瀬戸の島から

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 中世の絵巻に出てくる港を見ていると、護岸などの「港湾施設」が何も描かれておらず、砂地の浜に船を乗り上げていた様子がうかがえます。しかし、発掘調査からは石積護岸工事を行った上で、接岸施設を設けた川港も出てきているようです。今回は、宇治川太閤堤を見ていくことにします。テキストは「畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」
 その前に法然上人絵図に描かれた湊を見ておきましょう。
鳥羽の川港.離岸JPG
                  鳥羽の川湊(法然上人絵伝 巻34第2段)
長竿を船頭が着くと、船は岸を離れ流れに乗って遠ざかっていきます。市女笠の女が別れの手を振ります。私が気になるのが、①の凹型です。人の手で堀り込まれたように見えます。この部分に、川船の後尾が接岸されていて、ここから出港していたように思えます。そうだとすれば、これは「中世の港湾施設」ということになります。しかし、石垣などの構造物は何もありません。この絵伝が描かれたのは、法然が亡くなった後、約百年後の14世紀初頭のことです。当時の絵師の鳥羽の川湊とは、こんなイメージであったことがうかがえます。
次は兵庫浦(神戸)のお堂の前の湊です。

高砂
   
海に面したお堂で法然で経机を前に、往生への道を説いています。法然が説法を行うお堂の前は、すぐに浜です。その浜に⑤⑥の漁船が乗り上げていますが、ここにも港湾施設は見当たりません。

兵庫湊
法然上人絵伝 巻34〔第3段」  経の島
 
馬を走らせてやってきた武士が、お堂に駆け込んで行きます。家並みの屋根の向こう側にも、多くの人がお堂を目指している姿が見えます。ここにも何隻かの船が舫われていますが、港湾施設らしきものはありません。砂浜だけです。
兵庫湊2

つぎに続く上の場面を見ると、砂浜が続き、微高地の向こうに船の上部だけが見えます。手前側も同じような光景です。ここからはこの絵に描かれた兵庫湊にも、港湾施設はなく、砂州の微高地を利用して船を係留していたことがうかがえます。手前には檜皮葺きの赤い屋根の堂宇が見えますが、風で屋根の一部が吹き飛ばされています。この堂宇も海の安全を守る海民たちの社なのでしょう。後には、これらの社の別当寺として、寺院が湊近くに姿を見せ社僧達によって湊を管理するようになります。そこから得る利益は莫大なものになっていきます。
私が気になるのが浜辺と船の関係です。ここにも港湾施設的なものは見当たりません。
砂浜の浅瀬に船が乗り上げて停船しているように見えます。拡大して見ると、手前の船には縄や網・重石などが見えるので、海民たちの漁船のようです。右手に見えるのは輸送船のようにも見えます。また、現在の感覚からすると、船着き場周辺には倉庫などの建物が建ち並んでいたのではないかと思うのですが、ここにもそのような施設もなかったようです。
  当時日本で最も栄えていた港の一つ博多港を見てみましょう。
博多湊も砂堆背後の潟湖跡から荷揚場が出てきました。それを研究者は次のように報告しています。

「志賀島や能古島に大船を留め、小舟もしくは中型船で博多津の港と自船とを行き来したものと推測できる。入港する船舶は、御笠川と那珂川が合流して博多湾にそそぐ河道を遡上して入海に入り、砂浜に直接乗り上げて着岸したものであろう。港湾関係の施設は全く検出されておらず、荷揚げの足場としての桟橋を臨時に設ける程度で事足りたのではなかろうか」

ここからは博多港ですら砂堆の背後の潟湖の静かな浜が荷揚場として使われていたようです。そして「砂浜に直接乗り上げて着岸」し、「港湾施設は何もなく、荷揚げ足場として桟橋を臨時に設けるだけ」だというのです。日本一の港の港湾施設がこのレベルだったようです。12世紀の港と港町(集落)とは一体化していなかったことを押さえておきます。河口にぽつんと船着き場があり、そこには住宅や倉庫はないとかんがえているようです。ある歴史家は「中世の港はすこぶる索漠としたものだった」と云っています。ここでは港湾施設が港に現れる時期を、押さえておきます。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
ここからが今日の本題です。発掘調査から出てきている①②の遺構を見ていくことにします。
宇治川太閤堤築堤
宇治川太閤堤
 秀吉によって作られた宇治川太閤堤です。
 文禄元年(1592)に、豊臣秀吉は伏見城の築城に着手します。この城は、当初は隠居所と考えられていたので大規模なものではなかったようです。それが文禄3年(1594)に、淀城を廃して、一部の建物を伏見に移築して本格的城郭として体裁を整えていきます。城下には宇治川の水を引き入れた船入も造成され、城下町が整備されています。そして8月には伏見城は完成し、秀吉は伏見に移っています。築堤工事は伏見築城と並行して行われていて、10月には前田利家が宇治川の付け替え工事を命じられているほか、織田秀信は伏見・小倉間の新堤を築堤し、宇治橋を破却しています。

宇治川太閤堤築堤2
宇治川太閤堤の石積護岸

 宇治川太閤堤築堤の目的は、次の2点です
①宇治川の治水ではなく、伏見港の機能を高めるためで、朝鮮半島への派兵を行うための水運の拠点を築くこと
②大和街道を伏見城下に移し、大坂と伏見を結ぶ京街道が整備し、伏見を水陸交通の要衝として機能させること
発掘調査地点は、宇治橋下流側の宇治川右岸300mにわたって続いています。
宇治川堤防1
宇治川太閤堤
護岸遺構からは川側に向けて「石出し」が4ケ所、「杭出し」が2ケ所突き出ています。
宇治川太閤堤築堤4
宇治川太閤堤築堤 石積み護岸
石積み護岸は、馬踏(天端)幅2m、敷(護岸底辺)幅が約5m、高さは2、2m。石積み護岸は上半の石張りと下半の石積みの2段構造です。簡単な整地後、板状の割石を直接張り付けただけです。

宇治川太閤堤築堤3

杭止め護岸は、杭などの木材を用いて垂直に岸を造る工法です。
杭止め護岸は上図3-2のとおり、かせ木・横木(頭押え)支え柱で構成され、裏側に拳から頭くらいの石が詰め込まれています。

 宇治川太閤堤築堤5
宇治川太閤堤は、石出で水流を弱めて護岸の侵食を防ぐ目的がありました。その下流の杭出しは、杭が何本も建ち並び、船着き場として使われていたようです。つまり、この工事は護岸工事であると同時に、船着き場設置工事でもあったようです。

宇治川太閤堤築堤 杭だし(船着場)
杭出し(船着場)復元
  中世から近世にかけての石材を用いた河川護岸施設の多くは、船着き場や物資の集積流通拠点だったと研究者は考えています。そのために巨額の資金と労働力が投下されたようです。
  宇治川太閤堤築堤 石出し

 また宇治川太閤堤の石出しの石垣には、城郭の石垣技術が援用されていることを研究者は指摘します。
城郭と治水・利水施設は目的は違いますが、技術は相互に援用されたようです。例えば、徳川家康の家臣で深溝(愛知県幸田町)を本拠とした松平家忠は、数多くの城普請を手掛けたことが『家忠日記』から分かります。その技術は、領地である永良や中島での築堤工事によって培われたようです。
 満濃池再築を果たした西嶋八兵衛が、若い頃は藩主藤堂高虎の下で二条城や大阪城の天下普請で土木工事技術を身につけていたのも、このような文脈の中で理解すべきようです。それが讃岐での治水工事やため池築造に活かされます。ここからは、築城と築堤が密に関係していたことを押さえておきます。

 宇治川太閤堤跡は、秀吉の伏見築城の付帯工事として着工された河川改修工事です。
そのため秀吉の命により配下の大名達が分担する「天下普請」でした。この工事の重要性は
①文禄3年という時期が分かること
②大名クラスの治水についての思想や技術が込められていること
つまり、時期と築造階層が特定できる点で、非常に重要な遺跡だと研究者は考えています。例えば、甲斐の信玄堤や、加藤清正による肥後での河川工事などの実態についてはよく分かっていません。具体的にどのような工事が行われたのかは、はっきりせず「俗説」が一人歩きしている状態だと研究者は指摘します。そのなかでこの宇治川太閤堤は、用いられた資材や施行内容までもが具体的に分かります。そういう意味でも、中世以来の治水技術の到達点であると同時に、近世の治水技術の出発点の指標となる遺跡です。同時に、川湊という視点からは、石積護岸化と川湊の関係が見えてくる遺跡とも云えます。
 次回は、宇治川太閤堤に作られた川湊の原点とも云える徳島市の川西遺跡の石積護岸を見ていくことにします。
川西遺跡3

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」
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      法然上人絵伝表紙
 
 以前に法然上人絵伝で、讃岐への流刑について見ました。今回は、法然がどうして流刑になったのかを、当時の専修念仏教団をとりまく世の中の動きと絡めながら見ていくことにします。テキストは、「新仏教の形成   躍動する中世仏教66P」です。
その前に「鎌倉新仏教」は鎌倉時代においては仏教界の主流ではなく、勢力も微弱であったことを押さえておきます。
新仏教が大教団へと成長するのは、室町時代後半から戦国時代にかけてです。その際には、祖師たちの思想がそのまま受け継がれたわけではなく、かなりの変容を伴っているようです。そのため、実態としては、「室町仏教」「戦国仏教」と呼んだ方が実態に相応しいと考える研究もいます。とりあえず鎌倉新仏教を「鎌倉期に祖師により創唱され、室町時代に勢力を確立した仏教教団」としておきます。そのトップバッターが法然ということになります。

鎌倉新仏教の中で最も「新仏教」らしい「新仏教」は、法然から始まる専修念仏運動だと研究者は指摘します。
「新仏教」の特徴とされる「易行性」「専修性」「異端性」が、専修念仏には最もよくあてはまります。専修念仏とは、念仏のみを修行することです。法然によれば「阿弥陀仏が本願において選択した口称念仏(南無阿弥陀仏)のみを行ずること」ということになります。口称念仏は誰にでもできる「易行」です。修験者たちの行う「苦行」とは、対照的な位置にあります。しかし、これを実践に移せば非常にラジカルな主張となり、結果的には口称念仏以外の実践や信仰を排除するものになります。そのため旧仏教からは「異端」として批判・弾圧されることになります。当時の世の中では、専修念仏だけを唱え、他の神仏・行業を排除することは、神仏の威を借りて民衆支配を行う権門に対する民衆側の反抗を後押しする役割を担うことでした。つまり、民衆の自立・解放のためのイデオロギーとして機能したとも云えます。 戦後の研究者の中には、この側面を強調する人達が多かった時期があります。この立場からすると、その後の浄土宗の展開は妥協・堕落の歴史だったということになります。しかし、現実の浄土宗の役割は「極端な排他的態度を抑制し、既成仏教との共存の論理を形成」することにあったと考える研究者が今は増えています。そして、法然の死後は、その論理を構築した鎮西義が主流となり大教団へと成長して行きます。
思想史的には、浄土宗には時代の子としての側面があるようです。
戦後の新仏教中心史観が描き出したのは、古代的な国家仏教を、新興階級の新仏教が打ち倒すという図式であり、その背景にはマルクス主義に代表される進歩的な歴史観がありました。一方、顕密体制論において新仏教は、体制に反抗し挫折し屈折していく異端として描かれてきました。これが当時の新左翼運動を始めとする時代潮流に受け入れられていきます。しかし、このような「秩序違乱者」として宗教を評価する視点は、一連のオウム真理教事件やアメリカ同時多発テロ事件の後では、影が薄くなっていきます。
専修念仏の歴史的意義を社会思想的なものに還元しないなら、どのような見方ができるのでしょうか。 
一つの視点として、法然から浄土宗各派への展開を、祖師からの逸脱・堕落としてみなすのではなく、むしろ純化過程としてみる見方を研究者は模索します。さまざまな批判や弾圧にもかかわらず専修念仏を選びとった人びとが、一見妥協ともみえる姿勢の中で、なおかつ守ろうとしたものは何だったのだろうかという視点です。
 そこに一貫して見て取れるのは、自らの機根が劣っているという自覚です。機根(きこん)についてウキは、次のように記します。
①仏の教えを聞いて修行しえる能力のこと。
②仏の教えを理解する度量・器のこと
③衆生の各人の性格。
④根性は、この機根に由来する言葉
  ④の根性の根とは能力、あるいはそれを生み出す力・能生(のうしょう)のことで、性とは、その人の生まれついた性質のことです。
「自分は愚かなので、聖道門の修行はできない。称名念仏でしか助からない」

というのが、専修念仏者の基本的な姿勢でした。これは一種の居直りとも思えます。しかし、ここにはふてぶてしい自己肯定があります。「自分のやうなものでも、どうかして生きたい」
島崎藤村『春』)の私小説的な自己意識につながる内面性とつながるものです。このような内面性を生み出したところに、専修念仏の一つの思想史的意義があると研究者は考えています。

次に 法然の略伝を見ておきましょう。  
法然房源空(1133~1212)は、美作国(岡山県)で生まれ、比叡山で受戒。その後、善導の著書に出会ったことを契機に、専修念仏を唱導し、多くの信者を集めるようになります。法然は円頓戒の血脈を受けていて、授戒を通じて多くの貴顕の尊崇を集めていました。専修念仏が拡がるにつれて比叡山・南都など旧仏教からの攻撃を受け、「建永の法難」を契機に土佐国(実際には讃岐)に流罪され、その後、赦免。京都で生涯を終えます。

選択本願念仏集 / 小林書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
         選択本願念仏集
法然の主著は『選択本願念仏集』です
まとまった著書としては、これ以外の著作はありません。法然の本領は、体系的に自説を展開することよりも、直接相手に働きかける人格的な魅力にあったと研究者は評します。それがさまざまな個性を持った多くの帰依者を引きつけるとともに、死後、多くの分派を生み出す一因にもなります。
『選択集』は独立した宗派としての「浄土宗」を確立することを意図しています。その中心になるのが、題名にある「選択本願念仏」の思想です。
①「選択本願念仏」とは、本願において選択された称名念仏のこと。
②本願とは、阿弥陀仏が、仏になる前、法蔵菩薩と称されていた時代に立てた誓願のこと
③『無量寿経』では四十八願を挙げているが、この中で法然が重視するのは第十八願。
そこには次のように説かれています。
「もし仮に私(法蔵菩薩)が悟りを得る時、十方にいる生けるものどもが、心から願い求め(至心信楽)、私の国に生まれようとして、十回以上念じても(乃至十念)、生まれないというなら、悟りを得ることはない」

