瀬戸の島から

カテゴリ: 讃岐の武将

前回は、生駒藩重臣の尾池玄蕃が大川権現(大川神社)に、雨乞い踊り用の鉦を寄進していることを見ました。おん鉦には、次のように記されています。
鐘の縁に
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、 為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」
裏側に
「国奉行 疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛  願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年
国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 
願主 尾池玄蕃
ここに願主として登場する尾池玄蕃とは何者なのでしょうか。今回は彼が残した文書をみながら、尾池玄蕃の業績を探って行きたいと思います。
尾池玄蕃について「ウキ」には、次のように記します。
 尾池 義辰(おいけ よしたつ)通称は玄蕃。高松藩主生駒氏の下にあったが、細川藤孝(幽斎)の孫にあたる熊本藩主細川忠利に招かれ、百人人扶持を給されて大坂屋敷に居住する。その子の伝右衛門と藤左衛門は生駒騒動や島原の乱が起こった寛永14年(1637年)に熊本藩に下り、それぞれ千石拝領される。
「系図纂要」では登場しない。「姓氏家系大辞典」では、『全讃史』の説を採って室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児とする。永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
出生については、天文20年(1551年)に足利義輝が近江国朽木谷に逃れたときにできた子ともいうあるいは「三百藩家臣人名事典 第七巻」では、義輝・義昭より下の弟としている。
 足利将軍の落とし胤として、貴種伝説をもつ人物のようです。
  尾池氏は建武年間に細川定禅に従って信濃から讃岐に来住したといい、香川郡内の横井・吉光・池内を領して、横井に横井城を築いたとされます。そんな中で、畿内で松永久通が13代将軍足利義輝を襲撃・暗殺します。その際に、側室の烏丸氏女は義輝の子を身籠もっていましたが、落ちのびて讃岐の横井城城主の尾池玄蕃光永を頼ります。そこで生まれたのが義辰(玄蕃)だというのです。その後、成長して義辰は尾池光永の養子となり、尾池玄蕃と改名し、尾池家を継ぎいだとされます。以上は後世に附会された貴種伝承で、真偽は不明です。しかし、尾池氏が香川郡にいた一族であったことは確かなようです。戦国末期の土佐の長宗我部元親の進入や、その直後の秀吉による四国平定などの荒波を越えて生き残り、生駒氏に仕えるようになったようです。
鉦が寄進された寛永五(1628)年の前後の状況を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 旱魃が続き,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手 
     尾池玄蕃が大川権現(神社)に鉦を寄進
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.

ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、満濃池築造にも取りかかった。
④同年に尾池玄蕃は大川権現に、雨乞い用の鉦を寄進している。
3人の国奉行の配下で活躍する尾池玄蕃が見えて来ます。

尾池玄蕃の活動拠点は、どこにあったのでしょうか?
尾池玄蕃の青野山城跡
三宝大荒神にある青野山城跡の説明版

丸亀市土器町三丁目の三宝大荒神のコンクリート制の社殿の壁には、次のような説明版が吊されています。そこには次のように記されています。
①ここが尾池玄蕃の青野山城跡で、西北部に堀跡が残っていること
②尾池一族の墓は、宇多津の郷照寺にあること
③尾池玄蕃の末子義長が土器を賜って、青野山城を築いた。
この説明内容では、尾池玄蕃の末っ子が城を築いたと記します。それでは「一国一城令」はどうなるの?と、突っ込みを入れたくなります。「昭和31年6月1日 文化指定」という年紀に驚きます。どちらにしても尾池玄蕃の子孫は、肥後藩や高松藩・丸亀藩にもリクルートしますので、それぞれの子孫がそれぞれの物語を附会していきます。あったとすれば、尾池玄蕃の代官所だったのではないでしょうか? 
旧 「坂出市史」には次のような「尾池玄蕃文書」 (生駒家宝簡集)が載せられています。
預ケ置代官所之事
一 千七百九拾壱石七斗  香西郡笠居郷
一 弐百八石壱斗     乃生村
一 七拾石        中 間
一 弐百八拾九石五斗   南条郡府中
一 弐千八百三十三石壱斗 同 明所
一 三千三百石八斗    香西郡明所
一 七百四拾四石六斗   □ □
  高合  九千弐百三拾七石八斗
  慶長拾七(1615)年 正月日                   
           (生駒)正俊(印)
  尾池玄蕃とのへ
この文書は、一国一城令が出されて丸亀城が廃城になった翌年に、生駒家藩主の正俊から尾池玄蕃に下された文書です。「預ケ置代官所之事」とあるので、列記された場所が尾池玄蕃の管理下に置かれていたことが分かります。香西郡や阿野南条郡に多いようです。
 生駒家では、検地後も武士の俸給制が進まず、領地制を継続していました。そのため高松城内に住む家臣団は少なく、支給された領地に舘を建てて住む家臣が多かったことは以前にお話ししました。さらに新規開拓地については、その所有を認める政策が採られたために、周辺から多くの人達が入植し、開拓が急速に進みます。丸亀平野の土器川氾濫原が開発されていくのも、この時期です。これが生駒騒動の引き金になっていくことも以前にお話ししました。
 ここで押さえておきたいのは、尾池玄蕃が代官として活躍していた時代は生駒藩による大開発運動のまっただ中であったことです。開発用地をめぐる治水・灌漑問題などが、彼の元には数多く持ち込まれてきたはずです。それらの解決のために日々奮戦する日々が続いたのではないかと思います。そんな中で1620年代後半に襲いかかってくるのが「大旱魃→飢饉→逃散→生駒藩の存続の危機」ということになります。それに対して、生駒藩の後ろ盾だった藤堂高虎は、「西嶋八兵衛にやらせろ」と命じるのです。こうして「讃岐灌漑改造プロジェクト」が行われることになります。それ担ったのが最初に見た「国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛」の3人です。そして、尾池玄蕃も丸亀平野方面でその動きを支えていくことになります。満濃池築堤や、その前提となる土器川・金倉川の治水工事、満濃池の用水工事などにも、尾池玄蕃は西嶋八兵衛の配下で関わっていたのではないかと私は考えています。
多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ

以前に紹介したように「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊文書)」に、尾池玄蕃が登場します
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言
七月朔日(1日)       (尾池)玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮(牛頭天王社)神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

以後の尾池玄蕃の文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日) 尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認
  滝宮神社への踊り込み(奉納)が7月25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を細かく与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。
 ここからは尾池玄蕃が滝宮牛頭天皇社(神社)への各組の踊り込みについて、細心の注意を払っていたことと、地域の実情に非常に明るかったことが分かります。どうして、そこまで玄蕃は滝宮念仏踊りにこだわったのでしょうか。それは当時の讃岐の大旱魃対策にあったようです。当時は旱魃が続き農民が逃散し、生駒藩は危機的な状況にありました。そんな中で藩政を担当することになった西嶋八兵衛は、各地のため池築堤を進めます。満濃池が姿を見せるのもこの時です。このような中で行われる滝宮牛頭天皇社に各地から奉納される念仏踊りは、是非とも成功に導きたかったのでないか。 どちらにしても、次のようなことは一連の動きとして起こっていたことを押さえておきます。
①西嶋八兵衛による満濃池や用水工事
②滝宮牛頭天王社への念仏踊り各組の踊り込み
③尾池玄蕃による大川権現(神社)への雨乞用の鉦の寄進
そして、これらの動きに尾池玄蕃は当事者として関わっていたのです。
真福寺3
松平頼重が再建した真福寺

 尾池玄蕃が残した痕跡が真福寺(まんのう町)の再建です。
 真福寺というのは、讃岐流刑になった法然が小松荘で拠点とした寺院のひとつです。その後に退転しますが、荒れ果てた寺跡を見て再建に動き出すのが尾池玄蕃です。彼は、岸上・真野・七箇などの九か村(まんのう町)に勧進して堂宇再興を発願します。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったようです。ここからは、尾池玄蕃が寺院勧進を行えるほど影響力が強かったことがうかがえます。
 しかし、尾池玄蕃は生駒騒動の前には讃岐を離れ、肥後藩にリクルートします。檀家となった生駒家家臣団が生駒騒動でいなくなると、真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重です。その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。それが現在地(まんのう町岸の上)に建立された真福寺になります。
  以上をまとめておきます。
①尾池玄蕃は、戦国末期の動乱期を生き抜き、生駒藩の代官として重臣の地位を得た
②彼の活動エリアとしては、阿野郡から丸亀平野にかけて活躍したことが残された文書からは分かる。
③1620年代後半の大旱魃による危機に際しては、西嶋八兵衛のもとで満濃池築堤や土器川・金倉川の治水工事にあったことがうかがえる。
④大川権現(神社)に、念仏踊の雨乞用の鉦を寄進するなどの保護を与えた
⑤法然の活動拠点のひとつであった真福寺も周辺住民に呼びかけ勧進活動を行い復興させた。
⑥滝宮牛頭天王社(神社)の念仏踊りについても、いろいろな助言や便宜を行い保護している。
以上からも西嶋八兵衛時代に行われ「讃岐開発プロジェクト」を担った能吏であったと云えそうです。
 尾池玄蕃は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
玄蕃の子孫の中には、高松藩士・丸亀藩士になったものもいて、丸亀藩士の尾池氏は儒家・医家として有名でした。土佐藩士の尾池氏も一族と思われます。
    
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
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教科書では、秀吉の検地と刀狩りによって兵農分離が進み、村にいた武士たちは城下町に住むようになったと書かれています。そのため近世の村には武士は、いなくなったと思っていました。しかし、現実はそう簡単ではないようです。

香川叢書
香川叢書
  師匠からいただいた香川叢書第二(名著出版1972年)を見ていると、「高松領郷中帯刀人別」という史料が目にとまりました。
これは、宝暦年間の高松藩内の郷士・牢人などの帯刀人を一覧化したもので、その帯刀を許された由来が記されています。ここには「郷中住居之御家来(村に住んでいる家臣)」とあって、次の12名の名前が挙げられています。

高松藩 郷中住居の御家来
        高松領郷中帯刀人別(香川叢書第2 273P)

郷居武士は、藩に仕える身ですが訳あって村に居住する武士です。
近世初頭の兵農分離で、武士は城下町に住むのが普通です。分布的には、中讃や高松地区に多くて、大内郡などの東讃にはいないようです。彼らは、村に住んでいますが身分的には、れっきとした武士です。そのため村内での立場や位置は、明確に区別されていたようです。 藩士は高松城下町に居住するのが原則でしたが、村に住む武士もいたようです。
どうして、武士が村に住んでいたのでしょうか。
高松藩では、松平家の一族(連枝)や家老などを務める「大身家臣」には、専属の村を割り当てて、その村から騎馬役や郷徒士・郷小姓を出す仕組みになっていたと研究者は推測します。
 高松藩の郷居武士12名について、一覧表化したものが「坂出市史近世編上 81P」にありました。
高松藩の郷居武士1

この一覧表からは、次のようなことが分かります。
①宝暦期と万延元(1860)を比べると、3家(*印)は幕末まで存続しているが、他は入れ替わっている
②宝暦期の郷居武士では、50石を与えられた者がいて、他も知行取である
③これに対して万延元年では、知行取でも最高が50石で、扶持米取の者も含まれている
④ここからは全体として郷居武士全体の下層化がみられる
⑤宝暦期では「御蔵前」(蔵米知行)で禄が支給される者と、本地が与えられている者、新開地から土地が与えられている者のに3分類される
⑥宝暦期は、家老の組織下にある大番組に属する者が多いが、万延元年には留守居寄合に属する者が多くなつている
以上から郷居武士の性格は時代と共に変遷が見られることを研究者は指摘します。
高松藩の郷居武士分布図
郷居武士の分布(1751年) 
郷居武士の分布は高松以西の藩領の西側に偏っています。これはどうしてなのでしょうか?     
特に阿野郡・那珂郡に集中しています。これは、仮想敵国を外様丸亀京極藩に置いていたかも知れません。次のページを見てみましょう。

高松藩帯刀人 他所牢人。郷騎馬
高松領郷中帯刀人別 郷騎馬・他所牢人代々帯刀

次に出てくるのが郷騎馬です。これは武士ではなく帯刀人になります。その注記を意訳しておくと、
(藩主の)年頭の御礼・御前立の間に並ぶことができる。扇子五本入りの箱がその前に置かれ、お目見えが許される。代官を召し連れる。
一 総領の子は親が仕えていれば、引き続いて帯刀を許す。
一 役職を離れた場合は、帯刀はできず百姓に戻る。
郷騎馬は、連枝や家老格に従う騎乗武士で、馬の飼育や訓練に適した村から選ばれたようです。役職を離れた場合には百姓に戻るとあえいます。郷騎馬として出陣するためには、若党や草履取などの従者と、具足や馬具・鈴等の武装も調えなければなりません。相当な財力がないと務まらない役目です。それを務めているのが6名で。その内の2名が、那珂郡与北村にいたことを押さえておきます。

続いて「他所牢人代々帯刀」が出てきます。

高松藩帯刀人 他所牢人
高松領郷中帯刀人別・他所牢人代々帯刀
牢人は、次の3種類に分かれていました。
①高松藩に仕えていた「御家中牢人」
②他藩に仕えていたが高松藩に居住する「他所牢人」
③生駒家に仕えていた「生駒壱岐守家中牢人」
②の他所牢人の注記例を、上の表の後から2番目の鵜足郡岡田西村の安田伊助で見ておきましょう。
祖父庄三郎が丸亀藩京極家山崎家に知行高150石で仕えていた。役職は中小姓で、牢人後はここに引越てきて住んでいる。

このように、まず先祖のかつての仕官先と知行高・役職名などが記されています。彼らは基本的には武士身分で、帯刀が認められていました。仕官はしていませんが、武士とみなされ、合戦における兵力となることが義務づけられていたようです。
 丸亀藩が長州戦争の際に、警備のために要所に関所を設けたときにも、動員要因となっていたことを以前にお話ししました。藩境の警備や番所での取り締まりを課せられるとともに、軍役として兵力を備え、合戦に出陣する用意も求められていたようです。いわゆる「予備兵的な存在」と捉えられていたことがうかがえます。

牢人たちの経済状況は、どうだったのでしょうか。
坂出市史近世編(上)78Pには、 天保十四年「御用日記」に、牢人の「武役」を果たす経済的能力についての調査結果が一覧表で示されています。
高松藩帯刀人 他所牢人の経済力

これによると、牢人に求められたのは「壱騎役」と「壱領壱本」です。「壱騎役」は騎乗武士で、「壱領壱本」は、歩行武士で、具足一領・槍が必要になります。従者も引き連れたい所です。そうすると多額の経費が必要となります。阿野北郡に住む牢人に「丈夫に相勤め」られるかと問うた返答です。
①「丈夫に相務められる(軍務負担可能)」と答えたのは3名、
②「なるべくに相勤めるべきか」(なんとか勤められるか)」と保留したのが5名
③「覚束無し」としたのが1名
という結果です。ここからは、軍務に実際に参加できるほどの経済力をもつた牢人は多くはなかったことがうかがえます。

次に、一代帯刀者を見ていくことにします。

高松藩帯刀人 一代 浦政所
        高松領郷中帯刀人別 一代帯刀

一代帯刀は、一代限りで帯刀が認められていることです。その中で最初に登場するのが円座師です。その注記を意訳変換しておくと
円座師
年頭の御礼に参列できる。その席順は御縁側道北から7畳目。円座一枚を前に藩主とお目見え。なお、お目見席の子細については、享保18年の帳面に記されている。
鵜足郡上法勲寺 葛井 三平 
7人扶持。延享5年4月22日に、親の三平の跡目を仰せつかる。
ここからは円座の製作技法を持った上法勲寺の円座職人の統領が一代
帯刀の権利をえていたことが分かります。彼は、年頭お礼に藩主にお目通りができた役職でもあったようです。
その後には「浦政所」12名が続きます。
浦政所とは、港の管理者で、船子たちの組織者でもありました。船手に関する知識・技術を持っていたので、藩の船手方から一代帯刀が認められています。一代帯刀なので、代替わりのたびに改めて認可手続きを受けています。
例えば、津田町の長町家では、安永年間(1777~85)中は養子で迎えられた当主が幼年だったので一代帯刀を認められていない時期がありました。改めて一代帯刀を認めてもらうよう願い出た際に「親々共之通、万一之節弐百石格式二而軍役相勤度」と述べています。ここからは、船手の勤めを「軍役」として認識していたことがうかがえます。これらの例からは、特殊な技術や知識をもって藩に寄与する者に対して認められていたことが分かります。

一代帯刀として認められている項目に「芸術」欄があります。

高松藩帯刀人芸術 
      高松領郷中帯刀人別 一代帯刀 芸術
どんな職種が「芸術」なのかを、上表で見ておきましょう。
①香川郡西川部村の国方五郎八は、「河辺鷹方の御用を勤めた者」
②那珂郡金倉寺村の八栗山谷之介や寒川郡神前村の相引く浦之介は、「相撲取」として
③那珂郡四条村の岩井八三郎は、「金毘羅大権現の石垣修理
④山田群三谷村の岡内文蔵は、「騎射とその指導者」

阿野郡北鴨村の庄屋七郎は、天保14(1843)年に「砂糖方の御用精勤」で、御用中の帯刀が認められています。この他にも、新開地の作付を成功させた者などの名前も挙がっています。以上からは、藩の褒賞として帯刀許可が用いられていたことが分かります。
 ここまでを見てきて私が不審に思うのは、経済力を持った商人たちの帯刀者がいないことです。「帯刀権」は、金銭で買える的な見方をしていたのがですが、そうではないようです。

  帯刀人や郷居武士などは、高松藩にどのくらいいたのでしょうか? 
 郷居武士1 宝暦年間
          宝暦(1751年)ころの郡別帯刀人数(坂出市史81P)
ここからは次のような事が読み取れます
①高松藩全体で、169人の帯刀人や郷中家来がいたこと。
②その中の郷中家来は、12人しかすぎないこと。
③帯刀人の中で最も多いのは、102人の「牢人株」であったこと。
④その分布は高松城下の香川郡東が最も多く、次いで寒川郡、阿野郡南と続く
⑤郷中家来や代々帯刀権を持つ当人は、鵜足郡や那珂郡に多い。

郷騎馬や郷侍は、幕末期になると牢人や代々刀指とともに、要所警護や番所での締まり方を勤めることを命じられています。在村の兵力としての位置付けられていたようです。また、領地を巡回して庄屋や組頭から報告を受ける役割を果たすこともあったようです。
帯刀人の身分は、同列ではありませんでした。彼らには次のような序列がありました。
①牢人者
②代々刀指
③郷騎馬
④郷侍
⑤御連枝大老年寄騎馬役 
⑥其身一代帯刀之者
⑦役中帯刀之者 
⑧御連枝大老年寄郷中小姓・郷徒士 
⑨年寄中出来家来 
①~④は藩に対して直接の軍務を担う役目です。そのため武士に準じる者として高い序列が与えられていたようです。
⑤も仕えている大身家臣から軍役が課せられたようです。
⑤⑧⑨は大身家臣の軍役や勤めを補助するために、村から供給される人材です。
弘化2(1845)年に、以後は牢人者を「郷士」、それ以下は「帯刀人」と呼ぶ、という通達が出されています。この通達からも①②と、それ以外の身分には大きな差があったことが分かります。
以上、高松藩の村に住んでいた武士たちと、村で刀をさせる帯刀人についてのお話しでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
坂出市史」通史 について - 坂出市ホームページ
坂出市史

参考文献
「坂出市史近世編上 81P 帯刀する村人 村に住む武士」
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今回は『粉河寺縁起』に描かれた河内国の長者の舘を見ていくことにします。
この縁起は、次の2つの物語からなっています。
A 粉河寺(和歌山県紀の川市)の起源譚
B 本尊千手観音の霊験譚
前回は、Aの粉河寺の千手観音の登場を見ました。今回は、Bの千手観音の霊験譚です。物語の要旨は次の通りです。
①河内国讃良郡(寝屋川市)の長者の一人娘が難病に罹っていたのを、童行者が祈祷によって治癒
②お礼に両親から提鞘(小刀)と紅の袴だけを受け取り、粉河で会えることを伝えて去る
③翌春、お礼参りに粉河を訪れた長者一行が、庵の扉を開けると千手観音いて、娘の提鞘と袴を持っていた
④童行者は、千手観音の化身と知り、一行の人々はその場で出家して帰依したと
まずは、河内の長者の館前に、童行者が現れる所からスタートです。

P1250262長者への貢納品

右から左へと、貢納物を背負った里人が長者舘を目指しています。
館前の木の下には完全装備の馬と従者が待機し、いつでも出動できる体制です。
長者舘門前 粉河寺縁起
長者舘の棟門前(粉河寺縁起)
門の前は、深い堀になっているようで、そこに丸太の板橋が架かっています。その橋の上にいるのが、袈裟を付け、数珠を手にした垂髪姿の童行者(千手観音の化身)です。長者の娘の病を聞いて訪れ、門番に取り次ぎを頼んでいます。門番は家の中を指差して応対しています。
 内側には竹藪がめぐり、その外を板塀が囲みます。板橋の前が入口で、そこには櫓門が建っています。上の屋形には、矢の束が見えるので、非常時にはここから矢が撃たれるのでしょう。屋形には帷が垂らされています。このような櫓門は、『一遍上人絵伝』巻四の筑前の武士の館にも描かれています。この時期になると、有力者が武装化し武士団が形成されていたことがうかがえます。ちなみに、『粉河寺縁起』は櫓門が描かれた最も古い史料になるようです。そのためこの部分は、小中の歴史教科書の挿絵として、よく登場します。

P1250265
櫓門警護の下部たち(粉河寺縁起) 
櫓門には、警護の武士が三人が坐っています。奥の片膝立ちの武士は、胸当を下に着込んでいます。手前の矢を背負った武士は、弓を板塀に立て掛け、その手前の武士は刀を膝に置いています。いずれも武装しています。ここからは、長者の家の門前が武力によって護られていたことが分かります。そういう対処が必要とされた時代になっていたことが分かります。長者は、その後の武士団の棟梁へと成長していくのかもしれません。

長者舘門前の駒
門前前の駒と口取(粉河寺縁起)
丸木橋前の木の下に坐る男は、口取(馬の轡を取って引く者)でしょう。馬はいつでも乗れるように馬具一式を装備しています。轡に付けた手綱が木に結わえられ、鞭が差し込んであります。腹帯が締められ、鞍には敷物に置かれて、鐙が下がっています。水干鞍(すいかんぐら)と呼ぶ馬具になるようです。この馬も長者の武力の象徴で、ステイタス=シンボルでもあります。 

  庭先には長唐櫃(ながからびつ)が2つ据えられています。
長者屋敷の貢納物

縁先の1つは山の幸である柿・栗・梨・柘招などが、所狭しと盛り上げられています。もうひとつ後から運ばれてくる方には、伊勢エビ・大魚・昆布・さざえなどが盛られています。腰刀を差した男が、よいしょと担ぎ寄せます。狩衣の老人が、手ぶりよろしく口上を述べます。その後に、折枝に雉子を結わえて差し出す男。ほかにも、なにやら大事げに箱を棒げる痩せ男。貧富さまざまながら、彼らの表情は、心なしか暗いように見えます。
  縁にどっかと腰を下ろして、目録に眼を通しているのが、この家に仕える家司のようです。家司のニコニコした顔と、里人の浮かぬ顔が対照的に描き分けられています。
 これらの貢納品が長者の富になります。里人たちは、武力によって生業を保証される代わりに、様々な貢物が要求され関係にあったことが見えて来ます。これを支配・非支配の構図とよぶのでしょう。貢納品は、倉に納められていきます。
 
 そんな中で長者の心配は、娘の不治の病でした。
長者の娘を治療する童行者
長者の娘を治療する童行者(粉河寺縁起)
  治療を任された童の行者は、娘の枕頭で千手陀羅尼を一心に祈り続けます。詞書は、次のように記します。


その効があったのか、しだいに膿もひき 悪血も流れ出て、痛みは止んだ。七日めの朝になると、不思議にもすっかりもとの身体にもどった。びっくりしたのは、長者夫婦。これは、これは、いかなる霊験でしょうか。仏さまがおいでになって、娘を祈り生かしてくださったのだ、うれしやな、うれしやな。さあ、さあ、なんでもお礼にさしあげますぞ。皆のもの、蔵の中を開いて、七珍万宝、なんでも出してこい。と、お礼の品を運び出そうとした。

娘の回復
お礼に蔵から出されてきた財物

ところが、童の行者はそれを押し止めた。いや、いや、わたしは財物欲しさに祈祷をしたのではない。ひとえに、現世を悲しむあまりに、不治の病いに困っている人を助けようとしたまでのこと、構えて心配ご無用に願います、 と、出て行こうとした。

   せめてもに、と差し出された提鞘と紅の袴とを受けると、童の行者は立ち上がった。どちらへお越しでしょうか。いや、わたしは、 どこと居所を定めているわけではない。しかしながら、わたしを恋しく思うことがあれば「我は、紀伊国那賀のこほりに粉河といふ所にはべるなり」と、言い残して出ていった。とたんに、その姿はかき消すように失せて、もはや、どこにもみることはできなかった。
詞書には「くらヽとうせぬ」と記します。
今回は、ここまで。この続きは次回に・・・

16世紀前半の天文年間になると阿波三好氏が讃岐へ侵入を開始し、東讃の国人衆は三好氏の支配下に入れられていきます。その拠点となったのが三好一存を養子として迎えた十河氏です。十河氏の拠点は香川郡の十河城でした。こうして十河氏を中心に髙松平野への三好氏の進出が行われます。しかし、この進展を記したものは『南海通記』以外にありません。そして、戦後に書かれた町村史の戦国史は、これに拠るものがおおいようです。また、その後の三好氏による天霧城の香川氏攻めは詳細に記述されているので、軍記物としても読めて人気がありました。しかし、その内容については新たな史料の発掘によって、事実ではないとされるようになっています。今回は南海通記のどこが問題なのかを見ていくことにします。テキストは 橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P

最初に、『南海通記』の三好義賢(実休)による天霧城攻め記述を見ておきましょう。
  (前略)香川五郎刑部大夫景則ハ伊予ノ河野卜親シケレハ是二牒シ合セテ安芸ノ毛利元就二属セント欲ス。是二由テ十河一存ノ旨二与カラス。元就ハ天文廿年二大内家二亡テ三年中間アツテ。弘治元年二陶全菖ヲ討シ。夫ヨリ三年ニシテ安芸、備後、周防、長門、石見五ケ国ヲ治テ、今北国尼子卜軍争ス。其勢猛二振ヘハ香川氏中国二拠ントス。三好豊前守入道実休是ヲ聞テ、永禄元年八月阿、淡ノ兵八千余人ヲ卒シテ、阿波国吉野川二至り六条ノ渡リヲ超テ勢揃シ、大阪越ヲンテ讃州引田浦二到り。当国ノ兵衆ヲ衆ム寒川氏、安富氏来服シテ山田郡二到り十河ノ城二入リ、植田一氏族ヲー党シテ香川郡一ノ宮二到ル。香西越後守来謁シテ計ヲ定ム、綾ノ郡額ノ坂ヲ越テ仲郡二到リ、九月十八日金倉寺ヲ本陣トス。馳来ル諸将ニハ綾郡ノ住人羽床伊豆守、福家七郎、新居大隅守、滝官弥―郎、滝宮豊後守、香川民部少輔、小早川三郎左衛門鵜足郡ノ住人長尾大隅守、新目弾正、本目左衛詞住、山脇左馬充、仲行事、大河、葛西等三好家ノ軍二来衆ス。総テー万人千人、木徳、柞原、金倉二充満ス。一陣々々佗兵ヲ交ス営ヲナス。阿、淡ノ兵衆糧米ハ海路ヨリ鵜足津二運送ス。故ニ守禁ノ兵アリ。 実休此度ハ長陣ノ備ヲナシテ謀ヲ緞クス。
九月十五日実休軍ヲ進メテ多度ノ郡二入ル、善通寺ヲ本陣トス。阿、讃ノ兵衆仲多度ノ間二陣ヲナス。
  ここまでを意訳変換しておくと 
 (前略)香川五郎景則は伊予の河野氏と親密であったので、河野氏と共に安芸の毛利元就に従おうとした。そのため三好氏一族の十河一存による讃岐支配の動きには同調しようとしなかった、元就は天文20年に大内家を滅亡させて、弘治元年には陶氏を滅ぼし、安芸、備後、周防、長門、石見の五ケ国を治めることになった。そして、この時期には尼子と争うようになっていた。毛利氏の勢力の盛んな様を見て、香川氏は毛利氏に従おうとした。
 三好入道実休はこのような香川氏の動きを見て、永禄元年八月に阿波、淡路の兵八千余人を率いて、吉野川の六条の渡りを越えた所で馬揃えを行い、大阪越から讃州引田に入った。そこに東讃の寒川氏、安富氏が加わり、十河存保の居城である山田郡の十河城に入った。ここでは植田一氏族加えて香川郡の一ノ宮に至った。ここには香西越後守が来謁して、戦略を定めた。その後、綾郡の額坂を越えて仲郡に入り、九月十八日には金倉寺を本陣とした。ここで加わったのは綾郡の羽床伊豆守、福家七郎、新居大隅守、滝宮弥―郎、滝宮豊後守、香川民部少輔(西庄城?)、小早川三郎左衛門、鵜足郡の長尾大隅守(長尾城)、新目弾正、本目左衛詞住、山脇左馬充、仲行事、大河、葛(香)等が三好軍に従軍することになった。こうして総勢1,1万人に膨れあがった兵力は、木徳、柞原、金倉周辺に充満した。阿波、淡路ノ兵の兵糧米は、海路を船で鵜足津(宇多津)に運送した。そのために宇多津に守備兵も配置した。 実休は、この戦いででは長陣になることをあらかじめ考えて準備していた。こうして、九月十五日に、実休軍は多度郡に入って、善通寺を本陣とした。そして阿波や、讃岐の兵は、那珂郡や多度軍に布陣した。

内容を補足・整理しておきます。
①天文21年(1552)三好義賢(実休)は、阿波屋形の細川持隆を謀殺し、阿波の支配権を掌握。
②その後に、十河家に養子に入っていた弟の十河一存に、東讃岐の従属化を推進させた。
③その結果、安富盛方と寒川政国が服属し、やがて香西元政も配下に入った。
④しかし、天霧城の香川景則は伊予の河野氏と連絡を取り、安芸の毛利元就を頼り、抵抗を続けた。⑤そこで実休は永禄元年(1558)8月、阿波・淡路の兵を率いて讃岐に入り、東讃岐勢を加えて9月に那珂郡の金倉寺に本陣を置いた。
⑥これに中讃の国人も馳せ参じ、三好軍は1,8万の大部隊で善通寺に本陣を設置した。

これに対して天霧城の香川景則の対応ぶりを南海通記は、次のように記します
香川氏ハ其祖鎌倉権五郎景政ヨリ出テ下総国ノ姓氏也。世々五郎ヲ以テ称シ景ヲ以テ名トス。細川頼之ヨリ西讃岐ノ地ヲ賜テ、多度ノ郡天霧山ヲ要城トシ。多度津二居住セリ。此地ヲ越サレハ三郡二入コトヲ得ス。是郡堅固卜云ヘキ也。相従兵将ハ大比羅伊賀守国清、斎藤下総守師郷、香川右馬助、香川伊勢守、香川山城守、三野菊右衛門栄久、財田和泉守、右田右兵衛尉、葛西太郎左衛門、秋山十郎左衛門其外小城持猶多シ。香川モ兼テ期シタルコトナレハ我力領分ノ諸士、凡民トモニ年齢ヲ撰ヒ、老衰ノ者ニハ城ヲ守ラシメ、壮年ノ者ヲ撰テ六千余人手分ケ手組ヲ能シテ兵将二属ス。香川世々ノ地ナレハ世人ノ積リヨリ多兵ニシテ、存亡ヲ共ニセシカハ阿波ノ大兵卜云ヘトモ勝ヘキ師トハ見ス。殊近年糧ヲ畜へ領中安供ス。
 
 意訳変換しておくと
香川氏は鎌倉権五郎景政が始祖で、もともとは下総国を拠点としていた。代々五郎を称して「景」という一時を名前に使っている。細川頼之から西讃岐の地を給付されて、多度郡天霧山に山城を築いて、普段は多度津で生活していた。(天霧城は戦略的な要地で)ここを越えなければ三野郡に入ることはできない。そのため三野郡は堅固に守られているといえる。香川氏に従う兵将は大比羅(大平)伊賀守国清、斎藤下総守師郷、香川右馬助、香川伊勢守、香川山城守、三野菊右衛門栄久、財田和泉守、右田右兵衛尉、葛西太郎左衛門、秋山十郎左衛門の他にも小城の持主が多い。三好氏の襲来は、かねてから予期されていたので戦闘態勢を早くから固めていた。例えば年齢によって、老衰の者には城の守備要員とし、壮年の者六千余人を組み分けして兵将に振り分けていた。また香川氏の支配領域は豊かで、人口も多く「祖国防衛戦」として戦意も高かった。また。城内には兵糧米も豊富で長期戦の気配が濃厚であった。

こうして善通寺を本陣とする三好郡と、天霧城を拠点とする香川氏がにらみ合いながら小競り合いを繰り返します。ここで不思議なのは、香川氏が籠城したとは書かれていないことです。後世の軍機処の中には、籠城した天霧城は水が不足し、それに気がつかれないように白米を滝から落として、水が城内には豊富にあると見せようとしたというような「軍記もの」特有の「お話」が尾ひれをつけて語られたりしています。しかし、ここには「老衰の者を城の守備要員とし、壮年の者六千余人を組み分けして兵将に振り分けた」とあります。 また、三好軍は兵力配置は、天霧山の東側の那珂・多度郡だけです。南側の三野郡側や、北側の白方には兵が配置されていません。つまり天霧城を包囲していたわけではないようです。籠城戦ではなかったことを押さえておきます。
天霧城攻防図
天霧城攻防図(想像)
南海通記には香川氏の抵抗が強いとみた三好側の対応が次のように記されています。
故二大敵ヲ恐ス両敵相臨ミ其中間路ノ程一里ニシテ端々ノ少戦アリ。然ル処二三好実休、十河一存ヨリ香西越後守ヲ呼テ軍謀ヲ談シテ日、当国諸将老巧ノ衆ハ少ク寒川、安富ヲ初メ皆壮年ニシテ戦ヲ踏コト少シ、貴方ナラテハ国家ノ計謀ノ頼ムヘキ方ナシ、今此一挙是非ノ謀ヲ以テ思慮ヲ遣ス。教へ示シ玉ハ、国家ノ悦ヒコレニ過ヘカラストナリ。香西氏曰我不肖ノ輩、何ソ国家ノ事ヲ計ルニ足ン。唯命ヲ受テーノ木戸ヲ破ヲ以テ務トスルノミ也トテ深ク慎テ言ヲ出サス。両将又曰く国家ノ大事ハ互ノ身ノ上ニアリ。貴方何ソ黙止シ玉フ、早々卜申サルヽ香西氏力曰愚者ノー慮モ若シ取所アラハ取り玉フヘシ。我此兵革ヲ思フエ彼来服セサル罪ヲ適ルノミナリ。彼服スルニ於テハ最モ赦宥有ヘキ也。唯扱ヲ以テ和親ヲナシ玉フヘキコト然ルヘク候。事延引セハ予州ノ河野安芸ノ毛利ナトラ頼ンテ援兵ヲ乞二至ラハ国家ノ大事二及ヘキ也。我香川卜同州ナレハ隔心ナシ。命ヲ奉テ彼ヲ諭シ得失ヲ諭シテ来服セシムヘキ也。

  意訳変換しておくと
こうして両軍は互いににらみ合って、その中間地帯の一里の間で小競り合いに終始した。これを見て三好実休は弟の十河一存に香西越後守(元政)呼ばせて、とるべき方策について次のように献策させた。
「讃岐の諸将の中には戦い慣れた老巧の衆は少ない。寒川、安富はじめ、みな壮年で戦闘経験が少い。貴方しか一国の軍略を相談できる者はいない。この事態にどのように対応すべきか、教へていただきたい。これに応えて香西氏は「私は不肖の輩で、どうして一軍の指揮・戦略を謀るに足りる器ではありません。唯、命を受けて木戸を破ることができるだけです。」と深く謹みの態度を示した。そこで実休と一存は「国家の大事は互の身上にあるものです。貴方がどうして黙止することがあろうか、早々に考えを述べて欲しい」と重ねて促した。そこで香西氏は「愚者の考えではありますが、もし意に適えば採用したまえ」と断った上で、次のような方策を献策した。
 私は現状を考えるに、香川氏が抵抗するのは罪を重ねるばかりである。もし香川氏が降るなら寛容な恩赦を与えるべきである。これを基本にして和親に応じることを香川氏に説くべきである。この戦闘状態が長引けば伊予の河野氏や安芸の毛利氏の介入をまねくことにもなりかねない。それは讃岐にとっても不幸なことになる。これは国家の大事である。私は香川氏とは同じ讃岐のものなので、気心はしれている。この命を奉じて、香川氏に得失を説いて、和睦に応じるように仕向けたい。

要点を整理しておきます。
①善通寺と天霧山に陣して、長期戦になったこと、
②三好実休は長期戦打開のための方策を弟の十河一存に相談し、香西越後守の軍略を聞いたこと
③香西越後守の献策は、和睦で、その使者に自ら立つというものです。
ここに詳細に描かれる香西越後守は、謙虚で思慮深い軍略家で「諸葛亮孔明」のようにえがかれます。このあたりが一次資料ではなく「軍記もの」らしいところで、名にリアルに描かれています。内容も香西氏先祖の自慢話的なもので、南海通記が「香西氏の顕彰のために書かれている」とされる由縁かも知れません。18世紀初頭に南海通記が公刊された当時は、南海治乱記の内容には納得できない記述が多く、「当国(讃岐)の事ハ十か九虚説」とその内容を認めない者がいたことは前々回にお話ししました。

 香西越後守の和議献策を受けて、三好実休のとった行動を次のように記します。
実休ノ曰、我何ソ民ノ苦ヲ好ンヤ。貴方ノ弁才ヲ以テ敵ヲ服スルコトラ欲スルノミ、香西氏領掌シテ我力陣二帰り、佐藤掃部之助ヲ以テ三野菊右衛門力居所へ使ハシ、香川景則二事ノ安否ヲ説テ諭シ、三好氏二服従スヘキ旨ヲ述フ、香川モ其意二同ス。其後香西氏自ラ香川力宅所二行テ直説シ、前年細川氏ノ例二因テ三好家二随順シ、長慶ノ命ヲ受テ機内ノ軍役ヲ務ムヘシト、国中一条ノ連署ヲ奉テ、香川氏其外讃州兵将卜三好家和平ス。其十月廿日二実休兵ヲ引テ還ル。其日ノ昏ホトニ善通寺焼亡ス。陣兵去テ人ナキ処二火ノコリテ大火二及タルナルヘシ。

意訳変換しておくと
実休は次のように云った。どうして私が民の苦しみを望もうか。貴方の説得で敵(香川氏)が和議に応じることを望むだけだ。それを聞いて香西氏は自分の陣に帰り、佐藤掃部之助を(香川氏配下の)三野菊右衛門のもとへ遣った。そして香川景則に事の安否を説き、三好氏に服従することが民のためなると諭した。結局、香川も和睦に同意した。和睦の約束を取り付けた後に、香西氏は自らが香川氏のもとを訪ねて、前年の細川氏の命令通りに、三好家に従い、三好長慶の軍令を受けて畿内の軍役を務めるべきことを直接に約束させた。こうして国中の武将が連署して、香川氏と讃州兵将とが三好家と和平することが約束された。こうして10月20日に実休は、兵を率いて阿波に帰った。その日ノ未明に、善通寺は焼した。陣兵が去って、人がいなくなった所に火が残って大火となったのであろう。

ここには香川氏が三好実休の軍門に降ったこと、そして畿内遠征に従軍することを約したことが記されています。注意しておきたいのは、天霧城が落城し、香川氏が毛利氏にを頼って落ちのびたとは記していないことです。

南海通記に書かれている永禄元年(1558)の実休の天霧城攻めの以上の記述を裏付けるとされてきたのが次の史料(秋山文書)です。

1 秋山兵庫助 麻口合戦2

意訳変換しておくと
今度の阿波州(三好)衆の乱入の際の十月十一日麻口合戦(高瀬町麻)においては、手を砕かれながらも、敵将の山路甚五郎討ち捕った。誠に比類のない働きは神妙である。(この論功行賞として)三野郡高瀬郷の内、以前の知行分反銭と同郡熊岡・上高野御料所分内丹石を、また新恩として給与する。今後は全てを知行地と認める。この外の公物の儀は、有り様納所有るべく候、在所の事に於いては、代官として進退有るべく候、いよいよ忠節御入魂肝要に候、恐々謹言

年紀がないので、これが永禄元(1558)年のものとされてきました。しかし、高瀬町史編纂過程で他の秋山文書と並べて比較検討すると花押変遷などから、それより2年後の永禄3年のものと研究者は考えるようになりました。冒頭に「阿州衆乱入」の文言があるので、阿波勢と戦いがあったのは事実です。疑わなければならないのは、三好氏の天霧城攻めの時期です。

永禄3、 4年に合戦があったことを記す香川之景の発給文書が秋山家文書にあります。
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
秋山家文書(永禄四年が見える)
 先ほどの感状と同じく、香川之景が秋山兵庫助に宛てた文書で、こちらは知行宛行状です。これには永禄4(1561)年の年紀が入っています。年号の「永禄四」は付け年号といって、月日の右肩に付けた形のものです。宛て名の脇付の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高めるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。 先ほどの麻口の戦いと一連の軍功に対しての論功行賞と新恩が秋山兵庫助にあたえられたものと研究者は考えています。兵庫助は、香川氏のもとで軍忠に励み、旧領の回復を果たそうと必死に戦った結果手にした恩賞です。この2つの文書からは、侵入してくる阿波三好勢への秋山兵庫助の奮闘ぶりが見えてきます。
しかし、ここからは南海通記の記述に対する疑問が生じます。
従来の定説は、永禄元(1558)年に阿波の三好氏が讃岐に侵攻し、天霧城攻防戦の末に三豊は、三好氏の支配下に収められたとされてきました。しかし、秋山文書を見る限り、それは疑わしくなります。なぜなら、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できるからです。つまり、この段階でも香川氏は、西讃地方において知行を宛行うことができたことをしめしています。永禄4(1561)年には、香川氏はまだ西讃地域を支配していたのです。この時点では、香川氏は三好氏に従属したわけではないようです。

また、1558年には三好実休は畿内に遠征中で、四国には不在であったことも一次資料で確認できるようになりました。
つまり、南海通記の「永禄元(1558)年の三好実休による天霧城攻防戦」というのはありえなかったことになります。ここにも南海通記の「作為」がありそうです。

それでは天霧城の籠城戦は、いつ戦われたのでしょうか。
それは永禄6(1563)年のことだと研究者は考えているようです。
三野文書のなかの香川之景発給文書には、天霧龍城戦をうかがわせるものがあります。永禄6(1563)年8月10日付の三野文書に、香川之景と五郎次郎が三野勘左衛門尉へ、天霧城籠城の働きを賞して知行を宛行った文書です。合戦に伴う家臣統制の手段として発給されたものと考えられます。
 この時点では三好実休は死去しています。三好軍を率いたのも実休ではなかったことになります。それでは、この時の指揮官はだれだったのでしょうか。それは三好氏家臣の篠原長房に率いられた阿波・東讃連合勢と研究者は考えています。実休の戦死で、その子長治が三好家の家督を継ぎますが、西讃岐へは篠原長房により侵攻が進められます。永禄7年(1564)、篠原長房は大野原の地蔵院に禁制を出すなど、西讃の統治を行っています。年表化しておくと次のようになります
永禄元年 実休の兄長慶が将軍足利義輝・細川晴元らと抗争開始。実休の堺出陣
永禄6年 篠原長房による天霧城攻防戦
永禄7年 篠原長房の地蔵院(観音寺市大野原)への禁制
ここからは『南海通記』の天霧城攻防戦は、年代を誤って記載されているようです。天霧籠城に至るまでの間に、香川氏と三好勢との小競り合いが長年続いていたが、それらをひとまとめにして天霧攻として記載したと研究者は考えています。
   以上をまとめておきます

①讃岐戦国史の従来の定説は、南海通記の記載に基づいて永禄元(1558)年に阿波の三好実休がその弟十河一存とともに丸亀平野に侵攻し、天霧城攻防戦の末に香川氏は降伏し、三好氏の支配下に収められた(或いは、香川氏は安芸の毛利氏の元へ落ちのびた)とされてきた。
②しかし、秋山家文書には、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できる。
③ここからは、永禄4(1561)年になっても、香川氏はまだ西讃地域を支配していたことが分かる。
④また1558年には三好実休は畿内に遠征していたことが一次資料で確認できるようになった。
⑤こうして1558年に三好実休が天霧城を攻めて、香川氏を降伏させたという南海通記の記載は疑わしいと研究者は考えるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
          橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P
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 南海通記は同時代史料でなく、伝聞に基づいて百年以上後に書かれたものです。誤りや「作為」もあることを前回までに見てきました。
  今回は南海通記が西讃岐守護代で天霧城主・香川氏について、どのように叙述しているのかをを見ていくことにします。テキストは「橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P」です。

最初に、西讃岐守護代としての香川氏について「復習」をしておきます。
香川氏は相模国香川荘の出身で、鎌倉権五郎景政の後裔なる者が来讃して香川姓を名乗ったとされます。香川氏の来讃について、次のような2つの説があります。
①『西讃府志』説 承久の乱に戦功で所領を安芸と讃岐に賜り移住してきた
②『全讃史』説  南北朝期に細川頼之に従って来讃した)
来讃時期については、違いがありますが居館を多度津に置いて、要城を天霧山に築城した点は一致します。
DSC05421天霧城

天霧城跡縄張図(香川県中世城館跡詳細分布調査報告)

 香川氏が史料上に始めて出てくるのは永徳元年(1381)になります。
香川彦五郎景義が、相伝地である葛原庄内鴨公文職を京都建仁寺の塔頭永源庵に寄進した記録です。(『永源記』所収文書)。細川頼之が守護の時に弟頼有は、守護代として讃岐に在国していて、香川景義は頼有に従って讃岐に在国しています。ここからは、この頃には香川氏は細川氏の被官となっていたことが分かります。
次の文書は応永7年(1400)9月、守護細川満元が石清水八幡宮雑掌に本山庄公文職を引き渡す旨の遵行状を香川帯刀左衛門尉へ発給したものです(石清水文書)。ここからは、香川帯刀左衛門尉が守護代であったことが分かります。14世紀末には、香川氏は守護代として西讃岐を統治していたとがうかがえます。

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             蔭涼軒日録

『蔭涼軒日録』の明応2年(1493)6月条には、相国寺の子院である蔭涼軒を訪ねた羽田源左衛門が雑談の中で、次のように讃岐のことを語っています
①讃岐国は十三郡なり、②六郡香川これを領す、寄子衆また皆小分限なり、然りといえども香川とよく相従うものなり、③七郡は安富これを領す、国衆大分限者これ多し、然りといえども香西党首としてみな各々三味して安富に相従わざるものこれ多しなり

意訳変換しておくと。
①讃岐十三郡のうち六郡を香川氏が、残り七郡を安富氏が支配していること。
②香川氏のエリアでは、小規模な国人武将が多く、よくまとまっている
③安富氏のエリアでは、香西氏などの「大分限者」がいて、安富氏に従わない者もいる
15世紀末には、綾北郡以西の7郡を香川氏が領有していたことが分かります。讃岐の両守護代分割支配は、守護細川氏の方針でもあったようです。讃岐は細川京兆家の重要な分国でした。南北朝末以降は京兆家は常時京都に在京し、讃岐には不在だったことは以前にお話ししました。そのため讃岐は守護代により支配されていました。東讃守護代の安富氏は在京していましたが、香川氏は在国することが多かったようです。結果として、香川氏の在地支配は安富氏以上に強力なものになったと研究者は考えています。

天霧城攻防図

天霧城攻防図
香川氏は多度津に居館を構え、天霧城を詰城としていました。その戦略的な意味合いを挙げて見ると
①天霧城は丸亀平野と三野平野を見下ろす天然の要害地形で、戦略的要地であること
②天霧山頂部からは備讃瀬戸が眺望できて、航行する船舶を監視できる。
③多度津は細川氏の国料船と香川氏の過書船専用の港として栄え、香川氏の経済基盤を支えた。
④天霧城の北麓の白方には、古くから白方衆と呼ばれる海賊衆(山路氏)がいて、香川氏の海上軍事力・輸送力を担った持つことが可能になります。
⑤白方衆は、香川氏が畿内へ出陣する際には水軍として活躍した
⑥現在も天霧城跡から白方へ通じる道が遍路道として残されているが、これは築城当時からのものと研究者は考えています。有事の際には、天霧城からただちに白方の港へと下ったのかもしれません。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳に出てくる多度津周辺をを母港とする輸送船一覧

それでは史料に現れる天霧城主の変遷(香川氏系譜)を見ていくことにします。
守護代を務めた香川氏の当主は、日頃は多度津の舘に生活していたのかも知れません。史料上に天霧城主と記された人物はほとんどでてきません。そのため城主の変遷はよく分かりません。そんな中で『道隆寺温故記』には「雨(天)霧城主」と割注が記された人物が何人かいます。その人物を見ておきましょう。
①康安2年(1362) 藤原長景が多度津道隆寺に花会田を寄進。そこに「天霧城主」が出てきます。
②永和4年(1378) 藤原長景が、宝輪蔵を建立し、一切経を奉納して経田を寄付
「道隆寺温故記」に記された記事の原文書が道隆寺に残っているので、その内容を裏付けられるようです。しかし、もともとは香川氏は平姓で、藤原姓を名乗る長景が香川氏一族かどうかは疑問の残るところです。一歩譲って、永景には香川氏が代々もつ景の字があるので、香川氏の一族かも知れないとしておきます。
③永正7年(1510)12月、白方八幡に大投若経が奉納され、そこに「願主平朝臣清景雨霧城主」とあります。
④永世8年(1511)には五郎次郎が混槃田を道隆寺に寄進。そこにも雨霧城主とあります。
⑤天文6年(1537)3月4日、「不動護摩灯明田、中務丞元景寄付給」

④の永正8年の五郎次郎と比べると、両名の花押が同じです。これは、この年に五郎次郎が香川氏の家督を相続して元景と名乗ったものと研究者は考えています。③の「願主平朝臣清景雨霧城主」とある清景の嫡男が五郎次郎(元景)と研究者は推測します。ここからは香川氏が平氏の子孫と自認していたこと、道隆寺を保護していたことなどが分かります。
⑥永正7年6月五郎次郎の香川備後守宛遵行状(秋山家文書)の花押は、五郎次郎のと花押が同じなので、同一人物のようです。五郎次郎は讃岐守護細川澄元の奉書を承けて又守護代の備後守に遵行しています。ここからは五郎次郎が守護代としての権限を持っていたことがうかがえます。
⑦天文8年(1539)に、元景は西谷妻兵衛に高瀬郷法華堂(本門寺)の特権を安堵することを伝えています(本門寺文書)。そこには「御判ならびに和景の折紙の旨に任せ」とあります。「御判」は文明元年(1469)の細川勝元の安堵状で、「和景の折紙」とは同2年の香川備前守宛の和景書下です。和景以来の本門寺への保護政策がうかがえます。この時期から香川氏は、戦国大名への道を歩み始めたと研究者は考えています。

香川氏発給文書一覧
香川氏の発給文書一覧

ところが⑦の天文8年(1539)以後の香川氏の発給文書は途切れます。⑧永禄元年(1558)の香川之景が豊田郡室本の麹商売を保障しています(観音寺市麹組合文書)。
この文書には「先規の重書ならびに元景の御折紙明鏡の上」とあるので、それまでの麹商売への保障を、元景に続き之景も継続して保障することを記したものです。ここからは元景の家督を之景が相続したことがうかがえます。同時に、香川氏の勢力範囲が観音寺までおよんでいたことがうかがえます。領域的な支配をすすめ戦国大名化していく姿が見えてきます。
⑨永禄3年(1560)香川之景が田地1町2段を寄進 天霧城主とはありませんが、記載例から見て之景が城主であることに間違いないようです。

