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讃岐・金倉寺 - SHINDEN

金倉寺の所領についての一番古い記録は、享保19年(1734)に寺僧了春僧都が著した「鶏足山金倉寺縁起」のようです。
そこには弘仁初め(810年頃)と仁寿二年(852)の二度にわたり、和気宅成が父道善の建立した自在王堂(金倉寺前身)を官寺として租税を賜わらんことを奏請し、この希望が許されて、田園32町が寄せられたと記します。さらに延長六年(928)には、それまで道善寺と称していた寺名を金倉寺と改め、金倉・原田・真野・岸上・垂水の租税を納めて寺領としたとも記されています。
 寺に古くから伝えられていることのようですが、この史料は江戸時代に書かれたもので同時代史料ではありません。和気氏の氏寺である金倉寺や、佐伯直氏の善通寺が官寺になったことはありません。寺領についてこれをそのまま信じることはできません。またこれを裏付ける史料もないようです。
その後の寺領について手がかりとなるのは「金蔵寺立始事」で、その後半は主に所領関係のことが次のように箇条書きで記されています。
一 宇多天皇御宇(智證)大師御入寂、寛平三年十玄十月廿九日年齢七十八。
一 村上天皇御宇天暦年中、賀茂御油田御寄進、応徳年中里見に除く。
一 土御門御宇建仁三年十月日官符宣成し下され畢んぬ。上金倉の寺の御敷地也。
一 亀山法皇御宇文永年中、良田新開官符宣御下知状下し賜い畢んぬ。
一 徳治二年、金銅薬師如来出現し給う事、天下其の隠れ無き者也。
一 高氏将軍御代貞和三年七月二日、小松地頭職御下知状給い早んぬ。
一 管領細河弘源寺殿御代永享二年九月廿六日、良海法印御申有るに依って、諸公事皆免の御判成  され畢んぬ。寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                                                
一 細川右京大夫勝元御時、享徳二年十二月廿八日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。法憧院第五 代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
意訳変換しておくと
① 宇多天皇の治政、(智證)大師が、寛平3(892)年10月29日に78歳で入寂。
② 村上天皇の治政の天暦(947~57)年中に、賀茂御油田が寄進された、応徳年中里見に除く。
③ 土御門の治政、建仁三年十月日官符が下され、上金倉の寺の敷地が寺領となった。
④ 亀山法皇の治政文永年中に、良(吉)田新開の官符がくだされ寺領となった
⑤ 徳治二年、金銅薬師如来が出現し、天下に知られるようになった。
⑥ 高氏将軍の治政の貞和3年7月2日、小松庄の地頭職下知状が下賜された。
⑦ 管領細河(川)弘源寺殿の治政の永享2年9月26日、諸公事皆免の特権を得た寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                         
⑧ 細川勝元の治政に、享徳2年12月28日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。法憧院第五 代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
ここに書かれている金倉寺の寺領を今回は見ていくことにします。テキストは「金倉寺領および圓城寺領金倉荘  善通寺市史574P」です。    
まず最初に②の天暦年中(947~57)に寄進を受けたとあるの「賀茂(鴨)御油田」を見ておきましょう。
讃岐國多度郡鴨庄南方内金蔵寺御油畠
合参段者
右件の御燈油は、往古従り本器五升得りと雖も、自然の慢怠致すに依って、当年自り本器七升七合に改め、御燈油之を定め、毎年榔怠無く弁進す可く候。若し少分未進致し候はば、罪科に処せ被る可く候者也。乃って請文の状件の如し。
延文六年卯月五日                                   時光(花押)
意訳変換しておくと
讃岐國多度郡鴨庄南方の金蔵寺御油畠について
合計3段の御燈油は、古くから本器五升を金倉寺に納めていたが、次第に慢怠になってきた。当年からは本器七升七合に改め、毎年怠りなく納めるように定める。もし、不足や未進があれば、罪科に処せられる。乃って請文の状件の如し。
延文六(1361)年卯月五日            時光(花押)
ここからは次のようなことが分かります。
①賀茂御油国(畠)があったのは、多度郡鴨庄南方であること
②ここに金倉寺に燈油を納入する畠二段が定められていたこと
③納入額は昔から五升と決められていたが、納入を怠ることが多かったので、延文六年に七升七合に値上げされたこと
④時期は南北朝混乱期で細川頼之の讃岐統治以前のこと
金倉 鴨
葛原郷鴨庄の北鴨と南鴨

鴨庄は、多度津の道隆寺の記録「道隆寺温故記」には、次のように記されています。
嘉元二(1304)年
鴨之庄地頭沙彌輛本西(堀江殿)、寄田畠百四町六段、重修造伽藍」

ここからは鴨庄が、道隆寺のある葛原郷北鴨と南鴨のあたりにあった荘園であったことが分かります。領主は、その名称から賀茂社で、その地頭を堀江殿が務めていたようです。葛原郷には、すでに賀茂社領葛原郷がありましたが、それとの関係は分かりません。
 この御油畠は、金倉寺が直接所有しているのではなく、鴨庄内に指定された三段の田から収穫される燈油五升を、金倉寺分として送付されるにすぎないこと、そして燈油の徴収と送付は鴨荘の役人によって行われたこと、この請文を提出した時光が、その役人であると研究者は考えています。
所有形態は分かりませんが、鴨庄からの御油の収納は、天暦年中という寄進の時期が事実とすれば、平安時代の前期から南北朝・室町時代のころまで、時おり「憚怠」があったとしても、ながく続いたことになります。

善通寺寺領 鎌倉時代
善通寺の寺領

次に良田郷にあった金倉寺の寺領です
④には亀山法皇の文永年中に、良(吉)田新開が寺領となったとあります。
これは「善通寺文書」の建冶二年の院宣や弘安四年の官宣旨の中にもでてくるので裏付けられます。弘安の官宣旨では、次のように記されています。
凡そ同郷(良田郷)内東寄田畠荒野三十餘町は、国領為りと雖も、去る文永五年始めて智證大師生所金倉寺に付せらるるの刻、宣旨を下され畢んぬ。

