瀬戸の島から

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中世の多度郡の郡司を綾氏の一族が務めていた史料があります。

善通寺一円保の位置
善通寺一円保の範囲

弘安三年(1280)、善通寺の本寺随心院の政所が善通寺一円保の寺僧や農民たちに発した下知状です。

随心院下知状(1280)
書き下し文は
随心院政所下す、讃岐國善通寺一円寺僧沙汰人百姓等
右営一円公文職は、大師御氏人郡司貞方の末葉重代相博し来る者也。而るに先公文覺願後難を顧りみず名田畠等或は質券に入れ流し或は永く清却せしむと云々。此条甚だ其調無し。所の沙汰人百姓等の所職名田畠等は、本所御進止重役の跡也。而るに私領と稀し自由に任せて売却せしなるの条、買人売る人共以て罪科為る可き也。然りと雖も覺願死去の上は今罪科に処せらる可きに非ず。彼所職重代相倅の本券等、寺僧真恵親類為るの間、先租の跡を失うを歎き、事の由を申し入れ買留め畢んぬ。之に依って本所役と云い寺家役と云い公平に存じ憚怠有る可からずの由申す。然らば、彼公文職に於ては真恵相違有る可からず。活却質券の名田畠等に於ては皆悉く本職に返付す可し。但し買主一向空手の事不便烏る可し、営名主の沙汰と為して本錢の半分買主に沙汰し渡す可き也。今自り以後沙汰人百姓等の名田畠等自由に任せて他名より買領する事一向停止す可し。違乱の輩に於ては罪科篤る可き也。寺家
沙汰人百姓等宜しく承知して違失す可からずの状、仰せに依って下知件の如し。
弘安三年十月廿一日       上座大法師(花押)
別営耀律師(花押)        上座大法師
法 眼
意訳変換しておくと
一円保の公文職は、弘法大師の氏人である郡司綾貞方の子孫が代々相伝してきたものである。ところが先代の公文覚願は勝手に名田畠を質に入れたり売却したりした。これは不届きなことである。所領の沙汰人(下級の荘園役人)や百姓の所職名田畠は、本所随心院の支配するところであって、それを私領と称して勝手に売り渡したのであるから、売人、買人とも処罰さるべきである。
 しかし、覚願はすでに死亡しているので、今となっては彼を処罰することはできない。それに公文職相伝の本券=基本証書は、寺僧の真恵が公文の親類として先祖伝来の所職が人手に渡るのを歎いて買いもどした。そして公文名田に賦せられた本所役や寺家役も怠りなくつとめると申してていることだから、公文職は真恵に与えることとする。覚願が売却したり質入れしたりした名田畠は、公文職に付随するものとして返却しなければならない。しかし、買手が丸損というのも気の毒だから、当名主(現在の名主)として代銭の半分を買主に渡すようにせよ。今後沙汰人、百姓等の名田畠を勝手に売買することは固く禁止する

ここからは次のようなことが分かります。
①善通寺一円保の公文職は、代々に渡って多度郡司の綾貞方の子孫が務めてきたこと
②綾氏一族の公文職覚願が、本寺随心院に無断で名田などを処分したので彼を罷免したこと
③そこで、綾氏一族の寺僧真恵が売られた田畑を買い戻したので、代わって公文に任じた
冒頭に出てくる「大師の氏人郡司貞方の末裔」とは 、平安末期に多度郡司であった綾貞方という人物です。
綾氏は讃岐の古代以来の豪族で、綾郡を中心にしてその周辺の鵜足・多度・三野郡などへの勢力を伸ばし、中世には「讃岐藤原氏」を名乗り武士団化していた一族です。彼らが13世紀には、佐伯氏に代わって多度郡の郡司を務めていたことが分かります。彼らは多度郡に進出し、開発領主として成長し、郷司や郡司職をえることで勢力を伸ばしていきます。
 さらに、この史料には「公文職の一族である寺僧眞恵」とあります。
ここからは寺僧真恵も綾氏の一族で、公文職を相伝する有力な立場の人物だったことが分かります。真恵は、ただの寺僧ではなく、先の公文が失った田畠をすべて買い戻すほどの財力の持主であり、一円保の役人の首である公文に任命されています。つまり真恵は、寺僧であるとともに、綾氏という有力武士団の一族に属し、地頭仲泰と対峙できる力を持っていた人物だったことを押さえておきます。

 綾氏は、讃岐の古代からの有力豪族です。
綾氏は平安末期に阿野郡郡司綾貞宜(さだのり)の娘が国主藤原家成(いえなり)の子章隆(あきたか)を生みます。その子孫は讃岐藤原氏と称して、香西・羽床・福家・新居氏などに分かれて中讃に勢力を広げ、讃岐最大の武士団に発展していました。また、源平合戦では、平家を寝返っていち早く源頼朝について御家人となり、讃岐国衙の在庁役人の中心として活躍するようになることは以前にお話ししました。一族は、綾郡や鵜足郡だけでなく、那珂・多度・三野郡へも勢力を伸ばしてきます。その中で史料に出てきた綾貞方は、多度郡司でもあり、善通寺一円保の公文職も得ていたことになります。この綾貞方について、今回は見ていくことにします。テキストは 「善通寺市史第1集 鎌倉時代の善通寺領 411P」です。

先ほどの史料冒頭「一円公文職者大師御氏人郡司貞方之末葉重代相博来者也」とある部分を、もう少し詳しく見ていくことにします。
「公文」とは文書の取扱いや年貢の徴収などにあたる荘園の役人です。善通寺の公文には、郡司綾貞方の子孫が代々この一円保の公文職に任ぜられていることが分かります。そして、その貞方が初代公文のようです。しかし、この時期には、一円領はまだ寺領として確定せず、基本的には国衙支配下にあったはずです。だとすると貞方を一円領の公文に任じたのは国衙ということになります。貞方は、荘園の公文と同じように、国衙の特別行政地域となった一円寺領の官物・在家役の徴収をまかされ、さらに地域内の農民の農業経営の管理なども行った人物と研究者は考えています。
「郡司貞方」とあるので、多度郡司でもあり「一円保公文」職は、「兼業」であったことが推測できます。
もし、貞方が一円地の徴税権やは管理権を国衙から与えられていたとすれば、彼の次のねらいはどんな所にあったのでしょうか。つまり、一円保を国衙や本寺随心院から奪い、自分のものにするための戦略ということになります。直接それを示している史料はないので、彼のおかれていた状況から想像してみましょう。
綾貞方は古代讃岐豪族綾氏の一族で、多度郡の郡司でもありました。
この時代の他の多くの新興豪族と同じ様に、彼も律令制の解体変化の中で、有力領主への「成長・変身」をめざしていたはずです。
 まず一円領内の彼の置かれていた立場を見ておきましょう。
①在家役を負担しているので、彼の田畠は他の農民と同じく国衙から官物・雑役を徴収されていた
②公田請作のほかに、先祖伝来の財力と周辺農民への支配力を利用して未開地を開発して所領に加えていた
②多度郡郡司として、行政上の権力や特権的所領も持っていた
しかし、これらの権限や特権を持っていたとしても国衙からの支配からは自立できません。新興有力者と国衙の関係は、次のような矛盾した関係にあったのです。
①一方では国衛から与えられた権限に依拠しながら領主として発展
②一方では国衙の支配下にある限り、その安定強化は困難であること

①については貞方が、徴税権と管理権を通じて領域農民を掌握できる権限を与えらたことは、彼の領主権の確立のためにの絶好の手がかりになったはずです。しかし、この権限は永続的なものではなく不安定なものでした。例えば、国司交代で新たな国司の機嫌を損なうようなことをすれば、すぐに解任される恐れもあります。
では権力の不安定さを克服するには、どうすればいいのでしょうか。
それは善通寺と協力して一円寺領地を国衙支配から切り離し、その協力の代償として寺から改めて一円公文に任命してもらうことです。その時に、それまでの権限よりも、もっと有利な権限を認めさせたいところでしょう。
 このように綾貞方とその子孫たちは、徴税、勧農を通じて、一円領内の農民への支配力を強め、在地領主への道を歩んでいたようです。 別の視点から見ると、形式上は一円保の名田や畠は、随心院~善通寺という領主の所有になっているけれども、実質的な支配者は公文職を世襲していた綾氏だったとも云えそうです。だから公文職について覚願は、名田や畠を勝手に処分するようになっていたのです。


