)
一、小倉男帯  壱筋 但し黒
一、縞木綿    弐端 但し浅黄と白との碁盤縞
一、木綿      壱端 但し浅黄と白との障子越
一、切木綿    八尺ばかり 但し右同断
一、木綿四布風呂敷 但し地紺、粂の紋付
合計十一品
以上の物品は、盗み取られたと思われますが、いろいろと調べても、何の手掛りもありません。つきましては、嘉左衛門から申し出がありましたので、この件について御注進(ご報告)する次第です。以上。
弘化四年(1847) 4月23日           
           西坂元村(庄屋) 真鍋喜三太
西坂本村の百姓嘉左衛門の盗難届けを受けて、同村庄屋の真鍋喜三太がしたためた文書です。盗難に遭う家ですから「盗まれるものがある中農以上の家」と推測できます。最初の盗品名が「脇指」とあるが、それを裏付けます。ただ盗難品を見ると、脇差以外は、衣類ばかりです。そして、ほとんどが木綿で、絹製品はありません。また「単衣」とは、胴裏(どううら)や八掛(はっかけ)といった裏地が付かない着物のことで、質素なものです。また、「切木綿」のように端材もあります。自分たちで、着物を仕立てていたようです。

幕末の農民
幕末の農民
 こうして見ると、素材は木綿ばかりで絹などの高価な着物はありません。このあたりに、農民の慎ましい生活がうかがえます。しかし、盗品のお上への届けですから、その中に農民が着てはならないとされていた絹が入っていたら、「お叱り」を受けることになります。あっても、ここには書かなかったということも考えられます。それほど幕末の讃岐の百姓達の経済力は高まっていたようです。

幕末の農民5
幕末・明治の農民

 江戸時代には新品の着物を「既製服」として売っているところはありませんでした。
「呉服屋」や木綿・麻の織物を扱う「太物(ふともの)屋」で新品の反物を買って、仕立屋で仕立てるということになります。着物は高価な物で、武士でも新しく仕立卸の着物を着ることは、生涯の中でも何度もなかったようです。つまり、新品の着物は庶民が買えるものではなかったのです。
江戸時代の古着屋
古着屋
 町屋の裕福な人達が飽きた着物を古着屋に売ります。
その古着を「古着屋」や「古着行商」から庶民は買っていたのです。ましてや、農民達は、新しい着物を買うことなど出来るはずがありません。古着しか手が出なかったのです。そのため江戸時代には古着の大きなマーケットが形成されていました。例えば、北前船の主な積荷の一つが「古着」でした。古着は大坂で積み込まれ、日本海の各地に大量に運ばれていました。

江戸時代の古着屋2
幕末の古着屋

江戸や大坂には「古着屋・仲買・古着仕立て屋」など2000軒を越える古着屋があったようで、古着屋の中でも、クラスがいくつにもわかれていました。だから盗品の古着にも流通ルートがあり、「商品」として流通できるので着物泥棒が現れるのです。

古着屋2
古着屋 
古着は何十年にもわたって、いろいろな用途に使い廻されます。
  古着を買ったら、大事に大事に使います。何度も洗い張りして、仕立て直し。さらには子ども用の着物にリメイクして、ボロボロになっても捨てずに、赤ちゃんのおしめにします。その後は、雑巾や下駄の鼻緒にして、「布」を最後まで使い切りました。農村では貧しさのために古着も手に入らない家がありました。農作業の合間に自分で麻や木綿の着物を仕立てたり、着れる者を集めて古いものを仕立て直したりしたようです。

細川家住宅
  『細川家住宅』(さぬき市多和)18世紀中頃の富農の主屋

農民の家については、建て替えの時に申請が必要だったので、記録が残っています。
願い上げ奉る口上
一、家壱軒   石据え 但し弐間梁に桁行四間半、藁葺き
右は私ども先祖より持ち来たりおり申し候所、柱など朽ち損じ、取り繕いでき難く候間、有り来たりの通り建てかえ申したく存じ奉り候。もっとも御時節柄にていささかも華美なる普請仕らず候間、何卒願いの通り相済み候様によろしく仰せ上られくださるべく候。この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四来年二月         鵜足郡西川津村百姓   長   吉
庄屋高木伴助殿
  意訳変換しておくと
一、家壱軒   石据え(礎石) 2間梁に桁行4間半、藁葺き
この家は、私どもの先祖より受け継いできたものですが、柱などが朽ち果てて、修繕ができなくなりました。そこで「有り来たり(従来通の寸法・工法)」で建て替えを申請します。もっとも倹約奨励の時節柄ですので、華美な普請は行いません。何卒、願い出の通り承認いただける取り計らっていただけるよう、この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四来年二月        鵜足郡西川津村百姓   長吉
庄屋 高木伴助殿

西川津町の百姓長吉が庄屋へ提出した家の改築願いです。
「有り来たり(従来通の寸法・工法)」とあるので、建て替えの際には、従前と同じ大きさ・方法で建てなければならなかったことが分かります。柱は、掘っ立て柱でなく、石の上に据えるやり方ですが、家の大きさは2間×4間半=9坪の小さなものです。その内の半分は土間で、農作業に使われたと研究者は指摘します。現在の丸亀平野の農家の「田型」の家とは違っていたことが分かります。 「田型」の農家の主屋が現れるのは、明治以後になってからです。藩の規制がなくなって、自由に好きなように家が建てられるようになると、富農たちは争って地主の家を真似た屋敷造りを行うようになります。その第一歩が「田型」の主屋で、その次が、それに並ぶ納屋だったようです。

幕末になると裕福な農家は、主屋以外に納屋を建て始めます。 
弘化4(1847)年2月に 栗熊東村庄屋の清左衛門から納屋の改築願いが次のように出されています。
願い上げ奉る口上
一、納屋壱軒   石据え 但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き
右は近年作方相増し候所、手狭にて物置きさしつかえ迷惑仕り候間、居宅囲いの内へ右の通り取り建て申したく存じ奉り候。(中略)この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡西川津村百姓 弁蔵
庄屋高木伴助殿
  意訳変換しておくと
願い上げ奉る口上
一、納屋壱軒   石据え 構造は弐間梁 × 桁行三間で瓦葺き
近年に作物生産が増えて、手狭になって物置きなどに差し障りが出てくるようになりました。つきましては、居宅敷地内に、上記のような納屋を新たに建てることを申請します。(中略) この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡西川津村百姓 弁蔵
庄屋
「近年作方相増し」た西川津村の弁蔵が、庄屋の高木伴助に納屋新築を申請したものです。弁蔵は、砂糖黍や綿花などの商品作物の栽培を手がけ成功したのかも知れません。そして、商品作物栽培の進む中で没落し、土地を手放すようになった農民の土地を集積したとしておきましょう。その経済力を背景に、納屋建設を願いでたのでしょう。それを見ると、庄屋級の納屋で二間×五間の大きさです。一般農民の中にも次第に耕作規模を拡大し、新たに納屋を建てる「成り上がり」ものが出てきていることを押さえておきます。逆に言うと、それまでの農家は9坪ほどの小さな主屋だけで、納屋もなかったということになります。
 今では、讃岐の農家は主屋の周りに、納屋や離れなどのいくつもの棟が集まっています。しかし、江戸時代の農家は、主屋だけだったようです。納屋が姿を見せるようになるのは幕末になってからで、しかも新築には申請・許可が必要だったこと押さえておきます。
最後に、当時の富農の家を見ておきましょう。

細川家住宅32
重要文化財『細川家住宅』(さぬき市多和)
18世紀中頃(江戸時代)の農家の主屋です。屋根は茅葺で、下までふきおろしたツクダレ形式。 母屋、納屋、便所などが並んでいます。
母屋は梁行3間半(6,1m)×桁行6間(12,8m)の大きな主屋です。先ほど見た「鵜足郡西川津村百姓 長吉の家が「2間梁×桁行4間半、藁葺き」でしたから1.5倍程度の大きさになります。

細川家4
細川家内部
周囲の壁は柱を塗りこんだ大壁造りで、戸は片壁引戸、内部の柱はすべて栗の曲材を巧みに使ったチョウナ仕上げです。間取りは横三間取りで土間(ニワ)土座、座敷。ニワはタタキニワでカマド、大釜、カラウス等が置かれています。土座は中央にいろりがあり、座敷は竹座で北中央に仏壇があります。四国では最古の民家のひとつになるようです。

DSC00179まんのう町生間の藁葺き
戦後の藁葺き屋根の葺替え(まんのう町生間) 

 江戸時代の庄屋の家などは、いくつか残っていますが普通の農家の家が残っているのは、非常に珍しいことです。この家のもう少し小形モデルが、江戸時代の讃岐の農民の家で、納屋などもなかったことを押さえておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    近世の村支配 庄屋
 
近世の藩と村の支配ヒエラルヒーは、高松藩では次のようになります。
 大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓
 
讃岐では、名主が「庄屋や政所」と呼ばれました。また、各郡の庄屋を束ねるが大庄屋(大政所)とされました。
ここで、注意しておきたいのは、兵農分離の進んだ近世の村には、原則的には代官以下の武士達は村にいなかったことです。そのため村の支配は、庄屋を中心とする村役人で行われました。そのため村で起こったことは、大庄屋に報告し、代官の指示を仰ぐ必要がありました。これらの連絡・指示・報告等は、すべて文書で行われています。今回は、どの程度のことまでを庄屋は、報告していたのか、その具体的な事例を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。

御用日記 渡辺家文書
        大庄屋渡辺家(坂出市)の御用日記

農業は藩の基本でしたから、村の農作業に関する規制や届け出は、細かいことまで報告しています。

田植え図 綾川町畑田八幡の農耕絵図
綾川町畑田八幡神社の農耕絵馬

例えば、田値えが終了したら庄屋は次のように大庄屋に報告しています。
一筆啓上仕り候。当村田代昨十九日までに無事植え済みに相なり申し候間、左様御聞き置きくださるべく候。以上。
(弘化四年)五月二十日        西二村 香川与右衛門
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。当村西二村(現丸亀市西二村)は、昨日5月19日までに、田植えが無事終了しました。このことについて、報告します。以上。
弘化四(1847)年五月十日        西二村 香川与右衛門
川津・二村郷地図
二村郷
西二村は、飯野山南麓の土器川の西側にあった村です。現在は川西町の春日神社を中心とするあたりになります。西二村のこの年の田植終了日時は、旧暦5月20日だったようです。現在の新暦では、約1ヶ月遅れになるので6月20日前後のことでしょうか。西二村の庄屋香川与右衛門が法勲寺の大庄屋に、田植え完了を報告しています。大庄屋は、鵜足郡南部の各村々からの報告をまとめて、藩の役所へ報告する仕組みだったようです。

葛飾北斎る「冨嶽三十六景」「駿州大野新田」現在の静岡県富士市。、

柴を背負って家路を急ぐ牛たち(葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田(静岡県富士市)」
牛の盗難事件についての報告を見ておきましょう。

一、女牛壱疋
但し歳弐才、角向い高いくらい、勢三尺ばかり
右の牛阿野郡南新居村百姓加平治所持の牛にて、牛屋につなぎこれ有り候所、去月二十五日の夜盗まれ候につき、方々相尋ね候えども今に手掛りの筋これ無く候間、その郡々村々これを伝え、念を入れられ、詮儀を遂げ、見及び聞き及び候儀は勿論、手掛りの筋もこれ有り候や。右の者来たる十日までにそれぞれ役所へ申し出ずべきものなり。
(安永二年)巳七月             御 代 官
右大政所中
  意訳変換しておくと
一、雌牛一頭
 牛の歳は2才で、角は向いあって、高いくらい、勢(せい:身長)90㎝ばかり
この牛は阿野郡南新居村の百姓加平治の牛で、牛小屋につないであった所、先月25日の夜に盗まれた。方々を尋ね探したが、手掛がないので、近隣の郡々村々に聞き合わせを行うものである。ついては、見聞したことや、手掛になることがあれば、10日までに役所へ申し出ること。
安永二(1773)年巳七月             御代官
右大政所中
阿野郡南新居村で雌牛が盗まれたようです。そのことについて郡を越えて代官所から大庄屋(十河家)への情報提供依頼が廻ってきています。書状を受けた十河家の主人は、写しを何通かしたため、それと大庄屋の指示書を添えて、鵜足郡の拠点庄屋に向けて使者を遣わします。受け取った庄屋は、リレー方式で通達書を回覧していきます。その際に、庄屋たちは回覧文書を書写したり、自分の意見などをしたためて対応を協議していくことになります。当時の庄屋たちは文書を通じて頻繁にやりとりしています。ここでは百姓が飼っていた牛が盗まれても、代官に報告が上がり、情報的提供指示が出ていることを押さえておきます。
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田」の牛の拡大図
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の柴を背負う牛の拡大図
今度は、土器川に現れた二頭の離れ牛についてです。
一筆啓上仕り候
一、女牛 壱疋
但し毛黒、勢三尺九寸、角ぜんまい、歳八才
一、男牛 壱疋
但し毛黒、勢三尺六寸、角横平、歳八才
右は去る二十四日朝当村高津免川堤に追い払い御座候て、村内百姓喜之助・平七両人見付け、私方へ申し出候間、村内近村ども吟味仕り候えども、牛主方相知れ申さず。もっとも老牛にて用立ち申さず、追い払い候義と相見え申しり候間、何卒御回文をもって御吟味仰せ付けられくださるべく候。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。
 (弘化四(1847)年 二月二十八日          
土器村庄屋            近藤喜兵衛
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候
一、雌牛一頭 毛黒、身長三尺九寸、角はぜんまい、歳は八才
一、雄牛一頭 毛黒、身長三尺六寸、角は横平、歳は八才
この二頭の牛が2月24日の朝、土器村の高津免川堤にいるのを、村内の百姓・喜之助・平七の両人が見付けて、届け出た。村内や近隣の村々に問い合わせしたが、牛の飼主は現れない。もっとも二頭共に老牛で使い物にはならないので、「追い払」ったも思える。とりあえず、御回文を送付しますので、吟味いただいて指示をいただきたい。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。
 (弘化四年(1847)年  .二月二十八日          
土器村庄屋            近藤喜兵衛

土器川の河原に牛が二頭、放れているとの土器村庄屋からの報告です。村人達は異常があればなんでも庄屋に報告せよといわれていたのでしょう。「放れ牛の発見 → 村民の報告 → 庄屋の近隣村への問い合わせ → 大庄屋 」という「報告ルート」が機能しています。

DSC01302
牛耕による田起こし(戦後・詫間)
このことについて大庄屋の十河家当主は、約2ケ月後の「御用留(日記)」に、次のように記します。
御領分中村々右牛主これ無きやと回文をもって吟味致し候えども、牛主これ無き段申し出に相なり候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。  
    (弘化四年)四月二十三日          こなた両人
意訳変換しておくと
高松藩の御領分中の村々に、牛の飼い主について問い合わせを回文(文書)で行った。が、牛の飼主であるとの申出はなかった。このことについて、知り置くように。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。  
    (弘化四年)四月二十三日          こなた両人
 年老いた牛が、土器川に放たれていたことについて、大庄屋は回文(文書)を出して、飼い主の「探索」を行っています。牛は農家の宝であり、年老いた牛については殺さずに河原へ追い放したこともあったようです。
最後に、年中行事の中から農民生活に関係の深いものを見ておきましょう。
立春後の第五の戊(つちのえ)の日を春の社日といい、この日には地神祭が行われていました。
徳島県(「阿波藩」)の「地神さん」の祭礼を見ておきましょう。
地神祭 - 日日是好日
徳島の地神祭(日々是好日 地神祭HP)よりの引用
徳島県内のどの神社(村)に行っても、頂上の石が五角形の「地神さん」が見られる。神社の境内に祀られている事が多い。
寛政2年 藩主:蜂須賀治昭は、神職早雲伯耆の建白を受け、県下全域に「地神さん」を設置させた。「地神塔」を建てると共に、社日には祭礼を行わせた。社日は、春・秋の彼岸に一番近い「戌」の日。その日は、農耕を休み「地神さん」の周りで祭礼を行う。その日に農作業をすると地神さんの頭に鍬を打ち込むことになるといわれ、忙しい時期ではあるが、総ての農家が農作業を休んだ。
「地神さん」の周りには注連縄を張り、沢山の供物が供えられた。時間が来ると、その供え物は子供達に分け与えられる。その日、子供は「地神さん」の周りに集まりお下がりを頂くのが楽しみであった。子供達はこの日のことを「おじじんさん」と呼び、楽しい年中行事の一つとしていた。
日々是好日 地神祭 よりの引用
https://blog.goo.ne.jp/ktyh_taichan/e/3b464e70359f789bb712c67319bd894b
まんのう町新目神社の地神塔
地神塔(まんのう町新目神社)
讃岐鵜足郡の神社で行われた地神祭を見ておきましょう。
口 上
来たる八日社日に相当り候につき、例歳の通り御村内惣鎮守五穀成就地神奈義ならびに悪病除け御祈祷二夜三日修行仕り候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。なおなお村々へも御沙汰よろしく,願い上げ奉り候。以上。
(弘化四年)二月              土屋日向輔
  意訳変換しておくと
来たる2月日は社日に当たるので、例年通りに村内惣鎮守で五穀成就の地神奈義と悪病除の祈祷を二夜三日に渡って(山伏たちが)おこなうことについて、聞き置きくださるようお願いします。なお村々へも沙汰(連絡)よろしく願い上げ奉り候。以上。
弘化四(1847年2月              土屋日向輔

2月の地神祭りに2夜3日に渡って、村内の鎮守で山伏による祈祷祈願が行われたようです。それには神職ではなく、山伏たちが深く関わっていたことが分かります。当時の戸籍などには、村々に山伏の名前が記されています。また、神事をめぐって、社僧や神職・山伏などの間で、いろいろないざこざが起きていたことは以前にお話ししました。ここでは村の神事は、神仏分離以前は山伏たちによって行われていたことを押さえておきます。

春の市は、今では植木市が中心になっています。しかし、江戸時代は農具市だったようです。観音寺の茂木町の鍛冶屋たちが周辺の寺社に出向いて、農具などを販売していたしていたことは以前にお話ししました。鍛冶市の回覧状を見ておきましょう。(意訳)
一筆申し上げ候。来たる3月18日・19日は、栗熊東村住吉大明神の境内で例年通り農具市が開かれる。ついては、このことについて聞き置き、回覧いただきたい。以上。
  弘化四年三月十六日 くり(栗)熊東村庄屋 清左衛門
 栗熊東村の住吉大明神(神社)で、開催される農具市の案内回状の依頼です。各村々の地神祭や農具市などのイヴェントについては、その村だけでなく周囲の村々にも「庄屋ネットワーク」で情報や案内が流され、村人達に伝えられていたことが分かります。このような情報を得て、周辺の多くの人達が市や祭りに参加していたのでしょう。
田植えが終わると虫がつかないように、虫送りが行われていました。
一筆啓上仕り候。しからば当村立毛(たちげ)虫付きに相なり申し候間、王子権現において御祈祷相頼み、来たる四日虫送り仕りたき段、一統百姓どもより申し出候。もっとも入目(いりめ)の義は持ち寄りに仕り侯段とも申し出候。この段お聞き置きくださるべく候。右申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。
(弘化四年)七月一日           庄屋 弥右衛門
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。しからば当村では稲に害虫がついてしまいました。つきましては、王子権現で(山伏)に祈祷を依頼し、4日に虫送りを実施したいと、百姓どもから申し出がありました。その入目(いりめ:費用)については、各自の持ち寄りとすると申し出ています。この件について、お聞き届けくださるよう申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。
(弘化四年)七月一日           庄屋 弥右衛門
これも十河家に送られてきた虫送り実施の許可願です。どこの村かは書かれていません。当事者同士には、これで分かったのでしょう。こうして見ると、祭りやイヴェントの案内状まで庄屋は作成し、大庄屋に願い出て、地域に回覧していたことが分かります。
  このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
   藩からの通達や指示は、文書によって庄屋に伝達されます。また庄屋は、今見てきたようにさまざまな種類の文書の作成・提出を求められていした。文書が読めない、書けないでは村役人は務まらなかったのです。年貢納税には、高い計算能力が求められます。

地方凡例録
地方凡例録
 地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。
「持高身代も相応にして算筆も相成もの」
石高や資産も相応で、文章や形成能力も高い者)

経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。
辻本雅史氏は、次のように記します。

「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」

そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。
このような「17世紀メデイア革命」を準備したのが、村役人になんでも報告を求めた、藩の「文書主義」だったのかもしれません。これに庄屋や村役人が慣れて適応したときに「メデイア革命」が起きたことを押さえておきます。これは現在進行中のメデイア革命に通じるものがあるのかもしれません。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯山町史330P 農民の生活」
「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」
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高松藩分限帳
髙松藩分限帳
髙松藩分限帳の中には、当時の庄屋や大庄屋の名前が数多く記されています。
法勲寺大庄屋十河家
分限帳に見える上法勲寺村の十河武兵衛(左から4番目)

  その中に鵜足郡南部の大庄屋を務めた法勲寺の十河家の当主の名前が見えます。十河家文書には、いろいろな文書が残されています。その中から農民生活が見えてくる文書を前回に引き続いて見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。
江戸時代の農民は自分の居住する村から移転することは許されていませんでした。
今で云う「移動・職業選択・営業・住居選択」の自由はなかったのです。藩にとっての収入源は、農民の納める年貢がほとんどでした。そのため労働力の移動を禁止して、農民が勝手に村外へ出てしまうことを許しませんでした。中世農奴の「経済外強制」とおなじで、領主の封建支配維持のためには、欠かせないことでした。
 しかし、江戸時代後半になり、貨幣経済が進むと農民層にも両極分解が進み、貧農の中には借金がかさみ、払えきれなくなって夜逃け同然に村を出て行く者が出てきます。江戸時代には、夜逃げは「出奔(しゅっぽん)」といって、それ自体犯罪行為でした。

一筆申し上げ候
鵜足郡上法軍寺村間人(もうと)義兵衛倅(せがれ)次郎蔵
右の者去る二月二十二日夜ふと宿元まかり出で、居り申さず候につき、 一郡共ならびに村方よりも所々相尋ね候えども行方相知れ申さず、もっとも平日内借など負い重なり、右払い方に行き当り、全く出奔仕り候義と存じ奉り候。そのほか村方何の引きもつれも御座無く候。この段御注進申し上げたく、かくの如くに御座候。以上。
           同郡同村庄屋         弥右衛門
弘化四(1847)年三月八日
    意訳変換しておくと
鵜足郡上法軍寺村の間人(もうと)義兵衛の倅(せがれ)次郎蔵について。この者は先月の2月22日夜に、家を出奔にして行方不明となりましたので、村方などが各所を訪ね探しましたが行方が分かりません。日頃から、借金を重ね支払いに追われていましたので、出奔に至った模様です。この者以外には、関係者はいません。この件について、御注進を申し上げます。

間人(もうと)というのは水呑百姓のことで、宿元というのは戸籍地のことです。上法軍寺村の間人義兵衛の子次郎蔵が出奔し、行方不明になったという上法勲寺村の庄屋からの報告です。
  次郎蔵の出奔事件は犯罪ですから、これだけでは終わりになりません。その続きがあります。
願い上げ奉る口上
一、私件次郎蔵義、去る二月出奔仕り候につき、その段お申し出で仕り候。右様不所存者につき以後何国に於て如何様の義しだし候程も計り難く存じ奉り候間、私共連判の一類共一同義絶仕りたく願い奉り候。右願いの通り相済み候様よろしく仰せ上られくだされ候。この段願い上げ奉り候。以上。
    弘化四年未三月
出奔人親 鵜足郡上法軍寺村間人   義兵衛 判
出奔人兄 同郡同村間人     倉 蔵 判
意訳変換しておくと
願い上げ奉る口上
一、私共の倅である次郎蔵について、先月二月に出奔したことについて、申し出いたしました。このことについては、行き先や所在地については、まったく分かりません。つきましては、連判で、次郎蔵との家族関係を義絶したいと願い出ます。このことについて役所へのおとり継ぎいただけるよう願い上げ奉り候。以上。
    弘化四年未三月
出奔人親 鵜足郡上法軍寺村間人   義兵衛 判
出奔人兄 同郡同村間人      倉蔵 判
庄屋      弥右衛門殿
父と兄からの親子兄弟の縁を切ることの願出が庄屋に出されています。それが、大庄屋の十河家に送付されて、それを書き写した後に高松藩の役所に意見書と共に送ったことが考えられます。
出奔した次郎蔵は親から義絶され、戸籍も剥奪されます。宿元が無くなった人間を無宿人と云いました。無宿人となった出奔人は農民としての年貢その他の負担からは逃れられますが、公的存在としては認められないことになります。そのため、どこへ行っても日陰の生き方をしなければならなくなります。
 次郎蔵の出身である間人という身分は、「農」の中の下層身分で、経済的には非常に厳しい状況に置かれた人達です。
中世ヨーロッパの都市は「都市の空気は、農奴を自由にさせる」と云われたように、農奴達は自由を求めて周辺の「自由都市」に流れ込んでいきます。幕末の讃岐では、その一つが金毘羅大権現の寺領や天領でした。天領は幕府や高松藩の目が行き届かず、ある意味では「無法地帯」「自由都市」のような様相を見せるようになります。当時の金毘羅大権現は、3万両をかけた金堂(現旭社)が完成に近づき、周辺の石段や石畳も整備が行われ、リニューアルが進行中でした。そこには、多くの労働力が必要で周辺部農村からの「出奔」者が流れ込んだことが史料からもうかがえます。金毘羅という「都市」の中に入ってしまえば、生活できる仕事はあったようです。こうして出奔者の数は、次第に増えることになります。
      
出奔は非合法でしたが、出稼ぎは合法的なものでした。
しかし、これにも厳しい規制があったようです。
願い奉る口上
一、私儀病身につき作方働き罷りなり申さず候。大坂ざこば材木屋藤兵衛と申し材木の商売仕り候者私従弟にて御座候につき、当巳の年(安永二年)より西(安永六年)暮まで五年の間逗留仕り、相応のかせぎ奉公仕りたく存じ奉り候間、願いの通り相済み候様、よろしく仰せ上られ下さるべく候。願い上げ奉り候。以上。
安永二年巳四月      鵜足郡岡田下村間人   庄 太 郎
政所 専兵衛殿
   意訳変換しておくと
一、私は病身のために農作業が出来なくなりました。大坂ざこば材木屋の藤兵衛で材木商売を営んでいる者が私の従弟にあたります。つきましては、当年(安永二年)より五年間、大坂に逗留し、かせぎ奉公(出稼ぎ)に出たいと思います。願いの通り認めて下さるように、よろしく仰せ上られ下さるべく候。願い上げ奉り候。以上。
安永二(1773)年巳四月     鵜足郡岡田下村間人   庄 太 郎
政所 専兵衛殿

岡田下村の貧農から庄屋への出稼ぎ申請です。病身で農業ができないので、出稼ぎにでたいと申し出ています。健常者には、出稼ぎは許されなかったようです。

江戸時代には「移動の自由」はないので、旅に出るには「大義名分」が必要でした。
「大義名分」のひとつが、「伊勢参り」や「四国巡礼」などの参拝でした。また「湯治」という手もあったようです。それを見ておきましょう。
願い奉る口上
一、私儀近年病身御座候につき、同郡上法軍寺村医者秀伊へ相頼み養生仕り候所、しかと御座無く候。この節有馬入湯しかるべき由に指図仕り候につき、三回りばかり湯治仕りたく存じ奉り候。もっとも留守のうち御用向きの義は蔵組頭与右衛門へ申し付け、間違いなく相勤めさせ申すべく候間、右願いの通り相済み候様よろしく仰せ上られくださるべく候。願い奉り候。以上。
安永二年巳 四月      .鵜足郡東小川村 政所     利八郎
    意訳変換しておくと
近年、私は病身気味で、上法軍寺村の医者秀伊について養生してきましたが、一向に回復しません。そこでこの度、有馬温泉に入湯するようにとの医師の勧めを受けました。つきましては、「三回り(30日)」ほど湯治にまいりたいと思います。留守中の御用向きについては、蔵組頭の与右衛門に申し付けましたので、間違いなく処理するはずです。なにとぞ以上の願出について口添えいただけるようにお願いいたします。以上。
安永二(1773)年巳 4月      .鵜足郡東小川村政所     利八郎

東小川村政所(庄屋)の利八郎が、病気静養の湯治のために有馬温泉へ行くことの承認申請願いです。期間は三回り(30日)となっています。利八郎の願出には、次のような医者の診断書もつけられています。
一札の事
一、鵜足郡東小川村政所利八郎様病身につき、私療治仕り候処、この節有馬入湯相応仕るべき趣指図仕り候。以上。
安永二年巳四月        鵜足郡上法軍寺村医者     秀釧
ここからは、村役人である庄屋は、大政所(大庄屋)の十河家に申請し、高松藩の許可を得る必要があったことが分かります。もちろん、湯治や伊勢詣でにいけるのは、裕福な農民達に限られています。誰でもが行けたわけではなく、当時はみんなの憧れであったようです。それが明治になり「移動や旅行の自由」が認められると、一般の人々にも普及していきます。庄屋さん達がやっていた旅や巡礼を、豊かな農民たちが真似るようになります。
 有馬温泉以外にも、湯治に出かけた温泉としては城崎・道後・熊野など、次のような記録に残っています。(意訳)
  城崎温泉への湯治申請(意訳)
願い上げ奉り口上
一、私の倅(せがれ)の喜三太は近年、癌気(腹痛。腰痛)で苦しんでいます。西分村の医師養玄の下で治療していますが、(中略)この度、但州城崎(城崎温泉)で三回り(30日)ばかり入湯(湯治)させることになりました。……以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡土器村咤景    近藤喜兵衛
    道後温泉への湯治申請

道後温泉からの帰着報告書 十河文書
 川原村組頭の磯八の道後温泉からの湯治帰還報告書(左側)
願い上げ奉る口上
一、私は近年になって病気に苦しんでいます。そこで、三回り(30日)ほど予州道後温泉での入湯(湯治)治療の許可をお願い申し上げました。これについて、二月二十八日に出発し、昨日の(3月)28日に帰国しまた。お聞き置きくだされたことと併せて報告しますので、仰せ上られくださるべく候。……以上。
弘化四未年二月          川原村組頭 磯八      
ここからは川原村の組頭が道後温泉に2月28日~3月28日まで湯治にいった帰国報告であることが分かります。行く前に、許可願を出して、帰国後にも帰着報告書と出しています。上の文書の一番左に日付と「磯八」の署名が見えます。また湯治期間は「三回り(1ヶ月)という基準があったことがうかがえます。

また、大政所の十河家当主は、各庄屋から送られてくる申請書や報告書を、写しとって保管していたことが分かります。庄屋の家に文書が残っているのは、このような「文書写し」が一般化していたことが背景にあるようです。

今度は熊野温泉への湯治申請です。
願い上げ奉る口上    (意訳)
私は近年病身となりましたので、紀州熊野本宮の温泉に三回り(30日)ほど、入湯(湯治)に行きたいと思います。行程については、5月25日に丸亀川口から便船がありますので、それに乗船して出船したいと思います。(後略)……以上。
弘化四(1848)年  五月     鵜足郡炭所東村百姓    助蔵 判
庄屋平田四郎右衛門殿
熊野本宮の温泉へ、丸亀から出船して行くという炭所東村百姓の願いです。乗船湊とされる「丸亀川口」というは、福島湛甫などが出来る以前の土器川河口の湊でした。
丸亀市東河口 元禄版
土器川河口の東河口(元禄10年城下絵図より)

新湛甫が出来るまでは、金毘羅への参拝船も「丸亀川口」に着船していたことは、以前にお話ししました。それが19世紀半ばになっても機能していたことがうかがえます。
 しかし、どうして熊野まで湯治に行くのでしょうか。熊野までは10日以上かかります。敢えて熊野温泉をめざすのは、「鵜足郡炭所東村百姓  助蔵」が熊野信者で、湯治を兼ねて「熊野詣」がしたかったのかもしれません。つまり、熊野詣と湯治を併せた旅行ということになります。
病気治療や湯治以外で、農民に許された旅行としては伊勢参りや四国遍路がありました。
願い上げ奉ろ口上
一、人数四人        鵜足郡炭所東村百姓 与五郎
       専丘衛
       舟丘衛
       安   蔵
右の者ども心願がありますので伊勢参宮に参拝することを願い出ます。行程は3月17日に丸亀川口からの便船で出港し、伊勢を目指し、来月13日頃には帰国予定です。この件についての許可をいただけるよう、よろしく仰せ上られるよう願い上げ奉り候。以上。
弘化四(1847)末年三月    同郡同村庄屋    平田四郎兵衛
炭所東村の百姓4人が伊勢参りをする申請書が庄屋の平田四郎兵衛から大庄屋に出されています。この承認を受けて、彼らも「丸亀川口」からの便船で出発しています。この時期には、福島湛甫や新堀港などの「新港」も姿を見せている時期です。そちらには、大型の金毘羅船が就航していたはずです。どうして新港を使用しないのでしょうか?
考えられるのは、地元の人間は大阪との行き来には、従来通りの「丸亀川口」港を利用していたのかもしれません。「金毘羅参拝客は、新港、地元民は丸亀川口」という棲み分け現象があったという説が考えられます。もう一点、気がつくのは、湯治や伊勢参りなども、旧暦2・3月が多いことです。これは農閑期で、冬の瀬戸内航路が実質的に閉鎖されていたことと関係があるようです。