ここからは、寄進地が良田郷東側の国衙領で、面積は田畑・荒地を含む30町であったことが分かります。ちなみに良田郷西側は、善通寺の領家職だったことは以前にお話ししました。
「金倉寺立始事」に「良田新開」とあるのは、寄進地に荒地が多く、開発によって開かれたことを示しているようです。寄進は官宣旨によって行われたと記されているので、善通寺良田郷と同じように、智証大師生所という理由で金倉寺から申請があり、亀山天皇の承認によって行われたと研究者は考えています。
 嘉慶の「段錢請取状」や善通寺領良田郷「良田郷田敷支配帳」の記載にも「金倉寺領良田郷」は出てくるので、この寺領が室町時代にも存続していたことは分かります。「支配帳」に「一金蔵寺分定田十二丁大四十歩」となっているのは、さきに寄進された田畠荒野30町余のうち段銭賦課の対象となる田地が12町余りあったということで、「請取状」の田数は、嘉慶二年に実際段銭が納入された分のようです。
次に室町時代ころの金倉寺寺領について分かる史料を見ておきましょう。
(追筆)
「法幢院之講田壱段少  大坪」
拾ケ年之間可有御知行年貞之
合五石者 
右依有子細、限十ケ年令契約処実也。若とかく相違之事候者、大坪助さへもん屋敷同太郎兵衛やしき壱段小 限永代御知行可有候、乃為己後支證状如件。
                                           金蔵寺法憧院     賃仁(花押)
明応四乙卯十二月廿九日                   
   澁谷殿参
これは借金(米)の証文のようです。明応四年(1495)12月、金倉寺法瞳院が渋谷殿という人物に負債がありました。その返済方法として、良(吉)田石川方の百姓太郎二郎と彦太郎の二人が納入する年貢米を毎年五石ずつ10箇年間渋谷へ渡すことを契約しています。また大坪助左衛門屋敷・同太郎兵衛屋敷一段小を抵当に入れ、返済ができなかった時はそれを引渡すことにしています。
 法瞳院は金倉寺の塔頭一つです。
金倉寺文書の一つに応永17年(1410)2月17日の日付のある「評定衆起請文」と裏書された文書があり、蔵妙坊良勝、 宝蔵坊良慶、光寂坊俊覚、法憤院良海、実相坊良尊、律蔵坊、大宝院、成実坊、東琳坊、宝積坊の10名の僧が、寺用を定める時は、一粒一才と雖も私用しないなど三箇条を起請して署名しています。ここからは善通寺と同じように、金倉寺のなかにはこれら多くの僧坊があり、僧坊を代表する僧の評議によって寺の運営が行われていたことがうかがえます。他の史料にも一乗坊、東口坊などの名があります。法憧院はこれらの僧坊の中心で、善通寺における誕生院のような地位にあったようです。

良田郷石川
良田郷石川周辺 現在の善通寺東部小学校周辺

 この法憧院の証文中にある「石川方」については、現在稲木地区に石川という地名が残っています。
「石川名」という名田だったのだが、明応のころにはすでに地名化していて、太郎二郎、彦太郎という二人の農民が耕作し、年貢を法憧院に納めていたと研究者は推測します。大坪の助左衛門屋敷、太郎兵衛屋敷は、もとはこれらの農民の住居があったところかもしれません。
 文書の追筆に「講田」とあるので、この頃には開発され田地となり、法蔵院の講会(こうえ)の費用に充てられる寺田となっていたことが分かります。しかし、この講田は、この時には質流れしていたようです。それが30年後の大永8年(1528)に、渋谷の寄進によって再び法憧院の手に返ります。

16世紀初頭の永正6年(1509)ごろの法憧院領について、次のように記されています。 
法憧院々領之事
一町九段小 供僧 
ニ町三段大   此内ハ風呂モト也 是ハ③学頭田
護摩供 慶林房
三段六十歩、支具田共ニ支具田ハ三百歩
一段ナル間、ヨヒツキニンシ三段六十歩アル也
己上
岡之屋敷二段 指坪一段
已上 五町四反余ァリ
永正六年八月 日
一 乗坊先師良允馬永代菩提寄進分
一、②護摩供養 慶林坊 三段半
  此内初二段半者六斗代支供田ハ四斗五升也
一、④岡之屋敷二段中ヤネヨリ南ハ大、東之ヤネノ外二小アリ中ヤネヨリ北ハ一反合二反也

ここからは、次のようなことが分かります。
①法憧院領のうち二町五段は供僧(本尊に供奉(くぶ)する供奉僧たち)の管轄する領地であること、
②そのうち渋谷に質入れされている講田と、これも人手に渡っている護摩供(護摩供のための費用のための田地)をのぞく一町九段あまりが現有地であること
③寺の学事を統轄する学頭に付せられた学頭田が2町3段大(240歩)あること
金倉寺は道隆寺と並ぶ「学問寺」であったされますが、それが裏付けられる史料です。
 ②の「護摩供養 慶林坊」は、護摩供田で慶林房の手に渡っているようです。
実は供僧田の「他所ニア」る講田、護摩供も、この護摩供三段六〇歩も入れないと院領合計が5町4反余にならないようです。ということは、これは別の寺田ということになります。
④の「岡之屋敷二段」は、同じ金倉寺の塔頭である一乗坊の良允から寄進されたもので、ここには家が建っていたようで、屋根の部分で分割線が記されています。
以上から法憧院は5町4段あまりの院領を持っていたことが分かります。他の僧坊もそれぞれ何程かの所領をもっていたことは、 一乗院が岡屋敷を法憧院に寄進したことからもうかがえます。これらの院や坊の所領は、金倉寺領と別の所にあったとは思えないので、法憧院領良田石川方は金倉寺領良田郷の一部と研究者は推測します。そうすると金倉寺領は、このころには寺内の僧坊の分散所有となっていたことになります。時はすでに戦国時代に入っています。寺領が鎌倉時代の状態そのままで存続していたとは考えられません。寺内の院坊がそれぞれ作人に直結した地主になることで、かつての金倉寺領はその命脈を保らていたと研究者は考えています。これは、善通寺も同じような形態であったことと推測できます。
讃岐丸亀平野の郷名の
丸亀平野の古代郷名
金倉寺は、小松荘に地頭職を得ていたときがあるようです。
「立始事」には、貞和3年(1347)7月、足利尊氏が将軍であった時に、小松地頭職の寄進をうけたと記します。小松荘は、那珂郡小松郷(琴平・榎井・四条・五条・佐文・苗田)にあった藤原九条家の荘園です。
 貞和3年というのは、南北朝期の動乱の中で北朝方の優勢が決定的になる一方、それにかわって室町幕府内部で高師直らの急進派と尊氏の弟足利直義らの秩序維持派との対立が激化する時期です。幕府は、武士の要求をある程度きき入れながら、一方では有力公家や寺社などの荘園支配も保証していこうとする「中道路線」を歩もうとしていました。金倉寺への小松庄の地頭職寄進もそのあらわれかもしれません。時期がやや下ると管領・讃岐守護の細川頼之も、応安7年(1374)に、金倉寺塔婆に馬一匹を奉加しています。地頭職といっても、南北朝時代のころにはその職務や身分とは関係なく、所領そのものでした。嘉慶二年の段銭請取状にみえる「子松瀬山分七段」は、この時寄進された小松地頭職の一部のようです。
 ところで細川頼之の末弟満之の子頼重が、応永12年(1405)に将軍義満から所領安堵の御教書をもらっています。
讃岐国の所領は、子松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同公文職となっています。満之、頼重は備中守護ですが、讃岐のこれらの所領は、おそらく頼之が讃岐守護であった時に細川氏の領有となったものでしょう。細川氏の小松荘領有がどんな形のものであったかは分かりません。少なくとも頼之末年の嘉慶二年のころは、金倉寺は小松荘内に地頭職を持っていました。