善通寺の寺領
善通寺一円保と周辺郷名

公文職の綾氏の領主化にピリオドを打つ人物が真恵です。
真恵が公文職に就いてから12年後の正応五年(1292)3月に、善通寺から六波羅探題へ地頭の押領に関する訴状が出されています。
訴訟相手は、良田荘の地頭「太郎左衛門尉仲泰良田郷司」です。彼は良田郷の郷司でもあったようです。仲泰が後嵯峨法皇御菩提料や仏への供物などに当てるための多額の年貢を納めずに、「土居田(どいでん)と号して公田を押領す」とあります。仲泰は「土居田=直属の所領」と称して一般の農民の田地を奪っていたようです。善通寺は、その不法を訴えますが、六波羅の奉行の阿曽播磨房幸憲と地頭仲泰と結託していて、寺領侵害を長年にわたって止めることはできませんでした。
このような寺領紛争に、のり出しだのが綾氏出身の真恵でした。
 先ほど見たように真恵は、弘安三年(1280)十月に善通寺一円保の公文職についた人物です。当時の彼は善通寺大勧進になっていました。大勧進というのは堂塔の造営や修理、寺領の管理など寺院の重事にその処理の任に当たる臨時職です。大勧進の職についた真恵は、その職権を持って地頭の仲泰と交渉を進め、永仁六年(1298)に、良田郷を下地中分することにします。
  下地中分(しもちちゅうぶん)というのは、荘園の土地を荘園領主と地頭とで折半し、それぞれの領有権を認めて互いに干渉しないことにする方法です。荘園領主としては領地の半分を失うことになりますが、そのまま地頭の侵害が進めば荘園は実質的に地頭の支配下に入ってしまうかもしれません。それを防いで半分だけでも確保したいという荘園領主側の意向から行われた処置でした。
 善通寺が地頭仲泰の荘園侵害を防ぎきれず、下地中分をせざるを得なかったのは、結局善通寺が荘園に対して地頭に対抗できるだけの支配力を持たなかったからだといえます。したがって寺の支配力の強化が計られなければ、下地中分後の寺領もまた在地武士の侵害を受ける可能性があります。一円保公文として荘園管理の経験があり、また彼自身在地領主でもあった真恵は、そのことを痛感したのでしょう。
そこで真恵が計画した中分後の寺領支配の方法は次のようなものでした。大勧進真恵寄進状(A・B通)に、次のように記されています。

大勧進真恵寄進状A.
大勧進真恵寄進状A

意訳変換しておくと
(地頭との相論で要した訴訟費用)一千貫文は、すべて真恵の私費でまかなったこととにする。その費用の代として、一町別五〇貫文、一千貫文分二〇町の田を真恵の所有とする。そのうえで改めてその田地を金堂・法華堂などに寄進する。その寄進の仕方は、金堂・法華堂の供僧18人に一町ずつの田を配分寄進し、町別に一人の百姓(名主)を付ける。残りの2町については、両堂と御影堂の預僧ら3人に5段ずつ、合わせて1町5段、残る5段は雑役を勤める下級僧侶の承仕に配分する。別に2町を大勧進給免として寄進する

大勧進真恵寄進状B
大勧進真恵寄進状B

真恵寄進状とありますが、その実態は「大勧進ならびに三堂供僧18人口、水魚の如く一味同心せしめ、仏法繁栄を専らにすべし」とあるように、田地と百姓の配分を受けた寺僧らが大勧進を中心に結束して寺領を維持していこうとする「善通寺挙国(寺)一致体制」作りにほかなりません。真恵が訴訟費用の立替分として自分のものとし、次いで善通寺に寄進した土地は、中分で得たほとんどすべてです。このようなもってまわった手続きを行ったのは、新しい支配体制が、それまでの寺僧の既得権や名主百姓の所有権を解消して再編成するものであったことを著しています。普通の移行措置では、今まで通りで善通寺は良くならないという危機意識が背景にあったかもしれません。真恵の考えた「寺僧による集団経営体制」ともいえるこの体制は、当時としてはなかなかユニークなものです。

「B」の冒頭の「眞惠用途」とは 、大勧進としての真恵の用途(=修理料)を指すと研究者は考えています。内容を整理すると、
① 大勧進の真恵が良田郷の寺領について、地頭との間で下地中分を行ったこと
②その際に領家分となった田畠2町を供僧等に割り当てたこと
③それに加えて、寺僧中二人の學頭とも断絶したときには 、大勧進沙汰として修理料とすること
④Aとは別に良田郷内の2 町の田畠を大勧進給免として配分すること
⑤大勧進職には自他の門弟の差別をせずに器量のあるものを選ぶこと
⑥適任者がいないときには 「二十四口衆」の沙汰として修理料とすること

   以上のように、真恵は綾氏出身の僧侶で、寺院経営に深く関わり、地頭と渡り合って下地中分なども行える人物だったことが分かります。現在の我々の「僧侶」というイメージを遙かに超えた存在です。地元に有力基盤をもつ真恵のような僧が、当時の善通寺には必要だったようです。そういう目で見ると、この後に善通寺大勧進として活躍し、善通寺中興の祖と云われる道範も、櫛梨の有力者岩崎氏出身です。また、松尾寺を建立し、金比羅堂を建てた宥雅も西長尾城主の弟と云われます。地方有力寺院経営のためには、大きな力を持つ一族の支えが必要とされたことがうかがえます。
大勧進職の役割についても、見ておきましょう。
 Bの冒頭には「大勸進所者、堂舎建立修理造營云行學二道興行云偏大勸進所可爲祕計」とあります。ここからは伽藍修造だけでなく、寺院経営までが大勧進職の職掌だったことがうかがえます。Aでみたように、下地中分や、供僧への田畠を割り当てることも行っていることが、それを裏付けます。

 B によって設定された大勧進給免田畠2町は、観応3年(1352)6月25日の誕生院宥範譲状で 「同郷(良田郷)大勸進田貳町」と出てきて、宥源に譲られています。善通寺の知行権を伴う大勧進職の成立は、真恵譲状の永仁6年から始まると研究者は考えています。

 しかし、真恵がめざした「大勧進+寺僧集団」による良田荘支配は、本寺随心院の干渉によって挫折します。
真恵のプランは、随心院からみれば本寺の権威を無視した末寺の勝手な行動です。そのまま見逃すわけにはいきません。末寺善通寺と本寺随心院との良田荘をめぐる争いは徳治2年(1306)まで約10年間続きます。
TOP - 真言宗 大本山・隨心院

随心院は、摂関家の子弟が門跡として入る有力寺院です。
善通寺の内にも真恵の専権的なやり方に不満を持った僧がいたのでしょう。争いは次第に善通寺側に不利になっていきます。結局、真恵の行った下地中分は取り消され、良田荘は一円保と同じように随心院を上級領主とする荘園になったようです。真恵による寺領経営プランは、本所随心院の圧力により挫かれたことになります。そして、真恵は失脚したようです。

以上をまとめておくと
①古代讃岐の有力豪族であった綾氏は、鵜足郡や阿野(綾)郡を拠点にして、その勢力を拡大した。
②西讃地方でも、中世になると那珂郡・多度郡・三野郡などで綾氏一族の末裔たちの動きが見えるようになる。
③13世紀末の史料からは、綾定方が多度郡の郡司で、善通寺一円保の公文職を務めていたことが分かる、
③綾貞方の子孫は、その後も善通寺一円保公文職を務めていたが、覚願が、本寺随心院に無断で名田などを処分したので罷免された。
④そこで、綾氏一族の寺僧真恵が売られた田畑を買い戻し、公文に就任した
⑤それから18年後に真恵は、善通寺大勧進となって良田荘の地頭と渡り合って下地中分を成立させている。
⑥そして田地と百姓の配分を受けた寺僧らが大勧進を中心に結束して寺領を維持していこうとする体制造りをめざした
⑦しかし、これは本寺随心院の支持を得られることなく、真恵は挫折失脚した。

ここからは、中世には綾氏の武士団化した一族が多度郡に進出し、多度郡司となり、善通寺一円保の公文職を得て勢力を拡大していたことがうかがえます。そして、その中には僧侶として善通寺大勧進職につきて、寺院経営の指導者になるものもいたようです。善通寺など地方有力寺院は、中世には、このような世俗的な勢力の一族を取り込み、寺院の経済基盤や存続を図ろうとしていたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山之内 誠  讃岐国善通寺における大勧進の性格について 日本建築学会計画系論文集 第524号.,305−310,1999年
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  古代の綾氏の系譜をひくとされる讃岐藤原氏は讃岐の武士の中で最大の勢力を持っていたとされます。それは讃岐藤原氏が、いち早く源頼朝の御家人となったことに要因があることを前回は見てきました。今回は、源氏の御家人となった人々のリストを「綾氏系図」を見比べながら、見ていきたいと思います。

