瀬戸の島から

カテゴリ:まんのう町誌を歩く > まんのう町のソラの集落


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真鈴峠は、香川県から徳島県への山越えのみち。
峠近くの高尾家の屋敷内には、泉があります。
こんこんと水の湧き出る泉には、こんな話が語り伝えられています。

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真鈴峠への道
むかし、日照りが何日も何日も続きました。
山の奥、それも少々高所なので水には不自由していました。
とても暑い日に、お坊さまが来られました。
汗とほこりで、べとべとです。

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勝浦の四つ足峠
高尾家のおばあさんは、
「まあ、おつかれのご様子、一体みなさいませ」
と、声をかけ、お茶をさしあげました。
汗をふ拭きおえたお坊さまは、
「すまんことだが、水を一[祢いただけないものかな」
と、おばあさんに頼みます。
「このごろは日照り続きで、水も少ないのだけどお坊さまが飲むくらいの水はあるわな」
「そんなに水が、不自由なのかい」
「はい、峠の下まで汲みに行きます」

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真鈴の民家
お坊さまは、お水をおいしそうに飲んだあと、杖をついて屋敷のまわりを歩きます。
歩きながら、しきりに地面を突いているではありませんか。
何度も杖で地面を突くと、ふしぎなことに水がにじみ出てきます。
「おばあさん、ここ掘ってみい、水が出るぞ」
おばあさんは、水が湧いてくるという地面を、一升ますの大きさくらい手で掘ってみました。
すると、たちまち水はいっぱいになります。
おばあさん、こんどは一斗ますくらいの大きさに土を掘ります。
たちまち水は、いっぱいになってあふれ出ます。
近所の人たちを呼んできて、さらに大きく掘ってみました。
水は、ますますあふれるように流れ出るではありませんか。
「これは、枡水じゃ、増水じゃ」
と、人々はおおよろこびです。
おばあさんは、お坊さまにお礼を申さねばとあたりを探しましたが、お姿は見えません。
「ありがたいことじや、ふしぎなことだ」
おばあさんは、よろこびのあまり水に手を入れてみました。すると、
「ちろん、ちろん」
と、音がします。お坊さまが持っていた鈴のような音がして、水が湧き出てきます。
「ちろん、ちろん…」
と湧き出る水に人々は「真鈴の水」と名付けました。

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真鈴の民家
隣村から、少し水を分けてもらえないかと言ってきました。
おばあさんは、水のないのは不自由なことだと快く承知しました。
隣村といっても県境、阿波(徳島県)から水をもらいに来たのです。
    水を、にないに入れ一荷にして、県境を越えて帰って行きます。
お礼は、蕎麦一升。水と、蕎麦とを交換して、仲良く暮らした山の村でした。
真鈴の水は、今日も、ちろんちろんと湧き出ています。

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阿波から嫁入って来た女も、美合で生まれて美合へ嫁入った女も秋の取り入れがすむと必ずおはたの用意をした。お正月までには子ども達の晴れ着も織らなければならないし、年寄りの綿入れも用意しなければと気もそぞろ。
糸はガス糸や紡績糸を買ってきた。
内田の紺屋で染めてきた糸は、祖母ゆずりの縞わりのままに糸の計算をする。
木綿糸の縞のはしにはスジ糸(絹糸)を入れると、縞がきわ立って美しい。
布をのべる日は、風のない静かな日を選び、
四間の戸障子をあけひろげ座敷いっぱいに糸を伸ばして経糸の用意。
四尺ごとにスミをつける、四尺が七ひろあると一反分の布となる。
糸はチキリに巻いてカザリに通すが、カザリロは上手にあけなければならない。
チキリに巻いた糸は機にまきあげて巻く。
オサイレは糸を1すじずつ通してから固定させる。
アゼをつまむのがむつかしいと言うが、丁寧にやればこともない。
緯糸は、竹のクダに巻いておく。
マキフダとも呼ばれる
クダは、おなご竹を十巧打くらいに切り揃え、かわらで絞って水分をぬいておく。
このクダに、ただ糸を巻けばいいというのではないのだ。
ツムノケで糸をまくのだが上手に巻かないとホゼてくるし、巻きすぎると糸がくずれてしまう。

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明日は小学校1年生の長女に織らせてみるつもり
器用ものの長女は見ようみまねで上手に糸をあつかうので、きっといい織り手になることだろう。
夜、しまい風呂で長女といっしょに髪を洗う。
はたを織り始める日は別に決まった日はないが、髪の汚れをとり、ひとすじの乱れもかいように髪を結いあげた。

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やや小柄の長女は、機にあがったものの踏み板に足がとどかない。
冬でも素足で機は踏むものなので、長女の素足に木の枕を結びつける。
母さんもこうやっておはたにあがったの、機を踏みきっていると足はほこほこしてきたものだと、長女をさとす。
 布は、織りはじめがすぼまないように藁を1本人れたが嫁入った家では、織りけじめにシンシをはる。竹の両端に針がついているのが伸子なのだが、一寸ばかり織ってばシンシを少しずつずらして打ちかえる。
 トンカラトンカラ、根気のよい長女は上手に布を織りすすめる。
モメンは一日一反、ジギヌは一日四尺しかのびない。
オリコンは、ヒトハ夕で二反分の糸を機に巻き上げて二反続けて織っていた。
 織りしまいには、カザリの開ヘヒが入らなく々るまで織るのだが、ハタセが短かくなって手まりが出来なくなるのが心配で、早く織りじまいにしようとしても、なかなか織りじまいにはしてもらえかかった。

