瀬戸の島から

カテゴリ:讃岐の武将 > 香西氏

永正の錯乱以前に、讃岐国人は細川京兆家の繁栄のもとで四天王として勢力を振るってきました。それが永正の錯乱の結果、京兆家の弱体化と香西氏や両守護代の香川・安富氏の減亡により、以後権勢の座を畿内の国人や阿波の三好氏に譲ることになります。香西氏・安富氏など讃岐武士団の主導権は失われたのです。変わって、重要な役割を演じるようになるのが阿波三好氏です。そして、阿波三好氏は、永正の錯乱で敵対関係になった讃岐への侵攻を開始します。こうして讃岐の四天王は、没落し三好氏に従属していくことになります。その過程を押さえておきます。 テキストは「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」です

細川政元政権下で、香西氏と薬師寺氏が内衆の指導権を握ったのはいつでしょうか?
政元暗殺の首謀者である薬師寺長忠と香西元長の二人が京兆家の有力被官で構成される「内衆」の中で指導的立場を確立したのは、永正元年9月に起こった薬師寺元一の謀反の鎮圧によってです。そこに至る経過を見ておきましょう。
永世の錯乱 対立構図
文亀3年(1501)5月、政元は阿波守護細川慈雲院(成之)の孫六郎(のちの澄元)を養子に迎えます。これ以前に政元には後継者として養子に迎えていた前関白九条政基の子九郎(澄之)がいました。その背景を「細川両覆記」は、次のように記します。
この養子縁組は実子のいない政元が摂関家出身の九郎に代えて細川一門から養子を迎えた。ところが京兆家の家督を細川家一族に譲りたいと心変わりしたため、当時摂津守護代であった薬師寺与一が尽力して成立した。

「実隆公記」や「後法興院記」には次のように記します。
細川一門の上野治部少輔政誠や薬師寺与一らが政元の使節として阿波へ下向し、慈雲院に「京兆隠居、相続の事」を「相計ら」うよう伝えた。

   こうして、政元が二人の養子を迎えたことは、二人の後継者を作ってしまったことになります。当然、後継者をめぐって京兆家家臣団の分裂・抗争の激化を招くことになります。その動きのひとつが薬師寺元一の謀反です。謀反当時、摂津半国守護代であった薬師寺元一は、かつて安富元家とともに政元より京兆家の家政を委任された薬師寺備後守元長の長子です。また、政元暗殺の首謀者である薬師寺長忠はその弟になります。阿波守護細川家より六郎を養子として迎えたときの経緯から澄元を押す元一と、なかなか家督相続者を決定しない政元との関係は次第に険悪なものとなります。こうした中で細川政元は永正元年3月に、薬師寺元一の摂津守護代職を罷免しようとします。このときは、元一は将軍義澄の取り成しによりようやく摂津半国の守護代職を維持することができます。(「後法興院記」)。残りの半国守護代に弟の長忠が任命されたのもこの時のことと研究者は考えています。

 薬師寺元一の謀反発覚と鎮圧過程を年表化しておきます。
1504(永正元)年
9月4日、元一の弟で京兆家被官の寺町氏の養子となっていた又三郎の通知で謀反発覚。元一は、淀の藤岡城に籠城
  6日、上野政誠、上野元治・安富元治、内藤貞正らが元一方に味方した京都西岡衆を討伐
  9日、淀で合戦開始し、讃岐守護代の安富(元家)が討死
 17日 西岡衆を討伐した軍勢は、淀へ向かい翌日18日藤岡城を攻め落とし、元一を生捕り。
こうして元一の謀反は失敗に終わります。
薬師寺元一 2つ新
薬師寺元一の辞世の句

しかし、この反乱に加わった者達は広範に及んでいました。「宣胤卿記」の9月21日条には挙兵の失敗について、次のように記します。
元一成囚。去暁於京切腹云々〈十九歳〉。世間静読如夜之明云々。希代事也。同意〈前将軍方)畠山尾張守〈在紀州)。細川慈雲院(在阿波)等出張遅々故也。且又元一弟〈号与次、摂州半国守護代)為京方国勢属彼手故也。京方香西又六、契約半済於近郷之土民悉狩出、下京輩免地子皆出陣。以彼等責落云々。
意訳変換しておくと
薬師寺元一は虜となり、明朝に京で切腹となった。19歳であった。この蜂起については明応の政変で政元に幕府を逐われた前将軍義材派の前河内守護畠山尚順、阿波の澄元の祖父の慈雲院などがも、元一の呼びかけに応じて挙兵することになっていた。阿波からは三好氏が淡路へ侵攻し、紀州の畠山尚順は和泉を攻め上がってくる動きを見せたが、蜂起発覚で遅きに失した。兄元一を裏切った長忠は左衛門尉の官途を与えられ、摂津半国の守護代となった。こうして京の国勢は、薬師寺長忠と京方香西又六が握ることになった。

 この合戦でそれまでの有力者であった薬師寺元一・安富元家という二人の死去します。その結果、京兆家被官(内衆)の中で最大の勢力を持つようになったのが香西氏と薬師寺長忠でした。薬師寺元一の謀反制圧の最大の功労者である長忠と香西元長とが、後に政元暗殺と澄元追放の首謀者となったのは決して偶然ではないと研究者は指摘します。

この事件の結果、都での澄元派は没落します。
「後法興院記」によると、政元は翌2年3月から4月にかけて一ヶ月以上淡路に滞在しています。この淡路下向は阿波の慈雲院討伐の準備のためだったようです。ところが、政元軍の淡路侵攻は見事に失敗してしまいます。
「後法興院記」の5月29日条には次のように記します。
伝え聞く。讃岐え進発の諸勢(淡路・上野・安富・香川)、敵御方数百人誅貌せらると云々ここれに依りまず引き退くと云々。淡路出陣の留守に三吉夜中推し寄せ館に放火すと云々。
意訳変換しておくと
淡路より讃岐へ侵攻した淡路守護家の淡路守尚春・上野玄蕃頭元治・安富元治・香川満景らの軍勢は返討ちに遭い。数百人の敗死者を出して撤退した。その上、守護の留守を狙って三好氏が淡路侵攻し守護の館を焼き討ちしたと伝え聞いた。

ここには、「讃岐え進発の諸勢(淡路・上野・安富・香川)」とあります。逆に見ると、この時点で讃岐は阿波勢の侵攻を受けて占領下にあったことがうかがえます。この敗戦後に、政元は阿波の慈雲院との和睦を図ります。「細川両家記」は永正2年の夏のころ、薬師寺長忠が澄元を京都に迎えるため阿波へ下向したと記します。和解に向けた事前交渉のようです。
  また、「大乗院自社雑事記」や「多聞院日記」には、6月10日ころ、かつて元一とともに謀反を起こした赤沢宗益が政元から赦されています。ここからは6月ころには、政元はそれまでの阿波の慈雲院との敵対関係を止めて、融和策に転じたことがうかがえます。

 これを受けて翌3年2月19日、まず三好之長が上洛します(「多間院日記」)。続いて4月21日には澄元の上洛が実現します。澄元が宿所としたのは「安富旧宅」で、故筑後守元家邸です。「多聞院日記」の5月5日条には、「阿波慈雲院子息六郎殿、細川家督として上洛す。」とあります。澄元は京兆家の家督として迎えられたことが分かります。
この間の事情について「細川両家記」は、次のように記します。

御約束の事なれば澄元御上洛。御供には三好筑前守之長、高畠与三等を召させ給ひ御上洛有ければ、京童ども是を見て、是こそ細川のニツにならんずるもとゐぞとさゝめごと申ける。さる程に九郎殿へ丹波国をまいらせられて、かの国へ下し中されければ、弥むねんに思食ける。
  意訳変換しておくと
約束したことなので澄元は上洛した。御供には三好筑前守之長、高畠与三等を従って御上洛した。これを京童が見て「これで細川氏はまっぷたつ分裂してしまう」とささやき合った。そして九郎殿(澄之)には丹波国への下向を命じた。これは澄之にとっては、さぞ無念なことであったろう。

政元は、阿波守護家との和睦を第一に考え、澄元を京兆家の家督にすえたようです。そして、澄之を丹波に下向させました。それまでの家督候補者であった澄之と彼の擁立を目指していた薬師寺長忠・香西元長らにとっては、政元のこの決断はとうてい受け入れがたいものであったはずです。ここに、政元暗殺の直接的な原因があると研究者は指摘します。
永正の錯乱前の讃岐の情勢は、どうだったのでしょうか?
永正3年10月12日、阿波の三好之長は、香川中務丞(元綱)の知行地讃岐国西方元山(現在の三豊郡本山町付近)と本領を返還するよう三好越前守と篠原右京進へ命じています。(石清水文書)。この時期は政元と阿波守護細川家との間で和睦が成立した時期です。その証として澄元が都に迎えられたのが、この年4月のことです。三好之長から香川中務丞に対して本領が返還されたのは、その和解の結果と研究者は推測します。つまり、政元と阿波守護家とが対立していた期間に讃岐国は阿波細川家の軍勢による侵攻を受け、守護代家の香川氏の本領が阿波勢力によって没収されていたことを示すというのです。これを裏付ける史料を見ておきましょう。
 永正2年4月~5月に、淡路守護家や香川・安富両氏などに率いられた軍勢が讃岐国へ攻め入っています。
当時の讃岐は、安富氏が讃岐の東半部を、香川氏が西半部を管轄する体制でした。讃岐の守護代である香川・安富氏がどうして讃岐に侵攻するのでしょうか。それは軍事行動は讃岐が他国の敵対勢力に制圧されていたことを意味すると研究者は指摘します。このときの敵対勢力とは、誰でしょか。それは阿波三好氏のようです。
  「大乗院寺社雑事記」の明応4年(1495)3月1日には、次のように記されています。
讃岐国蜂起之間、ムレ(牟礼)父子遣之処、両人共二責殺之。於千今安富可罷下云々。大儀出来。ムレ兄弟於讃岐責殺之。安富可罷立旨申之処、屋形来秋可下向、其間可相待云々。安富腹立、此上者守護代可辞申云々。国儀者以外事也云々。ムレ子息ハ在京無相違、父自害、伯父両人也云々。

意訳変換しておくと
讃岐国で蜂起が起こった時に、京兆家被官の牟礼氏を鎮圧のために派遣したが、逆に両人ともに討たれてしまった。そこで、守護代である安富元家が下向しようとしたところ、来秋下向する予定の主人政元にそれまで待つよう制止された。その指示に対して安富元家は、怒って守護代を辞任する意向を示した。

この記事からも明応4年2月から3月はじめにかけてのころ、安富氏の支配する東讃地方も「蜂起」が起こって、敵対勢力に軍事占領されたいたことがうかがえます。
管領細川家とその一族 - 探検!日本の歴史

このころ四国では何が起こっていたのでしょうか。阿波守護細川家の動きを追ってみよう。
明応3年11月27日、阿波守護細川⑦義春(慈雲院の子)は本国の阿波へ下向します。「後慈眼院殿御記」の11月28日・同31日条には、次のように記されています。
昨日讃岐守(義春)下国、不知子細云々。先備前可着小島也。其後可向讃州(慈雲院)云々。当国(山城)守護職相論之事、伊勢備中守復理之間、南都等路次静誌耳。一説.讃岐守下国。之与義材卿依同意、先趣四州云々。

他の関係史料も、義春は山城守護職就任を望んでいたが、将軍義澄に受け入れられなかったことをを恨み、阿波へ下ったことが記されています。義澄に対する反発から、義春は明応の政変で失脚した前将軍義材側についたのです。それは、義材を幕府から放逐した政元に背くことになります。
この結果、政元の守護分国である讃岐と阿波守護家の分国である阿波との間に軍事緊張関係が生まれたと研究者は判断します。
義春自身は、阿波帰国後まもなく12月21日に死去します。しかし、その遺志は父慈雲院(細川成之)が引き継ぎます。翌年春の讃岐での軍事衝突、永世元年の薬師寺与一の謀反への同意もその結果と考えられます。

徳島市立徳島城博物館(公式) on Twitter: "俗に「阿波の法隆寺」とも呼ばれる丈六寺 「徳島のたから」展では「絹本著色 細川成之像」を特別出品✨  応仁・文明の乱をのりこえ、阿波守護をつとめた細川成之は丈六寺を厚く保護します 徳島県内の肖像画では唯一の重要文化財 ...
永正8年9月12日、慈雲院(成之)は78歳で亡くなります。
「丈六寺開山金岡大禅師法語」には、次のように記されています。
「二州(阿波・讃岐)の伊を司どる。」
「門閥二州の都督に備う。」
「二州の釣軸(大臣の意)」
二州とは、阿波と讃岐のことです。ここには当時の人達が慈雲院が阿波・讃岐両国の実質的な守護であったと当時の人達が認識していたことが分かります。この時期に、讃岐は阿波細川氏の侵攻を受けて占領下に置かれたのです。
丈六寺 - Wikipedia
      慈雲院(細川成之)が保護した丈六寺(徳島市)
以上をまとめておきます。

①1493年(明応2)年 明応の政変で細川政元が足利義材を追放=足利義澄の将軍就任
②1501(文亀3)年5月、細川政元が阿波守護細川慈雲院(成之)の孫澄元)を養子に迎える。
③1504(永正元)年9月4日、薬師寺元一のクーデター謀反発覚と失脚 → 香西氏の権勢
④1505(永世2)年春 細川政元の淡路滞在、淡路守護家や香川・安富両氏などに率いられた          軍勢が讃岐国へ攻め入り敗北。
④1505(永正2)年夏頃、細川政元が阿波細川氏と和解 阿波の細川澄元を後継者に指名
⑤1506(永正3)年 阿波の三好之長が、香川中務丞(元綱)の知行地讃岐国西方元山(現三豊市本山町)と本領を返還するよう三好越前守と篠原右京進へ命じる。(石清水文書)。これは、阿波占領下にあった土地が和解によって返却されたもの。

⑥1507(永正4)年6月23日夜、細川政元が家臣によって暗殺される。
⑦1508(永正5)年4月9日、澄元と之長は自邸に放火して江州へ脱出=澄元政権の崩壊
⑧1511(永正8)年9月12日、慈雲院成之没(78歳)「二州(阿波・讃岐)の伊を司どる。」、
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 永正の錯乱については以前にお話ししましたが、それが讃岐武士団にどんな結果や影響をもたらしたかに焦点を絞って、もういちど見ていくことにします。テキストは「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」です。

永世の錯乱1
永正4年(1507)6月23日の夜、管領・細川右京大夫政元は被官の竹田孫七・福井四郎,新名らに殺害されます。この暗殺について「細川両家記」は、次のように記します。
此たくみは薬師寺三郎左衛門(長忠)、香西又六兄弟談合して、丹波におわす九郎殿御代にたて、天下を我まヽにふるまふべきたくみにより、彼二人を相かたらひ政元を誅し申也

意訳変換しておくと
「この企みは此たくみは薬師寺三郎左衛門、香西又六兄弟が談合して、丹波にいた九郎殿御代を細川家棟梁の管領にたて、天下を思うままに動かそうとする企みで、彼二人が密議して主君政元を謀殺したものである」

ここには、政元の有力被官である摂津守護代の薬師寺長忠と山城守護代の香西又六元長らが謀ったものとあります。その目的は実子のいない政元の養子2人のうち、前関白九条政基の子九郎澄之を細川京兆家の家督に擁立し、そのもとで彼らが専権を振るうことにあったというのです。その目的を果たすためには、政元のほかにもう一人の養子である阿波守護細川家出身の六郎澄元をのぞく必要があります。政元殺害の翌日には、香西氏を中心とする軍勢が澄元邸を襲撃します。この合戦は昼より夕刻まで続きますが、澄元は阿波守護家の有力被官三好之長に守られて江州甲賀へ脱出します。このときの合戦では、香西又六元長の弟孫六・彦六が討ち死にします。
永世の錯乱 対立構図
この事件の見聞を記した「宣胤卿記」の永正4年6月24日条には、次のように記します。
去る夜半、細川右京大夫源政元朝臣(四十二歳)。」天下無双之権威.丹波・摂津。大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護也。〉為被官(竹田孫七〉被殺害.京中騒動。今日午刻彼被官(山城守護代)香西又六。同孫六・彦六・兄弟三人、自嵯峨率数千人、押寄細川六郎澄元(政元朝臣養子)相続分也。十九歳.去年自阿波上。在所(将軍家北隣也)終日合戦。中斜六郎敗北、在所放火。香西彦六討死、同孫六翌日(廿五日)死去云々。六郎。同被官三好(自阿波六郎召具。棟梁也。実名之長。)落所江州甲賀郡.憑国人云々。今度之子細者、九郎澄之(自六郎前政元朝臣養子也。実父前関白准后政元公御子。十九歳。)依家督相続違変之遺恨。相語被官。令殺養父。香西同心之儀云々。言語道断事也。
  意訳変換しておくと
  細川政元(四十二歳)は、天下無双の権威で、丹波・摂津・大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護であったが夜半に、被官竹田孫七によって殺害せれた。京中が大騒ぎである。今日の午後には、政元の被官である山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人が、嵯峨より数千人を率いて、細川六郎澄元(政元の養子で後継者19歳。去年阿波より上洛し。将軍家北隣に居住)を襲撃し、終日戦闘となった。六郎は敗北し、放火した。香西彦六も討死、孫六も翌日25日に死去したと伝えられる。六郎(澄元)は被官三好(之長)が阿波より付いてきて保護していた。この人物は三好の棟梁で、実名之長である。之長の機転で、伊賀の甲賀郡に落ちのびた。国人を憑むと云々。

 澄之は六郎(澄元)以前の政元の養子で後継者候補であった。実父は前関白准后(九条)政基公御子である。家督相続の遺恨から、香西氏などの被官たちが相語らって、養父を殺害した。香西氏もそれに乗ったようだ。言語道断の事である。
 
 7月8日には、丹後の一色氏討伐のため丹波に下っていた澄之が上洛してきます。そして将軍足利義澄より京兆家の家督相続を認められます。翌々日10日には政元の葬礼が行われています。この時点では、政元の養子となっていた細川高国をはじめ細川一門は、京兆家被官による主人政元の暗殺と養嗣子澄元の追放を傍観していました。しかし、それは容認していたわけではなく、介入の機会を準備していたようです。8月1日になると、典厩家の右馬助政賢、野州家の民部少輔高国、淡路守護家の淡路守尚春らが澄之の居所遊初軒を襲撃します。その事情を「宣胤卿記」8月1日条は、次のように記します。
早旦京中物忽。於上辺已有合戦云々。巷説未分明。遣人令見之処、細川一家右馬助。同民部少輔・淡路守護等、押寄九郎(細川家督也。〉在所(大樹御在所之北、上京無小路之名所也。〉云々。(中略)
九郎(澄之。十九歳。)己切腹。(山城守護代)香西又六。(同弟僧真珠院)。(摂州守護代)薬師寺三郎左衛門尉。(讃岐守護代)香川。安富等、為九郎方討死云々。此子細者、細川六郎、去六月廿四日。為香西没落相語江州之悪党、近日可責上之由、有沙汰。京中持隠資財令右往左往之間、一家之輩、以前見外所之間、我身存可及大事之由、上洛己前致忠為補咎也。然間京都半時落居。諸人安堵只此事也。上辺悉可放火欺之由、兼日沙汰之処、九郎在所(寺也)。香西又六所等、焼失許也。
意訳変換しておくと
  8月1日早朝、京中が騒然とする。上辺で合戦があったという。巷に流れる噂話では分からないので、人を遣って調べたところ、以下のように報告を受けた。細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督たちが在所大樹御在所の北、上京小路の名なき所に集結し、細川澄之と香西氏の舘を襲撃した。(中略)九郎澄之(十九歳)は、すでに切腹。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等など、九郎澄之方の主立った者が討死したという。

 ここには、細川一門が澄之やその取り巻き勢力を攻撃した理由を、その追放を傍観した澄元が勢力を蓄え、江州より上洛するとのことで、それ以前に澄之派を討伐しみずからの保身を図るためとしています。この時に、澄之派として滅亡したのが、山城守護代の香西元長、摂津守護代の薬師寺長忠、讃岐守護代の香川満景・安富元治などです。永世の錯乱が讃岐武士団も墓場といわれる由縁です。
 翌2日の夜になると、澄元は細川一門に迎えられ5万人と伝えられる軍勢を率いて入京します。即日将軍義澄より京兆家の家督を認められています。8月7日には、右馬頭政賢が澄元の代官として、澄元をのぞく敵方の香西・薬師寺・香川。安富ら41人の首実検を行っています。このような混乱を経て澄元政権は成立します。


 ところが、この政権は成立の当初より不安定要素がありました。
それは阿波細川守護家の重臣で澄元を補佐していた三好之長の存在です。彼の横暴さは都で知れ渡っていたようです。澄元政権下で三好之長と反目した京兆家被官たちは、細川一門の領袖である高国を担ぐようになります。こうして高国は澄元を見限って、政元と対立していた中国の大大名大内義興と連携を計ります。そして政元が明応2年(1493)の明応の政変で将軍職を剥奪した前将軍の足利義材を擁立します。永正5年4月9日、澄元と之長は自邸に放火して江州へ脱出します。澄元政権の崩壊です。つづいて、16日には前将軍義材の堺到着が伝わる騒然とした状況のもとで将軍義澄もまた江州坂本へ逃れます。
この政元暗殺に始まり、澄元政権の瓦解にいたる一連の事件を永正の錯乱と呼びます。
この乱の結果、京兆家の家督は澄元系と高国系とに分裂します。
そして両者は、細川右京大夫を名乗り互いに抗争を繰り返すことになります。これを「細川両家記」には「細川のながれふたつになる」と記します。 今回はここまにします。次回は永正の錯乱を、讃岐との関わりから見ていくことにします。

永世の錯乱3
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」

 中世後期細川氏の権力構造 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

足利幕府のなかで、細川は一族の繁栄のために「同族連合」を形成していました。そのような中で勃発するのが応仁の乱です。10 年以上にわたって続いたこの乱は、足利将軍家での義視 対 義尚、畠山氏での持富対義就のほか、斯波氏、六角氏などでの同族内での主導権(家督)争いが招いた物とも云えます。これに対して細川一族は、内部抗争を起こすことなく、同族が連合することで、乱に対応しその後の発展につなげることができました。
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 応仁の乱の中で京兆家惣領勝元が死亡します。その危機的状況への対応策として生まれたのが「京兆家-内衆体制」だと研究者は考えています。