法然は、ここで「念」という言葉を使っていますが、これは「声」と同義で、「十念」も十回の意ではなく、生涯にわたる修行から、たった一回までのすべてを包括していると考えていたようです。つまり、たった一回でも「南無阿弥陀仏」と声に出して唱えれば、阿弥陀仏の国(極楽世界)に往生できることを保証する。それ以外の行業は無用である、というのが法然の主張です。
聖典セミナー 選択本願念仏集|本願寺出版社

『選択集』末尾には、この立場が次のように要約されています。

それ速やかに生死を離れむと欲せば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らむと欲せば、正雑二行の中、しばらく諸の雑行を地ちて、選んで応に正行に帰すべし。正行を修せむと欲せば、正助二業の中、猶は助業を傍らにし、選んで応に正定を専らにすべし。正定の業とは、即ち是れ仏の名を称す。名を称せば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり。

     意訳変換しておくと

速やかに生死の苦から離れようと思うのならば、2つの道の内の、聖道門を開いて浄土門に入れ。浄土門に入ろうと願うのならば、正雑二行の中の、雑行をなげうって、正行をおこなうべし。正行を修しようとするなら、正助二業の中の、猶は助業は傍らに置いて、正定を選んで専ら務めることである。正定の業とは、仏の名を称すことである。仏名を唱えれば、必ず生死の苦から逃れ、生ずる道を歩むことができる。それが仏の本願であるから。

ここには、生死(輪廻)の苦から離れるためには、本願の行である称名を行ずるべきで、それ以外の教えや実践をすべて捨てよ、と説かれています。これが専修念仏と呼ばれるものです。
ここで研究者が注目するのは、法然が二度「しばらく」と書いていることです。
これが意味深長だといいます。『選択集』の論理構成では、称名念仏は最易・最勝だから選択されるのであって、他の諸行は難であり劣ではあるけれども往生・成仏の行として許容される余地を残しているとします。
 法然は浄上門に帰した行者は、聖道門(浄土門以外の諸宗)の行者に惑わされてはいけないと述べます。同時に、浄土門の行者が聖道門の行者と言い争ったり批判したりしてはいけないとも誠めています。ここで重要になるのが、本人の機根の自覚であり、それを示すのが「三心」です。
「三心」とは、『観無量寿経』に説かれる至誠心・深心・廻向発願心のことです。法然は『選択集』の中で、この三心に対する善導『観経疏』(『観無量寿経疏』)の注釈を長々と引用し、三心を行者の「至要」としています。三心の中核は、深心です。善導によれば、深心とは「深信」であり、自らが罪悪深重の凡人であると深く信じるとともに、その几夫を救済する阿弥陀仏本願の正行である称名念仏を深く信じることです。つまりは、「自分のような愚悪の者は、称名念仏以外には救われることはない」と信ずることです。こうした善導流の念仏観を具体的なイメージで説明したものが、有名な二河白道(にがびょくどう)です。法然は、これも全文を引用しています。
二河白道(にがびゃくどう)の図
二河白道図

『選択集』の中では、三心の教説は、付け足しのようなものにみえます。しかし、法然没後に分派する門下たちが共通して重視しているのが、この三心の教説です。ここからは、三心を起こして口称念仏を行ずることが、法然門下の基本的実践だったことが分かります。
 口称念仏の先駆けとされる | thisismedia
それまでは口称念仏は、「劣機のための低劣な行」とみなされてきました。
それを阿弥陀仏が本願として選択したベストな行として位置づけた点に、法然の教説の意義があるとされてきました。しかし、これは「後付けの理屈」に過ぎないと研究者は評します。それだけで専修念仏の爆発的な拡大があったことの説明にはならないとします。それでは、その要因は何なのでしょうか?
法然上人と増上寺|由来・歴史|大本山 増上寺
新しい宗教が広まるには、主唱者の人格的な魅力が欠かせません。
法然の場合は、並はずれた包容力にその中心があったと研究者は考えています。「南無阿弥陀仏とさえ唱えるなら、あとは何をしてもよい」というのが法然の基本姿勢です。これを支えるのは、単に阿弥陀仏の本願への確信というだけではなく、「自分には他には何もできない」という深い自覚です。称名のみにただひとつの救済の道として見出したとも云えます。三心を「行者の至要」と言う法然の本意は、経や疏にそう書かれているからということではなく、自らの自覚の表現として解するべきだと研究者は評します。
 法然は具体的な行法として、長時修(じょうじしゅう)を重視します。
長時修は、四修(ししゅう)のうちの一つで、残りの三修は慇重(おんじゅう)修・無間(むけん)修・無余(むよ)修です。この三修は、称名の際の内面的なあり方を問題にしています。それに対して、長時修は臨終にいたるまで称名をやめるなというだけです。この長時修重視の姿勢は、法然の教説の中では、評判の悪いとされているようです。近代人のものの見方からすれば、当然かも知れません。例えば、ルター流の信仰義認説の立場に立つなら、機械的に称名を続けるなどというのは、はなはだ非宗教的なことで、内面的な信仰こそが重視されるべきだということになります。近代の法然解釈の多くは、こういう立場を暗黙の前提にします。
 「何でもいいから称名を続ける」ということは、自分が劣っていると深く自覚したものが、阿弥陀仏の本願のみを頼んで、ひたすら称名し続けるということです。これが法然の基本姿勢で、逆にいえば、これ以外はどうでもよいということになります。そう考えると法然が戒律をたもったことや、授戒を行ったことを、専修念仏に反する矛盾・妥協と非難する必要もなくなります。
 称名を行うことが第一義で、戒律の持破もどちらが本人に合っているかということに過ぎないのです。
持戒でなくても往生はできるが、わざわざ破戒する必要はない。持戒の方が称名しやすければ、持戒するのが良いということになります。授戒などの行業についても同じです。法然が貴族らに行った授戒は、病気平癒のためのようですが、これも称名による往生を目指すことと矛盾するものではありません。『徒然草』(第二百二十二段)には、専修念仏者でありながら光明真言や宝筐印陀羅尼による亡者追善を薦めた宗源(乗願房)のことが記されています。これは既成仏教と妥協したというのではなく、法然自身がこのような姿勢を持っていたからとも考えられます。
 専修念仏というと、他宗や他の行法を否定した面だけが強調されます。しかし、それは一部の弟子たちの行動で、法然とは異なると研究者は考えています。
七箇条起請文』
七箇条制誡

法然教団への弾圧
法然は『七箇条制誡(ひちかじょうせいかい)』(1204)の末尾で、「三十年間、平穏に暮らしてきたが、十年前から、無智不善の輩が時々出るようになった」と述べています。ここで三十年前というのは、法然が専修念仏に回心した時点を指しています。法然の言葉を信じる限り、彼の思想が問題視されるようになったのは、むしろ弟子たちの言動によってだと考えていたことが分かります。法然没後、活発な活動を展開する弟子たちの多くは、ここでいう「十年」の間の人間者です。
☆彡「法然上人 芳躅集 全」浄土宗 知恩院 大原問答の顛末 | imviyumbo.gov.co
大原談義
法然の教説をめぐって諸宗の碩学を交えての討論会(大原談義)が行われたとされます。
しかし、それ以外に法然の教説が問題視された形跡はないようです。法然の教団への批判が明確な形で現れるのは、元久元(1204)年になってからです。この年、延暦寺は奏状を提出して、専修念仏の停止を訴えます。これに対して、法然が門下の行動を制止するために制定したのが『七箇条制誠』です。これには当時、京にいた法然門下の遁世僧190名が署名して遵守を誓っています。ただ官僧であった隆寛や聖覚は署名していないようです。制誠の内容を要約しておきます。
①専修念仏以外の行業や教学を非難してはいけない(第1~第3条)
②破戒を勧めてはいけない(第4条)
③自分勝手な邪義をとなえてはならない(第5~第7条)
これに対して、弟子たちの中には「法然の言葉には表裏がある」などと称し、制誠に従わない者もいたようです。そのため事態は鎮静化しません。翌元久二年には、貞慶が執筆した『興福寺奏状』が提出され、興福寺が専修念仏停止を訴えます。本状では、専修念仏者の悪行として次のような九項目を挙げています。

法然
興福寺の専修念仏停止状
①新宗を立つる失(勅許によらず浄土宗を立てたこと)
②新像を図する失(専修念仏者以外の不往生を不す摂取不捨曼茶羅を描いたこと)
③釈尊を軽んずる失(阿弥陀仏以外の諸仏を礼しないこと)
④万善を妨ぐる失(称名以外の諸行を否定すること)
⑤霊神を背く失(神明を礼拝しないこと)
⑥浄土に暗き失(諸行往生を認めないこと)
⑦念仏を誤る失(観念よりも口称を重んじること)
⑧釈衆を損ずる失(破戒・無戒を正当化すること)
⑨国上を乱る失(専修念仏によって八宗が衰徴し王法も衰えること)

これを見ると。専修念仏が当時の社会に与えた影響を網羅的に挙げていることが分かります。 親鸞は、『興福寺奏状』が一つの契機となって、法然の流罪を含む専修念仏弾圧が引き起こされたと解釈しています(『教行信証』)。
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しかし、興福寺との折衝にあたった藤原(三条)長兼の日記『三長記』には、朝廷側は法然らの処分に消極的であり、興福寺側の強硬姿勢に苦慮していることが記されています。法然側では、興福寺から処罰要求のあった安楽房遵西・法本房行空・成覚房幸西・住蓮のうち、特に問題の多かった行空を破門します。これに対して朝廷としては、興福寺の意を酌んで、専修念仏による諸宗誹謗を戒める宣旨を下すというあたりで、一応の決着が図られたようです。
しかし、建永2(1207)年10月25日に改元して承元元年になると、法然が流罪に、住蓮・安楽房が死罪に処されるという事態になります。これが「建永または承元の法難」と呼ばれます。
写本 愚管抄 七冊揃 慈円 慈鎮和尚 鎌倉時代 歴史書 史論書 和本 藤原忠寄 lram-fgr.ma

同時代人である慈円の『愚管抄』によると、住蓮・安楽房の二人は、善導の『六時礼讃』に節を付けた声明を始め、尼たちの人気を集めるようになります。やがて後鳥羽院の小御所の女房(伊賀局)が安楽たちをひそかに呼び寄せ、宿泊させます。こうしたところから生じた風紀の乱れが、直接の引き金となったようです。しかし、これも全くのでっち上げという可能性もあります。特に安楽房遵西は、既に名指しで非難されていたのに、なぜ行動を慎まなかったのか疑問が残ります。
 親鸞はこの事件について、次のように処罰の不当さを訴えています。(『教行信証』)。
「主上臣下、法に背き義に違し、恋を成し怨を結ぶ」
「罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す」
ここからは多分に後鳥羽上皇の感情的な処置だったと親鸞は考えていたことがうかがえます。。
 なお、『歎異抄』の奥書では、安楽・住蓮の他、善綽房西意・性願房が死罪に処され、法然・親鸞以下八名が流罪、そのうち幸西と証空は慈円が身柄を預かり、刑を免れたとしています。しかし、これは他の史料にはみえない記述です。

小松郷生福寺2
流配中の法然(讃岐那珂郡小松郷:まんのう町)

法然は土佐国配流に決定します。

しかし、保護者である九条家の荘園だった讃岐の塩飽本島や、那賀郡小松庄(まんのう町)で逗留している内に、その年の秋には罪を許され、畿内へ戻っています。そして摂津国勝尾寺(大阪府箕面市)に滞在した後、建暦元(1211)年に京に戻り、翌年ここで臨終を迎えます。
   今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「新仏教の形成   躍動する中世仏教66P」
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中世の瀬戸内海の港町と船と船乗りを見ていきます。平安末期になると、神人・供御人(くごにん)制が形成されてくるようになります。海上交通の担い手である廻船人も、神人(じにん)、供祭人、供御人などの称号をもち、神・天皇の直属民として海上の自由な交通を保証され、瀬戸内海全体をエリアとして海・河での活動に従事するようになります。それは、人の力をこえる広大な大海原で、船を自由に操る廻船人の職能や交易活動そのものが、神の世界とかかわりある業とされていたからなのでしょう。今回は、平安末期から中世前期に登場する廻船(大船)についての史料を見ていくことにします。テキストは「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」です。
中世の廻船は、どのくらいの値段で取引されていたのでしょうか?
1164(長寛2)年、周防の清原清宗は、厳島社所司西光房の私領田畠・栗林六町を得た代価として、自分の持ち船である「長撃丈伍尺、腹七尺」を渡しています。つまり「6町(㌶)田畑・栗林」と「廻船」が交換されています。ここからは、廻船が非常に高価であったことが分かります。
 周防・安芸の海を舞台に活動していた清原清宗は、一方では「京・田舎を往反(往復)」する廻船人で、この船を手に入れた厳島の西光房も同業者だったようです。廻船は、大きな利益を生むために、高く取引されていたことを押さえておきます。

室津の遊女
法然が讃岐流刑の際に利用した廻船(法然上人絵伝 室津)

法然が讃岐流刑の際に乗船した大船は、田畑7㌶の価値があったことになります。この船を手配したのは、誰なのでしょうか。また、どこの港を船籍とする船なのでしょうか? そんな疑問も湧いてきます。それはさておいて、先に進みます。
 
 廻船の事例として、1187(文治3)年2月11日の「物部氏女譲状」を見ておきましょう。
この譲状には、紀伊の久見和太(くみわた)の賀茂社供祭人の持舟「坂東丸」と呼ばれる船が出てきます。(「仁和寺聖教紙背文書」)。「久見和太」の御厨は東松江村の辺りにあった可能性が強く,現在の和歌山市松江付近にとされています。「坂東丸」は1192(建久3)年4月には、播磨貞国をはじめとする播磨氏五名、額田・美野・膳氏各一名からなる久見和太供祭人の持ち舟となっていて「東国と号す」とされています。この船はもともとは「私領船」でしたが、持主の源末利の死後、後家の美野氏、山崎寺主、摂津国草苅住人加賀介等の間で、所有権をめぐって争いとなります。大船(廻船)は貴重なために、所有権を巡る争いも多かったようです。同時に、その所有権が移り替わっていく「動産」でもあったようです。また、ここに登場する賀茂社供祭人たちも、漁携民であるとともに廻船人です。彼らは坂東・東国にまで航海し、遠方交易にたずさわっていたことが史料から分かります。

