瀬戸の島から

カテゴリ:讃岐近世史 > 高松藩松平頼重

「寺々由来」の成立時期を探る手掛りを、研究者は次のように挙げていきます。
 この書には、松平家の御廟所法然寺のことが書かれていません。前回もお話ししたように仏生山法然寺は那珂郡小松庄にあった法然上人の旧蹟生福寺を、香川郡仏生山の地に移したものです。建設は寛文八(1668)年に始まり、2年後の正月25日に落慶供養が行われています。その法然寺がこの書には登場しないので、寛文十(1670)年より前に成立していたと推測できます。ところが、ここで問題が出てきます。それはこの時に創建されていたはずの寺でも、この書には載せられていない寺があるのです。それを研究者は次のように指摘します。
①「仏生山條目」の第23條に「頼重中興仁天令建立之間、為住持者波為報恩各致登山法夏可相勤之」と定められた浄上宗の國清寺・榮國寺・東林寺・真福寺。
②頼重が万治元年に寺領百石を寄進し、父頼房の霊牌を納め、寺領三百石を寄進して菩提寺とした浄願寺
③明暦四年に、頼重が百石寄進した日光門跡末天台宗蓮門院
④頼重が生母久昌院の霊供料として寛文八年に百石を寄進した甲州久遠寺末法花宗廣昌寺
このように頼重に直接関係する寺々が、この書には載せられていないのです。これをどう考えればいいのでしょうか? その理由がよく分りません。どちらにしても、ここでは、法然寺の記載がないからと言って、本書成立を寛文十年(1670)以前とすることはできないと研究者は判断します。

結論として、本書の成立は寛文十年よりやや遅れた時期だと研究者は考えているようです。
その根拠は、東本願寺末真宗寒川郡伝西寺の項の「一、寺之證檬(中略)十五代常如上人寺号之免書所持仕候」という記述です。ここに出てくる常如という人物は、先代琢如が寛文11年4月に没した後を受けた人になります。(「真宗年表」)。そうすると、この書が成立した上限は、それ以後ということになります。また下限は、妙心寺末禅宗高松法昌寺は延宝三年十一月に賞相寺と改められます(「高松市史」)。しかし、この書には、法昌寺の名で載っています。また、延宝四年に節公から常福寺の号を与えられて真宗仏光寺派に属した(「讃岐国名勝国合」)絲浜の松林庵が載っていません。ここからは延宝2年頃までに出来たことが推測できます。

鎌田博物館の「諸出家本末帳」と「寺々由来書」を比較してみて分かることは? 
高松藩で一番古い寺院一覧表①「御領分中寺々由来書」を観てきましたが、これと「兄弟関係」にあるのが鎌田共済会図書館の②「諸出家本末帳」です。この書は昭和5年2月、松原朋三氏所蔵本を転写したことを記す奥書があります。しかし、原本が見つかっていません。この標題の下に「寛文五年」と割書されているのは、本文末尾の白峯寺の記事が寛文五年の撰述であるのを、本書全体の成立年代と思い違いしたためで、本文中には享保二(1717)年2月の記事があるので、その頃の成立と研究者は判断します。成立は、「由来書」についで、2番目に古い寺院リストになります。両者を比べて見ると、内容はほとんど同じなので、同じ原本を書写した「兄弟関係」にあるものと研究者は考えています。両者を比べてみると、何が見えてくるのでしょうか? まず配列について見ていくことにします。

寺由来書と本末帳1
由来帳と本末帳の各宗派配列
上が①の由来書、下が②の本末帳で、数字は所載の寺院数です。
①大きい違いは、「由来書」では浄土・天台・真言・禅・法華・律・山伏・一向の順なのに、「本末帳」では、一向が禅宗の次に来ていること。
②真宗内部が「由来書」では西本願寺・東本願寺・興正寺・東光寺・永応寺・安楽寺の順なのに、「本末帳」では興正寺・安楽寺・東光寺。永応寺・西本願寺・東本願寺の順序になっていること
これは「本末帳」は一度バラバラになったものを、ある時期に揃えて製本し直した。ところが欠落の部分もあって、元の姿に復元できなかったと研究者は考えています。
③掲載の寺院数は、両書共に浄土8・天台2・律12・時宗1・山伏1です。真言は105に対して59、禅宗は7と5、 真宗は129に対して121と、どれも「本末帳」の方が少いようです。
④欠落がもっとも多いのは真言宗で、仁和寺・大覚寺とも「本末帳」は「由来書」の約半数しかありません。これも欠落した部分があるようです。
「由来書」と「本末帳」の由緒記述についての比較一覧表が次の表3です。
由来書と本末帳
「由来書」と「本末帳」の由緒記述の比較
上下を比べると書かれている内容はほとんど同じです。違いを見つける方が難しいほどです。ただ、よく見ると、仁和寺末香東郡阿弥陀院(岩清尾八幡別当)末寺六ヶ寺の部分は配列や記述に次のような多少の違いがあります。
①の円満寺については「由来書」にある「岩清尾八幡宮之供僧頭二而有之事」の一行が「本末帳」にはありません。
③の福壽院について「本末帳」には、「はじめ今新町にあり、寛文七年、中ノ村天神別当になった」と述べていますが「由来書」には、それがありません。
⑤の薬師坊について「由来書」には「原本では記事が消されている」と断書しています。「本末帳」では、そこに貼紙があり、「消居」というのはこの事を指すようです。
⑥の西泉坊については、「由来書」には記事がありますが、「本末帳」にはありません。
全般にわたって見ると、多少の違いがありますが、内容は非常ににていることを押さえておきます。

研究者は表4のように一覧化して、両者の異同を次のように指摘します。
由来書と本末帳3

①志度寺の寺領は江戸時代を通じて70石でした(「寺社記」)。ところが「由来書」は40石、「本末帳」は50石と記します。「由来書」成立の17世紀後半頃は、40石だったのでしょうか。
②真言宗三木郡浄土寺の本尊の阿弥陀如来について「由来書」は安阿弥の作と記します。「本末帳」は「安阿弥」の三字が脱落したために「本尊阿弥陀之作」となってしまっています。
④法花宗高松善昌寺について、「由来書」は「日遊と申出家」の建立、「本末帳」は「木村氏与申者」の建立と記します。建立者がちがいます。
⑤真宗南条郡浄覚寺は「由来書」は「開基」の記事だけですが、「本末帳」では「開基」とともに「寺之證檬」とあります。
⑥の真宗北条郡教善寺(「本末帳」は教専寺)、⑦の真宗高松真行寺の例を見ても、真宗寺院の記事は、ほとんど例外なく「開基」と「寺之證拠」の二項があります。
⑧真宗高松覚善寺、⑨の徳法寺ともに「本末帳」では「寺之證拠」が貼紙で消されています。なお真宗の部で、「由来書」では例外なく「一、開基云々」とあるのを「本末帳」では「一、寺開基云々」とし、また「由来書」では「以助力建立仕」を「本末帳」では「以助成建立仕」という表現になっています。以上から、州崎寺の本は鎌田図書館本の直接の写しではないと研究者は判断します。
以上をまとめておくと
①「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」は、寛文九(1668)年に高松藩が各郡の大政所に寺社行政参考のために同時期に書上げ、藩に提出させたものとされてきた。
②法然寺が載せられていないので、法然寺完成以前に成立していたともされてきた。
③しかし、法然寺完成時には姿を見せていた寺がいくつか記載されていない。それは、松平頼重に関連する寺々である。
④以上から法然寺完成の1670年以前に成立していたとは云えない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」
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新編 香川叢書 全六巻揃(香川県教育委員会編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
香川叢書(昭和14年発行 昭和47年復刻)

私が師匠からいただいた本の中に「香川叢書」があります。久しぶりにながめていると「真福寺由家記」が1巻に載せられていました。それを読んでの報告記を載せておきます。
 香川叢叢書1巻18Pには、真福寺由末記の解題が次のように記されています。
仲多度郡紳野村大学岸上の浄土宗真福寺は、法然上人の配流地那珂郡小松庄での止住遺蹟と伝ふる所謂小松三福寺(四条村清福寺・高篠村生福寺)の一で、もとは同郡四條村にあつたが、寛永二年高篠村に移轄再興され、更に寛文二年藩主松手頼重が復興を計らせた。この記はその復興の成りしを喜び、寛文三(1663)年正月、松平頼重自ら筆執つて書いた由来記である。(同寺蔵)

高松藩藩祖の松平頼重自身の筆による由来記のようです。読んでみましょう。

讚州那珂郡高篠村の真福寺は、源空上人(法然)之遺跡、念佛弘通之道場也。蓋上人念佛興降之御、承元丁卯仲春、南北之強訴により、月輪禅定之厚意にまかせて、暫営寺に棲遅し、源信自から作る本尊を安置して、六時に礼讃ス。直に専念を行すれは、群萌随て化し、唯名字を和すれは、往生日こに昌なり。道俗雲のとくに馳、英虜星のごとくに集まる。而后、皇恩勅許之旨を奉し、阪洛促装,の節に及て、弟子門人相謂曰く。上人吸洛したまわは、誰をか師とし、誰をか範とせん。洪嘆拠に銘し、哀馨骨に徹す。依之上人手つから、諸佛中之尊像を割ミ、併せて極難値遇の自影をけつり、古云く、掬水月在手、心は月のこく、像は水のとしし誰か迄真性那の像にありと云はさらんや。而華より両の像を当寺に残して、浄土の風化盆揚々たり。中葉に及て、遺雌殆頽破す。反宇爰にやふれ、毀垣倒にたつ。余当国の守として、彼地我禾邑に属す。爰に霊場の廃せんとすると欺て、必葛の廣誉、あまねく檀越の信をたヽき、再梵堂宇を営す。予も亦侍臣に命して、三尊の霊像を作りて以寄附す。空師の徳化、ふたヽひ煕々と然たり。教道風のとくにおこり。黎庶草のとくにす。滋に法流を無窮に伝ん事を好んして、由来の縁を記す。乃ち而親く毫を揮て、以て霊窟に蔵む。維時寛文三歳次癸卯初春下旬謹苦。
     
  意訳変換しておくと
讚州那珂郡高篠村の真福寺は、源空上人(法然)の旧蹟で、念佛道場である。承元丁(1207)年卯仲春、南北之強訴により流刑となり、月輪禅定(九条良経)の荘園・小松荘にある当寺で、生活することになった。法然は自から彫った本尊を安置して、一日六回の礼讃を、専念して行っていると、高名を慕って多くの人々が集まってきて、名号を和するようになった。みるみるうちにいろいろな階層の人々が雲がたなびくように集まってきた。
 その後に、勅許で畿内へ帰ることを許さたときには、弟子門人が云うには「上人が京に帰ってしまわれたら、誰を師とし、誰を範としたらよいのでしょうか。」と嘆き悲しんだ。そこで上人は、自らの手で尊像を彫り、併せて自影を削った。古くから「掬水月在手、心は月のごとく、像は水のごとし 誰か迄真性那の像にあり」と云われている。このふたつの像を残して、法然は去られた。
 しかし、その後に法然の旧蹟は荒廃・退転してしまった。私は、讃岐の国守となり、この旧蹟も私の領地に属することになった。法然の霊場が荒廃しているのを嘆き、信仰心を持って、檀家としての責任として堂宇を再興することにした。家臣に命して、三尊の霊像を作りて、寄附する。法然の徳化が、再び蘇り、教道が風のごとくふき、庶民が草のごとくなびき出す。ここに法然の法流を無窮に伝えるために、由来の縁を記す。毫を揮て、以て霊窟に収める。
 寛文三(1663)年 癸卯初春下旬 謹苦。
内容を整理しておくと次のようになります
①那珂(仲)郡高篠村の真福寺は法然の讃岐流刑の旧蹟で、念佛道場で聖地でもあった。
②法然は、この地を去るときに、阿弥陀仏と自像のふたつの像を残した。
③松平頼重は、退転していた真福寺を再興し、三尊を安置し、その由来文書を収めた。
真福寺1
真福寺(まんのう町岸上 法然上人御旧跡とある)
少し補足をしないと筋書きが見えて来ません。
①については、残された史料には、小松荘で法然は生福寺(しょうふくじ)(現在の西念寺)に居住し、仏像を造ったり、布教に努めたといいます。当時、周辺には、生福寺のほか真福寺と清福寺の三か寺あって、これらの寺を法然はサテライトとして使用した、そのため総称して三福寺と呼んだと伝えられます。真福寺が拠点ではなかったようです。
小松郷生福寺2
 生福寺本堂で説法する法然(法然上人絵伝)

法然が居住した生福寺は、現在の正念寺跡とすれば、真福寺は、どこにあったのでしょうか?
満濃町史には「空海開基で荒れていたのを、法然が念仏道場として再建」とあります。真福寺が最初にあったとされるのはまんのう町大字四條の天皇地区にある「真福寺森」です。ここについては以前にお話したので省略します。
真福寺森から見た象頭山
四条の真福寺森から眺めた象頭山

松平頼重による真福寺の復興は、仏生山法然寺創建とリンクしているようです。
 法然寺建造の経緯は、「仏生山法然寺条目」の中の知恩院宮尊光法親王筆に次のように記されています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳すると
①浄土宗の開祖法然が、建永元年に法難を受けて土佐国へ配流されることになった。
②途中の讃岐国で。九条家の保護を受けて小松庄の生福寺でしばらく滞在した。
④その後戦乱によって衰退し、草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影だけが残っていた。
⑤それを源頼重(松平頼重)が高松藩主としてやってくると、法然上人の旧跡を興して仏生山へ移し、仏閣僧房を造営して新開の田地を寺領にして寄進した

 ここには頼重が、まんのう町にあった生福寺を仏生山へ移した経緯が記されています。これだけなら仏生山法然寺創建と真福寺は、なにも関わりがないように思えます。
ところが話がややこしくなるのですが、退転していた真福寺は、松平頼重以前の生駒時代に再建されているのです。
もう少し詳しく見ておくと、生駒家重臣の尾池玄蕃が、真福寺が絶えるのを憂えて、岸上・真野・七箇などの九か村に勧進して堂宇再興を発願しています。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったのです。生駒家の時代に真福寺は現在の西念寺のある場所に再建されたことを押さえておきます。
 その後、生駒騒動で檀家となった生駒家家臣団がいなくなると、再建された真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重ということになります。
頼重は、菩提寺である法然寺創建にとりかかていました。その創建のための条件は、次のようなものでした。
①高松藩で一番ランクの高い寺院を創建し、藩内の寺院の上に君臨する寺とすること
②水戸藩は浄土宗信仰なので、浄土宗の寺院で聖地となるような寺院であること
③場所は、仏生山で高松城の南方の出城的な性格とすること
④幕府は1644年に新しく寺院を建てることを制限するなどの布令を出していたので、旧寺院の復活という形をとる必要があったこと。

こうして、法然ゆかりの聖地にあった寺として、生福寺は仏生山に形だけ移されることになります。そして、実質的には藩主の菩提寺「仏生山法然寺」として「創建」されたのです。その由緒は法然流刑地にあった寺として、浄土宗門徒からは聖地としてあがめられることになります。江戸時代後半には、多くの信徒が全国から巡礼にやって来ていたことは以前にお話ししました。いまでも、西念寺(まんのう町羽間)には、全国からの信者がお参りにやって来る姿が見えます。

真福寺3

真福寺(讃岐国名勝図会)
 その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。
それが現在地の岸の上の岡の上になります。その姿については、以前にお話ししたのでここでは触れません。真福寺再建完了時に、松平頼重自らが揮毫した由来記がこの文章になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
真福寺由来記 香川叢書第1巻 446P

  高松藩の初代藩主松平頼重の弟は、水戸藩の徳川光圀です。長子相続が当たり前の時代に、どうして、兄頼重が水戸藩を継がなかったのかについては、複雑な問題が絡み合っているようです。それを探っている内に、頼重や光圀の父が気になり出しました。今回は水戸藩初代藩主の頼房について見ていくことにします。テキストはテキストは「古田俊純 徳川光圀の世子決定事情    筑波学院大学紀要第8集」です
徳川(トクガワ)とは? 意味や使い方 - コトバンク  
 頼重と光圀の父である水戸藩初代藩主徳川頼房は、1603(慶長八)年8月10日に家康の末男として誕生します。
わずか3歳で常陸下妻10万石を与えれ、6歳で常陸水戸25万石へ加増転封されますが、なにせ幼少ですので、家康のお膝元である駿府で育てられまします。
 1610年(慶長15年)7月に父家康の側室於勝(英勝院)の養子になり、翌年に8歳で元服して頼房を名乗りますが、水戸へは赴かず江戸で過ごします。
水戸の藩主たち~徳川頼房~ | 歴史と文化と和の心
徳川頼房
頼房は「公資性剛毅ニシテ勇武人二過玉フ」と、武勇の人であったようです。
光圀も父の武勇談を「故中納言殿の御事、いろいろ武勇の御物語多し」とあるので、よく語ったようです。武勇の人であった頼房は、若いときには歌舞伎者でした。彼の服装や言動について次のように記します。

「公壮年ノ時、衣服侃刀ミナ異形ヲ好玉ヒ、頗ル行儀度アラス。幕府信吉ヲ召テ、譴責アラントス。」

そのために服装・行動に問題があり、家臣の中山信吉が必死の諫言をしたと伝えられます。江戸時代初めには、時代に遅れて生まれた勇猛な若い武士たちは、歌舞伎者になって憂さを晴らしました。頼房もその一人だったようです。そして、女遊びを覚えます。次の表は、頼房の子女一覧です。頼房には公認された子弟として、男子11人・女子15人、合計26人の子があったことが分かります。この他にも「未公認」の子弟も数多くいたようです。

