瀬戸の島から

カテゴリ:讃岐近世史 > 近世讃岐の港と船と海運

多度津藩の湛甫築港と、その後の経済的な効果については以前にお話ししました。しかし、それ以前の多度津の港については、私にはよく分かっていませんでした。多度津町史を見ていると巻頭絵図に、文政元年(1818)石津亮澄「金毘羅山名勝図会」の多度津港の様子が載せられていました。今回は、この絵図で湛甫築港以前の多度津港を見ていくことにします。テキストは「多度津町史510P  桜川の港510P」です。多度津港については、江戸前・中期に関する史料がほとんどなくてよく分からないようです。
確かな史料は、「金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)に描かれた多度津港です。この絵から読み取れることを挙げておきます。
金毘羅名勝図会
金毘羅名勝図会 多度津町史口絵より

此津も又諸国よりの参詣の舟入津して、丸亀におなしく大都会の地にて、舟よりあかる人昼夜のわかちなし。湊は大権現祭場の旧地にして、磯ちかき所に影向の霊石あり。九月八日の潮川の神蔓、いにしへは此津にて務めしか、後神慮によつて、今の石淵にうつれり。されとも例によつて、此地より汐・藻葉を今もかしこにおくれり。又祭礼頭屋の物類いにしへの風を残して、此津よりつくり出す。其家を工やといふ。

  意訳変換しておくと
 多度津も諸国からの金毘羅舟が出入りして、丸亀と同じように、舟から揚がる人が昼夜を分かたず多く、繁盛している。湊は金毘羅大権現の祭場の旧地にあたり、磯に近い所に影向の霊石がある。九月八日の潮川神事は、古にはこの津で行われていたという。それが現在では金毘羅石淵に移された。しかし、今でもここで採った藻葉を金毘羅に送っている。又、祭礼頭屋で使う物類も古の風を残して、多度津で作られた物が使われている。その家を「工や」と呼ぶ。

①「多度津の港参拝舟入津」として、港の賑わいぶりと紹介する絵図であること
②手前には大型船の帆だけが描かれているが、港には着岸できず沖合停泊であること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)
       多度津港 金毘羅名勝図会の右側拡大部分

③桜川河口西側の堤防が沖に向かって伸ばされ、北西風を遮断する機能を果たしていること
④河口西側堤防の先端附近に高灯籠と港の管理センター的な役所が描かれていること
⑤河口から極楽橋までの桜川西側に小舟が停泊し、雁木(荷揚用階段)がいくつも整備されていること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」(1818)
      多度津港 金毘羅名勝図会の左側拡大部分
⑥桜川東側には接岸・上陸機能はないこと
⑦桜川河口西側の岩壁に沿って、金毘羅街道が南に伸びていること、その街道の背後に町屋が形成
⑧桜川河口東側の突端附近に金毘羅社が鎮座し、その前に白い燈籠が2つ建っている
⑨桜川河口東側は砂州上で、そこに陣屋が造営され、周辺に家臣住居が集まっていること
⑩金毘羅に続く街道の先にポツンと見える鳥居が鶴橋の鳥居?

この絵図からは1818年の多度津港は、桜川河口の金昆羅社から極楽橋にかけての西河岸に雁木が整備され小舟が接岸できる港湾施設であったことが分かります。これは多度津湛甫(新港)以前の絵図ですが、この時点で、すでに金毘羅参詣船や廻船などがかなり寄港していたことがうかがえます。
 私が分からないのは、陣屋ができるのは文政十年(1827)11月のことですが、それ以前に書かれたとするこの絵図に陣屋が書き込まれていることです。今の私には分かりません。
もうひとつ不思議なことは、多度津の街並みと背後の山々が整合しないことです。
例えば、多度津港背後の多度津山(元台)がきちんと描かれていません。そして、金毘羅街道が向かう金毘羅象頭山がどの山か分かりません。鶴橋鳥居のはるか向こうの山とすると、左側の山々が説明できません。多度津から南を望めば、大麻山(象頭山)と五岳が甘南備山として続きます。これがきちんと描かれていなということは、絵師は現地を訪れずことなく他人の描いた下絵に基づいて書いたことが考えられます。地元絵師の下絵に基づいて、有名絵師が「名勝図会」などを出版していたことは以前にお話ししました。

次に工屋長治によって描かれた「多度津湊の図」(天保2年(1831)を見ておきましょう。

「多度津湊の図」(天保2年(1831)
   天保2年工屋長治の多度津絵図

 1818年の金毘羅名勝図会と比較すると、つぎのような変化が見られます。

多度津絵図 桜川河口港
       天保2年 工屋長治の多度津絵図(拡大図)

①桜川河口東側が浚渫され広くなっている
②桜川河口東側の金毘羅社の先に着岸施設が新たに作られ、舟が停泊している。
③極楽橋周辺には、大型船も着岸しているように見える
④桜川河口西側の湾には、一文字堤防など港湾施設はないが、多くの舟が接岸せず停泊している
ここからは、①②のように桜川河口の東側にも接岸施設が新たに設けられ、③極楽橋まで中型船が入港できるように改修工事が行われたことがうかがえます。しかし、④にみられるように、河口外の西側湾内には入港待ちの舟が停泊しています。つまり、オーバーユース状態となって、入港する舟を捌ききれなくなっていたことがうかがえます。
 街並みも桜川河口を中心として、金毘羅街道沿いに北へと延びている様子が描かれています。

丸亀湊 金刀比参拝名所図会
丸亀藩の福島湛甫と新堀湛甫(讃岐国名勝図会)
多度津藩の本家である丸亀藩は、文化3年(1806)に福島湛甫を築き、入港船の増加に対応しました。
しかし、金毘羅舟の大型化が急速に進み、この湛甫では底が浅く、大船の出入りは潮に左右され不便でした。そこで天保3年(1832)に、第3セクター方式で新堀湛甫を開きます。これが金昆羅参詣客の定期月参船のゴールに指定され、参拝客が急増します。多度津藩も、金比羅参拝客の急増を黙って見ているわけにはいきません。そこで動き出したのが多度津の民間業者たちです。

 「藩士宮川道祐(太右衛門)覚書」には、多度津湛甫の着工までの経緯が次のように記されています。
そもそも、多度津の湛甫築造の発端は、天保五年(1834)
に浜問家総代の高見屋平治郎・福山屋平右衛円右の両人から申請された。それを家老河口久右衛門殿が取り次いで、藩主の許可を受けて、幕府のお留守居平井氏より公辺(幕府)御用番中へ願い出たところ、ほどよく許可が下りた。建設許可の御奉書は江戸表より急ぎ飛脚で届いた。ところがそれからが大変だった。このことを御本家様(丸亀藩)へ知らせたところ、大変機嫌がよろしくない。あれこれと難癖を言い立てられて容易には認めてはくれない。 
 家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。

この工事については以前にお話したので、建設過程や工事費捻出については触れませんが小藩にしては不相応の大工事で、本家様(丸亀藩)は、事前相談がなかったと終始、非協力的だったようです。
 
 暁鐘成編(弘化四年刊)「金毘羅参詣名所図会」には、次のように記します。
多度津湛甫 33
多度津湛甫 (金毘羅参詣名所図会)
   此の津は、円亀に続きての繁昌の地なり。原来波塘の構へよく、人船の便利よきが故に湊に泊る船著しく、浜辺には船宿、 旅籠屋建てつづき、或は岸に上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の担売、甘酒、餅菓子など商ふ者往来たゆることなく、其のほか商人、船大工等ありて、平生に賑はし。且つ亦、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。其の都合よきを以て此に船を待たせ参詣する者多し。

  意訳変換しておくと

   多度津港は、丸亀に続ぐ繁昌の地である。この港は波浪への備えがきちんとしており、潮待ち湊としても便利がよいので、湊に入港する船が多い。そのため浜辺には、船宿、 旅籠屋建が建ち並び、岸には上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の屋台、甘酒、餅菓子などを商ふ者の往来が絶えない。その他にも商人や、船大工らもいて町は賑わっている。さらに、九州ばどの西国筋の諸船が金毘羅参詣する時には、この港に着船して善通寺に参拝してから、象頭山・金毘羅大権現に登ることが恒例になっている。そのために、都合のいいこの港に、船を待たせて参詣する者が多い。

ここからは九州などの西国からの金比羅詣での上陸港が多度津であったことが分かります。
それを裏付けるのが安政6年(1859)9月、越後長岡の家老河井継之助の旅日記「塵壷」です。
塵壺