当時の廻船人の社会的な地位がうかがえる史料があります。
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弘田神社(西宮市)
1250(建長2)年の、摂津国広田社の廻船人について、次のように記されています。
この廻船人は、社司・供僧以下、百姓等とともに、「近年、博変を好む」として禁制の対象になっています。そして、1263(弘長3)年4月20日の神祗官下文からは、廻船人について次のようなことが分かります。
①廻船人のなかに令制の官職をもつ「有官の輩」がいたこと
②有官の廻船人の罪については、供僧・八女(神社に奉仕し神楽などを奏する少女)と同じように特権が与えられていたこと
③廻船人が遠国で犯した罪科については、訴人がなければ問題にしないこと、
ここからは神人が官位をもち、世俗の侍身分に準ずる地位にあったことが分かります。廻船人は神人や、あるいはそれ以上の特権を与えられて、広く遠国にまで船で出かけて活動していたようです。廻船人をただの船乗りと考えると、いけないようです。船乗り達は身分もあり、経済力もある階層だったのです。

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 平安時代の武庫郡
1292(正応5)年閏6月10日、摂津の武庫郡今津の廻船人である秦永久の記録を見ておきましょう。
秦永久は東船江屋敷などの田地四段、所従七人とともに、小船二艘を含む船三艘を嫡子有若丸に譲っています。秦永久も武庫川河口近辺の津・船江に根拠をもつ廻船人であったようです。秦姓を名乗っているので、もともとは渡来系の海民のようです。武庫郡は祗園社の今宮神人や広田社神人を兼ねた津江御厨供御人とともに、諸国往来自由の特権を保証された武庫郡供御人の根拠地でした。秦氏がこれらの海民的な神人・供御人集団の一員であったことが分かります。
 秦永久が嫡子有若丸に譲った小船二艘は漁携用で、残りの一般が廻船に用いられた「大船」だったようです。ここからは、廻船人は天皇家・神社などによって特権を与えられ、廻船で広く交易活動を行う一方で、平安末・鎌倉期には、漁機にも従事していたことがうかがえます。

以上からは、古代以来の海民たちが、賀茂・鴨社の保護を受けながら漁撈を営みながら大船(廻船)をもち、瀬戸内海を舞台に交易活動に進出していく姿が見えてきます。ここで思い出すのが、「法然上人絵図」の讃岐流刑の際に立ち寄った播磨・高砂の光景です。

高砂
法然上人絵図 高砂

①が法然で経机を前に、往生への道を説きます。僧侶や縁側には子供を背負った母親の姿も見えます。④は遠巻きに話を聞く人達です。話が終わると②③の老夫婦が深々と頭を下げて、次のように尋ねました。
「私たちは、この浦の海民で魚を漁ることを生業としてきました。たくさんの魚の命を殺して暮らしています。殺生する者は、地獄に落ちると聞かされました。なんとかお助けください」

法然は念仏往生を聞かせます。静かに聞いていた夫婦は、安堵の胸を下ろします。法然が説法を行う建物の前は、すぐに浜です。当時は、港湾施設はなく、浜に船が乗り上げていたことは以前にお話ししました。そして、⑤⑥は漁船でしょう。一方、右側の⑦は幅が広く大船(廻船)のように見えます。そうだとすれば、法然に相談している老いた漁師も、「漁携民であるとともに廻船人」で、若い頃には交易活動にも参加していたのかもしれません。

兵庫湊
法然上人絵伝 神戸廻船廻船

 そういう目で「法然上人絵伝」に登場してくる神戸湊を見てみると、ここにも漁船だけでなく廻船らしき船が描かれています。海民たちは、漁撈者であると同時に、廻船で交易活動も行っていたことがうかがえます。
 古代の海民たちは、「製塩 + 漁撈 + 交易」を行っていました。
製塩活動が盛んだったエリアには、牛窓や赤穂、室津などのように中世になると交易港が姿を現すようになります。それは、古代の海民たちの末裔達の姿ではないかと私は考えています。そして、海民の中で大きな役割を果たしたのが、渡来系の秦氏ではないかと思うのです。
①秦氏による豊前への秦王国の形成
②瀬戸内海沿岸での製塩活動や漁撈、交易活動
③山城秦氏の氏神としての賀茂・鴨神社による秦氏系海民を神人として保護・使役
④豊前秦氏の氏神・宇佐神宮の八幡社としての展開と、八幡社神人としての海民保護と使役
 賀茂神社や八幡社は、もともとは秦氏系の氏神です。そこに、秦氏の海民たちが神人として特権を与えられ使役されたという説です。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」
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出立随員
                    法然讃岐流刑 京都出立場面(法然上人絵伝第34巻)
法然上人絵伝で讃岐流刑の場面を見ていて思うのは、法然に多く弟子たちが従っていることです。
    法然上人絵伝 巻34第1段には、次のように記されています。

三月十六日に、花洛を出でゝ夷境(讃岐)に赴き給ふに、信濃国の御家人、角張の成阿弥陀仏、力者の棟梁として最後の御供なりとて、御輿を昇く。同じ様に従ひ奉る僧六十余人なり。
意訳変換しておくと
三月十六日に、京都から夷境(讃岐)に出立することになった。その際に信濃国の御家人・角張の成阿弥陀仏が、①「力者の棟梁」として最後のお供にと御輿を用意して、②僧六十余人と馳せ参じた。
 出立輿
法然の京都出立
ここからは次のようなことが読み取れます。
①信濃の御家人である成阿弥陀仏は、「力者の棟梁」で輿を用意した
②法然教団の僧侶60人余りが馳せ参じた。
まず、私に分からないのは「力者の棟梁」です。そして、法然の教団には60人を越える僧侶がいたことです。この教団を維持していくための経済的な基盤は、どこにあったのでしょうか。これに対して、法然は、勧進集団の棟梁であり、勧進で教団を維持していたとという説があります。今回は、その説を見ていきたいと思います。テキストは「五来重 仏厳房聖心と初期の往生者  高野聖96P」です。
 
高野聖(五来重 ) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

五来重氏は、法然の勧進僧としての出自を次のように述べます。

「法然が比叡山の別所聖であったという観点に立ってみると、聖者法然が形成されてゆく履歴苦が見えてくる」

1180(治承四)年1月に、平家によって東大寺が焼きはらわれたとき、法然に東大寺再建の大勧進聖人という名誉ある白羽の矢がたてられたことを挙げます。そして法然は「勧進の才能と聖の組織をもつていた」と指摘します。結局、法然はこれを辞退して、重源という大親分にゆずってしまいます。しかし、法然が如法経の勧進聖であったことは、いろいろな史料から実証できると云います。
 例えば『法然上人絵伝』(『四十八巻伝』)の巻九からは、先達として如法経供養をしたことが分かります。また、九条兼実が法然の下で出家し、その庇護者となったことは、よく知られたことです。その他の史料から分かってきたことは、九条兼実の舘に出入りしていた宗教者は法然だけではない云うことです。その他にも仏厳や重源などの僧侶も、九条兼実の邸に出人りしているのです。それは勧進のためだというのです。
その中の高野山の仏厳の動きを見ておきましょう。
九条兼実の日記『玉葉』には、安元三年(1177)4月11日に、次のように記します。
朝の間、小雨、仏厳聖人来る。余、障を隔てて之に謁す。法文の事を談ず。又風病の療治を問ふ。此の聖人能く医術を得たるの人なり
意訳変換しておくと
朝の間は小雨、仏厳聖人がやってきた。障を隔てて仏厳と接する。法文の事について話す。そして、風病の治療について問うた。この聖人は、医術について知識が深い人だ。

「官僧でなく、民間の験者のようなもので、医術の心得のあった人であろう」としています。
 安元2年11月30日に仏厳房がきて、その著『十念極楽易往集』六巻を見せたが、書様に多くの誤りがあるのを兼実が指摘すると、聖人は、満足してかえって行った。  
 治承元年(安元三年)十月二日には、兼実は「仏厳聖人書く所の十念極楽易往集」を終日読んで、これは広才の書である、しかもこれは法皇の詔の旨によって撰集したということだと、仏厳の才能を認めています。
どうして高野山の別所聖である仏厳が、関白兼実の屋敷に出入りするのでしょうか?
12世紀半ばになると皇族や関白などが高野山に参拝するようになります。彼らを出迎えた僧侶を見ると、誰が政府要人を高野山に導いたのかがわかります。唱導師をつとめたのは、別所聖たちです。このころに高野山にやってきた有力貴族は、京に出て高野浄土と弘法大師伝説と大師霊験を説く高野聖たちのすすめでやって来ていたようです。
性霊集 / 小林書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

『性霊集』(巻八)には空海の「高野山万燈会願文」(天長九年〈811)を、次のように記します。

空海、諸の金剛子等と与に、金剛峯寺に於て、馴か万燈万華の会を設けて、両部の曼茶羅四種の智印に奉献す。期する所は毎年一度斯の事を設け奉り、四恩に答へ奉らん。虚空尽き衆生尽き湿槃尽きなば、我が願も尽きなん

ここには勧進の文字はありませんが、一燈一華の万燈奉納の勧進をすすめた願文と研究者は考えています。関白道長の法成寺御堂万燈会や平清盛の兵庫港経ヶ島の万燈会などは長者の万燈でした。一般の万燈会には、燈油皿に一杯分の油か米銭を献じました。いまも法隆寺や元興寺極楽坊には、鎌倉時代に行われた万杯供養勧進札が残っているようです。
参拝者によって彩られる10万本のろうそくの灯火「高野山 萬燈供養会 ろうそくまつり」|ろうそくまつり実行委員会のプレスリリース

 高野聖たちは、空海いらいの高野山万燈会を復活することによって、 一燈一杯の喜捨をすすめていたことが分かります。寛治二年(1088)の『白河上皇高野御幸記』(西南院本)には、高野山奥之院で行われた行事を、次のように記されています。

其の北頭の石上に御明三万燈を並べ置く、土器三杯に之を備ふ

ここでは土器1杯を一万燈にかぞえています。これは横着な「長者の万燈」の例かもしれません。集めた喜捨は、丸残りで高野山復興資金に廻せます。
このように勧進活動は、次のようないろいろな勧進方法がとられています。
①配下の勧進聖を都に遊行させて、奥之院に一燈を献ずることをすすめたり、
②御影堂彼岸会に結縁をすすめ、
③仁海創意による五月十四日の花供結縁をすすめる。
大国の募財は京都で仁海が貴族のあいだ廻ってすすめ、荘園からの年貢や賦役は、慈尊院政所が督促するという風に手分けして勧められたようです。これらの勧進活動で、高野山の諸堂は復興していくのです。
この聖たちの中で際立った動きを見せているのが仏厳房聖心です。
 『玉葉』の安元元年(1176)8月9日に、仏厳房の住房の塔に、「金光明寺」という額を関白兼実が書いてやったこと、おなじ堂の額を故殿(関白忠通)が書いてやったことなどが記されています。
 内大臣中山忠親の『山枕記』にも、仏厳が出入りしていたようです。忠親が治承四年(1180)3月12日に、洛外洛中の百塔請をした残り二十八塔をめぐって、常光院(清盛の泉邸内)・法住寺・法性寺・今熊野観音などをへて東寺へ行き、仏厳房のところで天王寺塔を礼拝したとあります。これは四天王寺五重塔のミニチュアをつくって出開帳の形で礼拝させたか、あるいは四天王寺塔造営の勧進をしていたかの、いずれかだと研究者は推測します。高野聖と四天王寺の関係は密接で「高野 ―四天王寺 ― 善光寺」という勧進聖の交流ルートがあったと研究者は考えています。
 つまり高野聖である仏厳が関白や内大臣の家に出入りするのは、勧進の便を得るためで、趣味や酔狂でおべっかするわけではないのです。これは西行や重源の場合みれば、一層あきらかになります。勧進聖にとって、なんといっても京はみのり多い勧進エリアです。そのため仏厳は、高野山をくだって京に入れば、高野山の本寺である東寺に本拠の房をもっていて、そこを拠点に勧進活動を勧めていたはずです。

 このころ仏厳の本職は、高野山伝法院学頭でした。
高野聖の中では、支配的地位にいました。しかし、『玉葉』や『山枕記』にみられる仏厳は、やたらに人の病気を診察したり治療のアドヴァイスをしています。そのため彼の名は『皇国名医伝』にのせられています。医学と勧進は強い関係があったようです。勧進にとって医術ぐらい有力な武器はなかったと研究者は云います。勧進聖は本草や民間医学の知識ぐらいはもっていました。また高野聖はあやしげな科学知識をもっていて、やがて鉱山開発などもするようになります。
 仏厳もそれをひけらかしていたようです。
 例えば、重源が渡来人縛若空諦をつかって、室生寺経塚から弘法人師埋納という舎利をぬすみ出します。
その時に、その真偽鑑定を九条兼実から依頼されています。(『玉葉』建久 年八月一日)。この重源の悪事も、東大寺勧進のために後白河法皇と丹後局にとりいるためのものでした。仏厳は「お互いに勧進を勧めるのは大変なことで、手を汚さないとならないときもあるものよ」と相哀れんだかもしれません。勧進聖は呪験力とともに、学問や文学や芸能や科学の知識など、持てるものすべてを活用します。文学を勧進に役だてたのは、西行でした。仏厳は雨乞などの呪験力と科学的知識と、伝法院学頭としての密教と浄土教の学問を、勧進のために駆使したと研究者は指摘します。

以上のように、仏厳が法然や重源などとともに、兼実のもとに25年の間(1170~94)出入りして法文を談じたり、兼実や女房の病気を受戒で治し、恒例念仏の導師をつとめていることが分かります。これが法然の動きとよく似ていることを押さえておきます。

