瀬戸の島から

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 近世の金毘羅では、封建的領主でもある松尾寺別当の金光院に5つの子院が奉仕するという体制がとられていました。
その中で多聞院は、金毘羅山内で特別の存在になっていきます。ときにはそれが、金光院に対して批判的な態度となってあらわれることあったことが史料からは見えてきます。また、多聞院に残された史料は、金光院の「公式記録」とは、食い違うことが書かれているものがいくつもあります。そして比べて見ると、金光院の史料の方が形式的であるのに対して、多聞院の史料の方が具体的で、リアルで実際の姿を伝えていると研究者は考えているようです。どちらにしても、別の視点から見た金毘羅山内の様子を伝えてくれる貴重な史料です。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現

 近世初期の金毘羅は、修験者の聖地で天狗道で世に知られるようになっていました。
 公的文書で初代金光院院主とされる宥盛は「死後は天狗となって金毘羅を守らん」と云って亡くなったとも伝えられます。彼は天狗道=修験道」の指導者としても有名で、数多くの有能な修験者を育てています。その一人が初代の多聞院院主となる片岡熊野助です。宥盛を頼って、土佐から金毘羅にやってきた熊野助は、その下で修験者として育てられます。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗と烏天狗(拡大)
 修験(天狗道)の面では、宥盛の後継者を自認する多聞院は、後になると「もともとは当山派修験を兼帯していた金光院のその方面を代行している」と主張するようになります。しかし、金光院の史料に、それをしめすものはないようです。

1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
天狗信者が金毘羅大権現に納めた天狗面
 
金光院の初期の院主たちは「天狗道のメッカ」の指導者に相応しく、峰入りを行っていて、帯剣もしています。そういう意味でも真言僧侶であり、修験者であったことが分かります。しかし、時代を経るにつれて自ら峰入りする院主はいなくなります。それに対して歴代の多聞院院主は、修験者として入峯を実際に行っています。

松尾寺の金毘羅大権現像
松尾寺の金毘羅大権現

宝暦九(1760)年の「金光院日帳」の「日帳枝折」には、次のように記されています。

「六月廿二日、多聞院、民部召連入峯之事」

天保4(1833)年に隠居した多聞院章範の日記には、大峰入峯を終えた後に、近郷の大庄屋に頼み配札したことが書かれています。
多聞院が嫡男民部を連れて入峯することは、天保四年の「規則書」の記事とも符合します。
 次に多聞院の院主の継承手続きや儀式が当山派の醍醐寺・三宝院の指導によって行われていたことを見ておきましょう。
(前略)多聞院儀者先師宥盛弟子筋二而 同人代より登山為致多聞院代々嫡子之内民部与名附親多聞院召連致入峯 三宝院御門主江罷出利生院与相改兼而役用等茂為見習同院相続人二相定可申段三宝院御門主江申出させ置多聞院継目之節者 拙院手元二而申達同院相続仕候日より則多聞院与相名乗役儀等も申渡侯尤此元二而相続相済院上又々入峯仕三宝院 御門主江罷出相続仕候段相届任官等仕罷帰候節於当山奥書院致目見万々無滞相済満足之段申渡来院(後略)
意訳変換しておくと
(前略)多聞院については、金光院初代の先師宥盛弟子筋であり、その時代から大峰入峯を行ってきた。その際に、多聞院の代々嫡子は民部と名告り、多聞院が召連れて入峯してきた。そして三宝院御門主に拝謁後に利生院と改めて、役用などの見習を行いながら同院相続人に定められた。このことは、三宝院御門主へもご存じの通りである。
 多聞院継目を相続する者は、拙院の手元に置いて指導を行い、多聞院を相続した日から多聞院を名告ることもしきたりも申渡している。相続の手続きや儀式が終了後に、又入峯して三宝院御門主へその旨を報告し、任官手続きなどを当山奥書院で行った後に来院する(後略)

ここには多聞院の相続が、醍醐寺の三宝院門主の承認の下に進めらる格式あるものであることが強調されています。金光院に仕えるその他の子院とは、ランクが違うと胸を張って自慢しているようにも思えてきます。
 このように多聞院に残る「古老伝」には、修験の記事が詳しく具体的に記されています。現実味があって最も信憑性があると研究者は考えているようです。そのため当時の金毘羅の状況を知る際の根本史料ともされるべきだと云います。 
新編香川叢書 史料篇 2(香川県教育委員会 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それでは、古老伝旧記 ( 香川叢書史料編226p)を見ておきましょう。

    古老伝旧記 
〔古老伝旧記〕○香川県綾歌郡国分寺町新名片岡清氏蔵
(表紙) 証記 「当院代々外他見無用」
極秘書
古老之物語聞伝、春雨之徒然なる儘、取集子々孫々のためと、延享四(1748)年 七十余歳老翁書記置事、かならす子孫之外他見無用之物也。

「古老伝旧記」は多聞院四代慶範が延享4年(1744)に記述、九代文範が補筆、十代章範が更に補筆、補修を加えたもので、文政5年(1822)の日付があります。古老日記の表紙には、「当院代々外他見無用」で「極秘書」と記されています。そして1748年に当時の多聞院院主が、子孫のために書き残すもので、「部外秘」であると重ねて記しています。ここからは、この書が公開されないことを前提に、子孫のために伝え聞いていたことをありのままに書き残した「私記」であることが分かります。それだけに信憑性が高いと研究者は考えています。
天狗面を背負う行者
天狗行者
例えば金毘羅については、次のように記されています。
一、当国那珂郡小松庄金毘羅山之麓に、西山村と云村有之、今金毘羅社領之内也、松尾寺と云故に今は松尾村と云、西山村之事也、
讃岐国中之絵図生駒氏より当山へ御寄附有之、右絵図に西山村記有之也、
一、金昆羅と申すは、権現之名号也、
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領三百三拾石は、国主代々御領主代々数百年已前、度々に寄附有之由申伝、都合三百三拾石也、
当山往古火災有之焼失、宝物・縁記等無之由、高松大守 松平讃岐守頼重公、縁記御寄附有之、
意訳変換しておくと
一、讃岐国那珂郡小松庄金毘羅山の麓に、西山村という村がある。今は金毘羅の社領となっていて、松尾寺があるために、松尾村とよばれているが、もともとは西山村のことである。
讃岐国中の絵図(正保の国絵図?)が、生駒氏より当山へ寄附されているが、その絵図には西山村と記されている。
一、金昆羅というのは、権現の名号である。
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領330石は、国主や御領主から代々数百年前から度々に寄附されてきたものと言い伝えられていて、それが、都合全部で330石になる。当山は往古の火災で宝物・縁記等を焼失し、いまはないので、高松大守 松平讃岐守頼重公が縁記を寄附していただいたものがある。
①生駒家から寄贈された国絵図がある
②坊号が中の坊
③松平頼重より寄贈された金毘羅大権現の縁起はある。
天狗面2カラー
金毘羅に奉納された天狗面
歴代の金光院院主については、次のように記されています。
金光院主之事   227p
一、宥範上人 観応三千辰年七月朔日、遷化と云、
観応三年より元亀元年迄弐百十九年、此間院主代々不相知、
一、有珂(雅) 年号不知、此院主西長尾城主合戦之時分加勢有之、鵜足津細川へ討負出院之山、其時当山の宝物・縁記等取持、和泉国へ立退被申山、又堺へ被越候様にも申伝、
一、宥遍 一死亀元度午年十月十二日、遷化と云、
元亀元年より慶長五年迄三十一年、此院主権現之御廟を開拝見有之山、死骸箸洗に有之由申伝、
意訳変換しておくと   
一、宥範上人 観応三(1353)年7月朔日、遷化という。その後の観応三年より元亀元年までの219年の間の院主については分からない。