勝元が亡くなった時、後継者の政元はまだ7歳でした。
問題になるのが、誰に後見させるかです。そこで登場するのが内衆です。内衆とは、側近被官のことで、細川氏(京兆家)では、後醍醐天皇に追われた足利尊氏が九州から上洛する際に、被官化した者たちです。彼らは讃岐・阿波など瀬戸内海沿岸諸国の出身者が多かったようです。この者たちを同族連合の細川氏各家(各分国)の守護代や各種代官等に任命し、分国支配を任せるという統治スタイルです。これは、幕府と守護とが連携して中央と地方を支配するようなもので、京兆家と内衆が細川氏分国(細川同族連合)を連携しながら支配するという方法です。これを研究者は「京兆家-内衆体制」と呼んでいます。
 内衆のメンバーは、奉行人・評定衆・内衆・非譜代衆によって構成されます。そして、幼かった京兆家当主政元をもり立て、細川氏一族の強化を図ろうとします。うまく機能していた「京兆家-内衆体制」に、大きな問題が出てきます。それは政元は天狗道に熱中したことです。天狗になろうとして、修験道(天狗道)の修行に打ち込み、女人を寄せ付けません。そのため妻帯せず、後継者ができません。そこで3人の後継者候補(養子)が設定されます。

永世の錯乱 対立構図
一人目は澄之。
関白を務めた九条政基の子息で現任関白尚経の弟です。関白は天皇の補佐役であり、公家のトップです。関白家出身の養子を後継者とすることで、武家(細川氏)と公家(九条家)が連合する政権構想があったことを研究者は推測します。しかし、これでは、細川氏の血脈が絶えてしまいます。
二人目は澄元。阿波守護家出身。
阿波守護家は細川氏一族では京兆家に次ぐ家格です。細川氏内部での統合・求心力を高めるには良いかもしれません。ところが、政元自身がこれには乗り気でなかったようです。
三人目が高国。京兆家の庶流である野州家の出身
政元が養子として認めたていたかどうかは、はっきりとしません。
どちらにしても、後継者候補が何人もいるというのは、お家騒動の元兇になります。それぞれの候補者を担ぐ家臣を含めたそれぞれの思惑が渦巻きます。互いの利害関係が複雑に交錯して、同族連合としてのまとまりに亀裂を生むことになります。応仁文明の乱を乗り切り、幕府内における優越した地位を保ち続けて来た細川同族連合の内紛の始まりです。これが織田信長上洛までの畿内地域の混乱の引き金となります。これが各分国にも波及します。讃岐もこの抗争の中に巻き込まれ、一足早く戦国動乱に突入していきます。

この口火を切ったのが細川政元の内衆だった讃岐の武将達のようです。
応仁の乱の際に 管領細川勝元の家臣として畿内で活躍した讃岐の4名の武将を南海通記は「細川四天王」と呼んでいます。当時のメンバーは以下の通りでした。
安富盛長(安富氏) - 讃岐雨滝城主(東讃岐守護代)
香西元資(香西氏) - 讃岐勝賀城主
奈良元安(奈良氏) - 讃岐聖通寺城主
香川元明(香川氏) - 讃岐天霧城主(西讃岐守護代)
応仁の乱後に京兆家を継いだ細川政元も、この讃岐の四氏を内衆として配下に於いて政権基盤を固めていきます。中でも香西五郎左衛門と香西又六(元長)は「両香西」と呼ばれ、細川政元に近侍して、常に行動を共にしていたことは以前にお話ししました。それが後継者を巡る問題から、讃岐の「四天王」の子孫は、それまで仕えてきた細川政元を亡き者にします。その結果、引き起こされるクーデーター暗殺事件に端を発するのが永世の錯乱です。今回は、永世の錯乱当時の讃岐武将達の動きを史料でお押さえていきます。

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「足利季世記」は、細川京兆家の管領で細川政元について、次のように記します。長文意訳です。
四十歳の頃まで女人禁制で魔法飯綱の法、愛宕の法を行い、さながら出家の如く、山伏の如きであった。ある時は経を読み陀羅尼を弁じ、見る人身の毛もよだつほどであった。このような状況であったので、お家相続の子が無く、御内・外様の人々は色々と諌めた。
 その頃の公方(足利)義澄の母は、柳原大納言隆光卿の娘であった。これは今の九条摂政太政大臣政基の北政所と姉妹であった。つまり公方と九条殿の御子とは従兄弟であり、公家も武家も尊崇した。この政基公の御末子を細川政元の養子として御元服あり、公方様の御加冠あり、一字を参らせられ、細川源九郎澄之と名乗られた。澄之はやんごとなき公達であるので、諸大名から公家衆まで皆、彼に従い奉ったので、彼が後継となった細川家は御繁昌と見えた。そして細川家の領国である丹波国が与えられ入部された。
 細川家の被官で摂州守護代・薬師寺与一という人があった。
 その弟は与ニといい、兄弟共に無双の勇者であった。彼は淀城に居住して数度の手柄を顕した。この人は一文字もわからないような愚人であった。が、天性正直であり理非分明であったので、細川一家の輩は皆彼を信頼していた。
 先年、細川政元が病に臥せった時に、細川家の人々は協議して、阿波国守護である細川慈雲院殿(成之)の子、細川讃岐守之勝(義春)に息男があり、これが器量の人体であるとして政元の養子と定めることにした。これを薬師寺を御使として御契約した。これも公方様より一字を賜って細川六郎澄元と名乗った。

この時分より、政元は魔法を行われ、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、後には御心も乱れ現なき事を言い出した。
この様では、どうにもならないと、薬師寺与一と赤沢宗益(朝経)は相談して、六郎澄元を細川家の家督を相続させ政元を隠居させることで一致した。ここに謀反を起こし、薬師寺与一は淀城に立て籠もり、赤沢は二百余騎にて伏見竹田に攻め上がった。
 しかし永正元年九月の初め、薬師寺与一の舎弟である与ニ(長忠)が政元方の大将となり、兄の籠もる淀城を攻めた。城内をよく知る与ニの案内が有ったために、城は攻め落とされ、与一は自害することも出来ず生け捕りにされ京へと上らされた。与一はかねて一元寺という寺を船橋に建立しており、与ニはこの寺にて兄を切腹させた。与ニには今回の忠節の賞として、桐の御紋を賜り摂津守護代に補任された。源義朝が父為義を討って任官したのもこれに勝ることはないだろうと、爪弾きに批判する人もあった。赤沢は色々陳謝したため一命を助けられた。
このような事があり、六郎澄元も阿州より上洛して、父・讃岐守殿(義春)より阿波小笠原氏の惣領である三好筑前守之長と、高畠与三が共に武勇の達人であったため。補佐の臣として相添えた。

薬師寺与ニは改名して三郎左衛門と号し、政元の家中において人もなげに振る舞っていたが、三好が六郎澄元の後見に上がり、薬師寺の権勢にもまるで恐れないことを安からず思い、香西又六、竹田源七、新名などといった人々と寄り合い評定をした
「政元はあのように物狂わしい御事度々で、このままでは御家も長久成らぬであろう。しかし六郎澄元殿の御代となれば三好が権勢を得るであろう。ここは政元を生害(殺害)し、丹波の九郎澄之殿に京兆家を継がせ、われら各々は天下の権を取ろう。」と評議一決した。
 1507(永正4)年6月23日、政元はいつもの魔法を行うために御行水を召そうと湯殿に入られた。
そこを政元の右筆である戸倉と言う者が襲い殺害した。まことに浅ましい。
この政元の傍に不断に仕える波々伯部という小姓が浴衣を持って参ったが、これも戸倉は切りつけた。しかし浅手であり後に蘇生し、養生して命を全うした。

この頃、政元は、丹波(丹後)の退治のために赤沢宗益を大将として三百余騎を差し向けていた。また河内高屋へは摂州衆、大和衆、宗益弟、福王寺、喜島源左衛門、和田源四郎を差し向け、日々の合戦に毎回打ち勝ち、所々の敵たちは降参していた。しかし、政元殺害の報を聞くと軍勢は落ち失い、敵のため皆討たれた。
政元暗殺に成功した香西又六は、この次は六郎澄元を討つために兵を向けた。
明けて24日、薬師寺・香西を大将として寄せ行き、澄元方の三好・高畠勢と百々橋を隔てて切っ先より火を散らして攻め戦った。この時政元を暗殺した戸倉が一陣に進んで攻め来たのを、波々伯部これを見て、昨日負傷したが主人の敵を逃すことは出来ないと、鑓を取ってこれを突き伏せ郎党に首を取らせた。
六郎澄元の御内より奈良修理という者が名乗り出て香西孫六と太刀打ちし、孫六の首を取るも修理も深手を負い屋形の内へ引き返した。このように奮戦したものの、六郎澄元の衆は小勢であり、敵に叶うようには見えなかったため、三好・高畠は澄元に御供し近江へ向けて落ちていった。

この時、周防に在った前将軍・足利義材はこの報を聞いて大いに喜び、国々の味方を集め御上洛の準備をした。
中国西国は大方、将軍義材御所の味方となった。安芸の毛利治部少輔(弘元)を始めとして、義材を保護している大内氏の宗徒の大名の多くは京都の御下知に従っていたため、この人々の元へ京より御教書が下された。

根本史料ではなく、内容も軍記物語のような語り口ですが、だいたいの大筋を掴むにはいい史料です。次に、根本史料で押さえておきます。
永世の錯乱1
 
『宣胤卿記』(のぶたねきょうき)は、戦国時代の公卿・中御門宣胤の日記です。
1480(文明12)年正月から1522(大永29)年正月までの約40年の京を巡る政局がうかがえる史料のようです。細川政元の暗殺や細川澄元の敗死などの永正の錯乱については、次のように記します。
「宣胤卿記」1507(永正四)年六月二四日条
去る夜半、細川右京大夫源政元朝臣四十二歳。天下無双の権威。丹波。摂津。大和。河内・山城。讃岐・土佐等守護なり。被官竹田孫七のために殺害せらる。京中騒動す。

 今日午刻、かの被官山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人、嵯峨より数千人を率い、細川六郎澄元政元朝臣養子。相続分なり。十九歳。去年阿波より上る。在所将軍家北隣なり。へ押し寄せ、終日合戦す。申斜、六郎敗北し、在所放火す。香西彦六討死す、同孫六翌日廿五日、死去すと云々。
 六郎(澄元)同被官三好(之長)阿波より六郎召具す。棟梁なり。実名之長。落所江州甲賀郡。国人を憑むと云々。今度の子細は、九郎澄之自六郎より前の政元朝臣養子なり。実父前関白准后(九条)政基公御子。一九歳。家督相続の遺恨により、被官を相語らい、養父を殺さしむ。香西同心の儀と云々。言語道断の事なり。
意訳変換しておくと
 細川政元(四十二歳)は、天下無双の権威で、丹波・摂津・大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護であったが夜半に、被官竹田孫七によって殺害せれた。京中が大騒ぎである。今日の午後には、政元の被官である山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人が、嵯峨より数千人を率いて、細川六郎澄元(政元の養子で後継者19歳。去年阿波より上洛し。将軍家北隣に居住)を襲撃し、終日戦闘となった。六郎は敗北し、放火した。香西彦六も討死、孫六も翌日25日に死去したと伝えられる。六郎(澄元)は被官三好(之長)が阿波より付いてきて保護していた。この人物は三好の棟梁で、実名之長である。之長の機転で、伊賀の甲賀郡に落ちのびた。国人を憑むと云々。
 今回の子細については、澄之は六郎(澄元)以前の政元の養子で後継者候補であった。実父前関白准后(九条)政基公御子で一九歳である。家督相続の遺恨から、香西氏などの被官たちと相語らって、養父を殺害した。香西氏もそれに乗ったようだ。言語道断の事である。
 ここには細川政元暗殺の黒幕として、香西元長とその兄弟であると記されています。
その背景は、細川政元の後継者が阿波細川家の澄元に決定しそうになったことがあると指摘しています。そうなると、澄元の被官に三好之長が京兆家細川氏を牛耳るようになり、「細川四天王」と呼ばれた讃岐の香西・香川・安富・奈良氏にとっては出番がなくなります。また、今までの既得権利も失われていくことが考えられます。それを畏れた香西氏が他の三氏に謀って、考えられた暗殺クーデター事件と当時の有力者は見抜いていたようです。

「細川大心院記」永正四年六月二四日条には、次のように記します。
夏ノ夜ノ習トテホトナク明テ廿四日ニモ成ケレハ巳刻許二香西又六元長、同孫六元秋、同彦六元能兄弟三人嵯峨ヲ打立三千人計ニテ馳上リ其外路次二於テ馳付勢ハ数ヲ不知。京都ニハ又六弟二心珠院宗純蔵主、香川上野介満景、安富新兵衛尉元顕馳集り室町へ上リニ柳原口東ノ方ヨリ澄元ノ居所安富力私宅二押寄ル。
 
意訳変換しておくと
細川政元が暗殺された夜が開けて24日になると、香西又六元長と実弟の孫六元秋、彦六元能兄弟三人は、阿波細川澄元の舘を襲撃した。三千人ほどの兵力で嵯峨を馳上り、その途上で駆けつけた者達の数は分からない。又六元長の弟や心珠院宗純蔵主、香川上野介満景、安富新兵衛尉元顕なども、これに加わり室町へ上リ、柳原口東方から澄元の居所へ安富勢とともに押し寄せた。

ここには細川澄元舘を襲撃した讃岐の四天王の子孫の名前が次のように記されています。
①香西又六元長・弟 孫六元秋(討死)・彦六元能(討死)
②香川上野介満景
③安富新兵衛尉元顕
奈良氏の名前は見えないようです。

細川政元暗殺クーデターの立案について「不問物語」( 香西又六与六郎澄元合戦事)は、次のように記します。
香西又六元長ハ嵯峨二居テ、一向ニシラサリケり。舎弟孫六・同彦六ナトハ同意ニテ九郎澄之ヲ家督ニナシ、六郎澄元并三好之長・沢蔵軒等ヲモ退治セハヤト思テ又六二云ケルハ、「過し夜、政元生害之事、六郎澄元・同三好等力所行也。イカヽセン」卜有間、又六大驚、「其儀一定ナラハ、別ノ子細ハ有マシ。只取懸申ヘシ」トテ、兄弟三人嵯峨ヲ千人余ニテ打立ケリ。於路頭馳付勢ハ数ヲ不知。京都ニハ舎弟心珠院二申合間、香川上野介満景・安富新兵衛尉元顕、室町ヲノホリニ柳原口東ノ方ヨリ澄元屋形故安富筑後守力私宅二押寄、

意訳変換しておくと
香西又六元長は、嵯峨で細川高国暗殺計画について始めて一行に知らせた。舎弟の孫六・同彦六は同意して細川澄之を京兆家の家督として、六郎澄元とその側近の阿波の三好之長・沢蔵軒等を亡き者にする計画を又六に告げた。「夜半に、政元を殺害し、その後に細川・三好等なども襲う手はずで如何か」と問うた。これに又六(元長)は大いに驚きながらも、「それしか道はないようだ、それでいこう、ただ実行あるのみ」と、兄弟三人は嵯峨を千人余りで出発した。道すがらの路頭で馳付た数は分からない。京都には舎弟心珠院がいて、香川上野介満景・安富新兵衛尉元顕が加わり、柳原口東方から澄元屋形へ安富筑後守力私宅二押寄、

「細川大心院記」永正四年七月八日条には、次のように記します。
去程二京都ニハ澄之家督ノ御内書頂戴有テ丹波国ョリ上洛アリ。大心院殿御荼昆七月八日〈十一日イ〉被取行。七日々々ノ御仏事御中陰以下大心院二於厳重ニソ其沙汰アリケリ。香川上野介満景・内藤弾正忠貞正。安富新兵衛尉元顕・寺町石見守通隆・薬師寺三郎左衛門尉長忠。香西又六元長・心珠院宗純o長塩備前守元親・秋庭修理亮元実。其外ノ面々各出仕申。

意訳変換しておくと
 細川政元に命じられて丹波駐屯中であった澄之は京に上がって、細川京兆家の家督を継ぐことになった。その後に大心院殿で(細川政元)の法要を7月8日に執り行った。御仏事御中陰など大心院での儀式については、厳重な沙汰があった。香川上野介満景・内藤弾正忠貞正。安富新兵衛尉元顕・寺町石見守通隆・薬師寺三郎左衛門尉長忠・香西又六元長・心珠院宗純・長塩備前守元親・秋庭修理亮元実。その外の面々各出仕した。

 永世の錯乱3


政元亡き後の京都へ、丹後の一色氏討伐のため丹波に下っていた細川澄之が呼び戻されます。澄之は7月8日に上洛し、将軍足利義澄より京兆家の家督と認められます。そして政川政元の中陰供養が行われます。ここに参加しているメンバーが澄之政権を支えるメンバーだったようです。そこには奈良氏を除く讃岐の「細川四天王」の名前が見えます。こうしてクーデター計画は成功裏に終わったかのように見えました。 ここまでは香西氏など、讃岐武将の思惑通りにことが運んだようです。しかし、細川澄元とその被官三好之長は逃してしまいます。これが大きな禍根となります。そして、香西元長は戦闘で二人の弟を失いました。

  香西家など讃岐内衆による澄元の追放を傍観していた細川一家衆は、8月1日に反撃を開始します。
典厩家の政賢、野州家の細川高国、淡路守護家の尚春などの兵が澄之方を襲撃します。この戦いは一日で終わり、澄之は自害、山城守護代の香西元長、摂津守護代の薬師寺長忠、讃岐両守護代の香川満景・安富元顕は討死にします。それを伝える史料を見ておきましょう。

後の軍記物「應仁後記」には、細川澄之の敗北と切腹について次のように記します。
   細川政元暗殺の後、畿内は細川澄之の勢力によって押さえられた。しかし細川澄元家臣の三好之長は、澄元を伴い近江国甲賀の谷へ落ち行き、山中新左衛門を頼んで
近江甲賀の軍士を集めた。また細川一門の細川右馬助、同民部省輔、淡路守護らも味方に付き、さらに秘計をめぐらして、畠山も味方に付け大和河内の軍勢を招き。程なくこの軍勢を率いて八月朔日、京に向かって攻め上がった。
昔より主君を討った悪逆人に味方しようという者はいない。在京の者達も次々と香西、薬師寺を背き捨てて、我も我もと澄元の軍勢に馳加わり、程なく大軍となった。そこで細川澄元を大将とし、三好之長は軍の差し引きを行い、九郎澄之の居る嵯峨の嵐山、遊初軒に押し寄せ、一度に鬨の声を上げて入れ代わり立ち代わり攻めかかった。そこに館の内より声高に「九郎殿御内一宮兵庫助!」と名乗り一番に斬って出、甲賀勢の望月という者を初めとして、寄せ手の7,8騎を斬って落とし、終には自身も討ち死にした。

これを合戦のはじめとして、敵味方入り乱れ散々に戦ったが、澄之方の者達は次第に落ち失せた。残る香西薬師寺たちも、ここを先途と防いだが多勢に無勢では叶い難く、終に薬師寺長忠は討ち死に、香西元長も流れ矢に当たって死んだ。
この劣勢の中、波々下部伯耆守は澄之に向かって申し上げた
「君が盾矛と思し召す一宮、香西、薬師寺らは討ち死にし、見方は残り少なく、敵はもはや四面を取り囲んで今は逃れるすべもありません。敵の手にかけられるより、御自害なさるべきです。」

九郎澄之は「それは覚悟している」
そう言って硯を出し文を書いた
「これを、父殿下(九条政基)、母政所へ参らすように。」
そう同朋の童に渡した、その文には、澄之が両親の元を離れ丹波に下り物憂く暮らしていたこと、
また両親より先に、このように亡び果て、御嘆きを残すことが悲しいと綴られていた。
奥には一種の歌が詠まれた。

 梓弓 張りて心は強けれど 引手すく無き身とぞ成りける

髪をすこし切り書状に添え、泪とともに巻き閉じて、名残惜しげにこれを渡した。童がその場を去ると、澄之はこの年19歳にて一期とし、雪のような肌を肌脱ぎして、尋常に腹を切って死んだ。波々下部伯耆守はこれを介錯すると、自身もその場で腹を切り、館に火を掛けた。ここで焼け死んだ者達、また討ち死にの面々、自害した者達、都合170人であったと言われる。寄せ手の大将澄元は養父の敵を打ち取り、三好之長は主君の恨みを報じた。彼らは香西兄弟、薬師寺ら数多の頸を取り持たせ、喜び勇んで帰洛した。
澄之の同朋の童は、乳母の局を伴って九条殿へ落ち行き、かの文を奉り最期の有様を語り申し上げた。父の政基公も母の北政所も、その嘆き限りなかった。

一次資料の「宣胤卿記」永正四年八月一日条には、次のように記します。
早旦、京中物念。上辺において己に合戦ありと云々。巷説分明ならず。人を遣し見せしむるの処、細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督也。在所大樹御在所之北、上京小路の名なき所なり。に押し寄すと云々。(中略)九郎澄之。十九歳。己に切腹す。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等、九郎方として討死にすと云々。
意訳変換しておくと
8月1日早朝、京中が騒然とする。上辺で合戦があったという。巷に流れる噂話では分からないので、人を遣って調べたところ、以下のように報告した。細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督たちが在所大樹御在所の北、上京小路の名なき所に集結し、細川澄之と香西氏の舘を襲撃した。(中略)九郎澄之(十九歳)は、すでに切腹。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等など、九郎澄之方の主立った者が討死したという。


「多聞院日記」永正四年八月一日条には、次のように記します。
今暁、細川一家并に落中辺土の一揆沙汰にて九郎(細川澄之)殿宿所院領(陰涼)軒差し懸り合戦に及ぶと云々。則ち九郎殿御腹召されおわんぬ。波々伯部伯者守(宗寅)・一宮兵庫助その外十人計り生涯すと云々。
薬師寺宿所にては三郎左衛門尉(薬師寺長忠)・与利丹後守・矢倉・香西又六(元長)・同真珠院・美濃(三野)五郎太郎・香西宗次郎か弟・香川(満景)・安富(元顕)その外三十人許り。
  嵐山城則ち焼き払いおわんぬ。
  意訳変換しておくと
本日の早朝に洛中辺土で一揆沙汰があって、細川一家が九郎(細川澄之)殿宿所院領(陰涼)軒を襲撃し合戦になったと人々が云っている。九郎(澄之)殿は切腹されたようだ。その他にも、伯部伯者守(宗寅)・一宮兵庫助など十人あまりが討ち死にしたと伝えられる。薬師寺宿所では、三郎左衛門尉(薬師寺長忠)・与利丹後守・矢倉・香西又六(元長)・同真珠院・美濃(三野)五郎太郎・香西宗次郎か弟・香川(満景)・安富(元顕)など三十人あまりが討ち取られた。
  そして、嵐山城は焼き払らわれた。
  
  日記などの一次資料はシンプルです。それが、後に尾ひれが付いて、周りの情景も描き込まれて物語り風になっていきます。当然、その分だけ分量も多くなります。

嵐山城は香西元長が築いた山城です。
場所は観光名所の桂川を見下ろす嵐山山頂にあります。渡月橋からは西山トレイルが整備されていて、嵐山城址まで迷うことなくたどり着くことができます。山道をひたすら登っていくと、城址最南端に穿たれた堀切が現われ、 そのすぐ上の小山が城址最南端の曲輪で、城址はそこから北方の尾根全体に展開しているようです。


