瀬戸の島から

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道隆寺本堂
道隆寺本堂
  四国霊場の道隆寺は、中世の多度郡の港である堀江の管理センター的な機能を持ち、備讃瀬戸に向けて開けた寺院でした。この寺には多くの中世文書が残されていますが、その中に「道隆寺御影堂作事人日算用帳」という帳簿があります。これは、天文21年(1552)に御影堂再建にかかった経費を記録した帳簿です。この中には「番匠・かわら大工・人夫手伝い・番匠おかひき(大鋸引)・鍛冶」などの職人が登場してきます。今回は職人たちに焦点を当てて、御影堂再建を見ていくことにします。

番匠
職人絵図 番匠(大工)

御影堂再建にかかった経費は15貰421文です。そのうちの工賃が次の通りです。
番匠101人に  5貫50文
かわら大工23人 1貫150文 
番匠(大工)と瓦職人一人あたりの手間賃が50文、
これ以外に飯米として、それぞれに1升2合が支払われ、酒が振る舞われています。また人夫手伝いとして767人に一人当たり4合、かわら取り付け人夫に3合、しほたへの人夫に六合の飯米が支払われています。ここからは建築経費の内、職人への手間賃が約4割を占めていたことが分かります。それ以外にも飯米・酒代の支出が必要だったようです。
  まず驚かされるのが職人の数の多さです。「番匠(大工)101人、瓦大工23人」とあります。最初は延人数なのかと思いましたが、そうではないようです。これだけの職人が関わっていたのです。これらの大工職人を、どのようにして集め、組織していったのでしょうか? 今の私には分からないことだらけです。
5.瓦屋根の細部の名称-鬼瓦とか(屋根の雑学知識)
 
瓦大工については、馴染みが薄いので補足しておきます
それまでの瓦屋根は、軒先の瓦に釘を打って瓦が滑り落ちるのを防いでいました。これだと腐食した釘が釘穴の中で膨張して瓦を割ったり、修理のとき瓦を破損したりしてしまいます。そこで中世の瓦職人が考えだしたのが、釘を使わなくても滑り落ちない軒瓦です。軒先の木に丈夫な引っ掛かり部分をつけ、そこに瓦に設けた突起部分を引っ掛ける仕組みになっています。これは瓦の歴史の上で画期的な発明です。瓦大工が瓦を焼いていたかどうかは分かりませんが、瓦を葺く専門の大工であったようです。もちろん当時は、瓦葺きの屋根は寺院などの限られた建物に限られていましたから、瓦の需要はそれほど多くはなかったはずです。相当の広範囲のエリアを活動地域としていたことが考えられます。

帳簿には、次のようにも記されています。
「三貫三百文 大麻かハらの代」    大麻からの瓦代金
「八百八十文 しはくのかハらの代」     塩飽からの瓦代金
ここからは御影堂の瓦は、善通寺の大麻と塩飽で4:1の割合で焼かれた瓦が使われたことが分かります。塩飽からは海を越えて船で運ばれ、大麻からは川船で運ばれたのでしょう。同時に大麻や塩飽には、瓦を製造職人がいたことがうかがえます。大麻は大麻山の麓に開けたエリアで、古墳時代には積石塚古墳の集中地であり、忌部氏の氏寺とされる大麻神社が鎮座します。近くに善通寺があり、古くから善通寺で使用する瓦の製造を行う職人集団が存在していたことは、以前にお話ししました。

塩飽本島絵図
塩飽本島周辺(下が北)

塩飽は、九亀市の塩飽本島のことです。本島にも瓦職人集団がいたことがうかがえます。
 塩飽は近世になると、船大工や宮大工で活躍する職人を多数輩出します。高見島などは、幕末の戸籍調査によると戸数の1/3が大工でした。かつては、船大工として活躍していた人たちが、元禄期以後の「塩飽造船不況」で、宮大工に「転職」したとも云われました。しかし、それ以前から塩飽には「宮大工」の流れを汲む職人たちがいたような気配がします。どちらにしても、中世末の塩飽本島には、「建築総合組合」的な集団があり、備讃瀬戸沿岸からの寺社のさまざまな建築物発注に応える体制が出来あがっていたのではないでしょうか。これが近世における塩飽の宮大工の広域的な活動基盤になっていると私は考えています。
  下表は中世の道隆寺明王院の院主が導師として出席した遷宮・供養寺の一覧表です。