「立始事」の終りの二ケ条は、幕府から寺領ついての諸公事を免除してもらった内容です。
⑦ 管領細河(川)弘源寺殿の治政の永享2年9月26日、諸公事皆免の特権を得た寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                 
⑧ 細川勝元の治政に、享徳2年12月28日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。法憧院第五 代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
段銭というのは田畠の段別に課せられた税で、一国平均役につながるものです。だから本来は朝廷―国衙に賦課、徴収権があり、大嘗会や伊勢神宮造営などの費用のための臨時税だったはずです。ところが室町時代には幕府が賦課の権限を握り、徴収は守護が行うようになります。また、その取りたても臨時的なものから次第に恒常的なものとなり、さらに守護自身の守護段銭がこれに加わって課せられるようになります。このため負担者である領主・農民にとっては耐え難い重圧でした。そこで室町時代には荘園領主や農民がさまざまな形で段銭徴収に抵抗するようになります。金倉寺も良海、有海などの運動が成功して、幕府から諸公事段銭免除の御判をもらっています。金倉寺にとっては大変な喜びだったことでしょう。しかし、この免除の約束がはたしてどこまで効力をもったかについては研究者は懐疑的なようです。
それは、在地武士による寺領侵入や押領が日常的に繰り広げられる時代が丸亀平野にも訪れていたからです。
金倉寺の寺領上金倉での段銭徴収の文書を見てみましょう。
上金蔵の段銭の事、おんとリニかけられ申す候事、不便に候よししかるへく申され候、不可然候、定田のとをりにて後向(向後力)もさいそく候へく候、恐々謹言。
二月九日                                       元景(花押)
三嶋入道殿
これは上金倉に段銭が課せられてれて「不便」なので免除して欲しいという申し入れに対して、従来から賦課の対象になっている定田のとおりに今後も取りたてるように、 元景が三嶋入道に指示したものです。ここで研究者が注目するのは、書状の署名者です。
天霧山・弥谷山@香川県の山
香川氏の山城があった天霧山

元景というのは、西讃守護代の第二代香川元景と研究者は推測します。

彼は長禄のころに、細川勝元の四天王の一人といわれた香川景明の子で、15世紀後期から16世紀前半に活躍した人物です。元景は守護代でしたが、「西讃府志」によれば「常二京師ニアリ、管領家(細川氏)ノ事ヲ執行」していたので、讃岐には不在でした。そのため讃岐には守護代の又代官を置いて支配を行っていたとされます。書状の宛名の香川三嶋人道が、その守護又代官になるようで、元景の信頼の置ける一族なのでしょう。上金倉荘の段銭を現地で徴収していたのはこの三嶋人道で、金倉寺の要望を無視して、守護代の元景は従来どおりの段銭徴収を命じたことが分かります。
段銭

 段銭は幕府・守護の重要な財源でした。
守護は段銭徴収を通じて荘園や公領に、領主支配権を浸透させていきます。そのため幕府が寺領段銭を免除しても、守護たちにとっては、そう簡単に従えるものではなかったようです。段銭徴収権は、封建領主化の強力な挺子でした。そこにますます地域で不協和音がおきる温床がありました。
 金倉寺領のその後は分かりませんが、香川氏が戦国大名化していく中で、その支配下に組み込まれていったことが予想できます。つまり、金倉寺や善通寺の寺領は、香川氏に侵略横領されて入ったと研究者は推測します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
金倉寺領および圓城寺領金倉荘  善通寺市史574P

     讃岐の郷名
讃岐の古代郷名 
金倉郷は那珂郡十一郷のひとつです。
東は那珂郡柞原郷、
南は那珂部木徳郷
西は多度郡葛原郷
に接し、北は瀬戸内海になります。古代には金倉郷より北に郷はなかったことを押さえておきます。

讃岐丸亀平野の郷名の
丸亀平野の古代郷名
 江戸期の天保郷帳では、金倉郷域は次の2つに分かれていました。
①丸亀藩領の下金倉村と上金
②高松藩領の金寺村
また、中世には、上金倉村と金蔵寺村を合わせた地を、下金倉と呼んでいました。幕末に編纂された西讃府志には、下金倉は中津とも呼ばれていたとあります。ここからは金倉川河口付近の中津も下金倉の一部であったことが分かります。

丸亀市金倉町
丸亀市金倉町

 上金倉村は、現在の「丸亀市金倉町+善通寺金蔵寺町」になります。 金蔵寺町には六条という地名が残っていますが、これは那珂郡条里6条で、その部が多度郡の1条に突き出た形になっています。ここからもともとは現在の6条の東を流れている金倉川は、条里制工事当初はその西側を流れていて郡界をなしていたと研究者は考えています。
善通寺金蔵寺
善通寺市金蔵寺町

 建仁3(1203)年に、金倉郷は近江の園城寺に寄進されます。
このことは善通寺文書の貞応三年の「東寺三綱解」に次のように引用されています。
右東寺所司(寛喜元年五月)十三日解状を得る云う。(中略)
況んや同国金倉荘は、智証大師の生所也。元是れ国領の地為りと雖も、去る建仁三年始めて園城寺に付せらるの刻、宣旨を下され畢んぬ。然らば則ち、彼は寄進の新荘也。猶速かに綸旨を下さる。此れ又往古の旧領也。争でか勅宣を賜はらざらんや。
東寺の訴えは、園城寺領金倉荘を引合にだして、善通・曼奈羅寺も金倉寺と同じように寺領確認の勅宣を賜わりたいといっています。ここからは次のようなことが分かります。
①国領の地であった金倉郷が、建仁2年に、智証大師円珍が延暦寺別院の園城寺(俗に「三井寺」)に大師生所のゆかりという由縁で寄進されて、金倉荘と呼ばれるようになったこと、
②寄進の際に官宣旨がだされ、さらに綸旨によって保証されていること。
③寄進が在地領主によるものではなく、朝廷の意向によったものであること


