瀬戸の島から

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石堂山3
石堂山
前回までは、阿波石堂山が神仏分離以前は山岳信仰の霊山として、修験者たちが活動し、多くの信者が大祭には訪れていたことを押さえました。そして、実際に石堂神社から白滝山までの道を歩いて見ました。今回は、その続きで白滝山から石堂山までの道を行きます。

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笹道の中の稜線歩き 正面は矢筈山
白滝山と石堂山を結ぶ稜線は、ダテカンバやミズナラ類の広葉樹の疎林帯ですが、落葉後のこの季節は展望も開け、絶景の稜線歩きが楽しめます。しかも道はアップダウンが少なく、笹の絨毯の中の山道歩きです。体力を失った老人には、何よりのプレゼントです。ときおり開けた笹の原が現れて、視界を広げてくれます。

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正面が石堂山


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  白滝山から石堂山の稜線上の道標
「石堂山 0,7㎞ 白滝山0,8㎞」とあります。中間地点の道標になります。
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振り返ると白滝山です。
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白滝山から東に伸びる尾根の向こうに友納山、高越山
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矢筈山と、その奥にサガリハゲ
左手には、石堂山の奥の院とされる矢筈山がきれいな山容を見せてくれます。そんな中で前方に突然現れたのが、この巨石です。

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近づいてみると石の真ん中に三角形の穴が空いています。

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中に入ってみましょう。
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巨石の下部に三角の空洞が開いています。
これについて 阿波志(文化年間)は、次のように記します。

「絶頂に石あり削成する如し 高さ十二丈許り 南高く北低し 石扉あり之を覆う 因て名づけて石堂と曰う」

意訳変換しておくと
石堂山の頂上には、削りだしたかのような巨石があり、その高さは十二丈ほどにもある。南側の方が高く、北側の方が低い。石の扉があってこれを覆う。よって石堂と呼ばれている。

  ここからは、次のようなことが分かります。
①南北に二つならんで巨石があり、北側の方が高い。
②巨石には空間があり、石の扉もあるので石堂と呼ばれている

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北側から見た石堂
この石堂が「大工石小屋」で、この山は石堂山と呼ばれるようになったことが分かります。同時にこれは、「巨石」という存在だけでなく「宗教的遺跡」だったことがうかがえます。それは、後で考えることにして、前に進みます。

石堂山6
 石堂と御塔石(石堂山直下の稜線上の宗教遺跡)
石堂(大工石小屋)からひとつコルを越えると、次の巨石が姿を見せます。
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お塔石(おとういし:右下祠あり) 後が矢筈山 
山伏たちが好みそうな天に突き刺す巨石です。高さ約8mの方尖塔状の巨石です。これが御塔(おとう)石で、石堂神社の神体と崇められてきたようです。その奥に見えるのが矢筈(やはず)山で、石堂神社の奥の院とされていました。

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御塔石の石祠

御塔石の右下部には、小さな石の祠が見えます。この祠の前に立ち「教え給え、導き給え、授け給え」と祈念します。そして、この祠の下をのぞくと、スパッと切れ落ちた断崖(瀧)になっています。ここで、修験者たちは先達として連れてきた信者達に捨身行をおこなわせたのでしょう。それを奥の院の矢筈山が見守るという構図になります。

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石堂山からのお塔岩(左中央:その向こうは石堂神社への稜線)
先ほど見た阿波志には「絶頂に石あり 削成する如し」と石堂のことが記されていました。修験者にとって石堂山の「絶頂」は、石堂と御塔石で、現在の山頂にはあまり関心をもっていなかったことがうかがえます。

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お塔石の前の笹原に座り込んで、石堂山で行われていた修験者の活動を考えて見ました。 
 修験者が開山し、霊山となるには、それなりの条件が必要なでした。どの山も霊山とされ開山されたわけではありません。例えば、次のような条件です。
①有用な鉱石が出てくる。
②修行に適した行場がある。
③本草綱目に出てくる漢方薬の材料となる食物の自生地である
①③については、以前にお話ししたので、今回は②について考えて見ます。最初にここにやってきた修験者が、天を突き刺すようなお塔岩を見てどう思ったのでしょうか。実は、石鎚山の行場にも、お塔岩があります。
石鎚山と石土山(瓶が森)
 伊豫之高根  石鎚山圖繪(1934年発行)
以前に紹介した戦前の石鎚山絵図です。左が瓶が森、右が石鎚山で、中央を流れるのが西の川になります。左の瓶が森を拡大して見ます。

2石鎚山と石土山(瓶が森)
    石鎚山圖繪(1934年発行)の左・瓶が森の部分 

これを見ると、瓶が森には「石土蔵王大権現」とあり、子持権現をはじめ山中に、多くの地名が書き込まれています。これらはほとんどが行場になるようです。石鎚山方面を見ておきましょう。

石鎚古道 今宮道と黒川宿の繁栄様子がはっきり記されている
石鎚山圖繪(1934年発行)の右・石鎚山の部分

 今から90年前のものですから、もちろんロープウエイはありません。今宮から成就社を越えて石鎚山に参拝道が伸びています。注目したいのは土小屋と前社森の間に「御塔石」と描かれた突出した巨石が描かれています。それを絵図で見ておきましょう。
石鎚山 天柱金剛石
「天柱 御塔石」と記されています。現在は「天柱石」と呼ばれていますが、もともとは「御塔石(おとういし)」だったようです。石堂山の御塔石のルーツは、石鎚山にあったようです。この石も行場であり、聖地として信仰対象になっていたようです。こうしてみると霊山の山中には、稜線沿いや谷川沿いなどにいくつもの行場があったことがうかがえます。いまでは本尊のある頂上だけをめざす参拝登山になっていますが、かつては各行場を訪れていたことを押さえておきます。このような行場をむすんで「石鎚三十六王子」のネットワークが参道沿いに出来上がっていたのです。

 修験道にとって霊山は、天上や地下にあるとされた聖地に到るための入口=関門と考えられていました。
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。そして、神や仏は山上の空中や、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝は天界への道、
④奈落の底まで通じる火口、断崖(瀧)
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界とされました。このような場所が行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったようです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされます。境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。
 その山が、年に一度「開放」され「異界への入口」に立つことが出来るのが、お山開きの日だったのです。神々との出会いや、心身を清められることを願って、人々は先達に率いられてお山にやってきたのです。そのためには、いくつも行場で関門をくぐる必要がありました。
 土佐の高板山(こうのいたやま)は、いざなぎ流の修験道の聖地です。
高板山6
高板山(こうのいたやま)

いまでも大祭の日に行われている「嶽めぐり」は、行場で行を勤めながらの参拝です。各行場では童子像が迎えてくれます。その数は三十六王子。これも石鎚三十六王子と同じです。

高板山11
          高板山の行場の霊像

像のある所は崖上、崖下、崖中の行場で、その都度、南無阿弥陀仏を唱えて祈念します。一ノ森、ニノ森では、入峰記録の巻物を供え、しばし経文を唱えます。
高板山 不動明王座像、四国王目岩
               不道明坐像(高板山 四国王目岩)
そして、各行場では次のような行を行います。
①捨て宮滝(腹這いで岩の間を跳ぶ)
②セリ岩(向きでないと通れないほど狭い)
③地獄岩(長さ10mほどの岩穴を抜ける、穴中童子像あり)
④四国岩、千丈滝、三ッ刃の滝などの難所
ちなみに、滝とは「崖」のことであり水は流れていません。
行場から行場への道はまるで迷路のように上下曲折し、一つ道を迷えば数ヶ所の行場を飛ばしてしまいます。先達なくしては、めぐれません。

高板山 へそすり岩9
高板山 臍くぐり岩
石鎚山や高板山を見ていると、石堂山の石堂やお塔石なども信仰対象物であると同時に、行場でもあったことがうかがえます。

 それを裏付けるのがつるぎ町木屋平の「木屋平分間村絵図」です。
木屋平村絵図1
        木屋平分間村絵図の森遠名エリア部分

この絵図には、神社や寺院、ばかりでなく小祠・お堂が描かれています。そればかりか村人が毎日仰ぎ見る村境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現なども描かれています。その中には,村人がつけた河谷名や山頂名,小地名,さらに修験の霊場数も含まれます。それを登場数が多い順に一覧表にまとめたのが次の表です。
木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観一覧表

この表を見ると、もっとも描かれているのは巨岩197です。巨岩197のある場所を、研究者が縮尺1/5000分の1の「木屋平村全図」(1990)と、ひとつひとつ突き合わせてみると、それが露岩・散岩・岩場として現在の地形図上で確認できるようです。絵図は、巨石や祠の位置までかなり正確にかかれていることが分かります。そして、巨岩にはそれぞれ名前がつけられています。固有名詞で呼ばれていたのです。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
          三ツ木村と川井村の「宗教施設」
 ここからは、木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が形成されていたと研究者は考えています。同じようなことが、風呂塔から奥の院の矢筈山にかけてを仰ぎ見る半田町のソラの集落にも云えるようです。そこにはいくつもの行場と信仰対象物があって「石堂大権現三十六王子」を形成していたと私は考えています。それが神仏分離とともに、修験道が解体していく中で、石堂山の行場や聖地も忘れ去られていったのでしょう。そんなことを考えながら石堂山の頂上にやってきました。

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石堂山山頂
ここは広い笹原の山頂で、ゆっくりと寝っ転がって、秋の空を眺めながらくつろげます。

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しかし、宗教的な意味合いが感じられるものはありません。修験者にとって、石堂山の「絶頂」は、石堂であり、お塔石であったことを再確認します。
 さて、石堂山を開山し霊山として発展させた山岳寺院としては、半田の多門寺や、井川の地福寺が候補にあがります。特に、地福寺は近世後半になって、見ノ越に円福寺を創建し、剣山信仰の拠点寺院に成長していくことは以前にお話ししました。地福寺は、もともとは石堂山を拠点としていたのが、近世後半以後に剣山に移したのではないかというのが私の仮説です。それまで、石堂山を霊山としていた信者たちが新しく開かれた剣山へと向かい始めた時期があったのではないかという推察ですが、それを裏付ける史料はありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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石堂山
石堂神社から石堂山まで
つるぎ町半田の奥にそびえる石堂山は、かつては石堂大権現とよばれる信仰の山でした。
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標高1200mと記された看板
 現在の石堂神社は1200mの稜線に東面して鎮座しています。もともとこの地は、半田と木屋平を結ぶ峠道が通じていたようです。そこに石堂山の遙拝地であり、参拝登山の前泊地として整備されたのが現在の石堂神社の「祖型」だと私は推察しています。県道304号からアップダウンの厳しいダートの道を越えてくると、開けた空間が現れホッとしました。東向きに鎮座する本堂にお参りして、腰を下ろして考えます。

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 スチールの鳥居が白く輝く石堂神社

 かつて石堂山は、明治維新の神仏分離までは、石堂大権現と呼ばれていました。金比羅大権現と同じように、修験者が信仰する霊山で、行場や頂上には様々な神々が祀られていました。

石堂山2
石堂神社からの石堂大権現の霊山
そのエリアは、風呂塔 → 火上山 → 白滝山 → 石堂山 → 矢筈山を含む一円だったようです。このエリアを修験者たちは行場として活動していたようです。ここで修行を積んで験を高めた修験者たちは、各地に出向いて信仰・医療・広報活動を行い、信者を増やし、講を組織します。そして、夏の大祭には先達として信者達を連れて、本山の石堂大権現に参拝登攀に訪れるようになります。それは石鎚参拝登山と同じです。石鎚参拝登山でも、前神寺や横峰寺など拠点となった山岳寺院がありました。同じように、石堂大権現の拠点寺となったのが井川町の地福寺であり、半田町の多門寺であることを前回にお話ししました。
 先達山伏は、連れて来た信者達を石堂山山頂近くの「お塔石」まで導かなければなりません。そのためには参拝道の整備ととともに、山頂付近で宿泊のできる施設が必要になります。それはできれば、朝日を浴びる東向きの稜線上にあることがふさわしかったはずです。そういう意味では、この神社の位置はピッタリのロケーションです。

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明るく開けた石堂神社の神域
  現在の石堂神社には、素盞嗚尊・大山祇尊・嵯峨天皇の三柱の祭神が祭られているようです。

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石堂神社拝殿横の祠と祀られている祭神
しかし、拝殿横の小さな祠には、次のような神々が祀られています。
①白竜神 (百米先の山中に祭る)
②役行者神変(えんのぎょうじゃ じんべん)大菩薩
③大山祇命
どうやらこの三神が石堂大権現時代の祭神だったようです。神仏分離によって本殿から追い出され、ここに祀られるようになったのでしょう。
役行者と修験道の世界 : 山岳信仰の秘宝 : 役行者神変大菩薩一三〇〇年遠忌記念(大阪市立美術館 編) / ハナ書房 /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
役行者(えんのぎょうじゃ)

②の役行者は修験道の開祖とされる人物で、「神変」は没後千年以上の後に寛政2年(1799年)に光格天皇から送られた諡号です。
③の大山祇命(オオヤマツミ)の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味で、三島神社(三嶋神社)や山神社(山神神社)の多くでも主祭神として祀られています。石堂大権現に祭る神としては相応しい神です。

問題は①の白竜神です。竜は龍神伝説や善女龍王伝説などから雨乞いとからんで信仰されることがあるようですが、讃岐と違って阿波では雨乞い伝説はあまり聞きません。考えられるのは、「白滝山」から転じたもので、白滝山に祀られていた神ではないのかと私は考えています。「百米先の山中に祭る」とあるので、早速行って見ることにします。

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石堂山への参道登山口(石堂神社の鳥居)
 持っていく物を調えて、参拝道の入口に立つ鳥居をくぐります。もみじの紅葉が迎えてくれます。

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最初の上りを登って振り返ると、石堂神社の赤い屋根が見えます。
そして前方に開けてきたのが「磐座の広場」です。

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白竜神を祀る磐座(いわくら)群

石灰岩の大小の石が高低差をもって並んでいます。古代神道では、このような巨石には神が降り立つ磐座(いわくら)と考え、神聖な場所とされてきました。その流れを汲む中世の山伏たちも磐座信仰を持っていました。
金毘羅神
天狗姿で描かれた金毘羅大権現
 修験者は天狗になるために修行をしていたともいわれます。そのため天狗信仰の強かった金毘羅大権現では、金毘羅神は天狗姿で描かれているものもあります。修験者にとって天狗は、憧れの存在でした。

天狗 烏天狗
霊山に宿る仏達(右)と天狗たち(左)
聖なる山々に棲む天狗が集って集会を開くのが「磐座の広場」でした。決められた岩の上に、決められた天狗たちが座するとされました。修験者には、この磐座群に多くの天狗達が座っていたのが見えたのかもしれません。それを絵にしてイメージ化したものが金毘羅大権現にも残っています。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
 金毘羅大権現と天狗達(金毘羅大権現の別当金光院が出していた)

つまり、石堂神社の裏手の山は上の絵のように、石堂大権現と天狗達の集会所として聖地だったと、私は「妄想」しています。そうだとすれば、石堂大権現が座ったのは、中央の大きな磐座だったはずです。

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白竜神を祀る磐座(いわくら)群(石堂神社裏)

ここも修験者たちにとっては聖なる場所のひとつで、その下に遙拝所としての石堂神社が鎮座しているとも考えられます。
下の地図で①が石堂神社、②が白竜神の磐座です。

石堂神社

ここから③の三角点までは、標高差100mほどの上りが続きます。しかし、南側が大規模に伐採中なので展望が開けます。

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南側の黒笠山から津志獄方面
南側の山陵の黒笠山から津志獄へと落ちていく稜線がくっきりと見えます。
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黒笠山から津志獄方面の稜線

いったん平坦になった展望のきく稜線が終わって、ひとのぼりすると③の三角点(1335、4m)があります。

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三角点(1335、4m)
この三角点の点名は「石小屋」です。この附近に、籠堂的な岩屋があったのかもしれません。
 この附近までは北側は、檜やもみの針葉樹林帯で北側の展望はききません。その中に現れた道標です。

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林道分岐まで2㎞とあります。分岐から石堂神社までが1㎞でしたから、石堂神社から1㎞地点になります。
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          小さな二重山陵がつづく
この附近は南側(左)がミズナラやダケカンバの広葉樹、北側(右)が檜やモミなどの針葉樹が続きます。その間に小さな二重稜線が見られます。これは矢筈山の西側稜線にも続いています。 二重稜線とは、稜線が二重に並走し,中間に凹地が出来ている地形で、時に沼沢地や湿地などを生み出します。そのため変化のある風景や植物環境が楽しめたりします。
 標高1400mあたりまでくると大きなブナが迎えてくれました。

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ブナの木
この山でブナに出会えるとは思っていなかったので、嬉しくなって周辺の大きなブナを探して見ました。石堂山の大ブナ紹介です。

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後は黒笠山

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稜線上のブナ 私が見つけた中では一番根回りが太い

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ブナ林の中から見えた吉野川方面
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拡大して見ると、
直下が半田川沿いの集落、左手が半田、右が貞光方面。その向こうに連なるのが阿讃山脈。この範囲の信者達が大祭の日には、石堂山を目指したはずです。

石堂神社

④のあたりが大きなブナがあるところで標高1400mあたりの稜線になります。④からは急登になって、南側からトラバースするようにして白滝山のすぐ南の稜線に出て行きます。そこにあるのが⑥の道標です。
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白滝山と石堂山の分岐点。(林道まで3㎞:
地面におちた方には「白滝山 100m」とあります
笹の中の歩きやすい稜線を少し歩くと白滝山の頂上です。
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白滝山頂上
白滝山頂上は灌木に囲まれて、展望はいまひとつです。あまり特徴のない山のように思えますが、地図や記録などをみると周辺には断崖や
切り立った岩場があるようです。これらを修験者たちは「瀧」と呼びました。そんな場所は水が流れて居なくても「瀧」で行場だったのです。白滝山周辺も、白い石灰岩の岩場があり「白滝」と呼ばれていたと私は考えています。つまり、石堂山系の中の行場のひとつであったのです。そして、この山から北に続く火上山では、修験者たちが修行の節目に大きな護摩祈祷を行った山であることは以前にお話ししました。
石堂山から風呂塔
北側上空からの石堂山系俯瞰図
 今回はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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11月の連休は快晴続きで、9月末のような夏日の日が続きました。体力も回復してきたので、久しぶりに稜線を歩きたくなり、あっちこっちの山々に出没しました。前回紹介した石堂山にも行ってきたので、その報告記を残しておきます。この山は明治の神仏分離までは「石堂大権現」と呼ばれ、修験者たちの修行の場で、霊山・聖地でした。
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石堂山直下の 「お塔石」
頂上直下の 「お塔石」がご神体です。また、山名の由来ともなった石室(大工小屋石:石堂)もあります。「美馬郡郷土誌」には、大正時代まで祭日(旧6月27日)には多くの白衣の行者たちが、この霊山をめざしたことが記されています。彼らが最初に目指したのが、つるぎ町半田と木屋平の稜線上に鎮座する石堂神社です。グーグルに「石堂神社」と入れると、半田町経由の県道304号でのアプローチルートが提示されます。指示されるとおり、国道192号から県道257号に入り、半田川沿いに南下します。このエリアは、かつて端山88ヶ所巡礼のお堂巡りに通った道です。見慣れたお堂に挨拶しながら高清で県道258号へ右折して半田川上流部へと入っていきます。

半田町上喜来 多聞院.2

上喜来・葛城線案内図(昭和55年5月5日作成)
以前に端山巡礼中に見つけた43年前の住宅地図です。
①は白滝山を詠んだ歌です。
八千代の在の人々は 
   仰げば高き白滝の映える緑のその中に 
小浜長兵衛 埋けたる金が 
   年に一度は枝々に 黄金の色の花咲かす
このエリアの人々が見上げる山が白滝山で、信仰の山でもあり、「黄金伝説」も語り継がれていたようです。実際の白滝山は③の方向になります。石堂山は、白滝山の向こうになるので里からは見えないようです。
②は石堂神社です。上喜来集落の岩稜の上に建っていたようです
⑥の井浦堂の奥のに当たるようですが、位置は私には分かりません。この神社は、稜線上にある石堂神社の霊を分霊して勧進した分社であることは推察できます。里の人達が白滝山や石堂山を信仰の山としていたことが、この地図からもうかがえます。
⑦には「まゆ集荷場」とあります。
現在の公民館になっている建物です。ここからは1980年頃までは、各家々で養蚕が行われ、それが集められる集荷場があったということです。蚕が飼われていたと云うことは、周辺の畑には桑の木が植えられていたことになります。また、各家々を見ると「養鶏場」とかかれた所が目立ちます。そして、いまも谷をつめたソラの集落の家には鶏舎が建ち並ぶ姿が見えます。煙草・ミツマタ・養蚕などさまざまな方法で生活を支えてきたことがうかがえます。

多門寺3
多門寺とサルスベリ
この地図を見て不思議に思うのは、多門寺が見えないことです。
多門寺には室町時代と伝えられる庭と、本尊の毘沙門天が祀られています。古くからの山岳信仰の拠点で、この地域の宗教センターで会ったことがうかがえます。

多門寺
多門寺の本堂と庭
前回もお話ししたように、石堂大権現信仰の中核を占めていた寺院が多門寺だと私は思っています。その寺がどうしてここに書き込まれていないのかが私には分かりません。県道258号を先を急ぎます。

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風呂塔・土々瀧への分岐点
多門寺の奥の院である土々瀧の灌頂院への分岐手前の橋の上までやってきました。ここで道標を確認して、左側を見ると目に見えてきたのが次の建物でした。
半田川沿いの旅籠
          土々瀧への分岐点の旅館?
普通の民家の佇まいとはちがいます。拡大して見ると・・

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謎の旅館
旅館の窓のような印象を受けます。旅館だとすると、どうしてこんなところに旅館が建っていたのでしょうか。
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謎の旅館(?)の正面側

私の持っている少ない情報で推察すると、次の二点が浮かんできました。
①石堂大権現(神社)への信者達の参拝登攀のための宿
②多門寺の奥の院灌頂院への信者達の宿
謎の旅館としておきます。ご存じの方がいらっしゃったらお教え下さい。さらに県道258号を登っていきます。

四眠堂
四眠堂(つるぎ町半田紙屋)
 紙屋集落の四眠堂が道の下に見えてきます。
ここも端山巡礼で御世話になったソラのお堂です。これらのお堂を整備し、庚申信仰を拡げ、庚申講を組織していったのも修験者たちでした。
 霊山と呼ばれる寺社には、多くの高野聖や修験者(山伏)などの念仏聖が庵を構えて住み着き、そこを拠点にお札配布などの布教活動をおこなうようになります。阿波の高越山や石堂山周辺が、その代表です。修験者たちが庚申信仰をソラの集落に持込み、庚申講を組織し、その信仰拠点としてお堂を整備していきます。それを阿波では蜂須賀藩が支援した節があります。つまり、ソラの集落に今に残るお堂と、庚申塔は修験者たちの活動痕跡であり、そのテリトリーを示すものではないかと私は考えています。

端山四国霊場 四眠堂
端山四国霊場68番 四眠堂
四眠堂の前を「導き給え 教え給え 授けたまえ」と唱えながら通過して行きます。半田川から離れて上りが急になってくると県道304号に変わります。しかし、県道表示の標識は私は一本も見ませんでした。意識しなければ何号線を走っているのかを、気にすることはありません。鶏舎を越えた急登の上に現れたのがこのお堂。

庚申堂 半田町県道304号
半田小谷の庚申堂
グーグルには「庚申堂」で出てきます。

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           半田小谷の庚申堂

   高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったと考える研究者もいます。ソラの集落の信仰には、里山伏(修験者)たちが大きな役割を果たしていたのです。その核となったのがこのようなお堂だったのです。
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最後の民家
 上に登っていくほどに県道304号は整備され、走りやすくなります。植林された暗い杉林から出ると開けた空間に出ました。ススキが秋の風に揺らぐ中にあったのがこの民家です。周囲は畑だったようです。人は住んでいませんが、周辺は草刈りがされて管理されています。「古民家マニア」でもあるので拝見させていただきます。

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民家へのアプローチ道とススキP1260095
庭先から眺める白滝山
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庭先からの吉野川方面
この庭先を借りて、お茶を沸かして一服させていただきました。西に白滝山が、北に吉野川から讃岐の龍王・大川、東に友納山や高越山が望めます。素晴らしいロケーションです。そしてここで生活してきた人達の歴史について、いろいろと想像しました。そんな時に思い出したのが、穴吹でも一番山深い内田集落を訪れた時のことです。一宇峠から下りて、集落入口にある樫平神社でお参りをして内田集落に上がっていきました。めざす民家は、屋号は「ナカ」で、集落の中央という意味でしょう。この民家を訪ねたのは、屋敷神に南光院という山伏を祀(まつ)っていることです。先祖は剣周辺で行を積んでいた修験道でなかったのかと思えます。
 村里に住み着いた修験者のことを里山伏と呼ぶことは先ほど述べました。彼らは村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
 この家の先祖をそんな山伏とすれば、ひとつの物語になりそうな気もしてきます。稜線に鎮座する石堂大権現を護りながら、奥の院である矢筈山から御神体である石堂山のお塔岩、そして断崖の白滝山の行場、護摩炊きが山頂で行われた火揚げ山を行場として活動する修験者の姿が描けそうな気もします。

石堂山から風呂塔
     矢筈山から風呂塔までの石堂大権現の行場エリア
ないのは私の才能だけかもしれません。次回はテントを持ってきて、酒を飲みながら「沈思黙考」しようと考えています。「現場」に自分を置いて、考えるのが一番なのです。
 この民家を後にすると最後のヘアピンを越えると、道は一直線に稜線に駆け上っていきます。その北側斜面は大規模な伐採中で視界が開け、大パノラマが楽しめる高山ドライブロードです。

石堂山
県道304号をたどって石堂神社へ
稜線手前に石堂神社への入口がありました。

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県道304号の石堂神社入口
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石堂神社への看板
ここからは1㎞少々アップダウンのきついダートが続きます。

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石堂神社参のカラマツ林
迎えてくれたのは、私が大好きな唐松の紅葉。これだけでも、やってきた甲斐があります。なかなか緊張感のあるダートも時間にすればわずかです。

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標高1200mの稜線上の石堂神社
たどりついた石堂神社。背後の木々は、紅葉を落としている最中でした。
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拝殿から鳥居方向
半田からは寄り道をしながらも1時間あまりでやってきました。私にとっては、快適な山岳ドライブでした。これから紅葉の中の稜線プロムナードの始まりです。それはまた次回に。

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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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地福寺(井川町井内)
以前に、地福寺と修験者の関係を、次のようにまとめました。
①祖谷古道が伸びていた井内地区は、祖谷との関係が深いソラの集落であったこと
②馬岡新田神社と、その別当寺だった地福寺が井内の宗教センターの役割を果たしていたこと
③地福寺は、剣山信仰の拠点として多くの修験者を配下に組み込み、活発な修験活動を展開していたこと
④そのため地福寺周辺の井内地区には、修験者たちがやってきて定着して、庵や坊を開いたこと。それが現在でも、集落に痕跡として残っていること
③に関して、剣山は近世後半になって、木屋平の龍光寺と、井川の地福寺によって競うように開山されたことは以前にお話ししました。見ノ越の剣神社やその別当寺として開かれた円福寺を、剣山の「前線基地」として開いたのは地福寺でした。
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地福寺が見ノ越の円福寺の別当寺であることを示す

