瀬戸の島から

カテゴリ:まんのう町誌を歩く > 仲南エリア

    P1250163
      塩入駅前
 塩入駅にやってきました。
P1250175
増田穣三像

ここには駅前広場に忘れ去られたかのように、銅像がポツンと建っています。
P1250167

これは戦前に衆議議員を務めた増田穣三の銅像です。
P1250171
増田穣三像台座碑文左側
 台座には3面にわたってびっしりと碑文が刻まれています。碑文を、最初に見ておきましょう。
  春日 増田伝二郎の長男。秋峰と号す。翁姓は増田 安政5年8月15日を持って讃の琴平の東南七箇村に生る。伝次郎長広の長男にして母は近石氏なり 初め喜代太郎と称し後穣三と改む。秋峰洗耳は其に其号なり 幼にして頴悟俊敏 日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め 又如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり 
明治23年 村会議員と為り 31年 名誉村長に推され又琴平榎井神野七箇一町三村道路改修組合長と為り日夜力を郷土の開発に尽くす 33年 香川県会議員に挙げられ爾後当選三回に及ぶ 此の間参事会員副議長議長等に進展して能く其職務を全うす 35年 郷村小学校敷地を買収して校舎を築き以て児童教育の根源を定め又同村基本財産たる山村三百余町歩を購入して禁養の端を開き以て副産物の増殖を図れり 45年 衆議院議員に挙げられ 大正4年再び選ばれて倍々国事に盡痙する所あり 其年十一月大礼参列の光栄を荷ふ 是より先四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走効績最も大なりと為す。翁の事に当るや熱実周到其の企画する所一一肯?に中る故に衆望常に翁に帰す。
今年八十にして康健壮者の如く猶花道を嗜みて日々風雅を提唱す郷党の有志百謀って翁の寿像を造り以て不朽の功労に酬いんとす 。 翁と姻戚の間に在り遂に不文を顧み字其行状を綴ると云爾
昭和十二年五月
                東京 梅園良正 撰書
  現代語訳すると
安政元(1854)年8月15日生 昭和14(1939)年2月22日)没
①七箇村春日の生まれで、増田伝次郎の長男。秋峰と号す。
②安政5年8月15日に讃岐琴平の東南に位置する七箇村に生まれた。母は、近石氏。穣三は、若い頃は喜代太郎と称していたが30歳を過ぎて穣三と改名した。秋峰は譲三の号である。幼い時から理解が早く賢く、才知がすぐれていて判断や行動もすばやかった。日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾などに就いて和漢の学を修め、③また如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の奥義を究めた。そして「如松斉流(未生流)」の華道家元を継承し、多くの門下生を育てた。④明治23年に、開設された七箇村の村会議員となり、明治31年には2代村長に推され就任し、琴平・榎井・神野・七箇の一町三村道路改修組合長として、道路建設等の郷土の開発に力を尽くした。⑤明治33年には、香川県会議員に挙げられ当選三回に及んだ。その間に県参事会員や副議長・議長等の要職に就き、その職務を全うした。
 明治35年には、郷村小学校敷地を買収して校舎を築き、さらに児童教育の根源を定めるとともに、同村基本財産となる山村三百余町歩を購入して、山林活用と副産物の生産を図った。⑥明治45年には、衆議院議員に初当選し、大正4年には再選し、国事に尽くした。大正11年1月には大礼参列の光栄を賜った。これより先には四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走し、土讃線のルート決定に大きな功績を残した。譲三氏は、用意周到で考え抜かれた計画案を持って事に当たるので、企画した物事が円滑に進むことが多く、多くの人々の衆望を集めていた。 
 ⑦増田穣三氏は今年80歳にもかかわらず壮健で、花道を愛し日々風雅を求めている。ここに郷党の有志を募って穣三翁の寿像を造り、不朽の功労に酬いたいと思う。⑧私は翁と姻戚の間にあるので、この碑文選書を書くことになった。
昭和十二年五月 
      東京 梅園良正(註・宮内庁書記官) 撰書
この碑文からは、次のようなことが分かります。
①安政元(1854)年8月15日生で、明治維新を13歳で迎えた。大久保諶之丞より10歳下
②父は七箇村春日の増田伝次郎の長男で、母は近石氏出身
③宮田の法然堂住職の丹波法橋から華道を学び、「如松斉流」の家元を継承
④村議会開設時からのメンバーで、2代目七箇村村長に就任し、県道4号東山線開通に尽力
⑤村長を兼務しながら県会議員を5期務め、議長も経験
⑥衆議員議員を2期務め、土讃線のルート決定に大きな役割を果たした
⑦この像は1937(昭和12)年、生前の80歳の時に建立された。
⑧揮毫は松園良正(宮内庁書記官)で、明治の著名人の碑文を数多く残している著名な書道家

P1250172
増田穣三像台座プレート 「銅像再建 昭和38年3月」

増田穣三の銅像について
1937(昭和12)年5月 等身大像を七箇村役場(現協栄農協七箇支所)に生前に建立。
1939(昭和14)年2月 高松で歿、七箇村村葬(村長・増田一良)で手厚く葬られた。
1943(昭和18)年5月 戦時中の金属供出のため銅像撤去。
1963(昭和38)年3月 塩入駅前に再建。顕彰碑文は、昭和12年のものを再用。
前回見た山下谷次像と建立された時期を比較すると、競い合うように2つの像は建立されたことが分かります。その経緯を整理すると次のようになります。1936年に山下谷次が亡くなり、十郷村で銅像建立事業が始まる。これに対して七箇村村長の増田一良は、増田穣三像の「生前建立計画」を進めて、一年早く建立。しかし、それも5年後に戦時中の「金属供出」により奪われる。谷次の銅像は教え子達によって昭和27年の17回忌に元の位置に再建された。増田穣三の再建は十年遅れになる。それはもとあった役場前ではなく塩入駅前であった。その際に、台座は以前のものを使って再建された。

イメージ 4
増田穣三(県議時代)

増田穣三の風貌については、当時の新聞記者は次のように記します。
「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いてその地位を表彰す」
 
体格は小さいけれどもハンサムで威厳ある風格を示すという所でしょうか。ところがこの銅像はなで肩の和服姿に、左手に扇子を持ち駅の方を向いています。
P1250169
扇子をもつ増田穣三像
私の第1印象は、「威張っていない。威厳を感じさせない。政治家らしくない像」で「田舎の品のあるおじいちゃん」の風情。政治家としてよりも、華道の師匠さんとしての姿を表しているように感じます。彼は若い頃は、呉服屋の若旦那でもあったようで着物姿が似合っています。
増田穣三4
左は戦後の再建像(原鋳造にて:三豊市山本町辻) 右は代議士時代

この像は穣三の生前80歳の時に作られたもの。代議士時代の姿を選ばなかったのは、どうしてだろうか。
増田穣三の業績等については、評伝にしるしましたので今回は省略します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事


  

  今から99年前の1923(大正12)年5月21日に、琴平-財田間の鉄道が開通しました。
琴平駅2
財田への延長と供に姿を現した金刀比羅停留所(現琴平駅)
開通を祝する当時の新聞を見ておきましょう。(現代語意訳)
徳島へ・高知へ 一歩を進めた四国縦断鉄道 
琴平・讃岐財田間8里は今日開通 総工費130万円
香川・徳島の握手は大正16年頃の予定。 (以下本文)
 土讃線琴平財田間8里は21日開通となったがこの工事は大正9年3月に起工し、第一工区琴平塩入間四里と大麻の分岐点から琴平新駅まで一哩は京都市西松組が土工橋梁等を25万余円で請負い10年6月に竣工。また第ニ工区塩入・財田間三里九分も同組が43万円で請負、10年2月起工し11年8月に竣工した。それから土砂撒布と橋梁の架設軌道敷設琴平塩入財田の三駅舎の新築などその他の設備の総工費130万円を要した。工事監督は岡山建設事務所の大原技師にして直接監督は同琴平詰所の最初の主任三原技手後の主任は佐藤技手であった。
 工事の内の橋梁は第一金倉川60尺2連、第二金倉川60尺1連・照井川40尺2連・財田川65尺5連・多治川50尺1連などが大きい方である。切り通しの最高は十郷大口の55尺、山脇の165間などで8ケ所あった。盛土の最高は財田川付近にある。
ここからは、総工費が130万円で3年間の工期の末に、琴平ー財田間が完成したこと、その区間の橋梁や切通部分などが分かります。