「細川大心院記」永正四年八月一日条で、讃岐内衆の最後を見ておきましょう。
サテ八月朔日卯ノ刻二澄之ノ居所遊初軒ヘハ淡路守尚春ヲ大将トシテ大勢ニテ押寄ル。香西又六(元長) ハ私宅二火ヲ欠テ薬師寺三郎左衛門 (長忠)力宿所二馳加ル。同香川。安富モ一所ニソ集リケル。
(中略)安富ハ落行ケルヲヤカテ道ニテソ討レケル。トテモ捨ル命ヲ一所ニテ死タラハイカニヨカリナン。サレハスゝメトモ死セス退ケトモ不助卜申侍レハイカニモ思慮可有ハ兵ノ道ナルヘシトソ京童申ケル。
  意訳変換しておくと
8月1日卯ノ刻に澄之の居所遊初軒へ淡路守尚春を大将として大軍が押し寄せた。香西又六(元長)は、私宅に火をつけて、薬師寺三郎左衛門 (長忠)の宿所に合流した。また讃岐の香川・安富も同所に集結して防戦した。
(中略)安富は落ちのびていく道筋で討たれた。トテモ捨ル命ヲ一所ニテ死タラハイカニヨカリナン。サレハスゝメトモ死セス退ケトモ不助卜申侍レハイカニモ思慮可有ハ兵ノ道ナルヘシトソ京童申ケル。
細川政元暗殺後、その首謀者の一人であった香西元長は、細川高国らによって討ち取られ、その居城である嵐山城は陥落した。
細川澄之と讃岐内衆が討ち取られた後のことを史料は、次のように記します。

 京都は先ず静謐のように成り、細川澄元は近江国甲賀より上洛された。そして京都の成敗は、万事三好(之長)に任された。これによって、以前は澄元方であるとして方々に闕所(領地没収)、検断(追補)され、逐電に及んだ者多かったが、今は(香西らが擁立した細川)澄之方であるとして、地下、在家、寺庵に至るまで、辛い目に遭っている。科のある者も、罪のない者も、どうにも成らないのがただこの頃の反復である。

両度の取り合いによって、善畠院、上野治部少輔、故安富筑後守、故薬師寺備前守、同三郎左衛門尉、香西又六(元長)、同孫六、秋庭、安富、香河(川)たちの私宅等を始めとして、或いは焼失し、或いは毀し取って広野のように見え、その荒れ果てた有様は、ただ枯蘇城のうてな(高殿)、咸陽宮の滅びし昔の夢にも、かくやと思われるばかりであった。
そして諸道も廃れ果て、理非ということも弁えず、政道も無く、上下迷乱する有様は、いったいどのように成りゆく世の中かと、嘆かぬ人も居なかった。
以前は、香西又六が嵐山城の堀を掘る人夫として、山城国中に人夫役をかけたが、今は細川澄元屋形の堀を掘るとして、九重の内に夫役をかけ、三好之長も私宅の堀を掘る人夫として、辺土洛外に人夫役をかけ堀を掘った。

城を都の内に拵えるというのは、静謐の世に却って乱世を招くに似ており、いかなる者がやったのか、落書が書かれた

きこしめせ 弥々乱を おこし米 又はほりほり 又はほりほり
京中は 此程よりも あふりこふ 今日もほりほり 明日もほりほり
さりとては 嵐の山をみよしとの ひらにほりをは ほらすともあれ

この返事と思しいもので

 なからへて 三好を忍世なりせは 命いきても何かはせん
 何とへか 是ほど米のやすき世に あはのみよしをひたささるらん
 花さかり 今は三好と思ふとも はては嵐の風やちらさん

この他色々の落書が多いと雖も、なかなか書き尽くすことは出来ない。
細川政元暗殺クーデターを起こした讃岐内衆は、阿波の三好氏の担ぐ細川澄元の反撃を受けて、嵐山の麓で敗死したようです。嵐山が讃岐内衆の墓場となりました。そして、このような激動は讃岐や阿波へも波及していきます。
 まず、棟梁を失った香川・香西・安富氏などでは相続を巡って讃岐で一族間の抗争が起こったことが考えられます。また、阿波三好氏は、この機会に讃岐への侵攻を進めようとします。そして、半世紀後には、讃岐の大半は三好氏の配下に置かれることになります。永世の錯乱は、讃岐にとっても戦国乱世への入口の扉をあけてしまう結果を招いたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 田中健二     京兆家内衆・讃岐守守護代安富元家についての再考察 
香川県立文書館紀要 第25号(2022)
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『南海治乱記』巻之十七「老父夜話記」に、次のような記事があります。
又香西備前守一家・三谷伊豆守一家ハ雲州へ行ク。各大身ノ由聞ル。香西縫殿助ハ池田輝政へ行、三千石賜ル。

意訳変換しておくと
又①香西備前守一家と三谷伊豆守一家は、雲州(出雲)へ行ってそれぞれ大身となっていると聞く。また②香西縫殿助は、備中岡山の池田輝政に仕え、三千石を賜っている。

ここには天正年間の騒乱の中で滅亡した香西氏の一族が、近世の大名家に仕えていたことが記されています。今回は、戦国時代末期に讃岐を離れて近世大名家に仕官した香西氏の一族を見ていくことにします。テキストは、「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」です。
香西記

①の香西備前守については『香西記』五「香西氏略系譜」にも次のように載せられています。

出雲藩の香西氏系図
香西氏略系譜(香西記五)
内容は『南海治乱記』と同様の記事です。同書には、清長(香西備前守)と清正(六郎大夫)の父子は、天正六年(1578)、土佐の長宗我部元親軍が阿波国の川島合戦(重清城攻防戦)で、三好存保方として討死したと記されています。
 残された一族が出雲へ赴むき、その子孫は、出雲松江藩松平家の家臣となり幕末まで続いたというのです。その系譜について調査報告しているのが、桃裕行「松江藩香西(孫八郎)家文書について」です。その報告書を見ていくことにします。
松江藩士の香西氏の祖は、香西太郎右衛門正安になるようです。
彼が最初に仕えたのは、出雲ではなく越前国福井藩の結城秀康でした。どうして、出雲でなく越前なのでしょうか?

福井県文書館平成22年2月月替展示
「藩士先祖記」(福井県立図書館松平文庫)
「藩士先祖記」に記された内容を、研究者は次のように報告します。
香西太郎右衛門(正安)諄本不知  本国讃岐
(結城)秀康侯御代於結城被召出。年号不知。慶長五年御朱印在之。
香西加兵衛 (正之)諄不知 生国越前。
忠昌公御代寛永十三丙子年家督被下。太郎右衛門(正安)康父ハ香西備前守(姓源)卜申候而讃岐国香西卜申所ノ城主ノ由申伝候。其前之儀不相知候。
意訳変換しておくと
香西太郎右衛門(正安)は、(結城)秀康侯の時に召し抱えられたが、その年号は分からない。慶長五年の朱印がある。
香西加兵衛 (正之)は越前生まれで、忠昌公の御代の寛永13(1636)年に家督を継いだ。父の太郎右衛門(正安)は香西備前守(姓源)と云い、讃岐の香西の城主であったと伝えられている。その前のことは分からない。

ここには太郎右衛門(正安)の父は、香西備前守で「讃岐国香西と申す所の城主」であったと記されています。松江藩には数家の香西姓を持つ藩士がいたようです。
その中の孫八郎家の七代亀文が明治元年のころに先祖調べを行っています。それが「系図附伝」で、太郎右衛門正安のことが次のように記されています。
 正安の姉(松光院)が三谷出雲守長基に嫁した。その娘(月照院)が結城秀康に召されて松江藩祖直政を生んだ。そのような関係で三谷出雲守長基も、後には松江藩家老となる。大坂の陣では、香西正安・正之父子は秀康の長子忠直の命と月照院の委嘱によって、直政の初陣に付き添い戦功を挙げた。

 ここに登場する結城(松平)秀康(ひでやす)は、徳川家康の次男で、2代将軍秀忠の兄になる人物です。一時は、秀吉の養子となり羽柴秀康名のったこともありますが、関ヶ原の戦い後に松平姓に戻って、越前福井藩初代藩主となる人物です。

『香西記』の「香西氏略系譜」では、備前守清長の娘が「三谷出雲守妻」となり、その娘(月照院)が結城(松平)秀康の三男を産んだようです。整理すると次のようになります。
①清長は、香西備前守で「讃岐国香西と申す所の城主」であった
②清長・清正の父子は、三好氏に従軍し、阿波川島合戦で戦死した。
③正安の姉(松光院)が三谷出雲守長基に嫁して、娘(月照院)を産んだ。
④娘(月照院)は、秀吉政権の五人老の一人宇喜多秀家の娘が結城秀康に嫁いだ際に付人として福井に行った。
⑥その後、結城秀康に見初められて側室となって、後継者となる直政や、毛利秀就正室(喜佐姫)を産んだ。
⑦その縁で三谷・香西両氏は、松江藩松平家に仕えるようになった。

松江藩松平家の4代目藩主となった直政は、祖父が秀吉と家康で、母月照院は香西氏と三谷氏出身と云うことになります。月照院については、14歳で初陣となる直政の大坂夏の陣の出陣の際に、次のように励ましたと伝えられます。
「栴檀は双葉より芳し、戦陣にて勇無きは孝にあらざる也」

そして、自ら直政の甲冑
下の着衣を縫い、馬験も縫って、それにたらいを伏せ墨で丸を描き、急場の験として与えたと伝えられます。
   松平直政が生母月照院の菩提を弔うため月照寺を創建します。これが松江藩主松平家の菩提寺となり、初代直政から九代斎貴までの墓があります。そこに月照院も眠っています。

月照寺(島根県松江市) 松江藩主菩提所|和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
月照院の墓(松江市月照寺)

「雲州香西系図」には、太郎右衛門の子工之・景頼兄弟の子孫も松江藩松平家に仕えており、越前松平家から移ってきたことが裏付けられます。  殿様に見初められ側室となって、男子を産んだ姉の「大手柄」で出雲の香西家は幕末まで続いたようです。

松平直政 出雲初代藩主


今度は最初に見た「池田輝政へ行き、三千石賜」わったと記される「香西縫殿助」を見ておきましょう。
備前岡山藩池田家領の古文書を編さんしたものが『黄薇古簡集』です。
岡山県の中世文書
              黄薇古簡集
その「第五 城府 香西五郎右衛門所蔵」文書中に、1583(天正11)年7月26日の「香西又一郎に百石を宛がった三好信吉(羽柴秀次)知行宛行状」があります。
ここに出てくる香西又一郎とは、何者なのでしょうか?
香西五郎右衛門の系譜を、研究者は次のように復元しています
香西主計
 讃岐香西郡に居城あり。牢人して尾張へ移る。池田恒興の妻の父で、輝政の外祖父荒尾美作守善次に仕える。八七歳で病死。
縫殿介 
主計の惣領。池田勝入斎(恒興)に仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦で討死。又市の兄
又市 (又一郎)
五郎右衛門の親。主計の次男。尾張国知多郡本田庄生まれ。池田勝入斎に仕え、池田輝政の家老伊木長兵衛の寄子であった。天正9年(1581)、摂津国伊丹において50石拝領。勝入の娘若御前と羽柴秀次の婚礼に際し、御興副に遣わされる。天正11年に50石加増され、摂津国で都合100石を拝領。天正12年4月8日、小牧長久手の戦いに秀次方として戦う。翌日、藩主池田勝入とともに討死。三八歳。
五郎右衛門  
父・又市の討死により秀次に召し出され、知行100石を安堵。天正13年、近江八幡山で秀次より百石加増され200石を拝領。文禄四年(1595)7月の秀次切腹後、 11月に伏見において輝政に召し出された。当年50歳。

ここには又市の父香西主計について、「讃岐香西郡に居城あり。牢入して尾張へ移」り、池田恒興の妻の父荒尾善次に仕えたとあります。香西主計の長男・縫殿介は、池田恒興に仕え、1570年の姉川の戦いで討死しています。次男の又市は恒興女子と三好信吉(のちの羽柴秀次)との婚儀に際し御輿副として遣わされ、秀次に仕えます。天正13年に加増されたときの知行宛行状も収められています。又市は、文禄四年の羽柴秀次の切腹後は、池田家に戻り輝政に仕えました。その子孫は池田家が備前に移封になったので、備前岡山藩士となったことが分かります。
  『南海通記』・『南海治乱記』に載せられた「香西縫殿助」を見ておきましょう。
こちらには「香西縫殿助」は、香西佳清の侍大将で天正14年の豊後戸次川の合戦に加わったと記されるのみです。『南海通記』などからは香西縫殿助がどのようにして、池田家に仕官したかは分かりません。これは香西主計の長男縫殿介と戸次川で戦死した「香西縫殿助」を南海通記は混同したものと研究者は考えています。 ここにも南海通記の資料取扱のあやふやさが出ているようです。
 香西氏については、讃岐の近世史料にはその子孫の痕跡が余り出てきません。しかし、近世大名に仕官し、藩士として存続した子孫もいたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」
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永世の錯乱2
永世の錯乱と細川氏の抗争

1493(明応2)年4月、細川政元は対立していた将軍足利義材を追放して足利義澄を新たに将軍職に就けます。こうして政元は、幕府の実権を握ります。政元は「天狗信者」で、天狗になるための修行を行う修験者でもあり、女人を寄せ付けませんでしたから、実子がいません。そのため前関白九条政基の子を養子とし澄之と名付けました。ところがその上に阿波守護細川成之の孫も養子として迎えて澄元と名付けます。こうして3人の養子が登場することになります。当然、後継者争いを招くことになります。これが「永正の錯乱」の発端です。
 ①1507(永正4)年6月23日、管領細川政元は被官の竹田孫七・福井四郎らに殺害されます。これは摂津守護代の薬師寺長忠と山城守護代香西又六元長が謀ったもので、主君政元と澄元を排除し、澄之(前関白九条政基子)を京兆家の家督相続者として権勢を握ろうとしたものでした。
 ②政元を亡き者にした香西元長らは、翌日には京兆家の内衆とともに細川澄元(阿波守護細川慈雲院孫)を襲撃します。家督争いの元凶となる澄元も亡き者にしようとしたようです。しかし、澄元の補佐役であった三好之長が、澄元を近江の甲賀に落ち延びさせます。この機転により、澄元は生きながらえます。こうして、武力で澄元を追放した澄之が、政元の後継者として管領細川氏の家督を継ぐことになります。この仕掛け人は、香西元長だったようです。このときの合戦で、元長は弟元秋・元能を戦死させています。
 一方、近江に落ち延びていた細川澄元と三好之長も、反攻の機会をうかがっていました。
 ③三好之長は、政元のもう一人の養子であった細川高国の支援を受け、8月1日、細川典厩家の政賢・野州家の高国・淡路守護細川尚春ら細川一門に澄之の邸宅を急襲させます。この結果、細川澄之は自害、香西元長は討死します。これを『不問物語』は、次のように記します。
「カクテ嵐ノ山ノ城ヘモ郷民トモアマタ取カケヽル間、城ノ大将二入置たる香西藤六・原兵庫助氏明討死スル上ハ、嵐ノ山ノ城モ落居シケリ。」

『後法成寺関白記』7月29日条には、次のように記します。
「香西又六(元長)嵐山の城、西岡衆責むるの由その沙汰」

とあることからも裏付けられます。この戦いで讃岐両守護代の香川満景・安富元治も澄之方として討死にしています。この戦いは、「細川四天王」と呼ばれた讃岐武士団の墓場となったとも云えます。この結果、香川氏なども本家が滅亡し、讃岐在国の庶家に家督が引き継がれるなど、その後の混乱が発生したことが考えられます。
永世の錯乱 対立構図

政元暗殺から2ヶ月足らずで、香西元長は澄之とともに討たれてしまいます。
 勝利者として8月2日には、近江に落ちのびていた澄元が上洛します。そして将軍・足利義澄から家督相続を認められたうえ、摂津・丹波・讃岐・土佐の守護職を与えられています。自体は急変していきます。こうして、将軍義澄を奉じる細川澄元が幕府の実権を握ることになります。しかし、それも長くは続きません。あらたな要素がここに登場することになります。それが細川政元によって追放されていた第10代の前将軍・足利義材(当時は義尹)です。彼は周防の大内義興の支援を得て、この機会に復職を図ろうとします④④この動きに、澄元と対立しつつあった細川高国が同調します。高国は和泉守護細川政春の子でしたので、和泉・摂津の国人の多くも高国に味方します。こうして細川澄元と高国の対峙が続きます。

 このような中で、1508(永正5)年4月、足利義材が和泉の堺に上陸して入京を果たします。
足利義材が身を寄せた放生津に存在した亡命政権~「流れ公方」と呼ばれた室町幕府10代将軍 - まっぷるトラベルガイド

このような状況にいちはやく反応したのが京の細川高国でした。
高国は義稙の上洛軍を迎え、義稙を将軍職に復位させ、自らは管領になります。細川澄元・三好之長らの勢力を押さえ込むことに成功しま 
 す。見事な立ち回りぶりです。不利を悟った将軍の足利義澄と管領の細川澄元は、六角高頼を頼って近江に落ち延びていきます。こうして、義材が将軍に復職し、高国が管領細川氏を継ぐことになります。永世の錯乱の勝利者となったのは、この二人だったことを押さえておきます。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四国統一

 このような京での権力闘争は讃岐にも波及します。
 京では讃岐の香西氏と阿波の三好が対立していました。それが讃岐にも影響してきます。阿波の三好氏は、東讃の十河氏や植田一族を配下に入れて、讃岐への侵攻を開始します。こうして讃岐国内では、阿波の細川・三好の後押しを得た勢力と、後盾を持たない香西・寒川氏らの勢力が対峙することになります。そして次第に、香西氏らは劣勢となっていきます。

大内義興の上洛

 そのような中で大きな動きが起きます。それが大内義興に担がれた将軍義稙の上洛軍の瀬戸内海進軍です。
この上洛のために大内氏は、村上水軍や塩飽などを含め、中国筋、瀬戸内の有力な諸氏に参陣を呼びかけます。これに対して讃岐では、香川や香西らの諸将がこれに応じます。香西氏は、仁尾の浦代官や塩飽を支配下に置いて、細川氏の備讃瀬戸制海権確保に貢献していたことは以前にお話ししました。これらが大内氏の瀬戸内海制海権制圧に加わったことになります。こうして、瀬戸内海沿岸は、大友氏によって一時的に押さえられることになります。
  南海通記は、上香西氏が細川氏の内紛に巻き込まれているとき、下香西元綱の家督をうけた元定は、大内義興に属したこと。そして塩飽水軍を把握して、1531(享禄四)年には朝鮮に船を出し交易を行い利益を得て、下香西氏の全盛期を築いたとします。

しかし、香西氏の栄光もつかの間でした。細川澄元の子・晴元の登場によって、細川家の抗争が再燃します。

細川晴元の動き 

1531(亨禄四)年、高国は晴元に敗れて敗死し、晴元が管領となります。晴元の下で阿波の三好元長は力を増し、そして、三好氏と深く結びついた十河氏が讃岐を平定し、香西氏もその支配を受けるようになります。この時点で阿波三好氏は、讃岐東部を支配下に起きたことを押さえておきます。

ここで少し時代をもどって、 永世の錯乱の原因を作った香西元長と讃岐の関係を示す史料を見ておきましょう。
 元長が細川一門に攻められて討死する際の次の史料を研究者は紹介します。
① 『細川大心院記』同年八月一日条
「又六(元長)カ与力二讃岐国住人前田弥四郎卜云者」がいて、元長に代わり彼の具足を着けて討死したこと
ここからは、前田弥四郎が元長の身代わりになって逃がそうとしたことがうかがえます。前田弥四郎とは何者なのでしょうか?
前田氏は「京兆家被官前田」として、次の史料にも出てきました。
②『建内記』文安元年(1444)6月10日条。
香西氏の子と前田氏の子(15歳)が囲碁をしていた。その時に、細川勝元(13歳)が香西氏に助言したのを、前田氏の子が恨んで勝元に切りかかり、返り討ちにあった。このとき、前田氏の父は四国にいたが、親類に預け置かれた後に、一族の沙汰として切腹させられた。そのため、前田一党に害が及ぶことはなかった。
この話からは次のようなことが分かります。
①細川勝元の「ご学友=近習」として、香西氏や前田氏の子供が細川家に仕えていたこと
②前田家の本拠は四国(讃岐?)あり前田一党を形成していたこと。

ここからは、京の細川家に仕えていた香西の子と前田の子は、成人すればそれぞれの家を担っていく者たちだったのでしょう。主家の細川惣領家に幼少時から仕えることで、主従関係を強固なものにしようとしたと研究者は考えています。
 そして「香西元長に代わり、彼の具足を着けて討死した讃岐国住人前田弥四郎」は、京兆家被官で元長の寄子となっていたと研究者は推測します。このような寄子を在京の香西家(上香西)は、数多く抱えていたようです。それが「犬追物」の際には、300人という数を京で動員できたことにつながるようです。

もうひとり香西元長に仕えていた一族が出てきます。
『細川大心院記』・『瓦林正頼記』に、元長邸から打って出て、元長とともに討死した中に「三野五郎太郎」がいたと記します。
『多聞院日記』にも、討死者の一人に「美濃五郎太郎」が挙げられています。これは同一人物のようです。三野氏については以前に「三野氏文書」を紹介したときにお話ししました。源平合戦の際には、平家方を見限っていち早く頼朝側について御家人となって、讃岐における地盤を固めた綾氏の一族とされます。後には西方守護代香川氏の被官し、家老職級として活動します。生駒藩でも5000石の重臣として取り立てられ、活発に荒地開発を行った一族です。三野氏も、香西氏の寄子となっていた一族がいたようです。

古代讃岐の郡と郷NO2 香川郡と阿野郡は中世にふたつに分割された : 瀬戸の島から
『南海通記』に出てくる「綾(阿野)北条郡」を見ておきましょう。
『南海通記』巻之十九 四国乱後記の「綾北条民部少輔伝」
香西備中守(元継)丹波篠山ノ領地閥所卜成り、讃州綾ノ北条ハ香西本家ヨリ頒チ遣タル地ナレ共、開所ノ地卜称シテ官領(細川)澄元ヨリ香川民部少輔二賜ル。是京都ニテ香西備中守二与セスシテ、澄元上洛ヲ待付タル故二恩賞二給フ也。是ヨリシテ三世西ノ庄ノ城ヲ相保ツ。
意訳変換しておくと
香西備中守(元継=元長?)の(敗死)によって丹波篠山の領地が閥所となった。もともとこの領地は、讃州綾北条郡の香西本家から分かち与えられた土地で、先祖伝来の開所地であった。それを官領(細川)澄元は、京都の香西備中守に与えずに、香川民部少輔(讃岐守護代)に与えた。澄元が上洛したときに恩賞として貰った。以後、三世は西ノ庄城を確保した。