源平の戦いが始まる前の讃岐の情勢を見ておきましょう。
讃岐国司一覧表12世紀
院政期の讃岐国守一覧(坂出市史)
上の表で確認したいことは、次の点です
①保延四(1138)年頃、藤原家成が讃岐国を知行した後は、清盛がクーデターを起こす1179年まで30年近くにわたって、家成とその一族が讃岐国の国務を執っていたこと
②「国主 藤原家成一族 → 目代 橘公盛・公清父子 →  在庁官人 綾氏一族」という支配体制が、この30年間に形成されたこと。
③清盛は政権を握ると、讃岐守に平氏一門の維時を任命し、院分国讃岐国は没収された。
④平氏の支配下に置かれた知行国では、在庁官人や有力な武士が家人に組織され、国衙の機能を通じて国内の武士たちを支配下においた。
⑤それは藤原氏の国守時代とは違い「平家にあらずんば、人に非ず」を体験する場となった。『平家物語』には、平氏から離反した讃岐武士について「昨日今日まで我らが馬の草切ったる奴原」と見下されていたことがうかがえる。
⑥特に、平氏が屋島に本拠を構えたのちは、讃岐の武士たちは平氏の直接支配下に置かれ、不満と反発を募らせた。
⑦このような中で、かつての讃岐目代の橘氏が源頼朝を頼って、東国に下った。これを聞いて、かつての上司である橘氏と行動を共にしようとする在庁官人が現れる。それが綾氏一族を中心とする讃岐武士達である。

橘公業が名簿にリストアップして、頼朝に送った武士名簿を見てみましょう。まず「藤」の姓を持つA~Fの6人を見ていきます。「藤」とは「藤原氏」のことで、古代綾氏が武士化して以後に使うようになる名勝です。また、かれらの多くが名乗りに用いている大夫とは、五位の官人の呼称です。
A  藤大夫    資光   (新居)
 B 同子息新大夫 資重   
 C 同子息新大夫 能資
D 藤次郎大夫   重次(重資) 
 E 同舎弟六郎  長資
F 藤新大夫    光高   

なぜ綾氏は、藤原氏と名乗るようになったのでしょうか?
「藤=藤原」氏で、古代の綾氏の系譜を引くとされます。讃岐綾氏は、平安時代の文書に「惣大国造綾」と見え、国造の系譜を引く在庁官人として、勢力をのばしてきたことは以前にお話ししました。彼らが中世に武士化していきます。
「綾氏系図」は、この綾氏の女性と、先ほど見た讃岐国司・藤原家成との間に生まれた章隆(藤太夫)を初代とする讃岐在住の藤原氏の系譜を記します。

羽床氏系図

讃岐藤原氏の初代となる章隆が、国司家成と綾氏の女性との間に生まれた子だとします。これは「貴種」との落とし胤を祖先とするよくある話です。当時の国主は遙任で、実際には赴任しません。藤原家成が讃岐にやって来た記録も残っていません。研究者達が無視する「作り話」です。
 しかし、先ほども述べたように、在庁官人として仕える綾氏と、家成・俊盛二代の知行国主の間には、30年間に培われた主従関係があったことは事実です。「綾氏系図」に登場する章隆は、古代綾氏が、中世の讃岐藤原氏に生まれ変わるターニングポイントなのです。そして彼は国司藤原家成の「落とし胤」とされます。しかし、章隆の実在性は史料からは確認されません。
讃岐藤原氏系図1

讃岐藤原氏の始祖は藤原章隆で、その子資高が2代目とされます。
資高は名乗りが「羽床庄司」とあるので羽床を拠点にしていたようです。羽床城の主の祖先になるのでしょう。そして、系図が正しいとすれば、羽床が当時の藤原氏の本拠地であったこと、実質的な讃岐藤原氏の祖先は、資高であったこともうかがえます。資高の子が5人記されます。その4番目が「新居藤太夫資光」です。この系図からは、高の子たちの代に「大野・新居・香西」などの分家が行われたことになります。 
頼朝に送られた名簿リストの筆頭にあるのは資高の子「A藤大夫資光」です。名乗りからみて綾南条郡新居郷を本拠としていた人物でしょう。彼が、この讃岐グループのリーダーであったようです。
名簿リストにはA藤大夫資光の息子として「B同子息新大夫①資重」「C同子息新大夫 能資」と記されます。しかし「綾氏系図」を見ると、資光の子は資幸だけです。
 資光の子孫としては康元元年(1256)の讃岐国杵田荘四至膀示(ぼうじ)注文に見える讃岐国の使を勤めている「散位藤原朝臣資員」がいます。この人物が「綾氏系図」に資光の孫として掲げられている資員と研究者は考えているようです。新居の資光の子孫は在庁官人として、国府で活躍していることが分かります。
 名簿リストにでは資光の子として載せられている、B資重・C能資は、どこへいったのでしょうか? 分からないまま次に進みます。名簿リストの4人目から見ていきます。
D藤次郎大夫  重次(重資) 
  E同舎弟六郎  長資
F藤新大夫     光高   
 「綾氏系図」には、D重次の名はありません。
その弟とされる「E長資」については、光高の父方の従兄弟に羽床六郎と称した長資がいて名前が一致します。。その兄重資の名乗りは「藤次郎大夫」で、先の重次と名乗りが同じです。讃岐藤原氏の通字は「資」ですから、名簿リストの「重次」の「次」は「資」の誤りで「重資」と研究者は考えているようです。そうするとA資光から見ると兄重高の息子「重資」で、甥にあたります。
 藤氏の最後に記された「F藤新大夫光高」は、系譜にも記されていて、父の名乗りは「大野新太夫」とあります。

讃岐藤原氏系図3羽床氏jpg

杵田荘四至膀示注文には、資員とともに国使を勤めた者に「散位藤原朝臣長知」がいます。
これが「綾氏系図」に「羽床六郎 長資」の子として出てくる長知のことでしょう。この家は綾南条郡の羽床郷を苗字の地としています。のち、建治二(1276)年10月19日の讃岐国宣に出てくる「羽床郷司」が、この一族にあたるようです。
最後の「F藤新大夫光高」は? 
「綾氏系図」に資光の兄で大野新大夫と称した有高の子に「新大夫光高」がいます。この人物だろうと坂出市史は考えています。大野郷は香東郡と三野郡にありますが、讃岐藤原(綾)氏の勢力範囲からすると、香東郡の大野郷が苗字の地なのでしょう。
大野郷

源平合戦の時の綾氏の行動が「綾氏系譜」には、どのように反映されているのかを考えておきます。
「綾氏系譜」は、讃岐藤原氏の初代章隆は、母が綾貞宣の女子で、父が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子なので藤原姓を継いだと記します。実在が確かめられるのは、章隆の孫やひ孫の世代で、彼らが源氏方に馳せ参じることで、いち早く御家人の立場を得ることになります。これは、綾氏にとって非常に有利に働くことになります。それを体感した後世の子孫達は、源氏側についた祖先への感謝と、自分たちの功績を誇る意味でも、先祖を英雄化する系譜を作りだしたのでしょう。その際に、結びつけられたのがかつての国守藤原家成なのでしょう。
 綾姓から藤原姓への転換の背景をまとめておくと
①反平氏の立場にあった藤原家成一族との結びつきを示すために藤原姓を称するようになった
②古代の在庁官人から中世の武士団への脱皮
③讃岐武士団の中で源平合戦で、いち早く源氏方につき御家人となった祖先の顕彰と一族統合シンボル化
この系譜に綾氏の氏寺とされる法勲寺(飯山町)の流れをひく島田寺の僧侶達によってもうひとつの物語が付け加えられていきます。それが神櫛王の悪魚伝説です。古代綾氏は、讃岐国造となった神櫛王の子孫であり、源平合戦ではいち早く源頼朝の陣に馳せ参じた武士達という話がプラスされていきます。讃岐藤原氏の伝説がこうして一人歩きしていきます。
野三郎大夫高包の名乗りに見える「野」とは、小野・三野など「野」の字が付く姓の略称のようです。
『源平盛衰記』巻人の讃岐院事には、讃岐国へ配流された崇徳上皇は、まず「在庁一の庁官野大夫高遠」の堂へ入ったと記します。『保元物語』では、この堂を「二の在庁散位高遠」の松山の御堂とします。両者は同じもので、在庁官人の高遠の持仏堂のようです。なお、一とか、二の数字は、経験年数による順位を示すもので、在庁間の序列のようです。
在庁の「野大夫高遠」については、『古今讃岐名勝図絵』(国立国会図書館)の「蒲生君平来る」の項に掲げる寛政十二(1800)年、白峯寺に詣でた蒲生君平の「白峯縁起跛」に次のようにあります。
白峯寺に宿す、その住僧明公と一夜談話す、いささか憂いを写すなり、公実言として曰く、崇徳の南狩なり、伝うるに松山、野大夫高遠の所に三年を遂げおわす、高遠の世、すなわち林田氏なり、その家今に至り絶えず、事なお口碑を存ず、
意訳変換しておくと
白峯寺に宿泊し、住僧の明公と一夜話した。その時に住僧の話したことを書き留めておくと、崇徳上皇は松山の野大夫高遠の所で三年ほど生活した。高遠の家は林田氏で、その家は今も存続していて、そのことが伝えられている