天霧城3
天霧城
以上の史料に出てくる天霧城主が南海通記には、どのように登場してくるのか比較しながらを見ていくことにします。
『南海通記』に出てくる香川氏を一覧表化したのがものが次の表です

南海通記の天霧城主一覧表
南海通記に出てくる天霧城主名一覧表

南海通記に、天霧城主がはじめて登場するのは応仁・享徳年間(1452~55)になるようです。そして天正7年の香川信景まで続きます。しかし、結論から言うと、ここに出てくる人物は、信景以外は先ほど見た史料と一致しません。
 南海通記は、老人からの聞き取りや自らの体験を元に書いたとされます。そのために、時代が遡ればたどるほど不正確になっていることが考えられます。南海通記の作者である香西成資は、自分の一族の香西氏についても正しい史料や系図は持っていなかったことは、以前に見た通りです。史料に出てくる人物と、南海通記の系図がほとんど一致ませんでした、それは香川氏についても云えるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P
関連記事

香西成資の『南海治乱記』の記述を強く批判する文書が、由佐家文書のなかにあります。それが「香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年 香川県教育委員会」の中に参考史料として紹介されています。これを今回は見ていくことにします。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」です。

香川県中世城館分布調査報告書
香川県中世城館調査分布調査報告
紹介されているのは「前田清八方江之返答(松縄城主・・。)」(讃岐国香川郡由佐家文書)です。その南海治乱記や南海通記批判のエッセンスを最初に見ておきましょう。
南海治乱記と南海通記

南海治乱記の事、当国事ハ不残実説ハ無之候、阿波、淡路ハ三好記、西国大平記、土佐ハ土佐軍記、伊予ハ後太平記、西国大平記、是二我了簡を加書候与見申候、是二茂虚説可有之候ても、我等不存国候故誹言ハ不申候、当国の事ハ十か九虚説二而候、(中略)香西か威勢計を書候迪、(後略)

  意訳変換しておくと
南海治乱記は、讃岐の実説を伝える歴史書ではありません。阿波・淡路の三好記と西国大平記、土佐の土佐軍記、伊予の後太平記と西国大平記の記載内容に、(香西成資が)自分の了簡を書き加えた書です。そのため虚説が多く、讃岐の事については十中八九は虚説です。(中略)香西氏の威勢ばかりを誇張して書いたものです。

ここでは「当国事ハ不残実説ハ無之候」や「当国の事ハ十か九虚説二而候」と、香西成資を痛烈に批判しています。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・」という文書は、いつ、だれが、何の目的で書いたものなのでしょうか?
この文書は18世紀はじめに前田清八という人物から宮脇氏についての問い合わせがあり、それに対して由佐家の(X氏)が返答案を記したもののようです。内容的には「私云」として、前半部に戦国期の讃岐国香川郡の知行割、後半部に南海治乱記の批判文が記されています。
岡舘跡・由佐城
由佐城(高松市香南町)
 成立時期については、文中に「天正五年」から「年数百二三十年二成中候」とあるので元禄・宝永のころで、18世紀初頭頃の成立になります。南海治乱記が公刊されるのは18世紀初頭ですから、それ以後のことと考えられます。作成者(X氏)は、讃岐国香川郡由佐家の人物で「我等茂江戸二而逢申候」とあるので、江戸での奉公・生活体験をもち、由佐家の由緒をはじめとして「讃岐之地侍」のことにくわしい人物のようです。
 「前田清八」からの「不審書(質問・疑問)」には、「宮脇越中守、宮脇半入、宮脇九郎右衛門、宮脇長門守」など、宮脇氏に関する出自や城地、子孫についての疑問・質問が書かれています。それに対する「返答」は、もともとは宮脇氏は紀州田辺にいたが、天正5年(1577)の織田信長による雑賀一揆討伐時に紀州から阿波、淡路、讃岐へと立ち退いたものの一族だろうと記します。宮武氏が「松縄城主、小竹の古城主」という説は、城そのものの存在とともに否定しています。また「不審」の原因となっている部分について、「私云」として自分の意見を述べています。その後半に出てくるのが南海通記批判です。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・)」の南海治乱記批判部を見ておきましょう。
冒頭に、南海治乱記に書かれたことは「当国の事ハ十か九虚説」に続いて、次のように記します。

□(香OR葛)西か人数六千人余見へ申候、葛(香)西も千貫の身体之由、然者高七千石二て候、其二て中間小者二ても六千ハ□□申間敷候、且而軍法存候者とは見へ不申候、惣別軍ハ其国其所之広狭をしり人数積いたし合戦を致し候事第一ニて候、■(香)西か威勢計を書候迪、ケ様之事を申段我前不知申者二て候、福家方を討申候事計実ニて候、福家右兵衛ハ葛西宗信妹婿ニて、七朗ハ現在甥ニて候。是之事長候故不申候、

意訳変換しておくと
南海治乱記は、香西の動員人数を六千人とする。しかし、香西氏は千貫程度の身体にしかすぎない。これを石高に直すと七千石程度である。これでは六千の軍を維持することは出来ない。この無知ぶりを見ても、軍法を学んだ者が書いたとは思えない。その国の地勢を知り、動員人数などを積算して動員兵力を知ることが合戦の第一歩である。
(南海治乱記)には、(香)西氏の威勢ばかりが書かれている。例えば、由佐家については、福家方を討伐したことが書かれているが、福家右兵衛は、葛西宗信の妹婿に当たり、七朗は現在は甥となっている。ここからも事実が書かれているとは云えない。
ここには「香西氏の威勢ばかりが(誇張して)書かれている」とされています。18世紀初頭にあっては、周辺のかつての武士団の一族にとっては、南海治乱記の内容には納得できない記述が多く、「当国の事ハ十か九虚説」とその内容を認めない者がいたようです。

次に、守護細川氏の四天王と言われたメンバーについて、次のように記します。
 讃岐四大名ハ、香川・安富・奈良・葛(香)西与申候、此内奈良与申者、本城持ニて□□郡七箇村ニ小城之跡有之候。元ハ奈良与兵衛与申候、後ニハむたもた諸方切取り鵜足郡ハ飯山より上、那賀郡ハ四条榎内より上不残討取、長尾山二城筑、長尾大隅守元高改申候、此城東之国吉山之城ハ北畠殿御城地二て候、西はじ佐岡郷之所二城地有之候を不存、奈良太郎左衛門七ケ条(城?)主合戦之取相迄□□□拵申候、聖通寺山之城ハ仙国権兵衛秀久始而筑候、是を奈良城ホ拵候段不存者ハ実示と可存候、貴様之只今御不審書之通、人の噺候口計御聞二而被仰越候与同前二て、此者もしらぬ事を信□思人之咄候口計二我か了簡を添書候故所々之合戦も皆違申候取分香西面合戦の事真と違申、此段事長候故不申候   

    意訳変換しておくと
 讃岐四天王と言われた武将は、香川・安富・奈良・葛(香)西の4氏である。この内の奈良氏というのは、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。今でもそこに城跡がある。そして、奈良与兵衛を名のっていたが、その後次第に諸方を切取りとって鵜足郡の飯山より南の那賀郡の四条榎内から南を残らずに討ち取って、長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。この長尾城の東の国吉山の城は、北畠殿の城であった。西はしの佐岡郷に城地があったかどうかは分からない。奈良太郎左衛門は七ケ条(城?)を合戦で奪い取った。
 聖通寺山城は仙国(石)権兵衛秀久が築いたものだが、これを奈良氏の居城を改修したいうのは事実を知らぬ者の云うことだ。貴様が御不審に思っていることは、人の伝聞として伝えられた誤ったことが書物として公刊されていることに原因がある。噂話として伝わってきたことに、(先祖の香西氏顕彰という)自分の了簡を書き加えたのが南海治乱記なのだ。そのためいろいろな合戦についても、取り違えたのか故意なのか香西氏の関わった合戦としているものが多い。このことについては、話せば長くなるの省略する。
ここには、これまでに見ない異説・新説がいくつか記されていていますので整理しておきます。まず奈良氏についてです。
中世讃岐の港 讃岐守護代 安富氏の宇多津・塩飽「支配」について : 瀬戸の島から
①讃岐四天王の一員である奈良氏は、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。
②その後、鵜足郡の飯山から那賀郡の四条榎内までを残らずに討ち取った。
③そして長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。
④聖通寺城は仙石権兵衛秀久が築いたもので、奈良氏の居城を改修したいうのは事実でない。
これは「奈良=長尾」説で、不明なことの多い奈良氏のことをさぐっていく糸口になりそうです。今後の検討課題としておきます。

続いて、土佐軍侵入の羽床伊豆守の対応についてです。
南海治乱記は、土佐軍の侵攻に対する羽床氏の対応を次のように記します。(要約)
羽床氏の当主は伊豆守資載で、中讃諸将の盟主でもあった。資載は同族香西氏を幼少の身で継いだ佳清を援けて、その陣代となり香西氏のために尽くした。そして、娘を佳清に嫁がせたが、一年たらずで離縁されたことから、互いに反目、同族争いとなり次第に落ち目となっていった。そして、互いに刃を向けあううちに、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に遭遇することになった。
    長宗我部氏の中讃侵攻に対して、西長尾城主長尾大隅守は、土器川に布陣して土佐軍を迎かえ撃った。大隅守は片岡伊賀守通高とともに、よく戦ったが、土佐の大軍のまえに大敗を喫した。長尾氏の敗戦を知った羽床伊豆守は、香西氏とたもとを分かっていたこともあって兵力は少なかったが、土器川を越えて高篠に布陣すると草むらに隠れて土佐軍を待ち受けた。これとは知らない長宗我部軍は進撃を開始し、先鋒の伊予軍がきたとき、羽床軍は一斉に飛び出して伊予軍を散々に打ち破った。
 これに対して、元親みずからが指揮して羽床軍にあたったため、羽床軍はたちまちにして大敗となった。伊豆守は自刃を決意したが、残兵をまとめて羽床城に引き上げた。元親もそれ以上の追撃はせず、後日、香川信景を羽床城に遣わして降伏をすすめた。すでに戦意を喪失していた伊豆守は。子を人質として差し出し、長宗我部氏の軍門に降った。ついで長尾氏、さらに滝宮・新名氏らも降伏したため、中讃地方は長宗我部氏の収めるところとなった。

これに対して、「前田清八方江之返答」は、次のように批判します。
羽床伊豆守、長曽我部か手ヘ口討かけ候よし見申候□□□□□□□□□□見□□皆人言之様候問不申候) 
(頭書)跡形もなき虚言二て候、
伊豆守ハ惣領忠兵衛を龍宮豊後二討レ、其身ハ老極二て病□候、其上四国切取可中与存、当国江討入候大勢与申、殊二三里間有之候得者夜討事者存不寄事候、我城をさへ持兼申候是も事長候故不申候、■■(先年)我等先祖の事をも書入有之候得共、五六年以前我等より状を遣し指のけ候様ホ申越候故、治乱記十二巻迄ハ見へ不申候、其末ハ見不申候、
            意訳変換しておくと
  長宗我部元親の軍が、羽床伊豆守を攻めた時のことについても、(以下 文字判読不明で意味不明部分)
(頭書)これらの南海治乱記の記述は、跡形もない虚言である。当時の(讃岐藤原氏棟梁の羽床)伊豆守は、惣領忠兵衛を龍宮(氏)豊後に討たれ、老衰・病弱の身であった。それが「四国切取」の野望を持ち、讃岐に侵攻してきた土佐の大勢と交戦したとする。しかも、夜討をかけたと記す。当時の伊豆守は自分の城さえも持てないほど衰退した状態だったことを知れば、これが事実とは誰も思わない。
 我等先祖(由佐氏)のことも南海治乱記に書かれていたが、(事実に反するので)数年前に書状を送って削除するように申し入れた。そのため治乱記十二巻から由佐氏のことについての記述は見えなくなった。

つまり、羽床氏が長宗我部元親に抵抗して、戦ったことはないというのです。ここにも、香西氏に関係する讃岐藤原氏一族の活躍ぶりを顕彰しようとして、歴史を「偽作」していると批判しています。そのために由佐氏は、自分のことについて記述している部分の削除を求めたとします。南海治乱記の記述には、周辺武士団の子孫には、「香西氏やその一族だけがかっこよく記されて、事実を伝えていない」という不満や批判があったことが分かります。

香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 香西記
香西記
このような『南海治乱記』批判に対して、『香西記』(『香川叢書第二』所収)は次のように記します。
  寛文中の述作南海治乱記を編て当地の重宝なり、世示流布せり、然るに治乱記ホ洩たる事ハ虚妄
の説也と云人あり、甚愚なり、治乱記十七巻の尾ホ日我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨と書たり、洩たる事又誤る事も量ならんと、悉く書を信せハ書なき力ヽしかすとかや、
  意訳変換しておくと
  寛文年間に公刊された南海治乱記は、讃岐当地の重宝で、世間に拡がっている。ところが治乱記に(自分の家のことが)洩れているのは、事実に忠実ないからだと云う輩がいる。これは愚かな説である。治乱記十七巻の「尾」には「我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨」と書かれている。

『香西記』の編者・新居直矩は、『南海治乱記』の「尾」の文に理解を示し、書かれた内容を好意的に利用するべきであるとしています。また、『香西記』は『南海治乱記』をただ引き写すのではなく、現地調査などをおこなうことによって批判的に使用しています。そのため『香西記』の記述は、検討すべき内容が含まれています。しかし、『南海治乱記』の編述過程にまで踏み込んだ批判は行っていません。つまり「前田清八方江之返答(松縄城主…)」に、正面から応えたとはいえないようです。
以上をまとめておきます。
①由佐家文書の中に、当時公刊されたばかりの南海治乱記を批判する文書がある。
②その批判点は、南海治乱記が讃岐の歴史の事実を伝えず、香西の顕彰に重点が置かれすぎていることにある。
③例として、奈良氏が長尾に城を築いて長尾氏になったという「奈良=長尾」説を記す。
④聖通寺山城は仙石秀久が始めて築いたもので、奈良氏の城を改修したものではないとする
⑤また、羽床氏が長尾氏と共に長宗我部元親に抵抗したというのも事実ではないとする。
⑥南海治乱記の記述に関しては、公刊当時から記述内容に、事実でないとの批判が多くあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」

前回は天正10(1582)年の長宗我部元親本隊の阿波占領後の讃岐香川郡への侵攻ルートについて、つぎのようにまとめました。

①天正10年8月に阿波国の中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落とした。
②論功行賞として三好氏の勢力下にあった重要地点に土佐側の城将を配した。
③その後、三好義堅(十河存保)が落ちのびた讃岐の十河城を攻める作戦に移った。
④元親は、弟の香宗我部親泰を美馬郡岩倉城(脇町)から、安原を経てを「岡城(岡舘・香南町岡)」に向かわせた。
⑤元親自身は岩倉城を落としてから讃岐山脈に入り「そよ越」を経て讃岐国の十河表に至った。
⑥弟の親泰は「岡城」を攻め落とし
⑦さらに「岡城」の下手にある由佐城を攻めて土佐側に従属させた
⑧由佐氏は土佐側の一員として三好氏側の山田郡三谷、坂本を攻めさせた。
今回は、⑦⑧に出てくる由佐氏について見ておくことにします。テキストは、「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年442P」です。
由佐城 - 古城盛衰記
由佐城跡(高松市香南町) 
最初に由佐氏の由来について見ておきましょう。
由佐氏は南北朝時代の初め頃に、関東から来讃したと伝えられます。
そして、香川郡井原郷を勢力範囲とします。由佐氏の史料的初見は、貞和 4 年(1348)、由佐弥次郎秀助が讃岐守護細川顕氏から与えられた感状です。観応2 年(1351)10 月 2 日には、「一族幷井原荘内名主荘官等」を率いて「安原鳥屋之城」から所々の敵陣を追い払うよう命じられています。ここからは、由佐弥次郎は由佐氏一族の代表と見なされていたことが分かります。この「安原城中」での軍忠に対して、細川顕氏奉行人の生稲秀氏から兵糧料所として「井原荘内鮎滝領家職」が預けられています。この領家職は、以後の由佐氏の代官職確保や所領拡大の契機となります。
 由佐氏は、観応の擾乱後も永享 4 年(1432)に由佐四郎右衛門尉が摂津鷹取城で忠節を行い、応仁の乱では近衛室町合戦に由佐次郎右衛門尉が参加しています。細川京兆家の内衆には数えらいませんが、守護代の指揮下で活動し、讃岐以外でも合戦に参加できる実力を持った国人領主だったようです。
 由佐氏は、寛正元年(1460)には郷内の冠尾神社(元冠纓神社)の管理権を守護細川勝元から命じられています。
こうして神社を媒介として領民の掌握を図り、領域支配を強化していきます。

由佐家文書|高松市
由佐家文書
 由佐家文書は由佐家に残されている文書で、その中に阿波国の三好氏からのものが1点、土佐国の長宗我部元親からのものが2点あります。この3点の文書を見ていくことにします。

①阿波国三好義堅からの「三好義堅知行宛行状」
就今度忠節安原之内型内原(河内原)一職、同所之内西谷分并讃州之内市原知行分申附候、但市原分之内請米汁石之儀二相退候也、右所へ申附上者弥奉公肝要候、尚東村備後守□□候、謹言、
八月十九日                             義堅(花押)
油座(由佐)平右衛門尉殿
意訳変換しておくと
今度の忠節の論功行賞として①安原の河内原と②同所の西谷分と、③讃州市原の知行を与える。、但し、市原分の内の請米汁石については相退候也、右所へ申附上者弥奉公肝要候、尚東村備後守□□候、謹言、

ここでは、三好義堅(十河存保)が由佐平右衛門に3ヶ所の知行地を与えています。それは①安原の河内原と②同所の西谷分と、③讃州内市原」の知行です。この表現の仕方に研究者は注目します。つまり、市原だけが讃岐内なのです。これは最初に出てくる「安原之内」は「讃州之内」ではないという認識があったことになります。15世紀までは、安原は讃岐国に属していました。ところが阿波細川家や三好家が讃岐東方に力を伸ばすにつれて、阿波勢力の讃岐進出の入口であった塩江から「安原」は、阿波国の一部であると捉えられるようになっていったと研究者は推測します。それがこの表記に現れているというのです。

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差出人の「義堅」は、十河存保のことです。
存保は三好之康(義賢)の二男で、三好家から讃岐国の十河家に入って「鬼十河」と後世に称された十河一存の養子になっていた人物です。
戦え!官兵衛くん。 番外編04 三好氏家系図
十河存保は、三好実休(義賢)の実子で、十河一存の養子に
後に阿波国の「太守」であった兄の長治が亡くなって、存保が阿波の勝瑞城に入ります。存保は、天正6年(1578)正月に勝瑞に入ますが、一宮成助らに攻められて天正8年(1580)正月から翌年にかけては、十河城へ逃げてきています。その後、天正9年から翌年の8月までは再び勝瑞城に居城しています。
 存保の父・之康は、「阿波国のやかた細川讃岐守持隆」を討って勝瑞城に居城し「義賢(よしかた)を称していました。「義賢」と「義堅」はともに「ヨシカタ」で音が通じます。十河一存は阿波国勝瑞城に入ってから「義堅」を名のったようです。そうだとすると、この文書は、天正6年から10年までの間のものになります。そして、この時期には、由佐氏は阿波の三好氏に従っていたことが分かります。また、十河氏と緊密な関係にあったこともうかがえます。
 文書の終わりの「東村備後守」は、この発給文書を持参して、文書の真意を伝えた人物のようです。
「東村備後守」は、『三好家成立之事』に次の2回登場します。
①中富川合戦で存保が討死になりそうになったときに、それを諫めて勝瑞へ引き取らせた「家臣」として
②『三好記』では同じときに「理ヲ尽シテ」諫めた「老功ノ兵」「家臣」として
天正11年(1583)3月に、「東村備後守政定」は「三木新左衛門尉通倫」と連署をなし、主人たる十河存保の命を施行しています。

この他に由佐家には、次のような長宗我部元親の感状が2通残されています。
由平□(籠?)三谷二構共□打破、敵数多被討取之由、近比之御機遣共候、尤書状を以可申候得共迎、使者可差越候間、先相心得可申候、弥々敵表之事差切被尽粉骨候之様二各相談肝要候、猶重而可申候、謹言
(天正十年)                   (長宗我部)元親判
十月十八日                 
小三郎殿
      「由佐長宗我部合戦記」(『香川叢書』)所収。
  意訳変換しておくと
先頃の三谷城(高松市三谷町)の攻城戦では、敵を数多く討取り、近来まれに見る活躍であった。よってその活躍ぶりの確認書状を遣わす。追って正式な使者を立てて恩賞を遣わすので心得るように。これからも合戦中には粉骨して務めることが肝要であると心得て、邁進すること。謹言

  感状とは、合戦の司令官が発給するものです。この場合は、長宗我部元親が直接に小三郎に発給しています。ここからは小三郎が、長宗我部元親の家臣として従っていたことが分かります。なおこの小三郎は、側近として元親近くに従い、長宗我部側と由佐氏を仲介し、由佐氏の軍役を保証する役を負う人物です。ここから小三郎が、もともとは由佐家出身で人質として長宗我部家に仕えた人物と研究者は推測します。
 この10月18日の感状からは、由佐氏が山田郡三谷城(高松市三谷町)攻めで勲功をあげていたこと、さらに土佐軍の軍事活動がわかります。つまり、この時点では由佐氏は、それまでの三好氏から長宗我部元親に鞍替えしていたことが分かります。長宗我部元親は、岡城(岡舘:香南町)攻撃のために弟を派遣したことは、前回にお話ししました。岡城と由佐城は目と鼻の先です。

岡舘跡・由佐城
岡城と由佐城
それまで使えてきた三好義堅(十河存保)が本城を落とされ、十河城に落ちのびてきています。十河城を囲むように土佐勢が西からと南から押し寄せてきます。由佐氏のとった行動は、その後の行動からうかがえます。
1ヶ月後に、由佐小三郎は、長宗我部元親から二枚目の感状を得ています。
長宗我部元親書状(折紙)
於坂本河原敵あまた討捕之、殊更貴辺分捕由、労武勇無是非候、近刻十河表可為出勢之条、猶以馳走肝要候、於趣者、同小三(小三郎)可申候、恐々謹言
    (長宗我部)元親(花押)
(天正十年)十一月十二日
油平(由佐)右 御宿所
  意訳変換しておくと
 この度の坂本河原での合戦では、敵をあまた討捕えた。その武勇ぶりはめざましいものであった。間近に迫った十河表(十河城)での攻城戦にも、引き続いて活躍することを期待する。恐々謹言

11月18日に、坂本川原(高松市十川東町坂本)で激戦があった際の軍功への感状です。戦いの後に引き上げた宿所に届けられています。この2つの感状からは高松市南部の十河城周辺で、戦闘が繰り返されていたことがうかがえます。

 先ほど見た「三好義堅知行宛行状」では、由佐氏は阿波の三好氏に従っていました。その由佐氏が、三好氏の勢力範囲である山田郡の三谷と坂本を攻めています。由佐氏の山田郡での「武勇」は長宗我部元親によって賞されています。この由佐氏の行動は元親からの命令によるもので、それを由佐氏が果たしたことに対する承認の感状と研究者は判断します。
 元親が「十河表」へ「出勢」したのは、天正10年8月の中富川合戦以後のことでした。
この時に元親は、弟の香宗我部親泰を「岡城」に配しています。「岡城」は、現在の高松空港の北側にあった岡舘跡です。そのすぐ近くに由佐城はありました。この時点で、由佐氏は土佐軍に下り、その配下に入ったようです。とすると、由佐氏に長宗我部元親から感状が出されたのは、ともに天正10年のことになります。由佐氏は、それまで仕えていた三好義堅が落ちのびた十河城の攻城戦にも、土佐軍に従って従軍したのでしょう。
 讃岐側の江戸時代になって書かれた南海通記などの軍記ものには、讃岐に侵攻してきた土佐軍に対して、讃岐の武士団が激しく抵抗した後に降ったと書かれることが多いようです。しかし、土佐側の資料に東讃の武将達が抵抗した痕跡は見えてきません。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年442P」

永正の錯乱以前に、讃岐国人は細川京兆家の繁栄のもとで四天王として勢力を振るってきました。それが永正の錯乱の結果、京兆家の弱体化と香西氏や両守護代の香川・安富氏の減亡により、以後権勢の座を畿内の国人や阿波の三好氏に譲ることになります。香西氏・安富氏など讃岐武士団の主導権は失われたのです。変わって、重要な役割を演じるようになるのが阿波三好氏です。そして、阿波三好氏は、永正の錯乱で敵対関係になった讃岐への侵攻を開始します。こうして讃岐の四天王は、没落し三好氏に従属していくことになります。その過程を押さえておきます。 テキストは「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」です

細川政元政権下で、香西氏と薬師寺氏が内衆の指導権を握ったのはいつでしょうか?
政元暗殺の首謀者である薬師寺長忠と香西元長の二人が京兆家の有力被官で構成される「内衆」の中で指導的立場を確立したのは、永正元年9月に起こった薬師寺元一の謀反の鎮圧によってです。そこに至る経過を見ておきましょう。
永世の錯乱 対立構図
文亀3年(1501)5月、政元は阿波守護細川慈雲院(成之)の孫六郎(のちの澄元)を養子に迎えます。これ以前に政元には後継者として養子に迎えていた前関白九条政基の子九郎(澄之)がいました。その背景を「細川両覆記」は、次のように記します。
この養子縁組は実子のいない政元が摂関家出身の九郎に代えて細川一門から養子を迎えた。ところが京兆家の家督を細川家一族に譲りたいと心変わりしたため、当時摂津守護代であった薬師寺与一が尽力して成立した。

「実隆公記」や「後法興院記」には次のように記します。
細川一門の上野治部少輔政誠や薬師寺与一らが政元の使節として阿波へ下向し、慈雲院に「京兆隠居、相続の事」を「相計ら」うよう伝えた。

   こうして、政元が二人の養子を迎えたことは、二人の後継者を作ってしまったことになります。当然、後継者をめぐって京兆家家臣団の分裂・抗争の激化を招くことになります。その動きのひとつが薬師寺元一の謀反です。謀反当時、摂津半国守護代であった薬師寺元一は、かつて安富元家とともに政元より京兆家の家政を委任された薬師寺備後守元長の長子です。また、政元暗殺の首謀者である薬師寺長忠はその弟になります。阿波守護細川家より六郎を養子として迎えたときの経緯から澄元を押す元一と、なかなか家督相続者を決定しない政元との関係は次第に険悪なものとなります。こうした中で細川政元は永正元年3月に、薬師寺元一の摂津守護代職を罷免しようとします。このときは、元一は将軍義澄の取り成しによりようやく摂津半国の守護代職を維持することができます。(「後法興院記」)。残りの半国守護代に弟の長忠が任命されたのもこの時のことと研究者は考えています。

 薬師寺元一の謀反発覚と鎮圧過程を年表化しておきます。
1504(永正元)年
9月4日、元一の弟で京兆家被官の寺町氏の養子となっていた又三郎の通知で謀反発覚。元一は、淀の藤岡城に籠城
  6日、上野政誠、上野元治・安富元治、内藤貞正らが元一方に味方した京都西岡衆を討伐
  9日、淀で合戦開始し、讃岐守護代の安富(元家)が討死
 17日 西岡衆を討伐した軍勢は、淀へ向かい翌日18日藤岡城を攻め落とし、元一を生捕り。
こうして元一の謀反は失敗に終わります。
薬師寺元一 2つ新
薬師寺元一の辞世の句

しかし、この反乱に加わった者達は広範に及んでいました。「宣胤卿記」の9月21日条には挙兵の失敗について、次のように記します。
元一成囚。去暁於京切腹云々〈十九歳〉。世間静読如夜之明云々。希代事也。同意〈前将軍方)畠山尾張守〈在紀州)。細川慈雲院(在阿波)等出張遅々故也。且又元一弟〈号与次、摂州半国守護代)為京方国勢属彼手故也。京方香西又六、契約半済於近郷之土民悉狩出、下京輩免地子皆出陣。以彼等責落云々。
意訳変換しておくと
薬師寺元一は虜となり、明朝に京で切腹となった。19歳であった。この蜂起については明応の政変で政元に幕府を逐われた前将軍義材派の前河内守護畠山尚順、阿波の澄元の祖父の慈雲院などがも、元一の呼びかけに応じて挙兵することになっていた。阿波からは三好氏が淡路へ侵攻し、紀州の畠山尚順は和泉を攻め上がってくる動きを見せたが、蜂起発覚で遅きに失した。兄元一を裏切った長忠は左衛門尉の官途を与えられ、摂津半国の守護代となった。こうして京の国勢は、薬師寺長忠と京方香西又六が握ることになった。

 この合戦でそれまでの有力者であった薬師寺元一・安富元家という二人の死去します。その結果、京兆家被官(内衆)の中で最大の勢力を持つようになったのが香西氏と薬師寺長忠でした。薬師寺元一の謀反制圧の最大の功労者である長忠と香西元長とが、後に政元暗殺と澄元追放の首謀者となったのは決して偶然ではないと研究者は指摘します。

この事件の結果、都での澄元派は没落します。
「後法興院記」によると、政元は翌2年3月から4月にかけて一ヶ月以上淡路に滞在しています。この淡路下向は阿波の慈雲院討伐の準備のためだったようです。ところが、政元軍の淡路侵攻は見事に失敗してしまいます。
「後法興院記」の5月29日条には次のように記します。
伝え聞く。讃岐え進発の諸勢(淡路・上野・安富・香川)、敵御方数百人誅貌せらると云々ここれに依りまず引き退くと云々。淡路出陣の留守に三吉夜中推し寄せ館に放火すと云々。
意訳変換しておくと
淡路より讃岐へ侵攻した淡路守護家の淡路守尚春・上野玄蕃頭元治・安富元治・香川満景らの軍勢は返討ちに遭い。数百人の敗死者を出して撤退した。その上、守護の留守を狙って三好氏が淡路侵攻し守護の館を焼き討ちしたと伝え聞いた。

ここには、「讃岐え進発の諸勢(淡路・上野・安富・香川)」とあります。逆に見ると、この時点で讃岐は阿波勢の侵攻を受けて占領下にあったことがうかがえます。この敗戦後に、政元は阿波の慈雲院との和睦を図ります。「細川両家記」は永正2年の夏のころ、薬師寺長忠が澄元を京都に迎えるため阿波へ下向したと記します。和解に向けた事前交渉のようです。
  また、「大乗院自社雑事記」や「多聞院日記」には、6月10日ころ、かつて元一とともに謀反を起こした赤沢宗益が政元から赦されています。ここからは6月ころには、政元はそれまでの阿波の慈雲院との敵対関係を止めて、融和策に転じたことがうかがえます。

 これを受けて翌3年2月19日、まず三好之長が上洛します(「多間院日記」)。続いて4月21日には澄元の上洛が実現します。澄元が宿所としたのは「安富旧宅」で、故筑後守元家邸です。「多聞院日記」の5月5日条には、「阿波慈雲院子息六郎殿、細川家督として上洛す。」とあります。澄元は京兆家の家督として迎えられたことが分かります。
この間の事情について「細川両家記」は、次のように記します。

御約束の事なれば澄元御上洛。御供には三好筑前守之長、高畠与三等を召させ給ひ御上洛有ければ、京童ども是を見て、是こそ細川のニツにならんずるもとゐぞとさゝめごと申ける。さる程に九郎殿へ丹波国をまいらせられて、かの国へ下し中されければ、弥むねんに思食ける。
  意訳変換しておくと
約束したことなので澄元は上洛した。御供には三好筑前守之長、高畠与三等を従って御上洛した。これを京童が見て「これで細川氏はまっぷたつ分裂してしまう」とささやき合った。そして九郎殿(澄之)には丹波国への下向を命じた。これは澄之にとっては、さぞ無念なことであったろう。

政元は、阿波守護家との和睦を第一に考え、澄元を京兆家の家督にすえたようです。そして、澄之を丹波に下向させました。それまでの家督候補者であった澄之と彼の擁立を目指していた薬師寺長忠・香西元長らにとっては、政元のこの決断はとうてい受け入れがたいものであったはずです。ここに、政元暗殺の直接的な原因があると研究者は指摘します。
永正の錯乱前の讃岐の情勢は、どうだったのでしょうか?
永正3年10月12日、阿波の三好之長は、香川中務丞(元綱)の知行地讃岐国西方元山(現在の三豊郡本山町付近)と本領を返還するよう三好越前守と篠原右京進へ命じています。(石清水文書)。この時期は政元と阿波守護細川家との間で和睦が成立した時期です。その証として澄元が都に迎えられたのが、この年4月のことです。三好之長から香川中務丞に対して本領が返還されたのは、その和解の結果と研究者は推測します。つまり、政元と阿波守護家とが対立していた期間に讃岐国は阿波細川家の軍勢による侵攻を受け、守護代家の香川氏の本領が阿波勢力によって没収されていたことを示すというのです。これを裏付ける史料を見ておきましょう。
 永正2年4月~5月に、淡路守護家や香川・安富両氏などに率いられた軍勢が讃岐国へ攻め入っています。
当時の讃岐は、安富氏が讃岐の東半部を、香川氏が西半部を管轄する体制でした。讃岐の守護代である香川・安富氏がどうして讃岐に侵攻するのでしょうか。それは軍事行動は讃岐が他国の敵対勢力に制圧されていたことを意味すると研究者は指摘します。このときの敵対勢力とは、誰でしょか。それは阿波三好氏のようです。
  「大乗院寺社雑事記」の明応4年(1495)3月1日には、次のように記されています。
讃岐国蜂起之間、ムレ(牟礼)父子遣之処、両人共二責殺之。於千今安富可罷下云々。大儀出来。ムレ兄弟於讃岐責殺之。安富可罷立旨申之処、屋形来秋可下向、其間可相待云々。安富腹立、此上者守護代可辞申云々。国儀者以外事也云々。ムレ子息ハ在京無相違、父自害、伯父両人也云々。

意訳変換しておくと
讃岐国で蜂起が起こった時に、京兆家被官の牟礼氏を鎮圧のために派遣したが、逆に両人ともに討たれてしまった。そこで、守護代である安富元家が下向しようとしたところ、来秋下向する予定の主人政元にそれまで待つよう制止された。その指示に対して安富元家は、怒って守護代を辞任する意向を示した。

この記事からも明応4年2月から3月はじめにかけてのころ、安富氏の支配する東讃地方も「蜂起」が起こって、敵対勢力に軍事占領されたいたことがうかがえます。
管領細川家とその一族 - 探検!日本の歴史

このころ四国では何が起こっていたのでしょうか。阿波守護細川家の動きを追ってみよう。
明応3年11月27日、阿波守護細川⑦義春(慈雲院の子)は本国の阿波へ下向します。「後慈眼院殿御記」の11月28日・同31日条には、次のように記されています。
昨日讃岐守(義春)下国、不知子細云々。先備前可着小島也。其後可向讃州(慈雲院)云々。当国(山城)守護職相論之事、伊勢備中守復理之間、南都等路次静誌耳。一説.讃岐守下国。之与義材卿依同意、先趣四州云々。

他の関係史料も、義春は山城守護職就任を望んでいたが、将軍義澄に受け入れられなかったことをを恨み、阿波へ下ったことが記されています。義澄に対する反発から、義春は明応の政変で失脚した前将軍義材側についたのです。それは、義材を幕府から放逐した政元に背くことになります。
この結果、政元の守護分国である讃岐と阿波守護家の分国である阿波との間に軍事緊張関係が生まれたと研究者は判断します。
義春自身は、阿波帰国後まもなく12月21日に死去します。しかし、その遺志は父慈雲院(細川成之)が引き継ぎます。翌年春の讃岐での軍事衝突、永世元年の薬師寺与一の謀反への同意もその結果と考えられます。

徳島市立徳島城博物館(公式) on Twitter: "俗に「阿波の法隆寺」とも呼ばれる丈六寺 「徳島のたから」展では「絹本著色 細川成之像」を特別出品✨  応仁・文明の乱をのりこえ、阿波守護をつとめた細川成之は丈六寺を厚く保護します 徳島県内の肖像画では唯一の重要文化財 ...
永正8年9月12日、慈雲院(成之)は78歳で亡くなります。
「丈六寺開山金岡大禅師法語」には、次のように記されています。
「二州(阿波・讃岐)の伊を司どる。」
「門閥二州の都督に備う。」
「二州の釣軸(大臣の意)」
二州とは、阿波と讃岐のことです。ここには当時の人達が慈雲院が阿波・讃岐両国の実質的な守護であったと当時の人達が認識していたことが分かります。この時期に、讃岐は阿波細川氏の侵攻を受けて占領下に置かれたのです。
丈六寺 - Wikipedia
      慈雲院(細川成之)が保護した丈六寺(徳島市)
以上をまとめておきます。

①1493年(明応2)年 明応の政変で細川政元が足利義材を追放=足利義澄の将軍就任
②1501(文亀3)年5月、細川政元が阿波守護細川慈雲院(成之)の孫澄元)を養子に迎える。
③1504(永正元)年9月4日、薬師寺元一のクーデター謀反発覚と失脚 → 香西氏の権勢
④1505(永世2)年春 細川政元の淡路滞在、淡路守護家や香川・安富両氏などに率いられた          軍勢が讃岐国へ攻め入り敗北。
④1505(永正2)年夏頃、細川政元が阿波細川氏と和解 阿波の細川澄元を後継者に指名
⑤1506(永正3)年 阿波の三好之長が、香川中務丞(元綱)の知行地讃岐国西方元山(現三豊市本山町)と本領を返還するよう三好越前守と篠原右京進へ命じる。(石清水文書)。これは、阿波占領下にあった土地が和解によって返却されたもの。

⑥1507(永正4)年6月23日夜、細川政元が家臣によって暗殺される。
⑦1508(永正5)年4月9日、澄元と之長は自邸に放火して江州へ脱出=澄元政権の崩壊
⑧1511(永正8)年9月12日、慈雲院成之没(78歳)「二州(阿波・讃岐)の伊を司どる。」、
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 永正の錯乱については以前にお話ししましたが、それが讃岐武士団にどんな結果や影響をもたらしたかに焦点を絞って、もういちど見ていくことにします。テキストは「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」です。

永世の錯乱1
永正4年(1507)6月23日の夜、管領・細川右京大夫政元は被官の竹田孫七・福井四郎,新名らに殺害されます。この暗殺について「細川両家記」は、次のように記します。
此たくみは薬師寺三郎左衛門(長忠)、香西又六兄弟談合して、丹波におわす九郎殿御代にたて、天下を我まヽにふるまふべきたくみにより、彼二人を相かたらひ政元を誅し申也

意訳変換しておくと
「この企みは此たくみは薬師寺三郎左衛門、香西又六兄弟が談合して、丹波にいた九郎殿御代を細川家棟梁の管領にたて、天下を思うままに動かそうとする企みで、彼二人が密議して主君政元を謀殺したものである」

ここには、政元の有力被官である摂津守護代の薬師寺長忠と山城守護代の香西又六元長らが謀ったものとあります。その目的は実子のいない政元の養子2人のうち、前関白九条政基の子九郎澄之を細川京兆家の家督に擁立し、そのもとで彼らが専権を振るうことにあったというのです。その目的を果たすためには、政元のほかにもう一人の養子である阿波守護細川家出身の六郎澄元をのぞく必要があります。政元殺害の翌日には、香西氏を中心とする軍勢が澄元邸を襲撃します。この合戦は昼より夕刻まで続きますが、澄元は阿波守護家の有力被官三好之長に守られて江州甲賀へ脱出します。このときの合戦では、香西又六元長の弟孫六・彦六が討ち死にします。
永世の錯乱 対立構図
この事件の見聞を記した「宣胤卿記」の永正4年6月24日条には、次のように記します。
去る夜半、細川右京大夫源政元朝臣(四十二歳)。」天下無双之権威.丹波・摂津。大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護也。〉為被官(竹田孫七〉被殺害.京中騒動。今日午刻彼被官(山城守護代)香西又六。同孫六・彦六・兄弟三人、自嵯峨率数千人、押寄細川六郎澄元(政元朝臣養子)相続分也。十九歳.去年自阿波上。在所(将軍家北隣也)終日合戦。中斜六郎敗北、在所放火。香西彦六討死、同孫六翌日(廿五日)死去云々。六郎。同被官三好(自阿波六郎召具。棟梁也。実名之長。)落所江州甲賀郡.憑国人云々。今度之子細者、九郎澄之(自六郎前政元朝臣養子也。実父前関白准后政元公御子。十九歳。)依家督相続違変之遺恨。相語被官。令殺養父。香西同心之儀云々。言語道断事也。
  意訳変換しておくと
  細川政元(四十二歳)は、天下無双の権威で、丹波・摂津・大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護であったが夜半に、被官竹田孫七によって殺害せれた。京中が大騒ぎである。今日の午後には、政元の被官である山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人が、嵯峨より数千人を率いて、細川六郎澄元(政元の養子で後継者19歳。去年阿波より上洛し。将軍家北隣に居住)を襲撃し、終日戦闘となった。六郎は敗北し、放火した。香西彦六も討死、孫六も翌日25日に死去したと伝えられる。六郎(澄元)は被官三好(之長)が阿波より付いてきて保護していた。この人物は三好の棟梁で、実名之長である。之長の機転で、伊賀の甲賀郡に落ちのびた。国人を憑むと云々。

 澄之は六郎(澄元)以前の政元の養子で後継者候補であった。実父は前関白准后(九条)政基公御子である。家督相続の遺恨から、香西氏などの被官たちが相語らって、養父を殺害した。香西氏もそれに乗ったようだ。言語道断の事である。
 
 7月8日には、丹後の一色氏討伐のため丹波に下っていた澄之が上洛してきます。そして将軍足利義澄より京兆家の家督相続を認められます。翌々日10日には政元の葬礼が行われています。この時点では、政元の養子となっていた細川高国をはじめ細川一門は、京兆家被官による主人政元の暗殺と養嗣子澄元の追放を傍観していました。しかし、それは容認していたわけではなく、介入の機会を準備していたようです。8月1日になると、典厩家の右馬助政賢、野州家の民部少輔高国、淡路守護家の淡路守尚春らが澄之の居所遊初軒を襲撃します。その事情を「宣胤卿記」8月1日条は、次のように記します。
早旦京中物忽。於上辺已有合戦云々。巷説未分明。遣人令見之処、細川一家右馬助。同民部少輔・淡路守護等、押寄九郎(細川家督也。〉在所(大樹御在所之北、上京無小路之名所也。〉云々。(中略)
九郎(澄之。十九歳。)己切腹。(山城守護代)香西又六。(同弟僧真珠院)。(摂州守護代)薬師寺三郎左衛門尉。(讃岐守護代)香川。安富等、為九郎方討死云々。此子細者、細川六郎、去六月廿四日。為香西没落相語江州之悪党、近日可責上之由、有沙汰。京中持隠資財令右往左往之間、一家之輩、以前見外所之間、我身存可及大事之由、上洛己前致忠為補咎也。然間京都半時落居。諸人安堵只此事也。上辺悉可放火欺之由、兼日沙汰之処、九郎在所(寺也)。香西又六所等、焼失許也。
意訳変換しておくと
  8月1日早朝、京中が騒然とする。上辺で合戦があったという。巷に流れる噂話では分からないので、人を遣って調べたところ、以下のように報告を受けた。細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督たちが在所大樹御在所の北、上京小路の名なき所に集結し、細川澄之と香西氏の舘を襲撃した。(中略)九郎澄之(十九歳)は、すでに切腹。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等など、九郎澄之方の主立った者が討死したという。

 ここには、細川一門が澄之やその取り巻き勢力を攻撃した理由を、その追放を傍観した澄元が勢力を蓄え、江州より上洛するとのことで、それ以前に澄之派を討伐しみずからの保身を図るためとしています。この時に、澄之派として滅亡したのが、山城守護代の香西元長、摂津守護代の薬師寺長忠、讃岐守護代の香川満景・安富元治などです。永世の錯乱が讃岐武士団も墓場といわれる由縁です。
 翌2日の夜になると、澄元は細川一門に迎えられ5万人と伝えられる軍勢を率いて入京します。即日将軍義澄より京兆家の家督を認められています。8月7日には、右馬頭政賢が澄元の代官として、澄元をのぞく敵方の香西・薬師寺・香川。安富ら41人の首実検を行っています。このような混乱を経て澄元政権は成立します。


 ところが、この政権は成立の当初より不安定要素がありました。
それは阿波細川守護家の重臣で澄元を補佐していた三好之長の存在です。彼の横暴さは都で知れ渡っていたようです。澄元政権下で三好之長と反目した京兆家被官たちは、細川一門の領袖である高国を担ぐようになります。こうして高国は澄元を見限って、政元と対立していた中国の大大名大内義興と連携を計ります。そして政元が明応2年(1493)の明応の政変で将軍職を剥奪した前将軍の足利義材を擁立します。永正5年4月9日、澄元と之長は自邸に放火して江州へ脱出します。澄元政権の崩壊です。つづいて、16日には前将軍義材の堺到着が伝わる騒然とした状況のもとで将軍義澄もまた江州坂本へ逃れます。
この政元暗殺に始まり、澄元政権の瓦解にいたる一連の事件を永正の錯乱と呼びます。
この乱の結果、京兆家の家督は澄元系と高国系とに分裂します。
そして両者は、細川右京大夫を名乗り互いに抗争を繰り返すことになります。これを「細川両家記」には「細川のながれふたつになる」と記します。 今回はここまにします。次回は永正の錯乱を、讃岐との関わりから見ていくことにします。

永世の錯乱3
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」

   南海治乱記と南海通記
『南海治乱記』『南海通記』は、香西氏の流れを汲む香西成資が、その一族顕彰のために書かれた記物風の編纂書です。同時に道徳書だと研究者は評します。この両書はベストセラーとして後世に大きな影響を与えています。戦後に書かれた市町村史も戦国時代の記述は、南海通記に頼っているものが多いようです。しかし、研究が進むにつれて、記述に対する問題がいろいろなところから指摘されるようになっています。今回は「香川民部少輔」について見ていくことにします。
テキストは「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」です。
  西讃の守護代は多度津に館を置き、その背後の天霧山に山城を構えたとされます。香川氏のことについては以前にもお話しした通り、今に伝わる系図と資料に出てくる人物が合いません。つまり、史料としてはそのままは使えない系図です。
そのような中で、南海通記は香川氏の一族として阿野郡西庄城(坂出市)に拠点を置いた「香川民部少輔」がいたと記します。
香西成資が「香川民部少輔伝」について記している部分を一覧表化したものを見ておきましょう。
香川民部少輔伝
香川民部少輔伝(南海通記)
香川民部少輔は永正の政変(政元暗殺)以降の初代讃岐守護代香川氏の弟であるようです。彼が西庄を得たことについては、表番号①に永正4(1507)年の政変(政元謀殺)の功によって、細川澄元から西庄城を賜うと記します。しかし、永世の政変については以前にお話ししたように、政情がめまぐるしく移りかわります。そして、細川氏の四天皇とされる香西氏や香川氏の棟梁たちも京都在留し、戦乱の中で討ち死にしています。ここで香西氏や香川氏には系図的な断絶があると研究者は考えています。どちらにして、棟梁を失った一族の間で後継者や相続などをめぐって、讃岐本国でも混乱がおきたことが予想されます。これが讃岐に他国よりもはやく戦国時代をもたらしたといわれる由縁です。そのような中で「細川澄元から西庄城を賜う」が本当に行われたのかどうかはよくわかりません。またそれを裏付ける史料もありません。
表番号2には、香西氏傘下として従軍しています。
そして、阿波の細川晴元配下で各方面に従軍しています。表番号6からは、香西氏配下として同族の天霧城の香川氏を攻める軍陣に参加しています。これをどう考えればいいのでしょうか。本家筋の守護代香川氏に対して、同族意識すらなかったことになります。このように香川民部少輔の行動は、南海通記には香西氏の与力的存在として記されていることを押さえておきます。
最大の疑問は、香川氏の有力枝族が阿野郡西庄周辺に勢力を構えることができたのかということです。
これに対して南海通記巻十九の末尾に、香西成資は次のように記します。
「綾南北香河東西四郡は香西氏旗頭なるに、香川氏北条に居住の事、後人の不審なきにしも非ず、我其聴所を記して後年に遺す。世換り時移て事の跡を失ひ、かかる所以を知る人鮮かられ歎、荀も故実を好む人ありて、是を採る事あらば実に予が幸ならん、故に記して以故郷に送る。」
  意訳変換しておくと
「綾南・北香河・東西四郡は香西氏が旗頭となっているのに、香川氏が北条に居住するという。これは後世の人が不審に思うのも当然である。ここでは伝聞先を記して後年に遺すことにしたい。時代が移り、事績が失われ、このことについて知る人が少なくなり、記憶も薄れていくおそれもある。故実を好む人もあり、残した史料が参考になることもあろう。そうならば私にとっては実に幸なことである。それを願って、記して故郷に送ることにする。」

ここからは香西成資自身も香川氏が阿野郡の西庄城を居城としていたことについては、不審を抱いていたことがうかがえます。南海通記は故老の聞き取りをまとめたとするスタイルで記述されています。しかし「是を採る事あらば実に予が幸ならん」という言葉には、なにか胡散臭さと、香川民部少輔についての「意図」がうかがえると研究者は考えています。

香川民部少輔の年齢と、その継嗣について
南海通記には、香川民部少輔が讃岐阿野北条郡西庄城を与えられたのは、永正4年(1507)と記します。そして彼の生存の最終年紀は、表21・22の天正11年(1583)、天正15年(1587)とされます。そうすると香川民部少輔は、76年以上も讃岐に在国したことになります。西庄城を賜って讃岐へ下国した時が青年であったとしても、齢90歳の長寿だったことになります。この年齢まで現役で合戦に出陣できたととは思え得ません。『新修香川県史』では、数代続いたものが「香川民部少輔」として記されていると考えています。おなじ官途名「民部少輔」を称した西庄城主香川氏が、2~3代継承されたとしておきます。

香川民部少輔は、いつ西庄城に入城したのか、その経過は?
南海通記には香川民部少輔は、香川肥前守元明の第2子と記します。長子は、香川兵部大輔と記される香川元光とします。元光は、讃岐西方守護代とされていますが、文献的に名跡確認はされていません。また、父元光も細川勝元の股肱の四臣(四天王)と記されていますが、これも史料上で確認することはできません。ちなみに、四天王の他の三人は、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安ですが、このうち文献上にも登場するのは、香西氏と安富氏です。奈良氏も、史料的には出てきません。なお、同時代の香川氏には、備後守と肥後守がいて、史料的にも確認できるようです。

もともと香西(上香西氏)元直の所領であった西庄を誰から受領したのか?
第1候補者は、阿波屋形の影響力が強い時期なので、細川澄之の自殺後に京兆家の跡を継いだ澄元が考えられます。時の実権者は、澄元の実家である阿波屋形の阿波守護細川讃岐守成之が考えられます。しかし、讃岐阿野郡北条の地を香川氏一族に渡すのを香西氏ら讃岐藤原氏一門が黙って認めたのでしょうか。それは現実的ではありません。もしあったとしても、名目だけの充いだった可能性を研究者は推測します。
三好実休の天霧城攻めについて
今まで定説化されてきた三好実休による天霧城攻めについては、新史料から次の2点が明らかになっています。ことは以前にお話ししました。
①天霧城攻防戦は、永禄元年(1558)のことではなく永禄6年(1563)のことであること。1558年には実休は畿内で合戦中だったことが史料で確認されました。実休配下の篠原長房も畿内に従軍しています。永禄元年に、実休が大軍を率いて讃岐にやってくる余裕はないようです。
②永正3~4年(1506~07)年に天霧城周辺各所で小競り合いが発生していることが「秋山文書」から見えることは以前にお話ししました。

西庄城主の香川民部少輔は、天霧城の本家香川氏を攻めたのか?


