瀬戸の島から

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 周防大島沖家室地下

周防大島の姿は、頭を西にして、尾っぽを東に振る金魚に例えられるようです。二つに分かれる下側のちぎれた尾っぽの先にくっついているのが沖家室島です。この島は、九州諸大名の参勤交代のときの寄港地で、海の荒れたときには御座船がここに船を着け、泊清寺を宿所にしたといいます。泊清寺は、海の本陣だったことになります。そして、幕末の頃には、千軒近い民家のある賑やかな浦だったようです。今回は、「宮本常一 私の日本地図 周防大島」に導かれて、沖家室を訪ねて見た報告です。
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沖家室大橋
島の南側の車道を走ってくると、島にかかる橋が見えてきました。
橋を渡った橋桁の下に、ドッグ跡のようなようなものがありました。
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説明版には次のように書かれています。
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御船倉跡
これを要約しておくと
①沖家室島は阿波からの一本釣り漁法をはやくから取り入れ、浦(漁港)として発展してきたこと。
②さらに九州の諸大名の参勤交替の御座船の寄港地ともなり、津(交易港)としても成長したこと
③そのために毛利藩は、沖家室島に船番所を設置して、公用船を常備させ行き交う船の管理監督を行ったこと
④18世紀のサツマイモの普及によって、幕末には人口が十倍に増え3000人近くになったこと
⑤そのため集落背後には、山の上までサツマイモ畑が開墾され「耕して天に至る」光景が見えたこと
こうして沖家室は、瀬戸内海屈指の漁村で、家室(かむろ)千軒といわれるようになります。
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沖家室の早舟
ここには早舟が常備され、火急の時には対岸の地家室や、本土の大畠まで海上を漕いで知らせたと書かれています。この港が毛利藩の重要拠点であったことが分かります。

それでは、中世の沖家室はどうだったのでしょうか?
戦国時代後半の16世紀終り頃には、ここは無人島でした。それが伊予河野氏の滅亡によって、その家臣(海賊衆)たちがこの島に「亡命」して来て住むようになります。本浦の泊清寺(はくせいじ)は、寛文三(1664)年頃の創建ですが、よく整理せられた過去帳がのこっていて、家々の系譜を正しくたどることができます。それは年代別だけでなく、家別のものも作られているからです。伊予からこの島に渡って来た古い家には、石崎・友沢・柳原などがあります。

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沖家室の本浦と洲崎 黄緑は段々畑の分布

地図を見ると島には、本浦と洲崎の二つの集落(地下)があります。文字の通り、本浦の方が早く開けます。上の地図を見ると、本浦の山裾がほぼ等間隔に海岸から山に向つて分けられ、段々畑が重っています。いまは、自然に帰って畠は見えませんが林の中には、段々畑の跡が残っています。近世初期には、この縦割の数と同じだけの人家があった、つまり、初期には移住者に均等に土地が配分されたと研究者は考えています。これは、以前にもお話ししましたが瀬戸の島々の初期開墾時には良くみられる光景です。その区画を数えると40少々なので、はじめは40戸足らずの人家によって開墾がはじまったと研究者は推測します。
沖家室本浦

それでは近世初期以前には、この島には人はいなかったのでしょうか?
伝承では、昔は海賊がいたと伝えられます。実際に、古い墓が本浦の家の上の畑の隅にあるようで、研究者は五輪搭のかけらをいくつも採集しています。この中には「国東塔の変形」のようなものもあると研究者は指摘します。さらに石質は凝灰岩で国東半島から来たもので、年代的に見れば江戸時代より古いものだと考えています。そうだとすれば、沖家室島は、中世には国東塔を残すほどの勢力を持った者がいたこと、そして国東半島と深い関係をもっていたことが推測できます。それがいつの頃かに、無人島になったようです。浮島とおなじように、厳島合戦のとき陶氏に属し、敗れて毛利氏によって島を追われたという説を研究者は考えています。そうだとすれば、それから50年ほど経って、江戸時代になって平和な時代になってから伊予からの河野氏や村上氏の海賊衆の末裔が住み着くようになったのかもしれません。
 無人島となっていたこの島に、まず畑作農業のために人々が住み着き本浦を開きます。その後、島の中で阿波の堂浦へいって、一本釣の漁法を習って来て一本釣をはじめる者が現れます。沖家室の南は千貝瀬・小水無瀬島・大水無瀬島などのよい漁場にめぐまれていて、漁浦として発展します。こうして、本浦の西に洲崎という漁民の浦が現れます。
 元禄11(1698)年になると、この島には鼠が異常発生して畑作物を食いあらし、島民が飢餓に襲われます。そこで庄屋の石崎勘左衛門は、紀州(和歌山県)からイワシ綱を招いてイワシをひいて飢をしのぐ方策を実行します。この計画はうまくあたります。こうしてこの島は「農業+漁業」のミックスした島として成長していくことになります。これに拍車をかけたのが、この島が九州諸大名の参勤交代のときの寄港地になったことです。海の荒れるときなど大名は、ここに船を着け、泊清寺を宿所にします。泊清寺は、「海の本陣」の役割を果たすようになります。

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沖家室島の案内図
本浦の泊清寺に行って見ることにします。
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泊清寺
港からの坂道を登るとすぐに見えて来ました。