大庄屋の十河家に残された文書からは、江戸時代末期の農民のさまざまな姿が見えてきます。今回はここまで。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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参考文献 「飯山町史330P 農民の生活」
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  江戸時代後期になると、賢い庄屋たちは記録を残すことの意味や重要性に気づいて、手元に届いた文書を書写して写しを残すようになります。その結果、庄屋だった家には、膨大な文書が近世史料として残ることになります。丸亀市飯山町法勲寺には、江戸時代に大政所(大庄屋)を務めた十河家があります。ここにも「十河家文書」が残され、飯山町史に紹介されています。今回は、その中から江戸時代の農民の生活が実感できる史料を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。

もともとの鵜足郡(うたぐん)は、次のような構成でした。
 ①津野郷 – 宇多津・東分・土器・土居
 ②二村郷 – 東二(ひがしふた)・西二(にしふた)・西分
 ③川津郷 – 川津
④坂本郷 – 東坂元・西坂元・眞時・川原
⑤小川郷 – 東小川・西小川
⑥井上郷 – 上法軍寺・下法軍寺・岡田
⑦栗隈郷 – 栗熊東・栗熊西・富熊
⑧長尾郷 – 長尾・炭所東・炭所西・造田・中通・勝浦

これを見て分かるのは、江戸時代の⑧の長尾郷は鵜足郡に属していたことです。近代になって仲多度郡に属するようになり、現在ではまんのう町に属するようになっています。しかし、江戸時代には鵜足郡に属していました。そのため長尾郷の村々の庄屋は、鵜足郡の大庄屋の管轄下にあったことを押さえていきます。十河家文書の中に、長尾郷の村々が登場するのは、そんな背景があります。

讃岐古代郡郷地図 西讃
西讃の郷名
近世の村を考える場合に、庄屋を今の町村長に当てはめて考えがちです。しかし、庄屋と町長は大分ちがいます。今の町長は、町民のかわりに税金を払ってはくれませんが、江戸時代の庄屋は村民が年貢を納められない時はかわって納める義務がありました。また庄屋は、今の警察署長の役目も負っていました。例えば、村には所蔵(ところぐら:郷蔵)という蔵があったことは以前にお話ししました。
高松藩領では、村々の年貢は村の所蔵に納め、それから宇多津の藩の御蔵へ運ばれました。所蔵には、年貢の保管庫以外にも使用用途がありますた。それは警察署長としての庄屋が犯罪者や問題を起こした人間を入れておく留置場でもあったのです。どんなことをしたら、所蔵
に入れられたのでしょうか。十河文書の一つを見てみましょう。
一筆啓上仕り候。然らば去る十九日夜栗熊東村にて口論掛合いの由にて、当村百姓金蔵・八百蔵両人今朝所蔵へ入れ置き候様御役所より申し越しにつき、早速入れ置き申し候間、番人など付け置き御座候。
弘化四年 二月十二日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
     意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。先日の2月19日夜、栗熊東村で口論の末に喧嘩を起こした当村の百姓・金蔵と八百蔵の両人について、今朝、所蔵(郷倉)へ入れるようにとの指示を役所より受けました。つきましては、指示通りに、両名を早速に収容し、番人を配置しました。
弘化四(1947)年2月22日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
東栗熊村の庄屋からの報告書です。19日夜に百姓が喧嘩騒動を起こしたので、それを法勲寺の大庄屋十河家に報告したのでしょう。その指示が通りに所蔵へ入れたという報告書です。時系列で見ると
①19日夜 喧嘩騒動
②20日、 栗熊村庄屋から法勲寺の大庄屋への報告
③22日朝、大庄屋からの「所蔵へ入れ置き」指示
④22日、 栗熊村庄屋の実施報告
と、短期間に何度もの文書往来を経ながら「入れ置き(入牢)」が行われていることが分かります。村の庄屋は、大庄屋に報告して判断を仰がなければならない存在だったことが分かります。

次は村で起きた「密通・不義」事件への対応です。
 一筆申し上げ候
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
右の者共内縁ひきもつれの義につき、右庄次郎後家より申し出の次第もこれあり、双方共不届きの始末に相聞え候につき、まず所蔵へ禁足申しつけ、番人付け置き御座候。なお委細の義は組頭指し出し申し候間、お聞き取りくださるべく候。右申し上げたくかくの如くに御座候。
(弘化四年)七月三日      栗熊東村庄屋 清左衛門
意訳変換しておくと
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
上記の両者は、「内縁ひきもつ(不義密通)と、庄次郎後家より訴えがあり、調査の結果、不届きな行いがあったことが分かりました。そこで、両者に所蔵禁足に申しつけ、番人を配置しました。なお子細については、組頭に口頭で報告させますので、お聞き取りくだい。以上。
弘化四(1847)年7月3日      栗熊東村庄屋 清左衛門

今度は、栗熊東村からの「不義密通」事件の報告です。事実のようなので、両者を所蔵(郷倉)に入れて禁足状態にしているとあります。大庄屋の措置は分かりません。ここからは、所蔵が村の留置場として使われていたことが分かります。
それでは所蔵は、どんな建物だったのでしょうか?
所蔵の改築願いの記録も、十河家文書の中には次のように残されています。
一 所蔵一軒   石据え
  但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き、前壱間下(げ)付き、
一、算用所壱軒    石据え
  但し壱丈四方、一真葺き
右は近年虫入に相成、朽木取繕い出来難く、もっとも所蔵はこれまで藁葺き。桁行三間半にて御座候ところ、半間取縮め、右の通りに建てかえ申したく存じ奉り候。御時節柄につき随分手軽に普請仕りたく存じ奉り候。別紙積り帳相添え、さし出し申し候間、この段相済み候様仰せ上られくださるべく候。願い上げ奉り候。以上。
弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿
  意訳変換しておくと
所蔵と算用所の建て替えの件について
この建物は近年、白蟻が入って朽木となって修繕ができない状態となっています。所蔵は、これまで藁葺きで、桁行三間半でしたが、半間ほど小さくして、右の規模で建て替え建てを計画しています。倹約の時節柄ですおで、できるだけ費用をかけずに普請したいと考えています。別紙の通り見積もり書を添えて、提出いたしますので、御覧いただき検討をお願いいたします。
   弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿

岡田東村からの所蔵の改築申請書です。ここからは。いままでは藁ぶきの「二間×三間半」だったのが、弘化四(1847)年の建替時に、瓦葺きで二間×三間に減築されたことが分かります。「石据え」というのは、柱が石の上に立てられていたこと、「前壱間下付き」というのは、所蔵の建物の表に、 一間の下(ひさしのように出して柱で受け、時には壁までつけた附属構造)が出ていたことです。この下の一間四方分は「番小屋」については、次のように別記されています。

前壱間下(げ)付きにて、右下の内壱間四方の間番小屋に仕り候積り。

ここからは下(げ)の下は、一間四方の間番小屋として使っていたことが分かります。 

 所蔵(郷倉)は、一村に一か所ずつありました。
所蔵が年貢米の一時収納所でもあり、留置場でもあったことは今見てきたとおりです。そのため地蔵(じくら)とか郷牢(ごうろう)とも呼ばれていたようです。
吉野上村(現まんのう町)の郷倉については、吉野小学校沿革史に次のように記されています。(意訳)
吉野上村郷倉平面図
吉野上村の郷倉
 明治7年(吉野)本村字大坂1278番地の建物は、江戸時代の郷倉である。その敷地は八畝四歩、建物は北から西に規矩の形に並んでいる。西の一軒は東向きで、瓦葺で、桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下(げ)付である。その北に壁を接して瓦葺の一室がある。桁行三間、梁間二間で、東北に縁がついている。その次は雪隠(便所)となっている。
北の一棟は草屋で、市に向って、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付である。西の二棟を修繕し、学校として使い、北の一棟を本村の政務を行う戸長役場としていた。
 世は明治を迎え文明開化の世となり、教育の進歩は早くなり、生徒数は増加するばかりで、従来の校舎では教室が狭くなった。そこで明治八年四月、西棟を三間継ぎ足して一時的な間に合わせの校舎とした。その際に併せて、庭内の東南隅に東向の二階一棟も新築した。これが本村交番所である。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付の建物である。
   明治になって、所蔵(郷倉)の周囲に、学校や交番、そして役場が作られていったことがうかがえます。そういう意味では、江戸時代の所蔵が、明治の行政・文教センターとして引き継がれたとも云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史330P 農民の生活
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  宝永の大地震については、以前に次のような事をお話ししました。
①牟礼町と庵治町の境にある五剣山の南端の五ノ峰が崩れ落ちて「四剣山」となってしまったこと。
②高松城下町に津波や倒壊家屋など大きな被害が出たこと
③海岸沿いの新田開発地帯で液状化現象が数多く発生したこと
今回は、それから約150年後の安政の大地震を、坂出の史料で見ていくことにします。テキストは「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」です。

安政東海地震・安政南海地震(安政元年11月5日) | 災害カレンダー - Yahoo!天気・災害

安政の大地震とは、次のような一連の地震の総称のようです。
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)- 日米和親条約締結。
1854年7月9日(嘉永7年6月15日)- 伊賀上野地震。
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)- 安政東海地震(巨大地震)。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日)- 安政南海地震(巨大地震)。
1854年12月26日(嘉永7年11月7日)- 豊予海峡地震。
1855年1月15日(安政元年11月27日)- 安政に改元。
1855年2月7日(安政元年12月21日)- 日露和親条約締結。
1854年旧暦の11月4日午前10時頃、駿河湾から熊野灘までの海底を震源域とする巨大地震が発生します。それに続いて30時間後の5日午後4時頃、今度は紀伊水道から四国沖を震源域とする巨大地震が続いて起きます。駿河トラフと南海トラフで連動して起きたブレート境界地震で、いずれもマグニチュード8・4と推定されています。関東から九州までの広い範囲で大津波が押し寄せます。4日の地震では、東海道筋の城下町や宿場町が大きな被害を受けます。5日の地震では、瀬戸内海沿いの町々でも家屋の倒壊や城郭の損壊が相次ぎ、紀伊半島や四国では10mを超える大津波に襲われます。津波は瀬戸内海や豊後水道にも及んだとされます。

東海地震と南海地震の連携
 東海地震と南海地震のダイヤグラム
東海地震と南海地震は、引き続いて起きる傾向があるようです。
この時も、東海地震の翌日に南海地震が起きています。この地震が起きたときは、年号はまだ嘉永7年でした。それが地震直後に、年号が改められて「安政」となります。ペリー来航で世の中が揺れる中での天変地異に民心も揺らいだようです。
3坂出海岸線 1811年
塩田が出来る前の1811年頃の坂出村
江戸時代末に宮崎栄立が著した『民賊物語』には、坂出市域の状況が次のように記されています。

①十一月四日昼四ツ時地震、五日昼七ツ時二大地震イタシ家二居ル者無シ、夫ヨリハ度々ノ地震ユヘ坂出村ノ者ドモ大ヒニ恐怖シテ野宿イタシ、六日ニモ亦々以前ノ如ク西ノ方ヨリドロドロ卜鳴来ツテ、地震止ネバ村中家々二小屋ヲ掛ヶ人々ハ其中二居レリ
 
意訳変換しておくと
11月4日昼四ツ時(10時頃)地震発生、
翌5日昼七ツ時(16時頃)に、今度は大地震が起こり家の中には誰もいない。それから度々の余震が続き、坂出村の人々は恐怖で、家に帰らずに避難し野宿した。六日にも西の方からどろどろと大きな音が続いた。地震が止まないので、村人は小屋掛けして、その中に避難している。

   ここからは東海地震と南海地震が連動して発生したことが分かります。余震におびえる村人達は仮小屋を建てて「野宿」しています。

②  五日ノ大地震二付坂出村ノ破損ハ左ノ如シ 
新浜分ハ、大地裂ケ石垣崩レ、沖ノ金昆羅神ノ拝殿崩レ、橋モ二箇所落テ、塩釜神ノ石ニテ造リタル大鳥居折レタヲレタリ、其外ニ人家破損セサハ更二無シ、塩壺釜屋二損セフハ無ユヘ新地ハ村中ノ大破卜申スベシ、其次ノ破損ハ新開、東洲賀、中洲賀、其次ノ破損ハ西洲賀、内濱也、大破モアレバ小損モ有シガ、是ハ家々ノ幸不幸卜云ベシ、其次二新濱分ハ家二居憎キ程ノ大大地震タレドモ、瓦一枚モ損無ケレバ有難キトテ喜バヌ者ハ喜バヌ者ハ無ク、其内ニ谷本澤次郎居宅ハユガミ出来土塀等モ崩レシカバ先二大破卜中ス也、屋内横洲ノ在所ハ新濱同様ノ由ニテ格別損ジハ非ズシテ喜ビ居ケル也

   意訳変換しておくと
②  五日の大地震の坂出村の被害状況は次の通りである。
 新浜では、大地が裂け石垣が崩れ、沖の金昆羅社の拝殿が壊れた。橋も二箇所で落ち、塩釜神社の石の大鳥居も折れた。その他の人家には被害はない。塩田の塩壺・釜屋の被害もないようだが新地は村中が大破している。その次に被害が大きいのは新開、東洲賀、中洲賀、、次が西洲賀、内濱となる。大破した家もあれば、小破ですんだ家もある。これはその家々の幸不幸と云うべきだろう。新濱分は、大地震だったが瓦一枚の被害も出ていない。これを有難いことと喜ばない者はいない。その内の谷本澤次郎の居宅は、家が歪んで、土塀も崩れたので大破とした。屋内横洲の在所は、新濱と同じように格別の被害はなかったと喜んでいる。
ここでは坂出村の被害状況が述べられています。
地域のモニュメントでもある金毘羅神の拝殿が崩壊し、橋が落ち、塩寵神社の大鳥居が折れています。被害は、エリアで大小があるようです。
坂出村は、近世になって塩田開発が行われ、そこに立地した村です。埋め立て状況によって、地盤の強度に差があったことがうかがえます。これは後述する液状化現象とも関わってきます。

製塩 坂出塩田 久米栄左衛門以前
久米栄左衛門以前の坂出塩田
③ 大坂ハ夏六月十五日大地震ノ時二市中ノ者ドモハ老若男女トモ、船二乗ツテ地震ノ災ヒヲ遁レタレバ、此度モ夏ハ如ク皆々船二乗ツテ居タル所、其員数ハ知レ難ク、死骸ノ川辺ニ累々トシテ山岳ノ如ク、其時二坂出浦ノ船大坂ノ川二在ツテ破船シタルハ左ノ如ク
一 入福丸二百石積 庄五郎船
一 灘古丸二百石    七之助船
一 弁天丸 百石    市蔵船
以上大破之分
右入福丸ノ居船頭ハ横洲ノ駒吉、灘吉丸ノ居船頭ハ新地ノ松三郎、弁天丸ノ居船頭ハ新地ノ和右衛門 其時ノ船頭ハ和右衛門ノ甥佐之吉也、灘吉丸弁天丸ノニ艘ハ大破ニテ作事二掛ラズ、入福丸ハ大坂ニテ作事イタシ国へ帰リタリ、三艘トモ木津川二居レリト云
一 長水丸 百石    和吉船
一 末吉丸六十石   宮次郎船
一 宝水丸 百石    利吉船
一 長久丸六十石   元助船
以上小破之分
右ハ少々ノ損シユヘ作事シテ国へ帰ル、此四艘ハ安治川二居レル由坂出船都合七艘也、大小ノ破損二逢ヘドモ船頭ヲ始メ水主及ヒ梶取二至るマデ死亡ノ者一人モ無ク皆々帰リテ申しケルハ、本津川ニハ死人多ク安治川ハ少シ、大坂帳面着ノ死人凡四千六百余人、其外帳二着ケザ几者数へ難之
   意訳変換しておくと
③ 大坂では夏六月に発生した伊賀上野地震の時に、老若男女が船に避難して難を逃れた。そこで今回も前回の時のように、多くの人々が船に避難した。そこへ津波が襲いかかり、多くの死者を出した。その数は数え切れないほどで、死骸が川辺に累々として打ち寄せられ山の如く積み上がった。
この時に、坂出浦の船で大坂に入港していて、大破した船は次の通りである。
一 入福丸二百石積 庄五郎船
一 灘古丸二百石    七之助船
一 弁天丸 百石    市蔵船
この内、船頭は、入福丸は横洲の駒吉、灘吉は新地の松三郎、弁天丸は新地の和右衛であった。
灘吉丸と弁天丸の2艘は大破でも修理せず、入福丸は大坂で修理して坂出に帰ってきた、三艘ともに木津川に停泊中だったと云う。
以下の4艘は小破であった。
一 長水丸 百石    和吉船
一 末吉丸六十石   宮次郎船
一 宝水丸 百石    利吉船
一 長久丸六十石   元助船
この4艘は、損傷が小さかったので修理して、坂出に帰ってきた。この四艘は安治川にいたという。以上、坂出船は合計で七艘、震災時に大坂にいたことになる、それぞれ大小の破損を受けたが船頭を始め、水夫や梶取に死者はおらず、みな無事に帰ってきた。彼らが伝えるには、本津川の方に死者が多く、安治川は少ないとのこと。大坂からの帳面には、死人凡四千六百余人、其外帳二着ケザ几者数へ難之
大坂の木津川と安治川

④ここからは、大坂での大地震の時に、坂出村の廻船7艘が大坂の安治川と木津川に寄港中であったことが分かります。
坂出村からは「塩の専用船」が大坂と間を行き来していたようです。旧暦6月は真夏に当たるので、塩の生産量が増える時期だったのでしょう。それにしても、この日、坂出村の船だけで七艘が入港していたのは私にとっては驚きです。中世には、塩飽などの塩船団は、何隻かで同一行動を取っていたことは以前にお話ししました。ここでも二つのグループが船団を組んで、木津川と安治川に入港中だったとしておきます。
 また、6月の地震の時に船に逃げて難を避けた経験が、今回は大津波でアダとなったことが記されています。

坂出 阿野郡北絵図
阿野郡北絵図 ③が坂出村
④ 庄屋・阿河加藤次ヨリ来ル御触ノ写シ左之如ク
一筆申進候、然者此度地震ヨリ高波マイリ候様イ日イ日雑説申シ触候様者有之愚味ノ者ヲ惑ハシ候事二可有之候哉、イヨイヨ右様ノ次第二候ハバ御上ニモ御手充遊バシ一同江モ屹度御触レ在之候事二可有之候間、左様風説構ハズ銘々ノ仕業ヲ専二相働キ盗人ヤ火事ノ手当無油断心掛ケ、此節ハ幸卜人々ノ迷惑を不構諸色直段上ケ致候者ハ迫々御札シ御咎モ可相成候間、随分下直二商ヒ大工左官日雇賃モ御定ノ通リ可致、併シ此節すみかノ事二付働キ振二寄り少々之義ハ格別ノ事二候、夫々心得違ヒ無之様早々村々江御申渡可被成候、此段申進候 以上、
森田健助
鎌田多兵衛
本条和太右衛門サマ
渡辺五百之助サマ
右之通り御触在之候段、大庄屋中ヨリ申来候間、其組下ヘ早々御申渡シ可破成候、以上、
阿河加藤次
十一月十五日
内濱  新濱
屋内  洲賀
新地
       意訳変換しておくと
藩の手代 → 阿野郡大庄屋渡邊家 → 坂出村庄屋阿河加藤次のルートで廻されてきた触書きの写しを挙げておく。
 一筆申進候、今度の地震で高波(津波)が押し寄せるという雑説(流言)があるが、これは愚味者を惑わすフェイクニュースである。これについてはお上でも対応を考えて手当して、一堂へも通知済みである。よって、怪しい情報に迷わされずに各々の仕業に専念し、盗人や火事に対して油断なく心がけること。このような非常時には、これ幸と人々の迷惑を顧みずに、法令を犯す者も出てくる。それには追って高札で注意する。商いについても大工・左官・日雇の賃金も規定通り従来の価格を維持すること、ただし、住居については火急のことなので、その働きぶりで少々のことは大目にみる。以上、心得違いのないように、早々に村々に通知回覧すること。

④ ここからは坂出でも、多くの流言飛語がとびかっていたことがうかがえます。
これに対する高松藩の対応が、藩の手代→大庄屋→坂出村庄屋・阿河加藤次からの触れというルートで流されています。その中には、物価高騰への対策や大工・左官・日雇などの賃金の高騰防止策も含まれています。

讃岐阿野北郡郡図2 坂出
阿野北郡郡図

⑤先日ノ大地震二坂出村ニハ怪我人マタハ死人など一人モ無キ事ハ、是ヒトヘニ氏神八幡ノ守護二依テヤ、掛ル衆代未曾有ノ大地震二不思議卜村中ノ者ドモ危難ヲ遁レタル御祀卜申シテ、近村ノ神職ヲ頼ミ、十一月十五日ノ夜八幡神前二在テ薪火ヲ焼テ神へ御神楽ヲ奏シ承リタリ
一 同月十六日村中ノ者、小屋ヲ大半過モ取除申セシ所二、晩方二地震イタシ、夜二入ツテ大風吹出シ次第卜募り、雪交ヘ降り地震モ度々也、其夜之風ハ近年二覚ヘザル大風ナリ
一 村方庄屋ヨリ申越タル書付ノ写、左ノ如シ
一筆申し進候、然者今度地震二付御家中屋敷屋敷大小破損ノ義在之候哉、兼テ暑寒等モ勤相ハ無之筈二候エドモ、中ニハ近規格段懇意ノ向等ヘハ相互ヒ見舞ヒ等二罷り越シ候面々モ有之候エバ近親タリトモ一切見舞ヒニ不罷越様、右ノ趣キ御心得早々村々へ御申シ通可被成候、以上、
十一月十六日出
( 中略 )
  意訳変換しておくと
⑤先日の大地震で坂出村では怪我人や死人が一人も出なかった。これはひとえに氏神の八幡神の守護のおかげである。未曾有の大地震にも関わらず村中の人々が危難から救われたお礼にをせねばならぬとして、近村の神職に頼んで、10日後の15日の夜に八幡神前で松明を燃やして、神楽を奉納することになった。

一 その翌日16日になって、村中の者が、避難小屋の大半を取除いた所、晩方に再び地震があった。さらに、夜になって大風が吹出し、次第に強くなり、雪交ヘ降りとなった。その上、余震が何度もあった。この夜の風は、近年で最も強いものであった。
一 村方の庄屋の回覧状写には、次のようにしるされていた。
一筆申し進候、今回の地震について、家中屋敷でも大小の破損があった。中には格段に懇意にしている家に見舞いに行きたいと考える人達もいたが、近親といえども今回は見舞いを控えている。このような心得を早々に村々に伝えるように、以上、
十一月十六日出( 中略 )

ここからは次のようなことが分かります。
A 今回の大地震で坂出村では死人が一人も出なかったこと。
B それを神の御加護として、御礼のために八幡神社で神楽奉納が行われたこと。
C 家中屋敷も被害が出ているが、見舞いは控えるようにとの通達が出されていること
  雨乞いのお礼のために踊られたのが、滝宮(牛頭天王)社に奉納された念仏踊りでした。同じように、神の加護お礼に、神楽が奉納されています。天変地異と神の関係が近かったことがうかがえます。

坂出風景1
坂出
墾田図
⑥十一月二十二日地震ヲ鎮ンガ為ノ祈祷トテ坂出八幡宮ニテ村中ニテ村中安全五穀豊饒ノ大般若経フ転読ス
評曰く、当国高松大荒レ死人多ク有ル由、土佐大荒レ、阿波大波打死人多ク出火焼亡所モ有、伊豫大荒レ、紀伊モ大荒レ、播磨大荒レ、明石最モ大荒レ、家々皆潰レ人麿ノ社ノミ残ル、備前備中モ大荒レ、其中塩飽七島ハ地震少々ニテ島人ハ憂ヒ申サス、中国西国九州二島ノ地震ヲ云者アラ子バ其沙汰ヲ聞カズ、
     意訳変換しておくと
⑥11月22日、地震を鎮めるための祈祷として、坂出八幡宮で安全五穀豊饒のために大般若経の転読を行った。
評曰く、讃岐高松は地震で大きな被害を受けて死人も出ている。土佐大荒、阿波では大波(津波)で多くの死者が出た上に、出火で焼けた処もおおい。伊豫大荒れ、紀伊モ大荒れ、播磨大荒れ、明石は最も大荒レ、家々が皆潰れて人麿社だけが残った。備前・備中も大荒レ、塩飽七島は地震の被害が少なく、島人も困っていない。中国・四国・九州の島の地震については、情報が入ってこないので分からない。
  大般若経の転読は、大般若経六百巻を供えた寺社で行われていた悪霊や病気払いの祈祷です。
讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から
大般若経転読
別当寺の社僧達が経典を、開いて閉じで「転読」します。この時に起こる風が「般若の風」と云われて、効能があるものとされてきました。坂出八幡宮にも大般若経六百巻があったことが分かります。
一 江戸目黒御屋敷二居ケル近藤姓ノ書状左ノ如ク
筆啓上…(中略)…去ル四日ヨリ五日エ古今稀成ル大地震ニテ高松城内フ始メ御家中町内郷中二至ルマデ潰レ家転ビ家怪我人又ハ死人其数知レズ、誠二御国中ノ義ハ何トモ筆紙二難書候由、宿元ヨリ委ク申参シテ夥シキ御事二奉存候、此元ニテモ去四日ヨリ五日ヘハ大地震ニテ大混雑イタシタル義高松ノ宿元ヘ委ク申し遣ハシ置候間、御城下へ御出掛被成候エバ御間可被成候、御伯父サマノ居宅ハ地震ノ破損如何二御座候哉、格別成ル御イタミ所ハ無之義候力、且ハ御家内サマ方ニテ御怪我ハ無之力、年蔭大心配申し上候、誠二近年ハ色々ノ凶事バカリ蜂ノ如ク起こり候エバ、何トモ恐日敷事ニ奉候先ハ蒸気卜地曇トノ見舞ヒ芳申し上度如此御座候、尚則重徳ノ時候、恐惇謹言、
近藤本之進
十一月念三日
坂出村
宮崎善次郎サマ
人々御中
      意訳変換しておくと
江戸目黒屋敷の近藤姓からの書状には、次のように記されていた。
筆啓上…(中略)…去る4日から5日にかけて今までにない規模の大地震で、高松城内を始め家中や町内郷中に至るまでに、家屋が倒壊したり、負傷者や死者が数え切れないほど出ている。国元の惨状は筆舌に現しがたいことなどが書状で伝えられています。こちらも四日から五日には、大地震で大混雑になったことについては高松の宿元へ書状で書き送った。さて、高松城下へ御出かけの際には、伯父さまの居宅の地震被害の様子がどんな風なのかお聞きおきいただきたい。格別な被害がないかどうか、或いは家内の方々に御怪我はなかったのか、など大変心配しております。誠に近年は色々と凶事ばかり続き、何とも恐ろしい気がします。まずは蒸気(ペリー来航)と大地震の見舞い申し上げます。尚則重徳ノ時候、恐惇謹言、
遠く離れた江戸との連絡は、飛脚便で取れていること。しかし、情報が少なく親族の安否や被害状況の確認がなかなか取れずに、心配していることがうかがえます。
⑦ 同月二十五日昼四ツ時分ヨリ地鳴ヤラ海鳴ヤラ山鳴ヤラ何トモ知レ難ク坂出ノ人々大ヒニ心配セル所二昼九ツ時二雷一声鳴ツテ大風大雨地震セシカバ新地ノ者ドモ大ヒニ畏恐レテ背々岡へ逃上タル、是ハ大坂ノ如キ津波ヲ恐レテ船二乗シ者一人モ無シ
一 十二月朔日、新濱中トシテ村中祈祷ノ為二翁ガ住ケル門前二金毘羅神ノ常夜燈ノ有ツル所ニテ地震ヲ鎮メン連、岩戸ノ御神楽ヲ神へ奉ツル員時ノ祈人ハ川津村大宮ノ神職福家津嘉福、春日ノ神職福家斎、御神楽阻話人ノ名前ハ左ノ如ク 
藤七藤吉 孫七郎 貞七 忠兵衛 好兵衛 典平太 権平 勘兵衛 虎占 佐太郎 澤蔵
以上、
評曰く、象頭山金毘羅人権現ノ御鎮座ノ社地ハ申スニ及ハズ、室橋ノ内ハ柳モ地震ノ損ジ無キハ御神徳二依ルユヘトゾ云、尊卜候ベシ候ベシ、四条村榎井村ハ大荒レノ由ヲ聞ク、
  意訳変換しておくと
⑦ 11月25日昼四ツ時分から地鳴やら海鳴・山鳴などの何ともしれない音がして、坂出の人々を不安にさせた。昼九ツ時になって、雷鳴とともに、大風大雨に加えて地震も起きた。新地の人達は、これに畏れて岡へ逃げた。しかし、大坂のように津波を恐れて船に乗る者は一人もいなかった。
一 12月1日、新濱では祈祷のために翁が住んでいる門前に金毘羅神の常夜燈が建っている所で、地震退散のために、岩戸神楽を神へ奉納することになった。祈人は川津村大宮の神職福家津嘉福、春日の神職福家斎、神楽世話人の名前は次の通り。藤七藤吉 孫七郎 貞七 忠兵衛 好兵衛 典平太 権平勘兵衛 虎占 佐太郎 澤蔵
以上、
評曰く、象頭山金毘羅大権現の鎮座する社地を始め、その寺領には地震の被害がなかったのは、御神徳によるものだと皆が噂する。金毘羅さんの威徳は尊ぶべし。ところが寺領と隣接する四条村や榎井村は大きな被害が出ていると聞く。
地震から20日近くたっても余震が収まらないので、人々は不安な毎日を送っているのが伝わってきます。
そんな時に人々が頼るのは神仏しかありません。無事祝いと称して、八幡さんに神楽を奉納し、地震退散のために、「般若の風」を吹かせるために大般若経の転読を行います。そして、今度は金比羅常夜燈の前で、地震を鎮めるために岩戸神楽の奉納が行われています。
それでも余震は続きます。しかし、人々も経験に学んでいます。大坂のように、地震があっても船に逃げる人はいないようです。岡に逃げています。坂出村なので、聖通寺山に避難していたのでしょうか。
⑧ 十二月三日夜四ツ時、地震ヤル
一 同月七日ノ夜、村中横洲祗園宮へ横洲ノ者祈祷トシテ御神楽ヲ奉マツル
一 同十四日ノ境二、地震マタ、其夜ノ八ツ時二人ヒニ地震雨是ハ、先月五日以来ノ大地震卜沙汰スル也、
評曰く、十一月五日ノ大地震二先君源想様ノ御実母 善心様御義早速二御林ノ御別館へ御立除ノ由也、然ル所二、同月二十五日マタマタ高松大ヒニ地鳴セル、晩方二成ルト雖トモ止ス、請人恐レケル時二誰申ストモ寄り浪ノ此地へ打来ラントテ主膳様ヲ始メトシテ御中屋敷大膳様 御大老飛騨様等御方々サヘ津波ヲ恐レテ疾ニモ御屋敷ヲ御立給ヒテ南方フ指テ御出テ有リツルハ定メテ御林ノ御別館へ御入り有リテ 善心様卜御一行二成ラセラレタラン、弥、津波来ラバ内町ノ者ハ危シト俄カニ騒キ立テ、先ハ老人或ハ小供又ハ病者婦人杯ノ足弱キ者トモフバ所々縁ヲ求メ、外町へ出シ、男子ハ居宅ヲ守り、夜ヲ明シタル、
評曰く、先日大地震ノ時、当浦ニモ津波気色少シハ有シヤ、汐引マジキ時二引キヌ、満マジキ時二大ヒニ満レハ、矢張り津波ノ気色ヤラント新地ノ者ノ沙汰ナリ、
又評曰く、三木牟祀村ノ五剣山昔ノ地震二一剣ノ峯ノ崩レタリ、又当年ノ大地震ニモ峯ノ崩レタルト也、何レノ峯ヤラ知ラズ、( 後略 )