 ここからは「元継」は京兆家の家督争いにおいて、澄之に忠義を尽くしたため、澄元方に滅ばされ、その所領の「讃州綾ノ北条」は閥所(没収地)となったこと。そして澄元から、元継に味方しなかった香川民部少輔に与えられたというのです。
  この内容から南海通記の「元綱」が史料に登場する又六元長と重なる人物であることが分かります。
香西氏系図 南海通記.2JPG
南海通記の「讃州藤家系図」
『南海通記』の「讃州藤家系図」には、②元直の子として「元継」注記に、次のように記します。
備中守 幼名又六 細川政元遭害而後補佐於養子澄之。嵐山ニ戦死

この注記の内容は、香西元長のことです。しかし、元長ではなく「元綱」「備中守」と記します。元長の名乗りは、今までの史料で見てきたように終始、又六でした。備中守の受領名を名乗ったことはありません。南海通記の作者は、細川政元を暗殺したのが「又六元長」であることを知る史料を持っていなかったことがうかがえます。そして「元綱」としています。ここでも南海通記のあやふやさが見えます。

今度は『香西記』の香西氏略系譜で、又六元長を特定してみましょう。
香西氏系図 香西史
香西記の香西氏略系譜
南海通記や香西記は、細川四天王のひとりとされる①香西元資の息子達を上・下香西家の始祖とします。

香西元直
②の元直の系図注記には、次のように記します。
「備後守在京 本領讃州綾北条郡 於丹波也。加賜食邑在京 曰く上香西。属細川勝元・政元、為軍功」

意訳変換しておくと
元直は備後守で在京していた。本領は讃州綾北条郡と丹波にあった。加えて在京中に領地を増やした。そのため上香西と呼ばれる。細川勝元や政元に仕え軍功を挙げた。

次の元直の息子③元継の注記には、次のように記します。

香西元継

「又六後号備中守 本領讃州綾北条郡 補佐細川澄之而後、嵐山合戦死。断絶也」

意訳変換しておくと
「又六(元長)は、後に備中守を号した。本領は讃州綾北条郡にあった。細川澄之を補佐した後は、嵐山合戦で戦死した。ここに上香西家は断絶した」

ここからは香西記系図でも③元継が元長、④直親(次郎孫六)が元秋に当たることになります。『細川両家記』・『細川大心院記』には、元長の弟・元秋は永正4年6月24日、京都百々橋において澄元方と戦い討死としているので、これを裏付けます。
 この系図注記には、綾北条郡は在京して上香西と呼ばれたという②元直から③元継が相伝した本領とあります。そして上香西は、元継(元長)・直親(元秋)の代で断絶しています。
また、下香西と呼ばれた元直の弟⑤元顕は、注記には左近将監元綱と名乗ったとされ、綾南条・香東・香西三郡を領有したと記されています。

南海通記の 「上香西・下香西」のその後を見ておきましょう。
元長・元秋兄弟が討死したことで、上香西氏は「断絶也」と記されていました。元長討死の後、次のような史料があります。
1507(永正四)年12月8日に、「香西残党」都において土一揆を起こしたこと、
1508年2月2日には、澄元方から「香西牢人」を捕縛するよう祇園社執行が命じられいること。
ここからは、香西浪人たちの動きがしばらくの間は、残っていたことがうかがえます。
それでは、讃岐在住とされる「下香西」は、どうなったのでしょうか
南海通記や香西史は、下香西は⑤香西元顕(綱)が継いだと注記されています。そして『南海通記』巻之六 讃州諸将帰服大内義興記に、次のように記されています。

永正四年八月、京都二於テ細川澄之家臣香西備中守元継忠死ヲ遂ゲ、細川澄元家臣三好筑前守長輝(之長)等京都二横行スト聞ヘケレハ、大内義興印チ前将軍義材公ノ執事トシテ中国。九国ニフレテ与カノ者ヲ描ク。讃州香西左近持監元綱・其子豊前守元定二慇懃ノ書ヲ贈リテ義材公ノ御帰洛二従ハシム。

  意訳変換しておくと
1507(永正四)年8月、京都で細川澄之の家臣香西備中守元継は忠死を遂げた。細川澄元の家臣三好筑前守長輝(之長)等など阿波三好勢力が京都の支配権を手にした。これに対し、大内義興は前将軍の義材公の執事として中国・九州の有力者に触れ回り結集を呼びかけた。讃州の香西左近持監⑤元綱(顕)・その子の豊前守⑥元定にも助力要請の文書がまわってきたので、それを受けて前将軍義材公の御帰洛に従った。

 先ほど見たように細川高国は、前将軍足利義材を擁する周防の大内義興と連携し、将軍足利義澄に対し謀叛を起こします。これに対して叶わずとみた義澄と家臣の三好之長は8月9日、近江坂本へ落ちのびています。その翌日に、高国は軍勢を率いて入京します。8月24日には義材を奉じて大内義興が和泉堺へやってきます。この史料にあるように、大内義興が香西元綱を味方に誘ったというのが事実であるとすれば、このときのことだと研究者は推測します。

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「天文日記」は、本願寺第十世證如の19年間の日記です。
證如21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けたものです。その中に、福善寺という讃岐の真宗寺院のことが記されています。 
『天文日記』天文十二年
①五月十日 就当番之儀、讃岐国福善寺以上洛之次、今一番計動之、非何後儀、樽持参
②七月二十二日 従讃岐香西神五郎、初府致音信也。使渡辺善門跡水仕子也。
①には「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあります。福善寺は高松市にありますが、この時期に本願寺へ樽を持参していたことが記されています。ここからは16世紀半ばに、本願寺の真宗末寺が髙松にはあったことが分かります。
②には7月22日「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」とあります。
これは、香西神五郎が初めて本願寺を訪れたようです。香西氏の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたことがうかがえます。後の史料では、香西神五郎は本願寺に太刀を奉納しています。香西氏一族の中には、真宗信者になって本願寺と結びつきを深めていく者がいたことを押さえておきます。  このように「天文日記」には、讃岐の香西氏が散見します。
1547(天文16)年2月13日条には、摂津国三宅城を攻めた三好長慶方の軍勢の一人として香西与四郎元成の名前があります。ここからは、天文年間になっても畿内と讃岐に香西氏がいたことが分かります。永世の錯乱後に上香西氏とされる元長・元秋の系譜は断絶しますが、その後も香西氏は阿波の三好長慶の傘下に入り、畿内での軍事行動に従軍していたようです。

室町時代から戦国時代初めにかけて、香西氏には豊前守・豊前入道を名乗る系統と五郎左(右)衛門尉を名乗る系統との二つの流れが史料から分かります。また、それを裏付けるように、『蔭凍軒日録』の1491(延徳三)年8月14日条に「両香西」の表現があること。そして、「両香西」は、香西五郎左衛門尉と同又六元長を指すことを以前にお話ししました。この二人は京兆家との関係では同格であり、別家であったようです。
 史料に出てくる香西五郎左衛門を挙げると次のようになります。。
①「松下集」に見える藤五郎藤原元綱
②政元に仕えていた孫五郎
③元継・高国の挙兵に加わった孫五郎国忠
④本太合戦で討死する又五郎
ここからは「五郎左(右)衛」の名乗りは「五郎 + 官途名」であることがうかがえます。そうすると「天文日記」に現れる五郎左衛門は、名乗りからみて五郎左(右)衛門系の香西氏と推察できます。
もう一つ豊前守系香西氏の系譜を、研究者は次のように推測します。
又六元長
元長死後にその名跡を継いだ与四郎(四郎左衛門尉)元盛
柳本賢治の(甥)
その縁者とみられる与四郎(越後守)元成
ちなみにウキには、下香西家について次のように記しています。

天文21年(1552年)、晴元の従妹・細川持隆(阿波守護)が三好長慶の弟・三好実休に討たれると、元定の子・香西元成は実休に従い、河野氏と結び反旗を翻した香川之景と実休との和睦を纏めている(善通寺合戦)。

以上からは香西家には、2つの系譜があったことはうかがえます。しかし、それを在京していた勢力、讃岐にあった勢力という風には分けることはできないようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」
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 前回は、香西五郎左衛門と香西又六(元長)が「両香西」と呼ばれるほど親密で、彼らが内衆として細川政元を支えていたこと、そのような中で香西五郎左衛門は、1492(延徳四)年に備中の戦いで討ち死にしたことを見ました。今回は、残された香西又(孫)六元長を、見ていくことにします。

香西又六(元長)の出てくる資料を時代順に並べて見ていきます。
34 1489(長享3)年正月20日
  細川政元、犬追物を行う。香西又六(元長)・牟礼次郎ら参加する。(「小野均氏所蔵文書」『大日本史料』 第八編之二十八、198P)

香西又六(元長)が細川政元に仕え始めたことが分かるのは資料34です。そして、この年の夏以後、香西又六の名前が以下のように頻繁に出てくるようになります。
35 1489年7月3日
細川政国、飛鳥井雅親・細川政元ら罫に五山の僧侶と山城国禅晶院において詩歌会を行う。香西又六・牟礼次郎ら参加する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻437P)

36 1489年長享三年8月12日
明日の細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。(「蔭涼軒日録」同前、三巻470頁) 
「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」
  意訳変換しておくと 
例の如く蔭凍軒主のもとを訪れた塗師の花田源左衛門の話が細川京兆家の政元に及んだ。13日の犬追物では、香西党ははなはだ多数であり、伝えられるところでは、(香西氏が属する)讃岐藤原氏は七千人ほどもいて、他の武士団は動員力でこれには適わない。牟礼・鴨井・行吉なども香西と同族の者である。現在、京都に集まつている香西一族は300人を越えるのではないかという。
 
都に300人を集めての「犬追物」は、軍事的示威行動でもあります。ここからは「香西一党」は、在京武士団の中では有力な存在だったことがうかがえます。
また「牟礼・鴨井・行吉なども香西と同族の者」とあります。以下の史料で、又六とコンビで登場してくるのが牟礼次郎です。彼も香西一族の一員で、香西氏の最も信頼できる一族だったようです。

笑哭!我身後真的不是桌球拍!不懂別瞎說- 每日頭條
見聞諸家紋
応仁の乱の最中に成立していたとされる『見聞諸家紋』(『東山殿御家紋帳』)は、武将達の家紋集です。
この中に「讃岐藤家左留霊公(讃留霊王=神櫛王)之孫」として、大野・香西・羽床・福家・新居・飯田などの讃岐藤原氏の家紋が集められています。どれも三階松を基調にしたものです。
香西氏 家紋の写真素材 - PIXTA

香西氏については、香西越後守元正の名が見え、三階松並根篠を家紋としています。本書は、当時の応仁の乱に参軍した細川勝元方の武家諸家の家紋を収録したものです。ここからも香西氏が属する讃岐藤原氏が多数参戦していたこと、その指揮権を握っていたのが香西氏だったことがうかがえます。また、彼らは綾氏系図に示すように先祖を神櫛王とする一族意識を持っていたことも分かります。

史料36からは応仁の乱後の香西氏の隆盛が伝わってきます。
香西氏は東軍の総大将・細川勝元の内衆として活躍し、以後も細川家や三好家の上洛戦に協力し、畿内でも武功を挙げます。南海通記には「細川四天王」として、讃岐武士団の、香川元明、安富盛長、奈良元安と並んで「香西元資」を記します。しかし、史料に香西元資が現れるのは、応仁の乱以前です。
 また、この時期の細川政元の周辺には「香西又六・香西五郎左衛門尉・牟礼次郎」の3人の香西氏が常に従っていたことが以下の史料から分かります。

36 1489年8月13日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。(「蔭涼軒日録」同前、三巻471P、「犬追物手組」『大日本史料』第八編之二十八、194P)

この日に行われた政元主催の大追物にも、香西又六元長は香西五郎左衛門・牟礼次郎とともに射手の一人として加わっています。
 
細川政元の似顔絵
細川政元

39 1492(延徳4)年3月3日
細川政元、奥州へ赴く。香西又六(元長)・牟礼次郎・同弟新次郎・鴨井藤六ら十四騎が御供する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、四巻304P)

   政元は、天狗になるために天狗道(修験道)に凝って、「女人断ち」をしてさまざまな修行を行っていたと云われます。そのため日頃から修験者の姿だったといわれ、各地の行場に出かけています。この奥州行きも修行活動の一環かも知れないと私は想像しています。そうだとするお供達の元長や牟礼次郎兄弟なども修験姿だったのでしょうか? また、彼らも修験の心得があったのかもしれません。そんなことを想像すると面白くなってきます。どちらにしても「政元の行くところ、元長と牟礼次郎あり」という感じです。

41 1492年8月14日
将軍足利義材、来る27日を期して六角高頼討伐のため近江国に出陣することを決定する。細川政元は 26日に比叡の辻へ出陣。「両香西」(又六(元長)と五郎左衛門尉)ら8騎は留守衆として在京する。(「蔭涼軒日録」同前、四巻442P 

ここに「両香西」という表記が出てきます。これを南海通記に出てくる上香西と下香西と捉えたくなるのですが、どうもちがうようです。「両香西」の又六と五郎左衛門は、二人ともに在京していますが、本拠は、讃岐にあるようです。本家・分家の関係なのでしょうか?

43 1492(延徳四)年3月14日
細川政元、丹波国へ進発する。牟礼・高西(香西)又六ら少々を伴う。(『多聞院日記』五巻166P)

この時の丹波行には、又六は乙名衆ではなく「若者」衆と呼ばれるなど、若年で政元の近習としての役割を果たしています。
そうした中で、トリオの一人だった香川五郎左衛門が備中の戦いで戦死します。
44 1492年3月28日
  細川政元被官庄伊豆守元資、備中国において、同国守護細川上総介勝久と戦い敗北する。元資方の香西五郎左衛門尉戦死し、五郎左衛門尉に率いられた讃岐勢の大半も討ち死にした。
  
 45 1492年4月4日
細川政元、奈良・長谷へ参詣する。香西又六(元長)・牟礼兄弟ら六騎を伴う。(「大乗院寺社雑事記」『続史料大成』本、十巻153頁)

  1493(明応2)年4月、細川政元は将軍足利義材を廃し、義高(義澄)を擁立し、専制政権を樹立。

50 1493年6月18日
蔭涼軒主のもとを訪れた扇屋の羽田源左衛門がいつものように讃岐国の情勢を次のように語ります。
讃岐国は十三郡なり、六郡は香川これを領するなり、寄子衆亦皆小分限なり、しかりと雖も香川に与し能く相従う者なり、七郡は安富これを領す、国衆大分限の者惟れ多し、しかりと雖も香西党、首として皆各々三味し、安富に相従わざる者惟れ多きなり、小豆島亦安富これを管すと云々、(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、五巻369P 県史1062) 

ここには次のようなことが記されています。
①当時の讃岐は13郡であったこと
②西讃の6郡の守護代は香川氏で、国人領主達は小規模な「寄子衆」あるが香川氏によく従うこと
③東讃の7郡の守護代は安富氏であるが「国衆大分限」の領主が多く、まとまりがとれないこと。
つまり、西讃は小規模な国人領主である「寄子衆」が多く、香川氏との間に寄親―寄子の主従関係が結ばれていたようです。それに対して、東讃は大分限者(大規模な国人領主)が多く、香西党や十河・寒川氏等が独自の動きをして、安富氏の統率ができなくなっている、と云います。東讃の「国衆」は、西讃の「寄子衆」に比べて、独立指向が強かったようです。このような中で東讃で台頭していくのが香西氏です。
室町期の讃岐国は、2分割2守護代制で、西方守護代香川氏は、応仁の乱まで常時在国して讃岐西方の統治に専念していたようです。
応仁の乱後に上洛した守護代香川備中守は、京兆家評定衆の一員としてその重責を果たすとともに、讃岐には又守護代を置いて西讃の在地支配を発展させていきます。それに対して、東讃守護代の安富氏は、守護代就任当初から在京し、応仁の乱が始まると又守護代も上洛してしまいます。そのために讃岐での守護代家の勢力は、次第に減少・衰退していきます。
 そのような中で、香西氏は阿野・香川両郡を中心に勢力を築き、牟礼・鴨井両氏と同族関係を結び、国人領主として発展していきます。そして、京都ではその軍事力が注目され、京兆家の近臣的存在として細川氏一族の一般的家臣の中で抜きん出た力を保持するようになったようです。
 大内義興が上洛した頃の当主香西元定(元綱の子)は大内氏に属し、備讃瀬戸を中心とする塩飽水軍を配下に置いて、香西氏の全盛期を築いたと南海通記は記します。
このような中で1496(明応5年)には、香西氏の勧進で、東讃岐守護代の安富元家・元治などの近在の武士や僧侶・神官等を誘って、神谷神社で法楽連歌会を催します。それが「神谷神社法楽連歌」一巻として奉納されます。香西氏は、神谷神社やその背後の白峰寺などの在地寺社の僧侶・神官や在地武士の国人・土豪層を、神谷神社の法楽連歌会に結集して、讃岐国内における政治的・宗教的な人的ネットワークを形成しようとしたものと研究者は考えています。

53 1497年10月
  細川政元が山城国の北五郡(下郡)の守護代に又六元長を任命。
  政元政権において香西元長が頭角を現すようになるのは、このとき以後になります。どうして、又六が起用されたのでしょうか?
山城国は将軍家御料国で、守護は幕府政所頭人世襲家の伊勢氏で当時の守護は備中守貞陸でした。南山城では、守護方と京兆家被官の国衆との武力抗争が続いています。 一方では、前河内守護畠山尚順ら義材派による周辺地域の制圧も進んでいます。このような情勢の中で、政元は内衆の中で最も信頼の置ける香西元長を山城守護代に任命します。そして伊勢氏と協同することで山城国を固め、影響力の拡大を図ろうとしたようです。細川政元が又六元長に期待したのは、「香西一族の軍事力」だった研究者は考えています。

山城守護代としての元長の活動について、見ておきましょう。

1498年2月1日、元長は政元に、山城北五郡内の寺社本所領と在々所々の年貢公事五分一の徴収を提言して認めさせています。これは五分一済と呼ばれる守護の警固得分で、相応の礼銭を収めることで免除されました。1498年2月16日条には、「守護方又六寺領五分一違乱の事」につき、「涯分調法せし」め、「二千疋ばかりの一献料をもって、惣安堵の折紙申沙汰せしむべしと云々。」とあります。ここからは鎮守八幡宮供僧らは、元長に一献料を収めることで、安堵の折紙を得たことが分かります。
 1501(文亀元)年6月21日条には、元長による五分一済について「近年、守護方香西又六、当国寺社本所五分一拝領せしむと称し、毎年その礼銭過分に加増せしむる」とあります。ここからは、毎年免除を名目として礼銭を徴収していたことが分かります。

1500(明応9)年12月20日条には、次のようにあります。
城州守護香西又六、惣国の寺社本所領五分一、引き取るべきの由申すの間、連々すでに免除の儀、詫び事ありといえども、各々給入すでに宛がうの上は、免除の儀かなうべからざるの旨香西返答の間(以下略)

 ここからは又六元長は、寺社本所領についての五分一得分を、自分の給人に給付して勢力を強化していたことがうかがえます。また、東寺側は、元長を「城州守護香西又六」と「守護」と呼んでいます。

1504(永正元)年9月、摂津半国守護代薬師寺元一が、政元の養子阿波細川氏出身の澄元の擁立を図って謀叛を起こします。この時に元長は「近郷の土民」に半済を契約して動員し、「下京輩」には地子(地代)を免除して出陣し、元一方を攻め落としたとされます。これ以降、元長による半済の実施が強行されるようになります。
又六元長の3人の弟、孫六元秋・彦六元能、真珠院宗純を見ておきましょう。
『後法興院記』1495(明応4)年10月26日条には、弟の元秋は、兄・元長が山城守護代に任命されると、その翌月には兄とともに寺社領に立ち入り、五分一済の徴収を開始しています。身延文庫本『雑々私要抄』紙背文書からは、弟元秋が紀伊郡の郡代生夷景秀らの郡代と兄元長との間に立って、香西氏の家政を執っていたことがうかがえます。
 また、九条家文書には、元秋は九条家の申し出をうけ国家領についての半済停止の件を兄元長へ取りついでいます。さらに元能は九条家領山城国小塩庄の代官職を請け負っています。香西兄弟の九条家との関わりは、元長が政元のもう一人の養子九条政基の実子澄之方についていたことを反映していると研究者は考えています。
 ここからも山城の守護代として軍事財源を確保し、「手近に仕える暴力装置の指揮者」の役割を又六元長に期待していたことがうかがえます。

以上を整理しておきます。
①応仁の乱後、管領家を相続した細川政元は天狗道に邁進する変わった人物であった。
②細川政元を支えた家臣団に南海通記は「細川家四天王」と、讃岐の武士団を挙げいる。
③その中でも政元の近習として身近に仕えたのが香西一族の香西又六・香西五郎左衛門尉・牟礼次郎の3人であった。
④香西氏は応仁の乱以後も結束して動き、総動員数7000人、在京300人の軍事力を有していた。
⑤そのため細川政元は、腹心の香西一族の若衆である又六を山城守護代に登用し、軍事基盤を固めようとした。
⑥こうして細川政元の下で、香西氏は畿内において大きな影響力をもつようになり、政治的な発言権も高まった。
⑦その結果、細川氏の内紛に深く介入することになり、衰退への道を歩み始める。
再び家督争いをする細川家 着々と実権を握る三好家
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献

南海通記
南海通記目次
    南海通記に書かれた香西氏系譜は、残された史料に登場する香西氏の棟梁達とかみあわないことを見てきました。ここからは、南海通記に頼らない香西氏系譜を考えていくことが必要なようです。そのために研究者は、香西氏について触れている一次資料を探して、年代順に並べて家譜を作成すると地道な作業を続けて来ました。その中で明らかになってきたことの一つが、香西氏には2つの流れがあったことです。それを今回は見ていくことにします。テキストは、「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」です。  

15世紀半ばの香西氏の登場する史料を見ていきます。
18 嘉吉3年(1443)5月21日
 摂津国住吉郡堺北庄の領主香西之長が、内裏御厨子所率分の同庄警固得分五分一を本所に対し請け負う。得分の半分は本所万里少路家が、残り半分は関所の半分を請け負った細川持之の後家がそれぞれ負担する。なお、同年6月1日の持之後家阿茶于書状案に「かうさいの五郎ゑもん」と見える。
(「建内記」『大日本古記録』本、嘉吉三年八月九日条・香西五郎右衛門尉之長請文案6巻59P69P 
ここからは次のような事が分かります。
①香西之長が摂津の住吉郡北荘の領主(守護代?)をつとめていたこと。
②香西之長は「かうさいの五郎ゑもん(香西の五郎右衛門」とも称されていたこと。
今度は4年後の1447年の一連の文書を見てみましょう。
19 1447(文安4)年正月19日
興福寺大乗院門跡経覚、香西豊前入道に樽二荷等を贈る。
 (「経覚私要抄」『史料纂集』本、一巻一四四頁)
20 1447年閏2月16日
興福寺大乗院門跡経覚、香西五郎左衛門(之長)に樽一荷等を贈る。