 財田に向かう乗客は①新琴平駅で列車を乗り換える。琴平旭町の道を横切り神野村五条に入り、再び金倉川の鉄橋を過ぎ、岸の上を経て真野に抜けて行く。この間は、少し登りで、田園の中を南に進む。左手に満濃池を眺めつつ七箇村照井に入り、福良見を過ぎ十郷村字帆山にある②塩入駅に着く。塩入駅は、西に行けば大口を経て国道に達する大口道、東に行けば琴平・塩入を結ぶ塩入道につながる交通要衝の地に作られている。この駅から満濃池へは東へ約1,7㎞、七箇村の福良見・照井・春日・本目へはわずかである。この附近の産物は木炭薪米穀類である。
 塩入駅からさらに西に向かい十郷村を横断し、後山・大口を経て大口川を越える。それから南に転じて新目に至る。列車は徐々に上り、③17mの高い切通し④高い築堤の上を走りつつ、⑤橋上から眺めも良い財田川を渡り、約300mの長い切取しを過ぎて山脇に入る。帰来川を渡ると間もなく財田村字荒戸にある⑥讃岐財田駅に着く…(以下略)
 番号をつけた部分を補足しておきます。

DSC01471
1923年完成の金刀比羅停車場(琴平駅)
①の新琴平駅が現在の琴平駅です。それまでは、現在の琴参閣の所にあったものが琴平市街を抜けるために、現在地に移動してきました。
この駅の建築費は13万円で、総工費の1/10は、この駅舎の建築費にあたります。西日本では有数の立派な駅だったようです。
塩入駅

②の塩入駅周辺では、東山峠を越えて阿波昼間との里道が開通したばかりでした。そのため阿波との関係の深い宿場街的な塩入の名前がつけられます。阿波を後背地として、阿波の人達の利用も考えていたようです。
③の切通しは、山内うどんの西側の追上と黒川駅までの区間です。ここから出た土砂がトロッコで塩入駅方面に運ばれ線路が敷かれていきます。
琴平駅~黒川駅周辺> JR四国 鉄道のある風景
黒川駅(黒川築堤の上に戦後できた駅)
④の高い築堤には、現在は黒川駅があります。ちなみに黒川駅が、ここに姿を現すのは戦後のことです。

土讃線財田川鉄橋
黒川鉄橋
⑤は、黒川鉄橋で当時としては最新技術の賜で巨費が投じられました。同じ時期に作られた琴電琴平線の土器川橋梁や香東川橋梁は、旧来の石積スタイルの橋脚がもちいられていますが、ここではコンクリート橋脚がすでに使われています。それが現役で今も使われています。

土讃線・讃岐財田駅-さいきの駅舎訪問
讃岐財田駅
⑥の財田(さいだ)駅が終着駅でした。郵便や鉄道荷物も扱うので、職員の数は45人もいたようです。池田方面へ向かう人々は財田駅で降りて、四国新道を歩いて猪ノ鼻峠を越えるようになります。その宿場として財田の戸川は、発展していきます。同じように、塩入街道を通じて阿波を後背地に持つ塩入も、この時期に発展します。阿波の人とモノが塩入駅を利用するようになったからです。
 開通当時の時刻表を見てみましょう。
琴平発の始発が5時47分、その列車が財田駅に到着するのが6時10分。折り返し始発便として6時25分に出発します。一日6便の折り返し運転で、琴平と讃岐財田が30分程度で結ばれました。
 これによって、樅の木峠を越えていた馬車は廃業になります。追上や黒川の茶屋も店終いです。交通システムの大変革が起きたのです。
  1923年に財田まで鉄道が延び、現在の琴平・塩入・財田の3つの駅が開業しました。来年は、その百周年になります。20世紀の鉄道の時代から自動車の時代への転換を、これらの駅は見守り続けて来たのかもしれません。
関連記事 

尾背寺跡

   昔から気になる廃寺があります。まんのう町の尾背寺です。ここには、かつてはキャンプ場があり、若い頃は野外指導のために夏の間に何度も登っていました。そんな中で発掘調査が、1978・79年に行われ、その報告書も出されれています。それを読んでも、「中世山岳寺院のひとつ」ということくらいしか頭には残りませんでした。しかし、大川山中腹の中寺廃寺が発掘され、次のような事が見えてきました。
①讃岐の山岳寺院がネットワークとして結ばれていたこと
②熊野行者をはじめ修験者たちが頻繁に訪れ、辺路修行を行っていたこと、
③里の本寺の奥の院として、行場であり、学問所の機能を果たしていたこと
尾背寺が孤立的に存在していたのではなかったようです。そんな中で、町誌ことひらの史料編を眺めていると、大野原町・萩原寺の文書の中に尾背寺との関係がうかがえる史料があることを知りました。それらの資料で、尾背寺について分かることをまとめておこうと思います。
尾ノ背寺跡発掘調査概要 (I)

「尾ノ背寺跡の発掘調査書」には、発掘成果について次のようにまとめられています。
①寺の存続期間は鎌倉時代初頭から室町時代の間と推定。
②その中心は、瓦片が集中出土する現在の尾野瀬神社拝殿周辺である
③拝殿裏には礎石が並んでいることから、ここが本堂跡の最有力地
④神社すぐ下の通称「相撲取場」と呼ばれる平坦地も候補地
⑤残存状態は良好で、礎石が点在する
⑥尾野瀬神社の在る平坦地から、墓ノ丸までの一帯には平坦地や石垣が多数検出され、いくつもの坊があったことを実証づける
⑦尾ノ背寺の寺域は広く、神社からさらに上方にも平坦地があり,「鐘撞堂」などの地名が残っている
調査で出土した遺物多くは、土師質の小四・杯のようです。
その土師器に特徴があるようです。出土した土師器は、地元の讃岐の元吉城ではない、外部から持ち込まれたものがあるようです。それは、底部の切り離しの際には、回転ヘラ切りが行われるのが一般的です。ところが小皿・杯 に各1点 づつ糸切りのものがあるようです。これは、在地のものではなく、讃岐以外の地から持ち込まれたものと研究者は考えているようです。修験者など、国を超えた移動が行われていたことがうかがえます。この時の調査では、仏具が出てきていないので、寺の性格については明らかにすることが出来なかったようです。
尾背寺 白磁四耳壷
尾背寺跡出土 白磁四耳壷 

  次にこの寺の文献資料を見ておくことにします。
まず挙げられるのが『南海流浪記』(宝治二年(1248)十一月)です。これは高野山の学僧道範の讃岐流刑記録です。道範は、和泉国松尾の人で、高野山正智院で学び文暦元年(1224)には、その院主となり、嘉禎三年(1237)には金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材でした。それが内部抗争の責任を取らされて、仁治三年(1242)、讃岐に流されます。
 道範は、赦免される建長元年(1249)までの8年間を讃岐国で滞留します。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んでからは、かなり自由な生活を送っています。例えば、宝治二年(1248)には、伊予まで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。
尾背寺参拝 南海流浪記
南海流浪記 尾背寺・称名寺参拝の部分

 その年十一月に、道範は尾背寺(まんのう町本目)に参詣をして、次のように記しています。
「同年十一月十七日、尾背寺参詣。此ノ寺ハ大師善通寺建立之時ノ柚山云々、本堂三間四面、本仏御作ノ薬師也、三間ノ御影堂・御影並二七祖又天台大師ノ影有之」
意訳変換しておくと
「尾背寺は、弘法大師が善通寺を建立したときの柚(そま)山であると云われる。本堂は三間四面、本仏は弘法大師作の薬師如来である。その他にも、三間ノ御影堂・御影井には七祖又天台大師の御影が祀られていた。