4344103-26円珍
円珍

建仁3年から5年後の承元2年にも、園城寺は後鳥羽上皇から那珂郡真野荘を寄進されています。金倉荘の寄進もおそらくそれに似たような事情によったものと研究者は推測します。こうして成立した金倉荘は「園城寺領讃岐国金倉上下庄」と記されています。
 ところが建武三年(1336)の光厳上皇による寺領安堵の院宣には「讃岐国金倉庄」とだけります。ここからは、金倉庄は、上下のふたつに分かれ、下荘は他の手に渡ったことがうかがえます。

園城寺は寄進された金倉上荘に公文を任命して管理させました。
それは、金倉寺に次のような文書から分かります。
讃岐國金倉上庄公文職事
右沙爾成真を以て去年十月比彼職に補任し畢んぬ。成真重代の仁為るの上、本寺の奉為(おんため)に公平に存じ、奉公の子細有るに依つて、子々孫々に至り更に相違有る可からずの状、件の如し。
弘安四年二月二十九九日                     寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位       (以下署名略)
意訳変換しておくと
讃岐國金倉上庄公文職について
沙爾成真を昨年十月にこの職に補任した。成真は何代にもわたって圓城寺に奉公を尽くしてきたので、依って子々孫々に至りまで公文職を命じすものである。
弘安四年(1280)2月29日                (圓城寺)寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位
これは弘安3(1280)年10月に、沙弥成真が任命された金倉上荘公文の地位を、成真の子孫代々にまで保証した安堵状です。沙弥成真は、「重代の仁」とあるので、すでに何代かにわたって園城寺に関係があったことがうかがえます。沙弥というのは出家していても俗事に携さわっているものを指し、武士であって沙弥と呼ばれているものは多かったようです。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍坐像(金倉寺)
それでは現地の金倉寺は、金倉荘にどんな形で関わっていたのでしょうか?金倉寺の僧らの書いた「目安」(訴状)を見ておきましょう。
目安
金蔵寺衆徒等申す、当寺再興の御沙汰を経られ、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□
右当寺は、智證大師誕生の地(中略)
而るに、当所の輩去る承久動乱の時、京方に参らず、天台顕密修学の外其の嗜無きの処、小笠原二郎長を以って地頭に補せらるの間、衆徒等申披(ひら)きに依って、去る正応六年地頭を退けられ早んぬ。然りと雖も、地頭悪行に依って、堂舎佛閣太略破壊せしむるの刻、去る徳治三年二月一日、神火の為め、金堂。新御影堂。講堂已下数字の梵閣回録(火事のこと)せしめ、既に以って三十余年の日月を送ると雖も、 一寺の無力今に造営の沙汰に及ばざるもの也。(下略)
意訳変換しておくと
金蔵寺の衆徒(僧侶)が以下のことを訴えます。当寺再興の御沙汰頂き、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□ 当寺は、智證大師誕生の地で(中略)
ところが、金倉寺周辺の武士団は承久動乱の時に、京に参上せずに天台顕密修学に尽くしていました。そため乱後の処置で、地頭に「小笠原二郎長」が任命されやってきました。この間、衆徒たちは、反抗したわけではないことを何度も申し披(ひら)き、正応六年になってようやく地頭を取り除くことができました。しかし、地頭の悪行で、堂舎佛閣のほとんどが破壊されてしまいました。その上に徳治3(1308)年2月1日、神火(落雷)のために、金堂・新御影堂・講堂が焼失してしまいました。それから30余年の日月が経過しましたが、金倉寺の力は無力で、未だに再興の目処が立たない状態です。(以下略)
この文書に日付はありませんが、徳治3年から約30年後のこととあるので南北朝時代の始めのころと推測できます。誰に宛てたものかも分かりません。こうした訴えが効を奏したものか、「金蔵寺評定己下事」という文書によると、法憧院権少僧都良勢が院主職のとき、本堂・誕生院・新御影堂が再建され、二百年にわたって退転していた御遠忌の大法会の童舞も復活しています。南北朝時代の動乱も治まった頃のことでしょうか。この頃に金倉寺の復興もようやく軌道にのったことがうかがえます。とすると保護者は、南北朝混乱期の讃岐を守護として平定した細川頼之が考えられます。頼之は、協力的な有力寺社には積極的に保護の手を差し伸べたことは以前にお話ししました。
 研究者が注目するのは、この「目安」の中の正応六年に地頭を退けたとある文に続く「当職三分二園城寺、三分一金蔵寺」という割注です。当職というのは現在の職ということのようです。幕府の地頭を退けたあとの当職だから、これは地頭職のことで、地頭の持っていた得分・権利を金蔵寺と荘園領主園城寺が分けあったことになります。
 ところが、同じ金倉寺の嘉慶2年(1388)の「金蔵寺領段銭請取状」の中には、金倉寺領として「同上庄参分一、四十壱町五反半拾歩」と記されています。この「同上庄参分一」は、先の「当職、三分一金蔵寺」と同じものと研究者は考えています。上荘というのは金倉上荘で、その面積からいって、「三分の一」というのは地頭領の三分の一ではなく、荘園全体の三分の一になります。
 また「三分の一」が独立の段銭徴収単位になっていて、金倉寺が領主となって納入責任を負っているのですから、金倉寺は金倉上荘において、園城寺とならぶ形で、その三分の一を領していたことになります。これは強い権限を金倉寺は持っていたことになります。

金蔵寺
金倉寺
それは、どんな事情で金倉庄は金倉寺領となったのでしょうか?   金倉寺文書の「金蔵寺立始事」を研究者は紹介します。これは室町時代の康正三年(1456)に書かれた寺の縁起を箇条書きにしたものでで、次のように記されています。
 土御円御宇建仁三年十月 日、官符宙成し下され畢んぬ。上金倉の寺の御敷地也。

ここには上御門天皇の代、鎌倉時代初期の建仁3年(1203)に、官符宣(官宣旨?)によって上金倉の寺の敷地が寄進されたとあります。金倉寺の敷地は、現在地からあまり動いてはいません。そうだとすればその敷地のある上金倉とは、丸亀市の上金倉ではなく、金倉上庄(善通寺市)のことになります。寺の敷地とありますが境内だけではなく、かなり広い田畑を指しているようです。とすればこの文書が金倉上ノ庄1/3の寺領化のことを指していると研究者は推測します。
 縁起は寺の由来を語るものです。そこに信仰上の主張が入るし、さらに所領のこととなると経済上の利害もからんできます。そのため記事をそのまま歴史事実とうけとることはできません。しかし、さきに見た「衆徒目安」や「段銭請取状」の記載とも適合します。