  意訳変換しておくと
⑧ 12月3日夜四ツ時、地震発生
一 同月7日ノ夜、横洲の祗園宮へ横洲人々は祈祷として神楽を奉納した
一 同14日ノ夜、8ツ時に地震が起きた。これは先月5日以来の大地震であった。
評曰、11月5日の大地震に高松藩先君の実母・善心様は早速に栗林の別館へ避難されたようだ。
25日に高松では地鳴がして、晩方になっても止まない。この時に、誰ともなく津波が高松にも押し寄せるのではないかという噂が拡がった。そのため主膳様を始めとして中屋敷の大膳様や大老飛騨様なども、津波を恐れて屋敷を立ち退き、かねてより指定されていた栗林の別館へ避難した。そして善心様と合流した。
 これを聞いて津波が襲来すれば内町の者危ないと、人々も騒ぎたて、まずは老人や小供、病者・婦人などの足の悪い者は縁者を頼って、外町へ出し、男子は居宅を守って、夜を明した。
評曰く、先日11月の大地震の時には、坂出浦にも津波の気配が少しはあったが、引き潮時分であったので被害はなかった。もし満潮時であれば、矢張り津波の被害もあったかもしれないと新地の者たちは沙汰している。
評曰く、三木と牟祀村の五剣山は、昔の地震の時に、一剣の峯が崩れた。今回の大地震でも峯が崩れたと云う。それがどの峰なのかは分からない。
   地震から1ヶ月近くたっても余震はおさまりません。余震におびえる人々の心は、フェイクニュースを受入やすくなります。山鳴り・海鳴りが止まず夜を迎えると、津波がやって来るという噂が高松城下町で拡がったようです。そのため城主達一族が栗林の別邸に避難します。それを見て、人々も不安に駆られて避難を始めたようです。
安政の大地震は、11月中旬になってもおさまる気配はなかったようです。
地震の被害状況を調べた「綾野義賢大検見日誌」(『香川県史』10)には、次のように記されています。
二十三日晴、暁のほと地小しく震ふことふたゝひ、卯の下下りにまた御米蔵に至て貢納を見、巳のはしめにうた津を出、坂出村に至れハ本条郡正か子出迎たり、この頃の大震に坂出・林田なと瀬海の所、地大にさけ人家やふれくつれしもの少からすと聞へしかは、それらを見んと、本条から案内にて坂出・江尻・林田・高屋・青海なと南海の地をめくり見る、坂出・林田地さけ堤水門なとくつれ橋落、またハ土地落入りし処もあり、地さけて初のほとハ水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まヽなるもの多し、これらのさまハ高松ヨり甚し、されと人家少けれハ家くつれしものは最少し、江尻・高屋・青海なとハ、坂出・林田にくらふれハやゝゆるやかなり、申之刻はかり青海村渡辺郡正
か家に入てやとる、戊の刻はかりに地また震ふ、家外にかけ出んと戸障子ひきあけしほとなり、夜半の頃、また少しふるふ、
十四日、晴、巳の下りに青海村を出、国分に昼食し、黄昏家に帰入る、夜半小震、
  意訳変換しておくと
23日晴、早朝暁にも小しく地面が揺れる。卯の刻に宇多津の米蔵に着いて納められた米俵などの貢納を検見する。巳の始めに宇多津を出発して、坂出村に着いた。本条郡正が出迎え、今回の大震で坂出・林田などの海際の村では、地面が裂け、人家が倒壊したものが少なからず出たことを聞く。その被害状況を見ようと、本条の案内で坂出・江尻・林田・高屋・青海なの地を巡る。坂出・林田の地割れ、堤水門などの決壊、橋の陥落、または土地が陥没した所がある。地が裂けた所は、水が吹出したのか、白砂を吹出したかのように見える所がおおい。これらの様子は、高松よりも多い。しかし、人家が少ないので倒壊家屋の数は高松よりも少ない。江尻・高屋・青海などは、坂出・林田に比べると、被害は少ない。申刻頃に、青海村の渡辺郡正の家に宿をとる。戊の刻頃に、また震れる。家外に駆け出ようと戸障子を引き開けようとしたほどだった。夜半の頃、また少し揺れる。
24日晴、巳の下りに青海村を出て、国分で昼食し、黄昏に家に帰入る、夜半小震、
この史料は、阿野郡北の代官綾野義賢が郡奉行として、大検見を実施したときのものです。
安政元年(1864)年11月23~24日の坂出市域の被害状況と余震の内容が詳細に記録されています。ここから分かることを整理しておくと
①宇多津の米蔵に被害はなく、年貢の米は従来通り収納されていること
②坂出周辺の地震の被害状況を、自分の目で確認していること
③それを「地大いにさけ、人家やぶれ・くづれしもの少からず」「地さけ、堤水門などくづれ、橋落、またハ土地落入りし処もあり」と記録していること
④「地さけて初のほどハ水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まゝなるもの多し、これらのさまハ高松ヨり甚し」と、地面が裂けて水が噴き出したり、白砂が吹き出す液状化現象をきちんと捉えていること
⑤余震におびえながらの生活が続いていること
以上の一つの史料で読み取れる内容から指摘できることをまとめると次の二点です。
以上の記録からは次のような事が見えて来ます
①藩当局の周知・連絡が「藩 → 大庄屋 → 各村の庄屋 → 民衆」というルートで伝えられていること。藩の触書などは書写して残している人もいたこと。
②大地震からの不安からのがれるように、仏や神頼みが地元から起こっていること
③大坂で船に避難したひとが大きな被害となったことは、すぐに坂出に伝わっていること。地震の教訓を坂出の人々が活かしていることが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

坂出市史1
坂出市史
参考文献
「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」
関連記事

坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
大庄屋 渡辺家
阿野郡の大庄屋を務めた渡辺家には、代々の当主が書き残した「御用日記」が残されています。
渡邊家は初代嘉兵衛が1659(万治2)年に青梅村に移住してきて、その子善次郎義祐が宝永年間(1704−1711年)に青梅村の政所(庄屋)になります。その後、1788(天明8)年に阿野北郡大政所(大庄屋)になり、1829(文政12)年には藩士の列に取り立てられています。渡部家には、1817(文化15)年から1864(文久4)年にかけて四代にわたる「大庄屋御用日記」43冊が残されています。ここには、大庄屋の職務内容が詳しく記されています。

御用日記 渡辺家文書
御用日記(渡辺家文書)
 この中に「庄屋の心構え」(1825(文政8年)があります。

「大小庄屋勤め向き心得方の義面々書き出し出し候様御代官より御申し聞かせ候二付き」

とあるので、高松藩の代官が庄屋に説いたもののを書写したもののようです。今回は高松藩が、庄屋たちにどのようなことを求めていたのか、庄屋たちの直面する「日常業務」とは、どんなものだったのかを見ていくことにします。テキストは「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」です
 高松藩の代官は、庄屋にその心構を次のように説いたようです。
・(乃生村)庄屋は、年貢収納はもちろん、その他の収納物についても日限を遵守し納付すること
・村方百姓による道路工事などについては、きちんと仕上げて、後々に指導を受けたりせぬように
・村方百姓の中で、行いや考えに問題がある者へは指導し、風儀を乱さないように心得よ
・御用向きや御触れ事などは、早速に村内端々まで申し触れること。
・利益になることは、独り占めするのではなく、村中の百姓全体が利益になるように取り計うこと。
・衣類や家普請などは、華美・贅沢にならないように心がけること
・用水管理については、村々全体で取り決めて行うこと
・普請工事については優先順位をつけて行うこと
ここからは法令遵守、灌漑用水管理、藩への迅速な報告、賞罰の大庄屋との相談、普請工事の誠実な遂行、藩からの通達などの早急な伝達・周知、などの心得が挙げられています。
これに他の庄屋に伝えられていた項目を追加しておきます。
⑩何事についても百姓たちが徒党を組んで集会寄合をすることがないようにする。(集会・結社の取り締まり)
⑪道や橋の普請などに、気を配り
⑫村入目(村の運営費)などは、できるだけ緊縮し
⑬小間者に至るまで、村の百姓達の戸数が減らないように精々気を付け
⑭村の風儀の害となる者や、無宿帳外の者については厳重に取りしまること
ここからは、年貢を納めることが第一ですが、それ以外にも村方のことはなんでも庄屋が処理することがもとめられていたことが分かります。
それでは、庄屋の年間取扱業務とはどんなものだったのでしょうか?
文政元(1818)の「御用日記」に出てくる「年間処理事項」を挙げて見ると次のようになります。
正月
  古船購入願いを処理、
  氏部村の百姓の不届きの処理、
  用水浚いの願いの処理
  白峯寺寺中の青海村真蔵院の再建処理
2月 郡々村々用水浚いの当番年の業務処理
  青海村の上代池浚い対応処理
3月 二歩米額の村々への通知、
  江戸上屋敷の焼失への籾の各村割当処理、
  林田村の百姓が養子をもらいたいとの願いの処理
  吹き銀、潰れ銀売買について公儀書付の周知と違反者への処理
  村人間の暴行事件の対応・処理
  政所(庄屋)役の退役処理
  捨て牛の処理
4月
藩の大検見役人の巡検への対応
他所米の入津許可の処理
新しい池の築造手配
5月
他所米入津の隣領への抜売禁上の通達処理
郷中での出火
神事、祭礼などでの三つ拍子の禁止申し渡し
村人のみだりに虚無僧になることの禁上の通達
普請人夫の賃金待遇処理
6月
高松松平家中の嫡子が農村へ引っ越すことについての対応、
出水浚・川中掘渫などの検分と修復のための予算処置
五人組合の者共の心得の再確認と不心得者の取締り
昨年冬の高松藩江戸屋敷焼失についての大庄屋の献金額の調整
7月
御口事方が林田裏で行う大砲稽古への手配
盆前の取り越し納入の手配
遍路坊主の白峰境内での自殺事件の処理
正麦納の銀納許可について対応
村人の金銭貸借への対処
殺人犯の人相書きの手配
三ヶ庄念仏踊りの当番年について、氏部など各村への連絡
照り続きにつき雨乞修法の依頼
北條池の用水不足対応
香川郡東東谷村の村人の失踪届対応
商売開業願への対応
盗殺生改人の支度料処理
8月 他所米の入津対応や御用銀の上納対応
9月 大検見の役人への村別対応手配
10月 高松と東西の蔵所へ11月収めの年貢米(人歩米)納入について藩からの指示の伝達
11月 年貢米未進者の所蔵入れの報告
   阿野郡北の牢人者の書き上げ報告
12月 村人の酒造株取得と古船の売買
以上を見ると、自殺・喧嘩・殺人から養子縁組の世話、池や用水管理・雨乞いに至るまで、庄屋は大忙しです。以前にお話したように、庄屋は「税務署 + 公安警察 + 簡易裁判所 + 土木出張所 + 社会福祉事務所」などを兼ねていて、村で起こることはなんでも抱え込んでいたのです。だから村方役人と呼ばれました。村に武士達は、普段はやって来ることはなかったのです。ただ、戸籍書類だけは、お寺が担当していたとも云えます。
讃岐国阿野郡北青海村渡邊家文書目録 <収蔵資料目録>(瀬戸内海歴史民俗資料館 編) / はなひ堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋
瀬戸内海歴史民俗資料館編
『讃岐国阿野郡北青海村渡邊家文書目録』1976年)。

  このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
  江戸時代は、藩などの政策や法令は、文書によって庄屋に伝達されます。また、先ほど見たように庄屋は村支配のために、さまざまな種類の文書を作成し、提出を求められます。村支配のためや、訴訟・指示などの意思表明のためにも、文書作成は必要不可欠な能力となります。文書が読めない、書けないでは村役人は務まりません。年貢納税にも高い計算能力が求められます。
 地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。
「持高身代も相応にして算筆も相成もの」

経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。例えば、村の事案処理には、先例に照らして物事を判断することが求められます。円滑な村の運営のために、記録を作成し、保存管理することが有効なことに庄屋たちは気づきます。その結果、意欲・能力のある庄屋は、日常記録を日記として残すようになります。そこには、次のような記録が記されます。
村検地帳などの土地に関するもの
年貢など負担に関するもの
宗門改など戸口に関するもの
村の概況を示した村明細帳や村絵図など
境界や入会地をめぐる争論の裁許状や内済書、裁許絵図
これらは記録として残され、庄屋の家に相伝されます。こうして庄屋だけでなく種々の記録が作成・保存される「記録の時代」がやってきます。
辻本雅史氏は、次のように記します。

「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」

そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。

村では、藩の支配を受けながら村役人たちが、年貢の納入を第一に百姓たちを指導しながら村政に取り組みます。百姓たちも村の寄合で評議を行いながら村を動かしていきます。

  大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓

 というのが高松藩の農村支配構造です。
大庄屋の渡辺家の「御用日記」(1818)年の表紙裏には、次のように記されています。
御年寄 谷左馬之助殿(他二名の連名)
御奉行 鈴木善兵衛殿 
    小倉義兵衛殿中條伝人 入谷市郎兵衛殿
郡奉行 野原二兵衛 藤本佐十郎 
代官  三井恒一郎(他六名連名) 
当郡役所元〆 上野藤太夫 野嶋平蔵
当時の主人が、高松藩との組織連携のために書き留めたのでしょう。この表記は、各年の御用日記に記されているようです。このような組織の中で、庄屋たちは横の連携をとりながら、村々の運営を行っていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」

 私の関心のある人物の一人が、満濃池を再築した西嶋八兵衛です。彼は、若くして藤堂藩から生駒藩に家老待遇でレンタル派遣された人物で、讃岐の大恩人ともいえます。しかし、彼の銅像や記念碑は讃岐にはありません。讃岐は西嶋八兵衛の業績を正当に評価しているとは私には思えません。もし、彼が讃岐生まれの人物だったらもう少し、別の評価がされているのではないかと思ったりします。
 最初から話がそれてしまいましたが、西嶋八兵衛を考える際に、彼がどのようにして築城・治水・土木技術を身につけたのかという視点が必要だと思っています。そのために戦国時代から近世への治水技術の変遷を追いかけています。ある意味、「周辺学習」で周りから埋めて本丸に迫ろうとしているのですが、なかなか堀は埋まりません。今回は、戦国大名が治水・築造事業に、どのように関わっていたのかを見ていくことにします。 テキストは畑大介 『家忠日記』にみる戦国期の水害と治水   治水技術の歴史 235p」です。
 まず松平家忠について押さえておきます。

松平家忠とその時代 『家忠日記』と本光寺 - 古書くろわぞね 美術書、図録、写真集、画集の買取販売

松平家忠は深溝松平家の当主で、弘治元年(1555)に西三河の深溝(愛知県幸田町)に生まれています。父伊忠は天正3年(1575)5月の長篠の戦いで、武田方の鳶巣山を攻撃した際に戦死し、その後家忠が20歳で家督を継ぎます。家忠はしばらく深溝に居を構えていましたが、天正18年(1590)8月に家康の関東国替に伴い忍(埼玉県行田市)に移封されます。その後は次の野通りです。
天正20年(1592)上代(千葉県旭市)に移封
文禄3年(1594) 小見川(香取市)に移封
慶長5年(1600) 関ヶ原合戦の前哨戦で伏見城を守り、石田勢の攻撃を受けて戦死
企画展「戦国武将の日記を読む~「松平家忠日記」に見る信長・秀吉・家康~」(2009.11.01~12.18) | 禅文化歴史博物館 | 駒澤大学
家忠日記
日記は家忠個人の私的なもので、自らが行ったことや接したことなどが淡々と書き連ねられています。読んでいて面白いものではありませんが、同時代史料として、信長・秀吉・家康の動向を知る史料として研究者は必携の史料のようです。それを盛本昌広氏は、「家忠の日常生活」という視点で、日記全体を詳細に読み解き『松平家忠日記』を出版しました。
松平家忠日記(森本昌広) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この結果、いろいろなことがこの日記からは、見えてくるようになったようです。研究者は、日記に出てくる出水・破堤・築堤等の記述を一覧表化しています。その表を見ながら松平家忠の治水への取組を見てみましょう。
家忠日記1

日記が書かれ始めるのは家督を継いで2年目の天正5年(1577)10月からです。天正6年2・3月は、家康の命で新城普請や牧野原普請にかり出されています。表は5月から始まります。5月(新暦では6月中旬の梅雨期)に入って雨が続き、その後10日晩より本格的に降り始めます。大雨による被害を避けるために11日は、「祈祷候 南城坊」とあるので、深溝の近くの大草(愛知県幸田町)にある南城坊の修験者に祈祷を依頼しています。南城坊は信頼する修験者だったようです。しかし、13日に「夜も大雨が降り、なから(永良)堤七八間切候」とあるので、祈祷の祈りは届かず、雨は止まず、永良の堤防が7間ほど決壊します。

深溝城~五代続いた深溝松平氏家の城でしたが、江戸時代初期に廃城になり現在は工場用地となっています。 | 歴史探索
松平家忠の深溝陣屋

 研究者が指摘するのは、14日に「ふかうす(深溝)越候」と記されていることです。ここからは、決壊現場を見守り続け、14日に本拠地の深溝にもどっています。この時の家忠は23歳、治水に正面から向き合う覚悟が感じられます。

15日以降も断続的に雨が降きますが、この時期は決壊現場の永良には足を運んでいません。この時期、家忠は家康から、岡崎に出仕を命ぜられていたようです。

 6月に入っても、雨は降り続きます。1日の夜から4日まで雨です。9日に「永良へ築つかせに候」とあるので、永良の堤工事のために出向き、11日まで現場にとどまっています。そして12日には「中嶋堤つかせ候」とあるので、中嶋へ移動して堤防修復を15日まで行って、16日に岡崎に帰っています。ここからは、永良・中嶋の築堤の際には、家忠は現地にとどまって、工事を監督していたことが分かります。
 日記には、被害地域として出てくるのは永良と中嶋です。

松平家忠 領地図
西三河の永良と中嶋 家忠の居城は深溝 菩提寺が本光寺

永良(西尾市)と中嶋(岡崎市)は矢作川とその支流の広田川に囲まれた隣接地で、家忠の領内では有数の穀倉地域だったようです。そこが洪水常襲地域でもあったのです。出水・破堤等の水害の記述は、天正6年から15年にかけて毎年見られます。
 7月になると横須賀砦普請に従事し、それを15日に完成させて、18日に岡崎に帰っています。その後、21日から断続的に雨が降り続き、8月に入っても雨は続きます。8月2日には牧野番のために岡崎から深溝にもどっていましたが、4日に大雨が降り、所々の川から出水したという情報を得ていますが、自ら現地に赴いてはいません。その日は、深溝松平家菩提寺の本光寺を訪れています。翌5日は浜松城に出仕し、6日には掛川の天龍寺まで進み、7日に牧野城番の交代です。7月27日から8月2日にかけて雨が降り続き、2日に永良で再び破堤します。3日に家康は岡崎を訪れ、翌4日に家康は長男信康を大浜(愛知県碧南市)に退去させています。5日に家忠は家康からの命令で弓・鉄砲衆をつれて大浜に近い西尾(愛知県西尾市)に向かい、7日まで北端城番を務めています。この一件は9月15日の信康切腹事件と発展していきます。これは徳川家にとっての一大事で、家忠にとっても永良の破堤に気を配る余裕はなかったはずです。
 9月になると徳川・北条同盟に基づく武田氏との戦闘が開始されます。この時に家忠は牧野番を務めています。

家忠日記2

天正8年(1580)3月16日(新暦5月8日)からの雨が降り続き、20日に「大出水」とあります。その場所については、どことは記されていません。ただ17日に永良で、18日には中嶋の際福寺で、振舞(接待)を受けているので、その周辺だったことはうかがえます。この時には22日に「ふかうす(深溝)かへり候」とあるので、決壊現場にとどまることはなかったようです。

6月27日には「雨こい(雨乞)連歌之一順候」とあるので、雨乞い祈願の連歌が詠まれています。
ここからは、この年は夏には旱魃になっていたことが分かります。雨乞の連歌は翌28日にも詠まれています。その効果があったのか、未刻から雨が降り始めるのですが、大雨となってで、29日には中嶋で再び破堤とあります。家忠は9日後の7月8日に「中嶋に堤つかせに候」とあります。ここからは自ら中嶋に赴き、10日まで築堤作業をして深溝に帰ったことが分かります。
この年は10月後半から、武田方の高天神城を包囲するための作戦が開始されています。家忠は堀普請に従事しています。この工事は年を越して続けられ、天正9年3月22日に籠城していた武田軍が城から斬って出て高天神城は落城します。家忠が深溝に帰ってきたのは3月25日です。その後、領内で日々を過ごし、6月9日に牧野原番に出かけて晦日に番を終えると、そのまま7月1日に相良に向かい、砦の普請に従事して13日に深溝に帰っています。

天正10年は、家忠は次のように1年のうちの8ケ月は深溝を離れて出陣し、遠征に明け暮れています。
①2月17日から4月14日までは、武田氏追討のための甲州への出陣
②6月26日から12月16日までは信長死後の甲斐国領有をめぐる対北条戦のための遠征
この年は、治水工事に出向くゆとりがないほど戦陣に駆り出されています。そのためか深溝近辺に滞在した期間でも、日記には出水・破堤・築堤等の記事はありません。

この時期の家忠を見ると、築堤期間中は現地に出向いて「現場監督」を行うことを原則としています。
①天正7年7月、永良での築堤作業中に岡崎城に出仕して、用務終了後に永良にたちもどっている
②天正9年8月末からの工事でも、一度深清に帰って用務終了後に再度やて来ている
ここからは若い頃の家忠が「川を治める治水(築堤)」に使命感を持って取り組んでいた姿が見えてきます。
天正11年は、正月10日に「中嶋へ越候」とあります。

家忠日記3

翌日11日には
「つつミ(堤)つかせ候。孫左衛門ふる(振)舞候、大つかより永良池にてあミ(網)引候、取候」

ここからは築堤工事中に、中嶋・永良等に滞在して、永良池で網で魚を獲ったり、岡田孫左衛門尉(中嶋)や、大原一平(永良)から振舞(接待)を受けたことが分かります。前年に被害を受けた箇所を、冬の間に修復しているようです。17日に深溝に帰るまで約1週間の「現場監督」を務めています。
ちなみに、この天正11年は5月(新暦6月)から梅雨末の雨が降り続き、大水が出て田が流されています。
そのため6月26日に中嶋に赴き、27・28日と築堤し、30日に帰還しています。治水対策に追われる中で、家康から次のような指示も受けます。
①7月11日に、8月6日に信州川中島へ出陣に従軍すること
②7月20日に、家康の娘が北条氏直に嫁ぐので、19日に浜松に来ること。

19日の日記には「浜松江日かけニ越候、城へ出仕候、御祝言進上物、いた物二たん」とあるので家忠は指示通りに浜松城に出仕し、婚礼祝として板物二反を進上したことが分かります。ところが翌20日は「五〇年巳来大水ニ候」という大雨洪水で、「御祝言も延候」になってしまいます。気になるのは、領地の状態です。さっそく22日に、深溝に帰って被害状況を確認すると、次のような報告が入ります。
「中嶋・永良堤入之口、皆々切候、三川中堤所々きれ候」
「田地一円不残そん(損)し候、家ひしげ(破損)候」
 28日には「中嶋に水見ニ候、のはより船にて越候」とあるので、家忠は野場(のば)から船で中嶋一帯の被害状況を視察しています。実際に自分で被害状況を確認した上で、翌日29日に「浜松浄清被越候、浜松へ水入候御訴訟ニ人を越候」とあるので、使者を立てて水害の被害状況を浜松の家康に訴えて賦役免除をもとめています。その使者が8月3日に戻ってきて、家康から普請役免除が伝えられます。収穫を間近にして、水田が水に浸かったことで、この年の収穫に大打撃があったことがうかがえます。
 天正11年は大きな災害が繰り返された年でした。5月の大出水にはその日の内に、7月の大出水に対しても、浜松の家康のもとに被害状況を知らせて、普請免除を願いでています。これに対して家康は、これを認めています。通常の出水や破堤では、使者を出していないので、この時の被害が大きかったことがうかがえます。


天正12年2月15日の記述を見ると、この季節に中嶋で護岸工事が始まったことが記されています。
家忠日記5

 近世の満濃池の底樋替えも農民達が農閑期の冬に行われるのが通例でした。家忠も前年被害のあった堤防の復旧工事は、春先に行っています。天正12年2月15日に「浜松より知行之内人足すミ(済)て中嶋へ堤つかせ越候」とあります。これについては、次の3つの解釈を研究者は示します。
①先ほど見た「家康から普請役免除」の成果で、賦役免除となった人夫を堤防工事に投入した
②浜松に派遣していた人足を工期終了後に、築堤のために中嶋に投入した
③守護は家忠で、浜松での作業が終わったので家忠が中嶋に赴いた
どちらにしても4日間の工事で作業を終了しています。その翌日の19日に、家忠は永良・中嶋で振舞を受け、20日に深溝に帰ります。
 この年は小牧・長久手の戦いがあった年になります。そのため家忠は、3月8日から11月17日まで出陣しています。冬には治水工事、春からは戦場へというのが、家忠の年間行事サイクルになっていたことがうかがえます。
天正13年の治水工事一覧です
家忠日記6

 この年も永良や中嶋(崇福寺)の築堤工事を、田植え前の春に行っています。中世において春は「勧農」の季節で、新たな農業生産のための灌漑施設等の整備が行われる時期でした。この流れに家忠も合わせて、堤防修復を行うようになったのでしょう。
 また、天正11~13年の春に、家忠が永良や中嶋へ築堤工事に出向くと、必ずと地元の家臣や寺院から振舞(接待)を受けています。振舞は築堤工事に対する返礼の意味合いもあったようです。それに対して、水害直後の緊急対策的な築堤の場合は、振舞を受ける機会は少なかったようです。緊急対策か予防かは、その後の振舞の有無で判断できるようです。
  
また、天正12~15年になると、出水・破堤と築堤が連動しなくなるケースが増えます。
  これは水害直後の緊急対策的な築堤に、家忠自身がほとんどかかわらなくなったことを示すと研究者は考えています。つまり家忠が現地に行かなくても対処できる体制ができあがったようです。それは、家忠が家康の命で長期出張や遠征を繰り返すようになったこと。それに供えて、技術者の人材育成が進んだことが考えられます
これを裏付けるのが、7月5日の「永良に堤つかせ二候」です。
ここには「越」がありません。家忠は現場監督に行っていないようです。この時期から現場監督を任せられる技術者が育ち、自らが現場に出向く必要が減じた時期だととしておきましょう。

天正17年は、1月28日から4月13日までは、駿府普請に出かけています。
家忠日記7

それが終わって帰ってからは雨乞の記述が見られます。6月10・11日に雨乞の連歌を詠み、その効能があったのか、11日の夜は雷とともに大雨が降っています。それから雨は断続的に降ったために、今度は洪水が気になります。家忠は14日には中嶋に出向いて築堤修復を行っています。それ以前に出水や破堤等の記述がないので、予防的なものだったようです。翌15日は永良・中嶋に滞在し、その日のうちに深溝に帰ります。そして、この年の7月17日から11月10日までは、秀吉の京都・方広寺大仏殿建設への木材供出のために、富士山での木材運搬作業のため出張しています。

天正16・17年になると築堤記述はありますが、出水・破堤はみられなくなります。
所領替えで忍に移る前の天正18年中は、築堤・出水・破堤については何も書かれていません。この時期になると家忠は、深溝を離れることが多くなります。そのため領内では水害はおきていたのかもしれませんが、その対策は家臣や地元の人々が中心となって行われていたと研究者は考えています。
天正13年以降は、家忠が現地に出向いても、滞在は1日だけになっています。実際にはその前後で築堤工事が行われたいたはずです。家忠自身が全工事期間中を、現地に張り付く必要がなくなっていたのでしょう。1日であっても現地に出向いて「現場監督」を果たす。それが河川管理が領主の責務と考えていたのかも知れません。同時に、この時期になると予防的築堤工事が多く、緊急性が低くなっていたこともあるのかもしれません。どちらにしても、現場に出向いて現場監督の任を果たし、地元の接待を受ける。これを長年繰り返すことは、地元との信頼関係を深めることにつながります。支配ー被支配関係を円滑にするには有効な方法だったはずです。
天正18年は、秀吉の小田原攻があった年です。
これに家忠も2月2日から8月5日まで従軍しています。この後に、家康は関東への領地替えを命じられます。家忠も7月20日に国替を申し付けられ、8月29日に忍に到着しています。
以上、天正5年から18年までの松平家忠が三河の領地で、どのように治水に向き合っていたかを彼の日記から見てみました。振り返って気づいた点を補足しておきます。

 築堤工事に従事した人夫達は、どこから動員されたのでしょうか。
このことについては日記には、なにも触れていません。おそらく被害にあった流域の農民達が動員されたのでしょう。また工事の経費負担についても、何も書かれていません。さらに出水・破堤によって耕地や用水路も大きな被害を受けていたはずですが、 日記にはそれらの復旧に関係する記述もありません。ここからは領主の任務は「川を治める治水」で、それ以外の復旧は領主の関与しないことであったと研究者は考えています。逆云えば、それぞれの地元で進められる体制が整っていたとも云えます。

以上の家忠の治水に関わる状況変遷をまとめておきます。
①天正6~9年は、出水・破堤すると家忠自身が現地に赴き、原則全工程期間を立ち会っていた。
②この時期は、梅雨や台風の大雨被害に対する緊急対策的な築堤工事が主流であった。
③それが天正11~16年になると、春に予防的築堤工事が行われるようになった。
④そして、家忠が工事に立ち会うのも全工程ではなく、1日だけとなっていった。
こうして見ると天正10・11年頃が、治水体制の転換点であったことになります。スローガン的に云うと「緊急対策的から予防対策への転換」というところでしょうか。これを別の視点で見ると、家忠自身が現場に出向いて陣頭指揮をしなくても、工事は進むようになったことを物語っています。
 若き領主自らが現場に出て、監督するといのは部下たちにとっては励みになります。主君の願いに応えて、治水技術や土木技術を学ぼうとする技術者が家忠の側近の中から育って行ったことが考えられます。それは、満濃池再築を果たした西嶋八兵衛の姿と重なります。彼は若くして、築城・土木技術の天才と言われた藤堂高虎の側近として仕えます。そこで、高虎が天下普請として関わった二条城や大阪城の築城に参加して、知見を広めて云ったことは以前にお話ししました。
 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事が、どの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。西三河の松平家忠の下で行われていた治水工事でも、『民政臣僚』が現れてきたことが考えられます。

天正18年に移った忍領も1万石ですが、出水・破堤のことは、まったく出てきません。

家忠日記8

築堤について、天正19年3月6日条に熊谷筋堤を50間築いたことが添え書きされているだけです。この工事に家忠が出向いた形跡もありません。ここからは、家忠がいなくても治水工事が可能な体制が整っていたことが改めて分かります。
1年半後の天正20年2月に、家忠は上代へと再移封されます。そして、江戸城普請が命じられます。これが一段落すると、文禄3年2月には、京の伏見普請を命じられます。この間も、出水・破堤・築堤等の記述はありません。京の伏見普請が進む中で、家忠は、淀堤・霞原堤・員木嶋堤の普請を命じられています。これは西三河で培っていた治水工事や護岸工事技術を、秀吉の天下普請で披露する機会になったかもしれません。その技術や工法が、各大名によって持ち帰られ各地に拡がった。そのひとつの例が高知県仁淀川河口の上の村遺跡の石積護岸であり、川港であるという仮説は前回にお話ししました。天下普請は、各地で培われた土木技術や工法の「見本市」の役割を果たしていたことを押さえておきます。

家忠は8月8日には淀堤完成後は、員木嶋堤の築堤を命じられたようで、人夫の移動記録が残っています。その後も、霞原堤普請が割り当てられるなど、周辺の護岸工事をたらい回しにされて、辟易した様子が日記からもうかがえます。
宇治川の天下普請では、深溝時代のどんな経験が生かされたのでしょうか。
8月26日条には、員木嶋堤普請では「川せき道具」が用いたことが記されています。これは川の流れをせき止める資材で、これを使って流路変更が行ったことが推測できます。家忠が、さまざまな治水のための道具や知識を持っていたことがうかがえます。
家忠が取り組んだ治水工事を見てきましたが、実は彼の土木工事の中心は城普請でした。
牧野原城・駿府城・江戸城・伏見城などが代表作で、出陣や城番を務めた間も、築城工事を行っていることが多かったようです。どのような工事に携わったかは分かるものだけを挙げてみると
①天正6年8月の牧野原城では堀普請
②天正8年10月の武田方の高天神城攻略の際は堀普請や塀普請
③天正15年の駿府城では、二の曲輪や本城の堀普請や石積工事
ここからは、家忠は合戦で武勇をふるうタイプではなく、城普請等の土木工事に長け、その点を家康から評価されていたことがうかがえます。
 秀吉の小田原城攻めの準備として、天正18年2月17日から21日は富士川に舟橋を架け、忍期の天正19年4月22日にも橋普請をしています。橋の架橋工事もできたのです。
若い頃に取り組んだ深溝での築堤については、どのような工事が行われたかはよく分かりません。用意された道具や資材についても、何も記されていません。

百姓伝記(全2冊)(古島敏雄 校注) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

岩波文庫に『百姓伝記』という記録が収録されていますあります。
これは西三河の矢作川流域の武士か、前代まで武士的生活をした上層農民によって天和年間(1684)に書かれたものとされます。そこには家忠から約百年後の、西三河の治水工法が記されています。その「防水集」には、堤防の細かな仕様のほか、付設された蛇籠や牛枠類など各種の構造物についても記されていいます。その一部を紹介します。
羽村堰 写真集
牛枠(聖牛)
  堤防で水が当たる所には牛(枠)を設置し、まず水の勢いを弱め、堤防満水になり堤防を越水する際には急いで土俵を並べ、芝を積み、手に手にむしろ・こも・切流しの竹木を持ちここを先途と防ぐこと。昔から大洪水と言えど雨が一日降り続くということはないものだ。10m先が見えないくらいの大雨が六時間降り続けば山と海が一つになると言うが、そのような雨が降り続くことは百歳になる故老も知らぬという。であるから、三日から五日間降り続く雨であっても、大洪水と言うほどの雨の発生確率は小さいのである。ただ6時間ほどの洪水を防げば、危機は逃れられるものである。
  水防で家を壊し、屋敷林を切って堤防の危ないところに資材として積み重ね使っても、堤防を守りその年の作物が救えるなら、飢えに苦しむものは出ない。大河川の流域にすむ人々は、常々の心がけが大事である。綱や縄を分相応なくらいに準備しておき、持っておくことが重要である。堤防近くの林や藪は切らずに残しておき、万一の洪水時に土砂を貯める。さもなくば先祖から受け継いだ田畑や屋敷に土砂が押しかかり放棄することになる。働きが悪ければ妻子ともども命を失う。常の準備が悪ければ堤防を守ることができない。水防活動では、食事のしたくをする時間はないから、米でも麦でも、あるいはアワ、ヒエやキビを行動食として持っていくのが常識である。

このような治水心得や工法は、百年前の家忠の時代から引き継がれてきたのかもしれません。『伝記』の技術・心得は『家忠日記』に記された戦国期の治水の取り組みを継承・発展させたものとしておきましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 畑大介 『家忠日記』にみる戦国期の水害と治水   治水技術の歴史 235p

幕府巡見使を髙松藩の村々の庄屋たちがどのように準備して迎え入れたのかを、以前に見ました。今回は宇多津を中心とする鵜足郡の庄屋たちの受入準備を、まんのう町(旧琴南町)に残された庄屋文書(西村文書)から見ていくことにします。テキストは「大林英雄 巡見使の来讃 琴南町誌225P」です。