地福寺は、箸蔵寺とも緊密な関係にあって、その配下の修験者たちは讃岐に信者たちを組織し「かすみ」としていたようです。そのため讃岐の信者達は、地福寺を通じて見ノ越の円福寺に参拝し、そこを拠点に剣山での行場巡りをしていました。そのため見ノ越の円福寺には、讃岐の人達が残した玉垣が数多く残っています。丸亀・三豊平野からの剣山参詣の修験者たちの拠点は、次のようなものであったと私は考えています。
①金毘羅大権現の多聞院 → ②阿波池田の箸蔵寺 → 
③井川の地福寺 → ④見ノ越の円福寺」
そして、この拠点を結ぶ形で西讃地方の剣山詣では行われていたのではないかと推測します。

それでは③の地福寺が剣山を開山する以前に、行場とし、霊山としていたのはどこなのでしょうか。
それが石堂山だったと私は考えています。
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石堂山山頂
石堂山

石堂山は、つるぎ町一宇と三好市半田町の境界上にあります。

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石堂山のお塔岩

頂上近くにある 「お塔石」をご神体とする信仰の山です。石鎚の行場巡りにもこんな石の塔があったことを思い出します。修験者たちがいかにも、このみそうな行場です。

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         石堂山のお塔岩の祠
お塔岩の下には、小さな祠が祀られていました。この下はすぱっと切れ落ちています。ここで捨身の行が行われていたのでしょう。

この山には、もうひとつ巨石が稜線上にあります。
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阿波志(文化年間)には、次のように記されています。
「絶頂に石あり削成する如し高さ十二丈許り南高く北低し石扉あり之を覆う因て名づけて石堂と曰う」
意訳変換しておくと
頂上には、削りだしたかのような巨石があり、その高さは十二丈ほどにも達する、北側の方が低く、石の空間があるので石堂と呼ばれている。


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石堂山の石堂

ここからは、次のようなことが分かります。
①南北に二つならんだ巨石が並んで建っている。
②その内の北側の方には、石に空間があるので石堂と呼ばれている
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大工小屋石
つまり石堂山には山名の由来ともなった石室(大工小屋石)があり、昔から修験道の聖地でもあったようです。

「美馬郡郷土誌」には、大正時代まで祭日(旧6月27日)には白衣の行者多数の登山者が、この霊山をめざした記されています。
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また石室から西方に少し進むと、御塔(おとう)石とよばれる高さ約8mの方尖塔状の巨石がそびえます。これが石堂神社の神体です。また石堂山の南方尾根続きの矢筈(やはず)山は奥院とされていました。この山もかつては石堂大権現と呼ばれ、剣山を中心とした修験道場の一つで、夏には山伏たちが柴灯護摩を修行した行場であったのです。

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石堂山方面からの白滝山

 白滝山(しらたきやま 標高1,526m) は、東側の頂上直下附近は、石灰岩の断崖や崩壊跡が見られます。修験者たちは、断崖や洞窟を異界との接合点と考えて、このような場所を行場として行道や瞑想を行いました。白滝山周辺の断崖は、行場であったと私は考えています。
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              白滝山山頂
 白滝山からさらに北に稜線を進むと火打山です。
火上山・火山・焼ケ山というのは、修験者たちが修行の区切りに大きな火を焚いて護摩供養を行った山です。石堂山からは東に流れる吉野川が瀬戸内海に注ぎ込む姿が見えます。火打山で焚いた護摩火は海を行く船にも見えたはずです。
 火打山につながる「風呂塔」も、修験者たちが名付けた山名だと思うのですが、それが何に由来するのかは私には分かりません。しかし、この山も修験者たちの活動する行場があったと思います。こうして見ると、このエリアは次のような修験者たちの霊地・霊山だったことがうかがえます。
「風呂塔 → 火上山(護摩場) → 白滝山(瀧行場) → 石堂山(本山) →矢筈山(奥の院)」から

ここを行場のテリトリーとしていたのは、多門寺(つるぎ町半田上喜来)が考えられます。
多門寺
多門寺(つるぎ町半田上喜来)
このお寺は今でも土々瀧にある奥の院で、定期的な護摩法要を行い、多くの信者を各地から集めています。広範囲の信者がいて、かつての信徒集団の広がりが垣間見えます。この寺が山伏寺として石堂神社の別当を務めたいたと推測しているのですが、史料はありません。また、最初に述べた地福寺からも、水の口峠や桟敷峠を越えれば、風呂塔に至ります。つまり、地福寺が見ノ越を中心に剣山を開山する以前は、地福寺も石堂山を霊山として、その周辺の行場での活動を行っていたというのが今の私の仮説です。

 最後に石堂山から東に伸びる標高1200mの稜線に鎮座する石堂神社を見ておきましょう。
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石堂神社

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東面して鎮座する石堂神社
この神社も神仏分離以前には、石堂大権現と呼ばれていたようです。そして夏には、山伏たちが柴灯護摩を修行していたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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ソラの集落の寺社とお堂と庚申塔を訪ねての原付ツーリングが続きます。今回は山城町の白川谷川沿いに、塩塚高原を越えて新宮へのソラの集落をたどるツーリングです。グーグル地図を見ると「小歩危展望台」が追加されています。寄っていくことにします。

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小歩危展望台
三好市では、こんな展望台をあっちこっちに作って、新名所にしようとしているようです。なかなか面白くて、外れがありません。

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 正面真下を吉野川が流れます。この方向から吉野川が見える展望台は初めてです。
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ホワイトウオーターの中を、ラフテングボートが下って行きます。
ここで、休憩して白川谷川に沿って塩塚高原を目指します。

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白川谷川
 開放的で明るい白川谷川をさかのぼって行きます。本殿と拝殿が国の登録有形文化財になっている大日孁(おおひるめ)神社があるのでお参りして行くことにします。川を渡って向こう側の小高い山の上にあるようです。
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当然、長い階段が待ち受けています。一瞬、引き返そうかと思いましたが、そんな失礼はできないと・・覚悟を決めて登り始めます。
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       大日孁(おおひるめ)神社 拝殿
そして姿を現したのがこの拝殿。神域の森の中にひっそりと鎮座して雰囲気があります。河原から運び上げた青石の基壇の上に、すっきりとした拝殿が建ちます。近づいてみます。
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向背虹梁には、見事な龍が巻き付いています。お参りを済ませて、説明版を確認します。
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拝殿の説明版

ここには次のような事が書かれています。
①創建当初は大蛇大明神
②神仏分離後の1874年に大日るめ神社と改名
③拝殿・本殿ともに、1898年に香川県三豊郡の宮大工高橋貞造・棟梁次田弥八の作
④拝殿は、細部まで高度で特徴的な彫刻が施されていること。
背後に回り込み本殿にもお参りします。
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       大日孁神社 本殿


こちらの彫刻も独創的です。手の込んだ造りです。説明版で確認します。
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本殿説明版

①二軒社流造の銅板葺
②尾垂木付の三手先で軒を伸ばして、腰組を出組で受けている。
③頭抜木鼻には人物面が、破風には龍が巻きつく
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大日孁神社本殿
拝殿と本殿に参拝して一番注目したいのは、讃岐三豊の大工が呼ばれて建立していることです。三豊の大工が土佐の嶺北地方で、仕事をしていたことは以前に次のように紹介しました。
  長宗我部元親の阿波への侵攻が本格化する天正八(1580)年の史料に次のように記されています。
土佐国土佐郡森村(土佐郡土佐町)の領主森氏の一族森右近尉が、森村の阿弥陀堂を造立したときの棟札銘です。
 天正八庚辰年造立
 大檀那森右近尉 本願大僧都宥秀 大工讃州仁尾浦善五郎
この時の阿弥陀堂建立の大檀那は森右近尉、本願僧侶は宥秀です。彼らが招いたのが「讃州仁尾浦善五郎」のようです。善五郎という仁尾浦の大工が請け負っています。土佐郡森は四国山地の早明浦ダムの南側にあり、仁尾からはいくつもの山を超える必要があります。ここからは、四国・讃岐山脈を越えて仁尾との間に日常的な交流があったことがうかがえます。讃岐西部-阿波西部-土佐中部のエリアは、仁尾商人や大工たちが入り込み、広く営業活動を展開していたようです。
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           本殿の三手先と彫刻
それが明治になっても、地域の小社を統合してあらたな社殿と拝殿を建てる際に、三豊の宮大工たちが招かれています。ここからは、近世を通じて三豊と阿波西部には日常的な交易活動が明治になっても続いていたことがうかがえます。そして三豊の宮大工は、「大蛇大明神」と呼ばれてきた神社のために、龍(蛇)のデザインで空間を埋めます。
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                 大日孁神社本殿の龍(蛇)のデザイン

 この神社も神仏混淆の時代には、別当寺の社僧が祭礼を担当していたはずです。彼らは真言系修験者でもありました。中世には、彼らと三豊の修験者も教学面などでつながっていたことを示す史料があります。
  三好市池田町の吉野川と祖谷川の合流点に鎮座する三所神社には、応永9年(1402)の大般若経600経が保管されています。
祖谷口の山所神社
三所神社の大般若経の説明版

その中の奥書に、次のように記されたものがあります。

「讃州三野郡熊岡庄八幡宮持宝院、同宿二良恵」

ここからは、祖谷口の山所神社の大般若経の一部が「三野郡熊岡庄八幡宮」の別当寺「持宝院(本山寺)」に「同宿(寄寓)」する「良恵」によって書写されたことが分かります。
良恵は住持でなく聖のようです。与田寺の増吽が阿波の修験者たちとネットワークを形成し、大般若経書写をやっていたのと同じ動きです。讃岐三豊の持宝院(本山寺)と、阿波池田の山所神社も修験道・聖ネットワークにで結ばれていたのでしょう。同時にこのような結びつきは、「モノ」の交易を伴うものであったことが分かってきました。
仁尾覚城院
仁尾覚城院
 仁尾覚城院の大般若経書写事業には、雲辺寺(徳島県三好郡池田町)の僧侶が参加しています。
与田寺氏の増吽で見たように、大般若経書写事業は僧侶たちの広いネットワークがあってはじめて成就できるものです。覚城院と雲辺寺は、写経ネットワークがつながっていたことが分かります。その背景には、雲辺寺が天台・真言の両派の学問寺であったことあるようです。雲辺寺は、西土佐・三豊・新宮・土佐嶺北の学問寺で、写経センターであったと私は考えています。そして、雲辺寺で学んだ密教系僧侶は、「卒業」して各地の寺社に「赴任」していきます。こうして、雲辺寺(後には萩原寺)や覚城院を中心とする密教系修験者のつながりが形成されていたという見通しです。熊野行者はあるときには、真言系修験者で高野聖でもありました。
 15世紀初頭に覚城院を再建したのは、与田寺の増吽でした。
彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。
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 社殿に背を向けて帰ろうとすると、眼に入ってきたのが鳥居の隣のお堂です。
最近改修されたようですが、神社の神域の中に建つ観音堂です。神仏分離以前には、これは当たり前の姿でした。それがこの国の伝統だったです。お堂にも参拝します。そして、ここに導いてくれたことを感謝します。
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  白川谷川をさらに上流に進み、とびの巣渓谷と仏子の分岐を右に折れて塩塚高原を目指します。

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仏子の水車
仏子の水車を越えて、原付を走らせます。10年以上乗っている娘のお下がりのバイクですが、喘ぎ喘ぎながらも急な登りを上がって行ってくれます。そして阿波側の最後の集落である落尾の家々が姿を見せ始めます。
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尾又のソラの鐘
ソラの鐘を見上げながら進むとお堂が姿を見せます。
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尾俣のお堂

隣には大きな銀杏。ここからはソラの集落がよく見えます。
尾俣からは植林された杉林の中を登っていきます。台風で落ちた枝などが林道に積もるように落ちています。暗い杉林の中を抜けると、塩塚高原に抜け出たようです。
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塩塚高原のススキ
快適なスカイラインを走って、展望の開けた所で原付を止めます。

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背後の山が雲辺寺です。そして、荘内半島から三豊平野がよく見えます。このエリアのソラの集落が三豊と「塩とお茶と修験者」によって
つながっていたことを改めて実感させてくれる眺めでした。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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野鹿池山の避難小屋から上名を望む
原付スクーターでの野鹿池山ツーリング報告記の二回目です。
前回は、次のことを押さえました
①阿波西部の吉野川の支流域が古くからの熊野行者の活動領域であり、熊野詣での参拝ルートでもあったこと。
②讃岐の仁尾商人が塩や綿を行商しにやってきて、帰りに茶葉を持ち帰ったこと。つまり、讃岐との間に「塩・綿と茶葉との道」が開かれていたこと。
③その交易活動を熊野修験者たちが支援していたこと。
④そのため密教系修験者間のネットワークが讃岐西部と阿波西部では結ばれていたこと。

さて今回は、「三名士」についてです。この言葉を私は、始めて次の説明版で知りました。

P1170441
妖怪街道にあった説明版
ここには次のようなことが記されています。
①土佐との国境防備のために、山城町の藤川谷川沿いに三人の郷士が配置されたこと
②それが上名・下名・西宇に置かれたので、併せて三名村と呼ばれたこと
③藤川谷川も、上名を治めた藤川氏の名前に由来すること
ナルホドなあと感心する一方で、これだけでは簡略すぎてよく分かりません。帰ってきて調べたことをメモ代わりに残しておきます。参考文献は、「三好郡山城町三名士について    阿波郷土研究発表会紀要第24号」です。

三名士とは、旧三名村(山城町)の次の三氏です。
①下名(しもみよう)村の大黒氏(藩制時代高200石)
②上名(かみみよう)村の藤川氏(高200石)及び
③西宇村の西宇氏(高150石)
山城町三名村
   三名の位置 吉野川沿いに南から①下名→②上名→③西宇 

 三名士は、蜂須賀家政が入国してくる以前からの土豪です。三氏の来歴を史料で見ておきましょう。
①下名の大黒氏は、渡辺源五綱の末流だと称します。
吉野川の土佐との国境に接するのが下名です。ここには南北朝時代の争乱期の建武年中(14世紀中頃)に渡辺武俊が大黒山に来て、大黒源蔵と名乗って細川讃岐守頼春に仕えます。それから約二百年後に、その子孫の武信が天正5年(1577)に、土佐から阿波へ進攻してきた長宗我部元親に服して、先陣となって、田尾城(現・山城町)攻めに加わって戦死をとげています。
②上名の藤川氏は、工藤和泉守祐親が貞和5年(1349)に深間山に来ています。
 藤川氏も南北朝時代に讃岐の細川頼春に仕え、貞治6年(1367)没しています。その子孫の次郎大夫の妻が、勝瑞城主の三好長治の末女であったため、その縁により長の字を賜わって長祐と改め、藤川姓を名乗ります。その子の長盛は、三好長治の命令で、讃岐の西長尾城(まんのう町)を攻略しています。三好氏の有力武将として、讃岐制圧に活躍した人物のようです。
③西宇の西宇氏は、井手刑部以氏が建武年中(1535頃)に西宇山へやって来ます。
これも細川頼春に仕え、西宇氏と改めたとします。その子孫である本家は天正10年(1582)中富川の戦で勇名を馳せ、重清城主大西頼武から武の字を賜わって、武元と改名しています。

  以上から三氏共に南北朝時代に、この地にやって来て讃岐守護の細川頼春に仕えたと聞き取り調査に答えています。しかし、考えて見ると南北朝時代は阿波の山間部は、熊野行者の活動で南朝勢力が強かった所です。そこで北朝の細川頼春に仕えたと云うこと自体が、私にはよく分からないところです。また、この動乱期に何れもが来歴しているのも妙な印象を受けます。もともと、土豪勢力であったとする方が自然な感じがします。
 そのような中で、下名の大黑氏は長宗我部元親の先兵として阿波攻略に働いたことが記されます。他の二氏もこの時期には、土佐軍に服従しなければ生き残れなかったはずです。
戦国時代 中国・四国 諸大名配置図(勢力図) - 戦国未満

 秀吉の四国平定後に長宗我部元親は土佐一国に封じ込められ、阿波には蜂須賀家政が阿波に入国してきます。
蜂須賀氏は四国平定戦で活躍し、長宗我部元親との講和も結んでいます。その功績を認められ戦後の論功行賞で、阿波一国が与えられ、長男家政は父同様、政権下での重要な置を占めることになります。
  一方、土佐の長宗我部元親は、柴田勝家や徳川家康と結び、島津義久を援助するなど、豊臣政権においては「外様」大名扱いされました。土佐の長宗我部は、秀吉にとっては仮想敵国だったのです。これに対して、秀吉子飼いの重要な豊臣大名である讃岐の生駒と阿波の蜂須賀は、瀬戸内海だけでなく士佐を抑える役割も担っていました。そのために、生駒・蜂須賀両藩は対土佐・長宗我部に対する同一ユニットの軍事編成が想定されていたと研究者は考えているようです。
 それを裏付けるように髙松城下町の防衛ラインである寺町は、高松・徳島ともに土佐を向いて形成されていることは以前にお話ししました。また実際に、生駒・蜂須賀連合軍が土佐を攻める軍事演習を行っていたことも紹介されています。
 このような中で蜂須賀氏も、土佐国境周辺の防備をどうするかという課題が出てきます。
そこでだされた方策を、各家成立書」には次のように記します。

 天正14年(1586)三好郡山城谷往来の者共御下知に相隨わざるに付、三名士3名の者へ相鎮め候様仰付られ、罷り起し、方便を以て降参仕らせ、人質等を捕え申し候所、御満足に思召され、山城谷高50石(西宇氏)(黒川名高100石・藤川氏、白川名高50石・大黒氏)御加増下し置かれ、御結構の御意の上、猶以て御境目御押として、御鉄炮の者30人三名士へ御指添、猶又急手の節は近山の者共召寄せ下知仕るべく、御隣国異変の節は油断なく御注進申上ぐべき旨仰付られ候。
 年始御礼の儀は3人の内、打代り1人は御押に居残り、2人渭津へ罷出で候様仰付られ、御礼の儀は御居間に於て1人立ち申上候。其時御境目静謐やと御尋ね遊ばされ、猶以て御境目相寄るべき旨の御意、年々御例に罷成候。

意訳変換しておくと
 天正14年(1586)三好郡の山城谷周辺の土豪たちの中には、蜂須賀家の命に従わないものもいた。そこで、有力者な三名士に鎮圧を命じたところ、武力によらずに従えさせ、人質を出すことについても合意した。この処置について、藩主は満足し、山城谷高50石(西宇氏)(黒川名高100石・藤川氏、白川名高50石・大黒氏)を加増し、御境目御押として、鉄炮衆30人の指揮権を三名士へ預け、緊急の場合には近山の者たちを招集し、指揮する権限を与えた。さらに、隣国土佐に不穏な動きがあった場合には、藩主に注進することを命じた。
 年始御礼の儀には、3人の内の1人は地元に居残り、2人が渭津へやってきて、御居間で1人立て、「其時御境目静謐や」と藩主が訊ねると「猶以て御境目相寄るべき旨の御意」と、答えるのが年頭行事となっていた。(各家成立書)

 ここからは、大歩危の土佐国境附近の政務の実権を三名士が藩主から委任されたことが分かります。当時は、九州平定に続く朝鮮出兵が予定されていて、軍事支出の増大が避けられない状態でした。そこで、池田城には家老格を配置しますが、土佐との国境防備のためには新たな負担はかけない。つまり、警備とパトロールに重点を置いた方策をとることにします。そのためには地域の有力土豪を取り立て、そこに自治的な権利や武装権を与えて運用する。いざという時には、土豪層の動員力でゲリラ的な抵抗を行い時間を稼ぐという戦略です。こうして阿波藩は、3氏を召し出して、従来の持掛名(もちがかりみよう)の所領安堵を約束し、高取り武士として所遇することになったようです。
  その任務は、次の通りです
A境目御押御用(さかいめおんおさえごよう・土佐国境警備)
B村内の治安・政務
C吉野川の流木御用
上名の藤川家成立書の3代藤川助兵衛長知の項(寛文元(1661)頃)には次のように記されています。
三名の儀(三名士)は以前より、百姓奉公人に相限らず、譜代家来同断に、不埓の事などこれ有り候節は、手錠・追込・追放など勝手次第に取行い、死罪なども御届申上げず候所、家来大吉盗賊仕り、讃州へ立退き候に付、彼地へ付届け仕り召捕り申候。尤も他国騒がせ候儀故、其節相窺い候所、庭生の者に候故、心の侭に仕る可き旨仰付られ候由、坂崎与兵衛より申し来り、大吉討首に仕り候。右与兵衛書面所持仕り罷在り候。其砌より以後死罪などの儀は、相窺い候様仰付られ候

意訳変換しておくと
三名士については、百姓や奉公人だけに限らず、譜代家来も不埓の事があった時には、手錠・追込・追放など「勝手次第」の措置を取ることができた。死罪なども藩に届けることなく実施できた。例えば、家来の中に盗賊となったものが、讃州へ亡命した時には、追っ手を差し向け召捕ったこともある。この時には、他国にまで騒ぎが広まり、国境防備に隙ができてはならないとの配慮も有り、討首に処せられた。これ以後については、死罪などの処置については、藩に相談するようにとの指導があった。

 三名士は、初めは高取りで、無足諸奉行の待遇でした。
それが次のように時代を経るに従って、待遇が改善されていきます。
明暦2年(1656) 大西城番中村美作近照の失脚によって、長江縫殿助・長坂三郎左ヱ門の支配下へ。
明和3年(1766)  格式が池田士と同格へ
寛政12年(1800) 池田士・三名士とも与士(くみし・平士)へ
 
 三名士から藩主に鷹狩に用いる三名特産の鷂(はいたか)を献上していたことが史料には残っています。
ハイタカの特徴は?生態や分布、鳴き声は? - pepy
鷂(はいたか)
鷂は鷹の一種で、雌は中形で「はいたか」と呼び、鷹狩りに使われる種として人気がありました。慶長年間に初めて鷂を献上したところ、蜂須賀家政よりおほめの書状を頂戴し、以来毎年秋には網懸鷂を献上して、代々の藩主から礼状をいただいています。
網懸鷂のことが三名村史には、次のように記されています。
「三名士の鷹の確保は、藤川氏は上名六呂木(本ドヤ・イソドヤ)その新宅は平のネヅキ、西宇氏は粟山と国見山との2箇所、大黒氏は西祖谷の鶏足山であった」
「タカの捕え方は網懸候鷂(はいたか)と書かれているが、これはおとりを上空から見やすい個所につなぎ、その傍にカスミ網をはるのであって、オトリの鳥が上空を飛ぶタカの目に入ると、タカは急降下し小鳥に襲いかかろうとし、カスミ網にひっかかるのである」
藤川氏所蔵の古文書は、これを裏付けるものです。
NO1は、9月18日(年不詳)で慶長9年(1604)~寛永11年(1634)の隼献上書状(礼状)、
NO2は10月3日(年不詳)で、同年代のものと推定される鷂(はいたか)献上書状(礼状)

  已上
一居到来
令祝着候自愛
不少候尚数川与三
左衛門かたより可申候
   謹言
 9月18日 千松(花押)
  藤川隼人とのへ

  已上
壱居到来 令自愛祝着
不少候猶数川 与三左衛門かたより可申候
 10月3日 千松(花押)
   上名藤川 隼人とのへ

 中世には武家の間でも鷹代わりが行われるようになります。
信長、秀吉、家康はみんな鷹狩が大好きでした。信長が東山はじめ各地で鷹狩を行ったこと、諸国の武将がこぞって信長に鷹を献上したことは『信長公記』にも書かれています。それが引き続き江戸時代になっても大名たちの間では流行していました。
  鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられました。その中でも人気があったのがハイタカです。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけだったようです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。羽根の色が毛更りして見事なものを、土佐国境近くの山で捕らえられ、しばらく飼育・調教して殿様に献上します。鷹狩りの殿様であれば、これは他の大名との鷹狩りの際に、自慢の種となります。三名からの鷹の献上は、殿様に「特殊贈答品」として喜ばれたのでしょう。あるいはハイタカの飼育・調教を通じて、三名士の関係者が、藩主の近くに仕え、藩主に接近していく姿があったのかもしれません。

 最後に三名士の残した墓碑を見ておくことにします。
三名士の藤川・大黒・西宇の3家は、他に例がないほどの規模と構造の墓碑を造立し続けています。それが今に至るまで整然と管理されているようです。墓碑は、古代の古墳と同じくステイタス・シンボルでもあります。埋葬された人物の権威の象徴であり、権力の誇示でもありました。そういう目で、研究者は三氏の墓碑群を調査報告しています。三氏の墓地はそれぞれ旧屋敷周辺に、下表のように存在するようです。
三名士(さんみようし)について

           三名士の各家の墓石群


 墓は1基ごとに、平な青石を積み重ねて造ったもので、大きさは、1,5m四方、高さ50~80cmの台座に五輪塔や石塔を建てあるものが種です。しかし、台座だけで墓碑のないものも、かなりあるようです。造立されたものが倒壊などによって亡失された記録はないようです。台座だけというのは、阿波のソラの集落には珍しいことではありません。青石の石組み自体が信仰対象で、古い時代には神社の祠や社としても使われていたことは以前にお話ししました。敢えて、名前を表に出さないという考えもあったようです。保存状態は良好で、碑面の剥落もほとんどないと報告されています。
   墓の造立年代を表にしたのが次の表です。

三名士の墓石造立時期

ここからは次のようなことが分かります。
①三名士に任命された後、明治になるまで歴代の当主の墓碑が屋敷周辺に造立し続けられたこと
②大黒家の墓は、明和以降の造立であること。これは大黒山から、吉野川沿岸へ下名に移ったのがこの時期であること
以上を整理しておきます。
①大歩危から野鹿池山への稜線は、阿波と土佐の国境線でその北側は旧三名村とよばれた。
②その由来は、蜂須賀藩が土佐との国境監視などを、土地の有力土豪の三氏(三名)に自治権を与えて任せるという国境防備システムを採用したためである。
③そのため、下名・上名・西宇地域の各土豪が三名士と呼ばれて、蜂須賀家に登用された。
④国境警備のために武装権や警察権などを得た三名は、地元ではある意味、小領主として君臨した。
⑤彼らの屋敷などは残ってはいないが、そこには江戸時代の当主の墓碑が累々と造立され並んでいる。
ここで私が関心が湧いてくるのが、次のような点です
①ひとつは三名士と宗教の関係です。彼らが何宗を信仰し、どんな宗教政策をとっていたのか。
②三名士の館跡がどこにあったのか
①については、このエリアが「塩・綿と茶葉の道」で、讃岐の仁尾と結ばれ、仁尾商人が行商で入ってきた痕跡があることです。それが、三名士の承認や保護を得たために、国外の仁尾商人の営業活動が可能であったのではないかということです。同時に、宗教的には前回見たように修験者たちは、活発に讃岐の寺社との交流を行っていたことがうかがえます。これも「三名士特区」であったから可能ではなかったのかということです。
②については、現地に出向いて見たのですがよく分かりませんでした。今後の課題としておきます。知っている方がいらしたらそのことが書かれている資料をご紹介下さい。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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妖怪街道の子泣き爺

台風通過直後に野鹿野山に原付バイクツーリングをしました。大歩危の遊覧船乗場を過ぎて、藤川谷川に沿って原付を走らせます。台風直後で川にはホワイトウオーター状態で、勢いがあります。本流を流れる川は濁っていますが、支流の藤川谷川に入ると台風直後の増水にもかかわらず透明です。この川沿いの県道272号線は、いまは「妖怪街道」として知名度を上げています。

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ヤマジチ
街道の最初に登場する看板は「歩危の山爺」です。
この物語は、村に危害を加える妖怪を退治したのは「讃岐からきた山伏」とされています。ここからは、讃岐の山伏がこの附近まで入ってきて行場で修行したり、布教活動を行っていたことがうかがえます。