ここでは、白峯寺の僧は野大夫高遠の子孫は林田氏であって今も続いていると君平に伝えています。
高遠については、「玉藻集」(『香川叢書』第二)にも次のように記されています。
「阿野の矢大夫高任 阿野郡林田の田令と云う。後白河院御宇と云々」

「讃岐国名勝図会』(国立公文書館DA)の鳴村正蓮寺の項には
「当寺は永正年中、沙門常清草創なり、常清は林田村在庁野大夫高遠が末葉なりという」

とあり、正蓮寺を創建した常清が高遠の子孫で、本領が林田村にあったことが記されます。
雲井御所
雲井御所の石碑と林田家
近世の林田氏については『古今讃岐名勝図絵』の雲井御所とその碑、林田の綾家の項にも見え、本姓は綾氏で、高遠の子孫とされています。生駒時代は林田村の小地頭で、松平頼重の人国の時には、林田太郎右衛門綾高豊が同村の大政所になったと伝えられます。
これらの伝承から、高遠の本姓は阿野(綾)氏のようです。名簿リストの「野二郎大夫高包」は、右の「野大夫高遠」と名乗りの一部と通字が共通しているから高速の一族、阿野(綾)氏の一人で林田郷を本拠としていた在庁官人と坂出市史は考えているようです。

橘大夫盛資 について
応徳元(1084)年12月5日の讃岐国留守所下文(東寺百合文書)などに讃岐在庁の橘氏の名があります。寛元元(1243)年2月、高野山の道範が讃岐国に流された際、守護代長尾氏から、一旦「鵜足津の橘藤衛門高能」という御家人のもとに預けられています(『南海流浪記』)。ここからは守護所が置かれていた宇多津周辺に橘氏がいたこと、高能が在庁官人系の御家人であったことがうかがえます。ここでも、京都に上ったグループの子孫は、御家人として守護所などの管理運営に携わり、地方支配機構を支える立場になっていたことが分かります。
三野首領盛資・三野九郎有忠・ 三野首領太郎・三野次郎一族と藤原純友の乱
「三野首領」とあるので、三野郡の郡司(大領)の流れをもつ者のようです。『南海通記』は、「信州綾姓記」の中で「讃州嶋田寺過去帳」を引用して、純友の乱と三野氏との関わりについて次のように記します。
純友の乱の際、伊予国諸郡の郡司とともに三野郡大領である綾高隼が純友軍に加わった。後に反逆の罪を糾正させられた際に罪を陳謝したため、死刑を許され信濃国小県に流された。
 さらに「通考」には、流された高隼の後には、当国の大庁官(在庁官人?)の綾大夫高親が三野郡大領となり、三野氏の祖となった。

  ここには純友の乱に参加した三野郡大領の綾高隼が更迭され、大庁官(在庁官人?)の綾大夫高親が三野郡大領(郡司)に就任したと記されます。そうだとすれば、三野氏も綾氏の一族だということになります。『南海通記』は後世の編纂書であり、戦記物でもあり誤りが多いことが指摘されています。そのままは信じられませんが、三野郡司になったのが綾大夫高親の末裔であったとすると、本家の綾氏と共に行動を共にして京都に上るのは納得がいく話です。三野氏も武装した在庁官人や郡司から成長した武士団であったようです。

仲(那珂)行事貞房について                
永久四(1116)年に讃岐国で、国衛が興福寺の仕丁(雑役夫)に乱暴を加えるという事件が起こります。興福寺の訴えで、国司・藤原顕能は停任され、目代以下国衛の官人など五人が禁獄されます。この官人の中に「検非違所散位貞頼・行事貞久」の名があります。
 この検非違所は国街の事務を分掌する「所」の1つで警察に当たるもので、行事は職務の担当者のことです。「仲行事貞房」の名乗りに見える「行事」は検非違所の行事のことで、かつ「貞」字を実名に用いていることから、貞房は、貞頼・貞久と同族と考えられます。
讃岐国で「貞」を通字とする一族は、多度郡の郡司綾氏です。
たとえば、久安元(1145)年12月日の善通・曼茶羅寺領注進状案には郡司として綾貞方の名があります。この文書の寺領は多度郡にあるので、貞方は多度郡の郡司になります。名簿リストの貞房については「仲行事」と称しているので、那珂(仲)郡の綾氏と考えられます。
 時代は下って、応永十二(1405)年10月29日の室町将軍家御判御教書写に細川頼之知行の欠所(没収地)のひとつに「讃岐国小松庄・同金武名」とあり「中(那珂)首領跡」と注記されています。ここが現在のどこに当たるのかは分かりませんが、小松の荘は現在の琴平一帯で、那珂郡に属します。「中(那珂)首領跡」とは武士化した那珂郡の首領郡司の館跡のことのようです。那珂郡でも多度郡と同じように、綾氏が首領郡司の地位に有り。国衙では検非違所を務めていたと坂出市史は記します。
大麻藤太家人  大麻藤太という武士の家人(家臣)です。
淡路福良の戦いでは、讃岐蜂起軍の130人が討ち死にしています。主人が討死した後も、行動を共にした家人でしょうか。大麻山の麓に式内社の大麻神社(善通寺市大麻町)があり、古代は忌部氏の拠点とされる所です。中世に、この周辺を本拠とする武士がいたようです。
以上、元暦元(1184)年に、讃岐から上京して源氏方に参加し、御家人と認められた武士たちを見てきました。名簿にリストアップされた讃岐武士達は、記録には残りませんが源範頼の軍に加わり、西海道の戦線に赴いたようです。源氏方に味方する讃岐の武士たちは、その後も増え、屋島合戦で源氏方戦ったようです。
讃岐国でも武士団が組織され、武家の棟梁のもと、より大きな武士団に組織されていくようになります。
その典型が綾氏を祖とするという讃岐藤原氏です。
讃岐の在庁官人については平安時代までは
讃岐国造の子孫と称する東讃の凡氏
空海を輩出した多度郡の豪族佐伯氏
など古代豪族の系譜を引くものが多いようです。阿野郡を本拠とする綾氏もその中のひとつでした。しかし、鎌倉以後は在庁官人としての綾氏の存在は突出した存在になっていきます。源平合戦まえの1056年に綾氏は、勘済使に任じられています。この職は、田地の調査あるいは官物の収納に関わる職です。「綾氏系図」(『続群書類従』)には、綾氏の先祖は押領使であったと記します。これは国内の兵を動員して凶徒を鎮圧する職で軍事警察機構の長です。綾氏が押領使となったのは、10世紀前半の藤原純友の乱の時と研究者は考えているようです。
春日神社神主の日記『春日神社祐賢記』永久四(1116)年五月十二日の記事には、讃岐国検非違使所の役人貞頼・貞久があります。彼らは綾氏の一族とみなされています。このように綾氏は、軍事・警察を担当する押領使・検非違使の地位を世襲的に継承していたようです。これは重要な意味を持ちます。武装蜂起を鎮圧する戦士としての地位をもとにして、綾氏は讃岐第一の武士団に発展していったことが考えられます。

先ほど見てきたように「綾氏系図」には、阿野郡の大領綾貞宣は、鳥羽法皇の近臣藤原家成が讃岐守となった時に、これに娘を入れ、生まれた子章隆は藤原氏を名乗って讃岐藤原氏の祖になったと記します。章隆の子資高は羽床郷を本拠として羽床氏を称し、さらにその子息たちは、
①香川郡大野郷を本拠とする大野氏
②阿野郡新居郷の新居氏
③香西郡の香西氏
などの諸家に分かれていきます。こうして讃岐藤原氏は、鎌倉時代以後は中・西讃に勢力を振るう武士団に成長していきます。
彼らは一族の結束を保つために、同族意識を高める祭礼などを行うようになります。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治
その一環として、後世に綾氏系譜が作られ、その巻頭を飾るのが島田寺の僧侶達が創作した神櫛王の悪魚退治伝説です。これらは、各氏寺や氏神の祭礼で社僧達が語り伝え、民衆にも広がっていきます。
 自らが神櫛王の子孫で、源平合戦の折には京都にいち早く源氏の御家人となったことは、武士の誉れでもあったでしょう。「寄らば大樹の陰」で、周辺の中小武士もこの伝説を受入て、讃岐藤原氏の一族であると称するものが出てきます。これは讃岐藤原氏の勢力の拡大にもなりますので、この動きを容認します。こうして「藤」を名乗る武士があそこ、ここに増えて系図に加えられていきます。
 ちなみに先ほど紹介した南海通記が綾氏の一族と紹介していた三野氏には、神櫛王伝説は伝わっていないようです。讃岐藤原氏の流れを引く一族は、「あすこも、ここも讃岐藤氏」とする傾向があるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編 2020年
 

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

 

 一ノ谷の戦い - Wikipedia
暦元(1184)年二月、源頼朝の弟範頼・義経らが一の谷で平氏を破ると、これを見て、讃岐国の武士たちの中には、いち早く京都に上って源氏の陣に馳せ参じた者達が出てきます。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には、次のように記されています。