琴南町誌 細川氏 南北朝 奈良氏 香川氏 三好氏 三好実休 仲多度郡 羽床氏 長宗我部元親 琴南町史 四国地方 讃岐武士白峯合戦香川県の歴史  の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー・スマートフォン版
琴南町誌
最後の巡見使となった1838(天保九)年の巡見使の行程を見ておきましょう。
4月5日に大坂を出帆
4月19日に豊前に着き、豊前と豊後を巡見、
閏4月12日に伊予へ入り、土佐・阿波を巡見
6月上旬に讃岐に入り、讃岐を巡見して大坂に帰る
7月に江戸に帰り帰着報告 その後下旬に報告書提出
全行程86日間の長旅でした。
巡見使3名一行の内訳は、次の通りです。
知行1500石の平岩七之助が、用人黒岩源之八・高橋東五郎以下30人、
知行千石の片桐靭負が、用人土尾幸次郎。橋部司以下30人、
知行500石の三枝平左衛門が、用人猪部荘助。小松原尉之助以下27人
巡見使構成表天保
天保の巡見使構成表

以上の三班で、総員90人になります。この他に平岩七之助の組に5人、片桐靭負の組に4人、三枝平左衛門の組に5人、計一四人の者が同行して、宿舎を共にしていますが、この者がどういう立場の者であったかは分かりません。
巡見使来讃を藩から告げられた鵜足郡の大庄屋は、次の2名を責任者として指名しています。
会計担当 西川津村の庄屋高木左右衛門
引纏役  造田村の庄屋西村市大夫
二人は、大庄屋の十河亀五郎の指示で、前回の寛政年間の御巡見来讃の時に引纏役を勤めた東分村の庄右衛門を尋ねて、その記憶と残されていた記録をもとにして、準備に取り掛かっています。
引纏役の仕事は、次の通りです。
①巡見使の通路を中心にして、道路の整備計画作成
②巡見使の通る岡田西・小川・西坂元・東二・東分・宇足津の六村を中心に、鵜足郡の状況を調査し、通路から見える山や名所、神社仏閣について説明書作成
③藩の政治や民情について、予想される巡見使からの質問に対する想定問答集を大庄屋や藩と協議して作成
④御案内、宿舎係、警備係などの村役人の任務分担表の作成
⑤先行する伊予と阿波で、巡見使の動静調査
①道路整備表 + ②鵜足郡現況説明書 + ③想定問答書 + 村役人任務分担表 + 巡見使の動静調査」と微に入り細にいった仕事内容があったことが分かります。会計については、巡見使がやって来る約2ヶ月前の4月20日に開かれた聖通寺での郡寄合で、村々の分担額が決められています。最終的に造田村の分担は、次のとおりでした。
普請用明俵 679俵(郡全体で6200俵)。
人足 205人
御借上品
布団 32枚(四布(よぬ)20枚、三布12枚)。
蚊帳 5張 水風呂 3本 菓子盆 2
燭台 4台 硯箱 4。浴衣 3枚。
御買上品
木枕 40 炭 40俵
薪 244束。
679俵の空俵は、土を入れて土嚢を作って、岡田西の大川へ板橋を架けることと、宇足津までの街道修理、宇足津の港の一部修理が計画されています。

各村の庄屋と組頭に、巡見使案内の諸役を分担します。
これと同じような分担表を、那珂郡の岸上村(まんのう町)の庄屋奈良亮助も書き残していたことは以前に紹介しました。

巡見使役割分担表1
       那珂郡の諸役分担表の一部(奈良家文書)

 庄屋たちの説明がまちまちになるのを防ぐために、備忘録や想定問答集が作られて庄屋たちには渡されていました。
しかし、実際には夜間の案内であったり、案内の距離が短かったために、巡見使から案文を示され、文書で答えを求められることが多かったことが報告されています。巡見使にしてみれば、江戸に帰ってからの報告書作成のことを考えると文書で預かった方が便利でもあったのでしょう。
作成された鵜足郡の想定問答集は、35項目が挙げています。その内の七か条を見ておきましょう。(御巡見御案内書抜帳「西村文書)

一 畑方、秋夏両度麦納申候。尤銀納勝手次第、其年相庭にて銀納仕候事。但し、田方に作候麦は、百姓作徳に相成候事。

  畑作については、盆前納と十月納で夏成を2度に分けて麦で納めています。納税方法は銀納も可です。但し、水田裏作の麦栽培については、百姓作徳で年貢はかかりません。

一 塩浜近年相増候ケ所も有レ之候。尚又堤切損じ、 築立諸入目等は、塩口銀にて仕候事。塩国銀というは、塩壱俵に付銀三分ずつ納申候。壱俵の升目四斗八升入申候。毎年出来塩多少により、国銀規定無二御座候。
  
 塩田が近頃は増えていますが、堤が切れて修繕が必要な場合に備えて、塩口銀を納めています。塩口銀というのは、塩壱俵について銀三分を納めることです。壱俵の升目は四斗八升入です。毎年の塩生産量により決まるので、口銀額は定まっていません。

一 田地売買作徳米の歩を以て、売買致候。

 田地売買については作徳米の多い少ないによって田地の価格を決め、売買を認めています。
一 検地竿は、六尺三寸のもの用い候。

 高松藩では、寛文検地以後も、六尺三寸の検地竿で実施しています。
一 御家中御成物、先年は三つ四つ御渡し候由、当時は一つ七歩位と承居中候事。

    家中成物(家臣の俸禄米を一定額徴収)については、以前は知行百石について30~40石を渡していましたが。今は一七石程度になっています。
一 御用銀の儀、御勝手向御指支、其上御上京等芳以御入用多候につき、身上相応少々宛御用銀被  二仰付一候。尤無高の者ぇは被仰付無之候事。

  御用銀については、藩の財政支援のために殿様が将軍名代として京都の朝廷に参内するときなどの費用負担として、相応額を納めています。しかし、無高の貧しい者には免除するなど配慮しています。

一 甘藷作の義、当国は用水不自由にて、日畑共少々植付候得共、近頃員数減等被二仰付「全作付柳の義、尚又売捌は多分大坂表え積登候事。

 砂糖生産に必要なさとうきび栽培については、讃岐は水不足が深刻なために、田畑にさとうきびを少々植付けています。しかし、近頃は幕府の削減令もあり、植え付け面積を削減しています。また販売先はほとんどが大坂に積み出しています。

   事前調査で今回の天保の巡見使の巡見テーマが「各藩の特産品とその専売制の調査」と予想していたようです。そのため髙松藩の特産品である塩田と砂糖についての答え方には、特別に苦心を払っていたことがうかがえます。

巡見使の事前動静調査のために、土器村の庄屋代理林利左衛門が、4月末から5月にかけて、伊予の西条方面に出かけて調査しています。その報告書には、伊予各藩のもてなしについて次のように記されています。
①各藩が巡見使のお供の者に金子を贈っていることと、その具体的な額
②巡見使の行列の模様
③三枝様の一行はあの品(金?)を御好みの由
④片桐様御一向は御六ケ敷由
⑤平岩様は温厚にて、御家来向も慎深き由
引纏役の西村市太夫は、旧知の阿波脇町の庄屋平尾平兵衛から書状で阿波の準備状況などを教えてもらっています。
その上で巡見使が脇町に入った6月14日から16日まで三日間は、猪の尻の淡路稲田家の家臣森兵衛方に自ら出向いて「情報収集」を行っています。その方法は、当地の村役人に28か条の質問要項を示すもので、細かい点についてまで回答を得ています。この行動力と入念さには、頭が下がります。庄屋たちのやる事には、綿密で抜かりがありません。
報告書の中の中には、巡見使の従者がひき起こした問題についても、報告されています。
〇阿州南方にて、まんじゅう屋へはいり、段々喰荒し候につき、御郡代には内分にて、村方より十両程、相い手伝遣候由、全体踏荒候哉と被存候。

 意訳変換しておくと
〇阿波の南方では、まんじゅう屋へはいりこみ、無銭で喰荒した事件が起きた。これについては、郡代には内密にして、村方より十両程を、相手方に支払ったという。全体に粗暴である。


○寛政の度、脇町にて御家来より、「当町に磨屋(とぎや)は無之哉」と御尋に付、有之趣返答仕候所、手引致様に申すに付、遊女屋の心得無之、真の磨屋へ手引致候所、「ケ様の所へ連れ越候段不届、手打に致す」と苦り入、漸々、断り致し、銀談にて相済候段、此節の噺に御座侯。

意訳変換しておくと

○前回の寛政年間の折には、脇町で巡見使の家来から「当町に磨屋(遊郭)はないのか」と尋ねられたのに対して、「あります」と答えたところ、「連れて行け」と云われたので、遊女屋については知らないので、本当の磨屋へ連れて行ったところ「こんなところへ連れてきて不届である、手打に致す」ともめて、散々断りしたあげく、銀談(お金)で済ませたとのこと。

江戸では、無頼漢扱いを受けていた渡り仲間が、人足不足のために急に召し出されてお供に加えられた者もいたようです。彼らの行動は横暴・横柄だったようで、巡見一行に対する領民の目は、冷たく、厳しかったことがうかがえます。市大夫も土佐の例をひいて、お供の者が宿舎で酒の振る舞いを受け、婦女子に絡んだことのあったこと、そのため各地で、巡見使の滞在中は婦女子の外出を自粛させている藩があることを述べて、高松藩でも同様の措置をとるように求めています。
 料理については、一汁三菜のほか、うどんやそばを加え、所望があれば酒を供してもよいと述べ、個人的な好みとしては、靭負様が脂濃い物が嫌いで、鮎の筒切の煮付のお平を召し上がらなかったことなども書いています。全く、至れり尽くせりの報告です。武士ではここまでは、気が回らないのではないかとも思います。
 西村市太夫は郷会所元〆に、口頭で次の二点を申し入れています。

土州では、人足が一文字の菅笠、襦祥と下帯を赤色にそろえ、赤手拭で繰り出し、見物人も多く、賑々しく道中したので、巡見使一行に喜ばれたこと。それに対して、阿州では人足の服装もまちまちであって、見物人も制限したので少なく、行列も寂しかった。これについては、巡見使一行が不満であったことを報告して、次のように提案します。「讃岐では、人足の服装を決め、見物人の取締制限を緩めてはいかがか」

もう一つは、大庄屋や庄屋の服装についてです。
髙松藩が大庄屋・庄屋に出した通知書の中に、服装については次のように指示されていました。
一、大庄屋の服装は、羽織袴半股立で草履きとする。(中略) 案内の庄屋の服装は、羽織小脇指に高股立 組頭は羽織だけで無刀で、履き物は草履である。

これに対して西村市太夫は、次のように訴えています
「巡見使の相手をする村役人は、すべて百姓並で、名字も名乗らず、脇指一本で勤めるというのは高松藩だけです。他国では名字帯力を許されているものは、両刀を帯し、名字を名乗って勤めています。巡見使のことは生涯に一度あるかないかの機会であるから、高松藩でも、許されている身分に相当した服装で御相手をすべきではないでしょうか。このことについては、大庄屋などにも相当不満があります」

    巡見使接待については、生涯に一度あるかないかの機会でもあるので、二本差しを認めて欲しいと云うのです。これを見ていると、大庄屋たちは巡見使受入の機会を「ハレの場」と捉え、大名行列に参加する一員になるような気持ちで、晴れがましく思っていたようにも思えてきます。行進やパレードは祭化されていくのが近世のならいです。西村市太夫のめざす方向も、派手目の衣装に人足の衣装も揃えて、見物人を増やして、そこを大名行列のようにパレードする姿を思い描いていたのかもしれません。そこに自分も二本差しで参加できれば本望ということでしょうか。しかし、両方の願いとも髙松藩が取り上げることはなかったようです。そして、幕府の巡見使派遣は、天保のものが最後となりました。
巡見使 讃岐那珂郡ルート
幕府巡見使 那珂郡から鵜足郡へ
6月18日に、巡見使一行は丸亀領に入ります。
その日のうちに苗田村からの飛脚使は、20日に予定されている岡田西での引継ぎは、夜になると思われるから、提灯の準備をするようにという連絡が大庄屋に届けられています。市太夫は人足に指示して、明松約600を用意し、岡田西村、小川村、西坂元村、東二村、東分村、宇足津村の六か村から、人足約300人を招集して、弓張提灯百張と三十目掛の蝋燭も準備しています。

巡視使讃岐視察ルート
巡見使の讃岐での巡見スケジュールと宿泊所

 前日の6月19日の夕方に村役人と人足は、岡田西村に集まり、四、五軒の民家を借りて分宿しています。
そして翌日、土器川の川原に集まって最後の打合せしてから、それぞれの持場で待機します。巡見使一行が、那珂郡の村役人と人足に案内されて、垂水から川原に着いたのは、予想通り暗くなってからでした。引継ぎは、等火と明松の明かりの中で行わます。大庄屋の十河亀太郎と、引纏役の西村市大夫と高木庄右衛門が出迎え、挨拶します。村役人が、駕籠や馬や徒歩の侍衆に付き添って御案内に立ちつのを、人足が明松で遠くから道を照らします。村役人は提灯で足元を確かめながら、行列は次々に宇足津へ向かって出発します。具足櫃と行李に茶弁当、両掛や合羽籠などの荷物は、仲間や小者などの厳しい注文を受けながら、人足が一歩一歩と、暗やみの中を宇足津まで運びます。

宇多津街道5
垂水からの宇多津街道
 村役人と人足が加わった、400人に近い一行は、三隊に分かれて、法式どおりの行列を組んで、2里20町余りの宇多津街道を進んで行きます。途中、西坂本村で休憩、湯茶と餅のもてなしを受けています。この日に備えて、領内の鉄砲はすべて庄屋宅に集められ、沿線一帯は、厳しく警戒されていました。

宇多津街道4
宇多津街道

 宇足津には、出迎える側の高松藩の御奉行・郡奉行・代官・船手奉行・作事奉行が宿泊しており、丸亀藩と塩飽の役人も宿泊していました。そのため宿も、数多い寺も、商人の家も、みな宿舎に充てられていす。不寝番が立ち、万一の火事に備えて百人の火消し人足が待機していました。この火消し人足の指揮をとったのは、造田村の組頭丹平と沢蔵でした。

宇多津 讃岐国名勝図会3
宇多津

 翌日21日は、塩飽に向かう日です。
巡見使の宿から船場までの「御往来共揚下見計人」(交通整理役?)は、造田村の庄屋代理太郎左衛門が務めています。その夜を塩飽で送った巡見使一行は、高松藩の船手に守られて塩飽諸島を巡見し、22日夕方には、再び宇足津に帰着して一泊します。
23日朝、宇足津を出発して阿野郡北に向かう巡見使一行を、郡境の田尾坂まで見送り、四日間にわたった、鵜足郡の巡見使への奉仕は終わりました。
巡見使受入にかかった費用は、藩から出されるのかと思っていましたが、そうではないようです。全額を各村が分割して負担しています。
造田村の巡見使受入負担金


造田村の負担銀は、総額5貫181匁8分5厘(イ・ロ・ハ・ニ)になります。これを決算すると、十石高につき8匁8分8厘の負担になります。高一石を一反歩あたりにすると約3000円になるようです。金一両(75000円)=銀六〇匁のレートで計算すると、銀一匁は約1250円になります。一反歩について、3000円強の負担となります。これらの計算が簡単にできないと、当時の庄屋は勤まりません。大棚の商家には、駄目な若旦那が出てきますが、庄屋には出てこないのはこういう役目がこなせる人間を育成したからでしょう。当時の算額など学んでいたのも、多くは庄屋層の若者だったことは以前にお話ししました。

 すべての業務を整理し終わってから西村市太夫と高木庄右衛門は、大庄屋両人に対して、次回に向けた改善点を次のように報告しています。(御巡見御案内総人数引纏取扱の様子理現記一西村文書)
御取扱の場所等動方心得の事(要約)
①遠見(斥候)を、苗田・金毘羅・榎井・四条と、二人ずつ四組出しておくこと。
②郡境案内の庄屋を三人ほど増員すること。
③予備の人足を50人、川原へ待機させておくこと。
④明松の数を、今回の600挺から200挺ほど増すこと。
⑤大蝋燭、中蝋燭200挺位用意すること。
⑥縢火・松小割を30束増すこと。
⑦質問されたことについては、想定問答集に基づいて答えたが、今後は、案内人の器量次第で答えることが多くなると思われること。
⑦夜番に立った百姓や村役人は、翌日の勤務を免じること。疲労のため失敗すると、大変である。
高松藩でも、巡見使がどのようなことを尋ねたか、それに対して村役人がどう答えたかは、大きな関心があることでした。案内の村役人全員から報告を求めたようです。市太夫の代役を務めた西村安太郎が、8月8日付で、大庄屋に報告した報告書の控えが残っています(西村文書)
口上
一私儀、六月十日御巡見の砌、岡田西村郡境より、三枝平左衛門様御案内仕、宇足津村御宿広助方迄罷越候所、御道筋岡田西村にて、是より御茶場迄道筋何程有之哉と御尋に付、 是より壱里計御座候と申上候。尚又御茶場より宇足津村迄何程有之哉と御尋に付、壱里廿丁計御座候と申上候。
一 二十一日御宿より塩飽島へ御渡海の節、御船場迄、御案内仕候。
一 二十二日塩飽島より御帰りの節、御船場より御宿広助方迄、御案内仕候。
一 二十三日阿野郡北郡境迄、御案内仕申候。
右の通御案内仕中候。外に何の御尋も無御座候。右の段申止度如斯に御座候以上。
八月五日                     西村安太郎
官井清七様
十河武兵衛様

意訳変換しておくと
6月20日の巡見の際には、岡田西村郡境から、三枝平左衛門様を案内そて、宇足津村の宿である広助方まで参りましたが、その道筋の岡田西村で「ここから茶場までの距離はどのくらいか」と尋ねられました。これに対して「ここからは一里ほどです」とお答えしました。また茶場より宇足津村までは、どのくらいかと尋ねられましたので、「一里二十丁ばかりですとお答えしました。
21日は、宿から塩飽島へ渡海の時に、船場まで案内しました。
22日は、塩飽からの帰りの時に、船場より宿の広助方まで案内しました。
23日は、阿野北郡の境まで、案内しました。
これらの案内中には、何のお尋ねもありませんでした。以上を報告します。
8月5日                     西村安太郎
官井清七様
十河武兵衛様

大庄屋は、案内係を務めた全員の質問・応答内容を提出させてチェックしていたことがうかがえます。
高松藩の江戸屋敷でも、次後の政治的工作を怠らなかったようです。琴南町の長善寺の襖の裏張の中からは、約20枚の高松藩江戸屋敷日記が発見されています。その中には次のように記されています。
七月二十九日
一 御講釈御定日の事
一 平岩七之助様 片桐靭負様 三枝平左衛門様の御方御巡見御帰府に付、為御歓御使者御中小姓分                              堀 葉輔
右相勤候。
ここからは、髙松藩江戸屋敷から帰着した巡見使3名に慰労のための使者を遣わしていることが分かります。化政時代の後を受けて、「世は金なり」と賄賂が横行していた天保年間の御時勢です。財政窮迫の高松藩でも、この御使者は「手土産」持参だったことが推測できます。巡見使の将軍に対する報告書の提出締切日は、8月21日でした。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    
最初に前回にお話しした幕府の巡見使について、簡単に「復習」しておきます。
江戸幕府は将軍の代替わりごとに巡見使を派遣して民情の監察を行いました。各藩の寺社数、町数、切支丹の改め、飢人の手当、孝行人、荒地、番所、船数、名産、鉱物、古城址、酒造人数、牢屋敷等々を聴取して領主の施政を把握し、帰還後は幕政に反映するべく将軍に報告しています。
 監察は全国を8つの地域に分け、それぞれ3人1組で一斉に行われました。巡見使は千石から数千石取りの幕臣が任命さるのが通常で、1名につき数名の直属の部下と十数名の近習者、および十名を越える足軽や供回りが随行したので、30名ほどの人数になりました。それが、3名の巡見使では百人ほどの一団となり、迎える側の準備も大変でした。

 受け入れ側は事前の情報収集に努め、傷んだ道路や橋梁を修築し、必要な人足と馬匹、水夫と船舶などを揃えました。巡見使の昼休憩と宿泊には、城下や藩の施設(藩主のための御茶屋)が利用されましたが、農山の村々をまわるときは座敷のある上層の農民や商人の家か、寺院があてられました。休泊所となった民家には、藩の費用で門や湯殿、雪隠が増設され、道路の清掃やさまざまな物資の手配などに追われたようです。その中心となって対応したのは、各郡の大庄屋たちだったようです。今回は、大庄屋の対応ぶりを残された史料から見ていくことにします。
テキストは、  「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」です。

1789(寛政元)年5月には、巡見使池田政次郎・諏訪七左衛門・細井隼人がやってきます。
この巡見使の受入準備のために髙松藩は、事前に「国上書」を各巡見使用人宛に提出して「内々のお尋ね」をしています。その「御尋口上書」は50ケ条にもなります。どんな質問が行われていたのか、その一部を見ておきましょう。
一、讃成へはいつ頃御廻可被遊候哉
一、政次郎様御夜具御浴夜等用意仕候に及申間敷候哉御問合仕候
一、御供に御越被咸候御用人方御姓名承知仕度候事
一、御朱印人足の外何沿人程用意可申付候哉
一、御伝馬の外に何疋程用意可申付侯哉
一、御長持何棹程御座候哉
一、御三方様御休泊之内為伺御機嫌夜者等差出候儀是迄通可仕候哉本伺候
一、御三方様御名札是迄は御宿前に御名札長竹二鋏芝切建来り候家格も御座候余り仰山にも可営侯に付此度は御名札御休泊御宿門へ召置候様可仕侯哉御問合仕候
一、御二方御料理え義一汁一末に限り可申旨先達而被仰渡
本長候乍只一茉と申候而は奈り御不自由にも可被咸御座
侯に付′―、重箱何そ瑕集類え口"指上可然ヒロ在所役人共より私共存寄斗にて申童候も力何に村御内々御問合仕侯
一、 一茉に限り候へば平日不被召上候御品には御内々無御腹蔵御言付可被下候本頼候
意訳変換しておくと
一、讃岐へは、いつ頃巡回予定なのか
一、池田政次郎様の夜具や御浴夜などの用意のために、注意事項をうかがいたい
一、お供の御用人方の姓名が分かれば教えて欲しい
一、御朱印人足の他に、それくらいの人足を用意すればいいのか
一、御伝馬の他に、何頭ほどに馬を用意すればいいのか
一、長持は何棹程でやってくるのか御座候哉
一、御三方の休泊で夜伽などは差出した方がいいのか
一、御三方の名札は御宿前に名札を長竹に挟んで立てかけるが、家格のこともあって、この度は名札を休泊宿門へ置くようにしたいが如何か
一、御三方の料理について、一汁一菜に限るとされているが、これではあまりに質素すぎると思われるので、重箱などを加えてもよろしいか
一、 一菜に限るというなら内々にお出しするのはかまわないか

これに対し、巡見使の各御用人より一項一項に付いてこまごまと回答が寄せられています。事前の打ち合わせが髙松藩と、巡検使の用人の間で事前に行われていた事を押さえておきます。

江戸の巡見使用人からの情報を得て、高松藩では次のような指示を大庄屋を通じて、各村々の庄屋に回覧しています。
御巡見御越に付 大小庄屋別段心得
一、御宿近辺にて大破に及ぶ家々は自分より軽く取繕ひ申すべく候
一、御道筋の大制札矢来など破損の分は造作仰付られ候
尤も小破の方は郡方より取計仕L小制札場の分は村方より取繕致し申すべく候
一、御通行筋茶場水呑場郡々にて数か所相建候間見積をもって其の処へ取建仰付られ追て代銀可被ド候
一、御道筋の仮橋土橋掛渡の義幅壱間半に造立て右入用の材木等は最寄の御林にて御伐渡持運人足は七里持積り又は湯所見合積りを以て人足立遣し追て扶持被下候
一、御巡見御衆中御領分御滞留の内別けて火の元入念にいたすべく 御道筋家々戸障子常体に仕置御通の筋は土間にて下座仕るべく候 物蔭よりのぞき申す義仕る間敷惣て無礼無之様仕るべく併て無用の者外より御道筋に馳集候義堅く無用に候
一、御巡見御用に罷出候下々に至るまで惣て相慎み喧嘩口論仕候はゞ理非を構はず双方とも詑度曲事中付くべく候
勘忍成り難き趣意これあり候はゞ其段村役人共へ届置追而裁判致し遣はすべく候
一、御巡見御衆中当御領御逗留中猪鹿成鉄砲打ち申す間敷相渡し申すべく候
一、雨天にて御旅宿の前通行の節下駄足駄履き申す間敷候
一、御案内の村役人共御案内先に代り合いの節御性格等申遣りよく呑込み置きて代り合い申すべく候
一、御巡見御用に罷出候人足馬士等生れつき不具なるもの道心坊主惣髪者子供並に病後にて月代のびたる者指出す間敷候
一、相応の単物にても着用し御仕差出申すべく襦袢又は細帯等にて差出申間敷候 笠は平笠かぶらせ申すべく編笠並手拭にてほうかむりなど致候義相成中さず候
一、寛政の度政所と唱うるところ近年庄屋の名目に相改り居り申すに付自然相尋られ候へば文政六来年より庄屋と唱う様相成居候へども如何なる訳合にや存じ奉らず候段相答へ申すべく候
有の通り村々洩れぎる様中渡さるべく候

意訳変換しておくと

一、御宿附近で大破して見苦しい家々は、自分で軽く修繕しておくこと
一、道筋の制札や矢来などで破損しているものは修繕する事。小破の場合は、郡方より修理し、小制札場については村方で修繕する事
一、通行筋の茶場や水呑場については、郡々で数か所設置する事。後日、見積りに基づいて、代銀を藩が支払う。
一、道筋の仮橋や土橋などについては壱間半の幅を確保する事。これに必要な材木等は最寄の御林で伐採し、運人足は七里持積りか場所見合積りで人足費用を計算しすること。追って支払う。
一、巡見衆の領分滞在中については、火の元に注意し、道筋の家々の戸障子で破れたものは張り直すこと。通の筋の家では、土間に下座して見送る事。物蔭からのぞき見るような無礼な事はしてはならない。併て無用の者が御道筋で集まることは禁止する。
一、巡見御用衆が郡外に出るまでは、互いに相慎んで喧嘩口論などは起こさないように申しつける。
  勘忍できないことがあれば、その都度村役人へ届け出て判断を仰ぐ事。
一、巡見衆中が滞在中は、猪鹿などを鉄砲で打ことを禁止する。
一、雨天に御旅宿の前を通行する際の、下駄足駄履は禁止する。
一、案内の村役人は交代時には、巡見使の性格などを申し送り、よく呑込んで交代する事。
一、巡見御用の人足や馬は、生れつき不具なるものや、道心坊主惣髪者子供や病後にて月代のびた者などは選ばない事
一、衣類については、相応しい単物を着用すること。襦袢や細帯の着用は禁止。笠は平笠を被ること。編笠や手拭ほうかむりなどはしないこと
一、寛政年間までは「政所」と呼んでいたのを、近年に「庄屋」と名称変更したことについて、どうしてかと尋ねられたときには、「文政六年より庄屋と呼ぶようになりましたが、その理由は存じません」と答える事。
以上を村々に洩れなく伝える事。

  「髙松藩 → 大庄屋 → 庄屋 → 村民」という伝達ルートを通じて、下々までこららのことが伝えられていたことが分かります。巡検を受ける藩にとっては、一大事だったことがあります。
 満濃池で植樹祭があった時に、時の天皇を迎える時の通達を思い出します。そこにも、「2階から見てはいけない、服装は適切な服装で、沿道の家は植木などの刈り込みも行うこと」など、細かい指導・指示が行政から自治会を通じて下りてきました。ある意味では、江戸時代の巡見使を迎える準備対応ぶりの昭和版の焼き直しかもしれません。この通達がルーツにあるのかも知れないと思えたりもします。

今度は大庄屋や庄屋に出された「御巡見御越に付大小庄屋別段心得」(満濃町誌253P)を見ておく事にします。
一、惣て御案内の仕方は郡境より同境までと相心得申すべく候 郡境へ罷出相待候節諸掛場所家居これなき処は相応の小屋掛にても致し出張村役人の散らぎる様相集め置き申すべく候
一、大庄屋は羽織袴半股立に草履を履き、草履取桃灯持召連れ郡境にて御待請御先御用人ら参候まで草履取桃灯持ども召連居申し右御用人間近に相成候はゞ右家来を先に遣置き尤も俄雨又は夜に入る節は夫々用向等辯じられる様申付置は勿論の事に候
御案内の庄屋は羽織小脇指に高股立 組頭は羽織ばかり無刀にて罷出候義と相心得いづれも草履にて候
尚右大庄屋中より先方駕籠脇へ挨拶済の上夫々役割御案内に相掛り申すべく候 尤も前々は却て御案内駕籠先へ立候義もこれあり候 既に寛政の度は御駕籠脇へ引添御案内致候指図これあり候義もこれあり是等の義は臨機応変の事に候
一、御先御用人御出の節太庄屋中出迎御駕籠脇にて
〈私儀何郡大庄屋何某と申す者にて御座候御三方様御案内の庄屋与頭共引纏め罷出候御用御座候へば仰付下さるべく候〉と申述べ御用人中より指図通り御案内仕るべき事
一、御朱印箱の義は甚だ御大切の御品にて御案内の者は勿論持人までも別けて気を付け有御箱取扱の節上問等へ指置候義は素より御旅宿にても上げ下げ等の節油断なく取扱申すべき事
一、御道中夜に人る節は御印付高張六張並八歩高付御桃灯三拾張差越候義と相心得申すべき事
一、御通筋家続のところは表軒下へ掛行燈にて燈さすべき事
一、御道筋廉末これ無き様手前に洒掃致し置候上は御通りの節俄に帯目入る義は却てごみ立ちよからず候間願くは水を打ち置く様致度き事
一、御道中夜に入る節庄屋与頭等御案内の者自分自分の定紋付桃灯燈し申すべき事
一、御案内合羽の義大小庄屋は青いろ与頭は赤合羽着用の事
一、大小庄屋組頭郡境にて他郡へ相渡候節先に相立居申す御案内の者少し先へ踏込み御巡見御衆中並用人迄も御通行順御性格等を他郡御案内の者へ申伝ふ事
六月十七日
意訳変換しておくと
一、案内の仕方は、郡境より郡境までと心得よ。郡境で出向いて待つ時に、近くに家などがない場合は仮小屋を建てて、出張村役人らがバラバラにならないように一箇所に集まるようにしておくこと。
一、大庄屋の服装は、羽織袴半股立で草履きとする。郡境で待請・先御用人などがやってくるまで草履取桃灯持を同伴して待機する事。御用人が間近に近づいてきたらその家来を先に立てて、その後に従う事。もっとも雨や夜になって暗い場合は、それぞれの対応を講じる事。案内の庄屋の服装は、羽織小脇指に高股立 組頭は羽織だけで無刀で、履き物は草履である。
 なお大庄屋は巡見使の乗る駕籠の脇で挨拶を済ませた上でそれぞれの役割案内に掛ること。以前には 案内駕籠先へ立って先導したこともあったようだが、寛政の巡検以後は駕籠脇へ従い案内するようにとの指示があったのでこれに従う。場所・時間によっては先導する必要もあるので臨機応変に対応する事
一、先達御用人が引継ぎ場所にやってきた時の大庄屋の駕籠脇での出迎え挨拶については次の通り
「私儀何郡大庄屋何某と申す者にて御座候。御三方様御案内の庄屋与頭共引纏め罷出候御用御座候へば仰付下さるべく候」と申し述べてから、用人の指図を受けて案内すること。
一、朱印箱については大切な品なので、案内の者はもちろんのこと、持人も特別な注意を払う事。朱印箱の取扱については、取り運びや旅宿での上げ下げについても油断なく行う事
一、道中で夜になった場合には、印付高張六張と八歩高付御桃灯三拾の提灯を捧げかける事
一、通筋の家には、表軒下へ掛行燈を燈させる事
一、道筋については、清潔さを保つために事前に清掃し、通過直前には帯目を入れ、水を打っておく事
一、道中で夜になった場合は、庄屋や与頭などの案内人は自分自分の定紋付桃灯を燈す事
一、案内合羽については、大小庄屋は青いろ、与頭は赤合羽を着用する事
一、大小庄屋組頭は郡境で他郡へ引き継ぐ時に、次の案内の者に巡見衆や用人などの性格などを次の案内者へ申し送る事
六月十七日
  この史料を読んでいて気づくのは、ここには受入側の髙松藩の武士達は一人も登場しないという事です。
私は、髙松藩の藩士達が全面に出て案内から接待まで仕切ったのかと思っていました。しかし、主役は、郡毎の大庄屋や庄屋などの村役人組織であったことが分かります。藩役人は、服装や対応の方法を書面で指示しますが、それを実際に行うのは、大庄屋や庄屋たちだったのです。これだけのことをやってのける行動力が大庄屋の下には組織されていたことに驚かされます。
 指示内容の中には、お下げ銀を出して見苦しい民家の修繕をしたり、道路に砂利を敷いたり、沿道に茶店を設けるなどして、藩の民政が行き届いて、百姓たちの生活が豊かであるように装ったことがうかがえます。
 出迎えに当たっての服装なども細かく指示されています。大庄屋は羽織袴を着用し、村方三役も規定の正装で郡境まで出迎え、宿泊には宿詰をつけて万事遺漏のないように配慮されています。

最後の巡見になる1838(天保9)年の時には、那珂郡の村役人達にどんな役割が割り当てられたのかが分かる史料が残っています。
各行事をきちんと記録していた岸上村庄屋奈良亮助が書き留めたものが満濃町誌に紹介されています。天保九戌午六月御巡見一件役割とあって、那珂郡の村役人の役割分担表であることが分かります。
巡見使役割分担表1