道隆寺 本末関係
道隆寺明王院が導師として出席した遷宮・供養寺の一覧表
導師として出席とすると云うことは、道隆寺がこれらの寺社の本寺にあったということになります。
6塩飽地図

そのエリアは塩飽本島から白方、詫間、荘内半島、粟島・高見島など備讃瀬戸にある寺社と本末関係にあり、末寺の信者集団も傘下に組み入れていたことにあります。大きな寺院が専属の建築者集団を持っていたように、中世の地方有力寺院も本末グループ全体で「建築職人集団」を持っていた可能性もあると私は考えています。
 そうだとすると、道隆寺グループの末寺の改修工事等は、道隆寺と契約関係にある建築集団が行っていたことになります。道隆寺は、讃岐守護代の香川氏の保護を受け発展していました。それに連れて道隆寺に属する職人集団も成長して行くことになります。こうして16世紀には、道隆寺を中心とする職人集団が香川氏のお膝的の多度津や、塩飽衆の拠点である本島には形成されていたという仮説は出せそうです。
200017999_00161道隆寺
道隆寺 江戸時代後半
道隆寺の御影堂建立から約30年後のことです。
土佐の長宗我部元親が讃岐平定の祈願と成就御礼のために、金毘羅(松尾寺)に三十番社と仁王堂を寄進しています。
天正十一年(1583)、讃岐平定祈願のために、松尾寺境内の三十番神社を修造。
天正十二年(1584)6月  元親による讃岐平定成就
天正十二年(1584)10月  元親の松尾寺の仁王堂(二天門)を建立寄進
当時の金毘羅(松尾寺)は、長宗我部元親が土佐から招聘した南光院(宥厳)が、院主を任されていました。「元親管轄下の松尾寺体制」で、元親の手によって、松尾寺の伽藍整備が進められます。そして、讃岐平定が完了した年に、成就御礼の意味が込めて寄進されたのが仁王堂(門)です。二天門棟札が讃岐国名勝図会には、次のように載せられています。

二天門棟札 長宗我部元親
金毘羅大権現二天門棟札(讃岐国名勝図会)
右側が表、左側が裏になります。まず表(右)側を、書き写したものを見ていきましょう。
真ん中に
「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
左右に
大檀那大梵天王長曽我部元親
大願主帝釈天王権大法印宗仁
とあって、その間には元親の息子達の名前が並びます。天霧城の香川氏を継いだ次男の香川「五郎次郎」の名前も見えます。ここで注目したいのは、その下の大工の名です。
「大工 仲原朝臣金家」
「小工 藤原朝臣金国」
仲原と藤原という立派な姓を持つふたりが現場責任者で棟梁になるのでしょう。
左側(裏)には、「別当権大僧都宥厳(南光院)」の下に、6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくる坊や寺は、「土佐占領下」の土佐修験道のメンバーだと私は考えています。
 その下には、職人たちの名前が次のように記されています。
「鍛治大工  多度津 小松伝左衛門」
「瓦大工  宇多津 三郎左衛門」
「杣番匠□□    圓蔵坊」
多度津や宇多津の鍛治大工や瓦大工が呼ばれていたことが分かります。多度津は、長宗我部元親と同盟関係にある香川氏の拠点です。松尾寺の伽藍整備には、香川氏配下の職人が数多く参加しているようです。これらの職人は、香川氏の保護を受けていた職人たちとも考えられます。この時期の松尾寺の伽藍整備が、実質的には香川氏によって進められたことがうかがえます。
その左には、次のように記されています。
「象頭山には瓦にする土はないのに、本尊が安置されている寺内から(瓦作りに相応しい)粘土があらわれた。この奇特に万人は驚いた。これも宥厳上人の加護である。」
 ここからは新たに発見された粘土を用いて、周辺に作られた瓦窯で瓦が焼かれたことがうかがえます。先ほど見た道隆寺の御影堂の瓦は、大麻や塩飽から運ばれ来ていました。それが松尾寺の場合には、「瓦大工 宇多津三郎左衛門」が請負って、松尾寺山内の土を使って焼かれたとあります。