徳川頼房子女一覧表
徳川頼房子女一覧表
26人の子女というのを、どう考えればいいのでしょうか?
頼房は、生涯正室を持ちませんでした。頼房の側室は8人までは確認できるようですが、それ以上いたようです。
 それでは、どのような女性を側室にしているのでしょうか。
表の1の頼重と7の光圀の母は、久昌院谷久子です。彼女は鳥居忠政の家臣だった谷重則の娘で、水戸家に老女として仕えていた母の側にいたので、頼房の寵愛をえたようです。
2の通、3の亀丸、4の万、8の菊、10の頼元、13の頼雄、21の藤の母は、円理院佐々木勝です。彼女は生駒一正の家臣、佐々木政勝の娘です。弟の藤川正盈は『水府系纂』に、「元和六年威公二奉仕ス、時二九歳ナリ。姉円理院卜同居シ、奥方二於テ勤仕ス」と記されています。彼女は1602(慶長七)年生まれですから、1620(元和六)年には19歳でした。頼房の寵愛を受けるようになったので、弟も召抱えられています。彼女は、女中奉公をしていたのを見初められたようです。
5の捨、9の小良、11の頼隆、14の頼泰、16の律、19の重義の母は寿光院藤原氏です。彼女は興正寺権僧正昭玄の娘です。
6の亀の母は野沢喜佐で、出自は扶持取の家臣、野沢常古某の娘で、出産後「七夜ノ中二死ス。十六歳」と『水府系纂』にあります。
12の頼利の母は真了院三木玉で、三木之次の兄で播磨の光善寺住職長然の娘。
15の頼以と17の房時の母は原善院丹波愛。
20の大と24の市の母は真善院大井田七。
25の助の母は高野氏。
18の不利と22の竹と23の梅の母は、「某氏」としか分かりません。
26の松に至っては、「女子」とあるだけ。
水戸藩の家臣の系譜集である『水府系纂』で確認できる側室は、兄弟が召抱えられた谷久子と佐々木勝、藩士の娘であった野沢喜佐と姪であった三木玉の3人だけです。
ここからは、残った四人プラスαの側室たちは、水戸藩士の娘ではなかったと研究者は考えています。竹・梅・松の母親の姓名は分かりません。なぜ名前が伝わらなかった理由は、女子のみ生んだ身分の低い女性だったためだったのでしょう。

徳川頼房―初代水戸藩主の軌跡― - 水戸市立博物館 - 水戸市ホームページ

 大名の子、とくに若君を生んだ側室は厚遇されるのが普通です。
谷氏や藤川氏にみられたように、 一族・兄弟の新規召抱えとなる場合もありました。しかし、藤原氏と丹波氏には、このような形跡が見られません。ここからは、頼房は正規の手続きをへて側室を迎えたのではなく、女中奉公に屋敷に上がっていた女性や、出先で身分の低い女性たちに手を着けていったことが推測できます。そのため「未公認」の子弟も数多くいたようです。
それでは生まれた子女は、どうなったのでしょうか。
 誕生した26人の子女のうち1男3女は早世して、成入したのは男子10人女子12人、合計22人です。男子のうち大名になったのは、頼重(高松12万石)、光圀、頼元(守山2万石)、頼隆(府中2万石)、頼雄(宍戸1万石)です。残りの頼利・頼泰・頼以・房時は光圀が寛文元年(1661)に相続したとき、領内の地三千石をそれぞれに分知しています。
女子のうち大名・公家に嫁したのは、通(松殿道昭室)、亀(家光養女前田光高室)、不利(本多政利室)、大(頼重養女細川網利室)の4人だけです。小良は英勝院の養女となって、鎌倉の英勝寺を相続しています。ほかの7人は家臣に嫁いでいます。これに対して、尾張・紀州の男子はみな大名になり、女子はみな大名・天皇公家に嫁いでいます。これと比べると、見劣りがするようです。男子のうち4人は三千石分知されたといっても、実質上は家臣となっています。 女子も七人が家老級とはいえ、家臣に縁付いています。
幕府も努力はしていますが、頼房がもうけた子供が多すぎたのです。そのためこういう結果となったと研究者は指摘します。そして次のように評します。
  頼房は子供の将来を考えもしないで、水戸徳川家が必要とする家族計画をもたず、つぎからつぎへと多い年には、1年に三人も子供を誕生させた。

頼房は、どうして正室をむかえなかつたのでしょうか。

威公(頼房)御一代御室これなき故は、威公御幼少の時台徳公(秀忠の詮号)の御前にてどれぞの聟にしたしと台徳公仰られけるを、台徳公の御台所御傍におわしまして、あの様なるいたづらな人を、誰か聟にせうぞとありければ、御一代それを御腹立終に御室これなき由。

意訳変換しておくと
水戸の頼房公に正室がいないのは、頼房公が幼少の時に将軍秀忠の御前で、どこかの大名にしたいおっしゃると、傍らにいた御台所が「あんないたづらな人を、誰が婿にしましょうか」とおっしゃた。それを聞いた頼房は立腹して正室をもうけることはなかった。

これはあくまで噂話ですが、当時の大奥での頼房観を伝えているのかも知れません。御三家水戸家の若い当主であった頼房には、将軍家をはじめいろいろな所から縁談が持ち込まれたはずです。いくら歌舞伎者であったとしても、それを拒否し続けることはきわめて難しかったことが推測できます。にもかかわらず、断りとおせたのは、なにか事情があって、将軍はじめ周囲のものも無理強いできなかったのかもしれません。理由は分かりませんが頼房は、正室を迎えて行動の自由を制約されることを嫌い、とくに女性に関して自由奔放に生きる道を選んだことを押さえておきます。
 時代に遅れて生まれた頼房は勝れた武勇の才能を発揮する場をえられず、その憂さを晴らす場さえ奪われていったのかもしれません。頼房はそれを、身近かにいて思うがままになる女性たちに求めるようになります。そこには真実の愛情など望むべくもなかつた、と研究者は指摘します。

1622(元和八)年7月1日に頼房の第一子頼重は誕生します。
頼房19歳の時で歌舞伎者として気ままな生活を送っている頃です。懐妊を知った頼房は、流産を命じます。そのために江戸の三木邸で密に出生したようです。
その事情を高松藩の「家譜」は、次のように記します。

初め谷氏懐李之際、頼房相憚義御坐候て、出生之子養育致間敷との内意にて、(此時頼房兄尾張義直・紀伊頼宣ともに未た男子無之に付相憚候義の由、其後光圀も内々之次か別荘にて谷氏之腹に出生候得共、其節ハ尾・紀ともに男子出生以後に付、追て披露有之候由に御坐候)谷氏を仁兵衛へ預け申候処、仁兵衛義窃に頼房養母英勝院(東照宮の妾太田氏)へ相謀り、同人内々之指揮を得候て、出生之後仁兵衛家に養育仕候。然るに江戸表に差置候ては故障之次第も御座候二付、寛永七年庚午六月九歳にて京都へ指登し、滋野井大納言季吉卿ハ仁兵衛内縁御座候二付万事相頼ミ、大納言殿内々之世話にて洛西嵯峨に閑居仕候。

意訳変換しておくと
初め谷氏の懐妊が分かった際に、頼房は尾張・紀伊藩への配慮から、産まれてくる子を養育せず(水子にせよ)と伝えた。(この時には、頼房公の兄尾張義直・紀伊頼宣ともに、まだ男子がなかったので配慮のためであった。その後光圀公も内々に別荘で谷氏が出産したが、この時には、すでに尾・紀ともに男子が出生していたので、追て披露することになった。) こうして谷氏を仁兵衛へ預けた、仁兵衛は秘かに頼房の養母英勝院(東照宮の妾太田氏)へ相談し、その内々の指揮を得て、頼重を仁兵衛宅でに養育した。ところが江戸表で「故障之次第」となり、寛永七年六月、頼重9歳の
時に、京都へ移し、仁兵衛は内縁の滋野井大納言季吉卿に相談し、洛西嵯峨に閑居させた。そして、1632(寛永九)年、11歳の時に江戸に帰ったとあります。
始めてて子供が出来ると知ったときの頼房の感情や反応は、どうだったのでしょうか。
20歳で、正室を迎えていなかつた若い頼房に、子供をもうける考えはなかったはずです。子供が出来るという慶びよりも、まずい、どうしようと思い、二人の兄のことが思い浮かんだのではないでしょうか。それが「水子とせよ」という命令になって現れます。
 流産を命じられた家臣の三木は、英勝院の指揮を受けて秘かに出産させ、養育します。ところが「故障(事情)」があって9歳のときに、内縁(季吉は三木の娘の夫)のある滋野井大納言に依頼して、京都に送ったというです。
これは『桃源遺事』の記載とは、次の点が違います。
①頼重を京都に送ったのは2歳のときで、 16歳まで京都にいて「出家」させる予定だったこと
②「家譜」のかっこに入れた細字注がないこと。
「家譜」がこの部分を本文にしないで注記としたのは、確証がもてなかったからでしょう。
「此時頼房兄尾張義直・紀伊頼宣ともに未た男子無之に付相憚候義の由」は、押さえておきます。たしかに当時、尾張・紀伊には子供が誕生していなかったのです。

二番目の子である通は1624(寛永元)年に生まれています。この時点でも尾張と紀伊には子供はありません。尾張義直の最初の子・光友は1625(寛永二)年、紀伊頼宣の最初の子光貞は1626(寛永三)のことです。
 頼重問題がおきて以後、重臣達の諫言や親戚筋も説得して、頼房も納得したようです。それは、寛永四年以降は、毎年二人、三人と子供が生まれていることからもうかがえます。
ところが、光圀の誕生の際には、ふたたび頼房は流産を命じるのです。どうしてなのでしょうか
『桃源遺事』には、次のように記されています。
御母公西山公を御懐胎なされ候節、故有て水になし申様にと頼房公仁兵衛夫婦に仰付られ候所に、仁兵衛私宅にて密に御誕生なし奉り、深く隠し御養育仕候。
意訳変換しておくと

光圀公を御懐胎された時に、故有て水子にするようにと頼房公は仁兵衛夫婦に申しつけた。しかし、仁兵衛は自宅で密に出産させて、秘かに隠して養育した。

理由は「故有て」とだけで具体的なことは記されていません。そして、「密に」水戸の三木邸で誕生し、養育されています。もちろん、頼房に知れると生命の危険があったからでしょう。

どうして頼房は、久昌院谷久子にふたたび水子を命じたのでしょうか。
徳川頼房子女一覧表

表をみると、これ以後彼女は子供を生んでいません。一方、円理院佐々木氏と寿光院藤原氏はその後も出産し続けています。そして、側室の数も増えています。ここからは光圀の出産を機に、久子は頼房の寵愛を失ったことがうかがえます。
それでは、なぜ久子は頼房の寵愛を失ったのでしょうか。
そこにあるのが頼重をめぐる葛藤だと研究者は推測します。
頼重は1630(寛永七)年、9歳のときに京都に送られています。『桃源遺事』では2歳とありますが、水戸の頼重の京都行きと帰還の扱いは、弟の光圀が世子となったことを合理化するために操作されているから、高松藩の記録のほうが信頼できると研究者は考えています。
三木之次の妻武佐は頼房の乳母の姉で、頼房に気に入られていたようです。
 その縁で之次を頼房は「乳母兄」と呼んでいたと『水府系纂』は記しています。これだけ信頼されていた三木夫妻だったからこそ、二人の兄弟を密に誕生させ、養育できたのでしょう。しかし、頼重が9歳のときに京都に送ったということは、夫妻の力では守りきれなくなったようです。頼房は頼重が誕生し、どこかに生きていることを知つて激怒したでしょう。その時期に久子は、光圀を妊娠したのです。
 久子は頼重の安全のため一切語らなったはずです。そうだとすれば、命令にそむいて長男を出産し、その事情を語ろうともしない久子に頼房は怒りを抱き、「出産は認めない!水子にせよ」という態度をとったのでしょう。こうして久子への寵愛は消えていきます。
 頼房は、ふたたび三木夫妻に託して流産を命じます。命じられた三木夫妻は、頼重を探し始めた頼房をみて、今度はより安全な水戸で出産させ、養育したのでしょう。どちらにしても、頼房は正常な家庭をもとうとはしなかつた人物であったと研究者は考えています。

以上をまとめておきます
①高松藩初代藩主の松平頼重の父は、水戸藩祖の徳川頼房である
②頼房は、家康の末の男の子として幼年にして水戸藩を継いだ。
③頼房は、天下泰平の時代に遅れてやって来た武勇人で、歌舞伎者でもあった。
④時代の流れに取り残されるようになった頼房は、「女遊び」にはまり、多くの女性に手を付けた。
⑤公認されている子女だけでも26人で、それを産んだ女性達も多くは身分の高い出身ではなかった。
⑥このような風評は、兄の将軍秀忠や大奥にも及び、評判はよくなかった。
⑦そのような仲で、20歳で最初の子・頼重が産まれることが分かると、水子にして流すことを家臣に命じた。それは、兄の紀伊公や尾張公への世間体を重んじたものだとされる。
⑧これに対して養母於勝(英勝院)は、秘かに養育を命じた。
⑨さらに、それが頼房に知れると京都の天龍寺塔頭に預けた。これが頼重9歳から12歳のことである。
⑩その後、何人かの子供は生まれてくるが、光圀が生まれてきたときには、再度水子にすることを命じている。
⑪この背景には、自分の命を守らずに頼重を養育していた側室への怒りもあった。

つまり、頼重と光圀の兄弟は、父頼重から一度は命を奪われかけた存在であったようです。そして、この時点では水戸藩をどちらが継ぐかについては、決まっていなかったというのです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
古田俊純 徳川光圀の世子決定事情    筑波学院大学紀要第8集

高松市御坊町 興正寺別院
高松御坊町にある興正寺別院と勝法寺
 高松市の御坊町という町名は、ここに高松御坊があったことに由来するようです。高松御坊は、現在の興正寺別院にあたります。興正寺別院と勝法寺は並んで建っていて、その前の通りがフェリー通りで、長尾線の向こうには真言の名刹無量寿院があります。このレイアウトを頭に残しながら

高松御坊(興正寺別院)
「讃岐国名勝図会」(1854年)で見てみましょう。
 勝法寺という大きな伽藍を持った寺院の姿が描かれています。これが高松御坊でもありました。この広大な伽藍が戦後の復興と土地整理の際に切り売りされて、現在の御坊町になったようです。通りを挟んで徳法寺・西福寺・と3つの子坊が見えます。その向こうに見える無慮寿院の伽藍の倍以上はある大きな伽藍だったことが分かります。この辺りは江戸時代には寺町と呼ばれ、西方の市役所辺りまで、大きな寺院がいくつも伽藍を並べて、高松城の南の防御ラインでもありました。そのため勝法寺の南側には堀が続いているのが見えます。このような広大な伽藍と、偉容を備えた寺院を誕生させたのは高松藩初代藩主松平頼重です。その裏には頼重の真宗興正派保護政策があったようです。まずは、ここにこのような寺院が現れる経過を見ていくことにします。
興正寺別院歩み

高松興正寺別院の境内の石碑「高松興正寺別院の歩み」の一番最初には次のように刻まれています。
1558年 興正寺第16世証秀上人讃州遊化。

これについて『興正寺付法略系譜』には、次のように記します。
永禄ノ初、今師(証秀)讃州ノ海岸ニ行化シ玉ヒ一宇ヲ草創シ玉フ

永禄年間(1558~70)のはじめに、興正寺門主の証秀が讃岐の海岸に赴き、一宇を草創したとあります。この一宇が現在の高松別院のことを指すと伝えられています。また現在の高松別院のHPの寺伝には次のように記されています。

 1558年(永禄元年) 興正寺第十六世 証秀上人が教化活動として讃岐を訪問されたのをきっかけに、当時、東讃を支配下に置いた阿波の三好好賢(三好実休)の庇護を受けて、「楠川の地(現高松市上福岡町)」に高松御坊勝法寺を建立。現在地へは、1614年(慶長19年) 高松藩主 生駒正俊公の寄進により、寺地三千坪で移転。

 証秀は興正派の富田林の地内町建設に大きな役割を果たすと同時に、彼の時代に西国布教を進めています。しかし、実際に讃岐や四国に来たことはないと研究者は考えているようです。証秀が讃岐に赴いて建立したと述べられていますが、これは憶測で、証秀の代に高松御坊(現在の高松別院)が開かれたとまでしか云えません。ここでは現在の興正寺富田林別院や、高松別院も証秀上人の代に開かれたと伝えられていることを押さえておきます。

16世紀半ばになると三好氏配下の篠原氏に従って、讃岐国人の香西氏や十河氏が畿内に従軍します。
そして本願寺を訪れ真宗門徒となり、帰国して地元に真宗の菩提寺を建立するようになることは以前にお話ししました。この背後には、三好氏の真宗保護政策があったようです。どちらにしても16世紀半ばには、髙松平野には本願寺や真宗興正寺派の末寺が姿を見せるようになっていたようです。
 文献によって確実に高松御坊(別院)が確認できるのは、天正11年(1583)2月18日の文書です。
三好実休の弟で十河家を継いだ十河存保が、高松御坊の坊主衆に対して出したもので次のように記されています。

 野原野潟之寺内、池戸之内四覚寺原へ引移、可有再興之由、得其意候、然上者課役、諸公事可令免除者也、仍如件(「興正寺文書」)

意訳変換しておくと
 ①野原の潟の寺内を、②池戸の四覚寺原へ引き移し、再興したいという願いについて、それを認める。しかる上は③課役、諸公事などを免除する。仍如件
 
野原郷の潟(港)の寺内町と坊を四覚寺原に再興することを認め、課税などを免除する内容です。池戸の四覚寺原とは、現在の木田郡三木町井上の始覚寺周辺になるようです。この時点では讃岐御坊は、高松を離れ三木の常光寺周辺に移ったことが分かります。

 野原・高松・屋島復元図
中世の野原の港(現高松市) 背後に無量寿院が見える
 ①の「野原の潟」とは野原の港周辺のことです。
髙松平野で最も栄えていた港であったことが発掘調査から明らかになっています。その背後にあったのが無量寿院です。その周辺に真宗門徒の「寺内町」が形成され、道場ができていたともとれます。同時期の宇多津でも鍋屋町という寺内町が形成され、そこを中心に「鍋屋下道場」が姿を現し、西光寺に成長して行くことは以前にお話ししました。しかし、「可有再興之由」とあるので、移転ではなく「再興」なのです。ここからは高松御坊は、お話としては伝わっていたが、実態はなかったことも考えられます。この時期は、興正寺の中本寺として三木の常光寺が末寺を増やしている時期です。
常光寺と始覚寺と十河氏の拠点である十河城の位置を、地図で見ておきましょう。