 ここからは次のようなことが分かります。
①尾背寺には、善通寺創建の時の柚(そま)山として、建築用材を供給した山と伝えられていた。この時も、宥範の手で進められていた善通寺復興のための木材確保のためにやってきたのかもしれません。この寺が善通寺の柚(そま)山の「森林管理センター」や、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。
②本堂には弘法大師作とされる薬師如来が祀られていたようです。善通寺の本尊も薬師如来です。ここからは、熊野行者的な修験者たちによって両者が結びつけられていたことがうかがえます。
③本堂以外にも御影堂があります。その他の坊も存在もうかがえます。何人もの修験者たちが修行や学問に励んでいたことがうかがえます。
尾背寺 出土瓦
 
このように13世紀半ばには、尾野瀬山には広大な寺域を持つ山岳寺院があり、いくつもの坊があったことが発掘調査や一次資料から分かります。

称名寺 「琴平町の山城」より
 尾背寺で一泊した翌日、道範は帰路に小松荘の称名院を訪ねています。称名院は、現在の金刀比羅宮の神田の上にあったとされる寺院です。それを次のように記しています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
     
 このあと、道範から二首の歌を念々房におくり、念々房からも二首の返歌があったようです。さらに、同じ称名院の三品房の許へこれらの贈答歌のことを書簡に書き送ったようです。三品房からの返書に五首の腰折(愚作の歌)が添えられ届けられています。

ここからは次のようなことが分かります。
①「九品の庵室」は、九品浄土の略で、この寺は浄土教の寺。
②念々房と三品房という僧侶がいた。念々房からは念仏信仰の僧侶であることがうかがえる
③三品房の書状には、称名院は弘法大師の建立であるとも記されている。

ここからは、まばらな松林の景観の中に、こじんまりとした洒脱な浄土教の庵寺があり、そこで念仏僧(高野聖?)が、慎ましい信仰生活を生活を送っていたことが見えてきます。これは、以前に四国霊場の弥谷寺に庵を構えていた高野の念仏聖の姿とよく似ています。彼らは、「念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰 + 修験者」の性格を併せ持った聖達でした。その影が称名院の僧侶達からもうかがえます。そしてこれらの寺院や庵は「善通寺 ー 称名寺 ー 尾背寺」と、修験者や高野聖たち行者のネットワークで結びつけられていたことがうかがえます。
尾背寺跡 地形図
尾背寺跡地形図
江戸時代に金毘羅金光院に仕えた修験寺院多聞院の〔古老伝旧記〕には、次のように記されています。
尾野瀬寺之事 讃州那珂郡七ヶ村之内 本目村上之山 如意山金勝院 尾野瀬寺 右寺領新目村 本目村 
一 本堂 七間四面 
一、諸堂数々 一、仁王門 一、鐘楼堂 一、寺跡数々 一、南之尾立に墓所数々有 
一、呑水之由名水二ヶ所有(後略)」
 意訳変換しておくと 
「尾野瀬(尾背)寺について この寺は讃州那珂郡七ヶ村、本目村上之山にあり如意山金勝院と号する。 尾背寺の寺領は新目村 本目村で 
一 本堂 七間四面 
一、諸堂数々 一、仁王門 一、鐘楼堂 一、寺跡数々 一、南の尾根に墓所が多数ある 
一、呑水之由名水二ヶ所有(後略)」

ここには、かつての尾背寺は、新目・本目を寺領としていたこと。本堂が七間四面あったと、山伏らしい法螺(?)が記されます。さらに本堂以外にも、数々の緒堂や山門があり、坊跡も残る寺院があったことが記されています。江戸時代になっても、かつての尾背寺の繁栄ぶりが伝わっていたことがうかがえます。
 ちなみにこの文書を残した多門院は、初代金光院院主とされる宥盛が土佐の修験道の有力な指導者を迎えて、設立した院房です。全国にネットワークを持つ金比羅行者の養成・指導機関として、機能するとともに、金比羅の街の警察・行政機関の役割も果たしていました。多門院には、阿波の箸蔵寺などを拠点とする修験者たちを始め、全国の修験者たち(天狗)が出入りしていたようです。そのために修験道者の交流・情報交換センターでもあったと私は考えています。

大正七年(1918)刊の『仲多度郡史』に「廃寺 尾背寺」として、次のように記されています。
「今の尾瀬神社は、元尾脊蔵王大権現と称し、この寺の鎮守なりしを再興せるなり、今も大門、鐘突堂、金ノ音川、地蔵堂、墓野丸などの小地名の残れるを見れば大寺たりしを知るべし」

昭和十三年(1938)刊の『香川県神社誌』もそれを受けて
「古くは尾脊蔵王大権現と称えられ、両部習合七堂伽藍にて甚だ荘厳なりしが、天正七年兵火に罹り悉く焼失。慶長十四年三月、その跡に小祠を建てて再興(中略)明治元年 脊を瀬に改め尾瀬神社と奉称」

と記されています。
ここにはもともとは「尾脊蔵王大権現」と称し、神仏混淆の「蔵王大権現」が祀られていたとします。「蔵王権現」は、修験者の信仰対象です。ここにあった尾背寺は「山伏寺」と認識されていたことが分かります。萩原寺所蔵の聖教類では、真言宗本来の教学修法の下にあったとされますが、山伏集団の拠点であったようです。それが長宗我部元親の侵攻で兵火に会い焼失したというのです。

  以上、文献史料や発掘調査から分かることをまとめたおきます
①鎌倉時代から戦国時代にかけて、尾背寺と呼ばれる山岳寺院が存在した。
②現在の尾背神社の拝殿辺りに本堂があったようで、本尊は薬師如来であった。
③尾背蔵王権現と呼ばれ、山岳修験者たちの修行地でもあった。
④善通寺の奥の院として、杣山の管理センター的な役割も果たしていた。
⑤寺域には、多くの院坊跡がみられ多くの修験者たちがいたことがうかがえる

   町誌ことひらは、尾背寺に関する新たな文書を史料編の中で紹介しています。それは、観音寺市大野原町の萩原寺に伝えられる文書です。それを次に見ていきましょう。

萩原寺地蔵院の「地鎮鎮壇法」には、文保元年(1317)尾背寺下坊で書写したと記されます。
御本云、寛喜二(1230)年四月廿二日、於北白川博授了、道範文賓治二年戟四月廿四日、於善通寺相博御本、同三年二月六日書篤畢、賞弘 抑賜御本而同年十月廿日、癸巳、左衛門少尉紀範忠氏寺筑佐堂之鎮壇修之、重験不思議也、是偏御本無誤之故也、不能委注耳、賞弘在判 文保元(1317)年目十一月十二月、於尾背寺下坊書篤了、
(東京大学史料編纂所架蔵「史料蒐/集目録』二五七、香川県萩原寺)
 この聖教は寛喜二年(1230)四月、道範が北白川で受法します。その後、道範は寛元元年(1243)讃岐へ配流されますが、その5年後の宝治二年(1248)四月に、善通寺でこの法を実弘に伝えたようです。翌三年二月に、実弘は自分用に、もう一度書写しています。その転写を行ったのが尾背寺下坊で文保元年(1317)のことです。配流の身の道範が伝えた聖教が、尾背寺下房で書写され、それが大野原の萩原寺の聖教として保管されていたことになります。
 ここからは次のようなことが分かります。
①道範がいくつかの聖教を善通寺に伝えたこと
②その一部は、伝来され尾背寺で書写されていること。
③尾背寺には「下房」があったこと。
④「善通寺 ー 尾背寺 ー 萩原寺」という高野山系僧侶のネットワークがあったこと

   四 〔授法最略作法〕
正平十二年後七月十二日、以相承之
本書加道叡法印了、御判(聖尊)
右、以師主遍智院宮三品親王(聖尊)、御自筆之本書篤之了、 道興右、以此本奉授与照海大徳即以了、
應安四(1371)年十月十八日
道興(花押)