ここには金毘羅参詣で立ち寄った多度津のことが次のように記されています。
多度津は城下にて、且つ船附故、賑やかなり、昼時分故、船宿にて飯を食ひ、指図にて直ちに船に入りし処、夜になりて船を出す、それ迄は諸方の乗合、しきりにば久(博打)をなし、うるさき事なり、さきに云ひし如く、玉島、丸亀、多度津、何れも船附の杵へ様、奇麗なり。

意訳変換しておくと

多度津は城下町であると同時に、船附(港町)であるので賑やかである。昼頃に、船宿で飯を食べて、指図に従って船に入りって休息し、潮待ちする。夜になって、船を出す。それまでの間、乗船客が博打をして、うるさくて眠れない。先述したように。玉島、丸亀、多度津の港は、奇麗に整備されている。

慶応元年(1865)の秋から冬にかけ、京都の蘭医小石中蔵が京都~平戸間を往復しています。その帰途、多度津港に上陸、金毘羅参詣をしたときのことを旅日記「東帰日記」に、次のように記します。

多度津は、京極淡路様御城下なり、御城は平城にて海に臨む、松樹深くして見え難し、御城の東(西の間違いか)に湊あり、波戸にて引廻し、入口三か処あり、わたり二丁廻りあるべし、みな石垣切石にて、誠に見事也、数十の船此内に泊す、凡大坂西国の便船、四国路にかゝる、此湊に入る也、其船客、金毘羅参詣の者、みな此処にかゝる、此舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するよし、外舟にも此例多し。

   意訳変換しておくと
多度津は、京極淡路様の御城下である。お城は平城で、海に面している。松が深く茂り、その内は見えないが、城の東(西の間違い?)に湊はある。防波堤を周りに巡らして、入口が三つある。全町は、2丁(220m)はあろうか。堤防はすべて石垣切石にて、誠に見事である。数十の船がこの港内に停泊している。大坂から西国への便船で、四国路(備讃瀬戸南)を航行するほとんどの舟が多度津港に入港する。その内のほとんどの船客が、金毘羅参詣者である。この舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するという。外舟にもこの例多し。

これらの記録は、19世紀にあって多度津港が多くの船や金昆羅参詣船の寄港地としての繁盛しているようすを伝えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

IMG_0027
天保2年 工屋長治の多度津絵図(多度津町誌表紙裏)

参考文献      
「多度津町史510P  桜川の港510P」


港湾施設が港に現れる時期を、研究者は次のように考えています。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
このように「石積護岸 + 川港」が現れるのは、中世後半になってからとされてきました。
川西遺跡 船着き場
徳島市川西遺跡
前回に見た徳島市川西遺跡は、日本最古の「石積護岸と川港」で、鎌倉時代に石積護岸が現れ、川港施設は室町時代に整備されています。このようにして、中世から戦国時代に川港の施設が各地で整備されていきます。その集大成となるのが、秀吉が伏見城築城とセットで行っわれた宇治川太閤堤の石積護岸と川港でした。これは天下普請だったので、いろいろな大名達が参加し、各地域の治水護岸技術の集大成の場となり、技術交流の機会となります。そこで学んだ技術を各大名達は国元へ持ち帰り、築城や土木・治水工事に活かすというストーリーを研究者は考えているようです。確かに讃岐でも、生駒氏の高松城築城には天下普請で養われた技術や工法が活かされています。また、藤堂高虎の下で天下普請に関わった西嶋八兵衛も、讃岐で治水工事やため池築造を行いますが、これもその流れの中で捕らえることができます。今回は、宇治川太閤堤の影響を受けた「石積護岸 + 川港」の例を高知県の仁淀川河口の遺跡で見ていくことにします。  テキストは「平成 21年度 波介川河口導流事業埋蔵文化財発掘調査 現地説明会資料」です。

上の村遺跡 地図
仁淀川河口の上の村(かみのむら)遺跡
位置は仁淀川河口から2㎞ほど遡った上の村遺跡です。
ここは仁淀川と波介川の合流点でもあり、弥生時代から水運の拠点として繁栄してきたことが発掘調査から明らかにされています。

上の村遺跡 地図2
上の村遺跡の周辺遺跡
上の村遺跡 中世
中世の上の村遺跡復元図
復元イメージを見ると分かるように、新居城の麓には、倉庫的な建物が並んでいたようで、仁淀川と波介川流域の物資の集積センターとしての役割を果たしていたことがうかがえます。ここからは、川港も近くにあると考えられていました。それが平成21年度の発掘調査で出てきました。

上の村遺跡 調査エリア
 
石積護岸が出てきたのは上の村遺跡から南(河口側)で、かつての仁淀川跡(波介川)が流れていたようです。ここには使われなくなった古い堤防があり、地元で「中堤防(1次堤防)」と呼ばれていました。それを、内部調査のため断ち割ると中から石積みの堤防(2次堤防)が出土しました。「ハツリ」加工した石を積み上げ、内部には拳よりやや大きめの川原石を選んで詰めています。上部は断面ドーム状に仕上げられており、このような造りと形のものは全国的にもめずらしいようです。石の積み方等から大正〜昭和期のものと研究者は判断します。今のところ記録等が発見されておらず、工事の経緯は分かりません。
上の村遺跡 護岸比較表
 石積み護岸遺構」と「近代石積み堤防遺構(2次堤防)」の比較表

この堤防遺構の下部を調査していると、地中からさらに石積みが出土しました。担当者はこれを「石積み護岸遺構」と呼んで、堤防遺構は「近代石積み堤防遺構(2次堤防)」と区別しています。石積み護岸遺構は地中から出土していること、近代石積み堤防遺構と上下で交差している部分もあることから、石積み護岸遺構の方が古く、江戸時代初期のものとされます。
 石積み護岸の特徴として、自然石をそのまま積み上げた「野面積み」であることを研究者は指摘します。
近代代石積み堤防のつくり方とは大きな違いがあり、江戸時代初期頃の特徴を示しています。その他、石積みの傾斜や、築石の大きさ(表参照)、内側に礫をほとんど詰めていないことも近代石積み堤防と異なる点です。
上の村遺跡 護岸突堤.2JPG

 石積み護岸遺構のもうひとつの特徴は、平場や突出部分などの付属施設があることです。

仁淀川護岸施設
仁井淀川石積護岸と船着場
平場は護岸遺構の中ほどに造られていて、幅は約7,6 m、長さ44m、その端からのびる突堤状遺構は長さ40mほどで、さらに下流側には「捨石」部分があります。これは、私にはどう見ても川港にしか見えません。

上の村遺跡 仁淀川1
船着き場部分と石積護岸

川港説を裏付けるのは、以下の点です
①長宗我部地検帳で川津(川の湊)関連の地名がみえること
②近年まで「渡し」があったことから、舟着きに関わる機能があったこと
③石造りの台状遺構や、「石出し」と呼ばれる突出部などの付属施設が各所にあること。
宇治川太閤堤築堤 石出し

石積みの堤防が始まる上流端部分は、凹地に堤体内部と同じ川原石を厚く敷き詰めた基礎を造り、その上に堤防本体を築いていまる。基礎構造には「木枠」で堅牢にしている。
⑤2次石堤の外側にも、土を盛り付けて堤防を維持・拡大した様子が断面調査で観察でき、洪水とのたゆまぬ戦いが繰り広げられていたことがうかがえます。
上の村遺跡 護岸突堤

仁淀川河口の集積センターに出現した石積護岸を持つ川港の復元イメージを見ておきましょう。
上の村遺跡 石積護岸

白く輝く石積みは、古墳時代の古墳の積石を思い出させます。どちらにしても、山内藩による統治モニュメントの一種と捉えることもできます。今までにないモニュメントを、宇治川太閤堤の天下普請で学んだ技法で作り上げたことがうかがえます。