常光寺と十河城
三木の始覚寺 常光寺の近くになる
地図で見ると、常光寺や始(四)覚寺は、十河氏の支配エリアの中にあったことがうかがえます。ある意味では、十河氏の保護を受けられるようになって始めて、教勢拡大が展開できるようになっとも考えられます。ちなみに、安楽寺の末寺である安原村の安養寺が教線を拡大していくのも、このエリアです。ここからは次のような仮説が考えられます。
①三好氏は阿波安楽寺に対して、禁制を出して保護するようになった。
②安楽寺は、三好氏の讃岐侵攻と連動する形で真宗興正派の布教を展開した。
③三好氏配下の十河氏や香西氏も真宗寺院を保護し菩提寺とするようになった。
④そのため十河氏や香西氏の支配エリアでは、真宗寺院が姿をみせるようになった。
⑤それが安養寺や常光寺、始覚寺などである。

十河文書出てくる再興を認められた池戸の四覚寺の坊について見ておきましょう。
坊の境内地を寺内と表記し、その寺内への加役や諸公事を免除するといっています。寺内は寺内町の寺内で、加役や諸公事を免除するとはもろもろの税を免除するということです。ここからは坊の境内地には俗人の家屋もあって、小規模な寺内町をかたち作っていたと推測できます。しかし、四覚寺原での再興がどうなったのかははよく分かりません。また、常光寺との関係も気になるところですが、それを知る史料はありません。

高松野原 中世海岸線
中世の海岸線と御坊川流路
再び御坊が三木から高松に帰ってくるのは、1589(天正17年)のことです。
 讃岐藩主となった生駒親正は、野原を高松と改め城下町整備に取りかかります。そのためにとられた措置が、有力寺院を城下に集めて城下町機能を高めることでした。そのため高松御坊も香東郡の楠川河口部東側の地を寺領として与えられ、それにともなって坊も移ってきます。親正は寺領の寄進状に、この楠川沿いの坊のことを「楠川御坊」と記しています(「興正寺文書」)。ここにいう楠川はいまの御坊川のことだと研究者は考えています。そうだとすれば楠川御坊のあったのは、現在の高松市松島町で、もとの松島の地になります。

高松御坊(興正寺別院)2
東寺町に勝法寺が見える 赤は寺院で寺町防衛ラインを形成
さらに1614(慶長19)年になって、坊は楠川沿いから高松城下へと移ります。
それが現在地の高松市御坊町の地です。これは、先ほど見たよう高松城の南の防衛ラインを寺町として構築するという構想の一環です。寺院が東西に並べられて配置されたのです。その配置先が高松御坊の場合には、無量寿院の西側だったということになります。

高松城下図屏風 寺町2
高松城下図屏風
生駒騒動の後、1640年に初代高松藩主として松平頼重が21歳でやってきます。
 松平頼重は水戸徳川家の祖徳川頼房の長子で、母は徳川光圀と同じ家臣の谷重則の娘です。しかし頼房は、頼重が兄の尾張・紀伊徳川家に嫡男が生まれる前の子であったため、遠慮して葬らせようとした所、頼房の養母英勝院(家康の元側室)の計らいで誕生したといわれます。そのため、頼重は京都天龍寺の塔頭慈済院で育ち、出家する筈でした。英勝院が将軍家光に拝謁させ、常陸国下館五万石の大名に取り立てられ、その後に21歳で讃岐高松12万石の城主となりました。このような生い立ちを持つ松平頼重は、京都の寺社事情をよく分かっていた上に、的確な情報提供者を幾人ももっていたようです。そして、宗教ブレーンに相談して生まれたのが次のような構想だったのでしょう。
①真宗興正派の讃岐伝道の聖地とされる高松御坊(高松別院)を勝法寺とセットで創建する。
②勝法寺は京都の興正寺直属として、代々の住職は興正寺より迎える。
③その経済基盤として150石を寄進する。
④御坊護持のために3つの子院(徳法寺・西福寺・願船坊)を設置する。
高松御坊(興正寺別院)3
勝法寺とセットになった高松御坊(興正寺別院)
このような構想の下に、現れたのが高松御坊と勝法寺が一体となった大きな伽藍のようです。ところが「入れ物」はできたのですが、その運用を巡って問題が発生します。それは次のような2点でした。
①勝法寺が奈良から移されたよそ者の寺で、末寺などが持たず政治力もなかった。
②勝法寺は興正寺直属のために、興正寺から僧侶が派遣された。
このため讃岐の末寺との関係がうまく行かずにギクシャクしたようです。そこで、松平頼重が打った手が、頼りになる地元の寺を後見としてつけることです。そのために選ばれたのが次の2つの寺です。
①三木の常光寺 興正寺末の中本寺として数多くの末寺保有
②安原村の安養寺 阿波安楽寺の末寺ではあるが髙松平野への真宗興正派の教線拡大の拠点となり、多くの末寺保有
このふたつの寺については以前に紹介しましたので詳しく述べませんが、讃岐への真宗興正派の教線拡大に大きな役割を果たし、数多くの末寺を持っていました。そして、目に見える形で勝法寺の後見寺が安養寺であることを示すために、安養寺を高松の城下町へ移動させます。その場所は、先ほど讃岐国名勝図会でみた見た通りです。この場所は、寺町防衛ラインの堀の外側になります。これは、寺町が形成された後に、安養寺が移転してきたために外側でないと寺地が確保できなかったようです。こうして、常光寺と安養寺を後見として勝法寺は、京都の興正寺直属寺として機能していくことになります。

松平頼重は、どうしてこれほど興正寺を保護しようとしたのでしょうか。 
一般的には、次のような婚姻関係があったことが背景にあると言われます。
松平頼重の興正寺保護

しかし、これだけではないと研究者は考えています。
松平頼重の寺社政策についての腹の中をのぞいてみましょう

大きな勢力をもつ寺社は、藩政の抵抗勢力になる可能性がある。それを未然に防ぐためには、藩に友好的な宗教勢力を育てて、抑止力にしていくことが必要だ。それが紛争やいざこざを未然に防ぐ賢いやりかただ。それでは讃岐の場合はどうか? 抵抗勢力になる可能性があるのは、どこにあるのか? それに対抗させるために保護支援すべき寺社は、どこか? 

具体的な対応策は?
①東讃では、大水主神社の勢力が大きい。これは長期的には削いでいくほうがいいだろう。そのために、白鳥神社にてこ入れして育てていこう。
②髙松城下では? 生駒藩時代には、祭礼などでも楯突く神社が城下にあったと聞く。岩清尾神社を保護して、ここを高松城下町の氏神として育てて行こう。そして、藩政に協力的な宮司を配そう。
③もっとも潜在的に手強いのは、真言宗のようだ。そこに楔をうちこむために、長尾寺と白峰寺の伽藍整備を行い、天台宗に転宗させよう。さらに智証大師の金倉寺には、特別に目をかけていこう。
④讃岐の真言の中心は善通寺だ。他藩ではあるが我が藩にとっても潜在的な脅威だ。そのためには、善通寺包囲網を構築しておくのが無難だ。さてどうするか? 近頃、金毘羅神という流行神を祭るようになって、名を知られるようになった金毘羅大権現の金光院はどうか。ここを保護することで、善通寺が牽制できそうだ。
松平頼重の宗教政策
潜在的な脅威となる寺社(左側)と対応策(右側)
⑤もうひとつは、讃岐に信徒が多い真宗興正派の支援保護だ。興正寺とは、何重にも結ばれた縁戚関係がある。これを軸にして、高松藩に友好的な寺院群を配下に置くことができれば、今後の寺社政策を進める上でも有効になる。そのためにも、京都の興正寺と直接的につながるルートを目に見える形で宗教モニュメントとして創りたい。それは、興正派寺院群の威勢を示すものでなければならない。
このような思惑が松平頼重の胸には秘められていたのではないかと私は考えています。

高松興正寺別院
現在の興正寺高松別院

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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白峯寺の重要文化財指定記念行事
久しぶりに白峯寺を訪れて、驚いたのは国の重要文化財に指定されている建物が増えていることです。以前は、十三重石塔だけだったと思うのですが一度にまとめて9つの建物が指定されています。十年ほど前に調査報告書が出されて、その価値が改められて認識された結果のようでです。県民としては誇らしいことです。ということで、今回は重文指定になった白峯寺の堂舎を追いかけてみようと思います。テキストは、「山岸 常人 白峯寺の建造物  調査報告書NO2(2013年) 香川県教育委員会」です。
  まずは、2017年7月に重文指定を受けた建物9棟を確認しておきます。
①本堂(附:厨子)
②大師堂(附:厨子、棟札1枚)
③阿弥陀堂
④行者堂(附:棟札1枚)
⑤薬師堂
⑥頓證寺殿(崇徳上皇殿、本地堂、白峯権現堂、拝殿)(附:棟札7枚)1680年(延宝8年)建立
⑦勅額門
⑧客殿(附:棟札1枚)
⑨御成門(附:棟札3枚)(附指定)勅使門、七棟門
   これらの建物を建築世紀で分類すると次のようになるようです。近世に建てられたものが15棟あります。その建立年代を下表で確認しておきましょう。
白峯寺 建造物建立年代

17世紀 8棟
18世紀 3棟
19世紀 4棟
 これらの建物は、すべて近世か近代に建てられたもので、中世に遡るものはないようです。この中で頓証寺の5棟は同時期に、高松藩主松平頼重によって建てられています。また、阿弥陀堂は境内の最古の建造物であり、装飾が少なく他の堂舎は一線を画する建物とされます。以上から現在の白峯寺の伽藍配置は、17世紀後期には、現状の体裁を整えていたと研究者は考えています。

ここで疑問に思うのは、本堂(千手院)は生駒藩の支援や院主別名の勧進で慶長9年(1604)に、再建されたばかりだったはずです。また、頓証寺も寛永20年(1643)に再興されていたことが棟札から分かります。ところが、本堂も頓証寺も、あまり時を置かずに再度建て直されています。これは何故なのでしょうか? 私に思いつくことは、次の2つくらいです。
①寛永年間までの再興事業が充分なものではなく、松平頼重は整備計画の一からのやり直しを始めた
②何らかの災害を被ったために、新たな構想に基づく新規の整備事業を始めた
松平頼重の白峯寺整備計画を年表化すると次のようになります。
寛永20年(1643)崇徳上皇慰霊のための頓證寺再興 →延宝8年の再築 
万治 4年(1661)阿弥陀堂建立寄進。その維持料として青海村北代新田免10石寄進。
延宝 7年(1679) 御本地堂を再建立、
延宝 8年(1680)崇徳天皇社・相模坊御社・拝殿の再建立、勅額門建立
元禄 2年(1689) 崇徳院陵の前に、一対の石燈籠を献納
本堂も建立年代を伝える史料はありませんが、頓証寺の堂舎とほぼ同時期の作と研究者は考えているようです。この年表を見ると、「新整備計画」の最初に建立されたのが阿弥陀堂(1661年)になります。あるいは、「新整備計画」の計画前に建立された「中世的な最後の堂宇」の可能性もあります。

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白峯寺阿弥陀堂

まずは、白峯寺で一番古い阿弥陀堂から見ていくことにします。
阿弥陀堂 正面三間、側面二間、宝形造、本瓦葺   万治四年(1661 記録)

白峯寺阿弥陀堂平面図
白峯寺阿弥陀堂平面図

白峯寺本堂の北にあるのが阿弥陀堂で、土壇基石の上に正面3間、側面2間の宝形造りの小さな建物です。中央に阿弥陀三尊、その後ろの壁面に十段の階段が作られ、高さ16cmの木造阿弥陀如来小立像が千体並べられているので、「千体阿弥陀堂」とも呼ばれていたようです。

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白峯寺阿弥陀堂 (柱は円い) 

柱は細めの丸柱で、柱は床下まで丸く造られていること、彫刻の少ない簡素な形式であることから、「中世的な建築技法を踏襲している建物」と研究者は指摘します。つまり、阿弥陀堂建立までの白峯寺の建築物は「中世的」様相が強かったようです。それが阿弥陀堂以後に姿を現す建物は、近世的な様式にモデルチェンジしていきます。そこには施主である松平頼重の意向が強く出ているのかもしれません。この建物以後は、白峯寺の建物は「近世的」なものに様変わりしていくことを押さえておきます。
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白峯寺阿弥陀堂説明版
 ちなみに真言宗と阿弥陀信仰は、現在ではミスマッチのように思えますが、中世においては高野山自体が念仏聖たちによって阿弥陀信仰のメッカになっていました。中世の白峯寺も阿弥陀念仏信仰の拠点として、多くの高野聖たちが活動していたことは、先に見てきたとおりです。その「真言系阿弥陀念仏」の信仰施設だったと考えられます。

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白峯寺の頓證寺拝殿
阿弥陀堂建立後の10年後に、松平頼重が取り組むのが崇徳上皇慰霊のための施設である頓證寺の堂舎群です。
勅額門・拝殿・本地堂・崇徳天皇社・相模坊御社の再建に一気に取りかかります。これについては、次回にお話しします。頓證寺の堂舎群と同時並行的に姿を見せたのが、本堂だと研究者は考えているようです。

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白峯寺本堂

白峯寺本堂を見ておきましょう。
「本堂  桁行三間、梁間三間、入母屋造、向拝一間、本瓦葺     十七世紀後期」

白峯寺 本堂1
白峯寺本堂

白峯寺の中心となる堂字です。規模の大きな三間堂で、柱は太く安定した重厚感のある建物です。組物は出組で拳鼻を付け、中備は蚕股に双斗を置く和様を基調としています。が、向拝の繋ぎには海老虹梁を用います。また、垂木を扇垂木とする点に禅宗様の要素が色濃く表れていると研究者は指摘します。内部は一室で、後方に来迎柱・須弥壇を構え、厨子を置きます。天丼は二重折上天丼で上質に作られています。

白峯寺本堂内厨子
白峯寺本堂内の厨子
 本堂内の厨子は方一間、入母屋造、妻入、正面軒唐破風付、本瓦形木瓦葺で、禅宗様四手先、詰組の組物です各組物には尾垂木が三本使われ、繰形の付いた華やかなもので、扉の入子板には地紋彫りがほどこされています。「極めて質の高い厨子」と研究者は評価します。

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白峯寺本坊御成門
本坊御成門   享保九年(1724 棟札)
桁行一間、梁間二間、切妻造、正・背面軒唐破風付、鋼板葺 
規模の面ではやや小規模ですが特徴的な四脚門です。例えば、控柱の足下の反りを見てください。極端といえるほど反り返っています。ここまでの反りは、あまり例を見ないものだと研究者は指摘します。
 親柱を控柱より高く作り、海老虹梁で繋ぐスタイルは、頓証寺勅額門とも共通します。同系統の大工集団が担当していたことがうかがえます。
 すべての肘本を繰形付とし棟通りに大きな蟇股を置き、三ヶ所の蟇股にすべて仙人の彫刻が彫ってあります。虹梁絵様はよく発達し、十八世紀前期から中期の建築の質の高さをよく示していると研究者は指摘します。独特のスタイルと質の高い技術の御成門は、「小粒ながら境内でもひときわ優れた名作」と研究者は評価します。
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白峯寺行者堂
行者堂 安永八年(1779 棟札)
 正面三間、側面三間、宝形造、向拝一間、本瓦葺  
本堂・阿弥陀堂よリー段下がった斜面に立つ小堂で、役行者と閻魔などの十王を祀ります。

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研究者の講評を見てみましょう。
角柱を用い長押も用いない簡素な形式で、内部も背面に作り付けの仏壇を構え、側面には後補の棚風の仏壇を付けた簡略な構え。
中備蟇股の内部は白峯寺拝殿のそれと同意匠の人字形割束風。
厨子は方一間の入母屋造、妻人、軒唐破風付で尾垂木付の二手先を詰組として、彩色を施す上質なもので17世紀後期の作。
白峯寺 行者堂内の厨子
           白峯寺行者堂内の厨子
つまり、中に収められた厨子と建物が同時代のものではないようです。厨子は「現在の行者堂の前身堂か別の建物の厨子」と研究者は考えています
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白峯寺七棟門 

七棟門  十八世紀後期
一間、高麗門、本瓦葺、両脇袖塀、切妻造、本瓦葺          
白峯寺・頓証寺の惣門の役割を持ちます。太い柱を用い、やはり大い角格子の扉を構えた高麗門で、両脇の塀の二段に低くなります。屋根共々、城を思わせる堅固な構えを見せています。

白峯寺 大師堂2
白峯寺大師堂
大師堂  文化八年(1811 棟札)
正面三間、側面三間、宝形造、向拝一間、本瓦葺、背面軒下張出付、本瓦茸、背面下屋庇付板葺                         

本堂と並んで立つ三間堂で、本堂よリー回り小さく見えます。その狭さを補うためか背面の軒下まで堂内に取こんで、さらに下屋を付けています。頭貫をすべて虹梁形とする点が特徴で、垂木は本堂とちがって平行垂木です。頭貫その他の虹梁絵様や中備蟇股は雲紋が彫られて、いかにも19世紀らしい意匠を備えています。寛政四年の勧進の版木が残されているので、早くから建設が企画されていた事が分かります。
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白峯寺薬師堂
薬師堂(金堂)十九世紀前期
正面三間、側面三間、二重宝形造、本瓦葺           
頓證寺の拝殿の上、行者堂の下に立つ二重屋根の三間堂です。何かしらか細い塔ような印象を私は持ちました。下層は角柱で、組物は出三斗を組んで軒は平行垂木、上層は円柱を用いて尾垂木・拳鼻の付いた出組で扇垂木。ここから「一間裳階付禅宗様仏殿」と研究者は考えています。県下では、この形式は他にないようです。