ここには三品親王聖尊自筆の本を、醍醐宸尊院道興が写して応安四年(1237)十月に、尾背寺の照海に与えたことが書かれています。萩原寺の中興真恵も、聖尊・道興から高野山宏範を経てこの法を受けています。尾背寺の照海も、また聖尊と道興の法を受けています。ここからは、萩原寺と尾背寺の院主は「兄弟弟子」の関係にあったことが分かります。法流の面でも、人脈の面でも二つのお寺は親密であったことがうかがえます。

〔真成授真尊印信〕
護摩口決
(中略)
明徳三年正月五日、 令書篤畢、照海
應永九年八月廿二日、於讃州尾背寺遍照院、書篤畢、成紹
應永廿一年八月五日、書篤畢、真成
康正三年二月廿七日、書篤畢、真尊
ここからは〔真成授真尊印信〕の「護摩口決」が先ほど出てきた照海から成紹に伝わり、真成・真尊と書写され受け継がれていることが分かります。そして、成紹の書写は「讃州尾背寺遍照院」で行われたとあります。下房以外にも、「遍照院」もあったようです。
尾背寺文書
成紹授真恵印信 尾背寺金勝院で書写されたことが記されている

「成紹授真恵印信」は、尾背寺の照海の後継者成紹が真恵に授けた印信が七通集められています。 
塔印 口決在之
明  (梵字)
右於讃州尾背寺金勝院道場、授於
大法師真恵畢、
   應永十二年 二月十六日
博授阿閣梨位成紹

ここからは足しかけ3年にわたって、さまざまな法流が成紹から真恵に授けられたことが分かります。それが行われたのが「讃州尾背寺金勝院道場」です。金勝院という院房もあったことがわかります。

以上から次のようなことが分かります。
①中世の尾背寺は萩原寺と同門で、密接な関係があったこと
②尾背寺では、いくつもの院房があり、そこで活発な書写活動が行われていた。

それでは、尾背寺はどうして衰退したのでしょうか。
讃岐の寺院は、土佐の長宗我部元親の侵攻により兵火に会い、衰退したと由緒に書いている所が多いようです。これは、江戸時代後半になって郷土意識が高まるとともに、讃岐を「征服」した長宗我部元親に対する反発が強くなり、いろいろな書物が「反長宗我部元親」を展開するようになったこともあるようです。
 尾背寺の衰退には、当時台頭してきた新興勢力の金毘羅大権現の別当金光院との対立があったようです。
  先ほど見た『古老伝旧記』には、尾背寺と金毘羅金光院の間の争いがあったことが記されています。当時の金光院院主は宥盛でした。宥盛は、新興勢力の金毘羅神が発展していくために旧勢力との抗争を展開していきます。
  金比羅堂を創建した長尾家出身の宥雅は、長宗我部元親の讃岐侵攻の際に堺に亡命ていました。その後、元親が院主に据えた宥厳が亡くなると、金光院院主の正統な後継者は自分だと、後を継いだ宥盛を藩主の生駒家藩主に訴えています。その際に宥雅が集めた「控訴資料」が発見されて、いろいろ新しいことが分かってきました。その訴状では宥雅は、弟弟子の宥盛を次のように非難しています
①約束していた金を送らない
②称明寺という坊主を伊予国へ追いやり、
③寺内にあった南之坊を無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った。
④その上、才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った
 宥雅の一方的な非難ですが、ここには善通寺・尾背寺・称明寺・三十番神などの旧勢力と激しくやりあい、辣腕を発揮している宥盛の姿が見えてきます。このようなお山の「権力闘争」を経て、金毘羅大権現別当寺としての金光院の地位を確立させていったのが宥盛です。
宥盛は、すぐれた修験僧(山伏)でもあったようです。
金剛坊と呼ばれて多くの弟子を育てました。その結果、金毘羅山周辺には多くの修験の道場が出来て、その大部分は幕末まで活躍を続けます。彼自身も奥社の断崖や葵の滝、五岳山などをホームゲレンデにして、厳しい行を行っています。同時に「修験道=天狗信仰」を広め、象頭山を一大聖地にしようとした節も見られます。つまり、修験道の先達として、指導力も教育力も持った山伏でもあったのです。
  彼の弟子には、多聞院初代の宥惺・神護院初代宥泉・万福院初代覚盛房・普門院初代寛快房などがいました。これを見ると、当時の琴平のお山は山伏が実権を握っていたことがよく分かります。
 特に、土佐の片岡家出身の熊之助を教育して宥哩の名を与え、新たに多聞院を開かせ院主としたことは、後世に大きな影響を残します。多門院は、金光院の政教両面を補佐する一方、琴平の町衆の支配を担うよう機能を果たすようになって行きます。
 宥盛は、真言密教の学問僧というばかりでなく、山伏の先達としてカリスマ性や闘争心、教育力を併せ持ち、生まれたばかりの金毘羅大権現が成長していける道筋をつけた人物と言えるでしょう。
 同時に、同門の善通寺とは対立し、その末寺的な存在であった称名寺や尾背寺に対して、攻撃を展開したことがうかがえます。その結果、 尾背寺の大師御影は金光院の所有となり、真如親王の御影も金光院御影堂に収められたと『古老伝旧記』には記されます。以前に現在の松尾寺に伝わる弘法大師座像は、「善福寺」にあったものを金光院の宥盛が手にして、金毘羅大権現に祀られていたものであったことは以前にお話ししました。坐像の中から宥盛自筆の祈願文が出てきました。宥盛の山伏としての辣腕ぶりがうかがえます。
  
ちなみに彼は金毘羅神の創建者として、今は神として祀られています。明治になって彼に送られた神号は厳魂彦命(いずたまひこのみこと)です。そして、かれが修行した岩場に「厳魂神社」が造営され、ここに神として祀られたのです。それが現在の奥社です。

近世はじめまで山岳寺院として繁栄してきた尾背寺は、戦国時代に衰退するとともに、江戸時代になると金毘羅大権現との抗争で廃寺となったようです。そして、その跡に明治になって尾野瀬神社が建立さるのです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
町誌ことひら 古代・中世史料編 268P  

土讃線が琴平から讃岐財田駅まで伸びたのはいつ? 

1889明治22年5月21日に、丸亀・琴平を結ぶ讃岐鉄道が開通します。多度津駅構内での式典に参列した大久保諶之丞は祝辞を述べ「鉄道四国循環と瀬戸大橋架橋構想」を披露します。そして、8年後には高松へと線路は延びていきます。
イメージ 11
右下に豆機関車が終点琴平駅に煙をあげて走っているのが描かれている

 しかし、琴平から南へ線路は伸びていくのは約30年後の大正年間になってからです。まずは、琴平ー讃岐財田間が始まります。そして、それが猪ノ鼻トンネルを越えて池田へとつながり、さらに大歩危の渓谷を越えて土佐とつながっていきます。それは昭和の初めのことになります。土讃線の進捗状況をまずは年表で確認しておきましょう。
1919 大正8年3月 琴平-土佐山田間の路線決定
1919 9月 実測開始 
1920 2月 高松-琴平間の「コトデン鉄道申請」に免許状の交付。しかし第一次世界大戦の不況下で着工は大幅遅延
1920 4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催
1920 4月3日 土讃線琴平~財田着工。
1923 5月21日 琴平-讃岐財田間開通 琴平駅が移転。
1929 昭和4年4月28日 財田-阿波池田間完成。
1935 11月28日 小歩危でつながり、全通。
 路線決定から測量を経て、起工式が行われ着工するのが1920年4月3日でした。その日を間近に控えた琴平では、祝賀のための準備が進められています。当時の新聞は、次のように伝えています。
大正9年(1920年)3月29日付け 土讃鉄道起工決定せる余興と装飾プラン(意訳)
琴平町での土讃鉄道起工祝賀については、理事者を始め一般町民も含めて準備にいそしんでいる。宴会は1日午後1時より町立公会堂で開かれ、鉄道院総裁を始め朝野の有力者300名を招待している。そのための余興及町内の装飾は次のようなものが準備中である
一曰より三曰間煙花百発打揚げ
一曰より三曰間東西両券芸妓手踊
一曰は公会堂、二曰は琴平駅前に花相撲
一曰 昼小学生の国旗行列・夜提灯行列
三曰 本社支局主催のマラソン競争
一曰より三曰間 町内各戸丸金印入の旗を町内的に立て軒提灯を出す
前記の内祝賀宴会は晴雨に拘らず行ふも其他は雨天順延す
坂町の装飾は松の枝に短冊を附し軒下に吊す
内町は町の所に構造電気を作り夫れに千燭光の電燈を点す
小松町は町内軒から軒へ万国旗を廻す
通町は上組は花の棚中組下組は花章
神明町も桜の花傘
金沢町は桜の腹這,
新町旭町は桜の大造花