讃岐那珂郡の天保九戌午六月御巡見一件役割 その1

最初に平岩七之助様とあるので、3人の巡見使のうちの主査の担当係とその村名・役職が列挙されています。その役割の内で「案内」「籠付」は各村の村役人。「荷物下才領(人足)」「合印持」は百姓層に割り当てられています。人足も単独の村が出すのではなく、いくつかの村からのメンバーで編成されています。この後に残り2人の巡見使付の役割分担表が続きますが省略します。

巡見使 讃岐那珂郡ルート
讃岐那珂郡の巡見使ルート

那珂郡の巡検ルートは、丸亀を出発して、往路は金毘羅街道を金毘羅まで下って満濃池まで足を伸ばし、復路は宇多津街道を上って宇多津までであったことは前回お話しました。

巡見使役割分担表2
        天保九戌午六月御巡見一件役割 その2
この役割分担表には「公文村茶場・餅屋」とあるので、金毘羅街道沿いの休息所は公文に設けられたことが分かります。その担当者名が記されています。面白いのは、「茶運子供」とあって、給仕をおこなうのが「百姓達の倅」であったことです。
 また、宇多津への復路には「東高篠村水置場」とありますので、高篠にも休息所が設けられたようです。この他、郡家にも水置場が設置され、それぞれ担当者が割り当てられています。

巡見使想定問答書(島根県)

これは鳥取県智頭町の大庄屋が作成していた「想定問答集」です
巡見使から質問があったとき、案内などをした大庄屋、庄屋などの村方の役人が無難な返答をするためにつくられたようです。大庄屋たちがが考えた想定質問「銀札は円滑に流通しているか、勝手向き(財政のやり繰り)はうまく行っているか」などを藩に問い合わせたものに対して、藩が朱書きで模範答案を書いて送り返しています。まさにお役所仕事の入念さが、この時代から見られることにびっくりもしました。今と変わりないなあという風に思えてきます。
 このような準備が入念に行われるようになったため、江戸時代後期になると、幕府巡検は形式的になり儀礼化したともいわれます。しかし、幕府が全国支配の威光を体感せしめるための重要な役割を担っていたことに変わりはありません。このような支配システムを運用する事で、下々の「お上」意識が江戸時代に形成され、それが明治の地方行政にも形を変えながら活かされていくようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」

     江戸時代の寛永年代に始まった巡見使制度のことを研究者は次のように評します。
将軍の全国統治権に基づき、諸大名の行政を査察する権限の行使

初代家康は1615(元和元)年11月、諸国に監使を派遣しています。巡見使としては家光が1632(寛永十)年に五畿七道へ派遣したのが初めのようです。その後、将軍の代替りごとに派遣されるのが例となります。巡見使は3人セットでした。一人では各藩からの贈賄等によって事実を曲げて報告する恐れもあります。そのため幕府上級旗本三人を一組セットとして各地方に派遣しました。

巡見使は主席が2000石、以下1000石位までの上級旗本から任命され、その巡見使には各々家老、取次役、右筆等30名程度の家来(幕府扶持人も加わる)で編成されていました。そのため3人が引き連れてくる一行は百人程度の大人数になります。
 巡見使に任命された旗本や御家人は、時代が下がるのにつれて、定められた家臣や従者を常備している者が少なくなります。そのため命令を受けると、大急ぎで日入稼業者を通じて従者を雇い、十分な訓練もできないままで出発することになります。しかも、巡見使の旅は、数か月に及ぶ長い行程であったので、出来の良くないにわか従者などは旅先でトラブルを起こす事も多かったようです。



古絵図・貴重書ギャラリー
巡視者の質問に対する事前問答集

 巡見使の来訪は受入側の藩にとっては一大事です。何日もかけて藩を隅々まで見られたのでは、藩の内情がすべて明らかになってしまいます。事実を隠蔽していることが分かった場合は、命取りになってしまう場合もあります。従って質問に対する答弁まで考えて、「事前問答集」を作成すなどするとともに、眼に触れて欲しくないところは巡見をさせず、御馳走攻めにしておくことにも心掛けるようになります。
PayPayフリマ|小栗上野介 〈主戦派〉 vs勝海舟 〈恭順派〉 幕府サイドから見た幕末/島添芳実

「諸大名の行政を査察」するためにやてきた幕府の巡見使を、髙松藩はどのようにして迎えていたのでしょうか。
これについては、当事者である村々の庄屋が残した史料が、各所に残っているようです。それらの史料で、巡見使受入マニュアルがどのように整備されていたのかを見ていくことにします。テキストは「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」です。

最初に幕府が巡見使に与えていた心得「巡見使の守るべき条々」を見ておきましょう。
一、今度国廻りの刻 御咸光を以て何事によらず公仕る間敷く候 勿論召連れ候下々まで堅く申付くべき事
一、召連れの下々喧嘩口論仕るにおいては 双方これを誅罰すべし 荷担せしむる者共は本人同前たるべき事
付けたり 所の者の申事仕るにおいては その領主並に代官らに相談の上理非をわかち有様に申付くべき事
一、竹木一切代採べからず
付けたり 押買狼藉すべからざる事
一、駄賃宕賃定めのごとく急度これを相渡すべし 代物これを出さざれば人馬使ふべからぎる事
右この旨を相守るべきもの也
    寛永十年 二月六日
意訳変換しておくと
一、この度の諸国巡検については、何事についても幕府の咸光を後ろ盾に、威張り散らすようなことのないように、召連れていく従者にも言い含めておくこと。
一、従者と現地の人足たちとの喧嘩口論が起きた場合には、喧嘩両成敗で双方を誅罰すること。喧嘩に荷担したものたちも本人同様である。
一 現地の者からの直訴があった時には。領主や代官らに相談した上で理非を極めた上で措置する事。
一、従者達の竹木代採は一切認めない。押買狼藉も許さない。
一、駄賃などの運送費や宿泊費は、決められた額をきちんと支払う事。代金を支払わなければ人馬使ふことは許さない。
右このし口を相キるべきもの也
寛永十(1632)年 二月六日
幕府としては、巡見使の横暴を許さないことを示す文面になっています。しかし、実際に行われているので禁止令が出るのです。「禁止令は、その行為が行われていたと思え」は、歴史学のイロハです。従者と現地の人足などとの喧嘩や、直訴についてのトンチンカンな対応ぶり、竹や木材の勝手な伐採、駄賃や運送費の不払いなどが、初期の時期からあったことがうかがえます。
 しかし、幕府としては巡見使派遣に際しては、将軍の成光をもって横暴に流れたりしないように指導していたことは分かります。例えば将軍吉宗などは巡見使に大きな期待を持っていた節があります。実際、御料(幕府の直轄地)を巡視した報告書をもとに、不正な代官を処分したり、機構の見直しを行ったりもしています。しかし、各藩の情勢を観察する諸国巡見使の報告については、幕政を進める上で参考となる情報が含まれていても、領主権の尊重という建前もあるので、藩政にまで立ち入ることは難しかったようです。
 享保以降も、将軍の代替わりごとに巡見使の派遣は続けられます。
しかし、次第に形式化して単に将軍の威光を知らしめる為だけのものになっていきます。そして、安政の頃になると、巡見使を受け入れる各藩から、出費が多い事を理由に派遣延期の願が出されるようになります。幕府もこれを認めざるを得なくなり、天保の巡見使派遣を最後に、巡見使の派遣は取りやめになります。
 

讃岐にやってきた巡見使のうち、史料によって確かめられるのは次の通りです。

巡視使来讃一覧表
歴代巡視使一覧

2回目の巡見使派遣は1667(寛文七)年でした。この時には、前回に出てきた問題を踏まえて、更に更にこまごまとした条目を定めて巡見使に守らせようとしています。また、受入側の諸大名には、巡見使を迎える際には、質素にするように命じています。そして、調査質問事項として次のような項目が追加されています。
一、公領私領各所の市井村里政蹟の可否をたづね 天主教停禁の事常に起りなくかするや否や並に盗賊捜索の様その土人に尋ね問うべし
一、何事によらず近年抽税を出さしむるにより その地諸物の価時貴し 人々難困するや また公の政法と変りたる事あるや
一、諸物を事処より買置て ひとりその利をむさばる者あるや 金銀米銭の時価を問うべし
一、許状一切受瑕るべからず 高札の写しを立てざる地はこの後これを立てしむべし もし年経て文字見えわかざるは改めてせしむべし
意訳変換しておくと
①、幕府領や大名領各所の町や村の様子を調査し、切支丹禁止以後に適切な措置がとられているかどうか、盗賊捜索状況などについて、現地住民に尋ね問うこと。
②、近年の間接税課税によって、物価急騰で人々が困っているという。幕府の政策と現地の政策で異なるろころがあるのか調査すること
③一、「買い占め・売り惜しみ」などによって利益を上げている者がいないか、現地の金銀米銭の時価を調べること
④、直訴状はなどは一切受取ってならない。 幕府の命令などを掲げる高札がきちんと建てられているかどうか、しかるべき所に高札が建てられてない場合には指導すること。もし年経て文字が見えにくくなっている場合には、新しくさせること。
①の背景には、1661年に幕府は寺請制度によって「宗門人別帳」を作成することを各藩に命じていたことがあるようです。そして1671年には全国で宗門改めが行われるようになります。そのための「地ならし政策」を推し進めている最中だったので、巡見使視察を通じて各藩に整備に向けた圧力かけたようです。
②③については、物価急騰への対応調査のようです。
④については、巡見使に対しての直訴が多かったのでしょう。それを受け取ればいろいろな問題を幕府が抱え込むことになります。それは各藩で対応解決すべきことなので、幕府は以後はこれを押し通すようになるようです。


受入側の地方の代官や領主に対しては、次のように通達しています。
一、このたび諸国式況令ぜらるヽといへども地図城図制することあるべからず
一、人馬戸口査校に及ばず 御朱印券の外に用ふる人馬は定制の直銭をとり 渋滞なく出すべし
一、 いずれの地に至るとも 使介脚力贈童一切上むべし
嚮導者なくてかなはざる地はその事告げやるべし
一、道路清掃すべからず 但し有り来りの道路橋梁往還の便よからぬ所は修むべし
一、投宿の駅舎造営すべからず 新に茶亭を設くることあるべからず
一、巡視のともがら投者の駅々にて 米豆その郷価をもって売るべし その他の諸物もこれに同じかるべし
一、各駅の旅舎筵席を新にすべからず 古きを用ふることも苦しからず 浴室厠かねて設け置かざる所はいかにも軽く造るべし 盤嗽 栗炊の具古くとも苦しからず もし設けざるは軽く特へ置くべし
一、旅宿とすべき家一村に三戸なきは寺院またほ別村にても苦しからず
  意訳変換しておくと
①今回の巡見使受入について、新たに国地図や城図を作成する必要はない。
②人馬の戸口調査を行う必要もない。御朱印券の外に使用する人馬については決められた額を支払うこと。
③巡検視察地がどんな場所であろうとも、巡検者に補助人をつける必要はない。もし嚮導者がなくては行けないところがあれば、その旨を事前に申し出る事。
④道路は清掃する必要はない。但し、橋梁など往還の便がよくないところは修理しておく事
⑤宿泊所や駅舎などを新たに造営する必要はない。 新しく茶亭を設置する事のないように。
⑥巡視従者が米豆を買い求める場合には、現地時価で売ること。その他の諸物も同様である。
⑦各駅の旅舎の新設は認めない。今まで通りの古い施設で充分である。浴室や厠がない場合は、最低限度の施設にすること。
⑧宿泊すべき家が一村に三戸用意できない場合は、別村に分宿も可である。
ここからは、ここに書かれているような事が前回にはあった事がうかがえます。同時に、藩の出費を抑え、沿道の人々に迷惑をかけないよう幕府中枢部の幕臣達が心を用いていることも分かります。

巡見使一行は、どれくらいの人数を引き連れてやってきたのでしょうか?
1838(天保九)年にやってきた巡見使の場合は次の通りです。

巡見使構成表天保

知行1500石の平岩七之助が、用人黒岩源之八・高橋東五郎以下30人、
知行千石の片桐靭負が、用人土尾幸次郎。橋部司以下30人、
知行500石の三枝平左衛門が、用人猪部荘助。小松原尉之助以下27人
以上の三班で、総員90人になります。この他に平岩七之助の組に5人、片桐靭負の組に4人、三枝平左衛門の組に5人、計14人の者が同行して、宿舎を共にしていますが、この者がどういう立場の者であったかは分かりません。召連人数は、髙松藩に連絡しています。

 巡見使は幕府の御朱印や具足一両のように権威を示すものや、実務で必要な多くの荷物を運びながら移動しました。巡察を受ける側でも用意した多数の道具を各村の休泊所へ持ち送りました。そのため御朱印台、塗り三宝、熨斗、硯など、さまざまな道具が人足によって運ばれた事が残された一覧表から分かります。
 そのため各郡の大庄屋に対して、次のような「人足依頼状」が出されています。これが各村の庄屋たちに回覧され、それを書き留めた写したものがまんのう町岸上の奈良家に、次のように残っています。


巡視使要求人足数 平岩
巡見使平岩七之助が必要とした人夫・馬の一覧表
これは平岩七之助の用心から出された必要人足分一覧です。要求された合計数は人足34人 馬13頭です。朱印人足・馬が規定された人数で、賃人足・馬というのは、賃金を支払って雇うものという意味のようです。受入側の大庄屋は、これに基づいて他の二人の巡視役分についても庄屋と協議しながら員数配分を行う事になります。つまり、全部で120人程度の人夫が必要だったことがここからは分かります。
 巡見使は三組に分かれて、一日交代で先導隊を交代し、それぞれ具足櫃(甲冑入)、行李を携行し、槍を立てて進むという作法どおりの行列を組んで行動しています。約百人の一行が、120人の人足に荷物を持たせ、120人の世話役を務める村役人の説明を受けながら、数棟の騎馬役に守護されながら御朱印を奉じて進むという賑々しい行列です。大名行列的なイメージです。しかも、遊行の旅でなく、駕籠の中から周囲の山河を視察し、見物人の状況から民情を判断し、村役人との質疑応答によって資料を集め、江戸に帰ると詳細な報告書を提出しなければならなかったようです。

巡見使は讃岐を、どんなルートで視察したのでしょうか?
 五畿内と四国に派遣された巡見使は、讃岐が最後の巡見先で伊予から西讃に入って、東讃から抜けて行くというルートがとられています。先ほど見た奈良家文書には、1838(天保九)年の讃岐順路と宿泊地が次のように記されています。

巡視使讃岐視察ルート
1838(天保九)年の巡見使の讃岐順路と宿泊地
6月18日  伊予から讃岐に入り、豊田郡を巡見して観音寺村で泊、
  19日  三野郡を巡見して那珂部丸亀城下に泊り
  20日  那珂郡を巡見して宇多津村に泊り、
    21日  塩飽本島泊
    22日  鵜足郡宇多津
以後、阿野郡、香川郡、小豆郡を巡見して6月末日には大川郡に入ります。そして、讃岐巡視が終わると江戸への帰路につきます。江戸帰還後の7月26日に登城拝謁、8月20日に改めて将軍に各藩の情況を報告し、お尋ねに答えるのが常例だったようです。
巡見使 讃岐那珂郡ルート
巡見使の那珂郡巡視ルート
 丸亀平野での視察ルートをもう少し詳しく見ておきましょう。
 那珂郡の巡見について、前日の丸亀に泊まった一行は、往路は金昆羅・丸亀街道を北から南に上がり郡家、与北、公文、高篠、苗田を経て金毘羅に入ります。その里程は3里19丁と記します。そして満濃池まで足を伸ばしています。満濃池のために幕領と池の御領が置かれた意義と、満濃池の活用状況を目にしておく必要があると考えていたのかも知れません。満濃池から宇多津への往路は、金毘羅から高篠を経て、宇多津街道を北に進んでいます。その里程は3里23丁とあります。これは、髙松藩の那珂郡や阿野郡の村々の宇多津にある米蔵への年貢米輸送ルートでもあったことは、前回お話しした通りです。

今回はこの辺りまでにします。以上をまとめておくと
①江戸幕府は将軍代替わり毎に、巡視使団を全国に派遣し、民情視察などを行い報告させた。
②その規模は巡視使1人に従者30程度で、3人の従者合計で約100人規模になった。
③受入側は、各藩の大庄屋や庄屋たちが対応し、求められた人馬の提供・配置を行った。
巡見使と各藩役人との接触は、入国と出国の時の奉行・郡奉行・代官の挨拶だけでした。道筋での説明、宿舎の接待等は、すべて大庄屋を中心とした各郡の村役人に任されていました。藩の役人は、問題の起こった時に備えて、待機するだけだったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P


  近世になって検地が行われ各村々の石高が決まると、その石高に応じて年貢が徴収されるようになります。年貢は米俵で収められました。それでは、各村々からどのようして年貢俵は、藩に納められたのでしょうか。その動きを今回は、高松藩統治下の旧満濃町10ヶ村でみていくことにします。テキストは「髙松藩の米蔵・郷倉 新編満濃町誌241P」です。
髙松藩には次のような5ケ所に米蔵がありました。
髙松藩米蔵一覧
髙松藩の5つの米蔵
その中で高松城内の米蔵に次ぐ規模が宇多津米蔵だったようです。

どれくらいの俵が宇多津には、集まってきたのでしょうか?
1684(貞享元)年の「高松藩郡村高辻帳」には、字多津の米蔵に納まる年貢米のことを次のように記します。
①鵜足・那珂郡など48ケ村の村高合計20335石、
②その石高の免四つ(免一つは石高一石に対し年貢米一斗)を年貢米とすると12134石
③俵数にすると30335俵
ここからは3万を超える俵が、毎年11月末までに後背地の村々から宇多津の米倉に運び込まれていた事になります。鵜足郡と那珂郡に属する旧満濃町の旧十か村の納入先も、宇多津の米蔵でした。十ヶ村のを数字化したのが次の表です。

旧満濃町10ヶ村石高・年貢一覧
十か村の村高・俵数などの内訳を表にすると、上のようになります。
ここからは次のようなことが分かります。
①満濃町旧十か村の総石高は5695石
②四割が年貢とすると2278石
③俵数にすると約5695俵
④石高が一番大きい村は、吉野村 次が長尾村
五十三次大津 牛車
五十三次大津(歌川広重)に描かれた米俵を運ぶ牛車
これらの俵は、どのようにして宇多津まで運ばれたのでしょうか?
私は最初は、各農家の責任でそれぞれに運んだと思っていました。しかし、そうではないようです。一旦、各村に割り当てられた年貢米は、庄屋の庭先や後には、郷倉に運び込まれて、計量し俵詰めされたようです。それから何回かに分けて、庄屋や村役人の付き添いの下で荷車や牛車で宇多津に運び出されたようです。

宇多津までの輸送ルートは、どの道が使われたのでしょうか
蔵米運搬ルート
旧満濃町の村々からの年貢米輸送ルート
基本的には宇多津・金毘羅街道が使われたようです。
宇多津街道5
右が土器川沿いの宇多津街道

吉野村など土器川左岸の村々から宇多津へは、
①東高篠村上田井の三差路に出で、ここから右に土器川沿いの道をたどって北へ進む。
②垂水村荒井の茶堂前前から土器川を渡り、石ころ道を斜めに東に向かい対岸の岡田西村の成願寺堤に上る。
③ここから土器川右岸を北に向かい、川原の一里塚、樋の日の大川社、飯野山の西を通り、連尺高津街道を横切って丸戸に出て宇多津へ入る。

宇多津街道4
宇多津街道
土器川右岸の村々からの年貢を積んだ車は
①片岡から天神、町代、大原を経て打越番所を通過し、
②追分けで道を左にとり打越池沿いの道へ進み栗熊金昆羅街道を横切って岡田上の赤坂に出る、
③赤坂から西山の東側の道を通って平塚を過ぎ川井に出て宇多津街道に合流し、以下は同じです。
髙松藩米蔵碑
宇多津の髙松藩米蔵跡(現町役場北附近)
 宇多津の米蔵は、町役場の北側にありました。

こめっせ宇多津
こめ(米)っせ宇多津
その一部が「こめっせ宇多津」として、残されながら活用されています。
宇多津 讃岐国名勝図会3
宇多津(讃岐国名勝図会)
もともとこの辺りは古絵図を見ると、大束川河口の船場に近く、周りを雑木林に囲まれた広い敷地で、そこに藁葺の蔵が三棟あり、ほかに蔵番屋敷があったことが分かります。拡大して見ましょう。

宇多津米蔵
宇多津の米蔵(御蔵)
蔵番屋敷は、藩役人の部屋・年貢米検査所・蔵番の部屋などに仕切られていました。年貢が運び込まれるときには、藩の蔵役人が出張してきて、村々の庄屋や組頭と一緒にお蔵米の収納を監督したようです。その期間は納入関係者が民家に宿泊したので、周辺は賑わったと云います。
 高松藩の宇多津米蔵は、先ほど見たように東讃の志度・鶴羽・引田・三本松に比べると、他の米蔵を圧倒する量を誇りました。ここでは鵜足郡や那珂郡の年貢米を管理し、集荷地・中継地としての機能します。17世紀にここに米蔵が置かれると、現在の地割が整備され周囲に建物が増えていったようです。
宇多津のお蔵番はいろいろな引き継ぎ事項があったので、多くは世襲だったようです。
  年貢米は、どのようにして検査されたのでしょうか

年貢取り立て図
年貢取立図

村が納入した俵の中から二俵か三俵を選んで、庄屋や組頭の村役が立ちあいの上で桝取が量ります。枡取は、その中から五合また一升を抜いて役得とするのが公認されていたようです。
一斗枡[四角]|交易|解説・民具100選|展示室|関ケ原町歴史民俗学習館
トカキ棒での計測
桝ごとにトカキを使って五粒の米がこぼれれぱOKだったようです。桝取りは、村全体に大きく影響する責任者でしたから、前日には神社にお参りして身を清め、無難を祈りました。

年貢納入図

貢米検査のときにこぼれ落ちた差米は、検査役人の役得となります。また収納の時の落散米は、下代蔵役の役得です。これは「塵も積もれば・・・」方式で、一藩での合計が数千石にも達することもあったようです。結果として大きな額になります。「おいしい役職」なので、蔵役人の交代や人選には譲渡銀がつきものだったようです。百姓達の怨嗟が集まるのもこの時です。
年貢取り立て図2

村の年貢が皆納されると、それまでに数回に分けて納めた仮受領証と引換に美濃巻紙にしたためた一通の「御年貢皆済目録」が交付されました。皆済目録には、その村の村高・本途物成・小物成・口米・御伝馬入用・水車運上・六尺給米・御蔵前入用・夫食拝借返納等の納入高や引高が列記されます。そして最後に次のように記されています。

「右は去辰御年貢米高掛物共他言面の通皆済に付、手形引上一紙目録相渡上は 重て何様の手形差虫候とも可為反き者也

その上に、年号と代官の署名・捺印をして、庄屋・組頭・百姓代あてに下付されました。
大坂蔵屋敷

  納められた年貢米は、大坂の藩の蔵屋敷に船で運び込まれて、大坂商人によって流通ルートに乗せられていく事になります。

   最後に村の米が集められた郷倉について、見ておきましょう。
郷倉は、一村に一か所ずつありました。これは年貢米の一時収納所でもあり、また軽犯罪人の留置場でもありました。そのため地蔵(じくら)とか郷牢(ごうろう)とも呼ばれていたようです。旧満濃町旧十か村の郷倉のうちで、記録や古地名によって、その位置が分かっているのは次の通りです。
吉野上村郷倉 大堀一二七八番地
岸上村郷倉  下西村七九五番地
真野村郷倉    西下所一二七四番地
四條村郷倉    大橋七六0番地の二
公文村郷倉      蔵井一九六番地の二
東高篠村郷倉 仲分下一三二0番地
吉野下村郷倉 吉野下村六0四番地
これらの郷倉の規模や、明治以後の転用先についてはよく分かりません。
ただ吉野上村の郷倉については吉野小学校沿革史に次のように記されています。

  明治七年本村字大坂一二七八番地の建物は旧幕時代の郷倉合にして、その敷地八畝四歩、建家は北より西に由り規矩の形になれり。西の一軒は東に向ひ、瓦葺にして桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下付けり。その北に壁を接して瓦葺の一室あり。・桁行三間、梁間二間にして東北に縁つけり。その次を雪隠とせり。北の一棟は草屋にして市に向ひ、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付けり。西の二棟を修繕しスて校本口にえて、北の一棟を本村政務を取扱う戸長役場とせり。時に世は益々開明し、教育の進歩気理に向ひたるを以て生徒迫々増かし、従来の校舎にては大いに教室狭除を告ぐるに至れり。明治八年四月、西棟の市に於て三間継ぎえを弥縫(一時的な間に合わせ)せり。其の当時、庭内の東南隅に東向の二階一棟新築せり。これは本村交番所なり。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付けり。     (以下略)

吉野上村郷倉平面図
吉野上村郷倉平面図

意訳変換しておくと
 明治7年(吉野)本村字大坂1278番地の建物は、江戸時代の郷倉である。その敷地は八畝四歩、建物は北から西に規矩の形に並んでいる。西の一軒は東向きで、瓦葺で、桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下付である。その北に壁を接して瓦葺の一室がある。桁行三間、梁間二間で、東北に縁がついている。その次は雪隠(便所)となっている。
北の一棟は草屋で、市に向って、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付である。西の二棟を修繕し、学校として使い、北の一棟を本村の政務を行う戸長役場としていた。
時に世は明治を迎え文明開化の世となり、教育の進歩は早くなり、生徒数は増加するばかりで、従来の校舎では教室が狭くなった。そこで明治八年四月、西棟を三間継ぎ足して一時的な間に合わせの校舎とした。その際に併せて、庭内の東南隅に東向の二階一棟も新築した。これが本村交番所である。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付の建物である。
    (以下略)
ここからは次のようなことが分かります。
①現在の長田うどんの南側に吉野の郷倉があった。
②郷倉は明治になって、一部が役場、残りが小学校として使用されるようになった。
③生徒数が増えた明治8年には、校舎を増築して教室を増やした。
④同時に、新たに交番を建設した。
郷倉
山形県の郷倉
幕府は、1788(天明8)年2月に「郷倉設置令」を出して、飢饉に備えて村ごとに非常救米の備蓄を命じています。
高松藩や丸亀藩でも一斉に、郷倉が設置されたはずです。それが、明治になって戸長役場に利用されたり、増設して小学校、あるいは交番になるなど、村の中心機能を果たす建物に転用されていた事がうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   髙松藩の米蔵・郷倉 新編満濃町誌241P
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踏み絵
江戸時代の切支丹弾圧の中でよく語られるものに踏絵があります。踏絵は宗門改めの時などに行われていたようです。それでは、宗門改めはどこで行われていたのでしょうか。村のお寺で行われていたのでしょうか。どうもちがうようです。そのあたりがうやむやだったのですが、新編満濃町誌を眺めていると、具体的な史料で分かりやすく紹介していました。今回は、旧満濃町の村々で行われていた宗門改めについて見ていくことにします。テキストは 切支丹衆徒の取締 満濃町誌260P」です。
宗門改め2

島原の乱後に、幕府は次のようなことを各藩に命じて、切支丹宗徒を取締るようになります。
①「宗門改役」の設置
②寺請制度によって「宗門人別帳」作成
③五人組制度による連帯責任制の実施
④村々に制札を立て、訴人賞金制による潜伏切支丹の検索強化
⑤鎖国断行
このような中で1711(正徳元)年には讃岐にも次のような訴人札が全国に立てられます。
切支丹制札
1711(正徳元)年の立札
きりしたん宗門は 累年の御禁制たり 自然不審なるも
のこれあらば申出づべし 御褒美として
ばてれんの訴人 銀五百枚
立ちかへりものの訴人 同断
いるまんの訴人 銀三百枚
同宿並宗門の訴人 銀百枚
右の通り下さるべし たとひ同宿宗門の内といふとも申
出る品により銀五百枚下さるべし かくしおき他所よりあ
らはるゝにおいては其の所の名主並五人組迄一類共に罪科
行はるべきもの也
正徳元年二月           奉  行

意訳変換しておくと
切支丹は 長年の御禁制である。もし不審なものがいれば申し出る事。御褒美として以下の通り下さる。
切支丹の密告  銀五百枚
切支丹復帰者の密告 銀五百枚
いるまん(宣教師)の密告 銀三百枚
同宿並宗門の密告   銀百枚
たとえ同宿宗門でも申出た時には、銀五百枚が下される。もし隠していて他所より露見した場合には、名主と五人組まで一類共に罪科を加える。
正徳元(1711)年二月           奉  行

高額の報奨金を背景に切支丹密告を高札で強要しています。もし隠していれば、「一類」におよぶとも脅します。

宗門改めの具体的なやり方を見ておきましょう。    
①村ごとに決められた宗判寺か、庄屋宅へすべての戸主を呼び出す
②大庄屋・庄屋・檀那寺住職・藩の宗門改役立会の前で、
③戸主が世帯の全家族の名前・年齢・続柄等を届け出て、人別帳に記載して戸主がその名に捺印
④檀那寺はその門徒であることを証明し、庄屋・組頭はこれに連署
⑤宗門改役と大庄屋の立会い連署を添付して、切支丹奉行に提出
これが「 宗門改帳(あらためちょう)」として、戸籍制度に転用されていきます。
宗門人別改帳は江戸時代の戸籍?どこで閲覧できるのか | 家系図作成の家樹-Kaju-

いつどこで、宗門改めは行われたのでしょうか?
1821~34年までの旧満濃町エリアにあった村々の宗門改めの行われた場所と期日が満濃町誌262Pに次のようにまとめられています。
宗門改め実施一覧表1

宗門改め実施一覧表2

この表からは次のようなことが分かります。
①旧満濃町の鵜足郡南部エリアの村々の宗門改めの場所は、栗熊村の専立寺で、それは毎年3月5日であったこと。
②那珂郡の村々は高篠村円浄寺が宗門改めの寺で、毎年3月15日であったこと。
③髙松藩では実施場所や日時が一定しているが、天領池御領の村々では、毎年変化していたこと
④天保3年になると「判形(はんぎょう)休(宗門改休)」という表現があらわれること

専立寺
栗熊の専立寺
①に関しては、専立寺は金毘羅街道に面した小さな岡の上にあるお寺です。鵜足郡南部の炭所東村、炭所西村、長尾村の3村が専立寺に行くためには、扇山、鷹丸山、城山等の峠を越道を越えて栗熊に出るか、打越峠を経て金毘羅高松街道に出て栗熊へ向かったことでしょう。

円浄寺

②の那珂郡南部の判形所は、東高篠村の円浄寺で、毎年3月15日でした。この寺が宗門改めの寺として指定されていたのは、東七箇村・真野村・岸上村・古野上村・吉野下村・四條村・東高篠村・西高篠村・公文村の9村になります。3月15日は、これらの村々の戸長は円成寺に向って歩いたはずです。
③の幕領の池御料は、毎年二月ないし四月に行っていますが、実施日は一定していませんし、場所も五條・榎井・苗田西・苗田東と持ち回っているようです。
④後で見るように、髙松藩は宗門改めについて1828(文政11)年以後は、4年毎に行う旨の通達を出しています。これに基づいた措置のようです。しかし、倉敷代官所管轄の幕領では従来通り、毎年実施しています。切支丹政策について、中央と地方とで温度差がでていたことがうかがえます。

宗門改めの厳しさは、宗門相互の間にも見られます。
檀寺は人別帳のうち檀那分の名頭(ながしら)に判形をして、「もしこの判形のうちにて切支丹宗徒これ有り候節は如何ように曲事を仰付らるゝとも異存申す間敷く候」と誓っています。このため寺同士もお互いに監視の眼を光らせ、ルール破りに対しては、絶交するという厳しい社会的制裁を加えてた次のような史料が残っています。
取替一札之事
榎井村 浄願院
苗田村 長法寺
右両寺は此度丸亀御領分宗門人別改の儀に付以来檀家の改方行届き申さず迷惑仕り候に付其御領内一統の寺院より先達て御歌出差上候段年々拙寺共に於ても且家人名並年々増減等の儀も相分ち難きを其侭判形仕候儀は御上様に対し御中訳も御座なく恐入候に付御料所寺院其の段丸亀御役場に歌出申候
衆評一統のところ右両寺は別心の趣別けて去年の秋大判形の節宗門手代衆より当領一統の寺院より宗門の儀に付願の趣これ有り候 御他領の寺院方御指支これなきや相尋候節右浄順院の儀別心これなき趣返答に及び置きながら此度の別心其の意を得ず候 尤も宗門御改の儀は毎歳御大切に仰出され候を其侭捨置く心底にて同心仕らず候段は前書に申す如く甚だ恐多き儀にけ候間拙寺ども一統右両寺には内外とも絶交致し候条右の趣丸亀宗門御改役所にも通申置以後此の事談相済候迄は壱か寺にても和順仕り中さぎる旨堅く取替す一札件の如し
文政七年壬八月
                              光賢寺 印
真楽寺 印
玄龍寺 印
興泉寺 印
西福寺殿

意訳変換しておくと

取替一札の件について
榎井村 浄願院
苗田村 長法寺
 上記の両寺は、この度の丸亀領内の宗門人別改の際に、檀家改方に不備があり私たちの寺は迷惑を蒙りました。従来から丸亀藩領内の寺院では、宗門改めの前に必要書類を提出することになっています。それは家人名と年々の家族数の増減を把握しないと、適切な宗門改めが行えないためです。今回も領内寺院に対して、丸亀御役場に必要書類を提出するように衆評一統していました。ところが両寺は、これを守らずに・・・・(中略) 
もっとも宗門御改については、毎年行われる重要な作業ですので放置するということは、恐れ多い事でもともと考えていません。しかし、両寺に対しては絶交することを、丸亀宗門御改役所にも伝えています。今後はこのことを了承済みとして扱っていただくように申し上げます。
文政七年壬八月
                              光賢寺 印
真楽寺 印
玄龍寺 印
興泉寺 印
西福寺殿
宗門改めの事前準備の資料作成をきちんとしていなかったことを挙げてふたつの寺に対して絶縁宣言を行った事を、4つの寺が西福寺に報告しています。
宗門人別帳
宗門人別帳