宥範は善通寺中興の名僧とされて、中讃地区では最も名声を得ていた高篠出身の僧侶です。長尾氏出身の宥雅が新たに松尾寺を創建する際に、その箔をつけるために宥範を創始者と「偽作」したと研究者は考えています。こうして金毘羅の創建を14世紀半ばまで遡らせようとします。しかし、その間の院主がいないので「(その後の)219年の間の院主については、分からない」ということになるようです。
  一、有珂(雅)  没年は年号は分からない。
この院主は西長尾城の合戦時のときに長尾氏を加勢し、敗北して鵜足津の細川氏を頼って当山を出た。その時に当山の宝物・縁記は全て持ち去り、その後、和泉国へ立退き、堺で亡命生活を送った。
宥雅が金毘羅神を作り出し、金比羅堂を創建したことは以前にお話ししました。つまり、金毘羅の創始者は宥雅です。しかし、宥雅は「当山の宝物・縁記は全て持ち去り、堺に亡命」したこと、そして、金光院院主と金比羅の相続権をめぐって控訴したことから金光院の歴代院主からは抹消された存在になっています。多聞院の残した古老伝が、宥雅の手がかりを与えてくれます。
  一、宥遍  元亀元年十月十二日、遷化と云、
元亀元(1570)年より慶長五(1600)年まで31年間に渡って院主を務めた。金毘羅大権現の御廟を開けてその姿を拝見しようとし、死骸が箸洗で見つかったと言い伝えられている院主である。
宥遍が云うには、我は住職として金毘維権現の尊体を拝見しておく必要があると云って、、御廟を開けて拝見したところ、御尊体は打あをのいて、斜眼(にらみ)つけてきた。それを見た宥遍は身毛も立ち、恐れおののいて寺に帰ってきた。そのことを弟子たちにも語り、兎角今夜中に、我体は無事ではありえないかもしれない、覚悟をしておくようにと申渡して、護摩壇を設営して修法に勤めた。そのまわりを囲んで塞ぎ、勤番の弟子たちが大勢詰めた。しかし、夜中に何方ともなくいなくなった。翌日になって山中を探していると、南の山箸洗という所に、その体が引き裂かれて松にかけられていた。いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。この剣は今は院内宝蔵に収められている。
  ここには金毘羅大権現の尊体を垣間見た宥遍が引き裂かれて松に吊されたという奇話が書かれています。もともと宥遍と云う院主は金毘羅にはいません。宥雅の存在を抹消したために、宥盛以前の金比羅の存在を説くために、何らかの院主を挿入する必要があり、創作されたようです。そこで語られる物語も奇譚的で、いかにも修験者たちが語りそうなものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗

 なお、この中で注目しておきたいのは、次の2点です。
①宥遍には多くの弟子がいて、護摩壇祈祷の際には宥遍を、勤番の弟子たちが大勢詰めたとあること。
②「いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。」とあり、常に帯刀していたこと。
ここからも当時の金光院院主をとりまく世界が「修験者=天狗」集団であったことがうかがえます。これは金毘羅大権現の絵図に描かれている世界です。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現と天狗たち(修験者)
以上見てきたように多聞院に残された古老伝は、正式文書にはないリアルな話に満ちていて、私にとっては興味深い内容で一杯です。

最後に 金光院宥典が多聞院宥醒(片岡熊野助)を頼りとしていたことがうかがえる史料を見ておきましょう。古老伝旧記の多開院元祖宥醒法印(香川叢書史料編Ⅰ 240P)には次のように記されています。
万治年中病死已後、宥典法印御懇意之余り、法事等之義は、晩之法事は多聞院範清宅にて仕侯得は、朝之御法事は御寺にて有之、出家中其外座頭迄之布施等は、御寺より被造候事、

意訳変換しておくと
万治年中(1658~60)に多開院元祖宥醒の病死後、宥典法印は懇意であったので、宥醒の晩の法事は多聞院範清宅にて行い、朝の御法事は御寺(松尾寺?)にて行うようになった。僧侶やその他の座頭衆などの布施も、金光院が支払っていた。


              
1横倉山
仁淀川からのぞむ橫倉山
 土佐の霊峰といわれる横倉山(774㍍)は高知市の西にあり、安徳天皇御陵参考地とされます。以前に安徳天皇伝説が
物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町(横倉山)
へと土佐の霊山をつなぐように伝えられている事。このルートを使って宗教活動を行っていたのが、物部いざなぎの修験者達ではなかったのかという仮説をお話ししました。
今回は、その伝説の終着地点(?)の横倉山を見ていきたいと思います。
 阿波祖谷より国境尾根を越えて、土佐の物部に入り、物部川と仁淀川沿いに歩くと横倉山にやってきます。安徳帝は、横倉山で正治二年九月八日 二十三で崩御したと伝えられます。
1 横倉山R2ss
橫倉山
この山の祭祀遺跡は、安徳帝行在所説に付会されること多く、山号ミタケ山も御嶽と表記されています。まず、安徳帝以前の山の様子を見ておきましょう。
 安徳帝以前から修験の山であったとするのが「八幡荘伝承記」で、次のように記します。
土佐国司惟宗朝臣永厚の子康弘の次男経基は、この一帯で別府の氏姓を称して勢力を拡大していた。経基は大昆羅祖蔵権現を尊び山伏修行をしていた。天暦八年六月別府荘奥山谷深く登りつつ本尊を鎮座すべく決心した。そして家人為右衛門及び喜全坊を、大和へ上らせ、自らも大昆羅坊・山律坊と称した。そして山頂で天神の詔を聞いたのである。
天神は「みだりにこの山には人誰も入るものでなく、吾ただいま降りて天地の礼法を伝ふ」として祭地と祭神を告げる。
 そこで、次のように神仏を祀った 
①桜に柏の木の森があって、日向の滝と称する東の嶽には、大日大乗不動明王・紀国日前大明神を
②檜の森があって日室の滝と称する中央(南)には、紀国日像神とて天照大神の荒御魂の分霊・本尊大日如来を
③水無滝のある西嶽には阿波の人津御魂神・大田氏神・薬師如来をこれら三滝大権現、三滝三聖大権現を祀ったのは天徳元年十二月であった。
  ここには、ミタキ山は三嶽山と表記し、横倉山祭祀の始まりと伝えます。11世紀半ばに修験道関係の仏が祀られ、修行の場となったと言うのです。今は、本宮西方の住吉社のある嶽を黒嶽とよんでいます。しかし「御嶽神社記」には
「黒嶽に安徳帝の念持仏の不動像と鏡を納めた」
と黒嶽の名が出てきます。どちらにしても、これが「三嶽勧請伝承」です。ここからは安徳天皇が葬られたとする時代よりも2世紀ほど早い時点で、この山は修験者達によって開かれていたことになります。

 横倉山のことを金峯山とも呼びます。
 吉野の金峯山は空海が修行した霊山です。また、醍醐寺を開いた聖宝も金峰山で修行しました。吉野は弥勒にはじまる法相宗の道場でしたから末法思想が盛んになると、その奥の金峰山は弥勒下生の地とされるようになります。そして藤原道長など貴族の間で御岳詣が盛んに行われます。道長は、修験で知られた観修に祈祷をさせてもいます。

1横倉山蔵王権現立像 2
 
 金峰山には、金剛蔵王権現がまつられました。
 これが平安末になると、金剛蔵王権現を役小角が金峰山上の岩から導き出したと神格とする信仰を生み出します。こうして、金峰山には山上・安禅・山下の蔵王堂、石蔵寺・一乗寺などの寺院が建立され、白河上皇・堀河上皇・鳥羽上皇らが御幸するようになります。
 後には、この山で修行した修験者達が各地に散らばり、霊山を開き蔵王権現を祀るようになります。横倉山も、吉野金剛山で修行を積んだ修験者が、大きな影響力を持った時代があったようです。そのために、この山も金峰山と呼ばれるようになったのでしょう。それを資料的に見ておきましょう。「土陽淵岳誌」延享三年(一七四六)に

 里人曰く権現尤霊験アリテ 怒ヲ発スレハ山必鳴ルト云 曰自古伝ヘテ 此山二金石ヲ伏ス  金気抑彭シテ外へ発セサレハ 則震動雷ノ如シト云ヘリ

と「金石ヲ伏ス  金気抑彭」と金峯山についての伝承があります。
文政八年(1825)「横倉山考証記」には、金峯山御岩屋御宝殿と記した各棟札が以下のように伝えられています。
文明十六年(一四八四)横倉蔵王権現宮
天正十一年(一五八三)ざわうごんげん(=蔵王権現)
元禄十七年(一七〇四)社家改記録に「蔵王権現神体大小五但シ唐金」「唐金ノ如ク 鏡ナル像ヲ鋳タル」
と蔵王権現像が作られた事が記されています。