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妖怪街道の山向こうの土佐本山町には、神としてまつられた高野聖の次のような記録が残っています。
ヨモン(衛門)四郎トユウ
山ぶし さかたけ(逆竹)ノ ツヱヲツキ
をくをた(奥大田)ゑこし ツヱヲ立置
きのをつにツキ ヘび石に ツカイノ
すがたを のこし
とをのたにゑ きたり
ひじリト祭ハ 右ノ神ナリ
わきに けさころも うめをく
わかれ 下関にあり
きち三トユウナリ
門脇氏わかミヤハチマント祭
ツルイニ ヽンメヲ引キ
八ダイ流尾 清上二すべし
(土佐本山町の民俗 大谷大学民俗学研究会刊、昭和49年)
    宛字が多いようですが 意訳変換しておきましょう。
衛門四郎という山伏が逆竹の杖をついて、奥大田へやって来た。そこに杖を置いて木能津に着いて、蛇石に誓い鏡(形見)を残して 藤の谷へやって来た。
聖が祀ったのは 右ノ神である。
その脇の袈裟や衣も埋めた。分家は下関にある吉三という家である。子孫たちは門脇氏の若宮八幡を祀り、井戸(釣井)に注連縄を引き、八大龍王を清浄して祀ること
 この聖は奥大田というところに逆竹(さかだけ)の杖を立てたり、木能津(きのうづ)の蛇石というところに鏡(形見)をのこして「聖神」を祀ります。やがてこの地の「藤の谷」に来て袈裟と衣を埋めて、これを「聖神」と祀ったと記されています。
 土佐には聖神が多いとされてきました。その聖神は、比叡山王二十一社の一つである聖真子(ひじりまご)社と研究者は考えています。ここからは、本山にやって来た高野聖が自分の形見をのこして、それを聖神として祀ったことが分かります。

本地垂迹資料便覧
聖真子(ひじりまご)

 この衛門四郎という高野聖は、「藤の谷」を開拓して住んでいたようです。かつては、この辺りには焼畑の跡があとが斜面いっぱいに残っていたと云います。その畑の一番上に、袈裟と衣を埋めたというのです。そこには聖神の塚と、門脇氏の先祖をまつる若宮八幡と、十居宅跡の井戸(釣井)が残っているようです。ちなみに四国遍路の祖とされるは衛門三郎です。衛門四郎は、洒落のようにも思えてきます。

本山町付近では、祖先の始祖を若宮八幡や先祖八幡としてまつることが多いようです。
ここでは、若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神であるのに対して、聖神は一般人々の信仰対象にもなっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじように、遊行廻国者が誓願をのこして死んだところにまつられます。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。この本山町の聖神も、一片の文書がなければ、どうして祀られていたのかも分からずに忘れ去られる運命でした。
 川崎大師平間寺のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれです。
全国にある大師堂の多くが、高野聖の遊行の跡だった研究者は考えています。ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまったのです。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡であるのと同じです。妖怪街道沿いにも、そんな修験者や聖たちの痕跡が数多く見られます。彼らの先達として最初に、この地域に入ってきたのは熊野行者のようです。

熊野行者の吉野川沿いの初期布教ルートとして、次のようなルートが考えられる事は以前にお話ししました。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社を勧進し拠点化
②さらに行場を求めて銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③仙龍寺から里下りして、瀬戸内海側の川之江に三角寺を開き、周辺に定着し「めんどり先達」と呼ばれ、熊野詣でを活発に行った。
④一方、土佐へは北川越や吉野川沿いに土佐に入って豊楽寺を拠点に土佐各地へ
 熊野行者たちは、断崖や瀧などの行場を探して吉野川の支流の山に入り、周辺の里に小さな社やお堂を建立します。そこには彼らが笈の中に入れて背負ってきた薬師さまや観音さまが本尊として祀られることになります。同時に彼らは、ソラの集落の芸能をプロデュースしていきます。盆踊りや雨乞い踊りを伝えて行くのも彼らです。また、今に伝わる昔話の原型を語ったのも彼らとされます。各地に現れた「熊野神社」は、熊野詣での際の道中宿舎の役割も果たし、孤立した宗教施設でなく熊野信仰ネットワークの一拠点として機能します。

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 熊野行者たちは諸国巡礼を行ったり、熊野先達を通じて、密教系修験者の幅広いネットワークで結ばれていました。例えば、讃岐の与田寺の増吽などの師匠筋から「大般若経の書写」への協力依頼が来ると引き受けています。このように阿波のソラの集落には、真言系修験者(山伏)の活動痕跡が今でも強く残ります。

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野鹿池の龍神

 話を元に返すと、妖怪街道と呼ばれる藤川谷川流域には、このような妖怪好きの山伏がいたのかも知れません。
彼らは、庚申信仰を広め、庚申講も組織化しています。悪い虫が躰に入らないように、庚申の夜は寝ずに明かします。その時には、いくつも話が語られたはずです。その時に山伏たちは熊野詣でや全国廻国の時に聞いた、面白い話や怖い話も語ったはずです。今に伝えられる昔話に共通の話題があるのは、このような山伏たちの存在があったと研究者は考えているようです。

今回訪れた妖怪ポイントの中で、一番印象的だった赤子渕を見ておきましょう。
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車道から旧街道に入っていきます。この街道は青石が河床から丁寧に積み重ねられて、丈夫にできています。ソラの集落に続く道を確保するために、昔の人達が時間をかけて作ったものなのでしょう。同じような石組みが、畠や神社の石垣にも見られます。それが青石なのがこの地域の特色のように思います。五分も登ると瀧が見えてきました。
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赤子渕
台風直後なので水量も多く、白く輝き迫力があります。

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滝壺を巻くように道は付けられています。これは難工事だったとおもいます。そこに赤子の像が立ってました。
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なにかシュールで、おかしみも感じました。瀧は爆音で、大泣き状態です。滝上には橋がかかっています。この山道と橋が完成したときには、この上に続くソラの集落の人達は成就感と嬉しさに満ちあふれて、未來への希望が見えて来たことでしょう。いろいろなことを考えながらしばらく瀧を見ていました。

「赤子渕」が登場する昔話は、いくつもあるようです。
愛媛県城川町の三滝渓谷自然公園内にもアカゴ淵があります。ここでは、つぎのような話が伝えられています。
  
むかしむかし、赤子渕は生活に困り生まれた子を養うことができなくなった親が子を流す秘密の場だった。何人もの赤子が流されたという。その恨みがこの淵の底に集まり真っ赤に染め、夕暮れ時になると赤子の淋しそうな泣き声が淵の底やその周囲から聞こえてくるという。

信州飯田城主の落城物語では、赤子渕が次のように伝えられます。
 天正10年2月(1585)織田信長は、宿敵甲斐の武田氏打倒の軍をついに動かした。飯田城主の坂西氏は、木曽谷へ落ち延びて再起をはかろうと、わずかな手勢と夫人と幼児を伴って城を脱出した。しかし逃げる途中で敵の伏兵に襲われ、家臣の久保田・竹村の2人に幼児延千代を預け息絶えた。延千代を預かった2人は、笠松峠を越して黒川を渡り、山路を南下したが青立ちの沢に迷い込んでしまった。若君延千代は空腹と疲れで虫の息となり、ついに息が絶えてしまった。その後、この辺りでいつも赤子の泣き声がすると言われ、誰となくここの淵を赤子ヶ淵と呼ぶようになった。
「赤子なる淵に散り込む紅つつじ昔語れば なみだ流るる」

    赤子渕に共通するのは、最後のオチが「赤子の泣き声がすると言われ、誰となくここの淵を赤子ヶ淵と呼ぶようになった」という点です。その前のストーリーは各地域でアレンジされて、新たなものに変形されていきます。
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  藤川谷川流域のソラの集落・ 旧三名村上名(かみみょう)に上がっていきます。
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  管理されたススキ原が広がります。家の周りに植えられているのは何でしょうか?

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上名の茶畑
  近づいてみると茶畑です。旧三名村はお茶の産地として有名で、緑の茶場が急斜面を覆います。それが緑に輝いています。

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山城町上名の平賀神社

  中世の讃岐の仁尾と土佐や西阿波のソラの集落は「塩とお茶の道」で結ばれていたことは以前にお話ししました。
仁尾商人たちは讃岐山脈や四国山地を越えて、土佐や阿波のソラの集落にやってきて、日常的な交易活動を行っていました。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、そこで生産された塩は、讃岐山脈を越えて、阿波西部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていました。その帰りに運ばれてきたの茶です。仁尾で売られた人気商品の碁石茶は、土佐・阿波の山間部から仕入れたものでした。
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。
古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡昼間に入り、そこから剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。その東の三名では、仁尾商人たちが、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたのです。
 山城町三名周辺は、仁尾商人の商業圏であったことになります。
そのために「先達」として、讃岐の山伏が入り込んできていたことも考えられます。取引がうまくいく度に、仁尾商人たちは、山伏たちのお堂になにがしのものを寄進したのかもしれません。

それは、天正2年(1574)11月、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳に、長宗我部元親とともに仁尾商人の名前があることからも裏付けられます。
豊楽寺奉加帳
豊楽寺御堂奉加帳

最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が見えます。

阿讃交流史の拠点となった本山寺を見ておきましょう。
四国霊場で国宝の本堂を持つ本山寺(三豊市)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。 空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
個人タクシーで行く 四国遍路巡礼の旅 第70番 本山寺 馬頭観世音菩薩 徳島個人中村ジャンボタクシーで行く四国巡礼の遍路巡り 四国36不動 曼荼羅霊場  奥の院
本山寺の本尊は馬頭観音

本山寺は、もともとは牛頭大明神を祀る八坂神社系の修験者が別当を務めるお寺でした。この系統のお寺や神社は、馬借たちのよう牛馬を扱う運輸関係者の信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたと研究者は考えています。

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山城町上名の茶畑
「塩とお茶の街道」を、整理しておきます。
①天正二(1574)年の豊楽寺「御堂」修造に際し、長宗我部氏とともに奉加帳に仁尾浦商人塩田氏一族の塩田又市郎の名前が残っている。
②塩田又市郎は、仁尾・詫間の塩や魚介類をもたらし、土佐茶を仕入れるために土佐豊永郷や阿波三名などに頻繁に営業活動のためにやってきていた。
③仁尾商人は、土佐・長岡・吾川郡域や阿波三名などの山村に広く活動していた。
④中世仁尾浦商人の営業圈は讃岐西部-阿波西部-土佐中部の山越えの道の沿線地域に拡がっていた。

今は山城町の茶葉が仁尾に、もたらされることはなくなりました。
しかし、明治半ばまでは「塩と茶の道」は、仁尾と三名村など阿波西部を結び、そこには仁尾商人の活動が見られたようです。それとリンクする形で、ソラの修験者たちと仁尾の覚城寺などは修験道によって結びつけられていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開   中世讃岐と瀬戸内世界
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井川町井内の野住妙見神社の鳥居からの眺め
前回は野住地区の子安観音堂と妙見神社に参拝しに行きました。妙見神社に参拝し、「日本一急勾配な石段」を下りて、鳥居で再度休憩します。ここからの風景は私にとっては絶景です。いろいろな「文化」が見えてきて、眺めていても飽きません。
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        野住妙見神社の鳥居周辺の畠の石積み
鳥居から続く畠の石段も年月をかけて積まれたものでしょう。それは、この石段も同じだし、以前に見た大久保神社の社殿を守る石積みの鞘堂も同じです。石を積み続けて生活を守ってきたことが少しづつ私にも見えてきます。
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阿波のソラの集落は、古い民家の宝庫です。
二百年を越える家が、沢山残っています。この妙見神社の下にも、古い家があります。中瀧家です。この家には「永代家系記録 本中瀧家」という記録が残されています。
井川町井内 野住の中瀧家
永代家系記録 本中瀧家
ここには、次のように記されています。
①初代始祖は高知県赤滝の武士で、この地域を最初に開いたこと
②弘法大師の「野に住み山に暮れなんとも弘法の塩をひろめん」との言葉から、中瀧一族が居住した土地を「野住」と名付けたこと
この家は、代々は農家で、1970年頃までは煙草をつくっていました。最初の開拓者のために山林主でもありました。

主屋は「六8畳」といわれる「四間取り」プランです。
 井川町井内 中瀧家
中瀧家間取り図
住みやすくリフォームはされていますが、濡縁あたりは昔の姿を残しています。伊助(文化7年(1810)正月5日亡)の言い伝えによると、この主屋は安永2年(1773)の建築と伝えられているようです。そうだとすると、約250年前のものになります。

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 中瀧家には、独自の茅場があり、茅は納屋に置いたり、敷地奥にある茅小屋に保管していたといいます。しかし、昭和42年(1967)にトタンで巻いたようです。その後、内部も改装されていますが、ナカノマの天井は、板を置いただけの「オキ天井」で残っているようです。カマヤ(台所)は、竹の半割を敷き詰め、オクドがあり、その外部には土桶が設置されていました。

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野住の民家と畠 
野住集落は、土佐からやって来た武士が帰農し、山を開いて住み着いた場所で、その一族の始祖とされた人達が約250年前に建てたのがこの家になるようです。そして、自分たちの開墾した所を誇りを持って「野住」と名付けて生活してきたのです。そこに、笈を背負った修験者がやってきて、彼らを信者として坊や堂を開いたというストリーが考えられます。そこに、遠くから参拝者が訪れるようになる次のようなプロセスを考えてみました。
①井内には剣山信仰の拠点であった地福寺があり、「剣山先達」などのために修験者を雇用した。
②剣山修行中に寝食を共にした里人と修験者の間には強い人間関係が結ばれるようになる。
③先達(修験者)は、信者の里にお札を持って、年に何回か出向いていた。
④そこでさまざまな祈祷などを依頼されることもあった。
こうして井内の修験者と、剣山信仰の里が結ばれるようになり、先達の坊や神社にも遠くから参拝者が訪れるようになった。

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こんなことを考えながら鳥居からボケーと風景を眺めていると、目に留まったものがあります。
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巨樹です。巨樹も私の「マイブーム」のひとつです。
グーグルマップルで見ると「薬師岡のケヤキ」で出ていました。
さっそく原付を走らせます。

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薬師岡のケヤキ

岡の下に少し傾くように勢いよく枝を伸ばしています。説明版を見てみます。
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ここには次のように記されています。
①野住妙見神社が開拓前の原生林を守り
②安産信仰の子安観音が右の袂守り、
③ケヤキの脇に祀られているお薬師さんが左袂り
として、地区民の信仰対象となり保存されてきた。
まさに神木が巨樹なるが由縁です。この地が開かれる以前から、この岡に立ち、この地の開拓のさまを見守り続けてきたようです。ソラの集落には、刻まれたひとひとつの歴史がこんな形で残されていることを教えてくれた井内の野住でした。ここに導いてくれた神々に感謝。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 井川の民家 郷土史研究発表会紀要44号
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井内の原付ツーリング
井内地区のソラの神社をめぐっての原付ツーリングの報告です。前回までの「井内原付徘徊」で、次のような事が分かってきました。
①井内谷川沿いに祖谷古道が伸びていた井内地区は、祖谷との関係が深いソラの集落であったこと
②郷社であった馬岡新田神社と、その別当寺だった地福寺が井内の宗教センターの役割を果たしていたこと
③地福寺は、近世後半には剣山信仰の拠点として、多くの修験者を配下に組み込み、活発な修験活動を展開していたこと
④そのため地福寺周辺の井内地区には、修験者たちがやってきて定着して、あらたな庵や坊を開いたこと。それが現在でも、集落に痕跡として残っていること
今回も修験者の痕跡を探して、井岡の西川の集落を廻って見ることにします。馬岡新田神社の石段に腰掛けながら次の行き先を考えます。グーグル地図で見ると、この少し奥に斉南寺があります。なんの予備知識もないまま、この寺を訪れることにします。

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山斜面に広がる井内のソラの集落
谷沿いの街道を離れ、旧傾斜のジグザクヘアピンをいくつも越えるとソラの集落の一番上まで上がってきました。周辺を見回すと、お寺らしい建物が見えてきたので近づいていきます。

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普通の民家とお堂が渡し廊下で結ばれているようです。

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斉南本堂
斉南寺ではなく済南のようです。廻国の修験者たちが、その土地に定住し、根付いていくためにはいくつかの関門を越えて行く必要がありました。その一例が前回に大久保集落で見た出羽三山から子安観音を笈に背負ってやってきた修験者です。彼は、子安観音を本尊として、安産祈願を行い信者を獲得し、庵を建てて定住していきました。

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 斉南本堂
この済南坊は、一見すると農家です。農家の離れにお堂がくっついているような印象を受けました。周りには、耕された畑が開かれています。ここに坊が開かれるまでにどんなストーリーがあったのでしょうか。ひとつの物語が書けそうな気もしてきます。ボケーとして、ここからの風景を眺めていました。

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次に目指したのが野住地区の子安観音です。
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            旧野住小学校
下影の棚田を越えて、県道分岐をさらに越えて上っていきます。すると廃校になった小学校跡が道の下に現れました。

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きれいに清掃がされたグランドに下りていくと、大きな銀杏の根元に鹿と虎が出迎えてくれました。シュールです。
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野住の子安観音堂 宿泊施設付
反対側の出口を抜けると観音堂が見えてきました。正面に下りて、お参りさせてもらいます。

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            野住の子安観音堂 
集落の人々の信仰を集めていたのでしょう。そこすぐ横に、小学校ができて「文教センター」の機能を果たしていたのでしょう。お参り後に、説明版を見ます。
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ここには次のようなことが記されています。
①室町時代の子安観音を本尊として、遠方からの信者もお参りにきていること
②弘法大師伝説があり「たとえ野に住み山に暮れ果てようとも、弘法の徳を顕さん」から「野住」の地名がつけられたこと。
「野に住む」、改めていい地名だなと思いました。ここにも修験者の痕跡が見えてきます。

次にめざすのが妙見神社です。
妙見さんは、北極星を神格化した妙見菩薩に対する信仰で、眼病に良くきくという妙見法 という修法が行われました。これを得意としたのが修験者(天狗)たちです。妙見さんの鎮守の森の下に小さな鳥居が見えました。これは鳥居から参拝道を上るのが作法ということで、下に一旦下りました。登り口は畠の石段が続きます。

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道から鳥居を見上げてびっくり。

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          妙見神社の石段の登り口
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野住の妙見神社の鳥居と階段 
階段の傾斜が尋常ではないのです。立って上ることが出来ません。鳥居前では、中央部はオーバーハング気味です。なんとか這いながら鳥居まで上ります。そして振り返ってみます。

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妙見神社鳥居からの井内遠望
この光景に見とれて、石段に座り込んでしまいました。

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「よう来たな。ここで一服していきまえ」
と狛犬の声が聞こえてきたような気がしました。私は「この階段は日本一きつい階段とちがいますか?」と問うと、別の狛犬が
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「そうかもしれませんな」と答えたような・・・
這いながらたどり着いた妙見神社は、こんな姿でお待ちでした。
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野住の妙見神社
社まで急な上りが続きます。社殿の基壇や石段まで青石が積まれています。つるぎ町の神明神社の古代祭祀遺跡も青石が野積みされていました。また、前々回に紹介した井内の大久保神社の社は青石を積んだ鞘堂の中にありました。また、神社の境内に青石で積まれた祠を、よく目にしました。ソラの集落は青石文化と深く関わっている土地柄なのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

          P1160950
バス停 井内思い出前(旧井内小学校前)

 井川町井川の修験者の痕跡を訊ねての原付ツーリングの続きで、今回は大久保集落を目指します。「井内思い出前」と付けられた井内小学校跡のバス停から、下久保のヒガンザクラを越えて、ジグザグの道を登っていきます。
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下久保のヒガンザクラ
ここから眺めると井内地区が高低差のある大きなきなソラの集落であることが改めて分かります。見てきて飽きない風景です。この彼岸桜が咲く頃に、また訪れたいと思いました。
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下久保からの井内の眺め

へピンカーブを曲がる度に、見える風景が変わっていくのを楽しみながら上へ上へと上っていきます。
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大久保からの風景
すこし傾斜が緩やかになり開けた場所に出てきました。ここが大久保集落のようです。
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大久保神社遠景
中央には、ソラの集落には珍しい田んぼが広がり、稲が実りの季節を迎えています。稲穂のゆらぐ田んぼのそばに、大きな椋の老木が立っています。白い建物は集会所のようです。

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近づいてみるとその神木の根元に、薄く割った青石(緑泥片岩)が3面を積み上げられ、寄り添うように建てられていました。
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大きな神木と割った石をそのまま使う野積みからは、素朴で力強い印象を受けます。その青石に守られるように、中に小さな本殿が静かに鎮座しています。時間が止まったような穏やかな風景です。
大久保神社平面図
大久保神社平面図(井川町)

 この拝殿は鞘堂を兼ねた建物で、壁3面を青石で約2,5m の高さに積み上げ、木造の小屋組に波トタンの屋根を載せています。正面に格子の建具が入り、中に小さな本殿が祀られています。

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ここまで導いてくれたことに感謝の気持ちを込めて参拝し、振り返って鳥居越の風景を眺めます。

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稲穂越の田んぼの向こうの上に、白い大きなトタン葺きの民家が見えます。この地域を開いた有力者の屋敷かも知れないなと思って、帰宅後に調べてみるとまさにその通りでした。井川町で最も古い屋敷とされる阿佐家の屋敷でした。
「井川町の民家 阿波学会研究紀要44号」には、次のように記されています。(要約)
①阿佐家は、永禄年間(1558~70)に、祖谷より出てきた平家の末孫阿佐家の分家
②江戸時代には庄屋を補佐する阿佐五人組の筆頭をつとめた家で、屋号の「オモテ」は、部落の中心に家があったことに由来
阿佐家配置図

③屋敷の構えは、東から上屋、蔵、主屋、葉タバコの収納小屋、納屋、畜舎などが線上に配置
④主屋は1980年に茅葺き屋根からトタン葺きになり、その時に大幅改造された。
⑤その際に1680年ごろの棟札を確認
外観はトタン葺きになって改造されていますが、ここから見ると風格を持った大農家の面影をよく残しています。この社の石段に座って、眺めていると時間が止まったような気がしてきます。
阿佐家平面図
阿佐家母屋の間取り
 阿佐家の家紋は「丸にアゲハ」で、氏神は前回見た馬岡新田神社で、阿佐一党の墓は若宮神社にあります。しかし、もともとはこの社が阿佐家の氏神であったと私は考えています。一族の信仰のために、井内川から運び上げた板状石を、祖先や一族が積み重ねて作られたものが現在にまで至っているのかもしれません。そして、その前の田んぼには稲穂が揺れていました。
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ここで注目したいのは、神木の下に六十六部の「日本廻国」碑が建っていることです。
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大久保庵日本廻国碑と、その説明版

六十六部は、日本全国66ケ国を廻って経典を収める廻国の修験者です。それがどうして、大久保に留まっていたのでしょうか。それは、井内エリアには修験者や山伏などを惹きつけるものがあったからでしょう。具体的には、地福寺です。地福寺は、近世後半になって剣山に円福寺を開き、木屋平の龍光寺とともに剣山信仰の拠点として栄えるようになったことは、以前にお話ししました。
 剣山信仰は、立山信仰や出羽三山信仰と同じく、先達が必要でした。また、信者たちの里に出向いて、お札を配布し、その年の剣山参拝を勧める誘引活動も必要でした。そのためには多くの修験者たちを配下におく必要があります。ここには修験者の雇用需要があったのです。全国を廻国する六十六部や山伏にとっては、剣山の地福寺や龍光寺にいけば、「雇用チャンス」があったことになります。また、同じ江戸後期には「金毘羅の奥社」と名乗りをあげた箸蔵寺も活発な布教活動を行っています。阿波のこの周辺は、廻国の六十六部たちにとっては、「仕事場」の多いエリアであったようです。もうひとつ、修験者の痕跡が残る所を訊ねておきます。
金銅金具装笈 - 山梨県山梨市オフィシャルサイト『誇れる日本を、ここ山梨市から。』
修験者の笈(仏がん)(法輪寺 山梨市)

細野集落には、「羽州(出羽)の仏がん」と呼ばれるものが残されています。
その説明版には、次のように記されています。
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ここからは次のようなことが分かります。
①幕末から明治初めに、出羽三山から廻国修験者がこの地にやって来て定着していたこと。
②羽州の修験者は、子安観音像を仏がん(笈)に入れてやってきたこと
③そして、妊婦の家を廻って安産祈祷を行っていたこと
④彼のもたらした観音さまと笈が、地域の信仰を集め、死後は庵として残ったこと
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子安観音と仏がんが安置されている庵(井内の細川集落)
ここからも出羽三山からの修験者が、この地にやって来て定住していたことが分かります。彼は、持参した子安観音に安産祈願の祈祷を行いながら、一方では地福寺に「雇用」されて、剣山参拝の先達をやっていたと私は考えています。
六部殺し(ろくぶごろし)【ゆっくり朗読】3000 - 怖いお話.net【厳選まとめ】
修験者と笈(仏がん)
信仰を集めた修験者(山伏)の入定塚は、信仰対象になりました。
修験者の持物を形見として、誓願をのこすというスタイルもあったようです。ここでは、それが仏がんになります。さらに庶民の願望をかなえる神として、石造物が作られたりもします。しかし、これは「流行(はやり)神」です。数年もたてば、忘れられて路傍の石と化すことが多かったのです
。川崎大師のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれなことです。
 全国にある大師堂の多くが、弘法大師伝説を持った高野聖の遊行の跡だったと研究者は指摘します。彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られて、すべてのことが「弘法大師」の行ったこととして伝えられるようになります。こうして「弘法大師伝説」が生まれ続けることになります。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡と同じです。
 しかし、ここではお堂が作られ信仰対象となり守られています。
先ほど見た大久保の六十六部碑もそうです。井内を初めとする剣周辺エリアには、多くの修験者たちが全国からやって来て集落に定着し、地元の人達の信仰を集めるようになっていたのでしょう。ある意味、修験者や聖にとっては居心地のいいところだったのかもしれません。同時に、地福寺の剣山信仰の「先達」として活動するという「副業」もあったと私は考えています。

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細川神社
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
社寺建築班(郷土建築研究会) 井川町の社寺建築   井川町の民家
阿波学会研究紀要44号
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馬岡新田神社の石垣と玉垣
   前回は剣山信仰の拠点となった地福寺にお参りしました。地福寺の参拝を済ませて井内川の対岸を見ると、高く積み上げられた石垣に玉垣。それを覆うような大きな鎮守の森が見えます。これが地福寺が別当を務めていた馬岡新田神社のようです。行ってみることにします。

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馬岡新田神社の石垣と鳥居
青石を規則正しく積み上げた石段の間の階段を上っていくと拝殿が見えてきます。
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馬岡新田神社 拝殿

正面に千鳥破風と大唐破風の向拝が付いています。頭貫木鼻や虹梁上部の龍の彫刻の見事さからは、匠の技の高さがうかがえます。
ここまで導いていただいた感謝の気持ちを込めてお参りします。
お参りした後で、振り返って一枚撮影するのが私の「流儀」です。

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拝殿から振り返った一枚
川筋・街道筋に沿って鎮座する神社であることが改めて分かります。祖谷や剣山参拝に向かう人達も、ここで安全祈願をしてから出立していたことでしょう。拝殿で参拝した後は、本殿を拝見させていただきます。境内の横に廻っていくと見えてきます。

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拝殿と本殿

一見して分かるのがただの本殿ではないようです。本殿と拝殿を別棟に並べる権現造りで、その間を幣殿と渡り廊で結んでいます。近づいてみます。

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馬岡新田神社 本殿
本殿は明治16年(1883)建立で、当初は桧皮葺の建物でした
が、昭和28年(1953)に銅板に葺(ふ)き替えられました。
屋根が賑やかな作りになっています。入母屋造の正面に千鳥破風が置かれ、さらに唐破風向拝が付けられています。これは手が込んでいます。宮大工が腕を楽しんで振るっている様子が伝わってきます。そんな環境の中で、作業に当たることができたのでしょう。