  元暦元年(1184)九月小十九日乙巳。平氏一族。去二月被破攝津國一谷要害之後。至于西海。掠虜彼國々。而爲被攻襲之。被發遣軍兵訖。以橘次公業。爲一方先陣之間。着讃岐國。誘住人等。欲相具。各令歸伏搆運志於源家之輩。注出交名。公業依執進之。有其沙汰。於今者。彼國住人可隨公業下知之由。今日所被仰下也。
 在御判
 下 讃岐國御家人等
  可早隨橘公業下知。向西海道合戰事
 右國中輩。平家押領之時。無左右御方參交名折紙。令經御覽畢。尤奉公也。早隨彼公業下知。可令致勳功忠之状如件。
    元暦元年九月十九日
意訳変換しておくと
平氏一族は、二月に摂津国一谷の砦で敗北し、九州方面に撤退し、西国諸国を略奪・占領しました。逃亡した平氏を討つために、橘次公業を一方の先陣として軍隊を組織し出発させました。その際に橘次公業の祖先は、讃岐の国司名代だったので、その縁で讃岐国へ行き、平家討伐軍の組織化を行いました。源氏の御家人になっていない讃岐の武士達を勧誘し、討伐軍に参加させようと考えたのです。源氏に対して忠誠を誓い、共に戦おうとするものは、名簿を提出するように。橘次公成が呼びかけました。

この報告に対して、次のような頼朝様の命令と花押があります。
 命令する 讃岐国の御家人等へ
 早々に橘公業の命令に従って、山陽・九州の西海道の合戦に出かけること 右の讃岐の武士達、平家に占領されていながら、源氏に味方するとの名簿を見て、頼朝様は、殊勝である。早々に橘次公成の指揮に従って、手柄を立てるようにとおっしゃった。これが証拠書である。
    元暦元年九月十九日
讃岐国の武士たちに対し、公業の命令に従つて九州へ向かい合戦に参加することを命じています。本文中に見える「交名折紙」に当たるのが、続けて掲げられている讃岐国御家人交名(名簿リスト)です。
  讃岐國御家人
注進 平家當國屋嶋落付御坐捨參源氏御方奉參京都候御家人交名事
 ①藤大夫資光
  同子息新大夫資重
  同子息新大夫能資  
  藤次郎大夫重次
  同舎弟六郎長資   
 ②藤新大夫光高
 ③野三郎大夫高包
 ④橘大夫盛資
 ⑤三野首領盛資
 ⑥仲行事貞房
 ⑦三野九郎有忠
  三野首領太郎
  同次郎
 ⑧大麻藤太家人
右度々合戰。源氏御方參。京都候之由。爲入鎌倉殿御見參。注進如件。
     元暦元年五月日

藤は藤原氏の略です。讃岐藤原氏の初代章隆は、綾貞宣の女子が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子で、その関係により藤原姓を継いだとされます。
①藤大夫資光は、新居氏で香川県高松市国分寺町新居
②藤新大夫光高は、大野郷で香川県高松市香川町大野。
③野三郎大夫高包は、阿野郡林田郷
④橘大夫盛資は、鵜足郷(現宇多津町)
⑤三野首領盛資の首領は、三野郡の郡司。
⑥仲行事貞房は、那珂郡で丸亀市に郡家町。行事は郡衙の役人。
⑦三野首領太郎は、郡司盛資の息子。
⑧大麻藤太家人は、香川県善通寺市大麻神社で金毘羅山の隣。

ここには14名の讃岐武士の名前が挙げられています。讃岐武士団の中で、最も早い源氏の御家人となった人たちになります。今回は彼らの動きと、源氏方についた背景を追ってみたいと思います。
テキストは「坂出市史通史上 中世編2020年」です。

一ノ谷の戦い』 | The One and Only …

一の谷合戦での敗北後、平氏は讃岐の屋島を本拠として瀬戸内海を中心とする西国支配を行おうとします。これに対して頼朝は、まず北九州を攻撃させるために、範頼を平氏追討の指揮官として派遣します。範頼が京都から出発したのは9月1日のことです。これに先んじて、先陣として橘公業は讃岐国に赴いて味方になる武士を募ろうと動いています。実は、この橘公業の存在が大きいようです。

橘公業(きみなり)とは、どんな人物なのでしょうか?  
橘 公業は、橘公長の次男として誕生します。吾妻鏡治承(1180)年12月19日条には、この日に、右馬弁橘公長が子息の橘公忠・橘公成(業)を伴い鎌倉にやって来たと記します。父公長は、もともと平知盛の家人で、弓馬の道の達者で、戦場に望んでの智謀は人に勝っていたと記されています。しかし、平氏の運が傾き、故源為義への恩儀もあつて源氏に付くことにしたとされます。彼らは頼朝に認められて源氏の御家人となります。息子の公業は弓術に優れており、鎌倉将軍家の正月に行われる御的始や代替わりの御弓始などでしばしば射手を勤めていたようです。中世の武士のたしなみは、近世のように刀ではなく、乗馬と弓でした。壇ノ浦の那須与一に代表されるように、弓道にすぐれた武人がヒーローだったのです。弓道にすぐれた公業は、武士としての名声も、すでに得ていたようです。
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公業の経歴で注目されるのは、『吾妻鏡』の建久六(1195)年2月4日条の次のような記述です。
 東大寺再建の落慶供養のため上洛していた頼朝が、勢多橋を渡る際、比叡山の衆徒たちが集まつている中を通るとき下馬の礼を取る必要があるか心配します。頼朝は公業を召し、衆徒たちのもとヘ遣わして、事情を説明させます。
 公業は、衆徒の前に脆いて、次のとおり伝えます。鎌倉将軍家が東大寺供養に結縁するため上洛したところ、この群衆は何事か、神慮を恐れていらつしゃいます。ただし、武将の法にはこのような場所での下馬の礼はありません。そこで、乗馬のまま通るが、これをとがめてはなりません。
 こう言い残して、衆徒の返事を聞かずに通り過ぎ、衆徒の前で弓を取り直す姿勢を見せたら、かれらは平伏した。
 公業は武士ですが、平家出身者として小さいときから京都で暮らしていました。そのため色々な場面で、どのように対応するかのマナーを、身につけていたようです。京下りの平家出身者として、鎌倉幕府草創期の頼朝の側近で何かと重宝する人物だったようです。

 彼の祖先は衛門府や馬寮などの中央武官として活躍しています。
そればかりでなく讃岐の国司目代を務めていたことが東かがわ市大内町の水主神社所蔵の「大般若経函底書」の記事から分かります。
一 二条院御宇 国司藤原秀(季)能、兵衛佐 七条三位殿
  内蔵頭俊盛御息 応保三年正月一十四日任
  御神拝御目代橘馬大夫公盛これを勤む、
長寛元年十月二十七日 甲申
次御神拝目代右衛門府橘公清これを勤む、
公盛息男なり、仁安二年十月一一十五日 己未
ここからは次のようなことが分かります。
①二条天皇の在位中の長寛元(1163)年正月24日に藤原季能が讃岐守に任じられたこと
②1163年10月27日に国司藤原季能の初任神拝を、讃岐国目代橘馬大夫公盛が勤めたこと
③仁安二(1167)年正月20日に藤原季能の父俊盛が讃岐国を知行したこと
④同年の10月25日に公盛の息子公清が初任神拝を勤めていること。国司は季能のままです。
 藤原俊盛は、保元二(1157)年から永暦元(1160)年の間、讃岐守を勤めています。その後は息子の季能が国司を務めたことになります。讃岐国は、保元二年以降、長期にわたって俊盛が国司や知行国主を務めていたようです。国司と同じように、目代の地位も父子で相伝されています。ここから橘公盛・公清父子は、藤原俊盛に仕えていた家司だと研究者は考えているようです。
讃岐国司 藤原家成
院生時代の讃岐国司一覧(坂出市史) 藤原家成の一族が独占している

「国司・藤原季能 ー 目代・橘馬公盛」という体制下に置かれた讃岐武士の中には、目代の橘氏との関係を深めた者達が出てきます。
かれらの多くは、府中の国衛で一緒に仕事をしていた在庁官人や郡司の一族であり、目代橘氏の指揮に従って国務を行っていました。その子孫の橘公業が平氏を見捨てて鎌倉に下ると、橘氏との関係が深かった讃岐武士たちの中には、公業を頼って源氏方につくことを願う者達が出てきます。その時期は、京都を占領した木曽義仲と頼朝が派遣した範頼・義経の軍勢が戦っている隙に、平氏が屋島から旧都福原へ拠点を移した元暦元(1184)年1月頃のことです。
1183年頃の勢力分布図 赤が平家