橫倉宮3
橫倉宮の鳥居
「八幡荘伝承記」による金峯山勧請由来は、次のように記します。

「文明十四年(1482)別府十二社権現宮 三嶽山総山焼はげとなりたる時焼失し 新宮建立、同十六年大和国金峯山権現勧請

ここからは、横倉山に金峯山蔵王権現がやって来たのは天明16年(1484)で、そのきっかけは、2年前の「焼はげ=大火」の原因を占った結果「金峯山を勧請すべき」と出たからのようです。
 ちなみに横倉権現は現在は、横倉宮となっていて、現地の説明版には次のようにあります。

橫倉宮4
祭神は安徳天皇、本殿は春日造り、拝殿は流れ造りです。由緒は正治二年(1200)八月八日、安徳天皇は二十三歳で山の上の行宮で亡くなられ、鞠ヶ奈路に葬られた。同年九月八日、平知盛が玉室大神宮とあがめて横倉山頂に神殿を建てて祭る。
 歴代領主が崇拝し、しばしば社殿の修改築をした。現在の建物は明治30年(1897)頃の改築で、以前は横倉権現と言ったが、明治4年に御嶽神社と改め、昭和24年(1949)12月二十三日天皇崩御七百五十年祭の時に横倉宮と改められた。
  ここには安徳天皇以前のことには、触れられていません。そして、安徳帝を祀る神社が安置された事からスタートします。ちなみに安徳天皇を12世紀の時点で祀った事は、残された根本文書には何も記されていないことになります。そして最後に、明治の神仏分離に触れています。ここからは蔵王権現は、明治の神仏分離によって安徳天皇を祀る神社に「変身=リニューアル」されたことが分かります。もともとは、橫倉宮には蔵王権現が祀られていたのです。
 「歴史の重層性」を、改めて思い知らされます。そして、明治以後の神道界では金峯山という名前も、避けられるようになり横倉山が「正式名称」となったようです。

1横倉zinnzya 下社山4
             横倉神社(下宮)

 麓にある横倉神社(下宮)を見てみましょう。

下宮は南北社二つあり、北社を金峯神社と称していました。明治の神仏分離後に、横倉神社と改称し、明治14年に南社の横倉大権現を合祀して現在に至っています。文禄四年の「金峯山御岩屋御宝殿」棟札は、頂上本宮にあったものですが、この棟札からは、この頃までは横倉山を金峯山と呼んでいたことが分かります。
横倉権現の痕跡をもう少し探してみましょう
1横倉山蔵王権現立像 吉野金峰山寺
吉野金剛山寺の蔵王権現
 山上の本宮が鎮座する崖下の岩屋からは、古銭や興矢根などが多く発見されています。ここからは、金峯山信仰と密接な関係があったことがうかがえます。
さらに、ここには檜材一木造の「木造蔵王権現立像」(高さ55㎝)が今に伝えられています。蔵王像は全国的にも珍しいもので、県下では唯一のものです。研究者は次のように評します。

「その表情も力強い忿怒の表現を見せ、古拙ではあるが形制よりして藤原時代に遡るもので、平安末修験道造像の古例として注目されている」

(高知県文化財調査報告書11集・文化庁文部技官倉田文作氏)と評する逸品です。この蔵王像は、横倉山の金峯山信仰が古くからあったことを示します。
1横倉山 杉原神社 熊野
橫倉宮
残されたその他の修験関係の遺品としては、次のようなものがあります。
①蔵王権現の本地仏である釈迦如来を表現した銅板線刻如来鏡像(平安後期作)
②蔵王権現立像と一連の天部形立像・男神倚座像・騎馬神像
③線刻地蔵菩薩鏡像(大平神社蔵)
④懸仏9面(鎌倉時代~南北朝時代)
⑤修験の行場に置かれた鉄剣(鎌倉時代)
⑥中国宋の湖州鏡(大平神社蔵)
⑦経塚関係の遺物として経筒(平安後期~鎌倉時代)
⑧経筒の外容器の陶器、副納品の土器
これらを見ても、安徳天皇伝説につらなるものはないようです。

1横倉神社

 蔵王権現に遅れて勧進されたのが熊野権現です。「八幡荘伝承記」には、次のように記します。

別府氏十代高盛は延暦寺に詣で仏事を修し、嘉承二年(1107)帰国、坊名を然天坊崇真と号す。永久二年(1114)二月紀州熊野宮に参詣し権現尊勧請、四月末帰国し仮の宮を造り納め、保延三年(1137七)吾川山荘高峰別院(現黒森山という)に安置した。

「高吾北文化史」には治承三年(1179)蓮池家綱が建立した別府十二社権現と、熊野権現とが文安元年(1444)に合祭されて横倉山大権現宮と改称したと記します。

81横倉山

以上から横倉山には、三嶽大権現、熊野権現、金峯山蔵王権現が順番に勧進され安置されていたことが分かります。
年代記銘がある最古のものは保安三年(1122)の経筒です。これを、基準に前後の事項を、資料から拾い年代順にまとめてみます。
天暦九年(955)経基家人為右衛門・喜全坊を大和へ
天徳元年(959)東西中の三嶽に神仏勧請、三嶽大権現と称す
永久二年(1114)高盛が熊野に詣り、熊野権現勧請仮宮に奉置
保安三年(1122)本宮に経筒を奉ず
保延三年(1217)熊野権現吾川山荘高峰別院に納む(黒森山)
治承三年(1179)蓮池家 綱別府十二社権現を三嶽山に建立
文治元年(1185)安徳帝横倉山へ
正治二年(1200)安徳帝崩御
文安元年(1444)別府十二社権現、高峰別院熊野権現とを合祭
文明十四年(1482)三嶽山焼け別府十二社権現焼失
文明十六年(1484)大和金峯山権現勧請
天正三年(1575) 別府山延命院横倉寺建立
 この年表からは安徳帝以前から横倉山は、信仰の山で修験者の活動拠点であったことが改めて分かります。そこへ吉野の金峰山の蔵王権現、ついて熊野権現が勧請されたのです。

1横倉山s
橫倉山の平家穴

しかし、いつのころからかこの山から修験者の姿は消え、安徳天皇伝説が急速に広がり始めます。
それでは横倉山で修験者が活動したのは、いつ頃までだったのでしょうか?
 源平の争い、南北朝時代など中世は戦乱が相続き、人々が不安におののいた時代でした。そんな時に、験力を看板にした修験者は宗教界のみでなく、政界にも大きな影響を与えます。さらに修験者は山中の地理にくわしく、敏捷だったこともあって武力集団としても重視されます。源義経が熊野水軍を、南朝が吉野の修験を、戦国武将が間諜として修験者を用いたのは、こうした彼らの力に頼ろうとしたからなのでしょう。土佐も同様で、修験者の活躍できる機会がいろいろな方面に広がっていました。長宗我部元親も修験者達を側近に用いて、情報収集や外交、教育などのブレーンとして活用していた事が知られています。
1横倉山.3jpg
かむと獄石鎚神社

江戸時代に入ると、幕府は修験道法度を定め、修験者を次のどちらかに所属登録させます。
①聖護院の統轄する本山派(熊野)
②醍醐の三宝院が統轄する当山派(吉野)
そして、両者を競合させる政策をとります。この結果、諸藩でこの両派の勢力争いが起きるようになります。土佐では山内藩の保護を受けたのは本山派でした。そして、保護を失った当山派は幕末には土佐から姿を消す事になります。
 また幕府は、修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとしました。こうして修験者達は全国の行場を渡り歩く事が出来なくなります。各派の寺院に所属登録され、村や街に根付いた修験者は、それぞれの地域の人々によって崇拝されている山岳で修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになるのです。そして、村々の加持祈祷や符呪など、いろいろな呪術宗教的な活動を行うようになります。
1横倉山 安徳天皇伝説4
橫倉宮
以下は私の仮説です。
 このような中で大きな打撃を受けたのが物部いざなぎ流の修験者たちではなかったでしょうか。
安徳天皇伝説が伝わる
「  阿波祖谷の剣山 →  物部の高板山 → 土佐横倉山  」
は、いざなぎ流修験道の活動ルートであり、
物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町のルート
はいざなぎ流の太夫たちの活動領域ではないのかという仮説を最初にお話ししました。
 この仮説の上に立つと江戸幕府の修験道法度は、修験者の各地遊行を禁止するものでした。この結果、物部修験者の活動は大きな制約を受けたはずです。それまで、頻繁に行き来していた物部と横倉の修験道ルートが閉鎖されたとすれば、横倉山の修験道の衰退は理解できます。
91横倉山
橫倉山からの展望 左が仁淀川
この山は、江戸時代には、山内家・家老深尾家の祈願所として、その命脈は保ちます。がこの山が修験の山であったことは忘れられていきます。
 明治の神仏分離で、このお山は大きく姿を変えたのはお話ししました。
明治五年、政府は権現信仰を中心とし淫祠をあずかるとして修験道を廃止します。そして修験者を聖護院や三宝院の両本山に所属したままで天台・真言の僧侶としました。その際に還俗したり、神官になった修験者も少なくなかったようです。全国各地の修験者が依拠した諸山の社寺でも、神社に主導権をにぎられていきます。こうして教団としての修験道は姿を消します。