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馬岡新田神社の本殿は、権現造り

八峰造りという総桧作りで、上部の枡組、亀腹(基礎の石)と縁下の枡組(腰組)や向拝に彫られた龍も精巧と研究者は評します。

馬岡新田神社 本殿2
馬岡新田神社の彫刻

徳島県の寺社様式は圧倒的に流造様式が多いようです。
その中で井川町の「三社の杜(もり)」の神社には、あえて権現造りが用いられています。吉野川対岸の三好町にも権現造が4社あるようですから、この地域だけの特徴と研究者は考えているようです。
神 社 建 築 の 種 類
流造と権現造

 本殿でもうひとつ研究者が注目するのは、組物の肘木と頭貫の木鼻部分です。
そこには彫刻がなく角材が、そのまま使用しています。これも社寺建築では、あまり見られないことです。そういう意味では、権現造りの採用とともに、「既存様式への挑戦」を大工は挑んでいたいたのかも知れません。

馬岡新田神社 本殿4

帰ってきて調べると、馬岡新田神社以外の「三社の杜」の他の2社も、同じ時期に、同じような造りで作られているようです。棟札には、大工名は千葉春太(太刀野村)と佐賀山重平と記されています。三社の杜の社殿群は、明治前期に同じ大工の手によって連続して建てられたものなのです。明治16年以降に、太刀野村からやってきた腕のいい宮大工は、ここに腰を落ち着けて今までにないものを作ってやろうという意欲を秘めて、取りかかったのでしょう。箸蔵寺の堂舎が重文指定を受けていることを考えると、この社殿類は次の候補にもなり得るものだと私は考えています。
本殿のデーターを載せておきます。
木造 桁行三間 梁間二間 入母屋造 正面千鳥破風付 向拝一間唐破風 銅板葺 〈明治16年(1883)〉
身舎-円柱 腰長押 切目長押 内法長押 頭貫木鼻(寸切り) 台輪(留め) 三手先(直線肘木) 腰組二手先(直線肘木) 二軒繁垂木
向拝-角柱 虹梁型頭貫木鼻(寸切り) 出三斗 中備彫刻蟇股 手挟 刎高欄四方切目縁(透彫) 隅行脇障子(彫刻) 昇擬宝珠高欄 木階五級(木口) 浜床
千木-置千木垂直切 堅魚木-3本(千鳥及び唐破風部の各1本含む)
馬岡新田神社 本殿平面図

馬岡新田神社 本殿平面図
  この馬岡新田神社は、井川町内では最も古い神社のようです。
この神社は『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 美馬郡「波尓移麻比弥神社」に比定される式内社の論社になります。論社は他に、美馬市脇町北庄に波爾移麻比禰神社があります。もともとは、波尓移麻比弥神社と称し、農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)を祀っていたようです。
埴安神(埴山姫・埴山彦)の姿と伝承。ご利益と神社も紹介
農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)

埴山姫命は、伊邪那美命が迦具土神出産による火傷で死ぬ時にした「糞」です。「糞」に象徴される土の神としておきましょう。

農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)
埴安姫命

同時に出した尿は、水の神で「罔象女神」で、式内社「彌都波能賣神社」に相当します。その論社は、馬岡新田神社の北200mに鎮座する武大神社になります。この2つと、そして馬岡新田神社の境内南側にある八幡神社をあわせて「三社の杜(森)」と呼ばれているようです。
 これに中世になって、「平家伝説の安徳天皇」や「南朝の新田義治」が合祠しされるようになり、「波尓移麻比弥神社馬岡新田大明神」と呼ばれるようになります。

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剣山円福寺別院の看板が掛かる地福寺

 この別当寺が地福寺です。
 地福寺は、もともとは日の丸山の中腹の坊の久保にあったのが、18世紀前期か中期ごろに現在地に移ったとされます。境内の鐘楼前の岩壁には不動明王が祀られ、そこには今も野外の護摩祭壇もあります。ここが古くからの修験道の拠点であり「山伏寺」であったことがうかがえます。
 この寺は、井内だけでなく、祖谷にも多くの有力者を檀家としてもち、剣山西域に広大な寺領を持っていたこと、そして近世後半に、剣山見残しに大剣神社と円福寺を創建し、剣山信仰の拠点寺となるなど、活発な修験活動を行っていたことは前回にお話しした通りです。  地福寺が別当寺で社僧として、「三社の杜」の神社群を管理運営していたのです。それは地福寺に残された大般若経からもうかがえます。地福寺が井内や祖谷の宗教センターであったこと、三社の杜は神仏混淆の時代には、その宗教施設の一部であったことを押さえておきます。
馬岡新田神社大祭 | フクポン
 
それは「三社の杜」の神社の祭礼からもうかがえます。
秋の祭日では、元禄の頃から、先規奉公人5組、鉄砲4人、外に15名の警固のうちに始められます。本殿の祭礼後、旅所までの御旅が始まります。道中は300mですが、神事場の神事を含めると往復4時間をかけて、昔の大名行列を偲ばせる盛大な行列が進みます。
 井内谷三社宮の祭礼について
三社宮の祭礼行事は、「頭屋(とうや)組」によって行われます。井内谷の頭屋組は次の6組に分かれています。
奥組の東…馬場、平、岩坂、桜、知行の各集落
奥組の西…荒倉、駒倉、下影、野住(上・下)の各集落
中組の東…大久保、下久保、馬路、倉石、松舟、向の各集落
中組の西…坊、中津、吉木、上西ノ浦、下西ノ浦の各集落
下組の東…流堂、吹(上・下)、正夫(上・下)、大森の各集落
下組の西…杉ノ木、尾越、段地、安田、三樫尾の各集落
 頭屋組は東西が一つのセットで、奥(東西)・中(東西)・下(東西)の順に3年で一巡します。上表のように各頭屋組はそれぞれ5、6集落で構成されていて、その中の一つの集落が輪番で頭屋に当たります。実際に自分の集落に頭屋が回ってくるのは、十数年に一度です。地元の人達にとって頭屋に当たることは栄誉なこととされてきたようです。
井内谷三社宮の祭礼について
 頭屋組からは正頭人2名(東西各1名)、副頭人2名(東西各1名)、天狗(猿田彦)1名、宰領1名、炊事人6名(東西各3名)の計12名の「お役」が選出されます。
 氏子総代は上記地域の氏子全体から徳望のあつい人が選ばれる(定員10名)。氏子総代は宮司を助けて三社の維持経営に当たり、例大祭の際には氏子を代表して玉串を奉納したり、「お旅」(神輿渡御)のお供をしたりします。
井内谷三社宮の祭礼について
 ここからは、次のようなことが分かります。
①「三社の杜」の3つの神社が井内郷全体の住民を氏子とする郷社制の上に成り立っている。
②頭家組の組み分けなどに、中世の宮座の名残が色濃く残る。
③頭家は、各集落を代表する有力者が宮座を組織して運営した。
明治の神仏分離前までは地福寺が別当寺であったことを考えると、この祭りをプロデュースしたのは、修験者であることが12人のお役の中に「天狗」がいることからも裏付けられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
社寺建築班(郷土建築研究会) 井川町の社寺建築  
 岡島隆夫・高橋晋一  井内谷三社宮の祭礼について
阿波学会研究紀要44号





原付バイクで新猪ノ鼻トンネルを抜けての阿波のソラの集落通いを再開しています。今回は三好市井川町の井内エリアの寺社や民家を眺めての報告です。辻から井内川沿いの県道140線を快適に南下していきます。
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井内川の中に表れた「立石」
   川の中に大きな石が立っています。グーグルには「剣山立石大権現」でマーキングされています。
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剣山立石大権現
石の頂上部には祠が祀られ、その下には注連縄が張られています。道の上には簡単な「遙拝所」もありました。そこにあった説明看板には、次のように記されています。
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①井内は剣山信仰の拠点で、御神体を笈(おい)に納めて背負い、ホラ貝を吹き、手に錫杖を持ち  お経と真言を唱えて修行する修験者(山伏)の姿があちらこちらで見られた。その修験者の道場跡も残っている。
②この剣山立石大権現の由来については、次のように伝わっている。
山伏が夜の行を終えてここまで還って来ると、狸に化かされて家にたどり着けず、果てには身ぐるみはがされることもあった。そこで山伏は本尊の権現を笈から出して、この石の上に祀った。するとたちまち被害がなくなった。こうして、この石は豪雨災害などからこの地を守る神として信仰されるようになり「立石剣山大権現」と呼ばれるようになった。
③1970年頃までは、護摩焚きが行われ「五穀豊穣」「疫病退散」などが祈願されていた。県道完成後、交通通量の増大でそれも出来なくなり、山伏による祈祷となっている。
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剣山立石大権現
ここからは井内地区が剣山信仰の拠点で、かつては数多くの修験者たちがいたことがうかがえます。この立石は井内の入口に修験者が張った結界にも思えてきます。それでは、修験者たちの拠点センターとなった宗教施設に行ってみましょう。
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地福寺
  井内の家並みを越えてさらに上流に進むと、川の向岸に地福寺が見てきます。
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この看板には次のようなことが記されています。
①大日如来坐像が本尊で、室町時代までは日の丸山中腹の坊の久保(窪)にあったこと。
②南北朝時代の大般若経があること
③平家伝説や南北朝時代に新田義治が滞留した話が伝わっていること。
④地福寺の住職が剣山見残しの円福寺の住職を兼帯していること。
 この寺院は、対岸にある旧郷社の馬岡新田神社の神宮寺だったようです。
②のように南北朝時代の大般若経があるということは、「般若の嵐」などの神仏混淆の宗教活動が行われ、この寺が郷社としての機能を果たしていたことがうかがえます。地福寺の住職が別当として、馬岡新田神社の管理運営を行うなど、井内地区の宗教センターとして機能していたことを押さえておきます。

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地福寺
 町史によると、もともとは日の丸山の中腹の坊の久保にあったのが、18世紀前期か中期ごろに現在地に移ったと記されています。現在の境内は山すその高台にあり、谷沿いの車道からは見上げる格好になり山門と鐘楼が見えるだけです。P1170083
地福寺の本堂と鐘楼
 石段を登り山門(昭和44(1969)年)をくぐると、正面に本堂、右側に鐘楼があります。鐘楼の前の岩壁には不動明王が祀られ、野外の護摩祭壇もあります。ここが古くからの修験道の拠点であり「山伏寺」であったことがうかがえます。
 本堂は文政年間(1818~30)の建築のようですが、明治40年(1907)に茅から瓦に、さらに昭和54年(1979)には銅板に葺き替えられています。また度重なる増築で、当時の原型はありません。鐘楼は総欅造りで、入母屋造銅板葺の四脚鐘台です。組物は出組で中備を詰組とします。扇垂木・板支輪・肘木形状などに禅宗様がみられ、全体に禅宗様の色濃い鐘楼と研究者は評します。

P1170093

③の地福寺と西祖谷との関係を見ておきましょう。
この寺の前に架かる橋のたもとには、ここが祖谷古道のスタート地点であることを示す道標が建っています。地福寺のある井内と市西祖谷山村は、かつては「旧祖谷街道(祖谷古道)で結ばれていました。地福寺は、井内だけでなく祖谷の有力者である「祖谷十三名」を檀家に持ち。祖谷とも深いつながりがありました。地福寺は祖谷にも多くの檀家を持っていたようです。
井川町の峠道
水の口峠と祖谷古道
 井内と西祖谷を結ぶ難所が水ノ口峠(1116m)でした。
地福寺からこの峠には2つの道がありました。一つは旧祖谷街道(祖谷古道)といわれ、日ノ丸山の北西面を巻いて桜と岩坂の集落に下りていきます。このふたつの集落は小祖谷(西祖谷)と縁組みも多く、戦後しばらくは、このルートを通じて交流があったようです。

小祖谷の明治7年(1875)生れの谷口タケさん(98歳)からの聞き取り調査の記録には、水ノ口峠のことが次のように語られています。

水口峠を越えて、井内や辻まで煙草・炭・藍やかいを負いあげ、負いさげて、ほれこそせこ(苦し)かったぞよ。昔の人はほんまに難儀しましたぞよ。辻までやったら3里(約12キロ)の山道を1升弁当もって1日がかりじゃ。まあ小祖谷のジン(人)は、東祖谷の煙草を背中い負うて運んでいく、同じように東祖谷いも1升弁当で煙草とりにいたもんじゃ。辻いいたらな、町の商売人が“祖谷の大奥の人が出てきたわ”とよういわれた。ほんなせこいめして、炭やったら5貫俵を負うて25銭くれた。ただまあ自家製の炭はええっちゅうんで倍の50銭くれました。炭が何ちゅうても冬のただひとつの品もんやけん、ハナモジ(一種の雪靴)履いて、腰まで雪で裾が濡れてしょがないけん、シボリもって汗かいて歩いたんぞよ。祖谷はほんまに金もうけがちょっともないけに、難儀したんじゃ」

 もうひとつは、峠と知行を結ぶもので、明治30年(1897)ごろに開かれたようです。
このルートは、祖谷へ讃岐の米や塩が運ばれたり、また祖谷の煙草の搬出路として重要な路線で、多くの人々が行き来したようです。 この峠のすぐしたには豊かな湧き水があって、大正8年(1919)から昭和6年(1931)まで、凍り豆腐の製造場があったようです。

「峠には丁場が五つあって、50人くらいの人が働いていた。すべて井内谷の人であった。足に足袋、わらじ、はなもじ、かんじきなどをつけて、天秤(てんびん)棒で2斗(30kg)の大豆を担いで上った」
と知行の老人は懐古しています。
 水ノ口峠から地福寺を経て、辻に至るこの道は、吉野川の舟運と連絡します。
また吉野川を渡り、対岸の昼間を経て打越峠を越え、東山峠から讃岐の塩入(まんのう町)につながります。この道は、古代以来に讃岐の塩が祖谷に入っていくルートの一つでもありました。また近世末から明治になると、多くの借耕牛が通ったルートでもありました。明治になって開かれた知行経由の道は、祖谷古道に比べてると道幅が広く、牛馬も通行可能だったようです。しかし、1977年に現在の小祖谷に通ずる林道が開通すると、利用されることはなくなります。しかし、杉林の中に道は、今も残っています。
水の口峠の大師像
水の口峠の大師像
この峠には、「文化元年三月廿一日 地福寺 朝念法印」の銘のある弘法大師の石像が祀られています。朝念というのは、地福寺の第6代住職になるようです。朝念が、水ノ口峠に石仏を立てたことからも、この峠の重要さがうかがえます。
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剣山円福寺別院の看板が掲げられている
④の地福寺と剣山の円福寺について、見ていくことにします。
 剣山の宗教的な開山は、江戸後期のことで、それまでは人が参拝する山ではなく、修験者が修行を行う山でもなかったことは以前にお話ししました。剣山の開山は、江戸後期に木屋平の龍光寺が始めた新たなプロジェクトでした。それは、先達たちが信者を木屋平に連れてきて、富士の宮を拠点に行場廻りのプチ修行を行わせ、ご来光を山頂で拝んで帰山するというものでした。これが大人気を呼び、先達にたちに連れられて多くの信者たちが剣山を目指すようになります。
木屋平 富士の池両剣神社
 藤の池本坊
  龍光寺は、剣山の八合目の藤の池に「藤の池本坊」を作ります。
登山客が頂上の剱祠を目指すためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を造営し、寺が別当となります。この藤(富士)の池は、いわば「頂上へのベースーキャンプ」であり、頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、多くの参拝客を集めることになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
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地福寺の護摩壇

  このような動きを見逃さずに、追随したのが地福寺です。
地福寺は先ほど見たように祖谷地方に多くの信者を持ち、剣山西斜面の見ノ越側に広大な社領を持っていました。そこで、地福寺は江戸時代末に、見の越に新たに剣山円福寺を建立し、同寺が別当となる剣神社を創建します。こうして木屋平と井内から剣山へのふたつのルートが開かれ、剣山への登山口として発展していくことになります。
宿泊施設 | 剣山~古代ミステリーと神秘の世界~

  それでは、地福寺から剣山へのルートは、どうなっていたのでしょうか?
 水口峠の近く日ノ丸山があります。この山と城ノ丸の間の鞍部にあるのが日の丸峠です。井川町桜と東祖谷山村の深渕を結び、落合峠を経て祖谷に入る街道がこの峠を抜けていました。
   見残しにある円福寺の住職を、地福寺の住職が兼任していたことは述べました。地福寺の住職の宮内義典氏は、小学校の時に祖父に連れられて、この峠を越えて円福寺へ行ったことがあると語っています。つまり、祖谷側の剣山参拝ルートのスタート地点は、井内の地福寺にあったことになります。
 
日ノ丸山の中腹に「坊の久保」という場所があります。
ここに地福寺の前身「持福寺」があったといわれます。平家伝説では、文治元年(1185)、屋島の戦いに敗れた平家は、平国盛率いる一行が讃岐山脈を越えて井内谷に入り、持福寺に逗留したとされます。
  以上をまとめておきます
①井川町井内地区には、修験者の痕跡が色濃く残る
②多くの修験者を集めたのは地福寺の存在である。
③地福寺は、神仏混淆の中世においては郷社の別当寺として、井内だけでなく祖谷の宗教センターの役割を果たしていた。
④そのため地福寺は、祖谷においても有力者の檀家を数多く持ち、剣山西域で広大な寺領を持つに至った。
⑤地福寺と西祖谷は、水の口峠を経て結ばれており、これが祖谷古道であった。
⑥地福寺は剣山が信仰の山として人気が高まると、見残しに円福寺と劔神社を創建し、剣山参拝の拠点とした。
⑦そのため祖谷側から剣山を目指す信者たちは、井内の地福寺に集まり祖谷古道をたどるようになった。
⑧そのため剣山参拝の拠点となった地福寺周辺の集落には全国から修験者が集まって来るようになった。
祖谷古道

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

木屋平村絵図1
木屋平分間村絵図の森遠名エリア

前回は、「木屋平分間村絵図」の森遠名のエリアを見てみました。そこには中世の木屋平氏が近世には松家氏と名前を変えながらも、森遠名を拓き集落を形成してきたプロセスが見えてきました。今回は、この地図に描かれた修験道関係の「宗教施設」を追っていきたいと思います。この絵図には、神社や寺院、ばかりでなく小祠・お堂が描かれています。この絵図の面白い所は、それだけではありません。村人が毎日仰ぎ見る村境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現なども描かれています。木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が形成されていたと研究者は考えています。
 修験道にとって山は、天上や地下に想定された聖地に到るための入口=関門と考えられていました。
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。この場合には、神や仏は山上の空中に、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
「異界への入口」と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道とされ、
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖、
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
 これらの①~⑤の「異界への入口」が、「木屋平分間村絵図」には数多く描かれているのです。その中には,村人がつけた河谷名や山頂名,小地名,さらに修験の霊場数も含まれます。それを研究者は、次の一覧表にまとめています。
木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観一覧表

この表を見ると、もっとも描かれているのは巨岩197です。巨岩197のある場所を、研究者が縮尺1/5000分の1の「木屋平村全図」(1990)と、ひとつひとつ突き合わせてみると、それが露岩・散岩・岩場として現在の地形図上で確認できるようです。絵図は、巨石や祠の位置までかなり正確にかかれていることが分かります。

描かれた巨石(磐座)の中で名前のつけられたもの挙げてみると次のようになります。
①三ッ木村葛尾名の「畳石(870m)」(美馬郡半平村境付近),
②南開名の「龍ノ口」(穴吹川左岸),
③川井村大北名の「雨行(あまぎょう)山(925m)」の頂直下の「大師ノ岩屋」・「香合ノ谷」・「護摩檀」
④名西郡上分上山村境の「穀敷石(950m)
⑤木屋平村の「谷口カゲ」の「権現休石(410m)」
⑥那賀郡川成村境の「塔ノ石(1,487m)」
⑦美馬郡一宇村境の「ヨビ石(881m)」
⑧剣山修験の行場である「垢離掻川(750m)」北の「鏡石(910m)」
 これは異界への入口でもあり、修験行場の可能性が高いと研究者は考えています。
ここでは③の天行山の大師の岩屋を見ておきましょう。
木屋平 天行山
天行山(大師の岩屋や護摩壇などかつての行場) 
川井トンネルから北西に天行山(925m)があります。
木屋平天行山入口

この山腹の岩場に「大師ノ岩屋」・「護摩檀」・「香合ノ岩」などの行場が描かれています。そして絵図では「雨行大権現」が天行山頂に鎮座しています。現在は「雨行大権現」は、頂上ではなく、「大師ノ岩屋」の上方にあり,地元では「大師庵」と呼ばれているようです。
木屋平 川井村の雨行大権現 大師の岩屋付近
天行山の大師の岩屋
明治9年(1876)の『阿波国郡村誌・麻植郡下・川井村』には、次のように記されています。
「大師檀 本村東ノ方大北雨行山ニアリ巌窟アリ三拾人ヲ容ルヘク少シ離レテ護摩檀ト称スル処アリ 古昔僧空海茲ニ来リテ此檀ニ護摩ヲ修業シ岩窟ノ悪蛇を除シタリ土人之ヲ大師檀ト称ス」

意訳変換しておくと
「大師檀は、川井村東方の大北の雨(天)行山にある。人が30人ほど入れる岩屋があり、少し離れて護摩檀と呼ばれる所がある。かつて僧空海がここに来て、この檀で護摩修業して岩窟に住んでいた悪蛇を退散させたと伝えられる。そのため地元では大師檀と呼ばれている。

弘法大師伝説と結びつけられていますが、ここが行者たちの行場であったことがうかがえます。
木屋平 天行山の石段
大師の岩屋への石段 「大師一夜建鉄立の石段」
大師の岩屋には「大師一夜建鉄立の石段」と伝わる結晶片岩でできた急な石段が続いています。頂上直下の岩屋に下りていくと岩にへばりつくように大師庵が見えてきます。
木屋平 大師庵
天行山窟大師

「護摩檀」の横には、「大日如来」像が鎮座します。その台座には、明治9年3月吉日の銘と、「施主 中山今丸名(三ッ木村管蔵名南にある麻植郡中山村今丸名)中川儀蔵と刻まれています。台座に刻まれた集落名と人をみると,世話人の川井村5人をはじめ,三ッ木村4人,大北名3人,管蔵名1人,今丸名13人,市初名(三ッ木村)1人,上分上山村9人,下分上山村3人,不明2人の41人で,近隣の村人の人たちが中心になって建立されたことが分かります。

木屋平 天行山3

 「大日如来」像の横には「大正十五年十二月 天行山三十三番観世音建設大施主當山中與開基大法師清海」と刻まれた33体の観世音像が鎮座しています。ここからは、この岩場は「修験の行場 + 周辺の村人の尊崇の対象となった民間信仰」が複合した「宗教施設」と研究者は推測します。これを計画し、勧進したのは修験者だったことが考えられます。かつては、雨行大権現として頂上に祀られていたお堂は、今は窟大師として太子伝説に接ぎ木されて、大師の岩屋に移されているようです。
 このような「行場+民間信仰」の場が木屋平周辺にはいくつも見られます。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
三ツ木村と川井村の「宗教施設」
次に権現を見ていきます。修験者たちは、仏や菩薩が衆生を救うために権(かり)に姿をあらわしたものを「権現」と呼びました。
絵図に権現と記されている所を挙げると次のようになります。
⑨木屋平村と一宇村境の「杖立権現(1,048m)」
⑩三ッ木村と半平村の境の「アザミ権現(1,138m)」
⑪東宮山(1,091m)西斜面の「杖立権現」
⑫川井村と上分上山村境の「雨行大権現」と「富貴権現(970m)」
⑬三ッ木村・川井村境の「城之丸大権現(1,060m)」
⑭岩倉村境の霊場「一ノ森(1,879m)」の「経塚大権現」・「二森大権現」,
⑮剣山山頂(1,955m)にある「宝蔵石権現」
⑯木屋平側の行場にある「古剣大権現(1,720m)」
⑰祖谷山側にある「大篠剣大権現(1,810m)」
⑱丸笹山頂付近の「権現(1,580m)」
⑲川井村麻衣名の「蔵王権現(現麻衣神社,600m)」
木屋平 宗教的概観
木屋平村西部の「宗教施設」
地図で位置を確認すると分かるように、隣村と境をなす聖なる霊山に多く鎮座しているのが分かります。これらの権現を繋ぐと霊山を繋ぐ権現スカイラインが見えてきます。天上の道を、修験者たちは権現を結んで「行道」していたことがうかがえます。「権現」は、剣山修験の霊場や行場に鎮座しているようです。
山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
旧龍光寺(木屋平谷口)
 中世以来、木屋平周辺の行場の拠点となっていたのが木屋平村谷口にある龍光寺だったようです。
 龍光寺はもともとは長福寺と呼ばれ、忌部十八坊の一つでした。古代忌部氏の流れをくむ一族は、忌部神社を中心とする疑似血縁的な結束を持っていました。忌部十八坊というのは、忌部神社の別当であった高越寺の指導の下で寺名に福という字をもつ寺院の連帯組織で、忌部修験と呼ばれる数多くの山伏達を傘下に置いていました。江戸時代に入ると、こうした中世的組織は弱体化します。しかし、修験に関する限り、高越山の高越寺の名門としての地位は存続していたようです。
 長福寺(龍光寺)は、木屋平を取り巻く行場の管理権を握っていました。それは剣山の山頂近くにある剣神社の管理権も含んでいました。しかし、近世初頭までの剣山は著名な霊山や行場とは見られていなかったようです。高越山などに比べると霊山としての知名度も低く、プロの修験者が檀那から依頼されて代参する山にも入っていません。
  近世になると長福寺は、それまでは「一の森とか、立石、こざさ権現、太郎ぎゅう」と呼ばれていた山を「剣山」というキラキラネームに換えて、一大霊場として売り出す戦略に出ます。同時に、寺名も長福寺から龍光寺へと変えます。そして、「剣山開発プロジェクト」を勧めていきます。そのために取り組んだのが、受けいれ施設の整備です。それが絵図には、下図のように記されています。

木屋平 富士の池両剣神社
 富士の池坊と両剣前神社
  龍光寺は、剣の穴吹登山口の八合目の藤(富士)の池に「藤の池本坊」を作ります。登山客が頂上の剱祠でご来光を見るためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を藤の池に造営し、寺が別当となります。これは「頂上へのベースーキャンプ」であり、これで頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、山伏たちが先達となって多くの信者たちを引き連れてやって来るようになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
  この結果、藤の池までの穴吹川沿いのルートや剣山周辺行場だけに多くの信者が集中するようになります。それでも、それまで行場として使われていた巨石(磐座)や権現は、修験者たちによって使われ続けたようです。それが19世紀初頭に書かれた村絵図に、巨石(磐座)や権現として描き込まれていると私は考えています。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 

 阿波の霊山と修験道史をまとめた田中善龍は、高越山と忌部十八坊の関係について、かつて次のように記しました。
  高越山周辺地域には、古代に中央から忌部氏の移住があった。さらに、中世にはその後裔と自称する家族による支配があり、彼らは忌部神社のある山崎の地(吉野川市山川町)などで寄り合いを開いた。これら忌部氏、ないしはその後裔と称する集団は、忌部神社を精神的連帯の核としたが、この神社の別当だったのが高越山頂にある高越寺だった。このような阿波忌部の聖地を前提とするのが、地方的な修験である忌部修験であり、大滝山系真言修験と対立関係にあった。

 そして「忌部修験」の内で現存するものは、吉野川市、美馬市、美馬郡、三好市にあり、室町時代に連帯組織を形成したこと、その中でもつるぎ町半田の神宮寺が中心であり、忌部神社を共通の聖地としていたとします。