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白峯寺薬師堂(金堂)
研究者の講評を見ておきましょう。
下層内部の四本の柱は、裳階の三間の中央間より柱間が広いので、裳階柱と内部を繋ぐ海老虹梁は円柱には挿さらない。円柱を繋ぐ虹梁形飛貫に大瓶束を立てて、そこへ海老虹梁を挿す。(第89図)。
上層の組物の尾垂木は拳鼻の変形で、そこ雲紋を彫り、さらにその上に重ねて同様に雲紋を彫った拳鼻を付けられています。そのため組物廻りは相当に賑やかになっている。(第90図)。
 下層内部は、背面に寄せて間ロー間の厨子を造り、厨子と円柱の間も貫・台輪で繁いで屋根もそのまま延ばす。間口三間の入母屋造妻入の厨子は、二段に尾垂木を付けた三手先組物を詰組として、厨子全体を黒と朱で彩色する蒙華なもの。(第91図)
上から89図 90図 91図
白峯寺 薬師堂内部
白峯寺薬師堂の内部

薬師堂については建立年代を示す史料がありませんが、一間裳階付仏殿の形式、柱の配置とそれにともなう架構の妙、壮麗な厨子、上層の豪華な組物など、「多彩な特徴を備えた十九世紀前期の秀作」と研究者は評価しています。

弁天社十九世紀前期  一間社、流見棚造、銅板葺                      
護摩堂の西に立つ一間社流造の小社です。寛政十二年刊行の「四国遍礼名所図会」に、現在地と見られる場所の池の中に小社が描かれています。弘化四年刊の「金昆羅参詣名所図会」にはそれを弁天社と記していますので、江戸時代後期からこの場所にあったことが分かります。今の建物は十九世紀初頭に建て直されたものと研究者は考えています。

本坊勅使門    一間、棟門、切妻造、鋼板葺      19世紀前期
白峯寺の山門である七棟門をくぐって、本坊の西面に開く小さな門です。御成門や頓証寺勅額門と同じように、親柱棟まで到達させる形式で、「細部の意匠も独特な華麗がある上質の建物」と研究者は評価します。
 本坊の客殿は延宝年間に建立されたと伝えられ、隣接する玄関もそれに次いで18世紀前期までに建てられたと研究者は推測します。
P1150744
白峯寺山王九社
また大師堂の東の階段を上った一段高い所に立つ山王九社は「九間社流見世棚造」で、鉄板葺の簡素な建物ですが、白峯寺の天台教団との関わりを示す重要な建物と、研究者は指摘します。ただし今の建物は近代に入って建て直されています。

髙松藩の支援を受けながら白峯寺の堂宇が整備されてきたことを見てきました。その成果を、19世紀に書かれた絵図で見ておきましょう。
白峯寺 金毘羅参詣名所図会(1847)3
白峯寺 (金毘羅参詣名所図会(1847年)
ここには白峯寺の洞林院本坊を中心に、白峯寺の東半分が描かれています。茶堂があるのが現在の駐車場。そして稚児川にかかる橋を渡ると、総門の七棟門。その参道の右に大きな敷地を占のが洞林院本坊です。そして参道に面して、御成門と勅使門が並びます。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)
白峯寺 讃岐国名勝図会(1853年)
讃岐国名勝図会を見ると現在の堂宇配置と基本的には変わらないものになっています。
香川県内の四国八十八ヶ所札所寺院の中には、五間堂の本堂を持つ寺院と三間堂以下の規模の寺院があります。これは中世以来の各寺院の歴史を反映したものなのでしょう。白峯寺境内には五間堂以上の大規模な仏堂はなく、三間堂およびそれに類するものばかりです。境内の三間堂は阿弥陀堂・頓証寺本地堂、本堂・行者堂・薬師堂・大師堂の六棟です。阿弥陀堂は藩主松平氏の本格的な造営支援が始まる以前の古風な仏堂で、境内では異質な存在であることは先の見たとおりです。
 本堂は六棟の中で最大規模で、軒を扇垂木とする点は特異ですが、それ以外は正統的な仏堂です。薬師堂は変わった柱配置と意匠を持った一間裳階付の禅宗様仏殿風の個性豊かな建物です。門は、頓証寺勅額門・御成門。勅使門・七棟門の四棟があって、それぞれ形式を異にしています。それだけでなく、七棟門以外は親柱を棟まで伸ばす点が共通します。勅額門・御成門は、やはり形式・意匠の独自性にあふれた優品で、髙松藩のお抱え宮大工の技量の高さをしめすものです。それが、今回の9件の建築物が一括して重要文化財に指定されることになった背景のようです。
崇徳上皇陵と頓證寺 讃岐国名勝図会拡大
讃岐国名勝図会部分拡大

以上をまとめておきます。
①頓証寺の崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂・拝殿の四棟の建物、勅額門は同時期に―連の工事で建てられた極めて上質の堂舎群であること
②頓證寺の建築物と同時並行的に、本堂も工事が進んでいたこと。
③これらの工事は松平頼重によって進められていたこと
④17世紀後半になると、崇徳上皇600回忌に向けて、境内の整備計画が5代松平頼重によって進められたこと
⑤本坊客殿・御成門も同時期の一連工事によるものであること。
⑥これらの工事には、藩の宮大工たちが継続して投入され、意匠も共通する要素が多いこと
⑦それは、残された棟札に藩の外護が記されており、伽藍全体が高松藩の経済的支援とその配下にある大工たちによるものであること。

重要文化財に指定された建物群は、17世紀後半に髙松藩初代藩主の松平頼重の「白峯寺伽藍整備新プラン」の下に建てられた建物が中心になっていることが分かります。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  山岸 常人 白峯寺の建造物  調査報告書NO2(2013年) 香川県教育委員会
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   中世末期に長尾寺は、戦乱に巻き込まれて衰退したようです。
『補陀落山長尾寺略縁起』には
「寺の縁起・記録等、天正年中の比、国家の擾乱によりて、皆ことごとく焼失、諸堂と同じく灰焼となるに本尊は不思議に残った」

と記されます。天正年間(1573~92)に兵火のため諸堂は焼失したと、讃岐の有力寺院と同じような記述が見えます。 また『讃岐国名勝図会』には「文明年中兵火にかかり」とあるので、それ以前の文明年間(1469~87)にも焼失した可能性もあります。しかし詳しいことは分かりません。

近世になっての長尾寺の復興は、どのように進められたのでしょうか
讃岐の名所の和歌や社寺由緒等をまとめた延宝5年(1677)の「玉藻集」には、次のように記されます。
「(略)本尊観音、立像、長三尺弐寸。弘法大師作。亦阿弥陀の像を作り、傍に安置し給ふ。鎮守天照太神。むかしは堂舎雲水彩翠かゝやき、石柱竜蛇供せしか共、時遠く事去て、荒蕪蓼蓼として、香燭しはしは乏し。慶長のはじめとかや、国守生駒氏、名区の廃れるをおしみ再興あり」

ここからは、当時の境内が、かつての壮麗な伽藍の姿を失い、「時遠く事去て、荒蕪蓼蓼」とた寂しい状況だった様子が分かります。それを惜しんだ生駒家が再興したと云いますが、その具体的な内容は記されていません。
2 長尾寺 境内図寂然

元禄2年(1689)の『四国偏礼霊場記』に描かれた長尾寺の挿絵です。
真念らの情報をもとに高野山の僧寂本がまとめたもので、天下泰平の元禄時代を迎えて、長尾寺の伽藍が次第に整備されている様子が読み取れます。観音堂(本堂)以外にも、鎮守である天照大神を祀る社殿や、高野の念仏聖の拠点であった阿弥陀堂は復興しています。また入口には仁王門らしき建物も見えますし、長尾街道には門前町も形成されています。そして、観音院と呼ばれる庫裡も姿を見せています。
元禄2年(1689)の時点で、長尾寺がここまで復興していたようです。
長尾寺の復興推進の力になったのは何だったのでしょうか。
 讃岐の近世の復興は、天正15年(1587)に讃岐へ入部してきた生駒氏によって始められます。宗教的には、流行神の一つとして生み出された金比羅神を保護し、330石もの寄進を行い金毘羅大権現へ発展の道を開いたのも生駒氏です。讃岐の近世を幕開けたのは、生駒氏ともいえます。
 玉藻集には、荒廃していた長尾寺に再興の手を差し伸べたのは生駒家2代目一正だったとあります。また『讃岐国名勝図会』も
「慶長年中 生駒一正朝臣堂宇再興なしたまひ
と記します。ここからは、慶長年間に、長尾寺を初めとする札所寺院の復興が生駒氏によって始められていたことが分かります。
これは、阿波や土佐に比べると讃岐は、札所復興のスタートが早かったようです。
 それでは生駒時代に長尾寺の復興は、どのレベルまで進んだのでしょうか。
天下泰平になり復興が進み、中世の修験者や六十六部のようなプロの参拝者に替わって、アマチュアの「四国遍路」が段々増えてくる中で、承応2年(1653)に、四国辺路に訪れたのが澄禅です。彼の「四国遍路日記」には、長尾寺が次のように記されています。
長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺。八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ 七ケ所ナリ」

彼は、当代一流の学僧でもあり、文章も要点をきちんと掴んでいます。ここからは、次のような事が分かります。
①本堂は南向きで、本尊が聖観音、
②寺の名前は長尾寺ではなく観音寺と呼ばれていたこと
③国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に当寺を加えて讃岐七観音と呼ばれていた。
②③から、この時にはこの寺は観音寺と呼ばれ観音信仰の拠点だったようです。東讃の札所霊場では、讃岐七観音が組織されていたことが分かります。
①では伽藍については、本堂のみです。その他のお堂については何も触れていません。澄禅は、その他の霊場のお堂については全て触れています。書いていないのは、本堂以外にお堂がなかったと推測できます。生駒藩によって再興されたのは、この時点では本堂だけだったとしておきましょう。
 寛永17(1640)の生駒騒動によって生駒藩が取りつぶされた後、東讃岐に入ってきたのが水戸の松平氏です。
高松藩初代藩主の松平頼重は、独自の宗教戦略を持っていたようです。彼の宗教政策のいくつかを挙げてみると
①藩主松平家菩提樹である仏生山法然寺の創設と高位階化
②金毘羅大権現の朱印地化と全国展開
③京都の真宗興正寺との連携と興正寺派の寺領内での保護
  ただ保護するだけではなく、彼の寄進保護の背後には政策的な狙い隠されていたように思われます。

寛文9年(1669)に、松平頼重が領内寺院の由来等を報告させた「御領分中寺々由来」には長尾寺は「讃州宝蔵院末寺」の真言宗寺院として
「正保年中、松平讃岐守頼重被再興之事」

と記されています。これが事実ならば、頼重は入封して間もない正保年中(1640年代)に長尾寺を再興したと記します。しかし、具体的にどの建築物を寄進したのかは触れていません。「玉藻集」等の史料でも、頼重の再興については何も記されません。「歴史的な裏」がなかなか取れず、本堂を再興したのは生駒氏か松平氏か判断する信憑性のある史料がないようです。「四国遍路日記」で見たように1653年段階では、長尾寺には本堂しかないとすると、松平頼重が再興した建物は何だったのでしょうか。考えられることは、次の通りです。
①本堂は生駒氏が再興した。
②生駒騒動で建設途上になっていた本堂を、松平頼重が完成させた。
私は、入国直後のこの時点では松平頼重が長尾寺を保護する理由がなかったとおもいます。長尾寺の優先順位は、低かったはずです。長尾寺が松平頼重の視野の中に入ってくるのは、もう少し後だったのでは内でしょうか。
 『改訂 長尾町史(下巻)』には、天和3年(1683)から貞享2年(1685)にかけて、傷んでいた本堂の茅葺き屋根を修復したと記します。茅葺き屋根なら何年かに一度は、やり替えないといけません。これを修復というのでしょうか。どちらにしろ時期や内容、規模等は分からないにしても、1680年代には松平家の保護を受けるようになり、何らかの修理等が引き続いて行われたことはうかがえます。そこには、なんらかの思惑が松平頼重にはあったはずです。

 それに続く記録は、貞享4年(1687)、真念が四国を歩いて書いた「四国辺路道指南」です。そこには長尾寺は、次のように短く記されています。
「平地、南むき。寒川郡なが尾(長尾)村。本尊正観音 立三尺六寸、大師御作」

ここには伽藍の様子は、ほとんど書かれていません。そして、最初に見た『四国偏礼霊場記』元禄2年(1689)ということになります。
 松平頼重は長尾寺を天和3年(1683)に、真言宗から天台宗に改宗させて実相院門跡の末寺にしています。
それは長尾東村の本寺極楽寺の支配を離れるということです。中世から近世当初には「観音寺」と呼ばれ観音信仰の拠点であったこの寺は、この「改宗」を契機に「長尾寺」と名を改め、長尾村の有力寺院・長尾寺として本寺から自立し独自の道を歩み始めることになります。松平頼重によって、同じく真宗から天台宗に改修させられて札所寺院には根来寺があります。根来寺の改修にも松平頼重の思惑があったことは、以前にお話しした通りです。つまり、根来寺とともに長尾寺を天台宗に改宗し、高松藩における天台寺の拠点とする宗教方針が明確になってきたのでしょう。それは真言勢力への「牽制勢力養成」という戦略的な意図があったと私は考えています。
 天台宗に替わった天和3年頃には、それまで茅葺であった本堂を瓦葺きにする修復が進められたようで、貞事2年(1685)に落慶した記録があります。同時にお堂なども建立され始めたようです。それが四国偏礼霊場記に記されているようです

『四国偏礼霊場記』に描かれているのは、元禄期の造営が行われる以前の長尾寺の姿なのです。
松平頼重の長尾寺伽藍整備は、天台宗に改宗し長尾寺と「改名」してからがスタートでした。
長尾西村の庄屋であった蓮井家に伝わる「蓮井家文書」に次のような記事があります。元禄7(1694)
4月 観音堂(本堂)の普請が始まり、
6月 棟上げ、
8月「観音堂」「二王門」「阿弥陀堂」の普請終わり
と、本堂をはじめ仁王門と阿弥陀堂が同時進行で建てられていたことが分かります。これは「長尾寺略縁起」が「今の堂、二王門等は頼重建立で元禄7年に造営した」という記述と一致します。

長尾寺 聖観音立像
        松平頼重が本尊の前立像として寄進した聖観音立像

また元禄6年に松平頼重が本尊の前立像として聖観音立像(彫刻3)を寄進していることとも時期的に矛盾しません。こういうやり方は、金毘羅さんへの寄進や奉納と同じです。「短期間に集中して、しかも継続的」な寄進を行うのです。
長尾寺 棟札(観音堂再興5) (1)
長尾寺観音堂の再興棟札 元禄14年の年紀が見える

 しかし、長尾寺が所蔵する観音堂と阿弥陀堂の再興棟札(棟札5・9)は、元禄14年(1701)9月のもので、2代藩主松平頼常の名が記されています。縁起は元禄9年、棟札は元禄14年となり、両者の普請時期は一致しません。
考えられるのは、つぎのようなことでしょうか。
①頼重の後で、頼常の代に再び改築が行われたのか、
②元禄7年で終わらず手を加えながら後年完成した
頼重は元禄8(1695)年4月に亡くなっていますので、そんな事情もあったのかもしれません。
 なお、この時に阿弥陀堂は再建されることはありませんでした。
長尾寺 阿弥陀如来坐像11
         阿弥陀堂本尊だった阿弥陀如来
中世の高野山系の念仏聖の拠点であった阿弥陀堂は再建されることなく姿を消します。中世に勧進聖として活躍した彼らの痕跡は消されていきました。
 仁王門については、この時に建てられたものが修理を経ながら今日に至っているようです。そうすると、境内では最も古い建築物となります。

元禄期(1688~1704)の松平頼重や頼常が進められた境内整備状況を年表化しておきましょう
元禄2年 頼常が長尾寺に殺生禁断の制札を与える、
元禄6年 寺領5石寄進。頼重は前立像にあたる聖観音立像を寄進
元禄7年 本堂・阿弥陀堂・仁王門・御成門再建。
     本堂内陣の厨子はこの本堂再建時のものと伝え、戸張に
     「三ッ葉葵」の紋が施されている
元禄14年 本堂及び阿弥陀堂が再建され、棟上げが行われた
元禄期  釣鐘が当地の有志木戸広品によって造られた
宝永7年(1710) 鎮守・天満宮の創建され(棟札10)、
享保3年(1718)、元禄年間の釣鐘が壊れたので、本戸伊通が一族で釣鐘を新造
享保年間初頭 護摩堂が「再建」
 天台宗の拠点寺院にふさわしい伽藍造りが目指されたと私は考えています。仏生山の法然寺とある意味同じような宗教的・政治的威信が求められたのでしょう。元禄期に藩主によって進められた改修を受けて、その後は地域の人々の手によって境内整備等が行われたようです。
これを進めたのが当事の長尾寺住職・了意だったようです。
彼は元文4年(1739)に逝去し、その墓が住職墓域にありますが、こらが長尾寺に残る墓では一番古いようです。長尾寺の住持は隠居や逝去するまでその任を務めることよりも「栄転」することの方が多かったようです。その栄転先は、鶴林寺や金倉寺、実相院門跡など他の天台宗寺院だったようです。ある意味、長尾寺がそれらの転住先の寺院に次ぐ位置にあったことが分かります。ここからも新たに天台宗の有力寺院を作り出すという松平頼重の意図がうかがえます。

長尾寺 阿弥陀如来坐像
阿弥陀如来像
このような状況を伝えるのが、寛政12年(1800)の「四国遍礼名所図会」です。本文には
「本堂本尊聖観世音立像〈御長三尺二寸、大師の御作〉、大師堂(本堂の裏に在〉、天神社(大師の前に在〉」