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 師走女に手をさすな という諺のとおり、夜の目もねずにに女は機を織り家族の衣管理を一手に引き受けていた。それでも月のもののときは機にあがらず、糸を巻いたり繰ったりわきの仕事をするのがならいだった。
  お正月がすんでからもハルハタを織った。
縁側などの明るいところで機を織っていると、家のすぐ前の街道が気にとってしようがない。
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阿波から讃岐へ峠を越えてやってくるデコまわし、とりたててにぎにぎしく来るわけでもないのだけど、気もそぞろに機の糸をさってしまう。
細い糸がうまくつなげないと泣き出しそうになる。
そうこうするうちに、デコまわしの一行は通り過ぎてけってしまった。
昼食になり、機をおりると隣の家の苗床でデコまわしが三番叟(さんばそう)を舞うというのだ。
もうお機も昼食も放ったらかして隣家まで、走って行った。
苗床や、苗代のまわり、田植えの早苗を束ねる藁などもご祈祷してもらうと、虫がつかず豊かな稔りが約束されていたのだ。こんなことより、年端のゆかない織り子さんにとって、デコ使いが珍らしくて仕方がなかった。
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 デコまわしが通り、傘売りさんも通った。
夏近くになると借耕牛の群れが、りんりんと鈴を鴫して峠道を降りていった。
雨の日も、風の日も、街道のざわめきを聞きながら女は機を織り続けた。
 戦後、衣生治の変化は急速におとずれ、女の管理下におかれていた機織りも忘れられようとしている。それでも老女は、お正月がくると必ずおはたに鏡餅を供えたとか、
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虫か食いはしめた機は、とうとう川へ流されることになった。
 機は、いわれのあるものだから焼いてはならない。
流れ川に流して七夕さまにお返しするのだという信仰を、
老女はがんとして守り通して、機は流されていった。
 そして、「女はテスキになってしもうて」と、テレビの前に座る老女山背で呟いた。

 北條令子 琴南町美合 民俗探訪日記より 
                                

たぬき5
旧琴南町美合は、阿讃山脈の山々に囲まれ、ソラの家々が残っている地域です。

そこには、里では消えてしまったものが、厳しい環境という「宝石箱」に入れられて今に伝えられている所でもあり、専門家に言わせると「民俗学の宝庫」だそうです。
今回は狸と山犬の話を紹介します。
 平成狸合戦のように阿讃の里山でも狸が竹やぶの中、岩のくぼみ、神社の森などで暮らし、人との交流を求めていたようです。
石鎚山今宮4
 
 夜、大きな石が山頂からころげ落ちる音がしたので、翌朝山へ行って見ると何ともない。これは狸の仕業であるという。また、砂ほり狸は自分の流した小便をかくすため、前かきに砂をぱらぱらとかけるのだという。
また、朝もまだ明けやらぬころから稲刈りの音がするので、出かけてみると、稲刈りのあとはない。これも狸の仕業で、見る者は呆気にとられるとかいう。

たぬき1
 狸の嫁入りの話は平野部にも多い。
夜もうす暗くなったころ、嫁入り提燈の行列が連なる。
ことに小雨模様の時にこうした光景がよく見られる。
狸の灯は青い灯に見え、葬列の灯のようであるとも伝えられ、とても明るく家の中では障子の骨まではっきり見えるという。
狸は自分の尻尾につばをつけて振ると、灯がついたように見える。
大きく振ると大きく、小さく振ると小さく見える。
たぬき2
狸は蕗の茎を食べると酔う。
ある男がこの酔った狸を見つけ、足元のおぼつかない狸を捕らえ、それを狸汁にしてしまった。そして仲間を呼んで、その汁を食べたところ、みんな腹の調子をそこねてしまった。
狸を捕らえた男は数日寝込んでしまったという。
いずれにしても酔ぱらいは相手に出来ない。
狸ならなおさらのことだと、自らを省みたという                     
たぬき7

 中熊谷に沿う道、大きな木のある所はタヌキ道だという。
そこを通るとシャリシャリと小豆を洗う音がいる。
だれかいるのか、とのぞくがだれもいない。すると向かい側の谷から叫ぶ声がする。
「おーい、クリの木でくびつりが舞いよるぞ」
「何、首つりとか!。」
 二、三人の男達は鎌をさげて栗の木の下まできたが、首つりなどはいない。
ただぽかんと本の上を見上げている、というしまつである。
たぬき3
 また、ある夜のことである。
今にも降り出しそうな雨気の多い夜、ちらちらと青い灯が見える。
一列に並んで歩いている。嫁入り行列の灯のようである。
すると、向かいの谷から叫ぶ声がある。
 「どこぞ嫁さんが来たのか」
 どこにも祝いごとはない。これも狸の仕業である。
 狸道のやぶの脇に道がある。
ある日のたそがれ時、一人の男が道を通って帰宅を急いでいた。
するとやぶが動く。よくのぞくと赤い髪をふりかざしたおんぼろしゃぐまの大きい奴が現れたので、悲鳴をあげて逃げた。こうしたことから、このやぶをシャグマヤブと呼ぶようになった。

山犬1

    山犬の道案内
 琴南の山村では葉たばこをよく栽培していた。
その収穫は多忙をきわめ、ネコグルマにいっぱい積んで運ぶ。
その仕事が夜半に及ぶこともある。
男は疲れた足どりで、とぼとぼと山道を山の神さんを祀ってある所までたどり着いた。ところがそのあたりから、仕事襦袢の裾をくわえるように山犬がついてくる。別にいたずらをするでもなくついてくる。橋にさしかかろうとすると、山犬は橋のたもとでとどまって見送る。男の家はもう近くに見ることが出来る。山犬は、じっと見送ってくれる。
 この山犬は白い犬でやせ細っている。これは山の神さんのお使い姫の山犬さんである。家にたどり着いた男は素足で土を三回すり、手を合わせてお礼をする。
山犬2

 山中で道に迷った時、こうした山犬さんに助けられ道案内されたという話は多い。
野生のオオカミがこのような話に出てくる時、異常にやさしい動物として登場する。
 あるおおつごもりの夜のことである。
普通山に入ってはならない時なのに、やむなく山へ入った男が、山犬に裾を咥えられて家まで送られたいう話もある。
こんな時にお札の仕方は、足をすって手をあわせるものだという。
山犬3