 中世末には地方の有力寺院の建立には、多くの職人が組織され働いていたことが分かります。その組織がどのようにして組織され、運営されていたかについてを語る史料は、讃岐にはないようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号
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道隆寺 堀越津地図

 多度津町の四国霊場第77番の道隆寺周辺の中世の復元図です。この復元図からは、次のような事が分かります。
①道隆寺周辺には多度津と堀江津という二つの港があった。
②金倉川河口西側に砂堆があって、そこに多度津があった
③弘浜は砂堆と砂洲との間にあり、ここが堀江津であった。
④砂洲の背後には潟(ラグーン)があり入江を形成した。
⑤入江の奥に道隆寺があり、船着場として好地であった
⑥道隆寺は堀江津にも近く、港をおさえる位置にある。
砂州が沖合に一文字堤防のような形で形成され、その背後に大きな潟ができていました。まさに自然の良港だったようです。そして道隆寺の北はすぐに海です。多度郡の港町は 
①古代 弘田川河口の白方
②中世 道隆寺背後の堀江
③近世 桃陵公園下の桜川河口
と移り変わります。中世に堀江が港町だった時代に、その港湾センターの役割を果たしたのが道隆寺であることは、以前にもお話ししました。
道隆寺1航空写真

今から約60年前の1962年の航空写真です。
多度津・丸亀線が道隆寺境内が境内の北側を通るようになったために、今では北側の駐車場に車を止めてお参りする人が多くなりましたが、雰囲気があるのは南側からのお参りです。人や車の行き来が少なくなって、昔の趣が残されています。

道隆寺山門

この寺にお参りすると風通しの良さというか、のびのびとした感じを受けます。なぜそう感じるのかを考えて見ると、本坊や庫裡が伽藍の中にないのです。善通寺の東院と同じよう感じです。朱印記帳も伽藍の方でできるので、本坊がどこにあるのかは分からずしまいです。

道隆寺伽藍

それでは本坊は何処に?

道隆寺 堀越津地図2
多度津道隆寺周辺 入道屋敷跡
 航空写真で見ると、仁王門や金堂などの建つ伽藍から東南東に100㍍ほどの所に本坊があります。
今回とりあげる居館跡は、この本坊西側の長方形の畑です。
東西75m・南北65mの畑で、20年ほど前までは周りに堀城の凹溝があったとそうです。この土地は昔から「入道屋敷」と呼ばれ、道隆寺と関連する城館址とされてきました。畑の周りは水田なのにここだけが畑なのは、周囲より少し高く水掛かりが悪く水田に出来ないからだといいます。この入道屋敷の主は誰なのでしょうか?  もし武士だとすると、なぜ道隆寺のすぐそばに居館があるのでしょうか。道隆寺との関係をどう考えればいいのでしょうか?


道隆寺 グーグル

 
「道隆寺文書」(『香川叢書』史料篇②収)には14世紀初頭(1304)の発願状があって、寺の由来を次のように記しています。
①鎌倉時代末期の嘉元二(1304)年に、領主の堀江殿が入道して、本西と名乗ったこと。
②讃岐国仲郡鴨庄下村地頭の沙弥本西(堀江殿)は、道隆寺を氏寺として崇拝する理由を、藤原道隆と善通寺の善通は兄弟だからだ答えたこと
③兄の善通が多度郡に善通寺を建てたのを見て、仲郡に道隆寺を建立したこと。
④ふたつの寺が薬師如来を本尊としているのは、兄弟建立という理由によること。
 道隆寺は、もともとは法祖宗のお寺でしたが、その後衰退したのを那珂郡鴨庄・地頭の堀江殿が「入道」し、本堂と御影堂と本尊、道具、経論、などを建立し伽藍整備を行ったとします。堀江殿は「道隆寺中興の祖」で、「入道」して修験者でもあったようです。彼は真言密教の修験者なので、その後の道隆寺は真言宗に属すようになります。