護岸遺構で、確実に江戸時代以前といえる石積み護岸は、全国でもごく限られています。
それが前回に見てきた徳島市の川西遺跡や京都宇治川の太閤堤です。宇治の太閤堤には、「石出し」と呼ばれる突出部が使われていました。仁淀川河口のこの石積み護岸遺構の延長は250mにも及び、さらに工区外へ延びています。このように大きな石材を使用する工事は、大工事で大きな労働力と高い技術が必要です。しかし、この遺構について記した文献や、土佐藩の開発事業を指揮した野中兼山との関係を示す史料も見つかっていません。
 しかし、高知県下には当時築かれたとみられる石積み遺構が各所に残っています。また、石積み技術の集大成といえる城郭の石垣をみれば、高知城には野面積みも多くみられます。城郭と治水用の護岸工事の石積みは工法的には類似しており、近接した形で同時進行で行われていた例もあることは以前にお話ししました。どちらにしても、「石出し」などは宇治川太閤堤とよく似ています。天下普請として行われた「太閤堤」などの技術が、このような形で地方に移転拡大していったと研究者は考えています。
 この川港と新居城の勢力との関係を見ておきましょう。
この川港から見える小さな山が、中世の山城である新居城跡です
この山城の裾からは縄文時代から江戸時代の遺構・遺物が連続して出土しています。それを発掘順に上から見ていくことにします。
①江戸時代では井戸跡等が出土。井筒は桶の側部分を重ねたもの
②室町時代の遺構では、箱形の堀形を持った大きな溝跡を確認。新居城の山下部分をコの字状に区画していた可能性があり。集落の中心は川寄り・川下方向にあった?
③平安〜鎌倉時代では、断面 V 字状の溝跡2条や多数の柱穴等を検出。遺物出土量はこの時代が最も多く、集落が一定のピークを迎えていた。遺物は、近畿産の「瓦器」や中国産青磁・白磁が多数出土していて、活発な交易活動を展開。
④奈良〜平安時代では、方形堀形の柱穴や完全な形の土器(杯)3個と赤漆皿、銅銭などが入っていた土坑・掘立柱建物跡4棟。掘立柱建物跡の柱穴は一辺1mほどの方形で、丈夫な建物で倉庫群と想定。遺物は多量の素焼き食器や煮炊き用の土器の他、京都近郊でつくられた「緑釉陶器」も出土。河川に近接した立地や大型の柱穴、出土遺物からみて水運に関連する役所的な施設の一部である可能性あり。
⑤古墳時代は、一辺約4mの溝に囲まれた1間×1間の掘立柱建物跡を確認。通常の方形竪穴住居跡と異なり、周りを溝で囲まれることや炉跡を確認できないことから特殊な性格を持つ建物跡。琴や衣笠などの出土例から祭祀関連の遺構の能性も考えられます。
⑥弥生時代では、溝状土坑を伴う掘立柱建物跡1棟、住居跡1棟と溝状土坑などを確認。瀬戸内地域の影響を強く受けた「凹線文」で装飾された弥生時代中期末の土器も出土。特に注目されるのは、多数の鉄製品がこの時期の諸遺構から出土。
 
 以上からは、上ノ村地区には川津の性格を持った集落が早くからあったことが分かります。またこの遺跡を考える際には、河口に近く、仁淀川、波介川の合流地点である立地から水運に関わる重要な拠点という視点が大切なようです。弥生時代以後、県外産の遺物が多く出土しているので一貫して外部からのモノと人の受入拠点であり、物資の集積センターとして機能してきたことがうかがえます。
最後に、この石積護岸の石材はどこから運ばれてきたのでしょうか?
私は、河口に転がる川原石を使ったと単純に考えていました。しかし、仁淀川河口に行けばすぐに分かりますが、河口には大きな石はありません。流れ下ってくる間に、小石になっています。中世の河川工事では、石材は近くにあれば使うけれども、近くになければ使わないというのが自然だったようです。そのため、石材を用いない治水施設の方が多かったことが予想できます。そんな中で、天下普請の宇治川太閤堤では、現場上流の天ヶ瀬付近の粘板岩が用いられています。前回見た徳島市の阿波の園瀬川護岸施設では、鎌倉時代から室町時代にかけて増築が繰り返されていました。その際には、周辺から結晶片岩は運び込まれています。そしてそれは、時代とともに大型化します。この仁淀川護岸施設の石材も川原石ではなく、周辺から運搬されたもののようです。ここからは、中世から近世にかけては、護岸工事に適した石材を多少離れた地点から運び込むことが行われていたことがたことが分かります。
小さな川原石はいっぱいあるのに、わざわざ石材を遠くから運んだ理由は何なのでしょうか。
この石積護岸に用いられた石材は角張ったものや、ある程度大きく偏平な割石などが数多く使われています。このような形や大きさが河川工事に適していると、当時の技術者は考えていたことがうかがえます。例えば、紀ノ川護岸施設では、運び込まれた片岩は法面に、川原石は裏込めにという使い分けがされています。使用用途によって、使う材料(石)を使い分けていたようです。これも土佐の技術者が天下普請から学んだことかもしれません。同時に、先ほども触れたように、これは山内藩という新勢力出現を庶民に知らしめる政治モニュメントの役割を持たせようとする意図があったと私は考えています。そのためには川原石ではなく、白く輝く葺石が求められたと思うのです。
 以上を研究者は次のようにまとめ、課題を挙げています。
①江戸時代以前に遡る河川護岸遺構は、全国でも非常に僅少。
②「平場」や突堤状(石出し)の部分は、同時期の他例がない。
③水制機能(護岸本体を水流から守る)だけでなく、舟運との関係を考えることが必要。
④構築の目的、「何を護ったか」が課題。
④石積護岸の埋没・廃絶時期は江戸時代中期(18世紀)頃。
⑤廃絶要因は、野中兼山による吾南平野の開発後、仁淀川水系から高知城下町方面への舟運が、土佐市対岸の新ルートに変わったこと?

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上の村遺跡 調査報告書

「平成 21年度 波介川河口導流事業埋蔵文化財発掘調査 現地説明会資料」

 中世の絵巻に出てくる港を見ていると、護岸などの「港湾施設」が何も描かれておらず、砂地の浜に船を乗り上げていた様子がうかがえます。しかし、発掘調査からは石積護岸工事を行った上で、接岸施設を設けた川港も出てきているようです。今回は、宇治川太閤堤を見ていくことにします。テキストは「畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」
 その前に法然上人絵図に描かれた湊を見ておきましょう。
鳥羽の川港.離岸JPG
                  鳥羽の川湊(法然上人絵伝 巻34第2段)
長竿を船頭が着くと、船は岸を離れ流れに乗って遠ざかっていきます。市女笠の女が別れの手を振ります。私が気になるのが、①の凹型です。人の手で堀り込まれたように見えます。この部分に、川船の後尾が接岸されていて、ここから出港していたように思えます。そうだとすれば、これは「中世の港湾施設」ということになります。しかし、石垣などの構造物は何もありません。この絵伝が描かれたのは、法然が亡くなった後、約百年後の14世紀初頭のことです。当時の絵師の鳥羽の川湊とは、こんなイメージであったことがうかがえます。
次は兵庫浦(神戸)のお堂の前の湊です。

高砂
   
海に面したお堂で法然で経机を前に、往生への道を説いています。法然が説法を行うお堂の前は、すぐに浜です。その浜に⑤⑥の漁船が乗り上げていますが、ここにも港湾施設は見当たりません。

兵庫湊
法然上人絵伝 巻34〔第3段」  経の島
 
馬を走らせてやってきた武士が、お堂に駆け込んで行きます。家並みの屋根の向こう側にも、多くの人がお堂を目指している姿が見えます。ここにも何隻かの船が舫われていますが、港湾施設らしきものはありません。砂浜だけです。
兵庫湊2

つぎに続く上の場面を見ると、砂浜が続き、微高地の向こうに船の上部だけが見えます。手前側も同じような光景です。ここからはこの絵に描かれた兵庫湊にも、港湾施設はなく、砂州の微高地を利用して船を係留していたことがうかがえます。手前には檜皮葺きの赤い屋根の堂宇が見えますが、風で屋根の一部が吹き飛ばされています。この堂宇も海の安全を守る海民たちの社なのでしょう。後には、これらの社の別当寺として、寺院が湊近くに姿を見せ社僧達によって湊を管理するようになります。そこから得る利益は莫大なものになっていきます。
私が気になるのが浜辺と船の関係です。ここにも港湾施設的なものは見当たりません。
砂浜の浅瀬に船が乗り上げて停船しているように見えます。拡大して見ると、手前の船には縄や網・重石などが見えるので、海民たちの漁船のようです。右手に見えるのは輸送船のようにも見えます。また、現在の感覚からすると、船着き場周辺には倉庫などの建物が建ち並んでいたのではないかと思うのですが、ここにもそのような施設もなかったようです。
  当時日本で最も栄えていた港の一つ博多港を見てみましょう。
博多湊も砂堆背後の潟湖跡から荷揚場が出てきました。それを研究者は次のように報告しています。