話を最初に戻します。法然が九条兼実宅を訪れていた頃に、高野山の仏厳は高野山復興のための勧進に、そして重源も東大寺復興のために勧進活動のために、頻繁に同じ舘を訪れていたのです。
  
こういう視点で、最初に見た法然讃岐流刑の出立場面を、もう一度見てみましょう。
①信濃の御家人である成阿弥陀仏は、「力者の棟梁」で輿を用意した
②法然教団の僧侶60人余りが馳せ参じた。
①の「力者の棟梁」や②の60人を越える僧侶集団は、法然も勧進集団の棟梁として活動していたように、私には思えます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献       「五来重 仏厳房聖心と初期の往生者  高野聖96P」

1207年に、法然は讃岐に流刑になり、子松庄(琴平)の生福寺に入ったと「法然上人絵伝」は記します。そして、訪れているのが善通寺です。今回は法然の善通寺参拝の様子を見ていくことにします。

善通寺仁王門 法然上人絵伝
善通寺仁王門 法然上人絵伝 第35巻第6段
〔第六段〕上人在国の間、国中霊験の地、巡礼し給ふ中に、善通寺といふ寺は、上人在国の間、国中霊験の地、巡礼し給ふ中に、善通寺といふ寺は、弘法大師、父の為に建てられたる寺なりけり。
 この寺の記文に、「一度も詣でなん人は、必ず一仏浄土の朋(とも)たるべし」とあり、「この度の思ひ出で、この事なり」とぞ喜び仰せられける。
意訳変換しておくと
法然上人の讃岐在国の間に、国中の霊験の地を巡礼した。その中で善通寺といふ寺は、弘法大師が、父のために建立した寺である。この寺の記文に、「一度参拝した人は、必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)の朋(とも)となり」とあった。これを見た法然は、「そのとおりである、このことは、深く私の思い出に記憶として残ろう」と喜ばれた。

  善通寺に関する文章は、わずかこれだけです。要約すると「善通寺に参拝した、一仏浄土(阿弥陀浄土)が記されてあった」になります。「善通寺参拝証明」とも云えそうです。法然上人絵伝の描かれた頃になると、都人の間に弘法大師伝説が広がり、信仰熱が高まったようです。
善通寺仁王 法然上人絵伝
善通寺仁王門

瓦屋根を載せた白壁の塀の向こうにある朱塗りの建物は仁王門のようです。よく見ると緑の柵の上から仁王さまの手の一部がのぞいています。これが善通寺の仁王門のようです。しかし、善通寺に仁王門があるのは、東院ではなく西院(誕生院)です。

善通寺 法然上人絵伝

門を入ると中庭を隔てて正面に金堂、左に常光堂があります。屋根は檜皮葺のように見えます。瓦ではないようです。また、五重塔は描かれていません。
 法然の突然の参拝に、僧侶たちはおどろきながらも金堂に集まってきます。一座の中央前方に法然を案内すると、自分たちは縁の上に列座しました。堂内に「必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)となることができる」という言葉を見つけて、歓ぶ場面です。

しかし、ここに描かれているのは善通寺(東院)の金堂ではないようです。
中世の東院は退転していた時代があるとされますが、残された絵図からは瓦葺きであったことが分かります。イメージとしては西院(誕生院)の御影堂のような印象を受けます。

 ここまで法然上人絵伝を見てきて分かることは、一遍絵図のように絵伝を描くために現地を再訪して、描かれたものではないということです。京の絵師たちが場面設定に応じた絵を京都で、現地取材なしで書いています。そのため「讃岐流刑」のどの場面を見ても、讃岐を思わせる風景や建物は出てきません。この「善通寺シーン」も、当時の善通寺の東院金堂の実態を映すものではないようです。

法然上人絵伝(1307年)には「善通寺といふ寺は、弘法大師、父の為に建てられたる寺なりけり。」とあります。
善通寺の建立を史料で見ておきましょう。
①1018(寛仁2)年 善通寺司が三ヶ条にわたる裁許を東寺に請うたときの書状に、「件の寺は弘法大師の御建立たり。霊威尤も掲焉なり」ここには「弘法大師の建立」と記すだけで、それがいつのことであったかは記されていません。
②1072(延久4)年(1072) 善通寺所司らの解状「件の寺は弘法大師の御先祖建立の道場なり」
③1113年 高野山遍照光院の兼意の撰述『弘法大師御伝』
「讃岐国善通寺曼荼羅寺。此の両寺、善通寺は先祖の建立、又曼荼羅寺は大師の建立なり。皆御住房有り」
ここまでは、「弘法大師の建立」と「弘法大師の先祖の建立」です。
そして、鎌倉時代になると、先祖を佐伯善通と記す史料があらわれます。
④1209(承元3)の讃岐国司庁から善通寺留守所に出された命令書(宣)に、「佐伯善通建立の道場なり」
 以上からわかることは
平安時代の①の文書には大師建立説
その後は②③のように大師の先祖建立説
がとられています。そして、鎌倉時代になると④のように、先祖の名として「善通」が登場します。しかし、研究者が注目するのは、善通を大師の父とはみなしていないことです。
以上の二つの説を足して割ったのが、「先祖建立自院の頽廃、大師再建説」です。
⑤1243(仁治4)年、讃岐に配流された高野山の学僧道範の『南海流浪記』は、次のように記します。

「そもそも善道(通)之寺ハ、大師御先祖ノ俗名ヲ即チ寺の号(な)トす、と云々。破壊するの間、大師修造し建立するの時、本の号ヲ改められざルか」

意訳変換しておくと
「そもそも善通寺は、大師の御先祖の俗名を寺号としたものとされる。古代に建立後に退転していたのを、大師が修造・建立したが、もとの寺号である善通寺を改めなかったのであろう」

ここでは空海の再建後も、先祖の俗名がつけられた善通寺の寺号が改められなかったとしています。つまり、善通の名は先祖の俗名とするのです。
 善通寺のHPは「善通寺の寺名は、空海の父の名前」としています。
これは、近世になって善通寺が広報活動上、拡げ始めた説であることは以前にお話ししました。
これに対しする五来重氏の反論を要約すると次のようになります
①善通が白鳳期の創建者であるなら、その姓かこの場所の地名を名乗る者の名が付けられる。
②東院のある場所は、「方田」とも「弘田」とも呼ばれていたので、弘田寺とか方田寺とか佐伯寺と呼ばれるのが普通である。
③ところが「善通」という個人の俗名が付けられている。
④これは、「善通が中世復興の勧進者」だったためである。
五来重氏の立論は、論を積み上げていく丁寧なものでなく、飛躍があって、私にはついて行きにくところが多々あります。しかし、云おうとしている内容はなんとなく分かります。補足してつないでいくとつぎのようになります。
①白鳳時代に多度郡郡司の佐伯氏が菩提寺「佐伯寺」を建立した。これは、白鳳時代の瓦から実証できる。
②つまり、空海が生まれた時には、佐伯家は菩提寺を持っていて一族のものが僧侶として仕えていた。空海創建という説は成立しない。また空海の父は、田公であり、善通ではない。
③佐伯直氏は空海の孫の時代に、中央貴族となり讃岐を離れた。また、残りの一族も高野山に移った。
④保護者を失った「佐伯寺」は、末法の時代の到来とともに退転した。
⑤それを中興したのが「中世復興の勧進者善通」であり、以後は彼の名前から「善通寺」で呼ばれることになる。
 ここでは11世紀後半からの末法の時代に入り、善通寺は本寺の収奪と国衛からの圧迫で財政的な基盤を失い、伽藍等も壊れたままで放置されていた時代があること。それを中興した勧進僧侶が善通であるという説であることを押さえておきます。

誕生院絵図(19世紀)
善通寺西院(誕生院)19世紀

 法然上人絵伝の善通寺の場面で、私が気になるもうひとつは、寺僧の差し出す文書に「必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)となることができる」という言葉を法然が見つけて歓んだという記述です。現在の感覚からすると、真言宗の聖地である善通寺で、どうして阿弥陀浄土が説かれていたのか、最初は不思議に思いました。

4空海真影2

善通寺の西院(誕生院)の御影堂(大師堂)は、中世は阿弥陀堂で念仏信仰の拠点だったと研究者は考えています。
御影堂のある誕生院(西院)は、佐伯氏の旧宅であるといわれます。ここを拠点に、中世の善通寺は再興されます。西院が御影堂になる前は、阿弥陀堂だったというのです。それを示すのが法然が参拝した時に掲げられていた「参詣の人は、必ず一仏浄土(阿弥陀仏の浄土)の友たるべし」の言葉です。ここからは、当時の善通寺が阿弥陀信仰の中心となっていたことがうかがえます。

DSC01186
善通寺 東院・西院・霊山我拝師山は東西に一直線に並ぶ

善通寺によく像た善光寺の本堂曼荼羅堂も阿弥陀堂です。
阿弥陀さんをまつると東向きになります。本願寺も平等院鳳鳳堂も、阿弥陀さんは東を向いていて、拝む人は西を向いて拝みます。善通寺西院の本堂は、弘法大師の御影をまつっていますが、もとは阿弥陀堂だったとすると東向きで、お参りする人は西向きになります。ここからは阿弥陀堂であると同時に、大師御影には浄土信仰がみられると研究者は指摘します。そして、善通寺西院の西には、霊山である我拝師山が聳えます。
善通寺一円保絵図
善通寺一円保絵図に描かれた東院と誕生院(西院)
もうひとつ善通寺西院の阿弥陀信仰痕跡を見ておきます。
 善通寺にお参りして特別の寄通などをすると、錫杖をいただく像式があります。その時に用いられる什宝の錫杖は、弘法大師が唐からもって帰ってきた錫杖だとされます。その表は上品上生の弥陀三普で、裏に返すと、下品下生の弥陀三尊です。つまり、裏表とも阿弥陀さんなのです。ここにも、中世善通寺の阿弥陀信仰の痕跡がみられると研究者は指摘します。

 善通寺東院の東南隅には、法然上人逆修塔という高さ四尺(120㎝)ほどの五重石塔があります。

法然上人逆修塔(善通寺伽藍) - 讃州菴
法然上人逆修塔
逆修とは、生きているうちにあらかじめ死後の冥福を祈って行う仏事のことだそうです。法然は極楽往生の約束を得て喜び、自らのために逆修供養を行って塔を建てたのかもしれません。

南海流浪記2
南海流浪記
  善通寺誕生院が阿弥陀信仰の中心センターだったことを示す史料が、道範の「南海流浪記」です。
 道範は何度も取り上げましたが、彼は高野山金剛峰寺執行の座にいるときに、高野山における内紛の責任を問われて讃岐にながされ、善通寺に逗留するようになります。彼は真言僧侶としても多くの書物を残している研究者で、特に真言密教における阿弥陀信仰の研究者でもあり、念仏の実践者でもありました。彼が退転した善通寺にやってきて、西院に阿弥陀堂(後の誕生院)を開き真言阿弥陀信仰センターを樹立していったと研究者は考えているようです。その「証拠」を見ていくことにします。
『流浪記』では道範は、1243(寛元元)年9月15日に、宇足津から善通寺に移ってきます。
法然から約40年後の讃岐流刑となります。善通寺に落ち着いた6日後には「大師の御行道所」を訪ねています。これは現在の出釈迦寺の奥の院の行場で、大師が捨身行を行ったと伝えられる聖地です。西行もここで修行を行っています。我拝師の捨身ケ岳は、弘法大師伝説の中でも一級の聖地でした。そのため善通寺の「行者・禅衆・行人」方の憧れの地でもあったようです。そこに道範も立っています。ここからは、道範は「真言密教 + 弘法大師信仰 + 阿弥陀念仏信仰 + 高野聖」的な要素の持ち主であったことがうかがえます。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物です。その彼に教えを、請う僧侶は多かったようです。道範はひっぱりだこで、流刑の身ながら案外自由に各地を巡っています。その中で「弥谷ノ上人」が、行法の注釈書を依頼してきます。。
道範が著した『行法肝葉抄』(宝治2年(1248)の下巻奥書に、その経過が次のように記されています。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
     阿闍梨道範記之
意訳変換しておくと
1248(宝治2)年2月21日、善通寺の大師御誕生所の庵にて、これを記す。この書は弥谷の上人の勧進で完成することができた。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。流配先で参照すべき書籍類がないので、子細までは記せない。もっぱら記憶に頼って書き上げた。誤りがあるかも知れないので、機会があれば補足・訂正を行いたい。70歳を越えた老眼で、なんとかこの書を書き上げた。阿闍梨道範記之

ここには「弥谷の上人の勧進によって、この書が著された」と記されています。善通寺にやってきて5年目のことです。「弥谷の上人」が、道範に対して、彼らが勧進で得た資材で行法の注釈書を依頼します。それを受けた道範は老いた身で、しかも配流先の身の上で参照すべき書籍等のない中で専ら記憶によって要点を記した『行法肝葉抄』を完成させます。弥谷寺と道範の関係が見える直接的な資料は、「行法肝葉抄」の裏書き以外にはないようです。
弥谷寺 阿弥陀三尊像
        弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏と六字名号

弥谷寺本堂下の磨崖阿弥陀三尊像や六字名号が掘られるようになるのは鎌倉時代のことです。弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地になりつつあったようです。そして、「法然上人絵伝」が制作されるのは1207年なのです。ここからは次のような事が推測できます。
①真言宗阿弥陀信仰の持ち主である道範の善通寺逗留と、「弥谷の上人」との交流
②弥谷寺への阿弥陀信仰受入と、磨崖阿弥陀三尊や六字名号登場
③弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地へ

 道範と阿弥陀信仰の僧侶との交流がうかがえる記述が『南海流浪記』の中にはもうひとつあります
1248(宝治2)年11月17日に、道範は善通寺末寺の山林寺院「尾背寺」(まんのう町春日)を訪ねています。そして翌日18日、善通寺への帰途に、大麻山の麓にあった「称名院」に立ち寄っています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
意訳すると
翌日18日、尾背寺からの帰路に称名院を訪ねる。こじんまりと松林の中に九品の庵寺があった。池とまばらな松林の景観といい、なかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
  「九の草の庵りと 見しほどに やがて蓮の台となりけり」
後日、念々房からの返歌が5首贈られてきます。その最後の歌が
「君がたのむ 寺の音の 聖りこそ 此山里に 住家じめけれ」
このやりとりの中に出てくる「九品(くほん)の庵室・持仏堂・九の草の庵り・蓮の台」から、称名院の性格がうかがえると研究者は指摘します。称名院の院主念々房は、浄土系の念仏聖だったと云うのです。
   江戸時代の『古老伝旧記』には、称名院のことが次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