1横倉山4

 国家神道のもとでこの山は、安徳天皇伝説で染め上げられていく事になります。

 

 
虚空蔵山7

虚空蔵山(こくぞうさん) 675mは土佐市、須崎市、佐川町の境にまたがり、どこからみても形のよく、眺望も素晴らしい山です。こんな山は古代から甘南備(カンナビ)山として崇拝されてきました。
霊山は、死後は死霊として山岳に帰り、清められて祖霊からさらに川神になって帰ってくる山でした。
年間の行事をとって見てると、
正月の初山入り、
山の残雪の形での豊凶うらない、
春さきの田の神迎え、
旱魅の際山上で火を焚いたり、
山上の池から水をもらって帰る雨乞、
盆の時の山登りや山からの祖霊迎え、
秋の田の神送りなど、
主要な年中行事はほとんど甘南備山と関係しています。山やそこにいるとされた神霊は、里人の一生にまた農耕生活に大きな影響を与えてきました。

虚空蔵山9
 山は、里人に稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されました。
山から流れる水は飲み水としても、用水としても里人にとって命の源でした。こうしたことから山にいる神を水を授けてくれる水分神として崇める信仰が生まれます。水分神の信仰は、竜神とされることも多く、蛇や竜がその使いとして崇められることもあります。
漁民たちも山の神を航海の安全を守ってくれるものとして信仰しました。
これは山が航海の目標になったからです。中国や琉球への航路の港としてさかえた薩摩の坊津近くの開聞岳は、航海の目標として崇められた山として有名です。この虚空蔵山は「土佐の開聞岳」として、東シナ海を越えた交易ネットワークのひとつの拠点「燈台」の役割を果たしていたのではないかと私は考えています。
虚空像山1
 この山には次のような「徐福伝説」が伝わります。
 その昔、不老長寿の妙薬を求めて、秦の始王帝が日本の国の仙人が住んでいるという、不老長寿の地にある霊山に部下を遣した。暴風雨に遭い土佐の宇佐に漂着した彼らは、この虚空蔵山に登って祈願したが仙人には会えず、携えていた宝を埋めて紀州へ向けて去って行った。その宝は「朝日さす夕日輝く椿のもとにある」と伝えられる

遠い昔の蓬莱山の伝説が「埋められたお宝」と共に今に伝わります。
仏教が伝わる以前は、この山は何と呼ばれていたのか、今になっては知りようもありません。
虚空像山2
古代から霊山として信仰されてきた山に、仏がやって来るとどうなるのか?
この山の三角点のすぐそばに虚空蔵菩薩が祀つられています。虚空蔵山という名前は、弘法大師がこの山に虚空蔵菩薩を祀ったという由来から来ているようです。
それでは虚空像菩薩とは、どんな仏さんだったのでしょうか?
虚空像菩薩は地蔵菩薩とペアでした。大地を表す「地」と「蔵」、これが地蔵菩薩です。
これに対して、虚空蔵とは宇宙のような無限の知恵と慈悲が収まっている蔵(貯蔵庫)のことです。虚空蔵菩薩は、人々の願いを叶えるために、それらを蔵から取り出して与えてくれる、とっても優しい菩薩さまです。今風に言うと「まるでドラもん!」ということで、仏教界のネコ型ロボットかもしれません。奈良時代から人気があったようで、空海によって中国から密教がもたらされる前から、無限の記憶力を得て、仏の知恵を体得できるという「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」の本尊でした。

虚空蔵菩薩2
神護寺の虚空蔵菩薩
 空海は若い頃に、室戸岬の御厨人窟(みくろど)と呼ばれる洞窟で虚空蔵求聞持法の修行をやりました。するとある日、突然口の中に光りが飛び込み、その瞬間に「空」と「海」が輝いて見え、求聞持法を会得して無限の智恵を手に入れたと言われます。空海の名もそこに由来すると言われます。空海が密教を開眼するようになるきっかけは、虚空蔵菩薩との出会いがあったからです。そのような「空海伝説」の上に、この山に虚空蔵菩薩はもたらされたのでしょう。
 もともと虚空蔵菩薩は、吉野山で真言系の山岳修行者が守護仏としてきた仏です。
 先ほども述べたとおり、空海をはじめ山岳修行者が山中で虚空蔵求聞持法を修行することも多かったようです。こうしたこともあって、伊勢の朝熊山をはじめ当山派の修験者の霊山では本尊を虚空蔵菩薩としている所が多いようです。前回は土佐の霊山は、熊野系の本山派の修験者達によって開かれたところが多いことをお話ししましたが、この山は虚空像菩薩をお祭りするので真言系当山派の拠点であったことがうかがえます。

虚空蔵菩薩

霊山は時代と共にリニューアルされて姿を変えていきます。
 この山の山上一帯には、石鎚神社への鉄鎖、石室の通夜堂、御手洗池、弘法大師の岩屋などがあります。その他、精進ヶ岩、クロウ嶽、神武天皇のいたオオネギ(王が畝に来たの意)、附心の滝など、神と仏のワンダーワールドなお山です。
 山の形は双耳峰なので鉾ヶ峰とも呼ばれ、西峰に石鎚神社、東峰に虚空蔵菩薩が鎮座します。虚空蔵堂は、頂上近い崖下にあって、広い境内には通夜堂、変事があれば必ず揺るぐという大きな揺るぎ石もあります。戸波村史によると本尊は一尺五寸の木立像。文政七年(1824)の棟札あり、伊勢朝熊山より勧請されたといいます。ここにも、当山派の修験者(山伏)達の姿が垣間見れます。
虚空蔵山10
西方峯には石鎚神社が勧進されています。
これは石鎚信仰が盛んになる近世以後に安置されたようです。土佐の石鎚参拝は、仁淀町の安居渓谷を経て手箱山・丸滝山を経てのルートが一般的でした。このルートを経て、近世末期から近代には、先達に導かれて多くの信者達が、お山開きには参拝に訪れました。そして、信者達は自分たちの地域で石鎚山がよく見える山の山頂に遙拝所を開き、石鎚権現(蔵王権現)を勧進するようになります。この山にもある石鎚神社も、そのような経緯を経ているようです。
虚空像山の石鎚権現2
 虚空蔵山の八合目あたりの平坦地をシオリガ峠と呼びます。
海辺から担ってきた塩を求めて、塩市がここで開かれていたからだとも、戦国時代は草刈場で、その争奪戦のあったところだともいわれています。
 しかし、名前の由来は、このシオリガ峠が土佐市から佐川方面への主要往還であったことから、道祖神として柴折峠が本来の語意だと研究者は考えているようです。
 縁日は春秋の彼岸中日で春を大祭とし、かつては近郊はもちろん、窪川町・葉山村・室戸方面からの参詣者もあったそうです。麓下の家々は縁者知人を招いての酒宴で賑わったといいます。
虚空像山4
 虚空蔵堂では「大世の引き分け」と称する作占いが行われていました。
 紙片に早稲、中稲、晩稲などと記して祈祷・数珠三昧をして、数珠に付着した品種を植付作柄としました。いただいた護符を田畑に立て、また堂床の土を持ち帰り田畑に入れます。こんな慣習からか、お参りした人たちの世間話から稲作が話題となるのは自然で、知り合いになった参拝者の家を、後日訪ねて行き種籾を交換したそうです。このような中から生まれた高知生まれの品種が「虚空蔵」・「福七」だそうです。
 またこの山は、雨乞祈念の場ともされています。里人が「虚空蔵は百姓神、作神、作仏」だというように作神的な性格がうかがえます。これは山上の地蔵信仰と共通するようです。