と記されます。著者九幕主人は「長尾寺門前にて一宿」して、これを書いたようです。
長尾寺 四国遍礼名所図会

この絵を見ると、大師堂が本堂裏にあると書かれているので、
①境内北側中央にある宝形造の堂字が本堂、
②右奥のやや小ぶりな建物が大師堂
③本堂左横の入母屋造の堂字が護摩堂
④大師堂の前方、境内右端奥にあるのが天満宮で、
⑤その手前が宝筐印塔
⑥仁王門は街道からやや奥に建ち、門前には2基の経幢
⑦仁王門前には、境内南端に沿って水路をまたぐ橋
⑧仁王門を入って左の建物は茶堂の可能性
⑨その奥には格子のある小さな建物が見えるが不明
⑩左奥には茅葺屋根の下方を瓦葺にした客殿・庫裏
⑪客殿の土塀に設けられた二つの間のうち護摩堂側は御成門
⑫門前には藁葺きの家屋が並ぶ門前町があり、遍路者や街道を通る人々のための宿等が営まれている。
この絵を見て気づくことは
A 現在の境内の中心的な建物であるる本堂、大師堂、護摩
  堂の三棟が、この頃には整えられていたこと
B 今の境内から比べると大師堂がかなり後方にあったこと
C 阿弥陀堂が消え、代わりに鐘楼が描かれていること。

長尾寺 阿弥陀如来坐像11
長尾寺の阿弥陀堂の本尊だった阿弥陀仏坐像

(3)19世紀前半頃の長尾寺
 幕末から明治初期にかけて全国を遊歴した松浦武四郎は、天保7年(1836)に四国八十八ヶ所を参拝し、弘化元年(1844)に「四国遍路道由雑誌」としてまとめています。そこには長尾寺については、次のように記されています。
「(略)長尾村ニ至る。少しの町家、二王門並びに茶堂等有。八十七番補陀落山観音院長尾寺、従八十六番萱り、在道斗也。此寺は聖徳太子之開基なりと云博ふ。其後大師再興し給ひしとかや。本尊は御長三尺六寸。正観音。聖徳太子之御作なりとかや。境内大師堂=鎮守之社有。」

ここからは門前に「少しの町家」が並び、「二王門」や「茶堂等」のほか「大師堂」「鎮守社」があったことがわかります。さして初めて「茶堂」が明記されています。「二王門並二茶堂等」という記述から、仁王門近くに建っていたとがうかがえます。
 遍路者等の供養記録「他檀家過去帳」にも「茶堂」のことが記されています。
遍路の息絶えた場所では「二王門」に次いで「茶堂」が多いようです。また、安政7年に没した金沢出身の「鏡心法師」よいう人物は、「当山茶堂居三年」とあり、茶堂で3年居住した後に亡くなっています。遍路としてやってきて、その後に参拝者への接待の場である「茶堂」の管理人を務めていたのかもしれません。
この頃の景観を描いたのが、嘉永7年(1854)刊行の『讃岐国名勝図会』です。
本文では境内については、次のように記します。
「本尊聖観音〈行基大士作)、大師堂、護摩堂、○鎮守社(天満宮)」、
「寺記曰く、当寺は天平十一年行基菩薩草創なり。天長二年この国の刺吏良峰安世諸堂を修造して、地名によりて今の寺号に改む。文明年中兵火にかかり、慶長年中生駒一正朝臣堂宇再興なしたまひ、天和年中国祖君源英公(松平頼重)この寺をもって国中七観音の一とす。その余、国分寺。白峰寺・根香寺・屋島寺・八栗寺・志度寺これなり。寺領を賜ひ度々御修造なしたまふ」
とあります。
 挿図は、長尾寺境内と門前の様子を、近隣の西善寺、秀円寺と共に俯瞰して描いています。

長尾寺 『讃岐国名勝図会

①境内の中央奥に「本堂」が南面して建ち
②右横に「大師堂」
③左横に「護摩堂」
④かつては奥まったところにあった大師堂が、本堂に並ぶ位置に出てきています
各堂の配置は、今と同じになりました。しかし、詳しく見ると
「本堂には千鳥破風がなく、大師堂と護摩堂も入母屋造であるなど、建物の姿は現在と異なる」

と研究者は指摘します。現存の本堂は、『讃岐国名勝図会』刊行と同じ年に再建されているので、描かれているのはそれ以前の姿のようです。
87番札所 長尾寺の『大師堂拝観』に行ってきました(*^▽^*)♪@長尾: さぬき市再発見ラジオ あそびの達人
長尾寺大師堂

 拡大すると境内の東端、大師堂の前方には台座に並ぶ3つの仏像らしきものが見えます。これが現在大師堂横にある石造の三世仏のようです。石仏の下方に手水舎が描かれ、右横の現薬師堂が建つ近辺には小さな建物が見えます。これが何なのかは分かりません。その横には「鐘楼」が建ち、長尾街道沿いの境内南端の土塀は、現在のように鈎型に窪んでいません。仁王門に真っ直ぐ連なるように描かれています。
 門前には、2基の経幢と、水路にかかる橋が見えます。仁王門を入って左の建物は、先ほどの史料から茶堂でしょう。
境内奥を見ると、本堂と護摩堂、さらに左の「納経所」まで貫くように渡り廊下が真っ直ぐに続いています。納経所横の二層の建物には「鼓楼」とあり、隣接する「方丈」の土塀の角に建っていたようです。しかし、この絵図の他には、その存在を示す史料等はないようです。

長尾寺

 方丈の土塀には御成門があり、その奥に庭を画する塀の一部が見える。御成門の手前に見える本殿と拝殿、鳥居の上には「鎮守」と記されいます。ここから18世紀には、境内の東側にあった鎮守社(天照大神)が、現在と同じ西側に移されたことが分かります。
 さらに、鎮守社は本堂等のある境内との間を南北に延びる土塀で画され、境内中心部の外に位置するような配置となっています。現在はこの上塀がなくなり、鎮守堂を西端に配置することで、境内中央に広い空間が生まれました。大きな宗教的イヴェントを行うための空間が確保できたことになります。納経所や鼓楼、茶堂などは今はなくなっていますが、今から200年前には、主要な建造物が今日とほぼ同じ位置にあったことが分かります。
 また、境内南の長尾街道を見ると、参詣者だけでなく往来する多くの人々の姿が描かれています。街道の賑わいと、そこに面して立地する長尾寺の「都市の寺院」としての性格を伝えているようです。
長尾寺 毘沙門天立像4
長尾寺 毘沙門天
19世紀後半頃の長尾寺                   
幕末のペリー来航の翌年嘉永7年(1854)9月に、本堂(観音堂)が再建されます。ところが、2ヶ月後の11月に安政の大地震が発生し、「鐘楼・客殿・釣屋・長屋・大師堂」などが大破します。すぐに修造が行われますが鐘楼は再建されずに、鐘は仁王門に吊されたと伝えられます。
長尾寺(四国88箇所:第87札所 香川県)
長尾寺本堂
地震後の復興の様子を年表化してみましょう。
安政2年(1855) 天満宮拝殿の修理。灯籠(境内石造物8)が建立
延元年(1860)  天満官の鳥居(境内石造物22)建立
文久3年(1863) 灯籠一対(境内石造物7)が奉納
明治元年(1868) 10月、護摩堂が再建。露盤宝珠は11代藩主松平頼聰寄進。これは藩主が藩知事となる前年のことで、高松藩主として長尾寺に遺した最後の足跡になる
明治33年(1900) 天神社(「天満自在天社」)再建の上棟
明治36年    天神社の「青銅臥牛梅形手洗鉢」と「三角形水屋」が完成
「青銅臥牛梅形手洗鉢」と「三角形水屋」は、菅原道真の没後一千年大祭紀念のため調えられた奉納物で、手洗鉢は高松工芸学校長であった黒木安雄の図案だったようですが、今は不明となっているようです。三角形水屋は、長尾寺客殿の中庭に今も遺されています。

明治維新後の長尾寺にとって大きな事件は、明治15(1882)に郡役所が長尾寺に置かれたことです。
 長尾史に掲載されている当時の部役所職員の写真を見ると、御成門を背景に撮影され、門柱に看板らしきものも見えるようです。ここから御成門とその奥の客殿が仮庁舎として使用されたことがうかがえます。庁舎としての使用期間は、明治15年(1882)から大正6年(1917)に郡役所庁舎が新築され移転するまで30年以上続いたようです。
 明治42年(1909)発行の『四国霊場名勝記 全』24には、この頃の境内を写した写真が掲載されています。
長尾寺 本堂と境内 1909年

今から110年ほど前の写真になります。本堂と護摩堂は現在と同じ再建後の姿で、本堂前の線香立(境内石造物17)や、雨受一対(境内石造物20)も見えるようです。本堂前の一対の灯籠は、文久3年銘灯籠(境内石造物7)のようですが、現在はこの場所にはありません。注目したいのは、燈籠の手前にある2つの石造物です。
1長尾寺 石造物

これは、前回に紹介したの経幢のようです。近世には仁王門前にありましたが、明治には本堂前に移されていたようです。「改訂 長尾町史1上巻)』には、
「明治26年(1893)に門内に移し、同45年(1912)に元の位置に戻した」

と記されています。経幢が本堂前にあった時の姿をを記録した貴重な写真かもしれません。
 境内全体が写されていないのでよく分かりませんが、本堂、護摩堂、大師堂をつなぐ渡り廊下は、現在のものとは形が違うようです。また、地面を見ると参道の石敷がなく、本堂前には今よりも多くの松の木が生えていたことが分かります。

20世紀以降の長尾寺           
20世紀になると、境内の造営のことが「[過]去霊簿」に次のように記されています
「参道敷石仁工門筋塀墓地移転 大仏(注:師ヵ)堂再建」
棟札からも
明治44年(1911) 筋塀18間の新造(棟札13)
大正2年(1913) 栗林公園の北の「雌ノロ御門」を、払い下げを受け、移築して新たに東門設置
大正7年(1918) 郡役所が境内から転出
大正10年(1921) 大師堂上棟と完成
郡役所の転出を受けて大師堂再建をはじめ、改めて境内全体の整備が行われたようです。
当時の写真が、大正10年(1921)発行の『四国人十八ヶ所写真帖 完』にあります
長尾寺 本堂と境内 1921年

本堂右横に僅かに見える大師堂の屋根形状から、大師堂専建以前に撮影されたと研究者は指摘します。画面中央にあるのは安政2年(1855)奉納の灯籠(境内石造物8)で、今はやや東側に移されています。地面を見ると、仁王門の方向から玉堂、大師堂をつなぐように参道が敷石で敷かれているのが分かります。参道整備に伴って、灯籠などの移動が行われたようです。
 この後、大正15年に現在の太子堂が完成します。
そして、渡り廊下で本堂と結ばれていきます。こうしてみると長尾寺の現在の姿は、約百年前に整えられたものであることが分かります。その間に何度かの大修理を重ねているのはもちろんですが・・
長尾寺 不動明王
長尾寺 旧護摩堂本尊の不動明王

以上をまとめておきます
①境内出土の古瓦から、奈良時代には仏堂があったと考えられる
②縁起によれば天正年中に境内諸堂を焼失し、17世紀前半に生駒家により再興されたという。
③『四国偏礼霊場記』からは、17世紀後半には現在と同じ場所に境内があり、南向きの本堂のほか、観音院(客殿等)や街道に開かれた仁王門が建ち、町家が並ぶ門前の街道に茶屋などがあった
④阿弥陀堂など失われたものもあるが、境内の立地や建物構成は現在と同じで、遍路道も確認できる。
⑤元禄期に松平家による造営等により諸堂が整えられた
⑥寛政12年(1800年)の「四国遍礼名所図会」には、中心となる本堂、大師堂、護摩堂と思われる三棟の堂宇が建ち、仁王門や客殿、御成門なども現在とほぼ同じ場に描かれている。
⑦19世紀前半には、大師堂・本堂・護摩堂が横一列に並ぶレイアウトとになり、鎮守社も境内西側に移され、祭礼空間として広いスペースが生み出された。
⑧幕末に本堂が再建されたが、地震で複数の建造物が大破したが、鐘楼など一部を除いて復旧した。
⑨明治には30年以上にわたって客殿等が郡役所仮庁舎として使用され、境内は公的空間として機能した
⑩庁舎移転後に、大正15年(1926)の大師堂再建など境内整備が進められた。

長尾寺 現在の伽藍配置図

長尾寺 建物変遷表

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献 
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年
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「大師は弘法に奪われ」ということわざがあるそうです。
弘法大師のほかにも、大師号を賜った高僧は、最澄をはじめ数多くいます。しかし、空海一人の代名詞のようになってしまったという嘆きの意味が込められているようです。さて、讃岐の地からは、もう一人の大師が生まれています。智証大師円珍です。
円珍、その人の生涯を見ておきましょう。

智証大師像 圓城寺
国宝 智証大師像 圓城寺

円珍は、弘仁五年(814)、今から約1210年前に、讃岐国那珂郡(善通寺市金蔵寺町)に生まれています。生誕地は現在の76番札所の金倉寺。俗名は広雄。父は和気宅成、母は佐伯直氏で空海の姪と伝えられているようです。空海の「ご近所」で、円珍の和気氏と空海の佐伯直氏は親戚同士の間柄とされます。彼の家系図は、以前に紹介したように「日本で一番古い系図」として国宝にもなっています。
広々とした境内 - 金倉寺の口コミ - トリップアドバイザー
四国霊場 金蔵寺 

 天長5年(828)、15歳の時に、叔父の僧仁徳に連れられ比叡山に登り、最澄の門弟で初代天台座主の義真に師事します。
 まず私が疑問に思うのは、どうして空海を頼らなかったのかということです。この時期に、空海に連なる佐伯家出身の僧侶が東寺の責任者などとして、栄達の道を歩んでいます。また、30際近く年の離れた空海の弟真雅も、空海の元で修行中です。和気氏と佐伯氏が婚姻関係にあったというなら、その関係を頼らないというのは不自然な感じがします。活用できない理由があったとも考えたくなります。「母は佐伯直氏で空海の姪」という関係は、どうも疑わしい気がします。空海が入党するのが804年、高野山で没するのが835年です。

天長十年(833)に得度し、十二年間の籠山に入ります。
仁寿三年(853)39歳で入唐し、天台・法華・華厳・密など中国最新の仏教諸宗を学び、天安二年(858)に帰国します。この時、円珍がもたらした千巻にも及ぶ典籍・経典は、空海が伝えた真言密教に匹敵するもので天台密教の基礎となります。これを背景に、天台密教の拠点として近江の圓城寺を再興します。
 さて空海の成功から以後の留学僧が学んだことは、出来るだけ多くの経典等を持ち帰ることです。何を中国から持ち帰ったのか、何を身につけて持ち帰ったのかが問われることにに成ります。それは、中世の禅宗僧侶にも共通することです。もっと枠を拡大すれば、明治の洋行知識人も同じ立場だったのかもしれません。日本人は、大陸からもたらされるの「新物」に弱いのです。変革には「新物」が必要なのです。
 その際に、必要になるのは経済力です。官費だけでは足りるものではありません。空海の場合も、持ち帰った経典類や仏具類などをどのように集めたのか、その資金はどこから出たのかがもっと探求されるべきだと思うのですが、そこに触れる研究者はあまりいないようです。円珍の場合は、どうだったのでしょうか。実家である和気氏に、それだけの経済力があったのでしょうか。

貞観十年(868)に54歳で、第五代天台座主となり、寛平三年(891)に亡くなるまで、24年間の長きにわたって座主をつとめます。その間には、園城寺を再興し、伝法灌頂の道場とします。また清和天皇や藤原良房の護持僧として祈祷をおこない、宮中から天台密教の支持を得ることに成功します。死後36年経た、延長五年(927)、「智証大師」の号を得ています。

 一説によると、12年の籠山後、32歳の時に熊野那智の滝にて千日の修行をおこなったといいますが、これは後に円珍の法灯を継ぐ天台寺門派が、「顕・密・修験」を教義の中心に置き、熊野本山派の検校を寺門派が代々引き継ぐことによって、作り出された伝承とされます。しかし、ここからは京都の聖護院に属する本山派修験者からも円珍が「始祖」として、信仰対象になっていたことがうかがえます。

円珍は、実際には15歳の上京以後は、讃岐の地を踏むことはなかったようです。
 にもかかわらず円珍の影響を受けたとする四国霊場札所があるようです。円珍と、どのような関係があるのというのでしょうか
  県内札所のなかで天台宗、または円珍(天台寺門派)の痕跡が残るお寺を見てみましょう。
まず大興寺(六十七番札所)から始めます
この寺は小松尾寺とも呼ばれ、四国偏礼霊場記に「台密二教講学の練衆」と記されています。古くから真言と天台の兼学の場で、江戸時代にも真言二十四坊、天台十二坊があったと伝えられています。寺に伝わるものとして、建治二年(1276)の墨書銘をもつ天台大師坐像(香川県指定有形文化財)があります。寺伝では、弘法大師と熊野信仰を結び付けていますが、ここには熊野信仰と天台寺門派とのかかわりもあったことがうかがえます。次の札所になる観音寺(六十九番札所)にも天台大師像(画幅)があります。大興寺と観音寺の三豊エリアの札所には、円珍に関わる信仰があったことがうかがえます。
 
次に丸亀平野へ進みます。金倉川下流域は、円珍の出身である和気氏の勢力範囲だったと云われます。
金倉寺は和気氏の居館の後に建立されたとされます。
これも、善通寺誕生院の空海生誕とよく似た伝承です。金倉寺は、和気氏の氏寺として出発しますが中世には、宇多津や堀江などの港町の町衆の信仰を集める寺院に成長します。そして、仏教の教学センターとしての機能を、近隣の道隆寺と共に果たすまでに成長します。その大師堂には、中世まで遡るといわれる智証大師の木像が正面に安置されています。
 また、下の鎌倉時代作の智証大師像(重要文化財)も伝わります。
智証大師 金倉寺