私も田中氏の説にもとづいて、高越山=忌部修験の聖地と考えてきました。しかし、近年になっていろいろな批判が出ているようです。どこが問題なのか、何が批判されているのかを見ていくことにします。テキストは 長谷川賢二 阿波国の山伏集団と天正の法華騒動 「修験道組織の形成と地域社会」 岩田書店 です。
 長谷川賢二の批判点は、以下の四点です。
第1に、高越山が忌部氏の聖地であり、高越寺が忌部神社の別当であったということについて、
この根拠となる史料が示されていない。「あたりまえ」の前提とされている。「忌部十八坊」と高越山・忌部神社の関係、一八坊の相互関係(山伏結合としての実態)や個々の内部構造も、史料から明らかにされていない。
第2に、つるぎ町半田の神宮寺が「忌部十八坊」の中心だったという点について。
 田中説を進めると半田町の神宮寺は、山崎に鎮座する忌部神社の「神宮寺」ということになる。また、忌部神社と高越山とが一体であるなら、神宮寺は高越山が遥拝可能な場所か、高越山周辺にあるのが自然だろう。しかし、半田町にある神宮寺は、いずれの条件も満たさない。高越山をセンターとするはずの山伏集団が、そこから離れた場所に中核寺院をもつのも不自然で疑問に思わざるえない。
以上、忌部修験をめぐる田中の所説には、論拠の不明確さや論理の不整合があり、
忌部神社 ー 高越山 ー「忌部十八坊」

をつなぐ明確なつながりは見えてこないとします。議論の前提として忌部修験の存在が語られていて、それがいかなる存在だったのかが語られていないとします。そこで、長谷川賢二氏は史料をして語らしめるという実証史学の原点に戻ります。「忌部十八坊」について記された史料を見ていくことから再出発します
忌部修験に関する根本史料は①『願勝寺系譜』と②『麻殖系譜」とされます。
①『願勝寺系譜』には、九代神党の項に
「安和二年巳己九月十九日、忌部十八坊ヲ定メ」
②『麻殖系譜』には基光・徳光の項に、それぞれ次のようにあります。
「安和三年己巳九月卜九日、忌部神社ハ坊ヲ別」
「忌部授社本社ノ別当、皆福ノ一字無キ寺ハ、福ノ一字ヲ加エテ寺号ヲ改メシム」
と記され、 一八か寺の名が挙げられています。しかし、これだけなのです。実態は何もわかりません。

1『願勝寺系譜』とは、どんな史料なのでしょうか。
美馬町には、浄土真宗興正寺派の讃岐への布教センターとなった安楽寺や、その分院が大きな屋根を並べる寺町というエリアがあります。このその寺町の一角にあるのが真言宗の願勝寺です。この寺には『願勝寺系譜』という文書が残されています。歴代住持の事績集成という形をとった寺史で、文禄二年(1594)の奥書があるようです。従来は、これが全面的に信頼され同時代史料的な価値が認められてきたようです。
その中に天正三(1575)年に発生した「法華騒動」が記されています。その概略は、阿波国支配の実権を掌握していた三好長治が、国内に日蓮宗への改宗を強制したため、日蓮宗の教線が急速に拡大する。それに危機感を抱いて反発した真言宗など諸宗の僧侶が結集し、三好氏の拠点である勝瑞城下での宗論に至るというものです。史料を見てみましょう。
快弁ハ高野山ニテ法華退治ノ一策ヲ儲ケ、阿波へ帰リテ同意ノキ院ヲ訪ラヒ、阿波国ノ念行者多数ノ山伏ヲ催シ、持妙院へ訴訟シ、日蓮宗へ対シ、不当状ヲ三尺坊二持タセテ本行寺へ遣ス処、妙同寺普伝上人返答延引ヨツテ法華坊主ヲ打殺スベシト(中略)本行寺へ押入り騒動二及フ、共魁トナル人々ニハ大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻殖曽川山、牛ノ嶋ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大栗ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノー願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大店同寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮車寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ、忌部郷忌部十八坊ヲ始、其余ノ神宮寺別当附属ノ修験神坊ノ行者ハ此事二与セスト雖、国中ノ騒動大方ナラス
意訳変換しておくと
願勝寺の快弁は、まず高野山で法華退治の一策を講じて、阿波へ帰ってきて、これに賛同する寺院を訪ねた。阿波国の多くの「念行者」や多数の山伏の賛同を得て、持妙院へ訴訟した。日蓮宗に対して、不当申立状を三尺坊に持参させて本行寺へ遣ったところ、妙同寺の普伝上人は、法華坊主を打殺スベシトという返答であった(中略)
 そこで本行寺へ押入り騒動に及んだ、共に立ち上がったメンバーは次の通りである。
大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻殖曽川山、牛ノ嶋ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大栗ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノー願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大店同寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮車寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ、
しかし、忌部郷忌部十八坊ヲ始、その他の神宮寺別当附属の修験や神坊の行者は、この騒動に与しなかったが、国を揺るがす大騒動となった。
 ここには、願勝寺の快弁の活躍ぶりがまず描かれています。そして「法華退治ノ一策」への協力要請を受け人れた「念行者」を核とする山伏集団の蜂起と、それに対する「忌部十八坊」などの非協力があったとします。

長谷川賢二氏は『願勝寺系譜』のテキスト・クリニックを行います
①外見的には、書体が稚拙であり、16世紀末の古文書の書体ではないこと
②書き損じとそれに伴う訂正筒所がいくつかあること
③末尾には「法印権大僧都快盤」の署名と花押の位置関係が不自然なこと
以上から、現存本は16世紀末のものではないとの疑義を持ちます。もし、『願勝寺系譜』が文禄三年(1594)の作成としても、現在本は写本であると推察します。
次に、奥書の記載内容から、史料の性格を見ていきます
右、福聚寺殿ョリ御尋二付、当院古来旧記取調、早速其概略ヲ写収候テ奉備高覧、預御感難有仕合候間、為後来之亀鑑控置候者也、

奥書によると「願勝寺系譜』は「福衆寺殿(峰須賀家政の父である正勝)」の求めに応じて、作成したものの控えであると記されています。ここからは、『願勝寺系譜』の原形は、蜂須賀氏の入国後間もない時期に書かれたことになります。ところが、本文中の記事には後世のことが何カ所か含まれていて、奥書の日付をそのまま信じるわけにはいかないようです。
 「奥書にある「文禄三年」は、現実的な年記ではなく、「古さ」を強調するための虚構である可能性が高い」

と長谷川賢二氏は指摘します。なお、前年の文禄二年は、願勝寺が脇城主稲田氏から美馬郡中諸寺の監督を命じられたとされる年です。美馬地域における願勝寺の卓越性の主張を込めた年紀の設定と研究者は考えているようです。

次に『願勝寺系譜』の歴代住職について見てみましょう。ここにも疑義があるといいます。
初代 福明 「阿波忌部ノ正統忌部玉垣ノ宿面ノ庶弟」
二代 福淵 「麻殖忌部布刀淵ノ三男」
三代 人福 「忌部大祭卜玉淵宿爾第ニノ庶子」
四代 実厳 「忌部麻殖正信ノニ男」
六代 智由 「母ハ阿波忌部石勝ノ女」
八代 智光 「忌部高光ノ庶弟」
九代 智党 「忌部氏人麻殖正種二寺」
10代 徳光 「忌部大祭主信光ノ一弟」
11代 随伝 「共姓モ忌部氏」
12代 了海 一麻殖I遠ノ一男」(随伝の項にあり)
14代 行智 「麻殖正径ノ次男」
16代 行真 「忌部大祭寺麻殖親光内室ノ弟」
21代 月心 「忌部大祭主麻殖利光ノ庶弟」
32代 鏡智 父は「忌部ノ祭主麻殖利光ノ家二客タリ」
33代 観月 「阿波忌部大輔成良ノ子田内ノ‐‥工門成直ノ後胤也」
34代 快念 「忌部人祭主麻殖因幡守ヲ頼」
35代 快弁 「麻殖因幡守猶子トログシ」

「忌部」姓、「麻殖」姓、「麻殖忌部」姓、「忌部麻殖」姓が同系とみられます。歴代住職18人のうち17人までが忌部氏との関係が記されています。当時は僧侶は妻帯できませんから世襲ではありません。この姓から住職は選ばれたとします。
『願勝寺系譜』に見られる忌部伝承は、多くの点で「麻殖系譜』と一致するようです。
『麻殖系譜』とは、忌部神社の祭祀に携わり「忌部大祭主」や「麻殖人宮司」などを務めた者が多数いたという麻殖氏なる一族(当然のように忌部氏を称した)の系図です。成立時期は分かりません。『願勝寺系譜』と「麻殖系譜』は、次の項目は一致します
①住職名
②「忌部十八坊」についての記事内容
③願勝寺の名の由来伝承
このように、両系譜の相関性は高いようです。

これは何を意味するのでしょうか・
その手がかりは『麻殖系譜』が式内忌部神社の所在地論争の際に資料として提出されたことにあるようです。この論争は、明治四年(1871)に政府が忌部神社の国幣中社へのランクアップを行おうとしたときに、次の2つの神社間でどちらが式内社の系譜を引く正統な忌部神社であるかめぐって、起こったものです
①麻植郡山崎村(吉野川市山川町)の天日鷲神社
②美馬郡西端山村(つるぎ町貞光)の五所(御所)神社
最終的には、明治18年(1885) に、妥協案として新たに徳島市に社地が選定され、決着がつけられます。
 しかし、古代の阿波忌部の本拠は麻殖部でしたし『延喜式』巻10(神祗10 神名)には、「麻殖郡八座」の一つに「忌部神社」と明記されています。したがって、美馬郡から式内忌部神社の名乗りがあるのは奇妙なことです。
 ところが、これについては、貞観二年に美馬郡が分割され、三好部が置かれたという独特の解釈を加えた説が主張され、美馬郡鎮座説の根拠とされます。つまり美馬部を三好部とし、麻殖郡を分割して美馬・麻殖の2郡としたというのです。この考え方に従えば、式内忌部神社が美馬那であっても、もと麻殖郡であるから、問題ないということになります。その証拠として出されたのが『阿陽記」などの史書です。
これについて、山崎村鎮座説に立つ小杉檻椰(阿波出身の神学者)は、次のように述べて「阿陽記」は証拠としては無意味であると断じています。
「明文トスル所ノ阿陽記・国鏡ノ類ハ(中略)寛政(1789~1801)ノ比二雑録セシ俗書

 これに対して、美馬郡鎮座説を唱え、小杉と対決した細矢席雄(讃岐の田村神社権宮司)は、『阿陽記」等を「文禄(1592~96年―引用註)或ハ大和(1681~84年)ノ旧記」と主張したようです。
 結局は、麻殖郡分割による郡境変更説が古代史料によるものではなく、成立期も不明確な史料を盾にとったものであることを美馬郡鎮座説派も認めていたわけです。今日では『阿陽記』については、明和年間(1764~72年)の成立とされているようです。やはり、江戸時代中期の論争後に「創作」されたものだったのです。
 このような論争のなかで、「麻殖系譜』は西端山村側の証拠資料として提出されたものです。    
これには、次のような郡境変更説が記されています。まず、玉淵の項に
麻殖上郡・阿波寺郡ヲ合シテ美馬郡トス、麻内山ハ神領ナル故、麻殖中郡トシテ之ヲ別」

たとあります。「麻内山」は、別の項目では、「麻殖内山」と記されています。麻殖郡分割説を唱え、神領である地域(忌部神社を含む)のみが一部とされたという説明です。ここからは『麻殖系譜」は「式内忌部神社美馬郡鎮座説」の擁護のために書かれたことがうかがえます。
郡境変更説は「願勝寺系譜」にも受容されます。
『麻殖系譜』のような細かい記述はありませんが、願勝寺10代徳光の項に「麻殖下郡」という地名が記されます。これは麻殖郡の分割があったということをフォローする内容になります。
 また、先ほど見たように『願勝寺系譜』の忌部伝承が『麻殖系譜』と一致することあわせて考えると、その記述は式内忌部神社美馬郡鎮座説を前提としたものであることが見えてきます。しかも、全編にわたって忌部氏との関係などが記されています。初代福明の項には、玉垣宿爾について「阿波忌部ノ正統」とあり、麻殖氏系譜の正統性が強調されています。以上から長谷川賢二氏は次のように指摘します。
  「こうしたことから考えれば、美馬郡鎮座説の影響は、転写過程での部分的な潤色によるものではなく、『願勝寺系譜』全体の成立にかかわって意識的に取り込まれたものとすべきであろう。

式内忌部神社美馬郡鎮座説の正当化するために『願勝寺系譜』や『麻殖系譜』が書かれたものであるとすれば、それが唱えられ始めた時期に着目すれば、両系譜の成立期も自ずと分かってくるはずです。そこで、忌部神社論争の起点を確認します。
  この明瞭な時期は、文化11年(1815)完成の藩供地誌『阿波志』に次のように記されています。
元文中、山崎・貞光両村祀官、相争忌部祠

ここからは元文年間(1736~41年)、麻殖郡山崎村と美馬郡貞光村の神職の間で、忌部神社の所在をめぐり争われていたことが分かります。つまり、近代以前にも忌部神社の所在をめぐる争論があったのです。
 このときの争論では、麻殖郡の種穂神社が忌部神社とされ、寛保三年(1743)完成の『阿波国神社御改帳』には「種穂忌部神社」と記載されています。しかし、種穂神社の神職だった中川氏に伝わつた史料によれば、その後も問題は続いていたことがうかがえます。
 貞光村と西端山村は、近接しています。明治の忌部神社論争においては、貞光村の忌部旧跡も取り上げられ、西端山村と一体となって美馬郡鎮座説の焦点となった地域のようです。
 どうやら18世紀前半の忌部神社=貞光村説は、近代における西端山村説とほぼ同じエリアの中での式内忌部神社の所在地を廻る争論であったようです
 以上から美馬郡鎮座説を正当化する伝承が必要となったのは、18世紀前半のことのようです。都境変更説が記された『阿陽記』の成立は18世紀後半とみられています。忌部神社をめぐる争論との関係からしても、納得がいく時期です。
 このようにみてくると、「願勝寺系譜』『麻殖系譜』の式内忌部神社美馬郡鎮座説を意識した記述は、争論との関係から定形化されるようになってきたと研究者は指摘します。ここからも『願勝寺系譜』を奥書の文禄三年(1594)に成立していたとは、見なせないというのが研究者の結論になるようです。
  『麻殖系譜』についても、近代の忌部神社論争時までには成立していて、論争に利用されました。そのため、江戸時代の論争がはじまった18世紀前半には出来上がっていたようです。しかし、『願勝寺系譜』と比較して、その先後関係は分かりません。
 どちらにしても両系譜は、式内忌部神社をめぐる論争という、きわめて政治的な動きの中で書かれたものであるようです。そのため「創作された伝承」が含まれていることを、想定する必要があります。す。このことについて、長谷川賢二氏は次のように記します

  こうした史料に関する問題を考慮するなら、先に虚構と断定できないとした忌部修験についても、中世史の問題として議論するには慎重を要する。美馬郡鎮座説が本格的に展開する18世紀以後に、当該神社の社会基盤の広がりや権威を誇張するために名目的に創り出された可能性も含んでおく必要があるように思うのである。

以上をまとめておくと
①「忌部修験」は、イメージが先行して、それを証拠立てる史料がないこと
②「忌部修験」の根本史料である『願勝寺系譜』『麻殖系譜』は、式内忌部神社美馬郡鎮座説をフォローするために後世に書かれたもので、18世紀以前に遡るとは考え難いこと
③史料にもとづかないイメージを無理に組み立てても、研究の深化にはつながらないこと
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  長谷川賢二 阿波国の山伏集団と天正の法華騒動 「修験道組織の形成と地域社会」 岩田書店
 

高越寺絵図1
高越寺絵図
高越(こうつ)寺については、阿波忌部の開拓神話の上に、弘法大師信仰や修験道などが「接ぎ木」されてきたことを以前にお話ししました。高越山は「忌部修験」と呼ばれる山伏集団の拠点とされてきました。しかし、この説については、次のような批判も出ています。
「超歴史的であり、史料的な裏づけからも疑問視される」

 さらに加えて近年、九山幸彦は阿波忌部に関する伝承は近世の創作であることを明らかにしています。高越山について、新たな視角が求めれているようです。そのような中で、四国辺路研究とのにもつながりから高越山の歴史を見直そうとする動きがあるようです。今回は「長谷川賢二 山岳霊場阿波国高越寺の展開 修験道組織の形成と地域社会所収」をテキストに、高越山の歴史を見ていくことにします。
高越山 弘法大師
高越山山頂に建つ弘法大師像
 
高越山には、12世紀初頭の早い時期から弘法大師伝承が伝わっています。

古い弘法大師伝説があるのに、四国88か所の霊場(札所)にはならなかった寺です。どうしてなのでしょうか。大師信仰とは別の条件で「霊場の取捨選択」があったと研究者は考えているようです。その条件とは何なのでしょうか?
高越寺が霊場として最初に文献史料に登場するのは、弘法大師信仰とのかかわりについてのようです。
真言密教小野流の一派・金剛王院流の祖・聖賢の『高野大師御広伝』(元永元年〔1118)に次のよう登場します。
〔史料1〕
阿波国高越山寺、又大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々。澄崇暁望四遠、伊讃土三州、如在足下。奉造卒塔婆、十今相全、不朽壊。経行之跡、沙草無生。又有御千逃之額、千今相存。
意訳変換しておきます
阿波国の高越寺は、弘法大師が建立した寺である。ここで大師は法華経を書写し、この峯に埋納した。この地は空気は澄み渡り伊予・土佐・讃岐の三州も足下に望むことができる。大師が造った卒塔婆は、今も朽ちることなくそのままの姿で建っている。経典を埋めた跡は、草が生えない。「御千逃」の額は、いまも懸かっている

ここには大師がこの地にやって来て「高越山寺」を建立し、さらに法幸経を書写し、埋納したことが記されます。
  弘法大師が亡くなって200年ほど経った11紀になると、「弘法大師伝説」が地方にも拡がり、四国と東国は修行地として強調されるようになります。こうした中で高越山でも弘法大師との関わりが語られるようになったようです。数多くの大師伝が残されていますが、高越寺が登場するのはこれだけのようです。
高越寺の霊場化がうかがえる次のような史料があります。
一つは、大般若経一保安三年〔1122)~大治2年〔1127)です。そこには比叡山の僧とみられる円範、天台僧と称する寛祐の名が見られます。天台系の教線が高越山におよんでいたようです。
二つ目は、経塚が発見されており、12世紀のものとされる常滑焼の龜、鋼板製経筒(蓋裏に「秦氏女」との線刻銘がある)、白紙経巻八巻などの埋納遺物が出てきています。
 これは先ほど見た大師信仰の浸透と並行関係で進んでいたようです。以上から13世紀に高越寺は顕密仏教の山岳霊場となっていたと研究者は考えているようです。
 近世の縁起『摩尼珠山高越寺私記』(以下私記』)にも弘法大師の高越山来訪が記されます。
『私記』は寛文五年(1665)、当時の住職宥尊が記したもので、高越寺の縁起としては最古のものになるようです。『私記」の内容は、大まかに分けると次の4つになるようです。
  ①役行者(役小角)に関する伝承
「天智人皇御字、役行者開基、山能住霊神、大和国与吉野蔵王権現一体分身、本地別体千手千眼大悲観世音苦薩」
「役行者(中略)感権現奇瑞、攀上此峯」
などと、役行者による開基や蔵王権現の感得が記されています。そして蔵王権現(本地仏 千手観音)の山であり、役行者が六十六か所定めた「一国一峯」の1つに配されたなどとされています。
  ②弘法大師に関する伝承
弘仁天皇御宇、密祖弘法大師、有秘法修行願望、参請此山
権現有感応、紡弗而現」
などと記され、大師が権現の示現を得て、虚空蔵求聞持法等の行や木造一体の彫刻をしたとされます。
  ③聖宝に関する伝承
「醍醐天皇御宇、聖宝僧正有意願登此山」

などと記され、聖宝が登山し、一字一石経塚の造営、不動窟の整備などを行ったとされます。
  ④山内の宗教施設
山上の宗教施設が記されます。「山上伽藍」については、
「権現宮一宇、並拝殿是本社也」
「本堂一宇、本尊千手観音」
「弘法大師御影堂」
などがあったほか、若一王子宮、伊勢太神宮、愛宕権現宮などとの本社があったようです。さらに
山上から7町下には不動明王を本尊とする石堂
山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)があり、地蔵権現宮があったことが分かります。また「殺生禁断並下馬所」と記されるので、ここが聖俗の結界となっていたようです。
山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現宮があります。その他には、鳥居があったことが記されます。
以上の記述からは、大師が高越山に現れたとこと、実際に大師堂があったようで、17世紀になっても高越寺は、引き続いて大師信仰の霊場であったことが分かります。

高越山 役行者
高越寺の役行者

しかし、研究者は次のように指摘します。
最重視されていたのは、大師ではないことに注意が必要である。役行者(役小角)の開基とされ、蔵王権現が「本社」に祀られ、その本地仏である千手観音が本尊として本堂にあるというように、役行者にこそウェイトがあることは明らかであろう。したがって、 17世紀の高越寺は、存立の基礎という意味では大師信仰が後退し、修験道色の濃い霊場となっていたといえる。


高越山 奥の院蔵王権現
高越山奥の院の蔵王権現

高越山の修験道の霊場としての起点は、いつから始まるのか

ここで研究者が取り上げるのが役行者と蔵王権現です。
役行者は修験道の開祖と信じられており、修験道とは切っても切れない関係というイメージがあります。しかし、歴史的に見ると、これは古代にまで遡るものではないようです。『私衆百因縁集」(正嘉九年〔1257)に
「山臥行道尋源、皆役行者始振舞シヨリ起レリ」

という記載が現れるのは13世紀以後のことのようです。
 また、役行者と蔵王権現のコンビ成立も12世紀頃で、このコンビのデビューは『今昔物語集』が最初になるようです。
一方、13~14世紀は、「修験」は山伏の行と認識されるようになる時代でもあります
「顕・密・修験三道」(近江国国城寺)や部 「顕・密・修験之三事」(若狭円明通寺)などというような表現が各地の寺院関係史料にみられるようになります。四国でも、土佐国足摺岬の金剛福寺の史料に「顕・蜜兼両宗、長修験之道」とあります。こうした状況から「修験道」が顕教・密教と並ぶ仏教の一部門として、認知されるようになってきたことが分かります。
 こうしたことを背景にして役行者は、山伏に崇拝されるようになります。こんな動きが高越寺に及んできたのでしょう。
高越山 権現
奥の院背後の蔵王権現鳥居
奥の院は、中央が「高越大権現」、向かって右が「空海」、向かって左)が「役小角」を祀っている

高越寺には南北朝~室町時代のものとされる立派な聖宝像があります。
これは、中世後期にこの山で聖宝信仰があったことを物語ります。聖宝には、以前にもお話ししましたのでここでは省略しますが、醍醐寺の開祖で、真言密教小野流の祖です。聖宝は若い時代には山林修行を行った修験者でもあったようで、蔵王権現とも関係が深く、『醍醐根本僧正略伝』(承平七年〔937)には、吉野・金峯山に堂を建立したとされます。そのため12世紀後半以降には、「本願聖宝僧正専十数之根本也」と醍醐寺における山伏の祖とされるようになります。
「聖宝像」の画像検索結果
左から観賢僧正、聖宝(理源大師) 神変大菩薩像(役行者) 
上醍醐

 さらには天台寺門系の史料『山伏帳』にも「聖宝醍醐仲正」と記されているので、天台宗からも崇拝されるようになっていたことがうかがえます。弘法大師伝説に続いて、聖宝が信仰対象となるのは13~14世紀のことです。これも、先ほど見たように「修験道の地位向上」と同時進行ですすんでいました。この二つの流れの上に、高越山の聖宝像があるのでしょう。それは高越寺が修験道霊場化していく過程をあらわしたものだと研究者は考えているようです。
醍醐寺の寺宝、選りすぐりの100件【京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
聖宝

 聖宝像=醍醐寺=当山派というつながりから、高越寺と当山派を結びつけて考えたくなります。これに対して研究者は次のように、ブレーキをかけます。
①三宝院が修験道組織を管掌するのは江戸時代になってからのこと
②中世に醍醐寺三宝院が山伏と結びついていたと、当山派に直結させることはできないこと
③中世の聖宝信仰は真言宗だけではなく天台寺門派に連なった山伏がいたこと
したがつて、聖宝信仰と修験道の関連は深いとしても、修験道=当山派というとらえ方は取りません。
中世に霊場化していた可能性のある「中江」(中の郷)を見てみましょう。
「中江」(中の郷)は、高越寺表参道の登山口と山上のほぼ中間地点にあたります。近世以降には、中善寺があったようです。ここには、貞治二年(1364)、応永六年(1399)、永享3年(1431)の板碑が残るので、中世にはすでに聖域化していたと研究者は考えているようです。
 また、ここは「聖俗の結界」であったようです。中世の山岳霊場では「中宮」といわれる場にあたります。そうだとすれば、中の郷の結界性も高越山が霊場化していたことを示すものかもしれません。14~15世紀には、山麓と山が結ばれ、高越山内は霊場としての体裁が整いつつあったとしておきましょう。

時代をさらに下って15~16世紀の高越山の様子を史料から見てみましょう
中世後期になると、和泉国上守護細川氏との関係から高越寺のことが分かるようになるようです。

高越山

⑤の細川常有が菩提寺として応仁二年(1468)に建立した瑞高寺に
高越寺井上社之事一円」(文明九年〔1477〕)、

上守護家菩提寺の永源庵に
高越別当職井参銭等」が(明応四年〔1495〕

と、上守護家からそれぞれの寄進が記されています。高越寺が上守護家の所領支配に組み込まれていたことが分かります。

高越山1

上守護家の細川元常が大檀那となり高越寺の造営にかかわった棟札があるようです。
永正11年(1514)の「蔵王権現再興棟札」上守護家の細川元常が大檀那となり、
「御庄代官常直」
「当住持人法師清誉」
「大願主勧進沙問慶善」
らが名を連なります。
「上棟本再興蔵王権現御社一字」
「右意趣者奉為 金輪型阜、天長地久、御願円満、国家安穏 庄園泰平、殊者御檀越等一家繁、子孫連続故造立之趣、如件」
裏面には次のような銘があります
「刑部太輔源朝臣元常」と「丹治朝臣常直」の著判、
「檜皮大工久千田宥円」の名
「御社造立悉皆五百六十二人供也」
この棟札には「蔵王権現御社」としるされます。これが高越山の霊場化が確実視できる初めての史料のようです。「再興」とあるので、これ以前から蔵王権現が高越山に祀られていたようです。銘には「荘園泰平」とあります。ここからは、再興には高越山麓の上守護家領である河輪田庄・高越寺庄の安穏を祈願する願いがあったようです。つまり、蔵王権現社が高越寺の中核的な施設として機能していたことがうかがえます。
高越山 奥の院扁額
高越山奥の院の蔵王権現の扁額