参考文献 琴南町誌 昭和61年琴南町

  ○ 川女郎の泣き声
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声をひそめるように語る老女は、
爺から聞いたがもうおそろしゅて、はばかりへもたてなかった。
と言いながら記憶をたぐりよせてくれる。
 土器川の上流、清い流れの音が聞えるあたりに住まいを持つ人々は、
四季おりおり川の流れを見て暮らした。
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川女郎が泣いて大声をあげるようになると、川が氾濫するという。
川岸の岩と岩との間へ、川女郎は子をもうけてある。
流れがおだやかな日はいいのだが、水があふれそうになると、
大事な赤ちゃんが流されてしまうと泣くのだという。
まるで、人間が哀しむような泣き声の川女郎はさばえ髪をして、
人にゆき逢うものならさばえ髪の頭でふりかえる。
にっこり笑ったつもりの川女郎の唇からは馬鍬のこのような歯が見えた。
ゆき逢った人は、悲鳴をあげて逃げてゆく。
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あんまりわるさはしなかりた池いう川女郎に、逢った人は意外と多い
「川女郎の赤ちゃんのお父さんは誰なの」
と老女に質問すると
「それは聞かんだわ、今度合ったらきいておくわな」
と老女はスマしている。
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トウダイツノの鹿は大川神社のお使い姫
この川をどんどんのぼっていくと山と山のはざまの谷に至る。
谷川に水を飲みに来る鹿が住んでいった。
狩りをする人のことをセッショウニンと呼んでいたが、
山漁の達人だったおじいさんが炭焼きに行って鹿の尾角を拾ったことがある。
二年叉、三年又の見事な鹿の角が落ちていたと言うのだ。
この鹿の角を拾ってかえり、笛を作る。
手造りの角を吹くと、雄がケンケン寄ってくるそうな。
ケンヶン寄ってくるの雉は雄の雉。
そうすると、落角の笛は雉の雌の鴫き声ということになるのか。
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美合の山では、鹿の夫婦が山々をかけめぐり、恋の季節をたのしむ雉も住んでいた。
しかし、「鹿は、やたらに射るものでない」と、戒められていた。
トウダイツノの鹿は大川神社のお使い姫だとも教えられていた。
 ある日のこと、大川山へ出かけて行った山伏が、灯台角の鹿と出逢った。
これはいい獲物とばかり、鹿を射殺してしまった。
ところが翌朝のこと、鹿を射殺した山伏は野田小屋の桜の木のまたに吊りあげられていたと言うのだ。山伏が吊るされたという桜の古木は枯れてしまったが、古株は残されている。
 そして、野田小屋にある社のご神体はみつまたの灯台角だと伝えられている。
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「相撲をとらんか」とこわっぱが誘う
 峠を越えると山の細道は、下り坂となる。
つんのめるように降りるきんま道は谷川の流れに沿って、ぐんぐんくだる。
谷川の水がより集まって落ちこむところが渕となり、水音が急に高くなる。
山の尾が寄りあい、谷川の水が流れ込む。
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 雨降りあげくの日も暮れかかるころ渕のほとりを通りかかると、
小さな子供が出てきて
  「相撲をとらんか」と、いう。
こわっぱが相撲をとらんか言うて生意気な、
一手で負かしてやろうと相手になるともうおしまい。
へとへとになるまで相撲をとらされる。
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相手になるなと古老に戒められているのに、あんまりこんまい子なので、
つい負かしてやろうと取りはじめて動けなくなった者が多い。
あれは、子供でなくてマモノなのだ。
変化のものなのだと、
雨降り後水かさの増した渕の側はおそろしくて通ることができない
北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より
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まんのう町の旧琴南町美合は、阿讃山脈の山々に囲まれ、ソラの家々が残っている地域です。そこには、里では消えてしまったものが、厳しい環境という「宝石箱」に入れられて今に伝えられている所でもあり、専門家に言わせると「民俗学の宝庫」だそうです。そこには、妖怪が住んでいたらしくいくつもの妖怪の話が伝わります。
その中からとっておきの妖怪を紹介します。
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炭焼き小屋を訪ねてくるオオブロシキ
深山の静けさの中にいると、急に燈台角の鹿が現れても不思議がないような木立の茂みだ
このあたり、炭焼き小屋の跡が転々と散在している。
この小屋を訪れる妖怪も多かった。
炭を焼くときには、夜通し山に籠もるので寝起きをする小屋を造る。
小屋の中で茶もわかすし、飯も炊く。
そして腹持ちのよい餅も焼いた
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餅を焼くと芳ばしい匂いが山の隅々へまでただよってゆくとみえ、
人り口に吊るしたむしろを持ちあげてにゅうと、爺が入ってきた。
囲炉裏のほとりで、だまって火にあたって帰ってゆく。
黙って火にあたっているうちはいいのだが、餅を一つおくれとばかり手を出す。

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餅を焼き始めると爺がやってくる。
そして、火にあたりながら金玉をひろげはじめた。
なんぼでも広げる。
こりゃ包まれたら大変と、
山小屋の主はその広げたもの中へ焚木のもえかぶをほうりこんだ。
「キャキャッ」と泣き声をたて、山の奥へ爺は逃げこんでいった。
オオブロシキという妖怪だそうで、
広げたものの中へ人間をつつみこんでしまうともいう。
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炭焼き小屋には、ショウペンノミもやってきた。
小屋の外へたんごを置き、その中へ用を足していたのだが、
その小便をきれいに飲むものがいた。
塩気を欲するオオカミさんだとも言っていたが、
あからさまにしないところがおもしろい。
しかし、オオカミさんがいかって鴫く夜は山小屋で震えあがったと話してくれた。

 小さな蜘蛛が人間を捕まえる話。
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 瀬戸の浜辺でとれた塩を峠を越えて阿波に運ぶ塩売さんから聞いた話
里から塩売りさんが渕のほこりの樹陰で一休み、
よほどつかれていたとみえ塩売りさんはうとうとうたたねをはじめた。
すると木の枝からするすると降りてきた蜘蛛が、男の足の親指へ糸をかけはじめた。
行ったり来たり、何度も往復してしっかり糸をからませる。
寝たふりをして見ていると蜘蛛はまだしきりに行ったり来たり、
男は親指の糸を木の伐株にひょいとかけなおした。
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もう十分に糸は掛け終えたものとみえ、
蜘蛛は底のしれない渕のあたりへ降りていった。
と、木の伐り蛛がものすごい音とともに渕の底へ引つぱりこまれた。
塩売りさんは、すっくりと立ちあがり軽々と荷をになって、
すたすたと去って行ったというはなし。
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その他、タオリバアとかタカンボさんとか山の妖怪には限りがありません。
祀られなくなった神の零落した姿が妖怪だといわれますが、よくは分かりません。
山の住人は、こんな妖怪たちにも恐ればかりでなく、
親しみを持って暮らしていたようすが伝わって来ます。
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参考文献
北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より