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泊清寺の井戸
大きな石垣の上に境内はあります。その下にはしっかりとした井戸が見えます。瀬戸の港にとって、井戸は最重要なものでした。これを制する者が地域の有力者です。寄港する船もきれいな水を求めます。それを提供できる勢力が船乗りにとっては、第1の交渉相手となることは古代以来の定めです。この井戸を見るだけで、この寺の果たした役割がある程度はうかがえます。
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泊清寺山門
山門は竜宮城をイメージするような形で「海の寺」であることを主張しているように思えます。P1200920
泊清寺本堂
今の視点からすると周防大島の中でも辺境の地にあるお寺にしては立派と思ってしまいます。しかし、瀬戸内海が海のハイウエーであった時代は、人とモノの流通路にこの港はあり、多くの富も出入りしたようです。
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泊清寺
本堂横には「参勤交替本陣跡」の石柱が建てられていました。「海の本陣」としての格式を備えた寺院だったようです。この港が大名の御座船の潮待ちの際の寄港地だったことを裏付ける史料を見ておきます。
肥後熊本藩は「海の参勤交替」を行っていたことは以前にお話ししました。阿蘇を越えて大分から船で瀬戸内海を渡っていました。藩中老職の米田松洞が安永元(1772)年に、36日間かけての江戸へ出向いた旅日記を以前に見ました。彼の乗る船は、桜満開の旧暦3月8日(新暦4月上旬)に大分を出港して、そのまま北流する潮の流れに乗って、周防上関に入ります。そして、満潮で東流する潮に乗って、周防大島周辺を以下のように航海していきます
晴天九日暁 
前出帆和風静濤松平大膳大夫様(毛利氏)御領大津浦二着船暫ク掛ル 則浦へ上り遊覧ス。無程出帆加室ノ湊二着船潮合阿しく相成候よし二て暫ク滞船 此地も花盛面白し 夜二入亦出帆 暁頃ぬわへ着船
意訳変換しておくと
晴天九日暁 
出帆すると和風静濤の中を松平大膳大夫様(毛利家)の御領大津浦に着船して、しばらく停泊する。そこで浦へ上って辺りを遊覧した。しばらくして、出帆し潮待ちのために加室(沖家室)の湊に入る。潮が適うまで滞船したが、この地も花盛で美しい。夜になって出帆し、夜明けに頃にぬわ(怒和島)へ着船
瀬戸内海航路と伊予の島々

 上関を出航後、周防大島の南側コースをたどって、潮待ちのための寄港を繰り返しながら、伊予の忽那諸島の怒和島を経て御手洗に着きます。寄港地をたどると次のような航路になります。

上関 → 大津浦 → 加室(沖家室) → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗

この時は沖家室には、潮待ちのために入港し滞船しただけで、
上潮を待って夜中に出港しています。しかし、非常時には上陸し、その際には泊清寺が本陣として使用されたようです

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泊清寺のフカ地蔵堂
この本堂の隣に建っているのがフカ地蔵堂です。この地蔵さまは、いろいろの伝説があります。その一つを紹介すると

昔、下関に山形屋庄右衛門という商人いた。その娘と船で上方から戻って来る途中、沖家室の沖で船がとまって動かなくなった。よく見ると大きなフカが船底についている。これは船に乗っている者をほしがっているのではないかと人々はささやきあった。そこで誰をほしがっているのかそれぞれ手拭を海にうかベてみた。すると山形屋の娘の手拭が沈んでしまった。親子は大変おどろき、かなしんだ。船に乗っている人の一人が、「沖家室にはフカ地蔵といって霊験あらたかな地蔵様がある。その地蔵様に祈ってみてはどうか」と言った。そこで親子の者は 心になって祈り、「命を助けて下さるなら、孫子の代まで代々地蔵様を造って寄進します」といった。するとフカが船からはなれ、船は動き出した。そこで親子は、泊清寺のフカ地蔵にお礼参りして、下関へ帰ってからから石地蔵を送り届けた。そして代の変るごとに地蔵の寄進が続いたので、、いまは五体ならんでいる。最も新しいものは昭和14年5月とある。地蔵様は、真中のものが一番大きい。だんだん小さくなっているのは信仰心のうすれてきたのかもしれない。と島の人達は噂しているといいます。

ここからは庶民たちの信仰心を捉える流行神を作り出す「経営努力」を、この寺が続けていたことや、瀬戸内海の交易ルートの要衝にあって、広域的に多くの信者を抱えていたことがうかがえます。

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沖家室の漁師は、一本釣りでタイとハマチを釣るのが上手でした。
タイは沖家室の沖にもいましたが、漁期をすぎると、 隧灘の魚島へ釣りに出かけます。そこに鯛が集まり出すからです。中には讃岐の与島まで釣りにいく者もいました。塩飽では6月頃まで釣れるからです。それから宇和島沖へも行きます。戻って来ると盆です。盆から秋祭りまでの一月は島の付近で釣り、祭がすむと北九州へ下っていきます。
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本浦港
 博多組、唐津組、伊万里組などという組がありました。明治になると壱岐や対馬へも進出するようになります。さらに台湾組というのもできて、台湾の南端ガランピにまで進出し、分村を作っています。明治10年頃からはハワイにも渡って、ホノルルを中心にした漁場は沖家室人が開いたともいわれます。
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本浦港
 漁師たちは一人前の漁師になるために親方につきます。親方が、こ一人前と見れば漁船を造ってやって独り立ちさせます。とは云っても船代は親方からの借金です。米や薪も親方に借ります。そのため釣って来た魚は、全て親方に渡します。親方は盆と暮れに勘定して釣りあげた魚の価格から貸した金や米塩代を差引いたものを漁師に渡すという流儀です。これにはいかがわしい勘定もあったようで、「搾収」もあったようです。しかし、借金することのできることを誇りに思っていたくらいの風土ですから、漁民たちはあまり苦にせず、問題にもならなかったようです。