ここからは、称名院には阿弥陀如来が祀られていたことが分かります。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。そこの住む念々房は、念仏僧として善通寺周辺の行場で修行しながら、象頭山の滝寺の下の氏神様の庵に住み着いていたことが考えられます。善通寺周辺には、このような「別所」がいくつもあったことが想像できます。そこに住み着いた僧侶と道範は、歌を交換し交流しています。こんな阿弥陀念仏僧が善通寺の周辺の行場には、何人もいたことがうかがえます。
  こうしてみると善通寺西院(誕生院)は、阿弥陀信仰の布教センターとして機能していたことが考えられます。
中世に阿弥陀信仰=浄土観を広めたのは、念仏行者と云われる下級の僧侶たちでした。彼らは善通寺だけでなく弥谷寺や称名院などの行場に拠点(別所)を置き、民衆に浄土信仰を広めると同時に、聖地弥谷寺への巡礼を誘引したのかもしれません。それが、中讃の「七ヶ所詣り」として残っているのかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」
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法然
法然 
浄土教の盛んだった京都黒谷別所の叡空の下で修学した源空(法然房)は、やがて、源信の『往生要集』に導かれて専修念仏にたどりつき、安元元年(1175)ごろまでに浄土宗を開立したと言われます。念仏以外のあらゆる行業・修法を切り捨て次のように宗旨を宣言しています。

「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申せば、うたがいなく往生するぞ、と思いとりて申外には別の子細候はず。」(一枚起請文)

 こうして浄土教は、一部の知恵者や遁世者、上層階級の者の宗教から解き放たれ、開かれた宗教としての道を歩み始めることになります。しかし、それは苦難の道でした。とくに、南都北嶺の旧仏教勢力からの弾圧を受け続けます。やがて、元久元年(1204)になると、延暦寺衆徒や興福寺などからの専従念仏禁止の運動が活発化するようになります。
 それを庇護したのが法然の下で出家した前摂政の九条兼実の力でした。そのバランスが崩れるのが建永元年(1206)3月のことで、事態は急変します。法然房は、土佐国配流と決まります。土佐国は、九条家が知行国主であったので縁故の土地でもありました。3月16日(旧暦)、京都を立ち、鳥羽から淀川を下り、摂津国の経ヶ島(兵庫)から「都鄙上下の貢船」と呼ばれた海船に乗り換えて、播磨国の高砂そして室津を経て讃岐国塩飽島に到着します。前回までにここまでを「法然上人絵伝」でたどってきました。
今回は、讃岐子松庄の生福寺での様子を見ていくことにします。

子(小)松庄に落ち着き給ひにけり
   35巻第2段 讚岐国子松庄に落ち着き給ひにけり。
当庄(子松庄)の内、生福寺といふ寺に住して、無常の理を説き、念仏の行を勧め給ひければ、当国・近国の男女貴賤、化導(けどう)に従ふ者、市の如し。或は邪見放逸の事業を改め、或は自力難行の執情を捨てゝ、念仏に帰し往生を遂ぐる者多かりけり。辺上の利益を思へば、朝恩なりと喜び給ひけるも、真に理にぞ覚え侍る。
 彼の寺の本尊、元は阿弥陀の一尊にておはしましけるを、在国の間、脇士を造り加へられける内、勢至(菩薩)をば上人自ら造り給ひて、「法然の本地身は大勢至菩薩なり。衆生を度せんが為の故に、此の道場に顕はし置く。我毎日影向し、帰依の衆を擁護して、必ず極楽に引導せん。若し我、此の願念をして成就せしめずんば、永く正覚を取らじ」
とぞ書き置かれける。勢至の化身として、自らその躰を顕はし名乗り申されける、真にいみじく貴き事にてぞ侍りける。

意訳変換しておくと
子松庄の生福寺といふ寺に住居を定めて日夜、無常の理を説き、念仏行を勧めた。すると讃岐の男女貴賤、化導(けどう)に従う者が、数多く現れた。こうして、邪見放逸の行いを改め、自力難行の執着を捨てて、唯一念仏に帰して、往生を遂げる者が増えた。辺境の地である讃岐のことを考えると、まさに法然の流刑は、「朝廷からの朝恩」と歓ぶ者もいたと云うが、まさに理に適った指摘である。
 生福寺の本尊は、もともとは阿弥陀一尊であった。法然上人は讃岐在国の間に、脇士を造ることを思い立ち、自ら勢至(菩薩)を彫った。そして次のような銘文を胎内に書き付けた。「法然の本地身は大勢至菩薩である。衆生を極楽往生に導くために、この道場に作り置く。我は毎日影向して、帰依した者を擁護して、必ず極楽に引導するであろう。もし、この願念を成就しなければ、正覚をとることはしない」
と書き置いた。こうして法然上人は、生福寺に勢至の化身として、自らその躰を現し名乗っている。真にいみじく貴い事である。

小松郷生福寺入口
35巻第2段 子松庄の生福寺の山門に押しかける人々
  生福寺に法然がやって来ると、多くの人が集まってくるようになります。それは日を追う毎に増えていきます。寺の門前は、市が立っているようなありさまです。

生福寺山門拡大
①馬を駆って武士と出家姿の老僧がやってきて賑やかになっています。
②白衣の老婆を背にして門をくぐる若者
③市女笠の赤い服の女房の手をひく男
④大きな黒い傘をもつ旅芸人風の男
門からは多くの人達が、雪崩打つように入ってきます。

小松郷生福寺2
生福寺本堂(法然上人絵伝)
  生福寺の本堂は人で溢れんばかりです。
①本堂の畳の上に経机置かれ、経典が積まれています。その前に法然が座っています
②向かって右側には武士の一団
③左側が僧侶の一団のようで、④尼や女性もいます。僧侶の中には縁台に座れずに立ったままの姿が何人もいます。
⑤の男は顔が青くて、気分が悪いのでしょうか、刀を枕に寝転んでいます。二日酔いかな?
⑥幕の内側からは若い僧侶が、和尚さんをこっちこっちと手招いています。
⑦では、どこかからの布施物者が運び込まれています。
人々は、法然が口を開くのを今か今かと待っています。

小松郷生福寺3
        生福寺本堂後側(法然上人絵伝)

その後からは法然に付き従った弟子たちが、見守ります。
法然の落ち着き先について『法然上人絵伝』は、次のように記します。
①「讃岐国子(小)松庄におちつき給にけり、当庄の内生福寺といふ寺に住」

『黒谷土人伝』には、次のように記されています。
②「同(建永二年)三月十六日二、法性寺ヲ立テ配所二趣玉フ、配所「讃岐国子松ノ庄ナリ」

どちらも配所は「讃岐国子松庄」です。
まんのう町の郷
法然が落ち着いた子(小)松庄(現在の琴平周辺)

法然が落ち着いた子松庄というのは、どこにあったのでしょうか?
 角川書店の日本地名辞典には、次のように記されています。
琴平町金倉川の流域、琴平山(象頭山)の山麓一帯をいう。古代 子松郷 平安期に見える郷名。那珂郡十一郷の1つ。「全讃史によれば、上櫛梨・下櫛梨を除く琴平町全域が子松郷の郷域とされており、金刀比羅官(金毘羅大権現)とその周辺地域が子松と通称されていたという。
中世の子松荘 鎌倉期~戦国期に見える荘園名 
元久元年4月23日の九条兼実置文に、千実が娘の宜秋門院任子(後鳥羽上皇中官)に譲渡した所領35荘の1つとして「讃岐国子松庄」と見える。
 子松郷は現在の琴平周辺で、郷全体が立荘され、九条兼実の荘園となっていたようです。ここからは法然の庇護者である九条兼実が、自分の荘園のある子松郷に法然を匿ったという説が出されることになります。しかし、注意しておきたいのは子松荘のエリアです。小松庄は、現在の琴平町から櫛梨をのぞく領域であったことを押さえておきます。
   次に、拠点としたという生福寺について見ておきましょう。
法然上人絵伝には「当庄の内 生福寺」と、具体的な寺名まで記されています。しかし、生福寺については、どこにあったのかなどよく分かりません。後の九条家の資料の中にも出てこない寺です。
 九条家の資料に出てくる小松荘の寺院は、松尾寺だけです。子松荘には松尾寺があり、鐘楼維持のための免田が寄進されています。この免田は、荘園領主(九条家)に対する租税免除の田地で、この田地の年貢は松尾寺のものとなります。ちなみに、松尾寺の守護神として生み出されるのが「金毘羅神」で、その神を祀るようになるのが後の金毘羅大権現です。
 どちらにしても生福寺という寺は、法然の讃岐での拠点寺院とされるのですが、その後は忘れ去られて、どこにあったのかも分からなくなります。

  それを探し当てるのが初代高松藩主松平頼重です。
その経緯を「仏生山法然寺条目」の中で、知恩院宮尊光法親王筆は次のように述べています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳変換しておくと
①浄土宗の開祖法然上人が建永元年(1207)に讃岐に左遷され、しばらく生福寺に滞在した。
②その際に(生福寺)は念仏三昧の道場なり栄えた。
④しかし、その後の乱世で衰退し、わずかに草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影ばかりが残っていた。
⑤それを寛永年中に高松藩主として入国した松平頼重は、法然上人の旧跡を復興して仏生山へ移し、法然寺を創建し田地を寺領にして寄進した。
⑥生福寺の移転跡には、新しく西念寺が建立された。
ここには、17世紀後半には生福寺は退転し草庵だけになっていたこと、本尊や法然真影だけが残っていたと記されています。注意したいのは、退転し草庵だけになっていた生福寺の場所については何も触れていないことです。「法然上人絵伝」には「当庄(子松庄)の内、生福寺といふ寺に住して、無常の理を説き、」とありました。生福寺は小松荘にあったはずです。旧正福寺跡とされる西念寺は、まんのう町狹間)なのです。ここからは「西念寺=旧正福寺跡」説を、そのままに受け止めることは、私にはできません。
 松平頼重が仏生山法然寺を創建するための宗教的な意図については、以前にお話ししましたので、要約して確認しておきます。
①藩主の菩提寺として恥じない伽藍を作りあげること。
②それを高松藩における寺院階層のトップに置くこと、つまりそれまでの寺院ランクの書き換えを行うこと。
③徳川宗家の菩提寺が増上寺なので、同じ宗派の浄土宗にすること
そこで考えられたのが法然上人絵図の「法然讃岐左遷」に出てくる生福寺なのでしょう。そして、草庵に退転してた寺を「再発見」したことにして、仏生山に移し、その名もズバリと法然寺に改称します。こうして法然寺は藩主があらたに創建した菩提寺という意味だけでなく、法然上人の讃岐流刑の受難聖地を引き継ぐ寺として、「聖地」になっていきます。江戸時代には法然信者達が数多くお参りする寺となります。このあたりにも、松平頼重の巧みな宗教政策が見えて来ます。

法然が讃岐小松庄に留まったのは、わずか10ケ月足らずです。
しかし、後の念仏聖たちが「法然伝説」を語ったことで、たくさんの伝承や旧蹟が産まれてきます。例えば讃岐の雨乞い踊りの多くは、法然が演出し、振り付けたとされています。
 これについて『新編香川叢書 民俗鎬』は、次のように記します。

  「承元元年(1207)二月、法然上人が那珂郡子松庄生福寺で、これを念仏踊として振り付けられたものという。しかし今の踊りは、むしろ一遍上人の踊躍念仏の面影を留めているのではないかと思われる」

ここからは研究者達は「法然=念仏踊り」ではなく、もともとは「一遍=踊り念仏」が実態であったものが後世の「法然伝説」によって「株取り」されていると考えていることが分かります。一遍の業績が、法然の業績となって語られているということでしょう。そして、讃岐での一遍の痕跡は、次第にみえなくなり、法然にまつわる旧蹟が時代を経るにつれて増えていきます。これは弘法大師伝説と同じ流れです。
 中世には高野聖たちのほとんどが念仏聖化します。
弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺へ念仏阿弥陀信仰を拡げていたことは以前にお話ししました。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いつしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。

最後に、法然上人絵伝の讃岐への流刑を見てきて疑問に思うことを挙げておきます。
①流刑地は土佐であったはず。どうして土佐に行かず讃岐に留まったのか。
これについては、庇護者の九条兼実が手を回して、自らの荘園がある子松荘に留め置いたとされます。そうならば当時の讃岐国府の在地官僚達は、それを知っていたのか、また知っていたとすればどのような態度で見守ったのか?
②法然死後、約百年後に作られた「法然上人絵伝」の制作意図は「法然顕彰」です。そのため讃岐流配についても流刑地での布教活動に重点が置かれています。それは立ち寄った湊で描かれているのが、どれも説法シーンであることからもうかがえます。「近国遠郡の上下、傍荘隣郷の男女群集して、世尊のごとくに帰敬したてまつりける」から、讃岐にとっては「法然流刑」は、願ってもない往生念仏の布教の機会となって有難いことだったという結論に導いていきます。そのため、後世の所の中には、これが流刑であることを忘れ「布教活動」に讃岐にやって来たかのような視線で物語る書も現れます。それは、信仰という点からすれば当然の事かもしれません。しかし、歴史学という視点から見るとあまりに史料からかけ離れたことが、史実のように語られていることに戸惑いを思えることがあります。空海が四国88ヶ所を総て開いたというのが「弘法大師伝説」であるように、法然に関わる旧蹟や物語も「法然伝説」から産まれ出されたものと割り切る必要があるようです。
以上をまとめておくと、
①土佐への流刑となっていた法然一行は、塩飽から子松庄の生福寺に入った。
②子松荘は現在の琴平周辺で、九条兼実の荘園があっので、そこに法然を保護したとされる。
③生福寺には、数多くの人々が往生念仏の道を求めてやってきて結縁したと伝えられる。
④しかし、子松庄にあった生福寺については、よくわからない。
⑤生福寺が再び登場するのは、高松藩主松平頼重が仏生山に菩提寺を建立する際に「再発見」される。
⑥松平頼重は、法然の聖地として退転して草庵になっていた生福寺を仏生山に移し、法然寺と名付けた。
⑦これは高松藩の寺院ヒエラルヒーの頂点に法然寺を置くための「演出」でもあった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    法然上人と増上寺|由来・歴史|大本山 増上寺
法然(増上寺) 
浄土宗を開いた法然は、延暦寺・興福寺など専修念仏に批判的な旧仏教教団の訴えで、建永二年(1207)3月16日、土佐国へ流されることになります。実際には土佐国まで行くことはなく、10か月ほど讃岐国にとどまって、その年の12月には赦免されて都へ帰っています。その間の様子を、「法然上人絵伝」で見ています。