まんのう町美合に伝わるお堂のお話
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まんのう町の南部の旧琴南町美合は、阿讃山脈の山々に囲まれ、ソラの家々が残っている地域です。
そこには、里では消えてしまったものが、厳しい環境という「宝石箱」に入れられて今に伝えられている所でもあり、専門家に言わせると「民俗学の宝庫」だそうです。
そこに伝わるお堂の話を紹介します。

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阿波から峠を越えてきた旅人が、水にのまれてしまった。
近所の子供が谷川へ落ちそうになった。
しかし、いくら恐しくてもこの道を通らなければならないと、
村人が困りはてているところへ山からまくれ落ちてきたものがある。
ころころ山から落ちてきたのは、石のお地蔵さん。
ありゃ、これは大川のお地蔵さんではないか。
はよ、もとの場所へお返ししとかんと、と村人はもとのところへお返しした。
ところが、翌朝行ってみるとまた一夜のうちにころころまくれ落ちてきている。
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村の人々は、おだやかなお地蔵さまのお顔を見ながら話しあった。
「これは、ここがお好きなのじゃ」
じゃここへお祀りすることにしようと衆議は一決。
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裏のおじいさんは、栗の木を伐ってきた。桜の丸太も持ってきた。
檜の柱も、床を張る杉板も集まった。
藁を一束、繩も
 一往、
竹藪でぼんぼん竹を伐る人。屋根ふきの達者が竹の長さを指図する。
小麦藁で葺いた屋根の厚みが整然と美しい。
茶堂は東向き、二間四面の大和天井、三方開け放しの一方へ、
ころがり落ちてきたお地蔵さんを安置した。
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むかいの婆が縫ってきた赤い前かけが、まるでお地蔵さまの晴れ着のよう。
三方壁なしの茶堂の前で、
だれから山仕事に行く人も、田畑を打ちにゆく人も、たちどまって掌を合わす。
陽ざしがきつい峠道を越えてきた旅人が、一休みして汗を拭く。
谷川の流れで手足を洗い、昼寝をたのしむ人もいる。
あけびを山龍いっぱいつんで帰る悪童が、お地蔵さまの前ヘーつ供えた。
一つ供えたあけび敲をそのままに、水の澄んだ流れに入りこみ魚を追っかけはしめた。
お地蔵さまは、にこにこにこにあけび龍の番。
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手も足も泥だらけの童が板の間へあがりこんで、供物を盗んでも知らぬ顔。
童ばかりか、山から降りてきた小猿も山犬もお供えを無断でいただく。
今年も秋の取り入れが終わるとお地蔵さまの前で‘お接待がはじまる。
めぐってくる遍路の中にはお大師さまがいらしゃるかもしれないと毎年、お接待をかかしたことはがない。
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秋の取り入れがすむと、茶堂でお接待をすることになっていました。
茶堂が、もとのかたちのままで残されたきた背景には、素朴な信仰が根強く生き続けているからのようです。


北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より
                                

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島ケ峰のそば畑の展望所で絶景を満喫してさて、どうするか?
Google地図を見ていると、ここから山越えで直接に葛籠野に下りていく林道があるようです。この林道をたどることにしました
しかし、この林道は廃道寸前状態。原付バイクでないと通行は困難でした。
なんとか葛籠野の一番上の家まで下りてきました。
そこに広がる光景は、まさに異次元体験でした。
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葛籠野集落(まんのう町)
葛籠野集落は、海技六五〇㍍以上もある山上に開けた集落で、
周囲は800㍍を超す山に囲まれています。西にだけ開けていますが傾斜は険しく、外部からの侵入を拒むような地形です。集落の中央部に張り出すように小さな尾根が舌状に伸び、その先端が丘になっています。この集落のセントラルゾーンのような印象です。ここには古い大きな椿の木が繁っていて、その下に七つの五輪塔がありました。

伝説によると、源平合戦の戦いに敗れた平家の落武者七人が、この地に逃れて来て、住みついたと伝えられています。その墓が「七人卿の墓」と呼ばれ、この地を開拓した先祖の墓として、子孫の人々が守り伝えてきています。
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葛籠野集落(まんのう町)
 また他にも、東原嘉衛門という武士が落ちのびて来てこの地を開いたとも伝わります。その子孫の東原家は四代前まではこの地におり、その屋敷跡を「お東」と呼んでいます。
さらに、ある民家の裏に十数基の古い墓の一つに「六百年昔村先祖の墓 明治廿四年八月廿八日」と刻まれていて、立派な宝篋印塔(ほうきょいんとう)も残っています。 どちらにしても「落人伝説」が伝わるのが納得できるロケーションです。
 
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葛籠野集落(まんのう町)
葛籠野(つづらの)という地名は、四国山脈のソラの集落に数多くある地名です。
 由来としては「つづらかずらが生え茂っていた」ところから、つづら野と呼ぶようになったといいます。 

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葛籠(つづら)
葛籠(つづら)は、もともとは葛藤(ツヅラフジ)のつるで編んだ蓋つきの籠の一種です。植物のつるを編んで作る籠(=つづら)は縄文時代から作られ、正倉院にも所蔵されています。

アオツヅラフジ(青葛藤)」 ツヅラフジ科 - ひげ爺さんのお散歩日記-3
葛藤(ツヅラフジ)

 ところが平安時代になって、竹を加工する技術が確立されると、竹の方が幅を一定に揃えやすいので、衣装を保管箱として、竹で四角く作られるようになります。
 伊勢貞丈が江戸時代中期(1763年~1784年)に記した『貞丈雑記』には、葛籠に関する記述があり、素材がかつてはツヅラフジで作られていたのが竹に変っていっていると書かれています。そして、竹を使って編んだ四角い衣装箱を葛籠と呼ぶようになります。しかし、元々はツヅラフジのつるが丈夫で加工しやすいことから、つる状のものを編んで作る籠のことを葛籠と呼んでいたのです。材料が竹へ変化しても呼称だけは残り、葛籠という字が当てられ「つづら」と呼ばれるようになりました。
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 葛籠野集落(まんのう町)
 ここはツヅラフジが繁っていたのではなく、それを材料にして葛籠を制作する技能集団がいたのではないかと私には思えます。四国のソラの集落には、木地師や猿飼などの職能集団の名前の付いた集落が数多く残っています。
 