4344103-24金蔵寺
金倉寺

研究者は、これを一定の事実と推測して、次のような「仮説」を語ります。
①建仁三年に園城寺領金倉荘の寄進が行われていること。
②この寄進のとき、その一部が金倉寺敷地として定められた。
③「金倉上庄三分一」とあるので、金倉上荘領主園城寺との間に何らかの縦の上下関係はあった。
④後の状況からみてある程度金倉寺の管領が認められ自立性をもった寺領であった
以上から、次のように推察します。
A善通寺市金蔵寺の周囲が、金倉寺領(金倉上荘三分の一)
B園城寺直轄領は、丸亀市の金倉の地(残りの三分の二)
金倉寺は、Aの「三分の一」所領の他にも、上荘内に田畠を所有していました。
その一つは、貞冶二年(1363)卯月15日、平政平によって金倉寺八幡宮に寄進された金倉上荘貞安名内田地参段です。八幡宮は「金倉寺縁起」に次のように記されています。
「在閥伽井之中嶋、未詳其勧請之来由」

これが鎮守八幡大神のようです。平政平は木徳荘地頭平公長の子孫と研究者は考えています。もちろん、神仏混淆の時代ですから鎮守八幡大神の別当寺は金倉寺であり、その管理は金倉寺の社僧が務めていたはずです。
私が注目するのは、金倉寺への「西長尾城主 長尾景高の寄進」です
その文書には次のように記されています。
(端裏書)
「長尾殿従り御寄進状案文」 上金倉荘惣追捕使職事
右彼職に於いては、惣郷相綺う可しと雖も、金蔵寺の事は、寺家自り御詫言有るに依って、彼領金蔵寺に於ては永代其沙汰指し置き申候。子々孫々に致り違乱妨有る可からざる者也。乃状件の如し。
費徳元年十月 日
長尾次郎左衛円尉 景高御在判
意訳変換しておくと
長尾殿よりの御寄進状の案文 上金倉荘の「惣追捕使職」の事について
この職については、惣郷全体で関わるが、金蔵寺に関しては、寺家なので御詫言によって免除して貰った。この領について金蔵寺は、これ以後永代、この扱いとなる。子々孫々に致るまで違乱妨のないようにすること。乃状件の如し。

「惣追捕使」というのは、荘役人の一種で、「惣郷で相いろう」というのは、郷全体でかかわり合うということのようです。この文はそのまま読むと「惣追捕使の役は、郷中廻りもちであったのを、金倉寺はお寺だからというのではずしてもらった」ととれます。しかし、それは、当時の実状にあわないと研究者は指摘します。惣追捕使の所領を郷中の農民が耕作していて、その役を金倉寺が免除してもらったと解釈すべきと云います。
 さらに推測すれば、惣追捕使領の耕作は農場のようにように農民が入り合って行うのではなく、荘内の名主にいくらかづつ割当てて耕作させて年貢を徴収していた。そして、金倉寺も貞安名参段の名主として年貢の負担を負っていたと研究者は考えています。その負担を「金倉上荘惣追捕使長尾景高」が免除したことになります。これで、田地の収穫は、すべての金倉寺のものとなります。これを「長尾殿よりの寄進」と呼んだようです。こうして金倉寺は惣追捕使領内に所有地を持つことになりますが、その面積は分かりません。
 注目したいのは寄進者の「金倉上荘惣追捕使長尾景高」です。        長尾景高は、長尾氏という姓から鵜足郡長尾郷を本拠とする豪族長尾氏の一族であることが考えられます。ここからは、応仁の乱の20年前の宝徳元年(1449)のころ、彼は金倉上荘の惣追捕使職を有し、その所領を惣郷の農民に耕作させるなど、金倉上荘の在地の支配者であったことがうかがえます。また彼は金倉寺の保謹者であったようです。そうすると、長尾氏の勢力は丸亀平野北部の金倉庄まで及んでいたことになります。
 これと天霧城を拠点とする香川氏との関係はどうなのでしょうか? 16世紀になって戦国大名化を進める香川氏と丸亀平野南部から北部へと勢力を伸ばす長尾氏の対立は激化したことが想像できます。そして、長尾氏の背後には阿波三好氏がいます。
 そのような視点で元吉合戦なども捉え直すことが求められているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献           金倉寺領および圓城寺領金倉荘     善通寺市史574P    

「大師は弘法に奪われ」ということわざがあるそうです。
弘法大師のほかにも、大師号を賜った高僧は、最澄をはじめ数多くいます。しかし、空海一人の代名詞のようになってしまったという嘆きの意味が込められているようです。さて、讃岐の地からは、もう一人の大師が生まれています。智証大師円珍です。
円珍、その人の生涯を見ておきましょう。

智証大師像 圓城寺
国宝 智証大師像 圓城寺

円珍は、弘仁五年(814)、今から約1210年前に、讃岐国那珂郡(善通寺市金蔵寺町)に生まれています。生誕地は現在の76番札所の金倉寺。俗名は広雄。父は和気宅成、母は佐伯直氏で空海の姪と伝えられているようです。空海の「ご近所」で、円珍の和気氏と空海の佐伯直氏は親戚同士の間柄とされます。彼の家系図は、以前に紹介したように「日本で一番古い系図」として国宝にもなっています。
広々とした境内 - 金倉寺の口コミ - トリップアドバイザー
四国霊場 金蔵寺 

 天長5年(828)、15歳の時に、叔父の僧仁徳に連れられ比叡山に登り、最澄の門弟で初代天台座主の義真に師事します。
 まず私が疑問に思うのは、どうして空海を頼らなかったのかということです。この時期に、空海に連なる佐伯家出身の僧侶が東寺の責任者などとして、栄達の道を歩んでいます。また、30際近く年の離れた空海の弟真雅も、空海の元で修行中です。和気氏と佐伯氏が婚姻関係にあったというなら、その関係を頼らないというのは不自然な感じがします。活用できない理由があったとも考えたくなります。「母は佐伯直氏で空海の姪」という関係は、どうも疑わしい気がします。空海が入党するのが804年、高野山で没するのが835年です。

天長十年(833)に得度し、十二年間の籠山に入ります。
仁寿三年(853)39歳で入唐し、天台・法華・華厳・密など中国最新の仏教諸宗を学び、天安二年(858)に帰国します。この時、円珍がもたらした千巻にも及ぶ典籍・経典は、空海が伝えた真言密教に匹敵するもので天台密教の基礎となります。これを背景に、天台密教の拠点として近江の圓城寺を再興します。
 さて空海の成功から以後の留学僧が学んだことは、出来るだけ多くの経典等を持ち帰ることです。何を中国から持ち帰ったのか、何を身につけて持ち帰ったのかが問われることにに成ります。それは、中世の禅宗僧侶にも共通することです。もっと枠を拡大すれば、明治の洋行知識人も同じ立場だったのかもしれません。日本人は、大陸からもたらされるの「新物」に弱いのです。変革には「新物」が必要なのです。
 その際に、必要になるのは経済力です。官費だけでは足りるものではありません。空海の場合も、持ち帰った経典類や仏具類などをどのように集めたのか、その資金はどこから出たのかがもっと探求されるべきだと思うのですが、そこに触れる研究者はあまりいないようです。円珍の場合は、どうだったのでしょうか。実家である和気氏に、それだけの経済力があったのでしょうか。