ところが、源氏方は讃岐武士たちの寝返りを、すんなりとは受けいれません。
それまで平氏に仕えていた者達を、そのまま味方にはできなかったのでしょう。そこで平氏に一矢を報い、それを土産にして源氏方に受け入れてもらおうと考えます。その標的としたのが瀬戸内海の対岸・備前国下津丼にいた平氏一門の平教盛・通盛・教経父子です。これに対して、見かけだけの攻撃を仕掛けたようです。ところが、裏切りを怒った教経から徹底的な反撃・追跡を受けることになります。讃岐国の武士たちは京都へ逃げ上る途中、淡路島の南端福良にいる源為義の孫たち、掃部冠者(掃部頼仲の子)・淡路冠者(頼賢の子)を頼みにして追撃してきた通盛・教経軍を迎え討ちますが、敗れ去ります。このとき、敗れて斬られた者は130人以上の多数に及んだと『平家物語』巻第九は記します。

 京都に上つて公業の指揮下に入った讃岐国の武士たちは、在庁官人・郡司系の武士です。
彼らはかつて讃岐国庁で公業の祖父の下で、働いていた者達です。淡路島福良で平氏軍に敗れた讃岐国の武士たちが「讃岐国在庁」軍と呼ばれていることがそれを裏付けます。かれらは福良で敗れた後も、京を目指します。それは公業を頼りとしていて、公業ももとへ馳せ参じればなんとかなるという思いがあったからでしょう。
 公業が頼朝に提出した名簿について「度々合戦、源氏御方に参り、京都に候」と記しているのは、下津井と福良での平氏方との合戦を戦い、京都に上って来たことを念頭においているようです。
こうして、公業は讃岐には源氏の味方になる武士たちがいることを知り、それを組織化して平家討伐軍とするアイデアを思いついたとしておきましょう。京都にまでやってきた讃岐武士の拠点を見ておきましょう
参考①藤大夫資光は、新居氏で香川県高松市国分寺町新居
参考②藤新大夫光高は、大野郷で香川県高松市香川町大野。高松駅と高松空港の真ん中。
参考③野三郎大夫高包は、阿野郡林田郷
参考④橘大夫盛資は、鵜足郷で現在の宇多津周辺
参考⑤三野首領盛資の首領は、三野郡の郡司。
参考⑥仲行事貞房は、那珂郡で丸亀市に郡家町あり。行事は郡衙の役人。
参考⑦三野首領太郎は、郡司盛資の息子?
参考⑧大麻藤太家人は、善通寺市大麻神社周辺で金毘羅山の隣。
これらの武士たち本拠地や特徴をまとめると次のようになります。
①本拠地は、香東・綾南北両条・鵜足・那珂・多度・三野で讃岐国の西半部に限られている。
②讃岐藤原氏や綾・橘両氏の本拠は、新居・羽床・大野・林田・鵜足津と国府の府中を取り巻くように分布している。
③ほとんどが在庁官人や郡司で、国府の中核を担っていた武士団である

①については阿波国は、在庁官人粟田氏の一族である阿波民部大夫重能(成良)が平氏の有力な家人で、その勢力下にありました。それに加えて、讃岐の屋島には平氏の本拠地である屋島内裏が置かれています。そのため東讃地域に本拠を持つ武士たちは、平氏の軍事力に圧倒されていたはずです。逆に西隣の伊予国は早くから源氏方についた在庁官人河野氏の勢力下にあって、平氏とたびたび衝突していました。ここからは、中西讃地域の武士達は、東讃地域の武士たちと比べると平氏による圧力が弱かったと研究者は考えているようです。

②③については、讃岐国衛の在庁官人の中でも重要なメンバーであったことが分かります。
それが平氏に反逆したことになります。その背景を考えると「平氏あらずんば人に非ず」という平氏中心の政治運営にあったのかもしれません。平家支配下に置かれた讃岐においても、在庁・郡司系の武士たちはその抑圧に耐えかねて離反したのかもしれません。『平家物語』には、淡路島での合戦で打ち取られた讃岐国の在庁以下の武士は130余人とありますから、平氏に対しての集団的な離反が起きていたことがうかがえます。

  まとめておくと
①平家は瀬戸内海の交易ルートを押さえて、西国を重視した下配体制を作り上げた。
②そのため讃岐も平氏支配下に置かれ、平氏の利益追求が露骨となり、在庁・郡司系の讃岐武士の中にも平家に対する反発が高まるようになった。
③そのような中で、中・西讃に拠点を置く古代綾氏の系譜を引く讃岐藤原氏を中心に、平家を見限り源氏に寝返ろうとする武士達が現れる。
④彼らは、平家と一戦を起こした後に、都に駆け込み源氏方の陣に加わることを計画する
⑤その頼りとなったのは、かつて平家方にいたが今は源氏方についていた橘氏であった。
⑥橘氏は、かつては讃岐目代を30年間以上も務めており、在庁官人の武士達と親密な関係にあった。橘氏の子孫公業を頼って、源頼朝へ御家人となることの斡旋を依頼した。
こうして、先駆けて頼朝の御家人となった14人の武士達は、鎌倉幕府の支配下の讃岐において、恩賞や在庁官人や守護所代理として活躍し、大きな発言権を手にするようになる。
 綾氏が武士団化した讃岐藤原氏の繁栄も、この時に平家を見捨てて京都に駆け上がり、頼朝の御家人となったことが大きな要因と考えられる。
  「綾氏系図」には、讃岐藤原氏の初代章隆は、綾貞宣の女子が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子で、その関係により藤原姓を継いだとされます。この話から綾姓から藤原姓への転換が行われたのも、讃岐藤原氏が反平氏の立場にある藤原家成一族との結びつきを示すために藤原姓を称するようになった坂出市史は指摘します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献  「坂出市史通史上 中世編 2020年」

近世の史料を読んでいると、自らを讃留霊王伝説(=神櫛王)を始祖とする系譜を持つ一族によく出会います。一体、讃留霊王とは何者なのでしょうか。また、それはどのような一族と考えれば良いのでしょうか。私なりに考えてみました。
古代讃岐の開拓伝承のなかで讃留霊王伝説は広く流布しています。
地域的には、現在の綾川や大束川の流域、古くは讃岐国阿野郡・鵜足郡と呼ばれた地域を中心に残る伝承であり、近世には宣長の『古事記伝』にも取り上げられ全国的にも知られるようになったようです。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
  讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話とは? 
讃留霊王とは、景行天皇の子・神櫛(かんぐし)王の諱です。
①景行天皇時代に南海や瀬戸内海で暴れまわる巨大な怪魚がいて、讃留霊王がその退治に向かったところ、逆に軍船もろとも一旦これに呑み込まれた。しかし、大魚の腹のなかで火を用いて弱らせ、團を切り裂いて怪魚を退治した。
②その褒賞で讃岐の地を与えられ、坂出市南部の城山に館を構えた。
③これにより諱を「讃留霊王」(讃岐に留まった霊王)と呼ばれる
④彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 綾を氏姓とします。
⑤彼が讃岐の国造の始祖である。
読んでいて面白いのは①です。
しかし、この話を作った人が一番伝えたかったのは、④と⑤でしょう。
つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
200017999_00178悪魚退治