史料19・20には、興福寺門跡経覚が、香西豊前入道と香西五郎左衛門(之長)に、贈答品を贈っていることが記されています。ここからは、ふたつの香西氏が京都にいたことが分かります。南海通記にも、香西氏は元資以降は、上香西氏と下香西氏の二つの流れに分かれたとありました。

史料20の5日後の文書になります
21 1447年2月21日  
香西五郎左衛門(之長)は、同門跡領越前国坪江郷を年貢65貫文で請け負う。(「経覚私要抄」同前一巻166P)
香西之長は、越前でも興福寺の荘園管理を請け負っていたようです。
もうひとりの香西氏である豊前入道を見ておきましょう。
 この年の5月21日に興福寺学侶衆徒が、坪江郷政所職を請け負いながら年貢を納めようとしない香西豊前入道を改易します。この豊前入道は誰なのでしょうか。時期からみて仁尾浦代官を務めていた香西豊前の出家後の呼び名と研究者は判断します。
香西氏系図 南海通記
南海通記の香西氏系図 史料と一致しない。
 ちなみに、丹波守護代を務めた①「香西元資」も香西豊前を名のっていたことは前々回に見たとおりです。
南海通記は「香西元資」を「細川家ノ四天王」として次のように記します。
享徳元年ヨリ細川右京大夫勝元ハ、畠山徳本に代リテ管領職を勤ルコト十三年ニ至ル、此時香川肥前守元明、香西備後守元資安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安四人ヲ以テ統領ノ臣トス、世人是ヲ細川家ノ四天王ト云フ也。
意訳変換しておくと
享徳元年から細川勝元は、畠山徳本を拠点に管領職を13年に渡って務めた。この時に。香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安の四人を統領の家臣団として重用した。そこで、世間では彼らを細川家の四天王と呼んだ。
 
 ここでは香西備後守元資として登場します。南海通記は、「香西元資は細川勝元より「元」字を与えられ備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得たこと」と記しますが、史料に現れる元資が丹波守護代を罷免された事実についても何も記しません。そして「丹波篠山城を得たのは、元資の息子②元直」とするのです。また「丹波守」ではなく「備後守」としています。
   以上からして、史料19・20の15世紀半ばに活躍する「香西豊前入道と香西五郎左衛門(之長)」は、細川家四天王の一人とされる香西元資の子弟達であったと研究者は判断します。

ところが讃岐の陶保をめぐってもうひとりの「元資」が登場します。

22 寛正2年(1461)2月9日
醍醐寺報恩院隆済、細川持之の弟右馬頭持賢に対し、被官人香西平五元資の寺領讃岐国阿野郡陶保の押領を訴える。同4年8月19日の報恩院雑掌申状案によれば、元資は持賢の斡旋により陶保の代官職を請け負っている。(「醍醐寺文書」『大日本古文書』醍醐寺文書6巻293P、同6巻290頁 県史547P)

23 寛正3年(1462)12月
  醍醐寺報恩院、再度、持賢に対し香西元資による陶保の押領を訴える。雑掌の申状案及び元資が持賢の被官秋庭・有岡両氏に宛てた9月27日付けの書状によれば、陶保代官職は元資の曾祖父香西豊前入道 → 香西豊前 →美濃守大几資と受け継がれている。
(「醍醐寺文書」『大日本古文書』醍醐寺文書6巻287) 県史549P
 ここからは、香西平五元資が陶保の代官職を持っていたが、醍醐寺より押領を細川家に訴えられていることが分かります。陶保代官職をめぐる本所の報恩院と代官の香西氏とのやり取りの中で、当事者の代官香西平五元資(幼名元氏)は、次のように述べています。

陶当保の代官職は、
①曾祖父・豊前入道から
②祖父の故豊前
③父美濃守と歴代請け負ってきた」

これを年代的に重ねて、次のように研究者は判断します。
①陶保代官の元資の曾祖父豊前入道は、常建(香西氏の内衆への道を開いた人物)
②祖父の故豊前は元資(常慶:「細川四天王」)
②の「常慶」は、元資の出家名とします。そして、元資以後の系譜を次のようにふたつに分かれたと推察します。  
  A 仁尾浦・坪江郷の代官を務めた豊前(豊前入道)
  B 陶保の代官を務めた美濃守
つまり、仁尾浦の浦代官と、陶保の代官は別の香西家だったというのです。
最初に見た五郎左(右)衛門尉を名乗る流れを見ておきましょう。

16 1441(嘉吉元)年10月
守護料所讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。(「仁尾賀茂神社文書」(県史116P)

17 1441年7月~同2年10月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門初見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114P)

 この史料で1441年10月に死去したとされる香西豊前の父が「丹波守護代の常建の子だった元資(常慶)」と研究者は判断します。香西氏のうち、この系統の当主は代々「豊前」を名乗っています。また、春日社領越前国坪江郷の政所職・醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保の代官職も請け負っています。
 一方の史料17には、「香西豊前」とともに「香西五郎左(右)衛門」が登場します。
「香西五郎左衛門」が始めて登場するのは、史料16・17の仁尾浦での騒動の時になるようです。香西五郎左衛門というもうひとつの香西氏の一族がいたことが裏付けられます。そして、香西之長も「かうさいの五郎ゑもん(香西の五郎右衛門」を名のっていてことは、最初に見たとおりです。

その後、1486(文明18)年11月27日以後の文書には、実名不明の香西五郎左衛門が次のように登場するようになります。

 28 1486(文明18)年11月27日
  細川九郎澄之、八条遍照院尭光の訴訟の事につき、香西五郎左衛門尉・清孫左衛門尉を両使として相国寺鹿苑院の蔭涼軒の軒主亀泉集証のもとへ遣わす。この件に関わって、五郎左衛門尉は翌月14・17両日も使者となっている。(「蔭涼軒日録」同前、2巻391・398・400P)

30 長享元年(1487)12月11日
細川政元、近江国鈎(曲)の陣へ参り、将軍足利義尚に謁する。香西五郎左衛門尉ら十五騎が、政元の伴衆を勤める。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻38P、「伊勢家書」『大日本史料』第八編之二十一、78P
31 長享2年(1488)6月24日
足利義政臨席のもとに、相国寺普黄院において故足利義教の斎会を行う。細川政元、門役を奉仕する。香西五郎左衛門尉、警護を勤める。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻193P)
32 同年10月23日
香西五郎左衛門尉、細川政元の使として、相国寺崇寿院領和泉国堺南荘の代官職の件を蔭涼軒主に伝える。(「蔭涼軒日録」同前。3巻269・230P)

33 同年12月13日                
香西五郎左衛門尉、細川政元の使として、真境和尚を鹿苑院後住に定める件につき蔭涼軒主の意向を尋ねる。同月17・24・27の各日条も同じ。(「蔭涼軒日録」同前、三巻293・296・301・304P)

実名不明の「香西五郎左衛門」が登場する史料をまとめると次のようになります。
29 細川澄之の使者
30 細川政元の伴衆
31 将軍足利義教の葬儀に出席する細川政元の警護役
32 細川政元の蔭涼軒主への使者
33 細川政元の蔭涼軒主への使者
ここからは細川政元の使者を務めたり、政元の伴衆に加わっていたことが分かります。「香西五郎左衛門」が内衆の一人だったことがうかがえます。
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また、別の史料には、政元主催の大追物には香西又六(元長)とともに射手を務めていることが次のように記されています。

34 1489(長享3)年正月20日
細川政元、犬追物を行う。香西又六(元長)・牟礼次郎ら参加する。(「小野均氏所蔵文書」『大日本史料』 第八編之二十八、198P)

35 1489年7月3日  
細川政国、飛鳥井雅親・細川政元ら罫に五山の僧侶と山城国禅晶院において詩歌会を行う。香西又六・牟礼次郎ら参加する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻437P)

35   1489年長享三年8月12日
 明日の細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。(「蔭涼軒日録」同前、三巻470頁) 
「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」

36 1489年8月13日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。(「蔭涼軒日録」同前、三巻471P、「犬追物手組」『大日本史料』第八編之二十八、194P)
以上からは五郎左衛門と元長は同時代人だったことも分かります。もうひとり、よく登場する牟礼次郎は、香西氏の一族で、親密な関係にあったことが分かります。彼らが内衆として細川政元を支えていたようです。
39 1491(延徳3)年3月3日
細川政元、奥州へ赴く。香西又六(元長)・牟礼次郎・同弟新次郎・鴨井藤六ら十四騎が御供する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、四巻304P)

細川政元は変わった所があって、天狗になろうとして修験道に熱中していたようです。この奥州行脚も修験修行だったのかもしれません。

『為広越後下向日記』には「京兆(政元)朝夕雑掌の儀、京都のごとく香西孫五郎基元継なり」とあります。ここからは次のことが分かります。
①孫五郎の実名は元継で、政元に近侍していたこと
②そうすると元忠と元継は父子だということ
 香西氏系図 南海通記

「両香西」と表記される史料を見ておきましょう。
41 1492年8月14日
将軍足利義材、来る27日を期して六角高頼討伐のため近江国に出陣することを決定する。細川政元は 26日に比叡の辻へ出陣。「両香西」ら8騎は留守衆として在京する。(「蔭涼軒日録」同前、四巻442P 

ここに「両香西」という表記が出てきます。これが香西又六(元長)と香西五郎左衛門尉になります。この「両香西」を南海通記に出てくる上香西と下香西と捉えたくなるのですが、どうもちがうようです。南海通記は「上香西が在京で、下香西が讃岐在住」と記します。しかし、史料には「両香西」の又六と五郎左衛門は、二人揃って在京していますが、本国は讃岐だったようです。
細川政元に仕えていた香西五郎左衛門の最後を見ておきましょう。
44 1492年3月28八日
  細川政元被官庄伊豆守(香西)元資、備中国において、同国守護細川上総介勝久と戦い敗北する。元資方の香西五郎左衛門尉戦死し、五郎左衛門尉に率いられた讃岐勢の大半も討ち死にした。
(細川勝久)備中のことにつき、広説ありていわく、去る月二十八日、大合戦あり。太守上総介(細川元治)殿、勝利を獲、庄伊豆守(元資) 、城を捨て没落す。玄蕃、また疵五ケ所をこうむり、庄と同じく没落す。香西五郎左衛門、城において切腹す。讃岐より香西、召具すところの軍兵大半討死す。備前の合力勢、功をいたしかくのごとしと云々。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、五巻576P)

意訳変換しておくと
備中の戦いについては、さまざまな噂が飛び交っているが、3月28日に大合戦があって、太守上総介(細川元治)殿が勝利して、庄伊豆守(香西元資)は、城を捨て落ち逃れたこと。玄蕃は5ケ所の手傷を負って、庄と同じく敗死したこと。香西五郎左衛門は、城で切腹したこと。讃岐から香西氏が動員した軍兵の大半は討死したという。備前の合力勢、功をいたしかくのごとしと云々。

ここからは次のようなことが分かります。
①備中国の守護細川上総介勝久と国人庄伊豆守(香西)元資との合戦があったこと
②香西五郎左衛門は香西元資方として参加し、討死したこと
その様子を、伝え聞いた蔭凍軒主は次のように記します。
①五郎左衛門は敵3人を討ち切腹したこと、
②同朋・猿楽者各一人が相伴して切腹したこと。
③この合戦において「五郎左衛門が讃岐より軍兵を召し具した」こと
③からは、五郎左衛門の本国は讃岐であったことが分かります。

以上から、室町期から戦国初期にかけての香西氏には、次の二つの香西氏がいたと研究者は考えています。
  ①豊前守・豊前入道を名乗る系統
  ②五郎左(右)衛門尉を名乗る系統
南海通記は、在京する上香西氏と讃岐在住の下香西氏がいたとします。しかし、史料からは①と②の両者とも讃岐を本国とし、京兆家内衆として京都に滞在していたことが分かります。香西家には、2つの系統があったが、本国は讃岐にあったとしておきます。
①香西氏は、讃岐では阿野・香川両郡を中心に勢力を築いた。
②牟礼・鴨井両氏と同族関係を結び、国人領主として発展した。
③15世紀には香西常健が丹波守護代に補せられ、細川家内衆としての地盤を固めた。
④その子香西元資の時代に丹波守護代の地位は失ったかが、細川家四天王としての地位を固めた。
⑤細川元資の後の香西一族には、仁尾浦の浦代官を務める「豊前系」と、陶保代官を務める「五郎左(右)衛門尉」系の2つの系統があった。
⑥京都では、香西氏一族は、牟礼・鴨井両氏等も含めてその軍事力が注目され、京兆家の近臣的存在として細川氏一族の一般的家臣の中で抜きん出た力を保持するようになった。
⑦こうして細川氏の後継者争いが起きると、主導権をにぎろうと内紛に積極的に介入していくようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年
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       香西氏系図 南海通記

 香西氏系譜
前回に南海通記の系図には、香西元資が細川氏の内衆として活躍し、香西氏の畿内における基礎を築いたとされていること、しかし、残された史料との間には大きな内容の隔たりがあることを見てきました。そして、元資より後に、在京する上香西氏②と、讃岐在住の下香西③・④・⑥の二つの流れに分かれたとしまします。しかし、ここに登場する人物も史料的にはきちんと押さえきれないようです。
例えば下香西家の⑥元成(元盛)について見ておきましょう。
香西元成
香西元成(盛)

元成は、享禄四年(1531)六月、摂津天王寺においての細川晴元・三好元長と細川高国・三好宗三(政長)との合戦で、晴元方として参戦し武功をあげたと南海通記の系図注記に記されています。 いわば香西氏のヒーローとして登場してきます。
 しかし、「香西元成(盛)」については、臨済僧月舟寿桂の『幻雲文集』瑯香西貞節等松居士肖像には、次のように記されています。

香西元盛居士。その父波多野氏(清秀)。周石(周防・石見)の間より起こり、細川源君(細川高国)幕下に帰す。以って丹波の一郡(郡守護代) を領す。近年香西家、的嗣なし。今の府君 (細川高国)、公 (元盛)に命じ以って断(和泉)絃を続がしむ。両家皆藤氏より出づ。府君、特に公をして泉州に鎮じ、半刺史 (半国守護代)に擬せり。

意訳変換しておくと
   香西元盛の父は波多野氏(清秀)である。波多野氏は周石(周防・石見)の出身で、細川源君(細川高国)に従って、丹波の一郡(郡守護代) を領していた。近年になって丹波の香西家が途絶えたために、今の府君 (細川高国)は、公 (元盛)に命じて、香西氏を継がした。両家共に、藤原氏の流れをくむ家柄であるので、釣り合いもよい。そして府君(高国)は公(元盛)を泉州の半刺史 (半国守護代)に補任した。
 
 ここには泉州の香西元盛はもともとは丹波の波多野氏で、讃岐の香西氏とは血縁関係の無い人物であったことが書かれています。確かに元成(盛)は丹波の郡守護代や和泉国の半国守護代を務め、讃岐両守護代香川元綱・安富元成とともに、管領となつた高国の内衆として活動します。
 しかし、1663(寛文3)年の『南海治乱記』の成立前後に編纂された『讃岐国大日記』(承応元年1652成立)・『玉藻集』(延宝五年1677成立)には、香西元成に関する記事は何もありません。もちろん戦功についても記されていません。元成という人物は『南海治乱記』に初めて作者の香西成資が登場させた人物のようです。香西元成は「足利季世記」に見える晴元被官の香西元成の記事を根拠に書かれたものと研究者は推測します。
「南海治乱記」・「南海通記」には、香西宗信の父は元成(盛)とします。
そして、系図には上に示したように三好長慶と敵対した細川晴元を救援するため、摂津中島へ出陣したた際の天文18年(1549)の記事が記されています。しかし、この記事について研究者は、「この年、讃岐香西氏の元成が細川晴元支援のため摂津中島へ出陣したことはありえないことが史料的に裏付けられいる」と越後守元成の出陣を否定します。この記述については、著者香西成資の「誤認(創作?)」であるようです。しかし、ここに書かれた兵将の香西氏との関係は参考にできると研究者は考えています。
今度は『南海治乱記』に書かれた「実在しなかった」元成の陣立てを見ておきましょう。参陣には、以下の武将を招集しています。
我が家臣
新居大隅守・香西備前守・佐藤五郎兵衛尉・飯田右衛門督。植松帯刀後号備後・本津右近。
幕下には、
羽床伊豆守。瀧宮豊後守・福家七郎右衛門尉・北条民部少輔、其外一門・佗門・郷司・村司等」
留守中の領分防衛のために、次のような武将を讃岐に残しています。
①東は植田・十河両氏の備えとして、木太の真部・上村の真部、松縄の宮脇、伏石の佐藤の諸士
②西は羽床伊豆守・瀧宮豊後守・北条西庄城主香川民部少輔らの城持ちが守り、
③香西次郎綱光が勝賀城の留守、
④香西備前守が佐料城の留守
⑤唐人弾正・片山志摩が海辺を守った。
出陣の兵将は、
⑥香西六郎。植松帯刀・植松緑之助・飯田右衛門督・中飯田・下飯田・中間の久利二郎四郎・遠藤喜太郎・円座民部・山田七郎。新名・万堂など多数で
舟大将には乃生縫殿助・生島太郎兵衛・本津右近・塩飽の吉田・宮本・直島の高原・日比の四宮等が加わったという。
以上です。
①からは、阿波三好配下の植田・十河を仮想敵として警戒しているようです。⑦には各港の船大将の名前が並びます。ここからは、細川氏が畿内への讃岐国衆の軍事動員には、船を使っていたことが分かります。以前に、香川氏や香西氏などが畿内と讃岐を結ぶ独自の水運力(海賊衆=水軍)を持っていたことをお話ししましたが、それを裏付ける資料にもなります。香西氏は、乃美・生島・本津・塩飽・直島・日比の水運業者=海賊衆を配下に入れていたことがうかがえます。細川氏の下で備讃瀬戸制海権の管理を任されていたのが香西氏だとされますが、これもそれを裏付ける史料になります。
 この兵員輸送の記事からは、香西氏の軍事編成について次のようなことが分かります。
①香西軍は新居・幡一紳・植松などの一門を中心にした「家臣」
②羽床・滝宮・福家・北条などの「幕下」から構成されていたこと
今度は南海通記が香西元成(盛)の子とする香西宗信の陣立てを見てみましょう。
 「玉藻集」には、1568(永禄11)年9月に、備中児島の国人四宮氏に誘われた香西駿河入道宗信(宗心・元載)が香西一門・家臣など350騎・2500人を率いて瀬戸内海を渡り、備前本太城を攻めたと記します。この戦いを安芸毛利氏方に残された文書で見てみると、戦いは次の両者間で戦われたことが記されています。
①三好氏に率いられた阿波・讃岐衆
②毛利方の能島村上氏配下の嶋氏
毛利方史料は、三好方の香西又五郎をはじめ千余人を討ち取った大勝利と記します。香西宗信も討死しています。
 『玉藻集』と、同じような記事が『南海治乱記』にあります。そこには次のように記されています。
1571(元亀二)年2月、香西宗心は、小早川隆景が毛利氏から離反した村上武吉の備前本太城を攻め、4月に落城させたとします。南海治乱記では香西宗心は、毛利方についたことになっています。当時の史料には、この年、備前児島で戦ったのは、毛利氏と阿波三好氏方の篠原長房です。単独で、香西氏が動いた形跡はありません。作者香西成資は、永禄11年の本太城攻防戦をこのときの合戦と混同しているようです。南海通記には、このような誤りが多々あることが分かっています。『南海治乱記』・『南海通記』の記事については、ほかの史料にないものが多く含まれていて、貴重な情報源にもなりますが、史料として用いる場合は厳密な検証が必要であると研究者は指摘します。戦いについての基本的な誤りはさておいて、研究者が注目するのは次の点です。『玉藻集』には、永禄11年9月に、香西宗信が一門・家臣などを率いて備前本太城攻めのために渡海しています。その時の着到帳と陣立書、宗信の嫡子伊賀守佳清の感状を載せていることです。
その陣立書からは、香西氏の陣容が次のようにうかがえます。
①旗本組は唐人弾正・片山志摩など香西氏の譜代の家臣
②前備は植松帯刀・同右近など香西氏一門
③先備・脇備は「外様」で、新居・福家などの讃岐藤原氏、別姓の滝宮氏
ここからは、香西氏の家中に当たるのは①旗本組②前備に組み込まれている者たちだったことが分かります。この合戦で香西氏・当主駿河入道宗信は討死します。そのため宗信に替わって幼年だった嫡子伊賀守佳清が、植松惣十郎往正に宛てた感状を載せています。住清は、植松惣十郎往正(当時は加藤兵衛)に対し、父植松備後守資正の遺領を安堵し、ついで加増しています。
 『玉藻集』香西伊賀守好清伝・『南海通記』所収系図には、次のような事が記されています。
①往正の父資正はその甥植松大隅守資教とともに宗信・佳清二代の執事を務めていたこと
②往正は天正13年の香西氏の勝賀城退去後は、弟の植松彦太夫往由とともに浪人となった佳清を扶養したこと。
 ちなみに『香西史』所収の植松家系図には、『南海通記』の著者香西成資は、往正のもう一人の弟久助資久の曽孫で、本姓香西に復する前は植松武兵衛と名乗っていたとします。つまり、香西成資は植松家の一族であったのが、後年になって香西氏を名のるようになったとします。
『南海治乱記』には「幕下」が次のように使われています。
巻之八 讃州兵将服従信長記
天正三年冬、河州高屋の城主三好山城入道笑岩も信長に降すと聞けれは、同四年に讃州香川兵部太輔元景・香西伊賀守佳清、使者を以て信長の幕下に候せん事を乞ふ。香川両使は、香川山城守三野菊右衛門也。
  意訳変換しておくと
天正三年冬、河州高屋の城主三好山城入道笑岩も信長に降ることを聞いて、翌年同四年に讃州香川兵部太輔元景・香西伊賀守佳清は、使者を立てて信長の幕下に入ることを乞うた。この香川両使は、香川山城守三野菊右衛門であった。

   ここでは、香西・香川両氏が織田信長に服従したことが「幕下に候せん」と用いられていると研究者は指摘します。
巻之十 讃州福家七郎被殺害記
天正七年春、羽床伊豆守は、嗣子忠兵衛尉瀧宮にて鉄砲に中り死たるを憤て、香西家幕下の城主ともを悉く回文をなして我が党となす。先瀧宮弥十郎。新名内膳・奈良太郎兵衛尉・長尾大隅守・山田弥七・福家七郎まで一致に和睦し、国中に事あるときは互に見放べからずと一通の誓紙を以て約す。是香西氏衰へて羽床を除ては旗頭とすべき者なき故也。
意訳変換しておくと
天正七年春、羽床伊豆守は、嗣子の忠兵衛尉瀧宮が鉄砲に当たって戦死したことに憤て、香西家幕下の城主たちのほとんどに文書を廻して見方に引き入れた。瀧宮弥十郎・新名内膳・奈良太郎兵衛尉・長尾大隅守・山田弥七・福家七郎たちは和睦し、讃岐国内で事あるときは互いに見放さないとの攻守同盟を誓紙にして約した。これも香西氏が衰えて、羽床が旗頭となった。