「宗門改帳」には牢人帳・僧侶神主山伏帳・医者帳・百姓間人(もうと)帳などがありました。特別な職業に従事するものには、別帳を作成して把握していたことが分かります。そういう意味でも「宗門改帳」を見ると、村々の人国の動き・家族の異動・村内における身分関係などが分かります。まさに、現在の戸籍台帳以上に様々な情報が書き込まれています。そのため統治所極めて貴重な史料であったのです。
宗門改帳、与一兵衛の家族の記録
 
これは明治5年の「壬申戸籍」ができるまで村々の戸籍の機能をも果たしました。庄屋が年々の人口を郡会所へ報告した人数合せは、これをもとにしてはじきだしたようです。切支丹宗門改めも先ほど見たように19世紀半ばになると、だんだん省力化されます。それは、髙松藩が出した次の資料にも見られます

郡々大庄屋共
宗門改帳の義去る亥年(文政十一年)より四年目に相改候様仰出され候得ども軒別人数出入等は是迄通り村役人共へ申渡し毎春厳重に相改め例年指出来り候五人組帳に中二か年は旦那寺の印形共其寺共手元にて見届郷会所へ指出可申候
三月
宗門改の義右の通り申来り候間例年の通故円浄寺判形見届可中候  併し当年は無用に相成る可き意味もこれ有り候に付寺院罷出候義如何に候哉
若罷出申さず候へば指支相成候間何様村々門徒より旦寺へ通達致候様御取計これ有る可く候其為飛脚を以て申入候也
三月        那珂郡大庄屋 岩崎 平蔵
同        田中喜兵衛
東高篠村へ中入れ本文の趣円浄寺ヘ
早々通達これ有る可く候
意訳変換しておくと
各郡の大庄屋へ
宗門改帳の件について、文政11年から4年毎に実施することになった。しかし、家毎の軒別人数増減等はこれまで通り村役人へ通達して、毎春毎に改訂したものを作成すること。五人組帳には、中2か年は旦那寺の印形を見届けて郷会所へ提出すること
三月
宗門改の件について上記の通り通達があった。例年の通り円浄寺の判形を確認することが指示されている。ただし、当年は不用になる事もある。寺院に出向くかどうかについては、もし出向く必要がある場合は、村々の門徒から檀那寺に対して、どのような通達・連絡で門徒に知らせるのか飛脚で問い合わせるようにすること。
三月        那珂郡大庄屋 岩崎 平蔵
同        田中喜兵衛
東高篠村へ申入れ本文の趣円浄寺ヘ
早々通達これ有る可く候

ここからは高松藩は文政11年から4年目毎の実施に「簡略化」し、実施しない年は、軒別人数の異動のみを従来通り、軍会所に報告するようになったことが分かります。

上段が藩からの通達分で、下段がそれを受けて大庄屋が各村の庄屋への具体的な指示を書き込んだものです。これを受けた各庄屋は、素早く書写して、本書文を待っている飛脚や、使いに次の庄屋宅まで持たせたようです。これらの写しが大庄屋や庄屋の家には大切に保存されていました。

以上をまとめておくと
①髙松藩では、各郡のエリア毎に宗門改めを行う寺を決めていて、実施日時も毎年同じであった。
②各村々の戸主は、指定された日時に決められた寺に出かけて宗門改めを受けた。
③19世紀になると髙松藩では4年に1回の実施に「省力化」している。
④寺院は戸籍作成の役割も担い、行政機関の末端を支える役割を果たしていた
⑤宗門改めが行われる寺は、多くの人々を迎える寺であり寺格も高かった。

しかし、疑問は残ります。周辺村々から数多くの戸主がやってきて、それをどのような順番で「宗門改め」を行ったのでしょうか。各宗派の寺院から提出された人別帳に基づいておこなったのか、早く到着した順番なのか? 村ごとに、およその受付時間を指定していたのか、具体的な運営方法には、まだまだ謎が残ります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    切支丹衆徒の取締 満濃町誌260P

永井出水
善通寺市の永井出水(清水)と伊予街道

  旧伊予街道と丸亀城下町から多度津葛原を抜けて新池から南下してくる道が交わるところに出水が湧き出しています。これが永井出水(榎之木湧)です。伊予街道沿いにあるために多くの人達に新鮮な水と、休息の場を提供してきました。今回は、この湧水の周辺にあった馬継所と茶屋を見ていくことにします。

多度津街道ルート4三井から永井までjpg
永井周辺の金毘羅街道と道しるべ

この湧水のある永井は、金毘羅街道と伊予街道が交わる所でもあります。そのため周辺には道標が多いようです。「こんぴら街道の石碑」の所には、折れた鳥居の石柱が残っていることは以前にお話ししました。また、金毘羅街道が南に折れる所にも、いくつもの道しるべが民家の庭先に建っています。
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永井の金毘羅・伊予街道合流点の折れた鳥居の石柱 上図番号12

 今日、お話しするのはさらに東に行った所にある永井の出水(榎之木湧)です。

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永井の出水(榎之木湧)

丸亀平野は、もともとは土器川や金倉川の扇状地です。そのため水はけがよくて、凹地には出水が至るところから湧きだしています。それが弥生時代から人々の生活用水や水田の灌漑につかわれてきました。

長井の出水
        永井の清水(榎之木湧:金毘羅参詣名所図会)

 この出水めがけて、条里制に沿って伊予街道が伸びてきます。
旧街道で四国一周!(1)伊予街道 その①高松城~鳥坂峠_d0108509_11501950.jpg
                伊予街道
この街道は、丸亀城下はずれの中府口(丸亀市中府町)から田村を通り、善通寺地域の原田・金蔵寺・永井・吉原・鳥坂を経て道免(高瀬町)に入り、新名(高瀬)→ 寺家(豊中町)→ 作田(観音寺市作田町)→ 和田浜(豊浜町)→ 箕浦を経て、伊予川之江へとつながります。
 江戸時代には、その途中に次のような5ヶ所に馬継所が置かれていました。
  中府村・下吉田村永井・新名村・寺家村・和田浜村

馬継所とは問屋場とも呼ばれました。
第37回日本史講座のまとめ④ (交通の発達) : 山武の世界史
「人馬宿継之図」と題された上絵には、馬継所の前で荷物を馬から降ろし、新しい馬に積み替えています。

藤枝 人馬継立|歌川広重|東海道五拾三次|浮世絵のアダチ版画
拡大して見ると武士の供が宿役人に書類を提出したのを、宿役人が証文と思われる文書を確認しているようです。
藤枝 東海道五十三次 歌川広重 復刻版浮世絵
    荷物を積み替える雲助と、役目を果たし煙草一服の雲助

このように、
馬継所(問屋場)では、荷物を運ぶための人足と馬を常備することが義務づけられていました。東海道の各宿では、100頭の伝馬と100人の伝馬人足を置くことが義務づけられていました。伝馬朱印状を持つ者がやってきたら伝馬を無料で提供しなければなりません。その代わりに、宿場は土地の税金が免除されるなどの特典や、公用の荷物以外は有料とし、その際の駄賃稼ぎが宿場の特権として認められていたようです。この小型版が伊予街道にも次のように配置されていました。
①丸亀船場から永井までが二里
②永井から新名までが二里半
③新名から寺家までが二里
④寺家から和田浜までが二里半
だいたい2里(約8㎞)毎に、設置されていたようです。永井の馬継所についた雲助達は、そこにある出水で喉を潤し、汗を流し落としたことでしょう。

DSC06481
永井の出水
各馬継所間で荷物を運送する人足や馬へ支払う「人馬継立賃」は、次のように定められていました。
(明治維新の翌年の1869年の「人馬継立賃」)
二里半区間 人足一人につき五匁、馬一頭につき一〇匁で
二里区間  人足一人につき四匁、馬一頭につき 八匁
1870年には、永井馬継所運営のために、給米内訳が下表の通り支給されています。この表からは次のような事が分かります。

永井馬屋の経費表
①永井馬継所の給米は28石5斗で、「日用御定米」日用銀(米)のうちから出費される
②内訳は夜間の「状持」(公的書状送届)のため大庄屋へ1石2斗
③新菜・中府馬継所の大庄屋への状持をそれぞれ2石5斗と2石
④残りの22石8斗が、帳附者と御状持運者へ配分。
 ①の「日用銀(米)」は、年貢以外に村落維持のための費用を農民から徴収したもので、丸亀藩がこれを管理して必要に応じ村落へ支給するようになっていました。
④の「帳附者」は、公的荷物の運搬に従事する「運輸従事者(雲助)」のことです。「御状持運者」とは、各大庄屋への書状配達人足のようです。
   永井の馬継所は、どこにあったのでしょうか
永井御茶屋から少し西に行った元郵便局の辺とされ、伊予街道と旧多度津道の交ったところになります。そこには今は「お不動さん」があり、「屏風浦弘法人師御誕生所善通寺道」と刻まれた道標が建っています。
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永井出水に立つ道標(東高松 西観音寺)
馬継所は明治3(1870)年8月に廃止されます。換わって、新たに丸亀浜町と新名村と和田浜村に駅逓所が設置されたようです。(以上、亀野家文書「駅場御改正記」)

 永井出水周辺には、もうひとつ公的な建物がありました。

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出水には「榎之木湧(えのきゆう」と書かれた説明板が建てられています。 この説明版からは次のような事が分かります。
①出水は地域住民の飲料水だけでなく、下流17㌶の水田の灌漑用水でもあること
②お殿様が休憩するために永榎亭(えいかてい)と名付けられた茶屋があったこと
③その名物が、ところてんであったこと
永榎亭という茶屋がいつごろからあったのかは分かりませんが、1852(嘉永5)年に、下吉田村の永井茶屋番だった又太郎が居宅建替のための援助金を藩に、要望した時の口上書が残っています。

永井茶屋口上書嘉永5年
永井茶屋番・又太郎の茶屋建替のための口上書
  恐れ乍ら願い上げ奉る口上の覚
一    私万
往昔宝永年中、永井御茶屋御番仰せ付かせられ、有難く恐請し奉り、只今の処え転宅仕り、今年迄几百五拾ヶ年計、数代御蔭を以って無事二御番相勤め居り申し候、且天明八の頃居宅建替の節、御上様ぇ御拝借御願申し上げ候処、願の通仰せ付かせられ候、其後右御下ヶ銀下され二相成り候様申し伝え承り居り申し候、又候文政四の頃台所向建替仕り、其後天保九成年御巡見様御通行の節、座敷向御上様より御造作成し遣せるれ、誠二以て冥加至極有り難き仕合二存じ奉り候、取繕も度々の儀一付、手狭一仕り度くと存じ候得共、御上様初土州様御通駕の節、手狭二ては御差支え二相成り候間、下地の通り建替仕り度く、御存じ在らせられ候通、蟻地二て又々居宅残らす蟻人波り極人破に及び、瓜山の節ハ最早崩込の伴も計り難く、忽捨置き難く実二方便余力御座無く、心底に任せず御時節柄恐れ入り奉り候得共、前文の次第二付此度建替仕度候得共、親共代より色々不仕合相続き、■は近年世上一統世柄も悪敷、売外も不景気二て別て困窮仕り、何共恐れ多く申し上げ奉り兼候得共、格別の御憐慈の御沙汰を以て、相応の御ドヶ銀仰せ付かせられ下され候様願い上げ奉り候
  意訳変換しておくと
私どもは、宝永年間(1704~11)に永井茶屋の御番を仰せ付かって、現在地に転居しててきました。御蔭を持ちまして150年余り数代に渡って、無事に御番を勤めて参りました。
 天明の頃に、居宅建替の時には、御上に御拝借をお願申し上げたところ、銀を下されたと伝え聞いています。また文政4年の台所建替、天保9成年御巡見様の通行の時には、座敷を殿様より造作していただき、誠に以て冥加の極りで、有り難き仕合と存じます。
 修繕も度々におよび、手狭になって参りました。殿様をはじめ土佐の参勤交替の際にも、差支えがでるようになりました。そこで図面の通り、建替を考えています。今の居宅は、全体に白蟻が入り込み、大風の時には倒壊の恐れもあり、このまま放置することは出来ない状態です。ここに至っても、時節柄を考えると大変恐縮ではありますが、別途計画書の通り建替を計画しました。親の代より色々と御世話になり、近年は世情も悪く、売り上げも不景気で困窮しております。恐れ多いことではありますが、格別の御憐慈の御沙汰を以て、相応のご援助をいただけるように願い上げ奉ります。
ここからは次のようなことが分かります。
①「往昔宝永年中永井御茶屋御番仰せ付かせらる」とあるので、18世紀初頭の宝永年間には、ここに茶屋が開かれていたこと
②丸亀の殿様以外にも、土佐の殿様の参勤交替の際にも利用されていたこと
③過去には茶屋兼居宅の建て替え、台所建替、座敷の造作などに藩からの援助があったこと。

この1852(嘉永5)年の居宅建替援助願は、丸亀藩の認めることにはならなかったようです。それは2年後の1854(安政元)に、藁葺の茶屋番居宅が地震で破壊したために「元来蟻付柱根等朽損、風雨の節危く相成居候」と居宅を取り壊して小屋掛にすることを願い出ていることから分かります。白蟻の入った茶屋は、地震で倒れたようです。
金比羅からの道標

 茶屋の修理についてはその都度に、下吉田村の庄屋から藩に報告書が提出されています。その史料から研究者は、茶屋を次のように「復元」しています。
表門・駒寄せを設け、黒文字垣・萩垣・裏門塀をめぐらし、屋根は藁葺。庭には泉水があった。建物の内容は上ノ間(四畳半)・御次ノ間(六畳)があり、台所が附属し、雪隠・手水鉢が備えられていた。

それから約20年後、1871(明治4)年5月に茶屋番の仲七は茶屋敷地と立木の払下を要望書を次のように提出しています。
  一此の度長(永)井茶屋并に敷地立木等、残らず御払下ヶ遊ばせらる可き旨拝承し奉り候、然る二私義以来御茶屋御番相勤め、片側二て小居相営み渡世仕り居り候所、自然他者へ御払下け二相成り候様の義御座候ては、忽渡世二差し支え、迷惑難渋仕り候間、甚だ以て自由ヶ間敷恐れ入り奉り候得共、御茶屋敷地立木共二私え御払下け仰せ付かせられ下され候ハヽ、渡世も出来望通二有り難き仕合存じ奉り候、何卒格別の御慈悲フ以て、御許容成し下させ候様、宜敷御執成仰せ上げられ下さる可く候、以上
明治四年未五月          御茶屋番     仲 七
庄屋森塚彦四郎殿
意訳変換しておくと
  長(永)井の茶屋と敷地の立木を、残らず払下ていただけるように申請いたします。私どもは茶屋番を長らく務めて、茶屋の傍らに小さな住居を建てて生活を立てて参りました。これを他者へ払下げられては、生活に差し支えが出て難渋し、困窮いたします。ついては恐れ入りますが、茶屋敷地と立木を私どもへ払下げていただければ、これまで通りの生活も送れます。何卒格別の慈悲をもって、聞き届けていただけるようお願いいたします。
明治四年未五月      御茶屋番     仲 七 印
庄屋森塚彦四郎殿
ここからは20年前に倒壊した茶屋に代わって、仲七が小屋掛けにして営業していたことが分かります。そのため敷地や立木を自分たちに払い下げて欲しい、そうすれば今まで通りの「渡世(生活)」が送れると陳情しています。先ほど見たように1870(明治3)年8月に、永井馬継所は廃止されています。そのため永井茶屋も払い下げられることになったようです。この払下願は下吉田村庄屋森塚彦四郎から弘田組大庄屋長谷川邦治へ出され、さらに長谷川邦治から藩へ提出されたはずですが、その結果を伝える史料は残されていないようです。(以上、長谷川家文書「諸願書帳」)
DSC06484
永井出水
以上をまとめておくと
①伊予街道の善通寺市永井には榎之木湧があり、そのそばに殿様の休息のための茶屋があった。
②茶屋は、ところてんが名物で、殿様だけでなく街道を行き交う人々の休息場所でもあった。
③しかし、幕末に立て替えられることなく地震で倒壊した。その後は、小屋掛けで営業をしていた。
④明治になって跡地売買の話が持ち上がり、営業主から跡地の優先的払い下げを求める申請書が残っている。
⑥永井は、伊予・金毘羅街道が交差する所で、馬継所や茶屋があり、街道を行き交う人に様々なサービスと提供していた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   永井の馬継所と茶屋  善通寺市史NO2 266P
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松家氏のルーツ2:真説!木屋平氏から松家氏へ
旧木屋平村
木屋平(こやだいら)は穴吹川の最上流に位置し、霊山剣山の山岳修行の拠点となった龍光寺のあった所です。
文化9年(1812)に作成された村絵図の写しが旧役場から近年発見されています。この麻植郡木屋平村分間絵図には、剣山周辺の宗教施設や,剣山修験の霊場等が精密に描かれています。また、19世紀初頭の集落の様子も見えてきます。今回はこれを見ていこうと思います。テキストは「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 第54号2008年p.171-182)」です。
木屋平 森遠
対岸から見た森藤(遠)名

中世に森藤城があった森遠(もりとう)名周辺を見てみましょう。
「名」は中世起源の集落のことで、山村集落を示す歴史的な地名です。ほとんどの地域では、もはや使われなくなった「名」が、19世紀初頭には日常的に使われていたことが分かります。

木屋平 森藤2
木屋平森藤名の正八幡神社
森藤名は、剣山に源をもつ穴吹川が西から東に流れ下っていきます。それに沿って整備された国道438号が谷筋を東西に走り抜けています。その剣山に向かって開けた南斜面に、氏神の「正八幡宮」が鎮座します。ここは中世には森藤城があったところです。

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森藤八幡神社の鎮守の森

この神社の北側には、石垣と門や白壁の土蔵と母屋を持つ家が建っています。これが中世からのこの地域の土豪名主で,木屋平一帯を支配した「オヤシキ」と呼ばれた「松家(まつか)家」です。中世山岳武士「木屋平氏」の子孫と云うことになるのでしょう。

P1160891
八幡神社鳥居への山道
松家氏=木屋平家も平家落人伝説を持つようです。
美馬市(旧木屋平村)のホームページには、次のように記されています。
これは木屋平村に伝わる伝承です。平家水軍の指揮を取っていた平知盛の子・知忠は、平知経・平國盛(平教経の別名?)と共に安徳天皇を奉じて壇ノ浦の前夜に四国に脱出した。その後、森遠と言う土地にたどり着き、その地に粗末な安徳天皇の行在所を建て「小屋の内裏」と呼んだ。その後、安徳天皇は平國盛等祖谷山平氏に迎えられて、祖谷へ行幸されたので、平知経は、この「小屋の内裏」を城塞のように築きなおし、名を「森遠城」と改め、自分の姓も平氏の平と小屋の内裏の小屋を合わせて、「小屋平(のちに木屋平)」とした。

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木屋平森遠の八幡神社境内と拝殿
森遠周辺は、緩やかな傾斜地や窪地が広がります。
また南向きで日照条件もいい上に、清水が湧く湧水も何カ所かあり、小谷も流れています。入植者なら真っ先に居住する好条件の場所と研究者は考えています。平家伝説をそのまま事実として、研究者が受けいれることはありませんが、鎌倉時代に小屋平氏はこの地を入手して本拠地とし、勢力を伸ばし、やがて衰退した大浦氏に代わって大浦名を支配下に置き、南北朝時代には、小屋平氏がこの土地を支配するようになったことは推測できます。そして室町時代初期になると、それまでの「大浦名」から「木屋平名」に改めて、「コヤ平」の地を「森遠」と呼ぶようになったようです。


木屋平 森遠城
        木屋平氏の森遠城(現正八幡神社)
森遠城は本丸・外櫓・馬場などを含めると約一町五反の広さであったようです。「阿波志」には、次のように記されています。

「八幡祠平村森遠名に在り、俗に言う土御門天皇を祀ると地丘陵にあり、祠中偃月刀及び古冑を蔵す、阿部宗任持つ所」

江戸時代の初期に松家氏は本丸の北東の北櫓跡へ屋敷を移して、城を廃して跡地を整理します。そして万治2年(1659)12月12日に正八幡宮を建立して、松家氏の祖霊を合祀して霊廟とし、本丸跡約6反歩を森遠名の共同管理値としています。そのため現在も境内には空掘・武者走り・古井戸など城内の遺構が完全なままで残っていています。元禄4年(1691)銘の棟札に松家姓の3人・阿部姓の8人・天田姓の1人の人物名があります。
P1160874
森遠名の八幡神社 井戸が復元されいてる
約210年前の村絵図に森遠名の中心部が、どのように描かれているのかを見ておきましょう。
木屋平森藤 拡大

確かに村絵図にも正八幡神社周辺は、緩やかな傾斜地で、窪地が広がり、周辺の棚田にくらべると田んぼが広いことがわかります。ここに何枚もの「オゼマチ」があったようです。
 寛文12年の検地帳によると、松家家は、森遠名で8町7反5畝17歩の田本畑を所有しています。
これは名全体の水田面積の約半分になります。所有する水田は、これだけではありません。5ヵ名全体で16町6反6畝5歩を所有しています。これは5ヵ名全体の田畑面積73町2反9歩の23%にあたります。
 また文化6年(1809)には、5ヵ名で下人層56人を配下に入れて使役しています。そのうちの半分にあたる28人は、森藤名で生活しています。「オヤシキ」と呼ばれた屋敷地は1反2畝12歩(372坪)あり、そこで下僕的な生活を送っていたことがうかがえます。まさに中世の名主的な存在であったようです。

木屋平村絵図1
木屋平村分間絵図 森藤名部分
上の絵図には穴吹川に流れ落ちる4筋の谷が森遠名を南北に貫いているのが見えます。中央が一番左が「大島谷」で、谷川の周囲は穴吹川から正八幡神社の辺りまで、魚の鱗を並べたように棚田が描かれています。ここには研究者が数えると約390枚あるようです。棚田の用水は、4つの谷川から導水されていたようです。寛文12年(1672)の検地帳の田総面積は、3町9反5畝10歩です。1筆平均面積は約30坪で小さな田んぼが積み重なった景観が見られたはずです。
木屋平森遠上部

 松家家から上には、段畑(本畑)が広がります。
これは約590枚あるようです。切畑・山畑を除く本畑総面積は12町8反20歩で,1筆平均面積は約65坪になります。棚田の一枚当たりの面積の倍になります。そんなことを知った上で、もう一度絵図を見ると、確かに下部の棚田の方が密度が濃く、上部の畑は密度が低く見えてきます。
 現在の正八幡社に拠点を構えた松家家の先祖が、まずは居館の上部を焼畑などで開墾しながら本畑化し、その後に用水路を整備しながら下部に棚田を開いていったことが推測できます。そして、松家家は中世には、武士団化していったのでしょう。

木屋平森遠上部

最後に森遠の祭祀空間を見ておきましょう。
まず森藤名の西側から見てみます。正八幡社の西にある成願寺には享保6年(1721)の棟札が残ります。この寺が松家家が大旦那で、その菩提寺であったのでしょう。成願寺の東隣には「観音堂」,「チン守」が見えます。
木屋平森遠名 成願寺
成願寺(木屋平森遠)
木屋平の昔話」には、この寺のことが次のように記されています。
成願寺の庵主、南与利蔵の話によると、成願寺の無縁仏のある草地には、沢山の五輪塔の頭部がある。二〜三十個はあるという話だが、それは五輪塔の空、風輪にあたる重さ五〜六粁のものである。昔、五輪塔の宝塔部分だけをすえて墓とする、略式の方法ではなかったかという説もある。それでは、どんな事件でここに沢山の墓があるのだろう。森遠城は百米上方にある。山岳武士として活躍した南北の朝時代に、三ッ木の三木重村らと共に出征して、他郷の地で戦死した木屋平家の勇士達の首塚なのか?。
あるいは蜂須賀入国の砌。これに反抗した木屋平上野介の家来達の墓だろうか?。南北朝の末期の、森遠合戦で討ち死にした木屋平家の勇士達なのか?。今はこれらを裏付けるすべもない。
 絵図中央部には、先ほど見たように中世山岳武士「木屋平氏」(近世以降は「松家氏」)が拠点とした「森遠城」跡に鎮座する「正八幡宮」「地神」 が描かれています。この地区は村民から「オヤシキ」とか「オモリ(お森)」と呼ばれていて、森遠名の中核的な場所であったようです。

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 さらに東部を見るともうひとつの「八幡宮」があります。
「山神」は「谷口名」境と集落北西部の山中の「中内」に2社あります。また家屋内の火所に祀られ火伏せの神と、修験道の崇拝対象とされる「三宝荒神」も2社描かれています。
三宝荒神 | 垂迹部 | 仏像画像集
三宝荒神

 このように,正八幡宮・八幡宮・地神・成願寺・チン守・山神・三宝荒神等が集落中心部に配置されている空間構造であることを押さえておきます。
木屋平 森遠航空写真 
木屋平森遠名の航空写真(1994年)
1994年撮影の空中写真(写真2)と比較して、その景観変化を研究者は、次のように指摘します。
①棚田の消滅,確かに穴吹川から積み上げるように並んでいた棚田群は姿を消しています。
②穴吹川沿いの成願寺周辺,上部の三宝荒神付近,集落上部の絵図では田であった小谷沿い一帯の林地化現象が進んだ。
③本畑はゆず園化現象がみられ,幼木のゆず園が圧倒的多いことから,1994年頃がゆず園化のピークであったこと
④正八幡宮の東に4棟の鶏舎が姿を現したこと,
⑤過疎化による集落空間の縮小化現象がみえる。
木屋平森遠の風景 剣山の眺めと柚子 - にし阿波暮らし「四国徳島散策記」
ゆず畑のひろがる森遠名

中世山岳武士「木屋平氏」(近世以降は「松家氏」)が拠点とした「森遠城」跡は、今は正八幡宮となっています。村絵図は約210年前の木屋平の姿を今に伝えてくれます。同時に、戦後の高度経済成長の中でのソラの集落の変貌も教えてくれます。

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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 第54号2008年

 丸亀藩は幕末に西讃府誌を作成してくれたので、江戸時代の村の様子がだいたいつかめます。そこには村内の家数や耕地面積、石高、産業などを書き上げれていて、現在の自治体の市勢要覧などの役割を果たしてくれます。しかし、西讃府誌は残しても、各村々の絵図は残しませんでした。
阿波岩脇村(羽ノ浦町)
阿波藩岩脇村(羽ノ浦町)の村絵図
阿波藩は、ひとつひとつの村々の様子を描いた村絵図を残しているのを見ると羨ましくなります。見ているだけでうきうきします。 村絵図があると近世の村を身近に感じることができます。そこで、今回は近江国甲賀郡の水口宿(水口城下、現滋賀県)に近い酒人村の絵図を見ていくことにします。テキストは「水本邦彦 村 百姓たちの近世 岩波新書」です。

近江 酒人村 グーグル
滋賀県甲賀郡酒人 

旧酒人村は、琵琶湖に東流する野洲川と旧東海道に挟まれた田園地帯の中にありました。東に東海道の宿場街水口があり、西を野洲川が琵琶湖に向かって流れ下って行きます。

酒人村 村絵図
酒人村の村絵図
上図は天保年間に、水口藩に提出された洒人村の絵図です。
当時の酒人村は、家数百軒余、人口370人ほどの村で、平野部にあって稲作農業を主な生業とするごく普通の村でした。村の中央を二本の河川が合流しながら北流します(図の右が北)。南東部からの流れが横田川(野洲川(a)で、これに南西部から流れ込む(b)柚川(そまがわ)が合流します。村域は手前東側の集落・耕地エリアと、川向うには山のエリアに広がっています。
明細帳には、村の山は次のように記されています。
「東西四町余。南北十一町余(約43㌶)松林」
「東西二五〇間・南北一〇〇間(約826アール) 草刈り場」

ここからは、この山はほとんどが松林だったことが分かります。ただし、絵図には村山の峰付近2カ所に注記があり、村々立合い(入会)の草刈り場があると次のように記します。
南西部の注(c) この奧、三雲村、妙感寺村、宇田村、植村、洒人村、泉村、右六カ村村々立合い(入会)の草刈り場
西部の注記(d) この辺 三雲村、酒人村、泉村、立合い草刈り場

(c)は東西10町。南北12町(約119㌶)、
(d)は東西30町余。南北20町余(約595㌶)の広さです。
ここからは西部の山間部は、前面が松林の村山で、その奥に刈敷のための入会地である柴山や草山が続いていたことになります。入会地の広さは東西30町(3,3㎞)とありますから現在のゴルフ場を越えて続いていたことになります。刈敷山として、新芽や草が刈られた入会地は、讃岐の里山でも荒れ果てて裸山になっていたことを以前にお話ししました。ここでも明治初年の記録には、奥山の一部は「禿結して山骨をさらす」あります。はげ山化して荒れた状態になっていたことが分かります。(『甲賀郡志 上』)。ここでは、酒人村も刈敷のための広大な草刈り場を持っていたが、裸山になっていたことを押さえておきます。

山の麓付近をみると、 3カ所に「山神」(e1~3)があります。
①北部のf「泉村山境」近くのe1
②南部のg「岩坂村境」近くのe3
fとgは、村境を示す目印でもあると研究者は指摘します。山を守り、山仕事の村民を守護する山神は女神で、近畿地方では杉か松か檜を御神体にすることが多いようです。正月にはこの木の前で、男手により山神祭りが催されます。
 考古学的な面から見ると、村山一帯は、6・7世紀築造の円墳が200基も集中する群集墳で、古代人の埋葬地だったようです。弯薩天井という朝鮮半島様式の横穴式石室の構造からして、被葬者は渡来系の人々だろうとされます。(『甲賀市史5』)。この地が古代にやってきた渡来人によって最初に開かれたことがうかがえるようです。早くから開けた地帯であったことが分かります。
 山裾を南北にh「伊賀海道筋」が走っています。
南にたどれば柚川に沿って伊賀国(三重県)へ、北上するとすぐ先で東海道に合流します。伊賀街道は、明治の史料には道幅二間(約2,6m)とあります。この付近の東海道は三間五尺(約5,2m)だったので、伊賀街道はその半分の道幅だったことになります。
天台宗園養寺は滋賀県湖南市を中心に家族葬や納骨のご相談を承っております
園養寺(おんようじ)
 街道に近い山中には、i園養寺があります。
この寺は延暦年中(782~806)、伝教大師(最澄)開基と伝えられ、牛馬の守護寺としても知られ、広範囲からの信仰を集める寺です。当時は本堂と庫裏は葛屋(草葺屋根)で、瓦葺きの撞鐘堂と薬医門があったようです。横田川には、橋はなくて園養寺付近から歩いて渡り、水量の多い冬から春には「竹橋」を掛ける、と明細帳には記します。

酒人村 園養寺からの野洲川
園養寺から望む野洲川

 川東の河原にはj土手が描かれています。
この図ではわかりにくいのですが、別の村絵図で確認すると、耕地と集落を水害から守る水防施設(川除け)で、河原側に人石と蛇籠を並べ、その内側に堤防を築いて松や竹を植えていたようです。
   明細帳には、次のように記されています。
川除け普請‐少々の義は毎年百姓ども自普請つかまつり候。大破の節は御地頭様より竹木代、人足扶持米とも、往占より頂戴つかまつり候。

意訳変換しておくと
川普請については、少々の工事は毎年百姓たちが自費で行う。大きく破損した場合には地頭(藩主)から土木材料費や人夫賃が支給される。

ここからは、小規模普請は自普請、大規模な治水灌漑工事については、藩主が行っていたことが分かります。中世の地頭たちは、自分の領地だけにしか関心はなく、自領を越えた治水灌漑工事を行う事はありませんでした。そのため平安末期に決壊した満濃池は近世初頭まで放置されたまんまでした。近世領主は、広域の水利土木事業を行うようになります。「水を制する者が、国を制する」、つまり支配の正当性を生み出しすことに自覚的になります。ここでも広域行政担当になる野洲川普請は、藩主によって行われたいたようです。

堤防の南側には、K「田地」l「畠」がひろがります。
そして中央部にm「村人家」のエリアがあります。
東部のn「植村田地境」o「宇田村田地境」からいくつかの水路が流れ込みます。
酒人村 用水路

東部の植村からの流れは、川上の水口美濃部村で横田川から取水された綾井用水(二の井)です。東南部の宇田村方面からは、野上井用水と前田川水が流入します。洒人村の水田の2/3が綾井用水によって、1/3が宇田付からの用水で賄われていたことになります。いずれの水路も、おおもとの横田川取入口には、藩によって伏せ樋(水口と埋設管)が作られていて、この修復にも藩から普請銀が下付されたていました。しかし、この用水をめぐっては、争論が川上の植村や宇田村と何度も繰り返されています。
田地の2ケ所に祀られた「野神(のがみ)(pl、p2)」に、研究者は注目します。
「野神」は、野良仕事(農作業)や作物の実りの神で、牛や馬を守る神でもありました。祭りは田植えの頃や収穫の秋に、御神体の石仏や自然石の前で行われます。
集落のなかを歩いてみよう。今度は別の村絵図です。