また、「勧進沙門慶善」の名からは、この再興事業には勧進僧が参加し、勧進活動も行われていたことが分かります。棟札の裏面に「御社造立悉皆五百六十二人供也」とあるのが勧進に応じた人数ではないのでしょうか。
 これら事業関係者は「庄園泰平」の祈りに束ねられ、組織統合のシンボルにもなっていきます。こうして高越山は、河輪田庄・高越山庄の鎮守としての性質を帯びて、地域の霊場としての機能していた可能性があります。ただし、これらは高越山の社領ではありません。上守護家の所領支配に組み込まれている荘園なのです。それは上守護家という支えがあって成り立つもので、「御檀越等一家繁昌、子孫連続」とされるべきものなのでしょう。
 裏面には「檎皮大工久千田宥門」という大工の名があります。「久千田」が地名に由来するとすれば、吉野川北岸にあった朽田庄(久千田庄とも。阿波市阿波町久千田)に居住する職人かもしれません。高越寺は山麓一帯だけでなく、古野川の南北にまたがる地域との関係を持っていた気配もします。
高越山 権現2
高越山の蔵王権現
細川常有の「若王子再興棟札」(寛正三年〔1462〕の写し(寛政二年(一七九〇〕)もあるようです。
ここからは熊野十一所権現の一つである若王子が祀られていたことが分かります。つまり、熊野行者などによる熊野信仰も同時に信仰されていたことになります。先ほど見た『私記』には、高越寺には「蔵王権現を中核として、若一王子(若王子)、伊勢、熊野」が境内末社として勧請・配置されていたと記されていました。この棟札からは、15~16世紀には、すでにそのような宗教施設が姿を見せていたようです。
16世紀の「下の房」の空間構成は、どうなっていたのでしょうか。
下之坊のある「河田」は、高越山麓の河輪田庄(河田庄)域と研究者は考えているようです。天明八年(1788)の地誌『川田邑名跡志』(以下「名跡志』)には次のように記されています。
「下之坊、地名也、嘉暦・永和ノ頃、大和国大峯中絶シ 近国ノ修験者当嶺(高越山)二登り修行ス。此時下ノ坊ヲ以テ先達トス。修験者ノ住所也 天文年中ノ書ニモ修験下ノ坊卜記ス書アリ」
意訳変換しておくと
「下之坊の地名である。嘉暦・永和ノ頃に大和(奈良)大峯への峰入りができなくなったために、、近国修験者が当嶺(高越山)に、やってきて修行するようになった。この時に下ノ坊が先達となった。つまり下の房とは修験者の住所である。天文年中の記録にも「修験下ノ坊」と記す記録がある」

ここからは次のようなことが分かります。
①大峰への登拝ができなくなった修験者たちが高越山で修行をおこなうようになったこと
②その際に、下之坊が高越山で先達を務めたこと
また同書の「良蔵院」の項には、下之坊は天正年間、土佐の長宗我部氏の侵攻の前に退去した後、近世に良蔵院として再興された記されます。さらに『名跡志』には、良蔵院以外にも「往古ヨリ当村居住」の「上之坊ノ子係ナルヘシ」という山伏寺の勝明院など、山麓の山伏寺が七か寺あったと伝えます。「下之坊」の名称からすれば、セットとして「上之坊」も中世からあり、また高越山を修行場としたと推測できますが、史料はありません。
 和泉国に残された和泉国上守護細川氏の一次史料からは、高越山の麓は以上のようなことが分かります。これは、従来言われていた「阿波忌部氏の拠点」で「忌部修験の拠点」という説を大きく揺り動かせるものです。「高越山=阿波忌部修験の拠点」説は、阿波側の後世の近世史料によって主張されてきたものなのです。

 高越寺は、山伏をどのように組織していたのでしょうか
高越山に残された大般若経巻の修理銘明徳三年〔1292)には、「高越之別当坊」「高越寺別当坊」という別当が見えます。また上守護家による永源庵への明応四年〔1495)の寄進にも「高越別当職並参銭等」とあり、別当が置かれていたことが分かりますが、詳しいことは分かりません。
 時代を下った『西川田村棟付帳』寛文13年(1671)には、弟子、山伏、下人などが登場します。ここからは次のような高越山の身分階層がうかがえます。
①住学を修める正規の僧職と弟子=寺僧
②山伏=行を専らにする者
③寺に奉仕する下人(俗人)
基本的には寺僧と山伏だったようで、中世寺院の「学と行」の編成だったことが推察できます。しかし、15世紀末には別当職は、山内の実務的統括から切り離されていたようです。大まかには寺僧が寺務や法会を管掌し、そのもとで山伏が大峰修行や山内の行場の維持管理などを行ったとしておきましょう。しかし、地方の山岳寺院でなので、寺僧と山伏に大きな違いはなかったかもしれません。
 確認しておきたいのは『名跡志』では、山麓の山伏は高越寺には属していません。下之坊の伝承にあるように、高越山を修行の場としていたとみられ、山内と山麓をつなぐ役割をもっていたと研究者は考えているようです。


以上をまとめてると次のようになります。
①高越寺が史料に登場するのは13世紀で、弘法大師大師にかかわるものである
②15世紀には、役行者や蔵王権現信仰を中心に修験道の霊場となっていく。
③山内や下の房には、修験者(山伏)の拠点でもあった。
④この時期の高越寺は和泉国上守護細川氏の所領支配に組み込まれた
⑤高越寺は、近世初頭には阿波の有力霊山として広く知られていた

「高越山=忌部修験の拠点」説を、以前に次のように紹介しました
⑥高越山周辺地域を、中世に支配したのは、忌部氏を名乗る豪族達
⑦忌部一族を名乗る20程の小集団は、忌部神社を中心に同族的結合をつよめた
⑧中世の忌部氏は、忌部神社で定期会合を開いて、「忌部の契約」を結んでいた。
⑨忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。
⑩忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達だった。

しかし、今見てきた高越寺の歴史からは⑥⑦は見えてきません。中世の高越山周辺は④で、高越寺は細川氏の庇護下にあったのです。忌部氏の気配はありません。⑧⑨についても、同時代史料からはこのような事実は見られないようです。⑩に関しては、これでいいでしょうが「忌部修験」とすることはできないことは、史料が示すとおりです。
以上から、「高越山=忌部修験の拠点」説には、冒頭で述べたような次のような批判が出されているようです。
①「超歴史的であり、史料的な裏づけからも疑問視」される
②九山幸彦氏は阿波忌部に関する伝承は、近世の創作であることを明らかにした。

最後に、研究者は高越寺が四国辺路の札所に選ばれなかった背景を次のように推測しています
近世初頭に阿波の霊山として認知されていた寺院として、高越寺以外に大龍寺・雲辺寺・焼山寺・鶴林寺を上げます。これらは高越寺以外は、全て四国遍路の札所になっています。しかし、古くからの弘法大師信仰霊場でもあった高越寺が札所に選ばれませんでした。その背景は、高越山が大師信仰の霊場というよりも修験道霊場としての側面が強かったことにあるとします。そして、「開かれた霊場・巡礼地」としての基準に合わなかったというのです。
 別の研究者は、もとは高越寺も四国辺路の「大辺路」の札所であったものが、巡礼経路の変更で外れてしまったという説もあるようです。今は四国遍路道は10番切幡寺で吉野川を遡るのをやめますが、かつては高越寺へも四国辺路の行者達は巡礼していたのかも知れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 山岳霊場阿波国高越寺の展開 修験道組織の形成と地域社会所収」
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  前回は鶴林寺から太龍寺の中世の遍路道が、紀伊熊野の海賊衆の支援を受けて作られたことをお話ししました。ここに残された四国で一番古い丁石からは、中世の「古四国霊場」の姿が垣間見ることができました。さて、今回は鶴林寺と道隆寺の発掘調査から分かってきたことを見ていきたいと思います。
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 鶴林寺は、標高505mの鶴林寺山の山頂部にあります。
今は樹木が茂り、視界は眺望が余り効きませんが、南北方向に開け、北は勝浦川、南は那賀川を流れる二つの川を見下ろすことができたはずです。つまり、里からはよく見え山で、古代から霊山として崇められていたことがうかがえます。

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 境内は、南西方向から北東方向へ延びる尾根線上に位置し、東西約200m、尾根頂部を平らに造成して、境内を作りだしています。詳細測量で、寺院建物群が建つ平坦面の他に、本堂から南東側斜面には階段状に数段の平坦面があったことが分かりました。今は、この平坦面に建物はありませんが、もともとはお堂などが建っていたようです。
元禄2年(1689)の僧寂本の『四国徊礼霊場記』の挿絵を見てみましょう。
ここには、北室院(現、忠霊殿)を含め六力寺の子院が描かれています(図3)。
四国徊礼霊場記 鶴林寺
右側から仁王門をくぐって参道が延びてきて突き当たりを上がると本堂があります。本堂に延びる道の反対側に下って行くと上から、北室院・不動院・愛染院・宝積院・東蔵院、そして谷を隔てて「水神」を祀る石室院が見えます。どの塔頭も修験者の院主の存在を暗示します。ここからこの鶴林寺がもともとは、真言密教系の修験者の山岳寺院であったことがうかがえます。発掘調査からは、次のような事が明らかになりました。
①北側(参道右側)の子院跡は後世の開墾等で攪乱され礎石等の遺構は見つからなかった。
②「宝積院跡」では、斜面下段側に盛土造成した下から、焼土を多量に含む土坑、柱穴二ヵ 所が見つかった
③遺構からは14世紀頃の土師器坏片・小皿片が出土した。
③東蔵院からは、南北方向の石垣状の石積が出てきた。
「石室院跡」では、東西に細長い建物礎石(11m×7m)と床石が出てきた(図4)。それは『四国徊礼霊場記』の挿絵の建物によく似ている。
⑤各トレンチ内からは、古代の須恵器壹片・中世陶器(備前甕・揺り鉢)・青磁碗片等、明の青花磁器と思われる小片も出土した。
鶴林寺石室院

以上から、鶴林寺の前身の古代山岳寺院にあたると研究者は考えているようです。山岳寺院の果たした役割については、以前お話ししましたので省略します。
鶴林寺3

 太龍寺も、標高約500mの東西方向に延びる尾根線上に伽藍があります。
参道は北側からは谷筋を利用した遍路道が、東側からは尾根線を利用した旧遍路道「かも道」が太龍寺に延びていました。また、太龍寺からは「南の舎心(捨身)」の岩場を通り、次の22番札所平等寺への遍路道「いわや道」「平等寺道」が東に続きます。

IMG_0913

 精密測量の結果、仁王門から境内西端の子院跡までの約500mの東西に長い境内で、九段の平坦面があり、そこに多くの建物群があったことが明らかとなっています。
 寂本『四国偏礼霊場記』の挿絵(図5)と現在の建物配置を比べてみましょう。
太龍寺伽藍

この寺は、空海は「大瀧(おおたき)」獄と書いていますが、現在の寺名は「太龍(たいりゅう)」寺となっています。14世紀後半の太龍寺縁起には
「鎌倉末期ごろには太龍寺にはがあった」
「水はインド雪山の無魏池の水が流れて来た」
  と密教系縁起らしく大法螺を吹いていますが、瀧があったことは事実のようです。
 さらに、寺から辰巳(東南)に三重の霊窟があると記します。これが今は、なくなってしまった滝近くの「龍の窟」で、この窟が「太龍寺」と呼ばれるようになった所以のようです。
 絵図右下隅の北舎心岩の上のお堂は、お寺では大黒天堂らしいと伝えます。ここは岸壁で空中に橋が架けられています。また絵図左上には「南舎心」が描かれ。ここも空中を橋が結んでいます。本堂を挟んで「南の舎心」と「北の舎心」という二つの舎心岩(捨身岩)があったことが分かります。今は「舎心」と表記されていますが、もともとは「捨身」です。ここは捨身行が行われた行道行場だったようです。修験者たちは、南舎心岩と北舎心岩の二つの岩の行場を周りながら行道をおこなったと研究者は考えているようです。その中に空海の姿があったのかもしれません。
中央下には「瀧」が描かれています。
これがもともとの「大瀧寺」の由来になったと研究者は指摘します。『阿波国太龍寺縁起』には
「南の舎心」+「北の舎心」+「大瀧の岩屋」を併せて「三重之霊窟」

と記しています。
太龍寺 大瀧跡

 さて元に戻って、現在の伽藍配置と『四国偏礼霊場記』の挿絵を比べると変化点は、次の2点だけのようです。
①七子院が明治に全て山下に移転した
②貞享元年(1684)建立の三重塔が、昭和34年に愛媛県四国中央市の興願寺に移築
太龍寺は『歴代録』にあるように焼失と、再建を繰り返してきましたが、建物配置の上では17世紀のものが今も同じ位置にあることが分かります。つまり、この挿絵に描かれている景観が現在まで保たれているのです。
 中世のプロの修験者たちの修行の拠点であった霊場が、近世には素人の巡礼の札所に変身していきます。そのため伽藍配置や位置までもが変化していることが分かってきました。そういう中で中世からの伽藍配置がそのまま残されているという意味では、非常に貴重な場所と云えそうです。
 太龍寺では、建造物群に使用されている石材についても調査が行われています。
 このお寺の礎石や石段など石造物には、石灰岩(大理石)が多く使われています。太龍寺山には東西方向にいくつかの石灰岩の岩脈が走り、南北に延びる遍路道がその岩脈を数カ所で横切っているようです。そのため大正時代から昭和の初めにかけて「阿波の大理石」として採掘され、国会議事堂の建設にも使われました。そのため絵図に描かれた「大瀧」周辺は、セメント採石場に売却され瀧や岩屋は消えてしまいました。残っていれば空海修行の「大瀧」として、観光資源にもなったかもしれません。残念です。
 この寺での大理石の使用例を見ると、明治10(1877)年建造の大師堂や御影堂(御廟)の基壇や礎石に使われているほか、多宝塔の基礎や礎石、相輪楳の基壇にも使われています。多宝塔の建築年代は文久元年(1861)、相輪楳が文化十三年(1816)建立なので、大理石を建築資材として用いるようになったのは、江戸時代後期まで遡ることになります。
 この石材の採掘場は、太龍寺境内から約2㎞南東方向に延びる遍路道「いわや道」沿いにあったことが発掘調査から明らかとなっています。石材の採掘・切出しの手法などから、江戸時代の作業場とされ、丁場には削り取られた大量の石灰岩の屑のほか、一辺90㎝角の未製品石材が残っていました。この丁場に残された石材は、境内建造物に使用されている石材と一致するようです。
 遍路との関係では、文献・伝承で太龍寺山裾の水井村で良質の石灰岩の岩脈を発見したのは、寛政年間(1789~1802)に遍路として、当地を訪れた彦根藩の竹内勘兵衛という人物とされているようです。そうだとすれば、石灰製造技術や大理石の切出し技術も遍路が四国に伝えた文化・技術一つと云えそうです。

1四国遍路日記
 
 17世紀半ばに澄禅が残した『四国辺路日記』は、四国遍路の最古の資料です。
この中には、阿波の霊場が戦乱の傷跡から立ち直れずに、伽藍が焼け落ち残った本堂もぼろぼろで、仏像も壊れたままうち捨てられている姿が何ケ寺も出てくることを以前にお話ししました。
 そのような中で、鶴林寺と太龍寺は別格で、大寺院の風格を失っていないようです。17世紀半ばの二つのお寺の様子を見てみましょう。
    鶴林寺
山号霊鷲山本堂南向 本尊ハ大師一刀三礼ノ御作ノ地蔵ノ像也。高サ壱尺八九寸後光御板失タリ、像ノム子ニ疵在リ。堂ノ東ノ方ニ 御影堂在リ、鎮守ノ社在、鐘楼モ在、寺ハ靏林寺ト云。寺主ハ上人也。寺領百石、寺家六万在リ。
 
本堂も本尊も立派で、緒堂が立ち並んでいて、住職は「上人」です。他の寺院のように無住であったり、山伏や禅僧が住み着いた住職とは格が違うという雰囲気が伝わってきます。
そして「寺領百石、寺家六万」と記します。檀家が6万というのはオーバーにしても、他の札所が困窮しているなかで大寺らしい伽藍を維持できてていた数少ない寺院だったようです。
それでは大龍寺は、どうだったのでしょうか? 
山号捨身山本堂南向 本尊虚空蔵菩薩、宝塔・御影堂・求聞持堂・鐘楼 鎮守ノ社大伽藍所也。古木回巌寺楼ノ景天下無双ノ霊地也。寺領百石 六坊在リ。寺主上人礼儀丁寧也。
 
  ここからは大龍寺も鶴林寺と共に山上に大きな伽藍を持ち、兵火にも会わなかったようです。そしてここも百石という寺領を与えられています。
同じ山岳寺院であった焼山寺と比べててみましょう
      12番 焼山寺
本堂五間四面東向 本尊虚空蔵菩薩也。イカニモ昔シ立也。古ハ瓦ニテフキケルカ縁ノ下ニ古キ瓦在、棟札文字消テ何代ニ修造シタリトモ不知、堂ノ右ノ傍ニ御影堂在、鎮守ハ熊野権現也。鐘モ鐘楼モ退転シタリシヲ 先師法印慶安三年ニ再興セラレタル由、鐘ノ銘ニ見ヘタリ、當院主ハ廿二三成僧ナリ。

意訳すると
 本堂五間四面で東面し、本尊は虚空蔵菩薩である。いかにも古風な造りである。昔は瓦葺き屋根であったらしく、縁の下には古い瓦が置いてある。棟札は文字が消えて、いつ修理したのかも分からない。お堂の右に御影堂があり、熊野権現が祀られている。鐘も鐘楼もなくなっていたのを、先代が慶安3年に再興したことが鐘の銘から分かる。今の院主は若い僧である。

 ここからは本堂と御影堂、そして復興された鐘楼の3つの建造物があったことが分かります。本堂は、かつては瓦葺だったようですが、この時は萱葺きになっていたようです。かつての栄華はみえません。

なぜ那賀川の北と南にある鶴林寺と太龍寺は、戦国時代を生き抜き、近世に寺勢をつないでいけたのでしょうか。同じ山岳寺院でありながら衰退した焼山寺との「格差」は、どこにあったのでしょうか。これが澄禅の『四国辺路日記』を読みながら涌いてきた疑問のひとつです。考えられるのは戦国時代の混乱の中でも、ふたつの寺には大きな伽藍を維持できる自前の経済基盤があったということでしょう。次に、その基盤とは何かということになります。
私は、それは森林資源ではなかったのかと今は考えています。シナリオは次の通りです。
①古代の山岳寺院が国府によって建立された理由の一つに周囲の森林資源の管理があった
②山岳寺院は広大なエリアの森林資源を自己の支配下に置くようになる。
③中世に那賀川流域にやってきた熊野海賊(海の武士団)は、海上交易活動も行った。
④その最大の地場商品が木材であった。
⑤そのため熊野武士たちは、森林資源エリアをもつ山岳寺院と関係を深める
⑥有力者の保護を受け、木材販売で利益を上げた山岳寺院は山上に広大な伽藍を建立する
⑦室町時代には三好氏などと良好な関係を維持し、木材を堺港市場に提供し戦乱の中でも経済的な打撃を受けなかった。
⑧地元の武士団からも攻撃を受けることは無かった。
以上のような想像はできます。しかし、焼山寺ととの「格差」の理由は説明できません。
どちらにしても、鶴林寺と太龍寺は中世から近世にかけて、寺勢を維持し伽藍を保持し続けたようです。つまり、中性的な景観を良く残している寺であることになります。それは「古四国巡礼」の原型とも云えるようです。
参考文献
早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場  
                                                      四国霊場と山岳信仰 岩田書院

                                                    
「四国遍路形成史 山岳信仰の後に、弘法大師伝説はやってきた」の中で、四国霊場の成立を、次のような2段階説で説明するのが現在の定説になっていると紹介しました。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする
それでは、四国霊場の成立を考古学者たちは、どのように考えているのでしょう。
今回のテキストは、「早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場」四国霊場と山岳信仰 岩田書院です。
 阿波徳島藩により描かれた「阿波国大絵図」寛永十八年(1641)を見てみましょう

太龍寺 阿波国絵図
東側から俯瞰した構図で、中央を左奥から手前中央に流れるのが那賀川になるようです。その那賀川の両側の山の上には伽藍が見えます。
右(北側)が、20番札所の鶴林寺で、
左(南側)の二層の建物が描かれているのが太龍寺
です。そして、各村々の名前が記され、それをつなぐ道も赤く描かれています。ふたつの寺院をつなぐ道も見えます。これは札所寺院と札所寺院をつなぐ道(遍路道)を描いたものしては、最古のもののようです。山岳寺院を結ぶネットワークが早くからあったことがうかがえます。
 地図上に見える「かも道」は賀茂村(現、加戊町)から太龍寺の参詣道です。現在の遍路道以前の「古遍路道」で、中世にまでさかのぼることが分かってきました。
太龍寺 かも道

勝浦川から鶴林寺への参拝道である「鶴林寺道」には、南北朝期の町石(明徳二年(1391)が11基が残されています。つまり、南北朝時代には、鶴林寺への参拝道が整備されていたことを示します。
誰によって整備されたかは後ほど見ることにして、もう少しこの丁石を見ていきます。この丁石は「無傷」ではありません。近世になって「遍路」のための丁石として再利用され、全ての町石に新しい丁数が刻まれたのです。
   例えば明徳二年造立銘の「十二町」の丁石は、他の面に「五丁」と刻まれています。(写真1)
太龍寺 鶴林寺丁石

南北朝期の丁石が、いつ遍路道の丁石に転用され、新たな丁数が彫られたのかは分かりません。一つの手がかりとして、鶴林寺に参詣する別ルート(勝浦町棚野集落からの参詣道)には、地元の福良与兵衛により道の整備とともに建てられた享保3年(1718)銘の丁石が立ち並びます。この道の整備と併せて、周辺部の遍路道も整備されたようです。その際に南北朝期の町石にも、新しい丁数が彫られて転用されたと研究者は考えているようです。

 南北朝期の町石は、四国では鶴林寺と太龍寺への参詣道(遍路道)の二ヵ所でしか見つかっていません。

太龍寺 鶴林寺道2

このことは、中世から山岳寺院であったと云われる鶴林寺や太龍寺のルーツを考える上では重要な材料になるようです。
 例えば、この丁石がどこで作られたかを探ると、地元で作られたものではないことが分かってきました。丁石は、兵庫県の六甲山系花岡岩「御影石」が使われていたのです。わざわざ船に乗せて、大阪湾から紀伊水道・四国東海岸をめぐる物資の流通ルートに乗って運ばれてきたようです。この背後からは、当時の人とモノの流れがうかがえます。
 鶴林寺の遍路道の八丁石の背面には、願主の名前が刻まれています
  「七町 貞治五年 六月廿四日 真道願主 清原氏賓

願主の清原氏実とは何者でしょうか
この人物が、鶴林寺への参拝道の整備を行った信者の一人のようです。彼は、観応二年(1351)に那賀川下流南岸の阿南市宝田町から長生町にかけての竹原荘の地頭職に赴任していた周参見(清原姓)氏とされます。紀伊側の資料から、紀州牟婁郡で熊野水軍を率いた海の武士団(熊野海賊衆)の棟梁だったことが分かります。清原氏実の名は「泉福寺文書」に、文和三年(1354)竹原荘への土地の寄進に関わる文書にも出てくるようです。
   つまり、この八丁石は紀伊熊野からやって来て、竹原荘地頭職になった清原氏実によって寄進されたものということになります。さらに、阿南市那賀川町の三昧庵にある町石にも「十二町」「清原氏賓」の銘が刻まれています〔勝浦郡志〕。
 中世の那賀川河口には熊野からやってきた武士団(海賊)が拠点を構え、精力を上流に伸ばしていたことがうかがえます。

太龍寺 鶴林寺道

 少し想像力を飛躍させ、筆を走らせてみます。
海賊衆は、古代の「海の民」が分業した軍事勢力で、平時は船団をもち交易活動も行います。那賀川流域は木材の産地で、古代から奈良や京都の運ばれ、寺院建築などに用いられていました。阿波を拠点に畿内に勢力を伸ばす三好氏の経済基盤は、堺港における木材販売でした。阿波における木材販売の占める位置は、大きかったのです。紀伊熊野も木材の産地です。そこからやってきた清原氏実は、那賀川流域の森林価値を充分に分かっていたはずです。
 それを己の手中に収めるための方策を考えたはずです。
古代に森林管理センターとして機能するようになったのは、国府の建てた山岳寺院です。山岳寺院の経済的な役割については、以前に「仲寺廃寺」でお話しましたので省略します。
 勢力のある山岳寺院はいくつもの坊を列ね、大学として、医療センターなど様々は機能を持っていました。紀伊からやってきた外来勢力の清原氏実も、地元に根付いていくためには鶴林寺や太龍寺のもつ力を利用することを考えたはずです。
 もしかしたら、これらの寺院の僧侶の中には熊野修験者として阿波に定着した一族出身の僧侶もいたかもしれません。どちらにしても残された丁石からは、熊野海賊衆と那賀川流域の山岳寺院との関係が見えてきます。
太龍寺 地図

丁石以外にも紀伊の海賊(海の武士団)棟梁と目される「願主清原氏実」が残した痕跡としては、次のようなものがあるようです
①観応2年(1351)に竹原荘の地頭職を得た安宅氏が文和3年(1354)に再興したと伝えられる泉八幡宮、
②泉八幡宮周辺の本庄城跡
③泰地氏の城館跡と考えられている中郷城跡(泰地城)
 紀伊の小山家文書や安宅家文書など中には、小松島市・阿南市周辺の所領地名も記されています。
ここからは次のような事が分かります。
①那賀川流域では、熊野海賊衆と呼ばれた紀南武士が河口を中心に活動していた。
②彼らは、荘園支配以外にも海上交易を活発に行っていた。
③彼は鶴林寺や太龍寺などの山岳寺院を保護・信仰していた
④山岳寺院は熊野行者の活動拠点でもあった。
四国霊場成立前の那賀川流域には、政治・軍事組織として熊野海賊の姿と、宗教的な存在としての熊野修験者の姿が重なって見えてきます。
 太龍寺への古遍路道を見てみましょう 
太龍寺 かも道

太龍寺への現在の遍路道は、阿南市大井町から那賀川を渡り、水井から若杉集落を通過し太龍寺に至るルート②です。
しかし、中世の道は、阿南市加茂町から参拝する道「かも道」でした。貞享四年(1687)に真念が著した『四国辺路道指南』には、次のように紹介されています。
「これより太龍寺まで一里半、道は近道なり。師御行脚のすじは、加茂村、其のほど二里、旧跡も有り」
この中の「旧跡」とあるのが、南北朝期に建てられた町石と研究者は考えているようです。この「かも道」に建つ[太龍寺の丁石]は、鶴林寺の町石と同形式のものが19基残っています。その内の41丁石には[貞治六年 願主 道円]と刻まれています。そして、この願主の道円も紀州の人と言われます。
  「かも道」からは、発掘調査で経塚と考えられる列石を伴うマウンドが出土し、
①経筒の外容器に使った12世紀頃の東播磨系須恵器甕片
②室町時代の「阿波型板碑≒正面に阿弥陀如来を線刻」
が38丁石のすぐそばの斜面から出土しています
東播磨の須恵器甕も丁石と一緒に船で運ばれてきたのでしょう。
太龍寺 遍路道発掘

 同じように播磨産の石造物を、この周辺で探すと
①海陽町の木内家墓所の、正面に半浮き彫りの地蔵菩薩を配し、石柱上部に二線をめぐらした石造物
②由岐町の「九州型板碑」と呼ばれる形式の板碑も、六甲山系の花崗岩使用
③徳島県東海岸沿の六甲山系の花岡岩を石材とする五輪塔をはじめ多くの石造物
があるようです。
  ここから
「鶴林寺や太龍寺の参詣道に播磨から持ち込まれた町石は、紀伊水道の海上交通路を抑えた熊野水軍との関わりの中でもたらされたもの」
と研究者は考えているようです。