貞観十年(868)に54歳で、第五代天台座主となり、寛平三年(891)に亡くなるまで、24年間の長きにわたって座主をつとめます。その間には、園城寺を再興し、伝法灌頂の道場とします。また清和天皇や藤原良房の護持僧として祈祷をおこない、宮中から天台密教の支持を得ることに成功します。死後36年経た、延長五年(927)、「智証大師」の号を得ています。

 一説によると、12年の籠山後、32歳の時に熊野那智の滝にて千日の修行をおこなったといいますが、これは後に円珍の法灯を継ぐ天台寺門派が、「顕・密・修験」を教義の中心に置き、熊野本山派の検校を寺門派が代々引き継ぐことによって、作り出された伝承とされます。しかし、ここからは京都の聖護院に属する本山派修験者からも円珍が「始祖」として、信仰対象になっていたことがうかがえます。

円珍は、実際には15歳の上京以後は、讃岐の地を踏むことはなかったようです。
 にもかかわらず円珍の影響を受けたとする四国霊場札所があるようです。円珍と、どのような関係があるのというのでしょうか
  県内札所のなかで天台宗、または円珍(天台寺門派)の痕跡が残るお寺を見てみましょう。
まず大興寺(六十七番札所)から始めます
この寺は小松尾寺とも呼ばれ、四国偏礼霊場記に「台密二教講学の練衆」と記されています。古くから真言と天台の兼学の場で、江戸時代にも真言二十四坊、天台十二坊があったと伝えられています。寺に伝わるものとして、建治二年(1276)の墨書銘をもつ天台大師坐像(香川県指定有形文化財)があります。寺伝では、弘法大師と熊野信仰を結び付けていますが、ここには熊野信仰と天台寺門派とのかかわりもあったことがうかがえます。次の札所になる観音寺(六十九番札所)にも天台大師像(画幅)があります。大興寺と観音寺の三豊エリアの札所には、円珍に関わる信仰があったことがうかがえます。
 
次に丸亀平野へ進みます。金倉川下流域は、円珍の出身である和気氏の勢力範囲だったと云われます。
金倉寺は和気氏の居館の後に建立されたとされます。
これも、善通寺誕生院の空海生誕とよく似た伝承です。金倉寺は、和気氏の氏寺として出発しますが中世には、宇多津や堀江などの港町の町衆の信仰を集める寺院に成長します。そして、仏教の教学センターとしての機能を、近隣の道隆寺と共に果たすまでに成長します。その大師堂には、中世まで遡るといわれる智証大師の木像が正面に安置されています。
 また、下の鎌倉時代作の智証大師像(重要文化財)も伝わります。
智証大師 金倉寺

この像を見ると圓城寺の国宝の智証大師像を写したかのように見えます。円珍のトレードマークである「卵頭」が忠実に真似られています。智証大師像は、みなよく似ています。逆に言うと「参考例」を模写したことになります。
金蔵寺には、高松藩の絵師、鶴洲の描いた模写や狩野愛信(狩野永叔の門弟)という絵師の描いた模写も残されています。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
江戸寺時代に模写された智証大師画
まさに、中世の肖像を模写した物です。その上に、高松藩主や京都聖護院門跡から贈られた智証大師の画幅なども伝わります。どうして  江戸時代になって、円珍の絵が何度も模写されたり、藩主などから贈られたのでしょうか。その背景には何があったのでしょうか?それは、また後に考えるとして先に進みます。

五色台の山岳寺院である白峯寺(八十一番札所)の「白峯寺縁起」応永十三年(1406)にも、円珍が登場しますこの縁起には、次のように記されます。
貞観二年(八六〇)円珍が山の守護神の老翁に出会い、この地が慈尊入定の地であると伝えられます。そこで、補陀落山から流れついたといわれる香木を引き上げ、円珍が千手観音を作り、根香寺、吉水寺、白牛寺(国分寺のことか)、白峯寺の四ヶ寺に納めた、
 ここからは縁起が作られた時には、白峰寺や根来寺は円珍が創建したとされていたことが分かります。当時の五色台は、本山派の天台密教に属する修験者たちの拠点であったようです。これに対して、聖通寺から沙弥島・本島には、真言密教の当山派(醍醐寺)の理源大師の伝説が残されています。瀬戸内海でもエリアによって両者が住み分けていたようです。
 白峯寺は今は真言宗寺院ですが、近年の調査で修禅大師義真像(円珍の師、鎌倉時代作)が伝わっていることが分かっています。他にも、天台大師像、智証大師像、山王曼荼羅図が伝えられます。
 白峰寺と同じ五色台にある根香寺(八十二番札所)には、元徳三年(1331)の墨書銘がある木造の円珍坐像があります。

智弁大師(円珍) 根来寺
根香寺は、寛文四年(1664)に高松藩主松平頼重が、真言宗から天台宗に改め、京都聖護院の末寺とした寺院です。それ以前は、大興寺と同じように真言・天台兼学の地でした。ここも、縁起には白峰寺と同じく円珍によって創建されたと伝えます。白峰寺と根来寺は共通点があるようです。
八十七番札所の長尾寺は、天和3年(1683)に天台宗に転じ、京都実相院門跡の末寺となります。その後に作られた江戸時代作の天台大師像、智証大師像がここにもあります。