虚空像山の石鎚権現
 虚空蔵山の第二の性格は祖霊信仰です
 麓下の集落では旧七月十六日を虚空蔵の夏祭りが行われていました。夕方になると老若男女が山を登り、山頂に立っつと眼下四方に盆のホーカイ火(送り火)が数限りなく揺れてみえたそうです。その揺れる灯り見ながら霊を送ったといいます。
 中腹にある静神部落の明治28年生れのお爺さんは
「小さい頃、盆の十三、十四、十五日の夕方には仏さんを迎えに行くと言って、松明をもやし山に登った。十六日は仏を見送るのだといって、松明を持たずに登った」
と、話していたそうです。十六日登山は仏送であったようです。
この山には、いろいろな風習が他にも伝わっていたようです。
 秋彼岸には彼岸講といい、永野地区では十軒前後で講を作り、その宿元が代参する習慣がありました。その夜は山頂のシキビを手折り持ち帰り、トーヤの床にさし、燈明を燈じ、講組の者が集まって小酒宴を開いたそうです。
 卯月八日にも、頂上で茶をいたくために山に登りました。節分には年替りの日として、一年間の加護の礼と翌年の庇護を願うて登ります。信者であれば一度は命拾いできるといい、彼岸前日から当日にはかつては青年団が登山、キャンプをしていたそうです。これもかつて村人が通夜堂で寵った風習の延長だったのかもしれません。
 ここには仏教以前の霊山への祭礼の形が、見え隠れしているようです。里人が霊山と崇めていた所へ、聖や修験者たちが仏を勧進し、宗教的な重層性を重ねていったことがうかがえます。
 なお、本堂の虚空蔵仏は丑寅(鬼門)の方に向いて立っているそうです。
虚空蔵山8

参考文献 大山・石鎚と西国修験道所収  高木啓夫     土佐の山岳信仰
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土佐神社4
土佐神社
高知の神社で他県から勧請されたものを数えると、熊野系が128社と圧倒的に多いようです。その他では金峯(吉野)36社、石鎚が12社と続きます。熊野神社が数多く見られるは、土佐特有の現象です。
  それでは熊野行者達が、どのようにして土佐に熊野権現を広めていったのでしょうか。その前に「仮説」を示しておきます。
空海以前の辺路修行者による行場・霊山の開発
プロの修験者の辺路修行社の巡礼・廻国
熊野修験者による熊野詣で
有力豪族の熊野行者保護と熊野権現の勧進
江戸時代の土佐藩の本山派修験道保護と当山派の衰退
土佐神社1
土佐神社(高知市)

 まず土佐郡一宮の土佐神社を見てみましょう。
 ここは旧国幣中社の名社で、土佐最初の国造小立足尼の祖先一言主神を祀っています。
土佐神社祭神
土佐神社の祭神は、一言主神

 社伝では、雄略天皇が大和の葛城山で狩をした時に、一言主神が神異を顕わした(大王家と同格の振る舞いを行った?)ために、この地に移し祀った(流刑?)と伝えます。土佐郡には葛木男神社、葛木眸神社の両式内社がありますが、どちらも葛城山の伝承と結びつけられています。土佐に移住した加茂氏や葛城氏の一族布氏が、祖神を祀ったものと研究者は考えているようです。

土佐神社2

 ここからは、熊野・吉野(大峰)と並ぶ本山派修験の中心的な修行道場である葛城の神々が早い時点から土佐に祭られていたことが分かります。これは、土佐での熊野行者たちの伝播を、助けることになったでしょう。
 古代から聖や修行者が集まった土佐の寺院を挙げて見ると、次のようになります。
①空海が修行窟とされる室戸岬の最御崎寺(東寺)
②最御崎寺の本寺とされる金剛頂寺(西寺)、
③熊野の若一王子宮の神宮寺である長岡郡本宮町寺家の長福寺
④中国の五台山になぞらえられた高知市の五台山竹林寺
⑤修行僧善有によって開かれた安芸郡の妙楽寺
⑥補陀洛渡海信仰とむすびついた足摺岬の金剛福寺
 これらを見てみると室戸岬・足摺岬、その中間に位置する吾川郡秋山村の種間寺など補陀洛渡海の伝承と結びついた寺院が岬や海辺近くにあることに気付きます。室戸岬から足摺岬に到る海岸線は「辺路修行」の道で、後には「四国遍路道」となっていくと研究者は考えています。これに対して、奥地ある寺院や霊山を見ておきましょう。
⑦安芸郡和田に比定される妙楽寺、
⑧香美郡の高板山や石立山、
⑨長岡郡の白髪山、
⑩土佐郡の土佐山の長泉寺
⑪石鎚山系につらなる瓶ヶ森、
⑫高岡郡の横倉山や虚空蔵山、
⑬幡多郡の白皇山や篠山
これらの山々は、現在でも信仰されている霊山です。このように古代土佐の山岳信仰には、次の2種類があると研究者は指摘します。
A 海岸に面した岬や小丘
B 内陸の諸山

1香我美史 若一王子
 
 熊野信仰は、だれがどんなルートでもたらされたのでしょうか。
まず、最初に土佐に勧進された4つの熊野権現を見てみましょう。
①高岡郡越知村の横倉山、
②長岡郡寺内の吾橋庄、
③香美郡の大忍庄、
④幡多郡の伊与木近辺
橫倉宮2
橫倉山
このうち最も早いのは横倉山への勧請で、保安三年(1122)です。
 この熊野権現は横倉山南の本社で、今は北の本社には、吉野の金峰山の蔵王権現が勧請されています。つまり、横倉山は最初に真言系修験者がやってきて、吉野金峰山の蔵王権現を祀り、その後に熊野修験者がやってきて熊野権現を祀ったということになるようです。横倉山については、複雑なので、また別の機会に触れたいと思います。先を急ぎます。

豊楽寺 大豊町寺内
長岡郡寺内(大豊町) 豊楽寺は熊野信仰の拠点

 吉野川の大歩危の上流に位置する長岡郡寺内にあった吾橋庄は、のちに熊野権現領となります。
 この庄の長徳寺に伝わる平安末期の安元二年(1176)十二月三日付の文書には、次のように記されています。

「土佐国庁、北条吾橋山、奉免長徳寺 并王子殿四至内……」

ここからは、12世紀の吾橋庄に熊野王子社が勧請されていたことがわかります。そして、このエリアの熊野信仰拡大の拠点となっていくのが、国宝の薬師堂を持つ豊楽寺です。

豊楽寺 大豊町寺内2
豊楽寺の薬師堂

 土佐における熊野権現社領の代表的なものは大忍荘ですが、そこに勧進された熊野権現神です。

若一王子宮1 香南市
若一王子宮(香南市)

 村上永源上人が紀州熊野から御厨子を背負ってきて、この地に勧請したと伝えられるのが若一王子宮です。弘安九年(1286)には、禅源が、さらに文保三年(1319)には、その子増源がこの社の別当を務めています。永源上人に供奉して、この地に来た山伏の子孫と称する家が六軒あり、紀州の熊野と同様に鳥喰いの神事を伝えていたそうです。

香南市 若一王子宮1
若一王子宮(香南市)

 同じ頃、南国市の田村庄にも、熊野先達入交源六兵衛沙弥浄円によって若一山東光寺が建立されています。このように土佐への熊野権現の伝播にあたっては、背景に次のようなうかがえます。
①荘園などを媒介とした熊野との社会経済的関係
②熊野聖・山伏・熊野比丘尼などの勧進活動
③それにもとづく師檀関係の成立

次に13世紀から16世紀にかけて、勧進された熊野権現です
①文治二年(1186)平家の家臣大野源太左衛門紀州熊野より新宮を勧請(熊野神社。安芸郡馬路村)
②元亨元年(1321)安田三河守元高、紀州熊野から熊野権現を勧請(熊野神社、安芸郡中山村大字別所宇鍛冶屋敷)
③建武年間(1334~)藤原朝臣長山信濃守信安、神託により熊野より勧請(熊野神社、高岡郡東津野村)
④文亀二年(1502)源重隆、新宮三所権現を再興.
 これよりさき延徳四年(1492)に豊後入道次男が同社別当職となっている(新宮神社、長岡郡十市町)
⑤永正年間(1504)領主隠岐守元国勧請(若一王子宮、吾川郡芳原村)
⑥永正十六年(1519)別当珍光阿闇梨再興、願主は泰氏茂親(本宮神社、土佐郡旭町)
⑦大永五年(1525)大峰先達長泉坊、長徳寺を再興
⑧弘治三年(1557)藤原資重、嫡子弥陀保子丸、二男重家入道沙弥良範か建立(熊野神社、幡多郡山中村)
⑨永禄二年(1559)真福寺権大僧都昌誉法印再建.当初は十二人の山伏が熊野から勧請したという(十二所権現、高岡郡北原村)
⑩永禄四年(1561)長曾我部元親勧請(若一王子、香美郡王子村)
⑪天正年間(1573)蚊居太子楠女勧請(熊野神社、長岡郡新改村)
⑫天正三年(1575)長曾我部元親勧請(熊野神社、長岡郡大篠村)
①②③④⑤⑧⑩⑫は土豪または武将やその関係者による勧請、
⑥⑦⑨は山伏、⑪は熊野比丘尼の勧請と考えられるものです。
吾橋庄のある長岡、大忍庄を持つ香美、横倉山を含む高岡などに熊野権現が増えています。これらの場所が熊野行者の活動拠点であったと推察できます。