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葛寵野にもかつて大師堂がありました。

昔、一人の修験者が大きなツヅラを背負ってこの地にやってきました。
ツヅラの中は立派な仏像でした。修験者はこの地の草庵に住み着いて、付近の集落を托鉢する日日を送ります。そのうちこの仏像が霊験あらたかで、どんな病気もなおしてくれ、願いごともかなえてくれることが近隣に知れわたるようになります。そのため遠くの村々からも参拝者が相つぎ、葛龍野の急坂に列をなしたというのです。そこで参詣者には、風呂を沸かして接待して大変喜ばれたと地元では言い伝えられています。
 伝説かと思っていると、実際に使われた護摩札が残っています。
文化十一(一八一四)年のものと、文政三(1820)年の年号が入っています。山伏がツヅラに背負って持ってきた仏像もあり、江戸中期の作とされています。実際にあった話のようです。

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 しかし、旅僧は、いずこともなく去っていったといいます。
その堂は朽ち果てて跡地は水田になっていますが、里人たちは集落の入口に小さなお堂をたてて、大師堂と呼んできました。堂の中には、中央に石像の弘法大師像、右脇に木造の小さな大師像、左脇に木造の迦里尊者が安置されています。その横のすすけた護摩札には、次のように記されています。

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 文化十一年石鉄山別当
    梵字 奉修不動明王供家内安全祈
        六月吉日  前神寺上人
        剣山
    梵字 奉修剣大明王護摩供家内安全祈教             
        円福寺
この護摩札から山伏が石鎚・剣山を拠点とする修験者であったことが分かります。江戸時代に、箸蔵寺や剣山の修験者たちが阿讃の山を越えて讃岐側へも布教活動を展開していたことが窺えます。
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猪の肝を献上していた集落

江戸時代に高松藩の庄屋を務めた川東村の稲毛文書に、川東村から毎年十二月末に猪のきも一頭分を郷会所に送り、代金を受け取った領収書が数枚残っています。猪のきもは、鵜足郡の造田・中通・勝浦村からも毎年二頭分のきもを納めています。滋養強壮の漢方薬の一種として使用された貴著品だったのかもしれません。この時代、どのようにして猪を捕まえたのでしょうか。
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葛寵野集落の背後に、猪の「のだ場」というところがあるそうです。
ここは一面ゆるやかな草原で、浅い谷あいになっています。谷あいには水があるため、春先になると猪はここにやって来て水を飲み、草原の上でのだうちまわり毛の虫をとります。猟師はそこに目をつけ、このすぐそばに深い穴を掘り、その上に木の枝をわたし、シバを置いて落とし穴をつくって捕まえていたと伝えられています。こうして捕まえた猪の肝が高松藩に献上されていたのかもしれません。

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中熊集落へ

葛籠集落から国道に下りてきて、明神の谷川うどんで昼飯後のうどんを食べて一休み。食後に、この前から道が分岐する中熊へ原付バイクを走らせます。中熊は、ソラの集落としては開発にはもっとも条件がよい場所で、早くから開かれた集落だとされています。

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山熊神社参道(まんのう町中熊)
「中熊開発史」が書かれるとすれば、まず登場するのは①平家落人伝説でしょう。そして、次に「造田氏」が現れます。
 造田氏は、造田地区の中世武士集団で造田に居館・山城を持っていました。長宗我部の侵入の際に、落城し城主は「首切り峠」で自刃したと伝えられています。その一族がこの地に落ち延びて、この地の開発と進展に大きくかかわってきたと言われています。造田家は屋号を「土居」といい、中世に土居屋敷に住んでいた豪族であったことを伝えます。同家の墓地には家祖の「志摩助の墓」をはじめ、数十基の古い墓が立ち並んでいます。
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安産の神 山熊神社 
階段を登っていくと老木に覆われた社叢の中に山熊神社があります。
この神社はお産の神として古くから崇敬されてきました。妊婦がこの神社に詣で、社殿にある紐を目をつぶって引き、これを腰に巻き出産すると安産疑いなしと伝えられています。その紐が赤系統であれば女子、そうでなければ男子ともされています。出産後は二本の色紐を持ってお礼参りを行う習わしだそうです。

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        山熊神社(まんのう町中熊)
 境内には、玉砂利を敷き玉垣を巡らしている「ご廟」と呼ばれる所があります。
「昔、里人が朝早く通りかかると、赤い振袖を着た可愛い女の子が二人仲よく手鞠をついて遊んでいるのを見かけたところだということで、それはこの世のものとは思われないほど美しい姿であった。それからここを神聖な場所として玉垣をめぐらした」

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 この玉垣の中の石をいただき、お守りとして戦争に持って行くと、必ず無事に帰国することができたといいます。太平洋戦争に、この石を持って行った人は山熊神社の加護によって無事に帰還することができたと伝えられています。
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        山熊神社(まんのう町中熊)
さらに中熊集落の奥へと原付バイクを走らせていきます。


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ソラに一番近い民家の前には、手入れの行き届いた畑が広がり、高原野菜が青々と育っていました。
その道すがらに「観音堂」という道しるべを発見。
しかし、なかなかたどり着けません。
地元の人に聞くと、「民家の庭先を突き切って森の中を歩いたらあるわで」とのこと。その通り最後の民家の庭先を突き切り、森の小道を500㍍程進むと・・・
林の中に青い屋根のお堂が見えてきました。

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法然ゆかりの観音堂

 法然は建永元(1206)年12月、専修念仏禁止で土佐に流されることになります。しかし、保護者の九条兼実の配慮で、讃岐の九条家の荘園小松荘にあった生福寺に入ります。法然の讃岐滞留は八か月余りでした。七五歳の老齢であった法然は、生福寺を中心にして各地で念仏の教えを説いたと伝えられています。