 花火に・芸子の踊り・マラソン・国旗や提灯行列、そして街毎の趣向を凝らした飾り付けと、祝賀式を盛り上げようとするプログラムが目白押しです。そして、当日の起工式の様子は次のように奉じられています。
イメージ 7
着工記念行事 屋台と芸子さんのパレード?
 
大正9年(1920年)4月3日付け 起工祝賀会
美を尽くした土讃鉄道起工祝賀会は、春雨煙る琴平の名物呼物のマラソソ競争は三日に挙行 
琴平町は一日午後一時より町立公会堂にて土讃鉄道起工祝賀会が開かれた。公園入口は線門を設け「祝鉄道起工」の扁額を掲げ、公会堂前には高く万国旗を掲げ、その入口は丸金の旗を交叉し、堂内には無数の万国旗を蜘線手に吊り、沢原町長の式辞・来賓の祝辞があり、式は終了した。それより会場を琴平座に移し、宴に入り東西両券芸妓の手踊数番が舞われた。その後、散会したのは午後四時なりし。

 工事はどこを起点にスタートしたの?

 こうして4月3日に、工事は着工します。工事を請け負ったのは京都の西松組でした。工事は、どこから進められたのでしょうか?
着工から半年あまり経った進捗状況を次のように伝えています。
イメージ 1

三坂山踏切からの象頭山と土讃線

 大正九年(1920)10月13日付け 土讃線鉄道工事進捗 
土讃線の延長工事は、三坂山から七箇村帆山新駅までの一里半(約6㎞)の工事は、すでに八分程度は終わっている。三坂峠西端から琴平新駅構内までの工事も半分程度は終了している。工事にあたっては三坂山より東の神野方面にはトロッコで土砂を運び、西の琴平新駅方面には豆機関車で運搬している。また、新駅から旧線の分岐点である大麻の工事は、来月下旬頃に着工予定である。
イメージ 10
土讃線の切通作業とトロッコによる土砂の運搬

 この記事からは「三坂山」が起点になっていることが分かります。ここを起点に線路の土盛り用の土砂を「トロッコや豆機関車」で、それぞれ東西に運んで線路を延ばしているようです。そして、新琴平駅から北の旧線路との分岐までは、この時点では未着工で、「来月下旬に着工予定」とされています。
イメージ 2

さて、それでは「三坂山」とはどこでしょうか?

三坂山は、琴平の東南の土讃線と現在の国道32号バイパスが交差する辺りの南側にある小さい丘のような山です。すぐ東側を金倉川が流れています。ここは、丸亀平野の南端にもあたり、目の前には平野が広がり、かなたに讃岐富士(飯野山)が見通せる眺めのいい所です。
 現在、この山の裾を走る土讃線に立つと、この三坂山の先端を削って線路を通したことが分かります。その際に、削り取られた土砂が随時伸びていく線路を「トロッコや豆機関車」で運ばれたのです。 「一挙両得」の賢い工法です。
イメージ 3

着工から1年あまり経過した進捗状況を見てみましょう

大正10年(1921年)五月三〇日付け 土讃鉄道工事進捗、
土讃鉄道琴平・財田の5里の工事は、京都の西松組が請負って、昨年3月に起工し、この10月竣工予定である。鉄路の土盛と築堤及橋梁台は殆ど全部終えて、目下の所、新琴平駅の土盛り作業が小機関車に土運車十数輛をつないで三坂山より運搬して、土盛りしている。既に大部分埋立たてられており七月中には竣工予定である。
 また、塩入・財田間約四哩の土工も西松線が請負って、本年3月に起工し、目下各方面に土盛をして軽便軌道を敷手押土運車を運転して土砂を運んでいる。しかし、これから農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定である。
 ここからは「新琴平駅の土盛り作業」が行われていることが分かります。そう言えば、現在の琴平駅は、琴電琴平駅方面から見ると、道が緩やかに上がっています。これは、もともとの自然立地ではなく、この時に「土盛り」作業をして高くしたようです。その土は、三坂山の切通しから「豆機関車」で運ばれてきたものだったのです。

なぜ琴平駅は土盛りし、高くする必要があったのでしょうか?

 コトデンとの関係だったようです。
土讃線の着工前の1919年9月、高松の大西虎之助、多度津の景山甚右衛門、坂出の鎌田勝太郎ら県内の財界人によって高松-琴平間の「電気鉄道敷設免許申請=コトデン」が出され、翌年二月に免許状の交付されます。路線図を見ると、土讃線の新琴平駅とコトデン琴平駅の手前で両線がクロスすることになります。つまり、両線のどちらかを高架させる必要があったのです。そのために土讃線を土盛りして、その下にコトデンを通過させるという案が出されたのではないでしょうか。
イメージ 4
土讃線の下をくぐるコトデン電車 このために琴平駅から北は土盛りされた

その結果、土讃線の新琴平駅は土盛りして高くして、北から入線する線路を迎え入れる構造に設計されたと考えられます。
イメージ 5

「農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定」 

新聞記事の後半で、面白いのはこれです。確かに香川用水が確保される前は「5月麦刈り、6月田植え」で農繁期になり、農家はネコの手も借りたい忙しさでした。線路工事は、農家の男達の冬場の稼ぎ場としては、いい働き口でしたが本業の「田植え」が最優先です。そのため工事は「停滞」するというのです。当時の様子がよく分かります。
イメージ 12
一直線に描き込まれた土讃線と新駅。

そして、工事開始から4年目の春、

琴平・財田間の開通日を迎えて次のように報じます。

大正12年(1923年)5月21日開業 琴平-財田開通記念間開業  土讃鉄道琴平財田間開通記念版 
徳島へ=高知へ=一歩を進めた四国縦断鉄道
琴平・讃岐財田間は今日開通 香川・徳島の握手は大正十六年頃の予定。
 総工費百三十万円 土讃線琴平財田間8里は21日開通となった。この工事は大正9年3月に起工し、第1工区琴平・塩入間と大麻の分岐点から琴平新駅までは京都市西松組が25万余円で請負い10年6月に竣工。
 また第2工区塩入・財田間も同組が四十三万円で請負い10年2月起工し11年年8月に竣工した。それから土砂撒布と橋梁の架設軌道敷設や琴平塩入財田の三駅舎の新築などその他の設備の総工費130万円を要した。工事監督は岡山建設事務所の大原技師にして直接監督は同琴平詰所の主任三原技手で、途中から佐藤技手に引き継がれた。
 新線は善通寺町大麻の大麻神社前の旧線分岐からスタートして、阿讃国道を横切って東進し、金倉川を横切って琴平山を右手に眺めつつ横瀬の橋上を走って、昨年11月に移転した榎井村の新琴平駅へ到着する。
 この新駅は平屋建てであるが米国式洋風の建物で工費は13万円。これは新線総工賃の1割に当たる。まさに関西以西においてはまれに見る建物である。琴平駅の跨線橋はこの4月に工賃2万円で竣工した。
 