   ここでは「旗頭」に対置して用いられています。本来同等な者が有力な者を頼る寄親・寄子の関係を指していると研究者は指摘します。ここからは「幕下」とは、有力者の勢力下に入った者を指すことが分かります。『日本国語大辞典』(小学館)には、「幕下に属す、参す。その勢力下に入る。従属する」とあります。、
以上から、戦国期の讃岐香西氏の軍事編成を、研究者は次のように考えています。
①執事の植松氏をはじめとする一門を中核とする家臣団を編成するとともに、
②周辺の羽床・滝宮・福家など城主級の武士を幕下(寄子)としていた

しかし、その規模は当時の巨大化しつつあった戦国大名から見れば弱小と見えたようです。毛利軍と讃岐国衆の間で戦われた1577(天正5)年7月22日の元吉合戦に登場する香西氏を見ておきましょう。
毛利氏方の司令官乃美宗勝らが連署して、戦勝を報告した連署状写が残っています。そこには敵方の「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程」が元吉城に攻め寄せてきたと記されています。ここでは香西氏の立場は、戦国大名毛利氏から見れば、讃岐の国衆の一人にすぎないと見なされていたことが分かります。国衆とは、「戦国大名に服属しつつも、 一定の自立性を保持する領域的武家権力と理解されます。地域領主」とされます。この合戦当時の香西氏は、阿波三好氏に服従していました。国衆は戦国大名と同じように本領を持ち、家中(直属家臣団を含む一家)を形成しますが、その規模は小さなものでした。讃岐では、戦国大名化したのは香川氏だけのようです。
以上をまとめておくと
①細川頼之のもとで活躍し、細川管領家の内衆として活動するようになったのが香西常建である。
②香西常建は晩年の15世紀初めに、丹波守護代に補任され内衆として活動するようになった。
③その子(弟?)の香西元資も丹波守護代を務めたが、失政で罷免された。
④南海通記は、父香西常建のことには何も触れず、香西元資を「細川氏の四天王」と大きく評価する。
⑤しかし、南海通記は香西元資が丹波守護代であったことや、それを罷免されたことなどは記さない。
⑥これは、南海通記の作者には手元に資料がなく基本的な情報がもっていなかったことが推察できる。
⑦香西元資以後の香西氏は、在京組の上香西氏と讃岐在住組の下香西氏に分かれたとするが、その棟梁達に名前を史料で押さえることはできない。
⑧大きな武功を挙げたとされる下香西氏の元成(盛)も、香西氏の一族ではないし武功も架空のものであるとされる。
⑨しかし、南海通記などに残された軍立て情報などからは、香西氏の軍事編成などをうかがうことができる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

南海通記: 史料叢書- NDL Digital Collections

讃岐出身の軍学者香西成資が寛文三年(1663)に著したのが『南海治乱記』で、その増補版が『南海通記』です。この両書には、次のような事が記されていたのを前回は見ました。
①(香西)資村が、香西氏の始祖であること。
②資村は、承久の乱で鎌倉方について「香川郡守」となって、勝賀城を築いたこと
しかし、資村については、史料的には確認できない人物です。香西氏の中で史料的に確認できるのは、14世紀南北朝時代の、香西彦三郎や香西彦九郎ですが、彼らは南海通記などには登場しないことなどを見てきました。以上からは、戦国時代に滅亡した香西氏には、それまでの文書や系譜が失われていたことが考えられます。軍学者香西成資は、手元に史料の無い状態で南海通記を書いたことが考えられます。

 南海通記には15世紀になると香西氏には、在京する一族と、讃岐に在住する一族の上下の香西氏が生まれたと記します。今回はこの、上香西氏と下香西氏について見ていくことにします。テキストは、 「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」です

南海治乱記巻之三 植松四郎射芸記
明応年中に、(中略)香西備後守①元資一子備中守②元直在京す。故に上香西と云ふ。次子左近将監③元綱、讃州に在住す。故に下香西と云ふ也。備中守元直か子又六郎元継、後又備中守と号する也。

意訳変換しておくと
明応年中(1492~1501)に、(中略)香西備後守①元資の子である備中守②元直は在京していた。そのため上香西と呼ばれた。次子の左近将監元綱は、讃岐にいたので下香西と云う。備中守元直の子又六郎元継も、後に備中守と称する。

香西氏系図 南海通記
香西氏系図(南海通記)
『南海通記』巻之廿上 上香西・下香西伝
文明九年(1477)二至テ両陣ノ諸将時ノ和談ヲナシ、各下国シ京中ノ陣跡、径卜成ル。其時讃州ノ四臣モ子弟ヲ京都二残テ、管領家ヲ守ラシメ、各下国有り。是二依テ上香西・下香西ノ別有り。
 応仁年中(1467―69)二香西備後守元資、長子備中守元直二丹波ノ采地ヲ譲テ管領家ヲ守シメ、京都二在住セシム。此氏族ヲ上香西卜云。同元資ノニ子左近将監元顕、讃州本領ヲ譲テ、是ヲ下香西卜云。元顕ノ長子豊前守元清、長子越後守元成、元成長子駿河守元載、元載ノ長子伊賀守佳清、是五代也。
     意訳変換しておくと
文明九年(1477)になって両陣の諸将は交渉して和議を結んだ。各軍勢は国に帰り、京中の陣跡は道になった。この時に讃州の細川家の四家臣は、管領細川家を守るために子弟を京都に残して、讃岐に帰った。こうして香西家は上香西・下香西に分かれることになった。
 応仁の乱(1467―69)の戦乱の中で、香西備後守①元資とその長子備中守②元直は丹波に領地を得て、管領家を守って、京都に在住した。この一族を上香西という。元資の子左近将監③元顕は、讃州本領を譲ったので、これを下香西という。元顕の長子豊前守④元清、長子越後守⑤元成、元成長子である駿河守元載、元載の長子伊賀守佳清の五代になる。

『南海通記』巻之二 讃州藤家記
元資 細川勝元、賜諄之一字 備後守法名宗善 加賜摂州渡辺・河州所々之釆地。

意訳変換しておくと
元資は、細川勝元から一字をいただいた名前である。備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得た。

  このように『南海治乱記』・『南海通記』などは、讃岐国外での①元資以後の香西氏の活動を詳細に記します。
以上の資料から元資について拾い出すと次のようになります。
①香西氏の中で、上洛して活躍する最初の人物は香西元資であること。
②香西元資は細川勝元より「元」字を与えられ備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得たこと
③香西元資の長子元直と、その子孫は在京して上香西と呼ばれたこと、
④丹波篠山城を得たのは、元資の息子元直とすること
⑤次子元綱(元顕)は讃岐の本領を相続して在国し、下香西と呼ばれたこと。

しかし、これも残された史料とかみ合いません。香西元資について残された史料と照らし合わせてみましょう。
 10 応永32年(1425)12月晦日
  丹波守護細川満元、同国大山荘人夫役につき瓜持ち・炭持ち各々二人のほか、臨時人夫の催促を停止することを守護代香西豊前守元資に命ずる。翌年3月4日、元資、籾井民部に施行する。
(「東寺百合文書」大山村史編纂委員会編『大山村史 史料編』232P頁)
11 応永33年(1426)6月13日
丹波守護代元資、守護満元の命により、祇園社領同国波々伯部保の諸公事停止を籾井民部へ命ずる。(「祗園社文書」『早稲田大学所蔵文書』下巻92頁)

12 同年7月20日
  丹波守護細川満元、将軍足利義持の命により、同国何鹿郡内漢部郷・並びに八田郷内上村を上杉安房守憲房の代官に渡付するよう守護代香西豊前守(元資)へ命ずる。(「上杉家文書」『大日本古文書』上杉家文書1巻55P)

13 永享2年(1430)5月12日
  丹波守護代、法金剛院領同国主殿保の綜持ち人夫の催促を止めるよう籾井民部入道に命ずる。(「仁和寺文 書」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

14 永享3年(1431)7月24日
  香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。(「満済准后日記」『続群書類従』本、下巻270P) 

以上からは香西豊前守(元資)について、次のようなことが分かります。
資料10からは  父と思われる香西入道(常建)が亡くなった3年後の1425年12月晦日に、元資が臨時入夫役の停止を命じられています。それを元資は翌年3月4日に又守護代とみられる籾井民部玄俊へ遵行状を出して道歓(満元)の命を伝えています。ここからは、元資が丹波守護代の役目を果たしている姿が見えてきます。
資料11には、元資は幕府の命を受けた守護道歓より丹波国何鹿郡漢部郷・八田郷内上村を上杉安房守憲実代にうち渡すよう命じられています。資料12・13からも彼が、丹波守護代であったことが確認できます。ところが南海通記は「②香西元資は細川勝元より「元」字を与えられ備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得たこと」と記し、丹波守護代については何も触れません。
南海通記は、資料14の元資が丹波守護代を罷免された事実についても何も記しません。そして「④丹波篠山城を得たのは、元資の息子元直」とするのです。これについて「丹波守護代を罷免されたことを不名誉なこととして、南海通記の作者は触れなかった」という意見もあるようです。しかし、作者が、元資についての正確な資料を手元に持っていなかったと考えた方がよさそうです。

 南海通記は「香西元資」を「細川家ノ四天王」として次のように記します。
享徳元年ヨリ細川右京大夫勝元ハ、畠山徳本に代リテ管領職を勤ルコト十三年ニ至ル、此時香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安四人ヲ以テ統領ノ臣トス、世人是ヲ細川家ノ四天王ト云フ也。

意訳変換しておくと
享徳元年から細川勝元は、畠山徳本を拠点に管領職を13年に渡って務めた。この時に。香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安の四人を統領の家臣団として重用した。そこで、世間では彼らを細川家の四天王と呼んだ。

 ここからは細川勝元の支配は、讃岐出身の「四天王」の軍事力と政治力に支えられていたことがうかがえます。
細川勝元(ほそかわ・かつもと)とは? 意味や使い方 - コトバンク
細川勝元 「讃岐の四天王」に支えられた
『南海通記』は「四天王」の領地とその由来について、次のように記します。
各讃州ニ於テ食邑ヲ賜フ、西讃岐多度、三野、豊田三郡ハ詫間氏カ領也。詫間没シテ嗣ナシ、頼之其遺跡ヲ香川ニ統領セシム、
那珂、鵜足ノ二郡ハ藤橘両党ノ所有也。是ヲ細川家馬廻ノ武士トス、近年奈良太郎左衛門尉ヲ以テ二郡ノ旗頭トス、奈良ハ本領畿内ニアリ、其子弟ヲサシ下シテ鵜足津ノ城ニ居住セシム、綾ノ南條、北條、香東、香西四郡ハ、香西氏世々之ヲ領ス、三木郡ハ三木氏没シテ嗣ナシ、
  安富筑前守ヲ以テ、是ヲ領セシム、香川、安富、奈良ハ東國ノ姓氏也。細川家ニ属シテ當國ニ來リ、恩地ヲ賜フテ居住ス、其來往ノ遅速、何ノ年ト云フコトヲ知ラス、香西氏ハ當國ノ姓氏也。建武二年細川卿律師定禪當國ニ來テ、足利家歸服ノ兵ヲ招キシ時、詫間、香西是ニ属シテ武功ヲ立シヨリ以來、更ニ野心ナキ故ニ、四臣ノ内ニ揚用サラル其嫡子四人ハ香川兵部少輔、香西備中守、奈良備前守、安富民部少輔也。此四人ハ在京シテ管領家ノ事ヲ執行ス、故ニ畿内ニテ食邑ヲ賜フ、其外在國ノ郡司ハ、大内、寒川二郡ハ寒川氏世々之ヲ領ス、山田郡十二郷ハ、三谷、神内、十河ヲ旗頭トシテ、植田氏世々相持テリ、細川管領家諸國ヲ統領スト云ヘトモ、讃州ヲ以テ根ノ國トス、
意訳変換しておくと
「四天王」はそれぞれ讃州で領地を次のように賜っていた。西讃岐多度、三野、豊田三郡は詫間氏の領地。詫間氏が滅亡して後には、細川頼之は、ここに香川氏を入れた。那珂、鵜足の二郡は藤橘両党の所有であった。そこに近年、細川家の馬廻武士である奈良太郎左衛門尉を入れて、郡旗頭とした。奈良氏は本領は畿内にあるが、その子弟を派遣して鵜足津(宇多津聖通寺)城に配置している。綾の南條と北條、香東、香西の四郡は、香西氏が代々領する。三木郡は三木氏滅亡後は領主不在となったので安富筑前守を入れた。香川、安富、奈良は、東國出身の御家人で、細川家に従って讃岐にやってきて、恩地を得て居住するようになった武士達である。それがいつ頃の来讃になるのかはよく分からない。
 一方、香西氏ハ讃岐出身である。建武二年に細川定禪が讃岐にやってきて、足利家のために兵を集めたときに、詫間・香西はこれに応じて武功を立てて、四天王の一員として用いられるようになった。その嫡子四人とは香川兵部少輔、香西備中守、奈良備前守、安富民部少輔である。この四人は在京して、管領家を補佐し、畿内に領地を得るようになった。
 その他にも讃岐の郡司は、大内、寒川二郡は寒川氏が代々領する。山田郡十二郷は、三谷、神内、十河などを旗頭として、植田氏が代々領する。細川管領家は、多くの國を支配するが、その中でも讃岐は「根ノ國」とされた。
 ここには細川管領家における讃岐の戦略的な重要性と、各武将の勢力配置が記されています。それを整理すると次のようになります。
香川氏(天霧城)… 多度郡、三野郡、豊田郡
奈良氏(聖通寺城)… 那珂郡、鵜足郡
香西氏(勝賀城)… 阿野郡(綾南條郡、綾北條郡)、香川郡(香東郡、香西郡)
安富氏(雨滝城)… 三木郡
寒川氏(昼寝城)… 寒川郡、大内郡
植田氏(戸田城)… 山田郡
戦国時代の讃岐・阿波の群雄割拠図
讃岐・阿波の武将勢力分布図

この中で、香川氏・安富氏・奈良氏は、細川氏に従って関東から讃岐へと移住した御家人で、それ以外の香西氏以下は讃岐土着の武士(国人)になります。
細川頼之とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
 讃岐に関東出身の一族が配されたのは、南北朝期に幕府方として西国平定に多大な貢献を果たした細川氏の存在が大きいようです。その中で香西氏は、細川頼之の配下に入り、讃岐の国衆の中で戦功を認められたようです。
  足利顕氏が讃岐守護のときには、讃岐の守護代は桑原左衛門五郎常重、桑島十郎左衛門長範(又守護代は井戸二郎兵衛入道)、粟嶋八郎某、月成(秋月)太郎兵衛尉盛国と頻繁に交代します。この交代理由は、「守護代の勢力増大を防止しようとする意図が強かった」からと研究者は考えています。
 細川氏の人材登用策は、最初は讃岐以外から連れてきた主立った武士団の棟梁を守護代などにつけます。
しかし、明徳・応永年間以降になると、細川氏は清氏系が没落し、顕氏系に代わって頼之系へと勢力交代します。すると、讃岐などで頼之の分国経営に奉仕し、その権力機構に組み込まれた讃岐や阿波の国人の中からも内衆として登用されるものが出てきます。そのチャンスを香西氏はものにしたようです。
内衆として入り込んだ時の棟梁が、香西入道(常建)です。
香西入道(常建)は、香西元資料の近親者(父か兄)にあたることは、前回にお話しした通りです。香西入道(常建)の資料を再度見ておきましょう。
 応永19年(1413)
 香西入道(常建)、清水坂神護寺領讃岐国香酉郡坂田郷の所務代官職を年貢170貫文で請負う。(「御前落居記録」桑山浩然氏校訂『室町幕府引付史料集成』26頁 県史990頁)

 応永21年(1414)7月29日
 室町幕府、東寺領丹波国大山荘領家職の称光天皇即位段銭を京済となし、同国守護代香西豊前入道常建をして、地下に催促することを止めさせる。(「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之255P以下)
  1422年6月8日条
「細河右京大夫内者香西(常建)今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」

ここからは、丹波守護代であった常建が61歳で亡くなっていることが分かります。細川京兆家で、一代で讃岐国衆から京兆家内衆の一員に抜擢され、その晩年に丹波守護代を務めたことになります。

 ちなみにこれより以前の1392(明徳3)年8月28日の『相国寺供養記』に、管領細川頼元に供奉した安富・香川両氏など郎党二十三騎の名乗りと実名が列記されています。その中には香西氏の名はありません。香西氏は、これ以後の被官者であったのかもしれません。どちらにしても香西氏が京兆家内衆として現れるのは、15世紀半ばの常建が初見になることを押さえておきます。
そして、その子か弟が香西元資になります。

以上をまとめておくと
①南北朝時代に白峰合戦に勝利した細川頼之は、讃岐の支配権を握り論功行賞を行った
②その際に、守護代などに地元讃岐出身の国人武将は登用せずに、外部から連れてきた香川氏や安富氏を配置し、聖通寺城には奈良氏を置いた。
③こうした中で讃岐国衆であった香西氏は、遅れて細川管領家の内衆に加えられた。
④その始まりとなるのが15世紀前半に丹波守護代を務めた香西入道(常建)である。
⑤香西入道(常建)の近親者が香西元資であり、彼も丹波守護代を務めていたが失政で罷免された。
⑥南海通記では、香西元資を「細川四天王」の一員とし、讃岐国人の中から唯一内衆として活躍したのが香西氏であると記す。
⑦元資以後の香西氏は、在京する上香西氏と、讃岐在住の下香西氏の二つに分かれたと南海通記は記す。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年
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南海通記と南海治乱記

『南海治乱記』巻之十七 老父夜話記には、香西氏の家伝証文が焼失したことについて次のように記します。

又語て曰、天正十三年(1585)五月廿日、香西の城を去て西長尾の城に赴くとき、勝賀山の城に在つる香西家数世の證文・家宝等、根香寺の仏殿に入れて去る。盗賊来て寺内の物を取て仏殿の物を取んとすれとも錠を下して不明。住僧も強盗の難を恐れて下山し山中に人なし。盗賊仏殿に火を放て去る。此時香西家の證文等焼亡す。

意訳変換しておくと
老父が夜半話に次のように語った。天正十三年(1585)五月20日、(長宗我部退却時に)香西の城を出て西長尾城(まんのう町)に赴くとき、勝賀山の城にあった香西家数世の證文・家宝などを、根香寺の仏殿に入れて去った。それを知った盗賊が来襲して寺内の物を取て、仏殿の物もとろうとしたが錠がかかっていて入れなかった。しかし、住僧も強盗の難を恐れて下山して、山中に人はいない。盗賊は仏殿に火を放て去った。この時に香西家の證文などはみな焼亡した。

戦国末期に香西氏の中世史料は失われたようです。香西氏の歴史については後に書かれた近世の編さん物から見ていくしかないようです。今回は、近世史料に香西氏がどのように書かれているのかを見ていくことにします。
香西氏の氏祖は香西資村
香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 翁嫗夜話 巻之一

『翁嫗夜話』巻之一増田休意著。延享二年(1745)成立。
新居藤大夫 香西三郎信資 ー 新居藤大夫資光 ー 香西左近将監資村(三男)
(香西)藤二郎資村、承久の乱に関東に忠あり。鎌倉の命を以って、香川郡の守に補し、左近将監に任ず。香西郡葛西郷勝賀山に城きておる。藤氏以って栄となす。綾藤氏族六十三家、資村これが統領となる。
  意訳変換しておくと
 (香西)藤二郎資村は、13世紀初頭の承久の乱の際に、鎌倉方についた。そのため論功として、鎌倉幕府から香川郡守に補任され、左近将監の位階を得た。そして、香西郡葛西郷勝賀山に城を築いた。こうして讃岐藤氏は栄えるようになり、香西資村はその綾藤氏族六十三家の統領になった。

18世紀のこの書には、次のような事が記されています。
①(香西)資村が13世紀前半の人物であったこと
②承久の乱で鎌倉方について「香川郡守」となって、勝賀城を築いたこと
③古代綾氏の流れをくむ讃岐藤原氏の統領となったこと

香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 香西記
香西記(香川県立図書館デジタルライブラリー)

「香西記」‐ 新居直矩著。寛政四年(1792)成立。
「阿野南北香河東西濫腸井香西地勢記 名所旧透附録」
○其第二を、勝賀山と云。勝れて高く美しき山也。
一、伝来曰、此山峰、香西氏数世要城の城也。天正中城模敗績して、掻上たる土手のみ残りて荒けり。此東麓佐料城跡は、四方の堀残りて田畠となれり。佐料城の北隣の原に、伊勢大神宮社有。香西氏祖資村始て祀所也。
  意訳変換しておくと
「阿野(郡)南北香河(川)東西濫腸と香西の地勢記 名所旧透附録」
○その第二の山を、勝賀山と呼ぶ。誉れ高く美しい山である。
一、その伝来には次のように伝える。この山峰は、香西氏の数世代にわたる要城の城であった。天正年間に廃城になり、今は土手だけが残って荒れ果てている。東麓にある佐料城跡には、四方の堀跡が残って田畠となっている。佐料城の北隣の原に、伊勢大神宮社がある。これは香西氏祖資村の創建とされている。
香西記

香西記には、次のような情報が含まれています。
①勝賀城跡には18世紀末には土手だけが残っていたこと
②佐料城跡には堀跡が田畑として残っていたこと
③佐料城跡のの東隣の伊勢大神宮社が、香西氏祖資村の創建とされていたこと
藤尾城(香川県高松市)の詳細情報・周辺観光|ニッポン城めぐり−位置情報アプリで楽しむ無料のお城スタンプラリー
藤尾城跡の藤尾八幡 

  「讃陽香西藤尾八幡宮来由記」
抑営祠藤尾八幡宮者、天皇八十五代後堀河院御宇嘉禄年中(1325―27)、阿野・香河之領主讃藤氏香西左近持監資村力之所奉篤勧請之霊祠也実。