太龍寺 遍路道
最初に紹介した「四国霊場2段階成立説」を、最後に再度確認しましょう。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする
  つまり、ここに示されているのは①の段階です。そして、鶴林寺や太龍寺の南北朝の丁石や「かも道」は、中世の辺路巡礼の遺物と研究者は考えているようです。
 那賀川流域に熊野海賊の支配エリアがあり、その保護を山岳寺院が受けていたこと、そして山岳寺院は熊野行者たち山岳修験者の宗教的な拠点として機能していたことを示しているようです。
参考文献
「早渕隆人 考古学的視点で見た阿波の四国霊場」
                四国霊場と山岳信仰 岩田書院

2焼山寺1
    焼山寺の御詠歌は
後の世をおもへば苦行しやう山寺 死出や三途のなんじよありとも
 
です。苦行をしようとおもうということと焼山寺をかけて、ちょっと駄洒落のようになっています。「なんじよ」というのは、どういうふうにあろうとも、どんな具合であろうともという意味を俗語で表したものです。死出の山や三途の川はもっと苦しいんだろうけれども、後の世をおもえばこの山で苦行するのが焼山寺だといっています。

2焼山寺2

 ここには「遍路転がし」の辛さを「死出や三途のなんじよ(難所)=「苦行」と捉えているようです。この詠歌を思い出しながら、昔の遍路も「遍路転がし」を登ったのでしょう。
   しかし今は「四国の道」として整備され、たいへん歩きやすい自然遊歩道です。山歩きに慣れた人なら「遍路転がし」というのは、大げさな表現に聞こえるかも知れません。

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まずは、この寺の縁起を見てみましょう

 弘仁五年(814)に空海がこの山に登ろうとしたとき、毒龍が住んで火を吐き、全山火の海のようであったので焼山と呼んだという。空海が虚空蔵求聞持法を修すると、この火は消えて霊地となった。
 そこでこの山を摩盧山(まろさん)と名づけ、寺を焼山寺といった。摩盧とは梵語水輪の義、すなわち火伏の意味であるという。この毒龍を空海が封じた岩窟があり、その岩頭に空海は三面大黒天を彫刻して祀った、
とあります。

91横倉山
縁起の中にある「全山火の海」を、どう考えればいいのでしょうか。
奥之院の山頂からは、紀淡海峡の海が真東に見えます。この山頂で火を燃やせば海峡航行の船からも見えることになります。燈寵杉も龍燈杉、龍燈松も、現実には山頂の石上や岩窟の中で聖火を焚いたものと研究者は考えています。
 これが辺路信仰では、海中の龍神が山上の霊仏に燈明を献ずるという伝承に変化します。実際には修行者は、この聖火を常世の海神「根の国の祖霊」に献じていたのです。
 このような聖火は『三教指帰』(序)に、

望ム 飛炎ヲ於鑚燧  (燧を鑽る=すいをきる)火打道具を打ち合わせて火を発する。

とあるように、鑚燧で火をきり出し、大きな炎を上げたのです。そのためには、キャンプファイヤーのようにかなりの柴や丸太を積んだことでしょう。柴燈(さいとう)護摩というのは、この聖火を焚く方式が、修験道儀礼の中にのこったものと考えられます。ここから龍神の清浄な聖火なので斎燈(さいとう)と呼ばれ、薪に則して柴燈(さいとう)と書かれるよになったと研究者は言います。

2焼山寺4 奥の院へ

焼山寺の縁起は、
毒龍として表現していますが、これはインドの降魔の説話や絵によったものです。
これは、一面では煩悩雑念の克服、解脱をあらわしたものでしょう。
「毒龍が住んで火を吐き、全山火の海のようであったので焼山」
というのは、行者達の聖火のことと研究者は考えているようです。
さらに「毒龍」を岩窟に封じ込めたというのは、もともと山人(先行宗教者?=地主神)が住んでいた岩窟を空海に譲り、他の窟に移らせたという事実が背景にあるのではないかも指摘します。
 つまり、山人=毒舵の長の龍王が龍王窟に住んでいたのを、これを空海に譲って他に移った。その移ったところが奥之院にちかい不動窟で、今は崩落して浅くなった岩棚窟と、毒龍を封じたという岩の裂け目のような狭い窟がある。そこに三面大黒天が祀られているというのです。つまり、これが先住者であり、地主神であるということになるようです。
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  権現を山頂に祀った行者達は、そこで山が焼けてるようにみえるくらい火を焚いたようです。
  なんのために山頂で火を燃やしたのでしょうか?
 当時の修行は、火を焚くことが1つの条件だったようです。例えば、求聞持法の修行を行うためには節目では、火を焚くことが求められました。だから火を焚かなければ修行になりません。つまり、求聞持法と火を焚くということは一体化していたわけです。
 もともと火を焚くのは、海の神に捧げるためでした。
そのために海の向こうの神仏に届かなければなりません。大きな火を焚けば焚くほど、遠いところからみえて、海の神が喜ばれると思っていたようです。また、火を焚く場所は、よく目立つ岬の突端や岬の洞窟、霊山の頂上などが選ばれました。
 しかし、いつでもどこでも焚くのではなく、重大な修行や祭にだけ焚いたようです。そして、次第にその意味も、煩悩を焼尽するとか、自身火葬をするとか、災厄を焼きはらうというように変化していきます。しかし、柴を積みあげて焚き、遠くからも見える方式は変わりません。これを遠くから見たとき、山が焼けているように見えたから、この山は焼山の名がついたと研究者は解釈しているようです。
 焼山寺山の山頂には、いまは祠もあり、樹木が繁っています。しかし、聖火を焚いた時代は、まわりの樹を伐って山頂を裸にして、四方から見通せるようにして炊きあげたのではないでしょうか。時代を経て、聖火を焚かなくなると、山中の高い木に燈龍をあげたり、石燈龍の常夜燈に形が変わって行ったようです。
 このような柴燈による海の聖火は、平安時代まではさかんであったようです。空海も室戸崎、大瀧嶽やこの焼山寺山でも、節目節目には山頂で火を焚いたのです。それが変質して、今の焼山寺の「縁起」に伝わっているのかも知れません。
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 行者たちの聖火は海の神達に捧げられたものでした。
が、沖行く船からもよく見えました。それはまさに山が燃えているように思えたかも知れません。夜間に紀淡海峡から西を見ると焼山寺の火が見え、東を見ると紀伊の犬嗚山七宝滝寺の上にある燈明の火が見えるので、これを目印に舟は航海するようになります。もう一つ、北のほうの淡路の光山千火寺の常夜灯も航海の目印になったようです。
 しかし、最初は航海者のために火を焚いたわけではなかったようです。海の神に棒げるために焚いた火が、たまたま航海者の目印になって航海を安全にしたのです。のちにはそれが目的になって、やがて常夜灯が現れ、灯台になっていくようです。 金毘羅信仰の「海の神様」も象頭山の奥社の灯りを目印とした船乗り達の信仰が支えとなったのかも知れません。
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 以上を整理すると、
①辺路修行者が求聞持法修行をすることと、「飛炎ヲ於鑚燧ニ望み」聖火を焚くこととは同じ修行プロセスだった。
②そのため焼山寺山の山頂に求聞持法本尊の虚空蔵菩薩を祀つり、山頂で聖火をを焚いた。そのため焼山と呼ばれるようになった
③時代を経るにつれて求聞持法(経典)だけを重んじ、聖火(火を焚くこと=実践)を軽んずるようになった。
 そして聖火信仰は柴燈護摩として修験道儀礼にのみ残った
④「焼山」は、船乗り達の航海の目印となり信仰を集めるお寺も現れた
 

2焼山寺龍王窟

それでは、焼山寺山の行場を、一巡してみることにしましょう。
 焼山寺山の洞窟は龍王窟といい、かなり大きな窟があります。          
大瀧寺の「龍の窟」とおなじように、焼山寺とは谷をへだてた向山の中腹にある北向きの窟です。正面の幅は12メートルで、高さ2,5メートル、奥行は4メートルで、中央に禅定石とおもわれる長方形の台石が据えられています。その上に、いまは小祠が祀られています。 
2焼山寺龍王窟 
 かつては、行場の近くの洞窟が行者達の居住地域でした。現在のような本堂や諸堂、庫裡などはありません。山と洞窟と巌石、巌壁だけがあり、その中で修行者は行を重ねたのです。
 そうすると、この龍王窟は高さ30メートルほどの大きな岩壁の下に開口していて、その上から尾根道を山頂の奥之院に通ずる道と、谷道をいまの焼山寺まで出て、そこから急坂を奥之院に登る道とがあることがわかります。
 しかし寺のなかった時代には、この尾根道と谷道をつないで、龍王窟と奥之院を周回する行道路があったこと見えてきます。この道を周回しながら辺路修行をおこなっていたようです。
2焼山寺龍王窟.2jpg
さらにこの辺路は、閉じられたものではありませんでした。
 以前に、阿波の忌部修験のメッカである高越山を紹介しました。その高越山の中世文書『阿波国摩尼珠山高越寺私記』によれば、この寺は役行者の開山で、弘法大師求聞持法修行の山であるとして、次のように続けます。
 密祖弘法大師 有秘法修働願望 参拝此山 (中略)
故ニ虚空蔵求聞持法一百万遍呪、日夜精進誦得大悉地 
刻彫尊木像 是行者ノ形像ト大師ノ御影也 其像巍トシテ 而安座セリ也
 とあって、空海伝説を語ると共に、その後も求聞持法の霊場であったことを記します。つまり、焼山寺と高越山、そして讃岐の第八十八番大窪寺や阿波の大瀧寺をつなぐ求聞持法修行の道があったことが見えてきます。これらの山は、空海が求聞持法を修行し、火も焚いた霊山だった可能性があると研究者は考えているようです。それが、四国遍路への道へと繋がって行くのかも知れません。

2焼山寺 本尊虚空蔵菩薩
焼山寺の本尊 虚空蔵菩薩
  約三百年前の江戸時代初めの「四国霊場記」には焼山寺は、次のように書かれています。
 奥院へは寺より凡十町余あり。六町ほど上りて祇園祠(八坂)あり、後のわきに地窟あり。右に大師御作の三面大黒堂あり。是より上りて護摩堂あり。是より十町許さりて聞持窟、是よりあがりて本社弥山権現といふ。是は蔵王権現とぞきこゆ。下に杖立といふは大師御杖を立玉ふ所となん。地池と云あり。二十間に三十間もありとかや。
 祇園祠は、現在は不動尊を祀っています。奥の院までは、十町(1㎞)では行けません。もっと長いでしょう。不動尊をまつる祇園祠、地窟、三面大黒堂、護摩堂など、道具だてはみなそろっています。弥山といっているのは頂上のことです。

2焼山寺5
 弥山が頂上で蔵王権現が祀られているといいます。しかし、お寺では、もとは虚空蔵菩薩を祀ったといっています。そして、今の本堂の本尊は虚空蔵菩薩です。虚空蔵菩薩が本尊のお寺では、虚空蔵求文法の行が行われたと研究者は考えているようです。
また寺に所蔵される正中二年(1325)の文書には、次のように記されています。
  焼山寺免事
   合 田弐反内 壱反権現新免   在 鍋
          壱反虚空蔵新免  坪 石
 蔵王権現上山内寄来山畠内 古房野東任先例 
 蔵王権現為敷地 指堺打渡之畢但於四至堺者使者等先度補任状有之
 右令停止万雑公事可致御 祈勝之忠勤之状如件
    正中二年二月 日
  宗秀奉
 ここからは当時、寺には修験の守護神・蔵王権現も祀られていたことが分かります。現在の奥社に祀られているのは蔵王権現です。蔵王権現を祀るのは、吉野金峯山の真言系の修験者達と言われます。天台系の熊野修験者が多かった阿波では、この寺は少数派だったのかも知れません。

2焼山寺3

 しかし、「十二所さん」と呼ばれる小堂にある十数面の懸仏は、専門家によると
「熊野曼荼羅式のもので、南北朝・室町時代を降らない」
とします。熊野や吉野の修験者が共に、修行に励んでいたのかも知れません。どちらにしても、鎌倉時代には焼山寺にすでに修験道が浸透していて、南北朝・室町時代にも修験者達が活発に活動していたことがうかがえます。以上をまとめておきます。
①この山は霊山として地元の人々の信仰を集める山であった
②そこに空海伝説が付け加えられ、獄像菩薩・蔵王権現が祀られて修験者の山となった
③中世を通じて修験者の修行の山として機能した。
2焼山寺5 奥の院へ
江戸時代になると阿波蜂須賀家からの寄進を受けて、伽藍は整備されていったようです。
そして、霊山として周辺の里人の信仰をあつめて、季節の節目の祭礼には麓からの参拝者も集めていたようです。
 江戸時代後半に、この寺は大きな変動の時を迎えます
 近世後半に龍光寺が忌部十六坊から自立して剣山修験を「開発」します。すると、その剣講の有力寺院として、焼山寺や柳の水庵の修験関係者が協力するようになります。それは、この地方に剣山先達や剣山関係世話人などが他地方に比べると、圧倒的に多かったことからも分かります。
文化九年(1812)元木蘆洲によって書かれた「燈下録」には、剣山について次の様な記事があります。
 剣山は木屋平山龍光寺の奥山なり・・・(中略)
樹木なき所より臨み見れば、東は高越山、奥野明神の峯見ゆる二峯の間より逼に焼山寺山の弥山さし出たところ・・・ 

剣山の頂上はかつて「小篠」と呼ばれていたようで、この小篠に対して焼山寺山は弥山という立場であったようです。焼山寺と同じく神山町にあり、焼山寺の下寺的存在であった柳の水庵には剣山登山第一の鳥居がありました。これには、この地が剣参拝へのスタート地点であるという意味合いがあったようです。
 こうして、焼山寺周辺の修験者たちは周辺の村々を周り、剣講を作り、多くの信者を伴って剣登山参拝の先達を務めたのです。彼らの存在なくしては、剣山に多くの信者達が参拝する事はなかったでしょう。
2焼山寺12番 焼山寺 奥の院 弥山権現
 しかし、奇妙な現象が起きます。剣山登山が盛大になればなるほど、焼山寺山に登る人は少なくなったようです。つまり、焼山寺山の霊山としての価値は下落したということになるのでしょうか。新たに霊山化した剣に吸い上げられていくストロー化現象が起きたとも言えます。
 こうして、焼き山寺は藤井寺から登ってくる遍路以外は、参拝者がいない霊山になっていったようです。地元の修験者達は剣講の先達として、信者達を剣山に送り込み続けたのでした。この寺の周辺に、近代に至るまで多くの修験者(剣先達)がいたのは、そんな背景があるようです。
2焼山寺9

参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族所収 131P
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近世後期の剣山修験道については

虚空蔵菩薩についてはこちらを

 

      
高越山11
                                      
 阿波にはいくつかの霊山と呼ばれる山があります。
たとえば、古来祖霊があつまる所とされている神山町の焼山、阿南市の太竜寺山、阿波郡市場町の切幡山、板野郡上板町の大山などが挙げられますし、漁民の信仰をあつめた阿南市津の峯町の津の峰なども霊地です。やがてこれらの霊山の中には、海を越えてやって来た熊野派修験者が、吉野川に沿って活動を展開して、修験の霊山となったところもあります。修験の霊山に「弘法大師伝説」が、付け加えられ四国霊場に「成長」していったお寺もあります。前回は、讃岐山脈の大滝山を取り上げました。そして、大滝山は、高越山と仲が悪かったという話を紹介しました。
高越寺絵図1
 今回は、大滝山のライバルだった高越山を見ていきます。
 高越山は忌部氏とむすびついて「忌部修験」ともいえる独自の修験を生み出した山です。この山の修験道との結びつきは古く、剣山以前から盛えた修験の霊場です。これに対して大滝山は、前回紹介したように空海や聖宝の活躍をとく真言修験の山です。そして、どうやらこの両山は中世から近世にかけて、阿波の修験道を二分する勢力を持っていたようです。
 
高越山1

高越山は吉野川の流れる山川町にそびえ立つ1123メートルの高峰で、古くから「阿波富士」と呼ばれる眺めのいい山です。里の人たちが仰ぎ見る甘南備山として、古くから信仰を集めた霊山であることが一目見ると分かります。今は林道をたどれば里から1時間足らずで山の南側の駐車場にたどり着くことができます。境内から見える景色は絶景で、眼下を「四国三郎」吉野川が西から東へ悠々と流れていきます。遠く鳴門の潮路をへだてて、淡路島の山波や、その向こうの紀伊半島まで望むことができます。
 しかし、昔は下から歩いて登って来ました。

高越山4

途中の「万代池」の周辺には行場が見られます。この池から東に200メートルほど小路を行くと、「覗き岩」の行場があります。これは山腹に数百メートルの岩波があって、岩上に腹這って覗くのでこの名があるそうです。この岩場には鉄梯子が架けられていて、行者や元気な若者はこの梯子で上り下りしていたようです。

高越山3
 本道に戻ってさらに登ると、「黒門」があます。この辺りから左へ小路を入れば、「せり割り」の行場です。十余メートルの二つの大岩がせり割りを造って切立っています。参拝者達は、この割れ目を登り、二つの岩石にかけた丸木橋をわったといいます。これも行の一つだったのでしょう。 ここからは、寺に近く鐘の音が頭上に響いてきます。
高越山5

 山門の下は御影の石段、数十段、仁王の門をくぐると敷石が正面の本堂に通じています。
昭和十四年一月二十八日に大火があり、立ち並んでいた本堂・拝殿・回廊・通夜堂・庫裏・大師堂が焼失。わずかに仁王門・鐘楼が災難から免れました。仁王門の階上におかれていた重要文化財「涅槃図」や、その他の寺宝は助かったそうです。
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  この本堂は昭和24(1949)年に戦後の物資の乏しい中、地元の人々の強い願で再建されました。先ず第1に感じるのは、本堂が見慣れないスタイルだということです。よく見ると、本殿に前殿を接合し,前殿に向拝を付けて建立されています。
高越寺2

じっくりと見ていると大きな唐破風は、堂々と力強く感じます。きらびやかな装飾が目をひく本堂には,金剛蔵王尊脇仏として千手観音と修験者のヒーローである役行者が祀られています。本殿入り口の扁額は木彫で,15代藩主蜂須賀茂昭の直筆といわれています。国内安定化の一貫でしょうが、江戸時代には阿波藩からの保護もありました。
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 本堂の彫刻群は美馬郡(現美馬市)脇町拝原,十世彫師三宅石舟斎の大作です。これは石舟斎最後の作品となったようです。山門は,第28世良俊上人の起請によるもので,県下五大重層門の一つとされています。この寺院への人々の信仰の強さが伝わって来ます。
高越寺1

このお寺の「修験道の伝統」は、いつ頃から始まるのでしょうか?
 寛文五年(1665)、高越寺の住僧宥尊によって書かれた「摩尼珠山高越寺私記」には、次のように記されています。
「天智天皇の御宇、役行者基を開き、山能く霊神住む。大和国吉野蔵王権現の一体、本地に分身し、体を別って千手千眼大悲観世音菩薩となる」

 ここからは、江戸初頭ころの、この寺の姿がうかがえます。役行者ー吉野蔵王権現という修験道の流れが見られます。      
 
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さて、この寺のことをしるした最初の記録は、密教小野流のうちの金剛王院流の祖として知られる聖賢の『高野大師御広伝」(元永元年[1118])のようです。ここには阿波国高越山寺(現在の高越寺)について、次のように記します。
大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々」

 ここからは高越寺は四国霊場ではありませんが、12世紀初頭に大師信仰の霊場として存在していたことが分かります。大師信仰のあるこの寺が、どうして四国八十八霊場にならなかったのかは、私にとっては大きな謎のひとつです。
高越寺4

次に古い史料は南北朝の14世紀後半のものです。
鎌倉時代から江戸時代にかけて、高越山の麓で高越寺の下寺的存在として活躍した良蔵院と呼ぶ山伏寺がありました。この良蔵院の所蔵した古文書が「川田良蔵院文書」として「阿波国徴古雑抄」の中に紹介されています。この文書の最も古いものが、貞治三年(1364)の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」です。「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」とは、「檀那を譲り渡す」ということで、檀那株の売買は修験道の世界で一般に行なわれていました。ここからは鎌倉時代には、高越山の麓には何人もの修験道がいて、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに連れて行っていく「熊野行者」たちがいたことが分かります。同時に、高越山周辺は修験道の聖地となり修験者達のさまざまな宗教活動が展開されていた事がうかがえます。

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 次に、高越寺の名前が見えるのは、戦国時代の天文二十一年(1551)の「天文約書」のようです。その全文を紹介します。
   定条々
  阿波国 念行者修験道法度之事
一、喧嘩口論可為停止之事  
一 庸賊道衆なふるへがらす之瀋
一、淵国一居住之 山伏駈出之励、於国中二特料仕義可為停止、但遠国之衆各別也
一、其音行者之内、大峰之願参御座侯所、為余人不可到之事                 
一、於念行者之内、何之衆成共、立願被服侯共、其念行者二可被上之事
一 御代参之事、大峰・伊勢・熊野・愛宕・高越何之御代参成共、念行者指置不可参之事
一、御沙汰事、依方聶買不申、御中評儀次第二可仕侯、此人数何様之儀出来候共、注進次第二飯米持二而可打寄事
右条々、従先年有来候雖為御法度、近年狼二罷成候条、得国司御意相改侯間、此度能々相守候事尤二侯。若、於相背者、御衆中罷出可為停止者也。依而如件。
    天文弐拾壱壬子年十一月七日
 会定柿原別当坊 岩倉白水寺 大西畑栗寺 河田下之坊 麻植曾川山 牛嶋願成寺 浦妙楽寺 大粟阿弥陀寺 田宮秒福寺 別宮長床 大代至願寺 大谷下之坊 河端大唐国寺 高磯地福寺 板西南勝房 板西蓮花寺矢野 千秋房 蔵本川谷寺 一之宮岡之房 合拾九人
  ここでは、阿波の念仏修験道者の法度(禁止)項目が、一堂に会した修験者達によって再確認されています。内容から当時の修験者の様子を知ることができます。ここで注目したいのは。法度6条です。ここには修験者が檀那衆に頼まれて代参する霊山としてあげられているのが「大峰・伊勢・熊野・愛宕・高越」の5つなことです。ここには石鎚や剣はありません。剣山が修験者にとって霊山として開発されるのは近世も後半になってからだったことは、以前に述べました。 
 また合意した19寺の中に、前回に大滝山の下寺的存在であったと紹介した「岩倉白水寺」が2番目に見えます。そして、大滝寺の名前は見えません。

高越山行場入口
 また高越寺には室町時代を降らないと思われる木造の理源大師像があります。この像は等身大の立派なお姿で、前後の二材矧ぎという古風な寄木造りです。ちなみに理源大師は、醍醐修験道の開山者で、修験者の崇拝を集めていました。こんなに立派な像は、県内には他にはありません。
 また、このころから高越寺は、東の大峯に対して自らを西山と呼びはじめています。
このような「状況証拠」から、高越寺は中世阿波国における修験道のメッカであったと研究者は考えているようです。
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修験道は、どういう風に高越山に根付いたのでしょうか?
高越山をとり巻く地域は、麻植郡山川町・美郷村・美馬郡木屋平村などです。これらの地は古代、忌部氏領域であったとされます。中世にそれらの地域を支配したのは、忌部氏を名乗る豪族達でした。彼らは、天日鷲命を祖先とした古代忌部氏の後裔とする誇りをもち、大嘗祭に荒妙を奉献して、自らを「御衣御殿大」と称していました。これらの忌部一族の精神的連帯の中心となったのが山川町の忌部神社です。

山﨑忌部神社1
忌部一族を名乗る20程の小集団は、この忌部神社を中心とした小豪族集団、婚姻などによって同族的結合をつよめ、おのおのの姓の上に党の中心である忌部をつけ、各家は自己の紋章以外に党の紋章をもっていました。擬制的血縁の上に地域性を加えた結びつきがあったようです。
山﨑忌部神社3 天岩戸神社の神籠石(こうごいし)

 鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いています。そのうちの一回は、必ず忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。彼らは正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。それが今日に伝わっています。 このようなことから、忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。
この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
 高越寺の明神は古来より忌部の神(天日鷲命)だったと考えられます。修験道が高越山・高越寺に浸透するということは、とりもなおさず忌部神社と、それをとり巻く忌部氏に浸透したということでしょう。
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 こうして「忌部修験道」とも呼ぶべき修験道の阿波的な形態が生まれます。羽黒山・英彦山・白山などと同じ成行きと言えます。修験道が背負うべき神が、阿波では忌部の神となったのです。
江戸時代に書かれたと思われる「高越大権現鎮座次第」には冒頭に次のように述べています。
吉野蔵王権現神勅に曰く。粟(阿波)国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め諸神達の集る高山なり。我も彼も衣笠山に移り、神達と共に西夷北狭を鎮め、下城を守り、天下国家の泰平を守らんと宣ひ、早雲松太夫高房に詰めて曰く。
 「汝は天日鷲命の神孫にて衣笠の祭主たり、我を迎え奉れ」と、神記にて、宣化天皇午八月八日、蔵王権現御鎮座也。供奉に三十八神一番は忌部孫早雲松太夫高房大将にて大長刀を持ち、御先を払ひ、雲上より御供す。此の時震動、雷電、大風大雨、神変不審議之御鎮座也。蔵王権現高き山へ越ゆると云ふ言葉により、高越山と名附たり、夫故、高越大権現と奉
  中候。……
とあります。「吉野蔵王権現が衣笠山(高越山)に降臨した際、天日鷲命の神孫である忌部の孫の早雲松太夫が御先を払って雲上より御供した」という表現は、先ほど述べた「修験道が忌部の諸神と融合した」ということと重なります。
 江戸期の享保年中(1716~36)に、阿波国内神名帳作成をきっかけとして、「忌部公事」と呼ぶ問題が起きます。
これは『延喜式神名帳』の忌部神社の正統を決める事件でした。その際に自らが正統だと名乗り出た多くの神社の中に、高越大権現も入っていました。当時の神仏習合の有り様をよく示しています。
高越山8


参考文献 田中善隆 阿波の霊山と修験道
 

 

                                     

      
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平家の馬場(剣山山頂) 
 いまは剣山の表玄関は見ノ越です。ここまで車でいきリフトにのればで1700メートルまで挙げてくれますので、頂上が一番近い「百名山」のひとつになっています。
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剣山リフトで1750mまで上げてくれる
西島のリフトから続く何本かの遊歩道のどれを選んでも1時間足らずで頂上に立つ事ができます。
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リフト終点から頂上へのルートは3本
このエリアを歩く限りは、この山が修験者たちの行場であったことをうかがわせるものに出会うことはありません。しかし、頂上から北側の穴吹川の源流地帯に下りて行くと、石灰岩の断崖と洞窟が続く行場が展開します。そして、いまでもこの行場は使われています。
 この行場はいつ、どんな人たちによって開かれたのかを見ていく事にします。
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剣山北面は修験者の行場
まず、剣山という山名についてです。頂上にやってきた人たちがよく言うのが「剣のように険しく切り立った山かと思っていたら・・・・四国笹の続く雲上の草原みたい」という感想です。

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剣山山頂の四国笹の草原

 この山が剣山と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからのようです。
『祖谷紀行』によれば、旧名を「立石山」としています。
明治十二年六月龍光寺住職・明皆成が作った「剱和讃」の中は
「帰命頂礼剱山、其濫触を尋ぬれば……一万石立の山なるぞ」
とあって、「石立山」と呼ばれていたとします。この「立石山」「石立山」は二字が逆になっていますが、同じ意味で、両方の名前で呼ばれていたのでしょう。「石立・立石」という呼称は、頂上の宝蔵石からきたものかもしれません。
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剣山頂上の宝蔵石(山小屋に隣接)

 また別の記録によると、この山はかつて「小篠(こざさ)」とも呼ばれたと伝えます。
『異本阿波志』の「剣山……。此山に剣の権現御鎮座あり、又、小篠の権現とも申す」「剣山小篠権現、六月十八日祭か……」