酒人村 村絵図2
酒人村の村絵図2
集落は竹藪・塚・水路などで囲われていて、全体が一つの砦のようになっています。
戦国時代、甲賀郡一帯は地元の侍衆が支配し、彼らの居館や城があちこちにありました。酒人村は百姓の村でしたが、砦のような集落のたたずまいは、日々臨戦態勢にあった戦国時代の名残りを受け継いでいるようです。集落には百姓たちのたくさんの人家が立ち並んで描かれています。
明細帳から家数や人口など関係記事を列挙してみると次のようになります。
・家数101軒。
・人口378人、男 183人、女191人、・僧4人
・大工四軒。大鋸(おが)(製材業者・木挽き)一人.
・牛46疋、馬一疋。
・農業のほかに、男は藁筵織り、日用(日一雇い)稼ぎ、または 本挽きに罷り出る。
・女は賃仕事として苧(からむし:麻糸)を績む。木綿も着用ほど紡ぐ。
家数100軒ほどで人口300人台という規模は、この地域の平野部の村としてはやや大きめの規模になるようです。
比較のために周辺の村の様子も見ておきましょう。
・泉村 153軒、797人。大工1、木挽き9、桶屋1 、鉄砲打ち1、猟師4、馬20、牛38
・氏河原(宇治河原)村 108軒、500人余。大工2、木挽き28。牛63。
・東内貴村 43軒、209人。木挽き4。牛18。
・北内貴村 60軒、376人。木挽き14、牛馬喰(ばくろう)1、牛医1 ,牛25
ここからは、どの村にも大工や木挽きがいたことが分かります。甲賀地方では古くから「甲賀の杣(そま)」と呼れ、材木供給地だったようです。そのため木材関係者が多いようです。彼らは、今は京都の大工頭中井家の大工組に編成され、京都の天皇の御所などの普請にも駆り出される腕利き職人集団になっているようです。彼ら職人ですが、農業民と同様に村の構成員であり、百姓数のなかに入っています。泉村の桶屋や猟師、北内貴村の牛馬喰や牛医もおなじ百姓に分類されます。
近世社会で「百姓」という場合、二種類の意味合いがあったと研究者は考えています。
A 村に暮らし生活する住人(宗門人別改帳、家数人数改帳などに登録されている)を指す場合、
B 農耕に従事する者を指す場合
この明細帳では、「泉村百姓屋敷152軒」という時の「百姓」は、村に住む住人の意味になります。このなかには大工も桶屋も含まれることになります。これに対して、同じ明細帳で「猟師四人、これは百姓つかまつり候あいだの峠(稼ぎ)に川の猟つかまつり候」などと記されています。この場合の「百姓」は、Bの農作業ないしは農業従事者を指しているようです。
Aが住居がどこにあるかで区分し、「村方(在方)」の住人を指し、「町方(町人地)住人=町人」「武家方(武家町)住人=武士」などに対応する概念とすれば、Bは職種によって分類「士農工商」の「農」に相当するものと研究者は考えています。
この関係を研究者は次のように図示し、百姓を定義します。
酒人村 百姓の定義

職種・技能と居住域のワンセツト形態を特色とする近世社会では、「百姓=村の住人=農業従事者」であることを原則とします。しかし、村によっては「百姓」のなかに商工業や林業漁業従事者を含んでいたことになります。村の住人で、農業従事者が狭義の「百姓」と押さえておきます。

酒人村の百姓家については、母屋(おもや:居宅)と付属の建物の規模がわかる略図が残っています。
それは、安永五年(1776)に発生した火事で、被災した家々の報告書が残っていたためです。
ここからは住人の住宅が次の二つに区分できるようです。
①居宅に加えて物置、土蔵等の付属建物を持つグループ
②母屋だけのグループ
①のなかでも一番大きい居宅は16・5坪(約55㎡)になります。この規模だと間取りは、牛部屋付きの土間と座敷四部屋からなる造りだったと推測できます。この家はほかに物置、上蔵、さらには別棟の座敷まで備えています。それもそのはずで、この当主は村の庄屋を勤めていた家柄です。ムラの中でももっとも上位の家柄だったようです。

その一方で、下層グループは母屋だけです。
間口三間の場合、間取りはせいぜい土間ブラス2部屋程度になります。間口・奥行1間と記された家は、上層百姓家の物置にも及びません。この二軒の持ち主がいずれも「後家」であります。母屋のみのグループは、上層百姓に従属的な位置にあったと研究者は推測します。村の内部は、平均化された階層ではなく、そこにはかなりの格差のあったと研究者は考えています。
集落内には牛46頭と馬1頭が飼われていました。
家数で割ると二軒に1頭に近い割合になります。牛馬は田畑の工作や物資の運搬だけでなく、厩肥をつくるためにも欠かせません。賑やかな牛馬の鳴き声、厩屋の奥いは、村の世界を構成する大切なな要素です。
立ち並ぶ百姓家の間に寺、郷蔵、高札場などが描かれています。
酒人村 持寶寺
持宝寺

寺は集落中央北部にq持宝寺、南部にr無量寺があります。いずれも本堂は草葺きです。qの持宝寺は天台律宗で村人の檀那寺になります。本尊の如意輪観音坐像(鎌合時代・重文)のほかに善光寺式の阿弥陀如来を安置するので、酒人善光寺とも呼ばれ、近隣の人たちの信仰を集めていたようです。
 無量寺は川向かいの園養寺の末寺で、長保年中(999~1004年)恵心僧都(源信)開基という由緒を持ちますが、明細帳作成当時は、住職はいないと記されています。無住だったようです。
郷蔵(倉庫)は、北東と北西の隅に建てられています(S1、S2)。

郷倉
郷倉(かすみがうら市)
年貢米や備荒用の穀物、祭礼具などの保管庫として使われていたようです。明細帳で規模のわかる北東側の郷蔵(S1)は、間口四間、奥行二間の葛葺き犀根で、横に三間×一間の作業小屋(計り屋)が付属しています。どうして、村に郷蔵が二つあるのでしょうか。それは、当時の村が水口藩と旗本内藤氏の二領主に分有される相給村だったためのようです。そのために、領主ごとの蔵があったようです。
寺や郷蔵と並んで高札場(t1、t‐2)も2つあります。
高札
高札場

ここには幕府の命じた法度(法令)が板に墨書され掲示されていました。忠孝を奨める札、徒党禁止札など、一品札の種類はいくつかありますが、どこでも中心は「バテレンを見つけた者には褒美を与える」と記したキリスト教禁止の高札です。秀吉に始まるキリシタン禁令は、徳川政権においても「国是」として継承されます。洒人村の場合もこの高札が掲げられていたと推測されます。なお高札場が2ケ所あるのは、郷蔵と同じ理由です。
西の郷蔵の横に村氏神の山王権現のu小祠が見えます。
明細帳によれば、この宮は「当村中ばかりの氏神」で、八間×四間の境内にある三尺(約90㎝)×三尺I寸(約106㎝)の「こけら茸き」の社です。4月の2回目の申の日に神事が行われ、村民が参詣します。
ふつう、近世村では氏神は一村だけのものでしたが、洒人村の場合はこの村氏神のほかに、他村と共同の氏神社が2ケ所あったようです。1つは植村・泉村と共同で祀る国中大明神(植村に鎮座)です。
その外縁にもうひとつ、北脇村以下10ケ村という広域で祀る若宮八幡宮(北脇村に鎮座)がありました。こうした氏神信仰圏の重層性は、当村がかつては伊勢神宮領だった柏木御厨のなかの洒人郷の一集落だったことに由来するようです。柏木御厨全体の氏神が若宮八幡宮で、酒人郷限りの氏神が国中人明神ということになります。この絵図からは外れて見えませんが、村内の東方および北方には国中大明神の分社が1つあり、東方の社は牛頭天王社、北方の社は十禅師社と呼ばれていたようです。
最後に、墓地です。
洒人村では、集落の外縁にニカ所あります(V1、V2)。「基所」と書いて「ムショ」と読むようです。ここでは初めから「無所」と記されています。村民が死去すると、遺体はこの墓地に葬られました。
 民俗調査によれば、この辺りでは、昔は葬式は夜に行われたと報告されています。出棺を知らせる寺の鐘が鳴り、松明を先頭に白装束の野辺送りの行列が棺を担いで基地に向かう姿がかつては見られたようです。
以上、近江の酒人村の村絵図を見てきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは「水本邦彦 村 百姓たちの近世 岩波新書」です。

  入会林の覚え書き 1641年
山入会(入会林)付覚書(大麻山周辺の入会林について)

生駒藩お取りつぶし後に、讃岐が二つの藩が出来て、丸亀藩に山崎家が入ってくることになったのが1640年のことでした。その時に、大麻山周辺をめぐる中世以来の入会林の既得権が再確認されて文書化されます。そこには入山料を支払い、入山鑑札を持参した上で、小松庄(琴平)の農民たちに大麻山の西側の「麻山」への入山が認められていました。ところが佐文の農民に対しては、鑑札なしの入山が許されていました。その「特権」が古代以来、佐文が「麻分」で三野郡の麻の一部と認識されていたことからくるものであったことを前回は見てきました。
 入山権に関して特別な計らいを受けて有利な立場にあった佐文が、それから約70年後の正徳五(1715)年になると、周辺の村々と紛争(山論)を引き起こすようになります。その背景には何があったのかを、今回は見ていこうと思います。テキストは、「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」です。
佐文周辺地域
佐文周辺の各村(佐文は那珂郡、他は三野郡)

正徳5(1715)年6月に、神田と上ノ村・羽方の3ケ村連名で、丸亀藩に次のような「奉願口上之覚」が提出されています。

佐文 上の村との争論
山論出入ニ付覚書写(高瀬町史資料編160P)
意訳変換しておくと
一、財田の上ノ村の昼丹波山の「不入来場所」とされる禁足地に佐文の百姓達が、無断で近年下草苅に入って来るようになりました。そこで、見つけ次第に拘束しました。ところが今度は昨年四月になると、西の別所山へ大勢でおしかけ、松の木を切荒し迷惑かえる始末です。佐文の庄屋伝兵衛方ヘ申し入れたので、その後はしばらくはやってこなくなりました。すると、今年の二月にまた大勢で押しかけてきたので、詰問し鎌などを取り上げました。
佐文 上の村との争論2

このままでは百姓どもの了簡が収まりませんので、口上書を差し出す次第です。村境設定以前に、上ノ村山の中に佐文の入会場所はありませんでした。30年以来、南は竹ノ尾山の一ノかけから上、西は別所野田ノ尾から東の分については入会で刈らせていました

一、神田山について
前々から佐文村は、入会の山であると主張しますが、そんなことはございません。先年、神田庄屋の理左衛門の時に、佐文の庄屋平左衛門と心易き関係だったころに、入割にして、かしの木峠から東之分を入会にして刈り取りを許したといいます。これは近年のなってことでので、大違です。由□□迄参、迷惑仕候
 以上のように入山禁止以外にも、今後は佐文の者どもが三野郡中へは入山した時には「勝手次第」に処置することを、御公儀様へもお断り申上ておきます。三ヶ村の百姓は、前々から佐文の入山を停止するように求めてきましたが、一向に改まることがありません。そのためここに至って、三ケ村の連判で訴え出た次第です。御表方様に対シ迷惑至極ではございましょうが、百姓たち一同の総意でありますので口上書を提出いたします。百御断被仰上可被下候、以上        
正徳五(1715)年六月   
     
三野郡神田村庄屋   六左衛門
          同神田村分りはかた(羽方)村庄屋  武右衛門
上ノ村大庄屋字野与三兵衛
庄野治郎右衛門様
  神田村(山本町)・羽方村(高瀬町)と上ノ村(財田町)の庄屋が連名で、丸亀藩に訴えた書状です。佐文の百姓が上ノ村との村境を越えて越境してきて、芝木刈りなどを勝手に行っていること、それが実力で阻止されると、神田村の神田山にも侵入していること、それに対して強硬な措置を取ることを事前に藩に知らせ置くという内容です。
佐文 地図2

 これに対して佐文からは、次のような口上書がだされています。

佐文 上の村との争論 佐文反論
   佐文からの追而申上候口上之覚 (高瀬町史史料編158P)
  意訳変換しておくと
一、この度、財田之衆が新法を企て、朝夕に佐文村からの入山に対して差し止めを行うようになって迷惑を受けていることについては、2月28日付けの書面で報告したとおりです。佐文村からの入山者は勾留すると宣言して、毎日多くの者が隠れて監視を行っています。こちらはお上の指図なしには、手出しができないと思っているので、作付用意も始まり、柴草の刈り取りなどが必要な時期になってきましたが、それも適わない状態で迷惑しています。新法になってからは財田方の柴草苅取が有利に取り計らわれるようになって、心外千万であると与頭は申しています。

一、新法によって財田山へ佐文の入山は停止されたと財田衆は云います。朝夕に佐文から侵入してくる証拠としてあげる場所(竹の尾越)は、箸蔵街道につながる佐文村の人馬が往来する道筋です。そこには、馬荷を積み下ろしする場所も確かにあります。2月14日に、この通行を突然に差し止めることを上ノ村側は通告してきました。が、竹の尾越は佐文の人馬が往来していた道なので、馬の踏跡や馬糞まで今でも残っています。佐文以外の人々も、何万の人たちがこの道筋を往来してきました。吟味・見分するとともにお知りおき下さい。(以下破損)
一、先に提出した文書でも申上げた通り、財田側は幾度も偽りを為して、出入り(紛争)を起こしてきました。財田方の言い分には、根拠もなく、証拠もありません。度々、新法を根拠にしての違法行為に迷惑しております。恐れながらこの度の詮儀については、申分のないように強く仰せつけていただけるよう申し上げます。右之通、宜被仰上可被下候、以上  
正徳五未四月十三日      佐文村庄屋 伝兵衛 印判
同村与頭覚兵衛 
同同村五人頭弥兵衛
同同村惣百性中
山地六郎右衛門殿
佐文の言い分をまとめてみると次のようになります。
①「新法」を根拠に、財田上ノ村が旧来の入会林への佐文側の入山を禁止し、実力行使に出たこと
②その一環として、箸蔵街道のに続く竹の尾峠の通行も規制するようになったこと
③佐文側が「新法」について批判的で、「改訂」を求めていること。

両者の言い分は、大きく違うようです。それは「新法」をどう解釈するかにかかっているようです。新法とは何なのでしょうか?
貞享5年(1688)年に、丸亀藩から出された達には、次のように記されています。
「山林・竹木、無断に伐り取り申す間敷く候、居屋鋪廻り藪林育て申すべく候」

意訳変換しておくと
「林野(田畑以外の山や野原となっている土地)などに生えている木竹などは藩の許可もなく勝手に切ってはならない、屋敷の周囲の藪林も大切に育てよ

というものです。さらに史料の後半部には「焼き畑禁止条項」があります。ここからは、藩が田畑だけでなく山林全体をも含めて支配・管理する旨を宣言したものとも理解できます。この達が出る前後から、藩側からの山林への統制が進められていったようです。
 そのひとつが山検地であると研究者は指摘します。
山検地は、丸亀藩の山林への統制強化策です。山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を調査する形で行われています。京極高和が丸亀へ入部した万治元(1658)年の5月に、山奉行高木左内が仲郡の七ヶ村から山林地帯を豊田郡まで巡回しています。これが山検地の最初と研究者は考えているようです。検地の結果、山林については次の4つに分類されます
①藩の直轄する山林
②百姓の所有する山林
③村や郡単位での共有地となっている山林
④寺社の所有する山林
そして、5年毎に山検地は行われますが、検地を重ねる度に山林が藩の直轄林(御林)に組み込まれていきます。そして、入会地が次第に縮小されていきます。この結果、佐文が既得権利を持っていた「麻山」や「竹の尾越」周辺の入会地も縮小されていったことが推測できます。一方で、佐文でも江戸時代になって世の中が安定化すると、谷田や棚田が開発などで田んぼは増えます。その結果、肥料としての柴木の需要はますます増加します。増える需要に対して、狭まる入会地という「背に腹は刈られぬ状況」の中で、佐文の住民がとったのが「新法=山検地(?)」を無視して、それ以前の入会地への侵入だったようです。
①南は、竹の尾越を越えた財田上の村(財田町)方面
②南西は、立石山を越えた神田村(山本町)方面
③西は、伊予見峠を越えた羽方村(高瀬町)
佐文 地図2

これらの山々でも、入会地縮小が進んでいたようです。それが「新法」だったと私は考えています。特権として認められたいた麻山の旧入会地が狭められた結果、入るようになったのが①~③のエリアで、それも新法で規制を受けるようになったのかもしれません。どちらにしても丸亀藩の林野行政の転換で、入会林は狭められ、そこから閉め出された佐文が新たな刈敷山をもとめて周辺の山々に侵入を繰り返すようになったことがうかがえます。
 佐文村の百姓が藩が取り決めた境を越えて昼丹波山・別所山・神田山(二宮林)へ入って、柴草を刈ったことから起こった紛争の関係書類を見てきました。これに対する丸亀藩の決定は、「取り決めた以外の場所へ入り申す義は、少しも成らるべからざる由」で、「新法遵守」でした。佐文の既得権は認められなかったようです。
 これから享保10(1725)年には「神田村山番人二付、廻勤拍帳」という史料が残っています。これは「山番人」をめぐる神田・羽方両村の争いに関する史料です。ここからは、佐文との山争論の10年後には、村有林や入会林を監視するために「山番人」が置かれるようになったことが分かります。また、「御林」に山番人が監視にあたると、今まで入会地とされてきた場所は次第に「利用制限」されていきます。それまでは、村と村の境は、曖昧なところがあったのですが山林も財産とされることで、境界が明確化されていきます。山の境界をめぐって、藩の山への取り締まりは強化されていきます。
 しかし、百姓たちからする「御林(藩の直轄山林)」は、もともとは自分たちの共有林で入会林であった山です。そこに入山ができなくなった百姓たちの反発が高まります。そうして起こったのが享保17年の乙田山争論のようです。このような隣村との境界や入会権をめぐる争論を経て、近世の村は姿を整えていくことになります。
琴南林野 阿野郡南川東村絵図(図版)
阿野郡南 川東村絵図
(まんのう町川東地区の御林(緑色)と野山(赤色)を色分けした絵図
 中世の各郷による山林管理体制を引き継いだ生駒時代には、野山・山林の支配は村を単位にして、藩主と個人的関係のある代官や地元の有力者を中心に行われていました。とくに大麻山・琴平山と麻山の周辺の山林は、佐文のように古い体制を残しながら支配が複雑に入り組んでいました。それがきちんとした形に整えられていくのは享保年間ごろと研究者は考えています。生駒家時代の林野に対する政策は、京極藩で確立する林野政策の過渡的な形態を示しているようです。
まんのう町の郷
古代中世の各郷
 以上をまとめておくと
①生駒時代には、大麻山は入会林で鑑札を購入しての周辺村々の芝木刈りのための入山が認められていた。
②麻山の鑑札による入会林として利用されていたが、佐文は鑑札なしでの芝木刈りが認められていた
③丸亀京極藩は、田畑以外に山林に対しても山検地を始め、入会林を「御林(藩の直轄林)」へと組み込みこんでいった。
④「御林」の管理のために「山番人」が置かれるようになり、入山規制が強まる。
⑤こうして「麻山」周辺への入山規制が強化されるにつれて、佐文は南部の財田や神田への山林への侵入をするようになった。
⑥これに対して財田上の村、神田村、羽方村の3ケ村連名で「新法」遵守を佐文に求めさせる抗議書が提出された。
⑦丸亀藩の決定は「新法遵守」で、あらたに設定された境界を越えての入山は認められなかった。
⑧このような入会林や村境界の争論を経て、近世の村は確立されていく
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」

刈敷山2

 以前に江戸時代の飯野山や大麻山などの里山は、芝木刈りのために裸山になっていたことをお話ししました。今回は、刈敷(かれしき)山として、里山がどのように管理されていたのかを見ていくことにします。

刈敷・草木灰

 1640(寛永17)年に、お家騒動で生駒藩が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。この時に幕府から派遣された伊丹播磨守は、讃岐全域を「東2:西1に分割せよ」という指示を受けていました。そのために再検地を行って、新しい村を作って、高松藩と丸亀藩に分けて境界を引きます。 その際に両藩の境界がまたがる那珂郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争が起る可能性が出てきます。それを避けるために、関係村々の政所の意見を聞いた上で、まんのう町周辺の里山の入会(いりあい)権を次のように定めています。
1仲之郡∂柴草苅申山之事

刈敷山への入会権を定めた部分を書き抜いてみると次のようになります。
松尾山  苗田村・木徳村
西山 櫛無村・原田村
大麻山 与北村・郡家村・西高篠村
羽間山  垂水村・高篠村
一、仲郡と多度郡の農民が東西七ヶ村の山や満濃池周辺へ入り、柴木苅りをおこなうことを認める。ただし、従来通り手形(鑑札札)を義務づけること。
一、三野郡の麻山については、子松庄(琴平)に鑑札付きで認める。ただし、佐文の者は、鑑札札なしで苅る権利を認める。
 ここからは、金毘羅さんの神領以外の松尾山・西山(琴平町)や大麻山・東西の七箇村や満濃池周辺の里山に、入会権が設定されていたことが分かります。誰でも山に入れたわけではないようです。「札にて刈り申す山」と記されているので、入山に際しては許可証(鑑札)が発行されていて、何匁かの支払いが義務づけられていたようです。

下草鑑札
刈敷山への入山鑑札
 それに対して佐文に対しては「同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」とあります。佐文の住人は、札なしで自由に麻山の柴木を刈ることができるとされています。どうして佐文に、このような「特権」が与えられていたのかについては、史料からは分かりません。 


草を刈る図
他の文書には、次のように記されています。
「多度郡(多度津町・善通寺市)には山がないので、多度郡の者は那珂(仲)郡の山脇・新目・本目・塩入で柴木を刈ることを許す。」

ここからは柴木刈りが解禁になる日には、多度郡の農民たちが荷車を引いて、鑑札をもって山脇や塩入まで柴木刈りに入ってきていたことが分かります。丸亀平野の人々が霊山としていた大川山や尾野瀬山は、里から見上げる遠い山ではなく、実際に農民たちが柴木を刈るために通い慣れた馴染みの山でもあったようです。旱魃の時に、大川山や尾野瀬山から霊水を持ち帰って、雨乞祈願を行ったという伝承も、こんなことを知った上で聞くと、腑に落ちる話になります。ちなみに宮田の民芸館(旧仲南北小学校)には、里山への入会鑑札が展示されています。化学肥料が普及する戦後まで、里山での柴木草刈りは続けられていたようです。         
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  参考文献   満濃町誌293P         山林資源
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古代からの水稲栽培の大きなポイントは、次の2点でした。
①農業用水の確保のための潅漑
②肥料を施すこと

刈敷・草木灰

 鎌倉時代になると、山林を焼いた草木灰と、青草や木の若芽を刈り取り、田植前の本田に敷きこんで腐食させ根肥とするようになります。これを刈敷(かれしき)と呼んでいました。

1刈敷1
①青色 里山から小枝を刈り取ってくる
②赤色 馬や人が背負って、集落に下ろしてくる
③緑色 馬に踏まして、水田にすき込んでいく
④紫色 灰にして散布する
古代には刈敷の草木を刈り取るのは、条里制内の耕作放棄地(年荒)や常荒田と、条里制周辺の未墾地でした。これらの土地は、荘園主などの領主の所有地ですので、農民は人山料を支払って刈り取っていたようです。
1刈敷2
背負われてきた小枝が水田に置かれます。田に馬を放ってすき込ませます。

鎌倉時代の農業技術
鎌倉時代の農業技術

 中世になると善通寺を中心とする一円保では、農地開墾も盛んに行われ、耕作放棄地や常荒田等も耕作されるようになります。また、潅漑技術が進歩して有岡大池が作られ、水田の乾田化か進み、二毛作が行われるようにもなります。この結果、刈敷を刈るための里山がますます必要になります。領主は山の管理を厳しくして、他領の者が入山したり肥灰を他領へ持ち出すことを禁止して肥料の確保に努めるようになります。
1刈敷3

室町時代になると領主の肥料管理権は、農民の手に移っていきます。
 荘園が次第になくなり、灌漑水利等を共に管理する集落が惣村をつくるようになります。そこでは、名主を中心に刈敷を採取する野山を共同所有地とし、ルールを作って共同で使用するようになります。領主は、領民に刈敷の原料となる草木の刈取りや、更には薪の採取までも認めるようになります。その代わりに集落に対して年貢納入を求めます。こうして、一定エリア内の住民に草木の採取が認めら、それが入会権(のさん)につながっていきます。里山や山林の入会権は、中世松には出来上がっていたようです。
それでは、近世はじめの丸亀平野の場合はどうなのでしょうか?
1640(寛永十七)年に、お家騒動で生駒家が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。この時に幕府から派遣された伊丹播磨守と青山大蔵は、讃岐全域を「東2:西1」の割合で分割せよという指示を受けていました。そのために再検地を行っています。新しく「村切」も行って、高松藩と丸亀藩の境界を引きます。その際に両藩の境界となる那珂郡と多度郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争がに起る可能性がありました。それを避けるために、寛永十八(1641)年十月に、関係村々の政所の覚書の提出を求めています。各村の庄屋が確認事項を書き出し提出したものです。

1仲之郡∂柴草苅申山之事

仲之郡の柴草苅を行う山について
松尾山   苗田村 木徳村
西山 柴木苅申村 櫛無村 原田村
大麻山 与北村 郡家村 西高篠村

一、七ヶ村西東の山の柴草は、仲郡中の村々が刈ることができる
一、三野郡の麻山の柴草は先年から鑑札札で子松庄が刈ることを認められている
一、仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている
一、羽左馬(羽間)山の柴草は、垂水村・高篠村が刈ることができる
寛永拾八年巳ノ十月八日

芝草刈りのための入会林を従来の通り認めるという内容です。注意しておきたいのは、新たに設定されたのでなく、いままであった入会林の権利の再確認であることです。ここからは中世末には、入会林の既得権利が認められていたことがうかがえます。

内容を見ておきましょう
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山とされています。
また、「麻山」は仲郡の子松庄(現在の琴平町周辺)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証(鑑札)で、札一枚には何匁かの支払い義務があったようです。
  ここからは仲郡、多度郡と三野郡との間の大麻山・麻山が入会地であったことが分かります。ちなみに象頭山という山は出てきません。象頭山は近世になって登場する金毘羅大権現(クンピーラ)が住む山として名付けられたものですから、この時代にはなかった呼び名です。

同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」とあります。
仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人は、札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。麻山と佐文とは隣接した地域なので、佐文の既得権があったようです。
 他の文書で「多度郡には山がないので、多度郡の者は那珂郡の山脇・新目・本目・塩入(旧仲南町)で柴草を刈ることとができる。」とされています。
以上からそれぞれの山の入会権をもつ村々を整理しておきましょう
松尾山   苗田村 木徳村
西山 櫛無村 原田村
大麻山 与北村 郡家村 西高篠村 
小松庄(五条・榎井・苗田)・佐文(鑑札なし)
旧仲南町 多度郡の各村
七箇村東西 那珂郡
狹間山 垂水村 高篠村
 各村の代表者(政所)の同意・確認の上で、青山・伊丹の引継責任者は、新しく丸亀城の藩主となる山崎甲斐守に覚書(引継書)を送っています。そこには、各村の政所の意向を受けた上で、執るべき措置が箇条書きにされています。その内容を見てみましょう
 
1仲之郡∂柴草苅申山之事2

意訳変換しておくと
一、那珂郡と鵜足郡の米は、前々から丸亀湊へ運んでいたが、百姓たちが要望するように従前通りにすること。
一、丸亀藩領内の宇足郡の内、三浦と船入(土器川河口の港)については、前々より(移住前の宇多津の平山・御供所の浦)へ出作しているが、今後は三浦の宇多津への出作を認めないこと。
一、仲郡の大麻山での草柴苅について、前々から行っていたと云う。ただ、(三野郡との)山境を築き境界をつくるなどの措置を行うこと。
一、仲郡と多度郡の大麻山での草柴苅払に入る者と、東西七ヶ村山へ入り、草柴苅りをおこなうことについて双方ともに手形(鑑札札)を義務づけることは、前々通りに行うこと
一、満濃池の林野入会について、仲郡と多度郡が前々から入山していたので認めること。また満濃池水たゝきゆり はちのこ採集に入ること、竹木人足については、三郡の百姓の姿が識別できるようにして、満濃池守に措置を任せること。これも従前通りである。
一、多度郡大麻村と仲郡与北・櫛無の水替(配分)について、従来通りの仕来りで行うこと。
右如書付相定者也
寛永拾八年              伊丹播磨守
巳ノ十月廿日            青山大蔵少
山崎甲斐守殿
ここには引継ぎに際しての申し送り事項が書かれています。紛争が起らないように、配慮するポイントを的確に丸亀藩に伝えていることが分かります。入会林に関係のあるのは、3・4番目の項目です。3番目は、那珂郡では大麻山、三野郡では麻山と呼ばれる山は同一の山なので、今後の混乱・騒動を避けるためには、境界ラインを明確にするなどの処置を求めています。
  ここで気がつくのが大麻山の壁のような遺構です。電波塔から東に向かうと稜線沿いに、長く塀のような遺構が続きます。これがこのときに設置された那珂郡と三野郡の境界壁ではないかというのが私の仮説です。
工房うむき on Twitter: "諏訪湖南の山地で聞き取りでも「刈敷の山の口が開く」といわれ採取する解禁日が決まっていたそうです。… "
「刈敷の山の口が開く日」という表現で、解禁日も採取場所も決まっていたようです。これは諏訪南部の刈敷指定場所

 4番目は、大麻山の入会権については多度郡・那珂郡・三野郡の三郡のものが入り込むようになるので、混乱を避けるために鑑札を配布した方がいいという指摘です。鑑札札をもって、番所でチェックを受けて大麻山には周辺の多くの農民達が入って行ったことでしょう。

このような引継ぎが行われていることは、幕府要人も、各村の農民の人会権を認めて、肥料源を確保させることは、勧農政策の重要ポイントだと、認識していたことがうかがえます。
   こうしてみると丸亀平野を囲む里山は、それぞれの村々に入山権が割当てられたことが分かります。当時の人々の目からすれば、狹間山を見れば「垂水村・高篠村の山」と認識されていたのです。それぞれの山に入山権が設定されていたことを押さえておきたいと思います。
第72回 「かっちき」「刈敷」とは何か~草を肥料にする農耕の知恵 | 園藝探偵の本棚 | カルチベ – 農耕と園藝ONLINE

 こうして、里山は春が来て新芽が芽吹く頃になると周辺の村々から農民達が入り込み、木々の枝を刈り取り、それを背負って田んぼに敷き込むことがどこでもおこなわれるようになります。そして、それが多ければ多いほど増収につながるのです。農民達は競って里山に入り、木々の枝を刈り取ったのです。多度郡の農民達の入会地は、はるか南の讃岐山脈の麓でした。朝早くに出発して、小枝を刈り取り、それを背負って暗くなった道を家路に急いだのでしょう。その際に、番所では木札を見せ、決められた銭も支払いしました。
東十二丁目誌」註解覚書:山は誰のものだったか? (2) – 人そして川

 刈敷のための小枝伐採や採集が続くとどうなるのでしょうか。
藤沢周平の「回天の門」の主人公・清河八郎が母を伴って、金毘羅詣でにやってきた時の記録を見てみましょう。道中の丸亀街道に「四国富士」(讃岐富士)が見えてきます。
 「四国富士といふ小山、路よりわづか壱里ばかりへだて、突然として景色あり。「常に人をのぼさず。七月十七日頃に一日群がりのぼる」と路中の子供はなされき。
 すべて此辺高山はまれにて、摺鉢をふせたるごとき山、処々にあり、いづれも草木不足なり。時々雲霧に顕晦いたし、種々の容体をなせり。
意訳変換しておくと
「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」と、土地の子ども達が教えてくれたと云います。当時は年に一度しか登ることが許されていなかったようです。霊山として「禁足」された聖なる山だったようです。私が気になるのは「草木不足」という事場です。お椀を伏せたような山は、どれも草木が茂っていない=裸山だ

と記します。

   清川八郎が母親と金毘羅さんにやって来た同じ年の安政2年(1855)に、描かれた「讃岐 象頭山遠望」です。
1 象頭山 浮世絵

岡田台地からの「見返り坂」を上り下りする参拝者の向こうに象頭山(大麻山)が描かれています。山は左側と右側では大きく色合いが違います。なぜでしょう?
最初は、「赤富士」のような「絵心」で、彩りを美しく見せるために架空の姿を描いたものなのかと思っていました。しかし、だんだんと、これは当時のそのままの姿を描いているのでないかと思うようになりました。
 向かって左側は、金毘羅大権現の神域です。右側は、古代から大麻山と呼ばれた山域です。現在は、この間には防火帯が設けられ行政的には左が琴平町、右が善通寺市になります。
ここからは私の仮説です。
左側は金毘羅さんの神域で「不入森」として、木々が切られることはなかった。しかし、右の善通寺側は、刈敷で「草木不足」となり、山が荒れている状態を描いているのではないでしょうか?