意訳変換しておくと
藤尾八幡宮は八十五代後堀河院の御宇嘉禄年中(1325―27)に、阿野・香川郡の領主であった讃藤氏香西左近持監資村が勧請した霊祠である。

ここには藤尾八幡社が14世紀前半に、「阿野・香川郡の領主」であった香西資村が勧請したことが記されています。

つぎに近世に作られた系図を見ておきましょう。
17世紀後半に成立した玉藻集に載せられている香西氏の系図です
香西氏の系図
香西氏系図(玉藻集)
A①資村の父②信資の養子とされています。
B資村の祖父にあたる④資光は新居氏です。
C資村の祖祖父にあたる⑤資高は羽床嫡流とあり、讃岐藤原氏の統領3代目とされる人物です。③資光は羽床氏出身であることが分かります。
D資村の祖祖祖父にあたる⑥章隆が、国司であった藤原家成と綾氏の間に生まれた人物で、讃岐藤氏の始祖にあたる人物です
  この系図だけを見ると香西氏は、国司藤原家斉の流れを引く讃岐藤原氏の一族で、棟梁家の羽床氏から新居氏を経て派生してきたことになります。

「讚州藤家香西氏略系譜」を見ておきましょう。

香西氏系図4
讚州藤家香西氏略系譜

資村については、次のように記されています。
新居次郎 後号香西左近将監。承久年中之兵乱、候于関東。信資資村被恩賜阿野・香河二郡。入于香西佐料城也。本城勝賀山。」

最初に見た『翁嫗夜話』の内容が踏襲されています。
A 資村には「新居次郎」とあり、後「香西左近将監」を名のるようになったと記します。さきほどの系図には「信資養子」とありました。①資村は、新池から②信資のもとに養子に入ったのでしょうか。伯父の③資幸は「福家始祖」とあります。
B 資村の祖父にあたる④資光は新居氏です。
C しかし、ここで気づくのは先ほどの系図にあった羽床家の重光の名前がみえません。この系図では重光が飛ばされているようです。以下は玉藻集系図とおなじです。

最後に綾氏系図を見ておきましょう。
讃岐藤原氏系図1
               綾氏系図

綾氏系図では⑤資高の子ども達が次のよう記されています。彼らは兄弟だったことになります。
羽床家棟梁の重高
新居家始祖・④資幸
香西家始祖・②信資
   資村が最初は「新居次郎」で、後「香西左近将監」を名のるようになったこと、「信資養子」とあることからは、①資村は、新居家から②信資のもとに養子に入ったことが考えられます。

しかし、ここで問題になるのは前回にもお話ししたように「香西資村」という人物は史料的には出てこないことです。近世になって書かれた系図や戦記物と根本史料が合わないのです。前回見たように香西氏が最初に登場するのは、14世紀南北朝期の次の史料です。

1 建武四年(1337)6月20日
 讃岐守護細川顕氏、三野郡財田においての宮方蜂起の件につき、桑原左衛門五郎を派遣すること を伝えるとともに、要害のことを相談し、共に軍忠を致すよう書下をもって香西彦三郎に命ずる。(「西野嘉衛門氏所蔵文書」県史810頁 

2 正平六年(1351)12月15日
  足利義詮、阿波守護細川頼春の注進により、香西彦九郎に対し、観応の擾乱に際しての四国における軍忠を賞する。
 (「肥後細川家文書」熊本県教育委員会編『細川家文書』122頁 県史820頁)
3 観応三年(1352)4月20日         
 足利義詮、頼春の子頼有の注進により、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らの軍忠を賞する。
(「肥後細川家文書」同 前60・61P 県史821P

1は南北朝動乱期に南朝に与した阿讃山岳地域の勢力に対しての対応を、讃岐守護細川顕氏がに命じたものです。
2は、それから14年後には、足利義詮、阿波守護細川頼春から香西彦九郎が、観応の擾乱の軍功を賞されています。そして、その翌年の観応三年(1352)4月20日には、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らが恩賞を受けています。
1や2からは、南北朝時代に守護細川氏の下で働く香西氏の姿が見えてきます。彦三郎と彦九郎の関係は、親子か兄弟であったようです。3からは、羽床氏などの讃岐藤原氏一族が統領の羽床氏を中心に、細川氏の軍事部隊として畿内に動員従軍していたことが分かります。
14世紀中頃の彦三郎と彦九郎以後、60年間は香西氏の名前は史料には出てきません。ちなみ彦三郎や彦九郎は南海通記には登場しない人名です。

  以上、近世になってから書かれた香西氏に関する史料や系図をみてきました。しかし、そこには戦国末期に香西氏が滅亡したためにそれ以前の史料が散逸していたこと、そのために近世になって書かれた香西氏に関するものは、史料にもとづくものではないので、残された史料とは合致しないことを押さえておきます。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       田中健二  中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年
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讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

  香西氏については、戦国末期に惣領家が没落したために確かな系譜が分からなくなっています。
百年以上後に、一族の顕彰のために編纂されたのが『南海通記』です。
史籍集覧 南海治乱記・南海通記 全12冊揃(香西成資) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
南海通記
そこには香西氏は応仁の乱後には、在京した上香西と在国した下香西とに分かれたと記します。ところが、南海通記に出てくる香西氏歴代の名は、確かな古文書・古記録出てくる名前と、ほとんど一致しません。それは残された系図も同じです。
香西氏系図
香西氏系図(玉藻集1677年)

「南海通記」は百年後に書かれた軍記もので、根本史料とはできないものです。しかし、頼るべき史料がないので近代になって書かれた讃岐郷土史や、戦後の市町村史は「南海通記」を史料批判することなく、そのまま引用して「物語郷土史」としているものが多いようです。そのため南海通記の編纂意図の一つである「香西氏顕彰」が全面に押し出されます。その結果、戦国史では長宗我部侵攻に対する「讃岐国衆の郷土防衛戦」的な様相を呈してきます。そこでは侵攻者の長宗我部元親は、悪役として描かれることになります。

 そのような中で、高瀬町史などで秋山文書や毛利文書など根本史料との摺り合わせが進むと、『南海通記』の不正確さが明らかになってきました。阿波勢の天霧城攻撃や元吉城攻防戦も、「南海通記」の記述は誤りでありとされ、新たな視点から語られるようになってきました。そのような中で求められているのが、一次資料に基づく精密な香西氏の年譜です。そんな中で南海通記に依らない香西氏の年譜作成を行った論文に出会いましたので紹介しておきます。
 テキストは、「香西氏の年譜 香西氏の山城守護代就任まで  香川史学1988年」です。これは、1987年度に香川大学へ提出したある生徒の卒業論文「室町・戦国初期における讃岐国人香西氏について」の作成のために収集・整理した史料カードをもとに、指導教官であった田中健二がまとめたものです。この作業の中では、『南海通記』や「綾氏系図」等の後世の編纂物の記事は、排除されています。どんな作業が行われ、どんな結果になったのでしょうか。見ておきましょう。
讃岐藤原氏系図1
古代綾氏の流れを汲むとされる讃岐藤原氏系図   

古代豪族の綾氏が武士団化して、讃岐藤原氏に「変身」します。
これについては以前にお話ししましたので省略します。讃岐藤原氏は総領家の羽床氏の下に、大野氏・新居氏・綾部氏が別れ、その後に香西氏が登場すると南海通記は記します。それを系図化したものが上のものです。この系図と照らし合わせながら香西氏年譜の史料をみていきます。

史料で香西氏が最初に登場するのは、14世紀南北朝期に活動する香西彦三郎です。
1 建武四年(1337)6月20日
 讃岐守護細川顕氏、三野郡財田においての宮方蜂起の件につき、桑原左衛門五郎を派遣すること を伝えるとともに、要害のことを相談し、共に軍忠を致すよう書下をもって香西彦三郎に命ずる。(「西野嘉衛門氏所蔵文書」県史810頁 

2 正平六年(1351)12月15日
  足利義詮、阿波守護細川頼春の注進により、香西彦九郎に対し、観応の擾乱に際しての四国における軍忠を賞する。
 (「肥後細川家文書」熊本県教育委員会編『細川家文書』122頁 県史820頁)
3 観応三年(1352)4月20日         
 足利義詮、頼春の子頼有の注進により、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らの軍忠を賞する。
(「肥後細川家文書」同 前60・61P 県史821P

1は南北朝動乱期に南朝に与した阿讃山岳地域の勢力に対しての対応を、讃岐守護細川顕氏がに命じたものです。
2は、それから14年後には、足利義詮、阿波守護細川頼春から香西彦九郎が、観応の擾乱の軍功を賞されています。そして、その翌年の観応三年(1352)4月20日には、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らが恩賞を受けています。
1や2からは、南北朝時代に守護細川氏の下で働く香西氏の姿が見えてきます。彦三郎と彦九郎の関係は、親子か兄弟であったようです。3からは、羽床氏などの讃岐藤原氏一族が統領の羽床氏を中心に、細川氏の軍事部隊として畿内に動員従軍していたことが分かります。
14世紀中頃の彦三郎と彦九郎以後、60年間は香西氏の名前は史料には出てきません。ちなみ彦三郎や彦九郎は南海通記には登場しない人名です。
讃岐藤原氏系図3羽床氏jpg
綾氏系図 史料に出てくる人名と合わない

例えばウキには南海通記を下敷きにして、香西氏のことが次のように記されています。

① 平安時代末期、讃岐藤原氏二代目・藤原資高が地名をとって羽床氏を称し、三男・重高が羽床氏を継いだ。次男・有高は大野氏、四男・資光は新居氏を称した。資高の子の中でも資光は、 治承7年(1183年)の備中国水島の戦いで活躍し、寿永4年(1185年)の屋島の戦いでは、源義経の陣に加わって戦功を挙げ、源頼朝から感状を受けて阿野郡(綾郡)を安堵された。

鎌倉時代の承久3年(1221年)の承久の乱においては、幕府方に与した新居資村が、その功によって香川郡12郷・阿野郡4郷を支配することとなり、勝賀山東山麓に佐料館、その山上に詰めの城・勝賀城を築いた。そして姓を「香西氏」に改めて左近将監に補任された。一方、後鳥羽上皇方についた羽床氏・柞田氏らは、それぞれの所領を没収され、以後羽床氏は香西氏の傘下に入った。

しかし、南北朝以前の史料の中には「香西」という武士団は出てこないことを押さえておきます。また承久の乱で活躍した新居資村が香西氏に改名したことも史料からは裏付けることはできません。

香西氏系図3
           讃州藤家香西氏略系譜
次に史料的に登場するのは、丹波の守護代として活動する香西入道(常建)です。彼の史料は以下の通りです。

4 応永19年(1413)
 香西入道(常建)、清水坂神護寺領讃岐国香酉郡坂田郷の所務代官職を年貢170貫文で請負う。(「御前落居記録」桑山浩然氏校訂『室町幕府引付史料集成』26頁 県史990頁)

5 応永21年(1414)7月29日
 室町幕府、東寺領丹波国大山荘領家職の称光天皇即位段銭を京済となし、同国守護代香西豊前入道常建をして、地下に催促することを止めさせる。
 (「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之255P以下)
6 同年12月8日
 管領細川満元、法楽和歌会を催し、百首及び三十首和歌を讃岐国頓澄寺(白峰寺)へ納める。百首和歌中に香西常建・同元資の詠歌あり。(「白峯寺文書」『大日本史料』第七編之二十、434P)

7 応永23年(1416)8月23日
  丹波守護代香西入道常建、同国大山荘領家方の後小松上皇御所造営段銭を免除し、催促を止めることを三上三郎左衛門尉に命ずる。 (「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之二十五、30P)
8 応永27年(1420)4月19日
丹波守護細川満元、同国六人部・弓削・豊富・瓦屋南北各荘の守護役免除を守護代香西豊前入道常建に命ずる。(「天竜寺重書目録」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

9 応永29年(1422)6月8日
 細河右京大夫内者香西今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」  (「康富記」『増補史料大成』本、1巻176P)
意訳変換しておくと
 聞き及ぶ。細河右京大夫内者 香西今日死去すと云々。丹波国守護代なり。六十一と云々。

以上が香西常建の史料です。
資料9で死去した香西氏とは資料7から香西入道と呼ばれていた常建であったことが分かります。資料5で即位段銭の催促停止するよう命じられている香西豊前入道も常建のようです。常建は、資料6では、細川満元が催した頓證寺法楽和歌会に列席し、白峯寺所蔵の松山百首和歌に二首が載せられています。このとき、常建とともに一首を詠んでいる元資が、のちに丹波守護代として名の見える香西豊前守元資になるようです。両者は、親子が兄弟など近親者であったと研究者は考えています。
 ちなみにこれより以前の1392(明徳3)年8月28日の『相国寺供養記』に、管領細川頼元に供奉した安富・香川両氏など郎党二十三騎の名乗りと実名が列記されています。しかし、その中には香西氏はいません。香西氏は、これ以後の被官者であったのかもしれません。どちらにしても香西氏が京兆家内衆として現れるのは、15世紀半ばの常建が初見になることを押さえておきます。
讃岐生え抜きの武士であった香西氏が、どうして畿内で活動するようになったのでしょうか。
細川頼之とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
そのきっかけとなったのが、香西常建が細川頼之に仕えるようになったからのようです。細川頼之は、観応の擾乱で西国において南朝方の掃討に活躍しました。その際に京都の政争で失脚して南朝方に降り、阿波へと逃れた従兄・清氏を討伐します。この結果、細川家の嫡流は清氏から頼之へと移りました。そして細川家は頼之の後は、本宗家と阿波守護家に分かれます。
家系図で解説!細川晴元は細川藤孝や三好長慶とどんな関係? - 日本の白歴史

①本宗家 
頼元が継いだ本宗家は「右京大夫」を継承して「京兆家」  京兆家は摂津、丹波、讃岐、土佐の四ヶ国守護を合わせて継承

②庶流家 
詮春が継いだ阿波守護家は代々「讃岐守」の官途を継承して「讃州家」は和泉、淡路、阿波、備中の各国を継承

阿波守護家が「讃州家」とよばれるのがややこしいところです。

細川家の繁栄の礎を築いたのが細川頼之です。
香西常建は頼之の死後も後継者の頼元に仕えます。細川氏が1392(明徳3)年に「明徳の乱」の戦功によって山名氏の領国だった丹波の守護職を獲得すると、1414(応永21)年には小笠原成明の跡を継いで丹波守護代に補任されました。
香西氏 丹波守護代
丹後の守護と守護代一覧表(1414年に香西常建が見える)
1422年6月8日条には「細河右京大夫内者香西今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」とあり、常建は61歳で亡くなっていることが分かります。細川京兆家の元で一代で讃岐国衆から京兆家内衆の一員に抜擢され、その晩年に丹波守護代を務めたのです。
 ここで注意しておきたいのは、細川氏は管領職のために在京しています。そのため細川家の各国の守護代達も、同じように在京し、周辺に集住していたということです。香西氏が実際に丹後に屋形を構えて、一族が出向いていたのではないようです。
次に登場してくるのが常建の近親者と考えられる香西豊前守元資です。
10 応永32年(1425)12月晦日
  丹波守護細川満元、同国大山荘人夫役につき瓜持ち・炭持ち各々二人のほか、臨時人夫の催促を停止することを守護代香西豊前守元資に命ずる。翌年3月4日、元資、籾井民部に施行する。
(「東寺百合文書」大山村史編纂委員会編『大山村史 史料編』232P頁)
11 応永33年(1426)6月13日
丹波守護代元資、守護満元の命により、祇園社領同国波々伯部保の諸公事停止を籾井民部へ命ずる。(「祗園社文書」『早稲田大学所蔵文書』下巻92頁)

12 同年7月20日
  丹波守護細川満元、将軍足利義持の命により、同国何鹿郡内漢部郷・並びに八田郷内上村を上杉安房守憲房の代官に渡付するよう守護代香西豊前守(元資)へ命ずる。(「上杉家文書」『大日本古文書』上杉家文書1巻55P)

13 永享2年(1430)5月12日
  丹波守護代、法金剛院領同国主殿保の綜持ち人夫の催促を止めるよう籾井民部入道に命ずる。(「仁和寺文 書」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

14 永享3年(1431)7月24日
  香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。(「満済准后日記」『続群書類従』本、下巻270P) 
以上からは香西豊前守(元資)について、次のようなことが分かります。
資料10からは  香西入道(常建)が亡くなった3年後の1425年12月晦日に、元資が臨時入夫役の停止を命じられています。元資は翌年3月4日に又守護代とみられる籾井民部玄俊へ遵行状を出して道歓(満元)の命を伝えています。ここからは、守護代の役目を果たしている常建の姿が見えてきます。
資料11には、元資は幕府の命を受けた守護道歓より丹波国何鹿郡漢部郷・八田郷内上村を上杉安房守憲実代にうち渡すよう命じられています。資料12・13からも彼が、守護代であったことが確認できます。
そして資料14の丹波守罷免記事です。
細川満元のあと丹波守護となっていた子の持之は、醍醐寺三宝院の満済を介して、将軍足利義教に丹波守護代交代の件を願い出ています。『満済准后日記』当日条を見ておきましょう。

右京大夫(持之)来臨す。丹波守護代、内藤備前人道たるべきか。時宜に任すべき由申し入るなり。(中略)右京大夫申す、丹波守護代事申し入るる処、この守護代香西政道以っての外正体なき間、切諫すべき由仰せられおわんぬ。かくのごとき厳密沙汰もっとも御本意と云々。しかりといえども内藤治定篇いまだ仰せ出だされざるなり。

意訳変換しておくと
右京大夫(細川持之)が将軍義教を訪ねてやってきた。その協議内容は丹波守護代を、香西氏から内藤備前人道に交代させるとのことだった。(中略)それに対して将軍義教は香西氏は「もってのほかの人物で、失政を責め、処罰するよう命ずるべきとの考えを伝えた。このため守護代の交代については承認しなかった。
しかし、翌年5月には、香西政道に代わって内藤備前入道が丹波国雀部庄と桑田神戸田について遵行状を出しています。ここからは、守護代が香西氏から内藤氏への交代したことが分かります。香西氏罷免の原因は、永享元年の丹波国一揆を招いた原因が元資にあったと責任を取らされたと研究者は考えています。ここでは、香西元資は失政のために丹波守護代を罷免されたことを押さえておきます。

南海通記は「香西備後守元資」を「細川家ノ四天王」として紹介します。
しかし、その父の常建については何も触れません。元資が丹波守護代であったことも記されていません。その理由について、「常建が傍系の出身であったか、あるいは『南海通記』を記した香西成資が先祖に当たる元資の不名誉に触れたくなかったのではないか」とする説もあります。
 南海通記に、最初に出てくるのは香西氏は香西元資からです。そして丹波守護代であった彼を、「備後守」と誤記します。ここからも南海通記は基本的情報が不正確なことが多いようです。通記の著者には、香西元資以前のことを知る資料は、手元にはなかったことがうかがえます。
この時期には、讃岐でも別の香西氏が活動していたことが次のような資料からうかがえます。
15 1431年9月6日
香西豊前入道常慶、清水坂神護寺より寺領讃岐国坂田郷の年貢未進を訴えられる。この日、幕府は神護寺の主張を認め、「其の上、彼の常慶においては御折檻の間、旁以て御沙汰の限りにあらず」として、常慶の代官職を罷免し寺家の直務とする判決を下す。 
16 嘉吉元年(1441)10月
守護料所讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父死去する。(「仁尾賀茂神社文書」県史116P

17 1441年7月~同2年10月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門所見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114P)


資料16からは「香西豊前の父」が死去したことが分かります。この人物が資料15に登場する常慶だと研究者は判断します。香西氏のうち、讃岐系統の当主は代々「豊前」を名乗っています。この系統の香西氏は、春日社領越前国坪江郷の政所職・醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保の代官職も請け負っています。時期からみてこの香西豊前入道は、仁尾浦代官を務めていた香西豊前の出家後の呼び名と研究者は判断します。
 また資料16からは、当時の仁尾浦代官は香西豊前常慶であったこと、そして父も浦代官として、仁尾の支配を任されていたことが分かります。以前にお話ししたように、細川氏の備讃瀬戸制海権確保のために、塩飽と仁尾の水軍や廻船の指揮権を香西氏が握っていたことが裏付けられます。17は、それに対して仁尾浦の神人達の自立の動きであり、その背後には西讃守護代の香川氏が介入がうかがえます。
   以上からは、15世紀に香西氏には次の二つの流れがあったことを押さえておきます。
①丹波守護代として活動していた豊前守(元資)
②讃岐在住で、仁尾の浦代官など細川氏の瀬戸内海戦略を支える香西氏
以上をまとめておくと
①香西氏が史料に登場するのは南北朝時代に入ってからで、守護細川顕氏に従った香西彦三郎が、建武4 年(1337)に財田凶徒の蜂起鎮圧を命じられているのが初見であること
②観応の擾乱期には、四国での忠節を足利義詮から賞されていること
③その後、香川郡坂田郷の代官を務め、阿野郡陶保・南条山西分の代官職を請け負っていること。
④さらに香西浦を管理するとともに、細川氏の御料所仁尾浦の代官を務めるなど、細川氏の瀬戸内海航路の制海権支配の一翼を担っていたこ
⑤15世紀前半には、細川京兆家分国の1つである丹波国の守護代を務めていたこと
しかし、南海通記には香西氏の祖先が登場するのは、⑤以後で、それ以前のことについては江戸時代には分からなくなっていたことがうかがえます。

今回はここまでにします。以下は次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香西氏の年譜 香西氏の山城守護代就任まで  香川史学1988年
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源頼朝は、源義経・源行家の追捕のために、配下の御家人を全国にわたって守護・地頭に任ずることを、後白河法皇へ願い出てて許可されます。これによって次の二点が実現します。
①頼朝と御家人との私的な主従関係が、公的なものとして認められたこと
②東国だけでなく全国的に鎌倉幕府の勢力が及ぶようになったこと
守護は、有力御家人を国ごとに任じ、国内の御家人への大番役(京都の警固)の催促、謀叛人・殺害人の逮捕などの軍事・警察権を握っていました。地頭は、公領・荘園ごとに置かれ、年貢の徴収・上地の管理などに携わっていました。言うなれば「警察署長 + 税務署長」のようなものです。
義時を討て」後鳥羽上皇の勝算と誤算 承久の乱から武士の世に:朝日新聞デジタル

鎌倉幕府の成立によって「二重政権」のようになって、朝廷の政治的地位は低下します。
その勢力回復を、あの手この手で試みるのが後鳥羽上皇です。それは、源頼朝の死後に頻発する有力御家人の謀叛によって生じた隙をつくものでした。承久元年(1219)正月に三代将軍源実朝は、頼家の子公暁に暗殺されます。このとき幕府では、北条義時が執権となって幕府の実権を握り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとします。上皇はこれを許さず、このため頼朝の遠縁にあたる藤原道家の子頼経を四代将軍に迎えて、幕府の体制を固めます。この事態に対し後鳥羽上皇は、承久3年5月に京都守護伊賀光季を討って、北条義時追討の院宣を発します。幕府は直ちに北条泰時・時房に挙兵上京を命じ、翌月には幕府軍は、京都で御鳥羽上皇の軍勢を鎮圧します。この結果、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上率は土佐へと配流されます。
承久の乱2