道隆寺 道隆廟

 なぜ堀江殿が道隆寺を復興(実際には新規建立?)したのかというと、由来書は善通寺を建立した善通と、道隆寺を建てた道隆は兄弟であったからだというのです。ここには、当時西讃地方で最も名の知られていた善通寺と、道隆寺が因縁の深い寺であるというセールス戦略があるようです。この由来を、そのままは信じられませんが中世の港である堀江港を支配下に置く地頭の堀江殿が「入道」し、道隆寺を建立したというのです。
道隆寺は堀江殿の「氏寺」として「再」スタートしたということになります。
「入道」は広辞苑には
「在家のままで剃髪・染衣して出家の相をなす者。」
「沙弥」は「剃髪しても妻子があり、在家の生活をする者」
とあります。道隆寺を建立し、堀江港の港湾管理センターの機能を担わせるには「入道」は良い方法のように思えます。
 
道隆寺3

道隆寺の記録「道隆寺温故記」には、次のように記されています。
(嘉元二(1304)年)
鴨之庄地頭沙彌輛本西(堀江殿)、寄田畠百四町六段、
重修造伽藍
ここからは鴨庄の領主は、その名称から賀茂社で、その地頭を堀江殿が務めていたことが分かります。そして鴨庄は道隆寺のある葛原郷北鴨と南鴨のあたりにあった荘園であったことが分かります。

金倉 鴨
道隆寺と多度津鴨庄

 以上をまとめておくと、嘉元二年(1304)、鴨荘下村の地頭沙弥本西(堀江氏)が田畠を寄進し、僧円信を助けて伽藍を修造するとともに、新たに御影堂を造るなどして再興し、氏寺としたということです。
その後は、領家光定をはじめ、西讃守護代で多度津に拠点を置く香川氏やその家臣とみられる管主などさまざまな階層から所領の寄進を受けるようになり、道隆寺は発展します。
 ある研究者は、本西(堀江氏)が子々孫々に対して道隆寺を氏寺と定め、その一族や一門にも信仰を厳命したことについて、

「氏寺の信仰を媒介として一族の結合と所領経営の維持・強化を図る武家の惣領としての強固な覚悟の表現である。ここに、氏のための寺である氏寺としての大きな役割がある」

と、道隆寺が中世においては、武士団の結束を固める一族の寺であったとしています。
道隆寺仏像

 伽藍整備などのハード面の整備は堀江殿によって行われたとしても、お寺に魂を吹き込むのは僧侶たちです。優れた僧侶がいないとお寺は繁栄しません。

道隆寺の復興を行った僧侶は、永仁三年(1295)に院主となる円信のようです。『道隆寺温故記』には、永仁三年(1295)二月の記事として、次のような記事があります。
 円信、従根来持若干ノ自相・教相ノ書峡井仏像・絵多幅、仏道具等、来暫住当山、故慶、譲院主於信、謀興廃道隆寺、因以同七月十一日、移住于明王院焉、
次のように意訳します。
 円信が紀伊国根来から、若干の事相・教相の書物をはじめ仏像・絵、諸道具等を持って暫く道隆寺に滞在したところ、明王院主であった信慶が、この円信に院主を譲り、荒廃していた道隆寺の再興をゆだねたため、円信が明王院に移住した

ここからは次のような事が分かります。
① 円信は紀伊の根来寺の僧侶であったこと
② 聖教や各種の書物や仏像を持って堀江津にやってきた
③ 興廃していた道隆寺の院主に請われて就いたこと
 円信が道隆寺住職に就任した9年後に、堀江氏(本西氏)による伽藍建立が始まります。この間に円信は堀江氏を帰依させ、強い信頼感と信仰心を抱かせ、氏寺として復興しようとする決意を形作らせていったことになります。堀江氏の円信に対する信頼は強かったようで、道隆寺のお寺としてのランクを維持するために必要な道具・本尊・経論・聖経などを調えたは円信であったとして、彼の功績を賞賛しています。