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中熊の観音堂
 その法然の活動を伝える次のような話が、この地にも残っています。 
法然上人は大川権現に参詣した折に、中熊というところは仏道にゆかりの少ない辺境の地であることを聞き、遥かに山奥のこの地を訪ね、廃庵のようになった観音堂に身を寄せ、この地の人々を救うため一心に称名念仏による救いの法を説いた。この時、上人のお越しを「ガキマチ」に村人が集まってお待ちした。法然上人は、一刀三礼の阿弥陀如来の三尊仏を刻んで、観音堂に、後世のために残された。
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            中熊の観音堂
 天明二(1782)年には「法然上人弥陀堂餓鬼摂化御旧跡」という石碑が建立されています。この碑は、谷川うどんから中熊へ少し入った町道の脇に今はあります。
 観音堂の前には、大きな銀杏が枝を広げ先端から色づき始めていました。 
  この観音堂と観音仏については、中熊上の佐野家の弘化二(1845)年の記録には次のように、その由来が残されています。
     口上
一、中熊寺の前庵に奉納せる弥陀観音勢至三尊仏と申すは、法然上人御直作にて、大川宮別当十二房の内、房久保に御鎮座し、その後土洲長曽我部元親乱入の節、僧房焼き払われ候瑠り、住僧右三尊仏を負い奉り、当所へ引寵り、庵一宇を建立仕り納め奉り御座候処、
その後、仏生山法然寺を御建立の後、右三尊仏を仏生山へ御納めあらせられたき由にて、御役所へ指出し侯様仰せ聞かされ候え共、当免場の義は、山中草深き土地にて寺院へも遠路の義につき、老若男女仏法の便りを取り失い候様相成り侯につき、その段御嘆き申し出で侯ところ、御聞き届け下され、右三尊仏の内、阿弥陀如来一仏御召し上げ、観音勢至の二菩薩は仏法結縁のため御残し置き下させられ候由申し伝え、御尊慮の程有難く存じ奉り、今に免場の者共惺怠なく参詣仕り、誠に霊験あらだなる二尊像にて、只今まで、この土地に悪病など流行も仕まつらず、その余段々御利生少なからず、是まさしく二菩薩の御蔭と一同有難く拝上罷りあり侯。かつ又およそ三拾ケ年ばかり以前、仏生山御役僧の由両人罷り越し、右二菩薩法然寺へ相納めくれ侯様、左候えば当庵は法然寺末庵に取り立て、相応に庵地も寄附致し侯間、何様和談の上、所望致し度き由にて、いろいろ相談御座侯え共、先年一仏御召上げに相成り候義も、至極残多(残念)に存じ奉り居り申す儀につき、強いて断り申し述べ候義に御座侯。然る処、又々此の度右二菩薩御所望の由にて、達々御相談下され侯え共、前願の通り仏生山御開基の瑠り是迄御断り申し上げ御座侯義に付、何様此の度御引寄の義は、偏に御断り申し上げ度存じ奉り侯。左侯えば二菩薩御名染みの私共一同有難く存じ奉り、尚後代迄仏法の結縁と罷りなり侯義に御座候間、此の段よろしき様頼み上げ奉り侯。             以上
            阿野郡南川東村中熊
  弘化二年           観音堂惣講中
     十一月
参考史料 琴南町誌

まんのう町「ソラ」の集落を行く 浅木原・中野・島ゲ峰

沖野の川上神社から川沿いの旧道をたどって浅木原に登ってきました。しかし、県道が新しくなってからは旧道を通る人はいないようで倒木、流れ石などで道は荒れていて一苦労。原付バイクだからこそ通過可能です。 

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     浅木原は阿讃山脈の最高峰龍王山にもっと近い集落で、県境尾根の稜線上の電波塔が目の前に広がります。山を開き畑作をする場所としては日当たりも良く、水も得られるとすればいい場所だったのかもしれません。しかし、ここは人里からは本当に遠い場所です。

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 今は1,5車線の県道が川奥からここまで整備され、15分程度で登ってくることが出来ます。県道は行き止まりですが、閉じられた柵の向こうには広い広場が広がっています。何に使っているのか興味が湧きます。
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 百年前の大正時代には7軒の集落でしたが、今は誰も住んではいないようです。しかし、畑や家屋が手入れはされています。里に下りても、定期的にやって来ては管理をしているのでしょう。
 浅木原に山主社があると聞いていたので探してみました見つけることが出来ません。
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誰もいなくなった広場に、庚申塔がポツンと立っています。

青面金剛と三猿二鶏が彫られたものです。ここでも庚申講が行われ、庚申待ちの日には夜通し寝ないで、光明真言が唱えられていたのでしょう。盆の十五日には、この庚申塔前で踊りが催され、近在の人々三、四十人が集まって賑やかだったそうです。
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7軒の集落が、信仰という絆に結ばれて厳しい自然と向かい合いながら生活していたのでしょう。

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  紅葉には少し早い阿讃県境尾根付近です。帰りは県道を下りていきます。
途中に沖野の家々がぽつりぽつりと散在します。
道沿いに手入れされた茶畑が広がります。

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その中に見つけたのがこれ

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 明治5年の年号が入った庚申塔が茶畑の隅にひっそりと立っています。この塔は浅木原のものより新しいようですが同じように青面観音と三猿二鶏が彫られています。阿波の集落から伝わった庚申講が、ここでも行われていたのでしょう。

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 この集落や浅木原への道は戦前は幅1㍍程度の里道だけで、すべて荷物は肩に担いで運ばれていたといいます。明神方面へ出るには、大部分の人は中の谷へ下り、川奥の川沿いの道を下りました。株切や沖野の人々は、島ケ峯を通って葛龍野へ出て、それから林へ下りる道を通っていたようです。また東へ出るには、日開谷の上を通って、それから貝の股を通り塩江に出る道と、尾根伝いに雨島の上を通り、戸石に出て高松へ行く道が利用されていました。徳島へは寒風越、三頭越を往来したそうです。