この承久の乱に際し、讃岐で鳥羽上皇を支援する側に回ったのが讃岐藤原氏(綾氏)一族です。
讃岐藤原氏の統領、羽床重資の子羽床兵衛藤大夫重基は後鳥羽院側に味方したため、その所領は没収されています。(「綾氏系図」)。また綾氏の嫡流である綾顕国も羽床重員とともに院側に味方したとされます(『全讃史』)。讃岐では讃州藤家の嫡流である羽床重基と、綾氏の嫡流たる綾顕国が、後鳥羽上皇方についたようです。
一方、幕府側についたことが明らかなのは、藤家一族の香西左近将監資村です。
資村は、その忠節により香川郡の守護職に補せられたと云います。(『南海通記』)。しかし、これは守護に代って任国に派遣される守護代の下の守護又代になったにすぎないと『新修香川県史』は指摘します。
イラストで学ぶ楽しい日本史
承久の乱の前と後
一方、承久の乱で院方についた武士として、東讃地域の武士は出てきません。これをどう考えればいいのでしょうか? 
その背景は、源平合戦当時に東讃に勢力をもっていた植田氏一族が、平氏の傘下にあったこがあるようです。植田氏の基盤とした東讃地域は平家方についたために、鎌倉幕府から「戦犯」扱いされ、強い統制下にあったことが考えられます。それが「反鎌倉」の動きを封じ込まれることになったというのです。

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南海通記と南海治乱記
 この点について『南海通記』は、承久の乱後に橘公業が関東の目代として三木郡に居住することになり、東讃四郡の守護になったと記します。しかし、東讃四郡だけの守護はあり得ないし、橘公業が三木郡に住んだという史料はありません。公業は嘉禎二年(1326)2月まで伊予国宇和郡を本拠地としていることが『吾妻鏡』には記されています。南海通記は、後世に書かれた軍記もので「物語」です。史料として無批判に頼ることはできないことが「秋山家文書」などからも明らかにされています。
讃岐 鎌倉時代の地頭一覧表

讃岐の鎌倉時代の地頭一覧表
讃岐の地頭の補任地として、現在17か所が明らかになっています。
  承久の乱後、勝利した鎌倉幕府は後鳥羽上皇に与した貴族(公家)や京都周辺の大寺社の力をそぐために、その荘園に新たに地頭を置きます。これを新補地頭(しんぽじとう)と呼びます。上の表を見ると分かるように、1250年代以前に置かれたことが史料で確認できる地頭職6つのうちで、承久の乱後に地頭が補任されたのは次の4ヶ所です。
法勲寺領・櫛梨保・金蔵寺領・善通寺領

地域的に見ると丸亀平野に集まっています。金蔵寺領は、間違って地頭が置かれたようですが、残りの三か所では、その地域に勢力を持つものが院方に味方したために没収されて、その所領に新たに地頭が任命されたことが考えられます。ここからは綾氏一族の綾顕日、羽床重基だけでなく丸亀平野の武士たちの多くが院方に味方していたことがうかがえます。彼らは、羽床重基に率いられた藤家一族だったことが推測できます。これが承久の乱後の地頭補任が、丸亀平野に限られていることと深く関係しているようです。

讃岐藤原氏系図1
讃岐藤原(綾)氏の系図

それならば、院側についた綾氏一族は、乱後に国府の在庁官人群から一掃されたたのでしょうか?
建長8年(1256)の史料には、讃岐の在庁官人として、新居藤大夫資光の孫の新居刑部次郎資員と重晨の従兄弟の羽床藤大夫藤四郎長知の名があります。院方に味方したと思われる羽床氏や新居氏の一族が、従来に在庁官人の地位にとどまっていることが分かります。
その理由として研究者は次のように考えています。

「院方に味方したということで、藤家一族を讃岐の国衛から排除すると、讃岐の支配を円滑に行えないために、在地で大きな勢力をもっていた藤家一族に依存せざるを得なかった

藤家一族は、承久の乱も讃岐の国衛で重要な地位に就いていたようです。
羽床城 - お城散歩
羽床城跡
以上をまとめておくと
①源平合戦の際に、讃岐綾氏の系譜を引く讃岐藤原氏は平家を裏切って、いち早く源氏方の御家人となり、鎌倉幕府の信頼を得て、その後の讃岐国衙の在庁役人として重要な役割を果たすようになった
②承久の乱では、讃岐藤原氏の主流派は後鳥羽上皇に味方し、乱後に所領の多くを失った。
③乱後に新補地頭がやって来た荘園は丸亀平野に多いので、讃岐藤原氏主流派の配下にあったのが丸亀平野周辺の武士団であし、彼らが「戦犯」としてと所領没収されたこと
④東讃は、源平合戦の際に平家方に味方し、その後に鎌倉幕府の「戦後処理」が厳しかったために後鳥羽上皇側に味方する武士団は現れなかったこと
⑤しかし、乱後も後鳥羽上皇を支援した新居氏や羽床氏の子孫は在庁役人としてとどまっていること、
ここからは、承久の乱を契機に羽床氏などの讃岐藤原氏の主流派が国衙から一掃され、それに代わって讃岐藤原氏の惣領家が香西氏に移行したとは云えないようです。 ここでも「南海通記」の見直しが求められています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   以前紹介した、朝鮮の日本回礼使として来日した宋希環が記した『老松堂日本行録』には、瀬戸内海を航行した時の様子が詳しく書かれていました。応永二七(1420)年のことで、足利将軍への拝謁を終えて、帰国する瀬戸内海で海賊に何回も出会ったことが記されています。その中に備前沖で、船に乗り込んできて酒を飲んでいった護送船団の司令官のことが書かれています。名前は「謄資職」と名乗っています。
「謄資職」という人物は何者なのでしょうか?
 謄は、藤原の「藤」姓を中国風に表記したもので、「資職」は香西氏が代々使う「資」の字があります。ここから資職は、香西氏の一族と推定できると研究者は考えているようです。この記事では、酒を飲ませたと記されていますが、実態は警固料を支払ったことを示すようです。備讃瀬戸を通過する船から香西氏が警固料をとっていたことがうかがえます。
 これから200年前のことです。鎌倉幕府成立直後は、西国に基盤を持たない源氏政権を見透かすかのように平家の残党と思われる海賊が活発な活動を展開します。幕府は度々追捕命令を出して、海賊を召し捕るように命じています。寛元四年(1246)3月、讃岐国の御家人・藤左衛門尉は海賊を捕らえ、六波羅探題へ護送しています。これが讃岐周辺の「海賊討伐」の最初の史料のようです。海賊討伐に名前を残している「藤左衛門尉」も姓は「藤」氏です。想像力を膨らませると、警護船のリーダーの「謄資職」は、「藤左衛門尉」の子孫かもしれないと思えてきたりします。そうだとすると香西氏は、鎌倉期から備讃瀬戸で海上軍事力をもった海の武士であったことになります。
  香西氏は、古代豪族の綾氏の流れを汲み、中世は在庁官人として活躍した讃岐藤原氏の総領家です。そして備讃海峡の塩飽諸島から直島にも勢力を伸ばした領主です。対外的に名乗るときには「藤」氏を用いていたようです。南北朝期以降は守護細川氏に仕え、近畿圏で活躍し、大内氏や浮田氏、信長とも関わりがありました。
  初期の香西氏は勝賀山上に勝賀城を、その山麓に平時の居城として佐料城を構えていました。
佐料は、香西よりも内陸寄りの高松市鬼無町にありますが、香西資村の出自である新居(にい)や、同じく新居からの分家という福家(ふけ)は、さらに内陸の国分寺町に地名として残っています。笠居郷の開発とともに、香西氏も瀬戸内海へと進出し、水軍を持つと同時に直島や本島をも勢力圏におくなど「海賊」的な動きも見せます。このような中で天正年間に入り、海に近い香西浦の藤尾城に本拠地を移したことは以前に、お話しした通りです。
 細川氏の瀬戸内海制海権実現のために、海上防衛体制を任務にしていた気配があります。

香西氏が備讃瀬戸の東域を管理していたとするなら西域を担当していたのが仁尾浦の仁尾浦の神人たちだったようです。
香西氏と考えられる「謄資職」が朝鮮からの使節団の警備を行った同じ年に、守護細川満元が次のような文書を仁尾の神人に出しています。
 兵船及度々致忠節之条、尤以神妙也、
甲乙人帯当浦神人等、於致狼籍輩者、可處罪科之状如件
 応永廿七(1420)年十月十七日 
                  (花押)
 仁尾浦供祭人中
意訳すると
 求めに応じて兵船を提供するなど平素からの忠節は、非常に神妙である。仁尾浦の神人が狼藉の輩を取り締まり罰する権利があるのはこれまで通りである

文書の出された年月を見ると、先ほどの文書と同じ応永27年になっています。ここからは仁尾浦の神人たちも朝鮮の日本回礼使の際に、守護細川氏の兵船として御用を努めていたことがうかがえます。
 神人たちは仁尾浦の賀茂神社に奉仕する集団でした。
賀茂社は原斎木朝臣吉高が、山城国賀茂大神の分霊を仁尾大津多島(蔦島)に勧進したのが始まりとされます。その後、堀河上皇が諸国に御厨を置きますが、そのひとつが蔦島周辺だったようです。こうして仁尾浦の住人は、賀茂社の神人として特権的な立場を利用して海上交易活動にも進出していきます。明徳二年に、細川頼元が別当神宮寺を建立して以後は、祭礼に毎年のように細川氏から使者が遣わされるようになります。守護細川満元は、仁尾浦御祭人中に対する京都の賀茂社の課役を停止し、代わって細川氏に対する海上諸役を勤めるように命じます。こうして仁尾浦は京都賀茂社の支配から、細川氏の支配下へ組み込まれていったようです。
 このように仁尾浦は、
①賀茂社神人らの海上交易・通商活動の拠点であり、
②守護細川氏の守護御料所として瀬戸内海海上防備の軍事上の要衝でもあり
③直接支配のために香西氏が浦代官として派遣された。
仁尾浦が背後に七宝山が迫る耕地の狭い地形でありながら「地下家数五六百軒」を擁する町屋を形成していたのは、海上交易による経済力の大きさがあったからのようです。

 仁尾浦の警固衆は海賊衆から発展したのではなく、賀茂神社の御厨(みくり)として設置された社領の神人たちから形成されました。そのために守護直属の海軍力として、すんなりと変更できたのかもしれません。ここからは
①管領細川氏(備中・讃岐守護)による備讃瀬戸の海上交易権の掌握
②その実働部隊としての讃岐・香西氏
③香西氏配下の海上警備部隊としての仁尾・塩飽・直島
という海上警備・輸送部隊が見えてきます。このような警備網が整っていないと、安心安全に瀬戸内海の交易活動は行えません。また、京都の富の多くは瀬戸内海を通じて西国からもたらされていたのです。そして、非常時には細川氏は瀬戸内海海上輸送ルートで讃岐の武士団を招集していました。そのためにも、瀬戸内海交易ルートの防衛は、重要な意味を持っていたと研究者は考えているようです。
 小豆島の海賊衆 
小豆島の史料の中にも海賊(海の武士団)の姿が見えるようです。
 永享六年(1434)に、小豆島周辺に海賊が横行しているために、幕府は備後国守護山名氏に遣明船警固を命じています。この海賊衆は小豆島を拠点とした一団であったと考えられます。
 これより以前の南北朝期に、備前国児島郡の佐々木信胤は、小豆島へ渡り、島の海賊衆を支配下におき、南朝勢力として活動します。信胤は南朝方の紀伊国熊野海賊衆と連携を持ち、備讃瀬戸の制海権を握ろうとしたようです。その拠点が小豆島だったと考えられます。

しかし、直接的に小豆島の海賊衆の存在を示す史料はないようです。
 室町時代になると小豆島は、細川氏の支配下にあり東讃守護代の安富氏によって管轄されていました。『小豆島御用加子旧記』には、細川氏のもとで小豆島は加子役を担っていたと記されていますが、詳しいことは分かりません。
  室町後期の小豆島池田町の明王寺釈迦堂の文字瓦に、次のようなことが記されています。
 大永八年(1528)戊子卯月二思立候節、細川殿様御家 大永六年より合戦始テ戊子四月に廿三日まて不調候、
児島中関立中堺に在津候て御留守此事にて無人夫、
本願も瓦大工諸人気遣事身無是非候、阿弥陀仏も哀と思食、後生善所に堪忍仕、こくそつのくおのかれ候ハん事、うたかひあるましく、若いかやうのつミとか仕候共、かやうに具弥陀仏に申上うゑハ相違あるましく実正也、如此各之儀迄申者ハ池田庄向地之住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年廿七同申剋二かきおくも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ

意訳すると
 この文書は「大永七年(1527)に、細川晴元が軍勢を率いて堺へと渡り細川高国と戦った。その際に晴元は、児島と小豆島の海賊(海の武士集団)から兵船を徴発した。小豆島海賊衆は晴元に従い、一年余堺に出陣し、島を留守にしたために人夫も手当てできなかった。
  ここには「児島中関立中 堺に在津候て」と「関立」がでてきます。「関立」とは、当時の海賊の呼称であったことは以前お話ししました。小豆島にも大永年間には、海賊衆(水軍)が存在していたようです。また、その海賊衆は細川晴元の命令で動いているようです。
  天文18年には晴元と三好長慶が摂津で戦いますが、東讃守護代の安富氏は晴元に従わずに戦いには参加していません。そのためか晴元は敗れています。この時には小豆島は安富氏に領有されていたようです。小豆島の海賊(海の武士団)の命令系統は、次のように考えられます
  ①管領・細川氏→ ②東讃守護代安富氏→ ③小豆島の海賊衆

 その後の島の海賊衆の動きが見える史料はありません。
ただ『南海通記』は、島田氏が小豆島の海賊衆の棟梁として存在し、寒川氏によって率いられていたと記します。細川氏の御用下で、塩飽と同じように能島村上氏の支配下に当たっています。しかし、その状況を示す史料はなく、詳しいことは分からないようです。

以上見てきたことをまとめると
①管領細川氏は西国支配のために瀬戸内海海上ルートの防衛体制に心を砕いている
②備中と讃岐を自分持ちの国として、その間の備讃瀬戸の制海権確保に努めた。
③その際に、香西氏や仁尾浦・小豆島の海上力を利用している
④讃岐と近畿との海上輸送が確保できていたために、讃岐武士団の近畿への動員もスムーズに進み、細川家の政治運営に大きく寄与した。
⑤細川家衰退後には備讃瀬戸には、能島村上氏の力が及ぶようになり、塩飽や小豆島はその支配下に置かれることになる。
⑥また弱小の海上軍事勢力(海賊衆)は、存在意味をなくし衰退し、丘上がりをするものも現れた。

おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
橋詰茂   讃岐海賊衆の存在  瀬戸内海地域史研究8号2000年



香西漁民の讃留霊王信仰の高まりの背景は?

イメージ 1

飯山町下法勲寺には、讃留霊王神社があります。

法勲寺跡 讃岐国名勝図会

   飯野山と讃留霊王墓・法勲寺跡(讃岐国名勝図会 幕末)
讃留霊王の古墳とされる後円部の上が玉垣で囲われ聖域となっています。そこに近世以後に新しく神社が建てられます。その背景には、讃岐における讃留霊王伝説の広がりがあります。

讃留霊王神社 讃岐国名勝図会
讃留霊王神社拡大図 「讃王明神」とあり、背後に陵墓がある

讃岐のローカルストーリであった讃留霊王説話を本居宣長が「古事記伝」にとりあげると「讃留霊王=讃岐の国造の始祖=綾氏の祖先」とする認識が全国的に広がり、認知度もアップします。これも、綾氏を祖先とする人々の讃留霊王信仰の拡大につながりました。

 なぜ讃留霊王神社が香西漁民の信仰を集めたのでしょうか?
 讃留霊王は、悪魚退治に従った漁民に瀬戸内海での漁業の自由をゆるした

とも言われはじめ、漁民の信仰も集めるようになります。この神社の境内には明治に建立された際の王垣が立っています。
その中に高松の香西港の漁民「香西久保利作、漁方中」の名が見えます。また、境内に建つ旅所由緒之碑には、次のように記されています。
神社氏子は、明治初期まで香西浦と直島にも存し、此の方々崇敬厚く、催事を司り、また春の初鯛の献上を恒例としていたと伝えり。」
意訳変換しておくと
(当社の)氏子は、明治初期までは香西浦や直島にもいた。その方々の崇敬は厚く、祭礼行事に参加するとと共に、春の初鯛の献上を恒例としていたと伝わる」

香西浦や直島の漁民が祭事に係わり、春の初鯛献上を毎年行っていたとと刻まれています。香西漁民が讃留霊王説話をどのように受け止め、歴史意識を形作っていったのでしょうか? 探ってみることにします。
香西漁港の三和神社 「瀬居島漁場碑」を読む

香西湊の三和神社と讃留霊王顕彰碑
三和神社(高松市香西)と「瀬居島漁場碑」 
高松市の西にある香西漁港には漁民達から信仰を集めた三和神社が鎮座しています。もとは海神社と呼ばれていたことからも海に関係した神社であることが分かります。この神社の境内に「瀬居島漁場碑」が立っています。120年ほど前の明治32年(1899)に立てられた碑です。読んでみましょう。
「相伝う。景行の朝、讃の海に巨魚有り。漁民之を畏れ敢えて出漁せず。天皇、皇孫武殼王を遣わす之を除く。王、網を結び魚を掩い殺し、遺類莫し。百姓慶頼す。因って其の地を称して網の浦と曰うと云う。嗚呼往昔は皇威悪魚を駆りて民の害を除き、今は官裁漁域を定めて争訟をおさむ
意訳変換しておくと
 景行天王の時代(4世紀)、讃岐の海に巨大な悪魚が現れた。そのため漁民はこれお怖れて出漁出来なかった。景行天皇は、皇孫武殼王(神櫛王・讃留霊王)に命じて、討伐することを命じた。そこで王は、網を結んで悪魚を捕獲し、憂いをなくした。これを見て、百姓は大喜びした。そのためその地を「網の浦」と呼ぶようになった。このように香西は、往昔は皇威を駆りて悪魚を駆逐し、今は国家の裁定で漁域を保証されて、漁業権を巡る争訟に勝利した。

武殼王は景行の孫、日本武尊の子として記紀にも出てきます。
しかし、悪魚退治は讃岐で付け加えられた讃岐独特の伝説です。悪魚退治ののち讃岐に留まったので讃留霊王と呼んだと讃岐では言い伝えています。
 この碑の内容は、香西漁民の先祖の活躍には比重は置かれていないように感じます。それよりも、先祖が悪魚退治をおこなった讃留霊王に世話になった話として書かれています。最後に、むかし讃留霊王の世話になったように今は官(明治政府)のお陰で白分たちの漁域が守れたと結んでいます。
 この官裁というのは、明治19年に下津井の漁場争いで、香西漁民に有利な裁決が大阪控訴院によって下されたことをさします。つまり、自分たちの漁場が守れた嬉しさから武殼王(讃留霊玉)を連想し、敬っているのが「瀬居島漁場碑」です。

4344102-66鯛網漁 大槌
香西漁民による大槌島での鯛網漁(讃岐国名勝図会)

 ところが、大正期に入ると歴史意識がさらに進化します

大正5年(1916)に香川県水産試験場が発行した「鯛漁業調査」には鯛網の起源として、次のように書かれています。 
鯛網ノ起源ハ、十二代景行天皇廿四年、当漁場大槌島・小槌島ノ南二海上ノ通航船呑ム悪鱒棲み居り候故、鱒又卜云フ。廿五年皇子日本武尊ノ御子讃留霊王、大鱒退治ノ勅ヲ奉じ、三月ヨリ弥々退治ノ御用意二付き、叫臣下ヲ召寄セ御評議色々工夫ノ上、始メテ網の事ヲ案出シ、魚引キ揚ゲ候段、
讃留霊王御感ジノ余り御褒美トシテ即ち網ヲ給リ、当網代ノ義、瀬居島海猟場御免許成られ候二付き、彼ノ網ヲ以テ鯛網当浦二於テ初メテ出来、瀬居島海ニテ猟業仕り候二付き、往古ヨリ瀬居島海香西浦漁場二相限り申し候。茲に因って香西鯛網ハ、当国ハ勿論、近国二於ケル網ノ元祖ニテ、是ヨリ追々諸網開キ候モノ也。鯛網ノ元祖讃留霊王御寿百廿五歳、仲哀天皇八年亮ゼラル。鵜足郡玉井法勲寺村御陵墓二讃王神号ヲ奉ルト言フ」
意訳変換しておくと
鯛網の起源は、十二代景行天皇24年、当漁場の大槌島・小槌島の南の海上に通航する船を飲み込む悪魚が棲み着いたことに始まる。25年に天王は皇子日本武尊の御子讃留霊王(神櫛王)に、悪魚退治を命じた。そこで王子は3月から準備を進め、臣下を呼び寄せて評議した結果、網で捕まえる案が出され、悪魚は引揚げられた。
讃留霊王は、この成果に感心し褒美として網を漁民に与えた。当漁港の漁場権については、瀬居島周辺が与えられ、王子から下賜された網で鯛網を行ったのは、香西浦が初めてである。また瀬居島周辺でも操業を行ってきたので、古くから瀬居島は香西浦の漁場とされてきた。よってここに香西鯛網はもちろん、近国における網の元祖であり、その他の網は、それから追々に開始された。鯛網の元祖である讃留霊王は寿125歳、仲哀天皇八年に亡くなった。鵜足郡玉井法勲寺村御陵墓に讃王神号を奉るという
ここでは、香西漁師が讃留霊王が悪魚退治の際に、網を初めて使用して大活躍し、その結果讃留霊王から漁場をもらったことになっています。
「自分たちが讃留霊王に従って悪魚退治を行った末裔である」だから、「瀬戸内海での特別な漁業圏を与えられた漁民」
という「選民意識」的な歴史意識を主張するようになっていることがうかがえます。
 「香西浦ノ漁夫御用子ア罷り出」というところは、江戸時代の御用水主そのままです。江戸時代は御用水主というだけで漁業権は保護されていましたから、讃留霊王の権威などは借りる必要はありませんでした。実際、近世の文書には漁民が讃留霊王のことに触れたものは見当たりません。
せい島の鯛網
瀬居島の鯛網漁(明治後期)

明治になり、香西浦はそれまでの水主浦としての特権を失います。
従来の漁業権が無効になり、漁場争いが激化していく中で、香西の漁民達は自分たちが「讃留霊王から保護を受けた特別な漁民集団」であることを主張し、いままでの権益を守っていく道を選んだのかもしれません。そのためにも遠く離れた讃岐富士の麓に鎮座する讃留霊王神社奉納品を贈ります。それが

「信徒は香西浦と直島にも存し、此の方々崇敬厚く、催事を司り、また春の初鯛の献上」

と讃留霊王神社の碑文に記されることになったのでしょう。 香西漁民を習うかのように直島の漁民達もこの神社に多くの寄付をするようになります。いわば意識の伝播が見られるのです。民衆はその時代が必要とする歴史意識を生みだし、広げていくのです。

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