 このように讃岐の四国霊場を見てくると、五色台や雲辺寺周辺の山岳寺院に古くから智証大師円珍や天台系の影響が見られるようです。山岳寺院=修験道=真言密教と直ぐに考えがちですが、江戸時代には、天台宗の聖護院(本山派)に属する修験者の方が圧倒的に多かったようです。円珍信仰・伝説の背後には、本山派修験者たちの活動が透けて見えてきます。
江戸時代に作られた円珍の像画は、誰が作成したのでしょうか。
それは、高松藩主として水戸からやって来た松平頼重の宗教政策の一環として作られたようです。頼重は、金倉寺、根香寺、長尾寺を真言宗から天台宗へ改宗させます。その際に、あらたな信仰対象として円珍像が作られたり、絵が模写されたようです。松平頼重は国内統治政策の一環として、次のような宗教政策を行っています。
①姻戚関係にある浄土真宗本願寺・興正寺派の保護
②金毘羅大権現の保護と全国への広報戦略
③高松城下町の氏神様としての岩瀬尾八幡の整備・保護
④菩提寺としての仏生山の整備・保護
同時に、屋島合戦の故地や崇徳上皇の旧跡地など、讃岐国の歴史的な場所や歴史上重要な人物について、顕彰し崇敬につとめています。こうした動きのなかで、頼重は、讃岐出身のもう一人の大師、智証大師円珍を「発見」したのではないでしょうか。それは、徳川宗家と天台僧天海との関係、また和歌を通じて頼重と交友関係にあった聖護院門跡の道晃法親王(後水尾天皇の弟)との関わりもあったのかもしれません。彼らとの交流の中で、円珍のことを知り、「讃岐が生んだもう一人の大師」として、再評価していく意味と必要性を感じるようになったのかもしれません。そして、その拠点に選ばれたのが金蔵寺と根来寺と長尾寺なのでしょう。そのために信仰対象として、像や画などが贈られたと研究者は考えているようです。
 頼重は晩年の隠居屋敷の中にお堂を建立し、根来寺から移した不動明王と四天王を安置し、プライベートな祈りの場所にしていたことは、以前にお話ししました。また、彼の宗教ブレーンには密教系修験僧侶の存在があったようです。
 そのような中で、円珍の「出会い・再発見」が、その信仰拠点を整備するという考えになったようです。どちらにしても、思いつきや一族だけの安泰を図るのでなく、広い支配戦略の上で、継続に行っていることに改めて気付かされます。
参考文献 渋谷啓一 もう一人の大師 智証大師円珍 空海の足音所収

      円珍が残した 和気氏の系図

 八~九世紀、讃岐の有力豪族たちは、それまでの姓を捨て自らの新しいアイデンティティーを求め、改姓申請や本貫地の変更申請をおこないます。
その中に、空海の佐伯家やその親族で円珍(智証大師)を出した因支首氏(いなぎのおびと)もありました。今回は円珍を出した讃岐那珂郡(現善通寺市金蔵寺町)の因支首氏が和気氏に改姓するまでの動きを追ってみましょう。 

圓城寺には、円珍の「和気家系図」が残っています。

日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...

承和年間(834~848)のもので29.4×323.3cmの景行天皇から十数代後の円珍までの系図です。全文一筆でかかれていますが、円珍自筆ではないようで、別人に書写させたことが円珍の自筆で注記されています。その上に、円珍自筆の加筆があり、自分の出身氏族について注意を払っていたこと分かります。
 これは竪系図としては、わが国最古のもので、平安時代の系図のスタイルを示す貴重な史料として国宝に指定されています。円珍が一族(叔父の家丸〔法名仁徳〕という説が有力)と協力し、先祖の系譜を整理して、近江・坂本の園城寺に残したものが、現在に伝わったようです。

この系図からは何が分かるのでしょうか?

  この系図からは円珍が武国凝別皇子を始祖とする讃岐国那珂郡の因支首(いなぎ・おびと)の一族であったことがわかります

それでは一族の始祖・武国凝別皇子とは何者なのでしょうか?

 研究者は武国凝別命は景行天皇の皇子ではなく、豊前の宇佐国造の一族の先祖で応神天皇や息長君の先祖にあたる人物としています。子孫には豊前・豊後から伊予に渡って伊余国造・伊予別公(和気)・御村別君やさらには讃岐の讃岐国造・綾県主(綾公)や和気公(別)がいます。そして、鳥トーテムや巨石信仰をもち、鉄関係の鍛冶技術にすぐれていたことから、この神を始祖とする氏族は、渡来系新羅人の流れをひくと指摘する研究者もいます。
 ちなみに、武国凝命の名に見える「凝」(こり)の意味は鉄塊であり、この文字は阿蘇神主家の祖・武凝人命の名にも使われています。 これら氏族は、のちに記紀や『新撰姓氏録』などで古代氏族の系譜が編纂される過程で、本来の系譜が改変され、異なる形で皇室系譜に接合されたようです。  

この系図は、何のために、だれが造ったのでしょうか

 伊予国の和気氏は、七世紀後半に評督などを務めた郡司クラスの有力豪族です。改姓によって和気氏の系譜関係を公認してもらい、自らも和気氏に連なろうと因支首氏は試みたと考えられています。
その動きを年表で示すと
799年 政府は氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出するよう命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
800年 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予和気公と同祖であること指名した系図を作成・提出する。しかし、この時には改姓の許可は下りず。
861年 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)

 改姓申請で和気氏が主張したのは、七世紀に伊予国から讃岐国に来た忍尾別君(おしおわけのきみ)氏が、讃岐国の因支首氏の女と婚姻して因支首氏となったということです。つまり、因支首氏は、もともとは伊予国の和気氏と同族であり、今まで名乗っていた因支首氏から和気氏への改姓を認めて欲しいというものです。
 つまり、この系図は讃岐国の因支首氏が伊予国の和気氏と同族である証拠「本系帳」として作成・提出されたものの控えのようです。

800年の申請の折には、改姓許可は下りなかったようです。

寒川郡の讃岐国造であった讃岐公氏が讃岐朝臣氏に改姓が認められ、円珍の叔父に当たる空海の佐伯直氏が佐伯宿祢氏に改姓されていくのを見ながら、因支首氏(いなぎのおびと)の一族は次の申請機会を待ちます。そして、2世代後の866年に、円珍の「立身出世」を背景にようやく改姓が認められ、晴れて和気公氏を名乗ることができたのです。 改姓に至るまで半世紀かかったことになります。
  
円珍は814年生まれで、天安2年(858年)新羅商人の船で唐から帰国後は、しばらく郷里の金倉寺に住み、寺の整備を行っていたと言われます。改姓許可が下りたのは、この時期にあたります。金蔵寺でいた間に、一族から「改姓についての悲願」を聞いていたかもしれません。
 和気氏への改姓後は、円珍には仏や先祖の加護が働いたようです。
比叡山の山王院に住し、貞観10年(868年)延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の拠点として組織化していきます。

   円珍は、園城寺では宗祖として尊崇されています。

この寺には、多くの円珍像が伝わります。

唐院大師堂には「中尊大師」「御骨大師」と呼ばれる2体の智証大師像があり、いずれも国宝にです。それらと同じように「和気家系図」は、この寺に残されたのです。手元に置いたこの系図を見ながら円珍は、自分につながる故郷の祖先を思うこともあったのでしょうか。