道隆寺本堂

 それでは円信はこれらの「寺宝」を、どのようにして手に入れたのでしょうか?
それは瀬戸内海海運による各地域とのネットワークで入手したと研究者は考えているようです。注目するのは道隆寺と根来寺との関係です。例えば道隆寺に残る医書『伝屍病計五方』の奥書には、次のように記されています
「千時建武元年十月七日於讃州香東郡野原書写之、大伝法院我宝生年三十五」
ここからは建武元年(1334)に紀州根来寺からやってきた我宝という僧侶が、讃岐国野原(現高松市のサンポート周辺)のお寺で、これを書写したとあります。根来寺の僧侶が書写する書物をもとめて讃岐にやってきています。
 この我宝は、大須観音宝生院の真福寺文庫の『蓮華院月並問題』の奥書にも名前が残っています。
  杢二
為院家代々之祖師報恩講抄之。
正平九年甲午四月廿九日 第八代院務権少僧都頼豪 七十二
同十四年己亥一一月十八日  我宝      (朱書)
  貞治三年五月中旬比於讃州道隆寺明王院書写丁
この奥書からは、分かることは
①院家代々の祖師への報恩講のために書写した
②正平九年(1354)4月に根来寺の頼豪(72歳)が書いた本を
③5年後に我宝が書写した。書写の場所は、根来寺か野原(高松)かは分かりません。
④貞治三年(1363)五月に道隆寺明王院で、再度書写された。
根来寺の我宝が書写した本が、道隆寺にもたらされていたことが分かります。ここからも道隆寺と根来とのつながりが見えてきます。
道隆寺多宝塔

 書写は修行の一貫とされていました。
若い僧侶は、まだ見ぬ書物を求めては各地の寺院に出かけ、時には何ヶ月もかけて書写を行っていたようです。それが修行でした。貴重な書物を多く持つ寺院は自然と学僧が集まり、評価が高まっていきます。姫路にはそれを山号にした書写山圓教寺というお寺もあるくらいです。書き写すべきものは経典だけでなく、医学書や薬学・土木工学などにもおよんでいました。多くは中国から日宋・日明貿易を通じてもたらされましたが、留学僧が持ち帰ったものもあります。留学僧の目的のひとつは、どれだけ多くの書物を持ち帰るかにあったようです。そのためパトロンの博多商人から多額の資金を集めて、留学するのがひとつのセオリーでもあったようです。
 このようにしてもたらされた貴重な書物をどれだけ保管しているかを、有力寺院は競い合っていたようです。今の大学が「内の図書館の蔵書は100万冊で、珍本として○○がある」という自慢話と似ています。まさに、近世以前の大寺院は「大学」であり、学問の場でもあったようです。