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沖家室島の本浦港へ帰ってくる漁船

旅することを苦にしない人たちなので、ハワイがよいとなると皆押しかけていきます。そしてホノルルで漁業に従った者もいましたが、甘藷畑で働き、そのままハワイにとどまった人達も多かったようです。それでもふるさととの心の縁はきれないで、ふるさとの寺や神社の修復工事の時には、ハワイヘ寄付を依頼すると、多額の金が送られて来たといいます。
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蛭子神社
今度は、港を見下ろす所に鎮座する蛭子神社に行ってみましょう。
この島も氏神様のすぐ近くに小学校が作られていたようです。子ども達は神社の境内も含めて遊び場にしていたことでしょう。

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本殿にお参りして、港を眺めます。ここから瀬戸内海はいうに及ばず、東シナ海や台湾方面にまで船乗りは出かけ、そこに定住したものも多かったようです。
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狛犬が本殿の柱にロープでつながれています。

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その礎石には、「高雄沖家室同郷会」と刻まれています。高雄とは、台湾の台北の外港です。戦前には、沖家室の同郷会があり、故郷の鎮守に立派な狛犬を寄進する力があったことが分かります。
   神社の玉垣にも海外在住者の名前が多いのに驚かされます。敗戦後の物不足の時も、ハワイからいろいろの物を送ってくるので物資には困らず、あり余ったほどだったという話が伝わっています。

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沖家室本浦の高札場

沖家室は、お寺や神社をめぐっていても、いろいろな発見がある所でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

私の日本地図 9 瀬戸内海 Ⅲ周防大島 宮本常一著作集別集(宮本常一 香月洋一郎 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本 の古本屋

参考文献「宮本常一 私の日本地図 周防大島」
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村上武吉の墓
前回は讃岐から松山まで原付ツーリングで行って、三津浜港から周防フェリーで伊保田港に渡り、村上武吉とその次男の墓参りをお伝えしました。その中で、武吉の晩年は失意に満ちたものであったことをお話ししました。
 関ヶ原の戦い後に、毛利氏は大幅減封されて存続することになります。毛利氏に仕えていた村上武吉も、それまでの石高から比べると1/20に大幅に減らされ、与えられて領地が周防大島東部の和田や伊保田でした。ここに、武吉に従って竹原からやってきた家臣団は、35家でした。このほかに屋代に11人いたので合計46人になります。石高千石に、家臣46家は多すぎます。このような中で武吉は家臣等に対して、次のような触書が出しています。

「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」

 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。こうして、長男以外の多くの若者たちが仕官先等を求めて、周防大島を去って行きます。
 その中に武吉の手足として働いた家老職的な島吉利( よしとし)の長男や次男たちもいました。
島吉利の経歴については、以前にお話しした通りです。吉利は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)7月8日に森村で亡くなっています。彼の顕彰碑が、伊保田港を見下ろす墓地にあると聞いていました。伊保田港附近で「島吉利の顕彰碑は、どこですか」と聞いても分かりませんでした。そこで「まるこの墓」は、どこですかと訪ねると、「郵便局の近くにある集団墓地」と教えてもらえました。それを手がかりにして探します。
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伊保田の油田郵便局周辺
こんな時に原付バイクは小回りが効くので便利です。行き過ぎれば、すぐにUターンできますし、停車もできます。老人のフィルドワークには最適です。
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まるこの墓(伊保田)
墓地が見えて来たので近づくと説明版がありました。
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一通り読んで登っていきます。
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墓域の中の最上級のエリアの中に、海を向いて立っていました。

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島吉利顕彰碑(正面)
正面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。これが島吉利の顕彰碑のようです。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱で、あまり大きいものではありません。P1200650
島吉利顕彰碑(右面)
造立年は、文化4(1804)年とあります。死後すぐに立てられたものではないようです。建立者は「周防 島信弘 豊後 島永胤」の名前があります。この石造物は墓として建てられたのではなく、死後約200年後に子孫の豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、文化4年に造立したものになるようです。顕彰碑の文章を採録し、意訳しておきます。
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  島吉利顕彰碑(左側)

君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍

意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。
村上島氏系図1
 村上島氏系図(碑文の人名番号は、系図番号に符合)
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           島吉利顕彰碑(裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈

意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
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 右側
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤
  意訳変換しておくと
偉大である。いわんや殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために島永胤が婦兄に諮り、一族の家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。

  200年間音信不通になっていた島家の子孫が再会した結果、この顕彰碑が建てられたということになります。

大島を出た島吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟の行方については、以前に述べました。それを簡略にまとめておきます。
①村上氏の同族である久留島(来島)康親(長親)が治める豊後森藩に180石で仕官。
②豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、藩の普請奉行として大坂で活動。
③島原の乱が起きると兵を率いて出陣し、その功で家老に任ぜられ400石を支給
④しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」、その後追放。
⑤時の当主は、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住み、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め
⑥それが認められ杵築松平氏から速見郡八坂手永の大庄屋役に任命
こうして、杵築藩の八坂本庄村に居宅を構えることになります。八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯です。勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。周防大島を出た島吉利の子ども達の子孫は、森藩仕官を経て、杵築藩の大庄屋となったことになります。
 大庄屋となった勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
勝任は、享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
 顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖の吉利顕彰のために建碑を思い立ちます。
 その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、慰霊碑建立に備えています。そうした上で文化三年に、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたようです。
   
この顕彰碑を建てた豊後の島永胤の墓にも、お参りに行こうと思います。
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徳山港に入港する周防フェリー
今度は、周防大島から徳山港までいって、竹田津行きの周防灘フェリーに乗ります。
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徳山湾を出て真っ直ぐ南に進むと、姫島と海に突き出た国東半島の山々が見えて来ました。

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2時間ほどの船旅でした。周防灘の広がりと姫島の航路上における重要性が印象にのこりました。