 土佐は遊行宗教者や戦いに敗れたり、種々の事情で放浪の生活に入らざるをえなかった人が訪れて定着することが多かった土地です。
行基や弘法の巡錫伝説、『今昔物語』にあげられている醍醐寺の観幸、信濃の猟師であったが発心して出家した工藤大主、さらには重源、一遍、一向なども土佐を訪れています。また、俗聖などが土佐を訪れて、生をおえることも多かったようです。このため、やってきた聖をまつったり、御霊神の類にも遊行者をまつったものが見られます。
  熊野聖・山伏・比丘尼をはじめとする遊行者が、土地の土豪達と結んで熊野権現をはじめとする諸社を勧請するのに、大きな役割をはたしたことがうかがえます。
熊野信仰が広まるにつれて、土佐から熊野に参詣に行く人もでてきたようです。
応永25年(1418)幡多郡の瑳詑山住職が熊野参詣の先達職に任じられています。
永享 9年(1437)香曾我部氏の一族西山氏が、熊野参詣の費用を作るために地頭職を売ったことを示す文書が残っています。
文明十年(1478)十月 熊野那智の御師実報院に伝わる「米良氏諸国檀那帳」には、同院が玉井から土佐・八木氏を檀那として十三貫文で譲り受けたことが記されています。
慶長四年(1599) 熊野那智の潮崎氏は、それまで所持していた土佐国の長曾我部、香曾我部、一条、浅野一門、中村姓、ふく井姓、蓮池姓、きら氏の檀那株を新宮御師方に売却しています。
  このように中世末期には、那智や新宮の御師と土佐や他地域の先達、土佐の土豪を中心とする檀那の三者の関係が成立していたことをしめす文書があります。
  土佐からも先達である熊野行者に導かれて、熊野詣でを行う土豪達がいたのです。先達と檀那の関係は、現在のツアー旅行のツアコンとお客の関係ではありません。先達を師とする「師弟関係」のようなものでした。熊野への長い旅を通じて、強い人間的な信頼関係を先達と檀那は結ぶ事になります。檀那達を熊野へ導いた修験者の社会的な地位は高かったのです。その御礼として、熊野権現を自宅周辺に勧進し、氏神とすることもあったようです。
 近世土佐の修験道は本山派が優位になっていきます。
 研究者によると土佐には、江戸時代の初めには、250人、幕末には150人位の修験者がいたようです。例えば幡多郡では、本山派は中村の龍光院を中心に、聖護院院家の播州の伽耶院に属し、当山派は寺山の南光院に支配されていました。そして龍光院は40人、南光院は20人の修験者をその支配下においていたようです
 しかし、幕末の文久四年(1864)に江戸幕府に出された「霞書大略」には、土佐は伽耶院の「霞」(テリトリー)で、当山派の修験者はいないと報告されています。ここには、真言系当山派の土佐における凋落が進んだことがうかがえます。この背景には、土佐山内藩の本山派保護策と当山派への冷遇策があったようです。そのため、幕末には当山派は土佐藩から一掃されていきます。
 本山派聖護院所蔵の「院家院室末寺修験頭分書上帳」には、近世末期の本山派修験の拠点寺院が各国ごとに記されていますが、土佐に関しては次の通りです。
 直末院   佐川        安楽院    
 準年行事  土佐郡江之口村   明星院    
 準年行事  香美郡香宗土居村  龍蔵院    
 準年行事  安芸郡和倉村    改宝院
    準年行事  幡多郡中村     龍光院  
    準年行事  安芸郡伊尾喜村   寿福院  
    準年行事  吾川郡長浜村    常楽院  
これらが聖護院側から見た土佐の本山派修験の支配層だったようです。

 

   
高板山5
多くの霊山が行場としての機能を果たさなくなって久しくなりますが、今なお修験者の行場としてその命脈を保っているのが土佐の高板山(こうのいたやま)です。この山は高知県の物部川の上流にそびえ、一ノ森、ニノ森、三ノ森を併せて高板山と呼びます。北は阿波との国境尾根で、かつては平家伝説のある祖谷地方との婚姻も行われるなど交流が行われていました。そのためか物部にも安徳帝潜幸伝説があり、横倉山に至った安徳帝は、再び高板山に還幸されてこの山で崩御したとされます。
高板山6
 高岩山の一ノ森には剣のように切り立った四国岩とよぶ嶽が屹立します。ここから帝は、四国をながめたので「四国王目岩」と名付けられたいます。また、ここには「三種の神器」の内の神鏡を埋められたと伝わり、不動明王が祀られます。
高板山9四国王目岩
 ニノ森は平坦地で、帝の行在所であり、陵墓で、伊邪那岐命を祀ります。ここは別名は御天上ともいい、別に聖大権現を祀っていましたが、その社地が「不入ず」であったために、麓の笹部落に移したと言います。ニノ森、三ノ森には高板大権現が鎮座すると伝えられ、中腹の高板神社(旧称高板大権現)が遥拝所であったようです。ここには通夜堂もあり、これより先が女人禁制になります。
高板山3
 縁日は春秋の四月、十月の九日から十日両日で、九日は通夜があります。順を追って祭礼を見ていきましょう。
①夜は採燈護摩を焚きます。以前は六角形であったようですが、今は四角形の井桁組みになっています。
②唱文のあと五方に矢を放ち、太刀で九字を切ったのち点火されます。
③やがて導師が経木を投じ、続いて修験者が願立て(家内安全など)住所氏名を書いた護摩木を火中に投じられます。
④この間、導師は印を結び、太刀で九字を切りつつ祈祷、やがて火伏せの太刀を振ります。
⑤参寵者は、右廻り三回の火渡りを行います。
⑥続いて通夜堂でも壇護摩が焚かれ、この間参寵者の数珠繰りがなされる。百人前後の人びとの群がる大きな数珠です。
高板山1
嶽めぐり
 祭礼日には、奥の院への「獄めぐり」も行われていたようです。記録によって「獄めぐり」をたどってみましょう。奥の院まで約八キロメートル、帰路は約五キロメートル、先達に伴われて、各行場で行を勤めながらの参拝で、所要時間六時間。信者は白装束の石鎚信者が多かったようです。嶽めぐりの道筋には、童子像が迎えてくれます。その数は三十六王子。
像のある所は崖上、崖下、崖中の行場で、その都度、南無阿弥陀仏を唱えて祈念します。
一ノ森、ニノ森では、入峰記録の巻物を供え、しばし経文を唱えます。
その間に捨て宮滝(腹這いで岩の間を跳ぶ)
セリ岩(廣向きでないと通れないほど狭い)
地獄岩(長さ10mほどの岩穴を抜ける、穴中童子像あり)
そして、四国岩、千丈滝、三ッ刃の滝などの難所が続きますあります。
滝とは「崖」のことであり水は流れていません。
行場から行場への道はまるで迷路のように上下曲折しており、一つ道を迷えば数ヶ所の行場を飛ばしてしまいます。先達なくしては、めぐれません。

いざなぎ流の里  物部町2

当時の人たちはどんな気持ちで山をながめ、お山開きにやって来ていたのでしょうか?
 修験道にとって山は、天上や地下に想定された聖地に到るための入口=関門と考えられていました。天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。この場合には、神や仏は山上の空中に、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道とされ、
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖、
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
 