表番号6には、香川民部少輔が三好実休に従軍して天霧城を攻めたとあります。これは、南海通記以外の史料には出てきません。永正4年の政変では、讃岐守護代であった香川某が京都で討死にしています。南海通記は、民部少輔の兄香川元光が変後の香川守護代になったとします。確かに、香川某の跡を香川氏一族の中から後継者が出て、讃岐西方守護代に就任していることは、永正7年(1510)の香川五郎次郎以降の徴証があります。そうだとすると、守護代香川氏と民部少輔は、兄弟ということになります。永正4年(1507)以後に、守護代が代替わりしたとしても甥と叔父の近親関係です。非常に近い血縁関係にある香川氏同士が争う理由が見当たりません。香川民部少輔による天霧城攻めは現実的ではないと研究者は考えています。そうすると表番号6の実休の天霧城(香川本家)攻防戦には虚構の疑いがあることになります。
香川民部少輔伝2

元亀2年・(1571)の阿波・讃岐連合の四国勢と毛利勢による備前児島合戦は?
この時の備中出兵も阿野郡北条から出撃ではなく宇多津からです。讃岐に伝わる多くの歴史編纂物は、この合戦に参加した武将に香川民部西庄城主を挙げます。それに対して南海通記は、表番号7~9項のように、香川民部少輔が香西氏らの讃岐諸将に包囲されていると伝えます。ここにも大きな違いがあります。
 さらには1571年中に毛利氏支援によって、香川民部少輔が西庄城帰還に成功したとします。しかし、この時点ではまだ毛利氏には備讃瀬戸地域の海上覇権を手に入れる必要性がありません。未だ足固めができていない状況で讃岐への遠征は無理です。南海通記は「讃岐勢によって西庄城が攻められ香川民部少輔は、開城して落ち延びた」としますが、これは天霧城攻防戦と混同している可能性があります。天霧城落城後に香川某も毛利氏を頼って安芸に亡命しています。

香川民部少輔の西庄城開城と元吉合戦の関連について
表番号15・16と20・21を見ると、香川民部少輔は居城である西庄城を都合4度開城して攻城側に引渡しています。このうち、表15・16と20・21は伝承年紀の誤りで、1回の同じことを2回とカウントしていることがうかがえます。また、過去に毛利氏に援護されて帰城できたことへの恩義のことと自尊心から長宗我部元親への寝返りを拒否したと南海通記は記します。これはいかにも道徳的であり、著者の香西成資の好みそうな内容です。 

順番が前後しますが最後に、元亀年中の表7~11項です。
これは天正5年の元吉合戦の混同(作為)だと研究者達は考えています。香川某の毛利方への退避・亡命は事実のようです。これに対して、香川民部少輔の動きが不整合です。
以上のように南海通記で奈良氏や香西方の旗下武将として描かれていますが、これ著者の香西成資の祖先びいきからくる作為があるというのです。実際は、戦国大名へと歩みはじめた香川氏と阿波三好勢力下でそれを阻止しようとする香西・奈良氏などの抗争が背景にあること。さらに元吉合戦については、発掘調査から元吉城が櫛梨城であると多くの研究者が考えるようになりました。つまり、香川本家の天霧城をめぐるエピソードを西庄城と混同させる作為があること。そして、西庄城を拠点とするさらに香川民部少輔が香西氏傘下にあったことを示すことで、香西氏の勢力を誇張しようととする作為が感じられるということのようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」
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   長宗我部元親の四国平定の最終段階で、秀吉が小豆島を拠点に介入してきたことについては以前にお話ししました。しかし、長宗我部元親の東讃地域制圧がどのように行われたかについては具体的なことは触れていませんでした。今回は元親の東讃制圧がどのような経過で進められたのかを見ていくことにします。テキストは「田中健二 長宗我部元親の東讃侵攻と諸城主の動向   中世城郭分布調査報告430P」です。
讃岐戦国史年表3 1580年代
1582年前後の讃岐の動き
1582(天正10)年6月、織田信長が本能寺の変で倒れます。
これを見て、対立関係に転じていた長宗我部元親は、好機到来と阿波・讃岐両国へ兵を進めます。7月20日には、讃岐・伊予・土佐の長宗我部方の軍勢が、西讃の戦略拠点である西長尾城(まんのう町長尾)に集結します。この編成を「南海通記」や「元親一代記」などの軍記物は次のように記します。
総大将は元親の二男で天霧城城主香川信景の養子となった五郎次郎親和
土佐勢 大西上野介、中内源兵衛、国吉三郎兵衛、入交蔵人、谷忠兵衛
伊予勢 馬立中務大輔、新居、前川、曾我部、金子、石川、妻取采女
讃岐勢 香川信景、長尾大隅守、羽床伊豆守、新名内膳亮
総勢1、2万人とします。これらの軍勢は「元親一代記」などの軍記物では「西衆」と呼ばれています。年表化しておくと
7月23日、軍律を定め、長尾大隅守・羽床伊豆守を先導として那珂・鵜足両郡へ出陣
8月 3日 讃岐国分寺へ進み本営設置。
   6日 香西郡勝賀城の城主香西伊賀守が降参し、その兵も西衆に従軍。
  11日 国分寺を立った西衆は阿波三好方の最大の拠点である山田郡十河城へ進軍。
長宗我部元親讃岐侵攻図
長宗我部元親の讃岐侵攻図

一方、長宗我部元親が率いる本隊は、岡豊城を出陣して阿波への侵攻を開始します。
土佐勢は阿波上郡(美馬・三好両郡)と南方(那賀・海部両郡)へと二手に分かれて2万余の軍勢が三好氏の拠点を攻めます。元親の率いる本隊は、8月26日には一宮城(徳島市一宮町)を落とし、三好氏の本拠勝瑞城(藍住町)を目指して北進します。

勝瑞城
勝瑞城
このときの勝瑞城の城主は、三好政康(十河存保)でした。政康は阿波三好氏の義賢(実休)の子で、叔父十河一存の養子となっていました。それが天正5年、兄長治が自害した後は三好氏の家督を継いでいました。「土佐物語」には、政康は長宗我部氏による阿波侵攻に備えるために、8月初めに讃岐高松の十河城より急遽勝瑞城へ移ったと記します。8月28日、三好政康は勝瑞城近くの中富川において元親軍と戦います。その戦いを「阿波物語」に記されていることを意訳要約すると次のようになります。

この合戦において三好政康の率いる阿波勢はわずかに3000余人で、土佐の大軍に踏みにじられてしまった。敗れた政康は残兵とともに勝瑞城に立て籠もったが、9月に入ると水害に襲われ、下郡(吉野川中・下流域)一帯が海と化し、城も孤立した。そこで21日、政康は今後は、元親に敵対することは決してしないとの起請文を捧げて勝瑞城を退去し、讃岐へ逃れた。

脇町岩倉城
岩倉城(阿波脇町)
勝瑞城落城の前日に美馬郡の岩倉城(脇町岩倉)も土佐勢の別動隊に攻め落とされています。
城主は「元親記」には三好式部少輔、「土佐物語」には三好山城守とあります。元親は同城を一族の掃部助に預けます。岩倉城は阿讃山脈を越えるための重要な交通路である曾江谷越の阿波側の入口にありました。東を流れる曾江谷川をさかのぼれば、阿波・讃岐を結ぶ曾江谷越(清水峠)です。この峠からは、香川・山田・三木・寒川・大内の5郡へ通じる道が続きます。戦略的な要衝にもなります。

長宗我部元親侵攻図

 土佐軍に鳴門海峡を経て船で兵を送ると云うことは考えられなかったのでしょうか?
  長宗我部軍が水軍らしい船団を保持していたことは史料には出てきません。また、勝瑞城を包囲していた元親軍は、坂東郡木津城(鳴門市撫養)の城主篠原白遁に対して讃岐の三木郡のほか1郡を与えることを条件に調略を進めていたことが「土佐国壼簡集」所収文書)からはうかがえます。しかし、それには城主は応じなかったようです。天正11年の高野山僧快春書状(「香宗我部家伝證文」所収文書)では、5月21日に元親の弟で淡路攻めを担当していた香宗我部親泰が木津城を攻め落としています。それまでは木津城を拠点にして撫養海域は、三好方の制海権上にあったため、土佐軍が鳴門海峡を通過して讃岐へ侵攻することはできなかったようです。そのために脇町の曾江谷越を選んだのであり、その確保のためには岩倉城を手中|こ収める必要があったようです。

虎丸城

勝瑞城を退去した三好政康は、一旦、大内郡虎丸城に入り、ついで十河城へ移ります。
当時、虎丸城には三好方の安富肥前守盛方がいて、寒川郡雨滝城(さぬき市大川・津田・寒川)を家臣六車宗湛に守らせていました。政康が虎丸条に入ると彼は雨滝城へ帰り、その十河城への移動後は同族の安富玄蕃允が虎丸城を守ったと「十河物語」は記します。

十河城周辺の山城分布図
三好氏が最後の拠点とした十河城と周辺山城

10月中旬になると、阿波を平定した長宗我部元親元親は、岩倉から曾江谷越を経て讃岐へ入り、十河城を包囲していた西衆と合流します。その軍勢は併せて、3,6万ほどに膨れあがったとされます。
この時に元親軍として活躍した由佐家には、次のような長宗我部元親の感状が残されています。
由平、行以三谷二構兵候を打破、敵数多被討取之由、近比之御機遣共候、尤書状を以可申候得共迎、使者可差越候間、先相心得可申候、弥々敵表之事差切被尽粉骨候之様二各相談肝要候、猶重而可申候、謹言
(天正十年)                   (長宗我部)元親判
十月十八日                 
小三郎殿
      「由佐長宗我部合戦記」(『香川叢書』)所収。
意訳変換しておくと
先頃の三谷城(高松市三谷町)の攻城戦では、敵を数多く討取り、近来まれに見る活躍であった。よってその活躍ぶりの確認書状を遣わす。追って正式な使者を立てて恩賞を遣わすので心得るように。これからも合戦中には粉骨して務めることが肝要であると心得て、邁進すること。謹言

  感状とは、合戦の司令官が発給するものです。この場合は、長宗我部元親が直接に由佐小三郎に発給しています。ここからは小三郎が、長宗我部元親の家臣として従っていたことが分かります。
 この10月18日の感状からは、由佐氏が山田郡三谷城(高松市三谷町)攻めで勲功をあげていたこととともに、土佐軍の軍事活動がわかります。その1ヶ月後に、由佐小三郎は、二枚目の感状を得ています
長宗我部元親書状(折紙)
坂本河原敵あまた討捕之、殊更貴辺分捕由、労武勇無是非候、近刻十河表可為出勢之条、猶以馳走肝要候、於趣者、同小三可申候、恐々謹言
    (長宗我部)元親(花押)
(天正十年)十一月十二日
油平右 御宿所
  意訳変換しておくと
 この度の坂本河原での合戦では、敵をあまた討捕えた。その武勇ぶりはめざましいものであった。間近に迫った十河表(十河城)での攻城戦にも、引き続いて活躍することを期待する。恐々謹言

11月18日に、坂本川原(高松市十川東町坂本)で激戦があった際の軍功への感状です。戦いの後に引き上げた宿所に届けられています。この2つの感状からは高松市南部の十河城周辺で、戦闘が繰り返されていたことがうかがえます。

DSC05358十川城
十河城縄張り図

 さらに「讃陽古城記」には、十河氏一族の三谷氏の出羽城や田井城、由良氏の由良山城(由良町)なども長宗我部軍に攻略されたとあります。山田郡坂本郷に当たる坂本は、当時の幹線道路である南海道が春日川を渡る地点で、十河城の防衛上、重要な地点でした。到着した元親は、すぐに、十河城を攻撃して、堀一重の裸城にしています。そして、三木郡平木に付城を造営して、讃岐・伊予の武士を配置し、「封鎖ライン」を張ります。三木町平木にある平木城跡は、南海道のすぐそばです。南方の十河城の動きを監視しながら、補給を絶つという役割を果たすには絶好の位置になります。十河城に対する備えを終えた元親は、屋島・八栗などの源平の名勝地を遊覧する余裕ぶりです。そして、力押しすることなく、包囲陣を敷いて冬がやってくると土佐に帰っていきます。

十河城跡

 翌年1583年の春、4月になると元親は讃岐平定の最後の仕上げに向けて動き始めます。
この時の讃岐進行ルートは大窪越から寒川郡へ入り、大内・寒川両郡境の田面峠に陣を敷きます。これに先立つ2月28日の香川信景書状や3月2日の元親書状(いずれも秋山家文書)には、西讃三野の秋山木工進が天霧城主の香川信景の配下に属し、寒川郡の石田城攻めに参加し、感状を受けています。
DSC05330虎丸条
虎丸城縄張図
石田東に広大な城跡を残す石田城は南海道を見下ろす所にあり、北方に三好方の拠点雨滝城、東方に虎丸城が望めます。元親が出陣してくる以前から元親に下った讃岐衆によって石田城攻めが行われていたことが分かります。

田面峠

なぜ、元親は本陣を大内・寒川郡境の田面峠に置いたのでしょうか。
それは、大内・寒川両郡にある三好方の拠点、虎丸城と雨滝城の分断と各個撃破だと研究者は考えています。
 4月21日、戦いの準備が整う中で、大内郡の入野(大内町丹生)で、突発的に戦闘が始まります。この時の香川信景の山地氏への感状です。
 去廿一日於入野庄合戦、首一ッ討捕、無比類働神妙候、猶可抽粉骨者也
  天正十一年五月二日      
                 (香川)信景
山地九郎左衛門殿
意訳変換しておくと
 先月の21日(大内郡)入野庄で合戦となった際に、首一ッを討とった。比類ない働きは、真に神妙である。これからも粉骨邁進するべし
  天正十一年五月二日               (「諸名将古案」所収文書)
これは大内郡入野庄の合戦での山路九郎左衛門の働きを賞した香川信景の感状です。当時の情勢は、長宗我部元親は阿波から大窪越えをして寒川郡に入り、田面峠に陣を敷きます。入野は田面峠から東へ少し下った所になります。長宗我部勢は十河勢の援軍として引田浦にいた秀吉軍を攻めたようです。この入野での戦いで、長宗我部勢の先兵であった香川氏の軍の中に山路氏がいて、敵方の田村志摩守の首を取ったようです。その際の感状です。
  ここからは天霧城主の香川氏が長宗我部元親に下り、その先兵として東讃侵攻の務めを果たす姿が見えて来ます。そして、香川氏の家臣山路氏の姿も見えます。この時に香川氏より褒賞された山路氏は、もともと三野郡詫間城(三豊郡詫問町詫間)の城主で、海賊衆でした。芸予諸島の弓削島方面までを活動エリアとしていたこと、それが天正13年に没した九郎左衛門のとき、三木郡池辺城(本田郡三木町池戸)へ移されたことは以前にお話ししました。池辺城は平木城の西方で、十河城を南方に望む位置です。山路氏は、西讃守護代の香川氏の配下でしたから、三好方との戦闘に備えるために香川氏が詫間城から移したと研究者は考えています。このように、香川氏に率いられて西讃の国人たちが東讃へと参陣している姿が見えます。
長宗我部軍と秀吉軍は、入野と引田で軍事衝突しました。
ここにやって来ていた秀吉軍とは、誰の軍勢だったのでしょうか? 

仙石秀久2
仙石秀久
四国の軍記物はどれも、羽柴秀吉の部将仙石権兵衛秀久の名を上げます。仙石氏の家譜である「但馬出石仙石家譜」には、4月に、羽柴秀吉が越前賤ケ嶽での柴田勝家との決戦直前に、毛利氏の反攻に備えるため仙石秀久を「四国ノ押へ」として本領の淡路へ帰らせたと記します。ただ「元親一代記」は、仙石秀久は秀吉より讃岐国を拝領したが、入国することもなく、「ここかしこの島隠れに船を寄せ」ていただけと否定的に記します。当時の仙石秀久の動きを年表化すると次のようになります。
1582 9・
-仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
1584 6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年 4・26 仙石秀久・尾藤知宣・宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略

引田 中世復元図
引田の中世復元図
「改選仙石家譜」には、入野と引田での合戦を次のように記します

秀久は、引田(大川郡引田町引田)の「与次山」(引田古城?)に急造の城を構え、軍監として森村吉を置いていた。田面山に陣取った長宗我部軍が虎丸城を疲弊させるために与田・入野の麦を刈り、早苗を掘り返し、引田浦に兵を出す動きを見せた。そこで秀久は、2千余りの兵を率いて待ち伏せした。思わぬ奇襲に狼狽した長宗我部軍は入野まで退いて防戦した。このときの戦いが入野合戦である。戦況は態勢を立て直した長宗我部軍の反撃に転じた。そのため秀久軍は引田の町に退き、古城に立て籠った。翌22日、長宗我部軍による包囲を脱した秀久軍は船を使って小豆島に逃れた。このときの合戦を引田合戦という。

 中世の引田は阿波との国境である大坂越の讃岐側の出入口で、人やモノの集まる所でした。
また、鳴門海峡を行き交う船は、この湊に入って潮待ちをしたので、瀬戸内海の海上交通上の重要な港であったことは以前にお話ししました。引田の地は東讃の陸上交通と海上交通とが結びつく要衝でした。当時の仙石秀久は淡路を本拠としていました。これは秀吉が仙石秀久に四国・九州平定に向けて、海軍力・輸送力の増強を行い、瀬戸内海制海権の確保を命じていた節があります。そのような視点で見ると、引田は海からの讃岐攻略の際には、重要戦略港でした。そのために足がかりとして引田に拠点を設けていたのでしょう。後にやってくる生駒氏なども、仙石秀久の動きを知っていますので、引田に最初の城を構えたようです。

 話が逸れましたので、長宗我部元親の動きにもどります。
入野において合戦が行われたのと同じ日の4月21日、元親の弟香宗我部親泰は、次のような書状を高野山僧の快春に出しています。
鳴門の木津城を落とし、阿波一国の平定を終えたこと、ついでは淡路へ攻め込む所存であること
(「香宗我部家伝證文」所収支書).
 秀吉が北陸平定を行っていたころ、元親もまた四国平定が最後の段階に差し掛かろうとしていたのです。越前北ノ庄で柴田勝家を滅ぼし、北陸平定を終えた秀吉は近江坂本城へ帰ってきます。その翌々日の5月13日、元親と仙石秀久の合戦結果を書状で知ります。秀吉は秀久に対し、備前・播州の海路や港の警固を命じるとともに元親討伐を下命しています。いよいよ秀吉と元親の軍事対決が始まります。

雨瀧山城 山頂主郭部1
雨滝城

土佐軍はこの時期に、讃岐の三好方の城を次々に落としていきます。
「翁嘔夜話城蹟抜書」によれば、5月に石田城が落城しています。安富氏の居城である雨滝城も家臣六車宗湛の降参により落城し、城主安富肥前守は小豆島へ退去します。小豆島は、秀吉側の讃岐攻略の戦略拠点として機能していたことは以前にお話ししました。
 このような勝利の中で長宗我部方についた讃岐武将への論功行賞が行われます。研究者が注目するのは、論功行賞を長宗我部元親ではなく香川氏が行っていることです。これは讃岐における軍事指揮権や支配権限を香川信景が元親からある程度、任されていたことがうかがえます。それを裏付けるのが、次の元親の書状です。
「敵数多被討捕之由 御勝利尤珍重候、天霧へも申入候 定而可被相加御人数」

意訳すると
敵を数く討ち捕らえることができ、勝利を手にしたのは珍重である。「天霧」へも知らせて人数を増やすように伝えた」

「天霧」とは、香川氏の居城天霧城のことでしょうか、あるいは戦場にいる香川信景自身を指しているのかもしれません。わざわざ天霧城へ連絡するのは、長宗我部氏にとって香川氏が重要な地位を占めていたことを示します。元親は次男親和(親政)を信景の養子として香川氏と婚姻関係を結んでいます。讃岐征服には、香川氏の力なくして成功しないという算段があったようで、香川氏との協力体制をとっています。そして「占領政策」として、香川氏の権限をある程度容認する方策をとったと研究者は考えているようです。
 長宗我部軍による包囲が続けられるなかで、虎丸城も年内には落城したようです。
12月4日の香宗我部耗泰書状(「土佐国壼簡集拾遺」所収文書)には「十河一城の儀」とあります。翌天正12年3月、秀吉は織田信長の二男信雄と対立し、美濃へ出陣します。そして、4月には秀吉は家康に尾張長久手の合戦で破れます。このような中で、長宗我部元親は織田信雄,徳川家康と結び、秀吉と対立します。信雄は3月20日の香宗我部親泰に宛てた書状で、淡路より出陣し摂州表へ討ち入るよう求めています。信雄・家康と連携して、秀吉を東西より挟撃することを考えていたことが分かります。一方、元親にとって秀吉は信長の後継者で、その家臣である仙石秀久とは、すでに入野・引田で一戦を交えた敵対勢力です。引田合戦後に、寒川郡の石田・雨滝両城を落とした元親は、その勢いに乗って山田郡十河城を攻撃します。そして5月になると、元親は三木郡平木に入り、みずから十河城攻めを指揮します。「南海通記」は、その様子を次のように記します。

十河城と云う。三方は深田の谷入にて、南方平野に向ひ大手門とす。土居五重に築て堀切ぬれば攻入るべき様もなし」

ここからは十河城が堅固な守りを備えていたことがうかがえます。しかし昨年来、付城によって海路からの食料の搬入を絶たれていた城内の軍兵は飢餓に陥っていたようです。窮まった三好政康は阿波岩倉城主長宗我部掃部助を通じて、元親に城を開けて降参することを申し出ます。再三にわたる懇願に元親も折れて、政康以下の城兵を屋島へ逃れさせたという(「元親一代記」)。

十河城がいつ落城したのか、その経緯について他史料で見ておきましょう。
①5月20日、元親は讃岐の武士漆原内匠頭に対し、十河合戦での軍功を賞しています。(「漆原系譜」所収文書)
②8月8日書状 徳川家康の部将本多正信が香宗我部親泰に宛てた書状(「香宗我部家伝證文」)には、親泰は、元親軍が十河城を包囲する前夜、政康は逃亡したことを伝えています。
③8月19日の織田信雄書には、親泰は6月11日付けの書状で十河城の落城を伝えています。
④6月16日、秀吉は小豆島の小西行長らに対し、十河城救援のための兵糧米の運送を備前衆と仙石秀久に命じたので警固船を出すよう命じています。が、遅きに失した(竹内文書)とあります。
以上の資料からは、5月下旬から6月初旬の間に十河城は落城していたことが推測できます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 長宗我部元親の東讃侵攻と諸城主の動向   中世城郭分布調査報告430P」
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原氏は「仁尾浦鴨大明神」の惣官として15世紀を中心に活動しています。

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仁尾浦からの燧灘(金毘羅参詣名所図会) 

1481(文明十三)年の沙門宥真勧進状には次のように記されています。(意訳)

仁尾の鴨社の西方には「漫々たる緑海を望み」そこを通過する「客帆」は孤島を模したようである。東方には峨峨たる青山がある。仁尾浦には神殿仏閑が廃興をくり返し、その景趣は他にないもので、「道俗福貴の地」であり、「尊卑幸祐の岐」である。すなわち、仁尾は海と高山の間の狭小な土地であるが、神社仏閣が多く、沖には多くの船が行き通い、海上運輸あるいは商業、さらには宗教的にも繁栄している。
 
 仁尾には土地の売券や譲状などがいくつか残されていることは以前にお話ししました。
1352(観応二)年5月の僧定円田畠等譲状には、家・牛・田畠・荒野・山がセットにされて嫡子徳三に譲与されています。これは農業生産において個人が自立していたと考える材料になります。これに対して農業用水については「池は惣衆の修理たるべし」とあります。池は「惣衆」の共同管理の下にあったようです。
 仁尾浦は京都賀茂神社へ神饌を捧げるための社領として成立し、特権を得た神人達によって運営されていました。それが室町時代になると、パトロンを賀茂神社から細川京兆家へと鞍替えしていきます。そして国役の代わりに「兵船」の役をつとめるようになったことは以前にお話ししました。
 しかし、温和しく指示のままに動いていたわけではありません。浦代官となった香西氏の不当な要求に対しては、神人が共同で訴訟を起こして抵抗しています。このように「惣衆」がいて、神人の団結で仁尾浦は運営されていました。
仁尾賀茂神社
仁尾賀茂神社
仁尾浦の中心が「当浦氏社鴨大明神」(賀茂神社)で、その惣官の地位にあったのが原氏です。
原氏は代々「新兵衛尉」を名のっています。「新兵衛尉」の登場する文書を見ておきましょう。
1391(明徳二)年の相博契約(土地の交換)が行われた時に、「所見」という一種の保証を行った6人の中に「しんひやうへのせう(新兵衛尉)」の名が見えます。
1399(応永六)年 源助宗が 一段の田を「鴨大明神九月九日」に寄進していますが、実際は惣官の新兵術尉の所に付せられています。
ここからは新兵衛尉は原氏のことで、鴨社の代表者として神人たちの上位に位置していたことがうかがえます。また、土地相博の証人も務めるなど信望も得ていたようです。しかし、6人の「所見」人の一人でしかありません。この時点では浦全体の上に立つような存在ではなく、神人の有力指導者の一人という存在だったようです。
県史は、浦人の神人としての特徴を「仁尾浦神人等謹言上」事件から捕らえています
 仁尾浦は、守護細川氏によって京都鴨神社の課役を停止され、代わりに守護細川氏に対して「海上諸役」をつとめることになっていました。細川氏の代官である香西氏は「兵糧銭催促」「一国平均役御催促」の臨時課税を行います。それが讃岐西方守護代の香川修理亮からの出船催促と食い違い、結果的に二重に課役を負担し、しかも手違いを責められ「御せつかん」を受けることになります。さらに「香西方親父逝去之折節」「徳役の譴責」や「陸分内検」など浦代官香西氏の「新政」による制度改革が強行されます。香西氏にしてみれば、仁尾は、東側に拡がる燧灘の拠点港で、伊予・安芸方面への戦略港になります。細川京兆家の戦略の一つは、瀬戸内海交易権の確保でした。吉備と讃岐と、その間の塩飽を押さえて、それは実現できます。次に仁尾を直接的に支配することで、戦略的な価値を高めようとしたことが考えられます。
兵庫北関入船納帳 燧灘
燧灘に向かって開かれた仁尾湊
 この制度改革や新税に対して、神人等は仁足浦が「御料所」「公領」であることを根拠として代官の改替を要求します。同時に、「浜陸一同たり」という特殊性を主張して浦代官香西氏の「陸分内検」を認めません。そのためにとった反対運動が「祭礼停止」です。
 代官の非法に対して、住人は鴨大明神の神人として団結し、抵抗運動を行います。
その神人集団の代表者的存在が新兵衛尉こと原氏でした。しかし、原氏は俗生活上では、先ほど見たように「所見」を行う一人で、「惣衆」の一員でしかありません。これが前回に見た水主神社の水主氏と違うところです。水主氏の地位は『大水主人明神和讃』で、「水主三郎左術円光政」が水主に水をもたらした大水主社祭神百襲姫命の「神子三郎殿」であると讃えられています。つまり、信仰上、水主氏は神と住人を結ぶ媒介者とされ、信者集団の上に立つ存在とされていました。しかし、仁尾の原氏には、そのようなあつかいは見えません。
 仁尾浦は海上運輸や後背地の三豊平野や阿波との交易を生業とする個人が成長し自立化が進んでいました。
水主のような水の管理に伴う共同体規制を受けることは少なかったようです。そのような港町の条件を前提として「惣衆」結合があって、神人集団があったのです。同じ惣官であっても水主氏が宗教上、社領内住人の上に立っていたのに対して、原氏は神人の代表者的地位でしかなかったと研究者は指摘します。
 三好長慶の大阪湾岸の港湾都市とのつきあい方を見ておきましょう。
 四国から畿内に勢力を伸ばそうとしていた三好氏にとって,大阪湾の流通を支配することは最重要課題のひとつでした。しかし,三好氏単独で,流通の結節点となっている自治的都市を支配下に置くのは力不足でした。後の高松城のような城下町建設し、そこに港も作って流通を把握するというスタイルは、まだまだ先の話です。こうした中で,三好氏が採用した対港湾都市戦略は「用心棒」的存在として,都市に接するのではなく,法華宗寺院を仲立ちとした支配を進める方法です。法華宗の寺院や有力信者を通じて,都市共同体への影響力を獲得し,都市や流通ネットワークを掌握しようとします。やげた三好氏は法華宗を媒介とした支配から脱却し,都市共同体に直接文書を発給するようになります。こうした三好氏の大阪湾支配のあり方は,織豊政権の港湾都市の支配の先行モデルとなります。仁尾での香西氏の「新法」による浦代官の権限強化策もこのような方向をめざしていたのかもしれません。しかし、あまりに無骨だったために原氏などを中心とする神人集団の抵抗を受けて頓挫したようです。
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香川県史・中世編は、讃岐の領主的な志向をもつ神主として、次の3氏を挙げています。
大水主社(大内郡)の水主氏
田村大社(香川郡)の一宮氏
賀茂神社(三野郡)の原氏
今回は、水主神社の水主氏を見ていくことにします。
水主氏は、一宮田村大社と並ぶとされていた大水主社の「惣官」であり、「地頭」でもありました。水主氏は「惣官源盛政」「水主三郎左衛円尉源盛政」と、源姓を称していますがその出自はよく分からないようです。
讃岐の古代郡名2東讃jpg
大内郡の郷名(与泰が与田)

水主氏が「地頭」として管理していた大水主社領は、大内郡の与田・入野両郷から一部を割り分けるという形をとっていました。そして両郷の残りの部分には「与田殿」「入野殿」「下村御代官」などがの荘園がありました。ここからは、水主神社の社領は、上級領主のいない一円的所領であったことが分かります。

讃岐東讃の荘園
大内郡の荘園
社領内は1386(至徳三)年の奉加帳によると「水水主分・与田郷分・入野郷分」を除いて、以下の8つの集落から構成されていたようです。
武吉・岩隈別所・中村・大古曽・原・宮内・北内・焼栗


水主神社領2

これらの地域を地図上で見ておきましょう。
水主神社領
赤い枠内が水主

三本松湾に流れ出す与田川の水源である焼栗付近から、平野部がはじまる与田寺あたりまでの谷間に当たり、現在の大字水主に相当します。奉加者名が114名いますので、それ以上の戸数があったことが分かります。
 中世になって武吉村などの各集落は、谷沿いに棚田を開いていきます。その際に農業用水確保のために、避けては通れないのが谷頭(たにがしら)池の築造です。与田川支流の小谷の谷頭に小さな池が作られます。その労働力や資金は、各集落内で賄われたはずです。こうして「水確保のための共同体」が各集落に成長します。中世の谷田開発は、このようにして進められて行きます。こうして水主神社の周辺には8つの集落が形成されます。しかし、この地域の住民は「農民」という範疇だけでは、捕らえきれない性格をもっていたようです。

水主神社大般若経と浪花勇次郎
水主神社の大般若経
   水主神社には、「牛負大般若経」と呼ばれ国重文に指定されている大般若経があることは以前にお話ししました。
この大般若経を収めるために、1386(至徳三)勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・上総公
一 細工助成、堀江九郎殿ト(研)キヌ(塗)ルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により運ばれてきた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
建保職人歌合 塗仕
塗師
ここからは、経函制作のために地元の信者達が次のように関わったことが分かります。
①経函製作用の桧用材を運送してきたのは北内・原の住人であること。北内・原は先ほど見た水主の集落名の中にありました。わざわざ名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家者で、馬借・車借などの陸上輸送に従事するものと研究者は考えています。
②堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
③水主神社には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたこと。 
④実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。

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 また、中世の引田港の船は畿内に、薪炭や薪を積んで行き来していたことが「兵庫北関入船納帳」から分かります。後背地の山々で採取された薪類が水主の馬借・車借によって集められて、引田港に運ばれていたことが考えられます。同時に彼らは、阿讃山脈を越えて阿波の南部とも行き来していたことが見えて来ます。水主は、人とモノが行き交う経済活動の中心地であったことがうかがえます。

水主氏は地頭として、このような「村」をどのように指導・支配したのでしょうか?
それを示す史料はないようです。しかし、水主氏が神社惣官として、宗教的・イデオロギー的に社領内住人を掌握していたことがうかがえるものはあるようです。
①水主の住人は、1386(至徳3)と1445(文安2)年に奉加行動を行っていること
②水主の谷を囲む山が那智山・本宮山・新宮(虎丸山)と称されていること
などから水主住民にも熊野信仰が強く根付いていたことがうかがえます。
水主三山 虎丸山

このような住民の信仰を前提として、水主氏は1444(文安四)年8月吉日に、「大水主社神人座配の事」を「先例に任せて」定めています。水主氏は惣官として神人の座の決定権を握ることで、「村」の住人とはちがう高い位置に立つことになります。水主氏の地位は『大水主人明神和讃』では、「水主三郎左術円光政」が水主に水をもたらした大水主社祭神百襲姫命の「神子三郎殿」であると讃えられています。つまり、信仰上、水主氏は神と住人を結ぶ媒介者とされたのです。
 旧大内郡は、13世紀後半以降は南朝方の浄金剛院領となります。南朝方の荘園であったことが大川郡の宗教的な特殊性を形成していくことにつながったようです。これは鎌倉新仏教の影響を押さえて、水主神社を中心とする熊野信仰の隆盛を長引かせることになります。例えば、神祇信仰関係の文化財を見てみてると、国指定重要文化財だけでも次のようなものが挙げられます。

P1120111 大内 水主神社 大倭根子彦
大倭根子彦太瓊命坐像(水主神社)
倭追々日百襲姫命坐像
倭国香姫命坐像
大倭根子彦太瓊命坐像外女神坐像四体
男神坐像一体、
木造狛犬一対

大水主神社獅子頭  松岡調
木造狛犬一対
 これらは、いずれも平安時代前後のものです。この外にも、県指定有形文化財の木造狛犬一対、木造獅子頭があり、どちらも室町時代の逸品です。これらの文化遺産は、中世村落に神祇信仰の対象として偶像や神殿が造営されていく時期にちょうどあたります。香川県下で、これほど中世以前の神祇信仰遺物を伝えるところはありません。仏教文化だけでなく、神仏混淆の中で神祇信仰も隆盛を迎えていたのです。その保護者であったのが水主氏であったということになりそうです。そして、水主氏は守護であると同時に神官でもあったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    中世讃岐の国人領主 香川県史2 中世347P

 中世後期細川氏の権力構造 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

足利幕府のなかで、細川は一族の繁栄のために「同族連合」を形成していました。そのような中で勃発するのが応仁の乱です。10 年以上にわたって続いたこの乱は、足利将軍家での義視 対 義尚、畠山氏での持富対義就のほか、斯波氏、六角氏などでの同族内での主導権(家督)争いが招いた物とも云えます。これに対して細川一族は、内部抗争を起こすことなく、同族が連合することで、乱に対応しその後の発展につなげることができました。
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 応仁の乱の中で京兆家惣領勝元が死亡します。その危機的状況への対応策として生まれたのが「京兆家-内衆体制」だと研究者は考えています。

勝元が亡くなった時、後継者の政元はまだ7歳でした。
問題になるのが、誰に後見させるかです。そこで登場するのが内衆です。内衆とは、側近被官のことで、細川氏(京兆家)では、後醍醐天皇に追われた足利尊氏が九州から上洛する際に、被官化した者たちです。彼らは讃岐・阿波など瀬戸内海沿岸諸国の出身者が多かったようです。この者たちを同族連合の細川氏各家(各分国)の守護代や各種代官等に任命し、分国支配を任せるという統治スタイルです。これは、幕府と守護とが連携して中央と地方を支配するようなもので、京兆家と内衆が細川氏分国(細川同族連合)を連携しながら支配するという方法です。これを研究者は「京兆家-内衆体制」と呼んでいます。
 内衆のメンバーは、奉行人・評定衆・内衆・非譜代衆によって構成されます。そして、幼かった京兆家当主政元をもり立て、細川氏一族の強化を図ろうとします。うまく機能していた「京兆家-内衆体制」に、大きな問題が出てきます。それは政元は天狗道に熱中したことです。天狗になろうとして、修験道(天狗道)の修行に打ち込み、女人を寄せ付けません。そのため妻帯せず、後継者ができません。そこで3人の後継者候補(養子)が設定されます。

永世の錯乱 対立構図
一人目は澄之。
関白を務めた九条政基の子息で現任関白尚経の弟です。関白は天皇の補佐役であり、公家のトップです。関白家出身の養子を後継者とすることで、武家(細川氏)と公家(九条家)が連合する政権構想があったことを研究者は推測します。しかし、これでは、細川氏の血脈が絶えてしまいます。
二人目は澄元。阿波守護家出身。
阿波守護家は細川氏一族では京兆家に次ぐ家格です。細川氏内部での統合・求心力を高めるには良いかもしれません。ところが、政元自身がこれには乗り気でなかったようです。
三人目が高国。京兆家の庶流である野州家の出身
政元が養子として認めたていたかどうかは、はっきりとしません。
どちらにしても、後継者候補が何人もいるというのは、お家騒動の元兇になります。それぞれの候補者を担ぐ家臣を含めたそれぞれの思惑が渦巻きます。互いの利害関係が複雑に交錯して、同族連合としてのまとまりに亀裂を生むことになります。応仁文明の乱を乗り切り、幕府内における優越した地位を保ち続けて来た細川同族連合の内紛の始まりです。これが織田信長上洛までの畿内地域の混乱の引き金となります。これが各分国にも波及します。讃岐もこの抗争の中に巻き込まれ、一足早く戦国動乱に突入していきます。

この口火を切ったのが細川政元の内衆だった讃岐の武将達のようです。
応仁の乱の際に 管領細川勝元の家臣として畿内で活躍した讃岐の4名の武将を南海通記は「細川四天王」と呼んでいます。当時のメンバーは以下の通りでした。
安富盛長(安富氏) - 讃岐雨滝城主(東讃岐守護代)
香西元資(香西氏) - 讃岐勝賀城主
奈良元安(奈良氏) - 讃岐聖通寺城主
香川元明(香川氏) - 讃岐天霧城主(西讃岐守護代)
応仁の乱後に京兆家を継いだ細川政元も、この讃岐の四氏を内衆として配下に於いて政権基盤を固めていきます。中でも香西五郎左衛門と香西又六(元長)は「両香西」と呼ばれ、細川政元に近侍して、常に行動を共にしていたことは以前にお話ししました。それが後継者を巡る問題から、讃岐の「四天王」の子孫は、それまで仕えてきた細川政元を亡き者にします。その結果、引き起こされるクーデーター暗殺事件に端を発するのが永世の錯乱です。今回は、永世の錯乱当時の讃岐武将達の動きを史料でお押さえていきます。

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「足利季世記」は、細川京兆家の管領で細川政元について、次のように記します。長文意訳です。
四十歳の頃まで女人禁制で魔法飯綱の法、愛宕の法を行い、さながら出家の如く、山伏の如きであった。ある時は経を読み陀羅尼を弁じ、見る人身の毛もよだつほどであった。このような状況であったので、お家相続の子が無く、御内・外様の人々は色々と諌めた。
 その頃の公方(足利)義澄の母は、柳原大納言隆光卿の娘であった。これは今の九条摂政太政大臣政基の北政所と姉妹であった。つまり公方と九条殿の御子とは従兄弟であり、公家も武家も尊崇した。この政基公の御末子を細川政元の養子として御元服あり、公方様の御加冠あり、一字を参らせられ、細川源九郎澄之と名乗られた。澄之はやんごとなき公達であるので、諸大名から公家衆まで皆、彼に従い奉ったので、彼が後継となった細川家は御繁昌と見えた。そして細川家の領国である丹波国が与えられ入部された。
 細川家の被官で摂州守護代・薬師寺与一という人があった。
 その弟は与ニといい、兄弟共に無双の勇者であった。彼は淀城に居住して数度の手柄を顕した。この人は一文字もわからないような愚人であった。が、天性正直であり理非分明であったので、細川一家の輩は皆彼を信頼していた。
 先年、細川政元が病に臥せった時に、細川家の人々は協議して、阿波国守護である細川慈雲院殿(成之)の子、細川讃岐守之勝(義春)に息男があり、これが器量の人体であるとして政元の養子と定めることにした。これを薬師寺を御使として御契約した。これも公方様より一字を賜って細川六郎澄元と名乗った。

この時分より、政元は魔法を行われ、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、後には御心も乱れ現なき事を言い出した。
この様では、どうにもならないと、薬師寺与一と赤沢宗益(朝経)は相談して、六郎澄元を細川家の家督を相続させ政元を隠居させることで一致した。ここに謀反を起こし、薬師寺与一は淀城に立て籠もり、赤沢は二百余騎にて伏見竹田に攻め上がった。
 しかし永正元年九月の初め、薬師寺与一の舎弟である与ニ(長忠)が政元方の大将となり、兄の籠もる淀城を攻めた。城内をよく知る与ニの案内が有ったために、城は攻め落とされ、与一は自害することも出来ず生け捕りにされ京へと上らされた。与一はかねて一元寺という寺を船橋に建立しており、与ニはこの寺にて兄を切腹させた。与ニには今回の忠節の賞として、桐の御紋を賜り摂津守護代に補任された。源義朝が父為義を討って任官したのもこれに勝ることはないだろうと、爪弾きに批判する人もあった。赤沢は色々陳謝したため一命を助けられた。
このような事があり、六郎澄元も阿州より上洛して、父・讃岐守殿(義春)より阿波小笠原氏の惣領である三好筑前守之長と、高畠与三が共に武勇の達人であったため。補佐の臣として相添えた。

薬師寺与ニは改名して三郎左衛門と号し、政元の家中において人もなげに振る舞っていたが、三好が六郎澄元の後見に上がり、薬師寺の権勢にもまるで恐れないことを安からず思い、香西又六、竹田源七、新名などといった人々と寄り合い評定をした
「政元はあのように物狂わしい御事度々で、このままでは御家も長久成らぬであろう。しかし六郎澄元殿の御代となれば三好が権勢を得るであろう。ここは政元を生害(殺害)し、丹波の九郎澄之殿に京兆家を継がせ、われら各々は天下の権を取ろう。」と評議一決した。
 1507(永正4)年6月23日、政元はいつもの魔法を行うために御行水を召そうと湯殿に入られた。
そこを政元の右筆である戸倉と言う者が襲い殺害した。まことに浅ましい。
この政元の傍に不断に仕える波々伯部という小姓が浴衣を持って参ったが、これも戸倉は切りつけた。しかし浅手であり後に蘇生し、養生して命を全うした。

この頃、政元は、丹波(丹後)の退治のために赤沢宗益を大将として三百余騎を差し向けていた。また河内高屋へは摂州衆、大和衆、宗益弟、福王寺、喜島源左衛門、和田源四郎を差し向け、日々の合戦に毎回打ち勝ち、所々の敵たちは降参していた。しかし、政元殺害の報を聞くと軍勢は落ち失い、敵のため皆討たれた。
政元暗殺に成功した香西又六は、この次は六郎澄元を討つために兵を向けた。
明けて24日、薬師寺・香西を大将として寄せ行き、澄元方の三好・高畠勢と百々橋を隔てて切っ先より火を散らして攻め戦った。この時政元を暗殺した戸倉が一陣に進んで攻め来たのを、波々伯部これを見て、昨日負傷したが主人の敵を逃すことは出来ないと、鑓を取ってこれを突き伏せ郎党に首を取らせた。
六郎澄元の御内より奈良修理という者が名乗り出て香西孫六と太刀打ちし、孫六の首を取るも修理も深手を負い屋形の内へ引き返した。このように奮戦したものの、六郎澄元の衆は小勢であり、敵に叶うようには見えなかったため、三好・高畠は澄元に御供し近江へ向けて落ちていった。

この時、周防に在った前将軍・足利義材はこの報を聞いて大いに喜び、国々の味方を集め御上洛の準備をした。
中国西国は大方、将軍義材御所の味方となった。安芸の毛利治部少輔(弘元)を始めとして、義材を保護している大内氏の宗徒の大名の多くは京都の御下知に従っていたため、この人々の元へ京より御教書が下された。

根本史料ではなく、内容も軍記物語のような語り口ですが、だいたいの大筋を掴むにはいい史料です。次に、根本史料で押さえておきます。
永世の錯乱1
 
『宣胤卿記』(のぶたねきょうき)は、戦国時代の公卿・中御門宣胤の日記です。
1480(文明12)年正月から1522(大永29)年正月までの約40年の京を巡る政局がうかがえる史料のようです。細川政元の暗殺や細川澄元の敗死などの永正の錯乱については、次のように記します。
「宣胤卿記」1507(永正四)年六月二四日条
去る夜半、細川右京大夫源政元朝臣四十二歳。天下無双の権威。丹波。摂津。大和。河内・山城。讃岐・土佐等守護なり。被官竹田孫七のために殺害せらる。京中騒動す。

 今日午刻、かの被官山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人、嵯峨より数千人を率い、細川六郎澄元政元朝臣養子。相続分なり。十九歳。去年阿波より上る。在所将軍家北隣なり。へ押し寄せ、終日合戦す。申斜、六郎敗北し、在所放火す。香西彦六討死す、同孫六翌日廿五日、死去すと云々。
 六郎(澄元)同被官三好(之長)阿波より六郎召具す。棟梁なり。実名之長。落所江州甲賀郡。国人を憑むと云々。今度の子細は、九郎澄之自六郎より前の政元朝臣養子なり。実父前関白准后(九条)政基公御子。一九歳。家督相続の遺恨により、被官を相語らい、養父を殺さしむ。香西同心の儀と云々。言語道断の事なり。
意訳変換しておくと
 細川政元(四十二歳)は、天下無双の権威で、丹波・摂津・大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護であったが夜半に、被官竹田孫七によって殺害せれた。京中が大騒ぎである。今日の午後には、政元の被官である山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人が、嵯峨より数千人を率いて、細川六郎澄元(政元の養子で後継者19歳。去年阿波より上洛し。将軍家北隣に居住)を襲撃し、終日戦闘となった。六郎は敗北し、放火した。香西彦六も討死、孫六も翌日25日に死去したと伝えられる。六郎(澄元)は被官三好(之長)が阿波より付いてきて保護していた。この人物は三好の棟梁で、実名之長である。之長の機転で、伊賀の甲賀郡に落ちのびた。国人を憑むと云々。
 今回の子細については、澄之は六郎(澄元)以前の政元の養子で後継者候補であった。実父前関白准后(九条)政基公御子で一九歳である。家督相続の遺恨から、香西氏などの被官たちと相語らって、養父を殺害した。香西氏もそれに乗ったようだ。言語道断の事である。
 ここには細川政元暗殺の黒幕として、香西元長とその兄弟であると記されています。
その背景は、細川政元の後継者が阿波細川家の澄元に決定しそうになったことがあると指摘しています。そうなると、澄元の被官に三好之長が京兆家細川氏を牛耳るようになり、「細川四天王」と呼ばれた讃岐の香西・香川・安富・奈良氏にとっては出番がなくなります。また、今までの既得権利も失われていくことが考えられます。それを畏れた香西氏が他の三氏に謀って、考えられた暗殺クーデター事件と当時の有力者は見抜いていたようです。

「細川大心院記」永正四年六月二四日条には、次のように記します。
夏ノ夜ノ習トテホトナク明テ廿四日ニモ成ケレハ巳刻許二香西又六元長、同孫六元秋、同彦六元能兄弟三人嵯峨ヲ打立三千人計ニテ馳上リ其外路次二於テ馳付勢ハ数ヲ不知。京都ニハ又六弟二心珠院宗純蔵主、香川上野介満景、安富新兵衛尉元顕馳集り室町へ上リニ柳原口東ノ方ヨリ澄元ノ居所安富力私宅二押寄ル。
 
意訳変換しておくと
細川政元が暗殺された夜が開けて24日になると、香西又六元長と実弟の孫六元秋、彦六元能兄弟三人は、阿波細川澄元の舘を襲撃した。三千人ほどの兵力で嵯峨を馳上り、その途上で駆けつけた者達の数は分からない。又六元長の弟や心珠院宗純蔵主、香川上野介満景、安富新兵衛尉元顕なども、これに加わり室町へ上リ、柳原口東方から澄元の居所へ安富勢とともに押し寄せた。

ここには細川澄元舘を襲撃した讃岐の四天王の子孫の名前が次のように記されています。
①香西又六元長・弟 孫六元秋(討死)・彦六元能(討死)
②香川上野介満景
③安富新兵衛尉元顕
奈良氏の名前は見えないようです。

細川政元暗殺クーデターの立案について「不問物語」( 香西又六与六郎澄元合戦事)は、次のように記します。
香西又六元長ハ嵯峨二居テ、一向ニシラサリケり。舎弟孫六・同彦六ナトハ同意ニテ九郎澄之ヲ家督ニナシ、六郎澄元并三好之長・沢蔵軒等ヲモ退治セハヤト思テ又六二云ケルハ、「過し夜、政元生害之事、六郎澄元・同三好等力所行也。イカヽセン」卜有間、又六大驚、「其儀一定ナラハ、別ノ子細ハ有マシ。只取懸申ヘシ」トテ、兄弟三人嵯峨ヲ千人余ニテ打立ケリ。於路頭馳付勢ハ数ヲ不知。京都ニハ舎弟心珠院二申合間、香川上野介満景・安富新兵衛尉元顕、室町ヲノホリニ柳原口東ノ方ヨリ澄元屋形故安富筑後守力私宅二押寄、

意訳変換しておくと
香西又六元長は、嵯峨で細川高国暗殺計画について始めて一行に知らせた。舎弟の孫六・同彦六は同意して細川澄之を京兆家の家督として、六郎澄元とその側近の阿波の三好之長・沢蔵軒等を亡き者にする計画を又六に告げた。「夜半に、政元を殺害し、その後に細川・三好等なども襲う手はずで如何か」と問うた。これに又六(元長)は大いに驚きながらも、「それしか道はないようだ、それでいこう、ただ実行あるのみ」と、兄弟三人は嵯峨を千人余りで出発した。道すがらの路頭で馳付た数は分からない。京都には舎弟心珠院がいて、香川上野介満景・安富新兵衛尉元顕が加わり、柳原口東方から澄元屋形へ安富筑後守力私宅二押寄、

「細川大心院記」永正四年七月八日条には、次のように記します。
去程二京都ニハ澄之家督ノ御内書頂戴有テ丹波国ョリ上洛アリ。大心院殿御荼昆七月八日〈十一日イ〉被取行。七日々々ノ御仏事御中陰以下大心院二於厳重ニソ其沙汰アリケリ。香川上野介満景・内藤弾正忠貞正。安富新兵衛尉元顕・寺町石見守通隆・薬師寺三郎左衛門尉長忠。香西又六元長・心珠院宗純o長塩備前守元親・秋庭修理亮元実。其外ノ面々各出仕申。

意訳変換しておくと
 細川政元に命じられて丹波駐屯中であった澄之は京に上がって、細川京兆家の家督を継ぐことになった。その後に大心院殿で(細川政元)の法要を7月8日に執り行った。御仏事御中陰など大心院での儀式については、厳重な沙汰があった。香川上野介満景・内藤弾正忠貞正。安富新兵衛尉元顕・寺町石見守通隆・薬師寺三郎左衛門尉長忠・香西又六元長・心珠院宗純・長塩備前守元親・秋庭修理亮元実。その外の面々各出仕した。

 永世の錯乱3


政元亡き後の京都へ、丹後の一色氏討伐のため丹波に下っていた細川澄之が呼び戻されます。澄之は7月8日に上洛し、将軍足利義澄より京兆家の家督と認められます。そして政川政元の中陰供養が行われます。ここに参加しているメンバーが澄之政権を支えるメンバーだったようです。そこには奈良氏を除く讃岐の「細川四天王」の名前が見えます。こうしてクーデター計画は成功裏に終わったかのように見えました。 ここまでは香西氏など、讃岐武将の思惑通りにことが運んだようです。しかし、細川澄元とその被官三好之長は逃してしまいます。これが大きな禍根となります。そして、香西元長は戦闘で二人の弟を失いました。