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六郷満山の山脈を越えて、杵築までの原付ツーリングです。
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やってきたのは大分県杵築市です。杵築城の直ぐ下を流れる八坂川を遡っていくと、干拓で開かれた穀倉地帯が広がります。
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千光寺
この穀倉地帯の治水灌漑整備に、島氏は大庄屋として尽くしたようです。稲刈りの進む水田の向こうに見えてくるのが千光寺です。

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千光寺山門
 八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっているようです。
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これだけの情報で、山門をくぐります。
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禅宗の寺院らしい趣のある庭が広がります。本堂にお参りして、背後の竹藪の中の墓域に入っていきます。

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墓石が建ち並ぶという感じではなく、各家毎に墓域が固まって散財しているという感じの配置です。そして、奥くまで続いています。これは見つけられるかなと不安になります。しかし、大庄屋であったなら最もいい位置にあるはずという予測で、本堂の真裏の墓を当たっていきます。
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すると出会えたのがこの墓です。
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           「嶋勝任妻」の墓
勝任は島家に養子に迎られ、娘伝と結婚しています。すると、これが伝の墓になります。
勝任は享保元年(1716)に、父の継いで大庄屋となって以後は、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。

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島氏の墓
「島」という名前が見えます。右面を見てみます。
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島永胤の墓
年号が「文政十(1827)年三月」とあります。周防大島に顕彰碑を建立したのが文化四(1804)年のことでした。それから約20年後に亡くなった島家の当主の墓です。これが島永胤の眠る墓のようです。 襲ってくるヤブ蚊と戦いながら周防大島の顕彰碑にお参りしてきたことを墓前で報告をしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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  村上武吉2
「村上武吉公永眠の地」碑
阿波と伊予のソラの集落を原付ツーリングしているうちに、自信をつけたおじさんは四国の外を、原付で徘徊することにしました。行き先は周防大島です。ここには、海賊大将の村上武吉が眠っています。また、その子孫の墓域もあるようです。さらに、武吉に仕えた有力家臣の島氏の墓もあります。この墓参りに行こうと思い立ちました。その記録を残しておきます。

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松山の三津浜港からの出港
  讃岐から周防大島に原付で行くために、松山の三津浜を目指します。ここから山口県の柳井に向けてフェリーが出ています。その中の何便かが周防大島東端の伊保田港に寄港します。事前に讃岐から原付で、あっちこっちを寄り道しながら7時間かけて、松山のホテルに入ります。
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忽那諸島を行く周防フェリー
 翌朝に三津浜9:40発の伊保田港寄港のフェリー「しらきさん」に乗船します。船は三津浜港を出ると忽那諸島(くつなしょとう)の南側の航路を西に進んでいきます。  70分の公開で伊保田港に到着です。
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上陸して見つけた「周防大島村上水軍史跡」と書かれた説明版を見ると、次のことが分かります。
①の元正寺に村上武吉の墓
②の岩正寺に村上一族の墓
③の伊保田に村上武吉の家老職だった島吉利の顕彰碑
武吉に敬意を示して、この順番で訪ねることにします。まず、めざすは内入にある①元正寺です。
村上武吉公永眠の地へ | 日々の出来事

内入の旧道を走っていると「村上武吉公記念碑」という看板を見つけました。これに導かれて入っていきます。
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        元正寺(周防大島の内入)
内入の海と集落を見下ろす岡の上に元正寺はありました。ここに導いて下さったことに感謝して参拝。
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村上武吉の墓
本堂のすぐ横に、白壁に囲まれた墓があります。お参りを済ませて、説明版をのぞき込みます。
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ここからは次のようなことが分かります。
①塔身156㎝の安山岩製の宝篋印塔であること
②銘文が正面の左右輪郭にあり、慶長9(1604)年の年号が彫られていること
③武吉の墓石の後(塀の外側)に「室(三番目の妻)」の墓があること
④室の墓も、塔身113㎝の安山岩製の宝篋印塔であること
⑤ふたつの宝篋印塔は、年号が記されたものでは大島ではもっとも古い墓であること
墓参りしながら思ったのは、墓が五輪塔ではなく宝篋印塔であること、凝灰岩製でなく安山岩製であることです。
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慶長九年の年号が読み取れる(左側銘文)
以前にお話しした同時代に造られた弥谷寺の生駒家や山崎家の墓石は、凝灰岩製(天霧石)の五輪塔でした。宝篋印塔は多くの如来が集まっているという考えなどから、お墓として先祖供養を行うだけでなく、子孫を災害から守り、繁栄へと導くという考え方もあるようです。そんな願いが込められたのかもしれません。

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村上武吉の宝篋印塔(安山岩)
 以前に見た写真には、お墓の周りの土壁がむき出しになっていました。それが白壁になっています。近年修復されたようです。
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白壁には、こんなプレートが埋め込まれていました。大島に村上氏の子孫の方がいらっしゃるようです。
村上武吉石像・村上水軍博物館|村上武吉 写真画像ライブラリー
村上武吉像(村上水軍博物館)

晩年の村上武吉の置かれた状況を見ておきましょう。
村上武吉は芸予諸島の能島を本城とした能島村上氏の当主で、海賊大将として有名でした。しかし、天下人となった秀吉に睨まれ、海賊禁止令以後は不遇の時を過ごします。小早川隆景の家臣となって筑前に移って、秀吉没後は竹原にもどってきます。隆景没後は毛利家臣となり、関ヶ原合戦のときには嫡男元吉が伊予へ攻め入ったが討死。こうして村上家は、元吉の子元武が継ぎ、武吉が後見を務めます。
 関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島東部の1500石への大幅減となります。しかもこの内の500石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際には千石以下に減らされてしまいます。
 村上氏の領地となったのが周防大島東部の和田村や伊保田村です。そこへ武吉は、残った家臣団を引き連れてやってきます。地元の人達は「海賊がやってくる」と怖れたと云います。その後、村上氏の求める負担の大きさに耐えきれなくなった住民等は次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったとも云います。 
 村上武吉と子の景親らが大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で武吉は家臣等に対して、次のような触書を出しています。
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」

  兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。こうして、多くの者が武吉のもとを去って行きます。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。
 こうした中で武吉は、和田に最後の住み家を構えます。
そして関ヶ原の戦いの4年後の1604年8月、海が見える館で永眠します。彼が故郷能島に帰ることはありませんでした。武吉の墓は、次男景親が建立しています。

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武吉の妻の墓

武吉の墓の後には、妻の墓があります。これは武吉にとっては三人目の妻になります。 武吉の最初の妻は、村上一族・来島通康(来島右衛門大夫通康)の娘・ムメで、早くに亡くなったようで、能島・高龍寺に墓があります。後妻は、同じ来島通康の次女・ハナとされ、長男・村上元吉と、次男・村上景親の母のようです。3番目の妻が、武吉を看取って、その2年後に亡くなったことになります。彼女については、朝鮮攻めの武功で与えられた朝鮮の娘という説もあります。しかし、これは次男の朝鮮の両班出身の側室と混同しているように思えます。ここでは周防大島の女としておきます。

村上景親
 関ヶ原の戦い後に、減封された毛利藩が武吉に与えた領地は、周防大島東部の和田や油宇・伊保田でした。
ここに、竹原から武吉の家臣団がやってきました。領地があたえられた陪臣の数は35人でした。このほかに屋代に11人いたので合計46人になります。その陪臣を見ると、苗字のない者を除いては伊予越智郡からの家臣が多いようです。岩本・石崎・小日・島・浅海・俊成・小島などの姓を持つ者です。新たな支配者が伊予からやって来たこと、地理的にも中国地より四国に近いこと、などもあって、出稼ぎ・通婚・通学・通商なども伊予松山とのかかわりあいの方が強かったようです。近代になっても伊予絣などを、和田や伊保田の農家ではたくさん織っていて、それが松山に送られて伊予絣の商標で売り出されていたと云います。
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村上武吉の墓から見える内入集落と海

武吉の墓の前に広がる海を見ながらボケーと考えます。どうして武吉は、家臣団から離れてここに居を構えたのだろうか? 一族の墓がここにないのは、どうしてなのだろうか? どちらにしても晩年の不遇さが感じられる所です。勝者と敗者のコントラストも浮かび上がります。
村上景親石像・村上水軍博物館|村上武吉 写真画像ライブラリー
 村上景親(武吉の次男)

      次に目指すのが 武吉の次男の村上景親一族の墓域です。
景親については「小説村上海賊の娘」のお兄ちゃんと云った方が今では通りがよくなったようです。その墓があるのが和田集落です。
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和田の正岩寺

和田の正岩寺にやってきました。この寺も集落背後の岡の上にありました。本堂にお参りします。しかし、村上家の墓所は、この境内にはありません。
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村上景親の墓域入口
境内の南に池に沿って南へ続く道路を進み、丘の反対側へ回り込もうとするところにお地蔵様がいらっしゃいます。ここから階段を上ると墓所がありました。

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村上景親一族の墓所
 まず、戸惑ったのがいくつもの墓が散在していることです。どれが村上景親のものか最初は分かりませんでした。

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一番新しいのは、1979年に造立されたこの墓です。その後に、一番大きい宝篋印塔が2つ並びます。
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これを見ると「法経塔」とあるので、墓ではないようです。このような場合は、一番奥に初代の墓があることが多いようです。そのセオリーに基づいて、一番上の墓を見てみます。

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この真ん中が村上景親の墓のようです。
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村上景親の墓
父の武吉の墓も宝篋印塔でしたが、それよりも少し小さい感じがします。その後の墓は五輪塔になっています。ここで、私が見ておきたいと思っていたのがもうひとつの墓が、景親の朝鮮出身の妻の墓です。
村上景親は文禄の役に兄・元吉と共に吉川広家に従って朝鮮に渡っています。
そして、茂渓の戦いで、景親は攻め寄せる孫仁甲の軍を負傷しながらも撃退し、数百人を討ち取り、勇名を馳せます。景親の活躍を知った細川忠興や池田輝政は、家臣に誘いますが、景親は元就以来の毛利氏の忠誠を理由に辞退しています。

村上景親の妻の墓
景親の朝鮮出身の妻の墓
  景親は文禄・慶長の役で捕虜にした朝鮮貴族(両班)の娘を側室とします。それがこの墓とされるようです。確かに、くるりと巻いた髪のような頭部が載っていて、余り見かけない墓です。捕虜として異国の地で果てた女性に合掌。

 ここにお参りして分かったのは、ここは村上景親を祖とする分家一族の墓域であることです。武吉の本家の家筋は、他にありました。その墓域も他にあるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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村上水軍

村上水軍は村上武吉の時に最大勢力を持つようになります。
しかし、秀吉に睨まれ瀬戸内海から追放され、さらに関ヶ原の戦いで毛利方が敗れることで村上水軍の「大離散」が始まります。その後の「海の武士(海賊衆)」のたどった道に興味があります。今回は、武吉の「家老的な存在」として仕えた島氏を追ってみたいと思います 