王悪魚退治のモデルになった話があると研究者は指摘します。
それを見ていくことにしましょう。
  阿蘇開拓の神健磐龍命(たけいわたつのみこと)」(蹴裂(けさき)伝説)
むかし、阿蘇谷や南郷谷は外輪山にかこまれた大きな湖でした。この湖の水を流し出し、人々の住む村や田畑をひらいた神様、健磐龍命のおはなしをしましょう。 
命は、神武天皇のおいいつけで、九州の中央部を治めるために、山城の国から、はるばる阿蘇の地にやって来たのです。
 外輪山の東のはしから、満々と水をたたえた湖を眺めていた命は、この水を流し出して人々の住む村や田畑をひらくことを考えました。外輪の壁を蹴破ることは出来まいかと、ぐるっと見回し、北西にあたるところにやってきたのです。
 「よし、ここを蹴破ってみよう。」
 しかし、そこは、山が二重になっていて、いくらけってもぴくともしないのです。現在、二重の峠と呼ばれているところでした。命は、少し西の方にまわってみました。「ここならよかろうか。」
満身の力をこめて蹴りつけました。 湖の壁は大きな地ひびきをたててくずれ落ち、どっと水が流れ出したのです。
 あの阿蘇谷.南郷谷いっぱいの水も、みるみるうちに引いていきました。しかし、途中からばったりと流れがとまってしまったのです。
 「これはおかしい。水が動かなくなってしまった。」
 命は川上を調べてみました。
おどろいたことに、巨大な鯰(なまず)が、川の流れをせきとめていたのです。
尾篭(おごもり)の鼻ぐり岩から、住生岳のふもと、下野までのあいだに横たわっていたといいますから阿蘇谷の半分ぐらいに及んでいたことになります。
命は、この鯰を退治しました。
鯰が流れついたところを鯰村、といい村人が片づけた鯰は、六つに分けられたため、その部落は六荷-六嘉(ろっか)というようになりました。
また、水の引いていったあとが、引水(ひきみす) 
土くれがとび散ったところは(つくれ)津久礼 
小石がたくさん流れていったので合志(こうし)、
水が流れ出したところは数鹿流(すかる)であり、
スキマがアルという意味だともいい、鹿が流されたという意にもとれるのです。
阿蘇には、このように神話や伝説にちなんだ地名が多いようです。
この讃留霊王伝承の怪魚退治と、阿蘇祖神の健磐竜命の「なまず退治説」は
「土地開発、巨大魚退治、射矢伝承、巨石祭祀」など、いくつもの点でで類似します。
そこで、研究者は次のように考えます
①讃留霊王伝承の「悪魚伝説」は「大鯰退治」の転誂である
②共通点の多い両者の伝承を始祖神話としてもつ両者の関係は、もともとは出自も共通するのではないか
③つまり讃留霊王の「讃岐開発」者は、阿蘇開発者の息長氏や秦氏の系譜につながるものではないか
この説を少し、追っていくことにします。  
古墳時代の西讃には、わざわざ九州から運ばれた石棺を使用した古墳がいくつもあります。また、善通寺の大墓山古墳は九州的な要素を持つ石棺です。古墳時代から瀬戸内海の交易ネットワークの中で九州と西讃が結びついていたことがうかがえます。
 7世紀には坂出の城山には神寵石系の朝鮮式山城が築かれ、その麓の府中は、古代讃岐の中心地とされます。九州及び四国に分布す神寵石系の築造には五十猛神後裔氏族が関係していると言われます。
何かしら両者をつなぐ「糸」が見えてくるような気もします
まず、中讃の神櫛王を祀る神社巡りをしてみましょう。
ちなみに息長氏の始祖神は少彦名神といわれます
城山神社は神櫛命を祭神とします。
その社伝では、元は城山一峰に残る明神原の地に鎮座したといいます。今でも明神原を訪れると巨石群が茂みの中に林立しています。これがこの神社のもともとの磐境なのでしょう。

讃岐平野の真ん中にある飯野山(讃岐富士)にも巨石群があります。こちらは鵜足郡の式内社飯神社の磐座とされます。同社の祭神は飯依比古命(讃岐国の国魂神)・少彦名命とされているようです。
神櫛命は那珂郡式内の櫛梨神社(仲多度郡琴平町)でも祀られています。
「クシナシ」は酒成しで、造酒の意と説く人もいます。
しかし、「クシ」は酒ばかりではなく、「奇し」(神秘、霊異)にも通じるとしたら、讃留霊王という美称にも通じるのかもしれません。
 満濃池を見下ろす丘の上にある式内の神野神社(論社の一つ、まんのう町神野〔真野説〕。加茂大明神も合祀)は、境内社に神櫛神社があって神櫛王命を祀ります。この神社を創建した矢原氏も和気氏に連なるといい 讃留霊王伝説を引きます。ちなみに矢原氏は、江戸時代初期の満濃池再築の際に、旧満濃池内にあった池内村を生駒家に寄進し、後に「池守」と命じられています。
 神野神社については丸亀市郡家町に論社があります。
この神社は、伊予国神野郡の久留島なる者(和気氏の一族?)がこの地に移り住み、祖神の伊曽乃神(御村別君が奉斎:西条市)を勧請したと伝えます。社伝では、神託が綾大領の多郡君にあって社殿を再築し、推古天皇朝に郡家の戸主酒部善里が八幡神を相殿に祀り、神野八幡宮と称するようになったといいます。内容についてはともかく、綾氏一族に関連することを伝えます。「多郡君」は綾氏の系図には「多祁君」という名で見えます。

 阿野郡には鴨郷に式内社の鴨神社(坂出市加茂町)があります
鴨氏族の祖神・別雷神(=少彦名神)を祀ります。綾氏一族の奉斎とされます。ちなみに、少彦名神は息長氏の始祖神ともされますので、両者のつながりがうかがえるといいます。
最後の一社が式内社が神谷神社(坂出市神谷町)です。
この本殿が鎌倉期の三間社流造で、神社建築では珍しい国宝指定がされています。 祭神は、『讃岐国官社考証』には天神立命とされますが、この神は天押立命ともいい、久我直等の祖とされます。実体は少彦名神の父神の天若日子(天津彦根命)です。
以上、見てきたように綾郡の式内三社にはすべて少彦名神で綾氏の関与が考えられるようです。
飯山町下法勲寺には、その名もずばり讃留霊王神社があります
 この神社は讃留霊王後裔の城山長者酒部黒丸の創祀と伝え、後裔には綾氏や和気氏があるといいます。しかし、現在の神社はもともとは八坂神社の境外末社であったものを近くにある円墳の上に移動して新たに作られたものです。明治以後に、新たに古代の天皇陵が指定されたようなもので、この古墳の埋葬者は誰であるかは考古学的には分かりません。明治以後になっても讃留霊王伝説を信仰し、その系譜の中に自分や一族を位置づけようとする人たちの熱意には驚かされます。
 今は丸亀市となった綾川町陶にある北条池の付近にも、讃留霊王神社があり、本殿裏の前方後円墳が、讃留霊王の墓と地元では伝えられています。

中讃地域の式内社を見て思うことは、
祭神が共通すると言うこと、つまり少彦名神か、それに連なる神々を始祖神として祀っているところが多いようです。古代においては、共通の神を祀る一族として互いに同族意識を持っていたのかも知れません。
次は、古墳の石棺を追いかけます。
阿蘇ピンク石(溶結凝灰岩)は近畿や讃岐などの古墳の石棺に用いられました。哀皇后が石作連を率て、仲哀天皇の遺骸を収める石棺用として讃岐国の羽若(綾歌郡羽床)の石を求めさせたという記事が知られます。産地の羽床に、中世に割拠したのが古代綾君の流れを引く羽床氏です。
三木郡庵治には同族の奄智首かおり、庵治の石は今も有名です。
瀬戸内海を越えた播磨には竜山石(宝殿石)があって、高砂市伊保町竜山に産する凝灰岩の石材で、仁徳天皇陵古墳、津堂城山古墳(雄略真陵)や今城塚占墳(継体真陵)などの長痔形石棺にも使用されています。竜山には巨大な石造物「石の宝殿」を神体とする生石(おうしこ)神社もあり、大己貴神・少彦名神を祀ります。
次は巨石祭祀です。
 伊予の佐田岬半島の付け根・愛媛県大洲市の粟島神社(大洲市北只。祭神少彦名命)には巨石遺跡があり、もとは大元神社の地といいます。何か国東や宇佐につながる感じがしてきます。大洲市内には仏岩や高山寺巨石群など巨石遺跡がちらばります。これらを同族の宇和別が祭祀したのではと考えるようです。また、佐田岬は宇和郡に属し、大洲市には稲積・菊地・阿蔵などの地名も残ります。瀬戸内海の海洋ネットワークを天かける息長氏につながる一族の活躍ぶりがうかがえる気もします。
しかし、「蹴裂(けさき)・大鯰退治」伝説を持つ阿蘇開発者の息長氏、宇佐地方の開拓者である秦氏、伊予の西条開拓者である和気氏と讃岐の古代開発者とは、共通点が多いのでないか」という位のことしか分かりません。
ただ、注意しなければならないのは「ヤマト政権による瀬戸内海交易ネットワーク」という風に捉えると、この時代の讃岐の動きは見えてこないような気がします。
「ヤマト政権を介してもたらされた」という従来の見方を一度棚上げして、人と物の動きを見ると別の景色が見えてくるような気がします。それは、例えば今まで見てきたような神社であり石棺です。これらは、九州から東へと「息長氏 → 秦氏 → 和気氏」らの氏族が瀬戸内海を東に勢力を拡大していく姿がうかがえます。中讃地域の古代開発者もこれらの動きの一環として捉えることが出来るような気もします。