「志賀島や能古島に大船を留め、小舟もしくは中型船で博多津の港と自船とを行き来したものと推測できる。入港する船舶は、御笠川と那珂川が合流して博多湾にそそぐ河道を遡上して入海に入り、砂浜に直接乗り上げて着岸したものであろう。港湾関係の施設は全く検出されておらず、荷揚げの足場としての桟橋を臨時に設ける程度で事足りたのではなかろうか」

ここからは博多港ですら砂堆の背後の潟湖の静かな浜が荷揚場として使われていたようです。そして「砂浜に直接乗り上げて着岸」し、「港湾施設は何もなく、荷揚げ足場として桟橋を臨時に設けるだけ」だというのです。日本一の港の港湾施設がこのレベルだったようです。12世紀の港と港町(集落)とは一体化していなかったことを押さえておきます。河口にぽつんと船着き場があり、そこには住宅や倉庫はないとかんがえているようです。ある歴史家は「中世の港はすこぶる索漠としたものだった」と云っています。ここでは港湾施設が港に現れる時期を、押さえておきます。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
ここからが今日の本題です。発掘調査から出てきている①②の遺構を見ていくことにします。
宇治川太閤堤築堤
宇治川太閤堤
 秀吉によって作られた宇治川太閤堤です。
 文禄元年(1592)に、豊臣秀吉は伏見城の築城に着手します。この城は、当初は隠居所と考えられていたので大規模なものではなかったようです。それが文禄3年(1594)に、淀城を廃して、一部の建物を伏見に移築して本格的城郭として体裁を整えていきます。城下には宇治川の水を引き入れた船入も造成され、城下町が整備されています。そして8月には伏見城は完成し、秀吉は伏見に移っています。築堤工事は伏見築城と並行して行われていて、10月には前田利家が宇治川の付け替え工事を命じられているほか、織田秀信は伏見・小倉間の新堤を築堤し、宇治橋を破却しています。

宇治川太閤堤築堤2
宇治川太閤堤の石積護岸

 宇治川太閤堤築堤の目的は、次の2点です
①宇治川の治水ではなく、伏見港の機能を高めるためで、朝鮮半島への派兵を行うための水運の拠点を築くこと
②大和街道を伏見城下に移し、大坂と伏見を結ぶ京街道が整備し、伏見を水陸交通の要衝として機能させること
発掘調査地点は、宇治橋下流側の宇治川右岸300mにわたって続いています。
宇治川堤防1
宇治川太閤堤
護岸遺構からは川側に向けて「石出し」が4ケ所、「杭出し」が2ケ所突き出ています。
宇治川太閤堤築堤4
宇治川太閤堤築堤 石積み護岸
石積み護岸は、馬踏(天端)幅2m、敷(護岸底辺)幅が約5m、高さは2、2m。石積み護岸は上半の石張りと下半の石積みの2段構造です。簡単な整地後、板状の割石を直接張り付けただけです。

宇治川太閤堤築堤3

杭止め護岸は、杭などの木材を用いて垂直に岸を造る工法です。
杭止め護岸は上図3-2のとおり、かせ木・横木(頭押え)支え柱で構成され、裏側に拳から頭くらいの石が詰め込まれています。

 宇治川太閤堤築堤5
宇治川太閤堤は、石出で水流を弱めて護岸の侵食を防ぐ目的がありました。その下流の杭出しは、杭が何本も建ち並び、船着き場として使われていたようです。つまり、この工事は護岸工事であると同時に、船着き場設置工事でもあったようです。

宇治川太閤堤築堤 杭だし(船着場)
杭出し(船着場)復元
  中世から近世にかけての石材を用いた河川護岸施設の多くは、船着き場や物資の集積流通拠点だったと研究者は考えています。そのために巨額の資金と労働力が投下されたようです。
  宇治川太閤堤築堤 石出し

 また宇治川太閤堤の石出しの石垣には、城郭の石垣技術が援用されていることを研究者は指摘します。
城郭と治水・利水施設は目的は違いますが、技術は相互に援用されたようです。例えば、徳川家康の家臣で深溝(愛知県幸田町)を本拠とした松平家忠は、数多くの城普請を手掛けたことが『家忠日記』から分かります。その技術は、領地である永良や中島での築堤工事によって培われたようです。
 満濃池再築を果たした西嶋八兵衛が、若い頃は藩主藤堂高虎の下で二条城や大阪城の天下普請で土木工事技術を身につけていたのも、このような文脈の中で理解すべきようです。それが讃岐での治水工事やため池築造に活かされます。ここからは、築城と築堤が密に関係していたことを押さえておきます。

 宇治川太閤堤跡は、秀吉の伏見築城の付帯工事として着工された河川改修工事です。
そのため秀吉の命により配下の大名達が分担する「天下普請」でした。この工事の重要性は
①文禄3年という時期が分かること
②大名クラスの治水についての思想や技術が込められていること
つまり、時期と築造階層が特定できる点で、非常に重要な遺跡だと研究者は考えています。例えば、甲斐の信玄堤や、加藤清正による肥後での河川工事などの実態についてはよく分かっていません。具体的にどのような工事が行われたのかは、はっきりせず「俗説」が一人歩きしている状態だと研究者は指摘します。そのなかでこの宇治川太閤堤は、用いられた資材や施行内容までもが具体的に分かります。そういう意味でも、中世以来の治水技術の到達点であると同時に、近世の治水技術の出発点の指標となる遺跡です。同時に、川湊という視点からは、石積護岸化と川湊の関係が見えてくる遺跡とも云えます。
 次回は、宇治川太閤堤に作られた川湊の原点とも云える徳島市の川西遺跡の石積護岸を見ていくことにします。
川西遺跡3

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」
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3 家船jpg
 前回は、安芸からやって来た家船漁民が、丸亀の福島町や宇多津などの港町に定住していくプロセスを見ました。今回は、彼らを送り出し側の広島の忠海周辺の能地・二窓を見ていきたいと思います。
  家船漁民は、家族ごとに家船で生活し、盆と正月に出身地(本村)に帰る外は、新たな漁場を求めて移動していきます。そして、漁獲物の販売・食料品の確保のための停泊地に寄港します。それが讃岐では、丸亀や宇多津であったことは前回に見た通りです。しかし、漁場と販路に恵まれ、地元の受け入れ条件が整えば、海の上で生活する必要もなくなります。陸に上がり新たな浦(漁村)を開きます。瀬戸内の沿岸や島には、近世中期以降に、家島漁民によって開かれた漁村が各地にあります。
家船漁民の親漁港(本村)は?
能地(三原市幸崎町)、
二窓(竹原市忠海町)
瀬戸田(豊田郡瀬戸田町)
豊浜(同郡豊浜村)
阿賀(呉市)
吉和(尾道市)
岩城(愛媛県)
3 家船4
などが母港(本村)になるようです。家船漁民は「海の漂泊民」と云われ記録を残していませんから謎が多く近年までよく分かっていなかったようです。それが見えてくるようになったのはお寺の過去帳からでした。そのお寺をまずは見てみましょう。 
 能地は忠海にある小さな港町です。
今では能地港には漁船の姿はほとんどありません。海には大きな造船所が張り出しています。海のすぐそばまで山裾が広がり、かつての海を埋め立てた所にJR呉線の安芸神崎駅があります。ここから北に開ける谷沿いに上がっていくと、小高い山の上に立派な臨済宗のお寺があります。
 この寺が家船漁民達の菩提寺である善行寺のようです
3 家船 見晴らし能地の善行寺
家船漁民の人別帳が残る善行寺
この寺は臨済宗で、15世紀後半に、豪族浦氏によって建立されたと伝えられています。浦氏は沼田小早川家の庶家(分家)で、小早川勢の有力な一族でした。「浦」を名乗った姓からも分かるように、小早川勢の瀬戸内海進出の先駆けとなった一族のようです。特に水軍史上で名を残したのは浦宗勝です。