瀬戸の港 日比と塩飽

今回は、都を出立して11日目の3月26日に到着した塩飽島(本島)を見ていきます。
塩飽地頭舘1
   讚岐国塩飽の地頭舘(法然上人絵伝 第35巻第1段)

  巻三十五〔第一段〕 三月十六日、讚岐国塩飽の地頭、駿河権守高階保遠入道西忍が館に着き給ひにけり。
 西忍、去にし夜の夢に、満月輸の光赫尖たる、袂に宿ると見て怪しみ思ひけるに、上人人御ありければ、このことなりけりと思ひ合わせけり。薬湯を儲け、美膳を調え、様々に持て成し奉る。上人、念仏往生の道細かに授け給いけり。中にも不軽(ふきょう)大士の、杖木・瓦石を忍びて四衆の縁を結び給ひしが如く、「如何なる計り事を廻らしても、人を勧めて念仏せしめ給へ、敢へて人の為には侍らぬぞ」と返すがえす、附属し給ひければ、深く仰せの旨を守るべき由をぞ申しける。その後は、自行化他(じぎょうけた)、念仏の外他事なかりけり。
意訳変換しておくと
  都を出立して11日目の3月26日に、塩飽の地頭、駿河権守高階保遠入道西忍の館に着いた。西忍は、出家入道の身であった。彼は、満月の光が自分の袂にすっぽりと入る夢を見ていたので、法然上人がお出でになるとという吉兆の知らせだったのだとすぐに思い当たった。そこで一行を舘に迎え、薬湯や美膳を調え、いろいろなところにまで気を配ってもてなした。
 法然は、念仏往生の道を細かいところまで西忍に指導した。中でも不軽(ふきょう)菩薩が、杖木・瓦・石で打ちたたかれた話をして、「どんな計り事を廻らしても、人に勧めて念仏させることが、その人のためになる」と返すがえす伝え、これを守るべしと申し渡した。その後は、自行化他(じぎょうけた)、念仏の外になにもないとも云った。
   
塩飽地頭舘2
     塩飽の地頭舘(法然上人絵伝 第35巻第1段)

入道西念は、自分の舘に法然一行を招き、歓待します。
①の畳の上に座るのが法然
②の下手の板戸を背に座っているのが主人の西念。出家入道なので僧服姿です。扇の柄ををトントンと板間につきながら「実は、先日、満月の光が私の袂に入る夢をみましてなあ・・」と、語り始めます。
③都から高僧がやってきたという知らせを聞いて、③の武将がお供を連れてやってきています。しかし、地頭の舘なので、いろいろな階層の人達の姿はありません。武士と僧侶だけで、庶民や女性の姿は見えません。木戸の奥を、見てみましょう。

塩飽地頭舘3
    塩飽の地頭舘(法然上人絵伝 第35巻第1段)
①奥では接待のための膳の準備が整ったようです。「心込めて、気をつけて運べよ」と指示しているのでしょうか。奥は棟がいくつも続き広い空間が拡がっています。塩飽は、瀬戸内海の流通センターの役割を果たし、人とモノが集まってくる所でした。そこを押さえた地頭の羽振りの良さがうかがえます。
②縁側の上に首飾りをつけた犬がいます。猫ではないようです。ペットとして室内犬的に飼われていた犬もいたようです。

塩飽地頭舘4
     塩飽の地頭舘の奥(法然上人絵伝 第35巻第1段)

「塩飽」とありますが、塩飽諸島のどの島に上陸したのでしょうか
中世の塩飽の島々は、バラバラで一体感はなかったようです。例えば、各島の所属は次のようになっていました。
①櫃石島は備前
②塩飽嶋(本島)は、讃岐鵜足郡
③高見島は、讃岐多度郡
④広島は、那珂郡

塩飽諸島絵図
塩飽嶋(本島)周辺の島々
ここからは中世の塩飽諸島は、備前国と讃岐国との国界、鵜足郡や那珂郡、そして多度郡との郡界があって、それぞれ所属が異なってひとまとまりではなかったことが分かります。近世には「塩飽諸島」と呼ばれるようになる島々も、中世は同一グループを形作る基盤がなかったのです。
 以上から「塩飽嶋=本島」で、 その他の島々を「塩飽」と呼ぶことはなかったようです。本島がこの地域の中核の島だったので、次第に他の島も政治、経済的に塩飽島の中に包み込まれていったと研究者は考えています。つまり、法然や後のキリスト教宣教師が立ち寄ったのも本島なのです。

「塩飽島=本島」が史料に最初に現れるのは、いつなのでしょうか。
「塩飽荘」として史料に現れる記事を年代順に並べて見ましょう。
①元永元年(1118) 大政大臣藤原忠実家の支度料物に「塩飽荘からの塩二石の年貢納入」
②保元4年(1156) 藤原忠通書状案に、播磨局に安堵されたこと、以後は摂関家領として伝領。
③元暦二年(1185) 三月に屋島の合戦で敗れた平氏が、塩飽荘に立ち寄り、安芸厳島に撤退
④建長五年(1253) 十月の「近衛家所領日録案」の中に「京極殿領内、讃岐国塩飽庄」
⑤建永二年(1207) 3月26日に法然が流刑途上で塩飽荘に立ち寄り、領主の館に入ったこと
⑥康永三年(1344) 11月11日に、信濃国守護小笠原氏の領する所となったこと
⑦⑧永徳三年(1383)二月十二日に、小笠原長基は「塩飽嶋」を子息長秀に譲与したこと。
ここからは次のような事が分かります。
①②からは、12世紀に摂関家藤原氏の荘園として伝領するようになっていたこと
③からは、12世紀後半に平清盛が日宋貿易や海賊討伐で瀬戸内海の海上支配を支配し、塩飽もその拠点となっていたこと。そのため屋島の戦い後の平家撤退時に、戦略拠点であった塩飽を経由して宮島に「転戦」していること。
④からは鎌倉幕府の下で、九条家を経て近衛家に伝領するようになっていたこと
⑥からは、小笠原氏の領地となっているが現地支配をともなうものではなかったこと
⑦からは「塩飽荘」でなく「塩飽嶋」となっているので、すでに荘園ではなくなっていること。つまり、14世紀後半には「塩飽荘」は荘園としては消滅していたことがうかがえます。

4 武士の成長とひろしま ~厳 島 神社 と 平 清 盛 ~
平清盛と日宋貿易における瀬戸内海ルートの重要性

  法然がやって来た13世紀初頭の塩飽を取り巻く状況を見ておきましょう。
平氏の支配下にあった讃岐は、源平合戦後は源氏の軍事占領下に置かれます。そして、1185年「文治の守護地頭補任の勅許」で、讃岐にも守護・地頭が設置されることになります。しかし、当初は、西日本の荘園には地頭は設置でず、それが現実化するのは、承久の変以後とされます。ちなみに、鎌倉時代の讃岐の地頭・御家人の補任地は次の22ヶ所です。
鵜足郡 法勲寺  二村
那珂郡 真野勅使(高井) 櫛梨保(島津) 木徳荘(色部) 金蔵寺(小笠原)
多度郡 善通寺 生野郷 良田郷 堀江荘(春日兼家) 吉原荘(随心院門跡) 仲村荘
三野郡 二宮荘(近藤) 本山荘(足立) 高瀬荘(秋山) ()は地頭名
地頭名は、ほとんどが東国出身の御家人で、讃岐出身の武士名はいません。地頭が配置されているのは、丸亀平野と三豊平野がほとんどです。東讃にはいません。これは、東讃の武将がいち早く源氏方についたのに対して、西讃の武士団が旧平家方に最後までいたので、領地没収の憂き目にあったようで、その後に西遷御家人が地頭として東国から乗りこんできたと説明されます。しかし、この一覧を見ると、塩飽に地頭は配置されていません。塩飽の地頭として登場してくる「駿河権守高階保遠入道西忍」の名前もありません。これをどう考えればいいのでしょうか?  その謎を解くために、20年ほど時代を遡って、平家が塩飽戦略拠点とした経過を見ておきます。
千葉市:千葉氏ポータルサイト 千葉氏ゆかりの史跡・文化財
平氏の撤退と源氏の追撃ルート

『玉葉』の元暦二年(1185)12月16日条に屋島合戦の後の平家の退路が次のように記されています。

伝え聞く、平家は讃岐国シハク庄(塩飽)に在り、しかるに九郎(義経)襲政するの間、合戦に及ばず引き退き、安芸厳島に着しおわんぬと云々、その時饉かに百艘ばかりと云々

ここには屋島を追われた平氏は、まず塩飽荘に逗留したこと、義経の追撃をうけて戦わずに安芸国の厳島に百艘余りで「転戦」したとされています。厳島神社は清盛をはじめとして平氏一門とかかわりの深い神社であり、戦略拠点でもあったとされます。どうやら平家は、塩飽も戦略拠点地としていたようです。
それでは、どうして平家が塩飽を支配下に入れていたのでしょうか?   丸亀市史1(606P)は、次のように推測します。
①塩飽荘は、藤原師実以来の摂関家領であった。
②本家の地位は師実より孫の忠実、さらにその子忠通へと伝領され、基実を経て近衛家の相伝となった。
③清盛は関白基実が没したときに、遺子基通に相統させ、未亡人の盛子の管理下に置き、実質的に 摂関家領の多くを平氏の支配下に入れた。
④こうして塩飽荘は平家支配下に組み込まれ、瀬戸内海の戦略的な要衝として整備された。
⑤源平合戦後に平家が落ち延びていくと、源氏は塩飽を直轄地として支配下に入れた。
⑥その際に「平家没官領」として、鎌倉から代官が派遣された。それが「得宗被官塩飽氏」である。
この北條得宗被官が「駿河権守高階保遠入道西忍」で、得宗家領の代官として塩飽にやってきていたと考えることはできます。得宗家領には平家没官領などの没収地が多くありました。塩飽という地名は塩飽諸島以外にはありません。この地を名字の地とする塩飽氏が得宗被官として、鎌倉時代の後半には登場してきます。以上から塩飽荘は平家没官領であり、得宗家領の代官が管理していた、その代官が「駿河権守高階保遠入道西忍」だとしておきます。
  
それでは入道西忍の舘があったのは、どこなのでしょうか?
1 塩飽本島
本島に「塩飽嶋」と注記されている(上が南)
その候補は、「①笠島 ②泊 ③甲浦」が考えられます。しかし、決め手に欠けるようです。
笠島城 - お城散歩
本島笠島は、中世山城と一体化した湊

①の笠島は、塩飽島(本島)北側にあり、山陽道を進むことの多かった古代・中世の船が入港するには、都合のいい位置です。しかし。笠島は中世の山城と一体的に作られた湊の雰囲気がします。一般的に、中世の武士団の拠点が湊と一線を画した所にある点からすると異色の存在といえます。ここは、海賊衆の鎮圧などのために香西氏などが進出してきた後に作られた湊と私は考えています。

そうすると残りは、島の南側の②か③になります。古代から塩が作られていたのは、②の泊になるようです。ここに海民たちが定着し、塩などの海産物を京に運ぶために海運業が育ち、そこに荘園が置かれたことは考えられます。つまり、古代の本島の中心は②にあった、そして①笠島は中世以後に軍事拠点として現れたという説です。そう考えると、法然が立ち寄った際には①笠島は、まだ姿を見せていなかったことになります。
 「泊=荘園政所説」に、さきほどみた「塩飽荘は平家没官領であり、得宗家領の代官が管理」説を加えると、得宗家領の代官としてやってきた入道西忍はどこに舘を構えたのか?ということになります。
地頭の舘は、支配集落のすぐそばには作られません。意図的に孤立した場所が選ばれていることが発掘調査からは明らかになっています。そうすると②の泊ではなく、①か③ということになります。そして①の出現は、南北朝以後とすると③の可能性もあります。このように決定力に欠けるために、どこか分からないということになります。
 西行が崇徳上皇慰霊のために讃岐に渡る際に、備中真鍋島で塩飽のことを次のように記しています。
「真鍋と中島に京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわく(塩飽)の島に渡り、商はんずる由申しけるをききて、真鍋よりしわく(塩飽)へ通ふ商人は、つみをかひにて渡る成けり」

意訳変換しておくと
(上方の船は)真鍋と中島で、京からの商人たちを下船させた。そこで様々な商品を商いして、また塩飽島に渡って、商いを行うと云う。真鍋から塩飽へ通う商人は、商品を売買したり、仕入れたりしながら塩飽を中心に活動しているようだ。

ここからは塩飽島が瀬戸内海を航行する船の中継地で、多くの商人が立ち寄っていたことがうかがえます。平安期には、西国から京への租税の輸送に瀬戸内海を利用することが多くなります。そのため風待ち・潮待ちや水の補給などに塩飽へ寄港する船が増え、そのためますます交通の要地として機能していくようになていたのです。人とモノと金が行き交う塩飽を治めた入道西忍の舘がその繁栄を物語っているように思えます。法然は、ここにしばらく留まったと伝えられます。
塩飽が備讃瀬戸の交易センターとして、さまざまな人とモノが行き交っていたことがうかがえます。