 能島村上氏の実態を知る一つの道は、家臣団について知ることです。しかし、村上家臣団は近世初頭に事実上解体してしまいました。そのため史料に乏しく家臣団研究は余り進んでこなかったようです。そんな中で、村上島氏は、根本史料『島家遺事』を残しています。これにもとづいて島氏を見ていくことにしましょう。テキストは  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年」です。
村上武吉

関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
村上氏の主家毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島1500石への大幅減となります。しかもこの内5百石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際にはかつての知行の1/20、千石以下に減らされてしまいます。村上氏の領地となった大島の和田村や伊保田村では、負担の大きさに耐えきれなくなった住民等が次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったと云います。経済的に立ち行かなくなった村上氏の親類被官等は、逃亡したり、他家へ仕官するなど殆ど離散してしまったようです。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。 
 村上武吉と子の景親まで大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で村上家からは家臣等に対して、次のような触書が出されています
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」
 
 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。
村上水軍の頭、武吉はどうして村上家のお墓が集まっている屋代に葬られなかったのだろう? | 周防大島での移住生活
周防大島の村上武吉の墓 

村上氏の老臣・島氏も選択が迫られることになります。
島家では一族談合の上で、若い三男助右衛門が村上家を継いで大島に残ることにします。そして、長男又兵衛(吉知)と二男善兵衛(吉氏)が大島を退去することになります。こうして二人は、主君村上武吉に暇乞いもせず、和佐から直接島を立ち去っています。このため父の越前守吉利は非常に立腹し、一生二人を義絶したと伝えられます。

村上水軍 今治水軍博物館2

島氏の全盛時代を創り出したのは越前守
吉利(23)です。
最初に吉利について振り返っておきます。吉利は村上中務少輔吉放(22)と来島氏の一族村上丹後守吉房女との間に生まれます。母方の祖父吉房の室は祖父吉久の妹ですから、父母は従兄弟同士になります。ここでは、島吉利が能島村上氏の一族であることを押さえておきます。はじめ吉利は河野氏の家臣であると同時に、村上武吉にも仕えています。海の上の主従関係は西欧の封建制に似ているようです。朱子学の説く「二君に仕えず」とは、ちがう道のようです。村上武吉に主君を一本化するにあたって、吉利は姓を村上から島に改めたと伝えられます。主君との混同を避けたのでしょう。

村上水軍 今治水軍博物館4

 以後、武吉の重臣として、主な戦いに従軍するようになります。
天文24年(1555年)の厳島の戦いでも軍功があったようです。永禄10年(1567年)には毛利・小早川氏の意を受けて、能島村上氏は阿波国の香西氏の拠点であった備前国・児島本太城を攻めます。この時に、吉利も敵将・香西又五郎を討つなどして、これを攻略し在番として詰めます。ところが翌年に、畿内の三好氏の後援を受けた讃岐・香西氏の軍が海を越えて反撃してくると苦境に立たされます。その打開策として、豊後国の大友氏家臣の田原親賢と懇意であった吉利が大友氏へ和睦仲介要請の使者として出向きます。そして、香西氏との和睦を成立させます。

村上水軍5

 阿波衆の攻撃を撃退した吉利に村上武吉や小早川隆景から感状を与えられています。(島文書五、八号)。そして、2年後の同十三年には、武吉から元太城付近に田一町五反分を支給され、本太城主に任命されます。しかしその後、能島村上氏は大友氏との関係を深め反毛利の姿勢を示すようになり、そのため毛利家臣・小早川隆景によって侵攻を受け本太城は落城します。

村上水軍 テリトリー図
村上武吉時代の瀬戸内海沿岸の情勢
 以上から、吉利が武吉の家老として毛利氏・小早川氏と書簡のやりとりするとともに、豊後大友氏との間も往来して外交活動を行っていたことがうかがえます。(島文書十九・二十号)。海の武士(海賊衆)の広域的な活動と、吉利の外交的な手腕がうかがえます。

大友氏への接近策の背景は?
 元亀・天正中頃になると、大友氏の宿老田原親賢の一字を得て名も一時賢久と変えています。また、天正年間初期には、大友義統に八朔の祝儀を贈っていて、この時期には武吉の意を受けて大伴氏への接近を図っていたようです。
 この時期は村上武吉が永禄十二年の大友内通事件を責められて、小早川隆景や来島通総から包囲攻撃を受けていた頃でした。能島の村上武吉は天正四年(1576)には毛利方に復帰しますが、依然として大友氏との関係を維持します。その仲介を担ったのが島氏です。例えば年未詳十一月、大友義鎮は島中務少輔(吉利)に宛てた書状からは、吉利が武吉の使者として豊後に赴き、長期間在国していたことが分かります。この他にも、また島吉利は大友家臣・田原親賢との間で多くの文書をやりとりを残しています。

村上水軍 島家の小海城
村上島氏の居城とされる大三島の小海城址

 海の武士(海賊大将)として生きていくという武吉の生き様は、海を自由に支配する「村上海洋帝国」の建設を目指したものだと私は考えています。その芸予諸島に進出する勢力を叩くために、自らをニュートラルな立場においておくことが外交戦略であったようです。そのためには、一人の主君に一生忠義を尽くすなどという朱子学的な関係は考えもしなかったでしょう。そのような武吉の立場を理解しながら、彼を使ったのが小早川隆景です。武吉は小早川にあるときには牙をむきながらも、隆景にうまく飼い慣らされていったのかもしれません。

村上水軍 水軍の舟
 小早川方に復帰した村上水軍は、天正四年(1576)の石山本願寺兵糧入れを命じられますが、これにも島吉利は従軍しています。さらには、朝鮮出兵には村上元吉に従って文禄の役に出陣しています。まさに武吉を支えた家老にふさわしい働きぶりです。その後は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)七月八日に森村で亡くなっています。法名天祐院順信尚賢居土(島系図)。
村上水軍島越前守(吉利)の顕彰碑
島吉利の顕彰碑 