とあることから「小篠」が「剣山」の別名のように使用されています。権現という用語から、修験的要素がすでに入り込んでいることがうかがえます。
 この山は、南に続く美しい稜線で結ばれる次郎ギュウがあります。
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次郎笈(ぎゅう)
地元では、剣はかつては太郎ギュウと呼ばれ次郎ギュウと兄弟山で、それを伝える民話も残っているようです。研究者は次のように考えているようです。
「ギュウは笈で山伏の着用するオイズルのことであって、その山容が笈に似ている」

ここにも、修験者の影が見え隠れします。  つまり、剣山の名で記されている史料が現れるのは、近世以降なのです。それ以前には、この山は別の名で呼ばれていたようです。
それでは、江戸時代になって剣山と呼ばれるようになったのはなぜなのでしょうか

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剣山直下の大剣岩
第一は、大剣神社の存在です。
この神社の御神体の大剣石が大地に突き刺さったような姿はインパクトがあります。ここには、剣神社(大剣神社、神仏分離以前は大剣権現)が祀られています。ここから剣山の名が生まれたとするものです。
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剣山直下の大剣岩
  たとえば、『阿波志』の「剣祠」(剣神社)の項には、次のように記されています。
 剣祠 祖山菅生名剣山の上に在り、名を去る二里余、頂に岩あり、屹立す、高さ三丈、土人以て神と為す、三月、雪消え人方に登謁す、其形の似たるを以て、名づけて剣と日ふ、祠中剣あり、元文中(一七三六~四一)人あり、之を盗む、既に得て、之を小剣岩窟中の人跡至らざる所に納む、後終に失ふ

 「形の似たるを以て、名づけて剣と云う」とあり、岩の形から剣山の名が与えられ、後に剣を奉納したことになります。

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大剣神社

  また、宝暦七年(1757)、宇野真重著の『異本阿波志』には次のように記されています。
 剣山 祖谷山東の端也、此山上に剣の権現御鎮座あり、又、小篠(剣山)の権現とも申、谷より高さ三十間斗四方なる柱のことき巌、立たり、風雨是をおかせども錆ず、誠に神宝の霊剣なり、
六月七日諸人参詣多し、菅生名より五里此間に大家なし、夜に出て夜に帰ると云ふ、其余木屋平村より参詣の道あり、諸人多くは是より登る
 ここにも 神石が「神宝の霊剣」として信仰の対象になって、菅生や木屋平からの参拝者がいたことが分かります。
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大剣岩と大剣神社の赤い屋根

その二は、剣神社に祀る神宝が剣であることに由来するとする説です。
この説を裏付ける江戸期の文献はありませんが、明治45年の田山花袋著『新撰名勝地誌』には、次のように記されています。

「剣山は四国第一の高山にして……(中略)……山頂に一小祠あり、剣の社と称す。安徳天皇の剣を祀れるより其名を得たりといふ……(後略)」

ここには、平家と共に落ち延びてきた安徳帝の神宝の剣を、ここの神社に祀った。だから剣神社よ呼ばれるようになり、剣山即剣神社とする考え方から、山も剣山と呼ばれるようになったという考えです。
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剣山頂の法蔵岩
 その三は、安徳天皇の剣を埋めたことによるとする説です。
 祖谷地方の伝承に屋島合戦に敗れた平氏一族が、密かに安徳帝を奉じて祖谷に入ってきたとする「平家落人説」があります。江戸末期の寛政五年(一七九二)、讃岐の文人・菊地武矩が当地を訪れた際の旅行記『祖谷紀行』には、次のように記されています。

「山上より遥に剣の峰みゆ、其山、昔は立石山といひしが安徳天皇の御つるぎを納め給ひしより、剣の峯といふとなん」

 3つの説に共通するのは、頂上直下の剱祠(大剣神社・大剣権現)が、人々の強い信仰を集めていたらしいことと、この山の修験的性格です。
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剣を埋めたと伝えられる剣山頂の法蔵岩

ここまでで、私が感じた事は、剣山の開山が石鎚に比べると新しい事です。
この山は室町時代以前には、一般の人が登る山ではなかったようです。例えば、天文二十一年(一五五二)に阿波の修験者達が「天文約書」と呼ばれる約定書を結びますが、その一項に次のように記されています。
「一、御代参之事、大峰、伊勢、熊野、愛宕、高越、何之御代参成共念行者指置不可参之事」

この中に挙げられる霊山のうち、高越山が当時は阿波の修験道の霊山で代参対象の山であったことが分かります。ところが、ここに剣山はありません。山伏達が檀那の依頼で、登る山ではなかったのです。

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一の森への縦走路

 「剣山開発」は、江戸時代になって始まったようです。
伊予の石鎚山の隆盛、四国霊場の誕生、数多くいた阿波の真言山伏の存在、そうした要素が阿波第一の高山である剣山を信仰と娯楽の面から世に出そうとする動きを後押しします。
 剣山を修験者や信者が登る山に「開発」するために、動き出したのが美馬郡木屋平村谷口にある龍光寺(元は長福寺)と三好郡東祖谷山村菅生にある円福寺のふたつの山伏寺でした。

山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
木屋平の龍光寺
まず、木屋平の龍光寺の剣山開発プロジェクトを見てみましょう。
 龍光寺は、剣山の山頂近くにある剣神社の管理権を持っていました。当時の霊山登山参拝は、立山・白山・石鎚で行われていたように、先達が一般信者を連れてくるスタイルでした。先達が各地域の人々を勧誘組織化し信者として修行・参拝するのです。中世の熊野詣での先達と檀那の関係を受け継いでします。
 つまり先ず必用なのは修験道山伏たちです。彼が各地域で布教活動を進め、勧誘しない限り参拝客は集まりません。龍光寺は、阿波の修験山伏達との間に、相互協力の関係を作り上げて行く事に成功します。
 龍光寺大御堂には、寛元年間に造られたと思われる阿弥陀如来坐像など六体の像があります。そのうちの不動明王立像光背の裏面に、次のように記されています。
「元禄十丁丑年 銀子拾弐分たいこ 教学院口口口並口口口寄進 十二月十四日」

ここからは修験者、教学院が龍光寺と協力関係にあったことが分かります。龍光寺が江戸初期の頃に「剣山開発」に進出したこともうかがえます。
  龍光寺の剣山開発プロジェクトの次の手は、受けいれ施設の整備です。
木屋平 富士の池両剣神社
剣修行のベースキャンプとなった富士池

  剣の穴吹登山口の八合目の藤の池に「藤の池本坊」を作ります。
登山客が頂上の剱祠を目指すためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を造営し、寺が別当となります。この藤(富士)の池は、いわば「頂上へのベースーキャンプ」であり、頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。

木屋平 富士の池道標

こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、多くの参拝客を集めることになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
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 一の森の権現さん
 実は、龍光寺は享保二年(1717)に長福寺から寺名へ改称しています。この背後には何があったのでしょうか?
 もともと、長福寺は中世に結成されたとされる忌部十八坊の一つでした。古代忌部氏の流れをくむ一族は、忌部神社を中心とする疑似血縁的な結束を持っていました。忌部十八坊というのは、忌部神社の別当であった高越寺の指導の下で寺名に福という字をもつ寺院の連帯組織で、忌部修験と呼ばれる数多くの山伏達を傘下に置いていました。江戸時代に入ると、こうした中世的組織は弱体化します。しかし、修験に関する限り、高越山、高越寺の名門としての地位は存続していたようです。

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剣と一の森を結ぶ縦走路

 そのような情勢の中で長福寺(龍光寺)は、木屋平に別派の剣山修験を立てようとしたのです。
これは、本山の高越寺の反発をうけたはずです。しかし、「剣山開発」プロジェクトを進めるためには避けては通れない道だったのです。そこで、高越寺の影響下から抜け出し、独自路線を歩むために、福の宇をもつ長福寺という寺名から龍光寺へと改名したと研究者は考えています。
 修験者山伏達の好む「龍」の字を用いる「龍光寺」への寺名変更は、関係者には好意的に迎えられ、忌部十八坊からの独立宣言となったのかもしれません。

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剣山北面の行場への道
 龍光寺の寺名の改変と、剣山の名称改変はリンクするようです。
 修験の霊山として出発した剣山は、霊山なる故に神秘性のベールが求められます。それまでの「石立山」や「立石山」は、単に自然の地理から出たもので、どこにでもある名前です。それに比べて「剣」というのは、きらりと光ります。きらきらネームでイメージアップのネーミング戦略です。
 この地方には「平家落人」と安徳天皇の御剣を頂上に埋めたという伝説があります。これと夕イアップし、しかも修験の山伏達から好まれる嶮しい山というイメージを表現する「剣山」はもってこいです。新しい「剣山」は、龍光寺によって産み出されたものなのかもしれません。こうして、美馬郡木屋平村の龍光寺の「剣山開発」は年々隆盛になります。

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穴吹川源流に近い行場
これは、剣山の反対斜面の三好郡東祖谷山村にも、刺戟になったようです。
何故なら、剣山の半分は東祖谷山村のもので、剣山頂は同村に属しています。見ノ越の円福寺は剣山に社領として広大な山地も持っていました。龍光寺の繁栄ぶりを黙って見過ごすわけにはいきません。
 円福寺は江戸時代末に、見の越に剣山円福寺を建立し、同寺が別当となる剣神社を創建します。こうして木屋平と祖谷山からのふたつのルートが開かれ、剣山への登山は発展を加えることになります。

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このように
剣山登山の歴史が、修験組織による剣神社(大剣権現)への参詣の歩みでした。
それは剣山周辺の地がさまざまの修験道と関係する地名・行場名を持つことでもうかがえます。今に遺る地名を挙げると、藤の池・弥山・小篠、大篠・柳の水 垢離取川・不動坂・御濯川・行者堂・禅定場などがあります。このうち、藤の池・弥山・小篠・大篠・柳の水などは、大和の修験道の根本道場である大峰の行場、菊が丘池・弥山・小篠(の宿)・柳の宿など似ています。ここからは剣山の修験化が大峰をモデルにプラン化されたことをうかがわせます。

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 さらに研究者は踏み込んで、次のような点を指摘します
①命名者が龍光寺を中心とする山伏修験者達であり、
②この命名が近世初頭を遡るものでないこと
③小篠などの命名から、この山伏達が当山派の醍醐寺に属したこと
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 明治初年、神仏分離令によって、修験の急速な衰退が始まります。
ところが、ここ剣山では衰退でなく発展が見られるのです。修験者の中心センターであった龍光寺及び円福寺が、中央の混乱を契機として自立し、自寺を長とする修験道組織の再編に乗り出すのです。龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。そして、信者の歓心を買い、新客の獲得につなげたのです。

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穴吹川源流

 龍光寺の住職・明皆が明治十二年六月に信者に配布した「剱和讃」の全文があります。ここからは当時の模様を知ることができます。
          剱  和  讃
   帰命頂礼 剱山      其濫筋を尋ぬれば
   南海道の阿波の国     無二の霊山霊峰ハ
   元石立の山なるぞ     昔時行者の御開山
   秋は弘仁六年の      六月中の七日なる
   空海大師此峯に      登りて秘法を修し玉ふ
   眼を閉て祈りなん     神と仏と御出現
   殊に倶利伽羅大聖    大篠剱の御本地と
   愛染王は古剱乃      御本地仏と仰ぐなり
   されバ秘密の其中に    剱すなわち大聖尊
   此時空海石立の      山を剱と呼ひたまふ
   一字一石法花経の     塚(大師の古跡なり
   山上山下の障難を     除きたまへる事ぞかし
   古剱谷の諸行場は     役の行者の跡そかし
   中にも苔の巌窟には    龍光寺 大山大聖不動尊
   本地倶利伽羅大聖は    無二同鉢の尊ときく
   衆生の願ひある時は    童子の姿に身をやつし
   又は異形にあらわれて   生々世々の御ちかひ
   あら尊しや御剱の     神や仏を仰ぎなば
   五日も七日も精進し    垢離掻川に身漱して
   運ぶ案内富士の池     三匝行道する行者
   合掌懺悔礼拝し      御山に登る先達
   新客行者を誘ひてや    八十五町を歩きつつ
   右と左に絵符珠数     唱る真言経陀羅尼
   此の御剱の山なる     大聖尊の三昧池ぞ
   踏しおさゆる爛漫の    梵字即ち大聖尊
   壱度拝山拝堂を      いたす行者の身影の
   形いつも離るらん    悪事災難病難を
   祓ひおさむる御宝剱    六根六色備るを
   唯真心のひとつなり    深く仰て信ずべし
      龍光寺住職    明皆成誌
    明治十二年六月   当山教会者へ授共す
 
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 今では、見の越が剣山参詣のスタートになりました。「裏参道」が「表参道」にとって変わったと言えるのかも知れません。
 見ノ越の円福寺の信者は、徳島県西部の三好郡・香川県・愛媛県・岡山県などの人々が多いようです。高い山岳を県内にもたない香川県人が、祖谷谷経由で参拝を行っていた名残なのでしょうか。円福寺建設には香川県人が深く関与したようです。
 一方藤の池派には、本県東部の人々が多く、かつては先達に名西郡神山町出身者の多かったと云われます。神山町は、剣山への玄関だっただけに修験活動も活溌だったようです。

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参考文献 田中善隆 剣山信仰の成立と展開  大山・石鎚と西国修験道所収

 

従来の庚申信仰の説明は、道教の三尸虫説だが・

 庚申信仰については、従来は次のように説明されてきました。
中国の道教では、人間の体には三尸虫というものが潜んでおり、それが庚申の夜には体をぬけ出し天に上り、その宿り主の60日間の行動を天帝に報告するという。
そうするとたいていの人問は人帝の罰をうけ命を縮める。 だから庚申の夜には寝ずに起ていなければならない。
そのためには講を作って、一晩中詰をしたり歌をうたったりしているのがよい。
「庚申塔」の画像検索結果

 しかし、三尸虫説からだけでは庚申信仰は捉えきれないし、説明しきれないようです。例えば
なぜ庚申塔をつくるのか、
なぜ庚中塔や庚中塔婆を立てるのか、
これに庚申供養と書くのか、
庚申と猿や鶏の関係は何か、
庚申に七の数を重んずるのは何故か、
庚申年の庚申塔に酒を埋めるのは何故か
などの疑問が説明できません。
そこで、庶民信仰の視点から見直していこうとする動きがあります。その代表的な存在である宗教民族学者の五来重の主張の結論部を提示します。
① 庚申待は、庶民信仰の同族祖霊祭が夜中におこなわわていたところに、道教の三尸虫説による守庚申が結合して、徹夜をする祭になった。
② この祭りにはもとは庚中神(実は祖霊)の依代(よりしろ)として、ヒモロギの常磐本の枝を立てたのが庚申塔婆としてのこったのである。これがもし三尺虫の守庚申なら、庚申塔婆を収てる理由がない。
③ 庚申塔婆も塔婆というのは仏教が結合したからで、庶民信仰のヒモロギが石造化した場合は自然石文字碑になり、仏教化した塔婆が石造化した場合は、責面金剛を書いた板碑形庚申塔になった。
庶民信仰から「庚申待」を解釈すると、荒魂の祭で先祖神祭り
 「庚申塔」の画像検索結果
60日ごとに巡ってくるの庚申の日に、当番の宿に講中があつまって夜明しをするのが庚申待です。もともと「侍」には日待、月待などがあって、月の出を待つように解されますが、本来は夜通しで神をまつることを待と言いました。すなわち「待」は「祭」のことです。
 すでに民間にあった日待や月待の徹夜の祭が、修験道の影響で庚申待になったります。これは室町以降のことでしょう。その間には、先祖の荒魂をまつる「荒神」祭があり、音韻の類似から庚申に変化していきます。というのは、古くは「庚申」も「かうじん」  と発音したからです。そのために庚申待の神を、荒神の仏教化した忿怒形の青面金剛として表現されるようになります。 

庚中待の源をなす日待、月待は何か?

 庶民の庚申待が荒魂としての先祖祭であったとおもわれるのは、一つには庚申待には墓に塔婆を立てたり、念仏をしたりするからです。信州には庚申念仏といわれるものがあり庚申講と念仏講は一つになり、葬式組の機能もはたしています。
 日待は農耕の守護神として正月・五月・九月に太陽をまつるといわれ、のちには伊勢大神宮の天照皇大神をまつるようになります。夜中に祭をするというのは、太陽の祭ではなくて祖霊の荒魂の祭であった証拠です。そして月待ち七月二十三夜の月をまつるというけれども、これもお盆の魂祭の一部

 日待や霜月祭(新嘗祭または大師講)で、まつっていたものを、庚申の日にかえたものです。
もとから夜を徹して祭をおこなっていました。庚申の晩に宿になった家は、庚申の掛軸(青面金剛)を本尊として南向きに祭壇をかざり、数珠やお経を出し、御馳走をこしらえて講員を待ちます。
全員が集まるとまず御馳走を頂戴してから、水や椋の葉で体をきよめ、それから「拝み」になります。講宿主人の「先達」で般若心経を読んでから「庚申真言」を唱えます。
 これは、 オンーコウシンーコウシンメイーマイタリーマイタリヤーソワカ
 または、 幽晦青山金剛童。
を少なくとも108回となえるだけでなく、その数だけ立ち上かってからしやがんで、額を畳につける礼拝をくりかえします。この苦行は、六十日間の罪穢れを懺悔する意味であります。 

「庚申塔」の画像検索結果

これは先祖祭にともなう精進潔斎にも共通するものです。

 もともと祖先の荒魂に懺悔してその加護を祈ったのが、荒魂を荒神としてまつり、これを山伏が修験道的な青面金剛童子に代えたものと推定できます。このあとで「申上げ」と称して、南無阿弥陀仏の念仏を二十一回ずつ三度となえる所もあります。この念仏というのは、念仏講が庚申講と結合したことをしめすものです。
 このことから、この講は遠い先祖も近い祖霊もまつっていたことが分かります。
念仏によって供養された祖霊はやがて神の位になったことをしめすために、七庚申年になると「弔い切り塔婆」である庚申塔婆を立てたと考えられます。「弔い切り」というのは年忌年忌の仏教の供養によって浄化された霊は、三十三年忌で神になり、それ以後は仏教の「弔い」を受けないというのが庶民信仰です。
「庚申塔」の画像検索結果

 神の位に上った祖霊は神道式のヒモロギによってまつられるが、このヒモロギが常磐木の梢と皮のついたままの枝です。これを仏教または修験道式に塔婆とよんだので、庚申塔婆となりました。このようなヒモロギが変化して、やがて「板碑」(いたび)になったとき、これに半肉彫で青面金剛が浮彫された石塔が、庚申石塔なのです。このように自然石文字碑と青面金剛板碑とのあいたには、大きな区別があります。
庚申塔婆が青面金剛板碑となる過程について

「庚申塔」の画像検索結果
 五来重氏は、石造塔婆のひとつである板碑の「五輪塔起源説」も否定して、ヒモロギから板碑が発生したことを結論づけます。
 そして庚申待ちについて
一本の常磐木の枝をヒモロギとして立て、そこに祖霊を招ぎおろして祭をする、原始的な同族祖霊祭が庚申待(庚申祭)の本質
と指摘します。


太龍寺-有名な求聞持堂は本堂の横にある

 
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この寺について『四国偏礼霊場記』にも、おそらく室町時代の初めのころにできたとおもわれる『阿波国太龍寺縁起』にも、太龍寺の舎心山という山号の本当の意味を書いています。舎心というのは心を緩めるという意味です。

 しかし、『阿波国太龍寺縁起』を見ますと、本当は身を捨てるほうの捨身だということがわかります。捨身の行われた岩を捨身岩といいます。行場にはどうしても跳ばなければ渡れない大き石があります。その間を跳ばなければなりません。飛び損ねると落ちて死にます。こういうところの行は一回では済みません。何回でもぐるぐる回るわけです。今は、南側に本が生えているので気がつきませんが、木の間を出ると断崖絶壁になっていて、行くだけでも危ないところです。ここは海からよく見えますから、火を焚けば太平洋を通る船から見えるでしょう。
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弘法大師の辺路修行ではかならず行道と捨身をしています。

弘法大師が生まれた善通寺の西に我拝師山という山があって、ここも捨身ケ岳があります。ここは落ちたら死ぬところです。空海が捨身をしたことは『阿波国太龍寺縁起』にも出ています。  
観ずるに夫れ当山の為体。嶺銀漢を挿しばさみ、天仙遊化し、薙嘱金輪を廻て、龍神棲息の谿。(中略)速やかに一生の身命を捨てて、三世の仏力を加うるにしかず。即ち居を石室に遁れ、忽ち身を巌洞に擲つ。時に護法これを受け足を摂る。諸仏これを助けて以て頂を摩す。是れ即ち命を捨てて諸天の加護に預かり、身を投じて悉地の果生を得たり。(中略)是れ偏に法を重んじて、命を軽んじ身を捨てて道に帰す。雪童昔半偶港洙めて身を羅刹に与うるや。
 ここに弘法大師の捨身のことが書かれています。
「一生の身命を捨てて」というのは、捨身をすることです。自分の命を仏に捧げることによって水遠に生きることができるのです。石室は龍の窟です。こういうように書いてあるので、捨身の行をしたことがわかります。そして、石室とか巌洞とか三重霊剛が出てきます。戦前の地図には龍の窟が出ていましたが、戦後の地図には出ていません。縁起に出ております弘法大師が行をしたところを、セメント会社に売ってしまって、窟はつぶされてしまいました。
 つまり、捨身山(身を捨てる山・捨身の行をする山)が舎心山(心を休める山)となってしまいました。
   
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嶽は別なところだという説も出ていますが、ここであることは間違いありません。
弘法大師は、大滝嶽で求聞持法をしたと書いています。
太龍寺も虚空蔵菩薩が本尊です。虚空蔵菩薩を本尊とする寺かあるところは、求聞持法をしたところです。虚空蔵菩薩は虚空のすべての力を蔵するので、虚空蔵菩薩に願えばなんでもかなえられる、求聞持法という法を修すればすべての記憶がよくなるといわれてします。
『三教指帰』には「即ち一切の教法の文義諧記することを得」と書いてあります。
 これは記憶力が良くなるということです。お経も注釈も全部暗記することができます。弘法大師はこのころ十八歳ですから、記憶力のよくなる法と聞いて、若さにまかせておもい込んでしまって、大学を捨てて修行に入ってしまうわけです。
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 太龍寺の堂舎はなかなかよく整っています。

さすがに山中の大霊場は伽藍も大きく、仁王門、六角経蔵、護摩堂、本坊、本堂があり、池の中には弁天をまつっています。立派な多宝塔がいちだんと高いところにあり、その後ろに中興堂、大帥堂があります。本堂の横の求聞持堂は、日本でいちばん有名な求聞持堂です。ということは、いちばん修法者が多いということです。求聞持堂があるので有名なのは厳島の弥山、それから高野山真別所の求聞持堂です。
 南舎心岩には不動堂が載っています。また天照大御神をまつる神明頁があります。北舎心岩には大黒堂がまつられています。これも行道にかならずあるものです。
北舎心岩の大黒堂の周りに行道の跡があります。求聞持法をやるところには行道の跡がありますが、そうおもって見ないとなかなか気がつきません。
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参考文献 五来重:四国遍路の寺

 

西阿波の庚申塔には、何が彫られているの?

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天空(ソラ)の集落を訪ねていると、お堂は集落の聖地であり、念仏踊りなどもここで行なわれるなど文化センターでもあったことが分かる。

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端山巡礼第80番観音堂
端山巡礼第80番観音堂にやって来た。
半田から落合峠を経て祖谷に入っていく街道沿いにあるお堂だ。
お堂の前にはカゴノキの巨樹が木陰を作っている。
旅人達の休息所だったことが想像できる。

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        端山巡礼第80番観音堂の庚申塔
その巨樹の前には庚申塔が建っている。

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建立は天保3年9月吉日。シーボルト事件が発覚し、伊勢のお陰参りが大流行した頃だ。200年近く前のものだが、朱で彩られた文字がくっきりと残る。
「光明真言三百万遍」
と読める。
「光明真言」とは、お四国巡りの際などに、般若心経の最後に唱える
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらはりたや うん」

という呪文のような真言のことである。これを、三百万回も唱え終えたことを記念として建立された記念碑ということになる。
旅行く人たちは驚きの気持ちで、これを見上げたのではないか。
そして、建てた地元の人たちは誇らしげに感じたのではないか。

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穴吹の口山の猪滝堂
こちらは穴吹の口山の猪滝堂。
ここにも真言百万遍の庚申塔が建っている。

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こちらは江戸末期の嘉永年間 なんと三百万回だ。

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そして西阿波で最高回数は・・・これ
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なんと七百万回と刻まれている。
最大の大きさのものは、加茂町にある。
誰が? どこで? いつ? 光明真言を唱えたのか。
 日本に伝えられた道教の教えで、
「人の体の中には3匹の虫がいる。
1つは頭の中に居て彭■(ほうきょ)と言い、首から上の病気をおこす。
2つめは彭質(ほうしつ)と言い、腹の中にいて五臓を病気にする。
3つめは足にいて彭矯(ほうきょう)と言い、人を淫乱にする。
これを三尸(さんし)の虫と言い、庚申の夜に人が眠ると人体から抜け出て天にのぼり、その人の犯した罪過を天帝に報告して、その人の生命を縮める。
そのため
「庚申の夜に身を慎み徹夜すると虫が人体から抜け出すことができない。」
と言われ、庚申の夜には眠らずに「守庚申」(まもりこうしん)が行われるようになった。

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 阿波の人々が盛んに、講を組織し庚申待を行うようになるのは江戸時代後期になってからだ。

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 こんな姿を刻んだ庚申塔も現れるようになる。青面金剛だ。
「一身四手で、左の上手には三股、下手には棒を、
右の上手の掌には宝輪、下手には羂索をもつ。
身体は青色で口を大きく開き、目は血のように赤く三眼である。
髪はほのおのように聳立しどくろをいただいている。
両足の下には二鬼をふんでいる。本尊の左右には香炉をもった青衣の童子が一人づつ待立し、また右側にはほこ、刀、索をもつ赤黄の二薬叉(やしや)が立っている」
庚申塔の説明

青面金剛はもと「病を流行らせる悪鬼」だが、改心して「病を駆逐する善神」に変化した。
やがて、

「三尸虫を封じ込める」→「力づくで病魔を駆逐してくれる神様」
 として、庚申の本尊に採用された。
  西阿波では、青面金剛が彫られた庚申塔が多い。
庚申塔(こうしんとう)って何:目黒区公式ホームページ

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 申(さる)は干支で、猿に例えられるから「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものも多い。

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 当時の人々にとって庚申の夜は、地域のニュースを交換したり生活知識を入手する唯一の場であった。一晩徹夜をするのがつらいので、飲み食いをしたり、踊ったりして信仰はそっちのけで遊びの会になってしまった講もあったようだ。

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 一方、領主側からすると細かな取締り方針の伝達の場であり、時には民情を探るための諜報(穏密情報)集収の場にも利用されたようだ。そこで人々は保身のために、庚申待で語られた御政道批判や不用意な噂ばなしなどは
「一切不見(みず)、不聞(きかず)、不言(いわず)」
を守ることが大切なことだと経験から学び、庚申塔に彫り込んだのかもしれない。

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 戦後、生活様式の変遷等と合理思想の波に洗われて、お堂も姿を消し、庚申の行事も途絶え、庚申塔はあってもその名称さえも知らない人達が多くなった。
そうしたなかで西阿波には、全国でも珍らしく庚申信仰の習俗が残存している地域があるという。 いつか見てみたい、参加してみたいという願いを持ちながらソラのお堂巡りは続く。

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