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金倉寺
金蔵寺の本尊は薬師如来です。
古代寺院の本尊は、薬師如来が非常に多いようです。八十八か所のうちで、海岸のお寺約三十か所の本尊が薬師さんです。その理由は、海のかなたの常世から薬師如来、すなわち民衆を肋けてくれる神かやってくるという信仰があったからです。ここには熊野信仰との神仏混淆が背景にあるようです。薬師如来と熊野行者の活動は重なり合う部分が多いようです。熊野行者が背負ってきた薬師如来がそのまま本尊になっていることが多いようです。金倉寺も道隆寺も善通寺も、本尊は薬師如来です。
ご詠歌は
「まことにもしんぶつそう(神仏僧)を開くれば 真言加持の不思議なりけり」
でなんだかよくわからない御詠歌です。「しんぶつそう」は神仏憎という字を当てるほかないようです。

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金倉寺境内
 金倉寺に行って、南の門から入ると広揚があります。
左に八幡さん、右に弁天さんがあって、突き当たりが薬師さんをまつっている本堂です。それに対して、向かって右に常行堂の庫裡(納経所)、左に鬼子母神堂と大師堂があります。善通寺あるいは善光寺に同じく東向きに大師堂があって、十字に交差する伽藍配置です。

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太子堂

大師堂には、弘法大師像と智証大師像を安置しています。

金倉寺は、弘法大師のお姉さんが嫁いだ和気氏(因支首氏)の氏寺だということになっています。
善通寺の空海の佐伯家と、金蔵寺の和気家は近隣の豪族同士、婚姻関係で結ばれていたことになります。また、境内には隣接し新羅神社も鎮座し、渡来系の性格がうかがえます。

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新羅神社
そこに生まれたのが智証大師円珍ですから、智証大師は弘法大師の甥ということになります。しかし、智証大師が開いた天台宗寺門派では、弘法大師の甥とはいっていません。そのあたりに天台宗のこだわりがありそうです。

 金倉寺には「金蔵寺文書」が残っています。
 この文書は中世文書だけでも約百通あります。これも『香川叢書』に入っていますが、「金蔵寺縁起条書案」という金倉寺の縁起を箇条書きにした下書きが残っていました。それによると8世紀に金輪如意を彫刻して道場を建て、自在王堂と称しました。その大願主は景行天皇十三代の子孫の道善という人で、智証大師の祖父になります。そのため、最初は金倉寺とは呼ばずに道善寺と呼んだというのです。しかし、当時の正式文書からは円珍の祖父は、道麻呂であったことが分かります。

円珍系図1

智証大師(円珍)と天台宗の関係は?

 伝教大師のお弟子さんの義真は渡来人で、伝教大師が入唐したときに通訳をした人です。この人が比叡山の第一代目の座主になります。智証大師はそこへ入って出家して円珍と称します。
 そのうち846年に入唐を思い立ち、853年に晩唐時代の唐に入り、858年に帰朝します。そして、和気宅成の奏上によって、仁方元年に和気道善が建てた自在王堂の敷地三十二町歩を賜って、859年に道善寺を金蔵寺と改めたと「金蔵寺立始事」に書かれています。これは中世の文書ですから、確実性が高いと考えられます。
 智証大師は寛平三年(894)に79歳で入寂しました。
 
智証大師像 圓城寺

円珍坐像 卵型の頭がトレードマーク

実は「金蔵寺文書」は金倉寺にはありません。

どういう経過をたどったかわかりませんが、高野山の金剛三昧院に所蔵されています。そのほか、応水入年(1402)に薬師如来の開帳が行われたということも出てきます。この時の開帳のときに、本尊さんから胎内仏が出たようです。
「金蔵寺衆徒某目安案」によると、鎌倉時代末期の徳治三年(1308)3月1日の火災で、金堂、新御影堂、講堂以下が焼けています。したがって、金堂の薬師如来が出現したと書いてあるのは、本尊が焼けてしまって、胎内から腹頷りの金銅の薬師如来が現れたことをいっているのでしょう。

 善通寺の本尊も薬師如来です。

善通寺の現在の本尊は室町時代の作ですが、創建時の薬師如来は白鳳期の塑像です。泥で造った薬師如来ですから、首が落ちてしまって、白鳳期の特徴をもった塑像の上面だけが残りました。かなり大きなものです。白鳳期のものは塑像が多くて、大和の当麻寺の金堂の本尊の弥勒如来もご面相が非常によく似た白鳳期の塑像です。

 薬師といっても、弥勒と同じようなお顔をしています。
塑像の白鳳期仏はほかにもたくさんあります。観音さんだといわれている大和の岡寺の本尊さんも塑像です。その胎内に、今は奈良博物館に陳列されている白鳳期の作品として、いちばん愛らしい仏様が入っていました。焼けたりして塑像が崩れると、その中から金銅製の飛鳥仏や白鳳期仏が出てくることがあります。「金蔵寺文書」の記録も、それを指しているのだと考えられます。

 応永十七年の「金蔵寺評定衆連署起請文」では、師衆、親子、兄弟の偏頗を禁じています。えこひいきをしてぱならないといっているので、弘法大師の肉親が高野山で寺務別当として経済的な事柄を扱ったのと同じように、肉親による寺務が行われたことが想像されます。
 智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写

円珍坐像(江戸時代の模写)
起請文の中で、神様に熊野三所権現と若王子があることも注意すべきものです。

評定衆は十か院坊にわたっているので、三十か寺か五十か寺かわかりませんが、かなり多くの院坊を擁していたことが考えられます。
 先達、御子(巫)、承仕、番匠、加行法師、寺宗門徒など、お寺の使役者が挙がっているので、山伏や童子か隷属していたこともわかります。
 享禄三年(1530)前後の「綸旨案」では、金倉上下庄が国威寺領であったことが分かります。
京都の国威寺の荘園として讃岐に金倉寺があって、円満院門跡の支配を受けていました。さらに、同じ天台宗の三十三所の一つの長命寺と関係があったことも出ています。
円珍系図1

円珍系図 (俗名広雄 父は宅成 祖父は道麻呂)
 
智証大師の祖父は和気道麻呂(通善)について
 宝亀五年(774)に、この寺を開いたのは智証大師の祖父和気通善なので通善寺と呼んだという伝承があります。これは善通寺が善通寺と呼ばれたのと同じことです。しかし、通善は道善の誤りでしよう。
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金倉寺前の道しるべ

 醍醐天皇が金倉寺と改め、南北ハ町・東西目町の境内に百三十二坊あったという伝承もありますか、これではあまりにも大きすぎるような気もします。のちに南北朝、永正、天文の争乱で縮小・衰退していたのを保護したのが高松藩主の松平頼重です。
金蔵寺
金倉寺
 金倉寺の大師堂の前のところに、平安時代末期から鎌倉時代初期ぐらいの多宝塔が残っています。
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