イメージ 6

旧線の分岐点となった大麻神社前の踏切です。それまでは右傾斜していたのが左傾斜に変わりました。ちなみに右側の道路は、旧コトサン電車の路線跡です

総工費130万円の内訳で分かるのは、一割13万円が新琴平駅舎、第1区間(琴平・塩入)が25万円・第2区間(塩入・財田)が43万円・琴平駅の跨線橋が2万円です。
 新琴平駅が「関西以西においてはまれに見る建物」として金比羅さんにふさわしい駅舎として特別扱いで建造されたようです。また、財田川や多治川の鉄橋や大口や山脇の長い切り通し区間があった第2区間の方が経費がかかっています。
イメージ 8
移転した新琴平駅

さらに、琴平以南の土讃線沿線を次のように紹介します。

新琴平駅から財田に向かう乗客は列車を乗り換えて、琴平旭町の道を横切り神野村五条に入り、再び金倉川の鉄橋を過ぎ岸の上を経て真野に達す此間二里半程少し登りつつ田の中を南行する。
左手に満濃池を眺めつつ七箇村照井に入、り福良見を過ぎ十郷村字帆山にある塩入駅に着く。この塩入駅は、里道を西に行けば大口を経て国道に達する大口道、東に行けば琴平・塩入を結ぶ塩入道に達するので便利の地である。この駅から満濃池へは、東方十五六町の距離で七箇村の福良見・照井・春日・本目へは距離がわずかである。
 附近の産物は木炭薪米穀類である。塩入駅から西に向かい十郷村を横断し後山大口を経て大口川を越える。この間は約二哩。それから南に転じて新目に至る。列車は徐々に上りつつ五十五尺の高い切取や高い築堤の上を走りつつ、橋上から眺めも良い財田川を渡り百六十五間の長い切取を過ぎて一哩程進んで西向し山脇に入る。多治川を渡ると間もなく三豊郡財田村字荒戸にある讃岐財田駅に着く…(以下略)
これを読むと沿線沿いの風景が百年前の風景とあまり変わらないようにも思えてきます。
イメージ 9
財田川に架かる土讃線鉄橋工事

開通当時の時刻表は
下り
琴平発 
五時47分▲七時六分▲十時廿五分▲十二時五十分▲四時五十分▲七時廿五分 
塩入発
五時五十五分▲七時廿八分▲十時五十分▲一時八分▲五時十二分▲七時四十三分
讃岐財田着 
六時十分▲七時四十五分▲十一時八分▲一時廿三分▲五時三十分▲七時五十九上り列車
讃岐財田発 
六時25分▲八時廿分▲十一時四十分▲三時三十分▲六時▲八時二十分
塩入発 
六時四十分▲八時三十五分▲十二時二分▲三時五十二分▲六時一五分▲八時三十九琴平着 六時53分▲八時四十八分▲十二時十六分▲四時六分▲六時二十八分▲八時55分

 一日6便の折り返し運転のようです。琴平・讃岐財田が30分程度で結ばれました。これによって財田駅は終着駅・ターミナル駅としての機能をもつ駅として賑わうようになります。人ばかりでなく、郵便も荷物も駅は扱います。この時期の財田駅の駅員数は45名と記録にはあります。池田・高知方面へ向かう人々は財田駅で降りて、四国新道を歩いて猪ノ鼻峠を越えたのです。その「宿場街」として財田の戸川はさらに発展していきます。
 しかし、それはつかの間の繁栄でした。6年後に猪ノ鼻トンネルが完成し、池田への鉄路が開かれると財田駅は終着駅から通過駅へと変わります。人々は列車に乗ったまま財田を通過して行くようになるのです。
イメージ 13
盛土された新線を善通寺に向けて走る蒸気機関車 後には象頭山

琴平以南に電灯がついたのは百年前、誰が電気を供給したのか?

今から百年ほど前、第1次世界大戦は日本社会に「戦争景気」をもたらしました。工場ではモーターが動力として導入され、工場電化率は急速に高まります。そして家庭の電灯使用率も好景気を追風に伸びます。この追風を受けて、電力会社は電源の開発と送電網の拡大を積極的に進めます。その結果、電気事業はますます膨大な資本を必要とするようになります。第一次大戦前の大正6年頃までは産業投資額は、鉄道業・銀行業・電気事業の順でしたが,大戦後の大正14年には銀行業を追い抜いてトップに躍り出て、花形産業へ成長していきます。

 増田穣三に代わって景山甚右衛門が率いる四国水力電気は、

積極的な電源開発を進めます。吉野川沿いに水力発電所を建設しするだけでなく、徳島の他社の発電所を吸収合併し、高圧鉄塔網を建設し讃岐へと引いてくることに成功します。その結果、供給に必要な電力量を越える発電能力を持つようになります。余剰電力を背景に高松市などでは、料金値引合戦を展開して競合する高松電灯と激しく市場争いを演じるます。

しかし、目を農村部に向けると様相は変わっていました。

 四水は琴平より南への電柱の架設工事は行わなかったのです。
なぜでしょうか?
それは、設立時に認められていた営業エリアの関係です。
四水の前身である讃岐電灯が認可された営業エリアは、鉄道の沿線沿いで、東は高松、南は琴平まででした。そのため四水は、琴平より南での営業は行えなかったのです。そこで、四水から余剰電力を買い入れ、四水の営業認可外のエリアで電力事業を行おうとする人たちが郡部に現れます。四水も「余剰電力の活用」に困っていましたので、新設される郡部の電力会社に電力を売電供給する道を選びました。こうして、県下には中小の電気事業者が数多く生まれます。この時期に設立された電力会社を営業開始順に表にしてみると、次のようになります。
高松電気軌道 明治45年4月  高松市の一部、三木町の一部
東讃電気軌道 大正 元年9月 
大川電灯   大正 5年3月  大川郡の大内町・津田町・志度町・大川町
岡田電灯   大正 9年    飯山町・琴南町・綾上町
西讃電気   大正11年    多度津町と善通寺市の一部
飯野電灯   大正11年    丸亀市の南部
讃岐電気   大正12年    塩江町
塩入水力電気 大正12年4月  仲南町・財田町の一部
 この内、西讃電気、東讃電気軌道、高松電気軌道は自社の火力発電所をもっていましたがその他の電気事業者は発電所を持たない四国水力電気からの「買電」による営業でした。

 このような動きを当時県会議員を務めていた増田一良は、当然知っていたはずです。電灯の灯っていない琴平以南の十郷・七箇村と財田村に、電気を引くという彼の事業熱が沸いてきたはずです。相談するのは、従兄弟の増田穣三。穣三は当時は代議士を引退し、高松で生活しながらも、春日の家に時折は帰り「華道家元」として門下生達の指導を行っていたはずです。そんな穣三を兄のように慕う一良は、隣の分家に穣三の姿を見つけるとよく訪問しました。ふたりで浄瑠璃や尺八などを楽しむ一方、一良は穣三にいろいろなことを相談した。
 その中に、電気会社創業の話もでてきたはずです。穣三は、かつて四水の前身である讃岐電灯の社長も務め、景山甚右衛門とも旧知の関係でした。話は、とんとん拍子に進んだのではないでしょうか。

  仲南町誌には、この当たりの事情を次のように紹介しています。
大正10年 増田穣三、増田一良たち26名が発起人となり、大阪の電気工業社長藤川清三の協力を得て、塩入水力電気株式会社を設立。当初釜ケ渕に水力発電所を設設する予定で測量にかかった。しかし資金面効率面で難点が多く、やむなく四国水力電気株式会社から受電して、それを配電する方策に転換した。買田に事務所兼受電所を設置。七箇村、十郷村、財田村、河内村を配電区域として工事を進めた。
「資金面効率面で難点が多く、やむなく四国水力電気株式会社から受電して、それを配電する方策に転換」と書かれていますが、すでに四水からの「受電」方式を採用した電気会社がいくつか先行して営業を行っていました。「自前での水力発電所の建設を検討した」というのは、どうも疑問が残ります。
 また、「水力発電所」建設にかかる巨額費用を穣三は、「前讃岐電灯社長」としての経験から熟知していたはずです。当初から「受電」方式でいく事になっていたのではないでしょうか。にもかかわらず社名をあえて、「塩入水力電気株式会社」と名付けているところが「穣三・一良」のコンビらしいところです。