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沖野から中野集落へ上がっていきます。

南斜面に畑が広がり、その一番上に民家が集まっています。
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その中で、畑の田舎にポツンと廃屋が・・。
しかし鐘が吊されているようです。行って見ます。
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土壁が落ちて、今は廃屋となっています。
帰ってから琴南町誌で調べてみると、こう書かれていました。 
この庵は、明治の中期に黒川勇吉(明治三十五年三月没)が説教場として建てたもので、黒川説教場とも呼ばれていた。敷地内には黒川勇吉の墓と、故黒川菊蔵が明治三十二(一八九九)年に建てた菩提塔がある。また、この庵には近くの畑二反余が寄進されており、近年まで庵守りの僧がいて、近在の人々の教化に当たり、信仰を集めていたが、今は無住となり、寂しく戸を閉ざしている。
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 ソラの集落には山伏や修験道者など宗教的な指導者であった人たちが定住することも多く、宗教的な情熱を強く持つ人がいたことが分かります。

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中野集落から株切集落まで上がってきました。

道路に「島が峰そば畑」を案内する看板が現れました。行って見ることにします。
深い林の中を林道は縫うように走り、高度を稼ぎますが展望はありません。

そして突然に視界が開けました。ここが島ケ峰のようです。

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ここはそば畑として管理され、南に広い視野が開ける展望台になっています。テーブルが置かれ簡易トイレや水場が整備されています。最高の景色を独り占めしながらの昼食タイムとなりました。
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この一帯は、江戸時代は川東村の入会の野山で、共同の柴草刈場だったようです。
明治になりこの地区の農家に分割され、下草を刈ったり炭焼をするのに利用されてきました。
 高度経済成長期に旧琴南町では、この一体の四三㌶を開墾し牧場を造成します。川奥の周辺農家は和牛を、ここで放牧飼育しました。昭和四十五年ごろには、一二〇頭余の牛が飼育されていたようです。しかし、牛肉自由化等により価格が低落。大打撃を受け、わずか2年後に牧場は閉鎖されます。
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残ったのは、牧場造成と同時に行われた各集落から牧場までの道約10㎞。
これが後の地域開発の足がかりとなります。それから10年後、牧野を再開発して大型機械を使ってのキャベツ生産団地として生まれ変わり、高冷地集団農場となります。そして、いまは蕎麦が栽培されています。ここは、牧場から高原キャベツ、そして蕎麦栽培と姿を変えてきた高原なのです。

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今回はここ島が峰のそば畑まで、続きは次回に・・・・

まんのう町のソラの集落を行く (川奥・沖野)編  

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   まずやって来たのは美霞洞渓谷の竜神社です。

エピア美霞洞温泉の手前のトンネル前の駐車場から清流沿いに整備された遊歩道を歩くと、行き当たりがここです。
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 拝殿の背後の雄渕・雌淵が雨乞の聖地で、清流が響きます。
「龍」と言えば空海の「善女竜王」で、ここでも雨乞祈祷が行われました。干魃の時には、この淵に船を浮かべて雨を祈る神事を行うと必ず雨が降ったと伝えられています。山の雨乞聖地が大川山とするなら、川の雨乞聖地だったということになります。
 身を清め、心を清めコリトリ修行と思うのですが、もう秋の気配で水は澄み切り冷気を感じます。思うだけで実行なし・・・

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次にやってきたのは、阿波街道の三頭越入口の太子堂です 。

 国道の北側の久保谷橋のたもとに、二間四方のトタン葺の大師堂があります。
祭壇の中央に阿弥陀如来を祀り、その右側に寄木造りの大師座像と左側に舎利仏像が祀ってあります。舎利仏像の厨子には
「安政七庚申二月吉日厨子一具 発起人 美馬郡猿坂長江善太」
と書かれています。安政の大獄のあった幕末のものです。

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 戦前まではこの太子堂に、金毘羅堂も隣接してありました。

正面に金毘羅さんを祀り側面右に舎利仏像、
左に善光寺石仏が安置されていました。
踏み込みの土間に沿って、広い縁があり板張りの座の中央のいろりには大きな茶釜がかけられていたそうです。
 阿波から険しい峠を下って来た人や、これから峠道を登ろうとする人々にとって格好の休み場でした。接待された茶を飲みながら旅の話に花を咲かせ、阿讃の情報交換を行なっていたのです。
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 しかし、鐡道建設や他の峠道整備もあって、三頭越えを越える人々は年々少なくなり金毘羅堂も荒れて老朽化がひどく、戦後には取り払われました。今は金毘羅社の小祠が往時の繁栄をしのばせるのみです。

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太子堂境内には三頭越えに続く道沿いに古い記念碑があります。

 ここから三頭越までの峠道を開くために、献身的に活躍した智典法師の業績を称えるものです。彼は街道建設と併せて道中安全を願って、久保谷から三頭神社までに西国三十三か寺の石仏を建てました。それが今も、この峠道を歩く人々を見守っています。ここは重要な交通の要衝で、阿波金毘羅街道の通行の安全にかけられた人々の思いと、峠道を行き来する旅人の様子をしのばせるものが一か所に集められています。
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太子堂の目の前を、土器川の支流が流れ、その上には三角(みかど)集落の家々が見えます。秋も少しずつ里に下りてきて、木々が色づき始めています。

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国道の下をくぐって川奥へ川沿いに登って行きます。
かつては川奥は三頭越街道の通る川奥中の久保谷が山間部の入口でした。しかし、明治になって学校が川奥上の明神川原に置かれてから、川奥地域の中心が川奥上に移動したようです。その川奥小学校跡に行ってみましょう。
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大きな杉が迎えてくれました。

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境内には、鳥居が小さく見える「杉王」が起立しています。
この神社の18世紀前半の棟札には「三種大明神」とあり、それが50年後の棟札では「杉王大明神」となっています。境内のこの大杉にあやかって、神社名を変更したようです。
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かつての小学校の運動場は今でもきれいに整備されています。
そして、その敷地には、かつての小学校の建物と思われるものがポツンと・・
川奥集会場を後にして・・川沿いをさらに上っていくと・・

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沖野集落の川上神社を目指します。
沖野集落の祖先の中には、もともと山田郡に住んでいましたが寛永12年(1635)に神内池が築造の際に立ち退きになり、この地に移った人もいた伝えられます。そして、川の源流に近い聖地に神社を創建し、川上大明神と呼ぶようになったと伝えられています。