3 浦氏
浦宗勝
彼は、1576(天正四)年の木津川口海戦では毛利方水軍勢の総帥をつとめて、大活躍しています。かつてベストセラーになった『村上海賊の娘』でも、木津川海戦での戦いぶりは華々しく描かれています。
 能地と二窓の海民がこの浦氏が建立した寺の檀家になったのは、
浦氏の直属水軍として働いたからだと研究者は考えているようです。安芸門徒と云われるように、広島は海のルートを伝わってきた浄土真宗の信者が多く、海に関わる人たちのほとんどが熱心な浄土真宗の門徒でした。ところが、この地では漁民も臨済宗の檀家だったようです。小早川の一族には臨済宗の熱心な信者が多く、その水軍の傘下にあった水夫たちも自然に善行寺の檀家になったようです。
小早川氏→浦氏→能地・二窓の水軍衆というながれです。
 関ヶ原の戦いで敗北し、浦氏直下の水軍も離散します。彼らの多くも家船漁民として、瀬戸内海にでていくことになります。その際にも彼らは臨済宗の善行光の門徒であり続けたようです。
 善行寺の『過去帳』には、死亡した場所が『直島行』とか地名が記録されています。
ここからその人物がどこで亡くなったが分かり、彼らの活動範囲を知ることができます。その地名を分布図に落とし、彼らの近世から明治にかけての展開の様相を明らかにした研究者がいます。それによると、 ふたつの浦の漁師の活動範囲は、東は小豆島から西は小倉の平松浦までに広がっているようです。
二窓の家船漁民の「出稼ぎ先」死亡地がわかる初見は、次の通りです
備前が1719(享保4)年に『備前行』
讃岐が1721(享保6)年 讃岐
備後が1724(享保9)年 備後『草深行』、
安芸 が1724(享保9)年 安芸『御手洗行』『大長行』
で、18世紀初頭の享保年間から、他国での死亡事例が出てきます。この時期に、家船漁民の他国での操業・定着が始まったと研究者は考えているようです。しかし、その数は多い年で8件、平均すると各年2件ほどです。この時期の「移住者」は少ないようです。
 それが百年後の19世紀代になると激増します。
1800-24年の間に222件、うち出職者85件、
1825-49年の間に423件、うち出職者266件
1850-74年の間に552件、うち出職者275件
となっており、幕末期における他国への「出稼ぎ」数が急増していることが分かります。
移住者が急増する要因や背景は何だったのでしょうか?
 よその海に出かけ操業したり、定着する場合は、先方の漁民の障害にならない配慮が必要でした。そのため初期には、芸予諸島の大三島や高縄半島の波方・菊間浜村・浅海・和気浜・高浜・興居島・中島などの地元漁民があまりいないところに「進出」したようです。「入植」を許した村々では、家船漁民を定着させることによって、目の前の地先漁場を確保しようとする思惑もありました。しかし、18世紀初頭までの陸上がりして定住した例は限られていました。それまでは、遠慮しながら陸上がりして定着していた状況が一変するのは18世紀後半になってからです。
変化をもたらしたのは海の向こうの中国清朝のグルメブームです
①中国清朝の長崎俵物の高価大量買い付け
②幕府による全国の浦々に長崎俵物(煎海鼡・干なまこ・鱶鰭)の割当、供出命令
③浦々での俵物生産体制の整備拡充
 当初幕府は、各浦々の生産可能量をまったく無現した量を割り当てました。例えば松山藩は総計4500斤のノルマを割当られますが、供出量できたのはその半分程度でした。このため責任者である幕府請負役人や長崎会所役人は、何度も松山藩にやって来て、目標量に達しない浦々に完納するように督促します。尻を叩かれた浦の責任者は「経験もない。技術者もいない、資金もない」で困ってしまいます。
 
3 iesima 5
海鼠なまこの腸を取り去り、ゆでて干した保存食「いりこ」(煎海鼠・熬海鼠)を製造しているところ。ここでは津島国の産業として紹介されている。いりこは、調理の際に再び水煮して軟らかくして食した。古来より珍重されていた食物であり、特に江戸時代中期以降は、対清(当時の中国)輸出の主要品目であった。人参のように強壮の効果があるとされていた。

一方、忠海の近くの能地・二窓は、煎海鼠(いりこ)生産の先進地域だったようです。
製造業者は堀井直二郎、生海鼠の買い集めは二窓東役所。輸出品の集荷先である長崎奉行への運搬は東役所と分業が行われ、割当量以上の量を納めています。つまりここには、技術者とノウハウがそろって高い生産体制があったのです。
この状況は家船漁民にとっては、移住の好機到来になります。
各浦は、先進地域から技術者・労働者として家船漁民をユニットで大量に喜んで迎え入れるようになります。大手を振って大勢の人間が「入植」できるようになったのです。現在のアジアからの実習生の受入制度のを見ているような気が私にはしてきます。
迎え入れる浦は定住に際しては、地元責任者(抱主)を選ばなければなりません。抱主が、住む場所を準備します。舵主は自分の宅地の一部や耕地(畑)を貸して生活させることになります。そのため、抱主には海岸に近い裕福な地元人(農民)が選ばれたようです。その代償に陸上がりした漁民達は、がぜ網(藻打瀬)で引き上げられた海藻・魚介類のくず、それに下肥などを肥料として抱主(農民)に提供します。こうして、今まで浦のなかった海岸に長崎貿易の輸出用俵物を作るための漁村が18世紀後半に突如として各地に現れるようになったのです。
 直島の庄屋と二窓庄屋のやりとり文書から見えてくることは?
 直島の庄屋三宅家に残る文書には、家島漁民の所属をめぐる対立が記されています。二窓の庄屋から
「二窓から出向いた漁師たちを、人別帳作成のために生国に帰して欲しい」
と帰国日時を指定した文書が届きます。家船漁民は移住しても年に一度は二窓に帰ってこなければならないのがきまりだったことは先ほど述べました。
 なぜ一年に一度帰らなければならなかったのでしょうか?
最大の理由は「帳はずれの無宿」と見なされないためです。1664(寛文四)年に各藩に宗門奉行の設置が命じられ、その7年後には、宗旨人別改帳制度が実施されるようになりました。人別帳に記載されていないと「隠れキリシタン」と見なされたり、本貫地不明の「野非人」に類する者として役人に捕らえられたりするようになりました。人別帳に載せてもらうには、本人確認と踏み絵の儀式が必要でした。
 もうひとつは、檀家の数を減らさないという檀那寺の方針もあったのでしょう。こうして「正月と盆に帰ってこなければならぬ」というきまりを、守るように厳命されていたようです。
 しかし、出ていた漁民からすれば、二窓に「帰省」しても家があるわけではありません。親族の家にも泊まれない漁民は、港に係留した船に寝泊まりしようです。漁民が出稼先で死亡した場合も、むくろは船に乗せて持ち帰られて、能地で埋葬されたようです。遠いところから帰ってくる場合は、防腐剤としてオシロイをぬり、その上で塩詰めにして帰ってきたといいます。そして、葬式や追善供養も檀那寺の善行寺で行われました。貧しい家船漁民の遺体は寺の墓地ではなく、浜辺に埋められたとも云われます。本村を出て何世代目にもなっている漁民もいます。人別帳作成のためだけには帰りたくないというのがホンネでしょう。
 このような家船漁民の声を代弁するように幕府の天領である直島の庄屋三宅氏は、次のような返事を二窓に送ります。
数代当地にて御公儀江御運上差し上げ、御鑑札頂戴 之者共に有り之』
御公儀半御支配之者共』
ここには「能地からの出稼ぎ者は長年にわたり、直島で長崎俵物を幕府へ納めている者たちであり、鑑札も頂いている。幕府、代官には彼らを半ば支配する道理があり、直島には彼らを差配する道理がある」というものです。
 そして二窓漁民たちは
『年々御用煎海鼠請負方申し付有之者共』
と、御用の煎海鼠の生産者であり、2月から7月までは繁忙期であり
『只今罷り下し候而、御用方差し支えに 相成る』
として人別帳作成のための生地への「帰国」を断っています。直島にとっては、二窓漁民の存在は『御用煎海鼠請負方』のためになくてはならない存在となっていたことが分かります。
 二窓からやってきている漁民にすれば、真面目に海鼠を捕っていれば収入もあり、直島の庄屋にすれば、幕府から「ノルマ達成」のためには出稼ぎ漁民の力が必要なのです。両者の利害はかみ合いました。
 そして家船漁民は生国の元村へ帰えらなくなります。
直島庄屋は次のような内容を、二窓浦役所に通告しています。
①今後は寄留漁民に直島の往来手形を発行する
②直島の寺院の檀家になることを許す
これは直島庄屋の寄留漁民を『帰らせない、定着させる』 という意志表示です。
家船漁民は、正式な定着を選んだ経済的な背景は?
①年貢を二重に納めなくても済むという経済的理由です。それまでは、漁場を利用する場合には、運上を納めた上に、本籍地の二窓にも年貢を納めていました。
②入漁地の住人として認められる事になれば、二窓とは何の関係も持つ必要がなくなります。
結局直島260人の他、小豆島、塩飽、備前、田井内の寄留漁民が二窓浦役所に納税しなくなり、人別帳からも外れていきます。それは、移住先に檀家として受けいれる寺が現れたということになるのでしょう。
このような「本村離れ」の動きが能地の善行寺の人別帳からもみることができるようです。
 1833(天保4)年の『宗旨宗法宗門改人別帳』の記述からは、地元の能地・二窓東組の浜浦役人に厳しく申し付けられていた
『年々宗門人別改并増減之改』
 『一艘も不残諸方出職之者呼戻シ、寺へ宗門届等に参詣』
という義務、つまり「年に一回は生地に帰り宗門改を受けよ」という義務が守られなくなっていることがうかがえます。そのため藩は
『諸方出職(出稼ぎ)之者共 宗旨宗法勤等乱ニ付』
と判断し、能地の割庄屋、二窓の庄屋、 組頭と善行寺住職に対して「廻船による『見届』実施」を命じています。つまり、宗門改監視船を仕立て出稼ぎ現場まで行って、確認させると云うことです。
 期日は、1833年2月-7月6日。実際に「見届」に行くのは、能地では組頭を、二窓では役代のものをそれぞれ付添として同伴させ、住職自らが「廻船=巡回」しています。そして「出稼ぎ先」を訪れた住職は、次のような『条目』を申し付けています。
①漁師に対しては、本尊を常に信心せよ。
②死亡者は、たとえその年に生まれた子であれ連れ帰れ
③正月・盆の宗門届は固く勤めよ
④先祖の法事、それが赤子であれ、決してうやむやにするな。
⑤寺の建立・修復の時ならず、心付けを行うこと。
⑥年に一度は、五人組を通じて人別帳を提出すること。
⑦往来手形を持たない者は出職先に召置くことはできない。
⑧宗旨宗法を違乱なく守れ。
その後で、全ての船からも『請印』をとり、『条目』に違反する『不埒之方角』の者からは『誤証文』を差し出させ、以後の規則遵守を確約させています。こうして実施された「迴船」の記録が、次のように3冊分にまとめられて残っています。
一巻『当村地方・浜方、二窓地方 渡瀬、忠海、小坂』
二巻『能地浜浦諸方出職之者』
三巻 『二窓浦諸方出職之者』
この巻末には、『人別帳』の由緒や作成経緯とともに、船頭数つまり筆数と、成員数の総計が記されます。それによると
『能地浜浦』  在住者142筆、646人
『二窓地方』 在住者54筆、246人
『能地浜方諸方出職者』420筆、2053人
『二窓浦諸方出職者』192筆、 1013人
となっています。ふたつの浜浦をあわせた『諸方出職(出稼ぎ)者』の人数は、在地者(地元で生活する人)の三、四倍になります。
(小川徹太郎『越境と抵抗』 P194~201)
以上を私の視点でまとめておくと
①戦国時代の忠海周辺は小早川配下の水軍大将であった浦氏の拠点であった。
②小早川ー浦志ー忠海周辺の水夫は、宗教的には臨済宗・善行寺の門徒であった
③関ヶ原の戦い後に、毛利方についた浦氏水軍も離散し、多くが海に生きる家船漁民となる
④優れた技術を活かして、新たな漁場を求めて瀬戸内海各地に出漁し新浦を形成する
⑤長崎俵物の加工技術を持っていた家船漁船は、その技術を見込まれて集団でリクルートされるようになる。
⑥次第に彼らは生国の善行寺の管理から離れ、移住地に根ざす方向を目指すようになる。
少し簡略すぎるかもしれませんがお許しください。