高板山11

山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界として、おそれられました。このような場所は行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったのです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされました。狐・蛇・猿・狼・鳥などの人里の身近かな動物も、神霊の世界と人間の世界をむすぶ神使として崇めおそれられたのです。境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。
 その山が、年に一度「開放」され「異界への入口」に立つことが出来るのが、お山開きの日だったのです。ワンダーランドに行くようなワクワクした気持ちで、参拝した人たちもいたのではないでしょうか。
高板山10
  高板山の現在
 高板山は現在は神池、椿佐古部落で祭祀されていますが、もともとは、安丸部落の安丸家が祭祀していました。安丸家は大和国から入国、安丸城主となりその後、江戸時代には笹・明賀地区の番所役人であったようです。そして、安丸城八幡宮とともに高板山を祭祀していました。高板山に「いざなぎ流」太夫が、関与していたことは明らかです。
 今では場所も分からなくなった「御つるい」という祭地では、「ミタツ天王」「丸し天王」「十万八天宮」を祀っていたと言われます。修験者たちは役行者を始祖として祀りますが、物部の祈祷集団いざなぎ流は「丸し天王=摩利支天」を祖神して祀っていたようです。
 しかし、現在は聖護院門跡から公認された修験道国峰修行の道場で、大聖不動明王を本尊する修験道場(行場)となっているようです。
いざなぎ流6

  「いざなぎ流」とは、なんなのでしょうか。
 「いざなぎ」とは「いざなぎ祭文」に登場する「いざなぎ様(大神)」に由来するようです。その祭文には、日本に生まれ経文の修行を始めた占い上手の「天中姫宮(てんちゅうひめみや)」が登場します。彼女が人を救うための祈祷(呪術)を求めて天竺にわたり、「いざなぎ大神」から人形祈祷や弓祈祷などの祈祷法を習い日本に伝えた、ということが語られています。
これが「いざなぎ流御祈祷(ごきとう)」です。これは古い「民間信仰」史料として貴重とされ、国重要無形民俗文化財に指定されてます。宗教なのですが組織はありません。「太夫」がさまざまな知識を習得し、管理しています。世襲制ではなく、なりたいものが師匠に弟子入りをして伝授するという形式です。太夫は普段は、林業や農業に従事し、依頼があると出かけていきます。
いざなぎ流5
 太夫の役割は4つあり、
氏神や家の「神祭り」、
病気治しの「病人祈祷」、
弓を叩いて神憑りし託宣(占い)をする「祈祷」、
山の神や水神をなだめ、自然災害を防ぐ「鎮め」
です。
いざなぎ流3

その中の病人祈祷の「盛りかえの法」には、次のように記されています。(意訳)
一斗二升、一貫二百匁の供物をし、神木十二の幣、大木七ツ幣、小木九ツ幣で祭壇をしつらえる。そして盆の中央にオテン様のお米と称して米粒を少々盛る。
その周囲には十二ヶ月に擬えて米粒を十二盛りにする。
そして各々の上に一文銭を置く。
まず祈祷は病人の生死から判じる。
病気を克服できるものなれば、オテン様の米粒が一文銭の穴から立てるのである。
日天様に生死をうかがうのである。
いくら祈念しても生と出なければ祈祷はそれで終わる。
米粒が上向けば続いて「盛りかえ」の祈禧に移る。
十二ヶ月の米粒のいずれかが上向くまで祈祷は続く。
上向いた月によって何歳まで生きると判じる。
つまり病人の黒星を白星にかえる、いわば命をつなぐ法が「盛やかえの法」である。
もうひとつ紹介します。 いざなぎ流祈祷の基本である「米占い」です。
米粒を入れた盆を祈念しつつゆすり、
その米粒の描く形状によってどこの何神の崇りと判じる。
災厄の根元を判じるのである。
そこで災厄を、除くには湯祈祷、憑物などには火祈祷などと具体的な祈祷となる。
この米占いは元来巫女の職分であって、かつてはこれをなす老女が行っていた。
このように物部地方の祈祷は、米占いを基盤にいろいろな祈祷法があります。
いざなぎ流2

また、「湯立て」もします。これは「湯立て神楽」と呼ばれています。
湯立てをすることから考えて、西日本地域では湯立てをおこなう神楽が非常に多いので、そのような神楽の流れを汲んでいることがわかります。こうしたいわば導入的な神楽をした後に、「本神楽」に入ります。本神楽は、家で祀っている神々のための祭りで、「御崎様の神楽」や「天の神様の神楽」「ミコ神様の神楽」など、家によって多少違いがみられますが、次々におこなっていくわけです。このような神楽の舞台には、「白蓋」と呼ばれる、一種の天蓋がつるされ、神楽はその下でおこないます。
いざなぎ流4

ここで前回にお話しした、土佐の旧香北町や仁淀町に伝わる安徳天皇伝説を思い出してください。「湯の沸いた時に神を招く=湯立の信仰」がありました。そして、物部では、今でも湯立の卜占と清祓がいざなぎ流によって行われているのです。ここからは
香美郡物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町
へとつながるいざなぎ流の太夫たちの移動がうかがえることを、お話ししました。別の形で言うと
阿波祖谷 →  物部の高板山 → 土佐横倉山
の安徳帝潜幸伝説の残る山々は、いざなぎ流修験道の活動ルートであり、テリトリーであったのではないでしょうか。
高板山4

 物部川と仁淀川の上流の霊山を見ていると、いざなぎ流修験者の痕跡が浮かび上がってきたようです。

参考文献 参考文献 高木啓夫  土佐の山岳信仰 大山・石鎚と西国修験道所収

 

  
高峰神社
 かつては、山それ自体に神霊が坐し、その聖なる地を不入(いらず)といい、鬱蒼とした茂みが村々のあちこちにありました。明治元年の神仏分離令の際に、村々の神社を「取調報告」するようにとの通達が全国に出されます。しかし、神社と言っても山そのものを信仰していた村では、本殿も拝殿も御神体もありません。これに対して土佐藩は
神体無キ神社等ハ、向後鏡・幣ノ内ヲ以神体卜致シ可レ奉祭候事
鏡・幣を今後は身体とせよ通達しています。同時に、小さな祠や神社は集めて合祀するように指示しています。
例えば旧幡多郡敷地村五社神社は、
「五社大明神 無宮 右勧請年歴不相知 山を祭り来」
と神社明細帳にあります。また旧土佐郡土佐山村菖蒲の山祗神社は近辺の山神八社を合祀したもので、いずれも「古来以 神林祭之」のように山を神として祀っていたのです。
 このように、特定の神体も安置せず山そのものを拝んできた姿をみることができます。それは山に対する最も素朴な信仰の形でした。
黒尊渓谷6

山の神霊はいろいろな姿となって現れます。
旧幡多郡西土佐村黒尊山では、次のような「桃源郷」が物語られていました。
黒尊山の神は大蛇で霊験ありよく願を叶えていた。
元禄の頃という。農夫、一羽の山鳥を追って宮林に入り、なおも追いゆくと一つの楼門に至り、宮殿は金銀の壁、琥珀の欄干、陣口の簾、五色の玉の庭のいさごを敷きつめていた。
 黒尊神は農夫の常々黒尊山を崇拝するを労い饗応の善美を尽し、巻物一巻を授け、決して他言せざる由を告げる。里に帰ってその巻物の事を問われて、すべてを口外してしまう。とたちまち農夫乱心し躍り上りて
「我こそ黒尊の神なり、おのれ人に洩すな堅く申含めしを早くも人に語りしか」と大いに怒り掻き消すごとく行方知れずになったという。
黒尊渓谷2
白髪の老翁も山神の化身としてよく語られます。土佐郡本山町白髪山の神は
背長七尺有余 御眼ハ日月ノ如ク輝キ 御鼻ハ殆高ク 御顔色赤面ニテ 左ノ御手二鉾ヲ持 右ノ御手二三ツ。亦逆木ノ杖ヲ突キ 巌上孤立チ給フ 御容鉢実恐シキ尊像
であり、猟神的性格をみせます。
3黒尊渓谷
工石山は雨乞信仰の霊山のようです。
各地に工石山という名前が付いた山があります。例えば旧土佐郡土佐山村高川前工石山、同村中切中工石山、旧長岡郡本山町奥工石山ですが、これらの山には雨乞伝承があります。例えば前工石山では
「妙タイト申大岩有 之右岩ノ内二三尺四方斗雨露之不掛所有之、其所ヲ左ノ通相唱候由、妙タイヒジリ権現無宮神体無之」
と伝えられます。奥工石山も
雨乞霊験あり 汚すことあれば神怒にあう」と言います。
5黒尊渓谷
 土佐は「海の国」ですから、高山の巨岩が光り輝いて舟を導いた因縁を語る話が多く伝わります。また、神聖な山(カンナビ山)を拝んでいた遥拝所が祭地となった所も多くあります。先ほど述べた前工石山や中工石山も、もともとは奥工石山の遥拝所であったようです。土佐町の三宝山も本川村稲叢山の遙拝所だったと言います。しかし、時の流れとともにいつの間にか、本山の方の祭祀伝承は忘れられ、遥拝所があたかも昔からの祭地であったごとく思われるようになります。
 石鎚神社勧請地も土佐の各地にありますが、その多くはかつてあった高峰から麓へと下ろされています。鉄鎖だけが山頂で錆びたままになっているという姿が各地で見られます。
  それは近世になって山岳修行を忘れて、里に留まり加持祈祷に専念した修験者の姿にダブって見えてきます。