  香西家など讃岐内衆による澄元の追放を傍観していた細川一家衆は、8月1日に反撃を開始します。
典厩家の政賢、野州家の細川高国、淡路守護家の尚春などの兵が澄之方を襲撃します。この戦いは一日で終わり、澄之は自害、山城守護代の香西元長、摂津守護代の薬師寺長忠、讃岐両守護代の香川満景・安富元顕は討死にします。それを伝える史料を見ておきましょう。

後の軍記物「應仁後記」には、細川澄之の敗北と切腹について次のように記します。
   細川政元暗殺の後、畿内は細川澄之の勢力によって押さえられた。しかし細川澄元家臣の三好之長は、澄元を伴い近江国甲賀の谷へ落ち行き、山中新左衛門を頼んで
近江甲賀の軍士を集めた。また細川一門の細川右馬助、同民部省輔、淡路守護らも味方に付き、さらに秘計をめぐらして、畠山も味方に付け大和河内の軍勢を招き。程なくこの軍勢を率いて八月朔日、京に向かって攻め上がった。
昔より主君を討った悪逆人に味方しようという者はいない。在京の者達も次々と香西、薬師寺を背き捨てて、我も我もと澄元の軍勢に馳加わり、程なく大軍となった。そこで細川澄元を大将とし、三好之長は軍の差し引きを行い、九郎澄之の居る嵯峨の嵐山、遊初軒に押し寄せ、一度に鬨の声を上げて入れ代わり立ち代わり攻めかかった。そこに館の内より声高に「九郎殿御内一宮兵庫助!」と名乗り一番に斬って出、甲賀勢の望月という者を初めとして、寄せ手の7,8騎を斬って落とし、終には自身も討ち死にした。

これを合戦のはじめとして、敵味方入り乱れ散々に戦ったが、澄之方の者達は次第に落ち失せた。残る香西薬師寺たちも、ここを先途と防いだが多勢に無勢では叶い難く、終に薬師寺長忠は討ち死に、香西元長も流れ矢に当たって死んだ。
この劣勢の中、波々下部伯耆守は澄之に向かって申し上げた
「君が盾矛と思し召す一宮、香西、薬師寺らは討ち死にし、見方は残り少なく、敵はもはや四面を取り囲んで今は逃れるすべもありません。敵の手にかけられるより、御自害なさるべきです。」

九郎澄之は「それは覚悟している」
そう言って硯を出し文を書いた
「これを、父殿下(九条政基)、母政所へ参らすように。」
そう同朋の童に渡した、その文には、澄之が両親の元を離れ丹波に下り物憂く暮らしていたこと、
また両親より先に、このように亡び果て、御嘆きを残すことが悲しいと綴られていた。
奥には一種の歌が詠まれた。

 梓弓 張りて心は強けれど 引手すく無き身とぞ成りける

髪をすこし切り書状に添え、泪とともに巻き閉じて、名残惜しげにこれを渡した。童がその場を去ると、澄之はこの年19歳にて一期とし、雪のような肌を肌脱ぎして、尋常に腹を切って死んだ。波々下部伯耆守はこれを介錯すると、自身もその場で腹を切り、館に火を掛けた。ここで焼け死んだ者達、また討ち死にの面々、自害した者達、都合170人であったと言われる。寄せ手の大将澄元は養父の敵を打ち取り、三好之長は主君の恨みを報じた。彼らは香西兄弟、薬師寺ら数多の頸を取り持たせ、喜び勇んで帰洛した。
澄之の同朋の童は、乳母の局を伴って九条殿へ落ち行き、かの文を奉り最期の有様を語り申し上げた。父の政基公も母の北政所も、その嘆き限りなかった。

一次資料の「宣胤卿記」永正四年八月一日条には、次のように記します。
早旦、京中物念。上辺において己に合戦ありと云々。巷説分明ならず。人を遣し見せしむるの処、細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督也。在所大樹御在所之北、上京小路の名なき所なり。に押し寄すと云々。(中略)九郎澄之。十九歳。己に切腹す。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等、九郎方として討死にすと云々。
意訳変換しておくと
8月1日早朝、京中が騒然とする。上辺で合戦があったという。巷に流れる噂話では分からないので、人を遣って調べたところ、以下のように報告した。細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督たちが在所大樹御在所の北、上京小路の名なき所に集結し、細川澄之と香西氏の舘を襲撃した。(中略)九郎澄之(十九歳)は、すでに切腹。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等など、九郎澄之方の主立った者が討死したという。


「多聞院日記」永正四年八月一日条には、次のように記します。
今暁、細川一家并に落中辺土の一揆沙汰にて九郎(細川澄之)殿宿所院領(陰涼)軒差し懸り合戦に及ぶと云々。則ち九郎殿御腹召されおわんぬ。波々伯部伯者守(宗寅)・一宮兵庫助その外十人計り生涯すと云々。
薬師寺宿所にては三郎左衛門尉(薬師寺長忠)・与利丹後守・矢倉・香西又六(元長)・同真珠院・美濃(三野)五郎太郎・香西宗次郎か弟・香川(満景)・安富(元顕)その外三十人許り。
  嵐山城則ち焼き払いおわんぬ。
  意訳変換しておくと
本日の早朝に洛中辺土で一揆沙汰があって、細川一家が九郎(細川澄之)殿宿所院領(陰涼)軒を襲撃し合戦になったと人々が云っている。九郎(澄之)殿は切腹されたようだ。その他にも、伯部伯者守(宗寅)・一宮兵庫助など十人あまりが討ち死にしたと伝えられる。薬師寺宿所では、三郎左衛門尉(薬師寺長忠)・与利丹後守・矢倉・香西又六(元長)・同真珠院・美濃(三野)五郎太郎・香西宗次郎か弟・香川(満景)・安富(元顕)など三十人あまりが討ち取られた。
  そして、嵐山城は焼き払らわれた。
  
  日記などの一次資料はシンプルです。それが、後に尾ひれが付いて、周りの情景も描き込まれて物語り風になっていきます。当然、その分だけ分量も多くなります。

嵐山城は香西元長が築いた山城です。
場所は観光名所の桂川を見下ろす嵐山山頂にあります。渡月橋からは西山トレイルが整備されていて、嵐山城址まで迷うことなくたどり着くことができます。山道をひたすら登っていくと、城址最南端に穿たれた堀切が現われ、 そのすぐ上の小山が城址最南端の曲輪で、城址はそこから北方の尾根全体に展開しているようです。


「細川大心院記」永正四年八月一日条で、讃岐内衆の最後を見ておきましょう。
サテ八月朔日卯ノ刻二澄之ノ居所遊初軒ヘハ淡路守尚春ヲ大将トシテ大勢ニテ押寄ル。香西又六(元長) ハ私宅二火ヲ欠テ薬師寺三郎左衛門 (長忠)力宿所二馳加ル。同香川。安富モ一所ニソ集リケル。
(中略)安富ハ落行ケルヲヤカテ道ニテソ討レケル。トテモ捨ル命ヲ一所ニテ死タラハイカニヨカリナン。サレハスゝメトモ死セス退ケトモ不助卜申侍レハイカニモ思慮可有ハ兵ノ道ナルヘシトソ京童申ケル。
  意訳変換しておくと
8月1日卯ノ刻に澄之の居所遊初軒へ淡路守尚春を大将として大軍が押し寄せた。香西又六(元長)は、私宅に火をつけて、薬師寺三郎左衛門 (長忠)の宿所に合流した。また讃岐の香川・安富も同所に集結して防戦した。
(中略)安富は落ちのびていく道筋で討たれた。トテモ捨ル命ヲ一所ニテ死タラハイカニヨカリナン。サレハスゝメトモ死セス退ケトモ不助卜申侍レハイカニモ思慮可有ハ兵ノ道ナルヘシトソ京童申ケル。
細川政元暗殺後、その首謀者の一人であった香西元長は、細川高国らによって討ち取られ、その居城である嵐山城は陥落した。
細川澄之と讃岐内衆が討ち取られた後のことを史料は、次のように記します。

 京都は先ず静謐のように成り、細川澄元は近江国甲賀より上洛された。そして京都の成敗は、万事三好(之長)に任された。これによって、以前は澄元方であるとして方々に闕所(領地没収)、検断(追補)され、逐電に及んだ者多かったが、今は(香西らが擁立した細川)澄之方であるとして、地下、在家、寺庵に至るまで、辛い目に遭っている。科のある者も、罪のない者も、どうにも成らないのがただこの頃の反復である。

両度の取り合いによって、善畠院、上野治部少輔、故安富筑後守、故薬師寺備前守、同三郎左衛門尉、香西又六(元長)、同孫六、秋庭、安富、香河(川)たちの私宅等を始めとして、或いは焼失し、或いは毀し取って広野のように見え、その荒れ果てた有様は、ただ枯蘇城のうてな(高殿)、咸陽宮の滅びし昔の夢にも、かくやと思われるばかりであった。
そして諸道も廃れ果て、理非ということも弁えず、政道も無く、上下迷乱する有様は、いったいどのように成りゆく世の中かと、嘆かぬ人も居なかった。
以前は、香西又六が嵐山城の堀を掘る人夫として、山城国中に人夫役をかけたが、今は細川澄元屋形の堀を掘るとして、九重の内に夫役をかけ、三好之長も私宅の堀を掘る人夫として、辺土洛外に人夫役をかけ堀を掘った。

城を都の内に拵えるというのは、静謐の世に却って乱世を招くに似ており、いかなる者がやったのか、落書が書かれた

きこしめせ 弥々乱を おこし米 又はほりほり 又はほりほり
京中は 此程よりも あふりこふ 今日もほりほり 明日もほりほり
さりとては 嵐の山をみよしとの ひらにほりをは ほらすともあれ

この返事と思しいもので

 なからへて 三好を忍世なりせは 命いきても何かはせん
 何とへか 是ほど米のやすき世に あはのみよしをひたささるらん
 花さかり 今は三好と思ふとも はては嵐の風やちらさん

この他色々の落書が多いと雖も、なかなか書き尽くすことは出来ない。
細川政元暗殺クーデターを起こした讃岐内衆は、阿波の三好氏の担ぐ細川澄元の反撃を受けて、嵐山の麓で敗死したようです。嵐山が讃岐内衆の墓場となりました。そして、このような激動は讃岐や阿波へも波及していきます。
 まず、棟梁を失った香川・香西・安富氏などでは相続を巡って讃岐で一族間の抗争が起こったことが考えられます。また、阿波三好氏は、この機会に讃岐への侵攻を進めようとします。そして、半世紀後には、讃岐の大半は三好氏の配下に置かれることになります。永世の錯乱は、讃岐にとっても戦国乱世への入口の扉をあけてしまう結果を招いたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 田中健二     京兆家内衆・讃岐守守護代安富元家についての再考察 
香川県立文書館紀要 第25号(2022)
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 南海治乱記
南海治乱記
『南海治乱記』巻之十七「老父夜話記」に、次のような記事があります。
又香西備前守一家・三谷伊豆守一家ハ雲州へ行ク。各大身ノ由聞ル。香西縫殿助ハ池田輝政へ行、三千石賜ル。

意訳変換しておくと
又①香西備前守一家と三谷伊豆守一家は、雲州(出雲)へ行ってそれぞれ大身となっていると聞く。また②香西縫殿助は、備中岡山の池田輝政に仕え、三千石を賜っている。

ここには天正年間の騒乱の中で滅亡した香西氏の一族が、近世の大名家に仕えていたことが記されています。今回は、戦国時代末期に讃岐を離れて近世大名家に仕官した香西氏の一族を見ていくことにします。テキストは、「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」です。
香西記

①の香西備前守については『香西記』五「香西氏略系譜」にも次のように載せられています。

出雲藩の香西氏系図
香西氏略系譜(香西記五)
内容は『南海治乱記』と同様の記事です。同書には、清長(香西備前守)と清正(六郎大夫)の父子は、天正六年(1578)、土佐の長宗我部元親軍が阿波国の川島合戦(重清城攻防戦)で、三好存保方として討死したと記されています。
 残された一族が出雲へ赴むき、その子孫は、出雲松江藩松平家の家臣となり幕末まで続いたというのです。その系譜について調査報告しているのが、桃裕行「松江藩香西(孫八郎)家文書について」です。その報告書を見ていくことにします。
松江藩士の香西氏の祖は、香西太郎右衛門正安になるようです。
彼が最初に仕えたのは、出雲ではなく越前国福井藩の結城秀康でした。どうして、出雲でなく越前なのでしょうか?

福井県文書館平成22年2月月替展示
「藩士先祖記」(福井県立図書館松平文庫)
「藩士先祖記」に記された内容を、研究者は次のように報告します。
香西太郎右衛門(正安)諄本不知  本国讃岐
(結城)秀康侯御代於結城被召出。年号不知。慶長五年御朱印在之。
香西加兵衛 (正之)諄不知 生国越前。
忠昌公御代寛永十三丙子年家督被下。太郎右衛門(正安)康父ハ香西備前守(姓源)卜申候而讃岐国香西卜申所ノ城主ノ由申伝候。其前之儀不相知候。
意訳変換しておくと
香西太郎右衛門(正安)は、(結城)秀康侯の時に召し抱えられたが、その年号は分からない。慶長五年の朱印がある。
香西加兵衛 (正之)は越前生まれで、忠昌公の御代の寛永13(1636)年に家督を継いだ。父の太郎右衛門(正安)は香西備前守(姓源)と云い、讃岐の香西の城主であったと伝えられている。その前のことは分からない。

ここには太郎右衛門(正安)の父は、香西備前守で「讃岐国香西と申す所の城主」であったと記されています。松江藩には数家の香西姓を持つ藩士がいたようです。
その中の孫八郎家の七代亀文が明治元年のころに先祖調べを行っています。それが「系図附伝」で、太郎右衛門正安のことが次のように記されています。
 正安の姉(松光院)が三谷出雲守長基に嫁した。その娘(月照院)が結城秀康に召されて松江藩祖直政を生んだ。そのような関係で三谷出雲守長基も、後には松江藩家老となる。大坂の陣では、香西正安・正之父子は秀康の長子忠直の命と月照院の委嘱によって、直政の初陣に付き添い戦功を挙げた。

 ここに登場する結城(松平)秀康(ひでやす)は、徳川家康の次男で、2代将軍秀忠の兄になる人物です。一時は、秀吉の養子となり羽柴秀康名のったこともありますが、関ヶ原の戦い後に松平姓に戻って、越前福井藩初代藩主となる人物です。

『香西記』の「香西氏略系譜」では、備前守清長の娘が「三谷出雲守妻」となり、その娘(月照院)が結城(松平)秀康の三男を産んだようです。整理すると次のようになります。
①清長は、香西備前守で「讃岐国香西と申す所の城主」であった
②清長・清正の父子は、三好氏に従軍し、阿波川島合戦で戦死した。
③正安の姉(松光院)が三谷出雲守長基に嫁して、娘(月照院)を産んだ。
④娘(月照院)は、秀吉政権の五人老の一人宇喜多秀家の娘が結城秀康に嫁いだ際に付人として福井に行った。
⑥その後、結城秀康に見初められて側室となって、後継者となる直政や、毛利秀就正室(喜佐姫)を産んだ。
⑦その縁で三谷・香西両氏は、松江藩松平家に仕えるようになった。

松江藩松平家の4代目藩主となった直政は、祖父が秀吉と家康で、母月照院は香西氏と三谷氏出身と云うことになります。月照院については、14歳で初陣となる直政の大坂夏の陣の出陣の際に、次のように励ましたと伝えられます。
「栴檀は双葉より芳し、戦陣にて勇無きは孝にあらざる也」

そして、自ら直政の甲冑
下の着衣を縫い、馬験も縫って、それにたらいを伏せ墨で丸を描き、急場の験として与えたと伝えられます。
   松平直政が生母月照院の菩提を弔うため月照寺を創建します。これが松江藩主松平家の菩提寺となり、初代直政から九代斎貴までの墓があります。そこに月照院も眠っています。

月照寺(島根県松江市) 松江藩主菩提所|和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
月照院の墓(松江市月照寺)

「雲州香西系図」には、太郎右衛門の子工之・景頼兄弟の子孫も松江藩松平家に仕えており、越前松平家から移ってきたことが裏付けられます。  殿様に見初められ側室となって、男子を産んだ姉の「大手柄」で出雲の香西家は幕末まで続いたようです。

松平直政 出雲初代藩主


今度は最初に見た「池田輝政へ行き、三千石賜」わったと記される「香西縫殿助」を見ておきましょう。
備前岡山藩池田家領の古文書を編さんしたものが『黄薇古簡集』です。
岡山県の中世文書
              黄薇古簡集
その「第五 城府 香西五郎右衛門所蔵」文書中に、1583(天正11)年7月26日の「香西又一郎に百石を宛がった三好信吉(羽柴秀次)知行宛行状」があります。
ここに出てくる香西又一郎とは、何者なのでしょうか?
香西五郎右衛門の系譜を、研究者は次のように復元しています
香西主計
 讃岐香西郡に居城あり。牢人して尾張へ移る。池田恒興の妻の父で、輝政の外祖父荒尾美作守善次に仕える。八七歳で病死。
縫殿介 
主計の惣領。池田勝入斎(恒興)に仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦で討死。又市の兄
又市 (又一郎)
五郎右衛門の親。主計の次男。尾張国知多郡本田庄生まれ。池田勝入斎に仕え、池田輝政の家老伊木長兵衛の寄子であった。天正9年(1581)、摂津国伊丹において50石拝領。勝入の娘若御前と羽柴秀次の婚礼に際し、御興副に遣わされる。天正11年に50石加増され、摂津国で都合100石を拝領。天正12年4月8日、小牧長久手の戦いに秀次方として戦う。翌日、藩主池田勝入とともに討死。三八歳。
五郎右衛門  
父・又市の討死により秀次に召し出され、知行100石を安堵。天正13年、近江八幡山で秀次より百石加増され200石を拝領。文禄四年(1595)7月の秀次切腹後、 11月に伏見において輝政に召し出された。当年50歳。

ここには又市の父香西主計について、「讃岐香西郡に居城あり。牢入して尾張へ移」り、池田恒興の妻の父荒尾善次に仕えたとあります。香西主計の長男・縫殿介は、池田恒興に仕え、1570年の姉川の戦いで討死しています。次男の又市は恒興女子と三好信吉(のちの羽柴秀次)との婚儀に際し御輿副として遣わされ、秀次に仕えます。天正13年に加増されたときの知行宛行状も収められています。又市は、文禄四年の羽柴秀次の切腹後は、池田家に戻り輝政に仕えました。その子孫は池田家が備前に移封になったので、備前岡山藩士となったことが分かります。
  『南海通記』・『南海治乱記』に載せられた「香西縫殿助」を見ておきましょう。
こちらには「香西縫殿助」は、香西佳清の侍大将で天正14年の豊後戸次川の合戦に加わったと記されるのみです。『南海通記』などからは香西縫殿助がどのようにして、池田家に仕官したかは分かりません。これは香西主計の長男縫殿介と戸次川で戦死した「香西縫殿助」を南海通記は混同したものと研究者は考えています。 ここにも南海通記の資料取扱のあやふやさが出ているようです。
 香西氏については、讃岐の近世史料にはその子孫の痕跡が余り出てきません。しかし、近世大名に仕官し、藩士として存続した子孫もいたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」
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永世の錯乱2
永世の錯乱と細川氏の抗争

1493(明応2)年4月、細川政元は対立していた将軍足利義材を追放して足利義澄を新たに将軍職に就けます。こうして政元は、幕府の実権を握ります。政元は「天狗信者」で、天狗になるための修行を行う修験者でもあり、女人を寄せ付けませんでしたから、実子がいません。そのため前関白九条政基の子を養子とし澄之と名付けました。ところがその上に阿波守護細川成之の孫も養子として迎えて澄元と名付けます。こうして3人の養子が登場することになります。当然、後継者争いを招くことになります。これが「永正の錯乱」の発端です。
 ①1507(永正4)年6月23日、管領細川政元は被官の竹田孫七・福井四郎らに殺害されます。これは摂津守護代の薬師寺長忠と山城守護代香西又六元長が謀ったもので、主君政元と澄元を排除し、澄之(前関白九条政基子)を京兆家の家督相続者として権勢を握ろうとしたものでした。
 ②政元を亡き者にした香西元長らは、翌日には京兆家の内衆とともに細川澄元(阿波守護細川慈雲院孫)を襲撃します。家督争いの元凶となる澄元も亡き者にしようとしたようです。しかし、澄元の補佐役であった三好之長が、澄元を近江の甲賀に落ち延びさせます。この機転により、澄元は生きながらえます。こうして、武力で澄元を追放した澄之が、政元の後継者として管領細川氏の家督を継ぐことになります。この仕掛け人は、香西元長だったようです。このときの合戦で、元長は弟元秋・元能を戦死させています。
 一方、近江に落ち延びていた細川澄元と三好之長も、反攻の機会をうかがっていました。
 ③三好之長は、政元のもう一人の養子であった細川高国の支援を受け、8月1日、細川典厩家の政賢・野州家の高国・淡路守護細川尚春ら細川一門に澄之の邸宅を急襲させます。この結果、細川澄之は自害、香西元長は討死します。これを『不問物語』は、次のように記します。
「カクテ嵐ノ山ノ城ヘモ郷民トモアマタ取カケヽル間、城ノ大将二入置たる香西藤六・原兵庫助氏明討死スル上ハ、嵐ノ山ノ城モ落居シケリ。」

『後法成寺関白記』7月29日条には、次のように記します。
「香西又六(元長)嵐山の城、西岡衆責むるの由その沙汰」

とあることからも裏付けられます。この戦いで讃岐両守護代の香川満景・安富元治も澄之方として討死にしています。この戦いは、「細川四天王」と呼ばれた讃岐武士団の墓場となったとも云えます。この結果、香川氏なども本家が滅亡し、讃岐在国の庶家に家督が引き継がれるなど、その後の混乱が発生したことが考えられます。
永世の錯乱 対立構図

政元暗殺から2ヶ月足らずで、香西元長は澄之とともに討たれてしまいます。
 勝利者として8月2日には、近江に落ちのびていた澄元が上洛します。そして将軍・足利義澄から家督相続を認められたうえ、摂津・丹波・讃岐・土佐の守護職を与えられています。自体は急変していきます。こうして、将軍義澄を奉じる細川澄元が幕府の実権を握ることになります。しかし、それも長くは続きません。あらたな要素がここに登場することになります。それが細川政元によって追放されていた第10代の前将軍・足利義材(当時は義尹)です。彼は周防の大内義興の支援を得て、この機会に復職を図ろうとします④④この動きに、澄元と対立しつつあった細川高国が同調します。高国は和泉守護細川政春の子でしたので、和泉・摂津の国人の多くも高国に味方します。こうして細川澄元と高国の対峙が続きます。

 このような中で、1508(永正5)年4月、足利義材が和泉の堺に上陸して入京を果たします。
足利義材が身を寄せた放生津に存在した亡命政権~「流れ公方」と呼ばれた室町幕府10代将軍 - まっぷるトラベルガイド

このような状況にいちはやく反応したのが京の細川高国でした。
高国は義稙の上洛軍を迎え、義稙を将軍職に復位させ、自らは管領になります。細川澄元・三好之長らの勢力を押さえ込むことに成功しま 
 す。見事な立ち回りぶりです。不利を悟った将軍の足利義澄と管領の細川澄元は、六角高頼を頼って近江に落ち延びていきます。こうして、義材が将軍に復職し、高国が管領細川氏を継ぐことになります。永世の錯乱の勝利者となったのは、この二人だったことを押さえておきます。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四国統一

 このような京での権力闘争は讃岐にも波及します。
 京では讃岐の香西氏と阿波の三好が対立していました。それが讃岐にも影響してきます。阿波の三好氏は、東讃の十河氏や植田一族を配下に入れて、讃岐への侵攻を開始します。こうして讃岐国内では、阿波の細川・三好の後押しを得た勢力と、後盾を持たない香西・寒川氏らの勢力が対峙することになります。そして次第に、香西氏らは劣勢となっていきます。

大内義興の上洛

 そのような中で大きな動きが起きます。それが大内義興に担がれた将軍義稙の上洛軍の瀬戸内海進軍です。
この上洛のために大内氏は、村上水軍や塩飽などを含め、中国筋、瀬戸内の有力な諸氏に参陣を呼びかけます。これに対して讃岐では、香川や香西らの諸将がこれに応じます。香西氏は、仁尾の浦代官や塩飽を支配下に置いて、細川氏の備讃瀬戸制海権確保に貢献していたことは以前にお話ししました。これらが大内氏の瀬戸内海制海権制圧に加わったことになります。こうして、瀬戸内海沿岸は、大友氏によって一時的に押さえられることになります。
  南海通記は、上香西氏が細川氏の内紛に巻き込まれているとき、下香西元綱の家督をうけた元定は、大内義興に属したこと。そして塩飽水軍を把握して、1531(享禄四)年には朝鮮に船を出し交易を行い利益を得て、下香西氏の全盛期を築いたとします。

しかし、香西氏の栄光もつかの間でした。細川澄元の子・晴元の登場によって、細川家の抗争が再燃します。

細川晴元の動き 

1531(亨禄四)年、高国は晴元に敗れて敗死し、晴元が管領となります。晴元の下で阿波の三好元長は力を増し、そして、三好氏と深く結びついた十河氏が讃岐を平定し、香西氏もその支配を受けるようになります。この時点で阿波三好氏は、讃岐東部を支配下に起きたことを押さえておきます。

ここで少し時代をもどって、 永世の錯乱の原因を作った香西元長と讃岐の関係を示す史料を見ておきましょう。
 元長が細川一門に攻められて討死する際の次の史料を研究者は紹介します。
① 『細川大心院記』同年八月一日条
「又六(元長)カ与力二讃岐国住人前田弥四郎卜云者」がいて、元長に代わり彼の具足を着けて討死したこと
ここからは、前田弥四郎が元長の身代わりになって逃がそうとしたことがうかがえます。前田弥四郎とは何者なのでしょうか?
前田氏は「京兆家被官前田」として、次の史料にも出てきました。
②『建内記』文安元年(1444)6月10日条。
香西氏の子と前田氏の子(15歳)が囲碁をしていた。その時に、細川勝元(13歳)が香西氏に助言したのを、前田氏の子が恨んで勝元に切りかかり、返り討ちにあった。このとき、前田氏の父は四国にいたが、親類に預け置かれた後に、一族の沙汰として切腹させられた。そのため、前田一党に害が及ぶことはなかった。
この話からは次のようなことが分かります。
①細川勝元の「ご学友=近習」として、香西氏や前田氏の子供が細川家に仕えていたこと
②前田家の本拠は四国(讃岐?)あり前田一党を形成していたこと。

ここからは、京の細川家に仕えていた香西の子と前田の子は、成人すればそれぞれの家を担っていく者たちだったのでしょう。主家の細川惣領家に幼少時から仕えることで、主従関係を強固なものにしようとしたと研究者は考えています。
 そして「香西元長に代わり、彼の具足を着けて討死した讃岐国住人前田弥四郎」は、京兆家被官で元長の寄子となっていたと研究者は推測します。このような寄子を在京の香西家(上香西)は、数多く抱えていたようです。それが「犬追物」の際には、300人という数を京で動員できたことにつながるようです。

もうひとり香西元長に仕えていた一族が出てきます。
『細川大心院記』・『瓦林正頼記』に、元長邸から打って出て、元長とともに討死した中に「三野五郎太郎」がいたと記します。
『多聞院日記』にも、討死者の一人に「美濃五郎太郎」が挙げられています。これは同一人物のようです。三野氏については以前に「三野氏文書」を紹介したときにお話ししました。源平合戦の際には、平家方を見限っていち早く頼朝側について御家人となって、讃岐における地盤を固めた綾氏の一族とされます。後には西方守護代香川氏の被官し、家老職級として活動します。生駒藩でも5000石の重臣として取り立てられ、活発に荒地開発を行った一族です。三野氏も、香西氏の寄子となっていた一族がいたようです。

古代讃岐の郡と郷NO2 香川郡と阿野郡は中世にふたつに分割された : 瀬戸の島から
『南海通記』に出てくる「綾(阿野)北条郡」を見ておきましょう。
『南海通記』巻之十九 四国乱後記の「綾北条民部少輔伝」
香西備中守(元継)丹波篠山ノ領地閥所卜成り、讃州綾ノ北条ハ香西本家ヨリ頒チ遣タル地ナレ共、開所ノ地卜称シテ官領(細川)澄元ヨリ香川民部少輔二賜ル。是京都ニテ香西備中守二与セスシテ、澄元上洛ヲ待付タル故二恩賞二給フ也。是ヨリシテ三世西ノ庄ノ城ヲ相保ツ。
意訳変換しておくと
香西備中守(元継=元長?)の(敗死)によって丹波篠山の領地が閥所となった。もともとこの領地は、讃州綾北条郡の香西本家から分かち与えられた土地で、先祖伝来の開所地であった。それを官領(細川)澄元は、京都の香西備中守に与えずに、香川民部少輔(讃岐守護代)に与えた。澄元が上洛したときに恩賞として貰った。以後、三世は西ノ庄城を確保した。

 ここからは「元継」は京兆家の家督争いにおいて、澄之に忠義を尽くしたため、澄元方に滅ばされ、その所領の「讃州綾ノ北条」は閥所(没収地)となったこと。そして澄元から、元継に味方しなかった香川民部少輔に与えられたというのです。
  この内容から南海通記の「元綱」が史料に登場する又六元長と重なる人物であることが分かります。
香西氏系図 南海通記.2JPG
南海通記の「讃州藤家系図」
『南海通記』の「讃州藤家系図」には、②元直の子として「元継」注記に、次のように記します。
備中守 幼名又六 細川政元遭害而後補佐於養子澄之。嵐山ニ戦死

この注記の内容は、香西元長のことです。しかし、元長ではなく「元綱」「備中守」と記します。元長の名乗りは、今までの史料で見てきたように終始、又六でした。備中守の受領名を名乗ったことはありません。南海通記の作者は、細川政元を暗殺したのが「又六元長」であることを知る史料を持っていなかったことがうかがえます。そして「元綱」としています。ここでも南海通記のあやふやさが見えます。

今度は『香西記』の香西氏略系譜で、又六元長を特定してみましょう。
香西氏系図 香西史
香西記の香西氏略系譜
南海通記や香西記は、細川四天王のひとりとされる①香西元資の息子達を上・下香西家の始祖とします。

香西元直
②の元直の系図注記には、次のように記します。
「備後守在京 本領讃州綾北条郡 於丹波也。加賜食邑在京 曰く上香西。属細川勝元・政元、為軍功」

意訳変換しておくと
元直は備後守で在京していた。本領は讃州綾北条郡と丹波にあった。加えて在京中に領地を増やした。そのため上香西と呼ばれる。細川勝元や政元に仕え軍功を挙げた。

次の元直の息子③元継の注記には、次のように記します。

香西元継

「又六後号備中守 本領讃州綾北条郡 補佐細川澄之而後、嵐山合戦死。断絶也」

意訳変換しておくと
「又六(元長)は、後に備中守を号した。本領は讃州綾北条郡にあった。細川澄之を補佐した後は、嵐山合戦で戦死した。ここに上香西家は断絶した」

ここからは香西記系図でも③元継が元長、④直親(次郎孫六)が元秋に当たることになります。『細川両家記』・『細川大心院記』には、元長の弟・元秋は永正4年6月24日、京都百々橋において澄元方と戦い討死としているので、これを裏付けます。
 この系図注記には、綾北条郡は在京して上香西と呼ばれたという②元直から③元継が相伝した本領とあります。そして上香西は、元継(元長)・直親(元秋)の代で断絶しています。
また、下香西と呼ばれた元直の弟⑤元顕は、注記には左近将監元綱と名乗ったとされ、綾南条・香東・香西三郡を領有したと記されています。

南海通記の 「上香西・下香西」のその後を見ておきましょう。
元長・元秋兄弟が討死したことで、上香西氏は「断絶也」と記されていました。元長討死の後、次のような史料があります。
1507(永正四)年12月8日に、「香西残党」都において土一揆を起こしたこと、
1508年2月2日には、澄元方から「香西牢人」を捕縛するよう祇園社執行が命じられいること。
ここからは、香西浪人たちの動きがしばらくの間は、残っていたことがうかがえます。
それでは、讃岐在住とされる「下香西」は、どうなったのでしょうか
南海通記や香西史は、下香西は⑤香西元顕(綱)が継いだと注記されています。そして『南海通記』巻之六 讃州諸将帰服大内義興記に、次のように記されています。

永正四年八月、京都二於テ細川澄之家臣香西備中守元継忠死ヲ遂ゲ、細川澄元家臣三好筑前守長輝(之長)等京都二横行スト聞ヘケレハ、大内義興印チ前将軍義材公ノ執事トシテ中国。九国ニフレテ与カノ者ヲ描ク。讃州香西左近持監元綱・其子豊前守元定二慇懃ノ書ヲ贈リテ義材公ノ御帰洛二従ハシム。

  意訳変換しておくと
1507(永正四)年8月、京都で細川澄之の家臣香西備中守元継は忠死を遂げた。細川澄元の家臣三好筑前守長輝(之長)等など阿波三好勢力が京都の支配権を手にした。これに対し、大内義興は前将軍の義材公の執事として中国・九州の有力者に触れ回り結集を呼びかけた。讃州の香西左近持監⑤元綱(顕)・その子の豊前守⑥元定にも助力要請の文書がまわってきたので、それを受けて前将軍義材公の御帰洛に従った。

 先ほど見たように細川高国は、前将軍足利義材を擁する周防の大内義興と連携し、将軍足利義澄に対し謀叛を起こします。これに対して叶わずとみた義澄と家臣の三好之長は8月9日、近江坂本へ落ちのびています。その翌日に、高国は軍勢を率いて入京します。8月24日には義材を奉じて大内義興が和泉堺へやってきます。この史料にあるように、大内義興が香西元綱を味方に誘ったというのが事実であるとすれば、このときのことだと研究者は推測します。

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「天文日記」は、本願寺第十世證如の19年間の日記です。
證如21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けたものです。その中に、福善寺という讃岐の真宗寺院のことが記されています。 
『天文日記』天文十二年
①五月十日 就当番之儀、讃岐国福善寺以上洛之次、今一番計動之、非何後儀、樽持参
②七月二十二日 従讃岐香西神五郎、初府致音信也。使渡辺善門跡水仕子也。
①には「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあります。福善寺は高松市にありますが、この時期に本願寺へ樽を持参していたことが記されています。ここからは16世紀半ばに、本願寺の真宗末寺が髙松にはあったことが分かります。
②には7月22日「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」とあります。
これは、香西神五郎が初めて本願寺を訪れたようです。香西氏の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたことがうかがえます。後の史料では、香西神五郎は本願寺に太刀を奉納しています。香西氏一族の中には、真宗信者になって本願寺と結びつきを深めていく者がいたことを押さえておきます。  このように「天文日記」には、讃岐の香西氏が散見します。
1547(天文16)年2月13日条には、摂津国三宅城を攻めた三好長慶方の軍勢の一人として香西与四郎元成の名前があります。ここからは、天文年間になっても畿内と讃岐に香西氏がいたことが分かります。永世の錯乱後に上香西氏とされる元長・元秋の系譜は断絶しますが、その後も香西氏は阿波の三好長慶の傘下に入り、畿内での軍事行動に従軍していたようです。

室町時代から戦国時代初めにかけて、香西氏には豊前守・豊前入道を名乗る系統と五郎左(右)衛門尉を名乗る系統との二つの流れが史料から分かります。また、それを裏付けるように、『蔭凍軒日録』の1491(延徳三)年8月14日条に「両香西」の表現があること。そして、「両香西」は、香西五郎左衛門尉と同又六元長を指すことを以前にお話ししました。この二人は京兆家との関係では同格であり、別家であったようです。
 史料に出てくる香西五郎左衛門を挙げると次のようになります。。
①「松下集」に見える藤五郎藤原元綱
②政元に仕えていた孫五郎
③元継・高国の挙兵に加わった孫五郎国忠
④本太合戦で討死する又五郎
ここからは「五郎左(右)衛」の名乗りは「五郎 + 官途名」であることがうかがえます。そうすると「天文日記」に現れる五郎左衛門は、名乗りからみて五郎左(右)衛門系の香西氏と推察できます。
もう一つ豊前守系香西氏の系譜を、研究者は次のように推測します。
又六元長
元長死後にその名跡を継いだ与四郎(四郎左衛門尉)元盛
柳本賢治の(甥)
その縁者とみられる与四郎(越後守)元成
ちなみにウキには、下香西家について次のように記しています。

天文21年(1552年)、晴元の従妹・細川持隆(阿波守護)が三好長慶の弟・三好実休に討たれると、元定の子・香西元成は実休に従い、河野氏と結び反旗を翻した香川之景と実休との和睦を纏めている(善通寺合戦)。

以上からは香西家には、2つの系譜があったことはうかがえます。しかし、それを在京していた勢力、讃岐にあった勢力という風には分けることはできないようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」
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 前回は、香西五郎左衛門と香西又六(元長)が「両香西」と呼ばれるほど親密で、彼らが内衆として細川政元を支えていたこと、そのような中で香西五郎左衛門は、1492(延徳四)年に備中の戦いで討ち死にしたことを見ました。今回は、残された香西又(孫)六元長を、見ていくことにします。

香西又六(元長)の出てくる資料を時代順に並べて見ていきます。
34 1489(長享3)年正月20日
  細川政元、犬追物を行う。香西又六(元長)・牟礼次郎ら参加する。(「小野均氏所蔵文書」『大日本史料』 第八編之二十八、198P)

香西又六(元長)が細川政元に仕え始めたことが分かるのは資料34です。そして、この年の夏以後、香西又六の名前が以下のように頻繁に出てくるようになります。
35 1489年7月3日
細川政国、飛鳥井雅親・細川政元ら罫に五山の僧侶と山城国禅晶院において詩歌会を行う。香西又六・牟礼次郎ら参加する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻437P)

36 1489年長享三年8月12日
明日の細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。(「蔭涼軒日録」同前、三巻470頁) 
「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」
  意訳変換しておくと 
例の如く蔭凍軒主のもとを訪れた塗師の花田源左衛門の話が細川京兆家の政元に及んだ。13日の犬追物では、香西党ははなはだ多数であり、伝えられるところでは、(香西氏が属する)讃岐藤原氏は七千人ほどもいて、他の武士団は動員力でこれには適わない。牟礼・鴨井・行吉なども香西と同族の者である。現在、京都に集まつている香西一族は300人を越えるのではないかという。
 
都に300人を集めての「犬追物」は、軍事的示威行動でもあります。ここからは「香西一党」は、在京武士団の中では有力な存在だったことがうかがえます。
また「牟礼・鴨井・行吉なども香西と同族の者」とあります。以下の史料で、又六とコンビで登場してくるのが牟礼次郎です。彼も香西一族の一員で、香西氏の最も信頼できる一族だったようです。

笑哭!我身後真的不是桌球拍!不懂別瞎說- 每日頭條
見聞諸家紋
応仁の乱の最中に成立していたとされる『見聞諸家紋』(『東山殿御家紋帳』)は、武将達の家紋集です。
この中に「讃岐藤家左留霊公(讃留霊王=神櫛王)之孫」として、大野・香西・羽床・福家・新居・飯田などの讃岐藤原氏の家紋が集められています。どれも三階松を基調にしたものです。
香西氏 家紋の写真素材 - PIXTA

香西氏については、香西越後守元正の名が見え、三階松並根篠を家紋としています。本書は、当時の応仁の乱に参軍した細川勝元方の武家諸家の家紋を収録したものです。ここからも香西氏が属する讃岐藤原氏が多数参戦していたこと、その指揮権を握っていたのが香西氏だったことがうかがえます。また、彼らは綾氏系図に示すように先祖を神櫛王とする一族意識を持っていたことも分かります。

史料36からは応仁の乱後の香西氏の隆盛が伝わってきます。
香西氏は東軍の総大将・細川勝元の内衆として活躍し、以後も細川家や三好家の上洛戦に協力し、畿内でも武功を挙げます。南海通記には「細川四天王」として、讃岐武士団の、香川元明、安富盛長、奈良元安と並んで「香西元資」を記します。しかし、史料に香西元資が現れるのは、応仁の乱以前です。
 また、この時期の細川政元の周辺には「香西又六・香西五郎左衛門尉・牟礼次郎」の3人の香西氏が常に従っていたことが以下の史料から分かります。

36 1489年8月13日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。(「蔭涼軒日録」同前、三巻471P、「犬追物手組」『大日本史料』第八編之二十八、194P)

この日に行われた政元主催の大追物にも、香西又六元長は香西五郎左衛門・牟礼次郎とともに射手の一人として加わっています。
 
細川政元の似顔絵
細川政元

39 1492(延徳4)年3月3日
細川政元、奥州へ赴く。香西又六(元長)・牟礼次郎・同弟新次郎・鴨井藤六ら十四騎が御供する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、四巻304P)

   政元は、天狗になるために天狗道(修験道)に凝って、「女人断ち」をしてさまざまな修行を行っていたと云われます。そのため日頃から修験者の姿だったといわれ、各地の行場に出かけています。この奥州行きも修行活動の一環かも知れないと私は想像しています。そうだとするお供達の元長や牟礼次郎兄弟なども修験姿だったのでしょうか? また、彼らも修験の心得があったのかもしれません。そんなことを想像すると面白くなってきます。どちらにしても「政元の行くところ、元長と牟礼次郎あり」という感じです。

41 1492年8月14日
将軍足利義材、来る27日を期して六角高頼討伐のため近江国に出陣することを決定する。細川政元は 26日に比叡の辻へ出陣。「両香西」(又六(元長)と五郎左衛門尉)ら8騎は留守衆として在京する。(「蔭涼軒日録」同前、四巻442P 

ここに「両香西」という表記が出てきます。これを南海通記に出てくる上香西と下香西と捉えたくなるのですが、どうもちがうようです。「両香西」の又六と五郎左衛門は、二人ともに在京していますが、本拠は、讃岐にあるようです。本家・分家の関係なのでしょうか?

43 1492(延徳四)年3月14日
細川政元、丹波国へ進発する。牟礼・高西(香西)又六ら少々を伴う。(『多聞院日記』五巻166P)

この時の丹波行には、又六は乙名衆ではなく「若者」衆と呼ばれるなど、若年で政元の近習としての役割を果たしています。
そうした中で、トリオの一人だった香川五郎左衛門が備中の戦いで戦死します。
44 1492年3月28日
  細川政元被官庄伊豆守元資、備中国において、同国守護細川上総介勝久と戦い敗北する。元資方の香西五郎左衛門尉戦死し、五郎左衛門尉に率いられた讃岐勢の大半も討ち死にした。
  
 45 1492年4月4日
細川政元、奈良・長谷へ参詣する。香西又六(元長)・牟礼兄弟ら六騎を伴う。(「大乗院寺社雑事記」『続史料大成』本、十巻153頁)

  1493(明応2)年4月、細川政元は将軍足利義材を廃し、義高(義澄)を擁立し、専制政権を樹立。

50 1493年6月18日
蔭涼軒主のもとを訪れた扇屋の羽田源左衛門がいつものように讃岐国の情勢を次のように語ります。
讃岐国は十三郡なり、六郡は香川これを領するなり、寄子衆亦皆小分限なり、しかりと雖も香川に与し能く相従う者なり、七郡は安富これを領す、国衆大分限の者惟れ多し、しかりと雖も香西党、首として皆各々三味し、安富に相従わざる者惟れ多きなり、小豆島亦安富これを管すと云々、(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、五巻369P 県史1062) 

ここには次のようなことが記されています。
①当時の讃岐は13郡であったこと
②西讃の6郡の守護代は香川氏で、国人領主達は小規模な「寄子衆」あるが香川氏によく従うこと
③東讃の7郡の守護代は安富氏であるが「国衆大分限」の領主が多く、まとまりがとれないこと。
つまり、西讃は小規模な国人領主である「寄子衆」が多く、香川氏との間に寄親―寄子の主従関係が結ばれていたようです。それに対して、東讃は大分限者(大規模な国人領主)が多く、香西党や十河・寒川氏等が独自の動きをして、安富氏の統率ができなくなっている、と云います。東讃の「国衆」は、西讃の「寄子衆」に比べて、独立指向が強かったようです。このような中で東讃で台頭していくのが香西氏です。
室町期の讃岐国は、2分割2守護代制で、西方守護代香川氏は、応仁の乱まで常時在国して讃岐西方の統治に専念していたようです。
応仁の乱後に上洛した守護代香川備中守は、京兆家評定衆の一員としてその重責を果たすとともに、讃岐には又守護代を置いて西讃の在地支配を発展させていきます。それに対して、東讃守護代の安富氏は、守護代就任当初から在京し、応仁の乱が始まると又守護代も上洛してしまいます。そのために讃岐での守護代家の勢力は、次第に減少・衰退していきます。
 そのような中で、香西氏は阿野・香川両郡を中心に勢力を築き、牟礼・鴨井両氏と同族関係を結び、国人領主として発展していきます。そして、京都ではその軍事力が注目され、京兆家の近臣的存在として細川氏一族の一般的家臣の中で抜きん出た力を保持するようになったようです。
 大内義興が上洛した頃の当主香西元定(元綱の子)は大内氏に属し、備讃瀬戸を中心とする塩飽水軍を配下に置いて、香西氏の全盛期を築いたと南海通記は記します。
このような中で1496(明応5年)には、香西氏の勧進で、東讃岐守護代の安富元家・元治などの近在の武士や僧侶・神官等を誘って、神谷神社で法楽連歌会を催します。それが「神谷神社法楽連歌」一巻として奉納されます。香西氏は、神谷神社やその背後の白峰寺などの在地寺社の僧侶・神官や在地武士の国人・土豪層を、神谷神社の法楽連歌会に結集して、讃岐国内における政治的・宗教的な人的ネットワークを形成しようとしたものと研究者は考えています。

53 1497年10月
  細川政元が山城国の北五郡(下郡)の守護代に又六元長を任命。
  政元政権において香西元長が頭角を現すようになるのは、このとき以後になります。どうして、又六が起用されたのでしょうか?
山城国は将軍家御料国で、守護は幕府政所頭人世襲家の伊勢氏で当時の守護は備中守貞陸でした。南山城では、守護方と京兆家被官の国衆との武力抗争が続いています。 一方では、前河内守護畠山尚順ら義材派による周辺地域の制圧も進んでいます。このような情勢の中で、政元は内衆の中で最も信頼の置ける香西元長を山城守護代に任命します。そして伊勢氏と協同することで山城国を固め、影響力の拡大を図ろうとしたようです。細川政元が又六元長に期待したのは、「香西一族の軍事力」だった研究者は考えています。

山城守護代としての元長の活動について、見ておきましょう。

1498年2月1日、元長は政元に、山城北五郡内の寺社本所領と在々所々の年貢公事五分一の徴収を提言して認めさせています。これは五分一済と呼ばれる守護の警固得分で、相応の礼銭を収めることで免除されました。1498年2月16日条には、「守護方又六寺領五分一違乱の事」につき、「涯分調法せし」め、「二千疋ばかりの一献料をもって、惣安堵の折紙申沙汰せしむべしと云々。」とあります。ここからは鎮守八幡宮供僧らは、元長に一献料を収めることで、安堵の折紙を得たことが分かります。
 1501(文亀元)年6月21日条には、元長による五分一済について「近年、守護方香西又六、当国寺社本所五分一拝領せしむと称し、毎年その礼銭過分に加増せしむる」とあります。ここからは、毎年免除を名目として礼銭を徴収していたことが分かります。

1500(明応9)年12月20日条には、次のようにあります。
城州守護香西又六、惣国の寺社本所領五分一、引き取るべきの由申すの間、連々すでに免除の儀、詫び事ありといえども、各々給入すでに宛がうの上は、免除の儀かなうべからざるの旨香西返答の間(以下略)

 ここからは又六元長は、寺社本所領についての五分一得分を、自分の給人に給付して勢力を強化していたことがうかがえます。また、東寺側は、元長を「城州守護香西又六」と「守護」と呼んでいます。

1504(永正元)年9月、摂津半国守護代薬師寺元一が、政元の養子阿波細川氏出身の澄元の擁立を図って謀叛を起こします。この時に元長は「近郷の土民」に半済を契約して動員し、「下京輩」には地子(地代)を免除して出陣し、元一方を攻め落としたとされます。これ以降、元長による半済の実施が強行されるようになります。
又六元長の3人の弟、孫六元秋・彦六元能、真珠院宗純を見ておきましょう。
『後法興院記』1495(明応4)年10月26日条には、弟の元秋は、兄・元長が山城守護代に任命されると、その翌月には兄とともに寺社領に立ち入り、五分一済の徴収を開始しています。身延文庫本『雑々私要抄』紙背文書からは、弟元秋が紀伊郡の郡代生夷景秀らの郡代と兄元長との間に立って、香西氏の家政を執っていたことがうかがえます。
 また、九条家文書には、元秋は九条家の申し出をうけ国家領についての半済停止の件を兄元長へ取りついでいます。さらに元能は九条家領山城国小塩庄の代官職を請け負っています。香西兄弟の九条家との関わりは、元長が政元のもう一人の養子九条政基の実子澄之方についていたことを反映していると研究者は考えています。
 ここからも山城の守護代として軍事財源を確保し、「手近に仕える暴力装置の指揮者」の役割を又六元長に期待していたことがうかがえます。

以上を整理しておきます。
①応仁の乱後、管領家を相続した細川政元は天狗道に邁進する変わった人物であった。
②細川政元を支えた家臣団に南海通記は「細川家四天王」と、讃岐の武士団を挙げいる。
③その中でも政元の近習として身近に仕えたのが香西一族の香西又六・香西五郎左衛門尉・牟礼次郎の3人であった。
④香西氏は応仁の乱以後も結束して動き、総動員数7000人、在京300人の軍事力を有していた。
⑤そのため細川政元は、腹心の香西一族の若衆である又六を山城守護代に登用し、軍事基盤を固めようとした。
⑥こうして細川政元の下で、香西氏は畿内において大きな影響力をもつようになり、政治的な発言権も高まった。
⑦その結果、細川氏の内紛に深く介入することになり、衰退への道を歩み始める。
再び家督争いをする細川家 着々と実権を握る三好家
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献

南海通記
南海通記目次
    南海通記に書かれた香西氏系譜は、残された史料に登場する香西氏の棟梁達とかみあわないことを見てきました。ここからは、南海通記に頼らない香西氏系譜を考えていくことが必要なようです。そのために研究者は、香西氏について触れている一次資料を探して、年代順に並べて家譜を作成すると地道な作業を続けて来ました。その中で明らかになってきたことの一つが、香西氏には2つの流れがあったことです。それを今回は見ていくことにします。テキストは、「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」です。  

15世紀半ばの香西氏の登場する史料を見ていきます。
18 嘉吉3年(1443)5月21日
 摂津国住吉郡堺北庄の領主香西之長が、内裏御厨子所率分の同庄警固得分五分一を本所に対し請け負う。得分の半分は本所万里少路家が、残り半分は関所の半分を請け負った細川持之の後家がそれぞれ負担する。なお、同年6月1日の持之後家阿茶于書状案に「かうさいの五郎ゑもん」と見える。
(「建内記」『大日本古記録』本、嘉吉三年八月九日条・香西五郎右衛門尉之長請文案6巻59P69P 
ここからは次のような事が分かります。
①香西之長が摂津の住吉郡北荘の領主(守護代?)をつとめていたこと。
②香西之長は「かうさいの五郎ゑもん(香西の五郎右衛門」とも称されていたこと。
今度は4年後の1447年の一連の文書を見てみましょう。
19 1447(文安4)年正月19日
興福寺大乗院門跡経覚、香西豊前入道に樽二荷等を贈る。
 (「経覚私要抄」『史料纂集』本、一巻一四四頁)
20 1447年閏2月16日
興福寺大乗院門跡経覚、香西五郎左衛門(之長)に樽一荷等を贈る。