この像を見ると圓城寺の国宝の智証大師像を写したかのように見えます。円珍のトレードマークである「卵頭」が忠実に真似られています。智証大師像は、みなよく似ています。逆に言うと「参考例」を模写したことになります。
金蔵寺には、高松藩の絵師、鶴洲の描いた模写や狩野愛信(狩野永叔の門弟)という絵師の描いた模写も残されています。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
江戸寺時代に模写された智証大師画
まさに、中世の肖像を模写した物です。その上に、高松藩主や京都聖護院門跡から贈られた智証大師の画幅なども伝わります。どうして  江戸時代になって、円珍の絵が何度も模写されたり、藩主などから贈られたのでしょうか。その背景には何があったのでしょうか?それは、また後に考えるとして先に進みます。

五色台の山岳寺院である白峯寺(八十一番札所)の「白峯寺縁起」応永十三年(1406)にも、円珍が登場しますこの縁起には、次のように記されます。
貞観二年(八六〇)円珍が山の守護神の老翁に出会い、この地が慈尊入定の地であると伝えられます。そこで、補陀落山から流れついたといわれる香木を引き上げ、円珍が千手観音を作り、根香寺、吉水寺、白牛寺(国分寺のことか)、白峯寺の四ヶ寺に納めた、
 ここからは縁起が作られた時には、白峰寺や根来寺は円珍が創建したとされていたことが分かります。当時の五色台は、本山派の天台密教に属する修験者たちの拠点であったようです。これに対して、聖通寺から沙弥島・本島には、真言密教の当山派(醍醐寺)の理源大師の伝説が残されています。瀬戸内海でもエリアによって両者が住み分けていたようです。
 白峯寺は今は真言宗寺院ですが、近年の調査で修禅大師義真像(円珍の師、鎌倉時代作)が伝わっていることが分かっています。他にも、天台大師像、智証大師像、山王曼荼羅図が伝えられます。
 白峰寺と同じ五色台にある根香寺(八十二番札所)には、元徳三年(1331)の墨書銘がある木造の円珍坐像があります。

智弁大師(円珍) 根来寺
根香寺は、寛文四年(1664)に高松藩主松平頼重が、真言宗から天台宗に改め、京都聖護院の末寺とした寺院です。それ以前は、大興寺と同じように真言・天台兼学の地でした。ここも、縁起には白峰寺と同じく円珍によって創建されたと伝えます。白峰寺と根来寺は共通点があるようです。
八十七番札所の長尾寺は、天和3年(1683)に天台宗に転じ、京都実相院門跡の末寺となります。その後に作られた江戸時代作の天台大師像、智証大師像がここにもあります。

 このように讃岐の四国霊場を見てくると、五色台や雲辺寺周辺の山岳寺院に古くから智証大師円珍や天台系の影響が見られるようです。山岳寺院=修験道=真言密教と直ぐに考えがちですが、江戸時代には、天台宗の聖護院(本山派)に属する修験者の方が圧倒的に多かったようです。円珍信仰・伝説の背後には、本山派修験者たちの活動が透けて見えてきます。
江戸時代に作られた円珍の像画は、誰が作成したのでしょうか。
それは、高松藩主として水戸からやって来た松平頼重の宗教政策の一環として作られたようです。頼重は、金倉寺、根香寺、長尾寺を真言宗から天台宗へ改宗させます。その際に、あらたな信仰対象として円珍像が作られたり、絵が模写されたようです。松平頼重は国内統治政策の一環として、次のような宗教政策を行っています。
①姻戚関係にある浄土真宗本願寺・興正寺派の保護
②金毘羅大権現の保護と全国への広報戦略
③高松城下町の氏神様としての岩瀬尾八幡の整備・保護
④菩提寺としての仏生山の整備・保護
同時に、屋島合戦の故地や崇徳上皇の旧跡地など、讃岐国の歴史的な場所や歴史上重要な人物について、顕彰し崇敬につとめています。こうした動きのなかで、頼重は、讃岐出身のもう一人の大師、智証大師円珍を「発見」したのではないでしょうか。それは、徳川宗家と天台僧天海との関係、また和歌を通じて頼重と交友関係にあった聖護院門跡の道晃法親王(後水尾天皇の弟)との関わりもあったのかもしれません。彼らとの交流の中で、円珍のことを知り、「讃岐が生んだもう一人の大師」として、再評価していく意味と必要性を感じるようになったのかもしれません。そして、その拠点に選ばれたのが金蔵寺と根来寺と長尾寺なのでしょう。そのために信仰対象として、像や画などが贈られたと研究者は考えているようです。
 頼重は晩年の隠居屋敷の中にお堂を建立し、根来寺から移した不動明王と四天王を安置し、プライベートな祈りの場所にしていたことは、以前にお話ししました。また、彼の宗教ブレーンには密教系修験僧侶の存在があったようです。
 そのような中で、円珍の「出会い・再発見」が、その信仰拠点を整備するという考えになったようです。どちらにしても、思いつきや一族だけの安泰を図るのでなく、広い支配戦略の上で、継続に行っていることに改めて気付かされます。
参考文献 渋谷啓一 もう一人の大師 智証大師円珍 空海の足音所収

 
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「讃岐高松丸亀両図 高松城下図」(絵図4)

 寛永19(1642)年に松平頼重が高松に入り,生駒藩は高松藩となりました。松平頼重は城や町の整備を行ったことが『小神野夜話』には記されています。「讃岐高松丸亀両図 高松城下図」(絵図4)の製作年代は不明ですが,絵図内容より松平頼重入部直後に作られたものと考えられているようです。そのため『生駒家時代高松城屋敷割図』(絵図2)と比較してみても高松城内部にはあまり変化はありません。中堀に架けられた橋の北側の門東側は対面所ですが、西側の屋敷には変化があります。門の西側から近習者屋敷・局屋敷と記されていた屋敷が『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)では鷹匠・厩となっています。
高松城江戸時代初期
「高松城下図屏風」(絵図5)
「高松城下図屏風」(絵図5)が、いつ、何のために、誰によって描かれたのかについては、はっきりしません。しかし、作られたのは明暦2年(1656)前後のものと推定されているようです。この絵図は『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)よりも新しい絵図で、この時点で松平頼重によって次のような改築が行われたことが分かります。
①南にあった橋がなくなり、高松城西側に門と橋ができています。
②内堀と中堀の間の南部には局,厩,鷹匠の屋敷がありました。それが『高松城下図屏風』(絵図5)では、内堀と中堀の間の西部は北側に侍屋敷があり,その南側に馬が描かれ,厩と思われる建物があります。厩が,西側に移動したようです。おそらく,西側に橋がかかったためにの移動でだったのでしょう。
③「高松城下図屏風』(絵図5)では、海手門の外側は新たに埋め立てられ,瀬戸内海に向かってコの字型に張り出しができ,石垣が巡らされています。
④この張り出しの東側の「いほのたな町」の北側に、新しく波止場が作られています。
高松城絵図6
「讃岐国高松城図」(絵図6)
絵図6にも中堀の西側に橋が描かれています。
その橋の東側には蔵が見えます。海手門の外側には北海に向かって張り出しがあり,中堀の東側に波止場があり、西浜舟入と中堀の間に米蔵と注が記載されています。のちに,東の丸が築造され,米蔵は東の丸に移されますが、それ以前は西浜舟入と中堀の間にも米蔵があったことが分かります。
「讃岐国高松城図」(絵図6)では、中堀の南側の両角に櫓が新たに姿を見せています。築造年代は不明ですが、この櫓は「高松城全図」(絵図21)から烏櫓,太鼓櫓であることが分かります。。
寛文11年(1671)になって高松城の新郭である東の丸が築造されます。
東の丸の築造直後に製作された絵図はありません。東の丸が描かれた最も古い絵図は、享保年間(1716~1736年)の「高松城図」(絵図7)です。この絵図と「高松城下図屏風」(絵図5)を比べてみての変化点をまとめると次のようになります
①中堀の東側の侍屋敷であったところに東の丸が築造され、その東に隣接する魚の棚町の西半分に堀が掘られた
②海手門の北東側か埋め立てられ,北の丸が築造された。
③東の丸・北の丸には次のような櫓が築造された。
 東の丸の南東角は巽櫓,北の丸の北東角は鹿櫓,北西角は月見櫓や続櫓
④それまでは中堀の南側には太鼓御門があり,橋が架かっていて,城の南側から出入りをしていたが,東側に架け替えられている。東側に架け変えられた橋が旭御門。
DSC02528
高松城の改築について『小神野夜話』では次のように記しています
「二の丸先代は中の門に橋有て,太鼓矢倉中門の東へ少寄て有之,東の角は折にて有之,角に先代之屋形有之,御玄関西向に成,桜御門は北面に成,桜の馬場西南の角に家老之小屋四軒有之候所,東御門新に明き中の御門橋を引,中の矢倉,東の矢倉,東の角今の太鼓の櫓に引き,家老の小屋は武具蔵になり,屋形の跡は今腰掛建申候。西御門は北の角櫓の下に有之候所,只今の所へ引申候。」
「ニノ丸へ御屋形引,海手へ出候門,只今の中御門に相成,北新曲輪 今之水御門,月見櫓,鹿之櫓,黒門,多門,作事魚棚の入川,北浜等,新規に被仰付候
御入部三年目に御普請初り,先二の丸より斧初め、次に御玄関落間一番に建ち申候」

ここからは
①中堀の橋が東に架け替わり櫓が移動したこと
②内堀と中堀の問は武具蔵になり,西御門は現在の場所,つまり西側の外堀の中央付近に移ったこ
③屋形が二の丸に移動し,北の丸,北の丸の水御門・月見櫓・鹿櫓や,東の丸の作事丸・米蔵丸・北浜などが新たにできたこと
松平頼重が入部して3年目に城内の改築を開始し、工事は継続して行われていたようです。
  
DSC02527
                    
 今度は城下町の様子を見てみましょう。
「高松城下図屏風」(絵図5)は松平頼重時代の始め頃,江戸にいることの多い頼重や家臣団の政策協議の資料として明暦2(1656)年以前に製作されたとも言われています。この絵図の頃は城下の
西端は蓮華寺・王子権現付近(現在の高松市錦町2丁目),
東端は通町付近
であることがわかります。
『小神野夜話』には城下町の拡大について
   街並みも東は今橋切にて,松島之家は一軒も無之由,
西はかしの屋の前石橋迄にて,王子権現は野中に御座候。
段々家立まし,今之通相成申候
 この記述から,街並みは東は今橋で切れて,西は吉祥寺の南の王子権現(錦町2丁目)あたりまで広がっていたようで、「高松城下図屏風」(絵図5)の描写と一致します。
東部の東の端には大きな川が描かれています。この川は仙場川のようです。
後世になって仙場川の北端には新橋が架かりますが,絵図5には新橋はまだ描かれていません。新橋の南に架かる今橋は見えます。仙場川の西岸には石垣による護岸整備が行われていて、通町の東側から北東方向に比較的大きな川が石垣のほうに向かって流れています。仙場川の東側は、松島町ですが今橋よりも北側は海が続きます。しかし,海岸に堤防は描かれていません。自然海浜のようです。ちなみに寛文7(1667)年には松島の沖合から西潟元まで堤防曜防が築かれ,新田が開発されたことが『英公外記』に記されています。

(絵図5)のと享保年間の下図『高松城下図』(絵図7)には約半世紀の隔たりがあり,城下町の様子もかなり変わっているようです。 
高松城 絵図7PTIMAGE

享保年間の「絵図7」をみると東端に仙場川が描かれています。
仙場川は南から北に向かって,瀬戸内海に注ぎ井口屋町の東側には新橋が描かれています。新橋が架かっていることからも松島の沖合が干拓されたことがうかがえます。
   仙波側の西側、現在の高松市築地町付近も大きく様変わりしています。通町の東側を流れていた川は町割りに沿って通町に平行に南から北に流れ,新塩屋町の南側を直角に曲がり,西から東に流れて仙場川に注いでいます。また,この流路と仙場川との間に流れていた小川はなくなっています。このあたりは(絵図5)では田畑が広がり,農家がぽつぽつとある程度でしたが『高松城下図』(絵図7)では,新通町・新塩屋町が新たにできて町屋になっています。南の方には深妙寺が姿を現しています。河川改修の結果,東方にも城下が広がったようです。
 ここでも新橋が架かっているということは、松福町は享保年間にはすでに干拓されていてことになります。また,新橋の北側の東浜も北西側と東側が埋め立てられ,新たに材木町が見えます。

 お城の東の丸の東側を見てみましょう。          
 東は『生駒家時代讃岐高松城屋敷割」絵図2では、城下は蓮花寺あたりまででした。それが享保年間の「絵図7」では、ほのたな町と記されていた町人町の北側が埋立てられ新たに北浜ができてきます。そして、北浜の北西角には波止場が見えます。
  西は「高松城下図屏風』(絵図5)では、蓮華寺付近まででした。
それが享保年間の「高松城下図」(絵図7)では、摺鉢谷川の東側まで城下が拡大しています。「絵図5」では高松城の外堀,船蔵の西側は侍屋敷でしたが,享保年間の「絵図7」では、その一部が町人町に変わり,西通町が形成されています。さらに,鉄砲町・高嶋町・木蔵町・西浜と摺鉢谷川の東まで町屋が連続しています。
 また,蓮華寺の西側には愛宕神社があり、その西に材木蔵があり,材木蔵の西側には港と波止場があります。この港は現在の扇町1丁目で、盲学校の北側付近になります。
  南西部にも侍町が拡大されています。
享保年間の「高松城下図」絵図7には,船蔵の南側から天神社の西側,九番丁まで侍屋敷が描かれていて,現在の香川大学の東端と高松市街の南部を走る観光通りまで市街地が広がったことが分かります。なお,船蔵の南西が浜ノ丁,その南側が北一番丁になります。

 これらの城下町の拡大については,「小神野夜話」には     
「御家中も先代は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,御入部巳後大勢之御家中故,新に六番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷に被仰付,・・・」

とあるので松平頼重の入部頃に,六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場・築地・浜の丁が新たに侍町になったようです。『高松城下図』(絵図7)の描写のように、侍屋敷が拡大していることが分かります。
『高松城下図屏風』(絵図5)では西浜舟入の北西にも侍屋敷が広がっていました。それが「高松城下図』(絵図7)では、北の1区画の侍屋敷と2軒の寺がなくなっていて,船蔵になっています。この船蔵の西側,蓮華寺の北側には新たに波止場ができています。そして蓮華寺と船蔵の間は侍屋敷に変わっています。なお,この2軒の寺は真行寺と無量寿院で、真行寺は御船蔵造営のため延宝2年(1676)に西の浜に、無量寿院は浄願寺の近くにそれぞれ移転したようです。ここから,船蔵が作られたのは延宝4(1676)年以後のことになります。 
西浜舟入と中堀の間は「高松城下図屏風」(絵図5)ではずらりと侍屋敷が並んでいました。
西浜舟人の東岸の北端には波止場があり,波止場の東側にはL字状に石垣が巡らされています。その内側には大きな侍屋敷がありました。ところが享保年間の「高松城下図」(絵図7)ではこのL字部分は埋め立てられて,大久保飛弾の屋敷地が西浜舟入の東隣に南北に長く伸び,その北東隣に西御屋敷があります。そして,中堀の西の橋の西側付近は空地となっています。
 このことも「小神野夜話』には、次のように書かれています
「船蔵大久保主計屋敷に有之候処,今之御船引申候、今之御船蔵之場所には真行寺・無量寿院有之候処,無量寿院は先代今之処へ引候跡開地と相成り居候,真行寺は御舟蔵西之角に有之候処,今之所へ引,跡御舟蔵に相成,只今之通りに御座候。船倉之跡屋敷に被仰付,八左衛門奉行にて大屋鋪と成,大久保主計に被下候,大概右之趣,役所之留ならびに林孫左衛門物語取合実説記置申候」
とあり,元の船蔵は大久保主計(飛弾)の屋敷となり、今の船蔵の場所には真行寺・無量寿院があったことが記されています。
 西浜の海岸縁には『高松城下図屏風』(絵図5)では真行寺と無量寿院が描かれています。2軒の寺のすぐ東側に南から北に流れる流路がありますが,享保年間の「高松城下図」(絵図7)では船蔵の西側,これらの寺があった場所に付け替えられています。流路の変更は新しい船倉建設に伴うものなのでしょう。
城下町の南東部にあった「馬場」について,         
①「高松城下図屏風」(絵図5)には勝法寺の南側には数頭の馬が描かれていますから,馬場があったようです。その南側は堀割りで,堀割りのさらに南は侍屋敷が東西に並んでいます。
②享保年間の「高松城下図」(絵図7)になると,勝法寺の南方に東西に並ぶ侍屋敷は見えますが,馬場はなくなっています。そして、馬場の北側にあった勝法寺が南部に寺域を広げ,御坊町も南部に拡大しています。
③「高松城下図」(絵図7)では,馬場は浄願寺の西に移動しています。

城下町の南への拡大を見てみましょう。
①「高松城下図屏風」(絵図5)では、町人町は高松城の外堀の常盤橋から南に続いています。その南限は高松市古馬場町付近で途切れていて,町人町がどこまで続いているのか不明でした。
②それが『高松城下図』(絵図7)には、現在の高松市藤塚町付近まで町屋が描かれています。丸亀町・南新町・下町・伊賀屋町・亀井町・田町・新町・ハタゴ町が見えます。