最後に、二窓の漁民の移住・出漁(寄留)地の一覧表が載せられています。讃岐分のみを紹介します。河岡武春著『海の民』平凡社より
二窓漁民の移住・出漁(寄留)地
 国 郡 地名   移住    出漁(寄留) 初出年代 筆数  
讃岐国小豆郡小豆島 安政6(1859)  3 享保18(1733) 32
  〃   小部            天保2(1831)  2
  〃  小入部?           天保元(1830)  1
  〃   大部            嘉永5(1852)  1
  〃   北浦  安政3(1856)  6 文政2(1819)  4
  〃   新開  嘉永4(1851)  5 天保12(1841)  7
  〃   見目            天保6(1835)  2
  〃   滝宮            文政5(1822)  1
  〃   伊喜末 嘉永2(1849)  1 天保7(1836)  3
  〃   大谷  文政2(1819)  7 延享2(1745) 15
  〃   入部  天保13(1842)  7 文政11(1828) 31
  〃   蒲生  安政6(1859)  2 安政5(1858)  1
  〃   内海            文政9(1826)  5
讃岐国香川郡直島  弘化3(1846)  3 延享2(1745) 25
讃岐国綾歌郡御供所 嘉永3(1850)  6 天保4(1833) 11
  〃   江 尻 安政5(1858)  1 文久2(1862)  3
  〃   宇田津           文化3(1806)  2
讃岐国仲多度郡塩飽           文久2(1862)  1
     塩飽広島 嘉永4(1851)  2 天保6(1835)  3
     塩飽手島 嘉永2(1849)  3 享保18(1833) 34
  塩飽手島カロト           文政11(1828)  4
  塩飽手島江ノ浦           天保5(1834)  2
      鮹 崎           文政6(1823) 11
      後々セ           文政6(1823)  1
      讃 岐 嘉永4(1851)  3 享保6(1721) 34
 讃岐国 合 計    13例  49  25例  236

これを見て分かることは
①小豆島・塩飽の島嶼部が多い。特に小豆島の「辺境」部の漁村は、ほとんどが家船漁船によって作られた
②塩飽は、豊島の多さが目につく。
この当たりはまた追々に、見ていくことにしましょう。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 愛媛県史 民俗編
シー



小豆島慶長古地図
小豆島の苗羽を母港とした廻船大神丸の航海日誌があります。
江戸時代末から明治20年頃にかけてのもので10冊ほどになるようです。
「米1030俵を一度に積み込んだ」
という記事があります。一俵は三斗四升というのが基準なので、それから計算すると、この舟は約350石から400石積みぐらいの中型船だったようです。
5 小豆島草壁の弁財船

 小豆島草壁田浦の金毘羅丸 380石 慶応元年に金毘羅さんに奉納された模型

 実は、この船はマルキン醤油の創業家である木下家の持ち舟でした。
木下家は屋号が塩屋という名からもわかるように、もともとは苗羽で塩をつくっていましたが、いつごろかに塩から醤油へと「転業」していったようです。この航海日誌からは、この舟が「何を どこで積んで、どこへ運んで売ったのか また、何を買ったのか」が分かります。


文政3(1820)年の交易活動の様子を追ってみましょう。
 まず、船主は小豆島のを買い入れています。小豆島は赤穂からの移住者が製塩技術を持込んでいて、早くから塩の生産地です。自前の特産品を持っていたというのが小豆島の強みとなります。
塩を積み込んだ大進丸が向かうのは、どこでしょうか? 
 すぐに考えつくのは「天下の台所」である大坂を思い浮かべます。しかし、航路は西、九州へ向かうのです。下関と唐津で積荷の塩を売ります。そして、唐津で干鰯を買い入れ、唐津の近くにある呼子へ移動して取粕と小麦を買っています。

6 干鰯3
 干鰯は、文字の通り鰯を干したもので綿やサトウキビなどの商品作物栽培には欠かせないものでした。蝦夷地から運ばれてくる鯡油と同じく金肥と呼ばれる肥料で、使えば使うほど収穫は増すと云われていました。取粕というのは、油をとったかすですがこれも肥料になります。それを唐津周辺で買い入れます。干鰯は小豆島の草壁村で、取粕は尾道と小豆島で売り払っています。
6 干鰯2

それから、呼子で小麦を買っていますが、これはどうするの?
小豆島の特産と云えば「島の光」、つまり素麺です。素麺造りに必用なのは小麦ということで、小豆島の藤若屋という素麺の製造業者に売り払っています。単純化すると大神丸は塩を積んで、北九州に行き、干鰯と素麺の原料の小麦を積んで帰ってきたことになります。

 次に約四二年後の文久二年の航海日誌を見てみましょう。
文久二年(1862)と云えば、ペリー来航から10年近くなり、尊皇の志士たちの動きが不運急を告げる時期です。もちろん、大神丸という名前は代わりませんが、何代後の舟になっていたでしょう。その取引状況を次の表から見てみましょう。
DSC02502