6400

歌川広重の「山海見立相撲 讃岐象頭山」を見ると、山が荒れ、谷筋が露わになっているように見えます。背景には、先ほどお話ししたように田畑に草木をすき込み堆肥とするために、周辺の里山の木々が切られたことがあります。この時期に芝木は大量に田畑にすき込まれ肥料にされました。里山の入会権をめぐって、周辺の村々が互いに争うようになり、藩に調停が持ち込まれた時代です。

 そして、瀬戸の島々も「耕して天に至る」の言葉通り、山の上まで畑が作られ森が失われていった頃と重なります。残った緑も薪や肥料に伐採されたのです。ある意味、山が木々に覆われた光景の方が珍しかったのかもしれません。だから、浮世絵師たちは好んで木々の緑の神域と、はげ山のコントラストのある光景を描いたのかもしれません。もし、当時のこの場所に立って、周りを見渡すと見える里山は、金毘羅大権現の鎮座する象頭山以外は丸裸のはげ山だったのかもしれません

以上をまとめておくと
①中世には田んぼに大量の小枝をすき込む刈敷が行われ肥料とされた。
②水田開発と共に大量の小枝が里山から刈られて田んぼにすき込まれて
③そのために周辺の里山は、それぞれの村の刈敷の山とされ、外部の者を排除するようになった。
④刈敷山のない多度郡の農民達は、阿讃山脈の麓まで小枝刈りに通わなければならなかった。
⑤江戸時代になって高松・丸亀藩に分割された際に、刈敷山の入会権を確認するための調書が作成された。そこには、当時の里山の入会権が記されている
⑥刈敷が長期間にわたって続くと里山も疲弊し、禿げ山化したことが旅行記や浮世絵からはうかがえる。
⑦周囲の里山が禿げ山化するなかで神域とされた象頭山は青々とした原生林の山の姿を残した。
⑧その姿が金毘羅大権現のひとつの売り物であったかもしれない

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   満濃町誌293P         山林資源 

まんのう町勝浦 四つ足

金毘羅さんの御会式(大祭)の参加注意通達を見て
 金毘羅さんの賑わいは、春と秋の会式(大祭)の日が最高だった。
文化八(1811)年の秋の大祭が近づいた十月三日、阿波との国境の近くの鵜足郡勝浦村の状継(じょうつぎ)福右衛門は、飛脚便を受け取った。大庄屋の宮井伝左衛門と木村甚三郎の連名で、金毘羅の会式について参拝者に注意するようにという内容だった。それには郷会所の元締の中村甚三郎と柏原弥六の連名で、走り書きにした大庄屋宛の次のような手紙も添えられていた。

一筆申上候。然ば金毘羅会式につき、西郡の面々心得違無之様 可仕旨被仰出候間、其旨村々え洩れざる様御中渡置可被成候。

 去年までは山分村々回状で、中通村の肝煎(きもいり)が届けてきた。それなのに、今年はわざわざ川原から飛脚便で知らせてきた。去年の会式に、勝浦村の若者が間違いを起こしたからであった。昨年の苦い思い出がよみがえってきた。
DSC00839

 奈良の木坂の孫兵衛は、二十四才の真面目な働き手である。
去年の御会式に、阿波から参詣する知人に誘われて、初めて金毘羅さんの大祭に行った。あまりの賑わいに呆然としている所を、すりに狙われた。気がついてそのすりを大力で投げとばしてたところ、稼ぎに来ていたすり仲間と大喧嘩になり、危ない所を金毘羅領の年寄玄右衛門に助けられた。稼ぎを台無しにされたすり仲間の復讐を心配した玄右衛門の計らいで、五日間の入牢を申し付けられ、這々の体で村へ帰ってきた。
 再度、昨年のようなことが起きないように、村衆に伝えなければなるまい。さて、どのように話したらよいものかと飛脚便を手にしながら考え込んだ。
DSC00830

勝浦神社
 それから十日余りたった日の夕方、中通村の肝煎が一通の手紙を届けてきた。
村継ぎの手紙であるので急いで封を切って見ると、柏原弥六の達筆が、躍るように眼にとびこんできた。
一筆申達候
其御村 松五郎
  同 東吉事 秀吉
 右の者饂飩(うどん)・蕎麦(そば)商い申義、金毘羅春秋両度の会式中相済み、已来平日は不相成候段御申渡可被下候以上
  文化八年十月十三日  柏原弥六
佐野直太郎殿(勝浦村の庄屋)
意訳
右の者はうどん・そばの商いを、春秋二回の金比羅大祭の時だけ許している。会式が終われば、平日の商いは行ってはならない。
DSC00841
まんのう町勝浦神社

 松五郎と秀吉は働き者で律義者だ。毎年会式の時に金比羅でのうどんと蕎麦の商いを許されて、その儲けを足しにして百姓を続けている。会式が終わるとその翌日には、店をたたんで百姓仕事に精出している。どうしてわざわざこんな通知が届いたのだろうか。商いをすることが許されない村の者が、告げ口でもしたのであろうか。入念な達しに、不安を感じないではいられなかった。

DSC00797

 それにしても、お殿様は昔から商いがお嫌いだ。

百姓が商いをすれば儲けに眼がくらみ、野良仕事が嫌いになり、年貢を納めなくなる者がふえると思っておられるのか、毎年この村で十人以上の者が出店を願い出るのだが、許されるのは二名か三名だけだ。
 手紙を庄屋日帳に写し取りながら、福右衛門は、働き者で子沢山な東兵衛の腰が少しまがりかけたことや、鉄砲の名人の秀吉が、獲物に狙いをつけた時の精悍な顔つきを思い浮かべていた。
         まんのう町(旧琴南町)勝浦 牛田文書より
DSC00820


○お殿様の金毘羅さん御参詣の動員
 天保二年(1831)三月二十三日の辰の刻、鵜足郡造田村の庄屋西村市太夫は、大庄屋木村甚三郎と宮井清七連署の、山分村々回文を庄屋日帳に書き写して、本文と読みあわせてみた。
○以回文申入候。
殿様来る廿六日より同二十八日の内、金毘羅へ御往来共御遠馬にて御参詣被為遊候由、依之御当日御前日共、於栗熊東継更人馬別紙切符の通割紙相回候間、同所より触れ込次第毎々の通、宰領組頭相添御指出可有候。
大抵廿六日中御社参の御様子に相聞候間左様 御心得御取計置可有候。
 一 草履・草軽・馬沓(くつ)並拝駕龍共 明日中に栗熊東馬継所迄 御指越可有候。為其急中入候。
   三月廿三日         木 村 甚三郎
                 宮 井 清 七
   村々庄屋衆中。
  高松の殿様が3日後の26日~28日に金毘羅さんに参拝することになったので前例通り準備をするようにとの内容だ。造田村の割当をもう一度確認する。
 O殿様御遠馬の割当 造田村
  御前日、御当日共。
 一、人足三拾四人。
 一、馬弐疋。
 一、草履六足。
 一、草靫六足。
 一、馬沓弐足。
 書き誤りのないことを確かめた市太夫は、末尾に連記された長尾村、炭所東村、炭所西村の次の造田村の肩の所に「(合点(がってん)」を入れた。そして辰の刻と書き込んで仮封をし、肝煎の助蔵を呼び寄せて、大急ぎで中通村の庄屋磯太夫の地下清(じげんじょ)の宅まで届けるよう命じた。
刀剣ワールド】馬具の種類と歴史|武具・書画・美術品の基礎知識
馬沓

  草履六足、草靫六足、馬沓弐足は明日中に栗熊まで持参せよとのことだ。急がなければならない。前日からは、人足34人と馬2頭を引き連れて行かねばならない。誰を連れて行くのか、どの馬を選ぶのか、頭の中で算段を始めていた。
DSC00849
まんのう町福家神社
お殿様の金比羅詣でが終わったと思ったら、今度は御姫様の金毘羅参詣が通知されてきた。
 四月七日付の大庄屋からの回文によると4日後の十一日のことだという。回文が届いた翌日には、金毘羅街道に近い村々の庄屋が、お姫様の御小休所に指定された栗熊西村の浪士平尾庄之進宅へ召し出されて、打ち合わせを行った。終わったのは未刻(午後2時頃)を少し回ったころであった。造田村の割当りは次の通りになた。
O御姫様御参詣に付掛りの物 造田村
 一、興炭 壱俵。
 一、薪  貳束。
 一、草履 四足。
 一、草桂 四足。
   右は九日中に指出候事。
 一、人足三拾人、御前日、御当日。
 一、馬 三疋、右同断。
    但しとゆ持参有之様申越候。
 一、外に壱人、掛り物送り人足。
炭や薪はすぐにでも集まるが、人足を三十人出すのは骨が折れる。殿様の金比羅詣での度に、呼び出されるのはなんとかならないものか。今年は、これで二回目だ。
 
DSC00853

四月二十三日、大庄屋の宮井清七から三月の殿様御遠馬の入目割当(決算書)が届いた。
〇殿様御遠馬の入目割当 造田村
 一、御遠馬入目割当  銀九匁八分。
 一、御社参の入目割当 銀三十四匁五分。
            〆銀四拾四匁三分。
 殿様の参拝にかかる費用を、どうして村々が支払わなければならないのか。昔からの決まりだと云うが、どうも合点がいかない。浮かぬ顔で市太夫は算盤をとって、弾いて見た。高869石の造田村の割り当りが、44匁3分である。藩全体では、大高を21280石と見て、御遠馬の総入目は、十貫弐百六拾目余かかったことになる。四月のお姫様御参詣の造田村の割当は、六十目を超えるのでないかと案じられた。

DSC00855

 市太夫は、造田村の割当りから、人足賃などを差し引いて、尚七匁九分の銀を、組頭の夫右衛門に持たせて。日限ぎりぎりの27日に川原村の宮井清七の宅へ届けさせた。
                   造田村西村文書より

参考文献
琴南町史
 大林英雄 御神徳を仰ぐ人々 こんぴら 昭和60年

近世百姓の生活はどのようなものだったのでしょうか。 

中世は絵画といえば、西洋と同じで仏画や宗教画が中心でした。
庶民の姿が描かれることは殆どありませんでした。しかし、西洋では近世になるとフィレンツェでは大富豪の依頼に基づいて肖像画が描かれ始めます。そして、ネーデルランドのアントワープでは、大商人がパトロンとなり自らの生活を描くことを画家に求めるようになります。
「ブリãƒ\ーゲル 農民の踊り」の画像検索結果
ブリューゲルの農民の踊り
ヴァン=ダイクらは油絵によってキャンバスに富豪の生活を描き、それらは発注者である中産階級の居間の壁に掲げられたりするようになります。さらに進んでブリューゲルは中世の画家たちが「貧しく猥雑」として見向きもしなかった農民たちを描き始めます。絵画に描かれる対象がぐーんと広がったのです。
 同時期の日本でも、その流れは安土桃山時代を境に大きく転換し、現世の風物や人間を描く世俗画が描かれるようになります。農村もまた描写対象になり、一双の屏風に農村の四季を描く「耕作図屏風」や絵巻物形式の「耕作絵巻」が作られるようになるのです。その中の代表的な作品「豊年万作の図」を眺めていて楽しくなってきましたので紹介したいと思います。

「豊年万作の図」 作者は浮世絵師 歌川貞吉です。

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     「豊年万作の図」原図は3枚続きです。

 「豊年万作の図」は、農業を教える教養画とされ、農業を知らない町方の商人たちの「教養絵巻」の役割も果たしたようです。そういう意味では、今私たちが見ても、近世百姓の稲作農業を知るのに役立つ絵図と言えます。
原図は3枚続きです。右の方から見ていくことにしましょう。

1 右上図 まず、右側は春から夏の農作業が描かれています

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  ①モミ乾し ④苗を運ぶ男 草取りをする女 

画面の上方には富士の雄姿が見えます。富士山は五穀豊穣を司る神の象徴として、江戸の浮世絵農耕図には定番だったそうです。讃岐ならば飯野山や羽床富士などのその地域の富士山が描き込まれたことでしょう。
ここには、稲荷神社と大きな倉が3つ並んでいる庄屋の家が背景に描かれています。この絵図の発注者の館かもしれません。
①作業のスタートは上段右の「もミを日にほす絵」で、赤子連れの夫婦が俵を開け広げるところから始まります。水に漬けておいた種籾を日に干して発芽を促します。
④苗取りの上には、苗を運ぶ半裸体の男がいます。

2 右下図 モミまき 苗取り 代掻き

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②種籾干しの次は、その下の男が[たねをまく(種を蒔く)図」です。
③そして、左の「苗取の図」へとコマが移動します。
⑤飯椀を頭に乗せ、薬缶をもった女性があぜ道を行く姿が大きく描かれます。その先を行く子どもは先導しているのでしょうか。この後、昼食か小休止になるのでしょう。
 絵巻物と同じように、同一場面に異なる時間推移が描かれます。
現在のマンガのコマ割りとは少し違いますので、最初は違和感があるかもしれません。

3 中央下図 代掻き 千羽漕ぎ 俵詰め

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⑥その左に手前の本田では、馬に引かせて代掻き作業が進みます。
 馬の轡に結ばれた手綱を引くのは子どものようです。一人前に馬を誘導しています。子供も大切な働き手だったことが分かります。
⑦代掻きの隣は、千羽漕ぎを使う女性が描かれています。
⑧その上には俵詰め作業です。
⑦⑧は秋の収穫シーズンの最終工程です。
その間の行程はどこに?

4 中央上図 田植え 草取り 踏み車

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この間の夏の行程は中央奥に描かれています。
⑦苗代で苗が育ち、本田の代かきが終ると、いよいよ田植えです。
 横一列に並んだ早乙たちの田植え姿が遠望できます。その上には高く鶴?か鷺が舞っています。稲がもっとも水を必要とするのは、苗の育つ田植えの時期と穂に実が付く彫刻み期です。だから、田植えはちょうど雨の多い梅雨に合わせて行われました。
⑧田植え後は田の草取りと田水の調節に作業の中心は移りますが中心的な作業となります。④の苗運びの半裸の農夫の向こうで、水田に入って農婦が腰をまげているのは草をとっているようです。除草は、一番草、二番草、三番草と何回もやらなければなりません。
⑨ 田植え作業の左には、踏み車による田への水取り作業も描かれています。これもも暑い夏に向かっての野良仕事でした。

一番左の絵図には、稲の実りから収穫が描かれています。

 刈り取られた稲は農家の庭先で脱穀作業に掛けられます。詳細に農具が描かれています。
「稲をこく図」では千歯扱き、
「もミをうつ図」では唐棹、
「もミをする図」では石臼。
図がかすれて見えにくのですが「ミにてふく図」では箕が使われています。
しかし、籾殻と玄米を選別する「唐箕」は見あたりません。
「3 中央下」で見たように俵詰めされた玄米を蔵に納め、春から続いた米作りが終わるのです。

ちなみに最終段階の「御上納米拵え」は、千羽漕ぎは女性が担当していたことが分かります。脱穀作業も明らかに女性がリードしています。これは、稲刈りが男ないしは男女共同であったことと対照的です。どうも西国・東国を問わず、この仕事は女性が上手だったようです。同時に、男尊女卑が強まる明治以後よりも女性の役割が大きかったことがうかがえます。
 「豊年万作の図」は蔵入れの図で終了します。
こうしてみるとこの絵図が「農作業の絵解き図」であったことがよく分かります。
 江戸時代のお寺のお坊さんが、文字が読めない庶民に「地獄絵図曼荼羅」を示しながら地獄のイメージを植え付けたように、この絵図でコメ作りの概要を知ることが出来たようです。そういう意味ではよくできた「教材」と言えます。

この絵図を当時の文字資料と突き合わせってみましょう。

絵図の書かれた加佐郡西部(現京都府)の山八川流域村々の事例を見てみましょう。ここには同時期の各村から大庄屋(上野家)宛に提出された報告書が残っています。例えば「豊年万作の図」の第一場面だった種籾関係の記事を探すと、
三月二二日に「種そろへ(種揃え)、池へ付く(浸く)」
とあります。種籾の池への浸種は、発芽を促すためのもので、田植え予定日(5月の夏至)から逆算して53日前までに行うのが決まりで、それが3月22日になります。
 三週間ほどの浸種の後、 日に干して苗代への種蒔きとなります。こちらは田植えから30日前の4月22日前後になります。そして、5月12日から田植えが始まります。田誉え初日のあらましは次のようです。ちなみに、文中の暦は旧暦ですので一月ほど遅くなります。
5月11日 (男は)前日に胆き聯した田を彰で均す。女は植付けをする。植えた傍へ柴肥(しばごえ)をどっさりと入れる。植え始めの日を「さひらき(早開き)」といい、苗二把を洗い、神酒とともに明神に御供えする。
「豊年万作の図」でもそうでした、田植えは女性の役目でした。
肥料として柴肥(低木の若葉)を大量に投入することにも注目しておきましょう。これが草刈り場の入会権の問題として、後々重要なポイントになります。

 当日の作業終了後、豊作を祈願して苗二把と神酒を氏神社の熊野神社に奉納します。田植えはこの日から一週間、早稲・中稲・晩稲の順に進められます。田植えの終了日は、田の神が昇天する「さのぼり」と呼ばれ、苗三把と神酒を明神に奉納します。田植え後の中心作業の草取りは、6月に始まり7月25日の盆の頃まで続きます。農作業が神事と結びついているのもポイントです。

 これも「豊年万作の図」には描かれていませんが、主に女性の行う「下木刈り」も大切な農作業でした。村山に生える柴や草の刈り取りで、7月5日に始まり20日間ほど続けます。これらを腐らせて作った肥料は、二毛作の麦作り用の肥料として使われました。すでにこの時点から、秋の麦作りの下準備が行われているのです。

一枚の絵図から色々なことに合点がいくようになります。
同時に新たな疑問も沸き出してきます。
私にとっては下草刈りの意味がそうでした。
それは、また別の機会に・・

参考文献 水本邦彦 「村 百姓達の近世」 岩波新書













  

江戸時代の庄屋(村役人)さんの「日常業務」とは、どんなものだったのでしょうか。

多度津・葛原村の庄屋を長く務めた木谷家には、享保から文政までのほぼ一世紀間、葛原村のさまざまな日常生活の様子が文書として記録されています。木谷家の歴代当主の残した「萬覚帳」をのぞいて、庄屋の日常を垣間見ることにしましょう。

村は警察機能の末端として、今の駐在所のような役目も果たしました。

その一つに、葛原村や千代池で起こる投身自殺の処理について次のような記録が「萬覚帳」に出てきます。
丸亀藩士の下女が千代池で人水自殺し、翌朝発見されたので藩に報告した。多度津藩から通服を受けた兄弟(親藩の足軽)2人がその日の夜半に丸亀から駆けつけ、遺体を引き取って行った。その対応の迅速さに驚いた。
丸亀藩領の他村で起こった身元不明の僧と女性の「相対死」(心中)入水事件に身元確認のために現場に呼ばれた。葛原村の村役人として、顔吟味に参加したが自村のものではないので、代官に当村に該当者無しと報告した。

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千代池

  この文書からは、村には江戸の街のような奉行も岡っ引もおらず、庄屋自らが出向いて、業務にあたっていることが分かります。村には「専従職員」がいないのです。庄屋さんは、村長兼と駐在所員、時には裁判官といくつもの職務を「兼務」していました。村役場も独立したものはなく庄屋宅に置かれていました。

葛原村墓地で博打と強請(ゆすり)が発覚します。

文政2年(1819)4月のことです。
まず庄屋は、藩に内々での処置を申し出て同意を取り付けています。この賭博事件の被害者で、同時に博打禁止の違反者でもあるのは葛原村の五人、加害者、強請った四人中三人は他村の者でした。葛原村の村役人が藩に事件を公にせず内済を望んだ背景には事件全体の違法性と合計銀五〇匁-という被害額、さらに犯人が他村にまたがる訴訟へのためらいがあったようです。

若殿の籠に、投げたものが当たってしまう事件には

同じ年には、藩主の若君がお忍びで葛原村を通った際に、若君の「御犬」が一農民の軒先で竹龍内の白鷺に吠えかかる事件が起きます。追い払おうと農民が犬に投げたものが若君の御駕寵にあってしまったのです。村を訪れる代官を、庄屋はじめ村役人が土下座して迎えるという時代ですから、これは一大事です。
 庄屋の木谷小左衛門(永井)は、早速その農民を郷倉(牢)に入れ「無礼」を罰します。同時に藩の代官と内々の折衝を続け、二日後に「御願書差上」という形で事件を「御代官様お手元切りに相済ます」決着に漕ぎつけています。

庄屋の村人を守るという役割 

このように、村は村内での事件や小犯罪をできるだけ藩にゆだねず、内々に処理しています。事件の処理が藩の手にわたると被疑者は拷問や厳しい追及に苦しみ、そのうえ刑が村外あるいは領外追放など比較的重いものになることが多かったのです。これに対し村の裁量に任された場合は、たいてい郷倉入りや自宅での閉門や禁足ですみました。
 「萬覚帳」に見る限り、郷倉入りで外との行き来を閉ざされたとはいえ、家族から百米麦七合までの「賄い」の差し入れは許されました。もし、家族が貧しい際には五人組や村が代わって負担しています。さらに郷倉入りの本人が高齢のうえ病弱であったりすると、倅が代人を努めることさえ許されています。
ここには、藩に対して村人を守ろうとする姿勢がはっきりと読み取れます。
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さらに、庄屋が身元引受人となっている例です

 村人が多度津藩に小人(使い走り)として奉公する際に、庄屋が身元保証人になっています。それだけでなく、切米(給与)額や休日数などの雇用条件を細く決めた契約書(「御請状」)を、庄屋が身代わりになって藩との間で交わしていることが分かります。
 「萬覚帳」には寛政元年(1789)と同4年、二通の御請状写しがあります。その中の条項には
「奉公人への給米は年二回に分けて先払いされるが、もし期日前に米を返さず退職した場合、本人は立替え分に五割の利子をつけて返済する。
また決まった休日の日数をこえて欠勤する場合も、代人を立て役目に支障が起こらないようにし、それを怠った日数だけ切米は減額される。そして奉公人がその義務を果たさない場合、「御請状」を書いた庄屋が代わって弁済する」
と、現在からすれば「労働者側に不利な勤務条件」が記されています。要するに、庄屋は村出身の奉公人の身元保証にとどまらず、共同体の親として「悴(せがれ)」の不始末の尻拭いを求められていたのです。庄屋の「業務」は、広いのです。 

最後に、葛原村らしい四国巡礼の遍路に対する「業務例」を見てみましょう。

村には、七十六番札所金倉寺から七十七番道隆寺への遍路道は南北にまっすぐ村を貫いていました。その途中、八幡の森は深い木陰ときれいな湧き水で、疲れた遍路に得がたい休息の場を提供しました。森のはずれ、八幡宮参道口近くには旅寵もあり、村人も「お遍路」を心暖かく迎えたました。しかし、病をもつ老遍路のなかには、そのまま立ち上がれなくなる者も出ました。

「萬覚帳」には行き倒れ遍路について藩への届けが八件あります。

持っていた往来手形から名前・年齢・生国がわかり、遺体は国元に通知されることなく、その地に埋葬されました。身元不明の場合、村は丸亀・多度津両藩に通知し、遺体はその場に二、三日保存された後に葬られています。これも庄屋がおこないました。 

遍路が帰国をのぞむ場合は「村送り」による「送り戻し」(送還)を願い出ることもあったようです。

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  捨て往来手形

庄屋は、その遍路が「往来手形」で属する宗門が明らかで、多少の路銀をもち、順路の村々に大きな負担を掛けないですむかどうかを考えてから「送り手形」を発行しています。
 病人で歩けない遍路を村境で受け取り、隣の村境まで送り、時には夜宿泊の世話もする「村送り」は、人手の要る作業です。これは藩を超えた村の連帯感と庶民の「御大師信仰」に根ざした「おせったい」の心なしにはできないことです。 

同時に、村送り遍路への措置や手続きから見えてくるのは、 藩が民衆の移動の管理を行っていることです。

幕府や藩は農民が土地を離れ、他郷に行くことを基本的に嫌い、抑制しています。「移動の自由」は保証されていません。
 村民の一家が他村に引っ越す際にも、転居先の村へ予め「送り手形」を届けるこを求めています。その中で送出す村は、本人に年貢の未納や借財がないことを保障し、自分の村の人別帳からこの一家が抹消された後、相手村の「帳面」に書き加えられるよう依頼しています。また他村への養子縁組でも「送り手形」が相手側に送られています。

村と庄屋の二面性がもたらすものは?

以上見てきたように、村は行政の末端行政組織として藩の触れや法令を伝える支配機構の一部でした。しかし、それだけではなく、村内の争いや事件を解決するため村の掟を造り、司法・警察・消防の役割まで果たす「自治的共同体」の機能も持っています。
つまり二面性があったということです。
そして村には専門の専従者がいたわけでなく、村人は村役人や村寄合の指示に従い、自発的あるいは義務として協力したのです。

このような村民の頂点に立つのが庄屋でした。

庄屋は村役人中でも別格で、百姓身分で村人たちを代表する存在にもかかわらず、領主の意向を代表する任務を負わされています。
そして庄屋の私宅は村政の事務所=「政所」となり、村人はここに呼び出されて藩の触れや新法令の発布を知らされました。
 庄屋は村人自身によって選ばれ、村の自治を代表するとはいえ、その任免権は藩の手にあり、領主支配の末端業務の責任を負ったのです。庄屋の役割の二重性は、百姓の共同体であるとともに幕藩体制の末端行政組織という村の二重性をそのまま反映しています。 

領主と農民の間に立ち、対立する利害を調整する庄屋の立場は難しかったようです。

有能な庄屋は双方の立場と要求、力関係をはかりながら妥協と調停の道をさぐります。そのような庄屋の姿勢を指して、
人は「庄屋と屏風はまっすぐでは立たぬ」と云ったのでしょう。
これを現在では、政治力というのかもしれません。

 また江戸時代は、藩と村とのやりとりは細かいことまですべて文書をつうじて行われましたから、読み書きに馴れ、年貢徴収のための計算能力が求められます。場合によっては未進(年貢未納)農民に代わって米や代銀を立て替える財力も必要となります。もっともこの立替えにあたり、未進農民は自分の土地を質地として差し出しますので、土地併合には有利なポジションにあったと云えるかもしれません。

江戸時代の落語でよく登場する「大家さん」と同じように「庄屋さん」も庶民からは、悪者扱いされたり、批判の対象となることが多いようです。その裏で「日常業務」は大変だったことを改めて知りました。

阿野郡の郷
阿野郡坂本郷

喜田家文書には坂本念仏踊り編成についても書かれています

 坂本郷踊りは、かつては合計十二ヶ村で踊っていたようです。ところが、黒合印幟を立てる役に当たっていた上法軍寺と下法軍寺の二村の者が、滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなったとあります。十ヶ村とは、次の通りです。

東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津

   
川津・二村郷地図
        坂本郷周辺(讃岐富士の南東側)
これは近世の「村切り」以前の坂本郷のエリアになります。ここからは近世の村々が姿を現すようになる前から念仏踊りが坂本郷で踊られていたことがうかがえます。中世の念仏踊りにつながるもののようです。
 江戸時代に復活してからは3年に一度の滝宮へ踊り入る年は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを相談で決めました。

滝宮の念仏踊り | レディスかわにし

 念仏踊りは、恒例で行われる時と干ばつのために臨時に行う時の二つに分けられます。臨時に行う時は、協議して随時決めていたようです。この時には、大川山頂上に鎮座する大川神社に奉納したこともあったようです。三日間で関係神社を巡回したようですが、次のスケジュールで奉納されました。 
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社
二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社
三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社

次に念仏踊りの構成について見てみましょう。

 1725(享保十)年の「坂元郷滝宮念仏踊役人割帳」という史料に次のように書かれています。
一小踊   一人 下法    蛍亘     丁、 三二
一小踊   二人 卓小川  一小踊    二人 西小川
一小踊   二人 東ニ   ー小踊    二人 西二
一小踊   二人 東川津  一小踊    二人 西川津
一鐘打 二十一人 東坂元  一鐘打   二十人 川原
一鐘打   八人 真時   一鐘打   十六人 西坂元
一鐘打ち  八人 下法   一鐘打    十人 上法
一團  二十一人 東坂元  一團    二十人 川原
一團    八人 真時   一團    十六人 西坂元
一團    八人 下法   一合印       真時
一合印      下法   一小のほり  三本 下法
一小のほり 八本 西川津  一小のはり  十本 卓川津
一小のほり 八本 卓ニ   ー小のほり  八本 西二
一小のほり 六本 西小川  一小のほり  六本 卓小川
一のほり  五本 上法   一笠ばこ       西二
一笠ほこ     康ニ   ー長柄    三本 卓坂元
一長柄   三本 川原   一長柄    一本 真時
一長柄   三本 西坂元  一赤熊鑓   二本 西小川
一赤熊鑓  二本 卓小川  一赤熊鑓   二本 西川津
一赤熊鑓  二本 下法   一赤熊鑓   二本 上法
一赤熊鑓  二本 東ニ   ー赤熊鑓   二本 西二
一大鳥毛  二本 川原   一大鳥毛   二本 西小川
スタッフは326の大集団になります。
佐文の綾子踊りに比べると、規模が遙かに大きいことに改めて驚かされます。これだけのスタッフを集め、経費を賄うことはひとつの集落では出来なかったでしょう。かつての坂元郷全体で雨乞い踊りとして、取り組んできたことが分かります。

滝宮念仏踊り2

いつまで踊られたいたのでしょうか? 

坂本組念仏踊りは『瀧宮念仏踊記録』に明治8年まで踊った記録が残っています。また、地元史料には明治26年の踊役割帳が残っていますので、そこまでは確実に行われていたことが分かります。
その後、昭和になって三年(1928)七年、十年、十三年、十六年と行われ、太平洋戦争後の二十八年、三十一年と日照りの時には踊られ、三十四年を最後に中断しました。復活したのは昭和五十六年に「坂本念仏踊保存会」が設置されてからです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  讃岐の日照りの時の村役人の対応は?

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綾子踊り(まんのう町佐文 賀茂神社)

雨乞いは雨が降るまで踊っていた?

 雨乞い踊りが2年に1回踊られる地域の住人です。今年は「善女龍王」の幟棹を持って、行列に参加することになりました。雨乞いの役員さんが「雨乞い踊りを踊ったら必ず雨が降る。なぜなら、昔は雨が降るまで踊り続けたから」と言っていたことを思い出します。本当に、雨が降るまで踊っていたのでしょうか?

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大干害が村を襲ったときに、讃岐の村役人はどんな対応をしていたのでしょうか。
それを高松市の南部で仏生山法然寺がある香川郡百相(もあい)村に残る文書から見ていきましょう。今から200年ほど前の文政6(1823年)、この年は田植えが終わった後、雨が降らなかったようです。大干ばつへの香川郡の庄屋さんたちの対応ぶりが「御用日帳」という文書に残されています。5月17日に次のように記されています。
「干(照)続きに付き星越え龍王(社)において千力院え相頼み雨請修行を致す」

5月といっても旧暦ですから実際は6月と読み直した方がよいでしょう。このころから、日照りが続いたために、農作物へ悪い影響が出始めたようです。それで、まず星越龍王社で千力院の修験道者(山伏?)に依頼し、雨乞いを行います。
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綾子踊り行列 
効き目がなかったようで4日後の21日には、大護寺にも雨請を依頼します。大護寺というのは、香川郡東の中野村にあった寺院で、高松藩三代藩主恵公が崇信し、百石を賜り繁栄した寺です。
それでも雨は降らなかったようです。そこで翌23日には、大庄屋(大政所)より村々の庄屋に次のような文書が廻されます。
これだけの干害になっているのであるから、村々から「自願い雨乞い」が申し出るくらいでないといけない。前もってこちらから申し渡したところ、行うと申し出た村はそれほど多くはなかった。村役人や小百姓は、一体どんなに心得ているのか、これほどにひどいわけだから、明日にでも雨乞いを執り行って当然といえる状況ではないか。明日から雨乞いを行うように!
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綾子踊りの子踊り
 この文言から、干害がひどいのに、それにも拘わらず 村の対応の遅さに腹を立てている様子がうかがえます。そして大庄屋が雨乞いの実施を強く督促しています。その上、各村に庄屋から出す雨乞い祈祷の依頼書案文も添えて通知しています。
 これを受けて二日後の25日には、石清尾、一宮、天川と拾力寺(大護寺などの十力寺?)が雨乞いの祈祷を始めることになったとの通知が出ています。

  私は、雨乞いは命じられるものではなく農民達が自然発生的に行い始めると思っていたので、この内容には驚きました。
この資料からは次のような事が分かります
① 大庄屋が公的なルートを通じて各村々の庄屋に雨乞いを行うことを命じていること。つまり、公的な行事として行われていたこと。
②雨が降るまでいろいろなチャンネルとルートを使って雨乞いを行っていること。
一つの集落だけでなく郡単位の雨乞いが行われていること
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香川町鮎滝の童洞淵では、どんなの雨乞いが行われたのか

 それでも雨は降りません。そこで6月からは鮎滝(香川町鮎滝)の童洞淵での雨乞いの修法を命じています。修法とはおそらく祈祷でしょう。
童洞淵での雨乞いは、どんなことが行われていたのでしょうか?
別所家文書の中に「童洞淵雨乞祈祷牒」というものがあり、そこに雨を降らせる方法が書かれています。その方法とは川岸に建っている小祠に、汚物をかけたり、塗ったりすることで雨を降らせるというものです。
 深い縁で大騒ぎするとか、石を淵に投げ込むとか神聖な場所を汚すことによって、龍王の怒りを招き、雷雲を招き雨を降らせるという雨乞いが各地で行われています。
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童洞淵での雨乞いが農民にとって最後の頼みだったようです。

6月1日から雨乞い所へ参詣する当番割りが決めらます。
一日が由佐・西庄よ口光の三力村の代表者、
二日が川内原・大野、三日が寺井といった具合です。
さらに雨乞いの人足に各村より赤飯一升を差し入れるように頼んでます。
鮎滝は現在の高松空港の東側です。仏生山から毎日、各村々から当番が参詣し、雨乞いを行ったのです。つまりこの雨乞いは、ひとつの集落だけでなく一郡全体で共同で行われるもので、非常に大規模かつ継続的なものだったのでしょう。
   まさに、雨が降るまで、雨乞いは続けられてたのです。

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参考文献 丸尾寛  日照りに対する村の対応

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