 1923(大正12)4月 七箇・十郷村にはじめて電燈が灯ります。

 設立された塩入水力電気株式会社は、資本金10万円で多度津に本店を置き、四国水力電気より電気を買い入れ、買田に配電所を設けて供給しました。家庭用の夜間電灯用として営業は夜だけです。営業エリアは、当初は七箇・十郷・財田・河内の4ケ村で、総電灯数は約1000燈(大正12年4月24日 香川新報)でした。
 旧仲南町の買田、宮田、追上、大口、後山、帆山、福良見、小池、春日の街道沿いに建てられた幹線電柱沿いの家庭のみへ通電でした。そして財田方面へ電線が架設され、四国新道沿いに財田を経て旧山本町河内まで、伸びていきます。供給ラインを示すと
 買田配電所 → 樅の木峠 → 黒川 → 戸川(ここまでは五㎜銅線)→ 雄子尾 → 久保ノ下 → 宮坂 → 本篠口 → 長野口 → 泉平 → 入樋 → 裏谷 → 河内(六㎜鉄線)へと本線が延びていました。 
これ以外の区域や幹線からの引き込み線が必要な家庭は、第2次追加工事で通電が開始されました。
そして、同年10月には1500灯に増加し、翌年(大正13年)3月末には、約2000燈とその契約数を順調に伸ばしていきます。
  春日の穣三の家は、里道改修で車馬が通行可能になった塩入街道沿いにあり、日本酒「春日正宗」醸造元でもありました。この店舗にも電線が引き込まれ、通電の夜には灯りが点ったことでしょう。電気会社の筆頭株主は増田一良であり、社長も務めました。穣三は点灯式を、どこで迎えたのでしょうか。華やかな通電式典に「前代議士」として出席していたのか、それとも春日の自宅で、電灯が点るのを待ったのでしょうか。
 かつて、助役時代に中讃地区へ電灯を点らせるために電力会社を設立し、有力者に株式購入を求めたこと、社長として営業開始に持ち込んだが利益が上がらず無配当状態が続いたこと、その会社が今では優良企業に成長していること等、穣三の胸にはいろいろな思いが浮かんできたことでしょう。
 あのときの苦労は無駄ではなかった、形はかわれどもこのような形で故郷に電気を灯すことになったと思ったかもしれません 

家庭に灯った電灯は、どんなものだったのでしょうか?

仲南町誌は次のように伝えます。 
ほとんどの家が電球1個(1ヵ月料金80銭)の契約だった。2燈以上の電燈を契約していたのは、学校、役場、駅などの公共建物や大きい商店、工場と、ごく一部の大邸宅だけであった。
 また、点燈時間は日没時から日の出までの夜間のみであった。一個の電燈で照明の需要をみたすために、コードを長くしてあちらこちらへ電球を引張り廻ったものである。婚礼や法事などで特に必要なとぎには、電気会社へ要請して、臨時燈をつけてもらった。二股ソケットで電灯を余分につけたり、10燭光契約で大きい電球をつけるなどの盗電をする者もたまにあったようで、盗電摘発のために年に何回か、不定期に不意うちの盗電検査が夜間突如として襲いきたものであった。
「盗電検査」があったというのがおもしろいです。

 ちなみに1925(大正14)年10月ごろに塩入電気が、四水から受電していた電力は60㌗アワーでした。最初は、電気は単に照明用として夜間だけ利用されていましたが、終戦後に使用の簡便なモーターが普及するようになります。財田缶詰会社などの要請で電気が昼夜とも配電されるようになったのは、戦後の1946(昭和21)年5月でした。この時同時に、塩入地区へも電気が導入されたようです。

牛屋口の並び燈籠は、誰が奉納したのか

イメージ 1

伊予土佐街道は,金毘羅さんの石段中腹の坂町から別れ、谷川町筋を旧墓に沿って谷道を登る。この道はカゴノキやカシの巨木に鬱蒼とおおわれ昼でも暗く、時代劇にすぐにも使えそうな雰囲気を残していた。しかし、資生堂のレストラン「椿」の営業と共に道路が舗装され、通行には便利になったが時代劇に使われる雰囲気ではなくなった。残念だ。

イメージ 2

 登り詰めたところが,象頭山と愛宕山との鞍部,172mの牛屋口峠。(別名 御使者口・西口)
 バブルの時代に金比羅方面に急ぐ坂本竜馬の銅像が建てられ、今ではGooglマップには「牛屋口 坂本龍馬像」記されている。その道をレストラン「椿」に向かう車が走り抜けるようになった。時代が流れて行く。

イメージ 3

 ここは江戸時代には土佐・伊予方面から来た参拝者がはじめて金毘羅領に入る所で、茶店なども軒を並べていたという。今も鳥居、狛犬が建ち、並燈が並び、その景観をとどめている所だという。
 これだけの景観からその賑わいを想像するには、相当の想像力が必要だ。まあ、鳥居をくぐって並ぶ燈籠を眺めながら想像力が羽ばたき始めるのを待とう。

イメージ 4

 整然と同じ凝灰岩から同規格で大量生産品のように並んでいる燈籠。金毘羅さんの境内にある大型で手の込んだものとは趣を異にする。
これらはいつ、どんな人たちがたてたのだろうか。

イメージ 5

燈籠のひとつひとつを見ていくといろいろな情報が見えてくる。
ここには、団灯籠 の職域名・地域名 ・講名 ・年代・世話人などが刻まれている。また、献灯者の職業をうかがうこ とができる場合もある。どんなことが分かるのか。見ていくことにしよう。
1 まず奉納者は、どこの人たちか? 
ほとんどが高知県の人たちで、高知市を中心に県中央部にひろがっている。燈籠の竿正面には、
高知講中、材木町講中、梅田橋講中、後免講中、朝倉町講中、押岡講中、鄙野西講中、鄙野村講中、神田・土崎講中、本山多野郷講中、田井講中、中嶋講中、汗見川講中、西和食浦・西分村講中
などの講地名が刻まれている。

イメージ 6
それでは最も多く建立している地域は?
ここには柏栄連と刻まれた燈籠が並ぶ。柏栄連とは伊野で組まれた講名で、12基の燈能を奉納しており、これが最も多い。和紙生産と流通を背景とした当時の伊野の経済力を物語っている。伊野という地域のなかで金毘羅講が高い密度で組織されていたようだ。

イメージ 7

次に多いのは、高知通町。一・二・三・四丁目のそれぞれから一基ずつ奉納している。この講名は長栄講である。金比羅講とはなに?
                                      
イメージ 8

先ほど紹介した伊野の商人たちが組織したのが「柏栄連」である。
例えば江戸千人は、丸亀京極藩が新堀掘鑿のために、江戸商人の金毘羅信仰を利用し、献灯を呼び掛け、その寄金募集のために組織された。世話人は江戸の有力出入商人5名で、わずかの間に講員が3800人にもなり、預金が3000両を越えたという。 これにより天保6年には、丸亀新堀の築造が完成し、さらに海上安全に供する青銅製灯籠の献納も行われたという。
土佐の奉納者の個人的な性格が分かるものは? 
 高知市の下稲荷新地の花山講中には皆登楼、松亀楼などの楼名が記されている。「稲荷新地」は、「玉水新地」とともに高知の二大歓楽街であったところで、遊郭の主人が集まって奉納したようである。

イメージ 9

 荊野村中奉納の燈寵には、世話人6名と、講員20名人の名前が見える。その講員のなかに士族四人が混っている。この村では金毘羅講が維新前からあり、士族と百姓が同じ講中に属していたのかもしれない。土佐藩は、郷士を村に住まわせ土着性が強かったから、郷士と農民で講をくむことがあっだのかもしれない。奉納にいたる事情がいろいろと想像できて楽しくなってくる。
燈籠はいつ頃、奉納されたものなのか?
イメージ 10

 燈籠に刻まれた年代は、一番早いものが明治6年、最後のものが明治9年。わずか4年の間に69基の燈籠が作られた事になる。
年に20基弱のハイペースだ。なぜ、明治初年に土佐の人たちによって短期に集中して作成されたのか?
 