幡多郡100景1
 次に県西部に多い「地蔵を祀る霊山」を見てみましょう
  旧幡多郡十和村高森山にも地蔵が祀られていました。旧三月、七月二十四日を縁日として、大人相撲がありました。シメアゲと称して、土俵の注連縄を取り除く時に三人組合せの相撲が取られたようです。三人相撲は、起源は神相撲で、神に捧げられたものあったのでしょう。また神社からいただいた幣を田畑の地神に立てます。これを「鎮めの地蔵」とよんでいたようです。
幡多郡100景3
  佐川山は幡多郡大正町奥地にあり、この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵があります。
旧三月二十四日大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山したそうです。この見所は喧嘩だったそうです。土佐と伊予の人々が互いに口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作がいいといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てると作がいいされました。
  このような地蔵は西土佐村藤ノ川の堂ヶ森にもあり、幡多郡鎮めの地蔵として東は大正町杓子峠、西は佐川山、南は宿毛市篠山、北は高森山、中央は堂ヶ森という伝承もあります。また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
 これらの山々のさらに奥地の高岡郡祷原町雨包山、星ケ森にはエビス像があり、やはり作神信仰がみられます。祷原地方は、社家掛橋家を中心に橘家神道の盛んな地方ですので、地蔵信仰の作神的要素がエビス神と結合していたものと、研究者は考えているようです。
黒尊渓谷4
 地蔵由来はさらに発展・変化を見せるようになります。
佐川山ではいつの頃からか、山が荒れに荒れ、死者など不吉なことの続くと、毎月二十四日をモソビ・或いはタテビ(休日)と呼んで、山仕事一切を休みとするようになります。もしこの禁を犯せば、山の怪に遭うといわれ、この日は地蔵さんが獣を自由に遊ばす日だとされるようになります。毎月二十日の山ノ神祭りよりも地蔵の崇りを畏れ、この日は炭竃の火を見る時は、事業所(営林署)に勧請している地蔵に線香をあげ許しを乞うてからでないと竃に近寄らなかったと伝えられています。

五在所の峯
 旧高岡郡窪川町と幡多郡佐賀町の境に五在所の峰があります。
ここには修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。矢のあとがあることから「矢負の地蔵」とも呼ばれていました。この山はもともとは不入山で、小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は修験や両部の祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。
 昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
高峰神社2
 土佐にも豊作祈願の対象となる穀霊信仰の山々が多いようです
穂掛けの風習と稲作を司る神の伝承が豊富に伝わるのは旧土佐町芥川の三宝山高峰神社です。三宝山と名がつけば稲作信仰があると見てまず間違いないと研究者はいいます。
稲が稔ると祈願成就の供物として、引き抜いたままの稲穂を社殿に吊り掛ける「掛穂」の風習がこの神社には残っています。今では高知は、ビニールハウス全盛ですのでハウスの床土を持ってきて拝殿下に撒く人もいます。掛穂については次のような伝承が伝えられています。
 いつの頃か芥川主水なる者、猪猿多くて作を損なうので作小屋を山中に造り、夜夜に猪猿を追い払っていた。ある深更に小屋の棟から大きな足が下ってきた。主水これを弓矢で射んとしたところ、我は三宝山に仕える者であるが、この山の大神は作物豊熟守護し給う神であるから、もうここに来る必要はないと告げ、鐘、太鼓を響かせて山上に去って行った。
 主水は伏拝して直に帰宅し再び作小屋に来ることもなかった。さて秋の穫り入れ頃に来てみると猪猿の害少しもなく豊作であったので、その初穂を山頂の大檜に掛け献じた。これより年々大歳の夜に掛穂をする風が生じた。
高峰神社3
こうして
「御社ハ無之シテ大三輪神社ノ如ク 只御山一体ヲ社トシテ 各遥拝ヲシタリ 又大檜ヲ神体卜祭リタリトソ」
といわれ豊受神を祀りはじめたと記されます。
 この高峰神社は、旧本川村稲叢山を本宮としています。
 稲叢山については次のような話が伝えられます
夏は雨と霧に隠れて樹木茂りて闇く、冬は雪降りて常に白く、村人これを不入山とも呼ぶ。もし入る者あれば七日の精進が必要であった。当時、高峰神社は、稲叢山の遥拝所であったが、養老年間のことという二百歳まで生きた十郎、九郎、粟丸の三兄弟が稲叢山の神々を勧請したという。
 またある年大いに不作で三宝山に参り立願したところ、老人どこからともなく現れ、「粟一升を汲み切りにして蒔けよ、すれば秋には三石三斗三升穫れよう。その返礼には粟の神楽を致すべし、其の神楽の法は、清浄な所に竃を築き三升炊ぎの羽釜に三升三合三勺の粟をコシキに入れ 十二返洗って蒸し、湯のわき上る時に神々を招けば神等勇み給う」と告げて姿を消したという。
 ここから三升三合三勺を穫った時は、必ず粟神楽を奉納したと伝えます。この竃を築いた所が芥川の竃森といいます。 稲叢山の名称は稲に似た草の自生するためとされ、これが稲叢山の神々や山人の食料でした。
高峰神社4
さらに次のように続けます
 ある年に栗ノ木部落の住人太郎平なる者、これを刈取らんと鎌かけるや、たちまちに山は鳴動して暗闇となり、大いなる翁が現れて鎌を奪ったという。それより鎌取り山神と申して祀り栞ノ木に小社を建立したという。
 安芸郡下の藤右衛門なる者、ある年に半分ほど稲刈りをしたが平年の半分ほどしかない。加治子米の減量を願い出たが許されず稲穂と鎌を持って三宝山に詣でたところ、老翁現われその鎌を片手に叢中に消えて行った。家に帰ると刈り残した稲は重く垂れて満作になっていたという。それ故か、毎月三日の日の出時に鎌の手を休めば朝日のごとく栄え、三宝山に詣る者一生食物に不自由せずという。
 以上の伝承で注意したいのは、鎌が物語られていることです。これは恐らく鍋釜の釜からの付会伝承で、湯の沸いた時に神を招くのは、湯立の信仰に基づくものと研究者は考えているようです。
鉢が森2
旧香北町鉢ケ森は安徳帝伝説の地ですが、帝の兜の鉢を埋めた話が伝わります。
 山の主とよぶ妖怪変化を鎮めるために「兜の鉢」を埋め山祇命草野姫命を奉祀したというのです。ここには「兜の鉢」が祭祀具として語られています。
また安徳帝御陵参考地の横倉山に接する高岡郡仁淀村都にも帝の奉持されたという釜跡があります。これら釜や鉢は、湯立祈祷用の祭具であったと研究者は考えているようです。

鉢が森大権現1
これら伝承地の峰々へと続く香美郡物部村では、今でも湯立の卜占と清祓が行われているからです。そこには
香美郡物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町
へと四国山地の山々を湯立を伴った宗教者が移動していったことがうかがえます。それは恐らく物部地方のいざなぎ流と密接な関係ある一団だったのではないかと研究者は考えているようです。彼らが、これら山々の村人たちの山への信仰に大きな影響を与えたようです。阿波祖谷から土佐横倉山に至る安徳帝潜幸伝説の残る山々は、特定の宗教者達で結ばれた信仰の道だったのかもしれません。
黒尊渓谷8

参考文献 高木啓夫  土佐の山岳信仰 大山・石鎚と西国修験道所収 

 

                 
                    

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