重要文化財の「絵巻物」2億円超で落札 文化庁は?(2021年11月22日) - YouTube

「拾遺古徳伝絵詞」には、法然の塩飽滞在について次のように記します。
「近国遠郡の上下、傍荘隣郷の男女群集して、世尊のごとくに帰敬したてまつりける」

塩飽本島は、瀬戸内海の交易センターで交通の便がよかったので、周辺の国々から多くの人達が法然を尋ね結縁を結んだというのです。

本島集落
塩飽嶋(本島)の集落
以上をまとめておきます
①讃岐に流刑となった法然一行は、京を出て11日目に塩飽島に到着した。
②塩飽島は、現在の本島(丸亀市)のことである。
③塩飽島の地頭は、出家して入道西忍と名のっていて、法然を歓待した。
④当時の塩飽荘は平家没官領で、得宗家領として代官が派遣され管理していた。それが入道西忍であった。
⑤入道西忍の舘がどこにあったかは分からないが、経済力を背景に豪壮な舘に住んでいた。
⑥ここに法然はしばらくとどまり、その後に讃岐に上陸していく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   屋島合戦と塩飽 丸亀市史1(606P)

 瀬戸の港 室津
    室津は古代以来の重要な停泊地でした。
1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことが分かります。
 「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。
 室津には、多くの船頭がいたことが史料から分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。当時の瀬戸内海には、港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことを以前にお話ししましたが、室津も塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったようです。 そして、室津は多くの遊女達がいることで有名だったようです。法然上人絵伝の室津での出来事は、遊女が主役です。その段を見ておきます。

室津の浜
室津の浜辺と社(法然上人絵伝34巻第5段)

室津の最初に描かれるシーンです。浜に丘に松林、その中に赤い鳥居と小さな祠が見えます。中世の地方の神社とは、拝殿もなく本殿もこの程度の小さなものだったようです。今の神社を思う浮かべると、いろいろなものが見えなくなります。
室津の浜と社(拡大)
神社と浜部分の拡大

 神社の下が浜辺のようですが、そこには何艘もの船が舫われています。ここも砂浜で、港湾施設はないようです。
 浜辺の苫屋から女房が手をかざして、沖合を眺めています。
「見慣れない船が入ってきたよ、だれが乗っているのかね」。
見慣れない輸送船や客船が入ってくると真っ先に動き出す船がありました。それが遊女船です。

第5段    室の泊に着き給うに、小舟一艘近づき来る。
室津
       室津(法然上人絵伝34巻第5段)
室の泊に着き給うに、小舟一艘近づき来る。これが遊女が船なり。遊女申しさく「上人の御船の由承りて推参し侍るなり。世を渡る道区々(まちまち)なり。如何なる罪ありてか、斯かる身となり侍らむ。この罪業重き身、如何にしてか後の世助かり候べき」と申しければ、上人哀れみての給はく、「実にも左様にて世を渡り給ふらん罪障(ざいしょく)真に軽からざれば、酬報又計り難し。若し斯からずして、世を渡り給はぬべき計り事あらば、速やかにその業を捨て給ふべし。若し余の計り事もなく、又、身命を顧みざる程の道心未だ起こり給はずば、唯、その儘にて、専ら念仏すべし。弥陀如来は、左様なる罪人の為にこそ、弘誓をも立て給へる事にて侍れ。唯、深く本願を馬みて、敢へて卑する事なかれ。本願を馬みて念仏せば、往生疑ひあるまじき」由、懇ろに教へ給ひければ、遊女随喜の涙を流しけり。
後に上人の宣ひけるは、「この遊女、信心堅同なり。定めて往生を遂ぐべし」と。帰洛の時、こゝにて尋ね給ひければ、「上人の御教訓を承りて後は、この辺り近き山里に住みて、 一途に念仏し侍りしが、幾程なくて臨終正念にして往生を遂げ侍りき」と人申しければ、「為つらん /」とぞ仰せられける。
意訳変換しておくと
室の泊(室津)に船が着こうとすると、小舟が一艘近づいてきた。これは遊女の船だった。遊女は次のように云った。「上人の御船と知って、やって来ました。世を渡る道はさまざまですが、どんな罪からか遊女に身を落としてしまいました。この罪業重い身ですが、どうしたら往生極楽を果たせるのでしょうか」。
上人は哀れみながら「まったくそのような身で渡世するのはm罪障軽しとは云えず、その酬報は測りがたい。できるなら速やかに他職へ転職し、今の職業を捨てることだ。もし、それが出来きず、転職に至る決心がつかないのであれば、その身のままでも、専ら念仏することだ。弥陀如来は、そのような罪人のためにこそ、誓願も立ててくださる。ただただ、深く本願を顧みて、卑しむことのないように。本願をしっかりと持って念仏すれば、往生疑ひなし」ち、懇ろに教へた。遊女は、随喜の涙を流した。
後に上人がおっしゃるには、「この遊女は、信心堅くきっと往生を遂げるであろう」と。
流刑を許されて讃岐からの帰路に、再び室津に立ち寄った際に、この遊女のことを尋ねると、「上人の御教訓を承りて後は、この辺りの山里に住みて、一途に念仏し臨終正念にして往生を遂げた」と聞いた。「そうであろう」とぞ仰せられける。
室津の遊女
        室津(法然上人絵伝34巻第5段)

この場面は、遊女が法然に往生への道を尋ねに小舟でこぎ寄せたシーンと説明されます。

⑥が法然、⑤が随行の弟子たち ④が梶取り? 船の前では船乗りや従者達が近づいてくる遊女船を興味深そうに眺めています。
この場面を、私は出港していく船に追いすがって、遊女が小舟で追いかけてきたものと早合点していました。なんらかの事情で法然の話を聞けなかった遊女が、救いの道を求めて、去っていく法然の船に振りすがるというシーンと思っていたのです。しかし、入港シーンだと記します。すると疑問が湧いてきます。わざわざ小舟で、こぎ寄せる必要があるのか?
 兵庫浦のシーンでは、法話の場に遊女の姿も見えていました。室津でも法話は行われたはずです。小舟でこぎ寄せる「必然性」がないように思えます。しかも海上の船の上ですので、大声で話さなければなりません。「往生の道」を問い、それに応えるのは、あまり相応しくないように思えます。
法然上人絵伝「室津遊女説法」画 - アートギャラリー
室津船上の法然(一番左 弟子たちには困惑の表情も・・) 
そんな疑問に答えてくれたのが、風流踊りの「綾子踊り」の「塩飽船」の次の歌詞です。
①しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ  津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンー
②さかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ  津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`
③多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
意訳変換しておくと
船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。

ここには瀬戸の港で繰り広げられていた、入港する船とそれを迎える遊女の船の名告りシーンが詠われているというのです。港に入ってきて碇泊した船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりが「塩飽船」の歌詞と研究者は指摘します。

室津の遊女拡大
      室津の遊女船(法然上人絵伝34巻第5段)
  当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 
①の舵を取ているのが一番の年長者の「老」
②が少で、一座の主役「若」に笠を差し掛けます。
③が主役の若で、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘います
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。このように入港してくる船を、遊女船が出迎えるというのは、瀬戸の大きな湊ではどこでも見られたようです。

ここで兵庫湊(神戸)の場面に現れた遊女達の場面をもう一度見ておきましょう。

兵庫湊2
      兵庫湊の遊女船(法然上人絵伝34巻第3段)

左手の艫のあたりを楯で囲んだ一隻の船が入港してきました。そこに女が操る小舟が近づいていくと、若い二人の女が飛び移りました。傘を開いて差し掛けると若い男に微笑みながら、小堤を叩きながら「たまさか」の歌を歌いかけています。「 綾子踊り」の「たまさか(邂逅)」の歌詞を見ていくことにします。
一 おれハ思へど実(ゲ)にそなたこそこそ 芋の葉の露 ふりしやりと ヒヤ たま坂(邂逅)にきて 寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ

二 ここにねよか ここにねよか さてなの中二 しかも御寺の菜の中ニ ヒヤ たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとのかねが  アラシャ

三 なにをおしゃる せわせわと 髪が白髪になりますに  たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとの かねが   アラシャ

意訳変換しておくと
わたしは、いつもあなたを恋しく思っているけれど、肝心のあなたときたら、たまたまやってきて、わたしと寝て、また朝早く帰つてゆく人。相手の男は、芋の葉の上の水王のように、ふらりふらりと握みどころのない、真実のない人ですよ

一番を「解釈」しておきましょう。
「おれ」は中世では女性の一人称でした。私の思いはつたえたのに、あなたの心は「芋の葉の露 ふりしやり」のようと比喩して、女が男に伝えています。これは、芋の葉の上で、丸い水玉が動きゆらぐ様が「ぶりしやり」なのです。ゆらゆら、ぶらぶらと、つかみきれないさま。転じて、言い逃れをする、男のはっきりしない態度を、女が誹っているようです。さらに場面を推測すると、たまに気ままに訪れる恋人(男)に対して、女がぐちをこぼしているシーンが描けます。
兵庫湊の遊女
兵庫湊の遊女船(拡大図)
「たまさかに」は、港や入江の馴染みの遊女たちと、そこに通ってくる船乗りたちの場面を謡った風流歌だと研究者は考えています。

なじみの男に、再会したときに真っ先に話しかけたことばが「たまさかに」なのです。そういう意味では、恋人や遊女達の常套句表現だったようです。こんな風にも使われています。

○「たまさかの御くだり またもあるべき事ならねば  わかみやに御こもりあつて」(室町時代物語『六代』)

この歌は何気なく読んでいるとふーんと読み飛ばしてしまいます。しかし、その内容は「たまさか(久々ぶり)にやって来た愛人と、若宮に籠もって・・・」となり、ポルノチックなことが、さらりと謡われています。研究者は「恐縮するほど野趣に富んだ猛烈な歌謡である」と評します。当時の「たまさかに」という言葉は、女と男の間でささやかれる常套句で、艶っぽい言葉であったことを押さえておきます。
こういうやりとりが入港してきた船の男達と交わされていたのです。その後に、遊女達は旅籠へと導いていくのです。
      
ここで押さえておきたいのは、次の通りです。
①遊女船が入港する船を迎えに出向くという作法は、どこの湊でも行われていたこと。
②その際に、遊女は3人1組で行動していたこと
③出迎えに行った遊女は、相手の船に乗り移って、「塩飽船」などの風流歌をやりとりし、遊郭に誘ったこと。
④そのシーンが法然上人絵伝にも登場すること

遊女達を代弁すると、決して、船の上から大きな声でやりとりをするという下品なまねを彼女らはしません。相手の船に移ってから、歌を互いに謡い合い、小堤をたたい優雅に誘うのです。
 以上から、船上から遊女に往生の道を説いたという話には、私は疑問を持ちます。事情をしらない後世の創作エピソードのようにも思えます。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   参考文献 小松茂美 法然上人絵図 中央公論社 1990年

法然が讃岐流刑の際に立ち寄った港町を、「法然上人絵伝」で見ています。今回は高砂です。

法然上人絵伝 34巻第4段 
播磨国高砂の浦に着き給ふに、人多く結縁しける中に、七旬余りの老翁、六十余りの老女、夫婦なりけるが申しけるは、「我が身は、この浦の海人なり。幼くより漁を業とし、朝夕に、 鱗(いろくず)の命を絶ちて、世を渡る計り事とす。物の命を殺す者は、地獄に墜ちて苦しみ堪え難く侍るなるに、如何してこれを免れ侍るべき。助けさせ給へ」とて、手を合はせて泣きけり。上人哀れみて、「汝が如くなる者も、南無阿弥陀仏と唱ふれば、仏の悲願に乗じて浄土に往生す」べき旨、懇ろに教へ給ひければ、二人共に涙に噎びつゝ喜びけり。上人の仰せを承りて後は、昼は浦に出でて、手に漁する事止まざりけれども、国には名号を唱へ、夜は家に帰りて、二人共に声を上げて終夜(よもすがら)念仏する事、辺りの人も驚くはかりなりけり。遂に臨終正念にして、往生を遂げにける由伝へ聞き給ひて、「機類万品なれども、念仏すれば往生する現証する現証なり」とぞ仰せられける。

意訳変換しておくと

多くの人が結縁(けちえん:仏道に縁を結ぶこと。未来に成仏する機縁を作ること。)する中に、70過ぎの老翁と、60余りの老女の夫婦が次のように問うた。「我たちは、この浦の海人(漁師)で、幼いときから漁業を生業として、朝夕に 鱗(いろくず)を獲って生業としてきました。生けるものの命を奪う者は、地獄に墜ちて耐えがたい苦しみ受けると聞きました。これを逃れる道はないのでしょうか。どうしたらいいの、どうぞお助けください。」と、手を合はせて泣きます。
 上人は、「あなた方のような者も、南無阿弥陀仏を唱えれば、仏の悲願で浄土で往生できます。と優しく教え導きました。二人共に涙にむせび、歓びました。上人の教えを聞いてからは、昼は浦に出でて、漁することを止めることはできませんが、常に口に名号を唱へ、夜は家に帰って、二人共に声を上げて終夜(よもすがら)念仏しました。これには、辺りの人も驚くばかりでした。そして遂に往生を遂げます。これを上人は伝へ聞いて、「機類万品なれども、念仏すれば往生する現証なり」とおっしゃいました。

高砂
高砂の浜 法然上人絵伝 34巻第4段
高砂の浜に着くと近くの家に招かれます。ここでも「法然来たる」という情報が伝わると多くの人がやってきました。
①が法然で経机を前に、往生への道を説きます。僧侶や縁側には子供を背負った母親の姿も見えます。④は遠巻きに話を聞く人達です。話が終わると②③の老夫婦が深々と頭を下げて、次のように尋ねました。
「私たちは、この浦の海民で魚を漁ることを生業としてきました。たくさんの魚の命を殺して暮らしています。殺生する者は、地獄に落ちると聞かされました。なんとかお助けください」

法然は念仏往生を聞かせた。静かに聞いていた夫婦は、安堵の胸を下ろした。
私が気になるのが浜辺と船の関係です。ここにも港湾施設的なものは見当たりません。
砂浜の浅瀬に船が乗り上げて停船しているように見えます。拡大して見ると、手前の船には縄や網・重石などが見えるので、海民たちの漁船のようです。右手に見えるのは輸送船のようにも見えます。また、現在の感覚からすると、船着き場周辺には倉庫などの建物が建ち並んでいたのではないかと思うのですが、中世にはそのような施設もなかったようです。
  当時の日本で最も栄えていた港の一つ博多港の遺跡を見てみましょう。博多湊も砂堆背後の潟湖跡から荷揚場が出てきました。それを研究者は次のように報告しています。