イメージ 11

それは幕末から維新への土佐藩の土・民の各界での躍進を背景にしているのではないか。明治2年から3年にかけて四国内の13藩が琴平に集まり、維新後の対応について話し合う四国会議が開かれた。そこで主導的立場をとっだのは土佐藩であり、徳川幕府の親藩であった伊予の松山藩や、讃岐の高松藩とは政治的立場が逆転した。こうした政治・社会的情況が石燈龍奉納に反映されているのではないか。

それまで伊予土佐街道の燈籠・道標は、松山からの奉納が大部分であった。維新を境に、土佐の燈籠が短期間に並び立つようになる。
明治維新における土佐人の「俺たちの時代が来た。俺たちが四国を動かす」という意気込みが伝わって来そうだ。
イメージ 12

しかし、金毘羅街道に燈籠が寄進され、夜道を明るくし人々を琴平へ導いたのもわずかの期間であった。新しい主役が登場する。
まずは、四国新道。そして鉄道。
この二つにより旧琴平街道は歴史の裏に、立たされていく。
時代が廻ったのだ。
庶民の金毘羅さんに対する信仰のあかしを石燈龍として私たちに伝えてくれる。
参考文献 金比羅庶民信仰資料集第3巻 




里神楽 2017小祭り


2017年賀茂神社小祭り 浦安の舞と獅子舞小祭り

まんのう町出身のもうひとりの国会議員 山下谷次
まんのう町からは戦前に、二人の国会議員が出ている。そして、それぞれの銅像が残されている。最初にやってきたのは仲南小学校。体育館から登校する生徒達を見守るように正門付近に立っている。

これが、山下谷次像

彼は、まんのう町帆山出身で「実業教育の魁け」として、東京で実業学校の開設に幾つも関わり、代議士となってからは実業学校の法整備等に貢献した人物だ。 若き日の谷次は勉学を志すが経済的に恵まれず、同郷出身者を訪ね、勉学の熱意を訴え支援を仰ぐがかなわず、貧困の中にあった。
これを援助したのが財田出身の大久保彦三郎である。
 彦三郎は当時、京都に尽誠舎を創設したばかりであったが、そこへの入学を認めると共に、舎内への寄宿を許した。そして、谷次に学力が充分備わっているのを確かめると、半年で卒業させ、さらに大抜擢し学舎の幹事兼講師として採用している。ちなみに彦三郎は「四国新道」を開いた大久保諶之丞の実弟になる。
彦三郎の支援を受けて京都で実力を蓄えた後、上京し苦労しながら栄達への道を歩み始めていく。
そして、妻の実家のある千葉県から衆議員に出馬するが落選。
その後、増田穣三引退後の郷里香川県から再出馬し当選する。
その際には、衆議院議員を引いた増田穣三や、その従兄弟で増田本家の総領で県会議員でもあった増田一良の支援があったのではないかと思われる。地元では当選の経緯から「増田穣三の後継者」と目されていたようである。

山下谷次の像は、登下校の児童を見守るおじいさんのような風情で絵になっている。
  

  参考資料 福崎信行「わが国実業教育の魁 山下谷次伝」

DSC06518
八峰方面からの勝浦
まずは「琴南町誌 958P」で予習
「下福家は、土器川の源流勝浦川と真鈴川にはさまれた標高350~550mぐらいの阿讃山脈の緩斜面に開けた集落である。その東側を「東ら」と言い、西側は「西ら」と呼ばれる。突出した丘陵の中段に扇状に人家が散在している。「東ら」は家の近くに比較的広い水田が聞かれている。「西ら」は伝説では神櫛王の家臣の子孫である福家長者がこの地を開き、天安元(857)年、ここに社を建て神櫛王を祀ったという。後に、この神社を福家神社、その地を下福家と呼ぶようになった。福家長者の子孫については、不詳であるがこの福家神社を中心に集落は拓けた。」

さて、これだけの情報を頭に入れて、土器川源流に近い勝浦地区の下福家へ原付ツーリング開始
琴平方面から国道438号を南下し、まんのう町明神にある「谷川うどん」の上にある信号を右折し、県道108号線の「滝の奥」方面へに入る。
DSC00879現在の長楽寺
現在の長善寺
勝浦から下りてきた現在の長善寺の伽藍を右手に見ながら更に進み、勝浦集落への入口も越えて行く。

DSC00781

しばらくすると「下福家バス亭」が見えてくる。ここから下福家集落に入っていく。
DSC00794
旧長善寺跡
かつての長善寺の伽藍跡を左手に見上げながらさらに坂を登る。この寺は、阿波郡里の安楽寺のサテライト寺院として、丸亀平野への浄土真宗興正寺派の布教センターの役割を果たした寺院で、阿波と讃岐に多くの門徒を抱えた大寺院だったようだ。
DSC00796長善寺破れ本堂
取り壊される前の旧長善寺本堂
かつての茅葺きの本堂は、その面影を残していた。

DSC00797

鐘楼には、大きな石がぶら下げられて重しとなって揺れていた。今は、更地となってそれもない。寺から更に道を詰めて、沢が滝のように落ちていくのを見ながら急勾配の細い坂道を登ると、深い木立の中に福家神社が鎮座する。
DSC00855勝浦福家神社鳥居
福家神社鳥居
拝殿には「福家神社のもうひとつの由来について」と題して、町史に書かれていない神社由来が貼り付けられていた。一部紹介すると
「前略 崇徳上皇が崩御されて帰る行き先が無くなったお供の公家達は、阿讃の山奥に住み生活の糧に木材を土器川に流して下流の地で商いをして富を得たので、村人達はその一団を福(富)の家長者と呼んでいた。その後も公家達は京都の縁者と連絡を取っていた模様で源平の戦いに敗れた安徳天皇を密かに招いた地は現琴南町の造田の横畑地区と思われる。(通称:平家の落人部落)
そこで公家達は相当の逃走資金を献上して阿波祖谷に逃げさせた。(以下略)」

 ここには、神櫛王に発し、崇徳上皇、安徳天皇に連なる誇り高き神社であることが、記されている。 満濃町誌には、下福家の人々がこの神社の宗教行事を通じて結束を保ってきたことを、次のように記している。 
下福家は、全戸で二九軒(東8軒、中6軒、下8軒、西7軒)であるが、福家神社を中心に生活してきたことが、福家神社の正月の行事をみると明らかである。正月の元日の宮まいりは、大晦日の十二時が過ぎると氏子の者は皆神社に参るが、どの家も「おごくさん」を炊いて、ヘギに盛って持って来て祀る。
DSC00853福家神社鳥居
福家神社参道 
一月七日に的射の行事があるが、各戸から持ち寄った紙を張り合わせ、五尺四方の的をつくる。もちろん、弓も矢も手造りである。まず宮司がお祀いをして三本射ると、続いて氏子の者全員が交替に二、三本の矢を射る。これが済むと、この的を境内中引きずり回して、めちゃくちゃにこわしてしまう。これで悪魔を射払い、一年の無病息災を祈念るのである。最後に、お神酒が出て、重箱の「おごくさん」をいただく。それは、「手のひら盆」といって、手の甲に受けていただくもので、古いしきたりがそのまま残っている。
DSC00845
福家神社

  福家神社の横の道を登っていくと、家の周りに棚田が重なる風景が見えてくる。一番高い民家から勝浦・明神方向をながめる。幾重にも山々がひだのように重なる。
DSC00870長善寺遠景


下福家の人たちの深い信仰心と、それを紐帯とするつながりの深さを考える機会になりました。

このページのトップヘ