 話を元にもどします。道隆寺は円信と堀江氏の連携で再興を果たして寺院体勢を整備していきます。それが可能となった背景の一つに、交易活動が活発に行われている港にある寺院という強みがありました。それを生かして道隆寺は、円信以後も紀伊国根来と人とモノの交流を行っていきます。それは経済的な交易活動ももちろん含みます。双方向だけでなく根来寺が作り上げた「瀬戸内海 + 東シナ海」交易網のひとつの拠点として、堀江津は動いていたことになるようです。
 当時の寺院は奈良の西大寺のように、積極的に瀬戸内海に進出し、拠点港に寺院を構えます。ある意味、寺院は交易上の「支店」でもありました。そのネットワークは日明貿易を通じて、東アジアに広がっていきます。この交易網に属していれば、巨大な富の動きに関われます。
 この時期の堀江津の道隆寺は「堀江殿」によって、根来寺のネットワークに参加することができるようになったのかもしれません。道隆寺再興には、堀江港の繁栄があったのです。繰り返しになりますが道隆寺は、堀江氏の自前の寺なのです。そこに居館が置かれても商人たちが不満や反発することはありません。この点が宇多津の日蓮宗の本妙寺や、観音寺の禅宗聖一派の西光寺と異なるところです。
 堀江津は最初の地図で示した通り、砂嘴の入口にあったようです。
そこには港として町屋があり、海運業者や問屋などが集住していたかもしれません。そこを避けて自分の居館のある入江奥の地に、堀江殿は道隆寺を建てたのかもしれません。居館が先、氏寺はその後、だから伽藍と本坊が分離したとも考えられます。
 港をおさえる立場にあった道隆寺は海運を通じて、塩飽諸島の寺社を末寺に置き広域な信仰圈を形成します。まさに、海に開かれた寺院に成長していくのです。そこには、真言密教に関わる修験者の活動が垣間見えるように思います。周辺には塩飽本島を通じて岡山倉敷の五流修験者の流れや、醍醐寺の理源の流れが宇多津の聖通寺や沙弥島には及んでいます。そのような影響が道隆寺にも及んでいたと私は思っています。
 まとめておくと
①中世の堀江津を地頭が堀江氏(本西氏)が管理していた。
②13世紀末に、衰退していた道隆寺の院主に紀州根来寺からやってきた円信が就任した
③円信は堀江氏を帰依させ、道隆寺復興計画を進めた
④新しい道隆寺は、入江奥の堀江氏の居館のそばに整備された。
⑤居館と伽藍が並び立つようなレイアウトで、堀江氏の氏寺としての性格をよく示したいた。
⑥道隆寺は、根来寺の「瀬戸内海 + 東シナ海」交易ネットワークの一拠点として繁栄した。
⑦道隆寺は、経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していく。
⑦西讃岐守護代香川氏も菩提寺に準じる待遇を与えた。
  以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  上野 進 海に開かれた中世寺院 道隆寺  香川県立ミュージアム調査研究報告

 中世の道隆寺は、どんな場所にあったのか。

イメージ 1

中世の道隆寺周辺には多度津と堀江津という二つの港がありました。

道隆寺が管理した堀江津について
 中世の地形復元地図を見ると金倉川河口の西側海浜部には、現在の中津万象園から砂州が西側に伸びていたことが分かります。そして現在の桃陵公園の下からは、東に砂堆が伸びています。この砂堆と砂州の間が海に開いている所が堀江津になります。その背後には潟(ラグーン)が広がり、入江を形成しています。この入江の奥に位置にあったのが道隆寺であり、船着場として好適な場所でした。道隆寺は堀江津に近く、港をおさえる位置にあり、塩飽の島々と活発な交流を行っていました。堀江津の港湾管理センターの役割を道隆寺は果たしていたと研究者は考えているようです。
「塩飽諸島 航空写真」の画像検索結果
  道隆寺の海への進出とは、どんなものだったのでしょうか

中世の道隆寺明王院は、周辺寺社の指導管理センターでもあったようです。この寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

イメージ 2
道隆寺明王院の周辺寺社へ関与一覧表
 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると白方方面から庄内半島にかけて海浜部、さらに塩飽の島々へと広く活動を展開していたことが分かります。たとえば
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門下の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮などにの導師は、全て道隆寺明王院が執行してきた


ここからは、中世以来の本末関係にもとづいて堂供養や神社遷宮が近世になっても道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力はの多度津周辺に留まらず、三野郡や瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。  
DSC05781
道隆寺大門

 道隆寺は塩飽諸島と深いつながりが見られます。

永正一四年(1517)立石嶋阿弥陀院神光寺入仏開眼供養
享禄三年 (1530)高見嶋(高見島)善福寺の堂供養
弘治二年 (1556)塩飽荘(本島)尊師堂供養について、
塩飽諸島の島々の寺院の開眼供養なども道隆寺明王院主が導師を務めていて、その供養の際の願文が残っています。海浜部や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には
「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」
と記されています。つまり、道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。