史料19・20には、興福寺門跡経覚が、香西豊前入道と香西五郎左衛門(之長)に、贈答品を贈っていることが記されています。ここからは、ふたつの香西氏が京都にいたことが分かります。南海通記にも、香西氏は元資以降は、上香西氏と下香西氏の二つの流れに分かれたとありました。

史料20の5日後の文書になります
21 1447年2月21日  
香西五郎左衛門(之長)は、同門跡領越前国坪江郷を年貢65貫文で請け負う。(「経覚私要抄」同前一巻166P)
香西之長は、越前でも興福寺の荘園管理を請け負っていたようです。
もうひとりの香西氏である豊前入道を見ておきましょう。
 この年の5月21日に興福寺学侶衆徒が、坪江郷政所職を請け負いながら年貢を納めようとしない香西豊前入道を改易します。この豊前入道は誰なのでしょうか。時期からみて仁尾浦代官を務めていた香西豊前の出家後の呼び名と研究者は判断します。
香西氏系図 南海通記
南海通記の香西氏系図 史料と一致しない。
 ちなみに、丹波守護代を務めた①「香西元資」も香西豊前を名のっていたことは前々回に見たとおりです。
南海通記は「香西元資」を「細川家ノ四天王」として次のように記します。
享徳元年ヨリ細川右京大夫勝元ハ、畠山徳本に代リテ管領職を勤ルコト十三年ニ至ル、此時香川肥前守元明、香西備後守元資安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安四人ヲ以テ統領ノ臣トス、世人是ヲ細川家ノ四天王ト云フ也。
意訳変換しておくと
享徳元年から細川勝元は、畠山徳本を拠点に管領職を13年に渡って務めた。この時に。香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安の四人を統領の家臣団として重用した。そこで、世間では彼らを細川家の四天王と呼んだ。
 
 ここでは香西備後守元資として登場します。南海通記は、「香西元資は細川勝元より「元」字を与えられ備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得たこと」と記しますが、史料に現れる元資が丹波守護代を罷免された事実についても何も記しません。そして「丹波篠山城を得たのは、元資の息子②元直」とするのです。また「丹波守」ではなく「備後守」としています。
   以上からして、史料19・20の15世紀半ばに活躍する「香西豊前入道と香西五郎左衛門(之長)」は、細川家四天王の一人とされる香西元資の子弟達であったと研究者は判断します。

ところが讃岐の陶保をめぐってもうひとりの「元資」が登場します。

22 寛正2年(1461)2月9日
醍醐寺報恩院隆済、細川持之の弟右馬頭持賢に対し、被官人香西平五元資の寺領讃岐国阿野郡陶保の押領を訴える。同4年8月19日の報恩院雑掌申状案によれば、元資は持賢の斡旋により陶保の代官職を請け負っている。(「醍醐寺文書」『大日本古文書』醍醐寺文書6巻293P、同6巻290頁 県史547P)

23 寛正3年(1462)12月
  醍醐寺報恩院、再度、持賢に対し香西元資による陶保の押領を訴える。雑掌の申状案及び元資が持賢の被官秋庭・有岡両氏に宛てた9月27日付けの書状によれば、陶保代官職は元資の曾祖父香西豊前入道 → 香西豊前 →美濃守大几資と受け継がれている。
(「醍醐寺文書」『大日本古文書』醍醐寺文書6巻287) 県史549P
 ここからは、香西平五元資が陶保の代官職を持っていたが、醍醐寺より押領を細川家に訴えられていることが分かります。陶保代官職をめぐる本所の報恩院と代官の香西氏とのやり取りの中で、当事者の代官香西平五元資(幼名元氏)は、次のように述べています。

陶当保の代官職は、
①曾祖父・豊前入道から
②祖父の故豊前
③父美濃守と歴代請け負ってきた」

これを年代的に重ねて、次のように研究者は判断します。
①陶保代官の元資の曾祖父豊前入道は、常建(香西氏の内衆への道を開いた人物)
②祖父の故豊前は元資(常慶:「細川四天王」)
②の「常慶」は、元資の出家名とします。そして、元資以後の系譜を次のようにふたつに分かれたと推察します。  
  A 仁尾浦・坪江郷の代官を務めた豊前(豊前入道)
  B 陶保の代官を務めた美濃守
つまり、仁尾浦の浦代官と、陶保の代官は別の香西家だったというのです。
最初に見た五郎左(右)衛門尉を名乗る流れを見ておきましょう。

16 1441(嘉吉元)年10月
守護料所讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。(「仁尾賀茂神社文書」(県史116P)

17 1441年7月~同2年10月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門初見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114P)

 この史料で1441年10月に死去したとされる香西豊前の父が「丹波守護代の常建の子だった元資(常慶)」と研究者は判断します。香西氏のうち、この系統の当主は代々「豊前」を名乗っています。また、春日社領越前国坪江郷の政所職・醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保の代官職も請け負っています。
 一方の史料17には、「香西豊前」とともに「香西五郎左(右)衛門」が登場します。
「香西五郎左衛門」が始めて登場するのは、史料16・17の仁尾浦での騒動の時になるようです。香西五郎左衛門というもうひとつの香西氏の一族がいたことが裏付けられます。そして、香西之長も「かうさいの五郎ゑもん(香西の五郎右衛門」を名のっていてことは、最初に見たとおりです。

その後、1486(文明18)年11月27日以後の文書には、実名不明の香西五郎左衛門が次のように登場するようになります。

 28 1486(文明18)年11月27日
  細川九郎澄之、八条遍照院尭光の訴訟の事につき、香西五郎左衛門尉・清孫左衛門尉を両使として相国寺鹿苑院の蔭涼軒の軒主亀泉集証のもとへ遣わす。この件に関わって、五郎左衛門尉は翌月14・17両日も使者となっている。(「蔭涼軒日録」同前、2巻391・398・400P)

30 長享元年(1487)12月11日
細川政元、近江国鈎(曲)の陣へ参り、将軍足利義尚に謁する。香西五郎左衛門尉ら十五騎が、政元の伴衆を勤める。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻38P、「伊勢家書」『大日本史料』第八編之二十一、78P
31 長享2年(1488)6月24日
足利義政臨席のもとに、相国寺普黄院において故足利義教の斎会を行う。細川政元、門役を奉仕する。香西五郎左衛門尉、警護を勤める。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻193P)
32 同年10月23日
香西五郎左衛門尉、細川政元の使として、相国寺崇寿院領和泉国堺南荘の代官職の件を蔭涼軒主に伝える。(「蔭涼軒日録」同前。3巻269・230P)

33 同年12月13日                
香西五郎左衛門尉、細川政元の使として、真境和尚を鹿苑院後住に定める件につき蔭涼軒主の意向を尋ねる。同月17・24・27の各日条も同じ。(「蔭涼軒日録」同前、三巻293・296・301・304P)

実名不明の「香西五郎左衛門」が登場する史料をまとめると次のようになります。
29 細川澄之の使者
30 細川政元の伴衆
31 将軍足利義教の葬儀に出席する細川政元の警護役
32 細川政元の蔭涼軒主への使者
33 細川政元の蔭涼軒主への使者
ここからは細川政元の使者を務めたり、政元の伴衆に加わっていたことが分かります。「香西五郎左衛門」が内衆の一人だったことがうかがえます。
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また、別の史料には、政元主催の大追物には香西又六(元長)とともに射手を務めていることが次のように記されています。

34 1489(長享3)年正月20日
細川政元、犬追物を行う。香西又六(元長)・牟礼次郎ら参加する。(「小野均氏所蔵文書」『大日本史料』 第八編之二十八、198P)

35 1489年7月3日  
細川政国、飛鳥井雅親・細川政元ら罫に五山の僧侶と山城国禅晶院において詩歌会を行う。香西又六・牟礼次郎ら参加する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻437P)

35   1489年長享三年8月12日
 明日の細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。(「蔭涼軒日録」同前、三巻470頁) 
「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」

36 1489年8月13日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。(「蔭涼軒日録」同前、三巻471P、「犬追物手組」『大日本史料』第八編之二十八、194P)
以上からは五郎左衛門と元長は同時代人だったことも分かります。もうひとり、よく登場する牟礼次郎は、香西氏の一族で、親密な関係にあったことが分かります。彼らが内衆として細川政元を支えていたようです。
39 1491(延徳3)年3月3日
細川政元、奥州へ赴く。香西又六(元長)・牟礼次郎・同弟新次郎・鴨井藤六ら十四騎が御供する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、四巻304P)

細川政元は変わった所があって、天狗になろうとして修験道に熱中していたようです。この奥州行脚も修験修行だったのかもしれません。

『為広越後下向日記』には「京兆(政元)朝夕雑掌の儀、京都のごとく香西孫五郎基元継なり」とあります。ここからは次のことが分かります。
①孫五郎の実名は元継で、政元に近侍していたこと
②そうすると元忠と元継は父子だということ
 香西氏系図 南海通記

「両香西」と表記される史料を見ておきましょう。
41 1492年8月14日
将軍足利義材、来る27日を期して六角高頼討伐のため近江国に出陣することを決定する。細川政元は 26日に比叡の辻へ出陣。「両香西」ら8騎は留守衆として在京する。(「蔭涼軒日録」同前、四巻442P 

ここに「両香西」という表記が出てきます。これが香西又六(元長)と香西五郎左衛門尉になります。この「両香西」を南海通記に出てくる上香西と下香西と捉えたくなるのですが、どうもちがうようです。南海通記は「上香西が在京で、下香西が讃岐在住」と記します。しかし、史料には「両香西」の又六と五郎左衛門は、二人揃って在京していますが、本国は讃岐だったようです。
細川政元に仕えていた香西五郎左衛門の最後を見ておきましょう。
44 1492年3月28八日
  細川政元被官庄伊豆守(香西)元資、備中国において、同国守護細川上総介勝久と戦い敗北する。元資方の香西五郎左衛門尉戦死し、五郎左衛門尉に率いられた讃岐勢の大半も討ち死にした。
(細川勝久)備中のことにつき、広説ありていわく、去る月二十八日、大合戦あり。太守上総介(細川元治)殿、勝利を獲、庄伊豆守(元資) 、城を捨て没落す。玄蕃、また疵五ケ所をこうむり、庄と同じく没落す。香西五郎左衛門、城において切腹す。讃岐より香西、召具すところの軍兵大半討死す。備前の合力勢、功をいたしかくのごとしと云々。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、五巻576P)

意訳変換しておくと
備中の戦いについては、さまざまな噂が飛び交っているが、3月28日に大合戦があって、太守上総介(細川元治)殿が勝利して、庄伊豆守(香西元資)は、城を捨て落ち逃れたこと。玄蕃は5ケ所の手傷を負って、庄と同じく敗死したこと。香西五郎左衛門は、城で切腹したこと。讃岐から香西氏が動員した軍兵の大半は討死したという。備前の合力勢、功をいたしかくのごとしと云々。

ここからは次のようなことが分かります。
①備中国の守護細川上総介勝久と国人庄伊豆守(香西)元資との合戦があったこと
②香西五郎左衛門は香西元資方として参加し、討死したこと
その様子を、伝え聞いた蔭凍軒主は次のように記します。
①五郎左衛門は敵3人を討ち切腹したこと、
②同朋・猿楽者各一人が相伴して切腹したこと。
③この合戦において「五郎左衛門が讃岐より軍兵を召し具した」こと
③からは、五郎左衛門の本国は讃岐であったことが分かります。

以上から、室町期から戦国初期にかけての香西氏には、次の二つの香西氏がいたと研究者は考えています。
  ①豊前守・豊前入道を名乗る系統
  ②五郎左(右)衛門尉を名乗る系統
南海通記は、在京する上香西氏と讃岐在住の下香西氏がいたとします。しかし、史料からは①と②の両者とも讃岐を本国とし、京兆家内衆として京都に滞在していたことが分かります。香西家には、2つの系統があったが、本国は讃岐にあったとしておきます。
①香西氏は、讃岐では阿野・香川両郡を中心に勢力を築いた。
②牟礼・鴨井両氏と同族関係を結び、国人領主として発展した。
③15世紀には香西常健が丹波守護代に補せられ、細川家内衆としての地盤を固めた。
④その子香西元資の時代に丹波守護代の地位は失ったかが、細川家四天王としての地位を固めた。
⑤細川元資の後の香西一族には、仁尾浦の浦代官を務める「豊前系」と、陶保代官を務める「五郎左(右)衛門尉」系の2つの系統があった。
⑥京都では、香西氏一族は、牟礼・鴨井両氏等も含めてその軍事力が注目され、京兆家の近臣的存在として細川氏一族の一般的家臣の中で抜きん出た力を保持するようになった。
⑦こうして細川氏の後継者争いが起きると、主導権をにぎろうと内紛に積極的に介入していくようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年
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       香西氏系図 南海通記

 香西氏系譜
前回に南海通記の系図には、香西元資が細川氏の内衆として活躍し、香西氏の畿内における基礎を築いたとされていること、しかし、残された史料との間には大きな内容の隔たりがあることを見てきました。そして、元資より後に、在京する上香西氏②と、讃岐在住の下香西③・④・⑥の二つの流れに分かれたとしまします。しかし、ここに登場する人物も史料的にはきちんと押さえきれないようです。
例えば下香西家の⑥元成(元盛)について見ておきましょう。
香西元成
香西元成(盛)

元成は、享禄四年(1531)六月、摂津天王寺においての細川晴元・三好元長と細川高国・三好宗三(政長)との合戦で、晴元方として参戦し武功をあげたと南海通記の系図注記に記されています。 いわば香西氏のヒーローとして登場してきます。
 しかし、「香西元成(盛)」については、臨済僧月舟寿桂の『幻雲文集』瑯香西貞節等松居士肖像には、次のように記されています。

香西元盛居士。その父波多野氏(清秀)。周石(周防・石見)の間より起こり、細川源君(細川高国)幕下に帰す。以って丹波の一郡(郡守護代) を領す。近年香西家、的嗣なし。今の府君 (細川高国)、公 (元盛)に命じ以って断(和泉)絃を続がしむ。両家皆藤氏より出づ。府君、特に公をして泉州に鎮じ、半刺史 (半国守護代)に擬せり。

意訳変換しておくと
   香西元盛の父は波多野氏(清秀)である。波多野氏は周石(周防・石見)の出身で、細川源君(細川高国)に従って、丹波の一郡(郡守護代) を領していた。近年になって丹波の香西家が途絶えたために、今の府君 (細川高国)は、公 (元盛)に命じて、香西氏を継がした。両家共に、藤原氏の流れをくむ家柄であるので、釣り合いもよい。そして府君(高国)は公(元盛)を泉州の半刺史 (半国守護代)に補任した。
 
 ここには泉州の香西元盛はもともとは丹波の波多野氏で、讃岐の香西氏とは血縁関係の無い人物であったことが書かれています。確かに元成(盛)は丹波の郡守護代や和泉国の半国守護代を務め、讃岐両守護代香川元綱・安富元成とともに、管領となつた高国の内衆として活動します。
 しかし、1663(寛文3)年の『南海治乱記』の成立前後に編纂された『讃岐国大日記』(承応元年1652成立)・『玉藻集』(延宝五年1677成立)には、香西元成に関する記事は何もありません。もちろん戦功についても記されていません。元成という人物は『南海治乱記』に初めて作者の香西成資が登場させた人物のようです。香西元成は「足利季世記」に見える晴元被官の香西元成の記事を根拠に書かれたものと研究者は推測します。
「南海治乱記」・「南海通記」には、香西宗信の父は元成(盛)とします。
そして、系図には上に示したように三好長慶と敵対した細川晴元を救援するため、摂津中島へ出陣したた際の天文18年(1549)の記事が記されています。しかし、この記事について研究者は、「この年、讃岐香西氏の元成が細川晴元支援のため摂津中島へ出陣したことはありえないことが史料的に裏付けられいる」と越後守元成の出陣を否定します。この記述については、著者香西成資の「誤認(創作?)」であるようです。しかし、ここに書かれた兵将の香西氏との関係は参考にできると研究者は考えています。
今度は『南海治乱記』に書かれた「実在しなかった」元成の陣立てを見ておきましょう。参陣には、以下の武将を招集しています。
我が家臣
新居大隅守・香西備前守・佐藤五郎兵衛尉・飯田右衛門督。植松帯刀後号備後・本津右近。
幕下には、
羽床伊豆守。瀧宮豊後守・福家七郎右衛門尉・北条民部少輔、其外一門・佗門・郷司・村司等」
留守中の領分防衛のために、次のような武将を讃岐に残しています。
①東は植田・十河両氏の備えとして、木太の真部・上村の真部、松縄の宮脇、伏石の佐藤の諸士
②西は羽床伊豆守・瀧宮豊後守・北条西庄城主香川民部少輔らの城持ちが守り、
③香西次郎綱光が勝賀城の留守、
④香西備前守が佐料城の留守
⑤唐人弾正・片山志摩が海辺を守った。
出陣の兵将は、
⑥香西六郎。植松帯刀・植松緑之助・飯田右衛門督・中飯田・下飯田・中間の久利二郎四郎・遠藤喜太郎・円座民部・山田七郎。新名・万堂など多数で
舟大将には乃生縫殿助・生島太郎兵衛・本津右近・塩飽の吉田・宮本・直島の高原・日比の四宮等が加わったという。
以上です。
①からは、阿波三好配下の植田・十河を仮想敵として警戒しているようです。⑦には各港の船大将の名前が並びます。ここからは、細川氏が畿内への讃岐国衆の軍事動員には、船を使っていたことが分かります。以前に、香川氏や香西氏などが畿内と讃岐を結ぶ独自の水運力(海賊衆=水軍)を持っていたことをお話ししましたが、それを裏付ける資料にもなります。香西氏は、乃美・生島・本津・塩飽・直島・日比の水運業者=海賊衆を配下に入れていたことがうかがえます。細川氏の下で備讃瀬戸制海権の管理を任されていたのが香西氏だとされますが、これもそれを裏付ける史料になります。
 この兵員輸送の記事からは、香西氏の軍事編成について次のようなことが分かります。
①香西軍は新居・幡一紳・植松などの一門を中心にした「家臣」
②羽床・滝宮・福家・北条などの「幕下」から構成されていたこと
今度は南海通記が香西元成(盛)の子とする香西宗信の陣立てを見てみましょう。
 「玉藻集」には、1568(永禄11)年9月に、備中児島の国人四宮氏に誘われた香西駿河入道宗信(宗心・元載)が香西一門・家臣など350騎・2500人を率いて瀬戸内海を渡り、備前本太城を攻めたと記します。この戦いを安芸毛利氏方に残された文書で見てみると、戦いは次の両者間で戦われたことが記されています。
①三好氏に率いられた阿波・讃岐衆
②毛利方の能島村上氏配下の嶋氏
毛利方史料は、三好方の香西又五郎をはじめ千余人を討ち取った大勝利と記します。香西宗信も討死しています。
 『玉藻集』と、同じような記事が『南海治乱記』にあります。そこには次のように記されています。
1571(元亀二)年2月、香西宗心は、小早川隆景が毛利氏から離反した村上武吉の備前本太城を攻め、4月に落城させたとします。南海治乱記では香西宗心は、毛利方についたことになっています。当時の史料には、この年、備前児島で戦ったのは、毛利氏と阿波三好氏方の篠原長房です。単独で、香西氏が動いた形跡はありません。作者香西成資は、永禄11年の本太城攻防戦をこのときの合戦と混同しているようです。南海通記には、このような誤りが多々あることが分かっています。『南海治乱記』・『南海通記』の記事については、ほかの史料にないものが多く含まれていて、貴重な情報源にもなりますが、史料として用いる場合は厳密な検証が必要であると研究者は指摘します。戦いについての基本的な誤りはさておいて、研究者が注目するのは次の点です。『玉藻集』には、永禄11年9月に、香西宗信が一門・家臣などを率いて備前本太城攻めのために渡海しています。その時の着到帳と陣立書、宗信の嫡子伊賀守佳清の感状を載せていることです。
その陣立書からは、香西氏の陣容が次のようにうかがえます。
①旗本組は唐人弾正・片山志摩など香西氏の譜代の家臣
②前備は植松帯刀・同右近など香西氏一門
③先備・脇備は「外様」で、新居・福家などの讃岐藤原氏、別姓の滝宮氏
ここからは、香西氏の家中に当たるのは①旗本組②前備に組み込まれている者たちだったことが分かります。この合戦で香西氏・当主駿河入道宗信は討死します。そのため宗信に替わって幼年だった嫡子伊賀守佳清が、植松惣十郎往正に宛てた感状を載せています。住清は、植松惣十郎往正(当時は加藤兵衛)に対し、父植松備後守資正の遺領を安堵し、ついで加増しています。
 『玉藻集』香西伊賀守好清伝・『南海通記』所収系図には、次のような事が記されています。
①往正の父資正はその甥植松大隅守資教とともに宗信・佳清二代の執事を務めていたこと
②往正は天正13年の香西氏の勝賀城退去後は、弟の植松彦太夫往由とともに浪人となった佳清を扶養したこと。
 ちなみに『香西史』所収の植松家系図には、『南海通記』の著者香西成資は、往正のもう一人の弟久助資久の曽孫で、本姓香西に復する前は植松武兵衛と名乗っていたとします。つまり、香西成資は植松家の一族であったのが、後年になって香西氏を名のるようになったとします。
『南海治乱記』には「幕下」が次のように使われています。
巻之八 讃州兵将服従信長記
天正三年冬、河州高屋の城主三好山城入道笑岩も信長に降すと聞けれは、同四年に讃州香川兵部太輔元景・香西伊賀守佳清、使者を以て信長の幕下に候せん事を乞ふ。香川両使は、香川山城守三野菊右衛門也。
  意訳変換しておくと
天正三年冬、河州高屋の城主三好山城入道笑岩も信長に降ることを聞いて、翌年同四年に讃州香川兵部太輔元景・香西伊賀守佳清は、使者を立てて信長の幕下に入ることを乞うた。この香川両使は、香川山城守三野菊右衛門であった。

   ここでは、香西・香川両氏が織田信長に服従したことが「幕下に候せん」と用いられていると研究者は指摘します。
巻之十 讃州福家七郎被殺害記
天正七年春、羽床伊豆守は、嗣子忠兵衛尉瀧宮にて鉄砲に中り死たるを憤て、香西家幕下の城主ともを悉く回文をなして我が党となす。先瀧宮弥十郎。新名内膳・奈良太郎兵衛尉・長尾大隅守・山田弥七・福家七郎まで一致に和睦し、国中に事あるときは互に見放べからずと一通の誓紙を以て約す。是香西氏衰へて羽床を除ては旗頭とすべき者なき故也。
意訳変換しておくと
天正七年春、羽床伊豆守は、嗣子の忠兵衛尉瀧宮が鉄砲に当たって戦死したことに憤て、香西家幕下の城主たちのほとんどに文書を廻して見方に引き入れた。瀧宮弥十郎・新名内膳・奈良太郎兵衛尉・長尾大隅守・山田弥七・福家七郎たちは和睦し、讃岐国内で事あるときは互いに見放さないとの攻守同盟を誓紙にして約した。これも香西氏が衰えて、羽床が旗頭となった。

   ここでは「旗頭」に対置して用いられています。本来同等な者が有力な者を頼る寄親・寄子の関係を指していると研究者は指摘します。ここからは「幕下」とは、有力者の勢力下に入った者を指すことが分かります。『日本国語大辞典』(小学館)には、「幕下に属す、参す。その勢力下に入る。従属する」とあります。、
以上から、戦国期の讃岐香西氏の軍事編成を、研究者は次のように考えています。
①執事の植松氏をはじめとする一門を中核とする家臣団を編成するとともに、
②周辺の羽床・滝宮・福家など城主級の武士を幕下(寄子)としていた

しかし、その規模は当時の巨大化しつつあった戦国大名から見れば弱小と見えたようです。毛利軍と讃岐国衆の間で戦われた1577(天正5)年7月22日の元吉合戦に登場する香西氏を見ておきましょう。
毛利氏方の司令官乃美宗勝らが連署して、戦勝を報告した連署状写が残っています。そこには敵方の「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程」が元吉城に攻め寄せてきたと記されています。ここでは香西氏の立場は、戦国大名毛利氏から見れば、讃岐の国衆の一人にすぎないと見なされていたことが分かります。国衆とは、「戦国大名に服属しつつも、 一定の自立性を保持する領域的武家権力と理解されます。地域領主」とされます。この合戦当時の香西氏は、阿波三好氏に服従していました。国衆は戦国大名と同じように本領を持ち、家中(直属家臣団を含む一家)を形成しますが、その規模は小さなものでした。讃岐では、戦国大名化したのは香川氏だけのようです。
以上をまとめておくと
①細川頼之のもとで活躍し、細川管領家の内衆として活動するようになったのが香西常建である。
②香西常建は晩年の15世紀初めに、丹波守護代に補任され内衆として活動するようになった。
③その子(弟?)の香西元資も丹波守護代を務めたが、失政で罷免された。
④南海通記は、父香西常建のことには何も触れず、香西元資を「細川氏の四天王」と大きく評価する。
⑤しかし、南海通記は香西元資が丹波守護代であったことや、それを罷免されたことなどは記さない。
⑥これは、南海通記の作者には手元に資料がなく基本的な情報がもっていなかったことが推察できる。
⑦香西元資以後の香西氏は、在京組の上香西氏と讃岐在住組の下香西氏に分かれたとするが、その棟梁達に名前を史料で押さえることはできない。
⑧大きな武功を挙げたとされる下香西氏の元成(盛)も、香西氏の一族ではないし武功も架空のものであるとされる。
⑨しかし、南海通記などに残された軍立て情報などからは、香西氏の軍事編成などをうかがうことができる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

南海通記: 史料叢書- NDL Digital Collections

讃岐出身の軍学者香西成資が寛文三年(1663)に著したのが『南海治乱記』で、その増補版が『南海通記』です。この両書には、次のような事が記されていたのを前回は見ました。
①(香西)資村が、香西氏の始祖であること。
②資村は、承久の乱で鎌倉方について「香川郡守」となって、勝賀城を築いたこと
しかし、資村については、史料的には確認できない人物です。香西氏の中で史料的に確認できるのは、14世紀南北朝時代の、香西彦三郎や香西彦九郎ですが、彼らは南海通記などには登場しないことなどを見てきました。以上からは、戦国時代に滅亡した香西氏には、それまでの文書や系譜が失われていたことが考えられます。軍学者香西成資は、手元に史料の無い状態で南海通記を書いたことが考えられます。

 南海通記には15世紀になると香西氏には、在京する一族と、讃岐に在住する一族の上下の香西氏が生まれたと記します。今回はこの、上香西氏と下香西氏について見ていくことにします。テキストは、 「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」です

南海治乱記巻之三 植松四郎射芸記
明応年中に、(中略)香西備後守①元資一子備中守②元直在京す。故に上香西と云ふ。次子左近将監③元綱、讃州に在住す。故に下香西と云ふ也。備中守元直か子又六郎元継、後又備中守と号する也。

意訳変換しておくと
明応年中(1492~1501)に、(中略)香西備後守①元資の子である備中守②元直は在京していた。そのため上香西と呼ばれた。次子の左近将監元綱は、讃岐にいたので下香西と云う。備中守元直の子又六郎元継も、後に備中守と称する。

香西氏系図 南海通記
香西氏系図(南海通記)
『南海通記』巻之廿上 上香西・下香西伝
文明九年(1477)二至テ両陣ノ諸将時ノ和談ヲナシ、各下国シ京中ノ陣跡、径卜成ル。其時讃州ノ四臣モ子弟ヲ京都二残テ、管領家ヲ守ラシメ、各下国有り。是二依テ上香西・下香西ノ別有り。
 応仁年中(1467―69)二香西備後守元資、長子備中守元直二丹波ノ采地ヲ譲テ管領家ヲ守シメ、京都二在住セシム。此氏族ヲ上香西卜云。同元資ノニ子左近将監元顕、讃州本領ヲ譲テ、是ヲ下香西卜云。元顕ノ長子豊前守元清、長子越後守元成、元成長子駿河守元載、元載ノ長子伊賀守佳清、是五代也。
     意訳変換しておくと
文明九年(1477)になって両陣の諸将は交渉して和議を結んだ。各軍勢は国に帰り、京中の陣跡は道になった。この時に讃州の細川家の四家臣は、管領細川家を守るために子弟を京都に残して、讃岐に帰った。こうして香西家は上香西・下香西に分かれることになった。
 応仁の乱(1467―69)の戦乱の中で、香西備後守①元資とその長子備中守②元直は丹波に領地を得て、管領家を守って、京都に在住した。この一族を上香西という。元資の子左近将監③元顕は、讃州本領を譲ったので、これを下香西という。元顕の長子豊前守④元清、長子越後守⑤元成、元成長子である駿河守元載、元載の長子伊賀守佳清の五代になる。

『南海通記』巻之二 讃州藤家記
元資 細川勝元、賜諄之一字 備後守法名宗善 加賜摂州渡辺・河州所々之釆地。

意訳変換しておくと
元資は、細川勝元から一字をいただいた名前である。備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得た。

  このように『南海治乱記』・『南海通記』などは、讃岐国外での①元資以後の香西氏の活動を詳細に記します。
以上の資料から元資について拾い出すと次のようになります。
①香西氏の中で、上洛して活躍する最初の人物は香西元資であること。
②香西元資は細川勝元より「元」字を与えられ備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得たこと
③香西元資の長子元直と、その子孫は在京して上香西と呼ばれたこと、
④丹波篠山城を得たのは、元資の息子元直とすること
⑤次子元綱(元顕)は讃岐の本領を相続して在国し、下香西と呼ばれたこと。

しかし、これも残された史料とかみ合いません。香西元資について残された史料と照らし合わせてみましょう。
 10 応永32年(1425)12月晦日
  丹波守護細川満元、同国大山荘人夫役につき瓜持ち・炭持ち各々二人のほか、臨時人夫の催促を停止することを守護代香西豊前守元資に命ずる。翌年3月4日、元資、籾井民部に施行する。
(「東寺百合文書」大山村史編纂委員会編『大山村史 史料編』232P頁)
11 応永33年(1426)6月13日
丹波守護代元資、守護満元の命により、祇園社領同国波々伯部保の諸公事停止を籾井民部へ命ずる。(「祗園社文書」『早稲田大学所蔵文書』下巻92頁)

12 同年7月20日
  丹波守護細川満元、将軍足利義持の命により、同国何鹿郡内漢部郷・並びに八田郷内上村を上杉安房守憲房の代官に渡付するよう守護代香西豊前守(元資)へ命ずる。(「上杉家文書」『大日本古文書』上杉家文書1巻55P)

13 永享2年(1430)5月12日
  丹波守護代、法金剛院領同国主殿保の綜持ち人夫の催促を止めるよう籾井民部入道に命ずる。(「仁和寺文 書」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

14 永享3年(1431)7月24日
  香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。(「満済准后日記」『続群書類従』本、下巻270P) 

以上からは香西豊前守(元資)について、次のようなことが分かります。
資料10からは  父と思われる香西入道(常建)が亡くなった3年後の1425年12月晦日に、元資が臨時入夫役の停止を命じられています。それを元資は翌年3月4日に又守護代とみられる籾井民部玄俊へ遵行状を出して道歓(満元)の命を伝えています。ここからは、元資が丹波守護代の役目を果たしている姿が見えてきます。
資料11には、元資は幕府の命を受けた守護道歓より丹波国何鹿郡漢部郷・八田郷内上村を上杉安房守憲実代にうち渡すよう命じられています。資料12・13からも彼が、丹波守護代であったことが確認できます。ところが南海通記は「②香西元資は細川勝元より「元」字を与えられ備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得たこと」と記し、丹波守護代については何も触れません。
南海通記は、資料14の元資が丹波守護代を罷免された事実についても何も記しません。そして「④丹波篠山城を得たのは、元資の息子元直」とするのです。これについて「丹波守護代を罷免されたことを不名誉なこととして、南海通記の作者は触れなかった」という意見もあるようです。しかし、作者が、元資についての正確な資料を手元に持っていなかったと考えた方がよさそうです。

 南海通記は「香西元資」を「細川家ノ四天王」として次のように記します。
享徳元年ヨリ細川右京大夫勝元ハ、畠山徳本に代リテ管領職を勤ルコト十三年ニ至ル、此時香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安四人ヲ以テ統領ノ臣トス、世人是ヲ細川家ノ四天王ト云フ也。

意訳変換しておくと
享徳元年から細川勝元は、畠山徳本を拠点に管領職を13年に渡って務めた。この時に。香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安の四人を統領の家臣団として重用した。そこで、世間では彼らを細川家の四天王と呼んだ。

 ここからは細川勝元の支配は、讃岐出身の「四天王」の軍事力と政治力に支えられていたことがうかがえます。
細川勝元(ほそかわ・かつもと)とは? 意味や使い方 - コトバンク
細川勝元 「讃岐の四天王」に支えられた
『南海通記』は「四天王」の領地とその由来について、次のように記します。
各讃州ニ於テ食邑ヲ賜フ、西讃岐多度、三野、豊田三郡ハ詫間氏カ領也。詫間没シテ嗣ナシ、頼之其遺跡ヲ香川ニ統領セシム、
那珂、鵜足ノ二郡ハ藤橘両党ノ所有也。是ヲ細川家馬廻ノ武士トス、近年奈良太郎左衛門尉ヲ以テ二郡ノ旗頭トス、奈良ハ本領畿内ニアリ、其子弟ヲサシ下シテ鵜足津ノ城ニ居住セシム、綾ノ南條、北條、香東、香西四郡ハ、香西氏世々之ヲ領ス、三木郡ハ三木氏没シテ嗣ナシ、
  安富筑前守ヲ以テ、是ヲ領セシム、香川、安富、奈良ハ東國ノ姓氏也。細川家ニ属シテ當國ニ來リ、恩地ヲ賜フテ居住ス、其來往ノ遅速、何ノ年ト云フコトヲ知ラス、香西氏ハ當國ノ姓氏也。建武二年細川卿律師定禪當國ニ來テ、足利家歸服ノ兵ヲ招キシ時、詫間、香西是ニ属シテ武功ヲ立シヨリ以來、更ニ野心ナキ故ニ、四臣ノ内ニ揚用サラル其嫡子四人ハ香川兵部少輔、香西備中守、奈良備前守、安富民部少輔也。此四人ハ在京シテ管領家ノ事ヲ執行ス、故ニ畿内ニテ食邑ヲ賜フ、其外在國ノ郡司ハ、大内、寒川二郡ハ寒川氏世々之ヲ領ス、山田郡十二郷ハ、三谷、神内、十河ヲ旗頭トシテ、植田氏世々相持テリ、細川管領家諸國ヲ統領スト云ヘトモ、讃州ヲ以テ根ノ國トス、
意訳変換しておくと
「四天王」はそれぞれ讃州で領地を次のように賜っていた。西讃岐多度、三野、豊田三郡は詫間氏の領地。詫間氏が滅亡して後には、細川頼之は、ここに香川氏を入れた。那珂、鵜足の二郡は藤橘両党の所有であった。そこに近年、細川家の馬廻武士である奈良太郎左衛門尉を入れて、郡旗頭とした。奈良氏は本領は畿内にあるが、その子弟を派遣して鵜足津(宇多津聖通寺)城に配置している。綾の南條と北條、香東、香西の四郡は、香西氏が代々領する。三木郡は三木氏滅亡後は領主不在となったので安富筑前守を入れた。香川、安富、奈良は、東國出身の御家人で、細川家に従って讃岐にやってきて、恩地を得て居住するようになった武士達である。それがいつ頃の来讃になるのかはよく分からない。
 一方、香西氏ハ讃岐出身である。建武二年に細川定禪が讃岐にやってきて、足利家のために兵を集めたときに、詫間・香西はこれに応じて武功を立てて、四天王の一員として用いられるようになった。その嫡子四人とは香川兵部少輔、香西備中守、奈良備前守、安富民部少輔である。この四人は在京して、管領家を補佐し、畿内に領地を得るようになった。
 その他にも讃岐の郡司は、大内、寒川二郡は寒川氏が代々領する。山田郡十二郷は、三谷、神内、十河などを旗頭として、植田氏が代々領する。細川管領家は、多くの國を支配するが、その中でも讃岐は「根ノ國」とされた。
 ここには細川管領家における讃岐の戦略的な重要性と、各武将の勢力配置が記されています。それを整理すると次のようになります。
香川氏(天霧城)… 多度郡、三野郡、豊田郡
奈良氏(聖通寺城)… 那珂郡、鵜足郡
香西氏(勝賀城)… 阿野郡(綾南條郡、綾北條郡)、香川郡(香東郡、香西郡)
安富氏(雨滝城)… 三木郡
寒川氏(昼寝城)… 寒川郡、大内郡
植田氏(戸田城)… 山田郡
戦国時代の讃岐・阿波の群雄割拠図
讃岐・阿波の武将勢力分布図

この中で、香川氏・安富氏・奈良氏は、細川氏に従って関東から讃岐へと移住した御家人で、それ以外の香西氏以下は讃岐土着の武士(国人)になります。
細川頼之とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
 讃岐に関東出身の一族が配されたのは、南北朝期に幕府方として西国平定に多大な貢献を果たした細川氏の存在が大きいようです。その中で香西氏は、細川頼之の配下に入り、讃岐の国衆の中で戦功を認められたようです。
  足利顕氏が讃岐守護のときには、讃岐の守護代は桑原左衛門五郎常重、桑島十郎左衛門長範(又守護代は井戸二郎兵衛入道)、粟嶋八郎某、月成(秋月)太郎兵衛尉盛国と頻繁に交代します。この交代理由は、「守護代の勢力増大を防止しようとする意図が強かった」からと研究者は考えています。
 細川氏の人材登用策は、最初は讃岐以外から連れてきた主立った武士団の棟梁を守護代などにつけます。
しかし、明徳・応永年間以降になると、細川氏は清氏系が没落し、顕氏系に代わって頼之系へと勢力交代します。すると、讃岐などで頼之の分国経営に奉仕し、その権力機構に組み込まれた讃岐や阿波の国人の中からも内衆として登用されるものが出てきます。そのチャンスを香西氏はものにしたようです。
内衆として入り込んだ時の棟梁が、香西入道(常建)です。
香西入道(常建)は、香西元資料の近親者(父か兄)にあたることは、前回にお話しした通りです。香西入道(常建)の資料を再度見ておきましょう。
 応永19年(1413)
 香西入道(常建)、清水坂神護寺領讃岐国香酉郡坂田郷の所務代官職を年貢170貫文で請負う。(「御前落居記録」桑山浩然氏校訂『室町幕府引付史料集成』26頁 県史990頁)

 応永21年(1414)7月29日
 室町幕府、東寺領丹波国大山荘領家職の称光天皇即位段銭を京済となし、同国守護代香西豊前入道常建をして、地下に催促することを止めさせる。(「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之255P以下)
  1422年6月8日条
「細河右京大夫内者香西(常建)今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」

ここからは、丹波守護代であった常建が61歳で亡くなっていることが分かります。細川京兆家で、一代で讃岐国衆から京兆家内衆の一員に抜擢され、その晩年に丹波守護代を務めたことになります。

 ちなみにこれより以前の1392(明徳3)年8月28日の『相国寺供養記』に、管領細川頼元に供奉した安富・香川両氏など郎党二十三騎の名乗りと実名が列記されています。その中には香西氏の名はありません。香西氏は、これ以後の被官者であったのかもしれません。どちらにしても香西氏が京兆家内衆として現れるのは、15世紀半ばの常建が初見になることを押さえておきます。
そして、その子か弟が香西元資になります。

以上をまとめておくと
①南北朝時代に白峰合戦に勝利した細川頼之は、讃岐の支配権を握り論功行賞を行った
②その際に、守護代などに地元讃岐出身の国人武将は登用せずに、外部から連れてきた香川氏や安富氏を配置し、聖通寺城には奈良氏を置いた。
③こうした中で讃岐国衆であった香西氏は、遅れて細川管領家の内衆に加えられた。
④その始まりとなるのが15世紀前半に丹波守護代を務めた香西入道(常建)である。
⑤香西入道(常建)の近親者が香西元資であり、彼も丹波守護代を務めていたが失政で罷免された。
⑥南海通記では、香西元資を「細川四天王」の一員とし、讃岐国人の中から唯一内衆として活躍したのが香西氏であると記す。
⑦元資以後の香西氏は、在京する上香西氏と、讃岐在住の下香西氏の二つに分かれたと南海通記は記す。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年
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南海通記と南海治乱記

『南海治乱記』巻之十七 老父夜話記には、香西氏の家伝証文が焼失したことについて次のように記します。

又語て曰、天正十三年(1585)五月廿日、香西の城を去て西長尾の城に赴くとき、勝賀山の城に在つる香西家数世の證文・家宝等、根香寺の仏殿に入れて去る。盗賊来て寺内の物を取て仏殿の物を取んとすれとも錠を下して不明。住僧も強盗の難を恐れて下山し山中に人なし。盗賊仏殿に火を放て去る。此時香西家の證文等焼亡す。

意訳変換しておくと
老父が夜半話に次のように語った。天正十三年(1585)五月20日、(長宗我部退却時に)香西の城を出て西長尾城(まんのう町)に赴くとき、勝賀山の城にあった香西家数世の證文・家宝などを、根香寺の仏殿に入れて去った。それを知った盗賊が来襲して寺内の物を取て、仏殿の物もとろうとしたが錠がかかっていて入れなかった。しかし、住僧も強盗の難を恐れて下山して、山中に人はいない。盗賊は仏殿に火を放て去った。この時に香西家の證文などはみな焼亡した。

戦国末期に香西氏の中世史料は失われたようです。香西氏の歴史については後に書かれた近世の編さん物から見ていくしかないようです。今回は、近世史料に香西氏がどのように書かれているのかを見ていくことにします。
香西氏の氏祖は香西資村
香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 翁嫗夜話 巻之一

『翁嫗夜話』巻之一増田休意著。延享二年(1745)成立。
新居藤大夫 香西三郎信資 ー 新居藤大夫資光 ー 香西左近将監資村(三男)
(香西)藤二郎資村、承久の乱に関東に忠あり。鎌倉の命を以って、香川郡の守に補し、左近将監に任ず。香西郡葛西郷勝賀山に城きておる。藤氏以って栄となす。綾藤氏族六十三家、資村これが統領となる。
  意訳変換しておくと
 (香西)藤二郎資村は、13世紀初頭の承久の乱の際に、鎌倉方についた。そのため論功として、鎌倉幕府から香川郡守に補任され、左近将監の位階を得た。そして、香西郡葛西郷勝賀山に城を築いた。こうして讃岐藤氏は栄えるようになり、香西資村はその綾藤氏族六十三家の統領になった。

18世紀のこの書には、次のような事が記されています。
①(香西)資村が13世紀前半の人物であったこと
②承久の乱で鎌倉方について「香川郡守」となって、勝賀城を築いたこと
③古代綾氏の流れをくむ讃岐藤原氏の統領となったこと

香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 香西記
香西記(香川県立図書館デジタルライブラリー)

「香西記」‐ 新居直矩著。寛政四年(1792)成立。
「阿野南北香河東西濫腸井香西地勢記 名所旧透附録」
○其第二を、勝賀山と云。勝れて高く美しき山也。
一、伝来曰、此山峰、香西氏数世要城の城也。天正中城模敗績して、掻上たる土手のみ残りて荒けり。此東麓佐料城跡は、四方の堀残りて田畠となれり。佐料城の北隣の原に、伊勢大神宮社有。香西氏祖資村始て祀所也。
  意訳変換しておくと
「阿野(郡)南北香河(川)東西濫腸と香西の地勢記 名所旧透附録」
○その第二の山を、勝賀山と呼ぶ。誉れ高く美しい山である。
一、その伝来には次のように伝える。この山峰は、香西氏の数世代にわたる要城の城であった。天正年間に廃城になり、今は土手だけが残って荒れ果てている。東麓にある佐料城跡には、四方の堀跡が残って田畠となっている。佐料城の北隣の原に、伊勢大神宮社がある。これは香西氏祖資村の創建とされている。
香西記

香西記には、次のような情報が含まれています。
①勝賀城跡には18世紀末には土手だけが残っていたこと
②佐料城跡には堀跡が田畑として残っていたこと
③佐料城跡のの東隣の伊勢大神宮社が、香西氏祖資村の創建とされていたこと
藤尾城(香川県高松市)の詳細情報・周辺観光|ニッポン城めぐり−位置情報アプリで楽しむ無料のお城スタンプラリー
藤尾城跡の藤尾八幡 

  「讃陽香西藤尾八幡宮来由記」
抑営祠藤尾八幡宮者、天皇八十五代後堀河院御宇嘉禄年中(1325―27)、阿野・香河之領主讃藤氏香西左近持監資村力之所奉篤勧請之霊祠也実。

意訳変換しておくと
藤尾八幡宮は八十五代後堀河院の御宇嘉禄年中(1325―27)に、阿野・香川郡の領主であった讃藤氏香西左近持監資村が勧請した霊祠である。

ここには藤尾八幡社が14世紀前半に、「阿野・香川郡の領主」であった香西資村が勧請したことが記されています。

つぎに近世に作られた系図を見ておきましょう。
17世紀後半に成立した玉藻集に載せられている香西氏の系図です
香西氏の系図
香西氏系図(玉藻集)
A①資村の父②信資の養子とされています。
B資村の祖父にあたる④資光は新居氏です。
C資村の祖祖父にあたる⑤資高は羽床嫡流とあり、讃岐藤原氏の統領3代目とされる人物です。③資光は羽床氏出身であることが分かります。
D資村の祖祖祖父にあたる⑥章隆が、国司であった藤原家成と綾氏の間に生まれた人物で、讃岐藤氏の始祖にあたる人物です
  この系図だけを見ると香西氏は、国司藤原家斉の流れを引く讃岐藤原氏の一族で、棟梁家の羽床氏から新居氏を経て派生してきたことになります。

「讚州藤家香西氏略系譜」を見ておきましょう。

香西氏系図4
讚州藤家香西氏略系譜

資村については、次のように記されています。
新居次郎 後号香西左近将監。承久年中之兵乱、候于関東。信資資村被恩賜阿野・香河二郡。入于香西佐料城也。本城勝賀山。」

最初に見た『翁嫗夜話』の内容が踏襲されています。
A 資村には「新居次郎」とあり、後「香西左近将監」を名のるようになったと記します。さきほどの系図には「信資養子」とありました。①資村は、新池から②信資のもとに養子に入ったのでしょうか。伯父の③資幸は「福家始祖」とあります。
B 資村の祖父にあたる④資光は新居氏です。
C しかし、ここで気づくのは先ほどの系図にあった羽床家の重光の名前がみえません。この系図では重光が飛ばされているようです。以下は玉藻集系図とおなじです。

最後に綾氏系図を見ておきましょう。
讃岐藤原氏系図1
               綾氏系図

綾氏系図では⑤資高の子ども達が次のよう記されています。彼らは兄弟だったことになります。
羽床家棟梁の重高
新居家始祖・④資幸
香西家始祖・②信資
   資村が最初は「新居次郎」で、後「香西左近将監」を名のるようになったこと、「信資養子」とあることからは、①資村は、新居家から②信資のもとに養子に入ったことが考えられます。

しかし、ここで問題になるのは前回にもお話ししたように「香西資村」という人物は史料的には出てこないことです。近世になって書かれた系図や戦記物と根本史料が合わないのです。前回見たように香西氏が最初に登場するのは、14世紀南北朝期の次の史料です。

1 建武四年(1337)6月20日
 讃岐守護細川顕氏、三野郡財田においての宮方蜂起の件につき、桑原左衛門五郎を派遣すること を伝えるとともに、要害のことを相談し、共に軍忠を致すよう書下をもって香西彦三郎に命ずる。(「西野嘉衛門氏所蔵文書」県史810頁 

2 正平六年(1351)12月15日
  足利義詮、阿波守護細川頼春の注進により、香西彦九郎に対し、観応の擾乱に際しての四国における軍忠を賞する。
 (「肥後細川家文書」熊本県教育委員会編『細川家文書』122頁 県史820頁)
3 観応三年(1352)4月20日         
 足利義詮、頼春の子頼有の注進により、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らの軍忠を賞する。
(「肥後細川家文書」同 前60・61P 県史821P

1は南北朝動乱期に南朝に与した阿讃山岳地域の勢力に対しての対応を、讃岐守護細川顕氏がに命じたものです。
2は、それから14年後には、足利義詮、阿波守護細川頼春から香西彦九郎が、観応の擾乱の軍功を賞されています。そして、その翌年の観応三年(1352)4月20日には、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らが恩賞を受けています。
1や2からは、南北朝時代に守護細川氏の下で働く香西氏の姿が見えてきます。彦三郎と彦九郎の関係は、親子か兄弟であったようです。3からは、羽床氏などの讃岐藤原氏一族が統領の羽床氏を中心に、細川氏の軍事部隊として畿内に動員従軍していたことが分かります。
14世紀中頃の彦三郎と彦九郎以後、60年間は香西氏の名前は史料には出てきません。ちなみ彦三郎や彦九郎は南海通記には登場しない人名です。

  以上、近世になってから書かれた香西氏に関する史料や系図をみてきました。しかし、そこには戦国末期に香西氏が滅亡したためにそれ以前の史料が散逸していたこと、そのために近世になって書かれた香西氏に関するものは、史料にもとづくものではないので、残された史料とは合致しないことを押さえておきます。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       田中健二  中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年
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  香西氏については、戦国末期に惣領家が没落したために確かな系譜が分からなくなっています。
百年以上後に、一族の顕彰のために編纂されたのが『南海通記』です。
史籍集覧 南海治乱記・南海通記 全12冊揃(香西成資) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
南海通記
そこには香西氏は応仁の乱後には、在京した上香西と在国した下香西とに分かれたと記します。ところが、南海通記に出てくる香西氏歴代の名は、確かな古文書・古記録出てくる名前と、ほとんど一致しません。それは残された系図も同じです。
香西氏系図
香西氏系図(玉藻集1677年)

「南海通記」は百年後に書かれた軍記もので、根本史料とはできないものです。しかし、頼るべき史料がないので近代になって書かれた讃岐郷土史や、戦後の市町村史は「南海通記」を史料批判することなく、そのまま引用して「物語郷土史」としているものが多いようです。そのため南海通記の編纂意図の一つである「香西氏顕彰」が全面に押し出されます。その結果、戦国史では長宗我部侵攻に対する「讃岐国衆の郷土防衛戦」的な様相を呈してきます。そこでは侵攻者の長宗我部元親は、悪役として描かれることになります。

 そのような中で、高瀬町史などで秋山文書や毛利文書など根本史料との摺り合わせが進むと、『南海通記』の不正確さが明らかになってきました。阿波勢の天霧城攻撃や元吉城攻防戦も、「南海通記」の記述は誤りでありとされ、新たな視点から語られるようになってきました。そのような中で求められているのが、一次資料に基づく精密な香西氏の年譜です。そんな中で南海通記に依らない香西氏の年譜作成を行った論文に出会いましたので紹介しておきます。
 テキストは、「香西氏の年譜 香西氏の山城守護代就任まで  香川史学1988年」です。これは、1987年度に香川大学へ提出したある生徒の卒業論文「室町・戦国初期における讃岐国人香西氏について」の作成のために収集・整理した史料カードをもとに、指導教官であった田中健二がまとめたものです。この作業の中では、『南海通記』や「綾氏系図」等の後世の編纂物の記事は、排除されています。どんな作業が行われ、どんな結果になったのでしょうか。見ておきましょう。
讃岐藤原氏系図1
古代綾氏の流れを汲むとされる讃岐藤原氏系図   

古代豪族の綾氏が武士団化して、讃岐藤原氏に「変身」します。
これについては以前にお話ししましたので省略します。讃岐藤原氏は総領家の羽床氏の下に、大野氏・新居氏・綾部氏が別れ、その後に香西氏が登場すると南海通記は記します。それを系図化したものが上のものです。この系図と照らし合わせながら香西氏年譜の史料をみていきます。