島越前守吉利の顕彰碑は、周防大島の伊保田港を見下ろす小さな墓地にあります。
 墓地の中に土地の人々から「まるこの墓」と呼ばれる石碑が遠く伊予を望んで立っています。これが能島村上氏の重臣であった島越前守吉利の顕彰碑です。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱の前面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。残る三面には各面に8行ずつ島氏の由緒と越前守の事績とが466字で刻まれています。これは死後すぐに立てられたものではないようです。
 石碑は豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、幾人かの人々の協力を得て、文化十(1813)年に建立したものです。死後約2百年後のことです。
村上島氏系図1

系図を見ながら島越前守碑銘文の前文を見ておきましょう。
本文中の人名番号は、系図番号に符合します。
(正面) 越前守島君碑

左側
君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍
意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。

   (裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈
意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
  (右側)
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤

  意訳変換しておくと
(右側)
偉大である。況や殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために永胤が婦兄に諮り、誌家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。
内容は後で検討するとして、先にこの越前守吉利の顕彰碑建立の経緯を押さえておきます。

村上水軍 島家
吉利の顕彰碑が建つ周防大島の伊保田

 吉利が亡くなってから約2百年後の文化三年(1806)の春、豊後の島永胤は周防大島の島信弘を訪ねます。そして、越前守吉利が自分たちの共通の先祖であると名乗りをあげ、共に一族の事績を調べ、家譜を確認し、顕彰碑を建てることの同意をとりつけます。その後、豊後に帰国後に義兄脇儀一郎長之(蘭室)に銘文を依頼します。その案文は翌年2月には、永胤の手元に届けられたようです。そこで本文を、豊後杵築藩の三浦主齢黄鶴に依頼して書いてもらいます。正面の題字には大坂の儒者篠崎長兵衛応道の隷字を得ることができました。

村上水軍 早舟

 しかし、豊後と周防との連絡がなかなか進まずに二、三年が過ぎ去ります。永胤が芸讃への船旅のついでに、先の案文と清書助力金とを大島の信弘のもとに届けることができたのは、ようやく文化七年の夏になってのことでした。永胤は、石碑は永く後世に伝えるものなので、大坂でしっかりとした石材を選んで造ることを望みます。
 これに対して信弘は大島白ケ浜に石工いて、どんな細工もできる。また石材も望むものが当地で調達できるというので、全てを任せます。しかし、工事は大巾に遅れ、越前碑が建ったのは文化十(1813)年のことになりました。発起から完成まで7年近くの年月が経っていました。こうして伊予の芸予諸島に向かって建てられたのがこの顕彰碑になるようです。

村上水軍 軍旗

 同時に、豊後の島永胤は一族の家に残された文書を写し取り、文書を保管します。これが森家文書として伝わる島氏の史料になります。同時に、それらの史料にもとづいて「島家遺事」を著します。島永胤は顕彰碑を建てただけではなく、島一族の文書も収拾保管し、報告書も出したことになります。これは能島村上氏の家臣団の史料としては貴重な資料です。

  さきほどの碑文内容を「島家遺事」でフォローしながら見ていきます
島系図は島越前守吉利(23)を、清和源氏の村上義弘(17)の末裔と記します。義弘(17)についてはいろいろな所伝があるようでうが、詳しいことは分からない人物です。しかし、義弘が南北朝動乱期に南朝方にあり、建武期から正平年間にかけて活躍した瀬戸内の海賊大将の一人であったことは認められるようです。特に貞治四年(1365)から応安二年(1369)までの4年間のことについては、義弘の姉婿今岡陽向軒(四郎通任)の手記によってうかがうことができます。

村上水軍の武具

 義弘の死後、その名跡をめぐって今岡通任と村上師清が争います。天授三年(1377)因島の釣島・箱崎浦の戦いで、村上師清が通任を破り、村上水軍の後継者に成ったとします。島系図には、義弘(17)には信清(18)という男子が記されています。しかし、信清は幼かったため、義弘亡き後の混乱を収めることができず、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだと記します。島氏がのち「島」を名字としたのはこのためだともいわれます。師清は信清を猶子として、よく養育します。信清は長じて左近将監と称して河野氏に仕え、水軍の大将となったと云います。
その後、吉信―吉兼―吉久―吉放と続き、吉利に続きます。
信清については、「三島伝記」に名前が出てくる程度で疑問も多く、実在性も疑われると研究者は考えているようです。しかし、吉信については文明二年(1470)9月17日付、村上官熊(吉信)宛河野教通の知行宛行状(島文書一号)に名前が出てくるので、その実在を確かめることができます。
 系図には、信清には東豊後守吉勝という子があり、その子右近太夫吉重の女が吉利の室となったと云いますが、これは時代的にも疑問があると研究者は考えているようです。
 近世初頭成立の「能島家家頼分限帳」には、親類被官の筆頭に東右近助の名が見え、百石を得ています。また「村上天皇井能嶋根元家筋」には、東氏は能島村上氏の一族で、能島東の丸に住んだため東氏と名乗ったとあります。これはおそらく島氏の系譜に、能島村上氏の系譜を「混入」させたものと研究者は考えているようです。どちらにしても、村上家の系図は村上義弘に「接がれて」いるようです。このあたりの系譜は信じることが出来ません。