「志賀島や能古島に大船を留め、小舟もしくは中型船で博多津の港と自船とを行き来したものと推測できる。入港する船舶は、御笠川と那珂川が合流して博多湾にそそぐ河道を遡上して入海に入り、砂浜に直接乗り上げて着岸したものであろう。港湾関係の施設は全く検出されておらず、荷揚げの足場としての桟橋を臨時に設ける程度で事足りたのではなかろうか」

ここからは博多港ですら砂堆の背後の潟湖の静かな浜が荷揚場として使われていたようです。そして「砂浜に直接乗り上げて着岸」し、「港湾施設は何もなく、荷揚げ足場として桟橋を臨時に設けるだけ」だというのです。日本一の港の港湾施設がこのレベルだったようです。12世紀の港と港町(集落)とは一体化していなかったことを押さえておきます。河口にぽつんと船着き場があり、そこには住宅や倉庫はないとかんがえているようです。ある歴史家は「中世の港はすこぶる索漠としたものだった」と云っています。

野原の港 イラスト
   野原湊(高松城跡)の復元図 船着き場に建物はない  

  船着き場周辺に建物が立ち並ぶようになるのは、13世紀末になってからのようです。それは、福山の草戸千軒遺跡や青森の十三湊遺跡と同時期です。この時期が中世港町の出現期になるようです。それまで、港は寂しい所でした。高松城を作るときに埋め立てられた野原湊も、同じように建物跡はでてきていないようです。
 しかし、法然上人絵図には、高砂の湊のすぐそばに家屋が建っています。ちなみに、法然上人絵伝が描かれたのは14世紀初頭です。その頃には、高砂にも湊沿いに家屋が建ち並ぶようになっていたのかも知れません。しかし、法然が実際に立ち寄った13世紀初頭には、このような家はなかった可能性が強いようです。
    石井謙治氏は、近世の港について次のように述べています。
今日の港しか知らない人々には信じ難いものだろうが、事実、江戸時代までは廻船が岸壁や桟橋に横づけになるなんていうことはなかった。天下の江戸ですら品川沖に沖懸りしていたにすぎないし、最大の港湾都市大坂でも安治川や本津川内に入って碇泊していたから、荷役はすべて小型の瀬取船(別名茶船)や上荷船で行うよりほかなかった。(中略)これが当時の河口港の現実の姿だったのである。       (石井謙治「ものと人間の文化史」

野原 陸揚げ作業イラスト
野原湊(中世の高松湊)の礫敷き遺構の復元図

それでは、港湾施設が港に現れるのはいつ頃からなのでしょうか。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀、
③階段状雁木は18世紀

私がもうひとつ気になったのが船の先端に乗せられている⑤や⑥です。
高砂漁船の碇

これと同じものが高松城が作られる前の野原湊跡から出土しています。それが木製の碇です。中世の漁船は木製碇を使っていたようです。
野原の港 木碇
高松城跡出土の中世の木製碇

また船着場からは杭と横木が出てきています。杭を浅い潟湖に打ち込んで、横木で固定し、その上に板木を載せていたようです。この板木と礫石が「湾岸施設」と言えるようです。「貧弱」とおもいますが、これが当時のレベルだったようです。

参考文献

   参考文献 小松茂美 法然上人絵伝 中央公論社 1990年

法然上人絵伝表紙

   法然上人絵伝は、法然(1133-1212年)が亡くなった後、約百年後の1307年に後伏見上皇の勅命で制作が開始されます。そのため多くの皇族達も関わって、当時の最高のスタッフによって作られたようです。
法然上人行状絵伝 | 當麻寺奥院

また、全48巻もある絵巻物で、1巻が8-13mで、全巻合わせると約550mにもなるそうです。これも絵巻物中では「日本一」のようです。今回は法然の「讃岐流刑」に関する次の①から④区間を見ていきたいと思います。3月16日に京都を出立してから、3月26日の塩飽の地頭宅までの10日です。描かれた場面は次の通りです。
①京都・法性寺での九条兼実と法然の別れ
②京都出立
③鳥羽より川船乗船
④摂津経の島(兵庫湊=神戸)
⑤播磨高砂浦で漁師夫婦に念仏往生を説く
⑥播磨国室(室津)で、遊女に念仏往生を説く
九条兼実を取り巻く状況を年表化すると次の通りです。
1202年 兼実は、法然を師に隠遁生活後に出家
1204年 所領の譲状作成。この中に初めて讃岐小松荘が登場
1207年 法然の土佐流刑決定。3月16日出発。しかし、前関白兼実の配慮で塩飽・小松庄(摂関家所領)へ逗留10ヶ月滞在で、許されて12月に帰京。兼実は、この2月に死亡。
1247年 後嵯峨天皇による九条家の政治的没落

法然上人絵伝中 京都出立
         法然上人絵伝 巻34第1段
三月十六日に、花洛を出でゝ夷境(讃岐)に赴き給ふに、信濃国の御家人、角張の成阿弥陀仏、力者の棟梁として最後の御供なりとて、御輿を昇く。同じ様に従ひ奉る僧六十余人なり。凡そ上人の一期の威儀は、馬・車・輿等に乗り給はず、金剛草履にて歩行し給ひき。然れども、老邁の上、長途容易からざるによりて、乗輿ありけるにこそ、御名残を惜しみ、前後左右に走り従ふ人、幾千万といふ事を知らず。貴賤の悲しむ声巷間に満ち、道俗の慕ふ涙地を潤す。
 彼等を諌め給ひける言葉には、「駅路はこれ大聖の行く所なり。漢家には一行阿閣梨、日域には役優婆塞、訥居は又、
権化の住む所なり。震旦には白楽天、吾朝には菅丞相なり。在纏・出纏、皆火宅なり。真諦・俗諦、然しながら水駅なり」とぞ仰せられける。
 さて禅定殿下(=九条兼実)、「土佐国までは余りに遥かなる程なり。我が知行の国なれば」とて、讚岐国へぞ移し奉られける。御名残遣方なく思し召されけるにや、禅閤(兼実)御消息を送られけるに、
振り捨てヽ行くは別れの橋(端)なれど。踏み(文)渡すべきことをしぞ思ふ
と侍りければ、上人御返事、
 露の身は此処彼処にて消えぬとも心は同じ花の台ぞ
意訳変換しておくと
三月十六日に、京都から夷境(讃岐)に出立した。信濃国の御家人・角張の成阿弥陀仏が、御輿を用意して、僧六十余人と馳せ参じた。法然は、馬・車・輿等に乗らずに、金剛草履で歩いて出立したいと考えていた。けれども、老邁の上、長途でもあるのでとの勧めもあって、輿に乗った。名残を惜しんで、沿道には前後左右に走り従う人が幾千万と見送った。貴賤の悲しむ声が巷間に満ち、人々の慕い涙が地を濡らした。彼等に対して次のような言葉を贈った。
「駅路は、大聖の行く所である。唐国では一行阿閣梨、日域には役優婆塞、訥居は又、権化の住む所でもある。震旦には白楽天、我国には菅丞相(菅原道真)である。在纏・出纏、皆火宅なり。真諦・俗諦、然しながら水駅なり」と仰せられた。
法然と禅定殿下(=九条兼実)の別れの場面
  法然と禅定殿下(=九条兼実)の法性寺での別れの場面 庭には梅。
この度の配流、驚き入っています。ご心中お察し申す。
 禅定殿下(=九条兼実)は、「土佐)国までは余りに遠い。私の知行の国の讚岐国ならば・・」と、配所を土佐から讃岐へと移された。名残り惜しい気持ちを、禅閤(兼実)は次のように歌に託された、
振り捨てヽ行くは別れの橋(端)なれど、
   踏み(文)渡すべきことをしぞ思ふ
これに対して上人は、次のように応えた、
 露の身は此処彼処にて消えぬとも
   心は同じ花の台ぞ
そして3月16日 法然出立の日です。
出立門前
京都出立門前と八葉車(法然上人絵伝 巻34 第一段)
門前に赤い服を着た官人たちと八葉車(はちようくるま)がやってきています。法然を護送するための検非違使たちなのでしょうか。

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      出立の門前(法然上人絵伝 巻34 第一段)

   車の前には弓矢を持った看監長(かどのおさ)、牛の手綱をとる小舎人童(こどねりわらわ)の姿が見えます。そして沿道には、法然を見送るために多くの人々が詰めかけています。その表情は悲しみに包まれています。
「おいたわしいことじゃ 土佐の国に御旅立ちとか・・。」
「もう帰ってはこれんかもしれん・・・」

出立随員
    輿を追う随員達(法然上人絵伝 巻34 第一段)
  「法然最後の旅立ちじゃ、馬にも輿にも乗らず、金剛草履一足で大地を踏みしめていくぞ。それこそが私に相応しい威儀じゃ。」と法然は力んでいました。しかし、信濃国の御家人・角張の成阿弥陀仏が、御輿を用意して、僧六十余人と門前に現れ、こう云いました。
「あなたさまはもう高齢で、これからの長旅に備えて出立は輿をお使いください」
出立輿
      法然の輿(法然上人絵伝 巻34 第一段)
しぶしぶ、法然は輿に乗りました。六人の若い僧が輿を上げます。別れを惜しむ人々の前を、輿が進んで行きます。京大路を南に下って向かうは、鳥羽です。そこからは川船です。
  ここで私が気になるのが僧達の持つ大きな笠です。笠は高野聖のシンボルのように描かれていますが、法然に従う僧達の多くが笠を持っています。
〔巻34第2段〕鳥羽の南の門より、川船に乗りて下り給ふ。
鳥羽の川港
      鳥羽の川湊(法然上人絵伝 巻34第2段)
都大路を南下してきた法然一行は、鳥羽南門の川湊に着きました。ここで川船に乗り換えて、淀川を下っていきます。見送りにきた人達も、ここでお別れです。
鳥羽の川港.離岸JPG
      鳥羽の川湊(法然上人絵伝 巻34第2段)
長竿を船頭が着くと、船は岸を離れ流れに乗って遠ざかっていきます。市女笠の女が別れの手を振ります。このシーンで私が気になるのが、その先の①の凹型です。人の手で堀り込まれたように見えます。この部分に、川船の後尾が接岸されていて、ここから出港していたように思えます。そうだとすれば、これは「中世の港湾施設」ということになります。周囲を見ると②のように自然の浜しかありません。この時期の13世紀には、まだ港湾施設はなかったとされますが、どうなのでしょうか。③には、驚いた白鷺が飛び立っています。この船の前部を見ておきましょう。
.鳥羽の川船jpg
      鳥羽の川船(法然上人絵伝 巻34第2段)
どこに法然はいるのでしょうか?
①上下の船は、上が切妻屋根、下が唐屋根でランク差があります。下の唐屋根の中にいるのが法然のようです。舳先の若い水手のみごとな棹さばきを、うつろな目で見ているようにも思えます。淀川水運は、古代から栄えていたようですが、この時代には20~30人乗りの屋形船も行き来していたようです。


 巻34〔第3段」   法然摂津経の島(現神戸)に到着                     
摂津国経の嶋に着き給ひにけり。彼の島は、平相国(=清盛)、安元の宝暦に、一千部の「法華経』を石の面に書写して、漫々たる波の底に沈む。鬱々たる魚鱗を救はむが為に、村里の男女、老少その数多く集まりて、上人に結縁し奉りけり。

  意訳変換しておくと
摂津国の経の嶋(兵庫湊)にやってきた。この島は、平清盛が一千部の「法華経』を石の面に書写して、港の底に沈めた所である。魚鱗の供養のために、村里の男女、老少たちが数多く集まりて、上人の法話を聞き、結縁を結んだ。

兵庫湊での説法
   法然上人絵伝 巻34〔第3段」   法然摂津経の島(現神戸)
  兵庫湊に上陸した法然を、村長がお堂に案内します。京で名高い法然がやってきたと聞いて、老若男女、いろいろな人達がやってきて、話を聞きます。
①の女性は、大きな笠をさしかけられています。遊女は3人セットで動きます。その一人が笠持ちです。
②背中に琵琶、手に杖をもっているので、盲目の琵琶法師のようです。
③は、黒傘と黒衣から僧侶と分かります。集団でやってきているようです。
④は、尼さん、⑤は乗馬したままの武士の姿も見えます。いろいろな階層の人たちを惹きつけていたことがうかがえます。法然は集まった人達に、「称名念仏こそが往生への道です。かたがた、構えて念仏に励みなさるように」と説いたのでしょう。
お堂の前の前には兵庫湊(現神戸)の浜辺が拡がります。

兵庫湊
法然上人絵伝 巻34〔第3段」  経の島の浜辺(現神戸)
 
・馬を走らせてやってきた武士が、お堂に駆け込んで行きます。
・浜辺の家並みの屋根の向こう側にも、多くの人がお堂を目指しています。
私がこの絵で興味を持つのは、やはり湊と船です。
何隻かの船が舫われていますが、港湾施設らしきものはありません。

兵庫湊2
 法然上人絵伝 巻34〔第3段」  経の島の浜辺の続き(現神戸)
つぎに続く上の場面を見ると、砂浜が続き、微高地の向こうに船の上部だけが見えます。手前側も同じような光景です。ここからはこの絵に描かれた兵庫湊では、港湾施設はなく、砂州の微高地を利用して船を係留していたことがうかがえます。手前には檜皮葺きの赤い屋根の堂宇が見えますが、風で屋根の一部が吹き飛ばされています。この堂宇も海の安全を守る海民たちの社なのでしょう。

兵庫湊の遊女

ここで注目したのが左側に描かれている小舟と、3人の女性です。
船に乗って、どこへいくのか。艫のあたりを楯で囲んだ一隻の船が入港してきました。そこに女が操る小舟が近づいていくと、二人の女が飛び移りました。そして、傘を開いて差し掛けると若い男に微笑みながら、「たまさか」の歌を歌いかけています。これが入港してきた船に対する遊女の出迎えの儀式です。これと同じ場面が室津でも出てきますので、そこで謎解きすることにします。

14世紀になって描かれた法然上人絵伝の「讃岐流配」からは、当時の瀬戸内海の湊のようすがうかがえます。それは人工的な港湾施設のほとんどない浜がそのまま湊として利用されている姿がえがかれています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 小松茂美 法然上人絵図 中央公論社 1990年

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