史料で香西氏が最初に登場するのは、14世紀南北朝期に活動する香西彦三郎です。
1 建武四年(1337)6月20日
 讃岐守護細川顕氏、三野郡財田においての宮方蜂起の件につき、桑原左衛門五郎を派遣すること を伝えるとともに、要害のことを相談し、共に軍忠を致すよう書下をもって香西彦三郎に命ずる。(「西野嘉衛門氏所蔵文書」県史810頁 

2 正平六年(1351)12月15日
  足利義詮、阿波守護細川頼春の注進により、香西彦九郎に対し、観応の擾乱に際しての四国における軍忠を賞する。
 (「肥後細川家文書」熊本県教育委員会編『細川家文書』122頁 県史820頁)
3 観応三年(1352)4月20日         
 足利義詮、頼春の子頼有の注進により、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らの軍忠を賞する。
(「肥後細川家文書」同 前60・61P 県史821P

1は南北朝動乱期に南朝に与した阿讃山岳地域の勢力に対しての対応を、讃岐守護細川顕氏がに命じたものです。
2は、それから14年後には、足利義詮、阿波守護細川頼春から香西彦九郎が、観応の擾乱の軍功を賞されています。そして、その翌年の観応三年(1352)4月20日には、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らが恩賞を受けています。
1や2からは、南北朝時代に守護細川氏の下で働く香西氏の姿が見えてきます。彦三郎と彦九郎の関係は、親子か兄弟であったようです。3からは、羽床氏などの讃岐藤原氏一族が統領の羽床氏を中心に、細川氏の軍事部隊として畿内に動員従軍していたことが分かります。
14世紀中頃の彦三郎と彦九郎以後、60年間は香西氏の名前は史料には出てきません。ちなみ彦三郎や彦九郎は南海通記には登場しない人名です。
讃岐藤原氏系図3羽床氏jpg
綾氏系図 史料に出てくる人名と合わない

例えばウキには南海通記を下敷きにして、香西氏のことが次のように記されています。

① 平安時代末期、讃岐藤原氏二代目・藤原資高が地名をとって羽床氏を称し、三男・重高が羽床氏を継いだ。次男・有高は大野氏、四男・資光は新居氏を称した。資高の子の中でも資光は、 治承7年(1183年)の備中国水島の戦いで活躍し、寿永4年(1185年)の屋島の戦いでは、源義経の陣に加わって戦功を挙げ、源頼朝から感状を受けて阿野郡(綾郡)を安堵された。

鎌倉時代の承久3年(1221年)の承久の乱においては、幕府方に与した新居資村が、その功によって香川郡12郷・阿野郡4郷を支配することとなり、勝賀山東山麓に佐料館、その山上に詰めの城・勝賀城を築いた。そして姓を「香西氏」に改めて左近将監に補任された。一方、後鳥羽上皇方についた羽床氏・柞田氏らは、それぞれの所領を没収され、以後羽床氏は香西氏の傘下に入った。

しかし、南北朝以前の史料の中には「香西」という武士団は出てこないことを押さえておきます。また承久の乱で活躍した新居資村が香西氏に改名したことも史料からは裏付けることはできません。

香西氏系図3
           讃州藤家香西氏略系譜
次に史料的に登場するのは、丹波の守護代として活動する香西入道(常建)です。彼の史料は以下の通りです。

4 応永19年(1413)
 香西入道(常建)、清水坂神護寺領讃岐国香酉郡坂田郷の所務代官職を年貢170貫文で請負う。(「御前落居記録」桑山浩然氏校訂『室町幕府引付史料集成』26頁 県史990頁)

5 応永21年(1414)7月29日
 室町幕府、東寺領丹波国大山荘領家職の称光天皇即位段銭を京済となし、同国守護代香西豊前入道常建をして、地下に催促することを止めさせる。
 (「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之255P以下)
6 同年12月8日
 管領細川満元、法楽和歌会を催し、百首及び三十首和歌を讃岐国頓澄寺(白峰寺)へ納める。百首和歌中に香西常建・同元資の詠歌あり。(「白峯寺文書」『大日本史料』第七編之二十、434P)

7 応永23年(1416)8月23日
  丹波守護代香西入道常建、同国大山荘領家方の後小松上皇御所造営段銭を免除し、催促を止めることを三上三郎左衛門尉に命ずる。 (「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之二十五、30P)
8 応永27年(1420)4月19日
丹波守護細川満元、同国六人部・弓削・豊富・瓦屋南北各荘の守護役免除を守護代香西豊前入道常建に命ずる。(「天竜寺重書目録」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

9 応永29年(1422)6月8日
 細河右京大夫内者香西今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」  (「康富記」『増補史料大成』本、1巻176P)
意訳変換しておくと
 聞き及ぶ。細河右京大夫内者 香西今日死去すと云々。丹波国守護代なり。六十一と云々。

以上が香西常建の史料です。
資料9で死去した香西氏とは資料7から香西入道と呼ばれていた常建であったことが分かります。資料5で即位段銭の催促停止するよう命じられている香西豊前入道も常建のようです。常建は、資料6では、細川満元が催した頓證寺法楽和歌会に列席し、白峯寺所蔵の松山百首和歌に二首が載せられています。このとき、常建とともに一首を詠んでいる元資が、のちに丹波守護代として名の見える香西豊前守元資になるようです。両者は、親子が兄弟など近親者であったと研究者は考えています。
 ちなみにこれより以前の1392(明徳3)年8月28日の『相国寺供養記』に、管領細川頼元に供奉した安富・香川両氏など郎党二十三騎の名乗りと実名が列記されています。しかし、その中には香西氏はいません。香西氏は、これ以後の被官者であったのかもしれません。どちらにしても香西氏が京兆家内衆として現れるのは、15世紀半ばの常建が初見になることを押さえておきます。
讃岐生え抜きの武士であった香西氏が、どうして畿内で活動するようになったのでしょうか。
細川頼之とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
そのきっかけとなったのが、香西常建が細川頼之に仕えるようになったからのようです。細川頼之は、観応の擾乱で西国において南朝方の掃討に活躍しました。その際に京都の政争で失脚して南朝方に降り、阿波へと逃れた従兄・清氏を討伐します。この結果、細川家の嫡流は清氏から頼之へと移りました。そして細川家は頼之の後は、本宗家と阿波守護家に分かれます。
家系図で解説!細川晴元は細川藤孝や三好長慶とどんな関係? - 日本の白歴史

①本宗家 
頼元が継いだ本宗家は「右京大夫」を継承して「京兆家」  京兆家は摂津、丹波、讃岐、土佐の四ヶ国守護を合わせて継承

②庶流家 
詮春が継いだ阿波守護家は代々「讃岐守」の官途を継承して「讃州家」は和泉、淡路、阿波、備中の各国を継承

阿波守護家が「讃州家」とよばれるのがややこしいところです。

細川家の繁栄の礎を築いたのが細川頼之です。
香西常建は頼之の死後も後継者の頼元に仕えます。細川氏が1392(明徳3)年に「明徳の乱」の戦功によって山名氏の領国だった丹波の守護職を獲得すると、1414(応永21)年には小笠原成明の跡を継いで丹波守護代に補任されました。
香西氏 丹波守護代
丹後の守護と守護代一覧表(1414年に香西常建が見える)
1422年6月8日条には「細河右京大夫内者香西今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」とあり、常建は61歳で亡くなっていることが分かります。細川京兆家の元で一代で讃岐国衆から京兆家内衆の一員に抜擢され、その晩年に丹波守護代を務めたのです。
 ここで注意しておきたいのは、細川氏は管領職のために在京しています。そのため細川家の各国の守護代達も、同じように在京し、周辺に集住していたということです。香西氏が実際に丹後に屋形を構えて、一族が出向いていたのではないようです。
次に登場してくるのが常建の近親者と考えられる香西豊前守元資です。
10 応永32年(1425)12月晦日
  丹波守護細川満元、同国大山荘人夫役につき瓜持ち・炭持ち各々二人のほか、臨時人夫の催促を停止することを守護代香西豊前守元資に命ずる。翌年3月4日、元資、籾井民部に施行する。
(「東寺百合文書」大山村史編纂委員会編『大山村史 史料編』232P頁)
11 応永33年(1426)6月13日
丹波守護代元資、守護満元の命により、祇園社領同国波々伯部保の諸公事停止を籾井民部へ命ずる。(「祗園社文書」『早稲田大学所蔵文書』下巻92頁)

12 同年7月20日
  丹波守護細川満元、将軍足利義持の命により、同国何鹿郡内漢部郷・並びに八田郷内上村を上杉安房守憲房の代官に渡付するよう守護代香西豊前守(元資)へ命ずる。(「上杉家文書」『大日本古文書』上杉家文書1巻55P)

13 永享2年(1430)5月12日
  丹波守護代、法金剛院領同国主殿保の綜持ち人夫の催促を止めるよう籾井民部入道に命ずる。(「仁和寺文 書」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

14 永享3年(1431)7月24日
  香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。(「満済准后日記」『続群書類従』本、下巻270P) 
以上からは香西豊前守(元資)について、次のようなことが分かります。
資料10からは  香西入道(常建)が亡くなった3年後の1425年12月晦日に、元資が臨時入夫役の停止を命じられています。元資は翌年3月4日に又守護代とみられる籾井民部玄俊へ遵行状を出して道歓(満元)の命を伝えています。ここからは、守護代の役目を果たしている常建の姿が見えてきます。
資料11には、元資は幕府の命を受けた守護道歓より丹波国何鹿郡漢部郷・八田郷内上村を上杉安房守憲実代にうち渡すよう命じられています。資料12・13からも彼が、守護代であったことが確認できます。
そして資料14の丹波守罷免記事です。
細川満元のあと丹波守護となっていた子の持之は、醍醐寺三宝院の満済を介して、将軍足利義教に丹波守護代交代の件を願い出ています。『満済准后日記』当日条を見ておきましょう。

右京大夫(持之)来臨す。丹波守護代、内藤備前人道たるべきか。時宜に任すべき由申し入るなり。(中略)右京大夫申す、丹波守護代事申し入るる処、この守護代香西政道以っての外正体なき間、切諫すべき由仰せられおわんぬ。かくのごとき厳密沙汰もっとも御本意と云々。しかりといえども内藤治定篇いまだ仰せ出だされざるなり。

意訳変換しておくと
右京大夫(細川持之)が将軍義教を訪ねてやってきた。その協議内容は丹波守護代を、香西氏から内藤備前人道に交代させるとのことだった。(中略)それに対して将軍義教は香西氏は「もってのほかの人物で、失政を責め、処罰するよう命ずるべきとの考えを伝えた。このため守護代の交代については承認しなかった。
しかし、翌年5月には、香西政道に代わって内藤備前入道が丹波国雀部庄と桑田神戸田について遵行状を出しています。ここからは、守護代が香西氏から内藤氏への交代したことが分かります。香西氏罷免の原因は、永享元年の丹波国一揆を招いた原因が元資にあったと責任を取らされたと研究者は考えています。ここでは、香西元資は失政のために丹波守護代を罷免されたことを押さえておきます。

南海通記は「香西備後守元資」を「細川家ノ四天王」として紹介します。
しかし、その父の常建については何も触れません。元資が丹波守護代であったことも記されていません。その理由について、「常建が傍系の出身であったか、あるいは『南海通記』を記した香西成資が先祖に当たる元資の不名誉に触れたくなかったのではないか」とする説もあります。
 南海通記に、最初に出てくるのは香西氏は香西元資からです。そして丹波守護代であった彼を、「備後守」と誤記します。ここからも南海通記は基本的情報が不正確なことが多いようです。通記の著者には、香西元資以前のことを知る資料は、手元にはなかったことがうかがえます。
この時期には、讃岐でも別の香西氏が活動していたことが次のような資料からうかがえます。
15 1431年9月6日
香西豊前入道常慶、清水坂神護寺より寺領讃岐国坂田郷の年貢未進を訴えられる。この日、幕府は神護寺の主張を認め、「其の上、彼の常慶においては御折檻の間、旁以て御沙汰の限りにあらず」として、常慶の代官職を罷免し寺家の直務とする判決を下す。 
16 嘉吉元年(1441)10月
守護料所讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父死去する。(「仁尾賀茂神社文書」県史116P

17 1441年7月~同2年10月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門所見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114P)


資料16からは「香西豊前の父」が死去したことが分かります。この人物が資料15に登場する常慶だと研究者は判断します。香西氏のうち、讃岐系統の当主は代々「豊前」を名乗っています。この系統の香西氏は、春日社領越前国坪江郷の政所職・醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保の代官職も請け負っています。時期からみてこの香西豊前入道は、仁尾浦代官を務めていた香西豊前の出家後の呼び名と研究者は判断します。
 また資料16からは、当時の仁尾浦代官は香西豊前常慶であったこと、そして父も浦代官として、仁尾の支配を任されていたことが分かります。以前にお話ししたように、細川氏の備讃瀬戸制海権確保のために、塩飽と仁尾の水軍や廻船の指揮権を香西氏が握っていたことが裏付けられます。17は、それに対して仁尾浦の神人達の自立の動きであり、その背後には西讃守護代の香川氏が介入がうかがえます。
   以上からは、15世紀に香西氏には次の二つの流れがあったことを押さえておきます。
①丹波守護代として活動していた豊前守(元資)
②讃岐在住で、仁尾の浦代官など細川氏の瀬戸内海戦略を支える香西氏
以上をまとめておくと
①香西氏が史料に登場するのは南北朝時代に入ってからで、守護細川顕氏に従った香西彦三郎が、建武4 年(1337)に財田凶徒の蜂起鎮圧を命じられているのが初見であること
②観応の擾乱期には、四国での忠節を足利義詮から賞されていること
③その後、香川郡坂田郷の代官を務め、阿野郡陶保・南条山西分の代官職を請け負っていること。
④さらに香西浦を管理するとともに、細川氏の御料所仁尾浦の代官を務めるなど、細川氏の瀬戸内海航路の制海権支配の一翼を担っていたこ
⑤15世紀前半には、細川京兆家分国の1つである丹波国の守護代を務めていたこと
しかし、南海通記には香西氏の祖先が登場するのは、⑤以後で、それ以前のことについては江戸時代には分からなくなっていたことがうかがえます。

今回はここまでにします。以下は次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香西氏の年譜 香西氏の山城守護代就任まで  香川史学1988年
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  高松藩の初代藩主松平頼重の弟は、水戸藩の徳川光圀です。長子相続が当たり前の時代に、どうして、兄頼重が水戸藩を継がなかったのかについては、複雑な問題が絡み合っているようです。それを探っている内に、頼重や光圀の父が気になり出しました。今回は水戸藩初代藩主の頼房について見ていくことにします。テキストはテキストは「古田俊純 徳川光圀の世子決定事情    筑波学院大学紀要第8集」です
徳川(トクガワ)とは? 意味や使い方 - コトバンク  
 頼重と光圀の父である水戸藩初代藩主徳川頼房は、1603(慶長八)年8月10日に家康の末男として誕生します。
わずか3歳で常陸下妻10万石を与えれ、6歳で常陸水戸25万石へ加増転封されますが、なにせ幼少ですので、家康のお膝元である駿府で育てられまします。
 1610年(慶長15年)7月に父家康の側室於勝(英勝院)の養子になり、翌年に8歳で元服して頼房を名乗りますが、水戸へは赴かず江戸で過ごします。
水戸の藩主たち~徳川頼房~ | 歴史と文化と和の心
徳川頼房
頼房は「公資性剛毅ニシテ勇武人二過玉フ」と、武勇の人であったようです。
光圀も父の武勇談を「故中納言殿の御事、いろいろ武勇の御物語多し」とあるので、よく語ったようです。武勇の人であった頼房は、若いときには歌舞伎者でした。彼の服装や言動について次のように記します。

「公壮年ノ時、衣服侃刀ミナ異形ヲ好玉ヒ、頗ル行儀度アラス。幕府信吉ヲ召テ、譴責アラントス。」

そのために服装・行動に問題があり、家臣の中山信吉が必死の諫言をしたと伝えられます。江戸時代初めには、時代に遅れて生まれた勇猛な若い武士たちは、歌舞伎者になって憂さを晴らしました。頼房もその一人だったようです。そして、女遊びを覚えます。次の表は、頼房の子女一覧です。頼房には公認された子弟として、男子11人・女子15人、合計26人の子があったことが分かります。この他にも「未公認」の子弟も数多くいたようです。

徳川頼房子女一覧表
徳川頼房子女一覧表
26人の子女というのを、どう考えればいいのでしょうか?
頼房は、生涯正室を持ちませんでした。頼房の側室は8人までは確認できるようですが、それ以上いたようです。
 それでは、どのような女性を側室にしているのでしょうか。
表の1の頼重と7の光圀の母は、久昌院谷久子です。彼女は鳥居忠政の家臣だった谷重則の娘で、水戸家に老女として仕えていた母の側にいたので、頼房の寵愛をえたようです。
2の通、3の亀丸、4の万、8の菊、10の頼元、13の頼雄、21の藤の母は、円理院佐々木勝です。彼女は生駒一正の家臣、佐々木政勝の娘です。弟の藤川正盈は『水府系纂』に、「元和六年威公二奉仕ス、時二九歳ナリ。姉円理院卜同居シ、奥方二於テ勤仕ス」と記されています。彼女は1602(慶長七)年生まれですから、1620(元和六)年には19歳でした。頼房の寵愛を受けるようになったので、弟も召抱えられています。彼女は、女中奉公をしていたのを見初められたようです。
5の捨、9の小良、11の頼隆、14の頼泰、16の律、19の重義の母は寿光院藤原氏です。彼女は興正寺権僧正昭玄の娘です。
6の亀の母は野沢喜佐で、出自は扶持取の家臣、野沢常古某の娘で、出産後「七夜ノ中二死ス。十六歳」と『水府系纂』にあります。
12の頼利の母は真了院三木玉で、三木之次の兄で播磨の光善寺住職長然の娘。
15の頼以と17の房時の母は原善院丹波愛。
20の大と24の市の母は真善院大井田七。
25の助の母は高野氏。
18の不利と22の竹と23の梅の母は、「某氏」としか分かりません。
26の松に至っては、「女子」とあるだけ。
水戸藩の家臣の系譜集である『水府系纂』で確認できる側室は、兄弟が召抱えられた谷久子と佐々木勝、藩士の娘であった野沢喜佐と姪であった三木玉の3人だけです。
ここからは、残った四人プラスαの側室たちは、水戸藩士の娘ではなかったと研究者は考えています。竹・梅・松の母親の姓名は分かりません。なぜ名前が伝わらなかった理由は、女子のみ生んだ身分の低い女性だったためだったのでしょう。

徳川頼房―初代水戸藩主の軌跡― - 水戸市立博物館 - 水戸市ホームページ

 大名の子、とくに若君を生んだ側室は厚遇されるのが普通です。
谷氏や藤川氏にみられたように、 一族・兄弟の新規召抱えとなる場合もありました。しかし、藤原氏と丹波氏には、このような形跡が見られません。ここからは、頼房は正規の手続きをへて側室を迎えたのではなく、女中奉公に屋敷に上がっていた女性や、出先で身分の低い女性たちに手を着けていったことが推測できます。そのため「未公認」の子弟も数多くいたようです。
それでは生まれた子女は、どうなったのでしょうか。
 誕生した26人の子女のうち1男3女は早世して、成入したのは男子10人女子12人、合計22人です。男子のうち大名になったのは、頼重(高松12万石)、光圀、頼元(守山2万石)、頼隆(府中2万石)、頼雄(宍戸1万石)です。残りの頼利・頼泰・頼以・房時は光圀が寛文元年(1661)に相続したとき、領内の地三千石をそれぞれに分知しています。
女子のうち大名・公家に嫁したのは、通(松殿道昭室)、亀(家光養女前田光高室)、不利(本多政利室)、大(頼重養女細川網利室)の4人だけです。小良は英勝院の養女となって、鎌倉の英勝寺を相続しています。ほかの7人は家臣に嫁いでいます。これに対して、尾張・紀州の男子はみな大名になり、女子はみな大名・天皇公家に嫁いでいます。これと比べると、見劣りがするようです。男子のうち4人は三千石分知されたといっても、実質上は家臣となっています。 女子も七人が家老級とはいえ、家臣に縁付いています。
幕府も努力はしていますが、頼房がもうけた子供が多すぎたのです。そのためこういう結果となったと研究者は指摘します。そして次のように評します。
  頼房は子供の将来を考えもしないで、水戸徳川家が必要とする家族計画をもたず、つぎからつぎへと多い年には、1年に三人も子供を誕生させた。

頼房は、どうして正室をむかえなかつたのでしょうか。

威公(頼房)御一代御室これなき故は、威公御幼少の時台徳公(秀忠の詮号)の御前にてどれぞの聟にしたしと台徳公仰られけるを、台徳公の御台所御傍におわしまして、あの様なるいたづらな人を、誰か聟にせうぞとありければ、御一代それを御腹立終に御室これなき由。

意訳変換しておくと
水戸の頼房公に正室がいないのは、頼房公が幼少の時に将軍秀忠の御前で、どこかの大名にしたいおっしゃると、傍らにいた御台所が「あんないたづらな人を、誰が婿にしましょうか」とおっしゃた。それを聞いた頼房は立腹して正室をもうけることはなかった。

これはあくまで噂話ですが、当時の大奥での頼房観を伝えているのかも知れません。御三家水戸家の若い当主であった頼房には、将軍家をはじめいろいろな所から縁談が持ち込まれたはずです。いくら歌舞伎者であったとしても、それを拒否し続けることはきわめて難しかったことが推測できます。にもかかわらず、断りとおせたのは、なにか事情があって、将軍はじめ周囲のものも無理強いできなかったのかもしれません。理由は分かりませんが頼房は、正室を迎えて行動の自由を制約されることを嫌い、とくに女性に関して自由奔放に生きる道を選んだことを押さえておきます。
 時代に遅れて生まれた頼房は勝れた武勇の才能を発揮する場をえられず、その憂さを晴らす場さえ奪われていったのかもしれません。頼房はそれを、身近かにいて思うがままになる女性たちに求めるようになります。そこには真実の愛情など望むべくもなかつた、と研究者は指摘します。

1622(元和八)年7月1日に頼房の第一子頼重は誕生します。
頼房19歳の時で歌舞伎者として気ままな生活を送っている頃です。懐妊を知った頼房は、流産を命じます。そのために江戸の三木邸で密に出生したようです。
その事情を高松藩の「家譜」は、次のように記します。

初め谷氏懐李之際、頼房相憚義御坐候て、出生之子養育致間敷との内意にて、(此時頼房兄尾張義直・紀伊頼宣ともに未た男子無之に付相憚候義の由、其後光圀も内々之次か別荘にて谷氏之腹に出生候得共、其節ハ尾・紀ともに男子出生以後に付、追て披露有之候由に御坐候)谷氏を仁兵衛へ預け申候処、仁兵衛義窃に頼房養母英勝院(東照宮の妾太田氏)へ相謀り、同人内々之指揮を得候て、出生之後仁兵衛家に養育仕候。然るに江戸表に差置候ては故障之次第も御座候二付、寛永七年庚午六月九歳にて京都へ指登し、滋野井大納言季吉卿ハ仁兵衛内縁御座候二付万事相頼ミ、大納言殿内々之世話にて洛西嵯峨に閑居仕候。

意訳変換しておくと
初め谷氏の懐妊が分かった際に、頼房は尾張・紀伊藩への配慮から、産まれてくる子を養育せず(水子にせよ)と伝えた。(この時には、頼房公の兄尾張義直・紀伊頼宣ともに、まだ男子がなかったので配慮のためであった。その後光圀公も内々に別荘で谷氏が出産したが、この時には、すでに尾・紀ともに男子が出生していたので、追て披露することになった。) こうして谷氏を仁兵衛へ預けた、仁兵衛は秘かに頼房の養母英勝院(東照宮の妾太田氏)へ相談し、その内々の指揮を得て、頼重を仁兵衛宅でに養育した。ところが江戸表で「故障之次第」となり、寛永七年六月、頼重9歳の
時に、京都へ移し、仁兵衛は内縁の滋野井大納言季吉卿に相談し、洛西嵯峨に閑居させた。そして、1632(寛永九)年、11歳の時に江戸に帰ったとあります。
始めてて子供が出来ると知ったときの頼房の感情や反応は、どうだったのでしょうか。
20歳で、正室を迎えていなかつた若い頼房に、子供をもうける考えはなかったはずです。子供が出来るという慶びよりも、まずい、どうしようと思い、二人の兄のことが思い浮かんだのではないでしょうか。それが「水子とせよ」という命令になって現れます。
 流産を命じられた家臣の三木は、英勝院の指揮を受けて秘かに出産させ、養育します。ところが「故障(事情)」があって9歳のときに、内縁(季吉は三木の娘の夫)のある滋野井大納言に依頼して、京都に送ったというです。
これは『桃源遺事』の記載とは、次の点が違います。
①頼重を京都に送ったのは2歳のときで、 16歳まで京都にいて「出家」させる予定だったこと
②「家譜」のかっこに入れた細字注がないこと。
「家譜」がこの部分を本文にしないで注記としたのは、確証がもてなかったからでしょう。
「此時頼房兄尾張義直・紀伊頼宣ともに未た男子無之に付相憚候義の由」は、押さえておきます。たしかに当時、尾張・紀伊には子供が誕生していなかったのです。

二番目の子である通は1624(寛永元)年に生まれています。この時点でも尾張と紀伊には子供はありません。尾張義直の最初の子・光友は1625(寛永二)年、紀伊頼宣の最初の子光貞は1626(寛永三)のことです。
 頼重問題がおきて以後、重臣達の諫言や親戚筋も説得して、頼房も納得したようです。それは、寛永四年以降は、毎年二人、三人と子供が生まれていることからもうかがえます。
ところが、光圀の誕生の際には、ふたたび頼房は流産を命じるのです。どうしてなのでしょうか
『桃源遺事』には、次のように記されています。
御母公西山公を御懐胎なされ候節、故有て水になし申様にと頼房公仁兵衛夫婦に仰付られ候所に、仁兵衛私宅にて密に御誕生なし奉り、深く隠し御養育仕候。
意訳変換しておくと

光圀公を御懐胎された時に、故有て水子にするようにと頼房公は仁兵衛夫婦に申しつけた。しかし、仁兵衛は自宅で密に出産させて、秘かに隠して養育した。

理由は「故有て」とだけで具体的なことは記されていません。そして、「密に」水戸の三木邸で誕生し、養育されています。もちろん、頼房に知れると生命の危険があったからでしょう。

どうして頼房は、久昌院谷久子にふたたび水子を命じたのでしょうか。
徳川頼房子女一覧表

表をみると、これ以後彼女は子供を生んでいません。一方、円理院佐々木氏と寿光院藤原氏はその後も出産し続けています。そして、側室の数も増えています。ここからは光圀の出産を機に、久子は頼房の寵愛を失ったことがうかがえます。
それでは、なぜ久子は頼房の寵愛を失ったのでしょうか。
そこにあるのが頼重をめぐる葛藤だと研究者は推測します。
頼重は1630(寛永七)年、9歳のときに京都に送られています。『桃源遺事』では2歳とありますが、水戸の頼重の京都行きと帰還の扱いは、弟の光圀が世子となったことを合理化するために操作されているから、高松藩の記録のほうが信頼できると研究者は考えています。
三木之次の妻武佐は頼房の乳母の姉で、頼房に気に入られていたようです。
 その縁で之次を頼房は「乳母兄」と呼んでいたと『水府系纂』は記しています。これだけ信頼されていた三木夫妻だったからこそ、二人の兄弟を密に誕生させ、養育できたのでしょう。しかし、頼重が9歳のときに京都に送ったということは、夫妻の力では守りきれなくなったようです。頼房は頼重が誕生し、どこかに生きていることを知つて激怒したでしょう。その時期に久子は、光圀を妊娠したのです。
 久子は頼重の安全のため一切語らなったはずです。そうだとすれば、命令にそむいて長男を出産し、その事情を語ろうともしない久子に頼房は怒りを抱き、「出産は認めない!水子にせよ」という態度をとったのでしょう。こうして久子への寵愛は消えていきます。
 頼房は、ふたたび三木夫妻に託して流産を命じます。命じられた三木夫妻は、頼重を探し始めた頼房をみて、今度はより安全な水戸で出産させ、養育したのでしょう。どちらにしても、頼房は正常な家庭をもとうとはしなかつた人物であったと研究者は考えています。

以上をまとめておきます
①高松藩初代藩主の松平頼重の父は、水戸藩祖の徳川頼房である
②頼房は、家康の末の男の子として幼年にして水戸藩を継いだ。
③頼房は、天下泰平の時代に遅れてやって来た武勇人で、歌舞伎者でもあった。
④時代の流れに取り残されるようになった頼房は、「女遊び」にはまり、多くの女性に手を付けた。
⑤公認されている子女だけでも26人で、それを産んだ女性達も多くは身分の高い出身ではなかった。
⑥このような風評は、兄の将軍秀忠や大奥にも及び、評判はよくなかった。
⑦そのような仲で、20歳で最初の子・頼重が産まれることが分かると、水子にして流すことを家臣に命じた。それは、兄の紀伊公や尾張公への世間体を重んじたものだとされる。
⑧これに対して養母於勝(英勝院)は、秘かに養育を命じた。
⑨さらに、それが頼房に知れると京都の天龍寺塔頭に預けた。これが頼重9歳から12歳のことである。
⑩その後、何人かの子供は生まれてくるが、光圀が生まれてきたときには、再度水子にすることを命じている。
⑪この背景には、自分の命を守らずに頼重を養育していた側室への怒りもあった。

つまり、頼重と光圀の兄弟は、父頼重から一度は命を奪われかけた存在であったようです。そして、この時点では水戸藩をどちらが継ぐかについては、決まっていなかったというのです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
古田俊純 徳川光圀の世子決定事情    筑波学院大学紀要第8集

中世の多度郡の郡司を綾氏の一族が務めていた史料があります。

善通寺一円保の位置
善通寺一円保の範囲

弘安三年(1280)、善通寺の本寺随心院の政所が善通寺一円保の寺僧や農民たちに発した下知状です。

随心院下知状(1280)
書き下し文は
随心院政所下す、讃岐國善通寺一円寺僧沙汰人百姓等
右営一円公文職は、大師御氏人郡司貞方の末葉重代相博し来る者也。而るに先公文覺願後難を顧りみず名田畠等或は質券に入れ流し或は永く清却せしむと云々。此条甚だ其調無し。所の沙汰人百姓等の所職名田畠等は、本所御進止重役の跡也。而るに私領と稀し自由に任せて売却せしなるの条、買人売る人共以て罪科為る可き也。然りと雖も覺願死去の上は今罪科に処せらる可きに非ず。彼所職重代相倅の本券等、寺僧真恵親類為るの間、先租の跡を失うを歎き、事の由を申し入れ買留め畢んぬ。之に依って本所役と云い寺家役と云い公平に存じ憚怠有る可からずの由申す。然らば、彼公文職に於ては真恵相違有る可からず。活却質券の名田畠等に於ては皆悉く本職に返付す可し。但し買主一向空手の事不便烏る可し、営名主の沙汰と為して本錢の半分買主に沙汰し渡す可き也。今自り以後沙汰人百姓等の名田畠等自由に任せて他名より買領する事一向停止す可し。違乱の輩に於ては罪科篤る可き也。寺家
沙汰人百姓等宜しく承知して違失す可からずの状、仰せに依って下知件の如し。
弘安三年十月廿一日       上座大法師(花押)
別営耀律師(花押)        上座大法師
法 眼
意訳変換しておくと
一円保の公文職は、弘法大師の氏人である郡司綾貞方の子孫が代々相伝してきたものである。ところが先代の公文覚願は勝手に名田畠を質に入れたり売却したりした。これは不届きなことである。所領の沙汰人(下級の荘園役人)や百姓の所職名田畠は、本所随心院の支配するところであって、それを私領と称して勝手に売り渡したのであるから、売人、買人とも処罰さるべきである。
 しかし、覚願はすでに死亡しているので、今となっては彼を処罰することはできない。それに公文職相伝の本券=基本証書は、寺僧の真恵が公文の親類として先祖伝来の所職が人手に渡るのを歎いて買いもどした。そして公文名田に賦せられた本所役や寺家役も怠りなくつとめると申してていることだから、公文職は真恵に与えることとする。覚願が売却したり質入れしたりした名田畠は、公文職に付随するものとして返却しなければならない。しかし、買手が丸損というのも気の毒だから、当名主(現在の名主)として代銭の半分を買主に渡すようにせよ。今後沙汰人、百姓等の名田畠を勝手に売買することは固く禁止する

ここからは次のようなことが分かります。
①善通寺一円保の公文職は、代々に渡って多度郡司の綾貞方の子孫が務めてきたこと
②綾氏一族の公文職覚願が、本寺随心院に無断で名田などを処分したので彼を罷免したこと
③そこで、綾氏一族の寺僧真恵が売られた田畑を買い戻したので、代わって公文に任じた
冒頭に出てくる「大師の氏人郡司貞方の末裔」とは 、平安末期に多度郡司であった綾貞方という人物です。
綾氏は讃岐の古代以来の豪族で、綾郡を中心にしてその周辺の鵜足・多度・三野郡などへの勢力を伸ばし、中世には「讃岐藤原氏」を名乗り武士団化していた一族です。彼らが13世紀には、佐伯氏に代わって多度郡の郡司を務めていたことが分かります。彼らは多度郡に進出し、開発領主として成長し、郷司や郡司職をえることで勢力を伸ばしていきます。
 さらに、この史料には「公文職の一族である寺僧眞恵」とあります。
ここからは寺僧真恵も綾氏の一族で、公文職を相伝する有力な立場の人物だったことが分かります。真恵は、ただの寺僧ではなく、先の公文が失った田畠をすべて買い戻すほどの財力の持主であり、一円保の役人の首である公文に任命されています。つまり真恵は、寺僧であるとともに、綾氏という有力武士団の一族に属し、地頭仲泰と対峙できる力を持っていた人物だったことを押さえておきます。

 綾氏は、讃岐の古代からの有力豪族です。
綾氏は平安末期に阿野郡郡司綾貞宜(さだのり)の娘が国主藤原家成(いえなり)の子章隆(あきたか)を生みます。その子孫は讃岐藤原氏と称して、香西・羽床・福家・新居氏などに分かれて中讃に勢力を広げ、讃岐最大の武士団に発展していました。また、源平合戦では、平家を寝返っていち早く源頼朝について御家人となり、讃岐国衙の在庁役人の中心として活躍するようになることは以前にお話ししました。一族は、綾郡や鵜足郡だけでなく、那珂・多度・三野郡へも勢力を伸ばしてきます。その中で史料に出てきた綾貞方は、多度郡司でもあり、善通寺一円保の公文職も得ていたことになります。この綾貞方について、今回は見ていくことにします。テキストは 「善通寺市史第1集 鎌倉時代の善通寺領 411P」です。

先ほどの史料冒頭「一円公文職者大師御氏人郡司貞方之末葉重代相博来者也」とある部分を、もう少し詳しく見ていくことにします。
「公文」とは文書の取扱いや年貢の徴収などにあたる荘園の役人です。善通寺の公文には、郡司綾貞方の子孫が代々この一円保の公文職に任ぜられていることが分かります。そして、その貞方が初代公文のようです。しかし、この時期には、一円領はまだ寺領として確定せず、基本的には国衙支配下にあったはずです。だとすると貞方を一円領の公文に任じたのは国衙ということになります。貞方は、荘園の公文と同じように、国衙の特別行政地域となった一円寺領の官物・在家役の徴収をまかされ、さらに地域内の農民の農業経営の管理なども行った人物と研究者は考えています。
「郡司貞方」とあるので、多度郡司でもあり「一円保公文」職は、「兼業」であったことが推測できます。
もし、貞方が一円地の徴税権やは管理権を国衙から与えられていたとすれば、彼の次のねらいはどんな所にあったのでしょうか。つまり、一円保を国衙や本寺随心院から奪い、自分のものにするための戦略ということになります。直接それを示している史料はないので、彼のおかれていた状況から想像してみましょう。
綾貞方は古代讃岐豪族綾氏の一族で、多度郡の郡司でもありました。
この時代の他の多くの新興豪族と同じ様に、彼も律令制の解体変化の中で、有力領主への「成長・変身」をめざしていたはずです。
 まず一円領内の彼の置かれていた立場を見ておきましょう。
①在家役を負担しているので、彼の田畠は他の農民と同じく国衙から官物・雑役を徴収されていた
②公田請作のほかに、先祖伝来の財力と周辺農民への支配力を利用して未開地を開発して所領に加えていた
②多度郡郡司として、行政上の権力や特権的所領も持っていた
しかし、これらの権限や特権を持っていたとしても国衙からの支配からは自立できません。新興有力者と国衙の関係は、次のような矛盾した関係にあったのです。
①一方では国衛から与えられた権限に依拠しながら領主として発展
②一方では国衙の支配下にある限り、その安定強化は困難であること

①については貞方が、徴税権と管理権を通じて領域農民を掌握できる権限を与えらたことは、彼の領主権の確立のためにの絶好の手がかりになったはずです。しかし、この権限は永続的なものではなく不安定なものでした。例えば、国司交代で新たな国司の機嫌を損なうようなことをすれば、すぐに解任される恐れもあります。
では権力の不安定さを克服するには、どうすればいいのでしょうか。
それは善通寺と協力して一円寺領地を国衙支配から切り離し、その協力の代償として寺から改めて一円公文に任命してもらうことです。その時に、それまでの権限よりも、もっと有利な権限を認めさせたいところでしょう。
 このように綾貞方とその子孫たちは、徴税、勧農を通じて、一円領内の農民への支配力を強め、在地領主への道を歩んでいたようです。 別の視点から見ると、形式上は一円保の名田や畠は、随心院~善通寺という領主の所有になっているけれども、実質的な支配者は公文職を世襲していた綾氏だったとも云えそうです。だから公文職について覚願は、名田や畠を勝手に処分するようになっていたのです。


善通寺の寺領
善通寺一円保と周辺郷名

公文職の綾氏の領主化にピリオドを打つ人物が真恵です。
真恵が公文職に就いてから12年後の正応五年(1292)3月に、善通寺から六波羅探題へ地頭の押領に関する訴状が出されています。
訴訟相手は、良田荘の地頭「太郎左衛門尉仲泰良田郷司」です。彼は良田郷の郷司でもあったようです。仲泰が後嵯峨法皇御菩提料や仏への供物などに当てるための多額の年貢を納めずに、「土居田(どいでん)と号して公田を押領す」とあります。仲泰は「土居田=直属の所領」と称して一般の農民の田地を奪っていたようです。善通寺は、その不法を訴えますが、六波羅の奉行の阿曽播磨房幸憲と地頭仲泰と結託していて、寺領侵害を長年にわたって止めることはできませんでした。
このような寺領紛争に、のり出しだのが綾氏出身の真恵でした。
 先ほど見たように真恵は、弘安三年(1280)十月に善通寺一円保の公文職についた人物です。当時の彼は善通寺大勧進になっていました。大勧進というのは堂塔の造営や修理、寺領の管理など寺院の重事にその処理の任に当たる臨時職です。大勧進の職についた真恵は、その職権を持って地頭の仲泰と交渉を進め、永仁六年(1298)に、良田郷を下地中分することにします。
  下地中分(しもちちゅうぶん)というのは、荘園の土地を荘園領主と地頭とで折半し、それぞれの領有権を認めて互いに干渉しないことにする方法です。荘園領主としては領地の半分を失うことになりますが、そのまま地頭の侵害が進めば荘園は実質的に地頭の支配下に入ってしまうかもしれません。それを防いで半分だけでも確保したいという荘園領主側の意向から行われた処置でした。
 善通寺が地頭仲泰の荘園侵害を防ぎきれず、下地中分をせざるを得なかったのは、結局善通寺が荘園に対して地頭に対抗できるだけの支配力を持たなかったからだといえます。したがって寺の支配力の強化が計られなければ、下地中分後の寺領もまた在地武士の侵害を受ける可能性があります。一円保公文として荘園管理の経験があり、また彼自身在地領主でもあった真恵は、そのことを痛感したのでしょう。
そこで真恵が計画した中分後の寺領支配の方法は次のようなものでした。大勧進真恵寄進状(A・B通)に、次のように記されています。

大勧進真恵寄進状A.
大勧進真恵寄進状A

意訳変換しておくと
(地頭との相論で要した訴訟費用)一千貫文は、すべて真恵の私費でまかなったこととにする。その費用の代として、一町別五〇貫文、一千貫文分二〇町の田を真恵の所有とする。そのうえで改めてその田地を金堂・法華堂などに寄進する。その寄進の仕方は、金堂・法華堂の供僧18人に一町ずつの田を配分寄進し、町別に一人の百姓(名主)を付ける。残りの2町については、両堂と御影堂の預僧ら3人に5段ずつ、合わせて1町5段、残る5段は雑役を勤める下級僧侶の承仕に配分する。別に2町を大勧進給免として寄進する

大勧進真恵寄進状B
大勧進真恵寄進状B

真恵寄進状とありますが、その実態は「大勧進ならびに三堂供僧18人口、水魚の如く一味同心せしめ、仏法繁栄を専らにすべし」とあるように、田地と百姓の配分を受けた寺僧らが大勧進を中心に結束して寺領を維持していこうとする「善通寺挙国(寺)一致体制」作りにほかなりません。真恵が訴訟費用の立替分として自分のものとし、次いで善通寺に寄進した土地は、中分で得たほとんどすべてです。このようなもってまわった手続きを行ったのは、新しい支配体制が、それまでの寺僧の既得権や名主百姓の所有権を解消して再編成するものであったことを著しています。普通の移行措置では、今まで通りで善通寺は良くならないという危機意識が背景にあったかもしれません。真恵の考えた「寺僧による集団経営体制」ともいえるこの体制は、当時としてはなかなかユニークなものです。

「B」の冒頭の「眞惠用途」とは 、大勧進としての真恵の用途(=修理料)を指すと研究者は考えています。内容を整理すると、
① 大勧進の真恵が良田郷の寺領について、地頭との間で下地中分を行ったこと
②その際に領家分となった田畠2町を供僧等に割り当てたこと
③それに加えて、寺僧中二人の學頭とも断絶したときには 、大勧進沙汰として修理料とすること
④Aとは別に良田郷内の2 町の田畠を大勧進給免として配分すること
⑤大勧進職には自他の門弟の差別をせずに器量のあるものを選ぶこと
⑥適任者がいないときには 「二十四口衆」の沙汰として修理料とすること

   以上のように、真恵は綾氏出身の僧侶で、寺院経営に深く関わり、地頭と渡り合って下地中分なども行える人物だったことが分かります。現在の我々の「僧侶」というイメージを遙かに超えた存在です。地元に有力基盤をもつ真恵のような僧が、当時の善通寺には必要だったようです。そういう目で見ると、この後に善通寺大勧進として活躍し、善通寺中興の祖と云われる道範も、櫛梨の有力者岩崎氏出身です。また、松尾寺を建立し、金比羅堂を建てた宥雅も西長尾城主の弟と云われます。地方有力寺院経営のためには、大きな力を持つ一族の支えが必要とされたことがうかがえます。
大勧進職の役割についても、見ておきましょう。
 Bの冒頭には「大勸進所者、堂舎建立修理造營云行學二道興行云偏大勸進所可爲祕計」とあります。ここからは伽藍修造だけでなく、寺院経営までが大勧進職の職掌だったことがうかがえます。Aでみたように、下地中分や、供僧への田畠を割り当てることも行っていることが、それを裏付けます。

 B によって設定された大勧進給免田畠2町は、観応3年(1352)6月25日の誕生院宥範譲状で 「同郷(良田郷)大勸進田貳町」と出てきて、宥源に譲られています。善通寺の知行権を伴う大勧進職の成立は、真恵譲状の永仁6年から始まると研究者は考えています。

 しかし、真恵がめざした「大勧進+寺僧集団」による良田荘支配は、本寺随心院の干渉によって挫折します。
真恵のプランは、随心院からみれば本寺の権威を無視した末寺の勝手な行動です。そのまま見逃すわけにはいきません。末寺善通寺と本寺随心院との良田荘をめぐる争いは徳治2年(1306)まで約10年間続きます。
TOP - 真言宗 大本山・隨心院

随心院は、摂関家の子弟が門跡として入る有力寺院です。
善通寺の内にも真恵の専権的なやり方に不満を持った僧がいたのでしょう。争いは次第に善通寺側に不利になっていきます。結局、真恵の行った下地中分は取り消され、良田荘は一円保と同じように随心院を上級領主とする荘園になったようです。真恵による寺領経営プランは、本所随心院の圧力により挫かれたことになります。そして、真恵は失脚したようです。

以上をまとめておくと
①古代讃岐の有力豪族であった綾氏は、鵜足郡や阿野(綾)郡を拠点にして、その勢力を拡大した。
②西讃地方でも、中世になると那珂郡・多度郡・三野郡などで綾氏一族の末裔たちの動きが見えるようになる。
③13世紀末の史料からは、綾定方が多度郡の郡司で、善通寺一円保の公文職を務めていたことが分かる、
③綾貞方の子孫は、その後も善通寺一円保公文職を務めていたが、覚願が、本寺随心院に無断で名田などを処分したので罷免された。
④そこで、綾氏一族の寺僧真恵が売られた田畑を買い戻し、公文に就任した
⑤それから18年後に真恵は、善通寺大勧進となって良田荘の地頭と渡り合って下地中分を成立させている。
⑥そして田地と百姓の配分を受けた寺僧らが大勧進を中心に結束して寺領を維持していこうとする体制造りをめざした
⑦しかし、これは本寺随心院の支持を得られることなく、真恵は挫折失脚した。

ここからは、中世には綾氏の武士団化した一族が多度郡に進出し、多度郡司となり、善通寺一円保の公文職を得て勢力を拡大していたことがうかがえます。そして、その中には僧侶として善通寺大勧進職につきて、寺院経営の指導者になるものもいたようです。善通寺など地方有力寺院は、中世には、このような世俗的な勢力の一族を取り込み、寺院の経済基盤や存続を図ろうとしていたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山之内 誠  讃岐国善通寺における大勧進の性格について 日本建築学会計画系論文集 第524号.,305−310,1999年
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 讃岐の守護職に就いた人たちは、どんな人物だったのでしょうか。今回は鎌倉時代の讃岐守護を見ていくことにします。

鎌倉時代の守護

最初に守護として讃岐にやってきたのは後藤基清(もときよ)のようです。
『尊卑分脈』によると、後藤基清は藤原北家、秀郷流の嫡流とも言える佐藤義清(西行)の兄弟である佐藤仲清の子です。つまり、西行の甥になります。後に後藤実基の養子となります。その経歴を年表化しておきます。
元暦2年(1185年)義経に従軍し、屋島の戦いに参戦。
建久元年(1190年)頼朝上洛の際に、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院供奉。その後、京都守護一条能保の家人、在京御家人として活躍
正治元年(1199年)2月、三左衛門事件で源通親への襲撃を企てたとして讃岐守護を解任
その後、後鳥羽上皇との関係を深め、西面武士・検非違使となる。
建保年間(1213年 - 1219年)播磨守護
承久3年(1221年)の承久の乱では後鳥羽上皇方につき、敗北。その後、幕府方についた子・基綱によって処刑される。
全訳吾妻鏡(別巻共全6冊揃)(永原慶二監修 喜志正造訳注) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
吾妻鏡
「吾妻鏡」には正治元年(1199)2月5日条に、「讃岐守護後藤基清が罪科によって守護職を改替」と記されています。就任時期や何年にわたって讃岐守護を務めていたのかは分かりませんが、史料的には一番最初の讃岐守護になるようです。
近藤国平 後藤基清失脚の跡をうけて讃岐守護となった人物です。
近藤国澄の子で、武蔵国矢古宇郷を本拠地とする御家人です。近藤国平は、源頼朝の挙兵に応じて、山木攻めや石橋山の合戦で戦っています。その後、鎌倉で頼朝側近の一人として仕え、元暦二(1185)年2月、頼朝の命で鎌倉殿御使として上京します。
 後藤基清が解任された後、建久10(1199)年に讃岐守護に就任しています。いつまで守護を務めたのかも分かりませんし、その動向は鎌倉末まで分からなくなります。

近藤氏系図(高瀬)
近藤氏系図

この近藤氏の末裔と称するのが高瀬二宮の近藤氏で、讃岐守護の国平につながる系図を持ちます。鎌倉末の元徳三(1331)年、高瀬二宮の近藤氏は本家の仁和寺法金剛院との間で二宮荘の下地中分を行っています。ここからは、近藤氏は讃岐国内においては、二宮荘を拠点としながらも大きく成長することはなかったようです。
北条家の支配&苦悩は続くよ宝治合戦【まんが日本史ブギウギ】 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
三浦光村
『吾妻鏡』寛元4年2月18日条に、次のように記されています。

讃岐国御家人藤左衛門尉が海賊を召し捕えたことを、讃岐守護三浦光村の代官が知らせてきたので、京都の六波維探題は、このことを鎌倉幕府へ伝えた

ここからは寛元4(1246)年に、三浦光村が讃岐の守護であったことが分かります。
鎌倉来迎寺に建つ「三浦大介義明の五輪塔墓」のこと: 風に吹かれて鎌倉見聞_2022

三浦氏は相模国の豪族で、頼朝の挙兵にあたって三浦義明がこれを援助します。その子義澄は相模守で、孫の義村は承久の乱後に、河内国・紀伊国の守護となっています。義村の子泰村は、北条氏の外戚として威勢をふるいます。光村は泰村の弟で、当時鎌倉にいて将軍頼経の信任を受けていました。そのため讃岐守護職にあった光村は鎌倉を離れることなく、讃岐に代官(「守護代」)を派遣していたようです。
寛元4年の翌年の宝治元(1247)年に、幕府に謀反を起したとの理由で北条時頼・安藤景益らに攻められ、三浦氏一族は滅亡します。当然、三浦氏の讃岐守護もここで終わります。
三浦泰村一族の墓~法華堂跡の「やぐら」~

三浦氏は讃岐守護職にありましたが、守護代を派遣して本人は赴任していなかったようです。その守護代を務めていたのが「長雄(尾)氏」のようです。
 高野山の高僧道範が党派抗争の責任を取らされて、讃岐に流されてきます。その時の様子を記したのが『南海流浪記』です。道範は讃岐に連行されて宇多津の守護所に出頭しています。その時に訪ねているのが「讃岐守護所長雄二郎左衛門尉」です。
ここに出てくる「長雄(尾)氏」は、何者なのでしょうか?
「長雄氏」は頼朝以来の関東御家人ではありませんし、守護級の家柄でもないようです。そのため研究者は、「長雄氏」が讃岐守護であったとは考えていません。
「長雄(尾)氏」は三浦氏と私的な思顧関係を持っていた一族のようです。
 吾妻鏡には長足定量は、石橋山の合戦で頼朝と戦って敗れ、捕えられて一時三浦義澄に預けられた後に許されています。このときに長足定景は、三浦氏の思顧をうけて三浦氏との結びつきを強めたことが推測できます。それを裏付ける事件や事項を年表化すると次のようになります。
後に三浦義村の命を受けて、実朝を殺害した公暁を誅伐したのは長尾新六定景であること。
嘉禎元(1225)年、長尾光景が三浦義村・泰村の推挙で、将軍の恩賞を得ていること。
暦仁元(1238)年6月の将軍頼経の春日社参詣のとき、長尾景茂・同光景が三浦義村の随兵六騎のなかに数えられていること
宝治元年6月に、三浦氏一族が滅亡した際に自殺討死した人のなかに、定景の子である長尾景茂・同胤景(次郎左衛門尉と称す)の名がみえること。
以上から『南海流浪記』に出てくる「長雄二郎左衛門尉」とは、三浦氏と私的な恩顧関係をもつ長尾氏のことと研究者は考えています。
 つまり守護所とは守護の居所のことで、讃岐守護三浦氏の守護代として長尾次郎左衛門尉(胤景)が讃岐宇多津に居たことになります。『南海流浪記』の記事は、仁治四年(1243)のことですから、少なくとも仁治4年から三浦氏滅亡の宝治元(1247)年までは、三浦氏が讃岐の守護であったと研究者は考えています。