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少し荒れた川沿いの道をたどると社殿が現れました。川沿いの深い森に囲まれ、日も届かない幽玄な雰囲気です。
 この神社にはかつて、寛永年間(1624~44)の棟札があったと伝えられていますが、今は残っていません。今ある棟札からは、本殿は天保9年(1838)頃、拝殿が明治21年(1888)に棟上げしたことが分かります。

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境内には、町指定自然記念物の「朴の木」の大木があり歴史を感じさせてくれます。そのホオノキの根元にはキノコが一杯出ていました。
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かわいらしい小ぶりな二の鳥居が迎えてくれます。
その向こうが拝殿。
ここまで迎えていただいたことに感謝し礼拝。
そして、この神社の私の一番見たかったのは・・・裏に回ると

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 この社殿は小規模ながら、他には見られないいくつかの特徴があります。

①拝殿の向拝の位置が、拝殿建物全体の中心線からずれていること。
②本殿には、珍しい腰紐が設けられ、三手先腰組で拳鼻が取り付けられていること。

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③丸桁の上に地垂木が使われず、厚板に雲文が彫られた板軒になっていること。
この板軒の工法は、全国的にも珍しく、香川県内では金刀比羅宮の旭社など、数例しか見られない工法です。
④前面両脇柱正面で、向拝の海老虻梁の下に立てられ、脇障子柱に高欄、登高欄が取り付いたユニークな配置構造なこと。

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以上から、川上神社本殿及び拝殿は、腰組、獅子鼻、龍の彫り物も見事であること、拝殿の軸線のずれ、本殿脇障子の立ち位置、板軒は、他に類を見ないなど特徴を持つ貴重な建物といえます。
いい仕事を明治の宮大工は残しています。
 
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 しばし、ぼけーとこれらの彫物を眺めていました。
いいものに出会わせていただいたことに感謝して、再度礼拝

 さて、次は浅木原へ向かう予定なのですが・
・・・・それはまた次回に

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八峰方面からの勝浦
まずは「琴南町誌 958P」で予習
「下福家は、土器川の源流勝浦川と真鈴川にはさまれた標高350~550mぐらいの阿讃山脈の緩斜面に開けた集落である。その東側を「東ら」と言い、西側は「西ら」と呼ばれる。突出した丘陵の中段に扇状に人家が散在している。「東ら」は家の近くに比較的広い水田が聞かれている。「西ら」は伝説では神櫛王の家臣の子孫である福家長者がこの地を開き、天安元(857)年、ここに社を建て神櫛王を祀ったという。後に、この神社を福家神社、その地を下福家と呼ぶようになった。福家長者の子孫については、不詳であるがこの福家神社を中心に集落は拓けた。」

さて、これだけの情報を頭に入れて、土器川源流に近い勝浦地区の下福家へ原付ツーリング開始
琴平方面から国道438号を南下し、まんのう町明神にある「谷川うどん」の上にある信号を右折し、県道108号線の「滝の奥」方面へに入る。
DSC00879現在の長楽寺
現在の長善寺
勝浦から下りてきた現在の長善寺の伽藍を右手に見ながら更に進み、勝浦集落への入口も越えて行く。

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しばらくすると「下福家バス亭」が見えてくる。ここから下福家集落に入っていく。
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旧長善寺跡
かつての長善寺の伽藍跡を左手に見上げながらさらに坂を登る。この寺は、阿波郡里の安楽寺のサテライト寺院として、丸亀平野への浄土真宗興正寺派の布教センターの役割を果たした寺院で、阿波と讃岐に多くの門徒を抱えた大寺院だったようだ。
DSC00796長善寺破れ本堂
取り壊される前の旧長善寺本堂
かつての茅葺きの本堂は、その面影を残していた。

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鐘楼には、大きな石がぶら下げられて重しとなって揺れていた。今は、更地となってそれもない。寺から更に道を詰めて、沢が滝のように落ちていくのを見ながら急勾配の細い坂道を登ると、深い木立の中に福家神社が鎮座する。
DSC00855勝浦福家神社鳥居
福家神社鳥居
拝殿には「福家神社のもうひとつの由来について」と題して、町史に書かれていない神社由来が貼り付けられていた。一部紹介すると
「前略 崇徳上皇が崩御されて帰る行き先が無くなったお供の公家達は、阿讃の山奥に住み生活の糧に木材を土器川に流して下流の地で商いをして富を得たので、村人達はその一団を福(富)の家長者と呼んでいた。その後も公家達は京都の縁者と連絡を取っていた模様で源平の戦いに敗れた安徳天皇を密かに招いた地は現琴南町の造田の横畑地区と思われる。(通称:平家の落人部落)
そこで公家達は相当の逃走資金を献上して阿波祖谷に逃げさせた。(以下略)」

 ここには、神櫛王に発し、崇徳上皇、安徳天皇に連なる誇り高き神社であることが、記されている。 満濃町誌には、下福家の人々がこの神社の宗教行事を通じて結束を保ってきたことを、次のように記している。 
下福家は、全戸で二九軒(東8軒、中6軒、下8軒、西7軒)であるが、福家神社を中心に生活してきたことが、福家神社の正月の行事をみると明らかである。正月の元日の宮まいりは、大晦日の十二時が過ぎると氏子の者は皆神社に参るが、どの家も「おごくさん」を炊いて、ヘギに盛って持って来て祀る。
DSC00853福家神社鳥居
福家神社参道 
一月七日に的射の行事があるが、各戸から持ち寄った紙を張り合わせ、五尺四方の的をつくる。もちろん、弓も矢も手造りである。まず宮司がお祀いをして三本射ると、続いて氏子の者全員が交替に二、三本の矢を射る。これが済むと、この的を境内中引きずり回して、めちゃくちゃにこわしてしまう。これで悪魔を射払い、一年の無病息災を祈念るのである。最後に、お神酒が出て、重箱の「おごくさん」をいただく。それは、「手のひら盆」といって、手の甲に受けていただくもので、古いしきたりがそのまま残っている。
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福家神社

  福家神社の横の道を登っていくと、家の周りに棚田が重なる風景が見えてくる。一番高い民家から勝浦・明神方向をながめる。幾重にも山々がひだのように重なる。
DSC00870長善寺遠景


下福家の人たちの深い信仰心と、それを紐帯とするつながりの深さを考える機会になりました。

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