表の見方は、売買品目・買入港・売払港で、数字は品目の数量です。
たとえば塩については、潟元・下村・土庄で買い入れ、筑後・島原・宇土・筑前で売り払ったということになります。塩買い入れ先の潟元は、屋島の潟元です。ここには塩田がありました。小豆島の対岸で、目の前に見える屋島で塩を買い入れています。下村・土庄は、小豆島ですが小豆島産だけでは不足だったのか、値段が高松藩の屋島の方が安かったからなのかわかりません。
 屋島と小豆島で塩を買い入れて舟に積み込んで、向かうのはやはり九州です。
40年前と違うのは、唐津よりもさらに南下して、筑後と島原、そして熊本の北の宇土まで販路を伸ばしています。
6 kumamoto宇土

島原地方は、天草の乱後に多くのキリシタン達が処刑され、人口減になった所に小豆島からの移住者を入植させた所です。それ以後、小豆島と島原周辺とのつながりが深まったと云われます。ちなみに、この地域は小豆島の素麺「島の光」の有力な販路でもあります。小豆島と九州は瀬戸内海を通じて、舟で直接的に結びついていたようです。
 次の品目の繰綿、これは綿から綿の実をとった白い綿で半原料です。
6 繰綿
これを買い入れたのは、高梁川河口の玉島と福岡(岡山の福岡)でしょう。この地域は、後に倉敷紡績が設立されるように早くから綿花栽培が盛んで、半加工製品も作られていました。
6 繰綿3

ここで仕入れた繰綿は、塩と同じく有明湾の奥の肥前や筑後まで運ばれます。瀬戸内海の港で積み込まれた塩・繰綿・綿などの商品が、有明湾に面する港町に運ばれ、筑後や島原で売り払われたことが分かります。
DSC04065
さて帰路の積んで帰る品物は何でしょうか? どこの港で積み込まれたのでしょうか?
まず小麦です。小麦は素麺の原料と先ほどいいましたが、仕入れ先は肥前、それから高瀬(熊本近郊)、さらに島原で買い入れています。その半分が多度津で売られています。当時の多度津港は、幕末に整備され西からの金比羅舟の上陸港として、讃岐一の港として繁栄していました。しかし、なぜ多度津にそれだけの小麦の需要があったのか? 
仮説① 金比羅詣客へのうどん提供?? そんなことはないでしょう。今の私にはこんなことくらしか考えられません。悪しからず。 
DSC04064絵馬・千石船

 残りの小麦の行方は? 兵庫が大口です。
仮説② 揖保川中流のたつの市で作られる素麺「揖保の糸」の原料になった。
 この可能性は、多度津よりはあるかも知れません。残りの小麦は土庄、下村などの小豆島で売られています。「内上け」という記載は、船主の塩屋に荷揚げしたということです。塩屋が周辺の素麺業者に販売する分でしょう。

20111118_094422093牛窓の湊
牛窓湊
次に大豆を見てみましょう。

小豆島では醤油をつくっていますので、その原料になります。大豆と小麦は、仕入れ先も販売先も似ているようです。仕入れ先が川尻、島原、それから肥後、唐津などで、販売先が大坂近くの堺で売られていますが、土庄、下村あるいは、ここにも「内上け」とありますので、地元に荷揚げしています。

干鰯作業4
 干鰯の場合は、綿花やサトウキビ、藍などの商品作物栽培が広がるにつれて、需要はうなぎ登りになります。瀬戸内海では秋になるとどこの港にも鰯が押し寄せてきましたので、干鰯はどこでも生産されていました。だから、九州に向かう途中の港で、情報を仕入れながら安価に入手できる港を探しながら航海して、ここぞという港で積み込んで、高く売れる港で売り払ったと考えられます。

瀬戸内海航路1
 このように小豆島の苗羽を母港にする太神丸は、小豆島やその近辺の商品を積み込んで、それを九州西北部から有明海の奥の筑後や肥前・島原に持って行って売っています。そして、売り払った代金で小麦、大豆、干鰯などを買い入れて、小豆島で生産される素麺、醤油の原料としていてことが分かります。幕末から明治にかけて、こういう流通網が形成されていたのです。

wasenn 和舟
  こんなことを背景にすると、小豆島霊場のお寺さんの境内にある大きなソテツの由緒に「九州から帰りの廻船が積んで帰った」ということが語られるのが納得できます。
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 さらに私が大好きだった角屋のごま運搬船。
神戸に輸入されたゴマを土庄港の工場まで運ぶ胡麻専用の運搬船です。

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母港は島原の港。なぜ、島原の舟が小豆島で働いているのかは、大きな疑問でした。しかし、大神丸が小豆島と島原を結びつけていたように、かつては島原の舟も小豆島や瀬戸内海の港を往復する船が数多くあったのでしょう。そして、この舟は九州からのごま運搬に関わるようになり、胡麻が国産品から輸入品に代わると、神戸から土庄へその「営業ルート」を変更せざるえないことになったのかもしれません。これが今回の私の仮説③です


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参考文献 木原薄幸 近世瀬戸内海の商品流通と航路 「近世讃岐地域の歴史点描」所収

 大槌島は鰆の好漁場 讃岐と備前の漁民の漁場争い  

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備讃瀬戸航路からの大槌島

鰆の好漁場大槌島をめぐる紛争

瀬戸大橋の東方、五色台の沖に海の中からおむすび型の頂を覗かせる2つの島があります。この北側の島が大槌島です。この島から東に延びている細長い砂地の浅瀬は、大曽の瀬と呼ばれました。連絡船がこの上を通っていた時には、船の上から海の底が見えたというくらい浅いんです。浅い砂地にはイカナゴがたくさんいて、それを食べに春には鰆がやってきて産卵しました。だから鰆を捕る絶好の漁場でした。

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鰆は痛みが早いので、この時代に流通ルートに載せることができたのだろうか
と思いました。調べてみると、肉を食べるのではなく鰆の卵巣からカラスミを作っているのです。からすみは、もともとはボラの卵を原料にして江戸時代初期に長崎で作られて将軍家に献上するようになります。
 「本朝食鑑」という本によると、元禄ごろから備前や讃岐・阿波・土佐でも作られるようになって、いずれも将軍への献上品になっています。ただ、備前・讃岐のものは原料が鰆なんです。味はボラで作ったものより少し落ちるようです。しかし値段はとても高いし、珍味です。決しておかずにするようなものではありません。
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備讃瀬戸航路からの瀬戸大橋の日の出
 ところが元禄時代は「大江戸バブルの時代」で、京・大坂・江戸などの都市を中心に大商人が大勢現れたころです。こういう富裕な人たちが、お祝い事や贈答品・茶の湯の料理・魚の肴として「将軍への献上品カラスミ」を、お金にかまわずに求めたのです。高級品志向・グルメ志向の仲間入りをカラスミが遂げたわけです。今までは商品価値のなかったものが高級品として売れ出します。それが、鰆を求めて周辺の漁民達が大槌島周辺に押しかけ騒ぎを起こさせた原因だったようです。今の時代にも、よく似た話は対象を買えて「再生産」されています。

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この大曽の瀬をめぐって江戸時代に備前の日比・利生・渋川三力村と讃岐の香西が争います。備前側の言い分は次の通りです
「去年(享保一六年)以来香西浦の者共みだりに入り込み漁猟せしめ、あまつさえ大槌島をも浦内とあいかすむる段」
香西の漁民がみだりに入り込み、大槌島は讃岐香西のものだとかすめると訴えています。しかし、双方の訴状を見てみると、備前側の方が出漁している船は多いのですが・・。
 
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 裁定は、どう進んだんでしょうか。

「右論所あい決せざるにつき木村藤九郎・斉藤喜六郎さし遣はし検分を遂げるところ」
 評定所の役人が江戸から実地検分に来たようです。そして判決は、次の通りでした
「大槌島の中央を境と定め、双方へ半分ずつあい付け候」
つまり、大槌島が讃岐と備前の「境」となったのです。
からすみをめぐる漁場争いが大槌島を二つに分けたと言えるのでしょうか。
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大槌島

参考文献 千葉幸伸 讃岐の漁業史について 香川県立文書館紀要創刊号 
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 紀州漁民に学んだ鯛大網

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紀州からやってきた鯛網漁の漁船団

秀吉が大阪城を築城しているころのことです。
小豆島沖に紀州から何艘もの漁船がやってきて、沖での漁を願い出ます。
彼らは紀州塩津浦(和歌山県)の漁民たちで、当時のハイテク技術で装備された鯛網の操業集団でした。そのさい、無断で漁場に入り込んだのではなく小豆島土庄村に入漁費を支払います。
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和歌山漁民の小豆島庄屋への約定書