DSC05791
道隆寺本堂
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
また、影響下に置いた塩飽諸島は古代以来、人と物が移動する海のハイウエー備讃瀬戸地域におけるサービスエリア的なそんざいでした。そこに幾つもの末寺を持つと言うことは、アンテナショップをサービスエリアの中にいくつも持っていたとも言えます。情報収集や僧侶の移動・交流にとっては非常に有利なロケーションであったのです。こうして、この寺は広域な信仰圈に支えられて、中讃地区における当地域の有力寺院へと成長していきます。
DSC05792
道隆寺本堂内
金蔵寺と海との関係は?
金蔵寺は天台宗寺門派の寺院で、円珍の誕生址と伝える古刹です。
金倉川の西側、道隆寺よりもやや上流に位置し善通寺にもほど近い場所にあります。戦国前期頃と推定される次の文書が金蔵寺と港湾都市との関わりを考えるヒントになります。  
諸津へ寺修造時要却引附 金蔵寺
当寺大破候間、修造仕候、如先例之拾貫文預御合力候者、
  可為祝著候、恐々謹言、先規之引附
      宇足津 十貫
      多度津 五貫
      堀江  三貫
これによれば金蔵寺が大嵐で大破した際、宇多津・多度津・堀江に修造費の負担を依頼しています。寄付金額がそのまま、この時代の3つの港湾都市の経済力を物語っているのかもしれません。ここで不思議に思うのは、
どうして、内陸部にある金蔵寺が3つの港湾都市に援助を求めたのでしょうか?
なんらかのつながりがあって、金蔵寺の寄付依頼に応える条件が満たされていたからでしょうが、それは今の私には見えてきません。
 道隆寺には、応永六年(1399)に宇多津の富豪とみられる沙弥宗徳が田地を寄進しています。宇多津の有力者の信仰を集める何かが金蔵寺にはあったのでしょう。
DSC05799
道隆寺伽藍

 道隆寺は鎌倉末期に復興し寺院体制を整備していきます。
これには紀伊国根来ゆかりの円信の役割が大きかったようです。道隆寺は海に開かれた寺院という特性を生かして、根来とのつながりを保持していきます。
 同時に、港をおさえる位置にあった道隆寺は海運を通じて宗教活動を展開し、塩飽諸島の寺院を末寺に置き広域な信仰圈を形成します。海に開かれた寺院に成長していったのです。そこには真言密教に関わる修験者の活動が垣間見えるように思います。周辺には塩飽本島を通じて岡山倉敷の五流修験者の流れや、醍醐寺の理源の流れが宇多津の聖通寺には及んでいます。その流れがこの寺にも影響をあたえていたと私は思っています。

DSC05800
道隆寺伽藍

 道隆寺は談義所でもあり、南北朝期には談義所相互のネットワークのなかにいました。付近の金蔵寺も談義所であり、この地域は善通寺への参詣者をはじめ、談義所を訪れる学僧や聖などさまざまな人びとが往来します。ある意味、大宗教ゾーンを形成していたのです。
 今の道隆寺の境内には、海とのつながりを連想させる物はなにもありません。時代の流れと共に、海は遠く遙かに去ってしまいました。しかし、この境内は海とのつながりによって形成されてきた歴史を持ちます。
「道隆寺 多度æ´\」の画像検索結果

参考史料 上野進 海に開かれた中世寺院 
       香川県歴史博物館 調査研究報告三巻
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 道隆寺-山伏が再興した寺

道隆寺の建立者道隆と善通寺の建立者善通は兄弟?

七十七番桑多山道隆寺の本尊は薬師如来です。
御詠歌は「ねがひをば仏道隆に入りはてて菩提の月を見まくほしさに」
道隆というこのお寺を建てた人の名前を詠み込んだ歌です。
「道隆寺文書」(『香川叢書』史料篇②収)には
①14世紀初頭(一三〇四)の発願状があって、沙弥本所(山伏)による寺の由来が記されていること。
鎌倉時代末期の嘉元二年に、領主の堀江殿が入道して、本西と名乗ったこと。
③讃岐国仲郡鴨庄下村地頭の沙弥本所は、庄内の道隆寺を氏寺として崇敬してきたが、その由来をたずねると、内大臣藤原道隆と善通寺の善通は兄弟であること
がこの縁起は書いています。