高松城絵図9
  享保年間以後の絵図で,最も古い絵図は元文5(1740)年に描かれた『元文5申年6月讃岐高松地図」(絵図9)があります。
享保年間の「高松城下図」(絵図7)と絵図9とでは四半世紀の隔たりがあります。
(絵図9)の東端には,仙場川が描かれていて,享保年間の絵図と同じように新橋が描かれています。その北には、八丁土堤と呼ばれた堤防が描かれています。この土堤は現在の福岡町付近の干拓のため築かれた堤防ですが、築造年代は分かりません。しかし、この絵図に描かれていることから享保年間(1716~1736年)以降で、元久元(1740)年以前には築造されたことが分かります。
高松城絵図9の2
「高松城下図」(絵図7)には外堀と中堀の間で,中堀の西門の外側は,西御屋敷と大久保飛騨の屋敷ですが,「元文5申年6月讃岐国高松地図」(絵図9)以降の絵図には,大久保飛騨屋敷の東隣は御用地または原となっています。『小神野夜話』には
「西御門外に家老屋敷二軒有之。引候て,壱軒之跡は今の下馬北かこひに成申候,一軒の跡は,十本松有之候場所に相成申候、外堀之際にも内馬場之通り並松有之候処,不残御伐らせ被遊候」
とあり,家老の屋敷が二軒あったが移動して,1軒の跡は馬の牧場,もう1軒の跡は10本の松が植えられたと記します。
高松城絵図9の3
 享保年間「高松城下図」(絵図7)と(絵図9)を比べると侍町の規模が縮小しています。
城下町の南東の福田町と南新町に挟まれた東西に並ぶ侍屋敷がなくなり,代わって古馬場町となっています。これについて「小神野夜話』は
「今之古馬場勝法寺南片輪,安養寺より西の木戸迄侍屋敷本町両輪,北片輪之有候処、享保九辰,十巳・十一午年御家中御人減り之節,此三輪之侍屋敷皆々番町へ引け,跡は御払地に相成,町屋と相成申候,享保十一,二之比と覚え申候,本町之南輪には,鈴木助右衛門・小倉勘右衛門・岡田藤左衛門・間宮武右衛門,外に家一二軒も有之候処覚候得共,幼年の節の義故,詳には覚不申候,北輪は笠井喜左衛門・三枝平太夫・鵜殿長左衛門・河合平兵衛。北之片輪には栗田佐左衛門・佐野理右衛門・飯野覚之丞・赤木安右衛門・青木嘉内等、凡右の通居申候,明和九辰年迄,右屋敷引五十年に相成候由,佐野宜休物語に御座候」
とあり,享保11(1726)年頃に,御家人が減ったことにより,勝法寺に南側にあった侍屋敷が町屋になったようです。これが現在の古馬場町のようです。古馬場は、もとは侍屋敷街だったのです。
侍屋敷から町人町になったのは古馬場だけではないようです。
「元文5申年6月讃岐国高松地図』(絵図9)をみると,浜の丁の蓮華寺の西に1軒の侍屋敷,蓮華寺の東の6軒の侍屋敷,船蔵の南の11軒の侍屋敷、城下の西端の南北に並ぶ侍屋敷の1列がなくなっています。このことについて『小神野夜話』は
「北海手東西之はと崎よりならびに蓮華寺之東,侍屋敷北手之土手を築,土手並木を植え候事,元禄十丑年七月大須賀小兵衛列座にて,主馬柘植安左衛門被仰渡,右安左衛門下知にて出来申候,並松も大木に成居申候処,享保五年之頃より北汐当強く相成,家中住かたく(難く)北六間引,土手松も汐に押し倒し土手も崩れ,石垣にて漸留り申候,右屋敷,同十二年正月に被仰付,六月迄に引申候」,
「浜之町土手は,我等若盛り迄は,土手下へ沖より汐満申事は夢々無之,西の波戸中程迄汐つかり申事覚へ不申候,東の船蔵の波戸は,三十年巳前迄は五十間の波戸,中程迄汐来り候,其後段々汐まして北の土手を打崩し候故,侍屋敷住居成不申,弐十七年以前に裏がわ六軒は引く申候。
材木蔵も八間南へ引,旁致候へは,次第に北のあて強く相成申候,‥」
とあり,元禄10(1697)に蓮華寺の東の侍屋敷の北に土手を築いたが,享保5(1720)年頃より,北から吹く潮が強くなり,享保12(1699)年に海岸縁の6軒の侍屋敷は移転し,材木蔵は八間ほど南に移動したことが記されています。このあたりは昔から冬の北西風が吹き付ける風の強いところだったようです。
高松城絵図10
        
寛政元(1789)年に描かれた鎌田共済会郷土博物館『寛政元年高松之図』(絵図10)と「元文元年申年6月讃岐国高松地図』(絵図9)を比較すると変化はあまりありません。
最後に、江戸時代末期の19世紀の絵図は3枚あります 。


(1804~1818年)に描かれた『文化年間讃州高松城下絵図』(絵図
高松城絵図11
これらの絵図には東浜の北に新湊町があります。新湊町は文化元(1804)年八代藩主松平頼儀の時代に,東浜の北に造成された町です。この町の北端に神社が記されています。これは東浜町から移された恵比寿神社のようです。
高松城絵図15
 このあたりを詳細に描いた絵図は鎌田共済会郷土博物館所蔵の「高松新井戸水元並水掛絵図」(絵図15)がります。これは文政4(1821)年に作られたもので,新井戸から配水する上水道を描いたものです。この絵図にも新湊町や恵比須神社が描かれています。江戸時代末期の『讃岐国名勝図会』にも新湊町の北側に蛙子社が詳しく描かれています。
高松城下町2

以上をまとめると、高松城及び高松城下町は以上のように移り変わってきたようです。
①高松城が築城後,最も変化するのは松平頼重の東の丸築造をはじめとした改築である。
②それまでの生駒藩時代には高松城の東西は浜が広がっていたが、浜を干拓したり,護岸工事を行なった。
③その結果,城下町が東西に拡大し、西は摺鉢谷川、,東は仙場川まで広がった。
④生駒藩時代の城下は高松城の外堀内にも侍屋敷があり、町屋を囲うようにコの字に侍屋敷が配置されいいった。
⑤城下の規模は東西8㎞、南北6㎞であった。
⑥松平高松藩になると城下も拡大し,松平頼重の時代には城下の南西部に侍屋敷が拡大して番丁まで広がった。
⑦しかし、享保年間には御家人が減少したため,城下の南東部の侍屋敷や馬場を縮小した
⑧代わって町屋となったため,外堀の南東は町屋ばかりになり,侍屋敷は南西部に配置された。
⑨南西部の侍屋敷の中でも西端の一部はなくなり,田畑となった,

絵図の紹介をしてきましたが急ぎ足になりすぎたのを少し反省しています。
参考文献
森下友子
   高松城下の絵図と城下の変遷                              香川県埋蔵物研究センター紀要Ⅳ

 近世讃岐の寺院NO1 松平頼重の仏生山法然寺建立計画を探る : 瀬戸の島から
高松藩初代藩主 松平頼重
寛永十九年(1642)に東讃岐12万石の領主となった高松藩主松平頼重は、家康の孫に当たり、家光とは従兄弟、そして弟が光圀という徳川家の御三家の出身です。彼は、初代藩主として金毘羅を保護し、金毘羅領330石を朱印地にすることに尽力しました。領主としても、代拝も含めると17回の金比羅参拝が記録されています。特に、幕府から朱印地に認められた年の八月には、参拝して一泊しています。

讃岐国絵図 琴平 佐文周辺
金毘羅周辺地図

松平頼重が金毘羅大権現に祈願のための願文をささげたことは二回あるようです。
1回目は寛文五年(1665) 養女大姫の安産を祈ったものです。大姫は頼重の父徳川頼房の娘女でしたが、頼重の養女となり将軍徳川家綱の命によって、熊本藩主の細川綱利に嫁していました。
2回目は寛文十一年(1671)に、

「今度参勤を遂げ、心中祈願相叶い、悉地成就せしめ、帰国致すに於いては、直ちに宝前に参詣し奉るべきなり」との願文を出しています。

「心中所願」とは、当時頼重は病みがちであり、隠居願いのことだったようです。二年後に、隠居が許されると頼重は、江戸から帰藩すると直ちに金毘羅大権現へ参拝しています。これより先延宝元年(1673)正月に、頼重は社領五〇石を三条村から割いて寄進しています。このときの寄進状は次のとおりです。

 那珂郡三条村において、本高の外興高を以て五拾石の事、金毘羅大権現神供料・千鉢仏堂料井びに神馬料として、これを寄進せしめ詑んぬ。全く収納有るべきの状、件の如し。」

50石の内訳は、神供料が10石、千体仏堂料10石、神馬料30石でした。三条村に住んでいた善左衛門に耕作が命じられています。

決壊中の満濃池
金比羅領(赤)と天領池御料の3村(白)

 前回お話ししたように朱印地金毘羅領330石の土地は、生駒時代に十数回にわたって寄進されたものです。そのため土地は飛び地でした。満濃池の池御料として天領の苗田村・榎井村・五条村と、境界が入り組んでいたようです。
天領池御料
天領池御料と金毘羅寺領(明治維新拡大図)

そのため松平頼重の肝煎で、金毘羅大権現の寺領(「院内廻り」)周囲に集められることになります。これは頼重の指示があったからこそ、できたことです。現在金刀比羅宮には、この時の絵図の写しが残っています。その絵図には、幕府寺社奉行三名の裏判が押されています。

この中に金毘羅領分は「院内(境内の周囲)廻りへ片付ける」ようにとの指示が書き込まれています。

つまり、天領3村の中に飛び地として分散していた土地を金毘羅領内にまとめようとしたようです。
池御両郷帳(榎井・五条・苗田)図
       金比羅領(赤)と天領池御料の3村(黄色)
この
結果、榎井村では一町ほどの土地が金毘羅へ、金毘羅領に遠い四條村の場合はすべて池領へ移っています。そして、全体ではほぼ同じ面積、石高が交換されています。おそらく、金毘羅に有利な形で、境界も定まったと思われます。これは、天領と金毘羅大権現の土地交換という難しい作業でした。実施に向けては、時の幕府の重役達の内々の同意を取り付けることが前提になります。これが出来るのは、親藩高松藩主としての頼重の政治力を抜きにしてはできなかったことでしょう。
 実施に当たっては、次のような要人が立ち会っています。
高松藩から大横目・代官・郡奉行と大庄屋
丸亀藩から大横目・郡奉行と庄屋
池御料からは代官・庄屋
金毘羅からは多聞院と山下弥右衛門ら町年寄
これも、後に禍根を残さない配慮でしょう。この結果、朱印地の寺領は、金倉川を越えた東側にも広がることになります。

金毘羅全図 宝暦5(1755)年
金毘羅神社絵図(宝暦5年 18世紀後半) 鞘橋から東が新町

この時に、金倉川の東側で得た現在の「新町」については、「古老伝旧記」に次のように記されています。

「地替相調い候て町並に家も立ち候」

地替(土地交換)で得た土地に家が建ち街並みとなっていることが分かります。高松街道沿いに榎井方面に向かって家々が並び立つようになり、門前町の発展に大きく寄与することになります。これも頼重の金毘羅に果たした大きな業績のひとつです。
一の橋・鞘橋
金倉川に架かる鞘橋と、それに続く新町

松平頼重の寄進で境内は、どのように姿を変えたのでしょうか?
 松平頼重は、多くの寄進を金毘羅山にしています。建築物だけを数え上げると
正保二年(1645)三十番神社の修復を初めとして、
慶安三年(1650)神馬屋の新築、
慶安四年(1651 仁王門新築
万治二年(1659)本社造営
寛文元年(1661)阿弥陀堂の改築
延宝元年(1673)高野山の大塔を模した二重宝塔の建立と
これだけでも本堂を始めとして、山内の堂舎が一新されたことを意味します。

IMG_3856
頼重寄進の仁王門(大門)
さらに石灯籠をみると、次のようになります
石灯籠 両基  寛文8年正月10日 本社前両脇
石灯籠 両基  寛文9年正月10日 摩利支天社前
石灯籠 両基  寛文10年正月10日 摩利支天社前
石灯籠 両基  寛文11年正月10日 本地堂上
石灯龍 両基  延宝元年5月3日 場所本地堂上
石灯寵 両基  延宝3年5月10日 場所本地堂上
寛文8年から11年までの四年間に、毎年正月に石灯寵を二基ずつ、
延宝元年と同3年にも石灯寵を5月に二基寄進しています。
これらの松平頼重の多くの寄進によって、境内は面目を一新します。同時に高松藩の殿様の厚い信心を受けていると評判になったはずです。整備された境内の堂舎は人々の目を楽しませ、殿様の寄進建築物・灯籠として話題になり、参拝者の数を増やしていったのではないでしょうか。
DSC04053石灯籠(頼重寄進)


松平頼重は、自分が身につけた刀や甲冑なども寄進しています。
それが讃岐国名勝図会に、次のように載せられています。

4344104-58松平頼重
松平頼重寄進の太刀

4344104-57松平頼重
松平頼重公寄進の太刀

4344104-56讃岐国名勝図会
           松平頼重公寄進の長刀

4344104-49福山城主阿倍氏甲冑
          松平頼重公寄進の馬具

4344104-48讃岐国名勝図会
          松平頼重公寄進の鎧

4344104-47松平頼重甲冑 讃岐国名勝図会
        松平頼重公寄進の鎧(左側)
ちなみに讃岐国名勝図会の挿絵は、若き日の松岡調が担当したとされます。そうだとすれば、讃岐国名勝図会が発刊される1850年代に、松岡調は金刀比羅宮にやってきて、これらを描いたことになります。
4344104-73
讃岐国名勝図会の裏表紙裏には「真景 松岡信正(調)模」と記されている
ちなみに、神仏分離後に松岡調は金刀比羅宮の禰宜として、仏式の金毘羅大権現から神道の金刀比羅宮への変身を進めていくことになるのは以前にお話ししました。

日本史賢兄賢弟

 頼重の弟が水戸光圀です。
光圀は弟である自分が水戸本家を継いだことについて儒教的孝徳意識から「不義」感を持っていたと言われます。そこで、兄頼重の実子の綱方、綱條を自分の養子として、水戸藩の家督は綱條に継がせます。一方、兄頼重は光圀の実子・松平頼常を養子に迎え、延宝元年(1673年)に幕府より隠居を認められ高松に帰ってきます。そして、真っ先に、金毘羅山に参拝し、報告しています。
 頼重は病気と闘いながら元禄8年(1695年)に没します。これ以後、金毘羅山は頼重が寄進したものを財産として、大きな発展がはじまるのです。

関連画像
頼重の眠る高松松平家菩提寺 仏生山(高松市)

この寺には、納経所の裏に五大明王堂があります。

恵峰さんと巡ろう 四国おへんろ|瀬戸マーレ vol.50

その内陣最奥の壇上に中尊不動明王を中心に、等身の不動明王と四天明王が横一列に並びます。
東方に降三世(ごうさんせ)
南方に軍荼利(ぐんだり)
西方に大威徳(だいいとく)
北方に金剛夜叉(こんごうやしゃ)
の各明王(みょうおう)の豪華キャストたちです。
イメージ 1
根香寺の四天明王たち

 明王は、明(みょう)(真言(しんごん)ダラニ)を唱えながら拝むと、霊力がアップすると言われます。どの明王も、救いがたい愚かな衆生を教化するため、いずれも光焔を負います。忿怒表情ですざましく、幾つもの手が武器を振りかざします。
あらゆる悪魔的な力を打ち破るため、怒髪(どはつ)天をつき、多面(ためん)、多臂(たひ)、多足(たそく)の非人間的な姿で表現されます。
 護摩の炎の中で極彩色の五大明王の目がぎらぎらと輝きます。
忿怒の怒りの表情に、思わずおそれ畏怖を感じます。
鎌倉時代の昔、この山深い根香寺の堂の中で、五大明王を前にして護摩(ごま)をたいて祈祷し、行場を廻る辺路修行を行う修験者たちがいたのです。

  これまで護摩堂の明王たちは、まず不動様が先に作られ、その後で四天明王が安置された考えられてきました。時期的には、不動さまが南北朝頃、四大明王が鎌倉時代とされてきました。「中世に遡る等身の五大尊像」として昭和44年には県の指定有形文化財を受けています。
 台座の構造劣化など寄る年月に明王たちも苦しむようになり、平成十六年より1年に一仏ずつ解体修理が行われました。その結果、不動明王像と四天明王の大威徳明王像から像内墨書や納入文書が見つかりました。
さて、そこには何が書かれていたのでしょうか?
また、そこから何が分かってきたのでしょうか。
真ん中の不動さまから、報告書にそって見ていきましょう。
イメージ 2
不動明王(根香寺)
顔は正面を向き、ほぼ直立して岩座上に立つ。
頭部は巻髪、萍書、左耳前に髪を緩り束ねて垂らす。
正面巻髪の間に、頭飾をあらわす。頭飾は、扇形の線帯に列弁文を重ねた花文で、冠帯はつくらない。
面部は、額に水波相をあらわし、両目は見開いて眼目し、
口をへの字に曲げて左牙を下出、右牙を上出する。
三道相。耳は耳孔をつくらず、耳采環状貫通とする。
左手はやや前方に出しながら垂下し、全指を曲げて祠索(両端に三鈷形と杏葉形の金具を取り付ける)を握り、右手は腎を外に張って曲げ、剣(刀身に樋を刻み、柄を三鈷形とする)を執る。条帛、裳、腰布をつけ、腕・腎・足に釧をつける。
光背 迦楼羅焔光            ’
台座 岩座 枢座 長方形
松平初代藩主頼重が、この不動明王に「霊験あれば示し給え」と祈念したところ、この不動がやおら立ちあがったという伝説が伝わります。それも「ほんまかな」と思えてくるお不動様です。

そして今回の解体修理で像内を開くと・・・・・・
背中や腰の内側には墨書がびっしりと書かれていました。
イメージ 3
根香寺不動明王の像内腰部墨書
何が書かれているのか・・ 
  奉造立等身不動明王
  夙聞大聖明王者大日如来教令輪
  身魔界降伏之忿怒尊也故現
   口口罪垢常念奇口
  覚位霊観夢依宿願集
  口(裏)因模尊鉢等生恵黄口(賞)
  口口平等利益敬白 弘安九年磐二月廿五日奉介御身
  ここには、不動明王が大日如来の化身であること、忿怒の形相の所以など、そのありがたさが書かれています。
そして最終行に弘安九年(1286六)の年号が見えます。
ここからこのお不動さんの制作年が鎌倉時代13世紀末と判明しました。この時期は、香川県の寺院建築で唯一国宝に指定されている本山寺の本堂が建設中だった頃になります。