 慶安四年(一六五二)に紀州塩津村(和歌山県海草郡下津町)の彦太夫らが小豆島土庄村大庄屋の笠井三郎右衛門に宛てて出した約定書です。読んでみましょう。
「貴殿鯛網の引き場預かり申すにつき進物の色々あい定むること。
 一つお年頭に参るとき、酒二斗……、一回二月網に参るとき……」
 漁を行う代償として、笠井家に贈る進物が約されています。大変な数の贈り物と入漁料です。鯛網がいかに大きな利益をもたらすものだったかがうかがわれます。
日付けが四月一日ですから、旧暦三月の鯛網の季節が過ぎて帰るときに次の年の入漁を約束したものでしょう。笠井家の他の文書を見ると紀州からの入漁は慶長年間から始まっていることがわかります。

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 取れた鯛を、どこへ持っで行って売ったのでしょうか。

それは大坂です。大阪ではまだ秀吉が生きていた頃に魚市場が作られています。
遠くまで魚を生きたままで運べる生簀船も現れます。
大坂で売って、豊富な資金をもって他国へ出漁したのでしょうか?
そうではなく、大坂商人の前貸しを受けていたようです。
魚を捕る技術に長けた紀州漁民を経済的に大阪商人が支援していたのです。

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地元の網元達は、このような紀州漁民にの活躍ぶりを見ていただけでしょうか。
そうではありません。寛永二十(1643)年には豊島甲生村漁民が紀州鯛網をまねて操業を始めます。しかし、大金をはたいて大網や船を揃えますが、技術や経験ががともなわなかったため思うような漁獲が得れなかったようです。「真似してやったが失敗して借金だけが残った」と地元には伝わっています。
 したがって、当初は地元漁民が鯛網をおこなうより紀州漁民に漁場を賃貸する方が村にとっては利益が高かったようです。

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それでは、讃岐の人々は鯛大網の技術をマスターできなかったのでしょうか。
そうではありませ。リベンジが行われます。
例えば真鍋島の真鍋家文書を見ると、寛文三年(1663)、真鍋島に近い丸亀藩領の海で「鯛こぎ網のかずら場」という言い方が出てきます。こぎ網というのは、岡にこぎ寄せて捕る地漕ぎ網かもしれませんが、紀州の漁民が開発した方法です。元禄期に、真鍋島近海に紀州塩津の漁師が入漁してきたということが出てきますから、讃岐の人々が紀州の漁民に学んだようです。
そして、讃岐にも鯛網漁はしだいに普及していきます。
大槌島と香西浦の間にある榎股や大槌島と小与島の間の中住の瀬という漁場は鯛網の良漁場として知られるようになります。

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 香西 漁民は初めは紀州のやりかたを学んだ

 榎股で鯛網を行ったのは主として香西の漁民でした。
土庄の笠井家文書によると、天和三年(一六八三)という時期に香西の利兵衛という漁師が土庄沖での鯛網を願い出て請け負わせてもらっています。香西漁民は、小豆島近海に出漁して紀州のやりかたを学んだのではないでしょうか。
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高松市生島沖の榎股は、全国に知られる鯛の漁場に

それから100年ほど後に刊行された「日本山海名産図会」には讃州榎股の鯛網が紹介されて、「明石鯛・淡路鯛よりたくさん捕れる」と書かています。
榎股というの高松市生島沖の海です。ここが全国的な鯛の漁場として有名になります。紀州網の入漁から数えると200年たっています。
この間に讃岐の漁民は鯛大網の漁法をマスターし、そのトップランナーに成長していたと分かります。
同時に、鯛の好漁場をめぐる漁場の対立が頻繁に起こるようになってくるのです。

参考史料 千葉幸伸 讃岐の漁業史について 香川県立文書館紀要創刊号

汐木山の麓の汐木湊の今昔

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詫間湾の南に、かつては甘南備山として美しいおむすび型の姿を見せていた汐木山。
今は採石のために、その「美貌」も昔のことになってしまいました。
そのふもとをあてもなく原チャリツーリングしていると・・・
河辺に大きな燈籠が見えてきました。

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燈籠大好き人間としては、燈籠に吸い付けられる俄のようなもの・・・
自然と近づいていきます。

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汐木荒魂神社の東方の馬場先に、建っているのですが場違いに大きい。約六メートル近くはありそうです。

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燈籠正面には[太平社]と刻まれています。
側面には「慶応元年乙丑六月立」、
「発願 三木久太郎光萬 福丘津右衛門秀文 世話人竹屋文吉 土佐屋武八郎 
 藤屋百太郎 汐木浜中」とあります。
刻まれた「汐木浜中」という文字が気になります。
少し「周辺調査」をすると

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こんな記念碑を見つけました。
説明板にはこう書かれてありました。
旧跡汐木港
昔この辺り、汐木山のふもと三野津湾は百石船が出入りした大干潟であった。
寛文年間(1660)頃、丸亀藩京極藩によって潮止堤が築かれ、汐木水門の外に新しく港を造った。これが汐木港である。当時藩は、御番所、運上所、浜藏(藩の米藏)を建て船の出入り多く、三野郡の物資の集積地となり北前船も寄港した。
明治からは肥料・飼料・石材を揚げ、米麦・砂糖等を積みだし、銀行商店が軒を並べたが1937年の「的場回転橋」が固定で港の歴史は終わった。ちなみに、荒魂神社の常夜灯大平社は、かつての港の灯台であった。
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先ほどの大きな燈籠は、やはりただものではなかったのです。
汐木港の灯台の役割ももっていたのです。なお、この高灯寵の位置は、現在よりも北方にあったそうです。いま燈籠があるところから北が、かつての汐木湊だったのです。今では、想像できないのですが、その頃の汐木は湊としての機能を備えていました。
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詫間の的場からさらに南まで船が遡り、現在の汐永水門のあたりに湊が築かれ、その岸壁には高灯龍、御番所(汐木番)、浜蔵(藩御用米の収納)などが建てられていました。汐木港には、吉津や比地・高瀬などから年貢米や砂糖などの物資が集まり、丸亀やその他に船で運ばれていきました。

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背後の汐木山に鎮座する汐木荒魂神社の狛犬には「天保丸亀大阪屋久蔵」などの屋号がついた十二名の丸亀の商人の名前が刻まれています。北前前などの廻船が、粟島や積浦の湊だけでなく、この汐木湊からも北海道までも産物を積み出していました。そして、北海道産の昆布や鯡などの北のの産物を積んで帰ったのです。

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汐木荒魂神社
港の背後には旧村社が鎮座しています。
戦前に旧吉津村は、青年団を中心とした運動によって汐木(塩木)荒魂神社を「讃岐十景」に当選させています。その記念碑が誇らしく建っています。「讃岐十景」を見に登ってみましょう。

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汐木荒魂神社
長い階段が待っていました。
見上げて一呼吸いきます。

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安政2年のお百度石と、陶器製の狛犬が迎えてくれました。
ここから汐木港を見守ってきたのでしょう。

昭和初期の新聞には、この港が次のように紹介されています。

  汐木の繁栄を高らかに伝える新聞記事 (香川新報)
西讃詫間の奥深く入りし高瀬川の清流注ぐ河口に古来より著名の一良港あり汐木港と云ふ。
吉津村にありて往時は三野郡一圃の玄関口として殿賑なる商港であったが海陸の設備に遠ざかりしか一時衰退せしも近時は米穀,飼料及び夙等の集散港として讃岐汐木港の名声は阪神方面に高く観音寺港を凌駕せんす勢いを示して居る。
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時の流れに、港は取り残されていきます。

 「近代」という時代の流れがこの港を呑み込んでいきます。
河口港である汐木港は水深も浅く、大きな船の入港はできません。
そして、1903年には、港の前面に塩田が築造され、幅30メートルほどの運河によって三野津湾とつながった状態になります。さらに日露戦争直前には,善通寺の陸軍第11師団により善通寺と乗船地の 1つである須田港を結ぶ道路が建設・整備され,その運河に「回転橋」が架けられました。その上に 1913年には予讃線の多度津・観音寺間が開業します。運河に架けられた橋を、料金を払って通過する必要のある汐木港は不利です。そのため省営バス路線開通に伴う的場回転橋の固定化にも目立った反対はなかったようです。

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現在,汐木集落は塩田跡地のゴルフ場や住宅地によって三野津湾から遠く隔てられています。かつて荷揚場や倉庫があった付近には新しい住宅が立ち並び,港町であった当時を偲ばせるものはほとんどありません。

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中世三野湾 復元地図

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