道隆の兄の善通は善通寺の善通と云います。
 大領は郡長さんに当たりますから、多度郡の郡長さんが善通寺の善通で、お寺を再興したので功徳といっています。善通は白鳳期の「善通寺」を再興した人です。しかし、この人物が空海の父や祖父とは別人であることは「善通寺」のところで述べました。
①兄の善通が多度郡に善通寺を建てたのを見て、仲郡に道隆寺を建立したこと。
②ふたつの寺が薬師如来を本尊としているのは、兄弟建立という理由によること。
③道隆寺は、もともとは法祖宗か何かのお寺でしたが、その後衰退します。
④それを山伏の本所が再興したので、山伏の所属する真言宗になりました。
⑤本堂と御影堂と本尊、道具、経論、などが建立され伽藍が整備できたようです。

白鳳期ごろのお寺は、渡来人が建てた寺が多いようです。

現在の飛鳥・白鳳期の寺址は、三百か寺ぐらい数えられますが、これはやはり渡来人が建てたと考えられます。飛鳥・白鳳期にかけて秦河勝が山城平野を開拓。それに南のほうでは、稲荷山を建てた秦中京伊侶具が非常に富み栄えました。秦中京は秦の本家という意昧でしょう。
 ここにひとつ濯漑の問題があります。
渡来人が日本人を使いながら、潅漑用水を造ってつぎつぎと開拓を行うことができたのは、水準器をもっていたからです。水がどちらに流れるかを水準器で測りながら用水路を造っていきます。当時は、日本人にはその技術がありません。そのうちに日本人もすっかり習得してしまったので、渡来人は不要の存在となり、次第に没落します。そうして、白鳳期のお寺もだんだんに衰退していったのです。
やがて勧進聖やその地方の援護者なりが出てきて、これを再興します。道隆寺にもこんな構図が考えられます。
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 道隆寺の縁起は、次のような悲しい物語です。

もと一大桑園があったが、大平時宝(七四九―五七)のころに、和気道隆が誤って乳母を弓で射殺してしまいます。その菩提のために、桑の木で薬師如来を刻み小堂を建てます。その後、弘法大師が薬師如来の大像を刻んで、桑の木で作った小さな薬師如来を胎内に納めて本尊とします。一方で、観音の像を刻んで観音堂の本尊としたということになっています。

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しかし、現実には

白鳳期の寺を道隆という山伏が再興したとするのが事実。

資料から推察できるのは次のようなことです。
 この寺は、和気氏が俗別当として、管理権を手中にしていました。
和気氏は、智証大師の和気氏と同族です。その関係から智証大師は、ここに五大尊示伽・降三世・軍茶利・会剛夜叉・大威像)の像を刻んだとされています。しかし、智証大師は平安時代初期の人で、金堂の中にあるのは鎌倉時代の五大尊ですから、この話は時代がずれています。
 道隆寺でおもしろいのは、中世に何度も田地寄進が行われ、弘法大師の御影供(弘法大師の三月二十一日の法要)、伽藍三時供養法、道隆寺鎮守花会(法花会)、一切経供養会、焙魔堂供養などが行われていることです。特に戦国時代の16世紀初めのの阿弥陀堂、阿弥陀像造立は、この寺の隆盛ぶりを示しています。

 
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これらは道隆寺が山伏寺になってからのことです。

道隆寺の住持が塩飽島に聖宝尊師のお堂建てています。
聖宝尊師は、醍醐寺の像験道の開祖に当たる方です。
これは道隆寺がこのあたりの山伏を支配していたことを示しています。
「道隆寺文書」によって室町時代の、大峰の入峰を捨身といっていたことがわかります。この文書以外ではまだ見たことかありません。
この文書では修験について、次のようなことも書かれています
入峰するということは自分の身を捨ててしまうことだ、死ぬことだと考えていたことがはっきり文章になっています。山に人るのは死ぬことである、よって山から出てきたときは生まれ変わっていると、修験の本質についてもきちんと書かれています。 そういう意味で、「道隆寺文書」は修験道の史料としても非常に貴重です。


 

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