北条重時 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

北条重時
三浦氏滅亡から4年後の建長2年(1250)9月20日の『吾妻鏡』の条に、讃岐国の海賊を関東へ召下し、蝦夷へ遣すということが幕府の評定で評議されたことが記されています。その時に、北条重時にその沙汰が命じられています。国内の犯罪人の取締りは、守護の任務の一つです。海賊を捕らえて、蝦夷に流刑するという措置を北条重時に命じられると云うことは、彼が当時讃岐の守護であったことがうかがえます。ここからは、三浦氏滅亡後の讃岐の守護ポストは、執権となって幕府の実権を握っていた北条氏一門が占めるようになったことが分かります。
北条経時 - アンサイクロペディア

北条有時                                           
 文永五(1268)年2月27日に幕府は、讃岐守護北条有時に次のような書状を送っています。(『中世法制史料集』)
一 蒙古國事
蒙古人挿二凶心、可伺本朝之由、近日所進牒使也、早可用心之旨、可被相触鯛讃岐國御家人等状、
依仰執達如件
文永五年二月廿七日
                                                          相模守(北条時宗
右京権大夫 (北条政村)
駿河守殿  (北条有時)
読み下し文
一 蒙古国の事
蒙古人凶心を挿み、本朝を伺う可きの由、近日牒使を進むる所なり、早く用心す可きの旨、讃岐国御家人らに相触れらる可くの状、 仰せに依り執達件の如し
文永五年(1268)2月27日付の蒙古の使節の来朝のことを告げ、讃岐国の御家人に用心すべきことを伝えた内容の関東御教書が、執権の北条時宗から北条有時に出されています。これを受けて讃岐の国人たちも臨戦態勢を整えたのかも知れません。
 国内の御家人の統制が、守護の主要な任務であったことを考えると、北条有時が讃岐の守護であったことがうかがえます。
駿河左近大夫将監
元弘元年(1321)後醍醐天皇討伐のための幕府の上洛軍編成のなかに、駿河左近大夫将監と書いて、その下に讃岐国と注記されています。ここからは当時は、駿河左近大夫将監が讃岐守護であったことが分かります。駿河左近大大将監は、北条氏一門の一人で、 元弘元年ごろまで北条氏一門として讃岐の守護となっていたようです。なお、駿河左近大夫将監は、讃岐守護代の駿河八郎と同一人物であろうとする説もあります。しかし、両者が同一人物であるというはっきりした史料はないようです。
長井左近大夫将監高広
元弘2年(1331)2月に、幕府討伐の計画を企てていた後醍醐天皇は隠岐へ、その皇子宗良親王は讃岐へと配流に処せられます。『梅松論』によると、 宗良親王を讃岐の守護人が請取って都を出発したとあります。また『太平記』巻4には次のように記されています。
「一宮並妙法院二品親王御事」
「三月八日……同日、妙法院二品親王をも、長井左近大夫将監高広を御警固にて讚岐国へ流し奉る。…」
元弘の変の後処理として、好法院二品親王(=後醍醐天皇の皇子・尊澄法親王=のちの宗良親王)を長井高広が預かり、翌年3月に配流先の讃岐国へ移送された際にも高広が護衛に付いたとあります。この「長井高広」は、『梅松論』に出てくる、讃岐国の守護人のことだと研究者は推測します。長井高広は、幕府創建時の政所別当大江広元の子孫で、六波羅探題の評定衆であった長井貞重の子になります。
  建武元(1334)年8月付「雑訴決断所結番交名」に「長井左近大夫将監 高廣」の名があるので、鎌倉幕府滅亡後に発足した建武新政下で、雑訴決断所の寄人三番の一人になっていたことが分かります。
船木二郎頼重                                                      
  船木氏の祖。美濃・近江に所領があった御家人です。太平記には、次のように記されています。
船木頼重は後醍醐天皇にしたがって、建武の中興の功績により讃岐守護に任じられた。山田郡に高松城を築いて拠点としたので髙松頼重と呼ばれるようになった。

しかし、それもつかの間で建武2年(1335)に、足利尊氏に呼応して讃岐鷺田で挙兵した細川定禅(じょうぜん)を攻撃し敗れます。そして、

屋島の浦から舟で逃れたとあるだけで、その後の行方は不詳です。

神奈川県横浜市戸塚区の高松寺(こうしょうじ)の裏手土墳墓に高松頼重の墓所があるようです。しかし、高松市下田井町の田畑の中にある
五輪塔も高松頼重の墓と伝えられているようです。

伝髙松頼重の墓
高松頼重の墓(高松市下田井町)
以上、鎌倉時代に讃岐守護となった人物のの在籍年を要約しておきます。
①正治元年(1199)まで            後藤基清
②正治元年 →                近藤七国平                  ③仁治4年(1243)→宝治元年(1247) 三浦氏
④宝治元年      →元弘元年(1331)      北条氏一門
⑤元弘2年(1332)→      長井高広
⑥建武2年(1343)→          船木(髙松)頼重                        
三浦氏の滅亡以降は、幕府の執権北条一門が讃岐守護になっています。これは、讃岐国が瀬戸内海における重要な拠点として重視されていたからと研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史 承久の乱と讃岐 380P
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源頼朝は、源義経・源行家の追捕のために、配下の御家人を全国にわたって守護・地頭に任ずることを、後白河法皇へ願い出てて許可されます。これによって次の二点が実現します。
①頼朝と御家人との私的な主従関係が、公的なものとして認められたこと
②東国だけでなく全国的に鎌倉幕府の勢力が及ぶようになったこと
守護は、有力御家人を国ごとに任じ、国内の御家人への大番役(京都の警固)の催促、謀叛人・殺害人の逮捕などの軍事・警察権を握っていました。地頭は、公領・荘園ごとに置かれ、年貢の徴収・上地の管理などに携わっていました。言うなれば「警察署長 + 税務署長」のようなものです。
義時を討て」後鳥羽上皇の勝算と誤算 承久の乱から武士の世に:朝日新聞デジタル

鎌倉幕府の成立によって「二重政権」のようになって、朝廷の政治的地位は低下します。
その勢力回復を、あの手この手で試みるのが後鳥羽上皇です。それは、源頼朝の死後に頻発する有力御家人の謀叛によって生じた隙をつくものでした。承久元年(1219)正月に三代将軍源実朝は、頼家の子公暁に暗殺されます。このとき幕府では、北条義時が執権となって幕府の実権を握り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとします。上皇はこれを許さず、このため頼朝の遠縁にあたる藤原道家の子頼経を四代将軍に迎えて、幕府の体制を固めます。この事態に対し後鳥羽上皇は、承久3年5月に京都守護伊賀光季を討って、北条義時追討の院宣を発します。幕府は直ちに北条泰時・時房に挙兵上京を命じ、翌月には幕府軍は、京都で御鳥羽上皇の軍勢を鎮圧します。この結果、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上率は土佐へと配流されます。
承久の乱2

この承久の乱に際し、讃岐で鳥羽上皇を支援する側に回ったのが讃岐藤原氏(綾氏)一族です。
讃岐藤原氏の統領、羽床重資の子羽床兵衛藤大夫重基は後鳥羽院側に味方したため、その所領は没収されています。(「綾氏系図」)。また綾氏の嫡流である綾顕国も羽床重員とともに院側に味方したとされます(『全讃史』)。讃岐では讃州藤家の嫡流である羽床重基と、綾氏の嫡流たる綾顕国が、後鳥羽上皇方についたようです。
一方、幕府側についたことが明らかなのは、藤家一族の香西左近将監資村です。
資村は、その忠節により香川郡の守護職に補せられたと云います。(『南海通記』)。しかし、これは守護に代って任国に派遣される守護代の下の守護又代になったにすぎないと『新修香川県史』は指摘します。
イラストで学ぶ楽しい日本史
承久の乱の前と後
一方、承久の乱で院方についた武士として、東讃地域の武士は出てきません。これをどう考えればいいのでしょうか? 
その背景は、源平合戦当時に東讃に勢力をもっていた植田氏一族が、平氏の傘下にあったこがあるようです。植田氏の基盤とした東讃地域は平家方についたために、鎌倉幕府から「戦犯」扱いされ、強い統制下にあったことが考えられます。それが「反鎌倉」の動きを封じ込まれることになったというのです。

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南海通記と南海治乱記
 この点について『南海通記』は、承久の乱後に橘公業が関東の目代として三木郡に居住することになり、東讃四郡の守護になったと記します。しかし、東讃四郡だけの守護はあり得ないし、橘公業が三木郡に住んだという史料はありません。公業は嘉禎二年(1326)2月まで伊予国宇和郡を本拠地としていることが『吾妻鏡』には記されています。南海通記は、後世に書かれた軍記もので「物語」です。史料として無批判に頼ることはできないことが「秋山家文書」などからも明らかにされています。
讃岐 鎌倉時代の地頭一覧表

讃岐の鎌倉時代の地頭一覧表
讃岐の地頭の補任地として、現在17か所が明らかになっています。
  承久の乱後、勝利した鎌倉幕府は後鳥羽上皇に与した貴族(公家)や京都周辺の大寺社の力をそぐために、その荘園に新たに地頭を置きます。これを新補地頭(しんぽじとう)と呼びます。上の表を見ると分かるように、1250年代以前に置かれたことが史料で確認できる地頭職6つのうちで、承久の乱後に地頭が補任されたのは次の4ヶ所です。
法勲寺領・櫛梨保・金蔵寺領・善通寺領

地域的に見ると丸亀平野に集まっています。金蔵寺領は、間違って地頭が置かれたようですが、残りの三か所では、その地域に勢力を持つものが院方に味方したために没収されて、その所領に新たに地頭が任命されたことが考えられます。ここからは綾氏一族の綾顕日、羽床重基だけでなく丸亀平野の武士たちの多くが院方に味方していたことがうかがえます。彼らは、羽床重基に率いられた藤家一族だったことが推測できます。これが承久の乱後の地頭補任が、丸亀平野に限られていることと深く関係しているようです。

讃岐藤原氏系図1
讃岐藤原(綾)氏の系図

それならば、院側についた綾氏一族は、乱後に国府の在庁官人群から一掃されたたのでしょうか?
建長8年(1256)の史料には、讃岐の在庁官人として、新居藤大夫資光の孫の新居刑部次郎資員と重晨の従兄弟の羽床藤大夫藤四郎長知の名があります。院方に味方したと思われる羽床氏や新居氏の一族が、従来に在庁官人の地位にとどまっていることが分かります。
その理由として研究者は次のように考えています。

「院方に味方したということで、藤家一族を讃岐の国衛から排除すると、讃岐の支配を円滑に行えないために、在地で大きな勢力をもっていた藤家一族に依存せざるを得なかった

藤家一族は、承久の乱も讃岐の国衛で重要な地位に就いていたようです。
羽床城 - お城散歩
羽床城跡
以上をまとめておくと
①源平合戦の際に、讃岐綾氏の系譜を引く讃岐藤原氏は平家を裏切って、いち早く源氏方の御家人となり、鎌倉幕府の信頼を得て、その後の讃岐国衙の在庁役人として重要な役割を果たすようになった
②承久の乱では、讃岐藤原氏の主流派は後鳥羽上皇に味方し、乱後に所領の多くを失った。
③乱後に新補地頭がやって来た荘園は丸亀平野に多いので、讃岐藤原氏主流派の配下にあったのが丸亀平野周辺の武士団であし、彼らが「戦犯」としてと所領没収されたこと
④東讃は、源平合戦の際に平家方に味方し、その後に鎌倉幕府の「戦後処理」が厳しかったために後鳥羽上皇側に味方する武士団は現れなかったこと
⑤しかし、乱後も後鳥羽上皇を支援した新居氏や羽床氏の子孫は在庁役人としてとどまっていること、
ここからは、承久の乱を契機に羽床氏などの讃岐藤原氏の主流派が国衙から一掃され、それに代わって讃岐藤原氏の惣領家が香西氏に移行したとは云えないようです。 ここでも「南海通記」の見直しが求められています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

香川氏発給文書一覧
香川氏発給文書一覧 帰来秋山氏文書は4通

高瀬町史の編纂過程で、新たな中世文書が見つかっています。それが「帰来秋山家文書」と云われる香川氏が発給した4通の文書です。その内の2通は、永禄6(1563)年のものです。この年は、以前にお話したように、実際に天霧城攻防戦があり、香川氏が退城に至った年と考えられるようになっています。この時の三好軍との「財田合戦」の感状のようです。
 残りの2通は、12年後の天正5年に香川信景が発給した物です。これは、それまでの帰来秋山氏へ従来認められていた土地の安堵と新恩を認めたものです。今回は、この4通の帰来秋山家文書を見ていくことにします。テキストは「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

 帰来秋山家文書は、四国中央市の秋山実氏が保管していたものです。
 帰来秋山家に伝わる由緒書によると、先祖は甲斐から阿願人道秋山左兵衛が讃岐国三野郡高瀬郷に来住したと伝えていています。これは、秋山惣領家と同じ内容です。どこかで、惣領家から分かれた分家のようです。
 天正5(1577)年2月に香川信景に仕え、信景から知行を与えられたこと、その感状二通を所持していたことが記されています。文書Cの文書中に「数年之牢々」とあり、由緒書と伝来文書の内容が一致します。
 秀吉の四国平定で、長宗我部元親と共に香川氏も土佐に去ると、帰来秋山家は、讃岐から伊予宇摩郡へ移り、後に安芸の福島正則に仕えます。しかし、福島家が取り潰しになると、宇摩郡豊円村へ帰住し、享保14年(1729)に松山藩主へ郷士格として仕え、幕末に至ったようです。由緒書に4通の書状を香川氏から賜ったとありますが、それが残された文書のようです。帰来秋山一族が、天正年間に伊予へ移り住んだことは確かなようです。伝来がはっきりした文書で、信頼性も高いこと研究者は判断します。
 それでは、帰来秋山家文書(ABCD)について見ていきましょう。
まずは、財田合戦の感状2通です。
A 香川之景・同五郎次郎連書状 (香川氏発給文書一覧NO10)
 一昨日於財田合戦、抽余人大西衆以収合分捕、無比類働忠節之至神妙候、弥其心懸肝要候、謹言
閏十二月六日   五郎次郎(花押)
            香川之景(花押)
帰来善五郎とのヘ
意訳変換しておくと
 一昨日の財田合戦に、阿波大西衆を破り、何人も捕虜とする比類ない忠節を挙げたことは誠に神妙の至りである。その心懸が肝要である。謹言
閏十二月六日   五郎次郎(花押)
            香川之景(花押)
帰来(秋山)善五郎とのヘ
ここからは次のような事が分かります。
①財田方面で阿波の大西衆との戦闘があって、そこで帰来(秋山)善五郎が軍功を挙げたこと。
②その軍功に対して、香川之景・五郎次郎が連書で感状を出していること
③帰来秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたこと
④日時は「潤十二月」とあるので閏年の永禄6年(1563)の発給であること
永禄6年に天霧城をめぐって大きな合戦があって、香川氏が城を脱出していることが三野文書史料から分かるようになっています。この文書は、一連の天霧城攻防戦の中での戦いを伝える史料になるようです。
B 香川之景・同五郎次郎連書状    (香川氏発給文書一覧NO11)
去十七日於才田(財田)合戦、被疵無比類働忠節之至神妙候、弥共心懸肝要候、謹言、
三月二十日                            五郎次郎(花押)
     之  景 (花押)
帰来善五郎とのヘ
文書Aとほとんど同内容ですが、日付3月20日になっています。3月17日に、またも財田で戦闘があったことが分かります。冬から春にかけて財田方面で戦闘が続き、そこに帰来善五郎が従軍し、軍功を挙げています。

文書Bと同日に、次の文書が三野氏にも出されています。 (香川氏発給文書一覧NO12)
去十七日才田(財田)合戦二無比類□神妙存候、弥其心懸肝要候、恐々謹言、
三月二十日                    五郎次郎(花押)
    之  景 (花押)
三野□□衛門尉殿
進之候
発給が文書Bと同日付けで、「去十七日才(財)田合戦」とあるので、3月17日の財田合戦での三野氏宛の感状のようです。二つの文書を比べて見ると、内容はほとんど同じですが、文書Aの帰来(秋山)善五郎宛は、書止文言が「謹言」、宛名が「とのへ」です。それに対して、文書Bの三野勘左衛門尉宛は「恐々謹吾」「進之」です。これは文書Aの方が、「はるかに見下した形式」だと研究者は指摘します。三野勘左衛門尉は香川氏の重臣です。それに対して、帰来善五郎は家臣的なあつかいだと研究者は指摘します。帰来氏は、秋山氏の分家の立場です。単なる軍団の一員の地位なのです。香川氏の当主から見れば、重臣の三野氏と比べると「格差」が出るのは当然のようです。
 この冬から春の合戦の中で、香川氏は大敗し天霧城からの脱出を余儀なくされます。そして香川信景が当主となり、毛利氏の支援を受けて香川氏は再興されます。

文書C  (香川氏発給文書一覧NO16)は、その香川信景の初見文書にもなるようです。讃岐帰国後の早い時点で出されたと考えられます。
C 香川信景知行宛行状
秋山源太夫事、数年之牢々相屈無緩、別而令辛労候、誠神妙之や無比類候、乃三野郡高瀬之郷之内帰来分同所出羽守知行分、令扶持之候 田畑之目録等有別紙 弥無油断奉公肝要候、此旨可申渡候也、謹言、
天正五 二月十三日                       信 景(花押)
三野菊右衛門尉とのヘ
意訳変換しておくと
秋山源太夫について、この数年は牢々相屈無緩で、辛労であったが、誠に神妙無比な勤めであった。そこで三野郡高瀬之郷之内の帰来分の出羽守知行分を扶持として与える。具体的な田畑之目録については別紙の通りである。油断なく奉公することが肝要であることを、申し伝えるように、謹言、
天正五 二月十三日                       (香川)信景(花押)
三野菊右衛門尉とのヘ
この史料からは次のようなことが分かります。
①天正5年2月付けの12年ぶりに出てくる香川氏発給文書で、香川信景が初めて登場する文書であること
②秋山源太夫の数年来の「牢々相屈無緩、別而令辛労」に報いて、高瀬郷帰来の土地を扶持としてあたえたこと
③直接に秋山源太夫に宛てたものではなく三野菊右衛文尉に、(秋山)源太夫に対して知行を宛行うことを伝えたものであること
④「田畠之目録等有別紙」とあるので、「別紙目録」が添付されていたこと
 香川氏が12年間の亡命を終えて帰還し、その間の「香川氏帰国運動」の功績として、秋山源太夫へ扶持給付が行われたようです。「牢々相屈無緩、別而令辛労」からは、秋山源太夫も、天霧城落城以後は流亡生活を送っていたことがうかがえます。
これを裏付ける史料が香川県史の年表には元亀2(1571)年のこととして、次のように記されています。
1571 元亀2
 6月12日,足利義昭,小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
 8・1 足利義昭,三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
 9・17 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、鞆に亡命してきていた足利将軍義昭が、香川氏の帰国支援に動いていたことがうかがえます。
 
文書Cで給付された土地の「別紙目録」が文書D(香川氏発給文書一覧NO10)になります。
D 香川信景知行日録
一 信景(花押) 御扶持所々目録之事
一所 帰来分同五郎分
   帰来分之内散在之事 後与次郎かヽへ八反田畠
   近藤七郎左衛門尉当知行分四反反田畠
   高瀬常高買徳三反大田畑  出羽方買徳弐反
   真鍋一郎大夫買徳一町半田畑
以上 十拾八貫之内山野ちり地沽脚之知共ニ
一所  ①竹田八反真鍋一郎太夫買徳 是ハ出羽方之内也、最前帰来分江御そへ候て御扶持也
一所 出羽方七拾五貫文之内五拾貫文分七反三崎分
右之内ぬけ申分、水田分江四分一分水山河共ニ三野方へ壱町三反 なかのへの盛国はいとく分
此外②武田八反俊弘名七反半、此分ぬけ申候て、残而五拾貫文分也、又俊弘名七反半真鍋一郎太夫買徳、
但これハ五拾貫文之外也
以上
天正五(1577)年二月十三日         
             秋山帰来源太夫 親安(花押)

 研究者が注目するのは、この文書の末尾に「秋山帰来源太夫」とあるところです。
秋山家文書の中にも「帰来善五郎」は出てきますが、それが何者かは分かりませんでした。この帰来秋山文書の発見によって、帰来善五郎は秋山一族であることが明らかになりました。善五郎が源太夫の先代と推測できます。伊予秋山氏は帰来秋山家の末裔といえるようです。
三野町大見地名1
三野湾海岸線(実線)の中世復元 竹田は現在の大見地区
帰来秋山氏は、どこに館を構えていたのでしょうか。
①②の「竹田」「武田」は、現在の三野町大見の竹田と研究者は考えています。 秋山家文書の泰忠の置文(遺産相続状)には、大見にあった秋山氏惣領家の名田が次のように出てきます。
あるいハ ミやときミやう (あるいは宮時名)、
あるいハ なか志けミやう (あるいは長重名)、
あるいハ とくたけミやう (あるいは徳武名)、
あるいは 一のミやう   (あるいは一の名)、
あるいハ のふとしミやう (あるいは延利名)
又ハ   もりとしミやう (又は守利名)
又は   たけかねミやう (又は竹包名)、
又ハ   ならのヘミやう (又はならのへ名)
このミやうミやうのうちお(この名々の内を)、めんめんにゆつるなり(面々に譲るなり)」

多くの名前が並んでいるように見えますが、「ミやう」は名田のことす。名主と呼ばれた有力農民が国衛領や荘園の中に自分の土地を持ち、自分の名を付けたものとされます。名田百姓村とも呼ばれ名主の名前が地名として残ることが多いようです。特に、大見地区には、名田地名が多く残ります。このような名田を泰忠から相続した分家のひとつが帰来秋山家なのかもしれません。
秋山氏 大見竹田
帰来秋山氏の拠点があった竹田集落

③の「帰来分」は帰来という地名(竹田の近くの小字名)です。
ここからは帰来秋山氏の居館が、本門寺の東にあたる竹田の帰来周辺にあったことが分かります。そのために帰来秋山氏と呼ばれるようになったのでしょう。ここで、疑問になるのはそれなら秋山惣領家の領地はどこにいってしまったのかということです。それは後に考えるとして先に進みます。

もう一度、史料を見返すと帰来分内の土地は、真鍋一郎へ売却されていたことが分かります。それが全て善五郎へ、宛行われています。もともとは、帰来秋山氏のものを真鍋氏が買徳(買収)していたようです。真鍋氏は、これ以外に秋山家惣領家の源太郎からも多くの土地を買っています。
 どうして秋山氏は所領を手放したのでしょうか?
 以前にお話したように、秋山氏は一族が分裂し、勢力が衰退していったことが残された文書からは分かります。それに対して、多度津を拠点とする守護代香川氏は、瀬戸内海交易の富を背景に戦国大名化の道を着々と歩みます。香川氏の台頭により、三野郡での秋山氏の勢力衰退が見られ、 一族が分裂するなどして所領が押領されていった可能性があると研究者は考えているようです。
 戦国期末期には、秋山一族は経済的には困窮していて、追い詰められていたようです。それだけに合戦で一働きして、失った土地を取り返したいという気持ちが強かったのかもしれません。同時に、秋山氏から「買徳」で土地を集積している真鍋氏の存在が気になります。「秋山氏にかわる国人」と研究者は考えているようです。


讃岐国絵図天保 三野郡
天保国絵図 大見はかつては下高瀬郷の一部であった
 帰来秋山文書の発見で分かったことをまとめておきます。
讃岐秋山氏の実質的な祖となる3代目秋山泰忠は、父から下高瀬の守護職を継ぎました。ここからはもともとの秋山氏のテリトリーは、本門寺から大見にいたるエリアであったことがうかがえます。それが次第に熊岡・上高野といった三野湾西方へ所領を拡大していきます。新たに所領とした熊岡・上高野を秋山総領家は所領としていたようです。今までは、下高瀬郷が秋山家の基盤、そこを惣領家が所有し、新たに獲得した地域を一族の分家が管理したと考えられていました。しかし、大見の竹田周辺には帰来秋山氏がいました。庶家の帰来秋山氏は下高瀬郷に居住し、在地の名を取って帰来氏と称していました。もともとは、下高瀬郷域は惣領家の所領でした。分割相続と、その後の惣領家の交代の結果かもしれません。
 
 永禄年間の三好氏の西讃岐侵攻で、秋山氏の立場は大きく変わっていきます。そこには秋山氏が香川氏の家臣団に組み込まれていく姿が見えてきます。その過程を推測すると次のようなストーリーになります。
①永禄6(1563)年の天霧城籠城戦を境にして、秋山氏は没落の一途をたどり 一族も離散し、帰来秋山源太夫も流亡生活へ
②香川氏は毛利氏を頼って安芸に亡命し、之景から信景に家督移動
③香川信景のもとで家臣団が再編成され、その支配下に秋山氏は組み入れられていく。
④毛利氏の備讃瀬戸制海権制圧のための讃岐遠征として戦われた元吉合戦を契機に、毛利氏の支援を受けて、香川氏の帰国が実現
⑤三好勢力の衰退と長宗我部元親の阿波侵入により、香川氏の勢力は急速に整備拡大。
 この時期に先ほど見た帰来秋山家文書CDは、香川信景によって発給され、秋山源太夫に以前の所領が安堵されたようです。香川氏による家臣統制が進む中で、那珂郡や三野・豊田郡の国人勢力は、香川氏に付くか、今まで通り阿波三好氏に付くかの選択を迫られることになります。三好方に付いたと考えられる武将達を挙げて見ます
①長尾氏 西長尾 (まんのう町)
②本目・新目氏  (まんのう町(旧仲南町)
③麻近藤氏 (三豊市 高瀬町麻)
④二宮近藤氏   (三豊市山本町神田) 
これらの国人武将は、三好方に付いていたために土佐勢に攻撃をうけることになります。一方、香川信景は土佐勢の讃岐侵入以前に長宗我部元親と「不戦条約」を結んでいたと私は考えています。そのため香川氏の配下の武将達は、土佐軍の攻撃を受けていません。本山寺や観音寺の本堂が焼かれずに残っているのは、そこが香川方の武将の支配エリアであったためと私は考えています。

  帰来秋山家文書から分かったことをまとめておきます。
①帰来秋山家は、三豊市三野町大見の竹田の小字名「帰来」を拠点としていた秋山氏の一族である。
②香川氏が長宗我部元親とともに土佐に撤退して後に、福島正則に仕えたりした。
③その後18世紀初頭に松山藩主へ郷士格として仕え、幕末に至った
④帰来秋山家には、香川氏発給の4つの文書が残っている。
⑤その内の2通は、1563年前後に三好軍と戦われた財田合戦での軍功が記されている。
⑥ここからは、帰来秋山氏が香川氏に従軍し、その家臣団に組織化されていたことがうかがえる。
⑦残りの2通は、12年後の天正年間のもので、亡命先の安芸から帰国した香川信景によって、香川家が再興され、帰来秋山氏に従来の扶持を安堵する内容である。
こうして、帰来秋山家は従来の大見竹田の領地を安堵され、それまでの流亡生活に終止符を打つことになります。そして、香川氏が長宗我部元親と同盟し、讃岐平定戦を行うことになると、その先兵として活躍しています。新たな「新恩」を得たのかどうかは分かりません。
 しかし、それもつかの間のことで秀吉の四国平定で、香川氏は長宗我部元親とともに土佐に退きます。残された秋山家は、どうなったのでしょうか。帰来秋山家については、先ほど述べた通りです。安芸の福島正則に仕官できたのもつかぬ間のことで、後には伊予で帰農して庄屋を務めていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
       「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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1 秋山氏の本貫地
秋山氏の本貫 甲斐国巨摩郡青島(南アルプス市)

秋山氏は甲斐国巨摩郡を本貫地とする甲斐源氏の出身で、阿願入道光季が孫二郎泰忠とともに弘安(1278~88)年中に来讃したことは以前にお話ししました。鎌倉幕府は、元寇後に西国防衛のために東国の御家人を西国へシフトする政策をとります。秋山氏も「西遷御家人」の一人として、讃岐にやって来た東国の武士団であったようです。秋山氏が、後世に名前を残した要因は次の点にあると私は考えています。
①日蓮宗の本門寺を下高瀬に西日本で最初に建立したこと。
②本門寺を中心に「皆法華」体制を作り上げたこと
③秋山家文書を残したこと
1秋山氏の系図
秋山家系図(江戸時代のもの 下段右端に光季(阿願入道)

秋山氏は三野郡高瀬郷を本拠としますが、高瀬に定着する前には、丸亀市の田村町辺りを拠点にして、他にも讃岐国内に数か所の所領を持っていたようです。讃岐移住初代の光季(阿願入道)に、ついては、江戸時代に作られた系図には、次のように記されています。
1秋山氏の系図2jpg
秋山家系図拡大(秋山家文書)
系図の阿願入道の部分を意訳変換しておくと
讃岐秋山家の元祖は阿願入道である
号は秋山孫兵衛(光季)。甲州青島の住人。正和4年に讃岐に来住。嫡子が病弱だったために孫の孫の泰忠を養子として所領を相続させた。
 阿願入道は、甲斐国時代から熱心な法華宗徒で、孫の泰忠もその影響を受けて幼い頃から法華宗に帰依します。阿願入道は、那珂郡杵原を拠点にして、日仙を招いて田村番人堂(杵原本門寺)を建立します。これが西日本初の法華宗の伝播となるようです。しかし、杵原本門寺が焼亡したため、正中二年(1325)に高瀬郷に移し、法華堂として再建されます。これが現在の本門寺のスタートになります。
秋山氏系図の泰忠の註には、次のように記されています。
   泰忠
「号は秋山孫次郎。正中2(1325)年 法華寺(本門寺)をヲ建立セリ」
ここからは、下高瀬の日蓮宗本門寺を、秋山氏の氏寺として創建したのは泰忠だったことが分かります。同時に、祖父・阿願入道の跡を継いだ孫の泰忠が実質的な讃岐秋山氏の祖になるようです。彼は歴戦の勇士で長寿だったことが残された史料から分かります。
三野・那珂・多度郡天保国絵図
天保国絵図 金倉郷から高瀬郷へ

 秋山泰忠は、どうして金倉郷から高瀬郷へ拠点を移したのでしょうか?
圓城寺の僧浄成は、高瀬郷と那珂郡の金倉郷を比べて次のように記しています。
「……於高勢(高瀬)郷者、依為最少所、不申之、於下金倉郷者、附広博之地……」

ここには高瀬を「最少」、丸亀平野の下金倉郷を「広博之地」として、金倉郷の優位性を記しています。中世の「古三野津湾」は、現在の本門寺裏が海で、それに沿って長大な内浜が続いていたことは以前にもお話ししました。そのため開発が進まずに、古代から放置されたままになっていた地域です。それなのにどうして、秋山氏は金倉郷から下高瀬に移したのでしょうか。
三野町大見地名1
太い実線が中世の海岸線
秋山氏の所領はどの範囲だったのでしょうか?
秋山氏が残した一番古い文書は、次の泰忠の父である源誓が泰忠に地頭職を譲る際に作成した「相続遺言状」で、ひらがなで次のように記されています。

1秋山氏 さぬきのくにたかせのかうの事
秋山源誓の置文(秋山家文書)
   本文              漢字変換文
さぬきのくにたかせのかうの事、    讃岐の国高瀬郷のこと 
いよたいたうより志もはんふんおは、 (伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし、たたし 孫次郎泰忠譲るべし ただし)
よきあしきはゆつりのときあるへく候 (良き悪しきは譲りのときあるべ候)
もしこ日にくひかゑして、志よの   (もし後日に悔返して自余の)
きやうたいのなかにゆつりてあらは、 (兄弟の中に譲り手あらば)  
はんふんのところおかみへ申して、  (半分のところお上へ申して)
ちきやうすへしよんてのちのために (知行すべし 依て後のために)
いま志めのしやう、かくのことし        (戒めの条)、此の如し) 
                    (秋山)源誓(花押)
  元徳三(1331)年十二月五日        
左が書き起こし文 右に漢字変換文
父源誓がその子・孫次郎泰忠に地頭職を譲るために残されたものです。「讃岐の国高瀬郷のこと伊予大道より下半分を孫次郎泰忠に譲る」とあります。ここからは、高瀬郷の伊予大道から北側(=現在の下高瀬)が源誓から孫次郎泰忠に、譲られたことが分かります。
 ここで気づくのは先ほど見た系図と、この文書には矛盾があります。江戸時代に作られた系図は祖父・阿願入道から孫の泰忠に直接相続されていました。「父・源誓」は出てきませんでした。しかし、遺産相続文書には、「父・源誓」から譲られたことが記されています。
ここからは、後世の秋山家が「父・源誓」の存在を「抹殺」していたことがうかがえます。話を元に返します。

讃岐国絵図天保 三野郡
天保国絵図の三野郡高瀬郷周辺 赤い実線が伊予街道

 伊予大道とは、現国道11号沿いに鳥坂峠から高瀬を横切る街道で、古代末期から南海道に代わって主要街道になっていました。現在の旧伊予街道が考えられています。その北側の高瀬郷(下高瀬)を、泰忠が相続したことになります。現在、国道を境として上高瀬・下高瀬の地名があります。下高瀬は現在の三豊市三野町に属し、本門寺も下高瀬にあります。この文書に出てくる「下半分」は、三野町域、本門寺周辺地域で「下高瀬」と研究者は考えています。そうだとすると、この相続状で高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分割されたことになります。歴史的に意味のある文書です。
 この相続文書が1331年、系図には法華堂建立が1325年とありました。父の生前から下高瀬を、次男である泰忠が相続することが決まっていて、それを改めて文書としたのがこの文書なのかもしれません。文書後半には、兄弟間での対立があったことがうかがえます。
 長男が金倉郷を相続したことも考えられます。
 
三野湾中世復元図
    三野湾中世復元図 黒実線が当時の海岸線 赤が中世地名
 
  秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
当時の塩は貴重な商品で、塩生産は秋山氏の重要な経済基盤でした。開発は三野町大見地区から西南部へと拡大していきます。
秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に次のように記されています。

「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事、右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

意訳変換しておくと
「讃岐国高瀬郷と新浜の地頭職の事について、当所は親父泰忠が文和二年三月五日に、新浜、東村は源通に、西村は日源、中村は顕泰に地頭職を譲る。

 泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。ここに出てくる
新はま東村(新浜東村)は、①東浜、
西村は現在の②西浜、
中村は現在の③中樋
あたりを指します。下の地図のように現在の本門寺の西側に、塩田が並んでいたようです。

中世三野湾 下高瀬復元地図

他の文書にも次のような地名が譲渡の対象地として記載されています。
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
ここから秋山氏は、三野湾に塩田を持っていたことが分かります。

兵庫北関入船納帳(1445年)には、多度津船が「タクマ(塩)」を活発に輸送していたことが記されています。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾周辺船籍と積荷

上の表で2月9日に兵庫北関に入港した多度津船の積荷は米10斗と「タクマ330石」です。「タクマ」とは、タクマ周辺で生産された塩のことです。三野湾や詫間で作られた塩は、多度津港を母港とする荷主(船頭)の紀三郎によって定期的に畿内に運ばれていたことが分かります。船頭の喜三郎は、以前にお話しした白方の海賊衆山地氏の配下の「海の民」だったかもしれません。
 また問丸の道祐は、瀬戸内海の25の港で問丸業務を行っている大物の海商です。その交易ネットワークの中に多度津や詫間・三野は組み込まれていたことになります。
 讃岐東方守護代の香川氏と、三野の秋山氏は塩の生産と販売という関係で結ばれ、同じ利害関係を持っていたことになります。これが秋山氏の香川氏への被官化につながるのかもしれません。香川氏が多度津港の瀬戸内海交易で富を蓄積したように、塩は秋山氏の軍事活動を支える基盤となっていた可能性があります。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
  甲州から讃岐にやって来た秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移したのは、塩生産の利益を確実に手に入れるためだった。そのために塩田のあった高瀬郷に移ってきたと私は考えています。

  古代中世の三野湾は大きく湾入していて、次のようなことが分かっています。
①日蓮宗本門寺の裏側までは海であったこと
②古代の宗吉瓦窯跡付近に瓦の積み出し港があったこと
海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことを物語ります。そして中世には、港を中心にお寺や寺院が姿を現します。その三野湾や粟島・高見島などの寺社を末寺として、管轄していたのが多度津の道隆寺でした。下の表は、道隆寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など参加した記録を一覧にしたものです。

イメージ 2
中世道隆寺の末寺への関与
 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると庄内半島方面までの海浜部、さらに塩飽の島嶼部まで末寺があって、広い信仰エリアを展開していたことが分かります。たとえば三野郡関係を抜き出すと
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明14四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
享禄3年(1530) 高見島善福寺の堂供養導師
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。『多度津公御領分寺社縁起』には、道隆寺明王院について次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院(道隆寺)より執行仕来候」

 中世以来の本末関係が近世になっても続き、堂供養や神社遷宮が道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、詫間・三野庄内半島から粟島・高見島の島嶼部まで及んでいたようです。
 供養導師として道隆寺僧を招いた寺社は、道隆寺の法会にも参加しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

 ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
そこには備讃瀬戸対岸の児島五流の修験者たちもかかわってきます。
「熊野信仰 + 修験道信仰 + 高野聖の念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰」という道隆寺ネットワークの中に、三野湾周辺の寺社も含まれていたことになります。

三豊市 正本観音堂の十一面観音像
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)

旧三野湾周辺のお寺やお堂には、次のような中世の仏像がいくつも残っています。
①弥谷寺の深沙大将像(蛇王権現?)
②西福寺の銅造誕生釈迦仏立像と木造釈迦如来坐像
③宝城院の毘沙門天立像
④汐木観音堂の観音菩薩立像
⑤吉津・正本観音堂の十一面観音立像
  伝来はよく分からない仏が多いのですが、旧三野湾をめぐる海上交易とこの地域の経済力がこれらの仏像をもたらし、今に伝えているようです。そのような三野湾の中に、秋山氏は新たな拠点を置いたことになります。
秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移した背景について、まとめておきます。
①西遷御家人として讃岐にやって来た秋山氏は、当初は金倉郷を拠点にした。
②秋山氏は、日蓮宗の熱心な信者で、日仙を招いて氏寺を建立した
③この寺が田村番人堂(杵原本門寺)で、西日本で最初の日蓮宗寺院となる。
④しかし、讃岐秋山家の実質的な創始者は、拠点を金倉郷から三野郡の高瀬郷に移し、氏寺も新たに、法華堂を建立した。
⑤その背景には、三野湾の塩田からの利益があった。秋山氏は塩田の拡張整備に務め、自らの重要な経済基盤にした。
⑥塩田からの利益は南北朝動乱時の遠征費などとして使われ、その活躍で足利尊氏などから恩賞を得て、領地支配をより強固なものとすることができた。
⑦兵庫北関入船納帳(1445年)には、詫間(三野)産の塩が香川氏の配下にあった多度津船で畿内に運ばれていることが記されている。
⑧塩の生産と流通を通じて、讃岐東方守護代の香川氏と秋山氏は利害関係で結ばれるようになっていた。
⑨旧三野湾は、製塩用の薪を瀬戸の島から運んでくる船や、塩の輸送船などが出入りしていた。
⑩海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことが弥谷寺など旧三野湾周辺のお寺やお堂に、中世の仏像がいくつも残っていることにつながる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 
守護細川氏の下で讃岐西方守護代を務めた多度津の香川氏については、分からないことがたくさんあるようです。20世紀末までの讃岐の歴史書や市町村史は軍記物の「南海通記」に従って、香川氏のことが記されてきました。しかし、高瀬の秋山文書などの研究を通じて、秋山氏が香川氏の下に被官として組み込まれていく過程が分かるようになりました。同時に、香川氏をめぐる謎にも迫れるようになってきたようです。今回は、秋山家文書から見えてきた香川氏の系譜について見ていくことにします。テキストは、「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

香川氏の来讃について見ておきましょう。
  ①『全讃史』では
香河兵部少輔景房が細川頼之に仕え、貞治元年の白峰合戦で戦功を立て封を多度郡に受けたとします。以降は「景光-元明-景明-景美-元光-景則-元景(信景)=之景(長曽我部元親の子)」と記します。この系譜は、鎌倉権五郎景政の末孫、魚住八郎の流れだとします。
  ②『西讃府志』では、安芸の香川氏の分かれだと云います。
細川氏に仕えた刑部大輔景則が安芸から分かれて多度津の地を得て、以降は「景明-元景-之景(信景)=親政」と記されます。
  ③『善通寺市史』は、
相国寺供養記・鹿苑目録・道隆寺文書などの史料から、景則は嫡流とは認め難いとします。その系図を「五郎頼景─五郎次郎和景─五郎次郎満景─(五郎次郎)─中務丞元景─兵部大輔之景(信景)─五郎次郎親政」と考えています。これが現在では、妥当な線のようです。しかし、家伝などはなく根本史料には欠けます。史料のなさが香川氏を「謎の武士団」としてきたようです。

   以上のように香川氏の系譜については、さまざまな説があり『全讃史』『西讃府志』の系図も異同が多いようです。また史料的には、讃岐守護代を務めたと人物としては、香川帯刀左衛門尉、香川五郎次郎(複数の人物)、香川和景、香川孫兵衛元景などの名前が出てきます。史料には名前が出てくるのに、系譜に出てこない人物がいます。つまり、史料と系譜が一致しません。史料に出てくる香川氏の祖先が系図には見えないのは、どうしてでしょうか?
 その理由を、研究者は次のように考えているようです。

「現在に伝わる香川氏の系図は、みな後世のもので、本来の系図が失われた可能性が強い」

つまり、香川氏にはどこかで「家系断絶」があったとします。そして、断絶後の香川家の人々は、それ以前の祖先の記憶を失ったと云うのです。それが後世の南海通記などの軍記ものによって、あやふやなまま再生されたものが「流通」するようになったと、研究者は指摘します。
 系譜のあいまいさを押さえた上で、先に進みます。
香川氏は、鎌倉権五郎景政の子孫で、相模国香川荘に住んでいたと伝えられます。香川氏の来讃については、先ほど見たように承久の乱の戦功で所領を賜り安芸と讃岐に同時にやってきたとも、南北朝期に細川頼之に従って来讃したとも全讃史や西讃府志は記しますが、その真偽は史料からは分かりません。
「香川県史」(第二巻通史編中世313P)の香川氏について記されていることを要約しておきます。
①京兆家細川氏に仕える香川氏の先祖として最初に確認できるのは、香河五郎頼景
②香河五郎頼景は明徳3年(1392)8月28日の相国寺慶讃供養の際、細川頼元に随った「郎党二十三騎」の一人に名前がでてくる。
②香河五郎頼景以後、香川氏は讃岐半国(西方)守護代を歴任するようになる。
③讃岐守護代を務めたと人物としては、香川帯刀左衛門尉、香川五郎次郎(複数の人物)、香川和景、香川孫兵衛元景などの名前が出てくる。
④『建内記』には文安4年(1447)の時点で、香川氏のことを安富氏とともに「管領内随分之輩」であると記す。
①の永徳元(1381)年の香川氏に関する初見文書を見ておきましょう。
寄進 建仁寺水源庵
讃岐国葛原庄内鴨公文職事
右所領者、景義相伝之地也、然依所志之旨候、水代所寄進建仁寺永源庵也、不可有地妨、乃為後日亀鏡寄進状如件、
                          香川彦五郎     平景義 在判
永徳元年七月廿日                       
この文書からは次のようなことが分かります。
A 香川彦五郎景義が、多度郡の葛原荘内鴨公文職を京都建仁寺の塔頭永源庵に寄進していること
B 香川彦五郎は「平」景義と、平氏を名乗っていること
C 香川氏が葛原荘公文職を持っていたこと
応永七(1400)年9月、守護細川氏は石清水八幡宮雑掌に本山荘公文職を引き渡す旨の連行状を国元の香川帯刀左衛問尉へ発給しています。ここからは、帯刀左衛門尉が守護代として讃岐にとどまっていたことが分かります。この時期から香川氏は、守護代として西讃岐を統治していたことになります。

 『蔭涼軒日録』は、当時の讃岐の情勢を次のように記します。

「讃岐国十三郡也、大部香川領之、寄子衆亦皆小分限也、雖然興香川能相従者也、七郡者安富領之、国衆大分限者性多、雖然香西党為首皆各々三昧不相従安宮者性多也」

 ここからは讃岐13郡のうち6郡を香川氏が、残り7郡を安富氏が支配していたことが分かります。讃岐に関しては、香川氏と安富氏による東西分割管轄が、守護細川氏の方針だったようです。

 香川氏は多度津本台山に居館を構え、詰城として天霧城を築きます。
香川氏が多度津に居館を築いたのは、港である多度津を掌握する目的があったことは以前にお話ししました。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳(1445年) 多度津船の入港数


「兵庫北関人松納帳」には、多度津船の兵庫北関への入関状況が記されていますが、その回数は1年間で12回になります。注目すべきは、その内の7艘が国料船が7件、過書船(10艘)が1件で、多度津は香川氏の国料船・過書船専用港として機能しています。国料船は守護細川氏の京都での生活に必要な京上物を輸送する専用の船団でした。それに対して、過書船は「香川殿十艘」と注記があり、10艘に限って無税通行が認められています。

香川氏は過書船の無税通行を「活用」することで、香川氏に関わる物資輸送を無税で行う権利を持ち、大きな利益をあげることができたようです。香川氏は多度津港を拠点とする交易活動を掌握することで、経済基盤を築き、西讃岐一帯を支配するようになります。

香川氏の経済活動を示すものとして、永禄元年(1558)の豊田郡室本の麹商売を、之景が保証した次の史料があります。
讃岐国室本地下人等申麹商売事、先規之重書等並元景御折紙明鏡上者、以共筋目不可有別儀、若又有子細者可註中者也、乃状如件、
永禄元年六月二日                           之景(花押) 
王子大明神別当多宝坊
「先規之重書並に元景御折紙明鏡上」とあるので、従来の麹商売に関する保証を之景が再度保証したものです。王子大明神を本所とする麹座が、早い時期から室本の港にはあったことが分かります。
同時に、16世紀半ばには香川氏のテリトリーが燧灘の海岸沿いの港にも及んでいたことがうかがえます。

戦国期の当主・香川之景を見ておきましょう。
この人物については分からないことが多い謎の人物です。之景が史料に最初に現れるのは、先ほどの室本への麹販売の特権承認文書で永禄元(1558)年6月1日になります。以下之景に関する文書は14点あります。その下限が永禄8年(1565)の文書です。

香川氏発給文書一覧
香川氏の発給文書一覧

14点のうち6点が五郎次郎との連署です。文書を並べて、研究者は次のように指摘します。
①永禄6年(1563)から花押が微妙に変化していること、
②同時にこの時期から、五郎次郎との連署がでてくること
永禄8年(1565)を最後に、天正5(1577)に信景の文書が発給されるまで、約12年間は香川氏関係の文書は出てきません。これをどう考えればいいのでしょうか? 文書の散逸・消滅などの理由だけでは、片付けられない問題があったのではないかと研究者は推測します。この間に香川氏に重大な事件があり、発行できない状況に追い詰められていたのではないかというのです。それが、天霧城の落城であり、毛利氏を頼っての安芸への亡命であったと史料は語り始めています。
  
香川之景の花押一覧を見ておきましょう。
香川氏花押
香川之景の花押
①が香川氏発給文書一覧の4(年未詳之景感状 従来は1558年比定)
②が香川氏発給文書一覧の1(永禄元年の観音寺麹組合文書)
③が香川氏発給文書一覧の2(永禄3(1560)年
④が香川氏発給文書一覧の7(永禄6(1563)年
⑤が香川氏発給文書一覧の16
 研究者は、この時期の之景の花押が「微妙に変化」していること、次のように指摘します。
①と②の香川之景の花押を比較すると、下部の左手の部分が図②は真っすぐのに対して図①は斜め上に撥ねていること。また右の膨みも微妙に異なっていること。その下部の撥ねの部分にも違いが見えること。
図③の花押は同じ秋山文書ですが、図①とほぼ同一に見えます。
③は永禄3(1560)年のもので、同四年の花押も同じです。ここからは図①は永禄元年とするよりも、③と同じ時期のもので永禄3年か4年頃のものと推定したほうがよさそうだと研究者は判断します。

④の永禄6(1563)年になると、少し縦長になり、上部の左へ突き出した部分が尖ったようになっています。永禄7年のものも同じです。この花押の微妙な変化については、之景を取り巻く状況に何らかの変化があったことが推定できると研究者は考えています。

信景の花押(図⑤=文書一覧16)を見てみましょう。
香川氏花押2
信景の花押(図⑤)
之景と信景は別の人物?
今までは、「之景が信長の字を拝領して信景と称した」という記述に従って、之景と信景は同一人物とされていました。その根拠は『南海通記』で、次のように記します。

「天正四年二識州香川兵部大輔元景、香西伊賀守佳清使者ヲ以テ信長ノ幕下二候センコトラ乞フ、……香川元景二一字ヲ賜テ信景卜称ス」

ここに出てくる元景は、之景の誤りです。ここにも南海通記には誤りがあります。この南海通記の記事が、之景が信景に改名した根拠とされてきました。
しかし、之景と信景の花押は、素人目に見ても大きく違っていることが分かります。花押を見る限りでは、之景と信景は別の人物と研究者は考えています。
次に研究者が注目するのが、永禄六年の史料に現れる五郎次郎です。
之景との連署状が四点残っています。この五郎次郎をどのように考えればいいのでしょうか?五郎次郎は、代々香川氏の嫡流が名乗った名前です。その人物が之景と連署しています。
文書一覧23の五郎次郎は、長宗我部元親の次男で信景の養子となった親和です。他の文書に見える五郎次郎とは別人になります。信景の発給文書が天正7(1577)年からであることと関連があると研究者は考えています。

  以上をまとめておきましょう
①香川氏の系譜と史料に登場してくる香川氏当主と考えられる守護代名が一致しない。
②そこからは現在に伝わる香川氏の系図は、後世のもので、本来の系図が失われた可能性が強い。
③香川氏には一時的な断絶があったことが推定できる。
④これと天正6年~11年までの間に、香川氏発給の文書がないことと関係がある。
⑤この期間に、香川氏は阿波の篠原長房によって、天霧城を失い安芸に亡命していた。
⑥従来は「之景と信景」は同一人物とされてきたが、花押を見る限り別人物の可能性が強い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
  「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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室町時代の讃岐は、守護細川氏の求めに応じて何度も兵団を畿内に送り込んでいます。細川氏は、讃岐武士を、どのように畿内に動員していたのでしょうか、今回はこれをテーマにしたいと思います。テキストは「国島浩正 讃岐戦国史の問題       香川史学26号 1999年」です。
 細川晴元が丸亀平野の武士たちをどのように、畿内へ送り込んでいたのかがうかがえる史料を見ていくことにします。