   寺伝では、開基智証大師によって彫られたと伝わります。
しかし、前回も述べたとおりこの不動が創建時からここにあったは思えません。根香寺は、戦国末期と江戸時代前期に2度の大火にあって伽藍が焼け落ち、寺宝も失っています。智証大師像や毘沙門天さまと同じく、後からやってきた仏様と考えるのが自然です。
それでは、どこからやってきたのでしょか。
このお不動さんの由来を示す資料は、今のところないようです。
次に四天明王を見てみましょう。 まずはメンバー紹介から始めましょう。
降三世(ごうさんせ)明王像です
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      根香寺の降三世明王像
四面、八腎。顔は正面、左右両脇、後に各一面。
各面単髪、地髪マバラ彫り、皆、左右こめかみの髪際は炎髪。各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。馨の根元にも山型飾(背面を除き、紐二条を結ぶ)を付す。各面ともに天眼をあらわし、両目は眼目。上歯上牙で下唇をかむ。
三道相。耳は耳孔をつくり、耳采環状貫通。鼻孔をつくる。
左右第一手は屈腎して、胸前で左手を上にして手首を交叉して甲を重ね、第五指を絡めて第二指を立て他は曲げ、降三世印とする。
第二、三、四手は、第一手の後方の上中下の位置で屈腎し、各持物をとる。
左第二手は三鈷杵、第三手持物(弓)は亡失、
第四手は龍索、右第二手は五鈷鈴、
第三手が箭、第四手は剣を持つ。条帛をかけ、裳(右柾)をつける。裳の前裾は、大腿部を巻きこんで、左右脹脛を通って外へ翻る。腰布を巻いて正面で結ぶ。
左足は伸ばして大自在天の右胸を、右足は膝を軽く曲げて鳥摩妃の左手を踏んで立つ。左足の第一指を反らす。胸飾、腕・腎・足に釧をつける。
天座 岩座上に大自在天と烏摩妃を配する。大自在天は頭を左方へ向けて岩上に仰向けに横臥し合掌する。顔を正面に向けて目を見開き眉をしかめ、口を軽く開く。地髪は平彫、単馨を結う。条帛をかけ、裳、腰布をつけ、正面で結ぶ。 
烏摩妃は頭を右方へ向けて、右手を岩上について上体をささえて横臥し、左手は体側に沿わせる。
右足を大自在天の右足の上にのせる。
頭飾をつけ、地髪はマバラ彫り、髪を肩上でゆるく持ち上げ単馨を結う。髪髪をU字に垂らす。大袖の衣に鰭袖の衣を重ね、腰紐を結ぶ。
光背 輪光・火焔付 台座 岩座枢座 長方形
 降三世明王は、顔が3つ、手が8本で、足下に大自在天(だいじざいてん)とその妃の烏摩(うま)を踏んでいます。これは、欲望にうずく世界、物質にとらわれる世界、意識にこだわる世界の煩悩を降伏(ごうぷく)する明王と信じられています。この三世界の主である二天をも降伏することから降三世の名がついているといいます。

軍荼利(ぐんだり)明王像

イメージ 5
 一面、八腎。単馨、地髪マバラ彫り。
天冠台をつけ、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。
その根元に山型飾を付し紐二条がめぐる。
左右こめかみ髪際、耳後及び後頭部は天冠台上から炎髪をあらわす。各面ともに天眼をあらわし、両目は眼目。
上歯をみせ、牙を上出す。
三道相。鼻孔、耳孔をつくり、耳采環状貫通。
第一手は左右とも第一、五指をおって掌を内に向け、
胸前で左手を上に交叉する。
ほか三手は、第一手の後方の上中下段に配される。
左第二手は輪宝、第三手は三叉鉾、第四手は
右第二手は三鈷杵をとり、第三手は掌を前に第二指を上に立て、他の指は第一指を内に握り、第四手は掌を前に向けてひろげる。条帛をかけ、裳をつけて、その正背面に獣皮(各頭付、正面虎、背面豹)を重ね、腰布をまわして正面に花結びをみせる。
裳裾の翻る様は降三世に同じ。
獣皮正面では頭を下に向けた二匹の蛇が交叉する。
左足は伸ばし、右足は膝を曲げて軽く上げ、いずれも第一指を反らして蓮華座を踏む。
胸飾をつけ、頚元に二匹の蛇を絡ませ、各手に腎釧をつけ、
各手と足首に蛇が巻きつく     
光背 輪光・火焔付台座 岩座柾座 長方形
 軍荼利明王は、すざましいお顔に目が3つ、手が8本。
12匹の蛇が、脚・首・手に巻きついています。
軍荼利(甘露をたたえた瓶)の甘露で種々の障害を除いてくださるといいます。五大明王から私がすがる仏を選べと言われたら迷わずこの方を選びます。 

金剛夜叉明王像 

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三面、六腎。各単馨、地髪マバラ彫、
左右こめかみ上髪際と後頭部、耳後より炎髪をあらわす。
各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾、愕の根元に山型飾と紐二条を結ぶ。
本面は天眼と四目、左右脇面は天眼と二目、天眼のほかは皆瞑目。各面とも開口し、上歯牙と舌をのぞかせる。
三道相。本面は耳孔をあけ、三面とも耳采環状貫通。
鼻孔をつくる。
第一手左は腹前に屈腎して五鈷鈴を、
右は胸前に屈腎して逆手に五鈷杵をとる。
第二・二手は、第一手の後方上下に配して屈腎し持物をとる。
左第二手は輪宝、第三手は、右第二手は三鈷剣、第三手は箭をにぎる。条帛をかけて、裳(右粁)をつけ、腰布を巻いて正面で結ぶ。
裳裾の左右に翻える様は降三世に同じ。
左足を伸ばし、右膝を曲げて、前傾姿勢をとり、各蓮華を踏んで立つ。胸飾、腎・腕・足に釧をつける。
光背 鳶光・火焔付 台座 蓮華座岩座枢座

 金剛夜叉明王は顔が3つで、その中の中心の顔には目が5つあります。手は6本。金剛杵(しょ)の威力をもつ夜叉の意味で、人の心の汚れた欲心を食い尽くし、真実の悟りにいたらせるといいます。この明王の名前がつけられた有名な「戯曲」がありますね。

大威徳明王像

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六面、六腎、六足。各面単馨、地髪平彫り、左右こめかみの髪際と両耳後から、頭上面はさらに後頭部に炎髪をあらわす。
各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。
頭上面の馨根元に山型飾を付す。
各面ともに天眼をあらわし、両目は瞑目。
本面は開口(上歯牙・下牙)、左脇面開口(上歯牙・下牙)、右脇面閉口(上歯牙)。頭上正面開口(工歯牙・下牙)、左は開口(上下歯・上牙)、右は閉口(上歯牙)。
いずれも三道相をつくる。
本面と両脇面は耳采環状貫通、頭上面は耳采不貫とする。
耳孔はつくらない。左右第一手は胸前にて、各第三指を伸ばして相合わせ、他の指は組み合わせて掌を合わせる。
第二、三手は屈腎して、第一手の後方で上下に配し持物をとる。左第二手は三叉鉾、第三手は輪宝、右第二手は三鈷剣、第三手は如意棒をとる。
条帛をかけ、裳(右任)をつけ、腰布を巻いて、結び目を正面にみせる。裳裾は各膝頭を包みながら覆い、一部は左右足の前方に垂れ、後方では左右足裏から翻る。
左第一足を珈し、他は垂下して水牛の背にまたがる。
胸飾、腕・腎・足に釧をつける。
牛座 正面を向いて、鱒る。光背 輪光・火焔付
台座 枢座 長方形
大威徳明王は、水牛に乗っているので間違うことはありません。
一切の悪毒龍を調伏する大威徳のある明王です。六面・六臂(ぴ)・六足で水牛にのっていて、農耕の仏ともいわれ農民たちの信仰を集めました。
そして、「お宝」は、この大威徳明王像から発見されました。
この像内の背部からは貼付けた文書、牛座からは墨書と納入文書二種が出てきたのです。それを見ていくことにしましょう。
大威徳明王像一、像内背部貼付文書
イメージ 8
  
五大尊四鉢ノ内大威徳明王施主 
  松平讃岐守様也 
  昨者京七條大佛師 
  左京法眼康知弟子佐々木内近作之也
  康知(開山従定朝廿四世運慶より十九代孫也
  天和参歳抄三月拾日
  将運綱儀公  大佛師内近

  帝 今上皇帝
  右之御取次木食専心坊様也
  大威徳明王座像弐尺弐寸五分
  うしあり
ここから、四天明王は高松藩初代藩主松平頼重が護摩堂本尊として京都の仏師に作らせたことが明らかとなりました。その取り次ぎをおこなったのが「木食専心」であったとも記されています

 そのうち最後の大威徳像は天和三年(1683)に、京都七条大仏師康知の弟子である佐々木内匠の作であること、他の三像は大仏師久七の作でことが分かりました。そして仏師の住所も「綾小路烏丸東入丁大仏師久七」と分かります。この明王たちの「誕生地」を訪ねることも出来ます。

 ちなみに大仏師久七の作品としては、

万治三年(1660)の金剛峯寺真然大徳坐像と、寛文十三年(1672)長野県千曲市長雲寺の愛染明王坐像が確認できるようです。近世京都の仏師には全国のお寺から注文が入っていたことが分かります。長雲寺愛染明王像と根香寺降三世像を比べて、専門家は次のように指摘します。
顔の表現には相通じるものが感じられる。開口と閉口という差、また十年という制作時期の差があるが、頬骨を高くしてこめかみを引き締めた面相のバランス、目を瞑らして眉間につくる瘤、こめかみから立ち上がる炎髪と髪際の処理などの表現には、同一作者ゆえの傾向がみてとれるだろう。
根香寺の四大明王像は、東寺講堂の明王像に似ていると言われてきました。
東寺像と比較すると、手勢、持物に違いはありますが、動きや姿勢はほぼ同じです。東密の四大明王像をモデルにしているようです。それも、大仏師久七が東寺の「お抱え仏師」であったことが分かると「なるほどな・・」と合点がいきます。 
しかし、専門家は「降三世明王像は、東寺像と異なる様相」があると指摘します。
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根香寺の像は、体の色が群青色ではなく、右は黄、左は緑、背面は紅色と塗り分けて「派手」です。
降三世の四面の色を明記した経典としては
「金剛頂喩伽降三世成就極深密門」(不空訳)があります。そこには「降三世喩伽、二羽印営心、慧手持五鈷、努腎如下擬、次箭剣直執、定上五鈷鈎、次弓次執索、皆直引腎持四面正青色。右黄左緑色後紅、咸忿怒」と記されています。
体の色については「四面正青色。右黄左緑色後紅」とあり根香寺の降三世さんの方が「原典に忠実」です。他にも東寺像では、右足が烏摩妃の乳房を踏むのに対して、根香寺像は、烏摩妃が左手(掌を上に向けている)で受けていることがわかります。
 つまり、この像に関しては全て東寺像を「コピー」した訳ではないようです。
なぜ降三世は、独自色が強いのでしょうか?
専門家は、それを大威徳の次の墨書銘に求めます。
讃州右京大夫様/護摩堂之御本尊也」とあり、この四大明王の造立は、高松藩主初代松平頼重が護摩堂の本尊として発注した物であることが分かります。

そこで五大明王像の経緯を見ていきましょう 

まず根香寺に現存する史料から始めます。
 根香寺の近世期の縁起には「青峰山根香寺略縁起」及び「讃岐国根香寺記」があります。前者は五世俊海が、後者は第六世受潤が延享三年(一七四六)に著した物です。この両縁起には寺の創立由緒を智証大師とする意図が強くあると言われます。
例えば
「不動明王像も本尊千手観音像とともに智証大師の作である」
とします。前回に見てきたようにこれは歴史的事実ではありません。
今、見ておきたいのは近世期の根香寺の動向です。
「慶長年中には讃岐国主であった生駒一正により本尊千手観音像と不動明王像を拝顔して敬信し、二尊のために堂于を建て替えた」
といいます。そして高松藩主初代松平頼重が延宝年中に住持龍海へ命じて金堂、五大尊堂(護摩堂)、祖師堂、僧坊などを建立させ、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の四明王を造立し不動明王とともに五大尊としたと記します。松平頼重が施主となって護摩堂本尊として造立したという銘記の内容と一致します。
 この寺の中興の祖とされる龍海については元文六年(1742)「浄行院龍海和尚伝」があり、それにも四大明王像は頼重の造立であると伝えます。ただし五大尊は「祈祷所本尊」であり、二代頼常によって根香寺へ移されたとします。
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また天保四年(一八三三)の「青峰山根香寺由緒等書上控」に、
不動明王は「智護大師之真作、殊二霊威新故、御下屋敷江御勧請(延宝年中)三間二五間之護摩堂御建立有之、御安置候而」と記されています。
根香寺にあった不動明王が、頼重の下屋敷に建てられた護摩堂に安置されたことが分かります。
さらに「由緒等書上控」は
仏工「法橋治部」に命じて降三世など四大明王を造らせて五大尊とし、龍海と了尊の2人に預けた」
「国家安全御武運長久」のため、長日の護摩供、正、五、九月は百座の護摩修行を仰せ付けられた」
「頼重没後の元禄年中に、二代頼常が五大尊を根香寺へ移した

と記します。
 下屋敷とは、頼重が居住した宮脇の下屋敷と考えられます。
先ほどの「龍海伝」にいう「祈祷所」とは、この下屋敷護摩堂を指すようです。頼重自らが下屋敷に護摩堂を建立し、根香寺から移した不動明王像に、京都の仏師に依頼した四大明王を加えて五大尊として祀り、国家鎮護のために護摩法をさせたということになります。隠居後にもかかわらず頼重は、自分が祈祷するための環境を、日常寝起きする下屋敷内に整えたということです。つまりプライベートな祈祷環境を整えたのです。彼は、そこで日常的に祈祷を行っていたのかもしれません。頼重の信仰世界が少し見えてきたような気もします。
   どちらにしても、これは金毘羅大権現保護や仏生山建立などの寺院保護や再興の域を超えています。頼重が根香寺のお不動さまに強く惹かれたことは事実のようです。
下屋敷に五大堂を建て祀ることを進言した宗教的指南役は?
そのプラン全体を考えたのは誰か。
牛座内の納入文書等には「此御本尊御取次木食専心様」とあります。頼重の宗教的ブレーンは「木食専心」のようです。しかし、今の段階ではこの人物についての資料は見つかっていないようです。降三世像を東寺講堂像のモデルからグレードアップし、四面の色、持物を「原典」通りにしたのは、五大尊の「霊力アップ策」だったのかもしれません。
 どちらにしろ江戸時代を通じて、密教系の加持祈祷・護摩が頼重に見られるように支配層の上層部の信仰心を捉えていたことが分かります。根香寺の四大明王は、鎌倉時代の不動明王に祈りを捧げるようになた頼重が京都の仏師に作らせ下屋敷に安置したものなのです。

参考史料
香川県立ミュージアム 調査研究報告第4号 根香寺の彫刻調査
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「大窪寺」の画像検索結果

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①虚空蔵院与田寺(東かがわ市中筋)、
②宝蔵院極楽寺(さぬき市長尾束)、
③遍照光院弘憲寺(高松市)、
④地蔵院香西寺(高松市)、
⑤無量寿院隋願寺(高松市)、
⑥千手院国分寺(高松市国分寺町)、
⑦洞林院白峰寺(坂出市)、
⑧宝光院聖通寺(綾歌郡宇多津町)、
⑨明王院道隆寺(仲多度郡多度津町)
⑩覚城院不動護国寺(三豊市仁尾町)、
⑪威徳院勝蔵寺三豊市高瀬町)、
⑫持宝院本山寺(三豊市豊中町)、
⑬延命院勝楽寺(三豊市豊中町)、
⑭伊舎那院如意輪寺(三豊市財田町)、
⑮地蔵院萩原寺(観音寺市大野原町)
 生駒氏転封後の高松・丸亀藩に分けると、⑧までが高松藩領寺院となります。これにニケ寺を加え松平藩時代に「十ケ寺」保護制度が整ったようです。大窪寺の寺格は、この「十ケ寺」の次席という格式であったと伝わります。

「四国霊場大窪寺 本尊薬師座像」の画像検索結果

荒廃した大窪寺を復興したのは、高松藩祖松平頼重

荒廃した大窪寺を復興したのは、水戸光圀の兄で水戸藩からやってきた高松藩祖松平頼重です。頼重の肝煎りで、本堂・鎮守社・弁天宮・二王門が姿を現します。頼重は同時期に、根香寺・志度寺・八栗寺など八十八ヵ所霊場の寺院復興を行っています。さらに頼重は、寺領十石に加え新開地十五石を寄進するなど厚い保護を行ったことが寺領寄進(安堵)状に書き留められています。藩祖に習って以後も高松藩は手厚い保護を行っていたことが資料から分かります。
「四国霊場大窪寺 本尊薬師座像」の画像検索結果
 
大窪寺は、頼重の時代(寛永~延宝期)までに京都・大覚寺末となっていたようで、現在でも真言宗大覚寺派に属します。本寺の大覚寺からは、寛政六年(1794))菊御紋の提灯・幕などを下賜されており、特別な処遇であったことがわかります。

  大窪寺の弘法大師坐像を解体修理したところ、面部裏から
「大仏師かまた喜内、京あやのかうち、東之とい北へ入る」
の墨書銘が発見されました。
その結果、この座像が江戸時代中期に京都の仏師鎌田喜内によって作られたことが分かりました。彼は三豊市の本山寺の愛染明王坐像(平安時代・県指定有形文化財)を修理し、同寺の十王・倶生神像を見積もった仏師でもあります。江戸時代の本山寺と大窪寺はともに大覚寺の末寺であり(本山寺は現在高野山真言宗)、同じ宗派の寺院と京仏師の関係が見えてきました。
 
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 明治33年(1900)5月9日、本堂脇から出火し、本堂・大師堂・阿弥陀堂・薬師堂などを全焼し、徳川光圀寄進法華経(自筆箱書阿弥陀経か)・鷹司右大臣寄進医王山額など多くの什物が焼失しました。このため、中世以前の古文書・古記録はありません。
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参考史料 胡光 大窪寺の文物 香川県歴史博物館調査報告 第三号

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