村上水軍 島越前守系図3

 吉利の4人の子ども達の行く末を見ていくことにします。
それはある意味、村上水軍解体後の大離散の行く末を追うことにつながります。まずは、周防大島の島氏から見ていきます。
先ほど見たように、周防大島の本家を継いだのは吉利の三男の吉方、通称・六三郎です。母は兄達と同じく村上東右近太夫吉重の娘です。のち周防島氏の家督を相続し、村上家から150石を支給され屋代村で老臣役を勤めます。そして、側室に村上氏の老臣大浜内記の女を迎え、嗣子吉賢が生まれます。しかし周防島氏の直系男子は、五代信利の代で絶え、その跡は三代信賢の孫、医師浅井養宅の子信方・正往が継ぎます。
 顕彰碑の周防大島での責任者である信弘は、正往の長男で、安永七年(1778)に、島家の家督を相続し、文化十年(1813)70歳で亡くなります。つまり越前碑の建設計画は、信弘最晩年の事業であったことになります。
村上水軍 今治水軍博物館

大島を出た吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟のその後を見てみましょう。 
二人は、一千石で肥後の加藤清正に招かれ九州肥後に向かった史料には記されています。その途中で同族の久留島康親(長親)が治める豊後玖珠に立ち寄ります。久留島康親(長親)は来島水軍の後裔で、秀吉時代に来島(今治市)に1万4千石の大名になっていましたが、関ヶ原の戦いで西軍に属して戦いますが、長親の妻の伯父にあたる福島正則の取りなしで家名存続の沙汰を得ます。そして、翌年に、豊後森に旧領と同じ石高で森藩を立藩した所でした。

森陣屋 - お城散歩
豊後森藩陣屋
 そこへやってきたのが島兄弟だったのです。康親は人材登用のために二人に玖珠に留まるよう説得します。結局、康親が吉知に俸禄五百石を提示し、兄弟は加藤家仕官を取りやめて久留島家に仕えることになったようです。史料では玖珠郡大浦・柚木・平立・羽田・野平などで180石を支給され、のちの加増を約束されたとします。しかし、加増は康親の死去で空手形となってしまいます。
村上水軍 来島城
来島(久留島)氏のかつての居城 来島城

 久留島家での吉知の事績はよく分かりません。
ただ元和年間の江戸城築城の際、奉行として江戸へ赴いていたことが文書から確認できます。天下普請へ奉行として派遣されているのですから、藩内ではやり手だったのでしょう。元和八年(1622)に隠居して、寛永五年(1628)に亡くなっています。弟善兵衛吉氏も150石を与えられ、別に一家を立てますが、男子に恵まれず、兄の子官兵衛吉智を養子として家を継がせています。
  吉知の子吉任は大坂の役では、豊臣方からの誘いを密かに受けますが断り、久留島家に留まります
当時久留島家では長親(康親)が没し、世嗣通春は8歳の幼年でした。吉任は大坂出陣を願いますが、許されずに通春の守を命じられます。通春は吉任を深く信頼するようになり、「汝を国老とし大禄を与えん」と戯れたと島家の文書には記されています。(島文書二十六号)。 豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、奉行として大坂に赴き働いています。寛永十四年、島原の乱が起きると、兵を率いて出陣し、同16年、家老に任ぜられ400石を支給されます。主君通春は幼年の時の吉任を覚えていたのかも知れません。
 しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」を命じられます。
『島家遺事』は臣下の論ずる所にあらずと、その理由については何も記していません。藩主通春が成長し、親政を始めると伊予以来の譜代の重臣である大林・浅川・二神氏なども次々と職を解かれ、暇をだされているので、その一環だったのかもしれません。
 彼らが再び玖珠に戻り、復権するのは次の通清の時代になってからです。吉任の子吉豊は父とは別途に新しく百石を賜っており、父失脚の歳にも連座せず在勤し、のちには50石の加増を受けています。
その子勝豊は寛文五年(1665)12歳で通清の近習を務め、父知行の内20石を与えられています。
天和二年(1682)久留島靭負(高久)御附となり、さらに靭負が佐伯毛利氏に養子に迎えられると、附侍として二神源人・檜垣文五郎とともに佐伯に赴きます。ところが三人は貞享元年(1684)、突然佐伯から立ち帰り、御暇を願い出ます。どうも靭負や佐伯家中衆との間に、問題を起こして止むなく帰国したようです。三人は直接藩主への弁明を願いますが、藩主の怒りを受けて、召し放ちとなります。

村上水軍 豊後久留島藩 森藩

 勝豊は諸所を流浪の後に、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住みます。
そこで元禄四年(1691)から3年間、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め、それが認められ杵築松平氏から召し出され、速見郡八坂手永の大庄屋役を仰せつかります。こうして藩侯への御目見もすみ、八坂本庄村に居宅を構えます。この措置には、舅片山氏の奔走があったようです。
  八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯でもありました。
勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。
 勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
少年の頃の勝任は、逸遊を好み三味線を弾く遊び人的な所もあったようですが、 その是非を悟って三味線を火中に投じ、その後は日夜学業に励んだとされます。書に長じ、槍を使い、詩文を好む文化人としての面も持っていました。そのため藩侯松平重休も領内巡察の折には、しばしば勝任を招いて、詩文を交わしたと伝えられます。
 享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。
その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖吉利顕彰のために建碑を思い立ったと研究者は考えているようです。その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、建碑に備えたのでしょう。そして、文化三年、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたという物語が描けそうです。
八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっています。
村上水軍 島家菩提寺千光寺
大分県の八坂千光寺 島家の菩提寺
村上武吉の家老的な存在であった島氏の動きを追ってみました。
名家だけに、その知名度を活かして大名の家臣に再就職することができたようですが、武士として生き抜くことはできず、帰農し大庄屋として生きる道を辿っている点には、豊後も周防の島氏も共通点がありました。以前にお話ししました多度津にやって来て、葛原村を開いた木谷家のことを思い出したりもしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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