 香西成資の『南海通記巻七』(享保三年(1718)の「細川晴元継管領職記」の一部です。

A
永正十七年(1520)6月10日細川右京大夫澄元卒シ、其子晴元ヲ以テ嗣トシテ、細川讃岐守之持之ヲ後見ス。三好筑前守元長入道喜雲ヲ以テ補佐トス。(中略)
讃岐国ハ、(中略)細川晴元二帰服セシム。伊予ノ河野ハ細川氏ノ催促二従ハス.阿波、讃岐、備中、土佐、淡路五ケ国ノ兵将ヲ合セテ節制ヲ定メ、糧食ヲ蓄テ諸方ノ身方二通シ兵ヲ挙ルコトヲ議ス。其書二曰ク、
B
出張之事、諸国相調候間、為先勢、明日差上諸勢候、急度可相勤事肝要候ハ猶香川可申候也、謹言
七月四日               晴元判
西方関亭中
C
  此書、讃州西方山地右京進、其子左衛門督卜云者ノ家ニアリ。此時澄元卒去ョリ八年二当テ大永七年(1527)二
(中略)
細川晴元始テ上洛ノ旗ヲ上ルコト此ノ如ク也。
意訳変換しておくと
A
永正17年(1520)6月10日細川澄元が亡くなり、その子・晴元が継いで、細川讃岐守が後見役、三好筑前守之長入道が補佐役となった(中略)
讃岐国ハ(中略)細川晴元に帰服した。これに対して伊予の河野氏は細川氏の催促に従わなかった。阿波、讃岐、備中、土佐、淡路五ケ国ノ兵将を合せて軍団を編成し、糧食を蓄えて、諸方の味方と連絡を取りながら挙兵について協議した。その書には、次のように記されていた。
B
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」で、日付は七月四日、差出人は細川晴元、受取人は「西方関亭中」です。
C
 「この書は、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家に保管されていた
これは、澄元が亡くなって8年後の大永七年(1527)のことで、(中略)細川晴元が、初めて軍を率いて上洛した時のことが記されている。
この史料は、管領細川氏の内紛時に晴元が命じた動員について、当時の情勢を香西成資が『南海通記巻七』の中で説明した文章です。その内容は、3段に分けることが出来ます。
 A段は澄元の跡を継いだ晴元が、父の無念を晴らすために上洛を計画し、讃岐をはじめとする5ケ国に動員命令を出し、準備が整ったことを記します。B段は「書二曰ク」と晴元書状を古文書から引用しています。その内容は
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」

 というのですが、これだけでは何のことかよく分かりません。
C段には、引用した晴元書状についての説明で、
「この書、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と注記しています。ここから、この文書が山地氏の手元に保管されていたことが分かります。

この文章で謎だったのがB段文書の宛先「西方関亭中」と山地氏との関係でした。
これについては、以前に次のようにお話ししました。
①関亭という語は、「関を守るもの」が転じて海の通行税を徴収する「海賊衆」のこと
②山地氏は、能島村上氏とともに芸予諸島の弓削島を押領する「海賊衆」であったこと。
③山地氏は、多度津白方や詫間を拠点とする海賊衆で、後には香川氏に従うようになっていたこと
つまり、B段については、細川氏が海賊衆の山地氏に対して、次のような意味で送った文書になるようです。

「上洛に向けた兵や兵粮などの準備が全て整ったので、船の手配をよろしく頼む。このことについては、讃岐西方守護代の香川氏も連絡済みで、承知している。」

 この書状は細川晴元書状氏から山地氏への配船依頼状で、それが讃州西方山地右京進、其子左衛門督という者の家に伝わっていたということになるようです。逆に山地氏が「関亭中への命令」を保存していたと云うことは、山地氏が関亭中(海賊衆)の首であったことを示しています。
 ①守護細川氏→②守護代香川氏 → ③海賊衆(水軍)山地氏

という封建関係の中で、山地氏が香川氏の水軍や輸送船として活動し、時には守護細川氏の軍事行動の際には、讃岐武士団の輸送船団としても軍事的な役割を果たしていたことが見えてきます。

それでは兵は、どのように動員されたのでしょうか
「琴平町史 史料編」の「石井家由緒書」のなかに、次のような文書の写しがあります。
同名右兵衛尉跡職名田等之事、昆沙右御扶持之由被仰出候、所詮任御下知之旨、全可有知行由候也、恐々謹言。
         武部因幡守  重満(花押)
 永禄四年六月一日       
 石井昆沙右殿
意訳変換しておくと
同名(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田について、毘沙右に扶持として与えるという御下知があった。命の通りに知行するように 

差出人は花押のある「武部因幡守重満」で、宛先は石井昆沙右です。
差出人の「武部」は、高瀬の秋山文書のなかにも出てくる人物です。武部は賢長とともに阿波にいて、秋山氏の要請を澄元に取り次ぐ地位にいました。つまり、武部因幡守は阿波細川氏の家臣で、主君の命令を西讃の武士たちに伝える奉行人であったことが分かっています。

享禄四年(1532)は、細川晴元と三好元長が、細川高国を摂津天王寺に破り、自害させた年になります。石井昆沙右らは細川高国の命に従い、西讃から出陣し、その恩賞として所領を宛行われたようです。
石井氏は、永正・大永のころ小松荘松尾寺で行われていた法華八講の法会の頭人をつ勤めていたことが「金毘羅大権現神事奉物惣帳」から分かります。そして、江戸時代になってからは五条村(現琴平町五条)の庄屋になっています。戦国時代の石井氏は、村落共同体を代表する土豪的存在であって、地侍とよばれた階層の武士であったことがうかがえます。
 以上の史料をつなぎ合わせると、次のような事が見えてきます。
①石井氏は小松荘(現琴平町)の地侍とよばれた階層の武士であった
②石井氏は細川晴元に従軍して、その恩賞として名田を扶持されている。
これを細川晴元の立場から見ると、丸亀平野の地侍級の武士を軍事力として組織し、畿内での戦いに動員しているということになります。
琴平の石井氏の動員は、どんな形で行われたのでしょうか。
それがうかがえるのが最初に見た『南海通記』所収の晴元書状です。晴元の書状は、直接に西方関亭中(海賊衆)の山地氏に送られていました。山地氏はこのときに、晴元の直臣だったようです。それを確認しておきましょう。
応仁の前の康正三(1456)年のことです。村上治部進書状に、伊予国弓削島を押領した海賊衆のことが次のように報告されています。
(前略)
去年上洛之時、懸御目候之条、誠以本望至候、乃御斉被下候、師馳下句時分拝見仕候、如御意、弓削島之事、於此方近所之子細候間、委存知申候、左候ほとに(あきの国)小早河少泉方・(さぬきの国のしらかたといふ所二あり)山路方・(いよの国)能島両村、以上四人してもち候、小早河少泉・山路ハ 細河殿さま御奉公の面々にて候、能島の事ハ御そんちのまへにて候、かの面々、たというけ申候共、
意訳変換しておくと
昨年の上洛時に、お目にかかることが出来たこと、誠に本望でした。その時に話が出た弓削島については、この近所でもあり子細が分かりますので、お伝えいたします。弓削島は安芸国の小早河少泉方・讃岐白方という所の山路(地)氏・伊予国の能島村上両氏の四人の管理(押領)となっています。なお、小早河少泉と山路(地)は管領細川様へ奉公する面々で、能島は弓削島のすぐ近くにあります。

ここからは次のようなことが分かります。
①弓削島が安芸国小早河(小早川)少泉、讃岐白方の山路、伊予の能島両村(両村上氏)の四人が押領していること
②小早河少泉・山路は管領細川氏の奉公の面々であること
③4氏の本拠地はちがうが、海賊衆という点では共通すること
  そして、最後に「小早河少泉と山路は管領細川様へ奉公する面々」とあります。山地氏が細川氏の晴元の直臣だったことが確認できます。
 讃岐からの出兵に関しての軍事編成や出陣計画は「猶香川可い申候」とあります。
香川氏と事前の打ち合わせを行いながら、その指示の下に行えということでしょうか。ここからは、この出兵計画の最高責任者は讃岐西方守護代の香川氏だったことがうかがえます。もちろん、香川氏も兵を率いて畿内に出陣したでしょう。その際に使用された港は、多度津港であったことが考えられます。
 「兵庫北関入船納帳」(文安二年(1445)には、香川氏の管理のもとに、多度津から守護細川氏への京上物を輸送する国料船が出ていたのは以前にお話ししました。ここからは、堀江港に替わって桜川河口に多度津港が開かれ、そこに「関」が置かれ、山地氏らの海賊衆が国料船をはじめ多度津港に出入する船の警固に当っていたことは以前にお話ししました。 
 それが16世紀前半になると、多度津港は、阿波細川氏の西讃における海上軍事力として、軍兵の輸送や軍船警固の拠点港になっていたようです。

 西讃守護代の香川氏は、少なくともこの時期に2回の畿内出兵を行っています。県史の年表を見ておきましょう。
1517 永正14 9・18 阿波三好衆の寒川氏,淡路へ乱入
1519 永正16 11・6 細川澄元・三好之長ら,四国の兵を率いて摂津兵庫に到る。東讃の安富氏とともに香川氏も出陣
1520 永正17 3・27 三好之長,上京する(二水記)
      5・3 香川・安富ら,細川高国の陣に降る
      5・5 細川高国,三好之長を京都にて破る
  7 細川澄元,京都での敗戦
を聞き阿波に帰る
      5・11 三好之長父子,京都にて自害
      6・10 細川澄元,阿波において没する
   2年前から東讃の安富氏とともに香川氏も細川澄元・三好之長に従って出陣したが、この年五月、京都等持寺の戦いで細川高国軍に敗れ、之長は切腹、安富・香川は高国に降伏しています。

1531 亨禄4 2・21 三好元長,阿波より和泉堺に到る
      6・4 三好元長,細川高国を摂津天王寺に破る
      6・8 細川高国,細川晴元勢に攻められ摂津尼崎で自害

 享禄4年(1531)、細川晴元と三好元長が、大永七年に京都を脱出して以来各地を転々としながら抵抗を続けていた細川高国を摂津天王寺に破り、自害させた年です。この時に先ほど見た、琴平の石井昆沙右らは高国との一連の戦いに多度津から出陣し、その恩賞として晴元から所領を宛行われたと推測できます。

以上の年表から香川氏の畿内への出兵を考えると
一度は永正16年(1519)年で、東讃の安富氏とともに細川澄元・三好之長に従って出陣しています。しかし、翌年に細川高国軍に敗れ、之長は切腹、安富・香川は高国に降伏しています。
二度目は大永7年から享禄4(1531)年までの時期です。
享禄4年の天王寺合戦の際には、香川中務丞元景は晴元方の有力武将として、木津川口に陣を敷きます。
 畿内に出陣するためには、瀬戸内海を渡らなければなりません。この時に、多度津から阿波に陸路で向かい、三好軍とともに淡路水軍に守られて渡海するというのは不自然です。多度津から白方の海賊衆の山地氏や、安富氏の管理下にあった塩飽の水軍に警固されながら瀬戸内海を横断したとしておきましょう。
 以上を整理しておくと、
①阿波細川氏は讃岐の国侍への影響力を高め、畿内での軍事行動に動員できる体制を作り上げた。
②丸亀平野南端の小松庄(琴平町)の地侍・石井昆沙右は、細川晴元の命によって畿内に従軍している。
③その方法は、まず讃岐西方守護代・香川氏の命に応じて、多度津に集合
④細川晴元直臣の海賊衆山地氏の輸送船団や軍船に防備されて海路で畿内へ
⑤畿内での働きに対して、阿波細川氏より名田の扶持を下賜されている

 このように地侍級の武士を、有力国人武士の下に組織する軍事編成は寄親・寄子制といい、戦国大名たちの編成法のようです。そして、阿波細川氏の力が弱体化していくと、香川氏は地侍や三野氏・秋山氏などの有力国人武士や、海賊衆の山地氏などを自分の家臣団に組織化し、戦国大名への道を歩んでいくことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 国島浩正 讃岐戦国史の問題       香川史学26号 1999年
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  室町時代になると、綾氏などの讃岐の国人武将達は守護細川氏に被官し、勢力を伸ばしていきました。それが下克上のなかで、三好氏が細川氏に取って代わると、阿波三好氏の配下で活動するようになります。三好氏は、東讃地方から次第に西に向けて、勢力を伸ばします。そして、寒川氏や安富氏、香西氏などの讃岐国人衆を配下においていきます。

3 天霧山5

そんな中で、三好の配下に入ることを最後まで拒んだのが天霧城の香川氏です。
香川氏には、細川氏の西讃岐守護代としてのプライドがあったようです。自分の主君は細川氏であって、三好氏はその家臣である。三好氏と香川氏は同輩だ。その下につくのは、潔しとしないという心持ちだったのでしょう。香川氏は、「反三好政策」を最後まで貫き、後には長宗我部元親と同盟を結んで、対三好勢力打倒の先兵として活躍することになります。

3 天霧山4
天霧城
阿波の三好氏と香川氏の決戦の場として、語られてきたのが「天霧城攻防戦」です。
今回は、天霧城攻防戦がいつ戦れたのか、またその攻め手側の大将はだれだったのかを見ていくことにします。
3 天霧山2
天霧城

天霧城攻防戦を南海通記は、次のように記します。

阿波三好の進出に対して、天霧城主・香川之景は、中国の毛利氏に保護を求めた。これを討つために、阿波の三好実休(義賢)は、永禄元(1558)年8月、阿波、淡路、東・西讃の大軍を率いて丸亀平野に攻め入り、9月25日には善通寺に本陣をおいて天霧城攻撃を開始した。
 これに対して香川之景は一族や、三野氏や秋山氏など家臣と共に城に立て龍もり籠城戦となった。城の守りは堅固であったので、実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った。10月20日 実休は兵を引いて阿波に還った。が、その日の夜、本陣とされていた善通寺で火災が生じ、寺は全焼した。
 
これを整理しておくと以下のようになります
①阿波の三好実休が、香西氏などの東・中讃の勢力を従え,香川之景の天霧城を囲み、善通寺に本陣を置いたこと。
②香川之景は降伏して、西讃全域が三好氏の勢力下に収まったこと
③史料の中には、降伏後の香川氏が毛利氏を頼って「亡命」したとするものもあること
④善通寺は、三好氏の撤退後に全焼したこと

香川県の戦国時代の歴史書や、各市町村史も、南海通記を史料として使っているので、ほんとんどが、以上のようなストーリー展開で書かれています。香川県史の年表にも次のように記されています。

1558 永禄1
6・2 香川之景,豊田郡室本地下人等の麹商売を保証する
8・- 天霧城籠城戦(?)三好実休,讃岐に侵入し,香川之景と戦う(南海通記)
10・20 善通寺,兵火にかかり焼失する(讃岐国大日記)
10・21 秋山兵庫助,乱入してきた阿波衆と戦い,麻口合戦において山路甚五郎を討つ(秋山家文書)
10・- 三好実休,香川之景と和し,阿波へ帰る(南海通記)
 しかし、近年の研究で実休は、この時期には讃岐にはいないことが分かってきました。『足利季世記』・『細川両家記』には、三好実休の足取りについて次のように記されています
8月18日 三好実休は阿波より兵庫に着し、
9月18日 堺において三好長慶・十河一存・安宅冬康らとの会議に出席
10月3日 堺の豪商津田宗及の茶会記に、実休・長慶・冬康・篠原長房らが、尼崎で茶会開催
つまり、実休が天霧城を包囲していたとされる永禄元(1558)年の夏から秋には、彼は阿波勢を率いて畿内にいたと根本史料には記されているのです。三好実休が永禄元年に、兵を率いて善通寺に布陣することはありえないことになります。

天霧城縄張り図
天霧城縄張り図
 
南海通記は、天霧合戦以後のことを次のように記します。
「実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、香川之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った」

つまり永禄元(1558)年以後は、香川氏は阿波三好氏に従った、讃岐は全域が三好氏配下に入ったというのです。しかし、秋山文書にはこれを否定する次のような動きが記されています。
 1560年 永禄3 
6・28 香川之景,多田又次郎に,院御荘内知行分における夫役を免除する
11・13 香川之景,秋山又介に給した豊島谷土居職の替として,三野郡大見の久光・道重の両名を秋山兵庫助に宛行う
1561 永禄4 
1・13 香川之景,秋山兵庫助に,秋山の本領であった三野郡高瀬郷水田分内原樋口三野掃部助知行分と同分内真鍋三郎五郎買得地を,本知行地であるとして宛行う。
(秋山家文書)
 ここからは、香川之景が「就弓矢之儀」の恩賞をたびたび宛がっていることが分かります。この時点では、次のことが云えます。
①香川之景は、未だ三好氏に従っておらず、永禄4年ごろにはたびたび阿州衆の攻撃をうけ、小規模な戦いをくり返していること
②香川之景は、戦闘の都に家臣に知行を宛行って領域支配を強固にし、防衛に務めていたこと。
つまり、天霧城籠城戦はこの時点ではまだ起きていなかったようです。天霧合戦が起こるのは、この後になります。
1562 永禄5
 3・5 三好実休,和泉久米田の合戦で戦死する(厳助往年記)
                  換わって三好の重臣篠原長房が実権掌握
1563 永禄6
 6・1 香川之景,帰来小三郎跡職と国吉扶持分の所々を,新恩として帰来善五郎に宛行うべきことを,河田伝右衛門に命じる(秋山家文書)
 8・10 香川之景・同五郎次郎,三野菅左衛門尉に,天霧籠城および退城の時の働きを賞し,本知を新恩として返すことなどを約する(三野文書)
この年表からは篠原長房が三好氏の実権を握って以後、西讃地域への進出圧力が強まったことがうかがえます。
永禄6年(1563)8月10日の三野文書を見ておきましょう。

飯山従在陣天霧籠城之砌、別而御辛労候、殊今度退城之時同道候而、即無別義被相届段難申尽候、然者御本知之儀、河田七郎左衛門尉二雖令扶持候、為新恩返進之候、並びに柞原寺分之儀、松肥江以替之知、令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六 八月十日                   五郎次郎 (花押)
之  景 (花押)
三野菅左衛門尉殿進之候

意訳変換しておくと
天霧城籠城戦の際に、飯山に在陣し辛労したこと、特に、今度の(天霧城)退城の際には同道した。この功績は言葉で云い表せないほど大きいものである。この功労に対して、新恩として河田七郎左衛門尉に扶持していた菅左衛門尉の本知行地の返進に加えて、別に杵原寺分については、松肥との交換を行うように申しつける。令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六(1563)年 八月十日        五郎次郎(花押)
(香川)之 景(花押)
三野菅左衛門尉殿
進之候
ここからは次のようなことが分かります。
①最初に「天霧籠城之砌」とあり、永禄6(1563)年8月10日以前に、天霧城で籠城戦があったこと
②香川氏の天霧城退城の際に、河田七郎左衛門尉が同行したこと
③その論功行賞に新恩として本知行地が返還され、さらに杵原寺分の返附を三野菅左衛門尉殿に命じていること
④三野氏の方が河田氏よりも上位ポストにいること。
⑤高瀬の柞原寺が河田氏の氏寺であったこと

 ここからは天霧城を退城しても、香川之景が領国全体の支配を失うところまでには至っていないことがうかがえます。これを裏付けるのが、年不詳ですが翌年の永禄七年のものと思われる二月三日付秋山藤五郎宛香川五郎次郎書状です。ここには秋山藤五郎が無事豊島に退いたことをねぎらった後に、
「總而く、此方へ可有御越候、万以面可令申候」
「国之儀存分可成行子細多候間、可御心安候、西方へも切々働申附候、定而可有其聞候」
と、分散した家臣の再組織を計り、再起への見通しを述べ、すでに西方(豊田郡方面?)への軍事行動を開始したことを伝えています。
 それを裏付けるかのように香川之景は、次の文書を発給しています。
①永禄7(1564)年5月に三野菅左衛門尉に返進を約束した鴨村祚原守分について、その宛行いを実行
②永禄8(1565)年八月には、秋山藤五郎に対して、三野郡熊岡香川之景が知行地の安堵、新恩地の給与などを行っていること
これだけを見ると、香川之景が再び三豊エリアを支配下に取り戻したかのように思えます。ここで阿波三好方の情勢を見ておきます
 
天霧城を落とし、香川氏を追放した篠原長房のその後の動きを見ておきましょう。
1564永禄7年3月 三好の重臣篠原長房,豊田郡地蔵院に禁制を下す
1567永禄 10年
6月 篠原長房,鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書) 6月 篠原長房,備前で毛利側の乃美氏と戦う(乃美文書)
1569永禄12年6月 篠原長房,鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1571元亀2年
1月 篠原長重,鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書) 5月篠原長房,備前児島に乱入する.
  6月12日,足利義昭が小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
  8月1日 足利義昭が三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
  9月17日 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、次のようなことが分かります。
①香川氏を追放した、篠原長房が、宇多津の「鍋屋下之道場(本妙寺)や聖通寺に禁制を出し、西讃を支配下に置いたこと
②西讃の宇多津を戦略基地として、備中児島に軍事遠征を行ったこと
③「
三好氏(篠原長房)によって追われた香川某」が安芸に亡命していること
④香川某の讃岐帰国運動を、鞆亡命中の足利義昭が支援し、毛利氏に働きかけていること
 同時に香川氏の発給した文書は、以後10年近く見られなくなります。毛利氏の史料にも、香川氏は安芸に「亡命」していたと記されていることを押さえておきます。

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 以上の年表からは次のようなストーリーが描けます。
①三好実休の戦死後に、阿波の実権を握った篠原長房は、讃岐への支配強化のために抵抗を続ける香川氏を攻撃し、勝利を得た。
②その結果、ほぼ讃岐全域の讃岐国人武将達を従属させることになった。
③香川氏は安芸の毛利氏を頼って亡命しながらも、抵抗運動を続けた。
④香川氏を、支援するように足利義昭は毛利氏に働きかけていた
⑤篠原長房は、宇多津を拠点に瀬戸内海対岸の備中へ兵を送り、毛利側と攻防を展開した。
 篠原長房の戦略的な視野から見ると、備中での対毛利戦の戦局を有利に働かるために、戦略的支援基地としての機能を讃岐に求めたこと、それに対抗する香川氏を排除したとも思えてきます。

 天霧城攻防戦後の三好氏の讃岐での政策内容を見ると、その中心にいるのは篠原長房です。天霧城の攻め手の大将も、篠原長房が最有力になってきます。
篠原長房の転戦図
篠原長房の転戦図
篠原長房にとって、讃岐は主戦場ではありません。
天霧城攻防戦以後の彼の動きを、年表化して見ておきましょう。
永禄7年(1564年)12月
三好長慶没後は、三好長逸・松永久秀らと提携し、阿波本国統治
永禄9年(1566年)6月
三好宗家の内紛発生後は、四国勢を動員し畿内へ進出。
三好三人衆と協調路線をとり、松永久秀と敵対。
 9月 松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦
永禄11年10月  この年まで畿内駐屯。(東大寺大仏殿の戦い)。

この時期の長房のことを『フロイス日本史』は、次のように記します。
「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的執政であった」

ここからは、阿波・讃岐両国をよくまとめて、長慶死後の三好勢力を支えていたことがうかがえます。
永禄11年(1568年) 織田信長が足利義昭を擁して上洛してきます。
これに対して、篠原長房は自らは信長と戦うことなく阿波へ撤退し、三好三人衆を支援して信長に対抗する方策をとります。2年後の元亀元年(1570年)7月 三好三人衆・三好康長らが兵を挙げると、再び阿波・讃岐2万の兵を動員して畿内に上陸、摂津・和泉の旧領をほぼ回復します。これに対して信長は、朝廷工作をおこない正親町天皇の「講和斡旋」を引き出します。こうして和睦が成立し、浅井長政、朝倉義景、六角義賢の撤兵とともに、長房も阿波へ軍をひきます。

 この間の篠原長房の対讃岐政策を見ておきましょう。
 自分の娘を東讃守護代の安富筑前守に嫁がせて姻戚関係を結び、東讃での勢力を強化していきます。さらに、守護所があったとされる宇多津を中心に丸亀平野にも勢力を伸ばしていきます。宇多津は、「兵庫北関入船納帳」に記されるように当時は、讃岐最大の交易湊でもありました。その交易利益をもとめて、本妙寺や郷照寺など各宗派の寺が建ち並ぶ宗教都市の側面も持っていました。天文18(1550)年に、向専法師が、大谷本願寺・証知の弟子になって、西光寺を開きます。本願寺直営の真宗寺院が宇多津に姿を見せます。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世地形復元図上の西光寺(宇多津)

 この西光寺に、篠原長房が出した禁制(保護)が残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記されています。鍋屋というのは地名です。鍋などを作る鋳物師屋集団の居住エリアの一角に道場はあったようです。それが「元亀貳年正月」には「西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
DSC07104
本願寺派の西光寺(宇多津)最初は「鍋屋下之道場」

1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。
翌年には西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、本願寺の蓮如からの支援督促も受けています。
 西光寺は、本願寺の「直営」末寺でした。それまでに、丸亀平野の奥から伸びて来た真宗の教線ラインは、真宗興正寺派末の安楽寺のものであったことは、以前にお話ししました。しかし、宇多津の西光寺は本願寺「直営」末寺です。石山合戦が始まると、讃岐の真宗門徒の支援物資は西光寺に集約されて、本願寺に送り出されていたのです。

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西光寺
 石山戦争が勃発すると讃岐では、篠原長房に率いられて、多くの国人たちが参陣します。
これは長房の本願寺との婚姻関係が背後にあったからだと研究者は指摘します。篠原長房が真宗門徒でないのに、本願寺を支援するような動きを見せたのは、どうしてでしょうか?
考えられるのは、織田信長への対抗手段です。
三好勢にとって主敵は織田信長です。外交戦略の基本は「敵の敵は味方だ」です。当時畿内で、もっとも大きな反信長勢力は石山本願寺でした。阿波防衛を図ろうとする長房にとって、本願寺と提携するのが得策と考え、そのために真宗をうまく活用しようとしたことが考えられます。本願寺にとっても、阿波・讃岐を押さえる長房との連携は、教団勢力の拡大に結びつきます。こうして両者の利害が一致したとしておきましょう。
西光寺 (香川県宇多津町) 船屋形茶室: お寺の風景と陶芸
西光寺 かつては湾内に面していた

  石山戦争が始まると、宇多津の西光寺は本願寺への戦略物資や兵粮の集積基地として機能します。
それができたのは、反信長勢力である篠原長房の支配下にあったから可能であったとしておきましょう。そして、宇多津の背後の丸亀平野では、土器川の上流から中流に向かってのエリアで真宗門徒の道場が急速に増えていたのです。

以上をまとめておくと
①阿波三好氏は東讃方面から中讃にかけて勢力を伸ばし、讃岐国人武将を配下に繰り入れていった。
②三好実休死後の阿波三好氏においては、家臣の篠原長房が実権をにぎり対外的な政策が決定された。
③篠原長房は、実休死後の翌年に善通寺に軍を置いて天霧城の香川氏を攻めた。
④これは従来の南海通記の天霧城攻防戦よりも、5年時代を下らせることになる。
⑤香川氏は毛利を頼って安芸に一時的な亡命を余儀なくされた
⑥篠原長房が、ほぼ讃岐全域を勢力下においたことが各寺院に残された禁制からもうかがえます。⑦宇多津を勢力下に置いた篠原長房は、ここを拠点に備中児島方面に讃岐の兵を送り、毛利と幾度も戦っている。
このように、長宗我部元親が侵攻してくる以前の讃岐は阿波三好方の勢力下に置かれ、武将達は三好方の軍隊として各地を転戦していたようです。そんな中にあって、最後まで反三好の看板を下ろさずに抵抗を続けたのが香川氏です。香川氏は、「反三好」戦略のために、信長に接近し、長宗我部元親にも接近し同盟関係をむすんでいくのです。
DSC07103
髙松街道沿いに建つ西光寺
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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前回は、守護細川氏の支配下の讃岐で、西方守護代を務める香川氏が在京せずに、讃岐に根付いて在地経営を強めていたこと、それに警戒感を抱いた細川勝元は、1445年に宇多津の港湾管理権を、香川氏から取り上げ東方守護代の安富氏に任せたことを見てきました。
今回は香川氏が、多度津港をどのように管理していたのかを見ていくことにします。
テキストは 「橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力」所収です。前回は、香川氏や安富氏が管理運行する「国料船」や、その母港の管理権を「兵庫北関入船納帳」で見ました。「国料船」とは、京都にいる守護細川氏に対して、讃岐から物資を輸送する船に関しては、無税で海関を通過でる権利が与えられていた船のことです。その運行権を、安富・香川氏は持っていました。これは、いろいろと「役得」があり、利益があったことを前回お話しました。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg

 国料船以外に「過書船」が「兵庫北関入船納帳」には出てきます。
「過書」として、これらも無税通行が認められていたようです。過書船については、研究者は次の3つに分類します。
①先管領・管領千石に代表される幕府関係者
②南禅寺などの禅宗寺院の有力寺社
③淀十一艘と美作国北賀茂九郎兵衛なる人物
讃岐に関係のある過書は①で、ここから京へ物資を運ぶ船が過書船とされたようです。
讃岐の過書船として登場する船は以下の15件でです。

讃岐過書船一覧
兵庫北関入船納帳に出てくる讃岐からの過書船一覧表

船籍は、11件を三本松が占め、塩飽・鶴箸(鶴羽)が2件で、この3港で計13件となり、讃岐港の85%以上を占めます。 一方、多度津を船籍地とする「香川殿十艘」が一件あります。過書船に関わっているのは、この4港に絞られるようです。
 先ほど見たように、国料船の母港とするのは「多度津・庵治・方本・宇多津」の4港でした。これに過書船の母港である「三本松・塩飽・鶴箸(鶴羽)」を加えた七港が、管領細川氏と関わる港と云えそうです。こうしてみると、多度津以西には国料船や過書船の母港がなかったことに気づきます。中讃・東讃に集中しています。
少し回り道をして、兵庫北関入船納帳に出てくる讃岐船の船籍地一覧表を見ておきましょう。
3兵庫北関入船納帳2

この表からは次のようなことが分かります。
①宇多津が47、塩飽37、島(小豆島)・平山(宇多津)の4港合計数が128件、で全体の約半分を越える。
②東讃の引田・三本松・野原・方本(屋島の潟元)・庵治の5港合計数が75件
③東讃に比べると、多度津以西の三豊地区の港からの寄港回数は少ない。
各港から兵庫北関に寄港した讃岐船は何を積んでいたのかを、下表で見ておきます。
兵庫北関入船納帳 積荷一覧表

讃岐船の特徴は、塩輸送に特化した専用船が多いことです。
特に庵治や方本(潟元)には、その傾向が強く見られます。それに対して、①の宇多津や塩飽の船は、塩の占める比率は高いのですがそれだけではないようです。米・麦・豆などの穀類も運んでいます。
 瀬戸内海は古代から海のハイウエーで、塩飽はサービスエリア兼ジャンクションの役割を果たしてきました。備讃瀬戸エリアの人とモノが、一旦は塩飽に運ばれ、そこから畿内行きの船に乗り換えることが行われていました。西讃地方の港からの寄港回数が少ないのは、塩飽を中継しての交易活動が行われていたことがうかがえます。

宇多津地形復元図
 宇多津と平山についても同じような関係が見られると研究者は考えているようです。
平山は、宇多津東側の聖通寺山のふもとに位置する中世の港です。この港に所属する船は、小型船が多く、周辺地域の福江や林田・松山・堀江などの地方港を行き来して、物産を集めていた気配があるようです。そうして集積された米や麦を畿内に運んだのが、宇多津船になります。宇多津と平山の船は、以下のように分業化されていたというのです。
①宇多津船 讃岐と畿内を結ぶ長距離行路に就航する大型船
②平山船  西讃各地の港から宇多津に荷物を集積する小型船
このような棲み分けがあったために、宇多津近隣の林田港や三野港などは兵庫北関入船納帳には登場しないと考えられます。

そういう目で②の東讃の各港を見ると、野原・庵治・潟元を母港とする船は大型船で、塩の専用船です。それに対して三本松や志度は、小型船です。ここからは、東讃エリアは小豆島を通じて、中継交易が行われていたかも知れませんが、同時に小型船が直接に畿内との間を行き来していたことがうかがえます。
 
さて、概略はこれくらいにして、多度津船籍の過書船について見ていくことにします。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳に出てくる多度津船
多度津船は1年間で12回の入港数があります。その内訳は、国料船が7件、過書船が1件、 一般船が4件の計12件です。一般船の入関日時を見てみると、2月9日・3月11日・4月17日・5月23日と年前半に集中して、それ以後にはありません。前回見たように、香川氏の管理する国料船の宇多津から多度津への母港移動は4月9日でした。
 多度津船は5月22日の船までは、積荷が記載されています。ところが4月9日船に「元は宇多津弾正船 香河(川)殿」とあり、5月24日以後の船は「香河殿十艘過書内」「香河殿国料」と記されるようになって、積荷名が記載されなくなります。これについては、以前にお話したように、守護細川氏によって、それまで香川氏が管理していた宇多津港の管理権を安富氏に移管したこと、それに伴い香川氏の国料船の母港が多度津に移されたことが背景にあります。過書船の「香川殿十艘」というのは、十艘という船数に限って、無税通過が認められたことを表すようです。

 これが香川氏に何をもたらしたかを見ておきましょう。
2月9日船や3月11日船の積荷「タクマ330石」とあるのは「詫間産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。それまでは兵庫北関で、一般船として1貫100文の関税を支払って通過していました。ところが5月以後には国料船や過書船と扱われ、無税通行するようになったことが分かります。
 こうして、香川氏は多度津港を拠点に瀬戸内交易に進出し、大きな利益をあげていたことがうかがえます。この香川氏の経済力が、その後の西讃岐地方一帯を支配し、戦国大名化していく際の経済基盤になったと研究者は考えているようです。

 多度津船の船頭や問丸を見ておきましょう。
先ほどの表からは過書船の船頭は紀三郎、問丸は道祐で、国料船時の船頭・問丸と同じです。一般船も4件の内の2件は、船頭・紀三郎、問丸・道祐です。ここからは多度津の問丸は道祐が独占していたことが分かります。
 問丸とは何かを「確認」しておきます。
古代の荘園の年貢輸送は、荘園領主に従属していた「梶取(かじとり)」によっておこなわれていました。彼らは自前の船を持たない雇われ船長でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を持つ運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水主として使っていました。それが水主も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、問丸の手が必要となるのです。
荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などでした。ところが、問丸が荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていきます。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたすようになります。さらに一方では、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで行う者も現れます。
 このような瀬戸内海を股にかけて活動する問丸が多度津港にも拠点を置いていたようです。兵庫港を拠点とする問丸の中には、法華衆の日隆の信徒が数多くいました。彼らは、讃岐の宇多津・多度津で海上交易に活躍する人々と人的なネットワークを張り巡らし、情報交換を行っていたのでしょう。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、日隆の瀬戸内海布教活動は行われます。そうして姿をたというのが宇多津の本妙寺であり、観音寺港の西光寺なのでしょう。
兵庫北関入船納帳 船籍地別の問丸
讃岐船の問丸一覧 道祐は超大物の問丸だった
多度津に拠点を置いた道祐は『入船納帳』に出てくる問丸の中では、卓越した存在だったようです。
上表を見ると道裕は、多度津以外にも塩飽など備讃瀬戸の25港湾で積荷を取り扱い、備中と讃岐を結ぶ地域、瀬戸内海西部地域といった広い勢力範囲を持っていたことが史料からわかります。香川氏は道祐と組み、その智恵と情報量に頼って、瀬戸内海の広範囲に渡って物資を集積し、多度津を繁栄させていったと研究者は考えています。
  ちなみに、兵庫北関入船納帳に多々津(多度津)はでてきますが、堀江港は出てきません。潟湖の堆積が進む中で堀江港は港湾機能を失ったのかもしれません。それに替わって、15世紀半ばまでには、香川氏は新たな港を居館下を流れる桜川河口に開き、多度津と呼んだとしておきます。
多度津陣屋10
多度津湛甫が出来る前の桜川河口港(19世紀前半)

香川氏は輸送船団を、どのように確保したのでしょうか。

海上交易活動に進出するには「海の民」の掌握が古代から必要でした。香川氏は、どのようしにて国料船や過書船などに使用する船やその水夫たちを確保したのでしょうか。これは、村上水軍の中で見たように、海賊衆を丸抱えするのが、一番手っ取り早い方法でした。海賊衆を、配下に置くのです。
 香川氏の配下となった海賊衆として考えられるのが、以前にもお話しした山寺(路)氏です。兵庫北関入船納帳が書かれた頃から約10年後の康正三(1456)のことです。村上治部進書状に、伊予国弓削島を荒らす海賊衆のことが次のように報告されています。
(前略)
去年上洛之時、懸御目候之条、誠以本望至候、乃御斉被下候、師馳下句時分拝見仕候、如御意、弓削島之事、於此方近所之子細候間、委存知申候、左候ほとに(あきの国)小早河少泉方・(さぬきの国のしらかたといふ所二あり)山路方・(いよの国)能島両村、以上四人してもち候、小早河少泉・山路ハ 細河殿さま御奉公の面々にて候、能島の事ハ御そんちのまへにて候、かの面々、たというけ申候共、
意訳変換しておくと
昨年の上洛時に、お目にかかることが出来たこと、誠に本望でした。その時に話が出た弓削島については、この近所でもあり子細が分かりますので、お伝えいたします。弓削島は安芸国の小早河少泉方・讃岐白方という所の山路氏・伊予国の能島村上両氏の四人の管理となっています。なお、小早河少泉と山路は管領細川様へ奉公する面々で、能島は弓削島のすぐ近くにあります。

ここからは次のようなことが分かります。
①弓削島が安芸国小早河(小早川)少泉、讃岐白方の山路、伊予の能島両村(両村上氏)の四人がもっていること
②小早河少泉・山路は管領細川氏の奉公の面々であること
東寺領であつた弓削島は、少泉・山路・両村上氏の四人によって押領されていたこと、この4氏の本拠地はちがいますが、海賊衆という点では共通するようです。
 讃岐白方の山路氏については、以前にお話ししました。
白方 古墳分布

 白方は、現在の多度津町白方で、弘田川河口の港があった所で、現在の白方小学校の下辺りまでは、湾が入り込んでいたようです。その地形を活かして、古代においては多度郡の港の役割を果たしていました。そこを根拠とした山路氏は、燧灘を越えて伊予の弓削島まで進出し、その地を押領していたことが分かります。また、山路氏は「細川氏の奉公衆」ともされています。これをどう理解すればいいのでしょうか?

白方 弘田川

手持ちの材料を手立てに、海賊衆山路氏の動きを私は次のように考えています。 
①弘田川河口の白方には、小さな前方後円墳がいくつも並び、後には盛土山古墳などの特徴的な方墳も作られている
②白方は善通寺王国と弘田川を通じて結ばれ、その外港として役割を果たしてきた。
③そのため港湾施設が整い、交易活動が活発に行われてきた。
④空海の生家である佐伯氏の発展も、白方を拠点とする瀬戸内海交易活動に乗り出したことにある。
⑤中世になると、白方は海賊衆山路氏の拠点となった。
⑥山路氏は、室町幕府の成立期に細川氏の下で働いたために「細川氏の奉公衆」となった。
⑦しかし、実態は芸予諸島の村上氏と同じで「海の民」が「海賊衆」となった勢力であった。
⑧彼らは海賊衆として、村上衆と連携し、芸予の塩の島弓削島を押領したりすることも行っていた⑨また熊野海賊衆との交流もあり、瀬戸内海を広域的に活動し、交易活動も展開していた。
⑩その先達(パイロット)となったのは、備中児島の新熊野の五流修験者たちであった。
⑪このため児島五流の修験者たちが白方にはやって来て背後の弥谷寺で修行を行うようになった。
⑫さらに、熊野行者たちは白方の熊手八幡の神宮寺を中心に、いくつもの坊を建立し修験者の拠点化としていった。

ここで押さえておきたいのは、香川氏が「細川氏の奉公衆」の海賊衆である白方氏を、配下に取り込んでいったことです。
香川氏は、在京せずに多度津に居残り、在地支配をこつこつと進めていきます。そして、三野氏や秋山氏を家臣団化していったことが、三野・秋山文書からは分かります。同じようにして、白方の山路氏も家臣団化したと研究者は考えているようです。

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弘田川河口より見上げる天霧山
 これは、毛利元就が村上武吉の協力を得て、厳島合戦で勝利したような話と同じようにとらえることができるのかもしれません。どちらにしても、香川氏は海賊山路氏の協力を得て、独自の輸送船団を形成していた可能性はあります。

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熊手八幡神社(多度津町白方)

 こうした輸送船が桜川河口の多度津港に姿を現し、国料船・過書船の名の下に畿内との交易活動を行うようになった。また、守護細川氏からの動員令があった時には、山路氏の船団によって畿内へ兵が迅速に輸送される体制ができていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


 3兵庫北関入船納帳.j5pg
兵庫北関入船納帳

『兵庫北関入船納帳』(入船納帳)は、戦後になって「発見」された史料です。
3兵庫北関入船納帳

この史料には文安2(1445)年に、通行税を納めるために兵庫北関に入船してきた船の船籍や梶取名(船長)、問丸(持ち主)、積荷などが記されています。ここからは、当時の瀬戸内海の海運流通の実態がうかがえます。この史料の発見によって、中世の瀬戸内海海運や港などをめぐる研究は大幅に進んだようです。以前に、「入船納帳」に出てくる讃岐の港町については紹介しました。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg

今回は、讃岐船の「国料船」「過書船」について、讃岐守護代であった安富氏や香川氏が、どのように関わっていたのかを見ていくことにします。テキストは  橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力」です。
DSC03651
                     兵庫沖の中世廻船(一遍上人絵図) 

 讃岐守護の細川氏は、足利氏の親族として幕府の中で重要な役割を果たし、京に在住していました。
そのために生活必需品を讃岐から海上輸送する船には、関税がかけられなかったようです。讃岐守護代の安富・香川などはは、「国料船」と呼ばれる関税フリーの輸送船の航行権を持っていました。ここからは、次のように考える研究者もいます。

「国料船を通じて見られる管理権が、単に国料船だけでなく、港津全体の管理権であったと考えられる」

つまり、安富・香川・十河氏の3氏は、「国料船」だけでなく、その船の母港の管理権も握っていたというのです。「兵庫北関入船納帳」に出てくる国料船は、備後守護山名氏と、細川氏の家臣である讃岐の香川・十河・安富の三氏だけに許された特殊な船だったようです。

「入船納帳」に出てくる国料船の記事を一覧表したの下図です。
兵庫北関入船納帳 国料船一覧

ここでは、讃岐3氏の国料船の船籍地に注目して見ていきます。3氏の拠点港は、次の港であったことが分かります。
①香川氏は多々津(多度津)
②十河氏は庵治・方本
③安富氏は方本・宇多津
このなかで研究者が注目するのは③の安富氏の国料船についての次の記述です。
三月六日
①方本     安富殿   国料   成葉   孫太郎
四月十四日
  元ハ方本成葉船頭
②宇多津    安富殿   国料   弾正 法徳

①の国料船は、3月6日に兵庫北関に入港してきた時には、船籍は方元(屋島の潟元)で、船頭は成葉、問丸が孫太郎、と記されています。ところが4月14日に入港してきた時には、②のように、船籍が宇多津、船頭が弾正、問丸が法徳に変更されています。そして註には「元ハ方本成葉船頭」(元は潟元の成葉が船長だった)と注記されています。そのまま理解すると①と②の船は、同一船で、もともとは「方本港の船頭成葉」の船であったということになります。とすると1ヶ月の間に、船籍が方本(成葉)から宇多津(弾正)へ移ったことになります。
もうひとつ研究者が、注目する記事を見ておきましょう。
四月九日
 本ハ宇多津弾正殿
③多々津(多度津)  賀河(香川)殿  国料   勢三郎   道祐

③の記事は多度津の香川氏の国料船の記述で、註には「本ハ宇多津弾正殿」の船と記されています。それまで宇多津船籍として運航されていた船が、多度津港に移動してきたことが分かります。

3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐の船籍一覧表

 これらの国料船の船籍移動を、どう理解すればいいのでしょうか?
これについて研究者は、次のように記します。
「香川氏の国料船はもとの船籍地が宇多津で船頭が弾正であったが、安富氏の船籍地移動と相前後して移動している。また十河氏の方本の国料船は安富氏のそれが宇多津に移って後の五月十九日を初見とする。それゆえ移動は安富氏だけの問題ではなく、香川・十河の両氏の船籍地にも及んだ全面的な変動であった。安富氏が宇多津へ移ると同時に香川氏は宇多津の管理を止めて多々津(多度津)に集中し、 一方十河氏は近傍の庵治のほか安富氏の移ったあとの方本の管理権をも得て、画港を管理するようになった。これは管領細川氏の京上物を輸送するための船であろう。
   細川勝元は管領就任を機として有力被官三氏の主要港津管理権を調整し再編成して、分国讃岐における権力基礎の安定と京上物の輸送の確保を図ったと考えられる」
以上を整理しておくと、港の管理権が次のように移動したようです。
①東讃守護代の安富氏は、西讃守護代の香川氏に代わって宇多津の管理権得た。その代償に、潟元の管理権は十河氏のものとなった。
②香川氏は、宇多津から多度津に移動し、多度津の管理権を得た。
③十河氏は、それまでの庵治の他に方元(潟元)の管理権は、安富氏から引き継いだ。
④細川勝元の管領就任にともなって、讃岐国元で港の管理体制についての変動があった。
  港名           旧来の管理者     新管理者
方元(潟元)港  安富氏 →   十河氏
宇多津港           香川氏 →   安富氏
多度津港     ?       香川氏  
注意しておきたいのは、これは港の管理権に限定された変更です。領土変更があったと云っているわけではありません。港に関しては、西讃の仁尾湊を、東讃の香西氏が管理してた例もあるので、港湾管理に関しては、守護代の権限とは別のルールがあったと研究者は考えているようです。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世宇多津海岸線の復元図

安富氏が管理することになった宇多津の繁栄ぶりを、見ておきましょう。
 阿野・鵜足郡では、室町期になると松山津にかわって宇多津が繁栄するようになります。この背景には、讃岐守護細川頼之が、守護所を宇多津に置いたことがあるようです。大束川は、かつては川津から現在の鎌田池を経て、坂出の福江方面に流れ出していたことは、以前にお話ししました。そのため、古代は坂出の福江や御供所が港として機能していました。それが、大束川の流路変更で、中世にはその河口になった宇多津が港町として機能するようになります。宇多津の後背地には、鎌倉期に春日社領となる川津荘がありました。そのため河口の宇多津が、年貢積み出し港として機能するようになります。

6宇多津2
中世宇多津の復元図

 康応元年(1389)2月、将軍足利義満が厳島神社への参詣の時に、宇多津の細川頼之の館へ両者の関係修復のために立ち寄っています。その時の様子が『鹿苑院殿厳島詣記』に次のように記されています。「群書類従』巻第233。
「此処のかたちは、北にむかひてなぎさにそひて海人の家々ならべり。ひむがしは野山のおのへ北ざまに長くみえたり。磯ぎはにつヽきて占たる松がえなどむろの本にならびたり。寺々の軒ばほのかにみゆ」

意訳変換しておくと

「宇多津の町のかたちは、北に向かって広がる海岸線にそって海人の家々が並んでいる。東は野山(聖通寺山)の尾根が北に長く伸びている。磯際の海岸線には、松並みが続き、建ち並ぶ寺々の軒がほのかに見える。

ここからは、宇多津が家々・寺々が軒を並べた大きな町並であったことが分かります。
 細川氏が讃岐と京との間を往来する時には、宇多津が利用されたのでしょう。そのために京の文化は、いちはやく宇多津へ伝わり、京に似せた寺院が丘の上には建ち並ぶようになり、細川氏の家臣が居住する屋敷が作られ、丘の下の海岸線沿いには多くの商工業者が集中して一大都市が形成されるようになります。そのために物資があつまり、集積され、輸送するための港が賑わうようになっていきます。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
江戸時代後半の宇多津

室町時代の讃岐国は、安富氏と香川氏が守護代として、讃岐を二分統治していたことは以前にお話ししました。
①安富氏 東方7郡 大内・寒川・三木・山田・香川東・香川西・阿野南条
②香川氏 西方6郡 豊田・三野・多度・那珂・鵜足・阿野北条
東方守護代であつた安富氏は、守護代就任当初から京兆家評定衆の一員として重任されていました。そのため在京し、讃岐を留守にしてすることが多ったので、一族を「又守護代」として讃岐・雨瀧山に置くようになります。一方、西方守護代であった香川氏は、ほぼ在国していたようです。そのため安富氏と香川氏の在地支配の方法は、おのずと違ってくるようになります。
 香川氏は地元に根付いて守護代権限を行使するとともに、その権限を利用して在地支配を早くから推し進めていきます。その動きを見ておくと
永徳元(1381)年 香川彦五郎(平景義)が、多度郡葛原荘内鴨公文職を京都の建仁寺永源庵に寄進
応永19(1422)年 香川美作人道が随心院領弘田郷代官職を請負う。美作入道は香川氏一族の一人ですが、その後に押領を図ったため代官職を能免されています。
守護代香川氏の動きについては、よく分からないことが多いのですが、 一族が各地の代官職を請け負って、やがてはその地位を利用して押領をしていく姿が、三野・秋山文書などからはうかがえます。守護代は、もともとは違乱停止の社会秩序を防衛する立場です。しかし、一族の押領を容認し、一族を用いての所領化を図っていく姿が見えてきます。応仁の乱後には、その動向が強くなり、細川氏に代わって丸亀平野や三野平野において、独自の支配権を確立していきます。香川氏は、戦国大名化への道を歩み始めていたと云えそうです。これは、讃岐を不在にしていた東方守護代の安富氏とは、対照的です。

最初に文安二年(1445)に、宇多津の港湾管理権が移動したことを「兵庫北関入船納帳」で見ました。
この目的は、讃岐における守護細川氏の権力基礎の安定と京上物の輸送の確保を計ることにありました。しかし、京都で管領職を務める細川氏にとっては、もっと深いねらいがあったようです。細川氏の立場に立って、それを見ておきましょう。
応仁の乱 - Wikipedia
細川氏の分国 青色
  当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々を分国支配していました。そのため備讃瀬戸の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。

6塩飽地図

その防衛拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。
宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津の管理権を任せることになったというストーリーが考えられます。宇多津の支配が安富氏に委ねられたときに、塩飽も安富氏の管理下に置かれたようです。
 つまり、宇多津・塩飽を安富氏に任せたのは、宇多津 ー 塩飽 ー備中児島を結ぶ備讃瀬戸の海上覇権をにぎるための戦略でもあったと研究者は考えているようです。
   その後の備讃瀬戸をめぐる動きについて簡単に触れておきます。
16世紀になり、細川氏と大内氏との間で、備讃瀬戸の制海権をめぐる抗争が展開されます。これに細川氏が敗れ、塩飽は大友方についた能島村上氏へと支配権は移動していきます。安富氏の塩飽支配は長くは続かなかったようです。
細川氏の隠され裏のねらいは、讃岐で勢力を拡大する香川氏の動きを抑止することです。
 香川氏は讃岐に残り、在地支配を強化する道を着々と歩んでいました。その際に、香川氏が守護所の字多津の管理権を握っていることは、香川氏の勢力拡大にプラス要因として働きました。その動きを阻止するために細川勝元は、信頼できる安富氏に宇多津を任せた。宇多津の管理権を、香川氏から奪った背景には、このような細川勝元の思惑があったと研究者は考えています。
道隆寺 中世地形復元図
堀江港の潟湖にあった道隆寺
応永六年(1399)に宇多津の沙弥宗徳が買い取った多度部内葛原荘の田地を、多度津の道隆寺に焔魔堂僧田として寄進しています。道隆寺は、中世の港として機能していた堀江港の港湾管理センターの役割を果たしていた寺院で、塩飽や庄内半島などの寺社を末寺に持ち、備讃瀬戸に大きな影響力を持った有力寺院だったことは以前にお話ししました。同時に、香川氏の保護を受けていたことも分かっています。その道隆寺に、宇多津の宗徳が田地を寄進しているのです。この宗徳が、どんな人物なのかは分かりません。ただ、土地を買い取るだけの経済力を持っていた人物であったことは分かります。彼は経済的発展を遂げている宇多津において、裕福な階層に属していたのでしょう。また徳の一字から見て、宇多津の問丸の法徳の一族とも推測できます。このような人物と結ぶことで、香川氏は経済力を向上させ勢力を拡大させていたことがうかがえます。これは守護の細川氏にとっては好ましいことではありません。それは、阿波