さて、悪魚退治伝説に中世において、自らの家系を「接木」する一族が現れます。
                 
讃留霊王の悪魚退治というのは、綾氏の先祖を飾る話です。
古代において綾氏の名前が見えるのは阿野・香川郡一帯です。
その後に綾氏は多く枝分かれして、武家として戦国末期まで長く活動します。江戸期以降は帰農し、有力な庄屋として近代まで続いた家があります。そして、讃留霊王(=神櫛王)に始まる系譜を今に伝える家もり、地元香川県在住の岡伸吾氏が丁寧に系図収集につとめ「綾・羽床一族推定系図稿」「讃岐氏一族推定系図稿」として整理されています。
 平安中期には綾一族から押領使や大禄・府老など国管在庁役人などが多く出ます。
平安時代後期になると、綾氏をにはさらに2つのドラマチックなSTORYが付け加えられます。
 ひとつは、国司の落とし子説です。
一族の長の綾大領貞宣(羽床大夫)の娘が、讃岐守として赴任した藤原家成との間に、もうけた章隆だと言うのです。家成の讃岐守在任は、一年弱だから疑問もありますが、国司の「落とし子」章隆の登場で、以後の綾氏は、藤原姓を称して「讃州藤家」と名乗るようになります。その後の子孫一族は、羽床・香西・新居・福家など多くの有力な武家を出し、中世の讃岐において大きな力を持つようになります。
 もうひとつは、崇徳上皇をめぐる話です。
讃岐に配流となった崇徳上皇は、林田の雲井御所(綾高遠の旧宅という。坂出市)で幽閉生活を送ったと言われます。ここで、上皇奉仕したのが綾一族である綾高遠の娘・綾局だと言うのです。高遠の後裔は林田氏を名乗り、後に苗字が綾にも戻りますが、子孫が残した系図は宮内庁書陵部に『綾氏系図』として所蔵されているようです。

ちなみに、 讃留霊王の悪魚退治伝説が生み出されたのもこの時代ではないかと専門家は考えているようです
話の中に「瓦経」言葉が出てきます。これは経塚の要素が見られ、古代においては使われることない言葉です。そこから、この伝説の成立は平安末期と推定しています。古代まで遡る話ではなく「大鯰退治」をモデルに、讃岐でこの時代に作られたのが「悪魚退治」伝説のようです。
 その頃は、古代豪族からの伝統を持つ綾氏が、中世武士団の讃岐藤原氏として生まれ変わりつつあった時代です。綾氏が一族の結束を図った時代背景があります。
讃留霊王という先祖を同じくする伝説のヒーローの他に、新たに「国司落とし子」説や「崇徳上皇への奉仕」説が加えられて行ったのではないでしょうか。一族の結束を深めに、いつの時代にも行われてきたことです。その頃に、この説話の骨格はできあがったようです。
  そして、綾氏に近い擬似的な血縁集団も悪魚退治伝説をかたり、自分の始祖を讃留霊王とした系図を作るようになっていきます。
さらに、息長氏の研究者は次のように論を進めます
 綾君の「綾」について言うと、語源の「アヤーアナーアラ」は韓地南部、伽耶の同じ名の地域、安羅(「阿・安」十「耶・那・羅・良」「地域・国の意」を指す。漢字では「穴、荒」とも書かれて大和などの穴師にも通じ、日本各地に同種の地名が残こる。これら地名の担い手として、安羅方面からの渡来の天孫族や天日矛の一族があげられる。
日向国諸県郡にも綾の地名があり、中世に綾氏がいた。。肥後国の火君一族とみられる飽田郡領の建部君の流れとみられ、建部宿祢姓で日向国諸県郡(中郡)富山に起こり藤原姓と称した富山氏の一族と考えられる。綾の地名自体は日向国造一族が命名か)。
  つまり、綾とは朝鮮半島の加耶の「安羅」から来ていて日本での漢字表記は「穴・荒」だったというのです。これは私の今の守備範囲を大きく越えてしまいました。
 景行天皇の後裔と称する氏族について見ておきましょう
記紀に従えば景行天皇には八十人もの多くの皇子がいたことになりますが、無論史実とは言えないでしょう。記、紀、旧事本紀等にあげられる名前は、それが全てではないうえに、名の重複もあります。景行天皇の皇子たちは、国造としては、讃岐国造、針間国造、日向国造等を出しています。詳しく見てみると、近江及び大隅(日本武尊後裔と称)、讃岐(神櫛命の後裔)、播磨(稲荷人彦命後裔)、伊芦(武旧凝別命後裔)、日向(豊国別命後裔)及び美濃(人碓命後裔)ですが、実際には地方豪族がほとんどです。これら氏族の実際の系譜は、殆どが宇佐国造から分岐した大分・火国造と同族で、武国凝別命(別名が豊国別命、健磐竜命)の後裔、ないしは彦坐王一族の出と称した氏族(非息長氏族)と研究者は考えているようです。
  実際の景行天皇の皇子で後裔諸氏を遺したものはないようです。
その考えは以下の通りです。
①例えば、日本武尊の子孫の諸氏が近江や讃岐などに実在したことは、疑問が大きい。子と称する稲依別命の後とされる近江の犬上・建部君一族は、実際には息長氏と同系の伊賀国造の同族ではないか。
神櫛王は、日本武尊の子と称される武貝児命、息長田別命と同人であり、景行天皇の子とされる櫛角別命(茨田下連の祖)や、五十河彦命とも同人。
讃岐の綾君や吉備の宮道別君は、景行天皇の子と称する武貝児命(たけかいこう 武卵王、武鼓王)の子孫とされるが、実際には建緒組命の後裔と考えられる。
『記・紀』等では、武貝児王が日本武尊の子と伝える。
しかし、神櫛王は日本武尊の兄弟だするとと両者の関係は、神櫛王の甥が武貝児王ということになり、これだと別人なる。しかし、実際には原型が同一人物であり(本居宣長もそう示唆)、景行皇子の日本武尊とはまったく別人。
この場合、日本武尊に建緒組命を考えた方がよさそう。
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高照院天皇寺は、滝を水源とする霊水信仰が源

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 七十九番の余輩山高照院は非常に特色のあるお寺です。別名を天皇寺といいます。
本尊は十一面観音で、ご詠歌は

「十楽の浮世の中を尋ぬべし 天皇さへもさすらひぞある」

 意味は、流刑となっていた崇徳上皇がここで亡くなられて、死骸をしばらく水に漬けて腐敗を防いだという伝承があり、浮世には十楽というものがあるそうだが、十楽をすべて全うできる天皇でさえもこういうところをさすらったのだという歌です。

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 流刑の際に、崇徳上皇はお寺の少し北を流れる綾川という川をさかのぼって白峰に入ったといわれているので、この近くにしばしば足を運んだことは事実でしょう。

 お寺は、現実には四つに分かれています。
寺地に入っても、庫裡と本堂や大師堂のあるところまでが非常に遠い。それは、その間に、金山権現という神社があったからです。つまり神社によって、庫裡と本堂のある場所が二区に分けられているのです。
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 境内から西に行くと泉の水源に当たる金山という二八一メートルの山があります。そこが奥の院です。弘法大師に金山権現が現れて舎利を与えたというので、金華山摩尼珠院といいました。これがもとの山号です。『金華山摩尼珠院」は奥の院であると同時に、もとの寺地でした。現在は広場になっている正面に金山権現がまつられていて、金山がもとの信仰対象であったとおもわれます。
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『四国辺路日記』には次のように記されています。

① 佐留礼親王が八十余人の兵とともに悪魚退治にぎて、魚の毒気に当てられたのを、坂瀬明怖が八十場の泉という霊水で蘇生させたこと。
② 弘法大師がこの泉のほとりに十一面観音と阿弥陀如来と愛染明王をまつったのが高照院の起源だとしています。
③ 佐留礼親王ではなくて日本武尊だと書いてあるものもありますが、いずれにしても霊水信仰から出発しています。
④ この泉の水源に薬師如来の石像を安置して、これを闘伽井としました。
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崇徳天皇の御遺体を八十場の水に浸したという伝えがある。

 夏には石清水が流れ込む泉に、トコロテンが浸してあって、箱から押し出して酢をかけて食べます。地元では「八十場の(やそば)のトコロテン」と親しまれています。清水の落ち込みを聞きながら食べるところてんの味は趣があります。
 御遺骸を八十場の水に浸し、京都に通知し、勅許によって白峰山で荼毘に付したというのは、ここで殯をしたことを表します。そのためこの寺の別名は天皇寺と呼ばれるようになります。

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 天皇の御遺骸を安置したところに、明治になって京都に作られた白峰宮と同じ名前の神社が建てられています。
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この寺が金山にある行場から出発したことだけは確かです。

したがって、この滝を水源とする霊水信仰からいろいろの伝承が付随したのだろうと考えられます。金山の中腹にあったころは、常夜灯が海から見えたので、高照院と呼ばれていました。奥の院からは、東北に白峰山と五色台が見えます。その間に崇徳上皇が上陸されたといわれる綾川が流れています。
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『四国辺路日記』には金山薬師、野沢の井が出てきます。

 この日記には八十場を野沢と書いています。毒の魚を殺した菩提のために寺を建てた「魚ン御堂」ともあります。魚を捕る漁師さんたちが、魚供養に建てたというのがこのお寺の一つの特色です。捕った魚の供養をしなければ食べない、あるいは食べれば供養をするというのが魚供養です。
 三重県熊野市には百八本の鯨の供養の碑が立っておりますが、百八という数が煩悩の数に当たるからでしょう。鯨を食べても供養する心を忘れないのが日本人です。

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